2021年4月30日金曜日

鴻池朋子(アーティスト)        ・芸術の根源を問い続けて

鴻池朋子(アーティスト)        ・芸術の根源を問い続けて 

去年埼玉県所沢市に「角川武蔵野ミュージアム」がオープンしました。   建築家隈健吾さんの設計による石の外観は転がり出た大きな石の塊のようにもみえる建物です。   その外壁に鴻池さんの作品、「 武蔵野皮トンビ」が展示されています。   幅24m高さ10mのなめした牛革に水彩塗料で翼を広げた巨大トンビが描かれ、その身体にはカマキリやキツネや森の古木が描かれ、トンビが森全体を運んできています。   鴻池さんは秋田県出身、東京芸術大学で日本画を専攻し、卒業後は玩具、雑貨の企画デザインに携わりました。   1997年から個展などで創作発表活動を始めます。   人間が表現し物を作るという行為について考察した作品で、2017年芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しました。  世界規模のコロナウイルスの感染拡大という事態に直面し、今改めて人と自然との関りが問われています。

「角川武蔵野ミュージアム」の北側の外壁に「 武蔵野皮トンビ」が展示されています。  原始的で自然の根源的な力強さを感じさせる、つばさを広げたトンビのような巨大な造形画、岩の壁面に張り付き血の通った顔の暖かさを周囲に漂わせています。  皮のトンビには原始の森の奥深くの植物、生物、動物が描かれています。  トンビの顔が愛らしいのです。  不思議な存在感で石の塊をアニメートしている生命力を与えているそんな感じがしました。

下見に行った時からこれはもう外壁かなと思いました。   隈健吾さんの建築写真の上に大きな絵で描いたトンビを貼り付けて送りました。   是非それでやってほしいという事になりました。   建物の外で設置をする仕事もこの10年間多かったので、天候が絡んでくる場所での作品の関係性をやってきたので、室内では守られていて本来いいはずですが、自分には弱点のような気持ちが出てきました。   外壁の手触りとか、牛革を使っている、外壁に設置するということは安全基準が高くなり、取り付け方を設計した人達と一緒に考えることになりそこが物つくりとしては面白かったです。  水彩の絵具を使いました。  経年変化はします。  あえて晒して感じるという事をやりたいと思いました。 

永遠性、普遍性みたいなものを美術館はになってきましたが、生きていれば必ず経年変化はあるし、それが如実に感じられたのが、この10年で、東日本大震災の経験は大きかったです。   

お茶の水、神田淡路町を繋ぐ一帯の再開発地域に設置されている「ワイルド シングス」は、2012,3年ぐらいに制作したものです。  アルミが素材です。  建築の一部のようなものとして考えないといけないと思いました。   作品はシンプルですが、出来上がるまでにはいろいろ悩んで苦労をしました。   2.5m下には丸の内線が走っていて、丸の内線のこともいとおしく感じます。   

港区港南 「ワイルド シングス」  巨大なアンモナイトのような塊が広がっていて、背骨というか尾っぽが繋がって人魚のような生命を感じさせる造詣があり、人魚が森や山を背負っている。  人魚の顔が単純化されていて、太陽の塔の顔に似ている感じです。   

小さいころ秋田で育っていたころ、初雪が降ってきて翌日には町中が一変している風景を見て、その一番明るい白いさをみて、ふかふかしているようだが、冷たくて厳しい関係性とか、春になると残らないのがすごく良くて、無くなってゆくことも又いいという考え方なども雪と似て言うていいなあと思います。   

春になると芽が出てきたり、いないと思っていたものが出会ったり、こっちが予想もしないところで蜂合わせをして、ショックを受けたり感動することもあり、決して約束がないが、いろいろ出てきます。   

パフォーマンスとか演劇とか一期一会とあまり変わらないような気がして、私以外の人がそれを好きなように使ってくれればいいし、物を収蔵するという事は美術館が宝を保存してゆくという事は、宝は今の人たちにとっても宝として継承できるかどうかを問い直す時期には来ていると思うんです。  外壁にくっつけてみるとか、くっつけてみたら意外にうまくいったとか、経年変化することは通常駄目ですが、観客の視点が凄く変わってきた感じ、それはすごく大きいと思います。

今までの芸術の概念が大きくシフトチェンジする時期に、みんなの気持ちと共に来ている感じがしていますね。  それに対して対応できて行っているのか、という事をアーティストたちはそこに通路を作らなければいけないと思います。  その渦中に今の時代はいるような感じがします。  

2021年4月29日木曜日

中島千波(日本画家)          ・【私のアート交遊録】桜の命を絵筆にのせて

 中島千波(日本画家)          ・【私のアート交遊録】桜の命を絵筆にのせて

桜の画家ともいわれるほど数多くの桜をテーマとして描いてきた中島さん、その運命的な出会いとなった岐阜県伊那谷の淡墨桜を初め、日本各地の桜の名所を訪ね歩き描いた屏風はおよそ40点、中島さんは長い歴史を生きてきた今のこの桜の姿を記録する、私にとって桜はありのままの姿を映す桜の肖像画なんですと話しています。  日本画の伝統に安住することなく、常に新しい時代の表現を求めて、独創的な美の世界を追い求める中島さん、コロナ過で花見もままならない現在、日本画家中島さんに日本人の心の花、桜を通して花を愛でる心や美しさとはなにかについて伺いました。

