五木 寛之
関東は古代から文化が栄えていたと最近の歴史はわかってきつつある
野口雨情 たくさんの童謡を作っている
「シャボン玉」「赤い靴」「あの町この町」・・・「船頭小唄」
さびしげな状況がある
シャボン玉には2歳の子供をなくしたことを詩の中に現われている
岡倉天心、横山大観
「潮来花嫁」
京都の貴族文化がダイレクトにはいってきたといわれる(短歌が栄える)
長塚 節、多田富雄、深作欣二 梅宮辰雄 香川京子 柳生博 栗山千秋
昭和7年ぐらいから旧満州に開拓民が入ってゆくが、屯田兵みたいな形で満州に行く
少年満蒙開拓義勇軍という少年たちも大陸に雄飛して王道楽土を建設せよと、おくりこまれて
日本という国の帝国主義の発展の中での、基地でもあった
相撲取り 常陸山、武双山、水戸泉、稀勢の里 片山慎吾(ゴルファー)
納豆が有名
吉田正 日本の音楽の巨峰 「寒い朝」(吉永小百合)・「再会」(松尾和子)
ステッセルのピアノ ステッセルが乃木大将に送ったといわれるピアノが保存されている
(他にもこれがそうだと言っているピアノがあるが、はっきりとはしていない)
2013年3月31日日曜日
2013年3月30日土曜日
緒方正則(73歳) ・人生聖書に導かれ
緒方正則(73歳) 人生聖書に導かれ |
40年ほど前 大企業に勤めながら、大阪、片野市にキリスト教の教会を作り、25年余りにわたって月曜から金曜はサラリーマン、週末は長老として、信者に説教をおこなう伝道師として |
2足のわらじをはき続けて来ました |
会社を定年退職してからは、神学校に学び資格を取って自ら作った教会の牧師になりました |
巡回説教者として関西や四国の教会に出かけて説教をおこなっていたが、現在は徳島県鳴門キリスト教会牧師をしています |
聖書は生活上の教えが見られる必要書といわれます |
私の家は仏教の家で祖父が熱心な仏教徒だった 初めて教会に行ったのが27歳の時だった |
組織の中で働いていていろいろ摩擦があったりした 中間管理職で良くしようと動いたつもりだが、私がかき回しているのではないかと気が付く |
聖書が指摘するのは偽善 を戒める |
貴方は人の欠点ばかり見つけて、文句を言うけれど他人の小さな欠点に目をつけて騒ぎ立てるが、自分自身の大きな問題点があることを |
貴方は気が付いていないのではないか とばっさりやられる |
自分の本当の面に対する目が向くようになった |
妹が27歳で死んでしまった 子供が一人いた それを見ていて、人間にもっと希望とでもいいますか、そういうものを提供できないかと |
考えた 妹の死を引き金に何かしようかと考えた 何かというのが教会ということになる |
死に対する克服が何かお手伝いできないかと考えた |
妹に対し、病院に聖書を持ち込み、病気が発見されて3か月だったので 何かを発見できるのではないかと考えた |
一粒の麦が地に落ちて、死ななければ一粒のままである しかし死ねば大くの実を結ぶであろう |
妹の死を一粒の麦にしようと思った 何かここで教会活動を起こすことで、それが多くの実りという事に繋がるのではないだろうかと |
考えた |
半年後に教会を始めることになる 私と大学生がいて、家内 3人で始めた |
最初借りている家がありそこを使っていた 次に自治会が集会場を提供してくれる |
後押しがなかったら続けられなかった その後家を購入する |
週一回の礼拝 一時間ぐらい 聖書の説明を20分から25分ぐらい説明の準備をしなくてはいけない |
難しいところがあっても飛ばせないので調べなくてはいけないので、準備が大変だった 時間が大変 |
周囲の人の理解がないとなかなかできない 幸い私の場合はめぐまれた |
仕事の関係で来られない時があったが、原稿を書いてFAXで送って代読してもらったこともある |
一回として休まずにやってこられた 大局観を見る力 いざ問うときの判断力 度胸 そういうものが欠けていると |
感じたが、それが聖書を読むことによって、教会活動をすることによって与えられた |
乗るかそるかの時がある 何に頼るかということになると、日常的な活動 教会との取り組み 具合 そういうものから |
身についてきたことがいつの間にか言っているように感じる |
まわりのひとたちの理解はかかせなかった |
妻は毎週毎週 来たひとの為に食事を作ってくれた |
牧師になって、念願のという気持ちはない 先に実践をやってしまった関係で思いつめた気持ちよりは、やらざるを得なくなったというような感じが強い |
牧師やるようになる前 ボランティアというかやめようと思えばいつでもやめられる環境にはあった |
牧師になるということはボランティアではない、引くに引けない 責任がある |
これは自分がやらなければならないというような感じ |
ここで残りの生涯を使っていこうという感じ |
実用的な、生活上の教えはあちこちに散見される 自分ではなかなか発見できないないので、 それを |
みなさんに 知ってもらいたいと思う |
「小さいことに忠実な人は大きいことにも忠実である」 |
日常のことをほったらかしにして、聖書を読んでいてもしょうがない |
危機管理 どういう気持ちで毎日の仕事に当たってゆくか 心構え、気構え |
「明日のための心配は無用です 明日のことは明日が心配します 労苦はその日その日に 十分あります」 |
いやなことから逃げない 今日の仕事は今日終えてしまう 明日に延ばさない |
気の進まない仕事 それから先に済ませる |
「自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうかと心配したり また体のことで何を着ようかと 心配してはいけません |
命は食べ物より大切なもの、体は大切なものではありませんから」 |
ふつうはこの反対 しかし あなた方にとって本当に大切なもの あなた方が気を取られている 着物どうしようか 食べ物をどうしようか |
毎日毎日考えているが それだけでは人間として生きていて |
ちょっともったいないなあ と もう一歩出ていきたい 出て行った先に何があるか |
聖書の中にある そういうことを考えると 自分は今日一生懸命生きればいいんだ |
明日のことは明日考える それが大切だと思う |
自分ができる範囲で、自分の今いる場所で今ベストを尽くす こんなことではないでしょうかね |
宗教は怠けものを作るのではないかと考えているという誤解があるのではないか |
これからの日本の社会が求めている人材を実は宗教が作り出してゆくべきだと考えている |
宗教は逃避だとよく言われるが、これはそうではないと思っている |
逆に足場を作ってくれる 積極的に生きてゆくために足場を作っていると思う |
宗教は縛るからいやだ ということがあるかもしれない |
よく考えてみると何が自分を縛っているかというと、それは宗教ではなくて、その人の欲ではないと欲に縛られている |
それが私たち人間の普通の姿ではないかと思う |
束縛から解放する それが宗教の働きの大きな一つだろうと思います |
宗教というと冠婚葬祭専用のように思われいることが多いのではないのか |
あるいは冠婚葬祭という場所に押し込まれているような気がする |
もっと宗教が働くというか、社会的に機能する場がもっと作られていってほしい |
引き出すときなんじゃないかなあと思っている今こそ宗教の力を |
日常の生活と宗教が離れていないで、毎日の暮らしに近いところで宗教が捕らえられれば いいなあと思います |
一つの形が聖書の中にこんな言葉ある と日々の生活のヒントになりアドバイスになるわけです |
それを見落とさないで生きたいと思っている |
2013年3月28日木曜日
木村健(童話作家) ・疎開児童が見た特攻隊
木村健(童話作家) 疎開児童が見た特攻隊 |
1945年満州・武淳の生れ 童話作家として「トロッコ少年ペドロ」 「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」など の作品があります |
下北沢近郊に埋もれている文化を発掘する北沢川文化遺産保存の会の幹事を務め、 |
これまでに坂口安吾、萩原朔太郎、斎藤茂吉などの近代文学を代表する作家の足跡を訪ね、 |
下北沢分子町文化地図を表しています |
5年前木村さんの作家活動をささえるブログに昭和20年頃長野県広岡村で歌われてきた唱歌を 知っている方はいませんか、という問い合わせ |
があり、これがきっかけとなって、疎開児童の鉛筆部隊の取材が始まりました |
去年、「鉛筆部隊と特攻隊」というタイトルで疎開児童と特攻隊員の交流した著書を出版しました |
昭和20年3月27日 68年前の出来事 特攻隊の兵士が沖縄の慶良間諸島で敵の艦船に突撃した 日なんですね |
米艦船にこれが突撃する場面 岡本喜八監督の激動の昭和史沖縄決戦にも出てくる |
沖縄戦の象徴的場面 疎開学童が泣いた 子供たちと特攻隊とは触れ合っていた |
東京世田谷の代沢国民学校の学童が空襲を避けるために、昭和19年に浅間温泉に疎開する |
このときに引率の先生の一人がこの部隊を鉛筆部隊と名前をつけた |
次にその彼らの宿泊旅館に特攻隊員が偶然にやってきて、一カ月滞在してともに暮らした |
学童には思い出ふかい兵士だったので悲しんだ |
このようなことはほとんど記録になく特攻隊が松本にいたことすら忘れていた |
鉛筆部隊 鉛筆で戦えと指導された 親への手紙を書くとか、兵隊への慰問、日々に日記をかくとか |
記憶にしっかりと覚えてる 特攻兵18歳から20歳志願の若い人 |
特攻隊というのは満州の新疆で編成されている 満州国皇帝の溥儀に謁見している |
特攻隊4隊が編成される 2隊 陸軍松本飛行場に飛んできた |
特攻機というのは機体を改装する必要がある 250kgから500kgの爆弾をつりさげて敵艦船にぶつかる |
爆装改装といわれる これを当初は岐阜の加賀見原で行なわれる予定だった |
しかし名古屋空襲があって、松本飛行場に避難した |
ここで爆装改装を行うことにして、その間浅間温泉に特攻隊が滞在した |
このときに疎開してきた学童と遭遇することになる |
学道にとっては憧れの存在だった |
泥んこになって子供たちと一緒に遊ぶ 触れ合うことによってつながりができて結ばれて |
出撃命令が下されて壮行会が行われる このときに歌った歌詞が偶然覚えている人がいて記録ができた |
「明日はおたちか、松本飛行場 さーっと飛び立つ我が愛機 かわいい皆さんの お人形を乗せて |
わたしゃ行きます まるまるへ」 歌なんですが彼らの操縦席にはそのお人形が実際にぶら下がっていたと |
整備兵が手記に書いて残していた |
「世界平和が来ましたならば、いとしなつかし、日の本へ かえりゃまっすぐ浅間をめがけ」 |
普通の特攻は結成されると、一直線に知覧 金谷に行く すぐに米艦船に突撃してゆく |
松本に2隊は松本に留まり一か月過ごすことになる |
景憂 人とのふれあい おしゃまでかわいい女の子への思いはとても深くあったと思う |
松本明美さん 田中幸子さん |
2人は特攻兵への思いを一層強める 年老いても生きる杖になっている |
知覧特攻兵平和記念館 館長も記録にはなかったとびっくりしていたとのこと |
松本市博物館で戦争と平和展を開催した |
食い入るように若い人たちが見に来て熱心にみてくれた |
おじいさんと孫が来たりして幅広い年齢層の人が来てくれた 反響のある展示会だった |
ブログに見知らぬ方からコメントがあった 昭和20年頃広岡村で歌われていた唱歌を教えて くれませんかという内容の質問だった |
寮歌を知りたいとのことだった それが発端になって代沢小学校に行って疎開された方にあって 、鉛筆部隊のことを知った |
骨董商が骨董市で買ったものに唱歌の歌詞と鉛筆部隊の手紙とかが一切が残っていた |
私のところに知らせてくださって、手紙と、歌詞のコピーを送ってくれた |
いろんな人がかかわってきた インターネットと現実世界に広がって情報が集まってきた |
それを丹念に記録していって、昨年、「鉛筆部隊と特攻隊」を出版することになった |
近代戦争史に抜け落ちてきたことだった |
本の反響は大きいものがあった 出版社に手紙や電話がきた(こんな情報があると新たに教えてくれる) |
鉛筆部隊だった方の奥さんが保存していて私に日記帳(5から6冊)を知らせてくれた |
日記だけで一人の人間の精神史を見るような気がする |
2013年3月26日火曜日
高橋敏夫(牧師・表千家) ・出会いと別れ高山右近に学ぶこと
高橋敏夫(牧師・表千家) 出会いと別れ高山右近に学ぶこと
神学校で学び悩み、考えたのは自分の目標とする日本人のキリスト教徒は誰か ということ
千利休の弟子で戦国時代を生き抜いたキリシタン大名高山右近でした
高橋さんは高山右近の生誕の地からキリシタン禁止令で国外追放処分となってたどり着いた、フィリピンのマニラまでその足跡をお尋ね、40年以上かけて
彼の生き方を研究してきました
そこから見えてきたのは、厳しいキリシタン追放令や禁止令の中で自分を曲げずに、生き抜いた高山右近の信念と人間的な魅力だったといわれます
その右近に大きな影響を与えたのは千利休との出会いと彼に学んだ茶の湯の思想があったのではないかと考えています
高橋さんの教会には大種庵という茶室があります
高橋さんは牧師であり茶の湯の教授なのです
はじめは全く関心の薄い人だった 教会に仕える立場になって、最初はドイツだった
教会のイメージとドイツの教会のイメージは全く違った
ヨーロッパ神学を一番多感なころに学んだので、日本の心を知らずの日本人になっていた
高山右近の存在は遠い存在だった
どやされるように おれは日本人だと知らされた
なんで日本人はこんなにもキリスト嫌いなのか
人口の1%にもなっていない (キリスト教人口は)
日本の教会はどこかの国のただのコピーじゃないかと思ったが、そこに高山右近があった
日本の歴史の中で生き生きと同じ信仰を表現した人は誰か
内村鑑三も調べたのですが、ちょっと違っていた
米国の宣教師の方が開いてくださった聖書研究会があった
その主催するキャンプに行った
一人のクリスチャンの高校性がハミングしながら便所をきれいにする人がいて
それを見て、このまま僕は生きていったら相当その人との人生の差を付けられると思った
思わず神様に本当に神様がいるのであれば、僕を便所掃除の出来るような人間にしてくださいませんかと 思い、祈った
便所掃除のできる人間はすごいと思った
その後聖書の勉強等をするようになった ドイツ、フランス、イギリスなどで学んだ
マニラには高山右近の銅像がある
金沢に追放された後は教会のために、教会を作りそしてキリスト教の理想の姿を実践しようとして頑張っていた人で、しかも利休の極上の人といわれて、7人高弟の第一人者です
高山右近の手紙の内容 はぼうき 茶の世界で羽でできたほうき(清めの道具として大切な
道具) 一服差し上げる
お茶を一服差し上げる 一服は4時間半かかる茶の湯のフルコース そのもてなしの手紙
その内容がわからなくて、表千家の門をたたくことになる
武将であってなおかつキリシタン大名 人生を生き抜いた
高山右近は摂津の国 高山で生まれた 秀吉につかえる 21歳で高槻城主になる
1587年 豊臣秀吉のキリシタン追放令で大名だったのが明石城領地没収にあっても生き抜いている
師匠の千利休が秀吉の使いで宗教を捨てなさいと
大友宗麟が病をして、大阪城に来て島津に悩まされているから、島津成敗をしてくれないかと直訴する
大大名の大友宗麟が秀吉のところに来たということで、彼は黄金の茶室で彼をもてなす
大友宗麟は家来に書き残している
彼は大友宗麟を助け日本を制覇するにはどうしても九州を制覇したいと思う
全軍を九州に送る高山右近も行っている 平定後 彼は箱崎に陣営を構えている
そこで突如バテレン追放令が出て、その原文が松浦藩のところに残されている
右近はバテレン追放令により全部失う 3回使者がつかわされる
秀吉の直属の部下 千利休を次に送る 武士は二君に仕えずといって、神につかえる
もう一回来るが、命を捉えると思い 明石に使者を出して、自らは福岡の島に逃れる
小西行長の領地である小豆島に宣教師達と一緒に隠れて住むようになる
そのあと前田利家がもらいうけたといういきさつがある
点々と逃れながら、前田利家の領地 能登半島の付け根あたりに領地をもらいうけた
(3万~4万石)
高山右近は秀吉の前に信長につかえていた 小西行長は秀吉の子飼い
秀吉を選ぶだろうと小西行長に 言っていた(秀吉からの問いかけ)
小西行長はうまくのがれた(秀吉を裏切っていたと思われる)
右近は 前田藩の客将 八王子の城を攻めるときに汚点を残している
茶の湯の思想 茶の湯を修道することは仏を修どうすることと同じですよと言われた
修道よりも金持ちの道楽みたいになってしまったので、利休のわびさびの厳しさの世界に戻ろうとの思いで書かれたのが 、南方録に書かれたので、その本からの影響ですべて仏教で茶の湯の哲学、美意識が作法が語られるようになったので 、高山右近を調べていくうちに、もしもそうならば高山右近は利休のわびさびに傾倒するのは不思議だなあと思った
彼はお城さえも捨てることのできる潔ぎよい人ですから、茶の湯の心というのは世界は
「捨ててこその世界」なんです
いろんな欲望で固まりやすい 戦国時代は領地が欲しい
領地が上げられなくなったら、一つの茶椀が一つの城と同じぐらいの価値が出ちゃった
その技をうまく利用したのは織田信長で、秀吉が後でいうんですが、茶の湯ご政道という方法論を秀吉は用いて天下の武将たちの心を捕まえて、その中核にあったのは、
千利休という偉大な人だった
利休さんも商人で大富豪 最初は武器も売っていました
表千家の家元のところには信長から鉄砲の球が届いたので、ありがとうという書状が届いている
自分で茶の湯を極めてゆくに従って、その道具にしても茶室にしてもすごくシンプルになるんですよ
削り取ってゆく 最後には茶室1畳半ですよ
お客を1畳に迎えて半畳におもてなしする利休さんがお座りになって心からのおもてなしをする
殺伐とした戦国時代で欲と何かがとぐろを巻いている中で、せめて茶の湯のこの茶室では、
上下もなく持ってるとか持ってないとか
そんなこと関係なく心と心でありがとうと、今日も出会って、この一幅のお茶をいただいて、
命をことごうことができた
そういう思いにみんな乾いていたのではないかと思います
キリシタンが増えたが、キリシタン大名たちは利休のわび茶を実践していた
そこにキリストに従うという信仰と見事にあっていたと思います
そうでなければ高山右近のようなキリシタン茶人は起こらなかったと思います
ロドリゲスが教会史の最後の最後に高山右近のことを挙げているが、彼は小さな部屋に入って(茶室)に入って礼拝をしていた
という文章で終わっている
戦場は皆茶室を造る そこで持てなしあっている
朝鮮出兵した以外の人はもてなしあいをやっていた
これだけ金を使って、戦う意味、秀吉のようには、秀吉の心を理解されていなかったと思います
このときもう、高山右近は追放されていた
前田利家の客将としては名古屋城に行っていたが直接参加していないが お茶会はしている
それだけ殺伐としている、乾ききった心、命絵の乾き ぬくもりへの
乾き 愛に乾く それをお互いもてなしあう 和、啓、静、寂
相手を敬う これは日本人の心じゃないですか
出会いがあり、別れて、いろんな考え方が出てきたんでしょうね
戦国の封建時代に、右近は亡くなった農民の棺を一緒に大名が担ぐ、
そんなことは普通考えれませんよね
お父さんが偉かった お父さんの信仰が本物で 最初12歳で洗礼をうけている高山右近は
お父さんのただ真似をするに過ぎなかったと思うんですよ
でも段々お父さんを尊敬するようになって、お父さんの信仰は彼の心になりましたね
彼自身が成長している 大名親子が棺を担いだ
つい最近わかったんですが、それも高槻城の本丸の近くですよ
お墓が発掘された さまざまなキリシタンの装飾品が見つかった 大発見だった
博愛の気持ちがないとできない
戦国時代 裏切りが当たり前の時代 泥水をかぶる様な時代の中で、利休という人は
あのわびさび茶を発明したというか、考案したということは、いま400年続いている わび茶はすごいですよね(普遍的なもの)
そういった普遍性の中に高山右近やキリシタン大名はキリストの心を見たんだと思います
敵さえも許す、裏切られても赦しちゃう
高山右近の生き方 得よう得ようとして、欲望を増大させてゆく
秀吉は切腹を利休に切腹を命ずる
高山右近は日本まで捨ててしまう
宣教師と一緒にマニラに行っちゃって41日後に病死する
人生って最後は全部捨てるわけですから、自分の骨が入る骨壷を前にしてお茶を飲んでいます
いかに自分の欲望とか欲しいものをかなぐり捨てて、生きるか
日本は貧しくなろうが豊かであろうが日本人としての心を大切にしていったらみんな幸せに生きていくと思いますね
この社会で喜びも分かち合い、苦しも受け入れるような心をもって、そして自分自身も病と自分も一緒に生きて苦しむ
ほかの人も同じ それが憐れみ 自分自身を憐れむ 家族、周りの人たちとともに生きるということは、苦しむもの
とともに苦しむ みんなが求めている乾いている心をもう一度よみがえらせる、
そういう思いを高山右近はキリストの心と 茶の湯の修道の中で、見事に自分の血となし、肉となして、それがちゃんと自分の人生の中で生活の中で、表現される
高山右近の苦悩、苦悩する高山右近
親友だった細川忠興への手紙にも残っている 日本決別の高山右近の書状
家康の命令でフィリピンに長崎から出るというときに
近日船出仕り候 一じく進呈申し候志なり
帰らじと思わばかねてあずさいむ なき数にいるなおぞとどめる
楠正成の子供の正行の四條縄手で討ち死にした時のみんなが署名したとき血書なんですね
その言葉を高山右近はさらりと手紙に記して 彼は名を天下に上げた
私は南海に赴き、命を天にかける そして名を流す すみつぎする
いかに (きみ、おれの人生どう思う ) 60年の苦しみたちまち このたびの古文書はなかなか申しべく候
この手紙の1ヶ月後にフィリピンに旅立つ
63歳でマニラで亡くなる 日本の貧しい人たちを援助したキリスト者の代表が来たと歓迎された 高山右近が行ったマニラはスペインの植民地だった
加賀乙彦さんは右近はそれを知って、本当にいたく悲しみ義憤を感じたと戯曲に書いている 高山右近はローマ法王とも書簡のやり取りをした
死は新しい出会いの出発ですから
好きな人と一緒にいられるということが幸せなんじゃないかと思います
2013年3月25日月曜日
天野祐吉 ・隠居大学( 樹木 希林)
天野祐吉 隠居大学 |
樹木 希林 CM界の女王。 何にも打ち合わせなしでの会談と成りました。 事務所もなく一人でやっている。 マネージャーが亡くなり、新た人間関係をやるのも、やだなあと思って、大家もやっているので、 その収入で食べていければいいと思っています。 |
癌を何年か前に患う。 年寄りをやる女優が少なくなったので結構忙しい。 |
18歳で文学座に入る。 舞台俳優が1、 映画俳優が2 ちょっと落ちてTVに出る、3 CMに出るのが4だった。 CMの話が来る(綾小路小百合役をする) 30年以上前。 どう毎日やっても、安くて、 CMの道に行こうと思いましたね。 佳代子ちゃんとの間合いを、訓練しました。 「美しい人は美しく、美しくない人も、美しく写ります。」 と言うんです。 じゃあお願いしますと出すが、 美しくない人も美しく写るフィルムなんですか。 疑問を感じて、 「そうでない人はそれなりに写ります」 と言う事になる。 名作になる。 CMが市民権を得た、CMだった。(天野) もっと早く言ってほしかった。 |
CMは普通人間を感じさせないが、このCMで変わった。 「そうでない人はそれなりに」と正直に言うという事は 樹木さんの存在感がある。 結婚させる情報誌の宣伝に、40年ぐらい別居している夫婦を持ってくるという、 何を語るかと言うと、何もいわないで、「ノーコメント」 もうひとつ何かありますかと言ったら 「ロックンロール」 そればっかりしか言わない。 そればっかりで作ったが。 大変なことになりまして、逮捕されてしまって、一人でやりましょうという事になり 「やっぱり、一人がよろしい雑草」 それだけでは申し訳ないので、 「やっぱり、一人じゃは寂しい雑草」 それで成立するなあ思った。 山頭火の句です。 直ぐ反応する、広告のだいご味は捨てがたいと思いますね。 ああいう事件がなくてもあれはあれで凄いし、(天野) こんなに長く芸能人でいるとは思わなかったが、芸能界はこんなに面白い世界は無いなと 一人の人間が修行するのに、お寺に入って尼になって修業をするのも、一つの道だけれど 芸能界に入って、揉まれて、一人で歩いてゆく事は大変な修行の場を頂けていると 思う。 全部さらされてしまうわけなので。 |
一点だけ、もし越えてこれた理由はと言えば、あんまり人と比べてこなかった。 どう根の愛、立場 我関せずとしてきた結果、良い修行になった、という実感ですね。 比べているときりがない。 新劇 どうしてあんな不細工な女優しかいないのだろうと言われていて、それなら大丈夫だろうと 文学座に入ったが。 研究生から座員になるまでいた。 |
森繁久弥さんと初めて出会ったが50歳ぐらいの時で芸に勢いがあり、すごく勉強になった。 7人の孫が第一シリーズで、私の役は脚本に無い役だったが、手伝いの子がいあないと大変だから と言うわけで、文学座から私が行く事になり、森繁さんと二人でやる芝居が多くなって、そのシリーズ が終わった時にパート2をやることになる。 森繁さんが私だけは確保してほしいとの事で、出演を依頼された。 苦労を考えると嫌だと言ったが、ギャラを倍にすると言ってくれたので、いいと言った方がいいと いわれて、パート2をやることになる。 (あなたは100%だよ、アップ森繁さんでも50%アップなんだからと言われて) 私は5000円から1万円になったが、森繁さんは80万だったのが120万円になっていた。 パート2も好評だった。 オークションで名前を売った。(2万200円) TV朝日の社名変更の時に私も名前を変えました。 「悠木ちほ」から「樹木希林」に変更した。 私は余り執着心がない。 岡田太郎さん 82歳ぐらい、吉永さんが68歳ぐらいで、それで見ていてすごく釣り合いがいいと思った。 天野さんは、いくつ違うのかと言ったら、48歳の方が奥さんだそうです。 天野さんは素晴らしい、うらやましいと思う。 一人では70歳過ぎたら家を貸してくれない、夫にはそういった。 若い奥さんがいるんだから、私のところに来ないでください。 安く貸してるので、長くいてくれるが、そのやり方を娘夫婦にして、ちょっと揉めたことがあるが。 誰に彼に通用するものでもない。 映画、CMに忙しくて、暇な時間はあるのですか? ほとんど暇です。 ほとんど電話、FAXで済んでしまう。 暇なんだけれど、頭の中で一生懸命考えている。 占い師から、あなたはほんのちょこっとしたところから、コロッときますと言われ、では夫はと言ったら、 間髪を数、夫の首をグンと掴んで一緒に連れてゆきます、と言うんですね。 心配ありませんと、よく見てるなと思いました。 本人に言っておきました。 一緒にぐぐっと連れて行ってしまえば、良いんだと思ったら気楽になりました。 天野さんは責任があるから、そういう責任をわざわざ抱え込むパワー、すごいなあと、それで奥さんが 幸せです、と言うんだから、凄い、見習わなければいけないあと思います。 |
年中何か考えている |
2013年3月24日日曜日
赤松陽構造(64歳) ・八重の桜のタイトルを書いて
赤松陽構造(64歳)
八重の桜のタイトルを書いているタイトルデザイナー
映画やTVの題字やタイトルの文字、画面上に出す時間等、画面の文字全般の仕事をします
