2021年11月30日火曜日

飯田絵美(スポーツライター)      ・【わが心の人】野村克也

 飯田絵美(スポーツライター)      ・【わが心の人】野村克也

野村さんは1935年(昭和10年)生まれ、プロ野球選手として、コーチ、監督として、野球評論家、解説者としても活躍しました。  2020年2月11日亡くなりました。(84歳) お話はジャーナリストの飯田絵美さんです。   飯田さんは新聞記者として野村さんを取材したのがきっかけで親しくなり、野村さんが亡くなるまで23年余り親交を深めてきました。

スポーツが好きで、高校生の頃スポーツ記者になりたいと思って、新聞記者になりました。  野村さんがヤクルトの監督の時に出会って、以来23年間以上交流を続けてきました。    現在、キャリア―カウンセラーをしています。   このきっかけになったのも野村さんの御陰だと思っています。   2020年新聞社を退職、東京オリンピック、パラリンピックでベニューメディアマネージャーという仕事を経験しました。   

ヤクルトの番記者になりました。  年間を通じてずーっと担当チームと一緒に行動し取材をする役割です。    最初の1年間は挨拶をしても監督から口をきいてもらえませんでした。    女性は一人だけだったし、どうせ野球の深い話はできないだろうと息子にぼやいていたそうです。   1997年ヤクルトがリーグ優勝する直前、ベンチ前に報道陣が野村監督の前に押し寄せていました。  一番遠くにひっそりとしていましたが、目ざとく見つけられてしまいました。   「お前なんでそこに座ってるんや。 お前みたいなぶすがよう俺の前に座るなんていい度胸や  立ち去れ」と言われたことがあります。  おどけた振りでゆっくり立ち去ろうと、それがせめてものプライドというか、周りに同情されているのをひしひしと感じながら帰るのがつらかったです。  家に帰って泣きました。   野村さんは人を試す言葉を言ったり、あえてその人を無視したりすると聞きました。   それに対してどういう対応をとるのか、お前も試されたのではないかと言われましたが、当時27歳で物凄く傷つきました。   

番記者2年目、アメリカのユマでヤクルトの春のキャンプをやっていました。   私は連載記事を書き始めました。   たまたま野村監督と夜9時ごろに二人だけになる機会がありました。  「こんばんわ」と言って走って立ち去ろうとしたら、監督が連載記事について話しかけてきました。   どうして私の書いた記事だとわかったのかと思ったら、「あれを読むとな、あったかい気持ちになる。  女の持つ母性や。 あれはお前にしか書けん。」と言って自分の母親の話を涙ながらに15分以上話をしてくださいました。     それをきっかけに私を無視することがなくなりました。    

タイトルが遺言 野村克也が最期の1年に語ったこと』という本を野村監督の誕生日6月29日に出版しました。   監督と一緒に本を出そうと約束していました。   テーマは「人生の後半生をどう生きるか。」でした。    「誰もがプロ野球界で成功するわけでも無し、引退してから本当の人生が始まるんだぞ。」という事を聞いてから、野球選手だけではなく、ビジネスマン、主婦でもつぎにどこにむかうのか、どう生きて行こうかと立ち止まる瞬間は誰にでもあると思いました。  励ましを与えられるような、一歩踏み出せられるような勇気が得られるような本を出そうと二人で決めていました。   そんな時に野村さんが亡くなってしまって、物凄くショックでした。    30代で父を亡くした私にとって親しみのある存在でした。     私自身も会社を辞めてコロナ禍でもあるし、自宅に引きこもって何度も泣いていました。   教え子である元選手とか、周りの記者などから野村さんが最後に何を考えていたのか、知りたい、それを読みたい、野村家の方からも父の言葉を残してほしいとの話がありましたが、躊躇していました。   番記者仲間から「野村さんとの約束守れよ」と言われて背中を押されました。    野村さんの言葉に「使命感とは命を使うことだ。」というものがありますが、この言葉を自分に言い聞かせて、1年かけて書き上げました。   

内容は沙知代さんの死、から始まります。   2017年12月に沙知代さんが突然亡くなった時を境に本当に変わりました。  自分の死も覚悟したと思います。  すっかり元気がなくなってしまって、日常生活でも車椅子になってしまうぐらい足腰も弱くなってしまいました。   沙知代さんは野村さんにとって生活の中心でした。   沙知代さんは世間を騒がす出来事がいろいろあり、息子さんたちからは離婚してもいいよと言われたそうです。   一瞬考えたそうですが、「今別れたら彼女はどうやって生きてゆくのか、こんな時だからお母さんを支えよう」と言ったそうです。    野球以外の分野で様々な人の話を聞いたり、本を読むようになったきっかけは沙知代さんのお陰なんです。  「沙知代がいなかったら名監督と言われるようにはならなかった」と感謝していました。  沙知代さんは女性が監督に近づくことは極端に嫌がっていたので、私も大変でした。  

ファッションについては、明るくて華やかな色が好きでした。    「60歳を過ぎて地味な服を着ていたら、地味な仕事しかできない。 華やかは自信の表れ、自分自身を大切に扱っている証」という持論を持っていました。  アクセサリー、指輪も素敵なものを付けています。   私が30歳になった時に、指輪とピアスを監督から頂きました。   

私にとって監督は人情があって温かくて、厳しくて、茶目っ気がある、年齢で限界を作らない、人に対して結果を急がない、そう言う人でした。  テスト生として入団して大変な野球人生を送ってきたので、経験に裏打ちされた言葉、たくさんの人から聞いた言葉、たくさんの本からの知識から、野村語録、名言が生まれたんだと思います。  スポーツ界で野村さんほど著書が多い人はいないと思います。   幅広い年齢層の方、状況によって野村さんの言葉は何が響くか変わって来るのかもしれません。    

①年齢で限界を作らない。   ②適齢適所。(人は年齢に応じて輝ける場所が見つけられると感銘受けました。 年齢を重ねるにつれ野村さんの意味、真意、深さが判るようになります。)  ③いい仕事は必ず誰かが見ていてくれる。      高津監督(ヤクルト)、矢野監督(阪神)、新庄監督(来季日本ハム)、稲葉監督(東京オリンピック)、皆さんみんな野村さんの教え子なんですね。  彼らは現役時代に野球理論だけではなく、野村さんの人生論をたっぷり聞いて育ったんです。  

野村さんにとって長嶋さん、王さんは永遠のライバルでした。   地味な月見草を自分に例える。   対極のヒマワリは沙知代さんが即答したそうです。  長嶋さん、王さんは太陽のもとで咲くヒマワリ、俺は人の見ていないところでひっそりと咲く月見草。    84歳で亡くなる10日前に息子の克則さんに「 東京オリンピックの監督 わしではだめなのか、なんでわしに要請せんのやろう。」といったそうです。   「日本は年齢に縛られ過ぎなんや。 どっかの球団から監督の声かからないかなあ。」とぼやいていたそうです。グラウンドに行って仕事がしたいと、高校野球の監督もしてみたいと言っていました。   私から見て野村さんのかっこよさは、泥臭く自分を必要としている人を必死で探して、自分がやりたい好きなことを野球のために最後まで泥臭く生きたところです。   

野村さんの母親ふみさんは看護師で、夫を戦争で亡くして女手一つでいろんな仕事をして二人の息子を育て上げました。  人のために役に立つこと、それが母親の背中を見て学んだ答えだったと思います。  貧乏だったので、母親を楽にさせたい、腹いっぱい食べさせてあげたいという思いが、名もない高校生がプロ野球に向かわせたという事でした。  母には何度感謝しても感謝しきれないと私に言っていました。  どう生きるかという人生のテーマに常にお母さんの存在があったんだと思います。  託された野村さんの言葉を活字とかメディアで伝えていきたいと思っています。







 




     

2021年11月28日日曜日

舘ひろし(俳優)            ・古希にして、新たな出発

 舘ひろし(俳優)            ・古希にして、新たな出発

1950年(昭和25年)愛知県生まれ、1976年に「暴力教室」で俳優デビュー、その後テレビドラマ「西部警察」の刑事役で人気となります。   「危ない刑事シリーズ」など多くの刑事役を演じる一方で、時代劇やコミカルな役にも挑戦し、幅広い役を演じる日本を代表する俳優として活躍しています。    今年1月所属していた石原プロモーションが解散、4月に舘プロを立ち上げました。   NHKのドラマでも新宿鮫シリーズの鮫島警部、2006年の大河ドラマ「功名が辻」では織田信長などを演じて来ましたが、今夜午後10時からBSプレミアムBS4Kで放送するプレミアムドラマ生きて、ふたたび 保護司・深谷善輔で主演をします。  

食べ物では生ものは駄目で、コノワタ、イカの塩辛は全くダメです。   父が医者だったので、好きなものを食べればいい、嫌いなものは無理して食べるなと言っていました。   4月に舘プロを立ち上げました。   若い俳優も何人か引き受ける事になりました。   東映時代には俳優は俳優という事で食事など食べていましたが、石原プロに入ったら、裕次郎さんからスタッフまで同じ飯を食うというと言う事が素晴らしいと思いました。    「西部警察」の番組を撮っている途中で、小林専務から「うちに来ないか」と言われて、渡哲也さんに相談したら「この話は俺が預かった」と言って、石原裕次郎さん、渡哲也さんは小林専務が直接マネージメントをしていて、それ以外は芸能部が管理していたが、渡さんが交渉して小林専務の管理下にしていただきました。   最初に渡さんに会った時に私が行ったらもう来ていて、立ち上がって握手をしてくれて、その時の感動と、その後「西部警察」で半年渡さんに接して、スタッフに対する思いやり、俳優に対する言葉使いとか、そういうものがある人でした。    それで渡さんにどんどん心酔していきました。    

「パパとムスメの7日間」  仲が芳しくなかった父子が、ある事故が原因で父と娘の人格が入れ替わり、二人がこれまでになく報告・連絡・相談しながら互いの年代層の独特の社会の中で生活していくさまを描いたハートフルコメディ。    仕事のオファーを頂いた時には石原プロとしてはやめた方がいいと、リスキーな仕事でした。    当時オヤジは娘側から追いやられるような時代で、このドラマをやる事によって、親父は本当に娘のことを愛して考えているんだという事が伝わればいいかなと思いました。    高校生のマーケットは僕にとっては魅力的だと思いました。  この二つの理由でやるべきだと思いました。反響が凄かったです。   あの作品を勇気をもってやったおかげで今の僕があるかなあと思います。   

プレミアムドラマ生きて、ふたたび 保護司・深谷善輔で主演をします。   保護司役ですが、保護司という事すら知りませんでした。   高校の国語教師から保護司に転身した男性が、保護司として仮出所中の人々との交流を深めることによって自分自身の人生や全人格をかけた闘いに挑む姿を描く。   保護司は元犯罪者に寄り添う立場ですが、そこには必ず被害者がいるわけで、サポートするだけでは被害者はどういう思いで見ているのか、被害者のこともどこかで感じながらやらなければいけない、そういうジレンマがありました。    小山結子(浅丘ルリ子)に振り回される深谷善輔が僕はやっていて気持ちがよかったです。    藤井監督はやっていて楽しい監督です。   

2018年上演「終わった人」  仕事一筋で定年を迎えた東大卒のエリート銀行マンの定年後の悲哀を描く。    これも勇気がいりましたが、やってよかったと思います。 モントリオールの国際映画祭で主演男優賞を貰いました。   

舘プロを立ち上げて、小さくてもいいからともしびを消さないで映画を作っていけたらなあと思います。   小さな映画でもエンターテイメント性のある映画はあると思います。  いろんなものに挑戦する勇気だけは持ちたいと思います。









2021年11月27日土曜日

竹下景子(俳優)            ・宮城の心を語りたい

竹下景子(俳優)            ・宮城の心を語りたい 

おかえりモネは、2021年度前期放送のNHK連続テレビ小説」第104作として、5月17日から10月29日まで放送されたテレビドラマ。  竹下さんが演じたモネの祖母永浦雅代はドラマの中では当初から亡くなっています。   震災で亡くなったのではなくその後病気で亡くなっています。   そして海の中の牡蠣に生まれ変わって、モネたちを見守る語りを担当します。   竹下さんにおかえりモネ』に込められた思いや、震災10年を過ぎた宮城県とのかかわりについて伺いました。

私が1次ロケに参加したのが9月の終盤のころで、2回目に気仙沼にいって撮影したのが10月でした。  あっという間の気がしますが。   連続テレビ小説に参加したのは5回目になります。   震災後10年の節目の年にこのおかえりモネ』が制作されるというのは意義深いことだと思います。    私自身がいろんなことを教わったなあ、気づかさせてもらったなあと思います。    おかえりモネ』の大きなテーマが「循環」でした。  水を通して海と山と空は一つにつながっているという事がわかります。  命のめぐりという事が一つありました。  もう一つは震災という大変大きな辛い出来事がありましたが、それを経験することで痛みを持っている人たち、当事者でない人たちは簡単に判ったと言えない、そこを踏まえたうえでそこをどうやって人と人が繋がって行けばいいのか、という事を模索しながら進んでゆくドラマでもありました。   自然の中で物を作ってゆく大変さも知りました。   ナレーターとして参加することはドラマを俯瞰するように見るというのが 普通なんだと思いますが、役を通して語りをやっているので、気仙沼の言葉の優しさとか、柔らかい感じをアクセントを交えて、隣の人に語りかけるようなつもりで読ませていただいています。    

ハラハラすることが前半には多かったですね。   東京に出てきたときの初々しい感じ、気象予報士として気が付いたら番組に参加していたとか、思い出すといろいろありいます。亡くなった方が生きているという感じがするのって、凄く救いになるんじゃないかなと思います。   及川新次さんが自宅や建造したばかりの自身の漁船を流され、妻の美波も失う。    「自分は絶対立ち直らない。 立ち直ってたまるか。」というセリフがありますが、もしかしたら十字架になっているかもわからないけれども、その負担を背負って一生自分は生きて行くんだという、その覚悟ですよね。   こういう方も実際にいらっしゃるだろうなあと私は思いました。   そういう人達の周りに放っておかない、一人にさせない人たちがいて一緒に生きてゆく、その姿はとても美しいというか、胸を打たれました。   

