2015年1月30日金曜日

中宮紀伊子(老舗和菓子店女将)    ・人を育て、店を育てる(2)(H26.11.17放送)

中宮紀伊子(老舗和菓子店女将)   ・人を育て、店を育てる(2)(H26.11.17放送)
和菓子は春夏秋冬が有り、めちゃくちゃ綺麗。
秋は綺麗な菓子が出てくる。 
御団子、餅系は作っていない。 上菓子を受け持っている。
松江、京都、金沢 和菓子の有名なところ
菓子の木型、木型美術館も2階に有る。
先輩から見て覚え、レシピなどはない。
お菓子は季節をちょっと先取りして作ってゆく。
6種類を2週間に一遍づつ変えてゆくが、来年同じかというとそうではない。
「長生殿」は昔は甘くて大きいものが好まれたが、最近は甘さを控え小さいものが好まれるようになってきて時代によって大きさ、味覚が違ってくる。

母からは正直者であれと言われました。
嘘を言うと次々とそれを書き消そうと、嘘を重ねるのでそれは辛いので、正直に言いなさいと言われた。
戒めの様に心の中に残しています。
父は多くを語る人ではなかったが、健康な身体を両親からもらったことは感謝しています。
私は長男の嫁で、和議申請の時に父の両親は会社を辞めていった。
主人はその時の経営状況を知らされてなくて、怒って両親を会社から追い出した。
私も驚いて、これで私も親子の縁が切れたのだなと思った。
でもそのうち時間が経つうちに、行ったり来たりするようになる。 
親子の縁は絶対切れるものではないと思った。
私も言いたいことが有ったが(なんでこんなになるまで経営の内容を言わなかったのかと)、何年かするうちに言わないままになってきた。  これから先も言わないと思う。

義母は83歳で耳が聞こえなくなって来て、メールでやりとりしている。
4年前に本店を建てて、木型美術館も2階につくった。
義母が「あんたようがばんばってくれたねー」て言ってくれて、そんなこと言われたのは初めてで嬉しくて涙が出て来て、あー判ってくれてたんだなあと思って、言わなくてよかったと思った。
給料は現金で渡している。  銀行振り込みだと、そこにおいて置いて、という様感じだが、現金だと皆さん取りに来てくれて、一人ひとりに眼を見ながら有難うと言って渡す事が出来るし、仕事での良かったことを誉めて渡すことができる。  是は続けてきたいと思っている。
マニュアルがないので、一切口頭で事細かに指示する。
新しく入ってくる人は掃除にしてもほうきの使い方、雑巾の絞り方などを理にかなったことを伝えると覚えてくれるので一つ一つ教えている。
接客法、対応の仕方がよくなかったら、私が後から飛んで行って一言声を掛けて、私がいない時には先輩に頼んで、同様な事をしてもらう様にしている。

「この人生をありがとう」の本の中で  
①お客様第一主義  ②品質第一主義  ③工場第一主義
主人が考えました。
茶会などで早い時もあるので、1時ぐらいからお菓子を作り始めて、4時頃に作り上げて、名古屋などに送品することが有る。
お客さんの笑顔が一番のお土産ですね。
家は値引きはしません。 言われても、皆さん同じ状況でお買い求めいただいているので御勘弁下さいと言って、ずーっと頭を下げています。

金沢は言葉が柔らかくて、ゆっくりと平坦なんですね。
伝統を守り続けないといけないと思っている、和菓子への歴史の責任を感じる。
自分の欲というものが無くなって、皆が良くならないと行けない、絆ができていい世の中になることを目指していきたい。
「千年の夢」 地域のためにいろんなことをして行きたいと思う、想いのお菓子です。
職人に貴方ならどうする、営業の人にも貴方ならどうする、と自分たちがすることによって、人は認められて褒められてやりがいをもっていくのではないかと思う。
会社再建できて、人生が変わってきて、いろんなものに感謝するようになった。
今の私がいるという事は皆さんのおかげなのでその思いを「ありがとう」と本に付けました。
してもらったことを数えていったら物凄く幸せになる。

のれんを守ろうと思ってしてきたが、気がついたら、のれんやお菓子に守られた。
信用と歴史 
先人達がこのお店を支えるために、どんな人たちが守って支えてくださったのかなという思いと、前田家がどういう思いでこのお菓子を発案して、作って、この時代にも売ることができたという事は奇跡だと思います。
和菓子の歴史をつないでいきたいと思っています。








2015年1月29日木曜日

中宮紀伊子(老舗和菓子店女将)    ・人を育て、店を育てる(1)(H26.11.16放送)

中宮紀伊子(老舗和菓子店女将)   ・人を育て、店を育てる(1)(H26.11.16放送)
石川県金沢市の老舗和菓子店の女将 徳川3代将軍家光の頃、加賀藩では前田利常公が藩を治めていました。
江戸城で行われる宴に新しい茶菓子を依頼され、藩主と共に作った落雁が絶賛され、森下八左衛門は今から390年前、寛永2年菓子製造業になりました。
以来伝統菓子を守り続けてきましたが、バブル時代の過大投資が仇となり、平成に入ると経営危機に見舞われます。
平成7年金沢地方裁判所に和議申請を提出し、それからの10年近く再建にむけあらゆる努力をしてきました。

「あなた、私も闘います」 他2冊本を出版
「あなた、私も闘います」は15年前 当時は一生懸命に毎日過ごしていました。
和議申請 経営不振に陥った会社が社長はそのまま残ってもいいが、銀行からお金は借りられず、自主で再建してゆけば、社長は残ってもいい、と言う事です。
審査されて和議を受理してくれる。
収入は弁護士が管理、給料など払う。
出来るのかどうか、本当に心配だった。
何も食べれなくて、眠れなかった。
やっぱり子供が心配でした。(娘2人)  平成5年  子供がいたから頑張れたのかもしれない。

とことんやって駄目だったら仕方ないと思ってやりました。
1625年 寛永2年創業の老舗 多額のお金を銀行から借りた。(バブル期)
危機は突然やってきた。
和議申請時、店に出て3カ月の時だった。
私は岩手県一関出身、父の関係で東京に来て、転々として、江戸川区北小岩で育ちました。
柴又帝釈天が近い。 遊び場はもっぱら帝釈天、江戸川の土手で、遊びまわっていました。
高校までいました。
結婚が決まってから金沢に一度遊びに行ってみようと思った。  
街がゆっくり流れていて昔の建物があり、食べものが多く美味しい。
前田家のおひざ元という事で、皆さん嬉しく思っていらっしゃる。

伝統工芸が素晴らしい。
落雁 長く生きる殿と彫ってある。
三代藩主の前田利常公が「長生殿」と名づけた。
小堀遠州が彫った字なんです。
徳島の和三盆に加賀米を混ぜて、蜜で湿らせて木型に入れて打つんですが、白と赤が有るが、赤は本紅を使っている、山形県の本紅。 金と同じ値段と言われていた。
外部から入った会長から店に出てはと言われて店に出るようになった。
お金の計算は駄目なので、営業、接客を専門としている。
経営は、私は主婦だから1つの材料でいくつできるのかと思うので、その考えを経営に持ち込んだ。
又来ていただくにはどうしたらいいのか、と言う話を店の人間にします。
経営者と働く人たちが離れ過ぎていた、経営者の思っている思いを、経営者が伝えていなかったのではないかと思う。
400年近くやっていると、段々ずれが有って、殿様用から売るようになって、変わってゆく必要が有ったと思うが、それが判らなかったと思う。
会社が和議申請という事から眼がさめて、変わろう変わろうと思いました。
社員、お客さん、子供のためと、私のためにものを考えたくないと単純な思いがあり、それを実行しました。

仕入れからすべて現金決済だったので、一つ一つが大変だった。
いろんな小物(ボールペンとか鉛筆とか)が落ちており、もったいないと思った。
社員の皆さんにボールペンなどを自分で持ってくるようにした、そうすると大切にする。
子供は親の頑張っている姿を見ているせいか、自分の生き方、目標をしっかり持ちながら今は大きくなりました。
闇金融から借りたこともあり、子供が心配で、私の実家に預けたこともある。
学校に行きたいという事で、主人が送り迎えをしたりして、高校なら大丈夫と思って、止めたら何故送り迎えをしてくれないのと言われて、高校でも送り迎えをした。
子供は高校2年の時に、将来の目標をきちんと決めて、デザインの専門学校2年、デザインの仕事3年、その後に和菓子職人になりますと言って、実際その通りにやってきた。
経営は私たち夫婦には出来ても、和菓子はできないが、娘は和菓子を毎日作っています。
和議申請、主人はお坊ちゃまだったので、大きな試練に対し心配だったが、二人で乗り越えることできた。






