2011年3月31日木曜日

三木稔(作曲家)        ・日本のオペラに命をかけて 

三木稔(作曲家)
日本史オペラ9連作』《春琴抄》、《あだ》、《じょうるり》、《ワカヒメ》、《静と義経》、組オペラ《隅田川+
くさびら》、《源氏物語》、《愛怨》、《幸せのパゴダ》が完成
37年を要して完成(80歳と100日目)
自分に創造力がなくなればればパッと辞めようかと思っていたが、それを感じたことはい
私の創作活動は還暦から始めている
70歳で癌になり放射線照射とホルモンで治療 7~8年癌と戦っている 大腸がん、十二指腸潰瘍も患う
 脳に水がたまる(手術)1年半で5回手術
足が衰える 入院中に作曲もして足の運動をさぼる
曾祖父は浄瑠璃の太夫 祖母は三味線の名取り・・・全く興味はなかった

連合艦隊司令長官希望海軍士官学校を受ける→敗戦(日本は科学で負けた)→理論物理学に進む
(テニス、合唱に入った) 
集団赤痢に掛る 薬なし→ 徳島に帰って「リンゴの唄に感動
ドビュシーの曲(夜奏曲 フランス)を聞いて感動して泣くに泣いた(それまでドイツの曲のみ あまりの違い
に吃驚)→作曲家へ志す
芸大 作曲科にはいる  楽団作って地方公演などする
日本音楽集団をつくる(自分はベートーベンを鏡として ベートーベンは第9 私はオペラで作品を)
1973年「春琴抄」がオペラの最初 
2005年8作目作る 《愛怨》オペラ 8世紀が舞台 奈良時代 この時病気療養中 瀬戸内寂聴さんに
書いてもらう(短編小説)

オペラ それを聞いて勇気をもらって自分の人生を自分で再構築出来るようなもののほうがいい
奈良長安が舞台 楊貴妃は琵琶の名人 遣唐使、仏教が入ってくる・・・舞台で琵琶をひけるような
シチュエーションを作ろう・・・寂聴さんに頼む
日本語がはっきり聞こえ解り易い (歌 鎌原さん良く分かる) 
日本の楽器が全て入る合奏運動を始めようと その中から21弦の琴を作って いろいろやる
1975年《春琴抄》オペラをつくる 日本音楽集団から遠のく

2011年3月30日水曜日

中村明(早稲田大学名誉教授)  ・豊かな日本語の語感を味わおう

 中村明(早稲田大学名誉教授)  豊かな日本語の語感を味わおう
「日本語 語感の辞典」執筆
しなやかな女性  しなやかな女子(違和感)   
あした(砕けた感じ)  あす 、みょうにち(硬い感じ)   
広島(地域) ひろしま(子供向け) ヒロシマ(原爆連想)
にほん  にっぽん(破裂音・・・力強さ)
どうか遊びに来てほしい・・・是非来てもらいたい
どうぞ遊びに来てほしい・・・来てもらいたい感性が上より薄い

語感を鋭くする→感情を鋭く出来てくる 言葉を味わい深くする
物を良く見る(感性)
うまいなと思う表現をメモする(覚える)
自然に出てくるようになるまで熟成させる(自分の頭の中で)
お勝手 台所  キッチン・・・世代による語感の変化
言葉は変化してきている  言葉:相手に対する思いやり

2011年3月26日土曜日

藤岡弘(俳優・武道家)      ・藤岡弘、流ブレない生き方


藤岡弘(俳優・武道家)      藤岡弘、流ブレない生き方
ボランティア活動で世界百数十カ国回る  出会いの縁 世界の人との交流
父:武道家 何があっても父の言うことを聞けと諭される 武道家としての精神 生き方を学ぶ 一人ぼっちになっても生き抜く 真剣に燃えて生きよ  
母:仏前につれてゆかれた 私の言うことが聞けないのであれば、あなたを殺してから私も自害します
  自分を守る為に武力を使ったのであるが、言い訳を聞いてくれなかった
武というもんは己を修めるもの 我慢
「自己を修める者迷い無」 幼いころの教えは大きな財産になっている
天下を治めようとする者はまず、家庭を修めよ 家庭を修めようとするには己を修めよ
外国を旅して、内乱があり多くの死を見てきた 先祖の愛の連続性で自分がある
最近自分さえよければいいという風潮が見られるようになり変わってきた
エゴによって争いが起きる 何故協調、共生ができないのか
子供は財産 子供は愛された分、大きくなって愛を返せる
生きる勇気を失ったら最大の損失
どの民族も幸せを求めている 次の世代を思いやる
あの世に持っていけるものは「感動と思い出」 金、地位、名誉なんかではない

