2020年5月30日土曜日

河瀬直美(映画監督)           ・「今こそ、文化の力を」

河瀬直美(映画監督)           ・「今こそ、文化の力を」
河瀬さんは51歳、1997年『萌の朱雀』にて、第50回カンヌ国際映画祭カメラ・ドール(新人監督賞)を史上最年少(27歳)で受賞。
2007年、第60回カンヌ国際映画祭にて『殯の森』がグランプリを受賞、審査員特別大賞を受賞。
奈良県を拠点に創作活動を続けています。
2020年の東京オリンピック公式記録映画の指揮(監督)に決定しましたが、新型コロナウイルスの影響で来年に延期になりました。
最新作「朝が来る」の公開が延期されました。

東京オリンピックが中止なって東京から戻って奈良の実家で過ごしています。
奈良が大好きなのでここから離れない形をどうしたらいいか数年来考えていて、海外ともリモートワークでやり取りをして、同じ映像を観れる形になっていたので、ステイホームでやることにはあまり違和感はないです。
自粛で仕事の仕方、行動を変容していかなければいけない中で、自分自身も今を深く考える時間を持たせてもらって、ウイルスをブロックというような形で最初思っていましたが、ウイルスと人類がずーっと共存していたものでもあるので、どういう風にウイルスと共存しながら生きていけばいいのか考えました。
私自身移動を新幹線、飛行機で頻繁にしてきましたが、リモートワークでできる事がいろいろあるのではないかと考えるようになりました。
ラッシュアワーの考え方も時差出勤とか整理してゆくことが必要なのかもしれません。
自分自身の時間を取り戻すことも大事かと思いました。

今年になって海外に行って撮影も始めていました。
聖火も日本にやってきたので撮影もしていた矢先にオリンピックの延期が決定しました。
もう一回やり直さないといけないということで、ワクチンも開発されるなどして安全安心の状況が確かめられないとできない状況だとおもいます。
これからの1年も撮っていきたいとは思っています。
撮る範囲が東京から世界とか人類みたいなところにターゲットが広がって、私自身考えさせられるものです。
選手、関係者の人たちは潔く運命を受け入れて来年に向けて調整する方向になっていますが、今年で最後のオリンピックと考えていた人達いるわけで来年となると難しいという人もいる。
柔道の選手などにも取材を進めていましたが、自他共栄という考え方があり、人間性を高めてゆく、社会に貢献したり子どもたちに勇気を与えたりする、そういう活動もスポーツはもたらすわけです。
スポーツには勝ち負けがあるわけで、自分のすべてをかけても勝った選手にはリスペクト(尊敬する)という感情が現れる。
バッハ会長にも取材しましたが、そういったことを言っていました。

最新作「朝が来る」も延期になってしまいました。
構想から4年ぐらいかかって自分にとっても公開が待ち遠しかったんですが。
ミニシアターに対しての支援でクラウドファンディングが3億円集まって、この文化が絶やしてはいけないという思いで、改めて待っている人たちがいるんだなと勇気付けられました。
世界にはいろんな人がいるということを感じられる多様性を体現できる場所でもあるとおもうので、映画という可能性は大きい、広いと思います。
共感を感じてもらうなかで喜びを感じて又作ろうというパワーになってゆくので、生きているかどうかわからない様な喪失感があります。
今度のコロナの持っている特質として密集しない、3密をさけるということで全部映画館に当てはまってしまっていて、徐々には開館してきているが、不安に感じていることも対応しているので、お客さんも戻ってきていただきたいです。
映画界、演劇、コンサート、ライブの人たちも同じ考えをもっているので、アーティストの人たちも全世界中同じ思いを持っているので、ユネスコがどうしていけば次の一歩を踏み出せるのか、ということで数回話し合っていますが、人の心に光をともすのはアートであるという思いは変わらないので、又光を分かち合えるのではないかと思っています。

ヨーロッパでは芸術に対する支援は政府でもいち早く対応しますが、日本の場合は後回しにされる傾向にあります。
いまこそ分野を乗り越えて様々なアイディアを出し合っていろんなコラボレーションができるのではないかと思います。
このような状況下で自分を深く深く掘り下げることも大事かと思います。
今は渦中なので大変ですが、振り返ったときにはいい機会だったと思えるといいと思いますが。
いまこそ独自性、オリジナリティーが再度見直されるような気がしてならないです。
都市部に集中して生活、経済が動いてということになっているが、地方分散して自分の活動をしてゆくことが起こってきて、加速してゆくような感じもします。
映画を作ってきたのが30年代でそれなりに時間がかかったという感じがあり、短編も入れると50本ぐらいになり、1年間に1~2本をずーっと作り続けてきているので、回顧展をしていただいて30年間の軌跡を自分でも見直しながら、出演者、スタッフの人たちと再会して今に至っていて、もう一回勉強しなおすという感覚はあります。
よりグローバルなつながり方を目指していきたいなとおもいます。
繋がりというのは本当に大切なんだなと改めて感じます。
映画を観る事、映画を観る作ること、映画を観る配給する部門を作って10代の人たちにワークショップを手伝ってもらってやっています。
ワークショップをやった後のその子たちの表情、発言がガラッと変わって、わくわくしています。



















2020年5月29日金曜日

2020年5月28日木曜日

春日太一(映画史・時代劇研究家)     ・【私のアート交遊録】「銀幕の舞台裏」

春日太一(映画史・時代劇研究家)     ・【私のアート交遊録】「銀幕の舞台裏」
プロ野球は横浜DeNAベイスターズの30年来のファン。
子どものころから不眠症で、親が物語を聞かせてくれて、父親が戦国時代の物語などの話をしていて、特に「七人の侍」について細やかに画像の説明付きで話してくれてそれが自分の頭の中で映像になっていって、それがきっかけだったのかなあと思います。
映画館には子どもの時には通っていませんでした。
TVで8時台になると親が大人の時代劇のドラマなどを見ていました。
大河ドラマはよく見ていました。
年末大型時代劇を民放でやっていて紅白歌合戦は見たことがなかったです。
母親も時代劇なども大好きでした。
そのうち映画が見たくなってきて親にせがんで小学生の頃に観に行って、「グーニーズ」は面白くて洋画にはまっていきました。
洋画と時代劇にはまっていきました。

高校受験をして 偏差値の高い海城高校へ進学して、成績も中学時代は学年でトップの成績だったので大丈夫と思ったが、ビリを初めて経験したりしました。
成績はいまいちだったが、東大を目指すということは頭の中にありました。
2年浪人して駄目で、結局家に近い日本大学藝術学部放送学科に入学しました。
最初は作る側をやりたくて映画監督の書生をやったり、助監督をやったりしていたが、向いてないかなあと思って、脚本を書こうと思って、勉強をして10年ぐらいは脚本の下働きTVドラマの企画書を書いたり時代劇の企画書を書いたりしていました。
卒論のテーマは「仁義なき戦い」でした。
就職氷河期で映画会社を受けたが、映画会社だと思って受けないでくれ、うちは不動産で儲けているのでと言われて、そのあと大学院に行きました。
東映が採用再開するということで受けて最終まで行ったが、幹部の人から「君みたいに古いことを追いかけている人間は一番いらない人間だ」とはっきり言われました。

