池田あきこ(絵本作家) ・猫を描き続けて35年
池田さんは東京生まれ、短大を卒業してから 2年ほどOL生活を送り結婚、お母さんが革工芸教室を始めたきっかけで自らも革工芸を始め、いつしか教室が工房となり、1976年には会社を設立しました。
1983年に直営店を作った時に、看板や包装用紙に使うマークとして誕生したのが猫のダヤン、去年がちょうど35年と記念の年となりました。
絵本のダヤンがうまれたのが5年後の1988年、以来画集、長編物語、旅のスケッチ紀行など多方面に作品を発表してきました。
また一方では、会社社長として社員30人、パート社員100人を抱えるまでに会社を成長させて来ました。
現在社長を一人娘に譲り、御自身は製作活動を中心にボルネオの森の保全活動に取り組む等幅広く活動しています。
35年を振り返って永かった様な気もしますし、あっという間の気もします。
私の中に架空の国があって、それをつくって行くのにダヤンという強い猫が出て、主人公にピッタリでした。
国をしっかりとして行けた様な気がしました。
これからどういう形で世界をもっと広げて行くかは、これからかもしれません。
地球とは違った場所にある時空の世界での物語が紡がれてきた。
物凄く動物が出てきます。
ゆっくりとした時の流れと豊かな自然、そこに住むのは妖精と動物ばかりです。
TVアニメにもなりましたり、長編映画化の話もあり製作も進んでいます。
1976年に皮の工場をやっていて、自分のオリジナルの皮の商品を作っていて、キーショップみたいなものを自由が丘に作ろうろして、そのシンボルとして生れたのが猫のダヤンです。
皮には可塑性があり水を含むと膨らんで、乾いてもそのままの形になったままになります。
それに凹凸で柄を出してそれに染めを掛けて行くと言うので商品を作り、皮の可塑性を利用して動物たちや妖精を作っていました。
小さいころから物語は好きでした。
当時絵本はそんなになくて読み物で育ちました。
西洋の童話が好きでした。(不条理とか変な話)
身体が弱くて学校も休みがちで、体育は休んで図書館に行って感想文を書くように言われていました。
図書館はジャンルも多岐にわたっていて、見たことのない国に飛んで行って登場人物の国を探検して行くと言う感じでした。
父は国鉄に務めていたので引っ越しが多かったです。
母は手先が器用で姉妹に色んな衣類を作ってくれました。
短大を卒業してからOLになりました。
務めることは向かなかったです。
時間を縛られていることが苦痛でした。
その間、夜にデザイン学校に行きましたが、習うのも苦手でした。
21歳で結婚して会社も辞めました。
当時母が皮細工の教室をやっていました。(趣味に目が行くようになった時代)
皮で自分の好きなように色んなものを作って、駅や商店街の大道で売っていました。
或る日新聞に皮細工募集という記事が出ていて、自分が作ったものを持って売り込みに行ったら、物凄く気に入ってくれました。
おかあさんと組んで工房をやらないかと言われました。
話をしたら母も大喜びでした。
生徒さんはパートになってもらいましたが、お金がもらえるしその人達も大喜びでした。
母と私と妹で、問屋街に行ったり、ギフトショーに出たり、小売店に営業に行ったりとかは全部やっていました。
その後母は亡くなりましたが。
ダヤンが生れてポスターを描こうと思いました。
話の種が既に一杯転がっていました。
絵本作家の道を歩み始めました。
絵本のダミーを作って、出版社に電話をして面会しました。
稟議にかけると言う事で、直ぐ絵本を出したかったので自分で出そうと思いました。
バースデーブックを作って、沢山売ることができました。
私は新しいものをやることが好きでした。
娘が出来て保育園には凄く助かりました。
夫も私もオートバイが好きでツーリングを趣味にしていました。
10年ぐらい前にボルネオ縦断ツーリング(2000km)に行きました。(6日間)
マレーシア、ブルネイ、インドネシアの3国に行き赤道まで行きました。
そこで見た光景がパームヤシのプランテーションが増えていて、どこまでもパームヤシのプランテーションでした。
原生林がパームヤシのプランテーションにとってかわり、そこに住む動物たちの住む場所が無くなってしまう訳です。
帰ってきてなんとか森を守りたいと思って、ボルネオ保全トラスト(緑の開放計画)をやっていて、川沿いに土地を買って行って、そこを売られないようにしてつないでいって動物たちが行き来できるようにすると言う事でしたが、全く進んでいなくて売り上げの一部を寄付したいと思いました。
ダヤンの森としました。(看板があるわけではない 絵の売り上げの一部を寄付)
2回目は30周年の原画展の時の寄付、オークションで得たお金)
現在3回目を計画しています。
架空の世界「わちふぃーるど」は、地球からもらったもので架空の国を創造し、地球に何か自分でも役に立ちたいと思っていました。
なんでボルネオなのかといわれるが、ジャングルの実情を知ってそれを守りたいと思いました、それしかないと思っています。
2019年2月28日木曜日
2019年2月27日水曜日
土橋靖子(書家) ・"かな"の広い広い文字の世界を目指す
土橋靖子(書家) ・"かな"の広い広い文字の世界を目指す
昨年3月に日展に出品した「かつしかの里」という作品で平成29年度の日本芸術院賞を受賞しました。
小さい時から筆を持ち、10歳の半ばから祖父で京都のかなの名門、日比野 五鳳(ひびの ごほう)さん、日比野光鳳さんの教えを受けてこられました。
東京学芸大学の書道科を卒業して書家として活動しながら、高校大学の講師を務め、現在は大東文化大学書道科で特任教授として若者の指導をしています。
私は千葉県の市川市が郷里ですが、市川を詠った伊藤 左千夫(いとう さちお)の短歌2首を書かせていただきました。
好きな題材とか自分と縁のある題材を手がけるけるようになりたいと思って書いた矢先の「かつしかの里」という作品の受賞でした。
縦☓横が85cm☓180cmの作品です。
大きくなるほど俯瞰してみなくてはいけないので、小さな所にこだわってしまうといけないので、常に離したりしてみるようにしないといけないのが難しいです。
200枚位は書いたと思います。
夫にも最終は見てもらったりします。
夫は大学の教員をやっています。
もうちょっとこうしようああしようとやっているうちに、どん底に陥ってそこからまたはいあがっていくというのが通常のパターンです。
計算を越えた書にしたいので、やはり書き込まないといけないと思います。
最近はここだけは二度と同じようには書けないと思うような場所が出来上がった時に、全体としては気に入らないと思っても、一部でも表現できた時に良しとしています。
無心の境地を最期まで持ち続けるということはなかなかできません。
母方の祖父が日比野 五鳳(ひびの ごほう)で、それをもとに母に習っていました。
6歳ぐらいから筆を持ちました。
中学から書道部に入っておもしろくなって、春休み夏休みなどに京都に出かけて祖父から指導を受けました。
小さい頃は音楽が好きで、連綿、息使い等はリズムを取ると言う事は大事なことで、音楽をやって結果的にはよかったと思いました。
祖父から一番怒られたのは線です。
大学を卒業して日展に出品する頃に、祖父に見てもらったら「これをおかしいとおもわぬお前の頭がおかしい」と言われました。
線と用筆は厳しかったです。
或る線を見て平らな平たい板のように見えるか、丸太棒のような太い木のように見えるかこれだけでも全然違うと思います。
強い線、弱い線、弛んだ線、張り詰めた線、張り詰めて居ても絹のような線、針金のような線だったり、かなになると特に小さい文字だと繊細ですから、同じ一色の線では飽きてしまうので、情感が入っていたり、冷たく厳しかったり色んな線には味があると思います。
弱いより強い方が、濁っているより、澄んでいる方がいいと思います。
祖父は83歳で亡くなりましたが。その時私は28歳でした。
父は医師でしたが、私は高校生のころは医者になりたいと思っていました。
兄、姉も医学の道に進みました。
高校2年生の夏ごろから揺らぎ始めて、祖父の偉大さを感じるようになったのも進路を変えた一つの要因だったかもしれません。
書道は大変だから医者になれと祖父は言っていました。
両親は好きな道をというふうに言っていました。
王 羲之(おう ぎし)の書のあたりがかな文字の原点になっているようで、原点を常に勉強していくという事は常にライフワークにしています。
祖父はかな作家と言われるのを好まなかった。
両方勉強して当然だと思います。
古今和歌集、新古今和歌集を作品にすることが多いが、今の物を書いてゆくことは難しい所があります。
書の美を優先させると、かなの場合は昔の変体仮名を使わないと、今のひらがなだけでは美しさを生み出すことはできない。
全く読めないように書くようにするという事はどうなのかなと私は疑問に思っています。
漢字の部分は漢字で書きたいし、変体仮名も不要には多く使いたくないと思っています。
かなの場合の三大要素
①余白の美しさ
②墨色の美しさ
③連綿の美しさ
これを縦軸に置くとすると、横軸は線になり、余白も緩い線だったら余白は持たない。
墨の濃さも線がよどんでいたら、ただドロドロ見えるだけ。
連綿もただにゅるにゅるしていたら気持ち悪い。
「読めないわ」と心のシャッターを下ろしてしまわずに、なんとなく香りをたのしんでもらいたい。
展覧会に行った時に、香りを感じたり、空気感、綺麗、汚い、強い作品であれば力をもらったり感じるものは、必ずあると思うので気楽に見ていただいて感じていただきたい。
筆が自分の身体の一部になるように訓練する、余計な力を抜くように練習して行くことが大事だと思います。
淡々と続けていると筆とお友達になれる、そんな時が来ると思います。
かなといっても日本語は漢字とかなで出来ているので、日本の心の書を広く伝えられるようにということと、文字と書との関わり方、そういった処を私自身が精進してみなさんに
両方の意味でお伝えできるようなそういう世界を表現していきたいなあと思います。
書の美が一番大事なので色んな美の世界、空間、墨の色合いなど色んな世界を表現できるようになりたいですね。
筆、紙、墨は微妙な相性があるので、なかなか難しいと思います。
湿度が気になります。
大雨の日はどうしても駄目です。
私のライフワークは真の意味でのかなと漢字の調和した作品です。
昨年3月に日展に出品した「かつしかの里」という作品で平成29年度の日本芸術院賞を受賞しました。
小さい時から筆を持ち、10歳の半ばから祖父で京都のかなの名門、日比野 五鳳(ひびの ごほう)さん、日比野光鳳さんの教えを受けてこられました。
東京学芸大学の書道科を卒業して書家として活動しながら、高校大学の講師を務め、現在は大東文化大学書道科で特任教授として若者の指導をしています。
私は千葉県の市川市が郷里ですが、市川を詠った伊藤 左千夫(いとう さちお)の短歌2首を書かせていただきました。
好きな題材とか自分と縁のある題材を手がけるけるようになりたいと思って書いた矢先の「かつしかの里」という作品の受賞でした。
縦☓横が85cm☓180cmの作品です。
大きくなるほど俯瞰してみなくてはいけないので、小さな所にこだわってしまうといけないので、常に離したりしてみるようにしないといけないのが難しいです。
200枚位は書いたと思います。
夫にも最終は見てもらったりします。
夫は大学の教員をやっています。
もうちょっとこうしようああしようとやっているうちに、どん底に陥ってそこからまたはいあがっていくというのが通常のパターンです。
計算を越えた書にしたいので、やはり書き込まないといけないと思います。
最近はここだけは二度と同じようには書けないと思うような場所が出来上がった時に、全体としては気に入らないと思っても、一部でも表現できた時に良しとしています。
無心の境地を最期まで持ち続けるということはなかなかできません。
母方の祖父が日比野 五鳳(ひびの ごほう)で、それをもとに母に習っていました。
6歳ぐらいから筆を持ちました。
中学から書道部に入っておもしろくなって、春休み夏休みなどに京都に出かけて祖父から指導を受けました。
小さい頃は音楽が好きで、連綿、息使い等はリズムを取ると言う事は大事なことで、音楽をやって結果的にはよかったと思いました。
祖父から一番怒られたのは線です。
大学を卒業して日展に出品する頃に、祖父に見てもらったら「これをおかしいとおもわぬお前の頭がおかしい」と言われました。
線と用筆は厳しかったです。
或る線を見て平らな平たい板のように見えるか、丸太棒のような太い木のように見えるかこれだけでも全然違うと思います。
強い線、弱い線、弛んだ線、張り詰めた線、張り詰めて居ても絹のような線、針金のような線だったり、かなになると特に小さい文字だと繊細ですから、同じ一色の線では飽きてしまうので、情感が入っていたり、冷たく厳しかったり色んな線には味があると思います。
弱いより強い方が、濁っているより、澄んでいる方がいいと思います。
祖父は83歳で亡くなりましたが。その時私は28歳でした。
父は医師でしたが、私は高校生のころは医者になりたいと思っていました。
兄、姉も医学の道に進みました。
高校2年生の夏ごろから揺らぎ始めて、祖父の偉大さを感じるようになったのも進路を変えた一つの要因だったかもしれません。
書道は大変だから医者になれと祖父は言っていました。
両親は好きな道をというふうに言っていました。
王 羲之(おう ぎし)の書のあたりがかな文字の原点になっているようで、原点を常に勉強していくという事は常にライフワークにしています。
祖父はかな作家と言われるのを好まなかった。
両方勉強して当然だと思います。
古今和歌集、新古今和歌集を作品にすることが多いが、今の物を書いてゆくことは難しい所があります。
書の美を優先させると、かなの場合は昔の変体仮名を使わないと、今のひらがなだけでは美しさを生み出すことはできない。
全く読めないように書くようにするという事はどうなのかなと私は疑問に思っています。
漢字の部分は漢字で書きたいし、変体仮名も不要には多く使いたくないと思っています。
かなの場合の三大要素
①余白の美しさ
②墨色の美しさ
③連綿の美しさ
これを縦軸に置くとすると、横軸は線になり、余白も緩い線だったら余白は持たない。
墨の濃さも線がよどんでいたら、ただドロドロ見えるだけ。
連綿もただにゅるにゅるしていたら気持ち悪い。
「読めないわ」と心のシャッターを下ろしてしまわずに、なんとなく香りをたのしんでもらいたい。
展覧会に行った時に、香りを感じたり、空気感、綺麗、汚い、強い作品であれば力をもらったり感じるものは、必ずあると思うので気楽に見ていただいて感じていただきたい。
筆が自分の身体の一部になるように訓練する、余計な力を抜くように練習して行くことが大事だと思います。
淡々と続けていると筆とお友達になれる、そんな時が来ると思います。
かなといっても日本語は漢字とかなで出来ているので、日本の心の書を広く伝えられるようにということと、文字と書との関わり方、そういった処を私自身が精進してみなさんに
両方の意味でお伝えできるようなそういう世界を表現していきたいなあと思います。
書の美が一番大事なので色んな美の世界、空間、墨の色合いなど色んな世界を表現できるようになりたいですね。
筆、紙、墨は微妙な相性があるので、なかなか難しいと思います。
湿度が気になります。
大雨の日はどうしても駄目です。
私のライフワークは真の意味でのかなと漢字の調和した作品です。
2019年2月26日火曜日
山本寛斎(デザイナー・プロデューサー) ・熱き心、今も
山本寛斎(デザイナー・プロデューサー) ・熱き心、今も
75歳、1967年23歳でファッションデザイナーの登竜門である装苑賞を受賞、71年にはロンドンで日本人初となるファッションショーを成功させ、一躍ファッション界の寵児となりました。
その後、挫折もありましたがパリ、ニューヨーク、東京と3カ国のコレクションで作品を発表し続けて世界にその名を轟かせました。
1993年からはファッション、映画、演劇、コンサートが一体となったスーパーショーに力を注いできました。
今年ブランド創設50年になると言う寛斎さんの軌跡をたどり、その衰えを知らぬ情熱と新たな挑戦について伺います。
来月から北極に行きます。
20年以上前にマキンリーで植村直己さんがTVに出ていた時のテーマが、スコットさんというイギリスの探検家とアムンゼンさんというノルウエーの人のドキュメンタリーをやっていて、植村さんはコメントをやっていました。
探検家の壮絶な生き方でした。
私が一番行きたくないところが寒いところと、厭なことという事で北極に行くことにしました。
北極冒険家・荻田泰永さんに指導を受けながらやって見ようと思います。
マイナス40度の体験は無くて、恐怖から克服するために旭川に行きました。
北極へは2週間ぐらいの予定です。
ほかに準備として一日一時間半毎日歩いています。
小さいころから自分がかっこよくなったかどうか判っていたようです。
7歳の時に両親が離婚して2人の弟を連れて、横浜から3人きりで高知県まで旅をして、行き着いた先が児童相談所で、かなり厳しい生活をしました。
18歳で母親に会いに行きました。
母は近所のお嬢さんに針仕事を教えていました。
待っている間ファッション雑誌を見て、その内容に受賞をしたら才能があると言うことだという思いがありそれを取ろうと思いました。
著名な先生の弟子になって服を縫う事を修行することにしましたが、大学に行っていたので退学届を21歳の9月1日に出してそのことは克明に覚えています。
夜の10時に家に帰って1時頃まで装苑の本から丸写しで絵を描いていました。
祖母からミシンを国元から送ってもらって、修行中は貧しい厳しい時期でした。
給料が当時1万2000円で、家賃が6000円で3食たべるのに一日200円、一回70円そこそこそこで、天ぷら定食を食べたりしていました。
シャンソンコンクールで受かったらパリにいけると言う事で、駄目もとで行きましたら、
「愛の賛歌」を英語でやったら見事に鐘が一つで、1位は加藤登紀子さんでした。
コシノジュンコ先生の処にお針子として入ったんですが、当時装苑賞は公開でした。
文化学園の学生は同級生の応援がありますが、私はないので自分で応援するしかなくて自分のモデルに自分で割れんばかりの応援をしました。
予選通過は1位でした。
最終的には1位になることができました。(1967年)
カレンダーの仕事が舞い込み、30万円になりました。
イギリスに旅行してキングスロード(表参道の様なところ)を行ったり来たりしました。
そうしたら肩を叩かれて恰好がいいからスタジオに来て写真を摂らして下さいと言われて、世界のかっこいい青年、と言うなところに10名写った中の一人に「ライフ」に出てしまいました。
当時私の格好は頭は金髪で服も靴も蛇皮で国籍が判らない恰好なので、友人から日本のアイデンティティーを出さないと行けないと強く言われて、帰国すると頭は坊主にして、ロンドンブーツでほぼ真っ赤ないでたちをしました。
ロンドン、ニューヨーク等ではかっこいいと言われましたが、日本ではあまり芳しい評価は無かったです。
違いは何なのかと思ったら、個性を尊重するか否かという事でした。
イギリスで勝負を決めようと思いました。
1971年にロンドンで日本人初めてとなるファッションショーを行いました。
歌舞伎を初めてみて、様式美、色彩美、演出方法をふんだんに入れて、進行していきました。
入魂のショーだったと思います。
大変な評判になりました。
イギリスのデヴィッド・ボウイという青年が世界に出て行くという事で、舞台衣装のお手伝いをすることになり、ニューヨークの舞台からのアメリカのツアーなどで、派手なパーフォマンスで行い私自身の作品が「やった」という思いがありました。
以後、インターナショナルでモテモテになりました。
パリでショーをやろうと言うことになってやったが、本来の服だけで勝負しなさいと言う厳しい意見を言われました。
生まれて初めての大きな失敗だったので1年間は完全に力は出ませんでした。
社員もどんどん辞めて行き、取引先まで影響しました。
アメリカでトランクに私の作った最新作を売り込みに行って、徐々に注文が入るようになりました。
パリコレは1回のショーで1億円近いファッションをつくる費用がかかり経済的にもかなりの負担です。
クリエーションを評価してくれるので、日本人の一人としてやり甲斐のある場所で、情熱を届けるのには最高の場所だと思っています。
何十人のデザイナーが発表して1~5番ぐらいまでは新聞に発表されるが、3位以上に入った事が無かった。
自分の才能が足し算になっていないと思いました。
演出をしながらメッセージを伝えるのが私の正体だと思って、表現したいのはファッションだけではなくてドラマチックな表現をやるべきだと思いました。(スーパーショー)
場所としてモスクワの赤の広場を選びました。(1993年)
世界でやったことのないことでした。
12万人という人が集まって、世界中でだれもやったことの無いことをやったと思います。
95年にはベトナムのハノイ、97年にインドのニューデリーで行いました。
企業からの協賛金は手紙などいろいろ工夫して7,8枚の画用紙にきれいな写真を張ったり、文章も考えて、社長に会う事が出来たのが7割程度で、そのうちの3割程度には賛成してもらい自分で集めることができました。
東日本大震災の時は、オフィスには本が多くて、一気に倒れ掛かってきましたが、心配なのはやはり原発でした。
数日たってからチェルノブイリに行ってみました。
一番驚いたのは何十年も経っているのに、一回ぱっといったら何にもない、こんなリスクのあることってあるのかと、人間がこういうことに加担しては間違いだと思いました。
東日本大震災の鎮魂のイベントも行いました。
1万年続いた縄文時代に興味があり、悠久の時、これを何らかの形でショーの中で工夫をしていきたいと思っています。
知らないことがいっぱいあるので今後もこれらを満たしていきたいと思います。
75歳、1967年23歳でファッションデザイナーの登竜門である装苑賞を受賞、71年にはロンドンで日本人初となるファッションショーを成功させ、一躍ファッション界の寵児となりました。
その後、挫折もありましたがパリ、ニューヨーク、東京と3カ国のコレクションで作品を発表し続けて世界にその名を轟かせました。
1993年からはファッション、映画、演劇、コンサートが一体となったスーパーショーに力を注いできました。
今年ブランド創設50年になると言う寛斎さんの軌跡をたどり、その衰えを知らぬ情熱と新たな挑戦について伺います。
来月から北極に行きます。
20年以上前にマキンリーで植村直己さんがTVに出ていた時のテーマが、スコットさんというイギリスの探検家とアムンゼンさんというノルウエーの人のドキュメンタリーをやっていて、植村さんはコメントをやっていました。
探検家の壮絶な生き方でした。
私が一番行きたくないところが寒いところと、厭なことという事で北極に行くことにしました。
北極冒険家・荻田泰永さんに指導を受けながらやって見ようと思います。
マイナス40度の体験は無くて、恐怖から克服するために旭川に行きました。
北極へは2週間ぐらいの予定です。
ほかに準備として一日一時間半毎日歩いています。
小さいころから自分がかっこよくなったかどうか判っていたようです。
7歳の時に両親が離婚して2人の弟を連れて、横浜から3人きりで高知県まで旅をして、行き着いた先が児童相談所で、かなり厳しい生活をしました。
18歳で母親に会いに行きました。
母は近所のお嬢さんに針仕事を教えていました。
待っている間ファッション雑誌を見て、その内容に受賞をしたら才能があると言うことだという思いがありそれを取ろうと思いました。
著名な先生の弟子になって服を縫う事を修行することにしましたが、大学に行っていたので退学届を21歳の9月1日に出してそのことは克明に覚えています。
夜の10時に家に帰って1時頃まで装苑の本から丸写しで絵を描いていました。
祖母からミシンを国元から送ってもらって、修行中は貧しい厳しい時期でした。
給料が当時1万2000円で、家賃が6000円で3食たべるのに一日200円、一回70円そこそこそこで、天ぷら定食を食べたりしていました。
シャンソンコンクールで受かったらパリにいけると言う事で、駄目もとで行きましたら、
「愛の賛歌」を英語でやったら見事に鐘が一つで、1位は加藤登紀子さんでした。
コシノジュンコ先生の処にお針子として入ったんですが、当時装苑賞は公開でした。
文化学園の学生は同級生の応援がありますが、私はないので自分で応援するしかなくて自分のモデルに自分で割れんばかりの応援をしました。
予選通過は1位でした。
最終的には1位になることができました。(1967年)
カレンダーの仕事が舞い込み、30万円になりました。
イギリスに旅行してキングスロード(表参道の様なところ)を行ったり来たりしました。
そうしたら肩を叩かれて恰好がいいからスタジオに来て写真を摂らして下さいと言われて、世界のかっこいい青年、と言うなところに10名写った中の一人に「ライフ」に出てしまいました。
当時私の格好は頭は金髪で服も靴も蛇皮で国籍が判らない恰好なので、友人から日本のアイデンティティーを出さないと行けないと強く言われて、帰国すると頭は坊主にして、ロンドンブーツでほぼ真っ赤ないでたちをしました。
ロンドン、ニューヨーク等ではかっこいいと言われましたが、日本ではあまり芳しい評価は無かったです。
違いは何なのかと思ったら、個性を尊重するか否かという事でした。
イギリスで勝負を決めようと思いました。
1971年にロンドンで日本人初めてとなるファッションショーを行いました。
歌舞伎を初めてみて、様式美、色彩美、演出方法をふんだんに入れて、進行していきました。
入魂のショーだったと思います。
大変な評判になりました。
イギリスのデヴィッド・ボウイという青年が世界に出て行くという事で、舞台衣装のお手伝いをすることになり、ニューヨークの舞台からのアメリカのツアーなどで、派手なパーフォマンスで行い私自身の作品が「やった」という思いがありました。
以後、インターナショナルでモテモテになりました。
パリでショーをやろうと言うことになってやったが、本来の服だけで勝負しなさいと言う厳しい意見を言われました。
生まれて初めての大きな失敗だったので1年間は完全に力は出ませんでした。
社員もどんどん辞めて行き、取引先まで影響しました。
アメリカでトランクに私の作った最新作を売り込みに行って、徐々に注文が入るようになりました。
パリコレは1回のショーで1億円近いファッションをつくる費用がかかり経済的にもかなりの負担です。
クリエーションを評価してくれるので、日本人の一人としてやり甲斐のある場所で、情熱を届けるのには最高の場所だと思っています。
何十人のデザイナーが発表して1~5番ぐらいまでは新聞に発表されるが、3位以上に入った事が無かった。
自分の才能が足し算になっていないと思いました。
演出をしながらメッセージを伝えるのが私の正体だと思って、表現したいのはファッションだけではなくてドラマチックな表現をやるべきだと思いました。(スーパーショー)
場所としてモスクワの赤の広場を選びました。(1993年)
世界でやったことのないことでした。
12万人という人が集まって、世界中でだれもやったことの無いことをやったと思います。
95年にはベトナムのハノイ、97年にインドのニューデリーで行いました。
企業からの協賛金は手紙などいろいろ工夫して7,8枚の画用紙にきれいな写真を張ったり、文章も考えて、社長に会う事が出来たのが7割程度で、そのうちの3割程度には賛成してもらい自分で集めることができました。
東日本大震災の時は、オフィスには本が多くて、一気に倒れ掛かってきましたが、心配なのはやはり原発でした。
数日たってからチェルノブイリに行ってみました。
一番驚いたのは何十年も経っているのに、一回ぱっといったら何にもない、こんなリスクのあることってあるのかと、人間がこういうことに加担しては間違いだと思いました。
東日本大震災の鎮魂のイベントも行いました。
1万年続いた縄文時代に興味があり、悠久の時、これを何らかの形でショーの中で工夫をしていきたいと思っています。
知らないことがいっぱいあるので今後もこれらを満たしていきたいと思います。
2019年2月25日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】川端康成(2018/4/23 OA)
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】川端康成(2018/4/23 OA)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/04/blog-post_23.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/04/blog-post_23.htmlをご覧ください。
2019年2月24日日曜日
荒俣宏(作家) ・【私のがむしゃら時代】
荒俣宏(作家) ・【私のがむしゃら時代】
1947年昭和22年生まれ東京の出身。
少年時代は周囲の自然を好奇心一杯に楽しみ、その好奇心が読書につながり中学、高校時代は昼飯代を本代に回すほど大好きだった、荒俣さん、現在は博物学者、図像学研究家、小説家、収集家、神秘学者、妖怪評論家、翻訳家、タレントなどで活躍されています。
戦後すぐに生まれで貧乏で中学まではいかせてくれるだろうけれど、その後は近所の町工場に行くのかなあと思っていました。
板橋は町工場だらけでした。
遊びから勉強まですべて自分でやるような時代だったと思います。
小学校3年位までTVがない時代だったので、身の回りの自然をTVの様に楽しんでいたと思います。
海に行って色々遊ぶのが楽しくて、中学には自分一人で行くようになりました。
ブリキのバケツを持って行って、ウニ、カニ等を獲ってバケツに海水を入れて帰ってきて、ビショビショになって帰ってきたことをよくやりました。
冬の海に入って生物を観察していたら、警察が来て何をやっているんだと怒られたこともあります。
水死体が浮かんでいると思って警察に連絡したようでした。
何かをやる為には何かを捨てなくてはいけないという事で、いい子になることは止めました。
あの子は変だと言われていました。
いえは店をやっていましたが、店では活字は新聞位でした。
幼稚園の最期の学年の時に貸本屋が出来、見たことのない本がずらっと並んでいました。
半分が漫画で絵で読めるので読みたいと思ったが、小学校にならないと会員になれないという事で、入学式の後早速2,3冊借りて来ました。
手塚治虫の漫画でした、これが良かったです。