2011年3月25日金曜日

武田双雲(書家)         ・書に求めるもの

武田双雲 (書家) 
<概要>「武田双雲の母親は書道家である 学校時代はあまり面白い授業ではなく 
授業以外のことで気を紛らす事をしていた
大会社に就職したが、ある時に母親の書を見て感激して 会社を辞めて書道家を志す 
その頃は相手に対して粗を探すような感覚で人を見ていた
しかしその様な人の見方は結局自分の気持ちを面白くはさせない 物の見方を変えて相手に対して
感謝の気持ちを込めてその人を見るようにするようにしたところ
相手の良いところが目につき、同様に自分の気持ちもすがすがしい気分になって来る 
自分の心に感謝出来る様になる
変えるにはそれなりの努力が必要で 具体的に言葉に表わして「常々言う 」又「書く」事が大事  
感謝眼鏡をかける(感謝の目、心を持って相手を見る、接する)
書を通して人々の心を和め、感動させたい」
母親の武田双葉さんから3歳の時から書道を習ってた
病気もたまにはいいかな いろんなところに幸せを見す
ネガティブに陥りやすい→あえてポジティブに思考する
感謝コレクター いつからか 学校の授業が面白くない →いかに面白くするか(ゲーム的)
20代 粗探し眼鏡をかけていた 店員の対応の悪さ、料金高いんじゃないの→悪いところばっかり目
につく →面白くない
感謝眼鏡 を見つける→相手も自分もハッッピーになる(世界が変わる→自分が変わる) 
良いところが見えてくる
書道で赤で直すぶんには簡単・・・伸ばすためには良いところを見つけほめてそれプラスここを直せば
もっと良くなると指摘する
サラリーマン2年半で辞める→書道家に転進(母親の書に鳥肌が立つ) 25歳
あらゆる書をまねる PRする人になる(広めてゆきい)

書は多くの人の心を動かすだろうと確信する  書道は人の心を揺さぶる事を実感する
「書は人なり」と昔からいっていた 生きざまと思いまる
日々の生活のなかで有り難いなあと思う心・・・日々成長したい
今ある身の回りのもの、ことを使い切る・・・成果が表れてくる 不満はでない 希望がわいてくる
会社を辞め、ストリートにでる(どのように書道家として一本立ち出来るか判らず道に座って求められれ
ば書を書く)・・・何も持っていない状態(技術、金、人、実績、信頼、・・・)
人って自分の事ばかり考えているものだと ストリートでの経験したい
ストリート ござに座って色紙を何枚か並べ、「貴方の好きな言葉を書きます」という看板を立てる→
何人か足をとめてくれる
どうやったら喜ばせられるのだろうかと思うと立ち止まってくれる人がある 人が増え笑顔が出来る
相手の心を開くには相手に対して興味を持つ、好奇心を持つ自分のエゴを出来るだけ減らすこと
プレゼントを渡すような気持ちで書くようになた
有り難いなと思う心が最強になる 折れそうになった時の根っこ 親からもらった愛プラス有り難い
なと思う心の気付き
自分を責めなくなった、落ち込みにくくなった 自分の心に感謝出来るなった

