2022年9月30日金曜日

田淵久美子(脚本家)          ・小泉八雲とひびきあったセツの闊達な心

 田淵久美子(脚本家)          ・小泉八雲とひびきあったセツの闊達な心

NHKの大河ドラマ「篤姫」の脚本、「江〜姫たちの戦国〜」を担当し、大きく転換する時代の中でたくましく生きる女性の姿を描いてきました。 その田渕さんが先ごろ、日本の面影、怪談などで知られるラフカディオハーン(小泉八雲)の妻、セツにスポット当てた小説を発表しました。   日本に永住し、世界的にも評価の高い作品は、ラフカディオハーンとセツの出会いから生まれたという物語です。  

タイトルは「ヘルンとセツ」でアメリカの新聞記者だったラフカディオハーンが日本にやってきます。   明治23年ですが、まだまだ日本は謎の多い国でした。  赴任した先が松江市でまず英語教師になります。  何故ヘルンかというと、登録した名前を文部省が間違えて、ラフカジオヘルンとしてしまった。  松江ではヘルン先生と呼んでいたということでした。ラフカディオハーンは松江から九州の熊本、神戸、最終的に東京で亡くなります。  2人の出会いは新鮮で胸を打たれるものがあります。  セツは生涯ヘルンと呼んでいたのもあって「ヘルン」としました。   

セツは明治元年生まれで、士族(位の高い上士)の娘でした。 養女に行くがそこも侍の家でした。    明治維新で侍を辞めて商人になったり落ちぶれてゆく(セツの家も同様)。    セツは小泉家、稲垣家(養女先)の両方の家の家族の生活を全部見なければいけなくなった。(13歳から)   ラフカディオハーンの住み込みのお手伝いさんとして入ってゆく。    二人に恋愛感情が生まれて、やがて一緒になってゆく。  セツは子供の時から物語を聞くのが大好きな女性で、その物語を語り聞かせたのが、ラフカディオハーンの手によってこの世に出てそれが海外にも出て行ったという事です。   ラフカディオハーンの研究者はいるが、セツさんとなるとまさに日陰の存在でした。

38年前デビュー直前にNHKの連続ドラマ「日本の面影」(ラフカディオハーンの著書の名前)を見て本当に面白くて、残念だったのはセツの扱われ方だった。   セツを主人公にしてドラマにしたら面白いだろうとずーっと思っていました。  ここへきてやっとセツの小説を書くことができました。   

セツの祖父も父もなぜか働くことをしない。  プライドの塊ですね。  13歳から働き始めて覚悟をもって外国人の家のお手伝いさんとして入ってゆきます。   もともと女性は強い生き物だと私は思っていますが。   覚悟して行って、見事に花が咲くという感じです。   家族を捨てないという覚悟、そしてラフカディオハーンという外国人が心打たれるという事も素晴らしいと思います。   ラフカディオハーンは小泉家に入って日本に帰化すればいいという事で、セツの祖父が小泉八雲という名前を付けます。  

ラフカディオハーンが日本にきてなにを見たのかという事は、私の中でも興味深いことでした。  彼は松江で3度ぐらい講演をしていますが、講演の内容まで残っていることが判りました。  そうすると勝手な創作は出来ないので、ラフカディオハーンが何を思ったのか書きたいと言ったら、最後に質疑応答のシーンを設けたらいいという事になりました。そこではいくら想像してもいいという事になりました。  質問に対して「西洋に対して卑屈になることなく、日本人として堂々と我が道を行けばよい。」とラフカディオハーンは言うんです。   ラフカディオハーンのことを書きながら、宗教とかいろいろなものを受け入れてゆくキャパの大きさ、なんと日本は面白く、おおらかな国民性なんだろうかと発見したことが多くて、それを書きたくて書きたくてそれを作り出したシーンでもあります。   

日本女性の共感力は絶対外せないと思います。  他人のことを我が事のように思える力だと思います。   彼女が伝えたい事が聞きたいと思う気持ちがピタッと合わさることによって、語りたい、表現したい人間と聞きたい人間の息があったんだろうなあと思います。  ラフカディオハーンは目に見えない存在をとても大切にする人で、アイルランドの血が半分入っていて妖精を信じるみたいなところもあり、ギリシャの血も半分あるので、ギリシャ神話のように神はたくさんいるんだという感覚を持った男性だったようです。  セツも怪談を語るときもそこに幽霊がいるかのようにかたり、おびえながらラフカディオハーンは聞いていたようです。  

「耳無し芳一」を書いている時にはラフカディオハーンはその世界に完全に入ってしまったらしいです。  読んでいるとぞっとします。  セツがそういった世界観を語って、物語に書き換えて行ったラフカディオハーンの腕の確かさがあったと思います。  最初の取材が3年前で、途中でパタッと書けなくなって、リアルな本人たちに私が乗っていて、創作しづらい環境を自分が作っていたという事に気が付きました。 

島根県の益田市で生まれました。  朝から晩まで空を見てぼーっとしたい娘でのんびりした性格でした。   負けん気はゼロでした。  18歳で東京に出てきて、短大を出てその後仕事をするんですが、すぐ飽きてしまって長続きしませんでした。   唯一子供のころから褒められたのは文章を書くことでした。  私は脚本家になるのではないかと、予感がしました。   脚本家は匂いを書かなくてもいいが、小説は香りを書くとか、普段表現する必要のないものを全部表現していかなければならない。  私にとって小説を書くことは非常に難しいです。  脚本では演じる役者さんによって微妙に違ってしまう事がありますが、小説ではそのまま残ってくれるのでやりがいがとてもあります。  

人物の成功法則みたいなものが見えてきますが、如何に人らしく、人として高い志を持ったままで生きて死ねるか、という事について言うと、こういう人物たちが教えてくださることは本当に沢山あると思います。   セツさんが特異な存在なのは、ラフカディオハーンという人が彼女を理解したことかなと思います。   今の時代のいい意味での雛型がここにあるという気がして、男性、女性が持っているそれぞれのすばらしさを持ち寄った時に何が起こるか、彼らの場合には化学変化を起こして「怪談」とかの作品を生んだと思います。

日本人のすばらしさ、日本に生まれた意味、意義、日本人にしかない何か、といったものを再確認する必要が今、この現代だからあるような気がします。  日本の誇るべきもの、ラフカディオハーンも同じことを言っていますが、「この国の宝は日本女性である。」という事だと思います。  優しさ、思いやり、この人たちがいるから日本は素晴らしいという事をラフカディオハーンは言っているが、日本人女性も再認識してほしいし、日本人男性も理解してほしい。  このいい関係こそが日本を面白く良くすると思います。  ラフカディオハーンの本を読んでもらうと再確認できると思います。



2022年9月29日木曜日

松嶋雅人(東京国立博物館・調査研究部長)・【私のアート交遊録】 東博~150年の美の旅へ

 松嶋雅人(東京国立博物館・調査研究部長)・【私のアート交遊録】  東博~150年の美の旅へ

東京国立博物館は今年150周年を迎えます。  それを記念して来月150周年記念「国宝東京国立博物館のすべて」これが開催されます。   会期中狩野永徳の障壁画や渡辺崋山の作品をはじめ教科書にも登場する有名作品や名作を一挙に堪能することが出来る上、史上初89件の国宝も公開されます。  日本の博物館、美術館の礎ともいえる東京国立博物館の歴史と作品を知ることで日本美術の歴史も辿ることが出来ます。  日本近世から近代絵画が専門の松嶋雅人さんに日本美術の歴史と併せてその見どころを伺いました。

明治5年(1872年)に発足し、令和4年に創立150年を迎えたという事になります。   日本は明治維新後に海外との交流の中で日本が近代国家として認めてもらうために、様々な政策を行いますが、日本の文化財を世界に紹介して、日本が近代国家の一つなんだという事をオリエンテーションしようというところから、始まりました。  展示は美術だけではなくて特産物もありました。  郵便とか鉄道とか明治5年あたりにいろんな仕組みが出来上がってきました。  廃仏毀釈運動というのがあって、文化財を失わないためにいろんな法律で守ろうという事がもとで、古い価値観を備えた造形物も大切にするという意識はあったんだと思います。   保存も重要視する、公開も重要視するという事ですが、西洋とは材料、材質も違うので劣化しやすい、有機物、植物をもとにした紙とか、そういった材料が多いので、光を当てている限りは劣化してしまいます。  保存と展示との兼ね合いになります。  

東京国立博物館には今約12万件あります。  いろんな専門の研究員が保存、修復などに関わっています。  10月18日から150周年記念「国宝東京国立博物館のすべて」を開催。  当館が所蔵している国宝89点をすべて展示します。   久隅守景の納涼図屏風が好きでそれも今回展示されます。  狩野永徳長谷川等伯だとか著名の画家の国宝も展示されます。   2012年の創立140周年のころから多くの方々に来ていただこうと、いろんなイベント、プロジェクトを組んで、100万人を超えています。  観てもらわないともったいないんです。  年間160万人きていただくぐらいになりました。   学校で日本の文化を紹介されtも全く実感がわかないんですね。  

明治以来様々な文明が流れ込んできて価値観、世界観が変わっては来ているんですが、気付かないところで日本の文化財自体が、今の私たちの暮らしの中で培われているような精神的な部分とか、可成り色濃く残っているんです。  気づかないだけでたくさん残っています。  現実は嬉しい事楽しい事だけではなくてきつい事苦しいことが沢山あります。  そこを日本の場合は考え方を変えたり、精神的により素晴らしいものに置き換えて表現したりする。   背景にどういった社会的成り立ちがあったり、作られた経緯があったり、そういったものを知るだけで、本来古いものは権力者であるとか、限られた人のために作られたも音が多いんですが、今は国民の文化財ですので、自分たちのものとして知ってもらって、考えてもらうと、何かしら生きる糧になるようなところもあるのではないかと思います。  

納涼図屏風を観ているだけで、いろんな発想とか想像もできるストーリー性を感じたりもするんですが、博物館、美術館にいってぼーっとしているだけでも、その時間で様々な考えが浮かんだり、落ち付いたり、そういった時間を本当につくれると思います。  理不尽にいろいろ制限された時代とは違って、今は本当に自由で、その世界でかつての時代を振り返ってみた時に、自分がこれからどんなふうに暮らしてゆくのかという時にいろんなヒントが出てくるんじゃないかなあと思います。

東京国立博物館ではいろんな材質、材料、分野が揃っているので、自分で興味のあるものを観ていただく、まずは一点一点のいつ作られたのか、誰が描いたのかなどはどうでもいい、自分の目がゆくもの、心が惹かれるものを見つけてもらって、一点見つかるとどんどん繋がっていきます。   絵を見た時に松の林、鳥、花、人物を描いていると目にするだけだと「ふーん」という形で終わってしまいますが、どんなふうに描いているか、筆がどんなふうに入っているか、色がどんなふうに置かれているか、ちょっとだけ気にすると慣れてきます。   回数を重ねてゆくと筆で墨を画面に置いてゆくときに、たっぷり墨が乗っている、擦れているというのは区別できるはずなので、そこから始まってほしいと思います。 どういう意図でモチーフ、対象が形作られていったのかとか、判って来ますので、それと内容、コンテンツは完全に一致していますので、言い方を変えますと、表現する内容のために表現方法があるんです。  それを知っていただくと博物館で品物を見ていただく世界がどんどん広がるのではないかと思います。   

東京国立博物館に勤めて22年になりますが、10年ぐらい経った時に、光学的な技術が発達して印刷技術も格段に発展してきて、博物館の文化財を光学的に記録する(高精細画像で記録する)こと、それを印刷する技術(和紙に印刷するとか)とかが凄く進展しました。   いろんな企業から東京国立博物館と共同していろんな事業が出来ないか、という相談を受けるようになりました。  国宝、文化財の超高精細画像の印刷、複製品をつくったりして、その画像データでバーチャルリアリティーの映像コンテンツを作ったりしました。  文化財を見る時の手助けになるのではないかと考えました。  

納涼図屏風には3人の人物が寝そべっていて、左上には月がある。 どんどん真っ暗になって行く一瞬が描かれている。  慣れていないとそれを感じ取れない。  動画で暗くしてやったり、ひょうたんの葉っぱが揺れて風を感じたりするが、絵には風は絵が描かれてはいない。  映像化することで絵には暗さ、風とかが凝縮されていることが視覚的に実感してもらえるんじゃんないかと思います。  私自身、漫画だとかアニメーションだとかと、日本の絵画、造形と基本的には一直線と感じています。  造形の表現の方法論というのも一つの歴史的な直線状に並べた時に、一つの絵を映像にしたり複製を使ったイベントをしたりすることは、私自身は全くずれはないと思っています。  

日本の漫画文化、アニメーション文化は欧米と違って、培われた伝統的な考えが作家さんたちは意識しなくても、残って出てきているんだと思います。   古美術を漫画とかアニメーションと同じような考え方で示す事は凄く理解されやすいとは、私自身は考えています。

小学校の頃は油絵などを描いていました。  高校時代は京都、奈良の寺院を訪ね歩きました。   知らず知らずに今の職業につながって行ったんじゃないかと思います。     

納涼図屏風は静かで地味な絵ですが、凄まじく奥深い、なにか内容を含んでいると思います。 




 

2022年9月28日水曜日

藤依里子(植物文様研究家)       ・【心に花を咲かせて】 願いを込めた植物文様

藤依里子(植物文様研究家)       ・【心に花を咲かせて】  願いを込めた植物文様 

昔から日本人は花の絵など植物の図柄を着物に描いたり、漆器、食器、襖絵などに描いてきました。   着物を収集し、その文様を調べて30年という藤依里子さんは、その文様を調べてゆくと単に美しいから描いたというのではなくて、その文様に祈りや願いが込められているというのを感じていると言います。   願いを込めた植物文様の話を伺いました。

松竹梅がありますが、めでたいという感じがします。  お寿司屋さんなどでも松竹梅と値段が書かれていて値段が違います。   本当は文様では同列に扱っています。  冬頑張っているよね、という植物たちです。   「三寒の友」という言葉を使っていたと思いますが、人の生き方を表しているよ、という事につながったという風にされています。  中国の「歳寒三友」が日本に伝わったものなんです。  寒い中でも3人のお友達みたいな言い方ですが、冬の寒さに耐える三種の植物、緑を保つ松と竹、他の植物に先駆けて咲く梅、という事で冬の象徴になっています。   梅は香雪、貞節、清純という感じで匂いがいいです。  昔は花見は梅でした。  松はしっかりしていてドンとしていて冬でも元気でいる。  竹も元気で人間こうあるべきだ、寒さに負けては駄目なんだみたいな事です。

「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」  皆さん美人の象徴だと言いますが、いらいら立っている、クラッとした時に座る、ふらふらと歩いている。  どちらかというと生薬として使われている。 「立てば芍薬」の”立てば”はイライラとし気のたっている女性を意味し、芍薬により改善されます。  芍薬の根を使うのですが、痛みを取ったり、筋肉のこわばりを取ったりします。  「座れば牡丹」の”座れば”はペタンと座ってばかりいるような女性を意味し、それは「お血(おけつ)」(お=やまいだれ+於)が原因となっていることもあります。 「お血」、腹部に血液が滞った状態を意味します。「お血」は牡丹の根の皮の部分(牡丹皮・ぼたんぴ)により改善されます。  「歩く姿は百合の花」は百合の花のようにナヨナヨとして歩いている様子を表現しており、心身症のような状態を意味します。  その場合には百合の球根を用います。 昔の人は字が読めなかった人が多かった。   薬になるのではないかというものを図案化した。  割と植物は薬になるものが多いです。 着物の文様にされています。

どんなに綺麗でもあんまり見ない植物があります。 トリカブト、着物の文様にはされていません。   スズラン、曼殊沙華、も同様に文様がない。   重陽の節句(9月9日)には菊水を飲んだりしていました。  菖蒲の節句(5月5日)では菖蒲湯(魔除け)、桃の節句(3月3日)桃の葉は肌荒れ、しもやけ。   薬効のあるものを柄、文様にして伝えてゆきました。   南天も喉の薬として使われていたので、図案は多いです。   南天と福寿草を一緒に描て、「難が転じて福になる」という祈りが込められています。    お子さんの着物に茄子が書いてありました。  理解できなかったが、お琴の音を調節するために琴柱というものが使われますが、茄子と一緒に描いたものが、「ことをなす」、子供が夢を達成する、という願いを込めています。  産着などでも使われている麻の葉の文様、麻の葉は物凄く早く大きくなる植物で、子供が早く成長するようにという事で祈りが出て来ます。  麻の葉の文様は星形にも見えなくもない、桔梗の花のようにも見えなくもない。  安倍晴明が魔除けに使っていた。  これが護符になる。  麻の葉も成長を願い守ってもらう。

トクサと流水を一緒に組み合わせたりした流水トクサ紋が羽織に描かれているものがあるが、トクサ(砥草)はものが磨けるらしい。  トクサでお金を磨くと光るらしい。 金運上昇。   お金の流れと水の流れが同じようだと捉えてトクサと流水の文様があります。

