2013年3月2日土曜日

菅波茂(66歳)          ・多国籍医師団世界を駆ける

菅波茂(66歳)多国籍医師団世界を駆ける
国連医療NGOアムダグループの代表を務めている  AMDA は国連に登録された多国籍NGOで本部は岡山にあります 
代表的な活動は紛争や、災害が起きた時に 現地に派遣する多国籍医師団です   
スローガンは「救える命が有ればどこへでも」
相互扶助の精神に基ずき、緊急人道支援活動を展開しています  
ハイチの地震や東日本大震災の時にも出動しました
アムダは今から29年前に医師である菅波さんが中心に成って設立しました

本部に10人(スタッフ) ボランティアの人がいつも4~5名が来ている  
医師は私とナースの方がいます
普通は医療機関に勤務している  今は300人~400人が登録されている  
海外は インドネシア支部 ではハッサムリン大學にあります 
インド支部はマニパール大學に有って基本的には大學にある  どんどん送り出してくる 
だから向こう任せです 

支部は世界に 29カ国 メインはアジア、中南米 、アフリカ、ヨーロッパの一部  アジアであれば  
韓国、モンゴル、台湾、フィリピン インドネシア、カンボジア、ベトナム、インド、スリランカ、バングラディッシュ、ネパール
アフガニスタン、カザフスタン、   カナダ  南米(コロンビア、ホンジュラス、ペルー ボリビア)
アフリカ(ザンビア、ウガンダ、スーダン)
志の原点  高校二年の時に 太平洋戦争写真集と言うのが有って、出て行く時と負ける時 
負ける時の中に、同じ年頃の日本兵が南方戦線の海岸の浅瀬で顔を半分うずめて死んでいる
写真が有った

海岸の浅瀬で顔を半分うずめて死んでいる写真が有った 
どうして同じ年頃の日本人がこんな死に方をしているのかと言うのが私の意識に入っている
1946年生れで  戦争と言う者は私の人生に大きく影響はしている 
大學に入って昭和41,42年にアジアに医学調査団を出そうと言う事で塾を開いた 
7人いたが、学園紛争で、4人が全共闘に参加して空中分解した
それではひとりでもやろうと 学校を10カ月位休学して、ずーっと旅をした  
体が弱くて病院に行ったりした   そこでいろんな体験をしたので関心が高まった
アジアの活気、多様性にも魅せられた

昭和44年に帰って来てから 尺八をやっていたので 琴、三味線のクラブで アジアに親善邦楽演奏キャラバンをやろうと20人ぐらいでやったとき倉敷の或る方から 医者と医学生がいるのならミャンマーとタイの国境地帯 にあるパコダ農場で健康診断をやってくれと言われてそうすればバンコックで私が演奏会場を世話すると言われて、パコダ農場で寄生虫の検査等をやって医療器具を置いて帰った
農場主から手紙が来て、保健センターと保健委員会を作ったからもう一度来てくれと言われて、
もう一回行った(お金がかかるので寄附を頂く)
その後どうするんですかと聞かれて、又いきますという事で、どんどんといろんなところに行くようになって、専門知識が増えて現在に至った

アムダに成って行く経緯 1978年にカンボジア難民が出た 日本のメディアが欧米の若者達が
東南アジアにいって一生懸命ボランティア精神で頑張っていると日本の若者にボランティア精神は無いのかと、こういうキャンペーンが有った
私達も行ってみようと思った  
その時に難民キャンプがどこにあるかと言う事も解らなかったし、世界の難民を国連難民高等弁務官が一元的に管理している事も解らなかったし、実際に難民キャンプにたどり着いても、実績のある団体しか国連難民高等弁務官は契約して実際に仕事をさせない
善意が有っても善意が有るだけでは救えることはできないことが解って、1980年にアジアの医学生と今のうちから人間関係を作って、将来アジアの為の医療プロジェクトをやったらどうかと言う事で、第一回アジア医学生国際会議をバンコクでやって、4年経って そのOBでアムダを立ち上げた

