五十嵐 匠(映画監督) ・二宮金次郎、銅像から映像へ
二宮金次郎というと本を読みながら薪を背負ってを仕事をする少年の姿しか知らない人が多いかと思います。
しかし懸命に働き勤勉と倹約で実家を再興させ、藩から財政の立て直おしを頼まれたりして生涯600以上の村を復興させ武士の位を授かったとして名前が残っています。
その二宮金次郎がある村を復興させた様子を映画にしました。
今月28日で劇場での映画は終了しましたが、地域の希望によって全国の市民会館や公民間などでこの映画を紹介してゆくと言うことです。
五十嵐さんは青森県出身60歳、弘前高校から立教大学を卒業後、制作会社を経てフリーになり、映画「津軽」で劇場映画デビューを果たします。
その後ベトナム戦争を取材し、亡くなったカメラマン沢田教一のドキュメンタリー映画や一ノ瀬泰造をテーマに「地雷を踏んだらサヨウナラ」と言う映画を作っています。
そのほか「長州ファイブ」や、「十字架」など合わせて13品の映画を監督しています。
30代に非常に荒れた村を復興する二宮金次郎を描いているので、生涯600以上の村を復興させている、その姿を描いているので、観て涙を流している人も居て観客の反応に驚きました。
全国でもやることは決まっていたが、日光は最後に復興する場所ですそこで二宮金次郎が亡くなるんですが、日光で特別試写を行いました。
2000人近くの観客が来ました。
その中に80歳位の老夫婦がこの映画を見て感動してくれて、シネコンでの上映がいいものかを考えて、映画館での上映を一切辞めました。
制作委員会で大きい車を買って8mのスクリーンと劇場用の映写機と同レベルの映写機を買って二宮金次郎号と名打って、キャラバンで全国に届けようとしています、もう100か所以上が決まっています。
学校、企業、行政などにこちらから出向いて行っています。
前の作品は「十字架」という題名のいじめ自殺の作品ですが、茨城県下館で撮影した時に、160年前に二宮金次郎が復興させた場所だということでした。
それで調べ始めたのがきっかけとなりました。
復興に向けて突き進む魅力的な人物だと思いました。(4年前から調査、映画化検討)
色々なところから協力をいただきました。
二宮尊徳がいう「積小偉大」、小さな事を積み重ねて行けば、大きくなると言う、二宮尊徳家ら教わった形でこの映画はできました。
私が映画を作りたいと泣きわめくと、しょうがないなあと周りがだんだん増えて来ます。
1996年「SAWADA 青森からベトナムへ ピュリッツァー賞カメラマン沢田教一の生と死」が本格的なドキュメンタリー映画となります。
ベトナムには8年間通いました。
カメラマン沢田教一さんを知りました。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」もベトナムに関する一連のものです。
金子みすゞ、板谷 波山、田中一村の映画と人物にスポットを当てての映画が多かったが、その後「長州ファイブ」、「半次郎」「十字架」そして二宮金次郎へと続きます。
亡くなった方しか描いていませんが、亡くなった方を描くのは資料、その時に居た人達からしか話を聞けないので非常に苦しいです。
他人を描く傲慢さと言うものをいつも自分で思っていて、描きながらそう簡単に描けなと思いながら作品化しています。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」は報道写真家・一ノ瀬泰造の話ですが、或る人から戦場でファインダーを覗いて撮るカメラの扱いがうそっぱちだと言われましたが、聞いてしっていたが映画ではあえてそのようにしましたが、フィクションとノンフィクションの間で揺れているところもあり、自分でも気にしています。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」は色々な国の通訳が6人いました。
色々ぶつかり合った方が新しいいいものが出来ると思います。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」のときにはむちゃくちゃでした。
2日間徹夜してクライマックスの場面を撮ったフィルムがトラブルで人とともに川に落ちで駄目かと思ったが、それは新しいフィルムで同様の古いフィルムが残っていてホッとしたと言う事もありました。
そういったことはそれぞれの映画でいくつもあります。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」では10kg近く痩せました。
昭和33年生まれ、結構大人しい子供でした。
父が教師をしていて映画が好きでしたし、中学の時に「スクリーン」と言う雑誌を購入してそれに惹きつけられたと思います。
8歳の誕生日の時に父が映写機を買ってくれましたが、父の思いがあったのではないかと思います。
水野晴郎さんの記事が面白かったです。
映画監督になりたいがどうしたらいいかと水野さんに手紙を出しました。
3カ月後に絵葉書が届きました。
「映画監督になる道は今の勉強を一所懸命やって、たっぷり映画を見ることにつきます」、と書いてありました。
ポイント、ポイントで僕に影響してくれる人が出来てます。
立教大学で映画のクラブで8mmを取り始めました。
シナリオも勉強しました。
父からは教員免許を取るように言われたが、教師には絶対なるまいと思っていました。
子どもには映画監督にはやらせたくはないと思っています。
「津軽」で劇場映画にデビューしました。(1989年)
客は入らなかったがある映画評論家から面白いといわれて、もうちょっと頑張ってみようと思いました。
映画として戦う場合に自分としては他の人よりも卓越しているものは何なのかと言うと、故郷の津軽、方言、方言で詩を書いていた高木恭造さんが居て、その詩をモチーフにして多くの借金をして作りました。
試写で観てもらった人からどうしても足りない200万円小切手を書いてもらえました。
映画監督には人との出会いというものが必要だと思います。
こちら側が真剣にやっているとポッと出てきてくれたりします。
自分が思っている様なお芝居をして貰うと僕は面白くない、そうではなくて違う芝居をした時には違う発見があり、非常に嬉しくなります。
次は沖縄戦の映画を撮ろうと思っています。
(島田叡知事と警察所長の荒井退造さんを主人公)
2019年6月30日日曜日
2019年6月29日土曜日
有森裕子(元女子マラソン日本代表) ・<あきらめない>を力に
有森裕子(元女子マラソン日本代表) ・<あきらめない>を力に
1966年岡山県岡山市生まれ、高校から陸上競技を始め実業団に入ってからは先日亡くなった小出監督の指導のもと、才能を開花させます。
1992年バルセロナオリンピックで銀、アトランタオリンピックで銅と2大会連続でメダリストとなりました。
その後も国際協力を行うNPOの代表を務めるなど幅広く活躍、去年故郷を襲った西日本豪雨では避難所を訪ねたりチャリティーマラソンを開いたりと復興を支え続けています。
実家のところの有森ミュージアムでチャリティーバザーが開かれましたが、もう10年以上になります。
高石ともやさんにもきていただきました。
地元の方々の多くの支援を頂いています。
小さい頃はおてんばでした。
スポーツが出来る子ではなかったです。
先天性股関節脱臼で生まれてきたので、競う様なことはしないでマイペースで遊んだりしていました。
中学の時にバスケットボール部に入りました。
運動会では800mで3年間優勝しました。
きついけれどやれば結果を出せるものだと言う事が判りました。
高校では陸上部に入り800、1500mなどをやってきました。
都道府県の女子駅伝がスタートした年だったので、県内の選考レースとして女子の大会がスタートしました。
12人の中に引っ掛かりましたが、補欠でした。
2,3年生の時には自分が正選手ではないのに現場にいる虚しさ悔しさを感じるようになりました。
前夜祭の時に高石さんががこられ、「みんなここまで来るのに一生懸命頑張ってきた自分を判っているのは皆さん自身なんだから、ここにこれたことを先ず自分が喜んで、自分をほめた方がいいと、目標に向かって頑張って」という様な詩を読んでくれて、本当にそうなんだと納得する自分と、補欠だろう何で納得するんだと言う自分との葛藤があり、そこで大泣きしてしまいました。
まわりは何で泣いてんだろうと思ったと思いますが、言葉をメモしました。
しかし、今はとても言えないと思って封印することにしました。
大学でも成績はあまり芳しくなかった。
リクルートに入って小出監督と出会う事になりました。
千葉県の船橋で初めて会う事になりいろいろ話をしていただきました。
しかし何の実績も無いのに来たのは初めてだと言われました。
実績が無いのに続けてきた根拠にとっても興味があると言われました。
それを僕は形にしたいといって、妙なところに関心を持ってくれました。
周りは強い選手ばっかりでついてはいけないが必死でやるだけでした。
タイムは遅くてもいいから与えられた量をこなすようにと言われました。
「せっかく」と言う言葉はポジティブに持っていける言葉なので、ああしよう、こうしようと言う事になって救われました。
この言葉は講演でも皆さんに伝えています。
1992年にバルセロナオリンピックに出場することになりましたが、銀メダルを獲得することができました。
ワレンティナ・エゴロワと、約6キロに及ぶ激しい死闘を繰り広げ8秒差で銀メダルとなる。
日本女子陸上競技界では、1928年のアムステルダムオリンピック・女子800mで同じく銀メダリストの人見絹枝さん以来、64年ぶりの五輪メダル獲得ということでした。
喜びながら不思議な感じでした。
1994年に両足かかとの手術をする。
走れなくなったらやめようと思っていました。
リハビリも一生懸命やりましたが、時間が空くのが怖かった。
早く一本は走らなければいけないと思いました。
1995年に出場した北海道マラソンで2時間29分17秒の当時の大会新記録でマラソン初優勝を達成し、アトランタ五輪女子マラソン代表に選出されることになりましたが、あの結果が違っていたら別の道を歩んでいたかも知れません。
ここまでの4年間は非常に孤独な時間でした。
今までに例の無いマラソンメダリスト当事者と立場の違いの噛み合わなさが露骨にあって、そういう時間でした。
前に進むにも自分が故障している人間ではなくて、以前のメダリストではなくて、又オリンピックのメダリストにならなければいけないから、オリンピックに出なきゃと言う判断になりました。
又オリンピックのメダリストにならなければいけない、それが一番しんどかったです。
1996年アトランタ五輪女子マラソンで4位のカトリン・ドーレにゴール直前で追い上げられたが、わずか6秒の差で逃げ切って3位入賞、銅メダルを獲得。
ゴール後のインタビューで「メダルの色は、銅かもしれませんけれども……、終わってから、なんでもっと頑張れなかったのかと思うレースはしたくなかったし、今回はそう思っていないし……、初めて自分で自分をほめたいと思います」と涙ながらに語った。
総まとめの思いでした。
静かな喜びでした。
「初めて自分で自分をほめたいと思います」というのは流れで勝手に出てきた言葉でした。
理解されそうで理解されない言葉かも知れません。
1998年NPO「ハート・オブ・ゴールド」の設立、代表となる。
西日本豪雨、その後大阪、北海道など全国で自然災害が起こりましたが、「地元の事は地元やろ」と言う思いで岡山を支援しようと思いました。
人の気持ちを元気にすることをやらなきゃと言う事で、諦めないように、少しでも元気を埋める様な事をしようと言う事で動き始めています。
事あるごとに尋ねて行ったり、関われるものは増やしていきたいと思っています。
明るく気さくに「何とかとかなるだろう」という言葉を掛けながらお互い元気にしていききたいと思います。
「諦めないです」と言うよりは「諦める理由は無い」と思っている自分がいるから、私にとっては諦めるというその言葉は意味の無い言葉だと思います。
諦めると言う自分の作っている限界だけでその言葉を生んでいるだけで、本当の意味での諦めるなんていう様な判断は多分死ぬまで出来ないんじゃないんですかね、持とうとはあまり思わない言葉であってほしいと思います。
「全てを力に」 全てが力に出来る生き物なので人間は、生きて行こうと思った時に全て何でも前向きに、力に変えていける生き物なんじゃないかと思います。
1966年岡山県岡山市生まれ、高校から陸上競技を始め実業団に入ってからは先日亡くなった小出監督の指導のもと、才能を開花させます。
1992年バルセロナオリンピックで銀、アトランタオリンピックで銅と2大会連続でメダリストとなりました。
その後も国際協力を行うNPOの代表を務めるなど幅広く活躍、去年故郷を襲った西日本豪雨では避難所を訪ねたりチャリティーマラソンを開いたりと復興を支え続けています。
実家のところの有森ミュージアムでチャリティーバザーが開かれましたが、もう10年以上になります。
高石ともやさんにもきていただきました。
地元の方々の多くの支援を頂いています。
小さい頃はおてんばでした。
スポーツが出来る子ではなかったです。
先天性股関節脱臼で生まれてきたので、競う様なことはしないでマイペースで遊んだりしていました。
中学の時にバスケットボール部に入りました。
運動会では800mで3年間優勝しました。
きついけれどやれば結果を出せるものだと言う事が判りました。
高校では陸上部に入り800、1500mなどをやってきました。
都道府県の女子駅伝がスタートした年だったので、県内の選考レースとして女子の大会がスタートしました。
12人の中に引っ掛かりましたが、補欠でした。
2,3年生の時には自分が正選手ではないのに現場にいる虚しさ悔しさを感じるようになりました。
前夜祭の時に高石さんががこられ、「みんなここまで来るのに一生懸命頑張ってきた自分を判っているのは皆さん自身なんだから、ここにこれたことを先ず自分が喜んで、自分をほめた方がいいと、目標に向かって頑張って」という様な詩を読んでくれて、本当にそうなんだと納得する自分と、補欠だろう何で納得するんだと言う自分との葛藤があり、そこで大泣きしてしまいました。
まわりは何で泣いてんだろうと思ったと思いますが、言葉をメモしました。
しかし、今はとても言えないと思って封印することにしました。
大学でも成績はあまり芳しくなかった。
リクルートに入って小出監督と出会う事になりました。
千葉県の船橋で初めて会う事になりいろいろ話をしていただきました。
しかし何の実績も無いのに来たのは初めてだと言われました。
実績が無いのに続けてきた根拠にとっても興味があると言われました。
それを僕は形にしたいといって、妙なところに関心を持ってくれました。
周りは強い選手ばっかりでついてはいけないが必死でやるだけでした。
タイムは遅くてもいいから与えられた量をこなすようにと言われました。
「せっかく」と言う言葉はポジティブに持っていける言葉なので、ああしよう、こうしようと言う事になって救われました。
この言葉は講演でも皆さんに伝えています。
1992年にバルセロナオリンピックに出場することになりましたが、銀メダルを獲得することができました。
ワレンティナ・エゴロワと、約6キロに及ぶ激しい死闘を繰り広げ8秒差で銀メダルとなる。
日本女子陸上競技界では、1928年のアムステルダムオリンピック・女子800mで同じく銀メダリストの人見絹枝さん以来、64年ぶりの五輪メダル獲得ということでした。
喜びながら不思議な感じでした。
1994年に両足かかとの手術をする。
走れなくなったらやめようと思っていました。
リハビリも一生懸命やりましたが、時間が空くのが怖かった。
早く一本は走らなければいけないと思いました。
1995年に出場した北海道マラソンで2時間29分17秒の当時の大会新記録でマラソン初優勝を達成し、アトランタ五輪女子マラソン代表に選出されることになりましたが、あの結果が違っていたら別の道を歩んでいたかも知れません。
ここまでの4年間は非常に孤独な時間でした。
今までに例の無いマラソンメダリスト当事者と立場の違いの噛み合わなさが露骨にあって、そういう時間でした。
前に進むにも自分が故障している人間ではなくて、以前のメダリストではなくて、又オリンピックのメダリストにならなければいけないから、オリンピックに出なきゃと言う判断になりました。
又オリンピックのメダリストにならなければいけない、それが一番しんどかったです。
1996年アトランタ五輪女子マラソンで4位のカトリン・ドーレにゴール直前で追い上げられたが、わずか6秒の差で逃げ切って3位入賞、銅メダルを獲得。
ゴール後のインタビューで「メダルの色は、銅かもしれませんけれども……、終わってから、なんでもっと頑張れなかったのかと思うレースはしたくなかったし、今回はそう思っていないし……、初めて自分で自分をほめたいと思います」と涙ながらに語った。
総まとめの思いでした。
静かな喜びでした。
「初めて自分で自分をほめたいと思います」というのは流れで勝手に出てきた言葉でした。
理解されそうで理解されない言葉かも知れません。
1998年NPO「ハート・オブ・ゴールド」の設立、代表となる。
西日本豪雨、その後大阪、北海道など全国で自然災害が起こりましたが、「地元の事は地元やろ」と言う思いで岡山を支援しようと思いました。
人の気持ちを元気にすることをやらなきゃと言う事で、諦めないように、少しでも元気を埋める様な事をしようと言う事で動き始めています。
事あるごとに尋ねて行ったり、関われるものは増やしていきたいと思っています。
明るく気さくに「何とかとかなるだろう」という言葉を掛けながらお互い元気にしていききたいと思います。
「諦めないです」と言うよりは「諦める理由は無い」と思っている自分がいるから、私にとっては諦めるというその言葉は意味の無い言葉だと思います。
諦めると言う自分の作っている限界だけでその言葉を生んでいるだけで、本当の意味での諦めるなんていう様な判断は多分死ぬまで出来ないんじゃないんですかね、持とうとはあまり思わない言葉であってほしいと思います。
「全てを力に」 全てが力に出来る生き物なので人間は、生きて行こうと思った時に全て何でも前向きに、力に変えていける生き物なんじゃないかと思います。
2019年6月28日金曜日
野矢茂樹(哲学者) ・【人生のみちしるべ】さあ、立ち止まって考えよう!
野矢茂樹(哲学者) ・【人生のみちしるべ】さあ、立ち止まって考えよう!
これまでラジオ深夜便の大人の教養講座「哲学と論理的に話そう」のコーナーで今年の3月まで2年間に渡って出演しました。
東京都出身64歳、東京大学在学中に昭和9年からの長い歴史のある座禅の会、東京大学禅研究所所属、大学卒業後は北海道大学文学部助教授を経て、東京大学、東京大学大学院教授と母校で30年近く教鞭を取られました。
2018年から立正大学文学部の教授です。
20世紀最大の哲学者と言われるウィトゲンシュタイン研究の第一人者で翻訳を務める一方、判りやすい文章で哲学的思考とは何かに迫る入門書などを執筆されています。
中学校の国語の教科書作りに携わり、NHKETVの公開講座の監修も担当、哲学者としては珍しく自分の生活をつづったエッセーも書いて、2016年出版の『心という難問−− 空間・身体・意味』で第29回和辻哲郎文化賞受賞されています。
哲学者野矢さんはどのように哲学に出会い、その道を歩まれてきたのか人生の道しるべについて伺いました。
放送が始まる前に、司会の人とキャスターの出演者が 「よろしくお願いします。」とやって放送が始まると又「よろしくお願いします。」とやりますが、どうも違和感がありました。
放送が始まったら電波の向こうの人達に向かって話しかけるのであって、うちわで挨拶するのがおかしいといつも思っているが、今日は本当に素直に「よろしくお願いします。」と言えました。
哲学者としての時間が確保できると本当に嬉しいです。
一番そういう時間が訪れるのは、自分の哲学を本気で本に書いている時、論文を書いている時ですね。
パソコンに向かっているが文章が止まってしまった時に、この問題を解決して次に進みたいと思ったらメモにして散歩に出かけます。
アイディア、言葉が降りてくるのを待ちます。
初心者は大きな問題を抱えて動けなくなる、例えば「生きるとは何だろう」とか、「時間とは何か」、哲学の問題ですが、小1時間で進めたと言えるような問いにして、散歩するとこうだと言うふうにして、思い付いたりすると手帳に書いたりしてパソコンに向かったりしています。
哲学は私にとっては趣味ですね。
判りそうで判らない問題に出会った時(開きそうな扉)には楽しいです。
大森荘蔵先生(哲学の先生で亡くなりました)、末木剛博先生(座禅の先生、人生の師となる様な先生)がいましたが、末木先生が私が20代のころに「最近ようやく自分がやっている事が取るに足らない事が覚悟できましたよ」と言ったので凄く印象的でした。
その事を大森先生に話ましたが、「だらしないあな、末木君もそれなら止めりゃいい」とおっしゃったんです。
大森先生は「自分がやっていることが大事なことなんだ」と、そういう姿勢で臨んでいたと思うし、末木先生は「私は好きでやっているので世のなかの役に立ったなくてもいいんだ、取るに足らないものでいいんだ」という気持ちを持っていたんだと思います。
自分でものが考えられるように、普段の言葉でやっていって、難しい言葉で自分を誤魔化さないと言うのが基本です。
哲学のスタイルでは大森先生を受け継いだつもりでいます。
哲学の問題に裸一貫で自分の頭で向かい合って行って、頂上が何処にあるか判らない岩場をよじ登って行く、そういう姿勢を先生は見せてくれました。
同時に末木先生の「最近ようやく自分がやっている事が取るに足らない事が覚悟できましたよ」と言った後にもう一言言ってくれた事があって、理系の方がいいと思って進んだんですがどうも違うなあと思っていた時に、留年して入りなおして大森先生に出会いました。
理系で自分では何もできないと無力感を持っていた時に、末木先生にそういったことをポロッといったら、「それじゃあだめだ」と言われれました、「生きているだけ儲けもんと思わなくちゃあ」と言われました。
ずしんと来る一言でした、これからはおまけだなあと思いました。
哲学に関しては大森先生、生き方に関しては末木先生、師と仰ぐある側面を貰っているとは思います。
哲学をやろうと思って大学に行った訳ではなくて、自分で物を考えて行くのは小さいころからでした。
身体も弱くて、3つ年上の姉がいて女の子と遊ぶようなひっこみじあんな気の弱い子でした。
犬の世話をする係で朝夕の散歩の係でした。
散歩中、寝る前にあれこれ考えるのが好きでした。
教室でもぼーっともの思いにふける様な感じで、先生の話もあまり聞かないで成績もあまり良くは無かった。
高校に入る時に受験勉強はしましたが、高校に入るとビリに近い様な感じでした。
1年位受験勉強して大学に入学したらその後ぱたっと勉強しなくなり、哲学に入って大森先生に出会って猛然と哲学をやりました。
哲学は受け身ではなくて自分から問題に向かって行かなくてはいけない訳です。
扉を見付けて開いで行く楽しさ、いまでも楽しいです。
哲学ってすごく入口が入りやすい、子どもでも踏み込めるが奥ががどこまであるかわからない。
哲学の土地があるような感じで、時間の話を考えていたら自我の話に結びついて、言葉、心の話に結びついていくように、問題が網目をなして繋がって行く。
そうすると哲学の土地が見えてくる、或る程度見渡せるようになってきて、落とし穴があるぞとか、見晴らしがいい所があると見えるようになってきて、人を連れて哲学の土地を案内することができるようになって、先生をやることもできるわけです。
「最近ようやく自分がやっている事が取るに足らない事が覚悟できましたよ」と言った末木先生の言葉がずーっと私の中でこだまのように響いているんです。
今の私の目で見ると若かったころの自分を見ると痛いなと言う感じがして、何が痛いかと言うと自分が面白いやつ(魅力的)だと思って貰いたいわけです。
そのためにある程度自己演出するわけです。
そういうふるまいをすると居心地が悪い。
そういったことから抜け出したかった、つまらない奴でもいいんじゃないかと思うようになりました。
末木先生からの言葉から「もういいや、あとはおまけだ」と思うようになっていきました。
自分には足りないところもあるし、哲学もやらないことは沢山あるし、人間としてももっと直していかなければいけないところもあるし、改善の余地があることは確保したうえで言うんですが、座禅していると「これでいいんだ」と言う事が段々しみ込んでくるんですね。
禅の言葉で「本来無一物」と言う言葉がありますが、本来何一つ持っていない素っ裸じゃかじゃないか、これは座右の銘にしてもいい言葉だと思います。
哲学をやっていてこれでいいんだと思って、それ以上考えようとしなければそれで終わりで、人間としても自分がこうありたいと言う人間像からは遠いいけれど、「まだ俺は駄目だぞ」と言う気持ちがあって、更にその下の処にある「これでいいんだ」と言う肯定観ですね。
授業などは学生に伝えたいという気持ちだけでやっていますが、本を書くときにも同様な気持ちを持って、読者にちゃんと伝えたいと言う気持ちは持ちますが、それ以上に物を書くのが好きなんです、本を作るのも好きですし、本も好きです。
だから電子書籍は全然見ません。
私が本を書く時には基本的に何かに挑戦していると考えてもらえれば嬉しいです。
挑戦するという事は楽しい、新しい事をやろうとういう事は楽しい。
本を作るのは楽しい、何を排除しているかと言うと、お金稼ぐために本を作るという意識はあまりないです。
世の中の為になろうとして本を書くと言う事もあまりないです。
読者に伝えようと思って本を買うと言う事もあまりないです。
読者に伝えられるように書くと言う事は、自分にとって面白い挑戦だと言う時に、その挑戦によし乗ったと言うふうになります。
人の為に生きると言う姿勢を私は持っていません。
長生きする哲学者になりたい。
忙しくて哲学の時間はあまりとれないが、その時間を確保して、自由、時間の問題 難問ですがそれに向かって行きたい。
その後は判りません、頂上に見えない岩を登ってゆくだけです。
これまでラジオ深夜便の大人の教養講座「哲学と論理的に話そう」のコーナーで今年の3月まで2年間に渡って出演しました。
東京都出身64歳、東京大学在学中に昭和9年からの長い歴史のある座禅の会、東京大学禅研究所所属、大学卒業後は北海道大学文学部助教授を経て、東京大学、東京大学大学院教授と母校で30年近く教鞭を取られました。
2018年から立正大学文学部の教授です。
20世紀最大の哲学者と言われるウィトゲンシュタイン研究の第一人者で翻訳を務める一方、判りやすい文章で哲学的思考とは何かに迫る入門書などを執筆されています。
中学校の国語の教科書作りに携わり、NHKETVの公開講座の監修も担当、哲学者としては珍しく自分の生活をつづったエッセーも書いて、2016年出版の『心という難問−− 空間・身体・意味』で第29回和辻哲郎文化賞受賞されています。
哲学者野矢さんはどのように哲学に出会い、その道を歩まれてきたのか人生の道しるべについて伺いました。
放送が始まる前に、司会の人とキャスターの出演者が 「よろしくお願いします。」とやって放送が始まると又「よろしくお願いします。」とやりますが、どうも違和感がありました。
放送が始まったら電波の向こうの人達に向かって話しかけるのであって、うちわで挨拶するのがおかしいといつも思っているが、今日は本当に素直に「よろしくお願いします。」と言えました。
哲学者としての時間が確保できると本当に嬉しいです。
一番そういう時間が訪れるのは、自分の哲学を本気で本に書いている時、論文を書いている時ですね。
パソコンに向かっているが文章が止まってしまった時に、この問題を解決して次に進みたいと思ったらメモにして散歩に出かけます。
アイディア、言葉が降りてくるのを待ちます。
初心者は大きな問題を抱えて動けなくなる、例えば「生きるとは何だろう」とか、「時間とは何か」、哲学の問題ですが、小1時間で進めたと言えるような問いにして、散歩するとこうだと言うふうにして、思い付いたりすると手帳に書いたりしてパソコンに向かったりしています。
哲学は私にとっては趣味ですね。
判りそうで判らない問題に出会った時(開きそうな扉)には楽しいです。
大森荘蔵先生(哲学の先生で亡くなりました)、末木剛博先生(座禅の先生、人生の師となる様な先生)がいましたが、末木先生が私が20代のころに「最近ようやく自分がやっている事が取るに足らない事が覚悟できましたよ」と言ったので凄く印象的でした。
その事を大森先生に話ましたが、「だらしないあな、末木君もそれなら止めりゃいい」とおっしゃったんです。
大森先生は「自分がやっていることが大事なことなんだ」と、そういう姿勢で臨んでいたと思うし、末木先生は「私は好きでやっているので世のなかの役に立ったなくてもいいんだ、取るに足らないものでいいんだ」という気持ちを持っていたんだと思います。
自分でものが考えられるように、普段の言葉でやっていって、難しい言葉で自分を誤魔化さないと言うのが基本です。
哲学のスタイルでは大森先生を受け継いだつもりでいます。
哲学の問題に裸一貫で自分の頭で向かい合って行って、頂上が何処にあるか判らない岩場をよじ登って行く、そういう姿勢を先生は見せてくれました。
同時に末木先生の「最近ようやく自分がやっている事が取るに足らない事が覚悟できましたよ」と言った後にもう一言言ってくれた事があって、理系の方がいいと思って進んだんですがどうも違うなあと思っていた時に、留年して入りなおして大森先生に出会いました。
理系で自分では何もできないと無力感を持っていた時に、末木先生にそういったことをポロッといったら、「それじゃあだめだ」と言われれました、「生きているだけ儲けもんと思わなくちゃあ」と言われました。
ずしんと来る一言でした、これからはおまけだなあと思いました。
哲学に関しては大森先生、生き方に関しては末木先生、師と仰ぐある側面を貰っているとは思います。
哲学をやろうと思って大学に行った訳ではなくて、自分で物を考えて行くのは小さいころからでした。
身体も弱くて、3つ年上の姉がいて女の子と遊ぶようなひっこみじあんな気の弱い子でした。
犬の世話をする係で朝夕の散歩の係でした。
散歩中、寝る前にあれこれ考えるのが好きでした。
教室でもぼーっともの思いにふける様な感じで、先生の話もあまり聞かないで成績もあまり良くは無かった。
高校に入る時に受験勉強はしましたが、高校に入るとビリに近い様な感じでした。
1年位受験勉強して大学に入学したらその後ぱたっと勉強しなくなり、哲学に入って大森先生に出会って猛然と哲学をやりました。
哲学は受け身ではなくて自分から問題に向かって行かなくてはいけない訳です。
扉を見付けて開いで行く楽しさ、いまでも楽しいです。
哲学ってすごく入口が入りやすい、子どもでも踏み込めるが奥ががどこまであるかわからない。
哲学の土地があるような感じで、時間の話を考えていたら自我の話に結びついて、言葉、心の話に結びついていくように、問題が網目をなして繋がって行く。
そうすると哲学の土地が見えてくる、或る程度見渡せるようになってきて、落とし穴があるぞとか、見晴らしがいい所があると見えるようになってきて、人を連れて哲学の土地を案内することができるようになって、先生をやることもできるわけです。
「最近ようやく自分がやっている事が取るに足らない事が覚悟できましたよ」と言った末木先生の言葉がずーっと私の中でこだまのように響いているんです。
今の私の目で見ると若かったころの自分を見ると痛いなと言う感じがして、何が痛いかと言うと自分が面白いやつ(魅力的)だと思って貰いたいわけです。
そのためにある程度自己演出するわけです。
そういうふるまいをすると居心地が悪い。
そういったことから抜け出したかった、つまらない奴でもいいんじゃないかと思うようになりました。
末木先生からの言葉から「もういいや、あとはおまけだ」と思うようになっていきました。
自分には足りないところもあるし、哲学もやらないことは沢山あるし、人間としてももっと直していかなければいけないところもあるし、改善の余地があることは確保したうえで言うんですが、座禅していると「これでいいんだ」と言う事が段々しみ込んでくるんですね。
禅の言葉で「本来無一物」と言う言葉がありますが、本来何一つ持っていない素っ裸じゃかじゃないか、これは座右の銘にしてもいい言葉だと思います。
哲学をやっていてこれでいいんだと思って、それ以上考えようとしなければそれで終わりで、人間としても自分がこうありたいと言う人間像からは遠いいけれど、「まだ俺は駄目だぞ」と言う気持ちがあって、更にその下の処にある「これでいいんだ」と言う肯定観ですね。
授業などは学生に伝えたいという気持ちだけでやっていますが、本を書くときにも同様な気持ちを持って、読者にちゃんと伝えたいと言う気持ちは持ちますが、それ以上に物を書くのが好きなんです、本を作るのも好きですし、本も好きです。
だから電子書籍は全然見ません。
私が本を書く時には基本的に何かに挑戦していると考えてもらえれば嬉しいです。
挑戦するという事は楽しい、新しい事をやろうとういう事は楽しい。
本を作るのは楽しい、何を排除しているかと言うと、お金稼ぐために本を作るという意識はあまりないです。
世の中の為になろうとして本を書くと言う事もあまりないです。
読者に伝えようと思って本を買うと言う事もあまりないです。
読者に伝えられるように書くと言う事は、自分にとって面白い挑戦だと言う時に、その挑戦によし乗ったと言うふうになります。
人の為に生きると言う姿勢を私は持っていません。
長生きする哲学者になりたい。
忙しくて哲学の時間はあまりとれないが、その時間を確保して、自由、時間の問題 難問ですがそれに向かって行きたい。
その後は判りません、頂上に見えない岩を登ってゆくだけです。
2019年6月27日木曜日
眞田岳彦(衣服造形家・女子美術大学特任教授)・【私のアート交遊録】真似ることは学ぶこと
眞田岳彦(衣服造形家・女子美術大学特任教授)・【私のアート交遊録】真似ることは学ぶこと
イッセー三宅やイギリス、グリーンランドなどで美術や造形技術を学び、地域の暮らしとアートのかかわりについて研究を重ねて来ました。
帰国後も日本の衣服や繊維の研究を基に越後妻有アートトリエンナーレや自然災害を受けた地域での社会支援活動などに関わってきました。
眞田さんは衣服を人の生命、身体の象徴として造形しています。
衣服や道具などはアートとは違う実用物です。
同じ風土の中で同じようなものを作り続けなればならないところから、表現の上で重要な模倣という考え方が生れて来ます。
この模倣とは何か、オリジナリティーとは何か、令和時代に入っても大事なのは身体性でこれこそが暮らしやアートでも一番大事な個性だと言う眞田さんに、生きる上での個性とは、模倣、まねるとは何かについて伺いました。
(*全体的によく理解できなくて、上手くまとめられなかったので、理解しにくいと思います。)
僕の場合は素材はウールとか綿とか麻とか、合成繊維みたいなものも使いますが、繊維自体から加工して自分で形を作って行くと言う事をします。
ジャケット開いた様な一枚の布状にした服の展示が多いです。
20代に服のデザインの会社にいました。
29歳の時に糸を紡ぐことからやろうと思ってイギリスに渡りました。
グリーンランドにもわたりました。
生きると言う事は何なんだろうと探しました。
数か月歩いている間に、今歩いている僕自身が生きると言う事ではないかなあと思いました。
今ここにあることで今やらないといけないのではないか、それが生きることだと気がつきました。
ロンドンに帰ってきました。
グリーンランドは1970年代に言語が変わった。
グリーンランドがデンマーク領になる。
葛藤であったりする痕跡をどうにか表現できないものかと思って始めました。
人の生きざまを作ると言うような気持で服を作っています。
日本に帰ってきて越後妻有アートトリエンナーレに繋がっていきます。
最初に岩手の小岩井牧場にコンタクトを取りました。
2000年から始めました。
同じころに北川フラムさんが新潟で大規模に十日町で始めました。
十日町は「ちぢみ」という織物の文化があり、その文化をどうにか掘り起こしたいと思いまして参加することにしました。
編布(あんぎん)委員会という、 布を作る技術を伝承する会がありました。(縄文期の技術)
麻を素材にする。
編み方を直線でしかできないもの(ござみたいに)を曲線にできないかと考えました。
6000年変わっていなかったものが、色々工夫してようやく楕円形が生まれました。
2004年に中越地震があり、知っている人がニュースに出て居たりして自分に出来ることはないかなと考えました。
質感、色、模様などで、怖くない、傷ついている心を緩和するためにはどういう視点が必要なのか意見交換して、工夫した布(米、ぬかなど折り込んだ)を作りました。
熊本地震、とかでも行いました。
コットン協会の方たちと綿の種を植えて、綿で何かできるのではないかと言う様な活動をもしました。
美術は生活に密着したなかに明日の希望を見いだす事が出来る、それがアートなのではないかと思いました。