一般的に廻りに負けちゃったり自分の弱さに流されてしまったり、悔しがったりする→有り難いと
具体的にしゃべる、(何百何千と日々言っている且書いている)
負けそうになる自分の心を打ち壊してゆく
強制的に行動、習慣が性格を変えてくれた 生まれつきでなく性格は書道と同じで練習すればうまく
なるというのが希望
言葉にする、書にかくとか行動することが大事(思っているだけでは流されてしまう 変える事は出来ない)
「道」って長い道 現代は直ぐ成功、失敗が決まっちゃう(結果がすべて) 
書道 今日は駄目でも明日はちょっとでも良ければいい(緩さがある)
精度のいい感謝眼鏡を掛けたい、感謝眼鏡を一杯配りたい 書道はそのきっかけ 
人の心のありようを成長をさせる事がもっとも強いことだし優しさだ に気付いたから
「絆」 人間なんて半分で欠けているもの 人と混じり合えるし 高めあえるし半分同士の糸が
紡ぎあわされて社会と言うものができて
初めて社会があって自分の半分が生かされるということは「ありがたいなあ」ということになる・・・感謝
の心

2011年3月24日木曜日

米田佐代子(平塚らいてうの会)  ・「平塚らいてう」について

米田佐代子     

「米田」:東京都立大学人文学部卒業後、同大学助手、千葉大学・専修大学・一橋大学等の講師を
経て山梨県立女子短期大学教授、2000年3月定年退職。専攻は日本近現代女性史
平塚らいてうを中心に近代日本の女性運動と女性思想を研究、女性学、ジェンダー論、男女共同
参画問題等でも発言
実生活では共働きで二人の子を育て、保育運動・学童保育運動・PTA活動・親子読書会などに参加
、今は高齢者施設のボランティアにも参加。総合女性史研究会代表もつとめた
現在は、「NPO平塚らいてうの会」会長兼、2006年に長野県あずまや高原に完成した「らいてうの家」
館長として、東京と長野を行き来している
話の内容は主に「青鞜」に関する事、平塚らいてうの事、婦人問題の事 「旅の7日間」 「夕焼け」
 「三つの目」について等の感想、説明
青鞜」 ブルーストッキング イギリス社交界女性が青い靴下を目立つように履く・・・これがもとになり
「青鞜」と云う雑誌の名前になる
青鞜(せいとう)は、1911年(明治44年)9月から 1916年(大正5年)2月まで52冊発行された、
女性による月刊誌主に平塚らいてうが、末期だけ伊藤野枝が中心だった。
『文学史的にはさほどの役割は果たさなかったが、婦人問題を世に印象づけた意義は大きい』との
論もある
日本女子大卒業生が5人集まって出版
新しい女性と言うことで非難さ
れる
創刊の辞 後の方に掲載 
「元始、女性は実に太陽であった 真正の人であった  今女性は月である
 他に依って生き 他の光によって輝く病人のやうな蒼白い顔の月である
  私共は隠されて仕舞った我が太陽を今や 取り戻さねばならぬ」

平塚らいてうは森田草平と心中未遂をする(作家の卵) 私の主人は私自身である 自分の力で立ち
あがってゆく

「自分は新しい女である 少なくとも真に新しい女だと日々長い日々努めている 真にしかも永遠に
新しいのは太陽である
自分は太陽である 少なくとも太陽でありたいと日々願い、日々努めている 新しい女は今美を願わない
善を願わない ただ今しらぜらる王国を作らんがために自己の尊き天職の為に力を力をと叫んでいる」
当時のメディア、等は新しい女とは何事かと非難する
自分が選んだ道はどうなるかわかりません でも行きつくところまで行ってみよう・・・らいてうの一生
を貫いていた
後ろを向いてしまっては駄目 らいてうは発していた 地べたに落っこちてもいいから前に進もう
母親になって子供はいとしいと思い、子供を守らなくてはいけないと思いそのためには子供を守る
権利が必要であると
市川房江氏とともに「婦人参政権」に取りむ

1914年「旅の7日間」 
「四六時中共に一緒に在りたいと思うのは全ての人の心であろう 私もまたそうであろうと願っている
 けれど自分は朝から晩まで 
同じ部屋にいて自分の愛する者と顔と顔とを合わせていることには、耐えられない 机を並べて一緒
に読書をしていたり書き物を
することも自分には出来ない 自分は本当に人を愛することが出来るのだろうか 又本当に人の愛
を受け入れられるのだろうか
私は愛しつつある瞬間においてさえ折々そういう疑問に悩んでいるのを知っている 自分は人を
たった一人の人さえ愛することが出来ないのを
悲しんでいる 咎めている そしてどうかして本当に愛そうと努力している けれど一方には人を
愛し人から愛されることから逃れようといつも
願っている自分があるようだ」
奥村博史と恋に落ちる 暮らすことにした 思ったことを表現してしまう  
お互いに距離を置く事は要
子供を産みたくなかったが、結局生むことになり、母性の素晴らしさに気がつく 他愛主義・・・これこそ
人生人間の生き方であると思う 