博士論文は『映画とテレビ交流期の時代劇表現:1970年代の京都3撮影所における集団的個性の形成プロセス』(2008年)で芸術学の博士号を取得しました。
1960年代から時代劇映画のお客さんが入らなくなって、一方でTVが伸びてきて映画会社が時代劇を作るようになってきました。
そこで京都3撮影所に行って書いた論文でした。
能村庸一プロデューサーが『実録テレビ時代劇史』という大作の本を出して、それを読んだときにプロデューサーがいろんな思いでTV時代劇を作ってきたということが判って感動しました。
演出家が変わる、脚本家も違うそれなのに26本同じ雰囲気がどうして保たれているんだろうと思って、能村さんに伺えばわかると思ってお会いしたら、「僕らではないんだ、撮影所の彼らのやっている仕事が決定付けているんだ」と言われました。
その意味が判らず、毎日現場に伺って見させてもらいました。
監督さんの指示がなくてもスタッフの創意工夫でどんどん動いていました。
カメラを移動するときにレール上を動かす台車の動かし方、雪の降らし方、雨の降らし方、そういった人たちの話を聞くと細かなことで情感が変わってゆくということを言っていて、彼らの創意工夫によって時代劇の情感の映像が生まれてくることが判りました。
スタッフさんたちの芸術性、創意工夫というものをやっている評論家がいなかったので、これをやるのが僕の仕事かもしれないと思って、時代劇研究家と名乗ってそれを仕事にしていこうと思いました。

実際に現場に行ってもどうしたらいいかわからず、あきらめかけたことがありましたが、映画「ロッキー」の台詞の中で「人生何もうまくいかなかったけれど、この最後の試合だけは15ラウンド最後まで立ち続けると、勝つのではなくて立ち続ける」というんですね。
それで初めてダメ人間ではなくなる、というんです。
そう思ってもう一回京都に戻ったら「お帰りなさい」と言ってくれて、受け入れてくれたのだと思って、とにかくクランクアップまで居続けようと思いました。
そうしているうちに気になったことを聞いていくようにしていきました。
レジェンドのスタッフの人たちの技術、こういったことをやってきたということを文章に纏めて次の世代に人が読んでくれたらいいと思いました。
殺陣は技術だけではなくて演出としての技術がないとだめです。
事例を書き留めておけば若手の人のヒントになればと思っています。

ある時に能村庸一さんを取材したとき、終わった後に「黒澤明か長嶋茂雄になったみたいだよ」といってくれて、それが今でも自分の方針になっているんですが、どんな人に対してインタビューするときにでも黒澤明だと思って聞きます。
小道具のスタッフでも大スターでも分け隔てなくインタビューするようにしています。
仲代達也さんへのインタビューで10回シリーズがありましたが、映画に関しては観られるだけ観てお会いしますが、基本的にはスタッフさんへのインタビューとは変わってはいません。
役所広司さんにインタビューしたときに思ったのは、スターもスタッフも映画という神輿を担いでいるんだなと思って、役者さんに対しても役者というスタッフでというイメージで伺っています。
質問のきき方、準備の仕方もまったく同じですね。
人生の教えを乞うような接し方をしています。
時代劇、映画は、世につれ状況につれ、お客さんの意識の変化、技術の変化につれ、変わってきていて、今のお客さんにどれだけ喜んでもらえるかの勝負をしているものだと思っていて、絶えず今のお客さんが100%喜んでもらえる作品を作ってもらいたいし、そこ対しての妥協はしてほしくないですね。
「私が愛した渥美清」(秋野 太作作品)という本がとても面白い、「男はつらいよ」の裏話です。

















2020年5月27日水曜日

山中麻須美(英国キュー王立植物園公認植物画家)・「植物のいのちと響きあう(2)」

山中麻須美(英国キュー王立植物園公認植物画家)・「植物のいのちと響きあう(2)」
日本の植物は江戸時代にシーボルトなどがヨーロッパに持ち帰ったものですね。
イギリスの庭には日本の植物が普通に見られるものが結構多いです。
冗談で日本の植物がないとイングリッシュガーデンも作れないといわれるぐらいです。
イギリスの方は日本から来たものだとはご存じないんです。
キューガーデンにも世界中の人が来るので日本の植物の美しさを知っていただきたいというのがテーマです。
小石川植物園の加藤竹斎が明治の初めに来て彼の絵だとか、高知の牧野植物園の牧野富太郎博士の原画、練馬の牧野記念館から服部雪斎の絵だとか江戸から明治にかけての歴史的な日本の植物画を展示させていただきました。
古い日本の植物画と現代作家の植物画を展示して対比が非常に面白いと言われて高い評価を得ました。
日本の植物画家の石川美枝子さんと小西美代子さんにお願いして日本のアーティストの方々を35人選んで、その方々にキューガーデンが作った300種類の日本の植物のリストをお送りしてそこから3種選んでいただき3年以内に描いていただくということにしました。
展示会のために描いていただきました。

野生種でなくてはいけなくて、かつ科学的に正しくなくてはいけないので、年に一度東大の村田先生、大場先生、池田先生にお願いしてアーティストの方々の絵を全部厳しくチェックしていただきました。
イギリスも日本ブームでTV番組を見てきたという人もいますし、ファイナンシャルタイムスが大きな記事を載せてくれました。
明治の初めに日本のイギリス大使館とキューガーデンがどういう風につながっていたのかという風な歴史を学ぶことができます。
イギリス大使館のハリーパークス公使が集めたものはパークスコレクションと呼ばれているし、アーネスト・サトウが送ってきた書物などもたくさんあります。
当時のキューガーデンは力を持っていて、世界中に散らばった外交官たちに珍しい植物、珍しいなにか植物を使ったものを集めてくる、世界中からいろんなものを集めました。
キューガーデンは2003年に世界遺産に指定されていますが、植物を守ることが地球を守ることにつながるというミッション、その使命とその活動が世界遺産に指定されているんです。

一つの植物が絶滅したことで、それにかかわっているものがいろいろあり、どれぐらいの大きな波がやってくるかということはかなり後にならないとわからない。
例えば虎は絶滅するかもしれないといわれているが、それを守るためには虎が生きてゆく森を作らないといけない。
その森には虎が生きてゆく草食動物がいなくてはいけないので、その草食動物が食べてゆく草がないといけない。
人間だけが他の生物と共生していないということはありえなくて、植物のこと、自然環境を今考えるべきだと本当に思います。
私たちには何ができるのか、私はアーティストでなにができるのか、それは植物を描くことだと思います。
植物の美しさだけではなく植物の科学、植物の役割をたくさんの人にわかっていただくための絵を描くことも大事だと思っています。
地球の現状を植物を通して発信してゆく。

