2024年9月27日金曜日

大西優子(おおにしわかさんの母)     ・〔ことばの贈りもの〕 “がんばりパワー!”で世界の人を笑顔に

 大西優子(絵本作家おおにしわかさんの母)     ・〔ことばの贈りもの〕 “がんばりパワー!”で世界の人を笑顔に

2年前に12歳で息を引き取ったおおにしわかさんの母、大西優子さんのお話です。  大西(42歳)さんは岡山県倉敷市生まれ。(現在東京住まい。) 結婚後二人のお子さんに恵まれました。  長女のわかさんが4歳の時に小児がんと診断されます。 入退院を繰り返していたわかさんはお絵描きや工作が大好きで、夢は絵本作家になる事でした。 大西さんはわかさんが病気と向き合った体験をもとに描いた、絵本「ビーズのおともだち」を出版社に持ち込みます。 プロの協力を得て絵本が完成し、2年前わかさんの12歳の誕生日に出版されました。 わかさんは夢だった絵本作家デビューを果たしました。 その数か月後にわかさんは息を引き取ります。 絵本作家になったわかさんのさらなる願いは、世界中の人を自分の絵本で笑顔にすることでした。 そこで母親の大西さんは絵本の英語の翻訳に取り組み、今年4月から英語版が一般に販売されています。 わかさんが絵本の中に残した言葉「頑張りパワー」を心の支えに、絵本の紹介を続ける大西優子さんの思いを伺いました。

絵本「ビーズのおともだち」表紙がとってもかわいいです。 日本語版は城をベースにピンク色の服を着た可愛い女の子が外を見ている絵が描かれています。 英語版はタイトルが「My Precious Beads」。 日本語版の表紙の絵はプロのイラストレーターが描いた絵で、英語版はわかが描いた絵です。 私とわかにとってとっても思い出のある絵です。 わかは「フーリン(Foorin)楽団」というグループのメンバーでした。 2020年とその先の未来に向かって頑張っているすべての人を応援するNHK2020応援ソングプロジェクトの為に結成された「フーリン」と「パプリカ」を踊っていました。 「フーリン(Foorin)楽団」はフーリンの5人と病気や障害のある子どもたち10人の15人のメンバーで、小児がんと向き合うなかでもわかにしかできない経験をさせて貰えて、サポートをいただけてとってもありがたかったです。 新型コロナウイルスにより風鈴楽団」はパフォーマンスを持てないまま、2021年秋に解散が決まりました。 それで次の目標として絵本を作るという事になりました。

小学校に入学したころから夢は絵本作家になる事でした。 最初は折り紙を絵本の様に小さくたたんで絵を描いていました。 タブレットを扱えるようになって、動画になってわかの声もはいったりして、成長を感じる楽しい時間でした。 原作は治療を頑張ってもらった宝物のビーズが・・・(声を詰まらせ泣き出す。) 妖精さんになったらすてきね、という会話から生まれました。  がんの医療を受ける子供達が治療を受けるたびに貰えるビーズです。 カラフルなビーズは手術、点滴、検査などを表わしていて、そのたびに受け取ります。 子供たちに勇気を与えてくれる存在になります。 このビーズが絵本のなかでは妖精に変身します。  名前、衣装などわかのこだわりが込められています。 

わかの絵本の夢を叶えてやりたい私は、出版社に相談することにしました。(2021年秋) 完成が2022年4月、わかの誕生日でした。 わかの笑顔が見たい、と言う事が原動力でした。  わかの原作を元にプロの作家さん、イラストレーターさんに協力してもらいました。 わかが納得いくまで一緒に進めました。 

絵本「ビーズのおともだち」

「シトシトシト ザーザーザー 雨が強くなってきました。 ベッドにいる私の心も雨が降っているみたい。 一人ぼっちでさみしいなあ。 ここは病院です。 治療に検査、毎日頑張ることがいろいろあります。 でもそのたびに一つ ビーズを貰えるのがとっても嬉しい。 はい、今日はこれだよ。 お姉さんんがビーズを呉れました。  わーきれい 有難う  ・・・ 貰ったのは虹色のビーズ。 ・・・虹色のビーズは蝶々みたいな形に変わったと思うと元気な声で言いました。 「はじめまして 私はビーズの妖精レイです。」・・・レイちゃんはこんな言葉を唱えました。「頑張りパワー」 レイちゃんは「私ここに住みたーい」と言いました。 ・・・「大丈夫、明日もうまくいくよ」と言ってくれました。  次の日も雨、レイちゃんの励ましで頑張ることが出来て、二つ目のビーズを貰いました。  今日は星のビーズだよ。 ・・・ビーズは冠を付けた星の妖精になりました。 「はじめまして キラです。」 ・・・「頑張りパワー」キラちゃんがその言葉を唱えると星の世界は宇宙図書館。・・・キラちゃんの優しい声に皆ウットリです。 次に貰ったビーズは白いビーズでした。 ・・。「僕はてんてんてんくんです。」・・・僕たちはコツコツと頑張るのが好き。  「頑張りパワー」・・・積み木を本物のお家にしてしまいました。 妖精の仲間みんなで住めるよ。・・・ 一人だったベッドに秘密基地が出来ちゃった。一つ思い出しました。 コツコツ頑張るとは時々お母さんが言っている言葉です。・・・私はみんなに約束しました。 笑顔で元気にコツコツと「頑張りパワー」そういった時でした。  窓の外に大きな虹がかかっていました。 ・・・みんなのお陰でずーっと頑張れそうです。」

私の生まれは岡山県倉敷市です。 小さいころは泥団子を作るのが好きで夢中で作っていました。 リスを飼っていました。(多い時には12匹) ひまわりを育てて種をリスに食べさせるとがとっても楽しい時間でした。 大切にしていることは夢を見るという事です。  人とのご縁を大切にしています。  私の見た夢を叶えるのは周り人のご縁のお陰だなと思えることが沢山あるからです。  絵本を通じていろいろな出会いを体験して、その出会いを大切にしていきたいです。  今年6月に開催された第16回国際小児がん学会アジア大会があり、そこで絵本を紹介しました。 「世界中の人を笑顔に」の夢を叶えることができると感じて、とっても嬉しかったです。 

ある作家さんからいただいた言葉で「わかちやんは作家さんなので、これからも沢山の人と出会い、人の心の中を生き続けるのだと思います。」と言っていただきました。 わかがお空から見守っていてくれるから、私も頑張ろうと思って生きています。 今も一緒にここにいてくれるんじゃないかと、強く感じるんです。 私が絵本「ビーズのおともだち」をみんなに知ってもらう活動を続けることは、わかが絵本作家として、沢山の人と出会い人の心の中を生き続け、世界中の人を笑顔にすることができると感じています。 わかは辛いことが沢山あったのに、そんなことを感じさせないぐらい明るくて、笑顔で私に幸せを与えてくれました。 わかのことをこうしてお話が出来て、繋がりが出来ている快感があると、嬉しいです。 

「ビーズのおともだち」のステージや、絵本展などを開催して、皆のところに会いに行く機会を作っていきたいです。  わかの貴重な経験を道徳の教科書や沢山の人が読めるように、乗せて欲しいなあとおう願いがあります。 小児がんと診断される子が日本では2000~2300人ぐらいと言われています。 他にも沢山の障害の人がいると思います。  わかの経験をみんなが共有できれば、本人、家族、周りの人の経験知?になれるのではないかと思います。 














2024年9月23日月曜日

2024年9月21日土曜日

一瀬諭(元特命研究員)          ・びわ湖のプランクトンが語るもの

 一瀬諭(元特命研究員)          ・びわ湖のプランクトンが語るもの

関西の水がめにして、日本最大の湖「琵琶湖」に生息するプランクトンの研究をほぼ半世紀にわたって続けているのが滋賀県琵琶湖環境科学研究センター元特命研究員で工学博士の一瀬諭さんです。 一瀬さんは昭和27年福井県高浜町生まれの71歳。 その研究の始まりは1977年(昭和52年)当時琵琶湖では大規模な赤潮が発生して社会問題化していました。  その年の春人事異動で当時の滋賀県立衛生環境センターの勤務となったことから、琵琶湖のプランクトンの調査をスタート、以来半世紀弱に渡ってこの道を極め、現在は工学博士としてプランクトンを研究するとともに、国内外での環境教育にも尽力しています。 普段私たちが意識する事のないプランクトンの世界、そこから一瀬さんが何を読み取り、何を伝えたいと考えているのかお話を伺いました。