母親になったことが参政権の原点 (戦争を男たちが勝手に始めた)女達は子供を守る為に活動する
でしょう
らいてうの言葉「私は永久に失望しない」・・・よその子を大事にしてくれる人が増えてくれば私は安心
だ私は永久に失望しないでしょう
→それが日本が平和で子供たちが幸せに育ってゆく道
「夕焼け」1925年
「瞬間の尊とさよ 夕餉の後始末を台所でゴトゴトとしているうちに あの夕焼けはもう消えちゃった 
冷たい冷たい空の色
何故私はもっと気軽に何もかも、うっちゃって野に飛び出さなかったんだ」 
ああ 私はあくせくしすぎていた 消えちゃう瞬間に何故夕焼けをしっかり見る余裕はないのか
当時 老人ホームを作ろう・・・新鮮な考え方(当時 家の人達、嫁の役割) 共同の世界をつくるのに
女性の力が必要

1951年「三つの目」 
①私たちはいつも現実を見る鋭い目 
②はるかな未来を見通す永い目 
③心の内側を凝視するかつて瞬きをしたことのない深い目
この三つの目を持って生きてゆきたいと思います
85歳で亡くなる
9/1が「青鞜」発刊日 発刊100年を長野上田で行う

2011年3月23日水曜日

山崎洋子(童話作家・脚本家)    ・私と朗読ミュージカルの20年

 山崎洋子(童話作家・脚本家)   私と朗読ミュージカルの20年  
4年7ヵ月宝塚に在籍(無償の愛が宝塚にはある) いまの交流がある
大家族の長男の嫁になる これからはみんなに尽しなさいと父から言われる 
日中は時間がなく夜、童話を書く
自費出版
どんなに悪いと思った人でもちょっと角度を変えるとキラッと良いものがあるものだ
夫は10年間 脊髄梗塞で車椅子で一緒に寄り添う時間が出来た
遠藤周作が恵まれない人に光を当てよう (五つの台詞と一つの見せ場)
遠藤周作からいろいろなものをたくさん頂いた
19~80歳の人がラインダンス 客と舞台が一緒になる
80歳のおばあさんの話 自分の心持次第で楽しく生きられる
人の生死は絶対に避けて通れない
全盲の人がミュージカルを見に来てくれて感激 芸大に進み琴をやる
琴、中国琵琶と一緒にやる
脳梗塞を経験したが、軽かった 短い時間病院にいた 
いろいろのひとに出会うことが出来た
生きてゆくことへの讃歌

2011年3月11日金曜日

秋尾沙戸子 (ノンフィクション作家)   ・GHQの占領史から現代日本が見えてくる

秋尾沙戸子 (ノンフィクション作家)  GHQの占領史から現代日本が見えてくる
洋酒メーカーに就職 宣伝部配属 25歳で退職 結婚を機に辞めさせられるような状況
社会から切り離されたような状況に陥る→友人が働き口を紹介(女性キャスター)
東ヨーロッパの方に行く
1989年ベルリンの壁崩壊 ラジオでパーソナリティーやっていた 
尊い涙を流していたお爺さんお婆さんがいて映象に対してなにも言えなかった
知らないことに対して、罪深く感じる
5,6月に東欧を歩くべきであると思い、ホームステーする 友人を紹介してもらう  
かけがえのない時間を過ごせた

仮面を使って生きるのか、それともアウンサンスーチーさんみたいに戦うのか  
自分がどう生きるかの選択を東欧の人達は強いられていた
ドイナコルネア(ルーマニアのフランス文学教授) 幽閉状態にあって、チャウシェスクの批判の手紙を書いて 短波放送に送り続け国民の人達がそれを知り、革命につながった
取材して日本の皆さんに伝えたいと思い出版したのが「レーニン像を倒した女達」
東欧旅行の前離婚→NHKナイトジャーナル番組(日本の真相に迫る)→上智大学大学院→
ミャンマーのアウンサンスーチーさん、インドネシアのメガワティーさんと会う
民主化勢力に密着して取材できた  
軍がスファルトにつくのか、民主化勢力につくのか?微妙な時で状況によっては身が危ない状況にあった