2015年1月28日水曜日

2015年1月24日土曜日

桐島洋子(作家)         ・生き生きと生き尽くす

桐島洋子(作家)         ・生き生きと生き尽くす
1976年出版「聡明な女は料理がうまい」ベストセラーになる。
77歳 東京生まれ 3人を葉山で育てる。 高校卒業後文芸春秋社で働いているうちに、海で出会ったアメリカ人と恋に落ち、未婚のまま出産、シングルマザーとして筆一本で3人のお子さんを育てました。
NHKにも出演タレントの長女かれん、エッセーイストのノエル、カメラマンのローランドさん。
50歳代から人生の収穫の秋である林住期と宣言して、ノエルさんの住むカナダと日本を活発に行き来していらっしゃいます。

旅が好きです。 旅は人生といわれるが、劇中劇と言った感じで人生を形成しています。
子育て卒業大旅行をしました。 世界を回り歩いた時に、インドでインド人夫婦とであって、山荘にうかがう機会があり、その御夫婦はここで林住期を楽しんでいますと言われた。
インド仏教の思想で人生を4つの季節に住み分ける。 
①学生期(青年期) ②家住期(壮年期) ③林住期(人生の収穫を楽しむ) ④遊行期(遊行=巡礼 祈りと瞑想をしながら歩きまわって死に場所を求める)
学生期から遊行期に旅をすることも出来る。  遊行期から家住期に行く事も出来る。
あちこち旅をすることができて、旅をすればするほど人生は深みを増し、豊かになってきます。

人生を一生懸命生きようと思っているのは、昔ベトナム戦争で従軍記者をしてまして、仲間が同じ塹壕で暮らしていて、若者が戦争が終わったら、こうしたいと熱烈な思いを語ってくれて、医者になって傷ついた子供達を治したいとか、土木技師になってベトナムの復興に尽くしたいとか、そういう若者がその翌日には何人かが、冷たい躯になってその辺に転がっていて、悲しくて涙も出なかった。
生き残ったものの罪悪感を抱えながら生きてきた。
できるだけ生き残った者として一生懸命に生きて生き尽くすことが、少しでも世の中の役に立つのが、彼等のために何かをすることが役目だと思っています。

私の学生期  生まれた年に太平洋戦争が始まる。
海が大好きで毎日泳いでいた。 水平線に向かって、帰れる範囲を色々考えて、泳いでいた。
人に支配されないでも勝手に行動ができてきた。
波が来ると恐いから逆らったりするが、ある日急速にあまりにも大きな波が来て、あーもう駄目だと諦めて、ふっと体の力を抜いて波に身をまかせてしまったら、不思議と私を抱上げて抱きおろしてくれた。
逆らわなければいいんだと気が付いた。
波に限らずあらゆる人生の上で、力を抜くとふっとうまくいくという事、経験を重ねてゆきまして、波のおかげで心身の力を抜く、自分を空にしてお任せするという事が出来るようになったという事は私の人生の大きな宝物だと思っています。
50歳ぐらいの時に健康診断を受けたら、完全な健康体です、親御さんに感謝しなさいと言われた。
夫だった人が亡くなりました。  ALSという絶対に治らない病気で亡くなりました。
葬式、墓はいらない、骨を灰にして世界中のいろいろな場所に撒き歩いてくれと頼まれた。
散骨旅行が私の大きな仕事になりました。

家住期 結婚もしないで、子供を3人も作ってしまった。
一緒に海で潜っていた人が事故で死んでしまった事件があり、落ち込んでいたが、ある日電車に乗って自宅に帰る時に、初老の外人が話しかけてくる。
ナンパされて付き合う様になり、潜りに行こうよと言われて、一緒に潜ったら、こんなにすごい人はいないと思った。
彼はスキンダイビングの草分けでその世界では神様の様な人だった。
気がついたら子供ができていた。
土曜波に巻き込まれて海岸に叩きつけられて陣痛が起きて生まれました。
出産1週間目には仮病をつかっていたが、会社に出社しました。
翌年も子供ができたが、2年続けて腎臓が悪い(仮病)と言うわけにもいかず、海外旅行に行く事にして、許可をお願いしたら許可を得られて、ヨーロッパに出かけた。
船旅を楽しんで、日本に来てしまいそうになり、クリスマスイブで明日日本に帰るという日で、搭乗医師も酒を飲んでしまっていて、おろおろとしてしまって役に立たず、看護師を呼びに飛び出した隙に生まれてきてしまった。  翌日は日本に帰れた。
ベトナム戦争の従軍をして食べつないでいて、ベトナムから帰ってきたら子供が出来ていてローランド
が生まれた。

物凄い失恋をして、死にたいぐらい辛かった。
よれよれになっている時に編集者が来て、愛についてのテーマと言う事で、止めてほしいと言った。
料理なんてどう、言ったら、先生には似合わないと言われて、俄然闘志がわいて、本を書く事になる。
「聡明な女は料理がうまい」 ベストセラーになり、纏まったお金が入り子供を連れて、アメリカのニューヨークから数時間の高級避暑地イーストハンプトンに1年半ぐらい暮らした。
朝日新聞に「マザー・グースと三匹の子豚たち」という生活記を連載して評判が良かった。
当時は私に対しての風当たりは強かったが。

林住期  50歳で林住期を宣言する。
バンクーバーをベースにして、畑を耕したり、森を歩いたりしている。
高校時代は勉強は嫌いだった、特に体育は嫌いだった。
隣りが東大だったので、高校の授業よりはましだと思い、大講堂に講義を聞きに行ったりしていた。
学生運動に熱中していて、周りからは東大生だと思われていて、いつの間にか幹部になったりして、5月祭には芝居に出たりした。
高校を卒業する頃はどうしようかと思っている時に、友人と(永井龍男先生の子供)手紙のやり取りをしていると、文章が面白いと友人の父から言われて、文芸春秋はどうかと言われて、試験を受けたら合格する事ができた。
眼に止められて編集部に行く事になる。
子供が出来て、会社は辞めることになる。
かれんも50歳になる。
恐いものとか不安は?
恐いことはたくさんあるが、自分の弱点はあまり言わない方がいいと思っていたが、冒険は怖くないと思っている。
死もそんなにたいして怖くないと思ってしまったら、世の中怖い事はない。
言葉なんて、人間だったら必要があれば通じるものです。













2015年1月23日金曜日

並木秀之(投資会社顧問)      ・生きていれば人生はひらける

並木秀之(投資会社顧問)            ・生きていれば人生はひらける
埼玉県熊谷市生まれ 61歳 生まれつき脊髄に重い障害があり下半身が不自由です。
小学校5年生で母子家庭になり、経済的に余裕のない生活でしたが、高校時代アルバイトでお金を貯め、大東文化大学法学部に入学します。
大学の教員を目指して卒業後は法学研究所に進みますが、夢が実現できず、公認会計士事務所で働く様になります。
社会に出た並木さんは思い込みをすてて、自分を見つめ直し、自分が得意とする分野で道を切り開いていきます。
35歳で独立し、会社を設立しましたが、その後次々に癌を患い、何度も余命宣告を受けました。
しかし再び立ち上がり、今の投資会社を設立したのです。
並木さんが困難を乗り越えて生きてきた中で見出した信念、生き抜く力について伺いました。

15年前友だちと一緒に共同出資して作った会社。
外資系銀行に務めていて、合併があり、入らなくなった子会社を購入した。
投資の金額は一般的には天文学的だと思われるが、業界では小さな金額で、其れが私のもともとの守りのスタンスが影響している。
今は顧問的な立場でやっている。
確実に収益を上げていこうと言うような発想で、相克があって皆さんとは別れて独立したりしていて、会社は大きくなったとは言えず、成功者と言えるかどうかわからない。
現状にはホッとしている。

