2023年9月30日土曜日

ダニエル・カール(タレント)      ・講演

 ダニエル・カール(タレント)      ・講演

1960年アメリカカルフォルニア州生まれ。  高校、大学時代に日本に留学、卒業後山形県で英語指導主事助手を務めました。 やがて山形弁を交えたユニークなトークでタレントとしても活躍、現在も美味しい山形大使、嫁探しのおしょうしな観光大使も務めています。 「おしょうしな」は山形のお国言葉「ありがとう」という意味緒です。  山形とのかかわりや今も大切にしている思いなどを伺いました。

コロナ禍で、40数年振りに髭を生やしてみたら真っ白になりました。  子供たちにサンタさんだと言われました。  ちょっと小さくして手入れをしたら、カーネル・サンダース(ケンタッキーフライドチキン(KFC)の創業者。)と言われました。 しばらくこれで行きます。  女房は高畠町の青葉町の長屋で生まれ、10歳まで高畠で暮らし、その後米沢に移って、英語の先生になって俺と知り合って現在に至ります。(姉さん女房) 山形に来たのは大学卒業してすぐでした。 英語指導主事助手としてきました。  高校時代は1年間奈良県に留学し柔道、日本の文化、奈良勉弁も勉強しました。  大学2年の時にも日本に留学しました。 大阪の関西外国語大学で大阪弁もちょっと覚えました。  その後京都の嵐山のお寺にお世話になり京都弁も覚えました。 佐渡にも行って北陸弁も覚えなければいけませんでした。  山形に来たら、改めてゼロから勉強し直すしかないと思いました。

山形弁の「ん」という特徴、「ん」で始まる単語が沢山あります。 「んだ」という言葉があらゆる方向から聞こえてきました。  説明されたのが「ん」と「だ」の二つの単語からできていると言われました。 「だ」=「です」という意味、「ん」=相槌を打つ時に「うん」というがそれに近いもの、「そう」という意味に近い。  標準語に訳すと「そうですよ」となる。  反対言葉が「んね」と言います。 「ん」を真ん中に持ってくるのもある。 「まんず最初」「めんずらしい」「すんばらしい」 ぶどうを「ぶんど」 これらが山形弁の玄関口でした。  標準語を勉強したことはない。  

山形に最初きたのが昭和56年です。  山形県では初めての英語指導主事助手でした。  山形の中学、高校を全部平等に回った方がいいと言われました。  全部で210校ありました。 毎日大変でしたが、楽しかった。  外国人が珍しく校庭を歩いていると全員が窓際に来て大騒ぎするんです。  英語で生徒が挨拶をするんですが、毎日の始まりが「ヘイ、ジス イズ ア ペン」でした。  当時の英語の教科書の最初はいつも「This is a pen.」でした。  もっと実用的な英語にした方がいいと文部省に言いましたが、やっと変わったのが平成20年で「This is a pen.」がなくなりました。  スタートはいつからなのかを調べたら、明治20年からのスタートでした。 

もっと、お国自慢をしてもいいんじゃないでしょうか。 山形は「フルーツ王国」です。 「漬物王国」でもあります。  さくらんぼ漬けもあります。 「山菜王国」でもあります。  温泉も多い。  自慢心を持つという事は大事なことだと思います。 「謙遜」という日本の美徳があります。 「謙遜」を使いすぎると、何も自慢が出来なくなってしまう。  「自慢」と「謙遜」をバランスよく使った方がいい。  自慢話をする方が楽しい。 聞いている方は自慢話をし過ぎると、聞いている方は飽きてしまう。  日本の交通網は素晴らしいと思います。  外国人は発車時刻の正確さには吃驚しています。    日本の水道水安全で美味い。  























2023年9月29日金曜日

竹内弓乃(臨床心理士)         ・〔ことばの贈りもの〕 「大変さ」に向き合う親子に寄り添って

 竹内弓乃(特定非営利活動法人ADDS共同代表 臨床心理士)・〔ことばの贈りもの〕  「大変さ」に向き合う親子に寄り添って

ラグビーワールドカップ 一時リーグ 日本対サモアの模様を中継で伝える為、中止になります。(FM放送)

2023年9月28日木曜日

土屋貴裕(東京国立博物館・絵画彫刻室長) ・〔私のアート交遊録〕 日本美術の王道~大和絵の世界をめぐる

土屋貴裕(東京国立博物館・絵画彫刻室長) ・〔私のアート交遊録〕  日本美術の王道~大和絵の世界をめぐる 

 東京国立博物館では 10月11日から 日本美術の王道と言われる  特別展「大和絵 受け継がれる王朝の美 」  と題した展覧会が開かれます。  大和絵は平安時代の前期に成立し 、繊細優美と言ったイメージ  で語られることの多い 大和絵ですが、  各時代の最先端の モードをどん欲に取り込み、人々を驚かせ続けてきた世界 です。  そこには伝統の継承 ,革新という常に 新たな創造を試行する美的な営みがあり、それこそが大和絵の 本質だと言われています。  日本美術の教科書とも言われる 大和絵の世界について土屋貴裕さんにお話を伺いました。

大和絵というとキラキラした絵巻物とか、貴族の生活が描かれているような 絢爛豪華と言ったイメージがあると思うかもしれませんが、実際には大和絵と言われる範囲は非常に広いのが一つ 特徴なんです。   江戸時代には繊細な画風がありましたが、 それ以前は実は かなり派手派手しく眩しいまばゆい画面 というのが大和絵のなかで非常に大きなウエートを占めていたという事が確かなんです。  平安時代の初め頃(1000年以上前)のことになります。 794年に平安京が移されて、しばらくは中国の文化を摂取する時代が続きますが、その後日本の風景、身近な人物を描こうと言った動きが平安時代の初めごろに起こって、そこから大和絵というものが誕生します。  以前は中国のものをまるまるコピーしようと言った動きが政治的にも行われますが、文化の世界でも同じようなことが行われました。

正倉院の宝物がありますが、日本で作られたものか、中国で作られたものか、堺があいまいなものが沢山あります。  日本の技術が高かったという事と、日本の独自性がほとんどなかった。  それから大和絵が誕生します。  中国で作られた綺麗な紙を輸入して使います。  このころの巻物は一枚ごとに全部違う模様のものを繋いでゆきます。 唐紙と言われた中国の紙に書くと言うと中国と同じことなので、日本的なものを入れようとして、日本風の絵、花、蝶、植物などを金と銀で描くわけです。  その上から文字を乗せる。   そこでガラッと印象が変わってくる。  新しさ、贅沢さを込める。  それが最先端のモードに繋がってくる。  

繊細優美、地味さも一つの個性だと思います。 しかし、1000年前のものを見る目が違い、地味な作品ではなく、本当はギラギラした派手ものではないかと言うのが、大和絵にはたくさんあります。  今回は240点ぐらいの作品がありますが、必ず見たことがある作品が会場のあちこちにあります。  今回は平安時代から室町時代の作品が選ばれています。  江戸時代は狩野派の絵が中心になってしまって、大和絵は端っこに追いやられてしまう。  室町時代までは土佐派という画派が絵を描いていましたが、「土佐光元」という正統の後継者である人が羽柴秀吉が鳥取を攻めに行った時に一緒に行って、現地で戦死してしまいます。  家が断絶してしまい、絵の依頼先がなくなり、その時に出てきたのが狩野派でした。  いろいろな人が大和絵を描くようになってきてしまって、土佐派の持っていたプレゼンスがぐっと低くなった。  狩野派は大和絵もできるし、それ以外のこともやるという事で、段々大和絵が少なくなってゆき、廃れて行ってしまう。  室町時代の終わりが一つの大きなピークになる。  今回は室町時代までに区切ってみました。

国宝が50点以上、重要文化財が120数点になっています。  四大絵巻、神護寺三像経、三大装飾経という三つの大きな目玉作品(全て国宝)があります。  四大絵巻は「源氏物語絵巻」、「信貴山縁起絵巻」、「伴大納言絵巻」、「鳥獣戯画」、これがすべてそろったのは30年振りです。   神護寺三像は「伝源頼朝像」、「伝平重盛像」、「伝藤原光能像」(皆等身大です。)  三大装飾経は「久能寺経」(静岡県久能寺)、「平家納経」厳島神社に奉納)、「慈光寺経」(埼玉県慈光寺)です。  三大装飾経には見返しに大和絵が描かれています。

当初の大和絵は唐絵と比べて、見た目がほとんど変わらない。  同じ筆、同じ絵具、同じ紙、絹に描いている。  違っているのは描いてあるテーマに違いだけです。 日本の人物、風景に変えたものが大和絵になっています。  室町時代になってくるとちょっと変わって来ます。  中国から新たに水墨画が入って来ます。  漢画と大和絵の二つに大きく分かれて来ますが、大和絵に取り込んでいきます。  江戸時代の浮世絵画家も大和絵師という認識がありました。  大和絵には柔軟性がありました。  

私は大学は日本の歴史を学ぶ学部に入りました。  美術史の授業があり興味を抱き、大学院に行きました。  美術品や文化財は世界に一個しかないものです。  壊したら元に戻らない。  作品を如何に守って、次の時代に伝えてゆくかという事と、皆さんにご覧いただいて如何に関心をもっていただくか、保存と公開のバランスが難しい。  お薦めの一点という事ですが、「浜松図屏風」、室町時代終わりの屏風、通常の屏風より小さいが、密度が濃い。  紙の上にキラと呼ばれる鉱物のキラキラ光っているものを一層塗った上に金を乗せている。  いぶし銀的な鈍い光を放ちます。 このキラキラは会場でしか見れません。  一番のギャップがあると思います。































  









  








                                                                                        

2023年9月27日水曜日

花城良廣(沖縄美ら島財団 理事長)   ・〔心に花を咲かせて〕 熱帯植物と共に半世紀

花城良廣(一般財団法人 沖縄美ら島財団 理事長)   ・〔心に花を咲かせて〕  熱帯植物と共に半世紀 

デイゴもハイビスカスももともと沖縄にあった花ではない、いかにして花の島になったのでしょうか。   沖縄を花の島にしようと奮闘している沖縄美ら島財団 理事長にお話を伺いました。   沖縄美ら島財団は昭和50年に開設されました。  沖縄国際海洋博覧会跡地に整備された美ら島水族館、熱帯植物を展示している熱帯ドリームセンターなどがある国営沖縄記念公園を管理、運営しているところです。  花城さんは沖縄で生まれ琉球大学から千葉大学へと進み、植物の研究をして、海洋博記念公園の熱帯ドリームセンターを作るにあたっては温室を作る段階から関与しています。 自然の風を生かした設計、シンガポール植物園が参考にして植物園を作ったようです。  以来、およそ半世紀、沖縄を花の島にしたいと、仕事を越えて活動を続けている花城さんにお話を伺いました。

