2023年6月30日金曜日

土屋順紀(染織家)           ・草木染めで織り成す紋紗(もんしゃ)の美

 土屋順紀(染織家)           ・草木染めで織り成す紋紗(もんしゃ)の美

土屋さん(69歳)は紋紗(もんしゃ)の技術で国の無形文化財(人間国宝)保持者に認定されています。  土屋さんは昭和29年岐阜県関市の生まれです。  高校を卒業した後、京都の美術専門学校で学んでいた時に、草木染の紬染めで知られていた志村ふくみさんに出会い、卒業後に弟子入りしました。   その後故郷岐阜県関市に工房を構えた土屋さんは、研修で「羅と経錦」の技術で国の無形重要文化財に認定されていた北村武資さんから紋紗の織り方を習います。  自分が表現したいものが紋紗で表現出来ると確信した土屋さんは、植物で染めた糸を使って紋紗作りに打ち込みます。  それからおよそ30年、透け感のある色鮮やかな紋紗を織り続けて居る土屋さんにお話を伺いました。

透けているところと透けていないところで文様がしっかりと全体に表現されて居たり、反物を持ち上げてみると透かして見える薄くて軽いものですね。  紋紗は夏の着物です。  紋紗以外にもであるとか 羅であるとか、そういった織物があります。   織物には四大組織があります。  平織、綾織、朱子織、捩り織です。  平織、綾織、朱子織までは最初から糸が真っすぐなんです。  捩り織は捩る、交差するという事です。      透けているところと透けていないところですが、透けているところが紗織(捩り織)です。   隣同士の糸が絡んで交差して、そこに横糸が入ります。  そこに空間が出来ますが、これが透ける一つの要因です。   平織はきちっと縦横が交りますから、透けませんが、その両方が文様が出来るように織り込んだものが紋紗(もんしゃ)です。

本来の紋紗は、平安貴族の公家とかの家の紋が大きく散らばっているようなものだったらしいです。  私の場合は幾何学模様のような紋しか織れませんが。 かすり文様で色を付けています。  「かすり」は元々東南アジアあたりから日本にもたらされて、日本では沖縄、久留米かすり、山陰のかすりとか全国に広がります。  糸自体をくくって染めるところと染めないところをまず作って、縦、横、両方使ったりしながら織り込んでいくのが「かすり」です。  ですから「かすり」と織の中間みたいに考えてもらえればいいと思います。   「かすり」は元々は庶民のものです。  私の場合は染め際のところを何段階かのグラデーションを付けて「ぼかし」を入れています。    庶民と貴族が合わさったような感覚です。   自分の気持ちのまま作っていたらこうなったので、これは後で気が付いたことです。  

高校2年の時に歌舞伎にのめり込んでしまって、着物が自分にとっては普通なんです。   着物にどんどん興味が湧いてきました。  京都インターナショナル芸術専門学校テキスタイル科にいって、そこでの出会いが自分の道になって行きました。   高校2年の時に植物染料の勉強をしていた時に、志村ふくみ先生のところに見学に行きました。  染めてあった糸を見た時に私が染めていたものとは全く違って驚きました。  卒業と同時に弟子入りしました。   先生の美に対する思い、が凄かったです。  グラデーションで気に入らなかったからやり直そうとしたら、それでいいというんです。   そこに凹凸がはいったり違う色が入ったりしても、全体を含めて観た時の美しさがあるものなので、という事で勉強させてもらいました。   

10年後ぐらいに北村先生に学びました。  北村先生はきちっとした織りなんです。   「羅と経錦」の技術で国の無形重要文化財に認定されています。  次世代に技術を伝えようという事で研修会があり、8名参加しました。  「紋羅」というとっても難しいものでした。  いろんな織り方をマスターしないと織れないんです。  20~30 種類の織り方を勉強しました。   それが後々まで勉強になりました。   その中に紋紗がありました。  故郷に帰って、涼しげな夏物が自分にはふさわしいのではないかと思いました。    平織の「すずし」を織っていましたが、紋紗を織るようになりました。   織る道具も厳しく会得していきました。    

植物染色はどのぐらいの量を取って来て、どういう煮出し方をするか、染める時も一瞬で染めるか、何分も入れておくか、一晩中入れとくかで色は変わって来ます。  その人の色が出てきます。  自分の家の周りのものを主にしたいと思っています。   鮮やかな赤、藍、紫とかは周りにはない色なんです。   家の周りのものとしては、「葛(くず)」、 [背高泡立草] ·、川辺の土手にはいろいろあるのでそれを採って来ます。     新しい植物との出会いもあります。(外来種)   「くさみ」といって秋に川沿いに生えていて、小さな青い実がつきます。  たくさん採って来て染めるとみず色に染まります。 その薄い空色が貴重なんです。 感動しました。   

準備段階からすると半年掛かります。   織るという事は2か月ぐらいかかります。   計画して糸を染めて、縦糸を巻いた状態にして、機に載せます。(機ごしらえ)      朝一番は手が動くが、疲れてくると休憩します。   色とかがらのアイディアは、作成中にいろんなイメージが湧いて来るので、デザイン帖に書いておきます。 そのためには感性を磨くことが重要です。  芝居、美術館巡り、お寺巡りなどを頻繁にやっています。   

日本の着物、帯は私は日本の文化だと思っています。  ファッションでありアートであると思っています。  着るという事だけではなく、もっと自由に楽しんでいただければと思っています。  日本伝統工芸展が今年70周年を記念して行われます。 9月13日から始まります。  






















































  

2023年6月29日木曜日

建畠晢(多摩美術大学学長)       ・〔私のアート交遊録〕 コロナ禍の美術

 建畠晢(多摩美術大学学長)       ・〔私のアート交遊録〕  コロナ禍の美術

コロナ禍が様々な分野に影響を起こす中、美術の世界でも緊急事態宣言が発令されてから宣言解除までのおよそ2か月間全国の美術館がほぼすべて休館となり、二度目の宣言下では大半がソーシャルディスタンスを取りながら開館を続け、今後の展覧会の在り方を模索し続けてきました。   休館中でも作品の展示替えをせざるを得ない辛い体験をしたという建畠さんは、展覧会は広く見られてこそ成立するという当たり前なことを改めて、思い知らされたといいます。  全国の美術館が参加する全国美術館会議の会長も務める建畠さんに、コロナ禍で認識した美術館の役割や、ご自身のお勧めの美術館についてもお話を伺いました。

人に見られて成立するという事は当たり前な事ですが、思い知らされました。      水墨画、版画とかは照明にさらすと退色してしまう。  3週間たって、何にも見せないまま撤去して、俺たち何をやってるんだと思いました。  客商売でお客さんが居なければ成り立たないと、痛切な経験をしました。  およそ2か月間全国の美術館がほぼすべて休館となりました。  二度目の宣言下では大半がソーシャルディスタンスを取りながら開館を続けました。  お客さんが戻って来てこちらも嬉しくてしょうがないわけです。  

東京都現代美術館で、「ドローイングの可能性」を或る女性が企画して、退職するのでそれが最後の展示会という事でしたが、展示が全て終わった段階で緊急事態宣言が出てしまった。  誰にも見せないまま会期が過ぎてしまった。  見に来てくださいと電話が掛かって来て観に行きましたが、素晴らしい展示会でした。  それを今年のベストファイブにあげたかったが、客が観ていないから駄目ですと言われてしまいました。  閉館の3日前に緊急事態宣言がとけて、3日間だけ開けました。 そういった忘れ難い思い出があります。 

本物の作品だけが持っているオーラにふれる事は、如何に重要なのか、こういった経験の中で我々は役割を果たしているんだなあと、思い知らされました。   コロナ禍で美術館は寝むっていたわけではなくて、オンラインで展覧会を行う。   疑似体験を行う。   今後補助的な手段として情報発信してゆくというプラスのことも経験しました。       

シンポジュームは簡単に開けます。  新しい可能性に結びついてゆく技術もあるでしょうから、オープンな姿勢でいた方がいいというのをコロナ禍で経験したこと、学んだことです。   時間制限して行うと、普段はそんなにいっぱいにならない展覧会でも、待ち焦がれた方が直ぐ申し込んできます。   オンラインで簡単に申し込めるので、新しい客層が増えた気がしました。   事前予約も定着してきました。   欧米では行列させないで時間制チケットを利用して余り混まないで観られるが、日本でも実験したりしますが、日本人のメンタリティーに合わなくて、定着はしなかったです。  時間制を続けている美術館もあります。   フェルメール展では半年前に全部切符が売れてしまいました。    ゆったりとして作品を見ることも大事ですので、時間制チケットが定着してゆくことは望ましいことだと思います。   

美術館は市民の方に支えられていないと、美術館は成り立って行かない。  市民に還元していかなくてはいけないが、コロナ禍ではそれを断たれてしまった。  日本の美術館のほとんどは歴史が浅くて、1980年代から激増してきた。  美樹館の基盤となる市民層が育っていないと成り立って行かない。  フランスは市民革命があり、ルーブル美術館は市民の美術館として、公開するようになった。  日本の国立博物館は恩賜、・・・皇族、天皇の資産を臣下に見せる、周囲が作り出した美術館とはイメージが違います。      どうしたらいいかなと思っていますが、市民の美術館ですよと啓発するようなことをやらなければいけないと思っています。  

美術館は平和なものです。  最近は日本はヨーロッパの印象派以外にも東南アジア、アフリカとか展示して親しまれています。  美術館は戦争抑止力ではないのかと、平和なコミュニケーションがある。  一義的には美術の好きな人に喜びを教えてあげる、楽しんでもらえるという事ですが、それに派生して平和な社会を作るとか、市民社会を作り上げるとか、そういう事にも寄与しているのではないかなあと思います。  

障害者、老人、など隔離して管理する方が、効率のいい社会だと思われたが、それは僕は危険な社会だと思います。   いろんな人たちがいろんな文化をもって、共存しているという、それを喜びを持って受け止められる様、それもアートの力だと思います。      多様性を喜びをもって受け止める社会が形成されてゆけば、平和な社会を維持する戦争抑止力になるのではないかと思っています。   

ギャラリーだけではなくて、建物、建物の外でいろんな形で発信してゆくことに取り組んでゆくことも大事かと思います。  文化、芸術の施設は色々あると思います。 美術館、コンサートホール、演劇、劇場、映画館など。  専門化してきて、アートの世界が分断化されてきているような気がしてしょうがないんです。   複合した様なものも必要ではないかと思います。   美術館で演奏をやるという事はある程度定着しましたが、もう少し幅広くてもいいかなあと思います。  

大坂の中之島に一番好きな美術館があります。  東洋陶磁館、僕は現代美術が専門なので、そこでは専門的知識はありませんが、心が落ち着き見飽きません。  








































  

2023年6月28日水曜日

石井稔(福山ばら会 会長)       ・〔心に花を咲かせて〕 庭にも道にもバラがいっぱいの街

石井稔(福山ばら会 会長)  ・〔心に花を咲かせて〕  庭にも道にもバラがいっぱいの街 

広島県福山市は街のあちこちで薔薇が咲く100万本の薔薇の街だと聞きました。    その活動は市民の情熱で成り立っていて、まだ日本では薔薇が珍しかった戦後復興期に始まったという事です。   どんな街でどんな活動をしているのでしょうか、福山薔薇会会長の石井稔さん(67歳)に伺いました。 福山薔薇会も67年の歴史。  会社を経営しながら薔薇作り、薔薇の街作りに熱心に取り組んでいます。