脊髄分裂症で杖をつきながら、前向きに勢いをつけながら歩いている状態。
生まれた時から脊髄が割れていて、そこから髄液みたいなものが皮膚を通して出てきて、足が不自由なことと、神経がやられているので、排泄がコントロールできないという障害を持って生まれた。
排泄の障害があるのに障害がない様にして、小学校では振舞っていた。
漏らしてしまう事もあり、自宅までの間に、わざと転んで泥水の中に入ってしまって、お尻を漬けて泥水に入ってしまったんだから、茶色になっているんだと周りに思わせたい、そこまで取り繕った。
精神的な疲れは相当なものだった。
高校の時に友人に話したが、友人たちは理解してくれたので、楽になった。
こんなに楽な気持ちになるのだったら、もっと早く話していればよかったのではないかと思った。
祖父母、両親、弟 6人家族だったが、小学校1年で祖父、3年後祖母、5年後父が亡くなり経済的にも厳しくなるが、2つの経験をしたことによって、そのあとに色々起こったことがそんなに大きな問題で無く乗り越えることができたと思う。

或る言い方をすればエゴイスティックに自分が置かれている環境がこういう環境だから、その中でどういう選択をすれば自分に得かと意識しながら選んできて進んできた行為だと思います。
母を少しでも助けるのには時給も高い仕事をしたいと選んで行った。
友だちにも迷惑をかけた。
熊谷でキャディーをやったが、ゴルフクラブからすればやらしてみたが、やはりまずいという事で中止するようにおっしゃって、他に何かやれることはないかと、グリーンに水を撒く仕事を依頼された。
自分があってる事をやるのも、一つの方法で、自分の欲ばかりに惑わされるのもよくないのではないかと、仕事を選ぶうえでの社会の仕組みも判った。
足が不自由だったから、早く気付けたので後々の生き方にとっても、有利に働いたと思う。

大学教授になりたいと、自分の様な身体には良いと思ったが、それほど勉強が好きではなかったので、巧くは行かない。
研究室に入って1,2年で悶々としてしまって、辞める直前のころは、家をでたら近所の人に将来のことを聞かれない様に、駅まで自転車を飛ばしていた。
公認会計の事務所に就職できた、ほかには選択肢がなかったので。
周りを見たら一流大学の人が多くて、自分が勤め仕切れるのかなという不安が出てきた。 
たちいけなくなった経営者が債権者への説明会があって、土下座をして先ずはお詫びする事があり、債権者から怒号が飛んだりするような状況の中なので、一緒に行った先生は手がふるえていた。
私としては自分が震える必要はないのではと思っていて、他の人は嫌がっていて、私としてはこの仕事ができるのではないかとふっと思った。
自分の居場所がはっきりできるのではないかと思った、又事務所でも重宝がっていただいた。

小学校、中学校で本当で無いことを本当に見せて、無駄な努力をしてきて、そういう時の辛抱が身についていたんで、そのことと比べれば、大変なこととは感じられなかったので、大上段に構えてやったわけではなく、自然にできた様に思う。
自分で望んでやったことに対しては失敗していて、万策尽きてそれしか選択が無くやった仕事で、仕事をしているうちに自分ができることがあることが判って、其れをやれば皆さんにも喜んでもらえるという事が判って、自分の居場所が見つかった。
自分の希望するものはどうしても自分の欲望との裏腹になってしまうことが多いのでは。
行き詰っまた企業を再建する様な仕事のコンサルティングの会社を始めたが、コンサルタントと不動産業の免許を取って始めたが、バブルの時代だったので、不動産を処分する様な行為が付いて来たので、やればやるだけ収益になり、仕事が楽しかった。

疲れてはいない様に思っていたが、最初膀胱癌が発生した。
40歳までの間に、肝臓がん、皮膚がん、前立腺癌、40歳で白血病に襲われる。
膀胱がんの転移だとおもわれる。 早期発見だったのでラッキーだった。
白血病の時は今度は無理だという事を言われた。
それまでも常に死とは隣り合わせに在ったので、先生に告知されたとはいえ、悲壮感を持って捉えたことはなかった。
体重は20kg減って、集中治療室に意識が無くはいった。
1年は断続的に熱がでて、おさまって回復するまで、病院の中でぶらぶらする事が半年余りあった。
体験、経験が役に立って、乗り越えることができた。
貯蓄もゼロになり、退院してから生活保護を半年間受ける。
外資系の銀行から声がかかって、銀行の仕事をして、その後投資会社の顧問をするようになる。
生きてさえいれば、自分では想像つかないところで新たな展開が起こり得るが、亡くなってしまったら、色々な展開を全て遮断してしまうので、やはり生き続けるという事が最も大切なことだと思います。
障害や貧困で大学にいけないインド、中国、モンゴル、タイへの若者たちへの支援を奨学金と言う形で行っています。






























2015年1月18日日曜日

伊藤亜人(東京大学名誉教授)     ・韓国と私の45年

伊藤亜人(東京大学名誉教授)    ・韓国と私の45年
昭和18年 東京生まれ 71歳 東京大学で文化人類学を学び、昭和47年から韓国南部の島、珍島(チンド)の村でフィ-ルドワークを始めました。
その後も村に通い続けて生活や伝統行事調査し、韓国の文化を精力的に日本に紹介しています。
文化人類学者の立場から半世紀近くに渡り韓国を見詰めてきた、伊藤さんに伺います。 

大学に入った時は理系に入ったが、子供の時から理科人間だったが、しかし大学になかなか入れずに2年間浪人した。
その間に東北の漁村で牡鹿半島で生活をしたときに、日本の民族学に関心を持ち始めた。
韓国をテーマに選んだ理由は?
日本の漁村だけではなく、朝鮮、中国にも関心があったので、誰もやらない韓国をやろうと思った。
父が画家だったが、写生旅行に中国、フィルピン、モンゴル等に旅行していたが、韓国には旅行していなかった。
その絵を見て子供心に創造を豊かにして、関心を持った。
絵とかお土産とか、子供にとっては大変な存在感があり、アジアについて考える手がかりになる。
母方では、朝鮮から早稲田大学に通う下宿生が来ていて、それで母から朝鮮についていろいろ聞いていて違和感はなかった。

韓国を研究テーマにえらんだのが1970年代 周りは韓国に関心を持つ人はいなかった。
大学ではソウル大学から客員教授を招いてくれて、その先生から手ほどきを得て、韓国語も学んだ。
1971年 昭和46年初めて韓国に行く。
経済的には日本よりだいぶ遅れていたが、表情が豊かで生きいきとしていて活気にあふれていた。
昭和47年から韓国の農村に住みこんで現地調査を始める。
珍島(チンド) 行って見ると海も山も川も綺麗で、文化的社会的伝統、いろんな要件がそろっているので
珍島(チンド)がいいと思った。
交通が不便だったし、村で取れるものを食べていたし、自給自足的な生活をしていた。
電気は通っていなかった。  
月が明るくなるとにぎやかに、特に満月になると、広場では子供たちが縄跳びをしたり、夜まで声が聞こえたり、動物たちもごそごそと動く。
新月になると人も動物も静かになる。

東西冷戦のさなかなので、共産主義に対する警戒は社会の隅々まで徹底していた。
日本からくると警戒する(スパイとか)、日本がアメリカの影響で若者が退廃的な雰囲気があるようだと言う事で、村の青少年に悪い影響があるのではないかとの思いも村の人にあった。
最初村に入った時に、村の年寄りを集めて会議が開かれた。
キムチをほうばる様に食べたら、安心された。
調査すると逆に日本ではどうかと問い合わされる。
思ったことを率直に言う事が重要です。  論理的に話すことは非常に尊重される。

日本の事に対して厳しい態度を取る人もいたし、それはある意味でしょうがないと思う。
反日的な気持ちを持つ事はある意味当然だと思う。
抑圧されたり支配されたりすることは、プライドの上でもたえがたい事だったかもしれないし、十分理解はできる。
反日だけかと言うとそうでもない、日本に対して認めることは皆認めている。
真面目、勤勉、正直だという事は皆認めている、否定する人は誰もいない。
日本人は単純化して、親日か反日かとい言う様に二項択一の様に考えがちだが、配慮が足りないと思う。

わが身を省みることになるが、日本人は細かい事に行きがちで、随分議論はした。
どの社会もそれなりの伝統があり、積み重ねのなかで今の生活がある訳ですから、なかなか行き届かないところがあるわけです。
それはそれとして理解できるわけです。
韓国の場合は個人の気持ち、考えを言葉で明確に表している。
個人と個人の関係を最も重要な基盤とする社会で、組織、制度よりも個人に対する信頼が非常に重要で、日本ですともうすこし制度的な枠によって保障されるし、それを皆求める。
個人と個人の関係が社会を築いている。
日本がむしろ特殊で組織とか制度とかに頼り過ぎているのかもしれない。

