2017年11月29日水曜日

藤岡弘(俳優)              ・ヒーローを貫く人生

藤岡弘(俳優)        ・ヒーローを貫く人生
特撮TVドラマ仮面ライダーを初め、去年の大河ドラマ真田丸では勇猛な武将、本田忠勝役などを演じるなど50年以上活躍してきた藤岡さん、役者人生と並行して、国内の施設や被災地、世界の難民キャンプや紛争地を訪れて支援を行ってきました。
これまでに訪問した地域はアフリカの国々、イラク、カンボジア等100以上に上ります。
支援活動を行う理由、故郷愛媛県での少年時代のことなどを伺います。

紛争地の難民に対する救済、支援、必要とされる物資、食糧を持っていったり、義援金などを仲間と一緒に運んでみなさんに渡してゆく。
特に子供を中心に考えました。
40年以上になります、世界100カ国以上になります。
世界の色んな修羅場を見てくると自分の目のうろこが取れるごとく、今までの人生観や価値観が変わります。
生で見て、こういう中でも生きている子供達を見て、涙が出て止まらなくなる様な体験を何度もさせてもらい、私の中が変化してきました。
仮面ライダーが始まった当時、子供達の声が高まってきたときにふっと思い出して、孤児施設などをまわって子供達を励ましたりしていました。
デパートのサイン会、ファンとの交流とか有ったので、色んなものを貰うのでそういうものを届けていて、そのころから始まりました。
子供達は私と会うことで喜んで、子供が物凄く元気になって行くのを見て、こんなに影響が有るんだと、子供との触れ合いの中で感じるものがありました。
ヒーロー像はこんなに影響力があるんだと初めて知りました。
当時はボランティアなどと言う言葉もありませんでした。

わたしが生まれ育ったところが愛媛県の44番目の札所の大寶寺という所の近くにある駐在所で生まれました。
お遍路さんが行き交う中で両親が接待している姿に触れていました、それが普通なんだと思っていました。
それの延長線上で人にやってあげることが、人間として当たり前なんだろうと思っていましたが、実は特別なものでボランティアだと言うことが後になって判りました。
お米、柿、みかん、いも、トウモロコシなどをあげて、子供連れにはお菓子等、おはぎを渡していました。
良い方を、大きい方を上げるようにとの両親の教えがあったので、そういうのが当たり前のごとく自分の中で育くんでいったと思います。
母は厳しかったです。
お花、お茶、琴、和裁、和食などを村の娘さんたちに教えて居て、父は武道をやっていまして、両親の影響を大分受けました。
或る時に、喧嘩して相手を傷つけてしまい、仏壇の前に坐らせられて懺悔させられて、これ以上人様にご迷惑をおかけするのならあなたの命を頂戴しますと言われて、真剣に涙を流して怒られました。
母の真剣さに打たれて言いたいことが一杯あったが、土下座させられて、その時の怖さは今でも忘れられません。

母の人のために一生懸命奉仕する姿を見ていた、特にお遍路さんの話を聞いていたりお年寄りに親切にしていました。
当時は洋服などもボロボロでいつ風呂に入ったのか判らないような人にも風呂に入れてやり、父の服に着替えさせて、おいしいものを食べさせておにぎりも持たせて、送ってた姿を見ていました。
その後の私のボランティア活動に影響を与えました。
紛争地に行くと、難民の人たちは着の身着のままで食わず飲まずに逃げてくるのを見たときに、母の事を思い出して自分の中で人生観が変わって来まして、感謝、今自分が生きていることは普通ではないんだと、多くの先祖の犠牲のもとに今自分が有るんだと感じました。
エチオピア、ガーナ、ギニア、カンボジアなど紛争地は国が崩壊している状況で、地位、名誉、金、物などは関係なくなって、生き残っているものの本能、欲望がどんな立場だった人も一般の人も関係ない、生きるための欲望がそのままもろだしになってしまう、醜い状況が見えてしまう。
生きるために相手を殺してでも生きるとか、くれなければ食ってでもいきる、人間の本質が出てしまう、地獄です。
人間の醜いものが全てさらけ出される。
理不尽、矛盾、非常識、容赦がない。
そこには何があってもおかしくない、死ぬか生きるか、それしかないです。

行く前には遺言を書いて、なにかあった時のために仏前に置いて行っていました。
普通は国の玄関で物資を渡して帰って来るのが普通らしいが、物資を渡すと消えてゆく、難民キャンプまで届かない(税関の処でも無くなって行く)、届いても数少ないと言うことで、実際にキャンプまで届けると言うことが重要で、危険ですがそこまで運びました。
物資を持っているとねらってくる危険もありますから、明け方に運ぶとかしました。
危ないので渡したらすぐにスピードをだして引き返すようにしました。
砲弾の音や、銃撃の音が聞こえるところまで行っていましたので、危険が身に迫る感覚が絶えず付きまとっていました。
子供たちに一人でも何とかしたいと思って来ると、つい何とかしたいと思ってしまいます。
たった一個の抗生物質があればこの子は助かったと思うのに無い、コーヒー一杯分、それで子供の命が失われて行く、それを目のあたりにして凄くショックでした。
生き抜いた子は天が残した子ではないかと思うような存在で、真剣に生きようとする子供の目に触れて、目の輝きと生きようとする生命力に感動してしまっていつも頭から離れなかったですね。

民主化になって6カ月の時のエチオピア、キャンプが爆破されて数千人の難民が亡くなったキャンプ場に行ったが、子供たちがいきなり「ジャポン、ジャポン」と手を叩きながら感謝の声をあげてメンバー全員涙が止まらなかった。
子供たちと別れるときに数百人の子供たちが車のあとを追っかけてきて、手を振りながら叫びながら感謝して手を振るのを見て涙が止まりませんでした。
日本の子供達はどんなに幸せかなと思って、そのギャップが辛かった。
ある国では、子供にアンパンを渡すが取らない、何故かと思うと、親や兄弟が虐殺されて奇跡のごとく親が銃弾の弾よけとなってその下からはいでて、親の死を見て生き残った子だから人が信用できない状況が有ったんだろうと、食べ物そのものも信用していない。
先ず自分たちが食べて安全だと知らせたとたんにワーッと押し寄せて食い始めました。
それぐらい信用できないと言うような、大きなきなショックが有ったんだと思います。
救いに来たんだと判った瞬間に、目の色も変わるし、心を開いて抱きついて来て、抱きしめてやることが安心感を持って喜ぶ。
去ろうとしてもしがみついて離れない、離れがたかった。
(連れて行ってほしいと願ってくる)

そういった体験を何度もすると再びまた行くようになりました。
色んな国々を見ると、日本はこんな満たされた幸せな国はないと思います。
多くの国に影響を与える立場の人にそういうことを知ってもらいたい、体験してもらいたい、日本は本当に幸せな国だと思います。
何かを求めて我欲、自己中心主義というか蔓延してくると感じますね。
世界の現状をもっと知ってもらって、変わってもらいたい、国際的無知、そういったものが一番問題だと思います。
国家も個人も真価が問われる大転換期が始まって、問題意識を持って自己を見つめて未来を見つめる、そういうふうな考えを持って動かないと人ごとではない状況が来ていると感じています。
仮面ライダーの企画にもかかわり、生き抜くと言うことはどういうことか伝えようかと自分でアレンジして、生きる事にたいして気付いてもらえればと思って、生き抜くと言うメッセージを伝えました。
自分としてはやりがいのある仕事でした。
仮面ライダー1号を演じたことも45年ぶりで、色んな世界を回らしていただいて、色んな民族との出会いながらそこで生き抜くのを見て、日本を見ると歴史観が変わってきました。

自分が出来ることは何かと思ってみると、映像は影響を与える立場にあるので子供たちに影響を与える事は出来る、メッセージを送りながら、与えられた使命、責任を果たせればいいかなあという気持ちに変わってきて、そういう思いを込めて今の映像界で、ドラマなどを通じて伝えてたいと活動をしています。
縁があって初代の仮面ライダーとの出会いがあり、まさかヒーローを演ずることがこれほど大きな影響を与え、今も与えているということは考えてもいななった。
人間って出会いによって人生が変わって、運勢、歴史まで変わっていくということが本当にそうだなと思いました。
子供は未来、人類の宝だと思います。
子供のために何を残さないといけないのか、頭に引っ掛かっています。
一人ひとりだれしも使命を与えられていると思う。
未来のためになにをすべきか、問題意識を持って、平和に豊かに争いの無いような世界になるような方向にどうやったらそうなるか、自分と言う存在が貢献して少しでもどう役に立つのか、考えて行動してもらいたい。
限られた時間の中で我々は何を残すか、金、地位、名誉、財も持っていけないので、どれだけ人を愛して、どれだけ感動の旅をしたかといった思い出、感動しか持っていけないので、いい感動、いい思い出を残して去るべきだと思います。















2017年11月28日火曜日

山崎理恵(NPO法人「みらい予想図」理事長)・重症心身障害児のあしたのために

山崎理恵(NPO法人「みらい予想図」理事長)・重症心身障害児のあしたのために
50歳、この9月に重度の肢体不自由と重い知的障害のある子供、重症心身障害児、重症児を対象にしたデイサービスの施設「いっぽ」を高知市に開きました。
山崎さんは3人の子を持つシングルマザー、12歳の次女音十愛(おとめ)さんは全盲で重複障害のある重症児です。
音十愛(おとめ)さんを育てる中で、山崎さんが痛感したのは重症治の介護や看病に当たる母親の休まる場が無いと言うことでした。
同じ境遇にある親たちが支え合い休らぐ場所を作りたいと施設を立ち上げました。
しかし事業の経験もなく経済的な余裕もなかった山崎さんにとって、これまでの道のりは決して平たんなものではありませんでした。

事務所として使われていた建物を改装して作られた。
身体障害者手帳と知的手帳があるが、両方の手帳が共に最重度であるということが認められた子、プラス高度な医療が必要な子(気管切開されている子等)、医療的なことがとても高度で何処にも行くところがないお子さん(医療的ケア児)も含めて総称を重症児と言われています。
ほとんど寝たきりのお子さんが多いです。
常に何かの介護が必要、医療的なケアが必要なお子さんが多いです。
事業するにあたっての人員配置では、普通のデイサービスよりもうんと厳しくて、全てが有資格者でなくてはいけない。
私自身も看護師の資格を持っています。

音十愛(おとめ)は3人目だった、途中から育ちが悪くて羊水がほとんどなくなって緊急オペになり、オギャと小さい声で泣いたが直ぐに連れていかれて、2日間会わせてもらえなかった。
ただ事ではないと思ったが、2日後に本人に会わせてもらったが、そのときのショックはいまだに忘れられない。
見た瞬間、管がいっぱい入っていた。
顔は鼻から下が全部裂けていると言う感じでした。
手足も不揃いでした、それを見た瞬間血の気がスーッと引きました。
お腹の中の児に私は何をしたんだろう、普通に産んでやれなかった事を物凄く罪と思いました。
目の事はその時は言われなかったが、部屋に帰ってから先生が目がないんですと言われ、目の中に眼球がないと言われてしまいました。
どうやって育てていこうかとずーっと考えていて、どうしてと受け止められなかった。
これほどの障害のある子はどういうふうに育ってゆくかは予測が出来ない、内臓にも異常があるかもしれないので、とにかく普通に育ててくださいと、簡単に医師から言われました。

最初は泣いて泣いて、一生のうちの涙はその時流したと思うくらい、泣きました。
助産師さんには今でも感謝していますが、泣いて暮らしている私に毎日ベッドサイドに来てくれて、ただ私の話を聞き出そうとしてくれて、「そうやね」といって受け入れて、或る日助産師さんが「赤ちゃんは頑張って生きようとしている、凄く元気よ、この子は生きたいと思っているから、お母さんがしてあげられることは何かないかね」と言ってくれました。
心配ごとの高い順番から並べて言って、と言われて、「一番は目が見えない目がないといういうことが一番ショックです、どうやって育てていいのか、わたしの顔も一生判らないんですよね。」といったときに「わかった」と、その心配事を少しでも和らぐために、相談できる人を探そうと言うことになりました。
ソーシャルワーカーが探してくれて、高知女子大学にいた助教授の先生を紹介してくれました。
その方自身が弱視でほとんど見えない方でした。
話を聞いてくれて、全然普通に育てていいよと言われました。
色んな事が出てくるかもしれないが、出てきたら出てきた時に考えればいいと言われました。
最初そういう人達に支えられました。

全てが困難の連続でした。
口が割れていたので、ミルクが飲めない。
鼻に管を入れて退院したが、口から飲む練習をしましたが、口から飲ませて体重を増やすことが物凄く大変でした。(体重が増えないと口の手術もできない)
1、2年かけて1kg増やす目安で5kg目指すのが、物凄く大変でした。
自傷してしまう子で、昼夜の区別が出来ないので睡眠時間が凄く不規則で、夜通し泣いて、自分の思いが伝えられなくて、いらいらして頭を壁にぶつけたり色々やっていました。
一晩中抱っこして、また朝が明けたと言う日が毎日続いて、3時に主人が起きて主人に交代してもらって出勤するまでやってもらって二人三脚でずーっとやっていました。
それが長く続いて5歳までは入退院のくり返しで、その間おおきな手術が2回して、生死をさまよいました。

兄弟が有ると、兄弟の行事とかで外に出ていかないといけない時もあり、外に出ると好奇な目が降り注いできて、心ない言葉も浴びました。
スーパーに行ったりすると子供が寄って来て、「ワー気持ち悪い」と言って走って逃げてゆくことが何度もありました。
大人の方も「こんな子が生まれるのは親の責任や」といって言ってしまう人もいました。(見ず知らずの人から言われた)
社会に出ていく怖さがありましたが、何を言われようと出て行こうと腹をくくりました。
「ワー気持ち悪い」と言っていた子が、2回、3回と会ってゆくうちに段々寄って来るんです、そのうち「可愛いね」と言ってくれるんです。
経験を重ねるごとに人は受け入れてくれるんだと、経験しました。
社会に出て行って傷付いたことも沢山ありましたが、教えてもらったこと、学んだ事が沢山ありました。
外に連れ出したと言うことは、私の心も強くなりました。

成長とともに命の峠がある、落ち着くんです。(5歳ごろからでした)
医療的なことが必要な子は単独では保育園には通えない状況でした。
3歳のころはミルクを鼻からチューブで入れる様なので、受け入れてくれるところはなかった。
盲学校の幼稚部に入れないかなど色々と相談したが無理だった。
いつかは私が先に亡くなるので、この子が何もできなければどうするんでしょうか、社会の中で生きていける力を少しでも付けられるように、そのために社会性を身につける場所に通わせてくださいと、お願いしましたが、駄目でした。
盲学校の先生に、高知にはいられないので高松(実家)に帰ると言ったら、とにかく発信しなさい、聞いてもらいなさいと言われて、高知県母親大会と言うところを紹介されて、そこで全てさらけ出しました。
最初一個人の問題は取り上げられない場合が多いが、真剣に聞き始めてくれて、音十愛(おとめ)さんだけの問題ではなく先に繋がるお子さんがいるはずだと言うことで重要課題に取り上げられました。
世論に訴えなさいとも言われて、新聞の投書欄(声広場)にだして、それが一つの流れになって、署名活動にもつないでいこうと言うことで、「音十愛(おとめ)ちゃんを幼稚部に入れる会」が結成され、全国に署名依頼して2万筆位集まり、それを持って県の教育委員会にいき、2カ月しないうちに特例で認めてもらいました。

子供たちの中で活動することで、育まれることが色々あると思いました。
今は鼻からのチューブを止め胃瘻(いろう)にしています。
主人は仕事もしていて、子供を見ながらと言う事は介護疲れがとってもあって、家庭の中の歯車がおかしくなって、或る日突然仕事にいけなくなった。(鬱病だった)
結果的に離婚という選択になってしまった、一緒にいていたら共倒れになっていたと思いました、決断としては良かったと思います。
離婚する前から、このままこの子を育てていく人生なのか、音十愛(おとめ)は自分が居なくなった後にどんな世界で生きていくんだろうと思ったときに、施設に入ると言う道しかなかったが、もっと選択肢があってもいいのではないか、この子が笑顔の素敵な子だったので、誰かを元気にさせる力があるのではないかと漠然と思っていました。

シングルマザーで経済的にも厳しく生きて行くのが精いっぱいで、私もうつ病にもなり、実家に帰ろうかと思っていたときに、あるきっかけで地元の新聞に私たちのことが連載されることになりました。
重症児のデイサービスを全国で当事者のお母さんが立ちあげることを手伝っている方に出会うことになりました。
その人の「無ければ作ればいい」という言葉にピーンと来たのは、ずーっと自分は何をしたらいいか判らなかった殻?にならなかった部分が、パーンと殻?になりました。
重症児で、高度の医療的なことが必要な重症児を預かる、お母さんの介護疲れを支援出来る施設がないと思って、これをしようと思いました。
同じ様な環境のお母さんがいたりして、頑張るお母さんがいましたが、彼女は自殺をしてしまいました。
大事なお子さんが先に旅立たれて後を追ってしまいました。
何もしてやれなかった自分を攻める気持ちが凄く大きくなって、自分の中に引っ掛かりました。

同じ様な経験をしたお母さんたちから貰う勇気はおおきい、人から貰った一言から明日に繋がると言うことは結構あるので、出会いが結ばれる出会いの場は多ければ多いほどいいと思って、二度と悲しい出来事がないようにとの願いです。
まずこれを選んで、次にもしたいものがあるので、「みらい予想図」としたんですが、制限をかけないように自由にすごせるような場所も作りたいと思っていました。
この事業は通過点だと思っています。
一つ一つのヤマを考えると怖くてできなかったと思います、先の殻?が見えたんです。
誰かの力を借りながらクリアしてゆくしかないと思いました。
色んなことが山の様にありましたが、諦めなかったらクリア出来ました。
強い思いは子供たちの未来です、それからここまで来るのには本当に沢山の人にお世話になりました。
そういう人達の顔が浮かぶし、そういう人達に甘えてきたので、何か返したいと思います。

どんなに障害が重くても、その子なりに発達って絶対あるんです。
音十愛(おとめ)の場合は言葉が増えていきましたし、歩けない子が歩き出したと言うような発達もあります。
脳性まひのお子さんで本当に反応あるのかなと言うようなお子さんでも、お母さんにはよろこんでる反応とかが判るんです、それを第三者が判るまでには時間がかかります、微々たる反応ですから。
自分を表現できることが嬉しいことに変わって、僕をわかってくれる人がいると言うことが、また反応に繋がる。
ここは始まりの一歩で(0から18歳まで)、要求が高いのは、卒業した方が行き場がないと言うこともあるので、18歳以後の方が過ごせる場所が必要だと思って作らなければいけないと思います。
夜もケア出来るところもないので、家族が休息できる場所も必要だと思います。
どんな人でも共存できる、笑顔で過ごせる場所が最終目標です。
手をつなぎながら未来を作っていきたいです。
音十愛(おとめ)は、自分の人生を導いてくれる大事な先生ですね。