プランクトンは顕微鏡でしか見えないものという印象がありますが、実はクラゲなどもプランクトンです。 水に漂って生きている浮遊生物という事で一番でかいのがクラゲです。 琵琶湖ではノロミジンコというミジンコがいます。 肉眼でも見えます。 大きいものは1cm近くになります。  透明で肉食性のミジンコです。 琵琶湖には植物プランクトンは600種ぐらい、動物プランクトンは300種類ぐらいいます。 ダム湖などは5~10種類ぐらいしかいないところが結構あります。 琵琶湖は浅いところから深いところまであり、いろんな環境があり、川からなあれてくるものもあるので、種類が多いです。

赤潮が発生したころは、高度経済成長期で川からいろんな汚れた水が流れ込んで出来ていたので、冨栄養化が急激に進んだ時期です。 赤潮が異常発生しました。(1977年ごろ)ちょどその頃に移動してきました。  赤潮の発生メカニズム、どんな生き物か、水温、水質など全くわからない時代でした。  職場に向かう時に毎日水をサンプリングして、自分の興味でノートにつけていました。  ウログレナという赤潮が出始めていつごろ一番ピークに達して、いつ頃ごろ無くなるかというのを日記的に付けて行ったのがスタートでした。  生臭い臭いを発生して、水道の水が生臭くなり、京都、大阪も困っていました。  その内容が電子データ化されるようになりました。  赤潮の研究をやっていたのでそのころは植物プランクトンだけでした。  動物プランクトンも必要ではないかという事で20年前ぐらいから動物プランクトンも入れています。 動物プランクトンでは第一優先種はワムシ類で1リットル中に120個で、第二優先種が甲殻類でノープリウス幼生(ケンミジンコの赤ちゃん)で1リットル中に100個ぐらい。 春夏秋冬でいろいろ変わって来ます。 

プランクトンを数える計数板があり1000マスに区切ってあります。 マスを順番に見て行って1ccの中に何個あるか、判るわけです。  小さなものは100マス数えて10倍するとか、2マス飛ばしにするとか、マニュアルが出来ています。 判らない種類は顕微鏡で写真を撮って京都大学の有名な先生のところに行って教えてもらいました。 「継続は力なり」と言いますが、ずっとやっていると見えないところのものが見えてきるようになってきます。 辞めたいと思うような時期も最初の10年ぐらいの時にはありました。 絶滅危惧種を見つけたり、新種を見つけたり、続けていかなければいけないというようなポジションになったりして、気が付いたら50年という感じです。 

絶滅危惧種にビワツボカムリというのがあります。 すでに絶滅した可能性があります。 有殻アメーバと言って殻を砂粒でセメントで固めて自分の殻を作ってしまう。 砂粒がなくなって来ると、殻が作れなくなってしまう。 琵琶湖の底の環境が変わってしまったと思われる。 プランクトンのカレンダーを作っています。 今迄と違うプランクトンの動きがあると水質の変化、プランクトン数の変化をデータベースで自動的に見出だしている。    昔に比べるとプランクトンの種類、量も減ってきています。   水が綺麗になるという事とプランクトンの量が減るという事は同じことで、長い目で見ると綺麗になってきています。 魚介類もとれなくなってきていて、プランクトンが少なくなると餌も少なくなってくる。 難しい問題をはらんでいます。 

プランクトンの量で考えるのではなく、質的なことも考えないといけない。 緑藻類から藍藻類が増えています。 プランクトンは目に見えない有機物をもっているんです。 その量も昔と今とでは大きく違います。 そのことを発見しました。 昔に比べて難分解性の有機物が残ってしまう。  突き詰めてゆくと琵琶湖の中で増えているプランクトンの質の変化が大きく影響しているという仮説を立てて論文を書きました。 猛暑になったりしてくると、暑いところを好む藍藻類、シアノバクテリアなどが優先しやすくなる。 あおこの発生が有ったりして、毒性が有ったりカビ臭があったり、障害として出てくる。 あおこの発生で光が届かなくなり、表面にいるプランクトンだけが増えて下の方のプランクトンが増えられない。 藍藻類が増えるという事は良くない。 

地球上では毎年4万種類が絶滅していると言われる。 多様性が失われてきている。 生物が生きてゆくための環境多様性がある。 種の遺伝子の多様性があります。 そういったもので生態系が成り立っているので、判ってもらう必要があります。 生態系の勉強について外国に行ったり、子供たちへの対応も行っています。 是非動いているプランクトンを観て欲しいと思います。





2024年9月20日金曜日

富山英明(日本レスリング協会会長)    ・夢は生み出すもの

富山英明(日本レスリング協会会長)    ・夢は生み出すもの 

富山さんは1957年茨城県生まれ。 1978、79年と世界選手権を連覇し、1980年のモスクワオリンピックでは金メダルは間違いなしと言われていました。 日本が不参加を表明したために幻の代表となりました。 4年後のロサンゼルスオリンピックで金m樽を獲得しています。 現役を引退した後はオリンピックのコート、監督として後進を指導し、現在は日本レスリング協会会長となります。 

現役のころは57kg級、今の体重は64kgぐらいです。 パリオリンピックに目標は金メダルが6個という高い目標でしたが、結果は8個の金メダルでした。 実力が大事ですが、オリンピックは実力だけではない何かがありますね。  悔いのない試合をしなさいと言っています。  少年少女レスリング大会がり、第40回になり1000人近く参加しました。   高校ではレスリング部は、我々の時代には320ぐらいでしたが、今は250~260ぐらいです。

「夢を喰らう」という富山英明さんの生き様を追ったドキュメンタリー映画。 勇気づけられるという反響がありました。 藤森圭太郎さんが監督。 8年間を追った。 中学2年でレスリングをやらないかと声を掛けられました。 日記に夢を書いていって、縁があって出版してその本を藤森さんがみて、お会いしたいという事で。結局映画になりました。 10月12日から東中野で上映が決まっています。(新宿ではすでに上映した。)  

子供の頃は自然のなかでいろいろ遊んでいました。 兄が柔道をやっていたので始めましたが、身体が小さいのでなかなか勝てるチャンスがありませんでした。 先生から声を掛けられて、レスリングを始めました。 試合に出て初めて優勝しました。 高校で寮に入って、練習は半端ではなかったです。 人一倍早起きをして取り組みました。 日本大学に入学、1978年(20歳)から全日本選手権を7連覇しました。 当時は全日本チャンピオンは世界チャンピオンでした。(52,57kg級)  世界選手権でも78年、79年と金メダルを獲得しました。 モスクワオリンピックが世界の頂点を目指すところでした。 におhン政府がボイコットを発表。 いっときはどうしようかと思いました。 スイッチを切り替えてロサンゼルスを目指し、金メダルを獲得しました。(26歳)   スタミナ、スピード、瞬発力、集中力というか精神的なものがあります。 

金メダルを取ったことは夢ではなかったと、一晩過ごして朝に実感しました。 自叙伝の表紙になっているのが金メダルを口にくわえて居る写真です。(その後よく見る光景となる。) 金メダルを取ったというのは瞬間だけですね。 直ぐ日常のトレーニングになります。  ロサンゼルスで金メダルを取ってやっと終わったと思いました。 アメリカに留学してコーチ学を1年間学びました。  帰国後1988年ソウルオリンピック1992年バルセロナオリンピック代表のコーチを担当、2004年アテネオリンピック2008年北京オリンピックでは監督を務めました。 道場に入るとスイッチが入って、身体に芯が出来ると言った感じです。 2:2:6の法則があると言われますが、なにも言わなくても2割はやるが、何言ってもやらないのが2割で、6割をどっちに持っていくかでその組織は動くとよく言われる。 6割をどういう風に持っていくかで勝ったり負けたりする。 

これからの指導者は心理学を勉強したり、いろいろ経験したり、いろいろあると思います。 オリンピックに12回関係していますが、観客として観たのが今回のオリンピックが初めてです。 8回も君が代を歌ったのは初めてです。 いろんな人たちと知り合いになってそれが財産になります。 母親からは「稲穂だよ。」と言われます。(頭を垂れなさい。)   「会長になってもみんなの力なんだからね。」と言われました。 謙虚で居なさいと言われます。  現役の選手には「勝っても天狗になるな。」とは言います。 勝つのは一瞬で、現役が終わった後は長いから、きちっと謙虚にやらないと人生楽しくないよ。」と言っています。 いろいろな人にお世話になって、恩を返してゆくという事を思っています。 形あるものを残したいと思います。  2028年ロスアンゼルスオリンピックで、70歳になりその後が全て終わると思います。(会長職、大学など)














 

