2019年9月29日日曜日

2019年9月28日土曜日

三國清三(フランス料理シェフ)      ・増毛の海があったからこその料理人生

三國清三(フランス料理シェフ)      ・増毛の海があったからこその料理人生
1999年の映画「ぽっぽや」のロケ地としても知られている増毛町 、この町で生まれ育ったのがフランス料理の世界的シェフ三國清三さんです。
「なにくそ」で自身を盛り立てた半生、三國さんに伺います。

家の親父が漁師で、おふくろが農家をやっていて、増毛はニシンが一杯取れて昭和28年にニシンが取れなくなった、その翌年昭和29年に生まれました。
兄弟7人で男が5人で、僕は清三で、兄貴が清一、で番号になっています。
僕の歳ぐらいから高校に行くのが当たり前の歳になりました。
町でも1,2の貧乏で姉ふたりも中学を出て出稼ぎ、兄ふたりも大工、みんな仕送りをしてきても貧乏でした。
母は早朝3,4時にちょっとした朝食を作ってすぐに父と一緒に畑に行っていました。
高校に行きたくても親には言えず、先生に相談したところ、米屋の丁稚奉公で夜間学校に行けるという話がありました。
卒業して米屋の丁稚奉公に入りました。
すぐ前に学校がありました。
30㎏を3個担いで配達に行きました。
フェンス越しにテニスをやっている学生を見てあいつらだけには負けたくない、と思いました。
「なにくそ」というその気持ちがそのあとの人生の原点になりました。
「何苦曽」という風な言葉を座右の銘にしている野球の人は三原さん始めいるそうです。
「人生は何事も苦しい時が自分の基礎を作るのだ」という意味だそうです。

或る日奉公先の姉さんがハンバーグを出してくれて、いったいこれは何だろうと思いました。
黒いソースが甘酸っぱい味がしました。
ソースと一緒にハンバーグを食べたらめちゃめちゃ美味かった。
このハンバーグに恋い焦がれてしまいました。
札幌グランドホテルに行けばもっと100倍おいしいとお姉さんから言われ、札幌グランドホテルが15歳の僕にインプットされました。
札幌グランドホテルに行けばハンバーグが作れるんだと思いました。
入るにはどうしたらいいかと思っていたところ、卒業記念に札幌グランドホテルでテーブルマナーがあるという事で行くことになり、テーブルマナー終了後洋食の厨房に行って、後ろに隠れていました。
そこに青木さんが来て、どうしても札幌グランドホテルで働きたいといいました。
中卒でも従業員食堂のおばちゃんがたのところはパートだから学歴関係ないから、明日からくるかといわれて、明日から米炊きやるかといわれて、米炊きに入りました。

ホテルの洗い場を6時から10時まで一人でやりました。
半年後、青木さんと人事課の人が話し合って、明日から正社員だと告げられました。(16歳)
青木さんは札幌グランドホテルの最初の料理長の息子さんで一番仕事もできた方で、特例で社員にさせていただきました。
12時で仕事が終わって寮に帰らずに料理の勉強をしました。
17,8歳になると一通りの料理ができるようになり鼻高となり、先輩と喧嘩したりしました。
東京の帝国ホテルには村上さんという料理人の神様がいて、お前なんかは足元にも及ばないといわれました。
神様といわれる村上さんに会いたくて、18歳の時に青木さんに頼んで、紹介状をもらって一人で帝国ホテルに行きました。
オイルショックで希望退職を募っていて、社員にはすぐにできないが厨房で順番を待っていたらそのうち社員になれるので、洗い場だったらすぐに入れてやるという事で、洗い場に入りました。

3年間洗い場にいて挫折感を感じました。
札幌グランドホテルはコックさんが50人いましたが、帝国ホテルは650人でした。
20歳の誕生日を迎えて、ひっそり増毛に帰ろうと思いました。
18のレストランがあり全部の厨房の洗い場をやってひっそり帰ろうと思いました。
それからその仕事分の給料はもらわずに毎日やりました。
10月ごろに村上料理長に呼ばれ、650人の料理人の中から一番腕のいい料理人をすぐ年が明けたらジュネーブの大使館のコック長に一人紹介してくれと社長から言われたという事でした。
お前に決めたといいました。
想定外だったので、びっくりしましたが増毛を思い出し、3秒してハイと答えました。
貰った給料は自己投資をして、10年後には君たちの時代が来るからちゃんと修行をしなさいと言われました。
28歳で帰ってきて、30歳で四谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」をオープンしました。

大使館は天皇の代わりにおもてなしをするわけで、晩餐会をするので用意するように言われました。
当時20歳でフルコースなんて知りませんでした。
フルコースだという事で、アメリカ大使がいつも行っているフルコースを食べるレストランを調べることになりました。
3日3晩、アメリカ大使が食べるフルコースを仕入れから料理まで全部勉強しました。
当日、アメリカ大使が吃驚して、日本の大使にどうして俺の好みを知っているんだ、素晴らしいと言っていただきました。
ほかの国からも来るのでそのたびに研修にいって、暗記して料理を出して評判を得ました。
「モーツアルト」と呼ばれたフレディ・ジラルデさんはロザンヌにいて、後に彼は世界一になるが、彼のうわさを聞いて日曜日にジラルデさんのところに通うようになりました。
そこで教わった料理を毎回出すようになりますます評判が上がりました。
2年間の約束が4年間を勤めするようになりました。
ジラルデさんは天才ですよ、彼は命を懸けています。
本気に命を懸けてフランス料理を作らなければいけないんだと学びました。

僕が27歳の時に当時アラン・シャペルさんは厨房の「ダビンチ」といわれていました。
彼のところで修行しました。
日本で自分の好きなフランス料理を本気で作ろうと思って28歳で帰って来ました。
青木さんから始まってみんな怖い人でしたが、表面的に怖い人って懐に入ると、めちゃめちゃ面倒見がいいんです。
「お前ね、自分の家だと思ってやれ」とよく言われました、家族ですよ。
許容量を感じました。
北海道の後輩佐藤君他みんな我々の時代から比べたらすごい活躍をしています。
自分がオーナーでミシェランの星をとるんですから。

僕の味覚を鍛えたのは貧乏です。
味覚体験は12歳までにさせていかなければいけないが、僕は増毛でホヤを食べて、甘い、しょっぱい、うまみなどの5つの味覚がホヤには全部入っていました。
ホヤが僕の味覚を鍛えてくれました。
世界ラグビー大会の顧問と2020年のオリンピック、パラリンピックの顧問をさせていただく事になりました。
日本中の料理人を集めてみんなで世界的な高い水準の料理をこさえて、全国に料理人が散らばって料理人のレベルを上げていければなあと思っています。
ありのままの姿を求めて外国からは来るので、皆さんはそういったおもてなしをしていただければいいと思います。














2019年9月27日金曜日

谷川俊太郎(詩人)            ・【人生のみちしるべ】"へいわ"についてぼくが考えること

谷川俊太郎(詩人)    ・【人生のみちしるべ】"へいわ"についてぼくが考えること
1931年東京生まれ、87歳。 終戦の時は中学2年生で13歳でした。
戦時中には東京への空襲の時には沢山の焼死体を見たという体験があります。
そんな谷川さんが今年3月に"へいわ”について考える絵本を出版し、話題になっています。
絵本のタイトルは平仮名で「へいわとせんそう」 文は谷川俊太郎さん、絵は人気イラストレータのりたけさんです。
谷川さんが平和について考えていること、「20億光年の孤独」でデビューしてから間もなく70年を迎える谷川さんの人生の道しるべは何だったのか伺いました。

90年近く住んでいるとここが故郷だと感じるようになりました。
10年ぐらい前までは何にもしないことができなかったが、今は何にもしないことが平気でできるようになりました。
詩は言葉で作るわけだからどうしても意味が付きまとうが、音楽は意味が全然ないのでそれはうらやましいし、聞いていると意味がないという事に開放感を感じます。
言葉の意味に感動することとは違う感動をするので、それが快くて聞いてしまいます。
人類が発生して言語ができてから言語に意味がついてきて、意味に我々はがんじがらめになってしまって、音楽はそれを解放してくれる。

東京都の杉並区ですが、5月の東京西部の大空襲がありました。
環状7号線のあたりまでは相当の被害を受けました。
家の辺は焼夷弾が落ちなくて助かっていました。
夜中に焼け出された人達がうちのすぐ横の道をぞろぞ通っていたのは覚えています。
環状7号線のあたりまでいってみたら、焼死体がごろごろしていました。
実際の経験は小説で読んだり、映像で見たりしたのとは全然違います。
悲しいとか怖いとかは殆どなかったですね。
親戚とか知り合いが戦争で被害を受けたことが無かったから、そのような感じで済んでいたんでしょうね。
反戦のためにいろんな人がいろんなことをするが、忘れてはいけないというわけですが、絶対人間は忘れると思う。
唯一忘れないとしたら戦争の現場ですね。
実際に戦地に行って鉄砲を撃っていた人は忘れないだろうし、命からがら逃げたことは忘れないと思う。
僕の場合は環状7号線のあたりの焼死体なんです。
京都に疎開しました。(母親の里)
京都の中学校にいって東京弁について差別されました。
授業などはさぼるようになりました。
ラジオを作るようになりました。
手を動かして何かを作るのが好きでした。

絵本「へいわとせんそう」シンプルで目立ちます。
ピクトグラム 絵で直接サインを出す。(トイレの男女の絵など)
彼の絵はそれに近い絵です。
表紙には男の子の絵が描かれていて、開くと谷川さんのシンプルな言葉とイラストレーターののりたけさんのピクトグラム的なイラストが描かれています。
村上アナ:最初の左は「へいわなぼく」 男の子が腰に手を当ててすくっと立っています。
右は「せんそうのぼく」 男の子が目を閉じて眉を八の字にして膝を抱えて座り込んでいる。
「へいわのちち」、「せんそうのちち」、「へいわのはは」、「せんそうのはは」と続いている。
「くも」のところだけ写真 原子爆弾のきのこ雲(イラストでは伝えきれない)
後になって「てきとみかた」という発想を入れようと思いました。
「みかたのかお」、「てきのかお」 敵も味方もおんなじだというのをどういう風にやってくれるのかなと思っていましたが、のりたけさんが一種ユーモラスに対称的に描いてくれたので、凄くおもしろかったです。
最後は「みかたのあかちゃん」、「てきのあかちゃん」が右と左に並んですやすや眠っています。

あまりに戦争の在り方が複雑にこんがらかってきているので、できるだけ単純にしたらどうなるだろうと思って作りました。
平和というのも複雑な関係で成り立っている。
思い切って一番基本的なところをどうやって抑えるかという事だったと思います。
平和の奥に戦争の原因が隠れているという感じです。
平和の状態そのものが戦争の種を隠している。
世界中が経済的なネットワークでつながっているし、原材料の争奪戦があるし、宗教関係があるし、だからそれを単純に描くという事ができなくて、結果だけを書くしかないという感じがします。
読む人がそれぞれ考えたり想像してもらえればありがたいと思います。
詩などは特にそうだと思っていて、詩の場合は言い足りない方が詩の場合は生きると思っています。

「戦争と平和」では戦争をしてようやく平和が戻りましたという様な発想で、戦争がずーっとあって平和が貴重だというのではなくて、普通は平和であるべきだと思ったんです。
平和が常の状態であって戦争が異常事態だという風に思いたかった。
「へいわとせんそう」にしたのが一つのアイアディアでした。
自分の心の平和を保つのが一番いいんじゃないかと思います。
穏やかな心が凄く大事だと思う、直ぐ嫉妬したり喧嘩をしたりする、人間の心の動きが戦争の元にはあると思う。
敵というものを自分がもっと広い心で受け止められるようになれば、戦争の理由は少しは減るだろうと思います。
身近な関係でも繋がっていると思う。

村上アナ:以前一番大事なものは女と言っていましたが。
この頃考えが変わって愛という事にしました。
何かをとにかく好きになるという事です。
男性性、女性性があるが歳を取ると女性性が強くなってくる。
言葉ではなく行動だと思います、愛と言ったらまずハグすることでしょう、そういう習慣が日本人にはなかったからちょっとぎこちないかもしれないが、そういったことが社会に広がったらユートピアですね。
歳をとる事の長所というものを自分で考えます、人に対して寛容になる。
友達で半身不随になっている人がいるが、身体が不自由になってくるとよくわかるようになります。
考えが深くもなってきていると思います。
本でも若いころは読み過ごしていたところが、凄く心に深く感じるという事があります。
同年代の人間が自分と同じように歳を取っているのを見ると心が休まりますね。
辛いこと苦しいことがあるが、若い頃にはわからなかった人生の味は判るようになりました。

詩は人を元気付けたいし、気持ちを豊かにしてもらいたいから歳をとる事のネガティブなことを強調しては書けないが。
死んだ後の世界には好奇心があります。
どんなところに行くんだろうと思います。
死への恐ろしさはないですが、しかし実際に病気になって死期が近づいたらちょっとまた変わるのではないかと思います。
無限ともいえる宇宙の中の小さな地球というものがあって、宇宙内での自分、人類の一員であるという事の方が先行するという事が若いころから変わってはいないと思います。
人間的に色々やっているけれども、基本は草木と同じ自然なんであって、自分が生きたり死んだりするのも自然の一つのプロセスの一つだという事があります。
恵まれた環境にいたから人間的な環境を飛び越して、宇宙内での自分の環境みたいなところに飛んじゃったんだと思います。
一人っ子だったので人間関係が希薄で、母親と密接な関係の母親っ子でした。

変わったことは一杯あっていえないです。
人間世界というものを見切ったという風に詩で書いたことがあるが、根本的な存在、構造はもうわかったよみたいな、どんなに頑張ってもそこは変わらないのではないかみたいな、ところが出てきました。
見切ったことで見切った先に行けるのではないかと思ってます。
人間とはどうにもならないもんだなあとか、言葉とは困ったもんだなあとか、解決のしようがないことが見えてくる。
死も一番大きなものかもしれないが、戦争もその一つですね。
若いころは戦争はどうにかなると思っていたが、戦争は続くだろうなという様な。

18歳で詩を発表してから間もなく70年、愛は一つの道しるべになっていると思います。
若いころよりもはるかに自然は自分にとっていかに大事か、外なる自然というものをずーっと思ってきたが、実際には自分自身が自然なんだということがより強く深く自覚されるようになりました。
自然に逆らわないでいようという様な気持ちも出てくるわけだし。
若いころは詩を書くのが苦痛に思っていた時期があるが、段々楽しくなってきています。
6,7年前ぐらいからですね。
詩を書くのが自分にとって救いになっています。
詩には意味以上の何かがある、詩というものは草花のような存在になるのが理想だと思っています。
存在というものをどこまで感じ取れるかというのが、歳をとってわかってきた感じがします。
言語に対する疑いは詩を書き始めたころから今まで続いていて、外の世界を見る時にもその意識があると思います。
名前よりも存在であると、人間社会内での大事さよりも、名前のない自然、宇宙の中での存在が大事だみたいな、それも言葉で言っているんですが。
読者が喜んでくれるような美しい日本語を書きたいと思っているが、言葉の美しさは難しい。












2019年9月26日木曜日

箭内道彦(CMプランナー)        ・【私のアート交遊録】復興五輪で東北に元気を!

