2020年12月31日木曜日

村上祥子(料理研究家・管理栄養士)   ・78歳 ちゃんと食べて、好きなことをする

村上祥子(料理研究家・管理栄養士)   ・78歳 ちゃんと食べて、好きなことをする 

78歳、福岡女子大学家政学科を卒業後、27歳の時に自宅で料理教室を始める。  数々の料理コンテストで入賞し、料理研究家として知られるようになりました。  ご主人は6年前になくなられて、3人の子供たちは独立して、村上さんは現在一人暮らしです。  福岡で自宅に備えたキッチンスタジオを拠点に活動しています。  40代で大病を乗り越えた経験から、毎日ちゃんと食べる事が何より大切と実感し、一日三食をきちんと食べ、実現したい夢に向かてパワフルな日々を送っています。

料理研究家として50年。  人を繋いでいく道具としては料理はいいなあと思います。

メインスタジオを東京にもちながら、日本全国の講演会 料理教室 福岡のスタジオなどをかけめぐる。   福岡に住まいを移しました。   主人を6年前になくして前を向こうという気持ちになるまで3年かかりました。   

料理の本は500冊ぐらい出しています。  最新の本は「78歳の一人暮らし ちゃんと食べる好きなことをする」です。   自分の好きなことで後の人生をかけていただけたらいいなあと思って、私の事を語らせていただきました。  自分の好きなことをするためには、身辺整理をしないと時間が生み出せません。  私は65歳の時に色々整理をしました。   運動が全くできないのでトランポリンで100回跳びます。  

1942年生まれ、子供の頃はなかなか勝気な子で、母親思いの子だったようです。  5歳の私が食材の買い物などをしました。   7歳に時には七輪で火をおこして揚げ物らしきものをやっていたようです。   生活が持ち直してきて、お手伝いさんが来るようになって、料理はお手伝いさんから教えてもらいました。   見よう見まねで生活の術をやっていきました。

福岡女子大学家政学科に入って、アメリカに行きたいと思って英語の勉強をしたりして、奨学金を貰ってゆく算段をしたのですが、父親に見つかって頓挫しました。  アメリカのコンピューター会社に就職を決めましたが、夫になる人から止められて結婚したほうがいいのではないか、と言われて就職は辞めることになりました。  夫が会社に行っている間に家庭教師、ピアノの先生とかやりました。  

夫の友人がアメリカから帰ってきて、その奥さんがアメリカ人で日本の料理を教えてもらいたいという事で、それが料理の先生の始まりですね。  その人から口コミで広がってアメリカ人の奥さん10名ぐらいを対象に教えるようになりました。   料理は以前から好きでした。    そのうち料理英語が読めるようになり、少しずつ進んでいきました。  

大分に転勤になり、料理コンテストがあり、優勝して褒美としてアメリカに行くことができました。

30代の後半に顎の骨の慢性骨髄炎と診断されました。  18本歯を取って骨髄を掻把して4年かかりました。   今は全く大丈夫です。

母校福岡女子大学で、1985年頃は糖尿病の予防、改善が花の時代で、カロリーを抑えるためにご飯の量を控えたりというような指導をしていましたが、カロリーを抑えるのなら電子レンジという方法があるのではないかと思って、電子レンジは油を使わないので、チャーハンでもほんのちょっとの油で済むので、学生さんに教えることになり、電子レンジ使いが上手くなっていきました。(43歳の頃)  以後学会の論文を作るようになりました。  学生さんたちはすぐに習得していきました。

1996年東京に出向いてきました。   マグカップでの料理が一人暮らしの方には特に好評です。   100gが600wで2分という原理があり、中に入れたものの重ささえわかれば、電子レンジが煮炊きをやってくれます。

地域の方にお昼だけ出す村上食堂をやってみたいと思っていて、今伝わらなくなっている大衆栄養食、お惣菜、こんにゃくの炒り煮だったり、お昼だけ提供すると言う事をやっていこうと準備をしています。  大人のためのいろんな国のお菓子のレシピーの本を作りたいと思っています。





2020年12月30日水曜日

鈴木秀子(聖心会シスター)       ・聖なるあきらめを心の処方箋に

 鈴木秀子(聖心会シスター)       ・聖なるあきらめを心の処方箋に

聖心女子大学で長く教壇に立ち、死が近づいた人の看取りに力を入れている鈴木さんは、数多くの著作を通して、どう生きて行くのか、生きるための処方箋を多くの人に示してきました。   新型コロナウイルスの感染拡大に世の中が落ち着きを失った今年は、特に諦めることの大切さを言っておられます。   否定的に取られがちな諦めという言葉ですが、鈴木さんは上手に諦めることで、亡くなるその日まで自分自身と喧嘩せず、上機嫌に暮らすことが出来ると話します。

1932年静岡県生まれ、聖心女子大学を経てフランス、イタリアに留学、東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了され、、アメリカのスタンフォード大学で教鞭をとられました。  その後母校の聖心女子大学で教授として後進の指導に当たる傍ら、人間を9つの基本的性格に分類する性格タイプ論エニアグラムを日本に紹介、講演活動を広く行ってこられました。  多くの人々からの相談にこたえる中で、特に最近は死を迎える人の看取りに熱心に取り組んでいます。   著書はすでに150冊を超え、今年2020年は「諦めよう諦めよう 人はいつか死ぬのだから」、スピリチュアリストの江原啓之さんとの対談集「日本人の希望」などが刊行されました。

今年は講演が20も無くなりました。  静かに本を読んだり自然を眺めたりしていました。

修道院では若い時は朝から晩まで厳しい規律の元に、みんな一緒のスケジュールで過ごしていました。  今は朝早く起きて自分一人の祈りをして、朝食を食べて、仕事をしてお昼、夕方自分でする祈りがあり、夕飯後、みんなで共通の祈りがあり、自分の仕事をして寝るという生活です。

聖心女子大学は200年前にフランスの女性がフランス革命直後の状況を見たときに、社会を現実にリードしてゆくのは男性が表立っているが、社会をよくしてゆくにはいいリーダができる事、そのリーダーが出るためには優れた母が必要であり、リーダーとなった人が社会をよくしてゆくためには妻となる女性が必要であり、母と妻となる女性をしっかり教育すれば、いいリーダーが生まれ、社会がよくなってゆく、教育が大事という事でフランスを中心に聖心という学校ができて、教育を目的とする修道会が建てられました。

自分を大切にし、周りの人を大切にし、お互いに大切にしあうからよい社会を築いてゆく、そういう目的で教育するという事が始まりました。  日本最初の女子大学の一つで、初代学長はエリザベス・ブリッドです。

終戦直後に大学に入りました。  聖心大学は国際的に開かれた大学であるという事で選びました。   終戦で価値観が全部ひっくり返った時代で、尊敬していた教頭先生、担任の先生がそれまでと全部反対のことを言うわけです。   心が空洞になってしまって、それに代わるものは誰も教えてくれなかった。    大学に入ると英語で留学しているような感じで、外国の女性もたくさん入っていました。  まったく見知らぬ世界に入った感じがしました。  一番に見なれぬものはシスターの存在でした。   シスターが皿洗いをしながら、このお皿でご飯を食べた学生一人一人が本当に幸せになって、社会に貢献できる女性として成長しますように、家族もみんな幸せになるようにと祈ってるという事を聞きました。

自分のことは一切考えないで、人の幸せだけを祈り続けて人生が満たされるという事はどういう事だろうと考えていました。  同級生で大親友になった曽野綾子さんがいて、「この世の中で絶対変わらないものは何か」と聞いたら、或る時シスターが神様の話していたら、憲兵が来て神様なんて馬鹿げた話だ戦争に勝つことだけが一番大事だという話をして出て行くと、シスターが憲兵の話が無かったごとく話の続きを淡々と話し続けた。 子供心に決して変わることがないものがあるんだという事を自分たちはシスターの姿から教えられたと話を聞いたときに、「人間を越える神様の存在はたしかにあるのかもしれない」と思いました。 それが修道女へのきっかけでした。

大学では英文科でしたが、日本文学を学びました。  東大に初めて近代文学科が設立されたときでした。  作家は漱石、鴎外当たりから50年前ぐらいです。  日本の近代文学の中ではざっと30人ぐらい自殺しています。   

修練と受験が重なって大変でした。  修練の期間の時8年間は絶対の沈黙ですから、一切声を出さない、もっと大変なのは頭の沈黙なんです。   雑念を持たずに自分をコントロールしてゆくのが一番大変でした。   1年目は一切本を読んでは駄目で、頭を空っぽにして、2年目は少しずつ聖書を読みだしたりします。  

東大の大学院を受験するときには30歳を過ぎていて、大学院人文科学研究科博士課に入りました。私の教授は戦争に行き軍艦にのっていて、朝食事をした人が帰ってこない、特攻隊で死んでゆく人たちの死を毎日見て生きて帰ってきた。 日本で最初の東大の日本近代文学の教授になりました。  その後日赤病院に入院して亡くなる前の40日間ぐらい毎晩夕方から一生のことを私に話して下さいました。  生きて帰った人がいかに生きてゆくことに対して意味を見出そうとしたのか、いい勉強になりました。

死を前にした人は誤魔化すなんてしませんから。  真剣に深い心を見せてくれるから、死ぬ前の時間は実に尊いという事を教えていただきました。

エニアグラムはスタンフォード大学にいるときに知りました。  

物事には必ずいい面と悪い面がるけれど、つらい苦しい面を乗り越えることによって大きな恵みを貰うと思います。   コロナ禍なんて言わないで、大変な状況ではあるけれども、みんな人間は繋がっていて、お互いに助け合わなければ生きていけないという事を一番強く感じて、コロナの人たちのために祈ることが、どんなに大切かという事を身をもって感じています。

私たちが毎日する祈りがあります。  「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り   いつくしみ深い神よ、新型コロナウイルス感染拡大によって、いまは大きな困難の中にある世界を顧みて下さい。 病に苦しむ人に必要な医療が施され、感染の収束に向けて取り組むすべての人、医療従事者、病気に寄り添う人の健康が守られますように、亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、尽きることのない安らぎに満たされますように、不安と混乱に直面しているすべての人に支援の手が差し伸べられますように、希望の源である神よ、私たち感染拡大を防ぐための犠牲を惜しまず、世界のすべての人と助け合って、この危機を乗り越えることが出来るようお導き下さい。」

江原啓之さんと対談しました。  いま日本も世界も大きく変わろうとしているときに、日本人同士がお互いに助け合い、いいところを発揮しあって、なにか協力し合った時に日本から又世界に貢献できるいいもの生まれるのではないかと思います。  対談集「日本人の希望」が刊行されました。

命は自分がどうしても、どんなに長生きしても作り出すことはできない、平等に生かされている人が、生きている人がすべて。  一人一人が神様から命を与えられ、神様に愛される尊い存在である、それが人間の一人一人の尊さだと思うんです。   生かされている一人一人がいかに大切な存在か改めて考え直して、深い絆でお互いに結ばれあうことがどういうことか考え直すことが一つだと思います。   他の人との結びつきと、他の人によって助けられ生かされているという感謝、他の人との結びつきの絆。   人間を越える大いなる存在、そういうものによって守られている、人間を越える大いなる存在との絆。

自分が満足することが幸せだと思いがちだが、現実には自分の中には暗いものがあり、出来ないこともいっぱいある、そう言うものが自分の現実。

現実を見極めてそれを受け入れて、あきらめる事と出来る事を見極めながら、自分をよく伸ばす形でしてゆくことが必要だと思います。  見極めて諦めながら行くという事が生きることだと思います。  いずれ人間は死ぬんです。  毎日諦める訓練です。

フランスに行ったときに院長さんが、「人間にとって一番大切なことは機嫌よく居るという事だ」といわれました。  機嫌がいいというのは自分の心を穏やかにして、静けさを保ちながら明るく、他の人ともいい環境を築くように、自分の心を使う事だと話されました。 つぎにそれが伝わって行くものです、と言われました。 人生ってちっちゃいことの積み重ねです。

よこしまな嫌な心が湧いてきても、周りにぶつけるのではなく、静まるのを待って、自分と喧嘩しないで前進していきましょう、という事です。  


2020年12月29日火曜日

栗野宏文(セレクトショップ顧問)    ・されど洋服屋

 栗野宏文(セレクトショップ顧問)    ・されど洋服屋

東京世田谷育ちの67歳、大学卒業後、ファッションの小売りの世界に入り、販売員からバイヤー、店舗のプロデュース、売り場の演出など何でもこなしてきました。  またパリコレなど海外のコレクションや名店をめぐり、著名なデザイナーやバイヤーたちと交流を重ね洋服の目利きとして海外でも知られています。  今年の8月にはコロナ禍でのファッションの役割を考えた、初めての著書「モード後の世界」を出版しました。     今も店頭に立ち接客もされるという栗野さんに伺いました。

セレクトショップは和製英語で日本しか通じないのですが、30年ぐらいこの言葉を使い続けてけています。  最近は海外でも通用するようになりました。  海外ではコンセプトストアとか言われています。   洋服屋の品揃え店です。

クリエーティブディレクションとは物に関する方向性を研究して示唆してガイダンスします。

コロナ禍で店を開けられないという事になり、インターネットで販売することは始めていたのでサポートになりました。  しかし、人と会っていろいろ話をする中でお客様の求めているものを薦めるのが基本的な仕事なので、人に会えないという事は大きな障害です。

どのような状況下でも、人が洋服を選んで言葉化してメッセージを発信しなければいけない、というのは今回「モード後の世界」を出版した理由の一つでもあります。

服は人間にとって暑さ寒さを防ぐものではなく、自分の気持ちを高揚させるものだったり、自分に自信を付けさせてくれるものであったり、そういうことをコロナ禍で多くの方が感じたようです。

1953年親の仕事の関係でニューヨークで生まれました。  居たのは1年だけでした。父は外務省に勤めていました。  母の影響で、いい素材で仕立ての服を母がしていたのでいろいろ教わりました。  中学生ぐらいから自分で服を買うようになりました。   ビートルズみたいな洋服を着たいなあというのがスタートポイントでした。   ヒッピー的なものを真似していました。   イギリスのロックの音楽を沢山聴きました。    デヴィット・ボウイとの出会いがあり、歌詞が文学的で哲学的で辞書を引き引き聞いて英語の成績は良かったです。   英語もしゃべれるようになりました。 日本のロックバンドの黎明期でもあり沢山コンサートに行きました。  大学に入ってレコード屋さんにアルバイトをしてそこへの就職の話もありましたが、音楽は一番好きだったけれど、2,3番目に好きだった洋服の道に進むことにしました。  

ファッションと音楽は若いころからずーっと今でも同居していますね。  

1977年に会社に入って、日本では一番大きい小売りの会社で本店が上野にあり、そこに配属されました。  半年後靴、雑貨の仕入れも任されて1年半で疲れて、辞めてしまいました。   その間に一番優しい上司と一番怖い上司について、それぞれ凄く勉強になりました。

時間というものを無駄にするな(1~4階までの階段は駆け上がれとか)、大きい声を出せ、商談は手短に、とかお客様に対する言葉使いなど厳しく教わりました。

その後1978~89年までセレクトショップのはしりみたいなところに11年間勤め接客の仕方を磨きました。   お客さんに喜んでいただけるような、立場を置き換えることが大事だと思います。  

1989年に会社を立ち上げ99年に上場しました。  日本でもソフトスーツが流行したが、世界基準からするとだらしなく見えるので、イタリア、イギリスなどのやり方で日本に紹介して、それを日本製にすることによって、日本のサラリーマンのスーツスタイルが変わったと思います。

パリコレなどもここ3年間はサステナビリティ(持続可能性)をテーマの一つにしています。  リサイクルとかオーガニックとか、そういう考え方の人が多くいます。  若いデザイナーたちが社会性、特に持続可能性に対してファッションは何ができるだろうという事をテーマにしています。

ファストファッションは作られる過程で問題があまりにも多くて、土に埋めても永遠に土に還らない、海洋汚染してしまう、そういう素材が多かったりします。  後ろ指を指されないような状態にしないとネガティブな意見が出てしまうのはやむを得ないかなと思います。

飽きたら捨てればいいという事、なぜそんなに安いのかというとたくさん作らないと安くならない。  それは明らかに供給過剰で、世の中に供給されている洋服の半分は捨てられているという説もあります。  売れなくて余った商品にも税金がかかり、寄付しても税金がかかる。   原因の一つは価格の過当競争をしてしまっているという事があります。 

愛着が湧くようなものを提供するのが、サステナビリティ(持続可能性)の最も重要な主題だと思っています。

日本の縫製技術、生地屋さん、販売技術、は世界レベル、特に縫製技術、生地屋さんはトップです。  ここ5年ぐらい、欧米のトップデザイナーたちもわざわざ日本で作ったりしています。  日本の生地を使うデザイナーは非常に多くて、日本のデニムは世界一です。 打ち込み生地も世界のトップレベルです。

西洋の服は階級から成り立っています。   日本だと誰が何を着ててもかまわないというのは日本のファッションの独自の在り方です。  性的誘惑、ヨーロッパの上流階級の舞踏会などでは肩や胸をたくさん出したものを着ていて、ヨーロッパの洋服では性的誘惑というものがどこかでその服の本質を支えていて、もてなければいけない服、男性も女性も一緒です。  日本ではそんなに気にしなくてもいい。

7年前ケニアに行って、彼女たちのビーズ細工をバッグのなかに取り入れることをスタートしました。   手織りの生地を織ってもらって日本にもってきて洋服に仕立てたりして店頭に出しています。  アフリカとのデザイナーの交歓のファッションショーをやりました。  西洋では知られていなかったような染色技術、手織りの技術、色に対するセンスなどがあり、欧米中心の文化はピークアウトして、次の波が来ている中にアジア、アフリカがあると手ごたえを感じます。





2020年12月28日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・【絶望名言】チャイコフスキー

頭木弘樹(文学紹介者)            ・【絶望名言】チャイコフスキー 

「これは運命です。 幸福へ到達しようとする我々の熱望を妨げるあの宿命的な力です。  それはダモクレスの剣のようにいつも頭上にぶら下がっていて私たちの魂を絶えず苦しめています。  それは避ける事の出来ない制止しがたいものです。   妥協して無駄に嘆くしかありません。」              チャイコフスキー 

白鳥の湖、眠れる森の美女、ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、交響曲第6番の「悲愴」など名曲を沢山残した有名な作曲家。

