氷川きよし(歌手) ・【母を語る】
氷川さんは1977年福岡生まれ、高校時代に歌手を志しNHKBSの歌番組に出演し、スカウトされ高校卒業後上京します。
アルバイトをしながら3年半の修行生活を経て、2000年に「箱根八里の半次郎」でデビュー、その年にNHKの紅白歌合戦に出場します。
これまでに日本レコード大賞の最優勝新人賞、最優秀歌唱賞、大賞の三冠を獲得しています。
2019年3月には松尾芸能賞優秀賞を受賞、又デビュー20周年となる今年は7月にはに日本武道館、9月には大阪城ホールで記念コンサートを行いました。
日本武道館、大阪城ホールでは多くの皆さんにお越しいただきました。
色んな人間模様を歌いたいと思いました。
Tシャツが好きでラフな格好が普段は好きです。
一人っ子で母にべったりして育ちました。
性格、しゃべる方もそっくりで母はきれいだと思います。(67歳)
15年前母が大手術をしました、10時間ぐらいの手術で助かるか助からないかわからないようで、仕事が終わって祈っていました。
離れているが母がいてくれるのが嬉しいです。
電話でまめに母とはコミュニケーションをとっています。
母は胎児の時にずーっと「一休さん」の歌を聞かせていたという事です。
妊娠しているときにも母は病気にかかっていて、生まない方がいいという状況の中で生んでくれました。
小学校の時には地域の合唱団に入って歌っていました。
中学はポップスを歌っていて平尾昌晃先生のスクールのオーディションを受けて受かったんですが、月謝が払えなくて独学で歌っていました。
引っ込み思案であまりしゃべれない子でコンプレックスを感じていました。
自己表現を歌で出来たことが生きてゆくなかでの手段だったと思います。
中学の時には太っていて、芸能界に行くためには痩せないといけないと思って寒天を食べて痩せることができました。
中学3年の時にすごく背が伸びました。
16歳から演歌を歌い始めました。
高校は個性を大事にする高校でした。
高校生の時には将来は歌手になろうと思って、いろいろ調べて研究してプロダクションのオーディションを受けるようになりました。
父からは男は台所に立つなと言われていましたが、料理は好きでこっそりやっていました。
母はあまり料理はあまり好きではなくて、自分でいろいろ研究しました。
芸能教室で演歌を歌ってほしいと或るおじいさんから言われて、演歌を歌うために片っ端から演歌の歌を聞いて研究しました。
NHKBSの歌番組に出演し、水森英夫先生に歌手になりたいか聞かれ、東京に行くことにしました。
母とはずーっと一緒にいたので福岡から離れるときには悲しい思いをし勇気がいりました。
今やらなければという気持ちはありました。
母とは眼を合わすと泣いてしまいそうな気がしたので、玄関では眼をあわせないようにして別れました。
飛行機の乗った途端に涙が出てきてしまいました。
1年でデビューできると思ったが駄目で、アルバイトをしながら3年半の修行生活をしました。
経済的にきついのと先が見えないという事があり厳しかったです。
方言には苦労しました。
最初のアルバイト先はすぐにやめてしまい、ファミリーレストランに勤めるようになりました。
人前で喋れるようになったのは40歳を過ぎた頃でした。
3年後に一旦事務所が決まったが、当時男の演歌歌手は厳しくて女性の演歌歌手が華やかでいいという事で断られてしまいました。
もう1年頑張ろうという事で、或る大手の事務所で歌ったらこれは行けるという事になりました。
2000年に「箱根八里の半次郎」でデビューしました。
歌にはちょっとポップス系のところもありました。
母がいるから励まされているなあと思います。
自分らしく生きなさいと言われました。
母と喋っていると鏡を見ているようで、自分と喋っているような感じがします。
自分を生んでくれたことに対しては一番感謝しています。
近くにいてあげればいいとは思いますが、こんな仕事をしているので悪いなあとは思っています。(涙ながらにしゃべる)
旅行とかには連れて行ってあげたいと思いますが。
歌を歌い続けるのが親孝行かなと思います。
2019年12月31日火曜日
2019年12月29日日曜日
小田部羊一(アニメーター) ・漫画動画と歩んだ日々
小田部羊一(アニメーター) ・漫画動画と歩んだ日々
昭和11年台湾の台北市生まれ、昭和34年東京芸術大学日本画科を卒業後、東映動画、現在の東映アニメーションに入社し劇場長編映画などを製作しました。
NHKの朝の連続TV小説「なつぞら」では時代考証を担当しました。
妻の奥山玲子さんもアニメーターとして活躍し、「なつぞら」のヒロインのヒントとなった方で2007年にお亡くなりました。
小田部さんは会社を辞めてから、新たに宮崎駿さんや、高畑 勲さんなどと「アルプスの少女ハイジ」、「母を訪ねて3000里」などを作り日本のアニメーション界を第一線でリードしてきた人です。
最近アニメーションの歴史や奥山玲子さんとの歩みをまとめた本、「漫画映画漂流記」を出版しました。
NHKの朝の連続TV小説「なつぞら」では時代考証を担当しました。
最初は大塚 康生さんでしたが体調を崩して私がお引き受けした。
子ども時代から漫画の本や漫画の映画が好きでした。
しかしアニメーションの作り方は知りませんでした。
小学校の1,2年の時に父親と一緒に漫画映画を観たときに、動物のキャラクターがいきているものとしか思えなかった。
それが心の中にあり、大人になって漫画映画のきっかけになったと思っています。
東京芸術大学日本画科に入学、先生は前田青邨さん、助手が平山郁夫さんでした。
父親は油絵を描く人で、台湾の子どもたちに教える先生をやっていて、油絵も団体展などに出すぐらいの腕の持ち主で家には沢山絵が掲げてあり、絵に興味を持って行ったと思います。
戦後、台湾から日本に引き揚げてきましたが、父が油絵の材料を貸してくれて、5歳下の弟と花の絵を描いたんですが、弟の方が立派な絵を描いて、自分は油絵が嫌いになって水彩画につながり日本画という事になって行きました。
子ども時代に漫画映画がなんとも言えない素晴らしい世界に見えました。
モノクロの短い作品でした。
その後、アメリカのデズニィーの白雪姫などを見て、色がついていて長編映画で目がくらむぐらい感じました。
会社に入り同期に高畑 勲、4年後輩に宮崎駿氏がいました。
『太陽の王子 ホルスの大冒険』というものを一緒にやってなおさらお互いが判ったり、自分たちが作りたいアニメーションの方向が見えてきたりして、出会いと仲間意識を持ちました。
奥山玲子が先にいて重要な立場にいました。
「なつぞら」のヒロイン(奥原夏)のヒントとなりました。
2007年に亡くなりました。
共通点は媚びを売らない、きちんと自分を持っているとか、広瀬鈴さん(ヒロイン役)にも感じていました。
毎日洋服は変える人でした、組み合わせで毎日の気持ちのままに着ていました。
服だけではなくアクセサリーなども変えていました。
当時は女性は仕事をしていて出産して会社を続けることは難しかったが、断固戦うという様な事でした。
子どもを預かってくれるところはなくて、預かってくれるところを探すためにポスターを作りました。
自分でやりたいことは何としてもやっていきたいという人でした。
亡くなってから影膳を3年ぐらいやっていましたが、宮崎駿さんから「そんなことは気持ち悪いから」と言われ辞めましたが、宮崎駿さんは奥山玲子から解放されたと言っているらしいです。
入院して1週間で亡くなりました、無精ひげがそのままひげを生やすようになりました。
アニメーションがコスト第一主義のようになって、自分たちが作りたいものと違う方向になってきて、会社を辞めることにしました。
妻は会社に残り、その後私たちは「アルプスの少女ハイジ」、「母を訪ねて3000里」などを作りました。
スイスの国立博物館で「日本のハイジ」というタイトルで展覧会をやってくれました。
4か月やりました。
8月に行って講演会などもやってきました。
当時は海外に出かけるのは大変な時代でしたが、高畑 勲さん、宮崎駿さん、僕、プロデューサーの4人をスイスにロケのために、スイスとはどういったところなのか、どういった人たちが住んでいるのか、スケッチをしたりカメラに収めたりしました。
現地取材があったからこそ景色、もの、キャラクターだけではなくて、現場の空気、光、山の高さとかそれを感じてきたのが一番の収穫でした。
そういったものが顔の表情とかに表れて来ていると思います。
作品ができてから家族3人で25年後にスイスに行きました。
ロケハンに行くときに息子は重い風邪にかかっていて、奥山に息子を預けていってしまいましたので、ハイジは恨みの何物でもなかったんでしょうね。
スイスに行って素晴らしさに感銘してくれて、自由にスイスの話もできるし、ハイジの話も自然にできるようになりました。
ゲーム会社に入り、スーパーマリオ、ポケットモンスターのキャラクターのデザインも手掛けることになりました。
同期の演出家がスーパーマリオを作る部署の部長になっていました。
ゲームの世界に入ってこないかと言われ、少ない枚数でやれという様な時代で面白くなく思ってた時だったので、1,2年という気持ちでいたが、こっちの方がアニメーションじゃないかと思い、役に立てるのかなと思いました。
マリオは何でもしてもいいが殺人だけはしてはいけませんと言われて、自由な動きを獲得したと思いそういってマリオを作っていきました。
3Dでキャラクターを動かさなくてはならなくなり、立体になるような絵のデザインにして作っていきましたが、いまでもいきています。
ゲーム会社に21年いることになりアッというまに過ぎてしまいました。
キャラクターは生き生き動いてこそキャラクターだと思っています。
2年前に明日の命は判りませんと言われて、5か月入院して、たぶん僕は死ぬんだなあと思いました。
退院して元気が出てきて、昨年の11月から4回も海外に行っています。
生きていたらいろいろ楽しいんです。
昭和11年台湾の台北市生まれ、昭和34年東京芸術大学日本画科を卒業後、東映動画、現在の東映アニメーションに入社し劇場長編映画などを製作しました。
NHKの朝の連続TV小説「なつぞら」では時代考証を担当しました。
妻の奥山玲子さんもアニメーターとして活躍し、「なつぞら」のヒロインのヒントとなった方で2007年にお亡くなりました。
小田部さんは会社を辞めてから、新たに宮崎駿さんや、高畑 勲さんなどと「アルプスの少女ハイジ」、「母を訪ねて3000里」などを作り日本のアニメーション界を第一線でリードしてきた人です。
最近アニメーションの歴史や奥山玲子さんとの歩みをまとめた本、「漫画映画漂流記」を出版しました。
NHKの朝の連続TV小説「なつぞら」では時代考証を担当しました。
最初は大塚 康生さんでしたが体調を崩して私がお引き受けした。
子ども時代から漫画の本や漫画の映画が好きでした。
しかしアニメーションの作り方は知りませんでした。
小学校の1,2年の時に父親と一緒に漫画映画を観たときに、動物のキャラクターがいきているものとしか思えなかった。
それが心の中にあり、大人になって漫画映画のきっかけになったと思っています。
東京芸術大学日本画科に入学、先生は前田青邨さん、助手が平山郁夫さんでした。
父親は油絵を描く人で、台湾の子どもたちに教える先生をやっていて、油絵も団体展などに出すぐらいの腕の持ち主で家には沢山絵が掲げてあり、絵に興味を持って行ったと思います。
戦後、台湾から日本に引き揚げてきましたが、父が油絵の材料を貸してくれて、5歳下の弟と花の絵を描いたんですが、弟の方が立派な絵を描いて、自分は油絵が嫌いになって水彩画につながり日本画という事になって行きました。
子ども時代に漫画映画がなんとも言えない素晴らしい世界に見えました。
モノクロの短い作品でした。
その後、アメリカのデズニィーの白雪姫などを見て、色がついていて長編映画で目がくらむぐらい感じました。
会社に入り同期に高畑 勲、4年後輩に宮崎駿氏がいました。
『太陽の王子 ホルスの大冒険』というものを一緒にやってなおさらお互いが判ったり、自分たちが作りたいアニメーションの方向が見えてきたりして、出会いと仲間意識を持ちました。
奥山玲子が先にいて重要な立場にいました。
「なつぞら」のヒロイン(奥原夏)のヒントとなりました。
2007年に亡くなりました。
共通点は媚びを売らない、きちんと自分を持っているとか、広瀬鈴さん(ヒロイン役)にも感じていました。
毎日洋服は変える人でした、組み合わせで毎日の気持ちのままに着ていました。
服だけではなくアクセサリーなども変えていました。
当時は女性は仕事をしていて出産して会社を続けることは難しかったが、断固戦うという様な事でした。
子どもを預かってくれるところはなくて、預かってくれるところを探すためにポスターを作りました。
自分でやりたいことは何としてもやっていきたいという人でした。
亡くなってから影膳を3年ぐらいやっていましたが、宮崎駿さんから「そんなことは気持ち悪いから」と言われ辞めましたが、宮崎駿さんは奥山玲子から解放されたと言っているらしいです。
入院して1週間で亡くなりました、無精ひげがそのままひげを生やすようになりました。
アニメーションがコスト第一主義のようになって、自分たちが作りたいものと違う方向になってきて、会社を辞めることにしました。
妻は会社に残り、その後私たちは「アルプスの少女ハイジ」、「母を訪ねて3000里」などを作りました。
スイスの国立博物館で「日本のハイジ」というタイトルで展覧会をやってくれました。
4か月やりました。
8月に行って講演会などもやってきました。
当時は海外に出かけるのは大変な時代でしたが、高畑 勲さん、宮崎駿さん、僕、プロデューサーの4人をスイスにロケのために、スイスとはどういったところなのか、どういった人たちが住んでいるのか、スケッチをしたりカメラに収めたりしました。
現地取材があったからこそ景色、もの、キャラクターだけではなくて、現場の空気、光、山の高さとかそれを感じてきたのが一番の収穫でした。
そういったものが顔の表情とかに表れて来ていると思います。
作品ができてから家族3人で25年後にスイスに行きました。
ロケハンに行くときに息子は重い風邪にかかっていて、奥山に息子を預けていってしまいましたので、ハイジは恨みの何物でもなかったんでしょうね。
スイスに行って素晴らしさに感銘してくれて、自由にスイスの話もできるし、ハイジの話も自然にできるようになりました。
ゲーム会社に入り、スーパーマリオ、ポケットモンスターのキャラクターのデザインも手掛けることになりました。
同期の演出家がスーパーマリオを作る部署の部長になっていました。
ゲームの世界に入ってこないかと言われ、少ない枚数でやれという様な時代で面白くなく思ってた時だったので、1,2年という気持ちでいたが、こっちの方がアニメーションじゃないかと思い、役に立てるのかなと思いました。
マリオは何でもしてもいいが殺人だけはしてはいけませんと言われて、自由な動きを獲得したと思いそういってマリオを作っていきました。
3Dでキャラクターを動かさなくてはならなくなり、立体になるような絵のデザインにして作っていきましたが、いまでもいきています。
ゲーム会社に21年いることになりアッというまに過ぎてしまいました。
キャラクターは生き生き動いてこそキャラクターだと思っています。
2年前に明日の命は判りませんと言われて、5か月入院して、たぶん僕は死ぬんだなあと思いました。
退院して元気が出てきて、昨年の11月から4回も海外に行っています。
生きていたらいろいろ楽しいんです。
2019年12月28日土曜日
佐藤忠男(映画評論家) ・舌の記憶~あの時、あの味】
佐藤忠男(映画評論家) ・舌の記憶~あの時、あの味】
佐藤さんは昭和から平成、長きにわたって映画評論に力を注ぐと共に、日本の映画界の発展に寄与してきました。
一方でアジア映画研究の先駆者としても知られていて、一昨年まで日本映画大学の学長を勤めました。
出身は新潟市で終戦の年は14歳、海軍飛行予科練生でした。
戦後は昼間働いて夜間の工業高校に通う傍ら、雑誌に映画評論の投稿を続けて投稿家から文筆家、映画評論家になりました。
長年の評論活動、膨大な著書の出版を支えたのは、書物を通して独学で得た読書の力があったからと話しています。
一貫して戦争や権力と向き合い、世界の庶民の暮らしを観ることによって平和を実現できるという信念の元、89歳になった現在も現役で評論活動を続けています。
そんな佐藤さんの食の思い出はどのようなものでしょうか。
舌の記憶と共に映画の魅力や映画評論の役割など伺います。
今年文化功労章に選ばれました。
家内が今年亡くなりましたが、これはつらかったです。
第7回川喜多賞を、家内の佐藤久子とともに受賞しました。
日本に呼んだ外国人を家に3か月も泊めて日本食を食べさせたり家内はしていました。
非常にいいパートナーでした。
私は怪我もしてリハビリをしていましたが、その間も書いていました。
3つ年上の兄がいて小学校の頃から腎臓病で寝たきりになり、兄が貸本屋の本を読みたいという事で、私にも読みたい本を借りてきていいと言ってくれて、小学校3年のころから毎日貸本屋に行って本を借りてきていましたので、本無しの生活は考えられないです。
映画は子どもの時からよく観ていました。
海軍飛行予科練から帰ってきて、戦後どういう人生を歩んで行こうかと考え込んでいたころ、映画でも見ようと思っているうちに職業になってしまいました。
雑誌の投稿していたら、新しい分野が開けてきました。
人が論じなかった大衆映画を大真面目に論じる批評家として独自の存在になれました。
10代の終わりぐらいから映画批評家の卵みたいな存在で、そのまま来ることができました。
アメリカ映画を観たときには吃驚しました。
日本を負かしたアメリカとはどういう国だろうと本気で映画で観ようと思いました。
かわいい女性が来るとすれ違う男たちがみんなにっこりして笑顔を見せる、日本映画にはない場面で、彼らが幸せであるという事を実感し感動しました。
キューリー夫人の映画でも夫になる人が自分の弟子に求婚するのに貴婦人に対するようなポーズでする、これは感動しました。
アメリカ映画、ヨーロッパ映画、ほかの国々の映画を観るようになって、いいいものを探して歩くことが私の人生になって幸せだったと思います。
映画から世界の文化を学んだと言えます。
海軍の予科練にいって、日本の軍隊は残酷なところだとしょっちゅう思いました。
ちょっとしたことで毎日殴られていましたが、平気な顔をしていました。
アメリカ人のほうがどんなに礼儀が発達しているかという事を映画で見て驚きでした。
映画を観ることが私の人生の勉強になりました。
外国映画、特にアメリカ映画を観るとこれが文明かと思い、学ぶことばっかりでした。
学ぶことを書いていたら、それがいいという事でいつの間にか批評家になりました。
新潟では5月ごろ笹団子を作ります。
天井から一杯ぶら下げていました。
あれが一番食べ物では懐かしいです。
父親は早く亡くなり、母親は季節のお菓子、笹団子を作っていました。
手を伸ばせばお菓子がありましたから、贅沢でした。
おふくろは凄い働き者で働いている姿しか見ていないです。
新潟では魚がおいしかったです。
うちは漁師 がしょっちゅう出入りしていたので、新鮮な魚を持ってきてくれて魚はおいしかったという記憶があります。
タイの映画でありとあらゆる果物を集めてパーティーをやってる場面があり、吃驚しました。
外国に講演に行ってゆく先々で評判の映画を観せてほしいと言ことで観まして、発見に次ぐ発見でした。
アジアでの国で近代化のためにこの女性はこんなことをしたとか、いろいろ伝記があり、尊敬に値する人はどの国でもいます。
是非日本で映画祭をやった方がいいと思って何度か実現しました。
映画批評家としてやった中で自分で誇りにしていることです。
砂漠、家が一軒もないような荒野とかを背景にした映画はあるが、人があまり出てこなくてどこがおもしろいんだろうと思ったが、意外な面白さを発見することがよくありました。
どこにでも苦労があり、苦労を乗り越える知恵をそれぞれもっていて、一つの発見でもあります。
厳しい環境の中でもそれぞれの生活の知恵には吃驚して、そういったものが映画の面白さでもあると思います。
生活、どういうところではどういう暮らし方をしている、普通の人がどうやって何にもないところで暮らしていけるのか、これが日常生活なんだという事に興味を持てると、世界中観たい映画がどこにでもあるということが判ってきます。
共通性が判ってくると、世界を愛することができるようになる。
段々愛する世界が広まって、今やほぼ全世界になって、世界は愛するに足ると思っています。
戦争は映画で観ている限り、やはり戦争にも法則があって、世界がお互いが誤解しあう、世界を自分の目でちゃんと理解する精神が育てば世界は理解できるはずだと映画は教えてくれるが、中には世界を誤解させるような映画もあります。
それが良い映画悪い映画の区別になると思います。
TVこそ世界の隅々まで入り込みそこの国のあたりまえなことを描くが、映画は自分の国の特殊なところだけ強調してむしろ誤解を広めたような面もある。
日本と言えば侍という様なイメージは映画が作り出した面が大きいが、ごくごく普通のいろんな人たちがいて、そういう人間を愛情を持って描くという映画がどんな分野でも発達している。
世界中映画で知り合うことによって、世界中に向かって愛を持って呼びかける態度は、映画が作り出したし、TVがそれをさらに普及させた、これは非常に重要な映像文化だと思います。
映画は私にとって世界を見る鏡です。
世界中自分は或る程度知っているという自信が深まってゆく、誤解していたが今度そこの国で作られた映画を観たら、誤解を訂正する道が開けた、それが映画の発見です。
発見を重ねてゆく事によって誤解を乗り越えて世界中が理解しあえる、そういう理想に一歩一歩近づいているという事が、何十年の映画批評を書いてきたことによって成長してきたと思います。
文学は顔まで見える訳ではないが、映画だといろんな違った顔はあるが違った感情はそんなにない、共通の感情があるという事が顔で判る。
お互いが理解すると怖くない、世界中がお互いに相手を怖いと思わない、そういう状態を作り上げる力を持っているのは映画だと思います。
佐藤さんは昭和から平成、長きにわたって映画評論に力を注ぐと共に、日本の映画界の発展に寄与してきました。
一方でアジア映画研究の先駆者としても知られていて、一昨年まで日本映画大学の学長を勤めました。
出身は新潟市で終戦の年は14歳、海軍飛行予科練生でした。
戦後は昼間働いて夜間の工業高校に通う傍ら、雑誌に映画評論の投稿を続けて投稿家から文筆家、映画評論家になりました。
長年の評論活動、膨大な著書の出版を支えたのは、書物を通して独学で得た読書の力があったからと話しています。
一貫して戦争や権力と向き合い、世界の庶民の暮らしを観ることによって平和を実現できるという信念の元、89歳になった現在も現役で評論活動を続けています。
そんな佐藤さんの食の思い出はどのようなものでしょうか。
舌の記憶と共に映画の魅力や映画評論の役割など伺います。
今年文化功労章に選ばれました。
家内が今年亡くなりましたが、これはつらかったです。
第7回川喜多賞を、家内の佐藤久子とともに受賞しました。
日本に呼んだ外国人を家に3か月も泊めて日本食を食べさせたり家内はしていました。
非常にいいパートナーでした。
私は怪我もしてリハビリをしていましたが、その間も書いていました。
3つ年上の兄がいて小学校の頃から腎臓病で寝たきりになり、兄が貸本屋の本を読みたいという事で、私にも読みたい本を借りてきていいと言ってくれて、小学校3年のころから毎日貸本屋に行って本を借りてきていましたので、本無しの生活は考えられないです。
映画は子どもの時からよく観ていました。
海軍飛行予科練から帰ってきて、戦後どういう人生を歩んで行こうかと考え込んでいたころ、映画でも見ようと思っているうちに職業になってしまいました。
雑誌の投稿していたら、新しい分野が開けてきました。
人が論じなかった大衆映画を大真面目に論じる批評家として独自の存在になれました。
10代の終わりぐらいから映画批評家の卵みたいな存在で、そのまま来ることができました。
アメリカ映画を観たときには吃驚しました。
日本を負かしたアメリカとはどういう国だろうと本気で映画で観ようと思いました。
かわいい女性が来るとすれ違う男たちがみんなにっこりして笑顔を見せる、日本映画にはない場面で、彼らが幸せであるという事を実感し感動しました。
キューリー夫人の映画でも夫になる人が自分の弟子に求婚するのに貴婦人に対するようなポーズでする、これは感動しました。
アメリカ映画、ヨーロッパ映画、ほかの国々の映画を観るようになって、いいいものを探して歩くことが私の人生になって幸せだったと思います。
映画から世界の文化を学んだと言えます。
海軍の予科練にいって、日本の軍隊は残酷なところだとしょっちゅう思いました。
ちょっとしたことで毎日殴られていましたが、平気な顔をしていました。
アメリカ人のほうがどんなに礼儀が発達しているかという事を映画で見て驚きでした。
映画を観ることが私の人生の勉強になりました。
外国映画、特にアメリカ映画を観るとこれが文明かと思い、学ぶことばっかりでした。
学ぶことを書いていたら、それがいいという事でいつの間にか批評家になりました。
新潟では5月ごろ笹団子を作ります。
天井から一杯ぶら下げていました。
あれが一番食べ物では懐かしいです。
父親は早く亡くなり、母親は季節のお菓子、笹団子を作っていました。
手を伸ばせばお菓子がありましたから、贅沢でした。
おふくろは凄い働き者で働いている姿しか見ていないです。
新潟では魚がおいしかったです。
うちは漁師 がしょっちゅう出入りしていたので、新鮮な魚を持ってきてくれて魚はおいしかったという記憶があります。
タイの映画でありとあらゆる果物を集めてパーティーをやってる場面があり、吃驚しました。
外国に講演に行ってゆく先々で評判の映画を観せてほしいと言ことで観まして、発見に次ぐ発見でした。
アジアでの国で近代化のためにこの女性はこんなことをしたとか、いろいろ伝記があり、尊敬に値する人はどの国でもいます。
是非日本で映画祭をやった方がいいと思って何度か実現しました。
映画批評家としてやった中で自分で誇りにしていることです。
砂漠、家が一軒もないような荒野とかを背景にした映画はあるが、人があまり出てこなくてどこがおもしろいんだろうと思ったが、意外な面白さを発見することがよくありました。
どこにでも苦労があり、苦労を乗り越える知恵をそれぞれもっていて、一つの発見でもあります。
厳しい環境の中でもそれぞれの生活の知恵には吃驚して、そういったものが映画の面白さでもあると思います。
生活、どういうところではどういう暮らし方をしている、普通の人がどうやって何にもないところで暮らしていけるのか、これが日常生活なんだという事に興味を持てると、世界中観たい映画がどこにでもあるということが判ってきます。
共通性が判ってくると、世界を愛することができるようになる。
段々愛する世界が広まって、今やほぼ全世界になって、世界は愛するに足ると思っています。
戦争は映画で観ている限り、やはり戦争にも法則があって、世界がお互いが誤解しあう、世界を自分の目でちゃんと理解する精神が育てば世界は理解できるはずだと映画は教えてくれるが、中には世界を誤解させるような映画もあります。
それが良い映画悪い映画の区別になると思います。
TVこそ世界の隅々まで入り込みそこの国のあたりまえなことを描くが、映画は自分の国の特殊なところだけ強調してむしろ誤解を広めたような面もある。
日本と言えば侍という様なイメージは映画が作り出した面が大きいが、ごくごく普通のいろんな人たちがいて、そういう人間を愛情を持って描くという映画がどんな分野でも発達している。
世界中映画で知り合うことによって、世界中に向かって愛を持って呼びかける態度は、映画が作り出したし、TVがそれをさらに普及させた、これは非常に重要な映像文化だと思います。
映画は私にとって世界を見る鏡です。
世界中自分は或る程度知っているという自信が深まってゆく、誤解していたが今度そこの国で作られた映画を観たら、誤解を訂正する道が開けた、それが映画の発見です。
発見を重ねてゆく事によって誤解を乗り越えて世界中が理解しあえる、そういう理想に一歩一歩近づいているという事が、何十年の映画批評を書いてきたことによって成長してきたと思います。
文学は顔まで見える訳ではないが、映画だといろんな違った顔はあるが違った感情はそんなにない、共通の感情があるという事が顔で判る。
お互いが理解すると怖くない、世界中がお互いに相手を怖いと思わない、そういう状態を作り上げる力を持っているのは映画だと思います。
2019年12月27日金曜日
中島信子(児童文学作家) ・【人生のみちしるべ】"心の痛み"と生きる
中島信子(児童文学作家) ・【人生のみちしるべ】"心の痛み"と生きる
中島さんが今年出版した児童文学作品「八月のひかり」が大人にこそ読んでほしい本として話題になっています。
テーマは子どもの貧困、厚生労働省によると日本では17歳以下の子どもの7人に一人が貧困状態にあり、先進国の中で極めて深刻な水準です。
中島さんは1947年生まれ長野県の出身現在72歳。
1970年代に「薫は少女」でデビューし、「お母さん私を好きですか」など、子どもの心の痛みを描いた数々の作品を世に送り出してきました。
2000年代になって執筆から離れ、今回の「八月のひかり」はおよそ20年ぶりの作品として発表されました。
児童文学作家中島さんに伺いました。
朝4時半には起き、家族のことなどをします。
仕事の時間が無くて今午前中2時間ぐらいが限度で午後は1時間ぐらい、夜は疲れて本を読みたいと思ってもそんな力はなくなりました。
「八月のひかり」を出版、テーマは子どもの貧困、厚生労働省によると日本では17歳以下の子どもの7人に一人が貧困状態にあり、先進国の中で極めて深刻な水準です。
ずーっと子供のことを思い続けてきて、これだけ物のある時代に何も買えないという現実の中にいると思うといてもたってもいられなくなり、記事、本などを読んできましたが、子どものことを書いてみないかと編集者の方から言われて書き始めました。
リアリティーのあるものを書きたいと思って、フードバンクが立ち上がったという記事を見て、第一回の総会があるという事で伺いました。
「貧困は見えない貧困ではなく、日本の場合は見せない貧困である」というひとことが痛烈に心に響きました。
見せてしまうといじめにあったりより苦しくなるという事です。
助けてという声があげられない状態が日本が抱える大きな問題だと思いました。
三人称でありますが、主人公の美貴ちゃんの目線で書いていきました。
貧困の母子家庭で暮らす小学5年生の少女美貴ちゃんが体の弱いお母さんを支え、弟の面倒を見ながら過ごす夏休みの物語。
いつもお腹がすいていてクーラーも使えず暑さを我慢する日々を過ごしています。
弟のためにお昼ご飯を作る美貴の様子が描かれている様子を朗読。
概略
弟に焼きそばを作ってあげたが、一人分しかなくてほとんどを弟に食べさせてあげてしまう。 弟がどうしてうちは貧乏なのかと聞かれるが、話をすると涙がでそうなので弟の目線から避けて外を見ている。
どうしてそんなことを聞くのか弟に問うと、「今日は言われなかったが、学校に行っているときはいつも言われているよ。」と弟は言う。
「祐樹んちは給食だけで生きているだろう」「お風呂に入ることはあるの」とか。
「お姉ちゃんも同じことをよく言われているよ」美貴は胸の奥が痛くなってきた。
モデルはいませんが、長い間子どもに対する思いが強かったので、それで生まれたかなあと思います。
2003年に孫が生まれ命の大切さをしっかりと見せてもらいました。
孫の時には一歩引いてきちんと生きてゆく事はどういうことかという事を教わった気がします。
子どもは4歳で親を許そうと思うんです、だから未来に向かってできるんじゃないかなあと思います。
虐待で殺される子も実はお父さんお母さんを許しているんですよね。
それを何故判ってあげないのかと思ってしまいます。
私は姉と弟がいますが、姉が生まれる時に父は太平洋戦争で出征するときと重なって、残していくことの思いがあって、父は無事に帰ってきて私と弟が生まれました。
母親は二人目の時に男の子が欲しかったが、女の私でした。
父は姉、母は弟への思いが強くて、何となく疎まれているような思いがありました。
小学校の3年生の時に、年がら年中母に叱られていまして暗い夜に外に出されていましたが、弟が何かで叱られて、その時初めて弟が外に出されました。
物凄く外で泣いている声が聞こえて、私も外に一緒に出てあげるよと言えば、弟も家の中に入れてくれるものとおもっていったら、「じゃあ、あなたも外に出ていなさい。」といったんです。
怖くないよと弟を膝に抱いて歌を歌っていたら、母が雨戸を開けてオレンジ色の光が漏れてきて、弟は縁側を走って行って母に抱かれたんです。
今日はいいことをしたなと思ったんです。
母のところに行ったら、弟を抱いた手のもう一方の手で私を押したんです。
「信子は自分で出たいといったんだから出ていなさい。」と言ったんです。
雨戸を閉められてしまい、漏れていたオレンジ色の光が消えて一層暗く感じました。
母は間違えているんじゃないかとずーっと待っていましたが、開かなかったんです。
どんなことがあっても泣かなかったんですが、その時は声が漏れないように拳固を口に当てて泣きました。
今日はいいことをしたのになんで判ってくれないのか、心の中でいつか大人に子どもの心ってこういうものなんだよと、絶対判ってほしいと願いました。
母が雨戸を開けて、漏れてきた光を鮮明に覚えています。
夕焼けの色はこういうものだとか、雪の冷たさはこういうものだ、嘘もついていないのに平気で嘘をついたという事など、しっかり記憶しておこうと思ったのが原点です。
子どもって本当に純粋で大人よりも繊細です。
大人の一言で相当いろんなことが認知できるんです。
行きついた先が児童文学だったんです。
親にとっては子どもは何人もいるのかもしれませんが、子どもにとってはお母さんは一人、お父さんは一人なんですよね。
短大卒業して出版社に勤めて体を悪くしてしばらく休むことになり、家にいると母と一緒になり、「若いのになぜ働かないの」といわたりして、希望が無くなりました。
読んりだ本のジェーン・エアが自分事のように思えて、自殺を考えて遺書をしたためて机に遺書を置いて、高崎で降りしきる雪を観ながら回顧していたら、そうだ私にはロチェスター(ジェーンと恋に落ち結婚する)の夢があるんだと思いました。
彼と出会ったのが23歳の時で16歳年上なので当然結婚していると思っていましたが、手を握ったときには暖かくて、母の手だと思ってずーっと歩いているときずーっと泣いていました。
母に抱いてもらったり手を握ってもらった記憶はありませんでしたが、母の手でした。
夫は優しくて母のような手でした、豊かな愛をもらったような気がします。
2010年に夫を失って、改めて命の尊さを思い知り、そのうえでの「八月のひかり」なんです。
「八月のひかり」の最後のシーン。
8月14日美貴はなにもすることがなくTVをつけるとおばあさんが戦争のことを語っている。
戦争で両親、兄弟が殺されて、7歳で一人ぼっちになり何度も死にたいと思ったが、生きようと思って必死で食べ物を探しビー玉のようなジャガイモを生で食べ、道端に腐りかけたキャベツを見つけたりしてそれを食べて生きてきて、もうあんな悲しい気持ちを今の子どもたちにさせてはいけません、という風におばあさんが語ってるシーンがあり、美貴はある決心をして希望を感じさせるラストシーンとなる。
お金がないために物が溢れている世の中で、何も買えない子どもはこのおばあさんよりももしかしたらつらいのではないかと思いました。
飢えというものの苦しみは人間の根源の苦しみであるという事を大人に判ってほしい。
見せない貧困を今後どうやって生きていくんだろうと思いました。
クリスマスでイルミネーションが輝き、何万円もするおせちがが捨てられてゆく、この落差ってどうなんだろうと思います。
文学の根幹は児童文学ではないかと思います。
子どもは本を読むことによって人生観が変わることがある。
戦争では多くの才能のある人たちが帰らぬ人となってしまいました、書けることのありがたさをいつも感じています。
中島さんが今年出版した児童文学作品「八月のひかり」が大人にこそ読んでほしい本として話題になっています。
テーマは子どもの貧困、厚生労働省によると日本では17歳以下の子どもの7人に一人が貧困状態にあり、先進国の中で極めて深刻な水準です。
中島さんは1947年生まれ長野県の出身現在72歳。
1970年代に「薫は少女」でデビューし、「お母さん私を好きですか」など、子どもの心の痛みを描いた数々の作品を世に送り出してきました。
2000年代になって執筆から離れ、今回の「八月のひかり」はおよそ20年ぶりの作品として発表されました。
児童文学作家中島さんに伺いました。
朝4時半には起き、家族のことなどをします。
仕事の時間が無くて今午前中2時間ぐらいが限度で午後は1時間ぐらい、夜は疲れて本を読みたいと思ってもそんな力はなくなりました。
「八月のひかり」を出版、テーマは子どもの貧困、厚生労働省によると日本では17歳以下の子どもの7人に一人が貧困状態にあり、先進国の中で極めて深刻な水準です。
ずーっと子供のことを思い続けてきて、これだけ物のある時代に何も買えないという現実の中にいると思うといてもたってもいられなくなり、記事、本などを読んできましたが、子どものことを書いてみないかと編集者の方から言われて書き始めました。
リアリティーのあるものを書きたいと思って、フードバンクが立ち上がったという記事を見て、第一回の総会があるという事で伺いました。
「貧困は見えない貧困ではなく、日本の場合は見せない貧困である」というひとことが痛烈に心に響きました。
見せてしまうといじめにあったりより苦しくなるという事です。
助けてという声があげられない状態が日本が抱える大きな問題だと思いました。
三人称でありますが、主人公の美貴ちゃんの目線で書いていきました。
貧困の母子家庭で暮らす小学5年生の少女美貴ちゃんが体の弱いお母さんを支え、弟の面倒を見ながら過ごす夏休みの物語。
いつもお腹がすいていてクーラーも使えず暑さを我慢する日々を過ごしています。
弟のためにお昼ご飯を作る美貴の様子が描かれている様子を朗読。
概略
弟に焼きそばを作ってあげたが、一人分しかなくてほとんどを弟に食べさせてあげてしまう。 弟がどうしてうちは貧乏なのかと聞かれるが、話をすると涙がでそうなので弟の目線から避けて外を見ている。
どうしてそんなことを聞くのか弟に問うと、「今日は言われなかったが、学校に行っているときはいつも言われているよ。」と弟は言う。
「祐樹んちは給食だけで生きているだろう」「お風呂に入ることはあるの」とか。
「お姉ちゃんも同じことをよく言われているよ」美貴は胸の奥が痛くなってきた。
モデルはいませんが、長い間子どもに対する思いが強かったので、それで生まれたかなあと思います。
2003年に孫が生まれ命の大切さをしっかりと見せてもらいました。
孫の時には一歩引いてきちんと生きてゆく事はどういうことかという事を教わった気がします。
子どもは4歳で親を許そうと思うんです、だから未来に向かってできるんじゃないかなあと思います。
虐待で殺される子も実はお父さんお母さんを許しているんですよね。
それを何故判ってあげないのかと思ってしまいます。
私は姉と弟がいますが、姉が生まれる時に父は太平洋戦争で出征するときと重なって、残していくことの思いがあって、父は無事に帰ってきて私と弟が生まれました。
母親は二人目の時に男の子が欲しかったが、女の私でした。
父は姉、母は弟への思いが強くて、何となく疎まれているような思いがありました。
小学校の3年生の時に、年がら年中母に叱られていまして暗い夜に外に出されていましたが、弟が何かで叱られて、その時初めて弟が外に出されました。
物凄く外で泣いている声が聞こえて、私も外に一緒に出てあげるよと言えば、弟も家の中に入れてくれるものとおもっていったら、「じゃあ、あなたも外に出ていなさい。」といったんです。
怖くないよと弟を膝に抱いて歌を歌っていたら、母が雨戸を開けてオレンジ色の光が漏れてきて、弟は縁側を走って行って母に抱かれたんです。
今日はいいことをしたなと思ったんです。
母のところに行ったら、弟を抱いた手のもう一方の手で私を押したんです。
「信子は自分で出たいといったんだから出ていなさい。」と言ったんです。
雨戸を閉められてしまい、漏れていたオレンジ色の光が消えて一層暗く感じました。
母は間違えているんじゃないかとずーっと待っていましたが、開かなかったんです。
どんなことがあっても泣かなかったんですが、その時は声が漏れないように拳固を口に当てて泣きました。
今日はいいことをしたのになんで判ってくれないのか、心の中でいつか大人に子どもの心ってこういうものなんだよと、絶対判ってほしいと願いました。
母が雨戸を開けて、漏れてきた光を鮮明に覚えています。
夕焼けの色はこういうものだとか、雪の冷たさはこういうものだ、嘘もついていないのに平気で嘘をついたという事など、しっかり記憶しておこうと思ったのが原点です。
子どもって本当に純粋で大人よりも繊細です。
大人の一言で相当いろんなことが認知できるんです。
行きついた先が児童文学だったんです。
親にとっては子どもは何人もいるのかもしれませんが、子どもにとってはお母さんは一人、お父さんは一人なんですよね。
短大卒業して出版社に勤めて体を悪くしてしばらく休むことになり、家にいると母と一緒になり、「若いのになぜ働かないの」といわたりして、希望が無くなりました。
読んりだ本のジェーン・エアが自分事のように思えて、自殺を考えて遺書をしたためて机に遺書を置いて、高崎で降りしきる雪を観ながら回顧していたら、そうだ私にはロチェスター(ジェーンと恋に落ち結婚する)の夢があるんだと思いました。
彼と出会ったのが23歳の時で16歳年上なので当然結婚していると思っていましたが、手を握ったときには暖かくて、母の手だと思ってずーっと歩いているときずーっと泣いていました。
母に抱いてもらったり手を握ってもらった記憶はありませんでしたが、母の手でした。
夫は優しくて母のような手でした、豊かな愛をもらったような気がします。
2010年に夫を失って、改めて命の尊さを思い知り、そのうえでの「八月のひかり」なんです。
「八月のひかり」の最後のシーン。
8月14日美貴はなにもすることがなくTVをつけるとおばあさんが戦争のことを語っている。
戦争で両親、兄弟が殺されて、7歳で一人ぼっちになり何度も死にたいと思ったが、生きようと思って必死で食べ物を探しビー玉のようなジャガイモを生で食べ、道端に腐りかけたキャベツを見つけたりしてそれを食べて生きてきて、もうあんな悲しい気持ちを今の子どもたちにさせてはいけません、という風におばあさんが語ってるシーンがあり、美貴はある決心をして希望を感じさせるラストシーンとなる。
お金がないために物が溢れている世の中で、何も買えない子どもはこのおばあさんよりももしかしたらつらいのではないかと思いました。
飢えというものの苦しみは人間の根源の苦しみであるという事を大人に判ってほしい。
見せない貧困を今後どうやって生きていくんだろうと思いました。
クリスマスでイルミネーションが輝き、何万円もするおせちがが捨てられてゆく、この落差ってどうなんだろうと思います。
文学の根幹は児童文学ではないかと思います。
子どもは本を読むことによって人生観が変わることがある。
戦争では多くの才能のある人たちが帰らぬ人となってしまいました、書けることのありがたさをいつも感じています。
2019年12月26日木曜日
黒田泰三(明治神宮ミュージアム館長 ) ・【私のアート交遊録】美術を楽しむ自由な目とは?
