2013年8月31日土曜日

西のぼる(挿絵画家)      ・能登の風土に育まれて

西のぼる(挿絵画家)  能登の風土に育まれて
昭和21年生まれ  数々の歴史小説の挿絵を手掛けて来ました
平成13年に第32回講談社出版文化賞受賞
今年直木賞 安部龍太郎 「等伯」の新聞連載の挿絵も担当されてきました
これまで関わった直木賞作家の数は40人、500編以上の小説の挿絵を書いて来られました
日本の挿絵画家の第一人者です

挿絵は私が思った通りに書くというわけではなく、出版社から原稿を頂いて、それを書くわけですが、地方に住んでいるので、スピードが要求されるので、ハンディーを背負っているかなと、思いますが、なんとか35年間頑張ってくることができました
小説にもいろいろあって、一遍の小説の中に何枚も入れることもあるし、単行本みたいに表紙だけという事もあります
小説を読むが、ビジュアル系の人間なので、映像が立ち上がってくる
初期は映像の立ち上がりがおおすぎて、どこを描いていいか悩んでいたが、文学は文字で書かれているので文字を大切にしないといけないと思って、何を書こうとしているのかを見つけて、ビジュアル化していこうと思った
書いてくれと言われているような感じ

絵はどこまで踏み込んでいいのか自分で判断しなくてはいけない
自分の特徴をみせるというよりも、文学作品のいいところを読んでもらう、其為に挿絵があるんだ
という事に気付いて、引きのほうに回っている
時代小説を得意としているが、想像に頼るしかない 時代考証が一番大事だと思う
そんなに歴史が好きではなかったのでプロになってから、歴史を勉強するようになった
私の画家人生の分岐点、早乙女貢氏が、地方でしっかり勉強した方がいいよと言われた
石川県白山市にアトリエを構える
挿絵画家になりたいと思ったのは小学校4年生、2番目の兄(20歳ちょっと前)が挿絵画家を目指して、通信教育を受けていたので、よく見ていて、この世界で生きてみたいと思った

三代続く竹細工をしている家だったが、農業もしていた 小さい頃農作業場に連れて行かれたが、何もすることが無く、土で人魚姫を作ったら、母が物凄く喜んで、近所中に見せて回った
喜ぶ母の姿を見て、喜んでもらうために、絵を描くことが根付いて行った
父親が画家を目指していたらしい  父の一番多かったのがサムライの絵だった
子供のころ、一般的には目の前にあるものを書くが、制約をかけられた中で書くことが好きだった  
性格がどうも敏感で、小学校5,6年ごろに毎日頭痛が襲ってくる
(友達との関係で学校に行きたくなくて) 5時間目、6時間目によく頭痛が起きた
小学校5年生で父が癌で亡くなるが、そのあと直ぐに祖父も亡くなってしまった(大きなショック)
なんで自分ばっかり不幸なんだと思ったら段々閉じこもってしまった
唯一絵が私に光をともしてくれて、そこから深入りしてきた
中学1年から大人の小説を読むようになった (恋愛小説とか)
兄から図書館から本を借りてくるように言われて、段々その本を読んでから返すようになった

挿絵画家の条件 
①絵が描けないといけない 
②文学が好きでないといけない 
③歴史認識ができていないと駄目
中学、高校で知らずにそのようなことをしていた
学科の中で歴史が一番好きだった 
24歳まで兄の通信教育の教材があってそれを見ていて、家で絵の勉強を続けた
一番癒されたのは海ですね 立山がよく見えた ゆったーりした波に癒された
山は別な意味で、緑に癒された 
湿度が高くて、此の湿度のフィルターを通して生きてきた、湿度が自分にとって心地よかった
湿度のある絵 私自身が持っている身体に沁みついている心地いいもの、をずーっと書いていたらこのような色の絵になってしまったが、落ちつかせるためにそこにはほんの若干のグレーが入っている
グレーとは 雲が垂れこむ時間が長い、そうすると知らず知らずのうちに、頭がスカーっとしない、そういうのがずーっと来るとそれが普通になってくる
どっか重みのある空気感が凄い好きで、長谷川等伯という人の 松林図屏風 国宝第一号の作品で等伯は七尾に生れて、もっとここよりも湿度が高かったと思います 

松林図屏風はまさに湿度の頂点を描いた絵だと思う 
湿度を描くことによって、プラス、プラスで絵を描いてきたものが、マイナスに転じている 
引きの美学で絵を描いた最高傑作だと思う
同じ風土を背負っているという意味で、大先輩に感謝します
グレーを入れないと自分らしさが無くなる、これを描いているとホッとする
風景を見たときに、緑を見ても、空を見ても、ストレートの色ではなく、このフィルターの部分が私の能登、珠洲ではないでしょうか

100色を越えた色 沢山作り置きをする(乾かないようにラップをかけて中央が空いている)
新聞の場合には凄くスピードが要求されるので、作り置きしておく
私は指で小説を読む 目だけでは限界がある
(視覚と触覚の二つの感覚を使うと読むのが早い)
絵をスケッチするときに、スケッチブックは使わずに、手のひらに繰り返し繰り返し描いていって、記憶させてゆく  「手のひら スケッチ」
難しい字でも手のひらに書いてゆくと、覚えやすい
鉛筆で書くと凄くリアルになるが、手のひらだとあいまいになるが、大事なところだけが映像として残ってくる
出版社の人に言ったら、これは昔からあったことですよと、昔、太ももを使って描いたと言われた

締切日を指定日よりも一日早く設定して、ハードルを高くしてやるようにした
締切日よりも一日早く届くので編集者に凄く喜ばれた
編集者、出版社、読者に喜んで頂ける絵を描いていきたい
挿絵は制約の中の芸術なんだという、私にはぴったり(ハンディーだらけだが)
考えてみたら生きる力の方に倍化してきたように感じる
考えてみたら、ハンディーではなくて、むしろ生きる強い力になってきてくれた様な気がする
生きて残すものもあれば、亡くなって残すものもあることを感じた
(両親の死によって残してくれたもの)
長い間仕事が無かった、お金もなくて、仕事がない時の苦しみをなんと辛いとずっと身に沁みていたので、今どれだけ入ってきても、苦しむななんて思ったことが無くて、嬉しくて嬉しくて、来たものは全部引き受ける、生きるエネルギーになっている



























































2013年8月28日水曜日

金子貴一(秘境添乗員)      ・世界の秘境を旅して

金子貴一(秘境添乗員)     世界の秘境を旅して
秘境添乗員は砂漠、辺境地域の仏教遺跡など、ありきたりの観光地とは違う、秘境の旅を案内する旅行添乗員です
金子さんが訪れた、国や地域は100を越えています
子供のころはおとなしく、引きこもりがちな子供でしたが、このままではいけないと、アメリカに1年間留学しました
中学、高校時代に世界にある数々の社会問題の解決方法が無いないかと考え、其問題を解決するためには、世界に目を向けなければと、高校卒業後、エジプトの、カイロ、アメリカン大学で文化人類学を学びながら、通訳、ガイド、報道機関の記者などを経験しました
7年間のエジプトの生活を終えて、日本にかえってきましたが、エジプトの生活からなかなか抜けきれず、日本になじめない日々が続きましたが、それを克服して10年前から旅行添乗員として仕事をしています

添乗員とガイドの違い 海外旅行 日本からお客さんの団体をお連れして、現地でも旅行が日程通りきちんとできているか、管理しながら、日本まで同行する人
ガイドは現地で一つ一つの遺跡や観光名所などを説明してくれる人
添乗員でありながら、同時にガイドも兼務してしているという事も多いです
英語、アラビア語ができる
秘境に行けばいくほど其国の言葉が話せた方がお客さんへの役にはたてる
秘境→アマゾンの川下りとか冒険しながら旅行するとかが多いかと思うが、私の場合はあまり日本人が行けない場所にある遺跡に皆さんを御案内することが多い
日本国内の場合 隠れキリシタンの旅行とか、五島列島、東北では イタコ祭り とか企画した
消えつつある日本伝統文化 等も楽しみ方の一つ

出雲の方である8年に一回の特別の神楽(観光案内していない) 明治維新に禁止されてしまったような神官 宮司等が憑依(ひょうい)現象を おこすという そのために必死になって神楽を行って神様に降臨してもらう  8年間努力して1昼夜にかける 
勉強しないと判らないので、ツアーに出ていないときはいろいろ時間をかけて探す

子供のころ 社交性のない子だった  いじめにあい、段々学校に行きたくなくなる
中学校では、下痢になったりして、親を悩ました
車で送ってもらったりするが、不登校になってしまったりした
高校は進学校でいじめは無かったが、全くお互いに干渉しない状況 子供なりに悩みが積み重なって、また不登校になってしまった
学校に行っても新聞などを読みふけっていた(あまり高校時代のことは覚えていない)
3年の8月に留学を考える 自分なりに解決策を見つけようと考えた
出来るだけ多くの文化を勉強して、其中から解決策を見出していこうと思った
アメリカに1年間交換留学生として行かしてもらった
親、担任の先生も理解があって行かしてもらった

思っていた以上に物凄い収穫があった
行った先はいろいろ社会問題を抱えている家族だった
父親は暴走族のロス支部長 母親はカナダから移住してきて、若いころ、すりとして名をはせていた  
弟は、中学生でギャンブルをして学校を首になってしまった  そんな家族
キリスト教原理主義の方  1週間に3~4日 聖書の勉強  布教活動 協会に行く
キリスト教が勉強できたことは有難かった
社交的なアメリカ人になれるように、育てていただいた(今でも交流は続いている)

帰国後3年生をもう一度やって卒業した
文化人類学を勉強して、社会問題の解決方法を見いだしたいと思った
カイロの大学に行けば、中東、アラブ、ヨーロッパ、アフリカ文化を勉強できると思って行った
7年間行っていた  到着後2カ月後、1982年にサダト大統領が暗殺された
戦争が起こったりする中で、学生時代が始まった
観光ガイドをやらしてもらったり、日本の支局でのアルバイトもした
マスコミ関係の仕事としてはいろんな勉強をさせてもらった
エジプト人のお父さんの役割りをしてくれた人がいて、どのように人と接するべきなのか、敵対する中でどのように人的ネットワークを作って言ったらいいのか、どうやったらより相手を説得できてスムースに仕事ができるのか、アラブの人間関係のノウハウを徹底的に教えてくれた
19歳~26歳までいたので、どのように行動すべきか、育てていただいた

80年代のエジプト人の若者は、物凄い濃厚な人間関係があった
初対面のエジプト人同士でも、90%以上は心を割ってしまって、兄弟としてお互いを扱うような人間関係だった
人と人の垣根の徹底的に低いところだったので、社交性と戦う事になる
誘われるパーティー、遠足など徹底的に参加してみたら、社交性とかが破壊されてしまったらしい
日本人としての自分、アメリカ人としての自分、エジプト人としての自分 3人の自分が存在してしまうような状況になり、自分の中で反発しあったり、自分の中で納まりきれない悩みがあった
そういった時期があった

両親が外国人のように見えた(自分が完全にアラブ化していた)
日本的な感覚に違和感が感じるようになった 自分が日本になじめない
仏教のお坊さんに話す中で、日本自体に対する憎悪を受け入れたりしてくれた
あなたは何故水と油のようにしているのですかと言われて、数日間家で悶々と悩んでいた
帰国後4年も違和感が膨らんでいた、怒り、違和感が、そのお坊さんの一言がきっかけで、4日もすると消えてしまった
それからやっと日本という社会でも生きていけるようにならしてもらった
それまでアラブ人から見ていたが、日本人としての自分が起き上がってきて、日本社会に入れるようになっていった

フリーライターとして始まった その後添乗員の仕事がはじまった
現在100カ国に行っている
一つ一つの国に親友を作りたいと思っている
独裁国家、破たん国家に行ってみたい(秘境が多くある)
ナイジェリア、トウゴ 西アフリカ 中央アジア 等に行ってみたい
どんな違う文化、言語、宗教が違っても仲良くしたいと強く思っているので、文化、信仰の違いが
知りながらも本当に違和感無くその国々の人達の中に入ってゆくことができるんだ、という事でしょうか  
それを理想としているが、できつつある
誠意を以って交流してゆく中に、本当に日本人の親友同士であるかのように、魂と魂が親友になれるという事が段々、そういう事が一つ一つの国で親友ができてきているので、有難いと思う

教育問題、社会問題  現段階の結論 個人個人の解決には結びつかない
知ることではなくて、一人ひとりの成長が結局そういう事を解決してゆくんだろうなと思うようになっている
一人一人の心の成長、人間としての成長、魂の成長、そういうものが今重要なんじゃないかと思っている
濃厚なコミュニケーションのなかで、お互いに成長しあいながら行くというのが、現段階での解決策
しっかりとした自分自身の考え方や、自分というものを持っていながら、異なる言語、文化、宗教にもすーっと違和感無く入っていけること、今私が思っている国際人なのかなと思っています 
イスラム世界に御恩があるので、どうやったらイスラム世界に御恩返しができるのか、最終的に自分自身が僧侶にならしてもらおうと思いたった
多くの方々が戦争で亡くなっているので、御供養、魂の癒し、人の癒しにできればありがたいと思っていて、出張する前にお世話になっている師匠に御供養をお願いしてから現地に行くようにしています
仏教で「和を以って貴しとなす」 どんな文化、宗教の相手とも常に融和、和合を尊重する
日本の文化が世界に、特にイスラム圏の方々に発信できるものではないかと思っている
お互いに学びあいながらも成長できればいいと思っています







 











































2013年8月27日火曜日

山田澄代(ステッキ経営)      ・ハンディーキャップを逆転の発想で

山田澄代(ステッキ経営)    ハンディーキャップを逆転の発想で
75歳 ステッキの専門店を開いて19年、 日本初の杖の専門店を東京渋谷の商店街に開き、その後新宿の大きなホテルの中に店を移しました
山田さん自身、3歳のときに発症した小児麻痺、ポリオで杖なしでは歩けません
自分が使いたい、こんな杖がったらいいなあと、杖の手持ち、素材などを変えてきました
カーボン、アルミ、グラスファイバーなどを使用したカラフルな杖、折りたたみができる杖など、多種多様な杖を販売しています
自分が抱えるハンディーを自分にしかできないなりわいとして、今なお杖の世界を変革し続ける
山田さん、これまで歩んでこられた道をお聞きします

いま1500種類あります 福祉医療の役に立つもの 映画ファッションショー、踊りなどにも使われる
足の不自由な方だけではなく、おしゃれなどにも使われる
年代も高齢者だけではなく、若い人も来る 
値段は一般的は1万5000円~3万円  実際には6000円~250万円までいろいろある
杖専門の店は当時あまり無かった
3歳の時に急性灰白髄炎という、熱が下がった後に麻痺が起きる 小児麻痺になり、左足が全く動かない
学校へは母の背中に負われて、送り迎えをしてもらった(疎開先 相模原)

戻ってからは自力で通った 中学、高校は松葉つえを使って通った(雨の日は厳しい)
手術 小学校で2回 中学校でも手術する(固定手術 歩きやすくはなったが)
学校生活は体を動かすことはできなかったので、あまり楽しくは無かった
大学にも行ったが、途中で就職した(大きな手術のために親に負担をかけたくなかったので)
出版社に就職 2年働く その間に手術をする その間手術、リハリビが続いた
GHQが占領していたところが、第一生命だったので、日本一の会社と思い、そこにチャレンジしようとして、受験した 保険の営業マン 外交だった (22歳)

車でのお供、成績が良かったので自分で車を調達でき、ほとんど歩くのは無かった
勧誘方法のレシピを受け取って、ほとんど俳優さんに絞って、対応する(短時間で応対する方法)
トップクラスになる  給料は入った時は9800円 3か月目 3万円  その次が何10万円
(歩合制なので)  運転手つきの車で、部下も10数人いた
6年間 外交の仕事をやめる 結婚 29歳(別荘購入時の担当者)
お金で人生観が変わったことは無いと思うが、実際には変わったと思う
生れた子供が女の子 「複合汚染」が当時話題になり、パンを家庭で気軽にできればと思い、手作りパン教室を始めた(6回で卒業するので、生徒募集が大変だった)

機械でパンをこねればいいと思って、パンこね機を作ったが、敗退した
次に別荘地を売ることにして、俳優、医者に絞って売るようにした
夫が保証人になり、いろいろトラブルを起こしたりして、最終的に離婚した
マーケッティングリサーチの分野に変わる  商品開発 クリスチャンディオールの毛皮、宝飾の会社に入る
ポリオは60年間体内にビールスが残っているので、免疫力が弱くなったりすると、ビールスが攻撃を始める(だるい、睡眠障害とか、いろいろな障害が出てくる)
面白そうな仕事を次々に行う  
パーティーだとか企画をして、着る場所を拵えて進めるようにして、高額の毛皮が売れるようになった

大気中からエネルギーを取り出す事ができると言う事で、「宇宙エネルギー研究所」に投資をしてしまった  
とことんやった方がいいと思って、家を担保にして、預金を含めて、全部投資したがすってんてんになってしまった(56歳の終わりごろ)
私しかできないことで、何かできないかと思って、不動産があったが、自分自身が納得できる仕事は何かと思ったときに、ステッキに着目した
一挙に全国区の名前に知れ渡った(朝日新聞が取り上げてくれた)
最初は1~2本/月程度 自分でデザインして、作らせてというのを2年目に始める

デザイン、材質、長さ とかドンドン変えてきた
茶色、黒が主流だったが、色もカラフルにする
ハンドバックに入る折りたたみ式ステッキを製作する
福祉用品の業界で物凄いセンセーショナルになる

ポリオの影響でよく転んで骨折をする  5回も骨折をしている
高齢者が多くなる中で、転倒しないようにしていかないと、いけない
自分自身で転倒しないように、因子を理解して、転倒防止を広めていきたいと思っています
杖を自分で使っているという強みはある
杖の寸法があってないと、肩こりの原因、内臓のほうにまで曲がりができてしまうので、その人にあった寸法が必要
杖の下にはゴムがあるが、すれ切ってしまうのが問題で、交換は無料で行っています

バリアフリー法 進歩したが、杖の持ち手自身が杖を持つことに抵抗する人が多い
(自分はそんな歳ではないとか、よたよたしていないとかで)
アクセサリー的な小物として受け取ってもらいたいと思う
道路は良くなったけど、心のバリアフリーはもうちょっとかなあと思ったりしている
不要杖を集めて、地雷国の人たちに提供している(15年前から)
護国寺で杖の供養することにして、清められた後に、大震災の被災地に送ったりしています
生きることに対する欲が強すぎるのかなあと思う 毎日毎日が忙しい
私がポリオでなかったらと考えると、自分だけ満足して、贅沢な人生を送っていたのかなあと思いますね
古代の科学者 アルキメデスが「自分の立ち位置を教えてくれ、そうしたら地球だって持ち上げて見せるぞ」といったような事があるが、自分の与えられた、立ち位置を教えてくれたのが、ポリオではないかなあと、今、しみじみと思います


























 

































2013年8月26日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(松尾貴史)

天野祐吉            隠居大学(松尾貴史
TV、ラジオ、映画、舞台、エッセイ、イラスト、折り紙など幅広い分野で活躍されています
53歳 隠居大学に呼ぶには申し訳ない人
「何故宇宙人は地球に来ない」 本 
折り紙作家 人の顔しか折らない  似顔絵的なもの
最初、学生時代に依田先生がいて、折って見た  それが第一号 
面白くなって、個展をやったりした  総理大臣の顔を折ったりした
権威のある人をからかう (芸として)  ユーモアで風刺することはマスメディアにとって必要と思うが、最近は無い  めんどくさがれる(扱いたくない)
英国、モンティーパイソンが好きで、インテリの人たちが集まって、権威も権力、弱者も全部ひっくるめて、笑いの場において一切差別しなかった

どんなに文句をいわれても、理論武装をしてやっていた 腹をくくってやっていた
局の担当者は戦々恐々としていたとは思うが、人気があって続いた
日本では現場で事なかれになって、皆が安心出来るものしか放送できなくなる
これで傷つきますかというような、判断能力を共有していないと本当に面白いものは続かないのでは無いかと思う
大島渚さんのものまねを若い頃していたが、御病気になり言葉が不自由になり、それを真似するのには抵抗があると言ったら、それをあえてやるのが批評というものだろうと、本人から怒られたが、本人から了解を得たが、でも私にはできない(本人以外から怒ってくる)

朝まで生TV  概ね月に一度テレビ朝日系列(ANN系列)で放送されている、政治関連を中心とする討論系深夜長寿番組である
中島らもの劇団にいた グラフィックデザイナーになりたかったので、プレゼンテーションでは話し方がうまくないといけないので、話し方教室に行ったら、ナレーションの斡旋が習っている人たちに来る(ギャラが安いので)
ナレーションをやっているうちに、お笑いのネタを作って、気がつくと漫談をやったり、物まねをやったりしていたが、中島らもさんが劇団を始めるけど一緒にやらないかといわれた
朝日新聞で「明るい悩み相談室」 何にも相談になってないとの批判あり
頻繁に批判する人は、さびしがり屋なのではないか(父もそうだったが)

くそ爺になりたいと思っている(画面に向かってぶつぶつ言っているような)
そのままTVを受け取ってはいけないのでは(ちょっと距離をおいて)
TVに向かって言っているのは、無駄なことだとは思わないで、どっかでTV局に届くのではないか
最近は物まねでおちょくっているのは、あんまりない
TVで歌真似、物まねがすごく多いが、そっくり似ているだけでは面白くない
似ている中に、本物を茶化している、皮肉っている、本物の癖を暴いている、そういう批評性が無いと面白くない
当たり前の事、常識を吐くのがコメンテーターで 専門的なことを言うのは解説者がしゃべればいい
普通に感じることを言えばいいのだが、普通に言うと言う事もなかなか難しい
うかつなことを言うとおろされてしまう事が、ままある
血液型はただの遊びでは済まない迷信 サブタイトル
所詮遊びではないかと、目くじらを立てることは無いのではないかという人もいるが、それよりも以外のほうが実はそこから起きる被害の方がおおきいのだと、いう事を書いているが本当にそうだと思う
遊びだと甘く見ているという、少なくともマスメディアがそんなことを放送するのは、と放送に同席した医者はその場面は席をはずす、そういったことも書いてある

















