2022年12月16日金曜日

遠藤誉(筑波大学名誉教授)       ・死線を越えて74年 後編

遠藤誉(筑波大学名誉教授)       ・死線を越えて74年 後編 

卡子(チャーズ)を出た後にずーっと難民として鉄道のある場所まで歩いて行きました。  鉄道も共産党により切断されていました。  歩いている途中で食べるものもなく、或る日ゴミ箱の中に新鮮そうに見えたものがありそれを食べてしまって、下痢になって全員が脱水症状になり、道端に横たわっていたところ、シャオリーが通りかかったんです。   こんな広大な大地で会えるなんて奇跡としか言いようがりません。  シャオリーは製薬会社で育てられて、衛生兵として薬を持っていて、お腹を治す薬も持っていたし、お金も貰って私たちは一命をとりとめました。   そして延吉(朝鮮寄りの現在は吉林省延辺朝鮮族自治州 )に着いて、日本人の集合体のようなところがあり、どのぐらい中国共産党を礼賛できるかなど、毎晩のように大会があり、父は製薬工場を経営していたので資本家だというようなことで責める日本人がいて、村八分にされ生きてゆけないような状況になった時、批判大会の会場の中に長春で朝鮮人を夜学に通わせていた夜間学校の校長先生がいて、朝鮮人を大事にしてくれた人だとかばってくれました。  この界隈は70%が朝鮮人なので、校長先生の証言によってバッシングから抜け出すことが出来ました。   

その後天津に行きました。   1950年6月に朝鮮戦争が始まりました。  中国も参戦するという事になりました。  延吉へは戦争から逃れてきた人が難民となってなだれ込んできました。  日本人の技術者は戦禍を逃れていいという事になっていたが、私は骨髄炎になっていて、治す薬はストレプトマイシンしかなくて、父はローンを組んで入手しました。1950年12月に父の製薬会社の知り合いから手紙が来て、天津に来てほしいとのことでした。   お金の送金もありローンを返済して、それで天津に移動ことが出来ました。 

天津は大都会でした。   夜空に輝くクリスマスツリーを観た時に、しゃべれなかった私は「あ 綺麗」としゃべって、父はしゃべったぞと言って、吃驚して喜んでくれました。  記憶喪失はそのままでしたが、ようやくしゃべれるようになってきて、天津の小学校に通えるようになりました。(1951年 10歳の時)    嬉しくてしょうがなかったが、通い始めた学校では、侵略国家日本に対するいじめでした。   憎しみの目を私に向けてきました。  授業で教わったり、本屋さんでのパンフレットなど見ると、日本軍が残虐行為を行ったといういろいろな写真とかで、これはどこかで見ているという気持ちを起こさせて、死体が転がっているのをどこで見たんだと、段々怖くなってきて夜壁に、私が用を足したことによって、浮き出てきた死体の顔とかそういったものがどこの壁にも張り付いて、私を攻めてくるんです。  これは何なんだろうと判らなく、死んだ方がこういうことから逃れられると思って、川の土手を降りて行って入水自殺を試みます。  当時は水上生活者がいて、その一つが転覆して家族が落ちたので、助けようとご主人が飛び込んで、もがいて水面に浮かんだ手首を私が見た瞬間に、動かないはずの手首が動いたというあの瞬間を思いだして、記憶がよみがえってくるんです。   水の深みにはまってゆくのを辞めて土手を這い上がってゆきました。 その瞬間から私は卡子(チャーズ)を背負って生きてゆくしかなかった。

1953年9月11日日本に帰って来ました。   舞鶴に戻って来ましたが山だらけで、一体日本人はどんなところに住んでいるんだろうという事が第一印象でした。    日本に戻ったら革命を起こしなさいと先生からは教えられていたので、ゲリラ活動にはいいと思いました。    パチンコ屋というものをみて、そこには軍艦マーチが流れていて、カルチャーショックというのではなく物凄いショックを受けました。   文化のギャップに適応することが大変な事でした。   

一体人間とは何なのか、という事を考えるようになり、哲学書を読み漁っていました。  行きついたのは「存在とは何か」、「物質とは何か」「空間とは何か」とか、最後に行きつくところに行きつきました。  夜空の星の光を見て「お前はこれが何なのか、答えられるか」という問いを私に迫ってきていると感じて、不思議さに圧倒されて「存在とは何か」、それを極めてやろうと思って、理論物理の世界に飛び込みました。  しかし、「存在とは何か」等々、その答えは出てこないのではないかと思いました。 

一橋大学で市民権を得てコンピューターシュミレーションをやる事が生活になりました。  一橋大学の食堂で中国人同士が中国語をしゃべっているという光景にぶつかり、思い切って声を掛けました。    留学生で私費の留学生は生活に困っていて、いろいろ苦しい状況があるという事を知るようになりました。   段々留学生の相談室の様になっていきました。  留学生を助けることによって心の空洞が埋まってゆくことに気が付いて、留学生、中国残留孤児などにも手を差し伸べるようになりました。   読売新聞のポスターに出会って、 1983年、『不条理のかなた』で読売ヒューマンドキュメンタリー大賞優秀賞を受賞しました。  

理論物理の世界から離れて、自分の経験の世界を活かそうと切り替えることにしました。  中国社会科学院社会学研究所研究員、上海交通大学客員教授、東京福祉大学国際交流センター長などを務めるようになりました。  卡子(チャーズ)を書いたことで、中国の共産党の政府は、この事実というのが、中国共産党が包囲して人民を苦しめて餓死させたと言う風には行きかけてなくて、あくまでも国民党軍が朝鮮市民を苦しめたので、餓死したんだという風にしか位置けてなくて、中国共産党軍が食糧封鎖をしたという事の事実を認めないんです。    卡子(チャーズ)の鉄条網のあったところにはフェンスがあり、その外は物凄い繁華街になっていますが、その内側は卡子(チャーズ)があったままの状況で、餓死体がないというだけで餓死体と山があったところに行くと、野ざらしのトイレでそこで用を足す光景を目にして物凄い強い憤りとショックを受けて、この史実だけは私は残し続けていかなければならないという気持ちを新たにしました。 墓標を建ててあげなければいけないと思いました。  卡子(チャーズ)で亡くなった方はゴミのように捨てられて、こういった事実はありませんでしたと言う事にぶつかって、卡子(チャーズ)の本は絶版になってしまって、読んでくれる人がいなくなったら、墓標がなくなるという気持ちがあって『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』という本を出しました。