韓国の社会、韓国人の魅力は?
はつらつとした個人の言語能力というか、表現力というか、韓国社会ならではのものだと思う。
非常に個人の意思をはっきりした形で言葉で、表情で表す社会なんです。
こちらからも言葉ではっきり言えば判ってくれるし、納得してくれる。
80年代から韓国の社会を紹介する本を日本で出版する。
政治、経済などエキスパートが紹介していて、極一部が独占していた。
実際に生活している人の気持ち、生活の姿がなかなか伝わらない。
経済は手段であるけれども、文化、生活者としての共感が求められる。
政治、経済、言論人の エリートが取り仕切る様な隣国関係は限界があるという事です。
日常レベルでの理解が非常に重要で、其れが無くなってしまうと本当に受け売りの観念だけになってしまう。
観念と言うのは紙に書いた文字の世界なので生活から遊離しかねない。

研究対象である地域社会の人間関係、いろんな関係が見えてくる。
交流と言うものは研究対象になる。
自分は村の人と意見を交換しながら、調査しているのは、これは交流だなと気がつく。
現地の人から珍島人と言われるようになったが、これは有難いことだと思う。
1970年代に撮ってきた写真。
韓国では再現不可能なことになってきている、どんどん消えてしまっている。
当時の農村を韓国の若い人たちはほとんど知らないし、韓国の人も研究しない。

食文化、ショッピング、スポーツ、ドラマとかを通して韓流によって非常にいいイメージが先行して好循環をするようになって、これは非常に幸いなことだった。
交流が始まったが、次の段階として何が不足しているかと言うと、間接的な交流ではなく直接的な関わり、友人を持つという事です。
ドラマ、作品、音楽とかを通した間接的な人との交流だけでなく、直接的に韓国の人と知り合いになる、友だちになる、そして生活を垣間見て、共感を持てるような関係になる、これがこれからの課題です。
今は冷え込んでいるというが、全体としては交流が進んでいる。
問題なのは観念的に物事を考えている人が、韓国について色々否定的なイメージを言葉で紡いでいるという事ですね。

現地に行って直接見て、経験を積む必要があると思います。
芸術性も、宗教性も豊かで、亡くなった人の霊を弔うために儀礼があり、今日どこでそれがあるかそれが判る。
庭でやるが、皆涙を流して泣きじゃくっている。
2年目にツアーでその場に行ってその人たちと共に泣いていたツアーの日本人の人が2人いたが、実は交通事故で夫を亡くした人であった。 共に現地の人と抱き合って泣いていた。
共感できるツアーだったと思った。
文化の違い、伝統の違いをお互いに認め合ってお互いに尊重し合う、近くて遠いではなく、異なるけれども近いという事だと思います。
異文化を楽しむというか、お互いに理解しながら、お互いに満足できる対話が必要だと思います。
交流をどう進めてゆくか、隣の国と共感を持てるようにするには、その為には何をすべきか、交流の為の役割を果たす人を育てることは非常に重要なことだと思います。
























2015年1月15日木曜日

伊勢崎賢治(東京外国語大学教授)    ・武装解除・紛争処理を仕事にして

伊勢崎賢治(東京外国語大学教授)  ・武装解除・紛争処理を仕事にして
1957年生まれ 国際NGOスタッフとしてアフリカ各地の開発援助に携わった経験が評価され政府や国連から依頼を受けて紛争処理に尽力してきました。
2000年には国連平和維持活動PKO幹部として、インドネシアからの独立をめぐり、混乱状態にあった東ティモールで新しい国家作りを指揮、2001年からは内戦の続くシエラレオネでゲリラの武装解除に成功、2003年には日本政府の特別代表としてタリバン政権崩壊後のアフガニスタンで軍閥およそ6万人の武装解除を行いました。
しかし、もともとの夢は芸術家になる事、大学では建築学を専攻、転機は国費で留学したインドでの学びでした。
インドには様々な社会問題が山積しており、伊勢崎さんはスラム住民組織を支援するNGOで活動します。
これが伊勢崎さんの紛争処置の第一歩になりました。

画家になるか建築家になるか迷っていた。
中学校の美術の先生が、私の絵を勝手に出品したりして、1年、3年の時には日本一になった。
母子家庭だったので、手に職をつけてお金を得られるように建築屋になった。
スター建築家とは対局に在り、民族建築、スラブ、貧民街の造形に魅かれた。
一見無造作に見えるが、造形が凄いと感じた。
大学院の先生が亡くなってしまって、心が空虚になり、スラムに入りたいと言う想いがあり、インドの大学に留学した。
スラムに入るために行動社会学を選ぶ。
インドは人間が作りだす社会問題の全てがあるといっていい。
だからこそどうにかしなければいけないという人たちがいて、研究する学問が発達する。
NGOに雇われて、アジア最大のスラム ダラビ 100万人規模のスラムにいく。
そこを束ねてゆく。
何十万のデモを組織したりして、国外退去になったりする。

ソ連崩壊後 発展途上国は紛争、内戦が起こってくる。(現政権と反政府ゲリラ)
10年ぐらいの戦いになったりして、完全勝利はない様な状況になり、その時に第三者が入っていける。
先ずは停戦から始まって、連立政権の様な事を実現させなくてはいけない。
命令系統がいい加減になってしまっていて、合意に達しても、言う事を聞かない様な状況に在り、その人たちを説得させる役割をわれわれが行うわけです。
非常に危険で何時停戦合意違反が出るかわからない。
スプリンターグループ 派生する。
イスラム国はまさにこれなんです。
色々な考え方が現場で出てきて、アルカイダから分派して、アルカイダはあまりに過激なので引いてしまった。

シエラレオネではどの様な事をしたのか?
PKF 国連平和維持軍が我々と一緒に入ってくるが、そこで説得する。
武装解除は命令なので、ある条件を示してグループの長を説得する。 
一つ一つのグループを武装解除してゆく。 
武器を使えなくなる様に自ら壊させて回収する。
和平に反対する人間がいるが、決起して我々の関係者を拉致して、拷問して亡くなってしまったが、殉職者が多くて100名ぐらいいる。
犠牲を払いながらやるわけです。
日本のメディアから取材を受ける時も国連公用語以外は使ってはいけない。
NATOがイスラムと戦争している様な状況になっているので、日本人は西洋社会の一部ではあるが、捉えられ方が西洋人とはちょっと違う。
憲法9条を知っている人は知らないですよ、知っている外国人は相当の日本通ですね。
我々は憲法9条を宣伝してこなかったので。

2003年アフガニスタンの武装解除については?
群雄割拠して争っていて、国民も軍閥の言う事を聞くしかなくて、日本で言うと警察もちぢこまっている状態だった。
それを国家のものにしてゆく、武装解除して武器を集めて新しく作っている国軍に移管する。
武器もカラシニコフではなくて戦車、大砲ですから。
そうすると秩序が生まれる。。
連立政権を組むと言う事ですが、最初は疑心暗鬼です。
ハーミド・カルザイさんの命を受けた交渉人であると言う事があり、日本政府の代表であると言う事で、NATO、アメリカ政府も僕らに託していると言う事で、暫定政権の国防省から通知が行っていて、相手が迎えてくれる。
軍閥同士を相手の交渉なので、両方に会わなければいけない、色々難しいことがある。
最初1%ぐらいのところから交渉を始める。(戦車を100台のうちの5台ぐらいをわれわれのところに置いてくれないとか、駄目なものをもってこられたりすると、問題が起きる。)
大切なのはそういった違反行為があった時に、皆に怒ってもらう。
アメリカ、ヨーロッパ、NATO諸国から怒ってもらって、違反行為をした軍閥を政治的に追い詰める。