 the assosiation of medical doctors of asias゙(アジア医師連絡協議会)  
学生のネットワークを作った  国内的には一体何をやっているのか解らなかった 
1992年に湾岸戦争がおこった
多国籍軍にお金を寄付した(それも10年間と言う立法を作って) 処が当事者のクエートがアメリカの
新聞に感謝の広告を出したが、30ケ国に日本が入ってなかった
そこでお金だけでは駄目だと、顔が見えない日本 ではどうするかと NGOという団体が有るのだからという事で外務省が予算を付けた 
郵政省が国際ボランティア貯金をやった  
それから世の中がすこしずつ認められたが、1995年の阪神大震災の時に100万人の入ってなかった
ボランティアが入ってきたが、ボランティアの受け皿に成ったのが、私達の様な国際NGO医療団体だった   
初めて国際NGOの認知を得た  初めて認められたのがここですね
東日本大震災の時にインドのブッタガヤにいて、子供の心臓病のできる手術が出来る所を探して
いた  本部と連絡したらその時には医療チームを派遣した後だった  
凄く早い対応に感激した
日本海側から入った方がいいのではと新潟から経由して仙台に入って行った
一番大切なことは避難所に真っ先に行く事  
その人達が何を感じているかが、一番大切 自分達は見放されたと言う気持ちに成っている
何が出来るかと言う事も大切だが、貴方がたは見放されていませんよというメッセージが一番大切  次に自分達がどこで活動拠点にするかと言う事 被災地に入って考えるしかない 
被災地に早く入る そこでいろいろ情報を集めて、どうしたらいいかを考える 
 
広範囲には絶対できないので目の前で何が出来るかと言う事で対処する
岩手、仙台、福島 あたりはアムダの会員はいないので被災地の会員が活躍すると言う事は
出来なかった 
釜石、大槌町 仙台 南三陸町  南相馬市  で活動した  医師とナースを送りこむ  
延べ150人 補給は岡山、東京から支援物資を送った
感動したのが大槌町 避難所の中でクリニックを立ち上げて、避難者と一緒に寝泊まりしていたケアーをされていた   現地の医者とも協力して連係してやった
避難の学校ではいろんな方がと協力してやった

私たちはよそ者であるので、一番大切なのは、被災地の方々がどう考えて、どう思われているのか、その考えを大切にしたどう支援するのかと言うのが私達の役目だと思います
被災地の医者が頑張っているんであれば、その医者を応援すると言うのがベストだと思います
医療行為で一番恐ろしいのは医療事故 どんな薬が駄目だとか、どんな病気を持っているとか
見過ごしたら行けない
被災地の医者は患者を良く知っているのでまず彼らが主人公です   
私達はお手伝いする 、と言う事がベスト

インドネシア、タイ、韓国 ここからは受け入れて一緒に避難所を廻ってもらった  
医療行為も中心に 以外はポジティブリストとネガティブリストがある
ポジティブリストはしては、しなければいけないこと以外はしてはいけない 
ネガティブリストはしてはいけない事以外は何をしてもいい 私達はネガティブリスト 
①医療事故は困る ②被災者の方々に迷惑をかけてはいけない 
③他の方々の提案とかを拒否してはいけない    医師とか、ナース以外に調整員がいるので、
なんでも役に立つことが有ったら実現してゆく

寒さ対策  必要なのは灯油  アムダを支えてくれている団体が有るので出来る事が有る  
タンクローリー出被災地に持ってきて呉れる  ガソリンもない 電気自動車を持ってきて呉れた
小さな避難所が一杯有ったので電気自動車で往診が出来た 
団体、自治体が有ったためにこの様な事が出来た  
ナース、助産婦 ミルクの対応  子供の為のプレルームの作成およびそれらの補助道具の手配
海外での活動 フィリピン、インドネシア、 災害が多発する ここが一番多い あと中南米