黒田泰三(明治神宮ミュージアム館長 ) ・【私のアート交遊録】美術を楽しむ自由な目とは?
黒田さんは1954年福岡県生まれ、日本近世絵画史が専門です。
出光美術館学芸部長や理事を経てこの10月に明治神宮ミュージアム館長に就任されました。
明治神宮ミュージアム館は来年に鎮座100年を迎える鎮座100年祭の一環として開館しました。
設計は新国立競技場を手がけた建築家の隈研吾さんです。
ご祭神の明治天皇、昭憲皇太后ゆかりの品々をはじめ、明治神宮宝物殿からご祭神ゆかりの品々を移して収蔵しています。
館長に就任した黒田さんは学生時代から40年余り日本美術史を研究を続けています。
アニメの先がけともいわれる伴大納言絵巻、日本人が大好きな長谷川等伯の松林図屏風、伊藤若冲の動植彩絵などを例に黒田さんに自由な目で見ると、どう日本絵画の面白さが増すのか、明治神宮の宝物の持つ魅力と合わせて話を伺いました。
専門が日本近世絵画史。
子どもの頃からを絵を描くのが好きでした。
小学校6年生の時にスケッチをするときに、当時さびれた街の絵を描いたら先生が私の色使いをとても心配しました。
黒、暗いグレー、焦げ茶色とかを多用したら、この子は問題があるのではないかと親が呼び出されました。
中学でも田園風景をスケッチに行ったときに書きたかった遠くの山を小さく書いたら、大きく書かないと伝わらないといわれて、エッと思ったんですが、葛飾北斎の富士山も小さく書いているので、後から思うとそれでもよかったんじゃないかと思いました。
高校の時に美術の授業で石膏を使ったデッサンをやっていた時に、線で立方体をかいたら「黒田、世の中に線というのは無いんだ、全部面の組み合わせなんだ。」といわれて、面白いと思いました。
大学では美楽美術史という研究室に入りました。
母が鉛筆で絵を描くのが好きでした。
大学が福岡にあったので福岡周辺お寺の仏教美術の調査をやっていて、毎週お寺神社に行っていて、日本の美術が肌に合ったようでした。
浮世絵が好きでしたが、日本近世絵画史の道に行きました。
平安の絵巻、鎌倉の水墨画、室町の屏風など美の変遷みたいなことを日本美術史を学びながら知ることになりました。
日本人の表象能力の可能性みたいなことをずーっと考え続ける学問だと思ったので刺激的な内容だと思うようになって、取り上げる作品が生まれた時代が平安から室町と広かったので、日本美術史を総覧できるような美の変遷を考えることができたので 、日本人はいろんなことを考えて、いろんな形や色を使ってその時々に受け入れれることを知ることができて、幸せな時間を与えくれたような気がします。
日本近世絵画史としては、まず狩野派という画家集団があって250年ぐらい画壇を引っ張っていくわけですが、いい場面、悪い場面が、狩野派がいたことによって美術史が染まってゆくところもあります。
安土桃山時代から江戸初期にかけては狩野派が優れた表現力、アイディアだったが、その後マンネリ化の批判を受けるようになる。
その前、狩野永徳、狩野探幽の時代に、アンチ狩野派がいたから全体が面白く豊かになって行くという事を初期の日本近世絵画史から学びました。
私が学芸員になりたてのころは全く日本美術には興味を持たれていない時代でした。
それを思うと隔世の感があります。
絵巻、伴大納言絵巻はアニメの源流という言い方をすることができる。
伊藤若冲、江戸時代後半(狩野派がマンネリ化する)アンチ狩野派の花が咲くが、ポップアート、軽い色彩、ちょっと形が加工された面白さというところに惹かれているようにも見える、現代のアートに通じる要素だと思う。
長谷川等伯の松林図屏風、人を癒す力があると思いました。
濃い墨と薄い墨を絶妙に組み合わせていって、観ていて心を落ちるかせるような墨の使い方、筆の使い方があると思います。
長谷川等伯の心の風景ではないかと思うようになりまして、一番プレッシャーを受けた仕事が京都の智積院に残っているが、その前に祥雲寺というお寺のために書いて、それがそっくりそのまま残っているが、秀吉の子ども鶴丸が3歳で亡くなりその菩提寺になっているが、それまで狩野派が秀吉関係の仕事を全部やってきていた。
しかし長谷川等伯に依頼が来た。
長谷川等伯には狩野派を越えたいという野望があり引き受けたがプレッシャーを感じた。
秀吉に駄目だと言われたらそこでおしまいになるし、3回忌の法要という時間の期限もあるということで凄いプレッシャーになった。
自分自身に対するやって行けるかという根本的な不安もあり、命がけという思いがあり、そういった時に松林図屏風を描いたと思います。
観る人にそういったなにかを訴える力がこもっているんだと思います。
絵の中に入るようなつもりで絵を見る。
例えば松林図屏風を見る時に、松林図屏風という世界に自分が入って言ったらどうかという事を考えるわけです。
絵との距離が縮まる感覚が味わえる。
絵の中に書いてるものをひとつづつ言葉に置き換えていけば、画面の中に近づいていく感覚になれると思う。
一つ一つのモチーフを自分の言葉で語ってゆく。
例えば松林図屏風を見る時に、一番右にちょっと左に傾いた松がある、その左にちょっと薄めの松の木がある、五本松の木があるとその左に余白がある、その左に又松の木がある、松の木の特徴、枝の本数、葉っぱの書き方が激しいとか自分で気が付いたことを言葉に置き換えてゆくと、絵までの距離が無くなる感覚になってゆく。
掛け軸の山水図は下から見て行く暗黙のルールがあるので、下から順番に同じようにしてゆくと、十分楽しめます。
明治神宮ミュージアム、明治神宮を知っていただく、明治神宮の森を知っていただくための情報を発信する場所としての施設です。
宝物殿が国の重要文化財になり建物を守らなくてはいけない、別館も展示環境が万全ではないという事もあり、明治神宮も来年鎮座100年を迎えるという事もあり、新たな展示施設、保存施設を作りたいとうう事で明治神宮ミュージアムを作ることになりました。
、明治時代の歴史的な側面だけではなくて、形あるものの美しさを通して明治神宮への理解、明治天皇、皇太后への理解を一層深めていただきたいと考えるようになりました。
明治天皇のおめしになったもの、皇太后のおめしになったドレスなどしっかりできていて細部が非常に美しいという事を伝えたいです。
日本の美の特徴は細部にこだわったことにあると思います。
日本人の自然観、神秘的なものに対して畏敬の念を持つ、自分は謙虚なものとして自然に接するという事を思い知らされた気がしました。
折り目正しさが細部に美を宿らせているという事を、支えているのではないかと思うようになりました。
明治神宮ミュージアムに来た人日本人、外国人に折り目正しさを知っていただければと思っています。
明治天皇が乗られた馬車(6頭曳き儀装馬車 イギリス製)が好きですね。
木があると
。
黒田さんは1954年福岡県生まれ、日本近世絵画史が専門です。
出光美術館学芸部長や理事を経てこの10月に明治神宮ミュージアム館長に就任されました。
明治神宮ミュージアム館は来年に鎮座100年を迎える鎮座100年祭の一環として開館しました。
設計は新国立競技場を手がけた建築家の隈研吾さんです。
ご祭神の明治天皇、昭憲皇太后ゆかりの品々をはじめ、明治神宮宝物殿からご祭神ゆかりの品々を移して収蔵しています。
館長に就任した黒田さんは学生時代から40年余り日本美術史を研究を続けています。
アニメの先がけともいわれる伴大納言絵巻、日本人が大好きな長谷川等伯の松林図屏風、伊藤若冲の動植彩絵などを例に黒田さんに自由な目で見ると、どう日本絵画の面白さが増すのか、明治神宮の宝物の持つ魅力と合わせて話を伺いました。
専門が日本近世絵画史。
子どもの頃からを絵を描くのが好きでした。
小学校6年生の時にスケッチをするときに、当時さびれた街の絵を描いたら先生が私の色使いをとても心配しました。
黒、暗いグレー、焦げ茶色とかを多用したら、この子は問題があるのではないかと親が呼び出されました。
中学でも田園風景をスケッチに行ったときに書きたかった遠くの山を小さく書いたら、大きく書かないと伝わらないといわれて、エッと思ったんですが、葛飾北斎の富士山も小さく書いているので、後から思うとそれでもよかったんじゃないかと思いました。
高校の時に美術の授業で石膏を使ったデッサンをやっていた時に、線で立方体をかいたら「黒田、世の中に線というのは無いんだ、全部面の組み合わせなんだ。」といわれて、面白いと思いました。
大学では美楽美術史という研究室に入りました。
母が鉛筆で絵を描くのが好きでした。
大学が福岡にあったので福岡周辺お寺の仏教美術の調査をやっていて、毎週お寺神社に行っていて、日本の美術が肌に合ったようでした。
浮世絵が好きでしたが、日本近世絵画史の道に行きました。
平安の絵巻、鎌倉の水墨画、室町の屏風など美の変遷みたいなことを日本美術史を学びながら知ることになりました。
日本人の表象能力の可能性みたいなことをずーっと考え続ける学問だと思ったので刺激的な内容だと思うようになって、取り上げる作品が生まれた時代が平安から室町と広かったので、日本美術史を総覧できるような美の変遷を考えることができたので 、日本人はいろんなことを考えて、いろんな形や色を使ってその時々に受け入れれることを知ることができて、幸せな時間を与えくれたような気がします。
日本近世絵画史としては、まず狩野派という画家集団があって250年ぐらい画壇を引っ張っていくわけですが、いい場面、悪い場面が、狩野派がいたことによって美術史が染まってゆくところもあります。
安土桃山時代から江戸初期にかけては狩野派が優れた表現力、アイディアだったが、その後マンネリ化の批判を受けるようになる。
その前、狩野永徳、狩野探幽の時代に、アンチ狩野派がいたから全体が面白く豊かになって行くという事を初期の日本近世絵画史から学びました。
私が学芸員になりたてのころは全く日本美術には興味を持たれていない時代でした。
それを思うと隔世の感があります。
絵巻、伴大納言絵巻はアニメの源流という言い方をすることができる。
伊藤若冲、江戸時代後半(狩野派がマンネリ化する)アンチ狩野派の花が咲くが、ポップアート、軽い色彩、ちょっと形が加工された面白さというところに惹かれているようにも見える、現代のアートに通じる要素だと思う。
長谷川等伯の松林図屏風、人を癒す力があると思いました。
濃い墨と薄い墨を絶妙に組み合わせていって、観ていて心を落ちるかせるような墨の使い方、筆の使い方があると思います。
長谷川等伯の心の風景ではないかと思うようになりまして、一番プレッシャーを受けた仕事が京都の智積院に残っているが、その前に祥雲寺というお寺のために書いて、それがそっくりそのまま残っているが、秀吉の子ども鶴丸が3歳で亡くなりその菩提寺になっているが、それまで狩野派が秀吉関係の仕事を全部やってきていた。
しかし長谷川等伯に依頼が来た。
長谷川等伯には狩野派を越えたいという野望があり引き受けたがプレッシャーを感じた。
秀吉に駄目だと言われたらそこでおしまいになるし、3回忌の法要という時間の期限もあるということで凄いプレッシャーになった。
自分自身に対するやって行けるかという根本的な不安もあり、命がけという思いがあり、そういった時に松林図屏風を描いたと思います。
観る人にそういったなにかを訴える力がこもっているんだと思います。
絵の中に入るようなつもりで絵を見る。
例えば松林図屏風を見る時に、松林図屏風という世界に自分が入って言ったらどうかという事を考えるわけです。
絵との距離が縮まる感覚が味わえる。
絵の中に書いてるものをひとつづつ言葉に置き換えていけば、画面の中に近づいていく感覚になれると思う。
一つ一つのモチーフを自分の言葉で語ってゆく。
例えば松林図屏風を見る時に、一番右にちょっと左に傾いた松がある、その左にちょっと薄めの松の木がある、五本松の木があるとその左に余白がある、その左に又松の木がある、松の木の特徴、枝の本数、葉っぱの書き方が激しいとか自分で気が付いたことを言葉に置き換えてゆくと、絵までの距離が無くなる感覚になってゆく。
掛け軸の山水図は下から見て行く暗黙のルールがあるので、下から順番に同じようにしてゆくと、十分楽しめます。
明治神宮ミュージアム、明治神宮を知っていただく、明治神宮の森を知っていただくための情報を発信する場所としての施設です。
宝物殿が国の重要文化財になり建物を守らなくてはいけない、別館も展示環境が万全ではないという事もあり、明治神宮も来年鎮座100年を迎えるという事もあり、新たな展示施設、保存施設を作りたいとうう事で明治神宮ミュージアムを作ることになりました。
、明治時代の歴史的な側面だけではなくて、形あるものの美しさを通して明治神宮への理解、明治天皇、皇太后への理解を一層深めていただきたいと考えるようになりました。
明治天皇のおめしになったもの、皇太后のおめしになったドレスなどしっかりできていて細部が非常に美しいという事を伝えたいです。
日本の美の特徴は細部にこだわったことにあると思います。
日本人の自然観、神秘的なものに対して畏敬の念を持つ、自分は謙虚なものとして自然に接するという事を思い知らされた気がしました。
折り目正しさが細部に美を宿らせているという事を、支えているのではないかと思うようになりました。
明治神宮ミュージアムに来た人日本人、外国人に折り目正しさを知っていただければと思っています。
明治天皇が乗られた馬車(6頭曳き儀装馬車 イギリス製)が好きですね。
木があると
。
2019年12月25日水曜日
森 昭彦(サイエンス・ジャーナリスト) ・【心に花を咲かせて】野菜の不思議にみせられて
森 昭彦(サイエンス・ジャーナリスト) ・【心に花を咲かせて】野菜の不思議にみせられて
森さんは野菜は知れば知るほど面白いと言います。
日本にある野菜はもともと海外から日本に入ってきて定着したものが多いそうで、原産地周辺に残る原種や原種に近い品種が色も風味もまるで違っていたり、使われ方に吃驚するものがあったり、野菜にまつわる伝説や伝承も面白く、その地域での野菜と人との関わりが見えてきて興味深いそうです。
確かに森さんが書かれた本を読みますと野菜についての知らない話に驚きの連続でした。
森さんに興味深い野菜の話や何故野菜のことを調べるようになったのか伺います。
最近野菜の売り場にいくと今まで見たことのないような野菜が並ぶようになりました。
ロマネスコ、チコリトレビーゾ、ベルギーエシャロットとかなんだかわからない野菜があります。
若い人たちが新しい野菜を集中的に育ててイタリアンレストランにおろしたりする方々が増えてきました。
日本古来からある野菜は実はものすごく限られていて、ウリ、ナス、大根などは海外から入って来た野菜です。
平安、安土桃山、一番多かったのが江戸から明治にかけて、どんどん多くなってきました。
日本の売り場で普通に並んでいる野菜は約150種類ぐらいです。
野菜は時代によって変わってきます。
ヒユ、アザミ、ナズナ、タデ、セリも昔は野菜として育てられていました。
湯がいてお浸し、魚の付け合わせなどに使われてきました。
日本人は魚が好きで当たる方がいて、食あたりを防ぐためにタデなどは付け合わされるようになりました。
刺身などに赤い小さな双葉がてんこ盛りでついていますが、タデの赤ちゃんの双葉でそれを食べることで生魚に当たるのを防ぐのが、平安時代の宮廷貴族のたしなみだったんです。
ヒユは今も山菜料理として使われています。
おひたし、炒め物で使われます。
イヌビユというヒユは葉の先がハート型になっていて、日本に古く帰化した種類で癖がなくおいしいです。
スベリヒユは野草として食べます。
夏場にそうめんの薬味として食べられます。
ヨーロッパでも野菜という概念ができたのは中世以降です。
その前に野菜というと豆類しかなかった。
ソラマメも芽生え、茎葉の柔らかい所は塩ゆでしたり、スープに入れたりして食べていました。
人の動きのあるところには必ず美味い植物はついていきました。
ジャガイモ、玉ねぎなどヨーロッパに入って来たのは16世紀になってからになります。
ジャガイモ、トマトは入った当時は大不評で食べなかったそうです。
ジャガイモはナス科の植物で、その前にナス科の植物は有毒植物があふれていてこれに当たる人が多発して問題になっていました。
ジャガイモはナス科の植物という事で、ジャガイモは毒物だというイメージがついてしまいました。
毒はジャガイモの芽だけではなくて皮の部分にもあります。
でも陽の当らないところで管理すれば、皮も食べても大丈夫です。
電気の当るところでも、生きているジャガイモは駄目です。
傷ついたところを守ろうとして有毒な物質を出して守ろうとします。
売れ残って芽がでていたり、皮がうっすら緑がかっていると当たりやすいです。
当たると頭痛、めまい、吐き気に襲われ苦しみます。
スイカの原産はアフリカの中央部で、人に運ばれて古代エジプト文明にたどり着いて、苦いため薬草として使われていました。
ビー玉のおおきいものぐらいで小さかった。
有毒植物で、その中の種を取って薬用にしていました。
ウリとかキュウリとかと交配したりして、少しずつ大きくなってきて甘みも出てきました。
地中海を渡ってローマに2000年前ぐらいに到着してやや甘くなってきたそうです。
身は使われずに多くは種と皮が使われていました。
皮の白い果肉部分は絞って目薬にしていました。
皮でごしごしすると肌つやが良くなる。
スイカの根っこを乾燥させ粉末にして美容液として肌に付けて貴婦人たちは色つやを守っていた。
抗酸化物質が皮に多くあり、コラーゲンとかの組成を助ける可能性があるのではないかという論文がいくつか出ています。(緑の部分と白い部分との境目)
種の中身を出して、から入りするとおいしいです、中東では行われています。
スイカを焚火の中に入れて焦げたものを粉末にして布に入れ、火をつけると爆発するような火花が散って燃え始めて、ちょっとした火薬の原料とかに使われていました。
煮炊きのための火付けの素材として家庭の主婦が使っていました。
バングラディッシュなどではスイカの種を脳の強壮剤として使われていた。
今新しい野菜が入ってきています。
イタリアで栽培されているパースレイン、日本にはいってきて盛んに栽培され始めています。
見た目はスベリヒユが大きくなった感じです。
ミネラル、ビタミンがたっぷりで肉魚料理にも合って生でも食べられます。
ロシアは敗血症を起こしやすかった、ニンニクを摺り下ろして直接患部に塗るが沁みないんです。
ニンニクの成分には炎症を鎮めたり、痛みを鎮めたり、ばい菌を寄せ付けないなどの作用があります。
ロシアでは重要軍事物資として第一次、第二次世界戦で大いに利用されました。
ソラマメは恋愛に使われたそうです。
イギリスのおじいさんおばあさんがたは「お前に気に入った娘がいたら負ぶって、ソラマメ畑まで連れていけ、そうしたら彼女はお前のものだ」といったそうです。
花の匂いは甘い香りがして幸せな気分になるんです。
男女の恋愛の炎を燃え上がらせるといわれていました。
春の日にキャベツ畑に男女が集う会が昔あり、相手が自分の結婚相手にふさわしいかどうかの占いをして、キャベツを引っこ抜いて、土の量が多いと伴侶はお金持ち、少ないと貧乏人、根っこが太ければいい男、細ければ貧相な男、という事で占いをするそうです。
日本の場合はそういった伝承はあったと思いますが、忘れられてしまったようで伝わってきていないです。
キャベツのもっているキャベジンはs-メチルメチオニンは胃だけでなくて腸にも正してくれます。
キャベツに含まれるビタミンは豊富でB1、B2は肝機能を補強したり保護してくれるのではないかという事で注目されました。
蒸して食べるとビタミン類の損傷がほとんどないです。
生だとお腹が膨れてガスがたまったりします、食べ慣れていないと不要なガスが出てきてしまいます。
野菜に興味を持つようになったのは100%妻の影響です。
妻は有機無農薬で野菜を育てているので、虫、雑草が多くなってしまってめんどうをみてほしいということになり野菜の触れる機会が多くなり、野菜について調べ始めているうちに面白くなってしまいました。
野菜は人の歩みと共に形、味も変わりました。
自分の身を守るため、特殊な畑という環境で生きるために自分たちの体を作り変えてきました。
レタスも毒草でした。
阿片、モルヒネが治療で使えない場合は、野生のレタスを使うぐらい麻酔の効果がありました。
土で育てたレタスはちょっと苦みがありますが、そこに含まれているラクチュコピクリンは苦みの元で麻薬性物質になっていて虫の害から自分を守ろという事を堅持しています。
2年ぐらい前に帯状疱疹になってご飯が食べられなくなって、野菜なら食べられて私は最近では8割以上は野菜でほかに肉、魚などを食べています。
森さんは野菜は知れば知るほど面白いと言います。
日本にある野菜はもともと海外から日本に入ってきて定着したものが多いそうで、原産地周辺に残る原種や原種に近い品種が色も風味もまるで違っていたり、使われ方に吃驚するものがあったり、野菜にまつわる伝説や伝承も面白く、その地域での野菜と人との関わりが見えてきて興味深いそうです。
確かに森さんが書かれた本を読みますと野菜についての知らない話に驚きの連続でした。
森さんに興味深い野菜の話や何故野菜のことを調べるようになったのか伺います。
最近野菜の売り場にいくと今まで見たことのないような野菜が並ぶようになりました。
ロマネスコ、チコリトレビーゾ、ベルギーエシャロットとかなんだかわからない野菜があります。
若い人たちが新しい野菜を集中的に育ててイタリアンレストランにおろしたりする方々が増えてきました。
日本古来からある野菜は実はものすごく限られていて、ウリ、ナス、大根などは海外から入って来た野菜です。
平安、安土桃山、一番多かったのが江戸から明治にかけて、どんどん多くなってきました。
日本の売り場で普通に並んでいる野菜は約150種類ぐらいです。
野菜は時代によって変わってきます。
ヒユ、アザミ、ナズナ、タデ、セリも昔は野菜として育てられていました。
湯がいてお浸し、魚の付け合わせなどに使われてきました。
日本人は魚が好きで当たる方がいて、食あたりを防ぐためにタデなどは付け合わされるようになりました。
刺身などに赤い小さな双葉がてんこ盛りでついていますが、タデの赤ちゃんの双葉でそれを食べることで生魚に当たるのを防ぐのが、平安時代の宮廷貴族のたしなみだったんです。
ヒユは今も山菜料理として使われています。
おひたし、炒め物で使われます。
イヌビユというヒユは葉の先がハート型になっていて、日本に古く帰化した種類で癖がなくおいしいです。
スベリヒユは野草として食べます。
夏場にそうめんの薬味として食べられます。
ヨーロッパでも野菜という概念ができたのは中世以降です。
その前に野菜というと豆類しかなかった。
ソラマメも芽生え、茎葉の柔らかい所は塩ゆでしたり、スープに入れたりして食べていました。
人の動きのあるところには必ず美味い植物はついていきました。
ジャガイモ、玉ねぎなどヨーロッパに入って来たのは16世紀になってからになります。
ジャガイモ、トマトは入った当時は大不評で食べなかったそうです。
ジャガイモはナス科の植物で、その前にナス科の植物は有毒植物があふれていてこれに当たる人が多発して問題になっていました。
ジャガイモはナス科の植物という事で、ジャガイモは毒物だというイメージがついてしまいました。
毒はジャガイモの芽だけではなくて皮の部分にもあります。
でも陽の当らないところで管理すれば、皮も食べても大丈夫です。
電気の当るところでも、生きているジャガイモは駄目です。
傷ついたところを守ろうとして有毒な物質を出して守ろうとします。
売れ残って芽がでていたり、皮がうっすら緑がかっていると当たりやすいです。
当たると頭痛、めまい、吐き気に襲われ苦しみます。
スイカの原産はアフリカの中央部で、人に運ばれて古代エジプト文明にたどり着いて、苦いため薬草として使われていました。
ビー玉のおおきいものぐらいで小さかった。
有毒植物で、その中の種を取って薬用にしていました。
ウリとかキュウリとかと交配したりして、少しずつ大きくなってきて甘みも出てきました。
地中海を渡ってローマに2000年前ぐらいに到着してやや甘くなってきたそうです。
身は使われずに多くは種と皮が使われていました。
皮の白い果肉部分は絞って目薬にしていました。
皮でごしごしすると肌つやが良くなる。
スイカの根っこを乾燥させ粉末にして美容液として肌に付けて貴婦人たちは色つやを守っていた。
抗酸化物質が皮に多くあり、コラーゲンとかの組成を助ける可能性があるのではないかという論文がいくつか出ています。(緑の部分と白い部分との境目)
種の中身を出して、から入りするとおいしいです、中東では行われています。
スイカを焚火の中に入れて焦げたものを粉末にして布に入れ、火をつけると爆発するような火花が散って燃え始めて、ちょっとした火薬の原料とかに使われていました。
煮炊きのための火付けの素材として家庭の主婦が使っていました。
バングラディッシュなどではスイカの種を脳の強壮剤として使われていた。
今新しい野菜が入ってきています。
イタリアで栽培されているパースレイン、日本にはいってきて盛んに栽培され始めています。
見た目はスベリヒユが大きくなった感じです。
ミネラル、ビタミンがたっぷりで肉魚料理にも合って生でも食べられます。
ロシアは敗血症を起こしやすかった、ニンニクを摺り下ろして直接患部に塗るが沁みないんです。
ニンニクの成分には炎症を鎮めたり、痛みを鎮めたり、ばい菌を寄せ付けないなどの作用があります。
ロシアでは重要軍事物資として第一次、第二次世界戦で大いに利用されました。
ソラマメは恋愛に使われたそうです。
イギリスのおじいさんおばあさんがたは「お前に気に入った娘がいたら負ぶって、ソラマメ畑まで連れていけ、そうしたら彼女はお前のものだ」といったそうです。
花の匂いは甘い香りがして幸せな気分になるんです。
男女の恋愛の炎を燃え上がらせるといわれていました。
春の日にキャベツ畑に男女が集う会が昔あり、相手が自分の結婚相手にふさわしいかどうかの占いをして、キャベツを引っこ抜いて、土の量が多いと伴侶はお金持ち、少ないと貧乏人、根っこが太ければいい男、細ければ貧相な男、という事で占いをするそうです。
日本の場合はそういった伝承はあったと思いますが、忘れられてしまったようで伝わってきていないです。
キャベツのもっているキャベジンはs-メチルメチオニンは胃だけでなくて腸にも正してくれます。
キャベツに含まれるビタミンは豊富でB1、B2は肝機能を補強したり保護してくれるのではないかという事で注目されました。
蒸して食べるとビタミン類の損傷がほとんどないです。
生だとお腹が膨れてガスがたまったりします、食べ慣れていないと不要なガスが出てきてしまいます。
野菜に興味を持つようになったのは100%妻の影響です。
妻は有機無農薬で野菜を育てているので、虫、雑草が多くなってしまってめんどうをみてほしいということになり野菜の触れる機会が多くなり、野菜について調べ始めているうちに面白くなってしまいました。
野菜は人の歩みと共に形、味も変わりました。
自分の身を守るため、特殊な畑という環境で生きるために自分たちの体を作り変えてきました。
レタスも毒草でした。
阿片、モルヒネが治療で使えない場合は、野生のレタスを使うぐらい麻酔の効果がありました。
土で育てたレタスはちょっと苦みがありますが、そこに含まれているラクチュコピクリンは苦みの元で麻薬性物質になっていて虫の害から自分を守ろという事を堅持しています。
2年ぐらい前に帯状疱疹になってご飯が食べられなくなって、野菜なら食べられて私は最近では8割以上は野菜でほかに肉、魚などを食べています。
2019年12月24日火曜日
大橋洋平(医師) ・患者風を吹かせて ~緩和ケア医ががんになって
大橋洋平(医師) ・患者風を吹かせて ~緩和ケア医ががんになって
大橋さんは1963年三重県生まれ、三重大学医学部を卒業後、総合病院に内科医として勤務していましたが、終末期医療に関心を持ち2003年大阪の淀川キリスト教病院でホスピス研修を受けました。
まだ緩和ケアという言葉が広まる前で、終末期の心と体を支える総合的な医療の筆頭がホスピスだったのです。
その後現在も非常勤で勤める愛知県の病院で緩和ケア医として働き始めました。
医師生活30周年の2018年、去年の6月にご自身のがんが見つかって手術、抗がん剤治療を続けながら仕事を続ける一方、新聞への投稿をきっかけに講演や執筆を通してご自身の経験を発信しています。
現在はいい時もあれば悪い時もあり波があります。
抗がん剤治療中で副作用もあるが、全体的に見ると外出もできるし、自分の中ではいい方だと思っています。
消化管、胃の中から大量に出血をして、下血、真っ黒い便が出たのが最初です。
午前3時ごろトイレにかけこむと真っ黒いものが出て、部屋に戻って間もなく2回目の下血がでて、間違いなく出血であると判断して、胃がんではないかと腹をくくりました。
がんの告知をされましたが、冷静には聞けました。
腫瘍はかなり大きかったです、10cmぐらいあり吃驚しました。
悪性度は5ぐらいならばいいなあと思っていましたが、181あり、これを聞いた時にも一桁違うのではないかと吃驚しました。
飲み薬の抗がん剤の治療が始まりましたが苦しかったです。
手がしびれるとか、食べられないとか、味覚がやられるとかは患者さんから聞いてはいましたが、半信半疑のところもありました。
自分が始めると、食欲がでなくて、吐き気があり、消化液が逆流してのど焼けなどがありまして、まっすぐな姿勢で寝られませんでした。
大学を卒業をして内科医を10年余りやってた時に、消化器系の内科の患者さんにかかわっていました。
胃がん、肝臓がんなど外科手術をしたりして、治療が難しくなると内科で見ていたことが多かったんです。
終末期の人もいて、20年前にはがんという事を知らされずにいた人達がいました。
当人は段々身体が衰えてくるのが判り、腫物に触るようにして時が過ぎて行き、いつか患者さんとのお別れが来る。
或るとき、ふっとあの方々ががんと知っていたら、また違った生き方もあったかもしれないと思いました。
がんの告知さえも、その技術、経験、知識も持ち合わせがなく引き下がっていました。
終末期の患者さんにかかわるような医者はまだ当時いなくて、そういうところにかかわっていけたらいいなあと思い、ホスピス緩和ケア医を目指しました。
病院を辞めて、経済的にも厳しさがありました。
ホスピスを長年やっている病院で働けたら良いなあと思っていたら、淀川キリスト教病院で1年間研修させてもらえるというご縁がありました。(40歳ぐらいの時)
自分の大阪での生活、家族を養うとなると多少の給料はもらえましたが、難しい状況ではありました。
妻も看護師なのでホスピスに関心があり、私よりも先に知識とか研修とかも受けに行っていましたので、導いてくれたのかもしれないです。
愛知県の緩和ケア病棟では平日の夜間、休日も緩和ケアの医者が応対する体制になっていて、夜間、休日は当番制でした。
拘束されるところもあり常勤を辞めて非常勤にさせてもらいました。
病気をしてからも私の中では仕事に復帰しやすかったなというのがあります。
患者風を吹かせる・・・その方が気楽に生きられると思います。
患者ではない人たちから比べると弱い立場だと思います。
自分が患者であることをオープンにして大げさに言うぐらいの方が楽に生きれると思って、周りにもっと言いたいことを言って、場合によっては患者だからもっと気遣って、という様にした方がいいと思って私は言っています。
手術をして退院したときには食べられなくて、妻が茶碗に盛って食べさせようと持ってくるんですが、「そんなもの持ってくるな」と声を荒げたこともあります。
がんは苦しいなあと弱音も出ます。
手術の痕が30cmぐらいあり、その痛み、それとあくび、しゃっくりでも痛いし、くしゃみをすると激痛が走ります。(術後1か月は厳しかった)
術後は管が付くので拘束感がありなかなか動けないが、医師としては動くように指示していましたが、自分のことで気づきました。
「1年を振り返って」という事で募集がありました。
焦らなくていい、食べれなくてもいい、という思いが凄く楽になりました。
そういったことを書いてみようと思いました。
それが新聞に載ることができました。
色々反響がありました。
去年の11月頃までは食べなくてはと思って焦っていましたが、でも半年食べられなくても生きてこられたと思ってどうしていこうかと考えていたら、妻が「しぶとく生きたらいいんじゃないの」とつぶやいたんです。
よろよろよろけても倒れても地面を這ってでも生きていこう、これがしぶとくかなあと思って、一段と気楽に生きられるようになりました。
妻と息子がいなかったら、多分私は生きていないだろうし感謝感謝以外にないです。
多くのがん患者さんはこれからどのぐらい生きられるだろうと気になっていると思います。
データに基づいた余命はあるかもしれないが、自分としての余命は判らない。
判らないんだったら気にしてもしょうがない、だったら一日一日の積み重ねで足してゆく方が自分にはうれしいと思ったんです。
一日目をどこに決めるかですが、肝臓への転移が判った今年の4月8日です、これが私には気持ちが一番へこんだ日になりました。
4月8日を1日目としてやっています。
緩和ケアの医者として、医者を目指している人たちに何か示せたらいいと思って、がんて苦しい、患者さんて苦しいという事と、患者になると医者のことをとっても信頼するという事をつくづく感じています。
頼られるという事はやりがいにもなるし、医者の生き甲斐にもなるだろうし、医者になろうと目指している人たちに知らせたいと思っています。
終末に近い方が「先生は別に話など聞いてもらわなくてもいいんで、病気を治してほしかった。」といったんです。
その通りの部分もあると思いました。
しかし治療が難しくなったり治療ができなくなった時に、治療における技術、知識は役に立たない。
その時に力になるのが医者の言葉がけになってくると思います。
終末期がん患者に対するコミュニケーションはその技術、知識があってそれを学んでほしいと思います。
治療が難しくなってもコミュニケーションなどでいけばいいし、患者さんが救われるとそれに関わる医者ももっと楽にやっていけると思います。
獣医が動物が好きなように、人間のことがメチャクチャ好きだという人たちが医者を志してもらってもいいんじゃないか、将来人間力という事につながるのではないかと思っっています。
よりどころになっているのが好奇心、もう少し言うと出会いかなあと思っています。
新しい出会い、再会、こととの出会い、ものとの出会い、この出会いが支えになっています。
「一期一会」という言葉は好きですが、自分でアレンジして「一期二会」、最初で最後だったら再び会えない可能性があるが、次にまた会いたいという出会いにしたい。
大橋さんは1963年三重県生まれ、三重大学医学部を卒業後、総合病院に内科医として勤務していましたが、終末期医療に関心を持ち2003年大阪の淀川キリスト教病院でホスピス研修を受けました。
まだ緩和ケアという言葉が広まる前で、終末期の心と体を支える総合的な医療の筆頭がホスピスだったのです。
その後現在も非常勤で勤める愛知県の病院で緩和ケア医として働き始めました。
医師生活30周年の2018年、去年の6月にご自身のがんが見つかって手術、抗がん剤治療を続けながら仕事を続ける一方、新聞への投稿をきっかけに講演や執筆を通してご自身の経験を発信しています。
現在はいい時もあれば悪い時もあり波があります。
抗がん剤治療中で副作用もあるが、全体的に見ると外出もできるし、自分の中ではいい方だと思っています。
消化管、胃の中から大量に出血をして、下血、真っ黒い便が出たのが最初です。
午前3時ごろトイレにかけこむと真っ黒いものが出て、部屋に戻って間もなく2回目の下血がでて、間違いなく出血であると判断して、胃がんではないかと腹をくくりました。
がんの告知をされましたが、冷静には聞けました。
腫瘍はかなり大きかったです、10cmぐらいあり吃驚しました。
悪性度は5ぐらいならばいいなあと思っていましたが、181あり、これを聞いた時にも一桁違うのではないかと吃驚しました。
飲み薬の抗がん剤の治療が始まりましたが苦しかったです。
手がしびれるとか、食べられないとか、味覚がやられるとかは患者さんから聞いてはいましたが、半信半疑のところもありました。
自分が始めると、食欲がでなくて、吐き気があり、消化液が逆流してのど焼けなどがありまして、まっすぐな姿勢で寝られませんでした。
大学を卒業をして内科医を10年余りやってた時に、消化器系の内科の患者さんにかかわっていました。
胃がん、肝臓がんなど外科手術をしたりして、治療が難しくなると内科で見ていたことが多かったんです。
終末期の人もいて、20年前にはがんという事を知らされずにいた人達がいました。
当人は段々身体が衰えてくるのが判り、腫物に触るようにして時が過ぎて行き、いつか患者さんとのお別れが来る。
或るとき、ふっとあの方々ががんと知っていたら、また違った生き方もあったかもしれないと思いました。
がんの告知さえも、その技術、経験、知識も持ち合わせがなく引き下がっていました。
終末期の患者さんにかかわるような医者はまだ当時いなくて、そういうところにかかわっていけたらいいなあと思い、ホスピス緩和ケア医を目指しました。
病院を辞めて、経済的にも厳しさがありました。
ホスピスを長年やっている病院で働けたら良いなあと思っていたら、淀川キリスト教病院で1年間研修させてもらえるというご縁がありました。(40歳ぐらいの時)
自分の大阪での生活、家族を養うとなると多少の給料はもらえましたが、難しい状況ではありました。
妻も看護師なのでホスピスに関心があり、私よりも先に知識とか研修とかも受けに行っていましたので、導いてくれたのかもしれないです。
愛知県の緩和ケア病棟では平日の夜間、休日も緩和ケアの医者が応対する体制になっていて、夜間、休日は当番制でした。
拘束されるところもあり常勤を辞めて非常勤にさせてもらいました。
病気をしてからも私の中では仕事に復帰しやすかったなというのがあります。
患者風を吹かせる・・・その方が気楽に生きられると思います。
患者ではない人たちから比べると弱い立場だと思います。
自分が患者であることをオープンにして大げさに言うぐらいの方が楽に生きれると思って、周りにもっと言いたいことを言って、場合によっては患者だからもっと気遣って、という様にした方がいいと思って私は言っています。
手術をして退院したときには食べられなくて、妻が茶碗に盛って食べさせようと持ってくるんですが、「そんなもの持ってくるな」と声を荒げたこともあります。
がんは苦しいなあと弱音も出ます。
手術の痕が30cmぐらいあり、その痛み、それとあくび、しゃっくりでも痛いし、くしゃみをすると激痛が走ります。(術後1か月は厳しかった)
術後は管が付くので拘束感がありなかなか動けないが、医師としては動くように指示していましたが、自分のことで気づきました。
「1年を振り返って」という事で募集がありました。
焦らなくていい、食べれなくてもいい、という思いが凄く楽になりました。
そういったことを書いてみようと思いました。
それが新聞に載ることができました。
色々反響がありました。
去年の11月頃までは食べなくてはと思って焦っていましたが、でも半年食べられなくても生きてこられたと思ってどうしていこうかと考えていたら、妻が「しぶとく生きたらいいんじゃないの」とつぶやいたんです。
よろよろよろけても倒れても地面を這ってでも生きていこう、これがしぶとくかなあと思って、一段と気楽に生きられるようになりました。
妻と息子がいなかったら、多分私は生きていないだろうし感謝感謝以外にないです。
多くのがん患者さんはこれからどのぐらい生きられるだろうと気になっていると思います。
データに基づいた余命はあるかもしれないが、自分としての余命は判らない。
判らないんだったら気にしてもしょうがない、だったら一日一日の積み重ねで足してゆく方が自分にはうれしいと思ったんです。
一日目をどこに決めるかですが、肝臓への転移が判った今年の4月8日です、これが私には気持ちが一番へこんだ日になりました。
4月8日を1日目としてやっています。
緩和ケアの医者として、医者を目指している人たちに何か示せたらいいと思って、がんて苦しい、患者さんて苦しいという事と、患者になると医者のことをとっても信頼するという事をつくづく感じています。
頼られるという事はやりがいにもなるし、医者の生き甲斐にもなるだろうし、医者になろうと目指している人たちに知らせたいと思っています。
終末に近い方が「先生は別に話など聞いてもらわなくてもいいんで、病気を治してほしかった。」といったんです。
その通りの部分もあると思いました。
しかし治療が難しくなったり治療ができなくなった時に、治療における技術、知識は役に立たない。
その時に力になるのが医者の言葉がけになってくると思います。
終末期がん患者に対するコミュニケーションはその技術、知識があってそれを学んでほしいと思います。
治療が難しくなってもコミュニケーションなどでいけばいいし、患者さんが救われるとそれに関わる医者ももっと楽にやっていけると思います。
獣医が動物が好きなように、人間のことがメチャクチャ好きだという人たちが医者を志してもらってもいいんじゃないか、将来人間力という事につながるのではないかと思っっています。
よりどころになっているのが好奇心、もう少し言うと出会いかなあと思っています。
新しい出会い、再会、こととの出会い、ものとの出会い、この出会いが支えになっています。
「一期一会」という言葉は好きですが、自分でアレンジして「一期二会」、最初で最後だったら再び会えない可能性があるが、次にまた会いたいという出会いにしたい。
2019年12月23日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・太宰治【絶望名言】(初回:2017.4.24)
頭木弘樹(文学紹介者) ・太宰治【絶望名言】(初回:2017.4.24)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/04/blog-post_95.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/04/blog-post_95.htmlをご覧ください。
2019年12月22日日曜日
今野 徹(国産チーズ専門店・代表) ・【"美味しい"仕事人】チーズの声を届けたい
今野 徹(国産チーズ専門店・代表) ・【"美味しい"仕事人】チーズの声を届けたい
国産のナチュラルチーズが人気を集めています。
中でも酪農王国北海道のチーズは工房数の増加とともにクオリティーが高まり、国際コンクールでも評価を得ています。
国産チーズ専門店、この店は国内のチーズ生産者自らが共同出資する形で作られた初めての店で、国産のみを取り扱うチーズ専門店です。
今野さんは北海道庁の元職員で道庁で勤務していた時も、農林水産省に出向している間も、酪農家など全国の生産者との交流を通じて日本の食について考えてきました。
国産チーズの専門店の立上げは、生産現場と消費者をつなぐ役割を果たしたいとの強い思いからでした。
美味しいチーズができるまでの背景にある情報や生産者の思いをチーズの声として、消費者に伝えていきたという今野さんに伺いました。
店には常時50~80種類の北海道産のナチュラルチーズが置いてあります。