2024年9月19日木曜日

岡本 信人(俳優)             ・〔わたし終いの極意〕 人生は野草のように

 岡本 信人(俳優)             ・〔わたし終いの極意〕 人生は野草のように

岡本さんは山口県生まれの76歳。 14歳の時にNHKの連続ドラマ「あすをつげる鐘少年福沢諭吉」で子役デビューしました。 以来、「肝っ玉かあさん」や「渡る世間は鬼ばかり」など民放のホームドラマで活躍、NHKの大河ドイラマ「鎌倉殿の13人」では源頼朝を支えた重鎮の一人、 千葉常胤を演じて人気を集めました。 岡本さんはまた野草の人としても知られ、野草の観察や調理に関する本も出版しています。

千葉常胤は勇猛な坂東武者ですが、決して野心家ではなくて堅実で土の匂いのする武将だと感じました。 演じる上で意識したのが無骨さと誠実さです。 千葉常胤のオファーが来た時には当時は73歳でした。 そろそろ終活しようかなと思った時期でした。 野草の観察と同時に一日5000歩から8000歩のウオーキングをしています。 発声練習もして生活も規則正しくしています。 20代から体形、体重は変わらないです。 

父親がシベリア抑留されて、肺結核を患ってその治療のために色々な市に移り住みました。 そこで私は野生児になりました。 母は野草を摘んで、食卓には野草が並びました。 一緒に摘んだりしたのが野草の原点となりました。 萩市には小学校3年から6年まで居ました。 人生の中で一番楽しかった場所では無いかと思います。 その後父の仕事の関係で東京に引っ越しました。 自然の全くない環境でした。  友達も出来なくて、父が心配して児童劇団に応募し、合格しました。  「あすをつげる鐘少年福沢諭吉」で福沢諭吉の友達として子役デビューしました。(14歳)   大学に行きながら出演している時に父が「もう芝居を辞めて建築の勉強に専念するように。」と言われたのですが、「肝っ玉母さん」が終わったらやめると言ったんですが、次々とホームドラマに出演して、そのままになってしまいました。 

石井ふく子先生との出会いが、僕の俳優人生を決めたと言ってもいいです。 出会って後から「肝っ玉母さん」の出前の健ちゃんに決まったと言われました。 そこから俳優の道が開けていきました。  ホームドラマなので身のまわりにいそうだなという風に受け取ってっもらえればいいかなと思います。  先生と一緒に野草を摘んで、先生のお宅で料理をして食べました。 先生は野草を食べたこともあるので美味しかったと言っていただきました。 ハコベの炒め物が一番おいしかったと言っていました。 

20代の前半に一人暮らしを始めた頃に、多摩川の土手でつくしの群生を観ました。 よみがえって摘んで炒めて食べたらまずかった。(あく抜きをしなかった。) 以後図鑑で調べるようになりました。 食べられる野草が一杯あり、レパートリーを広げていきました。  出版社の人の耳に入って本になって、テレビからも声がかかって、野草を食べる人、雑草を食うおじさんという事で一気に知られるようになりました。 野草は知れば知るほど奥が深いんです。 過酷な環境でも懸命に生きてゆく逞しさに生きることを教えられます。  野草はド根性です。 

9月の後半になると、つゆ草、ゆきのした、いぬびゆ、すべりひゆ、たんぽぽ、おおばこ、10月になるとむかごなどです。 料理法としては天ぷらが一番ポピュラーです。 よもぎ、ゆきのしたは天ぷらにいいですね。  ドクダミも天ぷらにすると匂いが80%オフになります。 すべりひゆはアクが強いので、アクだしをした後で一晩水に浸けておくと、水が真っ赤になります。 油で炒めて味噌と一緒に食べるとつまみになります。 つくしはハカマを取ってアクぬきをして煮て卵でとじて一緒に食べるとおいしいです。 私はヨモギが好きです。 天ぷら、草餅にするのもいいです。 

歩きながらセリフを覚えながら、野草を観察し、声を出したり忙しいです。 野草の様に精一杯生きた後に、潔く枯れて自然に帰るというのがいいなと思っています。 〔わたし終いの極意〕としては野草の様(野草の精神で)にという事です。













2024年9月18日水曜日

青木 功(プロゴルファー)         ・ 〔スポーツ明日への伝言〕 なぜ私は世界を目指したのか

青木 功(プロゴルファー)    ・ 〔スポーツ明日への伝言〕 なぜ私は世界を目指したのか

青木 功さんは日本のプロゴルフ界の第一人者であり、1983年のハワイアンオープンで日本人として初めてのアメリカPGAツアーで優勝するなど世界の青木として海外でも活躍し、2004年には日本人男子ゴルファーとして初めて世界ゴルフ殿堂入りを果たしています。 今年8月31日に82歳になった青木さんは、プロテスト合格が1964年(昭和39年)で、プロゴルファー生活も60年になりました。 

東京オリンピックの年にプロになりました。 松山選手の銅メダルですが、当人としては常に日本代表という事は頭にあったと思います。 2021にやった時に、負けた悔しさ、国を背負ってという事は並大抵のものではないと思います。 私は1973年にワールドカップに中村通君と行って、1983年ぐらいにジャンボとベネズエラに行って、中村通君とはスペインに行きましたが、日本代表というのは凄く重いですよ。

1962年にプロテストを受けましたが、落ちてしまいました。 1964年の2月に一次予選、3月に二次予選、4月に予選、5月に本番でした。 日本海外合わせて85勝。 初優勝に7年掛かっています。(30歳)  研修生の時には1万5000円の給料でした。 プロになると3万5000円になり、楽に暮らせるようになり、練習もしないで4年ぐらい遊んで暮らしていました。 先輩から言われてトレーニングをするようになりました。  1983年の日本オープンで優勝。   フックボールをスライスに直すためにたまたま零下3℃ぐらいで、雨も降ってきてそのなかを4,5時間ぶっ通しやってそれで直しました。(その日に直さないと直らないと思っていました。)  ご飯を食べる時に手が開かなくなりました。 

1976年賞金王、4年連続賞金王、そのころから海外に出かける。 1978年、「世界マッチプレー選手権」で海外ツアー初優勝。1980年全米オープン2位。4日間「帝王」ジャック・ニクラスとラウンドし、死闘を繰り広げた。1983年ハワイアン・オープンで、日本人初の米国PGAツアー優勝。84年オーストラリアで優勝。 当時はお金を稼ぐのには日本が一番大きかった。 海外の人がどのようにゴルフをやっているのか、好奇心がありました。 

その間に結婚をして妻が英語が出来たので助かりました。 アメリカに行った時には一か月半ぐらいで5試合ぐらいやりますが、4試合連続で落ちた時もありました。 ピザ屋でしか食事をしないこともありました。  最後に予選を通過した時には優勝したみたいな気分になりました。  アメリカでは簡単にはゴルフを受け付けてくれない。 

英語は余り出来ないのでコミュニケーションを取るのが大変でした。 1995年シニアのメジャータイトルをかけて再度ジャック・ニクラスとプレーオフまで行って、2位になりました。 ジャック・ニクラスと7,8回プレーしましたが、一回も勝てなかった。         

南アフリカに行きました。 当時アパルトヘイトの人種隔離政策があって、日本政府は渡航、文化交流も禁止の時代でした。 当時の外務大臣の安倍晋三さんからはビザは出せないと言われましたが、でも先生に「スポーツには国境があるんですか」と聞きました。 しばらく考ええて「そういえばないな」と言って、貰う事が出来て出かけました。(妻と娘も一緒に行きました。)  言ってよかったと思います。 その翌年アパルトヘイトは解除になりました。 

グレッグ・ノーマンと会った時に「功も俺もビジターだな。」と言ってくれました。 お互いが訪問客だなといって、一生懸命やろうということで一緒に回りました。 その後84年にアパルトヘイトに行った時に、功と妻と娘が住めなくなったら住まわせてやろうと言って、自分の棟の隣の家を買ってそこに住まわそうとして、我々の為に買ってくれたんです。(解除になったので家は売却したそうです。) 彼とは親友です。

海外では初めてのコースなので、芝をつまんだりいろいろやっています。 自分が苦しんでいるのなら、他の人はもっと苦しんでいるはずだと思った時に気が楽になりました。 行ってはいけない方向に行ってしまうのは、よけようとするから行ってしまう。 もう一寸飛ばそうと思うと、余分な力が入って身体が開いたり手がぶれたりします。 練習をやって如何にに自信を持つか。 プロになるのが遅かったので、5年を追いつくには人が寝ている時にやりました。  歌とゴルフはいくつになってもできると思います。 やれるうちはやりたい。