ハイビスカス、デイゴなど外国から導入されたものです。  琉球政府時代に果樹、花木などが導入されています。  デイゴは県花として沖縄のシンボルになっています。    実はインド原産なんです。  インドから中国に渡って、中国から沖縄に来ました。    芭蕉布の芭蕉も輸入して来たものです。  ブラジルに移民して、里帰りしてくる時に、綺麗な花の種を導入して、焦土化した沖縄の街を花で立派にするという、いろんなプロジェクトもありました。  そういう事で現在華やかな花が見られるようになりました。            

沖縄は亜熱帯の環境で、ちょっと手を加えるだけで熱帯の花が育つ環境にあります。    花は人の心を穏やかにしてくれるので、戦後の復興という意味では、衣食住だけではなく、心の復興も重要であったわけです。  ハイビスカスとかブーゲンビリアとか街路樹として植えられ行きました。  

私は鳩間島に生まれました。  周辺が4kmしかない小さな島です。  祖父が花が好きでいつも庭に花がありました。   小学校5,6年生のころ、先生から花壇を作るから担当するように言われ花作りをしました。  天人菊を植えました。  沖縄で最も増やしたい植物でもあります。 昼咲き月見草は雑草と競争して生える植物で強い花です。  

熱帯ドリームセンターという植物園がありますが、基本設計から関わって来ました。   蘭を中心にしようとしました。  蘭を趣味で栽培していたのが35,6家ありました。  蘭を見せるだけではなく、公園の外にでて農家の皆さんが栽培するように仕組みを作って行けば、農業の振興にも繋がるのではないかと狙いを持ちながら熱帯ドリームセンターは出来上がりました。  日本全体で洋蘭の栽培が始まったのは明治以降になります。  熱帯の蘭は沖縄では非常に合っています。  胡蝶蘭は沖縄では軒下でも栽培出来ます。  カトレアは中南米原産のラン科植物の1つの属ですが、街路樹にくっつけて、ある時期になると一斉に咲きます。  

熱帯植物を管理する場合にほとんど手入れがいらないものもありますが、気を付けなければいけないのが雨の量です。   沖縄は年間2000~2500mmと雨の量が多いんです。   乾期雨季のある植物は余りよく育たない。  雨をよけてやるとよく育つ。  6,7種類の花木を鉢で栽培して手入れして入れ替えをしてやることで、一年中花が見られることになります。(国際通り)  三段花(4~6月) アラマンダ(6月~夏)、ハイビスカス、ブーゲンビリア、先島芙蓉(10月~)、ポイセチア(冬)など。

維持管理に地域の力を借りようという事でボランティアの制度を入れたり、そういった運動をしています。  平和の島だと、イメージアップするためには花が一番重要だと思います。  趣味でラン栽培をしていたのは、昭和53,4年では30数軒しかありませんでしたが、昭和60年にはハウスを作って、栽培を始めましたが、技術的には不十分でした。   1967年ごろからデンファレという蘭が非常にによくできて、切り花としても需要が高いという事で、そこから始まって行きました。 生産農家が280軒?ぐらいになりました。 過剰生産になって価格低下になって行きました。  今は10軒程度です。  

菊の切り花は沖縄からほとんど行っています。  正月、お彼岸の時期には沖縄からジャンボジェット機のチャーター便が飛んでいきます。   菊に関しては品種改良が進んでいて、いろんなタイプの菊が出ています。   菊の生産で重要なことは一旦冷やすことが重要で、インドネシアの1000mの高地に持って行って寒さを与えて、持ち帰って植えることで、早く咲いたり開花調節が出来ます。   切り花の種類を増やしていけばまだまだ可能性があります。  解決していかなければいけないのが台風です。  台風と仲良くやって行かなければいけない。 そのためには在来の植物を上手く使う事だと思います。 

琉球弁慶という植物絶滅種があります。  これを保存してゆくことと、遺伝子を、別のものと交配して形を変えてゆき、切ってテーブルに置いても、水もなしで一か月育つんです。 今後切り花として使えます。  住んでいる皆さんのために花があるんだという事、そして結果として観光客の皆さんにもいい印象を与えるという、そういった活動を展開していきたい。  新しい花を作りたいという事もやって行きたい。
















 

























                                                                                                                                                     

2023年9月26日火曜日

千玄室(裏千家 前・家元)       ・一椀の茶にこめた思い 後編

 千玄室(裏千家 前・家元)       ・一椀の茶にこめた思い 後編

1923年(大正12年)4月生まれ、5人兄弟(姉が二人弟が二人)。  姉が二人で祖父はがっかりしていたようですが、私が生まれて祖父が喜びました。  祖父が「政興」という名を付けてくれました。  弟が二人生まれて、何かというと「お兄ちゃまだからしっかりしなさい。」と言われました。 厳しく育てられました。  幼稚園で黒パンとジャムと牛乳が出ます、これが好きでした。  アメリカのワーレン先生が園長先生で英語で教えてくれて、英語に関心を持ちました。  一番嫌いなのが算術でした。  歴史など西暦何年とかよく覚えました。   同志社中学ではキリスト教系なので毎日朝8時半にはチャペルに入り、牧師の頌栄を聞いて、バイブルを開き、讃美歌を歌います。  5年間すっかりキリスト教の教えを身に付けました。  家では朝父と一緒に仏間でお参りをします。(お経を聞きながら)   屋敷にはお社があってお地蔵様があり柏手で拝むわけです。  神道、仏教、キリスト教これが身に付きました。  

日本に伝統文化としての茶道を教えるという事が始まりました。  同志社創立者の新島襄の妻新島八重が女性教育に茶道を取り入れました。  私は中学3年生のころに母方の祖母が茶道のお稽古をしました。  母からは武家の歩き方の作法などを教えられました。  いまだに姿勢がいいです。   「何で父からは教えてくれないのか。」と言ったら、「私は師匠だ、なんでお前から教えてくださいと言ってこないのか。」と言われ青天の霹靂でした。  弟たちは甘やかされて茶道のことは知らず、私が戦争から帰ってきた時には「よかった よかった」と言ってくれて、後を継がなくて済んだという事で、そういっていたようです。  後を継ぐ者しか「千」の名を継げません。  三千家ありますが、集簇と言います。  弟たちは昔から養子に行くか千家同士でやり取りをして入り混じっていて、別々ではないんです。  

戦後、大学に復学しました。  大徳寺管長後藤瑞巌老大師の元で禅の修行をしました。  私より半年前に入った僧侶がいて、盛永 宗興という人で、後に花園大学の学長に成ったり、禅研究文化研修所の所長に成ったり、妙心寺派の管長になる手前でなくなりました 。   修業は大変でした。 食事も朝はおかゆと梅干、薄い味噌汁、昼はおうどん、夜は残り物を集めたもので煮っころがしを作って、麦飯と白米の混ざったものでお替りは出来ない。  朝は4時に起きて座禅を組んで、「公案」(難しい問答)を行います。  「無」とは何だとか。 又「作務」(自給の僧院生活に必要な日常作業)と言って、庭の掃除をしたりします。   

草を抜いていたら、瑞巌老大師が後ろから「今どんな気持ちで草を抜いているのか。」と言われました。  部屋に連れていかれて、「なんも思わずに草を抜いていたやろ。 あの草も生きていたんだぞ。 それに対して無造作に何も考えないで抜いているのか。 あんたな 戦争に行って生き残りや。 生き残りらしく命を大事していけ。 生きている草もすみませんという気持ちで抜かなあかん。」と言われ、その時初めて「無」だと、いろいろ老師から10年間鍛えられました。

特攻の死の経験から、なんでもできるという気持ちはあり増上していました。  それが老師には判っていてバチンと叩かれました。  CIE(Civil Information and Education Section 民間情報教育局 ) に女性の局長が居て、その人がお茶が大好きでした。    アメリカに日本の伝統文化を伝えて欲しいという話がありました。  アメリカに行くのは厭だと思っていましたが、戦友から、ダイクという将軍が「日本にはアメリカの民主主義よりももっと古くから日本には民主主義があったんだと、これは茶道だ。」言いました。   千利休は、茶室に入ったら武士も丸腰でいれ、商人、農民も一緒にお茶室に入れた。  「和敬清寂」(主人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にすることという意)をみんなに教えた。  それを聞いてアメリカ行きを決めました。 

昭和26年1月10日に出発しました。(軍用機で)   ハワイ大学に籍を置いて2年間いろいろな所に行きました。  ニューオリンズに行った時には黒人に対する扱いが平等ではない、民主主義は嘘だと思いました。  昭和30年に結婚しました。 彼女はフランス語が得意でした。  吉川英治先生に仲人してもらいました。  彼女の助言で「一椀からピースフルネスを」という言葉が生まれました。  お茶は緑で、自然共生。  戦争は緑を消してゆきます。  ゴルバチョフもここへ2回来ています。 鄧小平も3回来ています。 習近平は来ていないが、いろいろな人がお茶を尊敬してくれます。  お茶は文化であり、健康であり、友好手段の一つでも有ります。  平和外交にはお茶が一番です。  この前には北朝鮮と韓国の大使が一緒に来て、会場がざわめきました。  一緒に座ってお茶を飲んでくれました。  各国の大使が吃驚していました。





 

























2023年9月24日日曜日

千玄室(裏千家 前・家元)        ・一椀の茶にこめた思い 前編

 千玄室(裏千家 前・家元)        ・一椀の茶にこめた思い 前編

千玄室さんは裏千家第14代家元・碩叟宗室の長男として1923年(大正12年)京都に生まれ今年100歳になりました。  昭和18年に同志社大学在学中に、学徒出陣で海軍に入隊、20年に特別攻撃隊に志願しましたが、出撃することはありませんでした。  今の特攻隊の生き残りとしての使命感から、出撃してしまった同輩への思いを強く感じています。  千さんはお茶の精神を通して、争いのない世界の実現に心血を注ぎ続けて居ます。  お茶席においては身分の上下など全く関係なく、みな平等だという考えの「一椀からピースフルネスを」という理念で世界を回り、平和を唱えています。 

