2022年7月7日木曜日

宮嶋眞雄(元・映画助監督)        ・「映画のまち調布」で生きて

宮嶋眞雄(元・映画助監督)        ・「映画のまち調布」で生きて 

東京にかつて「東洋のハリウッド」と呼ばれた映画の町があるのをご存じでしょうか?   東京都のほぼ中央、多摩地区の東部にある調布です。   色々な映画会社が立ち並んだ全盛期には真夜中まで撮影の照明が煌煌と灯り町は映画関係者であふれたと言います。   宮嶋眞雄さん(79歳)は撮影所の近くで育ち、映画の町調布をよく知る生き字引的存在です。  

昭和25年に「羅生門」を作ってベネチュア国際映画祭に昭和26年に出品したら、誰も予想しなかった金獅子賞を取りました。   日本映画何て大したことはないという評価だったが、一転して凄い映画を作ってるという事になりました。  当時大映の社長がアメリカ、ヨーロッパに行って大変な人気でした。   アメリカからも人が一杯訪ねてきます。  昭和26年に「源氏物語」がカンヌ映画祭で撮影賞、「地獄門」が昭和28年にカンヌ映画祭のグランプリ、昭和28年に「雨月物語」で銀獅子賞、「七人の侍」が昭和29年にベネチュア国際映画祭で銀獅子賞「山椒大夫」が銀獅子賞。  

昭和20年代後半から30年代前半は映画の黄金期と言われています。   昭和33年の観客動員数は11億2700万人。 当時の人口が9200万人なので1人が1年間に12回映画を観たことになる。    昔のフィルムは現像所があちこちにあるわけではなくて、自分たちの敷地の中に現像所を置くわけです。   いい映画を作るという事は「一筋(台本)二抜け(現像)三役者四はなくて五に監督」と言われていた。  現像が悪いのは水質が悪い。   日本映画の父」と呼ばれた牧野省三監督が言った言葉です。  綺麗な水が調布では湧き出ていました。  風光明媚な景色が調布にはありました。  時代劇のロケにはもってこいの場所でした。  東京からの駅も近かった。   京都の東活映画がタイアイアップして映画を作りたいという事で、東活映画のカメラマンだった本多嘉一郎さん(後の調布市長)が調査のため派遣されました。(昭和7年)  水もよくて景色もいいのですぐにOKとなりました。  

僕は昭和18年生まれで、生まれた時には日活はなく大映村に変っていました。  村扱いになっていました。   スターは住まなかったが、中堅以下は村に住んでいました。  女優では浦辺さん、三條美紀さん等は住んでいました。  俳優では宇佐美淳、根上淳さん、等がいました。   大映村はおよそ7000坪あり150世帯ぐらいが住んでいて500人ぐらいいました。    試写会などこっそり観に行ったり楽しかったです。  昭和46年にはなくなってしまって寂しいです。  「旧日活大映村の会」が出来たのは60年ぐらい経ってからです。  会を作った時には40名ぐらいいました。  

6年間かけて本をだしました。  「旧日活大映村」と言うタイトルです。   児童公園のところに「映画発祥の碑」というものがあります。  俳優の手形が調布駅の東口と日活撮影所の食堂のなかにあります。 小林旭、石原裕二郎、赤木圭一郎、吉永小百合とかあります。  見学者の案内をして親しんでもらっています。  

僕は大学では映画研究会に入りました。 大学4年の時に助監督を勤めました。  久松静児監督とは時々一緒に仕事をしました。  杉江敏男監督(若大将シリーズなど)、谷口千吉監督(八千草薫さんの夫)ともご一緒しました。   調布の映画に関わった場所などの看板をいろいろ立てて欲しい。

2022年7月6日水曜日

黒川祐次(元・ウクライナ大使)      ・ウクライナへの想いと外交官人生

黒川祐次(元・ウクライナ大使)      ・ウクライナへの想いと外交官人生

1944年(昭和19年)名古屋市生まれ、1967年外務省入省、1996年から1999年までウクライナ大使を務めました。   ウクライナでの経験をもとに2002年「物語ウクライナの歴史」を出版、紀元前の遊牧民族スキタイの登場から9世紀から13世紀キエフルーシ公国、17世紀のコサックの共同体、ロシア革命時のつかの間の独立を経て、1991年にソ連からの独立に至るまでウクライナと言う豊かな土地をめぐる民族の興亡が描かれています。   今年2月ロシアのウクライナ侵攻で再び注目を集め、ベストセラーとなりました。

(20年前に出版したものがべストセラーに) 突然ロシアがウクライナに対して軍事侵攻した。  これまでなかったようなあからさまな方法で誰にでもわかる軍事侵略だったので、皆さん衝撃を受けられたと思います。   ウクライナと言う国はどういう国だろうと関心を持ったのではないでしょうか。   ウクライナは1991年まではソ連の一部でした。  赴任した後いろいろ勉強してみると、これは凄い国だなあと実感しました。  当時人口は5000万人以上、ロシアを除くとヨーロッパでは一番面積が大きい、産業面でも旧ソ連の中心地もであった、穀倉地帯である。  大国となる条件を備えていると改めてびっくりしました。  ウクライナはロシアと非常に近い国ではあるが、自分たちはロシアとは違うんだという意識が非常に強くある。   ウクライナに対する日本の情報がロシアを通じてのものが非常に多かった。   モスクワには日本の新聞、テレビ、ラジオの支局があって、ウクライナにはなくて、ウクライナで何か起こった時、モスクワを通じて日本に来る。  ロシアバイアスがかかっているという風に思って、ウクライナから生の情報が行くようにしないといけない。   以上のような3つのことで書こうという気になりました。

ウクライナの歴史を見てみると本当に今回のようなことが多いですね。  ウクライナの地形、位置が関係しているように思います。   平原の草原地帯で馬でいくらでも行ける。川も冬は凍ってしまうので馬で渡れる。  東から西から蹂躙される、と言うようなことだったと思います。   

知識がないところから本を書き始めたので大変でした。  モントリオールの総領事をしていた時にウクライナへの行く指示がありました。  カナダはウクライナの移民が非常に多いので、本屋に行くとウクライナに関する本がかなりありますので、それらを買って持っていきました。   フランス語を専攻していたので、スラブ地域に行くとは夢にも思っていませんでした。   赴任してロシア語をやるのか、ウクライナ語をやるのかと言うのは迷いましたが、結局ウクライナ語をやる事にしました。    支配が長かったのでロシア語が本来の言葉でウクライナ語は田舎の言葉だと言われてきました。    ウクライナ語でスピーチをすると喜んでくれました。    共産主義体制から自由主義体制に変ったという事で非常に多く混乱が起きました。  経済状態は非常に悪かった。   資金繰りを如何にやるかという事がウクライナ政府の最大の課題でした。   IMFからいくら融通してもらえるかと言うのが生きるための最大の問題でした。    日本はIMFの二番目の拠出国だったので盛んに頼み込んできました。   一緒に東京に取り次ぐという事が私の最大の問題でした。  

当時、ウクライナは西洋に一番近いところだったので、1/3の核兵器があったと言われています。   ウクライナが独立すると、ウクライナが1/3持つことになってしまうわけです。   出来たばかりの国に対して不安を感じたアメリカは核兵器の放棄をもとめました。   今後の経済援助などを考えるとウクライナ政府は手放すという事になりました。    核兵器に携わっていた科学者、技術者は職を失ってしまうため、よその国に行って核兵器を作る仕事に関係するかもしれない。   そういった人たちが平和的な仕事に携わってやって行けるように、と言う事が必要でした。  援助するというスキームに加わりました。

記憶に残る一人と言われると、ユシチェンコ大統領です。   私がいた時には中央銀行の総裁をしていました。   私をよく呼んでこういったことを日本に伝えて欲しいと言ってきました。  戦後の急速な日本の発展に興味を持って、是非いろんなことを教えて欲しいという事でした。   いろんな資料を渡したり、話をして親しくなりました。  その後大統領に立候補するが、毒を盛られて顔にぶつぶつが出来て真っ赤になってしまった。   私が外務省を辞めた後に、選挙監視団の団長にという事を頼まれて、キエフに行きました。 その時にユシチェンコさんにお会いして激励しました。   無事大統領に当選して、顔のぶつぶつもなくなり、元のハンサムな顔に戻られました。 

キエフは歴史のある非常に綺麗な街です。   10,11世紀ごろに出来た大聖堂、修道院があります。  クリミヤ半島にヤルタと言う街がりますが(ヤルタ会談があったところ)、帝政ロシアの皇帝の夏の離宮があります。  黒海に面した丘の上に建っていて、宮殿自体も美しいし、眺めも素晴らしいです。   そこでルーズベルトとチャーチルとスターリンが会談して、日本についての秘密条約を作ったという部屋まであります。  景色の面でも歴史の面でも非常に興味深いところです。  

ウクライナ研究会というのがあり、世界ウクライナ学会日本支部と言うのがありまして、そこに所属しています。  大使もしていたという事でそこの顧問みたいこともしています。 ロシアのウクライナ軍事侵攻に当たってウクライナ研究会として、非難声明を出して、林外務大臣のところに行って非難声明を渡して、ウクライナへの支持を訴えました。   

日本、ウクラウナ国交樹立30周年でいろいろな行事が行われるはずでしたが、中止になりました。   キエフの大学が日本についての連続講義をやりたいという事で、第一回目に私の講義をしてほしいということで2月下旬に予定していましたができなくなり、再度やってほしいとの依頼があり、録画撮りという事で行いました。

キエフルーシ公国は統一した国がなかったころに、スウェーデンあたりから人が来た人たちが来て国を建てた。  9,10世紀ごろで、キエフを中心に大きくなっていって、強力な国になって行きました。   ロシア、ウクライナ、ベラルーシの共通の先祖になった。   ウクライナは、キエフルーシ公国がキエフが中心にあったのだからキエフを引き継いでいる我々が本来の後継者だと言っているわけです。    ロシアでは、モスクワ公国が力をつけてきてある時点でルーシ(ロシア)が名乗って、キエフルーシの後を継いだのだから自分たちが本家筋だと言っている。   これは決着のつかない話だと思います。  キエフルーシ公国の言葉は一つだったが、段々別れていって、ウクライナ語、ロシア語、ベラルーシ語になって行った。   1940年蒙古がキエフルーシ公国に侵攻して滅びる。  今のウクライナの土地は、その後リトアニア、ポーランド、 その後リトアニア、ポーランドは合体して連邦のようになり、長い間支配される。   一方モスクワ公国がのしてくるという事でした。   最終的にはモスクワがロシアに変って、ロシアが段々ウクライナの土地を取って行ってロシアの国に含めてウクライナは霞んでいってしまった。  

ウクライナの草原地帯は遊牧民が行ったり来たりして、いろんな人が略奪をするという事をしていた。  ウクライナで人を略奪してクリミヤ半島からオスマン、トルコ帝国とかに奴隷として売り出すという事をやっていた。   段々無人地帯化していった。   無人地帯化すると、リトアニア、ポーランドで支配に耐えられないと言っていた人がどんどん移り住んできた。   そこでコサックと言うものが出来てくる。   主君を持たない共同体と言うところで、武力がかなりあり、非常にユニークなコミュニティーが出来てくる。   リトアニア、ポーランドが退いた後は、ほとんどのところをロシア帝国が取って行った。  ウクライナの人はコサック精神をずーっと受け継いでいたし、自分たちはロシア人とは違うんだという事で、独立したいという動きが段々強まって行って、ロシア帝国がロシア革命で潰れた時に、独立を果たした。   独立は長く続かなくて、後のソ連に征服されてソ連の一部になってしまう。

1922年に出来た憲法には 、ソ連を構成する共和国では自由に分離する権利を持っている、と書いてある。   しかしスターリンの元では中央集権で独立なんて考えられないことで、100%一地方という事でした。   1991年ソ連が崩壊、独立できた。      戦後日本人抑留者4000人ぐらいがシベリアからウクライナに送られていた。   ドンバス地方に収容されて道路工事などの強制労働に従事させられていた。   

本の最後に、ウクライナの将来性と重要性について、ウクライナが独立して安定しすることが、ヨーロッパと世界の安定にとり重要である、中、東欧の諸国にとってはまさに死活の問題であると書いてあります。   まさかこんな形で表れてくるとは思ってもいませんでした。  ウクライナは大きな国で力もあるわけで、それがロシア側に入るのか、西洋側に入るのかで、双方の力関係がかなり変わって来る。   

外国に赴任すると早くその国のことを勉強しないといけない。  歴史を勉強することは迂遠な様で一番いい方法だと思います。  外務省に入ってフランス語を専攻したので、まずフランス、次にエジプト(ナセル大統領時代)、一旦東京に戻る。 その後2,3年単位でいろんな国に行きました。     外交官の資質と言ってもいろいろあると思いますが、国のために働くと言う事は当然やることですが、同時に国際的なことに対しても働くという、両方が要求されると思います。 



 


2022年7月5日火曜日

松岡希代子(美術館館長)         ・世界の絵本を原画で楽しんで

 松岡希代子(美術館館長)         ・世界の絵本を原画で楽しんで

1961年東京生まれ、女子美術大学、千葉大学大学院を卒業後、板橋区立美術館の学芸員となり、去年の春から館長兼学芸員となりました。   イタリア北部のボローニヤでは出版業が盛んで、1964年から児童書のブックフェアが開催され1967年から国際イラストレーター展が始まり、絵本の原画を展示するようになりました。  この展覧会はまだ出版が決まっていない原画でも 応募できるコンクールで この春は92か国過去最多の4000件近い応募がありました。   ボローニヤ国際絵本原画展が最初に日本に紹介されたのは1976年西宮市大谷記念美術館で、その後板橋区立美術館が中心となって日本各地で巡回展が行われています。  原画展は今年も6月25日から板橋区立美術館で開催されています。   絵本原画展の面白さ、原画の魅力などを語ってもらいます。

高校1年の夏休み明けのころ学芸員になりたいなあと思いました。  幼いころから絵を描いたり工作することが大好きでした。  女子美術大学付属高校に進みましたが、周りの人が上手で自分の絵は魅力的じゃあないという事に気が付いて、学芸員と言う仕事を教えてもらいました。  学芸員の資格がとれるコースを大学で専攻するという事で選びました。   女子美術大学の後、千葉大学大学院へ行き、卒業後板橋区立美術館の学芸員となりました。  学芸員は空きがないと募集がありません。   

母が旅行が好きで、高校時代に海外旅行に連れて行って貰いました。  最初がローマで感動しました。  キリスト教美術に興味を持って、そういったものを勉強したいという気持ちになりました。  大学では美術史を学び、ヨーロッパの美術館を沢山見てやろうと思って予備知識を蓄えて、大学3年の時に2か月間独り旅をしました。  ボローニヤは私の第二の故郷です。    森泉文美さんという有能なコーディネーターとボローニヤで出会って一緒に仕事が出来て助かっています。   30年の付き合いです。  

絵本の原画展は世界的にも珍しかったです。   ボロ―ニヤチルドレンズブックフェアという子供の本専門の見本市がありますが、1964年にスタートしています。  ビジネスの場ですが、壁面が寂しいので絵でも飾ったらいいんじゃないの、と言うところから始まったそうです。  絵本の原画を飾ることから始まり、コンクールが行われるようになりました。 作家と編集者を結び付ける役割が出来大きくなっていきました。      

