2022年12月1日木曜日

山縣健志(苔アート作家)        ・苔の魅力をアート作品に込めて

 山縣健志(苔アート作家)        ・苔の魅力をアート作品に込めて

独自に特殊加工を施した水やり不要の苔を開発し、苔をガラスの器に植える苔テラリュウムや額縁の中に苔を植えるアート作品などを創作しています。  2018年に苔アート協会を設立したあと、地元の茨城県北茨城市にギャラリーを開設、昨年の11月には国立新美術館で行われた21世紀アートボーダレス展にて最優秀グランドグランプリ賞を受賞しました。   海外でも苔アート作品が注目されています。  

 ギャラリーには廃材が使われています。  苔蒸した森に迷い込んだような雰囲気です。  高さ1mぐらいのオブジェ、苔と砂利で水辺が表現されている。  中央に河童がいます。  苔テラリュウムアートと言いまして、白い部分は滝をイメージしています。   滝つぼのところで河童が釣りをしているというイメージの作品です。   台はバリ島から古木を持ってきて彫って寝かせて4,5年経った後のものです。  

横1.5m×縦1mの壁掛けタイプの絵画のような作品、色とりどりの数種類の苔が配置されている。  約10種類の苔を使っていて、通常は数種類を使っています。 川をイメージして作った作品です。  フレームはコーヒーの木を使っています。  ジャワ島の古木です。   小さい作品は5cmぐらいのものもあります。   苔の魅力は緑色なので癒されます。

山から新鮮な苔だけを厳選して持ってきて、特殊保存加工を施して水やりの必要のない苔を使って作品を作ります。   成長しないし、枯れることもありません。  柔らかさもあります。  水をやっては駄目です。  直射日光は避けることが必要です。   

アートとして海外に進出したい、美術館に提示したいという思いがあります。   苔と石と流木を使って作品にしています。  色の出し方、配置が一番難しいです。  

今もツアーコンダクターをしていますが、もともと緑色が好きで、高校生の修学旅行で京都の苔寺に行った時に、みずみずしさが何とも言えなくて感動しました。   5,6年前に一軒家(東京に人が別荘として使っていた。)を購入して、木が生い茂っていて伐採して、石はそのままにしておいた方がいいと言われて、石を基に苔庭を作ってみたいと思いました。 滝があり川の流れがある(水は流さない)苔の庭を1年半ぐらいかけて作り上げました。  ライトアップして、楽しんでいるうちに、苔テラリュウムの番組をたまたま見て、吃驚しました。  苔テラリュウムをやってみたいと思いました。  協力し合えればできると思って、2018年に苔アート協会を設立しました。  苔の材料集めをするために山林の所有者と交渉をして、無料で使わせていただくことになりました。  苔の勉強もしました。  

苔は4億5,6千年前から地球に現れたと言われています。  自分の祖先だと思っています。   枯れない苔が出来ないものかと思って、特殊保存加工を1年半かけて開発しました。   小学校のころから物つくりが好きでした。  額とかもすべて手作りでやっています。   ギャラリーはまだ未完成で壁なども苔で覆って、ギャラリーそのものを作品にしたいです。    苔のカフェと言った空間が出来ればいいかなと思っています。    苔の乱獲だけは絶対にやってほしくないです。(許可を得た採取)  

   

2022年11月30日水曜日

鎌田敏夫(脚本家・小説家)         ・ヒットドラマを生み出す秘けつ

 鎌田敏夫(脚本家・小説家)          ・ヒットドラマを生み出す秘けつ

1937年徳島県生まれ。 早稲田大学卒業後シナリオ研究所で学び、脚本家の井手俊郎さんに弟子入りします。  1972年飛び出せ!青春』の脚本でデビュー、俺たちの旅』シリーズ、金曜日の妻たちへ』、男女7人夏物語』などの大ヒットドラマの脚本を担当しました。    又『戦国自衛隊』『里見八犬伝』などの映画の脚本なども手掛けています。  1994年ドラマ29歳のクリスマスの脚本で芸術選奨文部大臣賞、第13回向田邦子賞受賞。  NHKでは大河ドラマ武蔵 MUSASHI』や『逃げる女』などを手掛けています。  

アメリカでは歳の話は全く出てこない。  他人の歳は気にしないようにしています。  他人の歳を気にしなければ自分の歳は気にならない。   「マヌエラ」の脚本を書き終わったところです。   ダンスは好きです。  戦前にSKDにいたマヌエラさんが上海に駆け落ちする。  国籍不明の大人気ダンサーになったというストーリー。  元宝塚の珠城りょうさんが主演を演じます。  歌とダンスは芸能の原点だと思っています。   未開なところに行っても必ず歌とダンスは有ります。   

徳島県の農家でした。  農家での経験が今になっています。  小学校3,4年生のころ、農家では共同作業で昼頃には終わって一杯飲んでいて、エッチな話をしているわけです。 「金妻」などの原点はそこに有ると思っています。  何十年も経ってあの時の風景だと思ってやるわけです。  就職口がなく、食うために脚本家の道に進みました。   脚本家になったらたまたま食えたという感じです。   シナリオ研究所で学び、卒業制作が初めての脚本でした。  脚本家の井手俊郎さんに弟子入りし6年いました。井手さんの「これが青春だ」にいれてもらいました。  フリーライターとして飛び出せ!青春』がデビュー作となりました。  それまで青春ものは、根性ものでした。  それを辞めようと思いました。  俺たちの旅』シリーズになって行きました。  青春の頃って切ないんですね。  いろんなものを引きずったものがありましたから。   テレビでは結果的に数字が出ますが、気にしてもしょうがないですね。  たまたま視聴者にヒットしたら、当たるというか時代にヒットする。   一番大事なのはキャラクターです。  その一つが視聴者に対して面白い。  時代にあっている。   自分の中の何かと合っている。  この三つないとキャラクターがつっかえる。  

29歳のクリスマス』  時代を読むのではなく、時代のなかにいるという気がしますが。  女性が責任を持たされるようになった。   いろいろ難しい問題もかぶさって来る。  偶然周りに助けられてヒットする気がします。   

NHKでやった『逃げる女』 女性たちは個性的に強かった、強さの質が違うような気がしましたが、やはり芯が強い女性ですね。   スタッフ、周りなどとは会社と違って上下関係がないから、ちゃんと平面で話し合わないといけない、それが一番大事だと思います。  この人に出会わなかったら、という人は4,5人ですがいますね。  その人たちに出会えたことが凄くよかったと思います。   連続ドラマで締め切りがあるというのは大変です。  掛け持ちはしたことはないです、仕事にしたくないから。  楽しくやっているという事は伝わりますよ。  過去の作品とおなじようなことは書きたくない。   今でも手探りでやっているので、ドラマって判らないです。  ドラマの中で、自分の不幸は自分のせいだと思って生きている人が多いから、強いかもしれないです。

 

2022年11月29日火曜日

伊勢崎賢治(東京外国語大学大学院教授)  ・トランペットに託す世界平和の願い

 伊勢崎賢治(東京外国語大学大学院教授)  ・トランペットに託す世界平和の願い

長年国連などの平和維持活動に携わってきました。  武装解除、内戦の終結、開発援助など身の危険と隣り合わせの仕事の連続だったと言います。  そんな伊勢崎さんに平穏な日々が訪れようとしています。  大学の定年退官を機に子供のころからの念願だったプロのトランペッターとしてジャズバーなどでのライブ活動に専念できるのです。  伊勢崎さんはトランペットにどんな平和への思いを込めるのか、世界平和活動に従事する若い人たちにどんなメッセージを託すのか伺いました。

子供のころから絵が得意でした。 音楽は得意ではなかったです。   或る日映画の「ベニーグットマン物語」を見ました。(小学校中学年)    ハリー・ジェイムスというトランペッターがいて聞いた時にこれは凄いと思いました。  先生からは美術を目指すように言われましたが、建築家を目指しました。  早稲田大学理工学部建築学科に入りました。    自分が貧しかったのでどうしても貧しい人たちに目が行ってしまいます。  自分がやっている建築は貧しい人たちの役に立つのだろうかと、どうしても考えてしまいます。  

早稲田大学大学院理工学研究科入学に専攻は都市計画でした。  アジアのスラム、代表例がインドにはいっぱいあって、ここに行きたいと思って、行動社会学を学びたいと思って、インド国立ボンベイ大学大学院社会科学研究科に行く事になりました。  スラム街に住む人々の居住権利を守るという事に直面しました。  行動社会学はそういう人たちを横に繋いで大きな政治力にする、非武装、非暴力が基本です。   団体交渉するとか、実践する羽目になりました。  アジアで一番でかいスラムで人口100万人ぐらいです。   僕らのテクニックは共通の問題を解決しようという事です。  公安に目をつけられて4年半いましたが、最後にはビザを取り消しされ強制送還されてしまいました。   

社会問題を考えると地球上どこへ行っても同じなんですね。   その後、アフリカ、中東にも行きました。  国際NGO「プラン・インターナショナル」に応募して就職しました。 シエラレオネ(西アフリカ)に赴任しました。   黄熱病、マラリアがあり、政情不安定です。  仕事の内容は開発援助です。  人口400万人ぐらいで世界最貧国です。 人口の97%が零細農家で、農村開発に行きました。   世界最貧国の指標として、一番大きな指標が幼児死亡率ですが、世界でトップです。   子供を死なさないようにして行く再建プロジェクトです。  お母さん方を中心にして、プロジェクトを行う事にしました。  農業組合を作り、機械化、農地の集約化、病院、診療所、小学校も作りました。  この国の小学校の1/3(200校ぐらい)は僕らが作りました。  死亡率は下がりました。    赴任した2年目から内戦が起きました。(一党独裁、腐敗など)  最後まで頑張ったんですが、帰国せざるを得ませんでした。  

ケニアエチオピア赴任し、アフリカでは10年仕事をしました。   政策を提言するシンクタンクに雇われ中東和平などに関わりました。   外務省から東ティモールにいってくれないかと言われました。  独立しそうなので、国連が政府に替わって、暫定政府の県知事の一人として赴任してほしいという事でした。  破壊されていて、ゼロからのスタートという感じでした。  インフラの再建も大事ですがもっと大切なのは政治、行政を作らないといけない。  東ティモールの独立に反対する勢力もいて、武力で執拗に抵抗するわけで治安も悪くなる。  PKOの部隊も僕の指揮下にありました。  文民統治のトップが僕でした。  

シエラレオネにまた戻りました。 内戦は10年間続いてひどい状態になっていました。  8,9年あたりで放っておけなくなって、国連の平和維持活動が始まり、内戦を終結させるために行ってほしいと、国連から言われました。   病院、診療所、小学校も作りましたが、全部破壊されていました。    子供たちのその後の人生は大きく二つの流れがあり、一つは戦争の犠牲になり、もう一つは少年兵になってしまった。  それが辛かったです。 少年兵はゲーム感覚で残虐さがエスカレートしてゆきます。   人権教育などしましたが、子供たちは暴力がかっこいいと思ってしまう。   僕の第二の故郷なので、銃を降ろさせる、戦争を辞めさせたいという事で何とか出来ました。 

DDR(Disarmament(武装解除), Demobilization(動員解除), Reintegratio(社会復帰)) 武装解除が一番難しいです。  命令する人たちの交渉をしなけらばいけない。  戦争犯罪を恩赦するというオプションが取られるわけです。  そこまでしないと争いは止められない。  停戦合意違反安なども起きて、そうするとまた我々が行くわけです。  或る時同僚から聞いたジャズにビーンと来てしまいました。  

大学で教える事になりましたが、その後2001年9・11の時にアメリカがタリバン政権を倒してその後どうするかという事で、日本は同盟国なので政府からの要請があり、2週間の約束でアフガニスタンに行きました。  DDRをやるという事で外交官という立場で行う事になりました。  日本からのバックアップもなく、これほど死を意識したことはなかったです。  日本だけ警備体制は全然ありませんでした。  武装していないことをベースに交渉して武装解除に成功しました。   「今度こそ死ぬかも」との思いから休暇で帰った時にトランペットを購入して、アフガニスタンに持って帰って、インターネットのサイトでトランペットの学習を始めました。  

日本に帰ってきて、本格的にやろうと思って3,4人のプロに習いました。(ジャズからクラシックまで)   ジャムセッション(本格的な準備や、予め用意しておいた楽譜、アレンジにとらわれずに、ミュージシャン達が集まって即興的に演奏をすることで2,3軒常連になって、週に3日は夜はやっていました。  自分のライブをやって見ないかと言われて、始める事になりました。  固定客が増えてきて嬉しいです。  自分で曲を作ったりもしています。  20曲ぐらい作りました。  2,3時間は毎日練習をしています。

 現在、東京外国語大学大学院総合国際学研究科国際協力専攻平和構築・紛争予防専修コース(PCS)で平和構築・紛争予防に関することを教えています。  戦争の原因を調べて、戦争が起こる前に予防しなければいけない。   この講座を開講して15年になりますが、紛争している国々から来ていて、卒業生たちは立派に働いています。(各々の政府、人権ジャーナリスト、NGO、その他)  日本人の学部生に対しても講座を開いています。  こちらがたじたじするぐらい、問題意識は凄いです。  今年度で大学を退官します。  


 

2022年11月27日日曜日

河岡義裕(東京大学医科学研究所特任教授)・新型コロナウイルスの征圧を目指す

 河岡義裕(東京大学医科学研究所特任教授)・新型コロナウイルスの征圧を目指す

河岡さんはそれまで不可能だと考えられていたインフルエンザウイルスを人工的に作る技術を世界で初めて開発しました。   その技術は新型インフルエンザの新しいワクチン開発にも生かされています。   現在は新型コロナウイルスについて最前線で研究を行い、ウイルその特性を明らかにし、新たなワクチンの開発を行っています。  河岡さんは先日、医学、生命科学の分野で優れた業績を上げた研究者を表彰する第27回慶応医学賞の受賞者に選ばれました。   日本とアメリカのウィスコンシン大学で研究生活を送る河岡さんに伺いました。

シカゴから車で2時間ちょっと車で行ったところで、アメリカの真ん中あたりにいます。   1997年から ウィスコンシン大学マディソン校 の教授をしています。   1999年から 東京大学医科学研究所 細菌感染研究 教授としても務めています。  昨年から国立国際医療研究センター研究所 国際ウイルス感染症研究センター長も務めています。 

子供のころは通信簿に落ち着きがないと書かれていました。  動物が好きでした。  中学のころ、ペットショップから鳩の卵なら安く仕入れられるので、それをふ化させて多い時には15羽ぐらいいました。  家に戻るためのトレーニングをして、自転車、電車に乗ってやっていました。 勉強は人並みにはやっていました。   最初大阪大学の工学部を目指しましたが、高校に行って数学が出来ないことに気づいて、生物系に行こうと思って北海道大学獣医学部に行きました。  高校時代は1年の最初の試験では450人いて、後ろから数えて25番目でした。  受験勉強で優秀でなくても、いろんな方法でいい仕事を残すことはいくらでもできます。    獣医学部に入ってよかったのは、人を特別に見るという事はなかったので、今の職業ではよかったのかなあと思います。   卒業して修士課程に行きました。    実験が凄くおもしろかったです。   その後鳥取大学農学部の助手になりました。    3年半いて、その後アメリカに行きました。  