刀の鞘とかに「猿と栗」が描かれている。  搗栗(かちぐり)=勝ち栗、猿=去る、すなわち勝ち去る、堂々と去ってゆく。  これも祈っているわけです。   トンボも勝ち虫と言います。  前にしか飛ばない。  トンボは名前も変わるから出世の象徴にもしました。  ヤゴの時に鎧のように感じたので武士が好んだ。  

椿は二つ説があって一つは武士が縁起の悪いのは頭が落ちるように花がポタっと落ちる、女性は出産がポタっと落ちた方がいいというところで安産に役立つ模様だとされた。    椿油にまつわる美しくなれる美の象徴という事です。

梅紋にもいろんな紋があります。  丸く描かれている花の紋が結構ありますが、円が縁という事で縁がありますようにという事です。   銀杏の紋は扇に似ていて末広がりという事で縁起の良いものとされる。   御神木でオスとメスの木があって実がなり、夫婦の象徴として縁起がいい。  秋には葉が黄金色となり、お金がざっくざっく入って来る文様なんです。   

秋の七草は全部薬でした。  秋草紋で図案化されています。  春の七草は何故かないんです。  かぶら文様はあるが大根になると見ない。  かぶというとカブが上がるという言葉遊びです。  野菜で文様になっているのがお正月のクワイ、芽が出るという事で、意味があると野菜でも文様になります。   ウリ科の植物は結構図案化されています。  ウリ科は種が多いから子宝という事で図案化されている。  ひょうたんは文様としてよく見かけます。   ひょうたんが3つで三拍子、お祭りの時の三拍子となります。  ひょうたんが六つになると無病、病にならない。  

唐草はエジプトからやってきた文様ともいわれています。  唐草は切れないようにずーっとつながっている。  永遠の命を求めてという事で、唐草紋がよく使われている。  バラと菊と松葉、常に元気でありたいとか、永遠に美しくありたいとか、松葉がずっとくっついているという事で愛されたい文様、という事です。  松葉茶があります。 文様になっている植物は結構お茶になります。   紫陽花は毒にもなり薬にもなります。     最近は品種改良などがあり昔のままというわけというわけにはいきません。  生薬辞典とかみて検証したうえでやってください。  

私は日本の文様というところから入っています。  30年前ぐらいに京都の水野さんと知り合い、そのうち着物がなくなるというように言っていました。  着物の柄に開運とかがあり、何らかの形で意味があることが判りました。  日本の文化、伝承を残したい、文様について知って貰いたいという思いから始まりました。   神様とか願い、祈りが文様にも通じている。  いろんなことを笑いに変えてゆくユニークさ、宮本武蔵も好んだと言われるものがあり、葡萄とリスの組み合わせで、葡萄=武道、リス=律する、日本人らしいと思いました。  身の回りの文様を見直してください。  見えないものが見えてくるかもしれません。  亡くなった叔母が沢山の着物を持っていて、萩ばっかりが多いんです。 萩を調べたら「新しい芽を出すから萩だ」と読んだ時に、叔母は何は新しいものをたえず求めていく生き方をしたかったのかなあとか、本当の自分はここなのよというのを文様に中に託したのかなあとふっと思う事があります。  結婚式などではテッセンの文様が描かれているが、茎は物凄く硬いんです。  強い絆という意味があるんで、テッセンの文様は昔から婚礼の席には欠かせなかった。  






2022年9月27日火曜日

吉田建(音楽プロデューサー・ミュージシャン)・ボーカリストの背中に教えられて

 吉田建(音楽プロデューサー・ミュージシャン)・ボーカリストの背中に教えられて

1949年(昭和24年)東京都渋谷区出身。  早稲田大学在学中にシンガーソングライターの長谷川きよしさんに見いだされプロとして活動を開始、その後1980年代には沢田研二さん、泉谷しげるさんのバックバンドのメンバーとして活動、又音楽プロデューサーとしても沢田研二さんや氷室京介さんはじめ多くのアーティストのアルバムを制作、コンテスト番組の審査員や、アイドル番組にも出演するなど幅広く活躍しています。  今年プロとして活動を開始してから50年を迎えた吉田建さんに伺いました。  

沢田研二さんのバックバンド「エキゾテックス」で、1981年(31歳の時)毎日のようにテレビに出ていました。  ビジュアル系のはしりだったと思います。  紅白でも「晴れのちBLUE BOY」(沢田研二さんの39枚目のシングルという当時としては過激な曲(作曲:大沢誉志幸)で印象に残っている出来事でした。  

高度成長期で、大学卒業して3年ぐらいプロの道をやって、厳しかったら就職しようというような思いでいましたが、始めてみたら順調にいき、今年で50年になります。  早稲田大学では「ハイソサエティ・オーケストラ」のバンドでベースを弾いていました。  経済学を勉強して広告代理店、商社、外務省などに入りたいと思っていました。  4年生の時にはプロ活動していました。   或る時、シンガーソングライターの長谷川きよしさんに見いだされて、一緒に活動しました。  プロになる気はなくて就職試験を受け就職も決まりました。  しかし、音楽に対する情熱は持っていて、音楽活動を続けてベースを評価してくれる人がいて、認めてもらいました。   3年ぐらい長谷川さんと付き合ってマインドを物凄く教えてもらいました。  音の出し方、考え方、など。 それは今でも繋がっています。   オーディションがあって、沢田研二さんのバックバンド「エキゾティクス」に入ることが出来ました。  やりかたが全く変わりました。  

7月に本を出しました。 「平成とロックと吉田建の弁明」  全くジャンルの違う人との対談形式。(斎藤由多加氏)   ロックはエレキギターが現れたからこそできた音楽だと僕は思っています。  エレキギターの登場で大人数でやる音楽から変わってきて身近な音楽になった。   初プロデュースは1981,2年のりりイーさんで、その後氷室京介さん、沢田研二さんから声がかかり、泉谷しげるさんほか色々プロデュースさせてもらいました。  沢田研二さんの初プロデュースは1989年になります。   

当時のレコーディングと今とでは大分変ってしまいました。   ドラム、ベース、ピアノ、ギターの4人ぐらいが集まってやるというのが基本的なレコーディングの方法だったんですが、今はデジタルになって中々そういう事はなくなってきました。   こういう風にしたいという事を伝えて、ミュージシャンもその曲を理解して、良い時の一瞬を捕まえるという事ですかね。  

泉谷しげるさんとの出会いは大きかったんですが、全然知らなかった。   或るイベントにバックをやっていた時に泉谷さんが出ていて、そこで大ショックを受けました。(25,6歳の時)    「春のからっ風」を歌ったんです。  客席でなんだフォークかと思いながら聞いていたんですが、「誰が呼ぶ声に答えるものか」という詩が出てくるが、それを聞いた瞬間に涙が出て来ました。  まさに今の自分の気持ちにグサッと刺さったというんですかね。  泉谷さんのバックをやってみたいと思っていたら、ある時に泉谷さんがゲストとして現れて初めて話をしました。   東京に帰ったら泉谷さんのマネージャーから電話が掛かってきて、泉谷さんが建さんとやりたがっていますという事でした。   泉谷さんは自分のハートに火をつけてくれる世界なんですよね。

「KinKi Kids」も今年25周年で、キラキラしていて好きです。  バックですからいろいろな人の背中を見てきて、いろんなことを少しづつ吸収してきたと思います。  沢田さんは立ってしゃべっている時につま先まで自分のことが判っているんですね。  自分がどう映っているか、どう見えているかという事をつま先まで神経が行っている気がします。  人前で演奏するときに休んでいる時でもきちっとして、どうでもいい格好をしていたら全部壊れちゃうんだという事を言いたいんです。  

吉田建さんのプロデュースのアルバム「セイントインナイト」から 「誰かが僕を見つめている」  歌:沢田研二

  

2022年9月26日月曜日

2022年9月25日日曜日

雨宮正信(スタントマン)        ・交通事故防止に燃えるスタントマン魂

雨宮正信(スタントマン)        ・交通事故防止に燃えるスタントマン魂 

今年も今月の30日まで秋の全国交通安全運動が行われていますが、毎年この時期小中学校の校庭で児童や生徒たちの悲鳴が上がります。  自転車が車にはねられてボンネットに乗りあげて地面にたたきつけられる迫真の交通事故の再現シーン、加害者や被害者を生々しく演じるのが雨宮さんのスタントマン仲間です。  こうした恐怖を直視させる教育技法をスケアード・ストレートと呼ぶそうです。  交通事故防止に大きな成果を上げています。   雨宮さんは30年以上にわたるこうした身体を張った取り組みが評価されて、2020年交通安全に功績のあった人に贈られる最高栄誉賞緑十字金章を受章しました。  半世紀近いスタントマン経験を持つ雨宮さんに伺いました。

トラックの助手席に乗って、運転する人を見て凄いと思って運転に興味を持ち始めました。 サーキットなどに明け暮れていました。  或る時アメリカから来ていたスタントカーショーに日本人が真似してやってみようという事があり、面白そうだと思ってスタントカーショーをやっている会社に応募して受かりました。   ショーに参加して後半でボンネットに括りつけられて火の壁に突っ込んでゆくというところから始まりました。  その後解体寸前の車をもって行って多摩川の河原で練習していました。   スピン、急発進、急ブレーキなどは練習しますが、後はセンス、感性といった感じです。   

スタントカーショーチームに映画の方からオファーが来てやりだしました。   「狂った野獣」という映画に出ました。(1976年)  走っているバスに突っ込むというようなシーンです。    監督から「お前の車の走り方は生きているね」と言われました。   外国作品を多く見るようになりいろいろ工夫するようにました。  「太陽にほえろ」では2年間ぐらい出ました。  映画では「サーキットの狼」、スタントマンの会社を作って3つぐらいの会社が協力して「この愛の物語」を作り上げました。  映画「ゴジラ」にもいろいろな作品に全部参加しました。   

交通事故はこういう風に起きるんだよというような教育映画も長い期間やっていました。 或る時自動車教習所で「イベントがあるんだけれども、映画ではなく実際に目の前でやってもらえませんか」と言われやりました。(平成元年)   映画とは違うところもあるので0.何秒の差で運転席にずれたところに当てるとか、広い土地を借りて練習はしました。  区役所から学校の方でもお願いしますという話がいろいろ舞い込むようになりました。   その地域で一番多い事故を選んでやってきました。      校庭なのでスピードではなく、安全確認をしないで飛び出してくるというのが基本です。    ドライバーの目線、死角、などでこういう事故が起きてしまうという事を説明しながら、歩行者もむやみに車に近づかないようにと注意を促します。  今では対処の仕方、逃げ方などいろいろ説明が増えてきました。   

年間30件ぐらいでしたが、警視庁、警察庁などが観に来て、恐怖を直視させるという意味で、スケアード・ストレートという名前でやって行こうということになりました。  年間300か所を越えて実施してきました。(都内だけではなく全国に波及)  小、中,高校に展開しました。   大学でも興味のあるところとか、後イベントですね。   交通事故も減ってきました。  持ち時間は45分ありますが、厳しいところだけを見せていても、同じように見えてきてしまうので、ほっとさせるような場面を設けるようなやり方をすると、事故の一つ一つを分離して捉えると思うので、そういった方法をとっています。  

2020年交通安全に功績のあった人に贈られる最高栄誉賞緑十字金章を受章しました。   感謝状はたくさんいただき額にいれて壁、天井まで貼ってあります。  学校ではアンケートを取って送ってきてくれるところもあります。   良く見ていてくれる様子も把握できるし、今後の参考になることもあります。  波動、音それはライブでは通じると思います。  終わった後に交通事故を無くすにはどうしたらいいかという質問、取材に来ますが、それは人間の優しさですよと、最初のころからいっていたんですが ,あまり理解をされなかった。  時間の余裕というか、人間の余裕というか、優しさはそういうところに通じてくるのではないかと思います。  例えば朝ぎりぎりに起きて車に乗って急いでゆくというようなところには危険が一杯あると思うし、朝、喧嘩して出ていくとかも同様です。  人間余裕を持っていないと優しさなんてできないと思います。  歩行者もわたりますよという手を上げて意思表示をすると車も停まります、  

72歳になりましたが、視力も足腰もしっかりしています。  若い人も一度こちらの門を叩いてもらえればと思います。  



2022年9月23日金曜日

斎藤惇夫(児童文学者)         ・【みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの】 あなたを支える子ども時代のあなたを再び      

 斎藤惇夫(児童文学者)         ・【みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの】  あなたを支える子ども時代のあなたを再び (初回:2022/2/2)   

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2022/02/blog-post_2.html をご覧ください。 


2022年9月22日木曜日

うつみ宮土理(タレント)        ・【わたし終いの極意】 「自分が楽しい」と思えることを

 うつみ宮土理(タレント)   ・【わたし終いの極意】  「自分が楽しい」と思えることを

1942年東京生まれ、24歳の時に民放の子供向けの先生役でタレントデビュー、ケロンパの愛称で親しまれバラエティーやドラマなどで幅広く活躍しています。  又公式動画サイトでの情報発信も始め若い世代からも注目を集めています。  一方私生活では2015年に最愛の夫で俳優の愛川欽也さんを亡くし、そこから1,2年はほとんど記憶にないほどの喪失感に襲われたと言います。  

公式動画サイトが始まったのが今から1年半前です。   身近な話題をと言われてやったら楽しいです。  感覚的に新しものとか面白そうなものって、やった方がいいなって匂って来るんです。  60歳ごろに韓国に語学留学しましたが、当時「冬のソナタ」でヨンジュンさんが出てくるとオーラがあってこんな男の人がいるのかと思って、会いたいと思っていたら、3か月間のソウルにあるキョンヒ大学に留学しませんかというチラシを見ました。  レギュラー番組を持っていましたが、考えて、ときめいた方にいくことで大学に行くことに決めました。    ヨンジュンさんにはロケで一瞬見る事が出来ました。   

夫からは「偉いねえ。 歳とってからも勉強するなんて。」といわれて賛成してもらいました。  キンケロ・シアター(夫婦で作った中目黒にある劇場)でしょっちゅうコンサートをやっているんですが、新しい歌などに挑戦すると、「偉いねえ。 うちでまたそうやって練習をしてるの」と言って、「偉いねえ」と言ってくれる言葉が有難かったです。

韓国語のしゃべりは早く覚えるんですが、本当に辛かったのは宿題で、質問の意味が判らず、おばさんが集まる場所とか喫茶店に行って聞きました。  あれだけ勉強したのは脳の活性化によかったと思います。   帰ってきて韓国語のドラマを観るようになったら韓国語が良く判るようになったと思いました。   夫は「おかえりなさい かみさん やったねえ」という垂れ幕を玄関のところに設置して、花吹雪を撒いて拍手してくれました。  「偉かったねえ 偉かったねえ」と喜んでくれました。  

亡くなったのが2015年で7年前です。  家で看病していましたが、入院させるということは思いつかなかったです。  逝っちゃうという思いはなく治ると思っていました。   死んでしまったら何にも判らなくなって、私の目の前に黒いシャッターが下りたんです。  絶望という言葉で表せない、私も終わっちゃったと思いました。(4月15日)  あの頃目黒川の桜が咲いていましたが、そこを歩いていてやせこけた私が桜を見ていたらしい姿を見て本当に気の毒だったと言います。  私は桜を見ていたことは覚えていませんでした。 お葬式をしたのは覚えていますが、どういう風に通って火葬場にいったのか、何を食べたのかなど覚えていません。   お骨を取ってくれた人が「喉仏がこんなに綺麗に残っている人はいません。 本当に自分より他人のことを大事にする素晴らしい人でしたね。」と言ってくれた言葉が有難かったです。  今は45kgぐらいですが、あの頃は30kg台で食欲がなくて忘れているんです。  心配したマネージャーさんが来て食べ物を作ってくれて、筑前煮を食べておいしいと思いました。  それから食べることに興味を持ち始めて元気になって行きました。  元の私に戻るのに2年ぐらいはかかったと思います。  

朝、空を見てたりすると朝焼けとか太陽が昇ってゆくピンク色とか自然の美しさがしみじみ判るようになって来ました。  自然って癒してくれますね。  あと食べ物、友達の笑顔。

キンキンがやっていた最後の番組の最終回をどんなに苦しかったと思うんですが、それをやって打ち上げパーティーがあったんです。   パーティーには出られないから代わりに出て行って、と言われて私が出ました。  家に帰ったた寝ていました。 それでスーッとです。  最後まで仕事を全うして逝ったから悔いは無かったと思います。   私が亡くなったら「頑張ったね、かみさん」と言われるような毎日を過ごそうと思っています。   両親にも「よくやったよ」と言われるように、私の兄弟、その子供、孫に時々好きな肉を送っています。