自由とは何かと言うとのは自分の所以を知ることだと思っていて、それが心の自由に繋がるのかなあと思っています。
何て自分は知らない事ばっかりだろうと身につまされます。
真似ると言う言葉は面白いと思います。
中庸みたいな考え、それがまずあって、素 あるがまま、その先に模倣があると思う、それは意識の真似だと思います。
それを重ねてくると取捨選択しながら個性に繋がって行く。
個性を越えて行くと素に戻るのではないかと思います、そして中庸に還元されてゆくと思います。
循環の中で僕たちはいるのではないかなと思います。
真似から模倣に移り、学ぶ、習うと言う事に移る。
世阿弥が出している「風姿花伝」のもう一つに「体用」と言う言葉があるが、体とは花である、用とは働きであるというが、用は香りであると、意識して香りを出しているうちは駄目だということだと言っています。
そういう事に繋がってくると思います。
葛藤の共感、実体験が共感をはぐくむものと思います。
育まれた事があるから例え夕日を見ても3,4倍と感動すると思う。
哲学者鶴見俊輔さんに限界芸術論があって、3つに分けられると書いている。
①純粋芸術の様なもの、②専門家が大衆に対象とした芸術(デザイン、工業製品など)、③非専門家が非専門家を対象とした芸術、それが限界芸術と言ってもいいと思う、それは祭りであったりおばあちゃんが孫に話す昔話、誰にも見向きされない労働着、そういったものは限界芸術として重要なのではないか、自分のいる日常的なものから芸術は生れなければいけないと書いてあるが、生活のなかにあるものから生れてくるのではないかと思います。
テーマとして「生きるとは何か」自分を探しているようなものですが、日本各地を歩くとまだまだ知らない繊維文化があり、一緒になってあぶり出しながら多くの人たちに共感の場を作っていきたいと思います。
イッセー三宅やイギリス、グリーンランドなどで美術や造形技術を学び、地域の暮らしとアートのかかわりについて研究を重ねて来ました。
帰国後も日本の衣服や繊維の研究を基に越後妻有アートトリエンナーレや自然災害を受けた地域での社会支援活動などに関わってきました。
眞田さんは衣服を人の生命、身体の象徴として造形しています。
衣服や道具などはアートとは違う実用物です。
同じ風土の中で同じようなものを作り続けなればならないところから、表現の上で重要な模倣という考え方が生れて来ます。
この模倣とは何か、オリジナリティーとは何か、令和時代に入っても大事なのは身体性でこれこそが暮らしやアートでも一番大事な個性だと言う眞田さんに、生きる上での個性とは、模倣、まねるとは何かについて伺いました。
(*全体的によく理解できなくて、上手くまとめられなかったので、理解しにくいと思います。)
僕の場合は素材はウールとか綿とか麻とか、合成繊維みたいなものも使いますが、繊維自体から加工して自分で形を作って行くと言う事をします。
ジャケット開いた様な一枚の布状にした服の展示が多いです。
20代に服のデザインの会社にいました。
29歳の時に糸を紡ぐことからやろうと思ってイギリスに渡りました。
グリーンランドにもわたりました。
生きると言う事は何なんだろうと探しました。
数か月歩いている間に、今歩いている僕自身が生きると言う事ではないかなあと思いました。
今ここにあることで今やらないといけないのではないか、それが生きることだと気がつきました。
ロンドンに帰ってきました。
グリーンランドは1970年代に言語が変わった。
グリーンランドがデンマーク領になる。
葛藤であったりする痕跡をどうにか表現できないものかと思って始めました。
人の生きざまを作ると言うような気持で服を作っています。
日本に帰ってきて越後妻有アートトリエンナーレに繋がっていきます。
最初に岩手の小岩井牧場にコンタクトを取りました。
2000年から始めました。
同じころに北川フラムさんが新潟で大規模に十日町で始めました。
十日町は「ちぢみ」という織物の文化があり、その文化をどうにか掘り起こしたいと思いまして参加することにしました。
編布(あんぎん)委員会という、 布を作る技術を伝承する会がありました。(縄文期の技術)
麻を素材にする。
編み方を直線でしかできないもの(ござみたいに)を曲線にできないかと考えました。
6000年変わっていなかったものが、色々工夫してようやく楕円形が生まれました。
2004年に中越地震があり、知っている人がニュースに出て居たりして自分に出来ることはないかなと考えました。
質感、色、模様などで、怖くない、傷ついている心を緩和するためにはどういう視点が必要なのか意見交換して、工夫した布(米、ぬかなど折り込んだ)を作りました。
熊本地震、とかでも行いました。
コットン協会の方たちと綿の種を植えて、綿で何かできるのではないかと言う様な活動をもしました。
美術は生活に密着したなかに明日の希望を見いだす事が出来る、それがアートなのではないかと思いました。
自由とは何かと言うとのは自分の所以を知ることだと思っていて、それが心の自由に繋がるのかなあと思っています。
何て自分は知らない事ばっかりだろうと身につまされます。
真似ると言う言葉は面白いと思います。
中庸みたいな考え、それがまずあって、素 あるがまま、その先に模倣があると思う、それは意識の真似だと思います。
それを重ねてくると取捨選択しながら個性に繋がって行く。
個性を越えて行くと素に戻るのではないかと思います、そして中庸に還元されてゆくと思います。
循環の中で僕たちはいるのではないかなと思います。
真似から模倣に移り、学ぶ、習うと言う事に移る。
世阿弥が出している「風姿花伝」のもう一つに「体用」と言う言葉があるが、体とは花である、用とは働きであるというが、用は香りであると、意識して香りを出しているうちは駄目だということだと言っています。
そういう事に繋がってくると思います。
葛藤の共感、実体験が共感をはぐくむものと思います。
育まれた事があるから例え夕日を見ても3,4倍と感動すると思う。
哲学者鶴見俊輔さんに限界芸術論があって、3つに分けられると書いている。
①純粋芸術の様なもの、②専門家が大衆に対象とした芸術(デザイン、工業製品など)、③非専門家が非専門家を対象とした芸術、それが限界芸術と言ってもいいと思う、それは祭りであったりおばあちゃんが孫に話す昔話、誰にも見向きされない労働着、そういったものは限界芸術として重要なのではないか、自分のいる日常的なものから芸術は生れなければいけないと書いてあるが、生活のなかにあるものから生れてくるのではないかと思います。
テーマとして「生きるとは何か」自分を探しているようなものですが、日本各地を歩くとまだまだ知らない繊維文化があり、一緒になってあぶり出しながら多くの人たちに共感の場を作っていきたいと思います。
2019年6月26日水曜日
小笠原左衛門尉亮軒(園芸文化協会会長) ・【心に花を咲かせて】蓮の花を楽しむ
小笠原左衛門尉亮軒(園芸文化協会会長) ・【心に花を咲かせて】蓮の花を楽しむ
日本各地の池で夏になると蓮が花が咲いて涼やかな姿が多くの人を魅了しています。
蓮の花は2000年も前から日本に自生していました。
よく見かけるのはピンク、白い花ですが、実はもっと多くの種類があるんだそうです。
小笠原左衛門尉亮軒さんは現在80歳、江戸の園芸に詳しく古い書物や錦絵の収集家でもあり、公益社団法人園芸文化協会会長です。
通称御隠居、会社を御子息に譲られてから戸籍名も小笠原左衛門尉亮軒と改めて、以前以上に古典、園芸植物を育て園芸文化を広めています。
様々な花に詳しい方ですが中でも蓮の花は50年に渡り育て愛でているそうです。
蓮の花にまつわる話を伺いました。
蓮の花の中には6月下旬から開花し始めたり、9月のお彼岸まで咲いている種類もあります。
葉の一部分がくさび状に切れて居て葉が浮いている(浮き葉)ほうが睡蓮で、蓮は円形で最初1、2枚は水面に浮いているが、少し温度が上がってくると水面から上に浮き出で来て、葉が大きく大きく開く、立葉と言っています。
色は濃いピンクが原種で、日本、中国、タイ、インドあたりに在ります。
白花、ピンク等が出てきました。
おしべの部分が花弁に代わってヤエと言う形になります。
14,5枚の花びらがありその中にめしべが沢山あり、蜂巣と言われる様な(花托)穴があいている形になっています。
花托の部分まで花びらになってしまった種類もあります。
しゃくやく蓮、千弁蓮とか色んな名前があります。
アメリカにも黄色い蓮の原種があります。
それを日本送られてきて、王子蓮と名前を付けました。
他にももっと黄色の濃いものがあり明美蓮と呼んでいます。
日本では私の友人富永さんが600種類を育てています。
蓮は水を沢山吸います。(カメの栽培だと大変です)
私も30種類ほど栽培しています。
白い花は最初は外が薄緑色をしています。
千葉県の検見川で2000年前の泥炭層から種を東大の大賀先生が見つけ発芽させました。(「大賀蓮」)
従来の和蓮よりも早く花が咲き、全国に広がりました。
江戸の初期のころには中国から多くの品種が入って来て増えたらしいです。
松平定信が寛政の改革を行ったあと、隠退して築地あたりに蓮をコレクションしました。
それを全部スケッチして残したそうです。
蓮は朝夜が明けるころにコップ状に咲いて8時を過ぎると萎んでしまい、2日目にはお椀状に咲き昼ごろに萎みます 。
3日目は一番外側が水平以上に開き、午後2,3時頃には元に戻っていきます。
4日目は夜明けから外側から花びらが落ち始めて、お昼ごろまでには全部の花びらが落ちてしまいます。
レンゲ(蓮華)のスプーンは蓮の花からきた言葉です。
松平定信が種を全国から集めて栽培したようです。
1品種1容器で栽培します。
「清香画譜」として松平定信はスケッチしたものを残した。
「荷」は花を指し、「蓮」は全体を言います。
「藤壷蓮」は鷹司家(五摂家のひとつで公家)にあったと言うものです。
蓮仲間が色々いたようです。
「感得蓮」 水戸家のものだったと言うことです。
「妙蓮」花びらが1500~2000枚と言う花びらがあります。
「妙蓮」は私は15年間カメでつくったが一回も花が咲きませんでした。
「千弁連」を富永さんから分けてもらいましたが、これは咲いてくれました。
これは除々に花びらが落ちて行き1カ月位は咲いています。
香りは作ってみないと判らない、特に早朝香りは清い香りがして楽しめます。
泥のなかからでてきて咲きますが、泥のかけら一つ付かなく純白の花が咲きます。
上野の不忍池の蓮は琵琶湖から来ているようです。
京都を模したと言われる。
東叡山寛永寺(比叡山の東のお寺) 比叡山延暦寺には琵琶湖の蓮があるのでそこから来たと言われる。
上野の不忍池は琵琶湖を模している。
琵琶湖には竹生島があり弁天様が祭られているので、不忍池にも弁天堂があります。
そこには長らく橋は無かったそうです、竹生島があり弁天様には舟でお参りをしていたので同じ様にしていた。(今は石橋が掛けられている、都内で一番古い橋)
清水堂もあり、大仏もあった。(今は首だけになっているが)
現在は赤い花だけがあるが、元は白い蓮、まだら蓮もあったのではないかと思われる。
「観蓮会」がありそこで花の説明、品種、歴史などを話しています。
その打ち上げの時には「象鼻杯」といって蓮の葉っぱを盃に見立てて、茎を口にくわえて、葉っぱに酒を注いで、茎には蓮根と同じ数の穴があいているので、吸うと喉に入ってきます。
葉っぱのいい香りがほのかに香って味も一段と増します。
日本各地の池で夏になると蓮が花が咲いて涼やかな姿が多くの人を魅了しています。
蓮の花は2000年も前から日本に自生していました。
よく見かけるのはピンク、白い花ですが、実はもっと多くの種類があるんだそうです。
小笠原左衛門尉亮軒さんは現在80歳、江戸の園芸に詳しく古い書物や錦絵の収集家でもあり、公益社団法人園芸文化協会会長です。
通称御隠居、会社を御子息に譲られてから戸籍名も小笠原左衛門尉亮軒と改めて、以前以上に古典、園芸植物を育て園芸文化を広めています。
様々な花に詳しい方ですが中でも蓮の花は50年に渡り育て愛でているそうです。
蓮の花にまつわる話を伺いました。
蓮の花の中には6月下旬から開花し始めたり、9月のお彼岸まで咲いている種類もあります。
葉の一部分がくさび状に切れて居て葉が浮いている(浮き葉)ほうが睡蓮で、蓮は円形で最初1、2枚は水面に浮いているが、少し温度が上がってくると水面から上に浮き出で来て、葉が大きく大きく開く、立葉と言っています。
色は濃いピンクが原種で、日本、中国、タイ、インドあたりに在ります。
白花、ピンク等が出てきました。
おしべの部分が花弁に代わってヤエと言う形になります。
14,5枚の花びらがありその中にめしべが沢山あり、蜂巣と言われる様な(花托)穴があいている形になっています。
花托の部分まで花びらになってしまった種類もあります。
しゃくやく蓮、千弁蓮とか色んな名前があります。
アメリカにも黄色い蓮の原種があります。
それを日本送られてきて、王子蓮と名前を付けました。
他にももっと黄色の濃いものがあり明美蓮と呼んでいます。
日本では私の友人富永さんが600種類を育てています。
蓮は水を沢山吸います。(カメの栽培だと大変です)
私も30種類ほど栽培しています。
白い花は最初は外が薄緑色をしています。
千葉県の検見川で2000年前の泥炭層から種を東大の大賀先生が見つけ発芽させました。(「大賀蓮」)
従来の和蓮よりも早く花が咲き、全国に広がりました。
江戸の初期のころには中国から多くの品種が入って来て増えたらしいです。
松平定信が寛政の改革を行ったあと、隠退して築地あたりに蓮をコレクションしました。
それを全部スケッチして残したそうです。
蓮は朝夜が明けるころにコップ状に咲いて8時を過ぎると萎んでしまい、2日目にはお椀状に咲き昼ごろに萎みます 。
3日目は一番外側が水平以上に開き、午後2,3時頃には元に戻っていきます。
4日目は夜明けから外側から花びらが落ち始めて、お昼ごろまでには全部の花びらが落ちてしまいます。
レンゲ(蓮華)のスプーンは蓮の花からきた言葉です。
松平定信が種を全国から集めて栽培したようです。
1品種1容器で栽培します。
「清香画譜」として松平定信はスケッチしたものを残した。
「荷」は花を指し、「蓮」は全体を言います。
「藤壷蓮」は鷹司家(五摂家のひとつで公家)にあったと言うものです。
蓮仲間が色々いたようです。
「感得蓮」 水戸家のものだったと言うことです。
「妙蓮」花びらが1500~2000枚と言う花びらがあります。
「妙蓮」は私は15年間カメでつくったが一回も花が咲きませんでした。
「千弁連」を富永さんから分けてもらいましたが、これは咲いてくれました。
これは除々に花びらが落ちて行き1カ月位は咲いています。
香りは作ってみないと判らない、特に早朝香りは清い香りがして楽しめます。
泥のなかからでてきて咲きますが、泥のかけら一つ付かなく純白の花が咲きます。
上野の不忍池の蓮は琵琶湖から来ているようです。
京都を模したと言われる。
東叡山寛永寺(比叡山の東のお寺) 比叡山延暦寺には琵琶湖の蓮があるのでそこから来たと言われる。
上野の不忍池は琵琶湖を模している。
琵琶湖には竹生島があり弁天様が祭られているので、不忍池にも弁天堂があります。
そこには長らく橋は無かったそうです、竹生島があり弁天様には舟でお参りをしていたので同じ様にしていた。(今は石橋が掛けられている、都内で一番古い橋)
清水堂もあり、大仏もあった。(今は首だけになっているが)
現在は赤い花だけがあるが、元は白い蓮、まだら蓮もあったのではないかと思われる。
「観蓮会」がありそこで花の説明、品種、歴史などを話しています。
その打ち上げの時には「象鼻杯」といって蓮の葉っぱを盃に見立てて、茎を口にくわえて、葉っぱに酒を注いで、茎には蓮根と同じ数の穴があいているので、吸うと喉に入ってきます。
葉っぱのいい香りがほのかに香って味も一段と増します。
2019年6月25日火曜日
髙樹のぶ子(作家) ・作家として40年 新境地への挑戦
髙樹のぶ子(作家) ・作家として40年 新境地への挑戦
1946年山口県防府市生れ、73歳。
1980年に作家デビュー、1984年「光抱く友よ」で芥川賞を受賞、その後女流文学賞、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、川端康成文学賞など数多くの文学賞を受賞しています。
現在は芥川賞の選考委員などを務めています。
2018年には文化功労者に選ばれています。
高樹のぶ子さんの最新作は季語を元にした短編集「ほとほと 歳時記ものがたり」。
高樹さんに季語の魅力やそれを生かした作品への思いなどを伺いました。
1980年『その細き道』を文学界に発表。
本も70冊を書いてきました。
今度こそと思って出してきましたが、ベストだとは思え無くて、まだ先大変だなあと言う事が繋がっています。
1984年「光抱く友よ」で芥川賞を受賞でようやくという安堵感がありました。
その後女流文学賞、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、川端康成文学賞など受賞。
賞を客観的に評価することも難しいし、選考委員との相性もあるし、賞と言うものに対する期待値が小さくなってきている。
現在は芥川賞の選考委員の最年長になっています。
大人をうならせて賞を取るにはどうしたらいいかを、中学生のころから心していて、「奥の細道」の感想文をかいて、こんなふうに書いたら大人は感心してくれるだろうと思っていて、大きい賞を貰ったりして、それが大きな間違いで、文学に取りかかったがそれではどうにもならないと言う事が何十年とかかりました。
今読みかえしてみると放浪する人間の悲しさ、自然を見る目とかを見る目を捕まえて居て書いていました。
中学の時にヘミングウエイの「キリマンジャロの雪」、サマセット・モームの「雨」とかに感動しました。
大自然と人間が闘って敗れる姿に感動したのはよく覚えています。
本当はそっちを書くべきだったと思うが、大人をうならせることはできないと思ったんですね。
圧倒されると言葉が出てこなくて、涙も出てこなかった。
人間関係を書くしかなくて、生の人間がぶつかり合って、それが一番面白いところです。
男と女のむき出しの人間関係が扱われていて、私の恋愛小説は少ないとは思いますが。
『マイマイ新子』 9歳の少女、日本版「赤毛のアン」の様な感じ。
自分の少女時代そのままです。
『マルセル』はサスペンスになっています。
最新作は季語を元にした短編集「ほとほと 歳時記ものがたり」。
全国紙に月一回2年間読み切りで掲載された。
俳句、短歌は季節と関連している。
ほとほとは春の頃(節分のころとも言われているが)神が訪れてくる。
神様がその木戸を叩く音が「ほとほと」で、ちょっと湿っている音(雪のせいか)、季節の香り、湿り気、感覚など全部季語は持っているので、日本語の豊かさの一番目に見えるのが季語ではないかと思います。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という俳句があるが、
今であると同時に、戦前、江戸、平安時代でもあり、柿と法隆寺の「ごーん」はずーっと有るわけです。
時代の厚みの中のどこからでも聞こえてくる。
時間の厚みと柿の季節の日めくりの両方がそのワンシーンに内包されている。
亡くなった人を含めての心の情報、情緒など全部煮詰まったものが季語だと思います。
生活の部分の季語はほとんど失われている。
祭りなどもほとんど違うものになってしまっている。
小さな物語ですが、作ることは楽しいです。
短編小説などは大きい円弧の一部分を切り取って、全体を想像してもらうことは可能なので、円弧のどこを切り取るかは作者の自由でそれを膨らましてゆく、それを読んだ人はそれをもとに自分の体験の中で膨らましてゆきます。
これ好きだったと言うのは人によって色々違うと思います。
24編の中の20編は死者が登場します。
能の世界は死者が出てきて色んな思いを語るが、夢幻の世界、これだなと思いました。
季語は日本の宝だと思います、大事にしたいなあと思います。
生死を越えた繋がり方が暗示されると言うか、それを思い起こす事も出来るのが季節を持った日本の文化だと思います
或る一瞬のパワーで永遠を印象付けると言うか、ある一瞬を提示してその前と後はそれぞれ自分の体験に即して想像してくださると言う事が出来る、そういう余裕有る方法かなと思いまます。
長編小説はあるテーマがあって、言葉で簡単に伝わらないことであっても、伝えるために書くと言う事があるが、短編の場合はある場面を印象付ける、それだけを頭のどこかに摺りこむことができたら、その瞬間が記憶されることで何度も再生ができると言う事があると思います。
在原業平を主人公にした小説一代記を書いていて一番苦労しているのは、小説にする文体をなかなか決まらないところです。
雅な時代で日本の良さを表した時代だと思っていて、かっこいい男在原業平は光源氏のモデルになったと言われている人です。
在平業平の人生を見て見るとあの時代の苦悩みたいなものが見えてくる。
「あかず(満ち足りない)悲し」 女性にもてて幸せそうに見えて居ても、まだ十分ではない、足りないんだと言う事、仏教的なことと関わりあると思うが、それを光源氏がもっていた。
在平業平も「あかず悲し」の一生だったと思う。
それをてこにして彼の人生を語ってやろうと思っています。
文学はキノコのようにひそやかな湿った日陰のもので、それに共感してもらえるものだと思います。
1946年山口県防府市生れ、73歳。
1980年に作家デビュー、1984年「光抱く友よ」で芥川賞を受賞、その後女流文学賞、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、川端康成文学賞など数多くの文学賞を受賞しています。
現在は芥川賞の選考委員などを務めています。
2018年には文化功労者に選ばれています。
高樹のぶ子さんの最新作は季語を元にした短編集「ほとほと 歳時記ものがたり」。
高樹さんに季語の魅力やそれを生かした作品への思いなどを伺いました。
1980年『その細き道』を文学界に発表。
本も70冊を書いてきました。
今度こそと思って出してきましたが、ベストだとは思え無くて、まだ先大変だなあと言う事が繋がっています。
1984年「光抱く友よ」で芥川賞を受賞でようやくという安堵感がありました。
その後女流文学賞、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、川端康成文学賞など受賞。
賞を客観的に評価することも難しいし、選考委員との相性もあるし、賞と言うものに対する期待値が小さくなってきている。
現在は芥川賞の選考委員の最年長になっています。
大人をうならせて賞を取るにはどうしたらいいかを、中学生のころから心していて、「奥の細道」の感想文をかいて、こんなふうに書いたら大人は感心してくれるだろうと思っていて、大きい賞を貰ったりして、それが大きな間違いで、文学に取りかかったがそれではどうにもならないと言う事が何十年とかかりました。
今読みかえしてみると放浪する人間の悲しさ、自然を見る目とかを見る目を捕まえて居て書いていました。
中学の時にヘミングウエイの「キリマンジャロの雪」、サマセット・モームの「雨」とかに感動しました。
大自然と人間が闘って敗れる姿に感動したのはよく覚えています。
本当はそっちを書くべきだったと思うが、大人をうならせることはできないと思ったんですね。
圧倒されると言葉が出てこなくて、涙も出てこなかった。
人間関係を書くしかなくて、生の人間がぶつかり合って、それが一番面白いところです。
男と女のむき出しの人間関係が扱われていて、私の恋愛小説は少ないとは思いますが。
『マイマイ新子』 9歳の少女、日本版「赤毛のアン」の様な感じ。
自分の少女時代そのままです。
『マルセル』はサスペンスになっています。
最新作は季語を元にした短編集「ほとほと 歳時記ものがたり」。
全国紙に月一回2年間読み切りで掲載された。
俳句、短歌は季節と関連している。
ほとほとは春の頃(節分のころとも言われているが)神が訪れてくる。
神様がその木戸を叩く音が「ほとほと」で、ちょっと湿っている音(雪のせいか)、季節の香り、湿り気、感覚など全部季語は持っているので、日本語の豊かさの一番目に見えるのが季語ではないかと思います。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という俳句があるが、
今であると同時に、戦前、江戸、平安時代でもあり、柿と法隆寺の「ごーん」はずーっと有るわけです。
時代の厚みの中のどこからでも聞こえてくる。
時間の厚みと柿の季節の日めくりの両方がそのワンシーンに内包されている。
亡くなった人を含めての心の情報、情緒など全部煮詰まったものが季語だと思います。
生活の部分の季語はほとんど失われている。
祭りなどもほとんど違うものになってしまっている。
小さな物語ですが、作ることは楽しいです。
短編小説などは大きい円弧の一部分を切り取って、全体を想像してもらうことは可能なので、円弧のどこを切り取るかは作者の自由でそれを膨らましてゆく、それを読んだ人はそれをもとに自分の体験の中で膨らましてゆきます。
これ好きだったと言うのは人によって色々違うと思います。
24編の中の20編は死者が登場します。
能の世界は死者が出てきて色んな思いを語るが、夢幻の世界、これだなと思いました。
季語は日本の宝だと思います、大事にしたいなあと思います。
生死を越えた繋がり方が暗示されると言うか、それを思い起こす事も出来るのが季節を持った日本の文化だと思います
或る一瞬のパワーで永遠を印象付けると言うか、ある一瞬を提示してその前と後はそれぞれ自分の体験に即して想像してくださると言う事が出来る、そういう余裕有る方法かなと思いまます。
長編小説はあるテーマがあって、言葉で簡単に伝わらないことであっても、伝えるために書くと言う事があるが、短編の場合はある場面を印象付ける、それだけを頭のどこかに摺りこむことができたら、その瞬間が記憶されることで何度も再生ができると言う事があると思います。
在原業平を主人公にした小説一代記を書いていて一番苦労しているのは、小説にする文体をなかなか決まらないところです。
雅な時代で日本の良さを表した時代だと思っていて、かっこいい男在原業平は光源氏のモデルになったと言われている人です。
在平業平の人生を見て見るとあの時代の苦悩みたいなものが見えてくる。
「あかず(満ち足りない)悲し」 女性にもてて幸せそうに見えて居ても、まだ十分ではない、足りないんだと言う事、仏教的なことと関わりあると思うが、それを光源氏がもっていた。
在平業平も「あかず悲し」の一生だったと思う。
それをてこにして彼の人生を語ってやろうと思っています。
文学はキノコのようにひそやかな湿った日陰のもので、それに共感してもらえるものだと思います。
2019年6月24日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者} ・【絶望名言】宮沢賢治(2018.8.27)
頭木弘樹(文学紹介者} ・【絶望名言】宮沢賢治(2018.8.27)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/08/blog-post_27.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/08/blog-post_27.htmlをご覧ください。
2019年6月23日日曜日
権藤 博(元プロ野球投手・監督) ・【スポーツ名場面の裏側で】
権藤 博(元プロ野球投手・監督) ・【スポーツ名場面の裏側で】
プロ野球中日ドラゴンズの新人投手として35勝を挙げ新人王となり、横浜ベースターズの監督として日本一になった権藤さんのお話です。
現在80歳、佐賀県出身。
県立鳥栖高校から社会人野球ブリジストンタイヤを経て、昭和36年中日ドラゴンズに入団、その年いきなり35勝を挙げて新人王ほか投手部門のタイトルを独占しました。
真っ向から投げおろす快速球と落差の大きいカーブで三振の取れる力で押す右ピッチャーでした。
2年目も30勝を挙げ、今では考えられないような連続30勝と言う成績を残しました。
しかしこの登板過多がたたって、3年目以降右肩を痛め思う様なピッチングができなくなります。
内野手に転向しますが僅か8年で現役を引退することになります。
中日、近鉄、福岡ダイエー、横浜のピッチングコーチの後、平成10年横浜ベイスターズの監督に就任し、いきなり横浜を日本一に導きました。
1月に野球殿堂りが発表され、元中日の立浪和義さん、高野連の元会長の脇村春夫さん、とともに権藤 博さんの3人が選ばれました。
歴代のメンバーを見ただけであんな人と一緒になったのかと思いました。
昭和36年開幕第二戦、対巨人戦プロ初登板することになる。
巨人は川上新監督 先発ピッチャーは掘内投手、8回まで4-0で押さえて居た。
9回裏 王選手がセンターにヒット、高林選手が2ベースヒットで1点取られたが、4-1で初登板初勝利。
3番サード長島と放送があった時には俺は大変なところにいるんだと思いました。
長島さんから「いい球なげるね、頑張ってよ」と敵チームなのにすれ違いざまに言われました。
この年奪三振はリーグ最多の310個でしたが、長島さんから三振は取れませんでした。
初戦で勝って20勝するためにはこれを20回やらなければいけないのかと思いました。
8月には25勝あげることができました。
8月27日甲子園球場で対阪神ダブルヘッダー
第一試合権藤-村山の投手戦、完投勝ちとなる。
阪神は巨人とデッドヒートをやっていた。
第一試合を終わって「権藤、肩を冷やすな」と言われてシャワーで肩を温めていました。
当時は冷やすと言う事はもってのほかで、泳いではいけない、風に当たってはいけないとか言われていました。
第二試合、7回からマウンドに上がりました。
押さえて1-0で中日が勝ち、一日で2勝をあげました。(27勝)
7月の雨の時期に12日間で4試合しか試合が無かったが、4試合すべて投げる。
「権藤、権藤、雨、権藤」という流行語が生まれる。
一日休めば先発するものだと思っていました。
この年35勝あげる、12完封、奪三振310個、防御率1.70(セ・リーグNO1)
429回1/3イニングス登板は60年近くたった今のセ・リーグ登板最多回数として記録が残っている。
投手部門のタイトルを根こそぎ取った。
杉浦さん、稲尾さんという大投手がいましたから、稲尾さんはその年42勝しましたから、上には上がいると思っていました。
2年目も30勝マーク、1年目は69試合、2年目は61試合を投げる。
シーズン130試合なので約半分を投げたことになる。
登板過多のため3年目以降は故障で苦しむことになる。
82勝60負 以後内野手に転向。
入団から8年(29歳)で現役引退する。
中日、近鉄、福岡ダイエー、横浜のピッチングコーチを務める。
平成10年 監督就任。
6月下旬から首位に立って2位中日に6ゲーム差、勝てば優勝というゲーム。
対阪神戦ナイトゲーム。
2-3とリードされた8回、4-3と逆転、8回裏から大魔神佐々木が登場、3者連続三振、38年振りにリーグ優勝を果たす。
前日中日が負けたのでマジック1になり勝負を掛けようとした。
斎藤を先発に急遽決めて佐々木にリリーフをして貰おうと思った。
事前には佐々木には登板はないといっていた(緊張するものと思って)が、登板させることにしたが、いまだにその事に怒っています。
内野手は全部ゴールデンクラブ、センター、この守りは凄かったと思う。
先発も上手く行き中継ぎにもローテーションが出来ました。
日本シリーズは西武との対戦。
2勝2敗の後第5戦20安打で17-5で3勝とする。
第6戦8回まで0-0、8回裏2点を取り、9回西武を1点に抑えて2-1で38年振りに日本一になる。
昭和13年佐賀県生まれ、鳥栖高校では内野手であったが投手に転向、佐賀大会では決勝で敗れる。
ブリヂストンタイヤに入社、同社の久留米工場野球部でプレーしていた。
昭和36年中日に入団、3年目から肩の故障で苦しむ。
オフの間の過ごし方がよくなかったと思う。
オフは肩を休ませろと言う事でランニングなどはやっていたが、肩を休ませたので筋、筋肉が固まってしまったのが失敗だと思います。
今では一般的にオフでもキャッチボールをしたりして肩を慣らしていますが。
当時投げて潰れるなら本望だと思いました、オフの肩を休ませたのはよくなかった。
コーチになってからは選手の痛み、苦しみも判るようになりました。
選手の個性をいかに出すか、そこしか考えていませんでした。
優勝を争うようになるとコーチとして監督とは対立することもありました。
グラウンド、ブルペンでの話はします、それぞれの投手によって相手に対する攻め方は違うので、投手全員集めて話してもあまり意味がない。
WBCでピッチングコーチを78歳で勤める。
選手の体格、パワーが昔と違ってきました。
バッター、ピッチャー共に技術も上がってきています。
人と同じことをやっていてはだめだと思っていて、何を取り入れるのか、取り入れるための観察眼が必要だと思います。
選手は個性を出してもらいたい。
プロ野球中日ドラゴンズの新人投手として35勝を挙げ新人王となり、横浜ベースターズの監督として日本一になった権藤さんのお話です。
現在80歳、佐賀県出身。
県立鳥栖高校から社会人野球ブリジストンタイヤを経て、昭和36年中日ドラゴンズに入団、その年いきなり35勝を挙げて新人王ほか投手部門のタイトルを独占しました。
真っ向から投げおろす快速球と落差の大きいカーブで三振の取れる力で押す右ピッチャーでした。
2年目も30勝を挙げ、今では考えられないような連続30勝と言う成績を残しました。
しかしこの登板過多がたたって、3年目以降右肩を痛め思う様なピッチングができなくなります。
内野手に転向しますが僅か8年で現役を引退することになります。
中日、近鉄、福岡ダイエー、横浜のピッチングコーチの後、平成10年横浜ベイスターズの監督に就任し、いきなり横浜を日本一に導きました。
1月に野球殿堂りが発表され、元中日の立浪和義さん、高野連の元会長の脇村春夫さん、とともに権藤 博さんの3人が選ばれました。
歴代のメンバーを見ただけであんな人と一緒になったのかと思いました。
昭和36年開幕第二戦、対巨人戦プロ初登板することになる。
巨人は川上新監督 先発ピッチャーは掘内投手、8回まで4-0で押さえて居た。
9回裏 王選手がセンターにヒット、高林選手が2ベースヒットで1点取られたが、4-1で初登板初勝利。
3番サード長島と放送があった時には俺は大変なところにいるんだと思いました。
長島さんから「いい球なげるね、頑張ってよ」と敵チームなのにすれ違いざまに言われました。
この年奪三振はリーグ最多の310個でしたが、長島さんから三振は取れませんでした。
初戦で勝って20勝するためにはこれを20回やらなければいけないのかと思いました。
8月には25勝あげることができました。
8月27日甲子園球場で対阪神ダブルヘッダー
第一試合権藤-村山の投手戦、完投勝ちとなる。
阪神は巨人とデッドヒートをやっていた。
第一試合を終わって「権藤、肩を冷やすな」と言われてシャワーで肩を温めていました。
当時は冷やすと言う事はもってのほかで、泳いではいけない、風に当たってはいけないとか言われていました。
第二試合、7回からマウンドに上がりました。
押さえて1-0で中日が勝ち、一日で2勝をあげました。(27勝)
7月の雨の時期に12日間で4試合しか試合が無かったが、4試合すべて投げる。
「権藤、権藤、雨、権藤」という流行語が生まれる。
一日休めば先発するものだと思っていました。
この年35勝あげる、12完封、奪三振310個、防御率1.70(セ・リーグNO1)
429回1/3イニングス登板は60年近くたった今のセ・リーグ登板最多回数として記録が残っている。
投手部門のタイトルを根こそぎ取った。
杉浦さん、稲尾さんという大投手がいましたから、稲尾さんはその年42勝しましたから、上には上がいると思っていました。
2年目も30勝マーク、1年目は69試合、2年目は61試合を投げる。
シーズン130試合なので約半分を投げたことになる。
登板過多のため3年目以降は故障で苦しむことになる。
82勝60負 以後内野手に転向。
入団から8年(29歳)で現役引退する。
中日、近鉄、福岡ダイエー、横浜のピッチングコーチを務める。
平成10年 監督就任。
6月下旬から首位に立って2位中日に6ゲーム差、勝てば優勝というゲーム。
対阪神戦ナイトゲーム。
2-3とリードされた8回、4-3と逆転、8回裏から大魔神佐々木が登場、3者連続三振、38年振りにリーグ優勝を果たす。
前日中日が負けたのでマジック1になり勝負を掛けようとした。
斎藤を先発に急遽決めて佐々木にリリーフをして貰おうと思った。
事前には佐々木には登板はないといっていた(緊張するものと思って)が、登板させることにしたが、いまだにその事に怒っています。
内野手は全部ゴールデンクラブ、センター、この守りは凄かったと思う。
先発も上手く行き中継ぎにもローテーションが出来ました。
