2021年11月19日金曜日

亀山郁夫(ロシア文学者・名古屋外国語大学学長)・ドストエフスキー文学にひそむ人生の真実

亀山郁夫(ロシア文学者・名古屋外国語大学学長)・ドストエフスキー文学にひそむ人生の真実 

今年はドストエフスキーの生誕200年に当たります。  ドストエフスキー最後の小説「カラマーズフの兄弟」は日本では2006年に翻訳された新しい作品が累計で120万部を超える異例のロングセラーになっているなど、新しい読者を獲得しています。  長大で複雑な構造を持つ作品はなぜ今も読まれ続けられているのでしょうか。   翻訳されたロシア文学者の亀山郁夫さんはコロナ禍に翻弄され不透明な現代に生きる人にこそ読んで欲しいと言っています。   今日は「カラマーゾフの兄弟」を例にドストエフスキー作品の魅力、真意を探り現代に通じるメッセージを読み解いていきます。

3年に一度国際ドストエフスキー学会が開かれています。  2019年にボストンで、2016年にはスペインのグラナダという場所で行われました。   2022年は日本の名古屋大学で行われる予定です。  すでに海外から120名の応募者があります。  2022年3月に予定されていましたが、コロナ禍で8月に延長されました。  ドストエフスキーはモスクワの病院で生まれてそののまま博物館になっていて、近代的なアミューズメントとしてリニューアルされるという事です。   

21世紀は一種弱肉強食と言ってもいいようなそういう時代が現出してしまったわけですが、そういったものを克服しようという動きが20世紀前半からあったのにも拘わらず、そういった理想が全部潰えてしまって、19世紀の帝政ロシアに舞い戻ってしまったような、弱肉強食的な世界がむしろ善とし良しとするような風潮がはびこっている、そうした時代の類似性というものが19世紀のロシアにあるという事なんです。  それを背景にドストエフスキーは長編を書いたわけですが、背景にあるのは拝金主義なんですね。  ドストエフスキーは強い危惧を感じて執筆するわけです。    現代の漠然とした危機感に通じるものがあると思います。  

人生100年時代というのは人生いかに生きるかという問題だと思います。  如何に生命の持っている価値というものを永続的なものにするかという事ですが、生命というもののすばらしさに対する自覚というものを持たない限り、人生100年時代というのは全く無意味な時間の流れになってしまう。   ドストエフスキーはしっかりと我々に目覚めさせてくれる。   

物語の舞台は19世紀後半、ロシアでは農奴解放が行われた時期のそれが実現した後のロシアの田舎町のなかで起きる事件です。 カラマーゾフ家が住んでいる。   父親はフョードルでカラマーズフ家には3人の兄弟がいる。   上からドミートリイ、イヴァン、アレクセイの3人がいて、カラマーゾフ家の料理番をしているスメルジャコフという男がいる。  或る日突然父親のフョードルが殺害される。  フョードルは12万ルーブル(約1億2000万円)の遺産をっ持っている。   酒も、蓄財も、女性も好きというような破天荒な人物で、みんなが嫌っている。   元夫的な父親像を担っている。  犯人として長男の名前があげられる。  逮捕され裁判にかけられる。  最終的にはシベリア送りになる。 冤罪。   この時代の皇帝はアレクサンドル2世で、農奴解放と同時に様々な改革を行ったが、最大の成果が陪審員制度で、この小説は陪審員制度によって裁かれる人物を描く最初の小説と言われていて、興味深い意味を持っている。  陪審員制度によって人は裁けるのか、人間の罪の根本をしっかり見定めたうえで、罪というもの、罰というものが下し得るものなのか、という問題性を「カラマーゾフの兄弟」を読むうえで一つの大きな興味のポイントになると思います。   

ミステリーサスペンスがあり、最後に犯人が明かされるが、父親を殺した犯人は現場から最も遠くにいた人物が犯人だという事になるが、罪とは一体何なのか、犯罪における罪の核心はどこにあるのか、という時に真犯人という考え方をドストエフスキーは根本から変えてゆくんですね。  その人物はどのような意味において父親殺しの殺人にコミットしているのか、という事をなぜ罪深いのかという事を問うてゆくわけです。

高校2年の春休みに読みました。  中学生の時に「罪と罰」を読んで犯人と一体化して 、自分が逮捕されるのではないかと思う程恐怖を抱きました。   ドストエフスキーを遠ざけてきましたが、先輩が全国読書感想文コンクールで銀賞を取って、触発され読もうと思いました。  その後読んだのが大学3年生の時でした。  私の父は40代で校長先生になるぐらい教育界では出世をしましたが、或る事件に巻き込まれて退職せざるを得なくなるという事になり、その後一介の教師として退職する、その鬱屈、挫折した思いがあり、家族に対して横暴な側面がありました。   末っ子として父親を見ていた時に、父さえいなければどんなに楽しく暮らせて行けるのだろうか、という思いがどんどん煮詰まって行って、自分の家を恥ととらえるようになりました。  「カラマーゾフの兄弟」を読んだ時に、自分の問題ではないかと思ったぐらい、読み進めていきました。 