日本大学在学中に21歳の時に父を亡くして後を継ぐ形でこの仕事を始めました
43年間で担当した映画は400本にもなります
八重の桜の題字はどんなもので書いたのか 竹の先を割って行って筆の形にした物を使いました紙に対し滲みが無いという効果有、又滲みにくい紙を使用したのでなおさら滲まない字となった
狙いでは細くでも強くと言う狙いはあります 芯の強い女性をイメージ
製作者役者の名前も同様に細い筆で書いた(10~20名の追加が有る 毎週書いている)
TVの題字では今回が初めて 映画ではゆっくりしたペースで出来る(TVは倍のペース)
「美しい夏 キリシマ」 黒木監督と親しくなるきっかけの作品
毎日映画コンクール特別賞 平成24年度文化庁映画功労賞 受賞する
従来は監督とか役者が貰っていたが、今回始めて裏方が受賞できた
いろんな方が集まって一つの者を作り上げる世界(役者、監督、美術、照明・・・)
キャパシティーが広い プロの集団でもある 芸術家タイプの人もいる
映画 多くの人に見て貰う 作品がずーっと残る
デザインの仕事は点数とかは付かない 或る与えられた時間の中でどれだけ自分がこれに対して集中してどれだけできたかが唯一の根拠 どれだけ満足が得られるかだと思います
一番最初 企画から台本が出来た時に依頼が有る場合が多い 台本を渡される
粗繋ぎのフィルムを観てデザインをイメージする そこからスタートとなる
デザインサンプルを作り プロヂューサーと打ち合わせをして具体的な流れになって行く
台本頂いてから1カ月~4カ月が大雑把な流れとなる
基本的にはいろんなものを書いてみる それを観て作品と合っているか考える場合が多い
何で書いてみよ言うかとか何に書いてみようかとかをポッと考えがいろんなときに浮かんでくる
書くものも、いろんなもので書く ろうせき、枝、割り箸、釘、マジック、等々
いろんな方法で作品に対応してゆく
一人っ子で我儘だった 昭和32年生れ 割合内気で有ったと思う
父親が映画の仕事をしていた 映画は小さい頃から一杯観に行った
高校時代は学園祭とかで16mmカメラを父親が持っていたのでそれを撮っていたりし興味を持った
カメラマンになりたいと思う様になった 大学では撮影コースで勉強する
父親が急逝して、食べていけないので、父親の後を継ごうと大學も中途でやめざるを得なかった
仕事が面白くなり始めたのが、30歳ぐらいからだった
筆の練習(レタリング)とかを自己流で勉強はしていた 書いたものを先輩から見せてもらったりした
当時は同じような字体が多かった 大島渚監督とか 篠田監督とか、若松監督とかにであって其の映画に係わることで凄く大きな刺激を受けた
体制の中に飽き足らずにプロダクションを作った方々だった
書道をやっていなかったから、かえっていろいろな発想が出来るようになったと思う
大事にしているポイントはあら繋ぎの物(ラッシュ)を観る時 映画の本質 この映画は何を言いたいのかを観れるか見れないか 見れれば後は自分で作っていく作業に入れるが、見られない場合は自分で作って行く作業には入れないわけです だからラッシュを観る時間を非常に大事にいている
この映画をどうしたらいい映画にできるかを参加した皆が考えているので、自分でも自分の領域でどれだけ良く出来るかを考えている
努力して行かないと手に入らない(天職とは思っていない 天職にしてきたと思う)
若い人 アナログからデジタルに変わってきた デジタルの仕事はやり直しが効くとか、早い時間で出来るという非常に便利なツールなんですが しかし早いこと、便利になったことで失う事が物凄く大きいと思う
若い人達は何を失ってしまうかを解っていただきたい
デジタルでは観てやり直しが効く技術になった
良い文字をどうやって書くかは昔と変わらないと思う
(観る目が有る人が少なくなった事も事実)
映画で培ってきたものをTVでやってみたいと思う
アナログからデジタル 私達の時代の人がデジタルを覚えてアナログで培った物をデジタルに展開したいとは思う
八重の桜のタイトルを書いているタイトルデザイナー
映画やTVの題字やタイトルの文字、画面上に出す時間等、画面の文字全般の仕事をします
日本大学在学中に21歳の時に父を亡くして後を継ぐ形でこの仕事を始めました
43年間で担当した映画は400本にもなります
八重の桜の題字はどんなもので書いたのか 竹の先を割って行って筆の形にした物を使いました紙に対し滲みが無いという効果有、又滲みにくい紙を使用したのでなおさら滲まない字となった
狙いでは細くでも強くと言う狙いはあります 芯の強い女性をイメージ
製作者役者の名前も同様に細い筆で書いた(10~20名の追加が有る 毎週書いている)
TVの題字では今回が初めて 映画ではゆっくりしたペースで出来る(TVは倍のペース)
「美しい夏 キリシマ」 黒木監督と親しくなるきっかけの作品
毎日映画コンクール特別賞 平成24年度文化庁映画功労賞 受賞する
従来は監督とか役者が貰っていたが、今回始めて裏方が受賞できた
いろんな方が集まって一つの者を作り上げる世界(役者、監督、美術、照明・・・)
キャパシティーが広い プロの集団でもある 芸術家タイプの人もいる
映画 多くの人に見て貰う 作品がずーっと残る
デザインの仕事は点数とかは付かない 或る与えられた時間の中でどれだけ自分がこれに対して集中してどれだけできたかが唯一の根拠 どれだけ満足が得られるかだと思います
一番最初 企画から台本が出来た時に依頼が有る場合が多い 台本を渡される
粗繋ぎのフィルムを観てデザインをイメージする そこからスタートとなる
デザインサンプルを作り プロヂューサーと打ち合わせをして具体的な流れになって行く
台本頂いてから1カ月~4カ月が大雑把な流れとなる
基本的にはいろんなものを書いてみる それを観て作品と合っているか考える場合が多い
何で書いてみよ言うかとか何に書いてみようかとかをポッと考えがいろんなときに浮かんでくる
書くものも、いろんなもので書く ろうせき、枝、割り箸、釘、マジック、等々
いろんな方法で作品に対応してゆく
一人っ子で我儘だった 昭和32年生れ 割合内気で有ったと思う
父親が映画の仕事をしていた 映画は小さい頃から一杯観に行った
高校時代は学園祭とかで16mmカメラを父親が持っていたのでそれを撮っていたりし興味を持った
カメラマンになりたいと思う様になった 大学では撮影コースで勉強する
父親が急逝して、食べていけないので、父親の後を継ごうと大學も中途でやめざるを得なかった
仕事が面白くなり始めたのが、30歳ぐらいからだった
筆の練習(レタリング)とかを自己流で勉強はしていた 書いたものを先輩から見せてもらったりした
当時は同じような字体が多かった 大島渚監督とか 篠田監督とか、若松監督とかにであって其の映画に係わることで凄く大きな刺激を受けた
体制の中に飽き足らずにプロダクションを作った方々だった
書道をやっていなかったから、かえっていろいろな発想が出来るようになったと思う
大事にしているポイントはあら繋ぎの物(ラッシュ)を観る時 映画の本質 この映画は何を言いたいのかを観れるか見れないか 見れれば後は自分で作っていく作業に入れるが、見られない場合は自分で作って行く作業には入れないわけです だからラッシュを観る時間を非常に大事にいている
この映画をどうしたらいい映画にできるかを参加した皆が考えているので、自分でも自分の領域でどれだけ良く出来るかを考えている
努力して行かないと手に入らない(天職とは思っていない 天職にしてきたと思う)
若い人 アナログからデジタルに変わってきた デジタルの仕事はやり直しが効くとか、早い時間で出来るという非常に便利なツールなんですが しかし早いこと、便利になったことで失う事が物凄く大きいと思う
若い人達は何を失ってしまうかを解っていただきたい
デジタルでは観てやり直しが効く技術になった
良い文字をどうやって書くかは昔と変わらないと思う
(観る目が有る人が少なくなった事も事実)
映画で培ってきたものをTVでやってみたいと思う
アナログからデジタル 私達の時代の人がデジタルを覚えてアナログで培った物をデジタルに展開したいとは思う
2013年3月23日土曜日
浜内千波(料理研究家) ・家族を繋ぐ料理の力
浜内ちなみ(料理研究家) 家族を繋ぐ料理の力
料理研究所出修行して昭和55年にクッキングスクールを開校しました
TV番組にも多く出演して、次々に料理本を出しました
伝える料理は家族の健康をもって作る家庭料理です
その原点は浜内さんが徳島県海陽町で過ごした子供のころにありました
家族を繋ぐ料理の力について伺います
18歳で海洋町でてから40年になる
海辺に育つ 毎朝太陽に向かって家族皆で合掌していた(父親の指示)
毎日同じ事を手伝う事は身に付く 身体の芯までしみこませて貰った
我慢強さもそう言ったことから身に付いたように思う
「おふくろの味」 家族の絆が新たに生れて来つつあるような気がする
母親は磯のものと、畑で採れたものでシンプルに作ってくれていた
出来るだけそぎ落とす味を考えて作ってくれた
私が小学校4年のころに兄が亡くなってしまって、健康には気を使う様な料理を気を付ける
ようになった
相手の事を思って作り続けること かならず伝わると思う
つくるときの心、頂く時の心が大事のような気がする
家庭に入ると小さな社会となる 心を込めて頂く事は大事な事
食材自体の味
昆布と同じ旨味成分 トマト 白菜 キャベツ 大豆 じゃがいも 玉ねぎ ニンジン 長ネギ
ニンニク シメジ えのき 海苔
豚肉、とり肉 牛肉 煮干し 鯛 マグロ 鱈
おいしい=健康
食べるもののバランス 歳と共にあまり食べてはいけないもの 炭水化物のとり過ぎに注意(糖尿病)
野菜を一杯食べる事が大事(食べる前に野菜を食べる しっかり噛む)
食材自体の味
昆布と同じ旨味成分 トマト 白菜 キャベツ 大豆 じゃがいも 玉ねぎ ニンジン 長ネギ
ニンニク シメジ えのき 海苔
豚肉、とり肉 牛肉 煮干し 鯛 マグロ 鱈
おいしい=健康
食べるもののバランス 歳と共にあまり食べてはいけないもの 炭水化物のとり過ぎに注意(糖尿病)
野菜を一杯食べる事が大事(食べる前に野菜を食べる しっかり噛む)
2013年3月21日木曜日
塩野米松(聞き書き作家) ・書き残したい貴方の気持ち
聞き書き作家・塩野米松 インタビューの形式をとりながら、一人の人に何時間も話を聞き、話し手の人生や体験、仕事を通して学んできた技その時の思いなどを聞いて行く根気のいる作業です
終わった後に話し手の受け答えを一字一句書き起こして話手の言葉だけを文章にして纏めます
塩野さんは30年前に聞き書きの必要性を気付き、宮大工、竹細工、石工、炭焼き、等手仕事をもつ日本全国の職人の方々にお会いして聞いてきました
35年前に聞き書きの作品を作ったのが最初 私の質問は一切書き入れない
一番最初は法隆寺の棟梁の西岡常一さんだったんですね
こういう本を作りますと、言うので 「こういう」が無い 貴方だけの言葉で本を作りたいという
挨拶のつもりで行ったが、その場からインタビューが始まった
「木に学べ」が最初だった (「木の命、木の心」がその後だされる)
最初は手書き テープおこしをするが、目の不自由な人がテープを聞いて、ひらがなで書き、それを健常者が漢字に直したりして送ってくる 会話の内容を頭に叩き込んでやっていた
使われる用語が宮大工専門用語、そのまま使用した
最初明治の初期に落語だとかを筆記して、本にしたそうだった(筆でしゃべる通りに移す)
明治維新回顧録等も有った 官軍の服装だとか、徒弟制度だとかいろいろ記載されている
相手を大切にしようと想う気持ちがないとお話は聞けない
人前に立つと言う事はそうなると思う
質問者には聞きたいという意思が有るし、答えると決めたからには、解って貰いたいと言う気持ちが有って、どこかわからないんだろうなあとのやりとりをする
人に遭って聞くと言うのでは1000人を越えていると思う
アナウンサーの方はラジオでお聞きになってる人達の為にこの場で判る様に処理している
私達はいったん聞いて、それをストックして、沢山貯めてその中から、本を創り出すので、今やっている会話そのものがそのまま聞かれると言う恐ろしさは無い
私達は最後に文章として描き表されるので、それが最後の目的なんですね
どんな人でもおもしろいとは思う 聞ける範囲は知れているので、自分が生きている間に聞ける人数はそんなにない 宮大工山から始めたので職人、木を切る人、魚をとる人とか或る所の職業を通して聞き書きの仕事をやってきたのが有ります 技術、職業
急速に手の仕事が無くなって行った(大阪の万博等で)
無くなって行く仕事が惜しいと思った(時代の変わり目として変わってきた時期)
公害問題、蛍がいなくなったとか ニュースで言っていた
目の前で店を閉じて行く、急速に変わって行く風景を目にした
当時は箱館では5割は就職する人がいた
聞き書き 面白いだけで割りの合わない仕事
西岡棟梁 との話 18か月にわたる 20回は通っている 1回に2~4時間
膨大な量のテープです 皆さんに解って貰えるようにして出来上がった
NHKで朗読してくれることになった
西岡棟梁に読んで貰うのが一番だと思ったが、そうはいかなかった
肉親はなかなか難しい いちいちそんなことは聞くなとか、恥ずかしさだとかあるので難しい
御爺さんと孫との間では良いかもしれない
「手技に学べ 技」著書 竹細工をするお婆さん 笹の様な竹でかごを編むのが仕事だった
曲がったかごを編んでくれないかというお客さんが来た 私の手は作れない事は無い、私の手は曲がった物でも真っ直ぐに作れる様に素材の違う竹で同じ寸法のかごを常に作れるように手を訓練してきた、だから私の手は歪んだ物を作れと言われても、多分作らないだろうと言われた
人間の頭は常に休みたがるし、ずるをしたくなる、だから一生懸命訓練して手は黙ってても、ずるもしないし、なまけもしないようにしてきたので、ごめんなさいね
それ作れません とおっしゃる
胸に痛い話です その人の人生観の話をしなくてもその人がやってきた事実をそのまま話されれば、聞く方は自分の事として響くんですね
西岡棟梁の話 千年の檜を切ったんだから、千年持つ建物を作らななければ、宮大工の勤めは果たされません と言われるとズキンと来るし、彼にしてみればあたりまえの木の使い方の話をしているだけで、私に人生訓を教えてくれるわけでは無いが、それぞれの仕事の具体的な一つ一つには知恵だとか、心構えだとかが一杯埋まっているんだと思うんですね
楽しいし、ある意味頭が下がる
戦争 反戦という言葉はもう決まりきっていリアリティーがない
佐渡でお会いした御爺さん 学校で進められて志願兵になって、15歳で飛行隊になって、飛行場で降りて来る飛行機を指示するカンテラをもって立つ役目だったんだそうです
余りに寒くて凍えてカンテラを掲げた途端に転んで、カンテラの油を浴びて全身を大やけどするんです
その後すぐ終戦になって佐渡に帰って来るが、全身やけどをしているので、あの混んだ電車に乗れない そうやって皆が何とか次の電車に乗せてくれたりして、返してくれたそうです
その御爺さんの話を聞いている時に、何でもない時に「子供が戦争に参加するようなのはやっちゃあいかんなあ」というんです これが反戦の一番原点だと思う
人に話すような人生では無いと言っていた人に話を聞いていて、自分の人生を聞かれるままに話しているうちに、振り返りつつ 自分は長い人生生きてきたなと、 家族も無事育て上げた、親方には随分世話になった 整理して覚えて行くと話してもいい人生だったのかもしれないと思われるらしい
最後はまんざらでも無い人生だったかなあと言う顔をされる
一人一人の話を聞いて、並べて見てみると日本人て、結構真摯な生きかたをして日々を一生懸命に暮らしてきた、素敵な人達なんだなあと思えるようになった
家族に話さなかった事も話してくれたりした時も沢山有った
喋ってくれた人の本だと思う
聞き書き 出会いを求めると言う意味では話す方でも聞く方でも互いにボランティアで、誰かの何かの役に立つと言う作業であるかと思います
終わった後に話し手の受け答えを一字一句書き起こして話手の言葉だけを文章にして纏めます
塩野さんは30年前に聞き書きの必要性を気付き、宮大工、竹細工、石工、炭焼き、等手仕事をもつ日本全国の職人の方々にお会いして聞いてきました
35年前に聞き書きの作品を作ったのが最初 私の質問は一切書き入れない
一番最初は法隆寺の棟梁の西岡常一さんだったんですね
こういう本を作りますと、言うので 「こういう」が無い 貴方だけの言葉で本を作りたいという
挨拶のつもりで行ったが、その場からインタビューが始まった
「木に学べ」が最初だった (「木の命、木の心」がその後だされる)
最初は手書き テープおこしをするが、目の不自由な人がテープを聞いて、ひらがなで書き、それを健常者が漢字に直したりして送ってくる 会話の内容を頭に叩き込んでやっていた
使われる用語が宮大工専門用語、そのまま使用した
最初明治の初期に落語だとかを筆記して、本にしたそうだった(筆でしゃべる通りに移す)
明治維新回顧録等も有った 官軍の服装だとか、徒弟制度だとかいろいろ記載されている
相手を大切にしようと想う気持ちがないとお話は聞けない
人前に立つと言う事はそうなると思う
質問者には聞きたいという意思が有るし、答えると決めたからには、解って貰いたいと言う気持ちが有って、どこかわからないんだろうなあとのやりとりをする
人に遭って聞くと言うのでは1000人を越えていると思う
アナウンサーの方はラジオでお聞きになってる人達の為にこの場で判る様に処理している
私達はいったん聞いて、それをストックして、沢山貯めてその中から、本を創り出すので、今やっている会話そのものがそのまま聞かれると言う恐ろしさは無い
私達は最後に文章として描き表されるので、それが最後の目的なんですね
どんな人でもおもしろいとは思う 聞ける範囲は知れているので、自分が生きている間に聞ける人数はそんなにない 宮大工山から始めたので職人、木を切る人、魚をとる人とか或る所の職業を通して聞き書きの仕事をやってきたのが有ります 技術、職業
急速に手の仕事が無くなって行った(大阪の万博等で)
無くなって行く仕事が惜しいと思った(時代の変わり目として変わってきた時期)
公害問題、蛍がいなくなったとか ニュースで言っていた
目の前で店を閉じて行く、急速に変わって行く風景を目にした
当時は箱館では5割は就職する人がいた
聞き書き 面白いだけで割りの合わない仕事
西岡棟梁 との話 18か月にわたる 20回は通っている 1回に2~4時間
膨大な量のテープです 皆さんに解って貰えるようにして出来上がった
NHKで朗読してくれることになった
西岡棟梁に読んで貰うのが一番だと思ったが、そうはいかなかった
肉親はなかなか難しい いちいちそんなことは聞くなとか、恥ずかしさだとかあるので難しい
御爺さんと孫との間では良いかもしれない
「手技に学べ 技」著書 竹細工をするお婆さん 笹の様な竹でかごを編むのが仕事だった
曲がったかごを編んでくれないかというお客さんが来た 私の手は作れない事は無い、私の手は曲がった物でも真っ直ぐに作れる様に素材の違う竹で同じ寸法のかごを常に作れるように手を訓練してきた、だから私の手は歪んだ物を作れと言われても、多分作らないだろうと言われた
人間の頭は常に休みたがるし、ずるをしたくなる、だから一生懸命訓練して手は黙ってても、ずるもしないし、なまけもしないようにしてきたので、ごめんなさいね
それ作れません とおっしゃる
胸に痛い話です その人の人生観の話をしなくてもその人がやってきた事実をそのまま話されれば、聞く方は自分の事として響くんですね
西岡棟梁の話 千年の檜を切ったんだから、千年持つ建物を作らななければ、宮大工の勤めは果たされません と言われるとズキンと来るし、彼にしてみればあたりまえの木の使い方の話をしているだけで、私に人生訓を教えてくれるわけでは無いが、それぞれの仕事の具体的な一つ一つには知恵だとか、心構えだとかが一杯埋まっているんだと思うんですね
楽しいし、ある意味頭が下がる
戦争 反戦という言葉はもう決まりきっていリアリティーがない
佐渡でお会いした御爺さん 学校で進められて志願兵になって、15歳で飛行隊になって、飛行場で降りて来る飛行機を指示するカンテラをもって立つ役目だったんだそうです
余りに寒くて凍えてカンテラを掲げた途端に転んで、カンテラの油を浴びて全身を大やけどするんです
その後すぐ終戦になって佐渡に帰って来るが、全身やけどをしているので、あの混んだ電車に乗れない そうやって皆が何とか次の電車に乗せてくれたりして、返してくれたそうです
その御爺さんの話を聞いている時に、何でもない時に「子供が戦争に参加するようなのはやっちゃあいかんなあ」というんです これが反戦の一番原点だと思う
人に話すような人生では無いと言っていた人に話を聞いていて、自分の人生を聞かれるままに話しているうちに、振り返りつつ 自分は長い人生生きてきたなと、 家族も無事育て上げた、親方には随分世話になった 整理して覚えて行くと話してもいい人生だったのかもしれないと思われるらしい
最後はまんざらでも無い人生だったかなあと言う顔をされる
一人一人の話を聞いて、並べて見てみると日本人て、結構真摯な生きかたをして日々を一生懸命に暮らしてきた、素敵な人達なんだなあと思えるようになった
家族に話さなかった事も話してくれたりした時も沢山有った
喋ってくれた人の本だと思う
聞き書き 出会いを求めると言う意味では話す方でも聞く方でも互いにボランティアで、誰かの何かの役に立つと言う作業であるかと思います
2013年3月20日水曜日
大山真弘(内観研修所) ・内観が幸せ増幅装置
大山真弘(蓮華院)・内観が幸せ増幅装置
職場の人間関係、夫婦、親子関係の悩みをどう解決したらいいのか
明確な答えが見つからず、一体人は何のために生きてるのか、自分の生き方は果たしてこれで良かったのか、おおきな壁にぶつかった事は無いでしょうか
そんな時には是非おかあさんを思いだして,内観という自己観察を試みてほしいと呼び掛けているのが、熊本県の蓮華院、誕生寺、内観研修所長 大山真弘さんです
母親のお陰でこれまでどの位の恩を受けてきたのか、其の計り知れない量を考える事によってさまざまな事が見えて来る
お母さんにして貰った事は何ですかという本にまとめられました
母親から受けた恩を思い浮かべることによって、人生の何が見えてくるのか 伺いました
内観とは、内を観る 自己観察する心理療法 元々は浄土真宗に伝わっていた「身調べ」
不眠不休断食する厳しい、難しい修業だった
吉本伊信(いしん)という人が宗教性を取り除いて、ちゃんと寝てちゃんと食べて誰にもできるようにした
3つの事を調べる
①他の人からして貰った事
②自分がほかの人にしてあげた事
③自分がほかの人に迷惑、心配とかを掛けた事 (具体的に思いだすという事が大事)
お母さんの立場からも見てみる(病気をした時の母親の具体的な対応など)
内観によって人生観を変えて行く
人間は過去を自分の都合のいいように変形して記憶する場合が有る
繰り返し繰り返し思いだしてみる事によって、真実を見出してゆく
身体のケアはするが(風呂に入ったり歯磨きしたり)、心のケアをあまりしない
1週間泊りきりで研修を行う (月に1回~2回)
TV、新聞、本等見たりするのは駄目 1時間に一回聞いてあげる
瞑想して必要最小限の事をメモすることは許容するが、出来るだけ繰り返し思い起こして貰う
視点を変えて考えて貰う(相手の立場に立った視点で物を推測して考える)
普段意識していない面を考える
人間だれしも母親から生まれて、母親から、いろいろして貰った事
食事は当たり前だと思ってしまう それに係わる労働の時間等を考える
詩(小学校6年生の生徒の詩 20年前)
今日の宿題は辛らかった 今までで一番辛い宿題だった 宿題はお母さんの詩です
先生はそう言ってから 亮子さん 辛い宿題だと思うけど 頑張って書いてきてね
お母さんの思い出としっかり向き合ってみて お母さんと一行書いたら お母さんの
笑った顔が浮かんだ お母さんともう一つ書いたら、ピンクのブラウスのお母さんが見えた
お母さんと言ってみたら、亮子ちゃんと お母さんの声がした
お母さんともう一度言ってみたら、もう何も聞こえなかった
頑張って頑張って書いたけれど、お母さんの詩はできなかった 一行書いたら涙が溢れた
一行読んだら、涙が流れ、今日の宿題は辛かった 今までで一番辛い宿題だった
でもお母さんと一杯書いてお母さんに会えた お母さんと一杯呼んで、お母さんと話せた
宿題をしていたあいだ、私にもお母さんがいた
私は以前は商社マンだった ブラジルに赴任していたが、その時に母が亡くなった
出家は38歳の時 内観の大事なこと 続ける事
95%位は明るい顔で帰って行かれる
30歳の女性 父親に対する憎しみが有った
中学生ぐらいの時に、父親の浮気と家庭内暴力で両親が離婚した
お母さんに育てられた 高校生の時に妊娠中絶 大学の時にはスナック、バーで働いていたが、その時にやくざと知り合った
或る時にお母さんがアパートに行ってみたら、何もない畳みの上で爪で何か潰す動作をしている
どうしたのと聞いたら、白い虫がうじゃうじゃいるから潰していると言う (覚せい剤による幻覚)
慌てて病院に連れて行ってやっと治った
それで終わりかと思ったら、大學卒業した後は風俗産業で働いた
其の人が研修に来て、変わったのが4日目位 養育費の計算から
お父さんに関する離婚の時からの養育費の計算をして貰う(食費、被服費、教育費、医療費等)
驚くなかれ2000万円になった (私の為に) 自分で計算したので認めざるを得ない
憎いと思っていた父親がこんなに私の事を愛してくれていた という事が判った
親の愛情が憎しみを溶かしてくれた これからはお父さんと暮らしてみますと帰って行った
男性
小さい時に妹が植物人間になってしまった お風呂場で2~3歳の時に母と一緒に入っていたら、倒れてしまった お母さんが髪を洗っていて、ふっと気付いたら姿が見えない
湯船をのぞいたら沈んでた
慌てて取り上げて、救急車で病院に行ったが時すでに遅くて、植物人間になってしまった
両親は妹に掛りきりになった ローンを払う為に父親はよるも働いた
お母さんは妹がうっと、うめいたら、飛んで行って世話をしなくればならない
俺の弁当も作ってくれなかった おやつも無かった と最初のころは言っていた
段々思いだしてゆくと お母さんは弁当はちゃんと用意していた
私は弁当箱に入れるだけだった
帰ってきたらちゃんとおやつも有ったと思いだした
最後の方になって来ると、もし私が親だったら、当然私も妹の世話を見るのが当然であろうと、やむを得ないことだったと思うようになった
妹さんは中学生のころに亡くなったそうですが、「お兄ちゃん 誰も悪くないんだよ きっとこれからは巧く行く」と言われたような気がすると感想文に書いてあった
母親に対する憎しみ あの時にミスをしなかったら、わたしも一番親の愛情が必要な時にちゃんときちっと受けられた 受けられなかったから今旨く行かないんだと言う憎しみがきれいさっぱりになくなって、帰られた
内観の特長は自分で気付いて貰う 我々はいろいろ言いたい事はあるが、じっと我慢して聞いているだけ 辛いところ、難しいところです
人間て、ここが悪いからここを直せと言われても、反発するか右から左に聞き流すだけ
自分で気付いて、自分でまずいと思った時には 治って行く
してもたらった事と、迷惑掛けた事は多いけど、お返ししたことは少ない事は殆どの方が気付かれる
自分で気付く 内観の特長
大震災の時に聞いてあげる それと同じ 寄り添ってただ聞いてあげる
自分がもうすぐ死ぬと仮定する 臨終間際に自分の一番呼びたい人、3人を呼んでんもらう
その方に御別れの言葉として、内観の3つのして貰った事を述べて貰う