こういう世界があるんだと思いました。
活字が読めるようになって、めぼしい漫画はほぼ読んでしまい、少年ものの活字本がありました。
これがまた面白くて、毎日どっちかを読んでいました。
外国の話が大好きにもなりました。
日本大学第二学園中学校に入りました。
昆虫採集とか、絵を描いたり、小説を書いたり、余り親の言う事を聞かずにやっていました。
こづかいは本につぎ込みました。
バス代も本代にするために、歩いて行ったり自転車通学にしました。
お昼のお金も本代に回せないかと思って、昼はほとんど飲まず食わずでした。
その時間には図書室に行って時間を過ごしました。
中学3年性の時に、ある先生の訳す本が好きで手紙を出しました。
お化けの本は日本ではほとんど読まないので、アメリカ、イギリスなどはお化けの本などがいっぱいあるので、英語の本なら一杯有るので英語を読みなさいと言われて、英語の本をいくつか紹介されました。
しかし僕は英語が苦手でしたが、英語の勉強をがんばりました。
高校1年の時に洋書のある丸善に行って、こういう本はないかと聞いて、今は読めないが読める様になるために好きな本を買いたいと言う事で、お化けの本を数冊買って読み始めました。
苦手な英語が段々スラスラと読めるようになり、日本語よりもスラスラ読めるのではないかと思うほどになりました。
それが翻訳家としての下地になったと思います。
人からは変なことをやっていると思われていました。
女の子を紹介されたことはありましたが、全く話が通じませんでした。
小泉八雲がね、とか言っても駄目で女の子がいなくても死ぬわけでもないしと思うようになりました。
自分の進む道に対しては女の子とかに関わらず眼をつぶろう、我慢をしようと思いました。
与謝野晶子の乱れ髪を読んだ時に、君死にたもう事無かれで、「若き血潮に触れもせで・・・」見て暫くどうしようかと思いました。
自分は地獄に落ちたんだと達観しました。
慶應義塾大学法学部に入学、一番最初につかったテキストが神秘学でした。
一気に自分のフィールドが広がりました。
大学卒業後サラリーマンになりました。
好きなことはいつでもできるだろうと思って、じっと我慢をしていて好きなことをやろうかと思い、日魯漁業(現在のマルハニチロ)に入社しました。
大学では先生とよく話が出来ましたが、会社では隣の人とも話ができないという事を知りました。
ハンコ、帳簿のつけ方など苦労しました。
経理、営業などをやっていて、コンピューターを導入されるようになって、昼は社会人の言葉を使ってプログラマーとして機械言語を使い、夜は大学生からずーっと翻訳の仕事をしていました。
周りはコンピューターのことは判らないので、壁に突き当たっても聞くことはできないし、月に200時間残業をしたこともありました。
その間翻訳の仕事もしました。
平均睡眠は2時間位だったと思います。
早朝4時、5時に寝て起きるのは7時で、社会人の言葉と、機械言語と、文学と一日を3倍楽しめたんじゃないかと思っています。
本はずーっと相変わらず買っていました。
結果的には会社で毎日修行をしていたようなものです。
会社でリストラがあり、辞めないためにコンピューター室から北方トロール部に移されてここは24時間体制で、これはやっていけないと思いました。
会社を辞めて執筆をやっていたら、朝はいつ起きてもいいし、好きなだけ寝ずにできるし、好きな本も読み放題だし、気が付いたら3年が過ぎて、結局作家を続けました。
妹は漫画家になり、弟は魚の研究を始めていたが、兄弟だれも結婚していなくて、狭山に家を設けて嫁さんは来ないのかといわれて家に帰りにくくなって、会社で徹夜をするようになって、20年位は平凡社で暮らしていました。
コンクリートの床に段ボールを敷いてそこに寝て、食事はコンビニで買って、1週間に一回位近くの風呂屋に行っていました。
「世界大博物物図鑑」全7巻を執筆。
1985年小説『帝都物語』350万部売れて、お金が沢山入ってきたので、買いたかった1000万円の博物学の古書を買って「世界大博物物図鑑」の資料にしました。
今は嫁さんが来たが家では、寝る時間が2~3時間で色んな事をやっています。
夜、海に潜って動き回るプランクトンを観察することにはまっています。
5年前からやっています。
写真に撮ってコレクションにしています。
1947年昭和22年生まれ東京の出身。
少年時代は周囲の自然を好奇心一杯に楽しみ、その好奇心が読書につながり中学、高校時代は昼飯代を本代に回すほど大好きだった、荒俣さん、現在は博物学者、図像学研究家、小説家、収集家、神秘学者、妖怪評論家、翻訳家、タレントなどで活躍されています。
戦後すぐに生まれで貧乏で中学まではいかせてくれるだろうけれど、その後は近所の町工場に行くのかなあと思っていました。
板橋は町工場だらけでした。
遊びから勉強まですべて自分でやるような時代だったと思います。
小学校3年位までTVがない時代だったので、身の回りの自然をTVの様に楽しんでいたと思います。
海に行って色々遊ぶのが楽しくて、中学には自分一人で行くようになりました。
ブリキのバケツを持って行って、ウニ、カニ等を獲ってバケツに海水を入れて帰ってきて、ビショビショになって帰ってきたことをよくやりました。
冬の海に入って生物を観察していたら、警察が来て何をやっているんだと怒られたこともあります。
水死体が浮かんでいると思って警察に連絡したようでした。
何かをやる為には何かを捨てなくてはいけないという事で、いい子になることは止めました。
あの子は変だと言われていました。
いえは店をやっていましたが、店では活字は新聞位でした。
幼稚園の最期の学年の時に貸本屋が出来、見たことのない本がずらっと並んでいました。
半分が漫画で絵で読めるので読みたいと思ったが、小学校にならないと会員になれないという事で、入学式の後早速2,3冊借りて来ました。
手塚治虫の漫画でした、これが良かったです。
こういう世界があるんだと思いました。
活字が読めるようになって、めぼしい漫画はほぼ読んでしまい、少年ものの活字本がありました。
これがまた面白くて、毎日どっちかを読んでいました。
外国の話が大好きにもなりました。
日本大学第二学園中学校に入りました。
昆虫採集とか、絵を描いたり、小説を書いたり、余り親の言う事を聞かずにやっていました。
こづかいは本につぎ込みました。
バス代も本代にするために、歩いて行ったり自転車通学にしました。
お昼のお金も本代に回せないかと思って、昼はほとんど飲まず食わずでした。
その時間には図書室に行って時間を過ごしました。
中学3年性の時に、ある先生の訳す本が好きで手紙を出しました。
お化けの本は日本ではほとんど読まないので、アメリカ、イギリスなどはお化けの本などがいっぱいあるので、英語の本なら一杯有るので英語を読みなさいと言われて、英語の本をいくつか紹介されました。
しかし僕は英語が苦手でしたが、英語の勉強をがんばりました。
高校1年の時に洋書のある丸善に行って、こういう本はないかと聞いて、今は読めないが読める様になるために好きな本を買いたいと言う事で、お化けの本を数冊買って読み始めました。
苦手な英語が段々スラスラと読めるようになり、日本語よりもスラスラ読めるのではないかと思うほどになりました。
それが翻訳家としての下地になったと思います。
人からは変なことをやっていると思われていました。
女の子を紹介されたことはありましたが、全く話が通じませんでした。
小泉八雲がね、とか言っても駄目で女の子がいなくても死ぬわけでもないしと思うようになりました。
自分の進む道に対しては女の子とかに関わらず眼をつぶろう、我慢をしようと思いました。
与謝野晶子の乱れ髪を読んだ時に、君死にたもう事無かれで、「若き血潮に触れもせで・・・」見て暫くどうしようかと思いました。
自分は地獄に落ちたんだと達観しました。
慶應義塾大学法学部に入学、一番最初につかったテキストが神秘学でした。
一気に自分のフィールドが広がりました。
大学卒業後サラリーマンになりました。
好きなことはいつでもできるだろうと思って、じっと我慢をしていて好きなことをやろうかと思い、日魯漁業(現在のマルハニチロ)に入社しました。
大学では先生とよく話が出来ましたが、会社では隣の人とも話ができないという事を知りました。
ハンコ、帳簿のつけ方など苦労しました。
経理、営業などをやっていて、コンピューターを導入されるようになって、昼は社会人の言葉を使ってプログラマーとして機械言語を使い、夜は大学生からずーっと翻訳の仕事をしていました。
周りはコンピューターのことは判らないので、壁に突き当たっても聞くことはできないし、月に200時間残業をしたこともありました。
その間翻訳の仕事もしました。
平均睡眠は2時間位だったと思います。
早朝4時、5時に寝て起きるのは7時で、社会人の言葉と、機械言語と、文学と一日を3倍楽しめたんじゃないかと思っています。
本はずーっと相変わらず買っていました。
結果的には会社で毎日修行をしていたようなものです。
会社でリストラがあり、辞めないためにコンピューター室から北方トロール部に移されてここは24時間体制で、これはやっていけないと思いました。
会社を辞めて執筆をやっていたら、朝はいつ起きてもいいし、好きなだけ寝ずにできるし、好きな本も読み放題だし、気が付いたら3年が過ぎて、結局作家を続けました。
妹は漫画家になり、弟は魚の研究を始めていたが、兄弟だれも結婚していなくて、狭山に家を設けて嫁さんは来ないのかといわれて家に帰りにくくなって、会社で徹夜をするようになって、20年位は平凡社で暮らしていました。
コンクリートの床に段ボールを敷いてそこに寝て、食事はコンビニで買って、1週間に一回位近くの風呂屋に行っていました。
「世界大博物物図鑑」全7巻を執筆。
1985年小説『帝都物語』350万部売れて、お金が沢山入ってきたので、買いたかった1000万円の博物学の古書を買って「世界大博物物図鑑」の資料にしました。
今は嫁さんが来たが家では、寝る時間が2~3時間で色んな事をやっています。
夜、海に潜って動き回るプランクトンを観察することにはまっています。
5年前からやっています。
写真に撮ってコレクションにしています。
2019年2月23日土曜日
松田哲博(高砂部屋マネージャー) ・わが相撲人生シコにあり
松田哲博(高砂部屋マネージャー) ・わが相撲人生シコにあり
鹿児島県徳之島出身 58歳、相撲が大好きで、琉球大学入学と同時に大学に相撲部を作り、卒業して大相撲の世界に入ります。
昭和58年九州場所でデビューし、しこめいは徳之島その後一ノ矢 充と改めて奮闘しますが、力士としては怪我を繰り返し46歳の時に24年間の土俵に区切りをつけました。
現役中けがを克服するためさまざまな取り組みを試みますが、たどり着いたのは相撲の基本、シコ(四股 力士が、足を交互に高く上げ、力を入れて踏みおろす運動。)でした。
シコは膝や腰の痛みの改善や予防などにも効果があることが判ったということです。
今身長は165cmで体重は80kgです。
マネージャーの仕事は主に事務関係をやっています。
手紙を出したり相撲のチケットの販売、ホームページの運営などをやっています。
小さいころから相撲が大好きで、中学高校では相撲部が無くて柔道をやっていましたが、琉球大学入学してどうしても相撲がやりたくて大学に相撲部を作りました。
朝潮太郎は父親母親と同じ小学校の卒業生でした。
現在も徳之島出身での力士が3,4人います。
大学生のころに夏休みにキャンプに来ていて、序二段とか下っ端のお相撲さんと一緒に稽古をさせてもらいました。
自分の力を試したいと思って門を叩きました。
173cmが制限かと思ったら、それよりも少ない新弟子がいたので、聞いたらおまけしてもらったという事で入門できるのかなと思いました。
宇宙に対するあこがれがあり、宇宙物理学を勉強したいと思って大学の物理学科に入りました。
卒業の研究テーマがアインシュタインとデバイの比熱曲線でした。
数式を大型コンピューターに入れて比熱曲線のグラフを書いてゆくという作業でした。
相撲界に入ることは両親には反対されると思って、相撲部屋に入ってから家に電話をしました。
父親はカンカンに怒りました。
引退が46歳11か月でした。
引退パーティーの時に母親から手紙がありました。
「最初は2年間という約束でお父さんも相撲界への入門を承諾したので、こんなに長い間お相撲を続けるとは思ってもいませんでした。
琉球大学を卒業したのにお相撲さんになったなんて言えず、お父さんも私も両親には東京へいったとしか言えず暫く隠していたんですよ。
身体が小さかったからお相撲さんとしてやっていけるか、心配していましたが、序二段で優勝してくれた時には少し安心しましたが、その一方でやはり早く辞めて教員等、他の仕事をしてくれればいいと思っていましたが、あっという間に24年もたってしまいましたね。
亡くなったお父さんが結婚を願い続けたので、私もこれからどうなってしまうのだろうかと、とても心配しました。
結婚相手が見つかったという報告を受けた時はいい人を見付けてくれたので本当に幸せに思っています。
24年という永い間大きな怪我もなく健康で頑張ってこられたのでほっとしています。
結婚したらお嫁さんを可愛がって幸せな家庭を築いて下さい。」
引退パーティーの時にこの手紙を発表したという事がありました。
20代のころは怪我ばっかりでした。
昭和58年九州場所で初土俵。
しこ名は徳之島、その後徳錦、次に「一ノ矢 充」というしこ名になりました。
24年間で取り組みは484勝511敗でした。
序二段優勝は2回でした。
前相撲があり序の口、除二段、三段目、幕下、十両、関取、小結、関脇、大関、横綱となります。
ウエートトレーニング等やりましたが、あちこち痛めてもがき苦しみました。
やってもなかなか強くなることができませんでした。
身体が小さいので人よりもやらないといけないと若いころから強すぎて、がむしゃらにやるばかりで、それが怪我の原因になりました。
「7つの診察券を持つ男」と自分であだなを付けました。
いつもどこかしら怪我をしていました。
身体の管理の方法を色々勉強したりしていました。
「シコ」を踏む事が大事だという気持ちがありました。
シコはやっぱり特別な感覚があるという思いがだんだん強くなりました。
稽古でシコに段々移していくようになってから、怪我もしにくくなってきたし、怪我をしても治りやすくなりました。
シコは全身を合理的に使う。
心気体 心と身体をつなぐのが「気」で、気を強くして行くのが「シコ」であり「テッポウ」であり、心と体が繋がれば非常ににいい動きが出来るし、考え方もしっかりしてきます。
現代の科学ではシコの複雑さ、高度さに到達できないと私自身は思っています。
シコはやればやっる程深くて面白いものです。
お相撲さんにもシコの大切さを判って欲しいと思います。
つま先を90度から120度開き、上半身を真っ直ぐにして腰を割って行く。
平たく言うと股関節を開いて構える。
そうすると血液、リンパの流れもよくなり、全身が繋がりやすくなる。
足を上げ重力を使って片足をすとんと落とす、余り腰をおとさず行い、それを交互に行う。
全身を一つに使う、全身で受けると言う事がシコが目指しているものだと思います。
あとテッポウ、 柱に向かって手で交互に突く、これも全身を繋げることだと実感しています。
江戸時代には今と同じ稽古方法が確立していて、ずーっと続けているわけです。
相撲取りにとっては横綱は神に近いような存在だというふうな気持ちです。
身体の重いお相撲さんがスクワット的なことをやると膝に来てしまうのですが、膝を開いて股関節を開いて腰を落とせば、膝には負担がかからない。
膝の関節を痛めた人は膝を開いて股関節を開いて、足の運動をすると膝に負担がかかることなく身体を動かす事が出来るので皆さんにはやってもらいたい。
小さくストンストンとシコを踏むことによって、全身の細胞が整ってきて身体もすっきりして心もすっきりしてきます。
鹿児島県徳之島出身 58歳、相撲が大好きで、琉球大学入学と同時に大学に相撲部を作り、卒業して大相撲の世界に入ります。
昭和58年九州場所でデビューし、しこめいは徳之島その後一ノ矢 充と改めて奮闘しますが、力士としては怪我を繰り返し46歳の時に24年間の土俵に区切りをつけました。
現役中けがを克服するためさまざまな取り組みを試みますが、たどり着いたのは相撲の基本、シコ(四股 力士が、足を交互に高く上げ、力を入れて踏みおろす運動。)でした。
シコは膝や腰の痛みの改善や予防などにも効果があることが判ったということです。
今身長は165cmで体重は80kgです。
マネージャーの仕事は主に事務関係をやっています。
手紙を出したり相撲のチケットの販売、ホームページの運営などをやっています。
小さいころから相撲が大好きで、中学高校では相撲部が無くて柔道をやっていましたが、琉球大学入学してどうしても相撲がやりたくて大学に相撲部を作りました。
朝潮太郎は父親母親と同じ小学校の卒業生でした。
現在も徳之島出身での力士が3,4人います。
大学生のころに夏休みにキャンプに来ていて、序二段とか下っ端のお相撲さんと一緒に稽古をさせてもらいました。
自分の力を試したいと思って門を叩きました。
173cmが制限かと思ったら、それよりも少ない新弟子がいたので、聞いたらおまけしてもらったという事で入門できるのかなと思いました。
宇宙に対するあこがれがあり、宇宙物理学を勉強したいと思って大学の物理学科に入りました。
卒業の研究テーマがアインシュタインとデバイの比熱曲線でした。
数式を大型コンピューターに入れて比熱曲線のグラフを書いてゆくという作業でした。
相撲界に入ることは両親には反対されると思って、相撲部屋に入ってから家に電話をしました。
父親はカンカンに怒りました。
引退が46歳11か月でした。
引退パーティーの時に母親から手紙がありました。
「最初は2年間という約束でお父さんも相撲界への入門を承諾したので、こんなに長い間お相撲を続けるとは思ってもいませんでした。
琉球大学を卒業したのにお相撲さんになったなんて言えず、お父さんも私も両親には東京へいったとしか言えず暫く隠していたんですよ。
身体が小さかったからお相撲さんとしてやっていけるか、心配していましたが、序二段で優勝してくれた時には少し安心しましたが、その一方でやはり早く辞めて教員等、他の仕事をしてくれればいいと思っていましたが、あっという間に24年もたってしまいましたね。
亡くなったお父さんが結婚を願い続けたので、私もこれからどうなってしまうのだろうかと、とても心配しました。
結婚相手が見つかったという報告を受けた時はいい人を見付けてくれたので本当に幸せに思っています。
24年という永い間大きな怪我もなく健康で頑張ってこられたのでほっとしています。
結婚したらお嫁さんを可愛がって幸せな家庭を築いて下さい。」
引退パーティーの時にこの手紙を発表したという事がありました。
20代のころは怪我ばっかりでした。
昭和58年九州場所で初土俵。
しこ名は徳之島、その後徳錦、次に「一ノ矢 充」というしこ名になりました。
24年間で取り組みは484勝511敗でした。
序二段優勝は2回でした。
前相撲があり序の口、除二段、三段目、幕下、十両、関取、小結、関脇、大関、横綱となります。
ウエートトレーニング等やりましたが、あちこち痛めてもがき苦しみました。
やってもなかなか強くなることができませんでした。
身体が小さいので人よりもやらないといけないと若いころから強すぎて、がむしゃらにやるばかりで、それが怪我の原因になりました。
「7つの診察券を持つ男」と自分であだなを付けました。
いつもどこかしら怪我をしていました。
身体の管理の方法を色々勉強したりしていました。
「シコ」を踏む事が大事だという気持ちがありました。
シコはやっぱり特別な感覚があるという思いがだんだん強くなりました。
稽古でシコに段々移していくようになってから、怪我もしにくくなってきたし、怪我をしても治りやすくなりました。
シコは全身を合理的に使う。
心気体 心と身体をつなぐのが「気」で、気を強くして行くのが「シコ」であり「テッポウ」であり、心と体が繋がれば非常ににいい動きが出来るし、考え方もしっかりしてきます。
現代の科学ではシコの複雑さ、高度さに到達できないと私自身は思っています。
シコはやればやっる程深くて面白いものです。
お相撲さんにもシコの大切さを判って欲しいと思います。
つま先を90度から120度開き、上半身を真っ直ぐにして腰を割って行く。
平たく言うと股関節を開いて構える。
そうすると血液、リンパの流れもよくなり、全身が繋がりやすくなる。
足を上げ重力を使って片足をすとんと落とす、余り腰をおとさず行い、それを交互に行う。
全身を一つに使う、全身で受けると言う事がシコが目指しているものだと思います。
あとテッポウ、 柱に向かって手で交互に突く、これも全身を繋げることだと実感しています。
江戸時代には今と同じ稽古方法が確立していて、ずーっと続けているわけです。
相撲取りにとっては横綱は神に近いような存在だというふうな気持ちです。
身体の重いお相撲さんがスクワット的なことをやると膝に来てしまうのですが、膝を開いて股関節を開いて腰を落とせば、膝には負担がかからない。
膝の関節を痛めた人は膝を開いて股関節を開いて、足の運動をすると膝に負担がかかることなく身体を動かす事が出来るので皆さんにはやってもらいたい。
小さくストンストンとシコを踏むことによって、全身の細胞が整ってきて身体もすっきりして心もすっきりしてきます。
2019年2月22日金曜日
真瀬樹里(女優) ・【わが心の人】野際陽子
真瀬樹里(女優) ・【わが心の人】野際陽子
野際陽子さんは昭和11年生まれ、富山県出身、昭和33年NHKにアナウンサーとして入局して4年勤務しました。
その後女優として「キーハンター」等話題のドラマに数多く出演しています。
司会やナレーターとしても活躍しました。
平成29年6月亡くなられました、81歳でした。
真瀬樹里は野際さんの長女です。
私にとってはこんなに長い1年半はなかったです、母が亡くなってから初めて経験することが多過ぎました。
ただそばにいてほしいという単純な想いです。
母は亡くなる直前まで仕事はしていました。
樹理は父から世界でも通用ような女優に成って欲しいという事で付けたたようです。
「真瀬」は千葉真一の「真」と百人一種の好きな漢字から「瀬」を使って「真瀬」にしました。
当時母は女優では最高齢で子供を出産したのが話題になりました。
私は幼稚園のころから役者になることは決めていました。
しょっちゅう現場に行っていました。
役者になるために色んなお稽古事をやりました。
母とは子役をやらせてほしいという事で喧嘩をしました。
高校卒業したらOKと言う事で、大学1年生で女優の仕事を始めることにしました。
声のことに関しては母から色々厳しく言われました。
ハスキーな声を通り易くするために、それは課題でした。
挨拶とか厳しい母親で、反抗したくてもできませんでした。
一人っ子だったのでこうなって欲しいという思いがあったと思います。
厳しい面と溺愛という感じの両面がありました。
おっちょこちょいの処と方向音痴は凄く似ています。
TVに向かってアナウンサーの話し方については厳しく言っていました。
挨拶、礼儀、年上との付き合い方などは凄く注意されたことは多かったです。
悩み事があって親に話したい時に正直に言うと怒られて、甘えるなと、親としては発破をかけたかったんでしょうが、こちらとしてはただ聞いてほしいと、その食い違いで親と話してもしょうがないかなあと思いました。
20歳の時の誕生日に手紙をもらいました。
「・・・貴方を傷つけた事実は消えないのですから・・・
・・・貴方の存在を神に感謝し続けていました。
誰よりも、私の父母より兄弟よりも、私の人生に関わった全ての男たちよりも私は貴方を愛してきました。」
これには泣かされました。
大学の時には殺陣をやっていました。
2017年秋に「とっとちゃん」で野際洋子役をやりました。
親の役をやる不安はありましたが、楽しく思いっきりやらせていただきました。
20代から50代までをやらせていただきました。
不思議な貴重な経験をさせていただきました。
一番素敵だなと思うのは、女性として人間としての生き方だったり、ものの考え方だったり、そういうところが凄いと思うところが多いです。
生きて行くには人間大変なことだと思うが、そういう時に楽しい方向に物事を転換して考えると言う事は凄く尊敬します。
不機嫌なところを顔に出さないようにとか、隙を見せないようにという感じで育てられたのかなと思います。
人に厭な思いをさせないようにとかは、子供のころから言われていました。
私は中学で英語劇をやっていて、海外で仕事をしたいという夢があって、日本でも世界でも仕事をして活躍できる役者になりたいという大きな目標はあります。
殺陣は一時期やっていませんでしたが、今はワークショップで教えたりしています。
野際陽子さんは昭和11年生まれ、富山県出身、昭和33年NHKにアナウンサーとして入局して4年勤務しました。
その後女優として「キーハンター」等話題のドラマに数多く出演しています。
司会やナレーターとしても活躍しました。
平成29年6月亡くなられました、81歳でした。
真瀬樹里は野際さんの長女です。
私にとってはこんなに長い1年半はなかったです、母が亡くなってから初めて経験することが多過ぎました。
ただそばにいてほしいという単純な想いです。
母は亡くなる直前まで仕事はしていました。
樹理は父から世界でも通用ような女優に成って欲しいという事で付けたたようです。
「真瀬」は千葉真一の「真」と百人一種の好きな漢字から「瀬」を使って「真瀬」にしました。
当時母は女優では最高齢で子供を出産したのが話題になりました。
私は幼稚園のころから役者になることは決めていました。
しょっちゅう現場に行っていました。
役者になるために色んなお稽古事をやりました。
母とは子役をやらせてほしいという事で喧嘩をしました。
高校卒業したらOKと言う事で、大学1年生で女優の仕事を始めることにしました。
声のことに関しては母から色々厳しく言われました。
ハスキーな声を通り易くするために、それは課題でした。
挨拶とか厳しい母親で、反抗したくてもできませんでした。
一人っ子だったのでこうなって欲しいという思いがあったと思います。
厳しい面と溺愛という感じの両面がありました。
おっちょこちょいの処と方向音痴は凄く似ています。
TVに向かってアナウンサーの話し方については厳しく言っていました。
挨拶、礼儀、年上との付き合い方などは凄く注意されたことは多かったです。
悩み事があって親に話したい時に正直に言うと怒られて、甘えるなと、親としては発破をかけたかったんでしょうが、こちらとしてはただ聞いてほしいと、その食い違いで親と話してもしょうがないかなあと思いました。
20歳の時の誕生日に手紙をもらいました。
「・・・貴方を傷つけた事実は消えないのですから・・・
・・・貴方の存在を神に感謝し続けていました。
誰よりも、私の父母より兄弟よりも、私の人生に関わった全ての男たちよりも私は貴方を愛してきました。」
これには泣かされました。
大学の時には殺陣をやっていました。
2017年秋に「とっとちゃん」で野際洋子役をやりました。
親の役をやる不安はありましたが、楽しく思いっきりやらせていただきました。
20代から50代までをやらせていただきました。
不思議な貴重な経験をさせていただきました。
一番素敵だなと思うのは、女性として人間としての生き方だったり、ものの考え方だったり、そういうところが凄いと思うところが多いです。
生きて行くには人間大変なことだと思うが、そういう時に楽しい方向に物事を転換して考えると言う事は凄く尊敬します。
不機嫌なところを顔に出さないようにとか、隙を見せないようにという感じで育てられたのかなと思います。
人に厭な思いをさせないようにとかは、子供のころから言われていました。
私は中学で英語劇をやっていて、海外で仕事をしたいという夢があって、日本でも世界でも仕事をして活躍できる役者になりたいという大きな目標はあります。
殺陣は一時期やっていませんでしたが、今はワークショップで教えたりしています。
2019年2月21日木曜日
井上由美子(脚本家) ・物語が人を助ける
井上由美子(脚本家) ・物語が人を助ける
NHK連続TV小説「ひまわり」、大河ドラマ「北条時宗」、「白い巨塔」などといったTVドラマの脚本家として数々のヒット作を手がけてこられましたけれど、去年初めて小説を発表しました。
タイトルは「ハラスメントゲーム」、大手スーパーマーケットに勤める主人公が社内で起こるハラスメント事件を次々に解決してゆくという話です。
井上さんが小説という新境地を切り開くことになった理由、脚本と小説との違い、物語の魅力等について伺います。
「ハラスメントゲーム」、地方から東京の本社のコンプライアンス室長として呼び戻され、53歳の主人公が社内で起こるハラスメント事件を次々に解決してゆくという話です。
ハラスメントが世の中で色々取り上げられている中で、働くこととはどういう事かを表現できればいいと思いました。
日本では上下関係で悩んでいる人が多くて、セクハラの後にパワハラという言葉が入った途端に理解が深まったという事があるようです。
反面、恐れるあまり職場でのコミュニケーションをあまりとらなくなっているというのも、働く者としてさびしい時代になってきていると思います。
みんなが窮屈なところに生きていると思います。
ハラスメントに関する小説で、普段口にできないことを話せるきっかけになって貰えればいいなあと思いました。
主人公が53歳でまた本社に戻されるが、失敗が許されない時代だなあと思っていて、元気になる為には失敗を経て頑張っている主人公を描いてみるのが一番伝わると思いました。
出版社の方から一度小説を書いてみないかと言われて、それがきっかっけになりました。
実際に書きだす為には5年ぐらいかかりました。
脚本では時間が制限されていることと、悲しいとかを口に出しては言わないが、全体を観終わった時に判ってもらえるような形、小説では悲しいという事を延々と30ページ書いてもいいということもあります、バランスも苦労しました。
小説の方が沢山の材料を扱えるのですが、何処まで描写をして読者に想像してもらう事などになれないのでそこも苦労しました。
自分で脚本を書いてドラマを見て、これは違うと驚くこともあります。
逆にこんな風に表現してくれたんだと感謝することもあります。
脚本ではあまり書き過ぎないないようにしているが、小説では人物がどんな顔をしているとか服装はどうかなど詳細に書く必要があったりして、目からうろこでした。
子供のころから身体は丈夫ではなかったので、家の中で本を読むのが好きでした。