チーズは生もの、生き物なので真空パックしてしまうとビニールの臭さも付きますし、チーズも息ができないようになってしまうので店で切ったものを出しています。
同じ作り方をしても同じチーズにはならないし、原料の生乳はエサも違うし水も違うし、牛も一頭一頭個性があるので違います。
10㎏の生乳から1㎏のチーズができますので、1/10になるので個性が濃縮されるのでドンドン個性が出てきます。
草の栄養素も違うし絞った時期によっても違います。
北海道には300種類ぐらいあります。
他の県のチーズを合わせると400、500種類以上のチーズを店では扱っています。
すべて国産です。
チーズの本場はヨーロッパの印象がありますが、技術も学んで基礎知識もしっかりして技術の研鑽もしているので、逆にフランスなどから日本のチーズはこんなものがあるんだと言っていまして、国際的なコンクールでも賞をとるという様になってきています。
80,90年代にぽつりぽつりと出てきて、ヨーロッパに渡って乳製品の加工の学校に行ったりして、作って行って次の世代の方々が増えてきて、2000年からどんどん増えてきて、2019年代になってくると工房数が加速してきました。
生乳の出荷の6割が北海道です。
5月に新潟市で行われたG20農業大臣会合のレセプションで日本のチーズのプレゼンテーションを行いました。
食べていただいてエクセレントを言って、喜んでいただきました。
11月30日、12月1日に神戸でジャパンクラフトチーズエキスポというイベントを農水省のバックアップを受けて、日本で初めて日本のチーズの作り手が集まってPRするイベントを行いました。
大学、大学院を含めて酪農畜産の専門の大学を卒業後、道庁に入りました。
時間外にアイスクリームやチーズをつくっているところを取材して、アイスクリーム&チーズマップなどをホームページに発表したりしていました。
チーズの作り手に出会って感動して、感動を広げたいという活動は道庁の頃から続けて居ました。
自分たち自身が北海道のチーズはこれだけあるという事と、素晴らしいチーズがあるから食べてみないかという事を、家族友人に言ってもらうのは予算が無くてもできるので、チーズの斡旋会をしたり、詳細な解説をしていました。
それが当時の知事の目に留まって、知事が掲げるゼロ予算事業のいろいろな取り組みのトップに掲載されていただいたりしました。
消費拡大は役所での前向きな関係の構築の一助になったと思います。
農林水産庁に出向になりました。
自分の担当以外の見識を広げたいと、全国各地に飛び回りました。
2015年にTPP交渉が妥結して、農林水産庁に居たときに、自動車産業などの輸出産業と日本の農業のマイナスの部分が天秤に掛けられて、車のために農業は泣いてくれよという結論で、数値の比較だけで結論に達していたことに対して危機感を感じました。
もっときちんと食べ物とはねと、一対一で話せる場を作らなければいけないと思いました。
それが退職をして自分の会社を立ち上げる契機になったという背景がありました。
チーズの生産にかかわる内容の川上から川下まできちんと繋ぎ合わせて、こういう風な努力をしてここまで来たんだよという事が判れば、手を伸ばしてくれる方が増えるのではないかという自信、確信があったので、チーズを中心に食の考え方を変えてもらいたいというのがきっかけです。
食の生産にかかわる上流のいろいろなこと、文化を聞いたリ触れたりして、川上から川下までを縦の糸とすれば、それぞれの地域の良さを知ってそれが横の糸としてつなぎ合わさって面として、いろんなことが伝えられるのではないかと思いました。
北海道では酪農家が6000戸切るような状況ですが、生き残ってもらわないといけないので、草、土壌、風土などを伝えていきたいし、逆に風下から風上に声を届けるという事も必要だと思います。
株式会社なので株を工房の方がたにも買っていただいて出資してもらうという様なスタイルをとっています。
北海道ナショナルチーズコンシェルジュという肩書ですが、お客さんのニーズ、シチュエーションに寄り添って提案するという事をコンシェルジュとして、皆さんへのベストなものを提案しますという思いを込めて、この肩書にしています。
野菜の朝市も第二、第四土曜日に3年間やってきましたが、それを今年から常設化しました。
チーズ同様に野菜についても現地の声を伝えていきたいと思っています。
保育園児、幼稚園児に店でチーズ作りの一部体験をやってもらっています。
高校生、大学生のインターンも受け入れたりしています。
ちょっとした配慮でいい社会が作れると思うので、想像力を働かせ妊婦さんへ席を譲り合ったりすることが当たり前な世の中ができると思いますし、農業とか農村、そこに住んでいる人に魅入られてこの世界で生きていこうと思っているので、その分野の中で想像力を働かせるきっかけを作りたいと思います。
国産のナチュラルチーズが人気を集めています。
中でも酪農王国北海道のチーズは工房数の増加とともにクオリティーが高まり、国際コンクールでも評価を得ています。
国産チーズ専門店、この店は国内のチーズ生産者自らが共同出資する形で作られた初めての店で、国産のみを取り扱うチーズ専門店です。
今野さんは北海道庁の元職員で道庁で勤務していた時も、農林水産省に出向している間も、酪農家など全国の生産者との交流を通じて日本の食について考えてきました。
国産チーズの専門店の立上げは、生産現場と消費者をつなぐ役割を果たしたいとの強い思いからでした。
美味しいチーズができるまでの背景にある情報や生産者の思いをチーズの声として、消費者に伝えていきたという今野さんに伺いました。
店には常時50~80種類の北海道産のナチュラルチーズが置いてあります。
チーズは生もの、生き物なので真空パックしてしまうとビニールの臭さも付きますし、チーズも息ができないようになってしまうので店で切ったものを出しています。
同じ作り方をしても同じチーズにはならないし、原料の生乳はエサも違うし水も違うし、牛も一頭一頭個性があるので違います。
10㎏の生乳から1㎏のチーズができますので、1/10になるので個性が濃縮されるのでドンドン個性が出てきます。
草の栄養素も違うし絞った時期によっても違います。
北海道には300種類ぐらいあります。
他の県のチーズを合わせると400、500種類以上のチーズを店では扱っています。
すべて国産です。
チーズの本場はヨーロッパの印象がありますが、技術も学んで基礎知識もしっかりして技術の研鑽もしているので、逆にフランスなどから日本のチーズはこんなものがあるんだと言っていまして、国際的なコンクールでも賞をとるという様になってきています。
80,90年代にぽつりぽつりと出てきて、ヨーロッパに渡って乳製品の加工の学校に行ったりして、作って行って次の世代の方々が増えてきて、2000年からどんどん増えてきて、2019年代になってくると工房数が加速してきました。
生乳の出荷の6割が北海道です。
5月に新潟市で行われたG20農業大臣会合のレセプションで日本のチーズのプレゼンテーションを行いました。
食べていただいてエクセレントを言って、喜んでいただきました。
11月30日、12月1日に神戸でジャパンクラフトチーズエキスポというイベントを農水省のバックアップを受けて、日本で初めて日本のチーズの作り手が集まってPRするイベントを行いました。
大学、大学院を含めて酪農畜産の専門の大学を卒業後、道庁に入りました。
時間外にアイスクリームやチーズをつくっているところを取材して、アイスクリーム&チーズマップなどをホームページに発表したりしていました。
チーズの作り手に出会って感動して、感動を広げたいという活動は道庁の頃から続けて居ました。
自分たち自身が北海道のチーズはこれだけあるという事と、素晴らしいチーズがあるから食べてみないかという事を、家族友人に言ってもらうのは予算が無くてもできるので、チーズの斡旋会をしたり、詳細な解説をしていました。
それが当時の知事の目に留まって、知事が掲げるゼロ予算事業のいろいろな取り組みのトップに掲載されていただいたりしました。
消費拡大は役所での前向きな関係の構築の一助になったと思います。
農林水産庁に出向になりました。
自分の担当以外の見識を広げたいと、全国各地に飛び回りました。
2015年にTPP交渉が妥結して、農林水産庁に居たときに、自動車産業などの輸出産業と日本の農業のマイナスの部分が天秤に掛けられて、車のために農業は泣いてくれよという結論で、数値の比較だけで結論に達していたことに対して危機感を感じました。
もっときちんと食べ物とはねと、一対一で話せる場を作らなければいけないと思いました。
それが退職をして自分の会社を立ち上げる契機になったという背景がありました。
チーズの生産にかかわる内容の川上から川下まできちんと繋ぎ合わせて、こういう風な努力をしてここまで来たんだよという事が判れば、手を伸ばしてくれる方が増えるのではないかという自信、確信があったので、チーズを中心に食の考え方を変えてもらいたいというのがきっかけです。
食の生産にかかわる上流のいろいろなこと、文化を聞いたリ触れたりして、川上から川下までを縦の糸とすれば、それぞれの地域の良さを知ってそれが横の糸としてつなぎ合わさって面として、いろんなことが伝えられるのではないかと思いました。
北海道では酪農家が6000戸切るような状況ですが、生き残ってもらわないといけないので、草、土壌、風土などを伝えていきたいし、逆に風下から風上に声を届けるという事も必要だと思います。
株式会社なので株を工房の方がたにも買っていただいて出資してもらうという様なスタイルをとっています。
北海道ナショナルチーズコンシェルジュという肩書ですが、お客さんのニーズ、シチュエーションに寄り添って提案するという事をコンシェルジュとして、皆さんへのベストなものを提案しますという思いを込めて、この肩書にしています。
野菜の朝市も第二、第四土曜日に3年間やってきましたが、それを今年から常設化しました。
チーズ同様に野菜についても現地の声を伝えていきたいと思っています。
保育園児、幼稚園児に店でチーズ作りの一部体験をやってもらっています。
高校生、大学生のインターンも受け入れたりしています。
ちょっとした配慮でいい社会が作れると思うので、想像力を働かせ妊婦さんへ席を譲り合ったりすることが当たり前な世の中ができると思いますし、農業とか農村、そこに住んでいる人に魅入られてこの世界で生きていこうと思っているので、その分野の中で想像力を働かせるきっかけを作りたいと思います。
2019年12月21日土曜日
アレックス・カー(東洋文化研究者) ・"観光公害"を乗り切る
アレックス・カー(東洋文化研究者) ・"観光公害"を乗り切る
近年訪日外国人、いわゆるインバウンドが激増し観光が重要な産業になった一方で観光名所での大混雑や外国人観光客によるマナー違反など様々な問題が起こり、観光公害、オーバーツーリズムという言葉も生まれました。
そんな中アレックス・カーさんは 日本だけでなく世界の観光地の現状と対策を調べ観光亡国論という本にまとめました。
アメリカに生まれ子どもの頃父親の転勤で日本に住んだことをきっかけに日本文化に興味を持ったアレックス・カーさんはアメリカの大学で日本学をまなび、その後は日本で古美術など東洋文化を研究90年代からは日本各地の古民家を再生し、観光客に一軒丸ごと貸す取り組みを行っています。
観光公害の現状と乗り切るヒントを伺いました。
小さな天満宮の境内の中の社務所だったが、空き家になってここに住み着いて40年以上になります。
襖に鶴の絵、書が沢山ありますが、この書は自分で書きました。
子どもの頃に横浜に来て住んでいました。
日本の山、川、海がとても美しくて、こういう家も好きでした。
一旦アメリカに帰り大学では日本の勉強をして、1971年にヒッチハイクで日本一周をしました。
それが決定的で日本で仕事をして住みたいと思いました。
どこへ行っても美しかったです。
徳島県祖谷(いや)は急斜面の上に家があって、山水画とかに書かれたような雰囲気で、それに惚れてしまって、ひと夏の旅の中の一番の収穫でした。
祖谷(いや)は過疎地帯になっていまして、一軒買ってしまいました。
120坪の土地で38万円でした。
300年ぐらい経つ家で、家はおまけでした。
再び日本に来て亀岡にある大本教という神道系の宗教がありますが、外国人に日本文化を教えるセミナーがあり通訳をたのまれました。
そしてここの家を見つけて亀岡に落ち着きました。
屏風とかを買ったりコレクターとなり、そして古美術商に発展していきました。
祖谷(いや)にある家は篪庵(ちおり)という屋号を付けまして、今でも残っています。
祖谷(いや)に海外から見学とか宿泊に来ました。
2000年代に古い家を現代に引っ張るような直しをして、今は京都だけで千数百軒やっています。
観光面では京都は放っておいても大丈夫ですが、祖谷(いや)のようなところは人口減少、高齢化とかで本当に厳しいです。
2010年以降は京都ではなくて地方です。
地域コミュニティーが寂しいです、人がいなくなって神社の掃除ができないとか、家がつぶれていくとか、観光の大事性が際立ってくるわけです。
1960年代に頃から公共工事で支えようとするシステムができて、80年代の後半から道路、橋、護岸工事が必要とはなくなってきているが、それに依存してきてしまっていて、毎年何億、何十億の予算を使って、必要ないのに作ってしまって、どんどん景観に大きな打撃を与えている。
日本は見苦しい国土に変わりつつあるが、公共工事を明日から止めてと言っても、依存してしまっているので無理で、それに代わる新しい産業が必要です。
健全的な観光をもってきたら、土木などにしか頼れないようなシステムは変わるという思いでやってきました。
2003年に日本では観光立国を宣言して、当時521万人であった外国人観光客は急増して2018年には6倍近い3000万人を越える。
この現象は日本だけではなく世界的な現象です。
2018年には京都では15年前より900万人増えて5275万人になり、外国人観光客は805万人で15%が外国人観光客です。
京都に宿泊した外国人観光客は15年前の年間45万人から450万人と10倍になる。
SNSで有名になり、今まであまりいかなかったような場所にも行くようになりました。
京都の伝統的な街並みの祇園花見小路では観光客があふれて問題になっている。
道路にはみ出して歩行者天国のようになって、建物を守る犬矢来(町屋などにある軒下の防護柵のようなものを指す)に寄りかかったり、私有地に入り込んだり、暖簾で手を拭いたり、舞妓さんを囲んで写真を撮ったり、着物に触ったり、そういった行為も報告されています。
色々対策を打ったりしているが、市民生活にも影響が出始めています。
忠告の看板だらけで、視覚汚染になっている。
祇園自体も看板で美しくなくなってしまうのではないかと懸念しています。
観光は管理次第で、客の誘導、システムが考えられる。
あるキャパを越えるとどうしてもどこかで制限しないといけないことができてくる。
何名までとか予約制にして規制するところが世界で有名なところではできています。
美術館でも同様ですが、日本ではそうなってはいません。
イタリアのボルゲーゼ美術館は時間帯を予約してじっくり見られて美術品を楽しめる。
入場料を取るという様なシステムも必要な場合もあります。
富士山などはそうです。
ゴミだらけだし世界遺産にはふさわしくない汚さ、お客は十分楽しめない、オーバーキャパになっていて、数年前から1000円の入場料を取るという事が言われているが、1000円ではほぼ効果は無し、そして任意だし。
役所では思い切ったことが出来なくて批判されると思われていて、ほぼ富士山の状況は変わっていないです。
1万円の価値があるという分析結果もあり、1/10になったとしても収入は同じになる訳で、お客を減らすという事も大事だと思います。
観光客をいかにに増やすことで成果を測るが、いかに観光客を抑えるかも仕事の一つだと思います。
兵庫県朝来市にある竹田城跡、日本のマチュピチュという風にSNSで拡散して、年間来場者数がブーム以前の数十倍、50万人以上に急増して、16世紀末の天守閣の瓦が土の中に埋まってっているが露出して踏み砕かれる。
入場料が500円という事でほぼ無意味になっている。
一律になっているが住民はフリーパスにしたりして、5000円でいいと思います。
行きたい人は行く、という事でいいと思います。
ゼロドルツーリズム 嵐山の竹の道はお金はとっていない、伏見稲荷もゼロドルに近い。
神社などもそろそろ入場料なり何かの制限が必要かと思います。
商店街を歩いてもらう事で稼げることもできます。
街が活気づく方法をもっと考えて、街が潤うようにもっていかないとゼロドルになってしまう。
①入場料を取る。
②予約制
③誘導の工夫
④観光面積を増やす。(観光地のエリアでは車をシャットアウトしてしまう。)
混み合いが少なくなり歩行者天国の楽しみ、道にカフェが出来たり、座れるところが出来たりして、京都はこれをすればいいと思います。
地元は自由に車の出入りができるという事にすればいいと思います。
ブロードウエーでは車をシャットアウトにしてニューヨークの交通は凄くよくなって、ブロードウエーでは人は歩いているので大変な賑わいです。
京都も交通を大幅に考え直す段階に来ていると思います。
古民家を一軒丸ごと貸すという事業を行って指導をしています。
空き家問題、現在1000万軒で、十数年したら2000万軒になろうという大変な社会問題ですが、家の多くは文化遺産のようなもので、どんどん壊されてもったいないと思いまして、どうにか救う方法はないかと始めました。
新しいお金の収入源となり、村が元気になる。
文化資源を何とか残したり、地域の元気を取り戻したいという事で古民家を直して施設としてやっています。
地元との連携が必要です。
量より質、祖谷(いや)には9軒直して宿泊施設として営んでいますが、年に3000人ですが、大型観光バスできた人とは全くお金の使い方が違う、片方は数十分程度の見学で自動販売機とかせいぜいお土産とか、もう一方は1,2日の宿泊代、食事代とか一人=バス1台分になります。
そこには興味を持ってくるのでじっくり時間を過ごして質が高いです。
大型観光バスで来る人は興味を持ってくるわけではないし、ぞろぞろ来るので市民生活は邪魔される。
地方は小型で質が高く、という方があっています。
日本は宝物の宝庫です。
古民家などを直して受け皿があれば、不便なところでもと遠い所でも来てくれます。
世界の観光地でも似たような問題を抱えて対応したりしていて、日本の観光地は世界から学ぶチャンスだと思います。
近年訪日外国人、いわゆるインバウンドが激増し観光が重要な産業になった一方で観光名所での大混雑や外国人観光客によるマナー違反など様々な問題が起こり、観光公害、オーバーツーリズムという言葉も生まれました。
そんな中アレックス・カーさんは 日本だけでなく世界の観光地の現状と対策を調べ観光亡国論という本にまとめました。
アメリカに生まれ子どもの頃父親の転勤で日本に住んだことをきっかけに日本文化に興味を持ったアレックス・カーさんはアメリカの大学で日本学をまなび、その後は日本で古美術など東洋文化を研究90年代からは日本各地の古民家を再生し、観光客に一軒丸ごと貸す取り組みを行っています。
観光公害の現状と乗り切るヒントを伺いました。
小さな天満宮の境内の中の社務所だったが、空き家になってここに住み着いて40年以上になります。
襖に鶴の絵、書が沢山ありますが、この書は自分で書きました。
子どもの頃に横浜に来て住んでいました。
日本の山、川、海がとても美しくて、こういう家も好きでした。
一旦アメリカに帰り大学では日本の勉強をして、1971年にヒッチハイクで日本一周をしました。
それが決定的で日本で仕事をして住みたいと思いました。
どこへ行っても美しかったです。
徳島県祖谷(いや)は急斜面の上に家があって、山水画とかに書かれたような雰囲気で、それに惚れてしまって、ひと夏の旅の中の一番の収穫でした。
祖谷(いや)は過疎地帯になっていまして、一軒買ってしまいました。
120坪の土地で38万円でした。
300年ぐらい経つ家で、家はおまけでした。
再び日本に来て亀岡にある大本教という神道系の宗教がありますが、外国人に日本文化を教えるセミナーがあり通訳をたのまれました。
そしてここの家を見つけて亀岡に落ち着きました。
屏風とかを買ったりコレクターとなり、そして古美術商に発展していきました。
祖谷(いや)にある家は篪庵(ちおり)という屋号を付けまして、今でも残っています。
祖谷(いや)に海外から見学とか宿泊に来ました。
2000年代に古い家を現代に引っ張るような直しをして、今は京都だけで千数百軒やっています。
観光面では京都は放っておいても大丈夫ですが、祖谷(いや)のようなところは人口減少、高齢化とかで本当に厳しいです。
2010年以降は京都ではなくて地方です。
地域コミュニティーが寂しいです、人がいなくなって神社の掃除ができないとか、家がつぶれていくとか、観光の大事性が際立ってくるわけです。
1960年代に頃から公共工事で支えようとするシステムができて、80年代の後半から道路、橋、護岸工事が必要とはなくなってきているが、それに依存してきてしまっていて、毎年何億、何十億の予算を使って、必要ないのに作ってしまって、どんどん景観に大きな打撃を与えている。
日本は見苦しい国土に変わりつつあるが、公共工事を明日から止めてと言っても、依存してしまっているので無理で、それに代わる新しい産業が必要です。
健全的な観光をもってきたら、土木などにしか頼れないようなシステムは変わるという思いでやってきました。
2003年に日本では観光立国を宣言して、当時521万人であった外国人観光客は急増して2018年には6倍近い3000万人を越える。
この現象は日本だけではなく世界的な現象です。
2018年には京都では15年前より900万人増えて5275万人になり、外国人観光客は805万人で15%が外国人観光客です。
京都に宿泊した外国人観光客は15年前の年間45万人から450万人と10倍になる。
SNSで有名になり、今まであまりいかなかったような場所にも行くようになりました。
京都の伝統的な街並みの祇園花見小路では観光客があふれて問題になっている。
道路にはみ出して歩行者天国のようになって、建物を守る犬矢来(町屋などにある軒下の防護柵のようなものを指す)に寄りかかったり、私有地に入り込んだり、暖簾で手を拭いたり、舞妓さんを囲んで写真を撮ったり、着物に触ったり、そういった行為も報告されています。
色々対策を打ったりしているが、市民生活にも影響が出始めています。
忠告の看板だらけで、視覚汚染になっている。
祇園自体も看板で美しくなくなってしまうのではないかと懸念しています。
観光は管理次第で、客の誘導、システムが考えられる。
あるキャパを越えるとどうしてもどこかで制限しないといけないことができてくる。
何名までとか予約制にして規制するところが世界で有名なところではできています。
美術館でも同様ですが、日本ではそうなってはいません。
イタリアのボルゲーゼ美術館は時間帯を予約してじっくり見られて美術品を楽しめる。
入場料を取るという様なシステムも必要な場合もあります。
富士山などはそうです。
ゴミだらけだし世界遺産にはふさわしくない汚さ、お客は十分楽しめない、オーバーキャパになっていて、数年前から1000円の入場料を取るという事が言われているが、1000円ではほぼ効果は無し、そして任意だし。
役所では思い切ったことが出来なくて批判されると思われていて、ほぼ富士山の状況は変わっていないです。
1万円の価値があるという分析結果もあり、1/10になったとしても収入は同じになる訳で、お客を減らすという事も大事だと思います。
観光客をいかにに増やすことで成果を測るが、いかに観光客を抑えるかも仕事の一つだと思います。
兵庫県朝来市にある竹田城跡、日本のマチュピチュという風にSNSで拡散して、年間来場者数がブーム以前の数十倍、50万人以上に急増して、16世紀末の天守閣の瓦が土の中に埋まってっているが露出して踏み砕かれる。
入場料が500円という事でほぼ無意味になっている。
一律になっているが住民はフリーパスにしたりして、5000円でいいと思います。
行きたい人は行く、という事でいいと思います。
ゼロドルツーリズム 嵐山の竹の道はお金はとっていない、伏見稲荷もゼロドルに近い。
神社などもそろそろ入場料なり何かの制限が必要かと思います。
商店街を歩いてもらう事で稼げることもできます。
街が活気づく方法をもっと考えて、街が潤うようにもっていかないとゼロドルになってしまう。
①入場料を取る。
②予約制
③誘導の工夫
④観光面積を増やす。(観光地のエリアでは車をシャットアウトしてしまう。)
混み合いが少なくなり歩行者天国の楽しみ、道にカフェが出来たり、座れるところが出来たりして、京都はこれをすればいいと思います。
地元は自由に車の出入りができるという事にすればいいと思います。
ブロードウエーでは車をシャットアウトにしてニューヨークの交通は凄くよくなって、ブロードウエーでは人は歩いているので大変な賑わいです。
京都も交通を大幅に考え直す段階に来ていると思います。
古民家を一軒丸ごと貸すという事業を行って指導をしています。
空き家問題、現在1000万軒で、十数年したら2000万軒になろうという大変な社会問題ですが、家の多くは文化遺産のようなもので、どんどん壊されてもったいないと思いまして、どうにか救う方法はないかと始めました。
新しいお金の収入源となり、村が元気になる。
文化資源を何とか残したり、地域の元気を取り戻したいという事で古民家を直して施設としてやっています。
地元との連携が必要です。
量より質、祖谷(いや)には9軒直して宿泊施設として営んでいますが、年に3000人ですが、大型観光バスできた人とは全くお金の使い方が違う、片方は数十分程度の見学で自動販売機とかせいぜいお土産とか、もう一方は1,2日の宿泊代、食事代とか一人=バス1台分になります。
そこには興味を持ってくるのでじっくり時間を過ごして質が高いです。
大型観光バスで来る人は興味を持ってくるわけではないし、ぞろぞろ来るので市民生活は邪魔される。
地方は小型で質が高く、という方があっています。
日本は宝物の宝庫です。
古民家などを直して受け皿があれば、不便なところでもと遠い所でも来てくれます。
世界の観光地でも似たような問題を抱えて対応したりしていて、日本の観光地は世界から学ぶチャンスだと思います。
2019年12月20日金曜日
中山千夏(作家) ・【わが心の人】水の江瀧子
中山千夏(作家) ・【わが心の人】水の江瀧子
水の江瀧子さんは大正4年北海道小樽市生まれ、13歳の時東京松竹歌劇部、後のSKD松竹歌劇団の第一期生として入団、男装の麗人として注目されました。
退団後は劇団を創設し舞台に出演、戦後は映画のプロデューサーとしても活躍しています。
昭和28年NHKのTV放送開始と同時に始まったジェスチャーでは、女性チームのキャプテンを15年間勤めお茶の間の人気者となりました。
平成21年お亡くなりになりました。(94歳)
中山さんは水の江さんとは親交が深く、評伝『タアキイ -水の江瀧子伝-』を出版しています。
伊東市に住んで15年になります。
40歳の時に初めてダイビングもするようになり1000回以上潜りもう卒業にしました。
水の江瀧子さんが亡くなられて10年になります。
最初にお目にかかったのが中学3年の時に,TVで「現代っ子」という連続ドラマをやっていて、水の江瀧子さんが映画にしたいという事で、3人兄弟の真ん中の役を私がやっていて、私は東宝専属だったもので、水の江瀧子さんは松竹だったので菊田一夫さんに貸してくださいという事で、その時初めて見ました。
TVと同じ役をやる事になりました。
芸能界引退後知り合う事になって、面白い人だなあ、人柄がいいなあと思いました。
功績を書き残しておく方がいいと思い伝記を書きました。
榎本健一さんとか三益愛子さんとか一緒にやっていたのでそういう方たちの雰囲気も知っているので余計興味を持ちました。
語り口も本当にあっさりしていました。
水の江瀧子さんは東京松竹歌劇部(SKD)の第一期生として13歳でデビュー。
最初は全然目立たない子だったそうです。
背の高いので男役で使おうという事で男装の麗人として注目されました。
歌はあまりうまくなくていて嫌だと言っていました。
あまりの人気で忙しくて体調を崩したり、休みもまったくないような状態でした。
一時ノイローゼになってしまった。
それでも一生懸命舞台をやらなければいけないと思っていてその辺がプロだと思いました。
待遇改善を求めて抗議をしたそうで、団交の委員長をしたようです。
簡単に引き受けたが、面白かったと言っていました。
交渉に勝利はしたが、会社側からは2か月間の謹慎処分をされた。
その後少女歌劇団を辞めて新しく自分の劇団をつくる。
当時はやめることは大変で、長谷川一夫さんが独立するときも顔を切られたりして大変でしたが、その同時期でしたので大変だったと思います。
戦争が近くなってきたので慰問団とかもやっていました。
当時松竹の演出部の人(妻子持ち)と恋愛してしまって、その人と一緒に劇団を作って大分あちこち行ったようです。
戦争が大分ひどくなるまで時局に合わせてレビューをやっていました。
昭和30年代に入ると日活のプロデューサーとして活躍します。
良い役者も貸してもらえなくて役者を自分で探そうという事になり、最初フランキー堺さんを見つけて、石原裕次郎の発掘もします。
水の江さんは本が好きで石原慎太郎さんの小説も読んでいたので、この人を使ったら面白いのではないかと交渉に行くが、弟を使ってほしいといわれてカメラテストをやったらものすごくよかったと言っていました。
何十本もつくり才能のあるプロデューサーでした。
TVのジェスチャーとか司会などをしていたが、辞めることになる。
甥が事件で捕まってしまって、水の江さんの子どもだという風なスキャンダルがあったが実は兄の子どもだったが、そういったことがあり世間が嫌になり辞めてしまいました。
そしてその後ジュエリー作家になりました。
大ぶりなデザインで色も華やかで豪華で水の江さんらしい作品でした。
乗馬が好きで若い人に教えたりしていました。
78歳で生前葬をしてにぎやかにやり楽しい生前葬でした。
市川房江さんのような顔になりたいと言っていて、私も市川さんの顔を見ていていい皴の顔でした。
生涯結婚はしなかったが、ちゃんと時々くる姪などと楽しんでいるし、自分が生きているうえで大事な人はその人たちも気持ちよくしていたんです。
私も独身だし水の江さんをなぞっているような感じで他人とは思えないです。
最近は畑をやっていていろいろ発見があり楽しいです。
老いることの発見の日々です。
一番好きなことはものを考えてその考えを書くことです。
水の江瀧子さんは大正4年北海道小樽市生まれ、13歳の時東京松竹歌劇部、後のSKD松竹歌劇団の第一期生として入団、男装の麗人として注目されました。
退団後は劇団を創設し舞台に出演、戦後は映画のプロデューサーとしても活躍しています。
昭和28年NHKのTV放送開始と同時に始まったジェスチャーでは、女性チームのキャプテンを15年間勤めお茶の間の人気者となりました。
平成21年お亡くなりになりました。(94歳)
中山さんは水の江さんとは親交が深く、評伝『タアキイ -水の江瀧子伝-』を出版しています。
伊東市に住んで15年になります。
40歳の時に初めてダイビングもするようになり1000回以上潜りもう卒業にしました。
水の江瀧子さんが亡くなられて10年になります。
最初にお目にかかったのが中学3年の時に,TVで「現代っ子」という連続ドラマをやっていて、水の江瀧子さんが映画にしたいという事で、3人兄弟の真ん中の役を私がやっていて、私は東宝専属だったもので、水の江瀧子さんは松竹だったので菊田一夫さんに貸してくださいという事で、その時初めて見ました。
TVと同じ役をやる事になりました。
芸能界引退後知り合う事になって、面白い人だなあ、人柄がいいなあと思いました。
功績を書き残しておく方がいいと思い伝記を書きました。
榎本健一さんとか三益愛子さんとか一緒にやっていたのでそういう方たちの雰囲気も知っているので余計興味を持ちました。
語り口も本当にあっさりしていました。
水の江瀧子さんは東京松竹歌劇部(SKD)の第一期生として13歳でデビュー。
最初は全然目立たない子だったそうです。
背の高いので男役で使おうという事で男装の麗人として注目されました。
歌はあまりうまくなくていて嫌だと言っていました。
あまりの人気で忙しくて体調を崩したり、休みもまったくないような状態でした。
一時ノイローゼになってしまった。
それでも一生懸命舞台をやらなければいけないと思っていてその辺がプロだと思いました。
待遇改善を求めて抗議をしたそうで、団交の委員長をしたようです。
簡単に引き受けたが、面白かったと言っていました。
交渉に勝利はしたが、会社側からは2か月間の謹慎処分をされた。
その後少女歌劇団を辞めて新しく自分の劇団をつくる。
当時はやめることは大変で、長谷川一夫さんが独立するときも顔を切られたりして大変でしたが、その同時期でしたので大変だったと思います。
戦争が近くなってきたので慰問団とかもやっていました。
当時松竹の演出部の人(妻子持ち)と恋愛してしまって、その人と一緒に劇団を作って大分あちこち行ったようです。
戦争が大分ひどくなるまで時局に合わせてレビューをやっていました。
昭和30年代に入ると日活のプロデューサーとして活躍します。
良い役者も貸してもらえなくて役者を自分で探そうという事になり、最初フランキー堺さんを見つけて、石原裕次郎の発掘もします。
水の江さんは本が好きで石原慎太郎さんの小説も読んでいたので、この人を使ったら面白いのではないかと交渉に行くが、弟を使ってほしいといわれてカメラテストをやったらものすごくよかったと言っていました。
何十本もつくり才能のあるプロデューサーでした。
TVのジェスチャーとか司会などをしていたが、辞めることになる。
甥が事件で捕まってしまって、水の江さんの子どもだという風なスキャンダルがあったが実は兄の子どもだったが、そういったことがあり世間が嫌になり辞めてしまいました。
そしてその後ジュエリー作家になりました。
大ぶりなデザインで色も華やかで豪華で水の江さんらしい作品でした。
乗馬が好きで若い人に教えたりしていました。
78歳で生前葬をしてにぎやかにやり楽しい生前葬でした。
市川房江さんのような顔になりたいと言っていて、私も市川さんの顔を見ていていい皴の顔でした。
生涯結婚はしなかったが、ちゃんと時々くる姪などと楽しんでいるし、自分が生きているうえで大事な人はその人たちも気持ちよくしていたんです。
私も独身だし水の江さんをなぞっているような感じで他人とは思えないです。
最近は畑をやっていていろいろ発見があり楽しいです。
老いることの発見の日々です。
一番好きなことはものを考えてその考えを書くことです。
2019年12月19日木曜日
長谷川きよし(シンガーソングライター ) ・孤高のアーティストの半世紀
長谷川きよし(シンガーソングライター ) ・孤高のアーティストの半世紀
デビュー50年を迎えた、長谷川さん。
何周年という事は殆どやらないで来ましたが、50周年という事はやっぱりすごいことだなと思いました。
レコードデビューは1969年ですが、その2年前から歌を歌って生きていきたいと思っていましたが、全盲なので、そのころは門戸を閉ざされている状況でした。
鍼灸とか、視覚障碍者の学校の教師になるとかしか、仕事の道はなかった時代です。
歌が大好きだったので歌を歌って生きていけるようになりたいと思っていました。
高校ぐらいで自分で歌を作り始めました。
TVのオーデション番組に出たりしましたが駄目で、シャンソンのコンクールがあるという事で受けて4位になりました。
「銀パリ」でお客さんが少ない時間帯に歌ったのが18歳の時でした。
レストラン、バー、スナックなどで段々歌うようになりました。
あるところからレコードを出さないかという話が来ましたが、売れないと思って断りましたが、結局出すことになりました。
スタッフが「別れのサンバ」がいいという事で1969年7月にシングル盤を出しました。
しかし案の定売れませんでした。
年末に深夜放送で「別れのサンバ」がよくかかるという事で、そのころからレコードが売れるようになりました。
自分で事務所を作ってやってきました。
家族ができて、今は孫もできました。
*「別れのサンバ」 作詞:長谷川清志、 作曲:長谷川清志 歌:長谷川きよし(清志)
2歳の時に緑内障で失明しました。
子どもとしては好き勝手に生きてるという感じでした。
東京教育大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)に入学しました。
担任の先生は独自の方法で教育をしていくという考え方の人で、基本的に何でも自分でできるようにして生きていかないといけない、という様な教育方針でした。(6年間)
一般の社会の一員として生きていかなければいけないという思いはありました。
12歳でクラシックギターを始めました。
ウクレレもはやり始めていて、やりましたが、自分の歌の伴奏としてギターの方がいいと思ってギターをやるようになりました。
個人レッスンを3年間指導してもらいました。
ポップス、歌謡曲なども好きでしたのでありとあらゆる曲を歌っていました。
20歳でデビューして10年間結婚していましたが、いろんなことがあって離婚することになりました。
詩を書いてくれる人でもあったので、スタッフともうまくいかなくなってきて、続けてもしょうが無いと思って30歳の時に事務所を閉じました。
音楽を離れるしかないと思いました。
マッサージ師の資格は取ってあったので、函館の温泉地でアルバイトを3,4か月やりました。
函館で出会った女性がいて、ふたりで東京に行って音楽でやって行こうという事で、やっているうちに段々仕事が舞い込んでくるようになりました。
このように音楽が続けられるようになったのは、彼女との出会いが本当に大きいと思います。
シャンソンは歌詞が素晴らしいドラマが描かれていて、人生そのものが短い歌の中に歌われていて、メロディーを作る人間としては歌詞が第一なので、歌詞が重要な要素になっています。
自分で訳詞もやってきました。
コンサートでは一番最後に歌う歌として「愛の賛歌」を歌っています。
歌うならピアフ自身が書いた詩なので原詩に忠実な訳詞で歌いたいと思っていて、そういう詩を用意してずーっと歌ってきました。
愛というのは人間の生きてゆく中で一番の根底にある大切にしていかなければいけないものだと思っているので、今は最期に「愛の賛歌」を歌って終わるようにしています。
70歳になると体調に変化してきてますが、何とか歌っていていいなと判断できる限りは歌って生きていきたいと思ってますので、少しでも人々に届くものがあればとは思っています。
*「愛の賛歌」 作詞:ピアフ、作曲:マルグリット・モノー 歌:長谷川きよし
訳詞:長谷川きよし
デビュー50年を迎えた、長谷川さん。
何周年という事は殆どやらないで来ましたが、50周年という事はやっぱりすごいことだなと思いました。
レコードデビューは1969年ですが、その2年前から歌を歌って生きていきたいと思っていましたが、全盲なので、そのころは門戸を閉ざされている状況でした。
鍼灸とか、視覚障碍者の学校の教師になるとかしか、仕事の道はなかった時代です。
歌が大好きだったので歌を歌って生きていけるようになりたいと思っていました。
高校ぐらいで自分で歌を作り始めました。
TVのオーデション番組に出たりしましたが駄目で、シャンソンのコンクールがあるという事で受けて4位になりました。
「銀パリ」でお客さんが少ない時間帯に歌ったのが18歳の時でした。
レストラン、バー、スナックなどで段々歌うようになりました。
あるところからレコードを出さないかという話が来ましたが、売れないと思って断りましたが、結局出すことになりました。
スタッフが「別れのサンバ」がいいという事で1969年7月にシングル盤を出しました。
しかし案の定売れませんでした。
年末に深夜放送で「別れのサンバ」がよくかかるという事で、そのころからレコードが売れるようになりました。
自分で事務所を作ってやってきました。
家族ができて、今は孫もできました。
*「別れのサンバ」 作詞:長谷川清志、 作曲:長谷川清志 歌:長谷川きよし(清志)
2歳の時に緑内障で失明しました。
子どもとしては好き勝手に生きてるという感じでした。
東京教育大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)に入学しました。
担任の先生は独自の方法で教育をしていくという考え方の人で、基本的に何でも自分でできるようにして生きていかないといけない、という様な教育方針でした。(6年間)
一般の社会の一員として生きていかなければいけないという思いはありました。
12歳でクラシックギターを始めました。
ウクレレもはやり始めていて、やりましたが、自分の歌の伴奏としてギターの方がいいと思ってギターをやるようになりました。
個人レッスンを3年間指導してもらいました。
ポップス、歌謡曲なども好きでしたのでありとあらゆる曲を歌っていました。
20歳でデビューして10年間結婚していましたが、いろんなことがあって離婚することになりました。
詩を書いてくれる人でもあったので、スタッフともうまくいかなくなってきて、続けてもしょうが無いと思って30歳の時に事務所を閉じました。
音楽を離れるしかないと思いました。
マッサージ師の資格は取ってあったので、函館の温泉地でアルバイトを3,4か月やりました。
函館で出会った女性がいて、ふたりで東京に行って音楽でやって行こうという事で、やっているうちに段々仕事が舞い込んでくるようになりました。
このように音楽が続けられるようになったのは、彼女との出会いが本当に大きいと思います。
シャンソンは歌詞が素晴らしいドラマが描かれていて、人生そのものが短い歌の中に歌われていて、メロディーを作る人間としては歌詞が第一なので、歌詞が重要な要素になっています。
自分で訳詞もやってきました。
コンサートでは一番最後に歌う歌として「愛の賛歌」を歌っています。
歌うならピアフ自身が書いた詩なので原詩に忠実な訳詞で歌いたいと思っていて、そういう詩を用意してずーっと歌ってきました。
愛というのは人間の生きてゆく中で一番の根底にある大切にしていかなければいけないものだと思っているので、今は最期に「愛の賛歌」を歌って終わるようにしています。
70歳になると体調に変化してきてますが、何とか歌っていていいなと判断できる限りは歌って生きていきたいと思ってますので、少しでも人々に届くものがあればとは思っています。
*「愛の賛歌」 作詞:ピアフ、作曲:マルグリット・モノー 歌:長谷川きよし
訳詞:長谷川きよし
2019年12月18日水曜日
久木留 毅(国立スポーツ科学センター長) ・【スポーツ明日への伝言】世界最強の競技力を目指して
久木留 毅(国立スポーツ科学センター長) ・【スポーツ明日への伝言】世界最強の競技力を目指して
オリンピックや世界選手権のような世界最高峰のスポーツの大会でメダルを取れるような競技力はどうすれば得られるのでしょうか?