2017年11月27日月曜日

橋本淳(作詞家)            ・【謎解き うたことば】日本語学者 金田一秀穂

橋本淳(作詞家)            ・【謎解き うたことば】
日本語学者 金田一秀穂(聞き手)
グループサウンズのほかにポップスも書いています。
その代表曲が「ブル-ライトヨコハマ」。
日本語のベースを作っているような感じがします。
「足音だけが付いてくるのよ。」と言う様な言葉はいいと思います。毒気がない。
後味がいい感じ。
歌手の持っている体質もあるかもしれませんね。(石田あゆみ)
作詞家は歌の世界では影の存在というか、主役はメロディーラインだと思います。
昭和期の後期はメロディーラインで、ダンスが身体で表現する音楽の一つの形になってきているので、そういうものに負けない、メロディー、歌詞がまだ出ていないと思う。
秋元さんは素晴らしくてAKB、乃木坂など、どんどん言葉の世界に歌謡曲をひっぱっていって凄いと思います。

誰からも抑制の無い、そういうところから出てくるものが、次のページを開くためには、そういう力が必要だと思います。
日本語であっても世界に通じるとか、そういうことが出来た時に新しいものが来ると思います。
かつては西条八十、北原白秋とかいたが、 歌手主体となって来る。
私がラッキーな時代に生きたと思うのは、専属制度の中でフリーだったのでこの歌詞はおかしいとか、面白くないと言う様な事を言う人が誰もいない。
今はそれでみんな潰してしまうのではないか、万人がわかるものなどこの世にないと思うんです。
父が与田凖一、作品は読んだことがない。
うちの父親はこどもは大嫌いでした、食事など一緒にしたことが一度もない、記憶にない。
生まれたのは北原白秋の家で生まれたそうです。
北原白秋の家で生活していた。
16歳で免許を取って、壇さんとは子供のころから行ったり来たりしていて、壇さんが亡くなる時に能古島に漁師小屋みたいなものを買って一人でいたが、壇さんとは一時期車で運転手をしてずーっと旅をしたりしたようです。
壇さんは人間としてバランスがいいし、物事の捉え方が素晴らしい。
壇さんから君に足りないのは観察力だと言われました。
人を否定しない先生で、全て肯定して観察眼の中から真実を見つけろと言う様な、そういうことを壇一雄さんから教えられました。
新聞の3面はいつも見ていようと思いました。

客観的な描写が実は気持ちをとっても深く表現してしまう。
想い出を刺激するような歌をいつも作りたいと思っていました。
梅崎春生さんとの付き合いも有りました。(新聞小説からの関係から)
梅崎さんは肝硬変になられて、強いウイスキーをがぶがぶ飲んで亡くなって行く、身の震える様なものを観て来ました。
「桜島」と言う小説で飛行機で自害出来ずにウイスキーで自害する、何とも言えない悲劇、特攻隊と言う悲劇、運命をどうくくるか、壮烈な心の中が有ったと思います。
僕が大学生のころだと思います。
川端康成さんとは父親が交流があって、夏に鎌倉に何年か泳ぎがてら行っていました。
平尾昌晃さんも亡くなりましたが、ぼくと歌を作るなんて思っていなかったともいますが。
平尾さんは僕のようなタイプの作詞家とはやったことはなかったと思う。
「カナダからの手紙」は平尾さんとは初めてうまくいったと思います。
一時期、一日10曲、同時に書いていました。

40歳ぐらいの時に突然売れなくなった。
売れるという予感みたいなものは有ったが、売れそうだと思っても売れないことがあり、気が付いてみたら自分が要らなくなって来たんだと思って、止めようと思いました。
それから41,2歳位で止めました。
20年位で2000曲ぐらいやりました。
時代時代のヒット曲が要るのに、秋元さんのAKB、乃木坂など、そういうものだけではさみしいと思うので若い人が出てきてやってくれればいいなあと思います。
なかにしれいさんは凄いなあと思います。
演歌っぽいしゃけ、にしんがどうしたと言っていても、根は女なんだもの、根底の目が僕に無いもので、本当に力のある女性像というのが僕には想像できない世界、女性を描かせたらあんなすごい人はいない、凄いと思う。
好きな作詞家は岩谷時子さんです、大好きです。
先駆者です、本当にすごいと思いました。

今78歳で、水泳が好きで週に3日ぐらい泳ぎますが、プールから上がって鏡の前に来ると、何だか歳を取った爺さんがいるなあと思うと、自分なんです。
自分の気持ちは泳いでる気持ちなのに、身体は死人のようになっているギャップが自分の中で解決できない。
精神的な世界が歳を取るとどんどん遠くなってしまって、精神的な世界を活発にしようと思う時は肉体が付いていかない。
肉体が衰えてくると、精神世界がどんどん遠くなっていってしまう。
本の中とか、そういうところから刺激を受け無くなって来て、精神力がおとろえてきて、あまり気持ちに影響がなくなってしまう。
だから童話だとかを読んでみようかと思っている。
奥行きのないものと思っているものの中に、以外にそういうものがあると思ったりします。
今の日本の言葉の使い方、言葉は時代とともに生きているからドンドン変わって行く。
それはいつも絶対正しいと思います。
歴史、思想が判っている方がいれば乱れ切っているもの、なんでも歳とともに濾過されていってしまう。

歌詞でもそうだと思うが、日常化したものを日常的に表現して行くから、そういうふうに薄くなるのではないんでしょうか。
AKBとかが同じものが団体になって歌っていると言うのが今の表層の形だと思うが、良い悪いは無いと思います、時が移れば消えていくし、次のものが出てくる。
時代が変わればきっと違うと思う。











2017年11月26日日曜日

山中毅(元五輪競泳メダリスト)      ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】(H23/1/14 OA)

山中毅(元五輪競泳メダリスト)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】(H23/1/14 OA)
今年 78歳で亡くなったオリンピック競泳のメダリスト。
メルボルン、ローマ、東京の3つのオリンピック競泳で4個の銀メダルを獲得して日本中を沸かせました。
特に17歳の時のメルボルン大会と早稲田大学の学生だった時のローマ大会、共に 400m自由形でオーストラリアのマレー・ローズ選手との大熱戦はいまだに多くの中高年の方々の記憶に残っています。
石川県輪島が生んだ世界的スイマーの話を、再放送で聞きます。

昭和31年12月にメルボルンオリンピックが行われたが、当時日本には室内プールは無かった。(冬では練習ができない)
大分県の別府市に50mの温泉プールがあり、そこで合宿を1カ月練習していました。
昭和31年 当時17歳輪島高校3年生の時のメルボルンオリンピック、出場レースが自由形400m、1500m、800mリレーの3種目。
水泳を正式に始めたのが、高等学校1年生(オリンピックの2年前)、国内最終選考で400m、1500mで優勝しました。
当時オリンピックはフリーでは100m、400m、1500m、800mリレーしかなかったので、わたしを連れて行かないことになっていた。
その1週間後に高校選手権があり、日本選手権の記録よりもさらに10秒ぐらい早くなったんです。
それでも決まらなかったので家に帰ってきたら、家にオリンピックに出られると言う電報がありました。

メルボルンオリンピックでは当時地元オーストラリアのマレー・ローズ選手が優勝の可能性が90%以上と言われていて、山中はどうやっても勝てない、アメリカのブリーンを抑えて2位に入ってくれればと古橋マネージャーは言っていました。
昭和31年12月4日、400m自由形決勝、150mまで山中トップ、200m山中、ローズが並んでターン、300mのターンでローズがトップ、タッチの差(0.8秒差)で山中、その後徐々に差を広げて行きローズトップでゴールイン、身体1つ半の差で山中2位。
「3位に入ればいいと思っていたが、今日は調子が馬鹿に良くて2位滑り込んだ、ローズが隣で先に泳いでいるのが判ったがどうしようもなかった。・・・」(当時の談話)
ハプニングがあった、私は間違って3位の台に上ってしまった。
父親は頑固な人で予選で落ちると思っていて、入場式だけはしっかりやってこいと言われて私を送り出して、それが頭にあり、行進の時は初めて靴を履いておおきな豆が出来て、靴はポケットに入れ裸足になって行進しました。(当時靴を履くことはほとんどなく下駄を履くのがほとんどだった)

400mの試合の2日後1500m決勝、前半リードしたが、しかしどういうふうに泳いでいいかわからなかった。
自分のペースが全くできなかった、駆け引きなど何もなかった。
「隣のブリーンをマークしすぎて、ブリーンの向こう隣のローズに気が付かなかった。
1400mで初めて7m先に出てるのが判って飛ばしたが間に合わなかった。
レースは苦しくなく楽に泳げたのでブリーンにとらわれたのが失敗だった。
やはりローズが一枚上でした。」(試合後の談話)
スパートも200m前でと考えていたが、辛くなってきて最後の50mだけを目いっぱい頑張って泳いだが、試合後の談話で言っていることは負け惜しみでした。

当時は輪島から東京に出てくるまで1昼夜かかりました。
海外に初めて行って自分がいかに田舎者であったかと言うこと、メルボルンにいってカルチャーの違いに吃驚しました。
飛行機も初めてでした、メルボルンまで36時間かかりました。
早稲田大学に進学、モットーとして一度負けた選手には絶対負けたくないと言う思いがあり、東伏見の早稲田のプールで練習してきました。
昭和34年に日米豪の水泳選手権があり200m、400mで世界新記録を作る。
小柳コーチから大変な距離を泳がされました。
昭和35年ローマオリンピック、400m、1500m、800mリレーに参加。
前年に自分の泳ぎを見せたが、ローマではこういう風にしようと思ったが、専任の小柳コーチがローマのコーチから外れます。
練習のメモを貰ったが、たまたま1か月前にローマにいってしまって一人で一カ月過ごすことになり、調子をうまく持っていくことが出来ず(1週間前がピーク)、その後1週間で6kg痩せてしまった。(ものが食べられない、一つはプレツッヤーかも、腰を打ったがダメージは少なかった、なんでも悪い方に取っていった)

ローマのオリンピックは3回のオリンピックでは一番印象の悪い大会、思い出したくない大会でした。
銀メダルは取ったが、ローズよりも前にいけると思っていたが、残念だった。
1500mは4位だった。
コンラッズが勝つと思っていて、1500mは自分では捨てました。
ローズ選手は184cm、79kg 泳ぎ方はスムーズだった。
私は力で泳ぐようなフォームだった。
昭和36年南カルフォルニア大学にローズ選手、私それからその後コンラッズも入って来ました。
ローズは菜食主義者でした。
ローズ選手が日本に来たりした時には家に泊まっていったりして、いまだに文通をしています。
2か月間で200mの世界新記録を3回更新する絶頂期もあった。
昭和39年東京オリンピック、ローズ選手は国内予選を欠場しオリンピックには参加出来ず、私は400mで6位という結果になった。
私の取ったメダルは最終的に全部で4個の銀メダル、400mで2個、1500mで1個、800mで1個。
ローマでは自分でも絶対勝てると思っていたが、1週間前にピークが来てしまったと言うことです。
昭和41年に引退することになる。

子供の頃、夏の間舳倉島(へぐらじま)と言うところへ町全体が移動して、あわび、さざえ、漁をしたりして秋に帰ってくる。
相撲をやっていたが水泳は出なくても、1位のノートと鉛筆は貰えました。
母親は海女(あま)で私が生まれる数日前まで海に潜っていたので、山中は生まれる前から海で泳いでいたと言われた。
いつ頃から泳ぎ始めたのかは覚えていません。
肺活量は8000cc、大学の時に測ったが測りきれなかった。
練習らしい練習は早稲田で小柳さんのコーチで教わった時から3年間ですかね。
一番多く泳いだのは1日40000mぐらい泳ぎました。
インターバルで100mを200回(20000m)、制限タイム(1分6秒9まで)の罰則を食うと
追加。

水泳から得たことは、がまん強くなります。
今は厳しく管理されてサイボーグ化してきて、選手の個性がないと思う。
コーチはどんどん先に言っているので選手はいかにくっついていくかということ。
高齢化してきているが、健康維持したいと言うのなら競泳は置いておいて、水の中で運動することがいいと思います。
いい事は血圧が下がるので、水を使って健康になってもらいたい。
私は今は水の中で歩いています。(71歳)














2017年11月25日土曜日

中畑清(プロ野球解説者)         ・トークショー

中畑清(プロ野球解説者)         ・トークショー
昭和29年福島県矢吹町生まれ、安積商業、駒沢大学に進み、昭和51年プロ野球ドラフト3位で読売巨人軍に入団、その後、平成5年にジャイアンツのコーチになり、翌年長島監督を支えて日本シリ-ズに優勝、2004年アテネオリンピックでは長島監督不在の中、銅メダルを獲得に貢献、2年前まで横浜ベイスターズの監督をされていました。

矢吹町は人がいいよ。
子供の時からソフトボールをやっていました。
長嶋茂雄選手にあこがれて、ランニングに墨で背番号3番と書きました。
中学では軟式野球、キャッチャーを最初やらされて、2年生でサード。
キャッチャーではいい勉強になりました。
ジャイアンツに入ってそこそこ名が売れてきたころに、地元の役所の同級生がイベントとしてソフトボールをやろうと話を持ち掛けてきて、やることになり、矢吹町、大信村、中島村の3地区を纏めた大会を9チーム集めてやったのが最初でした、「中畑清旗争奪ソフト大会」、今年で34回になります。(震災の時は辞めています。)
少年96チーム、女子が12チームになっています。
第20回大会の時には長島さんが来てくれました。
矢吹町は人口は1万8000人ですが、2万人近く集まりました。
長嶋さんにも町の人にも恩返しができたと思います。

山の神柏原さん(箱根駅伝で活躍)もこの町でソフトボールをやっていました。
光南高校が甲子園に出場したがその時の選手は、ほとんどソフトボールをやっていた少年たちでした。
大会の費用は自腹でやっていて、最近ですよ矢吹町が補助してくれるようになったのは、名誉町民になるのは当たり前なんだから。(笑いと拍手)
前川清、新沼謙治などを呼んでイベントをやり、町民の方にはよろこんでもらいました。
長嶋さんがいなかったら今の私はいないです。
長嶋茂雄になるぞと言って持ち続けて、長嶋茂雄になるぞと声を発生して発生して行ったら家族、まわりが応援してくれて、そうしたらその環境になってしまいました。
何回も失敗しても長嶋さんは面白い選手だと、使ってくれました。
日米野球の時にも高田さんの守備固めから入って、もう1点取ったら逆転の時に、2アウトランナーセカンドの時に私に打順が回って来て、間違いなく代打だと思った、柳田さんとかいい選手がいて変えられると思ってベンチをチラチラ見ていたら、それを見た長嶋さんが駆け寄ってきて、なにチラチラ見ているんだ、お前が行くんだとケツを叩かれて、打席に送ってくれました。
行ったら逆転2ランホームランでした。

僕に野球人生が花開いてゆくのはその時からでした、入団して3年目の時でした。
もし出なかったらその年でおそらく首になっていたと思います。
長嶋さんの前では常に目立とう精神を発揮してきました、存在感をアピールするのは天才ですから(笑い)、野球は下手でも元気と声と体のでかさを最大限にアピールしました。
色々やっていたらこれは俺に似ているなと通じるものが有ったんだと思いました、気にいられてどんどん使ってもらい、普通の選手の3~4倍は使ってもらったんじゃないかと思います。
7年連続ゴールデングラブ賞をもらいましたが、周りから言わせるとプロになって一番うまくなった選手と言われます。
14年間通算1248試合、4458打数、1294安打、打率は2割9分、621打点、171ホームラン。
記録には残らないが、記憶に残る選手になりたいと思いました。

現役引退後コーチになり、1994年に日本一に貢献。
現役を辞めて3年後に長嶋さんから電話がかかって来て、コーチの要請があった。
何をやりたいのかと言われて(普通監督が決めるものだが)、バッティングコーチをやりたいと言ったら、お前で大丈夫か、バッティングは厳しいぞと言われていしまいました。(笑い)
長嶋さんは良くカンピューターと言われるがそうではない、長嶋さんも王さんもとにかくデータを凄く大事にする。
相手を知り尽くして準備を万端にしてそれから試合に臨むと言うこと、そういう準備は凄く時間をかける。
2004年アテネオリンピック時の日本代表の監督が長嶋さん、ヘッドコーチが中畑。
絶対負けられないという条件が揃っていた。
冗談も言えなかった、苦しい、俺に冗談を抜いたら何もない。(笑い)
ピリピリしたこの空気が1年半続きました。
長嶋さんが倒れたのは間違いなくあの監督就任した結果だったと思います。
1年半、夜もなかなか眠れず俺は6kg痩せました。

長嶋さんがいなくなって自分がトップになってしまって、監督代行でもなく指揮だけ取ってくれと言われました。
宮本 慎也が居てくれたおかげでプレッシャーが半分になることが出来た。
「中畑さん大変なポジション引き受けましたね、このプレッシャーは半端じゃないと思いますし、我々選手とともにプレッシャーを撥ね退けるそういう大会にしましょうよ」と言ってくれて、この言葉がなかったら指揮がとれなかったと思う。
「銅メダル」だった、周りは評価してくれなかったが、僕のなかでは物凄く評価できた。
オーストラリアにだけ2回負けているだけで、自分自身では内容は最高の野球が出来たと思う、選手には感謝している。
色んな事を経験させてもらって、人としての人生の中の大切さを学ばせて貰った1年半の時間帯だったと思います。

2020年オリンピックで福島が野球の会場になっている。
迎えるにあったって一番大事なのは県民の目、歓声、応援、球場があふれるようになることだと思います
是非成功させましょう。
聖火ランナーの最終は長嶋さんにやってもらいたい。
そのまえにバトンを渡すのは王さん。
*「栄光の男」桑田佳祐作詞作曲 長嶋引退の時に作った曲 中畑清が歌う。
「ハンカチを振り振り あの人が引退(さ)るのを 立ち食いそば屋の
テレビが映っていた しらけた人生で 生まれて初めて 割り箸を持つ手が震えてた
「永遠に不滅」と 彼は叫んだけど 信じたモノはみんな メッキが剥がれてゆく
I will never cry この世に何を求めて生きている?
叶わぬ夢など 追いかけるほど野暮じゃない ・・・・・」









2017年11月23日木曜日

カール・ベンクス(建築デザイナー)     ・古民家で集落再生

カール・ベンクス(建築デザイナー)     ・古民家で集落再生
美しい棚田で有名な新潟県十日町市、市内竹所地区には、外壁がピンク、イエロー等の民家が並んでいます。これ等の家は近くに住む カール・ベンクスさんが改築や移築したものです。
ベンクスさんはドイツ、ベルリン生まれで、75歳。
建築デザイナーとして仕事を続けていたベンクスさんは、日本の原風景の中で暮らしたいと、十日町に古民家を購入、自ら改修して移住しました。
ベンクスさんが改築や移築を手掛けた古民家は8軒になります。
それまで地区では過疎化が進み廃村の危機に直面していました。
しかしベンクスさんが関わる古民家が増えるにつれ、古民家や古民家を元に作られた、シェアーハウスに住む人が増えてきました。
若者やや子供が増えた竹所は奇跡の村とも呼ばれ見学者が絶えません。
古民家を蘇らせたベンクスさんの取り組みとはどういうものなのか、伺いました。