日本シリーズは西武との対戦。
2勝2敗の後第5戦20安打で17-5で3勝とする。
第6戦8回まで0-0、8回裏2点を取り、9回西武を1点に抑えて2-1で38年振りに日本一になる。
昭和13年佐賀県生まれ、鳥栖高校では内野手であったが投手に転向、佐賀大会では決勝で敗れる。
ブリヂストンタイヤに入社、同社の久留米工場野球部でプレーしていた。
昭和36年中日に入団、3年目から肩の故障で苦しむ。
オフの間の過ごし方がよくなかったと思う。
オフは肩を休ませろと言う事でランニングなどはやっていたが、肩を休ませたので筋、筋肉が固まってしまったのが失敗だと思います。
今では一般的にオフでもキャッチボールをしたりして肩を慣らしていますが。
当時投げて潰れるなら本望だと思いました、オフの肩を休ませたのはよくなかった。
コーチになってからは選手の痛み、苦しみも判るようになりました。
選手の個性をいかに出すか、そこしか考えていませんでした。
優勝を争うようになるとコーチとして監督とは対立することもありました。
グラウンド、ブルペンでの話はします、それぞれの投手によって相手に対する攻め方は違うので、投手全員集めて話してもあまり意味がない。
WBCでピッチングコーチを78歳で勤める。
選手の体格、パワーが昔と違ってきました。
バッター、ピッチャー共に技術も上がってきています。
人と同じことをやっていてはだめだと思っていて、何を取り入れるのか、取り入れるための観察眼が必要だと思います。
選手は個性を出してもらいたい。
2019年6月22日土曜日
前田益尚(近畿大学准教授) ・がんとアルコール依存症を乗り越えて(2018.2.17)
前田益尚(近畿大学准教授) ・がんとアルコール依存症を乗り越えて(2018.2.17)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/02/blog-post_17.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/02/blog-post_17.htmlをご覧ください。
2019年6月21日金曜日
萩原朔美(前橋文学館館長) ・【わが心の人】森 茉莉
萩原朔美(前橋文学館館長) ・【わが心の人】森 茉莉
森 茉莉さんは明治36年東京に文豪森鴎外の長女として生まれました。
昭和32年『父の帽子』でエッセイストクラブ賞を受賞しています。
その後幻想的な小説世界で評判となり、又週刊誌のコラム「ドッキリチャンネル」ではTV番組やタレントを率直かつ辛口な言葉で論評し、注目されました。
昭和62年6月に亡くなりました。(84歳)
若いころは寺山修二さんの劇団演劇実験室「天井桟敷」で出演、演出の仕事もしていました。
その後、丸山明宏(美輪明宏)との共演作『毛皮のマリー』での美少年役が大きな話題となる。
美輪さんの演技がうまくてとても太刀打ちできないと思い辞めました。
最近その重石がとけました。
文学館は資料を見せる、収集している文豪、詩人、歌人がどういう生き方をしてきたのか、どういう作品を書いてきたのか、ガラスケースで味あう訳ですが、中々それだけだと人は興味
を持っていただけないので、イベント、講演会、リーディングシアターをやったりと言う事で文学作品に出あってもらいたいとイベントをやっています。
祖父は詩人の萩原朔太郎、母は作家の萩原葉子。
私はエッセーを書いています。
母親と森 茉莉さんは友達だったので、家に訪ねてきたりして小さいころから面識がありました。
こんなに自由に自分の好きなことをやっていられる人がいるんだなあと思いました。
洗濯をしたことがないと言うことだったが、新しいい下着を買って夜中に川に捨てに行ったと言う事でしたが、そこまで自由に生きられると言うのも凄いと思いました。
からかわれていたのかも知れません。
家に入った時にはこれは絶対掃除はしていないと思いました。
TVを見て居て大きな音を出すのと、風、音が入ってくるのが厭なのか窓を開けていなかったようです。
遮蔽した空間で物を書きたかったのかもしれません。
作品は夢のような世界が現実で、自分の周りの本当の現実は彼女にとっては現実ではないとそういうふうに思いました。
TVはベッドの足先にTVがあり、枕側に本が積んであり、背もたれにしていたので、寝る時にはどうするのかと聞いたらそのまま寝ると言う事でしたが、本当に吃驚しました。
原稿もそのその態勢で書いているのかもしれません。
週刊誌のコラム「ドッキリチャンネル」ではTV番組やタレントの好きな人はとことん褒めて、厭な人はとことんこきおろす、はっきりしていました。
自分が作り上げている世界がいちばん重要で、テーブルの上が散乱していると言う事は大したことではないんじゃないかと思います。
自分の息子が片づけようとしたら非常に嫌がったと言う事を話していました。
自分の子どもの好き嫌いも平気で言うと言うことです。
料理を作ってくれると言う事があったが、本当にそうなのかは判りません。
本には紅茶の入れ方も書いてあるが、メーカー名から始まりこと細かく書いている。
森 茉莉さんの世界は本当に優雅な人生を楽しむ事をゆったりとした意味の無い優雅さみたいな、意味の無い無駄と思えるような時間こそ、快楽に結びつく時間こそが大事だと言うふうに言っている様な気がします。
「本物の贅沢」というエッセーがあり、現代は偽物贅沢の時代であるといっています。
本当の贅沢な人間は贅沢と言う事を意識していないし、贅沢の出来ない人にそれを見せたいとも思わないのである、とおっしゃっています。
偽物贅沢の奥さんが着物を誇り夫の〇○社長を誇り、すれ違う女を見下しているのも貧乏くさい。
もっと困るのは彼女たちの心の奥底に贅沢と言うものを悪いことだと思っている精神が内在していることである。
茉莉さんは〇○夫人とか〇○出身とか関係なくて、大文豪の娘じゃないですか、又外国にも長い間行っています。
父親からこれ以上愛されないと言うように、身にしみている優雅さがあると思います。
父親と言うのは私にとっては恋人であるとはっきり言っています。
それが生涯に渡って続いています。
森鴎外を越える人ってハードルが高い。
自分の娘をかなりの年齢まで膝の上に抱っこするなんてちょっとないです。
僕の母親は父親に愛された記憶がないので、そこが決定的に違うと何回も言っていました。
室生犀星の娘の室生朝子さんも父親に愛されています。
萩原朔太郎はあまり家にいる時間が無かった。
本当にたまに家にいる時には合唱をしたりした記憶があるそうです。
自分が文章を書くようになって父親である萩原朔太郎はどうだったんだろうと、父親の文章を読んで調べたんだろうと思います。
茉莉さんと母親とはたのしそうな会話はずーっとありました。
茉莉さんの『父の帽子』は50代の後半で、小説を書いたのは51歳の時でした。
母親も50歳近くになってから書き始めました。
茉莉さんは喫茶店で何時間も書いていました、自分が没頭してしまう。
『枯葉の寝床』を美輪さんが演劇化してやりました。
それを見て茉莉さんは主役が駄目だと、アラン・ドロンでなければ駄目だといって、美輪さんも困ったと言っていました。
普通そういったことはまず言わないと思いますが。
茉莉さんは純粋無垢さは80代でも保っていました。(当人はそうは思っていなかったかもしれないが)
自分の良いと思ったことに突き進んで人生を生きられたと言う事は羨ましいです。
自由さを保てると言う事は物凄く大変な事ですが、スーッと実現できると言う事は羨ましいです。
感覚が物凄く研ぎ済まされていると思います。
言葉使いが独特で文体のリズムが独特です。
この漢字ではなくてはいけないというこだわりがあり、言葉を大事にします。
本物の紅茶の味、本物の料理、スープはこうだと言う事を、子どもの時に体験しているからでしょうね。
今は文学は本の売れない時代で、今こそ文字と出会うチャンスを一杯作らなければいけないと思って、敷居を低くするイベントをやっています。
映像も随分使っています。
詩集を声にして朗読すると言う事も工夫してやっています
リーディングシアターもやっています、ラジオドラマ的です。
群馬県出身の若手女性作家も注目していて阿部智里(20代)展をやります。
森 茉莉さんは明治36年東京に文豪森鴎外の長女として生まれました。
昭和32年『父の帽子』でエッセイストクラブ賞を受賞しています。
その後幻想的な小説世界で評判となり、又週刊誌のコラム「ドッキリチャンネル」ではTV番組やタレントを率直かつ辛口な言葉で論評し、注目されました。
昭和62年6月に亡くなりました。(84歳)
若いころは寺山修二さんの劇団演劇実験室「天井桟敷」で出演、演出の仕事もしていました。
その後、丸山明宏(美輪明宏)との共演作『毛皮のマリー』での美少年役が大きな話題となる。
美輪さんの演技がうまくてとても太刀打ちできないと思い辞めました。
最近その重石がとけました。
文学館は資料を見せる、収集している文豪、詩人、歌人がどういう生き方をしてきたのか、どういう作品を書いてきたのか、ガラスケースで味あう訳ですが、中々それだけだと人は興味
を持っていただけないので、イベント、講演会、リーディングシアターをやったりと言う事で文学作品に出あってもらいたいとイベントをやっています。
祖父は詩人の萩原朔太郎、母は作家の萩原葉子。
私はエッセーを書いています。
母親と森 茉莉さんは友達だったので、家に訪ねてきたりして小さいころから面識がありました。
こんなに自由に自分の好きなことをやっていられる人がいるんだなあと思いました。
洗濯をしたことがないと言うことだったが、新しいい下着を買って夜中に川に捨てに行ったと言う事でしたが、そこまで自由に生きられると言うのも凄いと思いました。
からかわれていたのかも知れません。
家に入った時にはこれは絶対掃除はしていないと思いました。
TVを見て居て大きな音を出すのと、風、音が入ってくるのが厭なのか窓を開けていなかったようです。
遮蔽した空間で物を書きたかったのかもしれません。
作品は夢のような世界が現実で、自分の周りの本当の現実は彼女にとっては現実ではないとそういうふうに思いました。
TVはベッドの足先にTVがあり、枕側に本が積んであり、背もたれにしていたので、寝る時にはどうするのかと聞いたらそのまま寝ると言う事でしたが、本当に吃驚しました。
原稿もそのその態勢で書いているのかもしれません。
週刊誌のコラム「ドッキリチャンネル」ではTV番組やタレントの好きな人はとことん褒めて、厭な人はとことんこきおろす、はっきりしていました。
自分が作り上げている世界がいちばん重要で、テーブルの上が散乱していると言う事は大したことではないんじゃないかと思います。
自分の息子が片づけようとしたら非常に嫌がったと言う事を話していました。
自分の子どもの好き嫌いも平気で言うと言うことです。
料理を作ってくれると言う事があったが、本当にそうなのかは判りません。
本には紅茶の入れ方も書いてあるが、メーカー名から始まりこと細かく書いている。
森 茉莉さんの世界は本当に優雅な人生を楽しむ事をゆったりとした意味の無い優雅さみたいな、意味の無い無駄と思えるような時間こそ、快楽に結びつく時間こそが大事だと言うふうに言っている様な気がします。
「本物の贅沢」というエッセーがあり、現代は偽物贅沢の時代であるといっています。
本当の贅沢な人間は贅沢と言う事を意識していないし、贅沢の出来ない人にそれを見せたいとも思わないのである、とおっしゃっています。
偽物贅沢の奥さんが着物を誇り夫の〇○社長を誇り、すれ違う女を見下しているのも貧乏くさい。
もっと困るのは彼女たちの心の奥底に贅沢と言うものを悪いことだと思っている精神が内在していることである。
茉莉さんは〇○夫人とか〇○出身とか関係なくて、大文豪の娘じゃないですか、又外国にも長い間行っています。
父親からこれ以上愛されないと言うように、身にしみている優雅さがあると思います。
父親と言うのは私にとっては恋人であるとはっきり言っています。
それが生涯に渡って続いています。
森鴎外を越える人ってハードルが高い。
自分の娘をかなりの年齢まで膝の上に抱っこするなんてちょっとないです。
僕の母親は父親に愛された記憶がないので、そこが決定的に違うと何回も言っていました。
室生犀星の娘の室生朝子さんも父親に愛されています。
萩原朔太郎はあまり家にいる時間が無かった。
本当にたまに家にいる時には合唱をしたりした記憶があるそうです。
自分が文章を書くようになって父親である萩原朔太郎はどうだったんだろうと、父親の文章を読んで調べたんだろうと思います。
茉莉さんと母親とはたのしそうな会話はずーっとありました。
茉莉さんの『父の帽子』は50代の後半で、小説を書いたのは51歳の時でした。
母親も50歳近くになってから書き始めました。
茉莉さんは喫茶店で何時間も書いていました、自分が没頭してしまう。
『枯葉の寝床』を美輪さんが演劇化してやりました。
それを見て茉莉さんは主役が駄目だと、アラン・ドロンでなければ駄目だといって、美輪さんも困ったと言っていました。
普通そういったことはまず言わないと思いますが。
茉莉さんは純粋無垢さは80代でも保っていました。(当人はそうは思っていなかったかもしれないが)
自分の良いと思ったことに突き進んで人生を生きられたと言う事は羨ましいです。
自由さを保てると言う事は物凄く大変な事ですが、スーッと実現できると言う事は羨ましいです。
感覚が物凄く研ぎ済まされていると思います。
言葉使いが独特で文体のリズムが独特です。
この漢字ではなくてはいけないというこだわりがあり、言葉を大事にします。
本物の紅茶の味、本物の料理、スープはこうだと言う事を、子どもの時に体験しているからでしょうね。
今は文学は本の売れない時代で、今こそ文字と出会うチャンスを一杯作らなければいけないと思って、敷居を低くするイベントをやっています。
映像も随分使っています。
詩集を声にして朗読すると言う事も工夫してやっています
リーディングシアターもやっています、ラジオドラマ的です。
群馬県出身の若手女性作家も注目していて阿部智里(20代)展をやります。
2019年6月20日木曜日
井山計一(バーテンダー) ・「日本一幸せなバーテンダー」(2019.3.6)(中止)
井山計一(バーテンダー) ・「日本一幸せなバーテンダー」(2019.3.6)(中止)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/03/blog-post_6.htmlをご覧ください。
女子サッカー 日本☓イングランド試合放送の為 放送は中止になっています。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/03/blog-post_6.htmlをご覧ください。
女子サッカー 日本☓イングランド試合放送の為 放送は中止になっています。
2019年6月19日水曜日
東野智弥(日本バスケットボール協会技術委員長)・【スポーツ明日への伝言】(中止)
東野智弥(日本バスケットボール協会技術委員長)・【スポーツ明日への伝言】バスケットボール復活への道 放送中止しました。
昨夜10時22分ごろに山形県沖で深さ14kmを震源とするM6,7の地震がありこのニュースの為、放送は中止となり、後日放送となりました。
新潟県村上市で震度6強の揺れ、山形県鶴岡市で震度6弱の揺れを観測。
午前1時には津波注意報を解除。
昨夜10時22分ごろに山形県沖で深さ14kmを震源とするM6,7の地震がありこのニュースの為、放送は中止となり、後日放送となりました。
新潟県村上市で震度6強の揺れ、山形県鶴岡市で震度6弱の揺れを観測。
午前1時には津波注意報を解除。
2019年6月18日火曜日
柳沢正史(筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構)・知っているようで知らない「ねむけ」の正体
柳沢正史(筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構機構長)・知っているようで知らない「ねむけ」の正体
私たち人は一平均日7~8時間の睡眠を取っています。
およそ一生の1/3を寝て過ごすわけです。
人間など脊椎動物だけではなくて、昆虫や線虫までほとんどすべての動物は眠るそうです。
動物はなぜ眠るのでしょうか。
どのような体内システムで眠りに落ち、睡眠がどうコントロールされて目覚めるのか、柳澤さんはそうした睡眠に付いての詳細はまだほとんど解明されていない、睡眠は現代神経科学の最大のブラックボックスだと言います。
その謎の解明に文部科学省が世界トップレベル研究拠点プログラムとして筑波大学に国際統合睡眠医科学研究機構を開設しました。
柳澤さんは大学院生の時にテキサス大学に招かれて以来、長くアメリカで研究を続け、人の睡眠、覚醒に関係する重要な物質オレキシンを発見しました。
2014年からは日本に拠点を移し国際統合睡眠医科学研究機構の機構長として世界の若手研究者を率いて、睡眠研究の世界最先端を牽引しています。
よく眠れた、高齢になると朝早く目が覚めるとか、睡眠は私たちの日常に欠かせないものです。
柳澤さんは睡眠の仕組みは「ししおどし」に似ていると言います。
眠気と言う睡眠要求が「ししおどし」に流れ込む水で、ある一定量たまると、「ししおどし」の竹筒が反対側に傾いて水が流れ出るように、人は睡眠に落ち、溜まっていた睡眠要求が解消されるのだそうです。
睡眠要求の正体は何か、有史以来全ての動物がねむるという壮大な生物の謎に挑む柳澤さんに伺います。
私は50代のおわりですが、睡眠には朝型、中間型、夜型とありますが、中間型だと思います。
今は出来るだけ0時から7時までベッドの上にいるように心掛けています。
理想的には個人個人の自分にあった時刻に寝て、自分に会った時刻に起きる、それを御自身で探していただきたいです。
十分な睡眠時間を取ってもらいたいが、十分な睡眠時間も人によって違うし、年齢によっても違います。
大人の多くの人の平均時間は7時間と言われていますが、それぞれ違うので適正な時間を探してもらいたいです。
午後眠くなってしまうようだと、睡眠が足りていないと思った方がいいです。
日本は睡眠不足な国です。
短時間で質のいい睡眠を取れませんかと言う質問がありますが、ゴールが間違っていて、やはり時間を確保することがとっても大事です。
慢性の睡眠不足の方は1週間毎日30分~1時間多く寝て下さい、そしてスッキリするようであれば時間が足りなかったということです。
休日に朝起きなくていい日に普段よりずーっと遅くまで寝ているようだと睡眠が足りていない証拠です。
長い生物的な歴史の中で人間は約7時間睡眠が必要なように脳は作られているので、そう簡単には変えられないと思います。
睡眠がどうして必要なのか、現代の脳科学はきちんと答えることができません。
①全ての脳(中枢神経系)を持つ動物は睡眠がどうして必要なのか?
②例えば人間の場合、どうして7時間程度の睡眠が必要なのか、どのように制御されているのか?
二つの大きな疑問があります。
脳(中枢神経系)を持つ動物 ショウジョウバエ、魚なども眠ります。
クラゲも眠るらしいという衝撃的な論文が1,2年前に出ました。
クラゲはかさのなかに神経節という神経回路網はあるが脳(中枢神経系)と言われるようなものは持っていなくて、でも睡眠行動を取ると言うことです。
睡眠と言う行動が満たす条件は4つあります。
①睡眠、覚醒が素早く可逆的に切り替わる。
②眠っている間は基本的には動かない。
③眠っている間は外界刺激に対して鈍くなる。
④眠らせないでおくと、長い間眠らないと、その後長く眠る。(リバウンドが来る)
疲れた脳とは何ですか、と言われても今の段階では答えられない。
なにかが回復していると思うが、脳のなかで具体的にどう作用しているかは判らない。
脳の燃費を測定すると、覚醒時もノンレム睡眠の時もほとんど変わらない。
レム睡眠(夢を見たりする)時は覚醒時よりも多かったりする。
コンピューターに脳を例えると、スイッチは入りっぱなしにして、オフラインにしてメンテ作業をしている状態です。
意識の無いリスキーな行動である睡眠が何時間も取るのかよく判らない、それほど重大な
事をやっているわけです。
睡眠中に記憶が整理されて、固定化されてより強固になる、と言う事は言われている。
言葉になる記憶、身体のスキルの記憶なども、睡眠を取ることによって良くなると言う事が言われる。
多層性睡眠、単層性睡眠があるが、ほとんどの動物は多層性睡眠です。
極端な単層性睡眠をするのが人間です。
長く深く続けて眠る能力があるのは人間だけです。
人間に近い猿も長く深く眠り続けることはできない。
国際統合睡眠医科学研究機構は10位の研究室が集まっていて、何らかの睡眠の研究を行っています。
私の研究室では根本的な睡眠のメカニズムの研究をしています。
睡眠の仕組みは「ししおどし」に似ていて、眠気と言う睡眠要求が「ししおどし」に流れ込む水で、ある一定量たまると、「ししおどし」の竹筒が反対側に傾いて水が流れ出るように、人は睡眠に落ち、溜まっていた睡眠要求が解消される。
睡眠と覚醒のスイッチの部分については解明が進んでいます。
水に当たるもの(睡眠要求)が何なのかが判らない。
スイッチは判って来たけれどスイッチを押す指が判らない。
意味のある仮説がたてられない、土台が無い状態。
仮説を立てるのをやめて、データを出してみて何か決めて行く探索研究というが、私の研究スタイルの一つです。
オレキシンを発見したやり方も探索研究の一つです。
多くの手間がかかるので、リスキーでもあります、何も見つからない可能性もあります。
幼稚園位の時にどぶ川の水の流れ、渦、流れ来るものなどに、面白いと思ってずーっと見ていた事を覚えています。
小学校1年生の時に黙って先生の言う事を聞けない子で友達と話をしていたりしていました。
1,2年生の頃、将来研究者になりたいと書いていました。
判らなかったことを解明したいと言う純粋な好奇心でした。
座右の銘のようなものとして
①よい問いを見出すことは、問いを解くことよりも難しい。
(何を問うかで、もう勝負は決まっていると思う。 あらゆる分野に言えると思う。)
問題発見することはAIには出来ないと思う。
日本の教育は問いを解くことを物凄く訓練させられるが、問いを発見する訓練は日本人はほとんどやらされない。(小、中、高、大学含め)
問いを見出す教育をしなければいけないと思います。
②自分自身が本当に面白いと思える研究をしてほしい。
③事実は小説よりも奇なり、ということわざがあるが、真実(科学的真実)は仮説よりも奇なり。
オレキシンが睡眠に関係するとは夢にも思わなかった。
④科学者にとってデータは自分が持っている仮説よりも常に上に置いて置かないといけない。
仮説がデータよりも上に来てしまうと非常に危険で、極端には研究不正なったり、「良いとこ取り」都合のいいところだけに目を向ける研究態度になってしまうと、結果には再現性が無いと言うようなことになってしまう。
仮説を磨くことによってゴールになって、仮説は大事だとは思うが、人間が小さな頭で考えたストーリーなんだと言う事を常に意識している事が大事だと思います。
私たち人は一平均日7~8時間の睡眠を取っています。
およそ一生の1/3を寝て過ごすわけです。
人間など脊椎動物だけではなくて、昆虫や線虫までほとんどすべての動物は眠るそうです。
動物はなぜ眠るのでしょうか。
どのような体内システムで眠りに落ち、睡眠がどうコントロールされて目覚めるのか、柳澤さんはそうした睡眠に付いての詳細はまだほとんど解明されていない、睡眠は現代神経科学の最大のブラックボックスだと言います。
その謎の解明に文部科学省が世界トップレベル研究拠点プログラムとして筑波大学に国際統合睡眠医科学研究機構を開設しました。
柳澤さんは大学院生の時にテキサス大学に招かれて以来、長くアメリカで研究を続け、人の睡眠、覚醒に関係する重要な物質オレキシンを発見しました。
2014年からは日本に拠点を移し国際統合睡眠医科学研究機構の機構長として世界の若手研究者を率いて、睡眠研究の世界最先端を牽引しています。
よく眠れた、高齢になると朝早く目が覚めるとか、睡眠は私たちの日常に欠かせないものです。
柳澤さんは睡眠の仕組みは「ししおどし」に似ていると言います。
眠気と言う睡眠要求が「ししおどし」に流れ込む水で、ある一定量たまると、「ししおどし」の竹筒が反対側に傾いて水が流れ出るように、人は睡眠に落ち、溜まっていた睡眠要求が解消されるのだそうです。
睡眠要求の正体は何か、有史以来全ての動物がねむるという壮大な生物の謎に挑む柳澤さんに伺います。
私は50代のおわりですが、睡眠には朝型、中間型、夜型とありますが、中間型だと思います。
今は出来るだけ0時から7時までベッドの上にいるように心掛けています。
理想的には個人個人の自分にあった時刻に寝て、自分に会った時刻に起きる、それを御自身で探していただきたいです。
十分な睡眠時間を取ってもらいたいが、十分な睡眠時間も人によって違うし、年齢によっても違います。
大人の多くの人の平均時間は7時間と言われていますが、それぞれ違うので適正な時間を探してもらいたいです。
午後眠くなってしまうようだと、睡眠が足りていないと思った方がいいです。
日本は睡眠不足な国です。
短時間で質のいい睡眠を取れませんかと言う質問がありますが、ゴールが間違っていて、やはり時間を確保することがとっても大事です。
慢性の睡眠不足の方は1週間毎日30分~1時間多く寝て下さい、そしてスッキリするようであれば時間が足りなかったということです。
休日に朝起きなくていい日に普段よりずーっと遅くまで寝ているようだと睡眠が足りていない証拠です。
長い生物的な歴史の中で人間は約7時間睡眠が必要なように脳は作られているので、そう簡単には変えられないと思います。
睡眠がどうして必要なのか、現代の脳科学はきちんと答えることができません。
①全ての脳(中枢神経系)を持つ動物は睡眠がどうして必要なのか?
②例えば人間の場合、どうして7時間程度の睡眠が必要なのか、どのように制御されているのか?
二つの大きな疑問があります。
脳(中枢神経系)を持つ動物 ショウジョウバエ、魚なども眠ります。
クラゲも眠るらしいという衝撃的な論文が1,2年前に出ました。
クラゲはかさのなかに神経節という神経回路網はあるが脳(中枢神経系)と言われるようなものは持っていなくて、でも睡眠行動を取ると言うことです。
睡眠と言う行動が満たす条件は4つあります。
①睡眠、覚醒が素早く可逆的に切り替わる。
②眠っている間は基本的には動かない。
③眠っている間は外界刺激に対して鈍くなる。
④眠らせないでおくと、長い間眠らないと、その後長く眠る。(リバウンドが来る)
疲れた脳とは何ですか、と言われても今の段階では答えられない。
なにかが回復していると思うが、脳のなかで具体的にどう作用しているかは判らない。
脳の燃費を測定すると、覚醒時もノンレム睡眠の時もほとんど変わらない。
レム睡眠(夢を見たりする)時は覚醒時よりも多かったりする。
コンピューターに脳を例えると、スイッチは入りっぱなしにして、オフラインにしてメンテ作業をしている状態です。
意識の無いリスキーな行動である睡眠が何時間も取るのかよく判らない、それほど重大な
事をやっているわけです。
睡眠中に記憶が整理されて、固定化されてより強固になる、と言う事は言われている。
言葉になる記憶、身体のスキルの記憶なども、睡眠を取ることによって良くなると言う事が言われる。
多層性睡眠、単層性睡眠があるが、ほとんどの動物は多層性睡眠です。
極端な単層性睡眠をするのが人間です。
長く深く続けて眠る能力があるのは人間だけです。
人間に近い猿も長く深く眠り続けることはできない。
国際統合睡眠医科学研究機構は10位の研究室が集まっていて、何らかの睡眠の研究を行っています。
私の研究室では根本的な睡眠のメカニズムの研究をしています。
睡眠の仕組みは「ししおどし」に似ていて、眠気と言う睡眠要求が「ししおどし」に流れ込む水で、ある一定量たまると、「ししおどし」の竹筒が反対側に傾いて水が流れ出るように、人は睡眠に落ち、溜まっていた睡眠要求が解消される。
睡眠と覚醒のスイッチの部分については解明が進んでいます。
水に当たるもの(睡眠要求)が何なのかが判らない。
スイッチは判って来たけれどスイッチを押す指が判らない。
意味のある仮説がたてられない、土台が無い状態。
仮説を立てるのをやめて、データを出してみて何か決めて行く探索研究というが、私の研究スタイルの一つです。
オレキシンを発見したやり方も探索研究の一つです。
多くの手間がかかるので、リスキーでもあります、何も見つからない可能性もあります。
幼稚園位の時にどぶ川の水の流れ、渦、流れ来るものなどに、面白いと思ってずーっと見ていた事を覚えています。
小学校1年生の時に黙って先生の言う事を聞けない子で友達と話をしていたりしていました。
1,2年生の頃、将来研究者になりたいと書いていました。
判らなかったことを解明したいと言う純粋な好奇心でした。
座右の銘のようなものとして
①よい問いを見出すことは、問いを解くことよりも難しい。
(何を問うかで、もう勝負は決まっていると思う。 あらゆる分野に言えると思う。)
問題発見することはAIには出来ないと思う。
日本の教育は問いを解くことを物凄く訓練させられるが、問いを発見する訓練は日本人はほとんどやらされない。(小、中、高、大学含め)
問いを見出す教育をしなければいけないと思います。
②自分自身が本当に面白いと思える研究をしてほしい。
③事実は小説よりも奇なり、ということわざがあるが、真実(科学的真実)は仮説よりも奇なり。
オレキシンが睡眠に関係するとは夢にも思わなかった。
④科学者にとってデータは自分が持っている仮説よりも常に上に置いて置かないといけない。
仮説がデータよりも上に来てしまうと非常に危険で、極端には研究不正なったり、「良いとこ取り」都合のいいところだけに目を向ける研究態度になってしまうと、結果には再現性が無いと言うようなことになってしまう。
仮説を磨くことによってゴールになって、仮説は大事だとは思うが、人間が小さな頭で考えたストーリーなんだと言う事を常に意識している事が大事だと思います。
2019年6月17日月曜日
藤原道山(尺八奏者) ・【にっぽんの音】
藤原道山(尺八奏者) ・【にっぽんの音】
案内役 能楽師狂言方 大藏基誠
色んな分野の方と共演をしていて坂本龍一さん、野村萬斎さん、サックス奏者のケニー・Gさん、ウイーンフィルなど様々な方とコラボレーションしています。
自分の中にないものを知る事が出来ることと、音楽を共有できることが嬉しいです。
自分の音楽の引き出しが増えて行く事も嬉しいです。
共演者とは自分が思い付く時と、たまたまのご縁があった時などがあります。
尺八の音はフルートに近いと思います。
尺八は音色が多彩だなあと思います。
西洋の音楽は綺麗な音を出す事が普通メインですが、尺八は雑音みたいなものも音楽の一つとしてとらえられてきたので、それが面白いと言う事で逆に西洋の人達が取り入れてやったりしています。
ウイーンフィルの人と共演した時に、私をずーっと見ていてたフルートの人が真似をしてきました。
音で会話できる面白さがあります。
*「実のり」 ウイーンフィルのコンサートマスターのフォルクハルト・シュトイデ(ヴァイオリニスト)という方と初めて共演した時に、是非これからも共演したいと言う事で、共演するようになってそれで作曲した曲です。
これはウイーンのホーフブルク宮殿の中にある教会でウイーンフィルの人達と録音しました。
ここでシューベルトが歌ったんだよとか、ブルックナーが指揮をしたんだとか、教科書に出てくるような歴史的な方々の名前がどんどん出てくるような場所で演奏できたということはテンションが上がりました。
作曲は僕がしました。
ヴァイオリン、チェロの部分、アレンジは大島ミチルさんにお願いしました。
僕もフルートの研究をして、別なところから見る事が出来て勉強になりました。
尺八のノイジーな音、風の音が加わったり、そこにまとっているものが日本らしさだったりするものがあるかもしれません。
月も色々な言葉で表現したり、色も細かく表現したり、日本の繊細さがあると思います。
尺八には大きく分けて技が3つあります、息の技、指の技、首の技。
息の技は音色の変化、綺麗な音から力強い音迄出す。
指の技は半分開けたり、1/4開けたりすることで一つの穴で4つの音が出ます。
首の技は首を横に振るとビブラート、縦に振ると音の高さが変わります。
3つをコンビネーションして音を作っていきます。
尺八はなかなか音が出なくて、始めた時は1週間音が出ませんでした。
音の出ない楽器に初めて出会いました。
アメリカのシカゴに行った時にヒビが入ってしまった事があります。
急激な乾燥が一番良くないです。
音も乾燥していいる時と湿気が多い時で多少音が違ってきます。
*「ゆりかごの歌」 日本の童謡 歌うような感じの作品、優しい感じの音。
尺八は荒々しい音が出る楽器と言うイメージがあるので、優しい音が出る楽器だと言う事を聞いてもらいたいと思ってこのようなものを出しました。
祖母、母もお琴を教えていたので、日本の音は常に身近にありました。
お琴よりは笛が好きでした。
祖父の友達が尺八をやりたいと言う事でついでにやったらと言われて始めました。
2020年にはデビュー20周年になります。
父はクラシック、ジャズなどの洋楽も好きでしたので、そちらの方の音楽も耳に入ってきていまして、いいものはいいと言う思いはありました。
日本の音とは、竹林を通る風の音、あの音はとても印象深いです。
心が整って行くような思いがあります。
大伴家持の有名な歌で
「わが宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかも」と言う歌がありますが、「かそけき」 ひそやかなとか微妙なと言う意味ですが、ああいう音の変化を楽しめるのが日本人ならではないかなと思います。
竹林で演奏したこともあります。
*「最上川舟歌」 歌 伊藤多喜雄
大地から湧き出てくる歌と言う感じがして民謡の力強さを感じます。
古典を大事にするからこそ、新しい事をやって古典に導いてゆく。
古典もできた当時は最新の音楽であったので、良いからこそ時代を越えて伝わっていったと思っているので、人間にとって大切なものが含まれていると思います。
来年20周年になりますが、初心にかえって自分の音楽を見つめ直して、次のステップアップをしていきたいと思います。
*「東風(こち)」 日本の音楽を西に向かって吹きたいと言う思いで作った曲です。
案内役 能楽師狂言方 大藏基誠
色んな分野の方と共演をしていて坂本龍一さん、野村萬斎さん、サックス奏者のケニー・Gさん、ウイーンフィルなど様々な方とコラボレーションしています。
自分の中にないものを知る事が出来ることと、音楽を共有できることが嬉しいです。
自分の音楽の引き出しが増えて行く事も嬉しいです。
共演者とは自分が思い付く時と、たまたまのご縁があった時などがあります。
尺八の音はフルートに近いと思います。
尺八は音色が多彩だなあと思います。
西洋の音楽は綺麗な音を出す事が普通メインですが、尺八は雑音みたいなものも音楽の一つとしてとらえられてきたので、それが面白いと言う事で逆に西洋の人達が取り入れてやったりしています。
ウイーンフィルの人と共演した時に、私をずーっと見ていてたフルートの人が真似をしてきました。
音で会話できる面白さがあります。
*「実のり」 ウイーンフィルのコンサートマスターのフォルクハルト・シュトイデ(ヴァイオリニスト)という方と初めて共演した時に、是非これからも共演したいと言う事で、共演するようになってそれで作曲した曲です。
これはウイーンのホーフブルク宮殿の中にある教会でウイーンフィルの人達と録音しました。
ここでシューベルトが歌ったんだよとか、ブルックナーが指揮をしたんだとか、教科書に出てくるような歴史的な方々の名前がどんどん出てくるような場所で演奏できたということはテンションが上がりました。
作曲は僕がしました。
ヴァイオリン、チェロの部分、アレンジは大島ミチルさんにお願いしました。
僕もフルートの研究をして、別なところから見る事が出来て勉強になりました。
尺八のノイジーな音、風の音が加わったり、そこにまとっているものが日本らしさだったりするものがあるかもしれません。
月も色々な言葉で表現したり、色も細かく表現したり、日本の繊細さがあると思います。
尺八には大きく分けて技が3つあります、息の技、指の技、首の技。
息の技は音色の変化、綺麗な音から力強い音迄出す。
指の技は半分開けたり、1/4開けたりすることで一つの穴で4つの音が出ます。
首の技は首を横に振るとビブラート、縦に振ると音の高さが変わります。
3つをコンビネーションして音を作っていきます。
尺八はなかなか音が出なくて、始めた時は1週間音が出ませんでした。
音の出ない楽器に初めて出会いました。
アメリカのシカゴに行った時にヒビが入ってしまった事があります。
急激な乾燥が一番良くないです。
音も乾燥していいる時と湿気が多い時で多少音が違ってきます。
*「ゆりかごの歌」 日本の童謡 歌うような感じの作品、優しい感じの音。