箭内道彦(CMプランナー)    ・【私のアート交遊録】復興五輪で東北に元気を!
1964年福島県郡山市生まれ、結婚情報誌のCMやレコード会社のノーミュジック、ノーライフのCM、TV番組の司会、紅白にも出場したロックバンド「猪苗代湖ズ」のギターリストを務めるなどまさに多方面の活動を展開されています。
箭内さんが今手掛けているのが「東京2020日本フェスティバル」、オリンピックやパラリンピックはスポーツの祭典だけでなく文化の祭典でもあるとして、復興五輪プロジェクトで東北を盛り上げようとこのプロジェクトを立ち上げました。
ここには脚本家で俳優の工藤勘九郎さん、絵本作家でイラストレータの荒井良二さん、作家の又吉直樹さんなど各分野のスペシャリストが集まりそのシンボルであるモッコという10mを超える巨大な人形作りを軸に準備が進められています。
完成後は来年の5月9日から巨大人形モッコが東京に向けて被災地からの旅を始めることになっています。
東京2020日本フェスティバルや広告にかける思いを伺います。

今は巨大操り人形モッコを長野県の高森町で製作中です。
旅先の岩手の陸前高田、宮城の岩沼、山形の東北絆祭り、福島の南相馬市のそれぞれの会場でどんなことをするのか地元の方とプログラムを組み立てているところです。
10mを超える大きな人形、モッコ オダズモッコという言葉が宮城の方言で、工藤勘九郎さんが「モッコ」と名付けてくださいました。
人の形で東北人の気質を持ったモッコです。
一見遠慮深く無口の感じがするが仲良くなってみるととっても温かくて面白くて、東北人らしさを持った人形です。
東北の子どもたちが描いたものを参考に荒井良二さんがイラストレーションを描いてくれて、世界的人形デザイナーの沢則行さんが参加しました。
モッコの存在としてのストーリーが必要だという事で、又吉さんにお願いしました。
3mで、5mでいいのではないかという声もありましたが、みんなで力を合わせたら出来そうもないものもできるのではないかという事で、復興というものを、勇気,自信、プライドになったらいいなあと思いました。
オリンピックもパラリンピックも「自己ベストの更新」を掲げているので、我々も「自己ベストの更新」をしたいと思いました。
5月9日に東京に向けてスタートします。

2回目のオリンピックを東京で開催されるときに、まだ東北では復興ができてないのに、東京に資材や人が全部東京に行ってしまうのではないかと不安を感じたり怒っている人もいました。
震災からの復興五輪と掲げて呼んだからには東北にとっていいことが沢山あったなあと思えるように、自分にできることがもしあればチャレンジしてみようとこれができました。
聖火リレーが福島県楢葉町からスタートするとか、聖火トーチが福島県浜通りの子どもたちとのやり取りの中から桜というヒントが生まれたとか、いろいろ発表になって段々と復興五輪が見えてきたが、僕がこれを受けたときには3,4年まで何も見えていませんでした。
やらなかったらどうなってしまうのだろうと勝手な使命感を持ったのがきっかけです。
ロックバンド「猪苗代湖ズ」は2010年の秋に結成しました。

活動の全収益はすべて福島県の災害対策本部に寄付をする形になっていましたので、よりたくさんの人に福島県の今を知ってもらって、2011年が終わる中で思いを一つにできたらと強く思っていました。
紅白歌合戦で「I love you & I need you ふくしま」この歌を届けることができたら、もっと寄付も集まり、福島に思いをはせてくださる人もたくさんいると思って、ああいうメッセージを発信しました。
自分にとって故郷は若いころは故郷への反発もあり、距離を置いていた時期もあるが、福山雅治さんに諭されたりしました。(震災のだいぶ前)
自分にとって恩返しというか、罪滅ぼしというか、故郷と向き合う中で起きた2011年3月11日でしたので、「広告」をしたいと思いました。
2020モッコも何らかの形で現在の東北を「広告」したいと思っています。

小さいころは漫画家に成りたいと思っていました。
高校でデザインを目指すようになりました。
店をやっていて名札を書いたり看板を描いたりしていました。(幼稚園の頃)
大阪万博で太陽の塔ができて、クラスで太陽の塔を作ろうという事で、先生から顔の部分を書くように言われ岡本太郎さんの中央の顔を模写したのが模写の最初の経験でした。
それも振り返ると大事な経験だったと思います。
広告について、自分が何かを決めつけて世の中の人たちに教えるとか、押し付けるとかはやめたいと思っていて、一緒の目線で一緒に考えましょう、というスタンスで作るようにしています。

結婚情報誌のCMやレコード会社のノーミュジック、ノーライフのCMなど、しっかりは考えてはいるんですが、ふっと浮かびあがる感じの方が受け取ってくれる側も共感しやすいのではないかと考えています。
福島県の観光ポスター 「来て」というものだけ。
今の福島を見ていただいて友達も作っていただいて、リアルな関係が始まるのではないかと思って、くどくど書くよりもただ「来て」というものにしました。
世の中がなんかぎすぎすしていますが、僕が「猪苗代湖ズ」で「I love you & I need you ふくしま」を歌って、様々な反応を頂きいい方への捉え方、反対の捉えか方がありましたが、捉え方の違いで溝ができてゆくんだなあと思いました。
新しい歌を作らなければいけないと思って「ツーショット」という曲、違う二人が一つのフレームに収まる、それがなにもひとつにならなくてもいいのかなあと思って、「ツーショット」の歌詞に「君と僕の違うところを尊敬しあいたい、僕と君の同じところを大切にしたい」と書きました。
お互い謙虚さをもって、お互いに話し合えたらと感じます。

石沢アナ:NHKの3文字があることでいろんな接点がつくれ、それぞれの人生を持った人があって語ってくれるのはすごい財産になります。
それを受け止められるかどうかは難しい所です。
しかし聞ききれていないのではないかと思います。
歳を経るとできるかと言えばそういうものでもないと思います。
人生の一端を聞かせていただくという感じです。

日本人はいろんなことを曖昧にして生きてきたような気がします。
曖昧にできないことが増えてきて僕らは試されてきているのではないかと思います、新しい時代をどうやって人を思いやることができるのかという事を。
いろんな人と出会うと友達もできて、震災の前と比べると何十倍にも増えて、その人たちひとりひとりは悩み、傷付くこともあるし、友達が傷付いたりしょんぼりしているのなら自分に何ができるだろうと思った時に、みんなが笑顔になるまでやらなきゃならないことは無くならないんだなあと思います。
自分のために頑張るのは絶対に限界が来るが、あの人のために頑張りたいとか、世の中のちょっとでも役に立ちたいという事は100%にはならないので、それが原動力です。
























2019年9月25日水曜日

村雨辰剛(庭師)             ・【心に花を咲かせて】日本庭園に魅せられた北欧青年

村雨辰剛(庭師)        ・【心に花を咲かせて】日本庭園に魅せられた北欧青年
NHK番組『みんなで筋肉体操』にも出演されました。
現在31歳のい村雨さんは子どものころから日本に関心を持っていたという事です。
そして来日し修行して庭師になり、日本人になると決意して帰化しました。
村雨さんはなぜ庭師として生きようとしたんでしょうか。
またなぜ帰化しようと思ったのでしょうか。
庭師が天職だという村雨さんにそう思うに至ったこれまでの歩みと、日本や庭師という仕事への思い、今後の夢を伺いました。

生まれはスウェーデンで両親もスウェーデン人です。
僕の旧名はヤコブ・セバスティアン・ビヨーク(Jakob Sebastian Björk)です。
日本国籍を取りました。
庭師をやっていたら声が掛かって、自然の流れでタレントもやるようになりました。
高校生から体を鍛えてきました。
スウェーデンにいる頃から違う国に行ってみたいと思って、調べているうちに日本に興味を持ちました。
最初は、中学、高校の世界史の授業があり日本のことが紹介されて、歴史が好きだったのではまって個人でも調べるようになりました。
特に印象的なのは各大名が争って、その中から生まれた武田信玄と上杉謙信の不思議な関係に凄く惹かれて、敵に塩を送ったりとか、いろいろ興味を持ちました。
道徳、人間としての在り方に奥深さを感じて、思いが積もってきて夏休みを利用して短期ステーをしました。
SNSの一段前のような中で、自分で日本語を勉強して日本の人と友達になりました。
両親が僕のために貯金をしていて、そのお金を使って日本に来ました。(16,7歳の頃)

神奈川県の戸塚区に行って鎌倉などに行きました。
ステー先では日本家屋風で庭も日本風の庭でした。
どこもそうなのかなあと思っていたら、後でギャップに驚きました。
絶対いつか日本で暮らそうと思いました。
そのころから帰化しようと思っていました。
和の文化、自然に対する価値観だったり、昔からのものを大切にするのが好きでした。
泊まった家も、和な生活で、毎朝仏壇の前でお経をあげたり、畳の部屋だったり、お母さんが茶道の先生だったり、そういう影響が周りにたくさんありこの暮らし方は素敵だと思いました。
最初の経験が特殊だったと思いますが。
日本に惚れてしまいましたが、日本に5年、10年住んでも同じ気持ちでいられるのかなあと思いましたが、同じ気持ちだったので帰化しようと思いました。

目標を日本にいくことに置いて、高校を卒業して就職を日本で決めたいと思って、名古屋でスウェーデン語、英語教える教師として仕事が決まりました。
両親は僕が日本語を勉強しているので、覚悟はしていたようです。
兄弟は6人いて、長男です。
いろいろ現実に向き合うと自分の夢を忘れかけたりしますが、神社お寺を観たりするといいなあと思いました。
日本にも慣れて22歳の時に日本の伝統的な職業、徒弟制度があって弟子になるのもいいなあと思って、いろいろ探し始めました。
求人誌をみていたら、日本庭園を造る仕事の募集があり、直ぐに面接してもらいました。
そこの親方は国際的な方で海外でも日本庭園を造る経験がある方でした。
初日の炎天下の現場で熱中症で倒れて、辞めたりしました。
筋トレもしていて体力には自信がありましたが、いつも空調の効いた中での仕事しかしてこなかった。

辞めたことに後悔しましたが、後釜の人も直ぐにやめてしまってチャンスが来ました。
もう一回やらせてくださいと言って、その後は自分にとって天職だと思いました。
そこはアルバイトだったので弟子にはしてもらえず、次は愛知県の西尾市という違う造園に弟子入りしました。
紹介で弟子入りしてもらいました。
最初修行は切ったものを掃除するなどして、親方、兄弟子のやっていることを観察していました。
1年間のアルバイトの中で日本の美意識の中で仕事をするのはなんて素晴らしいんだろうと思って庭師になることを決意しました。
美術館にいくように毎日仕事にかかわって刺激的でした。
体力的には辛くても凄く楽しい修行でした。
1年後手が空いてくると切り方など少しずつ増えていき、鋏を頂きました。
木によって剪定の仕方がいろいろあり勉強していきました。
最初は低木の刈込、生垣、古木の刈込などをして、うまくできなくて叱られたりもしました。

弟子入りしようと決めたときには、これとは一生関わっていきたいと思いました。
和の良さは自然の美しさから成り立っていることが多いと思う。
特に日本らしさを庭で感じました。
庭園は大きくは池泉庭園、枯山水、茶庭に分けられるが、経年変化、経年美化がより感じるものと、枯山水は心の内面で見る、自分で想像して考えて考えさせられて、これで何が見れるのかその世界観に魅了されます。
タレントとしてTV出演するのにも庭師として出ることが多くて、日本文化の内容も多いので、もっと日本の良さを知りたいとか、伝えたいとか、番組に出ることによって自分も成長できるかと思います。
タレントはお金にはなりますが、中心は庭師でやっていきたいと思っています。
愛知県は日本庭園の多いところでそこを修行の場に選んだという事もあります。
松の手入れだけでも、1年の中にもいろいろ作業があり奥深いものがあります。
日本の木に対する奥深さ、凄さを感じました。

愛知では庭の管理はできたが設計施工が少なかったので、声が掛かって千葉に来ました。
その間5年間親方と二人でやってきて、辞めることに関しては1年前から相談はしていました。
帰化するときには、いろんな書類が必要で、改名もしたかったので親方の字ももらって変えました。
25,6歳の頃に帰化できましたので、これから知識を付けて魅了された日本をもっと知って、胸を張って僕は日本人ですと言えるような知識、日本人の良さを語って行けるような人になりたいと思いますし、庭師としても成長していきたい。












2019年9月24日火曜日

黒田征太郎(イラストレーター)      ・アートで問い続ける「命」

黒田征太郎(イラストレーター)               ・アートで問い続ける「命」
昭和14年飯坂生まれ、昭和44年デザイン事務所 ケイツー( K2)を設立、以来イラスト、ポスター、壁画などで国際的な賞に輝き、 日本のグラフィックデザインをけん引してきた第一人者です。
一方で作家の野坂昭如さんや漫画家の手塚治虫さんの作品に共感し、ライフワークとして命の尊さや平和の大切さを自身の絵を通して訴え続けてきました。

今年80歳、大阪心斎橋の近くでライブぺインティングを行いました。
絵を描くことは精神衛生的にいいんです。
ご飯を食べないと生きてはいけないが、いつごろからか絵もそれに近いものになってしまいました。
僕自身が戦争のことは避けて通れない、1939年に生まれてその年に第二次世界大戦がはじまった。
黒田征太郎の名前の「征太郎」は征服の征で、出征の征で、そんな意味合いで父親は付けているはずです。
父親は軍需工場の端っこのことをしていました。
兵隊が僕の家に来るのが好きだった、軍国少年でした。
その後大変悲惨な目を体験しました。
西宮で空襲に会い、防空壕にいたが、家に直撃弾が落ちて二階から縁の下まで空いていました。
不発弾だったので僕は今こうして生きているわけです。
命のはかなさなど体に染み込んでいるところがあります。

雑誌で野坂昭如さんが小説を連載して、挿絵に新人を使おうという事で僕に白羽の矢が立って、顔合わせしました。
作家はインテリでめんどくさい人が来るのかと思っていたら、見るからに怪しげな人がちょっと酔っぱらってるような感じでした。
持っているグラスにはウイスキーが入っていました。
僕が思っていた作家とは全然違っていました。
「俺も同じものを頂けますか」といったのが出会いでした。
人間というものは戦争を辞めれない生き物だと、戦争という馬鹿な行為をするのは人間だけだ、戦争がはじまると弱いものから巻き添えになってゆく。
人間以外の命あるものも殺してしまう。

「戦争童話集」戦争にまつわる12の童話を本として出版。
(野坂昭如 作 挿絵 黒田征太郎)
戦後50年という節目でしたが、ドイツなどでは戦争の事、アウシュビッツのことなど絶対忘れないという思いがありましたが、日本では戦争のことは忘れられてきている。
「戦争童話集」を読んだら、明快に戦争のことを書いている。
絵本化してみようと思って絵を描きだしました。
その中の「タコになったお母さん」は印象深いです。
最後には毛穴という毛穴から血を噴出して助けようと少年をくるむ話、少年を助ける愛、野坂さんの思いを絞り出しているなあと思いました。

野坂さんが自宅療養中に、「当然小説を書こうと思ってますよね、どういうものですか」と聞いたら、ゆっくりと「昭和20年8月15日に決まっているじゃないか、馬鹿」といわれました。
身体の芯まで打ち付けられたこと、両親を亡くして、結果的にも妹を亡くしてしまう。
戦争が始まって、そんなおぞましいことはしないといっていた人も最後には自分まで来てしまう。
僕は拷問にあってしまうと戦争反対と言えなくなってしまうような気がする。
戦争と言う言葉で何が一番怖いかというと、ひょっとすると順応する俺が怖い。
多くの人間がそうではないかと思う。
今でもどこかで戦争をやっています。

「18歳のアトム」 絵本を出版、アニメーションにする作業をすすめている。
手塚治虫さんとの出会い、昭和22年(9歳)で「新宝島」という漫画を出版されて、それを偶然見て、2,3ページ目で虜になりました。
学校では写真のように描けと言って絵が嫌いだったが、その絵を見て子供心に感動しました。
僕の生業を決めたのが手塚さんでした。
思いつくままに手塚さんを描いているうちにアトムが出てきました。
手塚さんの美術館が宝塚にあり観にいたんですが、映像が流れていて目をつぶって聞いていたら、手塚さんがしゃべっていることと野坂さんがダブったんです。
それが一番の原因でした。
命のことをずーっとしゃべっていました。

僕なりのアトムを映像にしようと思いました。
アトムがあまりにも活動しすぎて引きこもりになってしまう。
そこにベレー帽が飛んできて(手塚治虫)、「いつまでも閉じこもってはいけない、もっとでていけ」というんです。
太陽に向かって、「僕たちのことをどう思われますか」と聞くと「駄目だね、僕が送ってあげた火の使い方が間違っている。 火を使って人間同士が殺し合いをしているじゃないか。最初は小さな火だったけれども最後の最後にこれだけは手を出すなといった核に手を出した。
「アトミック」認められない。 アトムはショックを受けて、海に同じ質問をする。
「人間は何でもかんでも海に垂れ流してしまっている、いずれ食べることすらおぼつかなる」と天と海から否定されて、最後に地面の割れ目から出ている雑草にも聞く。
「僕らは生きています、生きているだけで充分です、それでいいじゃないあの」といわれアトムはびっくりする。
アトムはそういう実感はそれまでなかったので、僕は生きてるんだと飛び上がってしまう。
アトムが人間の18歳の子どもになる。(原子力のパワーをなくし普通の人間になる。)
ロボットだったアトムを人間に生まれ変わらせる。

18歳に選挙権があたえられたが、その先に徴兵制が見えるわけで、いろんな場所に行ける限り行って18歳の人たちと戦争の体験がありますと話し合いをして、そういうことができればいいなあと思います。
たった一回だけ、奇跡的にせっかく生まれてきて、殺したり殺されたりしてしまっている。
もうちょっと考えないと寂しいですよ。
自分一人では何もできない、「ありがとう」と言って死にたいが、それができないのが戦争ですよ。
遠慮しないで好きな絵を描いて遠慮しないで好きな歌を歌える、それすらも規制されるのが戦争。
戦争に対して自分のペースでやっていきたい。



























2019年9月23日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】正岡子規

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】正岡子規
「病床六尺これが我が世界である。 しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。
わずかに手を伸ばして、畳に触れる事はあるが、布団の外へまで足を延ばして身体をくつろぐ事もできない。 はなはだしい時には極端な苦痛に苦しめられて五分も一寸も身体の動けないことがある。」 (正岡子規)

