2021年2月28日日曜日

園田隆一郎(指揮者)          ・【夜明けのオペラ】

園田隆一郎(指揮者)          ・【夜明けのオペラ】 

44歳、東京芸術大学指揮科卒業、大学院修了、在学中にイタリア、シエナのキジアーナ音楽院にてジャンルイジ・ジェルメッティ氏に師事、2007年に藤原歌劇団『ラ・ボエーム』の指揮で日本デビュー、その年の夏にイタリア、ペーザロのロッシーニオペラフェスティバル「ランスへの旅」の指揮に抜擢され、話題となりました。  以後国内外のオーケストラやオペラで活躍をつづけ、現在は藤沢市民オペラ芸術監督も務めています。  

小さい時には音楽は嫌いではなかったですが、あんまり覚えていないです。  ピアノは6歳から10歳ぐらいでやめて、吹奏楽を始めてトランペットを始めて楽しくて、中学でトロンボーンを始めて以降のめり込みました。   上級生が指揮をしているのを見てかっこいいなあと思って、高校2年生の時にやらせてもらいました。    受験勉強では音楽方面をやってみたいと思って、歌、ピアノなど歌曲を勉強するようにと先生から言われてやりました。   東京芸術大学に入った時にはオペラをという気持ちはなかったです。    

大学4年生の時に、大学院の先輩が演出をして、ロッシーニの『チェネレントラ』というシンデレラのオペラがあるんですが、これを絶対やりたいという事で、声を掛けられてみんなで手作りでやらせてもらいました。  それからロッシーニにはまってしまいました。

*『チェネレントラ』 第一幕フィナーレのアンサンブルの一部

イタリア、シエナのキジアーナ音楽院の夏期講習の案内が張られていて、指揮科はロッシーニをやるという事で書類を書いて出したら、行くことになりました。   全世界から40人ぐらい来ていました。  オーディションがあって10人ぐらい残りました。  3週間ぐらいしっかりとやりました。  ジャンルイジ・ジェルメッティ先生のもとで勉強しました。   その後2002年より文化庁在外派遣研修員としてローマに留学しました。

ジャンルイジ・ジェルメッティ先生はローマ歌劇場の音楽監督のポストにいました。   色々有意義な時間でした。   ロッシーニの権威アルベルト・ゼッダ先生とも親しくさせていただきました。   ゼッダ先生とは全然面識がなかったんですが、自分の履歴書と演奏したDVDをつたないイタリア語で書いてゼッダ先生宛に送りました。    秘書から返事が来て会いたいという事でした。    会うことが出来てじっくり話をすることが出来感激しました。   1年後に秘書から電話があり2007年のフェスティバルの「ランスへの旅」、あなたに指揮してもらいますという事でした。  先生のアシスタントとして同行してロッシーニの音楽の神髄を学ぶ機会をいただきました。

*オペラ「泥棒かささぎ」 第二幕フィナーレの冒頭

ヒロインが自分と同じ階級の恋人や愛人がいるにもかかわらず、権力者から横恋慕され悲劇が始まる。   権力者に囚われたヒロインが冤罪に陥れられ、それを嘆くヒロインを描く法廷の場や牢獄の場を書き入れる。  絶体絶命のピンチに陥ったヒロインが、最後は二つの階級を超越した立場の領主や国王などの絶対的な権力者によって救われハッピーエンドとなる。

ロッシーニはシンプルですが、それを生かすも殺すも演奏者、指揮者とか次第で、楽譜通りに正確に演奏したらそれで面白いものになるかというとそうではないと思う。   スペースが与えられているというか、演奏者のイマジネーションとか、テンポを速くしてもいいとか音を足したりすることも許されていて、曲の魅力を倍増することが出来る。   指揮者もそこにどれだけの自分らしさ、情熱を加えることで作品を生かすと言う事はゼッダ先生を見ているとすごく思いました。  

ヴェルディも好きな作曲家ですが、難しいと思っていましたが、挑戦していきたいと思って初期の作品のオペラ「ナブッコ」を取り上げて、今回選びました。

*オペラ「ナブッコ」  








2021年2月27日土曜日

水谷豊(俳優・歌手)          ・【私の人生手帖(てちょう)】後編

 水谷豊(俳優・歌手)          ・【私の人生手帖(てちょう)】後編

受験に失敗し、挫折の中で決行した家出の詳細、戻って俳優として歩き始めても結婚しても気持ちが定まらないなか、俳優として仕事をしてゆくと腹を決めたある出来事、そして60歳を過ぎて満を持して取り組んだ映画監督への強い思いなど、まさに人生手帳の一ぺージ一ページにつづられたその時どきの思いを伺いました。  

岸田森さんを尊敬しています。  僕のことを気にいってくれました。   「一番高尚の芝居とは何か、それはその人そのものに見えることなんだよ。   それが一番高尚なんだ。 どんな役をやってもその人そのものに見える。」と言われたことが、一番の言葉として残っています。  目指すのはいつもそれです。  岸田森さんが若くして亡くなり、それで全く仕事をする気がなくなってしまって、2年近く仕事をしなくなってしまいました。(33歳ごろ)   NHKの深町さんから一緒にやりませんかと声がかかって、「ドラマ人間模様」というドラマに出演することになりました。   いろいろいい作品に出合いましたが、それにはまずいい人に出会ったなあという思いがありラッキーだったと思います。   

アングラで俳優をやっていた時代の蜷川さんとの出会いもあり、「相棒」で小劇場を借りたときに、30年ぶりに会って、涙を浮かべて抱き合いました。   やるたびに観に行かせてもらっています。   

自分でもどこからこんなエネルギーが出てくるんだろうと思います。  思いを持つことは誰でもできると思うんですが、持ち続けることはできない、持ち続けることが出来たらそれも才能だと思います。  小さいころからなにかに向かうと夢中になっている自分はいつもいたと思います。    

2019年公開の監督2作目『轢き逃げ 最高の最悪な日』では脚本も手がけました。   人には興味があり、人って何だろうと永遠のテーマだと思います。  それが表現できる時が面白くて、コメディーでもいいし、シリアスに描いてもいい、見る側として好きですね。   映画では加害者の心理、人を描くというところに興味が行っているんだと思います。   監督は全てに責任を持たなければいけないと思います。  そのためにはいい人と出会いたいという思いがあります。 方向性をまず監督が示さないといけない。 役者と監督では・・・・うーんやはり監督ですかね。

性格的には終わってしまったことは、何の苦労もないタイプであり、いい思い出になってしまう。挫折と言われると、10代の時にアメリカに行けなくなった、大学を落ちたさあどうしたらいいかという時が今思うと一番だったと思います。  18歳で大学を落ちて2か月間家出をしました。まずは公園とかに野宿しました。   夕方飛び出して、夜中じゅう歩いて、高尾の山も越えて、車がきて乗せてくれて、おじさんの釣りに付き合って、その後泊めてくれて翌日2000円をくれて、ボーリングをやって残りが400円になって、パチンコをやったら出るわ出るわで3日間やりました。  洗面道具を買って銭湯に行って、新聞をたくさん買って敷いて諏訪神社で野宿して、3日間で1万8000円ぐらいあり、そこから2か月帰ってこなかったです。  その人に出会わなかったら全く違った人生を歩む事になっていたでしょう。  人との出会いですね。

娘(趣里)には芝居の世界には来ないようにと言っていましたが、イギリスに留学して、午前中勉強で午後バレエをやっていましたが、足を骨折したりアキレス腱を切ったりして、続けることが無理という事で早めに帰ってきて、大学に行き始めました。   自分も舞台の世界に行きたいという事で、結局認めることになりました。   僕と蘭さんとも全く違っていて見ていて楽しいです。     演技のことは聞いてきたら話しますが、めったに僕からそのことは話さないです。     

いろんな意味で豊かにしてくれる人たちと出会ってきたことが出来て良かったです。

今とちょっと先のことしか考えていないです。  60代の内にもう一本撮りたいと思っていますが余り時間がないですね。  50代でバランスが取れてきたような気がして、60代になって残り少ないが、70歳代になったら何に向かおうとする自分がいるのか、楽しみです。











2021年2月26日金曜日

繁延あづさ(写真家)          ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】"命"のもっと奥へ

繁延あづさ(写真家)     ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】"命"のもっと奥へ 

1977年、昭和52年兵庫県姫路市生まれ、18歳で上京し桑沢デザイン研究所を卒業後、写真家への道を歩み始めます。   27歳で結婚3人の子供を育てながら仕事を続ける中で、出産の現場をライフワークとして撮影し、様々な家族の物語を見つめてきました。  繁延さんの新たなライフワークが狩猟の現場です。   狩猟を撮影する中で写真家として、母として感じたこと、その奥に見えてきたものとは何か、伺いました。

東京から長崎に移住して、10年になります。   山の上まで家が並んでいるのが凄くおかしく感じました。  中3、中1、の男の子と7歳の女の子がいます。   一番上の子が生まれたときに、子供を抱っこしてスーパーに行くか、児童館に行くか、公園に行くかそれだけの生活になった時には3km圏内での生活になりました。   自分の世界ががらりと変わってしまいました。   子供を産んだことから自分の目に違って映ってくるものが出てきて、半径3kmの中にあるもので、そういったものをもうちょっと見てみたいと思って、出産撮影を始めることにしました。   出産って感動的なものと思っていましたが、全然違って凄く疲れて、凄いうなり声をあげて、イメージが違っていました。   痛いのが最後まで行くと死んでしまうような、怖い感じがありました。   初めての出産する人に立ち会う時には、うらやましいと思っている自分があります。

「うまれるものがたり」を出版。  家族、おじいちゃん、おばあちゃんだとかが心配で緊張感だったり不安だったりしている顔が、そののちには抑えきれないような喜びの表情に変わってゆく感じが、感動します。   写真、文章が「生きていると感じるとき」というタイトルで中学生の道徳の教科書にも掲載されています。   命とは判らないが興味があります。

長崎に引っ越こした時に、細い道を通って帰るのですが、よけ合って帰るわけですが、或る猟師さんに出会って、おじさんがイノシシやシカの肉を持ってきてくれるようになりました。  それが生き物だったんだなあと思って、肉のその前を見たいという事を知りたくなりました。   頼んで見に行きました。   生き物が人間に殺されて肉になってゆくところですかね。   目の前で起こる展開が予測していなかったものばっかりで、イノシシの暴れる音、いななく声など圧倒されました。   槍みたいなもので心臓を一刺しで殺しましたが、物凄い音が響き渡っていたのに、イノシシの声も消えてバタンと倒れたのがすごく印象的でした。  魂が抜けるような感じでした。  

「山と獣と肉と皮」を昨年出版しました。  自分の中にも残したいという思いがあり、写真だけでなくて言葉にもしておきたかった。  猟奇的とか思われるのも心配で慎重に文章を選びました。   何度も山に行っていると、人の世界が違って見えてきたりして、自分の感覚が変化していっているので、その感覚を残したかった。   その現場を見たあと「絶対おいしく食べてやる」と強く思うようになりました。   イノシシが山で死んでゆくときには「これは若いオスだ」と言われたときに、息子のことを思い浮かべでしまって、可哀想、悲しくて、いろいろ想像してしまって、「絶対に美味しくする」と関係しているのかもしれません。   命というものの端っこにやっとたどり着いたというか、山に行くと判ることの一部かと思います。   腐乱死体を見たことがありますが、腐臭が立ち込めていて、見てはいけないような感じで怖い風景でしたが、おぞましい感じがして、頭の中に残っていて、骨だけのものも見たりしていて、ゴミがないんだなという風に、風景が段々違って思えてきて、人間の世界との違いみたいなものも見えてきてハッとさせられました。

イノシシの腹を開いて内臓を取り除いて、アバラ骨見える状態で干している状態の表紙の写真は結構反対が多くて、帯で下半分が隠れるような形になりました。   帯に俵万智さんの短歌を載せてあります。  「イノシシの命輝くししむらの死体となりて肉となるまで」私の表したかった部分になると思います。

夫も私も無職で長崎に移住したようなものだったので、状況的にはピンチでした。    移住する理由は特になかったんですが、地方に移住したいという事があり、大震災があったり、真ん中の子がアトピーで住んでいる処では光化学スモックが多く発令されて、そういったことがいろいろ関係したと思います。   

「肉はなにからできてるの」と娘から言われてハッとして、大人になっているほうの自分の気持ちに気づかなかったりするんだろうなあと思います。  

主人がコロナで失業してしまって、振出しに戻っているので、これからどうやって生きていこうかなというところにいる感じです。















 