そうすると、通常の内観よりも深い内観になる 臨終内観
海外からの研修も多い 外国の方はたった1週間で効果が有る事に吃驚して帰られる
キリスト教で言うと懺悔に相当するのでは 醜い面を見ると、不思議にころっと仏に替わる
自然発生的に感謝が見えて来る
人間の本質的なものに迫るものが内観にある
心配掛けたり迷惑かけたりして、回りから貰った恩が圧倒的に多いが 自分から周りにお返しした事はすくないと気付く訳です そうすると周りに何かしてあげたいと思うようになる
心理的な病気も治ったり、軽くなったりする(病気が治るのはあくまで付録)
楽に生きられる様になる事が主になる 5日目位から笑顔になって来る
周囲に対する接し方が違ってくる
介護に付いて 看護学科の学生に内観をして貰った事が有る
燃え尽き症候群にかからなくて済むようになる 余裕を持って看護が出来る様になる
内観 幸せ増幅装置 見逃している事が余りにも多い 人生の棚卸
人にあたえていたもの、人から与えられたこと どっちが多いだろう
今死んだら極楽生きか、地獄生きか 今日が最後の日だと切羽詰まった気持ちで真剣に内観して頂くと生まれ変わって来る事が出来る
悪口を言われることで自分の気付かない面を仏様の代わりに言ってくれたのだと考えて、当っていることも有るかもしれない
当っているところがあれば自分を変えて行く事によって悪口も有り難い事になる
明るく人生を生きられる事になる
職場の人間関係、夫婦、親子関係の悩みをどう解決したらいいのか
明確な答えが見つからず、一体人は何のために生きてるのか、自分の生き方は果たしてこれで良かったのか、おおきな壁にぶつかった事は無いでしょうか
そんな時には是非おかあさんを思いだして,内観という自己観察を試みてほしいと呼び掛けているのが、熊本県の蓮華院、誕生寺、内観研修所長 大山真弘さんです
母親のお陰でこれまでどの位の恩を受けてきたのか、其の計り知れない量を考える事によってさまざまな事が見えて来る
お母さんにして貰った事は何ですかという本にまとめられました
母親から受けた恩を思い浮かべることによって、人生の何が見えてくるのか 伺いました
内観とは、内を観る 自己観察する心理療法 元々は浄土真宗に伝わっていた「身調べ」
不眠不休断食する厳しい、難しい修業だった
吉本伊信(いしん)という人が宗教性を取り除いて、ちゃんと寝てちゃんと食べて誰にもできるようにした
3つの事を調べる
①他の人からして貰った事
②自分がほかの人にしてあげた事
③自分がほかの人に迷惑、心配とかを掛けた事 (具体的に思いだすという事が大事)
お母さんの立場からも見てみる(病気をした時の母親の具体的な対応など)
内観によって人生観を変えて行く
人間は過去を自分の都合のいいように変形して記憶する場合が有る
繰り返し繰り返し思いだしてみる事によって、真実を見出してゆく
身体のケアはするが(風呂に入ったり歯磨きしたり)、心のケアをあまりしない
1週間泊りきりで研修を行う (月に1回~2回)
TV、新聞、本等見たりするのは駄目 1時間に一回聞いてあげる
瞑想して必要最小限の事をメモすることは許容するが、出来るだけ繰り返し思い起こして貰う
視点を変えて考えて貰う(相手の立場に立った視点で物を推測して考える)
普段意識していない面を考える
人間だれしも母親から生まれて、母親から、いろいろして貰った事
食事は当たり前だと思ってしまう それに係わる労働の時間等を考える
詩(小学校6年生の生徒の詩 20年前)
今日の宿題は辛らかった 今までで一番辛い宿題だった 宿題はお母さんの詩です
先生はそう言ってから 亮子さん 辛い宿題だと思うけど 頑張って書いてきてね
お母さんの思い出としっかり向き合ってみて お母さんと一行書いたら お母さんの
笑った顔が浮かんだ お母さんともう一つ書いたら、ピンクのブラウスのお母さんが見えた
お母さんと言ってみたら、亮子ちゃんと お母さんの声がした
お母さんともう一度言ってみたら、もう何も聞こえなかった
頑張って頑張って書いたけれど、お母さんの詩はできなかった 一行書いたら涙が溢れた
一行読んだら、涙が流れ、今日の宿題は辛かった 今までで一番辛い宿題だった
でもお母さんと一杯書いてお母さんに会えた お母さんと一杯呼んで、お母さんと話せた
宿題をしていたあいだ、私にもお母さんがいた
私は以前は商社マンだった ブラジルに赴任していたが、その時に母が亡くなった
出家は38歳の時 内観の大事なこと 続ける事
95%位は明るい顔で帰って行かれる
30歳の女性 父親に対する憎しみが有った
中学生ぐらいの時に、父親の浮気と家庭内暴力で両親が離婚した
お母さんに育てられた 高校生の時に妊娠中絶 大学の時にはスナック、バーで働いていたが、その時にやくざと知り合った
或る時にお母さんがアパートに行ってみたら、何もない畳みの上で爪で何か潰す動作をしている
どうしたのと聞いたら、白い虫がうじゃうじゃいるから潰していると言う (覚せい剤による幻覚)
慌てて病院に連れて行ってやっと治った
それで終わりかと思ったら、大學卒業した後は風俗産業で働いた
其の人が研修に来て、変わったのが4日目位 養育費の計算から
お父さんに関する離婚の時からの養育費の計算をして貰う(食費、被服費、教育費、医療費等)
驚くなかれ2000万円になった (私の為に) 自分で計算したので認めざるを得ない
憎いと思っていた父親がこんなに私の事を愛してくれていた という事が判った
親の愛情が憎しみを溶かしてくれた これからはお父さんと暮らしてみますと帰って行った
男性
小さい時に妹が植物人間になってしまった お風呂場で2~3歳の時に母と一緒に入っていたら、倒れてしまった お母さんが髪を洗っていて、ふっと気付いたら姿が見えない
湯船をのぞいたら沈んでた
慌てて取り上げて、救急車で病院に行ったが時すでに遅くて、植物人間になってしまった
両親は妹に掛りきりになった ローンを払う為に父親はよるも働いた
お母さんは妹がうっと、うめいたら、飛んで行って世話をしなくればならない
俺の弁当も作ってくれなかった おやつも無かった と最初のころは言っていた
段々思いだしてゆくと お母さんは弁当はちゃんと用意していた
私は弁当箱に入れるだけだった
帰ってきたらちゃんとおやつも有ったと思いだした
最後の方になって来ると、もし私が親だったら、当然私も妹の世話を見るのが当然であろうと、やむを得ないことだったと思うようになった
妹さんは中学生のころに亡くなったそうですが、「お兄ちゃん 誰も悪くないんだよ きっとこれからは巧く行く」と言われたような気がすると感想文に書いてあった
母親に対する憎しみ あの時にミスをしなかったら、わたしも一番親の愛情が必要な時にちゃんときちっと受けられた 受けられなかったから今旨く行かないんだと言う憎しみがきれいさっぱりになくなって、帰られた
内観の特長は自分で気付いて貰う 我々はいろいろ言いたい事はあるが、じっと我慢して聞いているだけ 辛いところ、難しいところです
人間て、ここが悪いからここを直せと言われても、反発するか右から左に聞き流すだけ
自分で気付いて、自分でまずいと思った時には 治って行く
してもたらった事と、迷惑掛けた事は多いけど、お返ししたことは少ない事は殆どの方が気付かれる
自分で気付く 内観の特長
大震災の時に聞いてあげる それと同じ 寄り添ってただ聞いてあげる
自分がもうすぐ死ぬと仮定する 臨終間際に自分の一番呼びたい人、3人を呼んでんもらう
その方に御別れの言葉として、内観の3つのして貰った事を述べて貰う
そうすると、通常の内観よりも深い内観になる 臨終内観
海外からの研修も多い 外国の方はたった1週間で効果が有る事に吃驚して帰られる
キリスト教で言うと懺悔に相当するのでは 醜い面を見ると、不思議にころっと仏に替わる
自然発生的に感謝が見えて来る
人間の本質的なものに迫るものが内観にある
心配掛けたり迷惑かけたりして、回りから貰った恩が圧倒的に多いが 自分から周りにお返しした事はすくないと気付く訳です そうすると周りに何かしてあげたいと思うようになる
心理的な病気も治ったり、軽くなったりする(病気が治るのはあくまで付録)
楽に生きられる様になる事が主になる 5日目位から笑顔になって来る
周囲に対する接し方が違ってくる
介護に付いて 看護学科の学生に内観をして貰った事が有る
燃え尽き症候群にかからなくて済むようになる 余裕を持って看護が出来る様になる
内観 幸せ増幅装置 見逃している事が余りにも多い 人生の棚卸
人にあたえていたもの、人から与えられたこと どっちが多いだろう
今死んだら極楽生きか、地獄生きか 今日が最後の日だと切羽詰まった気持ちで真剣に内観して頂くと生まれ変わって来る事が出来る
悪口を言われることで自分の気付かない面を仏様の代わりに言ってくれたのだと考えて、当っていることも有るかもしれない
当っているところがあれば自分を変えて行く事によって悪口も有り難い事になる
明るく人生を生きられる事になる
2013年3月19日火曜日
下館和巳 ・東北弁で演じる喜劇 2
下館和巳(東北学院大学教授)
シェークスピアの喜劇のテーマは主人公の結婚
今回の劇は復活なので、ロマンス劇に近い 生き返らせ方を頭を悩ませた
温泉旅館に神父は合わないのでどうしようか悩んだ 神父の替わりにまたぎとする
ラストシーンは死んだはずが突然二人が音楽で起き上がる (ラストシーンはどのようにお客さんが捉えるのか判らなかった) ラストシーンは夢なんですかと言われた
意外に感じた
亡くなった人の悪夢なのではないかと いなくなって1年、2年はなくなったとは思わない
今回は大道具を使わなかった マタギが持つ銃は道具として使っているが、スナックのカウンターとか窓などもなくてイマジネーションの領域であった
私は塩釜市の出身ですが、母が塩釜、父は生れたのが八戸、育ったのが久慈市(南部弁)
塩釜弁の母と南部弁の父とで暮らしている 父は海産物屋を営んでいたので、東北の人達がいろいろの地域から働きに来ていた 方言の森の中に私は居た
家では標準語であったが、父の弟が来ると南部べんでしゃべっている 違う顔の様に二人でしゃべっていた この事が不思議に感じた
学校では標準語をしゃべるようになっていた 東京で出て方言を厚い氷の下に押し込むような感じでいた 演劇部に入るが発音が違う事を指摘される
「はし」 橋、箸、端の区別がつかないと言われる
厳密なことは考えていなかった 演劇なんかやめてしまえと英語劇に向かう
実は裏方の演出をやるが、演出は言葉の人 英語の演出なんて出来るわけがない
私は英語の勉強をしないと今後の自分の人生は暗いのではないかと考えた
イギリスに留学して、シェークスピアと出会う
ロミオとジュリエットの生と死についてのテーマ を1週間で書かないといけない
見て歩くしかないと、いろいろなところに言って見る 5~6本見るとなんとなく解って来る
貴族が喋る言葉と乳婆がしゃべる言葉が明らかに違う 寒流と暖流がぶつかるような感じ
ここはカントリーサイドかなロンドンの宮廷なのかが解る(硬い雰囲気)
テーマに対して答えていないことばっかり書いていた 先生が諦めた
学問ではなく先生と茶飲み話の様な感じでしゃべる様になった
日本に帰ってきて初めて原文で読んだ(周りからは嘘だろうと言われるが)
1980年代に入るとシェークスピアブームになる
日本のシェークスピア劇を見るが方言がない 蜷川幸雄の舞台はイメージとして美しかった
野田 秀樹さんのは真面目なシェークスピアだった 言葉に関してはよそよそしい様な感じだった
疑問が頭の中で膨らんできた 方言でやられていると言う言及がない
坪内逍遥だけがシェークスピアはさまざまな日本語で表さないと駄目だと言っていた
それ以降は標準語のシェークスピアに閉じ込められていった
仙台に戻ってきて、本当に懐かしい感じがした 聞いていていとおしかった
シェークスピアをやると思った時に方言でやろうとは思わなかった(やってはいけないと思っていた)
方言劇のジャンルはあるが タブーだと思っていた
芸術の世界には方言は入ってこないが、イギリスの舞台では方言が入っていた
自分達で芝居を作ってみようと思った時に、自分達の言葉でやってみようと思った
1993年に役者を集める時にバイリンガルで 東北の各藩の言葉 いろいろある
脚本は仙台弁、塩釜弁とかで書いてあって、役者は又違う
私の先生でもある木下順二 夕鶴で実験をして、成功されて日本の近代劇の基を作られた
舞台語があると思う 方言は判りにくい 最初の舞台から18年掛ったが随分違ってきた
東北以外でどうするか エジンバラでマクベスをやった 心配したのは向こうのプロヂューサー
今まで持ってきたシェークスピアは蜷川、野田 標準語でやった 字幕を付けてやったが
私達は字幕を付けなかった 字幕を付けると字幕を見てしまって、演技をあまり見ない
我々はエジンバラですてきな場所でやった (100人ちょっと) 普通は数人から20人程度
初日は7割は行った 3つ星をだした 劇評価が丁寧な批評を出した 母音がおおい
言語が判らなくても感情が解る (イギリスでは何回となく見ている劇)
ストーリーについては話すことは無い 感情の流れを見たい
方言というてこで感情を ばっと引き出してくる
自分達の感情を方言を使う事で、えぐり出すことが出来る
そこを感じて貰ったと思う マクベスの最後の舞台はスタンディングオベーションだった
東京でも解らないけど、違う側面が有る
今の若い役者にとって方言とは何か 方言は遠いという しかし仙台からすこし離れたところでは
親しみ深い感じがするという
コメディーでなくても東北弁が喋れてもいいと思う
シェークスピアの喜劇のテーマは主人公の結婚
今回の劇は復活なので、ロマンス劇に近い 生き返らせ方を頭を悩ませた
温泉旅館に神父は合わないのでどうしようか悩んだ 神父の替わりにまたぎとする
ラストシーンは死んだはずが突然二人が音楽で起き上がる (ラストシーンはどのようにお客さんが捉えるのか判らなかった) ラストシーンは夢なんですかと言われた
意外に感じた
亡くなった人の悪夢なのではないかと いなくなって1年、2年はなくなったとは思わない
今回は大道具を使わなかった マタギが持つ銃は道具として使っているが、スナックのカウンターとか窓などもなくてイマジネーションの領域であった
私は塩釜市の出身ですが、母が塩釜、父は生れたのが八戸、育ったのが久慈市(南部弁)
塩釜弁の母と南部弁の父とで暮らしている 父は海産物屋を営んでいたので、東北の人達がいろいろの地域から働きに来ていた 方言の森の中に私は居た
家では標準語であったが、父の弟が来ると南部べんでしゃべっている 違う顔の様に二人でしゃべっていた この事が不思議に感じた
学校では標準語をしゃべるようになっていた 東京で出て方言を厚い氷の下に押し込むような感じでいた 演劇部に入るが発音が違う事を指摘される
「はし」 橋、箸、端の区別がつかないと言われる
厳密なことは考えていなかった 演劇なんかやめてしまえと英語劇に向かう
実は裏方の演出をやるが、演出は言葉の人 英語の演出なんて出来るわけがない
私は英語の勉強をしないと今後の自分の人生は暗いのではないかと考えた
イギリスに留学して、シェークスピアと出会う
ロミオとジュリエットの生と死についてのテーマ を1週間で書かないといけない
見て歩くしかないと、いろいろなところに言って見る 5~6本見るとなんとなく解って来る
貴族が喋る言葉と乳婆がしゃべる言葉が明らかに違う 寒流と暖流がぶつかるような感じ
ここはカントリーサイドかなロンドンの宮廷なのかが解る(硬い雰囲気)
テーマに対して答えていないことばっかり書いていた 先生が諦めた
学問ではなく先生と茶飲み話の様な感じでしゃべる様になった
日本に帰ってきて初めて原文で読んだ(周りからは嘘だろうと言われるが)
1980年代に入るとシェークスピアブームになる
日本のシェークスピア劇を見るが方言がない 蜷川幸雄の舞台はイメージとして美しかった
野田 秀樹さんのは真面目なシェークスピアだった 言葉に関してはよそよそしい様な感じだった
疑問が頭の中で膨らんできた 方言でやられていると言う言及がない
坪内逍遥だけがシェークスピアはさまざまな日本語で表さないと駄目だと言っていた
それ以降は標準語のシェークスピアに閉じ込められていった
仙台に戻ってきて、本当に懐かしい感じがした 聞いていていとおしかった
シェークスピアをやると思った時に方言でやろうとは思わなかった(やってはいけないと思っていた)
方言劇のジャンルはあるが タブーだと思っていた
芸術の世界には方言は入ってこないが、イギリスの舞台では方言が入っていた
自分達で芝居を作ってみようと思った時に、自分達の言葉でやってみようと思った
1993年に役者を集める時にバイリンガルで 東北の各藩の言葉 いろいろある
脚本は仙台弁、塩釜弁とかで書いてあって、役者は又違う
私の先生でもある木下順二 夕鶴で実験をして、成功されて日本の近代劇の基を作られた
舞台語があると思う 方言は判りにくい 最初の舞台から18年掛ったが随分違ってきた
東北以外でどうするか エジンバラでマクベスをやった 心配したのは向こうのプロヂューサー
今まで持ってきたシェークスピアは蜷川、野田 標準語でやった 字幕を付けてやったが
私達は字幕を付けなかった 字幕を付けると字幕を見てしまって、演技をあまり見ない
我々はエジンバラですてきな場所でやった (100人ちょっと) 普通は数人から20人程度
初日は7割は行った 3つ星をだした 劇評価が丁寧な批評を出した 母音がおおい
言語が判らなくても感情が解る (イギリスでは何回となく見ている劇)
ストーリーについては話すことは無い 感情の流れを見たい
方言というてこで感情を ばっと引き出してくる
自分達の感情を方言を使う事で、えぐり出すことが出来る
そこを感じて貰ったと思う マクベスの最後の舞台はスタンディングオベーションだった
東京でも解らないけど、違う側面が有る
今の若い役者にとって方言とは何か 方言は遠いという しかし仙台からすこし離れたところでは
親しみ深い感じがするという
コメディーでなくても東北弁が喋れてもいいと思う
2013年3月18日月曜日
下館和巳 ・東北弁で演じる喜劇
下館和巳 東北弁で演じる喜劇
シェークスピア・カンパニーは下館さんが主宰して、1992年に仙台で発足しました
作品の台詞は全て東北弁で演じます 現在の団員は50人ほど 2000年平成12年にはイギリスの
エジンバラ演劇祭に参加、現地で大好評を博すなど、着実に実績を積み重ねてきました
大震災の時は、一時期中止を余儀なくされました 去年から又徐徐に活動を始めて 11月からは新しい作品を演目に宮城県内の被災地などで公演を重ねています
その作品が喜劇、新ロミオとジュリエットです 元々は悲劇の作品を喜劇にしたものです
初演はどきどきした コメディーなので笑ってもらわないと駄目なので
3時間の長いもの 今回は70分 ロミオとジュリエットが一旦死んでしまうが又生き返って来るという設定
私はお客さんとして観客席で見ている 全部反応が見える つぎの作品の書き手の栄養になって来ると思う
ジュリエット14歳 ロミオは17歳 御爺さん、若いこどもが見て、思いだしたといっってくれた
(学生服、セーラー服 ) 大震災前まではオセロをやっていた
大震災で我々はもう続けられなかった 何も無くなってどうしようもないなと思った
安否の確認をしたら、全員大丈夫だった それ以上は話している事は出来なかった
時間が段々経ってきて、食べ物、生活に必要なものは何かと思い知らされた
シェークスピア そんなことを考える人はいなかった 米、水、電気だけで生きている訳ではなくて、いままで余分だったものが必要になって来る 映画だとか本だとか
その時に、人間にとって必要なものは何なんだろうと思うようになった
無駄だと思っていたものが実はものすごく重要なものかもしれないという事を思った
劇団員を集めて、(東京、新潟等の外の人達が集まってきた 仙台の人は来なかった)
20人の仲間が集まって、話あったときに、苦しみを話す 浄化何ですね
皆で共有することでほっとしていた こうやって繋がる事だけで安心するものだと思った
今は余裕がないがいつかはやってみたいと言ってくれた
2002年にロンドンのグローブ座でダイレクティングフェリーという作品をやらして貰った時に、1992年に
ワナメーカーにあう グローブ座は舞台を作るだけではなくて、いろんなものを読んだり、考えたりする
図書館も必要、勉強会も開く、学校なんだゾと言うのを想いだして、私達の目的は和製グローブ座を立てようと言うのが僕たちの発足した最初の動機だったんです
いまやお芝居もままならない、劇場?解らない さきがけて学校をつくろうよ、やれることをやろうと今は仙台市内は閉じていたので何もできない
何が出来るかと言う事になって朗読、カウンセリング等々じゃあ始めようと言う事になって、読書会を開催することになる
「ロミオとジュリエット」なら興味を持ってくれると思った
集まってきたのはお爺ちゃんお婆ちゃん 学生 真中の世代はいない
読書会を開きつつ劇団がすこしずつ動き出した
英語で皆に声を出して読んで貰う 暗記するうちに 具体的に何をイメージするか 話し合う
お婆さんからもう劇はやらないのかと言われて、3時間で長いので、短くて、余り人が死なないで
面白いのをやってほしいと言われる
短い、楽しいとのテーマが与えられたと思った
観客席から見ているといろんなものが見えて来る
今までは自分達がやりたいと思って来たものを上演してきたが、お客さん本意で作ってもいいのかなと思った
どんな舞台を作っていったらいいかと、考えていたら友人が 東北だったら温泉だねと、温泉にいって文句を言う人はいない
設定は温泉 時代は昭和30年代が良いのでは、(この時代は温かい、皆生き生きしている 何かに向かって憧れていたし) 二つの家のぶつかりあいをどうするか、 (4人で女川に行こうと言う事になり、被災後1年後に行った 変わらない状況にしばらく呆然としていた 構想を練ることになる)
シェークスピアは偉大なる盗作作家と言われた人でオリジナルな作品は余りない
ロミオとジュリエットは1595年の作品 シェークスピアは何故あの時期に原作に目が行ったのかという事だと思うんです 1595年の数年前はロンドンをペストを襲っている おびただしい人が亡くなっている
シェークスピアは自分が生き伸びたという感覚が有ったと思います
其の時にシェークスピアの中に死と生というイメージが有ったと思う
人がこうやって亡くなって行く 明日は無いよな 明日が有ると言う生活ではない
其の時に、何のために自分達は生れてきたんだろうという思いがシェークスピアの中にあるとしたら
「恋」というテーマはシェークスピアの心をつかんだと思うんです
ロミオとジュリエットには死というものが一つの仕掛けとして出てきます 仮の死 42時間(これが僕は
引っかかった) これで再生しようとしていた 二人の恋をきっかけに 長い長い二つの家の憎しみいを溶解して溶かすことが出来るのではと、中間に立つ神父さんは思う
そのために薬を使って死なせて、死の先に光を見つけようとする
シェークスピアは死に挑んでいるような気がした(次々に親しい人達をあっけなく死なせる)
何のために生きているのか お金、名誉、・・・ でも無差別に死んでゆく
生きていてよかったなあと思えるのは何だろうと シェークスピアは恋だろうと 死んでもいいとの思い
とは 何だろう 死に対する挑戦 死に負けないぞ
1595年当時に上演されたものには、民衆の思いが有ったと思う
無常観、怒り、いらだち、疑問を感じていたと思う
政略結婚の時代に、恋というのは当時はもっともっと結晶の様なものが有ったと思う
スペイン等で伝説になっていた物語をシェークスピアは銅から金に替えて、ロンドンで発表した
ロンドンでは命と死に向き合っていた人達が一杯いたと言う事ですね
かたずを飲んで見ていたのではないだろうか 悲劇を書きたいと劇作家としては思っていた様だ
ロミオとジュリエット(悲劇になるかなあと思いながら) 若さ(明るい) エネルギーがはちきれんばかり
みずみずしさが有る 彼の中にある若さもそこに投入して行ったと思う
シェークスピア・カンパニーは下館さんが主宰して、1992年に仙台で発足しました
作品の台詞は全て東北弁で演じます 現在の団員は50人ほど 2000年平成12年にはイギリスの
エジンバラ演劇祭に参加、現地で大好評を博すなど、着実に実績を積み重ねてきました
大震災の時は、一時期中止を余儀なくされました 去年から又徐徐に活動を始めて 11月からは新しい作品を演目に宮城県内の被災地などで公演を重ねています
その作品が喜劇、新ロミオとジュリエットです 元々は悲劇の作品を喜劇にしたものです
初演はどきどきした コメディーなので笑ってもらわないと駄目なので
3時間の長いもの 今回は70分 ロミオとジュリエットが一旦死んでしまうが又生き返って来るという設定
私はお客さんとして観客席で見ている 全部反応が見える つぎの作品の書き手の栄養になって来ると思う
ジュリエット14歳 ロミオは17歳 御爺さん、若いこどもが見て、思いだしたといっってくれた
(学生服、セーラー服 ) 大震災前まではオセロをやっていた
大震災で我々はもう続けられなかった 何も無くなってどうしようもないなと思った
安否の確認をしたら、全員大丈夫だった それ以上は話している事は出来なかった
時間が段々経ってきて、食べ物、生活に必要なものは何かと思い知らされた
シェークスピア そんなことを考える人はいなかった 米、水、電気だけで生きている訳ではなくて、いままで余分だったものが必要になって来る 映画だとか本だとか
その時に、人間にとって必要なものは何なんだろうと思うようになった
無駄だと思っていたものが実はものすごく重要なものかもしれないという事を思った
劇団員を集めて、(東京、新潟等の外の人達が集まってきた 仙台の人は来なかった)
20人の仲間が集まって、話あったときに、苦しみを話す 浄化何ですね
皆で共有することでほっとしていた こうやって繋がる事だけで安心するものだと思った
今は余裕がないがいつかはやってみたいと言ってくれた
2002年にロンドンのグローブ座でダイレクティングフェリーという作品をやらして貰った時に、1992年に
ワナメーカーにあう グローブ座は舞台を作るだけではなくて、いろんなものを読んだり、考えたりする
図書館も必要、勉強会も開く、学校なんだゾと言うのを想いだして、私達の目的は和製グローブ座を立てようと言うのが僕たちの発足した最初の動機だったんです
いまやお芝居もままならない、劇場?解らない さきがけて学校をつくろうよ、やれることをやろうと今は仙台市内は閉じていたので何もできない
何が出来るかと言う事になって朗読、カウンセリング等々じゃあ始めようと言う事になって、読書会を開催することになる
「ロミオとジュリエット」なら興味を持ってくれると思った
集まってきたのはお爺ちゃんお婆ちゃん 学生 真中の世代はいない
読書会を開きつつ劇団がすこしずつ動き出した
英語で皆に声を出して読んで貰う 暗記するうちに 具体的に何をイメージするか 話し合う
お婆さんからもう劇はやらないのかと言われて、3時間で長いので、短くて、余り人が死なないで
面白いのをやってほしいと言われる
短い、楽しいとのテーマが与えられたと思った
観客席から見ているといろんなものが見えて来る
今までは自分達がやりたいと思って来たものを上演してきたが、お客さん本意で作ってもいいのかなと思った
どんな舞台を作っていったらいいかと、考えていたら友人が 東北だったら温泉だねと、温泉にいって文句を言う人はいない
設定は温泉 時代は昭和30年代が良いのでは、(この時代は温かい、皆生き生きしている 何かに向かって憧れていたし) 二つの家のぶつかりあいをどうするか、 (4人で女川に行こうと言う事になり、被災後1年後に行った 変わらない状況にしばらく呆然としていた 構想を練ることになる)