ドラマを作りたいと思ってこの世界に入りましたが、入院していた子供時代にTVをみるのが楽しみで、毎週やっていてこういうドラマの仕事に就きたいと思いました。
人が生きている中で悩み、苦しみがあると思いますが、1時間、2時間夢中になってドラマを見たりするひとときは、色んな事を忘れる事が出来て、主人公の人生を感じることで自分が抱えていることが大したことではないかもしれないし、大変な不幸を抱えながら頑張っている主人公を見て、僕もできるかなと思えるという事も物語の力なのかなあと思います。
中学高校ではドラマの脚本家になろうと言う思いはありませんでした。
大学卒業後TV局に入って営業の事務の仕事をしました。
つくる事がやりたいと思って退職をして、脚本は何処でもできるし書くことも好きだったのでやってみようかなと思いました。
シナリオの学校に行って基礎を学びました。
最初に書いたものがコンクールに入選しましたが、仕事の話が飛び込んでくると思っていましたが、全然電話は入って来ませんでした。
降板する人がいるので書いてもらえないかという話があり、プロットというあらすじみたいなものを書いてOKかどうかをするのですが、それがなかなか難しくて何十回となく書き直す作業がありました。
最初の作品をみて、凄く嬉しさと恐ろしさというか、気軽に書いた一言を考え、かみ砕いて表現してくれているんだと思って不用意に台詞はかけないと思いました。
段々声を掛けていただいて、NHKのドラマ新銀河で初めて連続ドラマを書かせていただきました。
或る脚本の仕事で今回の仕事は貴方にはに合わないと言われて、仕事を下ろされたこともありがっかりして落ち込んだこともありました。
後でじっくり見るための深いものか、気楽なものと二極化されてきていると思って、題材が狭くなってきていて実験みたいなものがしにくくなってきている。
ジャンルがはっきりしてきているので、ジャンルがはっきりしないものは作りにくくなってきていると思います。
単純なものの方が見やすいので、好まれるようになってきています。
喜劇であれ悲劇であれみている人が、生きていてよかった、生れて来てよかったと思える作品にしたいと言う事は根底にあります。
NHK連続TV小説「ひまわり」、大河ドラマ「北条時宗」、「白い巨塔」などといったTVドラマの脚本家として数々のヒット作を手がけてこられましたけれど、去年初めて小説を発表しました。
タイトルは「ハラスメントゲーム」、大手スーパーマーケットに勤める主人公が社内で起こるハラスメント事件を次々に解決してゆくという話です。
井上さんが小説という新境地を切り開くことになった理由、脚本と小説との違い、物語の魅力等について伺います。
「ハラスメントゲーム」、地方から東京の本社のコンプライアンス室長として呼び戻され、53歳の主人公が社内で起こるハラスメント事件を次々に解決してゆくという話です。
ハラスメントが世の中で色々取り上げられている中で、働くこととはどういう事かを表現できればいいと思いました。
日本では上下関係で悩んでいる人が多くて、セクハラの後にパワハラという言葉が入った途端に理解が深まったという事があるようです。
反面、恐れるあまり職場でのコミュニケーションをあまりとらなくなっているというのも、働く者としてさびしい時代になってきていると思います。
みんなが窮屈なところに生きていると思います。
ハラスメントに関する小説で、普段口にできないことを話せるきっかけになって貰えればいいなあと思いました。
主人公が53歳でまた本社に戻されるが、失敗が許されない時代だなあと思っていて、元気になる為には失敗を経て頑張っている主人公を描いてみるのが一番伝わると思いました。
出版社の方から一度小説を書いてみないかと言われて、それがきっかっけになりました。
実際に書きだす為には5年ぐらいかかりました。
脚本では時間が制限されていることと、悲しいとかを口に出しては言わないが、全体を観終わった時に判ってもらえるような形、小説では悲しいという事を延々と30ページ書いてもいいということもあります、バランスも苦労しました。
小説の方が沢山の材料を扱えるのですが、何処まで描写をして読者に想像してもらう事などになれないのでそこも苦労しました。
自分で脚本を書いてドラマを見て、これは違うと驚くこともあります。
逆にこんな風に表現してくれたんだと感謝することもあります。
脚本ではあまり書き過ぎないないようにしているが、小説では人物がどんな顔をしているとか服装はどうかなど詳細に書く必要があったりして、目からうろこでした。
子供のころから身体は丈夫ではなかったので、家の中で本を読むのが好きでした。
ドラマを作りたいと思ってこの世界に入りましたが、入院していた子供時代にTVをみるのが楽しみで、毎週やっていてこういうドラマの仕事に就きたいと思いました。
人が生きている中で悩み、苦しみがあると思いますが、1時間、2時間夢中になってドラマを見たりするひとときは、色んな事を忘れる事が出来て、主人公の人生を感じることで自分が抱えていることが大したことではないかもしれないし、大変な不幸を抱えながら頑張っている主人公を見て、僕もできるかなと思えるという事も物語の力なのかなあと思います。
中学高校ではドラマの脚本家になろうと言う思いはありませんでした。
大学卒業後TV局に入って営業の事務の仕事をしました。
つくる事がやりたいと思って退職をして、脚本は何処でもできるし書くことも好きだったのでやってみようかなと思いました。
シナリオの学校に行って基礎を学びました。
最初に書いたものがコンクールに入選しましたが、仕事の話が飛び込んでくると思っていましたが、全然電話は入って来ませんでした。
降板する人がいるので書いてもらえないかという話があり、プロットというあらすじみたいなものを書いてOKかどうかをするのですが、それがなかなか難しくて何十回となく書き直す作業がありました。
最初の作品をみて、凄く嬉しさと恐ろしさというか、気軽に書いた一言を考え、かみ砕いて表現してくれているんだと思って不用意に台詞はかけないと思いました。
段々声を掛けていただいて、NHKのドラマ新銀河で初めて連続ドラマを書かせていただきました。
或る脚本の仕事で今回の仕事は貴方にはに合わないと言われて、仕事を下ろされたこともありがっかりして落ち込んだこともありました。
後でじっくり見るための深いものか、気楽なものと二極化されてきていると思って、題材が狭くなってきていて実験みたいなものがしにくくなってきている。
ジャンルがはっきりしてきているので、ジャンルがはっきりしないものは作りにくくなってきていると思います。
単純なものの方が見やすいので、好まれるようになってきています。
喜劇であれ悲劇であれみている人が、生きていてよかった、生れて来てよかったと思える作品にしたいと言う事は根底にあります。
2019年2月19日火曜日
高橋孝雄(日本小児科学会会長) ・小児科医が伝える『悪魔の証明』(2018/11/21OA)
高橋孝雄(日本小児科学会会長)・小児科医が伝える『悪魔の証明』(2018/11/21OA)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/11/blog-post_21.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/11/blog-post_21.htmlをご覧ください。
荒船旦子(青少年福祉センター 理事長) ・子供たちの命と未来を守る
荒船旦子(青少年福祉センター 理事長) ・子供たちの命と未来を守る
青少年福祉センターは中学生と高校生を対象とした児童養護施設、就労支援する自立援助ホームを運営しています。
このセンターの始まりは満州から引き揚げてきた長谷場夏雄さんが戦災孤児たちと共同生活を始めた四畳半のひと間が始まりだったそうです。
それから半世紀余りたって、子供達の支援について先駆的に取り組んできた社会福祉法人青少年福祉センター理事長荒船さんに、養護施設の現状、今求められる福祉の在り方について伺いました。
子供を取り巻く環境がこんなにひどいのかというような情報が流れていますが、周りの方が関心を持ってくれるようになった現象になったのかと思います。
いままでは、隣りがおかしいんじゃないかなあと思いながら、言えなかったのはあるんじゃないかなあと思います。
関心を持ってくれるようになって或る意味で良かったのかなあと思います。
今回も誰か一人でも守ると言う人がいれば、このようにはならなかったんじゃないかと思います。
全国の児童相談所への児童虐待の相談が過去最高だというニュースがありました。
平等、自由と権利、を主張しますが、その裏には義務と責任というものがあることを忘れてる部分が多いのかなあと思います。
児童養護施設は中学生までは入れたんです。
戦災孤児3万人と言われている時代に、なんとか政府はちゃんと生きて行かれるように施設に収容して、学校に行かせるようにという事で中学まででした。
住み込み就労は問題があると、住むところも無くなり働き場も無くなるので、自立援助ホームを作り上げた経緯があります。
現在は児童養護施設は第一種社会福祉事業で3歳~18歳まで預かって学校に行かれる支援をしています。
自立援助ホームは第二種社会福祉事業で義務教育を終わった子から20歳までを預かって就労支援をしています。
現在うちでは自立援助ホームは3つの事業所で36人、児童養護施設は50人あずかっています。
8割は虐待されたお子さんたちが多いです。
職員は大変で、虐待された子は大人不信で来るのと、自分は生きていていいんだろうかと自分不審でもあるわけで、貴方は生きてっていいんだよという話から大人も信用しなさいと言うところまで、全部しなくてはいけないので職員は大変です。
寝食を共にすると言う事で、夜も二交代制でやっていて大変です。
今井彰さんが書いた「光の人」を出版しましたが、この施設の創設者である長谷場さんがモデルになっています。
小説ですがほぼ事実に近いです。
長谷場さんは一生を子供の為に捧げた人なので、ほとんどの子供についてああだったこうだったといまでも言える人です。
最初のうちは支援してくれる人がいなくて、子供達と寝食ともにして、やっているうちに色んな方達が知って何か手伝ってあげようとする人達が出てきたわけです。
東京都が支援を始めたのは20年後ですから大変だったと思います。
長谷場さんも働き、子供たちも働いて一緒に投入すると言う事でした。
私の里の母も昔からカトリックで慈善活動をして色んな施設のお手伝いをしていました。
そんな折に公衆電話を借りに行かなくてはいけなくて、借りに行ったのがたまたま長谷場さんの処でした。
そこで話を聞いてご縁が出来たと言っています。
長谷場さんもカトリックで3つの奇跡の一つがこれだったと言います。
あとふたつは自動車訓練校を譲っていただいたこと、女子寮をつくるにあたって聖心会の尽力と大林組のお陰でうちは一銭も払わずに女子寮が出来たことです。
(*カトリックの女子修道会の(聖心女学院)でシスター岩下の父親が岩下清秋(大林組)でその人の尽力で足立区竹ノ塚に300坪の土地を準備した。)
暫くしてから理事長を引き受けました。
私もカトリックなので人の為に働くことが当たり前というふうに育ったので、ボランティアと言うのはするのではなくてさせていただくと言うふうに育ちました。
それがボランティア精神だと思います。
センターに繋がっているのが2001年からですので17年になりますが、母から受け継いで、これでライフワークが見付けられたなあと思います。
この仕事の前までは外交官の妻として色んな国をみてこられたので、或る意味グローバルにみられたので、日本のいいところと取り交ぜられるのでいい事だったと思います。
良い子を育てると言うのが長谷場さんの思いなので、うちのセンターの理念は「よい子を育て、次世代の担い手を育む」と言う法人の理念を持っています。
親として子供をを育てている時に初めて判るのは、どんなに一生懸命やっていても上手くいかない相手がいる。
生れた子と一緒に成長していくものだと思いますが、いまのお父さん、お母さんは焦っているのかなあと思います。
昔はおじいさんおばあさんが一緒にいて相談相手はいたわけで、1対1で子供と関わるわけではないので息抜きが出来たが、核家族で住んでいるとどうにも身動きができなくなって、虐待が出てくるのはそういう理由があるのかもしれないと思います。
子供って言うのは生れてくる場所を選べない。
親が難しくて虐待という事になると施設で預かることになるが親がいても親のでは過ごせない。
戦災孤児は親がいないことはあきらめがつくが、今の子たちは親がいながら親元に戻れないという厳しさはあると思う。
大学にと言うよりは手に職を付けて専門職になった方がいいよという事は言っています。
自前の自動車の整備工場があり、そこで手に職を付けてもらっていたりしたが、その頃は中学までだったので、高校は行かれないから、自動車整備工場で整備士になれるようにして高校に通えるようにしていました。
その時の寮が養護施設になりました。
職員も色々な方が来ています。
海外青年協力隊だった人、教師だった人、転職の人など。
私の大きな夢は青少年福祉センターがなくなることなんです。
児童憲章で言われている、「全ての児童は家庭で正しい愛情と知識と技術を持って育てられ家庭に恵まれない児童にはこれに代わる環境が与えられる」というものがある。
長谷場さんはこれがいつでも頭にあるので大事にしてやってきました。
替わるものは本来なら必要がないので、私の夢はセンターがなくなることです。
職員の教育、職員自身が義務と責任を果たして自由と権利を主張する、という職員の背中を子供に見せる。
夢を持たない職員に子供は付いていかないと思います。
夢を持ちながら仕事をきちんとやりなさいと言うのが長谷場さんの主義でした。
成人式をやっていて一人ずつ自分の抱負を述べてもらっています。
職員がみんなで力を合わせるような職場で、いつでも子供に寄りそってゆく、そういう大事なセンターにしたいと思います。
青少年福祉センターは中学生と高校生を対象とした児童養護施設、就労支援する自立援助ホームを運営しています。
このセンターの始まりは満州から引き揚げてきた長谷場夏雄さんが戦災孤児たちと共同生活を始めた四畳半のひと間が始まりだったそうです。
それから半世紀余りたって、子供達の支援について先駆的に取り組んできた社会福祉法人青少年福祉センター理事長荒船さんに、養護施設の現状、今求められる福祉の在り方について伺いました。
子供を取り巻く環境がこんなにひどいのかというような情報が流れていますが、周りの方が関心を持ってくれるようになった現象になったのかと思います。
いままでは、隣りがおかしいんじゃないかなあと思いながら、言えなかったのはあるんじゃないかなあと思います。
関心を持ってくれるようになって或る意味で良かったのかなあと思います。
今回も誰か一人でも守ると言う人がいれば、このようにはならなかったんじゃないかと思います。
全国の児童相談所への児童虐待の相談が過去最高だというニュースがありました。
平等、自由と権利、を主張しますが、その裏には義務と責任というものがあることを忘れてる部分が多いのかなあと思います。
児童養護施設は中学生までは入れたんです。
戦災孤児3万人と言われている時代に、なんとか政府はちゃんと生きて行かれるように施設に収容して、学校に行かせるようにという事で中学まででした。
住み込み就労は問題があると、住むところも無くなり働き場も無くなるので、自立援助ホームを作り上げた経緯があります。
現在は児童養護施設は第一種社会福祉事業で3歳~18歳まで預かって学校に行かれる支援をしています。
自立援助ホームは第二種社会福祉事業で義務教育を終わった子から20歳までを預かって就労支援をしています。
現在うちでは自立援助ホームは3つの事業所で36人、児童養護施設は50人あずかっています。
8割は虐待されたお子さんたちが多いです。
職員は大変で、虐待された子は大人不信で来るのと、自分は生きていていいんだろうかと自分不審でもあるわけで、貴方は生きてっていいんだよという話から大人も信用しなさいと言うところまで、全部しなくてはいけないので職員は大変です。
寝食を共にすると言う事で、夜も二交代制でやっていて大変です。
今井彰さんが書いた「光の人」を出版しましたが、この施設の創設者である長谷場さんがモデルになっています。
小説ですがほぼ事実に近いです。
長谷場さんは一生を子供の為に捧げた人なので、ほとんどの子供についてああだったこうだったといまでも言える人です。
最初のうちは支援してくれる人がいなくて、子供達と寝食ともにして、やっているうちに色んな方達が知って何か手伝ってあげようとする人達が出てきたわけです。
東京都が支援を始めたのは20年後ですから大変だったと思います。
長谷場さんも働き、子供たちも働いて一緒に投入すると言う事でした。
私の里の母も昔からカトリックで慈善活動をして色んな施設のお手伝いをしていました。
そんな折に公衆電話を借りに行かなくてはいけなくて、借りに行ったのがたまたま長谷場さんの処でした。
そこで話を聞いてご縁が出来たと言っています。
長谷場さんもカトリックで3つの奇跡の一つがこれだったと言います。
あとふたつは自動車訓練校を譲っていただいたこと、女子寮をつくるにあたって聖心会の尽力と大林組のお陰でうちは一銭も払わずに女子寮が出来たことです。
(*カトリックの女子修道会の(聖心女学院)でシスター岩下の父親が岩下清秋(大林組)でその人の尽力で足立区竹ノ塚に300坪の土地を準備した。)
暫くしてから理事長を引き受けました。
私もカトリックなので人の為に働くことが当たり前というふうに育ったので、ボランティアと言うのはするのではなくてさせていただくと言うふうに育ちました。
それがボランティア精神だと思います。
センターに繋がっているのが2001年からですので17年になりますが、母から受け継いで、これでライフワークが見付けられたなあと思います。
この仕事の前までは外交官の妻として色んな国をみてこられたので、或る意味グローバルにみられたので、日本のいいところと取り交ぜられるのでいい事だったと思います。
良い子を育てると言うのが長谷場さんの思いなので、うちのセンターの理念は「よい子を育て、次世代の担い手を育む」と言う法人の理念を持っています。
親として子供をを育てている時に初めて判るのは、どんなに一生懸命やっていても上手くいかない相手がいる。
生れた子と一緒に成長していくものだと思いますが、いまのお父さん、お母さんは焦っているのかなあと思います。
昔はおじいさんおばあさんが一緒にいて相談相手はいたわけで、1対1で子供と関わるわけではないので息抜きが出来たが、核家族で住んでいるとどうにも身動きができなくなって、虐待が出てくるのはそういう理由があるのかもしれないと思います。
子供って言うのは生れてくる場所を選べない。
親が難しくて虐待という事になると施設で預かることになるが親がいても親のでは過ごせない。
戦災孤児は親がいないことはあきらめがつくが、今の子たちは親がいながら親元に戻れないという厳しさはあると思う。
大学にと言うよりは手に職を付けて専門職になった方がいいよという事は言っています。
自前の自動車の整備工場があり、そこで手に職を付けてもらっていたりしたが、その頃は中学までだったので、高校は行かれないから、自動車整備工場で整備士になれるようにして高校に通えるようにしていました。
その時の寮が養護施設になりました。
職員も色々な方が来ています。
海外青年協力隊だった人、教師だった人、転職の人など。
私の大きな夢は青少年福祉センターがなくなることなんです。
児童憲章で言われている、「全ての児童は家庭で正しい愛情と知識と技術を持って育てられ家庭に恵まれない児童にはこれに代わる環境が与えられる」というものがある。
長谷場さんはこれがいつでも頭にあるので大事にしてやってきました。
替わるものは本来なら必要がないので、私の夢はセンターがなくなることです。
職員の教育、職員自身が義務と責任を果たして自由と権利を主張する、という職員の背中を子供に見せる。
夢を持たない職員に子供は付いていかないと思います。
夢を持ちながら仕事をきちんとやりなさいと言うのが長谷場さんの主義でした。
成人式をやっていて一人ずつ自分の抱負を述べてもらっています。
職員がみんなで力を合わせるような職場で、いつでも子供に寄りそってゆく、そういう大事なセンターにしたいと思います。
2019年2月18日月曜日
佐辺良和(琉球舞踊家、組踊立方) ・【にっぽんの音】
佐辺良和(琉球舞踊家、組踊立方) ・【にっぽんの音】
案内役 能楽師狂言方 大藏基誠
38歳、組踊は琉球王国時代に首里城の中で出来た芸能のことで、音楽、踊り、台詞で進める歌舞劇で、沖縄番ミュージカルと言ってもいいようなものです。
立方は舞台の上で演じる方達を言います。
普段は沖縄の国立劇場で行います。
今回、横浜能楽堂では組踊と能楽の比較公演という事で、組踊は「執心鐘入」、お能は「道成寺」を行います。
1719年に組踊は作られました。(ちょうど300年前)
中国から来る冊封使という使者をもてなす為に組踊は作られました。
玉城朝薫は日本の能楽・狂言・歌舞伎・京劇・崑劇などを参考にして、沖縄の民話に基づいて作品を作りなおし組踊の作品が出来ています。
「執心鐘入」はお能の「道成寺」を参考にしてつくられたと言われます。
チャンプル 混ぜ込むという意味ですが、チャンプル文化と言われています。
私(大藏基誠)も狂言を、琉球狂言と一緒に演じたことがあります。
沖縄では基本的にはハッピーエンドになります。
組踊は2010年11月にユネスコの無形文化遺産に登録されました。
沖縄にも国立劇場ができて、字幕も付くようになり、解説書も出るようになって判り易くなりました。
お能とは動きを抑制すると言うところが似ています。
感情を表すところは歌舞伎にも似ています。
演技の時間は1時間位ですが、短いものでは35分、長いと2時間半になります。
組踊につかう笠は女性が持つ物でそれを持っていると旅をする道中を表しています。
着物も派手で綺麗で、紅型(びんがた)という染物の衣装を着ます。
琉球王朝の士族しか着ることができません。
黄色は高貴な色で王妃しか着れなかったようです。
色によって着れる階級が決まっていました。
組踊では最初に音楽に乗って名のり(自己紹介)があります。
三線、笛、お琴、胡弓(三線を小さくしたもの)、太鼓などで演奏して行きます。
琉球音階があり、沖縄ならではのものです。
沖縄の古い言葉で書かれているので判りにくいところはあります。
組踊からの派生した沖縄芝居がありますが、沖縄方言「うちなーぐち」で展開して行くので全くわからないです。
沖縄方言はほとんど判らないような状況ですが、「しまことば」を残していこうと言う取り組みはしています。
お稽古は台本を見ながら何度も何度も復習して行います。
観劇する時には、事前にパンフレットなどで内容を把握していると判りやすくなるかと思います、予備知識がないと古典は中々難しいので。
できれば表情が見えるように近くで見てもらいたいです。
音楽性が高いものなので、聞いて想像を膨らませていただけたらと思います。
とにかく生で見ていただくのが一番だと思います。
組踊をみたのは小学校の4年生だったと思います、組踊は「執心鐘入」でした。
姉が琉球舞踊をやっていました。
6歳で舞踊道場に連れていってもらいました。
沖縄県立芸術大学に行って初めて組踊を習いました。
プロを意識したのは覚えていませんが、師匠の又吉世子に「私はどの舞台でも力を抜いたことはない、琉球舞踊を初めてみる人がいるかもしれない、琉球舞踊はこんなものかと思われるかもしれないし、この舞台が最期の舞台になるかもしれない」という事を聞いてから舞台に臨む気持ちは変わりました。
2015年には日本伝統文化振興財団賞受賞。
自分が頑張らないと、と言う励みになります。
一回一回同じという舞台も無いし、満足もしない、だから続くんですかね。
日本の音とは、やはり三線の音ですね。
昔は三線を床の間に2丁(大小)飾ってあったようです。
沖縄の言葉に「ぬちぐすい」(命の薬)という言葉がありますが、「ぬちぐすいやたさー」(命の薬だったよ)と云うんです。
そう言ってもらえるような舞台を務めて行きたいと思っています。
案内役 能楽師狂言方 大藏基誠
38歳、組踊は琉球王国時代に首里城の中で出来た芸能のことで、音楽、踊り、台詞で進める歌舞劇で、沖縄番ミュージカルと言ってもいいようなものです。
立方は舞台の上で演じる方達を言います。
普段は沖縄の国立劇場で行います。
今回、横浜能楽堂では組踊と能楽の比較公演という事で、組踊は「執心鐘入」、お能は「道成寺」を行います。
1719年に組踊は作られました。(ちょうど300年前)
中国から来る冊封使という使者をもてなす為に組踊は作られました。
玉城朝薫は日本の能楽・狂言・歌舞伎・京劇・崑劇などを参考にして、沖縄の民話に基づいて作品を作りなおし組踊の作品が出来ています。
「執心鐘入」はお能の「道成寺」を参考にしてつくられたと言われます。
チャンプル 混ぜ込むという意味ですが、チャンプル文化と言われています。
私(大藏基誠)も狂言を、琉球狂言と一緒に演じたことがあります。
沖縄では基本的にはハッピーエンドになります。
組踊は2010年11月にユネスコの無形文化遺産に登録されました。
沖縄にも国立劇場ができて、字幕も付くようになり、解説書も出るようになって判り易くなりました。
お能とは動きを抑制すると言うところが似ています。
感情を表すところは歌舞伎にも似ています。
演技の時間は1時間位ですが、短いものでは35分、長いと2時間半になります。
組踊につかう笠は女性が持つ物でそれを持っていると旅をする道中を表しています。
着物も派手で綺麗で、紅型(びんがた)という染物の衣装を着ます。
琉球王朝の士族しか着ることができません。
黄色は高貴な色で王妃しか着れなかったようです。
色によって着れる階級が決まっていました。
組踊では最初に音楽に乗って名のり(自己紹介)があります。
三線、笛、お琴、胡弓(三線を小さくしたもの)、太鼓などで演奏して行きます。
琉球音階があり、沖縄ならではのものです。
沖縄の古い言葉で書かれているので判りにくいところはあります。
組踊からの派生した沖縄芝居がありますが、沖縄方言「うちなーぐち」で展開して行くので全くわからないです。
沖縄方言はほとんど判らないような状況ですが、「しまことば」を残していこうと言う取り組みはしています。
お稽古は台本を見ながら何度も何度も復習して行います。
観劇する時には、事前にパンフレットなどで内容を把握していると判りやすくなるかと思います、予備知識がないと古典は中々難しいので。
できれば表情が見えるように近くで見てもらいたいです。
音楽性が高いものなので、聞いて想像を膨らませていただけたらと思います。
とにかく生で見ていただくのが一番だと思います。
組踊をみたのは小学校の4年生だったと思います、組踊は「執心鐘入」でした。
姉が琉球舞踊をやっていました。
6歳で舞踊道場に連れていってもらいました。
沖縄県立芸術大学に行って初めて組踊を習いました。
プロを意識したのは覚えていませんが、師匠の又吉世子に「私はどの舞台でも力を抜いたことはない、琉球舞踊を初めてみる人がいるかもしれない、琉球舞踊はこんなものかと思われるかもしれないし、この舞台が最期の舞台になるかもしれない」という事を聞いてから舞台に臨む気持ちは変わりました。
2015年には日本伝統文化振興財団賞受賞。
自分が頑張らないと、と言う励みになります。
一回一回同じという舞台も無いし、満足もしない、だから続くんですかね。
日本の音とは、やはり三線の音ですね。
昔は三線を床の間に2丁(大小)飾ってあったようです。
沖縄の言葉に「ぬちぐすい」(命の薬)という言葉がありますが、「ぬちぐすいやたさー」(命の薬だったよ)と云うんです。
そう言ってもらえるような舞台を務めて行きたいと思っています。
2019年2月17日日曜日
小野淳(NPO法人理事長) ・【"美味しい"仕事人】都市と農業の共生をめざす
小野淳(NPO法人理事長) ・【"美味しい"仕事人】都市と農業の共生をめざす
東京都国立市は現在80軒に依る農家の野菜作りも盛んに行われています。
市民農園、貸農園も20余り運営されていて住民たちの野菜作りも盛んです。
NPO法人国立農園の会では、ただ区画農園を貸し出す農園ではなく、農のある街作りを子供達に引き継いでゆくことを目標に活動しています。
幼い子供から大人、外国の人達までが野菜作りを通じてコミュニケーションを深めています。
ヒツジ、ウコッケイ、ポニー等の動物がいます。
市民農園、例えば100区画があるとすると100家族が使っておしまいになってしまうが、もっと多くの方々が自由に出たり入ったりしながら街中にある畑を楽しめる場所を作りたかった。
国立も多摩川沿いには田んぼが残っています。
私自身は街中にある畑を活用したい、都市農業に注目が集まってきて、もっと住みやすい街にしたいとか、食に対しての関心を持とうと言った時に、近くにある畑をもっと生かせたらいいと思っている、個人団体などがあるが、法律、色々配慮することがあるのでそういったお手伝いをする仕事をしています。
市民農園は高齢者が多い、時間に余裕がないと畑の管理が難しい。
30歳代だと70%程度が農作業をしたいと答えている、次に20歳代、40歳代、50歳代となり60歳代以上は農作業したい願望は実は低い。
子育て時はいいものを食べたいと思う事がある。
食材とかいろいろ考えるのは実は30歳代だと思う。
農業で作られた食べ物を毎日食べてはいるが知識も低いし関心も低い。
都市と農業とは別の世界の様に感じるのがひとつの原因だと思う。
生き物を育ててそれを食べると言う事を捉え直したいと思いました。
最初に農業の世界に入りましたが、そこでは色々又課題がありました。
30歳まではサラリーマンをやっていましたが、会社を辞めて千葉県で農業法人で居酒屋で使う野菜を育てる有機農業をやっていました。
その後国立にきて、そこでは新しい農業法人が経ちあがっていました。
そこに入って、市民農園の高級バージョンを立ち上げると言う事を担当する事になりました。
2012年にTVで撮影したいという話があり、30秒で作られた世界が或る種の豊かな休日の過ごし方の象徴として農ライフが切り取られていて、これをやればいいんだと言うことに気づきました。
2013年にNPO法人国立農園の会がスタートしました。
今年間に5000人ぐらい居ると思います。
一日多い時には200名以上、平日は赤ちゃんづれのお母さんとか学校とかでにぎわっています。
畑の面積は300坪ぐらいあり、動物を飼っていて、ちいさな田んぼが30坪位あり、畑があり、なにも無い広場があり、かまど、土管などがあったりして色んな活動ができるようになっています。