私はお茶の宗家に生まれて、明治維新までは武家であって茶家であって禄高を頂いていたのが、御維新で禄高を離れて、それから家元制度と言いうものに入りました。  千利休という方が茶の道を大成されてそれから450年続いています。  大正12年生まれで、まだ世のしきたりが大変難しい時でした。  武家作法とお茶の日常的な生活態度のすべてを嫡男として強く鍛えられました。   将来家元を継いでいかないといけないという事で、両親から非常に厳しいしつけ、教育を受けました。   弟が二人います。  小学校の頃に私が帰ってくると、勉強が大事ですが、すぐお稽古をします。 お茶は総合的な文化体系であるので、お点前、作法という事ばかりではなく、道具、茶碗、花活け、掛物などすべて人間にとって大切な美術工芸を勉強しなければいけない。  心の中も勉強と同時にお茶の道に対する構えが出来て行きました。

8月15日という敗戦に日を迎える。   私たちは昭和18年学徒動員、文系の大学生は20歳になると全部徴兵検査を受けることになる。  合格して戦争に行って帰ってくる。 8月15日は悔しい、悲しい、多くの仲間が亡くなり、広島、長崎にも原子爆弾を落とされて日本が壊滅状態になってしまった。  私たちは海軍でした。 第14期海軍予備学生として大日本帝国海軍に入隊、舞鶴の海兵団に入隊しました。 試験があり飛行科を受けました。  試験官に「不惜身命 但惜身命」ということを言いました。 命を惜しむな、しかし命を無駄に捨てるのはいけない、という意味ですが。  土浦海軍航空隊に転属し、士官になるための基礎軍事訓練を受けることになりました。(2か月半)  学生たちに将来海軍にはいる準備として、水上機の訓練のため琵琶湖で訓練をしたこともありました。   これも受かった原因です。  

徳島海軍航空隊に転属となりました。  「お前たちは死にに来たんだろう。」と言われて、飛行機と共に敵に体当たりしなければいけない、それの訓練です。 10か月の厳しい訓練を終えて海軍少尉に任官しました。  特殊科学生に採用されて、ここから2か月間特殊訓練です。  夜間飛行、急降下など身に付けたら、1945年4月の初めでした。   徳島海軍航空隊も特別攻撃隊の編成を命じられました。  白い紙を渡され、特別攻撃隊に志願するかしないか、「諾」か「否」かを書く様に言われました。  西村晃(俳優)さんとはいつも飛行機に一緒に乗っていました。  「否」と書いたら、返って出されるぞ、と話し合い、私は「諾」に二重丸をしました。  1週間後に全員集合があり、「全員特別攻撃隊の要員として命ずる。」と言われました。  特攻の訓練を終わったものから順次、鹿児島の鹿屋の基地に飛びました。  

茶箱を持って行っていたので、お茶をふるまったりしていました。  10人程度の仲間とお茶を飲みながら、もう帰れないんだと実感しました。   西村が母親に会いたいなあと言って、茶碗を置いて「お母さん お母さん」と呼んだんです。  皆も叫びながら順次出て行きました。  皆突っ込んで行きました。   私も出て行こうとしたときに、「待機命令が来ている。」と言われました。  私は無残にも残され、悲しかった、苦しかった。命令で松輪?の基地に飛びました。  特攻隊から予科練の教官になってしまいました。仲間は次々に死んでいって、学徒動員で入った仲間460数名は靖国で眠っています。   徳島海軍航空隊から飛び立った32名はどんな思いをして沖縄周辺に眠っているか、「自分たちは国の為よりも、親兄弟のために死ぬんだよ。こんな戦争は二度と起こしてはあかんわ。」みんなそういいました。(涙ながらに話す。)  今の若い人たちはそんなことはわかりません。  無残ですよ、戦争は。  私だけはなんで生き残ったのか、そうしたら西村も生き残っていました。  奄美大島から出たとたんに、エンジンが不調で不時着して負傷もしないで帰って来ました。

戦争が終わって昭和21年の5月のメーデーでしたが、私は東京に出掛けて文部省に行きましたが、ふっと見たら「演劇労働組合」という旗が来ました。  その中から「千」と呼ぶ声が聞こえました。  西村や、と思って行きました。  二人で抱き合って、「生きてってよかったな。」と涙を流しながら一緒に新橋ま行進しました。  周りの人たちも「よかったなあ。」と手を叩いてくれました。  一人は俳優になり、私はお茶の家元になりました。   時間があれば西村と一緒に沖縄のいろんな所に行って、お茶を奉げて慰霊をしてきました。   戦後78年、学徒出陣から80年、多くの学生が亡くなりました。   彼らが生きていれば、彼らが残した仕事も大きかったと思います。  学なかばで亡くなり、命を奉げた連中のことは、私は死ぬまで忘れません。 

武には負けた、だが文には、一椀のお茶をもって、世界人類の平和のために、口で「平和」と言ったって平和はくるものではありません。 ロシアの侵略戦争を、どんなにみんなが叫んでもあの侵略戦争は治まりません。  一椀のお茶をもって世界70か国余りを回って来ましたが、皆賛同してくれました。   お茶は労わりです。  人に対する思いやりをお茶は全部教えているんです。   その思いやりが「和み」なんです。  一椀のお茶で、世界に日本の伝統文化をもって、二度とそういう争いがないように、人間同士が差別をしてはいけない。  茶室に入る時には平等である、それを世界中に教えました。  垣根を越えさせるのがお茶の魅力なんです。   皆の心が穏やかになるんです。  平和に対する理念、お茶をもって進めなければいけない、これが茶道の本当の姿なんです。







 






































瞳みのる(ドラマー/ザ・タイガース)  ・〔私の人生手帖〕

 瞳みのるドラマー/ザ・タイガース)    ・〔私の人生手帖〕

瞳さんは1960年代の後半、グループサウンズ(GS)のグループの寵児として一世を風靡した「ザ・タイガース」のドラマーです。  一般的には「ピー」の愛称で知られますが、昨日9月22日喜寿を迎えました。  京都市の出身で幼いころ裕福だった家業が倒産、小学校のころから新聞配達などをして学費を稼ぎます。  定時制高校4年の時に休学、仲間たちと上京して1967年「ザ・タイガース」としてレコードデビューしました。  そして圧倒的な人気を得たものの4年足らずで解散しました。  以後、芸能界と交流を断った瞳さんは、猛勉強の後大学、大学院を卒業して34年間高校で漢文などの教諭を務めます。  その後定年を2年残して音楽の世界に復帰、現在も現役として音楽活動や執筆活動を続けています。  今日は解散後の話を中心に3回生きたとも言われる決断の力となったもの、波乱の人生を支えた強い思いと共に、喜寿を迎えた心境などを伺いました。

慶應義塾高等学校中国語漢文の教諭を務めました。  34年間甲子園には一度も出ていなかった状況でしたが、本当に感激しました。  慶応に来た仙台育英の校長がいるんですが、今校長をしていますが、仙台育英の校長は漢文の僕の教え子なんです。  優勝して感激しました。喜寿を迎えましたが、大きな感慨はないです。  父親は75歳で亡くなりました。 

23日に有楽町でバースデーイベントがあります。  日劇のウエスタンカーニバルがあり、一回目ぐらいからロカビリーの連中(平尾昌晃、守屋浩ら)の曲をやって、GSの曲をメドレーでやったりとか、皆さんに楽しんでいただければと思います。  

「ザ・タイガース」の結成が1967年、会社の方としてはアイドルで売った方がいいという事でした。   外国の歌ばかりやっていたので、なんで歌謡曲という思いはありました。   ビジネスの世界で、僕たちとは合わなかった。   一生やろうと思って仲間を誘ったのですが、4年足らずで解散しました。  勉強をしたいと思いましたが、その前に演劇、カメラマンなどもやろうと思いました。   勉強ではなく、学校でわいわいするのが好きでした。   柴田錬三郎さんに会う機会があり、勉強するにはお金が必要だと言われて、最後に1年間で学資を稼ぎました。(1000万円ぐらい)   

1971年1月24日に解散、当日京都に戻り猛勉強を始めました。  72年4月に慶応大学に入りました。  時間を惜しんで勉強し、定時制高校では受験科目しかやりませんでした。  一日14時間ぐらい勉強しました。  「ザ タイガース」という名前を辱めてはいけないと思って頑張りました。  小学校1,2年生の時には乳母がいて、自分は病弱ではありました。   乳母が居なくなって自分で生きて行かなくてはいけないという思いでいました。   科目は国語と社会が好きでした。  中国語、漢文を勉強しました。  生徒たちからはいろんなことを教わります。  生徒から興味を持ってもらえるような授業を考えてやっていました。  

柴田錬三郎さんからは「やるんだったら、二足の草鞋は履けないよ。」と言われ、僕も守りました。   夢に出てきたりして、音楽に対して我慢していたところはあると思います。   溜めていたものがとめどもなく出てきます。   短歌は一日一首,二首は書いています。それが歌になります。   定年(65歳)を2年残して2010年に退職しました。   定年までいると、人生終わったなと思ってしまうと思いました。  だから早めに辞めました。   音楽、文学が融合できればいいなあと思いました。  今は料理もやっています。  

2011年からコンサート、本も執筆しました。  自分がどういう方向に行きたいんだという事、「志」の問題ですね。  「ザ タイガース」での成功の確率はほとんどゼロに近かった、大学に1年で入るというのも、確率的にはほとんどゼロです。  「志」の問題です。辛くって「もういいや」と思う時もありますが、「それでいいの」と言うもう一人の自分が言うんです。  杜甫、李白をやっていますが、物凄く規則がうるさいんです。  漢文、音楽もリズムなんです。   「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」(誠の心で接すれば、動かなかった人は今まで誰もいないという意味)  吉田松陰が好きだった言葉です。(孟子の言葉)  自分自身のある力を出し切って生きて行こうと思っています。  順風満帆な人生は面白くないでしょうね。  

「百川帰海」、多くの離ればなれになっているものが、一か所に集まること。  自分がいろいろ学んできて、学んできたものが統合されて、自分のなかで大きな海になってゆく。  歳を取ると自分の幅を狭くして行ってしまうが、狭くならないようにとは思っています、でも狭くなっていきます。  飽きない曲残る曲を作りたい。  自然で韻律がいい、そしてどこか懐かしい、だけどどっか新しい、そういう曲が飽きないと思います。  文学的な歌を作りたい。 












