私の実家には「天網恢恢疎にして漏らさず」という垂れ幕があります。  簡単に言うと「天はお見通し」。  又「声は顔」って書いてありました。  声を大きくするように言われました。    お礼は3回言いなさいと言われました。  中学から大学まで一緒だった友達がいますが、彼女にも感謝しています。  今私が幸せなのは、母、キンキン、友達、マネージャー、スタッフなどから背中を押してくれたからだと思います。      ラジオ体操は毎日やっています。 近所の公園に100人ぐらい集まって、(女性の方が多くて)その後コーヒーをに見ながら話に花を咲かせています。   

もう80歳を迎えます。  どんどん楽しいことをやって行きたいと思います。   「豆子セブンティーン」というコメディーの舞台が11月からあり稽古が始まっています。  80歳で17歳の役をやります。  背筋を伸ばして大股で歩くように意識しています。  腰痛で大変です。  主役でセリフがいっぱいあり歌も5曲ぐらい歌いますので大変です。

終活は考えたことはないです。   最後の瞬間まで与えられた仕事、やる事をやって行けばいいんじゃないかと思います。   

2022年9月21日水曜日

今中慎二(プロ野球解説者)       ・【スポーツ明日への伝言】 わが投手人生、悔いはあれども後悔なし

今中慎二元・プロ野球投手・プロ野球解説者)       ・【スポーツ明日への伝言】  わが投手人生、悔いはあれども後悔なし 

今中さんは1988年ドラフト1位で大阪桐蔭高校から中日ドラゴンズに入団、プロ1年目に初勝利を挙げると年ごとに勝ち星を伸ばしてゆきましたが、4年目の1992年試合中に打球を投げる方の左手に当ててしまい骨折、一時戦列を離れます。   しかし、そのリハビリの中で磨きをかけたのがスローカーブでした。   復帰後はそのカーブが今中さんの大きな武器になり、翌1993年に17勝で最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得、更に沢村賞を受賞するなど中日のエースに成長しました。  また 今中さんの現役生活の終盤は左肩の痛みとの戦いながらのシーズンが続き、プロ野球選手の成功と苦悩、両方を知る選手でもあります。  現在は野球解説者として活躍中です。  野球人生、ピッチングへのこだわりなどを伺いました。

元々右投げでしたが、兄が野球を始めてグラブを持って行ってしまい、近所のおばさんがグラブを持ってきたのが左用のグラブでした。   そのまま使って投げていたら投げれるようになりました。(小学校2年生ぐらい)    箸、字を書くのは右です。   兄と同じチームに入る事になりました。    大阪府門真市は少年野球が盛んな街で小学校3年生の時にNHKの野球教室があり川上さんが街にきました。  大阪産大高校大東校舎に進学、その後名前が大阪桐蔭高校に変わりました。(3年生の時)   練習も長いし、厳しいし、きつい高校生活を送りました。(1,2年生のころ)    家に帰るのは11時ぐらいで朝は7時には家を出ました。   プロになるなんて思ってもみなかったですが、ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団することになりました。  

練習で投げた瞬間打たれてばっかりで、自分ではだめだなと思いました。    1年目に1勝、2年目に二桁勝利、3年目は12勝。  1年目、星野監督とはコミュニケーションはゼロでハイ、イイエぐらいのことしか言えませんでした。  投手に対しては特に厳しかったです。  上原さんと一緒に怒られに行って、怒られる前に緊張のあまり上原さんは倒れてしまいましたから。  1992年4月19日の巨人戦で、相手の打った打球が飛んできて左手を伸ばして取りに行った時に当たり所が悪くて痛くて、7回まで投げて変わりました。     夜も眠れず、朝病院に行ったら骨折していました。   手術をしました。  リハビリでキャッチボールをしてもちょっと痛くて、カーブを投げると痛くなかった。   肩を作らないといけないという事でカーブでキャッチボールを投げていました。  そのうちに直球も投げられるようになりました。     ブルベンで投げ始めたらカーブが今までとは違っていました。   2軍の試合で投げたら全然打たれないんです。    1軍に入ってカーブを投げても打たれませんでした。  

1993年31試合に登板して14完投17勝、奪三振247、最多勝、最多奪三振、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、沢村賞を受賞。   痛いところはどこにもなかった。  1994年巨人と最後まで優勝を争った10月8日先発しました。  名古屋球場が異様な状態でした。  試合前も試合中も緊張してという事はなかったです。  中日が破れて巨人が優勝することになる。    立ちあがりは余り良くないタイプですが、初回3者凡退でなんか気持ちが悪いなあと思いながらゲームに入って行ったのを覚えています。   2回に投げそこなったのを落合さんからホームランを打たれてしまいました。   同点に追いついて3回インコースに投げたボールが1塁と2塁の後ろに落ちて、打たれた瞬間にホームランよりもショックでした。  そこから自分では冷静ではなくなってしまいました。   後から考えて、松井秀喜が送りバントをしたことも覚えていませんでした。   その経験が、打たれても冷静に切り替えることができるようになりました。   

落合さんは味方にいるころは良く一塁から話しかけてくれて、打者に対するヒントは教えてくれましたが、どこへ投げろとかは一切言わないで、それは投手に考えさせるというような対応でした。   結論は教えてくれないです。  

1994年には多少肩の痛みを感じるようになりました。   翌年キャンプに入るころには不安はありました。  1997年の自主トレからボールが投げられなくなりました。   沖縄でのキャンプでは誤魔化しながらやっていましたが、開幕投手は言われていましたが、1週間前のオープン戦で投げても球速が122kmで、相手チームから真面目に投げろと言われてしまいました。  後で監督のところに行って開幕投手は無理ですと言いました。  1997,8年24試合出場して4勝のみでした。  練習に行くのも痛くて厭だなあと思いました。  福岡の医師に診てもらって、痛み止めの注射を打ってもらったりしながら、1999年に手術をすることに決断しました。  1年はリハビリが必要と言われた。  5時間30分の手術でした。   2001年7試合に登板、このシーズンが最後になる。   先発して駄目だったら辞めようと思っていましたが、そういう機会はなく悔いは残りますが、仕方ない部分は有るので。

11月10日に引退会見、「後悔は有りません、ただ悔いはあります。」という言葉を残しました。    先発をして白黒はっきりしたかったというのがそこです。         13年間で91勝、完封74、奪三振が1129。  最後の5年間は苦しい思いをしましたが、これは後々生きるだろうとは思っていました。   コーチになった時には怪我とか具合いが悪そうな選手のことが理解でき、無理をさせないような対応をしていきました。




2022年9月20日火曜日

窪美澄(作家)             ・心に一編の物語を

 窪美澄(作家)             ・心に一編の物語を

第167回直木賞を受賞した窪さん、3回目の候補作で受賞を果たしました。  窪さんは1965年東京生まれ、デビューは44歳の時でした。  デビュー作「ふがいない僕は空をみた」では本屋大賞で第二位、山本周五郎賞も受賞、さらに映画化されるなど大変話題になりました。 それ以来次々と作品を出し続けた窪さんに、小説が持つ力について伺いました。

直木賞の贈呈式が8月26日で、夏があっという間に去って行ったという感じです。     なかなか本が売れない時代なので、特に小説は売れにくい時代ではあります。  デビュー作から書店員さんから応援され続けてこれた作家なのでそこにはすごく感謝の気持ちがあります。  選考委員の浅田次郎さんからは技術的にすばらいという事を重ねて言ってくださって本当にありがたかったです。   受賞作「夜に星を放つ」は5つの物語短編集ですが、一人称の小説、自分の内面を掘り下げていかなければいけないところが非常によくできていたと浅田さんから言っていただきました。   男の子が3編、女の子が2編なんですが、男性の気持ちになって書くことが大変なところがありました。   月刊誌に掲載されたのが2015年から2021年で、一番最初の作品が「銀紙色のアンタレス」ですが、次々に進めていきました。  これを書いたほとんどの時期がコロナ禍でしたので、重苦しい終わり方ではなくて、ちょっと希望が持てるような物語にしたいと思って書きました。     コロナ禍の時に日本の人はどうしていたんだろうという事を書き留めておきたかったという事が凄くありました。   私は目の前の起きたことを無視できないということがことが強いんです。  

「夜に星を放つ」の第一作「真夜中のアボカド」は婚活アプリで恋人を探し始める。  コロナ禍だからこそ人のぬくもりだとか、ふれあいとかが欲しいんだという事を強く思うようになりました。  

第五作「星の随に」はモデルがいました。  以前住んでいたマンションで男の子が泣いていました。   泣き方が普通ではないし何とかしなければいけないと思って、声を掛けました。  10歳ぐらいの男の子で、私が一緒に謝りにお父さんのところに行こうかといったら、彼が身の上話を始めて、僕のお母さんは隣りの駅に住んでいてなかなか会えない、と言って離婚して新しいお母さんが来て赤ちゃんがいるんだと知りました。   一緒に行ったら若いお父さんが出てきたんですが、私のしたことが本当に良かったのかなあとずーっと思っていて、いろいろ考えてしまいました。   それが「星の随に」の物語のテーマにもなっているという感じです。  最後に少年が肩車されて歩いていきます。  

小説のいいところは自分のペースで読める事なんですね。   読み返すこともできる。  時間を自由に出来るエンターテーメントなので、長く効くお薬みたいに心に残るんじゃないかという気がします。   戦争とか、大震災とか大変な現実を小説に取り込むことは非常に難しいところがあります。    それを私は一人称で書くことが多いので、その通りの気持ちにならないと書けないんです。   例えば、戦争なら戦禍の中にいるようなリアリティーを感じさせないといけないので、想像力にも限度があるのでなかなか難しいです。  虐待のシーンなどを書いていると、本当に身体の痛みを感じるような時もあり、自分を削りながら書かないとリアリティーが生まれないような気もします。   一方で、泣くほどまでのめり込んでしまうと、どうしても客観的でない文章になってしまうので、そのバランスというのが凄く難しいです。 

デビュー作「ふがいない僕は空をみた」であの少年を書いた時も、こんな少年がいま日本にいるわけが無いと言われました。   でも私にはその存在が見えていて、どうしてみんなにはその存在が目に見えないのだろうと凄く不思議で、私自身もヤングケアラーであったし、周りにもいましたので、一見世間から見えない人たちを積極的に書いていかなければいけないと思っていました。 

晴天の迷いクジラ」  特に性的な描写が多かったりすると、この人は性的に経験豊富な人ではないかと思われていた節もありますが、実際にはそうではないし、作品と自分とは距離があるんですよね。  こんなものを書いてみてはどうですかと言われた方が仕事はしやすいです。   

10代のころは作家になりたいと思っていました。  40歳に入ってから、このまま小説を書かないで死んだら後悔するとふっと思って、離婚もしていて、子供の学費を稼がないといけないという事もあり、小説を書いてみようと思いました。   ライターは取材した以上のことは書かないんですが、小説はそういったことがないので、自由度が高い分、やっぱり難しいですね。  私はその人物が何を食べてどう生きているのかという事を結構細かく書くんです。  食べ物でその人の経済状態が判って来ます。  この人はこんなところに興味があるんだなとか見えてきます。

「ふがいない僕は空をみた」は1話書いては終わり、2話書いては終わり、先が見えない中書いていった作品です。   最終話がああいう形で終わるとは私は思っていなかったです。学費を稼がなくちゃみたいなプレッシャーがあると割と燃えるタイプなんです。     賞に関しては意識していないです。  取りに行こうと思って取りに行けるものでは全くないので、そんなことは全く考えていなかったです。   子供は28歳になりました。    彼は建築設計の仕事をしています。   

東京都稲城市に生まれましたが、酒屋をやっていましたが、父の代から段々没落して行くんです。   大変なことが起きて自己破産して酒屋はなくなりました。   母が私が12歳の時に家を出てしまって、祖母が私たち兄弟を育ててはくれましたが、弟の面倒は私がみていました。  離婚家庭の子供だったし、自分も離婚しているし、おばあちゃん子だったので、一般的な家庭からは遠かったです。   でもそういう家族の形でも全然おかしくないという事を言いたくて小説を書いているところもあります。   

アニバーサリー」2012年出版。  2011年に東日本大震災があり、それが描かれている。  週刊誌連載でした。   多くの作家はこれを書くには時間がかかると言っていましたが、時間が経ってしまうと、記憶が変わってきてしまうし、雨が怖いと思った感覚とかが、薄れてきてしまうような感じがしたので時間を空けずに書きたかったんです。   取材をするものとしないものがあります。  「晴天の迷いクジラ」では取材をしています。  鹿児島は元夫の生まれ故郷で鹿児島の言葉が好きで、そこで物語をつぐみたかった。  

いないことになっている人たちを小説に書きたかった。   例えば、虐待を受けている子たちの声って、本当の声は届いているようで届いていない。    虐待の物語を書くと言うと最終的には親を許してハッピーエンドですとなりがちですが、実際の声はそんなもんじゃないだろうという気がしていて、親と円満でなくてもいいのではと、繰り返し言いたいです。   私は親との家庭環境はうまくいっていなかったが、だからと言って自分を悪く思うのはもうやめようと思って、親のことは大事に思えない自分を一番に考えようと最近は思うようになりました。  そのことを小説に書いていきたいと思っています。   両親がいて子供が二人いてそれが正しい家族だという様なことは嫌いで、シングルマザー、シングルファザー、結婚していなくてもいいし、それが家族ですよという事は繰り返し小説に書きたいと思っています。  晴天の迷いクジラ」では解決法、答えが書いてあるわけではないが、この物語は貴方の心に寄り添いますよという事だけは私は言えるので、読んで欲しい作品ではあります。  読書は良く効く薬ではあるわけで、本屋さんに行って興味のある本を読んで欲しいと思います。  

更年期という事を一つテーマに取り上げてみたいし、たくましく生きてゆく女性の物語も書いてみたいです。

2022年9月19日月曜日

一龍齋貞友(講談師)          ・【にっぽんの音】

 一龍齋貞友(講談師)          ・【にっぽんの音】

進行役:能楽師狂言方 大藏基誠

声優として忍たま乱太郎の福富しんべヱなどをやっています。  アニメなどでいろいろ活躍しています。   クレヨンしんちゃんではマサオくん、ちびまる子ちゃんのお母さんなどなど。     講談は若い人も増えてきました。 入門する人も増えてきました。   講談の内容としては、軍記もの、侍をピンポイントで扱うもの、人情もの、白波もの(泥棒)、侠客もの、大名のお家騒動、怪談話、などがあります。   師匠は一龍齋貞水です。(人間国宝)   師匠は怪談話が多いです。   

声優が先で講談師がその後になりました。  講談はあまり面白くないものと思っていましたが、師匠の高座を聞いて、前席はお家騒動の話で何言っているのか全然わかりませんでした。    後席が泥棒の話でした。  情景が目に浮かぶ、凄いと思って、涙が出てきてしまいました。  悪人と言われた人にも親の思いがあるだろうし、人間全部が全部悪ではない、そういった心の機微というものを描いているのが講談の良さなんじゃないかと思います。   講談は起承転結がないといけないんですね。  ストーリー展開が大事です。

講談に対して失礼かなと思って、声優は辞めようと思いましたが、師匠が人より時間がかかっても続けて行けばいいじゃないかと言われました。  師匠の身の回りのことを20年ぐらいはやっていました。   弟子はやるものと思っていましたが、今の方ではどうでしょうか。   

大藏:稽古以外のところでいろいろ話を聞くと、それが積み重なってスピリットが出来てくるとか、そういったことはあると思います。  稽古以外の時間を師匠といるという事は大事ですね。

この演目のポイントはどこ、みたいな話を双方が話をするのが好きで、私は人の話を聞くのが好きだったので、内容の分析みたいなことを師匠と話をしているのが凄く楽しかったです。(2年前に旅立たれてしまいましたが。)   

大藏:狂言では台本に書いてあるのがすべてで、アドリブは一切ないし、感情もある程度決めつけられている部分があって、今の世のなかこれで通じるだろうという事でやる事はないですが、講談ではどうでしょうか。

それは凄く緩いと思います。  本当は30分、40分の話も20分でやってねと言われた時に、どこをカットするかが、本人の考え方でその場でカットする事になります。   現代風な言い回しもその人の感性だと思います。   基本の筋は変えずに中身の持ってゆき方は本人の感覚という風に師匠もおっしゃっていました。  

扇子と張扇、張扇は紙は西の内(茨城県常陸大宮市の旧・山方町域で生産される和紙)という紙でくるみます。 中身は舞扇を半分に割ってくるんだりします。  くるみ方もいろいろあります。  話が旨い人はこの張扇の作り方もうまいですね。  本来は弟子が作るものですが、師匠が作るのが上手いので、材料を持って行って作ってもらいます。  

大藏:僕らも張扇を使いますが、革で出来ています。 

和紙を使っていて、早く壊れますが。  12月28日に張扇供養といって、薬研堀不動院で行います。   軍記ものが張扇を一番使います。  強弱もあります。  流派によって叩くところも違います。  

講談をするうえで大事にしていることは、一番大切なのはどうこの話を捉えて、お客様にちゃんとお伝え出来るかなという事を考える事と、それぞれの人物がどれだけ生き生きとちゃんと立体的に演じられるかなという事だと思います。   師匠は人物の人間性を表すのがお上手でした。  表現力と前は思っていましたが、一番大切なのは今は読解力だと思っています。  内容をどれだけちゃんと深く掘り下げられるか、というのが勝負だなと思います。  お客案が映像として思い浮かぶようにお話しできるかどうか、という事がポイントじゃないかと思います。 

日本の音とは、梵鐘、お寺の鐘の音ですかね。  怪談ものもやって行きたいし、話もどんどん増やしていきたいと思っています。

2022年9月18日日曜日

寺本英仁(地方創生プロデューサー)   ・【美味しい仕事人】 グルメで地方を元気に!