子供が飽きないように、また行きたいと言うふうにしたかった。
そのためには動物、農業用水が流れているのでザリガニ、どじょう、めだかだとかがいて、広場では土管など遊べるようになっています。
子供達が楽しめる空間があると言うことです。
味噌作りもやっています。
大豆の種まきから始めます。
夏には枝豆を食べたり、秋には豆を収穫して味噌作りをして、できるのが夏になります。
1年でそれが繰り返されていきます。
害虫は排除しないといけないので、それも隠さずに子供達に見せます。
農業も自然を破壊してそこに種をまいて、育てそれを食べて生きてきているので、そういったことをやってきたからこそ、私たちは美味しいものを食べてきたし、元気に生きていくる事は伝えたいことの一つです。
毎月1回婚活の活動をやっていて6年になります。
男性も女性も野菜を収穫して料理を作ったりする時に、その人が持っている技術、気配りなどが試されると思う。
肩書き等はここでは役に立たない場だと思います。
最初大学の国際観光学科と組んで、ゼミの取り組みとしてイスラム教徒と一緒にラマダンにバーベキューをすると言う取り組みをしました。
夜の7時になれば食べてもいいことになっていますが、豚肉とアルコール、その加工物はだめです。
日本の畑の食べ物、和食は大丈夫で、これは面白いと思いました。
ゲストハウスの運営をするようになりました。
農家の庭先にあいているアパートがあり(6部屋)そこを改装して、一橋大学のあるサークルと一緒に運営してゆくというスタイルにしました。
韓国の留学生が日帰りと宿泊をあわせて50名ぐらいが来ました。
一橋大学のサークルの人と一緒に餅突きをしたり、街に行って街の事文化を紹介したりしました。
食堂の運営、子育て支援の為の食堂、夜は土曜日だけで変則的になっています。
田畑と繋がる子育て古民家と言っています。
農ライフの体験、食の体験、宿泊の体験と3つようやく整いました。
森の幼稚園、子育て支援の一環です。
うちのNPOは9名で女性が7名です。
大学時代探険部にいて、アマゾン等に行っていました。
そういう暮らしを続けたいと思ってTVの世界にはいりました。
世界の環境問題を取り上げる番組に配属されて何本か作りましたが、頭で判っていることと、現場のどうにもならないなと思うようなことがありました。
フィリピンは国土のほとんどが森林でしたが、私が行った時には360度見渡す限り全部はげ山というところがあり、人の住める空間ではないと思いました。
これを見て、今起こっていることを理解しているかというと全く理解していないのではないかと思いました。
30歳の時に、一回やってみようかと思って農業の世界に入りました。
知的好奇心、これはなんか面白いことに触れてしまったかも知れないというきっかけを、どれだけ沢山作れるかという方が、或る意味メディアとして力が強いと思います。
畑がメディアになった、そういう部分はあると思います。
都市の中に暮らしている人ほど農、環境の事について知って、だからこういう都市設計にして行くんだ言うふうにしないと、私たちはいい形で人間社会を引き継いでいけないのではないかと思います。
東京都国立市は現在80軒に依る農家の野菜作りも盛んに行われています。
市民農園、貸農園も20余り運営されていて住民たちの野菜作りも盛んです。
NPO法人国立農園の会では、ただ区画農園を貸し出す農園ではなく、農のある街作りを子供達に引き継いでゆくことを目標に活動しています。
幼い子供から大人、外国の人達までが野菜作りを通じてコミュニケーションを深めています。
ヒツジ、ウコッケイ、ポニー等の動物がいます。
市民農園、例えば100区画があるとすると100家族が使っておしまいになってしまうが、もっと多くの方々が自由に出たり入ったりしながら街中にある畑を楽しめる場所を作りたかった。
国立も多摩川沿いには田んぼが残っています。
私自身は街中にある畑を活用したい、都市農業に注目が集まってきて、もっと住みやすい街にしたいとか、食に対しての関心を持とうと言った時に、近くにある畑をもっと生かせたらいいと思っている、個人団体などがあるが、法律、色々配慮することがあるのでそういったお手伝いをする仕事をしています。
市民農園は高齢者が多い、時間に余裕がないと畑の管理が難しい。
30歳代だと70%程度が農作業をしたいと答えている、次に20歳代、40歳代、50歳代となり60歳代以上は農作業したい願望は実は低い。
子育て時はいいものを食べたいと思う事がある。
食材とかいろいろ考えるのは実は30歳代だと思う。
農業で作られた食べ物を毎日食べてはいるが知識も低いし関心も低い。
都市と農業とは別の世界の様に感じるのがひとつの原因だと思う。
生き物を育ててそれを食べると言う事を捉え直したいと思いました。
最初に農業の世界に入りましたが、そこでは色々又課題がありました。
30歳まではサラリーマンをやっていましたが、会社を辞めて千葉県で農業法人で居酒屋で使う野菜を育てる有機農業をやっていました。
その後国立にきて、そこでは新しい農業法人が経ちあがっていました。
そこに入って、市民農園の高級バージョンを立ち上げると言う事を担当する事になりました。
2012年にTVで撮影したいという話があり、30秒で作られた世界が或る種の豊かな休日の過ごし方の象徴として農ライフが切り取られていて、これをやればいいんだと言うことに気づきました。
2013年にNPO法人国立農園の会がスタートしました。
今年間に5000人ぐらい居ると思います。
一日多い時には200名以上、平日は赤ちゃんづれのお母さんとか学校とかでにぎわっています。
畑の面積は300坪ぐらいあり、動物を飼っていて、ちいさな田んぼが30坪位あり、畑があり、なにも無い広場があり、かまど、土管などがあったりして色んな活動ができるようになっています。
子供が飽きないように、また行きたいと言うふうにしたかった。
そのためには動物、農業用水が流れているのでザリガニ、どじょう、めだかだとかがいて、広場では土管など遊べるようになっています。
子供達が楽しめる空間があると言うことです。
味噌作りもやっています。
大豆の種まきから始めます。
夏には枝豆を食べたり、秋には豆を収穫して味噌作りをして、できるのが夏になります。
1年でそれが繰り返されていきます。
害虫は排除しないといけないので、それも隠さずに子供達に見せます。
農業も自然を破壊してそこに種をまいて、育てそれを食べて生きてきているので、そういったことをやってきたからこそ、私たちは美味しいものを食べてきたし、元気に生きていくる事は伝えたいことの一つです。
毎月1回婚活の活動をやっていて6年になります。
男性も女性も野菜を収穫して料理を作ったりする時に、その人が持っている技術、気配りなどが試されると思う。
肩書き等はここでは役に立たない場だと思います。
最初大学の国際観光学科と組んで、ゼミの取り組みとしてイスラム教徒と一緒にラマダンにバーベキューをすると言う取り組みをしました。
夜の7時になれば食べてもいいことになっていますが、豚肉とアルコール、その加工物はだめです。
日本の畑の食べ物、和食は大丈夫で、これは面白いと思いました。
ゲストハウスの運営をするようになりました。
農家の庭先にあいているアパートがあり(6部屋)そこを改装して、一橋大学のあるサークルと一緒に運営してゆくというスタイルにしました。
韓国の留学生が日帰りと宿泊をあわせて50名ぐらいが来ました。
一橋大学のサークルの人と一緒に餅突きをしたり、街に行って街の事文化を紹介したりしました。
食堂の運営、子育て支援の為の食堂、夜は土曜日だけで変則的になっています。
田畑と繋がる子育て古民家と言っています。
農ライフの体験、食の体験、宿泊の体験と3つようやく整いました。
森の幼稚園、子育て支援の一環です。
うちのNPOは9名で女性が7名です。
大学時代探険部にいて、アマゾン等に行っていました。
そういう暮らしを続けたいと思ってTVの世界にはいりました。
世界の環境問題を取り上げる番組に配属されて何本か作りましたが、頭で判っていることと、現場のどうにもならないなと思うようなことがありました。
フィリピンは国土のほとんどが森林でしたが、私が行った時には360度見渡す限り全部はげ山というところがあり、人の住める空間ではないと思いました。
これを見て、今起こっていることを理解しているかというと全く理解していないのではないかと思いました。
30歳の時に、一回やってみようかと思って農業の世界に入りました。
知的好奇心、これはなんか面白いことに触れてしまったかも知れないというきっかけを、どれだけ沢山作れるかという方が、或る意味メディアとして力が強いと思います。
畑がメディアになった、そういう部分はあると思います。
都市の中に暮らしている人ほど農、環境の事について知って、だからこういう都市設計にして行くんだ言うふうにしないと、私たちはいい形で人間社会を引き継いでいけないのではないかと思います。
2019年2月16日土曜日
上田假奈代(ココルーム 代表) ・"釜ヶ崎"で表現を学ぶ
上田假奈代(NPO法人こえとことばとこころの部屋・ココルーム 代表)・"釜ヶ崎"で表現を学ぶ
49歳、日雇労働者の町として知られる大阪市西成区あいりん地区、通称釜ヶ崎の商店街に上田さんのNPOが運営する「ゲストハウスとカフェと庭、ココルーム」があります。
オープンは2008年、地元でおっちゃん達と呼ばれる日雇労働者の高齢化と孤立化が進んだ時期でした。
2012年には十分な教育が受けられなかったおっちゃん達と一緒に表現を学ぶ市民大学、釜ヶ崎芸術大学、釜芸を開講、これまでに延べ6000人が受講し、上田さんは2015年に第65回文化庁芸術選奨芸術振興部門新人賞を受賞しました。
どんな活動をしているのか、伺いました。
沢山の労働者が肩をぶつけ合いながら歩いていた商店街でした。
この5年ですっかり風景が変わって、中国人がカラオケ居酒屋をして凄くこの町は変わりめをむかえているところです。
1960年代から高度成長経済を支えてきた街です。
全国から若い人たちが働きに来てその数は3,4万人いたと言われました。
劣悪な労働環境の為に暴動といった形で現れて、そのためにイメージは怖い街と言うふうに思われているかもしれないが、バブル崩壊後仕事がなくなり、その時に集められた労働者はおじいちゃんに成っています。
仕事がなくなって路上に押し出されて、ホームレスの状態の方が多かったが、生活保護を受けている方が多くて、ドヤはアパートに変わってきて、若い外国人の旅行者も増えたので、おじいさんたちが亡くなって空き部屋となり、それがホテルに転換されている、非常に借り住まいの街と言われるかもしれない。
色んな人が行きかう街になっています。
「ゲストハウスとカフェと庭、ココルーム」では天井にびっしりと習字が一杯貼られている。
祭りで書道のブースを設けて、思い付くことを書いてほしいという事で集めたものです。
話好きの75歳のおじいさんは、昔は病院の事務長さんをしていて立派な仕事をされていた方です。
今は事情があって一人でこの町で暮らしています。
引きこもっていたがある人が2月前にここに引っ張り出してきました。
2008年には駅の近くでスナックを借りて運営していましたが、2016年にこちらに引っ越してきました。
鉄筋コンクリートの3階建です。
ゲストハウスは35ベット、部屋は相部屋からシングルまでいろいろあります。
釜ヶ崎のおじさんが描いた絵で埋まっている部屋とか、谷川俊太郎さんを閉じ込めて詩を書いてもらってそこにノートとが置いてあり続きを書いてもらったりする部屋、美術家森村泰昌さんの作品と、釜ヶ崎のおじさんの不思議な言葉とのコラボといった部屋などがあります
今日も釜ヶ崎のおじさんが一人亡くなりましたが、谷川俊太郎さんが来てインタビューして詩を作ってもらっていました。
葬式に谷川さんが作った詩を朗読している映像を流してお見送りして来ました。
海外の旅行者の方も泊まっていきます。
74歳のおじいさんが毎日一単語を覚えたいとノートに書いて、その後「Happy New Year」と書いたんです。
「釜芸」この町は人生を学ぶには凄くいい場所です。
やっている講座は詩、哲学、天文学、音楽、ジェンダー、ガムラン、サウンドスケープ、狂言、語学だったり多種多様です。
会場はいろんな場所を借りて、一流の先生に来てもらってやっています。
先生を質問攻めにします。
この大学も6年になります。
狂言はこの間襲名された茂山千之丞さんが来ました。
創作狂言で能衣装をつけて能舞台で発表したこともあります。
みんなが腹を抱えて笑いました。
和歌山大学の尾久土 正己(おきゅうど まさみ)先生、天文学と釜ヶ崎は遠い様な感じがすると思うがそうではなくて、時間を飛び越えてみんなが生きて行く事をしっかり感じるそういう講座を作ってくださいます。
ビールのアルミ缶を使って釜ヶ崎のおじさんが独学で、通天閣が酔っぱらってビールを飲み続けるからくり人形を作ったんです。
彼はアルコールで人生を台無しにした方ですが、その酒でみんなを楽しませるのが大好きでこれを預かっています。
2014年には横浜のアトリエ内にいろいろ展示しました。
これまでに延べ6000人ぐらいが受講しました。
2015年に第65回文化庁芸術選奨芸術振興部門新人賞を受賞しました。
2008年に喫茶店を始めた時に安藤さんという方が毎日来ました。
隣りの人をつねったり泥棒扱いしたりして困っていました。
何かあった時には外に連れ出して話を聞くと言う事を1年半ぐらいやっていました。
手紙を書く会というワークショップをやろうとしていた時に、声を掛けたら珍しくやってみると行って手紙を書き始めました。
「き」ってどう書くのと言われて、安藤さんが字を書けないという事を想像したことがありませんでした。
1年半のやり取りの中で、自分が字が書けないという事がばれても笑ったり馬鹿にしない所だという事を、安藤さん自身が心から思ったんだと思いました。
表現することが大事だと思っていたが実は表現するよりも、表現できる場をつくるのが本当に大事なんだと言う事を安藤さんから教わりました。
釜ヶ崎ワークショップを開催するが、月に一回9カ月行うがすべてに参加してくれた坂下という方がいました。
彼もアルコールがとても問題でした。
「酒を止めるのに薬で止めるんでは無くて、人生の楽しみでやめるんや」と言ってくれました。
生活のリズムになるような講座の開催という事で、釜ヶ崎芸術大学プロジェクトとして最初に考えました。
人生出会いで変わります、出会いの場を作りたいと思っています。
奈良県吉野郡生まれ,
父親は銀行員、母親は詩人であり、3歳のころから母親とともに詩作を始めました。
高校時代から朗読を始めました。
京都芸術短期大学ビジュアルデザイン科に入学、卒業後はコピーライターになる。
詩を声にして読んで、それを世界が見つけてくれるんで声は凄く不思議なものだと思っていました。
20歳代になって舞台に上げてみようと思って朗読を始めました。
継続的に朗読のできる場を作りました。
お互いの人生に凄く影響を及ぶんじゃないかと思いました。
声を掛け合う事が人生を大きく変えて行くと言う事は、出会ったり声にしたり応答すると言う事を仕事にしたい、それこそ詩の仕事ではないかと思いました。
そこには和を作って、素直に自分の気持ちを表せて、それを聞ける人がいて、そんな場を仕事場にできたらいいなあと思って16年になります。
2003年に詩を仕事にしようと色んなアーティストに声を掛けて仕事をした時に直ぐ近くが釜ヶ崎でした。
色んなおじさんを見かけましたが、私がこの街から表現の芸術の源泉を学べるのではないかと直観しました。
何を思ってどんなふうに生きてきたのか、という事が次の社会を考える時の手がかりになるのではないかと思って、それを聞いてみたいと思いました。
自分の言葉が追い付かないという事で、心の種としてお互いに取材をして聞いたことを詩にする方法を考えました。
おじさんが若者と10分間見つめあった時におじさんが作った詩
「お前の瞳は真っ直ぐをむいてみ開いている。
どんなに目を細めても、眉間に皺をよせてみてみても悪党の目には見えない。
あだなはニャンニャンだけど猫目ではないようだ。
26歳の輝きを放っている。
前を向きながらハヤブサの光にも似た綺麗な瞳だ」
おじさん同士が話をして作った詩
「花見は季節になると自転車で見ています。
中の島の川口桜が一番綺麗です、だとおもいます。
空を見あげることはない。
大阪の空はあまり見ない、お星さんぐらいです。
桜さくさく花の季節です」
「教室」という題で合作俳句も作っています。
ココルーム こうした場が日本や世界に沢山増えたらいいなあと思っていますが、運営資金が大変なところもあります。
49歳、日雇労働者の町として知られる大阪市西成区あいりん地区、通称釜ヶ崎の商店街に上田さんのNPOが運営する「ゲストハウスとカフェと庭、ココルーム」があります。
オープンは2008年、地元でおっちゃん達と呼ばれる日雇労働者の高齢化と孤立化が進んだ時期でした。
2012年には十分な教育が受けられなかったおっちゃん達と一緒に表現を学ぶ市民大学、釜ヶ崎芸術大学、釜芸を開講、これまでに延べ6000人が受講し、上田さんは2015年に第65回文化庁芸術選奨芸術振興部門新人賞を受賞しました。
どんな活動をしているのか、伺いました。
沢山の労働者が肩をぶつけ合いながら歩いていた商店街でした。
この5年ですっかり風景が変わって、中国人がカラオケ居酒屋をして凄くこの町は変わりめをむかえているところです。
1960年代から高度成長経済を支えてきた街です。
全国から若い人たちが働きに来てその数は3,4万人いたと言われました。
劣悪な労働環境の為に暴動といった形で現れて、そのためにイメージは怖い街と言うふうに思われているかもしれないが、バブル崩壊後仕事がなくなり、その時に集められた労働者はおじいちゃんに成っています。
仕事がなくなって路上に押し出されて、ホームレスの状態の方が多かったが、生活保護を受けている方が多くて、ドヤはアパートに変わってきて、若い外国人の旅行者も増えたので、おじいさんたちが亡くなって空き部屋となり、それがホテルに転換されている、非常に借り住まいの街と言われるかもしれない。
色んな人が行きかう街になっています。
「ゲストハウスとカフェと庭、ココルーム」では天井にびっしりと習字が一杯貼られている。
祭りで書道のブースを設けて、思い付くことを書いてほしいという事で集めたものです。
話好きの75歳のおじいさんは、昔は病院の事務長さんをしていて立派な仕事をされていた方です。
今は事情があって一人でこの町で暮らしています。
引きこもっていたがある人が2月前にここに引っ張り出してきました。
2008年には駅の近くでスナックを借りて運営していましたが、2016年にこちらに引っ越してきました。
鉄筋コンクリートの3階建です。
ゲストハウスは35ベット、部屋は相部屋からシングルまでいろいろあります。
釜ヶ崎のおじさんが描いた絵で埋まっている部屋とか、谷川俊太郎さんを閉じ込めて詩を書いてもらってそこにノートとが置いてあり続きを書いてもらったりする部屋、美術家森村泰昌さんの作品と、釜ヶ崎のおじさんの不思議な言葉とのコラボといった部屋などがあります
今日も釜ヶ崎のおじさんが一人亡くなりましたが、谷川俊太郎さんが来てインタビューして詩を作ってもらっていました。
葬式に谷川さんが作った詩を朗読している映像を流してお見送りして来ました。
海外の旅行者の方も泊まっていきます。
74歳のおじいさんが毎日一単語を覚えたいとノートに書いて、その後「Happy New Year」と書いたんです。
「釜芸」この町は人生を学ぶには凄くいい場所です。
やっている講座は詩、哲学、天文学、音楽、ジェンダー、ガムラン、サウンドスケープ、狂言、語学だったり多種多様です。
会場はいろんな場所を借りて、一流の先生に来てもらってやっています。
先生を質問攻めにします。
この大学も6年になります。
狂言はこの間襲名された茂山千之丞さんが来ました。
創作狂言で能衣装をつけて能舞台で発表したこともあります。
みんなが腹を抱えて笑いました。
和歌山大学の尾久土 正己(おきゅうど まさみ)先生、天文学と釜ヶ崎は遠い様な感じがすると思うがそうではなくて、時間を飛び越えてみんなが生きて行く事をしっかり感じるそういう講座を作ってくださいます。
ビールのアルミ缶を使って釜ヶ崎のおじさんが独学で、通天閣が酔っぱらってビールを飲み続けるからくり人形を作ったんです。
彼はアルコールで人生を台無しにした方ですが、その酒でみんなを楽しませるのが大好きでこれを預かっています。
2014年には横浜のアトリエ内にいろいろ展示しました。
これまでに延べ6000人ぐらいが受講しました。
2015年に第65回文化庁芸術選奨芸術振興部門新人賞を受賞しました。
2008年に喫茶店を始めた時に安藤さんという方が毎日来ました。
隣りの人をつねったり泥棒扱いしたりして困っていました。
何かあった時には外に連れ出して話を聞くと言う事を1年半ぐらいやっていました。
手紙を書く会というワークショップをやろうとしていた時に、声を掛けたら珍しくやってみると行って手紙を書き始めました。
「き」ってどう書くのと言われて、安藤さんが字を書けないという事を想像したことがありませんでした。
1年半のやり取りの中で、自分が字が書けないという事がばれても笑ったり馬鹿にしない所だという事を、安藤さん自身が心から思ったんだと思いました。
表現することが大事だと思っていたが実は表現するよりも、表現できる場をつくるのが本当に大事なんだと言う事を安藤さんから教わりました。
釜ヶ崎ワークショップを開催するが、月に一回9カ月行うがすべてに参加してくれた坂下という方がいました。
彼もアルコールがとても問題でした。
「酒を止めるのに薬で止めるんでは無くて、人生の楽しみでやめるんや」と言ってくれました。
生活のリズムになるような講座の開催という事で、釜ヶ崎芸術大学プロジェクトとして最初に考えました。
人生出会いで変わります、出会いの場を作りたいと思っています。
奈良県吉野郡生まれ,
父親は銀行員、母親は詩人であり、3歳のころから母親とともに詩作を始めました。
高校時代から朗読を始めました。
京都芸術短期大学ビジュアルデザイン科に入学、卒業後はコピーライターになる。
詩を声にして読んで、それを世界が見つけてくれるんで声は凄く不思議なものだと思っていました。
20歳代になって舞台に上げてみようと思って朗読を始めました。
継続的に朗読のできる場を作りました。
お互いの人生に凄く影響を及ぶんじゃないかと思いました。
声を掛け合う事が人生を大きく変えて行くと言う事は、出会ったり声にしたり応答すると言う事を仕事にしたい、それこそ詩の仕事ではないかと思いました。
そこには和を作って、素直に自分の気持ちを表せて、それを聞ける人がいて、そんな場を仕事場にできたらいいなあと思って16年になります。
2003年に詩を仕事にしようと色んなアーティストに声を掛けて仕事をした時に直ぐ近くが釜ヶ崎でした。
色んなおじさんを見かけましたが、私がこの街から表現の芸術の源泉を学べるのではないかと直観しました。
何を思ってどんなふうに生きてきたのか、という事が次の社会を考える時の手がかりになるのではないかと思って、それを聞いてみたいと思いました。
自分の言葉が追い付かないという事で、心の種としてお互いに取材をして聞いたことを詩にする方法を考えました。
おじさんが若者と10分間見つめあった時におじさんが作った詩
「お前の瞳は真っ直ぐをむいてみ開いている。
どんなに目を細めても、眉間に皺をよせてみてみても悪党の目には見えない。
あだなはニャンニャンだけど猫目ではないようだ。
26歳の輝きを放っている。
前を向きながらハヤブサの光にも似た綺麗な瞳だ」
おじさん同士が話をして作った詩
「花見は季節になると自転車で見ています。
中の島の川口桜が一番綺麗です、だとおもいます。
空を見あげることはない。
大阪の空はあまり見ない、お星さんぐらいです。
桜さくさく花の季節です」
「教室」という題で合作俳句も作っています。
ココルーム こうした場が日本や世界に沢山増えたらいいなあと思っていますが、運営資金が大変なところもあります。
2019年2月15日金曜日
山田優美子(「指導死」親の会) ・『身近に潜む"指導死"』(2018・12・14 OA)
山田優美子(「指導死」親の会) ・『身近に潜む"指導死"』(2018・12・14 OA)
山田さんは8年前に高校2年生の次男を自殺で失いました。
そこには野球部の指導者の行き過ぎた指導が深くかかわっていたといいます。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/12/blog-post_14.htmlをご覧ください。
山田さんは8年前に高校2年生の次男を自殺で失いました。
そこには野球部の指導者の行き過ぎた指導が深くかかわっていたといいます。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/12/blog-post_14.htmlをご覧ください。
2019年2月14日木曜日
宮崎賢太郎(宗教学者・長崎純心大学客員教授)・"カクレキリシタン"の素顔
宮崎賢太郎(宗教学者・長崎純心大学客員教授)・"カクレキリシタン"の素顔
68歳、去年ユネスコの世界文化遺産に長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が登録されました。
宮崎さんの両親の祖先も江戸時代幕府が禁教令を布告して、キリスト教の弾圧をしたあとも、信仰を続けた潜伏キリシタンでした。
宮崎さんは35年に渡って長崎純心大学で教べんをとりながら、キリシタン研究を続ける中で今も潜伏時代の信仰を続ける、隠れキリシタンと呼ばれる人達がこれまで考えられていた、仏教や神道を隠れ蓑としてひそかにキリスト教の信仰を守り通しているのではなく、仏教や神道も大切にし、更に先祖から伝わる隠れの神様も祭る、日本独自の信仰の形があることを明らかにしました。
世界遺産の運動は長崎でも10年以上に渡って続いてきましたが、今回初めて念願がかなって非常にうれしいことだったと思います。
明治の初めになってキリスト教が弾圧から解放されて、その結果神道の人たちが頑張って作り上げた教会がたくさんあります。
潜伏キリシタン、今まで隠れキリシタンという言葉は1644年に厳しい弾圧があって、神道だけの時代が始まる、それが1644年ですが、キリスト教が再び自由になって復活するのが1873年(明治6年)です。
その後も江戸時代と同じように隠れ、様々な形、お寺にも行き、神社の氏子としての義務も果たし、その上に先祖が大事にしてきたキリシタンの神様も隠れたような形でキリシタンの神様も拝むと言うような、信仰を今に至るまで続けている人がいますが、隠れキリシタンという文字を使ってきた。
あたかも今現在も隠れてキリスト教の信仰をしている人が長崎にいるらしいということになる。
隠れキリシタンと言われる方々の調査研究を35年間続けて来ましたが、結論から言うと隠れキリシタンと言われる人たちは、隠れてもいなければキリスト教でもないということにたどり着きました。
江戸時代の隠さないとやっていけなかったキリシタンを潜伏キリシタンと呼んで、明治以降隠れる必要がないキリシタンを復活キリシタン、それが現在のカトリックの信者に繋がる訳です。
しかし、隠さなくてもいいのに、その後も江戸時代と同じように、お寺にもお世話になり神社のお祭りにも積極的に参加して、江戸時代からの伝わる隠れの神様も拝んでいるという人達がいまでもいますが、これを「隠れキリシタン」と呼びますが、私は「カクレキリシタン」と呼んでいます。
父方、母方も隠れキリシタンと呼ばれる人達の子孫に当たります。
父方は神ノ島という潜伏キリシタンの人達がたくさんいた地域が里になっています。
母方は家野町という神道が盛んな潜伏キリシタンでした。
私は生れて3日目に洗礼を受けました。
中学、高校は剣道部でしたが、高校時代読んだのが仏教の本でした。
大学への浪人時代があって、その時に遠藤周作の「沈黙」という本を読みました。
殉教がたくさんあるという歴史を知って吃驚しました。
そこまで信仰を強くさせたのは一体何だろうと、考えてみたいという思いでした。
文学部にいって、宗教の勉強の学科に入りました。
大学院の1年が終わった時に、原点の資料にあたるものを観たいと思って、イタリア等に一度行かなければいけないのかなと思いました。
剣道4段でしたので、イタリアに派遣してほしいという話があり、剣道をしながらイタリア語を勉強し、資料も集め勉強すると言う事でイタリアに行きました。
4年イタリアにいて、長崎からキリシタンの事を教えてほしいとの話があり、30歳で戻ってきて、キリシタンの事を教えることになりました。
フィールドワークが中心に成っています。
1500年、1600年代に日本に来た宣教師が書き送った手紙を解読して、知られていないことを読みだして、と言うような文献を中心に始めましたが、生の姿を見るのもいいと思って、本格的に始めたのが生月島でした。
当時は盛大にやる隠れキリシタンの行事が残っていて物凄く面白かったです。
行事には刺し身、魚、日本酒が100%出てきました。
神様にお供えして、「オラショ」というお祈りをして、神道でいう「直会 (なおらい)」と同じような神様からのお下がりを頂いて、飲んだり食べたりしました。
私も一緒に飲んだりして、隠れキリシタンの皆様に溶け込んで行きましたが、或る程度本音が話せるよう成るまでには10年以上かかりました。
隠れキリシタンを辞めたという人の家に、隠れキリシタンの方々が大事にしている「お水瓶」という聖なる水として考えられている瓶がありますが、辞めると不要になる。
それは御神体であり、悪い事をすると「バチ」が当たると言う事が宗教の根底にあり、粗末にしない方法として、今も現役でやっている人に一緒に祭ってもらえないかと相談がありました。
私がお預かりしますと言うことになったら、「お魂抜き」をしますと言うことになり、魂を抜く儀式を行い、魂を抜けた瓶を貰うことになりました。(穢れとたたりの問題)
奥には彼等自身も気が付いていない、辞めたら何か悪い事が起きるかもしれない、「たたり」があるかもしれないという、これが本音ではないかもしれない。
日本人の宗教の根本に「たたり」に対する畏れがあり、隠れキリシタンの中にも一番根本にはそういう物があると言う事が段々見えてきました。
「お水瓶」ひとつにしても、そういった「たたり」がないようにという願い、「たたり」信仰が彼等の心の深く重要なところに潜んでいるという事が見えてきました。
隠れキリシタンの根本にあるのは何なのか。
大本はキリスト教と言われてきたが、彼等が行っている宗教的な行事にはキリスト教と見てもいいものが結構残っている、「オラショ」などがそうですが。