2023年9月22日金曜日

中谷比佐子(きものジャーナリスト)   ・着物が教えてくれたこと

中谷比佐子(きものジャーナリスト)   ・着物が教えてくれたこと 

女性誌の編集記者を経て、着物を切り口に日本の文化や日本人の考え方を伝えるきものジャーナリストとして、半世紀余り活躍しています。  着物の美しさや着物のしつけなどを伝える人が多い中、素材である絹や麻に注目して生産地を訪れたり、日本の手仕事を次の世代に繋ぎたいと、全国の職人の技を紹介したりするなど、作り手側に目を向けて取材を重ねてきました。今年87歳を迎えましたが、ご自身のもつ知識を少しでも多くの人に伝えようとSNSの発信を毎日、又動画の配信は週一回欠かさずに行っています。 

着物は「縦絽」(たてろ)という種類、帯は「芙蓉」です。 季節を着るという事が好きです。    旬のものを身に付けるという事は意外と簡単です。   処暑(厳しい暑さの峠を越した頃)を過ぎると薄物は着ないという風に、私たちは教わっていますが、とてもそんなことは言っていられないですね。  臨機応変です。  

1936年大分県生まれ。  共立女子大学文芸学部卒業後、出版社に就職、子供向け編集に携わりますが1年で退職、同じ系列の出版社で女性誌の編集記者となりました。  そのころに草木染めに出会って、和の魅力に開眼し、全国の産地に赴き職人たちの取材をはじめます。その後独立して、着物に関する事業を始めてもう半世紀余り、現在も展覧会の企画や書籍の執筆を続け、最新刊は今年の夏に出版された「続着物という農業」です。        ファッションや文化の面から捉えられることの多い着物を、原材料である絹や麻などから紐解いて、大地とのつながりのなかで、多くの人を介して作られる様子を描いています。  又着物を知ると日本が見えてくるをテーマに、月例の勉強会やSNSで発信するなど、多忙な毎日を送っています。

小さい時から企画をするのが好きなんです。  大学でもコーラス部を作ってみたり、そういった癖があるんでしょうね。  小学校は2年間ぐらいは病気で寝ていました。     4人兄弟の末っ子で、一番上の姉とは15歳違います。  お稽古事をして礼儀作法を教わっていました。  姉たちが着物を着るのは見ていました。  母は亡くなるまでほとんど着物でした。  着物を着る女性は古いと思って割と拒否していました。  着物を着るようになったのは20代後半からです。  父は弁護士でしたが、ライフワークは聖書の研究でした。  こうしろああしろという事はなかったです。  東京の4年生の大学を受けて、「受かった」と言ったら「ああそう」という感じでした。  一つ条件があって寮に入る事でした。   

学長は鳩山薫さんでした。  「自由と平和」を掲げていて、とっても楽しかったです。  田舎者なので言葉をきちんとしようと思って放送部に入りました。  現場のアナウンサーが来て教えてくれました。   ドラマの脚本なども書いたりしていました。  出版社に入りますが、親は大反対でした。  「たのしい5年生」という子供向けの雑誌の仕事をしました。  1年で辞めて、女性雑誌『女性自身』『二人自身』の編集記者として、いろんな現場に行って楽しかったです。  

病気になって、身体が持たなくて月刊誌に行って着物と出会います。  ネタ探しにデパートを歩いていたら、「万葉の色を染める」という展示会があり、山崎 斌(やまざき あきら)さんという方が額田王の歌を知っているかと言われました。 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」  紫の畑は天領で、当時は天皇、皇后の色であったという事でした。草木染め、着物の側面を知りました。 山崎 斌さんは島崎藤村の弟子でした。  「草木染め12か月」というページを作りました。  草木染はその時の基本とか、その年の気象条件で色が変わります。  化学染料に対して「草木染め」を山崎 斌さんが命名しました。  当時はまだ私は洋装でした。  

「洋装で来て、着物のことがわかるのかな。」という事を耳にして、以降着物を着て20年間行きました。  着物を着ることでも物凄く勉強になりました。  当時は問屋の組織がしっかりしていました。  着物は必要な人が必要な時に買うものだという感覚でした。  地方の小売り屋は各地方の文化をちゃんと勉強していて、その文化に合う着物の勧め方をしていました。  呉服屋と太物屋さんと別れていて、呉服屋は絹物等を売っていて、太物屋屋さん(木綿などを太物と言っていた。)はウールなどを売っていました。  今は一緒になっていて変わりました。  

平成に入って着物は売れなくなっていきました。  それまでは小売り屋が問屋から買って行っていました。  このころになると、着物を借りて行って売る、残ったたら返すという事になり、一番困るのは作り手です。  作り手がどんどん少なくなっていきました。  誰にでも合いそうなものを借りてくるが誰にでも合わない、そんな感じです。  

着物の魅力は、着物を知ると日本が見えてくるという、その一言です。  着物の素材を知ると江戸時代の藩政に出てくる。  徳島の蜂須賀家は藩政を豊かにするために藍染の藍を始めたり、南部染め(南部藩)とか江戸の文化が判ります。  取材で、日本茜、日本紫紺に出会って、それだけで染めている人にも出会いました。  人に伝えたいという思いが湧いてきました。  展示会、SNSの発信とかに繋がって行きました。  蚕は一頭と数えます、家畜なんです。  着物一枚作るのに3000~5000頭になります。  糞まで人は利用します。   絹は凄い素材だと思います。  

息抜きはオペラで歌っています。  発声の仕方が着物の着付けの時の骨の動かし方と一緒なんです。  ステージで歌う時も着物で歌います。  着物で歌うと腰が決まる、そうすると声が出やすいと言います。   クラシックバレエもやっています。 骨の使い方が着物に繋がってきます。  「衣食住」と有りますが、なんで「衣」が一番先なんだろうと、「食」が一番上なのではないかと思っていました。  「衣」が無いと人間らしく生きられない、「衣」をどう考えるのかというと、自然が恵んでくれるもの、草花、蚕などのものを身に付けることが一番大切な事かなと最近思って、それで「衣食住」だなとやっとわかったという感じです。  蚕は全部自分の命を人間に差し出している、無条件の愛ですね。












 






















































2023年9月21日木曜日

太田章(早稲田大学スポーツ科学部教授) ・〔スポーツ明日への伝言〕 レスリングをするために生まれてきた男

 太田章(早稲田大学スポーツ科学部教授・レスリング・オリンピックメダリスト) ・〔スポーツ明日への伝言〕  レスリングをするために生まれてきた男

太田さんは昭和32年(1957年)秋田市出身。  秋田商業高校から早稲田大学に進学し、1980年日本がボイコットしたモスクワオリンピックの幻の代表に一人です。    1984年のロサンゼルス大会フリースタイル90kg級で、日本人として初めて重量級のメダル銀メダルを獲得、ソウルでも連続して銀メダルに輝いだ日本レスリング界の重量級の新境地を開いたパイオニアです。

「がぶり返し」とは英語では フロントヘッドアンドアームロック 前で首と腕を一本づつ上から押さえ、自分から回転して相手の身体をひっくり返したり、バックを取ったりすることができる技です。  相撲のガブリ寄りとは全く違います。  「ほいさ」という掛け声を出して技をかけたりしていました。   力勝負では絶対勝てないと思っていたので、スピード、柔らかさ、相手の裏をかくという技の展開で対抗していきました。  スキを狙って一気に技を掛けて投げてしまうというように、一本背負いとか自分の持ち味にしていました。     

小学校5年生から柔道を始めました。  6年生で秋田市の大会で優勝しました。  中学では一本背負いを繰り返して、3年生では県大会でも優勝しました。  秋田は昔からレスリングが強かったです。  中学3年生でミュンヘンオリンピックがあって、秋田代表の柳田さんが金メダルを取って帰ってきました。  自分もレスリングをやって世界に行ってみたいと思いました。  野球も4番でピッチャーをやったり、他のスポーツもこなしていました。  チャンピオンになるためには格闘技だと思いました。  秋田商業高校に入り16歳からレスリングを始めました。  あれよあれよという内にいろんな技を覚えてしまいました。  2か月後の東北大会で1年生で優勝してしまいました。  自分のためにレスリングがあると思いました。  東北大会は3年間優勝しました。  インター杯は1年生で3位、2年の時には負けてしまって、3年生では優勝することが出来ました。  その時には大学生も破って世界ジュニア選手権の代表にもなりました。  

早稲田大学に入りましたが、一般入試で入りました。(スポーツ入学はなかった。)  アッカーの岡田武史監督、マラソンの瀬古利彦も同期です。  レスリングの富山英明、柔道の山下泰裕も同期です。  中学校3年生の時に彼を講道館に見にいって、こんなに一杯才能がある人が居るのかと思いました。   彼が大会で全て違う技で勝ったんですが、後に聞いてみたら、その都度違う技を指示されてその技で勝ったそうです。  

五木寛之の「青春の門」を読んで、当時早稲田大学は門のない自由な校風、そこで巡り合う人たち、そういったことに憧れて、早稲田大学に入学しました。  レスリングは2部でした。 2部では素人とやっているような感じで吃驚しました。   1980年のモスクワ大会が迫っていました。  日本はモスクワオリンピックをボイコットしました。  ショックでした。(23歳)   もしモスクワに行っていたら、そこで満足して先はやらなかったかもしれません。   東海大学大学院に進み、早稲田大学の助手をして、オリンピックを目指して、ロサンゼルスで銀メダルを獲得しました。  共産圏、ソビエトや強い国が来なかったのでとれたというようにマスコミから批判され傷つきました。 悔しさはソウルまで続きました。  ロサンゼルス大会の翌年、スーパーチャレンジカップという共産圏の選手を含めた大会あがありました。  最後の10秒ぐらいでがぶり返しを決めて、逆転勝ちをしました。  ソビエトに勝ったという事で引退を表明しました。  

コーチとしてやっていましたが、当時戦った選手がまだやっていまて、うらやましく思いました。  コーチを辞めて現役に復帰しました。(オリンピックの1年弱前)  ソウルでは全くメダルを取れる気はしませんでした。    ソウルでの第5回戦(準決勝)、アメリカの選手との対戦で0-8でしたが、がぶり返しが見事に決まって、逆転フォール勝ちに繋がりました。(自分としては勝てる自信はあり仕掛けを待っていまいた。) コーチ陳は自分より興奮していました。  肋骨の剥離骨折をしていました。 決勝は医師と相談して、ギブスみたいに巻いて戦いました。  決勝はソビエトの選手に敗れて2大会連続の銀メダルという事になりました。  

重量級で、力比べをしてしまうと体格のいい選手、筋肉の多い選手が勝ちますが、スピード、柔軟性、相手の裏をかくというテクニックに特化して試合を行いました。  バルセロナ、アトランタ(代表入りならず)にも挑戦しました。  中学では若白髪があって、後ろから見られたくないので、絶対バックを取らせないと言う思いがありました。  今の若い子に言いたいのは、いろんな運動をしていろんな素質を作ってもらいたいなと思います。  レスリングのルールも変わってきて、出れない階級も2階級出来てしまって、厳しい状況が続いています。   力対力のレスリングをやっていると魅力のないレスリングになってしまうと思うので、レスリングの魅力を引き出して、選手たちに頑張ってもらわないといけない、観客を魅了するような試合が必要だと思います。























研ナオコ(歌手)            ・〔わたし終いの極意〕 70歳、ありのままのすっぴん人生!