日本人が桜の花に特別な思いがあるが、日本の農耕文化から始まっていると思います。   植えるときを桜の咲く時期から始まっているんだと思います。    パーッと咲いてパッと散る潔さがあると思います。  日本人の性質をうまく言い当てていると思います。     最近は気候変動で入学式の頃は散っていて、それが悲しいですね。

桜は描き方が判らなかった。   大きな花のほうが楽だなと思っていました。   段々桜の凄さを出すのに一個一個描いていったというのが現実です。  スケッチに3時間ぐらいを3回やりますが、夕方になると散り始めることもあります。  桜の種類もいろいろあってそれぞれ綺麗です。  

父は日本画家 中島清之(きよし)です。   1年間しっかりデッサンと色彩を勉強して、一浪して芸大に入りました。    デッサンで形を捉えることが出来ないといけないですね。   見る目と腕、いにしえの作家のデッサン力をみて摂取の仕方を勉強すれば大丈夫です、原理が判れば物事は意外とスムースに行きます。   そこからが大変ですが。

神奈川県展があって100万円を貰えるので出しましたが、学部生は本当は出してはいけなかった。  そこでは10万円もらいました。  在学中に院展初入選。

小学校6年生ぐらいから鳥獣戯画など模写をしていました。  中学高校の絵の先生になれればいいかなと思っていました。  大学に入って、1年間はまじめにやりましたが、欧米の美術が入ってきて、安保と、ベトナムがあり、日本画の伝統的な書き方だけでなくて、課題以外のことをやっていたら、抽象的なものを描いたりして成績が悪くはなりました。  2,3年生の時にルネ・マグリットを見つけてこれだと思いました。 

シュール的な絵を始めました。 人物画は結婚してからです。(モデル代はいらないから) 段々伝統的な絵を描き始めました。  淡墨桜を最初に見たら、幹の凄さに圧倒されました。(胴周りが10mぐらい)  一日描き詰めして一冊が終わりました。  桜の木に畏敬の念を持ちました。   古木の本の写真集を見て全国にいっぱいあることを知って全国を回るようになりました。   桜の肖像画を描くというような思いになり、屏風に残すという事になり、古木も100年200年経つとなくなってしまうが、絵だけは残るわけです。

福島の三春滝桜(推定樹齢1000年)、岡山の醍醐桜(樹齢700~1000年)、岐阜の荘川桜(推定樹齢450年)など立派なものがあり、描くべき桜だと思っています。  背景によって桜の雰囲気が違ってきます。   凄さは年を経て出来上がってくる年輪、肌が違います、これが魅力です。  花で一番立派なのがソメイヨシノですが、100年持たないが、江戸彼岸桜などは1000年以上持ちます。  幹と枝ぶりが年をとってくると形がよくなってくる、余計な枝がなくなる。   若い木は枝が多すぎて途中で描くのが嫌になってしまうぐらい枝が出てきます。  人間と似ていますね。

判を押したように描くのではなく、花びらを一枚ずつ描くのでいろいろ曲がったりして、リアリティーがあります。   いかにリアリティーを出すかが一番大事だという風に自分では思っています。   本物を描くときに本物みたいに描いてちゃあ駄目で本物には勝てない、本物に勝つためには本物以上に描かなければいけない。   学生時代に抽象的なものをやったときがあるが、意外と古いものからとってきます。   昔のものをしっかり観察して今に生かしてゆくという事を若い時にやっていれば大丈夫かなと思います。  いきなり新しいものばっかりやっていても駄目だと感じます。

前は必死にやっていたが、いまは落ち着いてああなんだなこうなんだと、判っている感じで慌てないですね。  奥村 土牛さんはゆっくり描いているようですぐにできている。  経験の中にちゃんと生かしている。  ただ描いているのではなくて、ちゃんとものを見て理解して、しっかりとかみ砕いてやるから出来ちゃう。   

お薦めの一点としては雪舟の「山水長巻」がいいですね。




  

2021年4月28日水曜日

浅井康宏(東京歯科大学名誉教授)    ・【心に花を咲かせて】帰化植物を探求して75年

浅井康宏(東京歯科大学名誉教授)  ・【心に花を咲かせて】帰化植物を探求して75年 

浅井さんは歯科学の権威ですが、帰化植物の調査研究を75年間に渡って続けてこられた方です。  よく見かける道端の花の多くが帰化植物、外国から渡ってきたものだそうです。   浅井さんは何故帰化植物に惹かれて調べ始めたのでしょうか。  75年間で帰化植物はどう変化してきたのでしょうか。  帰化植物の研究を続けられて、今どんなことを思っているのかお聞きしました。 