一部しか理解できないような祈りもあります。
天草の潜伏キリシタンが唱えているものの一節。
「あんじひのひめよりんじゃ様に頼みます。 あんめんぜんす、まるや様」
「慈悲深いひめよりんじゃと言う名前の神様にお願いします。
アーメン イエズス マリア様」 というキリスト教から来ていると思われるが意味としては判らない。
鬼が嫌う豆をまいて家から鬼を追い出すという節分がありますが、今も結構続いている潜伏キリシタン版があるんです。
たぶん自分たちで作ったんでしょうね。
「ゼウスの御前に参り候。 ほんたを取り上げてふざもじき、天に向かいて手を合わせ
とがのおんゆるし下さるように、肉親のとが、日に1070度のとが、におちいる。
ゼウスのくりきをもって、のがしたまえ。 あんぜんせんす、あんめんぜんす」
ところどころにキリスト教の言葉が入っている。
全体的にはどう解釈していいか判らない、という「オラショ」です。
少ない宣教師が日本人の沢山の信者にキリスト教の内容を深く教えると言う事は不可能だったし、当時の宣教師はほとんど日本語が出来なかった。
正しくキリスト教の中身、教えを理解して洗礼をうけた人は極めて少なかったのではないかと思います。
仏教や神道を否定して、唯一のキリスト教だけを心の中で守ってきたというような構造ではなかったと思う。
ガラシャ夫人、キリシタン大名の高山右近の様にキリスト教をきちんろ理解して、信じていた人達も居たことも否定すべきではないが。
一般民衆への宣教師の数および日本語の能力と、日本人の理解能力を考えると民衆層にはあまり浸透していなかったんだと思います。
そんな中で230年間自分たちだけで伝えてきて幕末に復活した時に、キリスト教に信仰をどんな弾圧にも仏教徒の振りをしながら、キリスト教の信仰を守り通してきたと言われているが、それはちょっと成り立たないと思う。
昔からのこれもご利益があり捨てる必要も無いので、今まで通り拝み、御利益があるかもしれない新しい神様も拝んでみようかな、という事は出来たと思う。
隠れキリシタンの調査をしていると、彼等は熱心な仏教徒、神道の氏子、先祖の神様も拝むと言う、今説明した構図が、今の隠れキリシタンの方々の信仰ともぴったり一致している。
キリスト教という外来の宗教が多神教の世界に入った来た時に共存できる事は、一神教なので多神教と対立して、勝負をつけようと言うようなことだと排除されると思う。
フィリピンでは90%がカトリック信者といわれるが、土着の精霊信仰は今でも生きている。
キリスト教が普及した世界各地でも同様な事が言えると思う。
メキシコや中南米、韓国、アフリカ、ヨーロッパなどでも同じ様に融合しているという事があると思う。
ぜ
68歳、去年ユネスコの世界文化遺産に長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が登録されました。
宮崎さんの両親の祖先も江戸時代幕府が禁教令を布告して、キリスト教の弾圧をしたあとも、信仰を続けた潜伏キリシタンでした。
宮崎さんは35年に渡って長崎純心大学で教べんをとりながら、キリシタン研究を続ける中で今も潜伏時代の信仰を続ける、隠れキリシタンと呼ばれる人達がこれまで考えられていた、仏教や神道を隠れ蓑としてひそかにキリスト教の信仰を守り通しているのではなく、仏教や神道も大切にし、更に先祖から伝わる隠れの神様も祭る、日本独自の信仰の形があることを明らかにしました。
世界遺産の運動は長崎でも10年以上に渡って続いてきましたが、今回初めて念願がかなって非常にうれしいことだったと思います。
明治の初めになってキリスト教が弾圧から解放されて、その結果神道の人たちが頑張って作り上げた教会がたくさんあります。
潜伏キリシタン、今まで隠れキリシタンという言葉は1644年に厳しい弾圧があって、神道だけの時代が始まる、それが1644年ですが、キリスト教が再び自由になって復活するのが1873年(明治6年)です。
その後も江戸時代と同じように隠れ、様々な形、お寺にも行き、神社の氏子としての義務も果たし、その上に先祖が大事にしてきたキリシタンの神様も隠れたような形でキリシタンの神様も拝むと言うような、信仰を今に至るまで続けている人がいますが、隠れキリシタンという文字を使ってきた。
あたかも今現在も隠れてキリスト教の信仰をしている人が長崎にいるらしいということになる。
隠れキリシタンと言われる方々の調査研究を35年間続けて来ましたが、結論から言うと隠れキリシタンと言われる人たちは、隠れてもいなければキリスト教でもないということにたどり着きました。
江戸時代の隠さないとやっていけなかったキリシタンを潜伏キリシタンと呼んで、明治以降隠れる必要がないキリシタンを復活キリシタン、それが現在のカトリックの信者に繋がる訳です。
しかし、隠さなくてもいいのに、その後も江戸時代と同じように、お寺にもお世話になり神社のお祭りにも積極的に参加して、江戸時代からの伝わる隠れの神様も拝んでいるという人達がいまでもいますが、これを「隠れキリシタン」と呼びますが、私は「カクレキリシタン」と呼んでいます。
父方、母方も隠れキリシタンと呼ばれる人達の子孫に当たります。
父方は神ノ島という潜伏キリシタンの人達がたくさんいた地域が里になっています。
母方は家野町という神道が盛んな潜伏キリシタンでした。
私は生れて3日目に洗礼を受けました。
中学、高校は剣道部でしたが、高校時代読んだのが仏教の本でした。
大学への浪人時代があって、その時に遠藤周作の「沈黙」という本を読みました。
殉教がたくさんあるという歴史を知って吃驚しました。
そこまで信仰を強くさせたのは一体何だろうと、考えてみたいという思いでした。
文学部にいって、宗教の勉強の学科に入りました。
大学院の1年が終わった時に、原点の資料にあたるものを観たいと思って、イタリア等に一度行かなければいけないのかなと思いました。
剣道4段でしたので、イタリアに派遣してほしいという話があり、剣道をしながらイタリア語を勉強し、資料も集め勉強すると言う事でイタリアに行きました。
4年イタリアにいて、長崎からキリシタンの事を教えてほしいとの話があり、30歳で戻ってきて、キリシタンの事を教えることになりました。
フィールドワークが中心に成っています。
1500年、1600年代に日本に来た宣教師が書き送った手紙を解読して、知られていないことを読みだして、と言うような文献を中心に始めましたが、生の姿を見るのもいいと思って、本格的に始めたのが生月島でした。
当時は盛大にやる隠れキリシタンの行事が残っていて物凄く面白かったです。
行事には刺し身、魚、日本酒が100%出てきました。
神様にお供えして、「オラショ」というお祈りをして、神道でいう「直会 (なおらい)」と同じような神様からのお下がりを頂いて、飲んだり食べたりしました。
私も一緒に飲んだりして、隠れキリシタンの皆様に溶け込んで行きましたが、或る程度本音が話せるよう成るまでには10年以上かかりました。
隠れキリシタンを辞めたという人の家に、隠れキリシタンの方々が大事にしている「お水瓶」という聖なる水として考えられている瓶がありますが、辞めると不要になる。
それは御神体であり、悪い事をすると「バチ」が当たると言う事が宗教の根底にあり、粗末にしない方法として、今も現役でやっている人に一緒に祭ってもらえないかと相談がありました。
私がお預かりしますと言うことになったら、「お魂抜き」をしますと言うことになり、魂を抜く儀式を行い、魂を抜けた瓶を貰うことになりました。(穢れとたたりの問題)
奥には彼等自身も気が付いていない、辞めたら何か悪い事が起きるかもしれない、「たたり」があるかもしれないという、これが本音ではないかもしれない。
日本人の宗教の根本に「たたり」に対する畏れがあり、隠れキリシタンの中にも一番根本にはそういう物があると言う事が段々見えてきました。
「お水瓶」ひとつにしても、そういった「たたり」がないようにという願い、「たたり」信仰が彼等の心の深く重要なところに潜んでいるという事が見えてきました。
隠れキリシタンの根本にあるのは何なのか。
大本はキリスト教と言われてきたが、彼等が行っている宗教的な行事にはキリスト教と見てもいいものが結構残っている、「オラショ」などがそうですが。
一部しか理解できないような祈りもあります。
天草の潜伏キリシタンが唱えているものの一節。
「あんじひのひめよりんじゃ様に頼みます。 あんめんぜんす、まるや様」
「慈悲深いひめよりんじゃと言う名前の神様にお願いします。
アーメン イエズス マリア様」 というキリスト教から来ていると思われるが意味としては判らない。
鬼が嫌う豆をまいて家から鬼を追い出すという節分がありますが、今も結構続いている潜伏キリシタン版があるんです。
たぶん自分たちで作ったんでしょうね。
「ゼウスの御前に参り候。 ほんたを取り上げてふざもじき、天に向かいて手を合わせ
とがのおんゆるし下さるように、肉親のとが、日に1070度のとが、におちいる。
ゼウスのくりきをもって、のがしたまえ。 あんぜんせんす、あんめんぜんす」
ところどころにキリスト教の言葉が入っている。
全体的にはどう解釈していいか判らない、という「オラショ」です。
少ない宣教師が日本人の沢山の信者にキリスト教の内容を深く教えると言う事は不可能だったし、当時の宣教師はほとんど日本語が出来なかった。
正しくキリスト教の中身、教えを理解して洗礼をうけた人は極めて少なかったのではないかと思います。
仏教や神道を否定して、唯一のキリスト教だけを心の中で守ってきたというような構造ではなかったと思う。
ガラシャ夫人、キリシタン大名の高山右近の様にキリスト教をきちんろ理解して、信じていた人達も居たことも否定すべきではないが。
一般民衆への宣教師の数および日本語の能力と、日本人の理解能力を考えると民衆層にはあまり浸透していなかったんだと思います。
そんな中で230年間自分たちだけで伝えてきて幕末に復活した時に、キリスト教に信仰をどんな弾圧にも仏教徒の振りをしながら、キリスト教の信仰を守り通してきたと言われているが、それはちょっと成り立たないと思う。
昔からのこれもご利益があり捨てる必要も無いので、今まで通り拝み、御利益があるかもしれない新しい神様も拝んでみようかな、という事は出来たと思う。
隠れキリシタンの調査をしていると、彼等は熱心な仏教徒、神道の氏子、先祖の神様も拝むと言う、今説明した構図が、今の隠れキリシタンの方々の信仰ともぴったり一致している。
キリスト教という外来の宗教が多神教の世界に入った来た時に共存できる事は、一神教なので多神教と対立して、勝負をつけようと言うようなことだと排除されると思う。
フィリピンでは90%がカトリック信者といわれるが、土着の精霊信仰は今でも生きている。
キリスト教が普及した世界各地でも同様な事が言えると思う。
メキシコや中南米、韓国、アフリカ、ヨーロッパなどでも同じ様に融合しているという事があると思う。
ぜ
2019年2月13日水曜日
片岡鶴太郎(俳優・画家) ・【鶴太郎の人生を楽しもう】
片岡鶴太郎(俳優・画家) ・【鶴太郎の人生を楽しもう】
ゲスト:喜劇役者の伊東四朗
片岡:声帯模写のお笑い芸人としてこの世界に入り 、歌手、画家、書家、プロボクサー、ヨーギ(ヨガ実践家)等幾つもの顔を持つようになりました。
64歳、毎日時間が足りなくて仕方ないです。
人生100歳時代、色々な方をお招きして、人生を楽しむヒントを見付けていただくきっかけにしていただきたいと思っています。
今日のゲストは喜劇役者の伊東四朗さん、82歳になられます。
常に新しいことにチャレンジしています。
片岡:あるときに京都の撮影所でかつらを付けてもらいながらうつらうつらしていたら、「つるちゃん、ちゃんと布団に寝ていないとだめだよ、気を付けないと身体に」と一言おっしゃってたっていただき、多分寝不足なんだろうと言う事を思って、おっしゃっていただいた。
今になって見ると仕事の前の準備、心構えを自覚して整えるようにしました。
伊東:責任ですね。一番大事なのは。
作品の中の一人の人間として使って貰う以上は、自分の責任の分担というもはあるだろうから、そんな気持ちはありました。
酒席でベロベロ二なると言う事はなかったです。
片岡:腕があっていいんだけど酒で失敗した人が結構、、、。
伊東:います、あんな達者な人が何で居なくなってしまったんだろうと、失敗ですよね。
鈴木ヒロミツとも話をした時に、伊東さんって、いなくなくなった時がありませんよと言われたのが印象的でした。
真っ直ぐ愚直に歩いてきたつもりです。
三宅さんからコントライブがいいですか、芝居がいいですかと突然電話がかかってきました。
芝居の方が楽でいいなあと思いながらコントライブをやりましょうと、つい口に出てしまいました。
自分の原点に突き当たっているのかもしれません。
笑いのない芝居は厭なんです、出たことはありますが、笑いがないのは駄目ですね。
無理矢理笑わせるのも厭なんです。
お客さんが自然に笑うのがいいですね。
笑いの中にシェークシピアもモリエール、チェーホフも入っている、喜劇の中にはすべてがあると言うのが僕の考え方です。
喜劇はふざけてはだめだと思います。
自然にやって面白くなるのが喜劇だと思ってやってきています。
片岡:片岡鶴ハ、うちの師匠は芝居仕立てなんですね、それが面白かったですね。
湯島の白梅とか、パロディーにするが、そのパロディーが好きでした。
伊東:昔の人は芝居を知っていましたからね、知らなければ受けないですからね。
歌舞伎が好きで、早稲田の友達と早稲田祭で歌舞伎もどきをやろうと言うことになって、台本を自分らで書いて、初めてだからアドバイスをして貰おうと言うことになって、何故か面白いことに尾上松禄の処に行こうと言うことになって、お会いしようとしたら楽屋の人から帰れと言われたが、たまたま尾上松禄さんに会う事が出来て、「おあがんなさい」と言われました。
台本を読んでくれました。
中村 富十郎さんに電話して、来てくれ、振付して見てと言ってそこでやらせたりして、「見ていく?」といわれて歌舞伎を看ることがで来て、あんな至福の時はなかったです、嬉しかったです。
台詞覚えはむかしは苦にならなかったです。
覚えるのは反復しかないです。
相手の台詞もできれば覚えます、時間も掛けます。
頭の中で覚えているだけでは駄目なので口に出さないといけない。
円周率を1000桁まで覚えたことがあります。
Jリーグの名前も覚えて、毎年変わるので刺激になります。
片岡:何時頃起きますか。
伊東:早い時には4時頃起きます。
家にいる時には時間が経つのは早いです。
食事は質素にやっています。
ぬか漬けを自分でやっています。
味噌汁は自家製で作ってやっています
一番好物は魚だったら鱈の塩焼きが好きです。
片岡:人生をこれから少しだけでも楽しませてくれるヒント、これをやったらいいんじゃないかと言う事があればお聞かせ下さい。
伊東:どんな人にも何かやってみたいというものが必ずあると思います。
やらずにあとで後悔するのが落ちです。
後悔するんだったら、一回やってみるべきだと思います。
勝負師はやってみたかった、潔さの仕事にあこがれました。
ぼくらの仕事は勝ち負けが判らないので。
絵がうまい人には無条件で尊敬します。
コントライブはやってよかったと思います。
80歳でコントが出来るものなのかと勝負しました。
加山雄三さん、山本学さん等同じ歳で頑張っているので僕も頑張ろうと思っています。
ウオーキング、ダンベル、腹筋機でやったりしています。
片岡:私も今やっていることは続けて行きたいと思っています。
ゲスト:喜劇役者の伊東四朗
片岡:声帯模写のお笑い芸人としてこの世界に入り 、歌手、画家、書家、プロボクサー、ヨーギ(ヨガ実践家)等幾つもの顔を持つようになりました。
64歳、毎日時間が足りなくて仕方ないです。
人生100歳時代、色々な方をお招きして、人生を楽しむヒントを見付けていただくきっかけにしていただきたいと思っています。
今日のゲストは喜劇役者の伊東四朗さん、82歳になられます。
常に新しいことにチャレンジしています。
片岡:あるときに京都の撮影所でかつらを付けてもらいながらうつらうつらしていたら、「つるちゃん、ちゃんと布団に寝ていないとだめだよ、気を付けないと身体に」と一言おっしゃってたっていただき、多分寝不足なんだろうと言う事を思って、おっしゃっていただいた。
今になって見ると仕事の前の準備、心構えを自覚して整えるようにしました。
伊東:責任ですね。一番大事なのは。
作品の中の一人の人間として使って貰う以上は、自分の責任の分担というもはあるだろうから、そんな気持ちはありました。
酒席でベロベロ二なると言う事はなかったです。
片岡:腕があっていいんだけど酒で失敗した人が結構、、、。
伊東:います、あんな達者な人が何で居なくなってしまったんだろうと、失敗ですよね。
鈴木ヒロミツとも話をした時に、伊東さんって、いなくなくなった時がありませんよと言われたのが印象的でした。
真っ直ぐ愚直に歩いてきたつもりです。
三宅さんからコントライブがいいですか、芝居がいいですかと突然電話がかかってきました。
芝居の方が楽でいいなあと思いながらコントライブをやりましょうと、つい口に出てしまいました。
自分の原点に突き当たっているのかもしれません。
笑いのない芝居は厭なんです、出たことはありますが、笑いがないのは駄目ですね。
無理矢理笑わせるのも厭なんです。
お客さんが自然に笑うのがいいですね。
笑いの中にシェークシピアもモリエール、チェーホフも入っている、喜劇の中にはすべてがあると言うのが僕の考え方です。
喜劇はふざけてはだめだと思います。
自然にやって面白くなるのが喜劇だと思ってやってきています。
片岡:片岡鶴ハ、うちの師匠は芝居仕立てなんですね、それが面白かったですね。
湯島の白梅とか、パロディーにするが、そのパロディーが好きでした。
伊東:昔の人は芝居を知っていましたからね、知らなければ受けないですからね。
歌舞伎が好きで、早稲田の友達と早稲田祭で歌舞伎もどきをやろうと言うことになって、台本を自分らで書いて、初めてだからアドバイスをして貰おうと言うことになって、何故か面白いことに尾上松禄の処に行こうと言うことになって、お会いしようとしたら楽屋の人から帰れと言われたが、たまたま尾上松禄さんに会う事が出来て、「おあがんなさい」と言われました。
台本を読んでくれました。
中村 富十郎さんに電話して、来てくれ、振付して見てと言ってそこでやらせたりして、「見ていく?」といわれて歌舞伎を看ることがで来て、あんな至福の時はなかったです、嬉しかったです。
台詞覚えはむかしは苦にならなかったです。
覚えるのは反復しかないです。
相手の台詞もできれば覚えます、時間も掛けます。
頭の中で覚えているだけでは駄目なので口に出さないといけない。
円周率を1000桁まで覚えたことがあります。
Jリーグの名前も覚えて、毎年変わるので刺激になります。
片岡:何時頃起きますか。
伊東:早い時には4時頃起きます。
家にいる時には時間が経つのは早いです。
食事は質素にやっています。
ぬか漬けを自分でやっています。
味噌汁は自家製で作ってやっています
一番好物は魚だったら鱈の塩焼きが好きです。
片岡:人生をこれから少しだけでも楽しませてくれるヒント、これをやったらいいんじゃないかと言う事があればお聞かせ下さい。
伊東:どんな人にも何かやってみたいというものが必ずあると思います。
やらずにあとで後悔するのが落ちです。
後悔するんだったら、一回やってみるべきだと思います。
勝負師はやってみたかった、潔さの仕事にあこがれました。
ぼくらの仕事は勝ち負けが判らないので。
絵がうまい人には無条件で尊敬します。
コントライブはやってよかったと思います。
80歳でコントが出来るものなのかと勝負しました。
加山雄三さん、山本学さん等同じ歳で頑張っているので僕も頑張ろうと思っています。
ウオーキング、ダンベル、腹筋機でやったりしています。
片岡:私も今やっていることは続けて行きたいと思っています。
2019年2月12日火曜日
小嵐正治(ランニングドクター) ・ランナーの命を守る
小嵐正治(ランニングドクター) ・ランナーの命を守る
今年も来月3月3日に、約3万8000人のランナーが参加して東京マラソンが行われます。
今年で13回目を迎える大会、第1回から医療支援活動を行うランニングドクターと呼ばれる人たちが参加しています。
ランナー達の後方を走りながら、異常を訴えたランナーに駆け寄って応急処置をし、数多くのランナーの命を救ってきた存在です。
第3回の大会で心肺停止に倒れたタレントの松村邦洋さんもランニングドクターに命を救われた一人です。
小嵐さん、71歳は40歳を目前にしてメタボ解消のためにランニングを始めました。
それ以来走る魅力にとりつかれ、これまでに走った総距離は13万km、地球3周以上にも及ぶということです。
東京マラソンを前にランニングドクターの使命とランニングの魅力、楽しく走る為の注意点などを伺います。
ドクターの中でも走ることできる人がたくさんいますので、医療的な支援活動もやったらどうだろうかと言っていました。
2007年の東京マラソン第1回大会の時に100人ほど集めてほしいと言われました。
第1回目は二人心臓が止まった方がいましたが対応してうまく行きました。
救護テントでは事故が起こっても現場に直ぐに到達できないという事が現状で、医者を初めからランナーに混ぜておいて、一緒に走ってしまえばどうかという案が出てきて、日医ジョガーズという走る団体があるので、そこで救護するということになりました。
早い人と遅い人がいるので、それぞれにケアをしています。
基本的には遅めに走って対応しています。
認定資格を決めました。
BLSの講習を受けている人、走力としてフルマラソンを5時間位で余裕をもって走れることの2つの条件が必要となっています。
現在50人ぐらいはいます。
大学時代はワンダーフォーゲル部に所属していました。
山梨県の大月市に単身赴任をしましたが、メタボに成っていて体重が80kgになり1984年(38歳)にダイエットを目標に走り始めました。
2kmを走ることが最初で、だんだん遠くまで走るようになり、毎日走るようになりました。
精神的にも積極的に成りました。
ハーフマラソン(21km)に出てみましたら、予想より速く走れて1時間45分でした。
山梨のフルマラソンにでましが、時間オーバーしてゴールしましたが、救護テントに連れていかれて、脱水症状で点滴を受けました。
助けてくれる医療者がいて大会が成り立っていることを知って、自分でもそういう事をしないといけないなあと感じました。
その時のタイムは5時間10分でした。
その後どんどん距離を伸ばすようになって行きました。
各地のマラソンで医療支援をしている団体があることを知りました。
日本医師ジョガーズ連盟で即入会しました。
フルマラソンをやっているうちにどんどん速くなり、3時間台で走れるようになりました。
或る人から100kmマラソンがあるが、挑戦してみないかと言われて、サロマ湖100kmマラソンに出て完走することができました。
その後100kmマラソンより厳しい、ウルトラマラソンに出ることになりました。
専門は整形外科です。
長い手術の或る時などは控えています。
雨の時には傘をさして走っていました。
毎日10kmは走っていました。
フルマラソンは走り始めて34年経過していますが230回になります。
100kmマラソンは143回になります。
もっと厳しいのは250kmというのがありますが、夜を短くどう過ごすか、という事があります。
それは10回出ることになりました。
山岳レース、富士登山レースなどもあります。
富士登山レースでは4時間半で完走しました。
7,8回出て完走したのは2回でした。
今までの練習を含めた距離を測ってみたら13万kmということになりました。
フルマラソンのベストタイムは3時間8分でした。(長野マラソン)
自分を過酷な状態に置いて、過酷なところから解放される事の楽しみ、達成感、という事を感じます。
ハーフマラソンをやっているとフルマラソンができるようになり、フルマラソンで数を重ねると100kmマラソンが出来るようになり、そうしているうちに250kmが出来るようになります。
実は500km迄ありますが500kmに挑戦して完走することができました。
現在、日本医師ジョガーズ連盟の名誉会長。
日本医師ジョガーズ連盟は1983年に設立、走る事を習慣としている医師、歯科医師の全国組織として立ち上げる。
1999年NPO法人として登録、社会貢献をする。
会員数は455人。
東京マラソンの方から話があり100名集めてほしい言われ、何とか対応をしました。
東京マラソンではいままでで7例のCPA(cardiopulmonary arrest - 心肺機能停止を示す。)が出ています。
ゴール近辺で倒れてしまう症例が多いです。
松村邦洋さんが倒れたのは第3回大会の時でした .
胸骨圧迫をしている間に自転車でAEDを持っている人に連絡して対応をします。
AEDが着くには7~10分で対応するが、15分を越えると難しい場合があります。
2007年から2019年(8年間)30例の心肺停止がありました。
3人の方は助かりませんでした。
男性が圧倒的に多くて、30例のうち女性は一人でした。
2015年第28回ランナーズ賞を貰いました。(ランニングに貢献)
日本医師ジョガーズ連盟はそれより前に団体で賞をいただきました。
身体の限界を越えて負荷を掛けてしまうと、筋などは引っ張られ過ぎると断裂をする、腱なども削れて来て痛くなると言う事があります。
問題になりそうになると痛みを発して、ここはこれ以上使ってはいけませんと警告するわけです。
警告に従ってレベルを下げたりして対応すると健康維持できるので、無理しないで楽しんでいただきたい。
準備運動をして身体を温めて筋肉を伸ばしておく。
走った後は使った筋肉の場所を冷やす、休養を十分に取る事も大事です。
靴は履いていないと感じる様な靴がいいです。
日本医師ジョガーズ連盟では34大会に関して支援活動をしています。
今年も来月3月3日に、約3万8000人のランナーが参加して東京マラソンが行われます。
今年で13回目を迎える大会、第1回から医療支援活動を行うランニングドクターと呼ばれる人たちが参加しています。
ランナー達の後方を走りながら、異常を訴えたランナーに駆け寄って応急処置をし、数多くのランナーの命を救ってきた存在です。
第3回の大会で心肺停止に倒れたタレントの松村邦洋さんもランニングドクターに命を救われた一人です。
小嵐さん、71歳は40歳を目前にしてメタボ解消のためにランニングを始めました。
それ以来走る魅力にとりつかれ、これまでに走った総距離は13万km、地球3周以上にも及ぶということです。
東京マラソンを前にランニングドクターの使命とランニングの魅力、楽しく走る為の注意点などを伺います。
ドクターの中でも走ることできる人がたくさんいますので、医療的な支援活動もやったらどうだろうかと言っていました。
2007年の東京マラソン第1回大会の時に100人ほど集めてほしいと言われました。
第1回目は二人心臓が止まった方がいましたが対応してうまく行きました。
救護テントでは事故が起こっても現場に直ぐに到達できないという事が現状で、医者を初めからランナーに混ぜておいて、一緒に走ってしまえばどうかという案が出てきて、日医ジョガーズという走る団体があるので、そこで救護するということになりました。
早い人と遅い人がいるので、それぞれにケアをしています。
基本的には遅めに走って対応しています。
認定資格を決めました。
BLSの講習を受けている人、走力としてフルマラソンを5時間位で余裕をもって走れることの2つの条件が必要となっています。
現在50人ぐらいはいます。
大学時代はワンダーフォーゲル部に所属していました。
山梨県の大月市に単身赴任をしましたが、メタボに成っていて体重が80kgになり1984年(38歳)にダイエットを目標に走り始めました。
2kmを走ることが最初で、だんだん遠くまで走るようになり、毎日走るようになりました。
精神的にも積極的に成りました。
ハーフマラソン(21km)に出てみましたら、予想より速く走れて1時間45分でした。
山梨のフルマラソンにでましが、時間オーバーしてゴールしましたが、救護テントに連れていかれて、脱水症状で点滴を受けました。
助けてくれる医療者がいて大会が成り立っていることを知って、自分でもそういう事をしないといけないなあと感じました。
その時のタイムは5時間10分でした。
その後どんどん距離を伸ばすようになって行きました。
各地のマラソンで医療支援をしている団体があることを知りました。
日本医師ジョガーズ連盟で即入会しました。
フルマラソンをやっているうちにどんどん速くなり、3時間台で走れるようになりました。
或る人から100kmマラソンがあるが、挑戦してみないかと言われて、サロマ湖100kmマラソンに出て完走することができました。
その後100kmマラソンより厳しい、ウルトラマラソンに出ることになりました。
専門は整形外科です。
長い手術の或る時などは控えています。
雨の時には傘をさして走っていました。
毎日10kmは走っていました。
フルマラソンは走り始めて34年経過していますが230回になります。
100kmマラソンは143回になります。
もっと厳しいのは250kmというのがありますが、夜を短くどう過ごすか、という事があります。
それは10回出ることになりました。
山岳レース、富士登山レースなどもあります。
富士登山レースでは4時間半で完走しました。
7,8回出て完走したのは2回でした。
今までの練習を含めた距離を測ってみたら13万kmということになりました。
フルマラソンのベストタイムは3時間8分でした。(長野マラソン)
自分を過酷な状態に置いて、過酷なところから解放される事の楽しみ、達成感、という事を感じます。
ハーフマラソンをやっているとフルマラソンができるようになり、フルマラソンで数を重ねると100kmマラソンが出来るようになり、そうしているうちに250kmが出来るようになります。
実は500km迄ありますが500kmに挑戦して完走することができました。
現在、日本医師ジョガーズ連盟の名誉会長。
日本医師ジョガーズ連盟は1983年に設立、走る事を習慣としている医師、歯科医師の全国組織として立ち上げる。
1999年NPO法人として登録、社会貢献をする。
会員数は455人。
東京マラソンの方から話があり100名集めてほしい言われ、何とか対応をしました。
東京マラソンではいままでで7例のCPA(cardiopulmonary arrest - 心肺機能停止を示す。)が出ています。
ゴール近辺で倒れてしまう症例が多いです。
松村邦洋さんが倒れたのは第3回大会の時でした .