2013年8月25日日曜日

五木寛之            ・歌の旅人(群馬県)

五木寛之         歌の旅人(群馬県)
横川駅ホームでしか峠の釜めしは売っていなかった 横川の釜めしは55年の歴史がある
昔と全く同じスタイルのもの
親鸞  湖沼地帯、湿地帯、大きな河川とかの流域に自分の教えを広めていった時代がある
(関東時代)
利根川 長さ2番目 流域面積は日本一 (坂東太郎)
前橋、政治の都 高崎、商売の都 桐生、織物の都  太田市、工業の都
由紀さおり、安田祥子(桐生)  「夜明けのスキャット」
日本に童謡、唱歌を広めた立役者
羽仁五郎   群馬 反骨精神が強いところがある
中曽根、福田、小渕 首相を続出
内村鑑三、新島襄  体制に対して批判的立場の文化人、思想家を沢山排出
高木 仁三郎 反核運動の旗手    国定忠治
「かかあ殿下と空っ風」

運転免許証の女性の保有率が日本一 
山が多く、温泉が多いところ(草津、伊香保、水上、四万)
「赤城の子守唄」 東海林 太郎
群馬交響楽団 地域が育てた交響楽団 
作家 田山 花袋 金井美恵子 南木 佳士
詩人 萩原朔太郎 星野 富弘
学者 関孝和(和算)  映画監督、小栗康平

尾瀬 群馬、福島、新潟にわたっている
「夏の思い出」  宗次郎 オカリナ奏者
宮田東峰、ハーモニカ奏者  戦中、戦後の世代にとって、本当に懐かしい庶民の楽器

利根一郎 「星の流れに」 作詞、清水みのる  作曲、利根一郎
旧満州 奉天 そこから戦後、看護婦(看護師)が引き揚げてきて、苦労して、生き抜いていこうとして、旨く行かなくて、最後は上野の地下道の中で、ホームレスを送っている若い女性に、清水さんという作詞家が偶然にあって話して。感激してそのまま作曲家の所に行って、殴り書きにした詩を持ってゆき、曲をつけてくれと行って、すぐに曲が出来て、今の戦後の日本人の生き方や、心の中に溜まっているいろんな思いをこの歌にぶつけて録音しようと言う事で出来た歌
田村泰次郎 「肉体の門」の映画の中で歌われて、大ヒットした歌
時代の匂いを感じさせる

コピーライター 糸井重里  宇宙飛行士、向井千秋 俳優片岡千恵蔵、小林桂樹、東野英治郎
富岡製糸場(世界遺産登録に努力)
初代コロンビアローズ  「東京のバスガール」
















 

 

2013年8月24日土曜日

大塚睦子(元養護教諭)      ・養護教諭として35年

大塚睦子(元養護教諭)      養護教諭として35年
看護師を経て、昭和32年から開校間もない大阪府立堺養護学校(現在の堺支援学校)に勤務しました
全国に先駆けて、テンカンの児童、生徒のプールでの授業に取り組むなど、35年間にわたって、養護教諭として様々な実践に取り組みました
大塚さんが教育活動の原点になったというのが、森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者の追跡調査でした
昭和30年に粉ミルクを飲んだ乳児130人が死亡、1万3000人を超える人に健康被害が及んだ事件、学校に在籍していた被害を受けた子供の存在をきっかけに昭和43年に始まった大塚さんらの訪問調査活動が深刻な後遺症の実態を社会に訴えました
それが被害者の救済へとつながったのです
大塚さんがこの活動から学んだものは何か、教育の現場で見失ってはならないのは何か、伺いました。

学校が創立した翌年(昭和32年)に勤めました。 肢体不自由な養護学校として創立された。
テンカンの子供たちはプールの学習は一切駄目(発作が起きることを懸念) 全国共通だった。
なんとか子供たちを入れてやりたい気持ちはあった。
五者協議 お子さんの意見を聞いてみようと、けいれん発作はどういう状態だったか、親御さんから直接聞いてみようと思った。
五者協議 訓練関係の先生、校医、担任、保護者、プール指導教師、で話し合いを進めた。
保護者に 風呂でテンカンの実績があるかどうか聞いたら、いなかった。
市民プールには行っているかを聞いたら、8割の人が行っている。
学校で入れてもらえないのは納得がいかないとのことだった。
保護者としては、時間が取れるので監視に行きますとのことになる。

親御さんに交代で来ていただいて、プールに入れることになり、子供たちは非常に喜んでくれた。
児童精神医学会がテンカンの子供たちはプールに入れることに問題は無いと、正式に発表することになった。(実行し始めてから4年目)
35年間の養護教諭の実践の中で、大きな転換点 昭和43年
大阪が障害児の大規模な学校になっていた。
私のところでも43年には430人になる。全国一の大規模校。(以前は90名程度だった)
面接で親御さんと障害の状況を聞いていたのができなくなり、アンケートで対応するようになる。
一人一人の子供の障害が判らない、外見的なことしかわからない状況だった。
疑問に思っていて、ある人から阪大に丸山博という医学の教授がいるので相談してみてはといわれて、43年8月に手紙を書いて、会える事になった。(衛生学が専門)
2回目 先生に私の学校の実態を解ってもらいたいと思って、保健でまとめたものがあったのでそれを持って行った。

先生はこれを見て、脳性麻痺が多いと、これがあなたの学校の実態ですねと言われて、一人だけ脳性麻痺の症状があるが、脳性マヒではありません、と森永ミルクヒ素中毒になって被害を受けたからこんなになりましたと面接の時に言われたので、昭和30年の事件のときには私は近畿大学の医学部の学生でした。
事の重大さが解っていたが、あの事件の子供さんが障害の重い子になるのかと非常に吃驚した。
非常に重い脳性麻痺の症状で、パンを持つことができない、自分の口にパンを運ぶことができない、うちの学校で初めて受け止めた、重度のお子さんだった。
原因別にすると分類すると、脳性麻痺でいいと思っていたら、それを先生が念を押したので、実は一人だけ、森永ヒ素ミルク中毒でかかったというお子さんがいますと口にした。
それまでリラックスしていた先生がぱっと姿勢を正して、それをやりなさい、それを勉強しなさいと言われた。
障害児の健康問題の事を勉強したいと思っていた。
全校84%を占める脳性麻痺の子供達 330人余りいたが、この子供たちのことを知りたかった。
ここに森永ヒ素ミルクで障害がある子いる、しかもこんなに重い障害をうけていると言う事は、他の学校にもいるに違いないと、あの時1万2000名の人がヒ素ミルクにかかったんだと、そのうち130人も死んでいる、そこに生き残った子の中にこれだけ障害の重い子がいると言う事は他の学校にも必ずいるに違いない、そこを調べてみれば、ヒ素ミルクと言うものがどのように影響したか解るでしょうと、言われた。

それなら親御さんにもう一度会って話を聞いてみようと思った。
厚生省が事件の妥結を図るために、学識経験者に意見を求めていた。(5人委員会意見書)
5人委員会意見書を借りてコピーを取り、一晩それを読んだ。
事件はこのようにして起こった、事件の解決はこうでないといけない、死者に対してはこのくらい弔慰金を払いなさいと、厚生省に対して意見書をまとめていた。
それで事件の全貌が解る。 産業廃棄物からヒ素が入ったのか、等が判った。
そして航空機事故の場合はこれこれ、いくら、赤ちゃんの場合だから、25万円でよろしい。 
祭壇に弔慰金として持って行っているので差し引くことにする、と書いてあって、なんて死者に対して、人の命をこんなけちな計算をするんだろうと納得できなかった。

A君は29年8月生れ ずーっと森永のドライミルクを飲ましていた。 
昭和30年6月ごろに熱を出すようになって、時には40度の熱が長く続くようになった。
良く泣くし、離乳食も食べないし、重湯飲ませていた。
皮膚がどす黒くなるし、保健所に連れて行ったら、保健所では入浴させてないのだろうと言われ、2度と保健所には行くものかと思った。
8月24日に報道がありヒ素中毒と解った。
直接、森永に直接交渉したが、お見舞いとしてビスケットと5000円持ってきた。
その後も見舞金を持ってきたが、5人委員会意見書が出ているので、事件の決着がついているので、これ以上はどうする事もできないと言われてそれっきりだ、といわれた。

ヒ素中毒の患者の家族に話を聞きに行くと、最初険しい顔をして、森永から来たのか、とどこにいっても言われた、身分をちゃんと言って、今こういう勉強をしていますと言ったら、どこのうちも堰を切った様に、親御さんたちがいろいろと話してくれた。
151校の中学校に往復はがきを出して調査した。 24人の被害児を見つけ出した。
更に保健師、医学部の学生と連携して、訪問活動が広がって65人を調査した。
後遺症が残っているのが、どうかは解らなかったが、変だねとは思いました。
いろいろトラブルはある、問題はあるという異常感はあった。
1969年(昭和44年)10月19日付け新聞に、おかしいんじゃないかという調査の纏めが報道された。
後遺症はない、健康障害はもともとから持っている病気が出ているだけで、被害の結果ではないという事を声明が出ていたので、それでマスコミは書かなくなっていたので、この話はすんだものとみんな思っていた。
新聞の見出し 「14年後の後遺症、調査した8割に異常」 等で 公表。
被害者は中学3年生ぐらいになっていた。  
社会人になってしまうと散り散りになってしまうので、掴めなくなるので、ぎりぎりだった。

小児科学会、大学等もちゃんと取り組もうと動きだした。
救済、「守る会」お金はいらない 命を返してほしい、健康を返してほしい、と訴えた。
森永側から恒久措置案が出るが、被害者側から恒久救済案が作られ認めてほしいと要求。
48年に「守る会」 厚生省の役人とを含めて、初めて三者会談を行い、決着がつけられた。
恒久的な救済の仕組みができた。
一時金はいらないので、命を全うできるように救済事業としてやると、森永は補償する、国も補償する、応援もするという事で「ひかり協会」が設立された。
家庭教師を派遣するとか、学籍を回復させるとか、福祉的なことをしっかりした。
重度のA君のような人たちには、一定の調整手当を支給する、介護手当を出す事になる。
他の公害事件などとは、全く違う救済事業です、ここに来るまでは本当に紆余曲折があった。

調査の段階で、保健婦は行政の一部機関だからか、そういうのは政治的なことだからやらないようにと、圧力があったようだ。(ほかにもいろいろ)
子供を抱えながらの調査をしていたので、いろいろ忘れられない苦労があった。
いま私たちは体と心とを、バラバラに考えていると思う。
学習は教師の仕事、健康にかかわることは養護教員の仕事と分業に考えているが、人間にとって何事にもその出発点は生命にあるので、この命を守ると言う事が最初に保証されないといけない。
親御さんとの連帯が薄れてきているようだ、自分の命を守る、周りの人の命も守る、そういう事の出来る人間にするというのが教育の目的 痛切に学んだ。
物事は一人から出発すると言う事を、この調査から教えられた。

丸山先生はたえず、事実が大事ですと、事実をどう認めるか、事実をちゃんと事実を認識できない人がいるので、自分たちの現実から出発して事実そのものを率直に認めてゆくことが大事だと
いう事を常々言っている。
(昭和30年8月24日 岡山県衛生部は西日本一帯の乳児に広がった健康被害は森永乳業徳島工場で作られた粉ミルクによるヒ素中毒と発表  事件直後に亡くなった人 130人 被害者13437人
今 ミルクをのんだ多くの人は59歳~60歳になっている。
国、被害者団体、森永乳業 3者で運営する公益財団法人「ひかり協会」は来年で活動40年になる)












































2013年8月22日木曜日

平野啓一郎(作家)         ・本当の自分は一つじゃない

平野啓一郎(作家)    本当の自分は一つじゃない
平野さんは平成 11年 京都大学在学中の23歳のときに、「日蝕」で芥川賞を受賞しました
その後も、「葬送」 「決壊」 等 次々に話題作を発表、多くの作品が翻訳されて、フランス、韓国、アメリカ等広く海外にも紹介されています
平野さんは去年発表した、小説、「空白を満たしなさい」で死ぬこと、生きること更には自殺と言う事に正面から取り組みました
毎年、3万人もの人が自ら命を絶つのはなぜなのか、特に30代と言う平野さんと同世代の人たちの置かれた状況や、心内に思いを寄せ、どうしたら自殺を防ぐことができるのか、考え続けました、そして本当の自分は一人ではなく、誰もがつきあう相手毎に様々な顔を持っていて、そのどれもが本当の自分であって、分人と言う概念が自殺を防ぐのに、その救いになるのではないかと考えるようになります
平野さんが「空白を満たしなさい」を通して何を伝えたいのか、そして僕は小説があったからこそ、生きてこられたと言う、平野さんにとって38歳の今、小説とはどのようなものなのかを伺いました

最新作「空白を満たしなさい」 概要
物語の最初は世界中で亡くなった人が生き返るところから始まる 主人公も3年前に亡くなっているが、何故か生き返った人の一人、他の生き返った人は友達等が喜んでくれるが、彼だけは奥さんが喜んでない 実は奥さんから何にも覚えてないと、言われる
実は3年前に自殺したと言われる 或る人とずーっと揉め事になっていて、あいつに殺されたのではないかと、言う事を想い始める
自分の死因をつきとめようとする過程で、段々自分はどういう人間か解ってきて、幸せとは何なのか、奥さんの心に秘めている思い、いろんなことに気付いていって、最終的に真相が明かされる (ミステリー仕立てになっている)

父が自分が1歳の時に亡くなっている(36歳だった)
私自身がその年齢に段々近づいてきて、気にしていた
36歳を越えられない様な気がしていた
作家になって、気持ち的にその年齢を越えるために、自分として、生きると言う事、死ぬと言う事をしっかり考えたいと言う気持ちが前からあった
自分が死んだらどうなるんだろう、と言うのは人の死を見ながら考える
自分の場合は父の死を見ながら考えることが多い、父と関係のあった人が生きていて、死んでしまった人だけが時間が止まった様にずーっといない状態がず―と続いているのが、私の死のイメージだった

自分が36歳になった時に、いままで感じていた時より、より強い現実感を父の死に対して感じるようになった
丁度その頃に子供が生まれて、子供を見ていて、、こういう風に父も私のことを見ていたのかなとかとか、生々しく感ずることがあった
今、38歳 大震災もあって、直接知っている人たちではないが大勢亡くなってしまったと言う事
津波により突然亡くなってしまった(父も急な病で突然に亡くなった)
さっきまで元気だったのに、突然目の前からいなくなってしまうと言う、亡くなり方
構想の段階では大震災は起こっていなかったが、物語をもっと深めていこうとしたときに大震災のことは考えました

物語を描く強い気持ちは、何なんだろうと内省して、私は、亡くなった人に対する、生きている人の一番強い思いは、結局もう一回会いたいと言う事ではないか
亡くなった人と再開出来るところから書き始めようとした
小説のクライマックス(ここが書きたかったという場面) のイメージが無いと書き始めてもどこへ行ってるんだと言う事になってしまう
主人公が自分の死因を解って、自分と言う人間を深く理解して、こういう事だったんだと言うところがクライマックスになっている
主人公に感情移入をしたかった(設定は私と似ている)
人一倍生きたいと言う思いが強い主人公

若い人の自殺している人も多くて年間3万人 15年間で50万人なっている 遺族を含めると100万人単位の人が関係している問題
死ぬこと、生きること  人類の究極の問題 何よりも自分自身が死に対して持っている不安は一番正直なもので、いくら綺麗事を言われても不安は鎮まらない 説得力を持っていない
最終的には死を或る穏やかな気持ちで受け入れられるのかと言う事を、何よりも自分が納得したかった
私が納得できることは、同世代の人たちにもどっかで共感してもらえるのではないかと、願いつつ書いた

主人公が死の真相を探っていくうちに、自殺だとついにわかる
なぜ自殺をしたのか、マイナスのイメージではなくて、よりよい人生を送りたい、もっと頑張りたい、もっと幸せになりたいと思った結果が自殺になってしまった
私はずーっと疑問だったのは、酷い言い方で、死にたいと思って死んでんだったら本人の勝手じゃないか、命を粗末にしたのだから悪いことをしたのだという考え方がある、宗教的にも禁じられていて自殺することはストップだと責められる社会があるし、しかし本当に本人の意思として死のうと思って死んでるのかなと、疑問として有った
亡くなった人の心の中で起きていることは複雑な問題なんじゃないかと考えていた
本当は死にたくなかったのに、自殺してしまっている人は多いんじゃないかと考えていた
メカニズムとしてどういう事が心の中で起こっているのか整理されていなかった

悪い感情で人を自殺させているのであれば、悪い感情を直してゆくことで自殺を食い止められると思ったが、今多くの人を追い詰めているのは、一見ポジティブなまっとうな考えの方が人を追い詰めているんではないかと、自分はどうしてこんなに出来ないんだろうか、こんな生活をしていては駄目だとか 前向きの気持ちだけれども、厳しく自分を責めると、思わぬ形で、自殺することを考えてなくても、結びついてしまう事があるのではないかと考えた
死にたいとかではなくて、嫌な自分を消してしまいたいとか、消えたいとか、楽になりたいとか、そういう事ではないかと思った
多くの人が抱いてしまう感情で、それがたまたま物凄く疲れていたり、冷静になれないときに、手段としして、自殺に結びついてしまう可能性があるが、本人は誰かが助けてあげて、1週間ぐらいしたら死にたいなんて言う気持ちは無くて、留めてくれてよかった、自分は生きたいと思っている、と言うようなことを考えた

今、価値観が多様化して揺らいでいる時代だが 誰もが認める価値は健康 幸福 2つだと思う
20代のころは自分は幸せだろうとか、考えなかったが、30代ぐらいになると幸せかどうかを考え始めるのではないかという気がする
30代で自殺することがあるという事は関係しているのではないかと思う
疲労は人間にとって良くないもので、厳しい時代、人の幸福があんまり喜んであげられなくて、ねたんだり、足を引っ張ったりとか多い世の中で、へとへとになるまで頑張って、掴んだ幸福なら、まあいいかという風に認める雰囲気がある
恵まれているような方でも自殺されている方もいて、物凄くへとへとになるまで働いているとか、そういう社会のいびつさはあるような気がする

結局は人間は一度きりの人生だという事は否定できない
生きていること、死んでいること、 というのを凄くシンプルに 有ると言う事 無いという事
からもう一回考え直したいと思う
さっき、まで隣りにいた人が津波で亡くなってしまうわけですが、亡くなってしまうと言うよりも、いなくなってしまうと言う感じ、消えると言う事から死を考えようと思って、実は亡くなって消えてしまった後にも、消えずに残り続けるものが、いくつか有るなあと思った
遺品、遺伝子(子供がいるなら)、私の事を知っている人の頭の中にある私の記憶、私がしたことの影響力は何らかの形で社会に残ってゆく、写真、記録とかも

急に亡くなっても、しばらくは親しい人の間に私の中の何かは残り続けると思った
自分が愛している人が生きているい間は存在の余韻が残ってればいいなと思うが、そのひとたちもいなくなったら、そのあとまで残り続け無くてもいいような気がする
死ぬと言うよりも、消えるんだけど、消えないものもいくつかあると考えると、少しは死を受け入れるという意味で、穏やかな気持ちになれる気がした
消えてしまうと思うと残したいと思うが、いくつか残り続けると思うと、逆にあんまり残っちゃいけないんだという気もした
社会はドンドン新しい世代の場所として続いていくわけで、子供、孫の世代が新しい社会を生きてゆく、そういう時に私の何かが残り続けてても、自由に新しい世界を次の世代がいきていけないんじゃないかという気がした
だから主人公も、奥さんと子供を残して、自分が又死んでゆくと怖いし、残念だが、思っても奥さんが再婚したいと思ったときに、妨げになるんだったら、消えてしまう方が良いんじゃないかと思うが、なかなか割りきれない感情で最後まで揺り続けるが、そういうなことを掘り下げた

自殺 主人公が自殺防止に取り組むNPOの代表取締役
ゴッホの自画像 一杯描いている 多様な書き方をしている
人間、自分の中にいろんな自分があって、そのいろいろな自分をゴッホは自画像として描いていると思うが、自殺するという時には葛藤すると思う
ゴッホの場合は弟との関係が特殊で、経済的なのも依存していて、弟が結婚してゆくときに経済的な支援が難しくなる 
その時にゴッホのいろんな自画像の顔を見ながらどのゴッホがどのゴッホを否定しようとしていたかを、見る中から自殺の危険を持っている人が、もう一度自分の心の中を見直して、どの自分が嫌で、どの自分が嫌ではないかという事を心を整理してったらいいんじゃないかという事を書いた場面なんです その事を説明するために「分人」という言葉を使った
個人に対応する言葉 として作った造語  個人は分けられないもの  individual
分けられない 一人の人間は分けられないというのが語源
人間はいろんな自分を持っていて、むしろ分けられる複数の顔を持っているという風になんとなく感じていると思う

分人 なんで大事かというと 子供のいじめ、会社での嫌な思い 自殺を試みてしまう事もあると思うが、本当は自分の中にいくつもの分人があって、会社での、学校での分人は嫌だが、友達、家族との分人は嫌な分人ではない
いくつかの分人がいろいろな形で自分の中にある
嫌な分人はあるんだけれど、生きていて楽しい分人もある
そこを足場にしながら、辛い状況に陥っている分人をどうしようかと、いう風に考えてゆくと、そういう風に心の中を整理できれば、自分を全部を消してしまわずに、嫌な部分だけについて考えという風に考えられるのではないかと思った
好きな分人を足場にすることで生きていけるのではないかと、小説の中で言いたかった一つ