日本は島国だから帰化植物というものを考える場合に考えやすい。   雑草で繁殖力、適応力の強いものが生き残るが、生き残ったものは外国からはいってきた帰化植物なんです。  帰化植物が強いのではなくて、丈夫だから生き残っている。   大都会は自然がないが、ちょっと土が残っているとすぐ生えてくるが、ほとんど帰化植物です。   私はほとんど日本の植物はわかっています。   

植物が好きになったのは中学生の時です。   草は身近にあり、雑草に詳しくなって、植物にのめり込みました。   第二次世界大戦が終わって身の周りを見たら、沢山雑草が生えていて、植物図鑑を見ても載っていないんです。    聞いているうちに、久内清孝先生、日本の帰化植物のオーソリティーがいて、先生に手紙を出したら、返事が返ってきました。 あなたが最初に見つけたものだと言われて、「マメアサガオ」という名前を考えました。(高校1年)   植物学会誌に先生が浅井が考えた「マメアサガオ」がいいんではないかと発表したんです。   喜んでそこから始まりました。

帰化植物がたくさん入ってくるようになって、最初は先生が名前を付けていましたが、そのうちに任されて、私が付けたのが100以上になります。   世界の人々が旅行をしたりすると、雑草の種が靴の下に付くとか、荷物にくっついてきて、広がっていきました。   帰化植物という植物は無くて、外国から人間の営みによって、種が持ち込まれて日本の環境が気に入って、居付いてしまったものを総括して帰化植物という事です。   

西洋タンポポ、ハルジオン、ヒメジヨオン、ムラサキカタバミ、マツヨイグサ・・・など、帰化植物で、都会の雑草の80%以上は外国のものです。  船、飛行機などで入ってきます。   横浜などは明治維新後たくさん入ってきました。   長崎の出島からも入ってきました。    ハナカタバミは南アフリカが原産で輸入しましたが、四国、九州に行くと海岸一面にハナカタバミが咲いています。   知らないうちに荷物などによって入ってきたものは、自然帰化植物と言います。   ほかに輸入植物(園芸植物などを含め)と、遺失植物(庭などにある植物の種が逃げ出したもの)などがあり、自然に入ってきたものと、輸入してはいってきたものと二つの系統があります。

北アメリカから食料の援助物資があり、雑草の種も、穀物と一緒に入ってきた。   帰化植物の中にも花粉症をおこすものがあり、一番有名なのがブタクサです。  セイタカアワダチソウも北アメリカのものです。   セイタカアワダチソウもブタクサと一緒のところに生えていています。 アメリカではブタクサによる花粉症で悩んでいます。  

ハキダメギク、ヘクソカズラ、ノボロギクなどかわいそうな名前がついてますが、ハキダメギクは昭和の初めですかね。   牧野富太郎先生の研究会があり、或る人がごみ溜めのところから抜いてきて、牧野先生に聞いたら、即興的にごみ捨て場にあったのでハキダメギクと負う名前になりました。

オオイヌノフグリという名前がありますが、教育上いい名前ではない、名前を変えようと思っても皆さんが使ってしまうので、難しい。

帰化植物がいつごろ入ったのか判らない。   帰化植物をどこで切るかは、文献などに書き残されてあるもので判別する、証拠のないものは入れない。  証拠はないが入ってきたような気がするものは史前植物(歴史には無い以前の植物)と言います。   

本当は植物学者になりたかったが、親も含め周りが歯科医が多くて、成り行きでそうなってしまいました。  植物もやることを前提に歯科へ進みました。   休みの日には海岸、一番よく通ったのは夢の島(埋立地)で、帰化植物が生える条件としては最高で、港があって世界中から船が入ってきて、荷物の積み下ろしがあり、何にも遮るものがなく、先住者がいない場所。  100%帰化植物です。  そこで見つけたものがあり、ユメノシマカヤツリ 夢の島蚊帳吊りという名前を付けました。 

いつ、何処の国からはいってきたのか判らない。  世界の植物図鑑で探して、外国の専門家に問い合わせたりして苦労します。   これだと判った時の嬉しさんは何とも言えないです。    歳をとっったら遠くに行かれないので、身の周りは帰化植物が80%以上なので、帰化植物をある程度判ってくると楽しいですよ。   日本から外国に行っているのもあって、スイカズラ、クズ、アケビ、ノイバラ、とか、日本から輸入しているんです。  欧米人は蔓が好きで、最初観賞用にもっていってます。   スイカズラは増えてしまってどうしようもありません。   クズもアメリカでは増えすぎてどうしようもありません。  その土地に合えば異常に繁殖するわけです。

それなりに楽しめる相棒を見つけることができました。  一つのことに打ち込めたのは幸せだと思います。








2021年4月27日火曜日

梯久美子(ノンフィクション作家)    ・「ノンフィクション」を書く喜び

梯久美子(ノンフィクション作家)    ・「ノンフィクション」を書く喜び 

1961年熊本県熊本市生まれ、59歳。 5歳から北海道札幌で育ちました。   北海道大学卒後編集者やフリーライターを経て、2006年に「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。   2017年『狂うひと 『死の棘』の妻・島尾ミホ』で第68回読売文学賞と講談社ノンフィクション賞を受賞。  去年の梯さんの作品『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』は北緯50度線をまたぐ鉄道紀行で新境地を開きました。