尺八は荒々しい音が出る楽器と言うイメージがあるので、優しい音が出る楽器だと言う事を聞いてもらいたいと思ってこのようなものを出しました。
祖母、母もお琴を教えていたので、日本の音は常に身近にありました。
お琴よりは笛が好きでした。
祖父の友達が尺八をやりたいと言う事でついでにやったらと言われて始めました。
2020年にはデビュー20周年になります。
父はクラシック、ジャズなどの洋楽も好きでしたので、そちらの方の音楽も耳に入ってきていまして、いいものはいいと言う思いはありました。
日本の音とは、竹林を通る風の音、あの音はとても印象深いです。
心が整って行くような思いがあります。
大伴家持の有名な歌で
「わが宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかも」と言う歌がありますが、「かそけき」 ひそやかなとか微妙なと言う意味ですが、ああいう音の変化を楽しめるのが日本人ならではないかなと思います。
竹林で演奏したこともあります。
*「最上川舟歌」 歌 伊藤多喜雄
大地から湧き出てくる歌と言う感じがして民謡の力強さを感じます。
古典を大事にするからこそ、新しい事をやって古典に導いてゆく。
古典もできた当時は最新の音楽であったので、良いからこそ時代を越えて伝わっていったと思っているので、人間にとって大切なものが含まれていると思います。
来年20周年になりますが、初心にかえって自分の音楽を見つめ直して、次のステップアップをしていきたいと思います。
*「東風(こち)」 日本の音楽を西に向かって吹きたいと言う思いで作った曲です。
2019年6月16日日曜日
荻澤紀子(牛肉卸会社代表) ・【"美味しい"仕事人】牛肉の価値を引き出す
荻澤紀子(牛肉卸会社代表) ・【"美味しい"仕事人】牛肉の価値を引き出す
フレンチやイアリアンのシェフたちはサシの入った肉(霜降り肉)よりも赤身の肉を好む人が増えているそうです。
食通にも濃く深い赤身の味わいが注目されています。
東京の牛肉卸会社代表の荻澤さんは全国各地の牧場に通って、消費者の声を生産現場へ生産者の思いを消費者に伝えながらより価値の高い牛肉を提供しています。
これまでおいしくないと言うのが定説だった乳牛や繁殖牛など、子牛を産む経産牛にもスポットライトを当てて新たな価値を生み出しています。
そのためには牛一頭一頭の個性をしっかりと把握することだそうです。
サシの入ったとろける肉(霜降り肉)と言うのは、黒毛和牛ですね。
それは一つの価値観として大事な求められる日本のすき焼き、シャブシャブだったりには一番ぴったりのお肉になりますが、違った価値観のお肉も求められる部分もあります。
ステーキのように噛みしめる美味さに関しては、赤身のおいしさを求める方がいます。
ヨーロッパで修行して戻ってこられた方々が、赤身を追求したいがものがなかった。
繁殖牛は同じ黒毛和牛でも環境が違うので、赤身の力強さ、味わいの深みとかが出てくる牛種があります。
肉を付けたり肉に味わいを乗せるために一定期間餌をあげて育て上げる期間を持つ牛もあります。
以前はメインと言う感覚で扱われないことが有った部分だったりしています。
価値が見直されてきています。
乳牛にしても経産牛にしても健康に育てられてきた牛たちです。
黒毛和牛に比べて運動したりして筋肉質の部分もあるが、それを時間を置いてあげることで熟成させてベストの状態で次の料理人さん、消費者に渡す事を目標にしてやっています。
可愛いその子たちの命をいただくからには、最大限みんなに求められてほしいので愛情だけはたっぷり注ぎたいと思っています。
大学を卒業後、飲食店の世界に入りました。
食べることが好きでしたし、ご飯を食べている時は心が緩む時だと思います、そういったことに魅力を感じました。
牧場直営の都内の焼肉店で働いていた時に、枝肉の営業をしてくれないかと言われました。
食肉市場にいって枝肉の大きさ、落札スピード、金額などにすごくショックを受けました。
岩手の牧場にも連れて行ってもらいましたが、牛の可愛さ、働いている人達の姿など見て
消費現場とのギャップを感じて、情報が遮断されているような感じがしました。
地域でのビールかす、おからなど食料副産物を牛は消化してくれるので、アミノ酸など多く含んでいるので、牛にとっては良い餌になります。
地域のものを食べさせたいと言う事で立ちあげた餌会社がありますが、そこでの牛肉を東京で販売できないかと、東京事務所を立ち上げないかと言う話がありました。(7年前)
段々注文が入るようになりました。
5つの牧場主の一つ田村牧場の短角牛を販売することになりました。
赤身肉の販売の難しさは経験しました。
歯ごたえのある部位で、みんなが欲しいと言ってくれる赤身の部位が限られていると言う事に気付きました。
或る方からアドバイスがあり、短角みたいな肉は枝肉の状態で1カ月位吊るしておけば美味くなるんじゃないでしょうか、と言われました。
繊維をほぐしてやることでステーキとして使えるのではないかと言われ、それをすることによって突破口になりました。
生産、販売、料理それぞれの段階で、愛情をこめてベストをつくすと凄くいい状態で皆さんの口に入るんだろうなと言う事を、その経験で実感しました。
経産牛、赤身肉もその後チャレンジしていきました。
出来るだけ生産者の処に行って、理解できるように心がけています。
牛種によっても違いますし、一頭一頭性格が違います。
枝肉をみた時に愛情を掛けられてきたと言う事が判ります。
愛情を掛けられた子は細胞の中に愛情が入っていると思います。
お届する店にはいきますし、そのお肉について料理人さんと語らいます。
求められるものとのマッチングだと思います。
生産現場にも料理人さんとかと一緒にフィードバックさせて、みんなで作り上げて行く感覚がチームとなって、餌、育て方、肉の熟成など伝えて行くことで、面白い取り組みになっていると感じます。
伝書バトになってやっています。
岩手は畜産がないと成り立たないと、或る牧場主が言っていました。
草を牛にあげて循環させてゆくことで経済が成り立つ訳です。
黒毛和牛は草だけだと駄目なので、本来牛は草食動物なので赤身肉の場合は草を与えることで、良いものになると思います。
次の世代がやってみようかと言うように畜産業を夢のあるものにしたいと思っています。
フレンチやイアリアンのシェフたちはサシの入った肉(霜降り肉)よりも赤身の肉を好む人が増えているそうです。
食通にも濃く深い赤身の味わいが注目されています。
東京の牛肉卸会社代表の荻澤さんは全国各地の牧場に通って、消費者の声を生産現場へ生産者の思いを消費者に伝えながらより価値の高い牛肉を提供しています。
これまでおいしくないと言うのが定説だった乳牛や繁殖牛など、子牛を産む経産牛にもスポットライトを当てて新たな価値を生み出しています。
そのためには牛一頭一頭の個性をしっかりと把握することだそうです。
サシの入ったとろける肉(霜降り肉)と言うのは、黒毛和牛ですね。
それは一つの価値観として大事な求められる日本のすき焼き、シャブシャブだったりには一番ぴったりのお肉になりますが、違った価値観のお肉も求められる部分もあります。
ステーキのように噛みしめる美味さに関しては、赤身のおいしさを求める方がいます。
ヨーロッパで修行して戻ってこられた方々が、赤身を追求したいがものがなかった。
繁殖牛は同じ黒毛和牛でも環境が違うので、赤身の力強さ、味わいの深みとかが出てくる牛種があります。
肉を付けたり肉に味わいを乗せるために一定期間餌をあげて育て上げる期間を持つ牛もあります。
以前はメインと言う感覚で扱われないことが有った部分だったりしています。
価値が見直されてきています。
乳牛にしても経産牛にしても健康に育てられてきた牛たちです。
黒毛和牛に比べて運動したりして筋肉質の部分もあるが、それを時間を置いてあげることで熟成させてベストの状態で次の料理人さん、消費者に渡す事を目標にしてやっています。
可愛いその子たちの命をいただくからには、最大限みんなに求められてほしいので愛情だけはたっぷり注ぎたいと思っています。
大学を卒業後、飲食店の世界に入りました。
食べることが好きでしたし、ご飯を食べている時は心が緩む時だと思います、そういったことに魅力を感じました。
牧場直営の都内の焼肉店で働いていた時に、枝肉の営業をしてくれないかと言われました。
食肉市場にいって枝肉の大きさ、落札スピード、金額などにすごくショックを受けました。
岩手の牧場にも連れて行ってもらいましたが、牛の可愛さ、働いている人達の姿など見て
消費現場とのギャップを感じて、情報が遮断されているような感じがしました。
地域でのビールかす、おからなど食料副産物を牛は消化してくれるので、アミノ酸など多く含んでいるので、牛にとっては良い餌になります。
地域のものを食べさせたいと言う事で立ちあげた餌会社がありますが、そこでの牛肉を東京で販売できないかと、東京事務所を立ち上げないかと言う話がありました。(7年前)
段々注文が入るようになりました。
5つの牧場主の一つ田村牧場の短角牛を販売することになりました。
赤身肉の販売の難しさは経験しました。
歯ごたえのある部位で、みんなが欲しいと言ってくれる赤身の部位が限られていると言う事に気付きました。
或る方からアドバイスがあり、短角みたいな肉は枝肉の状態で1カ月位吊るしておけば美味くなるんじゃないでしょうか、と言われました。
繊維をほぐしてやることでステーキとして使えるのではないかと言われ、それをすることによって突破口になりました。
生産、販売、料理それぞれの段階で、愛情をこめてベストをつくすと凄くいい状態で皆さんの口に入るんだろうなと言う事を、その経験で実感しました。
経産牛、赤身肉もその後チャレンジしていきました。
出来るだけ生産者の処に行って、理解できるように心がけています。
牛種によっても違いますし、一頭一頭性格が違います。
枝肉をみた時に愛情を掛けられてきたと言う事が判ります。
愛情を掛けられた子は細胞の中に愛情が入っていると思います。
お届する店にはいきますし、そのお肉について料理人さんと語らいます。
求められるものとのマッチングだと思います。
生産現場にも料理人さんとかと一緒にフィードバックさせて、みんなで作り上げて行く感覚がチームとなって、餌、育て方、肉の熟成など伝えて行くことで、面白い取り組みになっていると感じます。
伝書バトになってやっています。
岩手は畜産がないと成り立たないと、或る牧場主が言っていました。
草を牛にあげて循環させてゆくことで経済が成り立つ訳です。
黒毛和牛は草だけだと駄目なので、本来牛は草食動物なので赤身肉の場合は草を与えることで、良いものになると思います。
次の世代がやってみようかと言うように畜産業を夢のあるものにしたいと思っています。
2019年6月15日土曜日
宮川 徏 ・「百舌鳥(モズ)古墳群 破壊とベールのはざまで」
宮川 徏 ・「百舌鳥(モズ)古墳群 破壊とベールのはざまで」
昭和30年代古墳保存運動の先頭に立った
先月大阪府百舌鳥(モズ)古市古墳群に付いて、ユネスコの諮問機関が世界文化遺産に登録することがふさわしいとする勧告を纏めて7月上旬にアゼルバイジャンで開かれるユネスコの委員会でこれらの古墳群が正式に世界文化遺産に登録する見通しになりました。
大阪府南部の堺市にある百舌鳥(モズ)古墳群とたびき市と藤井寺市にまたがる古市古墳群には前方後円墳やホタテ貝のような形をした古墳、丸い形をした円墳、四角い方墳など大小さまざまな古墳があります。
大きな古墳のそばには陪塚(ばいずか、ばいちょう)という小型の古墳も点在しています。
今からおよそ1600年前の4世紀後半から5世紀後半に作られたとされるこれらの古墳には誰が葬られ、どうしてこの地に作られたのか、解明されていない部分も沢山あります。
戦後幾つもの古墳が開発のもとに破壊される現場を目撃し保存運動の先頭に立った、歯科医師の宮川さん86歳のお話です。
仁徳天皇陵(大仙陵古墳)、鳥居と石垣が見えるだけで墳丘はこんもりしたただの森みたいです。
墳丘の長さは486m、後円部の長径が243mです。
最近の宮内庁では500mを越えるのではないかという話もあります。
上空から見ると形は鍵穴型になっていますが、一番の謎だと思います。
後円部は限りなく正円に近く地割をする、円に台形の前方部を付けた複合図形になっています。
人工の山に葺き石をしいたり、テラスと言われる平らな部分には埴輪が並んでいました。
或る意味異様な外見をしていた。
立ち入り禁止になっていますが、去年11月に外堤部分を見る機会がありました。
堺市の街の中によくこんな自然が残っているなと言う感じでした。
仁徳天皇陵の北1kmには反正天皇陵古墳(田出井山古墳)、履中天皇陵古墳(上石津ミサンザイ古墳)がありこれも300mを越える大きな古墳で、南北に向いている。
ほかに御廟山古墳、いたすけ古墳、土師ニサンザイ古墳など墳丘300m位の大きな古墳がありますが、ほぼ東西に向いています。
10km東には古市古墳群が広がっている。
古市古墳群の一番大きな誉田御廟山古墳(伝応神陵)は大仙陵古墳とほぼ同じ緯度で並ぶ、ばらばらに作ったわけではなくて、グランドデザインがあって東西に巨大古墳群を配置したと考えられる。
古墳は当時の倭の人達の知的遺産でもあります。
百舌鳥(モズ)古墳群と古市古墳群には200以上の古墳が築かれて、89が今残っている。
古墳時代の特に前方後円墳を中心とした日本のお墓の慣習というのは生きている頃から作られていたものではないかと考えられている。
古墳の大きさによって権力、首長の持っている霊的な力、これが古代では重要な意味があったと考えられるので、それを目に見える形にするというのは、身分証明みたいなことであったと思われる。
前方後円墳の設計には厳密なルールがあって、後円部は限りなく円に近く作る。
日輪(太陽)を象徴していると思う。
台形部分は水の祭祀に関係する部分だと思います。
水田稲作が社会の基盤となる国だったのでその祭祀を象徴した形をしていると考えています。(宮川説)
前方後円墳の特徴は後円部に直径を基準にして前方部の長さを決めている。
百舌鳥(モズ)古墳群と古市古墳群には二つの大王の系統があったのではないかと考えられる。(宮川説)
大王に付随する者も職能まで判るようになってきたかもしれない。
子どものころには古墳に興味を持つようになりました、当時大仙陵古墳の周りはほとんど田んぼでした。
外堤の斜面に入っても叱られなかった。(今は立ち入り禁止)
開発の波が進んで来て、一番最初に破壊されたのが七観山古墳、そこから鉄の錆び付いた矢じりを中学2年生の時に発見しました。
それから京都大学の大きな調査が行われて、武器、鎧とが出てきて特に問題になったのが鎧のところに金メッキをした帯金具がついていた、初めて鎧のところにつけることが判った資料で、ほかに5世紀の前半ごろにはあぶみが入ってきていたのが判った。
昭和25年に台風が来て高潮で水浸しになり、復旧の為に七観山古墳の土を道路復旧に使う事になり、全部無くなってしまいました。
その時に沢山の刀が出てきました。
大塚山古墳も破壊される、墳丘長167m 後円部が直径100m近い大きな古墳でしたが、土取りで戦後4,5年のころに後円部まで迫っていた。
同志社大学の大学生の 森浩一さんをリーダーにして、僕は高校2年生だったが一緒に調査をしました。
鍵型に曲がった鉄の武器が出てきましたが、日本でもこの一点でした。
昭和30年、いたすけ古墳が壊されると言う情報が入って来る。
なんとしてでも残さないといけないと話し合いました。
いたすけ古墳を守る会を結成し、資料を作って、関係者に送付したり新聞に投稿したりしました。
教職員組合がいたすけ古墳を買い戻そうという10円カンパも始めました。
労働組合、市民に訴えかける。
文化庁、大阪教育委員会に仮指定の協議をしました。
社会情勢が緊迫した時代(血のメーデー事件、第五福竜丸被爆、立川の基地反対闘争など)だったので、私たちの保存運動が政治運動化するのを恐れてなのか、沈静化をはかってとんとん拍子に進みました。
三笠宮が堺市に視察にみえました。
そのおかげで堺市が立て替え払いで買い上げて、後に国と大阪府の補助金を貰って対応しました。
(いたすけ古墳は民間の土地になっていた。)
1975年には土師ニサンザイ古墳に問題が起きる。
規模と設計から行くと大王としてすじ目にあたる人物と思われたが、宮内庁の指定では陵墓参考地と言う非常に低く位置付けられた。
濠を埋め立て調査もせずにダンプが入ってきて工事が始まった。
宮内庁の敷地とそうでない敷地が混在していた。
土師ニサンザイ古墳のお壕の部分を整えますと言って工事が始まりましたが、原型を破壊してしまって、考古学会、歴史学会が連名で陵墓の保護と公開を求める声明を発表する。
濠のあたりと古墳のヘリのあたりを学会関係者に公開することになった。
我々若い人が必死になって何とか残そうとしたのが文化財保護運動のはじまりでした。
いたすけ古墳は65年前に仲間と共に守った古墳で思い出深い古墳です。
1955年ごろの航空写真があるが、くびれの部分の処に橋の工事が始まって完成したらダンプがはいっていたであろうが、現在橋の部分だけが残っているが、古墳をつぶそうとした愚かな行為を象徴していると言う事でこれも残そうと提案し現在も残っています。
壕はそのままにして古墳だけつぶして住宅にしようとしていました。
「いたすけ」という名前は以前所有していた大きなお百姓さんが持っていた名前かもしれないが、調べようがありません。
誰が葬られているのか判らない古墳が多くあります。
今は情報公開と調査の見学などもできる時代になってきたので、是非やってもらいたいと思います。
世界遺産は到達点ではなくて、むしろこれからが大事な時だと思います。
全体像をどうまとめて行くかと言う、縦割りではないやりかたで、宮内庁、文化庁、自治体とか各分野集まって協議して進めてもらいたい。
昭和30年代古墳保存運動の先頭に立った
先月大阪府百舌鳥(モズ)古市古墳群に付いて、ユネスコの諮問機関が世界文化遺産に登録することがふさわしいとする勧告を纏めて7月上旬にアゼルバイジャンで開かれるユネスコの委員会でこれらの古墳群が正式に世界文化遺産に登録する見通しになりました。
大阪府南部の堺市にある百舌鳥(モズ)古墳群とたびき市と藤井寺市にまたがる古市古墳群には前方後円墳やホタテ貝のような形をした古墳、丸い形をした円墳、四角い方墳など大小さまざまな古墳があります。
大きな古墳のそばには陪塚(ばいずか、ばいちょう)という小型の古墳も点在しています。
今からおよそ1600年前の4世紀後半から5世紀後半に作られたとされるこれらの古墳には誰が葬られ、どうしてこの地に作られたのか、解明されていない部分も沢山あります。
戦後幾つもの古墳が開発のもとに破壊される現場を目撃し保存運動の先頭に立った、歯科医師の宮川さん86歳のお話です。
仁徳天皇陵(大仙陵古墳)、鳥居と石垣が見えるだけで墳丘はこんもりしたただの森みたいです。
墳丘の長さは486m、後円部の長径が243mです。
最近の宮内庁では500mを越えるのではないかという話もあります。
上空から見ると形は鍵穴型になっていますが、一番の謎だと思います。
後円部は限りなく正円に近く地割をする、円に台形の前方部を付けた複合図形になっています。
人工の山に葺き石をしいたり、テラスと言われる平らな部分には埴輪が並んでいました。
或る意味異様な外見をしていた。
立ち入り禁止になっていますが、去年11月に外堤部分を見る機会がありました。
堺市の街の中によくこんな自然が残っているなと言う感じでした。
仁徳天皇陵の北1kmには反正天皇陵古墳(田出井山古墳)、履中天皇陵古墳(上石津ミサンザイ古墳)がありこれも300mを越える大きな古墳で、南北に向いている。
ほかに御廟山古墳、いたすけ古墳、土師ニサンザイ古墳など墳丘300m位の大きな古墳がありますが、ほぼ東西に向いています。
10km東には古市古墳群が広がっている。
古市古墳群の一番大きな誉田御廟山古墳(伝応神陵)は大仙陵古墳とほぼ同じ緯度で並ぶ、ばらばらに作ったわけではなくて、グランドデザインがあって東西に巨大古墳群を配置したと考えられる。
古墳は当時の倭の人達の知的遺産でもあります。
百舌鳥(モズ)古墳群と古市古墳群には200以上の古墳が築かれて、89が今残っている。
古墳時代の特に前方後円墳を中心とした日本のお墓の慣習というのは生きている頃から作られていたものではないかと考えられている。
古墳の大きさによって権力、首長の持っている霊的な力、これが古代では重要な意味があったと考えられるので、それを目に見える形にするというのは、身分証明みたいなことであったと思われる。
前方後円墳の設計には厳密なルールがあって、後円部は限りなく円に近く作る。
日輪(太陽)を象徴していると思う。
台形部分は水の祭祀に関係する部分だと思います。
水田稲作が社会の基盤となる国だったのでその祭祀を象徴した形をしていると考えています。(宮川説)
前方後円墳の特徴は後円部に直径を基準にして前方部の長さを決めている。
百舌鳥(モズ)古墳群と古市古墳群には二つの大王の系統があったのではないかと考えられる。(宮川説)
大王に付随する者も職能まで判るようになってきたかもしれない。
子どものころには古墳に興味を持つようになりました、当時大仙陵古墳の周りはほとんど田んぼでした。
外堤の斜面に入っても叱られなかった。(今は立ち入り禁止)
開発の波が進んで来て、一番最初に破壊されたのが七観山古墳、そこから鉄の錆び付いた矢じりを中学2年生の時に発見しました。
それから京都大学の大きな調査が行われて、武器、鎧とが出てきて特に問題になったのが鎧のところに金メッキをした帯金具がついていた、初めて鎧のところにつけることが判った資料で、ほかに5世紀の前半ごろにはあぶみが入ってきていたのが判った。
昭和25年に台風が来て高潮で水浸しになり、復旧の為に七観山古墳の土を道路復旧に使う事になり、全部無くなってしまいました。
その時に沢山の刀が出てきました。
大塚山古墳も破壊される、墳丘長167m 後円部が直径100m近い大きな古墳でしたが、土取りで戦後4,5年のころに後円部まで迫っていた。
同志社大学の大学生の 森浩一さんをリーダーにして、僕は高校2年生だったが一緒に調査をしました。
鍵型に曲がった鉄の武器が出てきましたが、日本でもこの一点でした。
昭和30年、いたすけ古墳が壊されると言う情報が入って来る。
なんとしてでも残さないといけないと話し合いました。
いたすけ古墳を守る会を結成し、資料を作って、関係者に送付したり新聞に投稿したりしました。
教職員組合がいたすけ古墳を買い戻そうという10円カンパも始めました。
労働組合、市民に訴えかける。
文化庁、大阪教育委員会に仮指定の協議をしました。
社会情勢が緊迫した時代(血のメーデー事件、第五福竜丸被爆、立川の基地反対闘争など)だったので、私たちの保存運動が政治運動化するのを恐れてなのか、沈静化をはかってとんとん拍子に進みました。
三笠宮が堺市に視察にみえました。
そのおかげで堺市が立て替え払いで買い上げて、後に国と大阪府の補助金を貰って対応しました。
(いたすけ古墳は民間の土地になっていた。)
1975年には土師ニサンザイ古墳に問題が起きる。
規模と設計から行くと大王としてすじ目にあたる人物と思われたが、宮内庁の指定では陵墓参考地と言う非常に低く位置付けられた。
濠を埋め立て調査もせずにダンプが入ってきて工事が始まった。
宮内庁の敷地とそうでない敷地が混在していた。
土師ニサンザイ古墳のお壕の部分を整えますと言って工事が始まりましたが、原型を破壊してしまって、考古学会、歴史学会が連名で陵墓の保護と公開を求める声明を発表する。
濠のあたりと古墳のヘリのあたりを学会関係者に公開することになった。
我々若い人が必死になって何とか残そうとしたのが文化財保護運動のはじまりでした。
いたすけ古墳は65年前に仲間と共に守った古墳で思い出深い古墳です。
1955年ごろの航空写真があるが、くびれの部分の処に橋の工事が始まって完成したらダンプがはいっていたであろうが、現在橋の部分だけが残っているが、古墳をつぶそうとした愚かな行為を象徴していると言う事でこれも残そうと提案し現在も残っています。
壕はそのままにして古墳だけつぶして住宅にしようとしていました。
「いたすけ」という名前は以前所有していた大きなお百姓さんが持っていた名前かもしれないが、調べようがありません。
誰が葬られているのか判らない古墳が多くあります。
今は情報公開と調査の見学などもできる時代になってきたので、是非やってもらいたいと思います。
世界遺産は到達点ではなくて、むしろこれからが大事な時だと思います。
全体像をどうまとめて行くかと言う、縦割りではないやりかたで、宮内庁、文化庁、自治体とか各分野集まって協議して進めてもらいたい。
2019年6月14日金曜日
高田勇紀夫(保育士) ・オジイちゃん保育士、大人気!
高田勇紀夫(保育士) ・オジイちゃん保育士、大人気!
67歳、長年外資系のコンピューター会社に勤務し60歳の定年後、待機児童問題や保育士不足が深刻化することに心を痛めて一念発起し、保育士の国家試験に挑戦、見事合格し一昨年から都内の認可保育所で新米の爺さん保育士として活躍しています。
還暦を過ぎて高田さんを保育士の道へかりたてたのはなんだったのか、保育士になるためにどんな難関を乗り越えたのか、保育士の一日はどんな様子なのか、子どもたちや保護者達とのふれあいの中での喜びなどを伺いました。
保育所は女性の職場で特にシニアの男性保育はほとんどいません。
「ジジ先生と呼んでほしい」と最初の日に子どもたちに言いました。
外資系のコンピューター会社で営業、本社、工場、海外など37年務めて定年退職しました。
待機児童の問題が雑誌、新聞に取り上げているのを目にして、ショックを受けて自分が少しでも役に立てればと保育士を目指すきっかけになりました。
20代~40代、自分の子どもの子育ては妻任せで、反省が湧きあがってきて、他人の子どもですが贖罪の身を持って保育士を目指した、この2点です。
保活、保育所に入るための活動ですが、始めて知りました。
若いお母さんにとって大変重要な活動だと段々判ってきました。
保育士は国家資格で二つの道がある事が判りました。
政府から認定された大学、短大を卒業することで自動的に取れる道と
国家資格の試験、全国保育士養成協議会の試験に合格する道、この二つがあります。
私は後者の道を選びました。
通信講座を申し込んだが、9科目あり全部合格するということで吃驚しました。
そのほかにも栄養学、病気、保育にあたる法律、書類もあり、それを合格しても実技があり、音楽、言語、造形のうち二つが合格しないと保育士にはたどり着かない。
合格して保育証が届いた時には嬉しくて涙が出ました。(65歳)
1年1カ月かかり、多い時には8時間以上勉強しました。
自分の働く保育所探しに第二の壁がありました。
仲介会社がありホームページを開けて登録しようとすると、59歳という制限にぶち当たってしまいました。
ホームページをあきらめて、履歴書、提案書を書き、現役時代に自分が書いた本を同封して、各仲介会社に送りました。
二つの保育園と面接をして、今勤めている保育園に行くことになりました。
出来れば自由度の高い新設の保育園に行きたいと思っていました。
朝8時~5時までの9時間の勤務になっていますが、他に自分のやりたいこともありますので、月、火、水の3日間で契約しました。
2017年4月からスタートしました。
ここの保育園は7時15分から始まり、夜の8時過ぎまでお子さんを預かります。
子どもたちの体調などを観察しています。
おもちゃを持って遊んだりしますが、一緒に遊んだり本を読んであげたりします。
保護者との交換ノートに来た事の印のシール貼りをしたりします。
園庭での遊び、お絵描き、粘土遊びなどをしているうちに11時になりお昼ごはんの時間になりご飯を食べます。
3時頃までお昼寝をしますが、寝付きの悪い子には背中を叩いたりして寝かせつけます。
10分ごとに間違いなく寝ているかどうかとか、寝姿を確認して正しい姿勢に直したりします。
起きてトイレに向かわせておやつの時間になります。
おねしょをする子もいるのでその対応もします。
おやつを食べ終わるといろいろな遊びをしたりしています。
保護者が三々五々やってきますので、親が来ると子どもたちは本当にうれしそうにしていて、そのやり取りが保育士としてやってよかったなあと感じる瞬間です。
7,8時まで続きます。
迎えが遅い子には補食があります。
「ジジ先生お早うございます」、と言って跳びついて来る時などには喜びを感じます。
子どもの成長を感じたり、「ジジ先生、大好きだよ」と言われた瞬間には本当にやってて良かったなあと思う瞬間です。
保護者は息子と同じような世代ですが、朝「先生よろしくお願します」と言われて保護者が職場に向かってゆく後ろ姿を見ると、自分は頼られていると言う気持ちを持ちます。
課題を持っているお子さんもいますが、相談に乗って励ました時に保護者の方が涙ぐんでいる時に、役に立って保育士になってよかったなと思います。
運動会、発表会などで子どもの成長、あるいは普段見たことのない表情を見た時の保護者の方は、凄く喜びを感じていてそういった光景を見ると本当に嬉しいです。
3年目に入った所です。
英語は出来るので外国人の保護者に対しては周りから頼りにされます。
クイズ形式で日本のマナー、言葉を覚えてもらうと言う工夫をしてきました。
男性の保育士は比率は5%ぐらいです。
若い世代も保育士に挑戦してもらいたいと思いますが、経験豊富なシニア世代も保育士の数を増やすうえでも挑戦してもらいたいと思います。
妻は本当にできるんですかと疑問の目で見ていましたが、ここまで来て信頼が回復されつつあるのではないかと思います。
自分の息子にはものを与えたりしていましたが、後で言われましたが物よりも本当はキャッチボールがしたかったと言われました。
息子からは今はよく頑張っていると応援されます。
保育士の待遇改善が必要であると思いますし、女性の保育士は忙しくて伴侶との出会いがあまり無いので、結婚のマッチングのお手伝いみたいなものもできないものかと思っているので、そこに向けてお手伝いをしたいと思っています。
30年以上テニスはやっているので、健康維持管理の意味でも続けて行きたいし、映画もみて行きたい。
8000本見てきて、パソコンにタイトル、監督、主演、概要、受賞記録など、私の5段階評価など記録として残しています。
身体はテニス、心は映画、この二本立てで健康を維持していきたいと思っています。
67歳、長年外資系のコンピューター会社に勤務し60歳の定年後、待機児童問題や保育士不足が深刻化することに心を痛めて一念発起し、保育士の国家試験に挑戦、見事合格し一昨年から都内の認可保育所で新米の爺さん保育士として活躍しています。
還暦を過ぎて高田さんを保育士の道へかりたてたのはなんだったのか、保育士になるためにどんな難関を乗り越えたのか、保育士の一日はどんな様子なのか、子どもたちや保護者達とのふれあいの中での喜びなどを伺いました。
保育所は女性の職場で特にシニアの男性保育はほとんどいません。
「ジジ先生と呼んでほしい」と最初の日に子どもたちに言いました。
外資系のコンピューター会社で営業、本社、工場、海外など37年務めて定年退職しました。
待機児童の問題が雑誌、新聞に取り上げているのを目にして、ショックを受けて自分が少しでも役に立てればと保育士を目指すきっかけになりました。
20代~40代、自分の子どもの子育ては妻任せで、反省が湧きあがってきて、他人の子どもですが贖罪の身を持って保育士を目指した、この2点です。
保活、保育所に入るための活動ですが、始めて知りました。
若いお母さんにとって大変重要な活動だと段々判ってきました。
保育士は国家資格で二つの道がある事が判りました。
政府から認定された大学、短大を卒業することで自動的に取れる道と
国家資格の試験、全国保育士養成協議会の試験に合格する道、この二つがあります。
私は後者の道を選びました。
通信講座を申し込んだが、9科目あり全部合格するということで吃驚しました。
そのほかにも栄養学、病気、保育にあたる法律、書類もあり、それを合格しても実技があり、音楽、言語、造形のうち二つが合格しないと保育士にはたどり着かない。
合格して保育証が届いた時には嬉しくて涙が出ました。(65歳)
1年1カ月かかり、多い時には8時間以上勉強しました。
自分の働く保育所探しに第二の壁がありました。
仲介会社がありホームページを開けて登録しようとすると、59歳という制限にぶち当たってしまいました。
ホームページをあきらめて、履歴書、提案書を書き、現役時代に自分が書いた本を同封して、各仲介会社に送りました。
二つの保育園と面接をして、今勤めている保育園に行くことになりました。
出来れば自由度の高い新設の保育園に行きたいと思っていました。
朝8時~5時までの9時間の勤務になっていますが、他に自分のやりたいこともありますので、月、火、水の3日間で契約しました。
2017年4月からスタートしました。
ここの保育園は7時15分から始まり、夜の8時過ぎまでお子さんを預かります。
子どもたちの体調などを観察しています。
おもちゃを持って遊んだりしますが、一緒に遊んだり本を読んであげたりします。
保護者との交換ノートに来た事の印のシール貼りをしたりします。
園庭での遊び、お絵描き、粘土遊びなどをしているうちに11時になりお昼ごはんの時間になりご飯を食べます。
3時頃までお昼寝をしますが、寝付きの悪い子には背中を叩いたりして寝かせつけます。
10分ごとに間違いなく寝ているかどうかとか、寝姿を確認して正しい姿勢に直したりします。
起きてトイレに向かわせておやつの時間になります。
おねしょをする子もいるのでその対応もします。
おやつを食べ終わるといろいろな遊びをしたりしています。
保護者が三々五々やってきますので、親が来ると子どもたちは本当にうれしそうにしていて、そのやり取りが保育士としてやってよかったなあと感じる瞬間です。
7,8時まで続きます。
迎えが遅い子には補食があります。
「ジジ先生お早うございます」、と言って跳びついて来る時などには喜びを感じます。
子どもの成長を感じたり、「ジジ先生、大好きだよ」と言われた瞬間には本当にやってて良かったなあと思う瞬間です。
保護者は息子と同じような世代ですが、朝「先生よろしくお願します」と言われて保護者が職場に向かってゆく後ろ姿を見ると、自分は頼られていると言う気持ちを持ちます。
課題を持っているお子さんもいますが、相談に乗って励ました時に保護者の方が涙ぐんでいる時に、役に立って保育士になってよかったなと思います。
運動会、発表会などで子どもの成長、あるいは普段見たことのない表情を見た時の保護者の方は、凄く喜びを感じていてそういった光景を見ると本当に嬉しいです。
3年目に入った所です。
英語は出来るので外国人の保護者に対しては周りから頼りにされます。
クイズ形式で日本のマナー、言葉を覚えてもらうと言う工夫をしてきました。
男性の保育士は比率は5%ぐらいです。
若い世代も保育士に挑戦してもらいたいと思いますが、経験豊富なシニア世代も保育士の数を増やすうえでも挑戦してもらいたいと思います。
妻は本当にできるんですかと疑問の目で見ていましたが、ここまで来て信頼が回復されつつあるのではないかと思います。
自分の息子にはものを与えたりしていましたが、後で言われましたが物よりも本当はキャッチボールがしたかったと言われました。
息子からは今はよく頑張っていると応援されます。
保育士の待遇改善が必要であると思いますし、女性の保育士は忙しくて伴侶との出会いがあまり無いので、結婚のマッチングのお手伝いみたいなものもできないものかと思っているので、そこに向けてお手伝いをしたいと思っています。
30年以上テニスはやっているので、健康維持管理の意味でも続けて行きたいし、映画もみて行きたい。
8000本見てきて、パソコンにタイトル、監督、主演、概要、受賞記録など、私の5段階評価など記録として残しています。
身体はテニス、心は映画、この二本立てで健康を維持していきたいと思っています。
2019年6月13日木曜日
東大作(上智大学教授) ・平和づくりに生きる
東大作(上智大学教授) ・平和づくりに生きる
東京生れの東さんは小さいころから両親の被爆体験を聞いて育ち、将来の夢は平和作りに携わる仕事でした。
大学を卒業後NHKの報道局でディレクターとして番組を制作していましたが、平和な国際社会作りに直接かかわる仕事がしたいと35歳で退職します。
カナダの大学院に進み、修士と博士号を修得するかたわら、2009年に国連アフガニスタン支援ミッション和解再統合チームリーダーを務めました。
その後ニューヨークの国連日本政府代表部の講師、参事官などを経て現在大学教授として平和構築の提言を発信し続けています。
今年2月から3月にかけて外務大臣の委嘱による公務派遣で、イラクや南スーダンなどを訪れ現地で講演や重要人物と話合いを続けてきた東さんに伺いました。
日本の外務大臣の委嘱による公務派遣でイラク、トルコ、エチオピア、南スーダンに行って講演をさせて頂きながら、現地の指導者と話をする機会がありました。