「くるみ割り人形」はクリスマスイブの話なんですね。  年末には「くるみ割人形」がよく演奏されます。  海外では年末の定番です。

お金の苦労もあるし、作曲の仕事もなかなか認められなかった。  結婚も大失敗して自殺未遂に近いことまでやってしまっていて、他にもいろんなことがあります。  

チャイコフスキー は1840年生まれ、ロダン、モネとかと同じ年。 日本では幕末の時代。

「これは運命です。 幸福へ到達しようとする我々の熱望を妨げるあの宿命的な力です。  それはダモクレスの剣のようにいつも頭上にぶら下がっていて私たちの魂を絶えず苦しめています。  それは避ける事の出来ない制止しがたいものです。   妥協して無駄に嘆くしかありません。」 

上記の言葉は交響曲第4番の第一楽章の冒頭部について説明している言葉です。     この運命のファンファーレは怖いですね。 

ダモクレスの剣:僭主は贅を尽くした饗宴にダモクレスを招待し、自身がいつも座っている玉座に腰掛けてみるよう勧めた。   それを受けてダモクレスが玉座に座ってみたところ、ふと見上げた頭上に己を狙っているかのように吊るされている1本ののあることに気付く。  剣は天井から今にも切れそうな頼りなく細いで吊るされているばかりであった。   僭主ディオニュシオス2世は、ダモクレスが羨む僭主という立場がいかに命の危険を伴うものであるかをこのような譬えで示し、ダモクレスもまたこれを理解するのであった。   幸福そうに見える暮らしの中でもいつ突然危険が迫ってくるのか知れない。

「あらゆる人生が厳しい現実とつかぬ間の幸福の夢との絶え間のない交代なのです。  船着き場はありません。   海がお前を飲み込みその深みへと連れ去らない間はこの海をさまよっていなさい。」    チャイコフスキー

「おおくの人々との間に乗り越えがたい溝を作っていることは本当だ。  それが僕の性格の疎外感、他人への恐怖感、臆病、並外れた内気、猜疑心、一言で言って僕がますます人嫌いになって行く数知れない特徴を与えている。」 (弟への手紙の一節)チャイコフスキー

疎外感、他人への恐怖感、臆病、並外れた内気、猜疑心、これは多くの人が持っているんじゃないですかね。  チャイコフスキーはガラスの子供といわれるぐらいナイーブな人でした。  

ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲なども酷評されていました。  「白鳥の湖」も初演は不評で失敗に終わります。  「白鳥の湖」が有名になるのはチャイコフスキーが亡くなってからです。   最後の交響曲第六番「悲愴」ですが、これも初演は不評で失敗に終わります。 今ではどの曲も凄く人気がありますが、当時としては新し過ぎたと思います。

「自分には本質的に何の罪もないのに、自分が哀れみを受け許されていると思うことが僕にとってつらくないと思うかい。  それに僕を愛している人々が僕のことを恥ずかしく思う事があるなんてやり切れないとは思わないかい。  そしてこのようなことがすでに100回もあったし、これからも100回もあるだろう。   要するに僕は結婚とか女性との明白な関係によっていろいろな軽蔑的な奴らの口を封じたい。   彼らの考えを僕は少しも恐れないけれども、それは僕に近い人々に苦しみを与えるだろう。」 (弟への手紙の一節)チャイコフスキー

実はチャイコフスキーは同性愛でした。  「自分には本質的に何の罪がない」という事はそういう意味です。  世の中には偏見がある。  「僕は結婚とか女性との明白な関係によっていろいろな軽蔑的な奴らの口を封じたい。」という風に思ってしまう。 それで女性と結婚するが、たちまち破綻して逃げ出してしまう。 自殺未遂に近いような事をしてしまう。

「まるで悪夢の様でした。  妻とは2週間生活を共にしましたが、私にとって毎日毎日が言葉では言い尽くせないほどの苦しみでした。  やがて慣れるだろうと考えていたことが全く無理だと知りました。  絶望のあまり死ぬ事も考えました。」

「人々の同情を私はこの世で何よりも大切に思っている。」(手紙の一節)チャイコフスキー

そのころのバレエ音楽は踊りの伴奏に過ぎなかった。  バレエ音楽もオペラみたいに芸術性の高いものになりうるのではないかと思って、3時間に及ぶ壮大な「白鳥の湖」を作曲した。

初演では1/3もカットした。 3大バレエと言うと「白鳥の湖」。「目群れる森の美女」、「くるみ割り人形」ですが、すべてチャイコフスキーの作曲です。 チャイコフスキーはその3つしか書いていない。 辛くない人が辛い人に対して、同情するという事も無ければならない大切な事だと思います。  偽善もあるかもしれないが、偽善でもいいと思っています。 砂漠で喉が渇いているときに偽善だろうが水をくれることはありがたい。 

「人の親切というものはなあ、もっと大事なものなんだ。  そういう親切のお陰で俺は生きてこられたんだ。 他人の親切が無けりゃ一日だって生きちゃこれなかったんだ。  全部他人の親切さ。  哀れみは受けたくねえ、余りものなんかニコニコしたくねえなんて、意気がっているお前は幸せだよ。  おれはロジャーさんの親切がとてもうれしいよ。  多少俺の自尊心が傷ついたって、ロジャーさんの気持ちを傷つけるわけにはいかないんだ、俺は。」 (日本の「記念樹」のドラマ 児童容疑施設の子がゴルフ場のキャディーをするようになってロジャーさんからたくさんの食べ物貴重品などをいただく、回りからは非難されるが、それに対して言った言葉)

僕(頭木)は難病で長く闘病生活をしていて、人の親切が無ければ生きてこれなかった。 同情がなければ生きていけない人もいます。  あまり同情を悪く言わないで欲しいと思います。 同情する方も、同情って良くないのかなあとあまり思い過ぎないで欲しいと思います。 他人をかわいそうだと思う事は気高い心だと思います。

「誰も私以上にはあなたのすべての不幸な出来事を、ともに悲しみ分かち合っているものはいないことを永遠に覚えていてください。」   (フォン・メック夫人への手紙の一節)チャイコフスキー

36歳の時にフォン・メック夫人がパトロンになってくれる。   鉄道王と言われた大富豪の未亡人でチャイコフスキーの音楽が大好きだった。   手紙を書いて作曲を依頼している。  愛とか幸せを失った人の感情を曲にしてくれという要求だった。

「どうか私に曲を書いてください。 どうにもならない諦めといった感情を表すものを、愛とか、幸せとか、自尊心とか、人間にとって最も大切なものをすべて失った人の感情を表すものを、と言うのもこのような感情は貴方にもよくお判りいただけると思うからです。」

メック夫人は生きる悲しみをよく知っている人だったんですかね。 絶望を知る者同士が二人を結び付けている。  二人の関係は14年間続くが手紙のやり取りだけ(残っているだけで1103通ある。)でついに一度も会わなかった。  チャイコフスキーは女性と付き合う事は出来なかったが女性の心の友を持つことが出来た。  突然お金の援助できなくなったので手紙のやり取りも出来なくなるという内容の手紙だった。   「くるみ割り人形」はフォン・メック夫人との決裂の後に作曲された。 それにしては明るい曲で、こういう曲を作ることで悲しみを忘れようとしたのかもしれない。

泣くしかどうしようもない時ってあると思います。 泣くしかどうしようもない時に一緒に泣いてくれる人が居るかどうか、という事はとてつもなく大きい事です。 天と地との差があると思います。 心から一緒に泣いてくれる人はなかなか見つかるものではない。   チャイコフスキーの音楽は一緒に泣いてくれる音楽だと思います。  交響曲第6番「悲愴」について、「私と手を取り合って泣こうではないか」と言ってくれています。

「私は弱い人間だが、弱いからこそ人の世の苦しみや悲しみを真剣に受け止め、それを芸術に昇華することが出来る。  その芸術によって人々を慰めることが出来る。  同じ悩みを抱えるものがいることを知れば、人は自分の運命にも耐える事ができるだろう。    この交響曲は私の魂の最も正直な告白だ。  私の心の底からの叫びだ。  これに応えてくれる人々は私と手を取り合って泣こうではないか。」     チャイコフスキー








2020年12月27日日曜日

藤木大地(カウンターテナー)        ・【夜明けのオペラ】道なきところに道をつくりたい

 藤木大地(カウンターテナー)      ・【夜明けのオペラ】道なきところに道をつくりたい

1980年生まれ、東京藝術大学音楽学部声楽科テノール専攻卒業後,新国立劇場オペラ研修所第5期生修了、イタリアとウイーンに留学。  2011年、それまでのテノールからカウンターテナーに声種を転向する。  2012年、第81回日本音楽コンクール声楽部門にて優勝。   2017年、東洋人カウンターテナーとして初めてウィーン国立歌劇場デビューを果たしました。   今年の秋には新国立劇場でブリテンの「夏の夜の夢」、バッハ・コレギウム・ジャパンのヘンデル作曲「リナルド」と二つのオペラで主役を務めました。

「第9」が毎年ありましたが、今年は一回もないので今年は寂しい年末です。  演奏会が無いので練習もしないので、使っていないので声帯は健康になりました。  7月にはリサイタルを行うことができました。

*マーラー作曲 交響曲第2番ハ短調「復活」  歌:藤木大地

女性は上からソプラノ、アルトを担当して、男性はテノール、バスに別れるが、そのなかでアルト(女性の声域)を担当するんです。  

子供のころから歌は好きでしたが、プロ野球の選手になりたかった。  高校の時に数学が苦手で、音楽を勉強したいと思ったのでレッスンに行ったら褒められて、音楽の基礎からピアノとか一生懸命勉強して、東京藝術大学音楽学部声楽科テノールを専攻しました。 

新国立劇場オペラ研修所へ入りました。  そこは5人しか受かりませんでした。

声楽の留学はイタリアだと思っていて、イタリアの声を身に付けたいと思っていましたので、イタリアに留学しました。  劇場の専属歌手になりたくていろんなところに手紙を出してオーディションを受けましたが、全部落ちてしまいました。  26歳で日本に帰ってきて、歌手はあきらめ気味でした。   声楽を始めたころに初めて買ったCDがルチアーノ・パヴァロッティの二枚組のベスト盤でした。

*ラ・ボエームから「冷たい手を」  歌:ルチアーノ・パヴァロッティ

イタリア留学は1年間で、イタリアでの就職活動は実らなくて、もう一度外国で勉強したいと思ってウイーンに行きました。   音楽と文化をバックグラウンドにした経営学を学べるところを探して入学できました。  友人たちにも歌を聴いてもらっていると、いい声だといわれました。  カウンターテナーに転向して、早く結果を出そうと思って頑張りました。   自分のレッスンメモを作って、いろいろメモを取って勉強しました。

2013年、ボローニャ歌劇場でデビューしました。   東洋人カウンターテナーとして初めてウィーン国立歌劇場デビューを果たしました。   プレッシャーは人の評価が気になったりだとか、失敗したらどうしようと心配するから起こることなので、ボローニャ歌劇場以降はプレッシャーはないですね、むしろ責任ですね。(自分以外にお客さんへの責任、劇場への責任とか)

道のないところに行って、パイオニアになる人は凄くかっこいいと思っていたので、歌手を始めたころから思っていたことなので、ですから野茂さんは大好きです。

声も消耗品なので、声が出るうちにやりたいことを全部やろうと思っています。

*「アメージン・ググレイス」  イギリスの牧師ジョン・ニュートン の作詞による賛美歌 歌:藤木大地






  

2020年12月26日土曜日

宮本信子(女優・歌手)         ・【私の人生手帖(てちょう)】

宮本信子(女優・歌手)         ・【私の人生手帖(てちょう)】 

朝の連続TV小説「あまちゃん」、「ひよっこ」などで確かな演技でおなじみの宮本さん、映画では夫である故伊丹十三さんの「お葬式」など、10の作品に主演、「マルサの女」では数々の映画賞を受賞している実力派です。  その宮本さんの実質的なデビューは1963年NHKのラジオドラマです。   ともちゃんと言われる実際の魚屋さんと宮本さんが街で偶然出会って一晩会話を交わし、朝別れててゆくという時間をドキュメンタリータッチで収録して高い評価を得ました。  それから57年、コロナの影響で今回は来年4月に延期されましたが、松竹映画100周年記念映画に沢田研二さんが演じる主人公の妻役で出演します。 デビュー当時の意気込みやコロナ禍での映画製作、今でも共に生きているという伊丹さんへの思いなどについて伺いました。

松竹映画100周年記念映画『キネマの神様』 延期されて残念でした。  4月にはクランクインの予定でしたが吃驚しました。  映画はそんな状況でも慰めたり励ましたり見えていない光が見えてくるような、そんなふうになっているのではないかと思っています。

NHKのドラマで伊丹とは共演しました。  「あしたの家族」で医師の長男が伊丹で私は看護婦役でした。   おしゃれな人でオープンカーで来ていました。  結婚が1969年です。 年齢は一回り違っていました。   本を10冊ぐらいバーンと置いてこれをしっかり読めば料理はできるといわれて、一生懸命やりました。  伊丹の料理は早くておいしいです。  子供は欲しいと思っていたが、世界の人口が多すぎるから産まないほうがいいと言っていましたが、二人産んでよかったと思います。   夫は子育てに夢中になってやっていました。   東京では子育てはよくないと言って、湯河原に移りよかったと思いました。   湯河原を舞台に「お葬式」が生まれました。  父が亡くなってこれは映画になると夫は言ってメモを取るように言われて、それが映画になるとは思いませんでした。

13年間で10本やらせてもらって、宝物の思いです。  伊丹映画の場合はリアリティーが欲しいという事だったので、どうやってその人物が生きてきたかという面構えを大事にしていると思います。   

「あなたは女優なんだからね」、という事を言い続けてくれたのが一つの大きな支えになりました。  それと小唄を結婚してから始めて、子育て中でも15分でもあればお稽古をしていました。   小唄から「あげまん」の映画へとなりました。  現場では厳しかったったので、必死にやりました。   

伊丹監督は自分で俳優をしていたので、とっても俳優の気持ちがよくわかるので、よくあったような気がします。  脚本家としての伊丹十三は凄いと思いました。 組み立て方、構成、取材をしてその人をどういう風に見るかとか、洞察力、そういうことが全部ちりばめられて一つの台詞になったりしている、素晴らしい脚本家だと思います。

1997年に伊丹は亡くなりました。   舞台のほうに近づいていって、或る番組で歌って凄く楽しかったです。   ジャズのほうに広がっていきました。

『あまちゃん』の時には東北の大震災の時で、工藤勘九郎さんの素晴らしいセリフがいっぱいあったりして、いろいろ覚えています。  俳優はいいセリフを言いたいです。    そのセリフをどう表現したらいいか、考える事も好きです。  女優という仕事は面白いです。






 

2020年12月25日金曜日

宮地尚子(一橋大学大学院教授・精神科医)  ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】右も左も分からなくても

 宮地尚子(一橋大学大学院教授・精神科医)  ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】右も左も分からなくても

兵庫県生まれ、59歳 大学院ではトラウマやジェンダーなどをテーマに授業を行い、精神科医としては子育てや母親を取り巻く様々な問題に対してつづった著書もあります。   どうしたらもっと肩の力をぬいて子育てができるのか、また先が見えないコロナの時代、私たちはどのようにして生きればいのか、2歳と3歳と子供の母でもある江崎アナウンサーが聞きました。

不安であるということを共有しあうことが大事です。  体を動かすことをすると気もまぎれます。 

死にたいと思う時はどんどん視野が狭くなっていきます。  些細なことでも他人と話をすることはとても大事です。 

出来ないことのほうが人と繋がる力になるのではないかなあと思っています。  私は右と左が判らなくて、判る人が何で右と左が判るのかが判らないんです。  わからない人と話したくてホームページに書きました。   みんなの前で違う事をしたと言って笑うという事、そういうのは良くなかったんじゃないかと思いました。 

ホームページを見てメールをいただいた身近な人で、非常に個性豊かで才能豊かだったりする人も多かったりします。

人間の心に興味がありました。  人について知りたいと思ったのがこの道に入ったきっかけです。   自分のことは一番わからないのではないでしょうか。  外から自分は見えない。

弱さ、コンプレックス、劣等感、などはその人の行動は本人が気づかないところで、規定しているんだなあと思うことが多いので、その人の弱みや欠点が実は長所だったりすることもあるので、ある程度はわかって来たんですかね。

「母が生まれる」 著書  子育ては本当に大変ですが、外から見ると出来て当たり前ですよね。   適当に手を抜くことは難しいし、手を抜くと罪悪感が生まれ、どう考えてもお母さんは時間が足りない。   違和感を感じて、自分の経験も踏まえてもうちょっと肩の力を抜いていいし、手を抜いていいし、もっと別のところに力を注いで楽しんだほうがいいと思って書きました。  母も初心者だし周りもそれに気づくことが大事です。

私の場合、弱みを子供に打ち明ける、失敗談をよくします。 完璧なものよりも抜けている親とか、そのほうがホッとするし、会話も弾むので失敗談をします。   大人との間でも失敗談をするとみんな失敗してい居るよね、といった感じでお互い繋がる感覚があります。

幼稚園受験、小学校受験とか、レールを敷くとやっぱり子供はつまらない。  人間はやっちゃいけないといいことのほうが楽しい、与えられたものだとつまらなさがある。

子供が好奇心を持って自分で言ったところには何か子供が求めているものがある可能性は高いと思います。  いろんな人に出会えたほうがいい。 勉強だけに縛られるの悲しいことです。  人生っていかに楽しめる能力を身に付けるかでとても違うと思います。

自分が役に立つ経験をすると、とっても子どもに取っては自信になったり、存在感を持てる、生きてゆくための核になると思います。

学生との間でも、与え過ぎないとか、変えようとしないとか、いろいろ特性を持っているので自分で自分を育てる能力を育てたいと思います。  本人から答えなり方向性を見出してもらう事を考えています。

悪いところを直さなければというような、自分にあるネアガティブな反省会モードに気付いてそれを変えてみて、出来たところに注目して丸のところをたくさん見るとか、変えてゆくと楽になるかなあと思います。

時には子どもの前で泣くのもいいと思います、泣いた後にこういうことがあってつらくて泣いたというように、子供に説明してあげることもとっても大事だと思います。











 