2021年2月25日木曜日

清川あさみ(アーティスト)       ・【私のアート交遊録】コンプレックスは個性だ

 清川あさみ(アーティスト)       ・【私のアート交遊録】コンプレックスは個性だ

清川さんは写真に刺繡を施すという独自の作品や、NHKの朝の連続TV小説「べっぴんさん」のオープニング映像、インスタレーション(絵画・彫刻・映像・写真などと並ぶ現代美術における表現手法・ジャンルの一つ。ある特定の室内や屋外などにオブジェや装置を置いて、作家の意向に沿って空間を構成し変化・異化させ、場所や空間全体を作品として体験させる芸術)、広告、CDジャケットと幅広いジャンルで活躍するアーティストです。   詩人の谷川俊太郎さんとの共作絵本は児童書の世界大会の日本代表に選ばれています。  2020年故郷南淡路島のPRアンバサダーとして、生まれ育った淡路島の土地と人のすばらしさを伝えるために様々なプロジェクトをたちあげています。  その一つが「淡路人形浄瑠璃再生プロジェクト」です。   ダイナミックなパフォーマンスで知られる淡路島の伝統的な人形浄瑠璃に自ら手を加えて新しい表現を目指しています。  人形浄瑠璃を初め表現にかける思いを伺いました。

伝統芸能で、人形座の人々に初めて会ったのが2019年の時、公演会に呼ばれて、初めて人形浄瑠璃に出会って、興味があって調べることになりました。   淡路島の人形浄瑠璃は文楽の人形より少し大きくて特徴があります。   大胆な動きで泣いたり笑ったり人間に近い感じがします。

いとうせいこうさんと楽屋が隣同士で 『南あわじ市地域魅力プロデューサー』に就任し、「淡路人形浄瑠璃再生プロジェクト」をやることを話したら、僕も興味あるという事から始まって、脚本を書いて欲しいという事でお話作りからはじまりました。  3月20日に初演を迎えることになっています。

淡路島は海と山と川が一気に見れる場所で自然豊かな場所です。   自然の中で情報が無い場所にいたのでよかったと思います。  自分で生み出すしかない状況だったので、アーティストになったのかもしれません。   建物の基礎になる部分が好きでそういったものを描いたり、牛とか豚とかも描いていました。   絵は成績が良かったです。  自分ってなんだろうと小さい子供のころから考えていました。   地味な感じの洋服を着て、図書館にずーっと一人ゆっくりと閉じこもって、自分の時間を楽しむのが好きでした。   阪神淡路大震災の経験もあったし、周りがどういおうと自分に見合ったものを付けていこうと決心をして、高校の入学式に黄色いリュックサックを背負っていったんです。   周りからは吃驚されましたが、最初に表現できたのが黄色いリュックサックで、どんどん加速していきました。  

ファッションって何といった感じでしたが、一番最初に好きになったブランドがコム・デ・ギャルソンで、ヴィヴィアン・ウエストウッドというブランド、この二つのブランドに出会って自分の精神と初めてバランスが取れて、お金をためて買い求めました。   それでも自分って何だろうと悶々としていました。   好きなものを着ているとそれに同調する新しい友達が増えて行きまして応援してくれました。   東京に上京してその日原宿を歩いていたら、声を掛けられスカウトされました。   メディアの人たちによくしてもらってはいましたが、表に出る仕事は向いていないと思ってはいました。  物づくりのほうに向かっていきました。  「美女採集」展でメディアに取り上げられました。

谷川俊太郎さんとの共作絵本『かみさまはいる いない?』 出版。  個性と個性がぶつかって化学反応みたいに、世の中に新しいものを生み出す力がコラボレーションにはあります。    子供が生まれて、進化の速さに驚かされます。  一緒に物つくりもして、絵本を出しました。 自分に正直にワクワクできるかどうか、作る意味とか理由があるかどうかという事はいつも基準になっていて、その理由がないと作らないようにしていました。

「淡路人形浄瑠璃再生プロジェクト」は500年の歴史があるものが伝わり切れてないとか、伝わっていないとか、これから伝えていかなければいけないという事で、新しい風を吹かしながら伝えていかなければいけないと思っています。  

これからの目標はまだ見ていない、自分が一番ワクワクする物作り続けていきたいし、いろんなジャンルも飛び越えて行けてらいいなあと思っています。

私のお勧めはレディオヘッドで高校校時代から上京して壁にぶつかった時にもずーっと聞いてきました。

健康であること、心と身体さえ元気であれば、夢が無くてもいいかなと、心と体が元気であれば強く生きていけるかなと思います。  







2021年2月24日水曜日

八木波奈子(元ガーデニング雑誌編集長) ・【心に花を咲かせて】ガーデニングブームを起こして25年

 八木波奈子(元ガーデニング雑誌編集長) ・【心に花を咲かせて】ガーデニングブームを起こして25年

八木さんは元々花やガーデニングに詳しいというわけではなかったといいます。   なぜガーデニング誌を創刊されたのでしょうか、そして25年でその雑誌は幕を閉じましたが、それはなぜなんでしょうか。  ガーデニングブームを牽引し、人気雑誌を作ってこられた八木さんにガーデニング誌に込めた思いや、読者の反応で気付いたこと、ガーデニングで伝えたかった事はなんだったのか、25年を振り返っていただくとともに今後について伺いました。 

ガーデニング誌を創刊したのは1992年、インテリアの雑誌をリニューアルさせたもの。  ガーデニングという言葉も知られていませんでした。   どうしても自分で新領域の雑誌を創刊したいとこだわっていました。  何をやったらいいか3年ぐらい探して、イギリスにたどり着いて、ガーデニング雑誌を創刊しようというきっかけがありました。   オープンガーデンのシステムがあり、入場料をチャリティーマネーとして集めて大きく社会貢献してるという話でした。   ガーデンが組織化されていることに吃驚しました。   ガーデニングが趣味ではなくて社会性を持っているという事に凄くピンと来て、新しい雑誌のテーマはガーデンとガーデニングにしようと思いました。

1997年にはガーデニングが流行語大賞になりました。

1992年の5月にアメリカで世界的な読者をもつ雑誌がガーデニング特集をやっていました。   アメリカでもガーデニングがブームになっていました。  創刊した年でもあり、これは行けるかもしれないと思いました。  インテリアの雑誌に取り込みましたが、80%は怒りましたね。   引き返せなかったが、段々ガーデンの素晴らしいお宅が出てきて、すこしづつ増えていきました。   モネの庭を特集してモネを表紙にしました。  モネが自分で作り上げた庭で、大変な感動と驚きでした。

私もガーデンデザイナーになりたいという人が続々と出てきました。   

退屈しない日々の種を沢山雑誌の中にはらんでいるのがいいかなというのが、私の雑誌作りの基本があります。  ガーデニングには変化があり発見があります。 自己表現の場としてガーデンというところを使って、自分を投影させる人が意外と多いという感じです。

イギリスの憧れの庭を雑誌に取り入れていきました。  周りの人が言う花咲く野原というテーマが頭から離れなかった。    

時代によってこれはすごかったというのがあり、素晴らしい庭園として世界中に知られたものとして、シシングハースト・カースル・ガーデン(イギリスケント州にある庭園)は白い花だけで一区画纏めています。  庭を作った人に興味を持ちました。  雑誌が全国区で知られるようになったきっかけはチャールズ皇太子の庭についての特集、連載をやりました。   無農薬有機栽培についても取り上げて欲しいという事もありました。   

トロントミュージックガーデンができてトロントという街がどんどん変わっていきました。   市民の皆さんの生活の中に沁み込んでいって、市民の人もボランティアで庭を維持、手入れをしていて、凄いなと思いました。

生きていく上での人間の本質的な処に深く関わって行く庭に段々気付いてこれは凄いなと思いました。  

1997年にはガーデニングが流行語大賞になりましたが、一過性のものではなくひっそりと静かに深く大きく育てていきたいと思っていたので、ここで注目しないで欲しいという気持ちはありました。   オープンガーデンの関心が高まって組織が出来上がっていきました。

東日本大震災が起きたときに、私はガーデンチャリティーをやったんですが、50団体ぐらいオープンガーデンがありましたが、皆さん一斉に立ち上がりました。  日本のみなさんは納得できる目的があったときには、一致団結して立ち上がる力は凄いなと思います。 花の癒しは感動できたと思いました。   ガーデンセラピーが一つの雑誌テーマとして誕生していきました。  リハリビと庭は素晴らしいと思いましたが、まだまだ少ないです。

雑誌を閉じることになりましたが、ガーデン、ガーデニングは小さなマーケットで、なかなか収支が難しい。  25年を区切りとして終わることになりました。   これから先はどうなるかわからないので、手掛かりが無くて今年1年で何か見つけたいと思っています。



 







2021年2月23日火曜日

石坂浩二(俳優)             ・わたしがわたしでいられる理由(わけ)

 石坂浩二(俳優)             ・わたしがわたしでいられる理由(わけ)

大学在学中にVドラマでデビューし、卒業後劇団四季に入団,NHKの大河ドラマに3回も主演する一方、司会者やナレーターとしても活動して来ました。   多忙を極めた石坂さんはスランプに陥ったり、がんに侵されてドラマを降板したこともあります。   そんな石坂さんを救ったのが趣味でした。   趣味に熱中することが石坂さんの人生においてどのような意味を持っているのか、また石坂さんは今夢があります。   それは子供向け番組に再び携わることです。

家にいる趣味が多いです。   趣味というのは、こだわりがないと趣味っぽくはないと思います。   数学をいまやってみると面白くて、数学の本はよく読んでいます。  絵はずーっとやってきました。    ガンで入院したことがありましたが、絵をを描いているどころではなかったんですが、家に帰ってきてすぐにはそんな気持ちにはなれなくて、一月ぐらいしてから描いてみようと思いましたが、なかなか手が動かなくて、ちょこちょこっと毎日手を動かすようにしました。   微分積分とは何かという事を考えてゆくとなかなか面白いです。 ちゃんとやっていなかったのがもったいなかったと思います。   いろんなところに数学は絡んでいます。   

飛行機のプラモデルも日本のものよりもドイツ、イギリスのものが好きです。    彫刻、油絵も触ってみたいが触ることはできないが、プラモデルのキットを触っている時には癒されます。   プラモデルに色を塗るときには手塗りが好きです。  

趣味を共有することは、一つは定年後の方たちのために今作ったらこうですと、いろいろ発見があります。   

役者としてはこの役柄の人が好きな事は何だろうかと思ったりします。  一番わかりやすかったのは千利休ですね。  人間それほど変わらないと思っているので、どの時代の誰を演じようがそんなに変わらないと思います。   

役者だけではなくて、いろんなことをしていたから精神的にも健康でいられたことはあると思います。   好奇心が昔から強かったです。  母の遺伝ですね。         劇団四季にいたときにも自分の劇団も持っていて、その劇団の台本を書いたり、劇団四季で作った道具を何とか工夫して自分の劇団に使えないかとかいろいろやっていました。   仕事と趣味の堺があまりなくて、なんか作るのが好きでした。   演じる側としては達成感が無くて、なにかが残ってしまったりします。   

人間って、生まれた年というか、生まれた時間がその人の一生をほとんど決めているものがあると思います。   1941年に生まれて、36mmでは駄目でTVでは16mmで撮っていて、TVが盛んになってきたころに、ドラマがちゃんと撮れて、それが青春時代と重なるわけで、TVの仕事をしだすとカラー化していって、大河ドラマをやらせていいただくとか,TVと一緒に育ってきたような感じです。   そして映画を何とかしなければいかんという事で金田一耕助をやるとか、時代の流れと共に来たので、ここまでやってこれたと思います。

20代、30代にNHK教育TVの子供向け番組の脚本を書いていたりしていました。  童話みたいなものも書きました。   子供向け番組は好きでした。  作り手側が真剣でした。  子供目線でというのは駄目で、本格的なものを作るつもりでやらないと子供は見てくれないです。 子供は理解できないと思ってもそれはやっちゃう方がいいんです。  すると子供なりの理解をしますからそれでいいんです。 

絵描きさんが書いているものが実はシュールで、そうじゃないと写真と同じになってしまってつまらないわけです。  写真と絵が違うのは絵がシュールだからです。  子供の頃のものを見て、あれはシュールだったと言ってもらえれば多分万歳だと思います。

コロナで仕事が少なくなってゆとりの人生になって、ゆとりがいいんですね。  60kgぐらいあるボルゾイを飼っていて、1時間半ぐらい散歩をしたりしています。    プラモデルでも、絵でも細かいところに目がいかないと駄目で、西洋タンポポが多く咲いていますが、日本のタンポポが咲いているとか、小さいことに気が付いたりします。  気づきが好奇心を衰えさせないようにしないといけないと、繋がってきていると思います。