 寺本英仁(地方創生プロデューサー)  ・【美味しい仕事人】  グルメで地方を元気に!

島根県邑南町、かつて消滅可能都市に数えられたこともありました。  しかし2004年からはじめた地域の食材を生かしたグルメの街作りの取り組みで820人ほどの若者が移住し、20数件の飲食店が生まれました。   その仕掛人は今年の春まで邑南町役場に勤務していた寺本英仁さん(51歳)です。   寺本さんは高原野菜や石見和牛など地元が誇る食材と料理人を結び付けて、町内に起業する人を呼びこんで、さらに研修制度によって料理人を目指す若者の育成も図っています。  28年務めた役場を退職した寺本さんは過疎という同じ課題を持つ全国の自治体を結び、現在地方創成プロデューサーとして活躍しています。 

公務員は退職しましたが、公務員という気持ちは捨てて居なくて、世の中のために働きたいと思っています。    自分が違う立場で公務員を応援できるような仕事が出来たらなという風に考えて今回決断しました。   現在は「にっぽんA級(永久)グルメ連合アドバイザー」に就任。   北海道鹿部町、島根県邑南町、壱岐島西ノ島町、宮崎県都農町の4町を永遠にこの地の農業と食を残してゆくというところの理念を共有して、一緒にやって行こうという事で盛り上げていっている状況です。   拠点を千代田区のプラットホームサービス(株)に移して、全国の50自治体と連携できるように目指して活動しています。  

邑南町も平成16年10月に市町村大合併をしました。(当時30歳ぐらい)   石見町の職員でしたが、人口減少も激しくこのままいくと地域経済が立ち行かなくなるのではないかと思いました。    食べることはみんなが関心があるので、食で街おこしを考えました。 本庁の観光課に異動になりました。   人口が減って来ると地域でお金を循環してゆくことが難しくなってきます。   当時宮崎県の東国原知事が地元の食材を東京にPRしているのを観て、田舎では特産品を東京にPRしなければいけないのではないかと思って、町長に外に(東京)物を売って行こうという事になりました。  特産品販売を自治体がネットショップをやってゆくという事を行いました。  故郷納税(平成20年)の前にやったことです。  石見和牛を売り込みに行ったんですが、要望の量を賄う事が出来ませんでした。1万人の町から市場に出すのは難しいと思いました。  

邑南町に食べに来てもらったらいいのではないかと発想を変えました。(平成23年)   20店舗ぐらいしかなかったが10年間で50店舗ぐらいになりました。    最初は魅力あるレストランが見当たらなかった。   直営の超高級のレストランを考えました。   東京のレストランの人に声を掛けてシェフに来ていただきました。   本当においしいものは地方にあると思っています。  ソムリエ、パティシエの方も呼んで平成23年にオープンして、銀座のランチよりも高いと評判になりながらも大繁盛しました。   料理人を育ててゆくことをやって行かないと長続きしないと思って、「耕すシェフ」という事で、農業と料理を3年間邑南町の農家の方と一緒に勉強できます、という事で研修制度を始めました。     総務省の「地域おこし協力隊」という事業があり、都会の方に3年間田舎で活動してもらうという制度を活用してうまく予算を使って行いました。   「耕すシェフ」の研修が終わっても地域に残れるというのがこの制度の画期的なところだと思います。  この研修生が10名起業していただいて、飲食店を増やしていただいています。  併せてほかの若い人が来て50店舗になっています。   

石原先生はそば通でそばを邑南町で広めたいという思いがあり、邑南町ではそばの文化はなく、稲作だったが高齢化が進み辞める方も多くなり、そばを蒔くことで耕作放棄地対策をしていこうという事で、そばの学校を作ってイタリアレストランと同じようにやればいいのではないかという事で、学校に弟子入りした人が7店舗立ち上げ、そばの普及をしています。

この町で事業をやって行きたいという覚悟を持てるような人材を作って行かないと、なかなか地方創成は進まないんじゃないかと思います。   食や農業を勉強するだけではなくて、起業のやり方を勉強することで、銀行と提携して「実践起業塾」という事をやったり、いろんな勉強会などをやる事によって邑南町で頑張ってゆくという人を増やすことをやってきました。   空き家を利用して地域の方がお金を出し合って、株式会社を作ったりして回収して、回収された空き家に移住者を受け入れてあげて、家賃だけを払ってもらって、「0円起業」という風に名付けて活動しています。  地域の方が一緒になって応援してゆくと、いろいろな形でのかかわりが出来てきて、地域で応援してゆくシステムが出来てきて、いろんな方を巻き込んでゆく方が長続きしてゆくのではないかと思います。  笑顔があるところに地方創成は生まれると思います。  邑南町では874人の若い人が帰ってきています。(人口の1割近く)  食をキーワードに日本の田舎を元気にしていきたいと思います。


2022年9月17日土曜日

松島靖朗(安養寺住職)         ・コロナ禍で生かされたお寺の力 「おてらおやつクラブ」

 松島靖朗(おてらおやつクラブ代表理事・安養寺住職)   ・コロナ禍で生かされたお寺の力 「おてらおやつクラブ」

奈良県出身、47歳。  お寺のお供えを仏様のお下がりとして、経済的に厳しい状況にある家庭にお裾分けする活動をNPO法人おてらおやつクラブ代表理事を務めています。  おてらおやつクラブは2014年に発足し、現在この取り組みには宗派を超えて全国1800を超えるお寺が参加しています。   お寺の「有る」と社会の「無い」を無理なくつなげることが評価されて、2018年度のグットデザイン大賞を獲得するなど奈良発の取り組みとして注目されています。松島さんは母親の実家である安養寺で育ち、その後東京の大学に進み、一般企業に就職、ITベンチャー企業への転職などを経て、37歳の時に安養寺の住職になったという異色の経歴の持ち主でもあります。  おてらおやつクラブが社会に果たす役割や、コロナ禍で生じた活動の苦労とその中で見えてきたものを伺います。  

2013年大阪市で母親と小さな子供がマンションの一室で餓死したとみられる状態で発見されたというニュースがあり、それがきっかけになりました。   餓死という言葉がとてもショックでした。   住職になって2年目の時でした。   こういう悲劇が起こるまで私たちは気付けなかった、もっともっと社会に関心を持たなければいけない事件でした。

   お寺と言うところは、たくさんの食べ物が仏様、ご先祖さんへのお供えとして集まってくる場所で、お彼岸、お盆、年末年始などはたくさんいただくことが多く、お寺の中では食べきることが出来なくてお裾分けなどするんですが、お菓子などを届けることで大阪のような事件が少しでも起こらなようにできないかという事で動き始めました。    シングルマザーを支援する団体が立ち上がったという記事を新聞で見まして、その活動に段ボールにお菓子を持って行ったというのが最初です。  3か月ほど月に一回家庭に一箱お届けすることをして、子供たちも喜んでいるという事でした。   話を聞くと全然足らないという事でした。  

広く他のお寺に声を掛ける事にしました。    地域で活動している団体に届けるのが基本になっています。   色々ありますが、一番多いのが子供食堂をしている団体です。 そういった団体におすそわけをおくることで応援していこうという事です。    事前にお寺さんにどのぐらいの量をどのぐらいの頻度でお裾分けできる自己申告で登録してもらいます。     受け取る団体は必ずどこかから毎月一回お裾分けが届くような風にシステムを作っています。   インターネットにログインして双方に登録してもらいます。  2018年 グッドデザイン賞を受賞、お寺の「有る」と社会の「無い」を無理なくつなげることが評価されました。   菓子だけではなくて、お米、野菜、日常品のタオル、石鹸、シャンプーなどもあります。   手書きの手紙で励みになるようなメッセージを一緒に送っています。   貧困問題は実は孤立してしまうという事が大きな問題で繋がりが持てない、メッセージを送ることで誰かがいるという事が大きな希望、力になると思います。  

行政の窓口にもいろんな制度があるが、なかなかそれが必要な方に届かない。  届いても申請しないと利用できない、申請しても必ずしもすべての人が受けられるものではない、という事があります。  貧困問題って本当にあるの、というお寺さんもあります。  貧困問題はなかなか見えにくいという事もあります。   

東京の大学に合格したらお寺から離れることができると思って進学して、大学では経営を学びました。   インターネットで新しい事業を立ち上げて行こうと思って、IT企業でいろんな企画に関わりました。  或る時、人と違う生き方を、と思った時にどういう選択肢があるのかと思った時に、お坊さんになる道はなかなかないと思って、今まで避けていた生まれた環境を受け入れることができました。   IT企業にいた時には、インターネットを通じて人と人を繋げるという仕事をしていて、お寺の住職は苦しんでいる人と仏教の教えでつなぐ、繋ぐために自分は何が出来るかという事を考えている、繋げるという事は今の活動にも生きてきているかなあと思います。  

2020年3月ごろ全国の小中学校が一斉に休校になって、私たちの活動に対して全国から届くようになりました。  直接助けて欲しいという声がたくさん来ました。   直接必要なところへ届けようと切り替えて、緊急的支援という事で活動を続けています。  頼りになっていた給食がなくなってしまう。  非正規で働いている人は仕事がどんどん減らされてゆき、食べ物にも苦労することになり、また大阪の悲劇が起こってしまうのではないかという思いも浮かびました。   まずはお米を届けようと、無い場合は麺だったり、主食になるものを必ず届けるようにしています。  コロナ禍で助けて欲しいという声も増えましたが、援助をしたいという申し出も増えました。   助けて欲しいという声と助けたいという声を繋ぐという事で助け合う社会を作って行ける、そんな社会を目指すんだという風に目標を一段上げることが出来たのかなあと思います。  

奈良からの直接送付には限界が来て、匿名で荷物を送る仕組みに切り替えれば、奈良以外からも送れるかも知れないと言いう事で、全国のお寺さんから匿名で届けられるような仕組みを作っています。   地域のお寺さんと地域で活動している団体さん、地域のお住いの方がつながるという事が大事だと思います。  コロナ禍がどうなるのかわかりませんが、本来の支援の姿に戻してゆきたいと思っています。


2022年9月16日金曜日

坂田雅子(映画監督)          ・枯葉剤被害を撮り続けて

 坂田雅子(映画監督)          ・枯葉剤被害を撮り続けて

1948年(昭和23年)生まれ、74歳。  これまで20年に渡りベトナムの枯葉剤被害をカメラに収めて来ました。   この8月から最新作のドキュメンタリー映画「失われた時のなかで」が公開され戦争の傷跡の深刻さを訴えています。  

「失われた時のなかで」が公開され、こういう被害がまだあるとは知らなかった、という声を聞きます。  ベトちゃん、ドクちゃん以外にもこんなに多くの人が、様々な形で被害を受けているという事にびっくりしたという声を聞きます。   観客はシニア世代が多いですが、若い人も見に来ていますが、ベトナム戦争を漠然としか知らない世代です。    枯葉剤が最初に散布されてから61年、戦争が終わってから47年になります。   ベトナムは行くたびに経済発展していて新しいビルが建っていきます。  私が最初に行ったのが1989年ですが、そのころはハノイの空港は木造の小さな建物で、電気もなく自動車もありませんでした。  今では車がにっちもさっちもいかないような増え方で、交通渋滞が激しく、都市は富を感じさせるようになりましたが、田舎に行くと昔と変わらないような生活が続けられていて、枯葉剤の被害者もそういうところに多いです。

枯葉剤の取材を始めたのは2004年です。   2003年に盟友だった夫が急に亡くなったんです。  友人が彼の死の原因は枯葉剤だと伝えたんです。  なんで今頃死に至るんだろうか、本当に枯葉剤なのか、知りたいと思ってベトナムに行きました。    枯葉剤について勉強しよう、知ったことをドキュメンタリー映画という形で記録映画を作ろうと思いました。   アメリカで2週間の映画を作る講座に参加して、デジタル化が進み専門家でなくても映画が撮れる時代になって、自分で短編を3つ作ることが出来ました。  帰国してビデオカメラを買ってベトナムに行きました。(55歳)      

彼はベトナム戦争から除隊してアメリカに帰ったけれど、反戦の嵐があり居心地が悪かった。  彼は京都に来て私たちは出会いました。   彼から枯葉剤を浴びているから子供は出来ないと言われました。   枯葉剤はエージェント・オレンジと言っていましたが聞き逃していました。   中村悟郎さんという枯葉剤を追っているカメラマンがいますが、1983年に大々的な写真展をしたらしいんです。  その時に夫が写真展を見に行って、自分も枯葉剤を浴びていて心配なんだという事を中村さんに話をしたという事を後で聞きました。   

取材を始めたらあちこちに被害者がいてびっくりしました。   貧しくて障害がありますが、家族愛があって、自分は独りぼっちなので羨ましいと思いました。   2008年に公開された ドキュメンタリー映画花はどこへいった』が出来上がりました。   第26回国際環境映画祭の審査員特別賞、第63回毎日映画コンクールのドキュメンタリー映画賞を受賞。稚拙だったんですが、いただくことが出来ました。  空虚だった人生に手掛かりが出来ました。その後ベトナムの子供たちを支援する奨学金の活動を始めました。  10年余りで1000万円以上集まって枯葉剤で障害のある子を3年間学校へ行けるプログラムを作って、100人以上の子が学校に行くことが出来て、手に職をつけたり自立したりすることが出来ています。  喜んでもらっています。  

2011年、ドキュメンタリー映画『沈黙の春を生きて』発表、そして今回と、枯葉剤をテーマにした映画は3作になります。   1作目を作り終えて一区切りついたと思ったが、いろいろなことが見えてきて、アメリカの人に知って貰いたくて、2作目を作りました。  『わたしの、終わらない旅』(核の問題)、「モルゲン、明日」(原発の問題)を作ったが、枯葉剤をテーマしたものがまだあると思って、3作目になりました。  枯葉剤被害の第一世代の人たちが自分たちは病気で苦しんでいて、高齢化して弱っていて子供たちの面倒が見られなくなってきていて、それが大きな問題です。   

ベトナムは経済発展が凄くなって子供が多く生まれるようになり、産婦人科病院の一角にあった「平和村」(枯葉剤の子供たち被害者の施設)をどこかに動かそうという動きがあり、「オレンジ村」(枯葉剤の子供たち被害者の施設)を作ろうという事で、日本のNGOが手助けをして、有機農業をする農場、リハビリセンター、子供のケアするところとか纏めて作ろうという動きがあります。    「オレンジ村」の支援をしようと思っています。  

枯葉剤被害と判っている人にはベトナム政府は月に7000円の援助をしています。     ここ2,3年でのユニセフの調べでは、ベトナムの全人口の7%、670万人ぐらいが枯葉剤の影響を何らかの形で受けているという大変な数字が出ています。  アメリカは50万人の兵隊が行っていますが、病気になった人、子供が障害を持つ人が沢山います。  彼らは1980年代に集団訴訟をして、化学薬品会社を訴えました。  時間もかかり示談になりました。 相当な額だったが、20何万人で一人一人にしたら大した額ではない。    1991年にエージェント・オレンジ法が出来て、ベトナム帰還兵に対するアメリカ政府の補償はかなり実のあるものになりました。   アメリカはベトナムに対しては枯葉剤の影響を認めていない。    ベトナム政府も十分な補償が出来るわけではない。   アメリカに対して「許すけれども忘れるな」という事をモットーにしていると言っていました。  

夫を枯葉剤で亡くしたとか、同じアジア人で、年代的にも同年代とか、すーっと受け入れていただき気持ちが通じ合う事が出来てきました。   振り返ってみると取材は女性が多いですね。  優しくて強い存在だと思いました。   眼をそむけることなく兎に角目の前で起きていることを吸収しようと思いました。   戦争って始まってしまうとなかなか終われないものかなあと思います。    ベトナム戦争は1973年に平和協定が結ばれて終わったことになっていますが、未だに傷跡が続いているわけですから。   ウクライナの戦争も今大変な事になっていますが、たとえ決着がついたとしても、その後遺症はいつまでつづくのか、本当に大問題だと思います。  

グレッグ・デイビスはこう言っていました。  「ベトナムを離れた後、二度とアメリカンに住むことはなかった。  そして米国の戦争犯罪を批判するようになった。  私は世の中で何が起こっているのか、そしてそれは何故か、と知りたいと思った。  私はアジアを発見する旅に出た。  それは複雑な旅だった。  私は写真家になる道を選んだ。  写真を通じて戦争の前と後を記録する、その大切さを伝えたかった。  戦争のアクションは誰にだって撮れる。   本当に難しいのは戦争に至るまでと、その後の人々の生活を捉えることだ。  その中に本当に意味のあることがあるのだ。」  ベトナムで3年間の辛い経験があるからだと思います。  歳なんだからとか考えないで、出来ることをしていけばいいんじゃないでしょうか。





2022年9月15日木曜日

川澄寛国(盆栽用はさみ製作家)     ・名工の盆栽用はさみは世界へ!