最初1年で帰る予定でしたが2年となり、研究室のグループのポジションが空いたので、残らないかと言われて、残ることにしました。  インフルエンザウイルスの研究者のロバート・ウェブスター教授と出会う事になりました。  彼はとっても良い先生でインフルエンザウイルスの事、日常生活でもいろいろ助けていただきました。   

1999年に世界で初めてインフルエンザウイルの人工合成に成功。  当時とっても難しいと思われていました。   インフルエンザウイルスの流れで、一本だけ作る技術を持っている人がドイツから来て、別のプロジェクトでの仕事に2年ぐらいでめどが立って、彼女が昔やっていた一本だけ作る技術を実験室で始めて僕に見せてくれました。    その出来方がとっても効率よくて、工夫すればインフルエンザウイルスを人工合成ができると思いました。  ウイルスの粒子のなかに8本のRNAが入っています。  残りの7種類も作って、大事なのは同時に8種類の異なる遺伝子を,RNAを、ウイルスの粒子の中にいれるという作業です。  担当を決めて一挙に8種類作ることを行いました。   ウイルスの粒子はだいたい100ナノメートル(1/10000mm)。   エイヤとやったらウイルスが出て来ました。 確立してしまうと凄く簡単な技術なんです。  ですから世界中の研究室でどこでもできるんです。

鳥インフルエンザなどのウイルスの病原性をなくす作業をしないといけない。  そこだけを変えたウイルスを人工的に作るんです。  強い病原性のウイルスを、病原性をなくしてワクチン株にする。   それがいま世界中で高病原性のインフルエンザのワクチンとして備蓄されています。  アメリカではインフルエンザの生ワクチンが出来ていて、人には感染するけれども病気を起こさないが免疫をつけるというワクチンですが、これもリバースジェネティクス法によってつくられている。   こういう研究をしていると、FBIなどがチェックに来たりしますが、凄く協力的で情報共有します。

これが出来たのは運だと思っています。   あと熱中するかだと思います。   どんな組織もビジョン設定が重要です。 「SAVE the World 」もそれなんです。  概念があれば何をやるべきか、何をすべきじゃないかと言いう事がおのずと目に見えてくるわけです。  みんなが同じ方向を向くという事が重要です。 そのためのビジョンがとっても重要です。 我々がやっているいう様な事は実際手を動かしてやってみないと判らないことはいっぱいあるんです。  荒井?(新井)先生が「説明がつくからそれが正しいとは限らない」と言っておられました。   これまでの知識から説明がつくが、だからと言って正しいわけではない。  天動説と地動説のように根本がガラッと変わることもありうる。  

2019年12月に新型コロナウイルスに関する情報が入って来ました。   1月中旬に論文が出て、「1月3日に中国の研究者が武漢に行って現地調査をした。」と書いてありました。 見た瞬間にこれは武漢で大流行していると思って、これはパンデミックだと思いました。 日本の薬品メーカーに電話して「ワクチンを作りましょう」、という事を始めました。  政府の予備会議で鎖国だと言ったんですが、当然できなくてその後とんでもない事になって行きました。   2013,4,5年の西アフリカのエボラの流行で現地に行っています。   握手もできず日常生活がガラッと変わりました。   SARS(重症急性呼吸器症候群(SARS: severe acute respiratory syndrome))とかで中国、韓国など経験した国は比較的早めに対応しています。  日本は対応に関していろいろ批判はありますが、対応策としては大成功しているんです。  100万人当たりの死亡者数を見るとアメリカの1/10以下なんです。  日本では感染者が20%程度ですが、海外では80%以上が感染してしまっています。   海外では感染してしまっていて免疫が出来ているからマスクなどもしていません。   日本はマスクをして流行の波ごとに、あと何回かやらないといけない。   

新しい変異株が出てきた時には、それの性質を調べて今までの薬が効くのかどうか、どのようにウイルスは変わっているのか、というのが一つの作業で、後はワクチンを作っています。   日本で作っているとは別の生ワクチンです。  ウイルスの病原性をなくして、だけれども身体の中に入って免疫ができるというワクチンを開発中です。  生ワクチンは自然に感染した免疫と非常によく似ているので感染を防御する免疫ができやすい。  別のワクチンは免疫が出来ましが効果が減衰してゆく。   生ワクチンは本当に病気を起こさないか確認が必要で時間が掛かります。    まず動物に感染させてしっかりデータを取ってます、今その段階です。  1年以内にそれを終えて、人への第一ステージに入って行きます。  第一層、第二相、第三層迄あって、数年以上はかかると思います。   生ワクチンは安く作れるので世界中で使う事が可能です。   ウイルス学は27歳からたまたまやってきて、せっかくやってきたので我々のSAVE the World 」、感染症の克服をやろうという事に行きつきました。  

  

2022年11月26日土曜日

今関あきよし(映画監督)        ・映画制作から考えた、震災後の釜石 ~映画『釜石ラーメン物語』の裏側

今関あきよし(映画監督)        ・映画制作から考えた、震災後の釜石 ~映画したの裏側 

映画『釜石ラーメン物語』が完成しました。  12月3日に地元の釜石で先行上映会が開かれ、来年の春に公開予定です。   メガホンをとったのは映六」で知られる今関あきよし監督です。  東日本大震災後の釜石の架空のラーメン店を舞台にした『釜石ラーメン物語』、どういう映画なのか、どんな思いが込められているのか伺いました。  

最初に釜石に来たのは2014年です。  まだ震災の傷跡が沢山残っている頃から毎年1~4回以上来ています。   先行上映会にちらしがありますが、「麺は細いが絆は太い、湯気の向こうに笑顔咲く『釜石ラーメン物語』人情根性釜石ラーメン奮闘記」と書かれています。   夫婦、お姉さんと妹の4人家族で、ラーメン屋さんをやっています。  お母さんは震災で行方不明になってしまって、お父さんと娘二人で頑張っていましたが、姉が急にいなくなってしまう。  或る日姉が突然帰ってくるが、「こんな店辞めてしまえ。」と言って店を掻きまわし始める。  そこから物語が始まっていろいろあって、この家族が新しい人生、再生をしてゆく物語です。  最後は東北ラーメンの対決という事で、釜石ラーメンが何位にあるのか、家族は再生しるのかといった物語です。ロケは全編釜石です。    小佐野の町の雰囲気が気に入りました。  鉄鋼の街の雰囲気が残っています。  昭和的な感じがしました。   

生まれは1959年  2020年に82歳で亡くなった映画監督大林信彦さんと親交が厚く、今関さん自身23歳で、富田靖子さんの主演映画アイコ十六歳』でプロの監督としてデビューしました。 以来美少女をモチーフとした作品を映画やテレビで発表してきましたが、ここ数年はチェルノブイリ発電所の事故を題材にした映画カリーナの林檎〜チェルノブイリの森〜』をはじめ、ウクライナの伝説の緑のトンネルを舞台にした映画『クレヴァニ、愛のトンネル』、モスクワで全面ロケをしたという『ライカ』に加えて、台湾のグルメや観光スポットを織り交ぜて進むヒューマン映画恋恋豆花』などを監督しています。 

今、ロシア、ウクライナという言葉が出ない日はないと思います。   どちらでも映画を撮っていて友人知人が多いです。  どちらの国も困っています。    若いころはアイドルを撮ってきましたが、ここ10年ぐらいは海外を中心とした国を撮っていて、僕にしかできない視点で、場所からイメージして作るドラマが最近は多いです。    2014年或るきっかけから釜石を見て、震災の傷跡は残っているけれど、街は悲惨な状況であるが、会う人が非常に明るくて、でも悲しい話をしてくれて、こういった方向で映画を撮りたいという思いがあり8年間通い続けてきました。   2年前に、そう言えば来るたびにラーメン食っているなと気づいて、それを映画に結びつけるのには時間が掛かりましたが、人情喜劇みたいなものが出来ないだろうかと思いました。 

釜石ラーメンは琥珀色に透き通った醤油味のスープ、麺は極細のちぢれ麺、程よい腰が特徴。  釜石ラーメンが登場したのは高度経済成長期と言われていて、極細のラーメンは湯で時間が短いので、釜石製鉄所の人、漁師の人がすぐに食べられるようにと工夫した結果、釜石ラーメンになった。  市内には33店舗あります。  無意識に食べてしまうラーメンですね。  昭和テーストが残っています。  食べ物にはドラマがあります。  いしかわ彰脚本家はトータルなあらすじを作り、細かいやってみたいシーンを言って、パズルを組み立ててくれるのが、シナリオライターのいしかわ彰さんです。    生活している人たちのエネルギーみたいなもの、元気なもの、喧嘩したり仲直りしたり、愛情のある喧嘩、そういったものを作りたかった。  

映画化するのに一番大変だったのはコロナですね。  町の協力は全面協力していただきました。古賀町の桜は是非映画に取り入れたいと思いました。(半年伸ばしました。)    釜石の人は火が点くまでには時間が掛かりますが、火が点くと凄い勢いになるということは、一番強く感じました。   方言の指導をしてもらいました。  

釜石に通いながら復興してゆく風景などを見ながら、震災時のことを笑いながら話したりするんです。  そういったことを含めて凄いと思い、人間の強さを感じました。    震災をいい意味でオブラートにくるみながら、ドラマにして、他の震災の映画にない明るさを感じてもらえればいいなあと、前向きさを感じてもらえればいいなあと思います。   人間が人間らしく普通の生活とはどういうものか、再認識しなくてはいけないきっかけになった災害だと思って、家族同士、友達同士の繋がりを含めたことを、又ゼロからもう一回考え直すきっかけになった大変な災害だったと思います。  ”普通のこと”がいかに素晴らしい事なのかという事を再認識させられた大きな災害だったと思います。  90分ぐらいの映画なので始まったら、泣きながら笑いながら一気に観れると思います。    釜石からの映画の発信で、釜石をもっと知っていただきたい。


2022年11月25日金曜日

明和政子(京都大学大学院教授)     ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕 コロナ禍の今、子どもの心の発達を考える

明和政子(京都大学大学院教授)     ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕  コロナ禍の今、子どもの心の発達を考える (初回:2022/7/9)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2022/07/blog-post_9.htmlをご覧ください。

2022年11月24日木曜日

若山満大(東京ステーションギャラリー 学芸員)・【私のアート交遊録】 鉄道と美術の不思議な関係

 若山満大(東京ステーションギャラリー 学芸員)・【私のアート交遊録】  鉄道と美術の不思議な関係

東京ステーションギャラリー で鉄道と美術の150年展が開かれています。  日本に鉄道が敷かれて今年で150年、小学校に美術という言葉がつけられたのもこの年の事です。     鉄道と美術はともに日本の近代化の流れの中で、時に翻弄されながらも共に歩んできました。 美術作品の中には鉄道をモチーフにした作品が数多く残されています。  河鍋暁斎が想像力をフルに発揮して描いた「極楽行きの列車」、田中靖望の「機関車」、鉄道錦絵を数多く描いた三代歌川広重の作品など、そこには鉄道と美術の密接な関係が描き出されています。

明治5年に鉄道が開通してから150年、いろいろな催しが行われています。  東京ステーションギャラリーでは多くのお客様に来ていただいています。  鉄道に纏わるストーリーが語られていて面白いという感想があります。   鉄道は国家事業で美術は個人の営みであり、150年を眺めた時にどんな景色がみられるだろうかという事でこの展覧会が始まりました。  鉄道はいきなり日本にやってきた。   それを知らしめるために絵師がやってきました。  

「鉄道は美術を触発し、美術は鉄道を挑発する」、という文言がありますが、 触発というのはイマジネーションの源泉になったという事で、想像力を掻き立てる起爆剤のような形で、触発するという事で、鉄道は移動する手段になって行くわけですが、一般の人だけではなくて画家もその恩恵を受けていた。  画家の見聞も広がって行って触発した。    挑発は、主に戦後美術をイメージしてつけているんですが、鉄道は自分の表現の舞台として鉄道、駅の空間を考えてゆくという事をし始めたアーティストたちがいて、私たちがイメージする鉄道像を美術家たちはことごとく裏切ってきたり、こういう見方もできるぞと、まさに挑発してきている。  

鉄道の絵がずらーっと並ぶのはつまらないと思いました。  鉄道を別の角度から見たりして、改めて考えたかった。   バリエーションの豊かさに驚かされています。  計画段階から言うと5年間になります。    作品を収集してゆく段階で、作品たちが「お前たちは何を読み解けるんだ、どんな情報を我々から読みだすんだ。」というように試されている感じがしました。   

河鍋暁斎の「極楽行きの列車」 汽車というものを観たかどうかわからないが描いた作品。 14歳で亡くなった少女がいたが、その父親が供養のために依頼して描いた作品。  「地獄極楽めぐり図」という中の一場面。  画面左には雲に乗って天女がお迎えに来ている。 霊柩車(賑やかそうな感じ)に車輪がついたような汽車が走っている。  極楽来迎図に似ている感じです。 

三代歌川広重の「横浜海岸鉄道蒸気車図」  明治7年制作と言われている。   画面右手から現れる蒸気機関車が描かれていて、向こうには海が広がっていてそこには沢山蒸気船が浮かんでいて万国旗はためいている。 文明開化を象徴するような浮世絵になっている。  

勝海舟の絵もあります。  勝海舟が天皇に鉄道のことを説明するのに描いた図と言われています。  かわいらしい絵です。  汽車を非常に奥行を持ったカーブを描くような描き方になっている。    墨で描かれていて筆の運びがこなれた感じです。

1931年の作品、岩佐保雄さんが撮った写真、「踏切を守る母子」。   昔は踏切は手動で、遮断機が下がったことを機関士に白旗を振って知らせていた。  踏切番は過酷で昼夜を問わずやって居なくてはいけなかった。  夫が踏切番をやっていると妻も子も手伝わなくてはいけなかった。   左手で着物のたもとで口を覆っていて、右手で白旗を振っている。  子供が母親に寄り添っている。  

淵上 白陽の「列車驀進」、山鹿清華は染色作家の「驀進」、田中靖望の「機関車」などものすごい勢いの列車です。  満洲を走ったの鉄道をモチーフにした作品です。  1930年代に作られた作品です。    「アジア号」という特急列車を走らせていた。  躍進する日本の象徴でもあったわけで黒光りする巨大な躯体を撮っていたわけすが、日本が領土を拡張してゆく中で虐げられた人もいたんだという事を覆い隠してしまうような怖さがあります。   

山手線事件、日本の前衛美術を語るうえでは欠かせないパフォーマンスを撮った写真がありますが、それが展示されています。  山手線に突然白塗りの顔で乗り込んでいって、自分たちの通ったオブジェを吊革に吊るして懐中電灯で照らして眺めるという意味不明なパフォーマンスをする。  乗客たちはぎょっとした顔で見ている。 そういったものが写真作品として残っている。  整然とした都市になって行く中で、人間が持っている複雑さ、社会が持っているべき複雑性が失われていませんかというようなことを前衛美術家たちは奇抜なパフォーマンスを通じて問いかけていきました。