 2010年はハイチの大地震 インド、トルコ あちこちにいく
地震の後にコレラが発生して対応をした  アムダの反響は 私達が一番大切にしているのは
相互扶助  一方的に相手を支援するのではなくて、困ったときはお互い様 援助を受ける側にもプライドが有る    
プライド 自分も他人の役に立ちたいとの思いの裏返し
2006年 ジャカルタの京都に当たる処で、地震と津波が有った時に救援活動をした  
その後1年後に行ってオープニングセレモニーが有ったときに何故私達が来たかと、それは貴方がたが困ったから来ました しかし 私達も日本人も阪神大震災の様な困る事が有る  
その様な時には是非助けて下さいよと話をしたら、その後に知事さんがスピーチをされて
、Dr菅波のように、自分達が困ったら来てくれといってくれた、団体は初めてだと、いままでもいろんな団体が支援してくれたけれども、自分達が困ったときに、来てくれと言ってくれた団体は初めてだと私達は非常に嬉しいと言ってくれた

これが相互扶助だと思います
東日本大震災の時には来てくれた 
ハイチの時にはマックスが(岡山大学歯学部大学院で勉強した人が忽然と現れる)支部を作ってくれて 救援活動をしてくれる
被災地に入って行って、支部がなければ当事者に支部を作って貰う  
そうして支部が増えて行く
1995年5月にサハリンで地震が有りました  チャーター機で入ったときにサハリの政府のひとが、
日本の援助は要らないから帰ってくれと言われた
医療支援だけでなく我々にはもう一つ役目がある、5か月前に阪神淡路大震災が有ったときに
貴方の国はたすけてくれたんじゃないかと、其の時の市民が貴方がたにお返しにしたいと、私達は調査を兼ねてきたんだと、判ったと言う事で800km離れた被災地まで向こうの飛行機で
何回も行ってくれた 
 
困ったときはお互い様  相互扶助は国際的に通用する と判った  
相手の面子が立つ
何故来たのかと言う事 相互扶助 、日本とその国との歴史も良く勉強して説明すると受け入れ
てくれる  一番大切なものは 人間関係
①フレンドシップ  ②スポンサーシップ ③パートナーシップ  があるが基本になるのは「私は貴方を見離しませんよ」 「私は必要とされている」  
3つの処で一番危険なのが 一方的に支援するスポンサーシップ  
これは援助を受ける側のプライドがでない自分も役に立ちたいんだと言う事がでない
人間関係と言うものは、苦労を共にしないと尊敬と信頼がでない
苦労を共にするという事は苦労を解決する中で、自分にないものを相手に見出した時に尊敬の念が起きる 

そしてどんなに苦労が厳しくなっても相手が逃げないと言う事が判ったときに、信頼がでる
尊敬と信頼という人間関係が出来て 育ちも、生れも、宗教も、国の違う人達が共存共栄が出来る
人はできるだけ苦労を避ける これも当然しなければいけないが、しなければいけない苦労は一緒にすることによって共存共栄という新しい立場が出来て来るんだと  これがアマダの哲学
何故難民キャンプにわざわざ行くのか  それはともに苦労するというパートナーシップ   
そこの人達のこれを契機にして信頼関係に基ずいた共栄共存と言う人生を一緒にやり
ハイチに行ってみて、直接米軍が占拠していて入れなくてドミニカから入った  
ハイチと歴史的に対立の歴史が有ったが、沢山の人がドミニカに入って治療受けている  
支援の手を伸ばさなくてはいけないと機運が生じた時  子供達をもっと親しく
したらどうかと、言う事で 言葉は違っていたのでスポーツだったらお互いに理解が出来ると思うので、大阪の少年スポーツサッカークラブに御願いして、日本とドミニカ、ハイチのサッカーをした

スポーツは物凄い求心力が有るなあと思った  
紛争を抱えている処でスポーツを積極的に取り入れて行って、子供の時からお互いに尊敬できる
人間関係に持ってゆくと言う、スポーツ和平を医療和平に加えてやっています
政府が入ると国益、お互いの立場だとかあり 民間サイドでやって行くのは良い
平和の定義 今日の家族の生活と明日の家族の希望が実現できる状況であること
今日の家族の生活とは 食べれて、健康で有ること 明日の家族の希望 子供に教育を与える事
阻害する者、 紛争、災害、貧困がある   その解決にいろんな人が関与できる 
スポーツ、教育、医療 その応援も一市民として出来る
市民参加型人道支援外交 いま必要ではないかと思う  
相互扶助という形でやって行く事がお互いの平和の為に一番解り易いし、世界全体がそうなる
ことが私達の最終的な望みなんです