科学者が100人いるよりも私たち地球に住んでいる全員がほんの僅か地球のことを考えるだけで地球は大きく変わっていくと思います。
太陽エネルギーを使って毎日の生活をどう他の生物と共生しながら暮らしていくかということが大切だと思います。
キューガーデンで10年おり、いろんなプロジェクトに参加したりして、地球の環境を支えるのは植物だということをいろんな方に伝えていきたいと思っています。
描いてゆくためには植物の勉強もしなくてはいけないし、生物多様性、自然環境などを強く意識するようになりました。
植物と共生している昆虫なども一緒に絵に入れていこうかと考えています。
趣味として世界中でボタニカルアートを習っていて楽しんでします。
日本には日本植物画クラブがあり、日本の絶滅危惧種についてはずーっと取り組んできました。
アメリカにもアメリカ植物画クラブがあり絶滅危惧種について展示会されたりしています。
日本の展示会ではキューガーデンの展示会とは少し変えてキューガーデンの歴代のアーティストが描いた日本の植物を一緒に展示しました。

「奇跡の一本松」 2012年4月にキューガーデンの日本庭園のなかで震災1周年のイベントが日本大使館とキューの合同で行われて、その時に岩手県から子どもたちが招待されて一本松の種を持ってきてくれました。
キューガーデンにはシードバンクがあり種はそこに保管されています。
陸前高田の市民の生活を守っていた松だったが、津波でみんな流されて一本だけ残っていたがその後レプリカになってしまったが、松の絵を描いて2016年に震災5周年記念のイベントがロンドンの日本大使館で行われたのでそちらにお送りしました。
NHKのニュースになったりしました。
2020年陸前高田の記念館ができるのでそこに展示する予定になっています。
乳がんになってから15年たったので再発はなくなったと思います。
不幸だった出来事で変わってしまうが、何かのきっかけになるのではないかと考えました。
キューガーデンの日本庭園は日本国土交通省が昔働きかけて作っていただいた経緯があり、今度はキューガーデンがプロデュースした庭が陸前高田にできるのもいいのではないかなあと思います。
その庭が交流する場になってくれればと思います。
自然との共生を一本松の絵から発信できればと思います。
マダガスカル島にはサファイアが取れるので、そのために自然林がどんどん伐採されています。
8割近くが固有種であるので、絶滅に瀕している動植物を描いていろんな方にメッセージを送ろうという夢を持っています。



























2020年5月24日日曜日

2020年5月20日水曜日

2020年5月17日日曜日

2020年5月16日土曜日

谷島雄一郎(ダカラコソクリエイト発起人) ・「若いがん患者たちの体験を社会に生かしたい」

谷島雄一郎(ダカラコソクリエイト発起人) ・「若いがん患者たちの体験を社会に生かしたい」(初回:2019/5/ )
人有りて街は生き、若いがん患者たちの体験を社会に生かしたい。
がん経験者に呼び掛けてあたらしい社会をデザインするというプロジェクトを立ち上げた矢島雄一郎さんへのインタビューです。
40代の矢島さんは大阪ガスに勤めるサラリーマンで妻、小学生の娘さんと暮らしています。
自らも治療が難しいタイプのがんと向き合いながら仲間たちと活動を始めました。

会場には会社員や学生たちの若いがん経験者が集いました。
2012年(34歳)で子どもが生まれる前の月にがんが見つかりました。
GIST(消化管間質腫瘍を示す英語 GastrointestinalStromalTumorの略称)が食道にできました。
10万人に一人という発生率といわれました。
腫瘍が8,9cmの大きさだったので、手術はリスクが伴うということなので薬で小さくしてから手術をしたほうが効果的だということで、薬(グリベック)を飲み始めました。
9割がた効果があるといわれていた薬でしたが、運悪く効果がなかった。
手術をすることになって再度検査をしたら肺にも転移が見つかりました。
食道の全部と肺の一部を切除する手術を行いました。
再発が危惧されて経過観察したが、翌年肺に再発してしまいました。
薬が二つ残されていたが、副作用が強くて薬の効果はありませんでした。
いろいろ副作用があり手足がやけどをしたように痛くなる、髪がぬけたりしました。
研究中の薬の臨床試験に参加して効果を見てみたり手術をしたりしました。
ラジオ波などで腫瘍をやいたりとかやっていましたが、再発を繰り返していました。
結果が変わらないと思いだして、愛する人、子どもの未来に何かを残したいということを思い出したのが2015年ごろでした。

子どもにデジカメを与えて、撮ったものを見てみると、僕を幸せな気持ちにしてくれていて、がんになったからこそ見える景色があり、それは誰かを幸せにする力に変えられるのではないかと思い出しました。
いろんな動きを始めました。
会社への提案を汲んでくれて会社のソーシャルデザイン室にはいって、社会の中のいろんな人たちを資源として、その人たちの力を生かしながら社会をよくしていくことをもっとクリエーティブな視点でやっていこうということでした。(2016年4月)
AYA世代(Adolescent&Young Adult(思春期・若年成人 15~39歳))のがん患者の人たちと会うことにしていきました。
いろいろな悩みを抱えていて、パートナーに対してがんであるということをいつ告白したらいいのか、治療によって子どもが生めなくなってしまっている人が多く、それをいつ打ちあけたらいいのかとか、会社からの解雇の問題などいろいろありました。
患者という存在となってしまって社会から孤立して傷付けられるというようなこともありました。
感謝を何かの形で還元したいと、がんになっても社会から必要とされる存在になりたい、ということを皆さんは特に思っていて、AYA世代には強く感じているところです。

15~20代前半の人にたいしてはいまいち理解できないところもありました。
相談する中で強く言っているのは、成長の機会を病気によって奪われてきたということです。
社会で生きてゆくためのスキルを何ら学んでいませんという風に言っています。
サポートが必要だと思って試行錯誤しているのが今の状況です。
30代でも結婚しているか、していないか、子どもがいるかどうか、といったことで悩みが多岐にわたっています。
AYA世代は病院でも少ないので、病院関係者の人も苦手意識があるそうで、なかなか接し方がわからない状況のようです。
がん患者は100万人ぐらいでそのうちAYA世代は2万人ぐらいです。
体験を文章にしていろいろ発信している方々もいます。
「ダカラコソクリエイト」というプロジェクトを発足しました。
がん経験者が社会全体に価値のあるものを提供する、ということで大阪大学平井敬准教授
に相談に行きました。
ガンになった人の心理を研究してケアに結び付けていこうということで、ワークショップを立ち上げました。
40~50名で20~40代のがんを経験した人が中心で、学識のある方、教育者などもかかわってくれています。