西宮市大谷記念美術館が絵本の原画展を日本で初めて行いました。(1976年)  好評で絵本の原画展に注目し始めました。   2年後にボロ―ニヤの原画展をに西宮でやるようになりました。  1977年にはいわさきちひろ絵本美術館が開館。  絵本文化が広まった時期でした。  西宮市大谷記念美術館がボローニヤ原画展を始めたのが1978年で、板橋区立美術館がオープンしたのが1979年で1981年からボローニヤ原画展を開催しました。  1989年に西宮市大谷記念美術館がリニューアルすることになり、2年間閉館することになり、板橋区立美術館が幹事館になることを依頼されました。   私が担当することになり1989年にボロ―ニヤに出張しました。  

絵本原画を5点一組にしてボローニヤに送ると、出版、未出版関係なく無料で審査します。 審査員が変り5人で国籍が違う事という様になります。   審査員のチームを作るのが大変です。  

観る人が様々な絵の中から読み取ってお話を感じる絵という事だけで魅力的で、原画で見ると技法とか、作家の手の跡を感じ取れることができる事も魅力的です。  ボローニア原画展は絵本作家になりたい人が集まってくる場なので、背中を押されるような場になっていると思います。  「くっついた」と言う絵本を出版した三浦太郎さんはまずボローニヤ原画展で入選して、そこから絵本作家になっています。  

コロナではイタリアは大変厳しい状況でした。  2020年1月にイタリアに行ってきました。  イタリアではその後急激に悪化して、ボローニや原画展も中止になってしまいました。  翌年も中止になってしまいました。   それを日本に持ち込んで開催できました。  イタリアのボローニヤ原画展はオンライン方式で行う事になりました。  今年はオンライン審査2回目で、一次審査を通ったものを審査員がボローニヤに集まって審査することが出来ました。 

 ワークショップ、講演会とかアクティブなことを併せてやっています。  世界100か国、3万冊、70言語の絵本が板橋区中央図書館に置いてあります。 ボローニヤで行われるブックフェアで集まった本の中から毎年寄贈してもらっています。  1階は全部子供の本で半分がボローニヤからの絵本です。   





    

2022年7月4日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】平岡直子

 穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】平岡直子

平岡:季節の言葉を歌にいれるのは好きです。  それは自然と親しむみたいな感じではなくて集団幻覚みたいな気持ちで感じているからかも知れない。  みんなで夏という幻覚を見ているから夏があるみたいな。    

穂村:俳句では季語があるが、戦争を詠った俳句の名句には季語がない句があって、不思議だったんですが、季節を殺してしまっているものと言うか、戦争と言う集団幻覚を見ると、通常のノーマルな季節が消えてしまう。  集団幻覚説はリアルかもしれない。  

平岡:冬が好きで寒ければば寒いほど好きです。   東京の夏は暑すぎると思います。   春は苦手で秋は好きです。  春は芽吹いて来る力強いが、あの感じが結構怖くて、自分が生命体としてみたいな気持ちになります。  秋は生き物が弱ってゆく季節だから、この中だったら戦っても生き延びられるみたいな感じがします。  体質的に暑いのが苦手で、それに加えて夏の精神性は好きじゃないので、青春みたいな感じのもの。

夏の名歌を選択 

「赤き花抱きよぎれる炎天下いくたびか赤き花のみとなる」(選、平岡)   葛原妙子

平岡:大きい花束を抱えて歩いているところだと思いますが、その姿を上から見降ろすような目線があって、花を抱いているはずの自分がふっと掻き消えるようなそういう感覚が歌われている。  炎天下がポイントかと思います。

*「蝉みたいにかなしいにおいの軟膏を首筋にぬる八月六日」(選、平岡)   東直子

平岡:8月に原爆が2回あって、終戦があり、お盆があり死者とか命とかに想いを馳せる機会が多くなる季節だと思います。  広島の原爆投下の日がはっきり書き込まれていて、そのイメージで作られている歌だと思います。   蝉も短命のイメージがあります。 本当は命は危ういものだと感じている。                         穂村:蝉は音のイメージがありが、匂いで捉えるというのは珍しい感じがして、でもなんとなくわかる。  五感のうち嗅覚と触覚で、この組み合わせの歌は珍しいと思います。

夏は来ぬ 相模の海の 南風に わが瞳燃ゆ我こころ燃ゆ」(選、穂村)    吉井勇

穂村:ベタな夏の青春みたいな感じですが、時代そのものが青春みたいな、作者の青春とダブっているというか、今の人間はここまでストレートに夏を捉えることは難しいと思います。                                       平岡:青春なんですかね、自分の確かさ見たいな力強さを感じました。            穂村:この時代の人は生命の肯定みたいなものが凄くありますね。

「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」(選、穂村)  与謝野晶子

穂村:当時不遜な、下品なというようなことで、この歌はめちゃくちゃ叩かれたんですが、僕は輝いていると感じますね。   人間賛歌ですよね。                         平岡:言い方が挑発的でないというか、シャアシャアと言っているところが器の大きさを感じます。

*「学年のなくなりて後夏はただ夏と呼ぶしかない一続き」(選、平岡)  永田紅

平岡:夏休みというくくりを失った後の目線で、夏休みと言う区間がどれだけ輝いていたかと言うようなことを振り返っている。                         穂村:社会人になるとくくりと言うのがなくなり、1年ごとのくっきり感が消えてしまう。

「夏が嫌いな平岡さんは夏生まれ夏が来るたび我は思うも」(選、平岡)  花山周子

平岡:ここに出てくる平岡さんは私のことで、自分の歌を持ってきてしまいました。   読むと安心します。                                穂村:夏が好きなという風になってしまうと、全然いい歌ではない。  

雲はいまネオ夏型ひかりして桐の花桐の花やまひ癒えたり」(選、穂村) 宮沢賢治

穂村:ネオ夏型という気象用語、科学的な専門用語だと思いますが、この短歌に投げ込まれたとたん、物凄い輝き、眩しさを感じる歌ですね。 何故宮沢賢治はほかの作家には書けなかったようなものが書けたのかを、或る宮沢賢治研究者に聞いたたことがありますが、「賢治は文学を文学としてだけ捉えていなかったからじゃないか」と言っていました。  宗教や農業や科学などに凄く関心があった。  複数の星座のような彼の関心のなかに文学もあって、ただ文学に関心を持っているだけでは、このネオ夏型と言う言葉は出てこないという風に思いました。   

花もてる夏樹の上をああ」がじいんじいんと過ぎてゆくなり」(選、穂村) 香川進

穂村:時そのものが歌われる歌は珍しいと思います。  この短歌の背景には昭和20年の夏という事がある。   戦争が終わって時間が動きだし、季節がよみがえったというような歌だと思います。                                平岡:時を詠う事は難易度が高いと思いますが、上手く行っていて、生命力のある有限な時みたいなものを連想させるところを上手く使っているのかなあと思います。  昭和20年に作られた歌という事を知って、凍っていたものが解凍された瞬間みたいな印象を受けました。   

「青い舌を見せ合い笑う八月の夜コンビニの前ダイアナ忌」(選、平岡)   山崎聡子

平岡:学生時代の光景かなと思いますが、夏特有の湿度が伝わってくる感じがあって、雰囲気のある歌だなあと思います。  自分たちにとって青春の一コマであるある時間が、誰かの忌日であるという、キラキラ感と後ろ暗さ、コンビニの前とダイアナ忌の組み合わせもいいと思います。

リスナーの作品

*「こんな日はただ眠りたいカンガルーのお腹のポッケに深く沈んで」  多治見千恵子

*「私お風呂明日入るわと言う友と旅行するのが一番気楽よ」      佐々

*印は短歌の漢字ひらがな等、名前も違っている可能性があります。


  


2022年7月3日日曜日

冨永み一な(声優)           ・【時代を創った声】

冨永み一な(声優)           ・【時代を創った声】 

アニメ「サザエさん」の磯野カツオ役でお馴染みです。  5歳のころに子役として映画デビューし、海外ドラマ大草原の小さな家』の3女のキャリー役で声優デビューしました。  アニメあらいぐまラスカル』のアリス役や「アンパンマン」のロールパンナ役やドキンちゃん役など多くの役を演じています。   

最近着付けを習うようになって着物を着てきました。(ブラックジーンズ)  帯は紫の白い刺繍。  出身は広島(生まれ)  両親は福岡出身です。  3歳ぐらいには東京に移っています。   5歳の時に母に連れて行って貰って、オーディションに受かって、映画「鯉のいる村」に出演することになりました。(1971年)  原作:岩崎京子   6歳の時に劇団こまどりに入団、以後ずーっと仕事をさせてもらっています。   テレビドラマお嫁洋画のアフレコで、子役の人を当ててみたらどうだろうという事になり、本当の子供で本当の子役がと言うはしりなんですね。  NHKで生ラジオドラマを体験しました。   全部効果音を生でやっていました。   間違えられないし、間違っても前に進まなければいけないという環境でラジオドラマをNHKでやらせて頂きました。   洋画で大草原の小さな家「禁じられた遊び」「ベンジー」「サウンドオブミュージック」などの作品を中度やらせていただきました。  大草原の小さな家』では3女のキャリー役でした。  

勉強が第一という先生でした。  当時が今の自分を作ってくれたものと思って先生には感謝しています。   仕事の約束が優先するので、友達は複数にして迷惑が掛からないないようにするとか、部活も週に一回の部活にするとか、スケジュールを空けるような工夫をしました。   大学が芸術系の大学だったので、こういった仕事を目指している方が多くて、実技が多い大学だったので、丁度仕事が多くなってきてしまったので単位を取るのが難しくなってしまって、大学は中退しました。    楽しく忙しかったので20代を駆け抜けましたね。   ラジオ『アニメトピア』のパーソナリティとしてDJデビューしました。  

1989年から「サザエさん」の伊佐坂浮江さん役、同級生の早川さん等を担当、カツオ役の高橋和枝さんが体調を崩してしまい、1998年からカツオ役を引き継ぎました。   声は違ってきてもカツオの性格が変わらないようにと言う風に思いました。  カツオくんは意地悪なのではなくて、いたずら好きなんです。  でもここの線は難しいですね。  25年前で、自分でもびっくりします。   自分の頭のなかに正解な声があり、マイクの前に立ってこえを出した時に違うという思いが出てしまい、周りからは大丈夫と言われても、自分では違うように感じて、それを乗り越えるのに苦労しました。   

週に一回あんな元気な子に会えるんだなあと思って、私も元気でいますねという事と、「サザエさん」は年齢が変わらないので、離れないようにしていきたいです。   大先輩に囲まれて仕事が出来ているので、仕事への気概などを観させてきていただいたので、財産になりました。   大きく体調を崩したことはないです。    2人の子の出産をしましたが、その時には辞める覚悟でいました。  出産の二日後に行きました。  子供の敏感なところはあります。 感受性は凄いですね。  

作品が誰かのところに届いているというのは、なんか嬉しい事です。   最近、生き方が多様性になった分、声優さんを見ていて自分にこだわって良い時代じゃないですかね。  いろんなことにチャレンジして動いてみるのがいいかなと思います。  ラジオは今一人で聞いている人が多いと思うんです。  何かしらああそうかと思ってくださることが続けばいいなあと思います。   声を出してみると自分の気持ちがちょっとわかったりするときがあるんじゃないかと思います。    






2022年7月2日土曜日

角谷勇圭(金工作家)          ・【人ありて、街は生き】 茶釜作りの伝統を引き継ぐ

角谷勇圭(金工作家)       ・【人ありて、街は生き】  茶釜作りの伝統を引き継ぐ 

1942年(昭和17年)生まれの角谷さんは鋳物の制作、とりわけ茶道で使う茶釜の制作に長年取り組み、高い技術を持っていることが評価されて、去年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。   茶釜を作るうえで大事にしていることや、今も尊敬の念を抱く、同じく人間国宝だった父への思いを聞きました。

型が土で,粘土、砂などで作っているので、馴染むように土間になっています。  鉄を溶かすところもあり窓を開けてあってもは40℃ぐらいになります。   直径30cmぐらい、高さが20cmぐらいの茶釜があります。   草花の模様などが施されています。  思ったよりも軽いですが、使い勝手がいいように薄く作ります。   鐶付(かんつき)(釜の胴の両側に付けられた、釜を持ち上げるときに釜鐶(かまかん)を通す孔を開けた耳のこと)はどういうものにしようかと苦労するところですが、この釜は水鳥、カワセミをモデルにして型に付けました。   夏用なので涼しそうに作ります。   釜のデザインは以前は釜の肌が粗くてごつごつした感じが主流でしたが、父の時代からきめ細かい肌になり、絵もシャープな感じになりました。   昔は無地が多かったです。  

弾力性のある鉄のへらで絵は作り上げます。  シャープな感じにはもってこいです。   ヘラ自体は自分で形作ります。  ヘラの種類は増えていきます。  40~50本あります。   平たいヘラは笹ヘラと言います。    細いものは線を表します。   ステンレスなので滑るから手に持つところは銅線で巻いて滑りにくくしています。   葦が斜めに下から1/3ぐらいのところから3本生えていて、釜の口のところまで来ています。  そよ風の雰囲気が出るように表現しています。   曲面なので考えながら作ります。 庭には葦等も植えて参考にしています。   木型に押し付けて滑らして細くして行く事で葦の先までの表現をしています。   

 鐶付(かんつき)は粘土に彫刻します。   70~80本ぐらい彫刻するものがあります。鐶付(かんつき)は鳥も、鷺、鶴、雁とかいろいろあり、動物も兎とか、バッタなどいろいろあります。  抜き種と言いますが、柔らかい粘土を被せて型取りして、粘土から抜くわけです。   焼いて釜型にしつらえます。   鐶付(かんつき)は苦労しますが、釜の一つのポイントになります。   車は茶釜の表面のデザインの参考になります。  古いものと新しいものとを行ったり来たりさせることによって、頭を柔らかくします。

父の仕事は小さいころから見ていました。  大きくなってくると父の手伝いに行きました。  ごく自然にこの道に入りました。  父はああしろこうしろとは厳しくは言いませんでした。   じーっと見ていると技はこちらまで伝わってきますね。  人間国宝を父に持つという事はどうしても比較されるので、非常に悩みました。   父は日展を目指していて、入選するためには昔通りのものを作っていては通りませんから、新しい昭和の時代の釜を作るために、本とか、美術館に行って勉強しました。   父は研究心が凄かったです。   新しいものを作って行こうと常に考えていました。 

去年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されましたが、責任を果たせるかどうか心配をしました。   まだとても父の力には及びません。  父は80代でも仕事をしていましたので、見習いたいとは思います。   

鉄は使えば使う程味が出て来ます。  しょっちゅう使っていると艶が出て来ます。  愛着をもって使っていただけると釜も喜びます。  松籟(しょうらい 松風のそよぐ音)と言って、音響的な効果もあります。   沸いて来る音色がいろいろ変わってきますので、響きが出て来ます。   話題になるような釜も作っていきたい、線も繊細で大胆な釜を考えています。  








2022年7月1日金曜日

木野花(俳優・演出家)         ・芝居熱、いまだ冷めず!

 木野花(俳優・演出家)         ・芝居熱、いまだ冷めず!

