2023年6月5日月曜日

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕馬場あき子

 穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕馬場あき子

馬場さんの日常を追った映画「幾春かけて老いゆかん 歌人馬場あき子の日々」が公開されました。   監督はテレビドキュメンタリーの世界で活躍する田代裕さん、歌人らしからない気取らないいつものままの馬場さんの姿がスクリーンに写し出されています。

1928年(昭和3年)生まれ、東京都出身。 実の母親を病気で亡くして、祖母の元で育ち、父親が再婚してからはこちらで暮らす事になる。  戦時中は軍事工場で働くなど戦争のご苦労がありましたが、大学に入って日本文学を学び、能と短歌に出会ったことが人生の転機となります。   大学卒業後は教師となり中学、高校で教えながら能も短歌も続け1955年に発表した第一歌集『早笛』は高い評価を受けました。  1977年教師を辞職し、学生時代から参加してきた「きっしゃ」?を脱会、夫である岩田正さんと新たに「かりん」を立ち上げました。  またそのころ現在に続く朝日新聞花壇の選者になりました。  これまでに迢空賞、読売文学賞、朝日賞、日本芸術院賞などを受賞、2019年には文化功労者に選ばれました。  一昨年これまでの集大成として1万首を収録した「馬場あき子全歌集」を出版、今年は馬場さんに密着したドキュメンタリー映画「幾春かけて老いゆかん 歌人馬場あき子の日々」が公開されました。   

馬場:田代さんをお能の関係者から紹介されて、30分番組と思っていたら「これを映画にしましょう」と言われて、ドキドキしました。    1年の密着でした。  穂村さんとか俵万智さん辺りまでは下の句がいいんです。   でも最近は下の句が弱い。  時代的にも結論がないから、上の句を見て下の句に行く。  上の句、下の句の意識がなくなった。   言いたいことを言っちゃおうというのが多くなった。   だから短歌人口が増えたんです。   会話の様に歌ってしまう。  

穂村:あの映画を観て恐ろしいのはあの活力ですよね。  

馬場:謡いを60年もやっていれば死ぬまでこの声量ですよ。   

穂村:歌が時々バシッと出てくるのが気持ちよくて。

馬場:クラス会に出ました。 最初に受け持った子、と最後に受け持った子がよくやっています。 生徒が82歳が最初でこの間のは77歳が最後の子です。 昔の生徒をよく覚えています。  『早笛』に詠った子が来るんです。  教科書から脱線して面白い話をしてもらった事などよく話します。  うちのクラスが書道の展覧会で一番入選します。 国語の教師が書道を教えなければならなかった。   私は書道が出来ない。 書道の塾にうちのクラスから一番行ってたと思います。  

穂村:馬場先生に源氏物語を習うんですが、テキストから脱線するところが生き生きしていて、当時の下着はこうだったとか、おやつはこんなものを食べていたとか教科書的なものには出てもない。  国文学であると同時に民俗学的な素養がある馬場先生は生き生き教えてくださった。   そうすると覚えられるんです。

馬場:能は型にはまったもので古典と同じ、古典と短歌と言ったら現代においてはなんとなく発展性がない。  判らないが能面に惹かれました。   「墨田川」を見に行きました。  結構心理劇になっています。  短い会話の中に複雑な心理があったり、やり取りがあったりして面白い。  「道成寺」で「花のほかには松ばかり」で始まるが、松は「松」と「待つ」の両方にかかってるとしか考えない。 「暮れ染めて鐘や響くらん」 鐘が響くというと、待つ?のは鐘が落ちるのを待っている」という風に響いて来る。  最初の言葉から怖い訳です。  怖い予告編の言葉じゃなかったかなという事を考える。  残念ながら現代には生きない。  だから能と両立と言われると猛烈に困ってしまう。  

穂村:馬場さんには「鬼の研究」という名著がある。  敗れたもの、押しつぶされ続けてきたもの、弱者、への視線がある。  安保闘争に敗れた怨念、押さえつけられてきた女性の立場への眼差しに、凄く馬場さんを感じます。   若いころから有った視線ですか。