シェークスピアは偉大なる盗作作家と言われた人でオリジナルな作品は余りない
ロミオとジュリエットは1595年の作品 シェークスピアは何故あの時期に原作に目が行ったのかという事だと思うんです 1595年の数年前はロンドンをペストを襲っている おびただしい人が亡くなっている
シェークスピアは自分が生き伸びたという感覚が有ったと思います
其の時にシェークスピアの中に死と生というイメージが有ったと思う
人がこうやって亡くなって行く 明日は無いよな 明日が有ると言う生活ではない
其の時に、何のために自分達は生れてきたんだろうという思いがシェークスピアの中にあるとしたら
「恋」というテーマはシェークスピアの心をつかんだと思うんです
ロミオとジュリエットには死というものが一つの仕掛けとして出てきます 仮の死 42時間(これが僕は
引っかかった) これで再生しようとしていた 二人の恋をきっかけに 長い長い二つの家の憎しみいを溶解して溶かすことが出来るのではと、中間に立つ神父さんは思う
そのために薬を使って死なせて、死の先に光を見つけようとする
シェークスピアは死に挑んでいるような気がした(次々に親しい人達をあっけなく死なせる)
何のために生きているのか お金、名誉、・・・ でも無差別に死んでゆく
生きていてよかったなあと思えるのは何だろうと シェークスピアは恋だろうと 死んでもいいとの思い
とは 何だろう 死に対する挑戦 死に負けないぞ
1595年当時に上演されたものには、民衆の思いが有ったと思う
無常観、怒り、いらだち、疑問を感じていたと思う
政略結婚の時代に、恋というのは当時はもっともっと結晶の様なものが有ったと思う
スペイン等で伝説になっていた物語をシェークスピアは銅から金に替えて、ロンドンで発表した
ロンドンでは命と死に向き合っていた人達が一杯いたと言う事ですね
かたずを飲んで見ていたのではないだろうか 悲劇を書きたいと劇作家としては思っていた様だ
ロミオとジュリエット(悲劇になるかなあと思いながら) 若さ(明るい) エネルギーがはちきれんばかり
みずみずしさが有る 彼の中にある若さもそこに投入して行ったと思う
2013年3月17日日曜日
田中和男(出版社社長) ・詩人茨木のり子の残した愛のかたみ
田中和男
茨木のり子さんは世代を越えて幅広い読者をもつ戦後代表的な女流詩人ですが7年前に亡くなりました
先立たれた最愛の夫、三浦安信さんへの想いをつづった詩の草稿を密かに残していました
死後発見された40点ほどの詩は「歳月」という詩集として世に出ましたが、茨木さんの7回目の命日を機に、これらの詩に生前の作品をくわえた愛の詩集とも言うべきアンソロジーが出版されました
出版に携わったのが、田中和男さんです
命日である2月17日に墓前に新しい詩集を備える決心します 「私達の成就」です
代表作 「寄りかからず」
もはや出来合いの思想には寄りかかりたくない もはや出来合いの宗教には寄りかかりたくない
もはや出来合いの学問には寄りかかりたくない もはやいかなる権威には寄りかかりたくない
長く生きて心底学んだのはそれぐらい 自分の耳目 自分の二本足のみで立っていて
何不都合の事やある 寄りかかるとすればそれは 椅子の背もたれだけ
(1999年 大ベストセラーになる 朝日新聞の天声人語に紹介される 10万部 異例中の異例)
茨木さんは20歳の時に終戦を迎える
茨木さんとの出会いは35年前に子供の本屋を開いたが、その時に訪れてくれた
茨木さんが「詩の心を読む」を出していて、この本にサインをして貰ったのが最初の出会い
「詩の心を読む」のまえがきに
良い詩を読むと僕たちの心の中にある優しい気持ちが引き出されてくる
あらゆる生き物に対するいつくしみの気持ちというものがドンドン膨らんでくる
とありこの本にのめり込んで読んだ
第一印象は無言であった 1時間座っていたが、一言もしゃべらず帰って行った
茨木さんは病気は沢山持っていた(脳には動脈瘤 心臓にも動脈瘤が有って病気がちだった)
茨木さんは私の子供時代を聞きたがった
茨木さんはくいしん坊だったのでいろいろな店を知っており、良く御一緒したりした
私は出版する仕事に替わる 「対話」が第一詩集
私が読みたいと言う気持ちが有ったので、絶版になっていた本を復刊した
23歳で結婚する(山形の外科医とお見合いをして、お互い一目ぼれする)
25年間の結婚生活 その後夫は癌で亡くなる
本格的に詩に取り組んだのは結婚してから
「櫂」という同人雑誌を始めて谷川俊太郎、大川誠 岸田衿子
等が入ってきた
易しい言葉使いで自分の気持ちを詩にする人
日々の暮らしが大事で、そこから詩が生れて来る 生活派の詩人
生活派の詩人は詩壇の中では蔑まされるような感じ
茨城さんの詩は透明な水が流れている様な感じ 誰にでもわかる(子供にもわかる)
「早く死にたい」と言っていたが、夫が亡くなってそう思うようになったようだ
25年間の結婚生活の後、残り31年間は一人で過す 79歳で亡くなる
未発表の詩を発見する 亡き夫への挽歌、鎮魂歌 (生きている間は絶対に見せなかった)
遺族の手で亡くなった翌年に公開されて、「歳月」という詩集で世にでる
「泉」
私の中で咲いていたラベンダーの様なものは、皆貴方に差し上げました
だからもう、香るものはなに一つない 私の中であふれていた泉の様なものは
貴方が息絶えたとき 一遍に吹き上げて いまはもうかれがれ だからもう涙一滴こぼれない
再びお会いできた時 また薫のでしょうか 五月の野のように
又溢れるのでしょうか ルードの泉のように
姿は無いけれども彼そのままが目の前にいて、其の人を抱きしめて、恋焦がれて
ごいっしょにくらしたという そんな感じが出ている
「歳月」
真実を見極めるというのに、25年という歳月は短かったでしょうか
90歳のあなたを想定してみる 80歳の私を想定してみる
どちらかがぼけて、どちらかが疲れ果て あるいは二人ともそうなって、
訳も判らず憎み合っている姿がちらっと よぎる あるいはまた
ふんわりとした翁とおおなになって もう行きましょうと たがいに首を絞めようとして
その力さえ無く しりもちなんかついている姿 けれど歳月だけではないでしょう
たった一日きりの稲妻のような真実を 抱きしめて生きぬいている人もいますもの
詩のアンソロジー 1冊の本にまとめる
「私達の成就」 の核となるものとして 「急がなくては」
「急がなくては」
急がなくてはなりません 静かに 急がなくてはなりません 感情をととのえて
貴方のもとに 急がなくてはなりません あんたの傍らで眠ること
再び目覚めない眠りを眠ること それが私達の成就です
たどる目的地の有る有り難さ ゆっくりと急いでいきます
現代ではまれな交じりっけ無しの愛の詩集 谷川俊太郎の帯にある言葉
茨木のり子さんほど日本人を深く愛した詩人はいないのではないかと思いました
日本人の心の奥底には、昔と同じように依頼心が強くて、上にはへつらって、下には傲慢という
日本心のくせみたいなものがあって、そういうものに、茨木さんは厳しくて、はっしと其れをしかりつけるという かと思うと、もう一つ 日本人の心の底にある優しさ、とか 和の心を救いあげて賞賛する 日本人に対する深いいつくしみ の気持ちが溢れているように思います
この世界を作っているのは つまり一人の男と一人の女が最小単位で、その二人が愛し合って、美しい家庭を作ると言うのが、この世界ではなにより大事だと言う事を身をもって実践されたのが茨木のり子さんだと思います
茨木のり子さんは世代を越えて幅広い読者をもつ戦後代表的な女流詩人ですが7年前に亡くなりました
先立たれた最愛の夫、三浦安信さんへの想いをつづった詩の草稿を密かに残していました
死後発見された40点ほどの詩は「歳月」という詩集として世に出ましたが、茨木さんの7回目の命日を機に、これらの詩に生前の作品をくわえた愛の詩集とも言うべきアンソロジーが出版されました
出版に携わったのが、田中和男さんです
命日である2月17日に墓前に新しい詩集を備える決心します 「私達の成就」です
代表作 「寄りかからず」
もはや出来合いの思想には寄りかかりたくない もはや出来合いの宗教には寄りかかりたくない
もはや出来合いの学問には寄りかかりたくない もはやいかなる権威には寄りかかりたくない
長く生きて心底学んだのはそれぐらい 自分の耳目 自分の二本足のみで立っていて
何不都合の事やある 寄りかかるとすればそれは 椅子の背もたれだけ
(1999年 大ベストセラーになる 朝日新聞の天声人語に紹介される 10万部 異例中の異例)
茨木さんは20歳の時に終戦を迎える
茨木さんとの出会いは35年前に子供の本屋を開いたが、その時に訪れてくれた
茨木さんが「詩の心を読む」を出していて、この本にサインをして貰ったのが最初の出会い
「詩の心を読む」のまえがきに
良い詩を読むと僕たちの心の中にある優しい気持ちが引き出されてくる
あらゆる生き物に対するいつくしみの気持ちというものがドンドン膨らんでくる
とありこの本にのめり込んで読んだ
第一印象は無言であった 1時間座っていたが、一言もしゃべらず帰って行った
茨木さんは病気は沢山持っていた(脳には動脈瘤 心臓にも動脈瘤が有って病気がちだった)
茨木さんは私の子供時代を聞きたがった
茨木さんはくいしん坊だったのでいろいろな店を知っており、良く御一緒したりした
私は出版する仕事に替わる 「対話」が第一詩集
私が読みたいと言う気持ちが有ったので、絶版になっていた本を復刊した
23歳で結婚する(山形の外科医とお見合いをして、お互い一目ぼれする)
25年間の結婚生活 その後夫は癌で亡くなる
本格的に詩に取り組んだのは結婚してから
「櫂」という同人雑誌を始めて谷川俊太郎、大川誠 岸田衿子
等が入ってきた
易しい言葉使いで自分の気持ちを詩にする人
日々の暮らしが大事で、そこから詩が生れて来る 生活派の詩人
生活派の詩人は詩壇の中では蔑まされるような感じ
茨城さんの詩は透明な水が流れている様な感じ 誰にでもわかる(子供にもわかる)
「早く死にたい」と言っていたが、夫が亡くなってそう思うようになったようだ
25年間の結婚生活の後、残り31年間は一人で過す 79歳で亡くなる
未発表の詩を発見する 亡き夫への挽歌、鎮魂歌 (生きている間は絶対に見せなかった)
遺族の手で亡くなった翌年に公開されて、「歳月」という詩集で世にでる
「泉」
私の中で咲いていたラベンダーの様なものは、皆貴方に差し上げました
だからもう、香るものはなに一つない 私の中であふれていた泉の様なものは
貴方が息絶えたとき 一遍に吹き上げて いまはもうかれがれ だからもう涙一滴こぼれない
再びお会いできた時 また薫のでしょうか 五月の野のように
又溢れるのでしょうか ルードの泉のように
姿は無いけれども彼そのままが目の前にいて、其の人を抱きしめて、恋焦がれて
ごいっしょにくらしたという そんな感じが出ている
「歳月」
真実を見極めるというのに、25年という歳月は短かったでしょうか
90歳のあなたを想定してみる 80歳の私を想定してみる
どちらかがぼけて、どちらかが疲れ果て あるいは二人ともそうなって、
訳も判らず憎み合っている姿がちらっと よぎる あるいはまた
ふんわりとした翁とおおなになって もう行きましょうと たがいに首を絞めようとして
その力さえ無く しりもちなんかついている姿 けれど歳月だけではないでしょう
たった一日きりの稲妻のような真実を 抱きしめて生きぬいている人もいますもの
詩のアンソロジー 1冊の本にまとめる
「私達の成就」 の核となるものとして 「急がなくては」
「急がなくては」
急がなくてはなりません 静かに 急がなくてはなりません 感情をととのえて
貴方のもとに 急がなくてはなりません あんたの傍らで眠ること
再び目覚めない眠りを眠ること それが私達の成就です
たどる目的地の有る有り難さ ゆっくりと急いでいきます
現代ではまれな交じりっけ無しの愛の詩集 谷川俊太郎の帯にある言葉
茨木のり子さんほど日本人を深く愛した詩人はいないのではないかと思いました
日本人の心の奥底には、昔と同じように依頼心が強くて、上にはへつらって、下には傲慢という
日本心のくせみたいなものがあって、そういうものに、茨木さんは厳しくて、はっしと其れをしかりつけるという かと思うと、もう一つ 日本人の心の底にある優しさ、とか 和の心を救いあげて賞賛する 日本人に対する深いいつくしみ の気持ちが溢れているように思います
この世界を作っているのは つまり一人の男と一人の女が最小単位で、その二人が愛し合って、美しい家庭を作ると言うのが、この世界ではなにより大事だと言う事を身をもって実践されたのが茨木のり子さんだと思います
2013年3月16日土曜日
鍵井靖章(水中写真家42歳) ・被災地を励ます再生する海の姿
鍵井靖章さん(水中写真家)は15年にわたって世界各地の海で撮影を続けてきました
東日本大震災ではいち早く海に潜り、海の中の様子を記録してきました
震災から2年、このほど被災地の海の様子を写真集に纏めました
「だんご魚海の底から見た震災と再生」 写真集 震災から3週間後に東北の海に潜ってそれから去年12月までのおよそ2年間の被災地の撮影された海の様子が映し出されている
瓦礫、魚 等 南の海で撮影されている事が多かった
南の海でサンゴ、マンタ、クジラ、クマノミ等を撮影していた
3週間後に潜った 4月3,4,5日のタイミングだった 週刊誌の依頼が有った
まだだれも潜っていなかった
どうしても行きたかった理由は 一番最初に報道される水中写真が引きずり込まれた瓦礫の写真だけが発表されるのが嫌だった
瓦礫の写真だけがイメージが先行して傷だらけの海底ですよだけの報道ではなくて、そこでも生き物たちが生きていますよというのを報告したかった
津波の海底でも生き物達はしっかり生き延びてますようという事を皆さんに伝えたかった
家がまるごと引きずり込まれていて、タンスとか、机とかがそのままの状態であった
海にいる事が忘れられるような光景であった(差し込む太陽が綺麗で印象的だった)
ちょっと移動するだけでいろんな瓦礫が目の前に現れてショックだった
2人で潜っていると恐怖は感じ無かったが、ちょっと一人になったときに、海底で独りぼっちになったときに、凄い恐怖が襲ってきた 怖くて怖くて、声を出して逃げたい気持ちになった
過去にそんな経験をしたことが無かった
水が重たかった 岩手県宮古市、大船渡市の海の中だった
吃驚するほど雲丹とかヒトデとか、動けないものはいるが、魚は全くいなかった
後で考えると、津波が来るので沖合に逃げたのかなと思った
震災直後は海の中で全くいなくて、命を全く感じなかった 瓦礫ばっかりで
赤い色をした「だんご魚」が見えた 大きさは親指の爪位の大きさ 顔が愛嬌が有る
おむすびに顔とくちを書いたような感じ 東北では1年中みられる魚 唯一出会えた魚だった
最後にこの魚を撮影できたことは、僕にとっては凄いきっかけというか、始まりになった
3週間後の海は心配の有る事がいろいろあったが、撮影しなければいけなかったんだと思った
だんご魚からの視点での写真集となった
岩手県の海は潜れない 密漁者とみなされる
地元の人とのつながりが出来て水中写真を撮ることに協力的になってくれた
瓦礫の写真は興味を示さなかったが、生き物の写真については、とっても興味を持って喜んでくれた (食べる魚については特に興味をもったが、だんご魚については知らなかった)
大きな漁港は早い時期に瓦礫の撤去が早かったが、小さな漁港は中々進展していない
生き物はすこしずつ戻ってきている 水温が高くなると魚も活動的になってきて、あいあめ、かじかを見るようになった 最近は瓦礫(車だとか)
を利用して魚が住むようになった
あいかじかが卵を抱えている姿を見て嬉しかった(2012年2月頃)
漁師たちに写真を見せると喜んでくれた(宮古漁協が無償で船を出してくれた)
漁師の方に対して何かしてあげられないかと考えた
撮影するだけでなく、地元の方や、漁師のかたに報告する機会を持った
一人の漁師が どうして海草の写真がないのかと言われた
海の中にわかめ、こんぶがないと言う事は、アワビ、うににとっては昆布やわかめを食べて生きているので、アワビやウニが生きられないと言う事
翌日から良く見ると海草が生えてきている事を見つける(2012年1月頃)
海草という視点で見てみると、わかめの新芽が出てきている
岩肌に生えるのではなくて、瓦礫からも海草が生えていた(海の逞しさに感動する)
3月に同じところに潜ったら、新芽が伸びて1m近くになっていた
漁師さんに見せたいと思った(アワビ、うにの環境はしっかり再生されている)
この2年間で海に対する気持ちが随分と考えが変わった(地元の人達との交流が有って)
いままで岩手県は潜ることが出来ないので、岩手の海の中の写真は取れなかったが、いろいろと人の目に触れていない世界が有るのを知って、瓦礫ばかりではなくて、本来の海のなかの美しい姿をとりたいと思った
今までは南の海での世界 夢の中の世界 人間と密着していなかった海の写真を撮っていたと思う
震災の海の世界をとるようになって人間の生活と密着した写真をとる様になった
どうだ凄いだろうこの写真という様な感じだったが、震災後の写真は誰かの為になればと思うようになった(記録している事は何かの役に立つかもしれない)
最後の頃はだんご魚の産卵を取ろう思った 卵は2mm位 巣穴の大きさが直径1cm
被災地の海で命を撮りたいと思うようになった(おおきなエールになるのではないかと思った)
6月にだんご魚の産卵が有るというので長期滞在を決めた(産卵から孵化)
写真集にしてまとめたいと思うようになった
これまでの震災の写真集とは違った写真集を出そうと思った
東北の海のすべてを表している訳ではないので、再生が進んでいるようだが、すべてを表している訳ではないのでその点を理解してもらいたい
希望になるような写真集にしたかった
いろんな角度から見る事が出来るようになったと思う
この地球は人間しか生きているのではなく、あらゆる生物が生きている
今後は漁師さんにも注目して再生してゆく漁業の姿とかもレンズを向けて行きたいと思っている
東日本大震災ではいち早く海に潜り、海の中の様子を記録してきました
震災から2年、このほど被災地の海の様子を写真集に纏めました
「だんご魚海の底から見た震災と再生」 写真集 震災から3週間後に東北の海に潜ってそれから去年12月までのおよそ2年間の被災地の撮影された海の様子が映し出されている
瓦礫、魚 等 南の海で撮影されている事が多かった
南の海でサンゴ、マンタ、クジラ、クマノミ等を撮影していた
3週間後に潜った 4月3,4,5日のタイミングだった 週刊誌の依頼が有った
まだだれも潜っていなかった
どうしても行きたかった理由は 一番最初に報道される水中写真が引きずり込まれた瓦礫の写真だけが発表されるのが嫌だった
瓦礫の写真だけがイメージが先行して傷だらけの海底ですよだけの報道ではなくて、そこでも生き物たちが生きていますよというのを報告したかった
津波の海底でも生き物達はしっかり生き延びてますようという事を皆さんに伝えたかった
家がまるごと引きずり込まれていて、タンスとか、机とかがそのままの状態であった
海にいる事が忘れられるような光景であった(差し込む太陽が綺麗で印象的だった)
ちょっと移動するだけでいろんな瓦礫が目の前に現れてショックだった
2人で潜っていると恐怖は感じ無かったが、ちょっと一人になったときに、海底で独りぼっちになったときに、凄い恐怖が襲ってきた 怖くて怖くて、声を出して逃げたい気持ちになった
過去にそんな経験をしたことが無かった
水が重たかった 岩手県宮古市、大船渡市の海の中だった
吃驚するほど雲丹とかヒトデとか、動けないものはいるが、魚は全くいなかった
後で考えると、津波が来るので沖合に逃げたのかなと思った
震災直後は海の中で全くいなくて、命を全く感じなかった 瓦礫ばっかりで
赤い色をした「だんご魚」が見えた 大きさは親指の爪位の大きさ 顔が愛嬌が有る
おむすびに顔とくちを書いたような感じ 東北では1年中みられる魚 唯一出会えた魚だった
最後にこの魚を撮影できたことは、僕にとっては凄いきっかけというか、始まりになった
3週間後の海は心配の有る事がいろいろあったが、撮影しなければいけなかったんだと思った
だんご魚からの視点での写真集となった
岩手県の海は潜れない 密漁者とみなされる
地元の人とのつながりが出来て水中写真を撮ることに協力的になってくれた
瓦礫の写真は興味を示さなかったが、生き物の写真については、とっても興味を持って喜んでくれた (食べる魚については特に興味をもったが、だんご魚については知らなかった)
大きな漁港は早い時期に瓦礫の撤去が早かったが、小さな漁港は中々進展していない
生き物はすこしずつ戻ってきている 水温が高くなると魚も活動的になってきて、あいあめ、かじかを見るようになった 最近は瓦礫(車だとか)
を利用して魚が住むようになった
あいかじかが卵を抱えている姿を見て嬉しかった(2012年2月頃)
漁師たちに写真を見せると喜んでくれた(宮古漁協が無償で船を出してくれた)
漁師の方に対して何かしてあげられないかと考えた
撮影するだけでなく、地元の方や、漁師のかたに報告する機会を持った
一人の漁師が どうして海草の写真がないのかと言われた
海の中にわかめ、こんぶがないと言う事は、アワビ、うににとっては昆布やわかめを食べて生きているので、アワビやウニが生きられないと言う事
翌日から良く見ると海草が生えてきている事を見つける(2012年1月頃)
海草という視点で見てみると、わかめの新芽が出てきている
岩肌に生えるのではなくて、瓦礫からも海草が生えていた(海の逞しさに感動する)
3月に同じところに潜ったら、新芽が伸びて1m近くになっていた
漁師さんに見せたいと思った(アワビ、うにの環境はしっかり再生されている)
この2年間で海に対する気持ちが随分と考えが変わった(地元の人達との交流が有って)
いままで岩手県は潜ることが出来ないので、岩手の海の中の写真は取れなかったが、いろいろと人の目に触れていない世界が有るのを知って、瓦礫ばかりではなくて、本来の海のなかの美しい姿をとりたいと思った
今までは南の海での世界 夢の中の世界 人間と密着していなかった海の写真を撮っていたと思う
震災の海の世界をとるようになって人間の生活と密着した写真をとる様になった
どうだ凄いだろうこの写真という様な感じだったが、震災後の写真は誰かの為になればと思うようになった(記録している事は何かの役に立つかもしれない)
最後の頃はだんご魚の産卵を取ろう思った 卵は2mm位 巣穴の大きさが直径1cm
被災地の海で命を撮りたいと思うようになった(おおきなエールになるのではないかと思った)
6月にだんご魚の産卵が有るというので長期滞在を決めた(産卵から孵化)
写真集にしてまとめたいと思うようになった
これまでの震災の写真集とは違った写真集を出そうと思った
東北の海のすべてを表している訳ではないので、再生が進んでいるようだが、すべてを表している訳ではないのでその点を理解してもらいたい
希望になるような写真集にしたかった
いろんな角度から見る事が出来るようになったと思う
この地球は人間しか生きているのではなく、あらゆる生物が生きている
今後は漁師さんにも注目して再生してゆく漁業の姿とかもレンズを向けて行きたいと思っている
2013年3月15日金曜日
秋吉久美子(女優) ・自然体で生きる 2
秋吉久美子
1972年女優としてデビュー 大學に落ちて、地方の予備校に行っていて、アングラを見に行っていた時に、スカウトされた
私は自然体でやっているようだが、松本監督の中には構図と、台詞ががちがちになっている
デビューははっきりとは分からない 「赤提灯」1974年 その年は立て続けに主役をやる
「16歳の戦争」
文学少女だった 日本文学 芥川龍之介が好きだった 女の人が垢ぬけている
垢ぬけたいのがテーマだった
「晩夏」という映画に出た時に凄く自分の中では一番伸び伸びできた
田中絹代のいろいろな役を演じた時 田中絹代の私生活を演じた時に何だと思ったことが有った母体は一個ではないかと思った
何も恐れる事は無くやればいいんだと思った 上からの俯瞰のマップが見えた
其の瞬間に物凄い楽になってしまって、すべてが人生なんだと言う感じ方しかしないようになってこだわりを捨てた、節目だと思った
1日衣装替えを28回して、頭をいろいろ変えたり 16歳にもどったり、1日の中で16歳~65歳までこなしたり、めちゃくちゃで頭の中が、 徹底的に嵐の中を経験した
サンフランシスコに留学する 「深い川」が入っていたので長く続か無かった
1年間(5年間の学生ビザをとったが)だけだった 楽しかったが
宿題がでて、皆の前で発表することがあって、周りから拍手されて、もてる
人間としての女優という隔離された一つの幻想というか、バーチャルな存在 向こうに行くと人間同士の付き合いが出来る事が有る
一人で生きれると言う存在を感じるのが好き(原始人のDNAかなと思う)
胸がぎゅーっとなるのが好き
早稲田大学の大学院に入る ジャーナリストの友人から行った方がいいと言われる
文化人類学、哲学 試験が英語 硬派の人達との出会いが有る
国を通して、外の世界と係わったりする人達 交流しながら私の事を心配してくれる
修士論文のチェックをサポートしてもらう(岩手の公務員の人)
芝居とは違った辛さが有ったが、人間の交流とか大学院の日々は自分を解放出来て楽しかった
2年間 私の青春は浅はかだったと思った
教育を通すと自分が整理されると言う事が解って、恩師という言葉が初めて判った
自分が女優という役から役へ生きて行く仕事から自分の中に恩師がいて、自分は弟子なんだと言う非常に解り易い気持ちが芽生えて、いろんな先生から、いろんなものを与えていただいたと言う気持ちが本当にある
この先生は素晴らしいなと思えるようになってきた
社会にこの様に貢献できるように成ってありがとうございますと先生に素直に言えるようになった
(NHKの朝の番組に出て福島の事を話す機会が有り、話した内容について先生から褒められ
人間になるために勉強しなさいという言葉がようやくわかった(ひょっこりひょうたん島の歌詞の中にある一節)
大学院のクラスメートとは今も飲む機会が有り、凄く楽しい開放感のある時間を過ごす
事が出来る 学問は活かさないといけない
自分の役目も多少判る様になったと言う意味で自分が努力して卒業して良かったと思う
「インターミッション」 休憩時間 耐震法を見直されて 、古いビルに勧告が出てしまって、取り壊されることになる
取り壊される中で、いろんなお客さんが来て、いろんなストーリーがオムニバスで休憩時間に発生すると言う 事なんですが、ドキュメンタリーであったりフィクションであったり、本人にフィードンバックするところが有ったり、色んな意味のジグソウパズルのような、ドキュメンタリーの様な作り話の様な、いろんな要素が一杯集まって、だけど一つの話になっている物凄い面白い話です
監督が映画評論家 とり方、台詞の言い回しがいろいろある(いろいろな監督の手法を取り入れている)
映画通で無くても面白い
それぞれ別のドラマで構成されているが、インターミッションで一つに纏まる(凄く面白い)
1972年女優としてデビュー 大學に落ちて、地方の予備校に行っていて、アングラを見に行っていた時に、スカウトされた
私は自然体でやっているようだが、松本監督の中には構図と、台詞ががちがちになっている
デビューははっきりとは分からない 「赤提灯」1974年 その年は立て続けに主役をやる
「16歳の戦争」
文学少女だった 日本文学 芥川龍之介が好きだった 女の人が垢ぬけている
垢ぬけたいのがテーマだった