俳句や短歌の世界に革命を起こした人で俳人であり歌人である人です。
1867年10月14日に生まれたが、明治維新の前の年です。
生まれた翌月11月が大政奉還、12月が王政復古です。
武士の家に生まれたが、明治になって俸禄ももらえなくなる。
2歳の時に火事で家が全焼してしまって、4歳の時に父が亡くなってしまう。
母親は子規と妹を育てるのにかなり苦労をする。
子規は言葉をしゃべれるようになるのが遅かった、ほかの子どもたちがちゃんと喋れてる頃でも、正しい発音ができなかったりした。
身体も弱く腕力もなくて、気も弱くてほかの子どもにはかなわなかった。

「僕は子どもの時から弱みその泣きみそと呼ばれて小学校に行ってもたびたび泣かされていた。
例えば僕が壁にもたれていると右のほうに並んでいた友達がからかい半分に僕を押してくる。
左へよけようとすると左からもほかの友達が押してくる。
僕はもうたまらなくなる。
そこでその際足の指を踏まれるとか、横腹をやや強く突かれるという機会を得てすぐに泣きだすのである。
そんな機会がなくても2,3度押されたらもう泣きだす。」
(「墨汁一滴」の中の一節)

成長するにつれて段々気も強くなって行って、運動は苦手だが野球は大好きだった。
ベースボールが入って来たばっかりで「野球」という言葉もなかった。
正岡子規が自分でバッターを「打者」、ランナーを「走者」、デッドボールを「死球」とか日本語に訳している。
20歳の時に病気になってしまい(結核)、この時に子規という名にしている。
子規とはホトトギスのこと、鳴いて血を吐くホトトギス。(口の中が赤いためにそう見える)
28歳の時に歩くこともできなくなる、脊髄カリエスになってしまう。
34歳で亡くなるが、その時までずーと寝たきりになってしまう。
「病床六尺これが我が世界である。 しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。
わずかに手を伸ばして、畳に触れる事はあるが、布団の外へまで足を延ばして身体をくつろぐ事もできない。 はなはだしい時には極端な苦痛に苦しめられて五分も一寸も身体の動けないことがある。」 (「病床六尺」という文章の書き出しの部分 正岡子規)
「病床六尺」は新聞連載で毎日127回連載して死ぬ2日前まで書いている。
正岡子規が病床でどうなっているのか、読者は実況中継のように毎日読んでいた。
私(頭木)は正岡子規は避けていました、20歳で難病になり13年間病症にあったので読むのが怖かった。
絶望の言葉がすべていいわけではない。

「悟りという事はいかなる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたことは間違いで、悟りという事はいかなる場合にも平気で生きていることであった。」 
(「病床六尺」の中の言葉 正岡子規)
当時痛みに苦しんでいて死にたいと願うほどだった。
痛みには凄くレベルもあり、種類もある。
健康な人は痛みが限られているが、病気になって人間にはこんな痛みがあるのかと私は驚きました。
本当に我慢しにくい痛みがある。

「痛みの激しい時にはしょうがないから呻くか、叫ぶか、泣くか、または黙ってこらえているかする。
その中で黙ってこらえているのが一番苦しい。
盛んに呻き、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛みが減ずる。」(「墨汁一滴」の一節)

「笑え笑え、健康なら人は笑え。 病気を知らぬ人は笑え。 幸福なる人は笑え」
(「病床六尺」の中の一節)

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」 (正岡子規)
*お寺の鐘の音を組み合したミュージックコンクレートによるカンパノロジー
 (黛敏郎作曲)
子規がまだ歩けるころに奈良にいき、好きな柿をドンブリ一杯若い女性が持ってきてくれて柿の皮をむいてくれて、柿を食べた。
「柿も美味い、場所もいい、余はうっとりとしていると ボーンという釣り鐘の音が一つ聞こえた」
そういった中で生まれた句だそうです。
「柿食うも今年ばかりと思いけり」 という句も作っている。(翌年亡くなる。)

「世の中の重荷降ろして昼寝かな」 (正岡子規)
実際には世の中の重荷降ろせず昼寝できず、かもしれませんが。
この句は子規の願望かもしれません。
病気には休みがない。
病人の何よりの願いは一日でもいいから休みが欲しいという事ではないかと思う。
そんな一日があればどんなに幸せかと思います。
「願わくは神 まず余に一日の間を与えて24時間の間自由に身を動かし、たらふく食をむさぼらしめ」と子規は言っています。
深刻な悩みを持っている人も同様かと思います。

「梅も桜も桃も一時に咲いている。 美しい丘の上をあちこちと立って歩いて、こんな愉快なことはないと人に話し合った夢を見た。
睡眠中といえども暫時も苦痛を離れることのできぬこの頃の容態に、どうしてこんな夢を見たか知らぬ。」

「誠を申せば死という事よりほかに何の望みもこれなく候。
生きている間に死にたいとは思うはずはないようになればいい。
回復の望みなくして苦痛を受くるほど余に苦しきものはこれなく候。
この世にてそわれぬために情死するのも同じことと存じ候。
他より見れば心弱きようにみゆべけれど、今日苦痛減じて多少の愉快を感ずる時でさえ、未来を考え見れば再びどんな苦が来るやら判らずと思えば、今が今にても死ということは辞せず候。」  (「漱石子規往復書簡集」のなかの一節 明治30年 正岡子規)
本当に悩み苦しんできた一節。

「少し苦痛があるとどうか早く死にたいと思うけれど、その苦痛が少し減ずるともはや死にたくも何にもない。
人間は実に現金なものであるという事をいまさら知ることができる。」

死にたいと思う事と、死にたくないと思う事の両方を同時に同じぐらいの強さで思う事はいくらでもある、そういうものです。
「人としての子規を見るも、病苦に面して生悟りを衒わず歎声を発したり自殺したがったりせるは、当時の星菫(せいきん)詩人よりも数等近代人たるに近かるべし。」
(星菫(せいきん)詩人→星や菫(すみれ)に託して、恋愛や甘い感傷を詩歌にうたったロマン主義詩人)
(「病中雑記」より 芥川龍之介)

「その時分は冬だった。 大将、雪隠に入るのに火鉢を持って入る。
雪隠へ火鉢をもっていったとて当たることはできないじゃないかというと、いや当たり前にすると金隠しが邪魔になるから後ろ向きになって、前に火鉢を前に置いて当たるのじゃという。
それでその火鉢で牛肉をジャージャー煮て食うのだからたまらない。」
(漱石と子規とのやり取り)

夏目漱石がロンドンに滞在しているときに子規が送った手紙
「僕はもう駄目になってしまった。 毎日訳もなく号泣している次第だ。
いつかよこしてくれた君の手紙は非常に面白かった。
近代僕を喜ばせたものの随一だ。 
僕が昔から西洋を見たがっていたのは君も知っているだろう。
それが病人になってしまったのだから残念でたまらないのだが、君の手紙を見て西洋に行ったような気になって愉快でたまらぬ。
もし書けるなら僕の目の開いているうちに今一便よこしてくれぬか。
ロンドンの焼き芋の味はどんなか聞きたい。」  (正岡子規)















2019年9月22日日曜日

小林まさる(料理研究家)         ・【"美味しい"仕事人】86歳の人生レシピ

小林まさる(料理研究家)    ・【"美味しい"仕事人】86歳の人生レシピ
小林さんが料理の世界に入ったのは、70歳の時でした。
きっかけは長男の嫁が料理研究家としてデビューしたことです。
その手伝いを引き受けたことから料理のアシスタントを務めるようになりました。
小林さんは定年退職後共働きの息子夫婦を助けるため、炊事洗濯など家事全般をこなしていたので、ごく自然に料理の席に入ったといいます。
アシスタントとしてTV番組などにもたびたび登場するようになって、朴訥で誠実な人柄が人気となり、78歳の時に料理本を出版、名実ともに料理研究家となりました。
私の人生は棚からぼた餅だと語る小林さんに86歳の人生レシピを伺いました。

NHK今日の料理、あさいちの料理の時間に時々ご出演をさせていただいています。
長男の奥さんの小林まさみさんが料理研究家として出演されています。
一緒に出演する機会が多いです。
喧嘩もありますが、それが長引いたら駄目です。
料理番組では準備が結構大変です。
打ち合わせ、試作、撮影、後のチェックなどいつも頭から離れないです。
試作も一回でOKという事はなく3,4回はあります。
買い物があり、料理道具、食材などをいっぱい持ってきます。
20kgぐらい運ぶ時もあります。
家の仕事も掃除から全部やります。
まさみちゃんが忙しいのがわかっているので、引き受けています。
嫁は会社勤めでしたが、辞めて料理の勉強をしたいと学校に行くといったのでびっくりしました。
まさみちゃんが本を出すころにアシスタントを探していました。
「それじゃあ俺がやってやるよ」と声を出しました。
このお父さん使い物になるといわれました。(70歳の時)
厨房に入る抵抗はなかったです。

妻の体が弱くて入退院を10年ぐらいしていて、料理はやっていました。
小さいころは樺太で過ごして山に行ってナイフを使ったり、釣りをしたりしていました。
食材はいっぱいありました。
泊りがけで鮭の釣りに行って、釣った鮭を料理したり、飯盒でコメを炊いたりしていました。(小学校2年生のころ)
鉄鋼会社に入って3交代制で、子供の弁当なども作っていました。
アシスタントをやっていたが、76歳の時に或る人から作ってくれないかという仕事が来ました。
年間4冊の雑誌に料理を5品を出してほしいという事でした。
「まさるのつまみ」というテーマでしたが、2年間ぐらい続きました。
するめを細くしたものに明太子を絡めたり、アボガドをつぶして明太子を絡めたりしたものをクラッカーに付けて酒のおかずにするとか。
明太子とアボガドは合います。
雑誌の料理がまとまって本になりました。(料理本の出版 78歳の時)
TVにも出るようになりました。

昭和8年生まれ、7人兄弟の長男、父は炭鉱の機械を修繕する仕事でした。
13歳で終戦になり、15歳まで樺太にいました。
ロシア人が入ってきて、日本の機械で炭鉱で掘っていたので、ロシア人は機械の修理ができないので父は返してくれなかった。
攻撃してきたころには今日死ぬのかな、明日死ぬのかなと思いました。
マイナス45度も経験しました。
食べるものには本当に苦労しました。
15歳で北海道に渡ってきて、高校を卒業して炭鉱に仕事をしました。
27歳の時に会社から突然掘削機のことでドイツに行って来いといわれました。
3年間ドイツに行ってきました。
ドイツに行っている間にその会社の鉱山は閉山になりました。
帰ってきたときには別の炭鉱、芦別炭鉱に入り、そこで8年働きました。
炭鉱が閉山になる前に東京に来て鉄鋼会社に入り、60歳で定年を迎えました。
70歳まではいろいろ好きなことをやっていました。
長男が結婚して同居することになりました。
一人で暮らそうとは思っていたが、長男の嫁から一緒に暮らすように勧められました。

「まさるさんの漬物」
辛めの味付けでご飯にも酒のつまみにもなります。
20歳ぐらいから漬物は作っていました。
味付けにいろいろ工夫をしてきました。
クラウドファンディング インターネットを通して自分の活動、夢を発信することで思いに共感した人が活動を応援したいとか手伝いをしたいという事で支援を寄せるというシステムになっています。
最近では「京都アニメーション」を支援するクラウドファンディングが活用されています。
「まさるさんの漬物」もクラウドファンディングで応援しようという事になりました。
夢は定年退職した人に料理を教えるとか料理教室を開きたいです。
酒のつまみの料理教室をやってそのあとに酒を飲みながらいろいろみんなで話し合ったりしたい。






2019年9月21日土曜日

川上浩司(京都大学特定教授)       ・不便だからこそ得られるもの

川上浩司(京都大学特定教授・不便益システム研究所代表)・不便だからこそ得られるもの
川上さんはもともと暮らしを便利にする最先端の人工知能AIの研究をしていましたが、20年ほど前から便利の逆、不便から得られる益、不便益の研究をしています。
不便益の考え方を広めようと、全国の研究者に声をかけ不便益システム研究所を立ち上げ2007年からはウェブページで情報公開をしながら、あえて不便で、あえて便利でないものやサービスを生み出そうとしています。
不便益とは何なのか、なぜこの考え方が大切なのか伺いました。

不便益とは不便だからこそ得られる益、という事であえて手間をかけたり、頭を使ったりすることで得られるいいこと。
インターネットで即座に本は購入できるが、わざわざ本屋さんに行って本を探すのは不便ですが、でも本屋さんに行ったからこそ、全然知りもしなかった違う本が隣にあるかもしれない。
そうすると新しい発見がある。
インネットで地図があり、自分がどこにいるのか即座に見れるが、かなり便利ですが、地図が無い不便さはあるが、昔は道に迷い込んで知らないところに入り込んでしまって、そこで新しい発見がある。
便利なものは最適化されていて、なにかをするというやりたいことが決まっている時には、労力が少なくて済むが、そうではないことにまで目が広がらないという事はよくないことかなと思います。
不便は人のモチベーションを上げてくれる。
制約という不便は人を動機付けてくれる。
制約されたお小遣いのお金でいかに自分の好みのものを見出すかとか。

高齢者施設でバリアアリー(有り)というところがあって、山口県のデイケアセンターから始まったらしいが、バリアフリーにしてしまうと日常の生活でちょっとした筋力を鍛えるチャンスが無くなってよくないだろうと、身体能力の衰えるスピードを緩める。
これも不便益、直ぐ全国に広がるかなあと思ったが、そうはいかなかった。
これ以上ほうっておいたら危ないと手を添える訓練ができたスタッフでないと、バリアーアリー(有り)の意味がないので、スタッフを育てるのが大変でなかなか広がらないという事を聞いたことがあります。
工学は効率を最優先して非効率を嫌う様なイメージがあるが、セル生産方式というものがある。
ベルトコンベアー方式の方が便利であるが、20年前に不便益の事例を集め始めたころに、セル生産方式を導入したメーカーが相次いだ。
いろんな作業を覚えなければいけないし、不便だと思うが、セル生産方式を導入したメーカーが相次いだ。
一人で組み立てられるという事はモチベーションもスキルも上がる。
これも不便益と思います。

人が頭を使ってやっていたことを代わりにコンピューターにやらせる研究を以前はしていました。
人工知能の大学での師匠が新しい研究室を立ち上げ、「これからは不便益だ」と言い出しました。
セル生産方式を調査しているうちに、人と物との関わり合いまで考えると、便利だけ追及しているといい事がないという事に思いあたったらしくて、不便益を整理したら人様の役に立つだろうという事で始めたそうです。
師匠は不便益を哲学としてやっていまして、すきっとした考え方なんですが、僕は工学的な方向に向きました。
最初は不便、便利とは世間はどんな風に思っているのかを調べました。
自身でも不便な体験をしようとして、携帯、スマホを持たない不便を経験するとどうなのかをいまだに実験中です。
連絡したい同僚、学生は不便を感じているようです。
PCでメールだけはやり取りしています。

手間をかけさせるものは発見の余地を与えてくれます。
素数物差し、京都大学の定番お土産になっています。
長さ18cmの竹製で目盛りは素数のところしかふっていない。
2,3,5,7,11,13,17・・・とか自分もしくは1以外で割れない数。
1cmの長さの線を引く時には2と3のとろろを使用する。
3cmは2と5、 4cmはいろいろありパズル性がある。

不便益に基づいた研究プロジェクトを立ち上げて、科学研究費助成金をもらえるようになり、いろんな大学の情報を一か所に集中しようという事でウェブに「不便益システム研究所」を立ち上げました。
ナビゲーションシステム、一度通るとぼやけ、3度通るとほぼ見えなくなるようなナビを作りました。
歩行者ナビを作って、京都市内を歩いてもらい、風景を正しく答えた方はぼやけた方が高かった。
電子レンジのボタン、温め1分ボタンは便利なので、指で時間と温度を自身で曲線を作る。
二次元タッチパネルを作るのが難しいといわれてしまった。
スマホにすればできるということだったが、それは便利すぎるのでやめました。

京都駅でのお土産購入が便利なので、あえて不便にして冊子を持って本店まで行くとプラスアルファー(御朱印とか)がもらえるやり方を考えました。
18店に協力してもらって冊子ができました。
行ってみて初めて判る路地裏の小さな本店に出会うことになったりします。
便利は選択肢をくれない、自分からやらせてくれない。
便利さは発見、工夫がないとか、自分を成長させてくれないなどの害があると思う。
AI囲碁を自分の練習相手にすれば問題はないと思うが、使い方次第だと思います。
サポートロボット、ロボットの社会性、そういった方向に行くのかなあと思います。
一昔前は道具は人間の体の拡張だといわれていたが、情報化社会でのタイミングで、人を代替するものになってしまった。
次の時代はそれではだめだろうという事で考えられていて、不便益の考え方が大事になるだろうと思います。
AI兵器などは有ってはいけない。
ゴミの分別、手間をかけることに意味のあるものにしたい。
手間をかけ分別して生ごみが家庭燃料になるとか。






