 川澄寛国(盆栽用はさみ製作家)     ・名工の盆栽用はさみは世界へ!

川澄さんは71歳、盆栽用の鋏で世界に知られる名工で、埼玉大学卒業後に父に弟子入りして、現在は三代目寛国を名乗ります。   盆栽は今、世界各地で愛好家が増えていますが、川澄さんが作る盆栽用挟を知らない人はいないと言われるほどの存在です。   さらに川澄さんは樹木の性質をより詳しく知るため、1998年に樹木医の資格を取得、2011年には黄綬褒章を受章しました。  刃物つくりの面白さ、品質向上への思いなどを伺いました。

私は昭和25年9月17日に生まれましたが、丁度3か月前に長男が亡くなっています。   物心つく頃からお前はおじいさんの生まれ変わりだからしっかりやらないといけないと言われてきました。  中学生の時に刃物というのは人間の生活には大変重要なものであると気づいて、案外面白い仕事なのかなと思いました。    祖父は器用な人で、医療機器とか戦時中に稲刈り機を開発するような人でした。   祖父は日本で初めて盆栽用の鋏を開発するわけですが、祖父は水戸の出で、苗木の生産をしていたらしくて、植物が好きだったようです。  鍛冶屋さんになって刃物を作るようになりました。   チャレンジ精神があった人でした。  

私も小さいころから工場には入っていましたが、父親も手取り足取りは教えてはくれませんでした。   観ていていろいろな工程を観察していました。  大学を卒業後にこの道に入りましたが、20代は仕事が終わると、顕微鏡を観て、こう叩くとこうなるとか、ずーっと観ていました。    家には金属関係の先生が顧問についていて、いろいろ教わってはいましたが、自分でも独自にいろいろ工夫はしていました。   父も、良いものは世界から選んで使う、良いものを作れば世界からも買いに来てくれる、という考えみたいでした。  世界の有名な盆栽は父親の鋏で切られていました。   

盆栽は海外でも「BONSAI」ローマ字なんですね。  今はやっていない国を捜すのが難しいぐらいになってしまいました。  1996年に私がインターネットを始めた頃には、盆栽と検索すると2,3ページぐらいしか出て来ませんでしたが、今は大変な数になっています。   医療用は祖父の代から作っていて、父の時代は盆栽が忙しくてほとんど盆栽がメインでした。  2000年に内視鏡の鋏を国産化したほうがいいとうちに話があり始めました。    白内障用の道具なども頼まれると作っています。   昔は頼まれてメスなども作っていました。    紙幣のデザイン用の彫刻刀なども頼まれました。  

日本刀の昔の名人とかは、自分で考えて一番いい方法を常に考えていたんじゃないかと思います。    1980年代に新しい素材としてセラミックが登場し、頼まれて挑戦しましたが、良いところ、悪いところ両方判りました。   鋼はまだまだ可能性は残っていると思いまます。  CAD、コンピューター技術にもチャレンジしています。  歌にある「古い奴ほど新しいものを欲しがるものでございます。」という感じでやっています。    最近も埼玉大学で研究講座を受けていますが、興味があってやってみると結果として役に立ったという事はあります。    

生物はたまたま昔から好きで、木の研究だと樹木医は勉強になるかなと思って、受験しました。  樹木医に成って盆栽は凄いなという事に気が付きました。  小さな鉢の中に100年、200年、中には千年のものがり、健康で育てられるという事は凄いことだと思いました。  もっと盆栽が樹木のカリキュラムに取り入れるべきだと思いました。  私は樹木医の制度が出来て8期目で、今は3000人近くになっていると思います。   木を知るには盆栽が一番いいと思いました。   

うちの道具は平均でも30年ぐらいは使われています。   剪定鋏は入ってすぐ作ったもので1970年代ですが、そのころのものを研いでくれと言って持ってくる人がいます。    長く持つものを作ってもいいんじゃないかと思います。    鉄に炭素が入らないと硬くならないんです。   刃物の博物館、平成6年に父親が国から黄綬褒章を頂きまして、なんかお返ししなければという事で、道楽で集めていたものを皆さんに公開しようという事で、私設博物館を作りました。  父親は凄いことをやったとつくづく思っています。  1970年代初頭に英文で盆栽の道具の本を出しました。   どこの国でも盆栽は出来るという事を示しました。    盆栽を育てるには外の方がいいので、そのためにはその土地の木でないと育てるのには適さないと思います。  出来るだけ手を掛けないで育ってゆくのがいいと思います。   ヨーロッパではミラノなどは盆栽が有名なところです。  今後盆栽はどんどん広がってゆくと思います。   

後継者については倅が工場の中ではやっていますが、どうなる事やらとは思っていますが。 一生懸命やっています。   左の眼がちょっと見えなくなってきて、白内障が進んできてしまっていて、入院して0.01が1.0に戻って、仕事にもいい影響が出ています。  「良い刃で、良く切り、良い世界」という思いでやって行きたいと思っています。   刃物は切れるうちに研ぎなさいと言っています、切れなくなってからでは遅いんです。



2022年9月14日水曜日

関田寛雄(青山学院大学名誉教授)    ・戦没捕虜追悼に思いを込めた28年

 関田寛雄(青山学院大学名誉教授)    ・戦没捕虜追悼に思いを込めた28年

この夏も横浜保土ヶ谷の英連邦墓地で日本で亡くなった英連邦捕虜の眠れる墓前で平和を祈る戦没捕虜追悼礼拝が行われました。   関田さんは戦後50年の1995年に第一回の追悼礼拝をおこない平和への思いを語り続けて来ました。  昭和3年、牧師の子として生まれて関田さんは軍国主義に邁進するも、敗戦で価値観ががらりと変わり、これからどう生きればよいのかと人生の道を捜し続けました。   「そして真実はやがて現れる。」という聖書の言葉に出会い、反戦平和が生きる心の支えとなってきたということです。

関連参考

雨宮剛(名誉教授)       ・我が体験、平和と和解を語り継ぐ(1)(2)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2014/08/blog-post_11.html

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2014/08/2_12.html

追悼礼拝、最後の年になりました。  戦後50年から始めたこの礼拝が、歳のこともあり健康のこともあるので、今年を最後にメッセンジャーは次の実行委員会の方にお任せしようと思いまして、終わりにさせていただきました。   94歳になりました。   8月第一土曜日に追悼礼拝をおこなってきました。   第二次世界大戦の中で、捕虜になった英連邦軍の捕虜の方々1804名の方々がここに眠っているわけですが、無念の思い、望郷の思い、それを思うと胸が痛くなるわけですが、なんとしても追悼礼拝を続けたいという先輩である永瀬隆さんの強い意志がありましたので、礼拝は何としても続けようということで行われています。     

永瀬隆さんは青山学院文学部英語科を卒業した大先輩であり、戦争中彼は健康のこともあり徴兵にはかからなかったが、陸軍通訳に応募しました。  派遣されたのが泰緬鉄道(タイとミャンマーを繋ぐ鉄道でインドに延ばそうとしていた。)で、泰緬鉄道の作業の中で多くの英連邦軍の捕虜の方々が用いられたり、インドネシアの労働者を含めて、突貫工事で進めたわけです。   その間に英連邦軍の捕虜の方々が亡くなって行きました。  その現場にいた永瀬さんにとっては辛い思いをしました。   戦争が終わって、日本軍の捕虜(1000数百人)が、捕虜になるよりは死んだ方が栄誉なんだと、死ぬことを思って一斉蜂起しました。   軍が機関銃で射殺してしまいました。   立派に葬られたという事でした。  永瀬さんは、日本軍は捕虜のために何をしてきたかと、心に刻まれて帰って来ました。  敗戦50年を機に英連合軍の捕虜の方々の追悼礼拝を始めようとしました。

陸軍大臣の東条英機さんが「戦陣訓」という本を出しました。  軍人だけではなく中学校から大学生まで配られている。   そのなかに「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」というものがあり、捕虜となることは恥ずかしいことだし、捕虜に成ったらとんでもない目にあうぞ、という認識が社会の中に広まっていた。 一斉蜂起のことで永瀬さんの心に強く響いたものです。  あの言葉さえなければ、日本人の捕虜は死ぬことがなかったんだと、おっしゃっていました。    日本軍が捕虜を虐待したのはこの文言があったからなんです。   捕虜を虐待するのは当たり前だという発想が日本人にはいきわたっていた。   沖縄の集団自決が起こったのはこのことなんです。 中国大陸でいかに日本軍が捕虜にどんなにひどいことをしてきたのか、そのことを観てきた日本兵が沖縄住民に言ったわけです。  アメリカ軍の捕虜に成ったらどんな酷いことをされるか判らないから、それなら愛する家族の手であの世に送ってやろうというのが、集団自決の動機なんです。  「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」が捕虜虐待の原点です。  追悼礼拝が永瀬さんによってはじめられ、私がメッセンジャーとして28回続いているという事です。

イギリス、オーストラリア、インド、カナダ、ニュージ-ランド、アメリカ、オランダの方たち1800人余りが葬られています。  当時捕虜として日本に連れてこられた人たちは3万5000人以上、日本で亡くなった人が3500人ほどですね。  先ほど説明したオーストラリアのカウラ事件日本軍捕虜脱走事件)で亡くなった日本人のお墓がカウラにあって、立派に葬られていて、それを観て永瀬さんは吃驚して、日本にある英連邦墓地で追悼礼拝をして償いをしようという事でした。   

私が小学校5年生の時に、神社で数人にまれて、お前の親父は教会の牧師だろうと言われ、牧師はアメリカのスパイなんだと、お前キリストを辞めろと言われました。  7歳の時に母が亡くなっていて、イエス様に守っていただくので、お前は洗礼を受けろと言われて、洗礼を受けましたので、厭だと言いました。   その時以来、この国でキリスト教徒であるという事は本当にやばい事なんだと思いました。   軍事教練に一生懸命頑張りました。  アメリカのスパイという汚名から逃れたいと、一生懸命軍国少年を演じました。   その後学徒勤労動員が始まって陸軍の薬品を作ったり医療器械を作る工場に行きました。    雨のように焼夷弾がふってきました。  昭和20年8月7日命令が出てやけどの薬などを運びました。  8月6日の広島の原爆に対する対応でした。    

8月15日は身体を壊していて勤労動員を休んで家にいました。   天皇の玉音放送を聞いて負けたんだろうなと思いました。  がくんときて翌日勤労動員で行きましたが、すっかり雰囲気が変わっていました。   その後学校に戻って、街の整理に動員されました。   道路整備をしている時に人間の死体を何体も掘り起こしました。    学校での勉強は目的がありませんでした。    戦争協力への動員を言っていた先生が、英語の先生となっていて、どうしたことかと思って先生に手紙を書きました。    2週間ぐらいしてから、自分も迷っているとおっしゃいました。    先生は新約聖書の中で、「隠されているもので、現れてこないものはない。  覆われているもので明らかにならないものはない。」とイエスの言葉を言いました。  先生は「イエスの言葉を信じて勉強しようじゃないか」と言いました。   その言葉によって私は救われました。    私は牧師になりましたが、反戦と平和に生きるいう事にしましたが、彼が戦争で死んで僕が生き残った、という負い目がずーっとあるんですね。   広島の原爆記念館に29年目にして初めて行きました。  学校で3人が死んで僕が生き残った。   負い目のあるなかでどこで死ぬか、どのように死ぬか、私の人生のテーマになっています。 

今年の7月17日に亡くなった沖縄の金城重明さん、集団自決の当事者です。  1年下のクラスの子でした。  3月末に米軍が上陸してきた時に、愛する家族の手で送ってやろうと、家族で話し合って、号泣して母と一緒に米軍に夜飛び込んでいった時に手りゅう弾で気を失って気がついてみたら米軍のベッドにいたという事でした。  捕虜になってクリスチャンになって、救いのメッセージが無かったら、俺は戦後生きて居られなかったと言っていました。  

「真の和解とは心からの謝罪の気持ちを具体的な形で表し、若い人にお願いしたい、この墓地を訪れ瞑想してほしい。   これに勝る歴史の教科書はない。   ・・・毎年開かれる追悼礼拝が日本人の良心の証の発信地として、百年後も継続されることを夢見る。」  追悼礼拝の実行委員長の奥津さんは雨宮剛先生のお弟子さんです。  

①戦争犯罪に対して心からお詫びをするという事と、ロシアとウクライナの戦争ですが、90年前に日本がやったことと同じことをやっているわけです。    ②ウクライナを応援することは当然なことですが、日本としてはインド、中国に対して話し合いの場を設けて、平和に対して仲介をするという事は日本の責任ではなかろうかと思います。  ③英連邦戦死者墓地から世界に向かって平和の発信をしてゆく。    歴史を学ぶことによって平和と共生の文化を作ってゆくという営みを持つべきであり、日本の教育の使命であり責任であると思います。

知覧の特攻隊記念館で、天皇陛下万歳というような手記のある中で「眠れ 眠れ 母の胸に」とだけ書いた手記を観ました。  ここに学徒兵の本音があると、涙が出ました。  英連邦戦死者墓地にも同様な家族の文字が刻まれています。   共に助け合い、補い合い、癒し合う、そういう和解の文化を作っていくというのが、これからのすべての国々の使命ではなかろうかと思います。英連邦戦死者墓地を発信の基地にしたいと思っています。  

「男はつらいよ」の寅さんに共感します。  存在そのものが周りを持てなすような明るさ、自由な姿、温かい心、自分自身寂しい思いをしながらも「男はつらいよ」と言いながらさくらに向かっていう寅さんは私にとって懐かしい人間なんです。  

2022年9月13日火曜日

鶴澤津賀寿(女流義太夫三味線方)    ・人間国宝としての新たな決意

 鶴澤津賀寿(女流義太夫三味線方)    ・人間国宝としての新たな決意

師匠も人間国宝を頂戴しているんですが、師匠の弟子という方の感覚が強いので、私まで(人間国宝に)なっちゃうのかなという気がしました。  竹本駒之助師匠は22歳年上です。  電話で連絡があったのですが、「師匠と相談します。」といって、師匠と電話のやり取りをしたら、「なんですぐ受けなかったの」と言って喜んで大泣きしてくれました。  師匠はエネオス賞を頂いた時にも泣いていました。  

親が歌舞伎が好きで小学校の時から連れて行って貰って、大学も歌舞伎の研究しに早稲田にいったんですが、観るだけではなくて批評家に成ろうと思って、「演劇界」という雑誌があって懸賞劇評というのを募集していて、何回か佳作に入って、同人誌で誘ってくれる方がいて、同人誌にも書かせていただくようになりました。  1年間だけ長唄研究会に入って、初めて長唄の三味線をいじったんです。   大学4年間は個人の先生に長唄を習っていました。  卒論は長唄に関するものでした。   三味線の音楽とかからアプローチすれば、ちょっと人と違った批評が書けるかもしれないと思いました。   ほかにもいろいろやりたいと思ってカルチャセンターへ行って日本舞踊、鳴り物教室へ行って、その一つが義太夫教室だったんです。 義太夫教室へ行こうと思ったら募集が終わってしまっていましたが、日本舞踊を習っていた人がたまたま竹本駒之助師匠に習っていました。  師匠の舞台をその人と観に行って感激してしまいました。   教室に入ると同時に師匠に売り込んで、1984年の正月に師匠のところに稽古に行くようになりました。   三味線弾きになりなさいと言われ始めました。   

観ている時には義太夫は興味はなかったです。  文楽を観た時に面白なあと思いました。義太夫は男性向けに出来ている芸だから、無理やり女性がやっているわけで、男性より余計振り絞ってやっているわけです。  師匠の舞台を観てとにかく凄いと思いました。   浄瑠璃を始めたら普通の息は出来ないと言われます。    厳しいですが、知っていることは全部教えてくださるような感じです。  駒之助師匠は言いにくいらしくて私にはほとんど怒らないです。   初舞台の後、鶴澤重輝師の預り弟子となって亡くなるまで10年ぐらい稽古しましたが、そこでも怒るという事はほとんどありませんでした。   観て居なさい、聞いていなさいと言う風にして覚えないと、教えてもらうものではないという事をしょっちゅう言っていました。  今になるといろんなことが判りますが。  姿勢というかやり方、三味線弾きは太夫さんのために働くものだから自分が出てはいけない、と教えてくれました。   