「晩夏」という映画に出た時に凄く自分の中では一番伸び伸びできた
田中絹代のいろいろな役を演じた時 田中絹代の私生活を演じた時に何だと思ったことが有った母体は一個ではないかと思った
何も恐れる事は無くやればいいんだと思った 上からの俯瞰のマップが見えた
其の瞬間に物凄い楽になってしまって、すべてが人生なんだと言う感じ方しかしないようになってこだわりを捨てた、節目だと思った
1日衣装替えを28回して、頭をいろいろ変えたり 16歳にもどったり、1日の中で16歳~65歳までこなしたり、めちゃくちゃで頭の中が、 徹底的に嵐の中を経験した
サンフランシスコに留学する 「深い川」が入っていたので長く続か無かった
1年間(5年間の学生ビザをとったが)だけだった 楽しかったが
宿題がでて、皆の前で発表することがあって、周りから拍手されて、もてる
人間としての女優という隔離された一つの幻想というか、バーチャルな存在 向こうに行くと人間同士の付き合いが出来る事が有る
一人で生きれると言う存在を感じるのが好き(原始人のDNAかなと思う)
胸がぎゅーっとなるのが好き
早稲田大学の大学院に入る ジャーナリストの友人から行った方がいいと言われる
文化人類学、哲学 試験が英語 硬派の人達との出会いが有る
国を通して、外の世界と係わったりする人達 交流しながら私の事を心配してくれる
修士論文のチェックをサポートしてもらう(岩手の公務員の人)
芝居とは違った辛さが有ったが、人間の交流とか大学院の日々は自分を解放出来て楽しかった
2年間 私の青春は浅はかだったと思った
教育を通すと自分が整理されると言う事が解って、恩師という言葉が初めて判った
自分が女優という役から役へ生きて行く仕事から自分の中に恩師がいて、自分は弟子なんだと言う非常に解り易い気持ちが芽生えて、いろんな先生から、いろんなものを与えていただいたと言う気持ちが本当にある
この先生は素晴らしいなと思えるようになってきた
社会にこの様に貢献できるように成ってありがとうございますと先生に素直に言えるようになった
(NHKの朝の番組に出て福島の事を話す機会が有り、話した内容について先生から褒められ
人間になるために勉強しなさいという言葉がようやくわかった(ひょっこりひょうたん島の歌詞の中にある一節)
大学院のクラスメートとは今も飲む機会が有り、凄く楽しい開放感のある時間を過ごす
事が出来る 学問は活かさないといけない
自分の役目も多少判る様になったと言う意味で自分が努力して卒業して良かったと思う
「インターミッション」 休憩時間 耐震法を見直されて 、古いビルに勧告が出てしまって、取り壊されることになる
取り壊される中で、いろんなお客さんが来て、いろんなストーリーがオムニバスで休憩時間に発生すると言う 事なんですが、ドキュメンタリーであったりフィクションであったり、本人にフィードンバックするところが有ったり、色んな意味のジグソウパズルのような、ドキュメンタリーの様な作り話の様な、いろんな要素が一杯集まって、だけど一つの話になっている物凄い面白い話です
監督が映画評論家 とり方、台詞の言い回しがいろいろある(いろいろな監督の手法を取り入れている)
映画通で無くても面白い
それぞれ別のドラマで構成されているが、インターミッションで一つに纏まる(凄く面白い)
2013年3月14日木曜日
秋吉久美子(女優) ・自然体で生きる
秋吉久美子
昭和48年 「16歳の戦争」で本格的にデビュー その後映画で活躍されて多くの受賞をしています
昔の写真は満面の笑顔で有った 先入観を持ってみられていたように思う
「八重の桜」 福島が舞台 会津藩の悲劇 会津藩が時代の中でどのように変貌して行ったか
其の時に生きた人々がどのように日本という国と係わってきたのか、今回の福島の状況を含め、どのように先を見越していいか判らないような状況の中で、皆で福島に目を向けていきつつ、日本人てどういう国民だったのかと、明治以降日本人という者が、その時々に時勢によて、日本人観が有るが、それをもう一回しっかりと見ることによって私達の足元を見様じゃないかという部分が有ると思う
八重、 新島譲の奥さんになった人 前向きに花を咲かせてゆく
今回等身大 身近に感じる生き方 山川家の(家老家)奥さん 艶 12人の子供がいる
長野県からてこいれとして会津藩に入る 長男山川浩が軍隊に入る
山川健次郎 東大の総長になる
東京女子師範 姉二葉 妹捨松は大山巌の奥さんになる
艶の面白いところは籠城した時に 次の一歩を踏み出させる 女子も海外留学させる
明治の礎を築いてゆく人材を自分の家から出してゆく
凄い精神力 理性、知性である
勇ましい役はやった事は無かった この役は初めて 中々面白い
薙刀 武道だと思った 踊りの所作のように無駄なく出来ている
無駄がないと言う事は美しい 面白い 物凄い集中力がある
薙刀は或る意味 生け花、茶道と一緒のように思う 全部が無駄がなくて美しいなと思った
1年ぐらいは薙刀を習いたいと思った
「八重の桜」は志の高いドラマ 福島という不透明な状況にある
どういう未来を楽観視したらいいのか 国としてどういう風に反省したらいいのか
解決が段々と皆が納得できる形で整理していくかという時間 時間が長過ぎても駄目だし、
先ず大事なことは目をそらさない事ですね
「八重の桜」で福島と言ったら原発だという問題も勿論ですが、そこに生きている人々がどのように生きていたか、東北人 あんまり光の当てられなかった文化としては、
その中の人々がどのように生きてきたか、どのように関西文化からすれば、
不器用でありながら、しかし非常にスタンダードとして知的であり、素朴であり、地域、
エリアの常識なり 生きることの根底が有って皆それぞれが底の中で或る幸せを共有していたりして、戊辰戦争と原発を一緒にするのは何ですけれども、悲劇が起こったわけですが、
そう言う中で恨み辛みではなくて 明日を見て行く東北人の粘り強さ、強さを皆が目を向けて、
被災地かわいそうという上から目線では無くて、敬意を払えるような人間同士の理解をこのドラマが生んでくれたらいいと思う
6歳~18歳までいわき市で過ごした 父は元々仙台 函館移民(祖父が)
父は水産試験場の試験長として勤務する
友人一人を助ければ良いと言う様な考えであった
ラジオ、TVに参加するうちに、いろいろなことに巻き込まれてゆく
ストレスも有ったのか、臭い、味等を感じない状態だった
友達家族は離散状態だった
どんなちっちゃな事でも東北に何か気持ちをはせて貰いたいと、発信しようとしてきた
息切れしないようにしようと思う(気の有った人同士で時間もあせらず)
私はしらけ派というレッテルが有ったわけですけれども、やっとこの年まで生きてきてそこじゃないんだと、やっと見えてきたところが有る
小さい頃、素朴な部分とワイルドな部分が有った
昭和48年 「16歳の戦争」で本格的にデビュー その後映画で活躍されて多くの受賞をしています
昔の写真は満面の笑顔で有った 先入観を持ってみられていたように思う
「八重の桜」 福島が舞台 会津藩の悲劇 会津藩が時代の中でどのように変貌して行ったか
其の時に生きた人々がどのように日本という国と係わってきたのか、今回の福島の状況を含め、どのように先を見越していいか判らないような状況の中で、皆で福島に目を向けていきつつ、日本人てどういう国民だったのかと、明治以降日本人という者が、その時々に時勢によて、日本人観が有るが、それをもう一回しっかりと見ることによって私達の足元を見様じゃないかという部分が有ると思う
八重、 新島譲の奥さんになった人 前向きに花を咲かせてゆく
今回等身大 身近に感じる生き方 山川家の(家老家)奥さん 艶 12人の子供がいる
長野県からてこいれとして会津藩に入る 長男山川浩が軍隊に入る
山川健次郎 東大の総長になる
東京女子師範 姉二葉 妹捨松は大山巌の奥さんになる
艶の面白いところは籠城した時に 次の一歩を踏み出させる 女子も海外留学させる
明治の礎を築いてゆく人材を自分の家から出してゆく
凄い精神力 理性、知性である
勇ましい役はやった事は無かった この役は初めて 中々面白い
薙刀 武道だと思った 踊りの所作のように無駄なく出来ている
無駄がないと言う事は美しい 面白い 物凄い集中力がある
薙刀は或る意味 生け花、茶道と一緒のように思う 全部が無駄がなくて美しいなと思った
1年ぐらいは薙刀を習いたいと思った
「八重の桜」は志の高いドラマ 福島という不透明な状況にある
どういう未来を楽観視したらいいのか 国としてどういう風に反省したらいいのか
解決が段々と皆が納得できる形で整理していくかという時間 時間が長過ぎても駄目だし、
先ず大事なことは目をそらさない事ですね
「八重の桜」で福島と言ったら原発だという問題も勿論ですが、そこに生きている人々がどのように生きていたか、東北人 あんまり光の当てられなかった文化としては、
その中の人々がどのように生きてきたか、どのように関西文化からすれば、
不器用でありながら、しかし非常にスタンダードとして知的であり、素朴であり、地域、
エリアの常識なり 生きることの根底が有って皆それぞれが底の中で或る幸せを共有していたりして、戊辰戦争と原発を一緒にするのは何ですけれども、悲劇が起こったわけですが、
そう言う中で恨み辛みではなくて 明日を見て行く東北人の粘り強さ、強さを皆が目を向けて、
被災地かわいそうという上から目線では無くて、敬意を払えるような人間同士の理解をこのドラマが生んでくれたらいいと思う
6歳~18歳までいわき市で過ごした 父は元々仙台 函館移民(祖父が)
父は水産試験場の試験長として勤務する
友人一人を助ければ良いと言う様な考えであった
ラジオ、TVに参加するうちに、いろいろなことに巻き込まれてゆく
ストレスも有ったのか、臭い、味等を感じない状態だった
友達家族は離散状態だった
どんなちっちゃな事でも東北に何か気持ちをはせて貰いたいと、発信しようとしてきた
息切れしないようにしようと思う(気の有った人同士で時間もあせらず)
私はしらけ派というレッテルが有ったわけですけれども、やっとこの年まで生きてきてそこじゃないんだと、やっと見えてきたところが有る
小さい頃、素朴な部分とワイルドな部分が有った
2013年3月13日水曜日
横田満(副院長) ・カンカラ三線で被災地と連帯
横田満(精神科医・副院長)
岩手県山田町にある山田小学校では時々九室から「カンカラ三線」の音が聞こえてきます
これは、横田満さんを中心としたグループが山田町出身の知人を通して、送ったものです
横田さんは地震の後、被災地の子供たちを慰めようと、「おでんそーれかんからさんしん届けたい」というボランティアグループを立ち上げ、一昨年の秋にかんからさんしんをプレゼントしました
その後グループの人達はかんからさんしんの指導にも山田町に伺いました
今小学校の子供達は一生懸命練習に励んでいます
「カンカラ三線」:三線は沖縄の歌を歌う時に使う楽器 、日本の三味線と同じような作り 皮は蛇の皮、 胴の部分はミルクの空き缶等で作っている 廃物を利用して戦後何もなかった頃、沖縄の人が三線を使って歌いたいと思って作った物
当時はアメリカ軍の捨てたベットの材木などを使った 糸も米軍が捨てたパラシュートの布をほぐして、糸にして使ったもの
「カンカラ三線」を使ってなぐさめあったと言われている
沖縄の民謡は三味線が有ると歌いやすいので
沖縄の芸能等も教えて行きたいと思っている 5年10年と交流を継続していきたいと思っている
一緒に練習した子供達が卒業するので祝いたいと思う
報道で津波のシーンが何度も流されて大変心配していた
心のケアが大切だと思っていたので心のケアチームが直ぐに出来上がった
大船渡市の心のケアを夏ごろにやっていた 山田町出身の佐々木さんも来ていて、そこで彼と現地の状況を話していた時に、「カンカラ三線」は何もない時期に復興のシンボルであると言う事
戦後沖縄の何もない時に「カンカラ三線」を作って、歌で励まし合って前向いて復興してきたという話をした 届けることが良い力になるのではないかと考えた
カンカラ三線とは、たとえ戦争の憂き目にあっても音楽を愛し続ける、沖縄の人々の豊かな心が生み出したものなのですね。
半年後に届けた 歌には凄い力が有ると思った
定期的にボランティアで出掛けた 山田南小学校 かんからさんしんの歴史を纏めたビデオを作って情報提供したところ、校長先生がみてくれて素晴らしいなあと感動して貰って、山田南小学校に行くことになる
震災の為にキャリキュラムが遅れてしまっていたが、大変なのをあえて受けて下さった
「おでんそーれかんからさんしん届けたい」チームを立ち上げる
かんからさんしんキットがあってこれを送りました
町田さんしん店が大変協力して頂いた(募金も頂いて購入) 仲間がどんどん増えて行った
1回目が去年の2月に行った
街の様子は建物が建っていないで、大変だなあと思ったが、皆笑顔で迎えてくれた
校庭の一部に仮設住宅が建っていた
まず砂糖きびを持って行って食べて貰ったり、沖縄の歴史(戦争等、)文化 自然、等を紹介した
次にかんからさんしんの作成に取り掛かって貰った 50本用意して先生にも作って貰った
時間が足りなかったので、模範演奏に留まった
2012年12月に2回目に行って来た やり残していたさんしんの曲の指導、とか合唱とかをやった
「カンカラ三線おむしゅるむん」 (「カンカラ三線」は面白いよ)という曲
学校の行事でも弾いてくれたようです (先生も一緒に)
1人、でも2人でも続けてくれる人がいてくれれば嬉しいです
2回目の時には料理教室を開いて、沖縄料理を作って紹介した
山田町の虎舞を紹介して貰った 上級生から下級生に年年伝えている行事とか
とっても長い踊り
「ちょんだら」 浴衣の様なものを着て、顔を白塗りにして沖縄版ピエロと言った感じ(沖縄文化紹介)
ちょんだらは人気者だった
校長先生から心からの支援を頂きましたと言って下さって、とてもうれしかった
写真集を作って学校にも寄贈した
メンバー間でいろいろアイディアを出し有ったりしている
来年度も引き続き、なんかの形で沖縄の事を伝えて行きたいと思っている
沖縄の厳しい復興時期が有ったので、山田町の人も頑張ってほしいと思っている
岩手県山田町にある山田小学校では時々九室から「カンカラ三線」の音が聞こえてきます
これは、横田満さんを中心としたグループが山田町出身の知人を通して、送ったものです
横田さんは地震の後、被災地の子供たちを慰めようと、「おでんそーれかんからさんしん届けたい」というボランティアグループを立ち上げ、一昨年の秋にかんからさんしんをプレゼントしました
その後グループの人達はかんからさんしんの指導にも山田町に伺いました
今小学校の子供達は一生懸命練習に励んでいます
「カンカラ三線」:三線は沖縄の歌を歌う時に使う楽器 、日本の三味線と同じような作り 皮は蛇の皮、 胴の部分はミルクの空き缶等で作っている 廃物を利用して戦後何もなかった頃、沖縄の人が三線を使って歌いたいと思って作った物
当時はアメリカ軍の捨てたベットの材木などを使った 糸も米軍が捨てたパラシュートの布をほぐして、糸にして使ったもの
「カンカラ三線」を使ってなぐさめあったと言われている
沖縄の民謡は三味線が有ると歌いやすいので
沖縄の芸能等も教えて行きたいと思っている 5年10年と交流を継続していきたいと思っている
一緒に練習した子供達が卒業するので祝いたいと思う
報道で津波のシーンが何度も流されて大変心配していた
心のケアが大切だと思っていたので心のケアチームが直ぐに出来上がった
大船渡市の心のケアを夏ごろにやっていた 山田町出身の佐々木さんも来ていて、そこで彼と現地の状況を話していた時に、「カンカラ三線」は何もない時期に復興のシンボルであると言う事
戦後沖縄の何もない時に「カンカラ三線」を作って、歌で励まし合って前向いて復興してきたという話をした 届けることが良い力になるのではないかと考えた
カンカラ三線とは、たとえ戦争の憂き目にあっても音楽を愛し続ける、沖縄の人々の豊かな心が生み出したものなのですね。
半年後に届けた 歌には凄い力が有ると思った
定期的にボランティアで出掛けた 山田南小学校 かんからさんしんの歴史を纏めたビデオを作って情報提供したところ、校長先生がみてくれて素晴らしいなあと感動して貰って、山田南小学校に行くことになる
震災の為にキャリキュラムが遅れてしまっていたが、大変なのをあえて受けて下さった
「おでんそーれかんからさんしん届けたい」チームを立ち上げる
かんからさんしんキットがあってこれを送りました
町田さんしん店が大変協力して頂いた(募金も頂いて購入) 仲間がどんどん増えて行った
1回目が去年の2月に行った
街の様子は建物が建っていないで、大変だなあと思ったが、皆笑顔で迎えてくれた
校庭の一部に仮設住宅が建っていた
まず砂糖きびを持って行って食べて貰ったり、沖縄の歴史(戦争等、)文化 自然、等を紹介した
次にかんからさんしんの作成に取り掛かって貰った 50本用意して先生にも作って貰った
時間が足りなかったので、模範演奏に留まった
2012年12月に2回目に行って来た やり残していたさんしんの曲の指導、とか合唱とかをやった
「カンカラ三線おむしゅるむん」 (「カンカラ三線」は面白いよ)という曲
学校の行事でも弾いてくれたようです (先生も一緒に)
1人、でも2人でも続けてくれる人がいてくれれば嬉しいです
2回目の時には料理教室を開いて、沖縄料理を作って紹介した
山田町の虎舞を紹介して貰った 上級生から下級生に年年伝えている行事とか
とっても長い踊り
「ちょんだら」 浴衣の様なものを着て、顔を白塗りにして沖縄版ピエロと言った感じ(沖縄文化紹介)
ちょんだらは人気者だった
校長先生から心からの支援を頂きましたと言って下さって、とてもうれしかった
写真集を作って学校にも寄贈した
メンバー間でいろいろアイディアを出し有ったりしている
来年度も引き続き、なんかの形で沖縄の事を伝えて行きたいと思っている
沖縄の厳しい復興時期が有ったので、山田町の人も頑張ってほしいと思っている
2013年3月12日火曜日
山内宏泰(美術館員) ・瓦礫ではなく被災資料と呼んで
山内宏泰
気仙沼のリアスアーク美術館は2年ぶりに、リニューアルオープンします
美術館は高台に有ったため、津波は被害はうけなかった
津波は過去の出来事ではなく、これから起こることとして、津波被害の常設展を新しく設けることになりました 自らも被害に受けた事も有り、資料としての瓦礫集めをしてきました
被災したものは被災物と言っている(瓦礫とは云わない)
瓦礫:つまらないものというような意味(こういう呼び方には抵抗が有る)
自転車、ビデオカメラ、等生活してきたいろいろなもの 子供のおもちゃ、ぬいぐるみとか収集した
①津波のエネルギー、破壊力は口では伝わりにくいので、解り易いものも収集(電柱の壊れたもの、鉄骨とか、)
②生活の痕跡 暮らしが見えるようなもの(炊飯器、洗濯機とか家電製品、机、椅子とか、ものはそれほど壊れていないが、生活が壊れたもの )
これからも続くはずだった、時間、生活など 日用品から滲み出てくるこの
ぽつんと炊飯器のみがあり、蓋を開けると真っ黒いヘドロが入っており、ヘドロを捨てようと思ったら下の方に真っ白いご飯が入っていた
(これを見ていろいろ生活の状況等を思い浮かべてしまった 古いデザインで20年前のものと思われる8合炊きだった かつては大家族の家の炊飯器であったろうと思った )
温かい食卓を象徴するような風景 一つのツールとしての炊飯器かなと思う(それが壊されている)
気仙沼の人口減少を表すようなもの
津波は恨み様のない自然現象 毎日の生活のなかで、ある風景 明日にも同様に津波にであうであろう場所は日本のどこにでもあると思う
津波に遭ったことの無い人達は、どこかで自分達の話ではないと言う様な感覚が有ると思う
解らない事が解る様にして行かないと災害に備える事の心が育たない
明治三陸津波(明治29年) 昭和三陸津波(昭和8年) 37年しかたっていない
昭和35年にチリ地震 (27年後) こんな経験をしてきた地域の住民ですら、実をいうと震災まえには、こんなことが起きると思っていなかったし、想像もしていなかった、聴いてもいなかったと言う人が大勢いる
今回は明治と比較すると 同等かという様なレベルであり、決して想定外では無かった
明治。昭和の地震の伝承できない環境が有った
チリ地震の時には津波警報が有るのにも拘わらず、サーファーが1000人出掛けたとの話がある
明治、昭和の津波の情報は美術館で資料展示はしていた
展示をして危険をどう逃れるか、自分達が築いてきた文化をどうやって守って行くか
海とともに生きる 意味とは離れられない と同時に津波とは切り離せない
危機意識は高くは成ってきたが、まさかではなく、常に起きるんだと言う意識が必要
気仙沼のリアスアーク美術館は2年ぶりに、リニューアルオープンします
美術館は高台に有ったため、津波は被害はうけなかった
津波は過去の出来事ではなく、これから起こることとして、津波被害の常設展を新しく設けることになりました 自らも被害に受けた事も有り、資料としての瓦礫集めをしてきました
被災したものは被災物と言っている(瓦礫とは云わない)
瓦礫:つまらないものというような意味(こういう呼び方には抵抗が有る)
自転車、ビデオカメラ、等生活してきたいろいろなもの 子供のおもちゃ、ぬいぐるみとか収集した
①津波のエネルギー、破壊力は口では伝わりにくいので、解り易いものも収集(電柱の壊れたもの、鉄骨とか、)
②生活の痕跡 暮らしが見えるようなもの(炊飯器、洗濯機とか家電製品、机、椅子とか、ものはそれほど壊れていないが、生活が壊れたもの )
これからも続くはずだった、時間、生活など 日用品から滲み出てくるこの
ぽつんと炊飯器のみがあり、蓋を開けると真っ黒いヘドロが入っており、ヘドロを捨てようと思ったら下の方に真っ白いご飯が入っていた
(これを見ていろいろ生活の状況等を思い浮かべてしまった 古いデザインで20年前のものと思われる8合炊きだった かつては大家族の家の炊飯器であったろうと思った )
温かい食卓を象徴するような風景 一つのツールとしての炊飯器かなと思う(それが壊されている)
気仙沼の人口減少を表すようなもの
津波は恨み様のない自然現象 毎日の生活のなかで、ある風景 明日にも同様に津波にであうであろう場所は日本のどこにでもあると思う
津波に遭ったことの無い人達は、どこかで自分達の話ではないと言う様な感覚が有ると思う
解らない事が解る様にして行かないと災害に備える事の心が育たない
明治三陸津波(明治29年) 昭和三陸津波(昭和8年) 37年しかたっていない
昭和35年にチリ地震 (27年後) こんな経験をしてきた地域の住民ですら、実をいうと震災まえには、こんなことが起きると思っていなかったし、想像もしていなかった、聴いてもいなかったと言う人が大勢いる
今回は明治と比較すると 同等かという様なレベルであり、決して想定外では無かった
明治。昭和の地震の伝承できない環境が有った
チリ地震の時には津波警報が有るのにも拘わらず、サーファーが1000人出掛けたとの話がある
明治、昭和の津波の情報は美術館で資料展示はしていた
展示をして危険をどう逃れるか、自分達が築いてきた文化をどうやって守って行くか
海とともに生きる 意味とは離れられない と同時に津波とは切り離せない
危機意識は高くは成ってきたが、まさかではなく、常に起きるんだと言う意識が必要
2013年3月11日月曜日
加藤登紀子・和合亮一 ・今伝えたい言葉
加藤登紀子・和合亮一
対談
和合さんは高校の教師をしながら、詩を書き続けています
中原中也賞 受賞 谷川俊太郎さんとの共著でも注目されました
大震災のあと、自ら被災されながら、その想いをツイッターに広く発信しました
その内容は翻訳され海外でも紹介されました
加・「いまどこにいますか」という詩を書いた(加藤) 発信した事が最初
4月12日に被災地に入る
和・余震がひどかった 1カ月に1002回あった 5~10分に1回余震が有った
毎日詩を書いていたが11日から16日まで詩をかく事が出来なかった
自分が消えて行くような感じだった アパートで詩を書き始める
加・ギターさえあれば仕事はできると思った(「いまどこにいますか」を作り上げて思った)
夫が息を引き取った後、家に帰った時に母が卵焼きを焼いていて、家の中に充満していて、とに かく食べましょうと言う事になった それをすることによって前に進む)
火をおこして兎に角あったまりましょうと言う事はあるのでしょう
和・生きているものに励まされて、生きているのではないでしょうか
(あらーきー写真家 妻が亡くなってがっくりして1カ月位食べ物を殆ど取らすにいたら、部屋に猫 がいて、尻尾をぴんと立てている姿を見て、生きて行こうと思ったと言う)
加・私達は長く生きてきた 永く生きてきた者はその命の長さの分だけ、未来に責任が有ると思う
その命の長さの分だけ、未来の為に伝える何かが有ると言う事なんです
その分若い人達は自分はこれから生きなくてはいけない未来の分だけ、過去を知るべきだと思う
若い人にとっては 突然来た大震災だと思う
いろいろ過去のものを受け渡す時が来たなと、私にはあるはずだと 思った
逞しいのは上の人達だったような気がする
子供達はさっき言った「猫のしっぽ」ですよ
和・子供達の作文を読む機会が有って、今の福島の抱えている問題は僕たちの代でも解決しない かもしれない、だけどその次の子供に余すところなく伝えたい
だけど次の子供達も解決しないかもしれない それでも解決しないときは孫の代に伝えたい
そしてその孫の代が駄目だったら、ひ孫の代に伝えてゆきたい そうやって伝えて行く事を
円を描くように、ずーっとさきまで見て僕は勉強したい という作文を書いている
加・悲しみには言葉を与えよう、言葉には歌を与えよう そしてその悲しみを歌に歌を歌っている うちに悲しみが大きな感動に替わり、喜びに変わって行く
語り継いでゆく為に音楽が有ったんだろうなと思います
和・「詩のつぶて」 福島の現状をずーっと書き続けてきた
避難所を取材してきたジャーナリストが来て、ノートに書き写して、其れを避難所で回して読んでいた と言う 20年間詩を書いていてありがとうございますと 言われた事は無いが ありがとうと言 われて、又書く勇気を頂きました
歌うと言う事は言葉を広げて行く
加・相馬で民謡を歌って貰ったが、そのときには時空を越える世界、先祖が歌っているような想い
何にも無くなっているのに、大漁節を歌っているときはその光景を思い浮かべる
和・「貝殻の歌」 相馬の海辺を見て書いた詩
対談
和合さんは高校の教師をしながら、詩を書き続けています
中原中也賞 受賞 谷川俊太郎さんとの共著でも注目されました
大震災のあと、自ら被災されながら、その想いをツイッターに広く発信しました
その内容は翻訳され海外でも紹介されました
加・「いまどこにいますか」という詩を書いた(加藤) 発信した事が最初
4月12日に被災地に入る
和・余震がひどかった 1カ月に1002回あった 5~10分に1回余震が有った
毎日詩を書いていたが11日から16日まで詩をかく事が出来なかった
自分が消えて行くような感じだった アパートで詩を書き始める
加・ギターさえあれば仕事はできると思った(「いまどこにいますか」を作り上げて思った)
夫が息を引き取った後、家に帰った時に母が卵焼きを焼いていて、家の中に充満していて、とに かく食べましょうと言う事になった それをすることによって前に進む)
火をおこして兎に角あったまりましょうと言う事はあるのでしょう
和・生きているものに励まされて、生きているのではないでしょうか
(あらーきー写真家 妻が亡くなってがっくりして1カ月位食べ物を殆ど取らすにいたら、部屋に猫 がいて、尻尾をぴんと立てている姿を見て、生きて行こうと思ったと言う)