自宅も古民家を改修したものです。
約130年、140年前に建てたものです。
新潟は雪国なので頑丈に出来ています。
床暖房とか時代に合わせて作れば住みやすいです。
初めてみた時にはこの家は茅葺で、倒れそうでいた。
こちらに来た時は50歳ぐらいでしたが、この家は100%守りたかった。
ベルリン、パリ、東京といった大きい町にしか住んでいませんでした。
父は日本の大ファンでした、亡くなりましたが日本の文化を残してゆきました。
浮世絵、印籠、脇差、とか、日本の住まいについての本が結構ありました。
日本の暮らし、建築などが細かく書いてありました。
そういったものに触れて私の人生は変わったんじゃないですかね。
ドイツではデザイインを勉強しました。
1961年に東から西に逃げて来て、西ベルリンの会社に入って、インテリアの仕事をしました。
勉強のためにパリに行き空手をやりながら2年半なんでも屋さんで色々やりました。

日本に対しては子供の頃から興味がありましたが、日本は遠くてなかなかいけませんでした。
空手をやって日本の先生と親しくなりました。
1964年の東京オリンピックで柔道をやっていて、合宿でフランスに集まりました。
その時日本大学から空手部が何人か来て、空手を学びました。
1966年に船だと安いので、日本の神戸に着きました。(5週間の船旅)
日本大学で、水道橋に空手の道場があり、そこに通いました。
船上で知り合ったドイツの柔道を習う人がいて、アルバイトの仕事を紹介してもらいました。
日大で午前中は空手の練習、午後はドイツ語を教えることなどをやっていました。
ドイツ商工会の人と知り合いになり、1970年の大阪万博のドイツ館を手伝ってくれるようにとの依頼があり、日本の大工さんと職人などと知り合いになりました。
日本の建物、旅館とか残っていてそれを見たら素晴らしい雰囲気で、ヨーロパで紹介したいと思いました。

1977年、妻と知り合いになり、彼女は東京があまり好きではなくて、ヨーロッパに帰ろうと言う話になりました。
日本の建築と内装などをドイツで紹介しようと思いました。
最初は小さな規模で、ドイツのレンガの建物の中でやりました。
日本人の方で奥さんがドイツ人で 故郷の雰囲気が欲しくて建物の1部屋の内装をしようと言う話だったが、材料もないしドイツ人にはできないので、日本のお客さんと打ち合わせをして、日本人の職人を呼べばいいじゃないかと言うことで、知りあいになった職人さんに話をして2人来ました。
3週間で出来ると言うことで、それで最初始まりました。
出来合いは凄く良かった。
先ず大きな倉庫を借りて、材料がないので石灯籠、庭石とかも持ってきました。
竹もそうです。

ドイツでは内装は40件ぐらいやりました。
建物は4件ぐらいやりました。
最初は仕事はたくさんあると思っていましたが、日本人はあまり興味を持たなかった。
ライン川の隣のおおきな土地を手に入れて、小さな家を作ってお寺もたてました。
新聞で飛騨高山の建物の紹介記事があり、お客さんが興味を持って、偶然に新潟県の竹所に来る機会があり、一緒に十日町に来ました。
倒れそうな家があり、これはドイツには持っていけないと思いました。
でも中に入ってみると頑丈そうでした。
簡単に直せると思っていました。
周りは田んぼがあり、山があり気にいっていました。
ここは過疎化が進んでいました。
でもここでいいと思いました。
茅葺はやめた方がいいとか言われましたが、家を直していきました。
来るたびに好きになって来ました。

1993年秋に解体して翌年基礎から作りなおし始めました。
2年をかけて作りなおし、住めるようになりました。
東京とは違って、妻も気にいってくれました。
村には以前は38,9軒あったんですが、私が来た時には9軒しかなかった。
家を壊す話がありもったいないと思いました。
これを綺麗にして新しくして、住む人を誰か探そうと思いましたが直ぐ電話が来たりしました。
自然が好きな人でこの家を買ってもらいました。
若い人たちが増えて来て、地元の人はびっくりしました。
今は13軒あります。(地元の人たち5軒と新しい人たちが8軒)
修理して住めるようになった古民家がどんどん増えてきて、限界集落と言われていたところが、人口が増えて16人になりました。
インターネットがあるし、村にも10年前から光ファイバーが入っています。
インターネットで新しい仕事が出来るようになりました。
 
仕事が認められて政府からふるさと大賞を貰いました。
凄くうれしいです。
竹所は私の故郷になりました。
最近20年持てばいいと言うような、日本の建物は使い捨てみたいな感じですが、古民家は家族の財産だと思います。
田舎ではまだ残っているので次の時代の子供のために保存すべきです。
一番大事なのは骨組みを残すと言うこと、壁、屋根は傷むので変えなければならない。
時代に合わせて断熱材、床暖房、キッチンなどは10年ごととか20年ごとに替えればばいい。
壊さないで保存すれば後で何とかなる。
「古い家の無い街は思い出がない人と同じ。」 東山魁夷(ひがしやまかいい)の言った言葉ですが、凄くいい言葉です。






2017年11月22日水曜日

岩井喜代仁(茨城ダルク代表)      ・薬物依存からの回復25年

岩井喜代仁(茨城ダルク代表)薬物依存からの回復25年
昭和22年京都府生まれ 70歳、家が貧しく中学卒業後すぐに働きますが、不良行為で仕事を無くします。
18歳で暴力団に入り、その後覚せい剤に手を出したのがきっかけで、薬物依存になって仕舞います。
頭の中は覚せい剤のことばっかりになり、妻や子を捨てて家族や友人との交わりを断ち、警察にも逮捕されます。
幻覚症状などに苦しみ抜いた末、助けを求めたのが薬物依存症の回復施設、ダルクを創設した近藤恒夫さんでした。
45歳の時、近藤さんの支援で岩井さんはやり直しの人生に踏み出したのです。
岩井さんは現在薬物依存症の人達の回復サポートをして、中学生や高校生に自分の体験を語り薬物依存症の注意を呼び掛けています。
人の助けや善意のお陰でここまで来られたと言う岩井さんはカトリック信者となり、祈りと黙想で一日を振り返り、薬物依存に戻らないようにと毎日自らを戒めているそうです。
薬物依存は回復可能と言う強い信念を持って、活動を続ける岩井さんに伺いました。

今の施設のあるところは売人さん(覚せい剤を売っている人)が住んでいたところで、ダルクの事を知った持ち主が誰も家を借りてくれないということで、近藤さんと会って、そこに連れて行かれたのが始まりで僕にも因縁の有った所です。
ダルクは薬物依存回復センターの略です。
23歳の時に組のかしらをしていて、博打打ちでしたが、博打だけでは飯が食えないので、覚せい剤を売るということで、薬を扱いだした時に、当時フェリー会社で近藤恒夫さんが乗っていましたが、薬をよこせと言うことで、お客さんになってはじまりました。
自分も薬を使うようになって止められなくなっていきました。
自分は意志と根性はだれにも負けないから、1回だけなら止められると思っていたが、やめられないところに陥って27歳まで使って、どうにもならなくなりました。
組の掟を破ったので、(薬は売るが使わない)自分の指を落として、それでもやめられずに2カ月後に2本目の指を落して、33歳のときに破門となり組をでました。
薬を売りながら日本中を駆け巡りますが、昭和60年に薬10gの保持で逮捕されて東京拘置所に60日間入れられ、留置所のなかでは真剣に止めようと思いました。
執行猶予で出て、歌舞伎町の若い衆の処に行って薬を要求しました。
拘置所を出てから3時間半後のことでした。

家に帰って、働こうと思ったが働けない、山に入って行って薬を使い始めて、仕事をしたら止められると思って、コンビニに行き雑誌をみました。
最初に目についたのが、不良時代の仲間のことが書いてあって、薬物依存症は病気で辞められない、治らないが使わないでいることが出来ると書いてありました。
近藤恒夫さんの文面でした。(23年ぶりの再会でした。)
近藤恒夫さんは東京ダルクを立ち上げていました。
日暮里で再会しました。
仕事をしたいので保証人になってほしいと言って、調理場を紹介してほしいと言いました。
食事をしようと天ぷら屋に来ましたが、混んでいて食事に有りつけるまで2時間がかかりこの2時間が自分の運命を変えました。
近藤さんはその2時間で色んな事を聞いてくれて、最後に子供を捨てて無いんだと、それなら薬を止められるかもしれない、お前の努力次第だ、俺の仕事を手伝えと言われました。
連れて行かれたのが今の施設でした。
しかしここは俺が薬を下ろしていたところで持ち主は逮捕されていて、持ち主がいないので近藤さんは月1万円で借りていると言うことだった。
東京ダルクに来る人達の入れ墨を入れている人、不良っぽい奴を預かれと言われました。
一緒に生活することによって、給料をやると言われて始めて25年になります。
以後一切薬物は手を出していません。

薬物依存、ギャンブル依存、アルコール依存、食べ吐き(痩せたい為に吐き続ける)依存等色々あるが世界保健機構では病気として認めているが、日本では遅れている。(25年のずれがある)
大麻、覚せい剤、危険ドラックは使ってみるまで自分がどうなるか分からないし、治療法がないから危険ドラックなんだと、日本にある薬物は全部危険ドラックと若い人たちに言っています。
使ったらどうなるかと言うことを話して、みんなで考えてほしいと言います。
①薬を使えば病気になる。
②使ったら自分の身体でどんな責任をもたなければいけないのか。
③薬物から自分の身体を守るのにはどうしたらいいか。
④使い続けたらどこに相談に行ったらいいのか。
⑤人間として使い続けたら自分から何が無くなるのか。
これを伝えるとちゃんと感想文を書いてきます。
最初体験だけ話をしていたが、感動すると言う事を書いてきて薬物防止にならない、怖いと言うことがなくて、5つのテーマで話すとそれぞれ色々と感想文を書くようになりました。

1993年に茨城ダルクに来たが、或る日栃木県の行政から講演依頼が来て、近藤さんと一緒に行って話をしたが、校長先生が家の学校に来てほしいと言うことで、何校かいきました。
県庁と話をして社会福祉法人を作りたいと言って準備を始めているうちに、反対運動が起こりました。
自助グループがあり1953年にアメリカで出来たグループで、地域の中に自助グループのミーティング場を作る、その時に薬物と言うと会場を貸してくれないので、カトリックの教会を借りろということで(神父は理解しているので)、近藤さんがダルクを作るきっかけになったロイ神父が私の友人ウイリアム・ドネガン神父が下館にいると言って、会場を貸して下さいと言ったのがはじまりでした。
ローマから総長が来て、色んな事がある中で僕が洗礼を受けるきっかけになりました。
僕はドネガン神父と聖書の勉強をする訳です。
神様はあなたを作って来て今あなたは私の前に会わせてくれた、今生まれ変わりませんか、洗礼を受ければあなたは生まれ変われる、と言われてやくざの私としては都合のいい話と思いましたが、やってみようと初めて洗礼を受けて変わっていきました。

NAグループのプログラムは聖書に近くて入りやすい、それが生まれたのは1930年代 、のんべえと神父さんが始まりで良く出来ていて、全世界で依存症の回復に行われている。
ダルクは辞めさせる所ではなくて、使わない生き方を仲間とともに学び取る、それがダルク。
自立、ダルク、刑務所、これが唯一薬を使ってきた人たちが選べる道です。
ダルクに来るには深く親が関わってくることが必要。
自分のモラルの棚卸表を作る、今まで生きて来た事を書きだす、プログラムには未来はなく過去、今どうかだけです。
山登りのそう快感、達成感、・・・薬を使わないで山に登って楽しかったという思い、薬を使うのは14歳ぐらいからで子供の頃の遊びを知らない。
最終的にたどり着いたのは褒められたことがないということ、達成感がない、山登りすることによって達成感と握り飯のうまさを感じ始めたときに顔の色が変わる、天然温泉に浸かることによってイライラ感が消えてゆく、ミーティングで喋ると楽しかったという言葉が出てくるようになる。
人間は自然の中で回復して行く。

節分に鬼役を頼まれるが、太鼓を叩くのに園長さんがダルクの子達に叩かせませんかと言うことになり、家族がたいこを買ってくれるようになり、回復への凄い力になりました。
壇上に出て褒められる、拍手が貰える、こんなことはそれまでには無かった。
大切なのは達成感と薬ではない気持ちの良さ、それをいっぱい詰め込むために依って変われる。
ダルクを出てからのサポートはそのグループのミーティング場に行くことによってサポートになる。
日本にNA(自助)グループは300か所ぐらいあり、1500人集まる。
ハワイでは10万人集まる。
日本はようやく治療と言うことに向かいはじめた。
最後に残るのは薬物を使ったための後遺症、統合失調症という精神病、身体の異変に依っての病気を持っている人、こういった社会に戻れない人たちをどうするか。
NPO法人茨城依存症回復支援協会(通称IARSA)と言う障害者の施設を作ってもらったが、薬物で駄目になって生きられない合併症をもった人達の施設を茨木に初めて作りました。

刑務所に行くのを防ぐし、親がどうにも面倒できない子もそこで生活が出来る。
社会にもどれない子達と最終的に一緒に生活することが最終の仕事ではないかと思っている。
親はどこに相談したらいいか、警察には相談にはいけない、海外では薬物の相談窓口がある。
ばらばらになった家族が最後には家族構成が再びできる、これが最終目的です。
30分間、神様との出会い、今日何が有った、どんなふうに生きてきたか、目の前の事をきちっと評価する、その積み重ねが10年薬を使わないで生きてきたという証、それ以外に何もない。
今はダルクは47か所あり、関連施設を入れると77か所ぐらいあります。





2017年11月21日火曜日

五街道雲助(噺家)             ・らくご街道半世紀

五街道雲助(噺家)     ・らくご街道半世紀
平成25年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞し、平成28年度には紫綬褒章を受章しています。
昭和23年墨田区本所生まれ、通好のみの本格化として親しまれている噺家です。
明治大学に入学してそこで落語にはまり大学を中退、古今亭 志ん生の長男の金原亭馬生に入門しています。
弟子3人、桃月庵白酒、隅田川馬石、蜃気楼龍玉、いずれも実力、人気のある落語家3人の弟子を抱えています。

五街道雲助の名前の経緯、二つ目になるときに何かいい名前がないかと思ったが、小粋な名前は好きではなかった。
師匠が俺は隠居したら五街道雲助になると言っていてそれが頭に残っていました。
五街道雲助を貰いたいと伺ったら、お前ならいいだろうと言われました。
本来「五海堂雲輔」だったが、五街道雲助になった。
なった当座は非難ごうごうだった、良い名前だなと言ってくれたのは立川談志師匠だけだった。
今の若い人は雲助の意味を知らない事はちょっとさみしい。
平成25年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞し、平成28年度には紫綬褒章を受章。
最初の賞の時は地味にやっていたので意外だった。
皇居に上がって天皇陛下にお会いすると聞いて、雲助が天皇陛下の前にいっていいのかと思いましたが。
立川談志師匠からは江戸の風を感じると言われました。
芝居話はやっています。

芝居はお袋が好きだったので子供のころから歌舞伎座に連れていかれたりしました。
団十郎、幸四郎、松緑3人が勧進帳を交代でやったのを小学校の頃観てたりしました。
落語もお袋が好きで鈴本等によく行きました。
三亀松(みきまつ)師匠の時は色っぽ過ぎて、子供には聞かせられないとその時はお袋には連れていって貰えなかった。
昭和23年墨田区本所生まれ、(戦後すぐは爆弾あられ屋、せんべい屋)蕎麦屋をやっていました。
子供のころは病弱だったので注射慣れしていました。
さん助師匠は当時爆笑王だった、川柳さん、談志師匠の小ゑん時代とか面白かったです。
両国中学(墨田区の学習院と言われた)にいって、12クラス有りました、そこで挫折しました。
明治大学付属高校に行きましたが、クラブ活動もやっていませんでした。
高校2年の時に進路指導があり、明治の商学部に行きたいと言って、3年の時に受験勉強を開始して商学部に入ることが出来ました。

人前で話すのが苦手で、落語研究会に入ることになりました。
文化祭では落語は花形だった。
新宿末広亭、人形町末広亭、鈴本、池袋にも毎日のように通っていました。
2年の終わりごろ、不可が10幾つありやばいと思って勉強しようと思ったら、教科書が無かった。(全部落語を聞く方に費やしてしまった。)
最初の文化祭ではお袋が聞きに来てくれて面白かったと言われて自信が付きました。
蕎麦屋、鮨屋、天ぷら屋などを父が広げてやるようになりましたが、後を継ぐことはありませんでした。
噺家になって二つ目になった時に父からもそろそろやめないのかと言われました。
噺家になろうと決めて、師匠としては小さん師匠か、馬生師匠かどちらかにしようと思いました。
小さん師匠の家を訪ねていったら、沢山弟子がいて、師匠にも合うことが出来ず断わり続けられました。

馬生師匠の所にいって、2回目に両親をつれていって入門することになりましたが、誰もいないはずの弟子が5,6人ました。(当時落語がブームで多かった。)
噺家の生活が新鮮でした。
師匠は朝の10時から日本酒でちびりちびりとやるわけです。
昼寝して1,2時になると風呂を沸かして風呂からあがって又ちびりちびりやるわけです。
雪駄を履いておかみさんが後ろから切り火をきって行ってらっしゃいと言って、「おう」と言って出かけて、なんと良い師匠なんだろうと、俺もいずれこういうことが出来るんだろうかと思ったがとんでもない、出来なかった、羨ましいと思いました。
当時年始に5.6か所回っていい気持になってしまいますが、今はないですね。
入門当時は「駒七」と云う名前で、1972年にふたつ目になり「五街道雲助」となり、1981年に真打ち昇進。
当時真打ち試験があり、山口百恵の結婚式と同じ日だった。
10数人試験を受けて7人が受かりました。
幹部が桟敷にいて、拍手もないし座椅子に坐っている人が一人いてそれが談志師匠で今までの中で最悪の客でしたね。
今は真打ち試験はなくなりました。

1982年に馬生師匠が亡くなり、残念でした。(54歳)
師匠みたいになりたいと思っていましたが、いきなりいなくなり稽古してもらえないで困ってしまいました。
落語の速記が大変多くて(古速記)、それが残っていて勉強できるので、それに頼った所があります。(調べながら勉強しました。)
44歳ぐらいで弟子を取ることになりました。
桃月庵白酒、隅田川馬石、蜃気楼龍玉。
桃月庵白酒は落とし話、隅田川馬石は人情物もできる、蜃気楼龍玉は圓朝ものが得意でやっています。
それぞれに持ち味があって面白いと思います。
入門志願者は10数人いたんですが、3人でちょうどよかったのかなと思います。
今は孫弟子もいます。
今までやってきた話の中で、こう変えれば面白いかな、と言うようなやり方で話は斬新になるなあと思っていて、そういうふうにやっていければなあと思います。
「なんでもいいんだよ、でもどうでも良いと言う訳ではないんだよ」うちの馬生師匠がよくいっていました。(役がつかめていればどうでもいい)


