1948年(昭和23年)青森県生まれ、弘前大学教育学部美術学科卒業後、中学で美術の先生になります。  その後教師を辞め俳優を目指して上京、1974年女性5人で劇団「青い鳥」を結成し、当時の小劇場ブームの代表的存在になりました。   1986年に劇団を退団、その後は俳優として演出家として活動しています。    2013年には連続テレビ小説「あまちゃん」に出演しています。  

コロナ禍でしたが、渡辺えりさんと早い時期にお客さんを半分いれて二人芝居を始めました。   気をつけなければいけないことは全部やりました。   緊急事態宣言でストップをかけられたりしました。   丸々全部やれた公演はないです。    稽古が出来て良かったとか、初日を迎えられてよかったとか、或る意味芝居を新鮮に感じました。   

小、中、高校のころまで相当暗かったです。   私が5歳の時に親が離婚して、母親に育てられました。   母は働かなければいけないので、割とほったらかされました。   友達もあまりいませんでした。    中、高校のころ日本文学全集と世界文学全集を毎月3冊送られてきて、本を読んでいました。   大学に行った時には母親との暮らしが別れました。  そこで母親に対する執着みたいなものが吹っ切れました。   美術学科は自由でしたので、自分を解放できました。(友達と酒を飲んだりしていました。)    教師になりましたが、学生時代の時間感覚がすぐには直らず、朝中々起きられなくて、神経性胃炎、片頭痛、低血圧でダメージがありました。  3学期ごろに病院に行ったらストレスだと言われました。   環境を変える事が必要だと言われて、すぐやめました。   職員同士の会話とか付き合いが大変でした。   辞めようと思ったら、片頭痛が治りました。   

当時アングラが全盛で、劇団に入ろうとしましたが、劇団を回っても私が入れる劇団はないなと判りました。   養成所で勉強をしている間にそこの人たちと旗揚げすることになりました。  女性5人でした。(青森でも養成所でも男尊女卑の雰囲気がありました。)   1974年に女性5人とともに劇団青い鳥を結成し、一回目の公演でも黒字になりました。    お金も溜まって公演も長くなっていきました。    楽しいことの方が多かったですね。  誰にも遠慮することなく、誰からも嫌なことは言われずに、好きなことが言えて、作れて、そういった環境は本当に楽しいものなんだなと思いました。   「青い鳥」で12年やって、演出もやってみたいと思って、辞めて演出の道に進みました。   

女性の脚本家、演出家も増えてきました。  渡辺えりさん、如月小春さん等が当時出て来ました。    演出家としては面白かったけれど、役者としてはしばらく自信がなかったですね。 ターニングポイントになったのが劇団「新感線」の花の紅天狗』の月影花之丞と言う役でした。  目の回るような課題が出まして、こんがらかって段取りを間違えてしまったりしましたが、何とか終わることが出来ました。   しかし、これは駄目だと思いました。  芝居を辞めるかどうか考えて、48歳でしたが、声の勉強、身体を鍛えるというような役者修業を始めました。   55歳の時には花の紅天狗』の再演があり、歌も踊りも増えて、さらに難しくなって、まだまだだと思いました。  辞めるのが悔しくてもうひと頑張りしようと思いました。   新人になったつもりでもって辞める覚悟で本気でやろうと思いました。  演出をやる時には左脳をフル回転、役者をやる時には右脳をフル回転させるという感じでやっています。   

「阿修羅のごとく」という向田邦子さんの作品がありますが、向田さんは非常にアナーキーな人だと思います。  「阿修羅のごとく」を見て、ドラマの枠(お茶の間的な枠)を越えてきたものだと思いました。   4人姉妹の父親が浮気をしたことからドラマは始まるが、それぞれが問題を抱えていて、不倫をしたりとかあり、めでたく終わるというようなことはなく、非常にリアルでこういう書き方もあるんだと思いました。   戯曲を読んだらセリフが凄くよくて、ストーリーも面白くて、名作だなと思って、舞台化することはできないだろうかと思って、挑戦してみようと思いました。   キャストの皆さんにはよく引き受けてくれたなと思って感謝しています。  セリフをあまり大事にし過ぎないようにと思いました。   




2022年6月30日木曜日

観世清和(二十六世観世宗家)      ・コロナ禍で能が果たす役割

 観世清和(二十六世観世宗家)      ・コロナ禍で能が果たす役割

観世能楽堂が移転してから5年になります。  あっという間の5年でした。  コロナ禍で芸道に携わる人もどうしても気持ちが下がってしまいます。    下がらないように立ち止まって振り返ることも大事ではないでしょうか。   日々の稽古の積み重ねが第一です。   古典に世界は反復が必要です。   公演が延期に成ったり、無くなったりする中でも、時間を区切って稽古に打ち込むことは大事で、繰り返し行うための忍耐も大事です。    他ジャンルと違うのは600数十年の歴史の中で、勧進と言う言葉がありますが、戦乱で神社仏閣が倒壊してしまったり、伝染病で多くの尊い命が奪われ、そうした時に積極的に能楽師は勧進の場を設けて、御浄財をあつめ、頂いた御浄財に対して、自分の芸をご披露申し上げる、頂いた御浄財を戦乱や自然発生的な災害に困っている方々に喜捨をしてゆく。   根底にあると言うのは能者供養は全編に流れているわけです。   地獄へ落ちてしまった亡者の彼が生きていた時の一瞬の人生の輝きみたいなものを、もう一回地獄から子の舞台に上げてあげて、開花させてあげるというのが世阿弥の優しさだと思います。    人間が自然界で生きてゆくための糧と言うか、大和心と言うんでしょうか、そういう心を感じてもらいたいと思います。

コロナ禍前は土日は舞台、平日も夜の催しもあるし、申し合わせといってリハーサルも平日の昼間に入って行きます。  従ってお能と離れる時間が少なかったです。   伝書の整理などもしていました。   先祖の人たちの苦労も判るわけです。   魂を削って稽古をして江戸城へ向かって将軍様に披露するわけです。   洗練されてとにかく余計な贅肉を取って行って、研ぎ澄まされた世界における、辛さ、苦労があったわけです。  それがあったからこそいま僕たちが生かされていると思います。  

国立能楽堂で行われる「賀茂物狂 (かもものぐるい)」の企画の目的ですが、「賀茂物狂」という演目は私どもの流儀にはありません。  「賀茂物狂」を復活上演するというのが今回の主眼です。 京都の上賀茂神社が現場になるわけです。  謡いだけ後半に独立してあり、蘭曲として伝わっていました。  私も聞いたことがありません。   復活初上演となります。    「賀茂物狂」は世阿弥の娘婿、金春禅竹の作であろうと言われています。

東国へ行ったまま戻らない夫への想いを断ち切ろうと妻は上賀茂社を訪れますが、賀茂の神職は「逢瀬を祈るべし」との神勅を渡します。やがて帰洛した夫は妻が行方知れずとなったことを嘆きつつ、祭礼で賑わう上賀茂社へと赴きます。するとそこには物狂となった妻の姿がありましたが、再び仲睦まじく暮らすのだった。)

リアリティーが要求されます。  

世阿弥が五番立てで、「神男女狂鬼」と言う言葉を残しています。  江戸時代、能は1日かけて五種類の演目が上演され、神・男・女・狂・鬼と演じる順番が決まっていました。

7月上旬に「熊坂」と言う演目を行います。   63歳でやるわけですが、63歳になっても若々しく観世清和はやるんだよという事を見せたいなと思っています。(熊坂は舞台を縦横無尽に動き回り、義経との奮闘ぶりが舞台いっぱいに表現されます。)  人間は老いていきますが、工夫をして人に見せたり聞かせたり、稽古をしてゆきます。  人々の心に寄り添う事が大事です。   翁のように「天下泰平 国土安穏」は素朴な祈りですが、素朴な祈りだからこそ先人たちが大事にしてきたことだと思います。   先代が「どんなに悲劇であっても、どんなに悪人を演じようとも、品性を失ってはいけない」、とよく言っていました。  

2022年6月29日水曜日

鳥生千恵(ボランティア団体代表)    ・【心に花を咲かせて】 アンネ・フランクのバラを育て平和を学ぶ

 鳥生千恵(ボランティア団体代表)    ・【心に花を咲かせて】  アンネ・フランクのバラを育て平和を学ぶ

区立高井戸中学校は「アンネのバラ」の中学校として知られています。   バラの名前のルーツになったアンネ・フランクは第二次世界大戦中、ドイツ軍によって迫害されたユダヤ人の少女で世界的に有名なアンネの日記の著者です。   中学校にアンネの父親から送られてきたのは46年前のこと。   今はその数を増やして学校や生徒そして地域の皆さんが協力して、「アンネのバラ」の管理に当たっているそうです。   

バラ公開をしましたが、4日間で800人ぐらい来てくれました。   最初の蕾が赤で段々と鮮やかなオレンジになって開いて、色が薄くなって黄色っぽくなり、最後に花びらの縁からピンクにワーッと出て来ます。  4回楽しめます。  数えたら226株ありました。  

50年前に小林桂三郎と言う国語の先生が「アンネに寄せる手紙」という感じで作文を生徒に書かせたそうです。   文集にしてアンネのお父さんのオットーさんに送る事になりました。  そこから交流が始まり、「アンネの形見」と言うバラが出来たらしいという事を知り、目に見える平和のシンボルとしてバラを中学校に植えたいと生徒が言ってきました。   オットーさんの交流のある大槻道子さんが知らせてくれて、直ぐにバラを送ってくださいました。  10株送ってもらって大槻さんが植えてみたら1株しかつかなかった。  次の10株のうち3株を高井戸中学に送られることになり、生育が難しいので、都立農業試験場にあずかっていただき、元気に生育した状態で高井戸中学校に6月12日に送られて、育て上げられました。   6月12日はたまたまアンネの誕生日だったそうです。  その3本が増えていきました。   

3年後に育成が難しくなり、専門家の助けが必要になり、四国の松山で相原バラ園を経営している相原さんが来てくれました。  相原さんも平和への願いの強い人でした。    枝を何本か持ち帰って挿し木とかして、翌年には30株に増やして届けてくれました。  20株を高井戸中学校、5株を神代植物園、残りを近隣の小中学校へ寄贈したと聞いています。 相原さんは全国の学校が欲しいと言うと、無償で3株づつ送ってこられたそうです。   その数は1万株になるのではないかと言われています。  相原さんは数年前に亡くなりましたが、この貢献は大きいと思います。    

生徒は3年で卒業してしまうし、先生も移動があり、バラに対する関心もなくなることになってしまいました。  1996年、7年の2年間は校舎の改築があり、バラの消滅の危機に陥りました。   その時に職員の三浦さん、小林さんが敷地のはずれにアンネのバラを発見しました。    その数株をお二人が挿し木などで増やしていきました。   最初は100本挿し木をして1本しか育たなかったが、凄く勉強したり、相原さんに問い合わせしたりして100%育てられるように腕を上げたそうです。    改築2年後ぐらいには200株に増えたそうです。   モニュメントも作られ今ではバラが高井戸中学校のシンボルになっています。   

2004年に三浦さん、小林さんが一緒に移動することになりましたが、当時はお二人がバラの整備をしていました。   理科の先生が移動で入ってきて、バラの由来を知って、これは生徒自身がバラに関わるようにしようという事で、PTA会長の横山さんが子供たちだけでは厳しいという考えで、継続的に守ってゆくためには地域のグループを作って守って行こうという事になりました。   子供たちのグループと地域のグループが出来、今に至っています。  

アンネの日記を読んで感銘を受けた園芸家のヒッポリテ・デルフォルヘさんが作り出したバラで「アンネの形見」と言う名前を付けて、父親のオットーさん、そのバラに関わったいろんな人たちの思いが凄く重要です。  そういったところを生徒は学んでほしいです。  高井戸中学校では道徳の授業があり、一人一人が平和の大切さを思うこと、ばらの継承など、いろいろな感想が出て来ます。   

「アンネのバラ・サポーターズ」を18年継続してきて、年々大事なバラだな、いいバラだなあと思います。  人がバラを繋いできて、いま新たにバラが人を繋いでいる、それが感動的です。  平和は大事だなあとつくづく感じます。   




2022年6月28日火曜日

川口ユディ(フリージャーナリスト)   ・日本の温泉交流で得たものは

 川口ユディ(フリージャーナリスト)   ・日本の温泉交流で得たものは

ハンガリーのブタペスト出身、ヨーロッパの温泉大国と言われるハンガリーから来日したユディさんは温泉大好き。  これまで北海道から鹿児島まで200か所以上で日本の温泉を堪能、恵まれた自然の中で露天風呂や共同温泉に浸かり、会話を楽しみその土地の暮らしや人の魅力を感じると言います。   川口ユディさんに日本の魅力や人々との触れ合いから見えてきたことなどを伺いました。

ブタペストは「ドナウの真珠」と呼ばれる美しい町で温泉も沢山あります。  地面が薄いために掘るとマグマに近づく、100m掘ると5℃上がり、簡単に見つけられる。  ハンガリーはヨーロッパの温泉大国と言われます。  病気療養で温泉に行きます。   医師からあの温泉のあのお湯で1日3時間入ってくださいとか言われて、全部保険付きです。  病院みたいです、だから小さい時には温泉に行ったことはないです。  町を歩くと飲める温泉があります。   温泉はハンガリー人にとっては大事なところです。   

日本に来て温泉にはまってしまったのが、秋田県の乳頭温泉です。   ブナ林が凄いです。  乳頭温泉の色も白くて凄いです。  日本の温泉は硫黄の匂いとかして面白いと思いました。  濁り湯が多いです。  乳頭温泉は20回ぐらい行きました。   主人と私と犬2匹を連れて旅をしていて、データを持っているのが225か所です。   2010年から記録をつけ始めました。   東日本大震災があって東北の温泉地はお客様が減ってしまって、応援の意味でも、東北の温泉はたくさん行きました。   

ハンガリーの映画学校で学び、アメリカ、イリノイ州立大学の視覚部芸術学科を卒業。   エミー賞を受賞した子供テレビ番組「マジックドア」の製作スタッフとして活躍。   日本に来てNHKの国際放送でリポーターしたり、報告したり、英字新聞のコラムニストとして20年以上各地を取材。    地方に行くと高齢者に会う機会が多く、年寄りからいろいろ学んで、礼儀正しい生き方を学んで、そういうおばあちゃんになりたいです。   日本はどこへ行っても道がしっかりしていて、安全だし、コンビニはあるし、綺麗な国です。 

毎日がハプニングです。  犬を連れてゆくので日帰りが多いです。   車で行って何泊もするときもあります。   93歳で農業をやっているおばあちゃんとも話をしたりして、いろいろなことを語っていただきました。   おおらかですし、勇気を頂きました。 日本での裸の付き合いが出来ました。      ハンガリーの温泉では温度差が低いから水着を着て泳ぐようなところが多いので、日本のような裸の付き合いはないです。  

共同浴場では200円、300円からは入れて高級な旅館でも入浴だけだと1000円ぐらいではいれて安いです。   共同浴場では個性があり面白いです。   同じ街でも違う温泉で、信じられないほどタイプがあります。    共同浴場も段々なくなる傾向があります。    世界ではどこに行きたいかと言うとみんな日本です。   日本ではその街でしか食べれないものとか飲めないものが沢山あります。  ですから温泉に行く旅が楽しい。   景色、歴史も楽しいです。    

高齢化で旅館などの跡継ぎがいなくて無くなってしまう事もあり、コロナ禍で経営が苦しくなってやめてしまうところも結構あります。   外国人向けのホテルよりも古い旅館がいいです。   不便なところもあるがそれが楽しいです。   日本の地方の良さは全世界の皆さんは感じると思います。   山も海もヨーロッパとは違うし、そのままの自然だけで楽しいです。   今迄行った温泉にもまた行きたいです、だから終わりがないです。  はまってしまって人生は温泉です、みたいな感じです。   