加・私達は長く生きてきた 永く生きてきた者はその命の長さの分だけ、未来に責任が有ると思う
その命の長さの分だけ、未来の為に伝える何かが有ると言う事なんです
その分若い人達は自分はこれから生きなくてはいけない未来の分だけ、過去を知るべきだと思う
若い人にとっては 突然来た大震災だと思う
いろいろ過去のものを受け渡す時が来たなと、私にはあるはずだと 思った
逞しいのは上の人達だったような気がする
子供達はさっき言った「猫のしっぽ」ですよ
和・子供達の作文を読む機会が有って、今の福島の抱えている問題は僕たちの代でも解決しない かもしれない、だけどその次の子供に余すところなく伝えたい
だけど次の子供達も解決しないかもしれない それでも解決しないときは孫の代に伝えたい
そしてその孫の代が駄目だったら、ひ孫の代に伝えてゆきたい そうやって伝えて行く事を
円を描くように、ずーっとさきまで見て僕は勉強したい という作文を書いている
加・悲しみには言葉を与えよう、言葉には歌を与えよう そしてその悲しみを歌に歌を歌っている うちに悲しみが大きな感動に替わり、喜びに変わって行く
語り継いでゆく為に音楽が有ったんだろうなと思います
和・「詩のつぶて」 福島の現状をずーっと書き続けてきた
避難所を取材してきたジャーナリストが来て、ノートに書き写して、其れを避難所で回して読んでいた と言う 20年間詩を書いていてありがとうございますと 言われた事は無いが ありがとうと言 われて、又書く勇気を頂きました
歌うと言う事は言葉を広げて行く
加・相馬で民謡を歌って貰ったが、そのときには時空を越える世界、先祖が歌っているような想い
何にも無くなっているのに、大漁節を歌っているときはその光景を思い浮かべる
和・「貝殻の歌」 相馬の海辺を見て書いた詩
2013年3月10日日曜日
中下大樹(僧侶38歳) 大震災 生と死を見つめて思う事
中下大樹
大学でターミナルケアを学び、宗教者として、ホスピスで看取りの仕事をしました
そこで多くの末期がんの患者に出会い、その後、在宅での看取りを始めるとともに、自殺や貧困、孤立死などの問題に取り組む、超宗派寺院ネットワークを発足しました
これは宗派にこだわらず、布教を目的とはせず、社会的に孤立した人々の駆け込み寺として支援しているものです
東日本大震災では、いち早く現地に入って、遺体の搬送や葬儀に係わり、残された人々の心のケアに携わってきました
そこでの日々は宗教者としての自分自身の有り方を問い直す、厳しい試練の場であったと言います(東日本大震災で何を見たのか)
九段会館で卒業式で地震に出会い、そこで天井が落下して、先輩に当たる2名が亡くなった
東日本大震災は突発的な死を我々に付きつけた大事件であった
死というものをどのように受け止めて良いのか分からない(人間は遅かれ早かれ残念ながら必ず亡くなることを付きつけた そういった意味で我々社会が死とどう向き合うのかという事を同時に付きつけたのではないかと思う)
最初に遺体安置所に入りました 友人が石巻で亡くなって、御遺体を見に行くと同時に、東京から大量の棺と遺体をくるむ布を持って行った
まだむき出しの洋服を着て、裸足のままで私の方に一斉に足の裏を向けている状況でずらーっと何百体も私の方に向けていた(津波により靴を取られていて泥にまみれている
紙が一枚貼ってあって、何月何日どこそこで発見 何歳ぐらい 検死を御願いします)
その光景は今でも忘れられない 普通の考えでは理解できない
いまでもはっきりと思いだされるシーンがいくつかある
3月下旬 或る瓦礫の撤去をやっていた 人間の腕が出てきた 腕を掘り起して瓦礫から引き出した その時に自衛隊の方々が10人ぐらいいた
御遺体に向かって整列をしてさっと敬礼をした
トップの方が御遺体に向かって行って、毛布を御遺体にかけてこう言った
「お疲れ様 やっと楽になったね」と御遺体に語りかけた
日本人は無宗教と言われるが、宗教的な感性や感覚というものは被災地では多くの方が持ち合わせていたと思います
本当に死が終わりであり、無になると言う事であれば、遺体に向かって話しかけても意味がない
でも私達は御遺体を前にすると、無意識のうちに頭が下がり、手を合わせそして「痛かったね 大変だったね 辛かったね」と思わず声を掛けてしまう そういう現場が沢山ありました
自衛隊の車が御遺体を何体も運んでゆく時に、周りの人達は車が見えなくなるまで合掌して頭を下げていました そういうシーンが至る所にありました
御遺体を前にすると、信仰を持っている持っていないに係わらず、皆さんはお持ちでは無いかと被災地に行って、つくづく感じました
壊れた家で真っ先に見つけたいと思ったのは遺牌とか亡くなった方の写真を多くの人が思っている
生き残った方の苦しみ 私達の社会は効率、だとか合理的な発想で物事を考えてしまう
会社では結果を出したり、営業成績を上げたりとか、合理的な判断で何でもかたずけてしまいがちですが、誰かを失うという喪失経験はとても一人一人に於いて大事なのであって、しかし誰かを失ったり 辛い、苦しい、とかを我々の社会は受け入れると言うよりは、がんばれ、もっと結果を出せと言う事の方が重きを置いているので、ウジウジいつまで考えているのかと、非難の対象に成ってしまう時がある
でも私達は今は元気で自分の力で歩いたり、食事をしたり、排泄したりすることのできる人は多いと思いますが、自分でもいつかは病気に成って、寝たきりになることも有りうる
その時に、経済合理主義、生産性重視の価値観がかならずしも通用するかというと、中々そうは思えないときが有るのではないか
被災地に何回も足を運んで感じた事は、人間にとって一番の喜び、嬉しい事は自分の話をうんうんと言って聞いてくれる人がいる事、それが大変大きな力になるのでは、とつくづく感じた
そうかそうかつらかったなあ、とうなずいてくれる人がそういう人が居るか、居ないか
それが明日は頑張ろうと、もう一回やってみようという力に成って行く
世の中みんなが頑張れる人では無い
社会全体に自分の話を聞いてくれる人がいる、うなずいてくれる人がどれだけいるかという事を一人一人が振り返り、すすめることではないかと思う
どれだけの時間、経済的、精神的な余裕があるかという事を、今回の震災は私達一人一人に問いなおしたと思います
私は両親が離婚して、いろんなところを転々とする子供時代を過ごしてきた
どうして自分は生れていたんだろう、どうして人間は死んでゆくんだろうと、子供の時から感じていた
付きつめてゆくと僧侶となって行く路となったと思う
親から虐待を受けていたと言う事も有るが、自分の親しい人が自殺をしている
私の子供時代で私が第一発見者だった その時に痛烈に思いました
どんなに羽振りが良くても、お金もちで有っても、なにか歯車がくるってしまうと、いきなり命を断ってしまう 命を無くしてしまう事が有るんだなと子供時代に痛烈に感じた
逆に言えば、私達は 今生きていると言う事が当たり前のように感じているが、いつか必ず終わりが来る訳です、しっかりと終わり 人が死ぬと言う事を見据える事が、かえって生きることを本気で考えるきかけになるんじゃないかと思う
日本人であれば、仏教 独学で勉強していた 僧侶と出会ってこの道に進んでしまった
仏教の原点は 人が生れて年を取って病気に成って死んでゆく
この苦しみから離脱するかという事が原点だった
人々が悩み、苦しみ、病を得て死んでゆくと言う現場 命の現場に立ち会いたいと思った
最初に就職したのが看護ケア病棟のホスピスです
家族 いいイメージも有るが 必ずしもいいイメージを持たない人もいる
虐待を受けた
家族がセーフティーネット 救いにならないケースが増えてきている
「無縁社会」という番組を2010年にNHKが放送したが、遺骨の引き取り手がない
亡くなっても誰も弔ってくれる人がいないと言う社会に成ってきている
現場で沢山の家族に接した こんな家族が有るのか、こんな患者さんが居るのか
家族、地域、会社という縁が希薄になってきているなと思う
孤立して居る人の現場にもっと係わりたいなあと思って、病院を退職して、さまざまな貧困、
自殺、孤立死の問題にもより係わりだした
日本人の7割、8割は無宗教と言われる
宗教者の役割りは、今はとても大きいと思う
縁を繋いでゆくと言うことに対して宗教の役割はとても強いと思っています
被災地で一緒に追悼法要するとか、祈りをささげると言う儀式が人によっては、気持ちを和やかにしたりとか、救ってくれることも有る
意味が解らないお経であったり、意味が解らない儀式で有っても、何かこう手を合わせて、
一緒に祈りをささげると言う行為を通して、亡き人にあの世で安らかにお休みくださいと、
心の中で語りかけたり、お墓参りをすることによって、私達を見守っててねと、
呼びかけを感じることもできる
90年代オーム真理教 をきっかけに宗教は怖い、不気味だという概念を多くの人が持っている
本当の宗教は人を救ってくれるものだと思う
生活の中に或る者として、一人でも多くの人に感じてほしい 現地に飛びこんでゆく
自分から「生、老、病、死」という本当に苦しみの現場に飛び込んで行って、人々と共に一緒に
苦しんで、悩んで、悲しんで、涙を流しながら、その方々が抱えてる痛みと向き合いながら、立ち上がる手助け、一緒に悩んでゆく中で、もう一回生きてみようかな、もう一回頑張ってみようかなという様な手助けになったらいいなと思ってやっています
患者の一人と出会う 高齢で女性で身よりの無い人 子供はいるが係わる事を拒否していた
最初私と(僧侶なので縁起でもないと言う事で)係わりたくないと言っていた
寝たきりになって仕舞って、排泄も自分では処理できない 或る時にそばに行くと、このまま死んでしまうのではないかと、そばにいてほしいとちょくちょくと話した
その方の声を聞いていました 或る時病医から自宅に電話が来る
患者さんがいまにも亡くなりそうであると言う事で私が立ち会う事に成りました
(本来だったら家族が立ち会うものだが)
行ってみると、虫の息で 危ないなあという状況だった
そばに寄って行ったところぱっと眼を見開いて自分の手を出して、手を握ろうとしたので握り返した
其の人は酸素マスクしていたが僅かな声で「ひとの痛みの判る人になってくださいねー」と言いながら息を引きとったが、その時に雷に有った様な凄い衝撃が走った
自分が今生きている訳だが、あの人は嫌いだとか、お金が欲しいとか欲望にまみれているが、自分が死んで行く時に誰かに願いを宅せるのかなあと、貴方の事を忘れないよ
遠くから見守っているよ、だから しっかり頑張ってね あんたと出会えてよかったよ
メッセージとして投げかけられるのかなと、そう言う生きかたを自分はしているのかなと、つくづく自分の事を見つめざるをえませんでした
自分はこのメッセージを大事にいきてゆこうと、人の痛みの判る人に少しでも近づこうと、
それが大震災の時、現場に自分を走らせたり、社会の様々な問題に立ち会うきっかけに成ったのかなと、改めて思います
毎月、被災地に入っている 3県でそれぞれ全く違う
大事なことは「忘れてはいけない」と言う事 明日は我が身かも知れない
人間の愚かさをつくづく思い知らされた
作家 吉村昭 地震、津波についての事 克明に記してあるが届いていないのが残念
当事者に成らないと中々見えてこない事が沢山有るが、誰しもが当事者になることが有る
事件に巻き込まれる、事故に遭う 事は誰にも有る
当事者の気持ちを想像する
想像力が問われていると思う(もし自分が被災者になったら)
鎮魂、祈り 気持ちを癒してゆくためには、宗教的な儀式が人の心を救ってゆくためには大きな役割を果たすのではないかとつくづく感じた
儀式通して、前に進んでいく区切りの様なものに成って行くんでは無いかと思う
被災地の方々、2000人にお聞きしました
助かった方 真っ先に津波が引いて駆け付けたところは、自分の家、職場に賭けつける 次は先祖代々の墓 次には地域にあるおみこしの場所
どういうことかというと土地のお祭りがとても昔からあったもの
陸前高田で有る男性が言った言葉がある
「高田に生れた男は地域の神輿のいい処を担いで、「しょうごないん」?となって地域を守るんだ それが粋な男だ」
地縁、昔ながらの繋がりをだいじにしていることが東北ではまだまだ残っている
「生、老、病、死」の手助けが出来ればいいなと思っています
大学でターミナルケアを学び、宗教者として、ホスピスで看取りの仕事をしました
そこで多くの末期がんの患者に出会い、その後、在宅での看取りを始めるとともに、自殺や貧困、孤立死などの問題に取り組む、超宗派寺院ネットワークを発足しました
これは宗派にこだわらず、布教を目的とはせず、社会的に孤立した人々の駆け込み寺として支援しているものです
東日本大震災では、いち早く現地に入って、遺体の搬送や葬儀に係わり、残された人々の心のケアに携わってきました
そこでの日々は宗教者としての自分自身の有り方を問い直す、厳しい試練の場であったと言います(東日本大震災で何を見たのか)
九段会館で卒業式で地震に出会い、そこで天井が落下して、先輩に当たる2名が亡くなった
東日本大震災は突発的な死を我々に付きつけた大事件であった
死というものをどのように受け止めて良いのか分からない(人間は遅かれ早かれ残念ながら必ず亡くなることを付きつけた そういった意味で我々社会が死とどう向き合うのかという事を同時に付きつけたのではないかと思う)
最初に遺体安置所に入りました 友人が石巻で亡くなって、御遺体を見に行くと同時に、東京から大量の棺と遺体をくるむ布を持って行った
まだむき出しの洋服を着て、裸足のままで私の方に一斉に足の裏を向けている状況でずらーっと何百体も私の方に向けていた(津波により靴を取られていて泥にまみれている
紙が一枚貼ってあって、何月何日どこそこで発見 何歳ぐらい 検死を御願いします)
その光景は今でも忘れられない 普通の考えでは理解できない
いまでもはっきりと思いだされるシーンがいくつかある
3月下旬 或る瓦礫の撤去をやっていた 人間の腕が出てきた 腕を掘り起して瓦礫から引き出した その時に自衛隊の方々が10人ぐらいいた
御遺体に向かって整列をしてさっと敬礼をした
トップの方が御遺体に向かって行って、毛布を御遺体にかけてこう言った
「お疲れ様 やっと楽になったね」と御遺体に語りかけた
日本人は無宗教と言われるが、宗教的な感性や感覚というものは被災地では多くの方が持ち合わせていたと思います
本当に死が終わりであり、無になると言う事であれば、遺体に向かって話しかけても意味がない
でも私達は御遺体を前にすると、無意識のうちに頭が下がり、手を合わせそして「痛かったね 大変だったね 辛かったね」と思わず声を掛けてしまう そういう現場が沢山ありました
自衛隊の車が御遺体を何体も運んでゆく時に、周りの人達は車が見えなくなるまで合掌して頭を下げていました そういうシーンが至る所にありました
御遺体を前にすると、信仰を持っている持っていないに係わらず、皆さんはお持ちでは無いかと被災地に行って、つくづく感じました
壊れた家で真っ先に見つけたいと思ったのは遺牌とか亡くなった方の写真を多くの人が思っている
生き残った方の苦しみ 私達の社会は効率、だとか合理的な発想で物事を考えてしまう
会社では結果を出したり、営業成績を上げたりとか、合理的な判断で何でもかたずけてしまいがちですが、誰かを失うという喪失経験はとても一人一人に於いて大事なのであって、しかし誰かを失ったり 辛い、苦しい、とかを我々の社会は受け入れると言うよりは、がんばれ、もっと結果を出せと言う事の方が重きを置いているので、ウジウジいつまで考えているのかと、非難の対象に成ってしまう時がある
でも私達は今は元気で自分の力で歩いたり、食事をしたり、排泄したりすることのできる人は多いと思いますが、自分でもいつかは病気に成って、寝たきりになることも有りうる
その時に、経済合理主義、生産性重視の価値観がかならずしも通用するかというと、中々そうは思えないときが有るのではないか
被災地に何回も足を運んで感じた事は、人間にとって一番の喜び、嬉しい事は自分の話をうんうんと言って聞いてくれる人がいる事、それが大変大きな力になるのでは、とつくづく感じた
そうかそうかつらかったなあ、とうなずいてくれる人がそういう人が居るか、居ないか
それが明日は頑張ろうと、もう一回やってみようという力に成って行く
世の中みんなが頑張れる人では無い
社会全体に自分の話を聞いてくれる人がいる、うなずいてくれる人がどれだけいるかという事を一人一人が振り返り、すすめることではないかと思う
どれだけの時間、経済的、精神的な余裕があるかという事を、今回の震災は私達一人一人に問いなおしたと思います
私は両親が離婚して、いろんなところを転々とする子供時代を過ごしてきた
どうして自分は生れていたんだろう、どうして人間は死んでゆくんだろうと、子供の時から感じていた
付きつめてゆくと僧侶となって行く路となったと思う
親から虐待を受けていたと言う事も有るが、自分の親しい人が自殺をしている
私の子供時代で私が第一発見者だった その時に痛烈に思いました
どんなに羽振りが良くても、お金もちで有っても、なにか歯車がくるってしまうと、いきなり命を断ってしまう 命を無くしてしまう事が有るんだなと子供時代に痛烈に感じた
逆に言えば、私達は 今生きていると言う事が当たり前のように感じているが、いつか必ず終わりが来る訳です、しっかりと終わり 人が死ぬと言う事を見据える事が、かえって生きることを本気で考えるきかけになるんじゃないかと思う
日本人であれば、仏教 独学で勉強していた 僧侶と出会ってこの道に進んでしまった
仏教の原点は 人が生れて年を取って病気に成って死んでゆく
この苦しみから離脱するかという事が原点だった
人々が悩み、苦しみ、病を得て死んでゆくと言う現場 命の現場に立ち会いたいと思った
最初に就職したのが看護ケア病棟のホスピスです
家族 いいイメージも有るが 必ずしもいいイメージを持たない人もいる
虐待を受けた
家族がセーフティーネット 救いにならないケースが増えてきている
「無縁社会」という番組を2010年にNHKが放送したが、遺骨の引き取り手がない
亡くなっても誰も弔ってくれる人がいないと言う社会に成ってきている
現場で沢山の家族に接した こんな家族が有るのか、こんな患者さんが居るのか
家族、地域、会社という縁が希薄になってきているなと思う
孤立して居る人の現場にもっと係わりたいなあと思って、病院を退職して、さまざまな貧困、
自殺、孤立死の問題にもより係わりだした
日本人の7割、8割は無宗教と言われる
宗教者の役割りは、今はとても大きいと思う
縁を繋いでゆくと言うことに対して宗教の役割はとても強いと思っています
被災地で一緒に追悼法要するとか、祈りをささげると言う儀式が人によっては、気持ちを和やかにしたりとか、救ってくれることも有る
意味が解らないお経であったり、意味が解らない儀式で有っても、何かこう手を合わせて、
一緒に祈りをささげると言う行為を通して、亡き人にあの世で安らかにお休みくださいと、
心の中で語りかけたり、お墓参りをすることによって、私達を見守っててねと、
呼びかけを感じることもできる
90年代オーム真理教 をきっかけに宗教は怖い、不気味だという概念を多くの人が持っている
本当の宗教は人を救ってくれるものだと思う
生活の中に或る者として、一人でも多くの人に感じてほしい 現地に飛びこんでゆく
自分から「生、老、病、死」という本当に苦しみの現場に飛び込んで行って、人々と共に一緒に
苦しんで、悩んで、悲しんで、涙を流しながら、その方々が抱えてる痛みと向き合いながら、立ち上がる手助け、一緒に悩んでゆく中で、もう一回生きてみようかな、もう一回頑張ってみようかなという様な手助けになったらいいなと思ってやっています
患者の一人と出会う 高齢で女性で身よりの無い人 子供はいるが係わる事を拒否していた
最初私と(僧侶なので縁起でもないと言う事で)係わりたくないと言っていた
寝たきりになって仕舞って、排泄も自分では処理できない 或る時にそばに行くと、このまま死んでしまうのではないかと、そばにいてほしいとちょくちょくと話した
その方の声を聞いていました 或る時病医から自宅に電話が来る
患者さんがいまにも亡くなりそうであると言う事で私が立ち会う事に成りました
(本来だったら家族が立ち会うものだが)
行ってみると、虫の息で 危ないなあという状況だった
そばに寄って行ったところぱっと眼を見開いて自分の手を出して、手を握ろうとしたので握り返した
其の人は酸素マスクしていたが僅かな声で「ひとの痛みの判る人になってくださいねー」と言いながら息を引きとったが、その時に雷に有った様な凄い衝撃が走った
自分が今生きている訳だが、あの人は嫌いだとか、お金が欲しいとか欲望にまみれているが、自分が死んで行く時に誰かに願いを宅せるのかなあと、貴方の事を忘れないよ
遠くから見守っているよ、だから しっかり頑張ってね あんたと出会えてよかったよ
メッセージとして投げかけられるのかなと、そう言う生きかたを自分はしているのかなと、つくづく自分の事を見つめざるをえませんでした
自分はこのメッセージを大事にいきてゆこうと、人の痛みの判る人に少しでも近づこうと、
それが大震災の時、現場に自分を走らせたり、社会の様々な問題に立ち会うきっかけに成ったのかなと、改めて思います
毎月、被災地に入っている 3県でそれぞれ全く違う
大事なことは「忘れてはいけない」と言う事 明日は我が身かも知れない
人間の愚かさをつくづく思い知らされた
作家 吉村昭 地震、津波についての事 克明に記してあるが届いていないのが残念
当事者に成らないと中々見えてこない事が沢山有るが、誰しもが当事者になることが有る
事件に巻き込まれる、事故に遭う 事は誰にも有る
当事者の気持ちを想像する
想像力が問われていると思う(もし自分が被災者になったら)
鎮魂、祈り 気持ちを癒してゆくためには、宗教的な儀式が人の心を救ってゆくためには大きな役割を果たすのではないかとつくづく感じた
儀式通して、前に進んでいく区切りの様なものに成って行くんでは無いかと思う
被災地の方々、2000人にお聞きしました
助かった方 真っ先に津波が引いて駆け付けたところは、自分の家、職場に賭けつける 次は先祖代々の墓 次には地域にあるおみこしの場所
どういうことかというと土地のお祭りがとても昔からあったもの
陸前高田で有る男性が言った言葉がある
「高田に生れた男は地域の神輿のいい処を担いで、「しょうごないん」?となって地域を守るんだ それが粋な男だ」
地縁、昔ながらの繋がりをだいじにしていることが東北ではまだまだ残っている
「生、老、病、死」の手助けが出来ればいいなと思っています
2013年3月9日土曜日
渡辺貞(68歳) ・スーパーコンピューターに賭ける(京)
渡辺貞 理化学研究所 計算科学研究機構 次世代コンピュータープロジェクトリーダー
スーパーコンピューター京の設計の中心となって、開発を進めてきました
去年の京の本格稼働から丁度半年を迎えました 1秒間に1京回を計算します
どのように設計され、本格稼働ではどのように使われているか、どのような成果が期待できるのか、現代人の暮らしの中でスーパーコンピューターの果たす意味を伺います
現在 ほぼフル稼働 150名位の人が使っている ジョブを投入する
一人がつかっている時も有る ジョブのスケジューラーを使って振り分けている
用途は科学技術計算(数値計算) 気候の温暖化のシミュレーション 津波のシミュレーション 自動車の空気の流れ 宇宙はどうしてできてきたか 等に使っている
シミュレーションは天気予報 地球表面をメッシュ状に分けて、そこに温度、気圧、風速と言った物理量をインプットする 有る方程式に従って計算する
そうすると次の時刻の状況が解る それが空気の流れなので次のメッシュに入れて地表全体を計算することによって、温度、湿度、風速、気圧等が判る
CPUはスーパーコンピューターには8万数1千個相互に繋がっている
京の場合は6億個位トランジスターが入っている
チップには限界があるので、現在の集積度では1個のCPUには6億個位である
CPUチップをたくさん並べて、それらを相互に高速のネットワーク ケーブルでつないで一つのコンピューターを作っている
京の名前が10ペタフロップスと言われるが、1フロップスは1秒間に1回の基礎計算
10ペタは10の16乗をいう 京は10×16乗
我々の目標性能は 10ペタフロップス です この目標でスーパーコンピューターを作りなさいと、文部科学省の方から要請が有った
10ペタフロップスのスピードですが、地球上の人口 70億人が一人1秒間に1回計算するとして17日掛るのを京は1秒間でやってしまう
パソコンの10万台~数十万台分の処理能力が有ります
最新のモデルで 当時世界で一番はやい「シミュレーター」というスーパーコンピューターが有るが( 京から10年ぐらい前に開発したコンピューター) 気象シミュレーションはメッシュで3.5kmメッシュ で代表的に、ここの温度は、15℃、風速毎秒3mとかのパラメーターを入れるが、非常にラフなデータだと言う事になる
雲の影響は地球温暖化に非常に大きな影響がある
1つの雲は3.5kmより小さい 3.5kmのメッシュでは余りに粗くなってしまって、正確な予測はできない
可なりな正確で当ってきているが、まだまだ当らないことも有る
メッシュを細かくする 1/10にすると 縦×横×高さ で1/1000に分割しなくてはいけない
そうすると1000倍の速さにしなくてはいけなくなる
予測精度上げたいと思うとそれに比例して、高速なコンピュータが必要となる
汎用スーパーコンピューター きっかけは 今から7年前 科学技術の分野 計算科学と呼んでいるがシミュレーションは諸外国、に比べると基盤が弱いと言う事が有って、プロジェクトを起こした
科学技術の基本になる5カ年計画でスーパーコンピューター技術はライフサイエンス、防災、新しいデバイスの開発、日本の社会生活に取って、基礎になる技術であると言う事で、このスーパーコンピューターの開発をしようと、それによっていろんなものに利用しようと言う事で始まった
費用は1154億円 いれる施設、動かすソフトウエア 本体だけでも700~800億円
全体で 建屋 60×60m 地下1Fから3F 3Fに本体が有る
部屋の面積が60×50m 熱が出るので15メガワット 冷やさないといけないので水と空気でやっているが、2Fに設置されている
1FにはハードディスクがHDD 巨大記憶装置 (30ペタ)が設置されている
こう言った設計仕様の者が出来るかとメーカーと繰り返し繰り返しやりながら出来てきた
理化学研究所はプロジェクトマネージメントですからスタートした時点で30名位 延べ1000名位
CPUのチップのなかの設計、それを繋ぐネットワーク、搭載するプリント板、それを入れる框体、冷却するモジュール 全部作った
京で一番苦労したのはCPUとそれらを繋ぐネットワークですね(富士通が担当)
ネットワークについてはモデルが無かった 8万数千個を繋ぐのに、高速に計算できるようにしなくてはいけない 伝送路なので誤りが有るので訂正して送るとか、どこかが壊れてしまうとシステムが止まってしまうので、どこかが壊れても止まらないように、バイパスして動かすような仕組みが必要
(高速のデータ転送が必要、誤りの検出、どこか障害が起こってもそれを避ける仕組み)
ゼロからそう行ったことを作った 結果としては巧く出来た
設計の自動化は進んでいるが、回路の動作 をシュミレータが有って不具合が有るとシュミレーションする
京のスーパーコンピューターを作るのにもスーパーコンピューターが必要
なるべく不具合が無い様な設計をしないと、日程が崩れてしまう
作ってみないと本当に解らないので、見極めるのが極めて難しい
不具合が比較的少なかった 量産 ゴーを掛けてから不具合が見つかると大変なことになる