彼らは国の未来の為に命がけで戦っている(インドネシアの行方にずっと見守ってゆきたい)
民主化と言うと影にアメリカの姿がちらついて見える
アメリカの目線で日本を見てみたい
アメリカのアフガン攻撃に懐疑的 アメリカを知らないのにアメリカ批判するのは違うだろうな
(アメリカのジョージタウン大学に1年間 民主化、アジア政策研究)
2003年 イラクに侵攻してアメリカは占領政策にもだえ苦悩してる 
どうして日本の戦後占領政策はうまくいったのか 答えなさいと言われたが答えられなかった
どういう人たちが日本に来てどういう気持ちで日本を改革しどんな気持ちで日本が抵抗したのか、素直に受け止めたのか 自分では判らない
調べ始めたが判らない事だらけだった
空襲 アメリカは綿密な実験を行っている
アントニン・レーモンドが指導して日本の家屋を製作 
ユタ州沙漠で日本の家屋を作り焼夷弾の威力を実験調査している      
占領時にタイムスリップする必要があると判断→ワシントンハイツに突き当たる→東京のど真ん中にある 28万坪 アメリカの街が目の前に出来た

明治神宮のとなり デモクラシーを受け入れようと自然になっていった(デモクラシーの宣伝)
60年安保 オリンピックでワシントンハイツは消えてゆく
3/10の下町空襲 大本営
真珠湾攻撃の前から戦争の準備をしている 
日系人で2ヶ国語が出来る人を確保→情報の重要性を認識
GHQ、マッカーサー占領政策  
驚いたのは末端の人達まで含め民主化が人類にとってとてもいいことをやっていると浸透している事
白洋舎・・・GHQのクリーニングシステムを学ぶ

戦争は非常に馬鹿げた事 日本は知らない間にGHQ改革の影響を受けている
(例えば清潔さは以前はなかったが戦後清潔さを身につける)
主要国家は世界戦略を持っている
地球義で主要国家(米、ロシア、中国等)は考えている 
日本は日本地図を平面的に考えている
日本はどうありたいのか知恵を絞って話し合ってゆく必要がある
個人の営み、息使いと国家の政策の両方から見つめる事が大事

2011年3月10日木曜日

松井進(地方公務員)      ・三代の盲導犬と歩んで16年

 松井進(地方公務員)  
ロミオは3代目の盲導犬 ラブラドールレトリバー
ハーネス→自動車のハンドルのようなもの
盲導犬 ほえない かまない さわがない
高校卒業後アメリカ留学 パソコン プログラミング等習う→使う側に変更
盲導犬との出会いはアメリカで
初代1993年 クリナム 2代アンドチュー 3代ロミオ
人・・・犬の関係 信頼関係が出来るまで最低3週掛る
触ってスキンシップをとる→信頼関係 話導訓練、服従訓練
犬は人間の感情を読むのが得意
ほめる、しかる・・・基準がぶれないことが重要  ほめる事だけだと増長する
3回ある行動をやってしまうと、その行動はしかられないとやってもいいことだと判断する 最初の「しつけ」が大切

2011年3月9日水曜日

新実徳英(作曲家)       ・平成の唱歌をめざして 2

 新実徳英(作曲家)          平成の唱歌をめざして 2
平成の唱歌「白い歌 青い歌」・・・鑑賞用ではない歌う人の為のもの
歌い手の解釈によってどうにでもなる
鎌倉の人達500名 名古屋 一宮 子供たちに音楽をやってもらいたい 850名歌いに来る  
鹿児島 友人通して歌う会
北海道富良野 福島 小学生~大人まで その場に行くようにする コメントもする 
谷川氏 3世代リレーのたまもの 物語文化の会 厳しい人 考え方ふるまい方で物事をどの程度きちんと見るか 決して迎合しない詩
鎮魂歌 南海譜 戦争 想像力をめぐらして歌わねばならない(10~20代) 
歌詞が判らなくても想像力を使う
教育 ニンジンをたべさせる事が必要 体の為になる 食べにくいものを如何したら食べれるようにするか  