競技力向上を目指す日本の最先端の機関が日本スポーツ振興センター「ハイパフォーマンススポーツセンター」です。
ハイパフォーマンススポーツ戦略部長で国立スポーツ科学センター長の久木留さんに伺います。
オリンピックや世界選手権のようなトップのスポーツをハイパフォーマンススポーツと呼んでいます。
世界で一番を目指してゆく人たちをサポートとして行く組織です。
科学、メディカル、ハイテクノロジーなどの分野からサポートしてゆきます。
ハイパフォーマンススポーツはかなり選ばれたアスリートたちです。
陸上の100m、水泳の100m、スケートの500mなども高速化しています。
技の難度も前回の東京オリンピックではウルトラCでしたが、今ではウルトラIまで行っています。(9段階上がっている)
様々な競争の構造の変化が起こっていると思います。
2015年にスポーツ省ができて日本では大きく変わってきていると思います。
2001年に国立スポーツ科学センターができて、2008年にナショナルトレーニングセンターウエストができて、2019年にナショナルトレーニングセンターイーストができました。
施設が一体化されてきました。
運動、栄養、養休とありトレーニングをして栄養を取り休養をする、リズムとタイミングが必要です。
栄養を摂るタイミングがあります。
トレーニングをすると、体の中に成長ホルモンが出てきます、速やかにたんぱく質(肉、魚、納豆など)を取り入れることで筋肉合成が促進する考え方があり、トレーニング後30分以内と言われています。
休息が入り睡眠をすることで成長ホルモンが出て、たんぱく質が促進するという理論があるわけで、理論に基づいて考えたときに、運動、栄養、養休それに加えて医学的なサポートをするという一体的にとらえることが大事になります。
施設が近いところにあることで一体的に使ってゆこうというものです。
ハイパフォーマンススポーツカンファレンス、いろんな展示やディスカッション、そのテーマが実に多彩です。
プラットホーム的なことを構想として考えています。
減量、どういった形で減量してゆくのがいいのか、スポーツ栄養の専門家がアドバイスしていきます。
根拠に基づいたアドバイスをしてフィードバックしてゆく。
ヘッドコーチがどういうパフォーマンスをその選手やチームにさせたいのかがポイントになります。
それを聞いて我々スタッフがそれに合う測定をしてそれに合うトレーニングを提供してゆく。
ラケット系、雪上系、氷上系、記録系とか系に分かれたグループがあり徹底的に研究してサポートするシステムにしています。
トレーニングのグループ、栄養、心理などのグループがあり、縦と横でうまく細分化しながらアスリート、チームを作っています。
技術系では特徴のある施設を持っています。
MRI、低酸素室(トレーニング室、宿泊室)、環境制御室(温度、湿度などを変えたりする場所)、風洞実験棟という様な施設もあります。
高地馴化を施設で行って、試合に入って行けるようにすることも行えます。
ほかの競技にもということで横の展開もしています。
成果が出始めていると思います。
ラグビーでは8年ぐらいかかりりましたが、GPSをつけて距離、スピード、トレーニングの量を測ったり、動きをGPSで見てゆきます。
科学を駆使してトレーニングとケアをやっています。
次の試合との間におけるリカバリーが凄く重要になります。
冷水浴にどのぐらい浴びなくてはいけないのか、マッサージの時間、栄養などの組合わせを考えていかないといけない。
ここ数年のキーワードはまさしくリカバリーです。
リカバリー(回復力)の中で一番大事なのが、栄養と睡眠と言われています。
睡眠の質を如何にあげていくかという事も考えられています。
2012年ロンドン大会ではイギリスではどのマンション群をイギリスの本拠地にするか考えて、シングルルームが多い棟、エレベータが多い棟を徹底的に考えたといいます。
私は和歌山県出身。
1981年 和歌山県立新宮高等学校入学、レスリングを始める。
1984年 専修大学商学部入学。
1992年 旧ソビエト連邦の国技のサンボ日本代表として世界選手権出場 3位となる。
1993年 同日本代表としてワールドゲームズに出場。
1993年12月から1996年5月まで国際協力機構・青年海外協力隊に参加、シリアに行く。
帰国後、筑波大学大学院体育研究科(体育学修士の学位を取得),法政大学大学院政策科学研究科(政策科学)の学位取得、筑波大学大学院より博士(スポーツ医学)の学位取得。
2012年 ロンドンオリンピックでレスリングナショナルチームのコーチ兼テクニカルディレクターを務める。
2016年 日本スポーツ振興センターハイパフォーマンス戦略部部長( − 現在に至る)
2018年 国立スポーツ科学センターセンター長( − 現在に至る)
スポーツが盛んな高校で誘ってくれた先生がいて、レスリング部に入りました。
ビクトル古賀先生がサンボの世界チャンピオンでその先生と懇意にしていた先生からサンボを誘ってくれました。
レスリングの指導で青年海外協力隊として参加しました。
当時のシリアは安定していて親日的でした。
そこでいろんな方と知り合いになり、財産の一つになりました。
レスリング、サンボを通していろんな国に行くことで国際感覚が身に付いたと思います。
スポーツの最先端の医学、科学を使って競技力を高めていくという事はほかの国でもやっています。
最も進んでいるのはアメリカ、中国とロシアはオープンにしていないのでわからない、イギリス、ドイツ、オーストラリア、と日本はほぼ同じ位置にいます。
これらの国は日本と同じような施設は必ず持っています。
東京オリンピックでは暑熱対策、以前は首を冷やす、股関節を冷やすとか言われていましたが、今は手首から先だといわれています。
そういったことを小学生、高齢者に提供することで安全、安心にスポーツができる環境に関与したいと思っています。
昼寝をするとどういう効果はあるのかなどを考えていて、将来は仮眠室をそろえない会社はなくなるかもしれないという事があります。
様々なことを国民に広く提供できると思っています。
こういった知見を提供することで、より長くより健康でスポーツをしつつ歳を取ってゆくという事ができると思います。
オリンピックや世界選手権のような世界最高峰のスポーツの大会でメダルを取れるような競技力はどうすれば得られるのでしょうか?
競技力向上を目指す日本の最先端の機関が日本スポーツ振興センター「ハイパフォーマンススポーツセンター」です。
ハイパフォーマンススポーツ戦略部長で国立スポーツ科学センター長の久木留さんに伺います。
オリンピックや世界選手権のようなトップのスポーツをハイパフォーマンススポーツと呼んでいます。
世界で一番を目指してゆく人たちをサポートとして行く組織です。
科学、メディカル、ハイテクノロジーなどの分野からサポートしてゆきます。
ハイパフォーマンススポーツはかなり選ばれたアスリートたちです。
陸上の100m、水泳の100m、スケートの500mなども高速化しています。
技の難度も前回の東京オリンピックではウルトラCでしたが、今ではウルトラIまで行っています。(9段階上がっている)
様々な競争の構造の変化が起こっていると思います。
2015年にスポーツ省ができて日本では大きく変わってきていると思います。
2001年に国立スポーツ科学センターができて、2008年にナショナルトレーニングセンターウエストができて、2019年にナショナルトレーニングセンターイーストができました。
施設が一体化されてきました。
運動、栄養、養休とありトレーニングをして栄養を取り休養をする、リズムとタイミングが必要です。
栄養を摂るタイミングがあります。
トレーニングをすると、体の中に成長ホルモンが出てきます、速やかにたんぱく質(肉、魚、納豆など)を取り入れることで筋肉合成が促進する考え方があり、トレーニング後30分以内と言われています。
休息が入り睡眠をすることで成長ホルモンが出て、たんぱく質が促進するという理論があるわけで、理論に基づいて考えたときに、運動、栄養、養休それに加えて医学的なサポートをするという一体的にとらえることが大事になります。
施設が近いところにあることで一体的に使ってゆこうというものです。
ハイパフォーマンススポーツカンファレンス、いろんな展示やディスカッション、そのテーマが実に多彩です。
プラットホーム的なことを構想として考えています。
減量、どういった形で減量してゆくのがいいのか、スポーツ栄養の専門家がアドバイスしていきます。
根拠に基づいたアドバイスをしてフィードバックしてゆく。
ヘッドコーチがどういうパフォーマンスをその選手やチームにさせたいのかがポイントになります。
それを聞いて我々スタッフがそれに合う測定をしてそれに合うトレーニングを提供してゆく。
ラケット系、雪上系、氷上系、記録系とか系に分かれたグループがあり徹底的に研究してサポートするシステムにしています。
トレーニングのグループ、栄養、心理などのグループがあり、縦と横でうまく細分化しながらアスリート、チームを作っています。
技術系では特徴のある施設を持っています。
MRI、低酸素室(トレーニング室、宿泊室)、環境制御室(温度、湿度などを変えたりする場所)、風洞実験棟という様な施設もあります。
高地馴化を施設で行って、試合に入って行けるようにすることも行えます。
ほかの競技にもということで横の展開もしています。
成果が出始めていると思います。
ラグビーでは8年ぐらいかかりりましたが、GPSをつけて距離、スピード、トレーニングの量を測ったり、動きをGPSで見てゆきます。
科学を駆使してトレーニングとケアをやっています。
次の試合との間におけるリカバリーが凄く重要になります。
冷水浴にどのぐらい浴びなくてはいけないのか、マッサージの時間、栄養などの組合わせを考えていかないといけない。
ここ数年のキーワードはまさしくリカバリーです。
リカバリー(回復力)の中で一番大事なのが、栄養と睡眠と言われています。
睡眠の質を如何にあげていくかという事も考えられています。
2012年ロンドン大会ではイギリスではどのマンション群をイギリスの本拠地にするか考えて、シングルルームが多い棟、エレベータが多い棟を徹底的に考えたといいます。
私は和歌山県出身。
1981年 和歌山県立新宮高等学校入学、レスリングを始める。
1984年 専修大学商学部入学。
1992年 旧ソビエト連邦の国技のサンボ日本代表として世界選手権出場 3位となる。
1993年 同日本代表としてワールドゲームズに出場。
1993年12月から1996年5月まで国際協力機構・青年海外協力隊に参加、シリアに行く。
帰国後、筑波大学大学院体育研究科(体育学修士の学位を取得),法政大学大学院政策科学研究科(政策科学)の学位取得、筑波大学大学院より博士(スポーツ医学)の学位取得。
2012年 ロンドンオリンピックでレスリングナショナルチームのコーチ兼テクニカルディレクターを務める。
2016年 日本スポーツ振興センターハイパフォーマンス戦略部部長( − 現在に至る)
2018年 国立スポーツ科学センターセンター長( − 現在に至る)
スポーツが盛んな高校で誘ってくれた先生がいて、レスリング部に入りました。
ビクトル古賀先生がサンボの世界チャンピオンでその先生と懇意にしていた先生からサンボを誘ってくれました。
レスリングの指導で青年海外協力隊として参加しました。
当時のシリアは安定していて親日的でした。
そこでいろんな方と知り合いになり、財産の一つになりました。
レスリング、サンボを通していろんな国に行くことで国際感覚が身に付いたと思います。
スポーツの最先端の医学、科学を使って競技力を高めていくという事はほかの国でもやっています。
最も進んでいるのはアメリカ、中国とロシアはオープンにしていないのでわからない、イギリス、ドイツ、オーストラリア、と日本はほぼ同じ位置にいます。
これらの国は日本と同じような施設は必ず持っています。
東京オリンピックでは暑熱対策、以前は首を冷やす、股関節を冷やすとか言われていましたが、今は手首から先だといわれています。
そういったことを小学生、高齢者に提供することで安全、安心にスポーツができる環境に関与したいと思っています。
昼寝をするとどういう効果はあるのかなどを考えていて、将来は仮眠室をそろえない会社はなくなるかもしれないという事があります。
様々なことを国民に広く提供できると思っています。
こういった知見を提供することで、より長くより健康でスポーツをしつつ歳を取ってゆくという事ができると思います。
2019年12月17日火曜日
西本喜美子(アマチュア写真家) ・"自撮り"おばあちゃん、今日も行く!
西本喜美子(アマチュア写真家) ・"自撮り"おばあちゃん、今日も行く!
西本さんはブラジル生まれの91歳、8歳で帰国をし、美容師や競輪選手を経て、27歳で結婚専業主婦になりました。
72歳の時、息子のかずたにさんが主宰する写真塾に通いはじめ、82歳で初の個展を開催 、今ではSNSを通じて世界に多くのファンを持つ人気アマチュアカメラマンです。
西本さんの写真は自撮り、セルフポートレートが多くそのユニークな演出が話題となっています。
写真の魅力などを伺いました。
面白いなあと思ったものを全部手元に置きます。
全部題材になります。
スプーン、石、ビー玉、貝殻、釣りの道具などいろいろあります。
光の反射も写真にすると綺麗です。
7畳の部屋がスタジオになっています。
「燃やすごみ」といって大きなゴミ袋に入ってなんとも言えない表情の写真ですが、みんなに問われますが、塾で自分の好きなものをとって来なさいという事でした。
ゴミの日だったのでこのゴミ袋の中に入って撮ってみようと思いました。
物干しざおにコートと一緒にブラが下られて干されている写真は、虫干ししないといけないと思って干していたら、あの中に入って撮ってみようかなと思いました。
タイマーで自分で撮ります。
パソコンで加工もしています。
主人が記録のような感じで撮っていて、付いていったりしていました。
息子の開いている写真塾に行ってみたら、家で塾生さんたちが映写会みたいなものをやったんです。
面白いなあと思ったらやりませんか、と言われて始めました。(72歳)
あまり難しいという事は感じなくて面白いと思いました。
カメラさえ持っていればどこへ行っても撮れるので面白いです。
自分の顔が写っている水溜まりをみて、面白いと思って撮ったりしました。
主人は風景、私は石ころ、水溜まりなどを撮っていました。
海岸に行くのは好きで足元を見ています。
カメラの操作は詳しくはあまりできませんが、パソコンの加工はやっています。
私はブラジルで生まれて7人兄弟の2番目でした。
小学校2年生の時に日本に帰って来ました。
父はブラジルでは農業の指導をしていました。
美容学校に行って父の助けで美容室を開いて、だいぶやっていました。
美容師は家の中だけで外に出ないし、弟二人は競輪の選手でいろんなところに行くので面白いと思って、私も行こうかなと思ってついていったのが競輪の選手になる始まりでした。
競輪の選手になる学校に行きました。
日本全国に行きました。
外に出ることが面白くて、勝負はあまり気にはなっていませんでした。
父は好きにさせてくれていたので、競輪の選手になることに対しては特に反対はしませんでした。
4,5年競輪の選手をやっていましたが、スランプがあったりして、結婚するようになって
競輪の選手はやめてしまいました。
主人は優しい穏やかな感じの人でした。
結婚した時には台所仕事はなんにもできませんでした。
今でも台所仕事は駄目です。
主人が亡くなって4,5年になります。
朝は遅くて9時過ぎますが、夜はパソコンをやったりして夜更かしが多いです。
インターネットでの写真のファン、フォロアーが21万人という事になっています。
ブログもやっていましたが、文章を書くのが難しいので苦手です。
枯れ葉はそこらへんに落ちているものを持ち帰ってかっこいいと思って撮りました。
写真をはじめてよかったなあと思ったのは、沢山友達ができたことと、写真を撮る楽しさが大きいです。
息子の写真教室が全国に7つあって、友達がいてその仲間が遊びに来てくれます。
友達との年齢の差は全然感じないです。
カメラは自分の命が失うまで持っていると思います。
西本さんはブラジル生まれの91歳、8歳で帰国をし、美容師や競輪選手を経て、27歳で結婚専業主婦になりました。
72歳の時、息子のかずたにさんが主宰する写真塾に通いはじめ、82歳で初の個展を開催 、今ではSNSを通じて世界に多くのファンを持つ人気アマチュアカメラマンです。
西本さんの写真は自撮り、セルフポートレートが多くそのユニークな演出が話題となっています。
写真の魅力などを伺いました。
面白いなあと思ったものを全部手元に置きます。
全部題材になります。
スプーン、石、ビー玉、貝殻、釣りの道具などいろいろあります。
光の反射も写真にすると綺麗です。
7畳の部屋がスタジオになっています。
「燃やすごみ」といって大きなゴミ袋に入ってなんとも言えない表情の写真ですが、みんなに問われますが、塾で自分の好きなものをとって来なさいという事でした。
ゴミの日だったのでこのゴミ袋の中に入って撮ってみようと思いました。
物干しざおにコートと一緒にブラが下られて干されている写真は、虫干ししないといけないと思って干していたら、あの中に入って撮ってみようかなと思いました。
タイマーで自分で撮ります。
パソコンで加工もしています。
主人が記録のような感じで撮っていて、付いていったりしていました。
息子の開いている写真塾に行ってみたら、家で塾生さんたちが映写会みたいなものをやったんです。
面白いなあと思ったらやりませんか、と言われて始めました。(72歳)
あまり難しいという事は感じなくて面白いと思いました。
カメラさえ持っていればどこへ行っても撮れるので面白いです。
自分の顔が写っている水溜まりをみて、面白いと思って撮ったりしました。
主人は風景、私は石ころ、水溜まりなどを撮っていました。
海岸に行くのは好きで足元を見ています。
カメラの操作は詳しくはあまりできませんが、パソコンの加工はやっています。
私はブラジルで生まれて7人兄弟の2番目でした。
小学校2年生の時に日本に帰って来ました。
父はブラジルでは農業の指導をしていました。
美容学校に行って父の助けで美容室を開いて、だいぶやっていました。
美容師は家の中だけで外に出ないし、弟二人は競輪の選手でいろんなところに行くので面白いと思って、私も行こうかなと思ってついていったのが競輪の選手になる始まりでした。
競輪の選手になる学校に行きました。
日本全国に行きました。
外に出ることが面白くて、勝負はあまり気にはなっていませんでした。
父は好きにさせてくれていたので、競輪の選手になることに対しては特に反対はしませんでした。
4,5年競輪の選手をやっていましたが、スランプがあったりして、結婚するようになって
競輪の選手はやめてしまいました。
主人は優しい穏やかな感じの人でした。
結婚した時には台所仕事はなんにもできませんでした。
今でも台所仕事は駄目です。
主人が亡くなって4,5年になります。
朝は遅くて9時過ぎますが、夜はパソコンをやったりして夜更かしが多いです。
インターネットでの写真のファン、フォロアーが21万人という事になっています。
ブログもやっていましたが、文章を書くのが難しいので苦手です。
枯れ葉はそこらへんに落ちているものを持ち帰ってかっこいいと思って撮りました。
写真をはじめてよかったなあと思ったのは、沢山友達ができたことと、写真を撮る楽しさが大きいです。
息子の写真教室が全国に7つあって、友達がいてその仲間が遊びに来てくれます。
友達との年齢の差は全然感じないです。
カメラは自分の命が失うまで持っていると思います。
2019年12月16日月曜日
伊藤多喜雄(民謡歌手) ・【にっぽんの音】
伊藤多喜雄(民謡歌手) ・【にっぽんの音】
進行役 能楽師狂言方 大藏基誠
全国に民謡は何万とあると思いますが、最近はどんどん減ってきています。
歌う人がいなくなってきたことと、第一次産業が無くなってきた事だと思います。
歌う機会も無くなってきてしまった。
基本的には民謡は労働のために歌っていました。
お座敷で歌うと部屋が小さくなっていたりするので、部屋の広さによって声の出し方が違うので、形を変えて聴かせるという作法をとっています。
祝詞をあげる、神主さんの代わりにやっていたりして、盆踊りも民謡になっています。
1950年(昭和25年)、北海道苫小牧市出身、現在69歳。
ニシン業を営む家で生まれ12人兄弟の末っ子。
当時電気が来ていませんでした。
ラジオ,TVなど娯楽が無くて、寝るのが早くて親の娯楽のために生まれてきたようなものです。(笑い)
小学校3年の頃から新聞配達などをする。
一番上の姉さんとは38ぐらい離れています。
姉さんの子どもとは一つ違いで姉さんのおっぱいで育ちました。
中学の頃にはニシンはあまりとれずにイワシが取れていましたが、父からはこれがニシンだと嘘を教えられていました。(笑い)
重い網を上げる時、櫓をこぐときなどに父が自分を励ましながら掛け声みたいに歌っていました。
「網起こし音頭」を歌っていました。
腹の底から声を出す太い声を出すことが大事です。
浜では三味線の人が「ハッ」掛け声を出すわけではなくて、歌いだしも勝手に歌うし、自分の気分によって気分の悪い時、いい時によって勝手に歌うわけで、東京に来たら全然合わなかった。
東京には集団就職で16歳(1966年)できました。
地元では音楽を聴くとか映画を観るという事はなかったです。
父親からは歌は趣味でやれと、お金を稼ぐために仕事をしろと言われていました。
12歳で北海道の民謡大会で優勝しました。
東京で月謝を払って民謡の先生のところに行きましたが、先生より北海道の近所の人のじじばばの方が上手いぐらいの人でした。(笑い)
北海道では三味線に合わせてやったことがなかったが、周りから歌えという事で歌う機会があり歌ったら周りがシーンとなってしまいました。
感情を出したいときにコブシが回ってくるわけで、自分もそういう歌を歌っていて、全然別世界の歌を歌っているわけです。
節回しは働いているときの間なので、そこに節が付いてくる、感情を出したいときにコブシが入ってくるので、そういうことを父親がやっているので、自分もそういう感じで歌うので全然別世界の歌を歌うわけです、子どもなんだけれど50,60代の歌を歌っていることになるんです。
とんでもない子が来たという事になり、月謝も払わないでいいという事になりました。
電気もないところで育ってラジオ,TVもなく蓄音機などもなくて、先輩の声、口ぶりなどを盗み見て歌は覚えていきました。
コピーだからその先輩たちの前では歌えなくて、別な歌を歌わなければいけなかったのでその分、歌の数は増えていきました。
*「TAKIOソーラン」 歌 伊藤多喜雄
沖揚げ音頭の「間」です。
労働に入った場合には「ソーラン」を10回歌えばいいというわけではなくて、10回の時もあれば20回も繰り返すこともあるわけです。
風の強さ、波の大きさ、魚の量により重さが違うと時間を掛けて網を引っ張らないといけないという事です。
陸に上がった男衆は気分よく酒の力を借りて歌うわけです。
楽器はベース、和太鼓、ドラム、尺八、三味線が入っています。
ベースなど低音の音が欲しかったので、土を踏む感じ、網を引っ張る時の感じ、櫓を押す感じが低音の音なので気持ちが入り易かった。
太鼓の音だけで歌ったりもします。
必ず僕の船の歌も音頭をとる船頭さんがいて、この人のリズムが悪かったら駄目で、一日何時間も何十回も歌うので、同じ歌詞ではだめなんです。
音頭取り専門の人がいて、「波声船頭」と言われます。
*「牛深ハイヤ節(うしぶかハイヤぶし)」 歌 伊藤多喜雄
熊本の天草のものですが、激しいリズムと軽やかさは北海道にはないものです。
ヨイサ、ヨイサの掛け合いが見事に活気を作っています。
北前船によって歌、芸能が全国に広がってゆくわけです。
南の方はテンポはいいが細かいコブシはなくて、北の方に行くとコブシを使って表現 する民謡がおおいです。
コブシを使って声を張り上げてお金をもらう芸人が北の方にいるんです。
土地土地で必要とされた歌に変化してゆく。
日本の音とは、「ハー」(民謡の掛け声)です、これで土地の匂いと味、なまりがはいって節まわしが回るという。
*「俵積み唄」 歌 伊藤多喜雄
おめでたい歌で 正月に今年一年間家内安全、五穀豊穣、大漁祈願をして、一軒一軒俵を担いで踊って見せるという歌です。
進行役 能楽師狂言方 大藏基誠
全国に民謡は何万とあると思いますが、最近はどんどん減ってきています。
歌う人がいなくなってきたことと、第一次産業が無くなってきた事だと思います。
歌う機会も無くなってきてしまった。
基本的には民謡は労働のために歌っていました。
お座敷で歌うと部屋が小さくなっていたりするので、部屋の広さによって声の出し方が違うので、形を変えて聴かせるという作法をとっています。
祝詞をあげる、神主さんの代わりにやっていたりして、盆踊りも民謡になっています。
1950年(昭和25年)、北海道苫小牧市出身、現在69歳。
ニシン業を営む家で生まれ12人兄弟の末っ子。
当時電気が来ていませんでした。
ラジオ,TVなど娯楽が無くて、寝るのが早くて親の娯楽のために生まれてきたようなものです。(笑い)
小学校3年の頃から新聞配達などをする。
一番上の姉さんとは38ぐらい離れています。
姉さんの子どもとは一つ違いで姉さんのおっぱいで育ちました。
中学の頃にはニシンはあまりとれずにイワシが取れていましたが、父からはこれがニシンだと嘘を教えられていました。(笑い)
重い網を上げる時、櫓をこぐときなどに父が自分を励ましながら掛け声みたいに歌っていました。
「網起こし音頭」を歌っていました。
腹の底から声を出す太い声を出すことが大事です。
浜では三味線の人が「ハッ」掛け声を出すわけではなくて、歌いだしも勝手に歌うし、自分の気分によって気分の悪い時、いい時によって勝手に歌うわけで、東京に来たら全然合わなかった。
東京には集団就職で16歳(1966年)できました。
地元では音楽を聴くとか映画を観るという事はなかったです。
父親からは歌は趣味でやれと、お金を稼ぐために仕事をしろと言われていました。
12歳で北海道の民謡大会で優勝しました。
東京で月謝を払って民謡の先生のところに行きましたが、先生より北海道の近所の人のじじばばの方が上手いぐらいの人でした。(笑い)
北海道では三味線に合わせてやったことがなかったが、周りから歌えという事で歌う機会があり歌ったら周りがシーンとなってしまいました。
感情を出したいときにコブシが回ってくるわけで、自分もそういう歌を歌っていて、全然別世界の歌を歌っているわけです。
節回しは働いているときの間なので、そこに節が付いてくる、感情を出したいときにコブシが入ってくるので、そういうことを父親がやっているので、自分もそういう感じで歌うので全然別世界の歌を歌うわけです、子どもなんだけれど50,60代の歌を歌っていることになるんです。
とんでもない子が来たという事になり、月謝も払わないでいいという事になりました。
電気もないところで育ってラジオ,TVもなく蓄音機などもなくて、先輩の声、口ぶりなどを盗み見て歌は覚えていきました。
コピーだからその先輩たちの前では歌えなくて、別な歌を歌わなければいけなかったのでその分、歌の数は増えていきました。
*「TAKIOソーラン」 歌 伊藤多喜雄
沖揚げ音頭の「間」です。
労働に入った場合には「ソーラン」を10回歌えばいいというわけではなくて、10回の時もあれば20回も繰り返すこともあるわけです。
風の強さ、波の大きさ、魚の量により重さが違うと時間を掛けて網を引っ張らないといけないという事です。
陸に上がった男衆は気分よく酒の力を借りて歌うわけです。
楽器はベース、和太鼓、ドラム、尺八、三味線が入っています。
ベースなど低音の音が欲しかったので、土を踏む感じ、網を引っ張る時の感じ、櫓を押す感じが低音の音なので気持ちが入り易かった。
太鼓の音だけで歌ったりもします。
必ず僕の船の歌も音頭をとる船頭さんがいて、この人のリズムが悪かったら駄目で、一日何時間も何十回も歌うので、同じ歌詞ではだめなんです。
音頭取り専門の人がいて、「波声船頭」と言われます。
*「牛深ハイヤ節(うしぶかハイヤぶし)」 歌 伊藤多喜雄
熊本の天草のものですが、激しいリズムと軽やかさは北海道にはないものです。
ヨイサ、ヨイサの掛け合いが見事に活気を作っています。
北前船によって歌、芸能が全国に広がってゆくわけです。
南の方はテンポはいいが細かいコブシはなくて、北の方に行くとコブシを使って表現 する民謡がおおいです。
コブシを使って声を張り上げてお金をもらう芸人が北の方にいるんです。
土地土地で必要とされた歌に変化してゆく。
日本の音とは、「ハー」(民謡の掛け声)です、これで土地の匂いと味、なまりがはいって節まわしが回るという。
*「俵積み唄」 歌 伊藤多喜雄
おめでたい歌で 正月に今年一年間家内安全、五穀豊穣、大漁祈願をして、一軒一軒俵を担いで踊って見せるという歌です。
2019年12月15日日曜日
髙田 郁(作家) ・【私のがむしゃら時代】
髙田 郁(作家) ・【私のがむしゃら時代】
昨日からNHK総合TVで放送されている土曜ドラマ「みをつくし料理帖」スペシャル、大阪から江戸に出てきた女料理人「みを」が艱難辛苦に巻き込まれながら精進をかさね夢を実現していくという物語です。
原作はシリーズ累計400万部を超える時代小説「みをつくし料理帖」、その作者が高田さんです。
兵庫県の出身で今年還暦を迎えられた高田さん、時代小説家としてのデビューは40代後半と遅いスタートでした。
高田さんには思春期から他にどうしてもやりたい仕事があって、それを実現するために10年余りの時を費やしました。
結局その夢をかなえることができず、川富士 立夏(かわふじ りっか)のペンネームで漫画の原作者に転身したのが30代の半ば、時代小説家として名前が知られるようになるまでさらに10年以上の時がかかりました。
高田さんが現在のような人気作家になるまでにどのようながむしゃらな日々を過ごされたのか、大人気作「みをつくし料理帖」の創作の舞台裏、中でも店に父親代わりともいえる料理店の店主、種市や読者の人気を二分する「みを」をめぐる二人の男性、謎の侍小松原と医師永田 源斉の誕生秘話なども伺っています。
6か月に一冊出すという事に決めていて、2月と8月に出すという事を決めています。
2か月ごとに区切っていて、最初の2か月が下準備、次の2か月が執筆、最後の2か月が手直しで、パソコンの前に座りっきりで、よく床で寝ています。
知らないことが判ったときなどが嬉しくてその積み重ねです。
絵はその時代の暮らしぶりが判るのでそれが楽しみです。
「みをつくし料理帖」スペシャル 続編。
続編を待ち望んでくれているという事は幸せです。
20年前に亡くなった父の名前を借りて料理店の店主を種市にしました。
小説には小説にしかできない事もあるし、映像には映像にしかできない事があると思っているので、脚本をちゃんと読まないようにして、一視聴者になってみるのを楽しみにしています。
スタッフとの信頼関係が出来上がっているので安心してお任せできるし、一視聴者になってわくわくしながら見せていただきます。
前編では大阪から江戸に出てきた女料理人みをの想い人、小松原こと小野寺数馬との恋の行方が大きな山場を迎えたシーンです。
最初にいたのが医師の源斉さんでしたが、謎の浪人を出してほしいと編集者から言われて、御膳奉行が浪士のふりをして食べに来たら楽しいだろう、として登場したのが小松原さんでした。
読者が小松原派と源斉派に大きくわかれました。
小説の書き方については家を建てるようにという風に言ってます。
まずどんな風な家に住みたいか、図面を引いていって、必要な材料が見えてきて、材料をそろえて、こっちのに窓が欲しいとか、いろいろ加わっていって、家を建てるように物を書くので、「みをつくし料理帖」全10巻最初から決めていて、最期のタイトルが「空の懸け橋」まで決まっていました。
子どものころから作家になりたくてという風には思っていませんでした。
思春期の頃は法律家、裁判官になりたかったんです。
良いこと、悪いことの物差しになりたかった。
学生時代にしんどかったことがあり、力はないが法律を身に付けることによって正義の物差しに成れたらいいなあと思って目指しました。(中学の時に決めました。)
中央大学の法学部に入って、在学中から受けましたが、駄目でした。
卒業後も挑戦しましたがやはり駄目でした。
司法試験は三段階あり短答式試験、論文式試験、最後が口述試験で論文まで行くのですが、もうちょっとじゃないかと言いう事でずるずる来てしまいました。
あきらめようと思ったときには物凄く怖かったです、30歳を過ぎていました。
アルバイトで塾の先生をしていて、塾が倒産したんですがその2週間後に、漫画原作の応募をしてあったんですが、受賞の知らせが入りました。
父は学生時代に亡くなったんですが、父の励ましの言葉に支えられてきました。
父のことを書いて残しておこうと思って「背中を押す人」という漫画の原作を書きました。
受賞することによりいろんな扉が開いていきました。
阪神淡路大震災、夜間中学、地域医療など硬派のドキュメンタリーのようなものですが、やりがいがありました。
論文しか書いてこなかったので、下地が何にもなかったので、私は手塚治虫さんの漫画をシナリオにおろすことからやりました。
取材、資料写真、使用許可をもらうとか、いろいろして原作者でありながら編集者のようなこともやりマネージャーのようなこともしましたが、物凄く楽しかったです。
10年ぐらいやりました。
父はすごく本が好きですごく本を読む人で山本周五郎さんの本が大好きした。
私も同様に本が好きで、山本周五郎さんの「なんの花か薫る」という物語を読んでいるうちに全部が見えてきて、登場人物の或る人が「殺してやる」という言葉が耳元で聞こえてきて、本を置いたまま茫然として、ここまで書けるように成ったらもう何も望まないと思って、時代小説に向かいました。
漫画の原作の仕事を辞めて、大阪の中之島図書館は江戸時代の文献が多いので開館から閉館まで毎日通いました。
知らなかったことが判ってゆくと物凄く楽しいんです。
「出世花」が受賞して、行けると思ったが、担当者が高田さんは3つ売れる条件を外してしているといわれました、①江戸市中が舞台、②捕り物、③剣豪、であることだが、「出世花」は全部外しているといわれました。
売れる条件を満たすものを書くのか、自分で書きたいものを書くのか、という事にぶつかったが、私は自分の望むものを書きたいと思いました。
「出世花」のシリーズを書くことになり、それが「みをつくし料理帖」となってゆく訳です。
いろいろ周りに支えられて、やってこられました。
父は若いころ単身赴任をしていてきっちきちの生活をしていましたが、週に一度焼き鳥屋でコップ酒一杯と焼き鳥を食べて、そのお店が「鶴屋」という事です。
鶴屋のシーンを書くのが好きです。
災害に会っておおきなものを失った人たちが、それぞれのきずなを見つけて希望に向かってゆくというストーリーです。
図書館の人たちからいろいろ助けられました。
書きたいものはたくさんありますが、夜間中学は書きたいです。
夜間中学を取材した時に私の母親ぐらいの高齢者がひらがな、カタカナを書いているのを見て、もぎ取るように覚えてゆくのを見て、自分は文字とか言葉をどんなにないがしろにしていたんだろうと思いました。
そう言ったことを小説で書かしてもらいたいと思います。
昨日からNHK総合TVで放送されている土曜ドラマ「みをつくし料理帖」スペシャル、大阪から江戸に出てきた女料理人「みを」が艱難辛苦に巻き込まれながら精進をかさね夢を実現していくという物語です。
原作はシリーズ累計400万部を超える時代小説「みをつくし料理帖」、その作者が高田さんです。
兵庫県の出身で今年還暦を迎えられた高田さん、時代小説家としてのデビューは40代後半と遅いスタートでした。
高田さんには思春期から他にどうしてもやりたい仕事があって、それを実現するために10年余りの時を費やしました。
結局その夢をかなえることができず、川富士 立夏(かわふじ りっか)のペンネームで漫画の原作者に転身したのが30代の半ば、時代小説家として名前が知られるようになるまでさらに10年以上の時がかかりました。
高田さんが現在のような人気作家になるまでにどのようながむしゃらな日々を過ごされたのか、大人気作「みをつくし料理帖」の創作の舞台裏、中でも店に父親代わりともいえる料理店の店主、種市や読者の人気を二分する「みを」をめぐる二人の男性、謎の侍小松原と医師永田 源斉の誕生秘話なども伺っています。
6か月に一冊出すという事に決めていて、2月と8月に出すという事を決めています。
2か月ごとに区切っていて、最初の2か月が下準備、次の2か月が執筆、最後の2か月が手直しで、パソコンの前に座りっきりで、よく床で寝ています。
知らないことが判ったときなどが嬉しくてその積み重ねです。
絵はその時代の暮らしぶりが判るのでそれが楽しみです。