2020年12月24日木曜日

小池寿子(美術史家)          ・【私のアート交遊録】疫病とアート

 小池寿子(美術史家)          ・【私のアート交遊録】疫病とアート

中世ヨーロッパの人々は蔓延する疫病に出会った時に、その状況をどのように考えて何を残そうとしたのでしょうか。  人間の死生観というものがどのように美術に現れているのか、中世の西洋美術を中心に長年研究して来られた國學院大学文学部教授の小池さんに伺いました。

アテネのペリクレスの時代に熱病が流行って、プリクレスが熱病で亡くなるが、ペストとは断言できないが相当数亡くなっている。   ビザンティン帝国の黄金時代を築いたユスティヌス皇帝の時代もおそらくペストと言われています。  17世紀の古典主義の巨匠であるニコラ・プッサンという画家が「アシドトのペスト」という絵を描いています。(1630年)   旧約聖書の「アシドトのペスト」というテーマを使いながら、リアルタイムのペストの惨状を描いた。   ヨーロッパでは可成りの頻度でペスト、他の疫病にも襲われている。

アダムとイヴが原罪を犯した。 楽園を追放されて、それ以降の人類は罪びとだという意識が非常に強くて、何か天災が起こると神の罰だととらえる、強烈な罪意識が日本人よりはるかに数々の疫病を心に刻む事になるのではないかと思います。

語られたのが1348年のペスト。 1347年ころユーラシア大陸のペスト菌が付いたネズミが貿易船により地中海に入ってきて、1948年には蔓延してゆき、ヨーロッパ人口の1/3が亡くなっている。  その後1360年代に2回来ている。

1348年のペストは文献資料とか絵画資料とかがかなりそろっている。   

ピサのカンポサント(イタリア共和国北東部に位置する)に描かれている壁面にいくつか描かれている。  「死の勝利」と3段階の死後の肉体の変化(死後硬調、腐敗、白骨化)が描かれている。   ヨーロッパキリスト教美術史史上初めての描写。

腐敗はキリスト教美術では罪の証で、聖なるものは死んでも腐らない、という事で悔い改まりなさいと、修道士が説教する。

死の勝利」のタイトルは人文主義者ペトラルカの叙事詩『凱旋』からとられている。  キリスト教美術における教訓画のテーマ。あらゆる生者が、擬人化された「」に支配される様子を描き、万人に逃れられない死への警句を示した、悔い改めなさいという説教の為のもの。

ジョットからルネッサンスは始まったといわれるが、ジョットは革新的な画家ですが、フィレンツェなどの人たちには新し過ぎてなじめなかった。

ジョットの新しい伝統が築かれる前にペストによって打ち砕かれてしまう。  新旧が入り混じった状態が14世紀後半のイタリアでした。

人間は必ずや死ぬ、どんなにおごり高ぶっていても、どんなに若くても全てが等しく死んでゆく、死を前にした平等性がテーマ。  

鏡という思想は中世ヨーロッパキリスト教では非常に重要な思想で、世界は神の心理を映す鏡であるとか、鏡という言葉が盛んに宗教思想のほうでは使われます。   死者は生者の鏡である、それを見ている私たちも目の前にある「死の舞踏」はやがて私たちがステップを踏む、それを映している鏡だととらえているわけです。

1460年代に「盲目のダンス」という詩が書かれていて、そのころには死は死神が牛に乗っているんです。  死は牛のごとくゆっくり着実に訪れると言っています。 第二波、第三波の経験によって死が慣れて行くというか、死の準備の仕方を人々の中に浸透していった。

ユダヤ人はお金を儲ける銀行家とかがおおく、ヨーロッパの社会では排斥されつつ利益を得ていた。  シェーデルの「年代記」(キリスト教世界の歴史と地理に関する奇事や異聞を年代順に収録した598頁からなる大型フォリオ(二つ折り本)である)は15世紀末の作品とは言え、ユダヤ人殺しは中世を貫いてずーっと起こっていた。  ペストになると井戸に毒を撒いたと言って殺していった。

聖母マリア  ルネッサンスが始まるころ、聖母マリアはとっつきにくさが厳かさを増していて、そのような聖母子像が主流だったが、ペストの蔓延、経済的な凋落とかあって、疲弊していった。

地面に座ってイエスを優しく抱いている謙遜の聖母というタイプが登場した、その変化が大きかった。     14世紀の後半から授乳する聖母が描かれるようになる。   

ペストが起こって、ジョットのような新しい気運がふっと止まってしまった。 14世紀後半は逆行するような50年間ですが、ペストによって革新的な画家たち(親方たち)が死んでいって、新しい画家たちは自分の好きなことが出来るんだという事が、ルネッサンスに通じる突破口になったのではないかと思います。   

今も同様に新旧拮抗している時期かもしれませんが、一種のエネルギーが蓄積されてゆく時期なのかなあとは思っています。

我々は傲慢になり過ぎていたのではないか、そう思います。   振り返ってもう一度考え直すいいきっかけかなあと思います。

私のお勧めの一点は「謙遜と授乳の聖母」です。 


2020年12月23日水曜日

佐藤よりこ(西洋美術史家)       ・【心に花を咲かせて】絵画の中の花が意味するもの

 佐藤よりこ(西洋美術史家)    ・【心に花を咲かせて】絵画の中の花が意味するもの

日本では絵画展があちこちで開催され、西洋絵画に触れる機会も多くて有名な絵画展に行くとすごく長い行列ができていて、絵の好きな方が多いんだなあと思います。  西洋美術史家の佐藤さんによると西洋画には描かれたものに意味があり、例えば花の絵でもただ綺麗で描いたという事ではないようです。  佐藤さんは高名な書家の家に生まれて書道を始めますが、西洋美術に興味を持ち、大学を出た後パリのルーブル美術館付属大学を卒業、帰国後西洋美術の奥深さを知ってほしいと、講演会活動や勉強活動を開催されています。  佐藤さんに西洋絵画の花が意味するものというテーマで伺いました。  佐藤さんは現代書道の巨匠と言われる村上三島の次女。

子供のころから書はやっていましたが、周りが上手くて段々と書はやりたくないと思う様になり、中学1年ではテニス部に入って書は辞めてしまいました。    高校生の頃から西洋美術のほうの勉強をしたいとフランスに行くことに決めました。    最初は彫刻が好きで、仏像と古代ギリシャの彫刻が似たようなものがあると思って古代ギリシャに彫刻を勉強したいと思って、それがきっかけでした。

フランス語を勉強しようと思って、神戸の仏文科の大学に入りました。  その後パリのルーブル美術館付属大学に入りました。   大学は美術館のなかにあるので毎日美術館に行くという感じでした。 有意義な時間だったと思います。  

世界中から集まっていていまして、学年末の試験がとても難しいです。  外国人にとってはハードルが高くて卒業性の数がとても少なくて、それがあまり知られていない大学かもしれません。   私の時には700名が入って、歴史、文化、様々なことを皆さんにお伝えする重要な要素として、それらを学ぶ4年目が博物館学という講義があり、それを終えると保存館になるための試験を受ける資格が得られます。  その時には40名になっていました。  日本人は私一人でドイツ人が一人で、あとはフランス人でした。

宗教、民族、哲学,思想様々なことをいろいろなめぐり逢いを経ながら、地中海世界に始まった文明が北のほうへと移っていった時代まで、その変遷を肌で感じながら美術館の中をめぐることが出来るので多くのことを教えてくれます。   人間として学ぶことは沢山あります。   声なき声という事を良く言いますが、声は無くてもそのものを見ればそこに生きた証が感じられる。 

花が美しくて、その美しさを描きたいという事があるとは思いますが、その花が持っている意味合いというのが西洋美術史には多くあって、意味というのは眼に見えないものをいかに美しい花でもって、目に見えない世界の本当の意味を知らしめたいという思いというのが多くのキリスト教的なものの考え方にあると思います。  象徴とか寓意というような言い方で表します。  

エーゲ海文明から古代ギリシャローマ時代は自然主義的と言いますが、自然の豊かさを愛でて、ギリシャ神話の中に出てくる女神ヘーラーという最高神と言われるゼウス様の奥方ですが、その方のこぼれたお乳が大地に広がって白百合が生まれたとか、そういった象徴も出てきます。  聖母マリアの清純さ、純潔さ、母性の象徴としてキリスト教の中に受け継がれてゆく。   描かれているものはどれひとつとっても意味があると言ってもいいような世界であると思います。  19世紀まで続くこともあります。

聖書はラテン語で書かれていて、一般の人には読めないので、聖書の中の話を絵物語にして、イエスはこういう人だった、聖母マリアはこういう人だったという事感じることに意味合いは大きかった。    受胎告知、百合を持たせたことでマリア様は純潔だという事を言っているわけです。

ゴッホの「ひまわり」  ゴッホは牧師(祖父、父も牧師)の家庭で育って信仰を深く持っていた。   牧師はエリートであった。 勉強が得意でなかったので牧師の職業に付けなかった。   得意だったが画家になろうと思って、キリスト教的な意味合いを持った花がいくつか描かれている。  ヒマワリは信仰とかかわっています。  11点描いています。  ヒマワリは信者としての意味合いを持っています。  太陽を神と考えて、ヒマワリを信者として考えています。  或る意味ゴッホ自身でもあった。    しおれてしまったヒマワリも描いています。  

「糸杉」というテーマも同じようなもの   ヨーロッパでは糸杉はお墓の周りによく植えます。  死、再生を意味するといわれています。   受胎告知はキリスト教教義の中で最も根幹にあたる部分で、マリア様のお腹に神の子イエスが宿られる、その未来は磔にされる磔刑、聖母マリアは時折悲しそうな顔をしているのがよく描かれているが、死というものを念頭においた受胎告知という事なんです。  糸杉も死と、復活、という事で糸杉が描かれるという事はよくあります。   糸杉が風に揺れて天を目指してそびえたっているのを見て、自分の中に迫りくる死を予感、  糸杉のエネルギー 再生という意味合いを持った糸杉に対しての思いは強かったと思います。

ザクロを幼子のイエスが手に持っている絵もたくさんあります。  ザクロは赤い色から受難を表す、血のように赤いザクロという事です。   

花も多くの意味合いを持って19世紀まで描かれてゆきます。   紀元前1600年の頃にエーゲ海文明では百合の花が壁画に描かれています。   

ギリシャ人は論理的であり、ローマ人はより身の回りのものに目を向ける人で、庭園に花をたくさん植えて、庭園に水を引くことを得意として、ローマ市内に沢山水を引いていました。   沢山庭園を造って、宮殿の壁などに壁画として描いている庭園の図があります。

ポンペイの壁画にはたくさん花があり、ギンバイカ(銀梅花)は愛と結婚の象徴としての花で、花嫁がブーケとしてギンバイカの花束を持つというのは今でもイギリスで行われている風習です。   ギンバイカはヴィーナスの花の象徴で、ヴィーナスの女神の象徴がギンバイカ、オレンジ、バラ この三本で、画家サンドロ・ボッティチェッリの作品、「ヴィーナスの誕生」という名画の中にも、バラがいっぱい降り落ちているものが描かれています。    キリスト教の世界になるとより宗教的な側面もあります。

ルネサンスになって、文芸復興という事で、沢山の花が描かれてゆく時代になります。

最も重要なものが宗教画、歴史画で風景は一番下のほうにあったので単独で描かれるという事はとても少なくて、17世紀になって、花だけを描くという事にもなってきます。

宗教画、歴史画を描くという事は19世紀半ばまで続きました。 

19世紀後半に印象派という大きな流れがあり、写実、移ろいゆくものに目を向けるという事で大きな変換点となって行きました。  神様のために描くものは永遠を求めるが、移ろいゆくものに愛を感じて、光の様子が変わって行くと色も変わり、影も変わり、絵自体がその時間の流れに合わせて刻々と姿を変えるという事に意味を見出して、モネ、ルノワールたち印象派がなした大きな仕事です。

移ろいゆくものに目を向けるというのは仏教からくる時間の観念だと思います。  19世紀末には百花繚乱という形で沢山花を描く画家が現れてきます。 日本人が印象派に惹かれるのは日本的心が引き寄せられるものだと思います。   絵には持っているもの、身に付けているもの、形、色にも意味があります。


















2020年12月22日火曜日

村崎芙蓉子(医師)           ・誰も見たことのない100歳を目指して

 村崎芙蓉子(医師)           ・誰も見たことのない100歳を目指して

村崎さんは85歳、東京銀座に高齢女性のための更年期医療に取り組むクリニックがあります。  それまで循環器内科医として新宿でビジネスマンを見てきた村崎さんが、57歳で開いたクリニックです。   村崎さんは大病院の副院長としてバリバリ働いていたころ、様々な心身の不調に悩まされました。  そんな時に偶然見つけた文献から女性ホルモンを補充したところ画期的に症状が改善しました。   女性の更年期障害のつらさとそれがホルモン補充で画期的に改善する事を身をもって体験した村崎さんは、高齢女性が生き生きと暮らしていけるようにと、更年期専門外来の開設を決意しましした。  以来28年、今も医療現場で患者さんの相談に乗っています。   終戦の時10歳だったという村崎さん、激動の60年代、70年代を医師としての激務をこなしながら、家庭と子育てを両立してきました。  団塊の世代の先輩として常に恥ずかしくないように働き続けてきたという村崎さん、今また誰も見たことのない生き生きとした100歳へのパイオニアとして現場に立ち続けています。

医者歴は60年になります。  57歳の時に更年期に気が付いて、新しいクリニックを作り、循環器のほうと重ねながら28年やってきました。   25歳で医者になって27歳で結婚して、子供が産まれ無茶苦茶でした。

父が公務員で2歳の時に韓国のソウルに転勤になり、本土に帰る時には生きるか死ぬかというような体験をして帰ってきました。   親は37,8歳でずいぶん苦労したと思います。

母は女性も職業をもっていたほうがいいという考え方でした。  母は一人しか産めないという身体だったようで過保護で育てられました。  私は身体も弱くて結婚も出来ないかもしれないという事で一人でも生きていけるようにと、職業を持たせてやったほうがいいという事で医者の道を私に伝えました。

次男が高校受験をして、高校には何とか入りましたが、子供と一緒に奮闘して、それを「カイワレ族の偏差値日記」という本にしました。  出版したら売れてしまって、23万部売れました。  教育審議会の委員になってほしいという電話があり、2年間勤めました。  どうして何十年もいい教育ができないんだろうと怒りを覚えました。  思考が纏まらないような状況でした。(56歳)  ずーっと忙しい状態が続いてへとへとでした。

退職して週3日の非常勤にしました。  色々家で勉強するなかで、コレステロールが女性ホルモンで低下すると書いてありました。   試しに飲んでみましたら、コレステロールが下がるよりも前に、疲れだと思っていたものが全部ファーっと消えていってしまいました。   色々読み直してみたら、私って更年期だったんだと気が付きました。

問診で40,50代の女性たちは話を聞くが何を言っているのかよくわからない。  全身がおかしい、頭が痛い、腰が痛い、肩がこるといわれても困るわけです。   循環器の医者なのでそれぞれの専門に分断して紹介状を書いていました。

彼女らが言っていたのは全部更年期障害の苦痛だったんだなあと、気が付きました。   自分のクリニックを作ってやってみようと決意しました。(57歳)   必死になって自分で採血したり、文献を読んだりしました。  更年期障害のことは全部出ているが、たった一つ抜けていたのが女性ホルモンのことでした。  

更年期障害は婦人科医がいいのではないかと最初は思っていましたが、肝機能、腎機能など総合的にみるのは内科医なので、むしろ内科医が見るのはメリットがあると思います。

以前は3分程度話を聞いていましたが、初診の人には1時間の時間を取って症状以外のことを含めて話を聞くようにしています。

それぞれ個別に対応しています。   婚活でそういう風になった時にはという事で60,70代の高齢の人も来ます。   

一生の仕事としてこれをやれているのは、大変だと思いながらも、どのぐらい幸せだったりとか、85歳まで長生きできたのもこれのお陰かもしれないと思っています。

好奇心は持っています。  「嵐」を国立競技場で見ましたが、それと同時に学徒出陣を思い起こします。  コロナとか異常気象とかあるが、戦争がなければ、現在女性の平均寿命が87歳ですが、100歳まで行くと思います。 鉄砲を担いで行く、それだけはないようにと思っています。












2020年12月21日月曜日

坂田 明(サックス奏者)        ・【にっぽんの音】

坂田 明(サックス奏者)        ・【にっぽんの音】 

1945年広島県呉市広長浜生まれ、75歳、広島大学のジャズバンドに入り、アルトサックスを始める。    高校の時にはクラリネットを吹いていました。   アメリカのジャズの映画があって、それを見たときにはサックスを吹いているのが多かったので、サックスに行きました。  21歳の時にジャズサックス奏者、ジョン・コルトレーンの生演奏を聴いて、人間まじめにやらなければいけないと思ってミュージシャンになりました。   東京へ出てきてました。   1972年から1979年末まで山下洋輔トリオに在籍、激しいサックス演奏で知られるようになる。   1975年にヨーロッパに行って爆発的に受けました。    同トリオを脱退後は、さまざまなグループの結成・解体を繰り返し、世界中の音楽をめぐってきました。

*「音戸の舟歌」  演奏、歌:坂田 明

呉と倉橋島との間にある「音戸の瀬戸」があって、渦を巻いていて、そこを渡し船で渡ることはとんでもないことで、漁師の気持ちなどを歌った民謡です。  平清盛が音戸の瀬戸を開削したとする言い伝えには、それに付随したいくつかの伝説が残されている。 中でも「清盛の日招き伝説」が特に有名。

伊藤多喜男さんから頼まれて、民謡とジャズはおんなじだと思って民謡を吹いてみたらほとんど同じだったので、アメリカのミュージシャンと共にアメリカ人で出来ないことをやろうという事になってやったら、こういうものができて、割と簡単に彼らは理解してくれました。  譜面は起こさずその場でやりました。

アイヌ民族の精神を引き継ぐパフォーマンス集団「モシリ」との演奏も10年ぐらい付き合ってCDを作りました。   明治政府がアイヌを北海道を日本の範疇に組み込んで、アイヌからすべてを取り上げて、狩猟採集漁漁で暮らしていた生活を農耕民に変えようとして、アイヌ語はしゃべるなという事でアイヌ文化は一回断絶するわけです。  和人の文化を一から習うしかなかった。 アイヌ語の音楽を何とかしようという事で、「モシリ」という集団ができました。