プラスチックでできた車椅子のおもちゃがカプセルの中に入っていたり、いろいろあります。
そこに経験談がいろいろ書いてあります。
メディカルガチャガチャです。
ラインのスタンプにキャラクターを作りコメントも付け加えられている。
「頑張り過ぎやでー」「今は休みの時やねん」とかいろいろ付け加えられている。
自分らしくいられる居場所が欲しい、もっとがんをカジュアルに話し合う場所が欲しい、という二つの思いがあり、繁華街の雑居ビルの一角に実験スペースとして場所を構えました。
活動を始めた当初はあと数年しか持たないと思いましたが、実効性のあるものをやっていきたいと思っています。







































2020年5月12日火曜日

高山みな子(フリーライター)       ・「子孫が語る、勝海舟の魅力」

高山みな子(フリーライター)       ・「子孫が語る、勝海舟の魅力」
幕末から明治にかけて活躍した勝海舟の没後120周年を記念して去年9月洗足池のほとりに大田区立勝海舟記念館がオープンしました。
全国初の勝海舟の記念館とあって地元はもとより 全国から大勢の勝海舟ファンが訪れ
ています。
フリーライターで勝海舟の玄孫にあたる、高山みな子さん(57歳)は生前の海舟を知る祖母の話や坂本龍馬の研究家たちとの交流を通じて海舟の人物像に魅せられたといいます。
江戸城の無血開城をはじめ数々の難題に立ち向かい、日本の近代国家樹立のために活躍した勝海舟とはどんな人物だったのか、子孫だからこそ知る素顔も含めて「勝海舟の会」名誉顧問の高山みな子さんに伺いました。

小学校の5,6年生の時に歴史の授業があって、咸臨丸の艦長が勝海舟だったということを習って、家にかえって母に話したらそれは家の先祖よと言われてそうなんだとおもったがぴんと来なかった。
2000年過ぎたころ「咸臨丸孫の会」が作られて、両親も参加していたが、父の代わりに行きなさいと言われて、何にも知らないまま伺いました。
ある人からあまりにも知らなすぎるから勉強しなさいと言われて、家にある本を読み始めたら結構面白くなりました。
海舟は9人子どもがいて、長女は「夢」、次女「孝子」、三番目は男で「小鹿」、ペリーが来てその後幕臣に取り立てられて忙しくなって、四番目が「四郎」、五番目が「逸(いつ)」(うちの祖母)、六番目は長崎で生まれたので「梅太郎」、七番目が「七郎」、八番目が「八重」、最後が「妙子」ということでした。
子孫は総勢で父の代で300人ぐらいいるのではないかと言っていました。
「梅太郎」は国際結婚して妻はアメリカ人でした。

勝海舟が生まれたのが1823年、本所の貧しい旗本の家に生まれる。
剣の達人で、蘭学なども学び、ペリー来航の時には幕府へ海防に関する意見書を提出して要職につくようになった。
咸臨丸でアメリカにわたったのが1860年、神戸に海軍の学校を設立してそこに坂本龍馬などが集まってきて勉強をした。
西郷隆盛との交渉で江戸城無血開城を行う。
明治になっても政府の要職を歴任する。
位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。
仕えていた徳川慶喜と明治になっても交流を続けて救済に尽力する。
明治維新の時に海舟は徹底抗戦するか、恭順するか(海舟はこちらを目指していた)聞いたところ、徳川慶喜はインド、支那の二の舞になってはいけないので恭順の道を選ばれる。
その時のつらい道を選ばれた恩義を海舟は生涯持っていたと思います。
長男の娘のところに慶喜公の十男を養子にいただくが、旧幕臣は子爵なんですが、子爵では慶喜公の息子に継がせるのはよくないと思って、伯爵ではなくてはいけないと思って頑張ったということです。(いろいろ陰口はたたかれたようですが)
政府の中に片足残して慶喜公の名誉回復を何とかしなければ、ということがあったと思います。

大久保利通公に旧幕臣の就職斡旋をお願いしたようです。
大臣には榎本武揚公、事務次官、NO2,3の名簿を見ると旧幕臣の名前が結構多いんで、やりにくさはあったと思いますが、新しい国つくりに邁進していったんだと思います。
慶喜公が明治天皇に拝謁するような仲立ちも海舟は行っています。
海舟の日記に「苦節30年やっと願いがかなった」と書いてありました。
坂本龍馬が脱藩して海舟を訪ねてきてから、そこからずーっと家族ぐるみのお付き合いがあったみたいです。
祖母が3歳のころに龍馬さんは赤坂の家に出入りしとぃたみたいで、龍馬さんに肩車してもらったといっていました。
豪商に支援されながら、海舟は「三方よし」の商人の考え方を学んでゆく。
龍馬さんの実家は豪商でもあったので考え方が相通じるところがあったようです。
海援隊海外貿易は商人の人たちです。

西南の役で亡くなった西郷隆盛の名誉回復のためにも尽力しています。
西郷さんが沖永良部に流された時に書いた詩を直筆で石に彫らせていていて、洗足池の海舟の墓の隣に海舟の弟子が移築しています。
石の裏には海舟の書いた詩があって、維新の時に大変だったという書き出しから始まって
結びのところには自分のことを一番よくわかっているのは西郷さんだし、西郷さんのことを一番よくわかっているのは自分だということを書いています。
西郷隆盛と海舟の出会いは島津斉彬公の紹介があってなんです。
島津斉彬公が江戸にいたころにも海舟は大変お世話になっていました。
島津斉彬公は阿部伊勢守(阿部正弘 主席老中となる)と仲が良くて、島津斉彬公が勝林太郎という人がいるので阿部伊勢守によろしく頼むよ、と言っていたように私は思っています。
ペリー来航の時には幕府へ海防に関する意見書を海舟が提出して要職につくようになったのは、そのようなことがあったので取り入れられたと推察しています。
人の繋がり非常に大きな力を持ったのではないかと思います。
おととし江戸城無血開城150周年で、その時に西郷さんのひ孫の方がいらっしゃいまして、交流を続けています。
海舟がこなしてきたことは後から見るとダイナミックに見えるが、当時は自分に与えられた仕事をいかに努力してこなしてゆくか、それだっただろうと思います。
要所要所で素晴らしい人たちにより助けてくれる人たちがいた。

海舟は下戸でした。
お菓子をお客が持ってくるので小さい菓子部屋があって、菓子をつまんだ後は祖母たち孫のところに行くわけで、祖母はそれが楽しみであったようです。
つぼ屋の最中が好きだったようです、又ウナギも好きでした。
西郷さんも酒はあまりたしなまなかったようでスイカなど好きだったようです。
海舟の記念館ができて、いろいろ面白いものが展示されて居ます。
海舟はいろいろ言葉を残していて楽しめるような展示になっています。
「人には余裕というものがなくてはとても大事はできないよ」
「人は逆境に立たなければ本物じゃないよ」
「勝海舟の会」という会がありまして、現在名誉顧問を務めていて、勉強会、史跡めぐりもしています。
人望を広める機会を作ることをどうやってゆくか、と言うことをどうやってやってゆくかということを海舟の人生から学べるかなあと思います。