理解してくれる人と会ったときにどんどんそこから新たなコミュニケーションができてきて、救いの道が出てくる
自分を肯定することは凄く大事なこと
相手との相互関係の中でお互いに影響を与えながら、好きな自分になったり、嫌な自分になったりする
鏡を見ながら自分のことを、自分でひたすら自分を好きになるのではなくて、相手を一度経由して、相手のおかげで自分のことを好きになれるという考え方が大事
好きな自分の半分は相手のおかげ  環境との相互作用で、嫌な自分にもなることもあるし、好きな自分になることもある

10代のころは、生き、死に、父のことなど深い話をなかなか日常生活で出来なくて、友たちと接してても満たされなかった
自分の居場所を思い悩んだ時期もあった
本当の自分は一つあって表面で会わしているという風だと辛い
複数の自分を本当の自分としてとらえて、その構成比率、を考えながら生きてゆく方が自分の実感に近い
どういう考え方をすれば乗り越えられるのか、どういう体験があると自分として前進できるのかを考えている

今まで自殺未遂をしたけれど、もう自殺をしなくていいような気がしますと、何人の人からも言われて、書いてよかったなと思いました
小説をよむことによって、人生がより楽しくなったり、救われたりするひとたちが潜在的にはいると思う
実生活では限られた経験だけれども、小説はいろいろなことを経験させてくれるので、私にとって生きる糧そのものだった
小説を読むようになって、人類が考えてきた大問題だと知るようになって、救われる気がした
内にこもって考えていると、なかなかそこから先に進めないが、人と接したり、本と接して 外との関係の中から自分も更新されてゆくと思うので、小説は私の中でいつも新しい、自分の中になかった分人を作ってくれる実感がある
小説は読者が共感してくれることが大事だが、それ以上のものであるべき
読む前と読んだ後では、なんか自分が変わった感じがする、新しい自分になれた気がするという体験が凄く重要
読んだことで人生がちょっと変わった感じがするとか、というような作品を作り続けていきたい



































































































2013年8月21日水曜日

大野長一郎(炭焼き職人)      ・炭焼きから見える日本文化

大野長一郎(炭焼き職人)     炭焼きから見える日本文化
大野さんは昭和51年 石川県生れ 父の後を継いで、今では4つの窯で年間20トンの炭を出荷しています
風土や伝統を生かした炭焼きと言う仕事を、続けることでこの時代に何か貢献できることがあるに違いないと考えて、炭の需要が細る厳しい状況のなかで、意欲的に炭焼きに取り組んでいます
今、茶道用の炭焼きに取り組んでいます 
炭焼き専業で生計を立てるには、持続できる炭焼きの基盤作りが欠かせません
付加価値の高い製品を作るしかないと考えたからです
炭の原料となるクヌギの植林もして、将来に向けての基盤作りは軌道に乗り始めています
炭焼きは文化を支える仕事、と言う大野さんに伺いました

能登半島の一番北 炭焼きをやっていた人が多かった
昭和25年~30年代前半 木炭の需要のピークを迎えている このころは盛んにやっていた
ガスや化石燃料、電気によって住み、薪の需要は少なくなった
今もなお炭の需要は少なくなってきている
専業で炭焼きをしているのは県内でも私だけ、他は年金をもらいながら兼業で細々とやっている
高校を卒業してから勤めに出て、22歳のときに炭焼きを始める 
父が炭焼きを専業で始める 昭和46年 皆が辞めてゆくときに始める

工場を構えて、機械類を駆使して、運搬して工場で焼く形を始めたが、生活が苦しくて夫婦けんかをやっていて、繰って行くのも大変なので、私は絶対に後を継ぐものかと思っていた
進路指導の先生に紹介してもらったのが、製造ラインの工場だったので、そこに就職した
数年すると、環境問題が出てくるようになった
父がやっていた炭焼きをが、環境炭と呼ばれて、水質浄化、調質脱臭、土壌改良と燃料以外の環境に優しい用途が叫ばれるようになった
20歳のときに(私は父が45歳の時の子)、父は年金受給者になっていた
いろいろ考えて、会社を辞めて、父の後を継いだ

父の言葉として
「時代は巡っている  円の上が時代の最先端 自分たちはかなり遅れている、追いつくのは非常に困難だが、逆に回れば意外とすぐに最先端の前に来れるよ」 、と言っていた
父は炭焼きと言うものはこの世から無くならないものだと思ってやっていた
炭焼きに対する普遍的な価値を父は見出していたのかなあと考えています

炭焼きの工程
木を地主から買い取る(次の山を常に確保しながらやってゆく)→作業しやすいように草、低木を刈り取る→ナラの木を根っこから切り離す→葉を取らすに1カ月放置(葉から木の中にある水分を抜く  乾燥)→雪の降る前に長さを切りそろえる→山から運び出す→太さ、樹種を選別する
→窯詰め→火をくべ始める(4日間 初めちょろちょろ、煙突のところの温度が60度になるように)
→本炊き(5日目 ドンドン薪をくべる 12時間かける 煙突の温度 85度にするように)
→窯に任せる→酸素を遮断して自然に消えるのを待つ(1週間)→取り出し
窯の中は700~800度
備長炭は白炭 火付きが悪いが、一片つくと火持ちが長い 遠赤外線が凄く沢山出るので、焦がさずに中まで火が通せるというのが、白炭の特徴です
ウナギのかば焼き、焼き鳥を営業としてやっている店では、備長炭をよく使っている
バーベキューには白炭は合わない、黒炭が合う(火付きがはやく、火力が強いが、火持ちは短い)

クヌギを使って炭を作る (一般的にはコナラ 低価格)
利益が出る炭を考えて、良質の炭を作ることにした
茶道用炭 当初コナラでも高く買っていたが、品質が厳しく、めんどくさい
クヌギを使ったものが流通していたので、クヌギをやろうと思った
静かに燃えて、すぐに火が付いて、或る程度の火力が得られて、一定時間ちゃんと火力を維持して、ぱちぱち撥ねない、炎が出ない、ほのかな香り
見た目にも厳しくて、断面が真円 樹皮が隙間なく付いている事(着火しやすい) 断面では放射線上に細かな割れが均等に入っている

クヌギはあるが山に点在している、巨木化している
6年~10年生のクヌギが材料として適しているが、まず無い
自分でクヌギを植えようと言う事になっていった(父が他界した翌年の春)1000本植林する
1000本を8年間続けて植林するとようやく、採算がとれるレベル 自力では無理とわかる
体験交流事業化することを考えた 広葉樹林の植林の効果 昆虫の育成効果 環境の効果
2007年 モニターを募ってやってみた 青年団協議会の声をかけて、植林モニター体験してもらったら、いいんじゃないという事になり、植林イベントを開催,NPOとの連携で実施するようになった
目標の本数は1000本×8年  だが現在6000本

草刈りもイベント化してチャレンジしている
炭焼きの存在をしってもらう、炭焼きが果たしている役割、価値を知ってもらう事が自分の作っている炭の価値につながると思って、公益性を訴えて、イベントを開催していこうと思っています
水質浄化、土砂災害が出ない、河川への流れる水の水質とか、言われている、植林による環境への負荷とかをじっくり大学と連携しながらやってゆくことも、やっていきたいことのひとつです

日本の文化とのかかわりが炭の中にある
仕事をしていく上でのモチベーションになっている
茶道 言葉を交わすことなく感じ取れる感性と言うものが試される場なのではないか
炭は表舞台には出ないが、温度は火力のコントロール、燃料としての質が問われる
美味しいお茶の温度のコントロール  炭火が重要な位置付けにあると思う
社会農業遺産に認定された中に伝統産業として炭焼きが入っている
炭焼きの追い風になってくると思うが、炭焼きが必要な存在として、あり続ける事が大事
生活の中に根付いて存在することが継続につながると思っている
炭を使う機会を生活の中に取り入れてもらえればと、思っている

まだまだ、生業としては貧弱なので生業としての確立、 茶道用の炭を焼いて、それが、人が目指したくなるような生活水準にすることが、後継者を生み出して、育てていきたい
産地化することによって、規模がおおきくなれば、広いクヌギ林になり、生態系への影響が見えてくると思う


















































 



2013年8月20日火曜日

モハメド・オマル・アブディン(理事)     ・留学体験を祖国の障害者支援に

モハメド・オマル・アブディン(スーダン障害者教育支援の会理事)  留学体験を祖国の障害者支援に
1978年スーダンのハルツームの生れ 12歳のころからはほとんど、目が見えなくなりましたが、将来、兄と同じ弁護士になることを目指し、ハルツーム大学法学部に進学します
1998年、アブディンさんに国際視覚障害者援護協会の招きで、日本に留学の話が持ち上がります
来日したアブディンさんは、福井県立盲学校で、3年間鍼、灸とマッサージを学び、国家資格を取得、その後、筑波技術短期大学でコンンピューターと画面音声読み上げソフトを勉強し、ひとに頼らず、情報発信ができるようになり、活動の世界が広がります
2007年東京外国語大学、外国語学部、日本語過程を卒業、現在大学院博士課程に在学中で、6年前に設立したNPO法人スーダン障害者支援の会の理事もしています

モハメド・オマル・アブディンは自分の名前(モハメド)・父の名前(オマル)・祖父の名前(アブディン)となる
女性の場合は 自分の名前・人の名前・父の名前・祖父の名前となる
結婚しても名前は変わらない(夫婦別姓)
アブディンはスーダンでも珍しい名前 宗教的な名前
2年前に南スーダンが独立したが、それまではアフリカで一番大きい面積だった
日本語は同音意義語が有って本当に難しい  例えば 講義、広義、抗議とか
(漢字を見ればわかるが、私は目が見えないので判別ができない)

砂漠、密林、海、川(白ナイル、青ナイル)等自然が豊か
ピラミッドの数が多い、サイズは小さい 歴史の古い国
エジプトのピラミッドよりも古いのではないかと言う仮説がある
基本的には農業国 南は石油とか天然資源が豊富(これで紛争の要因となっている) 
農業は国家収入の60%、家畜関係が20%占める 石油がでてしばらくは、農業が軽視されていた時期がある
スーダンの南が独立して、60%の石油収入が見込めなくなった

1996年の終わりにスーダンの大学に入学した
友達に本を読んでもらったり、親に本を読んでもらったりして、耳で聞いて勉強していた
高校では通じるが、大学では勉強の幅が大きく、そうはいかなくなった
途方に暮れていた時に、日本の団体から、鍼、灸の募集があった
直感で決めた 視覚障害者に対して、配慮のある国だと思った
父は猛反対した
兄も目が見えず、法学部の3年になっており弁護士を目指していたが、兄に相談したら、チャンスを逃さないほうがいいと、背中を押してくれた
「我が盲想」を出版している   雪の上にも3年
板橋で3か月 語学の勉強と歩行訓練をした
福井県立盲学校で受け入れてくれたが、方言に最初は苦しんだ
東洋医学理論を学ばなくては行けなくて、通常の日本語とは全く違う言語で苦しんだ

寿司は非常にうまい 口に入れてみたら最高に美味しい
美味しいものを世界に教えなくて良かったのではないかと思う(資源不足が心配)
日本検定試験1級を取得 日本語も自由にしゃべれるようになった
19歳で来日して、15年になる
結婚もした スーダンの人 娘が二人(2歳半、8か月)
筑波短期大学でコンピューターを学ぶ 合成音声が画面の情報を読んでくれる
普通のキーボードで行う

視覚障害は情報障害だと思っている 視覚が7割の情報を得る
音声ソフトを使ってやることで、活動範囲が広がった
NPOを立ち上げて、始めた
小さい時の読書は、自分の今後を決める大事な経験だと思うが、それができなかった
勉強しなければ飢え死にすると母親から言われて、一生懸命勉強するようになった
障害を持つことによる理由で学校をやめる人が多いので、学校でも学べる環境を作りたいと日本で細々と活動を始めた
友達も共感してくれて、一緒に団体を始めてくれた

スーダンの盲学校は1つしかない 日本は70校ぐらいいある
通える人は100人しかいない 通えない人に点字を教える
点字の本を購入して配布したり、大学に通う大学生に音声ソフトの入ったパソコンを設置して講習会を行ったり、スポーツ(視覚障害者サッカー等)の普及に務めたりした活動をやっている
大学の博士課程では、平和構築紛争予防を研究 スーダンの国にとって大事なこと
目の前の現象ばっかり、深みのない紛争解決は善くないと思っている
民主化、選挙しなさい、そうすれば平和になると 細かい状況を考えずにやっていることに疑問を抱いている

スーダンの紛争の歴史はどうだったのかを、認識しておかないと、紛争解決をしてゆくことが難しい
地球の人口の15%は何らかの形で障害を持っていると言われるが、発展途上国では保証が期待できないので、障害者の80%は発展途上国に住んでいると言われる
障害者が勉強して、仕事をして、税金を払って、社会全体のプラスになるような仕組みを作っていかないといけない
そういう意味で教育は大事だと思う
将来的に就労市場で競争できる人材になるために教育の現場の改善を訴えています
ブラインドサッカー 子供のころ 阻害感を味わったが日本でブラインドサッカーに出会ってこれだと思った
大人だけでなく、子供にも教えていきたいと思っている
視覚障害者の教育支援を広げてゆく
娘の父親として、自慢されるお父さんになりたい
失敗しても自分で決めた事は悔いが無い(直感勝負 自分の判断を信じて)


























































2013年8月19日月曜日

乾弘明(映画監督)        ・日本とアジアの関係を映画で見直す 2

乾弘明(映画監督)   日本とアジアの関係を映画で見直す 2
乾さんは北海道の出身 ドキュメンタリー番組を中心に活躍したTVディレクターです 
この10年は映画に活躍の場を移して、、「よみがえる玉虫の厨子」「海峡をつなぐ光」など飛鳥時代から続く日韓の文化交流と、平成の市民や、職人、学生たちの交流を描いてきました
今回の乾さんの映画のテーマは李藝、室町時代に活躍した朝鮮王朝の外交官のことで母を、倭寇に殺されながらも、日本に40数回渡航して文化交流に尽くした人物です
製作は乾さんとともに日韓の市民交流を描いた、映画を製作してきた日本のプロダクションで、
韓国側は韓国のTV局が協力、ナビゲータは韓国の俳優、ユンテヨンを起用
映画の中では韓国を訪れた日本の大学生たちと、韓国の学生たちの議論をする様子などもつたえています
6月から公開が始まりましたが、好評で上映館は全国各地に広がっています
東アジアの国々との関係が多く、多くの課題を抱える中で、日韓の文化を中心とした、交流をテーマにした今回の狙いや、取材の中で感じたこと等をお聞きします

報道ドキュメンタリーをTVでやっていた
NHKの10時からの番組で、環境、水中撮影、 自然の美しさ、、諫早の問題、干潟の干拓の問題、川辺川ダムの問題とか、自然破壊につながる公共事業とか、世界の美しい自然をつたえるとかやっていた
最初、1作目の「平成職人の挑戦」はイランとの合作映画のメーキングを頼まれたが
その一場面に山車の製作の映像があって、それを見たときに、凄いと思い、それが1本の映画になるのではないかと思った(飛騨高山の山車  100年ぶりに作ると言う話がありドキュメンタリーにした)
職人の人たちが凄くかっこいい セリフを聞いているだけで、自分の生き方を問われているような気がした

「よみがえる玉虫の厨子」 日本と韓国の別の意味での職人さんともいえる感じ
復刻版を作ろうとの事で、高山の山車を作ったチームと同じチームが作ることになった
朝鮮半島とのつながりがどうしても出てきて、ちょっとだけ触れることになる
「海峡をつなぐ光」 朝鮮半島とのつながり 新羅で玉虫を使った馬具 同じ技法があり、たまたま韓国で復刻版を作っており、それを韓国MBCがドキュメンタリーで追っており、日本と同時にやっていたので、それでは一本にしましょうと、韓国側と共同制作のような形で、それを一本の作品にまとめた、それが「海峡をつなぐ光」

基本には、日本の伝統の凄さ、文化を受け入れて日本の中で消化させるという日本人の力は3本を通じて感じる
日本の職人の技の凄さ、システム 完全分業制 職人が特化していて、本当のスペシャリストが集まってチームワークで物を作る日本の技術力の凄さが、その時代からつながっているんじゃないかと感じる
蒔絵の技術 日本で昇華させてゆく
現在の先端技術にも通じている

李藝 (イエ) 初代の日本通信使 「海峡をつなぐ光」で日本と朝鮮とも関係を調べてゆく中で、朝鮮通信使は江戸時代来ていたが、室町時代に先駆けとなった人がいたことを知って、この人物は面白いと興味を持って、是非取り上げていたいと思った
資料が全く日本側にはない 韓国側に残っていて、紐といたり、知恵を拝借しながら、事実だけを拾ってゆく作業を先ず始めて、どうドキュメンタリーにするか、難しかった
江戸時代の朝鮮通信使の資料は残っているので、それをベースに韓国の俳優に旅をしてもらい、日韓の交流を改めて今、考えてもらうという形にした(ラフスケッチ)

倭寇が日本海、から朝鮮半島にあらしまくっていた
ちゃんとした国間の条約が出来ていなかったが、そこを調整したのが李藝
いくつかの条約の締結に至ることになる
李藝は地方の役人の子供として生れる  母は倭寇に日本に連れ去られた(李藝 8歳の時)
母を取り戻そうと思って、外交官になったと思う 
母に会いたいと日本に何度も渡ったのではないか(推測)
40数回 日本を往復する 海賊にあったり、難破したりして命からがらが、何度かあった様だ
通ううちに日本人を好きになって、信頼関係が生まれて、いろんな条約を残したり、文化交流などするようになれたのも、憎しみが信頼に替って行った瞬間が絶対あったのではないかと思う

朝鮮通信使が残した書等がお寺など各地に保存している
中国の文化を朝鮮を通じて、学ぼうとしていた
韓国のウルサン支局 (李藝の出身地) 協力してきた
縦軸がナビゲーター 案内役 ユンテヨン 韓国の俳優 子供のころ日本に2年ぐらい住んでいた
釜山から京都までの旅を追ってゆく 韓国と日本の歴史の問題 豊臣秀吉の時代、日韓併合
のことを、考えてもらいたいと思っていたので、取り入れた
映画の後半、日本と韓国の学生たちの議論 韓国大使館の主催でいろんな歴史的なものを見た後で率直な若者同士の議論の場ができた

現代史を若い人たちと一緒に観てみたいと思った
SNSリポーターをやっていて、今回 朝鮮通信使をテーマにしてくれると言う事もあり、一緒に旅をすることになる
最後の討論は私がお願いして、討論会をやってもらった
韓国の学生は被害者としては忘れられないよ、でも文化交流は大事だ
日本の学生は歴史の認識が違っていたが、日本と韓国の小学校からの教育制度の違いが根本的にあるので、教育の大切さ、間違うと良くないと思ったりした
人と人の交流が一番大切だと言う事は、彼らは気付いているので、政治になると、国と国となると難しいという問題がうまれてくるのは何故だろうと言う事は、両方とも感じていると思う
その後も学生同士はメール等でやり取りしている

日本と韓国の間では、ぎくしゃくしているので、タイミングを見ることは有りました、苦労はあった
先の大統領を含めて、どうしてそこまでしちゃったんだろうと思う
寺院、自然の美しさ 日本、韓国のおのおの良さ
建築 技法が似たものがある 韓国は戦争で再建物が多いので色あいが新しい
日本の寺院はわびさびの世界 色落ちした世界 緑とのコントラストがいい風景になっている
日本の文化は朝鮮に影響が与えたものは?→食べ物、 サツマイモは日本から韓国に持ち帰った
水車の技術、船の技術は室町時代は日本は高かったので、李藝が持ち帰って、韓国で広めて船の改造をしていったと言われている
ユンテヨン 気さくな俳優で旅の中でおばちゃんたちと段々交流が深まって言った
今の日韓関係の状況を考えながら、私たちは何をすべきなのかを考えたと言う意見が多いのでやってて良かったなあと思う
映画のテーマでもあるが、人と人とのふれあい ふれあう事でしかわからないことはいっぱいあると思うので、ふれあう事によって広がる事が一杯ある、ふれあう事によって理解できる事がいっぱいある、そのことに賛同してくれる人が一杯あり、嬉しい限りです

日本と言う国は、選択肢はいろいろあると思うが、基礎を抑える事も発信していきたいと思っていて、日本人とは何だ、と言うところをもう一回見つめ直してみたい
ドキュメンタリーの面白さ 予想しないことが起こる 自分の思った通りにはいかない
新たな発見があったりする  チームワークの面白さもあったりする








































2013年8月18日日曜日

酒井充子(映画監督)       ・日本とアジアの関係を映画で見直す

酒井充子(映画監督)   日本とアジアの関係を映画で見直す
1969年 山口県の生れ 北海道新聞の記者だった1998年に台湾に旅行し、日本語世代の老人達と出会い、2000年に映画の製作に転身しました
2009年初監督作品、「台湾人生」を発表 その後も、台湾の日本語世代を取材したドキュメンタリー作品で知られています
今全国で順次公開中の映画「台湾アイデンティティー」は、半世紀にわたる日本統治の中で、日本語を話し、精神面でも日本人的な感性をいまだに持つ人々のインタビューを通じて、戦後日本が去った後の台湾の道のり、現在を描こうというものです
東アジアとの関係が多くの課題を抱える中で、台湾をテーマにした、今回の映画の狙いや取材の中で感じたことなどをお聞きします