数学をもっと易しく興味を持たせるように、子供むけの番組が作りたいですね。








2021年2月22日月曜日

宮田まゆみ(笙奏者)          ・【にっぽんの音】

 宮田まゆみ(笙奏者)          ・【にっぽんの音】

案内役 能楽師狂言方 大藏基誠

(しょう) 雅楽などで使う管楽器の1つ、17本の竹菅がありますが、実際に音が出るのは15本です。   竹管の下部に付けられた金属製の簧(した:リード)を振動させてを出します。   指は左手4本、右手は2本使って行います。 抑えただけの数の音が出ます。     ルーツは中国で彼らの祖先神が(しょう)を作ったと言われています。  殷(3300年以上前)の時代にこの楽器を表す文字が書かれています。  その時は和音の和という甲骨文字で、笙というようになったのはもっと後の時代です。   日本に渡ってきたのは奈良時代よりもちょっと前の時代です。  細かな部品があり複雑なものです。  竹菅の根元に金属がついていて、表と裏の両方に振動するので吹くのと吸うのと同じ音が出ます。(ハーモニカは違う音が出ます)

金属なので冷えると人間の暖かい息がかかると結露してしまって、中の切込みがとっても薄くて、結露すると塞がれ動かなくなってしまうので、温度によって音程が変わるので一定の温度で調律をして、それを一定の温度に保つようにしています。(火鉢コンロなどで演奏前や間に楽器を暖めることが必要)  金属製のリードを簧(した)と書きます。  

国立音楽大学音楽学部器楽学科ピアノ専攻卒業後、雅楽を学ぶ。  1979年より国立劇場の雅楽公演に出演。1983年より笙のリサイタルを行う。  武満徹さんなど現代音楽の作品なども数多く共演している。   1998年長野オリンピック開会式では「君が代」の演奏を行った。   2017年ショーリサイタル 「甦る古譜と現代に生きる笙」の公演で第67回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。  2018年紫綬褒章受章

*「星の輪」 演奏:宮田まゆみ  最初のリサイタルの時に一柳 慧先生に作曲していただいたものです。  1000年来の初めての笙の独奏曲で歴史に残る曲なのではないかと思います。  

欧米ではマウスオルガンと言っています。

ピアノは子供のころからやっていて、お琴もやったり太鼓を叩いたりもしました。  古代ギリシャ、インド、中国の音楽観を教えてもらって、古代の人は宇宙のハーモニーを聞いていたという事があることを知って、私も宇宙のハーモニーを聞いてみたいと思うようになりました。  音楽美学をもっと勉強しようと思って、やっているうちに 、或る時に雲間から光が差してくる光景を見たときに、実際には音は聞こえてはこないが、音が聞こえてくる感じがしてきてドキドキしました。  雅楽の古典のレコードを聴いたら、光が差してくるような音だったので、雅楽を習いに行くようになりました。  24歳ぐらいの時でした。

*「秋庭歌一具」より第4曲 演奏:伶楽舎   武満徹さんが国立劇場からの委嘱により作曲し1973年に発表した雅楽の作品後に5曲が新たに書き加えられ、全6曲からなる『秋庭歌一具』(しゅうていがいちぐ)として1979年に発表。

古い楽譜を探ってその音を再現しようという試みをしています。  東京学芸大学の遠藤徹さんと一緒にいくつかの楽譜を再現して演奏会をしています。 鎌倉、室町時代にこういう音楽を楽しんでいたんだなという事が何となく感じられます。 リズム感が感じられます。昨年 編集をして今年はCDを出せればと思っています。

日本の音とは、難しいのですが、外国から取り入れたものを、豊かさも含めて日本で醸し出していったところが日本の音の特徴なのかなあと思います。


  



今日でブログ投稿まる10年が過ぎます。

 「明日への言葉」ののブログ初投稿日が2011年2月22日で、10年が過ぎました。   自分自身でもよくここまで続けられたものだと感無量なところがあります。   こうして続けられたのも健康でいられたことだと思います。   一時頸椎を傷め左手が傷んでキーを叩くことも厳しい時があり、これで終了かなと思いましたが、回復していってキーも打てるようになり、現在でも左親指と人差し指の先に軽いしびれがありますが、問題なく作業はできます。   さてこれからどの程度続けられるのかなという思いもありますが、これも健康と気力次第といったところでしょうか。  10年ほど前には2011年3月11日には東日本大震災が起きて、大変なことになりましたが、自分の身の回りでも10年という月日はそれなりにいろんなことが起きました。  身内、あるいは友人が一人減り、二人減り、指折り数えるほどの人との別れもありました。  それとは反対に新しい生命の誕生もあり、時の流れを感じる次第です。  

統計情報は以前では、各外国のアクセス数なども表示されていて、それなりに興味のある数値を見ることができましたが、現在ではそういった表示が見られなくなったのは、個人的には残念な思いがします。   今日までのアクセス累計総数は179万7140になっています。   広告を載せる様にしないのかという事も言われますが、登場されている方の思い、意志とかに対して、汚れてしまうような気がするので控えることにしています。   そして私の記載している内容は登場されて話している内容の一部であり、話している時の感情などを含めて正確には伝えられていないと思います。   出来れば生放送を聞いていただけるとより良く登場される人々の内容を受け止めていただけるものと思います。  続けて来て思う事はとにかく世の中には凄い人、いろいろな人がいるなあとつくづく感じます。

新型コロナウイルスの早い感染収束のを願っています。

最後にこのブログの校正をやっていただいているKさんに感謝します。  (誤字、脱字等ないように気を付けているつもりですが、どうもおっちょこちょいでそうもいかないようです。)   今後も当ブログを宜しくお願いします。        秋田 宏



2021年2月21日日曜日

鶴島綾子(管理栄養士)          ・【美味しい仕事人】災害に命をつなぐレシピ

 鶴島綾子(管理栄養士)          ・【美味しい仕事人】災害に命をつなぐレシピ

東日本大震災から今年10年なります。  3月11日福島県南相馬市は地震、津波に襲われました。   さらにその後起こった原発事故によって、市内の病院は孤立し患者と職員が閉じ込められました。  物流が途絶え食料が尽きそうになる中、当時病院の管理栄養師だった鶴島さんは限られた食材を大切に使って、味付けの工夫を凝らした食事を提供しました。  そして患者さんや病院のスタッフの命を繋ぎました。   鶴島さんはその後も食を通じて被災者を支える活動を続けています。    仮設住宅を尋ねる出前講座ではフライパン一つで出来る料理指導が人気を集めました。  そのレシピはこの10年で1000を超えるといいます。

その日は福島第一原発から18kmの所にありました南相馬市小高病院で管理栄養士として働いていました。  情報がなかなか入ってきませんでした。   一号機の水素爆発がありましたが、避難指示を聞いて非難した人もいましたが、入院患者68名いたので、職員も一緒に寝泊まりしていました。   12日は患者さんへの食事は3日分は保管してありまして、患者さんへの食事は大丈夫だったんですが、職員用を自転車で買い物に出かけました。   

生卵を7パック買って来て、玉子かけご飯を食べました。  20km圏内は避難指示が出たので3月13日市立総合病院に患者さんを避難させました。  14日に3号機の水素爆発があり、患者さん、スタッフも一か所に集まり、避難するか、残るか当人の判断をという事になりました。   私の家は夫と子供人が一緒にいることが出来たので病院に残ることにしました。

避難した総合病院は原発から23km地点にあり、30kmの線引きにより何も物資が入ってきませんでした。  患者、スタッフで300人ぐらいいました。  最初は在庫を使う事もできましたが、避難所から回ってきたおにぎり、菓子パンは手に入るようになりましたが硬くなっていて、野菜などの提供もあり、何とかやっていましたが、患者さんから今日はこれだけかと言われました。  コッペパンが届いたので工夫してフレンチトーストにして食べてもらいました。   硬くなったおにぎりは大きな鍋に割って入れて、鮭、昆布などそのまま入れて味付けをして、卵とじおじやにしました。  生きることは食べる事です。  

避難所では炊き出しが出来なくて、冷たいおにぎり、パンなどしか食べていませんでした。 3月25日に諏訪中央病院の名誉院長の鎌田実先生が南相馬に来ました。  レトルトのおでんを500食持ってきてくださいました。  おでんを温めて皆さんに提供して初めて暖かいものを提供することができました。   残った汁にご飯を入れておじやにしました。

30km圏内は避難指示が出て、皆さん県内外に避難して、私は原発から60km離れた二本松に家族が避難していたのでそちらに避難しました。  南相馬の鹿島区に2140棟の仮設住宅ができました。   院長の遠藤先生が70km先からこの仮設住宅に来てくれて、仮設の診療所を2012年5月に開くことが出来ました。  4000人ぐらいが生活していました。(今は仮設住宅は取り除かれています。)   高齢の方々が沢山いました。   農業、漁業の人が多かったですが、土をいじるとか、漁に出掛けるという事はできませんでした。  仮設住宅に行って出前の健康講座を開いて、先生の話からいろいろ雑談などしていました。   

仮設住宅の台所は狭くて、フライパン一つで出来る簡単な料理という事から始まりました。缶詰を使うとか、季節野菜を炒めるとか、簡単なちらし寿司、炊き込み寿司などを作ったりしました。  残ったご飯を冷凍して置いたりして、きりたんぽにしたりもしました。 簡単レシピを作って渡していました。   

私の家は建築業をやっていて、小さい時には9人のお弟子さんが家にいて、3升炊きのガス釜が2個有り、母が食事の対応をやっていて、子供心にこういうのは嫌だなあと思っていましたが、気付いた時にはやっぱりこういう道に進んでいました。    高3年生の時に魚料理のコンテストがあり、魚のすり身を加えてゴマ豆腐を作って、北海道東北ブロックで優勝して、全国大会でも優勝しました。  副賞がシンガポール、マレーシア旅行で行ってきました。   

父は私が高校1年生の時に脳梗塞で倒れて、普通の生活ができるようにななりましたが、主治医の先生から食事療法が大事だと言われて、いろいろやって身体が改善していきました。    食べる事、食べ物はこんなに体に影響があると思ったことと、人が健康になって喜ぶ、こういう仕事だったら栄養師だと思って、栄養士になることを決めました。

災害時、常日頃備えることが大事なんだと思います。  健康でないと人を助けるという気持ちにもなれないので、免疫力を高め、おいしい食事、笑える食事が大事だと思います。




2021年2月20日土曜日

福本清三(俳優)            ・【人ありて、街は生き】「斬られ役で半世紀」

福本清三(俳優)          ・【人ありて、街は生き】「斬られ役で半世紀」 

先月77歳で亡くなった俳優福本さん、兵庫県香住町の出身、15歳で東映京都撮影所に入り、大部屋俳優一筋、数えきれないほどの映画やTVの時代劇に出演して日本一の斬られ役5万回切られた男の異名を持っています。  そんな斬られ役人生のハイライトが2003年公開のハリウッド映画「ラスト サムライ」で、主演のトム・クルーズさんの警護役兼見張り役の寡黙な侍を演じました。  2014年、56年の役者人生で初めての主演映画が製作上映されました。  タイトルはは「太秦ライムライト」、この映画の制作委員会には京都で働いてきた映画監督、俳優、京都市も加わって寄付を募って制作費の一部に当てました。(【人ありて、街は生き】の2014年6月7日放送の再放送)

3階の支度部屋で大部屋で20~30年入っていました。  5m×10mぐらいで、一番の全盛期は男女合わせて400~500名ぐらいいました。   2階は片岡千恵蔵先生、市川歌右衛門先生とか、中村錦之助先生、大川橋蔵先生とかの方々がいました。

本名は橋本ですが、先輩にも橋本がいて、名を変えろということで福本にしました。    生まれが昭和18年2月3日、兵庫県の香住町。  中学を卒業後京都に出て、親戚の米屋に入りました。   「まいどおおきに」というのが恥ずかしくて、或るきっかけで映画会社に入ることになりました。  大部屋に入って先輩に怒られながら、メーキャップなどを習っていました。   初めて現場に出たのが、東千代乃介さんと美空ひばりさんの「鞍馬天狗」だったと思います。   火祭りの行列の中の一人で松明をもって歩きました。

時代劇で斬られ役は僕らにとっては夢の夢でした。  技術的にもいろいろあるし、怖くて大変です。  斬られて死んでいる死骸役などもやってきました。   「旗本退屈男」(市川歌右衛門)で初めて斬られ役をやることになりました。   迫力があり本番では吃驚してしまいました。    「宮本武蔵」(萬屋錦之助)は記憶に残るものの一つで陽が上がる瞬間の1時間ぐらいの撮影で、1週間ぐらい田んぼの中でやりました。  「目に力がはいっておらん」とか怒鳴られました。  「主役だけが主役ではない、画面に出るものがみんな主役だ」という事も言われました。   海老反り、後ろ向きで倒れて行く斬られる姿を自分なりに考案しました。   摺り傷、ねん挫などしょっちゅうやっていました。 忍者の役の下役で初めて台詞を言う役をやりましたが、練習をしていったんですが、レンズが目の前に来て台詞を言えませんでした。 