イラクでは去年の12月まで首相だったハイダル・アル=アバーディさんと1時間位インタビューしたり、その前に長く首相を務めたヌーリー・マーリキーさんに話を聞いたり、その前の首相のイヤード・アッラーウィーさんなどなどと話をしました。
今も指導者として影響力を持っている方たちです。
歴史的なイラクの平和作りの難しさ大変さなどや、現在の政府の課題などについてもじっくり話を聞くことができました。
去年の5月に国政選挙があって新しい首相が決まってアーディル・アブドゥルマフディーさんが首相になりました。
シーア派、スンニ派両方が支援できる首相と言う事になりました。
宗派を原因とする対立は2,3年前に比べると少なくなってきた。
安定した国に進んでゆく可能性が見えてきてるところではないかと思います。
2011年にスーダンから独立して新しく南スーダンが出来る。
その後戦闘が繰り返されたりして安定した状況が続かなかったが、去年和平合意があり、その後に現地に入りました。
2013年末にはキール大統領とマチャル副大統領の間で戦闘が勃発して、全土が紛争になってしまった。
2016年から調査をしていましたが、2018年9月にキール大統領とマチャル副大統領が合意して、ほかの20位の反政府武装勢力にも声をかけて、微調整しながら合意を得ました。
和平合意がどう実施されているのかが、今回の大きな目的でもありました。
タバン・デン・ガイ第一副大統領、ロムロ内閣府担当大臣など閣僚レベルの人にもお会いしました。
PKO代表の方などにもお会いしました。
軍の統合と新しいキール大統領とマチャル副大統領の暫定内閣が作れるかどうか、これから半年をかけて見守っている状況だと思います。
ジュバ大学で講演をして学生との交流もしました。
「平和と安定に向けて」と言うテーマで行いました。
一番重要なのはインクルーシビティー、包括的に国を作っていけるかどうかと言う事だと思います。
キール大統領とマチャル副大統領が何処まで仲良く政権運営ができるかが争点だと思います。
日本が二人が議論できる席などについて仲介したり、場を提供できるのではないかとジュバ大学で話したりしました。
賛同の声は随分頂きました。
日本が軍隊を投入したりせずに、支援活動を積み上げてきた事が信頼を得ていることだと思います。
話し合いで物事を解決して行く場を設定してゆく役割、グローバルファシリテーターみたいな役割をしていくことが、今後の日本の外交の柱にしてもいいのではないかと思っています。
両親が広島出身で被爆していたので、被爆体験を聞いていました。
高校では文化祭の時には核兵器に関しる展示などをしていました。
大学を卒業後NHKの報道局でディレクターとして戦争、紛争に関す「クローズアップ現代」とか「NHKスペシャル」などの番組を制作していましたが、35歳の時にもうちょっと直接的に平和作りに関われる仕事に関われないのか悩みましたが、35歳の直前に
番組製作をしている時に、アナン国連事務総長とかとインタビューする機会があり、色々あこがれがあり、NHKを辞めてカナダの大学院に進み、修士と博士号を修得しました。
最初はいい成績がとれなかったが、論文の書き方などを教えてもらって、二学期からは1,2番の成績を取れるようになりました。
ニューヨークの国連本部に働く機会があり、或る方から平和に関する横断的に国連の仕事をするようなことをやったらいいのではないかと言われて、目標が見えたような気がしました。
4年間調査研究をして、アフガニスタン、東ティモールの現地調査をする事が出来てレポートとして発表したりする機会が出来たり、本を出版したりして、認められて2009年に国連アフガニスタン支援ミッションで勤務することになりました。
39歳の時にやった調査ではアフガニスタンにおける和解をすることに対して圧倒的に多い事が判りましたし、和解のプログラムを作って日本、国連、アメリカとかに入ってもらって、日本が主導的な役割を担って支援すべきだと本の中で提案していました。
政府関係者、外務大臣などと話す機会があり、政策として採用されて日本が50億円を和解基金を作るための最初のお金を出すという決定があり、他の国も出してくれることになり最終的に200億円集まりました。
国連側も喜んで、実務の仕事をして欲しいと言う事で、カブールで国連の政務官として仕事ができたのでラッキーだったと思います。
信頼関係を築く時には実際に顔を合わせて、本当に自分のことを真剣に考え理解してゆくものだと思います。
戦争になってしまう場合は対話、コミュニケーションをしなくなって、相手のアクション、行動を見て推理して考えるようになって、お互いが疑心暗鬼になってしまって戦闘になってしまうことはよくあります。
直接会って対話さえすれば戦闘は起こらないと言うような単純な話ではないが、少なくともよくする場合もあるのではないかと思っています。
日本のように70年以上も戦争をしていない国が仲介者となって、そういう当事者同士が共通の解決策を見出してゆく事のお手伝いをするようなことも、日本としは出来る場所でして行く事が良いのではないかと思います。
2014年にはニューヨークの国連日本政府代表部の公式参事官を務める。(2年間)
大学院などでは奨学金は貰えるが、家族を養っていかなくてはいけなかったので蓄えは底をついて行ってしまいました。
2009年にアフガニスタンに行って、戻ってきて40歳を過ぎていて、日本人で大学院生では大変で、幸い東大の准教授での応募で5年間いて、その間国連代表部に行かせてもらって、帰ってきて、また次を探さなければいけなかった。
どうなるかと思ったが2016年4月に上智大学グローバル教育センター(国際関係研究所兼務)に着任できました。
理想があっても継続的に続けて行く保証がないという現実はあります。
常に次の仕事を探さなくてはいけないという大変さはあります。
日本は組織で働いて居る時には尊敬されるが、肩書きの無い境遇になると厳しく見られる傾向があると思う。
やりたくても日本人が飛びだせる人が少なかったりする一つの原因になっていると思います。
シニアになってもシンクタンクとか受け入れる組織を作って、受け入れるところが出来ると安心できるのでいいと思います。
NHKを辞めて上智大学に行くまでの12年間は常に不安と向き合いながらきたことは事実です。
やってこられたのは心の底から自分が関心があって好きな分野なんだろうなと思います。
それが無いとずーっとは続けられないと思います。
平和に関する仕事を続けて、それなりに幸せなんじゃないかなと思えている事が大きいと思います。
残念ながら世界で多くの紛争が起きていて、6500万人ぐらいが難民とか国内避難民になっているが、ちょっとでもいいから学んだり知ったりすることから始めてもいいかなと思っています。
そういったことを重ねる中で自分でも関わって見たいと感じて貰えたら、自分としてどう関与していくかを考えて行くと言う事もあると思います。
人種的偏見とかを持たずに、同じ人間として敬意をもって接することが出来るかと言う事が重要だと思います。
日本が信頼されていると言う事は、上から目線で人を使うような付き合い方を現地でしてこなかったことは大きいと思います。
東京生れの東さんは小さいころから両親の被爆体験を聞いて育ち、将来の夢は平和作りに携わる仕事でした。
大学を卒業後NHKの報道局でディレクターとして番組を制作していましたが、平和な国際社会作りに直接かかわる仕事がしたいと35歳で退職します。
カナダの大学院に進み、修士と博士号を修得するかたわら、2009年に国連アフガニスタン支援ミッション和解再統合チームリーダーを務めました。
その後ニューヨークの国連日本政府代表部の講師、参事官などを経て現在大学教授として平和構築の提言を発信し続けています。
今年2月から3月にかけて外務大臣の委嘱による公務派遣で、イラクや南スーダンなどを訪れ現地で講演や重要人物と話合いを続けてきた東さんに伺いました。
日本の外務大臣の委嘱による公務派遣でイラク、トルコ、エチオピア、南スーダンに行って講演をさせて頂きながら、現地の指導者と話をする機会がありました。
イラクでは去年の12月まで首相だったハイダル・アル=アバーディさんと1時間位インタビューしたり、その前に長く首相を務めたヌーリー・マーリキーさんに話を聞いたり、その前の首相のイヤード・アッラーウィーさんなどなどと話をしました。
今も指導者として影響力を持っている方たちです。
歴史的なイラクの平和作りの難しさ大変さなどや、現在の政府の課題などについてもじっくり話を聞くことができました。
去年の5月に国政選挙があって新しい首相が決まってアーディル・アブドゥルマフディーさんが首相になりました。
シーア派、スンニ派両方が支援できる首相と言う事になりました。
宗派を原因とする対立は2,3年前に比べると少なくなってきた。
安定した国に進んでゆく可能性が見えてきてるところではないかと思います。
2011年にスーダンから独立して新しく南スーダンが出来る。
その後戦闘が繰り返されたりして安定した状況が続かなかったが、去年和平合意があり、その後に現地に入りました。
2013年末にはキール大統領とマチャル副大統領の間で戦闘が勃発して、全土が紛争になってしまった。
2016年から調査をしていましたが、2018年9月にキール大統領とマチャル副大統領が合意して、ほかの20位の反政府武装勢力にも声をかけて、微調整しながら合意を得ました。
和平合意がどう実施されているのかが、今回の大きな目的でもありました。
タバン・デン・ガイ第一副大統領、ロムロ内閣府担当大臣など閣僚レベルの人にもお会いしました。
PKO代表の方などにもお会いしました。
軍の統合と新しいキール大統領とマチャル副大統領の暫定内閣が作れるかどうか、これから半年をかけて見守っている状況だと思います。
ジュバ大学で講演をして学生との交流もしました。
「平和と安定に向けて」と言うテーマで行いました。
一番重要なのはインクルーシビティー、包括的に国を作っていけるかどうかと言う事だと思います。
キール大統領とマチャル副大統領が何処まで仲良く政権運営ができるかが争点だと思います。
日本が二人が議論できる席などについて仲介したり、場を提供できるのではないかとジュバ大学で話したりしました。
賛同の声は随分頂きました。
日本が軍隊を投入したりせずに、支援活動を積み上げてきた事が信頼を得ていることだと思います。
話し合いで物事を解決して行く場を設定してゆく役割、グローバルファシリテーターみたいな役割をしていくことが、今後の日本の外交の柱にしてもいいのではないかと思っています。
両親が広島出身で被爆していたので、被爆体験を聞いていました。
高校では文化祭の時には核兵器に関しる展示などをしていました。
大学を卒業後NHKの報道局でディレクターとして戦争、紛争に関す「クローズアップ現代」とか「NHKスペシャル」などの番組を制作していましたが、35歳の時にもうちょっと直接的に平和作りに関われる仕事に関われないのか悩みましたが、35歳の直前に
番組製作をしている時に、アナン国連事務総長とかとインタビューする機会があり、色々あこがれがあり、NHKを辞めてカナダの大学院に進み、修士と博士号を修得しました。
最初はいい成績がとれなかったが、論文の書き方などを教えてもらって、二学期からは1,2番の成績を取れるようになりました。
ニューヨークの国連本部に働く機会があり、或る方から平和に関する横断的に国連の仕事をするようなことをやったらいいのではないかと言われて、目標が見えたような気がしました。
4年間調査研究をして、アフガニスタン、東ティモールの現地調査をする事が出来てレポートとして発表したりする機会が出来たり、本を出版したりして、認められて2009年に国連アフガニスタン支援ミッションで勤務することになりました。
39歳の時にやった調査ではアフガニスタンにおける和解をすることに対して圧倒的に多い事が判りましたし、和解のプログラムを作って日本、国連、アメリカとかに入ってもらって、日本が主導的な役割を担って支援すべきだと本の中で提案していました。
政府関係者、外務大臣などと話す機会があり、政策として採用されて日本が50億円を和解基金を作るための最初のお金を出すという決定があり、他の国も出してくれることになり最終的に200億円集まりました。
国連側も喜んで、実務の仕事をして欲しいと言う事で、カブールで国連の政務官として仕事ができたのでラッキーだったと思います。
信頼関係を築く時には実際に顔を合わせて、本当に自分のことを真剣に考え理解してゆくものだと思います。
戦争になってしまう場合は対話、コミュニケーションをしなくなって、相手のアクション、行動を見て推理して考えるようになって、お互いが疑心暗鬼になってしまって戦闘になってしまうことはよくあります。
直接会って対話さえすれば戦闘は起こらないと言うような単純な話ではないが、少なくともよくする場合もあるのではないかと思っています。
日本のように70年以上も戦争をしていない国が仲介者となって、そういう当事者同士が共通の解決策を見出してゆく事のお手伝いをするようなことも、日本としは出来る場所でして行く事が良いのではないかと思います。
2014年にはニューヨークの国連日本政府代表部の公式参事官を務める。(2年間)
大学院などでは奨学金は貰えるが、家族を養っていかなくてはいけなかったので蓄えは底をついて行ってしまいました。
2009年にアフガニスタンに行って、戻ってきて40歳を過ぎていて、日本人で大学院生では大変で、幸い東大の准教授での応募で5年間いて、その間国連代表部に行かせてもらって、帰ってきて、また次を探さなければいけなかった。
どうなるかと思ったが2016年4月に上智大学グローバル教育センター(国際関係研究所兼務)に着任できました。
理想があっても継続的に続けて行く保証がないという現実はあります。
常に次の仕事を探さなくてはいけないという大変さはあります。
日本は組織で働いて居る時には尊敬されるが、肩書きの無い境遇になると厳しく見られる傾向があると思う。
やりたくても日本人が飛びだせる人が少なかったりする一つの原因になっていると思います。
シニアになってもシンクタンクとか受け入れる組織を作って、受け入れるところが出来ると安心できるのでいいと思います。
NHKを辞めて上智大学に行くまでの12年間は常に不安と向き合いながらきたことは事実です。
やってこられたのは心の底から自分が関心があって好きな分野なんだろうなと思います。
それが無いとずーっとは続けられないと思います。
平和に関する仕事を続けて、それなりに幸せなんじゃないかなと思えている事が大きいと思います。
残念ながら世界で多くの紛争が起きていて、6500万人ぐらいが難民とか国内避難民になっているが、ちょっとでもいいから学んだり知ったりすることから始めてもいいかなと思っています。
そういったことを重ねる中で自分でも関わって見たいと感じて貰えたら、自分としてどう関与していくかを考えて行くと言う事もあると思います。
人種的偏見とかを持たずに、同じ人間として敬意をもって接することが出来るかと言う事が重要だと思います。
日本が信頼されていると言う事は、上から目線で人を使うような付き合い方を現地でしてこなかったことは大きいと思います。
2019年6月12日水曜日
夏石番矢(俳人・明治大学教授) ・「世界俳句」の地平をひらく
夏石番矢(俳人・明治大学教授) ・「世界俳句」の地平をひらく
本名は乾 昌幸さんです、1955年兵庫県相生市生まれ。
14歳のころから俳句を作り始め、金子兜太さんの選により何度も雑誌に掲載されました。
東大学生俳句会でも創作や評論を手がけました。
早い時点からあらゆる言語での最高の短詩である世界俳句を提唱して、1998年には鎌倉佐弓さんらと国際俳句機関紙の「吟遊」を創刊しました。
2000年にはスロベニアのトルミンで世界俳句協会を創立、第1回大会を開催しています。
今年9月には東京で第10回大会が開かれると言うことです。
夏石さんは世界俳句の観点から創作と翻訳を続けるほか、2018年には編者として山頭火俳句集を出しました。
この中で種田山頭火を世界俳句に繋がる前衛詩人と評価しています。
東京大会には18カ国、アメリカ、アジア、アフリカ、ヨーロッパからほぼ30人来ます。
テーマがあり、「俳句その地域性と世界性」。
19世紀後半から俳句が世界に広がり始めました。
東京都から80万円の助成金があり説明を受けて来ました。
お金が足りないのでクラウドファンディング( Crowdfunding 群衆(crowd)と資金調達(funding)を組み合わせた造語)の謝礼を作っています。(絵を書いたり、字を書いたりして)
参加して下さる方の俳句8句、顔写真、略歴を2言語にして収録します。
世界俳句はどういう言語であっても成立します。
年4回「吟遊」を発行しています。
妻(鎌倉佐弓)らと一緒に1998年に創刊しました。
1996年~98年にパリにいって、その後ヨーロッパで出会いの機会を作ろうと機運が高まっていました。
俳句は5,7,5 季語があるが、それがすべてではないと言うことです。
松尾芭蕉の訳の句も知られているのは5,7,5ではなくて3行訳なんです。
その国の音楽性がいい音節の数に訳されています。
世界では共通の季節感は無い、ネパールでは季節は6つあり、アメリカでのイリノイ州では1日のうちに真夏から真冬まで体験しました。
「未来より 滝を吹き割る 風来たる」 作:夏石番矢 (教科書にも載っている)
大学院生時代に作った句で、その後未来の滝と言うタイトルの句集もアメリカ、フランス、ルーマニアでも出ています。
群馬の吹き割りの滝を見て作った句です。
この句は44言語に翻訳されました。
ポルトガルの代表的詩人、日本にも2回来てくれました。
「ここに天国 我らの身体 同じ歌歌う時」
ポルトガル語での紹介
モロッコのベニスさん
「裸を見るのが好き 踊る女 炎でしかない」 訳:夏石番矢
ギリシャの女性
「この果物に 虫と共に 神の声 横たわる」
2019年 第15号 最新号 51カ国、39言語、174人、503句が入っており大変でした。
「虹の橋 別の仕事が したいです」 山岸竜治さん
「海遠し 洗濯機が 泳いでる」 金城けいさん
「広場で買う 水には 夕焼けのおまけ」 鎌倉佐弓さん 外国(イタリア)の風景
私が最初に作った句は覚えていないです。
「足止めて 見るは梅雨の 唸る川」 郷里の鞍居川の氾濫を詠んだ句です。(14歳)
「降る雪を 仰げば昇天 する如し」 (高校1,2年生の時)
山口誓子さんの「天狼」に掲載される。
東大学生俳句会に所属することになります。
第1句集1983年(36年前) 「猟常記」
「冬の朝 階段の音に もう一人の我」 (高校時代)
「裸日を 今夜も星々は 誤植だ」 日本の冬は星がよく見えます。
「みなみの大魚の 夢に入りて 叫びたし」 神話を詠む。
2018年 山頭火俳句集の編者。
山頭火は世界俳句の視点で見ると、日本だと芭蕉、蕪村、一茶になるが、世界的な視野で見ると 芭蕉、山頭火になります。
世界的に見ると独創的なものが必要になります。
山頭火は凄く読書家で知識人でもあります、この人の教養の基礎は天神様なんです。
防府天満宮の寺子屋にも小さいころから学んでいて、小さいころから書もやっていました。
神経も細やかな人でした。
日記の中の句が面白かったです。
「闇が 空腹」 山頭火の短い俳句 実際に夜中の不眠に悩みながら、お金も無い食べ物が無い夜を過ごして、苦しんでいて、インパクトが強いです。
「氷の禁域」 羽生結弦選手とリンクする部分があります。
「星も人も 高速スピン 氷の首都」
「氷の上で 無極動の炎が 手足か」
「禁域」 入れない特別な場所という思い。
「氷の禁域」がインドで印刷、出版された。
出版社のオーナー二人が文学博士です。
最初は西ヨーロッパに広がってアメリカに広まって、第3世界に広まっていきました。
今後国が増えそうです。
(掲げてある俳句の文字が違っているかもしれません)
本名は乾 昌幸さんです、1955年兵庫県相生市生まれ。
14歳のころから俳句を作り始め、金子兜太さんの選により何度も雑誌に掲載されました。
東大学生俳句会でも創作や評論を手がけました。
早い時点からあらゆる言語での最高の短詩である世界俳句を提唱して、1998年には鎌倉佐弓さんらと国際俳句機関紙の「吟遊」を創刊しました。
2000年にはスロベニアのトルミンで世界俳句協会を創立、第1回大会を開催しています。
今年9月には東京で第10回大会が開かれると言うことです。
夏石さんは世界俳句の観点から創作と翻訳を続けるほか、2018年には編者として山頭火俳句集を出しました。
この中で種田山頭火を世界俳句に繋がる前衛詩人と評価しています。
東京大会には18カ国、アメリカ、アジア、アフリカ、ヨーロッパからほぼ30人来ます。
テーマがあり、「俳句その地域性と世界性」。
19世紀後半から俳句が世界に広がり始めました。
東京都から80万円の助成金があり説明を受けて来ました。
お金が足りないのでクラウドファンディング( Crowdfunding 群衆(crowd)と資金調達(funding)を組み合わせた造語)の謝礼を作っています。(絵を書いたり、字を書いたりして)
参加して下さる方の俳句8句、顔写真、略歴を2言語にして収録します。
世界俳句はどういう言語であっても成立します。
年4回「吟遊」を発行しています。
妻(鎌倉佐弓)らと一緒に1998年に創刊しました。
1996年~98年にパリにいって、その後ヨーロッパで出会いの機会を作ろうと機運が高まっていました。
俳句は5,7,5 季語があるが、それがすべてではないと言うことです。
松尾芭蕉の訳の句も知られているのは5,7,5ではなくて3行訳なんです。
その国の音楽性がいい音節の数に訳されています。
世界では共通の季節感は無い、ネパールでは季節は6つあり、アメリカでのイリノイ州では1日のうちに真夏から真冬まで体験しました。
「未来より 滝を吹き割る 風来たる」 作:夏石番矢 (教科書にも載っている)
大学院生時代に作った句で、その後未来の滝と言うタイトルの句集もアメリカ、フランス、ルーマニアでも出ています。
群馬の吹き割りの滝を見て作った句です。
この句は44言語に翻訳されました。
ポルトガルの代表的詩人、日本にも2回来てくれました。
「ここに天国 我らの身体 同じ歌歌う時」
ポルトガル語での紹介
モロッコのベニスさん
「裸を見るのが好き 踊る女 炎でしかない」 訳:夏石番矢
ギリシャの女性
「この果物に 虫と共に 神の声 横たわる」
2019年 第15号 最新号 51カ国、39言語、174人、503句が入っており大変でした。
「虹の橋 別の仕事が したいです」 山岸竜治さん
「海遠し 洗濯機が 泳いでる」 金城けいさん
「広場で買う 水には 夕焼けのおまけ」 鎌倉佐弓さん 外国(イタリア)の風景
私が最初に作った句は覚えていないです。
「足止めて 見るは梅雨の 唸る川」 郷里の鞍居川の氾濫を詠んだ句です。(14歳)
「降る雪を 仰げば昇天 する如し」 (高校1,2年生の時)
山口誓子さんの「天狼」に掲載される。
東大学生俳句会に所属することになります。
第1句集1983年(36年前) 「猟常記」
「冬の朝 階段の音に もう一人の我」 (高校時代)
「裸日を 今夜も星々は 誤植だ」 日本の冬は星がよく見えます。
「みなみの大魚の 夢に入りて 叫びたし」 神話を詠む。
2018年 山頭火俳句集の編者。
山頭火は世界俳句の視点で見ると、日本だと芭蕉、蕪村、一茶になるが、世界的な視野で見ると 芭蕉、山頭火になります。
世界的に見ると独創的なものが必要になります。
山頭火は凄く読書家で知識人でもあります、この人の教養の基礎は天神様なんです。
防府天満宮の寺子屋にも小さいころから学んでいて、小さいころから書もやっていました。
神経も細やかな人でした。
日記の中の句が面白かったです。
「闇が 空腹」 山頭火の短い俳句 実際に夜中の不眠に悩みながら、お金も無い食べ物が無い夜を過ごして、苦しんでいて、インパクトが強いです。
「氷の禁域」 羽生結弦選手とリンクする部分があります。
「星も人も 高速スピン 氷の首都」
「氷の上で 無極動の炎が 手足か」
「禁域」 入れない特別な場所という思い。
「氷の禁域」がインドで印刷、出版された。
出版社のオーナー二人が文学博士です。
最初は西ヨーロッパに広がってアメリカに広まって、第3世界に広まっていきました。
今後国が増えそうです。
(掲げてある俳句の文字が違っているかもしれません)
2019年6月11日火曜日
田沼武能(写真家) ・世界の子ども 一瞬の輝きをとらえて
田沼武能(写真家) ・世界の子ども 一瞬の輝きをとらえて
90歳、今年写真家としてデビューして70年を迎えます。
東京写真工業専門学校を卒業し通信社に入社、写真家の木村伊兵衛と出会い助手として写真家人生をスタートさせました 。
その後雑誌に連載した肖像写真で注目を集めます。
その後はフォトジャーナリストとして世界各地で撮影を続けて来ました。
田沼さんのライフワークは世界の子どもを撮ること、これまで120以上の国々で撮影をしてきました。
日々写真を撮っていると言う事が健康の要素だと思います。
レバノンに行ってきました。
黒柳さんが親善大使としていきましたが、一緒に行きました。
1929年東京浅草の写真館の家に生まれました。
小学校に通う中途に仏師の家があり彫刻家になろうと思いましたが、反対されて建築家になろうと考えて大学をうけますが、第一次試験が内申書選考で、内申書は良くなかったので1年浪人しました。
また落ちてしまって、内申書選考では駄目だと言う事が判り、友人から写真家の学校に行ったらどうかと言われて、東京写真工業専門学校に入学することになりました。
1年目は家での技術のおさらいをしているようでした。
フォトジャーナリズムの世界に入ることを目指しました。
通信社に入るようになりましたが、会社が赤字で給料が出ないことが判りました。
写真家の木村伊兵衛との出会いがありましたが、助手など要らないと断られました。
家から自転車で10分ぐらいでいける所なので、雑用などして近づいて行って、いつの間にか助手になりました。
「俺と同じことをやっても俺よりも上手くはならねえ、必要なところだけは俺のを盗め、それ以外は自分で考えろ」と言われました、それが良かったんじゃないかと思いました。
土門拳先生は木村伊兵衛と犬猿の仲と言われているかもしれないが、そういう訳でもないです。
土門拳の助手を務めていた人が写真週刊誌の会社に勤めていて、彼に一緒に付いていき土門拳のアルバムに張ってある写真など見てました。
土門拳が帰ってくるなり顔を真っ赤にして怒鳴りそうになったが、義理の弟を呼んで僕に木村伊兵衛の暗室の事を聞き始めました。
僕がファイルを見ていたことは産業スパイと言うように思ったようですが、考えが変わって暗室の事を聞いた方がいいと思って、暗室作業の事を根掘り葉掘り聞きました。
知っていることは全部喋ったので産業スパイではないことが判って、それ以来亡くなるまでとても親しくさせていただきました。
土門拳の考え方も知ることができ勉強になり、僕の写真人生のよかったところだと思います。
芸術雑誌が出版されて、若い人がいないかと編集者が木村伊兵衛に相談してきて、僕が7,8年間やることができました。
中谷宇吉郎先生は物理学者で寺田寅彦さんに影響を受けた方で、その方に写真の取材に行きましたが凄い勢いで叱られました。
物理学者ではなくて随筆家だと思ったことが面白くなかったようです。
後に週刊誌で雪を研究していた所に取材に行きましたが、物理学者として伺ったのでご機嫌でした。
それ以来親しくさせていただきました。
僕は20歳過ぎたばかりの人間なので色々な先生方の孫のような世代なので、色々と話をして聞かせてくれて凄く人生の勉強になりました。
肖像写真ではその人の内面を引き出せるような(あうんの呼吸みたいな)写真を撮ろうという思いで撮りました。
その後仕事が大分来るようになりました。
木村伊兵衛から「頼まれた写真ばっかり撮っていると、お前の写真としてのものではない、自分のテーマで撮った写真を世の中に出していかなければ駄目だ、自分の写真を撮らなければ駄目だ」と言われました。
「ジャーナリズムの世界はチューインガムと同じだ、味のある間は使ってくれるけれども、味が無くなったら道端に吐き捨てられるぞ」と言われました。
その時にアメリカの週刊誌をやっているところからオファーがありました。
ベトナム(戦争)へ行くこと言う事でしたが、断りました。
ニューヨークに呼ばれて行って、仕事をさせてくれて原稿料をいただき、その金でフランスのパリに行きました。
ブローニューの森の公園に行きました。
そこで、ドアから一目散に飛び出してくる子どもたちに出会いました。
いつの間にか引き寄せられて写真を撮っていました。
世界の子供の写真が撮れないかとその時に考えました。
1961年にザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)」 “The Family of Man”.という大きな展覧会(エドワード・スタイケンが企画した展覧会)がニューヨークでありました。
ゆくゆくはこういう写真を撮りたいと思っていましたが、ブローニューの森の公園で撮ってみて、世界の子どもの写真を撮れないかなと頭に浮かびました。
最初のころは仕事の合間に撮ればいいと考えていましたが、とても無理だと思いました。
子どもの写真を撮るには、人のお金でついでに撮ると言う事はとてもできない、自分の金を使って撮るほかないと思いました。
子どもは自分の意思で遊んでいるのが一番いい顔をしています。
それを撮るにはどうしたらいいか考えるわけですが、なるべく空気のごとく電信柱のごとくならないと子どもの遊んでいる所は撮れないと感じました。
その時には手ごたえがあり、現像をしていて待ち遠しいです。(海外にいる時には大変)
自分で気に入った写真を机の前に張っておいて、1週間で飽きるもの、1カ月で飽きるもの、1年おいて気に入っていると言うのはやはりいい写真だと判断する訳です。
子どもが看護師さんの持っている聴診器を取りあげて、自分の耳に差し込んで自分の胸に当てて自分の心臓の音を聞いた瞬間の顔、目が写った時の写真は面白かったですね。
120以上の国を回ってきて、その国その国によって違うので、総体的にどうとは言えないが、一番大変なのはやっぱり戦争に巻き込まれた子どもですね。
大人がしかけた大変な災害なので子どもたちはどうにもならない。
レバノンに行った時は、シリアの内戦で非居住地域に住んでる子で、大変な不自由をしながら生きている訳で、何とかしなければいけないと思っています。
私の写真家人生と言うものは、良かったと歳を重ねるに従って思います。
90歳、今年写真家としてデビューして70年を迎えます。
東京写真工業専門学校を卒業し通信社に入社、写真家の木村伊兵衛と出会い助手として写真家人生をスタートさせました 。
その後雑誌に連載した肖像写真で注目を集めます。
その後はフォトジャーナリストとして世界各地で撮影を続けて来ました。
田沼さんのライフワークは世界の子どもを撮ること、これまで120以上の国々で撮影をしてきました。
日々写真を撮っていると言う事が健康の要素だと思います。
レバノンに行ってきました。
黒柳さんが親善大使としていきましたが、一緒に行きました。
1929年東京浅草の写真館の家に生まれました。
小学校に通う中途に仏師の家があり彫刻家になろうと思いましたが、反対されて建築家になろうと考えて大学をうけますが、第一次試験が内申書選考で、内申書は良くなかったので1年浪人しました。
また落ちてしまって、内申書選考では駄目だと言う事が判り、友人から写真家の学校に行ったらどうかと言われて、東京写真工業専門学校に入学することになりました。
1年目は家での技術のおさらいをしているようでした。
フォトジャーナリズムの世界に入ることを目指しました。
通信社に入るようになりましたが、会社が赤字で給料が出ないことが判りました。
写真家の木村伊兵衛との出会いがありましたが、助手など要らないと断られました。
家から自転車で10分ぐらいでいける所なので、雑用などして近づいて行って、いつの間にか助手になりました。
「俺と同じことをやっても俺よりも上手くはならねえ、必要なところだけは俺のを盗め、それ以外は自分で考えろ」と言われました、それが良かったんじゃないかと思いました。
土門拳先生は木村伊兵衛と犬猿の仲と言われているかもしれないが、そういう訳でもないです。
土門拳の助手を務めていた人が写真週刊誌の会社に勤めていて、彼に一緒に付いていき土門拳のアルバムに張ってある写真など見てました。
土門拳が帰ってくるなり顔を真っ赤にして怒鳴りそうになったが、義理の弟を呼んで僕に木村伊兵衛の暗室の事を聞き始めました。
僕がファイルを見ていたことは産業スパイと言うように思ったようですが、考えが変わって暗室の事を聞いた方がいいと思って、暗室作業の事を根掘り葉掘り聞きました。
知っていることは全部喋ったので産業スパイではないことが判って、それ以来亡くなるまでとても親しくさせていただきました。
土門拳の考え方も知ることができ勉強になり、僕の写真人生のよかったところだと思います。
芸術雑誌が出版されて、若い人がいないかと編集者が木村伊兵衛に相談してきて、僕が7,8年間やることができました。
中谷宇吉郎先生は物理学者で寺田寅彦さんに影響を受けた方で、その方に写真の取材に行きましたが凄い勢いで叱られました。
物理学者ではなくて随筆家だと思ったことが面白くなかったようです。
後に週刊誌で雪を研究していた所に取材に行きましたが、物理学者として伺ったのでご機嫌でした。
それ以来親しくさせていただきました。
僕は20歳過ぎたばかりの人間なので色々な先生方の孫のような世代なので、色々と話をして聞かせてくれて凄く人生の勉強になりました。
肖像写真ではその人の内面を引き出せるような(あうんの呼吸みたいな)写真を撮ろうという思いで撮りました。
その後仕事が大分来るようになりました。
木村伊兵衛から「頼まれた写真ばっかり撮っていると、お前の写真としてのものではない、自分のテーマで撮った写真を世の中に出していかなければ駄目だ、自分の写真を撮らなければ駄目だ」と言われました。
「ジャーナリズムの世界はチューインガムと同じだ、味のある間は使ってくれるけれども、味が無くなったら道端に吐き捨てられるぞ」と言われました。
その時にアメリカの週刊誌をやっているところからオファーがありました。
ベトナム(戦争)へ行くこと言う事でしたが、断りました。
ニューヨークに呼ばれて行って、仕事をさせてくれて原稿料をいただき、その金でフランスのパリに行きました。
ブローニューの森の公園に行きました。
そこで、ドアから一目散に飛び出してくる子どもたちに出会いました。
いつの間にか引き寄せられて写真を撮っていました。
世界の子供の写真が撮れないかとその時に考えました。
1961年にザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)」 “The Family of Man”.という大きな展覧会(エドワード・スタイケンが企画した展覧会)がニューヨークでありました。
ゆくゆくはこういう写真を撮りたいと思っていましたが、ブローニューの森の公園で撮ってみて、世界の子どもの写真を撮れないかなと頭に浮かびました。
最初のころは仕事の合間に撮ればいいと考えていましたが、とても無理だと思いました。
子どもの写真を撮るには、人のお金でついでに撮ると言う事はとてもできない、自分の金を使って撮るほかないと思いました。
子どもは自分の意思で遊んでいるのが一番いい顔をしています。
それを撮るにはどうしたらいいか考えるわけですが、なるべく空気のごとく電信柱のごとくならないと子どもの遊んでいる所は撮れないと感じました。
その時には手ごたえがあり、現像をしていて待ち遠しいです。(海外にいる時には大変)
自分で気に入った写真を机の前に張っておいて、1週間で飽きるもの、1カ月で飽きるもの、1年おいて気に入っていると言うのはやはりいい写真だと判断する訳です。
子どもが看護師さんの持っている聴診器を取りあげて、自分の耳に差し込んで自分の胸に当てて自分の心臓の音を聞いた瞬間の顔、目が写った時の写真は面白かったですね。
120以上の国を回ってきて、その国その国によって違うので、総体的にどうとは言えないが、一番大変なのはやっぱり戦争に巻き込まれた子どもですね。
大人がしかけた大変な災害なので子どもたちはどうにもならない。
レバノンに行った時は、シリアの内戦で非居住地域に住んでる子で、大変な不自由をしながら生きている訳で、何とかしなければいけないと思っています。
私の写真家人生と言うものは、良かったと歳を重ねるに従って思います。
2019年6月10日月曜日
穂村 弘(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】歌人 東 直子
穂村 弘(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】歌人 東 直子
東:穗村さんのひとつ歳下です。
1963年広島県安佐郡安佐町(現・広島市安佐北区)生まれ。