「生活ホットモーニング」の番組の旅のコーナーの中で、初めて訪れたのが気仙沼であり、気仙沼大島でした。     幻想的な海霧がのぼっていて、気仙沼大島に渡って気仙沼の暮らしぶりとか漁に出てゆく男たちを見送る時の話、帰ってきた時のもてなしなど、島の風土暮らしをちょっとだけ体験しましたので、それがおかえりモネ』につながったんですね。    話を伺った熊谷鈴子さんはもう90歳を越えていて、80歳のロケの時にすでに島の名物おばあちゃんでした。   兎に角ホスピタリティーの塊のような方で鈴子さんがいるといつの間にか人が集まってくるような雰囲気があり、気仙沼大島が大好きになりました。   東日本大震災の時に手紙を出しましたが返事がなくて、別の番組で気仙沼を訪れる前日に鈴子さんから返事が来ました。   プロデューサーに経緯を話してどうしても会いたいと話をしたら、そのことも含めて取材をしましょうという事になりました。   仮設住宅でお会いすることが出来、二人で抱き合って泣きました。    そういったいろいろなことを思い出すようにして永浦雅代さん(語り)の言葉にして読んでました。  島は一つの大きな家族のような感じがして、人と人とのつながりが濃いところです。  気仙沼はおしゃれでセンスのいい街でもあります。  海は外へ開かれて行く場所なんですね。   

阪神淡路大震災の時に私の友人が被災して、震災の4年後の1999年から私も参加させてもらって、「朗読と音楽の集い」で毎年神戸に通っていました。   2011年に東日本大震災が起きましたので、2012年の春に東北大学災害科学国際研究所が主催して、体験談を新たに朗読用にリライトしたものを毎年読ませていただいています。   自然災害、それがあまりにも大きな出来事なので、個々のお皆さんの思いがそれぞれなので、いつも読ませていただくたびに、この事実の重さに読んでいるだけでも気持ちが押しつぶされそうになることはたびたびあります。    言葉でつながるという事は人でしかできないというか、人を救うのはやはり人なんだなあという事もこの朗読を通じて私が感じたことの一つです。    経験した苦しみ、悲しみなどは、何十年経っても決して消えないことだと思います。   

いろんな機会を見つけて公私を問わず足を運びたいなあと思います。   立場が違うという事で終わりにしないで、でも一緒に生きて行こうというそういう人とのかかわり方、寄り添い方そういったことを考えさせられるドラマだったし、一生懸命生きようとしているモネをはじめに若い人たちの生き様が本当にすがすがしくて、こういった人は絶対いると思わせてもらいました。    







2021年11月26日金曜日

上野眞奈美(プロスキーヤー)       ・【ママ☆深夜便ことばの贈りもの】アスリートであり、親である

上野眞奈美(プロスキーヤー)       ・【ママ☆深夜便ことばの贈りもの】アスリートであり、親である 

1984年神奈川県横浜市生まれ、37歳。  子供が3人。   2歳でスキーと出会った上野さんは中学、高校、大学とスキー競技に取り組み、プロスキーヤーとしてワールドカップ、世界選手権など世界を転戦、一度競技を引退しまいたが、競技に復帰してスキー競技初のママアスリートとして2014年ソチオリンピックに出場しました。   その後ママアスリートのネットワークに携わり2020年に一般社団法人「MAN」を設立し、代表理事に就任。   妊娠、出産、育児といった人生のライフイベントと競技生活の両立に悩むアスリートたちを繋ぎサポートしています。  上野さんに子供を持つアスリートとして社会に伝えたい思いなどについて伺いました。

野沢温泉村はまだ里に雪は降りていません。  会社を立ち上げいまはアウトドアアクテュビティー主に自転車を提案、ヨガとなどのインストラクターもしています。  1年を通じてスポーツを提案できるような授業を心掛けてやっています。    ママアスリートが東京オリンピックで活躍したことでメディアに紹介されたことが増えて、社会的認知度が上がったという風に思いました。   「MAN」という活動は女子支援プロジェクトの一環としてママアスリートネットワークという活動から始まっています。  M(ママ→ヒューマンのMへ)A(アスリート)N(ネットワーク)と頭文字をとっています。    女性だけとはこだわりません。   新しい種目には注目してみて行きたいと思っています。   

元々はフリースタイルの競技はやっていませんでしたが、大学を卒業してからフリースタイルスキーハーフパイプという競技を始めました。   競技を知ってもらうための一番の発信力はオリンピックなので、そのうちオリンピック種目になるだろうという事でオリンピックに出たいという気持ちがありました。  2009年にオリンピック種目にはならないということが判りました。   結婚もしたのでアスリートは引退して家庭と、夫もスキーをしていたので会社運営をしていこうという事になりました。  バンクーバーオリンピックが終わった後に長女が生まれて、店も始まりました。    ソチオリンピックではフリースタイルスキーハーフパイプが種目になるという可能性が出てきて、主人が「どうするうの」と言って来たので、どうしようかと思ったのがきっかけになりました。    周りの人から子供がいたから夢をあきらめた、という人がいるかもしれないと思った時に、それが怖くて、自分はやるしかないと思いました。    

出産で元に体を戻すという事にはできないと思い、新しく自分を作ろうと考えました。  つらさも有りましたが、家族の存在もありあきらめない自分を作り出してくれました。   ONとOFFをしっかり取るという事で自分のメンタリティーの部分は保っていたかと思います。   家事、育児は家族、周りにささえてもらいながら両立させてもらってきました。   夫の存在は主人という事と、経営のパートナーでもあり、コーチであり、弱音は吐けませんでしたので、孤独を感じていました。     12競技を展開しています。 志高く前向きにチャレンジする方たちなので、自分たちで解決方法を見出しながらやっています。  

私の選手時代と今とでは悩みが変わってきた部分と変わらない部分とがあります。  変わって来る部分に対しては各競技団体がどれだけアスリートの可能性に対して、耳を傾けて改善していこうかという思いを持っている協会はどんどん変わる、イコール 選手の立ち振る舞い方、選択の作り方みたいなものは変わって行っているような気がします。    ママアスリートは特別なことをやっているように思われるが、やってい居る人たちは特別とは思ってやっているわけではないです。   自分がやりたい環境はスポーツだけに限らない、芸術、一般の事務であっても同様だと思います。    

今一番下が2歳の子がいて子供は3人ですが、今まだ両立は出来てないですね。  上が中学に、次が年長さんになるわけですが、手のかかり方がそれなりに違います。  どうしても時間の制限があります。   ずいぶん寂しい思いをさせた時期があったと自分では思っていますが、うちの子は全然覚えていないんです。   遠征に連れて行ったりしましたが、自分が楽しかったことは覚えています。   今寂しい思いをさせていると葛藤しているお母さんがいるかもしれませんが、大丈夫です。  頑張る母親の背中を見ていますので、しっかり背中を見せて、次の時代には背中を押してあげる母親にともになっていたいです。  人を頼るのが当たり前で一人でなんてできないので。



2021年11月25日木曜日

林由未(人形作家)            ・【私のアート交遊録】私のドキドキの作り方

林由未(人形作家)            ・【私のアート交遊録】私のドキドキの作り方

林さんと人形との出会いは幼いころ祖父が作ってくれた手作りの人形です。   木くずや割りばしなどが人形に変わってゆく過程はまるで 魔法にかかっているようでとても感動したことを覚えていると言います。   大学時代から人形制作を始め、人形劇の本場チェコ芸術アカデミー人形劇学部舞台美術科学院を首席で終了、舞台人形美術科造形作家としてチェコや日本にとどまらず世界の劇場にその活躍の場を広げています。   多様な国籍の人々との共同プロジェクトでも活躍する林さんに人形劇やアートに掛ける思いについて伺います。

チェコもコロナ禍で一時期観光地のプラハなどでも閑散としていました。 感染率、死亡率も一時世界で一番高い時期がありましたが、最近は急激に減ってきて、今の日本と同じような現象になっています。   私は引きこもってする仕事なので普段と変わらないような生活状況でした。   今回来日したのは3年目になる大阪の阪急梅田本店で日本一大きいというクリスマスウインドウが7面(3×4mぐらい)ありますが、人形で表現してみようという事でこの3年間はいつもクリスマスのことを考えているような感じです。  

 私の人形はその時その場所で素材を合わせてゆく感じで、人形劇だったら、木彫りだと重たいから張り子にしようとか、スポンジにしようとか、何をどう表現したいかを先にして次に素材が来るといったところです。    チェコは人形劇大国で、私の恩師が人形劇に革命を起こしたような天才の人で、彼の元で勉強したいという思いがありチェコに行きました。 ナチスの占領下の時に人形劇の方は旅芸人が多かったので、田舎に行くとドイツ語を話さなくても大丈夫でチェコ語での上演を許されていた。  チェコ語が守られて、ナチスの占領が解けて社会主義国になって行くと思想の制限とかがあり、人形劇で代弁させるというような話になって行く。  人形劇は子供向けであると言うことで、自分たちの思いを押し込めて、大人にとって比喩してみるというようなことから、どんどん発展していきました。  各都市に凄い人形劇場があって切磋琢磨されて行きました。   国立の人形劇を学べる大学が世界で最初にできました。  少人数制で教授と1:1とか1:2で厳しい学校です。   

とにかくやってみろ、行ってみろというような感じで育てられてきました。   チェコのプロジェクトに呼んでもらえるようなポジションになれたのがラッキーだったと思います。 自分ではチェコ語が思うように話せなかったので引いていたが、フランスの学生を見てこれではいけないと思って、伝える思いが弱いと感じて伝えるようにして行きました。    いい意味で性格が変わっていきました。   

日劇ミュジックホールの支配人を祖父がしていました。   結構器用で自分で操り人形とか、仮面、獅子舞い、とかから発展して私の遊ぶ人形遊びの家とか、家具とか、どんどんつくて行ってくれました。   割りばしに粘土で木くずを固めてゆくことで段々顔になって行く、そのプロセスを見た時に凄く素敵だなあと思いました。  小学校3,4年ぐらい位から作りたくてやらせてもらいました。   日本でやって行きたいなあという思いがありますが、劇団に所属しているわけではないので、ディスプレーの仕事、絵本とかの仕事で、人形劇に興味を持ってもらえるようなきっかけになればいいかなと思っています。      

日本の人形劇は特殊な形だなあと思います。  人形劇の世界が人形だけで綺麗にまとまっている。   チェコは人形も人も出てきていろんなことが起きる。  文楽に代表されるように一体化してしまっていて、文楽、人形浄瑠璃のような動きのできるものはなく、日本が誇る形だと思います。   ヨーロッパではそこまで動きにポイントは置かないで、話、ドラマティックなところ、演出とかが重い。  演目ごとに考えるので伝統が残りづらい作り方をします。  新しいことをすぐに取り入れることが多いです。

見る側へのコミュニケーション能力が大事だと思っています。  相手がドキッとするような好奇心を促すための何かが絶対必要だと思います。   相手をどこまで深く見れるかという事は有ります。  人形劇を作ってゆくのは人への興味だと思います。   

子供たちに取って人形劇、絵本などが、将来への種になってもらえたらいいなあと思っています。   ものから命を感じることは素敵だなと思います。   

キングダム」良い武将が沢山出てくるので、お薦めの一点でもあります。  

 








 

2021年11月24日水曜日

志穂美悦子(花活動家)          ・【心に花を咲かせて】花も演技も全身でぶつかる

志穂美悦子(花活動家)       ・【心に花を咲かせて】花も演技も全身でぶつかる 

しばらく表舞台から姿を消していた志穂美さん、最近は花の世界で活躍しています。   何故日本女性初のアクションスターになったのか、又結婚できっぱり女優を辞めた理由、花で活動を始めたのはなぜなのかなど、伺いました。

結婚して女優を辞めて35年経ちました。  体形はあまり変わっていないです。 家にジムがあるので、そんな環境ではあります。   女優を辞めるつもりはなかったが、家庭を持つと半端ではなかったし、子供も授かって、仕事の声を掛けてもらったこともありましたが、差し置いて女優をやるというような感じではなかった。   自分でもやりたいと思っていた寅さんのマドンナ役が最後でした。   もともと運動するのが好きで、女優になりたくて、女性初のアクション女優となりました。   妙に出来るという自信がありました。  25,6歳になると肉体的にも大変だし、もう少しほかのものをやって見たいというような欲も出てきました。   昔は良かったとは思わないようにしています、今がいいと思っています。  哀しい、苦しいという事はインプットされますが、幸せだなと思う瞬間は刻み付けておかないと忘れて行きます。  そういったことを寝る前に反芻することが大事だと思います。  

人前で花を生けさせてもらうようになったのは、7年前です。  お花を初めて作ってみたいと思ったのは2010年です。   2010年には暇な時間が出来て、或る人からお花を作ってみるサークルに行きませんかと,勧めてくれた方がいて、行って作ってみるとうまくできない。   吸水スポンジにさすだけですが、それがアートになって行くんです。    面白くて通うようになり自宅のテーブルに飾るようになりました。   自分で買ってきて創作をするようになりほぼ毎日やっていました。   写真に撮って残していきました。   2011年に東日本大震災があり、夫と共に支援活動をしていましたが、花の写真が大分集まっていたので、一冊の本にできないかなと思って、その売り上げを寄付したいと思い作品集を作り寄付しました。(1000点出来ていたのでそれから選んだ。)   その本を薬師寺の住職さんたちが目にしてくださって、奈良の東院堂を飾ってみませんかという話が来ました。  被災地に花を飾ったというようなことも書いてあったので、会って話をしているうちに内容がどんどん膨らんでいって、私にはそんな技術も、スキルも、精神的なものもないのでと伝えましたが、「でも、これって仏の縁なんですよ。」と言われて涙が出て、それこそ清水の舞台から飛び降りる気持ちになりました。 

まず薬師寺のことについて歴史のことから全部勉強して自分にできる事からやらせていただこうと思いました。  話があったのは2013年8月で、何回か通ってイメージを固めて行って、東院堂を見させてもらって2014年3月に花会式という式典の時に飾らせてもらいました。     四天王が聖観世音菩薩を囲っていて、四天王が囲っているところに青(青龍)、白(白虎)、赤(朱雀)、黒(玄武)とエリアごとにわけて行こうと思いました。  飾り付ける時間が1日半しかないので、東京でまず作りました。  ここで作り方が大きく変わりました。(幼稚園児が突然東大に行くような)  形のいい流木をいくつも使いました。  根っこの形が物凄く素晴らしい。  竹も組んでもらったり、10人ぐらい手伝ってもらって行いました。  花が発散するエネルギーがあると思います。   水を注いだり予備の花の世話があり、付きっ切りでした。  準備から始めて11日間、いい花行をさせてもらったと思います。   4600本ぐらい生けました。  最後の日に夜中の12時に撤収が完了して、お花を生けましたというお経が行われました。   翌朝お礼に行って、静かで何もなく元に戻ったお堂に入った時に涙がボロボロ出てきて感動がよみがえりました。   これからちゃんとこの道をやって行きなさい、と言われたような気がしました。