大学を出て就職のために東京へ出て35年ぐらい東京で暮らして、一昨年秋に札幌に戻りました。 44歳になる年にノンフィクション作家になりました。  その前は友達と編集プロダクションをやっていて、その後独立してフリーライターになって、雑誌でルポを書いていました。   或る時に丸山 健二さんの取材をして、丸山さんの庭つくりの取材をしました。   丸山さんから自分で本を書いたらどうかと栗林忠道ことについて勧めがあって、散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」を書くことになりました。   翌年に「硫黄島からの手紙」で渡辺謙さんが栗林忠道役をやることになりました。  渡辺さんが本を読んでくれて、会って役作りのアドバイスをするという事もありました。  

栗林忠道さんのお嬢さんが健在で話を聞くことが出来ました。  たか子さんに沢山手紙を出していて、感動的な手紙です。   本が出たころには亡くなられました。   丸山さんから薦められて、日本の軍人には珍しく栗林忠道は合理的で家族思いの人だったという事で、梯さん書いてみたらどうかと言われました。   いろんな偶然があり沢山の資料に出会うことが出来て、手紙もたくさん保管されていて、この人のことを書いてみようと思いました。    2万人もの部下がいた人なので紙の節約など必要ないが、手紙に2行のところに3行細かい字で書いてあり、裏にもびっしり書かれていました。  硫黄島に行って最初に奥様に出した手紙が遺書のような内容で、子供達を宜しくとか、今まで世話になったとかが書いてあり、追伸があり、お勝手の床下から吹き上げる風の始末をしてこなかったのが心残りである、という事が書いてあり、帝国陸軍軍人とはかけ離れたものを感じました。   もっと知りたいと思いました。   

大本営に辞世の句を送ったが「国の為重きつとめを果たし得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき」を「・・・・・散るぞ口惜し」にされてしまって新聞発表されてしまった。  「・・・散るぞ悲しき」では女々しいと思われてしまうと感じたようで。  電報の現物はご遺族の家にありました。  赤線で消してあって横に「口惜し」と書かれていて動かぬ証拠です。 本のタイトルには訂正文の思いで散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」としました。間違いは訂正すべきだと思いました。   

ノンフィクションは書く作業よりも、他人に会って話を聞いて資料を探して読む、という方が大事というか、私にとっては凄く面白くて楽しい作業です。  書く方は凄く大変です。   いい話を聞くほど書くのが辛いです、難しいので。   

栗林中将に出会って、それを書いてしまったので、硫黄島にいった人にも出会って新しい事実も知ることになり、それも書くべきだという事がどんどん出てきて、或る時に三木睦子さん(三木武夫の妻)のお兄さんが戦死されていることを知りました。  お兄さんは部下に対して「捕虜になれ」と言って、自分は亡くなって、部下は投降して助かったという話がありました。  しかし証拠はなかった。  三木睦子さんからはそれは事実だとおっしゃいました。  若い人はその他大勢という意味合いで書いてしまったとの思いもあり、『昭和二十年夏、僕は兵士だった』という当時若い兵隊さんの本を書きました。   書けば書くほど次に調べなければいけないことがでてきて、戦争物を書いてきました。

『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。     『狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ』は第68回読売文学賞と第67回芸術選奨文部科学大臣賞、第39回講談社ノンフィクション賞受賞。  島尾 敏雄さん自体が特攻隊長、テーマとしては戦争もあり、文学者の壮絶な夫婦の話、舞台が奄美。   島尾ミホさんは作家でその本を読んで惹かれて、島尾敏雄さんは奄美に派遣されてわずか1年ちょっとで特攻隊長になり、ミホさんとの恋愛、特攻の出撃が延び延びになって8月15日を迎える。   結婚生活にも戦争の影が残る。  

物を書いて生きて行くという事がどういうことなのか、という疑問が段々湧いてきて、ノンフィクションとフィクションとはどうなんだろうとか、書くことの罪みたいなことを考えさせられました。  奄美に通うようになって15,6回行って奄美が好きになりました。   土地が教えてくれるようなものを感じました。  

鉄道ファンです。  5歳の時に熊本から北海道まで鉄道で行って楽しかった記憶があり、取材でも全国を回って、鉄道に乗っているとリラックスします。             『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』 北緯50度線  宮沢賢治も行っていて、彼との共通点は鉄道好きという事で、宮沢賢治が乗った鉄道に乗りたいという思いもありました。    北海道から近いところを知らなくて、足元の歴史も勉強したいと思いました。   色々書きたいテーマも見つかりました。   