大学を卒業して、普通のメーカーに3年勤めて、どうしても新聞記者の仕事をしたいと、受験したら合格して北海道にゆくことになった
98年の夏に、友達が放映されていたものをVHSのテープに撮ったものを、ちょっと見てみたらと、渡してくれて、「愛情万歳」という蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)と言う監督
今の台北に暮らす若者の孤独を描いた映画だった 
自分でも台北に行ってみたいと思って、ぷらっとでかけた
真夏だったが、空港に降りたときに、もわっとした感じを受けて、降りた瞬間から台湾ていいなあと感じた

台湾映画 「悲情城市侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の映画あって、そのロケ地を訪ねて行った
台北に帰るバス停に行ったら、おじいさんが来て、「日本からいらっしゃったんですか」と綺麗な
日本語で話しかけてきた
子供のころに、とっても日本人の先生にかわいがってもらった、と言う思い出を話してくれた

先生は戦争を終わって、先生は日本に帰ってしまって、連絡が取れないようになってしまって、もし先生が生きているなら、僕は今でもその先生に凄く会いたいと、見ず知らずの私に一生懸命に話してくれて、その旅では本当に印象的な出来事で、今から15年前の事 戦争が終わってすでに53年がたっていた
当時、台湾が日本統治下にあったことは教科書では知っていたが、初めて日本語で話しかけられて、話をした方がバス停のおじいさんだった
台湾と日本のつながりを考えさせられた

日本に帰ってきてからもおじいさんのことが気になり、台湾と日本のことを知りたいと思うようになって、図書館に行って本を探して読んでいた
台湾のことを書いた本が多くは無かった
台湾のことをつたえる仕事ができればいいなあと思うようになった
函館で映画祭が開催されていて、監督、プロデューサーへの取材をする機会があって、だったら映画で台湾のことを伝えたいと思って、転身した(2000年)
当初、でき上った映画を宣伝する仕事をしたが、資金をためて台湾に出かけた
段々助監督的な仕事をするようになり、取材を続けて行く中で、文化庁の助成金を申請したら、企画書が通って、やっとプロのカメラマンにお願いして撮影をして、7年掛かり完成することができた

台湾人生」 2002年から2009年までかかる
台湾が日本統治下にあった時に、日本語で教育を受けた、今も日本語を話すおじいさん、おばあさんたちに、日本統治時代の思い出、今の日本に対する思いを伺った
1895年 日清戦争が終わった後から、1945年までの51年間日本統治下にあった
同化政策と言う事で 台湾を日本と同じような場所にしようと、日本語で教育して、台湾統治をおこなっていった
昭和元年前後生まれの人たち 個人的な思い出を沢山持っている
恩師のお墓参りをずーっと続けている人とか、女性で もし男だったら特攻隊に行っていたわと言う風にはっきりおっしゃる人とか、いろいろ聞かせてもらった

日本語を話せるおじいさん、おばあさんを先ず探した
段々広がってきて、最終的に5人の方に絞った
日本統治下の、台湾にいた人たちのことに思いを至らせたことが無かった事に痛感させられた
お墓参りをした人は もう亡くなってしまったが、わざわざ台湾から日本に来て日本にあるお墓にお参りをしていた
その先生と偶然再会をすることができた
その方がホテルに勤めていて、日本の客にこんな先生を知りませんかと問い続けてきたが、偶然に知っている人(教育関係者)に出会い、戦後、数十年後に会う事が出来た
その2年後に先生がお亡くなりになった(最後の病床にもたちあう)
その後毎年、毎年お墓参りをするようになったとのこと

特攻隊をと願った女性 公学校(小学校)を出て、女学校、高等専門学校に進んで、茶道、華道等、日本女性のたしなみを全て身につけてこられた方
彼女が青春時代を送った時代は戦争に突き進んでいった時代で、男性は志願して戦場にいく時代だったので、彼女自身もし自分が男だったらと、おっしゃったと思います
外国の戦に志願する気持ちになったのは?→そこまで日本の統治政策が完璧になされた裏返しだと思う
徹底的に日本人教育がなされたことと思う

台湾アイデンティティー」 2作目 続編と言っていいと思うが、全く違う一つの映画として作ったつもり
日本統治時代が終わった後の台湾で、どのように暮らしてこられたのか、どのような思いで戦後を生きてこられたのかを中心にしている(戦後の人達の人生)
今回、横浜在住の台湾の人、インドネシアのジャカルタ在住の人にも登場してもらっている
1945年に日本軍は台湾を去って、すぐ後に中国から蒋介石を中心とする国民党政権がやってきて、台湾を統治する
戒厳令が敷かれたのは、1949年から1987年まで(38年間) 世界最長と言われる
1947年 228事件が台湾で起こる 中国国民党統治に対する台湾人の武力蜂起
日本統治時代にも主要ポストは日本人が占めていたが、非統治者 台湾の方は或る意味虐げられた部分があったが、戦後変わるかと思いきや、中国、国民党にとって代わられて、台湾人は非統治者であり続けることになり、そのことに対する不満が228事件だった

これからの台湾を引っ張っていくであろう人たち(東大、京大等へ留学した人たちを含めたエリート層)が一掃されてしまった
2~3万人が亡くなったと言われている
228事件のあと、戒厳令下では言論統制がしかれて、日本統治時代の事を日本語で語ることが自由にできない状況になった  北京語が持ちこまれた
台湾語、それぞれの部族の言葉があったが、日本統治下では日本語、戦後は北京語でずーっと台湾の方たちは押し込まれてしまったという長い歴史がある

白色テロ  中国国民党に対抗する勢力に対する弾圧
蒋介石の国民党が自分たちの政権にとって危険だと思われる人物を次から次に摘発してゆく
無実の罪で、逮捕されて適当な裁判にかけられて、何年も監獄に入れられたりだとか、全く無実の罪で死刑になったと言う事も聞いています
台湾の方たちには恐怖心が植えつけられてしまった
2000年に台湾を訪ねたが、戒厳令を解除されてから13年後だが、まだ台湾がどんな時代を迎えるかわからないので、あまりのことは言えないと言うおじいさんは言っていました

父を白色テロで亡くす歌手がいた  父は無実で、共産分子反乱罪で銃殺刑に会う
解放するきっかけが自首証、私は悪うございましたと言う事 と言う話が出てくる
戒厳令が長きにあった 最後の政治犯が解放されたのが、1992年のことだったと言う事なのでつい最近までの事

台湾アイデンティティー  日本統治時代のあと、中華民国の時代に入る
日本語世代にとっては、蒋介石が中国大陸が持ってきた国だという受け留めで、中華民国と言う国の、自分は中華民国の国民だという意識は、実は凄く薄いんですね
台湾は台湾という国であるべきだという、主張をされている方で、彼が言う台湾は、彼が暮らしている島であり、台湾という国である、という意味です
一部の日本語世代にとっては、台湾と言う言葉はすごく大切な国、と言う事です
台湾の人々は親日的と言われて、東日本大震災の時も、かなりの寄付金を集めていただいた
突出していて、200億円を超える金額で、政府主導ではなくて、民間からも大きなお金が寄せられたと聞いている

台湾の若い世代は日本のアニメ、ポップカルチャー、アイドルとか、本当に日本語世代とはまた違う視点で、日本に凄く親近感を持っていると言う事は感じますね
日本に対する思いは? 
もし台湾が戦後、台湾人の台湾と言う国をつくっていたら、ここまで日本時代のことが良かったと言う風に評価されることが無かったかもしれないと思う
228事件、白色テロ、とか凄く辛い時代をを戦後経験されていて、同じ統治下に置かれる身として、日本時代と戦後を較べたら、まだ日本時代の方がよかったじゃないか、 子供時代、青春時代は美しいものとして思いだすと言う事はあると思う
比較して日本時代の方が良かった、青春時代は良かったとあいまって、評価されていると思う

八田與一さん  台湾のお年寄りから教えてもらった話
1920年~1930年にかけて、烏山頭ダム とうダムと灌漑施設を整備する土木工事の責任者であった
干ばつのために農業を立て直すための事業 八田さんの銅像、お墓があって 毎年5/8が命日で慰霊祭が毎年行われている
そんな人がいたんだと台湾に通うようになって解った 
台湾の人の間では、知らない人がいないと言っていいほど、皆さんはよく知っている
今でも台湾の人から慕われている

映画 「台湾アイデンティティー」 日本語世代の声をひとりでも多くの方に届けようと作りました
彼らの声に耳を傾けていただいて、彼らの人生に寄り添っていただけたらうれしいなあと思います
その中で台湾と日本の絆、戦前日本がして来た事、戦後日本がしてこなかったことに思いを馳せて、いただけたらいいと思います
台湾のことを気付いていただける、きっかけになれば良いと思います
台湾をつたえる映画人は他にいないので、勝手に自分しかいないと思って、台湾の事をやっていきたいと思います
我々、一人一人が他国の人たちと心の交流をすることが凄く大事だとおもいます
それがすぐには状況を変える大きな波にはならないかもしれないが、ちいさな積み重ねがすごく大切で、いざという時に一人一人が責任を持って行動することが大事だと思います
国を作っているのも一人一人だと思うので、地に足の着いたところで、自分の責任の中できちんと相手国と向き合って行くと事が、いま一番大事なことだと思います








































































2013年8月16日金曜日

今井高樹(スーダン現地代表)     ・私が体験した現代の戦争と平和

今井高樹(日本国際ボランティアセンタースーダン現地代表)  私が体験した現代の戦争と平和
日本国際ボランティアセンターでは1980年代から東南アジアで難民支援に取り組んできました
2006年からアフリカのスーダンで住民への支援活動を行って来ました
スーダンでは20年以上も内戦が続き、2011年には南スーダンが独立しましたが、今でも紛争が続いています
今井さんは会社に勤めながら、国際ボランティア活動を続け、2010年からは現地スーダンに入って、直接的な緊急支援や、生活支援などの活動を行っています

帰国が1週間だけなので、忙しい
スーダンに6年間生活をいているので、スーダンの方が自分にとって、普通に感じる
日本に来るとこの社会の方がきっちり整理されていて、乗り物に乗ったりするときには時間が正確であるが、スーダンでは時間に集まらないのが普通で、自分が成りきってしまって、日本にも戻っても、何故か時間にはいけなくなってしまう
私が住んでいるのは首都のハルツームと言うところですが、そんな緊張状態ではなく、安全で市民生活とかが行われているところです
国の中で、ダルフール、南コルトファンと言うところでは、紛争が続いていて緊張状態がある
首都では夜中でも女性が一人で歩ける状態

ずーっと日本の会社で、最初スーパーマーケットで肉の担当で、牛肉、豚肉を切ったりしていて、その後本社勤務が結構長かった、そのあと今のNGOの仕事に携わった
もともと学生時代から関心があったが、古い学生時代からの友人が、TVを見ていたら、その友人がカンボジアで一人で国際協力活動していて、それを取り上げたTVを偶然見て、非常に衝撃を受けて、友人と連絡を取り、カンボジアを訪問した
当時は内戦が終わって、時間がたっていなくて、チケットを購入するのに注意をされた
何日か一緒に活動をして、自分もこういう風なことを機会があったらやりたいなと思った
そのあと、日本国際ボランティアセンターで会社員をしながら、毎週一回活動の手伝いをすると言ったことを何年かして、最後には職員と言う形で、海外派遣という形になった

日本国際ボランティアセンター (JVC) ボランティアの草分けの団体
スーダンへ行ったのはJVCへの要望  アフリカには興味があった
スーダンに関しては、戦争、難民とか危ない場所とのイメージがあったが、街自体は安全でイメージと違う感じだった
スーダンはエジプトのすぐ南 東にはエチオピア と言う位置関係
国の面積は 南スーダンが昨年独立したが、独立前はアフリカで一番広い 日本の6倍ぐらい
独立後は日本の4倍ぐらい
首都ハルツーム 人口は 600万、700万、と言われる(地方からの移住者、避難民を合わせるとき)
白ナイル(薄い茶色) 青ナイル(こげ茶色)  首都ハルツームで合流してナイル川になる

気候は 場所によってかなり異なるが、ほとんどが乾燥地帯
40℃は当たり前、乾燥しているので、日本のようにむしむしはしない
ダルフール紛争 2002年から始まって相変わらず続いている
内戦は23年続いたが、南の方が独立した
沢山の民族が住んでいる 自分たちはアラブ国家だと言っているが、国の中には、自分たちはアラブ文化ではない、言葉もアラビア語ではなくて、自分たち独自の言葉があると言う人も多く、南部、ダルフール、東の方に多くいる
国の中央を占めるアラブ系の人が周辺の民族を支配抑圧してきたんだと、言う事で反発をする人々が、反政府勢力になっている

2年前まで南コルドファン州のカドグルと言う街に住んでいたが、そこで紛争が起きた
市街戦になり、同じ国際協力活動をしている団体とか人道支援団体と一緒に避難してきたが、現場を見ると、日本の感覚では信じれれないような、皆、銃を持ち、撃ち合っているような光景もあった
とても身動きできない様な状態になっている
紛争の中で生きている人たちがいるのかと、身に沁みて感じた
紛争地域には入ってはいけないようになっている
紛争が始まって半年ぐらい、事務所が閉鎖された
紛争のなかで避難した人たちに対する緊急食糧支援、毛布、調理器具の支援をしてきた
(現地スーダンの人たちが主体的に動く)

現地スタッフは今は3人いる  電話で一日に何回もスタッフに電話して、情報を仕入れたり、指示をスタッフにしたりしている
避難先に住み付いてしまう人は自活をしてゆくので、自活のための支援もしている
作物を育てる手伝いをしている
この地域は半年雨が降らないので、灌漑設備、小さな池を作ったり、そういったことをやってきた
支援範囲は限られているが、それでも人口は数万人~10万人ぐらいが住んでいるので、結構大きな人口を持っている、その支援をしている
JVC、日本の事はどう思っているか?
日本のイメージはとってもいい 日本の製品 車、電気製品などを観ているので、ヤバニア(日本)といって抱きついてくる人もいる
私たちの団体が活動していることを、知っている人も増えてきたので更に、ヤバニア タマーム(素晴らしい)と声をかけてくれることも、多いようです

スーダンの人は広島、長崎の事は、ある程度教育を受けた人は、結構知っている
欧米、突出したグループの中で、戦火の中を経験して、欧米に肩を並べた日本に対して、自分たちも日本をみならって発展してゆくんだと言う人は中に入る
スーダンはアメリカからテロ支援国家とレッテルを張られて、経済規制があるので一般に欧米に対して反発を感じているが、日本に対しては、親近感を覚えている
今、紛争があちこちで有るが、紛争の原因になるようなさまざまな対立や争いが村にあるのではないかと思っていたが、以外に村の中には人々がお互いに仲良く暮らしてゆくような、争いが起きたときに、解決してゆく仕組みが沢山昔からある
土地をめぐる争い、牧畜民と農家との争い  裁判をやってお互いが損害賠償(作物とか)をやって上手くやっていくような仕組みがあるが、紛争が起きている
もう少しおおきな政治的なものがあって村の中に対立を生じさせてしまう様なものがある

平和構築の活動をやったりもするが、平和委員会を作って、大規模の会合を持つとかやっているが、草の根、村とか地域の中を細かく見てゆくと、共存するための知恵とかいろんなものがあって、私たちは結構そういうところに注目して、村の人にもう一回再認識してもらい、共存していきましょうと言うような活動ができればいいと思っている
地域の皆さんが共存、未来に向けて自分たちで再建してゆく力が、自分でも勇気付けられるところですね
戦争が割と日常的なものになってきてしまっているが、その中で、紛争のような状態でも如何に自分たちがうまく生活をしてゆくのか、戦争があると言う事は、そこに様々な対立が地域社会に
持ちこまれてくる
内戦が多いので、同じ民族グループの中で、政府系、反政府系、と言う事で対立が持ち込まれてくるが、さっき言ったように、地域の知恵で争いごとを解決してゆくような、知恵があり、そういうものを使いながら、国全体では紛争とかがあっても、それぞれの地域ではなんとか上手く生活を続けて上手くやってゆくような、そういう力に勇気付けられることが多い
政治レベルで紛争を解決をするための和平交渉とかはもちろん大切ですが、もういっぽうで
下からのレベルでの共存、平和作りも大切だなあと思っています

雨気が6月から始まっているので、農業関係の支援をしている
井戸の補修とかの活動もやる予定です






























































2013年8月15日木曜日

島利栄子(代表)         ・女性の日記が伝える 昭和史 2

島利栄子(女性の日記から学ぶ会代表)  女性の日記が伝える 昭和史 2
昭和の初めからラジオ店でラジオが日本全国に普及してゆく様を、日記にもつづっていた
吉田徳子さんは 岡山県瀬戸内市 明治24年生まれ 明治末女学校を出て、教員をして、ラジオが出てきたら、すぐに着目してご夫妻でラジオ商になり、戦争中も記録をし、戦後は婦人会長になり、村会議員になり、昭和49年に83歳で亡くなられた女性
日記は15歳からずーと亡くなるまで、書き続けたものがありました
息子さんが寄贈して下さった  62冊 + いろいろな資料、写真
1日の分量が100字~150字くらいの物

日記は市販されていたもの  明治40年2月3日から書き始める
最初の1冊目から3冊目は 和紙で綴じて、筆で書いたもの
私たちの会が出来て間もないころに、全国紙に会の内容が紹介されて、それを見た吉田徳子さんの息子さんが、母の日記があるけれども、自分も高齢になっているので、差し上げますとのことですぐに送ってきてくれた
初めから読みにくいものなので、原稿用紙に書いていった
段々古文書読みの男性が3人4人と助けてくださって、書き写しが進んでいった
明治時代はいろんな言葉が豊富に残っていたと聞いていた
異体字 変体仮名 こむら?  漢字も旧仮名使い 方言も出てくるので、読めても意味が解らないとか、いろいろと苦労しました

昭和20年までしかやっていないが、書き写し作業に13年かかった
面白いと思うところを選んで、そこに解説をつけたりして、2年かかり 15年間かかり、昨年本が1冊出来ました
「時代を駆ける吉田徳子日記」 1907年~1945年までの物 660ページ
沢山の人には買っていただけないので、篤志家に応援してもらって、440人以上の方にカンパをしていただいて、世に出すことができた
昭和とラジオ ラジオと共に生きた記録だと思い、着目した
ラジオ放送が行われたのが、大正14年7月12日   日記にラジオのことが出てくるのが7月14日  2日後にラジオのことが書かれている  
「アンテナラジオの取り付けし、を見る」 とでてくる

「9月5日 ラジオの放送を学校にて聞く日にて、割合よく聞こえたり」
学校でも聞こうとしていた
11月6日、その後頻繁にラジオのことが出てくる
田舎の町でドンドンラジオ熱が高まってくることが、伺える
吉田徳子さんは知識欲の旺盛な人だったと思われる
当時は学校の先生の初任給が50円と言われた時代に、賞金10円を得たことが日記に記載されていた
賞金10円の件で国会図書館等に行って、調べた  大正15年5月号に投書が載っていた
「ラジオのおかげで一家団欒の楽しみ」という題名 岡山、 幸子(匿名)投稿 内容を調べたら徳子さんだった
夫は先生だったが、胸を患っており、休職中で、ラジオは500円かかっていたが、段々と安くなりこの当時は100円で、組み立てるともっと安くなり、夫が組み立てて、聞けるようになり本当に楽しく、ラジオは非常にいいものだと、書いている

一番彼女が興味を持って聞いていたのは、スポーツの実況放送
昭和2年 甲子園で中等学校の野球大会の実況放送が始まったが、その日に面白かったと書いている(8月18日)
昭和3年相撲の実況放送も始まる
昭和4年に教師をやめて、ラジオ商になることにして、昭和5年に開店する
昭和5年12月14日 岡山後楽園に集うもの143名あり 列を作りて放送局に行き、ガス会社、電話交換局等を視察して得るところ多大なり
143名はラジオ店を開くことを希望した人達
初めのころは蓄電池式ラジオ その後昭和5年には交流式ラジオ(エリミナーター)になり、凄く伸びたみたいだそうです

ラジオの売り上げがドンドン上がることが書かれている
子供、高校生も沢山聞きに来る様子も書かれている
300万台突破記念、500万台突破記念と言う言葉が書かれている
満州事変の臨時ニュースの事が書かれている 
昭和16年12月8日 「午前7時臨時ニュースあり  英米軍の交戦状態にいりたる由
広報あり さっそく表に掲示すべく大書す」
翌日から1週間、ラジオの修理と購入のために一杯の人が来客 ラジオが売り切れ
空襲警報の発令 ラジオからの放送があり命の綱みたいなものだった

昭和20年8月15日 「正午 重大放送があるとのことに、日ソ参戦布告か講和あるかと想像しあう  工場より工員たち、整列して聞きに来る 
大陛下の玉音にて、和を求めたもう由 勅有りたり」
6日、9日の原爆投下のことに関しては、書いていない
その時点では、原子爆弾と言う言葉は使われてなかった
岡山の教育委員会お招きいただき、「吉田徳子日記お里帰り展及び講演会」 開催

普通の人たちが思ったことを刻々と、刻みつけた足跡は、歴史にとって本当に大事ななまの声だと思うので、大切にしていかなければいけないと思って居るので、活動をコツコツと続けていきたいと思っている








































2013年8月14日水曜日

島利栄子(代表)         ・女性の日記が伝える 昭和史

島利栄子(女性の日記から学ぶ会代表)  女性の日記が伝える 昭和史 
戦前戦後の一般庶民がつづった日記や手紙を収集保存して、貴重な遺産として後世に残していこうという活動を続けて居るグループが千葉県八千代市に有ります
17年前に誕生した、女性の日記から学ぶ会
スタート時は女性会員がほとんどでしたが、次第に男性も増えてきて、現在は会員230人のうち、100人近くが男性です
これまで提供を受けた日記や手紙類は、およそ4500点、会員たちが手分けして読み説いたものは、目録を作り整理保存、更に会報誌や、ホームページで公開しているほか、活動の成果を本にまとめるなどの活動を展開してきました