 研ナオコ(歌手)     ・〔わたし終いの極意〕  70歳、ありのままのすっぴん人生!

研さんは古稀を前にして、公私動画サイトを開設、素顔からメイクをしてゆく様子や仕事現場の裏側などを紹介し人気を集めています。   60歳でダイビングのライセンスを取得するなど、新たなチャレンジなども重ねています。   今年で芸能生活53年、今も精力的に活動を続ける研さんの日々を健やかに生きるコツ、終いの極意を伺います。

動画サイト「研ナオコチャンネル」で、すっぴんから徐々にメイクが出来上がるまでの動画が人気になっていますが、最初動画配信は興味はなかったのですが、子供たちがやってみないかと言ってくれて、始めることになりました。 コロナで仕事も休みになり、メイクをしていないので、早回しで一回作ってみました。   ゆっくりとしたメイク見たいという事あり、順を追ってやって行ったらどんどん再生回数が上がって行きました。 600万回で吃驚しました。   普段はメイクはしません。

小さいころ赤い口紅が気になりました。  見よう見まねで付ける機会があり、そこから化粧に興味を持ちました。   古稀を迎えることになりましたが、年齢を気にしていたら何にもできないです。   スキューバダイビングのライセンスを取得したのが69歳です。    泳ぐのは好きでした。  もっと深いところに行ってみたいと思いました。   いいタイミングがなかったが、或る時始めて、12mまでは潜れるライセンスは取りました。   30mまで潜れる学科までは取りました。   出身は静岡県の伊豆で天城の山のなかで、かわ、田んぼ、畑と山の中でした。   兼業農家でした。  インドアタイプでした。  

「70歳、すっぴん人生」を出版、幾つだからこうしなければいけないとか、何か諦めるだとか、そういったことはなるべくしてほしくない、自分の思った通りに生きて行って欲しいし、人の視線を気にせずに、こうしたいと思ったことをやって欲しいと思います。    子供を持つと親は子供のために必死ですね。   終活はほとんど考えたことがないです。年齢のことは考えていませんでしたが、運転免許証の高齢者講習が届きました。     70歳になることが判りました。  歳だけ取っているという感覚です。   あんまり振り返らないです。 良いものも悪いものも見えてしまうので、前しか見ていないです。  

社長に言われた事、いろんなことをやってきたので、今の研ナオコがあるんだと思います。 舞台もやって来ました。   6年前に舞台で大腿骨を骨折してしまったことがあります。本番中に、茣蓙が敷いてあって、足袋をはいていたので目に沿って滑ってしまいました。  凄い痛さがあり立ち上がったら、足がぐにゃっとしてしまいました。  救急車が呼ばれて、病院に行くと思った瞬間に、痛みがどっと増してきて、脂汗が出てきました。    全治3か月と言われたが、1か月で復帰しました。   迷惑を掛けたので、リハビリを頑張りました。  

夫(野口典夫)は事務所の社長でもあり、6歳下です。  息子が今年36歳になるので、結婚36年になります。   夫婦とマネージャーと3人で住んでいます。 マネージャーとは25年同居しています。   笑いを届けるという事は大事な仕事だと思っています。いろんな別れがありますが、人には寿命があるんだなと割り切らないと引きずっちゃいますね。   

父と兄の最後は仕事で看取ることが出来ませんでした。  母だけは出来ました。(97歳 大正11年11月1日)    2020年1月1日に亡くなりました。 1が好きなんだなあと思いました。  最後のころに「貧乏させて悪かったね。」という言葉が、凄くつらかったです。   お金は、父は耕運機を買うのではなく、乗用車を買って。家族を旅などに連れて行ってくれました。  私も子供達にはこうしてやればよかったと思う事がいっぱいあります。 母親とはそういうものだと思いました。   

家族のために必死で働く、誰かのために頑張る、それが母の生き方だったんだなと思います。  私終いの極意、とは無いです。 200歳まで生きます。   今までやってきたことをもっと仕上げていかなければいけないなと思っています。  ちょっと年月がかかると思います。

































2023年9月18日月曜日

明日、明後日(19日、20日)は休みます。

明日、明後日(19日、20日)は小旅行の為休みます。

追って対応できればとは思っていますが。


 

宮丸直子(雅楽演奏家)         ・〔にっぽんの音〕

宮丸直子(雅楽演奏家)         ・〔にっぽんの音〕 

越天楽」 雅楽の曲の中では最も有名な曲です。 民謡の「黒田節」も「越天楽」の旋律から来ています。  曲は平調(ひょうじょう)という旋律で演奏されるのが普通だが、盤渉調(ばんしきちょう)、黄鐘調(おうしきちょう)の旋律でも演奏される。  雅楽には音に季節がとか色があると言われていて、秋にやるんだったら平調(ひょうじょう)の曲、冬になったら盤渉調(ばんしきちょう)にしましょうとか、平安時代の人は雅な遊びをしていた。    

いまでも宮中でやっている『御神楽(みかぐら)』という、歌と琴、笛を伴奏にして一晩中神様に奉げる歌を歌っているとか、そういった芸能がありました。  5世紀ぐらいから大陸との交流が盛んになって来て、大陸の文化が入って来るに伴って、音楽や舞いも沢山はいってきました。  各国の音楽、楽器がはいってきてそれが、もともと日本にあったものと融合して、日本の雅楽が出来たと言われています。 

大蔵:能楽は元々猿楽で、猿楽は散楽が最初です。 散楽は庶民の間で流行って行ったもので、雅楽は平安貴族の中で遊ばれていたようですね。

宮丸:平安貴族の中で遊びでもありましたが、大きな寺院とかで大きいな法要、イベントがある時にも、儀式の音楽として、あるいはイベントの出し物として奉納されていたということがあります。  一番有名なのは東大寺の大仏様ができたとき(天平勝宝4年 752年)、いろんな国の舞とか音楽が披露されたと言われます。  雅楽の中には伎楽があり、伎楽はもっと簡単な伴奏とかで、滑稽味のあるストーリーがあって、無言の仮面劇で、田楽とも繋がっているのかもしれません。  その後日本では雅楽は長い間凄く荘重な儀式の音楽という歴史を担わなくてはいけなくなって、平安、奈良時代に渡ってきた当時の姿が随分変わってしまった、という風に思われます。  雅楽の源流を捜して、という試みも私たちはいろいろやっています。  

大蔵宮丸さん福岡県出身、東京芸術大学音楽学部に入学、日本や海外の音楽について学びました。  大学に授業で宮内庁の楽師であった芝 祐靖(しば すけやす)さんに出会い、雅楽に触れあうようになりました。 

宮丸:大学に入るまでが雅楽などは聞いたことがなかったです。  バッハ、モーツアルトを聞いたり西洋音楽を勉強したりしていました。  東京芸術大学に入って、アジアの音楽、実技も体験しました。  芝 祐靖さんが来て熱心に指導してくれました。 7,8人が受講しました。 日本の楽器、長唄なども勉強しその論文も書きました。 芝 祐靖さんに傾倒していって、国立劇場で雅楽公演をするようになって、西洋楽器の人たちも動員して演奏会に臨んでいました。  普段から五線譜を読める団体を作りたいという事になりました。 練習会を始めて今日に至ることになりました。  

大蔵:日本の音、楽器を世界に発信するためには五線譜にしないといけない。  太鼓、尺八もみんな五線譜やっていますね。

宮丸:でも本当はそれは問題だと思いますが。  1オクターブは12個だと思っていましたが、その間の音が沢山あるという事が判りました。  それを音符にしてしまうと生命が消えてしまう、というんですかね。  衝撃でした。

唱歌しょうが 一定の規則に従って、楽器が演奏する旋律を、奏法の情報を含めて、に出して歌うための体系を言う。唱歌の歴史は雅楽で始まり、能楽長唄でも用いられるようになり、近世音楽にも広まった。)は笛の音とかを全部カタカナで書いてある。 最初は楽器ではなく歌ばっかり教わります。

大蔵:僕らも三番叟とかを舞うときは、その唱歌を口ずさみながら稽古します。

宮丸:雅楽で現行の楽器は11あります。  一番基本になるのは管楽器です。 枇杷、お琴なども入ります。 拍子(しゃくびょうし 二枚の木片を強く打ち鳴らし拍子をとります。もあります。

*「呼韓邪単于(こかんやぜん」  笛:芝 祐靖

雅楽は指揮者がいないので、誰がリードを取るというのがなかなか難しい。 演奏中にいろいろ駆け引きがあります。  今では5分ぐらいしかかからない曲でも、全部を通すと30,40分になると言うような曲がざらにあります。  前の部分のゆっくりしたところは明治以降廃絶してしまって、短い軽やかな部分だけやるというのがいくつもあります。

楽器、排簫(はいしょう)、(しょう)とだけ言われたりもします。 正倉院に壊れた形で残っていたものを復元しました。  竹が18本横に繋がっている。 和紙で調律する。平等院の雲中供養菩薩が排簫を持っている。  正倉院に残っている楽器を復元する活動があり、完成した時に何の音楽をやりましょうか、と言った時に、敦煌の莫高窟に巻物があり、フランス人が楽譜を買って持ち帰ったが、どんな曲か音か判らなかった。  日本の雅楽の琵琶の楽譜と同じじゃないかという事が判りました。  そして音にすることが出来ました。(1000年以上かけて復元できた。)  芝 祐靖さんがそれぞれの楽器に合うようにオーケストレーションしたらどうなるだろうと復元しました。 