宮沢賢治が鉄道で日本で一番北の駅に行きたかったと思ったということが判り、当時樺太の栄浜駅が日本の鉄道の一番北の駅で、賢治はそこまで行って、私も行ってみました。  彼が書いた文章と現実目の前にあるサハリンの風土を合わせてみることによって、賢治に近づけたのかなあと思いました。  北海道にも賢治は2回来ています。   廃線が好きで、地理と歴史が交差している。   文学者の思い出も詰まっている、楽しさがあります。   ノンフィクションを書く時には苦しみがありますが、書いている時に初めて判ることがあり、書く対象を理解するプロセスとしてすべてがあるという感じです。






2021年4月26日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】チャップリン

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】チャップリン 

世界の喜劇王として名高いチャップリンは、イギリスの出身で1889年(明治22年)4月16日生まれ。  1977年(昭和52年)12月25日に88歳で亡くなりました。

「人は圧倒されるような失意と苦悩のどん底に突き落とされたときには絶望するか、さもなければ哲学かユーモアに訴える。」     チャップリン

キッド』、巴里の女性』、、黄金狂時代』、街の灯』、モダン・タイムス』、独裁者』、殺人狂時代』、ライムライトなど沢山の代表作があります。 喜劇王とも呼ばれている。  俳優、映画監督、映画プロデューサー、脚本家、作曲家でもあるわけです。

チャップリンは完全主義者で例えば街の灯でチャップリンと花売り娘が出会うシーンがありますが、700回以上撮り直しをしたらしい。  OKが出たのは最初の撮影から約1年後というんですからすごいですね。   一つの映画の中に喜劇と悲劇を入れたのはチャップリンが最初だと言われる。 

「人は圧倒されるような失意と苦悩のどん底に突き落とされたときには絶望するか、さもなければ哲学かユーモアに訴える。」     チャップリン

「ユーモアの中には常に苦痛が隠されている。」    キェルケゴール

「人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇」  チャップリン  *音楽「スマイル」  「モダンタイムス」から
チャップリンが亡くなった時の新聞の追悼記事に引用されたもの。  チャップリンが子供の頃、食肉加工場があって、ヒツジが食肉加工場へ引かれて行って、或る日ヒツジが一頭逃げ出していって、捕まえようとして追いかけてころんだり、ヒツジが跳ねまわったり、周りははやし立てたり、そういう様子を見てチャップリンは笑っていた。  ヒツジが捕まって食肉加工場に連れていかれるときにはっと気が付く。   あのヒツジが殺されてしまう。 私は何日も考え続けた。  「この一件こそ後の私の映画、悲劇と滑稽さが組み合わさった映画の土台を築くきっかけになったのかもしれない」、と言っています。

映画『キッド』の最初の字幕に「笑いとおそらくは一粒の涙の物語」と書いてあって、初めての喜劇と悲劇を混ぜてえがいた長編映画がキッドです。  最初周りからは反対されたようですが、結果は大成功でした。
音楽「スマイル」  歌:ナット・キング・コール

「人生に必要なのは勇気と想像力とそして少しのお金」  チャップリン
ライムライトの中にある言葉。  
テーマ曲「・ ヴィオレテーラ」 街の灯より   
「そして少しのお金」は軽い気持ちで付けた言葉ではない。  少しのお金はどうしても必要なんだという、とってもシリアスな発言。   チャップリンは子供の頃少しのお金でとっても苦労している。  チャップリンの両親は二人ともミュージックホールの寄席芸人でしたが、チャップリンが3歳になる前に別居して、母親が子供たちを育てたがとっても貧しい暮らしでした。   母親は心の病で入院してしまって、チャップリンは6歳で貧しい子供のための施設に入れられてしまう。  

僕(頭木弘樹)も難病になり、親に面倒見てもらって生きていくしかないと言われて、親がいなくなったらお金が無くて死ぬしかないと思いました。  ベッドで原稿を書き始めてお金になり、初めて年収60万円になった時があり、その時には感激して涙が出ました。   「そして少しのお金」というところはグッときました。  「そして少しのお金」は人生にはどうしても必要だなあと思います。  原文のお金はMoneycacheではなくてDough(食べるパンの生地) 
 
「私にとって貧困とは魅力的なものでも自らを啓発してくれるものでもない」チャップリン
自伝より。
*音楽「愛する君」  映画「ニューヨークの王様」より。 
一般的に不幸な経験を無理にプラスに捉えようとする傾向が強すぎると思います。
克服したひとはなかなか言わない。  
貧乏賛美はよくある。  チャップリンは「貧しさを魅力的なものに見せようとする態度は不愉快だ」、と言っている。   

「死と同じように避けられないものがある、それは生きることだ。」  チャップリン
映画ライムライトのなかにある言葉。
*音楽「愛のセレナーデ」  映画「伯爵夫人」より。
考えてみると、選択して生きているわけではない。   物心ついたらすでに生きている。 生きることも死ぬことと同じぐらい避けがたい。   人はなぜ生きなければならないのか、人生の大問題だと思うが、その答えが、避けられないからだという事はかなり斬新だと思います。  