具体的に指示する必要がある
(何を如何したらいいか 一歩上にいけるか 教育意味がない)
幻の噴水に濡れたひとところ 胸のあたりが濡れたよ  幻のがつくだけで・・・どういったことか 想像する
平易に書かれていない詩 ポップスのようには広がっては行かない  学校で使ってほしい
基本的には歌いやすい(メロディー)
単語一つずつは易しいが組み合わせによって難解になる
日常の世界へ・・・家で歌っていると子供がいつのまにか覚える 嬉しい  
経験の違い 子供、老人 
自分が何を如何に歌いたいのか 
中学校の同窓会で 高校の課題曲を歌っていた(懐かしい歌 一種の唱歌) 「白い歌 青い歌」 ながく残せる歌 世代を超えて共有できる歌

2011年3月8日火曜日

新実徳英(作曲家)        ・平成の唱歌をめざして

 新実徳英(作曲家)    平成の唱歌をめざして  
100曲を目指し53曲で詩人、谷川鴈氏が亡くなってしまう
曲先行 あとから詩を付ける    
谷川氏は硬派の詩人   
歌いやすいメロディーを先に作って後から詩を付ける
(クラッシックでは一般的には詩が先行して曲は後から付ける)
この人は歌に合う詩をつくる人ではないと思っていた  
子供中心に大人でも歌えるように谷川鴈氏は作詞した メロディーを考えて譜面にして谷川氏に送り、それを谷川氏が何十回となく聞いてイメージを作り詩を付ける  
詩を後から付けるという事は難しい、難儀なこと
「14歳」の詩が出来た時にあまりの素晴らしさにFAXを握って部屋の中を飛び歩いていた

「はなびらのにがさを
だれがしってるの
ぴかぴかのとうだい
はだしでのぼったよ
かぜをたべた
からっぽになった
わたしいま十四
うみよりあおい
はなびらににがさを
だれがしってるの
だれが」

出版社 これは素晴らしいとは感じてはいなかった
53曲で終わったのは谷川氏が亡くなった為
意外だなというのは一杯あった
メロディーがあまい曲なので恋愛的な詩となるかなと思ったが、鎮魂歌の詩としてとてもいいものになった
南の砂まぶしい風
「白い歌 青い歌」 「卒業」 「20歳」
仲間たちとの別れ
曲が十分に咀嚼されている
谷川氏の詩の態度 お前たち(子供)に合わせて詩を作っているのではない 
ここまで上がってこいよ それなりに理解する
童話の事(宮澤賢治)
頑固者・・・谷川氏
大人でも理解できない詩がある 詩の解釈は自由
きちんとキャッチボールされている 言葉の使い方 勉強になった 
何かがヒントになって作詞する
新実氏は東大工学部→親の跡継ぎをする 
大学紛争 音楽に対する傾斜が強くなる ピアノひくようになる 21歳 芸大に行く(父反対) 父は跡継ぎを諦める 
高校の時に作曲していた 題名のない音楽会コンクールに入選 等   80年代合唱を多くかく  
子供にメッセージを送りたい 

2011年3月7日月曜日

太田差惠子(介護・暮らしジャーナリスト)・遠距離介護の知恵とコツ

 太田差惠子            
        遠距離介護の知恵とコツ
Uターンできない呼び寄せもできない 介護
多くの年寄りはその土地で暮らしたいと思っている
(長年暮らした自然のなか、友達、住み慣れた地域)
お互いが対話をしてより正しい方向を探す
親は困ったことがあってもあまり子供に言わない  
親は子供にあまり面倒を掛けさせたくないと思う
遠距離介護  対話→すり合わせが必要・・・予算、サービス、情報等
介護保険は判りにくい

高齢者向けサービス・・・緊急通報サービス、地方自治体の態勢等いろいろあるので調べる必要がある
離れて暮らしていると親の生活スタイルが判らない・・・
①朝いつ起きるのか、
②掛り付けつけの医者はどこなのか、
③周りの友達はどこにどのような人がいるか
④薬はどんなものを服用しているか、
⑤ゴミ回収場所仕訳条件は、、
⑥チェックリストが必要