大学在学中に演劇活動、お芝居演じたり脚本を書いたりしていました。
結婚後、1990年より「MOE」に短歌、詩、童話の投稿を始めました。
1993年より歌人集団「かばん」同人。
1996年、「草かんむりの訪問者」で第7回歌壇賞受賞。
2006年には「長崎くんの指」で小説家としてもデビュー。
2016年には『いとの森の家』で第31回坪田譲治文学賞受賞。
短歌を始めたきっかけは、取っていた雑誌で短歌の投稿欄が始まり、そこに投稿していました。
短歌欄の選者は林あまりさんでした。
古典は好きでした。
姉(小林久美子 歌人)の家に加藤治郎さんの歌集がありました。
面白いと思って投稿を始めました。
2,3年して勉強したいと思ってお会いしたのが加藤治郎さんでした。
これを読むと言い言われて薦められたのが穗村さんの「シンジケート」でした。
穂村:そのころは会社に夜中まで行っていて、通勤も長かったので通勤時間帯などを利用して短歌を作っていました。
3年間でためたお金を全部使って自主出版してました。
パソコンの前の時代は短冊に書いたものを畳の上に並び変えたりしていました。
本に纏める時の短歌の位置関係を決めるのに苦労しました。
良いはずの歌が落ちることを恐れるようにとアドバイスされ、納得しました。
とにかく本に入れて歴史のジャッジに任せろと言うふうにも言われました。
東:穗村さんの短歌紹介
「ぬきとった指輪クジャクに投げうってお食べそいつがおまえのえさよ」
くじゃくが指輪を冷静な目で見ているような絵が浮かんで、恋を諦めてクジャクのような存在に譲ったみたいな、そう云う事かと思います。
穂村:別れの歌で主体は激しい女性です。
クジャクと言う綺麗な動物に投げると言うところに、ギリギリの別れのテンションのような、全体に芝居がかったような感じです。
穂村:東さんの短歌紹介
「おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする」
大事なものに繋がる大事なものと知っているが、何故か私は失くしてしまう気がする、と言うところが面白いと思います。
鍵と書かれているが、思い出、愛とかを自然に感じさせるところがあり、シンプルな言葉でそういう感情をゆさぶってくるものが、東さんの歌にはあります。
東さんが登場したことで僕は話し言葉の短歌は、今後消えることなくジャンルとして成立すると確信しました。
東:穗村さんの短歌紹介
「錆びて行く廃車の山のミラーたち一斉に空映せ十月」
イメージが伝わってきます。
滅びて行くだけの存在が美しいものをいま映している、その光景の悲しさとともにある美をシャープなイメージで詠んでいます。
現実の風景なんだけれども、廃車が積まれて山のようになっていて、哀れな感じがするがその中に美しさを見出して光がこちら側に反射してくるような、滅びて来るものに対する同情を寄せているようでその切り口が新鮮でした。
穂村:東さんの短歌紹介
「一度だけ好きと思った一度だけ死ねと思った非常階段」
こういう恋もあるのかなあと言う感じです。
自分でも知覚できないような恋の感情というものもあるような気がする。
非常階段は物理的な場所と言うより真理のことなのかなあと言うような、非常階段に二人がいるような。
テンションの高い短歌です。
東:真理を詠むことはよくありますが、自分でもなんで非常階段が出てきたのか判らないが、ふっと浮かんだ一首でした。
東:穗村さんの短歌紹介
「芸をしないクマにもあげると手の甲に静かに載せられた角砂糖」
状況が面白いです、女の子が男の子におそらく貴方は芸をしないクマですけど、御褒美の角砂糖をあげると言って、手の甲に乗せたといった不思議な場面だと思います。
ファンダジー性があるが、あるリアリティーもあると思いました。
現代の女の子のユニークさを出してきて、典型的な日本女性ではない、新しい女子像を短歌の作品の中で登場させた最初の人ではないかなと思います。
穂村:掌でないところがみそです。
掌だとそこにはコミュニケーションが成立している。
微妙なディスコミュニケーションの感情があって、そこが好きなところです。
穂村:東さんの短歌紹介
「廃村を告げる活字に桃の皮触れれば滲み行くばかり 来て」
新聞紙の上で桃を切り分けてているんだと思います。
廃村を告げる活字と言うのは、そういう記事が新聞紙にたまたま載っていたのを見たんだろうと、その活字に桃の皮が触れると滲んでしまう。
廃村は誰かが住んでいたところが無くなってしまうと言う事、それを伝えている新聞紙も捨てられる、記事そのものの文字がにじんで読めなくなる、この世の全ての物は滅びる、今だけのものだと言う感覚が鳴り響くように高まって、 それで「来て」、だから今この時を二人で分けあわなくてはいけないと言う感覚が、最期の「来て」という二文字は、凄くセクシーな愛の歌で、言われた方は吃驚すると思います。
東:穗村さんのひとつ歳下です。
1963年広島県安佐郡安佐町(現・広島市安佐北区)生まれ。
大学在学中に演劇活動、お芝居演じたり脚本を書いたりしていました。
結婚後、1990年より「MOE」に短歌、詩、童話の投稿を始めました。
1993年より歌人集団「かばん」同人。
1996年、「草かんむりの訪問者」で第7回歌壇賞受賞。
2006年には「長崎くんの指」で小説家としてもデビュー。
2016年には『いとの森の家』で第31回坪田譲治文学賞受賞。
短歌を始めたきっかけは、取っていた雑誌で短歌の投稿欄が始まり、そこに投稿していました。
短歌欄の選者は林あまりさんでした。
古典は好きでした。
姉(小林久美子 歌人)の家に加藤治郎さんの歌集がありました。
面白いと思って投稿を始めました。
2,3年して勉強したいと思ってお会いしたのが加藤治郎さんでした。
これを読むと言い言われて薦められたのが穗村さんの「シンジケート」でした。
穂村:そのころは会社に夜中まで行っていて、通勤も長かったので通勤時間帯などを利用して短歌を作っていました。
3年間でためたお金を全部使って自主出版してました。
パソコンの前の時代は短冊に書いたものを畳の上に並び変えたりしていました。
本に纏める時の短歌の位置関係を決めるのに苦労しました。
良いはずの歌が落ちることを恐れるようにとアドバイスされ、納得しました。
とにかく本に入れて歴史のジャッジに任せろと言うふうにも言われました。
東:穗村さんの短歌紹介
「ぬきとった指輪クジャクに投げうってお食べそいつがおまえのえさよ」
くじゃくが指輪を冷静な目で見ているような絵が浮かんで、恋を諦めてクジャクのような存在に譲ったみたいな、そう云う事かと思います。
穂村:別れの歌で主体は激しい女性です。
クジャクと言う綺麗な動物に投げると言うところに、ギリギリの別れのテンションのような、全体に芝居がかったような感じです。
穂村:東さんの短歌紹介
「おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする」
大事なものに繋がる大事なものと知っているが、何故か私は失くしてしまう気がする、と言うところが面白いと思います。
鍵と書かれているが、思い出、愛とかを自然に感じさせるところがあり、シンプルな言葉でそういう感情をゆさぶってくるものが、東さんの歌にはあります。
東さんが登場したことで僕は話し言葉の短歌は、今後消えることなくジャンルとして成立すると確信しました。
東:穗村さんの短歌紹介
「錆びて行く廃車の山のミラーたち一斉に空映せ十月」
イメージが伝わってきます。
滅びて行くだけの存在が美しいものをいま映している、その光景の悲しさとともにある美をシャープなイメージで詠んでいます。
現実の風景なんだけれども、廃車が積まれて山のようになっていて、哀れな感じがするがその中に美しさを見出して光がこちら側に反射してくるような、滅びて来るものに対する同情を寄せているようでその切り口が新鮮でした。
穂村:東さんの短歌紹介
「一度だけ好きと思った一度だけ死ねと思った非常階段」
こういう恋もあるのかなあと言う感じです。
自分でも知覚できないような恋の感情というものもあるような気がする。
非常階段は物理的な場所と言うより真理のことなのかなあと言うような、非常階段に二人がいるような。
テンションの高い短歌です。
東:真理を詠むことはよくありますが、自分でもなんで非常階段が出てきたのか判らないが、ふっと浮かんだ一首でした。
東:穗村さんの短歌紹介
「芸をしないクマにもあげると手の甲に静かに載せられた角砂糖」
状況が面白いです、女の子が男の子におそらく貴方は芸をしないクマですけど、御褒美の角砂糖をあげると言って、手の甲に乗せたといった不思議な場面だと思います。
ファンダジー性があるが、あるリアリティーもあると思いました。
現代の女の子のユニークさを出してきて、典型的な日本女性ではない、新しい女子像を短歌の作品の中で登場させた最初の人ではないかなと思います。
穂村:掌でないところがみそです。
掌だとそこにはコミュニケーションが成立している。
微妙なディスコミュニケーションの感情があって、そこが好きなところです。
穂村:東さんの短歌紹介
「廃村を告げる活字に桃の皮触れれば滲み行くばかり 来て」
新聞紙の上で桃を切り分けてているんだと思います。
廃村を告げる活字と言うのは、そういう記事が新聞紙にたまたま載っていたのを見たんだろうと、その活字に桃の皮が触れると滲んでしまう。
廃村は誰かが住んでいたところが無くなってしまうと言う事、それを伝えている新聞紙も捨てられる、記事そのものの文字がにじんで読めなくなる、この世の全ての物は滅びる、今だけのものだと言う感覚が鳴り響くように高まって、 それで「来て」、だから今この時を二人で分けあわなくてはいけないと言う感覚が、最期の「来て」という二文字は、凄くセクシーな愛の歌で、言われた方は吃驚すると思います。
2019年6月9日日曜日
川口淳一郎(JAXAシニアフェロ―) ・【わたしのがむしゃら時代】「はやぶさ」への道のり
川口淳一郎(JAXAシニアフェロ―)・【わたしのがむしゃら時代】「はやぶさ」への道のり
2003年の打ち上げから7年間、60億キロの宇宙の旅に末、小惑星イトカワ表面の物質の地球に送り届けた「はやぶさ」、太陽系誕生の謎に迫るために小惑星のサンプルを採取して地球に持ち帰る、小惑星サンプルリターンと言う事のプロジェクト、今までどこの国でも成し遂げたことにない難しい挑戦でした。
途中行方不明になったりエンジンが停止したり、幾つもの絶対絶命の危機を乗り越えて、使命を全うし燃え尽きた隼は私たちに大きな感動を与えてくれました。
この壮大なプロジェクトのマネージャーをつとめた川口さんは1955年青森県弘前市の生まれ、京都大学卒業後、東京大学大学院に進み宇宙科学研究所で宇宙開発にも携わるようになります。
川口さんはどのようなきっかけで宇宙開発の道に進み、「はやぶさ」プロジェクトを立ち上げることになったのでしょうか。
少年時代から人のやらないことをやりたがるあまのじゃくだったことが「はやぶさ」にもつながったのではという、川口さんのがむしゃら時代を伺います。
「はやぶさ」の帰還から9年になります。
講義、研究、教育はとぎれること無くやっています。
新しい事を志す人が増えてくると言うのは大変ありがたいと思っています。
燃料電池とかはよく聞かれますが、高校生には燃料電池は全く教えない、世の中のニュースを聞いてそういうものがあると判るわけです。
そういう視野を広げる点でのきっかけになったとすれば、それはいいことだと思います。
一番最初に子どもの時にやったのが望遠鏡を作ったことでした。(小学校4年)
父親も望遠鏡を作った事があったらしいです。
望遠鏡を作るのは好きでしたが、星そのものにはあまり興味は無かったです。
中学2年生の時にアポロ11号が月着陸しました。
多くの人が宇宙に関心を持つ時代でした。
天体は規則正しいのに暦は中途半端で規則的にならないかと暦を考えた時もありました。(小学生時代)
ラジオ、アンプなど作っていました。
基本的にあまのじゃくでした。
自分が違う事を考えているということが、或る意味愉快な所です。
それが「はやぶさ」にもつながって行くんですが。
自分のオリジナリティーが一番の商売どころで、そういう発想を心がける、そういうあまのじゃくが研究者になると言うようなところがあると思います。
アポロを打ち上げていた頃、日本初の人工衛星を作るんだとやっていて、100mで3000トンというような月ロケットに対して、こちらは長さ20mぐらいでやっていますと言ってもとてつもなく違うものでした。
アメリカのナサ一辺倒の時代だったような時代でした。
惑星探査で木星や土星に向かって宇宙船が飛ぶと言う事、スケールが全然違うし、そんなことができるんだろ言うかと言うのが、中学、高校生の自分にとってはそういう仕組みを知って見たいと思いました。
70年代にはこのような事が始まっていました。
ナサの「バイキング」が軟着陸してショベルを持って火星の土を掘り起こして、培養実験して生命がいるかどうかと、言うようなことをやるわけです。
地球に向かってデータを直接送ると言う事をしていました、衝撃的でした。
非常に刺激を受けました。
大学では「バイキング」を見て少なくともロボットはやるべきだと思いました。
卒論はロボットでした。
70年代後半ではスペースシャトルが飛ぶ時代になり、こんなことができるんだと思いました。
日本の宇宙開発はしぼんでしまうのではないかと思いました。
東大の大学院で宇宙に関わるようになりました。
正直なところ変な組織で、変わってる人がおおくて、方向、内容が違うんです。
簡単に言うと、自信過剰者の集まり、というような感じでした。
何が変かと言うと非常勤的な職員は非常に沢山いるんです。(求心力があった。)
糸川先生の愛弟子は変わった人がやはり多かった。
やってしまえというようなエネルギッシュな集団でした。
宇宙開発研究所では、物の考え方、進め方が物凄く大きな全然違う文化を送る様な、そんな気がしました。
最初にゴールを考える、日本人はなかなかできない考え方だと思います。
そこで影響を受けたことは、後あと自分の人生を左右するぐらい大きなことだったと思います。
宇宙開発の魅力とは何だろうかとターゲットがあって、それに向かってどうするのか、自分たちがやれることにはどうやって自信が持てるのか、その考え方が大きいです。
研究所にはいったら最初文献を読んだりしますが、それじゃあだめだよ、計算して見たらと言った感じです。
そのために何をしたらいいかを自分で考える訳です。
機械工学出なので、宇宙の軌道、ハレー彗星の軌道など全然知らない訳です。
はいって直ぐにハレー彗星の探査計画が始まる訳で、ハレー彗星の軌道の計算など誰もいなくて、君がやれと言う事になり見よう見まねで始めるわけです。
ハレー彗星とすれ違った時に、写真を撮ったり電場、磁場などを観測することでした。
しかし当時固体ロケットで惑星探査機は打てる訳が無いといわれていました。
固体ロケットは不正確で出来ないと言われていたが、出来るはずだと言う人が沢山いてやってしまう訳です。
距離が遠いと言う事は全く考えた事もないことをやらなければいけない。
「はやぶさ」に繋がって行く、私としてはおおきな大失敗がありました。
阪神淡路大震災の前の日に打ち上げています。
打ち上げロケットはもう8回目ぐらいであまり気にしてはいなかった、先端の方が重くなってきていて毎回確かめなければいけなかったが、ロケットを飛ばす方の制御がうまくいかなくてギリギリ軌道には乗ったが目的とは程遠くて、プロジェクトが実を結ばなかった。
宇宙開発の難しさを思い知りました。
どこをどう点検するか点検自体も難しいところがあります。
ストレスでめまいがしたりしましたが、得た教訓は大きな跳ね返りをしました。
80年代には小惑星サンプルリターンを考え始めていました。
月、金星、火星にと辿って行くのはアメリカ、ソ連がやってきた道なので、リスクは少ないが、次にどうするかと考えた時に小天体に行くべきだということでした。
小天体から試料を持って帰る重要性はある、米ソと違って方向性はいいのかなと思いました。
そこから出発したのが「はやぶさ」計画でした。
90年代バブルがはじけて、提案したのが95年でしたが、理解してくれる人がいてくれたのが一番救われているところです。
リスクだらけでしたが、スタートできました。
打ち上げが2003年でした。
前途多難だとは思いました。
7年間、60億kmの旅をしてきました。
プロジェクトを達成するために行動すると言う、その意志は全く乱れはなかったです、辞令で集められた集団とはまったく違っていました。
最初はお金も無くあるのは興味だけと言う、その人たちが集まって合体させて一つの作品を作る、これはなににも増して面白い。
一人一人がこれが叶うと自分たちの夢も叶うんだというのが、みんなの意識なので続けられたと思います。
2003年の打ち上げから7年間、60億キロの宇宙の旅に末、小惑星イトカワ表面の物質の地球に送り届けた「はやぶさ」、太陽系誕生の謎に迫るために小惑星のサンプルを採取して地球に持ち帰る、小惑星サンプルリターンと言う事のプロジェクト、今までどこの国でも成し遂げたことにない難しい挑戦でした。
途中行方不明になったりエンジンが停止したり、幾つもの絶対絶命の危機を乗り越えて、使命を全うし燃え尽きた隼は私たちに大きな感動を与えてくれました。
この壮大なプロジェクトのマネージャーをつとめた川口さんは1955年青森県弘前市の生まれ、京都大学卒業後、東京大学大学院に進み宇宙科学研究所で宇宙開発にも携わるようになります。
川口さんはどのようなきっかけで宇宙開発の道に進み、「はやぶさ」プロジェクトを立ち上げることになったのでしょうか。
少年時代から人のやらないことをやりたがるあまのじゃくだったことが「はやぶさ」にもつながったのではという、川口さんのがむしゃら時代を伺います。
「はやぶさ」の帰還から9年になります。
講義、研究、教育はとぎれること無くやっています。
新しい事を志す人が増えてくると言うのは大変ありがたいと思っています。
燃料電池とかはよく聞かれますが、高校生には燃料電池は全く教えない、世の中のニュースを聞いてそういうものがあると判るわけです。
そういう視野を広げる点でのきっかけになったとすれば、それはいいことだと思います。
一番最初に子どもの時にやったのが望遠鏡を作ったことでした。(小学校4年)
父親も望遠鏡を作った事があったらしいです。
望遠鏡を作るのは好きでしたが、星そのものにはあまり興味は無かったです。
中学2年生の時にアポロ11号が月着陸しました。
多くの人が宇宙に関心を持つ時代でした。
天体は規則正しいのに暦は中途半端で規則的にならないかと暦を考えた時もありました。(小学生時代)
ラジオ、アンプなど作っていました。
基本的にあまのじゃくでした。
自分が違う事を考えているということが、或る意味愉快な所です。
それが「はやぶさ」にもつながって行くんですが。
自分のオリジナリティーが一番の商売どころで、そういう発想を心がける、そういうあまのじゃくが研究者になると言うようなところがあると思います。
アポロを打ち上げていた頃、日本初の人工衛星を作るんだとやっていて、100mで3000トンというような月ロケットに対して、こちらは長さ20mぐらいでやっていますと言ってもとてつもなく違うものでした。
アメリカのナサ一辺倒の時代だったような時代でした。
惑星探査で木星や土星に向かって宇宙船が飛ぶと言う事、スケールが全然違うし、そんなことができるんだろ言うかと言うのが、中学、高校生の自分にとってはそういう仕組みを知って見たいと思いました。
70年代にはこのような事が始まっていました。
ナサの「バイキング」が軟着陸してショベルを持って火星の土を掘り起こして、培養実験して生命がいるかどうかと、言うようなことをやるわけです。
地球に向かってデータを直接送ると言う事をしていました、衝撃的でした。
非常に刺激を受けました。
大学では「バイキング」を見て少なくともロボットはやるべきだと思いました。
卒論はロボットでした。
70年代後半ではスペースシャトルが飛ぶ時代になり、こんなことができるんだと思いました。
日本の宇宙開発はしぼんでしまうのではないかと思いました。
東大の大学院で宇宙に関わるようになりました。
正直なところ変な組織で、変わってる人がおおくて、方向、内容が違うんです。
簡単に言うと、自信過剰者の集まり、というような感じでした。
何が変かと言うと非常勤的な職員は非常に沢山いるんです。(求心力があった。)
糸川先生の愛弟子は変わった人がやはり多かった。
やってしまえというようなエネルギッシュな集団でした。
宇宙開発研究所では、物の考え方、進め方が物凄く大きな全然違う文化を送る様な、そんな気がしました。
最初にゴールを考える、日本人はなかなかできない考え方だと思います。
そこで影響を受けたことは、後あと自分の人生を左右するぐらい大きなことだったと思います。
宇宙開発の魅力とは何だろうかとターゲットがあって、それに向かってどうするのか、自分たちがやれることにはどうやって自信が持てるのか、その考え方が大きいです。
研究所にはいったら最初文献を読んだりしますが、それじゃあだめだよ、計算して見たらと言った感じです。
そのために何をしたらいいかを自分で考える訳です。
機械工学出なので、宇宙の軌道、ハレー彗星の軌道など全然知らない訳です。
はいって直ぐにハレー彗星の探査計画が始まる訳で、ハレー彗星の軌道の計算など誰もいなくて、君がやれと言う事になり見よう見まねで始めるわけです。
ハレー彗星とすれ違った時に、写真を撮ったり電場、磁場などを観測することでした。
しかし当時固体ロケットで惑星探査機は打てる訳が無いといわれていました。
固体ロケットは不正確で出来ないと言われていたが、出来るはずだと言う人が沢山いてやってしまう訳です。
距離が遠いと言う事は全く考えた事もないことをやらなければいけない。
「はやぶさ」に繋がって行く、私としてはおおきな大失敗がありました。
阪神淡路大震災の前の日に打ち上げています。
打ち上げロケットはもう8回目ぐらいであまり気にしてはいなかった、先端の方が重くなってきていて毎回確かめなければいけなかったが、ロケットを飛ばす方の制御がうまくいかなくてギリギリ軌道には乗ったが目的とは程遠くて、プロジェクトが実を結ばなかった。
宇宙開発の難しさを思い知りました。
どこをどう点検するか点検自体も難しいところがあります。
ストレスでめまいがしたりしましたが、得た教訓は大きな跳ね返りをしました。
80年代には小惑星サンプルリターンを考え始めていました。
月、金星、火星にと辿って行くのはアメリカ、ソ連がやってきた道なので、リスクは少ないが、次にどうするかと考えた時に小天体に行くべきだということでした。
小天体から試料を持って帰る重要性はある、米ソと違って方向性はいいのかなと思いました。
そこから出発したのが「はやぶさ」計画でした。
90年代バブルがはじけて、提案したのが95年でしたが、理解してくれる人がいてくれたのが一番救われているところです。
リスクだらけでしたが、スタートできました。
打ち上げが2003年でした。
前途多難だとは思いました。
7年間、60億kmの旅をしてきました。
プロジェクトを達成するために行動すると言う、その意志は全く乱れはなかったです、辞令で集められた集団とはまったく違っていました。
最初はお金も無くあるのは興味だけと言う、その人たちが集まって合体させて一つの作品を作る、これはなににも増して面白い。
一人一人がこれが叶うと自分たちの夢も叶うんだというのが、みんなの意識なので続けられたと思います。
2019年6月8日土曜日
垣添忠生(日本対がん協会 会長) ・「悲しみを癒やす旅路」
垣添忠生(日本対がん協会 会長) ・「悲しみを癒やす旅路」
12年前最愛の妻をがんで亡くしました。
伴侶を亡くした喪失感は想像を絶するものでしたが、どん底を味わうことで垣添さんの人生観は大きく変わったと言います。
国立がんセンターで32年、その前にも色んな病院を回ってがんをやっていましたので、臨床医として42年、辞めて今、日本対がん協会としてがんに関わっていて、がんの仕事は50年になります。
後半はがんを抱えた方、がん患者、家族まで含めた方にどう向き合って行くか、心を砕いてきました。
昔はがん=死と言うイメージでしたが、がんが治るような病気になってきた。
がんと言われると、頭が真っ白になって、いつ再発するか転移するか悩み、普段の生活でも疎外感、孤立感に悩まされていて、そういう状態を何とかしなければいけないと言う事が、後半心を砕いてきた取り組みだったと思います。
がんは約100種類あり、進行具合、悪性度の組み合わせ、人によって本当に多様です。
一人は会社員として仕事をしていて、いつも電話の受話器を取って左耳で聞いているが、ふっと気が付くと右耳で聞いていた。
聴力が落ちたのかなと思って病院にいって、脳腫瘍の一種、聴神経腫瘍が見つかり直ぐ治療して、直ぐに社会復帰した人がいました。
反対に、32歳の男性で睾丸(こうがん)にがんができて、段々大きくなって行って、恥ずかしいとか、受診の決断が付かなくて、4カ月位しているうちにリンパ節に転移が出来て、巨大な腫瘍ができて邪魔されて左を向くことができない。
自分の身体の異常に対する対応という観点では天と地の違いがあります。
私も2000年に便の潜血反応で陽性でした。
その1年目は物凄く忙しくて何の症状も無く忙しさのあまりそのうち忘れてしまいました。
翌年も便の潜血反応で陽性で、しまったと思いました。
大腸の内視鏡検査をして貰って、3つポリープがあり一番大きいポリープに早期がんが見つかりました。
2005年に超音波で調べたら、左の腎臓にがんが見えましたが、小さいので治せると思いました。
4月初めに見つかり、仕事の少ない5月20日に午前中仕事をして、午後に全身麻酔してもらって手術しました。
1週間で退院して、2週間目にはWHOのジュネーブの国際会議に出席しました。
2000年に妻、(昭子)にがんが見つかりました。
肺の線がんが見つかり切り取ってすぐ治りました。
5年後に声が枯れてきて、甲状腺がんが見つかり、半分取って手術で治しました。
肺に転移する可能性があるので、時々検査していたら2006年に右肺の真ん中に4mm位のがんが見つかり、一番たちの悪いがんということが判りました。
抗がん剤と化学療法、放射線治療を組み合わせて治療をしました。
完治の確認の検査(CT,MRI、PET)をしたら、多発性肺転移と言う事で、画像診断の結果を聞いて妻の命は長くて3カ月だと思いました。
一番強い化学療法をしたが数回やったが駄目で、他の薬でも副作用がすごく強かった。
一回だけ文句を言ったことがありますが「こんな治療を受けているのは貴方の為よ」と言われて愕然としました。(総長を辞めて名誉総長になて間もなくでした)
翌年二人は死を覚悟するようになりました。
最期に外泊した時に新しい洋服を2着買ってきました。
あれはもしかして死に装束を昭子が選んでいるのではないかと思いました。
12月にはどんどん悪くなって家に帰りたいと言うようになりました。
応接間を片付けて業者から酸素発生器を2台借りてきて、布団を敷きました。
あら鍋を食べたいと言う事で料理して、近所の介護師の資格を持っていて手伝いにきてくれて、何とか居間の炬燵へ連れていきました。
副作用で口内炎とか食道炎で食べれないと思ったが、お替わりまでして「おいしいおいしい」といって、「家ってこうでなくちゃ、こうでなくちゃ」と何度も言っていました。
苦労して連れて帰ったが本当に良かったと思いました。
29日には意識が切れ切れになり始めました。
30日にはチェインストークス(Cheyne-Stokes)呼吸(過呼吸と無呼吸をくりかえす)をするようになって、こうなると先は長くないです。
31日朝からこん睡状態になって、午後には強い呼吸困難になって色々な処置をしましたが、状況はよくなかった。
呼吸困難で意識が無かったが、夕方突然半身をおこして私をみて、両目をパチッと開けて、私を目で確認して、自分の右手で私の左手をギュッと握って、心肺停止になりました。
医師の診断書では亡くなったのは6時45分でしたが、私に意識の上では6時15分でした。
言葉にはできなかったが「有難う」と言って亡くなったと思います。
最期に心の通い合いがあったと言う事は、その後の3か月は死ぬ思いをしましたが、何とかこっちへもどってこられたのは、最期に心が通い合ったと言う事が大きな意味を持っていたと思います。
私も家で死のうと強く思っています。
それからはひたすら泣いて明け暮れました。
食べ物をたべても砂を噛むようで味はしないし、飲み込めないので、ウイスキーとか強い焼酎とかで流し込みました。
酒を飲む以外は妻の死に顔を見てひたすら泣いていました。
1月4日に灰になって帰ってきましたが、一切妻との対話はもうありませんでした。
それは本当につらかったです。
食欲がないし、眠れないないし、一日1kg体重が減って言って、精神も肉体も最悪の状態になっていきました。
職場では仕事はたくさんあるし、夢中でやればその間悲しみは忘れられると思って、昼間は夢中で仕事をやっていました。
家に帰ると一切対話が無い訳です。
ひたすら3か月泣いたと言う事は非常に大きな意味がある思います。
残された人がどう生きるかと言うことですが、グリーフケア(grief care)、グリーフワーク(grief work)とかありますが、私はまさにグリーフワークをやったと思います。
仏教徒ではありませんが、住職と話したことがありますが、7日ごとに大事な営みがある、初7日、49日、100か日とそれだけの期間をかけて亡くなったことを得心する。
(泣き納め)
3か月を過ぎたころから腕たて伏せなどを始めました。
いまは朝、腕立て伏せ100回とか、背筋100回とか、ストレッチ、スクワットなどをやっています。
体を鍛え始めると食欲が出てきて、酒も浴びるほど飲まなくなって、精神も前向きになってきました。
以前やっていたカヌーを奥日光にいってやることによって前向きになっていきました。
以前から関心があった「居合い」を週2回、1,2時間やって、心の底の深い苦しみ悲しみを表出する行為だと気がつきました。
1年半の妻との闘病の記録を本に纏めました。
写真を持ち歩くようになってから寂しさを感じる事が格段に少なくなりました、いつもいるような一体感がありました。
文章に纏めてみて、心の奥底の悲しみがすこしづつ解きほぐされるような感覚があり、書くことの効用を私は初めて知りました。
2015年の夏、四国八十八か所をめぐる遍路を思い立ちました。(妻が亡くなって7年目74歳)
1000kmを約50日で回る過酷な旅でした。
慰霊の旅と思って始めましたが、妻に対する感謝の旅だなあと直ぐ気がつきました。
両親、友人からの強い反対がある中で、貫いて妻と結婚して40年間過ごして本当に幸せだったと思います。
真夏の暑い中、地元の人のお接待がありました。
旅する中で色んな想念が浮かびました。
宇宙は10☓27乗mの広大宇辺な広がり、極小を観ると素粒子は10☓-35乗m
人間はその間に漂っているはかない存在のようにみえるが、人間の中を見てみると六十兆個の細胞があり、細胞の中には核があり、そのなかには合わせると1,8mのDNAがあり、全部繋げてみると1000億kmになり、太陽と地球の間を300往復する距離になる。
弱々しそうに見える人間を観ると凄まじく強靭な存在であり、遺伝子構造が僅かづつ違っていて、人間の命の大切さ、一人一人の人生の大切さが自然に浮かび上がってくる。
元気でいられると言う事は素晴らしいことだと思います。
妻が亡くなった時から自分の死はどうでもいいような妙な感覚があります。
それまで最大努力して生きて行こうと、日々大事に生きています。
2018年全国のがんの拠点病院を歩いて訪ねて行く、がんサバイバーウオークを始めました。
みんながいつ罹うか判らない病気なので、がんの事を理解してがんサバイバーを差別するような社会を無くしていきましょうと訴え、生の声をじかに聞きながら歩いたと言う事は非常に大きな体験でした。
悲しみは無くなると言う事は無いです、永遠に消えないと思いますが、穏やかにはなってきています。
妻の写真を懐に入れていますが、辛い時とか観ますが、最初一日千回とか何千回とか観ていましたが今は一日百回位ですかね。
喪失感は消えませんが、日々の生活に懸命に取り組む事が、そこを乗り越えて行くパワーになっていると思います。
12年前最愛の妻をがんで亡くしました。
伴侶を亡くした喪失感は想像を絶するものでしたが、どん底を味わうことで垣添さんの人生観は大きく変わったと言います。
国立がんセンターで32年、その前にも色んな病院を回ってがんをやっていましたので、臨床医として42年、辞めて今、日本対がん協会としてがんに関わっていて、がんの仕事は50年になります。
後半はがんを抱えた方、がん患者、家族まで含めた方にどう向き合って行くか、心を砕いてきました。
昔はがん=死と言うイメージでしたが、がんが治るような病気になってきた。
がんと言われると、頭が真っ白になって、いつ再発するか転移するか悩み、普段の生活でも疎外感、孤立感に悩まされていて、そういう状態を何とかしなければいけないと言う事が、後半心を砕いてきた取り組みだったと思います。
がんは約100種類あり、進行具合、悪性度の組み合わせ、人によって本当に多様です。
一人は会社員として仕事をしていて、いつも電話の受話器を取って左耳で聞いているが、ふっと気が付くと右耳で聞いていた。
聴力が落ちたのかなと思って病院にいって、脳腫瘍の一種、聴神経腫瘍が見つかり直ぐ治療して、直ぐに社会復帰した人がいました。
反対に、32歳の男性で睾丸(こうがん)にがんができて、段々大きくなって行って、恥ずかしいとか、受診の決断が付かなくて、4カ月位しているうちにリンパ節に転移が出来て、巨大な腫瘍ができて邪魔されて左を向くことができない。
自分の身体の異常に対する対応という観点では天と地の違いがあります。
私も2000年に便の潜血反応で陽性でした。
その1年目は物凄く忙しくて何の症状も無く忙しさのあまりそのうち忘れてしまいました。
翌年も便の潜血反応で陽性で、しまったと思いました。
大腸の内視鏡検査をして貰って、3つポリープがあり一番大きいポリープに早期がんが見つかりました。
2005年に超音波で調べたら、左の腎臓にがんが見えましたが、小さいので治せると思いました。
4月初めに見つかり、仕事の少ない5月20日に午前中仕事をして、午後に全身麻酔してもらって手術しました。
1週間で退院して、2週間目にはWHOのジュネーブの国際会議に出席しました。
2000年に妻、(昭子)にがんが見つかりました。
肺の線がんが見つかり切り取ってすぐ治りました。
5年後に声が枯れてきて、甲状腺がんが見つかり、半分取って手術で治しました。
肺に転移する可能性があるので、時々検査していたら2006年に右肺の真ん中に4mm位のがんが見つかり、一番たちの悪いがんということが判りました。
抗がん剤と化学療法、放射線治療を組み合わせて治療をしました。
完治の確認の検査(CT,MRI、PET)をしたら、多発性肺転移と言う事で、画像診断の結果を聞いて妻の命は長くて3カ月だと思いました。
一番強い化学療法をしたが数回やったが駄目で、他の薬でも副作用がすごく強かった。
一回だけ文句を言ったことがありますが「こんな治療を受けているのは貴方の為よ」と言われて愕然としました。(総長を辞めて名誉総長になて間もなくでした)
翌年二人は死を覚悟するようになりました。
最期に外泊した時に新しい洋服を2着買ってきました。
あれはもしかして死に装束を昭子が選んでいるのではないかと思いました。
12月にはどんどん悪くなって家に帰りたいと言うようになりました。
応接間を片付けて業者から酸素発生器を2台借りてきて、布団を敷きました。
あら鍋を食べたいと言う事で料理して、近所の介護師の資格を持っていて手伝いにきてくれて、何とか居間の炬燵へ連れていきました。
副作用で口内炎とか食道炎で食べれないと思ったが、お替わりまでして「おいしいおいしい」といって、「家ってこうでなくちゃ、こうでなくちゃ」と何度も言っていました。
苦労して連れて帰ったが本当に良かったと思いました。
29日には意識が切れ切れになり始めました。
30日にはチェインストークス(Cheyne-Stokes)呼吸(過呼吸と無呼吸をくりかえす)をするようになって、こうなると先は長くないです。
31日朝からこん睡状態になって、午後には強い呼吸困難になって色々な処置をしましたが、状況はよくなかった。
呼吸困難で意識が無かったが、夕方突然半身をおこして私をみて、両目をパチッと開けて、私を目で確認して、自分の右手で私の左手をギュッと握って、心肺停止になりました。
医師の診断書では亡くなったのは6時45分でしたが、私に意識の上では6時15分でした。
言葉にはできなかったが「有難う」と言って亡くなったと思います。
最期に心の通い合いがあったと言う事は、その後の3か月は死ぬ思いをしましたが、何とかこっちへもどってこられたのは、最期に心が通い合ったと言う事が大きな意味を持っていたと思います。
私も家で死のうと強く思っています。
それからはひたすら泣いて明け暮れました。
食べ物をたべても砂を噛むようで味はしないし、飲み込めないので、ウイスキーとか強い焼酎とかで流し込みました。