現存する普通の人の日記、手紙、家計簿などを集めて、保存して、活用して、次の世代に譲り渡していきたいという事を目標にしている団体です
私は子供の頃から、趣味と言えば、本を読むこと、日記を書くことぐらいでした
結婚してからも、育児日記、家計簿、献立日記、介護日記と 約60年間日記を書いてきている
聞き書きを始めるようになってから、段々と年を召された方が、捨てるに捨てられないという想いを抱いている
これを私が預かって、次の世代に渡すように出来ればいいと思って、仲間を募って活動を始めた

空襲のさなかに、逃げるときにバックに必需品、最低の物を持って逃げるわけですが、ノートを持って防空壕で書いていたと言う方もいる
書きたいと言う想いはどんなに環境が過酷であっても、書かねば居られない思いがあるのではないんでしょうか
伝えたい思いは大変になれば大変になるほど、強いのではないかと思います
17年間に4500点集める 
会が創立した時点では日記はプライベートなものなので、中には愚痴、悪口等があるので、そんなに集まらないのではないかと思っていた

やってゆくと、珍しい活動だといろいろ紹介されて、祖父母、父母などの日記があると言う事で、いろいろ話を聞いたりして、信用をしていただいた後にあずかることが多い(時間がかかる)
傷んだものは修理して、個人、グループで読んだりして、原稿用紙に書いて、日記展をやったり、研究会をしたりしながら纏めてゆく
現在は私の家の書庫を改造して、分類して (名前別、時代順、分類の仕方をいろいろして)整理保存している
大事な宝物だと思うので、きちんと受け止めて、伝えてゆくことが大事だろうと思っている
原稿用紙に書き込んだり、パソコン入力したりしている
男性は定年退職した人が多い  八千代市で活動する月例会には25名程度集まる
 
機関誌 日記ロマン 56号になる(B5 8ページ)
個人の記録なので、時代背景が解るわけではない いろいろ人の名前、場所が出てくるので関係が解らないこともあり、初めは苦労するが、飛ばして読んでいるうちに、ぱっと解るようになったりする
何人かでやると、情報交換できる(地方の方言とか、得意分野が違うので)
展示を通して、訴えている 全国で日記展をやっている 30数回やっている
実物を取って見る機会はあまりないので、100年前の日記を手にとって見ることで目を輝かせる
書くことの大切さ、もある
入手は明治の終わりごろからになる  太平洋戦争当時の物が一番寄贈されるものが多い

戦地での遺書にも近いような手紙、親から戦地の子にたいする手紙、妻から戦地に行っている夫に送る手紙、等等 いろいろな手紙を出版物として、出さしてもらった
戦地から家族にあてた、92通をまとめたもの 夫は沖縄戦で戦死、妻が高齢になって明日へも解らない時に、妻から娘に私が死んだらお墓に入れてほしいと言う事で頼まれていた包みがあった
たまたま私の活動を聞いて、開けて観たら92通の戦地からの手紙があり、娘は寝食を忘れて、貪るように読んだそうです  とうさんと言って泣きながら読んだようです
あーこの活動をしていて、良かったなあと思った

戦時下の日記にはいろいろなものが寄せられているので未だに全部読み切ることはできない
ひもじさよりも、皆で分け合って食べた、その喜びの方が印象が強いと言っている
空襲で全員が焼きだされて、千葉に疎開して、8人が4畳半で生活して、必死で生き抜いた内容
農村の少女が慰問文をせっせと書いた物もある
戦時中、終戦直後の声にならない、民意が日記とか手紙につづられていた  心の声(本音)
本音を拾い出してゆくことは大事な仕事だと言う気がする
子供に伝える出前授業をした  小学4年生 60人ぐらい
食事日記、妻が戦地に送った手紙、絵日記 3種類を紹介した  
給食と戦時下の食事(大豆ご飯)の現品を比較をした

「聞かせて、あなたの戦中戦後」 81歳の会員の人が あと2年もすれば話せなくなってしまうので、今のうちに話させてよ と言う事になり、話を聞かせてもらう事になる
若い会員が相次いで入会された  そしてこの会は語り部の宝庫だと言われた
今年に「聞かせて、あなたの戦中戦後」のプロジェクトを立ち上げた(若者が中心になって運営)
公開トーク おじいちゃんおばあちゃんから孫の世代への語り

















































2013年8月13日火曜日

伊勢真一(ドキュメンタリ映画監督)    ・映像は戦争を忘れない

伊勢真一(ドキュメンタリ映画監督)       映像は戦争を忘れない
伊勢さんは自分と同じ映画監督だった父が、戦時中インドネシアで製作し、現地で上映されたという映画について長年取材しています
今は亡き父が製作した映画を見たり、インドネシアで聞き取り調査をした結果、映画は日本の国策として作られ、自分の父親は様々な思いや、メッセージを込めて製作したと考えています
そうした父親の生涯について描こうと伊勢さんはドキュメンタリー映画の製作にも当たっています
父の思いに迫る伊勢さんに伺います

ドキュメンタリー映画 30年かかって、もうすこしなんですが、実際に取材を始めたりしたのが30年前
父は60歳で亡くなる (40年前)  父はいったいどうしていたんだろうと言う事が元になっている
父親は報道班でジャワにいった  ジャワの国内で、インドネシアの人たちを日本人の考えになってもらい、というか 一体化政策、プロパガンダの役割り、それを映画で伝えようと、映画で日本の言葉、文化、考え方が優れていることをインドネシアに伝えて、そのことでアジアで戦っている日本の戦争が、とってもインドネシアにとっても必要なんだと、納得するような役割の映画を主に作り続けた

3年ぐらいいた 昭和17年から20年まで 凄い数を作った  
残されたフィルムがオランダに接収されてあるが、解っているだけでもかなりの数のフィルムがある
日本にもあるが、あんまりいい保管状態ではなく、数もない
インドネシアはオランダの植民地だったが、解放すると、日本軍は占領下に収めて、インドネシアを統治した
文化戦線 今でいうジャーナリスト、音楽家、絵描き、小説家、ペンで戦うんだと言うようなこと
父もこれの一翼を担った
インドネシアでは日本は解放軍だと言われたが、実際には軍隊が駐留して、日本の植民地になった
理不尽なことをされたかと言うとほかのアジアの国にくらべれば、そうではなかったが

作った映画の内容
宮城礼拝(皇居に向かって毎朝お辞儀をするという)映画とか、 隣り組を作ってちゃんと守りましょうとか、防衛義勇軍を皆で作ろうとか、貯金しましょうとか 映画を作って皆に教え込んでいた
一番強いのは日本語競技会 日本語を競わせて、日本語を学ばせる教育映画
労務者募集 いまでいうリクルート映画  国策のために戦争に駆り立てる役割を担った
オランダにいってフィルムを見たり、一部日本でも見る機会があり、段々父が何をやっていたかを段々知るようになった
研究者の方に聞いて、オランダにフィルムがあることを知った
父親のそういう事から、特に記録映画の映画人が、どんなふうにして、戦争中、戦後を生きたかをドキュメンタリーを作っている一人として、今残していく必要があると思った

直接聞ける映画人はもうすべて居なくなってしまった
もう手遅れかもしれないし、30年の歳月がやっぱり必要だったのかなあと、両方の気持ちがある
息子も私の父親の事、インドネシアのことを知りたいと言う風になって、手伝ってくれるようになった
戦争と言う時代を今の若い人はそのことを自分なりに、記憶をまさぐるようにして、知りたいと言う気持ちを強く持っていると思うんですよ
知りたいと言う、とっかかりが、たまたま息子の場合には、祖父であり、父親である私が知りたいと思って探っていると言う事につながる
忘れないと言う事のとっかかりになればいいと思っている
人間は忘れっぽくて忘れてしまうかもしれないが、映像は覚えているんだと言う事を、父親がインドネシアで作ったフィルムをオランダで見てそう思った

震災も作って見てもらっているが、映像は覚えていると言う事を、物凄く強くあると言う事は、上映の会場で見ている人達の反応で良く分かる
映像をしっかり残すと言う事は、すぐに力を発揮しないかもしれないが、きっと何かを語り始めることを信じている
自分で考えて間違っているかもしれないけれど、自分で考えて、そのことを事実として、こういう事があったという事を皆に知ってもらう事と、自分が父親の仕事をしっかり見直すことで、父親の存在も世の中に知られていると言う事が無かった職人の映画人であった存在も、思ってもらえればいいと思う
見る人が自分で考えて、自分で思いを巡らして、映っているものの中から、見る人の物語を紡いでいくと言うのが、映画の面白さだと思う

極東軍事裁判の特報(父親が作った) 昭和24年製作 20分ぐらいの短編(臨時ニュース的なもの)  やっぱり平和でなければいやだと言う心情があふれている特報映画
父親の定点 どこにあるのかと言うとやっぱり平和でなければいやだというところにあるのではないかと思う





















2013年8月12日月曜日

前村弘(元陸軍特別幹部候補生)  ・二度の特攻命令から生還して

前村弘(元陸軍特別幹部候補生)  二度の特攻命令から生還して
大正14年長崎市生まれ  長崎商業高校を繰り上げ卒業して、17歳で志願して陸軍浜松第七航空隊飛行第62連隊の航法士となり、重爆撃機、飛龍に搭乗して、東海沖と沖縄戦の二度の特攻命令を受け出撃しましたが、奇跡的に生還しました
重爆撃機には操縦士、機関士、攻撃をする射手、通信士、航法士が搭乗して、前村さんは爆撃機の位置などを測るナビゲーター的な仕事、昭和20年の戦争末期は戦闘機や搭乗員の不足は甚だしく、重爆撃機も爆弾を機体に縛り付けて、敵艦に体当たりする特攻攻撃をするようになりました
前村さんが所属した飛行第62連隊も多くの特攻攻撃、出撃しましたが戦果はあげることができずに多くの命を落としました
戦後68年経ち、当時の状況を知る人も数えるばかりになりました
前村さんは生きて帰れたことに感謝し、二度と戦争をしてはいけないと、今も戦争体験を語り続けています

仲間が大勢亡くなって、戦友の顔を思い出される
戦後は亡くなられた人たちのお墓を10か所近くお参りしてきた
特攻隊として出撃されたのはうちの部隊の62連隊だけなんですね
飛龍 本来6~7人乗りこんで、敵の軍艦に爆弾を落とすこと
爆弾はワイヤーで縛りつけてあった
一番機に搭乗する 機関砲が一丁前にあった

初めての特攻命令 昭和20年3月19日 九州から帰ってぐっすりと眠っていたが、招集が掛った
飛行服に着替えて、駆け足で飛行場まで行った(15分ぐらいの距離)
幹部が大勢いた 15人ぐらい  その前に整列する
戦隊長 から訓示 62連隊もいよいよ総力を挙げて、攻撃することになった、全員気を引き締めて、かかれと、順次出撃するものは、遺書と遺髪、遺礼を用意して、小包みにして自宅に送るように用意しておくようにとの、話があった
特攻攻撃徒の言葉は出なかった 黒板に攻撃は特攻とすると書いてあった
特攻攻撃に参加して死ぬと言う覚悟で皆集まってきているので、或る程度覚悟はしていたが
背筋がぞっとした

私の場合は、全部で4機の編隊の出撃  航法がしっかりしないと目的地まで行けないので、自分の腕で大丈夫だろうかと言う、責任を感じていた
航法 飛行機のナビゲーター 
進路、方向、速度が正しく皆に伝わって、一機の脱落が無いように飛行を指示するのが仕事
筑波から一番機に乗り、浜松の南方180kmのところにアメリカの機動部隊が北上しているとの情報あり、出かけた
敵艦が見つからない、ちょうど低気圧が来ていて、雨が降っており、雲の中なので見つからない
高度150mぐらいまで低空飛行をしたが、見つけることは出来なかった
ガソリンが心配になり、兎に角一旦 浜松に帰ることにする

浜松の飛行場には3,4機別の部隊の飛行機が着陸に失敗してさかさまになっていた
3回目にようやく着陸に成功した
見つられなかったことに対して、残念に思った
1ヶ月後 4月17日 鹿児島の金谷から飛び立った
特攻機3機出撃 二番機に搭乗  
前の晩、16日には出撃隊員12名が料亭で御馳走になるがあまり食べられなかった
17日は朝5時半に起こされて、朝食も食べずに飛行場に集結した
タラップを登る時に「これで地球ともお別れだ」と言う事を思った
飛龍に乗り込み、与論島の方に飛んで行った

一番機の飛行機がぱっと左から煙が出て、左に旋回した(敵にやられた)
あまりに近くに敵機があり双方が玉が打てなかった
鳥島を通って沖縄にいく予定で、飛んで行ったが、燃料が問題になり、敵機に体当たりするか、との話もあったが、敵機は軽量であり、こちらは重爆撃機で、爆弾は積んでいるし、それは難しいと言う事で、砂浜に着陸して、機体を壊さないほうがいいと私が意見具申した
結局島づたいに通って金谷に帰ってきた
乗っていた機体をみたら 2cmぐらいの穴が10cmおきに30発ぐらいの弾が当たっていた
危ないところだった

岐阜県の鏡が原に受領に行った飛行機さくら弾機 を受領に行っている
さくら弾機の試験飛行をやることになっていたが、直前に降りろと命令されて降りた、そこで命拾いをした
さくら弾機は3トンの爆弾を搭載して、命中すると1km四方を破壊できると言う触れ込みだった
救急車が行ったので何か有ったなと思ったら、飛行機のまえ、操縦席がぐしゃっと成っていて岡田曹長の命はこと切れていた

さくら弾機は一部ベニヤ板で覆われている、機関砲が積んであるのが飛龍であるが、機関砲はない(相手と応戦出来ない)、増加タンク (長距離跳べるようにガソリンタンクがある) この増加タンクを外して爆弾が置いてある(距離も飛べない)
軽々しい飛行機
3度命を落とす危険から逃れることができた
復員したのは8月末  長崎には帰らず母親の故郷の熊本に帰った
長崎、広島が特殊爆弾で全滅だと言う情報が有ったので、先ずは母親の実家にいくことにした
妹は被爆して亡くなる  父も被爆して8月11日に亡くなる  
兄は軍隊に入ってフィリピンで亡くなる

母と長崎に行ったが、焼け野原になっており、家の脇に有った柿の木が青々としていたのが印象的だった
東京に戻ってきた時が20歳、元の会社に復職 その後セラミックの会社に行って働いた
戦友会の世話役をするが、数年前にあった戦友会の元の上官から 特攻隊は生きて帰ってはいけないんだ と言われた
なんで、この現代にそのようなことを言うのかとぎょっとした
浜松に帰って来た時には、その上官は 良く帰ってきた、急いで死ぬのが国のためではない、またこの次もあることだから御苦労と言ったのに 40年もたってからいうのか、解らない
日本全体を、社会の情報を見聞きするのにつけ、非常に情けない人間が多くなったとつくづく思います
しっかりしてない、ピシッとしていない、自分勝手と言うのが非常に目立つ
戦争のない、思いやりのある国になってほしいと思う


















































2013年8月11日日曜日

小宮多美江(音楽評論家)      ・戦没作曲家の足跡を掘り起こす

小宮多美江(音楽評論家)    戦没作曲家の足跡を掘り起こす
1931年 横浜市の生まれ 東京女子大学 英米文学科を卒業 1955年から音楽評論の活動を始めました
執筆活動のかたわら、音楽関連の出版社も経営し、清瀬保二吉田隆子井上頼豊など、戦前、戦中、戦後を通して活動した、作曲家や演奏家の紹介に務めてきました
小宮さんはまた戦死した作曲家たちの足跡をたどって、楽譜や資料の発掘と整理、残された作品の演奏会を開いてきました
彼らの出身地などで開かれるコンサートでは公演も行ってきました
今日はその中で1945年、中国で戦病死した静岡県出身の尾崎宗吉と山形県出身の紺野陽吉の二人を取り上げます

音楽の執筆活動は今年で58年になる
コンサート等で印象に残っているもの、昨年 「吉田隆子を知っていますか」 「吉田隆子の世界」
紺野陽吉の作品が故郷での演奏会が実現した
吉田隆子は私の母とほとんど同じ 清瀬保二は父と同じ年齢 作曲運動を昭和の初めに始めた
清瀬保二のことを本にまとめようとしたときに、清瀬保二の書類の中に、紺野陽吉遺稿と書かれた封筒があり、その中に3曲の楽譜があるのを見つけたのが、はじまりです

長野、無言館 窪島誠一郎が主催 戦没画学生の作品を展示しているが、音楽家の場合はなかなか散逸している楽譜を見つけ出して、今の演奏家たちに演奏してもらう事で、戦没作曲家の遺志を実現することになる
作曲家たちのことを本にしたのは5人 
尾崎宗吉  1915年静岡県に生まれる 1934年4月に東洋音楽学校のピアノ科に入学
諸井三朗に師事、 1935年初女作小弦楽四重奏曲 作品1を発表  1937年卒業
1939年8月召集 3か月の訓練の後中国大陸に向かう 3年間各地を転戦 1942年12月満期招集解除で戻るが、再び招集を受けて1943年、旧満州に向かうが、1945年5月15日に戦病死している(虫垂炎が悪化して亡くなっている)

1977年の演奏会で初めて尾崎の曲を聴く 「夜の歌」    吉田隆子と同じ旋律だと思った
日本音楽舞踊会議の組織の中で、作曲家の仕事にも強く関心を持つようになった
清瀬保二とかその弟子たちとか(弟子は私と同世代)
日本の作曲家の歴史を若い人が解らなくなってきたので、今のうちに音楽を聞き、作曲家自身の御話を聞こうと、作曲ゼミナールと言うものをやっていた
もっと作曲と言う物に中心をおいたものに絞りたいと思った
若い2人と共に組織を作った  クリティーク80 
尾崎は木琴をヤマハの社長からいい楽器を借りて、木がささくれ立つほど叩いたそうです
1995年 浜松で没後50年記念演奏会が開かれる
柳澤康司さんがたまたま私たちの出版した本を見つけて、演奏会が実現した


紺野陽吉 1913年 山形県 医者の次男として生れる 1931年上京 1937年頃 演奏活動する
(セミプロのオーケストラ コンセール ポピュレールに所属)
ベートーベン 田園 カルメン組曲とかポピュラーなクラシック音楽を定期演奏会をやっていた
1945年 中国の旧満州で戦病死している
1995年8月 遺稿を見つける 3曲 親しみやすい旋律の曲だった
新聞「赤旗」のコラムに「紺野陽吉を知りませんか」という記事を投稿したが反応は無かった
無言館がTVで取り上げられたのが2005年ごろ それに関連して音楽でも戦死した人たちがいたのではないかと、製作会社から問い合わせがあり、尾崎宗吉の資料、紺野陽吉のことについてその方たちにお話ししたが、番組としては実現しなかった
日本近代音楽館 資料を集めている館がある そこで調べられる限りのことを報告してくれた

紺野陽吉 遺作演奏会  2012年9月 明治学院大学の校舎内で演奏会が実現している
弦楽三重奏 清瀬保二の弟子 安藤久義氏に未完の物には補作依頼した
今年の4月に故郷で演奏会が開かれた 
紺野陽吉遺稿作(3曲)は出征する前に、清瀬保二に届けた
何となく民謡の旋律を感じる
木管三重奏曲が唯一完成していて日付けがある
木管三重奏曲は清瀬保二がすこし前に書いていて、それを聞いているのではないか
それで作品を清瀬保二のところに持って行ったのではないかと推測している

尾崎宗吉 作曲運動が1930年にはじまった 1935年に盛り上がり、評論家も作曲家の先輩も関心を持って、室内楽というジャンルを限定して、作曲募集して、支援して演奏会を開くと言う、そういうことが行われた
そういう中で尾崎宗吉の小弦楽四重奏曲が現れた
作曲運動が1935年に盛り上がったが、翌年は2.26事件なので、戦争にどんどん入って行っちゃう

自筆譜で最近は演奏する気力が若い人にはなくなって来たように思い、今のうちにちゃんとした楽譜にしてもおないといけないと思った
楽譜ができただけではだめで、繰り返し演奏してもらう事が大事です
楽譜を出しておけば、誰かが演奏してくれると思っている
音楽ジャーナリズムはとかく有名な人に目がむいてしまうが、そうではないところにも光を当てて全体像を見ていこうとしている












 













2013年8月10日土曜日

近藤紘子(68歳)         ・B29パイロットとの出会いが変えた復讐心

近藤紘子(68歳)    B29パイロットとの出会いが変えた復讐心
近藤紘子さんは生後8カ月の時に被爆しました
父、谷本清さんは、戦後の広島で平和のために尽力した、牧師として、アメリカの作家 ジョン・ハーシー が書き、世界でベストセラーになったルポルタージュ「広島」に登場する人物です
その本がきっかけになって、広島の原爆について取り上げたアメリカのTV番組に出演した際、幸子さんは、広島に原子爆弾を落とした、B29エノラゲイ号に乗っていたパイロットと対面します
その対面はその後の紘子さんの人生を大きく変えました
エノラゲイのパイロットとの対面で知ったこと、その後の人生に付きまとう、被爆による様々な苦労について伺います

子供心にも、あの時私はどうだったのと、聞けば、父も母もあの時を思い出さなければいけない
やはりとっても辛いことなので、ずーっと直接聞くことは無かった
はっきり母が私に話してくれたのは、私が40歳になった時だと思います
あの日、朝 となりに住んでいた女性が先ず訪ねてきてくださり、その方と話をし、終わって家に入ったところでまた、他の女性が母に話をしに来ました
家の中で私を抱いて話している時に、一瞬にして家がつぶれてしまった
朦朧とした中で、母が聞いたのは、赤ちゃんの泣き声だったとのこと、そしてぱたっと泣き声が止まってしまって、はっと気がついたら、腕の中にいた私が泣いていた
母が覆いかぶさった状態だったが、一生懸命体を動かして、私を外に出したら、外は全く違う光景、住んでいた家にも火が付き始めていた