佐藤照雄さんの「地下道の眠り」 横になって眠る人たちが延々と描かれている作品。  上野駅の地下道に眠っている人たちを描いている。  我々は鉄道史として考えました。 自分たちが知らなかった鉄道の表情に思いを巡らしてほしいと思いました。  リニアを扱った美術作品はないのでありませんが、鉄道200周年にはそういった作品も並ぶのではないかと思います。  私は大正期から昭和戦前期の日本の写真の事とかが関心対象になっています。   私のお勧めの一点は富山治夫さんの「過密」という写真作品です。   路面電車を待っている人たちがホームに寿司詰めに立っている、その横を女性がぴょんと飛び出していてそこの群れには居たくないというような構図になっている。  1964年に発表された作品ですが、通勤地獄と言われていた時代で、その世相を写真一枚で見事に切り取った作品です。  

2022年11月23日水曜日

山下智道(野草研究家)         ・【心に花を咲かせて】 令和の牧野富太郎を目指す"ハーブ王子"

 山下智道(野草研究家) ・【心に花を咲かせて】  令和の牧野富太郎を目指す"ハーブ王子"

山下さんはまだ33歳ですが、植物への知識は驚くほどで植物の名前や分類が判るだけではなくて、どうやって料理すれば美味しいか、どんな歴史があるかなど、ワークショップやブログで伝えて、その内容が魅力的だと、全国あちこちから講演してほしい、観察会をしてほしいと呼ばれています。   植物愛と知識量は令和版牧野富太郎だということです。  プロフィールを見てみますとシンガーソングライター、モデル、植物学を専門的に学んだという事はないようです。  どうやってその知識を身に付けたのでしょうか。  

今から8年前ぐらいに"ハーブ王子"と自分で決めました。   もともと歌手とかモデルをやっていて、イケメンボーイズコレクションがあって準グランプリになって、〇〇王子が流行った時代でなんか付けたらいいと言われて、ハーブにしようと思って決めました。(24,5歳)   名乗ったからには勉強しないといけないと思いましたが、勉強する前から植物の名前ぐらいは知っていました。  歌手になりたくて福岡から18歳で出てきたんですが、芽が出なくて24歳ごろに母親からもう帰ってくるように言われました。   モデルは業界とのコネクションを作るためにやっていました。    何とかしないといけないと思って"ハーブ王子"と付けたんですが、フェースブックに植物の事、それに関わる料理のレシピなどを投稿すると評判が良かったです。   

ハーブの検定、山菜の検定とかあり勉強していって、"ハーブ王子"という名前の方から広まっていきました。   最初図鑑、文献を見ながら勉強して、専門家に会いに行くという事も好きで、識別の難しいものは直接持って行って、質問攻めでした。  横浜の方に植物の同好会、研究会があって学者も集まってくるので、判らないものを書きこんで積み重ねて行ったのがもとになっています。  家でもそれ以外のところでもずーっと勉強していました。  3,4歳から植物に興味を持ちました。  お年玉の替わりに万作とか蝋梅とか苗木を買ってもらいました。  30、40株買ってもらいました。  栽培が好きです。   思春期には男性がやるものではないというような見方をされるので、こっそりやっていました。   生け花の先生と祖父(漢方の先生)の影響が大きかったです。  漢方の薬草の本がずらりとあり、常にドクダミとか薬草が身近にありました。  土日は祖父と庭いじりするのが日課でした。   父親が登山家で高山植物のツアーなどでは先生が同行していて、父と一緒に行って質問攻めしていました。   

15歳の時に英語の授業が入って来て、カーペンターズ、ビートルズなど流してくれて、心ちいい歌に魅了されました。   自分で声を出して歌う事に感激して歌手になりたいと思いました。   ボイストレーニングに通い始めて、植物とはかけ離れていきました。   或る先生のフィールドワークに参加した時に、聞いているとほとんど判ると思いました。 25歳の時には又植物に戻ってしまいました。    歌とは違う楽しさがあります。   ライブは距離感がありますが、観察会ではガイドとお客さんとは直ですから、温度感が凄く判り易いです。  

どういう風に食べれるように改良していったのかとか、こういう風に合わせると物凄くおいしくなるかとか、話すと喜ばれます。  猫じゃらしは食べるイメージはないが、実は食べれるというギャップがあると、参加者は盛り上がるわけです。  ケーキの表面にコーティングしてやるとゴマみたいに粒感が味わえるし甘いです。  海外での食べ方なども勉強すると同じ食材でも説明の幅が広がっていきます。    植物の世界、死ぬまでこれでやって行こうと決めました。  本を出したいと思ったら編集部の方から声が掛かったり、やりたいと思う事がいろいろ実現していきました。   テレビに出るのも目標でしたが、意外と早かったです。   そこでさらに広がって行きました。  25歳でワークショップを立ち上げました。  

葉っぱを持ってきて、「食べてもいいですか」と言ってきますが、それは怖いです。   全体を持ってきてくれとは言いますが、責任を感じます。   食べる時の注意点はうるさく言っています。   植物は生で見ないと絶対駄目ですね。   香りで識別するタイプもありますし。  イネ科、笹、竹とか地味な植物が好きです。  蘭科などはまだまだ勉強したいと思います。  自生がなくなってきているし、生で見ないと自信がつかない。  ヨモギを今研究していて、世界で350種類ぐらいあって、日本では50種類ぐらいあります。  ヨモギは分布が狭いですし、専門の研究者もいないです。  識別の検索表を作っています。   全国を回れるようになってきて、キイチゴも面白いと思っています。   50種類ぐらいあって、地域によって違った固有種があります。  味、糖度も違います。唐辛子も種類が多くやりたくて、原種が中南米で、そこから広がって行っています。   歴史がかなり重要になって来ます。  世界史、日本史は植物学に絶対大事です。     

やる事が膨大なので人生逆算して順番を決めています。   牧野富太郎は尊敬しています。  植物に対する思い、考え方が凄いと思います。   日本の植物を全部網羅した本を書きたいです。  植物の好きな人を増やしてゆく窓口として伝えてゆくというのが自分の役目かなあとは思っています。  植物には小さな感動があり、日々の生活に色どりが増すと思います。   


2022年11月22日火曜日

山本學(俳優)             ・〔出会いの宝箱〕

山本學(俳優)             ・〔出会いの宝箱〕 

昭和12年(1937年)生まれ、85歳。   昭和33年にテレビデビューしました。  以来、テレビ、映画、舞台で存在感のある役を演じ続けています。  

NHKの「大奥」という番組に出演する準備段階で、お坊さんの役です。  綱吉が犬公方と言われるきっかけに絡んでいたようです。  以前高橋是清の役をやった時にはメイクに5時間かかったこともありました。   

父親は建築家の山本勝巳で青春時代は松山で過ごしました。 父親の兄弟は5人で女が2人で男が3人で、農学博士と父が設計屋で3番目が映画監督でした。  松山中学は色々な文芸活動が盛んでした。   演劇文芸の「楽天」という回覧雑誌があって、中村草田郎、伊丹万作、伊藤大輔、父などのグループがあったらしいです。  伊丹万作の息子が伊丹十三さんです。  叔父は山本薩夫と言いますが、そのグループの影響を受けて後に映画監督になりました。   私の兄弟も3人とも役者になっていますし、妹も役者をやっていました。    岸田劉生(麗子立像が有名)に憧れて、伊丹万作さんは油絵をやっていました。  父も絵をやりたかったようです。  それで東京に出て来ました。  僕も子供のころ絵を描かされていました。   一時期墨絵をやりましたが辞めました。  父の兄は東京帝大を出て農学博士となり米の研究をしていました。   長岡の農事試験場がありましたが、そこの場長をやっていました。  父が死ぬ間際に描いた絵がありましたが、どこにあるのか判らないですが、観た時には感心しました。  その絵を供えてお葬式をしたことは覚えていましが、その後何処へ行ったのか判らない。  その絵はレンブラントのような雰囲気を感じました。 

中村草田郎さんとは親子二代での付き合いがありました。   中村草田郎さんは成蹊高校の国文の先生をやっていて、高校2,3年で先生の授業を受けました。(父とのつながりは知りませんでした。)   父の友人たちがうちに来てよくお酒を飲んでいて、僕はお燗番をしていました。(小、中学校時代)  そこに中村草田郎さんも見えていたようです。 中村草田郎先生は凄く低姿勢な先生でした。  僕は授業中はほかの本をよく読んでいました。  「降る雪や明治は遠くなりにけり」という俳句は中村草田郎さんの俳句です。  先生が東大のころ雪が降る青山の小学校に行っていて、昔を思いだして、30歳ごろ作ったようです。  中村草田郎さんが「妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る」という句を詠んでいるという事に吃驚しました。 ( 鼻息荒く、砂利を踏み鳴らして、妻を目ざして帰っている。 他にも妻に対する句がいくつもあるようです。  

伊丹万作さんの息子が伊丹十三さんで、俳優として共演をしたことがあります。  昭和40年に毎日放送「源氏物語」、NGが90回以上でた女優さんもあった様でした。  2日間で寝るのが4,5時間で撮った作品です。  光源氏が伊丹さんで、僕は頭中将という彼の友達の役です。  市川崑さんがこのテレビドラマの監督をしていました。  その後伊丹十三さんは「天皇の世紀」でディレクターをやって、僕は勝海舟の役をやって凄く長いセリフをやらされたことがありました。   彼が映画をやるようになってからは、僕も芝居で忙しくて付き合いがなくなってしまいました。  彼の息子も俳優で話しかけたことがありましたが、父親のことは話に乗らなかったですが、親子三代かかわったわけです。     

たまたま代々木の飯屋で隣の人が岸田劉生の孫だと言うので、吃驚して不思議な縁を感じました。  

宮沢賢治は読む詩人かなあと思う程、読むことの難しい詩が多いです。  農民の生活に深く関わっていたし、米作りには雨と風と太陽がすべて、カタカナで書かれていて、一言一言をポキポキきっちり読むのかなあと思って読みました。

朗読:山本學

「雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ                                   ワタシハナリタイ」

  

2022年11月21日月曜日

馬野正基(能楽師シテ方)        ・〔にっぽんの音〕

 馬野正基(能楽師シテ方)        ・〔にっぽんの音〕

能楽自体は分業制になっています。  登場人物はシテ(主役)、ワキ(シテの相手役)、ツレ(シテ、ワキの助演者) 地謡(じうたい オペラでのバックコーラスに当たる)があるが、地謡とワキがかなりお能を作っている部分が多い。  後見は先輩とか師匠が後ろに座っている。(シテ方の役割) 四拍子は笛 (→能管 ) ,小鼓,大鼓,太鼓 これがお囃子方。  ワキ方は必ずワキばかりやります。(ワキ方に生まれたらワキ方ばっかりやる)    狂言方も一緒に能を作るので、間狂言(あいきょうげん)と言って幕と幕の間に、間語り(あいがたり)と言って曲のあらすじを説明したり、通行人みたいな形で出てきたりして、昔は一座を組んで動いていたことがほとんどでした。(役を分業していた。)   シテ方、ワキ方、狂言方、囃子方の4つで能という演劇を形成していた。   

馬野正基さんは1965年生まれ、京都上京区の出身。  父親は観世流シテ方馬野義男さん。2歳で「老松」で初舞台を踏み、7歳の時に猩々(しょうじょう)」にて初シテ(主役)を務める。   初舞台では嫡子が生まれましたというような顔見世のようなものです。  芸歴では55年になりベテランの部類です。  80歳ぐらいで元気に舞台に立たれている方もいます。  最高齢は92歳です。   ちょっと見にはあまり動いていないようですが、実は結構体力、精神力を消耗します。   父は77歳で引退しましたが、あまりあがらってしまうと散り際が良くない。  美しく散りたいが散り際が難しい。  

演目が次から次に変わって結構ハードです。  鉄は熱いうちに打てと言いますが、若いころ一生懸命稽古してよかったと思います。  父にも師匠にも厳しく育てられて感謝しています。  能の魅力はどこに自分の美学を置くか、視覚的な事か、聴覚的な事か、どちらでもいいが、あの世からもこの世からも交信?が出来る、天上界からも地獄界からも交信?がある、何百年も前に死んだ人も出てくれば、今生きている人間が今生きている人間として演じます、時空を越えられるその先に、一人で持てる、自分自身が持てるコスモがある、小宇宙がある、そういうものの中に自分を置いてみることもできる演芸、演劇です。  視覚的、聴覚的、物語性が揃っている舞台演劇だと思います。  

趣味は釣りです。 能との共通性は集中力です。   普段は能のことをついつい考えてしまいますが、釣りの時には一切考えない。(offに成れる。)  能面の収集は子供のころから好きでした。  早笛という出囃子が好きで、早笛と強い鬼の能が好きで、その時の能面に物凄く興味を引かれ(小学校低学年のころ)ました。  高校生のころ奈良に行った時に古美術商で見た能面が絶対良いもの(江戸時代中期のもの)だと思って、有り金全部出して手付金として渡して、明日絶対持ってくると言って購入しました。 (半額以下程度で購入)   今でもその能面は使っています。    おじいさんの顔をした能面を面(じょうめん)と言います。  ちょっと微笑んでいる面、もともとは在原業平が歳を取った顔だと言われる。  笑尉(わらいじょう)は平家の落ち武者が主役になる、修羅物には笑尉とか朝倉尉を使います。  その化身として、職業人として歳老いた男の時には大抵面を使います。  集めた数は古いものだけでも60面あります。  新面を入れると100は越えています。   全曲をフルカバーできます。  増阿弥ぞうあみ)が制作した能面で女神様、ちょっと物憂げで「泣増(なきぞう)」と言います。  「定家(ていか)」、「野宮(ののみや)」などいろんなものに使います。  

能装束はシテのセンスだったり師匠のセンスだったりします。   面(おもて)というのは物凄く表情が出ます。 一寸上向き、下向きで笑って見えたり泣いて見えたり、繊細な角度の違いで変って見え、見る上での楽しみにもなります。  面(おもて)に角度をつけるために面当てを入れています。 mm単位です。  能楽は文語調なので古文の世界なので平安時代の宮中の言葉だったり、和歌の世界も沢山入っている。  能は平たく言えばヒューマンドラマなんです。   

大蔵:狂言も御家によって凄く違います。  「五家狂言会」などやっています。 お互いの芸を認め合うとか、勉強会をやっています。  

12月25日に第8回「花乃公案」を行います。 安宅』(あたか) 義経主従が奥州に落ちる途中、安宅の関で関守富樫某富樫泰家とされる)にとめられ、弁慶が偽りの勧進帳を読んでその場を逃れた逸話を描く。  弁慶がシテで主役をやります。  義経がワキ方です。  

日本の音とは「(うたい)」です。  他の芸能にも影響を及ぼしています。      原稿曲が210数曲あってまだやりたい曲がわんさかあります。  老女物、「卒塔婆小町」、「姨捨」「檜垣(ひがき)」など歳を取った小野小町役、散り際の小野小町をやりたいです。  これは歳を取らないとなかなかできない。  






2022年11月20日日曜日

阿古真理(生活史研究家・作家)     ・〔美味しい仕事人〕 「きょうの料理」の65年

 阿古真理(生活史研究家・作家)     ・〔美味しい仕事人〕 「きょうの料理」の65年

NHKテレビで1957年(昭和32年)11月に放送が始まった「今日の料理」は今年65年を迎えました。   敗戦復興からの目覚ましい時代に番組はスタートしましたが、実際の暮らしでは4人に一人が栄養不足の時代でした。  そんな中で日々の栄養の大切さを伝えながら、一方では本格的な西洋料理や中国料理を紹介するなど家庭の食卓に夢を提供しました。  生活史研究家で作家の阿古真理さん(54歳)は家庭料理の歴史や料理研究家などをテーマに現代の食を家庭料理の視点から深く掘り下げる取り組みをしています。  「きょうの料理」の65年を振り返りながら、家庭料理のこれからを考えます。