2020年5月11日月曜日

菊池初恵(菊池彩花選手の母)       ・【アスリート誕生物語】平昌オリンピック金メダリスト

菊池初恵(菊池彩花選手の母)・【アスリート誕生物語】平昌オリンピック金メダリスト
長野県南佐久郡南相木村は村の面積の2/3が山林という、コンビニに行くのにも車で20分かかるとか、山の中腹のところに村があるところです。
5人の子がいて長女は真里亜、彩花は次女で、三女が悠希、四女が萌水、五女が純礼です。
みんなスケートをやってそのうち4人が日本代表に選ばれました。
冬は何もないところなので、自分から心の底から楽しかったというもとで遊んでほしかった。
子どもたちは自分で道具を作ってよく遊んでいました。
私は一人っ子でのほほんと育ちましたが、スケート部に入り上下関係の激しいところで苦労しました。
朝ご飯を一升五合炊きます、夜蓋を開けると米粒が一つもないというような状況でした。
長女がアトピーだったので、長女が食べられないものは置きたくないという思いが有ったのでお菓子などはありませんでした。
おかずの質を上げるようにしていました。

長女は小さいころ身体は弱かったが、運動能力は一番ありました。
スケートもあまり練習しなくてもポンと全国大会に行ってしまったというような感じでした。
彩花はコツコツ努力型の子でした。
長女は身長が私よりも伸びたときに、「おい、おまえ」といったんです。
そんないきさつから決闘をやろうということになって、彩花に号令をかけてもらうことにして、彼女は割と早く号令をかける癖があること知っていたので、あっという間に抑え込んで私が勝ちました。
彩花は激しく反抗するということはなかったです。
事はその瞬間に処理するようにしていました。
後ろを振り返る暇はなかったです。

長女は喘息がありましたが、スケートに行くと喘息が出ませんでした。
ある日祖父がスケート靴を二足買ってきて始めました。
長女が2歳半か3歳のころでした。
彩花が8か月のころに遊びに連れて行って、発砲スチロールの箱に彩花をいれて、長女が引っ張って楽しく遊んでいました。
彩花がその後大きくなると同じように下の子にしてあげていました。
勝つ思いを経験しないと競技の楽しさは分らないので、そこそこ勝てるぐらいには教えて、勝ったという経験を味わってほしいと思いました。
基礎はしっかり教えました。
スケート場までは子どもの足で20分ぐらいですが、歩かせていきました。
子どもたちには小学校の頃はノーマルのスケートで通して、周りはスラップスケート履いていたが押し通しました。
小学校の頃は入賞はしたが優勝はしていなかったです。
中学ではスラップスケートを履いていいよと言って、中学1年でいきなり全国大会で4位になりました。
3年生の時には優勝できたという経緯があります。

長野オリンピックでは清水選手、岡崎選手の映像を見て、めざしたいと思ったのではないかと思います。
練習のやり過ぎではないかと思う時がありました。
実業団に行ってワールドカップでトップ取るような選手がいて、そこから世界を目指すようになったと思います。
それまで2,3位だったが、2015年から優勝するようになりました。
2018年2月に行われる平昌オリンピックに向けて合宿していた時に、突然電話がかかってきて「怪我をしてしまった」ということでした。
軽い怪我だと考えていたら、右ふくらはぎを断裂する大けがで選手生命をおびやかすものでした。
平昌オリンピックの準決勝のカナダ戦に高木姉妹と出場して勝利し決勝進出に貢献することができました。
決勝では高木姉妹と佐藤がオランダを破り、チームとして金メダルを獲得した。
小さいころからの積み重ねによって今の彩花があって、結果が得られるようになったと思います。
平昌オリンピックの2か月後に引退を決意する。
2018年10月23日にバンクーバーオリンピックの銀メダリスト長島圭一郎さんと結婚。
今与えられたことを精一杯こなして、いつまでも彼女が楽しく輝いて居る姿を見せてくれていたら私は幸せです。






















2020年5月10日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】
モーツアルトのトルコ行進曲。
まずはアレンジした形のトルコ行進曲。
*ロシアのピアニスト、ヴォロドスが編曲したモーツアルトのトルコ行進曲。
編曲して20年以上になる。
行進曲の遺伝子と題して今日も進めていきます。

メンデルスゾーンの「結婚行進曲」
1842年に作曲した劇付随音楽『夏の夜の夢』作品61の一曲。  結婚式における定番曲。

ヴェルディの歌劇「アイーダ」 凱旋行進曲 『王家に捧ぐ歌』
エジプトの将軍ラダメスの勝利を祝う行進曲。
トランペットの輝かしい行進曲のファンファーレの響きとコーラス。
応援歌にも使われている。

*フランスの作曲家 ベルリオーズ 「ラーコーツィ行進曲」
彼の代表作『ファウストの劫罰』にてこの行進曲を引用。
実際の行進をイメージして作ったのではなく、架空の行進曲を頭の中で描いた異次元の行進曲。

*ロシアの作曲家 ショスタコーヴィチ 舞台管弦楽のための組曲から行進曲
ポピュラー音楽も愛し、ジャズ風の軽妙な作品も少なからず残している。
軽快な行進曲。

古関裕而  NHKスポーツ中継テーマ「スポーツショー行進曲」
日本放送協会(NHK)の各放送波で放送されるスポーツ中継番組(プロ・アマ無関係)のオープニングテーマ曲として使用されている。
1909年生まれ。

*映画 「スーパーマン」から「マーチ」

2020年5月8日金曜日

仲道郁代(ピアニスト)          ・「ベートーヴェンを新たに読み解く」

仲道郁代(ピアニスト)          ・「ベートーヴェンを新たに読み解く」
昨年10月放送のインタビューの再編成
おととしデビュー30周年、いろんなコンサートをさせていただき走り続けてきたという感じがしました。
これから10年後を見据えて、演奏家として何を目指すのかということを考えて活動してゆこうということを考える節目になったのが30周年でした。
ベートーヴェンの音楽は生きる事とはどう言うことかとか、問い続けている音楽だと思いますが、ベートーヴェンを核に据えて私自身も生きる事とはとか、音楽をすることとかというのを自分にも問い直したいです。
そして10年間ベートーヴェンを核にしたシリーズを考えました。
「 Road to 2027」というプロジェクトをスタート。
2027年はベートーヴェンの没後200年でもあります。(私の40周年記念でもあります。)