2024年9月17日火曜日

廣橋猛(がん診療支援・緩和ケアセンター長)・緩和ケア医が、がん患者になってわかったこと

 廣橋猛(がん診療支援・緩和ケアセンター長)・緩和ケア医が、がん患者になってわかったこと

東京上野にある永寿総合病院がん診療支援・緩和ケアセンター長の医師廣橋猛さんは47歳。  がんのケア医として長年がん患者に寄り添っています。 しかし去年自らが甲状腺がんと診断され、手術で甲状腺と周辺のリンパ節を除去しました。 自分ががんになる前は医師の立場でしか判断できなかったことが、患者の立場になって初めて気付いたことが数多くあったと言います。 「がん緩和ケア医がガンになって初めてわかったこと」と題してお話を伺いました。

体調は回復してきました。 自分はがんにはならないだろうという変な思い込みがありましたので、ショックでした。  父は病理学、がん細胞を顕微鏡で見て診断する医師でした。  祖父も医師でした。 東海大学の医学部を卒業後、最初は内科の医師になろうと思いました。 内科医としてがん患者さんに多くかかわって来ました。  辛さをやわらげることに遣り甲斐というか、緩和ケアのことを勉強したいと思いました。  結局どっぷりはまることになりました。  患者さんの人生の過ごし方、特に終わりに近い時の過ごし方を、一緒に相談に乗って人生を一緒に考えることができるという部分に魅力を感じました。    痛み、辛さを取るのには薬だけではなくて、過ごし方、希望を叶えることが患者さんを和らげるのに、非常に意味があるという事を学びました。  一生付き合っていかなければいけない病気になった時に、気持ちを穏やかに過ごす事、過ごしたいように過ごすとか、自分で人生を選べるとか、そういったことが大事だと思います。 先生と話して元気になりましたと言われると自分も嬉しいです。 パワーを与えられるような診療をしたいと思っています。  

甲状腺は喉のところに右葉,左葉と別れていて、そこを繋ぐ橋部があって、私の場合は、その3つの臓器にがん細胞が認められました。  後で判ったことですが、人よりもちょっと首が晴れているのではないかと言う事と、体重がやや落ち気味でした。 手術後には大きな声が出せないとか、ちょっと声の質が違うという感じはありました。(特に退院直後)   或るタイミングの時を見計らって、周りの医師などには説明しました。(診断後1か月後) 妻は元看護士でしたが、妻も聞いてショックだったと思います。  私自身、がんに対する知識があるので、合併症とかいろいろなことがあるので、遺書を書いておこうと思いました。 胃がんと肺がんではまるで違う病気です。 がんが転移してゆく事は特徴としては一緒ですが、がんはみんな違う特徴があります。 自分自身のがんの特徴をしっかり踏まえて向き合うことが大事だと思います。 

相性の合う先生と出会えるかという事も大事です。(話を聞いてもらえる。)  SNSでがんのことを公表しました。  緩和ケア医だからこそ気付けることがあると思いました。 親近感を持てる先生だと皆さんが感じてくれて、認めて貰えるきっかけになったかもしれません。  逆に励まされることにもなりました。  同じ病気の方から言われると、こちらも救われます。 患者さんの辛い事、困りごとを直ぐ医療者には言えないことは当たり前だなと思いました。 手術後の痛みについて、忙しさが判るのでつい我慢してしまう事がありました。 医療者に言う時には、その前に我慢している長い時間があるんです。(医師はその時点からと思ってしまう。) 痛み止めも効いて来るのには時間もかかります。 

がん患者に対して周りが良かれと思って、いろんな怪しい情報も持ち込んできます。   患者さんは正しい情報をしっかり身に付けるという事も大事です。 がんになってしまうと再発などつい色々なことを考えてしまうが、一人の人間として、日常生活、仕事、趣味、楽しいことをがん患者ではない人と同じように、時間を使って欲しいと思います。 緩和ケアは死が近い人が受けるケアで、がん治療をしている人は、まだ早いと思っている方がいると思いますが、それは間違いで、辛さを和らげる治療でがん治療をしながら緩和ケアを一緒に受けて、辛さを和らげて治療がうまくいくように進んでほしい。  

こんなことは自分には起こらないだろうという事、予想外の出来事は人間は必ず体験する。  がんになって悪い事はあるが、学ぶ事もあります。 自分の人生の有限性を踏まえて、これからの人生の歩み方を決めるきっかけになったのかなあと自分は思っています。 後でいいやとは思わなくなりました。 忙しい中でも周りに言って、富士山キャンプをしました。 病気の前はフルパワーでやって来ましたが、体力的に以前ほど続かなくなったという事はあり、休みを取らないと後々響くという事を実感しました。  自分の人生の有限性を踏まえ、自分のやりたいことを成し遂げるという方向にシフトしました。 患者さんの気持ちをより同じ立場でわかる医師でありたいとは思います。 緩和ケアの仕事をより深めていきたい。  胃がん、肺がんなどは5年経てば再発の可能性は少ないと言われていますが、甲状腺がんは20年間は心配なところがあります。 ついもしかして、というような思いがあり、それは死ぬまで拭い去れないと思います。  ですから一生がん患者なんです。  それを受け入れた中で、一生歩んで行こうという覚悟は持っています。 











 









2024年9月14日土曜日

中野珠実(大阪大学大学院教授)      ・人はなぜ自分の顔が気になるのか ~顔の科学で分かること~

 中野珠実(大阪大学大学院教授)      ・人はなぜ自分の顔が気になるのか ~顔の科学で分かること~

 中野珠実さんはひとが顔を認識する仕組みや心の発達について研究している認知神経科学者です。 人が自分の顔を特別だと思う脳の働きを発見したと言うと、身近に感じられるのではないでしょうか。 スマホやSNSが登場し、人がより自分の顔にとらわれる様になったと中野さんは言います。 自分の顔は何故特別なのかをお聞きした。 

人間がどういう仕組みでものを見たり考えたりするのかという事を、脳の活動を測ったり、行動を調べたりして研究しています。 それを認知神経科学と言ったりします。 顔は非常にたくさんの情報を含んでいます。 社会的な情報も含んでいます。 意図、感情、人間関係にも関係するところでもあります。 最初は瞬きから研究を始めました。 3秒に一回瞬きする。  起きて居る時間の約1割の時間は真っ暗な状態になっています。 それを脳の中で補填して、真っ暗になっていることを気付かないようになっている。 視覚情報を1割失っている状態になっているんです。 何かの情報の切れ目に人々の瞬きのタイミングが揃って起きているという事を発見しました。(映画を観ていて、主人公の動作が終わった瞬間とか)  瞬きは認知処理、情報処理を円滑化するためにしているのではなかという事が、研究してきた一つです。 

視覚情報は常に目を通して目の中に入って来る。 私たちはそれを分割して記憶してゆくわけです。 瞬きを使って句読点をつけることによって、脳のなかで整理しているのではないかと、言う事です。 起、承、転、結が明確な映画ほど同期しやすい。 瞬きはコミュニケーションとも関係していて、話し手の瞬きに聞き手が揃ってくるんです。(興味がある時だけ) 瞬きが表しているのが「間」です。  犬や猫も飼い主の瞬きに合わせて、引き込まれてしています。(逆もあり)  

SNSで加工した顔が出ていて不思議だなと思いました。  アプリを使って、それを自分でもやってみました。 若返った顔を送ったら、反応はなく喜んでいるのは自分だけだと思いました。 自己を捉えて言うというのも面白いと思って研究を始めました。  今は自分で自分の顔を見るようになってきた時に、自分の意識に自己像が入り込んできてしまっていると思います。 社会的な自己がこうあるんだという意識が高まってきてしまっているのかなと思います。  人間は目が特別に進化していると思います。 木の上で生活している猿は目が真ん丸です。 地上に降りて来た類人猿、猿は目が横長になって行きます。 人間は特に横長になっている。  地上に降りって来ると水平方向を広く見渡す必要がある。 人間は横に大きく動かせるようになってきている。 白目を持つのは人間だけで、どこを見てるのかが判りやすくなった。 意図が判ってしまうので危険な面があるが、サルなどの動物は茶色い色素がありどこを見てるのかわかりにくくなっている。 人間は他者と理解して、意図、注意を共有して一緒に共同作業をする方向に変わって行った。  他人の目を見ることによって、他人が何を考えているのかが判る様になり、コミュニケーションするように顔が変って行きました。 

眉毛も変わったと言われる。 原始人は眉毛を動かせられなかったと言われている。 おでこが引っ込んで眉毛が動かせるようになった。 自分の感情状態を伝えるようになっている。 ドラマでも9割方登場人物の顔を見ていて、目を6割、口を2割観ていると言われる。 自己の顔認識は今迄とは別段階に進化してきている感じです。 