映画が下火になった時には姉に食わしてもらったりしてきました。  そのころ皆辞めてしまいました。    川谷拓三は同期でした。  二人で同居していた時代もありました。2003年ハリウッド映画「ラストサムライ」で主演のトム・クルーズさんの警護役兼見張り役に出演、嬉しかったです。  スケールから段違いでした。  資料も凄くて日本人より侍のことを良く知っていました。  月代を実際に剃って半分かつらという風にやりました。トム・クルーズさん、トップスターが最後に大勢のアルバイトの日本兵に演説して、「あなた方のお陰でいい映像が撮れました、この映画を絶対成功させたい、有り難う」と言ってくれました。   ケーキとメッセージとデジカメをトム・クルーズさんから頂きました。   

映画『太秦ライムライトでは「斬られ役一筋のベテラン俳優」役で初主演を務める。   この話をいただいた時には僕が主演で商売になるわけがないし、お金が集まるわけがないと思いました。   老いた斬られ役と殺陣を教えて欲しいという新人女優との交流を軸にした映画で、新人女優は山本千尋さんで、武術が得意です。(武術太極拳選手として世界ジュニア武術選手権大会で金メダルを2度獲得した後、女優へ転身)  

最後のシーン、桜吹雪の中で斬られての死にざまは、斬られ役冥利に尽きるなと思います。   映画,TVでも時代劇が減ってきて、時代劇をもう一度思い出してくれたらいいなあと思います。   若い人に僕らの立ち回りを継承して欲しいとは思っていますが、なかなかそういうわけにはいきません。









 

2021年2月19日金曜日

渡部潤一(天文学者)          ・宇宙をみんなのものに

 渡部潤一(天文学者)          ・宇宙をみんなのものに

1960年福島県生まれ、1987年東京大学東京天文台に就職、1994年30代で宇宙の魅力を多くの人に知ってもらおうと、国立天文台に広報普及活動を専門に行う部署を立ち上げ様々な取り組みをされてきました。   宇宙をみんなのものに、と題して話を伺いました。

夜の空の光を観測していたデータ処理をする仕事でしたが、大きな望遠鏡を作るための連絡要員としてハワイで仕事もしていました。  帰国後、見学したいという高校生を守衛が追い返していたのをたまたま妻が見て、このままではいけないと思ったのが広報に踏み出すきっかけになりました。  自分の研究にはほとんど時間が取れなくなりました。  論文は圧倒的に少なく成りました。   一般の人向けの望遠鏡も作ることになりました。  1994年に広報室を立ち上げて室長に就任しました。  ある教授から貧乏くじを引かされたねと言われました。

質問電話を受ける人が数人と、望遠鏡担当とか、雑務を含めて一部屋で済んでいました。  大学院生も押し寄せてきて観望会の基本を作ってくれたり、webサイトのたちあげなどもしてくれました。   積極的な情報発信はそれまでしてきませんでしたのでそれを始めました。   1994年にシューメーカー・レヴィ第9彗星(木星衝突したことで有名な彗星)で世界的にも話題になりました。  赤外線を利用して観測して、畳の上で記者会見して、当時話題になりました。

1995年からは夏休みにスターウイークを実施、全国の施設の方々が集中してできる週間があればいいかなと思って、バードウイークに似せて、スターウイークを8月1日から一週間設定しました。   100以上の施設が一緒になって宣伝するいい仕組みだったと思います。今も継続してもらっています。

施設公開、三鷹では年に一回でしたが、常時公開という形にしました。

2009年の世界天文年(ガリレオ・ガリレイによる天体望遠鏡を用いた初めての天体観測から400年目であることを記念し、世界中の人々に天文学と宇宙への関心を持ってもらうことを目的とした企画)では海部宣男さんのもと、世界天文年2009日本委員会の企画委員会、企画委員長を務めました。100以上の国が参加してくれました。   本屋さんに天文の本の特設コーナーを設けていただいていい本を手に取ってもらうことなども行いました。

国際天文学連合の惑星定義委員会で冥王星を惑星から外して準惑星とするという風に決めたときにも参加しました。  2005年の秋に、議論したが惑星の定義がきめられないという事で、少人数でという事でアジアからは私が参加することになりました。  3分類することがいろいろ議論の焦点になり、丸さ、大きさ、軌道上の仲間がいるかいないか、という事で線を引いていきました。   第一次世界大戦が終わって国際天文学連合が創立されましたが、日本は創立メンバーの一つでメンバーをいくらでも出せたが、星座を88に決めるという委員会があったが、東洋から一人も出なかったために、88の星座は全て西洋星座になってしまいました。   

小学生の頃は理科少年でした。  アポロ11号とか、火星の大接近とかで段々天文に傾いていきました。  1972年10月8日にジャコビニ流星群騒動があり、校庭で見ようという事になり先生に話したら親が一緒ならばいいという事になり、6人ぐらいで寝転んで待っていましたが、まったくでなくてがっかりしましたが、それが大きなきっかけになりました。  流れ星の観測を一人でやるようになりました。   日本流星研究会があり、そこに送ると観測報告が載るのでうれしかったし面白くなりました。   やりたいことが3っつあって、漫才師、作家、天文物理学でした。   専門は太陽系及び彗星天文学です。

2011年3月11日の時は都心に向かう電車の中にいました。  大きな津波の被害を知って、翌日原発事故があり、科学者として見過ごしてきた部分があるのかなと思ったりして寝ることが出来なくなりました。   東京に避難してきた人たち、子供たちがいたので、望遠鏡を持っていって星を見せに行こうとか、星空教室をやろうという事で、やりました。   2011年に国際会議を日本に招致することになって、私が委員長として新潟でやる予定でした。   日本でやりたかったので2012年5月に行いました。  新しい小惑星に名前を付けるが、東日本大震災で傷ついた人が沢山いる地域、県の名前、岩手、宮城、千葉とつけましたが、福島県は(会津、仲通り、浜通り)を提案して、発見者はアメリカだったがこちらの提案に快く応じてくれて、付けることができました。  うつむいている人たちに空を見上げて、上を向いてもらうきっかけになってくれたらと思いました。

「第二の地球が見つかる日」を出版。  作家になる夢をかなえようと思いました。   宇宙、天文に興味がない人にどういう入り口があるかと考えたときに、小説からはいってもらうという事もあるのかなあと思いました。   

国際天文学連合では地域会議があり、アジアパシフィックの一回目は日本だったが、しばらくやっていないので、地元福島でやりたいと思って、名乗り上げているところです。

自分じゃないとできないことを社会にどう還元するか、という立ち位置で物事を考える様になったことは一番大きいと思います。  若い人が自由に研究できる環境整備は我々の役割かと思います。









2021年2月18日木曜日

西原春夫(早稲田大学名誉教授)     ・長老の知恵を今こそ!

 西原春夫(早稲田大学名誉教授)     ・長老の知恵を今こそ!

1928年東京生まれ、父親が教員をしていた成蹊学園で高等学校まで過ごし、1949年早稲田大学第一法学部に入学、その後大学院に入学して刑法の研究者としての道を歩みます。   1969年に早稲田大学の法学部教授となり、その後法学部長を経て1982年に第12代早稲田大学総長に就任しました。  そのころから日本と中国の刑法学を中心とする学術交流にたずさわり、近年は特にアジアの平和と発展に関心を寄せ、去年少なくとも東アジアを戦争の無い地域にという、西原さんを代表とする各界の長老たちからの提言を発表しました。

2022年2月22日22時22分22秒に東アジアの各国の首脳がもう戦争はしないという宣言を出そう、そんな呼びかけをする東アジア不戦プロジェクトが動き出しています。  一昨年2019年に設立された東アジア不戦推進機構の代表を務めています。   85歳以上の各界の著名人です。(戦争を知っている人達)  私の弟は86歳で、当時小学校の4年生で疎開していろいろ苦労しました。   一番上の方例えば特攻隊の生き残りという事で戦場にはいっていないけれども戦争体験を直接している。  戦争はどんなに悲惨かどんなに愚劣なことか身に沁みて考えている。  一番説得力があると思ってそういう人たちに提言していただこうと思いました。

戦争体験があり、1945年に戦いが終わって、いままで正しいと言っていたことが間違っていて、間違っていたという事が正しかったという大転換が、私の人生にとって大変大きな影響を及ぼして、それが今日の企画につながった。   小さい時から線の細い多情多感な文学少年だった。  父が国語の先生で家中に本が埋まっているような中で育ちました。  ヘルマン・ヘッセなどドイツ文学が入っていて、ドイツ文学の有名な翻訳者だった高橋健二先生の仲人を父がやって、小学校4年生の時に「車輪の下」を読んで、ドイツ文学にのめり込みました。

大学院に入ったときにドイツ語がは抜群によかったらしくて、刑法をやるにはドイツ語が必要で恩師がいつの間にか門下生にしました。  刑法の研究者になりました。 総長になりましたが、考えてみると戦争は犯罪の親分で、戦争と平和を考えて、それやるのが年寄りの仕事ではないかと変わっていって、それが今回の企画に繋がるわけです。

刑法は一番人間臭いんです、犯罪は欲望の産物で、人間がどういう欲望を持っているかがよく判る。  文学の世界で生きるはずだったが、国が破れて、国を興さなくてはいけない、その中心は法律ではないかという事で法律学を学びました。  それが刑法になり戦争と平和を考える様になりました。

私は愛国少年でした。  軍国主義の影響を受けて、小学校1年生の時に2・26事件が起きて、姉の同級生の父親、陸軍教育総監渡辺丈太郎が射殺されました。  娘さんの渡辺和子さんと姉は同級生でした。

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2013/03/83.htmlを参照ください。

大変な事件だという事を体験しました。   終戦になって今まで正しいと言っていたことが正しくない。   そこからいろんな教えが生まれてきて、戦争は絶対いけないんだ、誰もが正しいという事にはどっか胡散臭いところがあると思えという事を思うわけです。   そういったことがその後の私の生き方になります。 国と国が戦争するには名目があるが、被害を受けたのは外国の国民なので、償いをしなければいけないんじゃないか、という風に思いました。   中国の大学と提携を結ぶとか、日中刑事法学学術交流を行ったりしました。  韓国とも学術交流をやってきました。   そういったことが今回の企画につながっていきました。

中国は1949年に国を作ったが、毛沢東の考え方は人民の道徳心、社会主義倫理が秩序を支えるべきだという事で刑法は10年、20年なかった。  文化大革命が起こって人権侵害が起きて法律がいるという事で、1978年文化大革命が終わるや否や、刑法の制定、刑事訴訟法の制定ができた。  北京大学と早稲田大学の調停に調印しました、それが1982年です。日中刑事法学術交流を始めようとしたら、人権の問題、死刑の問題とか難しい問題をはらんでいるがやろうという事になりました。   それが今日までずーっと続いてきた。   中国の立場を考えて議論して信頼感が出てきた一つの根拠になっていると思います。    アジアの老子だと言われました。

神経過敏な文学少年だったので、喧嘩が嫌いなんです。  対立が嫌で、鎮める、収める役をやるようになって、水泳部の組織のリーダーとしてやってきて、早稲田大学の教員としてやっているうちに大学紛争が起きて、法学部の学部長の補佐役の学生担当教務主任となり、大変な苦労を重ねましたが、勉強の種になり成長の種になり、能力を身に付けて法学部長,総長になりました。  最近きな臭くなって、国が強調されるようになり、国の独自性が強くなると国と国の対立が強くなって戦争に至る可能性がある。   対立には手を付けないで、対立している二つに共通のものがあるだろうと、共通の利益があれば対立が収まるのではないかと思って、それを調克(調整して克服する)の理論と呼んでいます。  コロナは人類共通の敵です。     戦争もそうです、その表れとして不戦宣言を出そうという事になってきました。

2022年2月22日22時22分22秒 2が12繋がるのは1000年に一遍しかないので宣言を出してほしいという事で日本の長老がやろうという事になりました。      東アジアに対しての責務があるのではないかと思うわけです。  ヨーロッパでは戦争ばっかりやってきましたが、EUができる。  アメリカ大陸ではアメリカが音頭をとってカナダ、ブラジル、メキシコなどと提携をしてきた、アメリカ大陸では戦争は起きません、と言ったら凄いと思う。  東アジアの共同宣言は世界的な影響を受ける運動になると思うわけです。

対立はつきもので、日韓の問題、日中の問題 アセアン諸国をめぐる領土の対立は大変なもので、戦争というものはたった一発の弾丸で戦争になる、そういう性格を持っている。 

共通の利益を見つけ出せば対立は防げる。 防衛の基礎は敵が攻めてきたらどうやって国を守るかが安全保障の基本だと誰もが思っているが、それは敵を前提にする。   敵を返って敵を追い込んでゆく可能性もある。   軍拡競争にもなる。  しかし、敵が攻めてこないようにする、どこの国も攻めてこないようにするというのが、本来は外交、国際政治の本筋ではなかと思うが難しい。   しかしそれが本来の安全保障のあり方なんだと協調する流れがあってもいいんではないかと思う。 それが一種の調克理論だと思う。  後1年の期間中に理解を広めていけたらいいなあと考えています。