もともとベートーヴェンは苦手でした。
試行錯誤の連続で30代に入ったときに、60歳ぐらいになってベートーヴェンを弾けるためには若いころ挑戦しておかないと無理だと思って、全曲ソナタ演奏会を最初にしました。
最後の演奏会の時に諸井誠先生が聞きに来てくださって、「君、最初からやり直さないとだめだよ」と言われてしまいました。
「僕と一緒に全曲やりませんか」と言われて、32曲を弾くコンサートシリーズが始まりました。
諸井誠先生からベートーヴェンを手取り足取り教えていただきました。
転機になったのがその時のベートーヴェンでした。
ベートーヴェンを弾くときに感情、感覚だけだと手におえない形にならない。
なぜなのかということを、まるでパズルのような組立てていって、謎解きのような読み解き方を教えていただいたら面白くなりました。
今ではベートーヴェンは大好きです。
ベートーヴェンを研究するとそのあとの作曲家の見え方も変わってくる。

名曲には名曲たるゆえんがあって発見があります。
こんな音使いで弾いてみたらどんな表現になるかとか、いつも思います。
アイザック・スターンというバイオリニストがコンサートもエクスペリメント(実験)だとおっしゃっていて、毎回毎回完成系はなくて、こんな風にトライしたらどうだろうかと実験の繰り返しだとおしゃっていて最近はそうだなあと思います。
ベートーヴェンとナポレオン、ナポレオンが台頭してきた時代だからベートーヴェンが「英雄」を書いていたという、又ベートーヴェンがナポレオンへの失望、そこからまたかいて、その時代がベートーヴェンにどう影響を及ぼしたかということをトークとか資料スライドでお話をしてからコンサートを行いました。
ベートーヴェンの曲がどう聞こえてくるか、知識を通して感じてもらいたいという思いもあります。
現代に訴えかけてくるものがあります。
共鳴すると感動するし作品のすばらしさ、本質をもっと知りたいと思っていただけるのではないかと思います。
同じ楽譜を見て同じ指示のもとに弾いて、演奏家によって演奏が違うことの自由さって、すごいことだと思うんです。
決まりがあるからこそ自由度がより際立つというように私は思っています。

ナポレオンの次がヘーゲル、葛飾北斎、ルター、クリムト、シェークスピアと、ベートーヴェンとの比較をやっていきます。
ルターはキリスト教的概念が外せなくて、十字架というものをベートーヴェンどうとらえるのか、十字架が人が背負う比喩的なものであるとするならばそれをベートーヴェンがどう克服して、どういう世界観を導いたのか、とか考えたりするわけです。
ルターは「音楽は神様からの最上のプレゼントである」といった人で、非常に音楽の力を信じた人だったらしい。
ベートーヴェンは思想の人だと思います。
ベートーヴェンが哲学をどうとらえたのかによって、ベートーヴェンの作品を浮き上がらせることができる。
葛飾北斎は構成の方のアイディアです。

母が私に対してピアノの練習をしてから宿題をしたり、遊びに行かせたりするような生活スタイルをするようにしていました。
娘は小学校4年生でピアノをリタイアしました。
私のやっていないフルートは続けていきました。
私は4歳からピアノを始めました。
浜松市立白脇小学校5年生のとき第27回全日本学生音楽コンクールに出たときには5分の曲を毎日8時間練習をしました。
小学校5年生の時に連れてってもらったコンサートでヴィルヘルム・ケンプがベートーヴェンだけのコンサートをして、後光がさしているように感じて最初の音から最後の音まで全て心に入ってきて感動しました。
1985年から1987年まで文化庁在外研修員としてミュンヘン音楽大学に留学しました。
中学時代にアメリカに行きましたが、アメリカでは音楽の力を感じさせてくれました。
ドイツに行ったときには歴史を感じました。
クラシック音楽は今でも生きていると感じました。
人の生活に根差した生きた言葉だと思ったのがドイツでした。

自分の好きな色は何かと問われたときに、自分がどう思うかということには間違いはないと思います。
音楽を受けとめている感じは、人の感覚の豊かさ、心の多様さに気が付くことができます。
聞くほうもなにかきっかけとなるようなものがあるように、お話付きのコンサートとかいろいろやっています。
お子さんのほうが豊かに心が批評します。
ピアニストは親が望むからなるものではなくて、その子が一生をかけて音楽に取り組みたいと思うような思いを持つような子なのかということで、小学生の時にわかると思います。
演奏家の人にはどこかきっかけがあると思います。
見つけるのは本人です。
演奏会は様々な方がさまざまに受け止める、作曲家も人生をかけて伝えたいと思っていることを音にするんだと思って、私は10年経ってどんな音楽家としてなれるのだろうかと突き詰めていきたいと思って、2027年までのプログラムを組んで進んでいるところです。






























2020年5月6日水曜日

石井直方(前東京大学教授)        ・「筋トレはスローで楽しく」

石井直方(前東京大学教授)        ・「筋トレはスローで楽しく」
筋肉研究の第一人者で前東京大学教授の石井さんはNHKの「みんなで筋肉体操」などの筋トレブームの火付け役的存在です。
年齢を問わず筋トレがブームになっています。
石井さんは少ない運動量で大きな効果を得るスロートレを推奨しています。 
年齢と共に筋肉は減りますが、やり過ぎないスローな筋トレをすれば80代でも筋肉は増える、高齢者の体力の維持向上、健康増進はスロートレがお薦めだといいます。
石井さんはスポーツ筋トレで20代のころはボディービルダーの世界選手権にも入賞してきました。
しかし多忙な生活を送っていた61歳の時、悪性リンパ腫を発症します。
つらい化学療法と入院生活を経験し筋肉がほとんど落ちてしまう経験をしました。
そうした自身の経験を踏まえて寝たきり予防、転ばない足腰を作る高齢者の筋肉つくりに理論と実践に今取り組んでいます。
筋肉は裏切らない、今からでも遅くない。

筋トレを研究テーマとして始めたのは約30年前でした。
高齢化が進んで、元気で長生きをするためにはいかに筋肉が重要かということがここ15年ぐらいの間にはっきりわかってきました。
筋肉をしっかり鍛えましょうというのが理解されてきました。
筋トレそのものの技術も進歩してきました。
自宅でも手軽にできるやり方が開発されてきました。
そういった関係でブームになってきました。
筋トレは脂肪の観点が強かったのが、最近は筋肉がしっかり働かないと健康にとってマイナス面があるとか、きれいな体の線が作れないとか、という風にシフトしてきました。
20代では体重の40%が筋肉で、骨と合わせると体重の50%になります。
筋肉がさぼってしまうと、ブドウ糖とか糖質がだんだんたまってきて、糖尿病になったり、脂肪がたまったりしてしまいます。
筋肉は細かく言うと400から600ぐらい位あります。
自分の体を自分で作ってゆくそういう楽しみ方もあります、ボディービルに通じるところもあるかもしれません。

高校1年の夏休みに腕立て伏せとかいろいろやったら信じられないほど体が強くなり、驚きました。
大学に入ったら専門的に体を鍛えてみようかと思いました。
筋肉が何でこんなに大きな力が出せるんだろうということ、鉛筆の太さで5kgぐらいの力が出せる、それが疑問でした。(大学2年)
筋肉について研究対象にしました。
スロートレは20年前ぐらいからアイディアとして生まれて、5,6年かけて研究室で実証して世の中に紹介しました。
ゆっくり動かすことで筋肉の中で起こる変化が、強い筋トレと同じような変化が起きます。
筋肉は力を入れると固くなるが、筋肉の中にある血液をぎゅっと絞り出しているような状況になります。