2019年9月20日金曜日

浅田美代子(女優)            ・【わが心の人】樹木希林

浅田美代子(女優)            ・【わが心の人】樹木希林
樹木希林さんは1943年東京生まれ。
文学座に入り、悠木 千帆(ゆうき ちほ)の芸名でデビュー、60年代から80年代は主にTVで個性を発揮した演技で活躍しました。
2000年代以降は活動中心を映画に移し、味のある女性を演じ高い評価を受けています。
平成30年9月15日亡くなりました、75歳でした。
浅田美代子さんはデビューの時、樹木希林さんと共演し以来公私ともに親しくしてこられました。

入院中は殆ど毎日のように行き、何を話すわけではないのですがそばにいたりとか、という感じでした。
2005年に乳がんになりそのあとに全身にがんがあることを公表しました。
抗がん剤治療はしたくないという事で ピンポイントの放射線治療をしていました。
13年間元気でいらっしゃいました。
病院から自宅に戻った晩に亡くなりました。
私は夜9時ぐらいまではいましたが、夜中に急変して亡くなりました。
自分がどのように命の終わりを迎えるのかきちんと見てほしいという事で、携帯電話で話をしてメッセージを残して、娘さんご夫婦とお孫さん二人の皆さんに囲まて・・・・・。
治療から死ぬ瞬間まで自分で全部決めたのかなあと思いました。
乳がんは死ぬまでの時間を与えてくれるからいいんだよとおっしゃっていました。
亡くなってから映画も上映され、インタビューの記事をまとめた本がベストセラーになっています。

「おごらず、人と比べず面白がって平気にいきればいい」、とよくおっしゃっていました。
映画「万引き家族」の時にも、しんどかったと思うが現場ではしんどさを見せずに演じていました。
私はTVドラマ「時間ですよ」デビューして、で樹木希林さんと共演しました。(1973年 16歳の後半から17歳のころ)
樹木希林さんに金魚のフンみたいにいつもついて歩いていました。
アドリブでいろんなことをやられました。
お芝居ではああしろこうしろとかは言いませんでした、その人の役の気持ちだけを持てばいいといわれました
樹木希林さんは当時20代の後半でしたが、凄く大人に見えました。
1974年「寺内貫太郎一家」ではおばちゃん役をやっていました。
自分で衣装、髪の毛など考えていました。
「樹木希林」という名前
は自分で考えたそうです。(木が集まってゆくと林になる)
コマーシャルでも大活躍をしました。
或る写真のコマーシャルで「美しい人は美しく、そうでない人はそれなりに」(撮れる) 「それなりに」は樹木希林さんが自分で考えた言葉でした。
最初「美しくない人も美しく」でしたが、それは嘘でしょうという事で樹木希林さんが意見を言って「それなりに」という言葉がいいという事になり流行りました。
女優といわれるのは嫌いで役者という言葉が好きでそのように使っていました。

物も使い切るという事をよく言っていました。
私の母が亡くなって衣装を整理しているときに、それをもらってある役で使って写真に撮って送ってくれたりしました。
樹木希林さんのことをみんなが「ばあば」という様になりました。
若いころは演出家にかみついていったりしましたが、段々優しくなっていきました。
作品のことをいつもちゃんと考えていました。
後半は映画にしか出ませんでした。
映画で貰ったトロフィーを飾るのが嫌いでランプにして使ったり、人にあげたりしていました。
身をもって命を終えることを教えてくれていたような気がします。
「死ぬために生きているのではなく、生き切って死がある。
死ぬという実感があるとしっかりと生きられる。」

映画「エリカ 38」(樹木希林がその人生の最後に世に問うた、生涯唯一の企画作品)
主演 浅田美代子
感謝してもしきれないです。
詐欺師の役をやろうとすると、うさん臭くなるから、動物愛護の話をするときのようにやってと言われて、そうかと思って楽になりました。
樹木希林さんはエリカの母親役をやる事になりました。
病のことは微塵も感じさせない存在感でした。
私も母親を2年ぐらい介護をしていました。
母親は離婚しているのですが、自立するタイプの人でした。
50歳を超えても正社員いなりました。
母は68歳の時に病気になってしまいました。
急性リンパ性白血病でした。
治療しなければ1っか月といわれ抗がん剤治療をして2年間頑張ってくれて、その時も樹木希林さんが「お母さんが美代ちゃんに時間を与えてくれたんだよ」と言ってくれました。
「芸能人だからといって偉いということはない、ちやほやされたり、ちょっとでもエラそうな態度をとると、あなた今すぐ仕事をやめなさい。」と母親から厳しく言われました。
樹木希林さんからも同じように言われ、「普通でいることが一番大事だ」とよく言っていました。
樹木希林さんに何とか恩返しをしたいと思うので、一つ一つ来た仕事を丁寧に真面目にやっていけたらと思います。







2019年9月19日木曜日

佐野誠一(アマチュアサーファー)     ・八十路波乗りまっしぐら

佐野誠一(アマチュアサーファー)     ・八十路波乗りまっしぐら
80歳を過ぎてからサーフィンを始めて、毎週末湘南の海でサーフィンを楽しんでいるという元気な男性がいます。
佐野さん85歳、横浜で木材会社を経営する社長さんです。
80歳で初めて富士山に登って、そうだ今度はサーフィンをやろうと突然思い立ち、下山して一週間もたたないうちにサーフボードに乗っていたといいます。
それから5年、今では江の島の海ではすっかり名物シニヤーーサーファーになりました。
夏の終わりの土曜日江の島海岸を訪ねて佐野さんに伺いました。

江の島の海は週末サーファーでいっぱいです。
何百回と乗っているが、乗っているなあと思ったのは今まででたった一回です。
80歳で一つ仕事を辞めて、土曜日に時間が取れて、その時に富士山に登って、無事昇ってご来光を見ることができました。
月曜日に会社に出ていき、2階が事務所になっていて必ず2段ずつ昇っていきます。
(どこの階段でもいつもそうしています。)
事務所の窓から外を眺めていたら、突然サーフィンをやろうと思い立ちました。
サーフィンを教えてくれるところを探して、その週の土曜日からその学校に行って習い始めました。

北海道の茂辺地で生まれて、海あり山ありのところでした。
夏は海、冬は土俵を作って相撲をやって遊んでいました。
やんちゃな性格でした。
小学校のころからイカ釣り漁の手伝いをやらされました。
当時一晩に大人は1000匹、子供でも500匹は釣っていました。
中学を卒業して働きに出ました。
高校に行く人たちがうらやましくて、図書館によってみたりしていました。
中野高等無線学校で募集があり、ここに行こうと決めました。
東京ではアルバイトをして学費を稼ぎました。
学校の理事さんのスピッツ3匹の朝晩の散歩の係をやったり、朝鮮戦争が始まっていて、寝袋を洗濯したりする仕事などもしました。
いろんな仕事をしました。
深川の材木屋さんが番頭を探しているという事で住み込みで働きました。(9年間)
独立してもいいという事で37,8歳の時に独立しました。
昔、木材はいろいろ産地があって、値段も利益のとれる幅がありました。
日曜大工のための店もやりました。

今社員は私を入れて8人でやっています。
元気の秘訣は仕事をすることと昼寝です。
11時30分から1時までは仕事をやらずに自分の昼寝の時間を確保します。
ストレスがたまらないようなやり方を自分で仕事を作っていこうと思ってやっています。
携帯電話は持たないです。(周りからはいろいろ言われますが)
名刺には「香気幸齢者」(後期高齢者をもじって)と書き入れています。
社交ダンスは奥さんたち女性が多い、奥さんたちはリフォームに困っていたりするので、ダンスの学校をやって奥さんたちに来てもらえれば、リフォームの仕事が増えると思ってダンスを始めました。
サーフィンを始めてからはダンスは一回もやっていません。
「誠ちゃんの波乗り日記」をインターネットにサイトアップしてますが、番外編に180度開脚の写真が載っています。
シャンソンもやっていますが、演歌が大好きです。

歌も詠んでいます。
「傘寿にて 富士登山に自信つけ 海への挑戦 今はサーファー」
「八十路など どこ吹く風か 身に余る幸せ感じ 週末サーファー」
「ユーミンの 真冬のサーファー口ずさみ 八十路のボード 波を蹴散らす」
(ユーミンが歌っている「真冬のサーファー」という曲がある。)
「冷たさも 真白き富士に励まされ 真冬のサーファー 齢(よわい)八十二」
俳句 「湘南の 八十路のサファー 気遣われ」
   「秋立ちぬ 八十路のサーファー 果敢なり」

この江の島の海に来れること自体が幸せです。
準備体操は入念に行います。
そして落語のおまじない(死神が去るように)をやります。
人とは違った目線で物事を考えています。
ぱっと浮かんだ夢はオリンピックのサーフィンのデモンストレーションをやりたいですね。
人に迷惑をかけないうちは続けていきたいです。
「腹座り 八十路街道 まっしぐら 死ぬまで若く 生きてやるぜよ」



2019年9月18日水曜日

森口祐子(プロゴルファー)        ・【スポーツ明日への伝言】ママさんプロゴルファーのパイオニア

森口祐子(プロゴルファー) ・【スポーツ明日への伝言】ママさんプロゴルファーのパイオニア
森口さんは日本ツアー41勝あげた永久シード選手で日本選手で初めてのママさん優勝者であり41勝のうち18勝を母親になってあげるなど子育てしながらプロゴルファーとしての活動をやり遂げたママさんゴルファーのパイオニアでもあります。
今年そうした実績、功績が認められて日本プロゴルフ殿堂入りを果たされました。

頂いてから身の引き締まる思いが強いです。
主人は続けさせた張本人でもあるので、安堵感みたいなものがあるのではないかと思います。
子どもたちの方がもっと喜んでくれたかと思います。
母親業をきちんとできなかったのではないかと思う中で、凄いねと子どもたちが喜んでくれたことがうれしかったです。
中学、高校とずーっとバスケットボールをやっていましたが、左足首を捻挫してしまい、高校3年生の夏休みに父がゴルフの練習に行くという事で、付いていったのがゴルフ練習場に行ったきっかけです。
やってみようとアイアンで打ち始めたら、テンポよく空振りもせずに打てて、うまく行っちゃいました。
周りからも褒められて、この子は天才なんじゃないかといわれました。

2週間後にもう一度連れて行ってもらいました。
捻挫が治ったため足が動くようになって体全体が動き、全然上手く当たらなくなってしまいました。
どうしてだろうと、なんかやりたくなってしまいました。
子供心に金銭的なもの、環境的なものとか、考えると富山では冬は雪で難しいので、父ががいろんなところを探してくれました。
岐阜関カントリークラブの研修生としていくことになりました。
神田茂さんがいい師匠に習ったらどうかというっことで、井上先生に面接に言ったらどうかという事で行きました。
それまで7番アイアンしか打ったことがなかったので、先生からドライバーを打てと言われました。
しかし全然当たらずこれは落ちるなと思いました。

先生はジーと見つめて「お前は本当にプロゴルファーになりたいのか」といわれて、「はい、なりたいです」と言ってしまいました。
「お前樋口を倒せるか」と次に言われて、「倒します」と言ってしまいました。
先生に言わされたような気もしましたが。
「じゃあ、預かってやる」といわれました。
昭和49年に高校を卒業して、翌年の5月のプロテストに受かりました。
クラブを持ってから1年半でした。
高校卒業するまでに左手を鍛えて来いといわれました。
2年でプロテストが受からなければ家に帰すともいわれました。
1年目はランキングが17位、2年目は5位となる。
3年目の春にワールドレディースで初優勝することになる。
2年目の最後の試合で16番まではトップ出来てこれは行けると思っていたら、17番でパー4のところで13打って一挙に脱落しました。(3つOB出す)
何打打ったのかも分からなくなっていました。
18番を終えてトイレに駆け込んで泣きました。
あれが優勝よりも私を戒めてくれたものでした。

結婚するまでの23勝は勝つしかないという思いでやっていました。(昭和59年結婚)
ハネムーンベビーで直ぐに子どもができて、これでし烈の戦いの中から解放されるという思いが強かったです。
私はやめようと思っていましたが、主人はやらせたかったようです。
主人から「君は甘い」といわれました。
「好きだとか嫌いだとか、やりたいとかやりたくないとか、仕事はそれを越えるものだ」といわれました。
「男でも女でもある能力に恵まれていて、生かしてくれる社会があれば、それはやらなければいけないんじゃないか」と主人が言いました。
「全世界を見たときに本当に日本は恵まれている、だからその感謝の気持ちが薄らぐような勘違いだけはするな」とも言われました。
そんな言葉をもらってカムバックしたという感じです。

昭和60年日本女子オープンで勝利する。
主人に言われなければ無かったタイトルでした。
7月7日が優勝日でしたが、7月8日が夫が勤務医から開業医になる日でした。
妻として家にいなければいけないと思っていたが、「お前メジャーだよ、絶対行け」と言われました。
結婚前の23勝とその後の18勝は違うと思っています。
結婚前は勝たなければいけないという様な感じでしたが、結婚後は楽しい無我夢中でした。
すがすがしくゴルフに取り組めました。
或る時に子供がこのお花綺麗だねといった言葉にズキンと来ました。
花の綺麗さも見えないくらい、それまでは次の事次の事と何かにしがみついて時間を使っているだけでした。
子どもに教わりました。

最後を3パットをした時がありましたが、家に帰ってきてイライラしていたら「おかあさん」と子どもが寄ってきて言ってくれたが、思わず「あっちに行っていなさい」と思わず言ってしまって、そうしたら子供が「はい、下に行っています。」といいました。
その時に絶対仕事を家に持ち込んではいけないと思いました。
親として失格だと恥じました。
ゴルフの深さのお陰でいろんな魅力的な人間に出会えたのは、ゴルフのお陰です。
身体、気持ちが悲鳴を上げる時があるが、私は28歳の時でしたが、そういう時には本当に静かに自分を見つめる時間が必要なんだと大事にしたらいいんじゃないかと思います。








2019年9月17日火曜日

京極夏彦(作家・日本推理作家協会代表理事)・本が売れない時代に新風を

京極夏彦(作家・日本推理作家協会代表理事)・本が売れない時代に新風を
1963年生まれ 56歳、1994年に『姑獲鳥の夏』でデビュー、2004年には『後巷説百物語』で直木賞を受賞しいます。
今年5月日本推理作家協会の新しい代表理事に就任しました。
本が売れない時代といわれる中で、現状をどのように打破しようと考えているのか伺いました。

初代理事長が江戸川乱歩、二代目が松本清張、その後のお歴々の名前を見るとちょっと大先輩ばっかりでそのあとが僕ですから、嬉しいというよりも大変だなあという重責の方が大きいかなあと思っています。
日本推理作家協会は最初江戸川乱歩らが作った探偵作家クラブという団体でした。
親睦団体なような性格でした。
江戸川乱歩賞があり、当協会がやっています。
最初は新人賞ではなくて、途中から新たな才能を見言い出すという事にシフトして行きました。
毎年厳正に審査して1,2名選んでいます。
選考委員同士が怒鳴りあうぐらいの白熱の時もあるし、一発で決まるときもありますが、たいていは難航します。
日本推理作家協会賞、1年の商業出版された作品の中から優れたものを選んで検証するという形です。

長編賞、短編賞、評論など3つの部門に分かれています。
何故大変かというと全部読まなければいけない。
SF、ファンタジーなどの領域までかなり広い領域が対象になります。
短編など、電子書籍、ウェブからなどできるだけ取りこぼしの無い様に選んでゆく事で、大変なところはあります。
親睦の面では部活動もありソフトボールは盛んにやっています。
囲碁、ゴルフ、土曜サロン(識者をまねいた勉強会)などもやっています。
協会発信の出版物もいくつか出版しています。
出版社と作家をつなぐ役割もしています。
出版契約書を取り交わさずにやっていた過去もあり、以前はトラブルがあったりしました。
今はトラブルは少なくなっています。

出版不況といわれて20年ぐらい経ちます。
日本出版文化って、ずーっとよかったというほどよかった訳ではなく、成り立たないような形まで肥大させてしまって、システム自体が古くなってきたことに気付かなかった時期もありました。
メディアの在り方も変わったし、読者のコンテンツに対する接し方も大きく変わっているので、それに合わせた仕組みを考えていくことが大事だと思っています。
読みたい人が読みたいものを読めるように、創作物を世に送り出していけるような土壌作りができればいいと思っています。
出版契約書を取り交わして部数における印税等も目視できるように明文化してよくなりました。
部数の決め方が公正なのかはわからないところはある。
地方の小さな書店が減ってきている。
地方にいきわたらない、地方が欲しいものが無いとか細やかなことができていないこともあると思う。
ネットでの販売があるが、それが小さな書店を圧迫している場合もあり、何を改善していったらいいのか考えないといけない。