自立して市民としてやっていけるように保証しなくてはいけないが、職業訓練の場がないので、ドイツが手助けしてくれて、壊れた家の補修とか民衆がやるので、親方が必要なので親方の見習い口を一杯作る。
親方の見習い口を造ったという事で、約束を果たしたと言って交渉を乗り切った。 
職業訓練校も作った。
武装解除が最重点項目だったので、日本が中心になり、NATOの最高司令官、アメリカの最高司令官の人が集まって日本大使館で毎週会議をして、方向性を決めて役割分担をした。
我々日本は兵隊を出してなかったので、我々は非軍事の軍事的貢献をしていたと言われました。
2014年12月末にアメリカはアフガニスタンから離れる。(残留部隊は残すが)
当初決着が付くと思っていたが、できなかったという事はずーっと引きずってゆくんでしょうね。
アメリカは2006年に方向転換 その基礎を作った時に私はいた。
いかに効率的に敵を全滅させるか、それは当たり前だが、そういうやり方ではだめだと、アメリカ人が考えだした。 
それは国家作り ネーション(愛国 国の概念)、ステーツ(行政、システム)
アフガニスタン等は ネーションと言う概念はない、できない。
武装解除すればいいと言う問題ではない。
力の空白という問題が有って、私たちが武装解除した連中と言うのは、一旦タリバンをやっつけている。(9・11の後)

2001年から2年頃にタリバンを倒すが、そのあとうまく行ったかと言えばそうではなかった。
タリバン政権は強権政治だったが、国を纏めていた、タリバン政権が無くなった時に軍閥は仲が悪いので内戦が始まってしまった。
(共通の敵がいると纏まるが、其れが無くなってしまうと纏まらなくなってしまう)
それらを武装解除して新しい国家にまとめるのが、武装解除の教えで有ったが、それができたが、だからと言って彼らがおとなしくなったわけではない。
民主選挙をやれば彼らが政治家になってしまうし、元の子分たちもしがらみがあるので、麻薬をやっていたり、アフガニスタンは麻薬国家ですから、地球上で消費されている天然結晶の9割を生産する。
しかし取り締まりも出来ていない。
助言は内政干渉になるのが、言い方によっては聞くかもしれない。(どういうことを誰が言うかが問題 日本は信頼される立場に在る)
日本は親米ではあるが、彼等アフガン人は広島、長崎の事を知っている。
アメリカとは気を許しているはずはないと彼等は思っている。(我々は美しい誤解と呼んでいる)

いま、カシミールにかかわっている。
インド、パキスタン問題  ヒンズーのインド、イスラムのパキスタン  
イギリスから独立するときに一つの国として独立したかったが、分離してしまった。
国力、通常兵力などイギリスが残したものは全てインドが取ってしまった。
パキスタンは劣等感から始まった、対抗しないと吸収されてしまうと言う事で、2つしかない。
①核を保有する。 ②テロ戦略(内側からインドを崩壊させる)
パキスタン軍がテロの養成をここから始まった。 それをアメリカが冷戦の時に利用する。
アフガニスタンにソ連が侵攻した時に、支援してソ連をやっつけるが、ソ連の崩壊後、その連中がアメリカに牙をむき 9・11が起きる。
カシミールが根本で、軍事境界線で60年以上分断されていて、意思の疎通がない。
両方に大学があり、分断されているが、いまインターネットで結ぶことをやっている。
インドーパキスタン両国が独立以来初めてのことです。
インターネットを通じて、将来のビジョンを共有できるようにしたい。
テロを自ら排除するような社会を教化できるのではないかと思う。 
アメリカのCOINドクトリン テロリズムを育みにくいネーションと社会を作るんだという軍事戦略だが、成功していない。 
ブリティッシュCOIN、カナディアンCOINを作るとか同じ精神のもと作り始めているが、
アメリカにもNATOにも出来ないジャパンCOINドクトリンを概念化してつくりたい。
中心になるのは、日本人の人畜無害さ、相手の懐に入って行きやすさ、これを真正面に出したジャパンCOINを作りたい。





















  



2015年1月13日火曜日

小野友道(熊本保健科学大学・学長)   ・ハンセン病と五足の靴

小野友道(熊本保健科学大学・学長)  ・ハンセン病と五足の靴
74歳 昭和41年熊本大学医学部を卒業したあと、大学の皮膚科の先生となり、皮膚がんの研究をされてきました。
その当時はハンセン病の患者さんが差別に苦しんでいた時代で、小野さんは世間の誤解を正そうと必死に闘ってきました。
若い小野さんの憧れの師が皮膚科の先達として世界で活躍した太田正雄 別の名木下杢太郎、医学者であり、文学者である後世に大きな功績を残した人です。

保健医療の特化した大学、太陽光パネルが2672枚、2年前までは大学では日本一だった。
1/3~1/4はこれで賄っている。
高校卒業し、山口県から熊本県に来て、言葉に困った。
安保の時代で勉強はあまりできなかった。 
内科に行こうと思っていたが、私は完全なる音痴なので、聴診器で心臓の音を聞いても音程とも違うので、駄目だと思って皮膚科に行く事になる。
父は弁護士なので、司法試験を受けると何となく思っていたが、父からお前では通らん言う事で、妙に納得した。
ハンセン病、梅毒、天然痘とかは皮膚科領域です。
ハンセン病はらい菌という細菌で、普通の人にうつることはない。
ハンセンと言う人が、らい菌を見つけて、それからこれが感染症であると言う事でかえって差別が広がったという歴史がある。

熊本は特にいろんなことが起こりました。
恵楓園 ハンセン病の療養所、エポックメーキング、差別のことがらはここでいろんなことが起こった。
恵楓園には若いころには週1回御手伝いに行っていました。
全部脱がされて、白衣、帽子で行って、帰りはコンクリートむき出しの馬が入る様な風呂があり熱い風呂に入って、着替えてくる、そんな時代だった。
ハンセン病の疑いがあるから皮膚を取るということで、器具を取りに行って戻ってきたら、患者さんを真中にして医者と看護師が全部遠巻きになっていて、吃驚した。
自分の仕事だから私が皮膚をとりましたけれど、そんな時代だった。
ハンセン病の差別はまだ解けませんね。 刷り込まれた大人はなかなか難しい。
学校から恵楓園に出かけて、恵楓園には人生の達人がいっぱいいるので、その人たちの話を聞く、そういう事が大切で、それを今熊本県の小学校、中学校が色々と行っています。

尊敬している人、太田正雄教授(皮膚科の医者)、木下杢太郎 (詩人)
絵描きになりたかったが、死んだ時には1000枚近くの絵を残している。
ドイツ文学をやりたかったが、親に絵と同様に反対された。
「太田母斑」 あざ いろんなパターンがあるが、其れを一つに纏めて、太田母斑と言う概念を作った。
フランスに留学中に、カビの研究で新しい分類を作って、フランスのレジオンブルーヌという勲章までもらった。
ハンセン病の研究をずーっとしていて、強制入院させ隔離する時代に、治すことができる病気だとずーっといい続けて、伝染病研究所でらい菌の培養を続けた人です。
外来でずーっと看続けた。
東北大学時代に赤の学生についての、指導の役割りが廻って、森鴎外の会作って、外国に眼を向けて左翼の運動だけでは無いぞといって、学生を導こうと2,3回やったら、東大に転勤することになり、その時に慰留の運動を学生がやった。(非常に人気があった)

先生は日記をずーっと書いていて、戦争批判がずーっと書いてあった。
陸軍がペニシリンの開発をやらなければいけないと言う事で、ペニシリンの開発の一員になっている。
2002年に熊本で全国皮膚学会があり、その時に何か熊本を宣伝しないといけないと思い、天草は若いころ太田正雄が歩いた事を誰も知らないだろうと展示コーナーを作り、調べれば調べるほどのめり込んだ。
「5足の靴」 若い時の旅の紀行文 明治40年
与謝野鉄幹北原白秋 吉井勇 平野万里 木下杢太郎 5人が天草を歩いた。
東京二六新聞に投稿 それが「5足の靴」
北原白秋 木下杢太郎はお互いに切磋琢磨して、帰ってからキリシタン文学、南蛮文学の走りになって、大きなジャンルができた。

私は頼まれて「5足の靴」のかるたを作ることになった。
皮膚がんについて研究をしている。
日本人が長生きするようになって、皮膚がんの発生頻度が上がる。
紫外線の影響で色々な癌ができる。
メラノーマという悪性黒色腫 が増えてきて、皮膚がんをやりたいと思った。
オゾンの層が薄くなってくると太陽は余計に皮膚にとって敵になる。
皮膚がんは早期発見ができやすいが、なかなか病院に来ない。
子どもの癌もある、生まれつき紫外線に当たると人の10倍20倍も免疫を与えて4、5歳ごろから癌ができ始めることがある。