その献花のことでテレビの取材があったり、取り上げられるようになって、いろんな話を頂くようになりました。  夫(長渕剛)からは周りに完全を求めるところがあり、食事、家庭をきちんとやってほしいとは最初一緒になった時に言われました。  夫の母親が池坊の師範でもありお花が出来たのは縁なのかなあと思ったりします。  夫は墨絵をやったりそこに詩を書いたり、ライブのコンサートの画像を全部自分で作ってます。  小さいものから大きなものまで作品を作っています。   お花の集合体としての強さというものを表現していきたいと思います。  流木の持つエネルギーを表現したい。  生き切って行きたいと思っています。  








2021年11月23日火曜日

家正則(国立天文台名誉教授)      ・宇宙の果てをめざして

 家正則(国立天文台名誉教授)      ・宇宙の果てをめざして

日本が誇るすばる望遠鏡は宇宙に興味がない人もその名前だけは聞いたことがあると思います。   より遠くの銀河や星を見たい、もっと多くを知りたいとすばる望遠鏡の建設に携わりました。   家さんが中心となって開発した高度な技術を駆使した観測装置が次々と成果を出しています。   家さんはすばる望遠鏡の完成後は、TMTという次世代の大形望遠鏡の建設計画に参加し、去年国立天文台を退職するまで取り組んできました。  

退職後も三鷹の天文台には毎日通っています。    今熱中しているのは30年前から温めていた研究で、右周りの銀河と左回りの銀河が宇宙でどう分布しているか、という事を数十万個の銀河を見てしらべるという研究です。   この2年で4編の論文を書きました。  対称性の破れが出てくると宇宙に大きなインパクトのある結果にならないかなあと思っています。 

小学校5,6年生の頃、図書室で様々な形の銀河の写真集を見て、不思議だなあと思った印象が残っています。   中学生の時に小遣いを貯めて小型の望遠鏡を買いました。  木星とか土星を見たんですがすぐに飽きてしまいました。  天文少年ではなくてSFを多く読んでいました。   大阪府立北野高校に進んだんですが、数学者になることに憧れていました。   1968年(東大紛争の時代)に東京大学理科一類に合格して、翌年1月の安田講堂の導入まで授業がありませんでした。  古典ギター愛好会で午前中を過ごし午後は麻雀でした。   数学者にはとてもなれないと思って、天文学を選びそれが私の一生を決めてしまいました。   大学院に入ってからは最先端の研究論文を読んだり、大型望遠鏡で観測する機会があって、研究の世界に足を踏み入れた自覚が生まれてのめりこみました。 学位研究は銀河に何故美しい渦巻きが出来るのかを説明する論文を書いて理学博士の学位を貰いました。   東京大学理学部の助手になり、4年後の1981年に東京天文台に移動しました。    

イギリスのケンブリッジ大学の天文学研究所に1年間留学しました。   ここで人的なネットワークができました。   2年目は欧州南天天文台(国際機関)に移りました。   そこは南米のチリに最先端の天文台を運営していました。   最先端の観測装置を4件提案して3件採択されました。  チリに出張して銀河の観測、最先端の観測装置に触れたり、データを見たりして、この経験が目からうろこという感じで、帰国後の進路が良く判った感じがしました。   

すばる望遠鏡はハワイ島の標高4200mのマウナケア山の山頂に日本が9年がかりで建設した大型の望遠鏡です。   遠くの宇宙の姿、太陽系以外に惑星の観測で大活躍している。  海外に大きな望遠鏡を作ろうという構想は1980年代から始まっていました。   検討会を立ち上げ、1990年までに検討会を50回重ねました。   直径8mの鏡をどうやって作るかという事がメインテーマでした。   コストを下げるためには軽くする必要があり、極力薄くして、姿勢や温度で鏡が変化するのでそれを無くすためにコンピューター制御に依る賢い鏡を考えました。(能動光学)    400億円の建設予算を頂きました。  それから10年間は建設に携わりました。    ハワイには出張という形で行って、160回ぐらい出張しました。    直径8,2m 厚さが20cmの薄いガラスですが、性能向上のために、裏側から261個のポケットを彫るという決心をしました。  鏡が割れる夢を何度も見ましたが、無事完成しました。   この方式はどこにもありません。  

エンジニアリングファーストライト、1998年12月24日にやりましたが、私は三鷹からリモートでその瞬間を見届けました。   2週間後にはアンドロメダ銀河を撮影しました。 星々もよく見え、その後ろの渦巻き銀河まで観ることが出来ました。  やったと、これなら科学的成果が出せると思いました。     1985年に液体窒素による冷却によるCCDカメラを私が作って、比べ物にならない感度だという事が判って、後輩たちがすばる望遠鏡に大型のCCDカメラを100枚並べて超広視野カメラ Hyper Suprime-Cam (HSC; ハイパー・シュプリーム・カム)という大きなカメラを付けて、これで若手の研究者が大活躍しています。  スバルにしかない。  

2006年に人類が見た最も遠い銀河をすばる望遠鏡で発見しました。  地球から約130億光年かなたにある銀河です。  IOKー1(私たち3人の頭文字)として発表しました。   遠い銀河の1位から20位まで発見したこともありました。   IOKー1より遠い銀河を4年間探しましたが、見つかりませんでした。  130億光年から原始銀河が見えなくなる現象で、我々は「宇宙の夜明け」と名付けました。  宇宙は138億年前にビッグバンで始まりますが、ビッグバンから38万年後には温度が3000℃ぐらいまで冷えます。  3000万年後はドライアイスぐらいの冷たい宇宙になってしまう。  自ら光る天体の全くない暗黒時代に入ります。   最新の研究では1億年経った頃に暗黒物質(ダークマター)の密度の濃いところに物質が集まって最初の星、原始銀河が生まれたんだと考えられています。   原始銀河が生まれると、その紫外線で冷え切っていた宇宙が再び温められて、水素原子が電離する、(宇宙の再電離)これを私達は「宇宙の夜明け」と言っています。  この時が何時頃なのか判っていなかったが、「宇宙の夜明け」が明け切ったのが130億年前だという事を証明したのではないかと思っています。 

補償光学ですが、天文学者には空気は邪魔なものでしかない。 宇宙からの光が大気中を通ると星などの画像が滲んでしまう。  賢い望遠鏡でも対応できない。   カメラのすぐ前に直径10cmほどの超賢い眼鏡を別に取り付けて、明るい星からの光を測ることで、大気の乱れる様子を測って1秒間に100回以上の速さで測って、大気の乱れを直してしまうという、それが補償光学という技術です。  すばる望遠鏡を宇宙にもっていったようにシャープな画像が撮れることになります。(2000年に完成)    2002年から超超賢い眼鏡を開発してすばる望遠鏡の視力を10倍にしました。   これで大活躍しました。   遠い銀河はあまりに暗すぎて、ガイドになる明るい星もなく、超超賢い眼鏡は使えなかった。  人工的なガイド星を発生させる、そんな装置も作りました。(アイデアはアメリカの研究者)  すばる望遠鏡から強力なレーザー光線を放ち、上空90kmぐらいの高さのナトリウム原子を興奮させて光らせ、その揺れ方を見ることで超超賢い眼鏡を運転することができる。   これをレーザーガイド星補償光学装置といます。  これを使って暗黒物質を測る研究などもしています。  

TMT アンテナの直径が30mある史上初の大型光学赤外線望遠鏡   3つの目的があり①太陽系以外の惑星に生命の存在の証拠を見つけたい。   ②最初の一番星と銀河に迫る。  ③ダークマターとダークエネルギーの謎を解明する。   計画には日本、アメリカ、カナダ、中国、インドが参加しています。   2002年から新しい望遠鏡を考え始めて、3年後に独自の30m望遠鏡をまとめましたが、予算を考えると日本単独では無理でした。   すばる望遠鏡と連携することを考えていたので、海外の同じような構想グループとハワイに建設するなら協力すると伝えて、2009年にTMTはハワイに建設すると決まりました。   これが完成するとすばる望遠鏡で重要な星を見つけて、TMTで詳しく観察することで、日本がノーベル賞をもらうチャンスが広がると思っていました。  

TMT国際天文台が2014年に発足。  ハワイ先住民の建設反対があり、反対のシンボルとしてTMT建設の反対となってしまった。  山頂工事に取り組めない状況が続いています。   神聖なマウナケア山に州政府が相談もなく許可を出してしまったとか、役目が終わった望遠鏡をすみやかに撤去しなかったという事などがあります。   SNSでデマが流れてハワイの社会に分断が起きてしまった。  天文台副議長として私もいろいろな方と会って話しましたが、政治的に解決するしかなくなってきてしまっています。   

退職後は地域での講座などをやっています。  日本の発展のためにも、科学、技術、教育の重要性はいろんな場面で訴えていきたいと思っています。 



  

2021年11月22日月曜日

武田宗典(能楽師シテ方)         ・【にっぽんの音】

 武田宗典(能楽師シテ方)         ・【にっぽんの音】

1978年生まれ、日本の伝統文化を皆さんに本質を失うことなく判り易く伝え、次世代に繋げ、国内外に発信するプロジェクト「EXTRAD」の中心メンバー。   試作能「桃太郎」を上演。   

能は歌いと舞いを中心とした歌舞(ミュージカル)の仕立てで、まじめな話を1時間~1時間半とか長い時間をかけて上演する。   狂言はセリフとかテンポのいい動きを中心にいわゆるコメディーを20~30分で収まる作品が大半ですが、同じ能舞台で演じられて、能と狂言は交互に演じられるというのが昔からのスタイルです。  能五番に狂言四番という風に上演され、兄弟の様な関係です。   能を上演するのにはシテ方、ワキ方、狂言方、囃子方の4つのグループで構成されている。  狂言だけをやる場合にはシテ方、ワキ方は出てこない、狂言方だけ出てくる。   能で出てくる狂言方は能の話は難解なので、判りやすい言葉で解説する役割があって、そのほかにシテ方とかの物語にしっかり絡んでくる時には、ちょっとコメディー的な役割を能の中に加えるような役割もあります。 

シテ方は5流あり、観世流、宝生流、金春流、金剛流、喜多流の流派があります。  もともとは奈良の出になります。  観世流、宝生流が京都、金春流、金剛流が奈良というところです。  

武田家の元々の出は福井です。  私の(武田宗典)曽祖父が養子に行って、武田を名乗っていて東京の観世流宗家のところに面倒を見ていただく形になった時に武田の名前をそちらでも名乗りなさいという事になりました。  祖父が凄く頑張って、その後の父とか家系の人たちが能の世界に多くいます。   2歳11か月で「鞍馬天狗」のお稚児さん役をやりましたが、全く記憶がないです。    10歳で初シテ、能面は付けずに童話っぽい話ですが長い舞いを舞わなければいけなかった。   初おもては15歳でした。  10歳から20歳までが自分の根っこを作っているような気がします。   

狂言方だと25歳までに「釣狐」をやりなさいということで、「釣狐」をやったらその道としてのスタートを切るというような形です。  

シテ方だと「道成寺」はほとんど30歳を過ぎてからになります。  「道成寺」のことを修行過程の卒業論文と言われています。   紀州道成寺に伝わる、安珍・清姫伝説に取材した能楽作品。(後日談)  有名な一場面、白拍子は舞を舞い歌を歌い、隙をみて梵鐘の中に飛び込む。すると鐘は音を立てて落ち、祈祷によって持ち上がった鐘の中から現れたのは白拍子が蛇体に変化した姿であった。  梵鐘の中は秘事になっています。

試作能「桃太郎」  歌いも節をつけて全部つくりました。  初めて作る能だったし、お客様にどう評価してもらえるのかを探りたいという意味もあって試作能としました。   正義って、悪があるから成り立つんだなあと、「桃太郎」はよく出来ていると思います。  主役を鬼にするという事ですが、能のなかのルールとして非人間の役(鬼、草花、幽霊など)はシテが担当であると、桃太郎は現実に生きている人間ということでワキになります。猿、犬、雉は間狂言(あいきょうげん)。  動物を演じることも狂言の役割。  鬼も100%悪ではなく、鬼の道理も感じて欲しいと思います。  

小学校2年生の頃母が、私と妹を連れて宝塚歌劇を見に行っていて、影響を受けて、いろんなものを見るようになって、大学ではミュージカルのサークルに入って演出をやったりしました。   演劇の勉強が出来て、結果的には能に生きています。  

日本の音とは、竹の音、装束の衣擦れの音、心を沈める音だと思って、我々にとっては集中力が高まる瞬間の音だと思います。

能を初めて見に来る時に、見た時に何か理解しなければいけないんじゃないかとか、見たら寝ちゃうんじゃないかとか、この二つを取り払うだけで凄く見るのが楽になります。    能の一番の効果は無意識下に働きかけるという事が能の一番の効果なんです。  心と身体を元気にしてくれます。   興味をもって段々理解してくるとはまって来ると思います。  能の文化は一期一会だと思います。



 

2021年11月21日日曜日

内山晟(動物写真家)            ・【美味しい仕事人】食いたいものを食いたくて

内山晟(動物写真家)            ・【美味しい仕事人】食いたいものを食いたくて 

1969年ガラパゴス諸島を含む中南米への撮影を初めとして、野生動物を追いかけて北極から南極まで世界中を歩きました。  動物を捉えた写真の一つ一つが迫力のあるもの、動物家族の愛情が伝わるもの、動物たちの営みがありありと写されたものなど美しい風景の中の動物が今にも動き出しそうな写真ばかりです。   動物を写すための厳しいキャンプ生活で楽しみなのは食べる事、食材など制約が多いキャンプ生活で、それでも食いたいものを食いたくて料理の腕前が上がっていったそうです。   内山さんが作る手軽でおいしい男の料理は雑誌の連載などでも紹介されました。   世界中の動物を撮影した日々とシニア男性にも役立つ料理を伺います。

最初はガラパゴスを含む南米でした。  1ドルが360円で500ドルしか持ち出せない時代でした。   そしてスペイン語でした。(スペイン語を習いに行ったがほとんどできなかった。)   1969年12月12日に日本を発ちました。   兄の家を抵当に借金をしていきました。   ガラパゴスは陸イグアナ、海イグアナ、ゾウガメで有名です。  1か月滞在しましたが、毎日が冒険のような感じでした。  15の島から成り立っているが、島々を回らないといろんなものに会えない。  