卒業アルバムなどでも、自分の顔は素早く見つけることができる。 自分の顔、名前、自分に関連した情報は素早く見つけて素早く記憶すると言われている。(自己優先バイアス)   自己優先バイアスが脳の中でどういう仕組みで起きているのかという事を調べてきました。 自己優先バイアスは無意識の中でも起きている。  潜在レベルでの脳の働きを調べました。  サブリミナミル刺激といって、派手な刺激の間に自分の顔などを25m秒とかにパッと差し込む。 提示されている事には気付かない。 ただ脳の中には確実に刺激が入っていて、顔の情報として処理されている。  自分の顔に対してはドーパミン報酬系と呼ばれる、ドーパミンが関連する腹側被蓋野(ふくそくひがいや)と呼ばれる部署が活動していることが判りました。 自分の顔が提示されると、腹側被蓋野でドーパミンが生成されていて、脳のいろんな領域に分泌されます。 特に前頭葉などでは重要な情報だと思って、より注意を向けなさいとか、情報処理を促進させるような働きます。 自分の情報を積極的に集めているからだと思います。 自分の情報は多いに越したことはない。(自分の生存のため)  自分が今どういう状態だから、どういう選択、行動が必要だとか、基盤となるものです。 

自分の顔に加工を加えると魅力的だと思っている。 綺麗になった他人を見ている時にはドーパミンは出ていないです。 自分の顔に強い加工を加えるたいときにはドーパミン報酬系が働いています。  ドーパミンが脳の特異な一部に働くと、もっともっと加工を加えたくなる。 MRIで脳の形を取っておいて、顔写真を見ながらfMRIで脳血流を計測する。 合わせ込むと脳のどこが活動しているのか判る。 若い人の間では、他人の加工された綺麗な顔ばっかり見ていると、自分との差を感じて、外に出たくないとか、引きこもりになるとか、そういった現象にも繋がってきているのではないかと言われている。

不気味に加工された写真を見ると不気味に思ったりするが偏桃体に働き、偏桃体は不安、恐怖と言ったネガティブな感情と直結している場所で、やり過ぎると他者にいい印象を持たれない。 リアルと仮想空間で、私たちの顔の存在、意義が大きく変わってきてしまうと思います。 その人の素顔が見たいというのが、人間の本音の部分ではないかと思います。

















2024年9月12日木曜日

本間生夫(医師・呼吸生理学者)     ・わが人生は、呼吸の研究

 本間生夫(医師・呼吸生理学者)     ・わが人生は、呼吸の研究

本間生夫さんは長く呼吸の研究に取り組んできました。 人間の呼吸は呼吸筋という筋肉で行われ、脳と同様に生きている限り睡眠中も休まずに働き続けます。 一日におよそ2万回、50年で36億回と寿命が延びればとて血もない回数をこなします。 呼吸筋という印肉はどのような筋肉なのか、無意識に行っている呼吸から現在どのような事が判っているのか、「わが人生は、呼吸の研究」、本間生夫さんにお話を伺いました。 

呼吸の研究を始めてから50年以上になります。 当時日本ではあまりいませんでした。 スウェーデンに留学して、帰ってきて日本で研究を続けました。 専門的には呼吸神経生理学と言います。 呼吸の目的は酸素を取り入れるという事になります。 肺は自分で膨らむことが出来ない。 肺を膨らませたり縮めたりするのは胸郭についている筋肉の収縮で、胸郭が広がったり縮んだりします。 それに伴って肺が膨らんだり縮んだりします。 筋肉は20種類ぐらいあり、すべて総称して呼吸筋と呼んでいます。 一日に2万回ぐらい行っています。

高齢者になるとどうしても機能が落ちてきます。  酸素を取り入れて二酸化炭素を出すのが呼吸という事になっていますが、他にも役割があります。  心にはポジティブな感情、ネガティブな感情がありますが、心の中核をなしています。 感情にいろんな動きが伴ってきますが、それを情動と言います。 情動は脳のなかのある部分で作られています。 それの一番重要な中枢が大脳辺縁系?の中の偏桃体?です。 情動の活動は呼吸のリズムで動いています。 呼吸のリズムを作っているのが延髄というところです。 付随的にそれが呼吸筋に行ってリズミカルに収縮しています。 リズムを作り出しているのが、感情を作り出しているところにもあります。 情動を作り出しているところにも呼吸リズムは作り出されている。 だから感情が変化すると呼吸のリズムも変わって来ます。 ですから呼吸が変ると感情も変わって来る。 呼吸は意識して変えられる。  呼吸がゆっくりになるとネガティブな感情が薄らいでくる。  不安が長く続くと不安障害になる。  

不安は20%ぐらいの人が抱えていて、コロナになってさらに増えました。 不安を和らげるのには呼吸を整えるという事が重要です。 1日のうちで何回かは意識して行う事が重要です。 呼吸筋のストレッチ体操を考案しました。 呼吸筋を柔らかくする。 以前公害でぜんそくが流行りました。 その当時に考えました。 息苦しさが和らぎました。 吸っている筋肉をストレッチさせる。 息を吐く時の筋肉をストレッチさせる。 NPO法人安らぎ呼吸プロジェクトのホームページを見れば、いろいろ案内が出てきます。 呼吸指導士も養成しています。 

他に肺機能を高めます。(高齢者は機能が低下しているので)  ストレッチ体操をすると呼吸がゆっくりになります。 呼吸筋の方から脳に情報がフィードバックされます。 その情報が感情の方にも行って、整えてくれる。 不安を和らげてくれる。 東日本大震災の時PTSD(Post Traumatic Stress Disorderとは、命を脅かすような強烈な心的外傷(トラウマ)体験をきっかけに、実際の体験から時間が経過した後になってもフラッシュバックや悪夢による侵入的再体験)になってしまう人もいる。 アメリカでもベトナム戦争でPTSDになっている人が沢山いた。 東北の小学校で呼吸筋のストレッチ体操の指導をしました。 「らったった呼吸体操」という歌も作って行いました。  

呼吸機能が落ちるといろいろな障害も出てくるので、呼吸筋のストレッチ体操は有効です。 呼吸筋、特に肋間筋?は非常に持続性の強い繊維が多いです。 だから疲れずに一生を収縮している。 筋肉のなかに繊維として、白筋?と赤筋?という2種類があります。  白筋?は短時間に強く収縮させる。 赤筋?は強くはないが持続性がある。 赤筋?は酸素を供給して溜まったエネルギーに使う。 一般的には割合は1:1ぐらいですが、肋間筋?は白筋?がほとんどないんです。 高齢者になってもなるべく動くという事が重要です。  歩くことはいい事です。 足の具合が悪い人は呼吸筋のストレッチ体操を何回かやってもらう。 ゆっくりとした深い呼吸がいい呼吸です。 悪い情動はいじめ、虐待にも繋がって来る。 戦争まで起こしてしまう事がある、という風に論文にも書きました。

座禅とか、昔から呼吸が心を落ち着かせることが経験上判っていた。 それが文化に繋がって来る。 日本文化は呼吸から生まれていると、言ったことがあります。 呼吸で心が穏やかになって来る。 これは文化の基本だと思います。 僕は能をやっていますが、能も呼吸です。 お能の曲も作っています。 お能の曲は7、5調なんです。 桶狭間の戦いの前に信長は「敦盛」のお能を舞っているが、不安を取り除くために舞っていたのではないかと思います。  剣道、柔道、合気道、武道、茶道など呼吸と関わっています。 日本の文化は呼吸と密接に関わっています。 



















2024年9月11日水曜日

室積光(作家・俳優)           ・知ってほしいから書き続け、演じ続ける

室積光(作家・俳優)           ・知ってほしいから書き続け、演じ続ける

室積光さんは勝弥さんから聞いた戦争体験などを元に、舞台作品などを執筆し、時には自ら演じながら当時生きた人々の足跡を伝えようとしています。 俳優としては本名の福田勝洋の名前でNHKの連続テレビ小説「まーねえちゃん」や大河ドラマ「山河燃ゆ」などのテレビドラマで活躍、特に「3年B組金八先生」の体育の伊東先生役で広く知られる存在になりました。 46歳の時に作家としてデビュー、出身地の山口県光市に拠点を移し、テレビドラマ化された代表作「都立水商!」など話題作を多数執筆する傍ら、主宰する劇団「東京地下劇場」でご自身が執筆した舞台作品の上演を中心に活躍しています。 室積さんの父勝弥さんは太平洋戦争でパプアニューギニアのブーゲンビル島に赴きました。 多く成仲間が命を落とす激しい戦いを潜り抜け、帰還を果たします。 しかしブーゲンビル島で戦っていた室積さんの叔父は帰らぬ人となりました。  父から聞いた過酷な体験を次の世代に伝えなくては俳優として、作家として作品に命を吹き込み続ける室積光さんにお話を伺いました。 