小さいころからピアノをやっていて音大に行こうかとも思ったんですが、手が小さいし薄いし、迫力のある音が出なくて断念して、最初に義太夫の太竿をいじった時にはすぐ手に血が出て大変な楽器だと思いました。  訓練するとタコが出来てきて大丈夫です。  師匠は晩年は枯れ木のように痩せていましたが、音色とか音量といいも音凄い音をしていました。身体のお加減が悪くても音は変わらなかったです。   

大きな舞台でも小さな舞台でもやる事はおんなじなので、あまり気にしないでやっています。   女義太夫の定期公演は協会で毎月1日づつやっていて、若手の公演が毎月1日、2日に上野広小路亭でやらせていただいています。   一生悩んでしまうような職業だと思っています。   百篇の稽古よりも一篇の舞台ですから、兎に角舞台を踏まないとなかなか舞台人らしくなっていあないと思います。  絶対やれないようなものを自分で会を開いてやってみるとか、若い人は大いにやるべきだと思います。  

19日に義太夫協会の定期公演で「母の正体」という事で卅三間堂棟由来 平太郎内の段」と師匠と私で芦屋道満大内鑑 葛の葉子別れの段」を行います。  これは何十年振りなので勉強してやらせてもらいます。   

浄瑠璃は太夫と三味線が一個のものなので、太夫が注意することと、三味線弾きさんが注意することは、結局のところ同じことだたりします。  区別は原則ないと言っていいと思います。  駒之助師匠はいまでも凄く怒ります。  人を怒ることは体力はいるし精神的にも消耗するので、怒ってくれたことには感謝しないといけないと思います。  今の若い人は怒られ馴れていないみたいで、怒られると吃驚しちゃうみたいなところがあるみたいです。 有難いという風にその価値観を思わないと、なかなか芸も良くならないと思います。正座が出来なくてやめてゆく人も結構います。   稽古の時には2時間ぐらい正座をしていないといけないので。   あるお師匠さんは「観るものもの聞くものがお師匠さんやで」、と言われますが、私も普段から機会あれば畑違いのものを観に行くようにしています。  自分の中に貯めて行く様にしています。



2022年9月12日月曜日

石原良純(気象予報士・タレント)    ・【師匠を語る】 森田正光

石原良純(気象予報士・タレント)    ・【師匠を語る】  森田正光 

石原さんは1997年に気象予報士になりました。  その石原さんが師として仰ぐ気象キャスターの森田正光さんについて伺いました。

最近は異常気象とか天気の話題が多いですね。  大変な時代になって来ちゃってるよねというようなことは森田さんとは良く話に出ます。   2008年に環境サミットがあり、いろんな予想が出て、それが当たっているよねというような話も出ます。  

森田正光さんは1950年(昭和25年)愛知県名古屋市に生まれます。  財団法人日本気象協会を経て、日本で初めてフリーのお天気キャスターになったのは1992年(平成4年)、同時に民間の気象会社を設立して多くの後輩を育成する一方で、親しみやすい解説で人気を集めてテレビのお天気キャスターの代名詞のような存在になりました。

森田さんから「気象予報士になったらどう。」って勧めてくれたことに感謝しています。  空のことを伝えることの大切さを教えてくれました。   神奈川県の逗子市で生まれ育って、海辺に立つと水平線の上は全部空で、梅雨明けの頃に山には雲があるが街には雲がないことがあり、不思議に思いました。  年に何回もあるわけです。  気象予報士制度が出来たことを知り、或る時クイズ番組があって森田さんにお会いし、疑問に思っていたこととか天気の話をしました。  気象予報士制度が出来てそれを勉強すると疑問が解けるよと言われました。   一般気象学という大学の本があり、読んで勉強すれば気象予報士に成れる最低限の知識が得られると言われました。   森田さんは一回目の気象予報士試験に落ちたんですが、法律に関することなどは何も勉強しないで行ったようです。  森田さんが落ちなければこんなに気象予報士制度は注目されなかっと思います。  

地球にある水の97%以上は海水、次に多いのが氷、地下水、川、湖とかの水があって、動植物も水を含んでいて、その残りの0.001%ぐらいの水が空気中にあります。  太陽の熱エネルギーで大気が動くと、或る状況で水蒸気が集まる状況が出来る。  集まった水蒸気が飽和状態になると液体や固体になる、それが雲粒です。   上昇気流とかで雲粒がくっついて雨粒が半径1mm、雲粒が半径0.01mmです(雲粒が約100万個集まると雨粒になる。)。   太陽、地球、空気、水の4つがあるから起こる現象です。  雲になるのも理屈があるんだという事が判りました。  1995年(平成7年)3月に第3回気象予報士試験がありました。  3,4か月の期間があり受けましたが、落ちました。(学科は合格したが実技で落ちる。)  次の試験には合格しました。     森田さんとしてはみんなに天気予報に興味を持ってもらいたいという思いがあり、僕のような門外漢が天気予報士になることによって注目されることを願っていたんだと思います。   

気象情報を活かせて安全に暮らしたい、それには予報技術があって、伝達技術があって、避難してもらう事が大事で、この3つが連動しないといけないという事を森田さんは気付いていた。  島川甲子三さんという森田さんの師匠がいて、NHKの名古屋放送局のアナウサーでその前身が名古屋気象台の予報官なんです。 昭和34年の伊勢湾台風の時に危険だという事で情報をもって役所を回ったそうです。    土曜日でそのまま机の上に置きっぱなしとなり、日曜日の未明に大災害になってしまった。   そこで島川さんは予報だけやっていては駄目だと思ってアナウンサーになります。  森田さんも同じ道を進むわけです。

2000年ぐらいの時に癒し系のブームがあり、フジテレビのプロデューサーの方が私の言動を観ていたらしくて、「良純さんは空の話を楽しそうにしている。 是非空の楽しさを伝えてもらえませんか。」と言われて、自然の美しさ、楽しさの裏には凶暴な一面を持っているので、楽しさを知って貰って次に怖さを知って貰うということ、そういう事なんだと思いました。  空を観ようという事を伝えていきました。   空を観るという事は気分転換にもなるし、天気予報より有効な手段に使える。  森田さんが島川甲子三さんの思いを踏襲されていることと一緒だったなあと思いました。  

令和4年3月31日現在で、気象予報士として登録されているのは1万1251人です。    顔見知りに言われると行動に移るので、気象予報士の相談、仕事はこれからは増えてくるだろうと思います。   

森田さんへの手紙

「子供のころからの謎を、「科学が証明してくれますよ。」という森田さんの一言が、僕の気象学、そして気象予報士の始まりでした。  ・・・気象学は遥か宇宙から地球を眺める神の眼を持つ学問であることに感動しました。  ・・・僕のような門外漢にも優しく手を差し伸べてくださる、一人でも多くの人に天気の面白さを伝いたいという熱意が僕の合格を手伝ってくれたんだと思います。・・・天気の面白さ、楽しさを知って貰う、楽しさの裏返しが恐ろしさなのだから、楽しさを知って貰えればおのずと気象現象の怖さも理解してもらえる森田流のウエザーショーを僕も踏襲させてもらいました。  ・・・予報と、伝達と避難の3つが円滑にいくことに努力される森田さん同様、これからも現場に臨んでいきたいと思います。・・・」





   

2022年9月11日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

 奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

*「常動曲」 作曲:ヨハンシュトラウス

終わりのない曲で終わりが近づくと元に戻って、指揮者はこの曲はいつまでも続きますと言って終えるしかない。  

1972年から1983年までTBSで放送された「オーケストラがやってきた」企画、構成、司会が山本直純さん、昭和7年生まれ、今年生誕90年、亡くなって今年20年になります。  あらゆるジャンルに渡って名曲を書いています。   素晴らしいオーケストラの曲も書いています。   

*児童合唱と管弦楽のための組曲「えんそく」から第2曲「歩く時のうた」   NHK東京合唱団の為に書かれた曲。   作曲:山本直純  

日本の合唱曲の新たなジャンルを切り開いた曲。  音楽と身体の動き、体操を結び付ける、ハンガリーの作曲家のコダーイ、ドイツのカール・オルフなどを受け継いだ画期的な名曲だと思います。  

*児童合唱と管弦楽のための組曲「えんそく」から「おべんとう」  作曲:山本直純    お弁当を開けた喜びを輪唱、フーガの一種でもあるが、ゲームみたいな要素もあり楽しい。山本さんはパロディーの天才。

1960年代の終わりに日本フィル交響楽団と冗談音楽のコンサートを東京文化会館で3年続けて開催して毎年超満員にしたという記録が残っています。 そこで演奏された曲。

* ピアノ協奏曲「ヘンペラー」 作曲:ヴェートーベン 変曲:山本直純   ヴェートーベンのピアノ協奏曲第5番「エンペラー」(皇帝)から変な曲にしたという事で「ヘンペラー」

いろんな曲が出てきて面白おかしく伝えてはいるが、それぞれの曲の音符は変えていないんです。   音楽理論的に頭に入っていないと綺麗につなぐことな出来ないんです。

*アンコールの作品 目まぐるしくいろいろな曲が演奏される。 

*メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のパロディー 「迷混」 編曲:山本直純    メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲「メンコン」の略称をさらにパロディー化して「迷混」としている。  

*交響曲 第94番「驚愕」 第二楽章   作曲:ハイドン  うとうとしたところに、寝ている場合ではありませんよと、やったんでしょう。(驚かす!)   

「ワルツィング・キャット」(「踊る仔猫」)  作曲:ルロイ・アンダーソン    軽快で諧謔性に富んだ曲調の管弦楽曲で知られる。

*NHK大河ドラマ「武田信玄」のオープニングテーマ     作曲:山本直純 

*映画「男はつらいよ」のメインタイトル           作曲:山本直純 



2022年9月10日土曜日

2022年9月9日金曜日

弓野恵子(アイヌ文化伝承者)      ・【人生のみちしるべ】 民族の心・アイヌ語を未来へ

 弓野恵子(アイヌ文化伝承者)   ・【人生のみちしるべ】  民族の心・アイヌ語を未来へ

「シマフクロウとサケ」  シマフクロウは昔からアイヌにとっては村をを守ってくれる神として崇められてきました。  カムイユカラ(神謡 「アイヌ」の本来の意味である「人間」にたいして、彼らの身の周りの自然界に存在する実体(生物・無生物を問わず)や現象あるいは精神世界の存在などを遍く「カムイ」としてとらえていたアイヌが伝承してきた、主として身近なカムイとしての動物たちに自ら語らせるというかたちで展開される物語である)にはサケヘという動物の声を真似た繰り返しの言葉が必ず入ります。   この場合はフクロウを真似た「フムフムカトという繰り返しの言葉で歌っています。  

*「シマフクロウとサケ」をアイヌ語で語る。 話: 弓野恵子

「私は村の守り神 シマフクロウのカムイチカブ 山で一人で暮らしていたので、つまらなくなって山をい下り浜へ降りてきました。   木にとまって沖の方を見えていると神の魚サケの群れがやって来ました。  まっさきの昇ってきた先頭のサケは仲間のサケたちにこう告げました。  尊いシマフクロウのカムイチカブがおいでになるぞ。  畏れ慎みなさい。    ところが最後にやってきたサケたちがこういったのです。   一体何のカムイだい。   そんなでっかみ目玉をしたものが畏れおおい神だというのかい。   そのサケたちはしっぽが裂けたものと呼ばれ、神の魚と言われるサケのなかでも一番どん尻の魚でした。  しっぽが裂けたものたちは「あいつは何様だっていうんだ。  どんな神様がいるからって俺たちがおとなしくしなければならないんだい。」と、繰り返し繰り返しいいながら、高く高く尾びれを上げてはばたつかせ、飛び跳ね飛び跳ね テレケテレケ ホリピリピと海に水をまき散らしました。   

これにはシマフクロウの私カムイチカブも我慢がならなくなり、懐から銀のひしゃくシロカネピサックを取り出しました。 そして海の水を汲むと海の水の半分がなくなってしまいました。  すると先頭にいたサケがどん尻のサケに向かって怒って言いました。  「このような怒りを私は恐れていたのだ。  シマフクロウのカムイチカブに失礼のないようにと私が告げておいたのに、お前たちは聞こうともせずあのようなことをして、今はもう水が半分も汲まれてしまい我々は仲間共々死にそうに苦しんでいるではないか。」 先頭のサケは苦しそうに呻きました。   シマフクロウのカムイチカブは今度は金のひしゃくコンカネピサックを取り出して、更に海の水をくみ出したのでうみはすっかり干上がってしまいました。   ここに至ってはどんじりのサケたちさえ苦しいうめき声を上げました。  先頭のサケは激しくもがき苦しみ唸り声をあげ、切れ切れにこう言いました。  「神を畏れぬことをしてはならぬとどん尻のサケに告げておいたのに、お前たちは耳を貸さなかった。  だから仲間共々私は死のうとしているのだ。」

それを観てシマフクロウの私カムイチカブは、今さらのように驚き、私が怒りを掻き立てたとて何の良いことがあろうか、と思い直しました。   そして銀のひしゃくシロカネピサックで水を戻すと、海の半分が満ちました。  さらに金のひしゃくコンカネピサックで水を戻すと海は満ち元に戻りました。   すると先頭のサケは、「尊いカムイチカムブよ、怒りを沈めて海の水を満たして下さり私たちは生き返りました。 ありがとうございます。  尊いカムイチカブよ」、と言って喜びつつ静かに去ってゆきました。

それからシマフクロウの私カムイチカブは私の大地、私の山へ帰ることにしました。  そして山に戻ってきた私は、いつものように一人寂しく山で暮らすカムイとなって、このように語っているのです。  「フムフムカト」 フムフムカト  これがシマフクロウカムイチカブの語った物語です。」

日本語はアイヌ文化伝承者で古布絵作家宇梶静江さんが作った絵本「シマフクロウとサケ」を朗読しました。

弓野恵子さんは昭和23年北海道浦河町の生まれ、現在は千葉県在住。  もの心ついたころから暮らしの中にはアイヌ語があり、アイヌ文化、精神世界を大切にする祖母や母親の姿を観て育ってきました。  17歳で仕事をするために上京、その後結婚し、二人のお子さんを育てる間はアイヌに関わる活動はしていませんでしたが、子育てが一段落した50代半ばからアイヌ文化を改めて学び始めます。  特にアイヌ語でのカムイヤカラの習得に励み、アイヌ語弁の歌の大会の口承部門で最優秀賞を受賞するなど、アイヌ語を未来へつなげてゆく活動に尽くしています。 

おばあさんがアイヌ語で話していたのを聞いて、意味は判らなかったが、響きがとっても懐かしくて、アイヌ語の響きを何とか、皆さんにも聞いてもらいたいと思っていました。   今まで9つの物語を覚えましたが、忘れないように歌ってゆく努力をしています。    アイヌ語で言っているとなかなかわからないと思います。  今回は機会を頂いて嬉しいなと思っています。   祖母が明治23年生まれ。  北海道浦河町ではアイヌの風習、言葉、料理などがいつまでも残っていました。   明治中頃では刺青が禁止されていましたが、おばあさんは手と口に刺青をしていました。  刺青をした時がすごく痛くて1週間ぐらいは腫れて食べれないような状況だったそうで、色は群青色といった感じでした。    体調が悪くなると色が薄くなったり変わるんです。  ですから健康上のバロメーターになったんじゃないかなと思います。 

水は神聖な清めるものなので、ヨモギを水を浸けて振り撒いたしていました。  災いをおさめるような形で水を撒きました。  そういったことが生活の中で風習がいっぱいありました。  中学生になるとアイヌであることに段々恥ずかしいような気がしておばあさんのそばから離れるようになっていきました。  今思うといろいろ話を聞けばよかったと残念に思っています。  山菜を取りに行く時には「獲らせていただきます」、その帰りには「いただきました、有難うございます」、と言ってお祈りをするとか、生活の中からアイヌの生活の大事さが判りました。  アイヌの文化、物語などを知って貰いたいと思うようになりました。   カムイのお陰で私たちがいる、みんな同じ、生きているというのが根っこにあり、それに感動しました。   浦河町地方では「こんにちわ」を「イカターイ」と言います。  「ヒトツ」という地名があり、昔十勝の人との戦があり、その地でおばあさんがダンゴを煮て作っているから待ってという事で、ダンゴのことをアイヌ語で「シト」というんですが、和人が入ってきて地名をつける時に、「ヒトツ」という地名にしたそうです。   人間だけではなく動物、草木もみんな一緒になっているという、それを歌にして踊りにしてというところがアイヌ文化は凄くいいなと思います。

母がよく言っていたのは「赦す」という事で、「シマフクロウとサケ」の物語の中でも「赦す」という事が出て来ます。

2022年9月8日木曜日

平川冽(英語指導者)          ・カムカム・ダディを語る

 平川冽(英語指導者)          ・カムカム・ダディを語る

今年3月まで放送された朝の連続テレビ小説「カムカムエブリバディ」その英語の先生「カムカムおじおさん」こと平川唯一の詳しい伝記を息子さんの冽さん(81歳)が書きました。  終戦直後の日本に社会現象までになった「カムカム英語」を広げて国民を元気づけた「カムカムおじおさん」とはどんな人だったのか、又超人気番組はどのように作られ、戦後の日本に何を残したのか息子さんの冽さんに伺いました。