独裁者を作ろうとした時には、ヒトラーが絶好調の時で、アメリカでもヒトラーを支持する人が多かった。  ドイツに投資している財界、映画業界も反対して四面楚歌の状態だったが、それでもチャップリンは作った。   ヒトラーとチャップリンは誕生日も4日違いで、顔も似ている。
チャップリンはユダヤ人だと、ナチスは反チャップリンキャンペーンをするが、ユダヤ人ではなかった。   反チャップリンキャンペーンの影響もあったかもしれないが、チャップリンは否定もしなかった。  否定することは逆にユダヤ人を差別することになるかもしれない。   アメリカで赤狩りがあった時にも、共産主義者かと問われたときに「平和の先導者です」と答えている。   高野 虎市という日本人の秘書がいたが、この人を採用したのは日本人排斥の嵐が吹き荒れていた最中だった。   ユダヤ人の時も、共産主義者、日本人排斥の時にも常にその姿勢を貫いていてすごいと思います。  あれほど愛されていたアメリカから、事実上国外追放になる。   来日した時に5・15事件があるが、チャップリンも暗殺の対象になった。  アメリカのスターを暗殺することで日米開戦に持ち込むことが出来る、それが理由らしいが。

大野 裕之さん、チャップリンの研究家でチャップリンの未公開NGフィルムを全部見ることが出来た世界で3人のうちの一人で、チャップリンのインタビュー記事の中の言葉。
「多くの人からどうやって、痛ましさや人々の苦しみからコメディーを作れるのか、どうやって世界の最も大きな悲劇を笑うことが出来るのかと聞かれます。  私はこう説明します。  私たちが生き延びることが出来る唯一の方法は、私達の困難を笑う事なのですと。」    チャップリン
*音楽「テリーのテーマ」  映画「ライムライト」より


2021年4月25日日曜日

池内響(バリトン歌手)         ・【夜明けのオペラ】新たなスタートに向かって

 池内響(バリトン歌手)        ・【夜明けのオペラ】新たなスタートに向かって

兵庫県姫路市出身。東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。  同大学大学院修士課程音楽研究科声楽(オペラ)専攻修了。   2015年日生劇場「ドン・ジョバンニ」にてタイトルロールでオペラデビュー、2017年には「ラ・ボエーム」に出演、翌年からイタリアに留学、研鑽を積みながら様々なコンクールで上位入賞、ミラノで行われた第10回サルヴァトーレ・リチートラ声楽コンクールにて1位受賞。   一時帰国した2019年12月には兵庫県芸術文化センターのジルベスターコンサートに出演、2020年には兵庫県芸術奨励賞を最年少で受賞、今年の6月には日生劇場「ラ・ボエーム」で画家のマルチェッロ役で出演することが決まっています。

2020年12月に帰国しました。   自主企画で2月28日に姫路のホールでリサイタルを開きました。  コロナ禍の中であったので多くの宣伝はありませんでした。  1年1か月ぶりでした。  音楽を共有しながら演奏する、そしてお客さんに向けて何かを作りあげてゆくことがひさしぶりだったので 楽しかったです。  得たものがいっぱいあり満足しています。

イタリアではロックダウンもあり後退しないように毎日練習は欠かさないようにしました。  

ラ・ボエーム」はフランスのパリが舞台になっていまして、そこに画家のマルチェッロ、詩人のロドルフォ、音楽家のショナール、哲学者のコッリーネの4人の芸術家の卵が一つの屋根裏部屋で暮らしてゆき、屋根裏部屋での生活から物語が始まり、お針子のミミ、歌手のムゼッタなどが加わり、友情、恋愛、別れなどがある。  イタリアでのラ・ボエーム」の野外公演は初めてだったので楽しかったです。

リモートアンサンブルをイタリア、ミラノのメンバーでやっていました。 自分で音楽を楽しみたいと、そして音楽を共有する場所になっていたと思います。  姫路市にも展開しました。   1989年に姫路市市政100周年に作られた「夢ある姫路(まち)」という曲があり、やろうという事でリモートでやろうと友人に電話して、歌わせていただきました。         *「夢ある姫路(まち)」  歌:池内響   作詞・作曲:さとう宗幸

日本での仕事の話が来るようになって、今は日本なのかなあと思ってしまった瞬間があり、日本に戻ることになりました。  

オペラ「アリア」   僕はリッカルドという役で、リッカルドはエルビラの父であるバルトンからエルビラとの結婚を約束されていた。  戦場から帰ってきたら、エルビラは違う人と結婚することが決まっていて、お城は結婚の祝宴ムードになっていた。  「ああ 私は永遠にあなたを失ってしまった」と歌い出すんです。  心の苦悩、葛藤を歌う。               *ベッリーニ: 歌劇「清教徒」から私は永遠にあなたを失った」  歌:池内響

9月に姫路に新しいホールができて、開館記念として12月11,12日に新作オペラの「千姫」の生涯をたどった物語で、千姫の夫の本多 忠刻の父、本多 忠政の役をやることになっています。