自治体の援助・・・無料~有料いろいろある  
肝心のところは実の子供がやる必要がある
認知症の介護は親がどうしたいのか早めに話あう必要がある
施設選択は難しい 情報収集をしっかり行い長期戦での対応が望ましい
一人での介護は無理なので兄弟、子供、専門職、地域の人、等周りからサポートする必要がある
まず相談する窓口は「地域包括支援センター」 ケアーマネージャー、社会福祉士
万々歳の介護はない
子供が元気な事を親は望んでいる
携帯メールを親に教えて情報交換する・・・増えてきている 簡単な言えないような事も抵抗なく発信出来る

2011年3月5日土曜日

高麗文康 (宮司)        ・高麗神社宮司60代

高麗文康 (宮司)          高麗神社宮司60代
高麗神社宮司60代続いている
高麗氏系図 日本書記の資料から判る
日本(倭)は百済復興の支援に乗り出し、白村江の戦い(663年)で手痛い敗戦をくらった
666年 高句麗から玄武若光(高麗氏の先祖と同名)が渡来
  唐(とう)と新羅(しらぎ)の連合軍の攻撃にあい668年に高句麗は滅亡
703年 文武天皇により、高麗王(こまのこきし)の氏姓を賜与される(『続日本紀』)
  『日本書紀』の「玄武若光」と『続日本紀』の「高麗若光」が同一人物かどうかは、証明出来て       いない
716年5月16日 東国7カ国から1799人の武蔵の国に今の日高市に集まる 
   (駿河、甲斐、上総、    下総、相模、常陸、下野)
  その際若光は高麗郡の大領(郡司)に任命された

石作りの将軍標 日韓国交40周年の時に在日韓国人の人達が奉納してくれたもの
チャンスン(長い柱)高麗神社にも奉納された 天下大将軍 地下女将軍
先祖の墓 土まんじゅう 韓国と同じ形式 初代から3代までの墓がある(若光、家重、光人)
高麗氏家訓 高麗氏は南朝に就くが敗北する→高麗氏痛手を受ける→高麗氏は以後一切武士の行いは致さず→戦争には参加しない
歳をとってくると自分の先祖からどのように来たのかを判り良かったと同時に責任を感ずる
地域の人との関係 講演をする(県外を含め)
高麗の地名 日本にたくさんある 
神奈川県高麗山 狛江 山梨県高麗郡 狛犬・・・朝鮮半島との関係 意味合いあるのでは
朝鮮半島との文化交流橋渡し・・・高麗神社がしてきた 韓国にとって高句麗は自分たちの先祖の国という位置付け

土地の縁(日本) 韓国は血縁を大切にする社会
2016年 建郡1300年祭 歴史を知ってもらいたい 記念事業 他地域との交流をしたい 
日高市、飯能市、鶴ヶ島、(川越市、狭山市、入間市の一部)
高麗郡、高麗村の地名はなくなってしまったが高麗川等残っている
奈良平城遷都1300年祭でいろいろと勉強させてもらった

2011年3月4日金曜日

大地康雄(俳優)        ・結いの心 2

 大地康雄(俳優)            結いの心 2
自ら映画を作る「恋するトマト」 フィリピンへの旅行で挫折したいろいろな人に出会う
開拓農家出身の作家 小桧山さん 「パラグレオン」
たくましく心やさしい人魅力的な人がどうして結婚できないのだろうか→農家であるが故→この日本と言う国はおかしいんじゃないか
自給率45% あと10数年で食い物を作る人はいなくなる(現在平均年齢が65歳) 
日本の根本問題
農業をテーマにした映画ではものにならないと最初は抵抗があったが何とか協力者が現れる

農産物相手であると大変 大玉トマトはフィリピンではできない(雨多い、台風等)
6年目でトマトが出来る(品種改良、土壌改良等苦労して作る) 
6年間は映画作りはとん挫
稲の撮影も大変だった 撮影しようと思ったが冷夏のため稲が青い 
一か所だけ黄色い場所が見つかった 祈る思いであった
結いの精神 
日本に昔はあったが今はない(機械化して個別でやっている) 
人と人の繋がりが希薄になっている