父は岡山県の高梁市の農家の次男として生まれました。  祖父が定次郎と言いまして、米相場に失敗して借金を返済するためにアメリカに出発しました。  父、兄と一緒に祖父を迎えに行きました。  父はアメリカの家庭に住み込みながら17歳で小学校に入りました。    3年間で卒業して次はハイスクールに行って、雄弁大会では準優勝するまでになりました。  その後ワシントン大学に入学して演劇のコースに入って首席で卒業しました。  その後ハリウッドに出て端役までやりました。  イングリッシュアクセントとかアメリカンアクセントの両方を覚えて、後のNHKでアナウンサーをするきちっとした原稿読みも出来るようになりました。   すべてのテキストを自分で考案して作りました。  

父は牧師補という免許も取って、その後母親となる人が日本から教育に関する代表で行ったらしいんですが、教会で英語を教えらりするのがきっかけで結婚したらしいです。  1937年19年ぶりに日本に帰国しました。  NHKで海外要員を捜しているという事で、試験を受けてNHKに入社しました。   50人受けて2人が入社できたそうです。   

入社して海外へのアナウンサーを7年間しました。  戦争になり、自分の意に反することを放送しなければいけなくて心残りがあったようです。  昭和20年8月15日天皇の玉音放送があり、その玉音放送を父が英語で放送しました。    全世界に流れるので、父はこれほど緊張した放送はなかったと言っていました。    

横浜に小さい放送局を作るという事になり、そこに行ったら物凄く汚かったので、父が部屋の隅々から便所まできれいに掃除をしたら、マッカーサーが大変喜んでマッカーサーに気に入られてマッカーサーとの縁が始まりました。   スタジオが小さすぎて占領軍は気に入らなくて、NHKを接収しようという事でアメリカの大佐の通訳をして、NHKの幹部の人が部屋に閉じこもって会議をしていたらしいんですが、大佐が言った一番すごい言葉が「開けなければ発砲するぞ」という事で、通訳せざるを得ず言ったら顰蹙を買って、「7年間お世話になりました。」と言って直ぐ退職したそうです。   「人と喧嘩をしてはいけないよ、あの時にいい訳を言わずに感謝の気持ちで辞めたから、カムカム放送につながったんだよ。」と言っていました。 

辞めた2か月後に、今までと違ったやり方で英会話の放送をしてもらえまいかとNHKから話がありました。   考えてイメージが浮かんで1週間後に快諾しました。   英語を自然に面白く大衆化し、家庭内にも取り入れる実用的な面に応用しうるものにしたいと思ったらしいです。   父は英語教育をしたことは一遍もないんですが、アメリカの小学校生活が役に立ったと思います。    昭和21年2月1日午後6時30分英会話放送がスタートします。    5つの方法を上げていました。  ①勉強とか苦しい努力をしないこと。  ②赤ちゃんが母親の真似をするように私の発音の真似をしなさい。  ③できれば家族とかでこの番組に参加してほしい。  ④習ったことを日常会話で使いなさい。  ⑤完全な英語をしゃべろうとむやみに考え込まないこと。 「証城寺の狸囃子」の童謡を聞いてこれをテーマソングにしたいと思ったそうです。  日本の家庭を題材にしてテキストを作っていました。  テキストにはネイティブの発音に近いカタカナを書いて発音するように工夫していました。    テキストはなかなか手に入らないような状況だったようです。 20万部から或る時には50万部いったそうです。  聴視率は24,5%あったと言われています。

毎日15分の生番組で体調管理とか大変だったようです。   経済界の有名な人々とか、後に「百万人の英語」を担当ことになる五十嵐 新次郎さん、NHKテレビで最初の英語の先生で田崎清忠さんとか父の大ファンです。  ファッション界の芦田 淳さん、歌手のペギー葉山さん等も「カムカムベビー」と言っていました。  「南国土佐」を英訳したのは父で、ペギーさんはそれをアメリカで歌いました。   当時「カムカムクラブ」が1000ぐらいあったそうで交流をはかっていたようです。   「カムカム英語」は9年6か月続きました。(NHKと民放合わせて)  ファンレターは50万通以上きて、すべて管理していました。  

引退後はテニスをしたり、自宅では英会話を教えたりしていました。   春の叙勲を受けました。    春の園遊会でお言葉を頂いて、硬直して帰りは足がつっちゃってタクシで帰ってきたそうです。   父は本当に優しい人でした。 叱られたという記憶がないです。   「辛いことがあっても新しいページは開くんだよ、良いことだけを考えて居なさい、それが幸福につながるんだよ。」といつも教えてくれていました。  「BeDifferent 」「人と違う事をやりなさい。」という事はしょっちゅう言っていました。   私は大学卒業後、小さな会社に入って自分で貿易部を創設しました。  ウクレレが得意だったので、東南アジアのテレビ局に英語で書いて出演させてもらって、最後にこういうものを売っていますと、宣伝して、10年後には自分の貿易会社を作るまでに発展しました。  今でも英語とウクレレを教えています。  12年前にカーネギーホールでウクレレのソロ演奏をしました。   

平成5年91歳でも父は亡くなりました。  「Be Different 」 父がそうだったんだなあと思って、感謝しています。 



 

2022年9月7日水曜日

原田美枝子(女優)           ・記憶が薄れても、消せない想いをとらえて

 原田美枝子(女優)           ・記憶が薄れても、消せない想いをとらえて

朝ドラ「ちむどんどん」大城房子役で出演、はまり役だねとか言われています。  西洋料理店のオーナー役で、着物にしようというのは演出サイドの方の提案です。   屋台からたたき上げて大きな店を構えたが、イタリア料理を修業に行ってそこから日本を見た時に、自分は日本文化のことを何も知らないであろうと思って、帰ってきて外国から見た日本の良さみたいなものを感じて着物を着てと言う事に設定しませんかという事でした。  47年振りの朝ドラ出演です。  「水色の時」という作品で大竹しのぶさんが主役で、私は大竹しのぶさんの弟の友達の役でした。  

「ちむどんどん」で記憶に残るシーンは従業員が3人辞めて、店を閉めましょうと言うんですが、私が厨房に入ります、というシーンのところです。  初めてコックコートを着て気持ちも引き締まりました。  包丁も練習してプロ用のものを使いました。 房子は芯を通してきた人なので、一つ一つの言葉に面白みがあるというか、ただ厳しいだけではなくて、背中を押したり、わざと落としたりして信子を育てて行く様な、そういったところがいいと思います。  結婚式のセリフもいいなあと思いながら言っていました。  「汝が立つ処深く掘れ、そこに必ず泉あり。」、ニーチェの言葉ですが、かっこいい役をやらせてもらったなと思います。  片岡鶴太郎さんの三郎役とは自分が歳をとったという事を見せたくないし、見られたくないし、というのが乙女心に有るんでしょうね。  何十年か前の気持ちに戻ってしまうんでしょうね、きっと。  

これからは信子が自分自身の本当にやりたい事というのを捜して、地に足をつけて大地に根っこを生やしてゆく時期だと思います。  ここからが本当の信子の成長の仕上げの感じかなと思います。  

一昨年公開されたドキュメンタリー映画「女優 原田ヒサ子」、自身で制作、撮影、編集、監督とすべてに関わってできた映画です。   24分の短編ですが、私の母が認知症が始まって、私は一緒に住んでいたわけではなくて、父と住んでいました。  父が亡くなってから認知症がどんどん進んでしまって、軽い脳梗塞で病院に入った時に、「私15歳の時から女優やってているの。」と言ったんです。   どうして母がそういうことを言うのかなあと思っていたら、母は私を我がことのように、一心同体になって体験をしているような気持になって見守ってくれていたんだなあと思ったんです。   認知症になって押さえていたことがハラハラ取れて行った時に、ポンと出てきた言葉なのかなあと思いました。  母は女優さんをやってみたかったのかなと思うようになって、そうだデビューさせてしまえばいいんだとひらめき、撮影してみようと思いました。   そういう事が無かったら母のことを深く考えなかったです。    

頭の中ではその世界に生きているのかなあと思いました。   ピュアな部分、一番大事にしているものとか、一番強く思っていたこととかが出てくる気がするんです。     「今は年齢的に役が難しくなってきて、子育てもあるしね」という言葉を何べんも言っているが、私が言ったとは思えなくて、母がそう思って心配してたんじゃないでしょうか。  2020年3月に公開されましたが、お客さんが街から消えた時期でそれが残念でならないです。    観てくださった人は認知症に対する考え方が変わったとか、両親を大事に思うようになったとか、感想をいただきました。  ぎりぎりのチャンスで撮ることが出来ました。   晴れ着を着て気持ちも引き締まり、美しいショットが撮れたので、普段では見られない母の顔だったと思います。   ホームページがあるのでそれを観ると案内が出ています。

映画「百花」で菅田将暉さんとW主演。 (9/9公開)  私の役はピアノ教師をしながらシングルマザーとして男の子を育てている役で、息子は結婚して外に出ています。  認知症になって行って、息子は封印していた記憶を少しづつ取り戻してゆく。   ピアノは一生懸命練習をしました。   グランドピアノの音に包まれているような感じで、撮影は終わりましたが、ピアノが好きになってしまって今でも続けています。  菅田将暉さんは息子と同年代の人ですが頼れる俳優さんで、この人と一緒に仕事が出来て良かったなと思います。  川村元気監督とは自分としては何をやりたいとか言いあったことで、この人のことは信頼できると思えたので次に進めました。   なかなかOKが出なくて、どこが悪いのか修正したくて聞くんですが、「いや、もう一回」という事になるんです。  川村さんは何度もやる事で煮詰まって来るというか、違う工程を通ると次の深みのある、その次は、そういったことでやっていたのではないかと思います。   溝口健二さんは「違います。」しか言わないそうです。  「貴方は俳優でしょ、自分で考えなさい。」と言われてしまうんだそうです。  昔はフィルムの時代で高かったので、テストを沢山重ねて本番となるので、そういう様に芝居を詰めてゆくという事は大事だと思います。   矢張り煮込んでいった方が奥にあるものが出てくるような気がします。   OKが出て泣いてしまったことが2度ほどありました。  

人は記憶で出来ている、人は主観で生きている。  一つの出来事をそれぞれ違う思いで記憶していて、その記憶の不思議さ、思い出のあいまいさ、それを息子とお母さんのかかわりの中で、最後に一番大事なものにたどり着くわけですが、それは言葉ではうまく説明できる事ではなくて、映像の持っている一番いいところ、映像には映るような気がします。  それを川村さんは映し出したかったんだろうと思います。  コロナ禍で落ち込んでしまいましたが、ドラマを観てドラマって人を元気いさせる力があるんだなと思いました。   自分は俳優なので一生懸命やろうと思って「ちむどんどん」「百花」という仕事をさせてもらって幸せでした。  元気を与えられたらいいなと思いました。



2022年9月6日火曜日

滝野文恵(シニアチアダンスチーム代表)  ・人生も、弾んで踊って楽しんで

滝野文恵(シニアチアダンスチーム代表)  ・人生も、弾んで踊って楽しんで

滝野さんは90歳、60歳の時にチームを結成し、今も現役で練習に励んでいます。   今年11月にはその成果を披露するチャリティーショーを開催するそうです。  チアダンスを始めたきっかけや新しいことを挑戦することの心構え、人生を楽しむコツなどを伺いました。

チャリティーショーでは10曲ぐらい出すので、ゲストを呼んで1時間半から2時間ぐらい、4組に分かれて1人が4~7曲踊ります。   全員で踊る曲が3曲あります。   私は全部で4曲踊ります。  メンバーは全員で23名、平均年齢は70歳です。   日本で最初に始めたシニアチームなので老舗と言った感じです。   入会資格があり、55歳以上、容姿端麗(自称)、という風になっています。   衣装は年に一回ぐらいは注文しています。  きらびやかな衣装を着たり、お化粧をしたりすると気分が違います。   練習は30分の柔軟体操と1時間半の踊りです。  その後1時間ぐらい自主練習をします。  

先生が曲を選んで、年2曲を習います。  ビデオを撮ったり自分でメモ書きしたりしています。  練習は週一回で後は自宅で振りをやっています。  団体で踊るので合わないと問題なのでそこが大変です。  新しい方は振りは覚えてもフォーメーションがなかなか覚えられない。  結構頭を使わないといけない。   27年間やってきました。 

チームを結成したのが1996年、63歳の時でした。   アメリカでチアのシニアのチームがあることを知りました。  やろうと思って郵便番号を書いてリーダーのところに手紙をだしました。  奇跡的にリーダーの方に手紙が渡りました。  その方がたまたま長くパートで郵便局に長く勤めていて、郵便局の人がきっとあの人だという事でリーダーさんに渡りました。   すぐ返事が来ました。 折り返し手紙を出したりしてやり取りを重ね写真などいっぱい送ってもらいました。   

友達に話をしたら、4人ぐらいが乗ってきました。  青学に行って、教えを請いに行きました。  年に1曲ずつやっていましたが、7年目にチャリティーショーを始めました。  勇気、元気を差し上げることが出来ることをその時実感しました。   世の中への還元と言う思いもありました。   手土産のやり取りはいろいろややこしいのでそれはこのグループではやらないことにしました。   なかなかこれが難しくて徹底するのに数年かかりました。 年賀状、冠婚葬祭など一切禁止でやっています。  練習は夜6時から8時までで、早く帰宅したいという事でつるんでその後どこかへ行くという事もなく、それも長く続けられてきた要因かもしれません。  

1932年(昭和7年)生まれ。  関西学院大学を卒業後、1年間アメリカに留学、25歳で結婚、2人子育てが終わって53歳の時に再度アメリカに留学、老年学を学び老年学修士号を取得。    両親から進学してほしいと頼まれました。   専門学校に行って1年行ったら短期大学に替わりました。   乗馬を見てこれだと思って、乗馬をするには関西学院大学しかないという事で関西学院大学に入ることにしました。   卒業後、父が自立できるようにならないといけない言うことでアメリカに留学することになりました。     色々あって52歳で家出しました。    

父は世間から見れば成功した人生だと思いますが、最後の半年が寝たきりになり、自分の人生は無だったとかすごく嘆いて、これ以上食べると長生きするから食べたくないとか、言い出したらしいんです。  そのことは父が亡くなってから聞いました。  物凄いショックでした。   寝たきりになる前は、自分は寝た切りになっても絶対人生最後まで楽しむと豪語していました。   寝たきりになっても、スイッチボードを作って音楽が聴けたり、テレビが観れたり出来るように自分で準備していました。   でも嘆きの人になってしまいました。  関西にいたので月1回程度会いに行っていましたが、結婚生活もいろいろあって、子供のために犠牲になって愚痴ばっかりいう人生は厭だから、兎に角家を出ようと思って家を出ちゃいました。(息子が就職した年)   53歳の時に米国へ再留学し戻ってきてチアダンスチームを作りました。    スカイダイビング、ウクレレ、語学の勉強などいろいろ挑戦してきました。    

世間の人がどう思うんだろうという事は比較的ないです。   自分の人生だからしたいことをしないと、周りの人から言われて辞めるという事は自分の人生ではないんじゃないかなと思います。   大事なことは相談しないです。  チアをやってきたことで友達も増えたし、身体も健康で、脳への影響もよかったのかなと思います。  娘は近くなのでちょこちょこ来てくれますが、息子はそれほどでもありませんが、今は子供たちとも仲良くやっています。    健康食はあまり好きではなく、食べたいものを食べて飲みたいものを飲んでいます。   面白くなくても笑えと、そうしたら楽しくなると思います。   笑顔を作るという人がいますが、或る程度本当じゃないかと思います。


 

2022年9月5日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】枡野浩一

 穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】枡野浩一

Eテレでは「究極の短歌・俳句100選ベストセレクション」という放送がありました。  東大の渡辺先生、歌人の栗木京子さんと私が短歌部門を担当しました。   千数百年の歴史の中から究極の50首を選ぶという無理な企画なんですが、50首の作者の誰かを選ぶのは結構一致しますが、どれとなると全然意見が合わない。  

枡野浩一さんは1968年東京都生まれ、大学中退後広告会社のコピーライターやフリーの雑誌ライターを経て1997年短歌絵本「てのりくじら」「ドレミふぁんくしょんドロップ」で歌人デビューしました。  簡単な現代語だけで読者が感嘆、感心して褒めるような表現を目指す、感嘆、短歌を提唱されて、又短歌をちりばめた小説「ショートソング」はおよそ10万部のヒットとなり、短歌ブームを牽引しているおひとりです。  短歌以外にも絵本、童話、詩、評論を手掛け多方面で活躍されているところは穂村さんと一緒です。  

