脇田晴子(脇田能楽師 石川県立博物館館長77歳) 能楽と女性史 |
日本中世史が専門の歴史学者 中世をめぐる多彩な研究で一昨年 文化勲章を受けている 6歳の時から観世流の仕舞を習い 歴史学者として日本中世史を |
教える一方 能楽の上演も続けてきました 著書の中には「能楽の中の女達」「女舞の風姿」 |
6年生で終戦を迎える 20代続いた旧家 正月は歌い、百人一首等やる 6歳から仕舞を、中学で謡(うたい)、高校で小鼓(つづみ) 大学で能管(笛) |
ピアノをやっていたが音感が合わず止める |
女学校2年の時に西宮でお能をやる 大槻文蔵(能のプロ) 橋弁慶をやる 子方として牛若丸をやる |
脇田修氏(夫)も歴史学者 洋楽が好き 狂言をやる 一緒の舞台に立った時が有る(3っつ) |
観阿弥 →謡のすじというのか形式みたいなものは大体つくる 世阿弥→幽玄な神様だけじゃなくていにしえの美女が出てくるとか 幽玄な込み入ったものにする |
(息子) 一つひねって高尚なものになっている 枯れに枯れた美を追求 わび寂 芸術的には高度になってゆく 一般的には判りにくくなって来る |
「西行桜」曲があるが 花の寺 老い木(おいき)の 桜の精が出てくるがお爺さんの恰好でさくらの舞を舞う 桜ってぱっと美しいがそうではない 一つひねったところに世阿弥は行くんです |
(茶道のわびさびの世界と同じように) 冷えに冷えた芸能 ワーッと沸かすような芸は駄目だと 彼は云っている 底を通り越したところでやらないと |
観客の程度がどんどん高くなってゆくんですね しょぼしょぼとした老い木(おいき)の精が出てきてよたよたと舞う そういうのを冷えに冷えたり枯れに枯れたりというんですね |
「能楽の中の女達」の中で卒塔婆小町が好きで好きで堪りませんと書いてあるが→私も卒塔婆小町 を舞わしてもらったが 非常に皮肉なもので 現代人にしか通じないんじゃないかなとおもうんです |
卒塔婆というのは人が死んだときに建てる塔云うものでしょう ここに腰をかけている それを僧が咎めるとぴしゃっとやっつける |
おばあさんがよぼよぼの物乞いをしている そういうお婆さんが尊い墓標(卒塔婆)に腰をかけている そこにわき(僧)が出てきて けしからん という |
そうしたら お婆さん(実はお婆さんになった小野小町)がそういうもの(卒塔婆)に尊さとかが宿って いるわけではなく これは物体に過ぎないと云うようなことをいう |
中々難しい 禅問答のようなものをやる 悟りとは何かというような事を小町が堂々とやる そしてその後で昔を思い出して深草の少将が通って来たときとか |
自分が華やかなのを老婆になって それを思い出して舞って・・・という曲なんです 深草の少将の霊が小野小町に付く訳です そして百代通いを演じる |
能楽の常とう手段ですね その人の霊がついてそれを再現するとかね 一番常とう手段は若い時を思い出して舞うと云う事ですけれど |
物狂わしげな感じになって 少将が通ってくる百代通い(百日通う) それが少将になったり 小町になったりして演じる訳です 一人芝居をやっているので面白い |
女の人の一生みたいなものを小町に託していろいろ描いているんだなあと思いました |
老いというものを見せる 人生の老いというものを全部見せている |
「花の色は移りにけりな いたづらにわが身を世にふるながめにせしまに」 それは若い方がいいが30代は30代 70代は70代の考えはありますし 持てた方がいいけれど |
それがすべてではないから そういう考え方を歴史の中で取り上げたい |
鎌倉、室町時代は女性が結構舞っていた 女性は中世の方が江戸時代よりも地位が高い |
石見銀山の創作もしている 銀の精 古文書類 ユネスコ遺産の登録の時に担当した 10年ぐらいの年が経過してしまった |
石川県の歴史的な面白さ→ 前田100万石の土地 歴史は現地を見ないと駄目 寺、神社は殆ど観た |
能楽堂が有る いまでも有る 中世では各能楽師が有る 奥の細道を旅する 7回目ぐらい行っている |
能楽論の本を出したい 能楽は連綿と続いており高い芸能性を表わしていると思われる 世阿弥は凄い(シェークスピアに匹敵する) |