日本人は働き者です。  今の日本を復興させたのは、今の年寄りで、日本の宝物は年寄りだと思います。   疲れた身体を温泉に入って疲れを取る、そして日本の宝物に会いたいから温泉に行くというような感じです。  


2022年6月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】 夏目漱石

 頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】  夏目漱石

以前正岡子規を放送した時に、友人としての漱石に触れましたが、今日は夏目漱石自身の絶望名言を取り上げます。  

参照:https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/09/blog-post_23.html

「呑気と見える人々も心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。」  夏目漱石

代表作は『吾輩は猫である』『坊つちやん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』などがある。  生まれたのが1867年(慶応3年)で明治元年の前の年。  亡くなったのが大正5年(49歳)。   小説家としての活動は10年間ぐらい。   もともとは学校の英語の先生で、当時の中学、高校、そして東大の講師になる。  小説家としてデビューするのが37歳。   デビュー作が吾輩は猫である』。  僕( 頭木)は一時期目が見えなくてインターネットで老年の女性の吾輩は猫である』の朗読を聞いたことがありますが、22時間でした。  漱石は吾輩は猫である』だったら、もっといくらでも書けるという事でした。  漱石の妻の証言では、吾輩は猫である』を書いている時にはすごく楽しそうだったと言っています。   

「呑気と見える人々も心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。」 この言葉も吾輩は猫である』の中にあります。 (猫がつぶやく言葉です。)    

漱石は小さいころは親の愛情に恵まれなかったという事はあるようです。  8人兄弟の末っ子で、父親は51歳、母親が42歳の時の子供です。  あまり大切にはされなくて生後間もなく里子に出される。   その後養子に出されるが、養子先の夫婦がもめて離婚になって、9歳の時に夏目家に戻る。   実父母はおじいさん、おばあさんと教えられていて、父親母親だとは知らなかった。    教えてくれたのが家政婦でそっと教えてくれた。   21歳までは夏目ではなく、塩原という養子先の苗字だった。   僕 頭木)も末っ子で養子の話があり、寂しかった記憶があります。   

「思いがけぬ心は心の底よりいでくる。 容赦なくかつ乱暴にいでくる。」   夏目漱石

「人生」と言う題名の随筆の一節。  思いがけない心は他人の心からも、自分の心からも出てくる。   他人は油断ならないし、自分も油断ならない。   漱石が47歳の時に書いたこゝろという小説がありますが、おじさんからお金のことで裏切られて凄く傷つきます。   ところが自分自身も恋愛のことで友達を裏切ってしまう。  「自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。  人に愛想をつかした私は、自分にも愛想をつかして、動けなくなったのです。」と書いてある。   僕 頭木)は中学生の時にひき逃げをされて、相手が逃げるのはわかるが、自分の方も逃げたんです。  何故か轢かれたたことを隠そうとした。  未だにそれが判らない。   自分には怪我はなかったが、自転車がぐにゃぐにゃになり判ってしまった。 

「ちょうどその晩は少し曇って、から風がお堀の向こうから吹き付ける非常に寒い。  神楽坂の方から汽車がヒューっと鳴って土手下を通り過ぎる。   大変寂しい感じがする。  暮れ、戦死、老衰、無常迅速などどいうやつが、頭のなかをぐるぐる駆け巡る。   よく人が首をくくると言うが、こんな時にふと誘われて死ぬ気になるんじゃないかと思い出す。   ちょいと首を上げて土手の上を見ると、いつの間にか例の松の真下に来ているのさ。」  夏目漱石

この言葉も吾輩は猫である』の中にあるセリフです。    例の松と言うのは「首掛けの松」と言われている。   「なぜこういう名前が付いたかと言うと、昔からの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると、首がくくりたくなる。  土手の上に松は何十本とあるが、そら、首くくりだと来てみると必ずこの松にぶら下がっている。  年に2,3度はきっとぶら下がっている。」

はっきりした理由もなくふらふらっと死のうとしてしまう事はあるんじゃないかと思います。 僕もちょっとそんな感じになったころがあります。    腸閉塞に何度もなっていて、なりそうなときには何も食べず飲まずひたすら歩くんです。 そうするとつまりが解消される時があります。或る夜、何時間も歩き回って、限界に達するときがある。  病気は投げ出しようがない。   いつもなら車など確認するが、その時には確認もせずにふっと渡ってしまう。  もし車が来て居たら大変な事になる。   なんか投げやりになっている。  後から怖くなったが、交通事故で中にはこういった人もいるのではないかと思います。(自殺にはカウントされないが)

「山道を登りながらこう考えた。  地に働き場角が立つ、情にさをさせば流される、意地を通せば窮屈になる。  とかくに人の世は住みにくい。」  草枕』の一節。

グレン・グールド草枕』が20世紀最高の小説とまで言っていて、亡くなった時には聖書と沢山書き込みのしてある草枕』が枕元に置いてあった。 

「私は死なないのが当たり前だと思いながら暮らしている場合が多い。   或る人が私に告げて、人の死ぬのは当たり前のように見えますが、自分が死ぬという事だけはとても考えられません、と言ったことがある。   戦争に出た経験のある男にそんなに遺体の続々倒れるものを見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか、と聞いたら、その人は、いられますね、大方死ぬまでは死なないと思っているんでしょう、と答える。  私もおおよそこういう人の気分で比較的平気にしていられるのだ。」   夏目漱石  「ガラス戸のうち」と言う随筆の一節。

漱石は胃が悪くて43歳の時に修善寺に療養に行っていたが大量に血を吐いて、一時危篤状態になった。  ここから作風が変わったと言われる。    「死ぬのはいつも他人ばかり。」目にするのはいつも他人の死ばかり、自分が死ぬ時には自分では見られない。  漱石は自分の娘を亡くしている。(44歳の時)   1歳9か月の幼い子供だった。   夕食の時に突然亡くなってし待って、原因不明だった。   非常にショックを受けた。  その時の日記に「表を歩いて小さい子供を見ると、この子が健全で遊んでいるのに、我が子は何故生きていられないのかという不信が起こる。  自分の胃にはひびが入った。  自分の精神にもひびが入ったような気がする。」と書いています。  詳しくは小説「彼岸過ぎまで」に書かれている。

「すみれほどな小さき人に生まれたし。」  夏目漱石   俳句

若いころに正岡子規と出会って、仲良くなって俳句を作るようになる。  この句は30歳の時のもの。(熊本で先生をしていた時)    草枕』の「とかくに人の世は住みにくい。」と言うところから、人の世を離れて美しく生きたい、と言うようなこと。 30歳にして小さき人」と言うのがポイントだと思います。 

住みにくさ、お金の問題、実家の夏目家も没落してゆく、妻の実家の方も没落してゆく。  お金に関わる人間関係。   修善寺の大患の後、妻に手紙を書いている。  「世の中は煩わしい事ばかりである。  一寸首を出してもすぐに首を縮めたくなる。 俺は金がないから病気が治りさえすれば、いやでも応でも煩わしいなかに来させて神経を痛めたり,胃を痛めたりしなければならない。」     

当時漱石は大変なエリートだったが、私たちと同じような事を思っている。

「もう泣いてもいいんだよ。」    漱石の弟子の森田宗平が本に書いている、漱石が亡くなる前の言葉。

「亡くなられる9日の朝、お子さんを寝間へ連れて行ったとき、先生は末の男の子二人の顔を見て、何も言わずにすっと笑われたそうです。  それから12歳になる末の女の子を連れて行った時に女の子だけにやつれた先生の顔を見るや否や、声を上げてワーワー泣きました。  そばにいた奥さんは泣くんじゃない、泣くんじゃない、と言ってたしなめられたそうです。  それが先生の耳に通じたのか、先生は弱い声音で「もう泣いてもいいんだよ。」と言われたそうである。  これはいかにも先生らしい言葉ではないか、先生らしいというほかに何とも形容することができない。 誠、先生らしい悲しい言葉である。」

漱石は大好物の南京豆を胃のためを思ってずーっと我慢していたと思うが、この結婚の席の南京豆は我慢できなかったと思われる。  翌日に様態が悪くなる。

「私は暗い人生の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけてあげます。  しかし、恐れてはいけません。  暗いものをじっと見つめて、その中から貴方の参考になるものをお掴みなさい。」     夏目漱石   こゝろ』の先生と遺書という、先生の告白の手紙に出てくる。

  







2022年6月26日日曜日

又吉秀樹(オペラ歌手)         ・【夜明けのオペラ】

又吉秀樹(オペラ歌手)         ・【夜明けのオペラ】 

東京芸術大学音楽学部声楽家卒業、同大学院オペラ科を首席で終了。  2012年、4年に一度イタリアで行われるトスティ歌曲国際コンクールで第3位入賞。   2014年から1年間文化庁海外研修員としてウイーンに留学、二期会に所属し、オペラ「イドメネオ」や「こうもり」に出演、第九や宗教曲のソリストとしても活躍しています。 

秋からテノールからバリトンに転向します。    10月にテノールとしての最後の舞台があります。   僕は最初バリトンで大学に入って大学3年生の終わりまでバリトンとして勉強していました。    4年生からテノールに変更しました。    師匠の川上洋司さんにテノールをやりたいと言って変更しました。   トスティはヨーロッパの第一線で活躍していた作曲家、歌手でもあります。  

*「理想」 作曲:トスティ  歌:又吉秀樹

高校3年生になる前まではバスケットなどスポーツをやっていました。   3年生の時に先生からいい声だから合唱祭でオペラの曲をソロで歌ってみないかと言われました。   歌ったのがきっかけでオペラを勉強するようになりました。   父は東京芸術大学で声楽に入っていました。   家では父が歌ったり、クラシックは身近にはありました。   大学2年生の時にオーケストラでトスティの曲を歌う機会があり、「Good-bye」と言う曲を歌いました。   魅入られました。  

トスティの音楽コンクールがあることを知ったのは大学院の途中だったと思います。   受けようと思って勉強してアジアの予選で代表に選ばれました。    イタリアにはトータルで2年半ぐらい留学しました。   オペラ、リサイタルをいろいろ行いました。  印象に残るのはどの町も趣きがあります。  歌った後の反応が毎回凄く素直なんです。 最初は、トスティが生まれたオルトーナと言う町に住みました。   つぎがスポレートというところで、劇場があり研修生になってそこで勉強しました。  あとローマです。  プッチーニの「トスカ」が大好きで、修士論文がプッチーニの「トスカ」を取り上げました。   ローマは夢にまで見た街でした。  夜明けのサンタンジェロ城に感動して1週間夜明けに通い詰めました。   「星は光りぬ」が有名ですが、一番好きなのが「スカルピア」です。    

*「トスカ」から「テ・デウム」   作曲:プッチーニ 

スカルピア男爵(ローマ市の警視総監)、ヤーゴ?も大好きです。  声を成長させていって人生で一回はスカルピアを歌いたいですね。  

2014年から1年間文化庁海外研修員としてウイーンに留学。  モーツアルトを研究したくてウイーンに行きました。   小学校の文集に何故かウイーンに住みたいと書いてありました。   ウイーン国立劇場では12月31日に毎年「こうもり」をやります。   待っている間にワインやシャンパンをもってみんなで飲んでいて印象的でした。   

2020年に4人で「それいけクラシック」と言うyou Tubeで「女のマーチ」と言う動画を配信しました。   毎週考えながらやっていて、人生一つの楽しみです。  

*「納涼」  作曲:瀧廉太郎  歌:吉田連   「四季」の第1曲「花」とかの組曲になっていて「納涼」は第2曲です。

*「マイ バラード」   作曲:松井孝夫 歌:又吉秀樹、吉田連、大川博

7月18日に名古屋フィルと公演します。  今後バリトンとして頑張って行きます。

*「天国と地獄」序曲   作曲:オッフェンバック





2022年6月25日土曜日

田中泯(ダンサー・俳優)        ・【私の人生手帖(てちょう)】

田中泯(ダンサー・俳優)        ・【私の人生手帖(てちょう)】 

映画「たそがれ清兵衛」や今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の奥州藤原秀衡役など、多くの人は俳優としての姿をご覧になっているのではないでしょうか。   田中泯さんは1945年東京生まれです。   1966年からソロダンスの活動をはじめ、1974年からは独自のスタイルの踊りを展開して1978年にパリデビューしました。   以来、世界的なダンサーとして活躍を続けています。  一方、1985年40歳の時に山梨県に移り住んで、農業を始めました。    田中泯さんが考える踊りとはどの様なものなのでしょうか。   ひたすら踊りを追求してきた人生の話を伺いました。

農業は一生続けたいと思っている仕事です。   夏になると畑ではナス、ピーマン、トマト、キュウリとかいろんなものが食べられるようになります。  すぐジャガイモ、ネギなども収穫しなくてはいけなくて、ほかにもいろいろあります。   物凄く疲れます。  基本的な自分の姿勢を変えながらやって行くとかしてます。  手作業が主です。   運動の質を考えながらしょっちゅうやっています。   膝が硬くなると伸ばしたまま草取りをするとか、どこか関節が硬くなると、別なところでほぐす運動をします。  農作業で身体の調子が判ります。   

俳優としてのスタートは山田洋二監督の映画「たそがれ清兵衛」の 余吾善右衛門 役。(57歳の時)  人前で話すことが苦手なほうだったので凄く吃驚しました。   役を与えられたその人の身体になりたいとまず思いました。   自分の口から出してゆくセリフが本当に自分の身体からでてゆくという感覚が自分で持てないセリフのしゃべり方はしないでおこうと思いました。  その人の身体になってやるぞ、と言う気持ちが強いです。  

動きと言うのはその人の心の発露じたいが踊りになっていたんじゃないかなあと思います。 言葉で表せないこと、言葉の方が早かったり、身体では追い付かないようなスピード感、言葉がどのくらい私たちの身体の中に入り込んできているのかとか、そのような事を一杯考えました。   

子供のころは一人で遊んでいる記憶の方が多いです。  自然が豊かだったのでいくらでも遊んでいられました。    犬、猫、野鳥、兎、ヤギなどを飼ったりしていました。  未熟児で生まれて牛乳を毎日のように飲まされました。   高校から急に大きく成りました。   虚弱だったので中学の時に、母親から「バスケットボールをやりなさい」と言われました。   高校でもバスケットボールをやっていましたが、駄目でした。  テレビで外国から来る舞踊団を観たりして、これが踊りなんだと思いました。   バレエの勉強をしたいと思いました。   身体だけと言うのが気に入り、しゃべるのが苦手でこれなら自分にも出来ると思いました。   踊りの勉強を一生懸命やりました。   もっと身体そのものになって行くという事を考えて、たどり着いたのが裸体でした。  踊りを捜しに行きました、今でもそうですが。   服がどういう植物繊維で出来上がっていて、どういう形をしているか、によって踊りは変わってゆくんです。   風が強かったり、太陽の光加減など、本当は踊りは外で踊るべきものだと思います。   踊り手がいる場所が舞台だと思います。(既存の設えられた場所だけでなく、日常的な場所、または野外などの、ありとあらゆる場所) 