電子書籍に対する売り方など、健全に読者に普及しているかどうか、それが正しい形かどうかがわからない。
模索していかなければいけないと思っています。
親本から文庫に行く時も文庫版への移行は1年とか後に売り切ってから出すという事は慣例的に行われていました。
初版はどこかにミスがあるので、版を重ねるごとに直してゆくが、文庫本(廉価版)はそれがなおっている。
作り手側が役割を忘れてしまった。
文庫本を出すときに、分冊文庫を同時に出したらどうかといったが、それは駄目でしょうといわれてしまいました。
文庫本が売れなくなるという。
試しに出してみようという事になり出したら、変わらなかった。
ほかのもやっていようという事で電子書籍、ハードカバー、文庫を同時に出したんですが、そんなに違わなかった。
むしろ相乗効果でよかった面がある。
同時発売は電子書籍の告知ができる。

私は書店さんには頑張ってほしいと思っています。
新しいメディアを黒船のように思って打ち払えというのはおかしなことだと思います。
出版という文化は当時の最先端の技術と最先端のメディアと最先端の流通を使って発信されてきた。
書籍は情報ではない、デザイナーがいたり一つの商品として成立している。
書籍、電子書籍などニーズの違いがあると思う。
本に何かをもとめている人がいて、安い本はいらないという方もいます。
ハードカバーと電子書籍の値段が違うという事はそんなにおかしなことではないと思います。
今の若者はスマホなどで文字を読むとに関しては、我々が文字に接した時代よりもはるかに有能だと思います。
そういった人たちに向けたプレゼンテーションができていない。
彼らが喜ぶような出し方を僕らがしていないと思う。
受け手の問題ではなく作り手の問題だと常にそう考えていかないと出版という仕事は成り立たないと思うし、もっと受け手のことを考えて一丸となってやっていかないといけないと思っています。
いろいろやってみて駄目ならやめればいいと思っています。




2019年9月15日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】
秋の夜長にロマンティックな調べを皆さんにお誘いしたい、哀愁と情熱に満ちあふれたこの調べをお楽しみください。
*ブラームス ハンガリー舞曲 第1番  デュオール
オーケストラで聞く機会が多いがオリジナルはピアノの連弾
今回はブラームス の遺伝子。

一番有名第5番はブラームスはオーケストラに編曲していない。
ブラームスの時代にはこんな風に演奏されたのではないかと演奏したのがニコラウス・アーノンクールとウイーンフィルハ-モニー管弦楽団のニューイヤーコンサート。(2003年)
*ブラームス ハンガリー舞曲 第5番  ト短調

ブラームスはお気に入りの避暑地があって、一夏気に入ると3年ぐらい同じところにいて、また別の避暑地へというのを繰り返していた。
ウイーンの南、ケルンテン地方にヴェルター湖という湖がある。
そこにペルチャッハという素敵な街があるが、ブラームスはペルチャッハが大好きだった。
ヴェルター湖畔のペルチャッハに滞在し、交響曲第2番を作曲した。
*ヴァイオリンソナタ 第1番 「雨の歌」 バイオリン 中村太地 ピアノ 江口玲

ブラームスを尊敬していたドヴォルザークが作曲家として世に立っていこうとしたときに手を指しのべたのがブラームス。
ドヴォルザークはそのおかげでウイーンで知られるようになる。
*ドヴォルザークのスラヴ舞曲 ホ短調 作品72-2

ブラームスの音楽は映画にも多く使われる。
「さよならをもう一度」
「バベットの晩餐会」など
*ブラームスの交響曲 第3番 第3楽章 「さよならをもう一度」






2019年9月14日土曜日

高嶋弘之(元レコードディレクター)    ・音楽ビジネスを愛して60年(1)

高嶋弘之(元レコードディレクター)    ・音楽ビジネスを愛して60年(1)
高嶋さんは昭和9年神戸市生まれ、高嶋忠夫さんの弟さんです。
昭和34年に東京芝浦電気のレコード事業部、のちの東芝音楽工業(東芝EMI)に入社。
以来、ビートルズの洋楽から黛ジュンさん、由紀さおりさんなど邦楽まで幅広く担当しました。
音楽はレコードで聞く時代から1980年代にはCDが普及、今ではインターネット配信で聞かれるようになりました。
この60年音楽産業に携わってきた高嶋さんに音楽産業の変遷、一回目を伺います。

終戦の年が11歳です。
父親の考えで死ぬ時は一緒に死のうという考えで私は疎開に行かなかったです。
家は爆弾で傾き焼夷弾で全焼しました。
海辺に暮らしていてB29が絨毯爆撃で焼夷弾が落ちしてきて僕は死ぬなと思いました。
うまい具合に居た砂浜を通り越していって助かりました。
私立御影中学に入学して、新劇に関係していた方が社会科の先生で御影中学に来て、先生の指導で芝居をやり、兵庫県の演劇コンクールで中学の部で優勝して、それが演劇の方に行こうという思いでした。
神戸高校でも3年間やって早稲田では演劇専攻でした。
エリア・カザンの「エデンの東」を見たときに、これから映画の時代だなあと思いました。
当時映画人口が13億人、それから下っていきました。
助監督試験、当時書類選考で3000人、筆記試験で1000人、最後48人まで残って、8人受かって40人が落ちました。(その中にいました)

東芝レコード事業部ができてそこに入り、1年後に東芝音楽工業(東芝EMI)という名前になりました。
英語はともかくフランス語はできるという事で、EMIのポップス担当になりました。
レコードディレクターとしてはアメリカから取り寄せて日本でどれを売ったらいいかという事で、ロジャー・ウイリアムスを売り込もうと思いました。
ロジャー・ウイリアムスは日本ではあまり知られていなくて、アルバムのタイトルも魅力あるように考えました。
私は文芸部の洋楽2課でした、1課がクラシックでした。
レーベルが大事で曲名、作曲者など全部わかるように一覧表を作るわけです。
それをもとにLPのジャケットを作る訳です。(日本で作りました。)
裏には解説書を評論家に書いていただき、読むとこの曲聞いてみたいと思うように書くわけです。
曲順はずいぶん考えました。
新聞社に行ってアルバムは華麗なるピアノだとか書いてもらうと売れました。
放送局に行ってかけていただいたりして浸透させていきました。
レコード店の店員さんにも気に入られるようにしました。

当時ラジオは強かったので、予算申請してラジオ局でキャップアワーという枠を30分ほど借り切って、兄も引っ張り出して、ロジャー・ウイリアムスも段々人気が出てきて、ブライアン・ハイランドの「ビキニスタイルのお嬢さん」という面白いタイトルをつけてこれが当たりました。
邦楽のレコードディレクターは無から一つの曲を生み出すが、洋楽のレコードのディレクターは外国版と契約してそこからできたものを唯一クリエーティブな仕事はアルバムのタイトルをどうするか、シングル版の場合はその曲名をどうするかという事だけでした。
アダモの「雪よ降れ」というフランス語のタイトルを「雪が降る」というタイトルにしました。
何の変哲のないタイトルにして、これが自分で一番気に入っています。

結婚したのは昭和37年、長女未知子が生まれる。
ダウン症でしたが、当時はまだ知られていない時代でした。
2か月での健康診断で判りました。
重い知的障害で20歳まで生きないといわれました。
妻が一人で行っているときに医師が告げて妻は失神してしまいました、僕のいる時に言ってほしかった。
3歳のころに物凄いがたがた道を車で行ったときに未知子が笑ってくれて、何だ普通じゃないかという風に思いました。
未知子は56歳になりバラエティー番組などにも一緒に出ることもあります。
料理もちゃんとやってくれて、炊事場は見事に綺麗に洗ってあり、洗濯は全部やってくれて物凄く助かっています。
長男太郎(海外勤務)、次女ちさ子(ヴァイオリニスト)それぞれ活躍しています。
未知子を助けるという意味あいでちさ子(知を助ける)と名付けました。
ちさ子は姉がいじめられたりすると助けていました。
3年生までは普通の小学校だったが無理という事で特殊学級のある小学校に移しました。

1963年には未知子の寝顔を見て思いついたのが、フランク・プゥルセルの「赤ちゃんの名曲集」ですよ。
企画会議に出したらフランク・プゥルセルの値打ちが下がるといわれて、ジャケットを両面カラーにして表は外人の赤ちゃん、裏は日本人の赤ちゃんを使って「赤ちゃんのための名曲集」、ベビー用品の店とタイアップしたりして行いました。
いまだに「赤ちゃんのための名曲集」のタイトルは続いています。
1962年 「ラヴミードゥ」("Love Me Do") ビートルズのデビュー曲
最初聞いた時には何だこりゃという感じだったが、それまでのアーティストとは違うのではないかと感じていたら、2枚目の「プリーズ・プリーズ・ミー」(Please Please Me)が届きました。
これを聞いた時にこれは日本でちゃんと売らなければ行けないなと思いました。
イギリスと聞いただけで相手にしてくれなかった。
洋楽ではプレスリー、ベンチャーズ、ピーターポール&マリーだとかアメリカ全盛の時代でした。
TBSの女性のディレクターがこれは売れるかどうかわからないが大好きだと言ってくれました。
1964年に第2弾と考えていた「抱きしめたい」("I Want To Hold Your Hand")をアメリカとほぼ同時発売となりました。
ビートルズルックでビートルズのLPのジャケットをもって歩かせて新聞社に連絡して記事にしてもらったりしました。
ビートルズカットなどいろいろな方法でビートルズは話題になっていると宣伝しました。
次回は11月を予定。















2019年9月13日金曜日

小林照子(美容研究家)           ・美しくあれ

小林照子(美容研究家)           ・美しくあれ
大手化粧品メーカーで初の取締役となった。(84歳)
取締役退任後は自らの美容研究所を立ち上げ、メイクアッパーアーティストを養成する学校を開設しています。
さらに2年前には、美しく生きる知恵を次の世代に伝えたいと、メイクアップを志す人への奨学金制度をスタートさせました。
美意識のある生き方を後世に伝えたい、美容とは手入れでありその人本来の魅力を引き出し、その人が自信をもって美意識をもって生きるお手伝いをすることです、と小林さんは言います。
美容にかける小林さんの思いを伺います。

やるべきことだけをやる、肌は汚れた肌を自分でお掃除することはなかなかできないんです。
汚れを取ってあげるという事が第一。
まず家にもどってきたら直ぐにクレンジングクリームを使って落とす場合もあるが、乳液をコットンに含ませて取ってしまう場合もあります。
潤いを与え続けているという事だけはしています。
手を洗った後乳液をつけてそれを、手に与えてから残りを顔に与える。
肌を乾かさないという事をまめにやっています。(乾燥させない)
モデルは背中をまっすぐにして、頭の上に本を載せて歩きなさいというように訓練をしている。
そういう人は常に歳をとっても背筋がまっすぐなんです。
歳をとってからでも、気が付いた時からそれをやれば大丈夫です。
背筋が整うとすべてが整う。
頭は重いから背筋が曲がると顎を突き出すようになって、お腹を出して膝をだしてS字型になってくる。

肌も体も顔も意識で整うことができる。(それぞれの筋肉を意識する)
自分自身に愛情を注ぐことが必要です。
昔はモデルは日本だと普通に、自然にしてくださいという感じだったが、ニューヨークなど外国に行くと私をアピールしてというようなニーズがすごく多かった。
1960年代ぐらいから日本もどんどん変わってきました。
化粧品会社といえども男性社会で、ジャッジするのは全部男でした。
ロンドンでビートルズ、ヒッピー、ミニファッションが出てくると、日本も流行という時差をゼロにするようになってくる。
どんどん取り入れてゆく日本がありました。
若くて流行に飛びつく人はお肌の手入れには見向きもしなかったです。
流行への商品開発もしましたが、それでは肌がボロボロになりますよという啓蒙活動もしました。
私たちプロは遠目も近目も全部ナチュラルに見えることを追究していきました。

山形に疎開して10歳で終戦を迎えましたが、東京大空襲の時には何十万人も亡くなり東京にいたら私もいなかったと思います。
山形ではのどかでした。
戦後に演劇サークルを作りました。
山本安英がやっていた「夕鶴」、木下順二脚本、に影響されてやったりしていました。
メイキャップで何で人格まで変わるのだろうと思って、メイキャッパーになりたかった。
東京に戻って美容学校に入りました。(19歳)
日本では昔から白粉と紅というのが化粧法でしたが、戦後化粧も解禁になると1960年代から覆されました。
まつげをつけ、アイメイクが普及してきました。
時代の顔を作っていかなければいけなくなりました。
2年先を見据えて考えて提案するわけですが、男性の許可を得ないと動かない状態でした。
最初は喧嘩ばかりしていましたが、一番反対していた人を味方につけたときに物凄い強力な味方になりました。
絶対人はこれを求めるはずだ、これを出すことでみんな喜ぶはずだ、これは正しいという信念でした。
それはいろいろな世界からのリサーチでした。
男性は過去のデータを持ち出しその延長線上で考える。
人は見飽きて、極端に振れたりじわじわ変化したりすることになってゆく。
人生100年時代、50代ぐらいまでは何もしなくても皮膚の寿命としてちゃんと生きてこられる。
50歳からは自分が手入れをすることによって、寿命を延ばすことができる。
50,60代の人に言いたいのは美意識を持つ事。
お肌は潤うと表情筋がよく動く、表情が豊かになる、乾燥しているとつっぱらかる、厚化粧しても同じ。
老人養護施設、看護師などはこちら側の肌がしっとりして笑顔で対応してあげることで相手側も元気を頂くことになるんです。
美容を64年やっていますが、本当にこの世界こそもっともっと広めたい。
自信のない人に自信を与える、勇気のない人に勇気を与える、コンプレックスを持っている人にコンプレックスなんかどこかへいってしまうような、こういうことを与えられるのが美容です。
人を育てることによって私が見えない世界をその人たちが見せてくれる。
美は人の心からの喜びを作るという事です。






















































2019年9月12日木曜日

横井美保子(横井庄一記念館館長)      ・夫の遺志を受け継いで

横井美保子(横井庄一記念館館長)      ・夫の遺志を受け継いで
横井庄一さんは戦後28年ぶりにグアム島のジャングルから生還し、「恥ずかしながら生きながらえて帰ってまいりました。」という帰国の言葉に日本中が吃驚したものです。
お二人が結婚するいきさつは美保子さんが横井さんの知り合いに強く依頼され、お見合いをすることになったのが始まりでした。
結婚生活25年、横井庄一さんは82歳で亡くなります。
「命を粗末にするな」が口癖だった横井さんは全国から送られた見舞金を生かし、記念館を作ることが夢だったのです。
そこにはジャングル生活で身に付けた、生きることの大切さを知ってほしいという思いがあったのです。
その遺志を生かし美保子さんは2006年自宅を記念館として開設し、現在ではNPO法人の認可も取得して無料で運営しています。

私は91歳8か月になります。
横井正一さんが生還されて50年近くになります。
1915年3月31日、愛知県佐織村生まれ、小学校卒業後洋品店に勤務、20歳で徴兵
4年後は仕立て屋を開業、昭和16年再徴兵、満州へ、昭和19年グアム島へ、8月にアメリカ軍がグアム島へ侵攻、戦死広報が届けられたが、無条件降伏のことを知らずにゲリラ戦のような形で戦っていた。
1972年地元の方に発見されて、57歳で28年ぶりに日本に帰国。
イタリアの方から「万歳」という詩が送られてきた。
「恥ずかしながら生きながらえて帰ってまいりました。」という言葉に対する批評を送ってくださった。
小さい記念館ですが北は北海道から南は沖縄までいらっしゃいます。
6畳の部屋には横井さんが工夫して作ったものとか晩年に趣味で作った陶芸品、別の部屋にはジャングルの中で暮らし潜んでいた洞穴の模型を展示しています。
実物は1,5mぐらいですが模型は2m以上になっていますが、この中ではた織り機を作り、はた織り機ではたを織り、洋服生地を作って洋服を仕立てました。
植物繊維を撚りとって繊維にして、自分ではた織機を制作して仕立てた。
地元の人が夕飯を食べ寝るころになって、自分の食べるもの、薪をとることを日課にしてジャングルの中を歩き回りました。

私の一貫学校の校長先生が見合いの件で会うだけあってほしいといわれました。
もしご縁があるならと思って覚悟していきましたら、結婚の意志もないのに私を見に来たんだろうといわれました。
心の中ではなんて失礼な人だろうと思っていましたが、仲人さんもいたので黙っていました。
二人になったときにあれは失礼ですよと言って、もっとゆっくりとお探しなさいといったら、すぐに怒ってくれる人が好きだといって、それがご縁ですね。
「できることなら海の上を歩いて帰りたかった」という言葉がありましたが、黙っていましたが、自分の人生がいよいよ終わるころに「できることなら海の上を歩いて帰りたかった」といいました。
横井の生涯はこの家で25年暮らしましたが、13年は元気でしたが、後の12年間は胃癌の手術、脱腸の手術、パーキンソン病も出てきました。
手足が動けなくなりどんどん弱っていきました。
最後は心臓が弱って亡くなりました。