人類の一番の敵は太陽、次に酸素だと言っている、無いといけないが。
皮膚は外観を形作る。 
皮膚は個体を守っている素晴らしい臓器だと思っている。
紫外線には適度に当たることが大事。
皮膚癌が一番おおいのはオーストラリアの白人、原住民は大丈夫。  色が黒い方が皮膚癌に強い。
刺青、昔は秘匿の刺青  今はファッションの刺青になっている。
考えをすこし緩やかにする必要があるのかもしれない。













 


























2015年1月9日金曜日

畠山 信(牡蠣漁師)        ・震災後の海とともに生きる(2)

畠山 信(牡蠣漁師)                ・震災後の海とともに生きる(2)
朝は早い時は4時から起きて仕事をする。 
兄弟3人とも牡蠣の仕事をしている。 
森里海研究所が2014年に竣工した。  震災後の陸から海までの調査研究を複数の大学の先生方と行っている。
専門学校時代は、ニコル先生は学校の中での授業は少なくて、野外調査が多くて、昆虫の分類にすごく興味を持っていて虫ばっかり追っていたが、その後人に興味を持つ様になった。
屋久島で環境教育をやる施設があり、そこに就職した。
教育プログラムの企画立案実施みたいなものをずーっとやらして頂いていた。

森は海の恋人 父が理事長 活動自体は平成元年からに任意団体で始めて、NPO法人としては2009年から行う。  人材育成の場でもある。
東京農業大学、京都大学、北里大学、東北大学、岩手大学、東京大学など15ぐらいが参加。
湿地に生えているぬるぬるは微生物の塊なので微生物の研究、海底の泥、海水の分析、昆虫、両生類などさまざま。
大震災で海にありとあらゆるものが流れ込み、異様な色になり、この海で漁業ができるのか疑問だった。

ボランティアで大学の先生方が来ていて、声を掛けて海を調べたいと話したら、協力しましょうと言う事になり研究チームができた。
大学では派閥がある様で、できるだけ組織の枠組みにとらわれない先生方が集まっている。
ほぼ毎週来て調査されている。
海の回復力はすさまじいと思う。 震災直後は死の海になった、魚はいない、海老、蟹もいない。
2011年夏ぐらいから急激に稚魚が大量に発生していた。
生物に関しては京都大学の先生方がメインで活動、土木系、水に流れ、 土砂の流れなどは土木工学専門の首都大学東京の先生がやられている。 幅広くおこなわれている。
魚類に関しては急激に数が増えてきた。

漁業者は本来、山に木を植える生業のはずなんです。 昔は船は木造船しかなかった。
もう一度復活させようと言う意味合いをこめて、漁師が山に木を植えようと言う活動を始めたが、科学的根拠は実は後付けで、感覚では漁師は何となく持っていた。
雪解け水を 雪白水というが、春先には牡蠣は一番実が肥えている。
夏場は牡蠣が産卵期になり、生で食べた時にはどろっとする。(クリーミー)
雪白水が流れてくると海の色がガラッと変わる。  今日から春だと判る、深緑色から、白っぽくなる。
海の中では生物が活性化する、プランクトンも増えると子魚、二枚貝が増えて生き物が増えるきっかけになる。
栄養分は山から来る。  森林の腐葉土、湿地みたいなところから高濃度の栄養分が来る。
大震災後、物理的に無理だと思ったが、支援者が今年もやりましょうと声を掛けてくれて、震災の年も何とか植樹祭を開催をした。
平成元年から毎年欠かさずやってこられた。

諦めないと言う事を持っていれば大体何とかなるんですね。
船に乗っていたら今の私はいなかったと思う。
植樹祭には全国からいらっしゃって下さった。  
2014年には1400人ぐらいの方が来て、苗木を植えてくださった。
牡蠣殻は石灰みたいな形で利用できる。
牡蠣殻を粉砕して畑にすきこむ。 鳥とかブタとかの飼料にするところもある。

海の近くに住んでいながら子供達は海で遊ぶのをしない子が多くなって、親しめるようなことをしている。
私は子供の頃は生き物が好きで、祖父母に連れらて松茸を取りに行ったり、海では釣りをしたりして遊んだ。
母は生き物がとても好きな人で、釣った魚を持ってゆくと母が一番喜んでくれた。
スペインに1カ月 目的のない旅を父がする時に兄と共に行ったが、リアス式海岸の本場にいった。
リアス式海岸はぎざぎざした地形、その地形はほとんど川が削った谷底で、いい漁場であって牡蠣の養殖が盛んで、豊かな海だった。  個体数が多い。
ピ-スネーチャーラボ代表理事 震災後に立ちあげた法人 地域作りをやって行く上で経済効果は切っても切り離せないので、殻が付いた生きた状態で家庭にとどいてそれを剥(む)ける家庭かどうかわからないので、加工食品が重要と思うので、牡蠣の熏製ってうまいよね、というところからはじまって、牡蠣の熏製のオリーブオイル漬けを商品化、販売も始める。
海辺に人が集まれる場所がほしいと言う事で新らしくカフェを始めた。(自然からかけ離れている人を対象に) 肩書きだけだと20近くある。
環境省生物多様性保全推進アドバイザー、地域作りの生物調査等のアドバイザーもさせてもらっている。 



























2015年1月8日木曜日

畠山 信(牡蠣漁師)       ・震災後の海とともに生きる(1)

畠山 信(牡蠣漁師 NPO法人森は海の恋人副理事長)    ・震災後の海とともに生きる(1)
1978年生まれ 36歳 宮城県気仙沼市唐桑町舞根 三陸リアス式海岸で牡蠣や帆立て貝等の養殖をする畠山重篤さんの三男

気仙沼までしか大船渡線が来ていなくて、それから先はバス運行になっている。
線路を敷いていた土地自体が消えてしまった。
海辺の土地ごと流されてしまって、線路を敷いて走れるような状況ではない。
3年10ケ月たってもあまり大きな変化がない。
気仙沼の大火で、まだそのままの状態が多い。
できるだけ復興に近い復旧になればいいと思っているが現実はなかなかそうもいかない状況です。
牡蠣の今年の状況は、震災後は牡蠣の状況がいい、牡蠣の身入りがいい。
震災直後は海が撹拌されてプランクトンが大量に発生していたので、餌が多くあればあるほど成長がいい。
震災直後は筏の数も少なかったので、牡蠣はプランクトンを食べ放題だったが、段々筏も増えて行くと多少えさの食べあいは発生するが、平常の状態に戻ってゆく感じだった。
津波の後は牡蠣、そのほかのものも成長が早いと言われていて、復旧を急ぐことを祖父からも言われていた。
海の調査も一緒にしてもらって、科学的に見ても津波の後はプランクトンが大発生していると言う事がデータとして得られている。

震災の当日は海辺にいて、海全体が盥の水をゆする様になっていて、津波が来るなとだれしもが思った。
私は船を沖に逃がす行動をとったが、途中で津波の第一波に遭遇してしまった。(15分後) 
うねりの上にいて、舵が破壊されてしまっていた。(あと15分早かったら船も大丈夫だった)
岩の上に在る灯台がみるみる下がって行ったのを見て、津波の上にいるのを理解、愕然とした。
一か八か泳ぐしかなかった。
潮目、水の流れを見て、今だったっら陸地にたどり付けるのではないかと、とっさに思った。
舞根に向かったつもりが大島に、逆の場所に、泳ぎ着いた事が後でわかった。
飛びこむときは死を覚悟した。 デジカメに遺言を残した。 何かを残したかった。
緊張で寒さ、暑さ、物を触っている感覚が無くなっていた。
陸地に手が届いた時はやったと思った。

泳ぐ時にデジカメを首にぶら下げていたが、そのままデジカメは生き残っていた。
大島の避難所にいったが、周りは私がもう亡くなっていたと思っていたらしい。
親父は、よう生きていたなと言ってくれたが、兄は船はどうしたと、冗断まじりで言っていた。
牡蠣の筏の台数は、1漁業者に対して20から30台が許されていたが、湾の中だと40台ぐらい、湾の外もあるので70~100台まであったと思います。
震災では筏はゼロになった。  この集落では亡くなった方は4名。(農作業をしたりしていた方など)
祖母は介護施設にいたが、3Fにいたが、施設そのものが津波にやられてしまって亡くなった。
一回死にかけたと言う経験は大きかった。 
いろんな方と繋がりを作って、共に学びながら地域全体のことを考えつつ、持続可能という部分を考えた地域にしてゆくためにはどうするか、議論しながら、進んでいます。

