一龍斎春水(声優・講談師) ・【時代を創った声】
春水さんは麻上洋子さんの名前で長らく声優活動をしていました。 アニメ「宇宙戦艦ヤマト」オリジナルシリーズの森雪役といえばご存じの方も多いんじゃないでしょうか。 シティーハンターの野上冴子役などでもご存じの方も多いんじゃないでしょうか。
声優として本格的に始めたのが20歳からです。 40歳になった時に講談と出会って、春水という名前を師匠から頂きました。 声優は麻上洋子で講談は一龍斎春水で仕事をしていました。 60歳で一龍斎春水に統一しました。
神奈川県の藤沢市の出身で、小さいころから体が弱くて、小児結核という病気で幼稚園にも行けず、祖父母に本を読んでもらったり、一緒に相撲を見ていたりしていました。 親が絵本、紙芝居、ソノシート(フランスのS.A.I.P.というメーカーで開発された、きわめて薄い録音盤)を買ってきてくれて、表情豊かにドラマティックに読んでいるのを聞いていて、声を出して読むという事が大好きになりました。 小学校の国語では積極的に手をあげて読む子でした。 小学校4年生で放送委員になって、お昼は全部放送室でした。 中学、高校でも放送クラブ、放送委員という事で声で表現することが大好きでした。 高校卒業した後の秋に黒沢良先生が、黒沢良声優学校を始めましたので、受験して一期生になりました。 30名の生徒がいましたが、年齢もばらばらで、芸歴もバラバラでした。 私みたいに芸歴が何にもない人は4人いました。 1年間の予定でしたが、基礎の勉強等含め2年間学びました。
『ゼロテスター』のリサ役で初レギュラーで、その後オーディションを受けて「宇宙戦艦ヤマト」の森雪役をやる事になりました。(1974年) 大先輩に囲まれて、酒の席で言われたことは目標は芝居で、声優は芝居の中のセリフでその日の食べ物を稼ぐんだと、うまい酒を飲むために芝居もやるだ、というようなことを言っていました。 声優を目標にしてはいかんのだ、と言われました。 早野寿郎先生のところで劇団に入って勉強を始めました。 舞台をやると身体で動きを覚えてゆき、動きの中の一部にセリフがあるという事を実感できました。 お客さんの息吹も感じ空間が体の中に入ってきたり違う事が一杯ありました。 『シティーハンター』の野上冴子役をやるようになったのが1987年です。 色っぽい大人の役をやりたいと思っていたときに野上冴子役がきたので嬉しかったです。
役柄が狭いために大改革をしなければと思って、もがいているときに講談と出会いました。(40歳) その前に朗読(劇読)を10年間やっていましたが、あまり変化がなくて、日本の話芸を勉強する気はないのかと言われ、講談が合うかもしれないという事で先生を紹介されることになりました。 一龍齋貞水師匠に会って、師匠のDVDを一緒に見ました。 一龍齋貞水師匠の生の舞台を袖で見聞きして、入門をお願いしました。(1993年) そこには古い慣習の世界がありました。 真打には2004年になりました。 古典だけではなく野坂昭如さんの「火垂るの墓」を講談化してやってみました。 「三方ヶ原軍記」をやるように言われて、意味も判らなかったりして、武田信玄と家康が初めて戦った戦であり、私にとっての戦とはと考えた時に、「宇宙戦艦ヤマト」であると思って、「宇宙戦艦ヤマト」を講談ぽく出来ないかと思って、日夜頑張って5分だけ作りました。
*講談「宇宙戦艦ヤマト」 講談師:一龍斎春水
若い声優へのアドバイスとしては、経験が大切で、どんなことをしても役立つと思います。 兎に角今を大切に、今自分は何をしたいのか、自分は何を目標にして、何をクリアして何をやって行こうとしているのかをちゃんとわかって、やってほしいなあと思います。 先輩などに感謝してやってゆくことが大切だなあと思います。