フィリピンでは稲刈りだけは家族総出、近所、親戚で仕事をしている
「正雄」 農家のうまれ ヤクザ家業に走って両親を捨ててしまっていたが 農家の血がよみがえる ズボンをまくって農作業を手伝う
70年 70% 仏、独と同じ 80年60%  先進国は100%の自給率 
日本では次の世代はこのままいったらどうなるだろう

「土と太陽と水」
学生に映画を見せる→全員から感想文有、番長からも感想の手紙が来る「昔から百姓は偉いと思っていた」
先が見えている大問題 70億人から2025年 80億人  2050年には90億人になる
2025年にはどう考えても食糧不足になる 
どう考えても自国優先となり、金を積めばなんでも買えるというのは妄想 
この国はどうなるのか
自然は手を加えただけ答えてくれる

2011年3月3日木曜日

大地康雄(俳優)        ・結いの心

大地康雄(俳優)            結いの心
20年ぶりの大河ドラマ「お江」の柴田勝家役  資料が少ない 
60歳で独身 家庭の味を知らない男→役の土台作りが大変
人とまじあうのが苦手であろうと想像する 
信長との出会いによって生かされた 
信長の夢に一生をささげようとしたのではないか
自分を無にして尽くす 世の中の為人の為になるんだという思いで生きてゆく  
一途なところが好き

私の両親は沖縄 熊本で育つ 宮古島に転校する 
自然のありがたさを味わう(潜って魚を突き、砂浜に埋めた芋を食べる)  
友達と劇団のオーディションを受けるが、友達は落ちる 伊藤雄之助が師匠
月謝が払えないような家だった 
新しい高校が出来るからとそこに行く事になる(八重山商高)
そこの校長は今でも全員の名前を覚えている(同窓会)  
集団就職→友人が俳優になるという→友達と劇団のオーディションを受けるが、友達は落ちる→サラリーマンで将来の姿を見てしまう

オーディションに受かったこと思い出して伊藤雄之助宅を訪ねる(8回断られる 9回目でOKとなる)→厳しい教えであった
俳優の精神の一から教えてもらう(2年)→早く一人前になりたかった→百姓1の役「てーへんだー」の一言(21~2歳)
教えられたことは「自分に嘘つくな」(台詞を本当の考えで気持に乗せてその役で生きてゆく)
「深川通り魔殺人事件」役でリアル過ぎたためかその後3年間役はほとんどなかった
伊丹十三氏に見いだされる  
税金の刑事だと思ってやってくれとアドバイスされる
「マルサの女」でイメージがようやく解ける
出会いは人の一生を決める
人生誰でも3回チャンスがある 
実際に受け止める側の受信機を磨きなさい 
受信機がしっかりしていないとチャンスも逃してしまいます

2011年3月1日火曜日

宗方良東(鋳物会社社長)    ・人を泣かせて金取るな

宗方良東(鋳物会社社長)       人を泣かせて金取るな  
キューポラ 軸受、等鋳物をなんでも作る 柔らかくて加工しやすい  
半導体を磨く皿は特に要求されている
不況の為鉄を溶かす回数が減っている 2日/一回→週/一回
鋳物の仕事は天職と思っている
昭和35年 福島から出てくる 知り合いが川口市にいた為   19歳で母親を亡くす
鋳物工場に就職する→27歳のときに独立する  
買湯(鉄の溶けたもの)を購入して鋳物を製作する

取引先倒産→不渡り→何としても鋳物をやっていこうとの信念→軌道に乗った矢先に又取引先が倒産し蓄財が全てゼロとなる
助けてくれるお客さんがあり再起する(正直に生きていれば助けてくれる人も出てくる)
安く製品の確かなものを作る 納期をしっかり守る
バッティング装置の特許も取る 考える事は楽しい 充実している

川口市の鋳物工場は600在ったのが100以下に成ってしまった
人間苦労して生きるのが当たり前 耐え抜いてゆくのが大事
人の心は金だけを求めて追及しても駄目 求めるものを減らせばよい
母親からのアドバイス 人を泣かしちゃ駄目 自分はだまされてもいいが、人を騙しちゃ駄目 
体に気をつけなさい(なんでも食べなさい)