国という立場にすると難しいが、民という事になると友達がいっぱいいる。  民の立場に立つと国境を超える。   





2021年2月17日水曜日

吉田沙保里(レスリング オリンピック金メダリスト) ・【スポーツ明日への伝言】親子で成し遂げた連続世界一  

 吉田沙保里(レスリング オリンピック金メダリスト) ・【スポーツ明日への伝言】親子で成し遂げた連続世界一 

父 吉田栄勝さんの指導の元、3歳からレスリングを始めた吉田沙保里さんはオリンピック3連覇、 父 吉田栄勝さんの指導の元、3歳からレスリングを始めた吉田沙保里さんはオリンピック3連覇、世界選手権などを含めると世界大会16連勝という輝かしい記録を作って2年前に引退されて、現在はTVやラジオの仕事で活躍しています。  吉田さんは1月に新型コロナウイルスのPCR検査で陽性と診断されましたが、2週間の療養を経て仕事に復帰しています。  親子で成し遂げた連続世界一吉田沙保里さんに伺いました。

 

引退を宣言してからいろんなやりたいこと、レスリング以外のことをやれた2年だったと思います。  人と話すことは昔から好きでした。  自分から攻撃していくことが自分のスタイルです。  自分は弱虫で泣き虫で甘ったれだったと、出版した本には書いています。   

小さい時から負けたくないというのはありました。  3歳から始めて5歳で初めて試合に出たときに勝った男の子は金メダルを取って、強くなって勝ったものしかもらえない、欲しかったら頑張りなさいと父に言われてそれから頑張りました。  家の中に道場があったので自然と入っていきました。  父は公務員をしながら自身で道場を作って近所の子に教えていました。

小学校で全国大会に出るようになって父は力を入れる様になりました。   小さい時には父は怖くて大嫌いでした。  人としゃべる時には人の目を見てしゃべれとか、挨拶も人に聞こえなかったら挨拶にはなっていないとか、普段の生活の細かい事をしつけられました。ピーマンとか、子供が嫌いなものは嫌いでした。  肉とか餅とか甘いものは大好きでした。

中学生になってアトランタオリンピックの女子の柔道を見て やわらちゃん(田村亮子)と言われた強い選手がいてかっこいいと思いました。  中学生の時にオリンピックの舞台に出て金メダルを取りたいと思いました。

手首を脱臼骨折して手術をしてボルトを3本手首に入っていて全治3か月と言われたが、手術後一か月半ぐらいに全国大会の試合があり、この試合に出ないと翌年の国際大会の日本代表として出られなかったので、自分では試合には出れないと思っていたが、父から「出ろ」と言われて、医師からは「将来手首がどうなっても知りませよ」と言われたが、ボルトを短く切ってもらって、テーピングをしっかりして、試合に出て優勝することができました。

その時には父は鬼だと思いましたが、父としてはできると思ったものと思います。    自分が親の立場だったら絶対できないことだと思います。

 2004年アテネ大会から女子レスリングがオリンピックの種目になりました。  世界選手権の代表選手になるために日本で優勝しないといけないと思いましたが、ライバルには山本聖子選手(2歳上)がいました。

山本聖子選手は世界チャンピオンになっていたので山本聖子選手さえ倒せば世界チャンピオンになれるとは思っていました。  大学1年生の時(2001年)にオリンピックの種目に正式採用されて、その瞬間スイッチが入りました。   12月の全日本選手権大会で準決勝で山本聖子選手に逆転負けしてしまいました。

それまでは絶対勝てないような差がありましたが、もう少し頑張ったら勝てるかもしれないという気持ちになってきました。  3位決定戦に勝ってそこから連勝が始まりました。2002年4月の大会に山本聖子選手に勝つことが出来凄くうれしかったです。   2003年の全日本選手権大会には膝を怪我をして病院にも行かずにテーピングして出場しました。2004年アテネオリンピックに出場、金メダルを獲得しました。   2008年ロンドンでは旗手を務めました。  その時に父がコーチとして来てくれて、優勝の瞬間には父を肩車しました。

2014年3月父は車を運転していて、クモ膜下出血でしたが、高速道路の路肩に止めて、パーキングにレバーをセットされていました。  いつもひとには迷惑をかけるなと言っていましたが、その気持ちがそうさせたものと思います。  名古屋で名古屋で合流する予定でしたが、病院に運ばれたという事を知って、帰った時には亡くなっていました。    父のお陰で今の私があると思っています。   父は人の性格などを見て、その人に合わせて指導する人で指導能力がある人だと思います。

私は盛り上げ役で、私は指導者してという事はできないと思います。

 コロナ禍で東京オリンピックがこんなことになるとは思わなかったが、選手の人たちは自分に負けたらお終いなので自分自身との闘いかなと思います。



2021年2月16日火曜日

遠藤ふき子(元「ラジオ深夜便」アンカー)・ラジオ深夜便」放送開始30周年  アンカートークショー 第三回

 遠藤ふき子(元「ラジオ深夜便」アンカー)・ラジオ深夜便」放送開始30周年  アンカートークショー 第三回

2020年の3月31日まで26年ラジオ深夜便を担当してきました。   健康で病気で休むことなく続けられて、最後の放送の時にはホッとしました。   昭和41年に入社、まずラジオ放送をしました。  「子供と家庭の夕べ」という番組を最初に担当しました。  その後TVの子供向けのニュース、その後朝の番組、夜の番組などをいろいろ担当しました。    ラジオ深夜便をやるようになる前には「夢のハーモニー」という番組で11時代で音楽を流す好きな番組でした。   リスナーの方で「夢のハーモニー」が大好きで収録して取ってあったのを送ってくださった人がいました。  私は台本は取ってありました。(薄い台本)

*「夢のハーモニー」の冒頭の部分と最後の部分を紹介。

平成元年に辞めて、西ドイツのボンに住むことになり、ベルリンの壁が崩壊した翌年、ドイツが統一して、ラジオで様子をリポートを出しました。   電話で3分から10分程度生放送で出しました。 平成5年の春に帰国して、その秋から「ラジオ深夜便」のアンカーの中の一員として入れていただきました。   ほかのアンカーは大ベテランの人達でゆっくりしゃべっていました。  ゆっくりしゃべるようにとの投書があり、いろいろ工夫をして、最初はゆっくりしゃべるようにしたりして慣れて行きました。 

リスナーの方からは気付かないことを沢山教えていただいたり、抗議の手紙などを頂いて落ち込んだりしましたが、それによって励まされることが多かったです。 

子守歌の特集があったときに、判らないタイトルがあり、それを流した時にそれは「北京の子守歌」ですといって、テープに入れてお届けしますと送ってくださいました。

母がアナンウサーだったのでどんなに楽しいんだろうと思って、この仕事に入りましたが、楽しいこともありましたが、紆余曲折してきました。   ドイツに行ってきて、戻って子供が学校にもなじめず、自分でも落ち込んで、先輩のお母さんたちがどうやって子供を育ててきたのか、今いろんな方たちがどう育てているのかという事をインタビューしたら、なにかヒントを得られるかも知れないというような思いで、ラジオ深夜便のなかで「母を語る」というコーナーを平成7年に始めました。

最初は太田治子さんで、母から厳しく育てられたたことが、今の自分にとても役に立っているという話がありました。  次が谷川俊太郎さんでした。  お父さんが哲学者でお母さんは明るくてピアノをやっていました。  俊太郎さんは一人っ子で19歳で恋人ができたと言ったら、お母さんはショックで家出をしてしまったそうです。   その時に二人はあまりうまく行っていなくて、「お父さん、お母さんはあなたの妻です、お母さんのことはあなたに任せます」と言ったら、「判った」と言って、それ以来恋人ができても、動揺することはなくなった、とおっしゃていました。   お母さんは認知症(当時は認知症という言葉もなかった)になり入院して、お父さんは病院に通っていましたが、他には何もするわけではなくて、母についてのいろんなことは自分たち夫婦に掛かってきて大変でしたという話がありました。  

「母を語る」では母は誰にでもいるので、出演者探しには困らないだろうと言われるが、結構断られます。   それには兄弟との関係もあり、話をするのははばかれるというような事でした。   ラジオ深夜便で深夜便の集いがあり、鹿児島に行ったときに「心の時代」で島尾ミホさんで、数年してお願いをして語っていただきました。

豊橋で新幹線を待っていたら、尾木直樹さんに出会って、名刺を渡して「母を語る」という番組があるので出ていただきませんかと言ったら、即決でOKしていただきました。

ノーベル賞を受賞した大村智さん、北里研究所に電話したがとっても忙しい方だという事なので、駄目だと思っていたら、講演の話は凄く多くて、母のことだったたら話しましょうという事で話していただけることになりました。   大村先生のお母さんは戦前は学校の先生をしていましたが、戦後は養蚕を始めて細かくノートに付けて、どんどん収量を上げ、品質も良くして、その養蚕の収益で大村さんたち兄弟を大学まで出してあげました。    そのノートは今の僕にとって宝物です、母が緻密な研究をするという姿を見ながら、僕も母のことを思いながら研究をしていますという話をしていただきました。

上野千鶴子さんには断われて、1年後に電話をしたら父の介護でそれどころではないと断わられ、そのまた1年後に電話をしたら、あなたの根気には負けましたという事で話を伺うことができました。   上野さんの女性史研究の陰にはお母さんの姿を見て、家父長制度の中で女性としてなかなか能力を発揮できなったお母さんの姿を見ながら、「私は女性史を研究しよう」という事を語っていただきました。

佐野洋子さん「100万回生きたねこ」を出版した。   電話をしたがどうしても駄目で、話をするだけならいいという事で杉並の家に伺いました。  母の介護をしていて、悩んでいるという事でした。  私の母の認知症のことを話したら、真剣な眼差しで、先ず区役所に行きなさい、そして相談しなさいと言ってくださいました。   区役所の福祉課に行っていろんな援助を受けることができました。  佐野さんには感謝をしています。

私自身ラジオ深夜便に助けられたと思っています。

「母を語る」では220人余りで最後に話を伺ったのは氷川きよしさんでした。  頑張って頑張って氷川きよしとして生きてきたといったら、お母さんが「もう好きなようにしていいんじゃない」と言ってくれたのでそれが背中を後押しされて、凄く自由になれたと言っていました。   母親は世界中を敵にしてもいつも子供の味方になってくれる、それが母親としてありがたいと思うと語ってくださいました。

いい番組、いいスタッフ、いいリスナーの育てられてここまでやってきたなあと思って感謝しています。






 

2021年2月11日木曜日

吉見俊哉(東京大学大学院教授)     ・街歩きを通して都市の再生を考える

吉見俊哉(東京大学大学院教授)     ・街歩きを通して都市の再生を考える 

吉見さんは1957年東京生まれ、東京大学教養学部に進学、教養学科相関社会科学分科を卒業後、同大学大学院社会学研究科で学ぶ。 東京大学副学長、東京大学総合教育研究センター長などを歴任しました。  専門は社会学、都市論、メディア論で「東京文化資源区」構想の中心ンメンバーです。  吉見さんは2019年に出版社の編集部員たちとチームを組んで東京都心北部を対象に7日間の街歩き観光をしました。   去年8月にはその記録を纏め、「東京裏返し社会学的街歩きガイド」と題して出版しました。   街歩きのエリアに選んだのは、上野、秋葉原、本郷、湯島などかつては文化的中心地でしたが、戦後の高度成長期、特に1964年の東京オリンピック前後になされた都市改造で周辺化された地域です。   吉見さんは早い、高い、大きいを追求してきた東京に再び人間的時間を取り戻す必要があると考え、東京再生の提案書も提示しています。  ドイツの作家ミヒャエル・エンデによる児童文学「モモ」の中で示した時間論ゆっくり移動する価値を復権させたい思いも述べています。   

昨年10月に多様な宗教が集まって考えるという「崖東夜話」というイベントをやり、寛永寺、神田明神、湯島天満宮、ニコライ堂、湯島聖堂、アッサラームファンデーション(イスラム教のモスクが御徒町にある)、6つの異なる宗教の社寺会堂が集まって一つのイベントをやりました。   崖東はとても意味があり、東京都市はとても凹凸が多い、武蔵野台地が東に張り出してきて、東京湾と接するところに形成された都市なんです。   崖東の崖というのは武蔵野台地の一番東の突端の部分で、社寺会堂が集結している。  非常に異なる宗教を一つに繋いでイベントをやろうという事でやって大変面白かったです。