2017年11月20日月曜日

東儀博昭(宮内庁式部職楽部首席楽長)   ・【にっぽんの音】能楽師狂言方 大藏基誠

東儀博昭(宮内庁式部職楽部首席楽長)   ・【にっぽんの音】
聞き手:大藏基誠 (能楽師狂言方)
式部職楽部、式部は儀式を担当する部署、楽部は楽を司る部署。
音楽には雅学、洋楽ふたつを仕切っています。
楽士として20~60代まで24名がおります。
私は「篳篥(ひちりき)」、クラリネットを担当します。
篳篥(ひちりき)」も管楽器です。
(篳篥(ひちりき)の解説 篳篥は漆を塗った竹の管で作られ、表側に7つ、裏側に2つの孔(あな)を持つ縦笛である。 発音体にはダブルリードのような形状をした葦舌(した)を用いる。 乾燥した蘆(あし)の管の一方に熱を加えてつぶし(ひしぎ)、責(せめ)と呼ばれる籐を四つに割り、間に切り口を入れて折り合わせて括った輪をはめ込む。)

募集の時期に試験に合格した人が楽部での修行ということになります。
15歳からが受験の資格となります。
実地試験が主になっています。
楽師間では下の名前で呼び合います。
東儀家と大藏家(大藏基誠 能楽師狂言方)は遡ると先祖が一緒と言われているが。
聖徳太子に使えた秦河勝氏が私たちの東儀の祖と言われているが、大蔵家と親しみを覚えているところではないたと思いますが。
大藏家も遡っていれば秦家になるので1000年を越えた遠い親せきになると思います。
雅学は1300年以上の歴史をたどることになります。

*「五常楽急」 演奏
仁義礼智信の「五常」の5つの言葉を基本に作られたというのが「五常楽」で、同じ「急」を何度も繰り返して、何回もやっているうちに、一行目と三目の出だしの音にガイドとして「と」と「ち」と言うのがあてはめていて、「とちる」の語源と言われているが、この「五常楽」です。
ガイドとして笛が鳴ったらその頭に戻ると言うことで、何回も繰り返していてるうちに、あいまいになって来ると「と」と「ち」が逆になってしまうと、とちってしまうのが語源になったと言われます。
(「五常楽」解説:雅楽の舞楽および管弦の曲名。舞楽としては左方の舞で,平舞の代表曲の一つ。4人舞で,蛮絵 (ばんえ) 装束または襲 (かさね) 装束で舞われる。平調 (ひょうぢょう) 調子および品玄 (ぼんげん) の演奏のうちに舞人が登台してから当曲 (中心曲) となるが,この当曲は「序」「破」「急」の3章が完備している珍しい例となっている。「序」のあとに「詠 (えい) 」と呼ばれる特殊な章も挿入され,「急」のあとは「入綾」と呼ばれる「急」の章の反復のうちに舞人が降台して退場する。仁,義,礼,智,信の「五常」を,音楽の「五声」に配して作られたものという。)

雅学は日本最古の音楽。
日本に有った様な歌や舞と、中国、高麗等から伝わってきた舞、楽器を元に作られて音楽を纏めて雅学と言います。
現在の形に完成したのは平安時代です。
管楽器、龍笛(唐楽用)、高麗笛(高麗用)、神楽笛(日本古来の演奏用)の3種類の横笛、
縦笛として「篳篥(ひちりき)」、神楽、高麗、唐楽にも使います。
管楽器「笙(しょう)」と言うのは、高麗笛、神楽笛にも使っていないです。
唐楽には笙(しょう)、龍笛、篳篥(ひちりき)が使われます。
管楽器は家々に伝わる伝承の一つで、「篳篥(ひちりき)」を吹きながら笙(しょう)を吹くことはあり得ないです。
他の楽器の事をやる様だったら、ひたすら(只管)やれと、只おのれの家の管を伝承しろと言うのも、語源のひとつで、「ひたすら(只管)」と言うことです。

篳篥(ひちりき)は短いたて笛、長さが18cm位の竹笛、そこに1寸9分ほどの「ろぜつ」(葦:よし)が入っていて、葦を生えているものから取って、茅葺の屋根の様な所に囲炉裏の方にかざして煤をかける、数十年した家を壊すときに貰い受けて、それを削って夏の一番暑い時(湿気のむんむんしている時)に火鉢の前で、削ってそれを素材にして葦舌(した)を作る。
削り方もめんどくさいし、音をよく鳴るように作ることも年季の要る作業で、篳篥(ひちりき)吹きはこれを一生やらなければいけないと言う修行をうけて現在に至るわけです。
「ろぜつ」はお茶に浸さないといけないので時間がかかります。(お湯だと腐ってしまう。)
お茶に浸けると葦の繊維が締まって来る、消毒になる、口を開かせるためにもなる。
湿らせて葦舌(した)の元には「図紙ずがみ)」という和紙がまいてあり、和紙と篳篥(ひちりき)の「ずもち」と言うところに差し込んで空気の漏れがない様にして演奏するのが、篳篥(ひちりき)の楽器の特徴です。
ダブルリードではないと思っていて、筒リードで湿らせて軽く口が開きます。
*篳篥(ひちりき)の音を披露

小さい楽器からおおきな音が出る。
篳篥(ひちりき)の音域は人間の声と同じように1オクターブちょっとぐらいしかなくて、人間の言葉の様に感じると思われる、心に響くように聞こえる。
楽部生活50年になります。
篳篥(ひちりき)を代々やっていたので、子供のころから吹いていました。
12歳で予科生として入りました。
昼間は稽古、学校は夜間に行きました。
遊びたいと思った事もありましたが、使命もあるし、面白さもありました。

*「千秋楽」 演奏
歌舞伎、相撲でも千秋楽と言われるが、雅学の千秋楽は平安時代日本で作られた曲、仏教の行事の最後に必ず演奏されたと言われている事から「千秋楽」と言われたので、舞台などでも千秋楽と言われるようになったと言われています。
















2017年11月18日土曜日

國森康弘(看取りの“写真絵本”を出版)   ・“温かい死”で“命”のリレー

國森康弘(看取りの“写真絵本”を出版)   ・“温かい死”で“命”のリレー
國森さんは人が亡くなる最後の瞬間まで、家族や親しい人達が見守り看病する看取りの様子をカメラに納め、写真の絵本として出版してきました。
これまでに取材した看取りの現場は国内の100以上に上ります。
國森さんが看取りを取材するようになったのは、海外で多くの人の命が無残に奪われる冷たい死を目の当たりにしたからです。
近しい人々に看取られる温かい死を集めた写真絵本に國森さんはどんな思いを託したのでしょうか。

きっかけは戦争取材がきっかけでした。
冷たい死を戦争や紛争地で知って、自分はそんな冷たい死は無くしたいと思いました。
これからは天寿全うできる温かい死を知って伝えて共有して行けたらなあと思いました。
2000年に地元の新聞社記者になり、2003年にイラク戦争を取材、新聞社を辞めてフリーランスになる。
子供のころからいい加減な性格でしたが、戦争だけはやってはいけないと思ってきました。
イラク戦争で、必ず子供たちが巻き添えになって殺されてしまう、そんな人災を抑制するためには現場での報道が不可欠だと思って、新聞社を辞めてフリーランスになりました。
10年で15カ国近くを取材。
イラク、ソマリア、スーダン等の紛争地、ケニア、ウガンダ、カンボジア等のスラム街、孤児の村とか、生活困窮地を回っていました。
特に子供たちが亡くなって行く姿に衝撃受けました。(銃撃、爆撃、病院が破壊され治療が受けられずに亡くなって行く人たち、子供達)
イラクでは車に仕掛けられた爆弾があって、最初は小さな爆発音が鳴って小さな子の鳴き声が聞こえて、皆が助けようと思って車に駆け寄ると、大きい爆発がドーンとして、何人も亡くなり、女の子もいて亡くなってしまった。
写真を撮るかどうか躊躇しているときに、お前がシャッターを押さなくて誰がこれを伝えてくれるのか、写真を撮って世界中の人に伝えてこの戦争を止めてほしいと言われました。
その言葉がなかったら写真は取れてなかったと思うし、報道して世界に伝えることが出来なかったと思う。
その言葉は自分の胸に深く突き刺さっています。

展示会をしたときに、かわいそうだけどどこか遠くで起きた出来事であって、自分とはかかわりがないとか、命がけであなたがいっても日本の社会が変わるとは思えないとか、行くのは自己責任で国や世間に迷惑をかけるなよ、と言う様な事を言われることもありました。
共感してくれる人もいれば距離作って避けて行く人もいました。
身近な人の命を大事に思うことが出来て、それが出来て初めて遠い立場の人の命も思いやることが初めてできるようになるのではないかと考えるようになりました。
温かい死、悲しくも幸せな死を先ず自分が知って、取材したいと思うようになりました。
新聞記事で温かい死を書いてある記事があり、島根県の病院の無い小さな島に看取りの家がある、そこには幸せな死を寄り添って手伝っているヘルパーさんの話が載っていたので、取材に行きました。
2008年から取材を開始しました、生まれ育ってきたお爺さんさんお婆さんがいて、年老いたらそのまま島の中で亡くなって行くのが自然の流れだったが、最近最後は病院でと言うようなことになるが、死ぬ時だけ島を去らねばならないのが辛いと泣いている人たちがいて、何とかしたいと思ったヘルパーさんがその島で最後までいられるように看取りの家を建てたと言うことです。

今年『いのちつぐ「みとりびと」』と言うタイトルの写真絵本12巻を完成させ出版。
看取られてゆく本人、見送って行く家族、医者等の想い、あとがきには自分の思いなどを含めてつづらさせてもらいました。
2008年から本格的に看取りの取材を始めました。
写真と簡単な説明。
100以上の看取りを取材、れんちゃん(当時小学校5年生の女の子)と一緒に暮らしていたひいお婆さん、たけこさんの事は話は第1巻にあり心に深く残っています。
れんちゃんが大きくなってゆくに従っておばあちゃんは足腰が弱くなり、認知症が重くなり、れんちゃんの名前も忘れて行く。
おばあちゃんが亡くなって冷たくなってゆく身体を一杯触って「大事にしてくれてありがとう」と言って手をしっかり握って、おばあちゃんの土色の手とれんちゃんの血が通っているピンク色の手を見て命のバトンが手渡されていると感じました。

三重県との県境にちかい山奥の君ヶ畑という集落、なみおばあちゃんは認知症も深まっているが、長年一人暮らしをしておる。
生まれ育ちも、結婚、育児、家事、旦那さんの介護、看取った人生、なみおばあちゃんの所には息子さん娘さんがいて、或る時急に息子さんが立ちあがっていった時には息が止まっていたが、娘さんの呼びかけにもう一度息をし始め、手を握って「もういいよ」(もうゆっくり眠っていいよ)という娘さんの言葉に安心するかのように、おばあちゃんは完全に息を引きとりました。
おばあちゃんの顔を見ると目から涙がこぼれていましたが、それを見て「これでよかったんやね、ばあちゃん」と娘さんはぼろぼろ涙を流していました、涙の中にもほほえみのようなものが伺えました。
亡くなっていっても心の中に生き続ける、悲しみの中にも或る安心感が生まれて行くように感じました。

最初は看取り、死の現場は、悲壮感の漂う苦しい悲しい辛い現場と身構えていたが実際にその場にいると、エネルギーを感じてしまいます。
冷たいだけの死とは違って、温かさと希望も感じる様なものがありました。
内側にたまっているエネルギーを見て行く必要があるのではないかと段々思うようになりました。
私たちは生まれてくるから死ぬ、それを肌で知ってほしいと思っていました。
『いのちつぐ「みとりびと」』の絵本を学校とか、自治体などにも取り上げられたりしていて、両親お爺さんお婆さんと一緒に読んでほしいと思っています。
死、生、命のバトンというものを五感で感じてほしいと思いました。
小さいころから知ってほしいと思ったので写真絵本にしました。
生老病死は避けては通れないし、逃げてはいけない、逃げられない。
生きていくうえで死を意識して、家族も、自分もいつかそういう日が来る、だからこそ今日と言う日をどうやって生きるのかを強く考えなければいけないと思っています。

自宅で最期を迎える人は1割しかいない。
れんちゃんが住んでいる滋賀県東近江、永源寺地域では自宅で亡くなる方が5割前後です。
都市部では人のつながりが希薄、高齢者人口が増えて行くが、どのように温かい看取りを実現させているのか、取材しないといけないと思って共暮らしに注目しました。
ガン、認知症が深まったりして、身寄りが亡くなったり、家族では介護出来亡くなった人たちが一つ屋根の下で最後まで暮らすホームホスピス(「ゆずりは」)が小平市に有って、2014年春から通わせてもらいました。
最初はぎくしゃくしていたそうですが、一緒に暮らすうちに、同時代を生き抜いてきた苦労を分かち合って、身体、心の苦痛を分けあっていたわるようになります。
皆で看取る温かい旅立ちがあります。
地域によって事情は違うとは思うが、地域地域の人のつながりを築いていけば、その中で温かく満たされてゆく、そういった営みが出来ると思うようになりました。

豊かな看取りが出来る社会とは、大前提は戦争があってはならないし遠ざけなければいけない、社会的弱者に優しい社会が大事だと思います。
命のバトンリレー、あなたが生まれてくるのには両親、祖父母・・・、100万人存在する。
自分の命は何百万人の命もかかわっていることを意識することがないと、他の人、遠い国の人のことを思いやれないのではないか。
戦争、貧困に関心を持ってもらうことが必要だと考えています。
写真を撮る人、映っている人の共同作業で、それを観る人、それぞれどう共鳴するかは千差万別で、自分の人生経験と照らし合わせながら一枚の看取りの写真を観ると言うことで、看取りの写真は自分ごととして、心を膨らませていって捉えていって欲しい。
戦争で亡くなって行く子供たちの事を思い浮かべながら日本のお爺さんお婆さんにカメラを向けて来ました、世界中の子どもたちがお爺さんお婆さんの様に、命を全うして命のバトンを繋いでいけるような世の中になればいいなあと思って撮っています。










2017年11月16日木曜日

飯島春光(篠ノ井西中学校 社会科教諭)  ・教室に残る満蒙開拓の“現在”

飯島春光(長野市立篠ノ井西中学校 社会科教諭)・教室に残る満蒙開拓の“現在”
飯島さん64歳、1930年代から終戦までの間におよそ27万人の日本人が国の政策満蒙開拓のために旧満州、中国東北部へ渡りました。
終戦直後の混乱の中8万人もの命が失われ、家族と離れ離れになった多くの子供たちが中国に取り残されました。
開拓団に全国で最も多い3万3000人を送り出した長野県には、戦後70年以上たった今も中国から帰って来る人がいます。
長野県でそうした中国帰国者の孫、曾孫を教えてきた飯島さんは家族の歴史をしっかり学び堂々と生きていって欲しいという思いを胸に日々教壇に立っています。

中国帰国者の方々が大勢住む団地があり曾孫、10数人が通学しています。
私が勤務した2000年以来、10数年変化なく毎年のように、多くは黒竜江省からの転入生がいます。
旧満州では、遼寧省、吉林省、黒竜江省が有ります。
今でも中国から長野県に帰ってきています。
県の数字では300人近い中国帰国者がいて、2世、3世までで4000人弱です。
今現場の学校に来ている人たちは4世で、赤ん坊の5世を含めると少なくとも1万人いるのではないかと思います。
彼らは日本で生まれて、普通に日本語を話せますが、家に帰ると日本語の不自由な親、祖父母と一緒に暮らしています。
おばあさんが病気のため通訳のために休んだと言うようなこともあります。
言葉の問題、文化、経済が日本とは違うので、さまざまな困難をしいている側面があります。
彼らは日本語は話せないが日本人です。

今から17年前、初めて中国から帰国した子供たちに接して、言葉が判らなくて、クラスメートから聞くに堪えないようなことを言われていたことが多かった。
中には殴り合いのケンカになることもありました。
中国では日本人と言われ、日本に帰ってきたら中国人と言われて、一体自分はどこの国の人間なんだと、振り絞るような叫びで訴えた子供もいました。
中国から帰って来た人々に対して受け入れずに、差別する心があったと思います。
心細い思いでいる転校生にたいして、冷たい態度を取っていた。
転校生が中国から来た子たちと言うことです。
歴史への無知があったと思います。
彼らがどういう空気を吸って、どういうところで生きて来たんだろうと、それを知らないと授業にならないと思って、2002年に中国黒竜江省に行ってきました。
いろいろ交流してきました。
写真を見せて話をしていたら、彼らとの距離がぐっと縮まったと思いました。
社会科新聞に自分の祖父母の事を書いてもらいました。

或る14歳の女性は混乱の中はぐれて、4人の女性たちと逃げたが村人たちに囲まれて、手に鎌などをもった人たちがやってしまえと言って取り囲んだが、村の老人が説得して4人を助け、その後3人は中国人の嫁に貰われていった。
彼女は14歳なので、おじいさんと共に過ごして、結局15歳でその家の嫁さんになりました。
翌年子供が生まれてその子が3歳になった時に、日本のお母さんと連絡が取れて、帰って来いと言われるが、置いて帰る訳にはいかず、11人の子供を産んで現地で生きてきたと言う方です。
或る人は推定2歳で衰弱しきっているところを中国人夫婦に育てられて、小学校高学年で違う村の子と一緒に学ぶようになり、子供達から中国人の生活が苦しいのはお前の親のせいだと言われたそうで、養父母の事を思ってじっと耐えていたそうです。
中国の学校の先生はこの子のせいではないと守ってくれたそうです。
又収容所に入って兄、弟1人が死んでしまって母と弟と3人になってしまって、がりがりにやせ細ってしまって死を待つばかりだった、当時15歳でここで死ぬと言ったが、中国人が入って来て助けるので家に来なさいと何度も言われて中国の家に行き、段々体が回復してゆき、翌年昭和21年に母と弟は日本に帰ることになり、その方に3カ月経ったら迎えに来るから残りなさいと言われた。
助けてくれた御礼としてお嫁になりなさいと言うことだったようで、中国でずーっと生きて来たと言う人もいました。