*「急胡相問」 から一部  音が華やか。

*笙と雅楽器のための合奏曲「招韻~いかるがの幻想~」 作曲:芝 祐靖

平城京朱雀大路の賑わいや古の奈良の風情が抒情的に綴られた絵巻物のような大作です。

日本の音とは、祭りの音 と言った感じです。  

子供達も楽しめる勇気と調和の雅楽をずっとやって行きたいと思います。






2023年9月17日日曜日

鈴木裕子(調理師)           ・〔美味しい仕事人〕 料理本をモンゴルで

 鈴木裕子(調理師、元在モンゴル日本国大使館・元公邸料理人)・〔美味しい仕事人〕 料理本をモンゴルで

鈴木裕子(54歳)さんは保育園の給食調理人として18年間勤務しましたが、食をさらに追及したいという思いから、国家資格である専門調理師全6部門を10年かけて取得します。    そして学んだことを何かに生かしてみたいと、大使館の公邸料理人に応募しました。    平成13年(2019年)3年間の公邸料理人の 任期を終え帰国しますが、モンゴルと食とのつながりは続いて、令和4年(2022年)に野菜をテーマにしたモンゴル語による料理本を出版しました。  肉を中心のモンゴルの食生活に野菜も大切という考えの本、反響を呼んで今年6月には野菜をテーマにした2冊目の料理本が出版されました。   さらに次の出版準備で現在モンゴルのグランバートルに滞在中の鈴木裕子さんにお話を伺いました。

モンゴルは春と秋は短くてあっという間に、夏になったり冬になったりします。  秋は屠殺(とさつ)のシ-ズンです。  春に生まれた家畜が夏に食べ放題の草を食べて丸く太ります。  秋に保存したほうが脂もついていて柔らかくて美味しいという事です。     2冊の本を作り終わって、いまはおやつの本の進行中です。  令和4年(2022年)に野菜をテーマにしたモンゴル語による料理本を出版しました。   モンゴルはお肉と小麦がほとんどです。  木が生えられないような乾燥地帯なんです。 草は種で寒さ,乾燥を乗り越えられるので、生きていける。  モンゴルでは5蓄(羊、ヤギ、馬、牛、ラクダ)があり、それぞれに使い方があります。  肉が主食のモンゴルに野菜も大事だという事を伝える為に本を出版する事にしました。   半分は野菜の選び方、使い方、保存法、野菜ごとの説明と言った野菜の紹介になります。  

1冊目は売れるか心配したが、相当にヒットしました。  日本とモンゴルの国交50年の記念の年に出版しました。  今年6月に葉物野菜とトマトなど実る野菜をテーマにした2冊目の料理本が出版されました。  心臓の病気、高血圧などが問題になっています。  長くモンゴルにいる友人から本を書いたらいいんじゃないかと言われました。 気になっていたので野菜に事を書きたいと思っていました。  大使館に勤めていたころは健康志向の方で野菜で苦労しました。   昔はたった5種類と言っていました。  

保育園の給食調理人として18年間勤務しましたが、凄く食に関心がありました。  国家資格である専門調理師全6部門にチャレンジすることが私の趣味になりました。  ほとんどの方が1,2部門を取得する程度でしたが、師匠が居ないのでやりたい放題でした。  ①日本料理、②西洋料理、③中国料理、④寿司、⑤麺、⑥給食用特殊の6部門に資格を10年で取りました。  これを生かせる道はないのかと思っていましたが、大使館への応募をして受かることが出来ました。   大使館へのお客様は多いので、食の場は大切なところです。  物流のないところではものを集めるところからスタートするので、大変なところがあります。    日本では簡単に手に入るものでも、暇さえあれば下ごしらえをするところから、やります。(こんにゃくも作るところから始めます。)  モンゴルでは完全に火を通したお肉以外は食べません。  

モンゴルの一般的な食生活は、肉、乳製品、小麦料理が中心です。  テントの中にストーブ兼かまどが一つあり、それで作る料理です。  食材が限られ、熱源が火で出来るものが基本になっています。  ですからシンプルです。  健康の前に、まず生き延びるためのエネルギーが必要になります。  お肉でも身体を温かくするものと冷たくするものがあると聞いた時には吃驚しました。  ラクダとかヤギは身体を冷やす肉なので夏に食べるようにと、冬はあまり食べないほうがいいと言われます。  子供の家畜は食べません。 モンゴルは世界で人口密度が一番少ない国です。   家畜と共に生きているので離れ離れに生きてゆくことが要求される。   春、まだマイナス20,30℃の時期に羊とかの子供が生まれます。  「餌がない時期でもあり、大きくなって草を食べれるようになるまで、自分の身体を削って命を分け与えて育てた子供をそこで取って食べれるかい。」と言われて、それは人間以前に生き物としてNGだと思いました。  









 




















    












 

2023年9月16日土曜日

畑山博(産婦人科医)          ・生まれてくる命を輝かせたい

畑山博(産婦人科医)          ・生まれてくる命を輝かせたい 

旗山さんは27年前、35歳の若さでおよそ100年の歴史がある京都市の産婦人科病院の6代目院長に就任しました。  当時閉鎖寸前だった医院を立て直そうと、分娩数の増加に取り組む一方で、産婦人科の枠を超え、小児科、子育て支援センターなどを次々と立ち上げ、5年前には医療的ケア児も受け入れる大規模な認可保育園を開設しました。 今では京都市で生まれる5人に1人はこの産院で生まれると言われ、子育てを支える一大拠点となりました。  原動力となったのは母親たちの切実な声、そして体重がおよそ1000gと小さく生まれた長男の存在でした。  畑山さんがどんな理念でお産や子育て支援に向き合ってきたのか、伺いました。

1978年、18歳の時に、イギリスで一番最初の体外受精の子供が生まれました。    試験管ベビーという事で凄いと思いました。  文系でしたが、理系に変って愛媛大学の医学部を卒業して京都大学医学部付属病院に移りました。  体外受精の研究をしようと思いました。  最初は産婦人科の臨床を5年間して、それから大学院に入って体外受精の研究をずっとやりました。  結婚して子供も2人生まれました。   学生なので生活するためにアルバイトもしました。  平成8年にアルバイト先の院長になることになりました。院長から「僕は辞めるから院長をやって欲しい。」と言われました。(僕は35歳)   父親からは教育者で「人から命令されたらノーと言え、人から頼まれたらちょっと無理をしてでも聞いてあげろ。」と言われていました。  自分がやらねばこの病院は潰れるな、と思いました。

1996年当時はバブルがはじけて、周りは駐車場で若い人は住んでいませんでした。    当時800人のお産をしていたところが京都では5つありました。  それに並びたいと思いました。  うちの病院は100人ぐらいでした。   看護師長から「これからのお産は変わってくる、自分のお産は自分で決めたいという人が増えてくる、生む人の側に立ったお産をして行った方がいい。」とのことでした。  口コミでお産が増えて行きました。  お産が増えてくると、生まれた赤ちゃんを見て欲しいという事が増えてきます。  理事会で小児科を作ると言いました。   その後一番必要なのは子育て支援だと思いました。  近くのマンションに空いていたところがあったので、ここに子育て支援センターを作ろうと思い直ぐ動き出しました。  一番大変だったのは行政との許可で、前例がないという事でした。  今までどこにも出れなかったお母さんたちが集まって、仲間、友達が出来てゆきました。   どうしたらできるかを考える方が建設的で楽しい。  楽しいことを考えた方が絶対良いですね。  

30歳の時に超未熟児で生まれた息子の存在が大きいです。  12月25日に妻が出血があるという事で、来てもらったら陣痛が始まって、赤ちゃんは1000gぐらいで、8か月(28週)を過ぎたらもしかしたら赤ちゃんが生きれなかもしれない、というのが当時(30年前)の産婦人科の常識でした。  27週を過ぎたばかりでした。  産婦人科部長と相談したら「助からない。」と言われてしまいました。  「助かったとしても何らかな障害を持ってしまう。」と言われました。  妻と妻の母親にも事情を説明しました。     しかし、心音を聞いていると助けたいと思いました。  

帝王切開で取り上げました。  どんな障害があっても育てようと妻と話し合いました。   一つ一つクリアしていって、小学4年生の頃になると背も追いついて行って、勉強もよくできるようになって、中学高校では朝練して、友達たちと楽しんでいきました。  医学部を目指すようになり、入って実習で未熟児センターを回りました。   「親は未熟児で生まれた後の将来を心配しているが、畑山君が未熟児で生まれて現在の姿を見せてあげれば、親は凄く嬉しと思う。」と、小児科医の先生がたから言われたそうです。  息子は「未熟児の脳疾患の専門医になりたい。」と言いました。  今は超未熟児の治療と研究をしています。  

障害児保育の医療的ケアのできる保育園を開設しました。  ケアは募集をし4人になり、園児も4人いれました。   園児たちは150人いて、0歳から5歳までいて、何でもやります、走り回り、落書き、近所の家の布団に水をかけるとか、でも医療的ケア児を一緒にしてみていると、ちゃんと気を使って接しています。   健常児にとってみても凄くよかったです。  医療的ケア児たちも一気にいろんなことを覚えてゆく。  みんなで一緒に暮らすことで、助けたり助けられたりする社会が出来るから、これは凄くいいことだと思います。  助けると、自分が困った時に助けてという信号が出せるが、引きこもりの人は助けてという信号が出せない。   

今年から妊婦の検診費用をゼロとする新しい取り組みを始めました。(無料産院事業)  妊婦の検診費用、出産費用をNPOが支払う。 その受け入れ病院の第一号になりました。妊娠して相談もできず、病院にも行けないという時に、赤ちゃんを産んで捨てて殺人になってしまう。   妊娠して、初診料も要らない、お産の時も大丈夫という仕組みを作る、それに対してうちの病院が最初に手を上げました。  ちゃんと赤ちゃんが育っていけるようにする、赤ちゃんを育てられなかったら、又特別養子縁組みたいな制度もあるので、赤ちゃんを育っていけるようにもする。  犯罪者にならずにお母さんになることが今回のプロジェクトです。  この3か月で3組のお母さんから連絡が来ています。  産んでよかったなと思える環境作りをしてきたし、していきたいです。  













