2021年4月24日土曜日

内田春菊(漫画家)           ・【私の人生手帖(てちょう)】

 内田春菊(漫画家)           ・【私の人生手帖(てちょう)】

長崎市に生まれた内田さんは小学生の頃から漫画化を志し、16歳の時に家出、東京で生活し24歳で漫画家としてデビューしました。   「南くんの恋人」など人気漫画家として知られるなか、1993年には養父からの性的虐待などの体験をもとにした、「ファザーファッカー」がベストセラーになりました。  小説家、女優、歌手、落語立川流の一門など多彩な活動を続けてきました。  5年前には大腸がんの手術とともに、腫瘍が肛門の近くにあったので、ストーマと言われる人工肛門を作る手術を受け、パウチと言われる袋を装着して、排せつ物を受け止めています。   今日は漫画や小説で包み隠さず語ってきたこれまでの半生、がん体験や、ストーマ生活などについてもうかがいます。

帯の下にパウチがあり、場所は邪魔にならないというところにという事で着物で大丈夫です。 でかける時の服から判るという事はまずないです。  ちいさいのはCDぐらいのミニパウチがあり、私が使っているのはクローズドと言います。  ドレナブルというのはトイレで中身を出したりすることが出来ます。  クローズドは溜まって来たらポイっと捨ててしまうタイプです。   手術をしてから5年になります。   検査でPETと内視鏡が残っています。  内視鏡は人工肛門から入れるので、超きわどいプレイです。  麻酔はしない方向の病院になっています。   がんがあるところの腸を全部取って、肛門は閉じてしまい、お腹に穴をあけて、腸の端をだして、ひっくり返して縫い付けてあります。  長い付き合いなので不気味だと思わないで可愛いという風に思っています。   

夏ごろから「ストーマと猫とがん検診」を連載しようと思っています。  最初は育児出産漫画が面白かったので、書く人が多かった。   本人が思ったことを書いたほうが多少面白いと思います。   人工肛門について漫画を描くという事は最初躊躇しましたが、書いてしまいました。  書くことについては主治医から言われました。  情報には苦労しました。   男性は受け入れにくい傾向があり、プライドが傷つくというような事があるようです。   

書かないと自分も救われないというか、書くことでどうにかしてきた。  24歳の終わりごろ漫画で身を立てていこうと思いました。   子どもの時からずーっと漫画家になりたかったが、親からとんでもない反対をされました。   一つのことに絞らないから一流にはなれないとさんざ言われました。  「ケラサイ」とか言われました。  おけらは飛ぶことも出来て、土も掘れて、泳げるがどれも上手ではない。   頼まれれば何でもやります。   落語の「たらちね」も古くなってしまった言葉も判るように構成して、判る古典落語をしました。   大事なことは女性が働くという事は考えているかもしれません。

子供は一番上が28歳、19歳とが男子で女の子が2人です。   手術の時には当時19歳だった娘が付き添ってくれました。   子どもたちには助けられましたが、いい人徳者だと思っています。   子どもたちとはなんでも話せるようになりました。   

家族という言葉は今は使っていて好きです。  自分が育ったところは家族が機能していなかったと思うので、家族とは言いたくなかった。     手術をして人工肛門を付けてその後、男の人を好きになるのも、付き合うのも辞めてしまって、非常に楽です。   お酒は失敗することがおおいので、いつの間にかに飲み過ぎるとお腹を壊して失敗することがあるので、男の人と付き合うのも辞めて楽ですね。   手術をしてストーマ生活をするようになって、お酒を飲まない事と恋愛しなくなった、それが一番変わったことです。  

仕事はフルデジタルでやっていて、一人のほうが早いです。   

やっとけばよかったみたいなことが少ないので満足して暮らしています。  邪魔するものが多かったので、大変は大変でした。   漫画家になると言ったとたん、親から締め付けがあり、読むのも書くのも駄目で隠れてやっていました。  あなたが変な子だから私は肩身が狭いと母から言われていました。   東京に出てきて、ホステス、ウエートレス、印刷会社、などで仕事をしていました。   死んでしまいたいという事がたまにありました。   たまに思うのは、自分がませていたことに自分は救われたなあと思う事があります。   16歳で家出したという事もびっくりされるし、27歳で虐待していた親と縁を切ったとかというのも、ませていたことで救われたのではないかと思います。   それで大変なこともしていますが。    

物語を作って行くのに、どこかで見かけた人とか、あったこととかを覚えておいて、それを組み立てる方が私は好きです。   保坂 和志さんが「小説とは人間性の肯定である」とおしゃっていますが、私もそうありたいと思います。   作品が実写版にはなりますが、アニメーションにはならないので、アニメーションを作ることには憧れています。  動画編集もやりたいです。









2021年4月23日金曜日

内田麟太郎(詩人・絵詞(えことば)作家)・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】ナミダもユーモアもボクなんだ