薔薇の街は一人の市民の力で始まって、それを引き継いだ市民が、皆が薔薇好きな街を作ろうと頑張っている。  薔薇の街は日本全国20数か所あります。  皆が薔薇を栽培するという事を福山ではやっています。   福山ではおおきな薔薇花壇はないです。     福山薔薇公園もそれほど大きくなく5000本ぐらいの薔薇が植えてあります。     福山では市民が育てるという事が基本になっています。  街中で100万本を越えています。  400~500ぐらいの薔薇花壇があります。  街道筋は行政が植えていますが。   福山では毎年6000~8000本の薔薇を予算を決めて、無料の配布をします。      個人は5本まで、企業は50本まで無償でもらえます。  小中学校全校に薔薇が植えてあります。 特別に推進があります。  100万本の薔薇の夢を目指してきました。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              子供達の薔薇の剪定方法とか知っておいてもらうと大きくなって薔薇作りをすることができる。  

小学校にあがると全1年生に薔薇の苗をあげます。  植え方とか育て方が記載されています。  家族で薔薇を育ててもらう。  福山では「ローズマインド」という言葉があります。  「思いやりと優しさと助け合い」、薔薇を育てる時にも必要なことです。    それをベースに学んでもらいます。    薔薇の棘が刺さって手が腫れたといった方がいましたが、それは棘ではなく「イラガ」という虫に刺されて腫れたものです。      棘は下向きになっているので「可愛いね」と言って撫でてあげる。  薔薇のコンテストと、「私の好きな薔薇大賞」といって、切ってきた薔薇の人気投票をします。      コンテストは200~300人ぐらい参加します。   花の数は500~600ぐらいです。   薔薇の花は好みがありますので「私の好きな薔薇大賞」はばらけます。  1位は投票500に対して74票でした。

地球温暖化で開花時期が早まってきています。   第3日曜日あたりを薔薇祭りの日にしています。  今年は連休中に咲いています。   私が会長を引き受けた10数年前は年に一回薔薇の講習会をしていました。  月一回、第四日曜の午後に薔薇の講習会に決めました。  最初は20~30人でしたが、今は70~100人になります。            薔薇の相談も受け付けています。   

福山では昭和20年8月8日にB29が飛来して、市内の8割がたは丸焼けになりました。  10年ぐらい経った時に、薔薇を植栽しながら美し街を作って行こうとう考え方がありました。  実業家の中村金二さんという方がいて、横浜の博覧会に行って、薔薇を見て感激したそうです。  東京の百貨店で薔薇を購入して持って帰りました。 上京するたびに薔薇を買って帰ったそうです。  近所に市長さんの家があり薔薇の花が目に留まったようです。    都市計画のなかで地域の人と一緒にという薔薇公園構想を発表しました。  各町内会で花壇を作って植えたが、薔薇は当時珍しかったので花泥棒が来るわけです。   そういった中で薔薇公園が出来上がってゆきます。   福山市は元々は菊の町でした。 市の花に薔薇を加え「菊と薔薇の街」という事になりました。    段々薔薇花壇が広がって行きました。  

福山街つくり協議会があり、花壇のコンテストをしましょうという事になりました。  市の花が薔薇にになったころから急激に薔薇栽培する方が増えてきました。       1985年から薔薇の無料配布が始まりました。  25年前の福山にはどれくらいの薔薇があるのか調査をしたら、当時約48万本でした。   そこから100万本に持って行こうという目標が出来ました。  福山市政施行100周年が100万本の一つのポイントになりました。   行政との協働の街つくりになって行きました。    

僕が青年会議所に入った時に、先輩が中村金二さんのお孫さん(孝洋さん)でその影響を受け福山薔薇会に入ることになりました。   最初は薔薇を2,3年枯らしてしまいました。      薔薇の接ぎ木の講習会に行って、それが花を咲かせて感動しました。 薔薇にのめり込んでいきました。  愛情込めるだけ良い花を咲けせてくれます。  「心豊かなばら広場」という曲を子供達が自分たちで作詞作曲しています。  薔薇に対する情報発信を毎年やりたいと思います。  薔薇のエキスポを毎年開催したいという夢があります。  









 









    

































2023年6月27日火曜日

山村武彦(防災システム研究所所長)   ・防災に生きて60年 後編

 山村武彦(防災システム研究所所長)   ・防災に生きて60年 後編

ここのところ全国各地で大きな地震が発生したり、線状降水帯や台風の影響で水害が起きたりと、災害が相次いでいます。  地震、台風、大雨などの災害に対して、どう備えるかという研究をおよそ60年に渡って続けている方がいます。   東京にあり防災のシンクタンク「防災システム研究所」の所長で、防災アドバイザーの山村武彦さん(80歳)です。     山村武彦さんはこれまで世界中で発生した300か所以上の災害の現地調査を行ってきました。  山村さんに「防災に生きて60年」というテーマでお話を伺いました。

1923年に発生した関東大震災からちょうど100年に当たります。  相模湾北西部を中心とするM7.9と推定される。  南関東を中心の大きな被害をもたらして、死者、行方不明者は10万5000人で明治以降の日本の地震被害としては最大のものとなっている。

100年前の9月1日午前11時58分に発生、M7.9は巨大地震です。  全壊家屋は約11万軒、火災で焼失した家屋が約21万軒、火災で圧倒的に焼かれている。  亡くなった人の約87%は火災で亡くなったであろうと推定されています。   「地震=火を消せ」、というのが当時出来た合言葉です。  東京の場合には借家に住んでいる人が圧倒的に多かった。  荷車に家財道具を乗せて、隅田川を渡って本所の陸軍被服廠跡(ひふくしょうあと)に皆を避難させた。  荷車毎、背中には大きな荷物を背負っていた。    そこに火が回って火災旋風が巻き起こって、一気に約3万7000人以上が亡くなったといわれている。  

悪い要因がいくつも重なっていて、地震発生が11時58分という事で、昼の支度をしている最中で、七輪、竃(へっつい)とかで火を使っていた。  消火活動をしても約134件の火災が発生した。  その火が強風(台風が通りつつあった)にあおられた。     風は10mを越えていた。  夕方には22mという観測値もある。  火がどんどん広がってしまう。  当時は木造家屋が多かった。   火は約40時間燃え続け、主要な市街地の大部分が灰燼に帰してしまう。  脆弱な消防力、権力の空白というのもある。   ラジオはそれほど普及していなかった。  ほとんどが新聞が情報源だったが、途絶えてしまい情報が断絶してしまった。    権力の空白というのは、加藤友三郎総理大臣(62歳)が震災の8日前に病気で亡くなっている。  代理に外務大臣の内田外務大臣が総理大臣の臨時代理を務める。  縦割りの横の連携が少なかった。  省庁そのものが地震で壊れたり、焼けてしまって機能がほとんど発揮できない状況だった。   震災から27時間後に臨時閣議が開かれたが、火災で対応できる状態ではなく、結果としてデマ、風評が広がってゆく。第二次山本権平内閣が発足するのは9月2日の午後5時でした。 それまで組織的な対応が出来なかった    情報と、指示命令系統がいかに大事かという事を関東大震災は物語っている。  

1993年1月15日に発生した釧路沖地震は冬の夜の8時過ぎだったので、各家はストーブを炊いている。  慌てて火を消しに走った。 ヤカンなどの熱湯で多くの人が負傷している。  約180人の人がやけどをした。  それで「地震→安全の確保→火を消せ」という事になった。   今は家の構造、街並みも変わってきたが、古い木造の密集地域も残っている。   道路幅が狭いとか、避難経路がきちっと取れていない、消防が入れない場所もある。   100年前と比べて危険物も増えている。  ガソリンを積んだ車、ガス、ガラス(落下すると凶器になる)など。  渋滞したところでガソリンを積んだ車が燃えると40m先の車まで引火してしまう。  道路が火の海になってしまう危険性がある。  

災害というのは全部同じではない。   阪神淡路大震災の時には直下型といことで多くの教訓を得た。  東日本大震災の時には、津波、原発の事故、熊本地震では連続の地震(震度7が2回 震度6以上が3日間で7回の場所もあった)。  災害ごとに違う様相、教訓がある。  南海トラフ大地震は震源域が内陸の下にある岩盤が動く可能性が高い。   内陸地震が長時間続く可能性がある。  今は津波が多く叫ばれているが、内陸部では津波ではなく揺れで建物が倒壊して命を亡くす可能性がある。  直近に目を奪われずに普遍的な対策を考えてゆく必要がある。  

熊本地震は最初の地震が4月14日夜9時過ぎに有り、余震が続いていた。   翌々日の朝1時25分にM7.3という地震があった。  停電していて真っ暗な状態だった。   最初の地震では大丈夫だった家が2回目の本震で多くが倒れている。  新しい家でも倒壊している。  連続の地震によってダメージが蓄積されて行く。  多くは1階が潰れている。 1階で寝ていた方の犠牲が多かった。  

水害、津波などで亡くなった人は逃げ遅れが約9割、「まだ大丈夫だろう」(自分だけは死なない、自分だけは大丈夫)、と自分に期待する本能があるようです。  認知真理バイアスがかかったことによって、逃げ遅れるケースが多い。  東日本大震災の時の動画が結構残っていて、走って逃げた人は助かったが、歩いて避難してゆく人が結構多く観られて、行方不明になっていたりしています。  突発的な災害が発生した時に、人間は3つの行動パターンに別れる。  ①落ちるいて行動できる人は約10%、②取り乱す人は約15%、③後の75%は茫然自失状態になってしまう。  このうち覚める人もいるが、覚めない人もいて、「凍り付き症候群」(心と身体が凍り付いてしまう)と言われる。  

「凍り付き症候群」から逃れるためには、自問自制することが大事です。  もう一つは周りの人が「逃げろ」と声をかける事です。  そうすると目が覚めたように行動を起こす。 集団同等性、周りが逃げないから逃げなくてもいいかなと思ってしまう。  私の家には水、食料は2か月分ぐらいはあると思います。  映像を見ると、緊急地震速報が鳴ると「地震だぞ」と声を出す人もいれば出さない人もいる。  「テレビを付けろ」と言ったりしますが、テレビが報道するのは揺れが収まってからなんです。   安全な場所に移動する事です。(安全ゾーン=落下物のない、ガラスから離れた、閉じ込められない場所)  私の家では玄関を安全ゾーンにしてドアを開けておきます。  そして靴を履く。    ここまでやっておけば脱出でします。   大規模災害では水、食料は1週間分はほしい。   家族で話し合っておいてほしい。   防災ポーチをいれていて、懐中電灯、ラジオ、お薬手帳、チョコレート、キャンディー、充電用バッテリー、予備電池、充電器、笛、お金などを入れています。

本当に明日地震が来ると思えば、真剣にやれます。  事前対策が非常に重要です。   防災点検の日を決めてやってほしい。   パンデミックはおよそ20年に一度の割合で発生しています。  水害は毎年のように発生します。  地震は6年に一度の割合でいい気な地震があります。  台風は平均年に3個ぐらい来ています。   同時に複合災害が発生するかもしれない。  医療関係のものも入れておく必要があります。   避難所だけではなくて分散非難を心掛けておく必要がある。  

集中豪雨は観測し始めてから2.2倍になっています。  ハザードマップを見直して、自分たちがどの時点で避難を開始したらいいのか、考えておく必要があります。      命だけあればなんとかなる。   自分たちの安全を自分たちで考えることが大事です。  近くにいる人が助け合う、「互近助」がとても大事だと思います。   普段から気持ちのいい挨拶がかわせる環境を築いておく。  











 














































 

2023年6月26日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕 坂本龍馬

頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕  坂本龍馬

坂本竜馬は天保6年高知城下に生まれ、慶応3年京都で刺客に襲われて亡くなるまで、新しい日本を作り上げるために存分に活躍した幕末の志士として多くの人々に愛されています。  