爆心地から1.1kmのところ  その後ずーっと血便と高熱が出て、もうこの子は無理でしょうと言われたらしい
自分たちの体のことよりも、私のことが気がかりだったようです
子供として、B29エノラゲイから爆弾が落ちた それによって広島は焼け野原になった
多くの子供たちが親を亡くしたりした、一瞬にしてなくした  
B29に乗っていた人はなぜ落としたのかというのが私の頭の中では一杯だった
3~4歳の小さい私をかわいがってくれるお姉さん達は顔がケロイドになり、怖かったが悪いのは爆弾を落とした人と思い、私が大人になったら、かたきをうとうとずーっと思っていました

10歳になった時 広島の25人のお姉さんたちがニューヨークにあるマウントサイナイ病院が治療してくれることになり、父は付き添ってアメリカに行った
アメリカのTV番組で 「これはあなたの人生だ」という番組に出てもらう為に、アメリカに来るようにとの話があり、アメリカに出かける
舞台に知っている人が2人いた
父は神学校に学んだが、アメリカでの同級生、あと白人の女性は日本で宣教師をしていた人  
もう一人いたが、解らず聞いたが躊躇したような感じだった
あそこに立ってる人は キャプテン ロバート・ルイスといって広島に原爆を落としたB29エノラゲイという飛行機に乗っていた副操縦士だと教えてくれた

聞いて吃驚した 長年 ずーっと いつか、いつか いつか あの飛行機に乗っていた人たちを見つけ出して、かたきをうとうと思っていた
私が即取った行動は、目を一杯に開いて、睨みつけた
心の中で「あなたは悪い人だ  あなた達さえ、爆弾を落とさなければ、広島の多くの人たちは苦しまなくて済んだし、死ななくて済んだに」と、怒りが一杯で、その人の目を睨みつけていた
司会者が、ロバート・ルイスに爆弾を落とした後にどう思いましたか、と聞いた
「天えんを出発して、広島上空にいき、8時15分に爆弾を落として、そこを飛び去り、しかし落とした爆弾の威力を見てくるようにとの、指示があり、引き返して上空から広島を見た
広島が消えていた」 「神様 私たちはなんてことをしたんだと」と飛行日記に記載した
 
彼の眼を睨みつけていたら、彼の目から溢れていたのを、私はしっかりと見た
はっと気がついた その人は悪い人とずーっと思っていたが、自分のことを考えると悪いことがいっぱいあると、気がついた
7年間ずーっと憎み続けてきたが この人の涙を見たときに、この人も苦しみ、悲しみがあると言う事が心に伝わってきた
申し訳ないと言う涙に見えたので、もうそれ以上その人を敵としてということは、人間としていけないと思ったのではないか
その後憎しみは薄れていったように思う

一番つらいこと 広島、長崎にはアメリカの政府の機関 ABCCという機関を作った
原爆が人体にどのように影響するかを、研究する機関
私が対象になったのは、子供からデータを取る事
全部脱いで、木綿で出来たガウン とふんどし見たいなもの それを付けるのが嫌だった
中学生になった時に、検査室から検査室に回っていましたら、どこどこに行ってくださいと言われたが、そこは講堂だった
いろんな言語が耳に入ってきた  舞台に上がるようにと言われて、ガウンを脱ぐように言われて、ふんどし見たいなちいさな一枚しか付けていない
右、左と言われるままに、動かされて、涙があふれてきて、悔しくてしょうがなかった

何故私はここまでしなくてはいけないのか、中学生になれば、子供の体から大人の体になってゆくところ、悔し涙、屈辱感だった
同じ日本人ならば、何故助けてくれないのか、と先ず思った
解った、誰も助けてくれないのなら、もういい、もう私はこれで広島とさようならをしよう もうたくさんだと思った
私が生きてゆく限り、もう二度と広島にいたと言う事はひとさまの前では言うまいと
その時の出来事は私には大きな大きな出来事だった
広島から離れたかったので高校は東京に行った  大学はアメリカに留学する
奨学金が消えるので、日本に帰らなければいけなくなり、あのABCCの舞台のことを思い出す

アメリカの留学先の大学の人と婚約する 一旦日本に帰るが、彼から手紙が来る 
彼の専門が、放射能が人体にどう影響を与えるか という事で幸子は良くない、まともな子供を産むことはできない人だから、駄目だと家族会議で決まったそうだ
原爆乙女とは、私はケロイドもないし、違うと思っていた
東京の外資系の会社に入って、同社の人と結婚した
妊娠したが、流産してしまったが、或る日母と先生のところに言ったら、母が実は幸子ちゃんは小さい時からお医者さんに子供を授かる事は無理だと言われていたんですよと言われて、ショックだった

弟が結婚して、弟のところに子供ができたと聞いたときに、とめどもなく涙が出た
子供がこんなに欲しかったのかと改めて心底思った
人間て、涙はいいですね またそこを飛び越えられたような気がして、また前に立って歩ける
父がずーっと理解できない人だった
小学校4年生のころ、父の書いた本を書斎の本棚から取りだした
「ノーモア広島 広島の十字架を抱いて」 を読み始めた 
或るページで、父と母が広島の街で偶然に出会い、父が高木さんはどうしたかと聞く
高木さんはあの日 一緒に訪ねてゆく人だった
母が解りませんと言うと父は凄い怒る、この女は牧師の妻なのに、教会員としてのその人を見捨てて、自分だけ逃げたことに対して物凄い怒りを書いたページがある

自分の娘が助かっているのに、私のことなんてどうでもよくて、他人を大切にする
この場面で本を閉じてしまった
後に、教会で父の話を聞いて、父はあの日 大切なものをリヤカーに乗せて田舎に持ってゆくが、爆風で吹き飛ばされたが体は大丈夫だったので、街に入ってゆくと、そこから聞こえてくるのは、助けてくれ、助けてくれとの声、家で挟まった人を引っ張りだすことはできない、彼はやはり牧師で人の役に立ちたいと思ったあの日、私は、彼曰く 自分の子供、自分の妻、自分の教会の人たち自分の住んでいる町内の人たちのことしか考えなかった
それはえごです、物凄い悔いとなって残るわけ、だからこそ自分は広島のために役に立ちたいと思って生きてきた、と言う事を聞いて、それほどまでに私のことを想ってくれた
子供のころは、自分のことを想っていてくれなかったと、思っていたがそうではなかった、逆だった

父が歩んだ道を少しでも歩みたいと思っている
子供たちのこと、戦争、 子供たちを犠牲にしたことは、アメリカは謝らなければならないと、父は言っている
ずーっと子供たちのことを心にあった、だからまずは原爆乙女、彼にとっては子供のような、助けたかった
与えられた命をどんなことがあっても、奪ってはいけない
ましてや戦争の犠牲に子供たちがなってはいけない
核廃絶はどんなことをしても無くしてほしい、誰かが間違ってボタンを押したらあっちの国、こっちの国ではない

原点は 私は生き残っている 与えられた命を大事にしてほしい、ひとの命も大切にしなければいけない
本当に、ロバート・ルイス との出会いに感謝している
この私 10歳の私を変えてくれた ずーっとアメリカ、アメリカ人を憎んできたかもしれない
自分に非があれば、責められない
間違いがあってもいい、その間違いを踏み台にして歩めばいいと思っている
今の子供たちは捨てたものではない いろんな話を聞き、きっと、きっと 私は信じている
































 











2013年8月9日金曜日

平野信人(平和活動支援センター所長) ・長崎から平和を呼び掛ける

 平野信人(平和活動支援センター所長)       長崎から平和を呼び掛ける  
被爆二世の平野さんは小学校の教員を退職後、自費で平和活動支援センターを立ち上げるなど、常に弱者のために平和活動の先頭に立って活動を続けています  
国内外で後遺症で苦しんでいる人たちの援助だけでなく、これからの平和活動を若い人に託すなど 平和の大切さを訴え続けている平野さんです  
平和活動の過去、現在、未来などを話していただきます

被爆二世であることを知ったのは?  私は昭和21年生まれ
小学校、中学校の時代は周りがみんな被爆者の子供だったので、あまり意識していなかったが、 高校の時に同級生が白血病になって亡くなったという事件があって、その子とは随分親しかったものなので、その時に同じ境遇にあると言う事を知って大変なショックを受けた 次に被爆二世と意識したのは、妻との結婚でした  
被爆二世同士の結婚と言う事で、次世代に影響があるのではないかと心配したが、元気に今は生活をしているが長崎で、教員になって戻ってくる  
平和教育に取り組んだ 被爆40年1985年 被爆者の高齢化が問題になってきた 後を継ぐのは被爆二世ではないかと、大きな課題になった  

被爆二世の教職員を集めた会を作った それが実際の始まり、500人ぐらいのメンバーがいた リーダーに選ばれた 最初被爆二世として、原点を知らなければいけないと思って、母親から詳しい被爆体験を聞くことから始めました  
最初なかなか口を閉ざして、話してくれなかったが、ようやく口を開くようになった 私が生まれたときは食べ物が無くて、母乳が出なくて、私は母の乳首に、強くすったため痛い思いをさせた  
原爆のすさまじい体験をした後、新しい命を育んできて、苦労しながら育てたが、被爆者に対する差別、偏見があるし、そういう苦しい時代を生きてきて、原爆、核兵器を使ってはいけないという結論に至るまで、苦しい戦後を送ってきたことを赤裸々に、聞いて、改めて二つのことを考えた  
広島、長崎のこういったことを二度とく繰り返さないためには、被爆者の体験を私たちが引き継いでいかなければならない  

私たちを産んで、育ててくれた、被爆者の親の感謝の気持ち 交差した気持ちが皆に生まれて、 我々は被爆二世として、どういう風に生きていくか、感じた時代だった  
小学生にどう伝えるか、しっかり伝わるように、平和教育の運動は進められてきた
被爆者には被爆50年は無いと言われていて、そう私たちも感じていたので、更に次の時代に伝えようをいろんな活動をしてきた
子供たちは原爆を資料館で見たときに、悲惨な写真に対しても、怖いと言うんですね
平和教育があまり好きではないと言う、子供たちが増えた時代でした
悲惨な体験をただこんなことがあったんだと、伝え方の工夫を随分悩みながら考えた

平和教育や平和運動はとても暗いんだと、いいイメージではなかった
そうであっても必要なことなので、紙芝居を作ったり、絵画の制作をしたりしながら、子供たちにどうやって伝えるか(永遠の課題だが)、学校を離れて行動としてして、うつすと言うようなことをした
高校生になると受験勉強などをするので、平和に関する関心が少なくなる傾向になってしまう
若い人たちの姿が見えないという現実があって、多くの被爆者も嘆いていた
1970年代 教師の会が調査をしたら、長崎に原爆を落とされたことが、知らないと言う子がいたとのこと、非常にショッキングなことだった
知識でも知らない、感覚的にも知らない、家族にもそういった話を聞かないと言う事で、日本全体を考えれば、知らない子供たちが増えてくる、深刻だった

現在ではそういう子供達がいないと思う
高校生、大学生に対しても運動を広げようと思いました
小学校、中学校は長崎県下ではぼ100%、8/9の登校日が設定されているが、当時、高校では登校日にして平和教育をすることは、20%切っていたと思う
現在では、ほぼ100%になっている
高校生平和大使を考えた 1998年にインドとパキスタンが核実験を行って、核兵器の拡散が心配されて、核実験をやめさせようと、市民ぐるみで取り組んできたが、被爆者の高齢化が進み上手くいかなかった
国連に訴えに行こうと言う事でも、被爆者は大変なので、高校生に国連に行って核兵器の廃絶を訴えてもらおうと、1998年に最初の高校生の平和大使を送り出した

当時は若者には意識が低くて、どうかなあと思ったが、若い人が訴えることは、国連に非常に大きなインパクトを与えて、その後続くことになる
3回目からジュネーブに行く(軍縮会議がある場所)
核兵器廃絶の署名をすることを若い人たちが、独自に考えて、活動のきっかけになった
2001年から始める 高校生1万人署名活動
今年で100万筆を越える署名になる
被爆経験もない、戦争経験もない若者ではあるが 誰かが引き継いでくれなければならない
署名をもっていっても平和な世界が築けるわけではないが、子供たちで話し合いをして、「微力ではあるが、無力ではない」と、何もしないより、なにかきっかけがあるのではないかと、合言葉に頑張っている(継続は力)

ユース非核特使 今年、外務省で 制度ができた   
第一号が高校生で日本の代表としても役割も担うようになった
未来は? やがて被爆者がいなくなったときに、どうやって長崎、広島の声を伝えてゆくか、
それを未来に託すと言うのが、我々の願い
更に若い世代、被爆三世、被爆四世になってゆく 私の孫は被爆四世
本気になって運動を引っ張ってゆく人たちが、長崎の市民、日本の国民として、定着してゆくという事を未来に描いている
平和を考えるときには、二つの考え方があって、大きな国の平和、戦争、国際社会の問題
とちいさな平和は、平和運動をやっている子供たちがどのように、育ってゆくのか、皆が皆、大きな平和、政治を求めるのではなくて、足元のちいさな平和、弱い人の立場になって物を考えることができるとか、障害を持たされた人たちにどう対応してゆくとか、そういう社会はどうあるべきかと言う事、そういう自分の生き方にどう反映させるか、と言う事がちいさな平和の作り方と思っている

人を思いやる心が育っていって、それが平和のベースになるのではないかと思う
在外被爆者の援護対策にも力を入れている
見捨てられ人たち、弱者の人たちを支援するのが原点にあるので、1987年に被爆教職員の会を作って、最初の仕事が被爆者の話を聞く、2番目の仕事が、韓国に被爆二世の訪韓団として一緒に行ったのが最初で、その時に韓国の被爆者がいた
戦争時に日本に来ていて、原爆に遭遇した
捕虜の外国人も被爆していることに気付かされて、同じ援護を受けていないと言う事で支援した
(おもに韓国、台湾、とか 他にオランダ、ブラジル、アメリカなど被曝されてその後移民した日本人)
裁判でも支援をしている

1995年に韓国で原爆展を開いたが、韓国国内で反発があった
日本の戦争によって、原爆がもたらされたが、原爆の前に反省することがあるのではないかと言う事で、困難だった
現在の原爆展は高校生が主催して韓国の高校生と一緒にやっている
歴史認識の乗り越え方も、若者にはできる、若者には未来があると思っている
未来の平和を求めるために、現実問題をかたづけて行かなくてはいけない

若者はこれをやっても無駄だと、マイナス面ばっかり考える傾向があるが、大きな理想は簡単には実現するわけではないので、こういった運動はきりが無いような、継続をしていかなければいけないという側面があるが、大きな目標の1/10000のちからでも、自分には何ができるのか、これを克服するためにはどうしたらいいのかと言う発想を持って未来を見ていかないと、悲観的な言葉ばっかりいい続けることになりかねない
自分に何ができるか、自分で考えて欲しい
自分に何ができるかを、生きる前向きなエネルギーとして、困難を解決出来てゆくのではないか

































2013年8月8日木曜日

米倉 斉加年(舞台役者ほか)    ・戦争、演劇ともに熾烈な戦いだった 2

米倉 斉加年(まさかね、舞台役者、演出家、俳優、画家) 戦争、演劇ともに熾烈な戦いだった2
町内では二階建の大きな家だった (炭屋)  祖父が大工の棟梁で、福岡城第一期解体時期と家が建った時期が一緒だった
解体した木材を壕に落として、引き上げて、材料にしたので建てた柱は立派だった
祖母が髪結いで、おなごも働いて金をためておけば、男の言うなりにならないと、妻に対して、おんなの自立を説いた
祖母は、千両芝居(大歌舞伎)はめったに見られないと、私に対して、学校は毎日あるので学校に行くことは止めて、千両芝居を見にいこうと、諭された

軍人でないものを、母は望んだ 
大学を中退して、役者の道を選ぶ 妻とは学生結婚をしたが、妻からきちんと役者の勉強した方がいいといわれた(妻は教員免許を持っていたので私が働くと言ってくれた)
最初上京した時に、松村 達雄さんの「50人劇場」に行った
高円寺に50人しか入れない劇場に行ったが、やくざのために劇場を潰されてしまった
その後、民芸の試験を受けて、合格した(3000人ぐらい受けて、50人ぐらいが受かった)
試験は1週間ぐらいかかった(昭和32年)
若手で主役をやったりするようになってきて、ある人が宇野先生に私のことを聞いて、宇野先生は、才能、そんなもん有るわけないし、あってもわからんていって、あいつにあるものはど根性だけ、と言われた  怖いもの知らずであった

NHK大河ドラマ、中村半次郎役 強い人は強がらない  そのような雰囲気でやった
民芸座 宇野(劇団を動かし指揮していた) 滝沢さん
研究生として3年目に劇団を作って、宇野先生と交流が始まり、活動したが5年目に解散して、辞めて、民芸に戻って、それから実際に宇野演出で、主役をやったりして始まりました
宇野先生は伝説の人です 宇野先生から言われた駄目だしは3つある
①普通に言え  ②思えば、出る  ③離見(世阿弥の花伝書にある言葉)
いまでもこの3つは、できない
①普通に言え ・・・最初に言われたのは舞台で主役をやる前に、NHKで主役をやった 
木下順二先生の「口笛が冬の空に」というTVドラマ これに主役で出ている
私の父親役をやったのは宇野重吉、母親役が北林 全く運命的な出会いであった
最初の本読みを終わった後に、宇野重吉が「普通に言え」と、一言だけ言った

普通にいう事は難しい 普通に生きてなければできない 
宇野重吉曰く、「偉人、奇人、変人は出来る、普通の人は難しい」
そこらにいる視線、普通の人が一番難しい、演じるのに
普通に言えと言う事は、普通に生きている、普通の世界観を持ってないと言えない
これは棺桶に入るまでの、大きな宿題です
普通に言えは心がそうなればでる  
②思えば、出ると普通に言えは  通じている
心の中味を言葉で言えない 言っているつもりても、そう感じ取ってもらわないと駄目なわけ
普通に言うと言う事は難しい、言えないものをどうやって出すか、言葉で説明できないから、違うことを話してる この落差で本当の意味を発見する 
この落差を見せると、お客に解るんです

親が死んだのに、悲しくない 悲しいか、悲しくないか この落差を見極める
そういう自分の心を持っていれば人も落差で表現するんでじゃないかと、嘘を言う事で、心と違う事を言うから、心が解る、落差でわかる
新しいものと古いものがどちらがいいか、それは別問題 
古いで大いに結構、迎合する必要がない
なるべく長く生きて、古くなりたい 古いは貴重 その中に文化が込められている

「父帰る」は面白い  子供の時は小姓組だった 友人は校長になっている
ちゃぶ台が出てくる 江戸時代にちゃぶ台は無い 年功序列で御膳で一人一人くっていたが
家族が初めて生れた 家の崩壊そういうものがあの古い「父帰る」に日本の中の一つが入っている
これでもかこれでもかと そういう風にやっている

北海道で去年は2カ月近くやった  お金がな方ので、車で回って、学校の廃校に泊ったりした
今回金に替え難いものをもらった
大きな体育館で芝居をやるような環境ではないところに100人足らずの観客がいたが
芝居を始めると、食い入るように初めての芝居を見る目がある、この目にこたえるわけにはいかない、初めて見る目には、初めて見せる芝居をしなければいけない
ただ舞台で勝手に芝居をしていたのでは、中味が無けりゃ出るものが無い、その時に己をするわけです
あの目に答えるだけの自分がいるかと、だかあらそういう目に接した時に、始めて自分の発見ですよ
それを続けるうちに、おい、これから満員の劇場では、もうできないかもしれない、ガラガラの客席じゃないとやる気が、それぐらいの気持ちで

「父帰る」は涙なくては見れないのに、漁師のかみさんたちは笑い飛ばすんですよ
これはショックだった、劇中で私が帰ってきて、笑い飛ばすんですよ
詰まり、男が女を作って、出て行って、落ちぶれて帰ってきて、ざまをみろと言う事なんですよ
漁師のかみさんたちは強い、漁師は稼ぐと男はみんな飲みに行ったりするが、沖へ出て行くのをじーっとかみさんたちは黙ってかみさんたちは見守っている、船の一枚底は地獄だ、帰ってこない夫、息子を代々そうやってみている
帰ってきさえすれば、そんなことでへこたれない
愕然とした笑うので、最後の最後、一番いいところでも笑う
でも気付いた、おかしくて笑っているのでは無いと言う事に、男の愚かさを笑っている
あのおかみさんたちは、帰って言った時の温かく家に入れてくれるかみさんたちだねえと、絶対追い出さないと

これはやっぱり、価値観が金、物になっている現代の都会の生活と違う、金、物、権力に支配されない、何の経済効果のない中で、本来の人間の持っている、まだ北海道には自然の中で生きる人間がいる
空を見るのに、都会では目を上に向ける(空の切り取りしか見れない)北海道は水平に目を回す
360度 そこからが全て空   そこでは芝居が生き返ってくる 人間の
今は忘れているものが沢山あるなあと、思った
悲劇なんて笑い飛ばす、かみさんたちに出会ったときに、人間本来たくましいなあと思った
得たものは大きかった
新しいものは古いものの中からしか出てこない 年寄りはやることがある、皆がだまっている言いにくいことを言わなくてはいけない
