1980年代には南極に行きました。  コウテイペンギンを見るツアーがあり、32日間の船旅をやりましたが、コウテイペンギンに初めて会った時には皇帝に会ったように胸をときめかしました。  その時には卵、雛を温めている姿が見れなくて、改めて行って、10日間の予定だったがそれは天気次第で、コウテイペンギンと付き合えたのは10日間でした。   雛を見ることが出来て嬉しくて、嬉しくて。   寒さはマイナス20度で吹雪になるともっと下がって、そんなテント生活でした。   トイレは外なので夜中に行くのが大変でした。  南極条令で、出したものは全部持ち帰らなければいけないので、ドラムカンの上にジョウロが付いていて、そこにいれるわけです。    当時はフィルムだったので、交換するときにフィルムが割れてしまうので、ポケットにいれて温めて交換しますが、何度か割れてしまいました。   でも今思うとそんな経験が出来たことが楽しくてしょうがない。

大人向けの写真集では10冊以上、子供向け写真絵本では200冊ぐらいあったと思います。 猫、犬など沢山撮りました。   10歳の頃に山川 惣治「少年王者」に惹かれて、ラジオドラマにもなり、動物が好きになりました。   高校に入った時に隣が新宿御苑で、鳥を見に行き、周はじめが書いた「カラスの四季」、彼の本を片っ端から読みました。  新聞部にいたので新聞の写真を撮ることを覚えました。     動物の写真を撮ることに目覚めました。  NHKが「自然のアルバム」という番組をやっていてこういうのがテレビでも出来るんだと、「野生の王国」というアメリカの動物番組があり、そんな仕事がしたいと思って日大の芸術学部の放送科に行きました。  写真家の仕事も知り、一眼レフを購入しました。  大学4年生の時に新潟県の瓢湖の白鳥の写真を撮ってそれが学習雑誌に載って、一枚の写真がこんなに高く売れるんだという事でこの道に入って行きました。

肉食獣が獲物を捕るところを撮りたくなりますが、非常に複雑な気持ちで撮っています。  ハイエナ、リカオンなどはとどめを刺さないで生きているうちにお腹から食べてゆくシーンなどを見ています。  肉食獣が獲物を捕るということは やはり子供たちへの教育なんですね。    アラスカに鮭を撮りに行った時にテントを張るわけですが、朝起きるとテントの周りにヒグマの大きな足跡がテントに沿ってあるわけです。  テントの中に食べ物があると襲われるわけです。  アフリカではテントが像の群れに囲まれていたこともありました。  カラハリ砂漠では周りに豹が出たりしました。   ライオンがテントのそばで骨をかじる音も聞きました。(夜に狩りをする。)  

最初アラスカでテント生活をした時には、まな板、包丁、コッフェルを持っていきました。   アイスッボックス、携帯用のコンロさえあれば料理は作れます。   きゅうり、白菜の漬物を作ったりもしました。  米さえあればなんとかなります。   いい写真が撮れた時などはステーキにしたりしますが、火を目掛けて蛾がフライパンに飛び込んできてしまったりします。  アフリカでロッジに泊った時に餃子を100個ぐらい作って、スタッフ、宿泊客などと食べたら評判が良かったです。  食いたいものを食いたいから料理をするといった感じです。   簡単に作るという事を心掛けていて、「チキン ア ドボ」という料理法をフィリピン系のアメリカ人の友人から教えてもらいました。   ドラムステイック一人10本程度、ローリエの葉っぱ2~3枚、ニンニク2~3カケラ、黒コショウ10~20粒、を鍋に入れて、水:1 酢:1 醤油:0.7の割合でひたひたになるぐらいで煮込みます。   最初強火で、その後に中火以下で2時間煮ると出来上がりです。   余っても2~3日は冷蔵庫にいれて置けば日持ちはいいです。  たれでごはんの上にかけてもいけます。     加熱用の牡蠣を何パックか買ってきて、白菜を4つ割りにして,牡蠣は塩水で洗って水を切っておく。   鍋に白菜を4~5cmに切って浸るぐらいに水を入れて、白菜が柔らかくなったら牡蠣を入れて、醤油と、ミリン、酒を少々、黒コショウをガリガリ擦って、そんなにと思う程入れて構わないです。  余ったら翌日に冷えたご飯でおじやにすればいいです。 楽しく食べて楽しく飲むという事がいいですね。   作ってくれた人になんか褒めるという事は良いことだと思います。











2021年11月20日土曜日

岸田ひろ実(母)・岸田奈美(娘)   ・「もうあかんわ」を切りぬける(3)

 岸田ひろ実(母)・岸田奈美(娘)   ・「もうあかんわ」を切りぬける 岸田家、母と娘の15年(3)

2021年2月母ひろ実さんが再び倒れて、実家に帰ってきた奈美さんの奮闘と繰り返すピンチの中で岸田家の人がどう向き合い、その危機をどう乗り越えてきたのか、その家族の向き合い方を伺いました。

関西学院大学人間福祉学部社会起業学科を卒業。  ここだったらお父さんみたいなかっこいい経営者になりながら、お母さんのための福祉を学べるかもしれないと思って、入学しました。 入学して1か月したら辞めたくなりました。   立命館大学の車椅子の方と知り合いになり、大学に通いながらユニバーサルデザインを手掛ける株式会社ミライロの起業メンバーとして活動、広報活動を9年間務める。   作家に転身、日常の出来事を関西弁で読者を笑わせる。 今年の春には「もうあかんわ」というタイトルの本を、出版。   櫻井翔さんがパラリンピックのコメンテーターになったり、興味を持ってもらえるかなあと思って電話をしました。  お母さんを初め障害のある人が生きやすいようにという事を考えて感情をこめて伝えたのが響いたと思います。   櫻井さんの研修への姿勢が私が見てきたどんなかたより好奇心をもって一生懸命やられていて感動してしまいました。    その光景をブログにアップしていましたが、櫻井さんがそれを見て、感激してくれました。    

2月に母が感染性心内膜炎という病気になってしまいました。  最初はコロナかもしれないと思いましたが、検査してもらったところ陰性でした。   熱が引かなくて、大学病院に行って検査をしたら感染性心内膜炎だと診断されました。   今考えうる一番ひどい病気になってしまって、ばい菌が心臓に巣を作ってしまって、大動脈乖離の手術をした時に埋め込んでいる人工の弁とか血管のところが食い荒らされてしまっている状況でした。    健康には人一倍気を使っている人がどうしてと思いました。    矢張り危ない手術をして、私は実家に戻ってきました。   思ったよりも祖母の物忘れが激しくなっていて、母のことから情緒が不安定になっていて、弟も急激に太っていました。  祖母が時間の感覚が判らなくなってしまっていて、時間を考えずに食事をいろいろ与えてしまっていたらしかった。   祖母は福祉の認定と、弟は別のところを捜していました。  そうしていた時に私の祖父が急に亡くなって、私と弟が急遽お葬式に行きました。    つらい思いをしていた時に或る人がそれを日記に書かないかと言われました。    今後日本中の人々が直面する課題を岸田さんがいまめちゃくちゃになっているから、書くと救われる人とか勉強になる人が出てくるんではないかという事で勧められました。   書き始めたら読者の方がたくさん増えました。   祖母の介護認定、弟のためのプール探しなどいっぺんにいろいろあったことを書き記しました。   今までの経験があるので辛いことがあるとちゃんと向き合わない、つらいことでも時間がたてば風化するといことを知っていたので、見て見ぬ振りをしていきました。    祖母と弟は口げんかも多くなっていたので二人は離れていた方がいいなあと思いそういう形にしました。(弟がグループホームで祖母がデーサービスへの施設へとか)   

ひろ実:家族がいい距離感を保っていけたらいいなあと思っています。   娘が言うんですが「もう頑張らなくていい」と、でも私にしたらあんまり迷惑を掛けたくないし、誰かが喜ぶようなことをやりたいし、 でも娘は「あなたが幸せになればみんなが幸せになるから、だから一人で抱え込まないで、しんどい事は逃げたらいい。」と言われました。   そうしたらいいと今は感じています。   

奈美:受け取ってくれていい母親だなあと思います。  家族は一番近い他人だとおもっているが、でも他人みたいに簡単に離れられないし、情があるから愛しいと思うけど、情があるから苦しいという厄介な存在だと思います。   でも家族を愛したいという思いがあるので、愛する事はその人を通して自分のことを好きになることだと思うので、考えた時に選択肢は距離を取るという事がありました。   仕事が出来なくなってしまう事にもなりそうだったので、それは自分のことでもありました。   安心して生きている状況を作りたかった。   不幸と幸せはいつもセットで、私は今までの人生で不幸か幸運かと言われれば幸運だと思います。  めちゃくちゃいろんなことを学んで成長してきて、今家族がいて嬉しいなと思います。   これから先どうなるか判りませんが、家族を信頼して何とかやるだろうと思っています。   オリンピックの聖火リレーで病み上がりの母と弟が参加しました。      

一人で生きてゆくことを自立だと思っていましたが、たくさんの人に頼りながら生きてゆくことも自立なんだという事が、母親とか弟の姿を見て思いました。   人って思ったよりも人に頼って良いんだと気づきました。   ユーモアって私は自分から距離を取る一つの方法なんです。  俯瞰して見るというか、 一つ引いた目線で見る。  ただユーモアと自虐は書いていて難しかったですが。    







  


2021年11月19日金曜日

亀山郁夫(ロシア文学者・名古屋外国語大学学長)・ドストエフスキー文学にひそむ人生の真実

亀山郁夫(ロシア文学者・名古屋外国語大学学長)・ドストエフスキー文学にひそむ人生の真実 

今年はドストエフスキーの生誕200年に当たります。  ドストエフスキー最後の小説「カラマーズフの兄弟」は日本では2006年に翻訳された新しい作品が累計で120万部を超える異例のロングセラーになっているなど、新しい読者を獲得しています。  長大で複雑な構造を持つ作品はなぜ今も読まれ続けられているのでしょうか。   翻訳されたロシア文学者の亀山郁夫さんはコロナ禍に翻弄され不透明な現代に生きる人にこそ読んで欲しいと言っています。   今日は「カラマーゾフの兄弟」を例にドストエフスキー作品の魅力、真意を探り現代に通じるメッセージを読み解いていきます。

3年に一度国際ドストエフスキー学会が開かれています。  2019年にボストンで、2016年にはスペインのグラナダという場所で行われました。   2022年は日本の名古屋大学で行われる予定です。  すでに海外から120名の応募者があります。  2022年3月に予定されていましたが、コロナ禍で8月に延長されました。  ドストエフスキーはモスクワの病院で生まれてそののまま博物館になっていて、近代的なアミューズメントとしてリニューアルされるという事です。   

21世紀は一種弱肉強食と言ってもいいようなそういう時代が現出してしまったわけですが、そういったものを克服しようという動きが20世紀前半からあったのにも拘わらず、そういった理想が全部潰えてしまって、19世紀の帝政ロシアに舞い戻ってしまったような、弱肉強食的な世界がむしろ善とし良しとするような風潮がはびこっている、そうした時代の類似性というものが19世紀のロシアにあるという事なんです。  それを背景にドストエフスキーは長編を書いたわけですが、背景にあるのは拝金主義なんですね。  ドストエフスキーは強い危惧を感じて執筆するわけです。    現代の漠然とした危機感に通じるものがあると思います。  

人生100年時代というのは人生いかに生きるかという問題だと思います。  如何に生命の持っている価値というものを永続的なものにするかという事ですが、生命というもののすばらしさに対する自覚というものを持たない限り、人生100年時代というのは全く無意味な時間の流れになってしまう。   ドストエフスキーはしっかりと我々に目覚めさせてくれる。   

物語の舞台は19世紀後半、ロシアでは農奴解放が行われた時期のそれが実現した後のロシアの田舎町のなかで起きる事件です。 カラマーゾフ家が住んでいる。   父親はフョードルでカラマーズフ家には3人の兄弟がいる。   上からドミートリイ、イヴァン、アレクセイの3人がいて、カラマーゾフ家の料理番をしているスメルジャコフという男がいる。  或る日突然父親のフョードルが殺害される。  フョードルは12万ルーブル(約1億2000万円)の遺産をっ持っている。   酒も、蓄財も、女性も好きというような破天荒な人物で、みんなが嫌っている。   元夫的な父親像を担っている。  犯人として長男の名前があげられる。  逮捕され裁判にかけられる。  最終的にはシベリア送りになる。 冤罪。   この時代の皇帝はアレクサンドル2世で、農奴解放と同時に様々な改革を行ったが、最大の成果が陪審員制度で、この小説は陪審員制度によって裁かれる人物を描く最初の小説と言われていて、興味深い意味を持っている。  陪審員制度によって人は裁けるのか、人間の罪の根本をしっかり見定めたうえで、罪というもの、罰というものが下し得るものなのか、という問題性を「カラマーゾフの兄弟」を読むうえで一つの大きな興味のポイントになると思います。   

ミステリーサスペンスがあり、最後に犯人が明かされるが、父親を殺した犯人は現場から最も遠くにいた人物が犯人だという事になるが、罪とは一体何なのか、犯罪における罪の核心はどこにあるのか、という時に真犯人という考え方をドストエフスキーは根本から変えてゆくんですね。  その人物はどのような意味において父親殺しの殺人にコミットしているのか、という事をなぜ罪深いのかという事を問うてゆくわけです。

高校2年の春休みに読みました。  中学生の時に「罪と罰」を読んで犯人と一体化して 、自分が逮捕されるのではないかと思う程恐怖を抱きました。   ドストエフスキーを遠ざけてきましたが、先輩が全国読書感想文コンクールで銀賞を取って、触発され読もうと思いました。  その後読んだのが大学3年生の時でした。  私の父は40代で校長先生になるぐらい教育界では出世をしましたが、或る事件に巻き込まれて退職せざるを得なくなるという事になり、その後一介の教師として退職する、その鬱屈、挫折した思いがあり、家族に対して横暴な側面がありました。   末っ子として父親を見ていた時に、父さえいなければどんなに楽しく暮らせて行けるのだろうか、という思いがどんどん煮詰まって行って、自分の家を恥ととらえるようになりました。  「カラマーゾフの兄弟」を読んだ時に、自分の問題ではないかと思ったぐらい、読み進めていきました。 

ドストエフスキーが人生の総決算として彼が考えた時に、自分自身の人生のすべてを書くんだという思いがあったと思います。  一つは父親の死(17歳の時に経験)、父親は横暴で酒癖も悪い、農奴たちの憎しみも買っていたらしい、一説には農奴たちの恨みを買って殺害されたという説がずーっとあった。   父親が殺されたかどうかではなくて、父親の死という現実そのものをドストエフスキー自身がどうとらえていたのか、父に対する憎しみ、嫌悪、といった潜在意識レベルでのドストエフスキーのドラマというものがあったに違いないと、裁判のなかで次男のイヴァンは「父親の死を望まないものは誰もいないんだ。」と傍聴人たちに公然と叫ぶわけです。 ドストエフスキーが蓄積したある種の思いの炸裂というか、自伝的な側面で自分自身が父親の死を望むという、何故そうした思いに自分自身が駆られているのかという事。 