横井庄一さんの母親つるさんは戦死広報が届いても信じていなくて、同部隊だった人に手紙を送っています
「前略・・・同部隊であったとのこと、最後はどんなふうだったかお知らせくださいませ。・・・親心をお汲み取りくださいましてちょっとお知らせくださいませんか。 
昭和21年11月4日 横井つる」
戦後生きていると信じ続けて墓を作らなかったです。
昭和30年に周りの説得に負けて墓を作ってその3年後に亡くなりました。
再会できたらどんなに良かったか・・・。
「命を粗末にするな」「二度と戦争はごめんだ」でした。
講演の題は「食うな、着るな、使うな」でしたが、それでは死んでしまうよと言われたら、そのうえに「余分なものは」という言葉が付くんだよと言っていました。
彼はユーモアのセンスを持っていました。

グアム島から帰ってきてからもずーっと努力はしていました。
昭和47年11月3日の結婚式。
「わしのおっかあは歳くっていて皴があるから、クリームで埋めて綺麗にしてちょ、たのむしょ」と美容師さんに言ったそうです。
人柄が出ています。
TV出演で司会者からお嫁さんのお話はと聞かれ、ポケットからゆっくりと白い紙を取り出して、答えはこの中にと真面目な声で言った。
「神(紙)のみぞ知る」

グアム島から帰ってきてもその続きのような生き方をしていました。
前向きに、物事に感謝して、物を大事にして、現実を見つめていける賢さを持っている人でした。
60歳を超えて陶芸も始めました。
自分で工夫して、ろくろを引かないで手作りでやりました。
気に入らない作品を一杯捨てていました。
「ひとくれの 土に向かいてひたすらに 学びし日々の時豊かなり 壺つくり 土は私
私は土」 横井庄一
暇さえあれば土に向かっていました。

講演の最初には必ず「皆さんのお陰です。」と感謝の言葉を述べていました。
記念館がNPO法人になりました。
「この8月」
「広島には6日、長崎には9日 人間の作った原子爆弾が人間の手で落とされた。
街は一瞬にして阿鼻叫喚(あびきょうかん)の巷となり、地獄さながら幾十万の老若男女は生きたまま焼かれ苦しみぬいて死にました。
この8月緑濃き小さな庭に毎年白い猿滑りの花が咲きます。
白百合の花も咲きます。
戦争で奪われたたくさんの命を惜しむかのように白く美しい花が風に揺れています。
まるで鎮魂歌のようだとつぶやいた貴方 あーっもう貴方もいない。」
横井も私も戦争でひどい目にあっていますが、絶対に戦争は防ぎたいと思いますが、記念館があると無いとでは違うと思うので、どんなに小さな灯でも戦争反対の灯はあったほうがいいと思って記念館を開いています。
命を大切にみんなが一人でも多くの人が幸せに暮らせますように、そういう世の中を祈って努力していきたいと思います。

















2019年9月11日水曜日

内田克代(自習室代表)          ・"寺子屋"で教育格差をなくせ 

内田克代(自習室代表)          ・"寺子屋"で教育格差をなくせ 
内田さんは69歳、元小学校教員です。
教育格差をなくしたい、そんな思いから内田さんたちは6年前に子供たちに無料で勉強を教える自習室をスタートさせました。
勉強を教えるのは内田さんを始め会社員や、主婦など地域の20人の人たちです。
内田さんたちは放課後自習室を訪れてくる50人の子どもたちに、それぞれの事情に合わせて授業で分からなかったことや宿題などを教えています。
この自習室でユニークなのは、もう一度勉強したい大人のための教科書を学ぶ大人の講座がある事です。
内田さんたちの現代版寺子屋ともいえる取り組みで見えてくるものは何なんでしょう。

活動している神奈川県波多野市は神奈川県の中西部にあります。
「広畑ふれあいプラザ」という施設がありそこで自習室があります。
放課後になると大人が合流して勉強を始めます。
リラックスしてはいってこれるところがいいところだと思います。
私は静岡県の磐田市出身です。
大学では教育学部の中の中学校養成課程を選びました。
英語は好きだったので英語科を選びました。
教員試験を受けて浜松市に就職しました。
英語が週5時間から3時間に減った年で、英語ではなく家庭科の教員として担当しました。
浜松は1年間でいろいろ経験したことがあり、よその世界に出てみたいという思いがわきました。
1年後一般の会社に再就職し5年間勤めました。(関西の自動車の販売会社)
自分に合う仕事はないかと迷い始めました。
絵が好きで趣味でやっていたので、手書き友禅の会社に入ってそこで2年間修業していました。
周りに比べ個性的ではないという思いがあり、改めて教員採用試験を受けました。
神奈川県の教員になりましたが、会社にいたときに通信制の小学校の教員の免許も取っていたので、小学校の先生として採用されました。
30歳の時でした。
1つの学校に5,6人の若い教員が採用された時代であまり良い目では見られませんでした。
担任を持ちましたが、いろいろな職業を経験したことが役に立ちました。
30年間波多野市で過ごしました。
主人も亡くして子供を育てるのにいい環境の近くの学校に赴任させてもらいました。
体調を崩したこともあり、55歳で退職して臨時の講師を5年間行いました。

近所のお年寄りが学校に来て子どもたちと詩吟を教えてもらったり、カードで遊んだりする部屋もあり、学校にかかわっていました。。
子どもたちに何かお返しができないものかと雑談の中から出てきました。
子どもと触れ合える教室を作ろうという事で、学校とつながっている広畑ふれあいプラザという施設がありお年寄りが学ぶ施設でした。
最初は遊ぶという事がしばらく続きましたが、勉強を教えることに流れていきました。
子どもたちに自分たちが勉強に意欲を持たせてあげれば、その子たちが社会に出たときに自分なりの道を見つけてゆく大きな手立てになるのではないかという事です。
教育の格差を少しでもなくしてあげようというスローガンです。
PTAとして学校にかかわってきたお父さん、地域に貢献している元教員の夫婦、と私、4人で始めました。

看板を立てたり、ちらしを学校に配ったりしました。
4,5人(小学生と中学生)すぐに来まして、その子らの面倒を見るようにしました。
勉強ができないという人達でその子等が判るレベルまで下げて教えました。
中学2年の子は小学校3年ぐらいでつまずいたので、そこまで下げてコツコツとやりました。
いらない教科書を募集して集めました。
算数なども一旦始めると理解は早いです。
教える側もやりがいがあります。
孫ができたという風に言う人もいます。
大人に教えようという講座を5教科について開いて、それで教師が増えました。
一気に先生が増えて、会社をリタイアした人、主婦などいろいろな方が来てくださいました。
先生が20人、子供たちが50人来てくれて、和やかな教室になっています。
私が散歩していたらガラの悪い中学生達がいて、声をかけているうちに高校に行きたいという事になり、高校ぐらい出て親に恩返ししたいというんです。
12月なので時間もなく、連立方程式と面接を集中してやって、それ以外は捨ててやったら県立の学校に入学できました。
その間に両親とも話をして理解しあいました。
その後或る時にあったら「俺学年で数学一番になったよ」といっていました、それを聞いて本当にうれしくなりました。
いろんな地域でやってみたいという事で見学にきたりしていまして、ほかでも始まりつつあります。
教員時代にはこんなに真剣に子どもを見る時間がなかった、と反省するんですね。
どの先生も手ごたえを感じてます、現役時代にこういう事ができればよかったねという話がよく出ます。
ボランティアの先生も高齢で体の具合が悪いとかなど、先生の入れ替わりも激しいのでずーっと続けることが難しい。
最近大人のための教室を開いていませんが、ちゃんとした経歴を持った人が世の中にいっぱいいるが、なかなかボランティアをしたいというところまで気持ちが上向かない方々がいっぱいいらっしゃいます、もったいないなあと思います。
やはり国語力が大事で、そういった先生がいてそんな時間が取れればいいなあと思っています。





























2019年9月10日火曜日

小林快次(北海道大学総合博物館教授)   ・ハヤブサの目で恐竜を探す

小林快次(北海道大学総合博物館教授)   ・ハヤブサの目で恐竜を探す
砂漠や平原などでよく恐竜の化石を見つけ出すことから、「サルコンアイ」ハヤブサの目を持つ化石ハンターといわれ、今回の恐竜博で展示されているデイノケイルス、ムカワリュウの二つの注目される恐竜の発見にも深くかかわっています。
小林さんの恐竜発見の話を伺います。

国立科学博物館の恐竜博2019の会場に来ています。
デイノケイルスは1960年代に発見されましたが腕だけ見つかっていました。
2,4mという巨大な腕で、2006年、2009年に私たちの調査で全身骨格が発見されで全貌が判りました。
頭からしっぽの先まで11mという摩訶不思議な恐竜のいい所をとった不思議な恐竜として復活しました。
高さは5mあります。
植物を食べていた優しい恐竜で、ゴビ砂漠で発見されました。
3体の骨格を使って作っています。
ムカワリュウ、北海道むかわ町から発見された全身骨格です。
これも8mはあります。
植物を食べていた恐竜の仲間です。
白亜紀(1億年~6600万年前)の恐竜でデイノケイルスよりもさらに優しい恐竜です。
デイノケイルス、ムカワリュウは約7000万年前の恐竜になります。
恐竜が絶滅したのが6600万年前で、その直前に生きていた恐竜です。
最初アマチュアの方がしっぽを見つけて、その後2013年2014年に大規模な発掘調査で全身発掘しました。
日本の歴史にとっても非常に大きな発見となっています。
デイノニクスという恐竜も提示されていますが50年前に研究された恐竜です。
恐竜の現代型の研究がスタートしたのが50年前です。
デイノニクスは獰猛な肉食恐竜です。

子どもの時は恐竜少年ではなくて仏像少年でした。
福井県生まれで、お寺が結構ありました。
化石との出会いは突然でした。
中学校の時にクラブ活動で理科クラブでいろんな化石が出て、行ってみようというのが最初のきっかけでした。
アンモナイトを取りに行ったが、採れなくて悔しくて今につながっています。
福井県は新世代の地層で、葉っぱ、貝の化石はでますが、アンモナイトはなかなか見つかりません。
泥だらけの石をたたいて、出たときの喜びは大きかったです。
最初4人で始めていますが、最後はわたし一人になってしまいました。
釘とかなずちで工夫をして夜な夜な石をたたいていました。
高校の時には化石からは離れていましたが、地元の博物館が恐竜を探そうとの誘いを受けて化石の発掘に参加するようになりました。
その時発掘に来ていた横浜国立大学の長谷川先生のところにつくことになりました。

その後本格的にという事でアメリカに行きました。
1年間英語の勉強をしているうちに、自分の足で歩いて自信のある何かを身に付けたいという事で19歳で初めて恐竜をやりたいと急に思い立ちました。
恐竜図鑑を見てふっと思いました。
熱心さが全く違って必死にやりました。
今この瞬間を無駄にしないで生きるというような映画に出会って、勉強も自分が考えられること全部やりました。
クラスで一番の成績を取るようになりました。
恐竜研究は実際には凄く地味です、一歩一歩歩いて地道に探すしかないです。
見つからない喜びの作戦を立てていて、砂漠には必ず化石があるという前提に立って探して、見つからないとだめという訳ではなくて、見つかる確率が高くなる、見つからないと明日見つかる確率が高くなる。
見つからないほど次の日が楽しみになる。
ゴビ砂漠など調査に50年間も人が入っているので、あえて人の歩かないところを歩くようにしています。

地層にはそれぞれストーリーがあり当時の風景を岩が語りかけてくれます。
恐竜の化石の全体の7,8割はイギリス、アメリカ、カナダ、アルゼンチン、中国、モンゴル、この6つの国から出てきています。
特に乾燥地帯が多いです。
恐竜研究は判らないことだらけです、やればやるほどわからなくなる。
知らないという事をいえる勇気があるという事は自分の知識を増やす非常にいいきっかけになるので、私は知らないことは知らないというようにしています。
恐竜は嫌われることはなくて、2割ぐらいは恐竜が好きな人がいて、恐竜を嫌いという人はあまりいない。
世界には存在しない生物だが過去には生きていて、興味を沸かせる題材だと思っています。

恐竜は私たち人間にメッセージを発していると思います。
6600万年前隕石が落ちることで恐竜は、地球上から姿を消すが、いまは大量絶滅の真っ最中といわれています。
生命の歴史のなかで38億年ありますが、その間に壊滅的な絶滅が5回あったと言われます。
一番最近の絶滅が6600万年前で、第6の絶滅があってそれが現代だといわれています。
温暖化、プラスチック問題など実は人間の存在がほかの生物を絶滅に追いやっていて、これまでの5回の絶滅よりも早くこの地球上から生物がいなくなっている。
2億5000万年前は地球上の9割の生物がいなくなったといわれるが、それよりも早く現代の生物はこの地球からいなくなっているといわれています。
残念ながら止める手立てはないです。

付けが回って最終的にはわたしたち人類の絶滅に繋がる。
かなり早い時期に来てもおかしくないと思います。
70数億人がいて、地球を圧迫してほかの生物がいなくなっているが、人間が繁殖してしまった原因で地球が壊れています。
人間は恐竜のように絶滅してしまうのか、人間らしく絶滅を伸ばす延命行為をするのかという事があると思います。
人間には知能があるので一丸となって何か活動すれば一気に環境は変わると思います。
日常出来ることを一人でも多くの人が協力してやることによって、1秒、1分・・・1000年、1万年という延命行為につながる。
環境と、ほかの動植物と共生して生活できるのが一番理想だと思います。
恐竜の絶滅が私たち人間に警告を出していて、今だからこそ考えてみようというのが、恐竜を研究していて感じるメッセージです。
8,9月はモンゴルに行って発掘調査をしています。






2019年9月8日日曜日

谷育子(声優)               ・【時代を創った声】

谷育子(声優)                  ・【時代を創った声】
谷さんはアニメ「楽しいムーミン一家」のムーミンママや、スポンジボブの様々な役を担当していますが、アニメよりも洋画の吹き替えを中心に活躍してきました。
そんな谷さん、アニメの面白さ難しさについて最近気付いたといいます。

ハリーポッターのマクゴナガル先生を演じる。
007シリーズ(M)など映画の吹き替えが多いです。
日本のアニメは想像しなくてはいけないので怖いです、しかし自分の思うように出来るので楽しいのかもしれない。
1960年 21歳の時に映画「武器なき戦い」でデビュー。
俳優座の養成所の生徒でした。
山本監督に声をかけていただきました。
小さい時からラジオ、映画が娯楽でした。
親に連れられて毎週日曜日には映画を見に行ったりしていました。
お姫様の役をやりたいと思いました。(小学校5,6年)
友達が俳優座の養成所を受けることになり一緒に受けに行きましたが、友達が落ちて自分が受かってしまいました。(高校生の時)
俳優座の養成所では芝居、映画などに出させていただきました。
詩吟、剣舞やりたいと思って高校1年から剣舞をやり詩吟もやる事にもなり発声練習になりました。
外国映画 「風と共に去りぬ」でビビアンリーを栗原小巻さんがやって母親役を私がやってなんて面白いんだろうと思いました。
別人になるという事に興味を持って、劇団と別れてこの世界に入ってきました。
「間」の使い方、「目線」など学ばせてもらいました。
日本の表現と違うから、しかし聞いていただくのは日本人なので日本流にやらせていただけるような気分でやっていました。
宗教的な面では日本は仏教なので、外国はキリスト教とかいろいろな宗教がありそこのところはいろいろ気を使いました。
アメリカ物はフランクで面白くて自由ですが、イギリス物になると頑固で説教臭くて日本の感覚に近いのかなと思いました。
「ハクション大魔王」は何にも考えずにやっていました。
いまは70歳以上の役をやらせてもらっています。
食べながら話す場面があり、実際にお新香を食べながらやったことがあります。
自由にできることに最近気が付きました。
この間傘寿(80歳)になりましたが、気分は60歳でやっています。
マギースミスさん おちゃめな部分を出して見た人から気に入ってもらった事もありました。
スポンズボブでうちの事務所だけでやっていましたら人気が出て、舌っ足らず風にやったら自分で好きだなあと思います。
ムーミンママ、原作の関係者とお会いして、自分は割とママ役がおおくて、声の苦労をしたことがないです。
画面を変えることはできないがフィーリングを変えることはできるので、ちょっと感じを変えようかなと思う事はあります。
今の若い子は甘いです、なりたいと思う事は自由です。
だと思ったとしたら最後までくらいついてやっていってほしい、何十年も。
演技の上手い俳優さんを作るんじゃなくて、人間として面白い人間を作りたいと思うのが私の望みですしそうあってほしい。
アドバイスはへこたれるなですね。
人を大切に、前を見ていってほしい。












2019年9月7日土曜日

前田万葉(カトリック大阪教区大司教・枢機卿)・いのちの海に網を降ろす

前田万葉(カトリック大阪教区大司教・枢機卿)・いのちの海に網を降ろす
70歳、前田さんは長崎県五島列島出身、潜伏キリシタンを先祖に持っています。
長崎、広島の教会で宣教を行い核兵器廃絶運動にも携わってきました。
去年6月前田さんはローマカトリック教会で教皇に次ぐ地位の枢機卿に任命されました。
教皇からの相談を受けて助言をするなど、教皇の最高顧問としての役割を果たします。
枢機卿に就任して1年余り、前田さんは海外にも出かけ平和の懸け橋となる事に力を入れています。
ローマ教皇フランシスコは今年11月に日本を訪問するいこうを明らかにし、前田さんは受け入れる準備を進めています。
日本人の枢機卿として伝えていきたいこと、又その信仰の原点について伺いました。