 


2023年9月15日金曜日

志村季世恵(バースセラピスト)     ・〔人生のみちしるべ〕 命のバトンはつながっていく

志村季世恵(バースセラピスト) ・〔人生のみちしるべ〕  命のバトンはつながっていく 

志村さん(61歳)はバースセラピストとして、これまで30年余り心にトラブルがある人のメンタルケア、末期がんを患った人へのターミナルケアを担当してきました。   これまでバースセラピストとして出会ったクライアントの数は延べ4万人を越えます。  志村さんご自身子供のころから命を実感する経験を重ね、命の儚さと豊かさを感じながら、時には迷いながら生きてきたと言います。  志村さんが多くの人たちの命に寄り添う中で、教えてもらった事、志村さんの人生の道しるべについて伺いました。

バースセラピスト、中心にあるのはターミナルケアです。  末期の癌を患った人たちのそばに寄り添う事がありますが、ご家族がいる場合には、最後に亡くなる時にはお任せして祈る気持ちで待っているんですが、御家族がいない場合には私がそばにいて、お看取りするんです。私が学んだことがあって、人って亡くなる寸前まで誰かのために生きたいとか、何かを、種を蒔いてバトンを渡すように、次の方たちに渡しているのを見ますと、ターミナルというのは終末ではなくて、次に始まる事があるんだなと思った時に、バースだなと思ったんです。   セラピストの上にバースを付けてバースセラピストとしました。      次に大切なことを渡す時間が来たという風に思っておられるのならば、それを一緒になしえる事のお手伝いをさせてくださいと、言う風にお願いしています。          

どちらかというと孤独な状態であったり、ご家族がバラバラになってしまっている状態とか、自分の人生を全うしてゆくためにという意味で、自分が自分であるためには私がいた方がいいなと思う方もいらっしゃるようで、いろんな方がいらっしゃいます。   お子さんが自分(中学生)ががんで、私が出た番組のラジオを小児病棟で聞いて、私に手紙をくれたお子さんもいたりとか、いろんな方たちがいらっしゃいます。  その中学生の時には私が病院に行きました。  

自分には妹、弟がいて、両親がうまくいっていなくて家に帰ってこない、助けて欲しいというよなことでしたが、家族をいい人たちにしていこうという事からのミッションが始まりました。  給食代を払えないとか、いろいろあって友達もできなくて、学級崩壊みたいなことをその子はしてしまって、でも本当はその子はしたくなかったという事を話して、学校にお話をしに行って、もう一回お友達としてかかわって行きたいんだというという話をしたりとか、妹、弟さんへもご飯が作れるような練習を一緒にしようと言って、いろんなことをしました。

その男の子は亡くなりました。  その子は「気がかりなことがなくなって、幸せだ。」と言っていました。   子供でも大人でも大切な人のことを思って行動したいというのは変わらないんですね。   独りぼっちだなと思う事をなくしていきたいという思いと共に、自分のことを肯定してほしいし、自分の人生を肯定できる形であったらいいなあという事を願っています。   願う事に対して私にできることは少ないんですが、寄り添う事は出来るので、最後まで一人にしないよという事と、亡くなった後も御祈り続けているからって、私は宗教があるわけではないんですが、こういうことをしていると祈ることが多くなりますね。 どんなに辛い治療でも続けるんです。  大人の人よりも我慢強いと思うぐらいに、それは自分の家族に対しての愛なんですよね。  無常の愛というか、純粋な、真っすぐな愛だと思います。   誰かのため(お母さんとか)に長生きしたいとか、一種独特な愛の形があるような気がします。  

実は私は辛いんです。 毎回もうやめようと思うんです。 お友達で居ようという気持ちになるんですが、出会った友達がいなくなるという喪失感は、毎回強くて本当に泣くんですね。   大泣きしてご飯も食べられなくなりますが、命というもの、人間の凄さを教えて貰えて、愛のすばらしさも学ばせてもらって、そうすると悲しみと共に、頂いたものはあいまった感じで私に入ってくるというか、いいものだけでなく混ざり合って感じることが出来ました。  ターミナルケアはそんなに多くできるわけではなくて、限られて仕舞いますが、出会った方全てから学びはあったと思います。   

エッセーの中で書かれていますが、家庭が複雑(多様性)で、大家族で、生と死が小さいころから身近にありました。   父は3回結婚しています。  私は3回目に結婚した両親の子供で下に妹がいます。  一番最初に結婚した人の子がいまして、その人とは父が亡くなってから出会いました。  2番目の奥さんの子は3人います。 その子たちとは一緒に暮らしました。(私が2歳の時から同居)  私は両親をパパ、ママと呼んでいましたが、その子等は父のことは「お父さん」、母に事を「おばちゃん」と呼んでいました。    母と姉の歳が12歳しか違わなくて、兄弟たちは思春期だったので、荒れている時もあったんでしょうね。   

私の居場所にちょっと違和感があって、叔父の家が私にとって救いでした。(自由にいられた。)    しかし、叔父が私が3歳の時に亡くなりました。   亡くなる時に、叔父さんが治るように祈るしかないと言われました。 夜中に3歳の私は眠ってしまいました。  目が覚めた時には霊安室でした。  私が祈らなかったからいけなかったと思ったんです。   お骨になった時にもう会えなくなったんだと知りました。  人が死ぬという事はもう一生会えなくなるという事なんだ、という事を3歳で知りました。死に対して敏感になった最初の歳でした。  

父が瀕死の時に母は結婚しました。 父を何とかしたいという思いがあり、19歳の違いで結婚して、看病から始まった見たいです。  父が死なないようにという思いが家庭内にありました。  兄、姉とはどうしたらうまいくいくんだろうとという事と、父はどうすれば元気になれるのか、とかいろんなことがありました。  小児病棟でお友達が亡くなったことを知り、両親が泣き叫びながら遺体に取りすがって泣く姿を見たりして命というものを感じました。  年の離れた姉、兄がいて出産という事も知ったり、命というもののいろんなものが見えてきました。  家庭に対するあこがれがあり、結婚して新しい家庭を作りたいと思ったのが20歳の時でした。  21歳で母になりました。  長男が身体が弱くて何回か昏睡状態に陥りました。   独りで抱えることはきついことだと思って、ボランティア活動に入って行きました。   ターミナルのことをお受けしたいと思うようになりました。

バースセラピストを始めたのは27歳でした。  24歳の時に、好きな執筆家がいて、サイン会に並びました。  「今年は幸せでしたか。」とおっしゃって、私は「いいえ」と言いました。  「それはつらかったですね。」と言われてサインしてもらって帰って来ました。   あとで、どうして「いいえ」と言ってしまったんだろうと思いました。    高校生時代、20代前半の頃の自分を見つめ続けて居る自分がいるんだと思って、ここが自分を孤独にしているんだと思いました。  

これは駄目だと思って、今の自分をしっかり見つめるべきだと思って、サイン会に戻りました。   「撤回します。 幸せです。」と言いました。   そこから変わりました。   家族にも友達にも感謝するのが一杯増えて、そのころ最初夫とももうまくいかないことを段々考えるようになって、自立しようと思って、友達の関係に戻りたいと思い、離婚して新しい自分を作ってゆくことが始まりました。  今度結婚した人が医療の関係の人で、新しい人生が始まりました。  それがセラピストになるきっかけです。   

「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の理事として、活動しています。  完全に光を閉ざした純度100%の暗闇のなかで、視覚障害者のスタッフの方が案内、アテンドとなって様々なシーンを暗闇のなかで体験して会話を、ダイアログを楽しむという、暗闇のソーシャルエンターテーメントと言う風に言われています。   視覚障害者のスタッフがお客様をご案内しながら、楽しみながら対話をしていろんな出会いをして、人っていいねとか、助け合うって面白いねとか、人って本当は対等なんじゃないかと、状況、環境によって立場は変わるものだと知っていただけるようなエンターテーメントです。  

お客様が出てきて感想について対話する部屋があり、何人かの方が泣きながら出てくるんです。  「私は人が好きだと思って泣いているんです。」とおっしゃるんです。  暗闇で人とぶつかっった時に人が居て良かった、人の存在ってなんて温かいんだろうと思った、それを忘れてしまっていたんです。  人が好きだと思ったら、今自分が自分のことを肯定しています、とおっしゃいました。  これは私のセラピーとかで時間をかけるよりもこのダイアログを頑張ってやった方ががいいと思いました。  立ち上げたのが1992年。「ダイアログラジオイン・ザ・ダーク」も担当しています。   暗闇って自由になれるので、そこでもお話が出来ちゃうんですね。   

人は助け合いたいんだなあって思う事と、「ありがとう」という言葉を沢山使いたいんだなあという事を知りました。  人の世話になって何もできない自分になってしまったんだけれど、「誰かの役に立ちたい」とおっしゃるんです。 本当に学びました。  人間って素敵だなあと思います。  変化があって大抵おっしゃるのは、「どうして自分は無駄なことをいっぱいしていたんだろう」とおしゃるんです。  

自分の人生のなかで半分は、人と比較しながら生きてきた、そこで一喜一憂して幸せかそうじゃないかを決めてきた。  それはもったいなかったと思う。  自分の死に対して誰とも比較できないことが分かった。 そうすると比較するのはナンセンスだったと思うと、孤独な自分は誰とも比較できないとおっしゃるんです。  でも本当は人はずっと独りで生きてきたのだから、その孤独さを助け合う事に変って行ったならば、手を繋げることを知ったと言います。  「手放すこと」と、「手放さないこと」がある。  

私の場合は小さいころに兄弟から「生まれてこなければよかったのに。」と言われたことがあります。  私は兄や姉と出会えてよかったと、思ってもらいたいなあと思っていました。 私の方からはずっとずっと贈って行こうと思っていて、出会いが悪かったとは思いたくない。  そういう人たちの幸せを願うとか、それは諦めたくはないと思っています。   自分も幸せになってもいいし、相手も幸せになって良いという事を考えて、手放さなくってもいいと思っています。 










































  


















































 













   