宗教という観点からみると、キリスト教、仏教、神道、イスラム教、儒教もある。 仲良く狭いところに密集してあるのは東京しかない。   今の世界は分断と対立にあふれているが、東京では仲良くやっている、いっしょにイベントも出来るよという事を世界に発信することはとても意味があるものと思って、準備期間を5年かけてやりました。  3つのパートにわけて、第一のパートが音の響き、第二が魂の形、第三が全員集まってラウンドテーブルで、音の響きはそれぞれが伝統的な音楽をパフォーマンスでやってもらい、そこにとどまらないで、神田明神にいた方がニコライ堂に行くとか、それぞれのなかで街を移動してゆくという事をやりました。  人々が動くことによって違う宗教を繋いでいこうという事を狙ったわけです。  今編集していてインターネットを使って発信していきたいと思っています。

バスツアー型の観光と街歩きは全く違うと思います。  バスツアー型の観光は点と点を結んでいるだけで、中間は飛ばされてしまう。  街歩きは点と点を結ぶルートをゆっくり歩くという事に醍醐味があり、それは時間旅行になるわけです。   日本の土地は凹凸がとても多い。   歴史のある都市は凹凸がある。  異なる時代相のものが共存して残るので違う時間に遭遇する。    

世田谷区と大田区の境目ぐらいのところに生まれました。  多摩川に遊びに行ったりしていました。   東京大学の理科1類に進みましたが、理系の授業がつまらなくて、文系の授業が面白くて演劇にかぶれました。   近くに駒場小劇場がありました。  同じセリフで同じ舞台で、お客さんだけ違って、ドラマは変わって生き物のように変わってゆく、こういうことをもっと考えたいと思って、勉強したいと思って、本を真剣に読み出しました。 教養学部教養学科に相関社会科学という新しい学科ができて、そこの第一期生になりました。 社会学という事以上に都市が大切で、都市以上に人と人との出会いでドラマが生まれてくる。  そのことをもっと深く考えようとしました。  1987年に『都市のドラマトゥルギー――東京・盛り場の社会史』を出版、修士論文を本にしたものです。   盛り場の歴史的分析です。   盛り場は都市の中の劇場みたいな場所で、そこにはドラマがありドラマを分析しようと思いました。 

都市はいくつかの異なる時間の層が地層のように積み重なって出来上がっているもので、異民族とか異なる政治的勢力によってどんな都市でも繰り返されている。  東京は3度占領されれている。  最初は徳川の占領で江戸を作り大改造をしてゆく。  治水を徹底的に行い、お寺や神社のある、水と宗教の都市に変えて行く。   二番目の占領は薩長による占領、お寺や神社が否定される。   水と宗教の都市から軍隊と鉄道の都市、軍都に変わる。   三度目は1945年米軍による占領、日本軍の軍事施設は米軍施設に変わってゆき、やがて返還されてオリンピックが可能になる。

メキシコシティーの場合はスペイン人が来て、アステカ帝国の古い神殿とかを徹底的に壊して平らにして記憶を徹底的に抹消してしまって、その上にキリスト教の寺院をたてているわけです。  東京は凹凸があって先住民の痕跡を消せないし、徳川の痕跡を明治政府が完全に消せたわけではなく、米軍の占領によっても戦前の東京が全く消えてしまったわけではない。  違う時間を東京という都市の中に共存している。  寛永寺は東京の中でも最も重要なお寺だった。   いろんな施設が集中的に作られている。   上野の東照宮には見事な彫刻が残っていて、江戸時代に施設が結構残っている。   明治政府は上野の寛永寺を徹底的に弾圧して、受領地を取り上げて、博覧会場にして、博物館、美術館、動物園、大学を作って、西洋文明を知らしめるような、ある種のディスプレイ装置の様にする。  江戸の記憶を失わせることをする。  しかし街歩きをすると色々と層を見出せる。   

1964年東京オリンピックは最大の変化だったと思います。 「より早く、より高く、より強く」がオリンピックのスローガンでした。   それは経済成長でした。 運河の上に高速道路、都電を廃止して地下鉄網に変えていった。  失われたものも大変大きなものだった。  川辺、運河、路面電車、東京と地方のバランス等々。  これから目指すのは私は「より楽しく、よりしなやかに、より末永く」だと思っています。   何が一番重要な事かというと、スピードを落とすことだと思います。   路面電車を拡充してネットワークを作る、首都高の一部の撤去など「東京裏返し 社会学的街歩きガイド」の本の中では指摘しています。

路面電車は13,4km/Hです。  この速度は地上で歩いている人と乗り物に乗っている人が同じ空間の中にいることが出来るぎりぎりのスピードです。  路面電車はバリアーフリーです。荒川線を延長して環状線にしようとしています。   箕輪を延長させて南千住まで伸ばし、吉原から浅草まで行き、仏壇通りは交通量が少ないので一車線を路面電車用にして、上野まで行って、秋葉原、神保町から北上して水道橋、神田川沿いに飯田橋、早稲田(荒川線のもう一方の終点)とすることで環状線にすることが出来る。    山手線、大江戸線と共に環状線が3つ出来る。  これができると東京のイメージが変わると思います。

シアトルは最近都市部を走っていた高速道路を撤去しました。  都心部と海辺が分断されていたが、それを繋いでいます。  東京の首都高速道路は撤去できるところが何か所かあり、明らかに撤去できると思っているのが首都高1号上野線で、江戸橋インターから本町-上野-入谷とつながっているところです。   新しい秋葉原とか新しい上野とかが作れるわけです。

他の都市にも全く当てることが出来ると思います。  「日本裏返し」をしていかなければいけないと思います。 コロナ禍ですが街を歩いていくことはそんなにリスクはないと思います。   感染予防と経済再生を両立させる一つの方法は「裏返し」なんです。   道路から車を締め出して、道路にテーブル,椅子を出して道路で食べたり飲んだりする。  ヨーロッパの或る国では封鎖していて道路は歩いていないので、道路という空間を公共的なコミュニケーション空間に変えている。  これは道路を「裏返し」していることです。









   

2021年2月10日水曜日

天満敦子(バイオリニスト)       ・鎮魂の思いで弾き続けた10年

天満敦子(バイオリニスト)       ・鎮魂の思いで弾き続けた10年 

天満さんは6歳からヴァイオリンを始め、小学校6年生の時にNHKのヴァイオリンの稽古で講師の江藤俊哉さんに才能を見出されます。  東京芸術大学に進み卒業後、大学院に進みそこも終了、在学中に日本音楽コンクール第一位、ロン=ティボー国際コンクールで特別銀賞を受賞。1993年にルーマニア出身の薄幸の作曲家チプリアン・ポルムベスクの「望郷のバラード」を日本に紹介して、ライブCDが大ヒットしてクラシック界の話題になりました。   天満さんはこれまで東欧や日本でのボランティア演奏にも積極的に取り組んで2011年の東日本の大震災以降は定期的に東北を訪れて、演奏活動を行ってきました。  今年は大震災から10年目、その3月11には震災が起きたその時間に鎮魂の思いを込めて舞台で演奏することで、今年の演奏で御自身の体験にも一区切りをつけたいとおしゃっています。  

去年は90%がキャンセルになりました。   ヴァイオリンは1週間ぐらい弾かなかったことが何回かありました。   しんどかったです。 

3月11日の慰霊祭に伺って演奏をしてきましたが、去年はできませんでした。  会場はいろいろなところでやります。  母の里の相馬でも4人流されてしまいました。  亡くなった叔母は母が体が弱かったので子供の頃一緒に住んで私を育ててくれました。

日本の歌曲が好きで「叱られて」、「ふるさと」 とか急に親近感をもって、アレンジしないで原譜のまま弾きました。  

母が物凄く音痴で子守り歌など一曲も聞いていないです。  

使用楽器はストラディバリウス、弓はウジェーヌ・イザイの遺品を愛用している。  ゆっくりゆっくりストラディバリウスは「ふるさと」など弾いてくれます。

日本の曲を2,3分弾くわけですが、お互いによりあったんじゃないかと思います。   「望郷のバラード」もちょっとそういうタイプの曲なので、そういっものが温められて、残念な機会でしたが、そういう日本のものに目も耳も身体も向いたんじゃないかと思ました。自分でも予想もしないことでした。   

陸前高田でのコンサートの後、おじいさんが「あんたの『ジュピター』よかったべー」と「この曲聞くと元気が出んだよなー」言って消えていきましたが、それを聞いて強烈に耳に残ってしまいました。   それまではいつも静かに閉じたかったので「望郷のバラード」だったんですが、次のコンサートから全部『ジュピター』になりました、今でも続いています。

*『ジュピター』  ヴァイオリン:天満敦子  パイプオルガン:小林英之

今年3月11日に紀尾井ホールでコンサートができます。   偶然に空いていました。 願いがかなったというしかありません。   区切りというか、自分のなかで何かの手ごたえがあったら、プロブラムの最後が「望郷のバラード」に戻るかもしれません、そういうことを願ってはいます。

去年で65歳になり、変化を楽しんでいます。  日本のものを弾いている時のいい気持といい時間を、ここに来るための私だったんじゃないかと思えるぐらい、「望郷のバラード」は何万回と弾いてきて又「望郷のバラード」ねと思ったことは無くて、それと同じ気持ちが日本の曲にあるものですから、今結構幸せです。

*「アベマリア」  ピアノ:岡田博美  ヴァイオリン:天満敦子



2021年2月9日火曜日

宇城憲治(武道家)           ・気にたどりついた武道人生

 宇城憲治(武道家)           ・気にたどりついた武道人生

1949年宮崎県小林市生まれ、72歳 宮崎大学で応用物理学を学び、沖縄空手の座波仁吉師範に空手の指導を技だけでなく人生そのものを学んだといいます。   大学卒業後電気関連企業で技術者として先端技術の開発に取り組み30代までに20件以上の特許を取得したといいます。   一方大学時代に始めた空手で創心館空手道範士九段、居合道も数々の大会で優勝を重ね全日本剣道連盟居合道教師七段です。   宇城さんは空手道の神髄を極めようと59歳の時にユニバーサル空手実践塾を立ち上げ世界各地で指導を行っています。  宇城さんは武道の本質を深く追求して、人間の持つ気という不思議な力にたどり着く事を会得します。  気は、人誰もが持つ不思議なエネルギーだと考えています。  気とは人にどんな力をおこさせるのでしょうか。  気にたどり着いた武道人生、宇城さんに伺います。

全ては気が元です。  目に見えないだけに非科学的に思われるが、僕の考えは科学よりもみよい?(見よい?聞き取れず)という気がします。  科学は実証しないと非科学的とするところがあるが、見えないだけに非科学的とされます。  気を体感しているのでそれを目に見えるものにしていきたいというのが、僕の追及でした。   「身体は内なる気に応じて動き、気は心の向かうところに応ず。」という言葉があります。   江戸時代の剣豪の言葉の中にあります。   柳生石舟斎先生です。 

今のスポーツの柔道、剣道、空手などは「はじめ」、「やめ」、「判定」なんですね。  武術の場合は生と死がかかっているので、「勝ちは、打って勝つは下の勝ち、勝って打つは中の勝ちなり、戦わずして勝つは上の勝ちなり。」  今は判定なので死に至ることはない。  江戸時代には負けは死に至るので次元が違います。   極限に立つところから気は出てくるんじゃないかと思っています。

時間、空間、間を制するのが武術なんです。  量子論にぴったりくるわけです。    「稽古照今」(「先人の教えに学んで、今を生きる指針を見出す」)という言葉が古事記の最初に出てきます。   

樹一本は100万本のマッチが作れる、一本のマッチは100万本の樹木を燃やすことが出来る、という例えがありますが、燃やすエネルギーが人間の中にもありますよと言っています。   

大学に入って22歳の時に全日本空手道選手権に最年少で出場、その後座波仁吉師範と出会うことになります。   座波仁吉師範は身長は140cmぐらいです。   大阪に就職したころから先生に本格的に習いました。   毎週日曜日昼ぐらいから夜の12時まで8時間、2年間習いました。   「心豊かなれば技冴える」と先生から言われました。  心が大事という事で、この心がその後気につながって行きました。   自分でやってゆくうちに気づくわけです。   

宇宙に興味があったので応用物理学を選びました。  宮崎県の電子機器メーカーの継電器の研究開発で30代までに20件以上の特許をとりました。   学会で発表する機会も得て行いました。   地方で学会をやることもあり、うちの会社で行ったこともあります。  博士号をとる準備もしていましたが、労働組合に行かざるを得ずそれは中断してしまいました。   会社を辞めて生命保険会社に就職して、断られないような営業の仕方をしてダントツのトップになりました。   父からは「人に迷惑をかけるな」、それだけでした。

戦わずして勝つということとは敵を作らない、敵を作らないためには人を愛する、人を愛するという事は、自分に自信が無ければならないという事につながってくるわけです。   これは世界共通だと思います。