胸骨圧迫をしている間に自転車でAEDを持っている人に連絡して対応をします。
AEDが着くには7~10分で対応するが、15分を越えると難しい場合があります。
2007年から2019年(8年間)30例の心肺停止がありました。
3人の方は助かりませんでした。
男性が圧倒的に多くて、30例のうち女性は一人でした。
2015年第28回ランナーズ賞を貰いました。(ランニングに貢献)
日本医師ジョガーズ連盟はそれより前に団体で賞をいただきました。
身体の限界を越えて負荷を掛けてしまうと、筋などは引っ張られ過ぎると断裂をする、腱なども削れて来て痛くなると言う事があります。
問題になりそうになると痛みを発して、ここはこれ以上使ってはいけませんと警告するわけです。
警告に従ってレベルを下げたりして対応すると健康維持できるので、無理しないで楽しんでいただきたい。
準備運動をして身体を温めて筋肉を伸ばしておく。
走った後は使った筋肉の場所を冷やす、休養を十分に取る事も大事です。
靴は履いていないと感じる様な靴がいいです。
日本医師ジョガーズ連盟では34大会に関して支援活動をしています。
2019年2月11日月曜日
福井烈(日本テニス協会専務理事) ・【2020に託すもの】日本テニス100年の夢
福井烈(日本テニス協会専務理事) ・【2020に託すもの】日本テニス100年の夢
今年の日本のテニス界は大坂なおみ選手の全豪オープン優勝という大きなニュースで幕を開けました。
このニュースはとっても嬉しいです。
昨年全米で優勝して多くのトップ選手が大坂選手の分析をしてきたと思います。
それを打ち勝って優勝したことは本当に大きいと思います。
我々も子供達にテニスの出来る環境を整えてゆく事が我々の仕事だと思います。
彼女は自然から出てくる言葉なのでチャーミングだと思います。
昨年の全豪の前は彼女は72位でしたが、僅かな期間で1位となってしまいました。
まだまだ秘めた能力があると思います。
強くなると過密なスケジュールになるので、怪我のないようにやっていってほしいと思います。
日本テニス協会専務理事、選手強化本部の副本部長、東京オリンピックに向けては戦略特別専門部会長、JSCの副センター長、スポーツ庁の参与など担当。
東京オリンピックに向けて他の競技団体との情報交換などもやって強化への役立てを行っています。
選手選考などもありこれからも大変です。
暴力、パワハラの問題など色々ありましたが、時代が変わったので指導者もアスリートも変わっていかなければいけない。
しっかりとコミュニケーションを取っていかないといけないと思います。
1957年福岡県北九州市出身。
テニスは小学校5年生で始めて、中学2年生で中学日本一、高校は強豪の柳川商業高校(現・柳川高校)に進学、高校ではインターハイ3連覇を含む「169連勝」という記録を達成した。
アメリカにテニス留学をした後、中央大学に進学し、学生タイトルを総なめにした後、1977年に当時史上最年少の20歳で全日本テニス選手権を制覇した。その後1979年まで全日本3連覇を達成し、同年プロデビューした。
全日本選手権シングルス優勝7回の史上最多記録、1979年から1987年まで、9年連続全日本ランキングシングルス1位を維持、1992年から1996年までデビスカップ監督、1992年バルセロナ五輪日本代表監督、1996年アトランタ五輪のヘッドコーチ、2000年シドニー五輪の日本代表監督を務めた。
最初は壁を相手にして一生懸命3か月位やっているうちに、大人の仲間などに入れてもらって、偶然元全日本チャンピオンの女性の方(木全豊子さん)がその地区にテニスショップを開いていてその方に教えていただきました。
基本をしっかり教えていただいたのは良かったことだと思います。
ボールとの距離感がうまく保てるかどうか、そのためには速く動くこと、それが基本の基本でした。
現役を終わって指導者の勉強をしっかりしていない時に、全日本の監督になったので準備ができていませんでしたので、物凄く困りました。
できれば5年間ぐらい勉強したかったです。
オリンピックで日本選手団初めてのメダルは、実はテニスで1920年(大正9年)のアントワープ五輪で熊谷一弥選手が男子シングルス、ダブルスともに銀メダルを獲得し、2016年に錦織圭選手が96年ぶりに銅メダルを取ってくれました。
2020年は100年目になる訳で金メダルを取って欲しいと思っています。
私はアメリカに行ってどれだけ通用するのか試したいと思いました。
言葉では苦しみました。
アメリカでは上には上がいると思いました。
日本に戻ってから、日本で半分、海外で半分試合をしましたが、海外での挫折感がありました。
神和住純さん、坂井利彰さん達は私たちにとってはアイドルでした。
テニスブームが来てボルグ、マッケンロー等が来ました。
我々の時代は国内が主体になっていたので、もう少し海外での試合を中心にしていたならばと悔いが残る所はあります。
指導者のレベルアップなくしてチーム、個人のレベルアップは絶対ないと思っています。
指導者が学ぶことを辞めたら、教えることを辞めなければいけないと言う事を頭に置いて指導に当たらなければいけないと感じています。
指導者としてはマネージメント、コーチング、コミュニケーション、この3つは絶対に必要です。
大坂なおみ選手に向かって、同じ目線で寄り添って、コーチが膝をついて同じ目線で語りかけている、それが彼女に合っていたんです。
錦織圭選手とマイケル・チャンコーチとの間も似たようなことが言えると思います。
マネージメント、コーチング、コミュニケーションが繋がっているのがトップコーチだと思います。
「情熱を持って」、「人間力なくして競技力向上なし」、という事で人間力豊かなアスリート、人間力豊かな指導者になろう、という事が今の第一の目標です。
オリンピックを通してスポーツの力、オリンピックの素晴らしさを発信していかなくてはいけないので、華やかな栄光よりベストを尽くす姿に感動があり、勝負も言葉も国境を越えたものがある。
メダルの色は本当に些細な違いである、オリンピックには人や社会を育む力があるので、こういったことを発信していかなければいけない使命があると思います。
今年の日本のテニス界は大坂なおみ選手の全豪オープン優勝という大きなニュースで幕を開けました。
このニュースはとっても嬉しいです。
昨年全米で優勝して多くのトップ選手が大坂選手の分析をしてきたと思います。
それを打ち勝って優勝したことは本当に大きいと思います。
我々も子供達にテニスの出来る環境を整えてゆく事が我々の仕事だと思います。
彼女は自然から出てくる言葉なのでチャーミングだと思います。
昨年の全豪の前は彼女は72位でしたが、僅かな期間で1位となってしまいました。
まだまだ秘めた能力があると思います。
強くなると過密なスケジュールになるので、怪我のないようにやっていってほしいと思います。
日本テニス協会専務理事、選手強化本部の副本部長、東京オリンピックに向けては戦略特別専門部会長、JSCの副センター長、スポーツ庁の参与など担当。
東京オリンピックに向けて他の競技団体との情報交換などもやって強化への役立てを行っています。
選手選考などもありこれからも大変です。
暴力、パワハラの問題など色々ありましたが、時代が変わったので指導者もアスリートも変わっていかなければいけない。
しっかりとコミュニケーションを取っていかないといけないと思います。
1957年福岡県北九州市出身。
テニスは小学校5年生で始めて、中学2年生で中学日本一、高校は強豪の柳川商業高校(現・柳川高校)に進学、高校ではインターハイ3連覇を含む「169連勝」という記録を達成した。
アメリカにテニス留学をした後、中央大学に進学し、学生タイトルを総なめにした後、1977年に当時史上最年少の20歳で全日本テニス選手権を制覇した。その後1979年まで全日本3連覇を達成し、同年プロデビューした。
全日本選手権シングルス優勝7回の史上最多記録、1979年から1987年まで、9年連続全日本ランキングシングルス1位を維持、1992年から1996年までデビスカップ監督、1992年バルセロナ五輪日本代表監督、1996年アトランタ五輪のヘッドコーチ、2000年シドニー五輪の日本代表監督を務めた。
最初は壁を相手にして一生懸命3か月位やっているうちに、大人の仲間などに入れてもらって、偶然元全日本チャンピオンの女性の方(木全豊子さん)がその地区にテニスショップを開いていてその方に教えていただきました。
基本をしっかり教えていただいたのは良かったことだと思います。
ボールとの距離感がうまく保てるかどうか、そのためには速く動くこと、それが基本の基本でした。
現役を終わって指導者の勉強をしっかりしていない時に、全日本の監督になったので準備ができていませんでしたので、物凄く困りました。
できれば5年間ぐらい勉強したかったです。
オリンピックで日本選手団初めてのメダルは、実はテニスで1920年(大正9年)のアントワープ五輪で熊谷一弥選手が男子シングルス、ダブルスともに銀メダルを獲得し、2016年に錦織圭選手が96年ぶりに銅メダルを取ってくれました。
2020年は100年目になる訳で金メダルを取って欲しいと思っています。
私はアメリカに行ってどれだけ通用するのか試したいと思いました。
言葉では苦しみました。
アメリカでは上には上がいると思いました。
日本に戻ってから、日本で半分、海外で半分試合をしましたが、海外での挫折感がありました。
神和住純さん、坂井利彰さん達は私たちにとってはアイドルでした。
テニスブームが来てボルグ、マッケンロー等が来ました。
我々の時代は国内が主体になっていたので、もう少し海外での試合を中心にしていたならばと悔いが残る所はあります。
指導者のレベルアップなくしてチーム、個人のレベルアップは絶対ないと思っています。
指導者が学ぶことを辞めたら、教えることを辞めなければいけないと言う事を頭に置いて指導に当たらなければいけないと感じています。
指導者としてはマネージメント、コーチング、コミュニケーション、この3つは絶対に必要です。
大坂なおみ選手に向かって、同じ目線で寄り添って、コーチが膝をついて同じ目線で語りかけている、それが彼女に合っていたんです。
錦織圭選手とマイケル・チャンコーチとの間も似たようなことが言えると思います。
マネージメント、コーチング、コミュニケーションが繋がっているのがトップコーチだと思います。
「情熱を持って」、「人間力なくして競技力向上なし」、という事で人間力豊かなアスリート、人間力豊かな指導者になろう、という事が今の第一の目標です。
オリンピックを通してスポーツの力、オリンピックの素晴らしさを発信していかなくてはいけないので、華やかな栄光よりベストを尽くす姿に感動があり、勝負も言葉も国境を越えたものがある。
メダルの色は本当に些細な違いである、オリンピックには人や社会を育む力があるので、こういったことを発信していかなければいけない使命があると思います。
2019年2月10日日曜日
宗茂(元マラソンランナー) ・【スポーツ名場面の裏側で】五輪マラソンランナーの証言
宗茂(元マラソンランナー)・【スポーツ名場面の裏側で】五輪マラソンランナーの証言
大分県出身66歳、双子の弟猛さんと宮崎県の実業団チーム旭化成で活躍し、日本で始めてマラソンで2時間10分の壁を破りました。
オリンピックではモントリオール20位、モスクワでは日本は不参加、ロサンゼルス17位と3大会連続で代表となり、1970~80年代にかけて日本を代表するマラソンランナーでした。
引退から30年、今は左膝が悪くて走ってはいませんが、90分9~10km歩いています。
体重は13,4kg増えています。
18歳~35歳までの17年間の現役時代、26回マラソンを走りました。
6回優勝。
1978年別府大分毎日マラソン、25歳 マラソン9回目。(初出場)
2カ月前福岡国際マラソンでは53人がゴールしたが52位だった。
別府大分毎日マラソンでは2時間9分5秒6で優勝する、世界歴代2位。
福岡国際マラソンの時には、足を怪我したが治ってきたので参加を決定、練習不足だったのでスタートから体が重かった。
途中から完璧にレースを投げて、折り返してしばらくして止めようと思ったが、沿道から罵声が飛びなんとかゴールしたら52位だった。
その後がむしゃらに練習しました。
そして別府毎日マラソンに参加しました。
行きは追い風で体も軽く14分50秒台で走れました。
30kmでも世界最高記録を40秒上回っていた。
調子の良い時には給水を取るなと言われていた。
ゴール迄一回も給水を取らなかったので、もし取っていれば世界記録更新もあったのではないかと後で思いました。
25km過ぎたころは2時間6分台が出るのではないかと思いました。
ロスオリンピックの最終選考の福岡の時には自分の最高の状態を作りました。
1983年12月5日福岡国際マラソン。(ベストタームを出してから5年目)
瀬古利彦選手、サラザール、イカンガー等などが参加。
35kmではサラザール、イカンガーがならび1秒差で瀬古、宗兄弟等7人が集団となる。
40km、瀬古、イカンガーがならんでトップ、1秒差で宗猛、サラザール、2秒差で伊藤国光、5秒差で宗茂と遅れてしまう。
自分が思ったよりもスローペースで展開して、35km位から離されてしまった。
40kmイカンガーがスパートしたのをみて、自分も頑張ろうと思って、追い掛けて行って、弟も抜いて最終的には3位になり、弟が4位となる。
自分が思っていたように最初から行くべきだと思ったが、オリンピックの最終選考でもあり、慎重になってしまったが、そのことが悔やまれた。
瀬古選手が優勝して、宗兄弟がロサンゼルスオリンピックの3人に内定した。
1985年10月北京国際マラソン。
241人が出場、折り返し点過ぎてヒュー・ジョーンズ(英国)、宗兄弟の競い合い。
40kmで宗茂選手がスパート、ジョーンズが遅れて2人なり、トラックレースとなる。
残り50mで猛選手がスパート、茂選手も追いかけ二人並んでゴールとなる。
2時間10分23秒 同タイムであったが胸の差ひとつという事で宗茂が優勝となる。
ゴールした時には私は追いあげて両手を上げたが、テープを切ったのは弟の方が早かったと思う。
小学校低学年のころは引っ込み思案の子でした。
小学校4年生の時に長距離が早いのが判ってきて、それから色んな方向に積極的になりました。
中学1年の時には短距離の先生に習っていたが、その後は先生の指導はなかった。
高校の時には監督の家に3年間下宿しましたが、最高の環境で練習させてもらいました。
全国高校駅伝に初出場して8位になりました。
私が1区、弟が3区を走って3区までは2位でした。
高校総体、兄弟とも1500mは予選落ち、5000mは13位、16位。
1971年旭化成に入社して陸上部に入る。
23歳でオリンピックランナーに成長する。
入社2年目に初マラソンで1,2位を兄弟で取ることができた。
その時金栗 四三さんからこれから日本を引っ張って行く選手にならなければ駄目だぞと言われました。
ロサンゼルスが終わってから、ニュージーランドの合宿ではアップダウンの道125km走りました。(9時間位)
給水せずに走って3km手前でこのまま死ぬんではないかと思うほどへたばり、リタイアした事があり、つくづく給水の重要さを知りました。
周りの選手がどんな練習をしているのか、情報が入らない中でやっていたので、相手の選手に負けないような練習をしようという事でやっていました。
大分県出身66歳、双子の弟猛さんと宮崎県の実業団チーム旭化成で活躍し、日本で始めてマラソンで2時間10分の壁を破りました。
オリンピックではモントリオール20位、モスクワでは日本は不参加、ロサンゼルス17位と3大会連続で代表となり、1970~80年代にかけて日本を代表するマラソンランナーでした。
引退から30年、今は左膝が悪くて走ってはいませんが、90分9~10km歩いています。
体重は13,4kg増えています。
18歳~35歳までの17年間の現役時代、26回マラソンを走りました。
6回優勝。
1978年別府大分毎日マラソン、25歳 マラソン9回目。(初出場)
2カ月前福岡国際マラソンでは53人がゴールしたが52位だった。
別府大分毎日マラソンでは2時間9分5秒6で優勝する、世界歴代2位。
福岡国際マラソンの時には、足を怪我したが治ってきたので参加を決定、練習不足だったのでスタートから体が重かった。
途中から完璧にレースを投げて、折り返してしばらくして止めようと思ったが、沿道から罵声が飛びなんとかゴールしたら52位だった。
その後がむしゃらに練習しました。
そして別府毎日マラソンに参加しました。
行きは追い風で体も軽く14分50秒台で走れました。
30kmでも世界最高記録を40秒上回っていた。
調子の良い時には給水を取るなと言われていた。
ゴール迄一回も給水を取らなかったので、もし取っていれば世界記録更新もあったのではないかと後で思いました。
25km過ぎたころは2時間6分台が出るのではないかと思いました。
ロスオリンピックの最終選考の福岡の時には自分の最高の状態を作りました。
1983年12月5日福岡国際マラソン。(ベストタームを出してから5年目)
瀬古利彦選手、サラザール、イカンガー等などが参加。
35kmではサラザール、イカンガーがならび1秒差で瀬古、宗兄弟等7人が集団となる。
40km、瀬古、イカンガーがならんでトップ、1秒差で宗猛、サラザール、2秒差で伊藤国光、5秒差で宗茂と遅れてしまう。
自分が思ったよりもスローペースで展開して、35km位から離されてしまった。
40kmイカンガーがスパートしたのをみて、自分も頑張ろうと思って、追い掛けて行って、弟も抜いて最終的には3位になり、弟が4位となる。
自分が思っていたように最初から行くべきだと思ったが、オリンピックの最終選考でもあり、慎重になってしまったが、そのことが悔やまれた。
瀬古選手が優勝して、宗兄弟がロサンゼルスオリンピックの3人に内定した。
1985年10月北京国際マラソン。
241人が出場、折り返し点過ぎてヒュー・ジョーンズ(英国)、宗兄弟の競い合い。
40kmで宗茂選手がスパート、ジョーンズが遅れて2人なり、トラックレースとなる。
残り50mで猛選手がスパート、茂選手も追いかけ二人並んでゴールとなる。
2時間10分23秒 同タイムであったが胸の差ひとつという事で宗茂が優勝となる。
ゴールした時には私は追いあげて両手を上げたが、テープを切ったのは弟の方が早かったと思う。
小学校低学年のころは引っ込み思案の子でした。
小学校4年生の時に長距離が早いのが判ってきて、それから色んな方向に積極的になりました。
中学1年の時には短距離の先生に習っていたが、その後は先生の指導はなかった。
高校の時には監督の家に3年間下宿しましたが、最高の環境で練習させてもらいました。
全国高校駅伝に初出場して8位になりました。
私が1区、弟が3区を走って3区までは2位でした。
高校総体、兄弟とも1500mは予選落ち、5000mは13位、16位。
1971年旭化成に入社して陸上部に入る。
23歳でオリンピックランナーに成長する。
入社2年目に初マラソンで1,2位を兄弟で取ることができた。
その時金栗 四三さんからこれから日本を引っ張って行く選手にならなければ駄目だぞと言われました。
ロサンゼルスが終わってから、ニュージーランドの合宿ではアップダウンの道125km走りました。(9時間位)
給水せずに走って3km手前でこのまま死ぬんではないかと思うほどへたばり、リタイアした事があり、つくづく給水の重要さを知りました。
周りの選手がどんな練習をしているのか、情報が入らない中でやっていたので、相手の選手に負けないような練習をしようという事でやっていました。
2019年2月9日土曜日
蓬萊泰三(合唱組曲『チコタン』の作詞家) ・89歳、反骨の"ドラマ屋"人生(2018.7.14OA) 投稿数2500回
蓬萊泰三(合唱組曲『チコタン』の作詞家) ・89歳、反骨の"ドラマ屋"人生(2018.7.14OA)
お陰さまで累積投稿数が2500回を数えることになりました。
校正をしていただいているKさんには感謝しています。
全期間のページビュー履歴は 今日現在で1,304,201となりました。
海外ではアメリカが常時日本の1割程度見てもらっていますし、他の国々からのアクセスも
ありますが、今後何処までやれるのやら、とりあえず頑張っていきたいと思っています。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/07/blog-post_14.htmlをご覧ください。
お陰さまで累積投稿数が2500回を数えることになりました。
校正をしていただいているKさんには感謝しています。
全期間のページビュー履歴は 今日現在で1,304,201となりました。
海外ではアメリカが常時日本の1割程度見てもらっていますし、他の国々からのアクセスも
ありますが、今後何処までやれるのやら、とりあえず頑張っていきたいと思っています。
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2019年2月8日金曜日
平松恵美子(映画監督) ・女性だから描けること
平松恵美子(映画監督) ・女性だから描けること
大学卒業後上京OL生活を送っていましたが、映画館でチラシを見たことをきっかけに会社を辞め松竹大船撮影所内にできた鎌倉映画塾に入塾、山田監督の映画「学校」の現場に参加して以来、ほぼ全作品に携わりやがて助監督、共同脚本として欠かせない存在になりました。
そして2013年公開の「ひまわりと小犬の7日間」で、松竹では田中絹代さん以来、半世紀ぶりの女性監督としてメガホンをとりました。
監督2作目となる「あの日のオルガン」は太平洋戦争末期、子供達の命を守るために、日本で初めて保育園を疎開させた保母さん達の実話を元にしたドラマです。
映画の現場で女性の新たな道を切り開いてきた平松さんは、登場人物たちの前例のないことに挑戦する姿勢に深く共感、山田組常連の俳優さんたちに助けられながら、優しくて暖かいドラマを作り上げました。
映画の公開を前にお話を伺いました。
「あの日のオルガン」2作目を公開する前です。
1982年に出された本がありまして、当時の疎開保育園を行った保母さん達の聞き書きのようなルポルタージュでした。
6年前に私の処に映画をどうですか、という事がありそれが大元のきっかけでした。
20歳そこそこの保母さんたちでしたが、空襲がいよいよ東京に来るんじゃないかということになり、小学校の疎開が始まり、保育所にいる命はどうなるのかと疑問を抱くわけです。
では疎開させようとして、説得して実際に疎開させた。
勇気ある行動であると思いました。
子供達の命を守ることに対して行動を起こしたことは凄いことだと思いました。
戸田恵梨香さんと大原櫻子さんがダブル主演ということになりました。
沢山の子供達が出てくるので、私は見きれないので二人だけではなく他の保母さん役を含めて子供たちの指導をお願いした。
撮影の前後も含めて彼女たちは向き合ってくれて、自然な表現をする子供達として接してくれました。
戸越保育所の所長・脇本滋役には田中直樹さんで役にはまって良かったなと思います。
山田組の橋爪功さんや松金よね子さん、夏川結衣さん、林家正蔵さんらにも脇を固めてもらいました。
橋爪さんにはとくに助けられました。
撮影期間はひと月でした。
手作り感満載でした。
山田監督と一緒に仕事をして得たことの一つに、脚本家が書いている時の眼線と監督の眼線で脚本を読むと言うのは違って、脚本家である私に対して監督の私が挑戦状を叩きつけるようなそんな部分があって、新たに捉え直してスタッフの意見などを聞きながら捉え直してゆくという事がありました。
(脚本と監督をやる。)
平和の大事さ、子供の命の大切さ、は何処の国でもどんな時代でも変わらないことだと思うので、今を生きる人達にきちんと伝えて行くことが、私たちの仕事の大事な部分じゃないかと思います。
若い子たちが自分の頭で考えて色んな人を巻き込んで行動する、その可能性を秘めているんだという事を声を大にして伝えたいと思います。
子供時代は野生児でした。
自然の中で蛙、バッタを追いかけていたりしました。
兄が映画好きで、雑誌を買っていて脚本の抜粋が良く載っていて、それを読んで聞かせてくれたりしました。(小学校2年生の頃)
兄に連れて行ってもらって映画をよく観に行きました。
中学生になってから一人でこっそり映画を見に行くようになりました。
私が14歳の時に兄が19歳の時に亡くなってしまいました。
救ってくれたのが映画だったと思いますので、今は映画へ御恩返しをしているつもりで映画と接しています。
高校大学時代、幅広く何でも観ていました。
映画館の会報誌があり、一生懸命感想を書いて応募して掲載されると招待券がもらえて、一回おきには載せてもらいふた月に一回招待券で映画を見ました。
感想文を書いていた事が役立ってきたと思います。
岡山大学の理系でした。
映画で食べていけるとは思っていなかった。
獣医になりたかったが、獣医学科がなかったので、理学部の生物学科に入りました。
その頃映画三昧でした。
映画を通して色んな繋がりがあると言う事学んだ時期でした。
年に300本は見ていました。
親と2年間という約束で東京に行き会社に行きました。
新宿ピカデリーに行った時に、大船撮影所で映画塾一期生募集の広告を見ました。
受けたら受かることができました。
親からは反対されたが、父からは「同じ様な生き方をした方が楽なんだぞ、違ったことをお前はしようとしている、それは苦労をするので知っとけよ」というような言われ方はしました。
「釣りバカ」、「男はつらいよ」の現場に1週間とか見学に行かせてもらってお手伝いなどもしました。
感動して1本見ることができたらなんと幸せなんだろうと思いました。
山田監督の「学校」の見学に行かせてもらう交渉をしたら、助監督の一番下っ端として参加させてもらいました。
それが大きなきっかけとなりました。
「男はつらいよ」の和やかな雰囲気とは違って、「学校」の現場は凄くピリピリしていました。
よく怒られていましたが、最期のローリングタイトルの私の名前が入っているのをみた時には、全部吹っ飛びました。
松竹に入る事とになりました。
その後「男はつらいよ」のお手伝いをすることになりました。
大船撮影所では現場と編集部を取り持つ係をやりなさいと言われて、全然教えては貰えず大変でした。
スクリプター(映画撮影の記録係。各場面のこまかい内容を控えておくのが役目)をやらされました。
山田監督は現場でよく台詞を直すので、スクリプターを良く呼びました。
台詞の直しから段々脚本直しの仕事をするように広がって行きました。
共同執筆となったのは「学校」の4作目でした。
『武士の一分』、『母べえ』、『おとうと』、『東京家族』、『小さいおうち』は共同執筆となりました。
山田監督とディスカッションをしながら纏めあげて行きます。
2013年に「ひまわりと小犬の7日間」で監督デビューする。
監督2作目となる「あの日のオルガン」は多少余裕ができました。
大学卒業後上京OL生活を送っていましたが、映画館でチラシを見たことをきっかけに会社を辞め松竹大船撮影所内にできた鎌倉映画塾に入塾、山田監督の映画「学校」の現場に参加して以来、ほぼ全作品に携わりやがて助監督、共同脚本として欠かせない存在になりました。
そして2013年公開の「ひまわりと小犬の7日間」で、松竹では田中絹代さん以来、半世紀ぶりの女性監督としてメガホンをとりました。
監督2作目となる「あの日のオルガン」は太平洋戦争末期、子供達の命を守るために、日本で初めて保育園を疎開させた保母さん達の実話を元にしたドラマです。
映画の現場で女性の新たな道を切り開いてきた平松さんは、登場人物たちの前例のないことに挑戦する姿勢に深く共感、山田組常連の俳優さんたちに助けられながら、優しくて暖かいドラマを作り上げました。
映画の公開を前にお話を伺いました。
「あの日のオルガン」2作目を公開する前です。
1982年に出された本がありまして、当時の疎開保育園を行った保母さん達の聞き書きのようなルポルタージュでした。
6年前に私の処に映画をどうですか、という事がありそれが大元のきっかけでした。
20歳そこそこの保母さんたちでしたが、空襲がいよいよ東京に来るんじゃないかということになり、小学校の疎開が始まり、保育所にいる命はどうなるのかと疑問を抱くわけです。
では疎開させようとして、説得して実際に疎開させた。
勇気ある行動であると思いました。
子供達の命を守ることに対して行動を起こしたことは凄いことだと思いました。
戸田恵梨香さんと大原櫻子さんがダブル主演ということになりました。
沢山の子供達が出てくるので、私は見きれないので二人だけではなく他の保母さん役を含めて子供たちの指導をお願いした。
撮影の前後も含めて彼女たちは向き合ってくれて、自然な表現をする子供達として接してくれました。
戸越保育所の所長・脇本滋役には田中直樹さんで役にはまって良かったなと思います。
山田組の橋爪功さんや松金よね子さん、夏川結衣さん、林家正蔵さんらにも脇を固めてもらいました。
橋爪さんにはとくに助けられました。
撮影期間はひと月でした。
手作り感満載でした。
山田監督と一緒に仕事をして得たことの一つに、脚本家が書いている時の眼線と監督の眼線で脚本を読むと言うのは違って、脚本家である私に対して監督の私が挑戦状を叩きつけるようなそんな部分があって、新たに捉え直してスタッフの意見などを聞きながら捉え直してゆくという事がありました。
(脚本と監督をやる。)
平和の大事さ、子供の命の大切さ、は何処の国でもどんな時代でも変わらないことだと思うので、今を生きる人達にきちんと伝えて行くことが、私たちの仕事の大事な部分じゃないかと思います。
若い子たちが自分の頭で考えて色んな人を巻き込んで行動する、その可能性を秘めているんだという事を声を大にして伝えたいと思います。
子供時代は野生児でした。
自然の中で蛙、バッタを追いかけていたりしました。
兄が映画好きで、雑誌を買っていて脚本の抜粋が良く載っていて、それを読んで聞かせてくれたりしました。(小学校2年生の頃)
兄に連れて行ってもらって映画をよく観に行きました。
中学生になってから一人でこっそり映画を見に行くようになりました。
私が14歳の時に兄が19歳の時に亡くなってしまいました。
救ってくれたのが映画だったと思いますので、今は映画へ御恩返しをしているつもりで映画と接しています。
高校大学時代、幅広く何でも観ていました。
映画館の会報誌があり、一生懸命感想を書いて応募して掲載されると招待券がもらえて、一回おきには載せてもらいふた月に一回招待券で映画を見ました。
感想文を書いていた事が役立ってきたと思います。
岡山大学の理系でした。
映画で食べていけるとは思っていなかった。
獣医になりたかったが、獣医学科がなかったので、理学部の生物学科に入りました。
その頃映画三昧でした。
映画を通して色んな繋がりがあると言う事学んだ時期でした。
年に300本は見ていました。
親と2年間という約束で東京に行き会社に行きました。
新宿ピカデリーに行った時に、大船撮影所で映画塾一期生募集の広告を見ました。
受けたら受かることができました。
親からは反対されたが、父からは「同じ様な生き方をした方が楽なんだぞ、違ったことをお前はしようとしている、それは苦労をするので知っとけよ」というような言われ方はしました。
「釣りバカ」、「男はつらいよ」の現場に1週間とか見学に行かせてもらってお手伝いなどもしました。
感動して1本見ることができたらなんと幸せなんだろうと思いました。
山田監督の「学校」の見学に行かせてもらう交渉をしたら、助監督の一番下っ端として参加させてもらいました。
それが大きなきっかけとなりました。
「男はつらいよ」の和やかな雰囲気とは違って、「学校」の現場は凄くピリピリしていました。
よく怒られていましたが、最期のローリングタイトルの私の名前が入っているのをみた時には、全部吹っ飛びました。
松竹に入る事とになりました。
その後「男はつらいよ」のお手伝いをすることになりました。
大船撮影所では現場と編集部を取り持つ係をやりなさいと言われて、全然教えては貰えず大変でした。
スクリプター(映画撮影の記録係。各場面のこまかい内容を控えておくのが役目)をやらされました。
山田監督は現場でよく台詞を直すので、スクリプターを良く呼びました。
台詞の直しから段々脚本直しの仕事をするように広がって行きました。
共同執筆となったのは「学校」の4作目でした。
『武士の一分』、『母べえ』、『おとうと』、『東京家族』、『小さいおうち』は共同執筆となりました。
山田監督とディスカッションをしながら纏めあげて行きます。
2013年に「ひまわりと小犬の7日間」で監督デビューする。
監督2作目となる「あの日のオルガン」は多少余裕ができました。
2019年2月7日木曜日
金満里(劇団 態変) ・身体障害者のパフォーマーを率いて36年
金満里(劇団 態変) ・身体障害者のパフォーマーを率いて36年
1953年大阪生まれ、在日2世で65歳。
3歳で小児まひの為に重度の障害を持ちました。
その後家族の支えもあって通信制高校を卒業しました。
障害者が主体のコンサートや寸劇を企画実施した後、1983年に劇団「態変」を主宰する自らが書いた、「色は臭えど」を京都や東京で公演し大きな反響を得ました。
舞台に登場するのはすべて障害者で、あえてレオタード姿で立ちパフォーマンスをします。
評判は海外まで伝わりアフリカやヨーロッパでも公演しました。
今年2月8日から11日までの4日間東京の下北沢の「ザ・スズナリ」で「ウリ・オモニ」(私のお母さん)という朝鮮古典芸能の演者だったキムさんの母を描いた作品のソロ公演にも挑みます。
独自の演出に込めた思いや、今回の「ウリ・オモニ」の公演などについて伺います。
始めた時から私のアイディアでレオタード姿にしました。
障害を隠さずに自分で認めて自由に表現したいと思いました。
普段私たちは車いすで外に出ても、あからさまに見てはいけないという視線があります。
そんなことしなくていいのにと思います。
見せて行っている半面、それを見ているあなた方の視線をこちら側は見ているんだよと、そういう意思表示でもあるんです。
異質なものではなくて、自分の中にもある、幼い記憶だとか生れたての赤ちゃんの感覚で忘れていたものが掘り起こされたらいいなあと思っています。
母は朝鮮古典芸能の演者でしたが、私が生れた時には現役を引退していたので舞台を見たことはないです。
戦争中の日本の全土をくまなく巡業して、朝鮮古典芸能だけをやる唯一の劇団でした。
そこの看板女優で、舞、楽器(琴、たいこなど)、歌(古典民謡)などなんでもやっていました。
3歳のころに小児まひになりました。(重度)
家ではほとんど寝たきりぐらしです。
私は10人兄弟の一番末っ子でした。
踊りが好きで親からは期待されていたようでした。
7愛から17歳まで障害児の施設に入っていました。
病院形式で週に一回の面会と月一泊二日の外泊が許可がされているだけです。
施設は中学校までで、施設を出て高校に行きたいと言ったら周りが驚きました。
自分で寄宿舎生活ができることが条件で、無理だと言うことになりました。
兄が新聞で見つけて通信制高校を行くことにしました。
或る後輩からの或る運動の会合があるから来て見ないかと誘いがあったが、健常者の善意で外に出るとか、善意の暇つぶし的に介護に来るというようなボランティアには拒否感がありましたが、健常者の友人が連れて行ってくれるという事でした。
青い芝の会、日本脳性まひの人が中心になっている運動体でした。
或るとき分裂して崩壊しまして、失意のどん底でした。
通行者に自分で書いたビラを手渡したりしているうちに、一般の人の反応を研ぎ澄まして聞くようになりました。
一般の人に声を掛けて階段を上げてもらったりおろしてもらったりしました。
今年は障害者年ですねと言ってくれた人がいました。
官制でお祭りという事で働けるとかスポーツできるとか、障害者でも今だけできると言うことを売り物にしていたコマーシャルをやりだしていました。
これはやばいと思いました。
寝た切りの障害者の処から世界観が見えないといけないだろうと、最もできないと言うところに起点をおいた価値観、そのものが大事だと言う脳性まひの言語障害の言葉から出て来るペースを読みとれという事が一番だったので、「国際障害者年をぶっ飛ばせ81」というイベントをやろうと持ちかけました。
ロックバンドコンサートで5グループ、寸劇は大学の教室を借りて障害者の人の台本で健常者と一緒にやるという形でした。
私はコンサートに参加しましたが、沢山の人が集まりました。
寸劇で障害児殺しを問題にした脚本を友達が書きました。
私がやるんだったら台詞を使わず、身体障害の身体だけを前面に出す、何かを感じ取るものをやりたいという動機になって行きました。
「色は臭えど」を上演しました。
健常者側からは障害者側が持っている世界観が判らないんだ、見いだせないんだと言う事が判ったので、それを私ら側の世界観をそのままぶつければ、驚くのではないかと思って作った芝居でした。
障害児が世の中に一杯生まれ出て来る、その事が健常者にとって豊かでもどれだけ恐ろしいか、恐ろしいけれどもそのことを受け留めて行くプロセス、ぎくしゃくが物凄く面白くてそこにもっていきたいと思いました。
馬鹿受けしました、そこまでやるかという感じでした。
一回こっきりで辞めようと思いましたが、翌年にフェスティバルをやるので東京公演しないかという声がかかりました。
2月8日から11日までの4日間東京の下北沢の「ザ・スズナリ」で「ウリ・オモニ」(私のお母さん)を公演します。
母親と娘の関係、障害児になったという事で人生が変わってくる。
母親の期待にそえないという事で、母が嘆き悲しむ自分の人生話を来客にはするが、溺愛は変わらない。(?)
