2019年12月29日日曜日

小田部羊一(アニメーター)        ・漫画動画と歩んだ日々

小田部羊一(アニメーター)        ・漫画動画と歩んだ日々
昭和11年台湾の台北市生まれ、昭和34年東京芸術大学日本画科を卒業後、東映動画、現在の東映アニメーションに入社し劇場長編映画などを製作しました。
NHKの朝の連続TV小説「なつぞら」では時代考証を担当しました。
妻の奥山玲子さんもアニメーターとして活躍し、「なつぞら」のヒロインのヒントとなった方で2007年にお亡くなりました。
小田部さんは会社を辞めてから、新たに宮崎駿さんや、高畑 勲さんなどと「アルプスの少女ハイジ」、「母を訪ねて3000里」などを作り日本のアニメーション界を第一線でリードしてきた人です。
最近アニメーションの歴史や奥山玲子さんとの歩みをまとめた本、「漫画映画漂流記」を出版しました。

NHKの朝の連続TV小説「なつぞら」では時代考証を担当しました。
最初は大塚 康生さんでしたが体調を崩して私がお引き受けした。
子ども時代から漫画の本や漫画の映画が好きでした。
しかしアニメーションの作り方は知りませんでした。
小学校の1,2年の時に父親と一緒に漫画映画を観たときに、動物のキャラクターがいきているものとしか思えなかった。
それが心の中にあり、大人になって漫画映画のきっかけになったと思っています。
東京芸術大学日本画科に入学、先生は前田青邨さん、助手が平山郁夫さんでした。
父親は油絵を描く人で、台湾の子どもたちに教える先生をやっていて、油絵も団体展などに出すぐらいの腕の持ち主で家には沢山絵が掲げてあり、絵に興味を持って行ったと思います。
戦後、台湾から日本に引き揚げてきましたが、父が油絵の材料を貸してくれて、5歳下の弟と花の絵を描いたんですが、弟の方が立派な絵を描いて、自分は油絵が嫌いになって水彩画につながり日本画という事になって行きました。

子ども時代に漫画映画がなんとも言えない素晴らしい世界に見えました。
モノクロの短い作品でした。
その後、アメリカのデズニィーの白雪姫などを見て、色がついていて長編映画で目がくらむぐらい感じました。
会社に入り同期に高畑 勲、4年後輩に宮崎駿氏がいました。
『太陽の王子 ホルスの大冒険』というものを一緒にやってなおさらお互いが判ったり、自分たちが作りたいアニメーションの方向が見えてきたりして、出会いと仲間意識を持ちました。
奥山玲子が先にいて重要な立場にいました。
「なつぞら」のヒロイン(奥原夏)のヒントとなりました。
2007年に亡くなりました。
共通点は媚びを売らない、きちんと自分を持っているとか、広瀬鈴さん(ヒロイン役)にも感じていました。
毎日洋服は変える人でした、組み合わせで毎日の気持ちのままに着ていました。
服だけではなくアクセサリーなども変えていました。

当時は女性は仕事をしていて出産して会社を続けることは難しかったが、断固戦うという様な事でした。
子どもを預かってくれるところはなくて、預かってくれるところを探すためにポスターを作りました。
自分でやりたいことは何としてもやっていきたいという人でした。
亡くなってから影膳を3年ぐらいやっていましたが、宮崎駿さんから「そんなことは気持ち悪いから」と言われ辞めましたが、宮崎駿さんは奥山玲子から解放されたと言っているらしいです。
入院して1週間で亡くなりました、無精ひげがそのままひげを生やすようになりました。

アニメーションがコスト第一主義のようになって、自分たちが作りたいものと違う方向になってきて、会社を辞めることにしました。
妻は会社に残り、その後私たちは「アルプスの少女ハイジ」、「母を訪ねて3000里」などを作りました。
スイスの国立博物館で「日本のハイジ」というタイトルで展覧会をやってくれました。
4か月やりました。
8月に行って講演会などもやってきました。
当時は海外に出かけるのは大変な時代でしたが、高畑 勲さん、宮崎駿さん、僕、プロデューサーの4人をスイスにロケのために、スイスとはどういったところなのか、どういった人たちが住んでいるのか、スケッチをしたりカメラに収めたりしました。
現地取材があったからこそ景色、もの、キャラクターだけではなくて、現場の空気、光、山の高さとかそれを感じてきたのが一番の収穫でした。
そういったものが顔の表情とかに表れて来ていると思います。

作品ができてから家族3人で25年後にスイスに行きました。
ロケハンに行くときに息子は重い風邪にかかっていて、奥山に息子を預けていってしまいましたので、ハイジは恨みの何物でもなかったんでしょうね。
スイスに行って素晴らしさに感銘してくれて、自由にスイスの話もできるし、ハイジの話も自然にできるようになりました。
ゲーム会社に入り、スーパーマリオ、ポケットモンスターのキャラクターのデザインも手掛けることになりました。
同期の演出家がスーパーマリオを作る部署の部長になっていました。
ゲームの世界に入ってこないかと言われ、少ない枚数でやれという様な時代で面白くなく思ってた時だったので、1,2年という気持ちでいたが、こっちの方がアニメーションじゃないかと思い、役に立てるのかなと思いました。

マリオは何でもしてもいいが殺人だけはしてはいけませんと言われて、自由な動きを獲得したと思いそういってマリオを作っていきました。
3Dでキャラクターを動かさなくてはならなくなり、立体になるような絵のデザインにして作っていきましたが、いまでもいきています。
ゲーム会社に21年いることになりアッというまに過ぎてしまいました。
キャラクターは生き生き動いてこそキャラクターだと思っています。
2年前に明日の命は判りませんと言われて、5か月入院して、たぶん僕は死ぬんだなあと思いました。
退院して元気が出てきて、昨年の11月から4回も海外に行っています。
生きていたらいろいろ楽しいんです。