震災直後はボランティアの人が機動力を持っていた。
重機を取り扱う、救援物資を持ってくる団体等、本当に必要な支援を構築してくれたので、民間の力はすごいと思いました。
わたしが先導してやったと言うよりは、その道のプロもいらっしゃった、神戸の震災の経験の方もいらしゃったので、ネットワーク化と情報共有ができた。
私のほうはローカルな情報提供等をやったりした。
家も流されて、靴もない状況だった。
人のためになんかしようとした時に自分の力量を初めて知ると言う事を痛感しましたね。
フェーズが違ってくることによってやることが増えてきました。
行政との対話の場、それを構築することとか、住民の合意形成部分とか、地元でしかできない部分が多かったので、外部から入ってこられたボランティアのひとにお願いしたりして、調整しながら進めています。

防潮堤の問題は人の住んでいる海岸全体の問題が背景にあり、先ずは三陸からと言う事になっているが、可なりいろんな問題をはらんでいる。
高台に集団移転をしようと言う事にこの集落は決まったが、防潮堤はいままでなくて、すごく違和感がある。
9.9mの防潮堤が前提になって話が下りてきて、住民は話し合いが行われて防潮堤はいらないとの結論に達した。
計画図ができる前にこの集落は防潮堤はいりませんとの要望書を提出して、造らないことになった。
100%の合意があれば要望が通らないわけにはいかない。

この景観が好きだと言う事、が大きな理由、三陸は防潮堤を置く様な平たい土地が少ないので、その土地は無いので、住民が使う土地が無くなってしまう。
海が見えるところが一番安全だと思う。 海を見ていると安心感がある。
海が見えないことがストレスを感じるようになる。
集落には長老がいて、その下に役員がいて話がまとまりやすいピラミッド構造の状況に在る。
震災後丸一日休んだことがなくて、蛇足で毎日必死に生きているという感じなので、割と日々うまく自分の中で調整しているのかと思う。
津波もそうだが地盤沈下(1mぐらい)が大きかった。
1940年代は干潟だったところを埋め立てて田畑としてきたが、数十年間田んぼとして使っていなかった。
もとの形に戻って、豊かな生態系に戻った。
アサリも大量に発生、日本ウナギもおおい。 湿地の様なところは満水時に海水が入って来て、ハゼ、アユなどが大繁殖してきて、鳥も餌を求めてやってくる。
生き物のゆりかごの様な場所になっている。
農地が湿地化して、復旧で埋め立てて農地にするというが、農地にして誰が使うかと言うと使わないことがよくあるので、非常に無駄なような気もする。
行政は仕組みにのっとって税金を使ってやるので、色々と難しい。 






















2015年1月6日火曜日

岡村道雄(考古学者)      ・"縄文"の暮らしを見つめて思うこと    

岡村道雄(考古学者)      ・"縄文"の暮らしを見つめて思うこと    
1948年新潟県生まれ 東北大学で考古学を学んだ後、宮城県立東北歴史資料館や奈良文化財研究所などに勤め文化財保護の仕事にとりくみました。
青森県の大規模な縄文遺跡三内丸山遺跡を初め全国各地の遺跡の調査にかかわっています。
原始的で貧しいと思われてきた縄文人の生活は実はそうではなく、現代社会の問題点を顧みるとき縄文的な暮らし方が貴重な参考になると考えています。
杉並の住まいでも縄文的な生活の実践にも務めています。

縄文人に近づいて実験してみようと、縄文的な心、縄文的な生き方を学んで、自分の今後の人生、これからの日本人の生き方にアドバイスする、学べるものはないのかなあと、思っている。
縄文人は心豊かにして生きてきた。
縄文時代とはおかれた条件は全然違うが、武蔵野の風土はのこっている。
のびる、むかごを食べたり、しいたけのぼた木を置いて、鳥が山椒の実をフンのなかに入っているので木がはえてきたるする。
のびるは遺跡から出てくる。
食べものもどんなもの食べてきたか判る。
                                                            
三内丸山遺跡を掘ったときに、理科学的に動植物の中身がよくわかるようになってきた。
判る範囲が広がってきた。
歴史は原始から徐々に発展してきた。
私たちの祖先は豊かに安定して暮らしてたんじゃないかと歴史観が変わってきた。
毛皮を着て、動物を追いかけてきたという様なイメージとは違う。
地域の豊かさの中で自然の循環の中で、思いやりを持ちながら関係性を作って、平和の和の世界を作って行ったと思う。

生まれた土地の高台に遺跡があって、小学校3年生のころから学校から帰ると、直ぐ遺跡に行って当時の人たちの事に想いを馳せていた。
本屋に1冊だけ子供向けの本があって、第一巻に縄文時代のことがかいてあって、親に頼んで買ってもらった。
高校で受験戦争が待っていて、反発を感じて、親は工学か、医者の道をと言っていたが、この道を選ぶことになる。
段々昔の人の心を学びたいと思う様になった。

縄文時代の人達の暮らしはどうだったんだろうと、トータルなものの関心があった。
縄文時代は、栗を植えて管理して、使う段になると、実は食べる、皮は屋根をふくのに使う、幹は一定の太さになるまで育てて、柱にする。
栗の林の根っこは遺跡の近くに、30、40本纏まって残っている。
漆は6,7年経たないと樹液は取れない。
漆を精製して、工程のおおい、時間のかかる先を見通しながらやる。
漆の葉は美味しい、食べたがかぶれて七転八倒してしまったが。
漆に使う赤い顔料も精製している。
漆文化は日本が世界で一番古い。

豊かな自然に培われた技が磨かれて、豊かな自然の循環の中で心も磨かれていったと思う。
循環の哲学、生まれて死んでいって、森は再生する、草の再生。
全てのものに神が宿っている、私たちも別の神になってこの中に再生していくんだと、循環の哲学が持続性に繋がっていって、この地球で、日本で死んでも又何かに生まれ変わって又帰って来るんだと言う心の安定、輪廻 もともとは縄文人がつくりだしたものではないか。
祈り、所作、わびさび 自然と共に育ってきた日本の文化の原点は優れた縄文文化が育んできたものと思う。
近代化、科学万能、経済偏重、物質偏重の現代 そこから様々な社会問題が生まれてきていると思う。
もうちょっとバランスをうまくして、自然を食いつぶしてゆく様な開発、近代化ではなく、自然も大事に自分たちもその中で育ってゆく、そして発展してゆく。
土地の豊かさを踏まえながら、生きてゆく。
戦後の団塊の世代は大きな変化を肌身で知っている。
もうちょっと違った生き方もあったと、その前の時代を知っているので、自然と共に生きてその一員として生きているんだと、自分たちの生き方を考えていた様な気がする。

どうしたら豊かに生きていけるのか、縄文時代の文化に学んで、縄文は日本文化として継承されてきた、日本人にふさわしい生き方だから持続してきたと思う。
いまの時代にあった日本的、縄文的生き方を実践していきたい。
争い、戦争を歴史的に見ると、武器を使って刺さって死んだ人骨など、判る様になってきている。
村を濠でかこんだり、砦等の防御施設など作ったのは、弥生時代になってゆくと土地を所有したり、農耕を始めると、人より多く取りたいとか、できた余剰物で争い事ができたり、権力争いが出てくる、土地争いが出来てくる、すこしずつ変わって行って競争社会ができてくる。
そしてにっちもさっちもいかない戦争になってゆく歴史を持っている。
縄文時代は分けあって、弱者をサポートして共に働いてお祭りをして仲間意識を高めてゆく、戦争とは全く違った形の生き方、証拠がどんどん上がってきている。
お互いを思いやりみんなで一緒に働く、必要以上は取らない。
平等に分配する。

立ってあるけない弱者も助けて、ちゃんと埋葬している人骨、埋葬例もいくつも判ってきている。
祭りを盛んにする、祭りはお互いの心を通じ合いながら共に友情を分けあって、祭りは情報、物も動く、平和のためのソフトウエアだと思う。
そういった生き方ってごく最近まで残ってたよなと、歴史に学んで、取り戻そうよと。
自分だけ安楽で、いい生活ができればいいと暮らそうとするが、本来はそうではないと思う。
東北大震災で津波があり 400kmで人的被害があったが、その中に480か所 縄文時代の貝塚があるが一つも波を受けていない。
何年間に1回、津波があり、高台で暮らして、安定した場所に村を営む、自然との付き合い方を知っている訳です。
縄文時代に学問的に近づいてゆくと、そうだよなと言う想いが実証されてゆく。
日本人が地域の中で豊かに暮らしてきたことをもう一回是非思い起こして、いいところを取ってバランス良くこれからの生き方に生かしてゆく様な事を普及してゆきたいと思っている。

