「みをつくし料理帖」スペシャル 続編。
続編を待ち望んでくれているという事は幸せです。
20年前に亡くなった父の名前を借りて料理店の店主を種市にしました。
小説には小説にしかできない事もあるし、映像には映像にしかできない事があると思っているので、脚本をちゃんと読まないようにして、一視聴者になってみるのを楽しみにしています。
スタッフとの信頼関係が出来上がっているので安心してお任せできるし、一視聴者になってわくわくしながら見せていただきます。
前編では大阪から江戸に出てきた女料理人みをの想い人、小松原こと小野寺数馬との恋の行方が大きな山場を迎えたシーンです。
最初にいたのが医師の源斉さんでしたが、謎の浪人を出してほしいと編集者から言われて、御膳奉行が浪士のふりをして食べに来たら楽しいだろう、として登場したのが小松原さんでした。
読者が小松原派と源斉派に大きくわかれました。
小説の書き方については家を建てるようにという風に言ってます。
まずどんな風な家に住みたいか、図面を引いていって、必要な材料が見えてきて、材料をそろえて、こっちのに窓が欲しいとか、いろいろ加わっていって、家を建てるように物を書くので、「みをつくし料理帖」全10巻最初から決めていて、最期のタイトルが「空の懸け橋」まで決まっていました。
子どものころから作家になりたくてという風には思っていませんでした。
思春期の頃は法律家、裁判官になりたかったんです。
良いこと、悪いことの物差しになりたかった。
学生時代にしんどかったことがあり、力はないが法律を身に付けることによって正義の物差しに成れたらいいなあと思って目指しました。(中学の時に決めました。)
中央大学の法学部に入って、在学中から受けましたが、駄目でした。
卒業後も挑戦しましたがやはり駄目でした。
司法試験は三段階あり短答式試験、論文式試験、最後が口述試験で論文まで行くのですが、もうちょっとじゃないかと言いう事でずるずる来てしまいました。
あきらめようと思ったときには物凄く怖かったです、30歳を過ぎていました。
アルバイトで塾の先生をしていて、塾が倒産したんですがその2週間後に、漫画原作の応募をしてあったんですが、受賞の知らせが入りました。
父は学生時代に亡くなったんですが、父の励ましの言葉に支えられてきました。
父のことを書いて残しておこうと思って「背中を押す人」という漫画の原作を書きました。
受賞することによりいろんな扉が開いていきました。
阪神淡路大震災、夜間中学、地域医療など硬派のドキュメンタリーのようなものですが、やりがいがありました。
論文しか書いてこなかったので、下地が何にもなかったので、私は手塚治虫さんの漫画をシナリオにおろすことからやりました。
取材、資料写真、使用許可をもらうとか、いろいろして原作者でありながら編集者のようなこともやりマネージャーのようなこともしましたが、物凄く楽しかったです。
10年ぐらいやりました。
父はすごく本が好きですごく本を読む人で山本周五郎さんの本が大好きした。
私も同様に本が好きで、山本周五郎さんの「なんの花か薫る」という物語を読んでいるうちに全部が見えてきて、登場人物の或る人が「殺してやる」という言葉が耳元で聞こえてきて、本を置いたまま茫然として、ここまで書けるように成ったらもう何も望まないと思って、時代小説に向かいました。
漫画の原作の仕事を辞めて、大阪の中之島図書館は江戸時代の文献が多いので開館から閉館まで毎日通いました。
知らなかったことが判ってゆくと物凄く楽しいんです。
「出世花」が受賞して、行けると思ったが、担当者が高田さんは3つ売れる条件を外してしているといわれました、①江戸市中が舞台、②捕り物、③剣豪、であることだが、「出世花」は全部外しているといわれました。
売れる条件を満たすものを書くのか、自分で書きたいものを書くのか、という事にぶつかったが、私は自分の望むものを書きたいと思いました。
「出世花」のシリーズを書くことになり、それが「みをつくし料理帖」となってゆく訳です。
いろいろ周りに支えられて、やってこられました。
父は若いころ単身赴任をしていてきっちきちの生活をしていましたが、週に一度焼き鳥屋でコップ酒一杯と焼き鳥を食べて、そのお店が「鶴屋」という事です。
鶴屋のシーンを書くのが好きです。
災害に会っておおきなものを失った人たちが、それぞれのきずなを見つけて希望に向かってゆくというストーリーです。
図書館の人たちからいろいろ助けられました。
書きたいものはたくさんありますが、夜間中学は書きたいです。
夜間中学を取材した時に私の母親ぐらいの高齢者がひらがな、カタカナを書いているのを見て、もぎ取るように覚えてゆくのを見て、自分は文字とか言葉をどんなにないがしろにしていたんだろうと思いました。
そう言ったことを小説で書かしてもらいたいと思います。
2019年12月14日土曜日
椎名保友(NPO法人スタッフ) ・障害者の災害避難を支える
椎名保友(NPO法人スタッフ) ・障害者の災害避難を支える
椎名さんは障害者の日常生活を支援する傍ら、有志が仲間を集めて災害時に障害者が避難しやすい環境を整えるための活動を行っています。
椎名さんが中心となって立ち上げた活動の一つが、仕事や観光など外出先で被災したことを想定した避難訓練、「街中被災シュミレーション」です。
2011年にはじまって8年目を迎えたこの活動、そして椎名さんが活動に打ち込むようになったきっかけについて伺いました。
街中をアロファを着て歩いているときに「街中被災シュミレーション」のスタッフですよと、判るように着ています。
8名のメンバーでやっていて、5人が障害のあるメンバーです。
申し込んでいる人が30名います。
10名づつに分かれて、スタッフが2名つきます。
電動車椅子の人、視覚、聴覚に障害がある人達がスタッフとして付きます。
8年間で23か所やってきました。
梅田の地下街でやったときには、地上に逃げるためにエレベーターが止まっていて、電動車椅子の人が困ると思ったんですが、実際にはパニック障害がある方が人混みでは怖いと思ったりとか、盲導犬ユーザーの方が方向が取れないから動けないという事を聞いた時に、情報を得ることの困難とか判断の困難とかが都心部ではあるのかなと感じました。
地上に上がったときに多くの人がいる中で、自分たちはちゃんと非難ができるのだろうか、そういう不安も感じました。
直近は大阪の難波で行いました。
30名の方と一緒にぶらぶら歩いて、途中で災害が起きたという事で障害の方と一緒に逃げていただくという事をやりました。
東日本大震災があったときに、障害のある人は地震があったときに生きずらさがでてきて、避難した後、病気などいろんな問題が出てくるので、テーマを障害に絞った避難訓練は作れないのかなと思いました。
阪神淡路大震災の時に被災した障害のメンバーもいて、いろいろ経験したことを話してもらって大きなヒントになりました。
2011年の11月に大阪の扇町で第一回は行いました。
障害者の人と一緒に歩いてみようという事になりました。
50人集まってみんなで歩きました。
想定した問題点などを話しながら歩きました。
その後発表しあってもらいました。
子どもたちは人混みが圧迫感があるとか、障害のある人と街を一緒に歩いたことはないという様なことを言っていました。
23回続いてきたのはその都度新しい発見があるのでメンバーに飽きが来ないし、新たに発見したいという事で続いてきています。
車椅子の人が困るのだけではなくていろんな人がいろんな局面で困るんだなということが判りました。
お互いに補えるという事も気づきました。
芸術大学を卒業後劇団に就職して、残業もなくて土日も暇で、アルバイトをしようと思ったら障害者の生活支援というものがあり応募したのがきっかけです。
最初に指定された障害のある方のところに行ったら、うちのアルバイト先の代表の家でした。
昔のヒ素ミルク事件で手足にマヒが出ている人で歩行が困難な人した。
食事を温めてとか、野菜炒めを作ってほしいといわれて対応しました。
食べ終わったらお風呂に入るので対応してほしいといわれて、言われるままに洗いました。
マニュアルがなくて本人に聞きながらやってというのが衝撃でした。
聞く、聴く、訊く、3つがあるが、いかに気付くか、相手に確認するかが重要です。
来年2月に外国人、子ども、障害者に対してどんな避難訓練ができるのかを行う予定です。
避難所での訓練も想定しています。
障害のある方が避難所での生きずらさを周りの人にも知っていただきたいと思っています。
周りの方の目くばせ、気くばせが大事だと思います。
障害がある方、困っている方などの「される経験」を日ごろから積んでほしいと思います。
障害がある方、困っている方などの事を「知ってほしい」という思いがあります。
「街中被災シュミレーション」をインターネットで検索してもらって、観てもらえたら嬉しいです。
椎名さんは障害者の日常生活を支援する傍ら、有志が仲間を集めて災害時に障害者が避難しやすい環境を整えるための活動を行っています。
椎名さんが中心となって立ち上げた活動の一つが、仕事や観光など外出先で被災したことを想定した避難訓練、「街中被災シュミレーション」です。
2011年にはじまって8年目を迎えたこの活動、そして椎名さんが活動に打ち込むようになったきっかけについて伺いました。
街中をアロファを着て歩いているときに「街中被災シュミレーション」のスタッフですよと、判るように着ています。
8名のメンバーでやっていて、5人が障害のあるメンバーです。
申し込んでいる人が30名います。
10名づつに分かれて、スタッフが2名つきます。
電動車椅子の人、視覚、聴覚に障害がある人達がスタッフとして付きます。
8年間で23か所やってきました。
梅田の地下街でやったときには、地上に逃げるためにエレベーターが止まっていて、電動車椅子の人が困ると思ったんですが、実際にはパニック障害がある方が人混みでは怖いと思ったりとか、盲導犬ユーザーの方が方向が取れないから動けないという事を聞いた時に、情報を得ることの困難とか判断の困難とかが都心部ではあるのかなと感じました。
地上に上がったときに多くの人がいる中で、自分たちはちゃんと非難ができるのだろうか、そういう不安も感じました。
直近は大阪の難波で行いました。
30名の方と一緒にぶらぶら歩いて、途中で災害が起きたという事で障害の方と一緒に逃げていただくという事をやりました。
東日本大震災があったときに、障害のある人は地震があったときに生きずらさがでてきて、避難した後、病気などいろんな問題が出てくるので、テーマを障害に絞った避難訓練は作れないのかなと思いました。
阪神淡路大震災の時に被災した障害のメンバーもいて、いろいろ経験したことを話してもらって大きなヒントになりました。
2011年の11月に大阪の扇町で第一回は行いました。
障害者の人と一緒に歩いてみようという事になりました。
50人集まってみんなで歩きました。
想定した問題点などを話しながら歩きました。
その後発表しあってもらいました。
子どもたちは人混みが圧迫感があるとか、障害のある人と街を一緒に歩いたことはないという様なことを言っていました。
23回続いてきたのはその都度新しい発見があるのでメンバーに飽きが来ないし、新たに発見したいという事で続いてきています。
車椅子の人が困るのだけではなくていろんな人がいろんな局面で困るんだなということが判りました。
お互いに補えるという事も気づきました。
芸術大学を卒業後劇団に就職して、残業もなくて土日も暇で、アルバイトをしようと思ったら障害者の生活支援というものがあり応募したのがきっかけです。
最初に指定された障害のある方のところに行ったら、うちのアルバイト先の代表の家でした。
昔のヒ素ミルク事件で手足にマヒが出ている人で歩行が困難な人した。
食事を温めてとか、野菜炒めを作ってほしいといわれて対応しました。
食べ終わったらお風呂に入るので対応してほしいといわれて、言われるままに洗いました。
マニュアルがなくて本人に聞きながらやってというのが衝撃でした。
聞く、聴く、訊く、3つがあるが、いかに気付くか、相手に確認するかが重要です。
来年2月に外国人、子ども、障害者に対してどんな避難訓練ができるのかを行う予定です。
避難所での訓練も想定しています。
障害のある方が避難所での生きずらさを周りの人にも知っていただきたいと思っています。
周りの方の目くばせ、気くばせが大事だと思います。
障害がある方、困っている方などの「される経験」を日ごろから積んでほしいと思います。
障害がある方、困っている方などの事を「知ってほしい」という思いがあります。
「街中被災シュミレーション」をインターネットで検索してもらって、観てもらえたら嬉しいです。
2019年12月13日金曜日
中島かおり(NPO法人代表理事) ・【人権インタビュー】 (5)孤立する妊婦と赤ちゃんを救いたい
中島かおり(NPO法人代表理事)・【人権インタビュー】 (5)孤立する妊婦と赤ちゃんを救いたい
虐待で亡くなった子どものうち、多くは実は生まれたその日に死亡しています。
その場合その加害者のほとんどが母親で、背景には複雑な事情を持つ妊婦が孤立している現状があります。
こうした中、東京を拠点に活動するNPO法人「ピッコラーレ」では電話、メールでの妊娠相談や妊婦の居場所探しをしています。
何故妊婦が孤立してしまい、今どんな問題を抱えているのかNPO法人の代表理事で助産師の中島さんに伺いました。
毎年何人が虐待死しているのか、2017年度では52人が亡くなっています。
そのうち0歳で亡くなった赤ちゃんが28人亡くなっています。
厚生労働省が15年前から発表しているが、それほどは変わっていないです。
減らすことができない数字です。
0歳児では0か月、0日死亡が最も多いといわれています。
妊娠という課題を抱えてながらほかの課題も抱えてきたといわています。
例えば今日寝る場所をどうしようとか、今日食べるものをどうしようとか、明日仕事がなくなるかもしれないとか、そういった課題を抱えて妊娠という課題が乗っかって来た場合、それと向き合う余裕がない。
経済的な問題だけではなくて暴力にさらされている場合もあります。
妊娠したことを誰にも言えない方もいます。
母子手帳をもらう事は妊娠したことをひとに言う事になるので、恐ろしくて言えないという事もあります。
0か月、0日虐待死が多いというのは、赤ちゃんに対する虐待というよりはネグレクトとしての虐待死が多いような気がします。
父親からのDVという事もあり、妊娠は10か月後には必ず生まれるが、お腹が大きくなって孤立している妊婦を見つけることができない、私たちの社会からのネグレクトともいえるかもしれません。
その時の女性の気持ちは終わったという気持ちなのかもしれません。
一人ぼっちで進んできているなかで妊娠出産というもの、赤ちゃんが亡くなるという事で終わるという事は10か月間赤ちゃんをお腹の中で育ててきた女性にとってみて、どんなものだろうという事は私には想像できないです。
虐待死の責任がその母親だけが責任だとは思わないです。
一人で抱えさせてしまって、その一つ手前での相談先になれなくて申し訳ないと思うし、頼り先になれなかったという事に対して情けない気持ちにもなります。
かける言葉がないです。
0か月、0日死亡の母親は母子手帳を9割は持っていない方です。
彼女らはスタートラインにさえ立てない方々で、もっと手前のところでどうやったら彼女たちと繋がるのかを考えたのがきっかけです。
NPO法人「ピッコラーレ」の前身の「妊娠SOS」を2015年に立ち上げました。
今年の10月までに相談してきた方が4700人以上になっています。
相談件数では1万8000件以上になります。
緊急性が高い、リスクが高い人は電話、メールではサポートしきれないので実際に面談をすることをやっています。
行政、病院の紹介などをしていて、延べで201件になっています。
たった一人で自室で生んでしまったというケースがありましたが、最初メールできました。
妊娠をしていることが判ってしまうと、職場の寮から出ていかなくては行けなくて言えなかった、という事でした。
経済的なことも抱えていました。
母子ともにサポートしなくては行けなくて、2週間の間、24時間、2時間おきにメールで伴奏したという事がありました。
電話でのやり取りが事情によりできない状況がありました。(電話料金が払えないとか)
匿名相談窓口なのでメールアドレスしか判りませんでした。
信頼関係が出来上がってくると住所、年齢、ニックネーム、そのうち本名を名乗るようになって、そのうちにつなぎ先を確保できるようになります。
相談はハードルが高いものだと思っています。
最初に「相談してくれてありがとう」と言って、話してゆく中で「ここからは一緒に考えさせてね」という様になって行きます。
SOSを言っているのにそれをキャッチしてもらえなかった、キャッチできない社会の仕組みだったり構造があるかもしれないという事もあります。
ネットカフェにいる方からの相談、ネットカフェで生活している妊婦からの相談が結構あります。
一晩3000円ぐらいで過ごせるが、日雇いのアルバイトをして、3日間ぐらい暮らして、又無くなったら日雇いのアルバイトをするという様なパターンです。
お腹が大きくなって、相談するという事もあります。
漂流する妊婦さん、居場所を転々として生き抜いてきてる。
VDなどに会ったりすると安心安全な居場所探しを一人でしますが、そういった場所をうまく見つけることができずに、転々と居場所を変えてゆく事になります。
妊娠してしまって、居場所がなくなってしまう事になります。
性搾取のために泊めてご飯を食べさせてくれるところがあり、そういったところに流れていってしまうという事もあります。
社会側の不備というか、裏の福祉の人たちに負けてしまっている表側の福祉という事は言えると思います。
ある程度判っていながら裏の福祉に行ってしまうという事があると思います。
差し出すものが自分自身しかないと思っているので、自分を大事にするという事を大切に扱われてきていないという生育歴のなかで自分を大事にするという事が難しいのかなあと思います。
性的なことを含めて傷つくことが敏感だと生きていけなかったという様に、感じないようにやり過ごす状況にある事もあるものと思っています。
子どもを保護する児童福祉法は18歳未満の子供が対象になっていて、18歳を超えてしまうと対象にはならない。
未成年だと契約ができないので、家を借りられないとか携帯電話も契約できない。
保護者の許可が必要だが保護者から虐待を受けていると、にっちもさっちもできなくなる。
未成年で未婚の場合は自分のおなかの赤ちゃんの親権は自分にはない、親にあるので親の許可が必要になってきてしまう。
特別養子縁組は契約になるので、契約ができるのは自分の親になってしまうので、親の許可が必要になるので、なかなかこうしたいという事の選択が難しくなってしまう。
「プロジェクトホーム」という新たな取り組みをしています。
居場所のない妊婦さんの居場所を作るプロジェクトという事でやっています。
貧困、虐待、家出、DVなどいろんな問題をかかえていて、妊娠してしまっている。
彼女たちがいつでも来ることができて休めるような場所を作るというのが中身です。
東京の豊島区に一戸建ての地域貢献型空き家利用の第一号として利用できるようになりました。
来年4月からスタートできます。
最終的には自分の居場所が見つかればいいなと思っています。
ホームを探すような、見つけるようなプロジェクトなんじゃないかという事で「プロジェクトホーム」と名付けました。
自分がやりたいことができて心地よい自分の場所に行ってほしいという願いがあります。
妊娠が困り事になってしまわない社会になってほしいと思います。
「ピッコラーレ」は大きな波が来ても避けてもらって、休んでもらって回復した後に新たなところに行ってもらうという事で、潮溜まりみたいな場所でありたいねと言っています。
虐待で亡くなった子どものうち、多くは実は生まれたその日に死亡しています。
その場合その加害者のほとんどが母親で、背景には複雑な事情を持つ妊婦が孤立している現状があります。
こうした中、東京を拠点に活動するNPO法人「ピッコラーレ」では電話、メールでの妊娠相談や妊婦の居場所探しをしています。
何故妊婦が孤立してしまい、今どんな問題を抱えているのかNPO法人の代表理事で助産師の中島さんに伺いました。
毎年何人が虐待死しているのか、2017年度では52人が亡くなっています。
そのうち0歳で亡くなった赤ちゃんが28人亡くなっています。
厚生労働省が15年前から発表しているが、それほどは変わっていないです。
減らすことができない数字です。
0歳児では0か月、0日死亡が最も多いといわれています。
妊娠という課題を抱えてながらほかの課題も抱えてきたといわています。
例えば今日寝る場所をどうしようとか、今日食べるものをどうしようとか、明日仕事がなくなるかもしれないとか、そういった課題を抱えて妊娠という課題が乗っかって来た場合、それと向き合う余裕がない。
経済的な問題だけではなくて暴力にさらされている場合もあります。
妊娠したことを誰にも言えない方もいます。
母子手帳をもらう事は妊娠したことをひとに言う事になるので、恐ろしくて言えないという事もあります。
0か月、0日虐待死が多いというのは、赤ちゃんに対する虐待というよりはネグレクトとしての虐待死が多いような気がします。
父親からのDVという事もあり、妊娠は10か月後には必ず生まれるが、お腹が大きくなって孤立している妊婦を見つけることができない、私たちの社会からのネグレクトともいえるかもしれません。
その時の女性の気持ちは終わったという気持ちなのかもしれません。
一人ぼっちで進んできているなかで妊娠出産というもの、赤ちゃんが亡くなるという事で終わるという事は10か月間赤ちゃんをお腹の中で育ててきた女性にとってみて、どんなものだろうという事は私には想像できないです。
虐待死の責任がその母親だけが責任だとは思わないです。
一人で抱えさせてしまって、その一つ手前での相談先になれなくて申し訳ないと思うし、頼り先になれなかったという事に対して情けない気持ちにもなります。
かける言葉がないです。
0か月、0日死亡の母親は母子手帳を9割は持っていない方です。
彼女らはスタートラインにさえ立てない方々で、もっと手前のところでどうやったら彼女たちと繋がるのかを考えたのがきっかけです。
NPO法人「ピッコラーレ」の前身の「妊娠SOS」を2015年に立ち上げました。
今年の10月までに相談してきた方が4700人以上になっています。
相談件数では1万8000件以上になります。
緊急性が高い、リスクが高い人は電話、メールではサポートしきれないので実際に面談をすることをやっています。
行政、病院の紹介などをしていて、延べで201件になっています。
たった一人で自室で生んでしまったというケースがありましたが、最初メールできました。
妊娠をしていることが判ってしまうと、職場の寮から出ていかなくては行けなくて言えなかった、という事でした。
経済的なことも抱えていました。
母子ともにサポートしなくては行けなくて、2週間の間、24時間、2時間おきにメールで伴奏したという事がありました。
電話でのやり取りが事情によりできない状況がありました。(電話料金が払えないとか)
匿名相談窓口なのでメールアドレスしか判りませんでした。
信頼関係が出来上がってくると住所、年齢、ニックネーム、そのうち本名を名乗るようになって、そのうちにつなぎ先を確保できるようになります。
相談はハードルが高いものだと思っています。
最初に「相談してくれてありがとう」と言って、話してゆく中で「ここからは一緒に考えさせてね」という様になって行きます。
SOSを言っているのにそれをキャッチしてもらえなかった、キャッチできない社会の仕組みだったり構造があるかもしれないという事もあります。
ネットカフェにいる方からの相談、ネットカフェで生活している妊婦からの相談が結構あります。
一晩3000円ぐらいで過ごせるが、日雇いのアルバイトをして、3日間ぐらい暮らして、又無くなったら日雇いのアルバイトをするという様なパターンです。
お腹が大きくなって、相談するという事もあります。
漂流する妊婦さん、居場所を転々として生き抜いてきてる。
VDなどに会ったりすると安心安全な居場所探しを一人でしますが、そういった場所をうまく見つけることができずに、転々と居場所を変えてゆく事になります。
妊娠してしまって、居場所がなくなってしまう事になります。
性搾取のために泊めてご飯を食べさせてくれるところがあり、そういったところに流れていってしまうという事もあります。
社会側の不備というか、裏の福祉の人たちに負けてしまっている表側の福祉という事は言えると思います。
ある程度判っていながら裏の福祉に行ってしまうという事があると思います。
差し出すものが自分自身しかないと思っているので、自分を大事にするという事を大切に扱われてきていないという生育歴のなかで自分を大事にするという事が難しいのかなあと思います。
性的なことを含めて傷つくことが敏感だと生きていけなかったという様に、感じないようにやり過ごす状況にある事もあるものと思っています。
子どもを保護する児童福祉法は18歳未満の子供が対象になっていて、18歳を超えてしまうと対象にはならない。
未成年だと契約ができないので、家を借りられないとか携帯電話も契約できない。
保護者の許可が必要だが保護者から虐待を受けていると、にっちもさっちもできなくなる。
未成年で未婚の場合は自分のおなかの赤ちゃんの親権は自分にはない、親にあるので親の許可が必要になってきてしまう。
特別養子縁組は契約になるので、契約ができるのは自分の親になってしまうので、親の許可が必要になるので、なかなかこうしたいという事の選択が難しくなってしまう。
「プロジェクトホーム」という新たな取り組みをしています。
居場所のない妊婦さんの居場所を作るプロジェクトという事でやっています。
貧困、虐待、家出、DVなどいろんな問題をかかえていて、妊娠してしまっている。
彼女たちがいつでも来ることができて休めるような場所を作るというのが中身です。
東京の豊島区に一戸建ての地域貢献型空き家利用の第一号として利用できるようになりました。
来年4月からスタートできます。
最終的には自分の居場所が見つかればいいなと思っています。
ホームを探すような、見つけるようなプロジェクトなんじゃないかという事で「プロジェクトホーム」と名付けました。
自分がやりたいことができて心地よい自分の場所に行ってほしいという願いがあります。
妊娠が困り事になってしまわない社会になってほしいと思います。
「ピッコラーレ」は大きな波が来ても避けてもらって、休んでもらって回復した後に新たなところに行ってもらうという事で、潮溜まりみたいな場所でありたいねと言っています。
2019年12月12日木曜日
山口健太(会食恐怖症元当事者) ・【人権インタビュー】 (4)『一緒に』食べられない僕はダメですか?
山口健太(会食恐怖症元当事者) ・【人権インタビュー】 (4)『一緒に』食べられない僕はダメですか?
会食恐怖症をご存じでしょうか?
代表的な症状は誰かと食事をする場面になると、極度に緊張してしまい吐き気を催すなどして食べられなくなるものです。
精神障害の一つとされ国内では専門医の少ない会食恐怖症、悩んでいる人たちをサポートしようと支援団体を立ち上げて活動をしているのが、自らも患者として苦しんだ経験のある、岩手県出身の山口健太さん(26歳)です。
おおくの人たちが日々普通にとっている食事が思うように出来なくなった時に人はどんな状況に陥るのか、普通とは一体何なのか伺いました。
何らかの症状が起きてしまって人と一緒に食事ができなくなって、半年以上続いてしまって日常生活に支障が出る。
症状もいろいろあり、多くが吐き気、ご飯を飲み込めない、動悸、汗が出てしまったり、手が震えてしまったり、しゃべれなくなる事もあります。
社交不安症がその上位にあり、その一つとして会食恐怖症があります。
医師も会食恐怖症に関することは詳しい医師は日本ではまだあまりいません。
10代の方が多いといわれます。
学校の給食などで間食を強要されたりして、強く言われたりしてなる場合が一番多いようです。
私は高校時代に発症しました。
野球部で合宿があり、体つくりを兼ねてご飯を朝2合、昼2合、夕方に3合食べようという事でノルマとして課されるわけです。
それが出来なくて、プレッシャーを感じる様になり、監督がそのことに対してみんなの前で怒ったんです。
又言われるのかもしれないと思うようになって、ご飯の匂いを嗅いただけでも食事が困難になって行きました。
教室で弁当を食べるとか、一緒にラーメン屋に行くという様な時でも食べられなくなりました。
いつの間にか一緒には食べられなくなってしまいました。
一番は将来が不安でした。
一度打ち明けたことがありましたが、理解して貰えなくて、その後は言わないようにしようと思っていました。
ネガティブな気持ちになって行きました。
家では普通には食べていました。
本当に仲のいい高校生で一緒に食べていた友達と、家族は大丈夫でした。
自分をさらけ出してもいいという様な関係の人たちだったように思います。
高校生の時にはインターネットで検索していたら似ているなという感じがしました。
あまり書かれてはいなくて克服するような内容などは一切書かれてはいませんでした。
まず食事をなるべく避けずに行くというところを大切にして行動していったという事を大切にして行動していったというのが最初のステップでした。
大学では前向きな気持ちも少し出てきました。
1年生の夏にアルバイトに行きました、日本料理屋さんでした。
まかないが定食の中でもがっちり出してくれるところで、店はやめたくないと思って店の人に打ち明けたら、無理せず食べられる分だけ練習するつもりで食べればいいといわれました。
最初はうまく食べれなかったが、半年後ぐらいには食べられるようになり転機になりました。
「食べなきゃ」ということが「食べなくてもいいや」という風に変わるとうまくいくようになりました。
ポジティブにとらえられるようになり、こうしたいという様にとらえられるようになりました。
悩んでいる方たちに伝えたいと思うようになりましたが、どうしたら発信できるのか、情報発信をちゃんと学ぼうと思うようになりました。
大学を中途でやめて、ウエブサイトを作るとか、情報発信し方をちゃんとやるとか始めました。
段々自分の仕事が成り立って行ってアルバイトも辞めてその仕事をするようになりました。
経営の勉強会に参加した時に、「山口君がやっていることは誰でもできるようなことなので、もっと自分がやるべきことをもっと追求した方がいい」といわれました。
会食恐怖症とかメンタルなことで悩んでいる人たちにメッセージを届けたいという思いで今の仕事のことを学び始めたという事を思い出して、やり始めようと思いました。
会食恐怖症について高校時代とあまり変わらない情報内容だったので、置き去りにされている分野だと思って、やっていこうという気持ちがますます高まりました。
今まで一人で悩んでいたことに対して、前向きに行動している人がいることを知ってよかったという声が多いです。
相談には2000、3000人の方がいらっしゃいます。
50代の方からのメールがありましたが、小さいころからの会食恐怖症だったんだと知ったという様な方もいました。
会食ができないという事で、その後の人生全般に直接的な影響が出てしまっている状態です。
症状のある人たちとの会食会などをして,食べれなくても構わないという事でやるわけですが、表情なども変わってきます。
親から、学校の先生などからの指導する側からの対応の仕方の相談もあります。
胃袋にも個性があるという思いで考えていただきたいと思います。
普通とは多くの場合という意味だと思うので、普通に当てはまることが正しいかというとそうではないと思うので、普通に当てはまらなくてもいいと思います。
違いを受け入れるという事が大事だと思います。
会食恐怖症をご存じでしょうか?
代表的な症状は誰かと食事をする場面になると、極度に緊張してしまい吐き気を催すなどして食べられなくなるものです。
精神障害の一つとされ国内では専門医の少ない会食恐怖症、悩んでいる人たちをサポートしようと支援団体を立ち上げて活動をしているのが、自らも患者として苦しんだ経験のある、岩手県出身の山口健太さん(26歳)です。
おおくの人たちが日々普通にとっている食事が思うように出来なくなった時に人はどんな状況に陥るのか、普通とは一体何なのか伺いました。
何らかの症状が起きてしまって人と一緒に食事ができなくなって、半年以上続いてしまって日常生活に支障が出る。
症状もいろいろあり、多くが吐き気、ご飯を飲み込めない、動悸、汗が出てしまったり、手が震えてしまったり、しゃべれなくなる事もあります。
社交不安症がその上位にあり、その一つとして会食恐怖症があります。
医師も会食恐怖症に関することは詳しい医師は日本ではまだあまりいません。
10代の方が多いといわれます。
学校の給食などで間食を強要されたりして、強く言われたりしてなる場合が一番多いようです。
私は高校時代に発症しました。
野球部で合宿があり、体つくりを兼ねてご飯を朝2合、昼2合、夕方に3合食べようという事でノルマとして課されるわけです。
それが出来なくて、プレッシャーを感じる様になり、監督がそのことに対してみんなの前で怒ったんです。
又言われるのかもしれないと思うようになって、ご飯の匂いを嗅いただけでも食事が困難になって行きました。
教室で弁当を食べるとか、一緒にラーメン屋に行くという様な時でも食べられなくなりました。
いつの間にか一緒には食べられなくなってしまいました。
一番は将来が不安でした。
一度打ち明けたことがありましたが、理解して貰えなくて、その後は言わないようにしようと思っていました。
ネガティブな気持ちになって行きました。
家では普通には食べていました。
本当に仲のいい高校生で一緒に食べていた友達と、家族は大丈夫でした。
自分をさらけ出してもいいという様な関係の人たちだったように思います。
高校生の時にはインターネットで検索していたら似ているなという感じがしました。
あまり書かれてはいなくて克服するような内容などは一切書かれてはいませんでした。
まず食事をなるべく避けずに行くというところを大切にして行動していったという事を大切にして行動していったというのが最初のステップでした。
大学では前向きな気持ちも少し出てきました。
1年生の夏にアルバイトに行きました、日本料理屋さんでした。
まかないが定食の中でもがっちり出してくれるところで、店はやめたくないと思って店の人に打ち明けたら、無理せず食べられる分だけ練習するつもりで食べればいいといわれました。
最初はうまく食べれなかったが、半年後ぐらいには食べられるようになり転機になりました。
「食べなきゃ」ということが「食べなくてもいいや」という風に変わるとうまくいくようになりました。
ポジティブにとらえられるようになり、こうしたいという様にとらえられるようになりました。
悩んでいる方たちに伝えたいと思うようになりましたが、どうしたら発信できるのか、情報発信をちゃんと学ぼうと思うようになりました。
大学を中途でやめて、ウエブサイトを作るとか、情報発信し方をちゃんとやるとか始めました。
段々自分の仕事が成り立って行ってアルバイトも辞めてその仕事をするようになりました。
経営の勉強会に参加した時に、「山口君がやっていることは誰でもできるようなことなので、もっと自分がやるべきことをもっと追求した方がいい」といわれました。
会食恐怖症とかメンタルなことで悩んでいる人たちにメッセージを届けたいという思いで今の仕事のことを学び始めたという事を思い出して、やり始めようと思いました。
会食恐怖症について高校時代とあまり変わらない情報内容だったので、置き去りにされている分野だと思って、やっていこうという気持ちがますます高まりました。
今まで一人で悩んでいたことに対して、前向きに行動している人がいることを知ってよかったという声が多いです。
相談には2000、3000人の方がいらっしゃいます。
50代の方からのメールがありましたが、小さいころからの会食恐怖症だったんだと知ったという様な方もいました。
会食ができないという事で、その後の人生全般に直接的な影響が出てしまっている状態です。
症状のある人たちとの会食会などをして,食べれなくても構わないという事でやるわけですが、表情なども変わってきます。
親から、学校の先生などからの指導する側からの対応の仕方の相談もあります。
胃袋にも個性があるという思いで考えていただきたいと思います。
普通とは多くの場合という意味だと思うので、普通に当てはまることが正しいかというとそうではないと思うので、普通に当てはまらなくてもいいと思います。
違いを受け入れるという事が大事だと思います。
2019年12月11日水曜日
大谷順子(NPO法人代表理事) ・【人権インタビュー】 (3)虐待の悲劇を許すな!
大谷順子(NPO法人代表理事) ・【人権インタビュー】 (3)虐待の悲劇を許すな!