中国から帰った生徒たちは、彼ら自身も祖父母が中国で助けられたことはわかっていても、詳しい状況はよくわかっていないので、極限状態の中どのように失われたのか、助けられたのか、それが自分にどのように繋がっているのか、歴史をきちんと知ってほしいと思いました。
彼らは必ずルーツと直面する訳ですが、祖父母への感謝を胸に収めながら堂々と生きていってほしい。
自分の一族の歴史を知ってお互いを尊重し合える大人になってほしいと思います。
本格的に或る方の事を授業で扱ったのはその方の孫がいるクラスだった。
おじいさんは開拓団でソ連が攻めてくるなかで集団自決をすることになり、当時14歳だった彼は俺は生きて帰りたいと言うことで、回りは理解して日本に帰れたらこういった状況を説明して欲しいと言うことで、周りの人はお金も差し出してくれました。
そのことを授業で話しました。(涙ながら話始める)
クラス全員が泣きました。
「先生あれはいい授業でしたね」と言ってくれました。
他のクラスでも誤解偏見がとれて差別が無くなっていきました。
ある女性の生徒が塾で隣の学校の生徒と話をしたときに、そんなのテストにでないよと言ったそうで、彼女はテストにいい点を取るために授業をやっているのではなく、人間として絶対に忘れてはいけない事柄、知識を詰め込むことに意識を集中する事だと云っています、でも点数とは何かと云うことです。
生身の歴史を大事にしていきたいと思っています。
時節を通して学び考える、そこから得て生きる力となるものが本当の学力だと思っています。

私の村から、(東索林)埴科郷(はにしなごう)、という「大地の子」のモデルになった開拓団に6家族が行っている。
我が家の近くにも合計すると60戸程の中で15人の方が旧満州で亡くなっています。
教科書に載っている満蒙開拓は知っていたが、身近にいる人たちがそういった事実が有ったことは全く知りませんでした。
親も語りませんでした。(親から子へ歴史が語り継がれてこなかった)
学校の授業でも具体的な事例は扱ってもらえなかった。
17年前赴任した時に中国から沢山子供たちが来て、これはしっかり勉強しないといけないと思いました。
事故で5年間休むことになり、職場復帰して3年たって篠ノ井西中学校に赴任しました。
母親も脳梗塞でそちらにも行かなくてはいけなくて、遅れを取り戻すことが精一杯で詳しい歴史を教えることが出来なかった。
教師としての悔しさを強く感じていました。

彼ら自身がどういう歴史を負っているのか、周りの子にも教えてあげないとだめだと思いました。
満蒙開拓の詳しい歴史を教師も知らなかった。
自分のルーツを知らない、ルーツを語るすべがない、自分はこういうわけでここにいるんだと言うことが皆に言えない、そういった子どもたちにその子のよって立つ歴史をきちんと教えることが一番大事だと思いました。
中国人に命を助けられた事をさらさらといえばいいと言っています、そして堂々と生きなさいと言っています。
今年度末に退職することが決まっています。
6月に例年行われる学習の一環として、「自分が当時の子供なら君は満州にいくであろうか」と言うテーマの授業をしているが、今までは私一人でやって来ましたが、7クラスそれぞれ担任の先生が授業しました。

長野県の平和教育は満蒙開拓の問題を抜きに語れないと思っています。
長野県の全ての市町村から開拓団ということで満州に渡っていった。
現在でいう中学2年生全てに教師が満蒙開拓青少年義勇軍への志願を呼び掛けていったという歴史がある訳です。
これからも学習への協力はしたいと思っています。
満蒙開拓の学習をするということは戦争の時代の学習をするということで、戦争の様々な側面にも目が行きます。
沖縄戦、特攻隊、原爆、長野空襲、松代大本営、アウシュビッツ、インパール作戦など多岐にわたって調べました。
人を愛する人間として、どう生きることが本当に人間らしい生き方なのかと言うことを、自分の頭で考えて行動できる人になってほしいと思って授業をしています。
開拓団の入った土地の多くは中国人が耕していた土地で、自分たちの土地を奪った侵略者だと言うことで、それにたいする反感が襲撃の背景にあったと思います。

一方、命を助けられた人もいて、国と国の関係ではなく人と人の関係の中で一人の人間としてお互いを大切にしながら生きていきたいと思います。
満蒙開拓の授業の発展として、自分の家でも家族の戦争体験を聞こうね、と呼びかけています。
事実を自分の目でしっかり見つめて学んでほしい、自分の頭で考えて行動できる大人になってほしいと思います。
どういう未来を作っていったらいいのか、そういうことを考えられる子供に成っていってほしいと思います。








2017年11月15日水曜日

笠原知子(カンボジア・美術スクール主宰) ・美術を通して生きる力を

笠原知子(カンボジア・美術スクール主宰) ・美術を通して生きる力を
1948年昭和23年栃木県生まれ、1974年東京教育大学大学院芸術科を卒業、28歳のときに都立高校の美術の教師となり31年間現場で教えました。
2007年定年の1年前に退職し、ある程度自分の人生を生きたら、どこかアジアの国の子供たちの支援をしようと言う以前から抱いていた思いを実行することにしました。
笠原さんが美術スクールを建てる国探しをする中で、選んだのがカンボジアでした。
カンボジアは1975年4月から3年8カ月に及んだポルポト政権時代に、社会制度が徹底的に破壊され、その後学校教育は復活したものの教育できる人材が育っていない状態でした。
笠原さんはさまざまな困難に直面しながらも、2008年12月、アンコールワットのある町、シェムリアップに小さな美術スクールを立ち上げました。
現在350人が学んでいます。
美術スクールの開校10周年を記念して、10月中旬の1週間東京銀座の画廊で絵画展が開かれました。
絵画展のために6人のカンボジアの青年画家をつれて一時帰国した笠原さんに伺いました。

絵画展は大変多くの日本人の方が来て盛況でした。
約200点持ってきました、年齢は4歳から30歳までです。
カンボジアに2007年に来ましたが、活動を始めてから日本の人に見せたらどうかと言う話がありギャラリーの方が無料で貸してくれて、絵を売りまして彼らの生活に活かせるようにと思って作品展をしています。
6人の方には絵の具工場で絵具の作られ方とか、版画の勉強などもして貰っています。
彼らは飛行機、電車に乗るのも初めてです。

7歳で母を亡くして、7歳で人の人生に終わりがあることを感じました。
小学校4年生の時に、桜の写生会で桜の老木が根を張って根から若葉を出して花が咲いて、生きているんだなと実感して、絵を描くのは面白いと思って絵が好きになりました。
終わりのある人生をどう生きたら自分が納得できるかと考えて、美術を選びました。
人生の最後はちょっと人の役に立つことをしようと漠然と考えました。
ゴーギャンのタイトルについても考えさせられました。
「我々は何処から来たか、我々は何であるか、我々は何処へ行くのか」
大学院卒業後、フリーの画家として作品を描いていましたが、その後28歳で教師になり都立高校4校経験して、都立新宿高校では11年間勤めました。
赴任した時には3人の女性教師しかいませんでした。(女性の生徒は1/3でした)
新入生にたいする案内書、ゲーテの「生き生きと生きよ」新入生にたいする新宿高校の伝統から考えられた贈る言葉だと思います。
31年間教えて定年1年前に退職しました。
段々教師も締め付けられるようになって来て、追い詰められたような感じがして、資金も出来てきたのでカンボジアで自分の新しい生き方を試してみようと思いました。

ネパールを対象にしようと思ったが駄目で、インドはきついと思って、カンボジアの方と東京で知りあって、その方のいった、「ポルポト政権時代は何処からも何の助けもなく真っ黒な時代」と答えてそれが印象的でした。
2003年に初めてカンボジアに行きました。
2005年に土地を買って、2007年に学校建設を始めて2008年に開校しました。
電気、水道、ガスもない、すごく驚きました。
1975年4月から3年8カ月に及んだポルポト政権時代に社会制度が徹底的に破壊されました。
子供達は10年前はゴミ拾いをしていましたが、今は減ってきています。
貧富の差が激しい感じはします。
社会保障制度が全くないので、家族がお互いの収入を持ちあって何とか食べていく状況に有ります。

20年間貯金をして退職金を投入して、自己資金で学校を建てて、完全無料の学校を目指して始めました。
土地の登記台帳がちゃんとしていない、購入した土地の道に関する政府案との対立で訴えられて5カ月工事が中断しました。
住民案を拡張するということで調整が付きました。
カンボジアでは外国人は土地を買えないので、名前を借りますが、このままだと危ないので名義変更した方がいいと言われて、お願いしたがなかなかOKして貰えず大変でした。
悪いことをしに来たのではないのに、どうしてこういう目に会うのか、考えさせられた時がありました。
色々なことが同時進行して、解決する見通しが立たなくて、髪の毛が抜けて禿になり、胃を痛めて体力を落としてデング熱にもなり、初めてカンボジアで入院しました。

最初は1人男の子から始めました。
日本語学校だと思ったらしい。
兄さん、友達が来て、絵の学校だと言うことで絵を描きだしてそれがスタートでした。
最初何を描いていいかわからない、経験がない、絵を見たことがない子がほとんどです。
或る学校に教えに行ったときに、90人いるうち絵の具をもった子は2人で、親の出稼ぎ先のタイで絵の具を使ったと言うことだった。
生徒は一時期は400人を越えましたが、今は350人位です。
日本語の教室も行っています、貧しくて月謝(10ドル)を払えないので学ぶ事もできない。
このスクールでは完全無料でやっています。
2013年までは私の完全な個人資金でやって来たのですが、子供たちの作品を見てくれた方々、大学の後輩が活動支援システムを作ってくれて、会員制サポートクラブを作ってくれてすこし資金援助をして下さってもらっています。
ある企業の方がインターネットのウエブサイトに資金援助のサイトを作って下さって、送ってくださっています。(100%だった個人運営資金が43%になりました。)

画材は日本から1トンの画材を送ってそれを使っていましたが、カンボジアでも外国産ですが買えるようになって、購入しています。
子供たちの作品展を日本でやった時に、日本の絵の具メーカーの社長さんが見て素晴らしいと言って下さって、絵の具を寄付してくださっています。
展示販売活動、坂田優子さん(小さな美術スクール・アートコーディネーターとして制作、広報等を担当。) 事業組織にした方がいいと言うことで販売活動しています。
大きくなった子供達が出張授業にいってやっています。
日本にいた時は豊かさに疑問をもたなかったが、色んなものがたりていない国での生活でありながらも、人間としての一番基本の大事なものを忘れないでいると思っています。
子供達は家の手伝いをしないと成り立たない。
喜捨精神、年老いた老人、地雷で手を無くした人たちが物乞いするが、カンボジア人が喜捨していますね。
自分も困っているが貧しい人が貧しい人を支えていると言う感じはします。
子供たちの目の輝きには感動します。(内面からの力)
後継者、展覧会に来た人たちの何人かは継いでくれると思っています。
こういった形になってきたのも、通訳の青年チウ ヒーア(2006年度日本語スピーチコンテスト優勝。現在、小さな美術スクール通訳及び日本語教師の傍ら美術制作にも励んでいる。)がずーっとやってくれたおかげ、坂田優子さん、多くの方の善意で色々なことが出来るようになってきました。







2017年11月14日火曜日

森裕美子(理科ハウス館長)           ・子どもたちに科学の夢を

森裕美子(理科ハウス館長)       ・子どもたちに科学の夢を
神戸大学を卒業して中学校の数学の先生をしていましたが、結婚を機に退職して東京に移り住みました。
戦前の高名な物理学者、石原 純博士を祖父に持つ森さんは,祖父の著作「子供の実験室」を読んで感銘しました。
森さんは子供達に遊びを通して科学の面白さを知ってもらおうと、シャボン玉やあぶり出し等の作り方、その遊び方を書いたミニコミ誌を作り近所に配りました。
このミニコミ誌は評判になってインターネットに掲載され世界にまで広がりました。
この体験から森さんは子供たちの身近にある科学館をコンセプトに、平成20年自宅近くに建坪30坪の2階建ての科学館を作りました。
館内には子供だけでなく、大人でも楽しめる企画が所狭しと展示されています。
これまでの入場者数はおよそ3万人、3年前にはノーベル賞を受賞された小柴 昌俊さんの科学教育賞も受賞されました。

「蟻地獄釣り」がある、棒に糸を付けたものを蟻地獄に垂らす。
蛇の卵が置いてある、鶏の卵の半分よりちょっと大きめ。
さまざまなものが展示されている。
40~50位展示されていますが、全部見るには一日では足りないと思います。
本は2000冊以上あると思います。(それ以外に貸出がある。)
生物、物理、化学、地学、数学など色んな分野があるので自分の好みに合わせて楽しむように作ってあります。
2階への手すりにDNAが展示されている。
屋上は天体観測が出来るようになっている、年に1~2回望遠鏡を取り出して皆さんと一緒に星を眺めています。
トイレのなかも展示に使っています。

20年以上前に子供と一緒に科学遊びを楽しんでいました。
子供たちが大きくなってしまって、近所のお子さんに科学遊びを紹介しているうちに、こういう場所があったらと思って作りました。
「なるほどの森」平成6年発行の第二号。
自分の体験談を友達に配ったりしていましたが理科の先生の目にとまり、広がっていって、やめられなくなりました。
シャボン玉遊び、インターネットにホームページを知り合いが立ち上げてくれて、全国誰もが読めるようになりました。
英語になったり、フランス語にもなりました。
兄がアメリカにいたので訳してくれました。
あまりお金がかからなくて科学実験が出来ると言うものを、海外の学校で紹介した大学の先生がいて、もっと紹介したいと言うことで「なるほどの森」が英語になっていればいいねと言うことになり、兄がやってくれました。


祖父が書いた「子供の実験室」という本があり実験を取り混ぜながら子供達が実験してゆく様子、どうしてそうなるかと言うのを物語で書いていて、それを読んで余りに面白かったので是非子供達にも読ませたいと思いました。
自分なりの科学遊びを紹介する方法としてミニコミ誌を書こうと思いました。
「子供の実験室」は昭和3年発行のものでした。
祖父はスキャンダルの物理学者として有名になった一面もありますが、石原 純像は本当とは違っていると言う思いがあり、正しい石原 純像を伝えたいと思いまして、ちゃんとした資料を公開して石原 純像を伝えていこうとの思いもありました。
祖父は理論物理学者で、アインシュタイン博士が日本に来たときに通訳などもしました。
私は大阪で4年数学の教師をしていて結婚後東京に来ました。

「なるほどの森」が知られるようになりました。
出版社の方も興味をもつようになり、教科書にも載りました。
国の全国にある科学館を結んでいくような事業にも参加するようになりました。
地域科学館連携支援事業、学校とのつながりを持つようにということで、文部科学省が支援する為の助成金を出すので、その事業の選考委員に成るようにとの声がかかりました。(6人のうちの1人)
6年間やっているうちに、何に困っているかを見てきて、自分だったらどういった科学館をやりたいとの思いがつもっていって、身近な科学館にしようと思い到りました。
展示してあるものの意味が判らないものがあり、これを解消したいと思って、そばに聞ける人がいればいいと思いました。
この二つを解消するためには、小さければ出来るのではないかと思いました。
この科学館では二人で説明などをしています。

サイエンスカフェ、実験ショー等もやっています。
世界中を回っている写真家に月について講演をして貰ったりもしています。
色々講演をして貰っています。
サイエンスカフェでは来館者の人たちが聞きたい事に合せて、講演依頼しています。
実験ショーでは実験の前に結果を予想してもらって楽しめるようにしています。
入館料は大人100円、子供は無料です、ショップで色々な物を売って、オリジナルTシャツをインターネットで販売しています。
その収益で運営にも使っていますが、まだ足りない状況です。
義父が残してくれたものがあり、それを使わしてもらっています。
森一郎 「試験に出る英単語」を出版していました。(元日比谷高校の英語の教師)
ロングセラーでこの印税を運営費に当てています。
21世紀の子供たちに、自分が出来ることをやっていけたらいいなあと思います。
3年前にはノーベル賞を受賞された小柴 昌俊さんの科学教育賞も受賞しました。
子供たちの主体的な学びが出来ていると言うことで、優秀賞を頂きました。
子供たちが展示などに関わっていることが評価されたと思います。
















2017年11月13日月曜日

前原正浩(国際卓球連盟副会長)       ・なぜ日本卓球は強くなったのか

前原正浩(国際卓球連盟副会長)    ・なぜ日本卓球は強くなったのか

リオデジャネイロオリンピックでは男子シングルスで、水谷隼選手が日本人で初めて個人種目のメダル、銅メダルを手にしたのを始め併せて3つのメダルを獲得、今年の世界選手権でも10代の選手を含む日本選手の活躍が目立っています。
何故日本の卓球が強くなってきたのか、国際卓球連盟副会長に伺いました。

小学生選手から良い教育、技術をしてゆくことが非常に大事だと思って2002年からそのようなことを始めたのが良かったのではないかと思います。
私は大学は明治大学で卓球を続けて、社会人では協和発酵でプレイをして、現役を退いてからは日本の代表監督、育成の立場に変わって行って、現在は日本卓球協会の副会長、国際卓球連盟副会長をしています。
現役時代は昭和56年に全日本選手権でシングルスとダブルスのチャンピオンになっています。
卓球は小学校4年の終わりごろから始めました。
1950~60年代は日本の卓球が強かった時代です。
本当に卓球をやりたいと思ったのは、小学校6年生の時にTVで全日本卓球選手権の決勝戦をやっていて、木村興治さん、長谷川 信彦さんの両者が卓球台を隔てて、二人が丁寧なお辞儀をしていて、こういうところで自分も全日本卓球選手権が出来る様な選手になりたいと思ったのがきっかけでした。

28歳のときに全日本卓球選手権のチャンピオンになりましたが、早い方では無かったです。
1981年の9月に国際大会があり、荻村さんが来られて、ミーティングがありました。
前原君は今回が最後のチャンスだと思ってくれと言われて、自分のプレイスタイルを変えないといけないと思って、両面にラバーを貼って、片面は回転のかかる、裏は回転のかからない同色のラバーを使って(当時は色の指定は無かった)、変化させる手法を使って全日本選手権で勝つことが出来ました。
1977年が初の世界選手権の出場で、1985年の時はプレイイングコーチでした。
その帰りの飛行機で荻村さんが、前原、監督をやらないかと言われました。
帰国後、人事部長、卓球部長と相談して最終決断して、監督をひきうけることにしました。
1988年ソウルオリンピックから卓球がオリンピックになって行くところだが、かつての栄光から離されて苦しい時期であった。
1981年に卓球が正式オリンピックになることが決定されたが、スウェーデン、ポーランド、フランス、ドイツ、ベルギーといった国々が、強くなっていった。

当時は都道府県の理事長さんにお願いして予算が無いので施設料、宿泊代を持っていただくような交渉をしながら合宿をやっていただけるところを探してやるような実情でした。
当時の日本のプレイスタイルはフットワークが良くて、サーブレシーブもよくチャンスボールを叩くような感じでした。
中国はライジングボールを叩く、ヨーロッパはフォアーハンド、バックハンドもおなじような威力を出すようなプレイスタイルだった。
バックハンドを狙われてお手上げな状況になると言うのが日本の負けパターンだった。
日本に対する戦術が決まっていた。
2000年に15年ぶりに男子団体で銅メダルを取ることが出来たが、2001年に世界選手権があったが13位と言う成績だった。
小学生が卓球をやり始めて或る程度の選手に対して、世界で戦えるようなプレイスタイルを植え付けていかないと、世界で渡り合えるようなプレイスタイルにはならないと思いました。