ドストエフスキーの父親が殺されるのが1839年6月で、その年の9月に兄にあてた手紙のなかで、「人間とは謎なんだ、この謎を解き明かすために一生を費やしても無駄ではない。」と17歳だった少年が書いているんです。   父親が殺される非常に複雑で劇的な経験、父親の死を望むという自分の中に潜んでいた恐ろしい欲望の発見というのは非常に衝撃的なことだと思います。   ドストエフスキーはいつかこのテーマを正面から取り扱おうと覚悟を秘めつつ50何年間生きてきた。  

父親という事は他者へと大きく変容してゆくわけです。  他者の死を願望するという意識の恐ろしさに繋がってゆく。  1849年12月ドストエフスキーが28歳の時にユートピア社会主義を講じるグループのメンバーとして会合に参加するが、全員逮捕される。  半年後に21名の逮捕者に対して死刑の判決が出る。   ドストエフスキー自身も死刑判決されて直前に死刑から免れるが、国家から監視される。  フョードルの真犯人と下手人、下手人がカラマーゾフ家の下男の料理人スメルジャコフ、スメルジャコフという名前を分析してゆくと「嫌なにおいを発する男」という意味で、料理人で潔癖な男なのでそれはあり得ない。 スメルドというのは農奴という事で、ドストエフスキーの父親を殺したのは農奴という事でそういう構造が重なって来る。  

三男のアレクセイは次男イヴァンに向かって「父を殺したのはあなたではありません。」と言っています。   アレクセイは修道僧なので一種神の言葉を預かって生きてゆく人間の言葉なので、イヴァンには罪がないんだといかにも読者に印象付ける言葉のはずなんですが、「父を殺したのはあなたではありません。」と繰り返し言っているのは全く逆で、「父を殺したのはあなたです。」という事です。  事実としてはそうだけれども、事実にはもう一つの真実があるんだと、「真実の殺人者、父親殺しはあなたですよ」という事を言いたいんです。  料理人スメルジャコフは「父親殺しの真犯人はあなたです。」と言明する。イヴァンはスメルジャコフをそそのかして、スメルジャコフは教唆されたんだと考えるわけです。  スメルジャコフはイヴァンに心服しているが、イヴァンが持ってる哲学、神がいなければすべてが許されるという哲学で、イヴァンはこの世の中に神は存在するのかと言う根本的な疑問を抱いている。(無紳論者)    イヴァンは例を挙げながらこれは神がいない証拠だとして神がいなければすべてが許されるという事をしきりにスメルジャコフに働きかけていた。   スメルジャコフは神がいないのだからすべて許されるという風に理解したわけです。   スメルジャコフがやってきた猫を縛り首にするとかサディズムが全部許されるんだというところに行くわけです。  イヴァンはスメルジャコフを守ってくれる唯一の人間なんです。  スメルジャコフはイヴァンがどうも父親の死を望んでいるらしいと忖度するわけです。   イヴァンは死ぬかもしれない父親の動向を何度もうかがったという行為に対して、イヴァンは自分の一生で最も醜い行為だという風に見なすことになる。ここに最大の問題がある。   イヴァンは自分を神の立場に立ったことにするんですね。 父親のフョードルが危ないから寝室からは出てはいけないとか言わないで、知りながら黙過する、見過ごすわけです。   最も醜い行為だと執拗に表現してゆくわけです。    人間は日々罪人として生きているという、根本的な世界観がここに現れてくるんですね。  人間のだれもがすべての人すべてのものに対して罪があるという、これがドストエフスキーの共感力の原点なんですね。  これが判らないとドストエフスキーの文学は判らないんじゃないかというぐらいに最も根本的なテーマで、これが人が人に対して思いを抱くという事の出発点。  最晩年にドストエフスキーは「私は心理家と呼ばれているが、これは正しくない。  私は最高の意味でのリアリストなんだ。  すなわち人間の魂のすべての深みを描くんだ。」と書いている。  17歳の時の出発点と見事に重なっていると思います。 人間の生きる喜びとか生命力のすばらしさだとか、生命の価値とか、トータルな面で人間というものを描いている。  私がドストエフスキーの言葉のなかで一番好きなのが「人を愛する者は人の愛するものも愛する。」という言葉です。  




  

2021年11月18日木曜日

小島直樹(弁護士)           ・70歳でデビューし"高齢者のために働く"

小島直樹(弁護士)           ・70歳でデビューし"高齢者のために働く"

 昭和25年神奈川県生まれ、大学卒業後経済産業省(通産省)に入省しました。  退官した後法律家を目指し、2018年に司法試験に合格、70歳の今年の春に自身の法律事務所を開設して弁護士としての活動を始めました。   小島さんの主な顧客は高齢者、相談内容は遺産相続、会社経営の継承、刑事事件、交通事故など様々です。   事務所も高齢者の町巣鴨に開きました。   何故弁護士を目指したのか、何故高齢者のために働きたいという思いに至ったのか、伺いました。

早稲田大学工学部の建築学科を選んだ理由は、先々のことを考えた時に理系から文系の方がハードルが低いかなと思ったことと、未来学が流行っていて工学に傾斜した議論がありました。   世の中に実際存在するものを自分で作って、世の中を変えて行こうとそういう事に魅力を感じたのが理由です。   入ったころが70年安保の時で、社会問題、公害問題を考えると、社会の枠組みを変えて行かないといけないのではないかと考えていて、そのころ官僚論が議論されていました。  官僚が世の中を設計していると言われたりしていて、日本株式会社の参謀本部だと言われるような通産省で自分の力を発揮してみたいと思ったのが、進路を大きく変えた理由です。   技術屋にもいろんな分野のことをさせるところで、産業技術の長期戦略の策定とか、エネルギーの長期的なバランスを考えて、自然エネルギー(代替エネルギー)をどういう風に導入してゆくか、そういったことをしました。    国際的な関係も重要視されていて、各国との関係、国際機関との関係があり、私がやったのは中東室という組織があり、第二次オイルショックの頃で、中東諸国との関係を如何に良好なものにしていって、日本のエネルギーを確保してゆくというようなこと、通常の外交的な関係をどういう風に相手国との間で築いてゆくのか、そういたことをやってきました。  環境問題、安全問題などにも年数としては多くかかわってきました。   公害問題、PCBの処理、フロンの問題などにも関わってきました。   公務員として遣り甲斐を感じることが出来ました。  

 日本の場合には法律を作るのが9割以上行政の公務員が自ら問題を発掘して、それに対する解決策を政策として作り上げて、実行するために法律を作るという手順になって、出来上がった法律を自ら執行してその目的を達成するという事になります。   社会全体に関与することが与えられるという点で大変遣り甲斐のあることになりました。  

公務員を26年間やってきましたが、公務員は次の仕事の道としては色々わかれて行きますが、私の場合には新しい団体が出来るのでそちらをやってほしいという事で、そちらに移籍して、役所内にいるよりも時間的な余裕もできたし、ほかにもやり足りないものがあるのではないかと模索をして、MBA(Master of BusinessAdministrationの略称を取る学校に行ったりして、その後法科大学院に行って話を聞いて、引きずり込まれました。    仕事を続けながら大宮法科大学院、日大大学院で学んで法律を学びました。   東京裁判の弁護団の団長の清瀬一郎さんが堂々と被告人の弁護をする姿を見て、高校の時から文系であれば法律関係だという事は強く思っていました。  昔目指そうと思った一方の法律関係の仕事をやってみようと思いました。 

法律の方の言葉と一般に使っている言葉とで、違って居ることがよくあり、それに慣れないといけない。 「故意」という言葉でも法律用語では意味合いが違ってくる。     議論をするときにもルールがあり、ルールに従って相手の理論を打ち負かしていかなければいけない。  普段の会話とは違っていてそれに慣れないといけない。  働きながらの勉強だったので時間をひねり出すのが大変でした。   土、日は勿論、睡眠時間を減らして朝早起きをして、勤務先で1時間半ぐらいでその日の晩の予習をしたりしました。  通勤で1時間あるので、その時間も利用しました。  予備試験が3回、司法試験を6回受けまして、大宮法科大学院時代を加えると14年になります。  68歳(3年前)で合格してやはり嬉しかったです。   60台での合格者は数年に一人ぐらいはいます。  

弁護士として活動してゆくうえで、高齢者のために働くという事にしました。   自分の人生の最後をどういう風に過ごすかと考えた時に、市井に埋もれている方々を助けるという事を自分の仕事にして行きたいと考えました。   自分より上の世代では介護、相続の問題、同世代あるいは下の世代では子供、孫が悪さをしたとか、騙されたとか、勤務先での問題などいろいろあり得ます。   気軽に相談できる弁護士がいると、どれだけ助かることかと思って、お手伝いができると、そういう存在になったら自分自身も生き甲斐を感じることが出来るし、みなさんの役にも立つ事ができるのではないかと考えました。   事務所を開いて半年になりますが、B型肝炎が何十年も経って発症してしまって、そういう潜在的な人を含めて、はっきりしているものには国が保証するという事になっているが、証明が難しいし、訴訟という手続きを取らなくってはいけなくてハードルが高いが、これをお手伝いする、マンションでの紛争、多額の債務を負ってしまった経営者の相談などがあります。 刑事事件の弁護なども行っています。    自分の一生を通じて人のために自分は尽くしてきたと、そういう事が振り返って言えるようなそういう人生を送りたいと常に考えていたことです。   生涯現役という事を目指したいと思っています。

  





2021年11月17日水曜日

栁澤哲(競歩日本代表・解説者)      ・【スポーツ明日への伝言】競歩の魅力~歩くことこそスポーツだ~

栁澤哲(シドニーオリンピック競歩日本代表・解説者)      ・【スポーツ明日への伝言】競歩の魅力~歩くことこそスポーツだ~ 

この夏のオリンピックの陸上の競技で日本選手が唯一メダルを取った種目は歩く速さを競う競歩でした。   競歩では2019年の世界選手権で日本は二つの金メダルを獲得していて、今や世界をリードする立場になっています。  競歩の魅力を維持するのが難しいと言われる歩く形、フォーム、日常のウオーキングへのヒントなどシドニーオリンピック競歩日本代表で競歩解説者の栁澤哲さんに伺います。

解説者として皆さんに判るように言語変換するという事です。  皆さんが普段使う判り易い言葉にしてしゃべろうと思っています。   札幌で男女20km、男子50kmの競歩が行われ男子20kmでは池田 向希選手が銀メダル、山西 利和選手が銅メダル 50kmでは川野 将虎選手が6位入賞という好成績を残しました。  20kmではメダル獲得は日本選手では初めて。   金メダルを取ってほしいという思いはありました。  メダルを取ることは競歩としては至上命題だったと思います。   2019年の世界選手権では20km競歩で山西 利和選手が金メダル、50km競歩では鈴木雄介選手が金メダルを取ったので、2020年には東京オロンピックが開催される予定でしたので、この二つの種目が金メダルというのが理想として描いていた目標でした。   ドーハの時には暑さ対策はある程度確立されていました。  暑さ対策は2016年から細かくやっていました。  

走ると歩くを明確に区別するために、両足が離れてはいけないという事と、膝のバネを使って前に進んではいけないという事です。  重要なことは人の目で判断するという事です。早く歩くとわずかに足が浮いてしまう。  それを判断するのが人(審判)の目です。 20kmでは一周1km、50kmでは一周2kmで、そこに6人の審判がいます。  選手が違反をしていないかどうかを必ずチェックをしている。  違反をしていそうだと注意という事で黄色いペダルを出します。  直し切れなかった場合は警告という事で赤いカードをだし、スタート、ゴールのところに失格掲示板があり、膝が曲がっていた場合は「く」のマーク、両足が浮いてしまっている場合は「W」のマークが出るようになっている。  これが3つ付いた時にペナルティーエリアに入らなければいけない。  20km競歩だったらそこに2分待機しなければいけない、50km競歩だったら5分間待機しなければいけない。 そこから戻っても4枚目が出て仕舞ったら、失格となる。   失格になりやすい選手は集団の内側に入って審判の目から見えないようにする。   レースの駆け引きになる。  3人で先頭争いをしていて一人が2枚のレッドカードを貰っている場合に、3枚目を貰うとペナルティーエリアに入らなければいけないので、他の二人はわざとペースを上げるとついてゆくしかないのでフォームが乱れてきて、3枚目を貰ってしまう可能性がある。 競歩の場合にはゴール後に失格もあります。  ゴールするときには3枚目のカードは集計所に集まってこない。  ゴールをした後に失格してしまうという事はあまり珍しい話ではありません。  私も優勝したんですが、失格したことがあります。

競歩は高校1年生の秋ぐらいから始めました。  走るよりも歩く方が成績がよかった。 山崎勇喜選手はマネージャーをやるか競歩をやるかどっちかにしろと言われて競歩を選んだそうです。  競歩に憧れてという選手はほとんどいなかったですね。   山梨学院大学に進み、厳しい合宿から中途でかえってしまって、母親、先輩からの想いを胸にしっかりやらないといけないと思って覚悟を決めました。  1994,5年に社会人になって日本記録をどんどん作る。   アトランタオリンピックを目指したが、代表にはなれなかった。   一つ目の選考会では勝つことが出来たが、二つ目の選考会(日本選手権)では失格してしまった。   三つ目の選考会では失格をした選手としては優勝が最低の条件になってしまった。  最後の二周目で中国の招待選手がパッと飛び出した。  無理して中国の選手についたが、最後の一周で失格のカードを見せられてしまって、30分ぐらい泣いていました。 

2000年のシドニーオリンピックに出場することになる。(22位)   高地トレーニング後の東京でトレーニングが酷暑で調整がうまくいかなかった。   2001年の世界陸上の大会では7位入賞。  20kmでは日本人としては初めて世界選手権での入賞となる。   競歩は技術的な部分に趣きがあるという事ですね。  無理と無駄を極限まで省いてゆくというのが競歩のおおきな特徴の一つだと思います。    

人間が走らない日はあるかもしれないが、歩かない日はないと思います。  これほど身近なスポーツはないと思います。   変形性膝関節症の方であれば痛くなく歩くことが可能になるし、片足麻痺の人でも骨盤を上手く使ってあげることによって、体幹を使って麻痺の足をスムーズに出るようになったりするので、スポーツの持っている技術的な部分というものを社会に還元するという事はとても意義のあることだと思います。  

正しい骨盤の使い方としては、骨盤はお尻の足だと思ってくださいと言っています。    お尻が前後に動くような感覚で歩いていただくと、自然と骨盤を使うような結果としてなるので、骨盤はお尻の足だと思って歩いていただきたい。  歩行と認知症は因果関係があると言われていますし、歩けなくなるほど生活習慣病のリスクは高くなってきます。  スポーツとして歩くことを楽しんでいったら、健康が手に入ったというのが一番続くやり方だと思います。  