ユニバーサル空手実践塾を世界でやっています。   毎月一回休まずやってきました。 海外はテレワークでやっています。  空手だけを目差すのではなくて、空手を通して人生を生きる、これが一番興味あるようです。  進歩成長するとは変化すること、変化するとは深さを知ること、深さ知ることは謙虚になること。   変化することは非常に大事だと思います。  歳をとると肌肉が衰える、細胞を死ぬときまで生きているので、細胞に働きかける。  顕在意識は5%しかないが、潜在意識は95%を占める。   潜在意識は無意識なので気付かない。   若いころ好きな人に出会うと心臓はドキドキするが、こういう力です、潜在意識が働くわけです。  心の在り方が非常に重要になってくる、心の在り方が気を呼び、気が宇宙のエネルギーを取り込んでくれると思っています。

ダーウィンは「賢い人が生き残るわけでもない、強いものが生き残るでもない、唯一生き残るとすれば変化するものである」と言っています。  

アインシュタインは「私は宇宙に神様がいると思う。  無神論者だけれども神様がいるという事を信じざるを得ない。」  謙虚だと思います、知れば知るほどわからなくなる。(無知の知)

宇宙に生かされて我々は生きていると思います。  座波仁吉先生の「多尊自信」につながってくるわけです。

宇城さんは武術稽古の絶対条件として以下の7つを挙げている

(1)「間を制す」

(2)「相手に入る」

(3)「相手を無力化する」

(4)「相手と調和する」

(5)「相手の二の手を封じる」

(6)「組手が自在である」

(7)「素手の心と剣の心を持つ」














2021年2月8日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】

 穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】

1月に「図書館の外は嵐 穂村弘の図書館日記」が出版され、装丁がヒグチユウコさん、本を読んでいる女の子を取り囲んでいる動物たち、その外は嵐。

周りは本の好きな人達で本を紹介されたり、本と本で繋がりがあるから、そういう楽しさがあるような気がします。   書くことと読むととは凄く繋がっているみたいです。  ペンを持っていて読むときもペンが受信アンテナみたいな役割をしています。

最近の作品

*「夜更かしの人がどこかにいることが救いだという夜更かしの人」     穂村弘

自分のことで、朝まで起きていることが多くて、凄く寂しくなるんです。  夜自分以外のものが動いていたら寂しくないと思うんですが。

*「友達が遠くなるのはなぜだろう銀河と銀河と銀河のように」      穂村弘

友達同士の距離は歳をとるにつれて遠くなる。  銀河のように集合的に遠いい。  

*「光線の記憶のごとく懐かしむ友人たちの恋人たちよ」          穂村弘

自分だけがそんな遠い昔のことを描いているような気がしてならない。

*「今そこにいる人間がいるんだとおもって行く年くる年を見る」      穂村弘

ゆく年くる年を見ると不思議な気持ちに昔からなるんです。  各地を映すがそこには絶対誰かがいるんです。  年が入れ替わる瞬間の映像に同時性を感じます。

*「「穂村さんスイカの準備が早すぎるまだまだかざさなくてもいいよ」」  穂村弘

言われるまで気付かなかった。  どうでもいいような事を心配されることが幸せな気持ちになります。  

*「このへんはあぶないよって嬉しそうイルカの水しぶきがかかるって」    穂村弘

イルカショーの水しぶきを若いころは楽しむが、歳をとってくると後ろのほうで見ればいいという感じになってしまっていて、昔のイメージです。

*「明智さんとつぶやきながら陽炎の陸橋渡る小林老人」          穂村弘

明智さんは明智小五郎、小林老人は年老いてしまった小林少年、今の僕の心境がよく出ていて・・・。   小説の中では歳を取らないが、現実には年を取って行く。  明智小五郎も、怪人二十面相もすでにいなくて、生き生きと闘っていた時自分も明智さんを助けて活躍する青春があった。   もう自分は年老いて陸橋もゆっくりと渡る。   明智さん

*「叫びつつ行く人々とすれ違うプールサイドにイルカが堕ちた」      穂村弘

人間を喜ばせるために芸をしているのに、そんな目にあったらかわいそうという事と、何か青春の終わりみたいなものがイメージの中でかぶっている。

*「ペンギンは微動だにせず頭上には入道雲の群れ湧き上がる」       穂村弘

ペンギンって水族館などでは本当に動かない。  それと入道雲は生き物みたいに空にわいてくる。 そんな対比です。  

*「海軍のカレーライスを試食する僕らに夏が近づいて来る」       穂村弘

戦争にはいかないだろうと思いつつ、海軍のカレーライスを試食して、夏が、青春が近づいてくるというようなかつてのきらめきのイメージですかね。  水しぶきが絶対にかからないような席に座るようになっら、青春は死んでいるみたいな・・・。

*「スキップ通り一瞬びくっとしたけれどみんな普通に歩いています。」   穂村弘

武蔵境の駅の通りにスキップ通りがありましたが、一瞬びっくりしましたが、みんな普通に歩いていました。

リスナーの作品

*「階段の踊り場という蠱惑的響きに惹かれステップを踏む」

*「お正月せかす私に母は笑みふくら雀にポンとその手が」

晴着をお母さんに着せてもらっている。  ふくら雀は帯の結び方。 お母さんに着付けをしてもらって、ハイ出来ましたとポンと叩く仕草。

*「雨粒を拾って全部投げつけてしまいたかった判る判って」

無意味な行動なんだけれども、その虚しさの中に感情が伝わって来ます。

注:*印の短歌はひらがな、漢字等違っている可能性があります。








2021年2月7日日曜日

林原めぐみ(声優)           ・【時代を創った声】

 林原めぐみ(声優)           ・【時代を創った声】

声優、歌手、ラジオパーソナリティーとしても活躍しています。   多くのアニメに出演していますが、中でもアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のヒロインの一人綾波レイ役は印象に残っている役の一つと話しています。   このシリーズの最新作映画「新世紀エヴァンゲリオン」劇場版は先月に公開予定でしたが、現在延期されていて多くのファンが待ち焦がれているかと思います。   林原さんが声優を目指したきっかけは、もちろん感情が無いのではなく感情を知らないという設定である綾波レイ投キャラクターを、どの様に作り上げていったのかなどについて伺いました。

「新世紀エヴァンゲリオン」の綾波レイ、「平成天才バカボン」のバカボン、「名探偵コナン」の灰原哀役など数多くのアニメのほか、歌手、ラジオパーソナリティーとしても活躍しています。 

最初の自粛の時には執筆に専念していました。  まずは作品を届けられているのが感謝です。   デビューして35年、「新世紀エヴァンゲリオン」と出会ってから25年になります。   綾波レイ役はモデルになるような人もキャラクターもいなかったので、監督とのやり取りの中で手探りで作り上げていきました。   心理学の本を読んだり自分で探していきました。 例えば感謝の気持ちが相手に伝わらないような言い方でしゃべるわけです。  感情があるんだけれど知らないだけ。  そこにたどり着くまで苦労しました。

中学2年の時に父が倒れて半身不随になり、病院に出入りしていました。  看護師を目指そうかなと思いました。   小学校では声優になりたいという事にあこがれを持っていて、看護学校受験の時に、願書を出しに行ったときに受付のおばさんが態度が悪くて、めちゃくちゃイライラした勢いで本屋さんに行きそこで、無料で声優を養成しますという内容の本があり、いきおいで送ったら受かって事務所に入って今に至っています。  看護学校との二足のわらじでした。  看護学校2,3年の頃に初めてのアニメ「めぞん一刻」に出演することになりました。  

子供の頃キャラクターと人が結びつかなくて、男の声を女性がやっていることもびっくりしました。  アニメ、漫画は大好きでした。  なんにでもなれる声優に魅力を感じました。   今の養成所は早いうちから台本を持たせて画面にあてるような訓練をするようですが、私はそれは止めたほうがいいと思います。  喜怒哀楽の基本みたいなものを10代の時に凄く作りました。   即戦力にはなるがお芝居が小さくて、完成されていて、もっともっと無限でもっともっと広くて、軌道修正しなければいけないぐらいの大きさがあるとより絵が生き生きしてくるだろうなあとは思います。

本を日米同時発売をしたいと思っています。   日本の声優がどんなふうに声をとっていたかという事を伝えたいと思いました。    声とキャラクターが一致していることを日本では大切にしているという事も伝えたかった。   記録としての両面からお届けしたいと思ってやっていました。   タイトルは「林原めぐみのぜんぶキャラから教わった 今を生き抜く力」   一つ一つの役に悩みますし、考えますし、この役は楽勝だろうと思った役ほど手強かったりします。 

「チンプイ」 藤子不二雄さんの原作、ヒロインのエリちゃん、楽しくて仕方がなくやったが、ずーっとダメ出しでした。   何が駄目だったのか判らなくて、全力でやったがそもそも全力の矛先が違っていた。   自分の台詞だけををただ一生懸命にやっていた。  スタジオのチームワークがふわーっと柔らかくなった時に私のダメ出しがなくなりました。

1990年にNHK教育番組、「ともだちいっぱい」  ソラミちゃん役、キャラで歌う事の醍醐味を私に叩き込んだ作品だったと思います。  いい経験だったと思います。  1989年OVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)「機動戦士ガンダム 0080 ポケットの中の戦争」 イメージソングを歌いました。   ヒロインのクリスチーナ・マッケンジー役でヒロインが歌うという事は当時珍しかったです。

目の前にある仕事一つ一つを頑張っていきたいと思います。






2021年2月6日土曜日

2021年2月5日金曜日

宮本亞門(演出家)           ・みんなにエールを送りたい

 宮本亞門(演出家)           ・みんなにエールを送りたい

1958年東京生まれ、劇場の前にある喫茶店の息子としてダンサーだったお母さんの影響もあり小さいころからいろいろな芸事に親しんできました。  高校生の頃周囲とうまくやっていけず、引きこもった時期もありましたが、そのころからミュージカルの演出家になりたいという夢を抱き紆余曲折の末、29歳の時にアイ・ガット・マーマン』という作品でデビュー、今ではミュージカルだけでなくオペラや歌舞伎の演出など国内外で手掛けています。   2019年TV番組がきっかけに前立腺がんが見つかり手術、復帰後名前の「亜」の字を旧字体の「亞」に変えています。

コロナ禍の中、皆さんに頑張ってもらおうという思いでミュージカルの曲をと思ったのですが、「上を向いて歩こう」をネットで発信したりしてきました。   20代演出家になりたかったが、回りからはなれないと言われていました。   今回のネット配信に関しては一緒作ってくれたのは5人です、送られてきたのが著名人が30人ぐらい、一般の方が600人以上でした。   

一昨年がんになり、21歳の時に母が突然亡くなり、直ぐ後に舞台の初日をあけてそういったことから原点はいつでも死が訪れるという思いがあり、その時生きている間に何ができるか、生きていることは素敵だという事から、こういう活動をしてしまうんですね。  母は喫茶店のオーナーで、おやじは企業に勤めていて、母と駆け落ちをして、私が生まれたときに母が輸血をしてその時に輸血で肝炎、肝硬変になってしまいました。  「私は生きるの、生きるの」というのをずーっと見ていたので、それはすさまじかったです。 「一秒でも長く生きたい」と言っていました。   

20代は悩みながら、自分に対して、人に対しても、社会に対しても「畜生」と思っていました。

29歳の時にオリジナルミュージカル『アイ・ガット・マーマン』で演出家とし、小さな劇場でやって3日間の公演をしました。   段々話題になりました。 

出生名は「宮本亮次」でしたが、演出家になるタイミングで名前を変えようと思って、3つ提示されたがその中から「亜門」という名前にしました。  

「上を向いて生きる」という本を出版した。  TVの中の健康診断で前立腺がんが見つかり、がんの本を書こうと思っていたら、コロナ禍もあり、生きていることに焦点を当てて元気でいて欲しいという思いで本を書きました。   母が私のために残してくれていたお金を父が使ってしまって、その時に事務所の社長さんから「親と縁を切るか、お金をとるか」と言われたときに、「やっぱり、親だよね。」という風にその本にも書いています。  沖縄に家を建てるという時に母が残してくれたお金を頼りにと思っていましたが。  冷静に思うほど僕はおやじが好きでした。   年齢を越えてゆくとどこかで親と子は逆転するんですね。   客観的に思うと凸凹のどうしようもないおやじが可愛くなってきたんです。  縁を切るなんてありえないと思って、これをプラスに変えようと思いました。   演劇とか舞台をやっていると人を客観的にみるんです。  人にはそうなるそれぞれの理由があるわけです。   折角生きているのに時間がもったいないよねと思うようになりました。  

黒澤明監督の名作映画を世界で初めてミュージカル化した『生きる』を演出することになりました。   米・映画「チョコレードドーナツ」をミュージカル化した作品、ダウン症のある子供、実際に演じている子二人もダウン症のある方です。  スケジュールのリスクがありましたが頑張りました。  ダウン症に関することだけではなくて、いろんなことを気付かせてくれるけいこ場でした。   

コロナ過で巨大なブレーキがかかり、皆さんにいろんなことを思い出させてくれた。  原点だとか、人を愛するとは、生きるって何だろうか、差別って何だろうか、これから地球はどうなっていけばいいのかとか、いろいろなことをあぶりだしてくれた。