「さてもさても人間の人世は合点のいかぬはもとよりのこと、運の悪いものは風呂より出んとして金玉をつめわりて死ぬるものもある。」     坂本龍馬  

薩長同盟、大政奉還などに大きな功績があったとされる。 日本で最初の商社ともいわれている「亀山社中」、「海援隊」を結成して、船で世界へ乗り出そうとした人物でもあります。  坂本龍馬は絶望的なことは言っていないんです。    以前、ゲーテを紹介した時にも、ゲーテは希望に満ちた言葉を語っています。  単にポジティブではなく、絶望に裏打ちされている。   坂本龍馬も同じようなところがある。

手紙の中で龍馬が最も多く使っている表現は、おそらく「図らずも」だろうといっています。  「図らずも」というのは、思いがけず、予想外、とかの意味ですが、人生は思った通りにはならない、思いがけないことが起きるという人生観を持っていたことは凄くおもしろいと思います。    ゲーテも「望んで叶う事なら努力に値しない。」と言っている。      やってもできないことだからこそ、頑張る。 坂本龍馬もそういう思いだったと思います。

冒頭の言葉も「図らずも」という考え方が感じられる。  冒頭の言葉は文久3年3月20日坂本乙女(龍馬の姉)宛ての手紙の一節です。                      「人の一生は納得のいくように説明できるものではないけれども、時には風呂から出ようとして、急所をぶつけて死んでしまう事もある。」という意味です。  脱藩一年後で勝海舟の元でやる気に満ちていた時期に送った手紙です。  その後の坂本龍馬の人生は思いがけないことの連続です。  余り挫折はしないが、根底には思い通りにならなくて当たり前といという事があったからだと思います。 

事実とは異なる伝説でもより真実を伝えている面がある、と言う事はあると思います。 龍馬を尊敬していた同志が、龍馬が赤い鞘(さや)の長い刀を差していたので、自分も手に入れた。 その時には龍馬は短い刀を差していた、その方が実践向きだという事だった。   同志は慌てて短い刀を手に入れる。  そのころは龍馬はピストルを手に入れていた。  同志は苦労してようやく手に入れた。  龍馬は武力よりも万国公法(国際法の解説書)が大切だと思って、熱心に読んだ。  こういった話があるが、全くの作り話です。     逸話自体はフィクションですが、坂本龍馬が新しい時代に向かってどんどん変化していった人物であるという事は短くおもしろく伝えているわけです。

「私を決して長くあると思し召しは、やくたいにて候。」   坂本龍馬         文久3年6月29日坂本乙女(龍馬の姉)宛ての手紙の一節です。  

「私が長生きするとは決して思わないでください。  そんなことを思っていると、あてが外れます。」というような意味です。    この時には周りからの評価も高くなり、200,300人は動かせるようになっていた。   この手紙には「日本をもう一度洗濯いたし申し候」という有名な言葉も書かれている。   人生は思い通りにならないという思いと、それでも大きなことを成し遂げようとする思いと、が一体になっている、それが魅力です。  

「かの南町の乳母はどうしているやら。 時々気遣い申し候。 最早風寒くあいなり候から、なにとぞ綿のものをお使わし、私どうも百里外、心に任せ申さず気遣いおり候。」   坂本龍馬  慶応元年9月7日 坂本権平(龍馬の兄) 乙女 おやべ(姪春猪の別称)宛ての手紙の一節。

「乳母はどうしているだろうと、折々に気にかかります。   風は冷たくなってきましたから、どうか乳母に大変温かい着物をあげてください。 私は遠くにいるのでどうしてあげようもなく、気になっています。」

龍馬は母親を10歳の時に亡くして、姉の乙女が母親代わりとなり面倒を見た。     乳母のことも凄く気遣っている。  

「私がお国の人を気遣うは、私の乳母のことにて時々人に言い、このごろは又乳母が出たと笑われ候。」   こういう優しさも龍馬の特徴だと思います。 

龍馬は慶応元年9月9日の坂本乙女、おやべ宛ての手紙の中で、おりょう(楢崎 龍のことを詳しく書いてある。  おりょうの父は医者だったが、亡くなって一家は貧しくなって、16歳の妹が母親が騙されて売られてしまう。   それを知った23歳のおりょうは刃物を懐に悪い奴らのところに乗り込んでゆく。  悪い奴らは刺青を見せて脅かすが、向かって言って何度もたたく。  「殺すなら殺せ」といって、最後には妹を取り返した。   そのことを「誠に面白き女にて・・・」と書いている。 翌年寺田屋事件が起きるが、おりょうはいち早く知らせ、薩摩藩邸にも行く。 このことを手紙に書いていて「この良女がおればこそ龍馬の命は助かりたり」  千葉道場の千葉さな子(佐奈) 14歳で北辰一刀流免許皆伝 美貌で知られ、「千葉の鬼小町」と呼ばれていた。  恋愛関係にあった。  おりょうは龍馬以外からが気が強くて嫌われていたようです。  

「世の中のことは月と雲、実にどうなるものやら知らず、おかしきものなり。 うちによりてみそよ薪よ、年の暮れは米受け取りを等よりは、天下の器は実におおざっぱなものになりて、命さえ捨てれば、面白きことなり。」    坂本龍馬  慶応2年12月4日 坂本乙女宛の手紙の一節。 

「世の中のことは月と雲、どのように変化するか予想がつきません。  おかしなものですね。   土佐の家にいて味噌が切れそうだとか、薪を割らねばとか、年末の米の受け取りをどうするか、とか家族の世話をこまごまするのに比べたら、天下国家の世話をするのはおおざっぱな事です。  命さえ捨てて掛かれば、面白いものです。」

山田太一の早春スケッチブックの中にこういうセリフがあります。 「人間は給料の高を気にしたり、電車が空いていて喜んだりするだけの存在だよね。 偉大という言葉が似合う人生もある。」   「こまごまと心配して行くことが生活してゆくことだ。  ありきたりだろうと何だろうと三度三度の飯を作り、金を数え、掃除をし、着るものの心配をしていかなきゃ子供なんて育つもんじゃない。」  

龍馬が傷を負っておりょうと傷を癒すために温泉巡りをする。(新婚旅行)  「命さえ捨てて掛かれば、面白いものです。」というのは本当は命を落としかけた後で言っている。

「人心今日や昨日と変わる世に一人嘆きの増すかがみかな。」  坂本龍馬       「世の人は我をなにとも言わば言え我が成すことは我のみぞ知る」 坂本龍馬       「うきことをひとりあかしの旅枕磯打つ波も哀れとぞ聞く」    坂本龍馬       

「拝啓 おん事も今しばらく命をお大事になされたく、実はなすべきの時は今にて御座候。  やがて方向を定め、修羅か極楽かにお供なすべき存じ奉り候。」  坂本龍馬   慶応3年11月11日  林謙三(後に海軍中将になった人)宛ての手紙の一節

「貴方も今しばらくは命を大事になさってください。 実は今こそ行動を起こすべき時です。 進むべき方向を見定めて、修羅か極楽かにお供する。」 龍馬が暗殺される4日前の手紙です。   暗殺されたのが慶応3年11月15日 (31歳) 誰が犯人なのかいまだに諸説ある。  大政奉還から一か月後。  同年12月9日に王政復古の大号令がある。  翌年が明治元年。  生きていても新政府の高官になることはなかったようです。龍馬のその後は他人には想像が出来ない。 

仲の良かった姪春猪への手紙の一節

「これから先のお前の人生には、いろんな心配事が起きてくるだろう。 それは塵取りでかき集めて捨てるわけにはいかない。  鍬や鎌で払いのけることもできない。  精一杯頑張って長い年月を生きてゆく。  私ももし死ななかったら、4,5年の内には土佐に帰るかもしれない。  だけど露の命は測られず。   朝の草の葉についた朝露の様にいつ消えてしまうかわからない。」  

「これから先の心配心配、塵取りにいても搔きのけられず、鎌でも鍬でも払われず、随分随分精出して長いお年を送りなよ。 私ももしも死ななんだらにゃ4,5年の内には帰るかも。  露の命は測られず。」   坂本龍馬

*原文は正しく記載されていない可能性があります。











































 











     


































2023年6月25日日曜日

三澤洋史(指揮者・作曲家)       ・〔夜明けのオペラ〕

 三澤洋史(指揮者・作曲家)       ・〔夜明けのオペラ〕

三澤洋史さんは1955年生まれ、国立音楽大学声楽学科卒業後、ドイツに留学、ベルリン芸術大学指揮科卒業、ベルリン・カラヤン・コンクール入選、1999年(平成11年)から2003年(平成15年)まで、バイロイト音楽祭で祝祭合唱団指導スタッフの一員として従事、2001年(平成13年)から現在まで新国立劇場合唱団の指揮者に就任、声楽のあらゆる様式の音楽に精通し、作曲も行う一方、若いころからバッハの音楽に傾倒し、東京バロック・スコラーズを設立し、音楽監督としての活動も行っています。

群馬県高崎市出身で、父親は個人の建設業を営んでいて、ゆくゆくは大学の建築科に行って、一級建築士の免許を取って、父親の後を継ぐのかなあと思っていました。     音楽と出会ってしまってその道に入ることになりました。  中学の時には吹奏楽にいました。  高校から合唱部に入りました。   自分の中に醜いものがあるという事に耐えられなくて、同時に綺麗なものとか穢れなきものとか崇高なものとかに憧れる気持ちが自分の中にあって、それをまず音楽に求めたんですね。  当時男声合唱が盛んでした。    音大に行って音楽家になることを考えました。  聞くのはドイツ音楽一辺倒でした。  バッハを聞いてみたら衝撃を受けて、この音楽にある気高さみたいなもの、祈りの感じ、それは音楽しかないなと思いました。  バッハはカンタータをたくさん残していますが、バッハの音楽にはほかの作曲家にはない気高さみたいなものが自分には感じられました。

*ロ短調ミサ曲 終曲   作曲:バッハ

最終的に完成したのは、バッハの死の前年の1749年。  マタイ受難曲ヨハネ受難曲と並び、バッハの作品の中でも最高峰に位置するとされている。

この曲は自分が知っているあらゆる音楽のなかで、一番好きなんです。  心が本当に洗われる感じで好きです。  何回聞いたか判りません。 暗譜しています。

国立音楽大学は声楽学科でしたが、なんか違和感を感じて、指揮をしたいという思いがあり、ベルリン芸術大学指揮科に行って卒業しました。  ベルリン・カラヤン・コンクール入選しました。  その後気が付いてみるとずーっとオペラの仕事をしているんです。  ドイツ留学中はいろいろ勉強もあり、バッハに対してそんなに密ではなかったです。   日本に帰ってきて最初にやったのが、オペラの仕事でした。   二期会で副指揮者をしたり、オペラの仕事がどんどん来ました。  オペラが好きになったのは、ドラマと音楽との融合というところがあると思います。  

1999年(平成11年)から2003年(平成15年)まで、バイロイト音楽祭で祝祭合唱団指導スタッフの一員として従事しましたが、きっかけは1997年新国立劇場が開場するときに、3つ演目があり、團 伊玖磨さん作曲の「TAKERU」の初演と、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲した「アイーダ」、ワーグナーの作曲した「ローエングリン」で、日本に来た時に合唱指揮者ノルベルト・バラチュと親交を深めてバイロイト音楽祭に呼んでいただきました。  ワーグナーにはバッハの次ぐらい、物凄く惹かれています。  呼ばれて5年間アシスタントをやりました。   バイロイト音楽祭はひと夏使うわけで、ワーグナーの音楽に浸りにくるわけです。  私もワーグナーの音楽にどっぷり浸かりました。  

