正田ユキミ(女子少年院「丸亀少女の家」 元法務教官) ・“これでもか”と向き合った なぎなた人生
正田さんは91歳、生涯打ち込んできたのが、薙刀です。 19歳の時に法務教官になり、四国で唯一の女子少年院「丸亀少女の家」で、薙刀の指導を始めます。 少女たちに薙刀を通して、心の清さを伝え続けた正田さん、これでもかと向かい続けた薙刀人生で見えてきたものを伺います。
薙刀の長さが2m15cmありmす。 3/4は樫の木でできています。 先端が少しカーブしています。 棒みたいに振り回したのが小学校3年ぐらいですかね。 8人兄弟でした。 父は男は軍人に成れ、女は学校の先生に成れと言うのが、基本の考えでした。 土曜日の午後になると青年団が庭に来て剣道の練習をしていました。 私は防具を付けて、打ち込みで立っている役でした。 こんなこといつまでやってられないと思って始めたのが薙刀でした。 本格的に薙刀を習い始めたのは小学校5年生からですが、最初座って観るだけでした。 「見とり技」という事に気が付いたのは大きくなってからです。 つまらなかったが辞めませんでした。 何事も一生懸命やるタイプでした。
第二次世界大戦がはじまると竹槍の練習をしました。 先生は「一人でも多く殺せ。」と言うような指導の仕方でした。 日の丸の旗をもって、母と姉と私らで兄を送り出しました。 短い命でした。 薙刀は戦争の意識を高めるものとして禁止に、薙刀の道具は焼かれ、稽古をすることさえ許されませんでした。 100本ぐらい焼き、涙が出ました。 改めて薙刀が手に入ったのは2年後でした。 18歳で学校を卒業して、戦争孤児を保護する「少女をよくする家」の門戸を叩きました。 小学校の先生になりたかったが、師範学校の通知が来たがお金がないので、諦めるように母から言われました。 新聞に「丸亀少女の家」の記事が載っていました。
昭和25年4月1日に「丸亀少女の家」に行きました。 周りはおばあさんばっかりだから有難いと言われましたが、貴方が来てくれても払うお金がないと言われました。 無報酬で行きました。 仕事をしたいという気持ちだったのかと思います。 そこは軍隊の倉庫だったところでした。 子供達は30人ぐらいいました。 戦争孤児たちは親を奪われ、家を奪われ、罪のない人を戦争は虐めるものかと思いました。 高校を出た程度では教えるものはないし、勉強しなくてはいけないとひしひしと思いました。 法務教官になるのに一生懸命勉強しました。(19歳で取得)
色々な犯罪を犯した少女たちが入っていました。 「こんなものいらん。」と言って、全部ご飯を投げつけた少女がいました。 ご飯粒を全て食器に戻すように言って、「こんな粗末なことをしたら、そのうち必ずバチが当たる。」と言って、3時間ぐらいかかって対応しました。 自分の涙と鼻を擦り付け、腕のあたりがカビカビになってしまいました。 そんな中で、薙刀の稽古はしていました。 昭和40年頃?、勤めだして20年ぐらい経っていましたが、薙刀を教えるのに全職員が受け入れてくれるまで、時間が掛かりました。 武器にするのではという思いがあったようです。 認めてもらえるように努力しました。 稽古が終わって汗をぬぐって整列して「ありがとうございました。」と挨拶した時のすがすがしい顔、それは何とも言えません。 稽古で多い時には70人ぐらいいました。 ふてぶてしい子だった子がいましたが、素直になって行きました。 今では80歳過ぎていると思います。
「もやもやを薙刀を通して吐き出して、自分の身体を軽くしなさい。」という事を言ってきました。 薙刀の大会への参加も認められるようになりました。 恥かしくない試合が出来ました。 参加することに周りの反発が強くて、ようやく職員も認めました。 なんでも時間が掛かると思いました。 囲いのなかだけの教育ではいけない。 その人が持っているものを発揮できる場所をいくつも作る、それが教育かと思います。 いろいろ言ってくることを受けてやって、それに対して全部本人に考えさせて行く、それが大事だと思います。
出所した少女たちに会うという事はないです。 私が薙刀の大阪大会に香川県代表で出た時に応援に来てくれたことがありました。 会う事はなかったが、幸せになったなと感じ取りました。 薙刀は私の命です。 今でも「これでもか、これでもか」と頑張ってています。 現在でも「丸亀少女の家」では薙刀の授業が月に2回続けられています。