演出家宮本亞門って名前は自分でも重いなと思っています。   歳を重ねると自分が生きてきた物差しで過去を見るので、いつの間にかこれが正しいんだとか、こうするべきだという風になって、慢心になる可能性があるので、警笛を鳴らしてと思っていますが、そうなっているところもあると思います。   死ぬ瞬間まで悟るはずもないし悟りたくもありません。  ワクワクしたりよかったと思ってもらえるものを広げてやって行きたいです。





2021年2月4日木曜日

佐藤正広(東京外国語大学大学院特任教授)・国勢調査を暮らしに生かす

佐藤正広(東京外国語大学大学院特任教授)・国勢調査を暮らしに生かす 

昨年10月に国勢調査が行われました。  今回の調査は日本で国勢調査が始まって100年目という調査でしたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、これまでにない低い回収率が予想されています。   国勢調査は5年ごとに行われ、日本国内の人口、世帯の実態を把握して、衆議院の選挙区を決めたり、地方交付税の配分を決める基準になり、民間では需要動向の調査、出店戦略をたてたりするときなど幅広く使われています。  いまでは時代とともに回収率が低くなるという課題を抱えています。   佐藤さんは国政調査を長年研究する数少ない学者です。    国勢調査は国民の公共財であるとお話になります。   著書「国勢調査 日本社会の百年」では国勢調査から見える日本の100年の姿を語り今後の課題も指摘しています。

明治35年に国勢調査に関する法律が制定されて、第一回目は1905年にやると言われていましたが、日露戦争が起きてしまい、無期延期になり、大正9年に第一回をやることになりました。   1920年5590万人 1970年に1億300万人、2015年では1億2700万人。   今は減少になっています。

2020年は大規模調査になっています。   電算機が無く算盤とパンチカードの時代だったので、大正9年に調査をした結果が出そろうのは昭和になってからです。  1960年代以降大型電算機が導入されてからは大幅に改善されました。

小学校、中学校とか卒業、交通手段(昼間人口、夜間人口が判るし、時刻表の作成にも役立つ)、などいろいろ調査がある。

今回の回収率は7割ぐらいだと言われている。  インターネットで回答するようにしても下がっていて、根本的な見直しが必要ではないかと言われている。  

国作りの基礎資料になる。  民間がデータを利用するという事もあります。  メッシュ統計、250mのメッシュが高齢者が何人、どういう仕事をしている人が多いとか、昼間人口と夜間人口がどう違うとか、それぞれのメッシュについて判るわけです。   事業所、企業がどのように分布しているかという事がわかります。  老人が多いのに老人福祉施設がないとか、人口比率の割にコンビニが無いとかが判るわけです。  地方交付税の選定などにも使われています。  市に昇格するための人口のチェックなども使われたりもします。   下水道のインフラ、ごみ処理能力、道路の整備などには国勢調査で実際にいる人がどうかを調べることが大事になります。

東日本大震災がありましたが、国税調査の一年後だったので、被害を受けた地域に何人住んでいたかが判るわけで、図表等で公開して、明らかにしたりして、災害への対処などにも使われます。  避難所の数の対処。

住民全てがどこにいるか把握されているので、母集団リストの中から無作為に抽出して、より複雑な調査をすることによって、標本誤差を数学的にどのぐらいに収まってるかが判るので、無抽出した調査で全世帯の動向を反映しているとみなすことが出来る。

メッシュ統計はもっと利用されていい統計だと思います。  インターネットでダウンロードできるが加工する仕方が非常に難しくてうまくいかない。  公共財だと思っているが、需要が少ないので統計局はそこにお金を掛けていないと思うんです。   

「国勢調査 日本社会の百年」 という著書があります。   国勢調査を研究し始めて30年になります。   統計に関して歴史のトレーニングを受けてきた私が何ができるか考えてきたら、統計の歴史をやればいいのではないかと思い至りました。  

現代の国勢調査と大正9年とか昭和5年とかでは全然環境が違っていました。  今は認知度も低くて、プライバシーの侵害だと嫌がられたりしますが、大正9年では国勢調査では第一次世界大戦の戦勝国で列強の一員になったという事が住民の意識にもあり、国勢調査は文明国だという事の証しだという気分が強かった。  調査員になることは大変な名誉だと考えられていました。   

「名も知らず人が言うから熊と書き」 当時は戸籍の届けられている名前がそのまま名乗っていないケースが結構あって、国勢調査は国籍と違う調査なので、周りから呼ばれている名前でも自分の名前として回答していいという事になっていたんで、そういったことになるわけです。

「じじばばは互いに歳を尋ねあい」 歳を旧暦の干支で勘定していたりして、生まれた年を聞かれてもよく判らなあったというような事がありました。

昭和15年の国勢調査は非常に特殊で、戦地にいる軍人も調べました。  通常は日本国以内にいる人すべてを調べることになってる。   日本の帝国の力の及ぶ範囲以内の人を調べることになったんだと思います。  別の年に海外からの引き上げの調査もしています。

回収率が低いと、正確な国勢の状態が判らないが、解決することは非常に難しい。  国勢調査なんて関係ないと思っている人がいっぱいいるので、全数調査をすることは非常に難しい。   オートロックマンションがあり、調査員が立ち入れないので調査の実施が難しくなった。   個人情報保護法が成立した後、拒否する人が多くなった。  個人情報は統計局に集まってくるが個人情報として発表はしていない。  必ず集計量で行い、個人情報が漏れないように加工して発表しています。

社会を対象にした統計はいろいろなところで使われ方がされているが、統計の教育がうまくなされていない。

イギリスでは250mメッシュで身体障害者がどれだけいるか、という統計をイギリスは発表しています。   誰かという事がわかってしまうが、あえて発表しているという事は、そういう統計がないとそういう福祉政策が立案、提案できないという事を認めているからで、統計がこういう風に使えるという知識は人々の中にあると思います。

ヨーロッパでは新しいやり方に替わってきている。  日本でいえばマイナンバー制度を統計に転用するというやり方です。  住民基本台帳、税務資料、福祉について使われていて、国勢調査の代わりにやれば、調査拒否もないのでうまくのではないかと言われています。   イギリス、ドイツ、オランダ、北欧3ケ国もそうなっています。

国勢調査をちゃんと取り上げた教育をして欲しいと思います。  そうしないと統計に対する人々の意識は変わらないと思います。





2021年2月3日水曜日

山下和美(漫画家)           ・画業40周年、新たな題材に挑む

 山下和美(漫画家)           ・画業40周年、新たな題材に挑む

1980年に漫画家デビュー、父親をモデルに学ぶことが大好きな大学教授を主人公にした「天才柳沢教授の生活」や、自ら数寄屋作りの一戸建てを建てて、それに見合う和の心を持った風流人、数寄者になるために茶道や着付けを習う様を描いた、エッセーコミック「数寄です!」などで知られています。

昨年漫画家生活40周年を迎えるが、あっと言う間でした。  一番上の姉が19歳で少女漫画でデビューしましたが、プロの漫画を読むのが家に沢山あって、読んできたので、書き方は小学校の頃から判っていて鍛えられました。  姉からはぼろくそに言われました。  人に見せるようになったのは横浜に来てからです。   襖一枚一コマと思っていて、ストーリーができました。

小樽から小学校の6年の時に父親の関係で横浜に引っ越してきました。  鎌田でコミックマーケットが年に一回ありそれに出していました。   大学に入って学校の先生になろうか、考えていましたが、1980年、『週刊マーガレット』で出ることになりました。   10代の時にとにかく出そうと思っていました。   投稿の結果は佳作でした。   プロになるつもりはなかったがいつ間にかプロになっていましした。   その時に池田理代子先生に褒めてもらって、その人がいたから今の自分があると思っています。   「絵のうまさが恐ろしい」と言われ、凄くうれしかったです。  立体的に書くことが自然とそうなっていきました。

自分自身を少女になかなか投影できなかった。  何を書きたいかが判らなかったので代表作がなかなかできなかったので苦痛でした。   脳梗塞で出版社の会社で倒れて、救急車で運ばれましたが、よくわからなくて、翌日横浜の総合病院に行って、脳外科に回されて脳梗塞だという事が判り入院となりました。  微妙に対応が遅れたためか、両目とも右側視野欠損という後遺症が今でもあります。   根を詰めてやっていたのでそれがいけなかったようです。  吐き気がして右側の足先から痺れ始めて、机が白くて筆入れを探しても見えなくて見つからなかった。  それで倒れてしまいました。  漫画でやっていこうという覚悟はできました。

20代は必死でやっていました。   大前田りんさんのお手伝いに行って『モーニング』の担当にスカウトされました。   カラフル増刊にイラストを描いて欲しいと言われて、父親を描いたらそれが編集長に物凄くうけて、これをモデルに漫画を描いて欲しいという事で、天才柳沢教授の生活』を書くことになりました。   父親は一切読んでいませんでした。  第27回(平成15年度)講談社漫画賞一般部門を受賞。  

2011年数寄屋作りの建物を建てました。   自分が漫画家として続けるにはどうしたらいいか、気にしていてその時に環境を変えたかった。    いろいろやりましたが、唯一うまくいったのが掛け軸作りで、障子張りなどが得意になりました。  茶道はまだまだです。

尾崎幸雄のゆかり洋館が解体の危機にあったものの反対運動をして、館を維持していこうと思っていますが、保存できるように対策しているところで、クラウドファンディングをいずれ始めようと調整中です。    洋館保存運動に携わるきっけけは、洋館が解体して売りに出されて建売が7軒出来るという事で、倉田さんが3年前にツイートしたら反応が凄くあって、有志が集まって交渉したが金額面で折り合いがつかず、解体のお知らせがあり、同業だが付き合いがなかった協力者、笹生那実新田たつお夫妻の協力を得て現在に至っています。  漫画を展示したり、カフェとかがあり、皆さんが自由に入れるような場が作れたらいいと思っています。  その経緯を描いた漫画「世田谷イチの洋館の家主になる」を2021年より『グランドジャンプ』にて連載中です。









2021年2月2日火曜日

2021年2月1日月曜日

今森光彦(写真家・切り絵作家)       ・【オーレリアンの丘から四季便り】

今森光彦(写真家・切り絵作家)       ・【オーレリアンの丘から四季便り】

今森さんは滋賀県の大津市琵琶湖をのぞむ田園風景の中にアトリエを構え里山環境を取り戻すために活動されています。  冬のオーレリアンの様子について伺いました。

今はセピア色をしています。  雑木林は九分九厘落葉するので凄く明るいです。  庭は宿根草が多いので、枝葉は枯れるが、根っこは残っているので、晩秋に刈り取るので何にもないような畑のような感じです。   比叡山はよく見えます。  梅のつぼみが膨らんでいます。  蝋梅は咲いていて甘い匂いがしています。

昨年は近くのフィールドワーク、琵琶湖周辺、流れ込む川などの生物など撮影していました。  宿根草の枝葉を刈り取ったものを野焼きします。   土手に生えている木があるので枝打ちをします。  木の種類によっては坊主のように枝を剪定するものもあります。  晴れ間を利用して1年寝かせたものの薪割りなども行います。 (録音した薪割りの音)  素直な木は綺麗に割れますが、枝分れした木などは苦労するものがあります。   薪ストーブは幅80cm、高さ80cmのものです。 (録音した薪ストーブの音)   木の種類よっていろいろな音がします。  火が見えているので心の安らぎが得られます。  部屋が乾燥しないという事もあります。  薪ストーブを使う事は雑木林を管理しているという事になります。  雑木林を管理している副産物として薪が出てきてストーブとかに反映されるわけです。  雑木林は昔、薪炭林と言われていました。 薪、炭を作ったり、灰を畑にすき込んだりしていました。

昔話におじいさんが山にしば刈りに行きました、とありますが、山に行って小枝をとってくることでした。

小枝は一抱えにして木の山側に纏めておきます。  北風が葉っぱを運んできてくれて、葉っぱが引っかかって積もってきて、生き物の越冬の場所になります。  蝶々などが成虫で越冬したり、カエル、トンボ(成虫のまま越冬する種類がある)などが来ます。

毎年冬場は時間が取れるので、切り絵などをやっています。  モズが野ぶどうに止まっている処の作品で、90cm角ぐらいの大きさです。  ほかにもいくつかありますが、1m角を越えるものもあります。  展覧会もやっています。  今年は発表の場が多いです。

切り絵は子どもの時に感動した素直な感動がそのまま反映される感じです。   写真は僕のやっている自然の写真のジャンルはドキュメンタリーの流れを汲んでいます。 

身近な自然のなかに生きている生き物を尊重する精神が、遠目に見る広い風景と小さな命がいつも繋がっているように見えます、そんな感じがします。

里山は生きものと農家の人たちとの共存の世界だと思います。