発育発達に合わせたトレーニング、メンタルな面、何を食べれば身体の成長、スタミナの維持にいいかとか、栄養の勉強もしないといけないと思いました。
2001年の10月からホープスナショナルチーム(小学生)を創設しました。
小学生の全国大会でベスト16と将来性のある子を含めて20名の選手と指導者とで合宿を計画してやり始めたのが2002年2月からでした。
①世界基準のプレイスタイルを教える。
②発育発達に合せたトレーニング方法。
③メンタル
④栄養
この4本柱でスタートしました。
水谷選手もここに入っています。
石川選手、丹羽選手、松平選手,吉村選手などが小学生のころから合宿に参加しました。
中学、高校の指導者の方々も熱心にやってくれた結果、今があると思います。
指導者のスキルも上がったと思います。

小学生に対しての指導には特に抵抗などは無かったです。(映像等で説明したりした)
今でも映像を使って国際大会の傾向などの伝達講習会を続けています。
当時は映像を作る事自体も大変でした、当時撮ったものが家には今もビデオが800本有ります。
1980年代はVHS時代で、デッキ、カメラ、海外に変圧器も持っていかなければいけなかった。
映像での解説、教育はスポーツ界でも最初の方だったと思います。
2008年にナショナルトレーニングセンターが出来、365日に近い使用率でやっていました。
1976年にヨーロッパに行ったときに、ナショナルトレーニングセンターが有りました。
JOCにはナショナルコーチアカデミー事業、キャリアアカデミー事業、エリートアカデミー事業の3事業がある。
エリートアカデミー事業は卓球とレスリングがスタートした。
スタッフと試行錯誤しながら改善を重ねて成果が出てきたと思います。

卓球だけではないと言うことを知ってもらうために、漢字、算数も入れてもらってプログラムを組みました。
心の大切さもメンタルの先生からもレクチャーして貰ったりしました。

トラブルに対して(ミスジャッジ等)、選手、コーチなどの心も動揺するので、その時にどういう言葉掛けをするか、どうコーチは動くかと言うことが大事で、もたもたしていると平常心ではなくなり、プレイに集中できなかったりするので、そういったこともビデオに撮っておいて、選手、指導者に対して伝達ミーティングの場で今でも活用しています。
(リスクマネージメント)
教材を見付けるのも指導者の役割だと思っています。
「何もしなければ何も生まれない」(新しいものは決して何も生まれない)
卓球協会への登録は28年度は33万3567人、14年前は25万8000人、7万5000人がこの間に増えている。
リオで男女がメダルを取り、特に個人戦では初めてメダルを取ってくれた表彰の時に、ギフトプレゼンターに選ばれて、その時は感無量でした。
6月の世界選手権大会では頑張ってメダルを取ってくれて、うれしい気持ちになりました。
卓球の場合は更なる国際競争力の向上、卓球ファンの拡大、卓球に携わる方々の健康と安心した人生の環境を作らないといけないと思います。
世界の事を考えると、平和な社会、平和な交流を続けていく役割としてスポーツがあるべきだと感じています。










































 

2017年11月11日土曜日

白阪琢磨(国立病院機構大阪医療センター) ・エイズ治療最前線の30年

白阪琢磨(国立病院機構大阪医療センター) ・エイズ治療最前線の30年
  (HIV/AIDS先端医療開発センター長)
12月1日はWHO世界保健機関が定めた世界エイズデイ、この日を挟んだ11月28日から12月5日はエイズ予防週間です。
厚生労働省のエイズ動向委員会の報告に寄りますと、わが国のエイズ患者は1980年代統計を取り始めてから増え始めていて、2016年には437人が新たにエイズ患者と報告され、感染経路の87%は性的接触でした。
エイズ治療の最前線に立ち続けてきた国立病院機構大阪医療センターのHIV/AIDS先端医療開発センター長白阪さん(61歳)を訪ねてエイズはどのように発症するのか、感染を防ぐにはどうすればよいのか、日本でのエイズ医療の歴史をたどりながら伺いました。

エイズはかつては死の病と言われた、感染すると10年ぐらいでエイズになって1年ぐらいで亡くなっていたが、1996年ぐらいに新しい治療法が出来て、死ぬことも無くなり、早くから薬を飲めばエイズになることは無くなった。
慢性疾患と同じ病気になりました。
薬をやめてしまうと又ウイルスが増えていってやがてエイズになる可能性が高くなる。
1996年ごろはアメリカ全土でかなりの患者さんがいて、多くがゲイの方だった。
ロビー活動から大統領に声が届いて、クリントン大統領がエイズ対策を国のトップの一つに挙げられ、薬を作ることに力を入れて、薬を飲む時間を分刻みで決めたり、色々な条件で沢山投与された。
仕事を辞めて薬を飲むことに専念した人もいた。
薬の開発が進んで行って今では1日一回一錠でいいです。(一つ飲めば3種類が飲める)
注射薬も開発されて、月に一回で良いと言うようになってきています。

副作用も当初は吐き気、下痢、頭が痛い等有ったが、最近ではほとんどなくなりました。
HIVのウイルスは変異しやすい、自分が増えるときに姿を変えると言う特徴があるので、増えなければ姿を変えようがないので、薬を飲めば増えない。
HIVが私達の身体に入ってきたときに、自分の持っている酵素、タンパク質の中に逆転写酵素、インテグラーゼ酵素、プロテアーゼ酵素、が無いと増えない。
今使われている薬は今3つの酵素をそれぞれ抑える薬なので、これを飲んでいるればウイルスは増えようがないんでおとなしくしている。
年間200~300万円の薬剤費ですが、健康保険が使えます。
この疾患に対しては身体障害手帳の対象疾患になっているので、月1万~2万円で済む事もあります。
HIVとエイズは混同して理解している人が多いと思いますが、エイズは病気の名前、原因を調べるとウイルスだった、そのウイルスの名前がHIV。
HIVに感染すると、CD4陽性細胞という免疫細胞に感染して、段々数がゆっくり減っていって、あるラインより下ると免疫が弱くなって、身体に住んでいる色々な菌が暴れ出して、エイズの様な肺炎だとか、そういう症状が出る。
下がって行く期間が10年ぐらい掛かる、感染してエイズになるのが10年ほどと言うことになる。

4~7割の人がインフルエンザのような症状、高い熱、体がしんどいとか、病院に行くと急性のウイルスの感染症と言うような検査結果が出るぐらいで多くの人は治ってしまう。
10年ぐらいは症状の無い時期が続きます。
半数は肺炎と言うことだが、良く調べるとエイズですとか、疲れると口に水虫のように出たり、もっと奥の食道に広がるとか、ひどい下痢が続くとかになる、これがエイズと言う症状です。
免疫を下げないと言うことが大事で、薬を飲んでいただければ免疫は下がらない。
HIVは男性であれば精液と血液、女性であれば膣分泌液と血液、お母さんの場合は母乳、ここにしかいない。
涙、汗には居ない。
感染経路は性行為、輸血(日本ではまず無い)、医療事故などもありうる。
母乳での感染は非常に少ないと言われているが、うつらないと言うことはない。
感染の確率が非常に高い性行為が肛門を用いる性行為で、次が男女間の膣を用いた性行為
、女性が陽性の場合は男性よりもうつりにくい。
コンドームを使うことが一番防ぐ手立てです。

1981年世界で初めての症例が報告される。(アメリカ)
日本でエイズが注目されたのは1980年代の後半です。
原因が判らなかったが、研究して1983年に患者のリンパ節からウイルスが取れて、現在はエイズの原因のHIVであることがわかっています。
日本でもエイズの第1号が報告されて、国内の問題として認識された。
有る地域での女性がエイズであるとわかった時には全国の男性が保健所に殺到したと言うエイズパニックが起きた。
そのころは新聞、TV、週刊誌に出ていたが、終わって薬害が出てきてセンセーショナルに報道されたが、終わりが来たときに、忘れてしまうと言うことになったが、データを見るとHIVウイルスに感染する人は減ってはいないというデータがある。
一番多いのが東京で毎年100人前後、次が大阪、愛知県、最近は福岡県が急増している。

医者になって留学する機会があったが、専門は呼吸器だったが、呼吸器かエイズにいくかだったが、うちの大学の先生がエイズで世界で最初の薬を開発された満田先生だった。
そんな関係で1989年にエイズの方に行きました。
高濃度のHIVウイルスの操作をしました。
3か月に一度血液検査をして感染していないことを確かめました。
アメリカではエイズの研究をしていると尊敬されましたが、日本ではそんなことは辞めとけと言うように言われました。
5年半アメリカで過ごして、1994年の暮れに日本に戻って来ました。
薬の進歩で生き残れるかどうかの境目でした。
薬害エイズの患者は薬として取り込んでいったが、そこで感染してやり場のない思いがあり、免疫が弱い状態は変わらす、失明したり、食べれなかったり、食べても吐いてしまったりしていて、熱が出て、意識が無くなってくる、そんな中で死を迎えたりしている。
1996年に原告と国、製薬会社が和解する。

1997年国立大阪病院に移って来ました。
当時は新しい治療が出たばっかりで、不安も強くて、5年、10年で亡くなってしまうのではないかと思っていました。
こんなにエイズが増えるとは思わなかった。
病院の治療の累積は3000人を超えています。
治療行為に関する事、人間関係の悩みなどがあります。
結婚して男性が感染しているときには、精液を取って来てウイルスを洗ってしまうことが出来ます。
体外受精して子宮に戻すことで妊娠する方法があるが、大変なのと保健が効かないので高額です。
1994年ぐらいから母子感染のないお子さんを得ることが出来ます。

梅毒は日本には無くなったと思われますが、最近は若い女性に急増しています。
梅毒をもった状況が増えると言うことはHIV感染がしやすくなる。
中学校などで話をすることがあるが、性感染症が広がっている事を知らない人が多い。
中高年の男性も要注意、HIV感染者は30歳代が多い、潜伏期間の関係もあるが、エイズ患者は40歳前後が多い。
中高年では、潜伏期が長いためいきなりエイズと言う事が多い。(夫婦とも感染)
海外でのHIV患者と触れる、セックス等古い話。
日常での生活ではうつらない。(プール等々)
今HIVでは死にません、慢性疾患、副作用も少ない。
検査キットは妊娠反応を見るようなもの、血液を落とすと血液がしみて上がっていって、なにも映っていなければ感染していない。(15分位で結果が出る)
当初はこんなにつらい疾患を見ることはしんどいと思いましたが、最近では薬を飲めば何とかなると言うような状況になりました。
2016年エイズ患者の年間発生数、東京都97人、大阪48人、福岡46人、愛知32人、神奈川26人だが人口比で見ると、福岡県、佐賀県、東京都、高知県と順になる。
「HIV、検査、相談」、で検索すると検査の場所などが判る。































2017年11月8日水曜日

小野寺武男(撫順の奇蹟を受け継ぐ会 )   ・今こそ“人を赦す”から学ぶ

小野寺武男(撫順の奇蹟を受け継ぐ会 岩手支部 代表)・今こそ“人を赦す”から学ぶ
中国の北東部にある撫順には第二次世界大戦後、1000人近い日本兵が収容された戦犯管理所がありました。
多くがシベリアで過酷な労働を課せられた人たちでしたが、撫順では食事や医療などで人道的に扱われ暴力をふるわれることもありませんでした。
一方で本を読み罪と向き合う時間を与えられ、戦時中それぞれ日本兵が犯してしまった罪の重さ、償いとはなにかを考えさせられました。
管理所の中国人職員も恨みを押し殺して日々応対し、初めは声を荒げていた日本兵も自問自答を繰り返して罪を告白したり、書きだしたりして涙ながらに後悔と謝罪の気持を示したと言います。
6年後の軍事裁判では死刑になった人はおらず、帰国後戦犯たちは償いのために戦時中の行為を語り継いできました。
武力ではなく、許すことで平和の道を模索したこの出来事は後に撫順の奇跡と言われています。
この出来事を広めようと活動している人が岩手県滝沢市にいます。
小野寺武男さん(73歳)、小、中学校の教員として平和教育をしてきましたが、教員仲間との勉強会で撫順の出来事を知り、学習に取り入れて来ました。
岩手の中学生たちと撫順を訪れ現地の人と交流したり、戦犯と呼ばれた人を岩手に招いて話を聞く会を開いて赦すとはどういうことか、世界各地でいまだに争いが続く中で、赦す事にどんな意味があるかを考えて来ました。
小野寺さんに平和への思いをうかがいました。

退職後、2008年から撫順の奇跡の活動をしています。
印象に残ったことはいくつかあるが、試突(試しに突き殺す)の場面の話を戦犯の人から聞いたこと、初年兵の時に平気で人を殺すように成らなければ軍人ではないと言うことで、縛り付けた中国の人を銃剣で刺し殺す。
その時にさせられた人の思いを語るわけです。
簡単には人を殺すことはできないので、想像以上に苦しい事で、刺した瞬間の手に受けた感触の話などを語ってくれました。
戦犯の人はそういう自分が戦争の中で知らず知らずのうちに当たり前のように殺してゆく、本当に人でなしだった、鬼になっていたと言うことでした。
罪を認めて行く事に取り組んでいった時に、命令されてやった、そういう反省をするが、俺たちは戦犯ではない、最初は単なる一兵卒だと、悪いのは上官で俺たちではないと思っていた。
中国の人たちが真心を込めて人間的に扱ってくれる中で、あなたが手をかけた人たちはあなたの家族や知り合いと同じ人間なんですよ、そういう立場で考え直してみたらどうですかと、言われたそうです。

そこからが地獄でしたよと言う話でした。
自分が手をかけた人達の事を自分の家族や子供や親しい人たちと重ね合わせて反省して行くときに、この辛さが地獄でしたと話していました。
命令に従ってやっただけだと言う思いからもう一歩踏み込んだ最も人間がおかしてはならない、人を殺すと言うことをやってきたことにぶち当たって、生まれ変わらないといけないと思ったと言うんです、このままでは生きていけない、人間から鬼に変わって行った自分が、もう一度人間に戻れたと言うことを話されて、実感としてこの人は嘘を言っているのではないと思いました。
真剣に向き合った時に地獄に行くような苦しみがあったと言うことで、管理所内の6人が自殺を試みるんです。
半狂乱になる人が続出して、その苦しみを乗り越えて立ち直っていった人たちが、最後のわびの言葉が「ごめんなさい」ではなくて、「私をいかようにでも罰してくれ」と言うことです。
起訴免除で日本に帰された。

凄い人たちだと感動しました。
よほど自分が語らないといけないと言う強い思いがなければ語れることではない。
やったことが余りにも残忍な事だとすると、人に話せることではない。
証言することは私の贖罪だと、二度と戦争を繰り返さないために、何が有ったのかという事実を語ることが私の贖罪だと、それが二度と戦争を繰り返さないない為に必要な事だから、私は死ぬまで喋り続けると言っていました。
撫順から学べたことがいくつかあるが、人間は変わる事が出来るんだ、心の中に鬼を住まわせていても人間は変わる事が出来ると言うことを目の当たりにしました。
力で解決しなくても、相手をよく理解し相手と話し合ったり色んな事を繰り返せば、どうすればいいかと言う道は必ずあるはずだと、そういう指導は極めて大事なことだと思います。

所員の中に、自分の両親が目の前で殺された職員もいた、自分の子供が地面にたたきつけられて殺された方もいた、よほどの恨みを持った人たちがいっぱい職員の中にいたことは事実らしい。
職員の一人がこの戦犯にやられたと見付けて、飛びかかったが周りの職員が止めて、どうしたらいいか話し合って、殺した相手に暴力をふるって敵討ちをとって平和が来るかというような言葉が交わされた様です。
日本人の戦犯が段々変っていった時に、相手が一生懸命苦労しながら人間性を取り戻そうとしているのに、その変化を見て自分のやってきたことが正しいということが確証を得たので、私は人間としてその戦犯さんと付き合えるようになったと話をされた方がいました。
6年間で人間性を取り戻していったと思います。
罪を自ら認めるように対応すると言っているが、それは赦すと言う意味かなあと私は理解しました。

人間だから誰も間違いはしますが、脅したり、脅迫したりしながら反省させることではないと思います。
問題を解決出来る力をもっと大事に扱っていかなればいけない、ここに教育の大事なポイントがあるなあと撫順からもう一回確認させてもらいました。
撫順は過去のものではなく、わたしたちはここから学ばなければいけない。
退職する5,6年前まで撫順のことは一切知らなかったが、勉強をしてみれば見るほど、戦争を二度と起こさないためには何が大事かと言うことを、撫順戦犯管理所は私たちに突きつてけていると思います。
教員になって広島、長崎の原爆、東京大空襲など日本が大変な世界に見舞われ、こう言う時代を生み出してしまう戦争とは恐ろしいものだと言うことを主に扱ってきました。
被害だけでは戦争の本当の姿を考えさせることにはならない。
ごく普通の優しいお父さんが戦争になると鬼になる怖さ、そういうものなんだと言うことを子供たちに判らせてゆく必要があると思います。

被害の怖さと鬼になって人を殺ってしまう、これも怖い事、人間はそういう弱さを持っているので、そういうことと戦っていける強い人間にならなければいけないと、そういう教育をしたいと思っていました。
繰り返さないためには何を学んでどう生きたらいいかと言うことを、考えさせる、問題があった時にはどうやって解決してゆくことが人間に求められているかと言うことを深く考えて生きていこうと、そういう教育が必要だと言うことを教えてもらったのが撫順です。
暴力を仕方なかったと認めてしまったら、戦争は決してなくならないと思います。
撫順の地には撫順戦犯管理所の近くに撫順炭鉱があるが、3000人集められて機関銃で銃殺されてまだ生き残っている人を銃剣で刺し殺していったと言う事件があり、そこを掘り起こして記念塔が建って遺骨が並んでいる。
私が会った人たちは過去は過去未来を見つめて、これからは新しい友好関係を築いていけばいいんです、そういう言い方をするのがほとんどでした。
しかしむやみやたらに戦争の事を聞くことは気をつけないといけないと言われた、深い恨みを持っている人たちがまだ一杯いるということだと思います。

敵対関係で新しい友好関係は築けない。
撫順に子供達を連れていったこともあります。
本当に中国人が許したのか、何故許せたのか事実を知りたいと言うことでいきました。
撫順の中学校と交流して、日本の子供たちがストレートに質問しますが、判で押したように「過去は過去、新しい関係をこれから作って行くことが大事だ」と返って来た。
うちの子供らが逆に猛反撃した、過去をしっかり見ない中には未来がないと言いました。
事実をしっかり認めて謝らなければいけないと子供達は言いました。
私は誇りに思いました。
中国と日本の子供たちが撫順戦犯管理所のこととかを、共に見て考えたたことは、凄いことだと思います。
別れるときには子供達は抱きあっていました、そういう交流こそが大事な事だと思います。
相手の事をよく知る、そのことを考えて問題解決に当たって行く、決して戦争に行かない解決策の入り口だと思います。