2021年11月16日火曜日

芦田多恵(デザイナー)           ・ファッションは希望であり続ける

 芦田多恵(デザイナー)           ・ファッションは希望であり続ける

1964年東京生まれ、日本のファッション業界をリードしてきたデザイナー芦田淳さんの次女です。  東洋英和女学院小・中学部を卒業後、スイスのル・ローゼイ高等学校に進学、米国ロードアイランド造形大学アパレルデザイン科を卒業後、1988年父親の会社に入社しました。    1991年コレクションデビュー、年に2回コレクションを発表しています。  芦田さんが提案する上質な素材にこだわり、女性を魅力的に見せるエレガントでモダンなスタイルは著名人やセレブリティーを初め、多くの女性たちから愛されています。  今年デビュー30周年を迎えました。   コロナ禍で新たに取り組んだ父の芦田淳さんから言われた思い出深い言葉、ファッションにかける思いなどについて伺いました。

普段着るものは自分のデザインしたものになってしまいます。   最近ファッションのトレンドは一つではなく多様化していて、むしろ自分がどういうスタイルでいたいかという事が重要になってきています。   カジュアル化してきてリラックスしたファッションが主流になっていると思います。   生地の選定を考えると1年も早くやっているような感じです。   うちではイタリアの生地メーカーから買い付けることが多いので、生地を作る事が一番長くかかるので、生地の選定は1年前からやっています。   コロナで先の見えない時代になりましたので、先の読みにくい時代が来たと思います。

私の20周年の年に東日本大震災が起こり、発表するような状況ではなくなりました。   バーチャルコレクションを試みました。  多くの方々にお世話になったので、何か社会にお返しできないかという事でチャリティーTシャツを作らせていただいて、販売しました。 継続的な支援が出来ないかという事で、2年後になってミシンがあって縫う手があって何かしたいという希望があればと思っていたら、いいアイデアが浮かんで、端布から小動物とかにキーホルダーを付けてブランドにしてしまって、ロゴも付けて認証できるようなものをと思って、現地に向かいました。   説明したらやってみようという事になりプロジェクトが始まりました。   今は10種類以上あります。   干支の動物を必ず入れています。   

コロナ禍でマスク制作も考えて500枚出来てメッセージを添えて送ったところ大変好評でした。  売り上げの一部を医療従事者へという事で売り始めましたら、大変好評で間に合わなくなり下請けの工場で作ってもらうようになりました。  保健所の保健士さんたちにハンカチをオリジナルで作って(抗ウイルウス加工された素材で出来ている。)目黒保健所にもっていったっばかりです。   

映画の清水康彦監督から音楽に関する話があり、美しい自然の環境の中でこの音楽で踊ったら綺麗だろうなあと思って、清水さんに話したら作りましょうと言う事になり、私は衣装をやらせていただきました。  この件はああいった方々と一緒に仕事をするという事はコロナ禍の中でしかできなかったことと思います。  分野の違う人たちと本当に楽しくやれました。   

コロナ禍の中、去年は3つ新しいブランドを作りました。   8月にファションのスペシャルムービーというものを作ってインターネットで発表しました。  ボリュメトリックビデオ(Volumetric video system)という最先端の映像技術を使って表現して、世界で初めてではないかと思います。  8m×8mの四角の中でのみ行われ、100台以上のカメラが一瞬にして撮影するというシステムです。   モデルが1着につき対角に歩くと14歩になります。   今撮った人物の映像が縦横無尽に操れるという状態になります。  1990年代に作った父のドレス3着をもとに新しく手を加えて、それが生き生きと今の時代に蘇りました。  父は3年前に亡くなりました。 

ファッションデザイナーになることは両親も自分も望んでいたことでもあり、高校3年間英語とフランス語を勉強し、、米国ロードアイランド造形大学で4年間ファッションのみならず美術に関して勉強しました。   日本に戻ってきたが、芦田という名前がついているとなかなか入れてもらえないとか、特別扱いみたいな事になって、就職先がなかった。   父の会社に入る事になり今日に至りました。  

私がデビューした当日に父が、「一回や二回だったら誰にでもできる、それを如何に長く継続してきちっと続けていくかという事が大変なことだから、あんまり無理するな。」といったんです。   長く続けてゆく事が凄く大切だし、一番難しいからという事で、あんまり無理するなと言われて、心に刻まれました。  仕事をやればやるほど父はデザイナーとして偉大な存在だったなあと思います。   子供の卒業式とか、運動会とショーがぶつかったりすることは良くありました。   ショーの間に一瞬抜けて一種目応援して戻って来たり、綱渡りをしてきました。    プライベートの時間が出来たのはこの数年で花の写真を撮ることを始めました。    目の前のことが精いっぱいで、目の前のことをどうしてゆくかに頭を使ってしまっているので、10年後にどうするという事は考えられない。   思いついたらやってみるという感じです。  
















2021年11月15日月曜日

池江美由紀(池江璃花子選手の母)      ・【アスリート誕生物語】

 池江美由紀(東京2020オリンピック競泳日本代表池江璃花子選手の母)  ・【アスリート誕生物語】

東京2020オリンピックが終わって、オリンピックの話はなかったです。   小さいころから家庭で水泳の話をすることは好きではなかったです。   未来に向けた話をする方がいいので、オリンピックについて何かという事はないです。   

池江美由紀さんにアスリート誕生物語に2019年出演予定でしたが、2月に収録が終えてその一週間後に池江璃花子選手の急性リンパ性白血病が判明、放送は見合わせる事になりました。   白血病というのは知ってはいましたが、具体的には知りませんでした。    最初に聞いた時にはなかなか現実を受け入れられない、あれは夢だったとならないかなあぐらいにしばらく思っていました。   私は幼児教室を経営していて、一人親で育てる事ができました。   璃花子が病気になってスタッフたちにも仕事面のサポートをお願いしながら看病とを両立させていきました。(10か月間)   安心できる瞬間がなく次々いろいろな事があるので、璃花子の病室のドアを閉めた瞬間に泣きながら帰ったりしました。  

2019年2月~12月まで入院生活を送った後、翌年3月にはプールでの練習を再開、8月日本学生選手権で参加標準記録を突破、今年4月日本選手権100mバタフライで優勝、メドレーリレーの代表に決まり東京オリンピックの舞台に立つ。   メドレーリレーの代表に決まった時には嬉しかったです。  やっとここまで戻ったという気持ちで見ていました。    

幼児教室を平成7年から26,7年やっていたのも、どの子も最初は同じでどうやって親が環境作ったり接してゆくかで、優秀に育ってゆくという事を知ってからは、本当に得意な事とか好きな事で伸びてゆけるような、子育てをしようという風に思いました。    長年やってきて子育ては今日の子育てが明日結果が出るのではなくて、最終的にはどんな成人になるかとか、どんな人間に成るかという事だと思います。   広くお伝えすることがこれから私が社会にできる恩返しではないかという思いがきっかけで、講演等で話していきたいと思っています。  子育てにはたくさんの本があって、情報はたくさんあるが、親になるための指導することはないです。  子育てで夢がかなえられるようになればいいなあと思って本を出版させてもらいました。  璃花子は水泳には秀でていますが、人間性に関しては厳しく教えてきました。  

姉、兄と同様に小さいころ近所の水泳教室に通い始めました。  記録も大事だとは思いますが、そこが一番ではなくて、そのために自分がどう努力するか。  水泳は個人競技ですが、協調したり助け合ったりすることが一番大事だと思いますので日々言ってきました。  中学生で出場した日本選手権ではすべての種目で中学生としてはただ一人決勝に進んで、世界選手権の日本代表に選出される。   本人がやりたいというような環境つくりはしています。  勉強なども短くてもいいから毎日やるという事が大事です。   色々なことを短い時間で出来るような工夫をしたりしました。  目標を達成すると一緒に寝てあげるというご褒美をあげていました。(璃花子にしてみれば何よりのご褒美でした。)      璃花子は叱られるという事が凄く嫌な子で逆切れなどしていました。  強い子でしたが、私も折れることはなかったです。   私は父親の役目、母親の役目もしなければいけなかたので、自分が失敗したことを子供には絶対させたくなかった。   璃花子が自分の我を通そうと思った時には、璃花子の心を悪くするようなことがあったら、いつでも水泳はやめさせるという事は何回か言ってやりました。  そうすると折れます。   水泳が大好きでしたね。  水泳が出来ることが生きる目的みたいな状況になっていました。  

 勉強は小学生の時には全く問題なかったんですが、中学生では水泳の生活が中心になってしまって、普通に学校には行けたりしませんでした。   幼児教育を知ってからは、兎に角体の質をよくするような食生活を凄く心がけました。   偏食な子で魚介類は好きではなくて、食べ物が少なかったです。   作戦を立てて嫌いなものを食べさせるようにしていました。   赤ちゃんの時から私の指をつかませて引っ張って釣り上げるという事をしていました。   家にも教室にも雲梯を常設しています。   水泳は水をつかんで後ろに送るというのは雲梯の棒を掴んで引き寄せて次の棒を掴むという動作があるが、水を掴むとか、肩甲骨周りを柔らかくする運動をしていたので、身長からするとかなり腕が長いです。  身長も高いし恵まれた体つきになったと思います。  

姉、兄との仲はとてもいいです。   家では一番偉いのが親で、次が長子で、末っ子は下がっていく中で、目の上の話をよく聞き、きちんと指示に従う、という事を大事にしてきたので、旨くいっています。    14歳で日本代表になったので周りは年長者の方ばかりで、リレーでは社会人、大学生で、璃花子はタイムもよかったが、うまくいくのかなと思ったが、その後も可愛がっていただいているようです。   

毎日毎日どういう言葉がけをしてしているかという事が人間形成にとても大きく役に立つという事を感じているので、出来ないことよりも出来ることをほめてあげることの方がよっぽど能力開発になるなと思っています。    人間は吃驚するような能力が沢山眠っているというところもあると思いますので、うまくいったときもうまくいかなかったときにも、貴方には素晴らしい力が、素晴らしい可能性があるんだという事は常に言っていました。  「言葉の力はたとえいまそうではなくても、100回言えば本当になる」という言葉があるように、そういった必要性があると思います。   親の態度や言葉が変わると、お子さんは一週間で変わっていきます、それをたくさん見てきました。    叱り方とかもコツがあって、怒る時には本当に怒って良いと思います、子供が泣くぐらいでないと伝わらないと思います。    その後人間とやったことを分けてきちんと説明したり、フォローをするという事は心がけてきました。    貴方自身は素晴らしい人間で価値があって可能性があって、だけどこれは良くないから、これを怒ったんだからという事を大事にしてきました。  

キーワードはたくさんあり著書にも載っていますが、子供に一番身につけさせなければいけないのは、子供に強い心を持つことだという風に思います。   璃花子は奈落に落ちるような経験をして、またここまで戻ってこれるような状況になり、強い心を育てて来たことは本当に彼女を救ったんじゃないかと思います。   何事にもあきらめない強い心をまずお子さんに持たせてほしいし、私も璃花子たちに持ってほしいと思います。  まだ璃花子にとって途中だと思うので、その後彼女の人生は続いていくわけですから、ゴールとか満足とか自分ではわからないです。    自分が選んだ道で満足いくような、幸せな人生を送ってくれれば、もう私の目的は果たせていると思います。    人生って必ずいろんなことがあるが、諦めさえしなければ、いつか笑顔がくると思います。  






  



2021年11月14日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】 

ラフマニノフ 作曲 ピアノ協奏曲第三番  ピアノ:反田恭平 

反田さんは10月、第18回ショパン国際ピアノコンクールで第2位に入賞。  ピアノ協奏曲第三番 は1909年の作品   ロマンティックな響き

今日はロシアンロマンの遺伝子。   ロシアは様々な民族がいて民謡や舞曲がたくさんの種類がある。  ロシア正教会で歌われた聖歌、古い聖歌はユニゾン(音楽においてテクスチュア(音構成原理)を形成する方式の一つ。同一の音高を同時に響かせることをいう。その厚みを感じさせる効果が特徴で、労働歌、国歌、寮歌ばかりでなく、歌曲や管弦楽曲でも他の多声的なテクスチュアとの対比を強調するときに用いられる。)で流れるように途切れない。  ロシア正教会で歌われた聖歌の音楽がベースになっている。ロシアは短調の使い方がうまい。   

*チャイコフスキー 作曲 弦楽四重奏曲 第1番 ニ長調 第2楽章  アンダンテ・カンタービレ  ウクライナの民謡がベースになっている。 

ボロディン 作曲   弦楽四重奏曲 第2番 ニ長調 第3楽章 夜想曲」として親しまれる。  ボロディンは化学者で有名。

ロシアでは鐘の音をイメージして作られた音楽が沢山あります。 

*ラフマニノフ 作曲 ピアノ協奏曲第二番 ニ短調  鐘の音が繰り返される。  ラフマニノフは5つの音ぐらいの中で魅了する。  

*ラフマニノフ 作曲  パガニーニの主題による狂詩曲作品43から第18変奏   ラフマニノフならではの叙情性に溢れており特に有名。

ラフマニノフ 作曲  交響曲第2番から第3楽章  甘美なメロディー。

エリック・カルメンがカバーしている、ほかにも多数の人がカバー。 「恋にノータッチ」  

*「恋にノータッチ」  歌:エリック・カルメン

ラフマニノフは5つの音ぐらいの中で魅了するが、ほかにクライマックスを急がない。(私たちを焦らす)   進んでは戻り螺旋階段を上がってゆくような。

*ラフマニノフ 作曲  交響曲第2番から第3楽章  クライマックスへの場面。

*クライフスー作曲  ラフマニノフ ピアノへの編曲  「愛の悲しみ」  ピアノ演奏

*ラフマニノフ 作曲  バーデン 編曲  「ヴォカリーズ」   歌詞のないヴォカリーズで歌われる旋律と、淡々と和音と対旋律とを奏でていくピアノの伴奏が印象的である。