*「タプカラ」  演奏:「モシリ」

タプカラ:《アイヌ語》アイヌの伝統的な舞の一つ。    足を力強く踏み鳴らしながら進み、神に感謝を捧げるもの。踏踊 (とうぶ) 。

音楽を抜いてしまうと僕の身体から自分の人生が抜けてしまうようなものなので、一体化しているので自分の一部ですかね。

日本の音とは、日本語でやっているというのはまず一つあります。    日本の風土の中から生まれてきたものが日本の音ですね。  音楽は風土を抜きにしては考えられない。  南方系縄文人(琉球系文化)、北方系縄文人(アイヌ人の文化)、その間の半島文化、大陸文化があって、それが入り混じってそういったものを全部含めたうえで、日本に住んでいる人たちが発する日本語をもとにした言語で、それを使って出来たものが日本の音ですよ。

音楽的な目標は何が起きるかわからないので先が見えないので、自分が死んだときがおしまいだから、目標としては死ぬまで生きるという事が目標ですね。

「平家物語」 の平曲(盲人の琵琶法師が記憶して語っていた。)のCDを買って来て聞いて勉強

しました。

*アルバム「平家物語」から「祇園精舎」の一部と「六道之沙汰」 演奏、歌:坂田 明

2020年12月20日日曜日

河田勝彦(洋菓子店オーナー・シェフ)  ・【美味しい仕事人】

河田勝彦(洋菓子店オーナー・シェフ)  ・【美味しい仕事人】 

日本は世界のトップレベルのスイーツ大国と言われています。   洋菓子職人、パテシエは今や人気職業のヒーローです。  その礎を築いたのが世田谷の洋菓子店オーナーシェフ河田勝彦さん76歳です。   1967年23歳の時にフランスに渡り12の店で腕を磨く傍らフランスの伝統菓子の研究に取り組みました。  パリの一流ホテルでシェフ・ドゥ・パティシエを勤めるまでになりました。  1976年に帰国、それまでの日本流の洋菓子界に本格的なフランス菓子を根づかせ、その理論と職人魂は多くのパテシエに多くの影響を与えています。  すべては美味しさのためにと語る河田さんに伺いました。

朝は5時に来たりとかしていましたが、息子が二人来て今は7時30分ごろになっています。 厨房では13人います。  12月は一番忙しい時です。  お菓子の種類は300,400種類あるのではないかと思います。   フランスには約10年いました。  

生ケーキ、イチゴが旬であるとき(1~3月) バタークリームを使います。 秋はモンブランとか。

生地はアーモンドが少し入ったメレンゲでじっくりと弱火で長い時間焼きます。 表面は白いが中がカラメルになり、そのカラメルのうえに柔らかいマロンのクリームとか生クリームを重ねてゆくとその水分がメレンゲに沁み込んでいって、一体感でおいしく食べられます。

カヌレはフランスの伝統菓子です。  ボルドーで働いていた時にカヌレを初めてみて凄く衝撃を受けました。  菓子人生の中のきっかけを作ってくれた菓子なので、思い入れが強くてずーと続けてやっています。

甘いものに枝分れがあり、アイスクリーム、ボンボンショコラ、生菓子、焼き菓子、砂糖菓子などがあり、それぞれに又分類する仕方があります。  それを何とか自分のなかで表現したいという思いがあり、それが店を作った原因です。

「オーボンヴュータン(AU BON VIEUX TEMPS)」という名前の店をかまえました。

プチフールセック  日本ではクッキーですが、僕にとってはプチフールセック、一口の焼き菓子ととらえています。  僕にとってはフレッシュでなければいけないんです。

コンフィチュール(ジャム)は約20種類あります。

甘味に酸味があったり、風味が出てくるかどうか、甘いだけでは駄目ですね。  

コンフィズリー(confiserieとは砂糖を主な材料として作るお菓子)、飴を伸ばすと空気が入ってきて砂糖に艶が出てきます。  煮詰めている温度が165~170℃ぐらいで、それを引っ張って、飴の中にジャムを入れたりします。 飴が何層も固まってきます。

若い人に言いたいのはいろんな修羅場を経験して欲しい、と言いたいです。

1944年生まれ、1964年に大学を中退してレストランに入りました。  オリンピックの年で店で僕が選ばれて、五輪食堂に行きました。 洗い物を担当して夜2時に終わったりして、体調を崩して病気になりました。  洗い場の隣で菓子屋がやっていて、見たこともないことばっかりだったので菓子屋に入ってやろうと思いました。

銀座の洋菓子店に就職しました。  2年半いて、店が倒産してしまって、フランスに行くことを決断しました。   僕は横浜から船でハバロフスクに行ってシベリア鉄道で10日間かかって、モスクワまでいきました。   食事の費用は入っていなかったので、10日間色々苦労しながら食いつないで行きました。   フランス語は半年間習っただけでした。

フランスに着いた時には一か月分のホテルを前払いしたらお金はゼロになってしまいました。   日本料理屋に3か月間お世話になりました。  その後菓子屋を紹介してもらって、その後はとんとん拍子に行きました。

日本とは材料、その他全然違っていて、雲泥の差でした。 

5月革命が起きて、一時期お菓子からは離れようと思って、自転車でパリから飛び出しました。  半分ぐらいは野宿でした。 パリに戻ってブドウ狩りを経験したいと思って、ボルドーに行きましたが、ブドウ狩りの仕事はすごく大変でした。  或る菓子屋でカヌレを見て、まだ菓子のこと(形、色,食感)を全然知らなかったと知って、真剣にお菓子の仕事をしなければいけないと思ってすぐにパリに戻ってきました。

郷土菓子に興味を持って、菓子に関する本を給料のほとんどを費やして買い集めました。  郷土菓子、古典菓子がいろいろわかってきて、実在しないものが結構ありました。

「すべてはおいしさのために」著書  出版 

毎日が訓練だと思います。









2020年12月19日土曜日

北條達人(大阪自殺防止センター 理事)  ・「心に傘を~孤独と絶望に寄り添って」

北條達人(NPO法人 国際ビフレンダーズ 大阪自殺防止センター 理事)  ・「心に傘を~孤独と絶望に寄り添って」 

全国で自殺をした数は今年7月以降5か月連続で前の年に比べて増加をしています。  国は新型コロナウイルスの影響などについて分析を始めています。   北条さんは自らも若いころ悩みを抱えて苦しんだ経験から自殺を考える人の電話相談を40年以上前から続ける「国際ビフレンダーズ 大阪自殺防止センター」 に所属して活動してきました。  電話相談でどんな切実な声が聴かれ、北条さんたちが自殺を思い悩む人たちの心にどのように寄り添おうとしているのか伺いました。

2020年10月に自殺した人は去年と比べて40%近く増えている。(厚生労働省調査)  20代、40代の女性が2倍以上増えている。   その人たちの相談の数も相談の内容もより深刻になってきていると実感しています。   仕事を失ったという事、コロナの影響で保育所が閉鎖されてしまって育児の負担が増える、夫も仕事を失う可能性があるなど生活の変化が影響を与えて、女性に、特に40代に集中してしまっているようです。  10代、20代の女性に関してはお父さんが仕事を失って、暴言がひどくなり、自分自身の仕事も心配で追い詰められている。   

著名人の自死の後は電話の件数も増えます。  自殺の報道に対して世間はどんな目を向けているのか凄く気にされています。  自分に置き換えて考えて苦しくなっている方は沢山います。  

報道に関しては、いろんな詮索、いろんな考え方を議論されることは凄くしんどいことで、純粋にその人の死を悲しんで痛む気持ちを持っていただく、その姿勢がしんどいことを抱える人に取っては大事なことで、寄り添う事になるのではないかなあと思います。

国際ビフレンダーズ 大阪自殺防止センターでは自殺に特化して相談窓口を受けています。

電話を取っているのは40数名で、会員自体は70名程度です。  金曜日の13時から日曜日の夜10時まで連続57時間相談を受け付けています。   着信件数はひと月で1万件を超える電話がかかってきます。   ひっきりなしに電話がかけ続けているような状況です。  そのうち相談員が電話を受けているのは500件弱です。  圧倒的に相手不足です。  かつては100人ぐらいの相談員がいましたが今は40人ぐらいです。    相談員も仮眠を取ったりしますが、苛酷です。

相談員になるきっかけは私の友人が19歳の時に自殺をしたのが、大きなきっかけだったと思います。   若いころはいろいろ悩みを持ち合わせていて、自殺をするほど深刻に悩んでいるとは感じ取れなかったです。  私も高校生の頃に家庭の問題があり悩んで、自分が確立できなくてどうやって生きていったらいいんだろうか、と耐えられなくなったんだろうと思って、勉強とか、部活などが出来なくなり、大学生活も最初の頃は乱れた生活でした。

友人が死んで、自分も自殺をしてもおかしくないというように、生きづらさを感じていました。   なぜ人は生きなければならないのか、なぜ人は自ら死を選ぶのか、その問いにちゃんと答えなければいけないという気持ちが強くありました。  答えが出せれば自分の生きづらさが解消できるのではないかと思いました。

非行少年自立支援という事業が大阪府にあり、大学生のボランティアとかかわりを持つという事業です。  自分と重なるものがあるだろうと思って、気持ちを通じあわせたいと思いました。  内面的に大きな問題を抱えている子が多かった。  ある子が2時間ずーっとしゃべらない期間が続いて、ソーシャルワーカーさんがプラモデルを買って来て黙々と組み立てていて、作りながら段々会話ができるようになりました。  自分が感動したことを一生懸命伝えるようになり、段々関係が深まってきました。   その子の中学卒業で関係が終了するわけですが、手紙のやり取りをしていきました。

教師になり、子供たちが感じるいろんな気持ちを一切否定したくないという思いがありました。  私が放課後掃除をしていたら、隣のクラスの子が掃除を手伝ってくれました。  私のクラスの掃除をするなら、自分のクラスの掃除をしたらいいのになあと疑問を感じました。   帰ろうとしたときにその子が教室から出ようとしませんでした。  その子がおもむろに話し始めて「先生は死にたいと思ったことがある?」と私に尋ねました。   リストカットの後を見せて、毎日死にたいと思っていると打ち明けてくれました。   家の問題が大変で、中学1年のある時から勉強に集中出来なくなって、取り返しがつかないぐらい勉強が遅れてしまっていた。  部活も出来ない、塾へも行けない。  何のために毎日毎日座って時間を過ごしているのだろう、生きている意味がわからないという状況に陥っていた。  私と話す機会をうかがっていたのだろうと思います。  ひたすらしっかり受け止めようとその子の話を聞いていました。   その夜にその家に手紙を書きました。  自分でも真剣に悩んだ事など、自分自身がなぜ生きるのかという事の考えを書きました。  これからも直接にあるいは手紙でもいいから話してほしいと書いて渡したら、翌日に「ありがとう」と直接言いに来て、手紙は今は書けないから待っていてくれと言って、一ケ月後に手紙を受け取りました。

泣きながら手紙を読んだこと、自分自身も今はわからないけれども、自分の気持ちを先生が判ってくれたのがうれしかったというような内容でした。

なぜ人は生きるのかという事に対しては私は多分何の答えを持っていないと思います。  若者もそうだと思うし、一人で模索しているとつらいけど、一緒に模索してくれる人間がそばにいると心強いです。

「ビフレンダーズ」はイギリスの牧師チャド・ヴァラーが始めました。 日本語では「友となる」とか「そばにいる」といふうに訳せると思います。   

教員を2年務めてから自殺防止の専門家になりました。   自分が思っていた以上にいろんな背景があり、様々な悩みを訴えています。   解決して欲しいとか、アドバイスが欲しいとか口にする人がいますが、求められているのは、自分がいかに苦しんでいるのかを理解して欲しいという、切実な思いで電話してく来る人が多いです。

真夜中の忘れられない電話で、第一声が「私は電話を置いたら死ぬので絶対止めないで欲しい」といわれました。   「最後の電話だと思っているので電話の充電が切れるまで最後まで聞いて欲しい」と言われました。   生い立ちからいろいろ5時間話しました。 最後のほうに「ここまで話せてよかったといって、もうちょっとだけ生きてみよう」と言ってくれました。  私もあなたのことをずーっと覚えているからお互い覚えているものがこの世界にいるんだという事を言って、電話が切れました。

先輩の指導員から「ここは死にたいという気持ちを否定するのではなくて、その気持ちをそのまま受け止める場所だ」と言われて、自分が肯定されるような気持ちになりました。  今思う事は死にたいという気持ちを受け止めてもらったら、肯定された気持ちになったという、これも自分の自然の感情だと思ったんです。

悩んでいる人は言葉を貰いたいよりも、自分の苦しさを理解して貰いたいという事を求めているんだと思います。  まずはかかわりを作ってみて、その後はどんなことでもいいから耳を傾けるという姿勢で十分だと思います。   人生物語の立て直しはとても一人でやっているだけでは苦しい事だと思うので、苦しんでいる人たちはまずはうちに電話をしてほしいと思います。  今は死にたいと思っていても、今は生きる意味がわからないと思っていたとしても気持ちは変わるので、5年後、10年後その気持ちがどう変化してゆくのか、誰もわからない。  答えが出せないというのが有る意味答えなのかなあという気がします。問い続けることこそが生きることなんだろうなと思います。



















2020年12月18日金曜日

深作健太(映画監督・演出家)      ・父と息子のバトル・ロワイアル

深作健太(映画監督・演出家)      ・父と息子のバトル・ロワイアル 

1972年東京生まれ、父の映画監督深作欣二の影響で、学生時代から映画や舞台ににめり込みフリーの助監督を経て2000年に父が監督を務めた「バトル・ロワイヤル」の脚本プロデュースを担当、その後「バトル・ロワイアル2」の制作中に父が亡くなり、後を引く注いで映画を完成させました。   最近はオペラや演劇の演出に活躍の場を広げ、この秋にはヴェートーベンの唯一のオペラ「フィデリオ」の演出を手掛けて話題になりました。   どんな時代でも常に平和や自由に対するメッセージを伝えるのが父から託されたことという深作さんに伺います。

一人っ子です。  父が43歳の時に生まれたので随分可愛がられました。  怒られたことなく育ちました。   東京の大泉と、京都の撮影所があって、1972年の「仁義なき戦い」、僕が生まれた年からずーっと京都の撮影所にいたので、東京の家にはほとんどいませんでした。   

撮影現場に行くと元気な父親がいました。 周りから父は監督と呼ばれていて、父は監督という人なんだと思いました。  あまりに楽しく働いていたので、5歳の時には映画監督になりたいと思って、おやじの背中を追いかけることになりました。  可能な限り撮影現場に呼んで遊ばせながら学ばせてくれました。

父親からは難しい理論などは学んではいませんでしたが、いろいろ聞いているうちに映画とは何かを学んで行けたと思います。

撮影は夜から明け方までやったりしていて、その後酒を飲んで、一休みしてまた始めるとかやっていまして、俳優の菅原文太さん、松方弘樹さん、渡瀬恒彦さんなども目の下にクマを作って、そのクマがやくざを演じるにはちょうどいいんですね。

この人達にも遊んでもらいながら、映画作りとはなにか、俳優の芝居とは何か、などを学ばせていただきました。   健太という名前は高倉健さんが名付けてくれたようです。(高倉健の「健」と菅原文太さんの「太」と言われていますが。)

母は中原早苗です、母親は最後まで映画の世界、監督になるのは辞めなさいと、監督になっても言っていました。

成城学園は個性を尊重するところで、映像の授業では8mmフィルムを回して体験ができました。   本格的に撮り始めたのは中学3年生の頃からです。  いい友達に恵まれて学校を飛び出して映画を撮るというような事をやって楽しかったです。   

自由とは何だろうと、学校からもおやじの背中からも絶えず考えさせられてきました。  おやじは不器用で家庭というものを大切にはできなかったし、僕がおかしくなるかというとそんなことはありませんでした。  

世の中のシステムがなんかおかしいなと思って、嫌になってぐれそうになった時に、父親の「仁義なき戦い」の映画を見たんですが、やくざ社会を描いているとはいえ、親分たちが社会の強いシステム側の人間たちが、弱者チンピラたちを切り捨てて行く話で、どこか今の資本主義を選択した日本のシステムには相通じることがあると思ってみて、おやじは僕たち側の人間だと思いました。  自由とは何か、平和とは何かを訴えかけるという根本は、1945年の敗戦まで父はバリバリの軍国少年として育ったのではないかと思います。  大人たちのいう事が急に民主主義のために生きろと、いうことで、どう生きていいのかわからない。

外国映画を観て、すべて嘘ではないかと、自分の価値観だけを大切に生きなさい、という思いの元に映画製作して、おやじの映画は全部それがにじみ出ているんですね。  60本ある映画がほとんど若者の側に立って描かれている。

最後の映画「バトル・ロワイヤル」は中学3年生が殺しあう映画ですが、かつて国が俺たちを戦争に仕向けようとしたんだと、戦争とはそういうものなんだと、42人の死んでゆく姿にかつての自分たちを重ねて、戦争とはよろしくない、しかし暴力は絶対否定できなくて、ある日普通の人間が平気で人を殺さなくてはいけない、殺せるようになってしまう世の中が危険であって、それを訴えるために、おやじにはやくざ映画、「バトル・ロワイヤル」があって、20代になってからようやく意味合いが判るんです。

映画に行くことは決めてはいたが、アルバイトを6年ぐらい清掃業をやり、その後子供番組の現場に飛び込みました。  父親から助監督の話があり一緒に仕事をすることになりました。   

本屋から買ってきた本の最初の「バトル・ロワイヤル」の作品の帯が「中学生42人皆殺し」という帯で父親が面白がって、自分が中学3年生だった時に1945年の8月の敗戦だったという記憶がよみがえってきたわけです。  SF小説だったが父が大東亜戦争を重ね合わせたんですね。

ビートタケシさんが先生役で出ることになり、資金集めも楽になり作っていきました。

酒鬼薔薇事件』とかがあり、世相が最近の子供がおかしいといわれていた90年代でした。

父は一緒に理解しようと思ってくれる。

父が長年がんを患っていてもうあと数年の命ということが判って、「バトル・ロワイヤル2」を作ろうとします。  かつて生き残った少年がテロリストと呼ばれて、世界中の大人から攻撃される話なんだと後組だけ決まっていた時に父が亡くなってしまいました。  後を僕が監督になるという事でそれがデビュー作になったわけです。  大好きだった父の深作欣二、深作健太と並記してデビューさせていただき幸せでした。  父と一緒に作ったような感覚がありました。