酒を飲む以外は妻の死に顔を見てひたすら泣いていました。
1月4日に灰になって帰ってきましたが、一切妻との対話はもうありませんでした。
それは本当につらかったです。
食欲がないし、眠れないないし、一日1kg体重が減って言って、精神も肉体も最悪の状態になっていきました。
職場では仕事はたくさんあるし、夢中でやればその間悲しみは忘れられると思って、昼間は夢中で仕事をやっていました。
家に帰ると一切対話が無い訳です。
ひたすら3か月泣いたと言う事は非常に大きな意味がある思います。
残された人がどう生きるかと言うことですが、グリーフケア(grief care)、グリーフワーク(grief work)とかありますが、私はまさにグリーフワークをやったと思います。
仏教徒ではありませんが、住職と話したことがありますが、7日ごとに大事な営みがある、初7日、49日、100か日とそれだけの期間をかけて亡くなったことを得心する。
(泣き納め)
3か月を過ぎたころから腕たて伏せなどを始めました。
いまは朝、腕立て伏せ100回とか、背筋100回とか、ストレッチ、スクワットなどをやっています。
体を鍛え始めると食欲が出てきて、酒も浴びるほど飲まなくなって、精神も前向きになってきました。
以前やっていたカヌーを奥日光にいってやることによって前向きになっていきました。
以前から関心があった「居合い」を週2回、1,2時間やって、心の底の深い苦しみ悲しみを表出する行為だと気がつきました。
1年半の妻との闘病の記録を本に纏めました。
写真を持ち歩くようになってから寂しさを感じる事が格段に少なくなりました、いつもいるような一体感がありました。
文章に纏めてみて、心の奥底の悲しみがすこしづつ解きほぐされるような感覚があり、書くことの効用を私は初めて知りました。
2015年の夏、四国八十八か所をめぐる遍路を思い立ちました。(妻が亡くなって7年目74歳)
1000kmを約50日で回る過酷な旅でした。
慰霊の旅と思って始めましたが、妻に対する感謝の旅だなあと直ぐ気がつきました。
両親、友人からの強い反対がある中で、貫いて妻と結婚して40年間過ごして本当に幸せだったと思います。
真夏の暑い中、地元の人のお接待がありました。
旅する中で色んな想念が浮かびました。
宇宙は10☓27乗mの広大宇辺な広がり、極小を観ると素粒子は10☓-35乗m
人間はその間に漂っているはかない存在のようにみえるが、人間の中を見てみると六十兆個の細胞があり、細胞の中には核があり、そのなかには合わせると1,8mのDNAがあり、全部繋げてみると1000億kmになり、太陽と地球の間を300往復する距離になる。
弱々しそうに見える人間を観ると凄まじく強靭な存在であり、遺伝子構造が僅かづつ違っていて、人間の命の大切さ、一人一人の人生の大切さが自然に浮かび上がってくる。
元気でいられると言う事は素晴らしいことだと思います。
妻が亡くなった時から自分の死はどうでもいいような妙な感覚があります。
それまで最大努力して生きて行こうと、日々大事に生きています。
2018年全国のがんの拠点病院を歩いて訪ねて行く、がんサバイバーウオークを始めました。
みんながいつ罹うか判らない病気なので、がんの事を理解してがんサバイバーを差別するような社会を無くしていきましょうと訴え、生の声をじかに聞きながら歩いたと言う事は非常に大きな体験でした。
悲しみは無くなると言う事は無いです、永遠に消えないと思いますが、穏やかにはなってきています。
妻の写真を懐に入れていますが、辛い時とか観ますが、最初一日千回とか何千回とか観ていましたが今は一日百回位ですかね。
喪失感は消えませんが、日々の生活に懸命に取り組む事が、そこを乗り越えて行くパワーになっていると思います。
2019年6月7日金曜日
小畑弘己(熊本大学教授) ・虫の痕跡から見える縄文のくらし
小畑弘己(熊本大学教授) ・虫の痕跡から見える縄文のくらし
遺跡から発掘された土器に残る虫の痕跡を研究しています。
縄文土器は縄文時代のタイムカプセルと言われるほど、発掘された土器からは様々な虫の痕跡があることが判ってきました。
縄文人の家にコクゾウムシが住みついていたことや、縄文人が大豆など豆類を栽培していたことは思いもよらぬことでした。
縄文土器に残された虫の痕跡からおよそ5000年以上前の縄文時代の暮らしぶりが垣間見えてきたのです。
ニュースで縄文時代の女性が遺伝子の情報の解析で、顔まで、その女性のしみまででていました。
遺伝子の研究の進歩は急速に進んでいます。
土器がつくり始めたのが1万6000年ぐらい前と言われるので、縄文時代は1万3000年位続いた時代だといわれています。
稲作は中国から伝わってくる作物ですが、おそらく弥生時代の初めごろ、縄文時代の終わりごろ伝わったことは間違いないと思います。
植物を育てる、農耕と言う意味では縄文人が植物の栽培をしていたらしいということは、土器の中に痕跡が残っていると言う事から判ってきました。
コクゾウムシは最近では見かけなくなりましたが、数十年前には身近にいた米を食べる虫でした。
大きさは3~4mmで長い像のような口を持っている。
縄文時代の遺跡からコクゾウムシが最近たくさん見つかっています。
2003年ごろ熊本県内の縄文後期(4000年から3000年前)の土器の中にあったのを見付けた。(福岡市 山崎純男氏が発見)
米ではないかという圧痕と虫が見つかった。
私たちも縄文時代の後期、晩期のコクゾウムシを見付けていました。
2010年に種子島で1万5000年~6000年前の土器を調べてみようと誘われて行って驚きました。
コクゾウムシが見つかりました。
米とは関係ないと言うのを気付かされた発見でした。
粘土に紛れ込んだ種とか虫が見つかることがあります。
三内丸山遺跡でもコクゾウムシが見つかりました。
総合して考えると縄文人が蓄えていたドングリとかクリを食べていた虫ではないかと判ってきました。
2013年 三内丸山遺跡の5万点の土器を観ましたが、19点のコクゾウムシが見つかりました。
北海道にいって土器を観て最初にみたのがコクゾウムシでした。
2016年に土器をみていたらコクゾウムシでした、表面だけでも87点有りました。
2007年には島原半島の土器で見付けたのが大豆でした、縄文人が栽培をしていたことが判りました。
小豆、大豆、エゴマなどが見つかりました。
豊かに実れという願いを込めて土器に入れたのではないかと考えました。
三内丸山遺跡の柱は太いクリの木でできています。
クリの畑が沢山あったのではないかと考えています。(増やす努力をしていた。)
クリは栄養価が高くて、クリの木材は水に強くて腐りにくいという特徴があるので建築材としても使用していたものと思います。
島原の有明町で生れて高校生の時には考古学に興味を持ちました。
藤森栄一さんの本をよく読むようになりました。
藤森さんの学説は縄文中期の中部、西関東の地域で人口が増えて集落が増えて、その背景に何か植物の栽培があったのではないかという説を唱えました。
藤森さんの影響を受けて考古学をやろうと決めました。
縄文時代の石器の研究を始めて20数年研究してきました。
遺跡の発掘をやってきて、竪穴住居が一杯あってそこを掘ったり「かまど」を掘ったり、その仕事にも興味が薄れていました。
土を洗って種を出すと言う事を教えてもらい、古代の人の食べ物を探しだそうと思いました。
そこから「かまど」が好きになりました。(7,8年やりました。)
誰もやっていなかったので発見が多かったです。
エゴマ、大豆などはヘルシーな食物です。
コクゾウムシは北海道でも出てくるし、虫、コクゾウムシに関する研究にも、のめり込みました。
コクゾウムシは9割で、カミキリムシ、など木を食べる虫、家屋害虫も出てきました。
彼等の生態を調べることで縄文時代の生活、食料などが判ってきますので非常に重要なことだと思います。
昆虫考古学は昔からイギリスなどが始めていましたが、対象が土器ではなくて、人間生活と関係ないものもあり環境などがあります。
土器の圧痕は家のなかにあったものが出てくるので、人間の生活をもろに知りたいので、圧痕法は効果のあるものです。
そういった種とか虫を私は人為化石と呼んでいます。
保管されている資料ももう一度見直すと言う事も私たち考古学者がやっていかなければいけないと思います。
表面だけでなく最新の科学技術機器を使って土器の中を研究することも始めています。
鉄器に付着する蠅のさなぎから、もがり、死亡推定時刻も推定できるようになってきました。
さなぎの資料が欲しくて蠅まで飼い始めました。
蠅は嗅覚がすごくて、微妙な人間の死を嗅ぎつけて来ます。
やって来る蠅の種類の変遷があるので、遺体の上にあった虫たちを調べれば、いつ頃死んだのか推定できる、これはアメリカで発達した科学捜査の方法です。
鉄器に付いているさなぎを調べることで死亡推定時刻が推定できます。
生物、植物、昆虫学などとコラボ出来る様なこういう分野をやることで、新たなものが見えてくると思います。
遺跡から発掘された土器に残る虫の痕跡を研究しています。
縄文土器は縄文時代のタイムカプセルと言われるほど、発掘された土器からは様々な虫の痕跡があることが判ってきました。
縄文人の家にコクゾウムシが住みついていたことや、縄文人が大豆など豆類を栽培していたことは思いもよらぬことでした。
縄文土器に残された虫の痕跡からおよそ5000年以上前の縄文時代の暮らしぶりが垣間見えてきたのです。
ニュースで縄文時代の女性が遺伝子の情報の解析で、顔まで、その女性のしみまででていました。
遺伝子の研究の進歩は急速に進んでいます。
土器がつくり始めたのが1万6000年ぐらい前と言われるので、縄文時代は1万3000年位続いた時代だといわれています。
稲作は中国から伝わってくる作物ですが、おそらく弥生時代の初めごろ、縄文時代の終わりごろ伝わったことは間違いないと思います。
植物を育てる、農耕と言う意味では縄文人が植物の栽培をしていたらしいということは、土器の中に痕跡が残っていると言う事から判ってきました。
コクゾウムシは最近では見かけなくなりましたが、数十年前には身近にいた米を食べる虫でした。
大きさは3~4mmで長い像のような口を持っている。
縄文時代の遺跡からコクゾウムシが最近たくさん見つかっています。
2003年ごろ熊本県内の縄文後期(4000年から3000年前)の土器の中にあったのを見付けた。(福岡市 山崎純男氏が発見)
米ではないかという圧痕と虫が見つかった。
私たちも縄文時代の後期、晩期のコクゾウムシを見付けていました。
2010年に種子島で1万5000年~6000年前の土器を調べてみようと誘われて行って驚きました。
コクゾウムシが見つかりました。
米とは関係ないと言うのを気付かされた発見でした。
粘土に紛れ込んだ種とか虫が見つかることがあります。
三内丸山遺跡でもコクゾウムシが見つかりました。
総合して考えると縄文人が蓄えていたドングリとかクリを食べていた虫ではないかと判ってきました。
2013年 三内丸山遺跡の5万点の土器を観ましたが、19点のコクゾウムシが見つかりました。
北海道にいって土器を観て最初にみたのがコクゾウムシでした。
2016年に土器をみていたらコクゾウムシでした、表面だけでも87点有りました。
2007年には島原半島の土器で見付けたのが大豆でした、縄文人が栽培をしていたことが判りました。
小豆、大豆、エゴマなどが見つかりました。
豊かに実れという願いを込めて土器に入れたのではないかと考えました。
三内丸山遺跡の柱は太いクリの木でできています。
クリの畑が沢山あったのではないかと考えています。(増やす努力をしていた。)
クリは栄養価が高くて、クリの木材は水に強くて腐りにくいという特徴があるので建築材としても使用していたものと思います。
島原の有明町で生れて高校生の時には考古学に興味を持ちました。
藤森栄一さんの本をよく読むようになりました。
藤森さんの学説は縄文中期の中部、西関東の地域で人口が増えて集落が増えて、その背景に何か植物の栽培があったのではないかという説を唱えました。
藤森さんの影響を受けて考古学をやろうと決めました。
縄文時代の石器の研究を始めて20数年研究してきました。
遺跡の発掘をやってきて、竪穴住居が一杯あってそこを掘ったり「かまど」を掘ったり、その仕事にも興味が薄れていました。
土を洗って種を出すと言う事を教えてもらい、古代の人の食べ物を探しだそうと思いました。
そこから「かまど」が好きになりました。(7,8年やりました。)
誰もやっていなかったので発見が多かったです。
エゴマ、大豆などはヘルシーな食物です。
コクゾウムシは北海道でも出てくるし、虫、コクゾウムシに関する研究にも、のめり込みました。
コクゾウムシは9割で、カミキリムシ、など木を食べる虫、家屋害虫も出てきました。
彼等の生態を調べることで縄文時代の生活、食料などが判ってきますので非常に重要なことだと思います。
昆虫考古学は昔からイギリスなどが始めていましたが、対象が土器ではなくて、人間生活と関係ないものもあり環境などがあります。
土器の圧痕は家のなかにあったものが出てくるので、人間の生活をもろに知りたいので、圧痕法は効果のあるものです。
そういった種とか虫を私は人為化石と呼んでいます。
保管されている資料ももう一度見直すと言う事も私たち考古学者がやっていかなければいけないと思います。
表面だけでなく最新の科学技術機器を使って土器の中を研究することも始めています。
鉄器に付着する蠅のさなぎから、もがり、死亡推定時刻も推定できるようになってきました。
さなぎの資料が欲しくて蠅まで飼い始めました。
蠅は嗅覚がすごくて、微妙な人間の死を嗅ぎつけて来ます。
やって来る蠅の種類の変遷があるので、遺体の上にあった虫たちを調べれば、いつ頃死んだのか推定できる、これはアメリカで発達した科学捜査の方法です。
鉄器に付いているさなぎを調べることで死亡推定時刻が推定できます。
生物、植物、昆虫学などとコラボ出来る様なこういう分野をやることで、新たなものが見えてくると思います。
2019年6月6日木曜日
山本龍香(カラー魚拓作家) ・魚の美しさをありのままに
山本龍香(カラー魚拓作家) ・魚の美しさをありのままに
魚拓は釣りあげた魚の表面に墨を塗って和紙または布に魚の姿を写し取ると言うことですが、山本さん(74歳)の技術開発によってそのイメージは覆されました。
魚釣りを趣味としてきた山本さんは、釣り上げた魚を魚拓に残して自分の記録として楽しんできました。
或る時カラー魚拓の世界があることを知った山本さんは、すっかり美しいカラー魚拓の世界に染まって、独自カラーインクを開発したことから日本美術魚拓連盟を組織化して、事務局長として魚拓作家の横のつながりの強化に努力してきました。
今やカラー魚拓の技術は日本の伝統文化として世界中に知れ渡り、出張教授として出かけた国は15カ国、お弟子さんは2000名を越える程になっています。
命を終えた魚をカラー魚拓として後世に残す、山本さんは魚拓にどんな愛情を吹き込んでいるのか伺いました。
色んな魚をやってきて深海魚に目を向けてきて、深海魚をもっとみんなに知らしめたいと思っています。
生き生きとした感じをご覧いただきたいと思っています。
よく魚にお話をします、何食べてたの、どういう魚拓にしたらいいのかねと、声には出さないけれど気持ちを込めて聴くんです。
学術的な面でもまだ図鑑とか無いようなものも、人の目に見ていただくので中途半端なものを作ってはいけないと思いました。
30歳までは釣り道具も買えなかったが、やっと釣り道具を買って、釣った魚を魚拓に作って記録として残しました。
或る時に晴海でボートショーがあって、そこで魚拓の作業をやっていました。
真鯛の綺麗な赤い色で、カルチャーショックを受けて3時間位ずーっと見ていました。
それが色のついた魚拓の最初の経験でした。
同好会があるので観に来なさいと言われて、翌週に行きました。
アジ、カレイ、など色々やってきました。
3時間位やっていました。
「美術魚拓竜の子会」という会でそこに入会しました。
高尾龍三郎先生が主催していました。
8年間学びましたが、営業をやっていたので時間調整が付かず7割ぐらいの出席でした。
名取にしようと言ってくれて、山本龍香と言う名前をいただきました。
実家が東松山で、母の面倒を見るために帰ってきました。
魚拓をやっていると言う事で魚拓会を作ろうと言う事で「インターナショナル魚拓工房」と言う名前にしました。
いつかは海外に広めようと言う思いがあったんだろうと思います。
60歳で定年を迎えて、釣りとか料理したりして魚拓を作って1000種類以上の作品を作りました。
教室には生徒は小学4年生から、高齢では門前仲町から94歳の方が2時間かかってきました。
鯛は赤だとか魚は一色では決めないで、顕微鏡でうろこを良く見ると色んな色が入っています。
色を重ねて奥行きのある色を出します。
3年間色々勉強して、色彩研究所などに行ったりして、色々な印刷会社をまわって、インクを作っている子会社からインクを分けてもらいました。
色を混ぜて行くと究極的には黒くなりますが、色を重ねて行っても黒くならないように、微妙な色のコントラスト、グラデーション的に仕上がってくるんです。
布の場合と和紙の場合があります。
和紙は薄い方がいいです。
魚の上に薄い紙を置いてタンポにインクを湿らせて、軽く叩くと鱗とかひれが浮かび上がります。
絹でも着物の裏地に使う薄いものがいいです。
魚拓の場合は実寸でおこない、絵でもなければ写真でも無いです。
泳いでいるような形が表現できる。
試行錯誤の末に生み出したのが世界最高品質の油性カラー魚拓インクです。
印刷会社でポスターに使ったりする最高級の発色のいいインクにワニスとか添加物を入れて魚拓用に調合しました。
10色ありますが、それを混ぜ合わせることによって無限大の色が出せます。
NHKさんのふれあいホールをお借りすることができて、北海道から九州までの魚拓家を調べて40人の方に趣旨を言って、作品を一堂に集めて意見を交換しようと言う事であつまりました。
そこから横のつながりができました。
草の根外交的に海外の方にも魚拓を教えています。
50,60歳のころにホームページを立ち上げて、英語の記事も載せました。
それを見た方たちが来るようになりました。
持ち帰って地元のカルチャーと融合する訳です。
世界的な魚拓のイベントをやりたいと思っています。
教室で魚拓したならば、頂きますと手を合わせて魚を有難く食べる、これまでを私の教室の範囲としています。
ダイオウイカですが、窪寺 恒己博士がタコとイカの権威の先生で、ダイオウイカがプールみたいなところにホルマリン浸けになっていましたが、魚拓にしてみたいと思いました。
交渉して2枚魚拓を作りたいと伝えました。
窪寺先生は小笠原でダイオウイカを釣り上げた人です。
実寸大のカラーの魚拓があったら講演会の迫力が違うと言う事で、是非やって欲しいと言われました。
イカは腕(足ではない)が8本、触椀が2本あります。
全長 6.7mでした。
国立博物館からは2枚で2日間でやって欲しいと言われました。
ホルマリンの除去をしたかったが、時間が無いので仲間に助けられて11人でやりました。
ホルマリンの為に目からポロポロ涙を流しながら作業したり、途中でお腹から水が出てきたりして挫折しそうになったりしましたが、色々工夫してやり遂げることができました。
1枚は国立博物館に寄贈しました。
45年間の魚拓の経験の中では思い出深いものです。
漁師さんからは珍しい魚が上がると連絡があります。
静岡県の焼津魚港、富山湾のひみ漁港などから連絡が来ます。
推定年齢350歳というカグラザメを魚拓しました。
ラブカ 古代魚で1億年以上前から姿形が変わっていない魚ですが、魚拓をして解剖もしましたが、中からサクラエビが出てきました。
ラブカはサクラエビを追ってきて網にかかったようです。
メヒカリも深海魚ですがポピュラーになってきました。
魚拓の仕上げの最後に細い筆で丁寧に目を書きます。
群馬県の博物館で2020年夏に深海の展示会場の中で山本龍香魚拓コーナーを設けて下さって、凝った内容で色んな作品が飾られる予定になっています。
感謝の印として魚拓を魚を釣った人に差し上げているので自分の処に残っているのは少ないです。
魚拓は釣りあげた魚の表面に墨を塗って和紙または布に魚の姿を写し取ると言うことですが、山本さん(74歳)の技術開発によってそのイメージは覆されました。
魚釣りを趣味としてきた山本さんは、釣り上げた魚を魚拓に残して自分の記録として楽しんできました。
或る時カラー魚拓の世界があることを知った山本さんは、すっかり美しいカラー魚拓の世界に染まって、独自カラーインクを開発したことから日本美術魚拓連盟を組織化して、事務局長として魚拓作家の横のつながりの強化に努力してきました。
今やカラー魚拓の技術は日本の伝統文化として世界中に知れ渡り、出張教授として出かけた国は15カ国、お弟子さんは2000名を越える程になっています。
命を終えた魚をカラー魚拓として後世に残す、山本さんは魚拓にどんな愛情を吹き込んでいるのか伺いました。
色んな魚をやってきて深海魚に目を向けてきて、深海魚をもっとみんなに知らしめたいと思っています。
生き生きとした感じをご覧いただきたいと思っています。
よく魚にお話をします、何食べてたの、どういう魚拓にしたらいいのかねと、声には出さないけれど気持ちを込めて聴くんです。
学術的な面でもまだ図鑑とか無いようなものも、人の目に見ていただくので中途半端なものを作ってはいけないと思いました。
30歳までは釣り道具も買えなかったが、やっと釣り道具を買って、釣った魚を魚拓に作って記録として残しました。
或る時に晴海でボートショーがあって、そこで魚拓の作業をやっていました。
真鯛の綺麗な赤い色で、カルチャーショックを受けて3時間位ずーっと見ていました。
それが色のついた魚拓の最初の経験でした。
同好会があるので観に来なさいと言われて、翌週に行きました。
アジ、カレイ、など色々やってきました。
3時間位やっていました。
「美術魚拓竜の子会」という会でそこに入会しました。
高尾龍三郎先生が主催していました。
8年間学びましたが、営業をやっていたので時間調整が付かず7割ぐらいの出席でした。
名取にしようと言ってくれて、山本龍香と言う名前をいただきました。
実家が東松山で、母の面倒を見るために帰ってきました。
魚拓をやっていると言う事で魚拓会を作ろうと言う事で「インターナショナル魚拓工房」と言う名前にしました。
いつかは海外に広めようと言う思いがあったんだろうと思います。
60歳で定年を迎えて、釣りとか料理したりして魚拓を作って1000種類以上の作品を作りました。
教室には生徒は小学4年生から、高齢では門前仲町から94歳の方が2時間かかってきました。
鯛は赤だとか魚は一色では決めないで、顕微鏡でうろこを良く見ると色んな色が入っています。
色を重ねて奥行きのある色を出します。
3年間色々勉強して、色彩研究所などに行ったりして、色々な印刷会社をまわって、インクを作っている子会社からインクを分けてもらいました。
色を混ぜて行くと究極的には黒くなりますが、色を重ねて行っても黒くならないように、微妙な色のコントラスト、グラデーション的に仕上がってくるんです。
布の場合と和紙の場合があります。
和紙は薄い方がいいです。
魚の上に薄い紙を置いてタンポにインクを湿らせて、軽く叩くと鱗とかひれが浮かび上がります。
絹でも着物の裏地に使う薄いものがいいです。
魚拓の場合は実寸でおこない、絵でもなければ写真でも無いです。
泳いでいるような形が表現できる。
試行錯誤の末に生み出したのが世界最高品質の油性カラー魚拓インクです。
印刷会社でポスターに使ったりする最高級の発色のいいインクにワニスとか添加物を入れて魚拓用に調合しました。
10色ありますが、それを混ぜ合わせることによって無限大の色が出せます。
NHKさんのふれあいホールをお借りすることができて、北海道から九州までの魚拓家を調べて40人の方に趣旨を言って、作品を一堂に集めて意見を交換しようと言う事であつまりました。
そこから横のつながりができました。
草の根外交的に海外の方にも魚拓を教えています。
50,60歳のころにホームページを立ち上げて、英語の記事も載せました。
それを見た方たちが来るようになりました。
持ち帰って地元のカルチャーと融合する訳です。
世界的な魚拓のイベントをやりたいと思っています。
教室で魚拓したならば、頂きますと手を合わせて魚を有難く食べる、これまでを私の教室の範囲としています。
ダイオウイカですが、窪寺 恒己博士がタコとイカの権威の先生で、ダイオウイカがプールみたいなところにホルマリン浸けになっていましたが、魚拓にしてみたいと思いました。
交渉して2枚魚拓を作りたいと伝えました。
窪寺先生は小笠原でダイオウイカを釣り上げた人です。
実寸大のカラーの魚拓があったら講演会の迫力が違うと言う事で、是非やって欲しいと言われました。
イカは腕(足ではない)が8本、触椀が2本あります。
全長 6.7mでした。
国立博物館からは2枚で2日間でやって欲しいと言われました。
ホルマリンの除去をしたかったが、時間が無いので仲間に助けられて11人でやりました。
ホルマリンの為に目からポロポロ涙を流しながら作業したり、途中でお腹から水が出てきたりして挫折しそうになったりしましたが、色々工夫してやり遂げることができました。
1枚は国立博物館に寄贈しました。
45年間の魚拓の経験の中では思い出深いものです。
漁師さんからは珍しい魚が上がると連絡があります。
静岡県の焼津魚港、富山湾のひみ漁港などから連絡が来ます。
推定年齢350歳というカグラザメを魚拓しました。
ラブカ 古代魚で1億年以上前から姿形が変わっていない魚ですが、魚拓をして解剖もしましたが、中からサクラエビが出てきました。
ラブカはサクラエビを追ってきて網にかかったようです。
メヒカリも深海魚ですがポピュラーになってきました。
魚拓の仕上げの最後に細い筆で丁寧に目を書きます。
群馬県の博物館で2020年夏に深海の展示会場の中で山本龍香魚拓コーナーを設けて下さって、凝った内容で色んな作品が飾られる予定になっています。
感謝の印として魚拓を魚を釣った人に差し上げているので自分の処に残っているのは少ないです。
2019年6月5日水曜日
山下洋輔(ジャズピアニスト) ・即興セッション旅日記
山下洋輔(ジャズピアニスト) ・即興セッション旅日記
77歳の今も全国はもとより世界中を旅して演奏を続けています。
以前からエッセーには定評がありますが、今回は久しぶりに旅を中心にしたエッセー集を纏めて、そこには旅先でのさまざまな出会いは勿論、師として仰ぐ作家の筒井康隆さんや指揮者の佐渡裕さんとの交流も描かれています。
演奏スタイルがそのまま日常のような山下さんに印象に残るエピソードを伺っていきます。
エッセーのタイトルが「猛老猫の逆襲」、猛老猫は自分の事、猫が大好きです。
久しぶりに出したので逆襲としました。
基本は旅のエッセーです。
椎名さんから最近旅ものが無いと言われて気が付いて、話がたまたま来ました。
或る音楽雑誌に書いたのがエッセーを書くようになった始まりです。
アルトサックスの坂田明などはひっきりなしに面白い事を言います。
うずくまっている犬に向かって説教をしていたりします。
自分の失敗とか旅先の色んなエピソードをネタにしたりしています。
書いた文章のお陰で先に進むと言う事もあります。
昔の方が生れて初めてニューヨークにヨーロッパに行ったとかテンションが違います。
今は今で何を見ても面白いと思う性質は変わらないので、いちいち驚くんです、それが自分でも心地良いです。
面白い人、もの、ことにずーっと出会ってきたと考えています。
もみ殻がピアノの中に転がり込んで、板の下で芽を吹いて間を伝わって出てきた。
日本からきた調理師さんが面白いからこのままにしておこうということになりました。
ミャンマーでは湿気(水)があり、ピアノは陽のあたる窓辺にあった。
そういった関係で芽が出てきました。
そのままでピアノを弾いたことがあります。
その後ウイーンに行きました。
クラシックオーケストラとやることになり、指揮が佐渡裕さんでした。
大作曲家の名前が彫ってある名所に行って、その彫ってある名前の上を足で踏んづけて歩いてもいいんです。
呪いがあるのではないかと思ったら、そうしたら靴が壊れてしまいました。
スニーカーの方が身軽でいいです。
1986年位からオーケストラとやるようになりました。
譜面どうりにはとてもできないと思って、自分のやり易いように変えてしまうけど良いですかと言うことから始まりました。
譜面通りにやらなければいけないところもありますので、練習を一生縣命します。
岡林信康さんのギターと私のピアノ、異質ではあるが雰囲気があっていて一つになっている。
林英哲さんの太鼓とも一緒にやりました。
色々の分野の人との話がありますが、断ったことはないです。
親戚の人達がが海外でも活躍して居るので、打ち上げに集まって大さわぎしたりしています。
親戚だからこそいろいろ意見を言ってくれます。
海外のライブハウスとかミュージシャン、プロデューサー、ファンの町の人など何十年のお付き合いがあります。
祖父(山下啓次郎)の設計した奈良の監獄が保存されると言う事で、そこでも演奏するとか色々あります。
明治の5大監獄があったが、鹿児島の監獄がなくなると言う事でそこでピアノを弾いたのが尾を引いて、今度は奈良の監獄が保存されると言う事でやってきました。
中庭の特別ステージでやりました。
思わず「おじいさんの古時計」をやってしまいました。
ドイツが最初の外国でしたが、ビールの思い出があります。
残念ですが、寿司、刺し身は駄目です。
冷やし中華は好きで、全国冷やし中華愛好会を作って、何故冬に食べられないのかとかやりました。
いきなり会長になり、全国に新聞発行もしました。(30年ぐらい前)
筒井さんが第2代目の会長になりました。
「ジャズ大名」筒井康隆さんが書いたものを、どこかおかしくないかとかチェックをした事があります。
松井守男さんとは知り合って直ぐに松井さんはフランスに行ってしました。
2003年に松井さんはレジオンドヌール勲章をもらいました。
「世の中は全て人と人とのつながりしかない、世界中そうなんだと実感した」と挨拶したら、松井さんは「人を紹介することは誰でもできるけれど、成功するかどうかはその人の実力次第だよ」と言ってくれた。
私の場合、旨い具合に出会いが続いて行ったと思います。
77歳の今も全国はもとより世界中を旅して演奏を続けています。
以前からエッセーには定評がありますが、今回は久しぶりに旅を中心にしたエッセー集を纏めて、そこには旅先でのさまざまな出会いは勿論、師として仰ぐ作家の筒井康隆さんや指揮者の佐渡裕さんとの交流も描かれています。
演奏スタイルがそのまま日常のような山下さんに印象に残るエピソードを伺っていきます。
エッセーのタイトルが「猛老猫の逆襲」、猛老猫は自分の事、猫が大好きです。
久しぶりに出したので逆襲としました。
基本は旅のエッセーです。
椎名さんから最近旅ものが無いと言われて気が付いて、話がたまたま来ました。
或る音楽雑誌に書いたのがエッセーを書くようになった始まりです。
アルトサックスの坂田明などはひっきりなしに面白い事を言います。
うずくまっている犬に向かって説教をしていたりします。
自分の失敗とか旅先の色んなエピソードをネタにしたりしています。
書いた文章のお陰で先に進むと言う事もあります。
昔の方が生れて初めてニューヨークにヨーロッパに行ったとかテンションが違います。
今は今で何を見ても面白いと思う性質は変わらないので、いちいち驚くんです、それが自分でも心地良いです。
面白い人、もの、ことにずーっと出会ってきたと考えています。
もみ殻がピアノの中に転がり込んで、板の下で芽を吹いて間を伝わって出てきた。
日本からきた調理師さんが面白いからこのままにしておこうということになりました。
ミャンマーでは湿気(水)があり、ピアノは陽のあたる窓辺にあった。
そういった関係で芽が出てきました。
そのままでピアノを弾いたことがあります。
その後ウイーンに行きました。
クラシックオーケストラとやることになり、指揮が佐渡裕さんでした。
大作曲家の名前が彫ってある名所に行って、その彫ってある名前の上を足で踏んづけて歩いてもいいんです。
呪いがあるのではないかと思ったら、そうしたら靴が壊れてしまいました。
スニーカーの方が身軽でいいです。
1986年位からオーケストラとやるようになりました。
譜面どうりにはとてもできないと思って、自分のやり易いように変えてしまうけど良いですかと言うことから始まりました。
譜面通りにやらなければいけないところもありますので、練習を一生縣命します。
岡林信康さんのギターと私のピアノ、異質ではあるが雰囲気があっていて一つになっている。
林英哲さんの太鼓とも一緒にやりました。
色々の分野の人との話がありますが、断ったことはないです。
親戚の人達がが海外でも活躍して居るので、打ち上げに集まって大さわぎしたりしています。
親戚だからこそいろいろ意見を言ってくれます。
海外のライブハウスとかミュージシャン、プロデューサー、ファンの町の人など何十年のお付き合いがあります。
祖父(山下啓次郎)の設計した奈良の監獄が保存されると言う事で、そこでも演奏するとか色々あります。
明治の5大監獄があったが、鹿児島の監獄がなくなると言う事でそこでピアノを弾いたのが尾を引いて、今度は奈良の監獄が保存されると言う事でやってきました。
中庭の特別ステージでやりました。
思わず「おじいさんの古時計」をやってしまいました。
ドイツが最初の外国でしたが、ビールの思い出があります。
残念ですが、寿司、刺し身は駄目です。
冷やし中華は好きで、全国冷やし中華愛好会を作って、何故冬に食べられないのかとかやりました。
いきなり会長になり、全国に新聞発行もしました。(30年ぐらい前)
筒井さんが第2代目の会長になりました。
「ジャズ大名」筒井康隆さんが書いたものを、どこかおかしくないかとかチェックをした事があります。
松井守男さんとは知り合って直ぐに松井さんはフランスに行ってしました。
2003年に松井さんはレジオンドヌール勲章をもらいました。
「世の中は全て人と人とのつながりしかない、世界中そうなんだと実感した」と挨拶したら、松井さんは「人を紹介することは誰でもできるけれど、成功するかどうかはその人の実力次第だよ」と言ってくれた。
私の場合、旨い具合に出会いが続いて行ったと思います。
2019年6月4日火曜日
速水 洋(歩行訓練士) ・歩くよろこびをともに
速水 洋(歩行訓練士) ・歩くよろこびをともに
63歳、1990年から視覚障害者を対象にしたウオーキングの会「白い杖の集い」を主催しています。
大阪市にある長居公園のマラソン周回コースを月に一度歩くものでこの6月で355回を数えます。
およそ30年もの間途切れることなく続いてきた秘訣そこに込めた思いを伺います。
歩行訓練士は目が見えない、見えにくい人達に白杖を使って歩行訓練をすると言う、独り歩きしてもらうものです。
私は家庭訪問をして歩行訓練を行う、歩行訓練士です。
生活の為に歩く訳ですから色々なものがあり、10円玉と100円玉が判るとか色々有ります。
急に目をつぶると色々できない。
目を使わないで物ごとを処理する方法が判らないから。
歯ブラシに歯磨き粉を乗せるにはどうするか、いくらでもありますが、例えば歯ブラシに指を添えて、自分の指に添える感じでチューブを出せばいいんです。
ウオーキングの会「白い杖の集い」は1990年からやっていますので30年になります。
長居公園の身体障害者スポーツセンターに第二木曜日に10時に集まると言う事だけなんです。
一周2813mで15周歩くと42,195kmになります。
思い思い自分のペースでやっています。
身体障害者スポーツセンターの部屋の中で自転車をこいだりするのもいいが、思い切り青空の元でのんびり歩きたいと言う人がいました。
それでやってみようかと言うことになりました。
目が見えない人が歩けなくなるのは
①危ない。
②今何処に居てどっちを向いてて何処へ行けばいいのは、方向の問題。
アメリカからやってきたオリエンテーション アンド モビリティートレーニング( Orientation and mobility training, 視覚障害者の単独移動を促進するための学習や練習。)と言うものがあります。
公園では方向性が難しい。
マラソンコースの道(一般の車は入れない)であれば周回して、迷わない。
最初集まったのは3人でした。
次回は6人になりました。
次には12人になりました。
会員と言うのは無くて気が向いたら来るようになっています。
私は何人来たかは記録に付けています。
5月の時点で一番多い人が274回、連続してきているのが184回と言う人がいます。
色んな交流が生まれました。
私は和歌山県で生まれました。
高校3年の時に大学に行きたいと言う事で、高校卒業後、福祉の方に行こうかと思いました。
父親が視覚障害の2級だったんです。(弱視 杖なしでも歩ける程度)
東北福祉大学に行きました。
大学2年の時に河添邦俊先生の障害児教育の発達理論の講座がありそれにすごく感動しました。
人間の可能性に感動しました。