言葉ではないものを沢山発散して、身体の外に飛び出すようにして生きているわけですよね。   それは気配と呼ばれたり、たたずまい と言われたり、いろんな言葉が日本にはあります。   どうしたらそれがキャッチできるのか、不思議です。  踊りたいという事は無限にあります。   旅をしていて、急に踊りたいと思う時もあります。  自分の好きな事ばっかりやって、自分はスーパーラッキーだと思います。   僕はあこがれの強い人間です。  何時かこの人の前で踊りたいとか、と思います。  本に凄く影響を受けていて、ロジェ・カイヨワさん梅原猛さんなど。  押しかけて踊りを見ていただきました。     自分の中に子供時代の子供が棲んでいて、その子供に恥ずかしいことはしたくない、その子供を裏切りたくない。   踊りは人間が考え出してくれた言葉と一緒になって育ってゆくとっても大切な表現、誰にでもできる凄く大切なものだと思います。 言葉をより豊かにするための表現かもしれない。   

今、夢中です、死ぬ瞬間まで夢中で生きて行きたいですね。   踊りに救ってもらっているようなところがあります。   才能があって踊りをやっているのではなくて、踊りに縋り付いて生きてきた、と言ってもいいんじゃないかと思います。  どうして夢中になれたのかは判らないです。   

2022年6月24日金曜日

鈴木深雪(プレゼン教室代表)・【みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの】 もう一度、子どもたちから教えてもらおう

鈴木深雪(プレゼン教室代表)・ 【みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの】もう一度、子どもたちから教えてもらおう

新型コロナウイルスで一斉休校になった2年前、鈴木さんは子供たちが先生となって、オンラインで受業を行う、ワークショップをはじめました。   自分たちが好きなことをテーマに選び、大人たちの前で授業をします。  鈴木さんは現在43歳、勤めていた会社で数百社へのプレゼンをした後独立し、経営者向けに思考を整理したりする仕事をしています。  ワーックショプは子供の思いを伝える力をはぐくむと注目され、小学校の授業でも採用されるようになりました。  

2年前、小学校1年生の息子がいました。  休校になりずーっと家にいました。 何かしてあげられないか悩んでしました。   彼らにプレゼンテーションだったら教えられるなと思いました。   なんでもいいんですが、自分に詳しいテーマを集めて大人の人への授業してもらうというのが、子供の教える学校のコンセプトなんです。   私がプレゼンテーションのやり方を一か月間伝えて、最後は子供先生として発表するという風になります。  

印刷会社で数百社へのプレゼンを経験しまして、その後独立し、経営者向けに思考を整理したりする仕事をしています。   子供向けに何かを教えると言うのは初めての経験でした。   私が大事にしているのは、貴方が一番伝えたいことは何、という事を表現していこうと言っています。   例えばテレビを見るのも、夢中になる何か心が動いているからこそずっと見ているんだと思います。   子供のボソっという言葉が意外と真理だなと思う事があって、原点に帰らせてくれるのが息子の存在で、どこの子もそうだと思いますが、大人の視点とは違う視点、価値観、ものの考え方に彼らは生きているという事で、そこから大人は教わることがきっとあるに違いないという仮説の元、子供が大人に教えたら面白いことが起きるんじゃないかと始めました。  

最初は5人の子が発表しました。  コロナで暇な時間が出来て、どういう風に時間管理をしていったらいいかと言うようなことを発表した小学校6年生が居ました。   大事なことは主体的にテーマを選んでもらうという事が、大事です。  次に伝えたいことの一番ど真ん中は何なのか、という事です。   それをどう話してゆくとか資料の作り方は技術として伝えます。  本音の部分、感じている喜怒哀楽を知りたいところです。  2年間で480人の子供たちが参加しました。    授業の前後で子供たちは変わります。  積極的に堂々となって行きます。   大人たちの反応か、子供の話を聞いているようで聞いてはいなかったという反応が凄く多いです。  画面で初めて見た子供に涙したという事もありました。  

私が立てた仮説が一段落したという事と、480人の子供たちと接することで自分のど真ん中を追求する人間に成って行っているなと思います。   私にたくさんのことを教えてくれているなあと思います。   活動を通して、自分の活動はど真ん中ではないのかなと気づきました。  本来の目的は彼らが持っている素晴らしいものを私たちは聞きたいし、教えてもらいたいから、そのための手段だったはずで、ひずみが出てきてしまっているかなと感じたのが、ブログで表現した違和感です。  技術的な発信力も必要だが、ど真ん中を人に伝えるという事が大事だと思います。  自分の活動のど真ん中も少しずつずれていったことと思います。    どの人も自分のど真ん中をあきらめないで生きて欲しいという事です。   そのことに貢献していきたいと思います。  自分の感性が全く違うように見れるようになってきて、480人の発表の子に見えてくるんです。  その子たちが持っているど真ん中を、今の社会のどこかに散らばっている、現実化してゆくものなんじゃないかと思います。   日常の毎日毎日の瞬間にそっちの未来につながる扉が用意されていると思っていて、イエス、ノーの分岐点がずーっと続いていていると思うんです。  夢につながってゆく方のドアを一つ一つ開けてゆけば、夢へと繋がってゆく。  子供たちの言葉の展覧会を開きたいと思っています。  

2022年6月23日木曜日

原口尚子(水木しげるさん長女)     ・【私のアート交遊録】 妖怪と日本人

 原口尚子(水木しげるさん長女)     ・【私のアート交遊録】  妖怪と日本人

2015年に93歳の生涯を終えた漫画界の鬼才水木しげる、妖怪のイメージを一般にひろめ表舞台に押し上げてきました。  水木の描く妖怪の世界は多くの日本人に支持され、今もその作品は愛され続けています。  鬼太郎や目玉おやじ、砂かけ婆など水木が生み出す妖怪たちはなぜ今に至るも多くのファンに愛されるのか、2020年はその水木の生誕100周年に当たり、これに合わせて水木が情熱を傾けた妖怪をテーマとした展覧会も開かれます。   水木を一番近くで見つめてきた長女の原口尚子さんに水木が描く妖怪の世界の魅力や妖怪たちに込めた思いなどについて伺いました。

2010年のNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」、お父さんというイメージが強かったが、実際は家族のことを大事に思ってくれる父でした。   家族と一緒に過ごそうという父でした。   父が鬼太郎を書いているという事は小さいころから意識はしていました。  中学校の夏休みの宿題で果物を写生するという事がありましたが、水彩で描いて乾くまで待とうといなくなって、戻ってきたら凄くうまくなっているんです。  ああしろこうしろと言うのが好きでなく自分でやってしまいました。  それが校長室に飾られていたということがありました。(父に手伝ってもらったという事は言えませんでした。)    

父が小さいころ、近所のおばあさんがお化けの話だとか、古い言い伝え、あの世の話などをきいて、戦争に行ったりいろいろな苦労など経験して、そういえば自分は妖怪が好きだったなあと思って、古本屋さんで妖怪について書かれた本を見つけたそうです。   これは昔自分が経験したことだと確信を持ったそうです。  それを絵にしてみんなに見てもらおうと思ったようです。    私は父から妖怪の話は聞いたことはないです。   祖父は良くお化けの話はしてくれました。  江戸時代は妖怪を描くブームは有ったようです。  妖怪ものとか民俗学とかそういったものを沢山集めていました。   妖怪は人々の心が作っているんで、理由が判らないことをお化けのせいにしてきたという事があったと思います。   妖怪と神様は紙一重と言うか、そんな存在だと思います。

鬼にもいろんなものがあります。  怖がらせるものから、戒めるために、魔力から守るために存在とか。  父は電気が妖怪を消したと言っています。  夜になっても都会だと暗闇などないですね。   父が書いていたなかで「あかなめ」が一番怖かったです。  お風呂などについている垢をなめに来る妖怪なんです。   父が好きだったものは妹はそのまま受け継いでいるという感はあります。   私は父と距離を取りたいとずーっと思っていました。   18年間小学校の先生を務めていました。   父も段々弱ってきて、水木プロに入って手伝ってくれと言われて、入りました。   それから父と凄く話すようになりました。  父の本もじっくり読むようになりました。   父の考えを改めて知ると言うようになりました。   父からいろいろ聞けたのは良かったです。   

妖怪を書くなんてと言う思いは以前は有りましたが、妖怪に対して深いものがあるんだと知るようになりました。   父は凄いと思うようになりました。   鬼太郎は父を支えた重要なキャラクターですが、最初はおどろおどろしい感じでしたが、少年誌に連載されるようになって、悪い妖怪をやっつけるスタイルになりました。   しかし、父はそういうスタイルはあまり好きではなかったようです。   大人向けの雑誌で「ガロ」がありましたが、それには凄く風刺が効いている短編で、これが書きたいものなんだと母に言っていました。   

鬼太郎の人気には父は戸惑っていました。  偶然に目に見えないものに助けてもらっているという風に言っていました。    鳥取県境港の「のんのんばあ」(近所に住むおばあさんで、父にお化けや妖怪の話を教えてくれた。)との出会いが一番だったと思います。 地獄極楽の世界にも興味があり、極楽よりも地獄が面白いと言っていました。   語り継がれてきた目に見えないいろんなものを父は絵にして形にしていますね。   水木しげるロードには170を超える数になりました。   完璧な観光地になりましたが、偶然が重なってそうなって行きました。    妖怪たちが街を活性化してくれたと思います。  

コロナ禍で話題になったのが「あまびえ」で江戸時代のものです。  コロナも目に見えなくてこれも妖怪ですが、父は妖怪は可愛くないといけないと言っていました。  父は戦争を体験していて、左腕を失って帰って来ましたが、本当に右腕一本で書いてきた人です。 なんでも右腕一本で生活していましたが、爪を切ることだけは母にやってもらっていました。     なんかあるんだというような想像する心のゆとり、そういったものが欲しいなあと思います。  そんなところに妖怪が注目されるのかもしれません。  説明しきれない何かがあるんだと言う人間の謙虚さも必要だと思います。    父は昔のものをモチーフにしているが、もっと現代に伝えやすくするために工夫をしています。  今度行われる展覧会をぜひ見ていただきたい。

2022年6月22日水曜日

土江寛裕(東洋大学教授・陸上競技部コーチ)・それは02秒差から始まった 〜リレーを極める

土江寛裕(東洋大学教授・陸上競技部コーチ)・それは02秒差から始まった 〜リレーを極める 

土江さんは短距離の選手として1996年のアトランタ、2004年のアテネ 、2回のオリンピックに出場し、アテネオリンピックでは400mリレーの第一走者を務めましたが、スタートの遅れからわずか0.2秒差の4位となってメダルを逃しました。   その教訓を糧に引退後は強化担当のメンバーとして、北京、リオデジャネイロオリンピックでの男子400mリレーのメダル獲得に貢献しました。   2年後のパリオリンピックに向けての日本陸上競技連盟強化コーチでもある土江さんに1/10秒、1/100秒を競う陸上競技短距離種目の世界について伺いました。

日本選手権では2回優勝、100mと200m。   100mは1999年の日本選手権での優勝。 追い風3.3mで未公認で10.09秒。   僕は頭で考えながら走るタイプで、51歩で走るんですが、一歩一歩をどう走るかを考え、その時は思ったように走れたと思います。  伊東浩司さんが10.00秒を出して9秒台にぎりぎりで入れなかった。  200mは1998年の日本選手権での優勝。   元200m日本チャンピオンの土江良吉は実父。  陸上以外のスポーツをやる事は許されなくて、父親に並べることが出来て嬉しかったです。  ただその2年前に父親が亡くなってしまったため見せられなかった。   

1996年のアトランタ大会出場。  父とは90%ぐらいが陸上競技の話でした。  練習や試合の後にはビデオを見て、指導の会話がほとんどでした。  父は陸上競技は一番が勝者であと2番以降は敗者で駄目だという考え方でした。  高校総体では決勝に残ることが難しいぐらいでしたが、3番になって喜んでいたが、「そんなことで喜んで」と言って、無茶苦茶に怒られました。   指導者になって、あまり1番にこだわるのも選手にとってプレッシャーになることもあると思うので、それも大事だが、どうやったら早くなるのか研究して、実現してゆくプロセスを大事にしたいと思います。  父親との会話もほとんどそうでした。   

1996年のアトランタ大会ではうまくバトンが渡らずにゴールできなかった。  オリンピック出場が目標だったので、達成できて凧の糸が切れてしまったような感覚になってしまった。   海外は初めてだったし、時差ボケなどもあり調整が上手くいかず、リレーのときにはよくなってきたが、うまくバトンが渡らず失敗してしまった。  

2000年シドニーオリンピック代表を僅差で逃す。  2004年のアテネ大会には出場。   100mでは一次予選、400mリレーでは第一走者を務め、第4位となる。   メダルに届くようなレベルでの出場だったと思います。   1回目に緊張のあまり、スタートの音を勘違いしてフライングしたと思って止まって仕舞って、たまたまイギリスの選手がフライングして、助かった。   2回目はでかい音(スピーカからの音)に反応してしまって、普通なら0.1秒ぐらいで反応するところを0.3秒ぐらいかかってしまった。  0.2秒遅くスタートをするという大失敗をしてしまいました。  ナイジェリアが銅メダルだったんですが、僕の遅れぐらいの差で4位になってしまった。  

2006年に引退して、指導、研究へと進む。  アテネでは30歳になっていて、オリンピックの失敗はオリンピックでかえすということが、僕の原動力になっています。    いろいろやりたいことがあったが、バトンの渡し方の手法を提案しました。   バトンを貰うほうは待っていて、ある時点から加速しながら掛け声があったら手を挙げてバトンを受け取るが、或る種職人的な感覚でやっていた。   二人でバトンを渡した時間を単純に出して、その目標タイムを出して、それに取り組みました。  それに対するアイディアがいろいろ出てきて、選手たちと話しながら作り上げていきました。   バトンを渡す範囲の距離40mを3.75秒と言うタイムを設定しました。  2008年は3.75秒で、100mを走る速度も上がってゆくと、バトンタッチのクオリティーもあがってゆき、今は3.6秒台です。  リレーはお互いの信頼関係が大事で、如実に表れる競技です。   

東京オリンピックではバトンが繋がって行かなかった。  失敗してしまうようなぎりぎりのところを攻めてきていました。   オリンピック直前の世界選手権で3位に入って37.43秒でした。(ほぼ金メダルのレベル)    細かいことが沢山重なって結果としてああいう事が起こってしまった。    ぎりぎりのところを追及して、金メダルを取れるか、失格かと言うようなところでしたが、金メダルを取れるようなメンバーだったと思います。   コーチとしては申し訳ないという思いでいっぱいです。    数値化して、いろんなヒントとして得ながらも、最終的には選手の感覚にどうやって落とし込むかと言う、そういうところが一番大切な部分だと思います。   

桐生選手は高校2年生で10.19秒で高校記録で走っています。  その時から合宿に呼んだりしていました。  9.98秒を出したが、順風満帆ではなかった。   9秒台を走る選手が4人もいる状況になりましたが、中国の選手が9.83秒という記録で走ったので、我々の目指すところが2段階、3段階先になったと思います。  パリオリンピックでは100mのファイナルに残れる選手を目指していきたいと思います。  そして400mリレーでは金メダルを目指していきたいと思っています。

2022年6月21日火曜日

田中啓(ボランティア団体会長)      ・感動を分かち合う〝おもちゃドクター"

 田中啓(ボランティア団体会長)      ・感動を分かち合う〝おもちゃドクター"