おやじにもらった一本の刃のような感じがして、心の刃は大切にして、物つくりを続けてゆくというのを30歳の「バトル・ロワイヤル2」のデビュー作の時に思ってしまいました。

小劇場にも行っていましたが、いつか演劇を演出したいと思っていました。  演劇でも38歳ぐらいの時に演出家としての夢を果たすことができました。  オペラ、ワーグナーに出会ってびっくりしました。  オペラもいつかやりたいと思っていて、2015年にデビューさせていただきました。 

オペラ「フィデリオ」 ヴェートーベンが唯一一本だけ書いたオペラで、フランス革命の影響を凄く受けていた作品です。  バスティーユ牢獄襲撃事件 というフランス革命のきっかけとなった、民衆が政治犯を救い出した。   物語のほうも裏側にあるのは古い体制を打破していこうという革命の精神で、今だったらどう表現するのか、1980年代後半、ベルリンの壁の崩壊、ぺレストロイカで冷戦が終わって世界が自由になるのではないかという夢を見れた時代でした。  ヴェートーベンの描きたかった人類愛をもう一度コロナ禍の日本に呼び起こすことが出来ないかと、使命感に燃えて作りまた。

若い方にこそ見てもらいたい、若い人を応援していきたいと思っています。















2020年12月17日木曜日

宇田川清江(元「ラジオ深夜便」アンカー)・「ラジオ深夜便」放送開始30周年 第一回

 宇田川清江(元「ラジオ深夜便」アンカー)・「ラジオ深夜便」放送開始30周年アンカートークショー 第一回

最初「特集 ラジオ深夜便」としてスタートしました。   民放さんは早くから深夜放送をしていたので、民放とは反対のことをしましょうと言うことになりました。   担当者、アナウンサーがゆっくり話すことでした。   音楽は全曲流す。  情報は素早く流す   この3つでした。

当時ニュースは女性は読めませんでしたが、深夜便では読むことが、OKとなりました。  しかし、途中からアナウンサーが来て隣のニューススタジオから読むようになってしまいました。

平成2年にスタートとなっていますが、「ラジオいきいきラリー」というお試し期間がありました。   それが平成元年11月 「ラジオいきいきラリー」という名前で1週間始まりました。  担当ディレクターも決まっていませんでした。   平成2年4月28日に開始して、私は5月4日に担当しました。  午前0時から始まっていました。   

お便り、音楽のリクエストはしないことでした。   最初の挨拶と最後の挨拶に対しては同じような事、他の人がする挨拶とは違う挨拶をしようと思って、本当に考えました。    新宿の空に満月が輝いていたので、地上の動と、空の静、これを話そうと思って、「新宿の空のど真ん中に・・・」と放送したら、「ど真ん中とは何だ・・・どという言葉はいい言葉ではない・・・」とおしかりの手紙がきました。   広辞苑を調べたら接頭語として使わる、例えばと書いて、ど真ん中と書いてありました。 翌週そのことを言いました。  そのあとに又「あんな言い訳をするんだったら、まず謝りなさい。」という手紙が来ました。   ほかに四角い封筒が来て「視聴者との言葉のやり取りが非常に面白かった。  自分はNHKの川柳の審査をしていて、優秀賞になったのが「一級の孤独 五万のど真ん中」だったので、あなたは気にすることはない、というお便りでした。 名前を見たら坂本朝一(ともかず) と書いてあり、NHKの会長でした、びっくりしました。

ラジオ深夜便を始める前に、ブラジル、ペルー、アルゼンチンなど向けに国際放送「お便りありがとう」を30年近く担当していました。   よくあなたの声は母の声のような気がするとお便りをいただきました。  来てくださいという事で自費で行くことになりました。 当時50代でしたが、会場にたくさん集まった人の中から80代の方が立ち上がって一言「おかあさん」とおっしゃいました。  本当にうれしかったです。  深夜便の時にも同様なことを言われました。  

穏やかに過ごしたいという思いがあり「今日一日どうぞ穏やかな日でありますように」という言葉を私のきめ文句にして、さようならではなく「ご機嫌よろしゅう」という言葉を申し上げました。

冬至と立冬を間違えたことがありました。  直ぐ謝りました。 そうしたら新聞の投書欄に謝り方がよかったと投書がありました。

お便りが自然に届くようになり、お便りも発表するようになりました。  どうしても忘れられないお便りがあります。  

私はがんを患っている。  昼間はお客さんが見えたり、いろんな音があるから痛みは忘れているけれども夜は痛みが大変つらい。 ラジオ深夜便を聴いているとその痛みをちょっとの間でも忘れることが出来る、というお便りでした。  その方は勤労動員で横浜の田奈の森というところで手榴弾を兵隊さんと共に作っていたそうです。  自分は戦争の被害者だと思っていたが、ある日洗礼を受けて、教会で説教を聞いていたら、「自分は被害者だと思ってても、もしかすると加害者であるという事もありうる」という事を聞いて、自分が作った手榴弾で亡くなったかもしれない、という事でその人は一冊の本にしました。  「田奈の森」という本で私に送ってくださって、番組に出ていただくことになりました。  募金もして田奈の森に「平和を祈る」と書かれた石碑を建てました。   昭和36年日本に返還されて上皇のご成婚のお祝いに昭和40年に「こどもの国」としてオープンしました。

平成4年4月から11時10分からの放送になりました。  夜間中学の卒業作文集「夜光虫」を送っていただきて紹介しました。  運転手さんからお便りをいただき「あれは危険です。 私は涙があふれて車を停めて放送を聴きました。」という内容でした。  それを次に紹介しましたら、新聞に載って、運転手が感動したと紹介しているが、あれは自画自賛である、というお便りがありました。   それ以来どんなに良かったとか、褒めてくださったお便りをいただいても放送しないことに決めました。

淡谷のり子さんの「別れのブルース」を放送しましたら、或る方からお便りをいただきました。  戦争中恋人ができて戦地の赴くときに「待っていてほしい」と言って、淡谷のり子さんの「別れのブルース」のレコードを私にくれて戦地に向かいました。  「待っていてほしい、というので私は今でも待っています。」と言うお便りでした。  吃驚しました。

手紙の紹介があります。  「・・・私は淡谷のり子さんの歌が大好き、なかでも「別れのブルース」は一生涯忘れようとしても忘れられることが出来ない思い出深い今日なんです。・・・今は79歳です。  ・・・海軍の軍人さんと知り合いました。 私が20歳、彼が22歳でした。  ・・・戦地に向かう時にもらったのが、一枚のレコード「別れのブルース」でした。  きっと待っていてくれという優しい言葉を胸に抱いてずーっと待っています。  いまだに待ってます」というお便りでした。

他の方から「もしかしたら、それは私の従兄弟かもしれない」というお便りをいただきました。  是非お会いしたいという事で、それぞれの住所を連絡したら、ずーっと彼女を待っている方は存命でした。  実は彼も独身で、すでに亡くなっていました。

夜中に聞いていたから、胸に秘めていた初恋の思い出をふっと私に漏らしてしまったのかなと思いました。  夜中の放送は胸に沁み込むことがあるのかなあと思いました。

ラジオ深夜便はほとんどアドリブで、ご自由にどうぞという事でした。   列島今日の動きだけは原稿がありました。   「列島」のアクセントが違うという匿名のお便りがありました。 私が間違っていました。

私と皆さんとは同じ時間帯を共有していて、それが連帯感です。  ラジオの力は大きいなあと思います。








 


2020年12月16日水曜日

金 哲彦(プロランニングコーチ)    ・【スポーツ明日への伝言】いまこそ、走る意味を知ろう 

 金 哲彦(プロランニングコーチ)    ・【スポーツ明日への伝言】いまこそ、走る意味を知ろう 

日本には週に一回以上のペースでジョギングやランニングをする人が500万人以上いるといわれますが、コロナウイルスによってこれまでとは違った走り方が求められています。  それでもランナーたちは走る場所を求めて、新たにランニングを始める人たちも少なくありません。  今人々が感じ始めている走る意味とは何か、プロランニングコーチでありマラソンや駅伝中継の解説者としても活躍する 金 哲彦さんに伺いました。

大会が中止、延期になり合同練習もできない。   どうしていいかわからない状況が続きました。   ホームページを作ってランニングに役立つ情報を発信したりしていました。  ランニングウエアの袖の生地を使って息苦しくないマスクを作って、発信したりしました。

競技ランナーはどんなに懸命にトーレーニングをしても自分の発表できる舞台がないという事で、存在価値そのものまで揺らぐような出来事だと思います。

マイクロレース クラブの中で自分たちが走ることもあればボランティアをやる時もあります。  レースの最低限の形を作って5km、10kmの2種目と親子で走る1kmがあります。   計測は自分たちで、出来るように手作りの計測システムを作り上げました。 もう6回ぐらいやっています。   感染予防には気を付けて行いました。  TVでジョギングはいいですよとの話があった以降は、走りたい人が増えたようです。

2006年の夏にステージ3の大腸がんが見つかり、開腹手術をしました。   発症から手術、仕事への復帰、11か月後のフルマラソンに挑戦、3年後にはフルマラソンを3時間を切ることが出来ました。  2010年に「走る意味」という本を書きました。 「明日への言葉」に出て10年が経ちました。

42歳で実業団の監督から引退して、自分でチームを作って市民ランナーの指導を始めて数年経った時のことでした。  ガンはまるで頭の中にはありませんでしたが、検査をして、青天の霹靂でした。  死への恐怖、自分の人生をどういう風に締めくくっていくのか、もやもや毎日考えていました。  悲観的になる気持ちが多かった。   10分から15分ぐらい走って見ました。  走っている間はもやもや考えていることが頭から消えました。  生きているんだなという事が身体で実感しました。   

未来が見えるようになって、社会に復帰するにはマラソンランナーに戻ることが一番だと思って勝手に考えて、術後11か月後にマラソンを走って、30kmは走りましたが、残りは歩きました。  膝が痛くて5時間41分でした。  3年後にはフルマラソンを3時間を切ることが出来ました。

ガンのことは周りには黙っていました。 周りに心配をかけたくないという事と、周りからがんだからもう長くはないよと思われるのが悔しいと思ったので、サブスリーを目指しました。

「癒しのランニング」という本を出して、そこで「走ることを心の栄養」という風に表現しました。  精神科の医者と話をしたら、ジャンプ運動をすると脳内ホルモンが出る効果があるという事で、うつ病の患者さんたちの運動処方に携わっていたので、走る方向に導いてゆくことでどんどん回復してゆくのを見て、無表情だったのが感情が出てくるのを毎回見ました。  それで走ることは心の栄養になるんだなという事を実感しました。      農作業、土をいじる、育てることも効果があるという事でした。

がんという病気は細胞の突然変異なので誰にでも体の中で起きている。  免疫が働いて突然変異の細胞をやっつけてくれる。  免疫が下がることによってがん細胞が大きくなり、抗がん剤や放射線などで退治するしかない。   しかし小さいうちならば、自分が持っている免疫力で攻撃してくれる。   走ることで基礎体力が上がるだけではなく、ストレス解消、体温も上がり、免疫が上がる。

以前は山登りをやっていたという高齢の女性で80代で4時間代で走る中野さんはマラソンを始めたのは70歳近くという事でした。  まったく運動していない人はまずは歩くことからスタートして基礎的な足腰を作って行き、ゆっくり走ることを繰り返してゆくことだと思います。

自分に合ったランニングシューズを買い求める。  いきなり走らないで早歩きをして身体が温まってくると早歩きと同じ速度で5分ぐらい走ってみる。 又早歩きを10分ぐらい行う。  無理をしない。 全体の運動時間をしっかりとっておくとどんどん体力が上がる。   不思議と前向きな言葉がどんどん出てくる。  走ることを辞める人の理由の多くが怪我、故障です。   それはどこかで無理をしている。   ゆっくりでいいから5分でも走ることが出来たら新しい世界が開けてくる。  食べた直後だけは避けたほうがいいです。  身体を動かして自然と触れることはいいことだと思います。

競技スポーツの存在意義、在り方、ただの勝ち負けではなく、スポーツは感動を与えるので、競技スポーツの意味を改めて考える機会だと思えば、応援してくれる人たちにもっと感動を与えてくれるものと思います。






2020年12月15日火曜日

結城 恵(群馬大学教授)        ・新時代の多文化共生社会の在り方

結城 恵(群馬大学教授)        ・新型コロナウイルスと共生する  新時代の多文化共生社会の在り方

結城さんの専門は教育社会学で取り組んでいるテーマは「多文化共生」です。  国籍や文化などが異なる人同士が違いを認め合い共に生きて行くことです。  大阪の出身で大学時代に幼児教育を学ぶためアメリカのイリノイ大学に入学されて、外国と日本の違いについて研究をされ、東京大学大学院で博士課程を取得後、平成8年から群馬大学教育学部で教鞭をとっています。  その傍ら外国人が多く暮らす群馬県大泉町などに通い、ご自身が外国人と日本人の懸け橋になろうと、多文化共生の道を歩み始めました。   結城さんがこれまで何に取り組み多文化共生を通して何を得ていったのかお話を伺います。

群馬大学に着任して来年で25年となります。   外国人住民と日本人住民がともに生き甲斐を持って生きるための模索の取り組み、多文化共生の取り組みでした。

群馬大学には教育学部、社会情報学部、医学部、理工学部があります。  これらの学部に共通する教養教育で多文化共生の理論と実勢を教えています。  社会情報学部では生まれ育った文化や社会が異なる人達とのコミュニケーションのあり方を探る講義を担当しています。

地域活動としては「グローカル・ハタラクラスぐんま プロジェクト」というプロジェクトを立ち上げ、企画運営を担当しています。   44のいろいろな機関の皆さんにご協力いただきその取り組みを進めています。  ハタラクラスとは卒業後も群馬で働き暮らすという願いを込めて付けました。   グローカルという言葉はグローバル+ローカルで、群馬にいながら全国、世界に発信できる、経済、産業、地域活動を展開するという意味です。

子供の学習支援、キャリア教育支援、外国人留学生を含めた大学生の就職促進、外国人の住民が高齢期に備えるための日本語教室、多文化共生推進をはじめとする地域の人材育成などを展開しています。

労働力不足が深刻化する日本社会において外国人住民は不足する労働力を補う存在であることが浮き彫りになっています。  今年は前年度より30万5000人減少していて11年間連続で減少してきました。   外国人住民の人口は6年連続で増加していて、増減率は7,48%増と高い伸びをしています。   全人口の生産人口の割合は日本人住民は約60%を占めています。  外国人住民では約85%、その人たちが労働力の即戦力となって働いている状況です。  生まれ育った文化や社会が異なる人たちと生き甲斐をもって暮らすための方策や働き甲斐のある職場環境作りを進めておかなければならない。   幼児期から老年期までの多様な場面を想定して必要な理念、具体的な方策を積み上げていかなければならないと考えています。

群馬県は町民の約20%を占める大泉町、伊勢崎市、太田市など日本有数の外国人集中地域があります。  国籍も多様になりました。    群馬県は多文化共生を考えるうえで最前線、最先端でもあります。   

私が多文化共生を考えるきっかけになったのは、大学院修士時代にフィールド調査に入った幼稚園でのある光景でした。  園児の中に二人日本語がほとんど分からないフランス人の子供が在籍していました。   大声で話したり、行動が違ったりしていたので「言葉が通じないので、お客様していただきましょう、許してあげましょう」と先生は声をかけました。   表現に違和感を私は覚えました。   疎外感、上から目線で許してもらったというような感じで、親切であるようで親切ではない微妙な表現だと思います。  当たり前が当たり前ではないとか、微妙なニュアンス、それに対して配慮できるように日常生活の中で積み重ねてゆくことが大切なんだという事が気付かされました。

15年前、外国人の両親の赤ちゃんが突然死してしまいました。  通訳の方が約束の時間になっても来ないし、1時間経っても来ませんでしたし、何の連絡もありませんでした。 研究室で仕事をしていると夜になってしまっていました。  ようやく電話が入りました。

役所から連絡があり病院で通訳をするようにとのことで、そこにいたのは集中治療室で亡くなった赤ちゃんを抱えて呆然とする保育園の園長と園長とコミュニケーションが取れずに困り果てていた医師と看護師でした。   そこに両親がいないことに気が付きました。  名前も連絡先を伝えようとしない。   そのうち両親が来て泣き叫びました。   赤ちゃんは朝は元気だった、子供の年齢を証明する書類がなかった、両親はつたない日本語、両親は不法就労者だった。  そんな関係で就労先にも連絡ができなかった。

通訳さんの話を聞いていたたまれなくなりました。  病院で言葉が通じないことに対してどうしたらいいのかわからなかった。   ATMのような機械が病院にあり、患者さんの症状や病歴を患者さんの母国語で聞いてくれたら、細かいニュアンスまで母国語で与えられて、瞬時に日本語に変換されたら病院側も助かるに違いないと思って、2005年に完成したのが群馬大学にある外来の自動受付システムです。

問診表をタッチパネル式に、問題個所を絵で示して、そこを叩けばおかしい箇所が判り、症状も細かく選択してできる。  名前も難しいものもあるので当人が入力する。  この装置は大変好評でした。  英語、ポルトガル語、スペイン語、日本語で対応していました。

多文化共生の取り組みは外国人の為だけに役に立つという事ではなくて、一人一人の違いに対応しその違いが持つ共通する不便さを解決することで、日本人も含めユニバーサルな暮らし易さを追求することになることに気が付きました。

外国人住民、外国人留学生の視点を生かせば、小さな3000人ぐらいの村からでも堂々と世界に発信し、世界と村との間に人と物の流れが集まるという経験も積み重ねています。

2018年には「グローカル・ハタラクラスぐんま プロジェクト」というプロジェクトでは観光日本語という取り組みをしました。  外国人住民が主役になって進めていただく。  外国人の観光客の気持ちになって企画を考えていただく。

外国人住民と一緒に酒蔵見学をしましたが、私は専門的な言葉で理解できなくて、通訳の人も外国人住民にたいしては上手く通訳できないとのことでした。  頭に浮かんだのが外来受付機の絵のことでした。  お酒も絵で示せないかなあと思いました。  漢字は象形文字から来ているので、うまく漢字で表現できないものかと思いました。  酒造会社、行政、観光関係、外国人留学生、日本人学生など70名に集まっていただき、漢字を象形文字化して、貼ってもらうデザインを考えてもらいました。