父から戦争の話を聞いて面白い人が出てくるので、その後どうなったと聞いたら死んだという事で、その連発でした。 後になって父の戦場が過酷なものだったという事が判って来ました。 沖縄糸満出身の人が素潜りが得意で魚や貝を取ってきて、その人たちのお陰で父などは命が助かっているんです。 ブーゲンビル島に行ったのが59人で帰ってきたのは6人でした。 沖縄出身のその人は帰ってこなかった確率が高い。 その人は私にとっても命の恩人です。 その人はどうなっているのか一生懸命調べてはいるんですが。 

大学で世界史の中の自分の立ち位置を考えていて、空間と座標の中の一部分にすぎないと思って、恵まれた空間の中で、何かやってみようと思い劇団に入りました。 小中高の学校の生徒にいいものを提供したいと思って、劇団を立ち上げました。 「遠い約束」という芝居を書いて、戦争にまつわる少年たちの友情の話ですが、その後に「はだしのカッちゃん」というのに叔父を登場させました。 取材をしなければいけないという話になって、ソロモン会という会に参加して、3回目に現地に叔父の慰霊を立てました。 会ったこともない叔父を身近に感じるようになりました。 アルバム、日記を観て、叔父はサラリーマンでありながら兵隊として死んでいった。 同行した人たちが手紙を読んで、初めて「おとうさん」といって泣いていました。  

叔父の日記で父と同じ歳の従兄弟が居まして、昭和14年に中国に出征します。 叔父が東京駅まで見送りに行っています。(叔父は19歳) 大学に入れれば兵隊にならなくてもいいので、「頑張れ」と言われていたそうですが、受験を失敗して言い出すことが出来なかった。駄目だったという事をはがきに書いて出す訳です。 行き違いに従兄弟の戦死の連絡があり、叔父はしばらく手紙を出さなかったから薄情奴だと思っていたのではないかといった記述がありました。 叔父自身もその6年後に戦地で飢えて死ぬわけです。 

さらに取材を重ねて肉付けし2017年には小説として発表。  そのあらすじは、昭和8年戦友だった5人の同級生が「私の将来」と題した作文を校庭に埋め、50年後に開封することを約束する。 しかし太平洋戦争で予想もしなかった方向に動き出す。 唯一生き残った林健一は記録係として友がどう生き、どういう夢を見ていかに死んだのか、事実を語り継いでゆく。 叔父の生きて来たことがどんどん鮮明になっていきました。 日記も読んだので人格が鮮明になって行きました。 

お芝居を観て、小中学生が私に伝えてくれるのは、如何に自分が恵まれているかわかったという、それこそ伝えたかったという事です。 今学べる幸せ、不登校とかあるが、立ち上がって欲しいです。 「はだしのカッちゃん 」を書き上げます。 夢を持つことができる今の平和のありがたみを感じて欲しい、そんな室積さんの思いを込めて、児童書として出版されました。 カッちゃんは叔父さんがモデルです。 日本は新幹線、東京オリンピックがあり凄く発展しているのに、かつての戦場だったブーゲンビル島などの島はほとんど変わっていない。 戦闘機が見えるところに沈んでいて、ロッキードの機関砲の薬きょうが落ちていて簡単に拾える。 これはショックでした。 発展とか変化に伴って痛みを忘れるのはいかがなものかと思います。 

パプアニューギニア本島の方では、日本の兵隊が行き倒れたまま、骸骨が軍服を着ている。そのまま何十年も。 ブーゲンビル島だけでも3万人ぐらいが亡くなっている。 主人公に語らせているあの気持ちだけでも意味があると思っています。 (「カッちゃんの骨は今もブーゲンビル島の倶利伽羅峠にあって」という描写がある。) 慰霊祭では手紙を読んで、皆で「故郷」を歌うんです。 当時兵隊たちが歌っていたそうです。 切なくなるのは「夕焼け小焼けで日が暮れて」と歌い出して、「お手てつないで皆帰ろう」というところです。   ブーゲンビル島に向かった最後の補充兵は860人で、すでに若い人はいなくて子持ちの年代層で、彼らは半年ぐらいで栄養失調で亡くなっている。 そのなかで生きて帰ったのは8人です。 何で出したのか、理不尽な話です。 現地の子供に歌を教えて亡くなって行った優しいお父さんたちでした。

叔父は砲兵隊の観測兵でした。 叔父が亡くなったのは昭和20年5月7日でした。   父に伝わったのが5月11日でした。  5月末に最後の決戦になるが、延期になるんです。 最後に8月末という事になるが8月15日に終戦になります。 父も自分はもうすぐ死ぬなと思っていたそうです。  生きて帰れると言う事になってから、悲しさと弟を含めた死んだ戦友への後ろめたさみたいなものがを抱えたようです。 親が戦地に行った我々世代は聞き出さなければいけなかったんじゃないかという悔恨はあります。 

この作品の支援会があり、客席からの波動が凄かったです。 それにつられて泣いてしまいました。 感情のキャッチボールみたいなものが、客席と舞台であり、それが一番の手応えでした。 

戦争の動機はなんだかんだと言って全て経済だと思います。 サザエさんは昭和21年4月から連載が始まって、昭和21年2月から日本人の幅員が始まっています。 あの時代は数多くの父を失い、夫を失い、弟、子供を失っていた女性がいたわけです。 サザエさんはそのすべての人に囲まれた幸せな人なんです。 長谷川町子さんがどう意識していたのか判らないが、いまだにサザエさんは放送されています。 サザエさんの幸せを日本人が手放さない限り、日本人は戦争を起こさないと思っています。 子供も残せずに戦争で亡くなった人は忘れられてゆく。(墓すらもない人がいる。) 












 




2024年9月7日土曜日

Ono Aki(ヴォーカリスト)       ・平和の願いを込めて ウクライナ民謡を歌う(初回:2023/4/8)

 Ono Aki(ヴォーカリスト)       ・[人ありてまちは生き]平和の願いを込めて ウクライナ民謡を歌う(初回:2023/4/8)

ロシアのウクライナ軍事侵攻が始まったのが、2022年2月24日2年半余りたった今も戦争が続いていて、ウクライナ国内の激しい状況が伝えられています。 そのウクライナに音楽で力になろうと活動している方がいます。 大坂を拠点に活動するヴォーカリストOno Akiさんです。 Onoさんはウクライナを紹介するコンサートを開催したり、CDにして日本でも 広く知ってもらおうと様々な取り組みをしています。 歌を通じてウクライナの人々を支えたいいという思いを去年の4月8日に放送しました。 

ウクライナとのお付き合いは2012年からになります。 日本の文化交流会の皆さんと旅行に参加することがきっかけです。 最初は首都のキーウとリビウ(世界遺産の街)、クリミア半島に行きました。 街並みが美しいです。 ボルシチなど様々な美味しい料理を沢山いただきました。 ウクライナの人は日本人と似ていて、どこかシャイでおとなしい、控えめな方が多かったです。 勤勉です。 ユーモアにあふれています。 我慢強くて独立心が強くあります。 女性も男性も勇敢です。 

ウクライナは世界で一番民謡が多いと言われています。 ウクライナは歌と踊りと共に戦い生きてきたというぐらい音楽とのかかわりは深く来たと感じます。 祖国を愛する気持ちが強く含まれています。  民謡のコンサートを2月24日に行い、「ウクライナに栄光あれ」というものに納めました。 数十曲の中から厳選しました。 

*「プリーネカーチャ」 ウクライナ民謡 歌:Ono Aki

100年前に作られた民謡で、戦死したウクライナ兵を見送る歌として、直訳すると「子鴨が浮かんでいる」というタイトルです。  小鴨を沢山引き連れて泳いでいるのですが、その1匹が行方不明になってしまって、お母さんの言う事を聞かなかったからどこかでで亡くなってしまって、どこで亡くなったか知らない。 だから僕は知らない人を埋葬るんだという歌詞ですが、深い意味があります。  

「おい小鴨がテシーナ?川で泳いでいる。 テシーナ?川に沿って小鴨が泳いでいる。 母さん怒らないで 母さん怒らないで  ねえママはいつも悪い出来事の時に、私に必ず呼び掛けてくれる。 貴方は悪い出来事の時に私に必ず呼びかけてくれる。 どこで死ぬかわからない。 どこで死ぬかわからない。 ねえ私は異国の地で死にます。 私は異国の地で死にます。 誰が私を埋葬してくれるのか、私は誰に埋葬されるのか、ねえ見知らぬ人が私を埋葬します。 見知らぬ人が私を埋葬します。 ごめんね、母さん。 ごめんね、母さん。 ねえ息子よ、とても悲しいです。 とても悲しいです。 貴方は心の中にいつもいます。 貴方は私の心の中にいつもいます。 おい小鴨がテシーナ?川で泳いでいる。 テシーナ?川に沿って小鴨が泳いでいる。」  歌詞を紹介。