障害になったことによって、ようやく本当の意味で違うものを作らなければいけない、と言う事を気がつきだしたというのが、ずーっと追ってきた人生なんです。
母になったり、娘になったり、そういう眼差しで人生を見つめるような内容です。
大野一雄さんの監修を受けてやりました。
親子の縁は切っても切れない、だからこそ切るんだと言う事を私は思いますけれど、親殺しは物凄い私の持論なんです。
いつまでも親を大事にという事を美徳にしていては、自立というのは本当に見えないと思っていて、私の方は地で行ったと思います。
私は母の死に目には会えないと思っていました。
公演中に母から電話があって、「満理ちゃんあいたいねえ」と言われましたが、「公演が終わるまでがんばってや」と言ったら翌日母は亡くなりました。
死んだ母親のことを作品にしないかと、夫から言われて作りました。
母はどういう気持ちで日本に来たんだろう、どういう気持ちでやってたんだろうと、言う事をやっていると深い思いがあったんやろうなあと思います。
1953年大阪生まれ、在日2世で65歳。
3歳で小児まひの為に重度の障害を持ちました。
その後家族の支えもあって通信制高校を卒業しました。
障害者が主体のコンサートや寸劇を企画実施した後、1983年に劇団「態変」を主宰する自らが書いた、「色は臭えど」を京都や東京で公演し大きな反響を得ました。
舞台に登場するのはすべて障害者で、あえてレオタード姿で立ちパフォーマンスをします。
評判は海外まで伝わりアフリカやヨーロッパでも公演しました。
今年2月8日から11日までの4日間東京の下北沢の「ザ・スズナリ」で「ウリ・オモニ」(私のお母さん)という朝鮮古典芸能の演者だったキムさんの母を描いた作品のソロ公演にも挑みます。
独自の演出に込めた思いや、今回の「ウリ・オモニ」の公演などについて伺います。
始めた時から私のアイディアでレオタード姿にしました。
障害を隠さずに自分で認めて自由に表現したいと思いました。
普段私たちは車いすで外に出ても、あからさまに見てはいけないという視線があります。
そんなことしなくていいのにと思います。
見せて行っている半面、それを見ているあなた方の視線をこちら側は見ているんだよと、そういう意思表示でもあるんです。
異質なものではなくて、自分の中にもある、幼い記憶だとか生れたての赤ちゃんの感覚で忘れていたものが掘り起こされたらいいなあと思っています。
母は朝鮮古典芸能の演者でしたが、私が生れた時には現役を引退していたので舞台を見たことはないです。
戦争中の日本の全土をくまなく巡業して、朝鮮古典芸能だけをやる唯一の劇団でした。
そこの看板女優で、舞、楽器(琴、たいこなど)、歌(古典民謡)などなんでもやっていました。
3歳のころに小児まひになりました。(重度)
家ではほとんど寝たきりぐらしです。
私は10人兄弟の一番末っ子でした。
踊りが好きで親からは期待されていたようでした。
7愛から17歳まで障害児の施設に入っていました。
病院形式で週に一回の面会と月一泊二日の外泊が許可がされているだけです。
施設は中学校までで、施設を出て高校に行きたいと言ったら周りが驚きました。
自分で寄宿舎生活ができることが条件で、無理だと言うことになりました。
兄が新聞で見つけて通信制高校を行くことにしました。
或る後輩からの或る運動の会合があるから来て見ないかと誘いがあったが、健常者の善意で外に出るとか、善意の暇つぶし的に介護に来るというようなボランティアには拒否感がありましたが、健常者の友人が連れて行ってくれるという事でした。
青い芝の会、日本脳性まひの人が中心になっている運動体でした。
或るとき分裂して崩壊しまして、失意のどん底でした。
通行者に自分で書いたビラを手渡したりしているうちに、一般の人の反応を研ぎ澄まして聞くようになりました。
一般の人に声を掛けて階段を上げてもらったりおろしてもらったりしました。
今年は障害者年ですねと言ってくれた人がいました。
官制でお祭りという事で働けるとかスポーツできるとか、障害者でも今だけできると言うことを売り物にしていたコマーシャルをやりだしていました。
これはやばいと思いました。
寝た切りの障害者の処から世界観が見えないといけないだろうと、最もできないと言うところに起点をおいた価値観、そのものが大事だと言う脳性まひの言語障害の言葉から出て来るペースを読みとれという事が一番だったので、「国際障害者年をぶっ飛ばせ81」というイベントをやろうと持ちかけました。
ロックバンドコンサートで5グループ、寸劇は大学の教室を借りて障害者の人の台本で健常者と一緒にやるという形でした。
私はコンサートに参加しましたが、沢山の人が集まりました。
寸劇で障害児殺しを問題にした脚本を友達が書きました。
私がやるんだったら台詞を使わず、身体障害の身体だけを前面に出す、何かを感じ取るものをやりたいという動機になって行きました。
「色は臭えど」を上演しました。
健常者側からは障害者側が持っている世界観が判らないんだ、見いだせないんだと言う事が判ったので、それを私ら側の世界観をそのままぶつければ、驚くのではないかと思って作った芝居でした。
障害児が世の中に一杯生まれ出て来る、その事が健常者にとって豊かでもどれだけ恐ろしいか、恐ろしいけれどもそのことを受け留めて行くプロセス、ぎくしゃくが物凄く面白くてそこにもっていきたいと思いました。
馬鹿受けしました、そこまでやるかという感じでした。
一回こっきりで辞めようと思いましたが、翌年にフェスティバルをやるので東京公演しないかという声がかかりました。
2月8日から11日までの4日間東京の下北沢の「ザ・スズナリ」で「ウリ・オモニ」(私のお母さん)を公演します。
母親と娘の関係、障害児になったという事で人生が変わってくる。
母親の期待にそえないという事で、母が嘆き悲しむ自分の人生話を来客にはするが、溺愛は変わらない。(?)
障害になったことによって、ようやく本当の意味で違うものを作らなければいけない、と言う事を気がつきだしたというのが、ずーっと追ってきた人生なんです。
母になったり、娘になったり、そういう眼差しで人生を見つめるような内容です。
大野一雄さんの監修を受けてやりました。
親子の縁は切っても切れない、だからこそ切るんだと言う事を私は思いますけれど、親殺しは物凄い私の持論なんです。
いつまでも親を大事にという事を美徳にしていては、自立というのは本当に見えないと思っていて、私の方は地で行ったと思います。
私は母の死に目には会えないと思っていました。
公演中に母から電話があって、「満理ちゃんあいたいねえ」と言われましたが、「公演が終わるまでがんばってや」と言ったら翌日母は亡くなりました。
死んだ母親のことを作品にしないかと、夫から言われて作りました。
母はどういう気持ちで日本に来たんだろう、どういう気持ちでやってたんだろうと、言う事をやっていると深い思いがあったんやろうなあと思います。
2019年2月6日水曜日
小宮輝之(上野動物園元園長) ・動物を育て 育てられ
小宮輝之(上野動物園元園長) ・動物を育て 育てられ
71歳、動物が好きだった小宮さんは、幼いころから上野動物園に通い詰め、大学卒業後は東京都の職員になりました。
希望通り多摩動物公園の飼育係としてスタートした小宮さんは、上野動物園の飼育課長などを経て、2004年飼育係の出身者としては初めて上野動物園の園長に就任、自らのアイディアで世界で初めて冬眠するクマの展示に成功しました。
園長をやめた後は動物に関する本を書いているほか、講演も続けています。
動物好きな少年が60年以上に渡ってたどった歩みを伺いました。
足拓、動物の足の裏に墨を塗ってどんな足の裏をしているかとる方法で、足拓墨師という肩書を名刺に入れてます。
足拓は1000種類以上あります。
種ごとの特徴もあり、役に立つこともあります。
講演も結構やっています。
1949年(昭和24年)上野動物園にインドのネール首相から象のインディラが送られた年で、その時2歳でしたが上野動物園に行きましたが記憶はないです。
小学校に入ってから5年生の時に飼育委員会に入って鳩の担当になり、持ち帰って家から飛ばしたり、6年生の時には遠足先の川崎の自動車工場に鳩を持って行って飛ばしたりしました。
鳩が戻ってくるのは、地球の磁場説、目で見て景色で判るとか色んな説がありますが、今でもはっきりとはわかっていないです。
中学に入ると自転車で上野迄いけるし、動物愛好会に入って月一回講演会がありそれを聞きに行くのが楽しみでした。
南極観測隊、アフリカへ行った人の講演などが面白かったです。
大学は農学部に進み畜産職に関する勉強をしました。
野鳥研究会のサークルがあり、全国を旅して鳥を見て歩きました。
動物園に行きたい一心で畜産職の試験を受けて入りました。
東京都の公務員という事で、僕は多摩動物公園に配属になりました。
最初は実習を色々やりました。
日本の動物、家畜を担当して、上司から好きなように飼っていいよと言われて、色んな事をして腕を磨くことができました。
出産があり、死があり色んな経験をしました。
ツキノワグマ、ヒグマ、キツネ、シカ、イノシシ、ヤギ、ロバ、ヤク(チベットの牛)等です。
宿直もあり、いろいろ為になりました。
宿直は全部の動物を見て回らなくてはいけないので勉強になりました。
昼間はじっとしているような動物も、朝夕は動物は一番活発になるので一番いいところを見られました。
動物は死ぬのはしょうがないが、飼育係にとって一番恥なのは逃がすことだと言う事を上司から言われましたが、私もヤクを逃がしてしまったことがあります。
公園内を歩いていましたが、お客さんが来る前に収容できました。
飼育課長の時にクジャクが逃げ出して、京王線の線路で羽を広げてしまって、電車が止まってしまって電車が遅れてしまったという事もありました。
管理職になると直接接することはできなくなりましたが、アイディアを出してみんなにやらないかと図って実現したこともありました。
モグラプロジェクトチームを作ってモグラを展示しようと言う事でやりましたが、モグラの生態を知らないといけない。
空中に金網を作って見せるというやり方をしました。
2004年上野動物園の園長に就任。
飼育係出身では初めてで、それまで獣医が園長になるのが多かった。
上野はかつては国立動物園だったが、関東大震災の後に東京市に宮内庁から下賜されて、その後都立になったが、ゾウ、パンダ等国が関わることがあり、親善動物に関する配慮も必要になりました。
希少動物は世界で一緒に管理する形で売り買いはしない、丹頂鶴、こうのとりの国際登録もやっていてこちらから指導もします。
飼育係の人とも色々話をします、日本で初めて飼うような時に飼育係と話をしていないと駄目で、人と動物との組み合わせも大事なことです。
入場者数が旭山動物園に抜かれると言う事が就任早々にありました。
当時の旭山動物園の園長の小菅さん、阿部さんとは20代から付き合っていました。
入場者数が少なくて苦しい時代を知っていましたから、増えたことは嬉しいと思っていましたが、報道関係者から旭山動物園に抜かれたことに関して問われた時には困りました。
就任時パンダがリンリン(オス)が一頭になっていた時で、所有権が中国以外にあったのはリンリンとメキシコのメス3頭で、そんな中で増やしたいという事でリンリンがメキシコに3回も行っています。
期待しましたが、残念ながら子は出来ませんでした。
2008年にリンリンが死亡して3年位いない時代がありました。
胡錦涛主席が日本に来た時に亡くなって、又送ると言うことになって交渉して入ってくることになります。
クマは冬眠するが冬でも起きているクマはおかしいんじゃないかと思って、新しい部屋ではマイナス5度まで下げられる部屋をつくって、冬眠の洞窟のようなブースを作りましたが一番のポイントは餌でした。
餌を切って4日目から冬眠することができました。
冬眠明けには2割ぐらい体重が減ります。
動物園のクマがメタボなのは、本来3か月位は食べない期間に餌を与えてしまうからだと思ってます。
寒い部屋で餌を与えないのは残酷だと言う人もいますが、冬眠できないクマの方が残酷だと思いました。
2年目に冬眠中にクマは出産しますが、寝ぼけたような状況で子供がおっぱいに吸いついて育ちます。
冬眠中に伸びやあくびもするし、体温が下がっても32度位です。
新しい機器を使って心拍数、呼吸数なども取ることができました。
クマの冬眠は3ついい事があります。
①お客さんに真実を伝える。
②クマにとっても幸せ。
③上野動物園の技術が物凄くアップして、クマに育てられたという事があったと思います。
71歳、動物が好きだった小宮さんは、幼いころから上野動物園に通い詰め、大学卒業後は東京都の職員になりました。
希望通り多摩動物公園の飼育係としてスタートした小宮さんは、上野動物園の飼育課長などを経て、2004年飼育係の出身者としては初めて上野動物園の園長に就任、自らのアイディアで世界で初めて冬眠するクマの展示に成功しました。
園長をやめた後は動物に関する本を書いているほか、講演も続けています。
動物好きな少年が60年以上に渡ってたどった歩みを伺いました。
足拓、動物の足の裏に墨を塗ってどんな足の裏をしているかとる方法で、足拓墨師という肩書を名刺に入れてます。
足拓は1000種類以上あります。
種ごとの特徴もあり、役に立つこともあります。
講演も結構やっています。
1949年(昭和24年)上野動物園にインドのネール首相から象のインディラが送られた年で、その時2歳でしたが上野動物園に行きましたが記憶はないです。
小学校に入ってから5年生の時に飼育委員会に入って鳩の担当になり、持ち帰って家から飛ばしたり、6年生の時には遠足先の川崎の自動車工場に鳩を持って行って飛ばしたりしました。
鳩が戻ってくるのは、地球の磁場説、目で見て景色で判るとか色んな説がありますが、今でもはっきりとはわかっていないです。
中学に入ると自転車で上野迄いけるし、動物愛好会に入って月一回講演会がありそれを聞きに行くのが楽しみでした。
南極観測隊、アフリカへ行った人の講演などが面白かったです。
大学は農学部に進み畜産職に関する勉強をしました。
野鳥研究会のサークルがあり、全国を旅して鳥を見て歩きました。
動物園に行きたい一心で畜産職の試験を受けて入りました。
東京都の公務員という事で、僕は多摩動物公園に配属になりました。
最初は実習を色々やりました。
日本の動物、家畜を担当して、上司から好きなように飼っていいよと言われて、色んな事をして腕を磨くことができました。
出産があり、死があり色んな経験をしました。
ツキノワグマ、ヒグマ、キツネ、シカ、イノシシ、ヤギ、ロバ、ヤク(チベットの牛)等です。
宿直もあり、いろいろ為になりました。
宿直は全部の動物を見て回らなくてはいけないので勉強になりました。
昼間はじっとしているような動物も、朝夕は動物は一番活発になるので一番いいところを見られました。
動物は死ぬのはしょうがないが、飼育係にとって一番恥なのは逃がすことだと言う事を上司から言われましたが、私もヤクを逃がしてしまったことがあります。
公園内を歩いていましたが、お客さんが来る前に収容できました。
飼育課長の時にクジャクが逃げ出して、京王線の線路で羽を広げてしまって、電車が止まってしまって電車が遅れてしまったという事もありました。
管理職になると直接接することはできなくなりましたが、アイディアを出してみんなにやらないかと図って実現したこともありました。
モグラプロジェクトチームを作ってモグラを展示しようと言う事でやりましたが、モグラの生態を知らないといけない。
空中に金網を作って見せるというやり方をしました。
2004年上野動物園の園長に就任。
飼育係出身では初めてで、それまで獣医が園長になるのが多かった。
上野はかつては国立動物園だったが、関東大震災の後に東京市に宮内庁から下賜されて、その後都立になったが、ゾウ、パンダ等国が関わることがあり、親善動物に関する配慮も必要になりました。
希少動物は世界で一緒に管理する形で売り買いはしない、丹頂鶴、こうのとりの国際登録もやっていてこちらから指導もします。
飼育係の人とも色々話をします、日本で初めて飼うような時に飼育係と話をしていないと駄目で、人と動物との組み合わせも大事なことです。
入場者数が旭山動物園に抜かれると言う事が就任早々にありました。
当時の旭山動物園の園長の小菅さん、阿部さんとは20代から付き合っていました。
入場者数が少なくて苦しい時代を知っていましたから、増えたことは嬉しいと思っていましたが、報道関係者から旭山動物園に抜かれたことに関して問われた時には困りました。
就任時パンダがリンリン(オス)が一頭になっていた時で、所有権が中国以外にあったのはリンリンとメキシコのメス3頭で、そんな中で増やしたいという事でリンリンがメキシコに3回も行っています。
期待しましたが、残念ながら子は出来ませんでした。
2008年にリンリンが死亡して3年位いない時代がありました。
胡錦涛主席が日本に来た時に亡くなって、又送ると言うことになって交渉して入ってくることになります。
クマは冬眠するが冬でも起きているクマはおかしいんじゃないかと思って、新しい部屋ではマイナス5度まで下げられる部屋をつくって、冬眠の洞窟のようなブースを作りましたが一番のポイントは餌でした。
餌を切って4日目から冬眠することができました。
冬眠明けには2割ぐらい体重が減ります。
動物園のクマがメタボなのは、本来3か月位は食べない期間に餌を与えてしまうからだと思ってます。
寒い部屋で餌を与えないのは残酷だと言う人もいますが、冬眠できないクマの方が残酷だと思いました。
2年目に冬眠中にクマは出産しますが、寝ぼけたような状況で子供がおっぱいに吸いついて育ちます。
冬眠中に伸びやあくびもするし、体温が下がっても32度位です。
新しい機器を使って心拍数、呼吸数なども取ることができました。
クマの冬眠は3ついい事があります。
①お客さんに真実を伝える。
②クマにとっても幸せ。
③上野動物園の技術が物凄くアップして、クマに育てられたという事があったと思います。
2019年2月5日火曜日
秋元康雄(こまじいのうち マスター) ・みんなの居場所『こまじいのうち』
秋元康雄(こまじいのうち マスター) ・みんなの居場所『こまじいのうち』
77歳、東京都文京区駒込生れ。
さまざまな職人が住んで人付き合いが盛んな町だったそうです。
終戦になって、マンションが増えてきて人との付き合いも少なくなり、町内会でお茶でも飲んで気楽に話せる場所が出来ないかという話がたびたび出ていました。
秋元さんは叔父から相続した家を利用して、平成25年10月「こまじいのうち」をオープンしました。
誰でも立ち寄ることが出来る人という事で、年間5000人余りの方が利用しています。
駒込のおじいさんの家と言う事で「こまじいのうち」と決まりました。
幼児にも言いやすいので子供から大人まで人気が出ました。
家主で管理しなければいけないので、マスターというふうに名刺に書いてあります。
掃除などはボランティアの人たちがやってくれます。
古い部分では築70年近くになります。
下宿をやっていた家で部屋は結構あります。
一部壁をぶち抜いて大広間に改造もしました。
オープンして5年経ちました。
火曜日から土曜日までやっていています。
時間帯は朝10時~3時迄やっていますが、子供達が来るのでその場合は、5時半ぐらいまで私が付き合います。
月に400名ちょっと、年間5000人を越えるぐらいです。
利用者は0歳~90歳までです。
情報交換の場になっていて、子育てに困る若いお母さんの集まる場所でもあります。
学生も来ますし、高齢の男性も来ます。
脳トレ健康マージャン、こまじいキッチン、おしゃべり会、子供の為のキッツパレット(小学校低学年対応)、囲碁、お手玉、など色々あります。
話題の中からできてきたプログラムが結構あります。
学生落語会、東洋大学の落ち研の人が修行の為に来て、お囃子は私たちがやるるわよと言って三味線などで生のお囃子をやってもらったりするので彼らも喜びます。
楽しんでくれているのでいいと思っています。
一番人気はマージャンで、6卓ありますが一杯になってしまいます。
利用料は100円で一日遊べます。
こまじいキッチンでは300円貰っていて、材料費としてそうちの200円貰います。
マージャンは300円貰っています。
リーダーシップは特にだれとか決まっていません。
東京都から町会事業の一環として助成金を頂いているので、レポートなどを出さなければないので名前を書いてもらったり、こういうことをして下さいと言っています。
政治活動、宗教活動、商売をやってはいけないということになっています。
北海道から沖縄まで地域の有志の方が、ここへ寄ってみようと言う事で見学に来られます。
昔を懐かしむ声があり、また相続でこの場所があって、展開しました。
文京区地域活動センター、文京区社会福祉協議会、公的な立場の方々がずん分アイディアを出してくれたし、協力をしてくれました。
文京区地域活動センターの所長の三縄毅さんの力が随分大きかったです。
学生の若い人たちの協力も随分ありました。
高齢者と若い人たちとの交流も盛んになりました。
若い人からスマホを親切に教えてもらって、利用しています。
運営のスタッフになってくれた人もいます。
実績を残そうと言う事で記念誌を作ろうと言う事で3年経って、それがきっかけで知り合いからつてで写真のプロも来てくれたりデザイナーも来たりして、編集者も来てここにきて資料集を作り上げました。
運営費は電気、ガス、水道、資料集作成費、通信費などがかかりますが、皆さんからの100円と助成金と企業からの寄付金などで賄っています。
地域支援活動でフランスのワインメーカーが視察に見えてやりましょうと言って参加してくれました。
その時に高額の資金を頂きました。
私は素人でしたが、それぞれ専門家がいてそういう人達の知恵を発揮してもらって、その家が「こまじいのうち」だと思っています。
近所の人のすれ違いに御挨拶ができるようになりました。
近所の顔が見えるようになりました。
地域の特性があるので、その地域の人達に任せるようにしていった方が出来るかなあと思います。
行政が補助金を出すといろいろ制限が出来てきてしまうので、そのへんのバランスが難しいと思います。
77歳、東京都文京区駒込生れ。
さまざまな職人が住んで人付き合いが盛んな町だったそうです。
終戦になって、マンションが増えてきて人との付き合いも少なくなり、町内会でお茶でも飲んで気楽に話せる場所が出来ないかという話がたびたび出ていました。
秋元さんは叔父から相続した家を利用して、平成25年10月「こまじいのうち」をオープンしました。
誰でも立ち寄ることが出来る人という事で、年間5000人余りの方が利用しています。
駒込のおじいさんの家と言う事で「こまじいのうち」と決まりました。
幼児にも言いやすいので子供から大人まで人気が出ました。
家主で管理しなければいけないので、マスターというふうに名刺に書いてあります。
掃除などはボランティアの人たちがやってくれます。
古い部分では築70年近くになります。
下宿をやっていた家で部屋は結構あります。
一部壁をぶち抜いて大広間に改造もしました。
オープンして5年経ちました。
火曜日から土曜日までやっていています。
時間帯は朝10時~3時迄やっていますが、子供達が来るのでその場合は、5時半ぐらいまで私が付き合います。
月に400名ちょっと、年間5000人を越えるぐらいです。
利用者は0歳~90歳までです。
情報交換の場になっていて、子育てに困る若いお母さんの集まる場所でもあります。
学生も来ますし、高齢の男性も来ます。
脳トレ健康マージャン、こまじいキッチン、おしゃべり会、子供の為のキッツパレット(小学校低学年対応)、囲碁、お手玉、など色々あります。
話題の中からできてきたプログラムが結構あります。
学生落語会、東洋大学の落ち研の人が修行の為に来て、お囃子は私たちがやるるわよと言って三味線などで生のお囃子をやってもらったりするので彼らも喜びます。
楽しんでくれているのでいいと思っています。
一番人気はマージャンで、6卓ありますが一杯になってしまいます。
利用料は100円で一日遊べます。
こまじいキッチンでは300円貰っていて、材料費としてそうちの200円貰います。
マージャンは300円貰っています。
リーダーシップは特にだれとか決まっていません。
東京都から町会事業の一環として助成金を頂いているので、レポートなどを出さなければないので名前を書いてもらったり、こういうことをして下さいと言っています。
政治活動、宗教活動、商売をやってはいけないということになっています。
北海道から沖縄まで地域の有志の方が、ここへ寄ってみようと言う事で見学に来られます。
昔を懐かしむ声があり、また相続でこの場所があって、展開しました。
文京区地域活動センター、文京区社会福祉協議会、公的な立場の方々がずん分アイディアを出してくれたし、協力をしてくれました。
文京区地域活動センターの所長の三縄毅さんの力が随分大きかったです。
学生の若い人たちの協力も随分ありました。
高齢者と若い人たちとの交流も盛んになりました。
若い人からスマホを親切に教えてもらって、利用しています。
運営のスタッフになってくれた人もいます。
実績を残そうと言う事で記念誌を作ろうと言う事で3年経って、それがきっかけで知り合いからつてで写真のプロも来てくれたりデザイナーも来たりして、編集者も来てここにきて資料集を作り上げました。
運営費は電気、ガス、水道、資料集作成費、通信費などがかかりますが、皆さんからの100円と助成金と企業からの寄付金などで賄っています。
地域支援活動でフランスのワインメーカーが視察に見えてやりましょうと言って参加してくれました。
その時に高額の資金を頂きました。
私は素人でしたが、それぞれ専門家がいてそういう人達の知恵を発揮してもらって、その家が「こまじいのうち」だと思っています。
近所の人のすれ違いに御挨拶ができるようになりました。
近所の顔が見えるようになりました。
地域の特性があるので、その地域の人達に任せるようにしていった方が出来るかなあと思います。
行政が補助金を出すといろいろ制限が出来てきてしまうので、そのへんのバランスが難しいと思います。
2019年2月4日月曜日
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】相馬黒光
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】相馬黒光
講談師 神田 蘭
夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家である。
講談による相馬黒光の紹介
「本名 相馬(旧姓 星)
明治9年旧仙台藩士・星喜四郎、巳之治(みのじ)の三女として仙台に生まれた。
維新後生家は没落、貧しい生活の中で教会の日曜学校に通い西洋の文化に触れる。
横浜のフェリス英和女学校(現・フェリス女学院中学校・高等学校)に進学。
明治女学校に転校、島崎藤村から学び自ら文筆活動を目指す。
ある教授から良の性格があまりにも強かったので、貴方の文学の才能を黒で隠しなさいという意味を込めて、黒に光と書いて「黒光」という名前をいただきました。
卒業後夫の相馬愛蔵と結婚。
愛蔵の郷里安曇野に住んだ。しかし、黒光は養蚕や農業に従ったが健康を害し、また村の気風に合わなかったこともあり、療養のため上京し、そのまま東京に住み着くことになった。
1901年東京本郷に小さなパン屋中村屋を従業員ごと買い取り、パン屋を始める。
1904年クリームパンを開発する。
明治42年新宿に移転する。
夫とともに、中華饅頭、月餅、インド式カリー等新製品の考案する。
当時新進気鋭の芸術家たちが集まり、「中村屋サロン」と呼ばれるようになる。
若手彫刻科の荻原碌山は黒光に想いを寄せるようになるが、人妻でもあり、狂おしいほどの恋情を抱いた碌山は若くして死去。
碌山のアトリエに残った裸婦像は、もがきながらも上を見上げている女性の像で、黒光はこれを観てこれは私自身だとその場で思わず号泣したそうです。
碌山の作品『女』像は近代彫刻に名作としていまだに残っています。
講談師 神田 蘭
夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家である。
講談による相馬黒光の紹介
「本名 相馬(旧姓 星)
明治9年旧仙台藩士・星喜四郎、巳之治(みのじ)の三女として仙台に生まれた。
維新後生家は没落、貧しい生活の中で教会の日曜学校に通い西洋の文化に触れる。
横浜のフェリス英和女学校(現・フェリス女学院中学校・高等学校)に進学。
明治女学校に転校、島崎藤村から学び自ら文筆活動を目指す。
ある教授から良の性格があまりにも強かったので、貴方の文学の才能を黒で隠しなさいという意味を込めて、黒に光と書いて「黒光」という名前をいただきました。
卒業後夫の相馬愛蔵と結婚。
愛蔵の郷里安曇野に住んだ。しかし、黒光は養蚕や農業に従ったが健康を害し、また村の気風に合わなかったこともあり、療養のため上京し、そのまま東京に住み着くことになった。
1901年東京本郷に小さなパン屋中村屋を従業員ごと買い取り、パン屋を始める。
1904年クリームパンを開発する。
明治42年新宿に移転する。
夫とともに、中華饅頭、月餅、インド式カリー等新製品の考案する。
当時新進気鋭の芸術家たちが集まり、「中村屋サロン」と呼ばれるようになる。
若手彫刻科の荻原碌山は黒光に想いを寄せるようになるが、人妻でもあり、狂おしいほどの恋情を抱いた碌山は若くして死去。
碌山のアトリエに残った裸婦像は、もがきながらも上を見上げている女性の像で、黒光はこれを観てこれは私自身だとその場で思わず号泣したそうです。
碌山の作品『女』像は近代彫刻に名作としていまだに残っています。
ロシアの亡命詩人ワシーリー・エロシェンコを自宅に住まわせ面倒をたり、亡命したインド独立運動の志士ラース・ビハーリー・ボースらをかくまい、保護した。
エロシェンコからはロシア料理ボルシチを習い、ビハーリー・ボースからはインドカリーを習い、それらが今も愛され名物料理となっています。」
日本の和菓子とヨーロッパのパンをくっつけるのは日本人のアイディアですね。
仙台は色々な人材を輩出している。
黒光はキリスト教信仰を持ち、12歳で洗礼を受けた。
日本はキリスト教の布教が難しい国だと言われる。