2023年9月14日木曜日

三浦恒祺(洋画家)・「つるおか被爆者の会」代表)・平和への祈りを絵筆に託して

三浦恒祺(洋画家)・「つるおか被爆者の会」代表)・平和への祈りを絵筆に託して 

広島に原爆が投下されてから78年となりました。  今日は山形県鶴岡市の洋画家、三浦さん(93歳)にお話を伺います。  三浦さんは今尚、自らが描く絵を通して、原爆の悲惨さや平和への願いを伝え続けています。  その原点となっているのは、自身の広島での捕縛体験です。  葛藤を抱きながらも描き続け、「原爆の警鐘」と題した連作は46点にものぼります。78年前の被爆当時の記憶、そして絵に込められた思いを伺います。 

5歳まで東京にいて、父親の転勤で家族5人で広島に転居しました。  広陵中学校ヘ通いました。  1年間は勉強がありました。  2年生からは授業がなくなりました。     学校の近くに陸軍糧秣支廠工場があってそこに勤労奉仕で行っていました。   昭和20年8月6日も事務所の机、椅子などの事務用品を郊外に移す作業をしていました。      トラックに乗って友達と行きました。   横川の駅を通り過ぎて、爆心地から約3,5kmの地点への運ぶ作業でした。  到着して8時15分、ピカっと光りました。  ちょっとして爆音が響きました。  通ってきた広島の街に炎が眺められました。  そして入道雲のような雲の塊がもくもくと上空に不気味に盛り上がるのを眺めて、何が起こったんだろうと不思議に思いました。

トラックに乗って引き返すのですが、荷台が高いので周囲の状況は良く眺めることができました。   市内に近づくにつれて、建物のガラスが割れ、瓦屋根の瓦が垂直に立っていていました。(爆風に押されて立っていた模様)  もっと近づくと建物が道路に倒れ、電柱が倒れ、トラックが道路を走れなくなりました。  歩いて市内に入って行きました。  怪我をした方、やけどを負った方などが集まって休める場所のがあり、その人々の黒い塊がありました。  その脇を通ると焼けただれた手を差し伸べて「水下さい。」と言うんです。   「すみません 水は持っていません。」と言葉をかけて通りました。  あの時一滴でも水を差し上げて入ればと、今でも一番頭から離れられません。  

同級生と別れて自宅に戻りました。  家は全壊していて、残った柱に張り紙がありました。  父親の書いたメモで、ここに避難しているという内容で、避難場所に行きました。 手作りのバラックを建て、家族5人幸いに助かりました。   水道、電気、トイレもない状況でした。  軍隊の残飯みたいなものを大きな鍋に入れて、行列ができ、避難場所の雰囲気が残酷でした。   泣き声とか、亡くなった方への読経とか聞こえてきました。  終戦の日、天皇陛下のお言葉を聞いて、郷里に帰ることになりましたが、無感情でした。

小学校から絵が好きでした。   荘内に戻って来てからは、庄内の美しい自然、風景を主体にして描いていました。   父親が油絵の道具を買ってくれました。  高校をでて就職をし、絵を描き続けました。   原爆の絵の第一作目が昭和36年です。(被爆後16年)   抽象画でした。  被爆者の姿をとても描くことが出来なかった。  キャンパスのほとんどが黒で塗りつくされていて、渦を巻いているような感じの絵です。      黒は黒煙、赤は炎、黄色は閃光、原色を使ってすべてのものを破壊するという感情をキャンパスにぶつけました。  写実で描きたかったが、余りにも残酷で出来なかった。

その後原爆の絵を描けなかった。  第二作目は第一作の35年後でした。(65歳)  被爆手帳を取得して、鶴岡の被爆者の会に入って、集まるたびに残酷な話を聞いたり、救済の方から残酷な話をいっぱい聞きました。  第二作目は縦が1,2m横が90cmの作品です。  ほとんどが、黒、赤、オレンジで原色に近い色で描かrれている。  右下には原爆ドームも描かれている。  破壊の形を表現したかった。  原爆の強烈さ、すべてを消滅する恐怖を描いています。  

近年の作品は明るい印象になってきている。  去年の4月の作品は、縦が1,3m横が60cmの作品です。  目立つのが水色、海と空が描かれている。  近作は破壊から復活という意味合いで、庄内の美しい自然と平和の現れという感じをメインにいれて、核のない平和な世界でありたいという願いを込めて描いています。  荘内と日本海の素敵な夕陽で平和と結びつけて描いています。    最近の特徴として金色の太陽が描かれているが、太陽は世界の公平に暖かい光を与えています。   光は差別をしない。 心に太陽を、そういう思いを込めて、描いています。   広島に壁画を制作するプロジェクトが出来、私の絵が壁画になると聞いて、私の分身が広島の地に新たに増えるという事は大変嬉しかったです。  昨年4月完成、縦が4m、横が24mの壁画。  世界にはたくさんの核があり、生ある限り描き続けていきたいと思います。




















































2023年9月13日水曜日

藤堂栄子(NPO法人会長)       ・ディスレクシア(読み書き困難)の人たちが輝く社会を

藤堂栄子(NPO法人会長)  ・ディスレクシア(読み書き困難)の人たちが輝く社会を 

知的能力や一般的な理解力に問題がないものの、文字の読み書きに著しい困難を持つ症状をディスレクシア(読み書き困難)と言います。  このディスレクシア(読み書き困難)は文字を学び始める小学校に入ってからでないと判りづらく、ひらがな、カタカナ、漢字と進んでゆく中で症状が明らかになる場合ですとか、英語の学習が始まってから、大学に進んでから困難さが顕著に出ることもあると言います。  息子さんが留学先のイギリスでディスレクシア(読み書き困難)であると判り、日本とイギリスの理解や対応に違いを感じた藤堂さんは、2001年にNPO法人を立ち上げて、ディスレクシア(読み書き困難)の人たちへの支援、啓発活動を続けています。

ディスレクシアは読み書きの困難であって、すらすらと正確に読んだり書いたりするのが難しいというのが症状です。   知的には問題ないし、中身を理解する力はいっぱいあるんだけれど、なかなか入り口である字を読む,音に変えるという音とか、手書きするところで苦労します。  100人いたら100様の現れ方があって、処方箋みたいにすぐにこれだと出てこないというのも一つの問題です。  

パンフレットには、いくつかの質問がありますが、読み書きが疲れる、厭がることはないか、漢字の誤りが多い、練習しても書けない、とか様々あります。  例えば「短」という漢字で、「つくり」と「へん」で、「豆」と言う字がどっちなのか判らないとか、などあります。  私自身がディスレクシアです。  息子が15歳でイギリスに留学していて、ディスレクシアであると判りました。  海外の文献、サイトを見ると、全部私に当てはまるんです。   60歳になるころにきちんと大人を調べる方法が出来て、小学校2年生並みの読みの力であることが判りました。  

息子は公立の小学校、中学は受験して全寮制の中学校に行き、学業低空飛行で、時々良い点数を取ってくるんです。  読み書きがうまくいかないという事で怠けているとか、お母さんがもっと教えてくれるように言われていました。  私自身がそうなので気が付かなくて、「大丈夫、私ぐらいにはなるから。」と言って育ててきました。  息子がイギリスにいってディスレクシアであると言わて調べ始めました。  イギリスでのチェックでは建築家になる能力は全て持っていると言われました。  資格試験とかとってゆくのに読み書きのところが大変なので、明日からこういうことをやりますという事で、いろいろな支援、合理的配慮とか入れてくれました。  

英語ではディスレクシアが見つけやすい言語なので、8歳ぐらいで確定診断ができる。  日本語は平仮名、カタカナ、漢字、英語などそれぞれ違う大変さが出てくるので、遅れてしまうという事があります。   英語圏では人口の10~20%ぐらいいると言われています。  日本では調査で8%迄出てきています。  英語についての調査はないので10%ぐらいいるだろうなと私は思っています。   息子は脳の機能でそうなっていて、いろいろと手立てがあるという事でほっとしたと言っています。  読み書きは後天的な脳の機能で、そこに何か引っかかりがあると正確に読み書きが出来なくなる。  

イギリスの授業に関しては、高校のAレベルは3科目だけ選びます。  建築家に進むにはデザイン、数理と、もう一つ理科系の科目で、2年間それだけやっていればいいんです。  やる気が変わって来ました。  校長先生から彼ほどエキセントリック(個性的で普通ではない性格、奇人、変人という表現はマイナスだが、音楽家、美術家などにはプラスの意味で使用される場合も多い。)な子は見たことがないと言われました。  スピルバーグ監督、キアヌ・リーブス、歌手だとか、起業家のリチャード・ブランソンとかいます。

日本ではその対応は「ゼロ」と言ったところです。  英語では出るが、日本語では出ないという事が伝説の様になっていました。  2001年10月にをNPO法人「エッジ」を立ち上げました。  息子に頼まれたという経緯があり、「エッジ」は「崖っぷち」という意味もあるし、「最先端」という意味もあります。  10%程度いるというのは、私たちが生まれて来た意味があるんだと思います。  社会の変革を起こすとか、という役割を担っているのではないかと思って、20数年間頑張ってきました。   まずは知っていただく。  法律を作るように議員さんへの働きかけ、仕組みを作る、味方を作る、支援の育成、教科書の音声化、などをしてきています。  ディスレクシアは日本では医者が診断して、教育をどうするかという事には結びつかない。  教育の現場では読み書きに関して無駄な努力をさせる。  社会全般が横並び、皆と一緒がいいとなっています。 

息子は現在、タイのチュラーロンコーン大学で国際建築学科で英語で建築の研究をしています。  陶芸もしています。  父が外交官だったので、私が日本に帰ったのは高校1年生の時でした。  日本語、英語、フランス語は日常会話、ビジネス会話辺りまでは出来ます。  観光して困らないレベルというのは2,3か国語は出来ます。   文字を読もうとするとたどたどしくなってしまいます。  私が47歳の時に息子がディスレクシアだと判って以来、調べる程これは私のことだと思っていたので、ようやく60歳になって判りました。 大人のアセスメント(対象を数値的、計算的、客観的な基準に基づき、「評価」や「査定」などを意味する言葉がなかった。  やってみたら、小学校2年生並みでした。

いくら技術があっても、日本の筆記試験を通れないために、資格が取れないというケースがあります。  ちっちゃい失敗はいろいろしてもいいと思います。   そこからどうやって挽回するか、どんな方法があるか、考える工夫する力が物凄くその子たちの力になってゆくと思う。  まず自分が好きなものを大事にしながら、ずーっと追い求めてゆく、生きていけたらいいと思います。  不登校の間にその子の好きなことをやらせてあげてください、と言っています。  好きな道で生き生きと過ごしている方がたくさんいます。