2001年(平成13年)から新国立劇場合唱団の指揮者に就任しました。  ドイツ語のものよりもイタリア語の方が多いと思います。  2011年(平成23年)には、文化庁在外研修員として、ミラノスカラ座において3か月研修を受けました。  イタリア語が大好きになりました。  今でもイタリア語の研修に行っています。  合唱指揮者になるとドイツ語、イタリア語の言葉のニュアンスを指導できないと話にならないです。  

プッチーニはヒロインの登場に物凄く神経を使って作曲しています。 蝶々夫人』の一幕の登場は、女声合唱が物凄くきれいなハーモニーで蝶々さんの登場を包むんです。     あでやかさ、若さ、輝くばかりの蝶々さんが登場してくる。 

蝶々夫人』の一幕の登場シーン  作曲:プッチーニ 

合唱指導の大事な事、私は発声から指導します。  発声のことはずーっと研究しています。  それから発音です。   表現の色を合唱団から引き出す。   私の尊敬する合唱指揮者ノルベルト・バラチュも凄く細かくいっていました。 新国立劇場合唱団の指導を20年以上やっていますが、どうやったらノルベルト・バラチュの様に指導できるんだろうと、いつも思っていました。 

蝶々夫人』のハミングコーラス   作曲:プッチーニ

段々歳を取って来て、人間と言うものが好きになってきた。  人間と言うものが興味深いものだという風に思うようになってきた。  究極的なオペラと言ったら、「ファルスタッフ」ですね。  ジュゼッペ・ヴェルディ作曲   「人間の愚かさを含めてみんなで笑いましょう」みたいな感じです。

『ファルスタッフ』から3幕「この世は全て道化の世界さ」  作曲:ヴェルディ

人生は道化だという、そして人間賛歌。






































2023年6月24日土曜日

長谷川逸子(建築家)          ・〔私の人生手帖〕

 長谷川逸子(建築家)          ・〔私の人生手帖〕

長谷川さんは日本の公共建築の先駆けとして、多くの建築を手掛けてきました。  1941年静岡県生まれ。  建築設計事務所、東京工業大学の研究室を経て1979年に独立、その後1986年には静岡眉山ホールの設計で日本建築学会作品賞、同じ年に神奈川県藤沢市の劇場やプラネタリュームが入る湘南台文化センターの公開設計コンペティションで女性として初めて最優秀賞を受賞し、注目を集めました。  海外でも知名度は高く2018年には歴史あるイギリスの第一回ロイヤル・アカデミー建築賞を受賞しました。  女性の建築家の先駆けとしてどのような人生を歩んできたのかを伺うとともに、建築と第二の自然の融合がテーマという長谷川さんの公共建築の基本的な考え方、コンセプトを中心にお話を伺います

ヨーロッパのいろんな街の若者が,私の初期の小住宅を10軒ぐらい作ったんですが、その小住宅を研究する若者がヨーロッパにいっぱいいて、ポルトガルの人達とかが東工大に来てk柿生の家というのを一つ取り上げてレクチャーしている。  私の小住宅に興味を持っています。  ヨーロッパではなかなか新しい家を作るチャンスはなくて、リフォームをすることが多いんです。  質問攻めが多かったので、逆に勉強になりました。  

住宅を設計しているときには木造が多かった。    日本の若い建築家の女性は住宅から出発している人はたくさんいます。   世界で日本が一番多いかもしれない。      湘南台文化センター、銀色の地球儀のような形。   快適、居心地がいいというのはどういう時かというと、自然と向き合う状況が凄く心地いいわけです。  自然の要素に包まれている建築って、ずーっと作りたいと思っていて、公共建築が来たら作りたいと思っていました。  公共建築は大御所ばっかりでした。  ほとんど原っぱにしようと思って90%近く地下にしました。  回りからの意見もあり地上を30%ぐらいにしました。    地下は辞めてくださいという住民、おじいさんおばさんは多かったです。

第二の自然というテーマ、良い空気とか心地よさは街に広がって行くような建築を作りたいと思ってずっとやって来ました。  そこからずっと公共建築を沢山やって来ました。   新潟まではそのテーマは崩さなかった。  新潟は市民の反対が多かった。  いい企画をすれば、絶対市民は来てくれると思って、狂言の萬斎さんとか、海外のウイーン、ベルリン交響楽団が新潟にも来てくれるように交渉もしました。  

高校1年生の時には油絵に夢中になっていました。 芸大を目指そうと思ったが、2年生になって建築家のことも知って建築家を目指すことにしました。  女子校で学校としては工学部にはいかせないという事でした。  京都国際会議場の模型の手伝いを依頼され、設計事務所に行きました。  その時には2番でした。  関東学院大学工学部建築学科入学して1年、2年はヨットに夢中になってやっていました。  菊竹清訓事務所に行き5年間学びました。  公共建築でも私は家具を自分で設計します。  植物も自分で選びました。   仕事が大変で38kg迄痩せてしまって、設計事務所を辞めることにしました。     その後東京工業大学の篠原一男研究室に研究生として所属することになりました。    篠原研究室に在籍中に住宅設計の手伝いをする傍ら、知人から注文を受け個人としても設計を行っていました。  

1979年に38歳のときに自由が丘に「長谷川逸子・建築計画工房」を設立しました。  最初、四国の小児科の建物をやった時にはすごくいじめられました。  大手施工会社から町の工務店に変ってから、施工してくれる人に恵まれました。 その先に湘南台文化センターの建築から公共建築のコンペに参加して、勝って新潟までやって来ました。

公共建築は市役所などから、どういったものを作りたいと概要を出すわけです。     私は直ぐ現地を見に行きます。  どんな歴史の敷地なのか、調べます。  私がファーストイメージをスケッチして、みんなの意見を聞いて修正したりします。 それを纏めてコンペに出します。  言葉をぶつけられるのは楽しいです。  快適、心地よいというものも言葉にできなかったら、伝わらない。  建築は生の自然ではないが、建物を取り巻く環境もできるだけ自然に近づけることによって、開口を決めたり、空気の通り道を決めたり作るんです、それが第二の自然という事です。 その象徴が原っぱだったりします。     子供のころから原っぱは自由に遊べる場所だという思いがあるから。  

本を読む機会がなく、東工大に行った10年は本を読む10年でした。 あらゆる分野の本を読みました。  生活をするための場所であり、人生を引き継いでいった貰うための持続する空間でもあり、コミュニケーションの場所でもあります。  街全体の環境にも影響を及ぼすし、いろんなことが詰め込まれて成立しているんです。  学園闘争があった時に民家を見て歩こうと思って、青森から沖縄まで出かけました。 その土地土地によって凄く違うものです。   民家の原点は多目的に使われるように出来ているんです。  プライバシーの考え方が入って来て、でも日本では子供部屋だけなんですね。  それが間違っていたんじゃないかと思います。

2018年ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツによる、第1回ロイヤル・アカデミー建築賞を受賞しましたが、建築分野では一人だけでした。   仕事が面白いから続けてきたんですね。  20年ぐらい外国で活動してきて、良い人にいっぱい恵まれて外国で楽しみました。   



























   










 
















   









2023年6月23日金曜日

吉岡マコ(シングルマザーズシスターフッド代表理事)・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕

吉岡マコNPO法人シングルマザーズシスターフッド代表理事)・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕 「私らしさ」を見つけ出す、体とココロと仲間の支援

吉岡さんは50歳、自らの妊娠、出産、そしてシングルマザーとしての子育ての経験を活かし、一人親で子育てをする人の希望に寄り添う取り組みを続けています。  シングルマザー支援と言えば、食料品や生活用品の提供や、就職相談というイメージがありますが、吉岡さんは私らしさを見つめ見直し、表現してゆくというプログラムを実施しています。   そうすることが自信を喪失していた人が、自ら生活を立て直してゆくうえで欠かせないと考えているからです。 

月に100kmぐらい目指して走っています。   シングルマザーズシスターフッドの代表をしています。  セルフケア―がテーマです。  30分だけ身体を動かして瞑想して自分の体と心をケアするというようなオンラインの講座を実施しています。       一番土台となるのが身体と心の健康だと思います。   アンケートでいろいろ聞きますが、一番多かったのがセルフケアは贅沢で自分には関係ないものだと思っていた、という方が非常に多かったです。   でもやってみたら凄く大事ですね、と言います。 

子供に対して余裕をもって接するようになって、「お母さん笑顔が増えたね」と言われたりするようです。  今定期開催しているのが、火曜日、木曜日のランチタイムと土曜日の早朝にやっています。  12時15分から30分やります。  土曜日は5月までは朝7時からやっています。  6月からは朝6時からやっています。  日本ではシングルマザーの80%ぐらいが仕事をしていて世界一です。   

埼玉県入間市出身です。  子供のころは外遊びが好きでした。  高校まで入間で暮らしました。  高校の時にオーストラリアに1年間留学しました。  一番の思い出は人種差別が多かったです。  アジア系の人達が差別されていました。  日本人は一人でしたが、いろんな人と接するようにしました。  アジア系の人たちとの仲介役のような感じになりました。   

留学する前に「判断留保」という技術を習いました。  それを直に経験できました。   この人はこうだと決めつけてしまわないで、どうしてこう言う考えを持つのか、その背景にはどういったものがあるのかとか思いをはせてみる。  東京大学文学部美学芸術学に進みました。  身体論で卒論を書いて、舞踏家の麿 赤兒さんの夏合宿に研究生として参加しました。  身体が変わって行って、心も変わってゆくという事を体験して、身体と心の繋がりが凄いという経験をしそのつながりを研究したいと思いました。   大学院生命環境科学科(身体運動科学)で運動生理学を学びました。  

オリンピックについてディスカッションするプログラムがあり、ギリシャにいってその時に出会った人と結婚するつもりでしたが、結婚はしませんでした。  妊娠、日本で出産しました。(25歳)  妊娠中は結構運動もして元気でした。  出産後のダメージを全く知らなくて、産後の辛さを産んでから知りました。  生んだ後も陣痛が来ます。      胎盤が子宮に張り付いていて、胎盤がはがれて出てくるわけです。  胎盤を押し出すためにもう一回陣痛が来るわけです。  はがれた子宮の傷の部分からペットボトル2本分ぐらい出血します。  ダメージが身体にあり、回復するには寝て過ごすしかない。      すぐ子育てしなければいけない過酷な現状を知りました。  

産後のケアをもっと充実したら、もっと生みたい人が増えるのではないかと思って、産後のケアの活動を始めました。  でもそれで少子化は食い止めることはできませんでした。  1998年に産後ケア教室を始め、22年間続けました。  筋力、持久力を回復させるようなエクササイズが出来ないかなと思って、最初自分が実験台になって、他にもやりたい人が居るだろうと思って、教室を始めました。  インターネットはまだだったのでチラシを配りました。  最初は8組でした。  一回辞めて就職しましたが、要望もあり半年後に再立ち上げをしました。  インターネットにつなぐことで、参加人数が増えていきました。  その後インストラクターになりたいという人も増えてきて、その養成も進めて、マドレボニータを創業する事になりました。  20都道府県で開催されるようになり、年間5~6万の方が参加するような規模になりました。   

私が教室を始めた当時は、働く母が2割程度でしたが、今は逆転して働く母が8割程度になってきています。   教室では仕事に復帰する不安、辞めてしまおうかという葛藤などの不安を抱えている方が多い。  段々復帰することが当たり前になってきているので、そこが20年前とは違うところです。  もうひとつはパートナーシップの変化で、パートナーシップのことで悩んでいる方が非常に多いですね。  産後ケアの有る無しで一番差が出たのはパートナーシップの問題でした。  産後ケアに取り組んだ人は8割弱がパートナーへの愛情が再び蘇ってきたという事でした。   

