高嶋弘之(元レコードディレクター) ・音楽ビジネスを愛して60年(1)
高嶋さんは昭和9年神戸市生まれ、高嶋忠夫さんの弟さんです。
昭和34年に東京芝浦電気のレコード事業部、のちの東芝音楽工業(東芝EMI)に入社。
以来、ビートルズの洋楽から黛ジュンさん、由紀さおりさんなど邦楽まで幅広く担当しました。
音楽はレコードで聞く時代から1980年代にはCDが普及、今ではインターネット配信で聞かれるようになりました。
この60年音楽産業に携わってきた高嶋さんに音楽産業の変遷、一回目を伺います。
終戦の年が11歳です。
父親の考えで死ぬ時は一緒に死のうという考えで私は疎開に行かなかったです。
家は爆弾で傾き焼夷弾で全焼しました。
海辺に暮らしていてB29が絨毯爆撃で焼夷弾が落ちしてきて僕は死ぬなと思いました。
うまい具合に居た砂浜を通り越していって助かりました。
私立御影中学に入学して、新劇に関係していた方が社会科の先生で御影中学に来て、先生の指導で芝居をやり、兵庫県の演劇コンクールで中学の部で優勝して、それが演劇の方に行こうという思いでした。
神戸高校でも3年間やって早稲田では演劇専攻でした。
エリア・カザンの「エデンの東」を見たときに、これから映画の時代だなあと思いました。
当時映画人口が13億人、それから下っていきました。
助監督試験、当時書類選考で3000人、筆記試験で1000人、最後48人まで残って、8人受かって40人が落ちました。(その中にいました)
東芝レコード事業部ができてそこに入り、1年後に東芝音楽工業(東芝EMI)という名前になりました。
英語はともかくフランス語はできるという事で、EMIのポップス担当になりました。
レコードディレクターとしてはアメリカから取り寄せて日本でどれを売ったらいいかという事で、ロジャー・ウイリアムスを売り込もうと思いました。
ロジャー・ウイリアムスは日本ではあまり知られていなくて、アルバムのタイトルも魅力あるように考えました。
私は文芸部の洋楽2課でした、1課がクラシックでした。
レーベルが大事で曲名、作曲者など全部わかるように一覧表を作るわけです。
それをもとにLPのジャケットを作る訳です。(日本で作りました。)
裏には解説書を評論家に書いていただき、読むとこの曲聞いてみたいと思うように書くわけです。
曲順はずいぶん考えました。
新聞社に行ってアルバムは華麗なるピアノだとか書いてもらうと売れました。
放送局に行ってかけていただいたりして浸透させていきました。
レコード店の店員さんにも気に入られるようにしました。
当時ラジオは強かったので、予算申請してラジオ局でキャップアワーという枠を30分ほど借り切って、兄も引っ張り出して、ロジャー・ウイリアムスも段々人気が出てきて、ブライアン・ハイランドの「ビキニスタイルのお嬢さん」という面白いタイトルをつけてこれが当たりました。
邦楽のレコードディレクターは無から一つの曲を生み出すが、洋楽のレコードのディレクターは外国版と契約してそこからできたものを唯一クリエーティブな仕事はアルバムのタイトルをどうするか、シングル版の場合はその曲名をどうするかという事だけでした。
アダモの「雪よ降れ」というフランス語のタイトルを「雪が降る」というタイトルにしました。
何の変哲のないタイトルにして、これが自分で一番気に入っています。
結婚したのは昭和37年、長女未知子が生まれる。
ダウン症でしたが、当時はまだ知られていない時代でした。
2か月での健康診断で判りました。
重い知的障害で20歳まで生きないといわれました。
妻が一人で行っているときに医師が告げて妻は失神してしまいました、僕のいる時に言ってほしかった。
3歳のころに物凄いがたがた道を車で行ったときに未知子が笑ってくれて、何だ普通じゃないかという風に思いました。
未知子は56歳になりバラエティー番組などにも一緒に出ることもあります。
料理もちゃんとやってくれて、炊事場は見事に綺麗に洗ってあり、洗濯は全部やってくれて物凄く助かっています。
長男太郎(海外勤務)、次女ちさ子(ヴァイオリニスト)それぞれ活躍しています。
未知子を助けるという意味あいでちさ子(知を助ける)と名付けました。
ちさ子は姉がいじめられたりすると助けていました。
3年生までは普通の小学校だったが無理という事で特殊学級のある小学校に移しました。
1963年には未知子の寝顔を見て思いついたのが、フランク・プゥルセルの「赤ちゃんの名曲集」ですよ。
企画会議に出したらフランク・プゥルセルの値打ちが下がるといわれて、ジャケットを両面カラーにして表は外人の赤ちゃん、裏は日本人の赤ちゃんを使って「赤ちゃんのための名曲集」、ベビー用品の店とタイアップしたりして行いました。
いまだに「赤ちゃんのための名曲集」のタイトルは続いています。
1962年 「ラヴ・ミー・ドゥ」("Love Me Do") ビートルズのデビュー曲
最初聞いた時には何だこりゃという感じだったが、それまでのアーティストとは違うのではないかと感じていたら、2枚目の「プリーズ・プリーズ・ミー」(Please Please Me)が届きました。
これを聞いた時にこれは日本でちゃんと売らなければ行けないなと思いました。
イギリスと聞いただけで相手にしてくれなかった。
洋楽ではプレスリー、ベンチャーズ、ピーターポール&マリーだとかアメリカ全盛の時代でした。
TBSの女性のディレクターがこれは売れるかどうかわからないが大好きだと言ってくれました。
1964年に第2弾と考えていた「抱きしめたい」("I Want To Hold Your Hand")をアメリカとほぼ同時発売となりました。
ビートルズルックでビートルズのLPのジャケットをもって歩かせて新聞社に連絡して記事にしてもらったりしました。
ビートルズカットなどいろいろな方法でビートルズは話題になっていると宣伝しました。
次回は11月を予定。