CPU8万数千個作ってから不具合が見つかると、8万数千個直さないといけない
コスト的にも大変なことになる 1個10万円とすると8万個で80億円 設計変更して直すのに半年が必要になるが、今回はなにもなくできた
小学校の頃は北海道の中に育った 受験など何もなかった 勉強など殆どしなかった
高校に入ってから数学は好きだった
中学のころまでは医者になろうと思っていたが、血をみるのが駄目だった
父親が早く亡くなった、伯父のもとで育って、伯父が医者をやっていたので当時はそう思っていた
東大、電子工学科を選んだ(昭和37年) 大学院でコンピューター関係にはいる
大學の講義が面白かった 先生からトランジスターをやるから何でもいいから、何か作ってみろと言われて、ゲーム機みたいなものをつくろうと思ったが、動かなかった(面白さを実感した)
NECに入る コンピューターの開発部門に入る
上司からこれをやれという事でコンピューターを設計するためには作る為のツール(コンピューターを使って設計する為のソフトウエアを設計する)が必要なので そのソフトウエアの設計をやった
汎用大型機の設計 (アーキテクチャー)をやってきた
1980年代のはじめ 航空宇宙研究所 1ギガスーパーコンピュータをやらないかとの話が有り富士通、日立、NECに声が掛り、航空宇宙研究所と一緒に細かい開発の研究を始めた
形になったのが1985年だった SXシリーズとして製品化 当時世界で一番早かった
クレイ賞 スーパーコンピューターの開発に貢献した人に与えられるが、日本人で初めて受賞した
7年前のスーパーコンピューターの開発プロジェクトが発足して、リーダーとして理化学研究所に移る
スーパーコンピューターは技術の塊 日本の国の力は技術だと小学校の頃から先生に言われた
技術であると言う事があって、製品に活かせるものをつくろうと思った
基本的には技術開発という事が私としてはライフワークとして続けてきた
技術開発をやって行くためには 粘り強さ、忍耐に尽きるのではないか
最先端の技術開発はやればやるほど、困難さは見えて来る
1ギガスーパーコンピューターをやったときは、当時有ったのは其の1/100の速度
目先の技術では出来そうもないが、いろんな苦労をしながら出来た
京を手掛けようとしていた当時は とてもとても10ペタはできるような状況ではなかったが、
10ペタができた
次世代のスーパーコンピューターは 単に性能を上げると言う事は出来ると思うが、制約条件
消費電力を増やさないで100倍のものを作ろうとすると、極めて大きなチャレンジ
今すぐ解が見つかると言うものではない チャレンジしてみないと駄目
スーパーコンピューター京の設計の中心となって、開発を進めてきました
去年の京の本格稼働から丁度半年を迎えました 1秒間に1京回を計算します
どのように設計され、本格稼働ではどのように使われているか、どのような成果が期待できるのか、現代人の暮らしの中でスーパーコンピューターの果たす意味を伺います
現在 ほぼフル稼働 150名位の人が使っている ジョブを投入する
一人がつかっている時も有る ジョブのスケジューラーを使って振り分けている
用途は科学技術計算(数値計算) 気候の温暖化のシミュレーション 津波のシミュレーション 自動車の空気の流れ 宇宙はどうしてできてきたか 等に使っている
シミュレーションは天気予報 地球表面をメッシュ状に分けて、そこに温度、気圧、風速と言った物理量をインプットする 有る方程式に従って計算する
そうすると次の時刻の状況が解る それが空気の流れなので次のメッシュに入れて地表全体を計算することによって、温度、湿度、風速、気圧等が判る
CPUはスーパーコンピューターには8万数1千個相互に繋がっている
京の場合は6億個位トランジスターが入っている
チップには限界があるので、現在の集積度では1個のCPUには6億個位である
CPUチップをたくさん並べて、それらを相互に高速のネットワーク ケーブルでつないで一つのコンピューターを作っている
京の名前が10ペタフロップスと言われるが、1フロップスは1秒間に1回の基礎計算
10ペタは10の16乗をいう 京は10×16乗
我々の目標性能は 10ペタフロップス です この目標でスーパーコンピューターを作りなさいと、文部科学省の方から要請が有った
10ペタフロップスのスピードですが、地球上の人口 70億人が一人1秒間に1回計算するとして17日掛るのを京は1秒間でやってしまう
パソコンの10万台~数十万台分の処理能力が有ります
最新のモデルで 当時世界で一番はやい「シミュレーター」というスーパーコンピューターが有るが( 京から10年ぐらい前に開発したコンピューター) 気象シミュレーションはメッシュで3.5kmメッシュ で代表的に、ここの温度は、15℃、風速毎秒3mとかのパラメーターを入れるが、非常にラフなデータだと言う事になる
雲の影響は地球温暖化に非常に大きな影響がある
1つの雲は3.5kmより小さい 3.5kmのメッシュでは余りに粗くなってしまって、正確な予測はできない
可なりな正確で当ってきているが、まだまだ当らないことも有る
メッシュを細かくする 1/10にすると 縦×横×高さ で1/1000に分割しなくてはいけない
そうすると1000倍の速さにしなくてはいけなくなる
予測精度上げたいと思うとそれに比例して、高速なコンピュータが必要となる
汎用スーパーコンピューター きっかけは 今から7年前 科学技術の分野 計算科学と呼んでいるがシミュレーションは諸外国、に比べると基盤が弱いと言う事が有って、プロジェクトを起こした
科学技術の基本になる5カ年計画でスーパーコンピューター技術はライフサイエンス、防災、新しいデバイスの開発、日本の社会生活に取って、基礎になる技術であると言う事で、このスーパーコンピューターの開発をしようと、それによっていろんなものに利用しようと言う事で始まった
費用は1154億円 いれる施設、動かすソフトウエア 本体だけでも700~800億円
全体で 建屋 60×60m 地下1Fから3F 3Fに本体が有る
部屋の面積が60×50m 熱が出るので15メガワット 冷やさないといけないので水と空気でやっているが、2Fに設置されている
1FにはハードディスクがHDD 巨大記憶装置 (30ペタ)が設置されている
こう言った設計仕様の者が出来るかとメーカーと繰り返し繰り返しやりながら出来てきた
理化学研究所はプロジェクトマネージメントですからスタートした時点で30名位 延べ1000名位
CPUのチップのなかの設計、それを繋ぐネットワーク、搭載するプリント板、それを入れる框体、冷却するモジュール 全部作った
京で一番苦労したのはCPUとそれらを繋ぐネットワークですね(富士通が担当)
ネットワークについてはモデルが無かった 8万数千個を繋ぐのに、高速に計算できるようにしなくてはいけない 伝送路なので誤りが有るので訂正して送るとか、どこかが壊れてしまうとシステムが止まってしまうので、どこかが壊れても止まらないように、バイパスして動かすような仕組みが必要
(高速のデータ転送が必要、誤りの検出、どこか障害が起こってもそれを避ける仕組み)
ゼロからそう行ったことを作った 結果としては巧く出来た
設計の自動化は進んでいるが、回路の動作 をシュミレータが有って不具合が有るとシュミレーションする
京のスーパーコンピューターを作るのにもスーパーコンピューターが必要
なるべく不具合が無い様な設計をしないと、日程が崩れてしまう
作ってみないと本当に解らないので、見極めるのが極めて難しい
不具合が比較的少なかった 量産 ゴーを掛けてから不具合が見つかると大変なことになる
CPU8万数千個作ってから不具合が見つかると、8万数千個直さないといけない
コスト的にも大変なことになる 1個10万円とすると8万個で80億円 設計変更して直すのに半年が必要になるが、今回はなにもなくできた
小学校の頃は北海道の中に育った 受験など何もなかった 勉強など殆どしなかった
高校に入ってから数学は好きだった
中学のころまでは医者になろうと思っていたが、血をみるのが駄目だった
父親が早く亡くなった、伯父のもとで育って、伯父が医者をやっていたので当時はそう思っていた
東大、電子工学科を選んだ(昭和37年) 大学院でコンピューター関係にはいる
大學の講義が面白かった 先生からトランジスターをやるから何でもいいから、何か作ってみろと言われて、ゲーム機みたいなものをつくろうと思ったが、動かなかった(面白さを実感した)
NECに入る コンピューターの開発部門に入る
上司からこれをやれという事でコンピューターを設計するためには作る為のツール(コンピューターを使って設計する為のソフトウエアを設計する)が必要なので そのソフトウエアの設計をやった
汎用大型機の設計 (アーキテクチャー)をやってきた
1980年代のはじめ 航空宇宙研究所 1ギガスーパーコンピュータをやらないかとの話が有り富士通、日立、NECに声が掛り、航空宇宙研究所と一緒に細かい開発の研究を始めた
形になったのが1985年だった SXシリーズとして製品化 当時世界で一番早かった
クレイ賞 スーパーコンピューターの開発に貢献した人に与えられるが、日本人で初めて受賞した
7年前のスーパーコンピューターの開発プロジェクトが発足して、リーダーとして理化学研究所に移る
スーパーコンピューターは技術の塊 日本の国の力は技術だと小学校の頃から先生に言われた
技術であると言う事があって、製品に活かせるものをつくろうと思った
基本的には技術開発という事が私としてはライフワークとして続けてきた
技術開発をやって行くためには 粘り強さ、忍耐に尽きるのではないか
最先端の技術開発はやればやるほど、困難さは見えて来る
1ギガスーパーコンピューターをやったときは、当時有ったのは其の1/100の速度
目先の技術では出来そうもないが、いろんな苦労をしながら出来た
京を手掛けようとしていた当時は とてもとても10ペタはできるような状況ではなかったが、
10ペタができた
次世代のスーパーコンピューターは 単に性能を上げると言う事は出来ると思うが、制約条件
消費電力を増やさないで100倍のものを作ろうとすると、極めて大きなチャレンジ
今すぐ解が見つかると言うものではない チャレンジしてみないと駄目
2013年3月8日金曜日
庄司アイ(民話の会78歳) 津波体験新たな民話で全国へ
庄司アイ(民話の会)
2年前の東日本大震災で宮城県山元町では町内の半分近くに津波が押し寄せ、633人の人が亡くなりました
被災しながらも、町民の津波体験を集めて、証言集としてまとめたのが、山元民話の会の人達です
会の代表が庄司さんです
母親から地元の民話を聞いて育ち、山元町の保育園を退職してから、民話の会のメンバーとして、民話を語り継ぐ活動をしてきました
震災で自宅ごと流され、翌日瓦礫の海の中、辛うじて救出されました
知人、友人の多くを亡くした中で庄司さんは民話の会のメンバーと再会して、被災体験を新たな民話として語り継いでゆく決意を固めました
地元の人達に聞きとりをして、「小さな町を呑み込んだ巨大津波」という3冊の証言集に纏めました
体験したことの無い揺れで動転していました 孫を心配しながら孫の帰りを待った
津波が来るねと夫に声を掛けていました 40分ほどして孫娘が返ってきて、それから間もなく孫娘が庭に居て、途轍もなくでかい声で津波が来る2階に上がってと声がした
黒いもくもくした、くもりが有り、あっという間に水が来て、2階のベランダにいて「動いた 動いた」
と私は言った それから私の家は動いていき、西に500m位動いたときに、山が動いているように感じて 700m山に沿って動いて、引き波でまたぐらぐらと動いた
見渡す限り太平洋の瓦礫の景色、 家がちょっと止まった 瓦礫が溜まっていたところに止まった
2波、3波の波が来たがなんとかしのいだ
一晩瓦礫の中で過ごす 次の日の昼頃救出された
70人ぐらいの人の同様な証言が証言集に寄せられている
民話を語ってきたものとして、責任が有ると思った
津波の伝承をつたえる持ち話が私の中に4つあったんですが、その4つとも私は「あったそうだ」と語ってきた 有ったことをきちっと伝えなかった
私としては自分を責めることも有ったが、こういう事が有ってはならないと言う事が一番有った
「先輩に学ぶ」という企画で小学校で1時間話す機会が有った
その中に、私の故郷で何回も聞いたおすわさまの杉の木のてっぺんには、大昔の津波で流されてきた船が、杉の木のてっぺんに繋がっている 鎖がまだ残っていると言う伝説を語った
しかし真実としてあった事としたは語ってはいなかった 「あったそうな」であった
町内にも2つの伝承が有る
この津波、この伝説、この話のもとになったのはいつごろですかと聞いてきた
処が皆さんも大昔の事とおっしゃっていた
今は記録もできるし、語る事もできる これは残さなければいけない
それではやってみようと言う事になった
活動に入ったのは5月半ば 避難生活の時で皆 自分のことを語れるような状況ではなかった
隣近所、会員の仲間だったら大丈夫という人達にお伺いして、語って貰った
お伺いするのにもいろいろ気配りをした
段々わたしの事も書いて、私も言いたい事が有ると言われるようになった
1冊目と2冊目は違ってきた 向こう様から体験を残してほしいと言って貰えるようになった
助かった人の場合は奇跡だと言っている 流されながら自分が助かった様子
家族を亡くされた人の様子も中々文字にすることは難しかったが
危機管理、防災の意識の低さがこうした大惨事に成った処もあるのではと思う
命だけは何とか助かったのではないかと私自身が思う
慶長の津波のいわれを私が語ってきた、それが語ってきたこと自身があいまいなところが有る
防災無線が壊れていて、不信を抱かなかった
皆安穏として、自分の家の倒れた茶ダンスなどを片付けていた
天災事変はいつどのように起こるかは、マニュアル通りにはいかないし マニュアルが有っても守れない部分が一杯有った その時の自己判断が難しい
最大の特徴は証言そのまんま 立派な言葉では無く、民話として語り継ぐ事が大事で語ったそのまんまを記録として残した (語りつぐことの大事さ) そのまま文字にした
メモを取ってきて、文章にしてみて、足を運んでこんなものでいいかを確認した
文章を書きますと言う人もいて、文字の間違いなどはチェックして、文章はそのまま記載した
私が4~5歳の時 農家であったが病気をして退院した時には、この身体ではこのままでは農家をやっていけないと職員事務所に職員として働くようになる
母が全部農作業を請け負う事になる
姉は学校を卒業すると同時に嫁に行く
母は養蚕、畑作業全部やる 繭も全部売らずに残したもので機織りもする わら織りもする
母の手伝いをして母は喜んでくれて、話を聞かしてくれた
母の兄は講談を母に聞かせてくれた 民話、講談に出て来る話、世間話をよく聞かされた様だ
その様な話を私に聞かしてくれた
結婚して山元町にきた(友働きはしないのが条件ではあった)
公立保育所が出来て、調理師の募集が有り、免許を持っていた私に声が掛った
子供が好きで、保育園で見ていて、子育て方法について疑問も有った
保育士試験を受けて合格通知が来た 翌年保育をすることになる
民話を人形劇にしたり、母から教わった話をすると若い保育士の先生が興味を抱いた
昼寝の時間にこっそりと民話の話をしていたら、子供達は喜んで聞いてくれた
退職後、地元の民話の会に参加 平成8年
民話についての講演会があった、一番最初においでになったのは宮城民話の会の代表の小野和子先生だった
その話を聞いた時の衝撃は身振るいするほどの、物凄い衝撃だった
自分が子供の時に聞いたのも、民話だったし、いろんな保育の場で子供とどんな接し方が出来たかという事でも、子供の目線で子供の気持ちに成って対応が出来たのも 母の民話が基本に有ったのではないかと思って、宮城民話の会に入れて下さいと言って入会した
どんな話でも、訪ねて行ってそれを文字にして残すことを会はやってきた
山元町にもこんな会が有ったらいいなと思った
声を掛けて10人ぐらいが集まった
伊藤昇さんが民話を持っていた(これを文字にしようと思った)
「登さんの昔がたり」(山元町の民話をつくった)
「証言集」は図書館、民話の会(全国の)の反応が有った
これは確たるものだと思っている 今は 機械と人間が会話しているが、矢張り語る、聴くを大事にしてほしいと思う
文字には残したがこれを語り継ぐ人が全国においでになって、次の世代にも次の世代にも、あらぶる神 日本の自然には向かう事無く、畏敬の念を持ちつつ、自然と共存して共に生きて行ってほしいと思うのが願いです
語り継いでほしい、語り継ぐ、それが命だと思います
2年前の東日本大震災で宮城県山元町では町内の半分近くに津波が押し寄せ、633人の人が亡くなりました
被災しながらも、町民の津波体験を集めて、証言集としてまとめたのが、山元民話の会の人達です
会の代表が庄司さんです
母親から地元の民話を聞いて育ち、山元町の保育園を退職してから、民話の会のメンバーとして、民話を語り継ぐ活動をしてきました
震災で自宅ごと流され、翌日瓦礫の海の中、辛うじて救出されました
知人、友人の多くを亡くした中で庄司さんは民話の会のメンバーと再会して、被災体験を新たな民話として語り継いでゆく決意を固めました
地元の人達に聞きとりをして、「小さな町を呑み込んだ巨大津波」という3冊の証言集に纏めました
体験したことの無い揺れで動転していました 孫を心配しながら孫の帰りを待った
津波が来るねと夫に声を掛けていました 40分ほどして孫娘が返ってきて、それから間もなく孫娘が庭に居て、途轍もなくでかい声で津波が来る2階に上がってと声がした
黒いもくもくした、くもりが有り、あっという間に水が来て、2階のベランダにいて「動いた 動いた」
と私は言った それから私の家は動いていき、西に500m位動いたときに、山が動いているように感じて 700m山に沿って動いて、引き波でまたぐらぐらと動いた
見渡す限り太平洋の瓦礫の景色、 家がちょっと止まった 瓦礫が溜まっていたところに止まった
2波、3波の波が来たがなんとかしのいだ
一晩瓦礫の中で過ごす 次の日の昼頃救出された
70人ぐらいの人の同様な証言が証言集に寄せられている
民話を語ってきたものとして、責任が有ると思った
津波の伝承をつたえる持ち話が私の中に4つあったんですが、その4つとも私は「あったそうだ」と語ってきた 有ったことをきちっと伝えなかった
私としては自分を責めることも有ったが、こういう事が有ってはならないと言う事が一番有った
「先輩に学ぶ」という企画で小学校で1時間話す機会が有った
その中に、私の故郷で何回も聞いたおすわさまの杉の木のてっぺんには、大昔の津波で流されてきた船が、杉の木のてっぺんに繋がっている 鎖がまだ残っていると言う伝説を語った
しかし真実としてあった事としたは語ってはいなかった 「あったそうな」であった
町内にも2つの伝承が有る
この津波、この伝説、この話のもとになったのはいつごろですかと聞いてきた
処が皆さんも大昔の事とおっしゃっていた
今は記録もできるし、語る事もできる これは残さなければいけない
それではやってみようと言う事になった
活動に入ったのは5月半ば 避難生活の時で皆 自分のことを語れるような状況ではなかった
隣近所、会員の仲間だったら大丈夫という人達にお伺いして、語って貰った
お伺いするのにもいろいろ気配りをした
段々わたしの事も書いて、私も言いたい事が有ると言われるようになった
1冊目と2冊目は違ってきた 向こう様から体験を残してほしいと言って貰えるようになった
助かった人の場合は奇跡だと言っている 流されながら自分が助かった様子
家族を亡くされた人の様子も中々文字にすることは難しかったが
危機管理、防災の意識の低さがこうした大惨事に成った処もあるのではと思う
命だけは何とか助かったのではないかと私自身が思う
慶長の津波のいわれを私が語ってきた、それが語ってきたこと自身があいまいなところが有る
防災無線が壊れていて、不信を抱かなかった
皆安穏として、自分の家の倒れた茶ダンスなどを片付けていた
天災事変はいつどのように起こるかは、マニュアル通りにはいかないし マニュアルが有っても守れない部分が一杯有った その時の自己判断が難しい
最大の特徴は証言そのまんま 立派な言葉では無く、民話として語り継ぐ事が大事で語ったそのまんまを記録として残した (語りつぐことの大事さ) そのまま文字にした
メモを取ってきて、文章にしてみて、足を運んでこんなものでいいかを確認した
文章を書きますと言う人もいて、文字の間違いなどはチェックして、文章はそのまま記載した
私が4~5歳の時 農家であったが病気をして退院した時には、この身体ではこのままでは農家をやっていけないと職員事務所に職員として働くようになる
母が全部農作業を請け負う事になる
姉は学校を卒業すると同時に嫁に行く
母は養蚕、畑作業全部やる 繭も全部売らずに残したもので機織りもする わら織りもする
母の手伝いをして母は喜んでくれて、話を聞かしてくれた
母の兄は講談を母に聞かせてくれた 民話、講談に出て来る話、世間話をよく聞かされた様だ
その様な話を私に聞かしてくれた
結婚して山元町にきた(友働きはしないのが条件ではあった)
公立保育所が出来て、調理師の募集が有り、免許を持っていた私に声が掛った
子供が好きで、保育園で見ていて、子育て方法について疑問も有った
保育士試験を受けて合格通知が来た 翌年保育をすることになる
民話を人形劇にしたり、母から教わった話をすると若い保育士の先生が興味を抱いた
昼寝の時間にこっそりと民話の話をしていたら、子供達は喜んで聞いてくれた
退職後、地元の民話の会に参加 平成8年
民話についての講演会があった、一番最初においでになったのは宮城民話の会の代表の小野和子先生だった
その話を聞いた時の衝撃は身振るいするほどの、物凄い衝撃だった
自分が子供の時に聞いたのも、民話だったし、いろんな保育の場で子供とどんな接し方が出来たかという事でも、子供の目線で子供の気持ちに成って対応が出来たのも 母の民話が基本に有ったのではないかと思って、宮城民話の会に入れて下さいと言って入会した
どんな話でも、訪ねて行ってそれを文字にして残すことを会はやってきた
山元町にもこんな会が有ったらいいなと思った
声を掛けて10人ぐらいが集まった
伊藤昇さんが民話を持っていた(これを文字にしようと思った)
「登さんの昔がたり」(山元町の民話をつくった)
「証言集」は図書館、民話の会(全国の)の反応が有った
これは確たるものだと思っている 今は 機械と人間が会話しているが、矢張り語る、聴くを大事にしてほしいと思う
文字には残したがこれを語り継ぐ人が全国においでになって、次の世代にも次の世代にも、あらぶる神 日本の自然には向かう事無く、畏敬の念を持ちつつ、自然と共存して共に生きて行ってほしいと思うのが願いです
語り継いでほしい、語り継ぐ、それが命だと思います
2013年3月7日木曜日
城谷護(腹話術師72歳) ・被災地に笑いを
城谷護(腹話術師72歳) 被災地に笑いを
城谷護さんは腹話術師になってまもなく30年になる
18歳で長崎県から川崎市にある造船所に就職 19歳から地元の市民劇団に所属、演劇を続けながら、45歳から幼い頃から興味を持っていた腹話術も始めました
城谷護さんは腹話術師になってまもなく30年になる
18歳で長崎県から川崎市にある造船所に就職 19歳から地元の市民劇団に所属、演劇を続けながら、45歳から幼い頃から興味を持っていた腹話術も始めました
定年退職したのちに、プロデビュー アマチュア時代から全国各地の地震、洪水、津波などの被災地や福祉施設などに出掛けて笑いを届けています
今もプロ活動の合間にボランティアをしています
講演の回数 アマチュア 15年 350回位 プロに成ってから 12年間で2400~2500回
場所はいろんなところ 学校、保育園、 障害者施設、市民のお祭り、被災地等
小さい時から学校で見て、何で人形が喋るんだろうと思っていた
劇団では大勢で無いと芝居はできない (京浜共同劇団)
一人ででも出来るものは無いかなと思ったら、腹話術を思いだして遣る様になった
暫く一人で我流でやっていたが、伸びなかった 島三紀夫先生に頼んだら、教えてくれない
5年間おっかけをやって、芸を盗むと言う形でやっていたら、お前本気でやろうとしているいるなと言われて、基礎から教えて貰った
造船所の設計を長年やってきた (18歳~60歳まで退職するまで)
家は貧しかった 兄弟は9人 神社の床下で生活をしていた人(ホームレス)に両親に言われて自分達も貧しかったが、食べ物を持ってやっていたりした
貧しかったが皆いたわりあったり、励まし合ったりという事は小さい頃からあった
高校も諦めていたが、担任が入学願書を出してくれて、受験だけでも言いから受けて見ろと言われて、受けたら、受かってしまった、親を説得に来ていた
其れを聞いた町会議員の人が、奨学金を貰えるようにしてやると言う事で学校に行ける様になった
工業高校なので早く就職するように思って、良い処に就職できた(東京には親戚はいなかった)
劇団を立ち上げる内容が新聞にあり、仲間が出来たらいいなと思った
45歳の時に腹話術を始める 劇団の活動と腹話術を並行してやってきた
劇団のレベルは高かった(全国からも注目される劇団だった)
人形「五郎ちゃん」は島三紀夫先生に作って貰った
失敗は仕通しだったが 五郎ちゃんを人形として扱っていたが、トランクに人形を仕舞い込むところを幼稚園の生徒に見られて、先生に言いつけれられて、はっと気付いた
今迄、人形としてしか取り扱わなかったが、生き物の友達のように扱うようにした
其れからはお客の笑い方が変わってきた (芸とは何かを 子供に教わったような気がした)
ボランティアで講演をする 1/3強はボランティアでの活動(総計で約2800回)
「寄り添う」 悲しみに自分を置いてみたい、その何万分の1でもいいからわけて貰ったというか
そういう気持ちになる
私が役に立つかというと、おそらく役には立つとは思えないけれど、寄り添いたいと思う
子供が喜んでくれたり、大人が喜んでくれたりすると、あーいって良かったと思う
今あるのはいろんな人たちに支えてもらったと言う想いが強くある
でもその人達に恩返しをしようと思っても、もういない
だから別の形で、今自分で出来る形で恩返しをする
東日本大震災の後に、15回 50会場で行ってきた
悲しみのどん底で、人が集まられるのかなあと思うが体育館で200~300人の避難者がいるが、コーナーで場所を作ってやるが 5人、10人とかしか来てくれない
しかし終わるころには段ボールで仕切ったあちこちから立ちあがって拍手をしてくれる
それはもうなんか、感動もので、やってみないと判らない体験だった
88歳のお婆ちゃんが1カ月ぶりに笑ったよと言ってくれた 1年分笑ったと言ってくれた人もいた
被災地に寄り添えるようなネタを考える
日本には信じられないような事が起きている その為には優しさが必要
地方に行けば日常的な助け合いは見受けられるが、都会ではない
時と場合によっては迷惑になることが有るので、お膳立てをしてくれる人がいないと駄目な場合が有るので、その御膳立てをしっかりして行かないといけない
腹話術世界大会に参加した 東日本大震災の写真等も掲げた
ロシアでは平和の事を訴えた 仲間と一緒に行くことが多い(腹話術、劇団)
小学生も3人習っている(子供用の人形を持っている)
4月には子供達を連れて福島に行こうと計画している
ボランティアで行くと言うと回りからのカンパが有るが、それを手に着けずに上げて来る
東京演芸協会に入ったが、認めて貰えたのは3年後に成る
プロでの中でやるためには いろいろ幅も広がる レベルもきびしくなる