田中さんは長年勤めた中学校を退職後、おもちゃドクターの活動に出会いました。  日夜修理の技を磨く中、今月おもちゃドクターが所属するボランティア団体の会長に就任しました。田中さんに新会長としての意気込みや活動の魅力などを伺いました。

会員そしておもちゃを預けるかたの役に立てる会の活動をしてこうと思っています。  1600人強の会員がいます。   おもちゃ病院が640ぐらいあります。  土日が多いですが、平日をわざと選んでやっているところもあります。   時間も午前、午後とか時間帯もバラバラです。   1996年に「おもちゃ病院連絡協議会」が出来ました。  それが今の協会の前身です。  松尾さんが都内で活動されていた方ですが、おもちゃ美術館が中野にあって、そのなかでおもちゃ病院をやっていました。  そこの館長さんと意気投合して、館長さんは全国につながりがある人で、全国に活動を広げようという事で始まりました。   最初は40~50名程度で始めたようです。   主に60代以上の方で最近若い人もぽつぽつ入ってきました。  

部品代ぐらいは頂いていますが、ボランティアでやっています。   道具はそれぞれ購入しています。  道具もいろいろやり易いように工夫しています。   依頼は電池を使ったものが多いです。   子どもは意外と手で動かすものが好きです。   ですから手でも動くし電動でも動くものがあったりします。    世界で初めてラジコンを取り入れたのが日本のメーカーです。(1955年発売)    私がドクターになり始めた頃に、おばあちゃんが話せるぬいぐるみを持ってきました。   直して返す時に、「お孫さんのものですか」と聞いたら、「私のものです」と言われて、娘さんが自分のことを心配して買ってくれたんだと言っていました。   吃驚しましたが、その後そういうケースが非常に多いです。  年を取った人がコミュニケーションの相手として持つということです。   棺桶に一緒に持ってゆくと言っていました。    

ものとしては全然珍しくないんですが、人形で光が当たるとゆらゆらと左右に揺れるおもちゃがありました。   持ち込まれたのはフラダンスの人形ですが、「いくらかかってもいいから修理をお願いします」、という事でした。   自分の娘が結婚する時に、相手の方がハワイで、結婚式をハワイで行ったそうです。   その人はそのころ鬱状態だったようで、相手のおかあさんにその状況を話したら、「こんなものが慰めになるかどうかわからないが、これを見て思い出して下さい」と言われてくれたのが、その人形でした。  元気になってハワイから帰って来ました、という事でした。  気合いの入る修理になりました。  

おもちゃに物語性があるという事は、修理をしていてつくづく感じます。  大量生産されたおもちゃでも、物語性が加わると唯一無二のものになるんですね。  

手のひらに乗るような犬のぬいぐるみが歩いたり尻尾を振ったりするものですが、直して返したんですが、ちょっと涙ぐんでいて、自分が昔犬を飼っていてすごくかわいがっていたが、犬が亡くなった時に凄い喪失感で、似たぬいぐるみを買って大事にしてきたが、それが動かなくなって持ってきたという事でした。  感動の共有みたいなものがあります。  直って渡す時のお客さんの反応は、凄く喜んでくれて、それが伝わってきてこっちも嬉しくなって、そういったことがしょっちゅうあるんです。  

定年前退職(56歳)して、何をやろうかいろいろやりましたが、偶然におもちゃドクター養成講座に参加しました。  その後活動ができる病院を捜しました。  前会長の三浦さんの四谷おもちゃ病院に通いました。   最初に手がけたおもちゃのことは良く覚えています。  お母さんと一緒に来た女の子で、音の出なくなってしまったピアノのおもちゃでした。  分解しましたが、原因が特定できませんでした。  直せずに返した時に女の子の悲しそうな表情を見て、残念な思いをしました。  その後も別の子が同じ症状のおもちゃのピアノを持ってきましたが、やはり直せず悲しい顔をされてしまいました。  苦い体験でした、いまでは直せると思いますが。   

三浦さんは直すための部品がなければ作るという発想でした。  工夫をして作るという姿勢を学びました。  それぞれ得意分野がありますが、チームプレイで対応することもあり直った時の感動を共有することが出来ます。    現役のころは暇になったらいいだろうなあと思いましたが、暇でいるより好きなことで役に立てることで忙しいという事がベストなんだと思います。    



2022年6月20日月曜日

山田広野(活弁士・映画監督)      ・【にっぽんの音】

 山田広野(活弁士・映画監督)      ・【にっぽんの音】

昔、映画のことを活動写真と言ったんです。   映画もフィルムで撮られた写真の連なりになって、それが動くというかたちになり、それが活動写真なんです。   その「活」を取って、弁士というのは壇上で講演する人を今でも弁士と言っています。   活動写真の弁士、略して活弁士という事です。  今は映画に音がついているのが当たり前です。   映画が日本に輸入されて初めて興行されたのは明治時代ですが、映画の興行と同時に活弁士も始まっていました。   明治29年からスタートしています。   しゃべる台本も自分で作っていましたので、人によって違います。     チャップリンにも活弁士がついていました。  「放浪紳士チャーリーは・・・・」と言うような形で語られていました。 (ボロボロなものを着ているが正装」)     活弁士は日本だけで、海外では字幕である程度判っていただくことになります。  音楽は生演奏で海外も日本も一緒です。   映画館の専属のオーケストラの楽団がいてスクリーンの前で演奏しました。    楽団に規模は色々だったようです。   日本では琵琶法師の時代からものを語って伝えるという事が一般的でした。  日本は語り好きだと思います。(落語、講談、浪曲など)

*「血煙高田馬場」 サイレント映画の名作    伊藤大輔監督  1928年(昭和3年)公開  仇討ちもので大河内傳次郎が演じています中山安兵衛が助太刀をします。    活弁士:加藤柳美    同作品の別の活弁士:鈴木光太郎  聞き比べする。

小学校のころから映画が好きで、テレビで放送されていた映画とか、映画館などにも行っていました。   東京に出て映画の専門学校に通い、自主制作で映画を撮るという事をやっていました。   ビデオカメラが主流の時代でしたが、あえて8mmカメラでフィルムで撮ったが、作業が遅れて上映の当日を迎えてしまいました。  音を入れる時間が間に合いませんでした。   どうするんだと言われて、もともと無声映画として撮ったんだと言ってしまいました。   「弁士として説明します」と思い付きで言ってしまい、活弁士としてステージに上がる事になってしまったのが最初でした。   やってみたら楽しくてしょうがなかった。   お客さんも沸いていました。 その後活弁士の道がスタートしました。      

「賭場荒らし」  昨年12月撮影。   僕も(大藏基誠)出演させていただきました。  1週間の撮影期間に2日しか時間が取れず申し訳ありませんでした。  フィルムで撮るという事でテンションがあがりました。   

サイレンス映画のサイズで撮りました。(ほぼ正方形サイズ) 何から何までサイレンス映画の作り方に即して撮って生演奏に生活弁をつけるというやり方を踏襲しました。     内容は賭場を荒らす強盗がいるんです。  アウトローが主役の映画です。  僕が大藏基誠)賭場荒らしの主役をさせていただいています。   飛行機の音とか車の音とか、しゃべり声とか全然気にしなくてよかったのが、面白かったですね。

日本の音とは、小学生のころ剣道をやって、竹刀のパシーンと言う音と打ち込むときの足の音、これは日本にしかないと思いました。   映画館を盛り上げたいという思いがあります。  新しい活弁映画をどんどん作っていきたいと思います。

2022年6月19日日曜日

長谷川清美(老舗豆専門店代表)     ・【美味しい仕事人】 豆に魅せられ世界旅

 長谷川清美(老舗豆専門店代表)     ・【美味しい仕事人】 豆に魅せられ世界旅

日本では豆腐や納豆など豆は日々の食卓に欠かせない食品です。   世界でも至る所で様々な種類の豆が健康のため命を繋ぐため、食品として大活躍しています。   横浜市の豆専門店代表のは長谷川清美さん(57歳)は、市場に出回ることがほとんどない在来種の豆に魅力を感じ、国内をはじめ世界各地の豆を訪ね歩いています。   海外へは2012年から66か国をめぐり、暮らしのなかで必要とされてきた豆の力を実感してきました。  在来種の豆を栽培し、伝えている人の生活はそのまま環境保全型の暮らしになっているという事です。 

きっかけは2009年に豆料理の本を出さしていただいたあと、好評でした。  その後世界の豆料理はどうですかと言う話を頂いて、叔母がポルトガルに住んでいるので、まずそこに行ってみようと思いました。    そこで「豆料理がいいです」と言って、作ってもらいました。   その10日後にいきなりボリビアに行きました。   インゲン豆の原産地がアンデスなので飛行機の直行便で行ってしまいました。  そうしたら豆の世界でした。  調査しようとしたらスペイン語圏で英語が通じませんで、日系人が多いので取材させてもらおうとラパス(ボリビア多民族国の首都)とサンタ・クルスに行って1か月ぐらいいて、ペルーにも行きました。   これが豆の旅のきっかけでした。

実家が北海道遠軽町で創業が昭和元年の豆専門店を営んでいました。   2001年に父のところから豆を仕入れて販売会社を作りました。    「前川金時」は地元の豆で地元で流通していました。  「前川金時」を仕入れて売ったら、おいしかったという評判でした。或るライターが取材に行ったら20種類ぐらい展示してくれました。  私も見ましたが、どこにも売られてはいませんでした。   売るとなると粒がそろっていなくてはいけないとか面倒なことが多くて販売されていませんでした。  「日本の豆ハンドブック」を出版しましたが、この時には日本を相当回りました。   豆の多さに気が付いて海外も同じなんだろうなと思いました。   それで海外も回るようになりました。   

中南米では豆がほぼ主食に近いと思います。    コロンビアのカリにシュラットと言う、インゲン豆の種を保有している世界一の研究機関があり3万8000種ぐらいあります。   そこで研究者に概要を聞きました。   品種改良するための手段に在来種の保存が必要でした。   一般の農家も尋ねました。(小農家)   カルガマントというインゲン豆などありました。    日本の物と同じようなものも結構ありました。  樹木のマメ科の植物もあります。  チャチャフルッタというそら豆の巨大なもの、30cmぐらいあり豆粒がそら豆の1,5倍ぐらいあります。    先住民のたんぱく源だったらしいです。  あくを取って塩ゆでにして食べていました。   素揚げにしたり、すりつぶしてパンケーキにしたり、ジュースにしたりしていました。  

メキシコもほぼ豆が主食です。   日本ではお米が主食で豆が大豆、発酵させていろいろな食品になった。    こちらではトウモロコシが主食でそれに必ず豆が付きます。  豆を煮てペーストにしてから炒めます。(リフライドビーン) これをストックして置きます。    トウモロコシを挽いてパンにして豆のあんこをつけて食べる。  これは欠かせないものです。  

アフリカのブルキナファソに行きました。  アフリカは中南米よりも豆に依存しています。  農村に行くと彼らは現金よりも大事だと思っていて、豆の袋を盗まれないようにどさっと寝る場所の横にあります。  トウモロコシを粉にして餅みたいにしてそれを主食にしています。   豆はササゲで種類はたくさんあります。  煮込んで大量な油を入れてスパイスを入れて主食と一緒に食べます。  マヨネーズをかけて労働者がおやつに食べます。(ストリートフード)   ササゲを粉にして売られていてそれをドーナツみたいにして揚げてスパイスとマヨネーズをかけて食べます。   

キプロスではトルコ領とギリシャ領に別れていて、入国するときにトルコ領から入ってしまって、 コーディネーターがギリシャ領だったんです。   運転手がコーディネーターの役割をしてくれて、案内してくれました。     夏だったので、さやの豆,青い実の豆を使ったレモンをたっぷり入れた煮込み野菜料理でした。(地中海料理風)    

ミャンマー(ビルマ)ではビルマ豆で北海道の遠軽町のおばあさんは「バカ豆」と言っていました。  バカのように獲れるからという事で。  遠軽町では凶作の時にも獲れて小豆の替わりに使っていました。  ミャンマーではようやく見つける事が出来ました。   昔にビルマから伝わってきたものと思います。   

興味が豆の食べ方のみならず、彼らの生活が、我々が失いかけている持続可能な農業とか暮らしとかのお手本のようなモデルだなあと、行く先々で確信しています。  彼らにこそ学ぶべきものがあって我々が言っているサステナビリティー(持続可能性)などと言っているが、彼らは地で行っているわけです。  彼らの生活こそ学ぶべきものがあると思います。 日本で言われている在来種を守る活動と言うのは種を門外不出にするために、エリアだけにするとかと言うのは逆に在来種の命を縮めることになってしまう。  私ははそれを危惧しています。  商標登録すると場所が狭くなっていってしまう。   オーナー制度を作って在来種を守る運動をしています。   他に料理教室を兼ねて豆の学校をやっています。  お豆サロンもやっています。  乾燥した豆を料理する人は物凄く少ないです。  生産者は1000軒以上回りましたが、ばらばらになっている関係を、関係性つくりをやって行きたいと思っています。   

2022年6月18日土曜日

2022年6月17日金曜日

奈良橋陽子(キャスティングディレクター・作詞家)・日本とハリウッドの架け橋

 奈良橋陽子(キャスティングディレクター・作詞家)・日本とハリウッドの架け橋

1947年千葉県出身。  1987年に公開されたスティーブン・スピルバーグ監督の映画「太陽の帝国」に奈良橋さんは通訳として参加します。   そしてハリウッド映画の世界に入りました。   その後トム・クルーズの主演映画「ラストサムライ」に渡辺謙さんを起用するなど、多くの日本人俳優をハリウッド映画にキャスティングしてきました。   朝の連続テレビ小説カムカムエヴリバディ』で森山良子さんが演じたキャスティングディレクター安子・ローズウッドは奈良橋さんのご活躍からヒントを得たキャラクターだそうです。    日本とハリウッドを結んできた奈良橋さんに、パイオニアとしての苦労や、文化風習の違いによっておこる摩擦、それでも続けるキャスティングディレクターとしての仕事の醍醐味、今後の夢などを伺います。

75歳になりました。   2003年のクルーズの主演映画「ラストサムライ」に渡辺謙さんはじめ多くの日本人をキャスティングしました。   アメリカではキャスティングディレクターとしての職業があります。    日本ではアメリカほど俳優さんがいないので、キャスティングディレクターがいないと駄目と言う程ではない。    アメリカで日本人の俳優が必要な時に誰に聞けばいいのかわからない。   私は俳優が見つからないということはまずないですね。   この方は絶対出演していただきたいという事もあり、その時にはあきらめずに必死になってやります。   

文化風習の違い、演技自体の違いなどもあり、それを全部お互いの側に情報を与えて、よりスムーズにより融合していいものを作れるように、プラスアルファが大きいんです。   この時間が半分ぐらいかかるんじゃないですかね。    アメリカでは専用のプログラムがあってオンラインで呼びかけられます。   興味があったらオーディションを受けに来て、オンラインで全部見れるんです。  アメリカには何ページもの契約書があるんです。 役者組合があり老後の時にも全部面倒見たりとか、有ります。   日本はマネージャーがサインをするが、アメリカでは俳優がサインをします。   アメリカでは俳優が主体になりますが、日本では俳優は事務所に所属して、事務所が主体になります。  