対話をすることにより、どういう気持ちで、どういう感情をもって、なぜそのように感じるんだろうとか、そういった対話ができる事によってお互いが認め合い、お互いが尊重しあい、お互いが補い合い、お互いが高めあっていける、と思います。  












2020年12月14日月曜日

三井洋子(三井梨紗子選手の母)     ・【アスリート誕生物語】リオ五輪アーティスティックスイミング 銅メダリスト

三井洋子(三井梨紗子選手の母)     ・【アスリート誕生物語】リオ五輪アーティスティックスイミング 銅メダリスト 

リオデジャネイロで銅メダルを取ったのが22歳、リオの後引退を表明しました。    母親としては是非東京でも見たいという思いはありました。   小さいころからシンクロをやっていて、学校の行事にも出れないことも多くて、高校の卒業式も出れなくて、本人としてはもっと違う視野を広げたいという事が凄く大きかったみたいでした。   大学院に入っていたので次のステージを彼女は見ていたみたいです。   自分で決めたことは絶対に通すところがあったので、辞めることになりました。

今年の春に結婚しました。  相手は水球をやっている選手です。  紹介されましたが、明るくていい青年でした。   結婚のために辞めたという事ではありませんでした。

2歳半から水泳を始めて、ピアノ、習字、ジャズダンスなどもやっていました。   やりたいことはやらせようと思って育ててきました。   競泳をやっていて、早かったので競泳用のクラブへの要望もあったが、リズム感とかも良かったのでアーティスティックスイミング にいいのではないかと思いました。

東京シンクロナイズスイミングのクラブを紹介してもらいました。   すぐに頭角を現してきて、競技を始めて2年目の小学校5年生でクラブのエリート教育メンバーに選抜されました。 

クラブでは毎日練習があり、週に一回バレエの練習もしました。  中学受験は塾へも行けず上の息子が教えて入ることができました。   他にも習い事をやっていましたが、エリートに入った時からシンクロ一本になりました。

ジュニアの選考会があり、受かって高校2年の時に世界ジュニア大会があり、ソロとデュエットに出られて、ソロは4位、デュエットは5位でした。   メダルを落としたことに対して残念に思ったのか、日本の代表を背負うという事を意識し始めたことと思います。

その時にはしょぼんとしていました。   それから責任感が強くなったように思いました。   

ロンドン大会予選に行って、微差でウクライナに勝てて、本戦に行くことが出来ました。 チームの補欠争いみたいなポジションにあって、テクニカルのほうはでるとは判っていましたが、フリーのほうは出れるのか心配でしたが出れてよかったです。  チームで5位入賞で、本人はメダルを逃したのが強かったようです。

井村雅代さんが復帰して、井村先生の元で練習をしました。   井村先生は親の顔を見ただけでどの子の親か判ると言っていました、それまでの育ち方とか。  まずは人としてちゃんとしていなければいけないと言っていました。  自分で決める限界はない、限界は私が決める、というような感じでした。

躾の部分、親がちゃんとしていなくてはいけない、親が浮かれれてはいけない、平常心でいつも、という事は言われました。  メダルに届くために練習はここまでしなければいけないんだという事で、今までとは全く違ったと思います。  体に沁み込ませなければいけないという事は教わったようです。   先生は若い選手の考えが判らないところもあったようで、先生と若い選手とのつなぎ役として先生とはいろいろと話はしていたようです。

2016年リオデジャネイロオリンピックのデユエットでは先輩の乾友紀子さんとのデユエットでした。   乾さんは足がすらっとして綺麗でしたが、娘はO脚っぽかったので足をまっすぐに見せるやり方などを教わりました。  その努力を先生が見ていてくれました。  朝練の前の特別練習も先生と二人でやりました。

当日は井村先生の誕生日でもあり、デユエットもチームも銅メダルを取れてよかったです。 初めて本戦の応援に行くことになり、どきどきしました。

試合後は会う事も出来なくて、声を掛けてやることは出来ませんでした。  後で銅メダルを首にかけてもらえました。

覚悟、責任感そういったものが強くなったんだなと思いました。

娘を変えたという事はいろいろな人との出会いだと思います、特に井村先生には大きな勉強になったと思います。

娘に望む親孝行とは、一日一日丁寧に元気に暮らしてくれればと思う事と、ちょっとそのお手伝いが出来ればと思います。



















2020年12月13日日曜日

須田誠舟(薩摩琵琶奏者)        ・人々の琴線に触れる琵琶の音を

 須田誠舟(薩摩琵琶奏者)        ・人々の琴線に触れる琵琶の音を

須田さんは1947年東京の生まれ、詩吟が大好きな父親の影響で幼少のころから琵琶の音に親しみました。   大学進学後の1968年薩摩琵琶の第一人者であった辻 靖剛さんと出会い琵琶の指導を受けました。   1970年23歳の時に琵琶楽コンクールで優勝、文部大臣奨励賞を受賞しています。   大学卒業後は銀行に就職し仕事と琵琶を両立させながら銀行員生活を送りました。  しかし38歳の時に師匠が亡くなって一門を継ぐことになり、これを機に銀行を辞めました。   以後今日まで琵琶の道で活躍してきました。    来年の4月には新型コロナウイルスで延期になった元宝塚花組娘役トップで筑前琵琶の奏者の上原まりさんを偲ぶ琵琶の公演「平家物語を語る」が予定されています。

3月1日を最後にお稽古を中止しています。  コロナが落ち着くまで待つしかないです。

筑前琵琶の奏者の上原まりさんを偲ぶ琵琶の公演「平家物語を語る」を予定していましたが、来年に延期しました。   弟子は20人ぐらいで、週一回の稽古をしていました。   若い方は20代、医者、坊さん、学校の先生など様々な職業の方がやっています。

大河ドラマの「北条時宗」(神田うの)、「武蔵」(小泉今日子)、「篤姫」(永山 瑛太)のシーンで琵琶の指導をしました。

琵琶が日本に渡ったのは奈良時代だといわれています。  薩摩琵琶、平家琵琶、筑前琵琶の3種類でしたが、奈良朝時代に伝わったのは楽琵琶、4本弦と5本弦があります。

薩摩琵琶は戦国時代に島津家中興の祖と言われた島津忠良によって始まったといわれています。  薩摩盲僧琵琶を改良してバチも大きくして武士らしい力のこもった演奏を可能とするように改良して若い侍に奨励したといわれています。  明治まで伝えられてきました。

私は辻 靖剛先生にご指導いただきました。   明治以後薩摩琵琶は東京、大阪などに進出してきました。  永田 錦心という名人が出て、演奏形態を少し柔らかくした錦心流琵琶が一世を風靡しました。 鹿児島で伝えられてきた琵琶はいかにも武士らしい力強い演奏ですが、長唄、常磐津などの節調を加味しながら、東京人に受け入れられる琵琶に段々変化していきました。

上原まりさんのお母さんが柴田 旭堂と言って、筑前琵琶の名人でした。   上原まりさんもお母さんの指導で筑前琵琶を習得していました。   筑前琵琶は明治になって橘智定(たちばなちじょう)という方が出て、博多に伝わっていた筑前盲僧琵琶に薩摩琵琶の音楽性を取り入れて、全国的に普及していったといわれます。

琵琶の制作、修理は現在は石田琵琶店たった一軒しかないです。  素材も入手が困難になりました。  琵琶のいい楽器は桑の太い木を使いますが、三宅島、御蔵島などには樹齢80~100年という太い桑が生えていて、材料の確保からやらなければいけません。

1947年東京に生まれました。  父が詩吟が好きで、意味も解らず私は歌っていました。

大学に入ったときに琵琶を習ってみないかと伊藤先生の元で習いましたが、先生が病気になり辻 靖剛さんを紹介していただきました。(昭和44年 当時先生は78歳) 

大学卒業後銀行に入行、15年務めていたが転勤になり二足の草鞋を履くことができなくなった。  昭和56年に辻 靖剛先生が亡くなり、当時琵琶の活動も増えていました。    38歳の時で転勤を拒絶して会社を辞めてしまいました。 周りは心配しましたが。

*平家物語より連れ琵琶 清盛の四  薩摩琵琶:須田誠舟 筑前琵琶:上原まり 笛:西川浩平

金田一春彦先生には平成3年から平曲のご指導をいただきました。  歌人、俳人、茶人が平家琵琶をたしなむようになってきました。  楽譜が作られて荻野検校が編纂した『平家正節』(へいけまぶし)という譜本が有名で今に伝わっていて、その楽譜を主に研究し続けたのが金田一春彦先生です。  「平曲法」という分厚い本になっています。  平成3年、4年の夏に金田一春彦先生の別荘で3泊4日でご指導いただきました。

1998年 「能、狂言、平曲による平家物語の世界」というタイトルの企画に出演。

毎年 公演を続けています。 2010年代国外での公演、ポルトガルのジェロニモス修道院の石の壁の部屋で演奏した時には、音の反響も素晴らしかったです。

上原まりさんさんに替わって筑前琵琶の鶴山旭祥さんと、五弦薩摩琵琶の川嶋信子さんと3人で新たな連れ琵琶をスタートさせました。

「琵琶は単なる音楽ではなく道だ。」 辻先生が日ごろおっしゃっていました。  「人間の道と琵琶の道に隔たりがあってはいけない、正しい琵琶は人の道を正しく踏むところに生まれる」と言っていました。

演奏できるまでには時間もかかって難しいけれども、それだけにやりがいのある伝統芸能と言っていいと思います。






2020年12月12日土曜日

ウスビ・サコ(京都精華大学 学長)   ・「アフリカ出身の学長、日本の国際化を語る」

ウスビ・サコ(京都精華大学 学長)   ・「アフリカ出身の学長、日本の国際化を語る」 

サコさんは漫画学部などで知られる京都精華大学で教職員の投票によって学長に選ばれ、2018年4月に就任しました。   出身は西アフリカのマリ共和国で日本の大学で初めてのアフリカ出身の学長です。   来日して29年目、妻は日本人で日本国籍を取得しています。    京都精華大学はサコ学長の就任と同時に「ダイバーシティー(多様性)推進宣言2018」を発表、2年続けて留学生が新入生の30%を占め、留学生の総数がおよそ900人、全学生の24.3%と国内でも上位です。   サコさんはこれからのグローバル化が進む社会で活躍するには日本人も留学生も同じ土俵で学んで競争し、お互いの考え方を学びあうことが必要だといいます。    しかし、日本には国際化を阻む問題が残っていると指摘しています。    それは何でしょうか、サコさんに伺います。

マリに23ある民族言語うちの3つぐらいを話し理解出来ます。  マリのフランス語は公用語で、第一外国語が英語で、中国語も日本語も話せます。  29年前に来日、大阪の日本語学校で日本語を勉強して、京都に住んでいます。   リラックスしている時には関西弁が出てきます。

マリは内陸国で沢山の国に囲まれていて、中心的な役割のあった国だと思います。  気候的にも多様性がある国だと思っていて、人種も、民族も多くて非常に歴史もあって多様性のある国だと思っています。   23の民族があるなかのソニンケ系の家系で生まれました。家族間、コミュニティー間の非常に強い民族集団だと思います。  サコ家の長男です。

父は国家公務員で母は専業主婦、3人兄弟で妹、弟がいます。 私はやんちゃでした。

親戚に6年間預けられました。(小学4年から中学3年まで)  学校まで数kmあり、40℃を越えるときもありました。  高校卒業後、数人が選ばれるマリの国費留学生として中華人民共和国北京語言学院に派遣され留学、その後南京市東南大学建築学を学ぶ。卒業後大学院で建築デザインを専攻。  1991年に来日、京都大学大学院工学研究科の修士課程を経て京都大学大学院建築学専攻博士課程修了、博士(工学)。  2001年に京都精華大学人文学部講師に就任。

中国は留学生に対して条件が良かったが、いろんな国の人との出会いがあり、日本人の友達ができて、何故か日本人だけが人工的に見えました。   冷凍食品とかお湯を入れればすぐ食べられる料理とか、小さいスピーカーでも音がいいとか、先進的なのかなあと思った。  建築をやっていたので日本に興味があり、たまたま夏休みに日本に来たが、中国で見た日本人とは全く違っていた。   庶民的で凄く人間らしさを感じて、マリに通じるような共同体を感じました。   中国では研究するときに自由度が無かった。

日本に来て国籍を取り、結婚をして子供が二人います。

国籍は日本人ですが、アイデンティティーはマリだと感じています。

京都精華大学はサコ学長の就任とともに「ダイバーシティー(多様性)推進宣言2018」を発表しました。  

グローバル展開する=うちの学生たちを外に出して経験してもらう、留学生を入れて学生としてどうやってそういうものが実現できるか、一致団結しないといけないという事で「ダイバーシティー(多様性)推進宣言2018」を行いました。  留学生が全体の24.3%を占めていておよそ900名。

日本では留学生に対していろんな制度が開かれていない状況にある。(留学生は区別されている。)

京都精華大学としては区別をなくしてゆく一つの動きとして、試験の制度の改革からスタートしました。   留学生は目的意識が高い、非常に競争性をもって日本の大学に入ってくるので、彼らがいることでうちの学生たちの姿勢も変わってくる。   留学生はお客さんではない、うちの学生という形です。

留学生のことを知るという事はある意味自分の見直しにもつながる。  日本人としては当たり前と思っていたことが通じないこともあるわけです。   それが見えてくる。 歩み寄る姿勢をとることで見えてくる。

日本人を均一化して、それをある意味で当たり前のように扱う。   日本の社会も同じことをやろうとするわけです。   あるものはすべてみんなに通じるだろうと思われていた。  外国人、留学生とかが増えてきているのに自分たちの姿勢を変えようとしない。   異文化に対する接し方に微妙なところがある。   空気を読むと言って、日本人同士が協調性があるという風に思っている。  

旅行のゼミで、同じ部屋になって喜んでいる子が、そのあとにいやだと言ってくるが、その場では言わない(その場の空気を読む)。

京都ではいいところか悪いところかわからないが、極端に人を避ける場所で、共存のカギかもしれないが、相手のことを重んじるのか、ストレートに言わないことが相手に余裕をあたえて決めてくれというような話ですが、普通に通じない。

日本人はなかなか言葉では言わない。 相手に伝わらなければ意味がないので、今後変わっていかなければいけないと思っていて、これは大きな課題だと思っています。   国際化してゆく多様化してゆく時代にどこまで通じるかが課題になると思っています。   中国人はストレートに伝えて喧嘩をします。  日本の場合は同じようなことを聞きたくても聞かない、言いたくても言わない、自分自身で我慢してゆく。  本当に国際化、グローバル化してゆく中で、自分自身で我慢してゆくというような事はやったらいけないことだと思います。

衝突すること自体がすべて悪いとは思っていなくて、衝突と思っているかもしれないが議論だったり、話し合ったり、調整だったりする。  話すことによって相手の気持ちも伝わってくるし、自分の気持ちを堂々と相手に伝えることになる。   コミュニケーションが重要だと思います。   どうやって異文化系の人たちとコミュニケーションをするかだと思います。

マリの挨拶は下手をすると5分かかります。  共同体のお互いの存在を確認する手段ではないかと思います。  お互いが元気かどうかをいって、職場、周りの人たちが元気かどうかを確認して、そこから話が発展して行ったりする。

マリでは遠慮しない。  遅くなってしまって電車で帰れないときには、友達の家に行って堂々と泊まる。

私の家ではお客さんが来て、一日用事があると言って来て、いつの間にか1年間いるんです。  当然ながら食費は求めない。  いつ帰るかは聞かない。  いつの間にか家の行事に入ってくる。   マリでは迷惑をかけるという事は相手との信頼関係の確認のプロセスの一つでもあるわけです。

迷惑をかけあう社会というのは本当に相互扶助が自然に生まれる社会だと思います。  お互いに気に掛け合う社会を作っていかないと本当に精神的にもどんどん孤独になってゆくという事があるのではないかと思います。  迷惑をかけあいましょう、本音でものが言えるようになりましょう、それを実現することで真の国際化が実現できるのではないかと思っています。    実現するためには、様々な教育制度の改革が必要だと思います。

日本に完全に染まると意味がなくて、まさに均一的な日本を維持することだけになるので、多様な人がいるという事は、自分の文化を持ったまま日本社会の一員になってゆく、これが日本にとって大切なんじゃないかと思います。













   



 


2020年12月11日金曜日

岩川洋一郎(国立療養施設 会長)    ・【人権インタビュー】いま訴えたい、ハンセン病差別の経験から

 岩川洋一郎(国立療養施設 星塚敬愛園入所者自治会会長)    ・【人権インタビュー】いま訴えたい、ハンセン病差別の経験から

岩川さんは83歳、11歳でハンセン病と言われ、以来人生のほとんどの時間を星塚敬愛園で過ごしてきました。   ハンセン病や元患者への差別や偏見をなくそうと語り部活動にも取り組んでいます。   そして今、新型コロナウイルスによって新たな偏見や差別が生まれていることに危機感を抱いています。 

今では早く発見して正しく治療をすれば治る病気という事ですが、治療がない時代は手が悪くなる人は顔は普通で、顔が変形する人、目が見えなくなる人、口が下がる人などが多かったために、一般の国民から差別を受けました。  

終戦後まもなく23年ぐらいから治療薬が入ってきて3年ぐらいで98%ぐらいの人が完治しました。   今は衛生的にいいことと栄養が良ければハンセン病にはかかりません。

終戦後まもなく治療薬が入ってきて1996年にライ予防法が廃止されるまで、ずーっと隔離政策が続けられた。

昭和37年WHOは日本を除く全世界で隔離政策を全面的に廃止しました。 

なぜ日本が廃止しなかったのかわからない。 

1967年に屋久島で生まれて、親父は屋久島で役場に勤めていましたが、鹿児島へ転勤になり、家族で引っ越してきました。  ある日、顔に黒い斑点のようなものができたんですね。   そこで親父と一緒にあちこちの病院に行ったんですが、何が原因かさっぱりわからない。   親父が「ちょっと旅行にでも行こうか」と言い出したんです。    おにぎりを作りながらお袋が涙を流しているんです。   永野田(旧大隅線)という駅で汽車を降りて、そこから敬愛園までやってきました。  私は20分くらい診察を受けました。   園長か「君はまだ小さいから、3ヵ月したら帰れるよ」と言われました。