2013年8月7日水曜日

米倉 斉加年(舞台役者ほか)     ・戦争、演劇ともに熾烈な戦いだった

米倉 斉加年(まさかね、舞台役者、演出家、俳優、画家)  戦争、演劇ともに熾烈な戦いだった
昭和29年 福岡から上京し、3年後に劇団民芸に入り、宇野重吉さんのもとで数多くの芝居を演じてきました
NHKの大河ドラマや、寅さんシリーズに欠かせない俳優でどんな作品に出ていても、独特の存在感のある方です
そんな米倉さんの小学校時代は太平洋戦争の真っただ中、戦火を逃れた先で待っていた、ある出来事を絵本にしました
30年経ったいまでも中学1年生の教科書に採用されています

昭和9年生まれ 江戸時代に近い生活 江戸時代の井戸を使用していた 
かまどで米を炊いていた
敗戦が小学校5年 今では完全に切れているが、でもそれは繋がっている
母親が死んだときにまだつながっているなと思った 
やっと楽になったのに、泣いてはいかん、悲しんではいかん、一人戦争を背負い続けたと思うと
もう楽になってくださいと泣いてはいかんと、53歳の時
父は戦地に行く 子供は私と妹、生れたばっかりの乳飲み子(弟)

普通の生活の中に戦争がある 
母親は祖母、私や妹に食べさせるので、自分が食べないからおっぱいが出ない、だから弟はおっぱいが飲めないので死んでゆきます
それが戦争だなあと、戦争は戦場だけで有るのではなく、私の戦争は弟が死んだこと、これが一番大きいですね だからなかなか終わらない
ミルクと弟さん、米倉さんの関係が教科書に載っている
大人になれなかった弟たちに

私が4年生のころ 夢を見て泣いて泣いて枕がびっしょりになるくらい泣いた
弟の夢を見ていて、弟のことを描かないといけないと思った
家の中に防空壕があった 家は福岡城の真裏だった 
福岡城は西部軍司令部になっていて、空襲が来たら一番狙われるという事で、母は疎開しようと思って居たが、疎開が1年遅れた、縁故疎開、田舎に親戚が無いので行くところが無いので、母が或る人に頼んで20km離れたところに疎開した
配給はもらえなかった(本当は配給はあったが、都会から疎開したものには配給されず)弟は栄養失調で亡くなった
福岡の時は練乳とかがあったが、粉ミルクは戦後 練乳は弟にあげるものだから、といわれたが解っていたが隠れて、飲んだりした
その罪悪感は79歳になっても思う

弟(ひろゆき)のことを書かないといけないと思った
戦争孤児は同世代の人 中国に残った残留孤児  弟たちのことを言いのこさないといけないと思った
絵本が先で、1年後に教科書に載った
ひろゆきはどうしたら死なないですんだかと言うと、父親がいれば死なないですんだと思う
夫婦がいれば、子供3人ぐらいは食べさせられる
なんで父親がいなかったかと言うと、戦争に行っていたから
あの年から、地球上で戦火が絶えたことがない

母親は胸を患って、死にそうだった、父が帰ってきてから、毎日のようにレバー、夏ミカンを父が必死でたべさせたので、命を長らえた(父が帰ってこなければ、母は亡くなっていたと思う)
本の最後に「戦争では沢山の人たちが死にます 老人、女、子供と、飢えて死にます
そのことを私たちは忘れてはならない
忘れると平和は守れないでしょう」と書いてある
40歳代に書いたもの
ひろゆきの毎日に牛乳を捧げるのを忘れてしまう時がある
毎回夏になると読む 忘れないように読む 忘れると平和は来ないでしょう

私の先生は戦争中、教職にあったものとして責任を取って学校をやめるとおっしゃった
(戦争中に辞めると思っていた)
小学校1年生の時の担任の先生で、怖い「耳なし芳一」の話をした先生
或る日朝礼台から今日限りこの学校から辞めますと言って、(校長をぶん殴って ) そのあと校長が長々と訳の解らない話し始めていた
40歳を過ぎて、その先生の息子から手紙があったが、その先生は止めてはいなくてとなりの学校に転勤しました、ただし米倉さんのおっしゃったことは、80%合っています
戦後に先生をやめていますとのことです

耳なし芳一 伝説がある 目の不自由な少年の琵琶法師
なんで耳が無いのかと言う話 怨霊に耳を取っていかれる話
怨霊に 少年の琵琶法師は平家の語りをするが、素晴らしいので来てくれと言われて、頼まれて毎晩出かける
和尚さんが或るときにみると、ふっと顔をみると死相が出ている
小僧に付けさせて行ってみると、少年の琵琶法師は墓の前で弾いていた
人玉が飛び交って、平家の落人、女官らが、しくしく泣いている 
これはいかんと和尚さんは、芳一を裸にして、経文を身体全身に書いて、怨霊には見えないから一言も声を出してはいけない言われる
(この話が怖くて夜便所に行けなかった)
芳一、芳一と幽霊が来るけど、見えない
耳だけがぽっかりと浮いていた(耳だけ経文を書いてなかった)
怨霊は耳だけを切り取って持って行って、死を免れた

先生(梅林先生)がなんでこの話をしたのか、47歳に成るまで解らなかった
絵本を描きだしたが、やっぱり童話の神髄は恐ろしい話だ、生きることにつながる
怨霊は死、死から生を勝ちとった
戦争中は、死ね、死ねと死ぬことが、美しく清いことだと、少年航空兵で皆散っていった
それを送り出す教師の気持ちはどうだったろうと、思った
そうしたら、教師が死ぬのは怖い怖いと言っている
世の中が戦争の方を向いて、大概全員が戦争の方を向いているときに、教師が背中を向けて、子供たちに向かって、生きなさい、生きなさいと言っている
怖い話は生きる本能を与えるんだなあと 「生きよ、生きよ、生き続けなさい」と言っている

一番怖いのは、何だろうかと、たまたまそこに戦争があった  一番怖いものは戦争
宇野重吉 (劇団に入ってから) おじいちゃんの昔話 故郷の学校に全部くばったりなさった
その中に 耳なし芳一があった (私の先生は二人ともこれを読んだんだ と思った)
二人とも優しいけど、怖い 
梅林先生のことを新聞に掲載したら、物凄い反響だった
松永伍一も 同じ先生に教えてもらった
自分の好きなことを子供に与える
グリム童話 (ドイツ) ピノキオ(イタリア) 東南アジアの話  当時、三国同盟の影響で入ってきた

破壊 戦争と言うものは人を殺す 兵器、武器は人を殺すためだけにある
平和は簡単だと思う 皆が生きること 平和は殺しあわない、こんな簡単なことをなかなかできない
次にバトンタッチして、伝え続けなくてはいけない(忘れないために)









































2013年8月6日火曜日

吉田敬三(写真家)        ・被爆二世の心を撮る

吉田敬三(写真家)     被爆二世の心を撮る
1961年昭和36年 長崎県生まれ 母親が長崎で被爆した被爆二世です
吉田さんは中学校を卒業した後、陸上自衛隊に入隊し、戦車大隊に配属しました
その後、自衛隊を除隊して、出版社などを経て、カメラマンとしてスタートしました
これまで世界各地の紛争地を取材した写真、ルポルタージュなどで活躍してきました
吉田さんは、今日から長崎市で「被爆二世の肖像イン長崎」と言う写真展を開催します
吉田さんと同じ全国各地の被爆二世、104人の素顔を追った写真を集めたもので、親の被爆体験と向き合い、迷いながらも、自らの道を探る被爆二世達の姿が捉えられています
吉田さんが写真家になるまでの道のりを始め、今回の写真展を通し、被爆二世の人たちが訴えかけることは何かを伺いました

デジタル使えば、パソコンで処理できるが、フィルムを使っているので、フィルムの現像から始まって、プリントまでやっています
被爆二世と言うものに対しては、デジタルだと目に見えない、実態が無い訳ですよね
なかなか思いを込めることができなくて、フィルムにきちんと焼きつける、フィルムのこだわりがあるので、このテーマではフィルムを使って、自分一人でやっている
母親は10歳の時に被爆している 特に隠していたという事は無い
写真家になって被爆二世の写真を撮り始めてから、初めて母親に詳しく、その時の一挙手一動作まで詳しくインタビューを試みたが、でも解らない部分はあった

早く親元から独立したいという想いがあり、自衛隊に入った
少年工科学校に行った、訓練も並行して行った
戦車の道を選んで、戦車学校に進み、そのあとに北海道に配属された
最初は運転、砲を撃つことも担当 若い隊員を指導する班長を4年ほどやる
通信教育で大学の勉強をして4年で卒業できたが、閉鎖的で、海外がどういう軍隊の動き、役目をしているのか見てみたかったが、休職して、それを行かしてくれることは無かったので、自分の目で見てやろうという事で、退職してすぐ海外に出てゆきました

最初、中南米をバスに乗って放浪していたが、異文化、異民族に有って吃驚するだけだったが、或る時のどかな田園風景のところでバスが急停車して、一人の人間が銃を持って、倒れていた
聞いてみると、これはゲリラで政府軍と撃ち合いをして死んだばっかりだといわれた
こんなのどかな街で戦争が起こっているんだという事に先ず吃驚した
日常生活のなかで戦争が起きていること自体に、衝撃的だった
自衛隊である程度の知識はあったが、全く初めての経験で、なかなか理解をするのに最初は苦しんだ
日本に居ては伝わってこないもの、これが本当の世界の実情だと、これをできるだけ伝えたいとの思いが湧いてきて、ジャーナリズムの道に入りました
アルバイトから始めて、いろんなところに記事を売り込んだりとか、雑誌社に持ち込んだりしていた
日本では海外ネタを割と採用される率が高い(経費削減で特派員とかあまりおけないので)

いつも赤字だったので苦労していた
カメラマンと一緒に仕事をしたときに、自分が一晩寝ずに考えて書いた記事よりも、一枚の写真の方がインパクトが強くて、写真にはこんな力が有るんだと、写真で有れば言葉を越えた共通の言語としての需要があるんだと、当時記者をやりながら、写真学校の夜学に通って勉強をしました
写真は嘘をつかない 記事であると自分の言葉に訳してしまう
写真は必ず現場に立ち会っていなくてはならない
カンボジアはどんなところだろうろ、自分で選んだが、最初怖くてシャッターを押せなかった
地雷の被害者が足を切断したり、手を切断したりとかして、これを映像として取っていいのかどうか悩みました
皆さんが気を使ってくれて、お茶を出したり、お菓子を出したり、最後にはご飯まで出してくれて、この人たちに何か恩返しをしたいと思い、やっぱりそれは写真を撮るしかないと、ようやく彼らの素顔を写真に撮れるようになって、日本に戻ってきて、高く雑誌でも評価されて、そこからが本当のカメラマンとしての第一歩でした

今まで カンボジアの地雷や、路上生活者、夜間中学などのテーマを撮ってきましたが、先ずは最初はカメラを持たずに彼らのところにいって、私を理解してもらう、そうして何日間かして理解してもらってから、受け入れて貰ってからレンズを向けるという作業をしているので時間はかかる
単なる現場にいったという状況証拠であれば、そこでシャッターを押せば済むが、そこに映っている表情を引き出たせるためには、彼らが安心して心を開かないとその表情は取れない
緊急性の或るものは、時間はかけられないだろうが、私が撮りたい写真は関係性を築いたうえでの写真なので時間をかけて撮っている

私自身は被爆者から生まれたという認識はありました
カンボジアで長崎のことを聞かれて、原爆のことを知っているか、被爆した母親はどうだったかと、聞かれたときに、一般的なことは知っていたが、母親自身のことに関しては理解していなくて、一番身近な戦争被害者は母親だったと気付いた
他の二世はどうなんだろうか、自分と同じように知らないままなのだろうかろ、それを確かめてみたいと思い全国の二世を探しました
被爆二世、団体もないし、インターネットで被爆した二世だと表明した人に、手紙を書いたが1年間何の返事もなく、このままで続けていいのかなあとの不安にも駆られた
山口の被爆二世の会の方が8月6日 広島の平和公園で青空集会をやっているので会いにおいでよと言われて、会いに言って写真をとっても構わないと言ってくれて、初めて写真を撮ったが、活動を始めてから1年後だった

わざわざ被爆二世だと公表する人もいないし、探すのも苦労する
撮影することに応じることはないのではないか、と友人達から否定されることが多かった
被爆二世とあって、皆さんの人生の話を聞く事によって私はエールを頂きましたし、これは続けなくては行けなんだと、皆さんの二世としてのバックアップがあったからこそ、10年を越えるがここまで続けて来られたと思う
被爆二世という同じ土俵でいろいろ溜まったことを話すことができた
話はするけど、写真は勘弁してくれという人もいたし、積極的に対応してくれる人もいた
120人を越える被爆二世と接するが、親のことは半分以上がなにも聞いていないという人が多かった
写真撮影に応じてくれたと言う事は、何かしら自分の中でわだかまり、くすぶっているものがあって何かのきっかけにしたいという人が何人かいらっしゃいました
親自体がいなくなってしまった人がいる
親の体験を聞くことができる最後のチャンスではないかと、焦りも感じる

なんで撮影に応じてくれたのかと聞いた人がいた
親が体験したことを、周りの人たちに体験してもらいたくない 一人一人は声が小さいかもしれないが、100人集まれば大きな平和の声になるのではないか、私もそういう声の一人になりたくて応募したんですよ、と言われた
核兵器廃絶とか、世の中を変えたいというようなことも立派だと思うんですが、一人ひとりが今の生活を守りたいという事が基礎にあるんじゃないですかね

親は子供に聞かせようとするが、子供のころは又親が昔の話をしている、もうそれは今まで聞いたからいいよと、言って聞く耳を持たなかったのが、親が亡くなった後で、もしかしたら自分は大切なものを聞き忘れたのではないかと、と言う事で親が亡くなった後で、当時親と同じ職場にいた人を訪ねて、原爆が落ちたときに親はどういう行動をしたのかと、言うのを全部訪ね歩いて、一冊の本にされた方がいた、今ならまだ間に合うのではないかと思っています
被爆二世は全国に30万とか50万とか言われているが、孤立している
その人達に全国には仲間が、被爆二世がこんなにいて頑張っているよと言うようなものを同じ被爆二世として伝えたいし、エールを送りあいたい
病気などで悩んでいる人たちには、助言、サポートをしたいし、地域地域でいろんなおしゃべり場が作れればいいなあと思っている

私たちが自ら声をあげて、解決していかないといけない 
皆が集まれば大きな声になるので、そういう声を届けていけたらいいなあと思います
被爆二世はどういう状況に置かれて、何を求めているかと言うと、先ずは調べてニーズを把握しないと解らない
私がお会いした方々は親の体験を知った中で、自分として何をしようか、悩みながら一つ一つ進んでいる

写真展 観てほしいところは? 
被爆地での写真展なので意味合いが違ってくる
長崎の人々には、全国に被爆二世は居るんだよと言う事を見ていただいて、いろんな被爆二世がいる、それでお互いにエールをキャッチボールをしていただければ、いいなあと思います
被爆二世の方は産むときにいろいろ逡巡が有ったらしい、のですが勇気を持て産んでくれたと思うので、被爆二世がこれだけ大きく元気に育ったと言う事を見て、自分が産むと決意した選択は間違っていなかったという事を被爆者の人たちには伝えたい
自分たちの未来に希望を持っていただければいいなあと思います

写真と共にメッセージもある 被爆時のデータ 
被爆者の生きてきた人生を一番近くで見てきた体験があるので、それはそれでいろんな人生が現れていて参考になると思います(被爆二世ならではの想いが書かれている)
ありのままの素顔、人間として生きる、血の通った人の姿、写真だとありのままの姿を伝えられるのではないかと思って撮っている
カンボジアの写真を撮って写真を展示したが、ちらっと見て帰ってしまった、写真も人に受け入れられるものでないとなかなか伝わらないと、実感した
今回はポートレートと言う手法を取っている  
その人の生きた証が撮れるのではないかと感じている
私の写真がそのまま遺影になった人もいるが、それは写真家としても光栄に思えよと言われてやってて良かったと思う






































































2013年8月5日月曜日

比企能樹(北里大学名誉教授)   ・オリンピックのチームワークを外科治療に 2

比企能樹(北里大学名誉教授)   オリンピックのチームワー クを外科治療に 2
「一艇有りて、一人なし」 エイト 8人の漕ぎ手 舵を取るコックス コーチ 監督 で一つのチーム
一人ではないと言う事
旧制第二高等学校 と東北大学が合同で冬場に練習をしていた
荒海で練習中に遭難してしまった 
葬儀の席上で、当時の旧制第二高校の校長 阿刀田令造校長が弔辞を述べたが、痛恨を込めて若い死を悼んで、彼らの結束の良さをたたえた
その言葉の中に「一艇有りて、一人なし」と言う言葉がありました
しっかりと船のそばで離れずに、オールを持ったままで、事切れていたという様子だったと記載されている

ボートの場合は4人で漕いでも、8人で漕いでも、勝ったか、負けたかの結果でしかない
1956年 メルボルンオリンピックに出場 大学単位の出場 実業団は当時は強くなかった
学校の合宿所から朝、練習に行って、それから学校に行って、又帰ってから練習をした
当時は総合大学が強かった 国立大学が強かった 東大、京都大学、東北大学、一橋大学等
父が東京大学のエイトで全国優勝して、子供のころからみていて、刺激をうけた
各大学が40名ぐらいいた  
東京大学医学部と慶応義塾大学医学部で毎年秋に対抗戦をやっていた
ずーっと負けていたが、勝つことができた
その後マネージャーをやらされて、食事の用意などをやった

第二エイトに選ばれ、選手としてデビューできた
1955年全日本大会があり、1位東大、2位一橋大学、3位京都大学だった
この3チームが第一次オリンピック候補となる 
1956年 優勝校がオリンピックの候補に加わる
東京大学がダントツだった 淡青会22歳以上も参加(OB) 京都大学 一橋大学が有望 慶応大学が4番目
リーグ戦で戦う事になるが、最初東大と戦う事になる
オールに問題があることに気がついたが、遅くてなんとかオールがしならないように、いろいろ工夫したが、いまいちだった
京都大学のスタートは抜群で、京都大学のオールを貸してもらえないかと交渉した

決勝で一緒に当たるときに、オールは借りることができなかった(断られるだろうとは思っていた)
会社で作ったオールを3つの大学で使っていた 北海道大学 東京経済大学 
東京経済大学が形状的に慶応に合っていたので、予選で負けてしまっていた東京経済大学に交渉して、監督さんに許可を取って貸してもらった
オールの先の色が黄色だったので、慶応用の色に修正して、行った
硬くて、いいが腰に負担が来る
東京大学と対戦  1000mまでは負けていたが、じりじりと追い上げて、あと200mぐらいのところで一本だけ水しぶきが上がり、タイミングが遅れて、ちゃんとオールが入らなかった

コックスがそれをみて、スパートの号令がでて、それで追いついて強敵東大に勝った
最終が無敗同士の京都大学と慶応だった
出だしは京都大学先行 残り150m~200mのところで、スパートをかけるかコックスが制調(一番前の人)に問いかけたら、まだという指示を出した
その後スパートをかけた 6分3秒  30cm差で勝利した 日本新記録だった

オリンピック代表用の船 檜1枚作り 早稲田OBの社長さんの会社で作って、一緒に付き添って船を運んでくれた
私たちは羽田空港からDC4 プロペラ機で24時間かけて、3回給油をしながら行きました
団長は田畑政治 万雷の拍手を受けて第一陣がオーストラリアの地を踏んだ
準決勝まで進んだ   1000mまではリードしていたが、チェコが出てきて、風が吹き出した
日本の船は軽く、チェコの船は重く、日本の船は風に流されて、ジグザグのような走行になってしまった
その時はアメリカが優勝(敗者復活から上がってきて勝った) 2位がカナダ 3位がオーストラリア
準決勝の翌日は静かな、鏡のような湖面だったので、残念な思いはある
私は4番クルーで、オーストラリアの4番クルーとは家族ぐるみで付き合ってきた
彼はジム・ハウデンと言う名前で、日本に来て会った時に、足をみてくれと言われて、観たが癌であった(癌研にも依頼して確認したが) 惜しい男だった(最高裁の判事になっていた)
以後も家族とのお付き合いはしている

2002年に世界マスターズオリンピックで仲間がそろったが、コックスがいなかった
1956年のメンバーで漕いだ コックスのお骨の一部を散骨した
小泉信三の言葉 「運動、練習は不可能を可能にすると同時に、良き友を得る」
来年も行く計画がある 心はメルボルンのウェンドリー湖(ボート競技した場所)です




































2013年8月4日日曜日

比企能樹(北里大学名誉教授)   ・オリンピックのチームワークを外科治療に

比企能樹(北里大学名誉教授)   オリンピックのチームワークを外科治療に
比企能樹さんは慶応義塾大学医学部在学中の、1956年に慶応のボートのエイトの代表クルーの一員としてメルボルンオリンピックに出場しました
消化器の内視鏡外科学についてうかがいます 第二回でオリンピックの思い出を伺います

2020年オリンピックの開催地が9月に決まる
合宿所から学校に通っていた 実習に出られないこともあり、落ちてもいいからオリンピックに行けとの一声で、行くことができた  無事卒業させてもらった
追加して実習したりしてもらった
ノートを借りることができて、大変助かった、友達の協力が大きかった
「恕(じょ)して、医を行う」 私が信条としている言葉  
もともとは孔子がおっしゃった言葉(福沢諭吉の本によく出てくる言葉)
「己の心のごとくに、他人の心を考えて全てを行いなさい」と言う事

医学に関しては、必須のことだと思った
大阪の適塾 福沢諭吉はここで学んでいる
適塾二階に フーフェランドが 医に対する考え方を12条掲げてある その最初に掲げられている
「自分が手術を受けるとか、自分が痛みがある場合に、それがどういう風にしたら、治るか、どういう風にしたら痛みが取れるか、と言う事を患者さんにして差し上げることが医学の原点である」
そういう事だと思います