佐賀の戦犯の方が撫順戦犯管理所から貰って来た朝顔の種を庭に蒔いて大事にして育ててきた。
今度来るときには、武器の銃ではなくて花でも持って訪ねて来て下さいと言われて渡された種だったそうです。(それを分けていただきました)
その種を配っています。(「赦しの朝顔」と呼んでいます。)
広がって行くことを期待しています。
テロを起こす人たちはテロでしか解決できない、それはなんでそういうことに走るのか、その思いをしっかり受け止めることをしないと解決の道はないと思います。
相手を知る、信じた相手と納得するまで話し合いをする、それが大事だと思います。
火種は常にあるが、それをどう克服してゆくかと言うことを考える。
武力ではなくても解決出来る道はあると言うことを、何処までも追い求めないといけない。






































2017年11月7日火曜日

佐佐木幸綱(歌人・日本ほろよい学会会長) ・酒は静かに飲むべかりけり 

佐佐木幸綱(歌人・日本ほろよい学会会長) ・酒は静かに飲むべかりけり
日本ほろよい学会とはどんな学会なのか伺いました。

「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」 若山牧水
白玉は歯に掛かるまくら言葉的に使われている。
白い歯に沁み透って行く秋に酒はワイワイみんなで騒いで飲むのではなく、一人で静かに味わいながら飲むべきだ、その方がしみじみと酒のうまさが判る、と言うような意味です。
11月頃に新しい酒が出来る。
若山牧水は360首位酒に関する歌を歌っている。
若山牧水のお墓がある沼津の千本山乗運寺の住職の林さんが牧水の酒の歌と言う本を出しました。
歌集に出したのは6900首です。(43歳で亡くなる)
長生きした人は2万位だしてます。
「人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ」 若山牧水
「それほどに うまきかと人の とひたらば なんと答へむ この酒の味」 若山牧水
おばあさん、両親が酒が好きだったようです。
早稲田の学生のころに人妻と恋愛するが、2年付き合うがうまくいかず、失恋前後から酒をよく飲むようになる。

一番多い時は朝2合、昼2合、夜6合飲んでいたようです。
朝酒はおいしいが身体には良くないようです。
2cm位のコウモリと柳の絵が描いてある盃を愛用して、亡くなった後に一緒に焼いたが、綺麗にに残っていたので、取っておくことになり、沼津の牧水記念館に陳列されています。
気ままに山里を歩く旅が好きで、夕方に集落があると泊めてもらうと言うような旅をしていたようです。
鳥、木、草、花の名前を沢山覚えた様です。
旅の歌は2300首です。
1674日 1/9旅をしていた、大学卒業後にすると1年のうちに1/5旅をしていた。
富士山が大好きで沼津に住む様になる。
「牧水」の牧はお母さんの名前が「牧」 牧水は「富士人」「旅人」と言う名前を息子に付けている。
亡くなる直前まで飲んでいた。
医者も最初は止めていたが、最後はもういいやと言うことになる。

9月に亡くなるが、暑い時期は傷んでしまうが、3日ぐらいは全然傷まなかった。
医者が生きたままアルコール浸けになるかな といって綺麗になっていたと言う話が残っています。
牧水を話題にしてNHKが番組を作ったが、酒豪、早稲田出身、歌人と言うことでその時に私が出演することになり、色々なところにロケに行ったりしました。
牧水よりも沢山酒の歌を作ろうと思って、牧水より超えましたが、向こうは43歳で亡くなっているので倍を作らないといけないと思っています。(79歳)
若山牧水賞 第二回目に貰う。
受賞者は若山牧水の研究をして地元の新聞に連載しないといけない。
授賞式後のパーティーにはお酒が一杯出ます。
女性では河野裕子さん、小島ゆかりさん、俵万智さんなどが受賞されています。

日本ほろよい学会、1999年秋田で日本デザイン会議が開かれて、当時の市長の石川錬治郎さんが早稲田の同級生だったのでこういうことをやろうと言うことで誘いかけられて誕生しました。
石川さんが酒、牧水が好きで、牧水の歌碑を建てて除幕式にも私も参加しました。
牧水会が有り、ほろよい学会と合流しました。
名誉会長、会長、「燗司」(お燗を司る)長を作って会則も決めました。
「酒および嗜好と言う人類固有の天寿の恵みを、四季折々の花鳥風月を愛でつつあくまでもほろよいのころあいでたしなむとともに、飄逸として清談を楽しむ、ほろ酔いの極意をあまねく伝えることにある。」これが目的です。
斎藤茂吉の長男で斎藤 茂太さんはそういうお酒です。
斎藤 茂太さんは他人に酒を勧めない、他人から勧められても受けない、酒は一人で自分で飲むんだと言う会の会長をやっていました。
会員には亡くなった佐々木久子さん、黒田桃子さん、西木正明さん、池田理代子さん、小島ゆかりさん、三枝成彰さん、林真理さん子、初代名誉会長は暉峻康隆(てるおかやすたか)先生(早稲田の名誉教授)
暉峻先生は「上等の酒を上品に常温で飲め」と言っています。
秋田、宮崎県(牧水生誕地)、沼津、東京、宇都宮等でもやっています。
兵庫県伊丹市(日本酒発祥の地と言われている)で伊藤一彦(牧水研究家)、宇多喜代子(俳人)さんとか集まって語ったりしています。

1938年東京の文京区で生まれる、私は出産のときに俳人で産婦人科医の水原秋桜子さんに取り上げてもらいました。
水原秋桜子さんはくぼたうつおの弟子で、僕が大学院の時に亡くなって、水原秋桜子さんはお通夜、葬式にも来て、俳句の人はあまりいませんでしたが、ずーっと何時間もいました。
佐佐木信綱、祖父で文化勲章をいただいた。
「ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲」
両親、兄も歌人です。
「心の花」来年創刊120年になります。
1898年(明治31年)に創刊(短歌の雑誌)してずーっと続いています。
「心の花」とは「歌はやがて人の心の花なり」から来た題名です。
小学校ぐらいからぼつぼつ短歌を作っていましたが、真面目に作ったのは父が亡くなってからです。
父親が50歳で亡くなりました。(私が20歳の時)
父親の命日と私の誕生日が同じです。(10月8日事故でなくなってしまいました)
短歌の追悼の歌を作りました。
31歳の時に「群黎(ぐんれい)」で現代歌人協会賞、若山牧水賞、第10回斎藤茂吉短歌文学賞、第50回芸術選奨・文部大臣賞、紫綬褒章・・・。

私の時代は男の時代の最後の時代だと思います。
三船敏郎、石原裕次郎の時代から段々ユニセックスの時代になる。
マリリンモンロー、ヘミングウエーが亡くなって女っぽい女と、男っぽい男の時代の最後の時代に短歌を作り始める。
ボクシング、ラグビーなどをやっていました。
「男を歌う」と言われました。
父と息子と言うことを一つのテーマにしてきました。
そういう角度から世界を見て行き、歌を作って来ました。
「父として幼き者は見上げ居りねがわくは金色の獅子とうつれよ」 佐佐木幸綱
「徳利の向こうは夜霧、大いなる闇よしとして秋の酒酌む」    佐佐木幸綱
「雨荒く降り来し夜更酔い果てて寝んとす友よ明日あらば明日」  佐佐木幸綱
「人肌の燗とはだれの人肌か こころに立たす一人あるべし」    佐佐木幸綱

















2017年11月6日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)     ・【近代日本150年 明治の群像】与謝野晶子

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】与謝野晶子
講談師 神田蘭
与謝野晶子は「君死にたもうことなかれ」の詩で有名  情熱的な人。
講談での紹介
本名鳳志よう(ほうしよう) 明治11年現在の大阪府堺市に和菓子屋の3女として生まれる。
幼いころから朱子学、儒学を学び、女学校に入学すると樋口一葉、尾崎紅葉、源氏物語等を読みまくるようになる。
短歌を新聞、雑誌に投稿する様になる。
歌人与謝野鉄幹が大阪で歌会を催すとの情報が入り、晶子は歌会に参加する。
憧れの歌人で、ひと眼見て惚れ込んでしまう。
鉄幹には奥さんがいたが、愛を深めて行く。
禁断の恋が晶子を女にさせ、悶々とした思いが短歌を作らせてゆく。
晶子は家を飛び出し、東京にいる鉄幹のもとに行く、鉄幹も離婚して晶子と結婚する。

歌集にする「乱れ髪」
「春みじかし 何に不滅の 命ぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ」
人生は永遠ではないのだから、自分の張りのある胸にあなたの手を導く。
「みだれ髪を今日の島田に反し朝伏して今背の君ゆりおこす」
みだれ髪を綺麗に結い直して朝寝するあなたをゆり起こします。
「乱れ髪」が明治34年に発表されると一大センセーショナルを巻き起こす。(23歳)
晶子は文壇のスターに押し上げることになる。
鉄幹は影が薄くなり、浮気をするようになる。
鉄幹があこがれていたヨーロッパに送り出すが、晶子も子供を日本に残したままヨーロッパに旅立つ。
このヨーロッパの旅が二人におおきな影響を与える。
官能女流歌人、反戦歌人、女性運動家と言う色々な顔を持つようになる。

22歳のときに鉄幹との運命の出会いがあった。
当時はひどい拘束を受けていた中で、こういう人が先頭に立たないとだめだったのかもしれない。
赤裸々な歌を作るのは勇気のあることだと思う。
3女なのであまり大切にされなかったので、あんまり守るものがないので自由にできたのかなあとも思ったりします。
「柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君」
若い女性の情熱的な恋心に触れもしないで、人としての道ばかりを説いているあなた、さびしくないのですか?)
樋口一葉、尾崎紅葉、源氏物語等の影響が大きかったのでは。
「乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き 」
胸に手を当て、隠された神秘な場所を開けてみると私のはなびらのような女陰が興奮の為に紅潮しています。)
鉄幹28歳、晶子23歳のときに結婚する。
11人の子供をもうけ、育てる。

「君死にたもうことなかれ」 
日露戦争で旅順を落とさない限り勝利はなくて、物資を運ぶためには制海権が必要だったが、旅順港を何としても落とさなければならなかった。
203高地での沢山の犠牲が出てもやらなければならなかった。
それができなかったら日本の国土の少なからざるところをロシアに取られてしまったかも知れないと言われている。
1904年に日露戦争が勃発して、8月には旅順の第一回総攻撃で死傷者が1万5000人が出た。
そこに弟の鳳籌三郎(ほうちゅうざぶろう)がいた。

「君死にたもうことなかれ」 
(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)
ああおとうとよ 君を泣く
君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたもうことなかれ
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
ほろびずとても 何事ぞ
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたもうことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん

ああおとうとよ 戦いに
君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守(も)
安しと聞ける大御代(おおみよ)
母のしら髪(が)はまさりぬる

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にいづま)
君わするるや 思えるや
十月(とつき)も添(そ)わでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ

「君死にたもうことなかれ」に吉岡しげ美が曲を付けて自ら歌っている。
「すめらみことは 戦いにおおみずからは出でまさね」と言うところがあるが、今の世の中だったら炎上必死ですね、大変なことになったでしょうね。
魂の叫びみたいなものが全てに優先する。
情熱が全面的に展開する。
自分の感情がほとばしる感情が何よりも凄い。
平塚らいてうの「青鞜」にも創刊号に詩を寄せている。

詩「山の動く日きたる」
「山の動く日来(きた)る。 
かく云へども人われを信ぜじ。
山は姑(しばら)く眠りしのみ。
その昔に於て 山は皆火に燃えて動きしものを。
されど、そは信ぜずともよし。
人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる。
一人称にてのみ物書かばや。われは女ぞ。
一人称にてのみ物書かばや。われは。われは。」

晶子の創作の泉は鉄幹だったのかもしれない。
晩年 戦争賛美のような詩も作っている。
感性で生きている、自分に正直に生きている人











2017年11月5日日曜日

水木一郎(アニメソング歌手)       ・【時代を創った声】

水木一郎(アニメソング歌手)       ・【時代を創った声】
来年でデビューされてから50年、古希を迎える水木さんですが、益々精力的に活動されています。
1972年から2年間にわたって放送された漫画家永井豪さんの原作ロボットアニメマジンガーゼット、多くの子供を魅了したマジンガーゼットですが、この曲を歌ったのがアニメソング歌手水木さんです。

歌ってから45年、あっという間です。
1万回ぐらい歌っていると思います、身体の一部の様になっています。
作詞が東文彦さん、作曲が渡辺宙明さん(今年92歳の現役)。
劇場版マジンガーゼットが45年の時を経て復活、来年公開予定。
試写会を観ましたが、大興奮しています。
45年振りに又主題歌を歌えることは僕にとって奇跡だと思っています。
渡辺 俊幸さん(渡辺宙明さんの息子さん)がアレンジ。
1968年歌手としてデビュー。
最初歌謡歌手としてデビュー。「君に捧げる僕の歌」
5歳から洋楽を聞いていました。
歌謡曲なので真似が出来なくて暗中模索だったので、ヒットしなかった。
そんなときに出会ったのがアニメソングだった。
堀江美津子12歳、「12歳の神話」という歌を渡辺先生が作って、堀江美津子の前で歌って、その時にアニメソングはどうだろうと言う話がありました。

是非歌わせてほしいと言うことで、主人公の事を色々想像しながらヒーローに成りきって歌ったら歌えました。
手本がなくてもヒーローになりきれば歌えるんだと思いました。
「原始少年リュウ」を歌う。 石森章太郎の漫画作品
歌謡曲は水木一郎で歌わなくてはいけないが、アニメソングは水木一郎で歌わなくて良くて、色んな声を出せたことがこの道にぴったり合ったのではないかと思います。
マジンガーゼットは比較的楽に歌うことが出来ました。
1976年から3年間NHKの「おかあさんといっしょ」の2代目として出演。
「おかあさんといっしょ」のディレクターが雑誌を見てくれて、オーディションに出ることになりました。
300人ぐらい来ましたが、お兄さんに成りきってやったんでそれが良かったようで受かりました。
そこから子供達から教わりました。
つまらないとすぐ反応するので、どうやって子供達をひき止めようかとか、勉強になりました。

1997年にスーパーロボットのライブを日本で初めて始めて、ライブハウスには30から40代の人が2000人ぐらい集まって、水木一郎はおじさんだろうと思っていたら、スマートな僕が登場してきて歌ったら、歌い終わってから「兄貴」と言うことになってそこから「兄貴」と言われるようになりました。
1999年におこなった24時間千曲ライブで24時間歌いました。(51歳)
歌手生命をかけて、医者もついてくれて、1曲目がマジンガーゼット、ロボットソングが100曲、バラード、とか色んなジャンルを100曲ずつ600曲、ギターの弾き語りで100曲、そのうちに指がつってしまって、ピアノで演奏してもらって、明け方になってきて1000曲いけないかなあと思ったときに、仮面ライダーの歌を歌っていたらステージにばった(仮面ライダーの化身)が来て、(石森先生が亡くなられた後だったので)先生が来たと思って、残りの300曲を乗り切りました。

その後韓国、中国、フランスなどでライブを主体に世界に活躍の場を広げました。
最初は香港だったが、堀江美津子が「キャンディーキャンディー」を歌ったら拍手が鳴りやまなくて、日本に帰って来てどう説明しようと思ったが、誰も信じないだろうと思って、言わなかったが、海外で段々話が来るようになりました。
このジャンルを認めさせようじゃないかと思ってやって来ました。
アニメソングを聞いて人生を変えた方が何人もいます。
宝物、勇気付けられるもの、夢などが一杯詰まっているのがアニメソングだと思います。
アニメソングを目指す若い人に対しては、アニメソングではないジャンルを聞いてもらいたい。
そこから色んな引き出しを掴んで貰って、アニメソングを歌う時にそれに当てはまった自分の気持ちをぶつけて行く、温故知新、昔のものも引き継いでもらいたい。
アニメソングが大好きで、愛があればそれでいいと思います。
自分が歌った歌はどれほど責任があるか、と言うことを考えて歌ってほしい。(影響を与える)












2017年11月4日土曜日

楠木新(人事・キャリアコンサルタント)  ・定年後をイキイキと

楠木新(人事・キャリアコンサルタント)  ・定年後をイキイキと
「定年後50歳からの生き方、終わり方」が22万部を超えるベストセラーとなっています。
楠さんは63歳、著書には大手生命保険会社を定年退職まで務めた楠木さん自身の体験と多くの当事者への取材による実例が盛り込まれています。
最近、雑誌にも定年後をテーマに特集記事が掲載されるなど、定年後をどう生きるかに関心が集まっています。
平均寿命が伸びて長くなった定年後をどう生きるか、そのためにどう備えるか、生き生きと生きるためのヒントは何か、楠木さんに伺いました。

思っていた以上に定年後に関心があるのを実感しています。
50~60歳ぐらいを対象にしているのですが、40歳代の人、女性も結構多いと数字で判ります。
36年間勤めていました。
主に営業関係、企画、人事関係の仕事をしていました。
50歳から働く意味をテーマに執筆活動を始め、60歳で定年になるまで2足のわらじを履いていました。
40歳で阪神淡路大地震があり、自宅で遊びに来ていた娘の同級生が家につぶされて亡くなったり、実家もひどかったりして、そのまま会社の中で務めていいのかなあと揺れ始めた感じはしました。
45歳の時に支社長をした後、関連会社に出向になりましたが、配下の職員の不祥事で転勤になり、忸怩たる思いがあり、たまたま異動の内示の日が父の亡くなった日が重なり、出向のことと重なり複雑な思いで過ごした事を覚えています。
2年後に戻りましたが、脚光を浴びるようなポジションだったが、このまま続けて行っていいかどうか迷って、片や自分を止めるような部分もあり、アクセルとブレーキを同時に踏んでしまったような状態で、2カ月後に会社に出られないようになってしまった。

休職して、一旦出て人事部長と言う役職で復帰したが、調子が悪くなり2回ほど出社したり休んだりして2年半過ごしました。
鬱状態と言う診断だったが家でゴロゴロするのがきつかった。
会社中心だと大変なことになると気付きました。
50歳を越えたあたりから体調が良くなったが、平社員で仕事もあまりなくてどうしたらいいのか判らない状態が続きました。
定年退職した先輩に聞いてみたが、あまり元気な人は数多くいなかった。
転身した人の情報が入ってきて、そういう人は何か自分の求めるものがあるなあと思いだして、そういった人達に話を聞き始めました。
150人ぐらいの人から話を聞きました。
経済的な事、家族の事とか、駆られるように話を聞き始めました。
65歳まで勤める余地があったが60歳で辞めました。
一番初めは凄く開放感を感じました。