5月20日電話が来まして、いきなり「おめでとうございます」といわれて、枢機卿に信任されたという事がニュースになっているという事だった。
ニュースで自分で確認して青天の霹靂だと思いました。
バチカンで親任式がありました。
五島列島仲知の出身で少年時代には周りは住民のほとんどがカトリック信者でした。
キリスト教が禁じられていた江戸時代半ば、長崎の潜伏キリシタンたちは弾圧を逃れて五島に移り住みました。
親から子、孫へとひそかに信仰を伝えていったのです。
潜伏キリシタンを先祖に持つ信仰篤い両親の元、前田さんは11人兄弟、上から二番目の長男として育ちました。
雨が降ろうが毎日朝6時から早朝ミサのために朝5時半ぐらいから起こされて、辛かったです。
小中学校だけで270名ぐらいいましたので、毎朝100人ぐらい来ていました。
おっぱいを飲むときも赤ちゃんのころから母親が赤ちゃんの手を取って赤ちゃんは十字架を切らされていました。
それはごく普通でした。

江戸の末期、長い鎖国が終わり長崎では大浦天主堂の建設が始まります。
外国人に限り宗教の自由が認められるようになったのです。
それを知った五島のキリシタンは自分たちの信仰を公にします。
そんな時に島で事件が起こります。
前田さんの曽祖父一家を含むキリシタン200人が役人に捉えられ、わずか6坪の牢に8か月間監禁されたのです。
不潔な牢で食べ物もなく前田さんの先祖3人は命を落とします。
そのような中で生きながらえた人々の信仰は揺るがず、島の人々は弾圧を耐え抜きました。
それを聞いて素晴らしい生きざまに誇りを思っていました。
自分も命がけの生き方をしたいと思ったりもしました。
そんな惨いこともうけたのかという思いもありました。
島の小学校を卒業後、長崎の神学校に入学します。

それは神父を志しながらも教師になった父の強い願いでもありました。
朝5時半からラジオ体操、ミサにあずかって食事をして、掃除、嵐山中学に通学して、4時頃帰ってきて、神学校の授業が1時間あって、夕食があって、30分休み時間がありすぐまた授業です。
最初は布団の中で家が恋しくなって泣きました。
勉強でわかることによって、イエス様などのことがわかってきて十字架の意味などのことも理解できるようになって、ますます好きになってきて、神学校が楽しくなりました。
18歳からは福岡の大神学校で哲学、神学を収める傍ら通信制の大学でも学び充実した生活を送りました。
自由への誘惑も沸き起こってきて、結婚へのあこがれもありいろいろ悩みました。
神学校を辞めるといってでたこともありましたが、父親からひどく叱られました。
親戚の人たちにも謝って来いといわれました。
一番会いたくない人とばったり会ってしまって、辞めるとはとうとう言えずに家に帰りました。

みんなの祈りだけは裏切ることはできない、前田さんに決心をさせたのは子供のころから見てきた神父の生き方でした。
いろんな人と交わって行かないといけない、それは命がけでないとできない、仕事の大切さ、永遠の命のお医者さんみたいな手助けと思うのでその道にたける人になりたいなと思いました。
福音書の5章の5節に「お言葉ですから網を下ろしてみましょう」という聖句がありますが、子供のころから不漁を体験していたので神様からのなにかあたえがなければ私たちは生きてくことさえできないので、人間的なことで一生懸命努力してもどうにもならないという時がある思うので、この言葉を思い出して、自分を最後に奮い立たせる言葉としてこれを選ぼうと、そしてその通りにすればきっと体力が与えられるだろうと、そういう風に期待してそういう覚悟で選びさせてもらいました。

母は被爆者でした。
突然丸太のようにパンパンに膨れ上がって歩けなくなったりしました。
母は60歳ぐらいになると脳梗塞など大きな病気をくり返すようになり、一人での生活が難しくなってきました。
当時長崎で宣教していた時に呼び寄せて一緒に暮らすようになりましたが、母清子さんが79歳の時に突然東京への移動を命じられます。
病気の母を思う葛藤との中で前田さんを助けたのが聖書の言葉でした。
「お言葉ですから網を下ろしてみましょう」という座右の銘を放棄することは自分の大切なものを放棄するように思えて東京にいくことにしました。
2011年62歳の時にカトリック広島教区の司教に命じられます。
被爆地広島への赴任に前田さんは神の意志を感じたといいます。
2年後前田さんは広島県宗教連盟の理事長に就任します。

広島県宗教連盟は県内の神道、仏教、キリスト教の代表が集まり、宗教者の立場から平和を訴える活動を続けてきました。
前田さんが活動の指針としたのは、1981年広島を訪問した教皇ヨハネ・パウロ2世が行った広島平和アピールです。
「戦争は人間の仕業です。 戦争は人間の生命の破壊です。 戦争は死です。」
私自身も政治、経済にかかわる問題、そういったものを平和の観点から、人間の命の尊厳、人権そういった人格を損なうことが無いようにとかを政界、財界に対してでも要請していかなければいけないと思いました。
前田さんの思いは現在の教皇フランシスコとも強く響きあいます。
2013年に就任した教皇はアルゼンチンの出身、母国の貧困層への対策に力を注いできました。
教皇に就任後は核廃絶と平和を強く訴えています。
2017年教皇は一枚のカードを作り世界中に配るよう指示しました。
終戦後長崎に従軍したカメラマン、ジョー・オダネルが撮影した写真「焼き場に立つ少年」です。
亡くなった弟を背負い、焼き場で順番を待つ少年、きつく唇を噛みしめ悲しみをこらえて直立するその姿に教皇は「戦争がもたらすもの」という言葉を添えました。
核兵器はもってのほか、作ってはいかんという事を強く訴えたいという表情は本当に真剣でした。

日本は10歳代の自殺者が多いという事もおっしゃいました。
いじめ、差別などいろんなことが起きている、小さい時から助け合っていけるような人格形成が必要じゃないかと感じているので、不自由をしながら自分で体験がわかる人の苦労悲しみも体験として自分のものにできるような環境つくりを考えなければいけないと思います。
思いや入りのある人間、慈しみのある人間、人の悲しみに同情できる人間、そういう人たちが社会を指導するようになって行けば、差別、いじめなどは無くなってくると思います、あきらめてはいけない、希望をもって努力してゆく事が価値があり、実現につながってゆく事だろうと思います。



























2019年9月6日金曜日

山崎信之(アッツ島遺族会幹事)      ・"玉砕させた"祖父の眠る島へ

山崎信之(アッツ島遺族会幹事)      ・"玉砕させた"祖父の眠る島へ
アラスカのアリューシャン列島にあるアッツ島では昭和18年5月29日、およそ2600人の島の守備隊が全滅、この時初めて玉砕という言葉が使われました。
山崎信之さんは現在60歳。
その部隊を率いていた部隊長の孫です。
今年6月山崎さんは23年ぶりとなる国主催の慰霊巡拝で島に向かいました。
祖父が玉砕の指揮をとったという事を山崎さんは複雑な思いで受け止めています。
遺骨が多く残されている島を何を思い訪ねたのか伺いました。

6月20日に出発して慰霊巡拝という事でアッツ島に行きました。
成田からシアトル、アンカレッジまで飛んで、島伝いに給油しながら行くというそんな場所になります。
アリューシャン列島の端でちょっというとロシアという場所です。
セスナでアダック島で給油してアッツ島の上空をぐるぐる回ってお祈りをして戻るという計画でしたが、低気圧の影響で途中で引き返すという状態でした。
アッツ島まではあと200kmぐらいと聞きました。
非常に残念な感じがしました。
アッツ島の方向に向かって合掌しました。
祖父がその島の指揮をとる山崎保代大佐でした。
初戦勝ち続いて、アメリカらの反抗は北からと南からで、ミッドウエーと北はアリューシャン列島を占領しろと、そこで守りを固めればアメリカは日本に来ることはないという中の一つの作戦という位置付けだったと聞いています。
祖父が着任して守りを固めろという事でした。(昭和18年4月)

5月になるとアメリカ軍が反攻して上陸してくる。
多勢に無勢で兵器、武器、弾薬、食料も減ってきた。
最後は数十人で突撃して亡くなったと聞いています。
当時2600人いたがアメリカ軍は5倍ぐらい、1万1000~2000人といわれています。
アメリカ領だったので何が何でも取り返すという事だったと思います。
5月29日に全滅という事になる。
前日に書類を全部償却して通信機も壊して突撃したようです。
大本営発表で初めて「玉砕」という言葉が使われた。
よからぬ方に使われてしまった、残念さ、士気を高揚するための材料になるなと、死んだ方はまさか思っていない、美談みたいになる複雑な心境、一番気になります。
誰に怒っていいかわからないが怒りはあります。
これを起点に「一億玉砕」という事でひたすら転がり落ちてゆく。

祖母からは軍人で偉い人だったぐらいのことは言われていましたが、戦争でお国のために亡くなったといわれていました。
小学校高学年ぐらいから本で読んで全員死んだという事を知りました。
中学高校になるともっと詳細に知るようになりました。
どんな思いで命令を受けてどんな思いで死んでいったのかもっと知りたいと思うようになりました。
弾薬、食料もなくなってきて精神状態は異常な状態だったのではないかと思います。
逃げろとか降参しろと言えない状態は非常につらいことだったと思います。
玉砕なんてやめればよかったというような方もいるという事も聞いたこともあります。
父は遺族会を長く勤めていましたが、真面目で無口なタイプでした。
6年前に父をつれて靖国神社に行きましたが、足も悪くなっており半分認知症のような状況でした。
難しい話ができない状態でした。
私にもできることがあればという事で引き受けることにしました。
亡くなったのは祖父だけのせいではないが、祖父の同僚部下たちの家族などへのケアをしなければいけないし、できる範囲で困ったことがあれば相談にのらなければいけないと思っています。
忘れてはいけないという祖父、父の声はあると思うんです。
去年アッツ島の戦いの75年の式典でアメリカに遺族の代表として招かれました。
式典でプレゼンテーションがあり、戦死した方の写真経歴の発表があり、大写しに出たときに女性が急に立ち上がり、「あれは私のお父さんだ」と大きな声で言いました。
その方は写真でしか父を覚えていない人でした。
その光景を思い出すたびに胸に刺さり泣いてしまいます。
遺骨収集は厳しい状態です。
この10年間は何も進んでいない状態です。
お骨は日本に戻したいと思っています。
祖父の遺骨もまだ残っています。
祖父は米軍の方が祖父の倒れた場所に掘って小さな石碑も作ってくれた様です。
まずはほかの方がたの遺骨、祖父の遺骨は最後にとは思っています。
厚労省と毎年交渉して予算をつけてもらうようにしていただきたいと思っています。
南方の遺骨収集に比べ後になってしまっている状況です。

アッツ島は観光地ではないので話題に上りにくいという事があり、知らない人が多いと思います。
アッツ島に関して映画、漫画などで紹介するような動きもあるので期待しています。
次にもし島に行くことがあれば、遺骨収集が進んでいると思うので、遺族の方も喜んでいると祖父に伝えたいと思います。
父の写真を持って行って親子で報告しようと思っています。



















2019年9月5日木曜日

大城立裕(作家)             ・伝統文化で戦争を語り継ぐ

大城立裕(作家)             ・伝統文化で戦争を語り継ぐ
1925年沖縄県なかぐすく生まれ、94歳になります。
太平洋戦争中は上海の東亜同文書院大学(とうあどうぶんしょいんだいがく)の学生でしたが、徴兵されて兵役に就きました。
戦後は米軍通訳、高校教員を経て琉球政府沖縄県庁に勤務する傍ら沖縄の矛盾や苦しみを見つめた小説や戯曲を発表し、1967年には「カクテルパーティー」という作品で沖縄では初めての芥川賞作家となりました。
大城さんは今年沖縄の伝統芸能組踊が上演300周年を迎えるに当たって、終戦後の沖縄の収容所を描いた新作「花よ とこしえに」を書き下ろし先月舞台が初披露されました。
大城さんの戦争体験と新作組踊についての思いについて伺いました。

沖縄の国立劇場建設運動を役員として10年間やってきました。
建物が出来上がるころに伝統芸能を継承するには新作が無ければ嘘だろう考えたんです。
沖縄方言も自由自在に喋ることもできました。
組踊の唱えは3,8,6 と言って独特の「8,8,8,6」の調子なんです。
これに私は子供のころからなじんでいました。
年に一度村芝居があり組踊りが入っていました。
それをまねて遊んでいました。
そういったことがあり、これは私が書くしかないと思いました。
歴史を5つの時代に割ってそれぞれ一つずつ題材を作って書けばいいと思いました。
組踊の伝統には近代はないのでどうしようかと思いました。
戦争を扱うことにしてそれが「花の幻」で、主人公が有名な芸能人でこの人が戦場で亡くなったという事を伝説の様に聞いたのでこれを組踊にしたいと思ったのが「花の幻」です。
戦後はさらに難しくて、いろいろやってきて「花よ とこしえに」が一番新しいものになりました。
「花の幻」では大和兵隊を出しましたが、なぜ出したかというと、三線を日本の兵隊が折るという事で、日本の権力が琉球芸能を滅ぼすという事の象徴として書いた訳です。

太平洋戦争時代は私は上海の大学でしたので、日本の内地の戦争体験、戦争の雰囲気は知らないわけです。
学徒兵隊にとられて、初年兵の訓練を受けて蘇州の近辺の村々を訪れながら訓練を受けていました。
幹部候補生に受かって、蘇州の支団に集まって、訓練の教育が始まるといったのが8月15日でした。
午前中に機関銃の組み立てなどの訓練を受けているときに、下士官たちが忙しそうにしていました。
しばらくしてから「戦争が終わったからやめ」、これで終わりでした。
教科書がいろいろありましたが、焼けという事でしたが膨大でなかなか焼けなかった。
上海に戻ったのが戦後で、学校は無くなり日本人街に行って自活しなければいけなかった。
中国語の通訳として貨物省に入り食料などは何ら不自由しなかった。
地方により訛りが酷くて筆記で行ってそれを発音してもらって、いろんなところでいい勉強になりました。
初めて会っても、その人がどの地方の人かが判る様にもなりました。
沖縄の事は父から手紙が来て、姉が子どもたちをつれて熊本に疎開したという話もありました。
沖縄の戦況は殆ど知りませんでした。
初年兵の訓練では自分の時間が全くありませんでした。
帰りの船の中で沖縄に帰って方言を自由にしゃべれるんだろうなということでした。
那覇の港に入ったときには、ぎっしり建物が詰まっていたはずのところに鳥居だけが見えて、道路の広さにびっくりしました。
アメリカに支配されていることが如実に予感しました。
中城の両親の家に身を寄せました。
基地での労働後、非常勤の高校教員になりました。
生徒たちからは評判は良かったです。
反戦教育というわけではなく、私が学生時代に仕入れた思想をそのままぶつけて教えました。
国語はアメリカは嫌って(沖縄は国ではないし)、文学のことを教えました。
2年間で教員を辞めて公務員になりましたが、教員時代の2年間が私の人生の最高の人生でした。
両親は大丈夫でしたが、母の実家は6人全滅でした。(情報は全然わからず)

伝統芸能組踊が上演300周年という事で組踊がなお一層栄えていくようにとの趣旨で書いてくれという事でした。
クリスマス演芸大会は歴史にのこるイベントです。
「花よ とこしえに」主人公は娘を亡くして収容所で再会できた夫婦、孤児になった少年との出合いがある、それが組踊の役者です。
組踊はよく生き延びたなあと思います、後輩たちはよく受け継ぎました。
「花の幻」では主人公の芸能人、師匠が亡くなるが、死ぬ時に何を考えたんだろうか、芸能の未来を憂いながら死んだに違いないというのが、私のテーマです。
組踊はよく生き延びたなあという思いを込めて、「花よ とこしえに」を書いた訳です。
沖縄問題、戦争、平和については書くだけ書いたので、それを読んでほしいと思います。
沖縄に関して関心を持っていただきたい思います。(基地問題、芸能、文学、生活風俗など)



















2019年9月4日水曜日

ファム・ディン・ソン(カトリック主任司祭)・ベトナム難民の私が日本で見つけた人生(2)人の出会いに支えられて

ファム・ディン・ソン(カトリック主任司祭)・ベトナム難民の私が日本で見つけた人生(2)人の出会いに支えられて
17歳の少年ファム・ディン・ソンさんは自由を求めてボートでベトナムを脱出しましたが、定員の10倍の人が乗り込んだ難民ボートはすぐにエンジントラブルで漂流してしまいました。
脱出をして7日目にたまたま通りかかった日本人船長のタンカーに救助されました。
その後18歳のソンさんは難民として日本に受け入れられ、言葉を学び、仕事を覚え、持ち前のバイタリティーで自分の人生を切り開こうとしています。