2015年1月2日金曜日

横田南嶺(円覚寺派管長)    ・初心忘れまじ

横田南嶺臨済宗円覚寺派管長)   ・初心忘れまじ
昭和39年 和歌山県新宮市生まれ 小学生のころから坐禅に親しみ、僧侶の道を志しました。
昭和58年筑波大学に入り、東京都文京区白山道場 龍雲院小池心叟老師に師事し、出家得度します。
大学卒業後京都建仁寺、鎌倉円覚寺で修行を積み、平成22年45歳で臨済宗円覚寺派管長に就任されました。

円覚寺で話をする時に必ずすることがあります。
両手を胸の前に手を合わせて頂いて、背筋を伸ばし、目を閉じる。
最初、生まれたことの不思議に手を合わせて感謝しましょうと申し上げる。
両親からこの命を頂いた、この不思議に感謝する。
生まれた時には私たちは何一つできなかったが、親を初めいろんな人のお世話になって今日まで生きてこられた、この今日まで生きてこられたことの不思議に感謝しましょう。
最後に今日ここでこうしてめぐり合うことができた、この御縁の不思議に感謝しましょう。
と言ってからゆっくり目を開けて、手を元に戻してもらう事にしている。

この道では30年。 50歳です。 30台から老師と言われてきた。
坐禅は小学生のころからお寺にいってやっていた。
祖父が亡くなって、火葬場に行って、人間はやがて死ぬんだ、それに答えてくれるものは何だと思っていた。 2歳 鮮明に覚えている。
中学に入って一番大きな出会いは松原泰道先生 仏教界で高名な方でNHKラジオで聞いて非常に感銘を受けて手紙を書いて会いに行った。
ほく経と言う講義をラジオで1年間通して聞いてあったので、先生に仏教の教えは沢山あるけれども、一言でこの色紙に書いてほしいとお願いした。
詩を書いてくれた。
「花が咲いている。 精一杯咲いている。 私たちも 精一杯生きよう」  
生きてる間、精一杯生きてゆく、務めてゆく それが行きついた答えだと思います。

高校時代に仏教詩人と言われる 坂村真民先生の詩に感動

「鳥は飛ばねばならぬ 人は生きねばならぬ 怒涛の海を飛びゆく鳥の様に混沌の世を生きねばならぬ  鳥は本能的に暗黒を突破すれば、光明の島に着く事を知っている
そのように人も一寸先は闇ではなく、光であることを知らねばならぬ
新しい年を迎えた日の朝、私に与えられた命題、鳥は飛ばねばならぬ 人は生きねばならぬ」

「生きてゆく力がなくなる時」  坂村真民著  題名に魅かれて買った。
一遍上人の語録を同じ年に先生は本を出されて、同様に購入した。
和歌山県由良町興国寺 法燈国師について参禅している。
南無阿弥陀仏を生涯広げようと決意したのは熊野権現のお告げなんですね。
熊野権現は自分の郷里なので、非常に共感を覚えて、お手紙を書いた。
真民先生から直筆の色紙をいただきました。
色紙に「念ずれば花開く」という先生の言葉が書いてあった。 高校生の時だった。
真民先生は毎月 詩を作って1200通 ご自分で宛名を書いて出していらしゃったと後で判った。
高校生から大学を卒業するまで頂いていたんだと言う事はありがたいことだと思いました。

「生きてゆく力がなくなる時」
「死のうと思う日はないが、生きてゆく力が無くなることがある。 
そんな時お寺を訪ね、私は一人仏陀の前に座ってくる。 
力湧き、明日を思う心がでてくるまで座ってくる。」
円覚寺では土、日、座禅会を開いている。
土曜日は100人ぐらい、日曜日は400、500人が集まってきて話を聞いていただいて、坐禅をされる。
一番大事なことは毎回言っているが、腰骨を立てましょう 背筋を伸ばす 要は心を如何に整えるかと言う問題ですが、心は目に見えないのでどのように心を整えていったらいいのか、難しいが、身体と心は密接につながっている。
気海丹田 気力の湧いてくる大基。
背筋を伸ばし肩の力を抜いて、静かに呼吸をする。
呼吸も心と密接にかかわっているので、呼吸をゆっくり静かにすると心も静かに収まってきます。
腰骨を伸ばして、おなかに力を込めてゆっくり呼吸をしましょう、という事を言っています。
泥水を綺麗にするのには、ソーっと放っておく。 それと同様。

煩悩は無くならないと思う。
ただ煩悩をどのように整えてゆくか。 そうする事で活動してゆく源になるのではないか。
「悟りとは悟らで、悟る悟りなり。 悟る悟りは悟らざりけり。」
人間は悟ったと思った瞬間はもう迷ってると言われる。
ひたすら一生懸命求めてやってゆく、それ以外にはないと思います。
足立老師について修行させていただいた。
この道を行くんだと言う気持ちでいたので、修行はそれほど苦痛ではなかった。
坐禅は積み重ねて上達してゆくと言うよりも、毎回毎回やるたびに初心ではないかと思う。
この頃は座るたびに「ゼロからだな」と思っています。
人間の心はそんなに進歩するものではなくて、毎回初心のつもりで坐禅をやっています。

災害を背負って困難に立ち向かってる方、そういう人たちに生きる力を与えるためには何か考えていますか?
共に悲しみ共に祈る、それしかないんだなあと思います。
言葉でどうこうしてと言う事は、一度被災地で話をと言われて、話づらい、言葉が届かないと言う事を感じたことはありません。
繋がりと言う事を我々仏教の言葉では「縁起」とか「御縁」という言葉で表したんだろうと思います。
人間は支え合っている、どこかで思いあっている、これが大きな力になって行くんだと思います。
私にとって失いたくないもの 二つある。(中学生の投書より)
やっぱり「人」である、私を支えてくれる人。 「気持ち」 感謝の気持、思いやりの気持ち、この二つは失いたくない。

大震災の時に、色紙に観音経を書いて、観音様の絵を書いて、沢山書いて持って行って、身内を亡くした人がいたらこれをあげてほしいと、いったら、お寺を全部流されて、檀家の人も百何十人も亡くなって、色紙を届けていただいたので、これを頼りに頑張ると、和尚さんが合言葉として
「めげない、逃げない、くじけない」と言う言葉を使われた。
こちらが逆に励まされる様だった。
気仙沼の和尚さんが最後に言われたのは、私たちは多くのものを失った、財産、身内のもの、大事な仲間を失った、しかしそれ以上に沢山の人から真心を頂きました、と言う言葉が胸に刺さりました。
心をどう使うか、すこしでも人様の役にたつ様に、と言う様な気持ちで皆が思ってゆけば、もっと世の中は良くなってゆくのではないでしょうか。

真民先生の「二度とない人生だから」 詩
「二度とない人生だから 一輪の花にも無限の愛をそそいでゆこう。 
一羽の鳥の声にも  無心の耳をかたむけてゆこう。

 二度とない人生だから    一匹のこおろぎでもふみころさないようにこころしてゆこう。  
どんなにかよろこぶことだろう。

 二度とない人生だから  一ぺんでも多く便りをしよう。    返事は必ず書くことにしよう。
二度とない人生だから まず一番身近な者たちにできるだけのことをしよう。    
貧しいけれどこころ豊かに接してゆこう。  
二度とない人生だから   つゆくさのつゆにもめぐりあいのふしぎを思い    
足をとどめてみつめてゆこう。  
二度とない人生だから    のぼる日 しずむ日    まるい月 かけてゆく月   
四季それぞれの 星々の光にふれて、わがこころをあらいきよめてゆこう。  
二度とない人生だから    戦争のない世の実現に努力し    
そういう詩を一遍でも多く作ってゆこう。    
わたしが死んだらあとをついでくれる若い人たちのために、この大願を書きつづけてゆこう。」  

光を信じる、人と人とのつながりを信じてゆく、思いやりの心を信じてゆく、人間の真心を信じて、光は必ず射してくるんだと信じて念じて、今年も微力ながら精一杯生きていこうと思います。