1週間して4つぐらいの部屋があり、1つの部屋には6,7名の子供たちがいました。  私はなんでここにいるのか判りませんと言ったら、「お前さんね、ライ病を知っているか」と言われまた。   「ライ病って知りません」と言ったら、「君はライ病だよ」と言われれました。   図書館に行ってライ病について調べました。

星塚敬愛園は1935年に設立、全国に13か所ある国立ハンセン病療養所の一つです。

本人の意思に関係なく特別列車で強制収容された。

部屋は12畳で6,7名が暮らしていました。   施設は有刺鉄線で囲まれていました。

27歳の時に好きな人ができて、この人と結婚しようかなと思った。  ハンセン病療養所では1948年に施行された旧優生保護法を根拠にハンセン病患者は子孫を残すことができないように男女ともに生殖能力を失わせる断種手術が行われた。   もし妊娠した場合は人工妊娠中絶が行われた。  判っているだけで断種手術は1551件、人工妊娠中絶が7696件。

或る日決心をして断種の手術をしました。  2年後に妊娠をして妻と相談して、これは天から授かったものだからいっしょに社会に出て子供を産んで育てようといったんですが、妻は泣きながら偏見差別があるからどうしてもだめだといいました。  断種の手術、人工妊娠中絶しました。

生まれることができなかった子供たちの慰霊碑が星塚敬愛園内にあり、1週間に4回ぐらい行っています。

今はいい形での生活はできます。  平均年齢は87.7歳です。  今年は20名の方が亡くなりました。   昭和18年には1347名で一番多く、今は92名です。  星塚敬愛園では85年の間に2150名が亡くなっています。  納骨堂に納骨された人は1604名、故郷に帰られたのは506名、1604名の人は故郷があっても帰れない。

生活するには国からお金が出るが、自分で生活できることが第一で、人の目を隠れながら生活しなければいけない。  偏見差別についてなくならない。 なくならないのは国のやり方の厳しさがあったと思います。

コロナに対する偏見差別は本当はあってはいけないが、怖さがあるためそれはあると思う。

コロナでの労災申請に対しても感染した人に対する社会的な差別のようなものがあり、声を挙げずらい現状があるといわれるが、これは本当に悲しいことです。

罹ってしまってかわいそうだねと思いながら寄り添う事だと思います。

今後も差別は断ち切れないと思います。  人間の人としてすごくいい人、何も言わない人、ああだこうだという人がいるが、ああだこうだという人の中に偏見差別があればこれはいけない、黙っている人の中に偏見差別が案外多い。

一般の人たちにはハンセン病の事実を知らない、本当はこういう形でハンセン療養所で暮らしてきた、今までどのような戦いをしたんですよという事をみんなに知ってもらう、これが大事です。










2020年12月10日木曜日

山崎菊乃(NPO法人代表理事)     ・【人権インタビュー】あなたは悪くない

 山崎菊乃(NPO法人代表理事)     ・【人権インタビュー】あなたは悪くない

コロナウイルスの感染拡大が続く中、DVの増加が懸念されています。   現在DV被害女性の支援を行う一方、内閣府のVD対策の委員も務めている山崎さんですが、自身もかつて夫の暴力から逃れ避難した一人でした。   暴力を受けていた山崎さんが声を挙げるその力の源は「あなたは悪くない、あなたなら出来る」と励まし続けてくれる人たちの存在でした。

今は主にDV被害者とその同伴の子供さんの相談の一時保護と自立支援、暴力防止のための啓発事由という事で、女性に対する暴力を根絶させるための活動をしているところです。

夫の仕事が在宅勤務になってモラハラ、妻に対する暴力、子供に対する暴力という事での相談があります。   性行為の強要といった相談もあります。

支配する側と支配される側の関係があると、支配する側がイライラがあると、弱い側に向かうという現象も起きていると思います。

1997年 DVの法律もない時に、子供を連れて逃げてきた経験があります。  長女が生まれたときに、里帰りお産をしたときに、米を10kg持ち帰ったら「俺を馬鹿にしているのか」と言って、お米を実家に送り返して、その晩に新生児の横で寝ている私の顔を何も言わずいきなり殴って鼻血で布団が真っ赤の状態でした。  あからさまの暴力はその時が初めてでした。

実家の親に言ったらどれだけ心配するかもしれないので言えませんでした。   「こんな事をするんだったら離婚する」と言ったら土下座して謝りました。   しかし、びくびくしながら暮らすことになりました。    北海道にUターンして新しい家を建てようというような時期から身体的暴力がまた始まりました。   初めての暴力から13年後でしたが、その間精神的暴力がひどかったです。 ちょっとしたことですぐ不機嫌になりました。常に私が非難されていました。  彼に理解してもらえない私が悪いと思っていました。

又身体的暴力がまた始まりました。  2年ぐらい続きました。  暴力を受けた時にはどうでもいい早く終わらないかなあという感覚でした。  一回暴力のタガが外れてしまうと身体的暴力のハードルが低くなって、ちょっとしたことで暴力を振るうようになりました。彼が帰ってくると動悸がしました。   娘が中3と中1で、大学卒業したら離婚しようと思って我慢をしていました。   

或る日、暴力に対して子供が傷ついているという事が判って、子供たちがいろんな症状が出てきたので、子供たちに対して我慢してきたのに、返って子供たちを傷つけているという事が判り、それが逃げるきっかけになりました。    学校の先生に相談して、先生の協力もあり子供たちと一緒に支援スタッフの協力の元、シェルターに入りました。

ホッとしてゆっくり眠ることができました。   「あなたは悪くない 暴力は犯罪ですよ」と言われて、目からうろこで、私が悪いのではなくて、暴力を振るう側の問題なんだと初めてわかりました。   「あなたは悪くない」という言葉は力強い言葉でした。

1997年にシェルターができてその年に私が入りました。  生活保護とか今までやったことのないことばっかりで、心強い思いをしました。   アパートで暮らす事になりましたが、高額でしたがまずNTTと契約しました。  追跡が怖くて何かあったらすぐ警察に連絡するためにです。   警察には夫に住所を知らせないで欲しいという事は言ってあったが、警察が夫に連絡してしまったが、たまたま留守で私の実家に連絡があり、母から私に電話がありました。   吃驚して警察に駆け込んで事情を話したら、これは制度だから仕方ないといわれました。   北海道警察から所轄に連絡して事なきを得ましたが、彼がいたらどうなっていたんだろうかと思いました。  法律がないとこういうことになるわけです。

私と同じ人は沢山いるので、社会の問題という視点で考えないといけないと声を挙げました。   怖くてDV防止法ができる直前までは身を潜めていました。     夫の支配下にはないという気持ちになれたので、そこが大きかったと思います。

暴力によって閉じ込められていた自分の感性が自由になり、人生を楽しめられるようになりました。  

DV被害者の相談を受けていますが、能力の素晴らしい人がいっぱいいるんですが、暴力下にあると自分を卑下したり、気持ちがつぶれ身体が動かなってしまって、暴力から解放されればこの人どんなに輝くだろうという人が凄くたくさんいるんです。

DV防止法ができて、「やった」と思いました。  警察も行政も対応が素晴らしく違いました。   システムが全然違いました。

相談件数も増えてきました。  DVに気づいてきたんだろうと思います。

女性の人権保護団体、NPO法人・女のスペース・おんの代表理事を務めています。  当事者としての経験と、その経験に基づく現場支援と法律ができたという事を自分で見てきた経験から、制度の改革と現場支援の両輪でやっていきたいと感じました。

代表になって10年になりますが、被害者が逃げ隠れしなくてはいけないという、被害者に不利益なことをしなければいけない、それで命を守るという法律なので、欠けているのは加害者への対応であるという事は確かだと思います。  被害者が逃げ隠れするのではなくて加害者が処罰されて被害者に近づかないように加害者を規制することが大切だと思います。

加害者は加害者意識がないです。

あなたは暴力から逃れられれば、あなたらしく生きていける、才能も発揮出来る、自由になれるという事を言いたいです。  あなたを守る制度も法律もあるし、一緒に考えて行く支援者もいるから、という事を伝えたいです。

子供たちには対等な関係にあれば暴力は生まれないよという話をしています。  どんなことがあっても相談することが大事だという事は伝えたい。  暴力ではない解決方法を探すということが良い人間関係を作って行く道だという事も伝えています。

あなたは悪くない、機関がいろいろあるので、とにかくどこかに相談してくださいと言いたいです。





2020年12月9日水曜日

齋藤眞人(立花高等学校校長)      ・【人権インタビュー】不登校でもよかよか

齋藤眞人(立花高等学校校長)      ・【人権インタビュー】不登校でもよかよか~ありのままの君が認められる社会へ~

去年の不登校の小中学生、およそ18万人とこれまで最も多くなったことが文部科学省の調査でわかりました。   コロナウイルスの災害の中でそうした状況がさらに悪化するとも言われています。    そうした中で不登校の生徒に対する取り組みを20年以上に渡り続け、今では不登校の経験がある子供たちからの入学希望が殺到して定員を超えているという高校があります。   福岡市の立花高等学校です。   昭和32年創立の普通科の高校で定員は450人という事です。  実は昭和40年ごろには学校が荒廃して、いわゆるヤンキー高校と言われた時期もあったそうです。   今の校長斎藤眞人さんは16年前に立花高等学校に赴任して不登校の生徒がより生きやすい環境作りという事で積極的にその活動を続けています。 赴任当初は教育への価値観の違いに戸惑いを覚えたという斎藤眞人校長に伺いました。

定員の8割が不登校を経験している。  他の高校との違いは一言でいうと雰囲気、おおらかさがずば抜けていると思います。  抑圧感などは無縁の自由闊達な学校の雰囲気だと思います。   うちが目指しているのは違いを知る、一人一人は違うんだという事をここで体感して社会に出てほしいと思っています。

遅刻という概念、遅刻してもその生徒のベストの努力の結果かもしれない。

以前は公立の中学校の音楽の教員をしていました。  怒鳴り、命令形ばっかりでした。

不登校児に対しては、切り捨てるような考え方があったのかもしれません。  家に迎えに行って来てくれたら自分の成果みたいに考えていました。

再チャレンジしたいと思って立花高等学校に赴任しました。   

登校2日目、メイクしている子に対してはほかの先生は、この子にとってはメイクしないと外に出られないんだという事で視点が全然違っていて、そういったことがいろいろ積み重なって自分の価値観が一気に変わっていきました。

うちの学校は不登校を克服する学校ではなくて、不登校の子供たちが安心して不登校のままでいられる学校でありたいとさえ思います。

気付いていただきたいのは学校に行かなくても幸せになる道はあるし、就職がうまくいかなくてもそこで再チャレンジする寛容さがあればいいだけの話であって、学校に行っている子たちも就職している方々も歯を食いしばって頑張っておられるんだという事をもっと認め合っていいと思います。   不登校の子たちもがんばっていないわけではなくて、子供たちなりの葛藤の中で頑張っていて、ちゃんと学校に行けて、就職している子は普通ではなくて頑張った結果なんだという事が究極のメッセージだと思うんです。

生まれた瞬間に我々は人権をもって生まれてきているので、公共の福祉に反しない限り誰からも邪魔されるものであってはならない。

あなたはあなたなんだ、あなたが一番大事、あなたはあなたのまんまでいいんだよというメッセージがあるわけで、うちの子供たちはちゃんと感じているんじゃないんでしょうか。

不登校の生徒に関しては、ちゃんとあなたの存在を我々は思っていますよというのがまず第一歩だと思います。  〇とか×とかにものをわけて考えない、大事なのは彼らの意思だと思います。    自己有用感は大事だと思います。

出来ないことを嘆くのではなくて、出来ていることを認めてあげる、出来る手段を準備する。

学校外教室を20年近く公民館に教員が出向いて、そこまで来れる生徒にはそこで授業をしています。  (5時半から7時まで)

次のステップというようなものの考え方はないです。  美術館に行ったりミュージカルを見に行ったり数限りなく手段があります。

サポート教室は何らかの事情で、1年何組とかクラスに入れない子たちを別室に集めて、異なる学年が一つの空間で学べるような居場所を作りました。

授業をするための出来る手段を準備してあげる。(教室には入れなくても廊下で授業を受けられるならばそれも良しとするとか)

立花高校は全日制、単位制です。  3年での卒業にはこだわっていない、その子のペースで行う。  

その子にあった選択肢が社会側にもっと増えることが大事であって、もっと価値観が広がればいいと思います。

多様性、個性の大切さは社会も大分気付き始めています。

心根の凄く優しい生徒がいたが、中学生の頃優しいだけでは社会に出たら通用しないといわれたという事で、このことが心に刺さって、優しさが通用する社会に変わってゆく責務があるのではないかと思いました。

進学率、就職率をあわせると7割というところです。   卒業後挫折してしまった卒業生がNPOで何かを学んで羽ばたくという事も一つの手段です。  「ホットスペース」、ここは卒業生の居場所のために作った空間です。   地域とのかかわりもここで行っています。

卒業しても残りがまだうちとつながって、実現できるという空間って大事だと思います。

卒業生の保護者もカウンセリングの対象として、常にオープンにしています。  常にカウンセラーが常駐しています。  子供が悩んでいる家庭は母親、保護者も悩んでいるので一緒に寄り添ってゆくというのが凄くナチュラルな発想だと思います。

職場体験実習先として250社以上が今本校協力企業として名乗りを上げてくださっています。

不登校でもよかです。












2020年12月8日火曜日

三保浩一郎(日本ALS協会広島県支部) ・【人権インタビュー】"安楽死議論"の前に 多様な生き方を知ってほしい

三保浩一郎(日本ALS協会広島県支部) ・【人権インタビュー】"安楽死議論"の前に 多様な生き方を知ってほしい 

今年7月京都で難病のALSを患う女性から依頼を受けた医師二人が、女性を殺害した疑いで逮捕されるという事件がありました。   全身の筋力が徐々に劣えるALS(筋萎縮性側索硬化症)この病気を患った女性の苦しみが明らかになりました。   広島市に住む歯科医師の三保さんは9年前ALSと診断されました。   歯科医院で診療することはできなくなりましたが、三保さんは病気が進行するなかでも目の動きで文字を入力する視線入力のパソコンを駆使して仕事をし、趣味を楽しんでいます。   10年近く夫の介護にあたってきた妻の文子さんと浩一郎さんにALS患者が多様な生き方のできる社会を作るためにはどうしたらよいのか伺いました。

視線入力のパソコンで話を伺っています。

浩一郎:歴史、特に古代史が好きです。 古地図も好きです。  人工呼吸器を装着して自宅で暮らしています。  食事は胃ろうから摂取しています。

文子:液体の注入食を入れることをしています。 味覚はちゃんとあります。  介護は発症して3年ぐらいは一人で介護していましたが手探り状態で、今はヘルパーさんと一緒に在宅をやっています。  主人の声を一番聞ける人が介護しないと問題点が判らないと思います。

海水浴に行ったときに体が思うように動かないという風に主人言っていて、歳だからではないかなどという事で気にはしていませんでしたが、そのうち自転車でこけて上腕骨骨折をして、整形外科を受診して、どうもおかしいという事で神経内科を紹介されてALSと診断されました。

浩一郎:(自覚症状としては)足がつって、よく躓いていました。  自己診断でALSかもしれないと思っていたので、やっぱりか、これからどうしよう、でした。 怖さもありました。  真っ先に浮かんだのは仕事のこと診療所のことでした。   死ぬことや人工呼吸器のことは頭に浮かびませんでした。

文子:主人なりに色々調べてALSになったら最悪だと言っていたので、そうじゃなければいいなあと思いながら大変なことになる、色々変わってゆくんだろうなあという覚悟はできていました。

浩一郎:どうやって家族を養おうか、収入手段を確保しなければという事で頭がいっぱいになりました。

文子:人によって進行も色々です。 症状が出るのに1年間で一気に出る方もいれば20年かけてゆっくり進む人がいるので幅が広いと思います。  呼吸筋が動かなくなるので人工呼吸器を装着するか、しないで死にますかという選択を自分でしなくてはいけないという事になります。   7~8割が装着しないほうを選択すると聞いています。  一番は家族の負担を皆さん考えられていると思います。  24時間介護が必要になるという事が大変ですし、家族が負担をするようになるわけです。  自宅で一人の人ではヘルパーが対応するわけですが、体調が悪くて替わりのヘルパーがいないと全く一人になってしまうので、24時間介護の負担が大変だと思います。

浩一郎:途中で外すことができないのも一因だと思います。

文子:法律上人工呼吸器を付けたら亡くなるまで外せないので恐怖はぬぐえないですね。

浩一郎:妻の「人工呼吸器を付ければALSが原因で死ぬことはないんだ」という一言が大きかったです。

文子:それしかない、付けないという事は死ぬという事なので。

浩一郎:(人工呼吸器を付ける迷いは)勿論ありました。  同期の内科医から人工呼吸器を装着すると地獄のような苦しみだと忠告されたのも一因です。  (介護が24時間必要になって家族に負担をかけてしまうという事に対しては)勿論ありました。  想像ついていなかったというのが本音です。

文子:私もどれだけの介護が必要なのかわかっていなかったから、反対によかったのかもしれません。

浩一郎:(人工呼吸器を付けて)想像以上に快適な暮らしでしたね。

文子:人工呼吸器を付ける前のほうが大変でした。  呼吸が不安定で、日によって全然違うので、街中で急に苦しむという事が多々ありました。   外出も控えるようになりました。

浩一郎:あの時期が一番つらかったね。

文子:飲み込めないものがどんどん喉にたまってゆくので、苦しいんです、もっと早く人工呼吸器をつけていればもっと楽だったのにと思います。  体調が安定するんです。

浩一郎:(仕事、講演活動で負担を感じることは)いまは体調が安定しているので負担には感じませんね。  広島市歯科医師会では広報部に配属されており、会報誌の構成、編集、日常診療に役立つ広島弁講座の執筆、広報用動画の編集、ユーチューブチャンネルの管理、臨床に入用な情報収集を担当しています。  全力で取り組んでいます。

文子:6年前にALS協会の広島県支部の部長になりました。  主に患者交流会がメインですが、介護、モチベーション、不安や悩みなどを打ち明けられる場所という事でALSの患者さんの生活全般を支えるという活動をしています。  

浩一郎:ALSによって失ったものを10とすると、得たものは6ぐらいと感じます。  これからの生き方次第で6をもっと増やせるはずです。

文子:この10年一体何をしてきたのかなあと思った時に、介護しかなかったとは思いたくない。   介護して私も成長してきたし、知らない方とも会うことができましたし、講演にもついてゆくことができます。