「毎日のように手紙が来るけれどあなた以外の人からである枡野浩一全短歌集」というタイトルの短歌集をだしました。  

18歳のころ、俵万智さんの「サラダ記念日」を母が買ってきて、見て自分でも作ったがとても作れなくて、実際に作り始めたのは20歳の時に、たまたま短歌が一気に生まれる日があって、100ぐらい短歌が出来て、最初の一首は本には出ていないんです。  

「今夜どしゃぶりは屋根など突きぬけて俺の背中ではじけるべきだ」  枡野浩一    普通雨など避けたいものですが、何か大きな出来事があったのか、どしゃぶりがいっそのこと屋根など突きぬけて自分の背中を打ちつけてくれ、はじけるべきだも凄く強い言い方。 絶望みたいなものがありながら、裏返るような不思議な快感を感じます。 

枡野:サークルの先輩が亡くなってしまった時に作りました。    

「街じゅうが朝なのだった店を出てこれから眠る僕ら以外は」     枡野浩一    起きた人にとっては朝なんだけど店を出てこれから眠る僕らにとっては朝ではなく夜の続き、僕らは少数派なんですね。

「私よりきらきらさせる人がいる私がやっと拾った石を」       枡野浩一     一種の比喩のようなものだと思う。   自分がやっと手に入れたものをもっと簡単に最初から持っているような人がいて、それを自分よりもずっと輝かせている、というような気持ちってわかりますね。

「私には才能がある気がしますそれは勇気のようなものです」     枡野浩一    一首前の歌と矛盾するようですが、これは繋がっていると思っていて、若い時には才能とか気にするが、30,40、50代になって来ると才能のことはどでもよくなって、大事なのは勇気とかという事にじわじわ気付いて来る。  この歌は衝撃的でした。 

枡野:この歌は自分らしい歌だと思います。

枡野氏が選ぶ穂村氏の短歌。

「パンツとは白ブリーフのことだった水道水をごくごく飲んだ」     穂村弘     穂村さんはある永遠的なものを捉える歌人だと思いますが、時代の刻印を押されたものに眼を向けた感じがこの歌の面白いところだと思います。  

「意味まるでわからないままぱしぱしとお醤油に振りかける味の素」   穂村弘    意味まるでわからないままかけていたという感動、子供時代のことを大人になって振り返ったからこそ書ける、大人の視点があるから書けるものだと思います。  

穂村氏が選ぶ枡野氏の短歌

「雨上がりの夜の吉祥寺が好きだ街路樹に鳴く鳥が見えない」       枡野浩一

雨上がりの夜の空気感がファーっと再現されるような、嗅覚、視覚、聴覚と言った感覚が複合的に表現されていい歌だと思います。  

「好きだった雨、雨だったあのころの日々、あのころの日々だった君」   枡野浩一    意味の区切りと5,7,5,7,7の区切りがずれているが、しりとりみたいな感じになっていて、特別な形をしている。  

「真夜中の電話に出ると「もうぼくをさがさないで」とウォーリーの声」  枡野浩一  ウォーリーを捜せと言うゲーム性のある絵本があるが、本歌取りの元ネタを歴史的に遡った過去の有名な短歌ではなくて、ジャンルが違っても同時代の横の作品、それから持ってくる技法ですが、枡野さんはそれを先駆けてやっていて、しかもこれは使い方が上手ですね。

「あじさいがぶつかりそうな大きさで咲いていて今ぶつかったとこ」   枡野浩一    「今ぶつかったとこ」という表現が不思議な衝撃がある。   魂とか脳みそとか比喩に見えてきて、新しいスタイルをここで発見している歌だなと思います。

リスナーの作品

*「このさら地なんだったっけと考える判らぬ怖さ判る寂しさ」   気まぐれウサギ

*「飛行機もトンボもバックしないから君が空へと吹くハーモニカ」 春木敦子

*印は漢字、かな、氏名の文字がが違っている可能性があります。







2022年9月4日日曜日

京田尚子(俳優・声優)         ・【時代を創った声】

 京田尚子(俳優・声優)         ・【時代を創った声】

「それゆけアンパンマン」のおむすびまん、「ポパイ」の彼女のオリーブ役、ほか数多くの映画の吹き替えで活躍しています。

コロナ禍ですが、4回接種を終えて外へ出るのが好きで買いものなど楽しんでいます。    凝り性で、いろいろ買ったりするんですが、忙しくてなかなかできなくて、そのうちに別のところに気が移ってしまったりしています。  今はお花に興味があって本を買ってきて、生け花、など楽しんでいます。   芝居って何だろう、台詞って何だろう、声って何だろうと悩んできましたし、今でも悩んでいます。   演技は下手だと痛感していたので苦しかったです。  

小学校2年生ぐらいからNHKのラジオドラマに出演。  当時は軍国主義の教育でしたが、その小学校は自由主義で、一人一人の個性をよく見て、私は俳優があっているという風に見られました。   児童劇の草分け的先生がいて、その先生がNHKのドラマも書いていて、先生が私をラジオドラマに出してくれました。   当時は全て生放送でした。  中学、高校は兵庫県の芦屋市に住みました。   蜂窩織炎による骨膜骨髄炎という骨の中に菌が入って血液によって全身に回ります。  弱い組織のところに菌が繁殖する。   戦時中で薬はないし医者もいませんでしたが、父が商社マンで戦争があるということでインドから引き上げ船で帰ってくる時に、薬を一杯持って帰って来ました。  3人この病気にかかったんですが、父が持ち帰った薬を一杯飲んで私だけが生き残りました。  そんなことで学校は半分ぐらいしか行っていませんでした。   ちょうど学制の変わり目で、中学4年、女学校5年、高校3年、どれで出てもいいころでした。   兎に角芝居がしたかったので、東京に出てきて短大に入って、芝居のまねごとをしていました。  

友達が養成所があると教えてくれて、昼は学校、夜はそのに養成所に行きました。    文学座堀越節子さんの付き人のような係になりました。   脇役や老け役志向で、「芝居というのは脇が作るのよ、ちょっと出てきてぴったりの感じの人を使わなければならない、だから脇は難しいのよ。 人生経験の豊かな、ひとこと言っても味のある深みのある、そういう人がやるものなのよ。」と母から言われました。 脇役の仕事は多く来ました。  声の幅を広げようと思って最初は声学の勉強をしました。   歌うような声になってしまって、悩んで、日本語ののセリフを旨く言うにはどうしたらいいか考えて、狂言教室に通って、怒鳴られながらも身についていきました。  努力をすれば身に付いて来る、という事が判り、それが力になりました。   義太夫も習いました。  10年やりましたが、なんて難しいのだろうという事が判りました。    三味線の心理描写、情景描写の音色に合わせて即興で作っていくわけです。   

「ポパイ」の彼女のオリーブ役、高い声が出せました。     1997年ジェームズ・キャメロン監督「タイタニック」で歳をとった主役のローズ役の吹き替え。   それまでいろいろ苦しみましたが、ローズ役は全く苦しまなかった。   本人になったような感じで凄く不思議な経験でした。   「それゆけアンパンマン」のおむすびまん、男の中年がどうして私に来るのと思いましたが、いいディレクターは深いところを見てくださるんですね。  そういったことが最近になって判って来たところがあります。   おむすびまんも30年ぐらいになります。  吹き替えでは向こうの人に寄り添わなくてはいけない、自分の生理に合わなくても寄り添わなくてはいけない。  いい作品のちょっとした役、いい女優さんがやっているのはとっても楽しいです。   アニメはどっか遊び心がないと、人間を見る目が直感的に大きく捕まえる能力が有った方がいいですね。   

努力すればやっぱり結果が出ると思うんです。  いっぺんどん底を見た方がいいですね。若い時にはお金を出しても苦労した方がいいと言いますが、これは本当だと思います。  苦労は未来に対する投資ですね。   若い人に対しては、本当に好きならば何としてもかじりついてやりなさい、そうじゃなかったら一回限りでも楽しんで、別の世界に動けばいいんで、今の自分を作るのは昨日の自分なので、明日の自分を作るのは今日の自分なんですね。  必ず見ている人はいると思います。   自分を大事にして捨てないことですね。 もうできないですが、アテレコの翻訳は面白いと思います。   言葉、文化、習慣、その国の生活など、それと日本の語彙、日本の文化なども知らないといけないし、それが出来たら大変な仕事だと思います。  訳すための制約はあるし、表情に合わせるように翻訳することが難しい。  生まれ変わったらこの仕事をしたいです。

2022年9月3日土曜日

前橋汀子(バイオリニスト)       ・バイオリンと生きて 演奏活動60年

前橋汀子(バイオリニスト)       ・バイオリンと生きて 演奏活動60年 

日本を代表するヴァイオリニストの前橋さん、今年プロとしての演奏活動60年を迎えました。  ヴァイオリンとの出会いは戦後すぐ、幼稚園の情操教育の一環でたまたま勧められたことがきっかけでした。   当時日本在住でロシア出身の音楽教師小野アンナさんに手ほどきを受けたあと、1961年17歳で旧ソビエトのレニングラード音楽院に入学、その間にプロの演奏家としてデビューしました。   以来ニューヨークやスイスを拠点に活動を続け世界的な演奏家や指揮者と共演してきました。  1980年からは日本に拠点を移し、関西の音楽大学でも指導してきました。   今も年間50回も公演を行っています。    60年間第一線で演奏活動が出来た秘訣と音楽への思いを伺いました。

60年はあっという間のような気がします。   幼稚園の情操教育の一環でヴァイオリンを始めてこんなに長く弾き続けて、いろんな経験が出来たので、ヴァイオリンを与えてくれた母に感謝しています。   当時渋谷公会堂しかなかったが、世界一流の演奏家の演奏を聞いて、子供心に私もあのように弾きたいと思いました。   同じ楽譜だけれども弾くたびに、新しい発見とか気付きがあるんです。   それが新鮮で、それの繰り返しですかね。  若いころには10~12時間練習をしました。   今はそんなには弾けないのでイメージトレーニングとか、ハンドバックに楽譜を入れていつも見れるようにしています。      今は、簡単に言うと知恵と工夫で練習をしています。  身体のメンテナンスのためにはトレーニングを欠かさずやっています。   トレーナーの人に来ていただきて体幹を鍛える事とかいろいろやっています。   数時間は楽譜を見ていろいろ研究しています。   あんまり練習すると指が痛くなってそれもよくないです。   

10代の時にソビエトで厳しい奏法を訓練して沢山練習をしたことは、これまで弾き続けてこれた一番大きな基盤になっていると思います。    冬はマイナス20~30℃になり、行列して食べ物を手に入れたりする時代だったので、そんな中で頑張って勉強していたのを懐かしく思います。  文化、日々の暮らしなどから演奏の土台になるものがありました。  音楽の好きな国民ですから、そこでいい経験をさせてもらいました。   魅力のある先生、演奏家にじかにあったり、話をしたりしました。  アメリカやヨーロッパに行っていろいろな出会いがありました。   刺激を受けてニューヨーク、スイスにも暮らして、自然に触れたり、食べ物などを経験したからこそ判ったことはたくさんあります。  私の財産です。

弾くたびに新しい発見があり、表現するときの役に立っているかと思います。  引きだしが増ええているかなという感じはあります。   現役でステージに立てるという事は幸せなことだと思います。  初の自叙伝「私のヴァイオリン」を上梓。 若いころはお客さんにどう聞いてもらえるかという事を考えていましたが、最近は音楽、作曲した人に向き合うように演奏しています。  会場によっても毎回条件が違うので指使いとかも変えたりします。   山に登ってこれでいいかなあと思って見渡すと又高い山がある、という感じですかね。  その人の生き方、暮らし方とかが音に大きく反映してくるんじゃないかと思います。   若いころのように体力、気力はありませんが、知恵と工夫で考えながら、まだ挑戦できるかあなと思っているので弾き続けて居ます。    身体のメンテナンス、食事など大事だと思います。  ヴァイオリンを持つとスイッチが入って、元気になります。   ヴァイオリンこれさえなければ、と思うような時もありますが、しばらく経つとやはり戻っちゃているんですね。    性格的にもヴァイオリンに没頭することが厭ではないんです。  

特に思いを寄せるのがバッハの無伴奏「ヴァイオリンのためのソナタ」と「パルティータ」、30曲以上からなるこの楽曲はヴァイオリン独奏の代表的作品です。  

「ガボット」 作曲:バッハ

5,6歳ごろ弾いた曲です。  10,20代もバッハに触れていますが、そのときよりも遥かに自分の思っていることがストレートに音が表現できるようになったのかなと思います。 今でも新しい発見があります。    芸術、音楽は国籍、宗教、人種などに関係なく心が通じ合えるものだと思いたいです。   ソビエトに留学していたので今は非常に複雑な思いです。   今だからこそ音楽で会話が出来たらいいなと思います。  今まで当たり前だと思って演奏してきた毎回のステージがもっともっと大切に、いとおしく思うようになりました。   



2022年9月2日金曜日

あがた森魚(シンガーソングライター)  ・「赤色エレジー」とともに50年

 あがた森魚(シンガーソングライター)  ・「赤色エレジー」とともに50年

1948年(昭和23年)北海道留萌市生まれ。  小学校を青森、中学校を函館で過ごす。   1965年高校2年生 の時にボブ・ディランライクローリングストーン」(Like a Rolling Stone)に衝撃を受け、シンガーソングライターの道を目指します。   1972年「赤色エレジー」でデビュー、50万枚を超えるヒット曲となりました。  又映画監督、俳優としても活動し、1981年から84年にかけて放送されたドラマ「人間模様 夢千代日記」三部作に出演しています。   今年でデビュー50周年を迎えたあがた森魚さんに伺いました。

今年50年なのでいろんなことをやらしていただいて、50年になるが内側にあるものはあまり変わっていないという、そういう50年の感触です。  

*「赤色エレジー」  作詞・編曲:あがた森魚 / 作曲:八洲秀章   歌:あがた森魚

あの時代をこの曲で一緒に送ったんだなあと思うと、贅沢なことをさせてもらったなあという感じです。   1972年当時はフォークブームでした。   皆にエールを送りたいという思いがあり、作ってすぐになんかに似ていると思った時に、「荒城の月」を思い出して、いまはこうだけど頑張って生きて行くぞみたいな、そういった感じです。  21歳の時の作品です。漫画雑誌ガロ』に林静一さんが連載した「赤色エレジー」 青年・一郎と、その恋人・幸子のアニメーターになりたくて夢を追いながら同棲生活を描くものです。  勝手に主題歌を作ってしまったというのがこの歌です。  

1969年12月 URCレコード事務所へ赴き、早川義夫さんらの前で歌い、早川さんに薦められ、1970年1月「IFC前夜祭」で初ステージに立つ事になります。  

大橋巨泉さんの番組にたまたま下駄を履いて出て行ったら、面白がられ、他のテレビ局、NHKさんでも下駄で出てきても構いませんよと言われて、いつの間にか下駄がトレードマークになってしまいました。   歌いたくないと思ったことはないが、ちょっとしばらくはブランクを置きたいと思ったことはあります。   割と自然体で向き合ってきました。  

僕にはボブ・ディランという師匠が居て、もう一人文学者で稲垣足穂という師匠が居まして、この方の世界観が好きで、吉田兼好の「徒然草」のチャプターを引用して「美のはかなさ」を書いたんですが、そのなかに なんか昔これと同じようなことをしているなとかあると思いますが、ふっとそういう気持ちになるのは僕だけだろうか、と吉田兼好は言っている。  その感じを稲垣足穂は持っていて、もっと後の世代もきっと感じることがあると思うんです。   デジャブ(既視感)的な感覚(過去に経験・体験したことのない、初体験事柄であるはずにも関わらず、かつて同じような事を体験したことがあるのような感覚包まれること。「前にどこかで一度これと同じものを見たような気がする」という感覚。)は僕らが永遠に受けつぎ、未来に運んでいくだろうと、その累進は僕らがどう変形させるかによって、未来にもっと美しいものや、もっと僕らが楽しいものとして分かち合えるものに変形できるんじゃないかと、稲垣足穂と「徒然草」から感じたその世界も又僕の次の音楽って何があるだろうと、デジャブが未来のデジャブにどう歌えるだろうかみたいなことが、例えば僕の一つのテキストであろうみたいなところは有ります。

アルバムの数だけでも凄い数出していますが、その原動力というと、いろいろな言い方が出来るけど「欲深さ」ですかね。(笑)  いつも自分のなかに、やり足りていない、もっと今度あれをやろうと、いつもあるというか。  

飛鳥山で僕らは毎月最後の日曜日に稲垣足穂さんにプレゼントする「稲垣足穂ピクニック」というライブみたいなことをやってきます。  自分がやりたいことを分かち合おうという、それは今までも大事だしこれからも大事だと思います。   音楽なり音を出したり自分たちの素朴な感受性を響き合わせるという事をやりたいと思っています。   欲望なり、モチベーションなり、パッッションのようなものがあれば、やろうよって、僕らがいろんなものを分かち合って来た流れは、その中にあるのかなあと思います。  

9月22日に50年の節目のライブをやります。   その日に伝記本も出ます。