お茶とキリスト教は相性がいい気がします。
生活に潤いを、みたいなことを考える人が違う教えを聞いてみようかなとなって、キリスト教に入信するという事が多いと思う。
ミッションスクール宮城女学校に入学するが、アメリカ式教育の押しつけに反発する生徒たちによるストライキ事件に連座して自主退学する。
横浜のフェリス英和女学校に入り、明治女学校に転校する。
「黒光」の号は、恩師の明治女学校教頭(巌本 善治)から与えられたペンネーム。
国木田独歩の奥さんが黒光のいとこになるので、交わり文学への視野を広げた。
女性が社会進出をする時に手っ取り早いのが恋愛関係ですね。
恋愛関係で男の人と5分に渡り合う、ということになると恋愛関係の方で発展的になるのかもしれない。
平塚 らいてうもそうでしたが。
1898年長野県でキリスト信者の養蚕事業家として活躍していた相馬愛蔵と結婚することになる。(22歳)
愛蔵の郷里安曇野に住んだが村の気風に合わなかったこともあり、健康を害し療養のため上京し、そのまま東京に住み着くことになった。
白いパラソルをした年上の綺麗な女性が声尾を掛けてきたと、荻原碌山には書かれていた。(安曇野の頃の出会い)
中村屋を従業員ごと買い取り、パン屋を始める。
喫茶部の新設、絵画、文学等のサロンをつくり、荻原碌山、中村彝、高村光太郎、戸張弧雁、木下尚江、松井須磨子、会津八一らに交流の場を提供し、「中村屋サロン」と呼ばれた。
愛蔵が愛人を作り、碌山がその相談相手になる。
碌山は欧米に渡り勉強して、オーギュスト・ロダンの「考える人」を見て彫刻を志す。
碌山の作品『女』像 苦悩だったりして、手を後ろに縛られてひざまずいているが、顔は上を向いてどんなに苦しい時も戦う女性の魂みたいなものを描いている。
子供達も碌山になついていたと言われる。
芸術家たちの後押しをしたが、究極的には芸術みたいなことを黒光自らやりたかったのではないかと思います。
イギリスが捕まえようとするラース・ビハーリー・ボースをかくまったりする。
1918年に黒光の長女 俊子がボースと結婚した。
黒光は世界的視野をもっていた人でもあったと思う。
2019年2月3日日曜日
高山みなみ(声優) ・【時代を創った声】
高山みなみ(声優) ・【時代を創った声】
「名探偵コナン」の江戸川コナン役、「忍たま乱太郎」の猪名寺乱太郎役などで活躍中。
「忍たま乱太郎」は25年以上、「名探偵コナン」は23年になります。
自分の一部になっている、特にコナン役など。
あまり違和感なくやってきています。
顔を見るとその声になるという感覚です。
乱太郎は楽しい雰囲気、友達と仲良くしようとか、そういうものを伝えていけたらという作品です。
コナンは勧善懲悪という訳ではないが、これはいい事これは悪いことという事を判って欲しいと思ってい、何をしたら人は傷つく付くとか、そういうことをアニメ、漫画を通して感じてほしいと思います。
こんなに素晴らしいキャラクターに出会えたことは運が良かったと思います。
当初警察官になりたかったです。
交通安全指導で腹話術が必要であると思い、中学時代「劇団ひまわり」に入りました。
お芝居をすることが面白かったです。
発声の基礎から学びました。
高校1年まで通っていましたが、授業が忙しくて辞めてしまいました。
クラブ活動では化学同好会に入りましたが、お茶飲み会というような感じでした。
ラジオを聞いていて、2年生ぐらいから自分でディスクジョッキーのテープを作って友達に渡していたら、これを出して見たらと言われて、ディスクジョッキーのコンテストに出したら、最終審査迄のこりました。
そしてグランプリを取ってしまいました。
誘われましたが、しかしまだその道に進むことは思っていませんでした。
高校卒業後、とりあえずもう一回お芝居の勉強をしたいと専門学校の演劇科に入りました。
自分のイメージしていたものと違って半年で見切りをつけて辞めました。
普通の企業に務めたがやはり合わなく辞めて、暫くバイトをしていました。
この先どうなんだろうと思っていたら、新聞を読んでいたら声優学校のチラシに目が止まりました。
オーディションを受けたら受かりました。
声を使ったお芝居をゼロから教えてもらう事になりました。
その時、野沢雅子さんと肝付 兼太さんが先生でした。
声だけで表現すると言う事が今までと違っていて面白かったです。
人間以外のものにも成れるという事もあって魅力でした。
DJグランプリのマネージャーさんと接触する機会があり、うちに来ないかと言われてそこの事務所に入ることになりました。
3年間だけ面倒をみるが芽が出なかったら辞めるように言われ、1年間で結果を出そうと思いました。
オーディションに受かって「ミスター味っ子」の味吉陽一役の主役(少年役)をやることになりました。
ヒロイン役でのオーディションを受けていたが、駄目だったので少年役で受けらた受かりました。
周りは大ベテランばかりで、新人一人という事でやりたいようなことをやりなさいと言われて、自由にやりながら判らないことは直ぐ聞きようにしていました。
30分の絵を直ぐ覚えるようにしなさいと言われて、絵の状態を覚えるように努力しました。
1989年アニメ映画『魔女の宅急便』をやった後に、足がかりが付いたなと思ったら、仕事が切れて恐ろしい空白期間がありました。
又アルバイトを始めました。
後で聞いた話では『魔女の宅急便』をやって、今後は忙しくなるだろうと言う事でオファーがなかったんだそうです。
これであきらめるという事を経験しました。(楽観的で落ち込むのは3分と決めました)
その後仕事の話が来るようになりました。
少年役は、これが自分のやりたかったことだったんだろうなと思っていました。
自分の半分以上がコナンや乱太郎に成っています。
大切なことは一つは元気であること、あと楽しむこと、どんな役、話でも楽しめるようになりたいと思っています。
若い人たちに対しては、すべてが無駄にならないのでとにかく経験しなさい、TV、本、漫画、何でもいいから読んだり見たりして、自分の心や感覚に刺激を与えること、それが糧になっていくと思うのでその労を惜しまないで欲しいと思います。
落ち込む時もあると思うが、これを見たら元気になるとか、これを読んだら元気になるとか、処方箋があるといいと思います。
ナレーションの仕事を頑張っていきたいと思います。
難しいし、自分の人生観がもろに出てきてしまうものなので、頑張らなくてはいけないと思っています。
「名探偵コナン」の江戸川コナン役、「忍たま乱太郎」の猪名寺乱太郎役などで活躍中。
「忍たま乱太郎」は25年以上、「名探偵コナン」は23年になります。
自分の一部になっている、特にコナン役など。
あまり違和感なくやってきています。
顔を見るとその声になるという感覚です。
乱太郎は楽しい雰囲気、友達と仲良くしようとか、そういうものを伝えていけたらという作品です。
コナンは勧善懲悪という訳ではないが、これはいい事これは悪いことという事を判って欲しいと思ってい、何をしたら人は傷つく付くとか、そういうことをアニメ、漫画を通して感じてほしいと思います。
こんなに素晴らしいキャラクターに出会えたことは運が良かったと思います。
当初警察官になりたかったです。
交通安全指導で腹話術が必要であると思い、中学時代「劇団ひまわり」に入りました。
お芝居をすることが面白かったです。
発声の基礎から学びました。
高校1年まで通っていましたが、授業が忙しくて辞めてしまいました。
クラブ活動では化学同好会に入りましたが、お茶飲み会というような感じでした。
ラジオを聞いていて、2年生ぐらいから自分でディスクジョッキーのテープを作って友達に渡していたら、これを出して見たらと言われて、ディスクジョッキーのコンテストに出したら、最終審査迄のこりました。
そしてグランプリを取ってしまいました。
誘われましたが、しかしまだその道に進むことは思っていませんでした。
高校卒業後、とりあえずもう一回お芝居の勉強をしたいと専門学校の演劇科に入りました。
自分のイメージしていたものと違って半年で見切りをつけて辞めました。
普通の企業に務めたがやはり合わなく辞めて、暫くバイトをしていました。
この先どうなんだろうと思っていたら、新聞を読んでいたら声優学校のチラシに目が止まりました。
オーディションを受けたら受かりました。
声を使ったお芝居をゼロから教えてもらう事になりました。
その時、野沢雅子さんと肝付 兼太さんが先生でした。
声だけで表現すると言う事が今までと違っていて面白かったです。
人間以外のものにも成れるという事もあって魅力でした。
DJグランプリのマネージャーさんと接触する機会があり、うちに来ないかと言われてそこの事務所に入ることになりました。
3年間だけ面倒をみるが芽が出なかったら辞めるように言われ、1年間で結果を出そうと思いました。
オーディションに受かって「ミスター味っ子」の味吉陽一役の主役(少年役)をやることになりました。
ヒロイン役でのオーディションを受けていたが、駄目だったので少年役で受けらた受かりました。
周りは大ベテランばかりで、新人一人という事でやりたいようなことをやりなさいと言われて、自由にやりながら判らないことは直ぐ聞きようにしていました。
30分の絵を直ぐ覚えるようにしなさいと言われて、絵の状態を覚えるように努力しました。
1989年アニメ映画『魔女の宅急便』をやった後に、足がかりが付いたなと思ったら、仕事が切れて恐ろしい空白期間がありました。
又アルバイトを始めました。
後で聞いた話では『魔女の宅急便』をやって、今後は忙しくなるだろうと言う事でオファーがなかったんだそうです。
これであきらめるという事を経験しました。(楽観的で落ち込むのは3分と決めました)
その後仕事の話が来るようになりました。
少年役は、これが自分のやりたかったことだったんだろうなと思っていました。
自分の半分以上がコナンや乱太郎に成っています。
大切なことは一つは元気であること、あと楽しむこと、どんな役、話でも楽しめるようになりたいと思っています。
若い人たちに対しては、すべてが無駄にならないのでとにかく経験しなさい、TV、本、漫画、何でもいいから読んだり見たりして、自分の心や感覚に刺激を与えること、それが糧になっていくと思うのでその労を惜しまないで欲しいと思います。
落ち込む時もあると思うが、これを見たら元気になるとか、これを読んだら元気になるとか、処方箋があるといいと思います。
ナレーションの仕事を頑張っていきたいと思います。
難しいし、自分の人生観がもろに出てきてしまうものなので、頑張らなくてはいけないと思っています。
2019年2月2日土曜日
田畑耕一(TAV交通死被害者の会 事務局長)・「交通犯罪」をなくすために
田畑耕一(TAV交通死被害者の会 事務局長)・「交通犯罪」をなくすために
~交通死被害者の会設立20年~
TAVはTraffic Accident Victims Netの略で田畑耕一さんは22年前、平成9年の1月に登校中だった小学生の列に車が突っ込み、当時2年生だった息子さんを亡くされました。
その後大きな悲しみと苦しみを抱えながら、被害者遺族が抱える様々な問題と向き合ってきました。
息子さんを失ってから2年後に設立された,TAV交通死被害者の会の中心メンバーとして、その経験を生かし活動してきました。
今も事務局長として被害者とその家族の心のケアを中心に支援しあい,被害者の立場に立った事故後の相談や裁判の支援、会員同士の交流を行っています。
交通事故の被害者、家族はどのような状況に置かれてきたのか、20年を迎えた会の活動について伺いました。
私の子供に関する事件、事件だと言っていることを心の片隅においていただきたい。
1997年1月22日集団登校の時に、車が突っ込んで命を奪われました。
その2カ月前、義理の兄が横断歩道を歩いていた時に、車に跳ね飛ばされて病院に行きましたが、命を亡くしてしまいました。
その後私の一番下の子が母親と2人の子供の前で命を奪われた訳です。
貴方がいつまでもくよくよしていると、亡くなった人の魂が浮かばれないよという話がありましたが、この立場になったら首を思いっきり傾けてしまいます。
善意で話してくれてるとは思いますが。
それが継続してくると、会いたくないという気持ちになります。
亡くなったあつし(篤?)は落ち着きはないが可愛げがある子でした。
1997年1月22日は寒波で近畿地方が大雪になった日でした。
集団登校で小学校5年生の姉と坂道を下りだしますが、横には次男の中学2年生、たまたま当番の妻が坂の上の方にいました。(一番兄と私は別に出発していました)
坂のほぼ頂点から加害者の車が出てきました。
5mしたらスリップして坂道をゆっくり回転しながら集団登校の子らに巻き込んで行きました。
路面状態が滑りやすく悪ければチェーンを付けるべきだし、坂は100mほどで子供達が抜け切ってから降りるのが普通だと思いますが、車を走行させてしまいました。
サイドブレーキを引いて車をスタートさせている。(タイヤは回転しない状況)
救急車は呼ばれるが、子供はきつい坂の一番下で押しつぶされていて、その下のゆるい坂道も近くに来た救急車は上がれなかったと言います。
溝に押しつぶされた子が3人いましたが、3人亡くなってもおかしくない状況でしたが、どうしてかうちの子だけが亡くなりました。
駆けつけた時には、肺が破裂していました。
交通事故では済まされないと思いました。
交通事故で重度後遺症の人も沢山いますが、信じられない保険金で途中でお金は尽きます。
家族は一生つききりで、そういったことは報道されません。
1週間ぐらい食欲がなく食べる気が起きませんでした、感覚のマヒが起きます。
厭でも仕事はしなければいけなくて、顔をあげられなくて、事故で亡くなった自分の子を知っているかと叫びたくなりました。
心が固まっているので動作も遅くなります。
私は教師をしていましたが、授業に行っても本来は生徒を見て喋るタイプでしたが、黒板ばかり見てしゃべっていました。
問題を作ったりする訳ですが文章作成能力が無くなって、教師としての仕事が成り立たなくなり1月休みをいただきました。
3人の子供達もそれぞれ心に傷を負ってこれまで暮らしてきました。
かなり自分の事が精いっぱいだったので、現場にいた二人の子供の心のケア迄は気持ちが行き届かなかったと思います。
周りの先生からはそれとなくフォローを頂きました。
TAVとの出会いもありました。
同じ苦しみを共有できる。
TAVが始まったころは10件ほどの裁判があり、お互いの裁判の傍聴に行ったりして或る意味で活気のある会でした。
関西支部として独立してもいいのかなという事で、1999年3月に設立総会を開きました。
20年になりますが、本当は自然消滅する会であってほしいと思います。(被害が続いているので本来は無くなって欲しい)
心のケアの推進、交通安全の啓発の話をして欲しいとか講演活動が増えました。
被害者側の遺族に交通事故の状況の説明の機会はないんです。
法律の制度上の不備があることもあります。
容疑者を現場に連れて行って警察が聞いて、容疑者の言ったことを記録します。
被害者が信号が赤できたと言っても、加害者が青できたと言うとそれは検証しないで、青という事でほぼ通ってしまう。
被害者が亡くなっても、車の傷の請求をされる場合もあります。
色々意見のやり取りをしました。
私や私のようにう運営に関わっている方が、一方的に支援している訳ではないと言う事をお伝えしておきたい、それが自助努力です、それがTAVといううちの良さだと思っています。
どんなに苦しい状況に置かれても一人じゃないんですよ、と言いたい。
交通犯罪だけでなく、殺人、少年犯罪の犠牲者遺族等色んなところで、こんな世の中少しでも変えないうちは死ねない、という方たちが一杯見えてきてそれが救いです。
平成29年死者は3600人ぐらいで一日10人以上が亡くなり、重度後遺症はその約10倍,けがをされたかたは60万人近いです。
安心して歩けない状況にあるわけです。
~交通死被害者の会設立20年~
TAVはTraffic Accident Victims Netの略で田畑耕一さんは22年前、平成9年の1月に登校中だった小学生の列に車が突っ込み、当時2年生だった息子さんを亡くされました。
その後大きな悲しみと苦しみを抱えながら、被害者遺族が抱える様々な問題と向き合ってきました。
息子さんを失ってから2年後に設立された,TAV交通死被害者の会の中心メンバーとして、その経験を生かし活動してきました。
今も事務局長として被害者とその家族の心のケアを中心に支援しあい,被害者の立場に立った事故後の相談や裁判の支援、会員同士の交流を行っています。
交通事故の被害者、家族はどのような状況に置かれてきたのか、20年を迎えた会の活動について伺いました。
私の子供に関する事件、事件だと言っていることを心の片隅においていただきたい。
1997年1月22日集団登校の時に、車が突っ込んで命を奪われました。
その2カ月前、義理の兄が横断歩道を歩いていた時に、車に跳ね飛ばされて病院に行きましたが、命を亡くしてしまいました。
その後私の一番下の子が母親と2人の子供の前で命を奪われた訳です。
貴方がいつまでもくよくよしていると、亡くなった人の魂が浮かばれないよという話がありましたが、この立場になったら首を思いっきり傾けてしまいます。
善意で話してくれてるとは思いますが。
それが継続してくると、会いたくないという気持ちになります。
亡くなったあつし(篤?)は落ち着きはないが可愛げがある子でした。
1997年1月22日は寒波で近畿地方が大雪になった日でした。
集団登校で小学校5年生の姉と坂道を下りだしますが、横には次男の中学2年生、たまたま当番の妻が坂の上の方にいました。(一番兄と私は別に出発していました)
坂のほぼ頂点から加害者の車が出てきました。
5mしたらスリップして坂道をゆっくり回転しながら集団登校の子らに巻き込んで行きました。
路面状態が滑りやすく悪ければチェーンを付けるべきだし、坂は100mほどで子供達が抜け切ってから降りるのが普通だと思いますが、車を走行させてしまいました。
サイドブレーキを引いて車をスタートさせている。(タイヤは回転しない状況)
救急車は呼ばれるが、子供はきつい坂の一番下で押しつぶされていて、その下のゆるい坂道も近くに来た救急車は上がれなかったと言います。
溝に押しつぶされた子が3人いましたが、3人亡くなってもおかしくない状況でしたが、どうしてかうちの子だけが亡くなりました。
駆けつけた時には、肺が破裂していました。
交通事故では済まされないと思いました。
交通事故で重度後遺症の人も沢山いますが、信じられない保険金で途中でお金は尽きます。
家族は一生つききりで、そういったことは報道されません。
1週間ぐらい食欲がなく食べる気が起きませんでした、感覚のマヒが起きます。
厭でも仕事はしなければいけなくて、顔をあげられなくて、事故で亡くなった自分の子を知っているかと叫びたくなりました。
心が固まっているので動作も遅くなります。
私は教師をしていましたが、授業に行っても本来は生徒を見て喋るタイプでしたが、黒板ばかり見てしゃべっていました。
問題を作ったりする訳ですが文章作成能力が無くなって、教師としての仕事が成り立たなくなり1月休みをいただきました。
3人の子供達もそれぞれ心に傷を負ってこれまで暮らしてきました。
かなり自分の事が精いっぱいだったので、現場にいた二人の子供の心のケア迄は気持ちが行き届かなかったと思います。
周りの先生からはそれとなくフォローを頂きました。
TAVとの出会いもありました。
同じ苦しみを共有できる。
TAVが始まったころは10件ほどの裁判があり、お互いの裁判の傍聴に行ったりして或る意味で活気のある会でした。
関西支部として独立してもいいのかなという事で、1999年3月に設立総会を開きました。
20年になりますが、本当は自然消滅する会であってほしいと思います。(被害が続いているので本来は無くなって欲しい)
心のケアの推進、交通安全の啓発の話をして欲しいとか講演活動が増えました。
被害者側の遺族に交通事故の状況の説明の機会はないんです。
法律の制度上の不備があることもあります。
容疑者を現場に連れて行って警察が聞いて、容疑者の言ったことを記録します。
被害者が信号が赤できたと言っても、加害者が青できたと言うとそれは検証しないで、青という事でほぼ通ってしまう。
被害者が亡くなっても、車の傷の請求をされる場合もあります。
色々意見のやり取りをしました。
私や私のようにう運営に関わっている方が、一方的に支援している訳ではないと言う事をお伝えしておきたい、それが自助努力です、それがTAVといううちの良さだと思っています。
どんなに苦しい状況に置かれても一人じゃないんですよ、と言いたい。
交通犯罪だけでなく、殺人、少年犯罪の犠牲者遺族等色んなところで、こんな世の中少しでも変えないうちは死ねない、という方たちが一杯見えてきてそれが救いです。
平成29年死者は3600人ぐらいで一日10人以上が亡くなり、重度後遺症はその約10倍,けがをされたかたは60万人近いです。
安心して歩けない状況にあるわけです。
2019年2月1日金曜日
大和田獏(俳優) ・福井発 「幸せに生きる」とは
大和田獏(俳優) ・福井発 「幸せに生きる」とは
福井県敦賀市出身、兄は俳優の大和田伸也さんです。
民放ドラマ「こんまい女」でデビュー、芸名の「獏」は同ドラマの脚本家・花登筺から、「夢を食べて夢のある大きな役者になれるように」という意味で「獏」という芸名を与えられた。
主な出演作に「おんな太閤記」、「渡る世間は鬼ばかり」、「相棒」等があります。
民放情報番組「ワイドスクランブル」を11年間務めました。
現在も映画、舞台、TV等多方面で活躍中です。
現在68歳の大和田さんに原点である故郷での経験や、その後の俳優人生等自身の人生を振り替えりながら、幸せに生きることについて語っていただきました。
故郷を離れて50年以上になりますが、何十回となく帰ってきました。
中学3年の時のクラスが仲良くて、いまだに同窓会をやっています。(4年に一度)
子供の頃、ものは溢れていなかったが心が豊かだったと思います。
四季折々の自然があって、時代も子供に寛容な時代だったと思います。
中学の多感な時に敦賀の港に行って、もの思いにふけると言うようなことがありました。
そんな中で自分の感性が作られていったと思います。
台本の中に全てが書いてあるのではないので、僅かなヒントの中からこの人物はどういう人物で、今なぜこういうセリフを発するだろう、どういう感情なんだろうかと想像するわけですが、想像力にとって大切なのはこのころに育ったのかなと思います。
両親に感謝をしています。
父は敬虔なクリスチャンで自分のことよりも家族のことを考える人でした。
父はサラリーマンでしたが、残業はしないで必ず6時になったら全員で食事をして、そこでいろんな話をするのが日課でした。
兄、姉、伸也、僕の4人兄弟です。
夕食後は家族でゲームをしたりトランプをして遊びました。
母は遊びを色々工夫をして遊びました。
誰が書いた文章(短い文章)なのかを当てることなどもやっていました。
夏休みは8月の土曜日の午後に七輪、炭、食材を持って、すき焼きをやりました。
両親は子供にとっての人生の指針になっていたと思います。
家族が仲良く相手を思いやる気持ち、お互いが支え合う気持ちは一番幸せなんじゃないかと思います。
小学校の頃は同級生を笑わせることに命をかけているようなところがあって、しょっちゅうふざけて笑わせていました。
目立ちたがりやでした。
児童会会長や、中学では生徒会長に立候補したりして、生徒会長もやりました。
弁論大会にもでて、2年連続で優勝しました。
今より子供は自由だったと思います。
1クラス50人と多かったが、クラスの結束力はありました。
故郷の一生懸命生きる思い、勤勉さ、まじめさそういったものが、繋がったと思います。
団塊の世代のしっぽに当たり、先輩浪人との戦いもあり、厳しい倍率の中で受験を失敗してかなり落ち込みました。
その時父が励ましてくれました。
色んな壁にぶつかるがそこで絶望してはだめだ、人が行く道の先には絶対光がある、光が射すんだと言う事を信じろ、そのためには夢を持て、そうするとそこに希望が生まれて勇気が出る、その勇気がきっと夢をかなえてくれるからと言ってくれました。
夢に向かって一生懸命生きていれば、人はそれを認めてくれて困った時には手を差し伸べてくれるよと、その言葉が役者の世界に入った時に、へこたれそうになった時に、大きな力になってくれたと思います。
津川雅彦さんとか小林桂樹さんとかから、貴重なアドバイスをいただきましたが、一生懸命やっていたから手を差し伸べてくれたのではないかと思います。
僕たちの仕事は終わりがない、正解がない、ゴールのない仕事だと思っています。
常にチャレンジだと思っています。
若いころはがむしゃらに何でもかんでも手にしたいと言うような願望がありましたが、65歳ぐらいからこれからは自分の中に蓄えたものを熟成したいと思う様になりました。
頭で役をつくるのではなくて、腹の中で役をつくると言うか、自然とそうなって行くように成熟させたいと思っています。
役者になってよかったことは、人の気持ちを察することができるようになったことだと思います。
人から大切にされることにもつながって来る。
それがしいては自分の幸せに成って行くような気がします。
贅沢をするのもしあわせ、ボランティアで活動してそこから得られるのも幸せで、人それぞれだと思いますが、人とのつながりを大切にする、人を大切にする、人から大切にされる、お互いが思いやれる状況にあるというのが、本当に幸せなんじゃないかと思います。
要は人とのつながり、人とどういう関わりを持って行くのか、どういい絆を作って行けるかが一番の幸せだと思います。
福井県敦賀市出身、兄は俳優の大和田伸也さんです。
民放ドラマ「こんまい女」でデビュー、芸名の「獏」は同ドラマの脚本家・花登筺から、「夢を食べて夢のある大きな役者になれるように」という意味で「獏」という芸名を与えられた。
主な出演作に「おんな太閤記」、「渡る世間は鬼ばかり」、「相棒」等があります。
民放情報番組「ワイドスクランブル」を11年間務めました。
現在も映画、舞台、TV等多方面で活躍中です。
現在68歳の大和田さんに原点である故郷での経験や、その後の俳優人生等自身の人生を振り替えりながら、幸せに生きることについて語っていただきました。
故郷を離れて50年以上になりますが、何十回となく帰ってきました。
中学3年の時のクラスが仲良くて、いまだに同窓会をやっています。(4年に一度)
子供の頃、ものは溢れていなかったが心が豊かだったと思います。
四季折々の自然があって、時代も子供に寛容な時代だったと思います。
中学の多感な時に敦賀の港に行って、もの思いにふけると言うようなことがありました。
そんな中で自分の感性が作られていったと思います。
台本の中に全てが書いてあるのではないので、僅かなヒントの中からこの人物はどういう人物で、今なぜこういうセリフを発するだろう、どういう感情なんだろうかと想像するわけですが、想像力にとって大切なのはこのころに育ったのかなと思います。
両親に感謝をしています。
父は敬虔なクリスチャンで自分のことよりも家族のことを考える人でした。
父はサラリーマンでしたが、残業はしないで必ず6時になったら全員で食事をして、そこでいろんな話をするのが日課でした。
兄、姉、伸也、僕の4人兄弟です。
夕食後は家族でゲームをしたりトランプをして遊びました。
母は遊びを色々工夫をして遊びました。
誰が書いた文章(短い文章)なのかを当てることなどもやっていました。
夏休みは8月の土曜日の午後に七輪、炭、食材を持って、すき焼きをやりました。
両親は子供にとっての人生の指針になっていたと思います。
家族が仲良く相手を思いやる気持ち、お互いが支え合う気持ちは一番幸せなんじゃないかと思います。
小学校の頃は同級生を笑わせることに命をかけているようなところがあって、しょっちゅうふざけて笑わせていました。
目立ちたがりやでした。
児童会会長や、中学では生徒会長に立候補したりして、生徒会長もやりました。
弁論大会にもでて、2年連続で優勝しました。
今より子供は自由だったと思います。
1クラス50人と多かったが、クラスの結束力はありました。
故郷の一生懸命生きる思い、勤勉さ、まじめさそういったものが、繋がったと思います。
団塊の世代のしっぽに当たり、先輩浪人との戦いもあり、厳しい倍率の中で受験を失敗してかなり落ち込みました。
その時父が励ましてくれました。
色んな壁にぶつかるがそこで絶望してはだめだ、人が行く道の先には絶対光がある、光が射すんだと言う事を信じろ、そのためには夢を持て、そうするとそこに希望が生まれて勇気が出る、その勇気がきっと夢をかなえてくれるからと言ってくれました。
夢に向かって一生懸命生きていれば、人はそれを認めてくれて困った時には手を差し伸べてくれるよと、その言葉が役者の世界に入った時に、へこたれそうになった時に、大きな力になってくれたと思います。
津川雅彦さんとか小林桂樹さんとかから、貴重なアドバイスをいただきましたが、一生懸命やっていたから手を差し伸べてくれたのではないかと思います。
僕たちの仕事は終わりがない、正解がない、ゴールのない仕事だと思っています。
常にチャレンジだと思っています。
若いころはがむしゃらに何でもかんでも手にしたいと言うような願望がありましたが、65歳ぐらいからこれからは自分の中に蓄えたものを熟成したいと思う様になりました。
頭で役をつくるのではなくて、腹の中で役をつくると言うか、自然とそうなって行くように成熟させたいと思っています。
役者になってよかったことは、人の気持ちを察することができるようになったことだと思います。
人から大切にされることにもつながって来る。
それがしいては自分の幸せに成って行くような気がします。
贅沢をするのもしあわせ、ボランティアで活動してそこから得られるのも幸せで、人それぞれだと思いますが、人とのつながりを大切にする、人を大切にする、人から大切にされる、お互いが思いやれる状況にあるというのが、本当に幸せなんじゃないかと思います。
要は人とのつながり、人とどういう関わりを持って行くのか、どういい絆を作って行けるかが一番の幸せだと思います。
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