寝た切りの子は寝ることができると言う発想です、できないことは無いんだと言うことです。
卒業後東京の施設に行きました。
視覚障害プラス知的障害を併せ持つ人達の訓練施設でした。
そこに歩行訓練士が居て面白いなあと思いました。
歩行訓練士として大阪に行くように言われました。
3年後に大阪で歩行訓練ばかりする所に欠員が出来たので、そこに飛びつきました。
妻は訓練生でした。
歩行訓練をすると出来なかった事が出来るようになります。
マイナス思考からプラス思考に変わっていく過程が一緒に見られる訳でそれが凄いです。
一緒に喜べるわけです。
彼女(妻)も積極的ではなかった。
私はNHKのTV番組に出させてもらって、それを見て、視覚障害者の歩行訓練と言う言葉が耳に飛び込んできて、NHKに問い合わせて、家に来ました。
彼女は歩行訓練を通して前向きになっていきました。
決め手は可愛かったです。
本を書いたり講演活動などを2人3脚でやってきました。
視覚障害を理解してほしいと訴えて来ました。
妻は3年前に亡くなりました。(以前からクローン病でした。)
気が弱いけど我が強い人でした。(人当たりはいいが自分を曲げない)
視覚障害に付いて判っているつもりでも、判り切れていないと言うところがちょいちょい出てきます。
目が見える人は色んな事をやってしまう、1秒、2秒待てばできることをつい言ってしまうと当人は恥ずかしい思いをしてしまう事がある。(靴の履き違えとか)
杖一本で外を歩けるようになるので、家の中ではどれだけ可能性が広がるかと言うことです。
人が喜んでくれるのが楽しいです。
プラス思考に変わっていくその瞬間を目の当たりにできて、こんな経験ってなかなかできないです。
歩行訓練をすると言う事は自分の弱みをさらけ出すので大変ですが、一人で歩きたいと言う思いがあるわけです。
落ち込んでいて自分と同じ様な人はどうしているんだろうと周りの人を気にして「白い杖の集い」に参加して仲良くなるパターンとかあります。
喋っているだけで元気になります。
平日にやったのが良かったと思います。
ルールは無いです、自己紹介はします。
全国各地でこんな取り組みをして欲しいと思っています。
できるだけ今の感じでやっていきたいです。
歩く喜びのお手伝いができることは凄いと思います。
生涯一訓練士として頑張っていきたいです。
63歳、1990年から視覚障害者を対象にしたウオーキングの会「白い杖の集い」を主催しています。
大阪市にある長居公園のマラソン周回コースを月に一度歩くものでこの6月で355回を数えます。
およそ30年もの間途切れることなく続いてきた秘訣そこに込めた思いを伺います。
歩行訓練士は目が見えない、見えにくい人達に白杖を使って歩行訓練をすると言う、独り歩きしてもらうものです。
私は家庭訪問をして歩行訓練を行う、歩行訓練士です。
生活の為に歩く訳ですから色々なものがあり、10円玉と100円玉が判るとか色々有ります。
急に目をつぶると色々できない。
目を使わないで物ごとを処理する方法が判らないから。
歯ブラシに歯磨き粉を乗せるにはどうするか、いくらでもありますが、例えば歯ブラシに指を添えて、自分の指に添える感じでチューブを出せばいいんです。
ウオーキングの会「白い杖の集い」は1990年からやっていますので30年になります。
長居公園の身体障害者スポーツセンターに第二木曜日に10時に集まると言う事だけなんです。
一周2813mで15周歩くと42,195kmになります。
思い思い自分のペースでやっています。
身体障害者スポーツセンターの部屋の中で自転車をこいだりするのもいいが、思い切り青空の元でのんびり歩きたいと言う人がいました。
それでやってみようかと言うことになりました。
目が見えない人が歩けなくなるのは
①危ない。
②今何処に居てどっちを向いてて何処へ行けばいいのは、方向の問題。
アメリカからやってきたオリエンテーション アンド モビリティートレーニング( Orientation and mobility training, 視覚障害者の単独移動を促進するための学習や練習。)と言うものがあります。
公園では方向性が難しい。
マラソンコースの道(一般の車は入れない)であれば周回して、迷わない。
最初集まったのは3人でした。
次回は6人になりました。
次には12人になりました。
会員と言うのは無くて気が向いたら来るようになっています。
私は何人来たかは記録に付けています。
5月の時点で一番多い人が274回、連続してきているのが184回と言う人がいます。
色んな交流が生まれました。
私は和歌山県で生まれました。
高校3年の時に大学に行きたいと言う事で、高校卒業後、福祉の方に行こうかと思いました。
父親が視覚障害の2級だったんです。(弱視 杖なしでも歩ける程度)
東北福祉大学に行きました。
大学2年の時に河添邦俊先生の障害児教育の発達理論の講座がありそれにすごく感動しました。
人間の可能性に感動しました。
寝た切りの子は寝ることができると言う発想です、できないことは無いんだと言うことです。
卒業後東京の施設に行きました。
視覚障害プラス知的障害を併せ持つ人達の訓練施設でした。
そこに歩行訓練士が居て面白いなあと思いました。
歩行訓練士として大阪に行くように言われました。
3年後に大阪で歩行訓練ばかりする所に欠員が出来たので、そこに飛びつきました。
妻は訓練生でした。
歩行訓練をすると出来なかった事が出来るようになります。
マイナス思考からプラス思考に変わっていく過程が一緒に見られる訳でそれが凄いです。
一緒に喜べるわけです。
彼女(妻)も積極的ではなかった。
私はNHKのTV番組に出させてもらって、それを見て、視覚障害者の歩行訓練と言う言葉が耳に飛び込んできて、NHKに問い合わせて、家に来ました。
彼女は歩行訓練を通して前向きになっていきました。
決め手は可愛かったです。
本を書いたり講演活動などを2人3脚でやってきました。
視覚障害を理解してほしいと訴えて来ました。
妻は3年前に亡くなりました。(以前からクローン病でした。)
気が弱いけど我が強い人でした。(人当たりはいいが自分を曲げない)
視覚障害に付いて判っているつもりでも、判り切れていないと言うところがちょいちょい出てきます。
目が見える人は色んな事をやってしまう、1秒、2秒待てばできることをつい言ってしまうと当人は恥ずかしい思いをしてしまう事がある。(靴の履き違えとか)
杖一本で外を歩けるようになるので、家の中ではどれだけ可能性が広がるかと言うことです。
人が喜んでくれるのが楽しいです。
プラス思考に変わっていくその瞬間を目の当たりにできて、こんな経験ってなかなかできないです。
歩行訓練をすると言う事は自分の弱みをさらけ出すので大変ですが、一人で歩きたいと言う思いがあるわけです。
落ち込んでいて自分と同じ様な人はどうしているんだろうと周りの人を気にして「白い杖の集い」に参加して仲良くなるパターンとかあります。
喋っているだけで元気になります。
平日にやったのが良かったと思います。
ルールは無いです、自己紹介はします。
全国各地でこんな取り組みをして欲しいと思っています。
できるだけ今の感じでやっていきたいです。
歩く喜びのお手伝いができることは凄いと思います。
生涯一訓練士として頑張っていきたいです。
2019年6月3日月曜日
上原鈴子(上原大祐の母) ・【アスリート誕生物語】
上原鈴子(上原大祐の母) ・【アスリート誕生物語】パラリンピックアイススレッジホッケー銀メダリスト
アイススレッジホッケーと言うのは、下半身に障害を持つ人のために、アイスホッケーのルールを一部変更して行うスポーツです。
上原大祐選手はパラリンピックに3回出場、トリノ、バンクーバー、ピョンチャン。
小さなころからやんちゃ子でしたので、このスポーツに巡り合えてよかったと思います。
スケートの刃を2枚付けたソリの上に乗り、スティックは2本持って、すべりながら的に向かって打つと言う難しい競技ですが、あの子は始めて直ぐに上手くなってしまって、周りの人も吃驚していました。
多少の怪我は仕方ないとあまり気にしていませんでした。
生れた時から二分脊椎症でした。
お腹にいる時には普通に動いていました。
生れてすぐに先生から身体に異常があると言う事で、二分脊椎症と言われました。
2週間目に応急の手術が必要だと言われました。
障害が出るかもしれないと言われました。
2年位は病院と家だけの行き帰りで、未来に対して不安で毎日めそめそしていました。
リハビリの先生から病院のすぐそばに、障害を持っている子の保育園があることを教えてもらいました。
行ったら吃驚してしまいました、みんな明るく元気に笑っていたりしていました。
「めそめそ毎日泣いていても何も始まらないでしょう」、と言われてそれがきっかけで自分も前に進もうと思いました。(2歳の終わりごろ)
そこは一人ではないという安心感もありました。
本人からはこんな体でと言う事は言われませんでしたが、大きな手術があり、痛い思いをさせたので、泣かせた分だけ笑顔でいようと思って育てていました
大祐は足が悪いのはいつか治ると思っていたようでしたが、直らない事が判って来て、高校生の時に「こんな体に産んで」、と言われた時には切なかったが仕方ないと思いました。
大祐が車椅子に乗ったのは3歳の時でした。
何でも興味を持つ子で車椅子に乗って見たいと言いました。
観たい、聞きたいやりたいと言ったことはすべてやらせてきました。
小学校に入ると自転車に乗りたがるので、調べたり聴いたりしていたら、群馬県に手でこぐ自転車があることが判って、購入したら喜びました。
学校の行事も色々あって、スケート教室もあり、考えて補装具をつければ立てると言う事が判って、大きなスケート靴にすれば大丈夫そうだと思いました。
リングにつれていったら大喜びでした。
遠足でも1~10までは出来ないが、1~5までできるなら一緒に遠足に行けると言う事で、行くと周りが自然と助けてくれるようになりました。
小学校に入るにあたっては、教育委員会にお願いしにいったんですが、車椅子ではと言う事で断られてしまいました。(前例がないと言う事でした。)
普通学校でやっていける自信がありました。
幼稚園の時から周りには友達がいて、遊び方がうまかったです。
何回も話し合いをして、最終的には私が付き添う事で入学の許可をいただきました。
勇気がいりますが、先ずは親が第一歩を踏みださないと開けないと思いました。
元気に明るく、社会の一員として自立させたいという目標があったので、普通学級をと考えました。
大祐は何でもやってみたいと言う考えがあり、それに対して私がその宿題をなんとかクリアしたいと思って動きました。
建築関係をやりたいと言う事でそっちの大学に進みました。
大祐の車椅子を作ってくれている社長さんも車椅子を使用していて、その方がアイスホッケーをやっていました。
大祐は車椅子をよく壊すので、これはアイスホッケーに向いていると言ってくれました。
リンクまでは家から2時間かかり、練習が朝早いので大祐が車の免許を取っていけることになりました。
頭角を現すのはすごく早かったです。
周りとも仲良くなって楽しくやっていました。
2006年24歳でトリノパラリンピックに出場、次のバンクーバーでは銀メダル。
努力が報われたと思って、観ていて本当に嬉しかったです。
リンクで試合をやっていた姿は本当にかっこよくて、引退して残念ですが、今は色んな事をやっているので違うところで輝ければいいと思います。
2014年にNPO法人を立ち上げる。
学校生活の中で出来なかった事に畑の作業があり、障害のある子も畑作業ができるようにしようとしました。
車椅子でもはいれるように工夫して作業して、収穫物も一緒にみんなで食べると言う、そうすると一緒に体験できて嬉しいと笑顔を見せてくれます。
夏にはキャンプもやっています。
私もNPOを手伝っています。
大祐が小、中、高校と普通学校に行ったという経験を話すと、大丈夫なんだねと力強く思ってくれるので、前例を作ったことは凄く生かされていると思います。
先ずはやって見ると言う事を伝えたい、やらないでできないはないと言うのは無い、やって見て駄目だったら違う方法、考え方を見付ければいい事であって、初めから駄目では進めない。
子育て中は本当に忙しかったですが、本が好きだったので本を読んだりしていましたが、今暇になって時間がたっぷりあるのに時間を上手く使えてない。
人間って忙しくてもやればできるんですよね、
障害のある子が生まれてきたことはどうにもできないことで、大祐と真剣に向き合って育てて行くしかないし、私も大祐の親になったんだから前に進むしかないと思いました。
大祐は色々な活動を通して沢山の方と知り合う事が出来て、頼りにされたり、必要とされている大祐は私にとっても誇りであり、それが私にとっての一番の親孝行かと思っています。
アイススレッジホッケーと言うのは、下半身に障害を持つ人のために、アイスホッケーのルールを一部変更して行うスポーツです。
上原大祐選手はパラリンピックに3回出場、トリノ、バンクーバー、ピョンチャン。
小さなころからやんちゃ子でしたので、このスポーツに巡り合えてよかったと思います。
スケートの刃を2枚付けたソリの上に乗り、スティックは2本持って、すべりながら的に向かって打つと言う難しい競技ですが、あの子は始めて直ぐに上手くなってしまって、周りの人も吃驚していました。
多少の怪我は仕方ないとあまり気にしていませんでした。
生れた時から二分脊椎症でした。
お腹にいる時には普通に動いていました。
生れてすぐに先生から身体に異常があると言う事で、二分脊椎症と言われました。
2週間目に応急の手術が必要だと言われました。
障害が出るかもしれないと言われました。
2年位は病院と家だけの行き帰りで、未来に対して不安で毎日めそめそしていました。
リハビリの先生から病院のすぐそばに、障害を持っている子の保育園があることを教えてもらいました。
行ったら吃驚してしまいました、みんな明るく元気に笑っていたりしていました。
「めそめそ毎日泣いていても何も始まらないでしょう」、と言われてそれがきっかけで自分も前に進もうと思いました。(2歳の終わりごろ)
そこは一人ではないという安心感もありました。
本人からはこんな体でと言う事は言われませんでしたが、大きな手術があり、痛い思いをさせたので、泣かせた分だけ笑顔でいようと思って育てていました
大祐は足が悪いのはいつか治ると思っていたようでしたが、直らない事が判って来て、高校生の時に「こんな体に産んで」、と言われた時には切なかったが仕方ないと思いました。
大祐が車椅子に乗ったのは3歳の時でした。
何でも興味を持つ子で車椅子に乗って見たいと言いました。
観たい、聞きたいやりたいと言ったことはすべてやらせてきました。
小学校に入ると自転車に乗りたがるので、調べたり聴いたりしていたら、群馬県に手でこぐ自転車があることが判って、購入したら喜びました。
学校の行事も色々あって、スケート教室もあり、考えて補装具をつければ立てると言う事が判って、大きなスケート靴にすれば大丈夫そうだと思いました。
リングにつれていったら大喜びでした。
遠足でも1~10までは出来ないが、1~5までできるなら一緒に遠足に行けると言う事で、行くと周りが自然と助けてくれるようになりました。
小学校に入るにあたっては、教育委員会にお願いしにいったんですが、車椅子ではと言う事で断られてしまいました。(前例がないと言う事でした。)
普通学校でやっていける自信がありました。
幼稚園の時から周りには友達がいて、遊び方がうまかったです。
何回も話し合いをして、最終的には私が付き添う事で入学の許可をいただきました。
勇気がいりますが、先ずは親が第一歩を踏みださないと開けないと思いました。
元気に明るく、社会の一員として自立させたいという目標があったので、普通学級をと考えました。
大祐は何でもやってみたいと言う考えがあり、それに対して私がその宿題をなんとかクリアしたいと思って動きました。
建築関係をやりたいと言う事でそっちの大学に進みました。
大祐の車椅子を作ってくれている社長さんも車椅子を使用していて、その方がアイスホッケーをやっていました。
大祐は車椅子をよく壊すので、これはアイスホッケーに向いていると言ってくれました。
リンクまでは家から2時間かかり、練習が朝早いので大祐が車の免許を取っていけることになりました。
頭角を現すのはすごく早かったです。
周りとも仲良くなって楽しくやっていました。
2006年24歳でトリノパラリンピックに出場、次のバンクーバーでは銀メダル。
努力が報われたと思って、観ていて本当に嬉しかったです。
リンクで試合をやっていた姿は本当にかっこよくて、引退して残念ですが、今は色んな事をやっているので違うところで輝ければいいと思います。
2014年にNPO法人を立ち上げる。
学校生活の中で出来なかった事に畑の作業があり、障害のある子も畑作業ができるようにしようとしました。
車椅子でもはいれるように工夫して作業して、収穫物も一緒にみんなで食べると言う、そうすると一緒に体験できて嬉しいと笑顔を見せてくれます。
夏にはキャンプもやっています。
私もNPOを手伝っています。
大祐が小、中、高校と普通学校に行ったという経験を話すと、大丈夫なんだねと力強く思ってくれるので、前例を作ったことは凄く生かされていると思います。
先ずはやって見ると言う事を伝えたい、やらないでできないはないと言うのは無い、やって見て駄目だったら違う方法、考え方を見付ければいい事であって、初めから駄目では進めない。
子育て中は本当に忙しかったですが、本が好きだったので本を読んだりしていましたが、今暇になって時間がたっぷりあるのに時間を上手く使えてない。
人間って忙しくてもやればできるんですよね、
障害のある子が生まれてきたことはどうにもできないことで、大祐と真剣に向き合って育てて行くしかないし、私も大祐の親になったんだから前に進むしかないと思いました。
大祐は色々な活動を通して沢山の方と知り合う事が出来て、頼りにされたり、必要とされている大祐は私にとっても誇りであり、それが私にとっての一番の親孝行かと思っています。
2019年6月2日日曜日
たいら いさお(童謡・アニメソング歌手) ・【時代を創った声】
たいら いさお(童謡・アニメソング歌手) ・【時代を創った声】
「バスストップ」でヒットした「たいらこうじさん」を兄に持ち、加山雄三さんに憧れて歌手を目指して長崎県佐世保市から上京していったと言います。
NHK「おかあさんといっしょ」の3代目「うたのおにいさん」をつとめ、アニメソング歌手、童謡歌手として活躍。
6人兄弟の末っ子で姉が4人、兄が一人、引っ込み思案の子でした。
人前であまりしゃべったりすることのできない子でした。
中学校でバスケットを始めて積極的になり友達も増えました。
中学校後半ぐらいからブループサウンズ、加山雄三さんに憧れるようになりました。
高校時代はフォークソングで、ギター一本あればみんな輪になれると言うような状況でした。
ギターを握って青春時代を過ごすようになりました。
高校2年の時に兄がデビューしました。
東京に行きたくて、大学に行くことになりました。
文学座附属演劇研究所へ大学の最終在学中に入りました。(第15期生)
歌にプラスになると思いました。
文学座を卒業して、声をかけられるようになって、龍村雅史と言う芸名を付けていただいてデビューするようになりました、(1976年7月『ひとりの砂浜』)
その直後から、なかなか世の中に出て行くチャンスがありませんでした。
焦ってきてつい周りと比較をしてしまいました。
或る時に担当マネージャーではない人から、「うたのおにいさん」のオーディションの話が来ているがやってみないかと言われました。
やろうかということになりました。
初代が田中星児さん、二代目が水木一郎さんでした。
三代目になることになりました。
暫く水木さんとは週交替でやっていました。
新作の童謡がどんどんやってくるので大変でした。
子どもたち相手なので何が起こるかないので、何があっても対応することを学びました。
「うたのおにいさん」を卒業してその後、アニメソングを歌う様になりました。
子どもの歌の延長と思っていました。
段々アニメソングが要求することは、その作品の代表テーマソングであると言うことになり、「うたのおにいさん」の延長だけでは通じないものがでてきました。
「復活のイデオン」が2曲目でバラードからロックに変わってくるもので、斬新な曲でした。
巨大ロボットもののアニメが流行った時代でした。
*「最強ロボ ダイオージャ」(1981年から1年間 水戸黄門をモチーフにしたもの)
アニメソグを歌うチャンスが段々なくなり、生活面でも厳しくなりました。
童謡を歌ってくれませんかと言う話があり、童謡も歌うようになりました。
童謡でも抒情的な曲も歌うようになりました。
新しい童謡を生み出そうと言う運動が盛り上がってきました。
それと同時に歩み始めました。
*「北風小僧の寒太郎」 作詞:井出隆夫、作曲と編曲:福田和禾子
童謡は判りやすい言葉で短いセンテンスの中に色んな思いが詰まっていると思っています。
「シャボン玉」 作詩 野口雨情
シャボン玉で遊んでいる歌だが、野口雨情の幼くして亡くした子どもへの鎮魂歌ではないかと言う事を知った時に、命の大切さを歌っているんだなと思った時に、どう表現するか至難の技の一曲ですが、それだけに醍醐味があると思います。
昨年が「赤い鳥」創刊から100年になり、数年前から練ってきて童謡誕生ストーリーと言う事でシリーズでコンサートをやってきました。
基本をしっかり学んで(まっさらな白を基本に)、どういう色合いにも歌えるように、と言う事で教える様にしています。
「バスストップ」でヒットした「たいらこうじさん」を兄に持ち、加山雄三さんに憧れて歌手を目指して長崎県佐世保市から上京していったと言います。
NHK「おかあさんといっしょ」の3代目「うたのおにいさん」をつとめ、アニメソング歌手、童謡歌手として活躍。
6人兄弟の末っ子で姉が4人、兄が一人、引っ込み思案の子でした。
人前であまりしゃべったりすることのできない子でした。
中学校でバスケットを始めて積極的になり友達も増えました。
中学校後半ぐらいからブループサウンズ、加山雄三さんに憧れるようになりました。
高校時代はフォークソングで、ギター一本あればみんな輪になれると言うような状況でした。
ギターを握って青春時代を過ごすようになりました。
高校2年の時に兄がデビューしました。
東京に行きたくて、大学に行くことになりました。
文学座附属演劇研究所へ大学の最終在学中に入りました。(第15期生)
歌にプラスになると思いました。
文学座を卒業して、声をかけられるようになって、龍村雅史と言う芸名を付けていただいてデビューするようになりました、(1976年7月『ひとりの砂浜』)
その直後から、なかなか世の中に出て行くチャンスがありませんでした。
焦ってきてつい周りと比較をしてしまいました。
或る時に担当マネージャーではない人から、「うたのおにいさん」のオーディションの話が来ているがやってみないかと言われました。
やろうかということになりました。
初代が田中星児さん、二代目が水木一郎さんでした。
三代目になることになりました。
暫く水木さんとは週交替でやっていました。
新作の童謡がどんどんやってくるので大変でした。
子どもたち相手なので何が起こるかないので、何があっても対応することを学びました。
「うたのおにいさん」を卒業してその後、アニメソングを歌う様になりました。
子どもの歌の延長と思っていました。
段々アニメソングが要求することは、その作品の代表テーマソングであると言うことになり、「うたのおにいさん」の延長だけでは通じないものがでてきました。
「復活のイデオン」が2曲目でバラードからロックに変わってくるもので、斬新な曲でした。
巨大ロボットもののアニメが流行った時代でした。
*「最強ロボ ダイオージャ」(1981年から1年間 水戸黄門をモチーフにしたもの)
アニメソグを歌うチャンスが段々なくなり、生活面でも厳しくなりました。
童謡を歌ってくれませんかと言う話があり、童謡も歌うようになりました。
童謡でも抒情的な曲も歌うようになりました。
新しい童謡を生み出そうと言う運動が盛り上がってきました。
それと同時に歩み始めました。
*「北風小僧の寒太郎」 作詞:井出隆夫、作曲と編曲:福田和禾子
童謡は判りやすい言葉で短いセンテンスの中に色んな思いが詰まっていると思っています。
「シャボン玉」 作詩 野口雨情
シャボン玉で遊んでいる歌だが、野口雨情の幼くして亡くした子どもへの鎮魂歌ではないかと言う事を知った時に、命の大切さを歌っているんだなと思った時に、どう表現するか至難の技の一曲ですが、それだけに醍醐味があると思います。
昨年が「赤い鳥」創刊から100年になり、数年前から練ってきて童謡誕生ストーリーと言う事でシリーズでコンサートをやってきました。
基本をしっかり学んで(まっさらな白を基本に)、どういう色合いにも歌えるように、と言う事で教える様にしています。
2019年6月1日土曜日
細谷亮太(小児科医・俳人) ・スペシャル対談】(詩人 工藤直子)
細谷亮太(小児科医・俳人) ・スペシャル対談】(詩人 工藤直子)
子どもに寄りそう事をテーマに語り合いました。
工藤直子さんは1935年(昭和10年)台湾台南州生れ、83歳、お茶の水女子大学を卒業し、大手広告代理店でコピーライターとして仕事を始めます。
1983年(昭和58年)『てつがくのライオン』で日本児童文学者協会新人賞を受賞。
『のはらうた』に代表されるように子どもも大人も楽しめる優しい言葉でかかれた詩は小学校の国語の教科書にも収録されています。
お子さんはお一人、漫画家の松本大洋さんです。
細谷亮太さんは1948年山形県生まれ、71歳 東北大学医学部卒業後聖路加国際病院小児科勤務、副院長も務める。
専門は小児がんとターミナルケア、育児書や小児科医としてに日々の暮らしの中で感じたことを、エッセーとして発表されるなど沢山の著書があり、細谷喨々の俳号を持つ俳人でもあります。
お子さんは4人、お孫さんは8人います。
工藤:若いお父さんお母さんを応援しています。
昔はこれをしろ、するなと言う事があり、うっとうしいがそれに従っていればそこそこ人生行けるんっじゃないか、と言う様なものでもあった様な気がします。
終戦が10歳の時で、価値観がひっくり返りました。
その後今はITスマホ、人生の基準、モラルが混とんとしていてしょうがないと思います。
新しい何かが生まれてくるのかなあと思っています。
年寄りは応援すべきだと思っています。
子どもたちとつきあってみて、君ら新芽だね、と思います。
細谷:赤ちゃん検診で3つ位まで付き合います。
病気と闘っている子とも付き合ってきました。
健康な子どもたちと同じ様に育ってほしいと思って応援しています。
可愛いなと思って、優しくするのが原点だと思います。
その後ルールとかをきちんと教えることも重要になってくると思います。
工藤:私は母親的母親ではなかったと思います。
私が1歳10カ月位で母ががんで亡くなりました。
父はあれをせよ、これをするなとかを言われたことが無いんです、怒られたことも無いです。
1度だけ言われた事がありました、子どもが歌うような歌ではない歌を大きな声で歌っていたら、「おい直子、何とかならんかその歌は」、と一度だけです。
私は子どもに対してはちゃらんぽらんでした。
細谷:恵まれた環境にあれば人間はあまり叱ったり怒鳴ったりしないものだと思いました。(アメリカ時代)
東京に戻ってきたら、子どもたちにとってはあんまりいいものではかったかと思います。
こうしたらこうなると言う訳でもない。
工藤:女の人は初めてお腹に赤ちゃんができた時には吃驚します。
つい周りの経験者、本とかに頼りますが、色々ご意見があり混沌として、結論として要らないと思いました。
私とお腹の赤ちゃんとはたった一つの組み合わせなんで、二人でやっていこうと思いました。
細谷:男としては急に出てくるので、難しい訳です。
この頃はお産の時も付き合ったりするようになってきたので、昔ほど疎外感は無くなってきていると思います。
工藤:このごろのお父さんは守備範囲が広いですね。
自分なりのハイタッチパパになってくれるとうれしいです。
細谷:最初に母性を父親も母親も発揮して、ある程度の歳になって父性をちょこちょこだしてゆくことが大事だと思います。
本当に困った時に助け船をだすというと言う事はお父さんとしては良い役で、母性的な事をやれたりする。
細谷さんを宗匠とする俳句仲間。
工藤:句会を始めて8年になります。
細谷先生の癖は「大丈夫」、ちびちゃんへのオーラがお婆さんにも感じるわけです。
細谷:工藤さんに会う前から知っていました。
思った通りの人だと思いました。
工藤さんの「あいたくて」の詩集から好きな詩。
題名は「なぜ?」
「勉強はなぜしなくてはいけなくて
拾った犬はなぜ捨てなくてはいけないのかなあ。
あの日犬と私は目が合った。
目が合えばカナブンでも毛虫でも身捨てちゃいけない。
あれは生き物の合図だから。
抱いて帰る間だけ犬も私も笑った。
せめて食べさせてから捨てましょうと大人が言った。
いけないそれは断じて優しさではない、愛ではない。
お腹をパンパンに膨らませてしっぽを振っていた小犬よ。
その夜私は世界中と他人になった。
歯は何故磨かなくてはいけなくて、拾った犬は何故捨てなくていけないのかなあ。」
工藤:これはいまだになっても、どうしていいかわからない問題です。
どう生きるかに関わってくることで、答えを出さない方がいいと思っています。
工藤:好きな細谷先生の句
「ため息のみ 残る空檻 夕蛍」
「故郷の動物公園は」と言う添え書きがあります。
動物が死んで空になってる檻に動物のため息が残っているんだろうなあと思いました。
細谷:熊が居なくなって、閉じ込められた気配だけ残して居なくなった。
工藤:吉祥寺に動物園があってヒグマがいました。
「ヒグマ」
「セメントに腹を乗せ、でかいヒグマは頭を掻きました。
東京の熱い空気を掻き散らしながら、塊の毛を掻きました。
かゆいかゆいセメントがかゆい、檻がかゆい。
セメントに腹を乗せ、でかいひぐまは東京の空を見上げました。
俺は子どもが欲しい、あの灰色の雲のような柔らかいのが欲しい。
でかいヒグマは歩き始めました。
小さな檻の中を故郷に向かって歩き始めました。
故郷へ、土の匂いのするところへカシッ、カシッと歩き始めました。
でかいひぐまはもう歳でした。
或る日檻は空っぽになりました、
だが足音だけはいったりきたりしていました。
カシッ、カシッと歩き続けていました。」
工藤:いつまでも忘れられない時には言葉が頼りになります。
細谷:子どもたちとの付き合いのなかでメモっておくと言う事はとっても重要だと思います。
子どもに過度の期待を抱かないようにする事が大事だと思います。
なるようになる、と言うような感じで大丈夫って思って、両親が(ひとり親が育てることもありますがその場合でも)一生懸命暮らしていたら、子どもはちゃんとわかってくれると思います。
工藤:細谷さんの句
「山笑う 私も少し 笑いけり」
細谷:良い季節が良いなあと思うようになるのは、歳を取った証拠なのかなあと思います。
子どもに寄りそう事をテーマに語り合いました。
工藤直子さんは1935年(昭和10年)台湾台南州生れ、83歳、お茶の水女子大学を卒業し、大手広告代理店でコピーライターとして仕事を始めます。
1983年(昭和58年)『てつがくのライオン』で日本児童文学者協会新人賞を受賞。
『のはらうた』に代表されるように子どもも大人も楽しめる優しい言葉でかかれた詩は小学校の国語の教科書にも収録されています。
お子さんはお一人、漫画家の松本大洋さんです。
細谷亮太さんは1948年山形県生まれ、71歳 東北大学医学部卒業後聖路加国際病院小児科勤務、副院長も務める。
専門は小児がんとターミナルケア、育児書や小児科医としてに日々の暮らしの中で感じたことを、エッセーとして発表されるなど沢山の著書があり、細谷喨々の俳号を持つ俳人でもあります。
お子さんは4人、お孫さんは8人います。
工藤:若いお父さんお母さんを応援しています。
昔はこれをしろ、するなと言う事があり、うっとうしいがそれに従っていればそこそこ人生行けるんっじゃないか、と言う様なものでもあった様な気がします。
終戦が10歳の時で、価値観がひっくり返りました。
その後今はITスマホ、人生の基準、モラルが混とんとしていてしょうがないと思います。
新しい何かが生まれてくるのかなあと思っています。
年寄りは応援すべきだと思っています。
子どもたちとつきあってみて、君ら新芽だね、と思います。
細谷:赤ちゃん検診で3つ位まで付き合います。
病気と闘っている子とも付き合ってきました。
健康な子どもたちと同じ様に育ってほしいと思って応援しています。
可愛いなと思って、優しくするのが原点だと思います。
その後ルールとかをきちんと教えることも重要になってくると思います。
工藤:私は母親的母親ではなかったと思います。
私が1歳10カ月位で母ががんで亡くなりました。
父はあれをせよ、これをするなとかを言われたことが無いんです、怒られたことも無いです。
1度だけ言われた事がありました、子どもが歌うような歌ではない歌を大きな声で歌っていたら、「おい直子、何とかならんかその歌は」、と一度だけです。
私は子どもに対してはちゃらんぽらんでした。
細谷:恵まれた環境にあれば人間はあまり叱ったり怒鳴ったりしないものだと思いました。(アメリカ時代)
東京に戻ってきたら、子どもたちにとってはあんまりいいものではかったかと思います。
こうしたらこうなると言う訳でもない。
工藤:女の人は初めてお腹に赤ちゃんができた時には吃驚します。
つい周りの経験者、本とかに頼りますが、色々ご意見があり混沌として、結論として要らないと思いました。
私とお腹の赤ちゃんとはたった一つの組み合わせなんで、二人でやっていこうと思いました。
細谷:男としては急に出てくるので、難しい訳です。
この頃はお産の時も付き合ったりするようになってきたので、昔ほど疎外感は無くなってきていると思います。
工藤:このごろのお父さんは守備範囲が広いですね。
自分なりのハイタッチパパになってくれるとうれしいです。
細谷:最初に母性を父親も母親も発揮して、ある程度の歳になって父性をちょこちょこだしてゆくことが大事だと思います。
本当に困った時に助け船をだすというと言う事はお父さんとしては良い役で、母性的な事をやれたりする。
細谷さんを宗匠とする俳句仲間。
工藤:句会を始めて8年になります。
細谷先生の癖は「大丈夫」、ちびちゃんへのオーラがお婆さんにも感じるわけです。
細谷:工藤さんに会う前から知っていました。
思った通りの人だと思いました。
工藤さんの「あいたくて」の詩集から好きな詩。
題名は「なぜ?」
「勉強はなぜしなくてはいけなくて
拾った犬はなぜ捨てなくてはいけないのかなあ。
あの日犬と私は目が合った。
目が合えばカナブンでも毛虫でも身捨てちゃいけない。
あれは生き物の合図だから。
抱いて帰る間だけ犬も私も笑った。
せめて食べさせてから捨てましょうと大人が言った。
いけないそれは断じて優しさではない、愛ではない。
お腹をパンパンに膨らませてしっぽを振っていた小犬よ。
その夜私は世界中と他人になった。
歯は何故磨かなくてはいけなくて、拾った犬は何故捨てなくていけないのかなあ。」
工藤:これはいまだになっても、どうしていいかわからない問題です。
どう生きるかに関わってくることで、答えを出さない方がいいと思っています。
工藤:好きな細谷先生の句
「ため息のみ 残る空檻 夕蛍」
「故郷の動物公園は」と言う添え書きがあります。
動物が死んで空になってる檻に動物のため息が残っているんだろうなあと思いました。
細谷:熊が居なくなって、閉じ込められた気配だけ残して居なくなった。
工藤:吉祥寺に動物園があってヒグマがいました。
「ヒグマ」
「セメントに腹を乗せ、でかいヒグマは頭を掻きました。
東京の熱い空気を掻き散らしながら、塊の毛を掻きました。
かゆいかゆいセメントがかゆい、檻がかゆい。
セメントに腹を乗せ、でかいひぐまは東京の空を見上げました。
俺は子どもが欲しい、あの灰色の雲のような柔らかいのが欲しい。
でかいヒグマは歩き始めました。
小さな檻の中を故郷に向かって歩き始めました。
故郷へ、土の匂いのするところへカシッ、カシッと歩き始めました。
でかいひぐまはもう歳でした。
或る日檻は空っぽになりました、
だが足音だけはいったりきたりしていました。
カシッ、カシッと歩き続けていました。」
工藤:いつまでも忘れられない時には言葉が頼りになります。
細谷:子どもたちとの付き合いのなかでメモっておくと言う事はとっても重要だと思います。
子どもに過度の期待を抱かないようにする事が大事だと思います。
なるようになる、と言うような感じで大丈夫って思って、両親が(ひとり親が育てることもありますがその場合でも)一生懸命暮らしていたら、子どもはちゃんとわかってくれると思います。
工藤:細谷さんの句
「山笑う 私も少し 笑いけり」
細谷:良い季節が良いなあと思うようになるのは、歳を取った証拠なのかなあと思います。
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