小野寺武男(撫順の奇蹟を受け継ぐ会 岩手支部 代表)・今こそ“人を赦す”から学ぶ
中国の北東部にある撫順には第二次世界大戦後、1000人近い日本兵が収容された戦犯管理所がありました。
多くがシベリアで過酷な労働を課せられた人たちでしたが、撫順では食事や医療などで人道的に扱われ暴力をふるわれることもありませんでした。
一方で本を読み罪と向き合う時間を与えられ、戦時中それぞれ日本兵が犯してしまった罪の重さ、償いとはなにかを考えさせられました。
管理所の中国人職員も恨みを押し殺して日々応対し、初めは声を荒げていた日本兵も自問自答を繰り返して罪を告白したり、書きだしたりして涙ながらに後悔と謝罪の気持を示したと言います。
6年後の軍事裁判では死刑になった人はおらず、帰国後戦犯たちは償いのために戦時中の行為を語り継いできました。
武力ではなく、許すことで平和の道を模索したこの出来事は後に撫順の奇跡と言われています。
この出来事を広めようと活動している人が岩手県滝沢市にいます。
小野寺武男さん(73歳)、小、中学校の教員として平和教育をしてきましたが、教員仲間との勉強会で撫順の出来事を知り、学習に取り入れて来ました。
岩手の中学生たちと撫順を訪れ現地の人と交流したり、戦犯と呼ばれた人を岩手に招いて話を聞く会を開いて赦すとはどういうことか、世界各地でいまだに争いが続く中で、赦す事にどんな意味があるかを考えて来ました。
小野寺さんに平和への思いをうかがいました。
退職後、2008年から撫順の奇跡の活動をしています。
印象に残ったことはいくつかあるが、試突(試しに突き殺す)の場面の話を戦犯の人から聞いたこと、初年兵の時に平気で人を殺すように成らなければ軍人ではないと言うことで、縛り付けた中国の人を銃剣で刺し殺す。
その時にさせられた人の思いを語るわけです。
簡単には人を殺すことはできないので、想像以上に苦しい事で、刺した瞬間の手に受けた感触の話などを語ってくれました。
戦犯の人はそういう自分が戦争の中で知らず知らずのうちに当たり前のように殺してゆく、本当に人でなしだった、鬼になっていたと言うことでした。
罪を認めて行く事に取り組んでいった時に、命令されてやった、そういう反省をするが、俺たちは戦犯ではない、最初は単なる一兵卒だと、悪いのは上官で俺たちではないと思っていた。
中国の人たちが真心を込めて人間的に扱ってくれる中で、あなたが手をかけた人たちはあなたの家族や知り合いと同じ人間なんですよ、そういう立場で考え直してみたらどうですかと、言われたそうです。
そこからが地獄でしたよと言う話でした。
自分が手をかけた人達の事を自分の家族や子供や親しい人たちと重ね合わせて反省して行くときに、この辛さが地獄でしたと話していました。
命令に従ってやっただけだと言う思いからもう一歩踏み込んだ最も人間がおかしてはならない、人を殺すと言うことをやってきたことにぶち当たって、生まれ変わらないといけないと思ったと言うんです、このままでは生きていけない、人間から鬼に変わって行った自分が、もう一度人間に戻れたと言うことを話されて、実感としてこの人は嘘を言っているのではないと思いました。
真剣に向き合った時に地獄に行くような苦しみがあったと言うことで、管理所内の6人が自殺を試みるんです。
半狂乱になる人が続出して、その苦しみを乗り越えて立ち直っていった人たちが、最後のわびの言葉が「ごめんなさい」ではなくて、「私をいかようにでも罰してくれ」と言うことです。
起訴免除で日本に帰された。
凄い人たちだと感動しました。
よほど自分が語らないといけないと言う強い思いがなければ語れることではない。
やったことが余りにも残忍な事だとすると、人に話せることではない。
証言することは私の贖罪だと、二度と戦争を繰り返さないために、何が有ったのかという事実を語ることが私の贖罪だと、それが二度と戦争を繰り返さないない為に必要な事だから、私は死ぬまで喋り続けると言っていました。
撫順から学べたことがいくつかあるが、人間は変わる事が出来るんだ、心の中に鬼を住まわせていても人間は変わる事が出来ると言うことを目の当たりにしました。
力で解決しなくても、相手をよく理解し相手と話し合ったり色んな事を繰り返せば、どうすればいいかと言う道は必ずあるはずだと、そういう指導は極めて大事なことだと思います。
所員の中に、自分の両親が目の前で殺された職員もいた、自分の子供が地面にたたきつけられて殺された方もいた、よほどの恨みを持った人たちがいっぱい職員の中にいたことは事実らしい。