84歳になる大谷さんはこれまで子どもにかかわる様々なNPOの立上げにかかわってきました。
日本で初めて親と暮らせない子どもが里親と生活する家庭を集めた子供の村を福岡に開設するなど、子どもへの支援活動を50年以上続けてきました。
近年子どもの虐待に関するニュースが数多く報道されています。
子ども自身がSOSを発信していたのにもかかわらず、救われなかった命も少なくありません。
どうすれば子どもの虐待が防げるのか、大分にさんはそのカギが地域だと言っています。
大学を卒業した後しばらくTV局で働いていて、子どもの番組の制作にかかわりまして、そのご縁から子ども劇場という市民団体(今でいうNPO法人)、にかかわったのがきっかけです。
当時の子どもの状況が変わっていくという事で危機感を持ちました。
遊び、仲間、ゆったりした時間そういったものがどんどん失ってゆく予感がしました。
68歳の時に「子どもNPOセンター福岡」を立ち上げました。
子どもの問題が多様化して深刻な問題が多発するという事で、多くの市民がその課題に取り組むという方たちが出てきて、NPO法人として立ち上がりました。
当時子ども虐待という言葉はありませんでした。
しつけ、指導という名のもとに体罰はあったと思いますが、今でいう子供虐待が認識されたというのは、2000年に児童虐待防止法が成立しましたが、その少し前ぐらいから認識されてきたと思います。
子ども権利条約が子ども虐待を発見したという風に言われる。
子ども権利条約が国連で採択されて30年になります。
日本で批准して25年経ち、いまだにそのことが浸透し社会に根付いていかないという問題がもろもろの問題を引きおこすという事に関連があるのではないかと思います。
子どもは一人の独立した権利があるという見方が重要な事で4原則があります。
①生きる権利
②発達する権利
③保護される権利
④参加をする権利
生まれながらに持っている権利です。
国、大人社会は子どもに対してちゃんとそれを保証する責務を負う。
2005年69歳の時に市民参加型の里親普及事業に着手。
色んな背景を持った子供たちが次々児童相談所に連れてこられて(虐待が一番多かったが)、児童相談所が非常に困って、一時保護され、児童養護施設に子どもを委託したりしますが、一杯になってきて、他県にまでお願いするという様なことになりました。
里親を増やすことしかないという事で、私どもに相談があったという事がきっかけでした。
里親制度が知られていないことが判りました。
或る里親から世間から隠れるようにして生活してきたという話を聞いて、これは変えなければいけないと思いました。
2006年に子どもの村を作る事に着手。
複数の里親家庭が集まって専門家の支援を得るという事がポイントですが、一緒になって子どもを育てる村という事です。
5棟建っていますが、今4っつの家庭があります。
里親の愛情だけではどうにもならないということが判ってきて、専門的な支援があまりにも日本の中では不足しているという事です。
苦労してきた子どものトラウマを専門的な力がないとできないことで、一つ一つほぐしてゆく作業をするのでこれは大事なことだと思いました。
資金、土地、人材の確保、地域の方たちの合意を頂くこと、すべてが大変でした。
悪い子が来るとか噂が飛んだりして、反対されたりしました。
説明会を開いたりしましたが、反対する人達がいて収まるまで1年半かかりました。
2010年に村が開村しました。
子どもの顔を見たらいっぺんに変わりました。
一番反対していた人が開村半年後に、のし袋を持ってきて「子どもたちに罪はないけんね」と言って渡してくれました。
5万円入っていてびっくりして泣きました、今でも忘れられません。
殆どの子が厳しい経験をしてやってくるが、何か月かすると表情が変わってきて、柔らかい感じになってきて、子どもらしい顔になって行きます。
子どもの村ではいろんな大人と交流することがあり、それがとてもよかったと思います。
お祭りに参加したり、農作業をしているところを見たり、いろんなことを教えてもらったりしてとかいろいろあります。
オープンにするという事が大事なんじゃないでしょうか。
地域とのつながりが大事だと思います。
家族ぐるみの支援になってきていると思います。
困難をかかえた子がいくらでもいます、親が子を罵ったりしていること見かけることがありますが、私は声をかけたりしています、それだけでも違うと思います。
アドボケイト(Advocate 代弁者)の育成に力を入れています。
児童相談所、一時保護所などで訪問して子供の声を聴くという事です。
聴いた事を社会に届けるという役割を持つ人です。
親が怖い、先生が怖いので言わないでおこうという様な子どもたちがいるので、子どもの立場に立って言えないようなことを時間を掛けて聴こうとするものです。
子ども支援にかかわらない別の人がなるという事です。
今年6月に参議院本会議で通過して法律として成立したという事があり、子どもアドボケイトの構築というのを2年後を目途にして実現するという方針です。
その時に備えて人材を備えておくというものです。
子どもの人権を尊重することが一番で、しっかりと子どもの声を聴く社会に向けて歩いてゆくと、きっといい社会になるのではないかと思います。
虐待の相談数が増加しているという事がありますが、空振りでもいいから電話した方がいいというその意識の表れだろうと思います。
思いすぎでもいいから代わりにSOSを発信してという事で 虐待防止に備えてゆく事が必要だと思います。
子どもへの温かいまなざし、子どもにかかわると自分が柔らかくなってゆくと思うので、気に掛けることが大人も変わってゆくきっかけになると思います。
84歳になる大谷さんはこれまで子どもにかかわる様々なNPOの立上げにかかわってきました。
日本で初めて親と暮らせない子どもが里親と生活する家庭を集めた子供の村を福岡に開設するなど、子どもへの支援活動を50年以上続けてきました。
近年子どもの虐待に関するニュースが数多く報道されています。
子ども自身がSOSを発信していたのにもかかわらず、救われなかった命も少なくありません。
どうすれば子どもの虐待が防げるのか、大分にさんはそのカギが地域だと言っています。
大学を卒業した後しばらくTV局で働いていて、子どもの番組の制作にかかわりまして、そのご縁から子ども劇場という市民団体(今でいうNPO法人)、にかかわったのがきっかけです。
当時の子どもの状況が変わっていくという事で危機感を持ちました。
遊び、仲間、ゆったりした時間そういったものがどんどん失ってゆく予感がしました。
68歳の時に「子どもNPOセンター福岡」を立ち上げました。
子どもの問題が多様化して深刻な問題が多発するという事で、多くの市民がその課題に取り組むという方たちが出てきて、NPO法人として立ち上がりました。
当時子ども虐待という言葉はありませんでした。
しつけ、指導という名のもとに体罰はあったと思いますが、今でいう子供虐待が認識されたというのは、2000年に児童虐待防止法が成立しましたが、その少し前ぐらいから認識されてきたと思います。
子ども権利条約が子ども虐待を発見したという風に言われる。
子ども権利条約が国連で採択されて30年になります。
日本で批准して25年経ち、いまだにそのことが浸透し社会に根付いていかないという問題がもろもろの問題を引きおこすという事に関連があるのではないかと思います。
子どもは一人の独立した権利があるという見方が重要な事で4原則があります。
①生きる権利
②発達する権利
③保護される権利
④参加をする権利
生まれながらに持っている権利です。
国、大人社会は子どもに対してちゃんとそれを保証する責務を負う。
2005年69歳の時に市民参加型の里親普及事業に着手。
色んな背景を持った子供たちが次々児童相談所に連れてこられて(虐待が一番多かったが)、児童相談所が非常に困って、一時保護され、児童養護施設に子どもを委託したりしますが、一杯になってきて、他県にまでお願いするという様なことになりました。
里親を増やすことしかないという事で、私どもに相談があったという事がきっかけでした。
里親制度が知られていないことが判りました。
或る里親から世間から隠れるようにして生活してきたという話を聞いて、これは変えなければいけないと思いました。
2006年に子どもの村を作る事に着手。
複数の里親家庭が集まって専門家の支援を得るという事がポイントですが、一緒になって子どもを育てる村という事です。
5棟建っていますが、今4っつの家庭があります。
里親の愛情だけではどうにもならないということが判ってきて、専門的な支援があまりにも日本の中では不足しているという事です。
苦労してきた子どものトラウマを専門的な力がないとできないことで、一つ一つほぐしてゆく作業をするのでこれは大事なことだと思いました。
資金、土地、人材の確保、地域の方たちの合意を頂くこと、すべてが大変でした。
悪い子が来るとか噂が飛んだりして、反対されたりしました。
説明会を開いたりしましたが、反対する人達がいて収まるまで1年半かかりました。
2010年に村が開村しました。
子どもの顔を見たらいっぺんに変わりました。
一番反対していた人が開村半年後に、のし袋を持ってきて「子どもたちに罪はないけんね」と言って渡してくれました。
5万円入っていてびっくりして泣きました、今でも忘れられません。
殆どの子が厳しい経験をしてやってくるが、何か月かすると表情が変わってきて、柔らかい感じになってきて、子どもらしい顔になって行きます。
子どもの村ではいろんな大人と交流することがあり、それがとてもよかったと思います。
お祭りに参加したり、農作業をしているところを見たり、いろんなことを教えてもらったりしてとかいろいろあります。
オープンにするという事が大事なんじゃないでしょうか。
地域とのつながりが大事だと思います。
家族ぐるみの支援になってきていると思います。
困難をかかえた子がいくらでもいます、親が子を罵ったりしていること見かけることがありますが、私は声をかけたりしています、それだけでも違うと思います。
アドボケイト(Advocate 代弁者)の育成に力を入れています。
児童相談所、一時保護所などで訪問して子供の声を聴くという事です。
聴いた事を社会に届けるという役割を持つ人です。
親が怖い、先生が怖いので言わないでおこうという様な子どもたちがいるので、子どもの立場に立って言えないようなことを時間を掛けて聴こうとするものです。
子ども支援にかかわらない別の人がなるという事です。
今年6月に参議院本会議で通過して法律として成立したという事があり、子どもアドボケイトの構築というのを2年後を目途にして実現するという方針です。
その時に備えて人材を備えておくというものです。
子どもの人権を尊重することが一番で、しっかりと子どもの声を聴く社会に向けて歩いてゆくと、きっといい社会になるのではないかと思います。
虐待の相談数が増加しているという事がありますが、空振りでもいいから電話した方がいいというその意識の表れだろうと思います。
思いすぎでもいいから代わりにSOSを発信してという事で 虐待防止に備えてゆく事が必要だと思います。
子どもへの温かいまなざし、子どもにかかわると自分が柔らかくなってゆくと思うので、気に掛けることが大人も変わってゆくきっかけになると思います。
2019年12月10日火曜日
木下洋一(元法務省職員) ・【人権インタビュー】 (2)見放されてきた外国人収容問題
木下洋一(元法務省職員)・【人権インタビュー】 (2)見放されてきた外国人収容問題
日本に在留する外国人の数は過去最多を更新しました。
日本での仕事や留学にはビザの取得が必要ですが、中にはビザの期限が切れた後も日本に滞在するオーバーステイの状態になる外国人もいます。
日本に在留する資格がなく国外退去を求められている外国人は、法務省出入国在留管理庁、通称入管の施設に収容されてしまう。
実は今収容が長期化ている人が増えていて、中には5年以上収容されている人もいます。
収容に期限が示されず精神的に追い込まれ自ら命を絶つ人がいます。
そうした中、入管の元職員の男性が外国人の収容問題に取り組んでいます。
木下洋一さん(55歳)です。
木下さんは外国人を管理する制度自体に問題意識を持ち大学院で研究しました。
ことし退職し現在講演などでこの問題の発信に取り組んでいます。
この問題の背景に何があるのか、あるべき制度の姿とはどういうものなのか、伺いました。
今年、入管問題救援センターを立ち上げました。
18年間入管に居ていろんなことを感じ、入管行政に関する矛盾もありいろんな人たちに知っていただきたいと思いました。
皆さん方の考えるきっかけを作っていきたいと思いました。
2001年に入管に移り、実態調査部門というセクションで、ビザを持っている人の現状調査する仕事でした。
在留特別許可に関係する審判部門でも仕事をしました。
ビザがない人たちの手続きをするセクションですが、事情を聴く仕事をしていました。
オーバーステイであっても日本人と結婚、オーバーステイ同士の人が結婚して子供が生まれ学校に通っている、オーバーステイをしている中で怪我をして日本で治療をしている、そういうような事情を抱えている人が結構います。
収容されたうえで強制退去手続きを受けて本国に帰りなさいという命令書が出されれば
送還されるまで収容される、それが原則です。
2019年6月街で収容人数は1253人で半年以上収容が679人、長い人では5,6年収容されている。
厳格化する方にかじを切って、長期化が出て来ている。
不法滞在者が増えると犯罪が増えるという様なイメージ的なことがあるが、外国人の犯罪者が増えているかというと必ずしも増えているわけではない。
外国人の入国者が右肩上がりに上がっている状況において、外国人の犯罪率はさがっているが、安易なイメージは慎重に考えるべきだと思います。
収容に期限がないので召還されるまではずーっと継続するわけです。
何年も収容されている人たちは国に帰りなさいという命令書が出ているにもかかわらず、それに従わない。
理由は家族がいるとか、難民認定申請をしたのに認められなかったりで、本国に帰ると迫害されてしまうという事で、帰りたくないという事で継続されてしまい、先が見えない。
収容の長期化が出て来ている。
精神的な問題を抱えることになる。
実際に命を絶つという事があり、5人の方が亡くなっている。
収容は一時的なはずなのに今は半分が長期収容者になってしまっている。
自分から帰っていきますという以外は出れないという事で、希望が無くなってしまう。
収容者のハンガーストライキがありました。
一番の不満が仮放免が認められない、認められないこと自体よりも認められない理由がわからない、教えてくれないという事に不満が大きい。
病気になって収容が耐えられない体にならない限り出られないという事で自らの体を痛めつける行動を起こしてしまう。
200人近くの人がハンガーストライキを行いましたが、体調を崩したり亡くなってしまった人もいました。
収監側と収容者側の根競べのようになってしまって出口が見えないような状況です。
在留特別許可がもらえなかったから収容されているが、在留特別許可がもらえなかったという事が正しかったのかどうか。
正しく機能しているのであれば自己責任論の説得力を持つが、フェアかどうか立ち返って自己責任論を語るべきだと思います。
仮放免、解放の判断基準は実はないです。
仮放免の可否判断は入管の裁量で決められている。
基準がないこと、プラス理由がわからないという事、そこが問題です。
或る基準を示して方向性を持たないと人権という視点から見ると問題があると思います。
裁判を起こしても外国人が勝つという事はあまりない状況です。
日本にいる夫婦が子どもを設け、夫婦がオーバーステイだとその子もオーバーステイなわけです。
その子が成長して日本の学校に通い、コミュニティーの中で成長してゆく。
夫婦がオーバーステイ容疑で摘発されると子どもを含めて退去強制手続きに乗せられる。
しかし子どもには何の罪はない。
子どもの強制送還には慎重になるべきだなと思います。
入管制度に疑問を持ちながら仕事をしている人は多いです。
職員の気持ちと制度は必ずしもリンクはしていない。
幅広い裁量があるなかでどうしても前例で判断することが多い。
外国人に対して上から目線で見てしまう事が多々あります。
経済的優位性を意識していたところはあると思います。
入管に18年間いましたが、裁量が公正に行われているとは思えなくて、そのシステム作りが不可避だと思って大学院に行って学ぼうと思いました。
入管の裁量権は基準が曖昧な事、入管だけしかコミットしていないため判断自体がブラックボックス化してしまっているので、システム自体を変えないとブラックボックスから抜け出せないという事から、研究して論文にまとめて活動につなげていっています。
大学院を卒業と同時に入管を辞めました。
外国人の人権に根差した出入国管理在留システムが不可欠だと思います。
手続き的な保証が欠けている。
収容期限をもう一回検討すべきだと思います。
政治が動かないとシステムは変わらないと思います。
日本人の人権意識が問われている問題だという視点でとらえるべきで、それをもとに考えてゆくべきだと思います。
出入国管理行政の根幹にあるのは人権だと思うので、正面から見据えないと公正な行政は行われない。
人として同じ目線でいるべきだと思います。
外国人の助けを必要とするときが目の前にあり、同じ目線でいるべきだと思います。
お互いが尊重することが国際化、共生化の礎になると思います 。
日本に在留する外国人の数は過去最多を更新しました。
日本での仕事や留学にはビザの取得が必要ですが、中にはビザの期限が切れた後も日本に滞在するオーバーステイの状態になる外国人もいます。
日本に在留する資格がなく国外退去を求められている外国人は、法務省出入国在留管理庁、通称入管の施設に収容されてしまう。
実は今収容が長期化ている人が増えていて、中には5年以上収容されている人もいます。
収容に期限が示されず精神的に追い込まれ自ら命を絶つ人がいます。
そうした中、入管の元職員の男性が外国人の収容問題に取り組んでいます。
木下洋一さん(55歳)です。
木下さんは外国人を管理する制度自体に問題意識を持ち大学院で研究しました。
ことし退職し現在講演などでこの問題の発信に取り組んでいます。
この問題の背景に何があるのか、あるべき制度の姿とはどういうものなのか、伺いました。
今年、入管問題救援センターを立ち上げました。
18年間入管に居ていろんなことを感じ、入管行政に関する矛盾もありいろんな人たちに知っていただきたいと思いました。
皆さん方の考えるきっかけを作っていきたいと思いました。
2001年に入管に移り、実態調査部門というセクションで、ビザを持っている人の現状調査する仕事でした。
在留特別許可に関係する審判部門でも仕事をしました。
ビザがない人たちの手続きをするセクションですが、事情を聴く仕事をしていました。
オーバーステイであっても日本人と結婚、オーバーステイ同士の人が結婚して子供が生まれ学校に通っている、オーバーステイをしている中で怪我をして日本で治療をしている、そういうような事情を抱えている人が結構います。
収容されたうえで強制退去手続きを受けて本国に帰りなさいという命令書が出されれば
送還されるまで収容される、それが原則です。
2019年6月街で収容人数は1253人で半年以上収容が679人、長い人では5,6年収容されている。
厳格化する方にかじを切って、長期化が出て来ている。
不法滞在者が増えると犯罪が増えるという様なイメージ的なことがあるが、外国人の犯罪者が増えているかというと必ずしも増えているわけではない。
外国人の入国者が右肩上がりに上がっている状況において、外国人の犯罪率はさがっているが、安易なイメージは慎重に考えるべきだと思います。
収容に期限がないので召還されるまではずーっと継続するわけです。
何年も収容されている人たちは国に帰りなさいという命令書が出ているにもかかわらず、それに従わない。
理由は家族がいるとか、難民認定申請をしたのに認められなかったりで、本国に帰ると迫害されてしまうという事で、帰りたくないという事で継続されてしまい、先が見えない。
収容の長期化が出て来ている。
精神的な問題を抱えることになる。
実際に命を絶つという事があり、5人の方が亡くなっている。
収容は一時的なはずなのに今は半分が長期収容者になってしまっている。
自分から帰っていきますという以外は出れないという事で、希望が無くなってしまう。
収容者のハンガーストライキがありました。
一番の不満が仮放免が認められない、認められないこと自体よりも認められない理由がわからない、教えてくれないという事に不満が大きい。
病気になって収容が耐えられない体にならない限り出られないという事で自らの体を痛めつける行動を起こしてしまう。
200人近くの人がハンガーストライキを行いましたが、体調を崩したり亡くなってしまった人もいました。
収監側と収容者側の根競べのようになってしまって出口が見えないような状況です。
在留特別許可がもらえなかったから収容されているが、在留特別許可がもらえなかったという事が正しかったのかどうか。
正しく機能しているのであれば自己責任論の説得力を持つが、フェアかどうか立ち返って自己責任論を語るべきだと思います。
仮放免、解放の判断基準は実はないです。
仮放免の可否判断は入管の裁量で決められている。
基準がないこと、プラス理由がわからないという事、そこが問題です。
或る基準を示して方向性を持たないと人権という視点から見ると問題があると思います。
裁判を起こしても外国人が勝つという事はあまりない状況です。
日本にいる夫婦が子どもを設け、夫婦がオーバーステイだとその子もオーバーステイなわけです。
その子が成長して日本の学校に通い、コミュニティーの中で成長してゆく。
夫婦がオーバーステイ容疑で摘発されると子どもを含めて退去強制手続きに乗せられる。
しかし子どもには何の罪はない。
子どもの強制送還には慎重になるべきだなと思います。
入管制度に疑問を持ちながら仕事をしている人は多いです。
職員の気持ちと制度は必ずしもリンクはしていない。
幅広い裁量があるなかでどうしても前例で判断することが多い。
外国人に対して上から目線で見てしまう事が多々あります。
経済的優位性を意識していたところはあると思います。
入管に18年間いましたが、裁量が公正に行われているとは思えなくて、そのシステム作りが不可避だと思って大学院に行って学ぼうと思いました。
入管の裁量権は基準が曖昧な事、入管だけしかコミットしていないため判断自体がブラックボックス化してしまっているので、システム自体を変えないとブラックボックスから抜け出せないという事から、研究して論文にまとめて活動につなげていっています。
大学院を卒業と同時に入管を辞めました。
外国人の人権に根差した出入国管理在留システムが不可欠だと思います。
手続き的な保証が欠けている。
収容期限をもう一回検討すべきだと思います。
政治が動かないとシステムは変わらないと思います。
日本人の人権意識が問われている問題だという視点でとらえるべきで、それをもとに考えてゆくべきだと思います。
出入国管理行政の根幹にあるのは人権だと思うので、正面から見据えないと公正な行政は行われない。
人として同じ目線でいるべきだと思います。
外国人の助けを必要とするときが目の前にあり、同じ目線でいるべきだと思います。
お互いが尊重することが国際化、共生化の礎になると思います 。
2019年12月9日月曜日
入江杏(世田谷一家殺害事件被害者遺族) ・【人権インタビュー】 (1)怒りより、悲しみへの共感を
入江杏(世田谷一家殺害事件被害者遺族) ・【人権インタビュー】 (1)怒りより、悲しみへの共感を
今から19年前2000年の年末に東京世田谷区に住んでいた、宮澤みきおさん、泰子さん夫妻と長女のにいなちゃん、長男の礼君が何者かに殺害されるという事件が発生しました。
犯人は見つかっておらず未解決です。
入江さんは亡くなった泰子さんの姉です。
被害者遺族として自らの悲しみと向き合ってきた経験から現在は様々な喪失体験に寄り添うグリーフケアという活動を行っています。
悲しみとともに生きそこから生きる力を取り戻してきた入江さんに伺います。
事件後葬式がありましたが、犯人逮捕、事件解決の報告ができると思っていました。
沢山遺留品もあるし手がかりもあるので警察からはすぐ犯人は見つかるという様な話もありました。
いまだに犯人は全く分からないし動機も判りません。
宙ぶらりんの状況が19年経ってしまいました。
家の取り壊しの要請があり、未解決のまま現場が無くなってしまうのかという葛藤の中にあります。
グリーフケアという学びの過程を経て今悲しみの意味を考えて、悲しみの意味を問いかける、いろんな悲しみと向き合いながら、新たな縁を作って行って、今があるという風に感じています。
宮澤家とは2世帯住宅になっていましたが、独立はしていました。
長女のにいなちゃんは8歳、長男の礼君は6歳でした。
子どものことを思うと今でもつらいです。
うちの子とにいなちゃんは一緒に通学していたこともあります。
2000年の12月31日に事件が起きました。
9時半過ぎににいなちゃんと礼君が「おばちゃん、おはよう」といっていつも来るんですが、その日に限って子どもたちが来ませんでした。
母にゆっくり寝かせてあげたらといったんですが、母が起こしてくると言って隣に起こしに行って、15分ぐらいして血相を変えて何か言っているんですが、言葉が耳に入ってこなかったです。
殺されてしまっているみたいという事でした。
全員で行って扉を開けると普段とは明らかに違っていて、本は散らかっている、子どもたちの洋服も乱雑になっていて、ふらふらと中に入っていきそうになったら、普段穏やかな夫が本当に厳しい口調で「見るな、触るな、行くな」と私たちを引き戻しました。
直ぐに110番だといって夫が電話しました。
初めに来たのが救急車でした。
殺人事件に巻き込まれたという事は判らなくて、何か異常なことが起こったと思いました。
その後警察の方が次々に来ていきなり捜査がはじまりました。
電話が鳴って叔父から「いま殺人事件のニュースをやっているが、名前が同じだが違うよね」という電話でした。
TVをつけたら宮澤みきおさんという名前が出ていて、殺害という事をはじめて知りました。
母は「もうすべてを失ってしまった、この事件誰にも知られてはいけないといいました。知られたら私も外を歩けないし、夫も仕事ができなくなるかもしれない、学校で子どもたちがいじめられるかもしれないから、事件とのかかわりは知られないようにしなさい」と、言いました。
母としては犯罪に巻き込まれてしまったこと自体が穢れという風に感じたんでしょうね。
事件後、私が世田谷一家殺害事件の遺族ですと言えるようになるまでには丸6年かかりました。
7回忌の年に絵本を出版することがきっかけになり、世間に語り掛けるという道を選ぶわけですが、それまでは周囲に言わないで秘密をかかえた6年間でした。
動機が全く分からず、警察が言うには一般的に考えられるトラブルを想定してくださいと言われるが全く分からなかったです。
殆どトラブルとは言えないような事例も警察に話すことになり、それに対して警察も裏を取った段階でお姉さんは犯人だと思って申し立てているのではないかと思われてしまったりしました。
かつて作られていった人間関係がぎくしゃくしてきたりしました。
一番つらいことの一つでした。
普段付き合っている人たちがすべて容疑者になってしまうという事になります。
容疑者の血液型がA型で、私たち家族はA型ではありませんでしたが、近所の方が「よかったわね、疑われないで済んで」といわれて、私たちでさえも疑われるんだと思いました。
にいなちゃんが2年生で亡くなったんですが、友達が6年生の卒業の時期になり、十分に中学校生活を楽しんでほしいと思って、喪失から再生に向かうメッセージを何かできたらいいなあと思った時に絵本をにいなちゃんの同級生に届けられたらと思いました。
絵も文も私が書きました。
「どんなに待っても帰ってこなかった。 どんなに待ってももう会えなかった。
どんなに願ってもかなわない願いがあることを僕は知った。
でもね、ある朝空気が冷たくて霜がきらきら光る朝、霜柱を踏んだら足元から聞こえてくるひそやかな音。
ほら耳を澄ましてごらん、ミシカ、ミシカって僕を呼ぶ声がする。
にいなちゃんと礼ちゃんが呼んでいる。
僕が霜柱を踏むたびにミシカ、ミシカってささやいている。
いつも一緒にいたんだね。 風にも水にも光にもいつでも一緒にいるんだね。
空にも地にも昼にも夜にも、どんなに遠く離れていても、ずっと繋がっているから。
有り難う、忘れないよ。」
事件が起きるちょっと前一緒に冬の霜を踏んだ時の情景です。
ミシカはにいなちゃんが大事にしていたクマの縫いぐるみの人形です。
出版していろいろな反響がありました。
出版して10年以上たっていますが今でも絵本の感想を頂きます。
表現できない時期があったので表現できてよかった、楽になったという思いがあります。
悲しみにもいろいろあると思いますが、悲しみを横糸にして繋がって行ける場があってもいいと思います。
グリーフケア、悲しみの種で繋がって行ける、それだけ愛情が深かったからそれだけつらいんですね、と語りかける時間にしています。
今年の5月に川崎市登戸でスクールバスを待っていた小学生を次々に襲って多くの人を死傷させ、男の犯人も自らを刺して死亡したという事件がありましたが、インターネットなどでは「死にたいのならば一人で死ね」という言説があふれました。
その時に投稿した内容として
「犯罪により家族を失った私、犯罪を憎む気持ちは人一倍だからこそ、怒りに任せて「死にたいのならば一人で死ね」という言葉はいかなる理由があろうとも暴力も殺人も許されないという理念を裏切ってしまうと感じます。
暴力や憎悪を助長させることなく子どもたちを守ってゆく責任を自覚したいです。」
という事をインターネットに投稿しました。
「死にたいのならば一人で死ね」という言葉を一人歩きさせてはいけないし、犯罪により家族を失った私として聞いてほしいと思いました。
被害者の存在が憎悪か許し、二項対立、バッシングしないと、じゃあ許すんですか、という風な二項対立でとらえられる。
どっちを選ぶというのではなく、折り合いをつけながきちんと選んでいかなくてはいけないのに、最も悲しみを受けた被害者の遺族に対して二項対立の決定権をゆだねる、それを出来たら避けたいと思いました。
川崎の事件に対して「死にたいのならば一人で死ね」というとあたかもすっきりしたような気がするが、実はすっきりしてはいない。
悲しみとともにどう生きてゆくのかというのをしっかり考えてゆく事が、いろんなプロセスを大切にするという事に繋がっていって、個人に悲しみを負わせるのではなくて、個人の悲しみを社会がどう支えてゆくかを考える、社会の潤いのあるまなざしがグリーフケアなんじゃないかなと思う立場から「死にたいのならば一人で死ね」という言葉は乱暴と思って投稿しました。
悲しいことに出会った人に対しては、それぞれ違う事であると思いますが、きちんと耳を傾けることがとても大切だと思います。
途方にくれたり、一緒に悲しんだりする。
妹が或るとき「あなたといると楽しいよね」と言ってくれたんです、一緒にいて一緒に「困ったね」と言って、ただそれだけでよかった。
妹が私にくれた花束だと思っています。
今から19年前2000年の年末に東京世田谷区に住んでいた、宮澤みきおさん、泰子さん夫妻と長女のにいなちゃん、長男の礼君が何者かに殺害されるという事件が発生しました。
犯人は見つかっておらず未解決です。
入江さんは亡くなった泰子さんの姉です。
被害者遺族として自らの悲しみと向き合ってきた経験から現在は様々な喪失体験に寄り添うグリーフケアという活動を行っています。
悲しみとともに生きそこから生きる力を取り戻してきた入江さんに伺います。
事件後葬式がありましたが、犯人逮捕、事件解決の報告ができると思っていました。
沢山遺留品もあるし手がかりもあるので警察からはすぐ犯人は見つかるという様な話もありました。
いまだに犯人は全く分からないし動機も判りません。
宙ぶらりんの状況が19年経ってしまいました。
家の取り壊しの要請があり、未解決のまま現場が無くなってしまうのかという葛藤の中にあります。
グリーフケアという学びの過程を経て今悲しみの意味を考えて、悲しみの意味を問いかける、いろんな悲しみと向き合いながら、新たな縁を作って行って、今があるという風に感じています。
宮澤家とは2世帯住宅になっていましたが、独立はしていました。
長女のにいなちゃんは8歳、長男の礼君は6歳でした。
子どものことを思うと今でもつらいです。
うちの子とにいなちゃんは一緒に通学していたこともあります。
2000年の12月31日に事件が起きました。
9時半過ぎににいなちゃんと礼君が「おばちゃん、おはよう」といっていつも来るんですが、その日に限って子どもたちが来ませんでした。
母にゆっくり寝かせてあげたらといったんですが、母が起こしてくると言って隣に起こしに行って、15分ぐらいして血相を変えて何か言っているんですが、言葉が耳に入ってこなかったです。
殺されてしまっているみたいという事でした。
全員で行って扉を開けると普段とは明らかに違っていて、本は散らかっている、子どもたちの洋服も乱雑になっていて、ふらふらと中に入っていきそうになったら、普段穏やかな夫が本当に厳しい口調で「見るな、触るな、行くな」と私たちを引き戻しました。
直ぐに110番だといって夫が電話しました。
初めに来たのが救急車でした。
殺人事件に巻き込まれたという事は判らなくて、何か異常なことが起こったと思いました。
その後警察の方が次々に来ていきなり捜査がはじまりました。
電話が鳴って叔父から「いま殺人事件のニュースをやっているが、名前が同じだが違うよね」という電話でした。
TVをつけたら宮澤みきおさんという名前が出ていて、殺害という事をはじめて知りました。
母は「もうすべてを失ってしまった、この事件誰にも知られてはいけないといいました。知られたら私も外を歩けないし、夫も仕事ができなくなるかもしれない、学校で子どもたちがいじめられるかもしれないから、事件とのかかわりは知られないようにしなさい」と、言いました。
母としては犯罪に巻き込まれてしまったこと自体が穢れという風に感じたんでしょうね。
事件後、私が世田谷一家殺害事件の遺族ですと言えるようになるまでには丸6年かかりました。
7回忌の年に絵本を出版することがきっかけになり、世間に語り掛けるという道を選ぶわけですが、それまでは周囲に言わないで秘密をかかえた6年間でした。
動機が全く分からず、警察が言うには一般的に考えられるトラブルを想定してくださいと言われるが全く分からなかったです。
殆どトラブルとは言えないような事例も警察に話すことになり、それに対して警察も裏を取った段階でお姉さんは犯人だと思って申し立てているのではないかと思われてしまったりしました。
かつて作られていった人間関係がぎくしゃくしてきたりしました。
一番つらいことの一つでした。
普段付き合っている人たちがすべて容疑者になってしまうという事になります。
容疑者の血液型がA型で、私たち家族はA型ではありませんでしたが、近所の方が「よかったわね、疑われないで済んで」といわれて、私たちでさえも疑われるんだと思いました。
にいなちゃんが2年生で亡くなったんですが、友達が6年生の卒業の時期になり、十分に中学校生活を楽しんでほしいと思って、喪失から再生に向かうメッセージを何かできたらいいなあと思った時に絵本をにいなちゃんの同級生に届けられたらと思いました。
絵も文も私が書きました。
「どんなに待っても帰ってこなかった。 どんなに待ってももう会えなかった。
どんなに願ってもかなわない願いがあることを僕は知った。
でもね、ある朝空気が冷たくて霜がきらきら光る朝、霜柱を踏んだら足元から聞こえてくるひそやかな音。
ほら耳を澄ましてごらん、ミシカ、ミシカって僕を呼ぶ声がする。
にいなちゃんと礼ちゃんが呼んでいる。
僕が霜柱を踏むたびにミシカ、ミシカってささやいている。
いつも一緒にいたんだね。 風にも水にも光にもいつでも一緒にいるんだね。
空にも地にも昼にも夜にも、どんなに遠く離れていても、ずっと繋がっているから。
有り難う、忘れないよ。」
事件が起きるちょっと前一緒に冬の霜を踏んだ時の情景です。
ミシカはにいなちゃんが大事にしていたクマの縫いぐるみの人形です。
出版していろいろな反響がありました。
出版して10年以上たっていますが今でも絵本の感想を頂きます。
表現できない時期があったので表現できてよかった、楽になったという思いがあります。
悲しみにもいろいろあると思いますが、悲しみを横糸にして繋がって行ける場があってもいいと思います。
グリーフケア、悲しみの種で繋がって行ける、それだけ愛情が深かったからそれだけつらいんですね、と語りかける時間にしています。
今年の5月に川崎市登戸でスクールバスを待っていた小学生を次々に襲って多くの人を死傷させ、男の犯人も自らを刺して死亡したという事件がありましたが、インターネットなどでは「死にたいのならば一人で死ね」という言説があふれました。
その時に投稿した内容として
「犯罪により家族を失った私、犯罪を憎む気持ちは人一倍だからこそ、怒りに任せて「死にたいのならば一人で死ね」という言葉はいかなる理由があろうとも暴力も殺人も許されないという理念を裏切ってしまうと感じます。
暴力や憎悪を助長させることなく子どもたちを守ってゆく責任を自覚したいです。」
という事をインターネットに投稿しました。
「死にたいのならば一人で死ね」という言葉を一人歩きさせてはいけないし、犯罪により家族を失った私として聞いてほしいと思いました。
被害者の存在が憎悪か許し、二項対立、バッシングしないと、じゃあ許すんですか、という風な二項対立でとらえられる。
どっちを選ぶというのではなく、折り合いをつけながきちんと選んでいかなくてはいけないのに、最も悲しみを受けた被害者の遺族に対して二項対立の決定権をゆだねる、それを出来たら避けたいと思いました。
川崎の事件に対して「死にたいのならば一人で死ね」というとあたかもすっきりしたような気がするが、実はすっきりしてはいない。
悲しみとともにどう生きてゆくのかというのをしっかり考えてゆく事が、いろんなプロセスを大切にするという事に繋がっていって、個人に悲しみを負わせるのではなくて、個人の悲しみを社会がどう支えてゆくかを考える、社会の潤いのあるまなざしがグリーフケアなんじゃないかなと思う立場から「死にたいのならば一人で死ね」という言葉は乱暴と思って投稿しました。
悲しいことに出会った人に対しては、それぞれ違う事であると思いますが、きちんと耳を傾けることがとても大切だと思います。
途方にくれたり、一緒に悲しんだりする。
妹が或るとき「あなたといると楽しいよね」と言ってくれたんです、一緒にいて一緒に「困ったね」と言って、ただそれだけでよかった。
妹が私にくれた花束だと思っています。
2019年12月8日日曜日
柴田秀勝(声優・俳優) ・【時代を創った声】
柴田秀勝(声優・俳優) ・【時代を創った声】
柴田さんは82歳です。
1958年TVドラマに出演し俳優としてデビュー、22歳の時には「熱血カクタス」というドラマで主役を演じます。
そのおよそ10年後から、アニメ「タイガーマスク」のミスターXや「マジンガーZ」の阿修羅男爵の声などで声優として活躍してきました。
これまで3000本近いアニメに出演。
「タイガーマスク」のミスターXは善人ではないので悪役を2/3は悪い人を演じてきました。
最近はおじいさんの役を担当させてもらっています。
デビューはヒーローの役ですが、声優になってみると悪役が多くてわがまま一杯演じさせてもらうので結構楽しいです。
結末がまだわからないで演じるのは難しいです。
小学校の頃から吃音症で、小学校の先生が歌を歌うとドモリはドモらないといわれました。
歌手になろうかと思ってのど自慢に出たこともありましたが、歌手の才能はないあと諦めました。
麻布高校に入り、演劇部に入って役者としてスタートするときに考えたのが歌舞伎だと思いました。
大学まで歌舞伎をやっていました。
「た」行が言えませんでした。
虎ノ門に住んでいましたが、中学でバスで帰ってくるときに「た」行の入っている「虎ノ門」、次の駅が「田町」が言えなくて「新橋」は言えるので毎日新橋から帰って来ました。
歌舞伎をやって努力でなおりました。
歌舞伎で一番気に入ったのが、みえを切る、振り向きざま、振り向くさまに心を表現する。
それが存在感を生んでくれるので、みえ、振り向きざまを、そこで表現できるか楽しさがあります。
歌舞伎は世襲制ですが、一般の人からも関西歌舞伎は取ることになっていて、歌舞伎俳優になれると思っていましたが、昭和33年に関西歌舞伎が倒産して辞めてしまって、就職先が無くなってしまいました。
TVが開局することになりTVタレントになりました。
映画スター、映画会社、劇団が握っていたのでそれ以外の人が出るのは難しかった。
1958年TVドラマに出演し俳優としてデビュー、22歳の時には「熱血カクタス」というドラマで主役を演じます。
昭和33年の卒業の時に新宿でバーの経営を始めました。
売春防止法ができてゴールデン街一帯が商売ができなくなって、一斉に店を売りに出たんです。
土地付き74万円という看板が出ていたが(当時一般の給料1万数千円だったころ)、見に行ったら買えという事で、交渉しているうち月々1万円払ってくれればいいという事になり(残りの1万円分は俺が飲むからという事で)、アルバイトを探して購入することになりオープンすることになりました。
店がもらい火になったことがあり120人ぐらいの劇団の人から改装費を集めて貸してくれたこともありました。
東映映画にも先輩がいて、声の仕事の話があり、アニメーション専門のプロダクションを作ってくれたら業務提携してもいいという話がありました。(青二プロダクションを設立)
「タイガーマスク」が終わって「マジンガーZ」があり役が違っても毎週出ていました。
「宇宙戦艦ヤマト」の再放送が馬鹿当たりして、第一期声優ブームができましたが、まさかそうなるとは思わなかったです。
今では声優プロダクションが100を超えたというぐらいになりました。
若い人に対しては、役作りができない中でいかにキャラクターを演じてゆくかというためには、いかに想像力が豊かになるのかという事と、想像力を豊かな自分を作るためには興味と好奇心、その先に見えてくる進むべき我が道なんじゃないでしょうか。
そこから自分に与えられるキャラクターの役作りに役立つと思います。
最近は活舌はきれいだが何か物足りないと思います。
60年間ぐらい仕事をしてきましたが、風邪をひいたりして休んだことは一度もありません、それは毎日の手洗い、うがいだと思います、手洗い、うがいは大事です。
柴田さんは82歳です。
1958年TVドラマに出演し俳優としてデビュー、22歳の時には「熱血カクタス」というドラマで主役を演じます。
そのおよそ10年後から、アニメ「タイガーマスク」のミスターXや「マジンガーZ」の阿修羅男爵の声などで声優として活躍してきました。