今もまた良く歌われています。 ウクライナでは今でも両親に対して丁寧な言葉使いです。侵攻があった2月24日にはメールなどで友人たちと連絡をとしました。 その後インフラ攻撃で大変な状況ですが、最後はユーモアをもって笑わせてくれます。  逆に元気を貰ったりします。 昨日も長電話をしました。 

*「オーユールージチェルボナカリーナ」?  歌:Ono Aki

曲名はのタイトルは「草原の赤いガマズミ」という意味です。  赤い実が沢山房になっています。 その実が下がっているのでこうべを垂れてている。 ウクライナの歴史に値するようなイメージを皆さんが持っています。  勇気づけようとする歌詞ですが、ウクライナを元気付けよう、育もうという応援ソングです。 

歌詞の一部                                              「落ち込まないで。 赤いガマズミよ。 貴方は白い花を咲かせる。 悲しまないで、輝かしいウクライナよ。 貴方は自由な家族なんだ。 ねえ、その赤いガマズミの木を育もう。 そして私たちは栄光の祖国ウクライナの勝利の喜びを、さあ分かち合おう。」 

ウクライナの子供たちから絵が届きましたが、そこには赤いガマズミの絵が描かれていました。 

今年2月24日大阪八尾市で開催された「ウクライナ支援平和コンサート」では、追悼でしたので、ウクライナの戦況を映像にして、10曲お届けしました。 最初の映像から皆さん涙を流している方がいました。 何とも言えないコンサートになりました。  ウクライナの方も20,30名の方が来ていまして、ありがとうというメッセージをいた抱きました。 今すぐにでも終わって欲しいという思いを込めて歌いました。  音楽の力は重要だと感じ取りました。 日本の文化など、素晴らしい国だと思ってみてくださっています。

夫の小野元裕さんが「日本ウクライナ文化交流協会」の代表であり、Ono Akiさんはそのメンバーになっています。 ウクライナの避難者の受け入れの問題から、ウクライナへの避難所を作って、家を失った方、負傷している方などを受け入れるように建てている途中です。酷い地域のところにも足を運んで、現状を見てこようかなと、避難所にも行ってきたいと思っています。 本来持っているウクライナの魅力を皆さんに知ってほしいという事が彼らのメッセージでもあります。 ウクライナは文化、音楽、芸術が盛んな国ですので、音楽を通してウクライナの魅力を同時に伝えていきたいと思います。 














2024年9月5日木曜日

ケイ・グラント(タレント・DJ)    ・死に際で見つけた最高の生き方

ケイ・グラント(タレント・DJ・ナレーター・シンガー)・死に際で見つけた最高の生き方 

ケイ・グラントさんは1959年生まれ、東京都出身。 1979年プロの水泳コーチを目指してアメリカへ留学したケイ・グラントさんは1981年に帰国した後、水泳コーチやボディービルのトレーナーとして活動してきました。 1988年にディスクジョッキーとしてデビュー、その後ラジオDJのほかテレビ番組やCMのナレーションなどを担当、2000年からは格闘技イベントのリングアナとしても活躍しています。

生まれは東京都練馬区でグラントハイツが遊び場でした。  日本陸軍の成増飛行場があって、GHQに接収されて居住区になりました。 広大な芝生があり野球などをやるのには抜群でした。(基本的には進入禁止でした。 MPが見まわりに来る。)  或る人から声がいいという事で新しくラジオ局が始まるのでしゃべってみてはと言われました。(当時ボディービルのトレーナーをしていた。) それがきっかけでDJを始めました。 DJはやりながら学んでいきました。  形になってきたのは半年してからぐらいです。 FENを聞いてはいたので雰囲気は有りました。 1979年プロの水泳コーチを目指してアメリカへ留学しました。  

帰国後は自分のクラブのスイミングコーチになりました。  駆け落ち結婚という事で家を捨てることになり、先輩のスイミングクラブにお世話になりました。 駆け落ち結婚も1年ちょっとで破局を迎えました。 2年後位ぐらいに開局しました。 当時ジムでは144時間働いて9万円で残業代を含めると11万円した。 DJでいくらもらえるのかと思ったら、君は駆け出しだから5万円だと言われました。 居酒屋へも飲みに行けるような生活になりました。 2000年グランプリを東京ドームでやることになり、リングアナを引き受けることになりました。  ラスベガスのトーマスマックセンターでやった時に、「ここに来て光栄です。」と言った時に凄い賞賛があり感動、感涙しました。 翌年2回目の時にはガラッと対応が変っていました。

1993年に結婚しました。 DJをやっていましたが、寝る時間がなかなか取れませんでした。 結婚の1週間後に心筋梗塞になりました。(34歳 煙草も結構吸っていました。)   復帰に2か月かかりました。  その後タバコを止めたり生活にも気を使ってきましたが、38歳ごろに又煙草を吸うようになりました。 2000年(41歳)にプールで泳いでいたら2回目の心筋梗塞になりました。  救急車を至急呼びました。 その時の状態はまだ元気なので救急隊も信じてくれませんでした。 一回経験しているので、私はまずいと言う事を予感しました。 集中治療室に着いた時に心臓が止まってしまいました。 AEDでやってもらって生き返って来ました。  その時にはステントという血管の中に入れられるメッシュがあったので、2週間で退院しました。  

2008年の時に3回目、急性心不全ですが、徐々に腹水が溜まって来ました。 年内に手術をしないと死亡の確率が98%と言われてしまいました。 手術をして無事終了しました。 2009年1月にテレビを観ていたら、急に意識不明になりました。  救急車で運ばれて,VT(VT(心室頻拍)とは、心室期期外収縮(VPC)が連続して発生し、心拍数が100~250回/分になる頻脈のこと)といって特殊だから、街のAEDでは対応が出来ないので、身体のなかにICD常に心臓の脈を監視し、命に関わる不整脈の発作が出た場合にすみやかに反応して、電気ショックを発生させてその不整脈を退治し、発作による突然死を防いでくれる装置)という、内蔵型のAEDを埋めた方がいいと言われて、そうする事にしました。 2016年に台風10号が来た時には一日35回ぐらい作動しました。 気圧と心臓のバランスが崩れてしまったようです。  入院することにして、手術で心臓の動きを半分程度止めたところで、8月から12月まで入院生活でした。  今生きている状態を感謝しながら楽しんでいます。 

バチスタオペレーション(心臓の筋肉細胞が変化して膨張し、収縮力が落ちる拡張型心筋症に対する手術)をした後に、白血球値が1000を越えていて、骨髄検査をしたら慢性骨髄性白血病になっていました。  1か月入院して適合する薬があり、飲み薬で養生していたら2008年以降完快しています。(白血病は解決。)  薬代が高くて生活を脅かすぐらいの額でしたが、治ったので薬は飲んではいません。  その後も糖尿病、腎機能障害とかいろいろ出てきましたが、病気達と仲良くやっています。  

塩分には気を付けています。 理想は一日6gですね。 喜怒哀楽はマイクを通して伝わってしまうので、マイクに対しては誠実でないといけないと思っています。 2016年以降この考え方を大事にしてます。(それまでは病院に通っていましたから。) 歌も歌っていますが、これもいい声をしているので歌わないかと言われました。  こういった仕事のきっかけも、回転寿司のようなもので、自分の前にラッキーが流れてきた時に、それを見極める心理眼みたいなもので理解できる能力を常に研ぎ澄ましておけば、楽しい人生が続くという感じです。 身体については常に気を付けています。 身体に信号が出た時には早めに行くことにしています。 今夜とか明日行こうというのではなく,今行く。 Eテレを生きているうちに何かしてみたいと思っています。  深夜便への出演は夢でした。 























2024年9月4日水曜日

山根安行(八重山古典民謡師範)     ・平和への思いを民謡にのせて

 山根安行(八重山古典民謡師範)     ・平和への思いを民謡にのせて

山根さんが語るのは79年前の沖縄県の八重山地方、石垣島で蔓延した戦争マラリアの悲劇についてです。 太平洋戦争の末期の沖縄戦当時、八重山地方では激しくなるアメリカ軍の空襲に備えて、旧日本軍の命令で住民の多くが山間部に強制疎開させられました。 そこはマラリアが蔓延していると地元では知られている地域で、その結果マラリアによって3600人余りの方が犠牲になりました。 戦争マラリアと呼ばれています。 石垣島出身の山根さん家族も疎開した山中で戦争マラリアに罹り、母親や家族を亡くしたほか自身も生死の境をさまよいました。  山根さんは当時の忘れられない記憶や、戦後に培われた平和への思いを自ら作った歌詞に込めて歌い続けています。  歌に平和への思いを託し続ける山根安行さんに伺いました。