職員の一人がこの戦犯にやられたと見付けて、飛びかかったが周りの職員が止めて、どうしたらいいか話し合って、殺した相手に暴力をふるって敵討ちをとって平和が来るかというような言葉が交わされた様です。
日本人の戦犯が段々変っていった時に、相手が一生懸命苦労しながら人間性を取り戻そうとしているのに、その変化を見て自分のやってきたことが正しいということが確証を得たので、私は人間としてその戦犯さんと付き合えるようになったと話をされた方がいました。
6年間で人間性を取り戻していったと思います。
罪を自ら認めるように対応すると言っているが、それは赦すと言う意味かなあと私は理解しました。
人間だから誰も間違いはしますが、脅したり、脅迫したりしながら反省させることではないと思います。
問題を解決出来る力をもっと大事に扱っていかなればいけない、ここに教育の大事なポイントがあるなあと撫順からもう一回確認させてもらいました。
撫順は過去のものではなく、わたしたちはここから学ばなければいけない。
退職する5,6年前まで撫順のことは一切知らなかったが、勉強をしてみれば見るほど、戦争を二度と起こさないためには何が大事かと言うことを、撫順戦犯管理所は私たちに突きつてけていると思います。
教員になって広島、長崎の原爆、東京大空襲など日本が大変な世界に見舞われ、こう言う時代を生み出してしまう戦争とは恐ろしいものだと言うことを主に扱ってきました。
被害だけでは戦争の本当の姿を考えさせることにはならない。
ごく普通の優しいお父さんが戦争になると鬼になる怖さ、そういうものなんだと言うことを子供たちに判らせてゆく必要があると思います。
被害の怖さと鬼になって人を殺ってしまう、これも怖い事、人間はそういう弱さを持っているので、そういうことと戦っていける強い人間にならなければいけないと、そういう教育をしたいと思っていました。
繰り返さないためには何を学んでどう生きたらいいかと言うことを、考えさせる、問題があった時にはどうやって解決してゆくことが人間に求められているかと言うことを深く考えて生きていこうと、そういう教育が必要だと言うことを教えてもらったのが撫順です。
暴力を仕方なかったと認めてしまったら、戦争は決してなくならないと思います。
撫順の地には撫順戦犯管理所の近くに撫順炭鉱があるが、3000人集められて機関銃で銃殺されてまだ生き残っている人を銃剣で刺し殺していったと言う事件があり、そこを掘り起こして記念塔が建って遺骨が並んでいる。
私が会った人たちは過去は過去未来を見つめて、これからは新しい友好関係を築いていけばいいんです、そういう言い方をするのがほとんどでした。
しかしむやみやたらに戦争の事を聞くことは気をつけないといけないと言われた、深い恨みを持っている人たちがまだ一杯いるということだと思います。
敵対関係で新しい友好関係は築けない。
撫順に子供達を連れていったこともあります。
本当に中国人が許したのか、何故許せたのか事実を知りたいと言うことでいきました。
撫順の中学校と交流して、日本の子供たちがストレートに質問しますが、判で押したように「過去は過去、新しい関係をこれから作って行くことが大事だ」と返って来た。
うちの子供らが逆に猛反撃した、過去をしっかり見ない中には未来がないと言いました。
事実をしっかり認めて謝らなければいけないと子供達は言いました。
私は誇りに思いました。
中国と日本の子供たちが撫順戦犯管理所のこととかを、共に見て考えたたことは、凄いことだと思います。
別れるときには子供達は抱きあっていました、そういう交流こそが大事な事だと思います。
相手の事をよく知る、そのことを考えて問題解決に当たって行く、決して戦争に行かない解決策の入り口だと思います。
佐賀の戦犯の方が撫順戦犯管理所から貰って来た朝顔の種を庭に蒔いて大事にして育ててきた。
今度来るときには、武器の銃ではなくて花でも持って訪ねて来て下さいと言われて渡された種だったそうです。(それを分けていただきました)
その種を配っています。(「赦しの朝顔」と呼んでいます。)
広がって行くことを期待しています。
テロを起こす人たちはテロでしか解決できない、それはなんでそういうことに走るのか、その思いをしっかり受け止めることをしないと解決の道はないと思います。
相手を知る、信じた相手と納得するまで話し合いをする、それが大事だと思います。
火種は常にあるが、それをどう克服してゆくかと言うことを考える。
武力ではなくても解決出来る道はあると言うことを、何処までも追い求めないといけない。