昭和32年は敗戦から12年で神武景気という時代で、食に対しても考え方が変わって来た時代でもあります。  米のご飯が食べられるようになって食材もそこそこある落ち着いた頃だと思います。   豊かさを取り戻しつつあるが、4人に一人が栄養不足の時代でした。     高度成長時代は栄養不足を減らしてゆくことが、何よりの課題でした。 

「今日の料理」の放送開始当日の11月4日は、料理は一つも紹介がありませんでした。  食事には栄養のバランスが大事だという話でした。 近藤とし子さんは栄養食運動を推進された方で、野菜、動物性たんぱく質、炭水化物のバランスを考えようという旗振り役の方です。   食材が選べるような状態になって献立を組み合わせるという事を考えないといけない時代になって来るのが、戦前の大正、昭和の時代でした。   11月5日が最初に紹介された料理榊敏子?さんの牡蠣のカレーライスです。  フランス料理のような作り方でした。  「今日の料理」の初期に見る人はお金持ちが多かったというのが前提にあると思います。   東京オリンピック以降に普通になって行く。  中国料理も本格的な料理でした。   王馬 熙純(おおまきじゅん)さんの蝦仁豆腐(シャーレンドウフ)などありました。  餃子も彼女が紹介しています。    身近な中華料理の土台を作った方でもあります。 昭和30年代は本格的なものを紹介しようという機運が強くて、西洋料理も中華料理も本物を紹介しよう、新しい食文化を伝えようという意気込みがありました。  

飯田深幸さん 一口カナッペ(オードブル的な料理)の紹介。  パーティー用のオードブルです。   一流のシェフを発掘していったのも「きょうの料理」ではないかと思います。   田中徳三郎さんも「きょうの料理」の創成期を支えたフランス料理人です。   高度経済成長期を代表するグラタンに憧れて頑張ってオーブンを買ったという方が結構たくさん居ました。  ホワイトソースも憧れがあり同様に紹介されていました。   土居勝さんの「変わったエビのフライ」 コロモに工夫があるんだと思います。  

1967年 「特集 お正月料理」  正月料理のスタンダードなメニューを 「きょうの料理」でも紹介しています。   凄く人気があり、テキストも売り切れる。  伝統料理、日本料理に対する郷愁みたいなものがあったようです。    どこの家庭にもテレビがある時代。  一般家庭にも 「きょうの料理」みて作るというような習慣が広まった時期だと思います。   夫と妻の出身地が違うとお雑煮も全く違うという様なことがありました。味噌汁なども同様である程度テレビで標準化されたというようなこともありました。    1970年代後半から80年代、女性の社会進出が始まる。   共働き世帯が増えてゆく。  1975年 「特集 忙しい時のために」  5日間のテーマが15分で作るおかずとか保存が利くおかず 、缶詰、インスタント食品を使ってと言うようなものが紹介されました。  1973年のオイルショックでまっさきに首を切られたのが女性社員でした。  

低成長時代に入って晩婚化、子供も少子化が進んでゆく。  1995年「20分で晩御飯」が 「きょうの料理」でスタートする。  小林カツ代さんが企画したと言われる。    料理研究家が日本の食卓を変えてゆく原動力にもなったと思います。  江上トミさんは笑顔が絶えない人ですが、戦前は夫に帯同してフランスに住んで、プロの料理学校に入りました。  帰国して料理研究家になるきっかけになりました。  料理研究家として大活躍しました。  飯田深幸さん、入江麻木さん、城戸崎愛さんもフランスの料理学校で学びました。   

「小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代」という著書がありますが、対比するとベクトルが違っていて、小林カツ代さんは独自の発想で、こうやったら簡単にできるという事を沢山提案して、時代の寵児になりました。  栗原はるみさんは夫が売れっ子のテレビキャスターだった、後に大好きな料理に気が付いて、料理教室に通うようになった。   主婦としてテレビ関係者を接待するうちにデビューすることになる。   

私は元々食いしん坊でした。   料理することも好きで、食文化に関する本は読んできました。   我が家の食卓から時代を見てゆけば、それは普遍に通じるのではないかと思って、祖母、母含め三世代の時代背景を調べながら書いたら、その本が評価されずぶっと食の世界に入ってしまいました。   『うちのご飯の60年 祖母・母・娘の食卓』2009年出版環境(台所、冷蔵庫など含め)、ライフスタイル、食の体験も変わって来て、 大きく変わり続けた60年だったと思います。   男性料理教室もできたりして段々変わって来ました。   レシピもいろいろな媒体で発信されるようになり、家族の誰もが料理できるというようなことが理想で会話も世界も広がってゆくと思います。   

2022年11月19日土曜日

大河内大博(浄土宗願正寺住職)     ・死を見つめる仏教チャプレン

 大河内大博(浄土宗願正寺住職)     ・死を見つめる仏教チャプレン

大阪住吉区の願正寺住職、お寺を拠点に終末期の患者やその家族、様々な生きづらさを感じている地域の人々を宗教者として支える、ピリチュアルケアに取り組んでいます。      現在43歳の大河内さんは400年続いた寺の跡継ぎとして、9歳で仏門に入りました。   しかし若き日の大河内さんは僧侶になることの意味に悩んだと言います。  仏教者として生と死に向き合う人々を支える決意をした若き日々について聞きました。

病に苦しむ方、障害を持っている方、孤独を感じている方いろんな方、それぞれの人の数だけそれぞれの苦しみがあると思いますが、いろんな方と交流できればうれしいと思っています。  死とか自分が死にゆく命があとどれくらいであるとか、自分の人生、生きざまに向き合わざるをえない時の魂の叫び、それに対する問いの答えというのは、容易に他者が用意できるものではない。  宗教者というのはそうした答のない問いに対して向き合い続けるという事、逃げないでいるという事、向き合ってゆくその人の力を信じるという事、足腰体力を持ったうえで関わり続けることが宗教者の重要な役割だと思います。  

学校の授業の帰りに或る女性が「キリスト教は愛で、仏教は死という感じ」という言葉を投げかけてきました。  「やっぱり そうか」という感じでした。   葬式仏教という言葉が生まれていました。(葬式しかしない。)   死んでからお坊さんに用がある。  このままではいけないという問題意識が起こりました。  生命政治論の授業に出会って、終末期医療の単元があり、日本には1980年代に欧米からホスピスというものがキリスト教の流れの中で入って来て、日本ではほとんど仏教なので、仏教の方がかかわって取り組んでゆくことが大事ではないかと、仏教版のホスピスと良いことでビハーラという言葉を1985年に田宮仁(まさし)先生が提唱しました。  1990年代の最初に長岡の修道院ビハーラ病棟が出来ますという事を私が1999年の時に初めて聞いて、それが非常に衝撃的でした。 何故広がらないのか、何故ビハーラを知らなかったのか、或る危機感を感じて、自分がこれを広げていこうと思いました。

当時先進的な取り組みをしていた新潟県長岡市の長岡西病院でボランティアとして活動します。  そこで見た光景は衝撃的なものでした。   3時ごろに行ったらお酒を飲んでいるんです。  その人がやりたいような、過ごしたいような空間を用意してゆく。 そこにお酒があるというのは、その方にとって日常であれば、当たり前の風景である。  死に行く場所ではなくて、生き抜く場所、日常の延長の場がたまたまビハーラ病棟であったという事です。  大きな経験をしましたが、自分の未熟さ、足りなさ、等を教え込まれた経験でした。   

80代の女性で肺がんの末期で入院していた人がいました。  精神的に不安がありあまり部屋から出られない方でした。  或る日、帰ろうとして居たら一人で談話室にぽつんと座っていました。   「この病棟の時間はあわただしいねえ。」と言ったんです。 私が「部屋にいるより気分がいいでしょう。」と言ったら、「どうかねえしんどいから」と言って、帰ろうといしたら「明日まで生きて居られるかなあ。」とボソッといったんです。  「明日まで生きて居られるかどうかは、誰にも分らないんですよ。 僕だってね。」と話し始めたら、「そんなこと言っているんじゃないの。」と言って途中で話を遮られて、沈黙してしまい、深々と頭を下げて帰った経験がありました。  気分が良くて部屋から出てきた訳ではなくて、部屋にいる事さえ、孤独感、辛さで耐えられなくなって、必死の思いで部屋から出て談話室に座っていたのかも知れない。   誰も気づいてくれない孤独感を持っていたのならば「明日まで生きて居られるかなあ。」という言葉は、もう少し私のそばにいて欲しいという事を意味していたのかもしれない。   私が返した言葉は「諸行無常」の教えででこの場を乗り切るという事でした。   用意してきたようなマニュアル的な言葉は、まさに命の場面では通じるはずがない。   その時に自分の腹から出てきている言葉なら届くかもしれない。   仏教とはどういう事か、僧侶として生きることはどういうことかという事を常に問いかけてくるような、そんな時間、経験だったと思います。

特定の宗教、宗派に関係なく多くの患者に寄り添うのにはどうしたらいいのか、そこで出会ったのがピリチュアルケアでした。  欧米で1960年ごろから普及し始めました。 日本では医師の日野原重明さんらによってピリチュアルケア学会が創立されるなど、医療の現場で重要視されています。  その人が一番大事にしていることが通用しなくなった時に、どういうものを大事にしてゆこうというプロセスに寄り添ってゆくのがピリチュアルケアとして医療現場、特に緩和ケア等に行われています。   悲しみに込められている意味を一緒に大事にしていこうという、寄り添って行こうという事です。  悲しみは悲しみのままかもしれないが。  

60代の男性、症状は落ち着いていたが、後どのくらい生きられるかは、医師からは聞いていなかった。(聞くのが怖かった面がある。)   いいアドバイスはないかという事でした。   自分は亭主関白で家庭のことは妻に任せて仕事に打ち込んでやってきた。   趣味もいっぱいあって整理しなくてはいけないが、自分の中にあとどれくらいの時間があるか、それによって整理していきたい、という事でした。  「残りの時間は奥様のための時間ですね。」と言ったら、大粒の涙を流して「そうなんです。」と言いました。  私の役割は、問いの奥底にある自分の命をどう生きるか、そこの中心に奥様がいらっしゃる。  妻との時間、家族との時間をどんなふうい過ごしてゆくか、その方の中で大事にしてくださったならば、どの選択をしたとしても、その人にとって大事な選択をしてくださっただろうと信じて、役割を済ましてゆくという事になります。  

或る種未完成のまま死んでゆくのが、人間の当たり前の自然な姿ではないかと思います。  そういう場に立ち会うと本当に無力です。   でも一人にはしないというアクションは出来る。  関わり続ける。  

住職の父がすい臓がんで亡くなり、ピリチュアルケの活動を臨床の現場から、後を継いだ寺に移しました。  父を看取って5年になりますが、悲しみはまだ乗り越えていないと思っています。    大切な人を失った瞬間で止まってしまった時計と言うものがあって、動いている人生があり、止まってしまった時計を動かすのではなく、両方の時計を持った人生が始まったという風に、受け止めてゆく方が私は自然ではないかなと思います。    大事なのはどのような結果になったとしても、ありのままを受け止めることを大事にしてゆく社会の方が、それぞれに寛容であって、或る意味生きて行くうえでの修行じゃないかと思います。

大河内さんは現在訪問介護士施設を立ち上げて医療ケアとピリチュアルケアを患者の自宅で受けられるような仕組みを作っています。  地域の人が何でも相談できるように、月に数回お寺の本堂を解放、子供食堂、看護師に依る健康相談など様々なイベントを行っています。



2022年11月18日金曜日

西舘好子(NPO法人理事長)       ・「女性村」プロジェクトにかける

西舘好子(NPO法人理事長)       ・「女性村」プロジェクトにかける 

1940年、東京浅草生まれ。  高校卒業後広告会社に勤めた後、二つの劇団を主宰、演劇のプロデュースを数多く手がけました。   30年に及ぶ演劇活動に加えて子守歌の良さをこの社会に生かし文化的価値を保存し、伝えていこうと2000年に日本子守歌協会を設立、2年前に「日本ららばい協会」と名前を変えて活動を続けています。  一方でDV、家庭内暴力や子供の虐待、女性問題に関する活動にも取り組んでいます。   西舘さんたちは3年前群馬県下仁田町の廃校になった小学校を拠点にして、シングルマザー支援事業「下仁田ねぎぼうず」プロジェクトを発足させました。   仕事場の確保、農業や誘致企業への就労支援を通してシングルマザー自立のための「女性村」の実現を目指しています。 

学校の一棟を借りて、そこを女性の支援センターにしたいと、日本版画協会の井上勝枝さん、コシノヒロコさん、ジュディーオングさんと話しているところに、たまたまフジ子・ヘミングさんがきて、聞いていて「私、ピアノあげるわ。」と急に言い出したんです。  伺っていただいてきました。  フジ子・ヘミングさんが子供のころから弾いていたピアノで100年前からあったそうです。 そのピアノが今下仁田にあります。   

私はあえて「女性村」と名付けようと思いました。  お金がかかりますので、日本ではなく本社から応援しますという返事をいただきました。  第一段階を迎えることが出来ました。   2000年に日本子守歌協会を設立、それが虐待防止になり、子育て支援になり、音楽の演奏、シンポジュウムになり、凄く幅広い仕事をしてきましたが、コロナ禍になり全部中止になりました。   総合的に世の中をじっくり考えてみようという事になり、女性たちの事業を始めようという事で、「日本ららばい協会」と名前を変えて活動を続けています。  子守歌はとろさがありますが、哀感、人間の情を教えてくれる。  母親にしてみると呼吸法で、人間の原点の歌です。   山折哲雄さんが子守歌が消えた頃から虐待が増えたという事を言っています。   大事な歌をなくしてはいけないので、ここから事業を始めようと思って、それが日本子守歌協会でした。 

虐待が増えているが、保護されている子たちとやっと仲良くなって、その子たちが「俺らはいいよ、保護してくれる国や施設がある。  だけど先生うちの母ちゃん救えよ。 そっちの方が先だよ。」 と言われた時にドキッとしました。  虐待防止には特に力を入れました。  離婚から8割がたがシングルマザーになっている人が多いんですが、3つぐらいに別れます。  ①しっかり自立しているシングルマザー  ②困窮しているシングルマザー③お金がないから離婚もできない、子供もみることができないシングルマザー

下仁田では自然があり人口は少ないが人がいいですね。   過疎になるのはもったいないし、ここで何かできるのではないかと思いました。  女性たちのユートピアにならないかなあと思いました。   2年半かかりました。  シングルマザーの人たちに住んでもらってもいいし、土日に通ってっ貰ってもいいし、いろいろあると思います。   

「女性村」の記者発表の時にはピアノ演奏されましたが、フジ子・ヘミングさんの寄贈でした。   井上勝枝さんからは展示の版画を沢山提示させてもらい、フジ子・ヘミングさんの版画もあります。   三世代交流の場とか、心身の相談室などが出来上がりました。  来年に向けて子供の駆け込み寺を作りたいと計画しています。   子供の虐待の相談を受けるための一時預かりというようなシステムで本格的に作ります。   マザースクールもネット上で配信していこうと動いています。  廃校利用には、水質検査、防火、防水、プライバシーとか いろいろ検査が厳しいです。 