「ラストサムライ」の時には俳優さんの宿泊先探しなどもしました。   あれから日本とやる映画が増えました。    べースは文化と文化の仕事なので、違いなどをアメリカ側に言うわけです。   最近は日本語でもいいという事がありチャンスは広がりました。 やっと字幕が認められてきました。    渡辺謙さんの素晴らしいところは明るくて、素晴らしい性格です、国際的に通用します。   普通キャスティングが終わればそこで仕事はおしまいですが、毎日現場ついて行って一緒でした。(アシスタントでいました)   私も演出を勉強したくて彼の傍にずーっといました。   

父が外交官だったので5歳でカナダに行きました。   父の影響が大きかったです。  16歳になった時カナダ人にもなれるがどうするかと父が聞いてきましたが、自分の意志を持てるようにという事があったと思います。 これは凄く大事だと思いました。   父は映画が好きでした。  日本に戻って国際基督教大学言語学専攻卒業しました。   その後海外の演劇学校に行きました。   演技から人間の生きることを学ぶんですね。  社会に大変なメッセージを上げているんですね。  ジョニー野村さんと知り合い、結婚しました。  日本に帰ってきて26歳ぐらいから本格的に演出をし始めました。   30代で俳優養成所を立ち上げました。    いい映画を作りたかったので、そのためにはいい俳優がいないといけないので、俳優養成所を作りました。   

ハリウッド映画に関わり始めたのが、1987年に公開されたスティーブン・スピルバーグ監督の映画「太陽の帝国」です。(40歳ぐらいの時)   たくさんのお金が絡んでいる世界なので、悪い人も沢山います。  だから心から作っていきたいという人、信頼出来る人を捜してゆくんです。   誰もやってないことをするのはハラハラドキドキで楽しいんです。 一生懸命やれば失敗しても悔いは無いです。   映画、ドラマをインターネットで楽しめるサービスが出てきて、そちらが主流になってきました。(ストリーミング) 大手の動画配信サービスからオファーがありキャスティングしました。   映画館も少なくなってきて大きく変わりますね。    今後、このやり方が続くと思います。  機械やITの発達とともに皆さんの観る集中力が短くなって行くと思います。  パッパッと変わらないとついてこない、なのでストリーミングがそれをしょっていっていると思います。  

演技の素晴らしさは、生きるという瞬間を作ってゆくんですね。  生きることのすばらしさを味わっていただきたい。   絶対良いことがあると思う、それを信じるんです。  信じる力が呼び起こすんです。  自分が書いたもので映画をやりたいが、それの最中でチャレンジしたいです。  

2022年6月16日木曜日

伊藤浩子(編み物作家)         ・【わたし終いの極意】 幸せを編み込んで

 伊藤浩子(編み物作家)         ・【わたし終いの極意】  幸せを編み込んで

4歳で編み物を始めた伊藤さんは、戦後ヨーロッパの本格的な編み物を学び、89歳の今も指導者として活動しています。  絵画のように美しいその手編み作品は高い評価を受け、去年11月フード付きマントなど2つの作品がイギリスの国立博物館に収納され永久保存されることになりました。  

今着ているのは半袖のセーターでシルクです。  色はワインレッド。  シルクは編みにくいが編んでしまうと1年中着られます。  面を捩じり編みと言って手が大変かかります。  

1932年神戸市生まれ、東京に移って手編みに出会ったのが4歳です。  6人兄弟の3番目で、妹が生まれる時に母から教えてもらいました。  初めて作ったのが15cm幅の10cm縦のお人形に掛ける毛布でした。   戦争が始まってからは毛糸が手に入らないので、頂いたものをほどいたりして編んでいましたが、灯火管制でなかなか出来なくなりました。  群馬県の渋川に疎開しました。   疎開先では真綿を利用して編んだりしていました。   終戦後、東京に戻るとしばらくしてから毛糸が出回るようになりました。   

ルーマニア出身の渡辺イルゼ先生は昭和22年に貨物船に乗ってきたそうで、昭和23年に編み物の本を出しました。  本を見た時には色彩、形などに魅入られました。(高校2年生) 母が弟子にしてほしいと頼んだらしいです。  御茶ノ水の病院の一室に暮らしていました。     そこで初めてお会いした日のことは、今も鮮明に覚えています。   私が通っていた都立駒場高校は自主自立の校風で、必要な単位さえ取ればあとは自由。午後は一目散にイルゼ先生のもとに馳せ参じました。  日本語が覚束ない先生に代わって記者の取材に対応したり、スケジュール調整したり。私は高校生ながら私設秘書、スポークスマン気取りでした。   東京大学文学部で美学の教授だったご主人(渡辺護氏)からは色彩学の基本を教わりました。

先生から「全国編み物コンクールに応募してみたら」と勧められました。  その時点で締め切りまで10日しかなかった。  黒、白、グレーの3色で、フレンチスリーブのセーターを編み上げました。   地区予選の東京大会で最終10作品に残りました。  「最優秀賞・高松宮妃賞」を最年少の19歳で受賞することになってびっくりしました。  

23歳の時に兄の学生時代の友人と結婚しました。  旧家だったので編み物はできないと思っていましたが、義姉(伊藤実子さん)が編み物が大好きな人で。私の高松宮妃賞受賞も知っていて、教えて欲しいと頼まれました。  教室を開くことになりました。  1965年に初めての展覧会をしました。   それから50年、2年に一度展覧会をしてきました。  生徒も1点ずつ展示します。   生徒は一時期100人を超えていましたが、今はコロナ禍で人数が減ったとはいえ、40代から90代まで40人ぐらいです。   

私の夫は10年前に、84歳で突然亡くなってしまいました。  前夜まで元気で、二人でカステラを食べたりしていたのに、翌朝、目覚めなかったのです。  ベッドに持たれて意識がなくて救急車を呼んだんですが、10時間ぐらい生きていましたが、何も言わずに亡くなってしまいました。  脳溢血でした。  編み物に熱中すると世の中のことを忘れさせることが出来ます。    美しいものを作る事は嬉しいです。    設計図は方眼紙に3mm方眼で書きます。  絵を書いて編み図に直してゆき色を付けていきます。  一番大変なのは図案が出来上がるまでです。   後は根気です。 

イギリスのヴィクトリア&アルバート博物館への収蔵が決まりまり、去年11月フード付きマントなど2つの作品が収蔵されました。   一つが竹林、ジャケットとロングスカートのアンサンブルで、竹の葉っぱが美しく織り込まれている。  京都の染物屋さんに、緑でもいろいろな色を特注で染めてもらいました。   もう一点がフード付きマントで、「紅葉の舞」と言うタイトルで、紅葉の葉っぱが色とりどりに織り込まれている。  実際竹林とか紅葉の現地に行きます。  収蔵されるきっかけになったのは、作品集がロンドンに住むイルゼ先生の息子(ロンドンの芸術大学の教授)さんのもとに届き、それをご覧になった彼が博物館に推薦してくださいました。  1995年にイルゼ先生はイギリスに戻る事になり、翌年にご主人から連絡があり脳腫瘍で助からないとの電話がありました。  徹夜して一生懸命泣きながら千羽鶴を折って届けました。  73歳でした。  

主人のように一瞬にして亡くなりたいと思っています。   手間も時間もかかるけれど、手編みにしか出せない温かな風合いがあります。   毎年、私や生徒さんの作品を集めたチャリティバザーを開催しています。  今年は11月15日から1週間行います。

2022年6月15日水曜日

湯川れい子(音楽評論家・作詞家)    ・夢を追い続けて 2

湯川れい子(音楽評論家・作詞家)    ・夢を追い続けて 2 

1956年にエルヴィス・プレスリーがデビューしたのが「ハートブレークホテル」と言う曲でした。   それを最初に聞いたのは米軍放送でした。(20歳)   今でいうセクシーな感じの歌で頭に浮かんだのはアメリカの広大な景色で、そういうところから出てきた人かなと思いました。   それは正解でアメリカ南部の黒人教会、白人教会の影響をすごく受けて、全く何の音楽の素養もない田舎の無名の青年でした。  ロックンロールのその曲に最初に出会いました。  今まで聞いて来たアメリカの音楽とは全く違っていました。   アメリカでのロックンロール革命と言われるようなことは、日本には全然伝わって来ませんでした。    アメリカのお金持ちしか持っていないテレビの画面で、彼は黒人音楽をアメリカの茶の間に運び込んでいった。   

7月に公開されるバズ・ラーマンが作った映画「エルヴィス」があります。    これで初めて1950年代のエルヴィス・プレスリーがアメリカで巻き起こした大騒動を日本人が始めてドラマとしてみることができる。   エルヴィス・プレスリーがいたから、ビートルズがいるんだと、ジョン・レノン、ポール・マッカートニーがいくら説明しても、なかなか理解してもらえなかったが、初めて理解してもらえる映像が日本にも来るんです。  

エルヴィス・プレスリーに実際に会えたのは1973年ですから、15年後ぐらいに念願がかなうわけです。  色々な知り合いとか、エルヴィスのお父さんを通じて会おうとしたが全然駄目でした。   ラスベガスでライブをやった時に願いが叶いました。   物凄く清潔感のある人でした。  ステージではどこから見ても千両役者で立ち居振る舞いが美しいんですが、実際に会うと朴訥で物凄くシャイです。   結婚して夫と一緒に結婚証明書にサインしてもらった2度目の時には、夫の目の前ですが、キスしてくださいと言ったら、赤くなって夫にお伺いを立てて、夫が「どうぞ」といったので、唇に触れるかどうかぐらいの軽いキスをしてくれて、最大のプレゼントをもらいました。   エルヴィスの父親が17歳で母親が19歳で結婚して双子が生まれて、一方は死産だったという事です。   凄く貧しかったそうです。  19歳でレコーディングの機会に恵まれ、21歳の時には世界の大スターになっていて、南部の青年そのまんまの状況でした。  

エルヴィスは「神様どうして僕をエルヴィス・プレスリーとして世にお出しになったのですか」と生涯問い続けていたという事です。   天国を与えられる人は地獄も深いと思います。   マイケル・ジャクソンの言葉ですが、「自分は人様のスパゲッテーのような気がする、世界中から何千本もの手が伸びてきて、自分のひとかけらでも貰おう、取ろうとする。」 そういうある種の恐怖心、猜疑心がある。   エルヴィスは14歳の子と出会って21歳まで待って結婚して、エルヴィスがつけてくれた護衛の空手の教師と2歳半の子と共に彼女は駆け落ちしてしまう。    そこからわずか5年で亡くなる。(1977年)    ジョン・レノンが言った言葉に「スーパースターと言うのはスーパーの力を持ったマネ―ジャーとスーパーの力を持ったタレントが出会って、食うか食われるか、殺すか殺されるか、せめぎ合いあがあって初めてビジネスとしてスターを生むことができる。」そこまでいろんな面で縛られるんですね。   「エルヴィスが亡くなって、マネージャーが生き残った。  それは本当に気の毒だったと思う。」と言っていました。  

ビートルズが日本に行ってみたいという事から、来日公演があったんですが、来日特集号の編集長を任されたが、いろいろな事情で公式会見一回でした。  永島達司さんにお願いして帰る前日に何とか40分ぐらい話す機会を得ました。   4枚写真を撮った中の一枚には私が入っていて、宝物になっています。   オノ・ヨーコさんの評をある雑誌に書いたら、それを読んだオノ・ヨーコさんが会いたいと気う事であってそれから仲良くなりました。 ジャーナリストとしての質問などはしませんでした。   それでも用心深く、絶対口には出さないことはたくさんありましたし、何重もの鎧を身にまとっていました。   ヨーコさんはあそこまでジョンを愛していても譲らなかった。  それは違うという事には妥協しなかった。  男性と女性ではものの見方も価値観も違う、東洋と西洋でも違う、何が本当に正しいか、何が本当に正しいとしたら人を傷つけないこと、人を傷つけないで愛を全うできること、これは難しいです。    仲良くしてたらいいじゃないと思うが、そこがヨーコさんは違ったんですね。  そこが一番世界に理解してもらえなかったことでしょうね。   ジョンが撃たれて亡くなって、血に染まった眼鏡をジャケットに使ったが、私は理解できなかったが、ジョンが亡くなった日以来、アメリカでは今何人の人が今日銃で殺されているか、数字を毎日出しているんです。  銃の規制を訴え続けてきている。  大変な衝撃でした。   

1万年以上も前から人は戦争をしている、人間が生んだ子供を人間が殺している、なんで世界は法律を作らないのか、国連があるんだったら、食物連鎖のトップにいる人間が人間を集団で殺してはいけないという事、全世界の法律にしてほしいと思います。  戦争は始めてしまうとなかなかやめられない。    1996年ぐらいにマイケル・ジャクソンは「アース・ソング」と言う曲を作っているが、人間の環境破壊の歌で警告し続けてきた。    もう水と食料の奪い合いが始まってきてしまっていると思っていますが、どうやって分け合ったり、食料を増やしたりしたらいいんだろうと、武器を作ったり持ったりするよりも前に、先に考えないといけないことだと思います。オノ・ヨーコさんにいろいろな戦争についてのコメントを伺うと「もしあなたが望むなら、その戦争は終わる。」 といつも同じ言葉が返って来ます。  

今自分にできる事は限界があるが、自分にできる事を精一杯やる事を楽しみとする。   沢山の友人がいた方がいいです。   交流ができるという事は素晴らしいことだと思います。   輝ける時間が少しでも多いと幸せだと思います。


2022年6月14日火曜日

湯川れい子(音楽評論家・作詞家)    ・夢を追い続けて 1

 湯川れい子(音楽評論家・作詞家)    ・夢を追い続けて 1

1936年(昭和11年)生まれ、戦後音楽評論家として新しい世界を開拓してきました。   86歳の今も現役の音楽評論家として、精力的に仕事をしています。 

1月26日に86歳になりました。  前日に発熱して、PCR検査になかなか予約が繋がらないんです。   オミクロンという事で1か月半ぐらい入院しました。  公共機関を使ってはいけないという事で、苦労しました。   元夫も独りで暮らしていましたが、コロナにかかって心臓にペースメーカーが入ってたりして4月14日に亡くなりました。    離婚して30年ぐらいになりますが、ここ15年ぐらいは仲のいい友達として付き合ってきましたが、地上からホッといなくなり本当に寂しい思いをしました。    みんなそれぞれ人生って大変だと思います。   

「時代のカナリア」と言う本を出版しました。  アーティストはいろんなものに敏感に反応して自分の創作活動したり、表現したりするが、周囲のものに敏感な人間は、炭鉱のカナリアのように、アーティストは炭鉱のカナリアだと、悪いエネルギーを持ってるものには敏感に反応する、自分も活動してきて「時代のカナリア」なのかなと思いました。  さえずっていられる間はさえずりたいと思います。   


終戦を迎えたのは小学校2年生で、戦後の厳しい世間を体験したのは非常に貴重だったと思います。   父は海軍大佐で中国の駐在武官などを長い間していて、ハイカラな人でした。   昭和19年に戦局が厳しい中、急性の肺炎で亡くなりました。   長兄は18歳で召集されてフィリピンで戦死しました。   自分が命を懸けて踏ん張ることで、1日でも2日でも、日本に残してきている私とか母が攻撃を受けないで済むのなら、と思ったのかもしれません。   ほとんど何も食べるものがないなかで、1か月近く頑張っているんですね。  戦死した場所に行って、地元の人たちとの交流が生まれました。