シングルマザーは2種類の不平等をこうむっているといわれていて、①経済構造における不平等、②社会的文化的不平等(差別、偏見など)。  貧困だけにフォーカスされてしまうと、他の問題が薄まってしまう危険性がある。   誰もが力を持っているという事を信じていて、一時期何かのために力を発揮できなくなった状態があるかもしれないが、心と体をいい状態に取り戻して、又自分の力を発揮できるようになるのを後押しするのが、私たちの仕事だなあと思っています。







































2023年6月22日木曜日

ペペ桜井(ギター漫談家)        ・〔わたし終いの極意〕 "一生懸命"はさりげなく

ペペ桜井(ギター漫談家)      ・〔わたし終いの極意〕  "一生懸命"はさりげなく 

1935年東京新宿にある酒店の長男として生まれました。  10歳からクラシックギターを習い始め、ギタリストを夢見ていまいたが、友人の紹介で23歳の時に、演芸の舞台に立つようになりました。   10代のころに父親に買ってもらったギターは70年以上たった今も大切な相棒です。   今や寄席の宝とも言われるべきペペさんは、今年10月に88歳(米寿)を迎えますが、後輩芸人と共演し、新たな境地を開くなど挑戦を続けています。   現役で舞台に立ち続ける元気の秘訣や、ご自身の終いの極意などを伺います。

「禁じられた遊び」をギターで弾きながら、おしゃべりしたり、演歌を歌ったりする。    家に近所からもらったギターがありました。   弾いているうちにもう少し上手くなりたいと思って、近所にいたギターの先生ところでギターを習い始めました。   NHKでオーディション番組があり、そこに合格してしまいました。(17,8歳)   30分番組のラジオで10分ぐらいの枠で弾くことになりました。   将来は音楽家の道に進もうと思いました。  ピアノも買ってもらって習いました。   ジョン・ウイリアムズが日本に来て、ギターの先生と一緒に聞きに行きました。  その帰りに私の友達が日劇に出ていて、寄りました。  その時に欠員が出ていて、ギターが弾けるのなら入らないかと勧めてくれて、お願いすることにしました。

パン猪狩さん、早野凡平さんと私の3人でコントをやりました。  そのうちに仕事がなくなってきてしまい、解散することになりましたが、そこに別の人が入って来ましたが、それも解散となり、先輩と組むことになり10年ぐらいやっていました。   ウクレレ漫談の牧伸二さんと知り合いになり、うちの事務所に入らないかと誘ってくれました。   おおきな劇場とかテレビにも出してもらえるようになりました。   その後仕事がなくなって、ストリップ劇場の支配人に泣きつき、そこで1年ぐらいやりました。  最初、一人でやったことはないので緊張してしまい20分の持ち時間を5分で降りてしました。     

ペペ桜井という名前は、日劇で演じていたころ、芸名は、小田切トシカズという名前で出ていたのが、「ペペ桜井」でどうかと勝手につけられてしまい、それからはこれが芸名になりました。   「ペペ」は日本では太郎さんとかいっぱいある名前なんです。  当時は片仮名の名前がいっぱいありました。(フランク永井とか)  芸歴は60年を越えました。  

古今亭圓菊師匠と知り合いになり、寄席に出させてもらえるようになりました。  いい加減に見えて一生懸命やっている、これが芸じゃないかと思います。  以前はそういったことが判らず一生懸命になってつい怒鳴るようなしゃべりになってしまう。  芸人というものは運がないと駄目ですね。   人と会えたという事が一番の幸せですね。  

ギターを弾きながらおしゃべりすることは、早野凡平さんからアドバイスがあり、やってみましたが、半年ぐらいは全然受けなかった。  或る時こうやったらどうだろうと思ってやったら、受けました、これが今のやり方です。   ハーモニカを吹きながら歌う、というのもこの延長線上にあります。  

柳亭こみちさんと言う女性の落語家がいて、ピアノが弾けるという事で誘って、やり始めました。  結構受けました。  おもちゃのピアノで弾くものだから本格的ではなく、どうせおふざけでやるだろうとお客さんは思っているわけです。  ちゃんとしたリズムで弾くとインパクトが強いわけです。   またやりたいということで計画は立てています。  

ギターはスウェーデン製のギターを父が買ってくれてもう70年ぐらいになります。   仕事がなくなって独りでギターを弾いたり、ピアノを弾いたりして、これが終活の一番理想的じゃないですかね。   「人生諦めが肝腎、でも諦めないよ」、というのが自分の生きざまとしては人生訓です。  意欲があればなんとかなるが、意欲がなくなったらもうおしまいでしょうね。  






















  

2023年6月21日水曜日

栗山英樹(第5回WBC日本代表監督)  ・〔スポーツ明日への伝言〕 夢の続きを語ろう

 栗山英樹(第5回WBC日本代表監督)  ・〔スポーツ明日への伝言〕  夢の続きを語ろう

1961年東京都生まれ、創価高校、東京学芸大学を経て、ドラフト外でヤクルトスワーローズに入団、1989年にはゴールデングラブ賞を獲得しますが、1990年限りで現役を引退、引退後はスポーツキャスター、白鷗大学教授として活動し、2011年に北海道日本ハムファイターズの監督に就任、10年間指揮をとりパリーグ優勝2回、2016年には日本一にも輝いています。  2022年に就任した野球日本代表さむらいジャパントップチーム監督として、今年のWBC(ワールドベースボールクラシック)に臨み、日本代表を3大会ぶりの優勝に導きました。  5月いっぱいで監督としての任期を終えた栗山さんに伺いました。

多分10年後ぐらいから、今回のWBCを見た子供たちが又プロ野球に入ってくるという時代になるので、そういうふうに、あれでやりましたという子が増えてくれれば物凄く嬉しいなあと思います。  世界一の大きさというのは全然違うんだなあという事が一つ、勘違いしちゃあいけないという、皆さんが褒めてくれるので普通に戻ろう戻ろういう自分がいます。 これから本当に何をしなければいけないか、何をするべきなのか、心にすとんと落ちていなければ、あんまり慌てて決めないほうがいいのかなあと、落ちてくるのを待っているんですが。 

色紙には「感謝」「夢は正夢」と書いていますが。  小学校の卒業アルバムに「将来プロ野球の選手になり、プロゴルファーになり、体育の先生になる。」と3つ書いています。 一人前の選手にはなれなかったので、未だにその思いは強いですね。  いろいろ大きな決断がありましたが、自信があってそうしたことは一回もないですね。  やりたくて、やるんだという感覚があって、やらない後悔はしたくないと思ってずっとやってきたので、という感じです。  プロ野球のレベルを知っていればプロ野球には入らなかったと思います。100年経ってもレギュラーになれない感覚というのは凄く強かったので、野球が怖かったという時期がありました。  内藤博文二軍監督から、言葉を頂きいまだに僕のベースになっている「人と比べるな」という一言でした。   人が生きてきて苦しむのは、だいたい人と比較するという、比較して何になるんだという、自分さえうまくなればいいんだという風に思えたという事は、野球をやる怖さが消えたというか、物凄く大きかったですね。

監督の立場での比較はありますが、そういう時にはあまりうまくいかないです。 こいつだったら打つという事で出さないと選手は打たないし、僕の心の中途半端なものが、必ず結果に表れるので、監督をやっていて経験した事なので、この人なら必ず打ちますよと思って出してあげないと、打たないので、という感覚ですかね。

選手は絶対力を持っているんで、出来る限り待ってあげたいし、でも勝たなければいけないので、僕がそうしてほしいなあという事をやっているだけなんですが。

辞めたときには、戦力外通告されたわけではなくて、自分で決めました。  「野球を嫌いになりたくなかった」という一点です。 プロに入って2年目から平衡感覚が狂う三半規管の難病であるメニエール病に苦しむようになりました。  

辞めてからメディアの世界に入りましたが、沢山の人に会いたい、沢山のことを見たい、それだけでした。  野球では中途半端な思いがあり、今度こそ一人前になりたいと凄く思ったので、学ぶためにはそれが必要だと思ったので。  いろんな人に会ったり見たりしてきたので今の自分にはプラスになっています。   野球に関して、もっと結果が出る方法とか、なんかある、といつも思っています。  

2004年ジャイアンツの阿部慎之助選手が4月に16本ホームランを打って月間タイ記録を作ったことがあり、彼の腰の使い方を番組で取り上げたことがありました。  腰をちょっと逆に戻すようなしぐさがあり、今はツイストというような言葉を使いますが、壁が出来るので先っぽがはしるというような感覚です。  そういう感覚を教わったのは中西太さんでした。  今の12球団の日本のバッティング理論のベースは全て中西さんからスタートしていると僕は思っています。     言う事が凄くシンプルなんです。  壁を作らないとバットは走らない、それを極端にやると逆に回さないとバットは走らない、そういう感覚です。  

中西さんとはほんの1,2年の間でした。  中心になる選手を中心に練習は組まれますが、中西さんはそういったことがまったくなくて、僕にも同じように愛情をこめて投げてくれました。  若松さんとスイッチヒッターへの挑戦をして、左打ちの猛特訓をしてスイッチへと転向しました。  中西さんからは「天につばするな」といつも言われていました。       「選手に本当に正直に丁寧に真心こめてぶつかりなさい」、「偉そうにするな」、「誰それの悪口云うな」という事を含めて、中西さんは言ってくれていました。  中西さんの義理のお父さんが有名な三原監督です。  三原監督が最後につけていた背番号「80」を付けました。   中西さんから三原監督が付けていた詳細に書かれたノートを見せていただき、衝撃を受けました。    それが僕のベースになっていて、今回のWBCもいろんなノートを持っていきました。

戦争を経験された監督は腹の座り方、勝負の仕方は僕らには太刀打ちできない強さ、覚悟とかがあり、そういうものに近づきたいという思いがありました。  三原さんのノートは何とか書物にして次の世代に渡してあげたいと思います。   最後は人だという事がわかるんです。  人間としてちゃんとした人に育てないと、人は育たないという事を判っているのに、決して選手にはそうは言わない。    「好きにやれ、でも野球だけはちゃんとやれ」みたいな、そういわないと選手はいかないという事を知っておられたんじゃないかという、深みというか凄いと思いました。 三原監督は選手から監督になる間に新聞記者をやっていましたね。  ジャーナリズムの世界で野球を観ていたこともある。  

大谷翔平という宝物を預かったので、5年間毎日怖かったので、もし怪我をして野球が出来なくなったらどうしようという責任もあり、そういう時間でした。  WBCの前に王さんに会って「もう一回やりたいんだったら、選手と監督のどっちがやりたいですか」と聞いたんです。     バッターだと思っていたら、「ホームランもいいけど、監督は多くの選手のためになれるからね、良いんだよ」といいました。   僕は監督というよりも、育ってゆくのを手伝うという仕事がいかに素晴らしい事かという事を凄く実感しています。  WBCの時、王さんが付けていた「89」をつけていいですかと、許可を頂いて付けましたが、負けないでよかったなあと正直思います。

他のチームがどういう体系で、どういうお金の流れで、どうなっているのかと言う事は、一度見たいという事は凄くあります。   それが判ればファンの人たちが喜ぶチーム作りとか、お金をかけていいところとかけてはいけない所、球場の在り方とか、僕らも学んでいかなければいけないかなと思います。  長嶋さんからは「高校野球を守れ、日本の野球のベースは高校野球で出来ているから、その環境さえしっかり守っていければ、野球の環境はある程度守られるんじゃないか」というようなことを言っていました。  先輩たちの思いを何か形にしていきたいと思います。




































