馬場:そうですね。 一番嫌いで怖いのが蛇です。  蛇のなろうとどうして思えるのだろうか、異様ですよね。  なろうと思うまで屈折が重なってゆく、一番嫌いなものになってやろうという、そう言う事じゃないかしら。  一番嫌いだったものが逆に絢爛たるものに高まってゆくだけだから。   短歌と能のどっちかを辞めようと思ったことは全くないです。  能の面白さといったらないです。  言葉そのものでは表せないことは歌う事によって現れる。  型を付けることによって、涙ぐましいほど出てきちゃう。  思想含んだ、哲学を含んだものがいっぱいある。  それが時々はっと思わされる。       安保闘争でめちゃくちゃになっていたころ、師匠が「「」、舞いなさい」、と言われて拒否できずに巴を舞うわけです。  戦場から離脱する人、巴御前は故郷で語り部になるわけです。義仲の戦場から離脱して故郷に帰る女の役目と言うようなものを教えてくれたわけです。  私が舞う事によって決別できる気持ちになりました。

三島が切腹する前の昭和44年、「葵上」を舞いなさいと言われました。 鬼になる女を教えてくれた。  師匠がなんで踊らせるのか判らなかったが、二つとも時を経て自分のターニングポイントになりました。  型に押し込められながらなおかつ自己表現してやろうと思う時、物凄い快感がある。  師匠は型を教えるだけ、自分で考えるとちがってくるわけです。  師匠はいい時にいいことを言ってくれる。  好きなのは短歌の世界では近くでは宇都野研、どうしても窪田空穂の歌が40代までは好きになれなかった。 自分が「かりん」を起こしてから、窪田空穂の全集を3回読みました。  私の作品が抒情的であるという批判を受けた時に、窪田空穂の短歌思想では短歌は抒情の様式であるという事は窪田空穂の魂であったわけ。  抒情的であるという批判を受けた時に窪田空穂は筆を執ってくれて、直ぐ防衛を張ってくれました。  抒情は短歌の生命だといって、有難かった。        抒情ではなく乾いた知的なもの見方をしなければ、日本の新しい時代には短歌は生きれれないと、抒情というものを小さいものだと、皆思っていたんです。  抒情というのは時代を越えるものだと思います。  

穂村:馬場さんは強靭な論理を持っていたから、これが違いました。

馬場:あの頃、女は論理を持つべきではなかった。  男の眼でもって批判されて、なおしていって、男の文体の短歌でありながら女の、艶が滲むというところが良かった。 そこのところが能と似ていた。  男がやっていても艶(中世の最高の美学)が滲む。      失敗は大きな流れのなかの部分だから、傷を負いながらも治ってゆく。  大きな決断は決められないことがいっぱいありました。  そういう時には黙っている、これは秘訣です。岩田(夫)の姑はいい姑で私の話し相手になってくれました。  だから迷惑この上なかった。  勉強できなくて出ちゃいました。  

穂村:岩田さんの有名な短歌が映画死にてにも出てきましたが、「イブモンタンの枯れ葉愛して三十年妻を愛して三十五年」。  岩田さんが亡くなった時の馬場さんの歌は「夫(つま)のきみ死にてゐし風呂に今宵入る六十年を越えて夫婦たりにし」  

馬場:ここで死んでいたんだと思うと入る時に怖い気がしました。 

穂村:印象的だったのは最後の方に出た、*「ふと思えば我情熱く愛淡き事おりふしのあやまちなりや」?というものです。  

馬場:愛というのは長く続くものでなくてはならないでしょう。  私は情に燃えやすいけれども、愛情を注ぎ続けることが出来るのか、を問うと判らないなあという事になるのでは。  ドラマがあったりするのがあるわけではなく、愛はもっと静かで深いもので、その人間を見つくしてあげる事なんじゃないのかなあと思います。                    孤独は人間の本質で、生まれた時は一人で、個で生きてゆかなければならないという時は時々あります。   私が頼ったというのは父であったり、自分を守り手であったりする人、でも相談したことはないですね。  自分のやることに対して信念を持っている人は好きですね。  

穂村:馬場さんに対しては失言してもきっと大丈夫だろうというような、そういう柔らかさや大きさがあるからいいですね。

馬場:失敗のない人間なんて厭だね。  

*印の短歌は漢字、かななどの表記が違ってる可能性があります。