50年近く前にオーストラリアに行った時に、その時に見た「女性村」がずーっと頭に残っていました。   シングルマザー5,6人が「女性村」を作っていました。  彼女たちが作ったジャムとか食料品、洋服とか、バザールをやっていました。  ゆく度にその村は大きくなっていきました。    女性が持っている力は、生活に対するきめ細やかさ、男よりは断然優れていると思います。   そういったものを活かしながら村を作って行ったという事が頭から離れなかった。   それが今回の「女性村」に直結したと思います。    シングルマザー支援事業「下仁田ねぎぼうず」プロジェクトを発足させました。   私の頭の中にはある程度構想が出来ているので、どこまで実現できるかどうか、今は孤独な戦いですが、いつか判ってくれる人が出てくるだろうと期待をかけています。




2022年11月17日木曜日

マッハ文朱(タレント・女優)      ・【わたし終いの極意】 マッハ流 人生の恩返し

 マッハ文朱(タレント・女優)     ・【わたし終いの極意】  マッハ流 人生の恩返し

63歳、15歳でプロレスラーとしてデビュー、歌手としても人気になりました。      18歳でタレントに転身したのち、アメリカに留学現地で結婚しておよそ20年の海外生活を経て2013年に帰国、日本でのタレント活動を再開しました。  最近では講演活動にも積極的に取り組んでいて、健やかに齢を重ねる秘訣などを伝えています。  

プロレスラーとして活動していたのは3年間だけでした。   振り返ってみると中身の濃い3年間だったと思います。   生まれた時が4400gで健康優良児で小学生では地元では有名なスポーツ大好き少女でした。   姉が雑誌の記事を見てプロレスを勧められました。(15歳になる直前)    1972年、13歳で『スター誕生!』に出場し、本選まで進みました。 同決戦大会では、後にトップアイドルとなる山口百恵さんと一緒になりました。   私の場合はスカウトのプラカードは挙がりませんでした。   挫折を感じた瞬間でした。    スポーツでは身長(173cm)がプラスに働いて自慢の部分であったが、かわい子ちゃんブームでこの大会では身長がむしろマイナスの働きをしてしまいました。  挫折と自慢の部分が負に働いたという二つを味わいました。   身長を活かした世界にという風に思いました。 

15歳でプロレスラーとしてデビューしましたが、山口百恵さんとの対比が面白くて、全レコード会社さんからレコードを出しませんかとオファーを頂きました。  リングで歌を歌い注目されました。  1975年3月19日WWWA世界シングル王座(第17代)になる。  年間250試合していました。(負けたのが2回だけ)    テレビのレギュラー、映画出演もしました。   凄くハードなスケジュールをこなしながら、強くなりたいという思いもあり練習にも励みました。   

何か身体に一寸変化が出てきたりするのは、なんかの信号なので見落とさないように気を付けています。    そういった赤信号に対して自分でバランスよく、これは控えてあげようとか、休ませてあげようとか、鍛えてあげようとか、自分なりに作ってあげる感じです。長所サイドから見る工夫が生きてゆくためのコツみたいな気がします。   母から褒められると嬉しくて、子供達にも褒めるようにしていて、主人にも褒められたいし、感謝の言葉を伝えます。   毎晩寝る時に自分のことを褒め捲ってあげます。   新しい朝を迎えると、「今日は貴方ならできる」と言ってあげると、言霊のように、自分を勇気付けています。

台湾系のアメリカ人のパイロットと結婚しました。   台湾が5年、アメリカと併せて20年ほどになります。  2013年帰国しました。   娘が宝塚歌劇団星組男役の桃堂純として入ったことと、次女もテニスも片付いた(コロナ禍でプロとしての活動が難しくなり、スポーツマーケット部門に入る。)ので、戻って来ました。   主人も理解してくれました。  家族内ではよく手紙を書くようにしています。  

人にお届けできるエネルギー、元気にするパワーを持っていると絶対に自分で思っているんです。   それを皆さんに、最終章の扉が開いたと思っているので、「マッハ文朱」に成れてこんなに皆さんから応援していただいて、御恩返しするのは何かなあと思ったら、元気をお届けするのがいいのではないかと思いました。   還暦を迎えた時に、なんかいいなあと吹っ切れたんです。   教えてもらいながらいろんなことにチャレンジしてきました。 最後の最後まで現役でいたいんです。   日々今日一日一日なので、何が起こるかわからないので、伝えなくてはいけないことなども書き記して整理してあります。  母も姉も見事に整理整頓して亡くなりましたので、真似をしたいと思っています。     


2022年11月16日水曜日

山本博(アーチェリー・オリンピックメダリスト)・〔スポーツ明日への伝言〕 還暦を超えて挑む

 山本博(アーチェリー・オリンピックメダリスト)・〔スポーツ明日への伝言〕  還暦を超えて挑む

大学3年生のころ、1984年のロサンゼルスオリンピックに出場、アーチェリー男子個人で銅メダルを獲得しました。  それから20年後の2004年アテネオリンピックに41歳で臨んだ山本さんは、今度は見事銀メダルに輝いて中年の星と言われました。  さらにアテネから20年後の2024年のパリオリンピックでも金メダルを目指して、今年還暦を迎えた山本さんは今月初めオリンピック出場の前提となるナショナルチーム選考会に臨みましたが、惜しくもメンバーの枠内に残る事は出来なず、事実上のパリオリンピック出場の可能性がなくなりました。   選考会が終わったばかり(3日後)の山本さんに伺いました。

大会に臨む朝は何とも言えない重苦しさ、重圧に包まれているのが自分で判ります。  大会が終わると緊張感から解放されて脱力感になって来ます。  いい試合が出来ないと脱力感が重苦しく自分の中にのしかかって来ます。   そういった時には直ぐ練習をします。    とても重要な試合だったので、一つの目標を失ってしまいました。  50代は思ったような成績も出せず怪我などしたもので、還暦という一つの区切りを、新しい人生のスタとになるのではないかと期待した選考会ではありました。  

1962年(昭和37年)生まれ、60歳。  神奈川県出身で、中学時代にアーチェリーを始めて横浜高校時代は高校総体は3連覇を達成、日本体育大学3年生の時にロサンゼルスオリンピックに出場して銅メダル、ソウル、バルセロナ、アトランタ、アテネと5大会に出場し、アテネでは銀メダルを獲得、世界ターゲットアーチェリー選手権には2009年までに14回出場、全日本ターゲットアーチェリー選手権優勝8回、国体優勝10回、日本アーチェリー会の第一人者として活躍してきました。  この間埼玉県大宮開成高校で高校教師としておよそ17年間教鞭をとって、2006年からは母校の日本体育大学の教壇に立って、現在はスポーツマネージメント学部教授をしています。

「銅メダルをとってから銀メダルに20年かかってしまったので、これからまた20年金に向けて頑張ります」と答えたんですが、銀を取るまであきらめなくてよかったと思いました。    あまり焦らずにまた20年ぐらいかけて金を目指す気持ちで臨もうという思いがスーッと浮かびました。   毎月2,3試合がありあっという間に1年間が過ぎてゆきます。   あまり20年が長く感じるという事は思わずに来ました。   海外遠征とか日の丸をつけていた時には1年はもっと早かったです。  入院していた時が一番長く感じました。    2016年右肩の腱の断裂の手術、2020年には右手の指先のしびれが続く。

手術後は1か月間は全然動かすことは出来ず、リハビリも周りの人の協力を得て、心の支えになりました。   しびれの原因が胸郭出口症候群上腕や肩への負担のかかる運動で神経や血管が障害を受けることにより、肩、腕、手の部位にしびれや痛み、冷感、時には動かしにくさの症状が表れる状態)で、左右の首に近い肋骨を取る事になりました。 手術後、前回の手術の時よりもリハビリは苦労ましたが、しびれは回復した様です。  

弘前大学の大学院で医学研究科の博士課程に行き医学博士を取りました。(40代後半)  医学の知識でもってアーチェリーをやる若い方が肩とかの故障のないように、専門的な知識を学ぼうと入りました。   6年間愉しみ、又苦労して学びました。  

教師と言う仕事をしていたからアーチェリーは長く続けられたと思います。  アーチェリーではストレスをため込みますが、しゃべることでストレスは発散できます。   アーチェリーは個人競技なので自分がいいプレーをしない限り勝利はないわけです。   コツコツ練習をして中学、高校と結果が結ばれました。   シューティングライン(矢を打つ位置)に立つと、年齢の違いはないんです。  一心に矢を真ん中にいれる事だけを集中し合っているという非日常的なことがアーチェリーの魅力だと思います。   アーチェリーだけに取り組んで生活が成り立っている人はほんの数人で、後は仕事と両立しながらなので、練習時間が確保できずに引退してゆく人が大半です。  教師も時間外での活動もお金がもらえるわけではないが、大金持ちにはきっと手に入れられていないようなものを、僕は教師の仕事で手に入れているのではないかなという、勝手な自信はあります。  

「世界一あきらめの悪い男」とブログの最初に書いてあります。  学生に言うんですが、自分自身がいいわけをするような人生は歩んでほしくないと思っています。  好転させるヒントが頭に浮かんでしまうので、試さないと気が済まないという事で次が繋がってしまいます。  それが授業にも反映されています。  


2022年11月15日火曜日

大川直人(写真家)            ・原点はモノクロームのリアリティ

大川直人(写真家)            ・原点はモノクロームのリアリティ 

ご自身が還暦を迎えたのを機に、これまで撮影してきた写真をモノクロに現像し常開型の写真展を開いている大川さん、展示内容やアーティストとの撮影秘話、写真家として大切にしてきたことなどを伺いました。

タイトルが「音楽の仕事40年に軌跡」の写真展、写真のすべてがモノクロです。     約100点あまりです。   写真は主に音楽業界で活躍している方々です。  80年代、90年代に撮影した作品です。    山下達郎さん、 大江千里さん、ドリカムさん、松たか子さんなどたくさんのアーティストがあります。   引退、乃至は解散したチェッカーズ、安室奈美恵さんなどもあります。   忌野清志郎さん、尾崎豊さん等亡くなった方もいます。  安室奈美恵さんの写真の前で30分ぐらい号泣していた方がいました。  ROLLYさんと谷山浩子さんの写真の前で3時間も眺めていた人もいました。  

懐かしいという人もいるし、その時代の青春がよみがえる人もいます。  いい仕事をしたなと思います。  言葉より心が動いた瞬間を撮りたいので、言葉は余りかけないです。 サザンオールスターズや米米クラブなども印象に残っています。   飛行機の尾翼に桑田さんが立っている、大きな美術を作って、そういう撮影もあれば、米米クラブは10m以上ある骸骨美術を作って、砂漠へ持って行って撮るとかやりました。    お金も凄くかかるし、一つ写真を撮るのに3日かかるし、スタッフも15人ぐらいかかります。      アナログの良さは、合成無しで撮っているのでリアリティーが違うと思います。  

渡辺美里さん  「合図」という、髪の毛を切る瞬間の写真。  この瞬間が凄くいいと思って、撮影するところへ移動してもらって撮影しました。  用意していなかったドキュメンタリーの写真です。  これがきっかけでレコードがミリオン売れるようになって行くんで、大きなきっかけでした。  

還暦を迎えてこれまでの仕事を振り返ってみましたが、音楽の仕事が中心だったんだなと言う事で、眠っているネガで少しづつ現像していきました。  写真集を作ろうと思ったがOKしてくれなくて、写真展をしました。  ある種の音楽業界の歴史が写っているのではないかと思いました。   100人を想定していてその中から一枚しか選べないという風に自分で思って、選んでゆくのに物凄く考えました。   2年ぐらいかかりました。   30年、40年経っているので冷静にセレクト出来ました。   モノクロの魅力は見る人によって色が感じられたり、受ける印象が違うと思います。   黒から白のグラデーションがモノクロだと思います。   写真と言えばモノクロというぐらいの、その感覚は有ります。   ゼラチンシルバープリントというモノクロでは最高峰の紙焼きです。

aikoさんの「カブトムシ」という曲のための撮影、 夜の港の撮影でしたが凄く時間がかかりました。    松たか子さんは音楽デビューの高校3年生のころから撮っていますが、撮影の時に集中力のある人で、普段しゃべっている時とはガラッと変わって、さすが女優さんという感じです。   

東京総合写真専門学校映像芸術学科を卒業後、映像関係の仕事をして、22歳のころにレコードジャケット用の写真をしたいと思い立ち写真家の道を目指す。   25歳で独立し、レコードやCDジャケット、雑誌の表紙など様々なアーティストの作品に関わってきました。

イラストレーター志望でしたが、レベルが違い過ぎて断念しました。   映画のカメラマンに成ろうと思い映像芸術学科に入りました。   レコードジャケットが芸術にまでなった時代だったので音楽の写真を撮りたかった。    スタジオ撮影のアシスタントをして修業をしました。   ニューヨークへ3か月モノクロのスナップを撮りに行きました。  疲れはてて観覧車に乗っていた時に窓枠がカメラのフレームのように思えて、観覧車は一周風景を見せてくれるので、これこそが写真なんだなと悟りました。  自分の目の前にしかいろんなことは起きないんだ、それを受け入れて写真にすればいいんだという事が判りました。   レコード会社との出会い、渡辺美里さんとの出会いがあり、それからは忙しくなりました。   写真集を出したいと思っています。  

2022年11月14日月曜日

今野泰幸(サッカー選手)        ・〔師匠を語る〕 岡田武史

 今野泰幸(サッカー選手)        ・〔師匠を語る〕  岡田武史

今野さんは宮城県仙台市出身の39歳、高校卒業後コンサドーレ札幌に入団し、その後FC東京やガンバ大阪、日本代表などで活躍し、現在は南葛SCに所属しています。  今野選手のJリーグ入りのきっかけとなったのが、元日本代表監督岡田武史さんとの出会いでした。    コンサドーレ札幌時代や日本代表時代に師事し、今野さんのサッカー人生に大きな影響を与えた岡田武史さんについて伺いました。

小学校1年時からサッカーを始めました。 僕がプロサッカー選手になって初めての監督で、お父さんみたいな感じでした。  プロとして生きてゆくことのすべてを教えてもらったような監督です。  

岡田武史さんは1956年大阪で生まれます。  大学卒業後、古河電工(現・ジェフユナイテッド千葉)に入団し、サッカー日本代表にも選出されました。  現役を引退した後、指導者の道を選んだ岡田武史さんは、1997年に日本代表監督となり史上初のワールドカップ本戦の出場を果たします。  Jリーグコンサドーレ札幌の監督、横浜Fマリノスの監督を経て、2007年から日本代表監督を務め2010年の南アフリカ大会でチームをベスト16に導きました。  2014年四国リーグ・FC今治のオーナーに就任、2019年には日本サッカー殿堂入りを果たしています。

僕が高校生の時にコンサドーレ札幌の練習に参加したのが、岡田監督との出会いの最初です。オーラはあるし練習中は怖い顔をしているので近寄りがたかったです。  4日間の練習の終わったあとに欲しいと言われて舞い上がりました。   その時には地元の宮城県のソニー仙台というところへ行くことが決まっていました。   私は絶対行きたいと思いましたが母は反対しましたが、父は自分の好きな様にしろと言ってくれました。   

