2015年1月24日土曜日

桐島洋子(作家)         ・生き生きと生き尽くす

桐島洋子(作家)         ・生き生きと生き尽くす
1976年出版「聡明な女は料理がうまい」ベストセラーになる。
77歳 東京生まれ 3人を葉山で育てる。 高校卒業後文芸春秋社で働いているうちに、海で出会ったアメリカ人と恋に落ち、未婚のまま出産、シングルマザーとして筆一本で3人のお子さんを育てました。
NHKにも出演タレントの長女かれん、エッセーイストのノエル、カメラマンのローランドさん。
50歳代から人生の収穫の秋である林住期と宣言して、ノエルさんの住むカナダと日本を活発に行き来していらっしゃいます。

旅が好きです。 旅は人生といわれるが、劇中劇と言った感じで人生を形成しています。
子育て卒業大旅行をしました。 世界を回り歩いた時に、インドでインド人夫婦とであって、山荘にうかがう機会があり、その御夫婦はここで林住期を楽しんでいますと言われた。
インド仏教の思想で人生を4つの季節に住み分ける。 
①学生期(青年期) ②家住期(壮年期) ③林住期(人生の収穫を楽しむ) ④遊行期(遊行=巡礼 祈りと瞑想をしながら歩きまわって死に場所を求める)
学生期から遊行期に旅をすることも出来る。  遊行期から家住期に行く事も出来る。
あちこち旅をすることができて、旅をすればするほど人生は深みを増し、豊かになってきます。

人生を一生懸命生きようと思っているのは、昔ベトナム戦争で従軍記者をしてまして、仲間が同じ塹壕で暮らしていて、若者が戦争が終わったら、こうしたいと熱烈な思いを語ってくれて、医者になって傷ついた子供達を治したいとか、土木技師になってベトナムの復興に尽くしたいとか、そういう若者がその翌日には何人かが、冷たい躯になってその辺に転がっていて、悲しくて涙も出なかった。
生き残ったものの罪悪感を抱えながら生きてきた。
できるだけ生き残った者として一生懸命に生きて生き尽くすことが、少しでも世の中の役に立つのが、彼等のために何かをすることが役目だと思っています。

私の学生期  生まれた年に太平洋戦争が始まる。
海が大好きで毎日泳いでいた。 水平線に向かって、帰れる範囲を色々考えて、泳いでいた。
人に支配されないでも勝手に行動ができてきた。
波が来ると恐いから逆らったりするが、ある日急速にあまりにも大きな波が来て、あーもう駄目だと諦めて、ふっと体の力を抜いて波に身をまかせてしまったら、不思議と私を抱上げて抱きおろしてくれた。
逆らわなければいいんだと気が付いた。
波に限らずあらゆる人生の上で、力を抜くとふっとうまくいくという事、経験を重ねてゆきまして、波のおかげで心身の力を抜く、自分を空にしてお任せするという事が出来るようになったという事は私の人生の大きな宝物だと思っています。
50歳ぐらいの時に健康診断を受けたら、完全な健康体です、親御さんに感謝しなさいと言われた。
夫だった人が亡くなりました。  ALSという絶対に治らない病気で亡くなりました。
葬式、墓はいらない、骨を灰にして世界中のいろいろな場所に撒き歩いてくれと頼まれた。
散骨旅行が私の大きな仕事になりました。

家住期 結婚もしないで、子供を3人も作ってしまった。
一緒に海で潜っていた人が事故で死んでしまった事件があり、落ち込んでいたが、ある日電車に乗って自宅に帰る時に、初老の外人が話しかけてくる。
ナンパされて付き合う様になり、潜りに行こうよと言われて、一緒に潜ったら、こんなにすごい人はいないと思った。
彼はスキンダイビングの草分けでその世界では神様の様な人だった。
気がついたら子供ができていた。
土曜波に巻き込まれて海岸に叩きつけられて陣痛が起きて生まれました。
出産1週間目には仮病をつかっていたが、会社に出社しました。
翌年も子供ができたが、2年続けて腎臓が悪い(仮病)と言うわけにもいかず、海外旅行に行く事にして、許可をお願いしたら許可を得られて、ヨーロッパに出かけた。
船旅を楽しんで、日本に来てしまいそうになり、クリスマスイブで明日日本に帰るという日で、搭乗医師も酒を飲んでしまっていて、おろおろとしてしまって役に立たず、看護師を呼びに飛び出した隙に生まれてきてしまった。  翌日は日本に帰れた。
ベトナム戦争の従軍をして食べつないでいて、ベトナムから帰ってきたら子供が出来ていてローランド
が生まれた。

物凄い失恋をして、死にたいぐらい辛かった。
よれよれになっている時に編集者が来て、愛についてのテーマと言う事で、止めてほしいと言った。
料理なんてどう、言ったら、先生には似合わないと言われて、俄然闘志がわいて、本を書く事になる。
「聡明な女は料理がうまい」 ベストセラーになり、纏まったお金が入り子供を連れて、アメリカのニューヨークから数時間の高級避暑地イーストハンプトンに1年半ぐらい暮らした。
朝日新聞に「マザー・グースと三匹の子豚たち」という生活記を連載して評判が良かった。
当時は私に対しての風当たりは強かったが。

林住期  50歳で林住期を宣言する。
バンクーバーをベースにして、畑を耕したり、森を歩いたりしている。
高校時代は勉強は嫌いだった、特に体育は嫌いだった。
隣りが東大だったので、高校の授業よりはましだと思い、大講堂に講義を聞きに行ったりしていた。
学生運動に熱中していて、周りからは東大生だと思われていて、いつの間にか幹部になったりして、5月祭には芝居に出たりした。
高校を卒業する頃はどうしようかと思っている時に、友人と(永井龍男先生の子供)手紙のやり取りをしていると、文章が面白いと友人の父から言われて、文芸春秋はどうかと言われて、試験を受けたら合格する事ができた。
眼に止められて編集部に行く事になる。
子供が出来て、会社は辞めることになる。
かれんも50歳になる。
恐いものとか不安は?
恐いことはたくさんあるが、自分の弱点はあまり言わない方がいいと思っていたが、冒険は怖くないと思っている。
死もそんなにたいして怖くないと思ってしまったら、世の中怖い事はない。
言葉なんて、人間だったら必要があれば通じるものです。