2021年11月13日土曜日

堀ちえみ(歌手・タレント)       ・舌がんを乗り越え、もう一度ステージへ

 堀ちえみ(歌手・タレント)       ・舌がんを乗り越え、もう一度ステージへ

堀さんは大阪府の出身で芸能プロダクションのタレントスカウトキャラバンで優勝し、1982年潮風の少女/メルシ・ボク』でデビュー、アイドル歌手の仲間入りをしました。    1983年に出演したテレビドラマスチュワーデス物語』が大ヒットし、劇中での「教官」、「ドジでのろまな亀」のセリフは流行語にもなりました。   その後リ・ボ・ン』などのヒット曲を出し、歌手、女優、タレントとして活躍、しかし30代以降この20年間はたびたび大きな病気に見舞われました。  そして2年前2019年にはステージ4の舌癌が見つかり、舌の6割とリンパ節を切除し、太ももの組織を移植して舌を再現するという大手術を行いました。  手術は成功し現在は再びステージで歌う事を目標にリハビリを続けています。  闘病を支えたのは何だったのか、伺いました。

術後は薬でコントロールしてそんなに痛みを感じたという事はなかったと思います。   舌は噛んだものを束ねて喉の奥に持ってゆくという役割がありますが、太ももの組織を移植して血管は繋いたんですが、神経、筋肉は繋いでないので、残っている舌、舌根を動かしてもその部分は動かないんです。   残っている舌で言葉を発して、噛んだものを束ねて喉の奥に持っていって飲み込むという事をやっています。   再現したほうの舌を皮弁と言いますが、最初は大きめになっていて段々薄くなってゆくことを逆算して大きめに作ってあるので、口のなかに肉の塊があるような状態でしたが、薄くなっていって、今の形までになりました。   言葉の練習を一音ずつしていきました。  単語、文章と進めて行きました。  今でもやっています。  筆談の時期もありました。

2019年2月末に手術をしましたが、治らない口内炎が2018年のゴールデンウイーク当たり辺りからなんかできてると思いました。   激痛になったり痛みが引いてゆくことを繰り返していました。   食べても痛いし、水でさえも沁みて痛い、風が当たっても痛いという事になり、スマホで調べたら舌癌でステージ4、リンパ転移後に死亡という画像を見て、翌日すぐに大学病院に行く事になりました。  生存率も高いという事で、手術をする事になりました。  難病、リュウマチと戦ってきて、そのあとの癌でした。 人生を全うしてもういいかなと思いましたが、16歳の娘が泣いて「 お母さんに生きていて欲しい」と言われて、まだ娘は私を必要としているんだなと思って、生きる方法を選択しなければいけないと思い手術をしました。  

麻酔から覚めた時には「あ、生きていた」と思いました。  退院前に食道癌が見つかり、二回目のがん告知の方が打ちのめされたような気持になりました。  癌の恐ろしさを改めて感じました。   落ち込んでいた私に主人が「ラッキーだったな。」というんです。  「もし舌癌になっていなかったら食道がんはみつからなかった。  だからよかったんだ。」と言われました。 すべてプラスの方向にとって行けば悪い方にはいかないんだと思えました。  

芸能活動は無理だと思いました。  言葉のリハビリも一進一退でした。  娘が「 ファンの人が待っているからお母さんは歌わなければ駄目。」と言いました。   リハビリを頑張って何としてもステージに立たないといけない、と思いました。   34歳の時に原因のわからない重症急性膵炎(膵臓の病気)になって、48歳の時には特発性大腿骨頭壊死症、リュウマチ、これも全部痛い病気でした。   リュウマチは天気、気温、季節、体調によって痛みが激しく陰湿な痛みです。   

祖父に大事に育てられ、「運のいい星の下で生まれてきたんだよ」と、育ててくれて、私は運がいいから乗り越えられる、チャンスに変えられるというような、根本的な私の性格を築いてくれたのは祖父で、それを引き継いでくれたのが主人です。  後ろからお尻を叩いてくれるのが娘です。

ブログを手術前後以外ははぼ毎日更新しています。  病気を公表してから頑張れというような内容を物凄くいろんな言葉でブログにコメントを頂き、それを励みに頑張ってこれたという事があったので、ブログは絶対更新し続けて行こうと思いました。    病気で苦しんでいる人、病気と闘っている人が世の中にはたくさんいて、頑張っていることを知った時に、頑張ったら大丈夫だとか、あきらめないで夢を持っていたら必ず叶うんだとか、そういうことを発信していけたらいいなと、私は生きていますという事をブログで発信しています。  

2022年3月でデビュー40周年になるので、歌詞を読むところから始めて、やっと曲に乗って歌えるようになったのに1年かかりました。  一曲ずつ一曲ずつ練習して3,4曲歌えるようになりました。  20曲ぐらい歌えるように目標にして、40周年記念ライブを実現させてファンの皆さんに感謝の気持ちを伝えたいと思います。  








 

  

2021年11月12日金曜日

美谷島邦子(「8・12連絡会」事務局長 )・【人生のみちしるべ】ぼくはここにいるよ ~日航機墜落事故から36年

 美谷島邦子(「8・12連絡会」事務局長 )・【人生のみちしるべ】ぼくはここにいるよ ~日航機墜落事故から36年

今から36年前(1985年 昭和60年)8月12日の夜、羽田発大阪伊丹行の日本航空123便が群馬県上野村の御巣鷹山の尾根に墜落、乗客乗員520名が亡くなるという航空機墜落事故が起きました。  この事故で美谷島さんは9歳の次男健君を亡くしました。   乗り物が大好きだった健君にとって初めての一人旅、健君を送り出した美谷島さんの後悔、自責の念は尽きることがありません。    多くの遺族が集まって作った「8・12連絡会」、美谷島さんはその事務局長となり、会報や文集を作り、生きてゆくために支え合う会のかなめとなる役割を果たしてきました。  美谷島さんは去年一冊の絵本を出版しました。  タイトルは「けんちゃんのもみの木」焼けただれれた山にもみの木を植え、来る年も来る年も御巣鷹山に登り続けた母の姿と心の軌跡が描かれています。   その絵本に込めた思い、絶望的な悲しみと共にどう生きてきたのか、美谷島さんの人生の道しるべを伺いました。

朝4時ごろは目を覚まして、ラジオを付けるのが習慣になっています。  散歩をして花に水をやり新聞が大好きなので読みます。 大好きな言葉に赤い印をつけます。 8時半には仕事場に行きます。  最近の中では「求めない」という言葉に関連した言葉を見つけています。  求めないとしたら今まで考えていなかった世界が広がるのかなと思っていて、何かをそぎ落としていきたい、ということかもしれません。  

現在74歳で「8・12連絡会」事務局長、安全と命をテーマにした講演会の活動、20年前にはNPOを立ち上げて、精神障害者の人たちの就労支援、心のケアなどしています。    小学校の講演に行った時に廊下に「コロナでね涙がぽつぽつ落ちてくる」という俳句が貼ってありました。   子供たちはコロナ禍で日々頑張っているんだなあと思いました。 

昨年「けんちゃんのもみの木」という絵本を出版しました。   絵は伊勢英子さんです。 一緒に3年間ぐらいかかりました。  健ちゃんと伊勢さんと3人で毎日会話をするような日々のなから原稿、絵がどんどん変わって行ったりしまして、充実した時間でした。   もみの木は御巣鷹山に主人が小さなもみの木を植えました。  事故の四か月後、クリスマスで耳をふさぐような時期でした。  健を含めて50人ぐらいの子供たちが亡くなり、動物たちとクリスマス会をさせてあげたいなと思って、主人がもみの木を植えました。  *「けんちゃんのもみの木」の朗読 

「あの日たくさんの星が御巣鷹山に降った。  君はどこにいるのどこに消えたの。 ・・・見つけたい、探したい、君のところに行きたい。 ・・・ それから35年、もみの木の話を聞いて欲しい。    お母さんは健ちゃんが突然いなくなった日から迷子になってしまった。  お父さんは目印に小さなもみの木を植えた、健ちゃんにも見えるようにと。 ・・・もみの木は悲しみを聞きながら少しづつ太くなり、悲しみに寄り添って根は強く土の中を進んだ。  ・・・ 大切な物は消えない。・・・ひまわりを育てていた9歳の夏、花が咲いてから1週間で消えてしまった命。 ・・・お母さんはもう一遍聞きたい 健ちゃんの足音。 来る年も来る年も山に登り続けた。  迷子になったお母さんはもみの木に会いに行った。  ・・・またいつかきっと会えるよ。 ささやくうように蝶が舞う。・・・もみの木はいつも枝を揺らして迎えてくれた。  焼けただれた山に植えた小さなもみの木はたくさんの涙を受け止めて、とても長い月日で空に届くような高さになった。・・・「ただいま」の声がした。  お母さんどこに行っていたの、僕はここにいるよ。  ずっと9歳だよ。  お父さん、お母さんと今も一緒。  その日からどこにもいない君がいる。    今日はクリスマスイブ、星になった子供たちと山の動物たちがもみの木の飾りつけを始めた。 ・・・御巣鷹山のもみの木に520の命が灯る。  かけがえのない命の灯り。  消さないで未来に伝えたい。 もみの木は命をつなげてゆく。」

「お母さんは迷子になってしまった」という表現がありますが、駆け上るように健が亡くなった場所にゆくんですが、でもいないんですよね。 何年も登っているうちに迷子になっているのは自分だと思いました。   蝶が来て肩などに止まったりして、ああ健が来たと本当に思う事が何度もあるわけです。   

遺品の靴をようやく抱きしめることが出来るようになった時に、空の向こうから「僕はここにいるよ。」という声が本当にあの時のままというか、そんな感じの声でした。  「もうどこにもいかない君がいるよね。」という言葉がすぐ出てきて、自分の中に心の中にいる健を抱きしめられました。  この絵本の中には「さよなら」を聞く場面もありました。 「さよなら」を聞きたかった。    小学校の講演で、3年生の女の子が「健ちゃんは最後のお空でお母さん、家族、お友達に「さよなら」って言ったと思います。」と書いてくれて、涙があふれてしまいました。 

御巣鷹山にはもう250~260回登っていると思います。  最初に登ったのは事故から4日目でした。   飛行機に私が乗せたんだという思いが、胸の中にありずーっとどうすることも出来なくて、4日目に山に登ることにしました。   まだどこかに生きている、連れて帰ろうと思っていました。  「ごめんね ごめんね」といったことが心に残っています。   2か月後に四国から電話がありました。 健が座っていた隣の席の女性のお母さんからでした。  「私の娘は優しい子でした。 子供が大好きでした。 きっと健ちゃんの手をしっかりと握っていたと思います。」と言ってくださいました。   砕けていた心が本当に自分を戻すことができる、そんな言葉になって、その日から繰り返し繰り返し浮かんでいました。  自分の娘を失いながらも、言葉を掛けてくれて嬉しかったです。

「8・12連絡会」が4か月後に出来事務局長になる。    遺族がこれから生きてゆくのに必死な思いの中でみんなで立ち上げました。   30人ぐらいが集まって(遺族全員で1500人ぐらいいましたが、)、世界の空の安全を促してゆくこと、遺族同士が励まし合って手を繋いでいこうと、緩やかな連帯を目指そうと思いました。  「罪を憎んで人を憎まず」というような思いで、人を支え合う事で一歩ずつ前に進むという思いがありました。   事故から2年後に「御巣鷹山と生きる 日航機墜落事故遺族の25年」という本を出版しました。   大企業との壁、アメリカ製の飛行機のため真相解明への困難さ、など次々といろいろな困難が出てきました。  乗り越えてこられたのは仲間がいたことだと思います。 9年後の中華航空機事故、信楽高原鐵道列車衝突事故、JR福知山線事故も被害者を支援する仕組みが国にないので、それを一緒にやってほしいと要望を出していったり、当事者が発信することの大事さをみんな感じています。  聖地を守りたいという気持ち、安全はここから発信するんだという願いを共有出来て、御巣鷹山はみんなを包み込む優しい山になったなあとここ5年ぐらい思います。  

20年ほど前からNPOを立ち上げ、精神障害のある方の就労支援、生活援助を行う事業所を運営。  55歳の時に受験勉強をして国家資格、精神保健福祉士の資格を取得。 地域の保護士、命の電話の相談員なども経験。   健が亡くなった時に「8・12連絡会」を立ち上げた時に電話を敷いたんですが、「死にたい」と言われ、一緒に泣くことしかできなかった。 明日も生きていよう、という事しか言えなかった。   悲しみはどうやったら私たちのなかで収まってゆくのかという学びをしたかった。   その後命の電話の相談員になりその時に「傾聴」という言葉を知りました。   人の話を聞ける場所を今必要としていると思って障害者の施設を立ち上げました。  私の方が元気づけられるというか、本当に学ぶことが多かったです。  共にいることが一番お互いに理解できることなんだろうなと思いす。  

愛されて育った子というのは人を愛して人への人に対する愛し方というのを知る、そういう子を育てることが私の一番したいことでした。  健を愛して、でも健がいなくなってその悲しみが遺族の人たちの悲しみと繋がってきました。  一番大切なものをつなげてゆくんだという事をその時凄く感じました。  悲しみと命をつなげてゆくというのは大きなことなんだとその時知りました。   健を亡くしてからは本当に多くの皆さん支えていただきました。  支えてくれた人たちのと出会いは偶然ではなく必然だったと思います。   だから出会いを大切にすること、それがこれから私が生きてゆく道しるべかなと思っています。  毎日毎日経験したことが、私は本当に人に伝えることだと思っています。  事故もそうですが経験したことを言葉にして若い人たちに伝えたいと思っています。   利益とか効率を優先する社会は悲しむという事を忘れた社会、忘れてしまう社会になって行くんじゃないかと思います。   悲しむって、愛を伝える事だと思います。  悲しんで泣いていいと思います。   悲しむ能力というものを高める、そういうものが人には優しく、そして誰もが暮らしやすい社会に繋がってゆくんだなと思います。  命の大切さ、悲しむことの大切さ、涙を流すことが大切という事ではなく、笑いながらでも亡くなった人の話が出来る、そんなことを沢山子供たちに経験させてあげたいなと思っています。








2021年11月11日木曜日

シーラ・クリフ(着物研究家)      ・着物文化の伝道師をめざして

シーラ・クリフ(着物研究家)      ・着物文化の伝道師をめざして 

1961年イギリス生まれ、日本に来て35年になります。   着物文化が続くことを願い着物の魅力を世界に発信しているシーラさんに話を伺いました。  

電車に乗って行くときは必ず着物を着て行きます、又人に会う時にも着ます。  近所への買い物とか掃除の時などには着ません。   着物の場合は帯があるから姿勢がよくなると思います。  歩く歩幅が洋服よりも狭いです。    着物に合う色を小物に持ってくることが凄く多いです。   たまにサプライズに反対色のコーディネートする時もあります。    着物は柄と柄を合わせることがとっても楽しいです。  洋服には柄と柄は合わせられない。 着物は形が変わらないから柄はとても重要です。   着物は150から200ぐらい持っています。   自分のものだけではなく、子供の着物、振袖、留め袖、男性の着物、資料として面白いものがあるので取っておいています。   着物の購入先はインターネットでも買うし、古着屋、骨董市などです。   呉服屋、着物ショップには見に行きますが、小物程度です。   リサイクルが90%、あと10%は尊敬する職人の技術が凄くいい人のもの。    新しいものを買わないとストップするので新しいものを買うことも重要です。  選ぶときは凄く楽しいです。    着物の魅力はファッションとして完成されていて、一つの着物で沢山のイメージできるから、帯、小物を変えることで全然違う雰囲気が出せるからファッションとして面白い。  