岡田監督はオン、オフを大事にしてオフの時にはフランクに話をしてくれました。    選手と一緒に食事をしたり酒を飲んだりという事はしませんでした。   サッカー選手を長く続けていくためには犠牲が必要だという事は教えられました。    空いた時間を飲みに行ったりするのではなくサッカーに繋がること、人間力を高めることに使えと言う事は言われました。   ミーティングとか個人的にも話してくれます。   

2001年に岡田監督はコンサドーレ札幌を離れましたが、学ぶ事はまだたくさんあったのでショックでした。   1年間でしたが、自分の特徴を見つけて伸ばしてくれたという事はあります。   「相手からボールを奪うことにたけているから、それを伸ばしていけ」と言われました。   入って1年目で骨折をしてしまい、落ち込んでいましたが、家まで来てくれて励まされ前向きになれました。   

2004年にFC東京に移籍しました。  岡田監督は横浜Fマリノスの監督をしていて、横浜Fマリノスに来ないかともいわれていました。  当時は横浜Fマリノスは出来上がった強豪のチームで、FC東京はまだ若いチームで、その二択に凄く迷いましたが、FC東京に移籍を決断しました。   申し訳ない思いはありました。   

岡田監督から日本代表に選ばれて、認めてもらえてうれしかったです。   2010年に開催されたワールドカップ・南アフリカ大会後の記者会見で、終了間際に「今野が何かやりたいことがある」と指名しました。(その時は可成りシーンとした雰囲気でした。)  まさか振られるとは思いませんでした。  マルクス・トゥーリオ選手がCMでやっていた物真似をしました。   「集まれー」    場が和みました。

日本代表監督は凄くプレッシャーがあると思います。  一旦は断りに行ったが、最終的に引き受ける事になった様でした。   しっかり成績を残したし、終わったあとは辞めるだろうなと思いました。   「勝負の神様は最後に宿る」  ダッシュとか練習でも80%ぐらいでやるのではなく練習でも100%やるという事を教わりました。  全部が本番に生きてくる。   岡田監督は本も沢山読んでいて、「人間力を高めながらでないと一流の選手にはなれないぞ」という事はずーと言っていました。   本を読んだり映画を観たりしてサッカーに繋がるように、成長できるようにという事で興味を持つようになりました。  

岡田監督への手紙

「高校生の無名僕を4日間の演習でJリーグの世界に引っ張ってくれた岡田監督、・・・レベルの高い練習に心が折れそうになった時に、声を掛けて下さいました。  ・・・お前はボールを奪いに行くアプローチが早いからそれを伸ばしてゆけと教えてくださいました。・・・この言葉は僕にとってJリーグで生き残るための道を示してくれた大切な言葉でした。・・・サッカーにとっていいことは何でも取り入れようとさらに努力が出来ました。・・・ 再び日本代表の監督になられた時も選手として選出してくださり、何よりも僕のことを認めてくれて評価してくれたことが凄く嬉しかったです。・・・「勝負の神様は最後に宿る」という言葉は僕に人生で凄く大事にしている言葉です。・・・感謝という一言では足りないぐらいです。  僕の夢を現実にしてくださってありがとうございました。」

2022年11月13日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕

奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕 

*管弦楽曲「海」 作曲:ドビュッシー  

作曲家にならなかったら船乗りになりたかったというほど海が好きだったドビュッシー。  海の移ろい(時間)がテーマ。   出版された楽譜の表紙デザインには、ドビュッシー自身の希望により、葛飾北斎の『冨嶽三十六景』の1つ「神奈川沖浪裏」(正確にはその左半分の大きなの部分)が用いられた。  ピアノの上には北斎の「神奈川沖浪裏」が飾られていたとされる。      ジャポニズムの時代だった。 

*「海」の「風と海との対話」の最後の部分  作曲:ドビュッシー  

*「イマージュ(映像)」から「金色の魚」  作曲:ドビュッシー

「イマージュ(映像)」の第2集に「金色の魚」という曲があるが、書斎にあったお盆、金粉で書かれた蒔絵の錦鯉から霊感を受けて書かれたと言われている。  錦鯉は静かなイメージがあるが、ここでは動であり立体的であり、音が跳ねている。

ドビュッシーは黒人のダンスにも関心を寄せていた。  

*「子供の領分」から第6曲「ゴリウォーグのケークウォーク」 作曲:ドビュッシー

ゴリウォーグ=黒人の人形のキャラクターの事。 ケークウォーク=黒人の楽しいダンス。

武満徹さんは兎に角、ドビュッシーが好きでした。 1981年のNHKのドラマ「夢千代日記」の音楽も武満徹さんでした。   

「夢千代日記」 作曲:武満徹

カウンターテナーの村松稔之さんが素晴らしい武満徹さんのアルバムを作りました。  

*「小さな空」    作詞、作曲:武満徹  歌:村松稔之             武満さんはジャズが好きだったのでジャズ的な感覚で演奏しています。  

*「〇(まる)と△(三角)の歌」  作詞、作曲:武満徹  歌:村松稔之      

ジョン・ウィリアムズ  日本を舞台にした2005年の映画「SAYURI」      1929年ごろ(世界恐慌のころ) 貧しい漁村の娘千代(9歳)が置屋に預けられて、芸者「さゆり」として懸命に生きてゆくというストーリー。   

映画「SAYURI」のテーマ  作曲:ジョン・ウィリアムズ 




2022年11月12日土曜日

2022年11月11日金曜日

美谷島邦子(「8・12連絡会」事務局長 )・【人生のみちしるべ】ぼくはここにいるよ ~日航機墜落事故から36年

 美谷島邦子(「8・12連絡会」事務局長 )・【人生のみちしるべ】ぼくはここにいるよ ~日航機墜落事故から36年(初回:2021/11/12)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2021/11/812-36.htmlをご覧ください。

2022年11月10日木曜日

鎌田慧(ルポライター)         ・声なき人々に寄り添い続けて 後編

鎌田慧(ルポライター)         ・声なき人々に寄り添い続けて 後編 

自動車工場に6か月の期間で就職しました。   コンベアーの前で一日中立っていて手を動かしているだけです。  今日辞めよう今日辞めようと思いながら6か月経ちました。   その間に、一緒に入った人たちはみんなどこかに行ってしまいました。  トランスミッションを組み立てる作業でした。  生産量が増えるとコンベアーの速度が速くなり、6か月の間に何十秒か早くなっていました。    間に合わない時には班長さんが手伝ってくれます。   期間工の経験をもとに『自動車絶望工場』を発表しました。(1973年)   結構売れたんですが、オイルショックで重版する紙がないという事で、その後2000部重版したのですがいい紙ではなかったです。  紙が出てきて、その後何回か重版しました。  アメリカ、フランスなど海外でも翻訳されて出版されました。  

日本の労働現場の下請け、孫請けなどで支えられていることは、今も続いています。   今はもっと厳しくなって非正規労働者、時間給で働く労働者などが働いています。   1985年に労働者派遣法が出来て、人材派遣会社が出来てその後どんどん規制緩和が行われた。     製造業への適用は抵抗感があったが、2003年6月に解禁となり、それから派遣切りという時代が始まります。  これは職業安定法から言っても考えられなかったことでした。   1995年末に発表した『新時代の「日本的経営」』で労働者の雇用形態をどのようにする、という事で今の年収200万円以下の非正規労働者が4割ぐらい占めるというとかの社会になって来て経済が低迷している。   消費動向が活性化しない。  昔は一億総中流と言われていて、そういった生活がずーっと続くはずだったが、オイルショックのころから会社が潰れたり、人手を削ったりして、一度はバブルが来たが、今はもう賃金も上がらなくて韓国とかアジアの国よりも安くなったという時代です。  

単行本は50冊ぐらいありますが、部数は1/10ぐらいになったんじゃないでしょうか。  日本列島の各地に大工場を作りそれを新幹線や高速道路で結ぶという日本列島改造論という大構想がありました。  六ヶ所村も新構想に入っているよと言われて、取材に行きました。   近くに三沢基地があり、空対地の射撃場があり、反対運動がおこったんです。   開発は国家的事業という事で民間がやるという事で村長が率先して反対運動に立った。   彼は朝鮮に行っていて、朝鮮チッソに六ケ所村から働きに行った経験があり、チッソが来てその辺の土地をみんな取られて、掘立小屋を建てて暮らしていたという事を本人が観て知っていて、それが厭で帰ってきて村役場に入って村長になったら、同じような開発が来たという事で、開発反対運動が始まりました。   今でも行っていますが、そこが原発地帯になって、核燃料のリサイクル基地になったという事なんです。  

むつ小川原開発ではむつ湾に石油コンビナートが出来て小川原湖の周辺にいろんな工場を作るという大プランで、1万5000ヘクタールぐらいを開発する計画でしたが、最後は5000ヘクタールぐらいまでに縮まりました。   今はもう工場はきていない。  できたのは核燃料再処理工場だけです。    それも30年経っても稼働していない。  下北半島の先端の大間にも原発を作るという案もありますが、それもできていない、稼働していない。  

原発の取材にいったのは新潟県が一番最初です。  もう一つ西の方に三方(福井県 三方郡 美浜原発)にあり、辺鄙なところで老人たちが反対運動をしていました。  1971年ぐらいに両方に取材に行きましたが、まだ原発予定地でした。  六ケ所村も並行して取材しました。 そこの住民たちの生活、反対運動、地域の歴史とかを中心に書いてきました。   「原発列島を行く」というタイトルで出ています。   地震の多い国なのに海岸線の崖を崩して作っっていたりして危なっかしい感じがしました。  土地買収も兎に角、金で買収して行くという事でとっても嫌でした。   建設予定地の住民が先進地見学という事で、2泊3日とかで旅行に行くんです。  酷い人はほとんどの原発見学に行っているとかもあり、驚いています。  宣伝費等も含め全部電力料金に上乗せできるんです。  膨大なお金が動きます。  六ヶ所村の日本原電では20年以上何も生産していないけど、経営は黒字なんですよね。  自然エネルギーに投資した方がよほど将来性はあるんですが。  

狭山事件は1963年5月1日に発生した事件で、帰宅途中の16歳の女子高校生が行方不明になって、夜に20万円を要求する脅迫状が自宅に届けられ、翌日の夜に身代金の受け渡し場所に現れた犯人を警察が取り逃がし、行方不明になってから3日後に遺体で発見された。  その近くの若者を一人づつ呼び出して尋問したが、石川さんのアリバイがなかった。    家にいたが両親の証言は信用できないという事だった。  1か月間追及されてついにうその自供をするわけです。    警察官は刑を決められないが、10年で出すと警察官が約束するわけです。  脅迫状は水準が高く横書きで当時横書きで文章を書く人はほとんどいなかった。   被差別部落の問題が深くかかわっていて、警察の差別化があって現在まで続いてきている。    

袴田事件をやっていた熊本さんという判事ですが、静岡地裁の一審で死刑判決をだしましたが、本人は犯人だとは思わない疑念があったが、3人の裁判官の合議で反対できなかったという事です。  熊本裁判官は超エリートの裁判官で末は最高裁の判事になるという風にみんなから思われていた。  彼が袴田事件に関係したばっかしに、裁判官を辞めて弁護士も辞めて路頭に迷う形で亡くなりました。  ほかに矢野裁判長とかの話もあります。   石川さんは被差別部落の出身で勉強する機会もなく、字なんか書けないんです。  脅迫状を書いて人を脅かすなんてあり得ないんです。   そういった不合理は訴えていきたい。

明治時代の末に大逆事件(幸徳事件)があり、無期懲役囚だった坂本清馬氏が、戦後再審請求した。  24人死刑囚が出て、そのうち12人が処刑されて、2人が罪にで、12人が無期懲役になって、その中に坂本清馬さんが入っていた。   再審請求は認められず亡くなってしまった。    遺族がいなかったので終わってしまった。 三鷹事件では竹内さんが亡くなったが、息子さんが継いで訴えていますが、まだ再審は決まらない。  一回冤罪で捕まってしまうと、ほとんど長い時間、30,40年、狭山事件は来年で60年です。   60年間殺人犯の汚名を背負って生きている。  

色々な人の評伝も書いています。   不遇な人に興味があります。  「反骨のジャーナリスト」  鈴木東民という人は大ジャーナリストでドイツに行った時にヒットラーの時代でドイツでヒットラーを批判する記事を日本に送ってくるとか、読売新聞にいたので戦後の読売争議の時に委員長だったとか、釜石の公害でも頑張ったとか、スケールの大きい人でしたが、地元では全然評価されていない。  評価されないまま亡くなっている。   無念の人生の人って多いですよね。   ちゃんと光を当てれば偉さが判るというのに、という思いが強いです。  

上野英信は炭鉱のことを書いた人、一緒に働いて炭鉱夫のことを書いてきて一生を終わった人でした。  彼なんかは偉い人だと思います。  九州のもの書きに影響を与えた人、九州の文化を作った人でもある。  エリートできた人達は庶民のなかの偉い人のことをほとんど知らない。  そういった人たちが政治をするというのが間違いの元だと思います。

ルポルタージュの重要性、記録性、一つのことでもきちんと記録しておくこと。  教訓として残るものがあった方が文化が豊かな国になると思います。    



2022年11月9日水曜日

鎌田慧(ルポライター)         ・声なき人々に寄り添い続けて 前編

鎌田慧(ルポライター)         ・声なき人々に寄り添い続けて 前編 

1938年(昭和13年)生まれ84歳。  労働問題、巨大開発、冤罪事件など様々な社会問題に対して一貫して犠牲を強いられる側に寄り添い取材を続けてきました。   著作は130冊以上にのぼります。 

取材に行って人間関係が出来て、狭山事件でもそうですが、成田空港とかいろいろ取材に行って人間関係が出来るとつい深みにはまってしまい、集会に出かけるとか、書いたりして、そういうのが好きなたちなんですね。  身体は頑丈で若いころは病気をしたことがなく、最近は膀胱がんになるとか、糖尿が出てくるとか、血圧が少し高いとかありますが、日常的に悪いという事はないです。  著書では反逆老人と言っています。  

青森県弘前市出身、野球少年でした。  小学校5年から中学2年まで選手でしたが、その後高校ではやっていないです。  本は何となく読んでいました。 菊池寛全集が家に有り読んで居たり、高校では太宰治、葛西善蔵、石坂洋次郎などを読んでいました。   高校卒業後親戚が東京にいたので上京しました。  カメラ工場で働きましたが、ノギスとかマイクロメーターとか使えずそのうちに辞めて、昭和32年当時は不景気でしたが、ガリ版で切ったのを印刷する作業をしていたら、半年後には会社が解散しましたという通知が来て、解雇に反対する交渉を籠城して2か月半やっていました。  ゴーリキーという働きながら作家になった人がいるんですが、その人の影響があって自分でも働いている人たちのことを書こうという思いがあって、ロシア文学に憧れて、3年経って大学に行こうと思って、早稲田大学第一文学部露文科に入学しました。  アルバイト、印刷工の仕事、奨学金で賄い、その後生活協同組合が早稲田にあってそこの教宣部の機関誌を作る仕事に入って、それで生活が出来ました。   