タンカーは日本に向かって10日後に着くと知らせてくれました。
しかし、日本に連れて帰ることができなくて申し訳ないと船長が謝りました。
政府がフィリピンに降ろす様にとのことで、3日後にフィリピンに降ろされました。
受け入れてくれる国がなく難民キャンプに入所して、いつどこへ行けるのかわからなくて希望のない日々が続きました。
8か月後突然日本に行くという事になりました。
福岡空港に到着しました。
難民第一次対象者でした。
健康チェックがあり、姫路促進センターに送られて初めて日本語の勉強をしました。(3か月)
殆どわからない状況でした。
山梨県の貴金属の会社に入りました。
父の教えに従い勉強をしたいという思いがあり大学に行きたいと思っていたが、お金がないのでまず手に職をつけるためにその会社に入りました。
同じボートに乗ったもう一人と二人でその会社に行きました。
段々言葉がしゃべれるようになって、甲府教会に行くようになりました。
イタリア人の神父さんとの出会いのなかで、神父さんから日本語を学びました。
ある女性と知り合いその母親が教育委員会の人で夜間高校の聴講生としていくことになりました。
翌年入学試験に受かりましたが、会社は認めなくて、別の会社(コピー機の修理)に行く事になりました。
学校では40人ぐらいの人がいて、当時私は21歳でした。
楽しい時間を過ごすことができました。
2年目の春休みに大きな交通事故にあってしまいました。
頭を割って、体も複雑骨折をしてしまいました。
幸い目が覚めてベッドの上にいました。
入院して手術をして足も繋がりました。
仲間たちが毎日学校から入院先(20kmぐらいあるが)に学校で習ったことを書いたノートを持ってきてくれてありがたかったです。
ギブスには友達らの名前などがいっぱい書かれていました。
汚れた衣類などは夜間高校の友達の母親たちがやってくれました。
当時は学校には行けない、会社にも行けなくて収入もない、自分以上に不幸な人間はいないだろうと思っていました。
会社は交通事故に対しては冷たい対応でした。
入院中に神父さんがやってきて、以前神父さんになりたいといった事を覚えているのかと、遠回しに何度も問いただしました。
アメリカに行くかといわれました(神学校へ行って神父の道を歩むか)、それなら勉強しなさいと言われました。
英語を勉強しなければいけないと思っていたら、病院の同室の老人から「毎日友達が来てくれて幸せだね」と言ってくれて、涙が出てきました。
言葉の重みを感じて、方向転換させてくれたのかなと思いました。
退院まで10か月かかりました。
教会のつてで横浜区教会に入りそこから受験することができるように手配してもらいました。
アメリカに行くことはなくなり、上智大学を受験して神学に入って司祭のための勉強をしました。(23歳)
38年間日本にいて、人がいなければたぶん自分はたどり着かなかったと思います。
僕は漢字が好きです。
「人」という字には意味があり、たくさんの人が支えてくれたために今生きているという事だと思います。
必至に生きていたために、いろんな人とつながってくると思うんです。
運命という言葉がよくつかわれるが、私は運命はないと思います、運命があったら人間が駄目になる、人生は定められているものではない。
人生は一歩一歩自分で歩んで一生懸命生きることだと思います。
人との関わりができて世界を広く見れる、世界が変わってきます。
人に迷惑をかけないようにと親は教えるが、年々意味が変わってきているように思う。
人に迷惑をかけなければなにをやってもいいというように、発展してしているような。
触れ合いが少ないなかで人に迷惑をかけないようにというような。
人はある程度迷惑をかけあいながら生きるという方が正しいように思う。
いろんな人との触れ合いの中で生きるという事は温かい、冷たいという事がわかってくると思います。
出会いが無かったら今の私はないです。
































2019年9月3日火曜日

ファム・ディン・ソン(カトリック主任司祭)・ベトナム難民の私が日本で見つけた人生(1)自由を求めてボートでベトナム脱出

ファム・ディン・ソン(カトリック主任司祭)・ベトナム難民の私が日本で見つけた人生(1)自由を求めてボートでベトナム脱出
カトリック厚木教会の日曜ミサにはベトナムを始め厚木周辺で暮らす在日外国人が大勢集まってきます。
ベトナム人神父ファム・ディン・ソンさん56歳は在日外国人の様々な悩みや相談に乗り異国で暮らしている人の心の支えになっています。
1963年当時のサイゴン、ホーチミンで生まれたソンさんはベトナムをボートで脱出し、18歳の時に日本にやってきました。
ソンさんは幼いころテト攻勢の爆撃に逃げまどった戦火の記憶が鮮明に残っているといいます。
1975年北ベトナム軍を主力とする開放勢力によりサイゴンが陥落、べトナム戦争が終結しベトナム社会主義共和国が誕生します、ソンさん12歳の時でした。
しかしそれによりソンさん一家の生活は一変しました。
17歳のソンさんは自由も展望もないべトナム脱出を決意、しかし定員の10倍も乗り込んだボートは漂流し、脱出7日後に日本人船長のタンカーに助けられて、フィリピンの難民センターに送られました。
翌年18歳のソンさんは移民として日本に受け入れられ、その後さまざまな人々との出会いに支えられて日本で人生を切り開いてきました。
言葉も文化も異なる日本にやってきて、持ち前のバイタリティーで人とのつながりを作り、自分の人生を切り開いていったソンさんにお聞きします。

ソンさんは厚木教会のカトリック神父さんで、日曜日のミサには多くの外国人の方が集まります。
英語圏が中心となるフィリピンの方々、英語をしゃべるアフリカの人たち、べトナム人、中南米、ポルトガル語をしゃべるブラジルの人などが集まってきています。
日曜日は日本語、ほかに第一日曜日はポルトガル語、第二がベトナム語、第三が英語、第四がスペイン語となっています。
英語圏、ベトナム語は100人を越えます、150人ぐらいはきます。
スペイン語、ポルトガル語は50~100人程度です。
母国語で話すと心に染み込んでいきます。

家庭の問題、子供との文化の違い、会社とのトラブル(いところと悪いところがある)、自分の生き方も相談してきます。
一緒にかかわって、乗り越えていくようにかかわっていきます。
ベトナムは50年前の日本という感じです。
ベトナムのことを説明してもなかなか理解してもらえない。
北は共産主義、南はベトナム共和国の二つの国が1954年において出来上がりましたが、北から攻めてくる。
南は自然が豊富ですから。
アメリカは南をサポートし、北は中国とソビエト、キューバ、でも戦っているのは主にベトナム人同士で戦っていました。
状況をみて子どものころ何になりたいかといわれると軍隊になりたいと思うようになりました。
75年に陥落して、南にいる私たちは負けた国で迫害されるわけです。
物を奪われたり、地位の高かった人は地域を追い出されるわけです。
負けた方はおびえて何も言えなくておびえる毎日でした。
学校では全く変わって思想教育が始まって政治的に、私は小学6年でカムバックしましたが、共産主義の事しか教えてくれませんでした。
中学1年の時には打倒アメリカとさけばされるわけです。
学校では寝たふりをしたり北政府に反発ばかりしていました。
75年に新しい政権が発足して自由に物が買えませんでした。(配給制度が始まる)
米は3毛作でたくさんあるはずだが、北にもっていかれる。
親が南政権に携わったといったので学校にも行けないという事がありました。
この国から逃げようという思いが募ってきました。
共産主義は宗教は敵と思っていました。
高校1年の時に友達と逃げる道を探しました。
脱出は3度目に成功しました。
両親からはいつも反対されていました。
父がバイクで先行して、学校に行ってきますと近所に大きく聞こえるように声を出して、その後父に送ってもらって船に乗ることになりました。
向こうにいったら勉強をしっかりしろよという事は父から遺言のように言われました。
当時脱出が可能な確率は1~5%程度でした。
脱出した時には日本という国は頭の中にはなかったです。
7人乗りのボートに10倍の人が乗り込み、船が出発して船底に穴が開いてしまい、水を汲みだしながら3日目にエンジンが壊れて漂流してしまいました。
いくつかの船に出会ったが誰も助けてはくれませんでした。
7日後に大きな日本のタンカーに出会いました。
日本のタンカーは難民を助けてはいけないという風潮があったようです。
日本のタンカーは台風を避けるために路線を変えたために出会うことになったようです。
たまたま船長が我々を発見したようでしたが一旦過ぎ去ってしまった、しかし日本と連絡を取りながら30分後に戻ってきました。
台風もあり死を覚悟していたので、3日間は泣いていました。
どん底の気持ちの中からタンカーを見上げた時には言葉では言えない気持ちが起きました。
私が乗っていた船は幅が4m縦が13m、タンカーは幅が60m縦が300mでした。
生きるという希望が現実となりました。




























2019年9月1日日曜日

佐藤眞一(心理学者・大阪大学大学院教授) ・認知症の人の心の中を知る

佐藤眞一(心理学者・大阪大学大学院教授) ・認知症の人の心の中を知る
1956年東京都生まれ、早稲田大学大学院の文学研究科心理学専攻、博士後期課程を経て医学博士号を取得しました。
東京都老人総合所研究員、ドイツマックスプランク研究所上級客員研究員等を経て、2009年より大阪大学大学院の老年行動学研究分野の教授です。
長年高齢者の心理と行動の問題を研究してきましたが、最近認知症のひとの心の中はどうなっているのかという本を出版しました。多くの方が認知症と診断される方が多くなっていくと思うので、この中で佐藤さんは「キャンディー」(6-3)(CANDy; Conversational Assessment of Neurocognitive Dysfunction)と呼ばれる日常会話から認知症の人の心を知る試みや、遠隔操作型ロボットテレノイドを介して認知症の人の世界に入っていく実例など最新の研究成果を紹介しています。

人や動物の行動を研究する様々な分野がありますが、そういう分野を行動学、あるいは行動科学といいます。
私は高齢者の行動を心理学の方法で研究をしています。
能楽の分野で翁は神に近い存在と考えられていたようで、幽玄とか神秘の象徴といわれています。
正月の年賀は天皇の長寿を祝う儀式として機能するようなところもあったようです。
長寿が大事なところだったようです。
徒然草などに「耄碌」」という様な老いの否定的な面もありましたが、江戸時代以降儒教の影響で長寿者への尊敬の念が育っていったんではないかと思います。

認知症は40、50代に発症する若年性認知症と、老化と相まって80、90代という高齢になってからの認知症に分けることができます。
統計的には85歳以上の約半数は軽度を含めて認知症であろうと推測しています。
若年性の場合は進行の早い場合が多くて明らかに疾患ですから、早く治療法が確立してほしい所です。
長寿者の認知症は対応法を工夫することで普通に暮らすことが可能な人もたくさんいます。
65歳以上の認知症は2012年厚生労働省が発表した人数では65歳以上の15%462万人と発表されています。
現在では500万人以上と予測されています。
2025年には700万人と政府は発表しましたが、もうすこし多くなるかもしれません。
アルツハイマー型認知症、欠陥型認知症、レビー小体型認知症などがあり研究が進んできて原因疾患別の治療や介護が行われるようになってきました。

脳の損傷の影響と生活環境の影響と両方が影響をして、心理行動症状と呼ばれるが、対応の難しい行動に現れることがあります。
例えば食べ物でないものを食べてしまったり、何事にも意欲がなくなってしまったり、食べたばかりなのに食事を要求したり、不可解な要求行動が現れることがあります。
介護は英語のケアの訳語ですが、相手を思いやる、お世話をするという意味ですから、介護は思いやりから始まると思います。
いつの間にか指図するような介護になったり、介護者が苦しさのストレスにとらわれて落ち込んでしまうという事があったりします。
互いに互いが縛りあうような介護になってしまう事がある。
介護関係がうまくいくと安定した日常生活が送れるという事例がたくさんありますので、関係性を大事にしたいなあと思っています。

キャンディーという方式、日常会話式認知機能評価という日本語の名前が付いた認知症の方を簡単に評価する検査です。
長谷川式検査、MMSEという検査が世界的に有名な検査ですが、これはスクリーニング検査です。
いわゆる知能テストです。
プライドを傷つけられて怒り出してしまう方もいると言われます。
医療者もつらく感じる人もいます。
知能テストをしないで認知症の疑いがあるかどうかの検査ができないものかを考えましてキャンディーという方式を考えました。
最初はたくさんの会話例を作成して、各項目を評価してもらい、最終的に15項目30点満点にしました。
点数が高いほど認知機能が低下していて、6点を超えると認知症の疑いがあると考えました。

①会話中に同じ質問を繰り返して質問してくる。
この場合は記憶障害の有無をチェックする。
②質問してもごまかしたりはぐらかしたりする。
特にアルツハイマー方の認知症に多くあらわれる。
取り繕いという会話型が特徴です。
こう言った質問が15項目あって日常生活で何気なく尋ねます。
マニュアルも作成してホームページで無料で公開しています。
スクリーニングした後、その後画像検査など様々詳しく調べます。
アルツハイマー型の認知症は最近の出来事が覚えられないという特徴があります。
昔覚えたことは思い出すことが多い。

介護施設では介護者は1日のうちの全業務量のわずか1、2%ぐらいしか会話をしていないことがわかりました。
会話のほとんどが介護に関する指示などに限られていました。
学会で発表したが、MMSEというような方法では発展途上国では教育が行き届いていない面があるので、キャンディーという方式であれば実施できるということで私に握手を求めてきました。
キャンディー方式を多言語化したくて、現在は英語とデンマーク語版を作りました。
遠隔操作型ロボットテレノイドを使っています。

大阪大学石黒教授の研究チームと共同で研究しました。
人間の個性を究極までそぎ落とした個性のない遠隔操作型ロボットテレノイドです。
特にアルツハイマー方の認知症の進んだ方が気に入られています。
対面会話とテレノイドを介して学生とアルツハイマーの認知症の方との実験をしました。
直接対面して会話をするとお互いに緊張しますのでスムーズに進まないが、ロボットが間に入って会話をすると活発に自分からロボットに会話をするという事がありました。
周りは驚いていました。
絵本をロボットに読み聞かせする人もいました。
介護状況では介護者が自分の世界に認知症の人を連れてこようとするが、テレノイドを介して会話をすると認知症人の世界に会話相手である学生が自然に入っていける。
認知症の見ている世界は認知機能が変化してゆくので、私たちが見ている世界とは異なっているのが様々な実験などからわかってきています。

高齢者の自動車運転、老化現象として視野が狭くなる、判断のスピードが遅くなるといったものがあるが、認知症の人は視野の中に気になるものがあるとそれに注目してしまうという傾向がある。
これは自動車運転にとってはとても危険なものです。
味覚、嗅覚の低下、本人は何とも思っていない。
前頭葉機能に異常がある場合は、上品だった人が中には汚い言葉を使ってしまうというようなこともあります。
認知症によるストレスがこのような言葉を出させてしまっていると思われるが。
理解できないといって突き放してはいけない。
行動には必ず理由や原因があるので、そうした理由や原因を考えてみることが大事だと思います。
専門医への相談、本、認知症カフェなどが地域にあるので家族の経験談を聞くというのも参考になります。

80、90代で認知症になった人の場合は、認知症になっても支えあいによって幸せに暮らす方策がまず優先するべきだろうという事になりました。
認知症の人たちとの共生という言葉がそれを表しています。
若年性認知症の方は生活に大きな支障が出ますので、研究や医療技術の開発には優先して行われなけばならないと思っています。
原因の究明も盛んにおこなわれていますが、根本的治療は難しいといわれています。
共生も難しい概念だと思います。
当事者でなければ判らないことを家族などが正しく感じ取るという事はなかなか難しいと思います。
感じ取ろうと努力することが、それによってどちらにもより良い生活環境に変えていくことが大事だと思います。
否定されることはなかなか受け入れられないし感情的になってしまう。
お風呂を嫌がったり、おむつを交換することを嫌がったりすることがあるが、介護上の工夫が大事だと思います。

5歳まで一緒に育ったいとこが小児がんで亡くなりました。
葬式に行って、死というものの恐ろしさを感じました。
10歳のころに祖母がアルツハイマー型の認知症になり、祖母の異常行動とそれを泣きなながら叱る姿を見てなんとも言えない感情、善悪を越えた苦しみに見えました。
おばあちゃん子だったので複雑な感情を今でも思い出します。
祖母が夜中に鍋を焦がしてしまって、母が叱ったが、翌日祖母がどこかに行ってしまって、道がわからなくなり近所の人に連れられて帰って来た時には新しい鍋をもって帰ってきた。
ニコ・ニコルソンさんと漫画認知症をウェブサイトで連載しています。
ニコ・ニコルソンさんは東日本大震災で実家が被災してしまって、祖母がアルツハイマー型の認知症になってしまって、認知症の知識が浅く、私の本を読んで大変参考となったという事で望まれて漫画認知症という事で発表することになりました。
今後認知機能が低下した時には人はどうなるんだろうか、という事の予習、勉強になるのではなかと思うので、認知症の事を知っていただくことは大事なことですし、お役に立つことだと思います。