2013年8月15日木曜日

島利栄子(代表)         ・女性の日記が伝える 昭和史 2

島利栄子(女性の日記から学ぶ会代表)  女性の日記が伝える 昭和史 2
昭和の初めからラジオ店でラジオが日本全国に普及してゆく様を、日記にもつづっていた
吉田徳子さんは 岡山県瀬戸内市 明治24年生まれ 明治末女学校を出て、教員をして、ラジオが出てきたら、すぐに着目してご夫妻でラジオ商になり、戦争中も記録をし、戦後は婦人会長になり、村会議員になり、昭和49年に83歳で亡くなられた女性
日記は15歳からずーと亡くなるまで、書き続けたものがありました
息子さんが寄贈して下さった  62冊 + いろいろな資料、写真
1日の分量が100字~150字くらいの物

日記は市販されていたもの  明治40年2月3日から書き始める
最初の1冊目から3冊目は 和紙で綴じて、筆で書いたもの
私たちの会が出来て間もないころに、全国紙に会の内容が紹介されて、それを見た吉田徳子さんの息子さんが、母の日記があるけれども、自分も高齢になっているので、差し上げますとのことですぐに送ってきてくれた
初めから読みにくいものなので、原稿用紙に書いていった
段々古文書読みの男性が3人4人と助けてくださって、書き写しが進んでいった
明治時代はいろんな言葉が豊富に残っていたと聞いていた
異体字 変体仮名 こむら?  漢字も旧仮名使い 方言も出てくるので、読めても意味が解らないとか、いろいろと苦労しました

昭和20年までしかやっていないが、書き写し作業に13年かかった
面白いと思うところを選んで、そこに解説をつけたりして、2年かかり 15年間かかり、昨年本が1冊出来ました
「時代を駆ける吉田徳子日記」 1907年~1945年までの物 660ページ
沢山の人には買っていただけないので、篤志家に応援してもらって、440人以上の方にカンパをしていただいて、世に出すことができた
昭和とラジオ ラジオと共に生きた記録だと思い、着目した
ラジオ放送が行われたのが、大正14年7月12日   日記にラジオのことが出てくるのが7月14日  2日後にラジオのことが書かれている  
「アンテナラジオの取り付けし、を見る」 とでてくる

「9月5日 ラジオの放送を学校にて聞く日にて、割合よく聞こえたり」
学校でも聞こうとしていた
11月6日、その後頻繁にラジオのことが出てくる
田舎の町でドンドンラジオ熱が高まってくることが、伺える
吉田徳子さんは知識欲の旺盛な人だったと思われる
当時は学校の先生の初任給が50円と言われた時代に、賞金10円を得たことが日記に記載されていた
賞金10円の件で国会図書館等に行って、調べた  大正15年5月号に投書が載っていた
「ラジオのおかげで一家団欒の楽しみ」という題名 岡山、 幸子(匿名)投稿 内容を調べたら徳子さんだった
夫は先生だったが、胸を患っており、休職中で、ラジオは500円かかっていたが、段々と安くなりこの当時は100円で、組み立てるともっと安くなり、夫が組み立てて、聞けるようになり本当に楽しく、ラジオは非常にいいものだと、書いている

一番彼女が興味を持って聞いていたのは、スポーツの実況放送
昭和2年 甲子園で中等学校の野球大会の実況放送が始まったが、その日に面白かったと書いている(8月18日)
昭和3年相撲の実況放送も始まる
昭和4年に教師をやめて、ラジオ商になることにして、昭和5年に開店する
昭和5年12月14日 岡山後楽園に集うもの143名あり 列を作りて放送局に行き、ガス会社、電話交換局等を視察して得るところ多大なり
143名はラジオ店を開くことを希望した人達
初めのころは蓄電池式ラジオ その後昭和5年には交流式ラジオ(エリミナーター)になり、凄く伸びたみたいだそうです

ラジオの売り上げがドンドン上がることが書かれている
子供、高校生も沢山聞きに来る様子も書かれている
300万台突破記念、500万台突破記念と言う言葉が書かれている
満州事変の臨時ニュースの事が書かれている 
昭和16年12月8日 「午前7時臨時ニュースあり  英米軍の交戦状態にいりたる由
広報あり さっそく表に掲示すべく大書す」
翌日から1週間、ラジオの修理と購入のために一杯の人が来客 ラジオが売り切れ
空襲警報の発令 ラジオからの放送があり命の綱みたいなものだった

昭和20年8月15日 「正午 重大放送があるとのことに、日ソ参戦布告か講和あるかと想像しあう  工場より工員たち、整列して聞きに来る 
大陛下の玉音にて、和を求めたもう由 勅有りたり」
6日、9日の原爆投下のことに関しては、書いていない
その時点では、原子爆弾と言う言葉は使われてなかった
岡山の教育委員会お招きいただき、「吉田徳子日記お里帰り展及び講演会」 開催

普通の人たちが思ったことを刻々と、刻みつけた足跡は、歴史にとって本当に大事ななまの声だと思うので、大切にしていかなければいけないと思って居るので、活動をコツコツと続けていきたいと思っている