プロの腹話術師は東京で数人しかいない
笑いだけで無くて、医療、教育、福祉に役立つ様な芸にたかめたい
認知症 人形との会話に成る 人形に対しては心を開いて話してくれる
アペットセラピー 人形を使って療養する療法がある
いじめ問題 虐めのもとは何なのかと解って、そのうえで人形と対話しながら、子供達に判るような話を伝えて行く事が凄く大事だと思います
感性を豊かにして行かないといけないと思う 人の痛みが判らないといけない
挨拶が出来ないと 人と人のコミュニケーションは取れない
戦争しか知らない子供達 中東 そこに行って話せたらいいなあと思う
2013年3月6日水曜日
西條允敏(社長68歳) ・漫画の力で元気と笑顔を
西條允敏(社長68歳) 漫画の力で元気と笑顔を
石の森章太郎さんの展示する石の森漫画館は旧北上川の中州にあって2011年3月11の大震災で北上川を登ってきた津波で壊滅的な被害を受けました
多くのファンの支援を受けて、21012年11月17日に復活して再開しました
西条さんは石巻市出身 現在は石巻市の文化協会の会長です
「街つ”くりまんぼう」の代表取締役です
現在リニューアルで工事中 3月23日のリニューアルオープンをめざしている
漫画館が出来てから11年に成る 009 仮面ライダー 20体ほどのモニュメントが有る
建物の形状は、石の森章太郎さんの希望だった(宇宙からマンハッタンに降りようとしたら北上川に降りたと言う様な宇宙船をイメージを持ってスケッチをしたという様な話も有る)
石の森章太郎さんは1998年に亡くなられている
推進委員会が有ってそこに参加されて、先生の話が有った(市民運動の様な形で進んで行った)
昔はこの場所に映画館が有って、石の森先生は若い頃にはよく来ていた
北上川は江戸時代から水運が栄えた場所で有った(商業であり、漁業であり水運業、要衝の地)
計画から立ちあがるまでに5年掛った(いろいろイベントをして推進するように働きかけをした)
漫画は文化であると言われて、私は抵抗感が有ったが、一緒に運動するという形になった
(若者が中心だった 最近は世界で認知される様になった)
年間 平均20万人ぐらいが来場していた
2001年7月23日がオープン 10周年を計画していたが大震災の為に出来なくなってしまった
当時市役所の5階にいて立って歩ける状態ではなかった
津波が心配で車で漫画館に戻ろうとしたが、途中で交通渋滞で山の方に行くしか無くてそれで救われたのかもしれない(漫画館に戻ろうととの思いしか無かったが、交通渋滞で救われた)
山から見える場所が有るのでそこから漫画館の方を見た
2m位のひきだったので大きな津波ではないのかなと思った
6m位の津波が来た 1Fの天井まで瓦礫を伴って津波がくる(1Fは高かった)
いた人は3Fに避難した 永い人で5日間そこに留まった
満潮と高波が重なったときは現在でも少し遡上する
9万点の原画は2,3階に有ったので救われた
瓦礫とヘドロをどう片付けるか、考えた
(建物はしっかりしていたので、何とかなるのではと思った)
ボランティア、スタッフ で瓦礫、ヘドロの除去を行った (5月5日にはイベントを出来るまでにした)
スタッフでは家の作業も有ったが、それと並行して進めてくれた
イベントでは子供達が非常に喜んでくれて、大人達もなごんでくれたのでやって良かった
11月17日に復活させる 4000人が集まってくれた
参加者がメッセージを書いてくれて、そのメッセージには本当に有り難いと感謝している
全国から日の丸の旗に寄せ書きを書いて送ってくれた(海外からもファンが支援等贈ってくれた)
金の延べい板が送られてきた(今年、長野の消印であるが発送者は不明)
判るような方法でこのお金は使おうと思っている
施設は石巻市のもの 管理は「街つ”くりまんぼう」 裏の意味は漫画の「まん」と希望の「ぼう」
漫画を生かした街作りをやって行こうと思っている
震災復興に対してマンガジャパンの先生方も一緒に立ちあがってくれた
(石の森先生の外郭支援部署)
「まんぼう」の会社の運営費は6000万円のうち3000万円は市が負担して、残りは企業とか一般市民、商工団体の援助で運営している(管理者は市民で運営するので思い切った事が出来る)
石の森章太郎さんの展示する石の森漫画館は旧北上川の中州にあって2011年3月11の大震災で北上川を登ってきた津波で壊滅的な被害を受けました
多くのファンの支援を受けて、21012年11月17日に復活して再開しました
西条さんは石巻市出身 現在は石巻市の文化協会の会長です
「街つ”くりまんぼう」の代表取締役です
現在リニューアルで工事中 3月23日のリニューアルオープンをめざしている
漫画館が出来てから11年に成る 009 仮面ライダー 20体ほどのモニュメントが有る
建物の形状は、石の森章太郎さんの希望だった(宇宙からマンハッタンに降りようとしたら北上川に降りたと言う様な宇宙船をイメージを持ってスケッチをしたという様な話も有る)
石の森章太郎さんは1998年に亡くなられている
推進委員会が有ってそこに参加されて、先生の話が有った(市民運動の様な形で進んで行った)
昔はこの場所に映画館が有って、石の森先生は若い頃にはよく来ていた
北上川は江戸時代から水運が栄えた場所で有った(商業であり、漁業であり水運業、要衝の地)
計画から立ちあがるまでに5年掛った(いろいろイベントをして推進するように働きかけをした)
漫画は文化であると言われて、私は抵抗感が有ったが、一緒に運動するという形になった
(若者が中心だった 最近は世界で認知される様になった)
年間 平均20万人ぐらいが来場していた
2001年7月23日がオープン 10周年を計画していたが大震災の為に出来なくなってしまった
当時市役所の5階にいて立って歩ける状態ではなかった
津波が心配で車で漫画館に戻ろうとしたが、途中で交通渋滞で山の方に行くしか無くてそれで救われたのかもしれない(漫画館に戻ろうととの思いしか無かったが、交通渋滞で救われた)
山から見える場所が有るのでそこから漫画館の方を見た
2m位のひきだったので大きな津波ではないのかなと思った
6m位の津波が来た 1Fの天井まで瓦礫を伴って津波がくる(1Fは高かった)
いた人は3Fに避難した 永い人で5日間そこに留まった
満潮と高波が重なったときは現在でも少し遡上する
9万点の原画は2,3階に有ったので救われた
瓦礫とヘドロをどう片付けるか、考えた
(建物はしっかりしていたので、何とかなるのではと思った)
ボランティア、スタッフ で瓦礫、ヘドロの除去を行った (5月5日にはイベントを出来るまでにした)
スタッフでは家の作業も有ったが、それと並行して進めてくれた
イベントでは子供達が非常に喜んでくれて、大人達もなごんでくれたのでやって良かった
11月17日に復活させる 4000人が集まってくれた
参加者がメッセージを書いてくれて、そのメッセージには本当に有り難いと感謝している
全国から日の丸の旗に寄せ書きを書いて送ってくれた(海外からもファンが支援等贈ってくれた)
金の延べい板が送られてきた(今年、長野の消印であるが発送者は不明)
判るような方法でこのお金は使おうと思っている
施設は石巻市のもの 管理は「街つ”くりまんぼう」 裏の意味は漫画の「まん」と希望の「ぼう」
漫画を生かした街作りをやって行こうと思っている
震災復興に対してマンガジャパンの先生方も一緒に立ちあがってくれた
(石の森先生の外郭支援部署)
「まんぼう」の会社の運営費は6000万円のうち3000万円は市が負担して、残りは企業とか一般市民、商工団体の援助で運営している(管理者は市民で運営するので思い切った事が出来る)
2013年3月4日月曜日
春山満(59歳) ・人生最大の不運から生き抜こう
春山満(59歳) ・人生最大の不運から生き抜こう
春山満さんは介護医療のコンサルテイングやオリジナル商品の開発や販売などを経営している会社です。
父親の借金を抱えながら、不動産業を始めた24歳の時に手足の冷えを感じるようになり、26歳で難病の進行性筋ジストロフィーの診断をうけました。
難病が解ってからも、必死で働き、借金を返済し、不動産業が軌道に乗るまで4年を要しました。
33歳で日本初の福祉デパートを大阪に開き、その3年後 昭和66年に37歳の時に現在の会社を設立、福祉医療の事業を積極的に展開してきました。
独自の視点と着眼で数々のヒット商品を生み出してきました。
進行性筋ジストロフィーを抱えながら、介護医療に尽力してきた春山さんに人生哲学を伺います。
介護福祉ビジネスを開始して22年に成る。
望まれていながら提供されていない、そう商品を出そうと、解決した要素は本当に新しいお客様の喜びに替わったら適正な高価格でも、受け入れられると、利益と言うものを本当に大事に考えて来ました。
(国の補助、国の政策に左右されないで独立独歩で生きて行こうと想えば 健全な利益は非常に重要です。 (ですから利益の無い商品は開発しない)
24歳まで全く元気だった。 想像もしていなかった。 スポーツが好きでやんちゃだった。
スキーが大好きだったが、或る時、手足が冷たくなる、どうも走り方がおかしく、脱力感が有る。
25,26歳 でどんどんおかしくなってゆく。
病院で検査を受けて進行性筋ジストロフィーと言う難病と判る。
先生が病名、症状を説明してくれた。 日本でも発症例が珍しいと言われる。
手足先の運動細胞だけを、全部中心に向かって崩壊させてゆく特殊なタイプだと言われた。
この細胞破壊は現代医学では原因、治療、すら解っていない難病中の難病だと言われた。
運動すればするほど、細胞の破壊は進行しますと、寝ていれば体力の減退でこれも破壊は止めませんと、運動しても駄目、寝て休んでも駄目、どうすれば良いんだと聞いたら、今日出来たことを出来るだけ、明日も続けてくださいと、但し 進行に従ってどんどん機能は奪われます。
呼吸と心臓の停止まで進行は止まりませんと言われて、流石に呆然とする。
車椅子になることも覚悟してくださいと、車椅子も永くは続かないと、やがて手も動けなくなって寝がえりもできなくなるかも知れませんと言われた。
其の時に病気のことを考えていなかった。 どうやって生きて行こうかと考えた。
22歳の時に父親が倒産して、借金取りが来て、家の査定をして、おろおろ泣く父母親 莫大な借金を残して、小さなアパートに越してきた。
24歳の時に野心と夢だけを持ってガード下の1室を借りて不動産業をスタートしたばっかりだった。
頼れるところがなかった。
父母は同情して守ってくれると思ったが、父親はあーっと、とんでもない悲痛な顔をして、母親は何でお前は、と泣いて (父親と母親の時の事は忘れません)
この時に決めた。 俺は絶対泣くまいと 後ろを向いたら絶望だけですから、開き直った。
俺が車椅子になるのなら、その前に車椅子を押してくれる社員を雇えば良いんだなと。
絶望だけれど、僕の手の代わりをして、会社と言うチームが作れればいいんだなと発想を変えた。
時間との戦いだと、車椅子になる前に後何年有るか判らないが、たどり着かないといけないと
前だけを見て、医療界と病院という社会と決別しました。
何故か言うと、呆然として、之からどうやって生きて行こうと思っている時に、このお医者さん達は
「3~6ケ月の入院と思って下さい」と言われる。 (断る気持ちは無かったが)
まるで死刑宣告に思われた。 どういった目的で入院するんですかと恐る恐る聞いた。
「貴方の筋ジストロフィーは日本でも発症例が非常にすくない。
手先足先からこんなに綺麗に運動細胞を破壊してゆく、こんな筋ジストロフィーは見たことがない。
だから 克明な検査をさせて貰いたい」 その言葉を聞いてむかっとした。
「お断りやと、お前らの医者にとっては、おもろいサンプルの一つかも知れないけど、俺にとっては一生一回の人生と言うレースや、こんなところでモルモットに成って一生をおわるつもりはない
2度と来るか」と 捨て台詞を吐いた。(呆然としていたが、今から考えると彼らの常識が覆った)
自分の中でこう叫んだ。 無くした物は数えるな。
残っている機能を120%活性化したら生き残れると
あれがない、これがない 昔はこうだった、ああだった。
無くしたことばっかり考えて、被害者にしても、もしもとそればっかり数えて、そんなみじめな事はしたくなかった。 それだけです。
人間と言う者は本当は強いんです。 ユダヤの格言 「本当の希望は絶望の時に生れる」
豊かさと言うものはどれだけ私達を弱くしたか。
私はこうやって、喋れる、考えられる、見える、聞こえる、感じる事が出来る。
こんな素晴らしい可能性を私に残してくれた。
人と同じでは駄目で、人の2倍も3倍も磨かなければいけないと、私の無くした手足や補うところを補って貰おうとそうすると2人3脚、駄目だったら3,5人と、担いでもらったら私は生き残れるかも知れない。
こう思って絶望の淵から這い上がろうと考えてきました。
26~29歳と社会が私をたっぷりと鍛えてくれました。(世の中そんなに甘くなかった)
一つのチャンスが来たが、泥沼に巻き込まれて、裁判に引き込まれ、とんでもない莫大な借金、又
つぎ込んで、そこからさらに奈落の底に引き込まれて、その時に本当に世の中のいろんな仕掛けや生き方をこの身で学ぶことが出来ました。
29歳の終わり 念願の大きな取引にたどり着いて、借金を全額返すことが出来て、念願だった社員を雇える事が出来た。
この時に第二の人生がスタートする。
学生時代からスキーを教えた生徒の一人 約束したのが23歳の時27歳で結婚しようかと思っていた。
難病に成って自分で飯を食えない。 そんな男が何が結婚なんだと、それでもいいといってくれた。
経済的に安定して、身の回りの事が整えられたら考えようと、自分のことしか考えられない身勝手な考えだった。 彼女は泥沼の中でも支えてくれた。
アパートで一人暮らしをしていて階段をあがれられなくなって、風呂にも入れなくなって、どんどん体力が無くなって、もうアウト寸前と言うところで、大きな取引に4年掛ってたどりついた。
神様からのご褒美かもしれないと思った。
彼女の貯金も全部使ってしまっていた、彼女の父親も頑張れよと応援してくれたが、その父親からも借金をしていた。 全部返すことも出来て、結婚した。
結婚を切っ掛けに、ここからは本当に死に物狂いで働いて彼女を絶対に幸せにしようと思った。
この時に彼女がもう一度病院に行こうと言った。
周りは、私が難病と闘っていると言うが、私は戦っていません。
宿命って有るんですよ。 人の人智ではいかんともしがたい宿命はあるんです。
泣いて恨んで、そこからの宿命の解決は何にもないんです。
運命と言うものが有る。 運は動くもの、運命は宿るものではなく、掴めるものなんです。
努力して、真っ直ぐとそこに向かう時に運気はつかめる事が有る。
だから病院には行かなかった。 妻は病院に行こうという。 引き下がらなかった。
私は貴方を介護するために結婚したんではない、春山満という男が面白いから、貴方が何かやりそだから、貴方とだったら幸せになりそうだから貴方と結婚したと、貴方は仕事以外なにもしなくなった。 旅にも行きたい。 飛行機はどう乗れるのか分からない。
病院は不自由な人を専門にサービスしている所だから、あそこに行けば情報が有るはずだと。
30歳の時だった。 3時間待って居たら医者が友達みたいに言ってくれた。
看護婦にちゃんと言ってあるから大丈夫だと(子供に言うように言ったのでカチンときた)言った。
何と言う言い方をするんだと怒りは止まらなかった。 申し訳ありませんと言った。
白衣を着ただけで、偉そうにしてゆくのにおかしいと思った。
私はお客さんで医者も看護師もサービスマンだと思った。
常識の中に非常識がここには有る思った。
病院のベットの大半は年寄の長期入院 医療の必要がないのに帰れない。(家族は引き受けない)
病院は入院という名前で最後の最後の生活の場所で医療費で全額請求出来る。
病院の大半の売り上げは長期入院のお年寄り(まるでホテルのよう) 費用は約75万円
社会保険から75万円が入る 2万5000円(一日) 私はこの摩物を見た。(バブル期)
難病に成ってとんでもないビジネスチャンスを見つけたかもしれない。
究極のサービス業を作ってやろうと、それが私のスタートなんです。(福祉介護の世界に入る)
25年ひた走りに走ってきた。(バブル崩壊は関係なかった) いよいよ表面化してくる。
トヨタ自動車が福祉自動車を開発していたが、一緒にやろうという事になる。
新しいファミリーカーにしようという発想の転換をした。
製薬会社とも提携 新しい自動販売機 必要不可欠なものにすると云うものにしようとした。
車椅子にとっては自動販売機は非常に扱いにくい。
ミニスカートの人も使いずらい、お腹の大きな妊婦も同様 新しい自動販売機は180%に売れすじになる。
常識の裏にある非常識に気付いて、無くしたものを数えるのではなく、残っている機能を見つめてそうすると至るところに新しい芽が有ると、こういう発想が有ると日本はチャンスだらけ。
高齢者の住宅作りを考えた。 くらしそのものを支えないと駄目。
私もいよいよ立てなくなってきた。 浴槽に入るのに手助けしてくれるのに大変な作業が有る。
「風呂は人生の御馳走だ ありがとう」 と言った。 (妻は顔が曇っていた)
風呂に入るのも、妻にとっては一番大変な介護だと悟る。
或る段階を越えると気持ちが切れて行く。 想いはあるがいつまで続くのかと思う。
心の絆が切れて行く。 心も体もボロボロになってゆく。 (涙はこぼれないため息が出る)
在宅介護の厳しさ これでは駄目だと思った。 暮らしそのものを支えないと駄目だと思った。
どこにも移らなくていい、究極のついの世界をつくろうと思った。(バリアフリー+HILT)
HILT アメリカ人の友人に作っても貰った言葉。
春山満さんは介護医療のコンサルテイングやオリジナル商品の開発や販売などを経営している会社です。
父親の借金を抱えながら、不動産業を始めた24歳の時に手足の冷えを感じるようになり、26歳で難病の進行性筋ジストロフィーの診断をうけました。
難病が解ってからも、必死で働き、借金を返済し、不動産業が軌道に乗るまで4年を要しました。
33歳で日本初の福祉デパートを大阪に開き、その3年後 昭和66年に37歳の時に現在の会社を設立、福祉医療の事業を積極的に展開してきました。
独自の視点と着眼で数々のヒット商品を生み出してきました。
進行性筋ジストロフィーを抱えながら、介護医療に尽力してきた春山さんに人生哲学を伺います。
介護福祉ビジネスを開始して22年に成る。
望まれていながら提供されていない、そう商品を出そうと、解決した要素は本当に新しいお客様の喜びに替わったら適正な高価格でも、受け入れられると、利益と言うものを本当に大事に考えて来ました。
(国の補助、国の政策に左右されないで独立独歩で生きて行こうと想えば 健全な利益は非常に重要です。 (ですから利益の無い商品は開発しない)
24歳まで全く元気だった。 想像もしていなかった。 スポーツが好きでやんちゃだった。
スキーが大好きだったが、或る時、手足が冷たくなる、どうも走り方がおかしく、脱力感が有る。
25,26歳 でどんどんおかしくなってゆく。
病院で検査を受けて進行性筋ジストロフィーと言う難病と判る。
先生が病名、症状を説明してくれた。 日本でも発症例が珍しいと言われる。
手足先の運動細胞だけを、全部中心に向かって崩壊させてゆく特殊なタイプだと言われた。
この細胞破壊は現代医学では原因、治療、すら解っていない難病中の難病だと言われた。
運動すればするほど、細胞の破壊は進行しますと、寝ていれば体力の減退でこれも破壊は止めませんと、運動しても駄目、寝て休んでも駄目、どうすれば良いんだと聞いたら、今日出来たことを出来るだけ、明日も続けてくださいと、但し 進行に従ってどんどん機能は奪われます。
呼吸と心臓の停止まで進行は止まりませんと言われて、流石に呆然とする。
車椅子になることも覚悟してくださいと、車椅子も永くは続かないと、やがて手も動けなくなって寝がえりもできなくなるかも知れませんと言われた。
其の時に病気のことを考えていなかった。 どうやって生きて行こうかと考えた。
22歳の時に父親が倒産して、借金取りが来て、家の査定をして、おろおろ泣く父母親 莫大な借金を残して、小さなアパートに越してきた。
24歳の時に野心と夢だけを持ってガード下の1室を借りて不動産業をスタートしたばっかりだった。
頼れるところがなかった。
父母は同情して守ってくれると思ったが、父親はあーっと、とんでもない悲痛な顔をして、母親は何でお前は、と泣いて (父親と母親の時の事は忘れません)
この時に決めた。 俺は絶対泣くまいと 後ろを向いたら絶望だけですから、開き直った。
俺が車椅子になるのなら、その前に車椅子を押してくれる社員を雇えば良いんだなと。
絶望だけれど、僕の手の代わりをして、会社と言うチームが作れればいいんだなと発想を変えた。
時間との戦いだと、車椅子になる前に後何年有るか判らないが、たどり着かないといけないと
前だけを見て、医療界と病院という社会と決別しました。
何故か言うと、呆然として、之からどうやって生きて行こうと思っている時に、このお医者さん達は
「3~6ケ月の入院と思って下さい」と言われる。 (断る気持ちは無かったが)
まるで死刑宣告に思われた。 どういった目的で入院するんですかと恐る恐る聞いた。
「貴方の筋ジストロフィーは日本でも発症例が非常にすくない。
手先足先からこんなに綺麗に運動細胞を破壊してゆく、こんな筋ジストロフィーは見たことがない。
だから 克明な検査をさせて貰いたい」 その言葉を聞いてむかっとした。
「お断りやと、お前らの医者にとっては、おもろいサンプルの一つかも知れないけど、俺にとっては一生一回の人生と言うレースや、こんなところでモルモットに成って一生をおわるつもりはない
2度と来るか」と 捨て台詞を吐いた。(呆然としていたが、今から考えると彼らの常識が覆った)
自分の中でこう叫んだ。 無くした物は数えるな。
残っている機能を120%活性化したら生き残れると
あれがない、これがない 昔はこうだった、ああだった。
無くしたことばっかり考えて、被害者にしても、もしもとそればっかり数えて、そんなみじめな事はしたくなかった。 それだけです。
人間と言う者は本当は強いんです。 ユダヤの格言 「本当の希望は絶望の時に生れる」
豊かさと言うものはどれだけ私達を弱くしたか。
私はこうやって、喋れる、考えられる、見える、聞こえる、感じる事が出来る。
こんな素晴らしい可能性を私に残してくれた。
人と同じでは駄目で、人の2倍も3倍も磨かなければいけないと、私の無くした手足や補うところを補って貰おうとそうすると2人3脚、駄目だったら3,5人と、担いでもらったら私は生き残れるかも知れない。
こう思って絶望の淵から這い上がろうと考えてきました。
26~29歳と社会が私をたっぷりと鍛えてくれました。(世の中そんなに甘くなかった)
一つのチャンスが来たが、泥沼に巻き込まれて、裁判に引き込まれ、とんでもない莫大な借金、又
つぎ込んで、そこからさらに奈落の底に引き込まれて、その時に本当に世の中のいろんな仕掛けや生き方をこの身で学ぶことが出来ました。
29歳の終わり 念願の大きな取引にたどり着いて、借金を全額返すことが出来て、念願だった社員を雇える事が出来た。
この時に第二の人生がスタートする。
学生時代からスキーを教えた生徒の一人 約束したのが23歳の時27歳で結婚しようかと思っていた。
難病に成って自分で飯を食えない。 そんな男が何が結婚なんだと、それでもいいといってくれた。
経済的に安定して、身の回りの事が整えられたら考えようと、自分のことしか考えられない身勝手な考えだった。 彼女は泥沼の中でも支えてくれた。
アパートで一人暮らしをしていて階段をあがれられなくなって、風呂にも入れなくなって、どんどん体力が無くなって、もうアウト寸前と言うところで、大きな取引に4年掛ってたどりついた。
神様からのご褒美かもしれないと思った。
彼女の貯金も全部使ってしまっていた、彼女の父親も頑張れよと応援してくれたが、その父親からも借金をしていた。 全部返すことも出来て、結婚した。
結婚を切っ掛けに、ここからは本当に死に物狂いで働いて彼女を絶対に幸せにしようと思った。
この時に彼女がもう一度病院に行こうと言った。
周りは、私が難病と闘っていると言うが、私は戦っていません。
宿命って有るんですよ。 人の人智ではいかんともしがたい宿命はあるんです。
泣いて恨んで、そこからの宿命の解決は何にもないんです。
運命と言うものが有る。 運は動くもの、運命は宿るものではなく、掴めるものなんです。
努力して、真っ直ぐとそこに向かう時に運気はつかめる事が有る。
だから病院には行かなかった。 妻は病院に行こうという。 引き下がらなかった。
私は貴方を介護するために結婚したんではない、春山満という男が面白いから、貴方が何かやりそだから、貴方とだったら幸せになりそうだから貴方と結婚したと、貴方は仕事以外なにもしなくなった。 旅にも行きたい。 飛行機はどう乗れるのか分からない。
病院は不自由な人を専門にサービスしている所だから、あそこに行けば情報が有るはずだと。
30歳の時だった。 3時間待って居たら医者が友達みたいに言ってくれた。
看護婦にちゃんと言ってあるから大丈夫だと(子供に言うように言ったのでカチンときた)言った。
何と言う言い方をするんだと怒りは止まらなかった。 申し訳ありませんと言った。
白衣を着ただけで、偉そうにしてゆくのにおかしいと思った。
私はお客さんで医者も看護師もサービスマンだと思った。
常識の中に非常識がここには有る思った。
病院のベットの大半は年寄の長期入院 医療の必要がないのに帰れない。(家族は引き受けない)
病院は入院という名前で最後の最後の生活の場所で医療費で全額請求出来る。
病院の大半の売り上げは長期入院のお年寄り(まるでホテルのよう) 費用は約75万円
社会保険から75万円が入る 2万5000円(一日) 私はこの摩物を見た。(バブル期)
難病に成ってとんでもないビジネスチャンスを見つけたかもしれない。
究極のサービス業を作ってやろうと、それが私のスタートなんです。(福祉介護の世界に入る)
25年ひた走りに走ってきた。(バブル崩壊は関係なかった) いよいよ表面化してくる。
トヨタ自動車が福祉自動車を開発していたが、一緒にやろうという事になる。
新しいファミリーカーにしようという発想の転換をした。
製薬会社とも提携 新しい自動販売機 必要不可欠なものにすると云うものにしようとした。
車椅子にとっては自動販売機は非常に扱いにくい。
ミニスカートの人も使いずらい、お腹の大きな妊婦も同様 新しい自動販売機は180%に売れすじになる。
常識の裏にある非常識に気付いて、無くしたものを数えるのではなく、残っている機能を見つめてそうすると至るところに新しい芽が有ると、こういう発想が有ると日本はチャンスだらけ。
高齢者の住宅作りを考えた。 くらしそのものを支えないと駄目。
私もいよいよ立てなくなってきた。 浴槽に入るのに手助けしてくれるのに大変な作業が有る。
「風呂は人生の御馳走だ ありがとう」 と言った。 (妻は顔が曇っていた)
風呂に入るのも、妻にとっては一番大変な介護だと悟る。
或る段階を越えると気持ちが切れて行く。 想いはあるがいつまで続くのかと思う。
心の絆が切れて行く。 心も体もボロボロになってゆく。 (涙はこぼれないため息が出る)
在宅介護の厳しさ これでは駄目だと思った。 暮らしそのものを支えないと駄目だと思った。
どこにも移らなくていい、究極のついの世界をつくろうと思った。(バリアフリー+HILT)
HILT アメリカ人の友人に作っても貰った言葉。
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