身体が弱くて寝ている時に母がラジオを枕元に持ってきて、音楽を聴いても何もいい音楽がなくて、ダイヤルを回したらいいにおいのする音楽が聞こえてきて、それが米軍放送でした。   父や兄のことを考えると母の前では聴けないのでそっと布団の中で聴きました。メロディーに合わせて自分が歌っていて、何で知っているのと思ったら、「僕が作った曲だよ」と言った兄の口笛の曲でした。(戦地に向かう直前に口笛を吹いていた曲だった。) 後で判ったが、真珠湾攻撃の年(1941年)から42年にかけて、アメリカでもの凄くヒットした曲でした。   兄としては、アメリカのヒットしている曲だと、母の前では言えなかったと思います。  だから「僕が作った曲だよ」と咄嗟に言うしかなかった。  私の人生には大きな遺言になりました。   調べてようやく判ったのが、ハリー・ジェイムス&ヒズ・オーケストラ『スリーピー・ラグーン』でした。    アメリカの音楽に親しんでいきました。

当時女性でなれる職業は限られていて、原節子さんの映画を見て私も女優に成れるかもしれないと思って、新聞で新人募集の広告があり受けてみようと思って入ることが出来ました。てんぷくトリオと出たりしましたがなんか違うと思って、即興のモダンジャズが日本にも入ってくるようになり、モダンジャズを聴くようになりました。   大橋巨泉さんがジャズ評論家としてものを書くようになり、私も書けるかもしれないと思ってジャズの専門誌に投稿しました。  原稿を書くようになって、ラジオの番組の選曲係、台本書きなどしていましたが、テレビに押されてラジオの方の活動資金も細り、しゃべることもやるようになりました。  女性では初DJでした。   仕事をいただくとやれてもやれなくてもことわりませんでした。   

1960年代海外から歌手がやって来るようになり、仕事を頂きました。   パット・ブーンが日本に来た時に、お金は要らないから司会をさせてくださいとお願いして、パット・ブーンと仲良く成ればエルビス・プレスリーを紹介してもらえると思いました。   1964年東京オリンピックの閉会式のときには飛んでいきました。   吉田正先生から餞別として20万円いただき吃驚しました。   ニューヨークでテレビ出演することになりました。   NHKの「私の秘密」に似た番組があり、それに出ませんかと言う事で、もし20問で私の職業が当たらなかったら賞金500ドルという事で出ることになり獲得しました。   エルビス・プレスリーに会う機会があり、彼に結婚証書へのサインをお願いしてサインしてもらいました。  どうしてそうなったのかという事は結構いっぱいあって、マイケル・ジャクソンとも12回会って、仲良くなれたという事を、どうしてと言われても良く判らないです。   

会いたい人には会いたいと思って、自分で出来る範囲のことは尽くしますが、会えた時に私は言葉を越えて手も足も表情も全部動員して全身でしゃべっていると思います。     その状況がうれしかったです。  

22年間連れ添った元夫が4月に亡くなって、本当に悲しい思いをしました。  でも人は生きなければいけない。  今笑えること、今家族と一緒に楽しめる事、をSNSで発信しています。   高齢のかたも若い方に教えてもらってスマホなど使いこなせば、もっと世界が広がると思います。

2022年6月13日月曜日

藤波辰爾(プロレスラー)        ・【師匠を語る】 アントニオ猪木を見続けて

藤波辰爾(プロレスラー)        ・【師匠を語る】 アントニオ猪木を見続けて 

藤波さんがプロレスラーとしてデビューしたのが1971年5月9日17歳の時でした。  プロレスラー生活51年、今もリングで戦い続けている。  

アントニオ猪木さんは師匠であることは間違いないんですが、人生そのものですね。   小学校5,6年生からプロレス中継を見てファンになりました。    

アントニオ猪木さんは1943年神奈川県生まれ、家族と共にブラジルに移住、ブラジルで力道山にスカウトされてプロレス界にデビューしました。   1972年新日本プロレスが破綻し、ストロングスタイル、プロレスこそ最強と言う理念のもとボクシングのモハメッド・アリや柔道の金メダリスト、ルスカなどと異種格闘技に挑戦、後の総合格闘技の礎を築きました。  1989年参議院選挙で当選、初の国会議員プロレスラーとなります。  現役を引退したのが1998年、2010年には世界のプロレス界の発展に貢献した業績を高く評価されて、アメリカのプロレス団体WWEの殿堂( ホール・オブ・フェイム)に日本人としては初めて認定されました。  現在、心機能の異常や不整脈などをきたす難病心アミロイドーシス」で療養中です。 

電話で連絡を取ったりしています。  「元気ですか」の猪木さんの声を聞いただけで十分です。   最初あった時には怖かったです。  その時「頑張れよ」と言った言葉が自分の力になっています。   当時は柔道、相撲などの格闘技をやって身体がある程度できた人が入ったんですが、僕は175cm程度で70kg有るかないかぐらいで格闘技はやったことがありませんでした。    猪木さんの付き人としていわゆるカバン持ちをしました。 試合後に背中を流したりしました   

僕は1971年(入門の翌年)デビューしました。  具体的なことは何も言われませんでした。  普段は穏やかな人でよく話をしていました。     デビューした7か月後に、日本プロレスを出た猪木さんは新日本プロレスを1972年に旗揚げします。(6名)    庭に道場の建設から始めました。   日本プロレスにいた方がよかったなどという事は一切なかったです。  1978年師匠との対決試合がありましたが、付き人時代のことが頭に浮かぶと身体が動けないんです。   悔しさがあり後悔ばかりです。  1985年タッグマッチでしたが、猪木さんに勝つことが出来ました。  僕と木村健吾、猪木さんは坂口さんでした。   ドラゴン・スープレックスという羽交い絞めにして後方に投げるというちょっと危ない決め技で猪木さんに勝ちました。    終わったと控室で「ありがとうございました」と言ったら、ニヤッと笑って、弱さを見せないんですね。   本当に勝ったのかいまだに判らない。  

猪木さんが新日本プロレスの運営で大変だったので身体を休めて欲しいという思いがあり、現状改革を訴えようとして、試合後一気に興奮しながらやらせてほしいといったが、「やれるのか」と怒鳴られビンタされ、その時だけは張り返して、救急箱を蹴った拍子に鋏が僕の前に来て、その鋏で髪の毛を切ったことがありました。(「飛龍革命」と呼ばれた。)    

1998年8月8日 横浜文化体育館でIWGPヘビー級の防衛戦を猪木選手を相手にして行い、60分フルタイムの名勝負をする。   何人かで挑戦者決定戦をするが、猪木さんは上がってこないと僕は思っていましたが、上がって来るんです。  無心でぶつかっていきました。   結局引き分けとなり防衛する事になりますが、終わりのゴングが鳴った時には寝技で猪木さんが上になっており、負けたくないという思い、ここまで意地を通すのかと思いました。   1998年猪木さんは56歳で引退します。  

猪木さんへの手紙を披露。

2015年3月、WWE ホール・オブ・フェームに迎えられた。 (日本人2人目の殿堂入り) 現役でのプロレスラーとして51年目がスタート。(68歳)   

   

2022年6月12日日曜日

西條奈加(小説家)           ・【私のがむしゃら時代】

 西條奈加(小説家)           ・【私のがむしゃら時代】

去年心淋し川』で第164回直木三十五賞を受賞した西條奈加さんは、1964年北海道池田町の生まれです。   2005年40歳の時に『金春屋ゴメス』で第17回日本ファンタジーノベル大賞大賞を受賞してデビュー以来、人情味あふれる時代小説を中心に、幅広いジャンルの作品を次々に発表、来月7月にはNHKのBS時代劇で、西條さんの人気シリーズ「善人長屋」の放送も始まります。   20代まで江戸の文化や歴史などにほとんど接する機会のない北海道で過ごした四条さんが小説家を目指し、時代小説を書き始めるまでにどんな出会いが、がむしゃら時代があったのか、人気作家となった今、どんな思いを込めて執筆しているのか伺いました。

デビュー以来17年目になります。  年に3,4作は出ています。   朝、7時から8時の間には机に向かい昼まで執筆して、締め切りが迫っていると午後も執筆します。  そうでない場合はメール、資料を読んだりしています。    

北海道池田町の出身でワインで有名な街です。  音更町で小、中、高校時代を過ごす。  小学校の卒業文集に作家になりたいと書いてありました。  小さいころから本が好きでした。  世界名作、童話とか読んでいました。   父からは高校以降は自立するように言われて頭の中に刷り込まれていました。    父は小さいころ両親を亡くして、歳の離れた姉に育てられましたが凄い貧乏だったようで、早くから自立の思いが芽生えたようです。   高校卒業で、就職試験を4つ受けてようやく製薬会社に入れました。  帯広支社に7年働きましたが、自立するための技術を身に付けようと東京英語専門学校に入りました。    翻訳を目指しましたが、難しいところもあり挫折しました。   自分で書いた方が早いと思って、それが書くようになったきっかけです。  

専門学校ではあらゆるジャンルの人が集まっていて、世界が広がった感じがしました。  歴史、時代小説が好きな人もいて、間口が広がった感じがします。  貿易会社など3社勤めました。   20代後半、30代前半で2本ほど短編小説を書きました。(現代もの)   余りに下手だと思ったのでその後書くのは辞めました。  

30代半ばになって最初に宮部さんの時代ものを読むようになって、時代小説をたくさん読むようになって、『金春屋ゴメス』では時代もののようにしたらと思いました。     読みたいものを書きたいという思いはありました。   NHKのBSで時代劇を毎日やっていて、それを毎日1年間ぐらいは観ていました。    古地図、資料などを読むようになりました。   『金春屋ゴメス』の執筆は正味2か月半ぐらいでした。   生涯で一番頑張りました。 初めて食べることをおろそかにしました。  日本ファンタジーノベル大賞大賞を受賞しました。

時代考証がむずかしい、調べても調べても新しいことが沢山出て来ます。    江戸時代は本音で語れる部分が多かったのではないかと思います。  喧嘩をさせたいとかがしやすい。    2021年心淋し川』で第164回直木三十五賞を受賞。   ピンとこない感じです。   一般庶民の方が書いていて面白いし、書きたい部分でもあります。  現代の視点も物凄くあり繋がっています。 

来月7月にはNHKのBS時代劇で「善人長屋」の放送も始まります。  実はみんな裏家業のある博徒たちで、そこに超お人よしの職人さんが入ってきて、善人がゆえに起こすトラブルを実は悪人たちが解決してゆくというシリーズです。   映像化は初めてなので吃驚しました。  人手と時間とお金がこんなにかかっているのかと思うと吃驚しました。   アイデアは泡のようにポコッと浮かんできます。  30ぐらい浮かんで浮かんだうちの1ぐらいは書いておきます。  書いたメモの10のうち、1も使わないです。 寝かせておくとよく熟成してきて良いものに成ったりとかします。    

がむしゃらに書いて来たという印象は有ります。   この先何を書きたいとかは何も考えていません。  ゴメスが一番好きです。  

2022年6月11日土曜日

鬼丸昌也(NPO法人 理事)         ・「紛争で苦しむ世界の人々を救いたい」初回:2020/2/22

鬼丸昌也(NPO法人 理事)     ・「紛争で苦しむ世界の人々を救いたい」初回:2020/2/22 

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/02/npo_22.htmlをご覧ください。

2022年6月10日金曜日

中島加名(大学院生・教育支援員)    ・【人生のみちしるべ】 祖父・かこさとしの背中を追って

中島加名(大学院生・教育支援員) ・【人生のみちしるべ】  祖父・かこさとしの背中を追って 

中島加名さんは28歳、東京大学大学院生で、現在は北海道西興部村で暮らし、子供たちの教育支援などに携わっています。   かこさとしさんが生前書き残していた童話集「くもとり山のイノシシびょういん 7つの話」の絵を担当し、去年祖父との共著として出版しています。

祖父は優しい人と言う印象はあります。   中学、高校では面と向かって話したりとかは余り無くなってしまっていました。   「ありちゃん あいうえお かこさとしの71音」に二人の孫を育てるおじいちゃんとして書かれている。   そこの孫の一人が自分だという事は後になって知りました。  (娘である鈴木万里さんがあとがきに孫とのことを書いている。)   28歳ですが、同じ年の祖父に出会って見たかったですね。  情熱は凄かったですね。  

東京大学大学院人文社会研究科の博士課程に在学中の大学院生としての顔、北海道西興部村で子供たちの教育支援など地域つくりを担当する顔、中島加名というペンネームで絵を描いている顔、3つの顔を持っている。  

「くもとり山のイノシシびょういん 7つの話」を昨年出版。  絵の担当を出版社から依頼されました。   中学、高校の頃は絵を描いたりする練習はしていました。  祖父は晩年はほとんど目が見えなくなっていたし腰も悪くなっていて、執念で絵を描いていました。 その絵を真似してしまうとあまり面白くない絵になってしまうんで、彼がどういう絵を描きたかったのかを自分なりに掴んで、自分なりの絵を描くという風にしないとシンクロしないと思いました。   「イノシシびょういん」の外観をどうするかと言う事は凄く悩みました。   病院を建設するにあたって、取り巻く環境がどうだったのかとかまで考えないといけないと思いました。  

北海道西興部村は人口がおよそ1000人で、小学校が二つ、中学校が1つあります。  2020年から教育支援など地域つくりを担当しています。  小学校に毎日行って、アメリカの児童が二人いて、彼らの教育のサポートをしています。    通訳とか、コロナ禍でICT(Information and Communication Technology)の授業も人がいないので自分がやったりしています。  去年の夏あたりから教育支援をする塾みたいな施設を作ることもやっています。   食材に関する支援もしています。    酪農家のところにベトナムから技能実習生10数名来ていますが、生活に関してあまり村に知られていないので、イベントをやったりしています。   西興部村ではギターのボディーを作っていますが、余り知られていなくて、ゲストハウスのオーナーが新潟の音楽グループと交流があり毎年来ていたので、作曲家が公演の管理人として半年ぐらい村に来て、終わったら東京に帰るというような2拠点生活をしてる人がいます。   新潟の音楽グループの曲を編曲してもらって、村の楽器が出来る人たちに演奏できるようにしてもらったりして録音もしています。  自分が楽しんで友達が増えて行ったらいいなあと思います。

祖父のわだちと同じ道を進みたいというような思いがあり、自分が受けてきた教育環境とは違うところを見てみたくて、たまたま西興部村の話を頂いたので行きました。   祖父は子供という事に刺さるものがあったと思いますが、正直僕は子供よりも大人かなという気がしていて、子供の貧困も大人の問題なので子供にフォーカスできないなあと言う思いがあります。   外国人の子供を通して知ったのは、一人では生きてはいけないという事です。直ぐ感情がコントロールできないような子たちでしたが、彼らが安心して友達を作れるようにするのが自分の仕事だと思ったので、それをすることで半年ぐらいで感情が暴発するようなことがなくなりました。   一人では生きてはいけないという事を彼らを通して知りました。  家族の在り方も自分の中で考えないといけないと思いました。  「シェア」、何かを共有することなど、自分の中で価値観が変わっていきました。   

行き当たりばったりで生きているんで、未来のこととかはあまり考えていないんですが、絵の練習はしたいです。   何を描くかが大事だと思っていて、もっと沢山勉強はしたいと思っています。   絵本は読み聞かせがあり、コミュニケーションのきっかけになるのが面白いと思っています。    祖父はもの凄くまともな人でした、真面目で丁寧で、優しくて、人格の破綻はないけれども成し遂げていることはちょっと普通ではない、そういうところが魅力がありかっこいいなあと思います。   「爺山」を目指していきたいと思います。