大学に入ったのが1960年で、安保で大変な年でした。  花田清輝という作家が好きで、2回原稿を書いてもらいました。 原稿を取りに行くが書いていなかったりして話す機会があり自分にプラスになりました。   総合芸術というサークルにも入っていました。  当時鉄鋼は日本の基幹産業で、4年生の時にその業界紙の募集があり、行ったら決まってしまいました。   1963年ぐらいから景気が良くなっていました。  鉄鋼新聞社で政治部に配属されました。  東京の下町には鉄工所がいくつもありました。  東京近辺の工場は全部回って、鉄鋼の生産量、消費量といった経済記事でした。   鉄鋼の市況が上がるか、下がるかが判る。  後は決算報告を取材するとかしていました。  2年ぐらいすると段々横着になって、机に座ってるようになって、これではだめだと思って辞めました。  次に月刊誌「新評」の編集部に入りました。   岡本太郎さんに対談に来てもらうとか、寺山修司さんにソビエト文学のエフトゥシェンコの「早すぎた自叙伝」みたいなものを書いてくださいと言ったら、ホイキタと言った感じで書いてくれました。  大宅壮一さんら3人の鼎談の批評をずーっとやっていましたので、大宅さんのところへはよく行っていました。  

自分でも穴埋め記事などを書いていましたが、1968年に都電が撤去する時代になり、その反対運動を取材して、他の雑誌に書いていました。   30歳で自立しようという思いがあったので辞めてフリーのルポライターとなりました。(28歳で結婚)    『隠された公害 ドキュメント イタイイタイ病を追って』を1970年に出しました。   編集者の方からこれをやらないかと言ってきました。   

東邦亜鉛鉱業所のある対馬でも発生していると知って、島に行ってみましたが、集落からは取材拒否され、「隠された公害」という本を書いたら、「隠した公害の資料をお知らせします。」という手紙が来ました。   もうやめた技師でしたが、しっかりしたデータもあり、手に入れました。   厚生省が検査に来た時に、鉱業所のしたにカドミュムが汚染されているのが公害ですが、上流にも汚染されているという結論でした。 だから公害ではないという事でした。   下流の汚泥を上流にトラックで運んでバラ撒いているんで、だから上流も汚染されている。   サンプリングを調査して鉱業所の体育館に保管されていたら闇夜に乗じて水をいれたという、ちゃんとしたデータを貰って、これを書いたら会社を首になってしまうし、書かなければ金を貰って書かなかくなったんだと思われると思って、どうしたらいいのか迷いました。  一寸雑誌に書いたら朝日新聞の記者が来て、トップ記事になりました。  社長の指示で汚染されたところが全部土を入れかえて立派な農地しました。  取材者としては相手から信頼されると言う事ですね。  協力者が現れるんです。 そういう人がいてこの仕事ができるんです。    

「鉄は国家なり」というような時代で、そのころ公害が盛んになっていて、八幡製鉄の洞海岸、内海で、子供の絵は海も、空も黒い絵を描いているんです。   製鉄所、化学工場もあって、粉塵があり公害都市でした。   派遣会社が一番ひどいという事でいったら、六畳一間に7人が暮らしているんです。(一人は押し入れに寝る。)   バスに乗せられて、ここで働けと一人づつ降ろされて行きます。   ベルトコンベアーに石灰石と石炭が入っていて溶鉱炉の上の方に上がってっていきますが、振動で石炭などが零れ落ち、それをスコップで掻い出さないとコンベアーが止まってしまいます。  労働者がコンベアーの下に入って掻き出しコンベアーに戻しますが、高炉ガスを吸って死んでしまう人もいれば、落ちて死んでしまい人もいます。   六畳一間で暮らし、私は1週間やりましたが、逃げてしまいました。  その後自動車メーカーに6ケ月いました。

 

2022年11月8日火曜日

阿部正子(編集者)           ・本作りにかける

阿部正子(編集者)           ・本作りにかける 

1951年千葉県生まれ。 大学卒業後出版社に入り、一貫して弱い立場の人を支える本やユニークな辞書を作って来ました。   定年後の今もライフワークであるハンセン病の人たちの歌を集めた本を一人でも多くの人に伝える取り組みに力を注いでいます。 

1974年に大学を卒業して出版社に入りまして、オリジナルに自分で企画を立ててやったのは40冊ぐらいになります。  そのほかに辞書も10冊ぐらい作りました。   12000人ぐらいの方に書いていただいたと思います。  6年前定年で出版社を辞めました。   世の中にないものを出すという事を楽しみでやってきたので、辞めてからも作ってきました。 

8人兄弟の大家族で、本棚がなかったです。  言葉に対する飢餓感があったのかなあと思います。  幼稚園から大学まで協調性がないと書かれていました。  ないものをやるという事では本つくりには役に立ったかもしれません。   一つのことにのめり込むと周りのことが見えなくなってしまいます。   少数派の方にたつタイプでした。  

読む前と読んだ後では意識が変えられないようでないと本ではないと書かれていて、自分ではできるかと悩んでしまいました。  隙間のところをやろうと思って、農薬毒素の辞典というようなものを作りました。   先天性四肢障害児父母の会を知って、子供たちの作品を本にまとめていきました。   「ぼくの手、おちゃわんタイプや」この本が最初でした。   このタイトルは小学校2年生の作品から取りました。  

実際に会うとみんな生き生きしていて障害のところに目が行くという事はないですね。   先天性四肢障害児父母の会とはもう40年ぐらいのお付き合いになります。   この本を出した翌年(1985年)、白血球が1300まで落ちてしまって、動けなくなって難病で、子供たちの作文がもう一度思い出されて、自分の弱さを認めた時に、この体験が後に医療関係の本をやる時に役に立ったと思います。   1冊終わるごとにダウンしたり、退職する前の6年間は薬のせいで6,7回骨折してしまいましたが、余りめげませんでした。  全身性エリテマトーデス (systemic lupus erythematosus:SLE) と言います。(自分の免疫システムが誤って自分の正常な細胞や組織を攻撃してしまう自己免疫性疾患の1つで、全身のさまざまな臓器に炎症や組織障害が生じる病気)  難病で動けなくなってしまう。 ステロイドを飲むと痛みなどは消えてゆきますが。   先天性四肢障害児父母の会の人たちからは励まされました。    ようこそダウン症のあかちゃん

「いのちのことばシリーズ」  言葉に凝縮されていて強いんですね。             「薬害エイズ原告からの手紙」「ようこそダウン症の赤ちゃん」などの本を作る。     20年前に「誕生死」(流産・死産・新生児死で子をなくした親の会 著)という本にまとめる。  当時子供の死はタブーと言われていて、出させないと会社でも言われました。   当事者は苦しんでいるからこそ出すんですと言って、出したら物凄い反響で、ネット上でこの人たちが「誕生死」というホームページを作ったら、10万件の人たちが書き込みをしてきました。   一回は誕生したんだという事を認めて欲しいという気持ちが強くて受け入れてくれました。   家族の手記が載っている。  

「亡くなった赤ちゃんへの思いを口にするのは難しい。 あの子自身の思い出がほとんどないからだ。  そのことでひとはそれほど悲しいはずはないと思うのかもしれない。  私はあの子自身の思い出がないことが悲しくて仕方がない。  誰かとあの子のことを話すことができない。  あの子のことをもっと知りたかった。  あの子をいとおしいと思う気持ちは溢れるほどあるのに、その溢れた思いをすくってくれる器がない。  他人から見たらお腹の中で亡くなった子は、余りにも存在感のない子だろう。   記憶にも残らないかもしれない。  でもあの子は間違いなく私のお腹のなかで生きていた。  私が語りかけるとまるで返事をするかのように動いて来る。 ・・・・」  

読者カードが私の力になったと思います。  「訴歌」ハンセン病の人たちの歌を集めた歌集、俳句、短歌、川柳を集めたものです。  副題が「あなたはきと橋を渡って来てくれる」  ハンセン病の人たちがこんなに文芸活動が盛んだという事を初めて知りました。 能登恵美子さんは『ハンセン病文学全集』(2002年~2010年)の編集を担当。 能登さんが亡くなって5,6年経ってから私はこの本に出合いました。  短歌、俳句、川柳、子供の作品が3万作ぐらいあってその中から1割に絞って「訴歌」という本にさせてもらいました。 (3300作品)    3万作から落とすのが大変でした。

3万作を5年間ぐらい眺めていて、出会った歌が、

*「密かにも読み残されいし歌のほか患者らの惨劇伝うるもなく」  山本義則                       *「打ち明けて友にも語れぬ苦しさを歌に詠まなん生きる限りを」 長谷川虎雄      後世に残したいとはっきり歌っているので、私の出番かなと思いました。  

ライ予防法が制定されたのが1953年、戦前よりもさらに強い隔離政策を取った。     私が生きてきた背中で知らない世界があったという事にびっくりしました。    そして子供たちが多かった。  まとめた本には約1100人に歌があり、6歳から80代の人で未成年が300人ぐらいです。  

*「母さん猿に抱かれて覗く子猿さん黒いおめめで私を観ます」  この少女は子猿さんが凄くうらやましかったんだと思います。 お母さんに会いたいというのではなく別の形で表現しています。

*「膝の上に子猫抱きあげ懐かしく母への便りなお続けたり」  

*「すみれ花故郷の父の好きな花花瓶にさして可愛がりけり」

*「山水に生き生かされてすみれこすと」  (山の療養所へ)

*「明け方の傷の疼きを耐えがたく時計の音をかぞうひととき」

*「腰掛に足を垂らして月見する」

*「この年は豊作だと言うけれど少年舎の裏の柿は成らね」

「夕暮れの峠を越せば我が家の灯りより小さき灯り」

以上は小、中学生ぐらいの男女の作品

*「うかららにありざりしかどいささかの里の土産を友らに配る」  うからら=親族に会えなかったけど土産を配っている。  会えなかったのは残念だけれども、故郷に帰れたという気持ちをみんなで味わっている。                         読んでいただいた方々からいろいろ反響をいただきました。

*印は内容、漢字、かななど若干違っている可能性があると思います。

2022年11月7日月曜日

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕

 穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕

「ほむほむと短歌を楽しもう その4」、応募いただいた作品のなかから、今年のほむほむ賞に選ばれたのはみそぴーさんの作品。  テーマ「動物」

「折り紙で動物園を作ってる涼しい午後の保健室にて」 

動物園は命の激しさなどが集まっているが、涼しい午後の保健室って、その逆でとても命が静かな状態にある。  命を持たない紙で動物園を作る、ある欲望というのか、願いというのか、その在り方に魅力を感じます。  

*「猿の目を見るなと町内放送が片目の猿を思い浮かべる」   こうきせい

猿の目を見ると襲ってくるんでしょうかね。  動物園と違って人とのすみわけが出来ていない不穏な感じがします。

*「燕たちお帰りなさいと会える日を願い旅路の無事を祈ります」  坂本文

凄く素直な歌です。  燕たちに心を込めて言っている、そこに胸を打たれました。

*「親子猫十三歳と十二歳時にじゃれ合い我に噛みつく」      浅野久基 

高齢なんだけど「じゃれ合い」「我に噛みつく」というところが面白いですね。

*「コウモリの不意に飛びきて急転回首すくめ行く夕闇の道」    中村優子

コウモリの動きは鳥とは違う。 時間帯の違いもあります。   事実も無数にあり、その中のどこを書くかというのも一つのセンスだと思います。  

*「認知症真夜中吼える愛犬を打ちし悲しみ今も残りぬ」     もくぼう

これは凄く悲しい歌で、犬も高齢化するとそうなるんですかね。   真夜中で吼えて何とかしないといけないと、ついぶってしまった。  誰も悪くないのにそんな悲しいことはない。  後悔している。

*「夏祭り誘う人なくただ歩きただ金魚の泡をみていた」     としちゃん

みんなが楽しそうにしているとよりさみしい。  「金魚の泡をみていた」とクローズアップすることでより虚しさが表現されている。

*「動物と言えば俺も動物だ植物に生まれたが方がよかったなあ」    西山洋一

しみじみした感じが面白いですね。  森では動物とは違った濃密なコミュニケーションがあるような気がします。  

*「子守歌歌えば肩の愛鳥が頬にそうとくちばしで触れる」      まるこん

可愛いですね。  子守歌も鳥が判るんですかね。  優しさが惹かれます。

*「雷を怖がる犬は雷を何と思っているのだろうか」        白井義彦

犬は判らないからもっと怖い。  

「ペッタンペッタン白鳥が来る」という絵本、15年前に動物をテーマにした短歌を集めた絵本があり、それを穂村さんが解説しています。  

*「水を出で大きく黒きみずかきにペッタンペッタン白鳥が来る」    渡辺松雄      

この短歌からタイトルをつけました。

「金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に」       与謝野晶子

なるほどな、と言う感じです。  凄くゴージャススな風景、与謝野晶子の内面のエネルギーのようなものを感じます。

「寂しさに海を覗けばあはれあはれ章魚(たこ逃げてゆく真昼の光」  北原白秋

一瞬で蛸が搔き消えた感じ。  「寂しさに海を覗けば」というのが面白い、俺の友達は海にしかいないと思って、覗いた章魚(たこさえも逃げてしまった。   

*印の短歌および人名は、漢字、かな等、違っている可能性があります。


2022年11月6日日曜日

坂本千夏(声優)            ・〔時代を創った声〕

 坂本千夏(声優)            ・〔時代を創った声〕

アニメ「フクちゃん」のフクちゃん、「キャツアイ」の三女来生愛、「となりのトトロ」では妹の草壁メイ、「それゆけアンパンマン」のてんどんまんなどで活躍中です。   「それゆけアンパンマン」は35年目を迎えています。  ちびぞうくん、うめぼしばあやなどのキャラクターも演じてきました。  「それゆけアンパンマン」は赤ちゃんなども目に触れる作品なので楽しくて、てんどんまんも人気があるよと言われると嬉しいです。  子供のころ観た子が親になっています。  

小さいころは歌う事、本を読むことが好きでした。  漫画の主題歌の歌も歌える人になれればいいなあと思っていました。   声優になるにはお芝居の勉強をしなくては駄目ですと言われました。  高校時代は横浜の横浜フォーク村のサークルに参加していました。  ヤマハでもレッスンを受けていました。  友人と組んでいたバンドでヤマハポピュラーソングコンテストに出場し、優秀歌唱賞を受賞しました。  高校卒業後は歌って芝居がしたいと役者を目指し養成所に入りました。  2年目に出て、そこから頑張りました。  演技の基礎を学びました。  もがいたりすることは大事だと思いました。  それを解決するのは時間とか、自分で解決するしかないですね。  より声優色の強い東京俳優生活協同組合(俳協)へと移って、1981年にデビュー。  

1982年に「フクちゃん」で主役。(23歳)   横山隆一氏の「フクちゃん」のテレビアニメ版。  原作は1936年に新聞に連載された4コマ漫画。   それまでの4年ぐらいはほとんど仕事が来ませんでした。  その間は友達が出ている作品を観るとか、映画を観るとか、お客さん側にいて、こっち側にいては駄目と思って、駄目なら外国に行こうかなと思っていたところに、「フクちゃん」のオーディションが決まって嬉しかったです。   主題歌も歌わせてもらう事になり夢がかなったと思いました。  周りの人たちも喜んでくれました。   

1983年「キャッツアイ」 1984年「らんぽう」など毎年大きな作品に携わるようになる。  1988年「となりのトトロ」、「それゆけアンパンマン」のてんどんまん。    一気に忙しく成りました。  食事もおにぎりやサンドイッチの時代になってしまって、みるみる元気がなくなり、これでは駄目だと思いました。   工夫しながらやって行きました。  リハーサルなど手の抜き方が判らず、本番の雰囲気でいつもやっていました。   「となりのトトロ」では妹の草壁メイでは元気な雰囲気がやり易かったです。  