 










2023年6月20日火曜日

山村武彦(防災システム研究所所長)   ・防災に生きて60年 前編

 山村武彦(防災システム研究所所長)   ・防災に生きて60年 前編

ここのところ全国各地で大きな地震が発生したり、線状降水帯や台風の影響で水害が起きたりと、災害が相次いでいます。  地震、台風、大雨などの災害に対して、どう備えるかという研究をおよそ60年に渡って続けている方がいます。   東京にあり防災のシンクタンク「防災システム研究所」の所長で、防災アドバイザーの山村武彦さん(80歳)です。     山村武彦さんはこれまで世界中で発生した300か所以上の災害の現地調査を行ってきました。  山村さんに「防災に生きて60年」というテーマでお話を伺いました。

日本は地震多発国です。   年間1000回から3000回以上ある場合もあります。   2011年の東日本大震災の時には1年間で1万1000回ぐらい有感地震が発生しています。  今日までの100日間で有感地震が680回(6.8回/日)発生しています。    能登半島の地震、千葉南方地震など、震度6弱、強という大きな揺れを感じています。    それぞれ全く違う地震なので、首都直下型地震はむこう30年以内に70%の確率で発生するといわれていて、南海トラフ大地震は70~80%の確率で発生するといわれている地震とは少し断層とか場所が違う、特に能登半島の地震は全然違う群発地震で、直接首都直下地震や南海トラフ大地震に影響はないと思います。  ただ両方ともいつ起こるかわからない地震なんですね。

雨が降る確率が70%と言ったら傘を持っていきます。  でもこの2つの地震は70%、70%~80%と言われても、何となく先の様に思われる。   直ぐには来ないだろう。30年後の間に来るだろうと思っている方も多いと思いますが、もしかしたら今夜かもしれない。   他の地域は安全と思われてしまう場合があるが、日本中いつでもどこでも震度6強に備えて準備しておく必要があります。  想定通りに地震が来るとは限らない。   

防災に取り組むきっかけとなったのは、1964年6月16日に発生した新潟地震がきっかけでした。  13時なのでお昼ごろの地震でした。  私は東京にいました。(21歳の学生)    東京も揺れて、震度4~5ぐらいだったと思います。  友人が帰省中で連絡が取れなかった。  カンパで集めたお金で缶詰などをリュックサックに背負って友人と二人で行きました。   空が真っ暗でした。  石油コンビナートのタンクが火災で炎上していました。   友人の家は大丈夫でした。  ボランティアのまねごとみたいなことをしました。(当時ボランティアという言葉はない)   夜NHKのラジオが「不安な夜をお過ごしの皆さん、もう一度新潟国体で示した新潟の団結力を発揮してこの災害から立ち上がりましょう。」という今言葉が胸に来ました。  地震の4日前まで新潟国体が開催されていました。   私にとって生まれて初めての大規模地震で衝撃的でした。   

1959年の伊勢湾台風で5000人に犠牲者を出して、2年後に災害対策基本法ができました。  そのころから防災という言葉が使われ出しました。   あの頃でも6年に一度の大地震が起きていました。  東京に帰って調べて見ると、しかし時間が経つと忘れて行ってしまう。   被害を少なくするためには何をするべきかを考えたんですが、地震学はあっても防災学、危機管理学を教えたり研究する機関があまりなかった。   現場を回って報告書を作っていきました。  防災アドバイザーと言われるようになりました。

命を守るという事は1964年以降やってきたので、災害は地震、火災、水害など見直すと、共通の対策や法則もあるだろうと思って現場を見ますが、結構お金もかかります。(特に海外)  防災を専門にやって行こうと決めました。    60年経って、人間は弱そうで強いし、災害に会う人もいるし、準備して災害から逃れた人もいます。  ちょっとした時間のタイミングとか場所によって犠牲になるケースも多いです。  家も人間も壊れやすいと感じたし、その後立ち上がる力も強いですね。 人間の愛おしさを感じます。

真実は現場に行かないと見えない。  現場の人は災害直後は話したがらないと思うかもしれませんが、みんな話したいんですね。  話すとほっとしたような顔をされます。   これまでに300か所以上の現場に行っています。    北海道南西沖地震、奥尻島が大きな被害を受ける。  停電のためカンパで購入して発電機を配布しました。      その10年前に日本海中部地震があり、津波により100人以上の犠牲者を出しました。    奥尻島も津波が襲ってきました。  その教訓を得た人が逆に亡くなっているケースもありました。   日本海中部地震発生後、約17分後に奥尻島を津波が襲っている。    そのことを覚えている人が居て、軽トラに荷物を積んで岬の突端を回って高台に避難しようとした人達は5分後ぐらいに津波でみんな流されてしまいました。  前回の災害に事を基準にして考えると間違ってしまう場合もある。  

2004年のスマトラ島沖地震、M9.1~9.3。  12月26日に発生した地震。  その2か月前に新潟県中越地震が発生しています。(10月23日)   その調査をしていたのですぐにはいけなかった。  正月を返上して現地を回りました。  海岸線の人たちは早く逃げている。  海が見えない所、津波が来ないだろうと思っている人たちが多く犠牲になっている。  20万人を超える犠牲者と言われている。  スリランカではかなり遠いいので地震の揺れはほとんど感じない。  津波だけが来て、ヤーラ国立公園の動物公園に観光に来ていた日本人が10数人犠牲になってしまった。  チリ地震では日本でも約140人の犠牲者を出しています。  動物園の動物は犠牲になっていない。     象は津波が襲ってくる周波数を感知したのではないか。  象が一斉に海とは反対方向に逃げ出したので、多くの動物も一緒に逃げてほとんど犠牲になっていない。  そこは1~2mの津波に襲われていました。   現地に行かないと判らないことが多いです。

インドネシアのスンダ海峡で火山が爆発して津波が起きました。  最大7mの津波が襲ったんですが、広い範囲で起きた津波にもかかわらず、亡くなった人がたった50人と言われています。   夜の8時で、噴火なので地震もないし、噴火の音も聞こえなかった。   多くの人が何となく察知して高台に避難していた。   鶏を放し飼いにしていて、いつもと違う、鶏が騒いでいる。  海の音が違う。   それで避難して助かった。

1995年阪神淡路大震災の時には大阪にいました。  突き上げるような揺れで起きて、ラジオで情報を聞きました。  淡路島北端部が震源だとするならば、まっさきに兵庫県神戸海洋気象台が近いので、何故そこの情報が出てこないのだろうと不思議に思いました。   それでは神戸もやられたのではないかと思いました。   2時間後に神戸に行って、救助活動のお手伝いもしました。   人間一人助けるのも大変な作業です。  ノコギリ、チェーンソー、ジャッキとか道具が欲しかった。  鉄パイプが役に立ちました。     亡くなった人の多くは地震発生後14分以内で亡くなっている。   早く助けなければ助からない。  近くの人が助けられる道具をちゃんと用意しておく必要がある。  

隣近所の付き合いが密なところほど、犠牲者を救うのは早かったですね。  自衛隊、消防隊などが来る前に、約77%の人は近くの人(近隣の人、親戚、通りがかりの人など)が助け合って救助活動を行っています。  自力脱出困難者3万5000人のうち、77%は近くの人に助け出されている。   遠い親戚よりも近くの隣人なんですね。      「遠水は近火を救わず」という言葉があります。  近くの火事を消せるのは人です。   「近助」、「互近助」と言っています。    高齢化社会ですと、みんながみんな元気な人ばっかりではない。  「あのおばあちゃんは確かあの部屋で寝ている。 まずそこから助け出そう。」そういった助けが、「互近助」なんですね。

「互近助」、普段から見守りあいです。  普段から挨拶が交わせあう付き合いをしていれば、いざという時に助け合う事が出来るんだと思います。   「互近助」は思想だと思います。   隣近所だけではなく、自治体、地域、国同士にも言える事だと思います。  防災は自助、共助,公助と言われてきましたが、共助というよりは向こう三軒両隣の「近助」が 助け合いの実績が多いんで、これが大事かと思います。



























  


















 







  




















2023年6月19日月曜日

林家正楽(紙切り)           ・〔にっぽんの音〕

 林家正楽(紙切り)           ・〔にっぽんの音〕

女の子が線香花火を持っている横からのシルエットを作成。  18歳の時に2代目の正楽に弟子入りしました。  1948年東京都出身。  高校卒業後2代目林家正楽師匠に入門。1970年「林家一楽」の名前を貰い初舞台。(22歳)   1988年「林家小正楽」と名を改め2000年には3代目「林家正楽」を襲名する。  2020年には芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)を受賞。  お客さんの注文に応じて瞬時にものの見事に切りぬく技で寄席を沸かせています。  

新宿の末廣亭があり、中学生のころから行っていました。   或る時師匠の高座の紙きりを見て「俺、これをやるんじゃねえのかなあ。」と突然思いました。  最初は断られましたが。    今では日本で一番寄席に出演している。  新宿、池袋、上野、浅草の寄席にほとんどいるような状態。 旅の仕事があったりすると休みます。  寄席は10日ごとに顔が変わります。  10日の内4日以上休みになると、最初から休み届を出しますが、かなり出ています。   高座に上がるのは15分ですから、割と楽です。  

昔は寄席の周りに住んでいる家があって、そういった人が来ていましたが、仕事は寄席のそばだけれど、住むところは遠いという人が増えました。 昔とは客層が変わっています。 紙きりだけは、注文を受けて切ってすぐ渡してしまいます。  凄くよくできた時には渡さないで家に持っていきたいと思う時もあります。  逆に上手くできなかったときにも渡したくないが、渡せなければしょうがない。   お客さんの注文は流行りだらけです。   今だったら大谷選手、パンダがくればパンダ、その時その時です。

「リストラ」という注文があり、その時にはリスとトラを作りました。 うなだれているところに奥さんの怒っているところを作ってもしょうがないので、笑いに変えた方がいいと思いました。   事件とか,事故とか出す人が居ますが、そういったものを切ってもしょうがないですよ。   注文を出す人によって、切れないんじゃないかという思いがあるようですが、それも悔しいので何とか切ります。   紙きりの場合は頂いた御注文に関係のあるものをお囃子さんは弾きます。 スターウオーズの時にはお囃子さんが即興でスターウオーズのテーマを三味線で弾きました。  

「時そば」という注文が出た時には、フランク永井さんの曲なんです。  切りながらなんでこの曲なんだろうと思っていたら、出だしが「そばにいてくれるだけでいい・・・」なんです。  楽しいです。

大藏:「狂言」を切っていただけますか。

鋏を研ぐのは凄く大変なので、私は切れなくなったら替えます。  鋏になれるのに時間が掛かります。  

狂言の最後に太郎冠者が主人に追われているところが出来上がる。  

切りあがって見せた時に、ワーッとなる、そこがとても気持ちいいです。 

紙きりは一回も辞めたいと思ったことはないです。  師匠の前で切ったことは一回もないです。  例えば最初に師匠が馬を切ってくれて、同じものが出来るまで家で切って来いと言われます。  寄席の芸人は品がなければだめだと、師匠からよく言われました。   「寄席の高座に上がるのは、他の芸人とは違うんだ。」とよく大先輩から言われました。 

弟子は名前を付けたのが3人います。  「楽一」は寄席に出ています。 他に「富楽」「楽三郎」です。   聞かれたら答えるけれど、聞かれなかったら何も言わないです。  

大藏:言われた事よりも、自分で観て覚えたものの方が身につきますね。

上皇妃の傘寿の内々の皇族方のお祝いの席で、切らさせていただきました。  ご注文は「秋」、「子守歌」でした。(前もって言われました。)   25分8枚切りました。

日本の音とは、紙を鋏で切る音です。  

お客さんから注文を貰って切るのは日本だけです。  注文は手を上げないで,間髪いれずに言ってください。  いい間が一番いいです。   なるべく聞こえた順にしています。







