これまで3000本近いアニメに出演。
「タイガーマスク」のミスターXは善人ではないので悪役を2/3は悪い人を演じてきました。
最近はおじいさんの役を担当させてもらっています。
デビューはヒーローの役ですが、声優になってみると悪役が多くてわがまま一杯演じさせてもらうので結構楽しいです。
結末がまだわからないで演じるのは難しいです。
小学校の頃から吃音症で、小学校の先生が歌を歌うとドモリはドモらないといわれました。
歌手になろうかと思ってのど自慢に出たこともありましたが、歌手の才能はないあと諦めました。
麻布高校に入り、演劇部に入って役者としてスタートするときに考えたのが歌舞伎だと思いました。
大学まで歌舞伎をやっていました。
「た」行が言えませんでした。
虎ノ門に住んでいましたが、中学でバスで帰ってくるときに「た」行の入っている「虎ノ門」、次の駅が「田町」が言えなくて「新橋」は言えるので毎日新橋から帰って来ました。
歌舞伎をやって努力でなおりました。
歌舞伎で一番気に入ったのが、みえを切る、振り向きざま、振り向くさまに心を表現する。
それが存在感を生んでくれるので、みえ、振り向きざまを、そこで表現できるか楽しさがあります。
歌舞伎は世襲制ですが、一般の人からも関西歌舞伎は取ることになっていて、歌舞伎俳優になれると思っていましたが、昭和33年に関西歌舞伎が倒産して辞めてしまって、就職先が無くなってしまいました。
TVが開局することになりTVタレントになりました。
映画スター、映画会社、劇団が握っていたのでそれ以外の人が出るのは難しかった。
1958年TVドラマに出演し俳優としてデビュー、22歳の時には「熱血カクタス」というドラマで主役を演じます。
昭和33年の卒業の時に新宿でバーの経営を始めました。
売春防止法ができてゴールデン街一帯が商売ができなくなって、一斉に店を売りに出たんです。
土地付き74万円という看板が出ていたが(当時一般の給料1万数千円だったころ)、見に行ったら買えという事で、交渉しているうち月々1万円払ってくれればいいという事になり(残りの1万円分は俺が飲むからという事で)、アルバイトを探して購入することになりオープンすることになりました。
店がもらい火になったことがあり120人ぐらいの劇団の人から改装費を集めて貸してくれたこともありました。
東映映画にも先輩がいて、声の仕事の話があり、アニメーション専門のプロダクションを作ってくれたら業務提携してもいいという話がありました。(青二プロダクションを設立)
「タイガーマスク」が終わって「マジンガーZ」があり役が違っても毎週出ていました。
「宇宙戦艦ヤマト」の再放送が馬鹿当たりして、第一期声優ブームができましたが、まさかそうなるとは思わなかったです。
今では声優プロダクションが100を超えたというぐらいになりました。
若い人に対しては、役作りができない中でいかにキャラクターを演じてゆくかというためには、いかに想像力が豊かになるのかという事と、想像力を豊かな自分を作るためには興味と好奇心、その先に見えてくる進むべき我が道なんじゃないでしょうか。
そこから自分に与えられるキャラクターの役作りに役立つと思います。
最近は活舌はきれいだが何か物足りないと思います。
60年間ぐらい仕事をしてきましたが、風邪をひいたりして休んだことは一度もありません、それは毎日の手洗い、うがいだと思います、手洗い、うがいは大事です。
2019年12月7日土曜日
山中伸弥(京都大学 iPS細胞研究所 所長) ・iPS細胞と生命科学の未来
山中伸弥(京都大学 iPS細胞研究所 所長) ・iPS細胞と生命科学の未来
iPS細胞は或る個人の皮膚や血液から作ります。
皮膚や血液の細胞に特定の4つの遺伝子を入れることで、細胞がいわば初期化されて心臓の筋肉や網膜の細胞肝臓の細胞といったどんな臓器の細胞にもなる事ができる、まさに受精卵の直後のような状態に戻る事を山中さんが発見し作製に成功したのがiPS細胞です。
もし一人一人からiPS細胞を作ることができれば、身体に移植しても拒絶反応を起こすことが無く、病気が治るかもしれない、そうした再生医療への期待が寄せられています。
又病気になった臓器の細胞も再現することができるので、薬が効くかどうかを試すことができる、薬の開発にも応用されます。
しかしこれらのことは研究の途上にあります。
iPS細胞がつくられる前にもこうした様々な臓器に成れる万能細胞はありました、ES細胞です。
ES細胞は精子と卵子が一旦受精して分裂が始まった途中で、その細胞をばらばたにすることで作成されていました。
山中さんはそれは倫理上の課題があるのではないかと考えてiPS細胞を作りました。
今回のインタビューではあえて100年後の未来はどうなっているかについて伺いました。
100年後願わくばパーキンソン病、認知症、心臓病、血液の病気、糖尿病、がんなどのいろんな病気の治療法にiPS細胞が50年後、100年後に役立っていることを夢見て頑張っています。
ただ科学の進歩はものすごく速いので50年後にはiPS細胞が貢献していて100年後はiPS細胞は過去の技術になっているかもしれません。
その方が僕は嬉しいと思います。
iPS細胞は過去の人の技術の努力をお手本にしてできた技術なので、iPS細胞は完成形ではないので、もっといい技術がどんどん出てくるそれが人類の可能性だと思うので、100年後には例えばiPS細胞からつくった心臓の細胞を使わなくても、人間が持っている自然の再生力を直接導く様な、新しい今ではできないような技術が100年後には登場しているかもしれません。
100年後を想像するのは難しいが、手術、再生医療のような外から作ったものを移植するという事よりも、患者さんが薬を飲むだけで、患者さんの治癒力を高めるような医学が究極の姿だと思いますが、もっと究極を言うと病気にならない予防が一番の姿、理想だと思っています。
iPS細胞が100年後まで研究開発がつづいていれば、心臓などの臓器が作れるところまで行っている可能性は非常に高いと思います。
動物が持っている力を借りてiPS細胞を利用して、人間の臓器を作る技術はどんどん進んでいますが、どこまで生命倫理として許されるのかという事は議論はされています。
動物の中に潜んでいる何らかのウイルスが、人に移ってしまって、新たな感染症、ウイルス疾患が人類をおびやかすという事もあり得ないことではありません。
どこまで人が模倣していいのか、倫理的な面、宗教的な面からも常に大きな議論があります。
すべての科学技術はもろ刃の剣といいますか、人類、地球を幸せをする可能性があるが、不幸にする場合もあり、典型的な例は原子力です。
原子力は貢献もしているが扱い方次第では武器にもなります。
慎重な態度が求められると思います。
生命科学もまったく同様です。
100年前は遺伝子、進化が一般的に受け入れられてきましたが、優生学が広まって人類が幸せになるために優れた遺伝子だけを残そうという事が物凄く広がって、比較的最近までそういう考えがありました。
社会に目を向けると自己ファースト、ポピュリズムが物凄く広がって人類は2回の大戦を経験して日本をはじめ大変なことになりました。
100年経って科学技術は圧倒的に進化しましたが、倫理、哲学などは圧倒的に進化しているかというとちょっと心配です。
政治の分野では自己ファースト、ポピュリズムが復活しようとしています。
科学では遺伝子という概念はあったが実態は全く分からなかったが、100年経って遺伝子はDNA、二重らせん構造で人間一人の遺伝子30億個を一日で解読できるようになりました。
ゲノム編集でそれを書き換えることもできるようになりました。
ゲノム編集で病気につながる遺伝子を書き換えたらいいんじゃないかとか、知能に関する遺伝子、身体の機能にかかわる遺伝子などいろんな遺伝子を書き換えたらいいんじゃないかとか、100年前の優生学と同じような議論をしているのではないかという風に思わざるを得ない。
本当に賢くなっているのか過去から学んでいるかというと非常に心配な面があります。
科学技術はものすごく進んでいて、地球上の全生物を科学技術で滅ぼすこともできます。
何億年かけて進化してきた遺伝子情報を一週間で書き換えることもできるような時代になりました。
10年後100年が今よりはるかに幸せになるかどうかも、私たちにかかっているので物凄く責任があるんだという事を自覚して、私たちは研究が仕事で、政治家は今後の国の進め方を決めるのが仕事で、今分水嶺じゃないかなと思います。
今は大変な岐路に立たされているのではないかと思います。
今の世界の政治の状況をみると、本当に過去を学んでいるのかなあと心配になる事は多々あると思います。
100年前に優生学を広めた方は、当時間違っているなんてこれっぽちも思っていませんでした。
だから今もそうなる恐れがあるので、今求められているのが透明性であり、自由に発言できる雰囲気、権利だと思います。
最初は弱いすぐにでも止められるだったのが、気が付くと物凄い流れになってだれにも止められない、おかしいと思っていてももう止められない、そうなってしまうといけないのでので、早い段階、上流でいろんな意見を自由に言える、隠さない、それが大事だと思っています。
5年、10年後ぐらいまでは一人一人から作るのは大変なので、一人のiPS細胞で何百万人という人たちにIPSを提供できるようなスーパードナーと呼んでいますが、そういったips細胞をつくっていて、ゲノム編集という技術と組み合わせると、10種類ぐらいつくれば地球上のすべての人をカバーできるiPS細胞を作れると思っています。
今だったら何千万円掛かりますが、100万円とか何10万円、将来は何万円とかでつくれるように技術を進めていきたい。
10年後には実現しているのではないかと思います。
100年後はiPS細胞をはるかに超える何か新しい概念なり新しい治療法になっているんじゃないかと思います。
ネズミではネズミの皮膚、血液から作ったiPS細胞から精子、卵子を作って新しいネズミを作るという事は成功していますので、猿とか人間でもそうして精子、卵子を作ることは理論的には可能だと思います。
生命倫理の問題でどこまで本当に許されるのか、不妊症の方の多くは精子ができない、卵子ができないが、不妊の原因がわからないのでその原因解明にiPS細胞を使おうと、そして何らかの薬を開発して不妊症であって精子ないしは卵子ができる新しい開発のために研究開発をしています。
優生学のように自由自在に背の高い子とか頭のいい子とか、そういう事が起こりかねない状況になっている。
一歩間違えると同じ議論が起ころうとしているので、過去から学ぶ姿勢が非常に大切だと思います。
例えば健康になりたいという欲望に対しての線引きがなかなか難しいところもある。
iPS細胞ができてES細胞を使わなくてもいいという生命倫理に関する問題は解決できたと思ったのですが、大人のiPS細胞から精子、卵子を作ることができて、そこから新しい生命ができる可能性があるという事が判って、又新たな生命倫理の課題を提示してしまったなあと、文科省に今から議論をはじめてくださいとお願いしたことを思いだします。
科学の進歩はすごく速くなっているので生命倫理の問題を一刻も早くやるように強く感じています。
健康寿命を一歳でも伸ばすことを目標に研究しています。
健康寿命と平均寿命の差を縮めようとiPS細胞、新しい医療が目指しているところです。
150歳、200歳まで生き延びることがその人の、人類の、地球の平和に繋がるのかどうかという大きな問題になるので、寿命をどこまで伸ばしていいのかというのは、今岐路に立っていると思います。
人類が100年後の未来も幸福になるためにはどういうビジョンが必要かとの事ですが、謙虚になることだと思います。
歴史から学ぶ、いろんな方の意見を謙虚に聞くことが何よりも大切だと思います。
iPS細胞は或る個人の皮膚や血液から作ります。
皮膚や血液の細胞に特定の4つの遺伝子を入れることで、細胞がいわば初期化されて心臓の筋肉や網膜の細胞肝臓の細胞といったどんな臓器の細胞にもなる事ができる、まさに受精卵の直後のような状態に戻る事を山中さんが発見し作製に成功したのがiPS細胞です。
もし一人一人からiPS細胞を作ることができれば、身体に移植しても拒絶反応を起こすことが無く、病気が治るかもしれない、そうした再生医療への期待が寄せられています。
又病気になった臓器の細胞も再現することができるので、薬が効くかどうかを試すことができる、薬の開発にも応用されます。
しかしこれらのことは研究の途上にあります。
iPS細胞がつくられる前にもこうした様々な臓器に成れる万能細胞はありました、ES細胞です。
ES細胞は精子と卵子が一旦受精して分裂が始まった途中で、その細胞をばらばたにすることで作成されていました。
山中さんはそれは倫理上の課題があるのではないかと考えてiPS細胞を作りました。
今回のインタビューではあえて100年後の未来はどうなっているかについて伺いました。
100年後願わくばパーキンソン病、認知症、心臓病、血液の病気、糖尿病、がんなどのいろんな病気の治療法にiPS細胞が50年後、100年後に役立っていることを夢見て頑張っています。
ただ科学の進歩はものすごく速いので50年後にはiPS細胞が貢献していて100年後はiPS細胞は過去の技術になっているかもしれません。
その方が僕は嬉しいと思います。
iPS細胞は過去の人の技術の努力をお手本にしてできた技術なので、iPS細胞は完成形ではないので、もっといい技術がどんどん出てくるそれが人類の可能性だと思うので、100年後には例えばiPS細胞からつくった心臓の細胞を使わなくても、人間が持っている自然の再生力を直接導く様な、新しい今ではできないような技術が100年後には登場しているかもしれません。
100年後を想像するのは難しいが、手術、再生医療のような外から作ったものを移植するという事よりも、患者さんが薬を飲むだけで、患者さんの治癒力を高めるような医学が究極の姿だと思いますが、もっと究極を言うと病気にならない予防が一番の姿、理想だと思っています。
iPS細胞が100年後まで研究開発がつづいていれば、心臓などの臓器が作れるところまで行っている可能性は非常に高いと思います。
動物が持っている力を借りてiPS細胞を利用して、人間の臓器を作る技術はどんどん進んでいますが、どこまで生命倫理として許されるのかという事は議論はされています。
動物の中に潜んでいる何らかのウイルスが、人に移ってしまって、新たな感染症、ウイルス疾患が人類をおびやかすという事もあり得ないことではありません。
どこまで人が模倣していいのか、倫理的な面、宗教的な面からも常に大きな議論があります。
すべての科学技術はもろ刃の剣といいますか、人類、地球を幸せをする可能性があるが、不幸にする場合もあり、典型的な例は原子力です。
原子力は貢献もしているが扱い方次第では武器にもなります。
慎重な態度が求められると思います。
生命科学もまったく同様です。
100年前は遺伝子、進化が一般的に受け入れられてきましたが、優生学が広まって人類が幸せになるために優れた遺伝子だけを残そうという事が物凄く広がって、比較的最近までそういう考えがありました。
社会に目を向けると自己ファースト、ポピュリズムが物凄く広がって人類は2回の大戦を経験して日本をはじめ大変なことになりました。
100年経って科学技術は圧倒的に進化しましたが、倫理、哲学などは圧倒的に進化しているかというとちょっと心配です。
政治の分野では自己ファースト、ポピュリズムが復活しようとしています。
科学では遺伝子という概念はあったが実態は全く分からなかったが、100年経って遺伝子はDNA、二重らせん構造で人間一人の遺伝子30億個を一日で解読できるようになりました。
ゲノム編集でそれを書き換えることもできるようになりました。
ゲノム編集で病気につながる遺伝子を書き換えたらいいんじゃないかとか、知能に関する遺伝子、身体の機能にかかわる遺伝子などいろんな遺伝子を書き換えたらいいんじゃないかとか、100年前の優生学と同じような議論をしているのではないかという風に思わざるを得ない。
本当に賢くなっているのか過去から学んでいるかというと非常に心配な面があります。
科学技術はものすごく進んでいて、地球上の全生物を科学技術で滅ぼすこともできます。
何億年かけて進化してきた遺伝子情報を一週間で書き換えることもできるような時代になりました。
10年後100年が今よりはるかに幸せになるかどうかも、私たちにかかっているので物凄く責任があるんだという事を自覚して、私たちは研究が仕事で、政治家は今後の国の進め方を決めるのが仕事で、今分水嶺じゃないかなと思います。
今は大変な岐路に立たされているのではないかと思います。
今の世界の政治の状況をみると、本当に過去を学んでいるのかなあと心配になる事は多々あると思います。
100年前に優生学を広めた方は、当時間違っているなんてこれっぽちも思っていませんでした。
だから今もそうなる恐れがあるので、今求められているのが透明性であり、自由に発言できる雰囲気、権利だと思います。
最初は弱いすぐにでも止められるだったのが、気が付くと物凄い流れになってだれにも止められない、おかしいと思っていてももう止められない、そうなってしまうといけないのでので、早い段階、上流でいろんな意見を自由に言える、隠さない、それが大事だと思っています。
5年、10年後ぐらいまでは一人一人から作るのは大変なので、一人のiPS細胞で何百万人という人たちにIPSを提供できるようなスーパードナーと呼んでいますが、そういったips細胞をつくっていて、ゲノム編集という技術と組み合わせると、10種類ぐらいつくれば地球上のすべての人をカバーできるiPS細胞を作れると思っています。
今だったら何千万円掛かりますが、100万円とか何10万円、将来は何万円とかでつくれるように技術を進めていきたい。
10年後には実現しているのではないかと思います。
100年後はiPS細胞をはるかに超える何か新しい概念なり新しい治療法になっているんじゃないかと思います。
ネズミではネズミの皮膚、血液から作ったiPS細胞から精子、卵子を作って新しいネズミを作るという事は成功していますので、猿とか人間でもそうして精子、卵子を作ることは理論的には可能だと思います。
生命倫理の問題でどこまで本当に許されるのか、不妊症の方の多くは精子ができない、卵子ができないが、不妊の原因がわからないのでその原因解明にiPS細胞を使おうと、そして何らかの薬を開発して不妊症であって精子ないしは卵子ができる新しい開発のために研究開発をしています。
優生学のように自由自在に背の高い子とか頭のいい子とか、そういう事が起こりかねない状況になっている。
一歩間違えると同じ議論が起ころうとしているので、過去から学ぶ姿勢が非常に大切だと思います。
例えば健康になりたいという欲望に対しての線引きがなかなか難しいところもある。
iPS細胞ができてES細胞を使わなくてもいいという生命倫理に関する問題は解決できたと思ったのですが、大人のiPS細胞から精子、卵子を作ることができて、そこから新しい生命ができる可能性があるという事が判って、又新たな生命倫理の課題を提示してしまったなあと、文科省に今から議論をはじめてくださいとお願いしたことを思いだします。
科学の進歩はすごく速くなっているので生命倫理の問題を一刻も早くやるように強く感じています。
健康寿命を一歳でも伸ばすことを目標に研究しています。
健康寿命と平均寿命の差を縮めようとiPS細胞、新しい医療が目指しているところです。
150歳、200歳まで生き延びることがその人の、人類の、地球の平和に繋がるのかどうかという大きな問題になるので、寿命をどこまで伸ばしていいのかというのは、今岐路に立っていると思います。
人類が100年後の未来も幸福になるためにはどういうビジョンが必要かとの事ですが、謙虚になることだと思います。
歴史から学ぶ、いろんな方の意見を謙虚に聞くことが何よりも大切だと思います。
2019年12月6日金曜日
森雪之丞(作詞家・詩人) ・カッコいい日本語のミュージカルを!
森雪之丞(作詞家・詩人) ・カッコいい日本語のミュージカルを!
森さんは昭和29年大阪生まれ。
小学生のころ東京に移り、東京都立大泉高校在学中に本格的に音楽の活動を始めました。
上智大学に進学しましたが、音楽の世界で生きてゆく事を決意して中途退学、22歳のときに当時絶大な人気を誇っていたザ・ドリフターズの『ドリフのバイのバイのバイ』で作詞家デビュー、その後はアイドルへの歌詞の提供やアニメソングで数々のヒットを飛ばし、1990年代以降は布袋寅泰さん、ヒデさん、氷室京介さんなど多くのロックアーティストと仕事をするようになります。
その後ブロードウエーミュージカルの日本公演にかかわるようになり、最近ではミュージカル作家としてもご活躍です。
2016年に作詞家生活40周年を迎えました。
40周年を迎えたときには2400曲あまり、現在は2500曲になりました。
子ども時代には草野球をやったり典型的な子どもだったと思います。
弟とピアノのレッスンにも行っていたんですが、ピアノは弟に押し付けて野球の方に逃げていました。
プレーヤーを自分で買ってそれからが自分の音楽生活だったと思います。
グループサウンドに惹かれ、フォークも盛んになりギターを弾いていました。
大泉高校に行って軽音楽同好会に入会しました。
シンセサイザーで活躍された深町純さんが何級か上の大泉高校の先輩で、深町さんが先生とやりあって軽音楽同好会が発足しました。
デヴィッド・ボウイが初来日して、漢字を使ったり黒子を使ったりして目からうろこでした。
ひょっとしたら日本にも面白いものがいっぱいあるのではないかと感じました。
自分の中に新しいものを作りたいという意思表示みたいなことで森雪之丞という名前を付けました。
髪の毛は胸まで伸ばし10cmぐらいのハイヒールを履いてギターを抱えていました。
譜面の勉強を一杯しました。
色んな言葉を探すと英語に近い日本語が沢山あるので、ある時期沢山研究しました。
日本語はロックにならないといわれていましたが、ビート感での乗せられることを自然に身についていきました。
ミュージカル的なことをやりたかったので、普通のバンドより演劇的な要素のある11人編成のバンドを作りました。
メンバーには窪田晴男、五十嵐薫子(現・香瑠鼓)、村田陽一、ラッキィ池田など、個性の強いメンバーが集結しました。
作詞は自分と向かい合うために夜書きます。
ライブハウスでの朗読のために詩を書き下ろして、ライブハウスでの朗読を始めました。
詩集も何冊かつくりました。
『天使は瞳を閉じて』という作品をミュージカル化したいという話があり、作詩、音楽プロデュースを頼むといわれて、8人ぐらいに割り振ってやったらできた作品が楽しくて愛おしくて、こういう形だったら自分が舞台の中で何かやれるのではないかと感じ、ブロードウエーに行って何本も見てミュージカルが楽しくなっていきました。
メル・ブルックス監督のタップダンスを踊るシーンがありましたが、2列目で見て物凄くでかくて圧倒されました。
ブロードウエーの訳詞の仕事がいくつか来て、レクチャーを受けてスタッフの作品にかける気持ち熱さが伝わってきました。
舞台『五右衛門ロック』を書かせていただいて、オリジナルで日本でも素晴らしいものができるんだというのをいのうえ ひでのりさんとともに劇団☆新感線の舞台の作詞を手がけました。
劇団☆新感線と付き合うなかで、自分がやりたかったロックオペラを作れるかもしれないと思いました。
いのうえ ひでのりさんと相談して、布袋寅泰さんに手伝ってもらいたいと話を持ちかけました。
2012年、執筆に3年かけた処女戯曲作、雪之丞一座〜参上公演『サイケデリック・ペイン』(音楽:布袋寅泰 演出:いのうえひでのり)を発表しました。
岸谷五朗さんと何かやりたいと思って、ブロードウエーを舞台にした本を書いて、2013年に上演しました。(演出 岸谷)
僕の本があって演出家が考えてくれるのですが、最終的な答えは演出家に渡さないと80人は纏められないという事はあると思います。
音楽ありきの芝居なので理解してくださる演出家と一緒にという事になるかと思います。
今年2本新しいミュージカルを上演「怪人と探偵」、1950年代のアメリカのブロードウエーが舞台の「ロカビリージャック」。
プレスリーがいての今のロックに繋がってるところがあると思う。
今回、斉藤 和義さんに8,9曲書いていただきました。
森さんは昭和29年大阪生まれ。
小学生のころ東京に移り、東京都立大泉高校在学中に本格的に音楽の活動を始めました。
上智大学に進学しましたが、音楽の世界で生きてゆく事を決意して中途退学、22歳のときに当時絶大な人気を誇っていたザ・ドリフターズの『ドリフのバイのバイのバイ』で作詞家デビュー、その後はアイドルへの歌詞の提供やアニメソングで数々のヒットを飛ばし、1990年代以降は布袋寅泰さん、ヒデさん、氷室京介さんなど多くのロックアーティストと仕事をするようになります。
その後ブロードウエーミュージカルの日本公演にかかわるようになり、最近ではミュージカル作家としてもご活躍です。
2016年に作詞家生活40周年を迎えました。
40周年を迎えたときには2400曲あまり、現在は2500曲になりました。
子ども時代には草野球をやったり典型的な子どもだったと思います。
弟とピアノのレッスンにも行っていたんですが、ピアノは弟に押し付けて野球の方に逃げていました。
プレーヤーを自分で買ってそれからが自分の音楽生活だったと思います。
グループサウンドに惹かれ、フォークも盛んになりギターを弾いていました。
大泉高校に行って軽音楽同好会に入会しました。
シンセサイザーで活躍された深町純さんが何級か上の大泉高校の先輩で、深町さんが先生とやりあって軽音楽同好会が発足しました。
デヴィッド・ボウイが初来日して、漢字を使ったり黒子を使ったりして目からうろこでした。
ひょっとしたら日本にも面白いものがいっぱいあるのではないかと感じました。
自分の中に新しいものを作りたいという意思表示みたいなことで森雪之丞という名前を付けました。
髪の毛は胸まで伸ばし10cmぐらいのハイヒールを履いてギターを抱えていました。
譜面の勉強を一杯しました。
色んな言葉を探すと英語に近い日本語が沢山あるので、ある時期沢山研究しました。
日本語はロックにならないといわれていましたが、ビート感での乗せられることを自然に身についていきました。
ミュージカル的なことをやりたかったので、普通のバンドより演劇的な要素のある11人編成のバンドを作りました。
メンバーには窪田晴男、五十嵐薫子(現・香瑠鼓)、村田陽一、ラッキィ池田など、個性の強いメンバーが集結しました。
作詞は自分と向かい合うために夜書きます。
ライブハウスでの朗読のために詩を書き下ろして、ライブハウスでの朗読を始めました。
詩集も何冊かつくりました。
『天使は瞳を閉じて』という作品をミュージカル化したいという話があり、作詩、音楽プロデュースを頼むといわれて、8人ぐらいに割り振ってやったらできた作品が楽しくて愛おしくて、こういう形だったら自分が舞台の中で何かやれるのではないかと感じ、ブロードウエーに行って何本も見てミュージカルが楽しくなっていきました。
メル・ブルックス監督のタップダンスを踊るシーンがありましたが、2列目で見て物凄くでかくて圧倒されました。
ブロードウエーの訳詞の仕事がいくつか来て、レクチャーを受けてスタッフの作品にかける気持ち熱さが伝わってきました。
舞台『五右衛門ロック』を書かせていただいて、オリジナルで日本でも素晴らしいものができるんだというのをいのうえ ひでのりさんとともに劇団☆新感線の舞台の作詞を手がけました。
劇団☆新感線と付き合うなかで、自分がやりたかったロックオペラを作れるかもしれないと思いました。
いのうえ ひでのりさんと相談して、布袋寅泰さんに手伝ってもらいたいと話を持ちかけました。
2012年、執筆に3年かけた処女戯曲作、雪之丞一座〜参上公演『サイケデリック・ペイン』(音楽:布袋寅泰 演出:いのうえひでのり)を発表しました。
岸谷五朗さんと何かやりたいと思って、ブロードウエーを舞台にした本を書いて、2013年に上演しました。(演出 岸谷)
僕の本があって演出家が考えてくれるのですが、最終的な答えは演出家に渡さないと80人は纏められないという事はあると思います。
音楽ありきの芝居なので理解してくださる演出家と一緒にという事になるかと思います。
今年2本新しいミュージカルを上演「怪人と探偵」、1950年代のアメリカのブロードウエーが舞台の「ロカビリージャック」。
プレスリーがいての今のロックに繋がってるところがあると思う。
今回、斉藤 和義さんに8,9曲書いていただきました。
2019年12月5日木曜日
吉野彰(ノーベル賞受賞者) ・私の平成史
吉野彰(ノーベル賞受賞者) ・私の平成史
「リチウムイオン電池発明者が語る第四次革命と日本」という題名での講演。
生まれは昭和23年、大学卒後昭和47旭化成に入社 。
色々な研究を手掛けてきました。
リチウムイオン電池の研究テーマは入社後4番目のテーマになります。
着手したのは1981年33歳の時でした。
山場が1988年~1990年でした。
その後リチウムイオン電池を世の中に出してモバイルIT社会に繋がってきた訳です。
携帯電話スマートフォン、ラップトップ、パソコン、IT機器の電源として広く使われるようになりました。
平成元年にリチウムイオン電池が生まれて、新元号になり又新しいステップに向かって動いて行くことになると思います。
これまで人類は3つの産業革命を経験してきています。
第一次産業革命はジェームズ・ワットによる蒸気機関の発明によって、機械化産業が生まれてくる。(18世紀半ばごろ)
第二次産業革命は機械化技術が発展していろんなものが大量生産されて安く一般の手元に届く。(19世紀半ばごろ)
第三次産業革命は現在のモバイルIT社会です。
一般の人が明らかに実感するようになったのが、1995年だと思います。(ウインドウズ95)この時にリチウムイオン電池が大きく貢献しました。
これから迎える大きな産業革命を第四次産業革命と称していますが、具体的にどんな社会になるのかまだ誰も判っていません。
IOT、AIといった技術がさらに進化して新しい社会が生まれてくると思います。
内閣府が使ってる言葉が「超スマート社会」という風になっています。
リチウムイオン電池の研究がスタートしたのが1981年(昭和57年)でした。
私を含めて1981年の人にとって現在のモバイルIT社会は誰も想像していませんでした。
1985年にリチウムイオン電池の原型となるものができました。(4年目)
世の中に出せるレベルまで到達するのに又5年がかかりました。
1991年に商品化しようという事になりました。
しばらく全く売れませんでした。
1995年からモバイルIT社会が動き出しはじめ、携帯電話、スマートフォン、ラップトップ、パソコンなどに使われ始め現在に至りました。
リチウムイオン電池は平成の元号とともに生まれ育って新しい元号と共に次の使命に向かっているという事です。
第四次産業革命はET革命が最適ではないのかなと思っています。
Eはエンバイロメント(environment) アンド エナジー(energy)です。
これが第四次産業革命の大きなキーワードになってくると思います。
その時にリチウムイオン電池がどうかかわっていくのかという事をこれから話していきたいと思います。
ここ数年、マーケットの構図に大きな変化が出てきています。
2010年世界で20ギガワット/アワーに相当するリチウムイオン電池が生産されて出荷されています。
99.9%がモバイルIT機器向けです。
車載用の新しい用途が生まれかけてきました。
2017年に大きな変化がありモバイルIT向けと車載向けが逆転しています。
2018年には車載向けがモバイルIT向けの1.5倍というぐらいの数字が出てくると思います。
2025年までの姿は大体出てきています。
車載用が急激に増えていってモバイルIT向けのほぼ10倍になると予想されています。
500ギガワット/アワーに相当するリチウムイオン電池が車に搭載されます。
電気自動車の生産比率はまだ15%に過ぎません。
85%はガソリンを主体として内燃機関の車が走っているという事になります。
世界で内燃機関の車はやめようという動きがあり、ドイツで2030年、イギリス、フランス、中国では2040年、日本では2050年という目標を立てています。
100%にしようとするとリチウムイオン電池資源が無くなってきます。
リチウム、コバルトなども言われていますが、一番厳しいのがニッケルです。
より安く、より容量を上げるためにコバルト、マンガンからニッケルに移行してきています。
ニッケルの最大用途がステンレスです。
未来を予測するうえで非常に参考になる言葉がありバズワード(buzzword)という言葉です。
1985年から1995年にかけてバズワードという言葉が氾濫しました。
マルチメディアという言葉も同様でした。
第四次産業革命でどんな社会が生まれるかのか誰も判りませんが、1995年あたりとよく似ていると思います。
現在氾濫している言葉にEモビリティー、AI,IOT、セルフドライビングカー、カーシェアリング、コネクティッドカーなどなどがありますが、二つのバズワードが重要視されています。
①ケース(CASE)
ケースのC コネクティッド(なにかとなにかを繋ぐ)
ケースのA オートモナス(無人自動運転という意味です)
ケースのS シェアリング(共有)
ケースのE エレトロニック(
車が電動化されインターネットで世界中の車が情報を共有するようになる。
車は人が運転するものではない。
②マース(MaaS mobility as a service)
M モビリティー(移動手段)
aa as a
S サービス
これまで車は移動手段として使っていたが、これからは車を使ってどんなシステム、どんなビジネスを生み出してゆくのかと言う事が重要だという意味です。
私はAIEVが適切ではないかと思っています。
AIはartificial intelligence 人工知能
EVはelectric vehicle 電気自動車
人工知能化された電気自動車、こういうものが生まれてくると第二のシナリオが出てくる。
マイカーという事があり得なくなる。
交通渋滞が無くなる。
駐車場のスペースが有効利用できる。
巨大な蓄電システムが出来上がると発電所の絶対数が相当減る。
再生可能なエネルギーが受け入れやすくなる。
地球環境に優しいという事に貢献して、エンドユーザーの費用負担がどんと減る、1/7になる。
地球環境に優しい製品はどうしても値段が上がってしまうのが現在の状況でこれでは普及しない。
両立した技術が今後生まれてきて、両立した技術だけが残ってゆくと思います。
実現すると社会が一変します。
一般的に車は年間1万km走り、90万円払ってると思います。
タクシーに切り替えても変わりません。
無人自動運転になると運転手のコストがどんと減り、電動化されるとガソリン代が減って年間12万円ぐらいになります。
車をシェアリングするとなると車の稼働率が上がるので、長期耐久性が非常に大事になってきます。(10倍走ることになる)
CO2の問題、車から吐き出されるCO2は高々14,5%です。
車をゼロエミッションにしても15%ぐらいしか減りません。
車と発電所が連動してCO2のリダクションに繋がっていかないといけません。
自浄可能社会を実現させるんですよというのが一番大きなミッションだと思います。
普及させるためには地球環境への貢献と個人費用負担の軽減、この二つを両立させないといけない。
そのためにはAI、IOTという概念だと思っています。
そう言ったことを真剣に議論しないといけないと思います。
「リチウムイオン電池発明者が語る第四次革命と日本」という題名での講演。
生まれは昭和23年、大学卒後昭和47旭化成に入社 。
色々な研究を手掛けてきました。
リチウムイオン電池の研究テーマは入社後4番目のテーマになります。
着手したのは1981年33歳の時でした。
山場が1988年~1990年でした。
その後リチウムイオン電池を世の中に出してモバイルIT社会に繋がってきた訳です。
携帯電話スマートフォン、ラップトップ、パソコン、IT機器の電源として広く使われるようになりました。
平成元年にリチウムイオン電池が生まれて、新元号になり又新しいステップに向かって動いて行くことになると思います。
これまで人類は3つの産業革命を経験してきています。
第一次産業革命はジェームズ・ワットによる蒸気機関の発明によって、機械化産業が生まれてくる。(18世紀半ばごろ)
第二次産業革命は機械化技術が発展していろんなものが大量生産されて安く一般の手元に届く。(19世紀半ばごろ)
第三次産業革命は現在のモバイルIT社会です。
一般の人が明らかに実感するようになったのが、1995年だと思います。(ウインドウズ95)この時にリチウムイオン電池が大きく貢献しました。
これから迎える大きな産業革命を第四次産業革命と称していますが、具体的にどんな社会になるのかまだ誰も判っていません。
IOT、AIといった技術がさらに進化して新しい社会が生まれてくると思います。
内閣府が使ってる言葉が「超スマート社会」という風になっています。
リチウムイオン電池の研究がスタートしたのが1981年(昭和57年)でした。
私を含めて1981年の人にとって現在のモバイルIT社会は誰も想像していませんでした。
1985年にリチウムイオン電池の原型となるものができました。(4年目)
世の中に出せるレベルまで到達するのに又5年がかかりました。
1991年に商品化しようという事になりました。
しばらく全く売れませんでした。
1995年からモバイルIT社会が動き出しはじめ、携帯電話、スマートフォン、ラップトップ、パソコンなどに使われ始め現在に至りました。
リチウムイオン電池は平成の元号とともに生まれ育って新しい元号と共に次の使命に向かっているという事です。
第四次産業革命はET革命が最適ではないのかなと思っています。
Eはエンバイロメント(environment) アンド エナジー(energy)です。
これが第四次産業革命の大きなキーワードになってくると思います。
その時にリチウムイオン電池がどうかかわっていくのかという事をこれから話していきたいと思います。
ここ数年、マーケットの構図に大きな変化が出てきています。
2010年世界で20ギガワット/アワーに相当するリチウムイオン電池が生産されて出荷されています。
99.9%がモバイルIT機器向けです。
車載用の新しい用途が生まれかけてきました。
2017年に大きな変化がありモバイルIT向けと車載向けが逆転しています。
2018年には車載向けがモバイルIT向けの1.5倍というぐらいの数字が出てくると思います。
2025年までの姿は大体出てきています。
車載用が急激に増えていってモバイルIT向けのほぼ10倍になると予想されています。
500ギガワット/アワーに相当するリチウムイオン電池が車に搭載されます。
電気自動車の生産比率はまだ15%に過ぎません。
85%はガソリンを主体として内燃機関の車が走っているという事になります。
世界で内燃機関の車はやめようという動きがあり、ドイツで2030年、イギリス、フランス、中国では2040年、日本では2050年という目標を立てています。
100%にしようとするとリチウムイオン電池資源が無くなってきます。
リチウム、コバルトなども言われていますが、一番厳しいのがニッケルです。
より安く、より容量を上げるためにコバルト、マンガンからニッケルに移行してきています。
ニッケルの最大用途がステンレスです。
未来を予測するうえで非常に参考になる言葉がありバズワード(buzzword)という言葉です。
1985年から1995年にかけてバズワードという言葉が氾濫しました。
マルチメディアという言葉も同様でした。
第四次産業革命でどんな社会が生まれるかのか誰も判りませんが、1995年あたりとよく似ていると思います。
現在氾濫している言葉にEモビリティー、AI,IOT、セルフドライビングカー、カーシェアリング、コネクティッドカーなどなどがありますが、二つのバズワードが重要視されています。
①ケース(CASE)
ケースのC コネクティッド(なにかとなにかを繋ぐ)
ケースのA オートモナス(無人自動運転という意味です)
ケースのS シェアリング(共有)
ケースのE エレトロニック(
車が電動化されインターネットで世界中の車が情報を共有するようになる。
車は人が運転するものではない。
②マース(MaaS mobility as a service)
M モビリティー(移動手段)
aa as a
S サービス
これまで車は移動手段として使っていたが、これからは車を使ってどんなシステム、どんなビジネスを生み出してゆくのかと言う事が重要だという意味です。
私はAIEVが適切ではないかと思っています。
AIはartificial intelligence 人工知能
EVはelectric vehicle 電気自動車
人工知能化された電気自動車、こういうものが生まれてくると第二のシナリオが出てくる。
マイカーという事があり得なくなる。
交通渋滞が無くなる。
駐車場のスペースが有効利用できる。
巨大な蓄電システムが出来上がると発電所の絶対数が相当減る。
再生可能なエネルギーが受け入れやすくなる。
地球環境に優しいという事に貢献して、エンドユーザーの費用負担がどんと減る、1/7になる。
地球環境に優しい製品はどうしても値段が上がってしまうのが現在の状況でこれでは普及しない。
両立した技術が今後生まれてきて、両立した技術だけが残ってゆくと思います。
実現すると社会が一変します。
一般的に車は年間1万km走り、90万円払ってると思います。
タクシーに切り替えても変わりません。
無人自動運転になると運転手のコストがどんと減り、電動化されるとガソリン代が減って年間12万円ぐらいになります。
車をシェアリングするとなると車の稼働率が上がるので、長期耐久性が非常に大事になってきます。(10倍走ることになる)
CO2の問題、車から吐き出されるCO2は高々14,5%です。
車をゼロエミッションにしても15%ぐらいしか減りません。
車と発電所が連動してCO2のリダクションに繋がっていかないといけません。
自浄可能社会を実現させるんですよというのが一番大きなミッションだと思います。
普及させるためには地球環境への貢献と個人費用負担の軽減、この二つを両立させないといけない。
そのためにはAI、IOTという概念だと思っています。
そう言ったことを真剣に議論しないといけないと思います。
2019年12月4日水曜日
中森明夫(作家) ・アイドルに生かされて
中森明夫(作家) ・アイドルに生かされて
三重県出身59歳、10月に5冊目の「青い秋」を出版されました。
ご自身の半生を描いた自伝的な作品です。
20代の初めからライターとして活動され新人類の旗手と称されたこともあり、「オタク」の名付け親としても知られています。
2010年に出版した4冊目の小説『アナーキー・イン・ザ・JP』は三島由紀夫賞の候補になりました。