緩めたり、収縮をしたりくりかえすと心臓のポンプのような働きをするわけです。
血液が入ってきにくくする作用は30%ぐらい力を発揮すると起こります。
30%の力を出し続けていると筋肉の中が酸欠状態になって、疲れてくるということが起こります。
筋肉の負荷が軽くても重たい筋トレをやった時と同じような状況に追い込まれるわけです。
毎日やらないほうがいいかもしれません。
筋トレ刺激の次にタンパク質の合成が高まって、筋肉つくりの時間は48時間から72時間続くわけです。
途中でまた刺激を与えてしまうと、タンパク質の合成が抑えられてしまうというデータも出てきています。
1,2日空けるのがちょうどいいと思います。

無理な状態が続いているうちに体調が悪くなったりしました。
多忙な生活を送っていた61歳の時、悪性リンパ腫を発症します。
入院はトータルで3か月ぐらいでした。
治療期間は半年ありました。
80kgあった体重は6kgになってしまいました。
足腰の衰えを凄く感じました。
今は77,8kgに戻りました。
専門的なトレーニングは再開していません。
筋肉は一度鍛えると鍛えたときの状況を記憶しているようなメカニズム(マッスルメモリー)があって、動かし始めると戻しやすいということがあるようです。

病気をして新たに考えるようになったのは、毎朝目覚めたときに「あー生きている」と実感することです。
生きていることに感謝をすることから一日が始まるみたいなことがあって、大きな発見かと思います。
反省点は体力を過信して無理をしてきたことはいけないと思いました。
生活のスタイルも無理をしないように変わってきました。
老化の仕組みもよくわかっていません。
歳をとっても身体を動かせるということは、筋肉は一つはのキーポイントであることは確かなことだと思います。
健康寿命を保つには足腰の筋肉にも重要ですが、加齢の影響を受けやすいこともあります。
糖質、脂質をエネルギーとして使う機能も落ちてくるので、糖尿病とか、生活習慣病の原因になったりもするわけです。

30歳を過ぎると太もも、お尻の筋肉は落ち始めます。
スロースクワットがいいと思います。
椅子に座った状態から4秒かかってゆっくり立ち上がりはじめ、膝がまだ曲がった状態から4秒かけてゆっくっり椅子に座る。
太極拳の動きもゆっくりで、それに似ています。
「よいしょ」という声を出すことは体幹を緊張させるので、立ち上がる時には「よいしょ」の代わりに息を吐いていただき、座るときに息を吸っていただく、そういう呼吸法がいいと思います。
回数は人によって違うので太ももが張ったような状態いなるまでやるといいと思います。
お腹周辺を鍛えるのはやり易いのが、椅子に浅く座って背筋を伸ばして息を吐きながら背中を丸めて4秒かけて後ろに倒してゆきます。
息を吸いながら4秒かけてもとの姿勢に戻ります。
段々筋肉を使わない世の中になってきているが、筋肉を使わないと不都合がいろいろ出てきていて、筋肉を衰えさせないような方向性が必要になってきていると思います。













2020年5月4日月曜日

穂村 弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】歌人 馬場あき子

穂村 弘(歌人)           ・【ほむほむのふむふむ】歌人 馬場あき子
夫は歌人の岩田正さんは1924年東京出身。
早稲田大学在学中に早稲田大学短歌会に入り、昭和21年「まひる野」の創刊に参加します。
窪田空穂、窪田章一郎に師事。
卒業後は教員となり定年まで勤めました。
馬場さんとは昭和27年に結婚、昭和53年馬場あき子さんとともに歌誌「かりん」を創刊。
短歌評論、実作に活躍を続け2011年第34回現代短歌大賞受賞、2017年93歳で亡くなる。

馬場:「岩田君」、「馬場君」とお互いに呼んでいました。
穂村 弘さんが岩田正さんの作品を選んだ句
「この曲のここ美しといひし我に目を閉ぢしまま君はうなづく」    岩田正
穂村:岩田さんは音楽が好きでした。二人で音楽を聴いていて、目に浮かびます。
馬場:飽き飽きするぐらい聞かされました。(笑い)

イヴ・モンタンの枯葉愛して三十年妻を愛して三十五年 」      岩田正
穂村:この歌は衝撃的でした。
馬場:シャンソンも好きでした。
穂村:古典を愛する少女とモダンボーイの出会いという感じですね。
大正世代の気風ですね。

「魘されし理由はをとめ救わむとして斬られしと妻には言へず」     岩田正
穂村:岩田さんは夢を見たんですね。
時代劇風な感じで、守ろうとして悪者に逆に切られてしまって、飛び起きて、馬場さんがどうしたのと聞いてもその理由をうまく言えない、といった感じです。
馬場:追われたりするとか、年中よく夢を見る人でした。

*「枯葉」 歌:イヴ・モンタン

『水中翼船炎上中』より馬場さん選句
「天皇は死んでゆきたりさいごまで贔屓(ひいき)の力士をあかすことなく」穂村 弘
馬場:天皇の寂しさ、孤独、一人ぼっちの何かが出ていて、天皇挽歌としていい歌だと思います。
人間の心にあるものを言わないで亡くなっていったというその孤独、天皇の孤独感をとてもよく出していると思います。
穂村:戦争とかに関することなども含めて言えない孤独感の歌ですね。

「 ザリガニが一匹半になっちゃった バケツは匂う夏の陽の下」      穂村 弘
馬場:残酷なものです。
穂村:子どものころザリガニをとってバケツに入れて置いたら、共食いなんて言う概念が知らなくて、大変なショックを受けました。
馬場:小さいことは身体が弱くてしょっちゅう寝いていて、ある時に「みみずくのお医者さん」という絵本を買ってもらって、森の動物を全部なおしてあげることがいいなあと思っていました。
戦後の焼け野原に秋に虫が飛び込んできて、どうやって生きられるのだろうと思って虫が好きになりました。

「人殺しの血を吸った蚊がいずこかをただよう空の青き光よ」?     穂村 弘
馬場:これ凄いですよね。 この世の中どこにどういう怖さがあるのかわからない。
怖さを知らないから生きていられるので、いつどんなところに怖いものがあるかわからないということを感じさせる歌です。

馬場あき子さんの作品の穂村 弘さんの選句
「猫茶碗洗ひおきしが夜更けて帰りし夫が飯をたべたり」        馬場あき子
穂村:猫の茶碗だけれどまあいいかな、といったところだと思います。
馬場:猫は飼っていないけれど、私たちは戦争を知っている世代なんで器に対して鈍感なんです。
ものに対する構わなさがあります。