浩一郎:(ALSの方と生活してゆくなかでどんなことが大事かという事に対しては)身体が動かないだけで中身は普通のおっさんですから、普通に接することが大切と思います。

文子:体が動かないだけでバリバリ働いていたころと何一つ変らないです。   

浩一郎:(京都の事件については)残念なことですが、女性の気持ちは理解できます。   女性を責めないで欲しいです。  私も人工呼吸器を装着する前には不安でしたから。

文子:わかるけど、それでも生きていてほしかったという方もみんなそれは思う事だと思うんですよね。  人生を変わってしょってあげることはできないので。 

浩一郎:閉じ込め症候群になることを想像すると怖いはずです。

文子:閉じ込め症候群は眼も動かせなくなり、進行すると何一つ動かせなくなる。    心臓、内臓、頭も動いていて、生き埋めにされてじっと過ごすような事になるわけです。

意志を伝える手段がなくなってしまう。

浩一郎:(閉じ込め症候群になる恐怖は)もちろんあります。   閉じ込め症候群になったら死にたいと思いながら日々生きています。

文子:脳波でハイ、イイエが判るようになるような事も研究されているみたいですが。

浩一郎:それはいろいろばれるので困る。(笑い)  安楽死を認めると人工呼吸器を装着する人が増えるのではないかな。

文子:病気の進行の中に閉じ込め症候群がどうしても最後に行きついてしまう場所なので、そうなったら楽にしてほしいと思うのを認めてもらえるならば、それまで一生懸命生きれると思うんです。  

浩一郎:そう思う。

文子:意思疎通できないままずーっと寝かされて生きて行くことがどれほどしんどいのかという事を考えると、本人が選択できればそれが一番いいと思うんですが。   眼も閉じて意志相通できなくなってしまったら、人工呼吸器を止めてくれと言われたら止めるかもしれない。  安楽死が認められていなければ私は殺人者になってしまう、そこが難しい。

浩一郎:もっともっと仕事をして社会貢献したいです。  僕は現在公的介護支援の下で暮らしていますが、就労すると公的介護支援が受けられなくなります。   僕は介護支援さえあれば就労して納税することも可能です。   判りやすく言うとTVを見て過ごす分には介護が受けられるが、仕事をすると介護が受けられなくなるのです。  これでは労働意欲がわきませんよね。

文子:講演などの最中はヘルパーさんを自費で雇っています。 プラスナイナス、ゼロになるわけ。

浩一郎:国民だから納税したい。

文子:経済活動とみなされるからヘルパーは付けないといわれたときに、経済活動して何がいけないのと思います。

浩一郎:(現行制度に対して問題をどう思うかという事に対しては)介護が必要なほどの障害者が働けるわけがないじゃん、という固定概念が邪魔をしているような感じがします。 社会に出て行って皆さんに周知してもらうのが大切と考えます。

(ALSが生きたいと思える社会にするために大切なことは) 仕事があること、社会の中で自分のポジションがあること、生き甲斐あることが大切と考えます。

文子:ALSに限らず、今元気で生きている方がいつなんどき障害を負うようになるか判らないので、障害を負ってしまっても社会復帰できて自分らしく生きれるんだという社会があれば幸せなんじゃないかと思います。  社会復帰出来て社会が受け入れてくれる、それが理想です。

浩一郎:(ALSの患者へのメッセージとしては)身体は病に侵されても心まで病に侵されることのない様にしてほしいです。

文子:周りが兎に角普通に接してあげることが大事だと思います。  普通の会話が大事だと思います。

















































2020年12月7日月曜日

マンス・トンプソン(写真家)      ・【人権インタビュー】"理由なき黒人差別を生きる"ということ

 マンス・トンプソン(写真家)      ・【人権インタビュー】"理由なき黒人差別を生きる"ということ

アメリカ ミネソタ州ミネアポリスで黒人男性のジョージ・フロイドさんが白人警察官の膝で首を押さえつけられ亡くなるという映像が世界に衝撃を与えました。   この事件をきっかけにこれまでの警察官による黒人への暴力的な対応にアメリカだけでなく世界中に抗議デモが広がりました。   この現状に遠く離れた日本にも心を痛める人がいます。   黒人のマンス・トンプソンさん(47歳)です。   マンスさんはアメリカで大学を卒業し就職した後、日本の文化に憧れて来日しました。  日本に住んで今年で21年になります。   今は写真家として仕事をしながら暮らしています。   生まれたときから差別され抑圧されながら生きるとはどういうことか、マンスさんの生い立ちから振り返ってもらいました。

生まれはミシガン州のランシング市です。   両親は大学院生だった、父は経済の博士を取っていて、母は栄養師を取りました。    生まれて間もなくバージニア州で二人とも大学の教授をしていました。    父はビジネスを始めてその後ずーっと母と会社を経営していました。   生活を豊かなほうでした。

幼少期はシアトルで過ごしていました。  周りは白人が多かったです。  黒人の生徒は姉と私だけでした。    差別的な経験はなかったです。  一回だけあり温厚な母が怒りましたが、私自身は何があったのという感じでした。  8歳の時にセントルイシスに引っ越し父は車両を作る会社を経営していて13年間住んでいました。   黒人もシアトルよりも多く、道を挟んで白人と黒人が別れて住んだり仕事をしたりしていました。    一般的な家の価値は黒人が住んでいるところは7万3000ドルぐらいで白人が多く住んでいるところは33万5000ドルぐらいでした。   大学を出ているのは1割に対して、白人の多く住んでいるところは7割ぐらいが大学を出ています。  住んでいるところでほとんど一生が決まってしまう。

少年だったので深くは考えなかったが、高校生の時にサッカーの試合があり、私は試合中に黒人を侮辱する言葉を浴びて、私はショックを受けました。  怒りのあまり5分ぐらい何もできませんでした。  初めて白人からはっきり差別を受けました。   

車を友達が運転して同乗していたら、警察に止められて武器を持っているかドラック、麻薬持っているのかとか、犯罪歴があるかなど聞かれて何もしてないと言ったら、僕たちは勝手に犯罪歴など作れるといわれ、本当にショックでした。

警察との接触した場合危険があるので、警察との接触を安全にできるような仕方を親から学びました。   動作とかポケットから免許証などを取り出すときに、ポケットから取り出していいかどうか、確認するとか、不審な行動と受け止められないようにする。

大学の時にも車を停めて話をしていた時に、パトカーがUターンして後ろに停まったことがあります。  車を出たときに銃を背中の後ろに隠していました。  ただ話をしているだけだと言って、学生証を見せました。   そうしたらこの道は車を停めてはいけないから、帰るように言われまいた。(対応の仕方によっては怖いと感じました。)

街に買い物に行くだけでも緊張します。  日本では安心します。

大学を出てスポーツ、仕事などで頑張って成功する人は少ないです。

子供のころから日本に住みたかった。  7歳の時に三船敏郎が出演した「将軍SHOGUN」という連載ドラマがあり、徳川家康の話のなかで、お城に忍び込む忍者に憧れました。  大学でもアジア研究が専門で日本の歴史、経済、文化など勉強しました。  

日本での暮らしでも残念ながら差別があります。   命にかかわるようなことはないが、警察に止められてIDを見せてと言われたり、今年だけで2,3回あります。  止められるのは日本に来ている白人よりも断然多いです。

航空会社の宣伝でも白人のイメージが強いです。  役者でも社長、弁護士など白人がほとんどで、現在でも白人が有利な社会になっている。

今年渋谷と代々木で人種差別反対の行進をしました。  3600人ぐらい参加していて日本人も1000人ぐらいいました。   

普段は映画関係、記者会見、音楽、ファッション、花火など幅広く撮っています。

人種差別のことよりも人と人のふれあい、人間性を撮ろうとするほうです。   

黒人に生まれただけで苦しんでいる人が大勢いるという事を知ることが大切と思います。

9・11では3000人ぐらいのいろんな人種、いろんな宗教の人たちが亡くなり怒りが消えないと思いますが、黒人は一日何人かが殺され、ずーっと毎日続いています。 9・11の何百倍、何千倍となっていると思います。  誰にでもできる事はいろいろ知ることだと思います。

黒人の学者、教育者、歴史、小説とか、それを自分から興味を持って触れ合おうとするといいと思います。 

どんな人間でも命は大切、差別するのではなく平等で考えてほしい。











 



2020年12月6日日曜日

前川陽子(歌手)            ・【時代を創った声】

 前川陽子(歌手)            ・【時代を創った声】

12歳の時にNHK人形劇ひょっこりひょうたん島』の主題歌を歌って、歌手としてデビューしました。   アニメ「キューティーハニー」や 「魔法使いサリー」などの主題歌や数多くのCMソングを歌ってきましたが、その後20年間に渡り活動を休止します。   2001年にジャズシンガーとして活動を再開しました。   活動を再開してから20年目に入っている前川さんに伺いました。

人形劇ひょっこりひょうたん島』は脚本:井上ひさしさんと山元護久さん 1964年から69年までNHKで放送されました。  前川さんがこの主題歌を歌いました。(12歳)

沢山オーディションをして、東映児童演劇研修所からは私を含めて20人ぐらいが受けに行きました。   宇野誠一郎さんが声を聞いた瞬間に決まっていたと言っていました。(つい最近聞きました。)   九州から東京へ出てきたのは小学校5年生の3学期で、そのあと母が勝手に東映児童演劇研修所の研修生募集へ応募しました。  ダンス、歌、芝居など全部やっていました。

ひょっこりひょうたん島』がスタートしてからはCMなんかが物凄くオファーが入ってきて、午前中は学校でそれからスタジオに入るとか、睡眠時間は4時間ぐらいでした。   明けがたでも録音がありました。   1歳8か月で歌は歌っていたと母は言っていました。  音楽は空気みたいなものでした。

その後、『魔法使いサリー』(1966年)、『リボンの騎士』(1967年)なども担当。    かっぱえびせんなどのCMソングを1000曲近く歌いました。

学校との両立は胸を張ってできていましたとは言えませんでした。  頭の中は音楽でいっぱいで食事をしている時にも何を食べたかとか頭の中にないような状態でした。

高校3年生の時から休業しました。  仕事では周りは全員男性でしたが、学校では女性であまりに周りの子と違うのに気付いて、ギャップが大きかったです。 その後普通の学生をしていました。

18歳の時にジャズシンガーのサラ・ヴォーンを生で聞いて、衝撃でした。(大学生)

そこから歌い手さんというものに意識し始めました。

その後「キューティーハニー」(1973年)が来るわけです。  渡辺岳夫先生の事務所に行って歌ったら決まりました。  渡辺岳夫先生が自分の癖をちゃんと取っといてねと言われて嬉しかったです。  好きな曲でした。 エンディングの「夜霧のハニー」もいい曲です。

渡辺岳夫先生がわざわざ私のために書かれた曲が『魔女っ子メグちゃん』でした。(1974年)

その後又休業、精神的に健全でありたかった部分があったのかもしれません。

2001年にジャズ歌手としてCDを出しました。   自分で歌いたいように歌いたいという制限なしにやりたかった。   父がジャズが好きで小さいころから聞いていました。

ジャズと日本舞踊を幼稚園からやっていて、長唄、小唄、端唄、清元などで踊っていたので、常時聞かされていました。

2011年制作アルバム 「ラブ・トランペッターズ」から

*「 The Good Life」  歌:前川陽子

これからは又ゼロに戻って、ジャズのCDとか、ジャズに限らず作ってみたいなあとは思っています。







2020年12月5日土曜日

加藤いつか(NPO法人 理事)      ・「あの日をわすれない『はるかのひまわり』」

加藤いつか(NPO法 阪神淡路大震災「1.17希望の灯り」理事)  ・「あの日をわすれない『はるかのひまわり』」 

絵本、「あの日をわすれない『はるかのひまわり』」は女の子が真ん丸の顔でほっぺを真っ赤にして笑っている顔と大きなヒマワリが描かれています。 女のこの名前は「はるか」、震災当時小学6年生で阪神淡路大震災の時のあの日亡くなりました。   この絵本では亡くなったはるかさんのお姉さんの震災後の苦しみや葛藤、心の変化や成長を実話をもとに描いています。

朗読を担当したのは神戸放送今日の北郷三穂子アナウンサーです。  今神戸だけでなく全国の被災地に広がり、「はるかのひまわり」と呼ばれるようになったこのひまわりの花に秘められたストーリーをお聞きいただきたいと思います。

あの日をわすれない『はるかのひまわり』を朗読(概略)

ある夏のこと、まだ瓦礫と埃の匂いがする頃、神戸の街の片隅に一輪の大きなひまわりが咲きました。  大空に向かって力いっぱい咲くひまわりに神戸の人達はある女の子の名前を付けえて呼ぶようになりました。 このひまわりは阪神淡路大震災で多くのものを失った神戸の人たちのどんなことがあっても生き抜く勇気と希望を与えてくれたのです。  「あの日をわすれない『はるかのひまわり』」

お姉ちゃん 留守番頼むでー。 ハイハイ気い付けていってらっしゃい。  1月16日のことです。  はるかの友達がもうすぐ中学受験をするので、はるかとおかあさんは京都の神社までお参りに行ったのです。 ・・・夜の10時過ぎに帰ってきました。

いつものようにはるかとお母さんは1階に、私とお父さんは2階に。  翌日の明け方、1月17日午前5時46分あの瞬間に神戸が壊れた。 ・・・足が動かない、箪笥が足の上に載っていて箪笥を何とかどけて2階の窓から外に這い出る。  なんもかもぐしゃぐしゃ。・・・何度呼んでも誰の声も聞こえません。・・・壊れた家からお父さんが助け出されたのは3時間後、おかあさんは5時間後でした。   ・・・はるかが見つかったのは一番最後地震から7時間が経っていました。  ・・・はるかがいない私の家族、私たちは近くの体育館に住むことになりました。   発砲スチロールの板で分けられた小さな四角い床が私たちの家族が住む場所です。 ・・・夜になると咳や赤ちゃんの泣き声も聞こえてきます、目を閉じてもなかなか眠れません。 長い夜が続きました。  2か月後私たちの家は体育館です。・・・高校受験は変わらずにやってきました。   大学のボランティアのお姉さんが渡してくれた包みは暖かくてほんのり海苔の匂いがするお弁当でした。   お弁当のお陰で試験はばっちりでした。  その年の夏のことです。  「ひまわりが咲いた」、お母さんがぽつりと言いました。  うどん屋のおっちゃんたちがはるかを助け出した場所に、はるかみたいに真ん丸な顔をした大きな大きなひまわりが咲いた。  「はるかの生まれ変わりや」、おっちゃんも周りの人も言いました。    ・・・その秋おっちゃんはひまわりの種を収穫しました。  そして次の年の春から種を蒔き始めたのです。  瓦礫が片づけられた後とか道の端っこに。   ・・・お父さんは前よりも話をしなくなり、声を掛けてもお母さんはいつも遠くを見ています。  ・・・もう地震もはるかの思い出もひまわりも嫌、なんもかも箱に入れて海の底に沈めてしまいたい。

・・・あれから何年かが経ちました。  神戸で大きなイベントが開かれることになりました。   ・・・今では家やビルが建て変えられて街はどんどん新しく生まれ変わってゆきます。   心が元気になるにはもっともっと時間がかかります。  コトリ、私の中で何か心が動いたのです。  あのお弁当のお姉さんが突然心に浮かびました。  私でもイベントで何かお手伝いできるやろか。    ・・・「神戸2001 人 街 未来」これが地震から6年目に神戸で開かれたイベントです。  ・・・きっときっとはるかちゃんも見てるで、この人達の中にもあの地震で家をなくしたり、家族を亡くした人が何人もいるんや。  コトリ、又私の中で又何かが動いたのです。  なにも話してもいいんや、はるかのことを話してもいいんや。 私の心の箱の蓋がゆっくり開いたのです。

9か月のイベントが終わっても、おっちゃんやおばちゃんたちはもっといろんな活動を始めました、もちろん私も一緒です。  ・・・震災モニュメント交流ウオークにはたくさんの人が参加します。   うどん屋のおっちゃんたちが何年も続けてきたヒマワリの種まきも私たちが引き継ぐことになりました。   

・・・家族など亡くしたりした、りなちゃんもゆうちゃんもみんなここに来て話がしたいのです。

次のウオークの打ち合わせの時のことです。  「おまえも震災の語り部として震災のことをみんなの前で話をしてみないか」とリーダーが言いました。  何を話したらいいんだろう・・・「みんなで種を蒔いたひまわりのことさ」と言われた。   力が湧いてきた、私もう大丈夫や、地震のこと、命のこと、そしてはるかのこと話せそうな気がする。

生きている私が今できる事は、はるかの名がついたひまわりのことをみんなに知ってもらう事です。  地震でなくした大切なもの、地震の後に知った優しい人の気持ちや仲間のことをこれからも ずーっと伝えてゆくことです。  「お姉ちゃんありがとう」、拍手のなかではるかの声が聞こえた。

1月17日今年もあの日がやってきます。 前の日の夜から多くの人が震災の記念碑に集まって静かに祈りを捧げます。  亡くなった家族のために、大好きな人のために、神戸のために。  灯りに照らされたひまわりの絵は全国から届いたもの。  「はるかのひまわり」は、あの震災にかかわる全ての人の心の花になったのです。

・・・この間はお母さんがこんなことをいうたんねん、「これからはいつか(姉の私名前)のためにはるかの分まで生きなあかんね」、って。  今度の春はお父さんとお母さんと三人でひまわりの種まきできそうや。 

「はるかのひまわり」はこの25年で、東北、九州、海外の地震の被災地でも咲いて希望の象徴になっています。   去年の歌会始では上皇様がこのひまわりのことを歌にされました。

「贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」

出来るなら妹と変わりたかった、という思いがありました。  親の悲しんでいる顔を見たくなかった。  親は泣いて暮らしていてこっちにも向いて欲しいという事は言えなかった。  なんであんなにしんどい思いをしていたのかなと思いますが、ふっと振り返ると必ず見てくれていた人がいたんです、「いつか(私の名前)大丈夫?」とか何気ない一言があって、振り返ってみると絶対どこかにいます。

いつかさんは結婚して、菊池いつかさんになって、2歳の女の子のママでもあります。  いつかさんは今度は娘さんとひまわりを育てたいと話していました。