2021年2月16日火曜日

遠藤ふき子(元「ラジオ深夜便」アンカー)・ラジオ深夜便」放送開始30周年  アンカートークショー 第三回

 遠藤ふき子(元「ラジオ深夜便」アンカー)・ラジオ深夜便」放送開始30周年  アンカートークショー 第三回

2020年の3月31日まで26年ラジオ深夜便を担当してきました。   健康で病気で休むことなく続けられて、最後の放送の時にはホッとしました。   昭和41年に入社、まずラジオ放送をしました。  「子供と家庭の夕べ」という番組を最初に担当しました。  その後TVの子供向けのニュース、その後朝の番組、夜の番組などをいろいろ担当しました。    ラジオ深夜便をやるようになる前には「夢のハーモニー」という番組で11時代で音楽を流す好きな番組でした。   リスナーの方で「夢のハーモニー」が大好きで収録して取ってあったのを送ってくださった人がいました。  私は台本は取ってありました。(薄い台本)

*「夢のハーモニー」の冒頭の部分と最後の部分を紹介。

平成元年に辞めて、西ドイツのボンに住むことになり、ベルリンの壁が崩壊した翌年、ドイツが統一して、ラジオで様子をリポートを出しました。   電話で3分から10分程度生放送で出しました。 平成5年の春に帰国して、その秋から「ラジオ深夜便」のアンカーの中の一員として入れていただきました。   ほかのアンカーは大ベテランの人達でゆっくりしゃべっていました。  ゆっくりしゃべるようにとの投書があり、いろいろ工夫をして、最初はゆっくりしゃべるようにしたりして慣れて行きました。 

リスナーの方からは気付かないことを沢山教えていただいたり、抗議の手紙などを頂いて落ち込んだりしましたが、それによって励まされることが多かったです。 

子守歌の特集があったときに、判らないタイトルがあり、それを流した時にそれは「北京の子守歌」ですといって、テープに入れてお届けしますと送ってくださいました。

母がアナンウサーだったのでどんなに楽しいんだろうと思って、この仕事に入りましたが、楽しいこともありましたが、紆余曲折してきました。   ドイツに行ってきて、戻って子供が学校にもなじめず、自分でも落ち込んで、先輩のお母さんたちがどうやって子供を育ててきたのか、今いろんな方たちがどう育てているのかという事をインタビューしたら、なにかヒントを得られるかも知れないというような思いで、ラジオ深夜便のなかで「母を語る」というコーナーを平成7年に始めました。

最初は太田治子さんで、母から厳しく育てられたたことが、今の自分にとても役に立っているという話がありました。  次が谷川俊太郎さんでした。  お父さんが哲学者でお母さんは明るくてピアノをやっていました。  俊太郎さんは一人っ子で19歳で恋人ができたと言ったら、お母さんはショックで家出をしてしまったそうです。   その時に二人はあまりうまく行っていなくて、「お父さん、お母さんはあなたの妻です、お母さんのことはあなたに任せます」と言ったら、「判った」と言って、それ以来恋人ができても、動揺することはなくなった、とおっしゃていました。   お母さんは認知症(当時は認知症という言葉もなかった)になり入院して、お父さんは病院に通っていましたが、他には何もするわけではなくて、母についてのいろんなことは自分たち夫婦に掛かってきて大変でしたという話がありました。  

「母を語る」では母は誰にでもいるので、出演者探しには困らないだろうと言われるが、結構断られます。   それには兄弟との関係もあり、話をするのははばかれるというような事でした。   ラジオ深夜便で深夜便の集いがあり、鹿児島に行ったときに「心の時代」で島尾ミホさんで、数年してお願いをして語っていただきました。

豊橋で新幹線を待っていたら、尾木直樹さんに出会って、名刺を渡して「母を語る」という番組があるので出ていただきませんかと言ったら、即決でOKしていただきました。

ノーベル賞を受賞した大村智さん、北里研究所に電話したがとっても忙しい方だという事なので、駄目だと思っていたら、講演の話は凄く多くて、母のことだったたら話しましょうという事で話していただけることになりました。   大村先生のお母さんは戦前は学校の先生をしていましたが、戦後は養蚕を始めて細かくノートに付けて、どんどん収量を上げ、品質も良くして、その養蚕の収益で大村さんたち兄弟を大学まで出してあげました。    そのノートは今の僕にとって宝物です、母が緻密な研究をするという姿を見ながら、僕も母のことを思いながら研究をしていますという話をしていただきました。

上野千鶴子さんには断われて、1年後に電話をしたら父の介護でそれどころではないと断わられ、そのまた1年後に電話をしたら、あなたの根気には負けましたという事で話を伺うことができました。   上野さんの女性史研究の陰にはお母さんの姿を見て、家父長制度の中で女性としてなかなか能力を発揮できなったお母さんの姿を見ながら、「私は女性史を研究しよう」という事を語っていただきました。

佐野洋子さん「100万回生きたねこ」を出版した。   電話をしたがどうしても駄目で、話をするだけならいいという事で杉並の家に伺いました。  母の介護をしていて、悩んでいるという事でした。  私の母の認知症のことを話したら、真剣な眼差しで、先ず区役所に行きなさい、そして相談しなさいと言ってくださいました。   区役所の福祉課に行っていろんな援助を受けることができました。  佐野さんには感謝をしています。

私自身ラジオ深夜便に助けられたと思っています。

「母を語る」では220人余りで最後に話を伺ったのは氷川きよしさんでした。  頑張って頑張って氷川きよしとして生きてきたといったら、お母さんが「もう好きなようにしていいんじゃない」と言ってくれたのでそれが背中を後押しされて、凄く自由になれたと言っていました。   母親は世界中を敵にしてもいつも子供の味方になってくれる、それが母親としてありがたいと思うと語ってくださいました。

いい番組、いいスタッフ、いいリスナーの育てられてここまでやってきたなあと思って感謝しています。