「夫(つま)のきみ死にてゐし風呂に今宵入る六十年を越えて 夫婦たりにし」馬場あき子
穂村:岩田さんはお風呂で亡くなったが、一緒にいるみたいな感じがこの歌から伝わってきている。
馬場:夫が入ったお風呂に入ることが鎮魂だと思ってはいるんです。
これに入ることが自分の愛だという感じがありました。

「衛星のごとく 互 ( かたみ ) にありたるをきみ流星となりて飛びゆく」  馬場あき子
穂村:互いが互いを回る衛星のように60年を越えて生きてきたが、ある夜突然君は流星になって飛び去って行ってしまった、という歌ですね。
馬場:互いに理解しあって、お互いに衛星でした。
突然流星になって行っちゃって衛星が一つ残ったが、一人で耐えられるよという気分です。

「ゆめと知れど行く先もなく帰路もなき宇宙駅 ありわれが佇む 」    馬場あき子
穂村:絶対的なさびしさの歌だと思います。
宇宙駅という発想がすごい、銀河鉄道のような駅。
馬場:実はこういう夢をしょっちゅう見ます。
常に一人なんです、行くところも帰るところもない。

「亡きひとよしんしんとろりゆつくりと眠つてください雪の夜です」  馬場あき子
馬場:夢の中でおびえている人だったので、もうゆっくり寝てほしいという気持ちが一つあったし、皆さんには強い、洒落た老人を演じていたけれど、多分おびえていたと思います。
穂村:口語体で文体の幅が広い。

リスナーからの作品
「こんなにも失望ていようとも止まることなく伸びる前髪」?
「ちょうだいのある猫九歳初めての猫の友達出来た春の日」?
「桜散り二人で歳をとってゆく今日もあそこのけんぱ(?)にしよう」 ?

*?マークのある短歌は文字の違い、誤字があるかもしれません。












2020年5月2日土曜日

木津川 計(立命館大学名誉教授 上方芸能評論家)・「大阪の文化を見つめて65年(2)

木津川 計(立命館大学名誉教授 上方芸能評論家)・「大阪の文化を見つめて65年(2)
1968年(昭和43年)大阪に雑誌「上方芸能」を創刊。
48年にわたって発行にかかわってきたのが木津川さんです。
1986年からは京都の立命館大学で教授として教鞭を取り、若い世代に落語、歌舞伎、文楽、人形浄瑠璃、上方舞などの味わいを語り伝えてきました。
一方雑誌の出版は苦しい経営が続きました。
発行を断念しようとした時には、原稿料なしで連載を書いてくれた著名な落語家もいたといいます。
2回目は「~雑誌『上方芸能』を支えた人々」です。

50歳の時に大学教授になってほしいとのことでした。
立命館大学でした。
民間から大学教授へ行くというのは当時としては珍しいことでした。
新聞5大誌に大きく取り上げられました。
語りが好きで落語、浪曲などいろいろ真似をしていましたので、学生に対していろいろな語りがけをしました。
400人の大教室が満杯になり、入れない学生は廊下にあふれたりしました。
講義内容はいろいろ知恵を絞って語り掛けました。
上方芸能、大阪文化の両方を発展させるために、現代に伝統をどう共存させるか、追及していかないと深みが出てこないので、これが主要なテーマにいろんな例証をもとに語り掛けました。
上方芸能の落語、文楽、浄瑠璃の一節などをうなったり、なぞったりもしました。
40代の終わりから常磐津の語りをやったのが、自分自身大変プラスになりました。
今の一人語りにも生きてきました。

雑誌『上方芸能』は200号で終刊になりました。
黒字には一回もなりませんでした。
定期の読者が700人ぐらい、2000部ぐらい発行してきました。
48年間赤字ばっかりでした。
教授の収入でつぎ込んできました。
80歳の時、200号で終刊となりました。(2016年)
詩人の小野 十三郎杉山平一、漫才育ての親と言われた秋田 實、作家の藤本義一、落語の人間国宝桂米朝、文楽の人間国宝の竹本住大夫、歌舞伎の人間国宝片岡仁左衛門などいろんな人たちが『上方芸能』を応援してくれました。
原稿を書いてくれたり、コメントしてくれて、価値を高めてくれました。
トータルで1000人を超えていると思います。
原稿料は払えなかったが、書いてくれました。

50号を1977年2月に迎えて、100号への道しるべとしていろんな方からコメントをいただきましたが、先代の片岡仁左衛門さんから応援してくれる旨の文章をいただきうれしかったです。
そのほか70人ぐらいの人たちから協力していこうというコメントをいただきました。
やめようと思ったときに、桂米朝さんからの連載はありがたかったです。
50号から55回「上方落語ノート」という連載になりました。(33年間ただの原稿で)
竹本住大夫さんからは大阪弁の誇りを教えられました。
ドナルド・キーンさんが奥の細道のなかで芭蕉は言葉が通じなく困ったとは一行も書いていないということに気付いて、早稲田大学の暉峻 康隆(てるおか やすたか)教授に聞いたところ、たぶん大阪弁で話したんだろうということでした。
大阪に商人が全国から来ていて大阪弁が全国にも広がり、大阪弁が標準語的な役割を果たすわけです。
大阪が首都になっていれば大阪弁が標準語になっていたと思います。
地方の文化、芸能とその地方の言葉は一体なんですね、だから言葉を大事にしてゆくということが大事です。

藤本義一さんはどんなに忙しい時でも、必ず応えてくれました。
この人からは在野精神を教わったと思います。
兎に角現場第一主義の人で、街中で大阪文化、職人文化の継続発展に力を尽くした人でした。
詩人の小野 十三郎さんからは思想的な影響を非常に受けました。
批判精神にあふれていて、抒情的リリシズムからの脱却の論考でずいぶん話題になった方です。
15年戦争を支えていた精神的な柱は抒情的リリシズム、美文で戦意を高揚させる、戦争をたたえる、敵愾心を育っていく、勝利への確信を国民に与えるということで、非常に美しい言葉が生み出されてゆく。
批判精神を人間は失ってはならないということを小野さんは戦争中の痛い国民の体験から批評精神の大事さを説いていく、小野さんから影響を受けました。
『上方芸能』は重たい荷物で、くじけそうになった時に小野さんが言ってくれた「軽く翼を水平に泳がせて重たい荷物を運ぼう」に励まされました。
ぼやいたり協力を求めたりせずに、この48年間の赤字にも拘わらず続けられたのはこの言葉のお陰でした。

精神の誇りを持ちたいと思て『上方芸能』を起こしましたが、ジャンルが多くて、雑誌を出しながら勉強していきました。
雑誌『上方芸能』を認めてくれたのが、日本文芸振興会(文芸春秋の中にある)が菊池寛賞を与えてくれのはびっくりしました。
上方落語は『上方芸能』を出した当時は26,7人でしたが、今は10倍ぐらいになりました。
文楽、浪曲、講談なども頑張っています。


























2020年5月1日金曜日