1944年10月10日石垣島でもアメリカ軍の爆撃機による空襲が始まりました。 山根さんの石垣島に有った陸軍の飛行場の補修工事に駆り出されと言います。 1945年6月旧日本軍から石垣島の住民に避難命令が出されます。 疎開先は以前よりマラリアの発生地として恐れられている山中でした。 山根さんは母親、義理の父親、3人の弟妹、祖母と一緒に山中に避難を余儀なくされました。 

軍の命令は絶対でした。 簡単な小屋を作ってそこに入っていました。 下は地面でした。 食べるものが無いので芋を掘り起こして、大きなものは軍に納める、小さいものは貰ってもいいという事でした。  木も皮をむいて中の木をスライスして乾燥させて、石うすで挽いて粉にして食べるんですが、十分乾燥しなうちに食べた人は命を落としています。  

蚊が多い一か月十分に食べるものもなく、不衛生な環境の生活が続きました。 その後戦争が終わって山を下りる事になった山根さん、その時には自分自身と母親がマラリアに罹っていることに気付きました。 寒気がしましたが、畑には行っていました。 その後熱くなって一升瓶に水を半分ぐらい飲み、汗も噴き出てきました。 母親は「もう駄目だから、お前はおじさんのところに行きなさい。」と言われました。 一緒にいたら自分も亡くなっていたと思います。 おじさんの元で看病の末一命をとりとめました。 しばらくして母親のところに行ったら息を引き取っていました。  母親は本当に可哀そうでした。 母のことを思うと毎日泣いています。 

20代を沖縄本島で過ごした山根さん、アメリカ軍の警備員として働き、無我夢中で毎日を過ごしました。 故郷を離れた山根さんの心を支えたのは、三線と故郷の民謡でした。   八重山地方を代表する民謡で恋人や故郷を思う気持ちを歌いあげた「とぅばらーまを歌って自分を奮い立たせたと言います。  お金もないので故郷に帰る手段もなかったです。   

50歳を過ぎてようやく自分の時間を持てるようになったころ、山根さんは小さいころから親しんでいた三線を始めました。 夜遅くやるとうるさがれましたが。  故郷を離れ40年あまり、マラリアで亡くなった母親への思いが募って行きました。 戦争なんては有ってはならない。  酷い目にあう人を二度と出したくはないです。 

山根さんが考えたのは平和への思いを歌う事でした。  山根さんは沖縄で親しまれている歌にオリジナルの歌詞を付けました。 その一つに琉球古典音楽の楽曲の一つで、「散山節」があります。  母のことを歌っています。 

*「散山節」 三線、歌: 山根安行

山根さんは2014年には八重山古典民謡の師範にまでなりました。 今90歳を過ぎ自身の人生を振り返ることが増えたと言い、亡き母への思い、平和への願いを歌詞にして民謡を歌います。  「お前は死ぬな。」という母の一声で今の自分があります。 世界一の母だったと思います。 「命が宝だ。」という事を強調するために歌詞のなかに入れています。 歌というのは人に勇気を与え奮い立たせ、慰めます。  100歳まで歌って世界に届けたい。 

*「じんとうよう節」 三線、歌: 山根安行

沖縄の民謡の一つ。一歌詞の末尾に「ジントウヨウ」とはやしことばがつく。よく歌われる歌詞は「いかな山原ぬ枯木国やてぃんよ無蔵と二人なりばジントウヨウ花ぬ都」。替え歌も多い。戦後のはやり歌として「国頭じんとうよう」がある。





2024年9月3日火曜日

矢川光則(ピアノ調律師)         ・平和を伝える被爆ピアノの旅

矢川光則(ピアノ調律師)         ・平和を伝える被爆ピアノの旅 

この夏も原子爆弾の被爆地広島平和公園で平和を祈る式典が行われました。 矢川さんは広島生まれの被爆二世、たまたま爆心地から3kmほどのところにあったピアノの修理を頼まれた事が被爆ピアノとの出会いでした。 2001年原爆の日、被爆ピアノの音色が大きな感動を与えたのです。 こういう平和の使い方もあるのかと、矢川さんは気付かされたと言います。 それからざっと3000回以上全国から海外にまで各地で矢川さんは原爆被爆ピアノの音色を届けてきました。 

*「月光」 ピアノ演奏

この曲は被爆ピアノにピッタリ合う曲ですね。  このピアノは昭和20年8月6日の広島の原子爆弾で被害を受けたピアノ、2001年に原爆の日に被爆ピアノが演奏会を行い、その響きが皆さんに感動を与えた。 ピアノは直してあげれば音が出て音楽で伝えてゆく事が出来る。 今は平和のピアノとして大きな役目を果たしています。 

東北には毎年よく行っています。 東北の方では一か月毎日コンサートをやります。 中でも学校公演が多いです。 子供たちから学ぶことが多いです。  私はよく奇跡的に残ったピアノだといっていますが、或る中学生は「このピアノは原爆の恐ろしさを伝えていくために、必然性をもって残されたピアノだと自分は感じた。」というんです。  子供たちはストレートに自分が感じたことを感想文に書いてこられます。  北は北海道から沖縄までいって、コンサートの回数は3000回を越えました。 海外も2010年にはアメリカ、ニューヨークのマンハッタンに呼ばれました。  

アメリカに被爆ピアノを持ってゆくことに対しては反対意見もありました。 過去は変えられないから未来を変えましょうと言う事で、9・11を選んでいきました。  私の父が26歳の時に広島消防署の本庁で被爆しています。 父は奇跡的に助かりました。 9・11で消火活動をしていたのがニューヨーク消防でした。  消火活動で343人の消防署員が亡くなっています。 父と重なり合うものを感じました。 被爆医コンサートをやっても何も問題なかったです。 平和を願う気持ちは日本もアメリカも一緒ですから。 音を通して音楽を通して、ピアノについて考えてもらう、そこに被爆ピアノのそういうところがあるのかなと思います。 被爆ピアノに触れることも出来ます。 被爆ピアノは広島の原爆資料でもあります。  大がかりな修理はしていません。 外観はそのままです。 内部もどうにもならないところは中のパーツを一部変えていますが、被爆当時の材料を使って手作業で全部直しています。 

ピアノは修理をすれば長生きします。 処分すれば環境破壊にも繋がります。 私の両親、祖父母も被爆者です。  私は原爆投下の7年後に生まれて、原爆のことには興味はありませんでした。  私にとっては被爆ピアノとの出会いでした。 2001年8月6日原爆式典の後に、被爆者と一緒に被爆ピアノで平和コンサートをやりました。 思ったよりも凄い反響がありました。 こういう平和運動なら自分も出来ると思いました。 それがライフワークになって行きました。 平和は与えられるものではなくて、一人一人が作り出してゆくものだと思います。 そのきっかけになってくれればいいと思っています。 

被爆ピアノはほかに人間の愛おしさ、そういったことも伝えてくれるピアノかなと思っています。 日本は平和ですが、心に病気を持っている人が非常に多いと思います。 でも聞いてメッセージが来るんでしょうね。  大きな役目を果たしていると思います。 或る時に8人の方に演奏してもらう事があり、60代の女性が「悲愴」を弾きました。 その方が乳がんで余命宣告をされた方でした。  後で被爆ピアノを弾いた方でガンが治ったという話を聞きました。 そんなバカなと思って聞いてみたら、再度がんの治療を挑戦されたそうです。  8年後にその方が再度ピアノを弾きました。(「悲愴」) 彼女の話を聞いて、人間最後の最後まであきらめてはいけないんだと思いました。 

私の活動は平和の種まきと言っています。 私のピアノ工房の敷地内に被爆ピアノ資料館を作りました。 子供たちにも来てもらって学びの場として利用して頂きます。 今被爆ピアノは7台あります。 被弾ピアノも展示してあります。(空襲で被害を受けたピアノ)  2005年が被爆60年にあたり、そこから全国縦断コンサートが始まりました。    最初に愛知万博に招待されました。(女子高校生からの依頼)  来年は終戦、被爆80年で、いろいろなところから問い合わせが入ってきています。  ノールウエーにも招待されました。 コンサートには世界中から集まっていて、多くのメディの取り上げていただきました。(ノーベル平和コンサート 2万人が来ていた。) 曲は「神のみぞ祈る」 会場で原爆を受けたピアノだという紹介があり、みんな驚いていました。

被爆者も高齢になり、後5,10年すればいなくなってしまうのではないかと言われています。  戦争、原爆のことを考えてもらうきっかけ作りになってもらいたいので、被爆ピアノの役割はますます大きくなっていくと思います。 被爆ピアノは映画にもなりました。  

*「祈り」 演奏:高橋昭?