専門が消化器の内視鏡外科学
内視鏡 診断をする手段  大学院に入った時に教授からあなたは内視鏡を勉強しなさいと言われた (外科医療を目指していたので、ちょっとがっかりした)  
当時は内視鏡が初期の物で、外国から輸入された鋼鉄製の管を口から入れて、内部を観察するような状況(光は電球で、胃の中を照らしながら見てゆく)

太さ1cm弱 体を直線にして、頭をベットから上を向いて出して口をあける
頭を持つのが最初の仕事だった  
患者はつらい(局所麻酔)意識はある 粘膜の麻酔をする 
呼吸はしているし、身体を動かすので、ちょっとしか見れない
1881年にドイツの学者ミクリッチが人間の胃がんを始めて見つける
鋼製なので先端はゴムでおおって、胃壁を傷付けないようにしてあったが 軟性胃鏡といったが
決して柔らかくなかった
1960年にアメリカでファイバースコープができた  

日本はいち早く、購入して、共同で使った(東京大学、慶応義塾大学とか)
ミクロン単位のグラスファイバーを10万本を集めた管1cmぐらいで曲がるようになっている
最初手にしたときには吃驚した 
日本でも内視鏡を作りだしたが、それが現在に至っている
胃の中をみるだけではなくて、ファイバーに平行にチューブを入れて、その中に金属でできた生
検カンシ(鋏)で2mm角ぐらいの部分を手元の操作で取ってくることができるようになった
胃の中の一部を取って来る事ができるようになった それを作ったのは日本です
診断学は五感を全て要求してくるので、内部に一部を取ってくることによって、それができるようになった(癌なのか、それとも良性なのかを識別できる  柔らかいものなのかごつごつしたものか  手術をする上で非常に大事なこと)
中の状況を写真に撮って検討する 悪性なのか、良性なのか 観察する
東京大学分院でいい写真が撮れる胃カメラを作った 1957年に世界で初めて、できた

胃の中にカメラの先端が入ってゆく 先端に4mmのカラーフィルム(25枚撮れる)を入れる
パトロネの中に入れる  歯並びから55cmで胃が始まる
そこから胃の中を撮ってゆく
如何に綺麗な像を撮影できるか 次にいかにして部分を取ってくるか 
みてる瞬間に皆でみられないかを検討する (日本で発想 画期的)
16mmの映画を撮ろうという発想が日本で検討されるようになる
ビデオスコープになる 先端にフィルムを取り付ける事が無くなる
綺麗なカラーが撮れるようになる
1cmだった径が8mmから7mmになり、同時にTV画面を見ながら皆が観察できるようになった
患者にとっては段々楽になった
当初鋼鉄製の時は剣呑師をみならってやりなさいと言われたことがある

1978年国際学会で発表 その前にレーザー光線で内視鏡を導入して、胃の中、食道の中を治療をする方法を発表するという事で愕然とする  (治療の方に行っている) 
キエフハバー ドイツの内科の教授に話して、帰りのミュンヘンによって、治療現場を見せてもらった
レーザー光線の入るファイバーを入れて、出血している箇所をレーザー光線で止血する(熱で凝固)
これは物凄い刺激だった 
レーザー光線は高価な装置なので、簡便な治療の方向に向かった
内視鏡が診断学から治療学に変わってきた
工学部と提携して、一人一台の機械を何か所でも使えるようにした

初期診断で 5mm以下の小さい癌を見つけた 色が違う 一部を取る、結果が癌であると、即手術、2/3の胃を取っていて、どうも納得できなくて、そこまで取る必要がるのかなと思った
癌と言うのはそこだけの問題ではなくて、癌は全身病だと当時習っていたので、いくら小さくても癌が飛び火する可能性をもっている
リンパ節を通して癌細胞が絶えず全身をめぐりだすと、どこにいつ起こっても不思議が無いような転移がおこる
リンパ管を通して、癌細胞が絶えず全身をめぐり回ると、そうするととんでもないことが起こる
2/3を取るのが、原則になっていた 
小さい胃がんでも リンパ節も取られるので、第一次、二次、三次リンパ節を取って、早期癌であっても、調べた  
リンパ節を調べたところ、2cm以下の小さな癌では、非常にリンパ節がないか、あるいはあっても1つか2つと言う事が解った

癌の性質があるが、どんな性質ならば転移しないか解ればいいと考えた
981例揃えてベルリンで発表した 第一回の消化器内視鏡学会だった
癌は全て手術だよという時代に、全部が全部切らなくてもいいという、問題提起をしたので大騒ぎになった
10年経って3000例近くになり、又発表した
少しずつ、転移をしていないことが理解されるようになった(今はヨーロッパに行っても早期癌は」内視鏡で取ってもいいという事になった)
診断、如何に早いうちに気がつくことが大事
常に皆とチームを組みながら、医学といえども大切、一層成果が上がる











2013年8月3日土曜日

明和政子(京都大学大学院准教授) ・人らしい共感力を育む

明和政子(京都大学大学院教育学研究科准教授) 人らしい共感力を育む
発達科学者 京都大学霊長類研究所で 10年余りチンパンジーの心について研究、その後比較認知発達科学と言う分野を開拓し、ひととほかの霊長類を胎児の時期から比較することで人らしい心の発達を研究しています。
これまでの研究成果から、明和さんは現代の日本子育ては人を生物として捉えた時、とても不自然で人らしい共感力を育む環境を取り戻す必要があると言います
人のこそだては本来どうあるべきか、伺いました。

明和さんが開拓した比較認知発達科学とはどういう学問なのか?
一番関心があるものは、心と言う見えないもの、その内容付いて知りたいというのが、思いとしてありました
心を測る、調べるという方法は、例えば、脳の活動を見る、遺伝子を調べるとか方法があるが、私は心がどのように働いているのかと言う事だけでなく、なぜ人が、今有るような、人らしい心を持つようになったのか、「何故」の視点を非常に考えたいと思ったということになった
比較と言う言葉の中には、人間と人間以外の動物 、特に今この地球上に生きている動物の中で一番近い動物チンパンジーと人間との心の働きを比較するという事が一番面白いのではないかと考えました。

自分の経験もあるが、一人の小さい子を抱っこして、もう一人をベビーカーに乗せて、と言う風に、小さい子を二人を自分一人で育てているような光景をみると、研究者としても、子育ての当事者としても、非常に心が震える感じになる。
人の子育て、チンパンジーの子育てを15年ぐらいみてきたわけですが、ひとと言うのは本来、私たちが多くの場合育てているように、お母さんが中心でお母さんだけが主に責任を担いながら、育ててゆくとう風な子育てのあり方では、本来なかったという事が解ってきた。
赤ちゃんは自分ではなにもできない、非常によわよわしい状態で、生れてくる。
チンパンジーはそうではない 生まれてすぐにお母さんの体にしがみつく事が出来る。
そうすると、抱っこをしてもらわなくても、おっぱいを飲めるし、お母さんが逃げれば、危険から身を守ることができる。
人間は本当に親の手を借りないと、生きていけない存在であることが先ずひとつ重要なことだと思います。
親、周囲の手を借りながら大きくなる、かつ10年以上にわたって、続くと言うのは人間の子育てのはっきりした特徴だと思います。

チンパンジーの場合は5~6年すれば、自立して仲間と一緒に生きてゆく。
野生チンパンジーの出産の状況を実際にみた研究者は居ない。
チンパンジーは出産が近ずくと、ひっそりと群れから離れて行って、他のチンパンジーが居ないところで出産をして、或る程度子供が成熟すると群れに戻ってくる。(一週間ぐらい)
人間は出産のときから、ひとの手を借りながら、生まれ育ってゆくと言うのが特徴です。
チンパンジーの場合は5~6歳で自立が終わって、次の子を産みます。(霊長類一般の特徴)
人の場合には10年以上、かかる子育ての中で、2歳、3歳、4歳の段階で下の子を産んだりすることがよくある。
小さい子をお母さん一人が育ててゆくという状況が、あまりにもチンパンジーとは違いすぎる
そこに非常に関心を持っている。

人間はいつの時点で、どのような子育てをしてきたのかと言う事に関しては、ほとんどわかっていない。
面白い仮説がある。  
おばあさん仮説  おばあさんには、非常に子育てにかかわる大事な役目があると言う仮説。
人間以外の霊長類のメスは死ぬまで、子供を産み続ける。
人間は子供を産むという状態が終えた後も、女性は長く生きる。
閉経後10年以上は生きている。  そこがおばあさん仮説の重要なところ。
自分の娘が子育てをするときに、助けてあげる、それがおばあさん仮説の一番わかりやすい説明です。

普通だといいが、今は核家族で頑張って、お父さんが協力しながら少ない構成人数で頑張って子供を育てている状況が多い。
おばあさん仮説によると、本来はおばあさん、あるいはおばあさんに相当する家族の仲間が皆で娘の子供を育ててゆく、やっぱりそれは本来の子育ての人間の形式だったのではないかと言うのが、一つの魅力的な考え方だと思う。
5人、6人育てた時代は家族で育てる。
おばあさん仮説はいまだに説ではあるけれども、魅力的な考えだと思う。

役割分担ができれば、余裕のある環境の中で、いろんな経験を与えながら、コミュニケーションをしながら育ってゆく、その環境の豊かさを提供するのは、お母さんだけではなく、そのほかのメンバーが関わって初めて成り立つ、成功すると考えている。
お母さんの顔を、一番、目にする他人の顔をいつから理解するのかと言う研究では、生後1~2カ月で理解できるという事が解っている。
お母さん の顔写真と見知らぬ女性の写真を生れたばかりの赤ちゃんに見せる、そうして赤ちゃんはどっちの写真をよく見るかなを調べると、1~2カ月でお母さんの顔に多くふれた赤ちゃんはお母さんの顔写真をよく見るようになる。

育ってゆく環境の中で、赤ちゃんにほほ笑みかけることによったりして、順次覚えてゆく。
生後6カ月で人の顔、声、ふるまいを区別できるようになる。
いろんな人にあやされることは大事だが とっかかり 基盤となるお母さんの顔がまず大事。
複数の人の中で育つ赤ちゃんとお母さんとだけの赤ちゃんとでは、笑顔の出方とか、他人の心への気付き、と言ったような能力の発達が、後の発達が多少違ってくるというような報告もある。

共感力は人間の心の非常にユニークな部分で、今、心理学の分野でも非常に注目されるキーワードになっている。
ラット、猿、クジラ、イルカなどは共感力を示すことが解っている。
仲間が波打ち際に打ち上げられると、他のイルカも集まってきて、多くのイルカが浜辺で苦しんでいる事が事件としてある。
一つの共感力ではないかと言われている。(辛い、悲しい ネガティブな心に対する共感力)
猿、ラットも感じることは実験的にも証明されている。
人間特有の共感力、じつは他人の嬉しい気持ち、ポジティブな気持まで共感してしまうという非常に面白い、ユニークな共感力を持っている。
勿論、人間は他人の悲しみ、苦しみにたいして共感することは、他の動物以上に持っているが
他人の嬉しさまでにも共感してしまうと言う非常にユニークな側面がある。

他人の喜び、嬉しさまでにも共感してしまうという人間特有の心の働きと言うものは、皆で子供を育てるという、人間特有の子育ての、非常に基盤として、重要な役割を果たしてきたのだと思います。
動物は何故ネガティブな共感力だけを持っているのか?
一つの説としては、他人の苦しみ、悲しみと言うような状況を見れば、自分には害が及ばないように、先立ってふるまう事が出来る、他人が危険だという状況が解れば、自分はそこに近づかないとか、逃げるとかで、自分の命を助けることに役だつ訳で、生存上非常に有利になる。

理解できないのは、何故人間は喜びにまで、共感できるのかと言う事は、生存可能性と言う事では解釈がなかなか難しい。
他人から共感を得られないと悲しい。 
凄く基本的な人間を支える重要な能力であることは間違いないと考えている。
私が考える共感力を高めるカギの一つは、真似をする、模倣することだと思っている。
猿マネ 猿まねするのは人間だけ。
日本猿は真似をしない 猿に真似をさせようとしても、猿は真似を返してこない。
チンパンジーですら、身体で真似をすることは、非常に難しいことだと解ってきた。

生れて1時間にも満たない赤ちゃんが、他人の表情を真似する研究もある。
自分の子供の前で実験をしたが、1時間では出来なかったが、2日後には顔のまねをした。
他人がレモンをかじっている表情をみて、酸っぱさを感じたりする。
同じ経験をすると、同じ心が沸き立つ、と言う事なんですよ。
人間の赤ちゃんは言葉を獲得する前から、嫌になるぐらいまねをするが、子供が他人の心に気付いてゆくという上で、非常に重要な役割を果たしている、と考えています。

母親が笑う、と 赤ちゃんも笑うが、身体としての形としての笑いだけではなくて、お母さんが嬉しいという気持ちに、子供自身も気付いてくることになる。
模倣の重要な役割だと思う。  共感力を成りたたせるために模倣は凄く重要な役割を果たす。
赤ちゃんに教えたいと思うが、同じようなことをさせてあげる、同じ経験を積み重ねてあげる
そうすると、母親とかの気持ちに気付くことになる、それから成長してゆくと自分とは違う心を持っていることに気付く。
自分と他者の違いにも、気付くことが大事。
猿の研究 猿の前で人間が一生懸命猿のまねをする、そうすると真似をしている人の場所にずーっといる。
食べ物を食べている時、その真似をしている人のそばで食べる。
真似をしている人に、距離が近ずく。
人間と猿との進化的に心の進化が有る部分共通するならば、真似が人の心と心、あるいは猿と人間との心をつなぐ、一つの証拠だと思います。
猿は真似をしている人間に、非常に親近感を覚える。

赤ちゃんの前で、1人は赤ちゃんのまねをドンドンする、もう1人は真似をしない。
そういう過程を経て、赤ちゃんにおもちゃを与えると、赤ちゃんは真似をしてくれている実験者の方におもちゃを渡したり、一緒に遊ぼうと距離を縮めたりする。
心と心を近づけるだけでなく、信頼と言う事にもつながっていると考えている。

いろんな悲しいニュースに出会う。
もしかすると私たちは今、子供を育てるという環境に、本来あるべきものを失いかけている可能性があるのではないかと心配になる。
お母さんが積極的にあかちゃんに関わる事が必要。
いろんな人と出会うと、母親は自分を守ってくれる存在なので、共感力は得やすい(自分を守ってくれるとの思い)
大きくなると真似する対象は変わる。(幼稚園の友達に出会うが、親とは違う存在)
兄弟、学校に上がると、先生、友達  真似したい対象がドンドン増える。
それこそが人間の共感力を深めるうえで、大変重要なことだと考えている。

共感する対象、共感する場面が多様に、柔軟に発揮することができる。
解りあえないときには、共感は持てないが、解りあうためには、こういった共感性をもったらいいんだ、こういう人には共感性を持ちやすいという様々な問題意識を抱えることによって、人間はより複雑な共感力、より深い共感力を獲得してゆくことができるはず。
自分を解ってくれない人に出会う事も人間の心の成長の一つですね。
核家族化、近所付き合いが減っている。  現代の赤ちゃんの環境には良くない。

高齢者の施設にケアに行く 核家族で育っている赤ちゃんでも高齢者とのコミュニケーションができる。
皆で育てる。 父親が関わる、実現できる社会にする、と言うのが私の強い思いですね。
社会全体が深く理解して、受け止めて当たり前のこととして認める、という事も人間の子育てを普通にするという意味ではとっても大事なことです。
地域の人たちとのかかわりあいも大事。
私の小さい頃、街のお祭り 大人から子供まで全員が参加するが、1カ月前から一緒に練習したりして、褒められたり、同じ時期、同じ経験をする、当日成功したときには嬉しいわけです。
同じ実感、同じことを経験、共有する 同じ目標に達した時に、共感性が生まれる。
子供時代に、こういった経験をすることは、多分同じことが人間の子育て全体にいえることなのではないかと強く思う。
私が伝えたいのは、お母さん一人で頑張ることは無い、他人の手を借りる、それによって赤ちゃんにとっても、父母にとっても当たり前の事であり、余裕を持って子育てをするには、非常に重要なことである。
























































2013年8月2日金曜日

折元立身(現代アート作家)     ・辛い介護を楽しいアートに

 折元立身(現代アート作家)     辛い介護を楽しいアートに  
1946年 川崎市生まれ アメリカの美術学校で 現代美術を学び、ニューヨークを舞台に活動を続けて来ました  
折元さんの芸術は現実の生活そのものを写真やビデオに収めて、アートにするパフォーマンスアート と言う作品のジャンルで、これまでシドニービレンナーレやベネテュアビレンナーレなどに出品し、現在では国際的にも知られるようになりました  
日本に帰国してからは、自分の母親を介護しながら、創作活動を続けています
折本さんの母親は現在、介護度が4で、常に介護が必要ですが、介護生活そのものを芸術にしようと母親をモデルにした写真を撮ったり、母親と一緒にビデオアートを制作したりして、アートママシリーズと名づけた一連の作品を発表しています  

現在、六本木ヒルズの中の森美術館で開催されている「LOVE展」に展示されている
家族と愛  母親と一緒に撮った写真などが展示 生活そのものを撮っている 
94歳の母親を撮ったら評判がいい
うちのおふくろは1.3mの小さい女性です 小さい時からいじめられていた
2年前のパリフォトで特別賞写真賞をもらった  私が母親をぎゅーっと抱きしめた写真
私の作品はリアリティーが強いので、日本ではあまりこのまれないが、外国は生きる力が強い作品がいいんで、外国では評判がいい

介護度4、と高い 母親を一人で面倒を見ている  
東京芸大 7回挑戦して失敗 絵が小さいころから好きだった
どうしても美術をやりたかったが、予備校の先生が、学校は基礎を教えるところなので、プロは要らないと、地味な生徒が入るところだといわれて、もうなかなか受からないと思った
私立も受けようと思ったが、家が貧乏だったので、やっぱり高い私立は受けられなかった
それでアメリカに渡って、最初どこに行こうかと思ったが、ロスアンゼルスに兄が結婚して行っていたので、ロスに行ったが、天気がよくて、あんまりエキサイティングがなかった
美術学校の先生がニューヨークが良いと言ってくれたので、ロスには1年半ぐらいしかいなくニューヨークに行くことにした

1970年代はニューヨークではトップアートが出たりして、ラッキーだった
若い時に失敗とかが、年をとってからかえってプラスになることがある
芸大に入ってなくてよかった、入っていたら学校の先生になっているか、したりしていると思う
(周りからもそういわれる)
アートはもっと自由で、ニューヨークはエネルギッシュな芸術家が集まってきた
学校に入らないで、ソーホーの画廊を見たり、フルクサスというイベントのグループの作品を見たりして、学校へ行く以上の勉強になった(芸大に行っていたら、見ることはできなかった)
美術は考えるだけものではなくて、感じるものだと思う

アメリカは歴史のない国なので新しいものをジャンジャン作るわけですよ
パフォーマンスアート 細長いフランスパンを何本も顔にくくりつけて写真を撮ったり、街頭にでていろんな人を驚かす、コミュニケーションする
1976年(7年、ニューヨーク居て) 日本に帰ってきて、パフォーマンスアートとはどんなものか、やって切れないかと言われた 
油絵でパンをよく書いていたので、顔にパンを付けてみようかと遊び心から始まったが、お客さんが3人ぐらいしか来なかったので、写真として撮っておいて、パンを数本顔につけて、歩行者天国を友人と二人で歩いた
お巡りさんが飛んできて、事情を説明したら、早くやって帰りなさいと言われる

問題がいろいろ出てきた  ロンドンはやりやすかった(頭が自由) ドイツはどういう意味なのだと言ってきたりするが、一番やりにくいのは日本 なんか変な人がいるみたいよ、ああいうの触っちゃだめよと言われてしまう
コミュニケーションをしたかったのではあるが
人間とのかかわりの方が面白いと思うので、
パンをやってみたが、ヨーロッパは文化のシンボルだと思った
200回か300回、世界中でやっている
最初恥ずかしかったが、4,5年前に感じた アートのしがらみ、頭の中に観念的なものがあるが、顔にパンを付けることによって、そういう観念が全部私の頭から無くなった

頭の中のがちがちの観念的なものが全部捨てられた
新しい考え方が生まれた 
今まで計画的に生きてこなかったので、日本に帰ってきて、両親と住んで、父親が亡くなり、母親が認知症になり始めて、どうするか考えていたが、母親の生活自体をアートにしてもいいのではないかと考えた
段ボールで作った大きな靴を母親にはかせて、外のマンホールの上で写真に撮った
母親は貧乏だったので、子供のころはゴム靴をはいていたが、靴の前がぱかぱか空いてしまって、恥ずかしい思いをした
と言う事で段ボールで大きな靴を作って「ちいさな母と大きな靴」と言う作品になる

問題意識がどのくらいあるか、というのが良いといわれる
イタリアのベネテュアで大好評だった
介護を楽しくやっている状況に共感される
油絵を狭い部屋で書いていたら、父親が臭い臭いと言っていたのを聞いて、母親は4畳半の部屋を借りてくれたりして、決して美術は止めてくれとは言わなかった
偉大な芸術家も一人でやってきたわけではない(ゴッホしかり)
私の母親が居てくれたから、今の自分がある

秋田県の介護施設で活性化しようという試み NHK人間ドキュメントで取り上げられる
1週間泊って、気持ちを通わせ会おうと言う事で、パフォーマンスアートをやってみた
殻ににとじこもっていたひとが、段々心を開いてきて、段ボールで作った靴で一緒に履いたりしてくれた
認知症の人に薬ではなく、刺激を与える
写真、ビデオ、パフォーマンスをやったり、ドローイングをやったりするが、 人間にかかわってずーっとやっていこうと思っている
日本で発表したいが、外国の方が引き合いがある