評論の分野ではアイドル評論だけでなく文学や映画にも領域を広めています。
中森さんに最新作「青い秋」と、御自身の半生とアイドル論などについて伺います。
間もなく還暦ですが、青春という言葉がありますが、中国の故事ですが、青春の次に朱夏、白秋、玄冬とあるわけです。
本来白い秋という事になるのですが、いまだに自分は青いままなのではないかと思って「青い秋」というタイトルを考えました。
自分の心情です。
自分の経験をもとにしてほぼ書いています。
1980年代に衝撃的な自死を遂げた岡田 有希子さんとか、思想家の西部 邁(にしべ すすむ)さんとか僕とご縁のある方がいて、亡くなられた友人、知人等のエピソードが書かれています。
懐かしいという評価を頂いています。
雑誌などを中心に注文を受けて原稿を書くという事を40年ぐらい続けています。
三重県出身、漁師町でした。
15歳で上京しました。
東京の附属大学の高校に通っていて兄と同居していました。
当時のアイドルは東京にしかいませんでした。
学校には行かないで街にいって、気が付くと高校を中退しました。
家出して同郷の10歳ぐらい上の建築家の家に半年間おせわになり、そこには哲学書文学書など本がたくさんあり読みつくしました。
その時の経験が大きかったです。
20歳でライターとしてデビューしました。
あるきっかけで編集部を訪ねて、編集長と話をするうちに「君原稿を書いてみない」、と言われて書き始めました。
1980年代初頭は新しい雑誌が生まれたりして徐々に仕事が広がっていきました。
1983年に漫画雑誌のコラムを頼まれて、ある時若い男の子たちが相手を呼ぶときに「おたく」と他人行儀な言葉で言っていて面白いなあと思って、そこに書いたら凄い反響がありました。
「おたく」の名付け親という事になりました。
新人類の旗手といわれるようになりました。
1980年代半ばに朝日ジャーナルにでブレークしました。
TVもNHKさんをはじめ全部の局に出でるようになりました。
半年で倒れてしまいました。
TVに出ることを辞めて、B級アイドルについて毎月書いて続けていました。
1987年に『東京トンガリキッズ』を出版しました。
80年代に生きる若者たちに向けて書いたものです。
新人類ブームは1,2年でした。
篠山紀信さんと組んで旬の女性という事で、篠山さんが写真を撮って僕が文章を書いていました。
いろんな出会いがあり、文章を紡ぐという事をやってきました。
後藤久美子さん、宮沢リエさん、南沙織さんなどの取材をしました。
自分で言い出したわけではないのですが、アイドル評論家という事になって行きました。
アイドルは日本独自だと思います。
欧米では否定的な文脈で使われていますが。
人類の歴史を考えたときに神様、宗教よりも古いのではないかと思います。
石、木だとかに対して祈っていたと思います、中には踊ったり歌ったりして取り囲んでお祭りが多分あったと思いますそれがアイドルだと思います。
「アイドル日本」という評論集で、日本よアイドルたれという主張があります。
バブル崩壊して不況期が続いて、日本が目指すべき方向が見失われて、国家論が盛んに言われるようになりました。
世界に愛される国になるそういう意味を込めて「アイドル日本」で日本よアイドルたれとと書いた訳です。
紅白歌合戦にグループアイドルが出てきて年越しを祝うというのは日本の文化にかなっているのかなと思います。
アイドルが日本中にいるというのが今の時代だと思います。
小さいライブ活動とインターネットをつないで行ったと思います。
アイドルの文化は自分の人生とは切っても切り離せないような重要なカルチャーだと思います。
ツイッターで毎日発信しています。
個人メッセージを広く伝えられるという事で非常に重宝しています。
「寂しさの力」 東日本大震災の年に人間の一番強い力は寂しさの力なのではないかとツイートしたら、出版社の役員の人から本を一冊書いてほしいといわれました。
母に捧げる本でした。
スマホのアドレスに電話番号が並んでいるが、その中に亡くなって行った人が増えていって、決してかけて出ることはないが消去することが出来なくて、残してあって歳をとるという事はこういう事かなあと思って、書き残していこうと思いました。
そして「青い秋」という小説になりました。
2015年の国勢調査で男性の4人に一人が生涯未婚という事でした。
自分は特殊な人間だと思って書きましたが、特に都心のでは一人が多いと聞いています。
この小説は9年ぶりに書きましたが、自分の生きてきたことを言葉にして物語にするという事がとても新鮮でしたので小説を書いていきたいと思います。
三重県出身59歳、10月に5冊目の「青い秋」を出版されました。
ご自身の半生を描いた自伝的な作品です。
20代の初めからライターとして活動され新人類の旗手と称されたこともあり、「オタク」の名付け親としても知られています。
2010年に出版した4冊目の小説『アナーキー・イン・ザ・JP』は三島由紀夫賞の候補になりました。
評論の分野ではアイドル評論だけでなく文学や映画にも領域を広めています。
中森さんに最新作「青い秋」と、御自身の半生とアイドル論などについて伺います。
間もなく還暦ですが、青春という言葉がありますが、中国の故事ですが、青春の次に朱夏、白秋、玄冬とあるわけです。
本来白い秋という事になるのですが、いまだに自分は青いままなのではないかと思って「青い秋」というタイトルを考えました。
自分の心情です。
自分の経験をもとにしてほぼ書いています。
1980年代に衝撃的な自死を遂げた岡田 有希子さんとか、思想家の西部 邁(にしべ すすむ)さんとか僕とご縁のある方がいて、亡くなられた友人、知人等のエピソードが書かれています。
懐かしいという評価を頂いています。
雑誌などを中心に注文を受けて原稿を書くという事を40年ぐらい続けています。
三重県出身、漁師町でした。
15歳で上京しました。
東京の附属大学の高校に通っていて兄と同居していました。
当時のアイドルは東京にしかいませんでした。
学校には行かないで街にいって、気が付くと高校を中退しました。
家出して同郷の10歳ぐらい上の建築家の家に半年間おせわになり、そこには哲学書文学書など本がたくさんあり読みつくしました。
その時の経験が大きかったです。
20歳でライターとしてデビューしました。
あるきっかけで編集部を訪ねて、編集長と話をするうちに「君原稿を書いてみない」、と言われて書き始めました。
1980年代初頭は新しい雑誌が生まれたりして徐々に仕事が広がっていきました。
1983年に漫画雑誌のコラムを頼まれて、ある時若い男の子たちが相手を呼ぶときに「おたく」と他人行儀な言葉で言っていて面白いなあと思って、そこに書いたら凄い反響がありました。
「おたく」の名付け親という事になりました。
新人類の旗手といわれるようになりました。
1980年代半ばに朝日ジャーナルにでブレークしました。
TVもNHKさんをはじめ全部の局に出でるようになりました。
半年で倒れてしまいました。
TVに出ることを辞めて、B級アイドルについて毎月書いて続けていました。
1987年に『東京トンガリキッズ』を出版しました。
80年代に生きる若者たちに向けて書いたものです。
新人類ブームは1,2年でした。
篠山紀信さんと組んで旬の女性という事で、篠山さんが写真を撮って僕が文章を書いていました。
いろんな出会いがあり、文章を紡ぐという事をやってきました。
後藤久美子さん、宮沢リエさん、南沙織さんなどの取材をしました。
自分で言い出したわけではないのですが、アイドル評論家という事になって行きました。
アイドルは日本独自だと思います。
欧米では否定的な文脈で使われていますが。
人類の歴史を考えたときに神様、宗教よりも古いのではないかと思います。
石、木だとかに対して祈っていたと思います、中には踊ったり歌ったりして取り囲んでお祭りが多分あったと思いますそれがアイドルだと思います。
「アイドル日本」という評論集で、日本よアイドルたれという主張があります。
バブル崩壊して不況期が続いて、日本が目指すべき方向が見失われて、国家論が盛んに言われるようになりました。
世界に愛される国になるそういう意味を込めて「アイドル日本」で日本よアイドルたれとと書いた訳です。
紅白歌合戦にグループアイドルが出てきて年越しを祝うというのは日本の文化にかなっているのかなと思います。
アイドルが日本中にいるというのが今の時代だと思います。
小さいライブ活動とインターネットをつないで行ったと思います。
アイドルの文化は自分の人生とは切っても切り離せないような重要なカルチャーだと思います。
ツイッターで毎日発信しています。
個人メッセージを広く伝えられるという事で非常に重宝しています。
「寂しさの力」 東日本大震災の年に人間の一番強い力は寂しさの力なのではないかとツイートしたら、出版社の役員の人から本を一冊書いてほしいといわれました。
母に捧げる本でした。
スマホのアドレスに電話番号が並んでいるが、その中に亡くなって行った人が増えていって、決してかけて出ることはないが消去することが出来なくて、残してあって歳をとるという事はこういう事かなあと思って、書き残していこうと思いました。
そして「青い秋」という小説になりました。
2015年の国勢調査で男性の4人に一人が生涯未婚という事でした。
自分は特殊な人間だと思って書きましたが、特に都心のでは一人が多いと聞いています。
この小説は9年ぶりに書きましたが、自分の生きてきたことを言葉にして物語にするという事がとても新鮮でしたので小説を書いていきたいと思います。
2019年12月3日火曜日
井上幸子(人形劇団代表・演出家) ・人形劇を地域に伝え続けて90年
井上幸子(人形劇団代表・演出家) ・人形劇を地域に伝え続けて90年
今から90年前、1929年12月21日人形劇団プークが設立されました。
創立メンバーは川尻東次ら18人、『兵士シュベイクの冒険』、「三人のふとっちょ」など上演しました。
3年後に川尻東次が亡くなると、弟の川尻泰司が劇団の存続を踏襲する事になりました。
戦時中はプロレタリア演劇運動の実践を理由に治安維持法のもと活動休止を余儀なくされました。
敗戦後の1946年11月に再建され、以後今日まで幅広い活動を続けています。
井上さんは1952年東京都出身、12歳の小学生の時プークの人形劇「オツベルと象」をみて魅了されました。
1972年に劇団プークに入団、人形使いの俳優をはじめ脚本の作成、演出の仕事に携わってきました。
今年夏の創立90周年の記念公演では「オツベルと象」の演出を担当しました。
出来るだけ社会に自分たちの仕事を問いたいという思いがあり、前年から準備してきました。
プレ企画、歴史をもう一回勉強して自分の言葉でプークを語れるようにしようという目標をもって1年間6回勉強会をしてきました。
三本柱をたてまして、一つは展示会でプークが大事にしてきた平和を柱にして、一番最初に上演したかしらを飾ったり、青い鳥の上演許可を頂いた手紙、検閲台本を飾ったりいろいろ展示をしました。
記念公演では役者が総出演したいという事で、宮沢賢治の「オツベルと象」をやりました。
記念誌の最後の追い込みですが、プークの10年ごとの活動を纏めてきて、今この10年間を纏めている最中で95%ぐらいできました。
節目の年に「オツベルと象」をやってきました。
今回演出を担当しました。
短編なのでどうしたら人形劇として面白くなるか、皆さんに伝えたいと言う事はどういうことかとか2年をかけて本を作りました。
1929年12月21日人形劇団プークが設立されました。
プークはエスペラント語です。
平和運動の一つとしてエスペラントを創立メンバーが勉強していて、正式名はラプパクルーボ(LA PUPA KLUBO)と言いますが、ラは冠詞、プパは人形、クルーボはクラブです。
PUKでプークという様になりました。
創立当時学生さんが多くて、中村伸郎さん、吉田 隆子さんなどがいました。
川尻東次が結核で亡くなり、消滅しかけましたが、弟の川尻泰司が引き継ぎたいという事で引き継いできました。
戦時中はプロレタリア演劇運動の実践を理由に治安維持法のもと全員検挙され、活動停止に追い込まれました。
1946年に再建されましたが、仲間も戦争で亡くなったり、獄中で亡くなったりかなりばらばらだったようです。
段々人材もそろってきました。
メーテルリンクの青い鳥の公演が許可されました。
メーテルリンクは日本とドイツには公演の許可を与えないという遺言書が書いてありました。
戦争中、プークがどういう活動をしてきたかを、メーテルリンクの遺族の方に手紙を出して最終的には許可を得ました。
22回公演をして満杯だったようです。
プークの活動も軌道に乗ってきた時代でした。
その後海外にも活動した時代がありました。
国際人形劇連盟があり、1957年ぐらいからプークがそこに参加してゆくようになります。
核廃絶の事も川尻は提案していきました。
最初のプークとの出会いは12歳(1964年)の時に先生が連れて行ってくれて、「オツベルと象」を見ました。
それが物凄く印象的でした。
小さい時から書くことが好きでした。
1972年に劇団プークに入団しましたが、とにかく何でもやりました。
80人ぐらいしかいない或る小学校で上演した時に、準備段階から授業そっちのけで私たちの作業をみていて、上演後も子どもたちがお礼の歌を歌ってくれて、炊き込みご飯とニジマスの塩焼きを食べさせてもらって、帰るときには車が見えなくなるまで手を振ってくれました。
入場料の足しにするために子どもたちはホウセンカの種を「プークが見たい、プークが見たい」と言いながら拾って対応したそうです。
私たちの仕事の役割はこういう事なのかなと実感しました。
東日本大震災の後に現地に行くかどうか、議論しました。
「オズの魔法使い」の脚色、演出をした作品を南相馬の小学生のところにもってきてほしいという事がありました。
作品そのものの議論と、正直この時期に行くのも怖いという事もありました。
しかしこういう時こそ行こうという事になりました。
子どもたちは集中してみてくれました。
1994年の夏に「ぼちぼちいこうか」というナンセンスな絵本がありましたが、それの演出をはじめてやりました。
大人むけのプークの「牡丹灯籠」は人形劇の作品に変えさせてもらいました。
子どもの芝居は90%ぐらい作り続けてきました。
日本には人形劇団はおよそ50ぐらいありますが、プークぐらいの規模の劇団は5劇団ぐらいです。
二人でやっているようなグループも多いです。
学校の演劇教室が無くなってきています。
一時期に比べて全体的に規模が縮小してきてしまっています。
赤ちゃんに見せるという話がありましたが、お母さんに抱かれてみていました。
お母さんを含めてそういう時間を過ごすことは人形劇には適しているんだなとここ数年で判ってきました。
大人の方の鑑賞会も一度見てくれると理解してくれます。
人形劇は手作りでいろんなことができると思うので、ものを動かして表現するのが人形劇の基本だと思っています。
各地にお百姓さんをしながら農閑期に人形劇をやっているのが非常に沢山あって、観ると生き生きして、生活に根差している、エネルギッシュでそういうものを、プークの舞台にもそういったエネルギーを感じる舞台を作りたいです。
若い人たちの手助けもしていきたいです。
今から90年前、1929年12月21日人形劇団プークが設立されました。
創立メンバーは川尻東次ら18人、『兵士シュベイクの冒険』、「三人のふとっちょ」など上演しました。
3年後に川尻東次が亡くなると、弟の川尻泰司が劇団の存続を踏襲する事になりました。
戦時中はプロレタリア演劇運動の実践を理由に治安維持法のもと活動休止を余儀なくされました。
敗戦後の1946年11月に再建され、以後今日まで幅広い活動を続けています。
井上さんは1952年東京都出身、12歳の小学生の時プークの人形劇「オツベルと象」をみて魅了されました。
1972年に劇団プークに入団、人形使いの俳優をはじめ脚本の作成、演出の仕事に携わってきました。
今年夏の創立90周年の記念公演では「オツベルと象」の演出を担当しました。
出来るだけ社会に自分たちの仕事を問いたいという思いがあり、前年から準備してきました。
プレ企画、歴史をもう一回勉強して自分の言葉でプークを語れるようにしようという目標をもって1年間6回勉強会をしてきました。
三本柱をたてまして、一つは展示会でプークが大事にしてきた平和を柱にして、一番最初に上演したかしらを飾ったり、青い鳥の上演許可を頂いた手紙、検閲台本を飾ったりいろいろ展示をしました。
記念公演では役者が総出演したいという事で、宮沢賢治の「オツベルと象」をやりました。
記念誌の最後の追い込みですが、プークの10年ごとの活動を纏めてきて、今この10年間を纏めている最中で95%ぐらいできました。
節目の年に「オツベルと象」をやってきました。
今回演出を担当しました。
短編なのでどうしたら人形劇として面白くなるか、皆さんに伝えたいと言う事はどういうことかとか2年をかけて本を作りました。
1929年12月21日人形劇団プークが設立されました。
プークはエスペラント語です。
平和運動の一つとしてエスペラントを創立メンバーが勉強していて、正式名はラプパクルーボ(LA PUPA KLUBO)と言いますが、ラは冠詞、プパは人形、クルーボはクラブです。
PUKでプークという様になりました。
創立当時学生さんが多くて、中村伸郎さん、吉田 隆子さんなどがいました。
川尻東次が結核で亡くなり、消滅しかけましたが、弟の川尻泰司が引き継ぎたいという事で引き継いできました。
戦時中はプロレタリア演劇運動の実践を理由に治安維持法のもと全員検挙され、活動停止に追い込まれました。
1946年に再建されましたが、仲間も戦争で亡くなったり、獄中で亡くなったりかなりばらばらだったようです。
段々人材もそろってきました。
メーテルリンクの青い鳥の公演が許可されました。
メーテルリンクは日本とドイツには公演の許可を与えないという遺言書が書いてありました。
戦争中、プークがどういう活動をしてきたかを、メーテルリンクの遺族の方に手紙を出して最終的には許可を得ました。
22回公演をして満杯だったようです。
プークの活動も軌道に乗ってきた時代でした。
その後海外にも活動した時代がありました。
国際人形劇連盟があり、1957年ぐらいからプークがそこに参加してゆくようになります。
核廃絶の事も川尻は提案していきました。
最初のプークとの出会いは12歳(1964年)の時に先生が連れて行ってくれて、「オツベルと象」を見ました。
それが物凄く印象的でした。
小さい時から書くことが好きでした。
1972年に劇団プークに入団しましたが、とにかく何でもやりました。
80人ぐらいしかいない或る小学校で上演した時に、準備段階から授業そっちのけで私たちの作業をみていて、上演後も子どもたちがお礼の歌を歌ってくれて、炊き込みご飯とニジマスの塩焼きを食べさせてもらって、帰るときには車が見えなくなるまで手を振ってくれました。
入場料の足しにするために子どもたちはホウセンカの種を「プークが見たい、プークが見たい」と言いながら拾って対応したそうです。
私たちの仕事の役割はこういう事なのかなと実感しました。
東日本大震災の後に現地に行くかどうか、議論しました。
「オズの魔法使い」の脚色、演出をした作品を南相馬の小学生のところにもってきてほしいという事がありました。
作品そのものの議論と、正直この時期に行くのも怖いという事もありました。
しかしこういう時こそ行こうという事になりました。
子どもたちは集中してみてくれました。
1994年の夏に「ぼちぼちいこうか」というナンセンスな絵本がありましたが、それの演出をはじめてやりました。
大人むけのプークの「牡丹灯籠」は人形劇の作品に変えさせてもらいました。
子どもの芝居は90%ぐらい作り続けてきました。
日本には人形劇団はおよそ50ぐらいありますが、プークぐらいの規模の劇団は5劇団ぐらいです。
二人でやっているようなグループも多いです。
学校の演劇教室が無くなってきています。
一時期に比べて全体的に規模が縮小してきてしまっています。
赤ちゃんに見せるという話がありましたが、お母さんに抱かれてみていました。
お母さんを含めてそういう時間を過ごすことは人形劇には適しているんだなとここ数年で判ってきました。
大人の方の鑑賞会も一度見てくれると理解してくれます。
人形劇は手作りでいろんなことができると思うので、ものを動かして表現するのが人形劇の基本だと思っています。
各地にお百姓さんをしながら農閑期に人形劇をやっているのが非常に沢山あって、観ると生き生きして、生活に根差している、エネルギッシュでそういうものを、プークの舞台にもそういったエネルギーを感じる舞台を作りたいです。
若い人たちの手助けもしていきたいです。
2019年12月2日月曜日
小島なお(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】
小島なお(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】
最優秀賞 ほむほむ賞
「立ち止まるあなたの気配に泣き止んだ蝉と一緒にさよならを聞く」 (ゾンビーナ)
小島なお プロフィール
1986年東京生まれ、高校在学中に母(歌人・小島ゆかり)の手伝いをしながら短歌に親し
んで新聞投稿を始め、高校在学中に角川短歌賞を受賞。
2007年にコスモス短歌会に入会、同年第一歌集「乱反射」を刊行、第8回現代短歌新人賞、第10回駿河梅花文学賞を受賞。
2011年には「サリンジャーは死んでしまった 」を刊行。
現在はNHK短歌での短歌コーナー「やす短歌なお短歌」にレギュラー出演。
穂村:以前ゲストで来ていただいた東直子さんは私と同世代の歌人でしたが、小島さんは子ども世代、でも高校生の時からデビューしている
その世代のエースで、作品のすばらしさをみんなに知って欲しいと思って来ていただきました。
小島:穂村さんはかっこよくおびえている人という感じがします。
いろんなものに対して違和感を抱いたりとか、おそれを敏感に持っているけれど、それを伝える言葉、テクニックが凄いと思っています。
私が短歌を作るきっかけになったのも、母が大学の非常勤講師をしていて、若い人向けに作っていた短歌を私がワープロでプリントしていました。
短歌って面白んだと興味を持つようになり始めました。
穂村:小島ゆかりさんは僕が始めたときにお姉さん世代で、才能があり優しい人という感じです。
穂村:第一歌集「乱反射」より
「シーラカンスの標本がある物理室いつも小さく耳鳴りがする」 小島なお
「いつも小さく耳鳴りがする」というところが凄い。
瞬時に現場の感覚がよみがえってくる感じがする。
小島:当時直感的なものだと思うんですが、高校生の時には自分の存在に悩んだり、自分にまつわることが一杯だったと思うが、シーラカンスのように生ける化石みたいなものを見ると繋がっているなあという感じがあって、恋、自分の将来、不安などはシーラカンスから来ているのかなあと思って、不思議な違和感、耳鳴りのような感じがしたと思います。
小島:「水中翼船炎上中「」より
「ひとつとしておなじかたちはないという結晶たちに襲われる夜」 穂村
ひとつとしておなじかたちはないというものに対する、恐怖、畏怖に鋭敏に反応しています。
穂村:現実的には雪に降られちゃったというだけの事ですが、短歌は言葉でもう一度表現した時に、同じ意味だけれど別の世界のように見せる機能があるような気がします。
穂村:第一歌集「乱反射」より
「もう二度とこんなに多くの段ボールを切ることはない最後の文化祭」 小島なお
自分の人生の中でもうこんなに多くの段ボールを切ることはないという事と最後の文化祭が響きあって、ある切なさ、を感じて見事な視点、表現だと思います。
小島:「天使断頭台のごとしも世に浮かぶ一コマだけのガードレールは」 穂村
断頭台はギロチンの事かなあと読みました。
天使は何をするとギロチンされてしまうのかなあと思って、穂村さんにとって天使は何か思いがある象徴的なものなのか、天使断頭台ってすごいなあと思いました。
天使の罪って是非お聞きしたいと思いました。
穂村:悪魔断頭台では詩にならないような気がします。
一個だけのガードレールが見かけるたびに不思議で、あまり機能しなさそうなものだと思いました。
役割の曖昧さがこの世のものではないような存在感になって、そこで天使が切られるのではないか、というふうに。
小島:短歌を始めたころに天使とか、人魚とか架空のものは短歌の中では出してはいけないよと言われたことがありまあす。
空想のものはいくらでもアレンジできてしまうから。
穂村さんはそういうものを堂々と歌われて、ほかの人にはできない凄い技だと思います。
穂村:クリスマスから逃げた思い出はあります。
小島:15年前はキリスト教系の学校へいっていた学生だったので、点灯式に参加するすることは憧れのイベントだったので、初めてお付き合いした人と参加したのが遠い思い出としてクリスマスは刻まれています。
穂村:第一歌集「乱反射」より
「噴水に乱反射する光あり性愛をまだ知らない私」 小島なお
10代の歌だと思いますが、それまでただの風景に見えていた噴水に乱反射する光ありというのが、恐れ、期待などいろんなものが乱反射ている、説明できないほど混乱した光がそこにある、未来のイメージに見えてくる。
小島:性愛のある恋と性愛のない恋がどう違うのかというものを思い始めたときに、心の中は反射ではなくて乱反射だなって思いました。
踏み込みたいようなでも怖いから乱が入った方がいいなと思いました。
穂村:この乱反射はタイトルの歌として素晴らしい作品だと思います。
小島:「何かこれ人魚臭いと渡されたエビアン水や夜の陸橋」
親しい男女の関係の人が、人魚臭いと言い放った彼女も魅力的だし、聞き逃さなかった
方もすごいし、エビアン水って、俳句の切れ字なのか詠嘆しているのか。
穂村:これは切れ字です。
僕はリアリズムではないので、頭の中でこんな事があったらいいなあという思いです。
人魚臭いは魚臭い、生臭いのバリエーションだと思います。
穂村:「十代にもどることはもうできないが戻らなくていい濃い夏の影」 小島なお
凄く力を感じる歌です。
淡い十代の時間に戻ることはできないと思っている、でも戻らなくてもいいと、足元には濃い夏の影が落ちている現在、感動します。
小島:十代が終わるという事に或る一抹の安心感、十代から解放されたという思いがありました。
20代には20代の苦しみがやってきて、今は33歳ですが、20代が終わりそうになり、30代になると大人になり自分は若さの葛藤に悩まされず、20代の自意識に悩まなくていいと思い30代になって嬉しく思いました。
30代になると30歳の苦しみがやってきて終わらないんです。
穂村:その通りだと思います。
その場に行かないと気づかない。
見えている風景が全く後半生になってゆくと、変わってくるみたいな衝撃はあります。
ほむほむ スペシャル応募の中から
「ぷちぷちでふむふむ聞いたほむほむの教えも遠くいまだに飛べず」
「あ いつも車椅子押しているあの人今日は一人でバス停にいる」
車椅子とセットで見ていた人に、一人でいるとあれっと思う。
その驚きはよくわかります。
*短歌の文字は違ってる可能性があります。
最優秀賞 ほむほむ賞
「立ち止まるあなたの気配に泣き止んだ蝉と一緒にさよならを聞く」 (ゾンビーナ)
小島なお プロフィール
1986年東京生まれ、高校在学中に母(歌人・小島ゆかり)の手伝いをしながら短歌に親し
んで新聞投稿を始め、高校在学中に角川短歌賞を受賞。
2007年にコスモス短歌会に入会、同年第一歌集「乱反射」を刊行、第8回現代短歌新人賞、第10回駿河梅花文学賞を受賞。
2011年には「サリンジャーは死んでしまった 」を刊行。
現在はNHK短歌での短歌コーナー「やす短歌なお短歌」にレギュラー出演。
穂村:以前ゲストで来ていただいた東直子さんは私と同世代の歌人でしたが、小島さんは子ども世代、でも高校生の時からデビューしている
その世代のエースで、作品のすばらしさをみんなに知って欲しいと思って来ていただきました。
小島:穂村さんはかっこよくおびえている人という感じがします。
いろんなものに対して違和感を抱いたりとか、おそれを敏感に持っているけれど、それを伝える言葉、テクニックが凄いと思っています。
私が短歌を作るきっかけになったのも、母が大学の非常勤講師をしていて、若い人向けに作っていた短歌を私がワープロでプリントしていました。
短歌って面白んだと興味を持つようになり始めました。
穂村:小島ゆかりさんは僕が始めたときにお姉さん世代で、才能があり優しい人という感じです。
穂村:第一歌集「乱反射」より
「シーラカンスの標本がある物理室いつも小さく耳鳴りがする」 小島なお
「いつも小さく耳鳴りがする」というところが凄い。
瞬時に現場の感覚がよみがえってくる感じがする。
小島:当時直感的なものだと思うんですが、高校生の時には自分の存在に悩んだり、自分にまつわることが一杯だったと思うが、シーラカンスのように生ける化石みたいなものを見ると繋がっているなあという感じがあって、恋、自分の将来、不安などはシーラカンスから来ているのかなあと思って、不思議な違和感、耳鳴りのような感じがしたと思います。
小島:「水中翼船炎上中「」より
「ひとつとしておなじかたちはないという結晶たちに襲われる夜」 穂村
ひとつとしておなじかたちはないというものに対する、恐怖、畏怖に鋭敏に反応しています。
穂村:現実的には雪に降られちゃったというだけの事ですが、短歌は言葉でもう一度表現した時に、同じ意味だけれど別の世界のように見せる機能があるような気がします。
穂村:第一歌集「乱反射」より
「もう二度とこんなに多くの段ボールを切ることはない最後の文化祭」 小島なお
自分の人生の中でもうこんなに多くの段ボールを切ることはないという事と最後の文化祭が響きあって、ある切なさ、を感じて見事な視点、表現だと思います。
小島:「天使断頭台のごとしも世に浮かぶ一コマだけのガードレールは」 穂村
断頭台はギロチンの事かなあと読みました。
天使は何をするとギロチンされてしまうのかなあと思って、穂村さんにとって天使は何か思いがある象徴的なものなのか、天使断頭台ってすごいなあと思いました。
天使の罪って是非お聞きしたいと思いました。
穂村:悪魔断頭台では詩にならないような気がします。
一個だけのガードレールが見かけるたびに不思議で、あまり機能しなさそうなものだと思いました。
役割の曖昧さがこの世のものではないような存在感になって、そこで天使が切られるのではないか、というふうに。
小島:短歌を始めたころに天使とか、人魚とか架空のものは短歌の中では出してはいけないよと言われたことがありまあす。
空想のものはいくらでもアレンジできてしまうから。
穂村さんはそういうものを堂々と歌われて、ほかの人にはできない凄い技だと思います。
穂村:クリスマスから逃げた思い出はあります。
小島:15年前はキリスト教系の学校へいっていた学生だったので、点灯式に参加するすることは憧れのイベントだったので、初めてお付き合いした人と参加したのが遠い思い出としてクリスマスは刻まれています。
穂村:第一歌集「乱反射」より
「噴水に乱反射する光あり性愛をまだ知らない私」 小島なお
10代の歌だと思いますが、それまでただの風景に見えていた噴水に乱反射する光ありというのが、恐れ、期待などいろんなものが乱反射ている、説明できないほど混乱した光がそこにある、未来のイメージに見えてくる。
小島:性愛のある恋と性愛のない恋がどう違うのかというものを思い始めたときに、心の中は反射ではなくて乱反射だなって思いました。
踏み込みたいようなでも怖いから乱が入った方がいいなと思いました。
穂村:この乱反射はタイトルの歌として素晴らしい作品だと思います。
小島:「何かこれ人魚臭いと渡されたエビアン水や夜の陸橋」
親しい男女の関係の人が、人魚臭いと言い放った彼女も魅力的だし、聞き逃さなかった
方もすごいし、エビアン水って、俳句の切れ字なのか詠嘆しているのか。
穂村:これは切れ字です。
僕はリアリズムではないので、頭の中でこんな事があったらいいなあという思いです。
人魚臭いは魚臭い、生臭いのバリエーションだと思います。
穂村:「十代にもどることはもうできないが戻らなくていい濃い夏の影」 小島なお
凄く力を感じる歌です。
淡い十代の時間に戻ることはできないと思っている、でも戻らなくてもいいと、足元には濃い夏の影が落ちている現在、感動します。
小島:十代が終わるという事に或る一抹の安心感、十代から解放されたという思いがありました。
20代には20代の苦しみがやってきて、今は33歳ですが、20代が終わりそうになり、30代になると大人になり自分は若さの葛藤に悩まされず、20代の自意識に悩まなくていいと思い30代になって嬉しく思いました。
30代になると30歳の苦しみがやってきて終わらないんです。
穂村:その通りだと思います。
その場に行かないと気づかない。
見えている風景が全く後半生になってゆくと、変わってくるみたいな衝撃はあります。
ほむほむ スペシャル応募の中から
「ぷちぷちでふむふむ聞いたほむほむの教えも遠くいまだに飛べず」
「あ いつも車椅子押しているあの人今日は一人でバス停にいる」
車椅子とセットで見ていた人に、一人でいるとあれっと思う。
その驚きはよくわかります。
*短歌の文字は違ってる可能性があります。
2019年12月1日日曜日
大崎茂芳(奈良県立医科大学名誉教授) ・クモ糸に夢ふくらむ
大崎茂芳(奈良県立医科大学名誉教授) ・クモ糸に夢ふくらむ
大崎さんは1946年昭和21年兵庫県生まれ、大阪大学大学院理学研究科博士課程を終了後、企業の研究所で高分子化合物の商品開発にかかわりました。
その後島根大学や奈良県医科大学で生体高分子の研究を続け科学的な皮膚の移植法などに取り組んでこられました。
蜘蛛の糸は英語でスパイダーシルクと言いますが、人類は古くから蚕からできる糸をシルク、絹織物として活用してきました。
自然界には蚕のほかに糸を出す虫がいますが蜘蛛もその一つです。
大崎さんは蜘蛛の糸を研究しておよそ40年になります。
蜘蛛の糸は軽くて柔軟性に富み強度もあることが判ってきました、
蜘蛛の糸の強さを証明するために大崎さんは蜘蛛の糸で自分の体を吊り下げる試みを学会で発表したこともあります。
さらに蜘蛛の糸でヴァイオリンの弦を作り音楽家に音を聞いてもらい海外から注目されました。
蜘蛛の糸で出来たヴァイオリンの弦はどんな音色を響かせるのでしょうか。
生体高分子の研究が蜘蛛の糸とどんなつながりがあったのでしょうか。
*「家路」 作曲ドボルザーク を蜘蛛の糸で自らヴァイオリン演奏。
大阪大学大学院理学研究科博士課程を終了後、企業の研究所で高分子化合物の粘着の研究をしていた時に、世の中の新しい最先端の粘着のことについて調べていましたが、蜘蛛の糸も粘着なので調べてみたら、粘着よりも蜘蛛の糸自体の方が面白くなりました。
色々蜘蛛を探しまわって趣味としてやっていました。
高分子は長い分子です。
合成樹脂、ナイロンなどもそうです。
天然高分子は生き物からできているものを言います。
人間のコラーゲン、髪の毛、筋肉なども高分子です。
蜘蛛の糸は殆ど世界的に研究されていないことが判ってきました。
蜘蛛の糸は軽くて柔軟性があり強度もあります。
切れるまでに非常に力がかかる。
蜘蛛の糸はそう簡単には集められなかったが。蜘蛛から糸を取り出して、糸を集めました。
蜘蛛の糸は1~2ミクロン程度で19万本集めてやってみましたが、見事に切れました。
蜘蛛の糸は種類がいっぱいあるために、束に力を入れると弱い所から切れて駄目でした。
5mm程度の糸の束を作ってやったところうまくいきました。
蜘蛛の習性を観察して糸を取り出そうとするのですが、厳しくやるとへそを曲げて丸まって糸を出す気にもならない、優しくやりすぎると舐められて逃げてしまいます。
高知、鹿児島とか温かい海辺の方には黄金蜘蛛がいておおきいです、又沖縄などにはもっと大きな大女郎蜘蛛がいます。
大きいと糸は集めやすい。
蜘蛛相撲を見に行ったこともあります。
遠い所から蜘蛛をもらってきてもヒヨドリに食われてしまったりしてがっかりしたこともありました。
蜘蛛の糸の性質から言いますと、紫外線に強いという事も判りました。
殆どの素材は紫外線に弱い。
調べると紫外線で強度が上がることが判りました。
強度が上がって保持してその後劣化して強度が下がるときに巣を張替えをするわけです。
耐熱性も強い。
ゴミ袋などに使われるポリエチレンは110~120度に融点があり溶けて、ポリプロピレンは170度ぐらい、ナイロンは210~230度で溶けますが、蜘蛛の糸は250~300度でも大丈夫という耐熱性があることが判りました。
危機管理に重要なことが判ってきました。
蜘蛛は空中で生活しているので、糸の強度が蜘蛛の重さの2倍あることが判りました。
糸を電子顕微鏡で調べたら2本でした。
4億年の歴史から予備として2本になったということが判りました。
2の安全則という事でイギリスのネーチャーに発表しました。
医療ではダブルチェックなどもするようになりました。
蜘蛛は巣を張る種類と巣を張らない種類がいます。
蜘蛛の巣は縦糸は粘着がないが横糸は粘着があります。
横糸は均一に張るが、ちょっと時間が経つと表面張力でぽつっぽつっとなってくる。
蜘蛛の体から横糸の粘着だけを取り出そうとしたがなかなか取り出せなかった。
糸を出すときに上手に粘着材がくっつくようになっている。
蜘蛛の糸は面白い性質があるので遺伝子の組み換えで作れないかということが考えられるようになりました。
2002年にヤギのミルクに遺伝子組み換えで蜘蛛の糸を作ったというのがアメリカのサイエンスに掲載されました。
2003年にカナダのベンチャーとアメリカの陸軍が共同でやった研究所に見に来てくれといわれていきました。
蜘蛛の糸は分子量が60万ぐらいあるが、一桁少なかった。
分子量をいかに大きくするかが課題です。
水に浸けると半分ぐらい縮むという性質があり、そういった課題もあります。
分子量が6万ということは天然の性質が得られないが、あきらめずに頑張って行けば縫合糸(手術で使う糸)などにいいのではないかとか、様々な分野に使われる可能性がある。
天然に近いものを遺伝子組み換えで作ってもらえたら世の中が変化するのではないか。
大崎さんは1946年昭和21年兵庫県生まれ、大阪大学大学院理学研究科博士課程を終了後、企業の研究所で高分子化合物の商品開発にかかわりました。
その後島根大学や奈良県医科大学で生体高分子の研究を続け科学的な皮膚の移植法などに取り組んでこられました。
蜘蛛の糸は英語でスパイダーシルクと言いますが、人類は古くから蚕からできる糸をシルク、絹織物として活用してきました。
自然界には蚕のほかに糸を出す虫がいますが蜘蛛もその一つです。
大崎さんは蜘蛛の糸を研究しておよそ40年になります。
蜘蛛の糸は軽くて柔軟性に富み強度もあることが判ってきました、
蜘蛛の糸の強さを証明するために大崎さんは蜘蛛の糸で自分の体を吊り下げる試みを学会で発表したこともあります。
さらに蜘蛛の糸でヴァイオリンの弦を作り音楽家に音を聞いてもらい海外から注目されました。
蜘蛛の糸で出来たヴァイオリンの弦はどんな音色を響かせるのでしょうか。
生体高分子の研究が蜘蛛の糸とどんなつながりがあったのでしょうか。
*「家路」 作曲ドボルザーク を蜘蛛の糸で自らヴァイオリン演奏。
大阪大学大学院理学研究科博士課程を終了後、企業の研究所で高分子化合物の粘着の研究をしていた時に、世の中の新しい最先端の粘着のことについて調べていましたが、蜘蛛の糸も粘着なので調べてみたら、粘着よりも蜘蛛の糸自体の方が面白くなりました。
色々蜘蛛を探しまわって趣味としてやっていました。
高分子は長い分子です。
合成樹脂、ナイロンなどもそうです。
天然高分子は生き物からできているものを言います。
人間のコラーゲン、髪の毛、筋肉なども高分子です。
蜘蛛の糸は殆ど世界的に研究されていないことが判ってきました。
蜘蛛の糸は軽くて柔軟性があり強度もあります。
切れるまでに非常に力がかかる。
蜘蛛の糸はそう簡単には集められなかったが。蜘蛛から糸を取り出して、糸を集めました。
蜘蛛の糸は1~2ミクロン程度で19万本集めてやってみましたが、見事に切れました。
蜘蛛の糸は種類がいっぱいあるために、束に力を入れると弱い所から切れて駄目でした。
5mm程度の糸の束を作ってやったところうまくいきました。
蜘蛛の習性を観察して糸を取り出そうとするのですが、厳しくやるとへそを曲げて丸まって糸を出す気にもならない、優しくやりすぎると舐められて逃げてしまいます。
高知、鹿児島とか温かい海辺の方には黄金蜘蛛がいておおきいです、又沖縄などにはもっと大きな大女郎蜘蛛がいます。
大きいと糸は集めやすい。
蜘蛛相撲を見に行ったこともあります。
遠い所から蜘蛛をもらってきてもヒヨドリに食われてしまったりしてがっかりしたこともありました。
蜘蛛の糸の性質から言いますと、紫外線に強いという事も判りました。
殆どの素材は紫外線に弱い。
調べると紫外線で強度が上がることが判りました。
強度が上がって保持してその後劣化して強度が下がるときに巣を張替えをするわけです。
耐熱性も強い。
ゴミ袋などに使われるポリエチレンは110~120度に融点があり溶けて、ポリプロピレンは170度ぐらい、ナイロンは210~230度で溶けますが、蜘蛛の糸は250~300度でも大丈夫という耐熱性があることが判りました。
危機管理に重要なことが判ってきました。
蜘蛛は空中で生活しているので、糸の強度が蜘蛛の重さの2倍あることが判りました。
糸を電子顕微鏡で調べたら2本でした。
4億年の歴史から予備として2本になったということが判りました。
2の安全則という事でイギリスのネーチャーに発表しました。
医療ではダブルチェックなどもするようになりました。
蜘蛛は巣を張る種類と巣を張らない種類がいます。
蜘蛛の巣は縦糸は粘着がないが横糸は粘着があります。
横糸は均一に張るが、ちょっと時間が経つと表面張力でぽつっぽつっとなってくる。
蜘蛛の体から横糸の粘着だけを取り出そうとしたがなかなか取り出せなかった。
糸を出すときに上手に粘着材がくっつくようになっている。
蜘蛛の糸は面白い性質があるので遺伝子の組み換えで作れないかということが考えられるようになりました。
2002年にヤギのミルクに遺伝子組み換えで蜘蛛の糸を作ったというのがアメリカのサイエンスに掲載されました。
2003年にカナダのベンチャーとアメリカの陸軍が共同でやった研究所に見に来てくれといわれていきました。
蜘蛛の糸は分子量が60万ぐらいあるが、一桁少なかった。
分子量をいかに大きくするかが課題です。
水に浸けると半分ぐらい縮むという性質があり、そういった課題もあります。
分子量が6万ということは天然の性質が得られないが、あきらめずに頑張って行けば縫合糸(手術で使う糸)などにいいのではないかとか、様々な分野に使われる可能性がある。
天然に近いものを遺伝子組み換えで作ってもらえたら世の中が変化するのではないか。
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