洋服はどこで作られているかわからないが、着物は日本の「ここで」生まれている。    理由があって、昔からこの産業があったとか、その地方独特の植物から糸とか染料が出来たりするので洋服とは全然違います。   人間と場所を繋いでゆく。  形が変わらないためにほかの人に譲る事が出来るので、人間と人間を繋いでゆく。   

着物の発信としては、2001年にイギリスの大学で自分の着物を展示しました。  着物を見せたり着物の着付けとかデモストレーションしたり、去年ビクトリア博物館で大きな展示会がありました。  日本の若いデザイナーをビクトリア博物館に紹介して、彼らの作品もそこに入っています。   本に書いたり、海外ではワークショップをやったりスピーチしたりしています。   日本の骨董屋さんみたいなところに着物があったり、古着屋にちょっとあったりします。   外国では黒羽織とか、喪服が流行ったりしています。  喪服が柄がないから黒いコートみたいな感じで着て行きます。   ボロもよく着ています。  Gパンは穴が開いているのを着ているので同じような感覚で着ていると思います。    

大学では二つの授業を持っています。   ワークショップ的な授業で着付け教室みたいになっています。   もう一つは着物にまつわる背景、文化、歴史の授業です。  凄く人気があります。   受ける学生は1~3年生です。   

24歳で日本に来ました。   アート的な仕事を、と思っていました。   絵、彫刻、演劇の勉強をしました。   ロンドンで空手の傍系で新体道を習っていてそれが日本に来るきっかけになりました。   骨董市に行って、焼き物を見に行ったら綺麗な着物がハンガーに飾ってありました。   美しくしなやかで色は鮮やかで模様も面白くて、或る時に長襦袢を買ってしまいました。   長襦袢は下着だと言われて、吃驚してこんなに美しいものをどうして隠すのと思いました。   色々あって日本に住む事になりました。  着物をもっと知りたいと思いました。    英会話を教えていた時、そこの先生が着物を着たいのかと言って、着物一式をもってきて私に着せてくれました。  その時代に流行っていた白い訪問着でした。   英会話をしっかり教えるために東京にあるテンプル大学で夜間に通って指導者のための資格を取りました。   

日本の昔の宗教の本を読んで恐山を見たかったので自転車で東北旅行をしました。   上野からの夜行電車に自転車を積んで青森で自転車を組み立てて青森県一周をしました。  別の年には山形に行きました。  一人旅だったので人が声を掛けてくれたりして、やさしさを感じました。

山形を回った時に河北町、べに花の産地で見に行きました。  去年は丹後ちりめんの返しの役割を務めていたので、京丹後へも何回か行って職人たちの素晴らしい仕事を見に行きました。   種類も豊富で日本の技術は素晴らしいです。   無くなっては欲しくないです。  質が物凄く高いから海外に着物の文化を紹介したいと思いました。  若い着物のデザイナーの方たちとの交流もしています。   今までにない柄とか新しい布の開発をしたりいろんな新しい提案をします。    

メーカーとユーザーを繋ぎたいと思って、ユーザーの研究が必要だと思って、50人の箪笥の中身を調査しました。  まだ全部まとめていないが、保存の仕方に大分違いがあることが判って来ました。    若い人は桐箪笥は持っていなくて、衣装ケースに入れたりして全然違います。   私が来た当時と比べて着物を着る人は増えています。     日本人は着る機会がないという人が多いんですが、外に行く時が着物を着る機会だと思っていますので、選択の中に入れて欲しい。    着物の中にファッション雑誌があってもいいんじゃないかと思います。  着物の勉強をもっとしたいので、着物に関する産地、土地へ行って見学したいです。





2021年11月10日水曜日

村井章子(翻訳家)           ・天職になった経済書の翻訳

村井章子(翻訳家)           ・天職になった経済書の翻訳 

1954年東京都生まれ、大学卒業後商事会社に就職、外国との商取引に必要な手紙や企画書などを翻訳するビジネス翻訳に従事しました。   その後フリーの翻訳家に転じ、経済書を中心に本の翻訳に携わり、35年間でなんと70冊余りの翻訳を手掛けたという事です。   主な訳書にジャン・ティロールの「良き社会のための経済学」、マルク・レビンソンの「コンテナ物語」、アランの「幸福論」などがあります。

ニール・カーネマン 心理学者でもあるが行動経済学の父と呼ばれている方が書いた「NOISE」を訳し終えました。     本書は、専門家たちの意思決定で生じるばらつきのことを「ノイズ」と呼んでいます。  法律家、科学者、医者、エンジニア、その他いろいろのプロフェッショナルが、同じ問題について判断するにもかかわらず結果がバラバラになることがある。  


一日何ページと決めてコツコツやります。   300ページを3か月といった時に最後に最低2週間取っておいてチェックをする時間が必要で、実際には2か月半でやらないといけない。  500ページになるとチェックをする時間が1か月は必要で、その分急いでやらないといけない。   9時から5時まで翻訳の仕事をしています。   急ぎの時には夜中までやったりします。   

小さいころは少年少女文学を好きで読んでいました。  書くことが好きで、作文、読書感想文などがあるが、それらが好きでした。  戸山高校では国語の先生が1年から3年までずーっと一緒で、大変影響を受けました。   上智大学文学部仏文科を卒業、商事会社に就職し輸送機械部に配属されました。    最初面喰いましたが、貿易実務の勉強、商業フランス語の学校に通ったりしてようやく形になりました。   フランス語検定の資格を取りました。   7年間勤めて退社してフリーになりました。   フランス語と英語のビジネス翻訳を引き受けて行きました。   ダイヤモンド社から出している雑誌に掲載する論文があり、その翻訳を何度かさせてもらいました。  評価されて本の翻訳をやってみませんかと声を掛けてもらいました。   コンスタントに仕事が来るようになって今に至っています。 

経済学は論理的なので、誤訳しにくいし、経済学はたくさん資料もあるし、検証しやすいという事もあり好きでした。   文学では作者がすべてになってしまうので、一回間違えると全部間違えてしまいそうなところもあるので。  

「資本主義と自由」ミルトン・フリードマン  1962年に出版されているが、やりましょうという事になりました。  難しかったです。  娘からいいろいろ指摘がありました。  

ファスト&スローダニエル カーネマン   行動経済学の祖と言いますか、経済学者ではないのに行動経済学を興した人です。  心理学者です。 いかに人間は騙されやすいかという事を言っている。  クイズ形式でとても楽しい本です。  錯覚の例を沢山挙げています。  人間の思考は速い思考と遅い思考があるが、通常は速い思考で直感的に判断してしまうので大間違いをしてしまう事もある。  

「道徳感情論」 アダム・スミス   「国富論」でも有名。  山岡洋一さんが「国富論」を頼まれないのに自分で翻訳して、出版社に持ち込んで日本経済新聞社から出すという偉業をされました。  つぎに「道徳感情論」だと言っていたが、急逝されてしまいました。  思わず私がやりますと言ってしまいました。    やってみたら本当にいい本で間口も広く深い本でした。   世間は移ろいやすいものだから、世間の評価に一喜一憂することなく、中立な人の声にいつも耳を澄ましているようにという事が大きな流れとして「道徳感情論」の中にあります。   

直訳という事は、可能なのかなと疑問に思っています。  大事なのは原作者が言いたいことを日本語でどう書くかという事が翻訳者の役割だと思っています。  実は森鴎外が言っていることと私が考えていたことが一緒でした。   昔は経済に関することは経済学者が訳すものがスタンダードでしたが、学術書はそうですが一般向けの経済の本はプロの翻訳者に頼もうという流れが出来ています。   経済学に関する翻訳は女性は少なくて、嫌われている分野でよかったなあと思います。  父も経済で本が一杯家にあり父からいろいろ教えてもらいました。    まず原文を読んで理解することが大事です。   そこで初めて日本語に書くという事が出てくる。    







 


2021年11月9日火曜日

野村潤一郎(獣医師)          ・愛玩動物の命を守り続けて

 野村潤一郎(獣医師)          ・愛玩動物の命を守り続けて

コロナ禍や在宅ワークで人との触れ合いが制約され、犬や猫などの小動物に癒しと安らぎを求める人が増えていると言われています。   都内の獣医師野村さんは犬や猫は勿論古代魚から亀、ワニ、蛇など持ち込まれるあらゆる動物のけがや病気に年中無休で診察に当たっている熱血獣医師です。    野村さん自身100頭を超える動物を実際に飼育していて、気温、水温、運動環境そして糞尿の始末という衛生管理に至るまで、自ら汗を流して世話をし、動物たちに最適の飼育環境をと腐心続けています。  私たちの家族の一員として暮らす愛玩小動物と人との深い歴史とよりよい関係について伺いました。

35年獣医師として動物たちの面倒を見ています。  犬、猫、爬虫類、トカゲ、魚、蛇、亀などあらゆる飼育動物の診察をしています。  獣医師は牛、馬とか仕事をさせたり人間の食卓にのぼるような動物たちの病気やけがを治すというそういう仕事でしたが、最近は人間の心を満たす意味でも動物たちを飼う方が非常に多くなりました。   それで獣医師も3つに分かれました。  ①大動物の獣医(馬、牛など) ②中動物の獣医(豚も含む)  ③小動物の獣医(その他の愛玩用など)です。   

商取引をするときに単価というものがありますが、少なくなってきたために、今上昇する傾向があります。   動物を購入する人が増えたという実感もあります。   ペットのなかで1位は犬ですが、人類最古の家畜であり、人間の最高の友達です。   チワワから大きなものはナポリタン・マスティフ、セントバーナードなどがいます。  この間来たチワワは成犬で680gしかなかったです。  大きい犬は100kg超える犬もいます。  こんなにバリエーションのある生き物はほかにいないです。   人間のニーズにこたえてきた結果なんです。 人間にとっても役に立ち、犬たちにとっても生活戦略、DNAを未来に存続させるために有利だという事で、お互いに利益が合致して何万年もやってきた相棒なんですね。  動物たちは大人になって行くための予行演習としていろいろ遊びます。   大人になると野生動物はピタッと遊ばなくなるが、犬は遊びます。  犬は精神的なネオテニーを持っているからです。   家畜は赤ちゃんのまま体が大人になるんで、いつまでも学習能力が長くて人間とうまくやっていけるんです。  犬は人間の感情も理解します。  阿吽の呼吸もあります。  人があの人が嫌いだと思うと犬も嫌いになります。  犬は言語の疎通ではなくても、心で判ってしまう。  大人になった野生動物などは一人前になってどこかへ行っちゃいます。

猫は単独生活の肉食動物です。  ネコ科で群れを成す動物はライオンとチーターぐらいです。  猫は独立心は旺盛ですが、精神的なネオテニーを持っています。  ネオテニーは幼形成と言います。 もっと簡単に言うと子供のまんまで大人になります。  大人になっても飼い主の元を去らないでいてくれる。  猫と犬は根本的に全く違う生き物で、飼い方、接し方が違ってきます。  犬は群れの動物で、群れのボスである飼い主のいう事を聞く様にできています。   猫は群れを成さないので、一人で生きてゆくシステムになっています。   勝手に旅に出て行ったりするので今は基本的には猫は外に出さないです。  猫は放し飼いのほうが本来の猫の仕事ができるわけです、猫の仕事は害獣、害虫の駆除ですから。  猫は穀物を食べてしまう害獣を駆除するために人間に飼いならされた使役獣だった。   動物の世界は二つに分かれていて、①野生動物、②家畜動物です。  人間も野生の世界で生きていたが、農耕牧畜が始まって人間が野生の世界で生きて行かなくてもよくなって、人間圏という村を作った。   人間圏に対して悪さをする動物がほとんどだったが、牛、馬、豚、ヤギ、ヒツジ、犬、猫、フェレット、ハムスター、鶏、七面鳥、アヒル、ガチョウ、日本蜜蜂、蚕などは人間界に入って来る事になる。   犬は万能家畜なのでいまだに飼われている。  猫は今時鼠を捕るという事はないので、失業したわけです。  しかし外観の可愛さから、ペルシャ猫、マンチカンとか、心を満たす可愛い外観を提案してきた。(突然変異を人間が操作しているが、)  フェレットも鼠取り用の家畜です、昔はヨーロッパには猫が居なかったので、イタチに鼠取りをさせたわけです。   フェレットはめげない動物ですし、鳴かない。  飼うんだったら家畜がいいです。

母は19か20歳で僕を生みました。   父は競馬などしていて母が家庭を維持していました。  ですから赤ちゃんの時から鍵っ子でした。  3歳の時に動物との触れ合いがありました。  石の裏などを見ると虫たちが居たりして、そのうち僕の家族のようになりました。   いじくり回しているうちに死んでしまう子もいて、生きる死ぬの概念を僕は知ってしまった。  4歳の時にカナリアが欲しくて、泣いて頼んで祖父が買ってくれました。 母が引き出しにはさんんでしまったためメスが死んでしまってオスがしょげて歌わなくなってしまった。  心があるんだなと思いました。  オスが食べなくなってしまって、亡くなってしまった。  母もワンワン泣きました。   母は仕事から帰って来る時にハイヒールを脱いで帰ってきたそうで、僕が誰かにとられてしまうのではないかと思ったそうです。   動物の母親と同じようでした。  カナリヤのオスが食べなくなって寂しくて死んでしまって、寂しくても死んでしまう事があるんだなと思いました。  

死んでしまうかもしれない動物が助かるともっと大事になります。  野生動物が消滅しないように守ることが、自分たちを守ることにつながるんだと思います。  もっと勉強してほしいと思います、それが人間という生物の未来の保証でもあるわけです。  動物に癒しを求めるのではなくて、動物を癒してあげる自分を育ててあげる。  彼らが求めているのは愛情と生きてゆくための糧なんです。  一方的に可愛いと撫でまわすだけではなくて、命自体を愛せる人になってほしい。  どこを撫でたらいいですか、ではなくて彼らも必死に生きているのだから彼らの要求を満たして生命の保証を与える、それが彼らが求めていることであると思います。  すべてをひっくるめたことが動物を飼う行為である。  たまには動物に関する本を読んでいただきたい。  命そのものに向き合っている自分を育ててみるという風に僕は思います。