一般的にハローワーク等に仕事を探しに行くが、60歳を越えて今までの延長縁で仕事をしようとするとなかなかそういう場がない。
転身した人の話を聞いているという人がいると言うことで新聞にも載り、それが縁で新聞社のコラムにその人たちを紹介することになり、執筆活動が始まりました。
人に聴きやすいようにするために、大学で社会人学生の募集があり入学して、キャリアの研究と言うことで、話を聞くようにしました。
毎日が日曜日にはいい面と悪い面がある。
私の場合は書くと言うことがあったので、メリハリがありました。
家庭内では今までいなかった人が24時間いると言うことになると、今までのペースがうまくいかないと言うことはよく聞き、家庭内でぶつかることが色々ある様です。
家でも管理職のように細かいことをブツブツ言う人もいると言うような話も聞きます。
日本の会社は居場所的、夜の一杯を含めて、一つの居場所になっている部分がある。
次の居場所を見付けるのがなかなか難しい。

ギャップをいきなり埋めることは難しい、そう考えると定年後については考えることは50歳ぐらいから始まっているのかなあと思います。
そのぐらいから準備をして行けば、ギャップを自分のものにして行く、10年やれば大丈夫かなあと思います。
それを育てながら定年を迎える、もうひとつの自分のある人は比較的スムースに移行していると思います。
趣味、ボランティアなどいろんな事、自分の好きだった事、そういったものを育てて行く。(自分で見つけて行く)
私自身は執筆以外に、「心の定年研究会」ということで会議室で2カ月に一度定年後について何人かで集まって話し研究する事を13年間やっています。
去年まではマンションの理事長もやっていました。
大学の聴講生として、人事の仕事の事を勉強に行っています。
学ぶと言うことは凄く重要なことだと思います。
40年間働くと8万時間弱だが、60歳から退職して75歳まで1日11時間として、その後平均余命が85歳とすると後の10年の自由時間が5、5時間とすると、自由時間を全部計算するとちょうど8万時間、定年後の自由時間が今まで働いてきた全ての時間よりも長い自由時間があると言うことです。
自分に意味がある時間に使うか、使わないかの違いが、取材してみて本当におおきな違いがあると感じます。

60歳から退職して75歳までは黄金の15年と言えるかもしれません。
ここを輝かせるかどうかが人生の後半戦の最大のポイントかなあと思っています。
最大のポイントは主体性、会社では主体性を薄くしながら、諦めながら働いている。
定年後は主体性がポイントになる。
ある取材した人、機械メーカーの45歳で支店長、リフレッシュ研修で3カ月外れるが、自分がいなくてもいい成績が出来ていることに気が付いて、このままでいいかと悩んで、50歳の時に見た新聞記事、施設に入っている方が頭を綺麗にして貰ったら施設の中を歩くようになったという事で、その人は美容師になろうと思い付いて、2回落ちたが3回目で58歳の時には美容師と介護ヘルパーの資格を持って、実務の修行をして、60歳の時には自分の美容室をもったと言う方がいました。
その後も元気に75歳になってもやられていて、当時と変わらずやっていて感銘を受けました。
保険会社の先輩で、定年の少し前に大学教授に成られて、ソフトボールを学生とやっていて楽しいんだと言っていたことが印象に残っています。

役職を取って上に上がっても次のステップが見えない方もいる。
週に3日とアルバイトをしながら博士論文を書いてる人がいまして、生き生きしている。
50歳からその人も関心を持っていたと言っています。
小さな会社にアルバイトに行って、小さな会社のいいところがいろいろ見えるので面白いと言うような感想の人もいます。
事務職だった人がスーパーの搬入作業、最初は抵抗があったが、やってみると身体を使うことのそう快感があり、体重も減ってきて思ったよりも面白いと言うことでした。
違うところが見える新鮮さ、楽しさもあると言うこともあると思います。
50歳ぐらいから取り組み始めることが大事だと思いますが、遅すぎると言うことはないと思うので、いま取り組んでいることによろこび楽しさを見出している人がいる、それも大事だなあと思いました。
長い間会社員でやってきた方は完全な悠々自適は難しいかなあと思います。
定年後も色々小さくてもいいから役割、責任、義務みたいなものをある程度持ちながら、小さくてもいいからそういうものを自分の中に持っていることが重要ではないかと思います。

小学校、中学校、高校など同窓会でサラリーマン以外の人と会えると言う刺激もあるし、しがらみの無い時代に戻れるので、そこから新しい事をやり始める人もいます。
人の繋がりという意味では同窓会は非常に大事だと思います。
小さいころ好きだったこと、小さいころコンプレックスを感じたことを変えるとか、積み残していたことなどを取り入れることによって、次のステップを踏みやすいと思います。
その方が素直な自分が出てくるので、見い出しやすい。
宝の山は子供のころにあると思います。
私は顔つきのいい人に成りたいと思っています。(淀川長治さん、植木等さん、藤田まことさん、さかなくんなどのように)
顔つきはごまかせない、要は良い顔になることをやればいいい、それを自分で見つけるしかないと思います。





















2017年11月3日金曜日

若宮正子(メロウ倶楽部副会長)      ・スーパーITおばあちゃん

若宮正子(メロウ倶楽部副会長)      ・スーパーITおばあちゃん
昭和10年生まれの82歳、高校を卒業して都市銀行に入り、関連会社を経て62歳で退職しました。
退職後は認知症のお母さんの介護で家に閉じこもりがちになりました。
もっと外の世界と繋がりたいと思った時、パソコンを知り衝動買いをしました。
でも悪戦苦闘の連続でした。
それでもパソコンの可能性を感じ独学での習得を決意し、のめり込んでいきました。
そして今ではIT機器を使いこなすようになりました。。
去年若宮さんはスマホのアプリケーションのプログラムを自力で製作し公開したところ、大きな話題になりました。
これらのアプリを管理するアメリカにある世界的なIT企業の新製品発表会に招待され最高齢のアプリ開発者として世界中に紹介されました。

パソコンは4台あると思います。
アップルに呼ばれてアメリカに行きました。
年に一回開発者会議があり、アプリを作っている人を呼んで新製品、バージョンアップなどを説明する会議です。
男女とか年齢とか差別しないでと言うことで呼ばれました。
オーストラリアから来た最年少の10歳の坊ちゃんと最高齢の私を紹介されました。
会場には5000人ぐらいはいたと思います。
アップルのティム・クックCEOにもあいました。
開発したのは「hinadan」と言うアプリですが、シニア向けのアプリとして作りました。
雛壇にお雛様をどういう配置をしてゆくかというものです。
どうしても判らないところは仙台の先生に教わったんですが、遠隔操作の形で教えてもらいました。
シニアが楽しめるアプリが無いので、若い人に作ってほしいと言ったが、そんなものはできませんと言われて、自分で作ればいいのではと言われて、やる気になりました。
かなりハードルが高かったです、ウインドウズは使っていましたが、アップル社なのでマックのパソコンでないと作れないので不慣れで、英語なのでかなり厳しかったです。

家庭にパソコンが普及し始めた頃に買ってしまいました。
ウインドウズ95が出た前でした。
自宅で暮らすようになると皆さんとおしゃべりができなくなり、母が要介護に入りつつあるころで、世話をするために家にいなければならず、パソコンがあればネットでおしゃべりが出来ると言うことを読んで買ったんです。(60歳頃)
テキストもなく、パソコン教室もなく、モデムも自分が買ってきてセットアップも自分でしました。
まず自分が必要なことだけを勉強しました。
本を読んだり、メーカーの人にも聞きました。
まず設定で大変な思いをしました。
判らない言葉も沢山あって、後に自分でパソコンの本を書いたときに用語辞典も作ってみましたが、日本語に表現するのも余ほど才能がないと無理だと判りました。
プロパティー、ウィザードなど日本語でとなるとますます判らなくなる。
15年前からパソコンの本を書きました。

ウオークマンは音楽を持って歩ける、コンピューターが身近になり面白く感じました。
今はスマートフォンでも画面が綺麗になり、グレードアップしないといけないと思って一生懸命勉強しています。
昭和10年東京で生まれて、学童疎開した最小年でした。
銀行に入社しましたが算盤の時代でした。
定年のころにはコンピューターが導入されまして、商品企画とかに銀行も力を入れ始めて私の出番もすこし増えて来ました。
両親のもとで兄弟3人で育ちました。
母を見送りましたが、母は100歳で亡くなりました。
外と繋がりたいとの思いもあり、パソコンを習得する大きな動機にもなりました。
メロウクラブに入ってパソコンの使い方、言葉使い、人生についても色々教わりました。
メロウクラブは今はインターネット上で展開している老人クラブです。(以前はパソコン通信) 会員は300人ぐらいです。
俳句、川柳の例会とか、話し合うとかのコーナーもあります。

インターネットに繋がっているかどうかでその人の人生観まで変わって来ると思います。
ネットで世界中と繋がっていて、世界中の動きが把握できるし自分も情報発信もできる。
フェースブックでも沢山写真をアップロードしています。
返信で色んな方の反応も感じることが出来ます
海外にも毎年行っています、ヨーロッパなど50カ国に行っています。
海外から例えばイタリア語で投稿があって、翻訳ソフトがあるので、受けたものの返事もしています。
同年齢の方と一緒に楽しんでるような形でパソコン教室をやっています。
3~4人で、週に一回ぐらいでやっています。
エクセルでセルに色を付けたり罫線の形を変えたり色を変えたりして、絵になるんです。
図案を作ってブックカバーにしたり、色々作ったりしました。(10年以上前から)
立体化ソフトもあり、自分の作った図案を立体化して楽しんだりしています。
「エクセルアート 展示館」で出てくると思います。
プログラミングの基礎からやってみたいと思っています。
将来何か伝統文化に根付いた新しいアプリが作れれば良いなあと思っています。
源泉は好奇心だと思います。

政府の「人生100年時代構想会議」の有識者委員の13人の一人に選ばれる。
人生100年時代に向けて、教育、福利厚生など、設計図を書き変えないといけなくなって、どんな風なかたちで作り上げていったらいいかを多方面から考える。
教育はかなり大きな問題として取り上げらているが。高齢者にたいする何らかの再教育が必要だと思っています。
科学技術が進歩しているので、それにふさわしい再教育が必要だと思っています。
これからは長く働かなくてはいけないのでICT(Information and Communication Technology)の知識がないと厳しいと思います。
これからの時代は人工知脳の時代になってしまうので、これからどういう人が生きのこれるのか、人間の脳と人工知脳とのガチンコ勝負になると思うので、これからの子供さんは人間力を養うのが大事だと思います。
人間でしかわからない様な事を大事にしていかなければいけない様な気がします。
創造する楽しみは当分主役は人間だと思います。


















2017年11月2日木曜日

望月絹(江戸屋旅館27代目女将)      ・南アルプス 麓の一軒宿

望月絹(江戸屋旅館27代目女将)      ・南アルプス 麓の一軒宿
山梨県早川町赤沢に江戸時代の面影を今に伝える一軒の宿屋があります。
宿を切り盛りするのは江戸屋旅館27代目女将、望月さん(93歳の現役女将)。
鎌倉時代日蓮が開いた日蓮宗の総本山身延山九遠寺と、その信仰の山七面山を結ぶ参詣道の宿では昭和の中頃まで6軒の宿が軒を並べ険しい山中の参詣道を行く旅人の宿としてにぎわっていました。
赤沢の集落は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されていますが、現在営業している宿屋は望月さんの旅館一軒になりました。
宿場町の伝統を守り、信仰の旅人を温かく迎え道中の糧となるおにぎりを提供し続けてきた宿の女将望月さんに伺いました。

50町行くと七面山 今から紅葉になるので綺麗です。
家の前にイチイの木があり赤い実がなります、200年近い木だと思います。
お客さんは信仰のお客さんです。
白装束で「南無妙法連華経」とたいこを叩いているお客さんもいます。
今は観光客がバスで往復していてここは関係ないですが、昔はここを通らないといけなかったですが。
100人泊ったこともありますが、今は古いからそんなにお泊めできません。
おにぎりは500人、登りに500人、下りに500人です。
150gぐらいで団体によってこぶ、梅干しなどを入れたりします。
おにぎりも熱いうちに握らないといけないので手を真っ赤にしてやっています。
7時には弁当を持って上がります。
11時ごろには戻って来ます。
外人さんもいます。

小学校にあがるころは白装束のお客さんで一杯でした。
遅くなると懐中電灯はなくて提灯を持っていました。
「しょいこ」が荷物、食糧をしょったり、石油までしょって行きました。
おんぶしたり、かごを担いだりして、生計を立てている人たちがいました。
電気は子供のころは入っていましたが、ランプのところもありました。
薪ではいっぺんに燃え付かないので、へっついに杉っ葉、もやをくべて、薪をくべてはじめて燃えて、ご飯も薪、お風呂も薪でした。
山から呼んである水を我家まで来て、他の5軒のでは自分の家まで水を担いで、自分の家のかめに一杯にして柄杓で使うんです。
昭和22年に結婚しました。
子供が大勢いる時代で当時の子供達は奉公にいったりしていました。
小麦がとれてほうとうと言って野菜を一杯入れてうどんを食べました。
豚肉、牛肉などは食べられませんでした。

戦時中はいろいろ怖い目に逢いました。
この辺には爆弾が7つ落とされました。(20年3月)
戦時中はお客さんも自分を守るのが大変でお客さんはきませんでした。
さつまいもを作っても供出で、供出、供出で大変でした。
江戸屋は長男が継いで、次男は家を建てて貰って新屋で、私の家は江戸屋の新屋なんです。
そうして江戸屋の地類が5軒あります、皆望月です。
ですから私は新屋から本家に嫁ぎました。(17歳で許嫁になりました)
夫になる人は戦地に行っていて昭和21年に戦地から帰って来て、22年に結婚しました。
戦後ぼつぼつお客さんが来るようになりました。
男3人、女1人 4人生んでいるので大変でした、食料も無かった時代でしたので。
トイレの肥え桶を担いで、人を頼んで男も女も畑にまいていました、
お客さんと村の言葉は使い分けていました。

お客さんも来る時は白装束ですが帰る時はスーツに着替えて、来る時と帰る時では段違いです。
身体も元気なのでこの歳までおにぎりを握ることができます。
身体が続く限りは元気に頑張りたいと思います。




























2017年11月1日水曜日

小島秀康(国立極地研究所名誉教授)    ・隕石からのメッセージ

小島秀康(国立極地研究所名誉教授) ・隕石からのメッセージ
南極大陸や北極圏の観測研究を行う国立極地研究所で長年隕石の調査研究を続けて来ました。
隕石は世界中で見つかりますが、これまで最もたくさん発見されている場所は南極大陸です。
現在までに確認されている隕石のおよそ70%を占めると言うことです。
小島さんは日本に隕石の研究者が少なかった1970年代から研究を始め、南極観測隊にも5回参加して一度は隊長も務めました。
南極ではその都度多くの隕石を発見して、世界でもっとも多く隕石を見てきた研究者の一人と言われています。
現在も隕石とかかわりを持ち続けている小島さんに伺いました。

2013年2月にロシアのチェリャビンスク州付近に落ちた隕石、間違いなく隕石だと思いました。
隕石自体は古い、地球が出来た時と同じ頃に出来て、特徴としては地球の空気を通り抜けてくるので溶けた跡が残っているので、それがあれば隕石と判ります。
大きさは小さいものから大きいものまであります。
小惑星帯(火星と木星の間に有る)所からくると言われているが、そのほかに月、火星、彗星からもきます。
宇宙が出来たのが138億年前と言われているが、太陽系は46億年、1サイクル、2サイクルぐらいたちます。
地球にある石は40億年位です。
プレートテクトニクスで地球の内部に引き戻されて、溶けてしまうので溶けてリセットされてしまう。
地球の年齢も46億歳 宇宙から来た隕石によって判りました。
隕石がどういう鉱物で出来ているかなど興味の対象によって色々変わって来ると思います。

小惑星帯は隕石のもとになる天体が沢山分布しています。
ぶつかって弾き飛ばされて、飛び出したのが隕石です。
最終的には太陽に落ちて行ってしまいます。
太陽は引力が強いのでものを全部引き集めます。
太陽に落ちる一部分がやって来たのが地球と言うことになります。
月、火星、彗星からもきます。
日本の南極観測隊は1万8000個隕石を集めていますが、月は10個程度火星も同様です。
落ちてきたのは2000年から数万年前に落ちたと言われています。
46億年の姿をとどめているのは隕石しかなくて、地球の古いことを知ろうと思うと隕石を調べるしか手がないです。
隕石は遠い過去からの手紙だと思っています。

長野で生まれて子供のころは川の石を集めていました。
石の美しさに魅かれました、犀川のヒスイとか。
球顆流紋岩 (青みがかった黒い球形状)の特殊なものがたくさん見つかりました。(小学校高学年)
中学の時はバレーボール、高校は地学をやっていました。
北大を目指したが、大学は秋田大学でした。
鉱山学部が有名でした。
先生が純粋な岩石学者でした。
どういう鉱物で出来ているか、1~3ミクロンでも組成が全部判る様な分析装置があり、それを使って花崗岩、変成岩を作り出している鉱物を分析をしていました。
出来た時の温度条件などが判ります。
隕石と出会ったのは南極に行ったときで、1978年に初めて南極に行きました。
大学院を出てすぐの時でした。

地学のリーダーだった人が極地研の人だったので、先輩だったのが縁でした。
第20次越冬隊に参加、越冬隊が3回、第39次(1997年から)第44次(2002年から)、夏隊が2回 第27次(1985年から)、第51次(2009年から)5回参加。
第44次越冬隊隊長も務める。
最初行ったの時の印象がすごく強かった。
音のない世界、風の音しかなくて、風の音がないと音のない世界でした。
南極観測隊はそれぞれのプロが行っているので、半分は研究者、それを支える立場の人で、凄いと思いました。
昭和基地から300kmのところに行く機会があり、隕石が見つかるだろうという期待があり、トータルで3000個を超える隕石が見つかり、月の隕石も見つかりました。
気候のメカニズム、まわりが氷、雪なので岩石質のものが判りやすい、それが南極で多く見つかる要因だと思います。
隕石がある氷の層が動いて行って、ぶつかる山、山脈のある地形でないと見つかりにくい。(当時の情報量はすくなかった)

氷は蒸発して隕石だけが残る。
一サイクルで80万年とかかかります。
南極は宇宙空間に開かれた窓といった感じです。
越冬しないと隕石を探す様な状況は生まれなかった。(探すのは夏場)
私の隊では1万8000個のうち半分ぐらいは見つけ出しています。
大和山脈まで2週間かかります、調査期間を入れて3~4カ月かかります。
他にはアメリカなどが主体になってやっています。
分類、整理、保管をしますが地味で根気が要ります。
一個一個重さを測り、見栄えの良し悪しなどを調べます。
ざっと60種類に分けられます。
炭素質隕石(溶けて居ない隕石 有機物を含まない様な隕石数百個に一個ぐらい)に特に興味があります。
一個一個は宇宙全体を表している駒と言うふうに考えることが出来るので駒が有ればある程画像が鮮明になるので、隕石はたくさん集めたほうがいいと思います。
今は情報を集めるために極地研にいっていると言った方がいいかもしれないが、本当はもう一回南極に行きたいが。
一般の人に隕石をもっと知ってもらいたいと思います。