2019年2月19日火曜日

荒船旦子(青少年福祉センター 理事長)  ・子供たちの命と未来を守る

荒船旦子(青少年福祉センター 理事長)  ・子供たちの命と未来を守る
青少年福祉センターは中学生と高校生を対象とした児童養護施設、就労支援する自立援助ホームを運営しています。
このセンターの始まりは満州から引き揚げてきた長谷場夏雄さんが戦災孤児たちと共同生活を始めた四畳半のひと間が始まりだったそうです。
それから半世紀余りたって、子供達の支援について先駆的に取り組んできた社会福祉法人青少年福祉センター理事長荒船さんに、養護施設の現状、今求められる福祉の在り方について伺いました。

子供を取り巻く環境がこんなにひどいのかというような情報が流れていますが、周りの方が関心を持ってくれるようになった現象になったのかと思います。
いままでは、隣りがおかしいんじゃないかなあと思いながら、言えなかったのはあるんじゃないかなあと思います。
関心を持ってくれるようになって或る意味で良かったのかなあと思います。
今回も誰か一人でも守ると言う人がいれば、このようにはならなかったんじゃないかと思います。
全国の児童相談所への児童虐待の相談が過去最高だというニュースがありました。
平等、自由と権利、を主張しますが、その裏には義務と責任というものがあることを忘れてる部分が多いのかなあと思います。
児童養護施設は中学生までは入れたんです。
戦災孤児3万人と言われている時代に、なんとか政府はちゃんと生きて行かれるように施設に収容して、学校に行かせるようにという事で中学まででした。
住み込み就労は問題があると、住むところも無くなり働き場も無くなるので、自立援助ホームを作り上げた経緯があります。
現在は児童養護施設は第一種社会福祉事業で3歳~18歳まで預かって学校に行かれる支援をしています。
自立援助ホームは第二種社会福祉事業で義務教育を終わった子から20歳までを預かって就労支援をしています。
現在うちでは自立援助ホームは3つの事業所で36人、児童養護施設は50人あずかっています。

8割は虐待されたお子さんたちが多いです。
職員は大変で、虐待された子は大人不信で来るのと、自分は生きていていいんだろうかと自分不審でもあるわけで、貴方は生きてっていいんだよという話から大人も信用しなさいと言うところまで、全部しなくてはいけないので職員は大変です。
寝食を共にすると言う事で、夜も二交代制でやっていて大変です。
今井彰さんが書いた「光の人」を出版しましたが、この施設の創設者である長谷場さんがモデルになっています。
小説ですがほぼ事実に近いです。
長谷場さんは一生を子供の為に捧げた人なので、ほとんどの子供についてああだったこうだったといまでも言える人です。
最初のうちは支援してくれる人がいなくて、子供達と寝食ともにして、やっているうちに色んな方達が知って何か手伝ってあげようとする人達が出てきたわけです。
東京都が支援を始めたのは20年後ですから大変だったと思います。
長谷場さんも働き、子供たちも働いて一緒に投入すると言う事でした。

私の里の母も昔からカトリックで慈善活動をして色んな施設のお手伝いをしていました。
そんな折に公衆電話を借りに行かなくてはいけなくて、借りに行ったのがたまたま長谷場さんの処でした。
そこで話を聞いてご縁が出来たと言っています。
長谷場さんもカトリックで3つの奇跡の一つがこれだったと言います。
あとふたつは自動車訓練校を譲っていただいたこと、女子寮をつくるにあたって聖心会の尽力と大林組のお陰でうちは一銭も払わずに女子寮が出来たことです。
(*カトリックの女子修道会の(聖心女学院)でシスター岩下の父親が岩下清秋(大林組)でその人の尽力で足立区竹ノ塚に300坪の土地を準備した。)
暫くしてから理事長を引き受けました。
私もカトリックなので人の為に働くことが当たり前というふうに育ったので、ボランティアと言うのはするのではなくてさせていただくと言うふうに育ちました。
それがボランティア精神だと思います。
センターに繋がっているのが2001年からですので17年になりますが、母から受け継いで、これでライフワークが見付けられたなあと思います。

この仕事の前までは外交官の妻として色んな国をみてこられたので、或る意味グローバルにみられたので、日本のいいところと取り交ぜられるのでいい事だったと思います。
良い子を育てると言うのが長谷場さんの思いなので、うちのセンターの理念は「よい子を育て、次世代の担い手を育む」と言う法人の理念を持っています。
親として子供をを育てている時に初めて判るのは、どんなに一生懸命やっていても上手くいかない相手がいる。
生れた子と一緒に成長していくものだと思いますが、いまのお父さん、お母さんは焦っているのかなあと思います。
昔はおじいさんおばあさんが一緒にいて相談相手はいたわけで、1対1で子供と関わるわけではないので息抜きが出来たが、核家族で住んでいるとどうにも身動きができなくなって、虐待が出てくるのはそういう理由があるのかもしれないと思います。

子供って言うのは生れてくる場所を選べない。
親が難しくて虐待という事になると施設で預かることになるが親がいても親のでは過ごせない。
戦災孤児は親がいないことはあきらめがつくが、今の子たちは親がいながら親元に戻れないという厳しさはあると思う。
大学にと言うよりは手に職を付けて専門職になった方がいいよという事は言っています。
自前の自動車の整備工場があり、そこで手に職を付けてもらっていたりしたが、その頃は中学までだったので、高校は行かれないから、自動車整備工場で整備士になれるようにして高校に通えるようにしていました。
その時の寮が養護施設になりました。
職員も色々な方が来ています。
海外青年協力隊だった人、教師だった人、転職の人など。

私の大きな夢は青少年福祉センターがなくなることなんです。
児童憲章で言われている、「全ての児童は家庭で正しい愛情と知識と技術を持って育てられ家庭に恵まれない児童にはこれに代わる環境が与えられる」というものがある。
長谷場さんはこれがいつでも頭にあるので大事にしてやってきました。
替わるものは本来なら必要がないので、私の夢はセンターがなくなることです。
職員の教育、職員自身が義務と責任を果たして自由と権利を主張する、という職員の背中を子供に見せる。
夢を持たない職員に子供は付いていかないと思います。
夢を持ちながら仕事をきちんとやりなさいと言うのが長谷場さんの主義でした。
成人式をやっていて一人ずつ自分の抱負を述べてもらっています。
職員がみんなで力を合わせるような職場で、いつでも子供に寄りそってゆく、そういう大事なセンターにしたいと思います。