結城登美雄(民族研究家67歳) 東北の海に再び向き合う
宮城県宮崎町「食の文化祭」14年度宮城県北上町での「みやぎ食育の里づくり」アドバイザー、地元学に取り組んでいる
農業漁業林業のすがたを見てこれは大切だなと思う事をとりあえず受け止めて大切だと次の人に繋げられる様にしたいものだなあと思っている
大震災を伝える 被災地を回る 最初TVの映像を見て行くのに怖気付いた
知り合いがいろいろ亡くなって言葉が空しいなあと思った
1カ月後にようやく行く事が出きた
2度と来てくれるなと言われた人からもその後会う事が有り 来てくれてありがとうと言われる(この場は瓦礫だらけだけどここは本当に良いところだよなあと言われる) 野田村 田野畑村 陸前高田 等 知り合いがいっぱいいる 頻繁に行っている
20年前から「東北を歩く」 本に書き出版する
私のできる事はなにかなあとおもったが、実際出来る事は夢を聞いたり愚痴を聞いたり、
それぐらいしかできないけれども
「おめーがきてくれるとなー」と言って皆が集まって来てくれたりすると、やっぱり嬉しいんですよ
仮設に入っている人が、知っている人が少なくなって寂しいと云って嘆いている
この人ならあそこにいるよと情報を提供してやったりしている
何でもない生活がこんなにありがたいものだとは知らなかったよ って言うんですよね
小さい浜 浜 故に寂しいものと思ったら「ここは本当はいところなのよ」
「年が明けると、ふのり、アワビ、のり ひじき・・・ ここは私の食べ物のデパート ここはあまりお金がなくても食べる事には事欠かない金は無くても子育ては出来る
そんなところだと判ったよ そんなで子育てを考えたことがなかったから、今でも忘れられない
「ここは太平洋銀行だから」と男たちはいう 「一時期は利息元本まで取り崩した時があったが 利息ないでやっとけばここは良いところだ」と言うんですね
生産地の原点に居ると言う事が価値観を変えてしまう
学んだのは今回の津浪は 自然というものはそんなに都合いいものではない
怖いもの 恐ろしいもの 苦しさもある 牙をむく だけど 自然は恵みを与えてくれる
優しさもあるよ
その2つを知って生きて行く事が必要 ここを離れたいというのを当初考えていた人達が時間が経つうちに考えが徐々に変わってきた
漁師さんが 俺はもう止めた 船は無いし港は壊れてしまったし もう無理だ 借金はある
もう無理だ それが3か月するうちに 海に沈んだ船を引き揚げたら意外と
壊れていなくて ペンチ、グラインダーを使って直して ペンキを塗ったら使えそう
作業している ・・・段々昔の法螺話も出るようになった 1万9000隻が壊滅した
岩手が111の漁港がある 宮城が142 二つで約2万艘ある その約9割が流されて
もう無理だと思われていたが 室蘭だとか三重とか日本海側から「おー頑張れよ」と
小さな小舟を色んなところから提供されてみんな目をうるうるしている姿を見る事が有った
身体が牡蠣の種付け時期 わかめの時期を覚えてしまってその時期に寝られない
小舟を貰って共同でやろうかと 話が持ち上がる
身体がそわそわしてくる 自然と一緒に暮らしてきたものが身体に染みついている
気持ちの変化が良い方向に来ているようだ
高台移転はその通りだと思う 作業場は近くに 親がいると漁に出ている時に津波があると助けられないので住むところは高台にしたい
半年前とは日に日に変わってはいるがもう一度ここで頑張ってみようと言う事なんです
苦しみ、悲しみを一緒に背負ってきたがゆえに 「あいつもつらいのに頑張ったなあ」
「あいつもあんなに苦しいのにがんばってんだよなー」
「俺も愚痴をいえねーなー」と言いながら 人の振り見て我が振り直せなんてやつもいたけど
あいつは俺よりとんでもない負担を持っているのに
あいつはあんなに明るくやってんだもん これ愚痴云えねえや」
面と向かうとののしり合ったり 漁で競り合ったり やっていながら
影に行くと「あいつは凄いぞ」 と言っている いいですねー
今は漁師さんの家計簿は売上が950万円 経費が700万円 手取りが250万円 22~23%
150万円が重油代(年間操業日数160日ぐらい)
最盛期は人を雇うので140万円
お金を使う時がない 目の前に仕事が有ることが有りがたい
収穫の醍醐味がある 勿論お金が入ればそれに越したことはないが
東北の人は自然を相手に仕事をしている人が多い 食べ物を作る人が多い
東北の自給率は105%
自然を相手にすると恵みも多いが厳しさも多い、リスクが高い
自然を相手にする仕事から我慢強さが生れてくるのかも
自然、誰かのせいにしない、
自分でかぶる その経験を積み重ねて行って収穫をきっちりやれるようになることを一人前 しっかりやっている人は尊敬される
金の事を考えなければこんな面白い仕事はないという 皆いう 金が安すぎる じゃあ爺さんどうして農業なんかやってるのと言ったら
農業なんかやるんじゃ無かったよ 農業ぐらい割の合わない仕事は無いと言うけど、おかしいじゃない 今年もやってんじゃない と言った
まずい事を言ってしまったなと思ったら 言ったっきりきりだまちゃった
黙って奥の方に引っ込んじゃった
爺さんがまたでてきて 手のひらに種をもってきて この種を畑に蒔くと気になるんだよね
毎朝見に行くのさ
いつか一週間すると芽が出てくるんだよ おっと思うよ
気になるから 毎日みにゆく 間引きしてやる 残ったやつにがんばって育てよと言ってしまったりする 見に行くと双葉がぱっと開く事がある それに出っくわすこともある
其の時は何とも言えない 俺はあのぱっと開くあの時の気持ちに騙されてこれまで農業をやってきたのかなあ 其の時は聞いて泣いてしまった
戦後社会 お金を物差しにしてきましたけれど お金の有る無しで愚痴にするけれども、その一つ一つの農業の生き物を育てる こんな面白い仕事は無い
津波に遭い 二度と漁などするものかと 言いながら「最後に当たりが来たぜ おい」その嬉しさ そういうもんみたいなものがあるんじゃないのか と思う
それが自然に対する信頼とか有り難さとか、経緯とかあるんじゃないのかなあと思います
厳しいけれども優しいよ 山には山の 海には海のしんどさがある でも都会には都会のしんどさがあるんだろ 都会には都会の良さがあるが
山には山の 海には海の良さが有るよ どっちを生きてゆくかは人間の判断だ
厳しさもあるが良さもある
「ここはいい所よ」と言った 良いところを取り戻してゆくこと もう一遍良いところにしてゆくことが復旧であり、復興である
それを応援してゆくことができたらいいと思っている
頭の良い人達がこうやりなさいと言うんではなく、良さを知っている人達が その良さを
もう一度作り上げてゆくことが大事で周りがそれを手助けしてゆく
それが良い復興につながると思います
私は東北を歩く事にいつも心にとどめていた言葉が有ります
宮本常一 さんが「自然は寂しい」とおっしゃった 高度成長時代皆村から都市に行く時代がありました
過疎になり、限界集落になった それを皆かわいそうだね と言う人がいました
それを観て宮本さんは「自然は寂しい」とおっしゃった
その後「しかし 人の手が加わると温かくなる」 と言ったんですね 東北は今瓦礫の中に有 それこそ寂しい が 土地の人或は我々外の人も加わり
手を差し伸べて行って 温かい東北にしてゆきたいですね