ドストエフスキーが人生の総決算として彼が考えた時に、自分自身の人生のすべてを書くんだという思いがあったと思います。  一つは父親の死(17歳の時に経験)、父親は横暴で酒癖も悪い、農奴たちの憎しみも買っていたらしい、一説には農奴たちの恨みを買って殺害されたという説がずーっとあった。   父親が殺されたかどうかではなくて、父親の死という現実そのものをドストエフスキー自身がどうとらえていたのか、父に対する憎しみ、嫌悪、といった潜在意識レベルでのドストエフスキーのドラマというものがあったに違いないと、裁判のなかで次男のイヴァンは「父親の死を望まないものは誰もいないんだ。」と傍聴人たちに公然と叫ぶわけです。 ドストエフスキーが蓄積したある種の思いの炸裂というか、自伝的な側面で自分自身が父親の死を望むという、何故そうした思いに自分自身が駆られているのかという事。 

ドストエフスキーの父親が殺されるのが1839年6月で、その年の9月に兄にあてた手紙のなかで、「人間とは謎なんだ、この謎を解き明かすために一生を費やしても無駄ではない。」と17歳だった少年が書いているんです。   父親が殺される非常に複雑で劇的な経験、父親の死を望むという自分の中に潜んでいた恐ろしい欲望の発見というのは非常に衝撃的なことだと思います。   ドストエフスキーはいつかこのテーマを正面から取り扱おうと覚悟を秘めつつ50何年間生きてきた。  

父親という事は他者へと大きく変容してゆくわけです。  他者の死を願望するという意識の恐ろしさに繋がってゆく。  1849年12月ドストエフスキーが28歳の時にユートピア社会主義を講じるグループのメンバーとして会合に参加するが、全員逮捕される。  半年後に21名の逮捕者に対して死刑の判決が出る。   ドストエフスキー自身も死刑判決されて直前に死刑から免れるが、国家から監視される。  フョードルの真犯人と下手人、下手人がカラマーゾフ家の下男の料理人スメルジャコフ、スメルジャコフという名前を分析してゆくと「嫌なにおいを発する男」という意味で、料理人で潔癖な男なのでそれはあり得ない。 スメルドというのは農奴という事で、ドストエフスキーの父親を殺したのは農奴という事でそういう構造が重なって来る。  

三男のアレクセイは次男イヴァンに向かって「父を殺したのはあなたではありません。」と言っています。   アレクセイは修道僧なので一種神の言葉を預かって生きてゆく人間の言葉なので、イヴァンには罪がないんだといかにも読者に印象付ける言葉のはずなんですが、「父を殺したのはあなたではありません。」と繰り返し言っているのは全く逆で、「父を殺したのはあなたです。」という事です。  事実としてはそうだけれども、事実にはもう一つの真実があるんだと、「真実の殺人者、父親殺しはあなたですよ」という事を言いたいんです。  料理人スメルジャコフは「父親殺しの真犯人はあなたです。」と言明する。イヴァンはスメルジャコフをそそのかして、スメルジャコフは教唆されたんだと考えるわけです。  スメルジャコフはイヴァンに心服しているが、イヴァンが持ってる哲学、神がいなければすべてが許されるという哲学で、イヴァンはこの世の中に神は存在するのかと言う根本的な疑問を抱いている。(無紳論者)    イヴァンは例を挙げながらこれは神がいない証拠だとして神がいなければすべてが許されるという事をしきりにスメルジャコフに働きかけていた。   スメルジャコフは神がいないのだからすべて許されるという風に理解したわけです。   スメルジャコフがやってきた猫を縛り首にするとかサディズムが全部許されるんだというところに行くわけです。  イヴァンはスメルジャコフを守ってくれる唯一の人間なんです。  スメルジャコフはイヴァンがどうも父親の死を望んでいるらしいと忖度するわけです。   イヴァンは死ぬかもしれない父親の動向を何度もうかがったという行為に対して、イヴァンは自分の一生で最も醜い行為だという風に見なすことになる。ここに最大の問題がある。   イヴァンは自分を神の立場に立ったことにするんですね。 父親のフョードルが危ないから寝室からは出てはいけないとか言わないで、知りながら黙過する、見過ごすわけです。   最も醜い行為だと執拗に表現してゆくわけです。    人間は日々罪人として生きているという、根本的な世界観がここに現れてくるんですね。  人間のだれもがすべての人すべてのものに対して罪があるという、これがドストエフスキーの共感力の原点なんですね。  これが判らないとドストエフスキーの文学は判らないんじゃないかというぐらいに最も根本的なテーマで、これが人が人に対して思いを抱くという事の出発点。  最晩年にドストエフスキーは「私は心理家と呼ばれているが、これは正しくない。  私は最高の意味でのリアリストなんだ。  すなわち人間の魂のすべての深みを描くんだ。」と書いている。  17歳の時の出発点と見事に重なっていると思います。 人間の生きる喜びとか生命力のすばらしさだとか、生命の価値とか、トータルな面で人間というものを描いている。  私がドストエフスキーの言葉のなかで一番好きなのが「人を愛する者は人の愛するものも愛する。」という言葉です。