2023年6月18日日曜日

多良美智子(調理師・YouTuber)     ・美味しい仕事人〕 88歳、元気な一人の台所

多良美智子(調理師・YouTuber)     ・美味しい仕事人〕 88歳、元気な一人の台所 

神奈川県藤沢市の多良美智子さん(88歳)は、高校生の孫と一緒にYouTube、アース、オバアチャンネルを配信しています。 日々の食事や趣味など生き生きとした一人暮らしの様子が共感を呼んで、チャンネル登録者は15万人を超えています。  なかでも人気を集めているのが料理、多良さんは65歳の時に調理師専門学校で学び、調理師免許を取得しています。  調理はシンプル、でも必要な栄養はしっかり取るという、無理なく自炊が続けられる工夫の数々は一人暮らしのシニア層だけではなく、多くの人たちからとても参考になるという声が届いています。

団地の4階に住んで55年になります。  憧れの団地でした。  YouTubeを始めた時には孫は中学3年生でした。   YouTubeを見て、「今まで作った手芸品、絵、絵手紙とかも動画に撮っておけば残るね。」と言って、孫(アース)に撮ってもらいました。    ちらし寿司を早速撮ってくれました。  そのうち、作品を説明しながら撮ってもらって、あっという間に反応が広がりました。   登録者が15万8000人になりました。   独り暮らしは全然寂しくはないです。    習い事を捜して近所にも行っています。  主人が亡くなって9年になります。  

部屋をテーマにした紹介だけでもフォロワーが246万6000人います。   記録ノートを毎朝つけていて、11冊目になります。   温かいコメントが来るとこれでいいんだと、私自身がホッとしています。   私と同じぐらいの歳の母親を持っている方からのコメントが一番多いです。   

著書の出版をして「87歳、古い団地で愉しむひとりの暮らし」です。   間取りもふすまなど取っ払ってワンルームにしました。   風通しもいいし、掃除も楽だし快適です。「88歳ひとり暮らしの 元気をつくる台所」 続編を出しました。  何事も楽しまなければ損だと思っています。   勤めていたころは英文のタイピストをやっていました。   iPadに出てくる配列が同じだったので役に立っています。  大阪で出版記念のイベントがあり、大阪で仕事をしていたので、懐かしくて行ってきました。  アースが先にいっていて動画を撮っていました。  風景が全然違っていました。  

昭和9年長崎の生まれです。 8人兄弟の7番目です。  兄がいて、その後女性ばかりが続き、兄は大学を出て、父の手伝いをしましたが戦死しました。  母も終戦の翌年に癌で亡くなりました。  私は長崎から一山越えて縁故疎開させられていていましたが、その時の原爆の状況は今でも忘れられません。    

家庭料理が主な配信になっています。  シニア世代に、手軽に栄養のことも考えたレシピになっています。  どのような料理を作ったのかも記録してあります。  朝食はスムージー(凍らせた果物、又は野菜等を使った、シャーベット状の飲み物)のみです。    それにゆで卵とりんごを半分、というだけです。   スムージーは牛乳が100cc、小松菜、リンゴの皮を刻んで入れて、擦りゴマ、オートミール(エンバク(燕麦、オート麦)を脱穀して調理しやすく加工したもの)、亜麻仁油(血管を丈夫にする)を入れて、ミキサーで1分ほどかき混ぜて飲んでいます。  朝しっかり取っておけば、あとはどうでもいいかというところはあります。  お昼は肉と野菜をいためたものとか、鮭、開きを焼いたりとか厚揚げを焼いたりして、ご飯はしっかり食べます。  夜もお酒のつまみに好きな豆腐とか、を食べています。  野菜は食べないといけないと思って食べるようにしています。

しょうがもすってジッパーに平らにいれて冷凍しておいて、ちょっと折って使っています。ネギは小切りにして紙を一枚下にして冷凍しておくと、パラパラになります。 ちくわとか練り物はいいといわれていて、タンパク質100%でいつもおいておきます。   お出汁を取るのはお味噌汁だけです。  湯豆腐だけは出し昆布をしいて、食べています。   血圧がちょっと高めですが、自分の舌にあった料理を食べています。  健康じゃないと楽しめません。

料理をすることは好きでした。  65歳で調理の免許証を取ろうという事になり、長男がすぐに資料を取り寄せました。   1年間楽しかったです。   或るつてで居酒屋に手伝いにも行きました。   ボランティアでも料理の手伝いをしました。   写経、絵手紙、洋服へのリメークの教室とか、いろいろ通っています。  歌、ストレッチ体操などもやっていてそこでの仲間がいいですね。   いろいろな情報が入って来ます。  

 




















 



















2023年6月17日土曜日

澤田瞳子(作家)            ・古代を書く楽しみ

 澤田瞳子(作家)            ・古代を書く楽しみ

明日香時代や奈良時代の作品をを多く発表している澤田さんに、「古代を書く楽しみ」と題して伺いました。

書いている小説が奈良時代の小説なので、それの取材、見たい展覧会だったりでよくよらしていただきました。  1977年京都府生まれ、母親は時代小説家の澤田ふじ子さん。            同志社大学大学院文学研究科で正倉院文書や奈良仏教史の研究に携わった後、2010年『孤鷹の天』で作家デビュー、奈良時代の大学寮を舞台にしたこの作品で中山義秀文学賞を受賞。  2021年『星落ちて、なお』第165回直木三十五賞を受賞。  古代から近現代迄幅広い時代を描いた作品のほか、『日輪の賦』『与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記』『火定』『恋ふらむ鳥は』など、古代、明日香、奈良を舞台にした作品を数多く発表しています。

歴史小説は幕末とか、戦国時代の作が多い。  次に多いのが江戸時代かなあと思います。   古代史を書いた小説は少ないです。  もともと私は知らないことを知りたいという人間で、古代というのは分からないことが多いんです。  研究だけでは調べつくせないところがあり、想像に載せなければいけないところがあり、小説であれば、想像と研究を合わせて、もしかしたらあったかもしれない物語が作れる。 

大学に入った時には、幅広く歴史をやりたいと思っていました。   先輩から古代史は資料がちょっとしかないといわれて、この道に入りました。  奈良時代の仕組みをを調べようと思うと学んだ中国の仕組みとか、朝鮮半島の仕組みはどうだったのかとか、を調べなければいけなかった。

『恋ふらむ鳥は』は額田王を描きました。  キャリア―ウーマンのおばさまでした。   40歳ぐらいの額田王から始まっています。  皆さん額田王は美人だったと思っていると思いますが、額田王は万葉集には外見が一つも出てこないんです。    天智天皇と天武天皇と三角関係で、恋多き女性=美人というイメージだと思います。  一時期天武天皇と結婚して、離婚したあと、天智天皇のもとで働いていた。  資料を観てゆくと本当にこの三人が三角関係だったかというとちょっと怪しいなと思いました。  三角関係のような歌を詠んだものが、実は40代半ばなんです。                    「あかねさす紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る」  当時の40歳半ばと言うと今の60代、70代に近い。  天智天皇と天武天皇も孫がいる世代です。  あれは三角関係の歌ではなくて、かつて夫婦関係にあった人たちが長い時を経て、皆で笑いようなうたではなかったのかという説があり、私はそちらに乗っかりました。   

支配者を中心とした女性たちの集団というのは、全然政治に関わらないというイメージがあると思いますが、奈良、明日香、平安時代の後宮の女性たちは、天皇を補佐して、どうかすると政治的な事にも取り次いだりする女性官僚だったんですね。  という事で働く女性という設定にしました。  日本の古代社会は女性たちも働いていました。 女性が中心で働いた時代は長い歴史の中では長い間あったんだという事を知ってほしかった。

『月人壮士』では聖武天皇を描いている。 結構女好きだったと思います。  光明皇后との夫婦愛みたいなものという事で小さいころ漫画の歴史で読みました。  聖武天皇はお妃がおおいんです。  当時はお妃が一人ではなくてはいけないという事はなかった。   我々は今の道徳でつい読んでしまうので。  そこが悩みです。  

『火定』 奈良時代の天然痘の感染爆発、死の描き方も当時であればそうだったんじゃないあと思って書きました。  もしかしたら天然痘に罹っているかもしれないという事で、その子供たちを蔵に閉じ込めて皆殺ししてしまうというシーンがありました。  その当時の人ならばそうやると思いましたが、受け入れがたいと捉える人もいました。   2017年出版ですが、コロナ禍の前で予言したかのような作品でした。  2012年ぐらいに企画しました。  アフリカでエボラ出血熱が流行していた時期があり、奈良時代の天然痘の流行のテーマが私のなかで合致して書きました。  昔だけではなく、現代社会でもデマに振り回されるという事がり、吃驚しました。(トイレットペーパーがなくなる。)     

古代の天皇は、地震、大雨、台風なども起きると全部天皇が悪いんだと言うような思想がある。  聖武天皇の時代はいろいろ起きました。  大仏を作ったり、都を変えたり試行錯誤しています。  聖武天皇は生まれた時から天皇になることが決まっていて、親を早くなくして、子供のころから苦労したと思います。   天皇を途中で降りて出家してお坊さんになってしまう。  他にすがるものが欲しい人だったのではないかと思います。  

書きたいと思っていて書けないのが聖徳太子です。  伝記が広まってしまっていると、小説にするのが難しいです。   聖人君子、あまりに偉人過ぎて手が出しづらいです。

小さいころは本ばかり読んでいました。  母が作家なので小説雑誌が送られてきて、本になる前の小説が読めて、わくわくする体験でした。 作家になる気持ちはなかったです。 歴史に関わってゆくうえで、自分は緻密な人間ではないという事に気づいてしまいました。想像をするのが好きだったので、研究と小説と合体させればいいのかなあと思いました。   

『孤鷹の天』でデビュー。  作家デビューなんていう気持ちは書いている時には考えていませんでした。  いまだに大学の事務員のアルバイトをしています。(土曜日)    コピーとったり、お茶くみしたり事務員しています。(20年近くになります。)    作家として閉じこもっているのではなく、いろいろ経験したいと思っています。     病院の図書室の貸し出しのボランティアもしています。    本の最前線のところにいたいという思いがあります。  本当は本屋さんのアルバイトをしたいんですが、時間の問題があります。  歴史って楽しいよという人間が書いていますので、気軽に手に取っていただければ嬉しいです。
















    











  







 

2023年6月16日金曜日

森村森鳳(同朋大学特任教授・親鸞研究家)・親鸞のこころに導かれ

森村森鳳(同朋大学特任教授・親鸞研究家)・親鸞のこころに導かれ 

森村さんは1956年中国吉林州旧満州の生まれ、青春時代を中国の文化大革命の時期に過ごしました。   この大動乱では多くの人が命を落としたといわれていて、森村さんにとっても青春時代の衝撃的な体験でした。   ごく普通の人がどこまで非情で残酷になれるのか、心の救いとなったのが作家野間宏さんを通じて知った親鸞の思想でした。   親鸞の心に導かれという事で、30年に及ぶ親鸞の研究に取り組んできました。  

親鸞は「歎異抄」、「教行信証」という著作がある。  親鸞を知ったのは野間宏さんの文学を通してでした。  文学者たちは戦争体験を踏まえて、文学創作を始めました。  野間宏先生の父は親鸞を奉じて自ら浄土真宗の一派を建て、家で念仏道場を開き門徒を持ちました。   野間先生は幼いころから念仏を唱えて仏教を信じていました。       青年時代にマルクス主義に出会いました。  仏教、親鸞を否定しようとしました。   先生の自伝小説に、幼少時代から身についた仏教感覚と合理的な理性との格闘が描かれています。  