子供と関わる仕事をやりたいという事は小さい時からありました。  読み聞かせの活動とか、今も月2回ボランティアでやっています。  これからも続けていきたいと思っています。  絵本を選ぶのも楽しみです。  

声のコンディションつくりには苦労をしてきました。  声が出なくなってしまったり。 コロナ禍になって、収録が止まったり、舞台活動が止まったりして、やっぱり私たちは表現することを止めては生きていけないんだなと言う事を、みんなが気付いたと思います。   工夫をして皆さんにお届けできる方法を捜して続けてきたと思います。   打ち入り、打ち上げが出来ない、若い人達とのコンタクトもできないなど寂しい部分があります。    アイコンタクト、マイクワークなどそれぞれ利点欠点はあります。(利点は自分に集中できる)  

今の若い人は選ばれて、選ばれてきているので上手ですね。   声優を目指している人には約束、時間は守る。   自分が何で止まっちゃているということは、誰かに伝えた方がいいんじゃないかと思います。  ハイハイと前にしゃしゃり出て行かなくてもいいのかなと思います。  スーッと出られるときに出ればいいと思っていて、この人良いなと思ってくれている人が絶対いるからね、とは言いたいです。   声優にとって大事なことは、書かれていることをちゃんと伝えられるという事ですね。  歯は大事で、歯は食いしばれなくなるとパワーがなくなると思います。  身体のメンテナンスは大事です。  私は周りに迷惑を掛けないように、いつも一生懸命やろうと思っています。  取っておかない、次はないかもしれないので、今やる、本気でやる。  

2022年11月5日土曜日

大塚善章(ジャズピアニスト)      ・僕は大阪・天王寺育ちのジャズメン 前編

大塚善章(ジャズピアニスト・関西ジャズ協会会長)      ・僕は大阪・天王寺育ちのジャズメン 前編 

大塚さんは昭和30年代にデビュー、全国的に知られるジャズピアニストとして第一線で活躍してきました。  70歳を過ぎてもヴィブラフォンの鍋島直さん、ベースの宮本直介さんと共にゴールデンシニアトリオを結成し、2015年には平均年齢83歳の世界最高齢バンドとしてギネス世界記録に登録されました。   

*「アウトオブ・ザ・パスト」  

大塚さんは昭和8年生まれの現在88歳、今も大阪を拠点に活躍する現役のジャズピアニストです。  大阪生まれ、大阪育ち、四天王寺のすぐ近く、街なかの歯科医院の末っ子として育った大塚さん、小学校2年生で太平洋戦争に突入します。  小学校5年生の時、クラスメートと奈良県吉野の旅館に集団疎開しました。  1945年3月の大阪大空襲の夜は、その旅館の2階から炎上する大阪の街がはるか遠くに見えたと言います。  

当時家の前にアスファルトが敷いてありました。  市役所の向かいに歯科医院があり、学校、病院などの施設がありました。  兄がローラースケートをその道路でやっていました。 小学校2年の12月8日に戦争がはじまり、学校に行くとみんなが「やったー」と言っていました。  「鬼畜米英」「欲しがりません 勝つまでは」という言葉などが沢山ありました。   疎開する事になり、集団疎開と縁故疎開がありましたが、うちの小学校は吉野に疎開しました。  ほかの学校では鳥取県まで疎開したところがありました。  桜の名所、名所旧跡もありで近くてラッキーでした。  食べ物は甘いものはなくて野イチゴを採ったり、干し芋、干し柿を捕ったりする子もいたりして叱られたりしました。 

大阪をB29が攻撃するときには紀伊水道から吉野山を通って行きました。  9機編隊で小さく飛んでゆくのが見えました。  1945年3月4日の大坂大空襲がありました。 その時には旅館の2階から大阪の燃えている様子が見えました。   視界には縦2cm、10cm幅の炎が見えるんです。  ショックでした。  劣勢となり、本土決戦という事で竹槍で対抗するというようなことを言っていました。  8月15日は、7月末に祖父が亡くなったので戻ってくるように言われて、父親が迎えに来て吉野から大阪に帰っていました。 玉音放送を隣組が全部集まって聞きました。  しかし何を言っているのか判らなかった。 兄貴が「負けた。」と言いました。  親父が泣いていました。   灯火管制がなくなりその夜は窓を開けて家の電気を全部点けました。  家は焼けずに済みました。

7人兄弟で男は4人、女は3人で、私は末っ子でした。  長男はビルマに行って無事帰って来ましたが、次男は引き上げる途中で病死しました。   進駐軍が来て病院と高校を接収して良く見に行きました。  運が良ければチョコレートをもらえました。  祖母がクリスチャンで賛美歌を歌うので父がオルガンを買って、祖母が亡くなりオルガンだけが残りました。   次女が音楽が好きで弾いてみんなで歌った覚えがあります。  次女は大阪のNHKの合唱団に入っていました。  兄も弾くようになり、小学校に上がって音楽の先生が休んだ時に「誰かピアノを弾ける人がいないか」と級長が言うので、手をあげました。「若葉」という曲を両手で弾いたのでびっくりしていました。(両手で弾くのは当たり前ですが)   末っ子だったので家ではなかなかオルガンを弾かせてもらえなかった。   小学校に上がる前は独占できたので一生懸命弾いて、上手くできたら母が褒めてくれて励みになりました。  親父は尺八をやっていて師範代の免許を持っていました。   尺八をやったの失敗したと言っていました。(同時には歌えない。)  

学制改革があり、中学は高校に昇格しました。  大阪府立高津高等学校となりました。  昭和24年高校1年の時に高校野球で大阪大会で優勝して甲子園に行くことになりました。 高校の校歌がなくて、先生に相談したら君たちが作るのが一番いいのではないかと言われて、自分で作曲して、最終3曲に選ばれ、その投票があり僕の曲が1位になりました。   

大阪府立高津高等学校校歌  作曲:大塚善章  校歌は今でも歌い継がれている。




2022年11月4日金曜日

賀来千香子(俳優)           ・いつも等身大の魅力を

 賀来千香子(俳優)           ・いつも等身大の魅力を

女子美術大学短期大学在学中に女性誌のモデルでデビューして、若い女性の憧れの存在として人気になりました。   その後俳優に、1980年代から90年代トレンディードラマに数多く出演しています。  又舞台にも活躍の場を広げています。  現在、Eテレで毎週金曜日午後8時から放送されている「明日も晴れ 人生レシピ」の司会を担当しています。  

高校3年生で女子美術大学短期大学への推薦入学が決まって、アルバイトが解禁になり近所のファーストフードに履歴書を持ってゆくか、スカウトをされていた事務所に行くべきか、親に大反対されながら短大に入ったぐらいに、雑誌のモデルとしてデビューしました。  アルバイト感覚だったので将来どうしようか、父が銀行員だったのでそちらの方か、美術系とか、まだ漠然としていました。  NHKの連続テレビ小説に応募しましたが落ちてしまって 、TBSさんを受けたら受かって、1982年TBSドラマ『白き牡丹に』にて女優デビューしました。   基礎が出来ていなかったので、その後はちょっと仕事がない経験もして、ジョギングなどをしていたら、又仕事を頂きました。  

面白いのと難しいのとあり、今一番本当に大変な仕事だと思っています。  一人の人生、人格を表現することは本当に大変な事だと思っています。   その役の人生から学んだことが多いです。   切れ目なくやってこられて、その方が安心と感じました。  男女7人夏物語』など思い出深い作品です。    「細雪」の舞台を10年近くやってきました。  大舞台劇場でやるのも経験させていただきました。   船場の言葉遣いが難しいんですが、谷崎先生の独特な世界に引き込まれるようで楽しかったです。  

日本の美しさを伝えたいという思いがあり、着物の美しさ、日本の伝統美を感じます。   桜、船場言葉とか品のいい美しさが大事だなあと思って、「細雪」に関してはそのようにさせていただきました。   所作も大事ですね。  幸子役(次女)は私にとって大事になりました。  潤滑油のような役で、家族思いのとても優しい人だなあという風に思います。   今度は夏目漱石の奥様役で、「吾輩は漱石である」 井上ひさしさんがやって39年振りという事です。  漱石が修善寺で吐血するというところから始まります。   稽古が始まって難解なところは有りますが、小気味いいセリフは気持ちいいというか、なんて言ったらいいか・・・、はっきり言ってレベルが高いです。   凝縮されていて気が抜けないです。  井上先生のものはどのセリフも行間も計算されてるというか、凄いですね。  休憩を入れて2時間半ぐらいです。  

漱石が修善寺で吐血して生死をさまよって、30分間の合間に漱石の頭に浮かんだ断片的に浮かんだものが、浮かんでは消え、浮かんでは消え、といったものが芝居になっている。  細かな動きにも漱石の考えが反映されていないといけないというようなところがあります。事前に漱石の本を20冊ぐらい取り寄せて、漱石の漫画も何冊か買って読んだり、検索して調べたりして、漱石の妻の鏡子は悪妻と言われたりしているが漱石を愛していて、流産した後ナーバスになって自殺未遂という様なこともありました。  その時漱石はどこかに行かないように赤い糸を結わいていたとか、いろいろなエピソードがあります。    鏡子が書いた『漱石の思い出』は読まないほうがいいかと思ったが、途中から読んで結果的に読んでよかったと思います。   役づくりのための勉強がとても楽しかったです。  昔読んだ「心」と今読むのとでは全然違います。   年代によって発見があります。 

Eテレの「明日も晴れ 人生レシピ」の司会を担当しています。   とても勉強になり、あきないです。  楽しみながらいろんな役をさせていただきたいです。  

2022年11月3日木曜日

長野安恒(声楽家)           ・日本文化の華・唱歌を伝えたい

長野安恒(声楽家)           ・日本文化の華・唱歌を伝えたい 

長野さんは6年間のオーストリア、ウイーンのオペラ生活から日本に戻り、日本の唱歌の文化的価値の高さに惹きつけられます。  きっかけの一つは旧制高校の寮歌の指導に関わったことです。  寮歌を辿るとそのもとは唱歌にあるのではないかと思ったのです。 

「言葉と表現力を育む会」 私がウイーンから戻って来て驚いたのは,街の若いひとたちの言葉が乱暴で乱暴で心が荒れているんですね。  小学生が老人に当たって「邪魔なんだよ。」と言ったんです。   これは放っておいてはいけないと思いました。   切れる人たちを観ていると言葉を覚えたてで、伝えたいことを大人に伝えられなくて、地団駄踏んでいる子供の様子によく似てたんですね。  言葉の乱れは文化の乱れである、もっと行儀のいい言葉を使わないとまずいのではないかと思いました。  すこしでも日本語の美しさを伝えていきたいと思ってこの活動を始めました。  ウイーンから戻ったのは32年前のことでした。 

唱歌を歌って心身の健康、美しい日本語を身に付ける、礼儀正しさを身に付けるという事で出来たのが明治という事です。   文部省が礼儀正しさ、言葉を身に付けさせるために、また大きな声で歌う事で心身を健康にしようという事で教育のために作ったのが唱歌です。 志田英泉子さんがウイーンにいた頃調べて、(トーマス・アイグナー? 音楽学の博士らと)世界中の教科書のなかで、当時言葉関係の一流の人たちが集まって、子供の為に作った歌集は日本にしかないんです。  そこが唱歌の一番の特徴です。

「言葉と表現力を育む会」のメンバーでもある志田英泉子さんは聖心女子大学卒業。上智大学大学院(西欧中世文化史)、ウィーン国立音楽大学宗教音楽研究およびオペラ研究科他修了した方です。  最初に唱歌を作った時に外国のメロディーを貰ってきて、そこに日本語の歌詞を付けて行ったんです。  元の詩の内容を崩さずに日本語に変えているところが凄いです。  「埴生の宿」「庭の千草」など文化的に良く考えて作られています。   

明治14~17年に出来たのが小学唱歌。  明治43年以降に尋常小学読本唱歌が出来ています。   明治22年ぐらいに中等唱歌が出来「埴生の宿」があります。  明治35年に中学唱歌が出来「荒城の月」があります。  「旅愁」などが出ているのが明治41年中等教育唱歌。  尋常小学読本唱歌になると作詞、作曲が全部日本人なんです。  

小学唱歌には「君が代」も入っていてメロディーは外国のもので、いろんなメロディーの「君が代」があります。  「君が代」を最初に舞台で歌ったのは宝塚ではないかと言われています。(宝塚少女歌劇団)  「我は海の子」は一般公募で生まれた曲です。  7番まであって7番は軍国調になっている。  現在は3番までしかない。          「埴生の宿」はメロディーは外国のものです。    1854年4月4日(安政元年3月7日)ペリー艦隊のサラトガ号艦長アダムズが横浜を出港するときに、ミシシッピーの楽隊が日本初演の演奏したと言われている。  

「荒城の月」は瀧廉太郎の作曲になっているが、西欧、スペインでテンポは速いが同様のメロディーがあると言われる。  採譜だったのかもしれない。  当時ウイーンで新しワルツが発表されると1週間後には日本で演奏されていたと言われる。  日本音楽教育のために当時の政府がヨハンシュトラウスを先生として呼ぼうとしたが出来なくて、代わりにルドルフ・ディットリヒが来て、楽器、作曲など音楽を何でも教えた。  ウイーンに戻って宮廷付き音楽家になって、日本から持ってきたメロディーを楽譜にして出版、巡り巡ってプッチーニのところにいって「蝶々夫人」の中に5曲ぐらい日本のメロディーが入っています。  

最初にこちらから寮歌を習いに行きました。  寮歌を調べてみると、一番最初に寮歌が出来たのは明治34年です。  一校です。  明治35年に「嗚呼玉杯に花うけて」  寮歌に至るにはまず唱歌で音楽を勉強したわけです。   尋常小学読本唱歌を見ると西洋音楽の技法を学んで、日本独自の文化を作りたいという事で、プロの音楽家とプロの国語学者、言語学者で作り上げました。  

子供のころから歌が好きでいつも歌っていました。  母は63歳の時に子宮がんになり入院しました。 何もしてやれなくてギターを抱えて母のところで歌っていました。  隣の部屋からなどからも声が掛かって2時間以上も歌っていました。  歌う事で人が喜んでくれることを知って、高校2年で別の学校に行って音楽を学びました。   ウイーンに行かないかと声を掛けられ行くことになりました。   音楽の世界の楽しさを知って吃驚しました。   当時の子供はそれぞれの国の曲しか知らなかった。  日本の唱歌のレベルの高さを知りました。  

唱歌を歌っていると礼儀正しい日本語が身に付くんです。  ちょっと立ち止まって自分の心を見直す時間が必要だと思います。    一時期唱歌がバッシングに会い、教科書から減らされた時期もありました。 (唱歌がキリスト教Jの伝道の道具という事はない。)  高齢者施設に行って「荒城の月」を歌いました。  寝たきりで「あーあー」と言っているだけの人が一番を歌うと「あーあー」がピタッとやんで、二番を歌うとベッドから起き上がって、三番、四番を一緒に聞いて歌い終わった途端に「私の好きな歌を歌ってくれて、ありがとう。」て言ったんです。  音楽にこんなに力があるのかと医師が吃驚していました。唱歌は日本の宝だと思います。