私は文化大革命を体験した後、仏教に惹かれて仏教を学び続けました。  先生の本を中国語に翻訳して中国で出版されることをきっかけに先生と出会いました。  私に親鸞聖人の著作を送って来て、それをきっかけに親鸞聖人を学び始めました。    人が生きる意味とか、人間とは何かという問いかけが深められて、自分自身が今まで抱えている様々な問いかけが深められました。   自分が体験した文化大革命に対しても改めて問いかけられました。  

日本語は最初父親に学びました。  代々漢方医の家で曽祖父は技術の高い名医でした。  父は漢方医でしたが、満州で日本が創立した医科大学で西洋医学を学びました。  病院を経営して周恩来首相に接見するチャンスも得ました。  文化大革命以前の時代に共産党にも入り、長春の市立病院で労働組合の主席に抜擢されたりしましたが、文化大革命で日本人との関係で糾弾されることになりました。  私は日本文学に関心がありました。  日本文学の翻訳に取り組みました。  最初は森村誠一の推理小説でした。  野間先生の「暗い絵」を翻訳してほしいとの話がありました。   野間先生は青年時代にマルクス主義に出会い、仏教、親鸞を否定しようとしました。  1960年代に環境破壊の危機に直面して、親鸞、仏教の大切さに気付き、著作などを通じて親鸞を伝え続けました。  私への手紙はがんに末期に最後に書いた手紙でした。  「歎異抄」、「教行信証」を中国語に翻訳しました。

文化大革命は10歳から20歳までの10年間でした。  古い文化を破壊する革命を起こしましたが、この革命は次第に暴力的になりエスカレートして行きました。  1966年8月6日女性紅衛兵6人が一人の女性教師を殴り殺して、文化大革命を悲惨な殺人悲劇に転換させる序幕となりました。  10日後そのリーダーは毛沢東に接見して、毛沢東は「暴力は必要だね。」と言いました。  武力が必要だという事が大々的に掲載され、暴力、殺人の悲劇は全国に広がって行った。  僅か一か月で紅衛兵の暴力で1万人ぐらいが命を失った。  二か月後私たちの住んでいる長春でも行われました。  知り合いの家に行っている時に紅衛兵が来て、そこのおじいさんの鼻が削ぎ落され、おばあさんが殴り殺されるのを目撃してしまいました。  私の家族も日本のスパイと疑われ糾弾されることになりました。   父は医者の資格をはく奪さて、肉体労働をさせられ、身体は傷だらけでした。  それは長い年月が経っても忘れられません。  父親は自殺を試み、今思い出しても辛いです。  

私は学校ではスパイの子として虐められ、それを家で爆発させてしまいました。  「どうして私はこんな家に生まれたの。 革命家の家ならよかったのに。」と泣き叫びながら家を飛び出しました。  その時の父の顔は今も忘れられません。  父親を追い詰めた原因の一つともなりました。  私は文化大革命の被害者ではありますが、心の奥底では父親に対する加害者という複雑な痛みはずーっと私を苛み続けました。  文化大革命は人間の心の深い闇を見せつけました。  私自身の闇の深さをも思い知りました。  これがなかったなら、本当の意味での親鸞聖人との出会いはなかった思います。

文化大革命では加害者になったり、被害者になったりして生きてきました。  複雑な痛みを抱いた者同士は何をどうすればいいか、私にはわかりませんでした。 先に説明した事件の件ですが、2014年紅衛兵のリーダーが会合を開き、謝罪をしました。 そういった行為が一種のブームのようになりました。   自分の犯した罪を誤魔化さずに真摯に反省することは大切だと思います。  しかし、加害者が悪、被害者が善という対立があります。現実では紅衛兵たちの謝罪は被害者の家族から痛みや憎しみを呼び返して対立を深めてもいます。  人間は闇を抱えている限り、加害者になったり被害者になったりする存在です。親鸞聖人はそういう人間存在の本質をふまえて、すべての人間を悪人としてとらえて、善人も悪人も加害者も被害者も共に救われる道を求める様にと教えているのです。

文化大革命で数千年来築き上げた道徳倫理の規範が破られました。  そこから見られたのは恐ろしい赤裸々な人間の姿なのです。   おびただしい数の人間の死を目の当たりにしたことは、私の心の中に払拭できない影を残しました。   人間とは何か、人は何のために生きるのか、人間の尊厳というものはどのように保たれるのか、これからどうやって生きたらよいか、様々な問いかけがまといつきました。   親鸞上人と出会ってから、この問いかけが深められました。  

親鸞聖人の「教行信証」は引用文が多いですね。  他力救済の新たな到達点を示していることを確認しました。   阿弥陀様に助けられるという他力です。   思想家としての親鸞を中国、世界の人々に紹介する事を自分の課題として定めました。  15年かけて、「教行信証」と「歎異抄」を中国語に翻訳しました。  「教行信証」は一つの書物ではなく生命体であると感じました。    親鸞聖人が、自分が出会った仏教の心理とその喜びを人々と共有しようという強い願いに心が打たれました。 

「歎異抄」は日々親鸞聖人の教えを聞いた唯円が著した書物です。  「歎異抄」は親鸞思想の核心を音声言語に託して、よく伝えています。  「歎異抄」の後半は唯円の嘆きを伝えているけれども、前半は親鸞の思想の核心を音声言語に託して伝えています。

「信心歓喜」本願の核心にもにも基づいているものです。  異なりを讃歎するという翻訳を加えたのです。 元の翻訳に新しい翻訳を加えたという意味です。  

「歎異抄」第三条 「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。  しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。」   (善人ですら往生をとげるのです。まして悪人が往生をとげられないことがありましょうか。  しかるに世間の人は常に、悪人すら往生するのだから、まして善人が往生しないことがあろうか、といっています。)

悪人の悪の意味は、仏教用語としての悪は、人間の心の奥の働きを表現す言葉です。   人間の心には二つあって一つは自我中心、それは欲望です。  もう一つは物事を善悪分類してみる生き方です。  この二つは相互関係して拡大してゆく傾向があります。    欲望の満足を求める人間は、自分の場を正義の場において欲望を正当化しようとします。  戦争を正当化します。  正義感に煽られた欲望は歯止めが利かなくなって、おびただしい数の人間が人間によって殺される。   人を殺したものに罪悪感がありません。    人間皆同じ心の奥に同じ闇を抱えているので、すべての人間を悪人としてとらえているのです。人間の悪としての絶対平等性という立場に立って、善人も悪人も加害者も被害者も、ともに救われる道を求めるようと、教えています。

仏教の根本は慈悲でしょう。  私たち人間はほかの生き物の命を奪って生きています。  動物たちもほかの命を奪わなければ、生きられません。 悲惨さを抱えて生の営みを行っています。   それに気づくことを仏教は大事にします。  他者と痛みを共有する感覚は育まれるわけです。   人間は自分に有利なものを善と言い、自分に不利なものを排除しようとします。   そこで、戦争、領土の拡大、を正義という大義名分で行われます。 人間は殺し合い、戦い合う歴史をたどって来ました。  親鸞聖人は悪人正機と言います。悪は仏教用語で闇とも言います。   人間の存在の本質を表す言葉です。  闇を抱えている人間を全て悪人としてとらえる。  その人間が悪としての絶対平等性という立場に立って、ともに救われる道を求めようと、教えていただいたのです。  親鸞聖人が自身の過酷な体験のなかで、人間存在の真実を見つめ、阿弥陀如来の本願の他力救済の真実の教えに出会ったからです。

自分の生が大いなる眼差しに包まれているという感覚、大いなる眼差しに私の闇が常に照らし出されます。  阿弥陀如来に見守られています。  人生の道は一人だけではありません。  支え合い、問いかけ合いながら生きてゆきます。  


















 





 
































 








 













 


















2023年6月15日木曜日

宝井琴調(講談協会会長・講談師)    ・講談の"定席"復活をめざして

 宝井琴調(講談協会会長・講談師)    ・講談の"定席"復活をめざして

宝井琴調さんは熊本市出身。  1974年、五代目宝井馬琴に入門、内弟子となり修業を積みました。  1985年真打昇進、1987年四代目宝井琴調を襲名しました。  2008年からは落語協会にも入会し、上野の鈴本演芸場で年末に開催される恒例の寄席の主任も務めています。  落語の定席で講談師が主任を任されるのは異例のことで、その柔らかな語り口は講談のみならず、ジャンルを超えて幅広く人気を集めています。 後進の育成にも力を入れて、夢は講談の定席を復活させることと語る琴調さんに伺いました。

子供のころはどちらかというとおしゃべりな方でした。   宝井馬琴に傾倒していきました。  風呂で聞いていて、「肉付きの面」というネタがあり、観世様は「この面には卑しい所がある」と言って面を投げつけ二つに割ってしまう。この話を聞いた源五郎は、自分の腕が鈍ったかとがっかりし自害してしまう。  倅が観世様い認めてもらうように頑張るという話ですが、この親父死ぬなと思って亡くなった時にお風呂が真っ赤に見えて、この馬琴という人は凄いと思いました。

高校2年の時に修学旅行で東京に来て、自由行動の時間に親戚の叔父が繋ぎを作ってくれて馬琴のお宅へ伺う事が出来ました。  会えればいいと思っていましたが、師匠は入門にきたと勘違いして、「高校ぐらい出てから来なさい」と言われて、高校卒業してから来ることになりました。  飛行機、新幹線もあったが、修行に行くものが何事かと言われて、急行「桜島」で23時間かかって行きました。  内弟子として住み込みで修業しました。  「三方ヶ原」の写本から始まり、80歳になっても見えるような大きな文字でかけといわれました。   今になってみるとなるほどと思いました。  軍記ものは声を作ります。

最初は30秒も聞いてくれませんでした。  師匠は短気な人でした。  「品位を崩すな、卑しくなるな」というのは、口を酸っぱくして言っていました。   明治36年生まれですから、叩き込まれていました。  「お前はなんで講釈師になったんだ。」と言われて、「師匠の芸に惚れまして。」と言ったら、「違う、こういう時は日本国をよくするためになったとい言え。」と言われてしないました。 世直しをしたくてしょうがなかった人です。

講談は幅が広いですね。  古典だけで4500あるようです。  神田松鯉さんが「講談とは男の美学である。」と言っていました。  講談というのは一人の人間の話術でお客様の頭のなかに、それぞれの映像を浮かび上がらせることができるというのが一番の魅力だと思います。  落語はホームドラマで、講談はドキュメンタリードラマだと、その切り口の違いだと思います。  同じネタもありますし。  十八番は自分で言ってはいけないと思います、お客様があの人の十八番はこれだというべきであって、自分で言う芸人は信用していません。  

幕末には講談の専門の寄席が200軒あったらしいです。  上野広小路近くにあった本牧亭(ほんもくてい)が2011年に閉場してしまう。   お客様の入りが少なく、一日120円というのがありました。  1989年ごろ宝井 琴梅さんと二人で自転車で出前講談をしました。  北海道から沖縄まで行きました。  楽しみにして頂けるようになりこっちの自信にもなりました。   生の魅力でしょうね。  講談の絵本を5,6冊出すことが出来ました。(小学校5,6年生向き)   現代小説をやってみたいと思います。   ほとんどの講釈師が新しいものに挑戦していて、特に女性講釈師が女の美学を求めて、やっています。  

もっと人前でしゃべる場所を作ってあげないと成長はあり得ないので、何とか場所を確保しようと思って動いています。  定席を復活させたいです。