 内田麟太郎(詩人・絵詞(えことば)作家)・【ママ深夜便☆ことばの贈りもの】ナミダもユーモアもボクなんだ

1941年福岡県大牟田市生まれ、80歳。 これまで生み出してきた絵本や詩はユーモアあふれるナンセンス作品から繊細な心の情景を描いたものまで200冊を超えていて、受賞歴も多数お持ちです。   中でも狐と狼の友情を綴る物語が人気の「おれたちともだち」シリーズの絵本はロングセラーとなっていて今月14冊目の本が出版されました。  内田さんの人生と、子供の本に込める思いについて伺いました。

犬とか猫を見るのが好きです。   文章、言葉でも力が抜けた言葉をかけたときに嬉しいという感じです。   詩集のあとがきが力が抜けてていいですね。  あとがきは楽しいものにしたい。 80歳はもうなっちゃったなあという感じです。   年々、文章が柔らかくなってゆくような、それが楽しみです。  

3時ごろには仕事を終えて、お茶を飲んで眠ります。  夕方寝をしていると、眠くならないで本が読める。  本を読んでいると眠くなるので、夕方寝に失敗すると本が読めなくなる。  勉強机がないので机に座って本を読むという事は無くて、寝っ転がって読みます。

今年2021年4月までに新しい絵本4冊、詩集も1冊まもなく発売となります。  酒を飲まないのでやることがないので書いてしまって、やはり書くのが好きなんでしょうね。  父が忙しい中よく詩を書いていたなあと思いました。  

自分を掘って行く、降りて行って、ふっと力を抜いた時に出てきてくれます。  私の作品の位半分ぐらいはそうだと思います。   200冊を超えていますが、古い作品のことを忘れないでいるという事は新しいものには出会えない。   書いてしまったことは考えない。 

福岡県立大牟田北高等学校卒業、19歳にて上京、看板職人をしながら詩を書き始めました。  37歳の時に怪我をして看板を書くことが出来なくなり子供の絵本を書くことにしました。   文章が書けない苦しみがあったが、これに縋るしかなかった。    

 新太さんに出会って、デビュー作が絵本『さかさまライオン』で長新太さんが絵を担当。  その後4冊続けて出しました。   長新太さんに作品を持っていって、これは駄目、これは駄目、と積み重ねていったことがよかったんじゃないかと思います。  最初はナンセンスしか書かないと決めていましたが、ナンセンスはそんなに売れるものではない。  「ともだちや」を書いて、これは売れると思ったが、ナンセンスではないのでそれが嫌だと思いました。   何年かたって、ある編集者にナンセンスではないものが欲しいと言われて、「ともだちや」を送ったら、シリーズにするから次を書くように言われました。   「ともだちや」はジャンルで言うとユーモアがあって胸キュンという感じですが、胸キュンというのが照れるというか嫌なんですね。   好きになるという風に気持ちを切り替えていったら、いろんなものが書けるようになりました。「ともだちや」は転機となる作品で私を解放してくれました。  1998年57歳の時でした。当時は貧乏のどん底でした。 

「ぼくたちはなく」の詩集のあとがきに、「皆さん死にたい時ってありますすか。  あるよね、僕にもありました。」と書きましたが、私を産んでくれた母親は小学校に上がる前に亡くなって兄弟二人でした。   ほどなくして父は再婚して、新しい母親は男の子が二人いて、その後二人産まれて、殴るけるとかはしないが私を愛しては呉れない。    私を産んでくれた母親は優しくて、落差を感じて、寂しさを感じて小学校4年のころデパートで万引きをして捕まってしまいました。  生きているのが辛くて、そうすると死にたくなりました。   高校生の終わりごろが一番ひどくて、19歳で東京に出てくるときに、母親を殴り倒して出てきました。   

中野の看板屋さんに入りましたが、踏切で飛び込こもうとする葛藤がありました。  これを解いてくれるのが優しさなんですね。    いろいろな人に出会う事で自分の人生が幸せの方に傾いて行くという事がありました。   55歳の時に田舎に帰って、おふくろがいきなり「麟ちゃん愛さなくてごめんね」といったんですね。   吃驚しました。  母親はそろそろ尽きるという事を感じていたようで、その前にどうしても謝っておきたいという事があったようです。     私の中に残っていた自殺願望みたいなものが綺麗に消えたんですね。

子供の文学は死を肯定してはいけない、というんですよね。   このことをずーっと考えていて、理由はいらないという事が判りました。   ビル火事があって、助けを求めている人たちがいるが、理屈を超えて助かってほしいと思うわけです。    人々の心の動きとして世界共通だと思うわけで、理屈はいらない、ここに価値がある。    生きることの有難さをどこかに感じている事ではないか、そのことを信じてみたいと思います。

辛い時には自分を産んでくれたおふくろのことを忘れている。  つらい時は自分のことしか見えない。   母親は6歳と3歳の子供を残して死ぬわけですが、死ぬときに母親の最後の願いは残してゆく子供二人が幸せになって欲しいという事に尽きると思いますが、子供が自ら命を絶つということは母親の最後の願いに応えていないという事です。   自分の悲しみだけが見えていて母親が二人の子供を残して亡くなって行く悲しさは見えてはいないんですね。   母親のほうが悲しみが深いわけ

です。  思ったのは自分はなるべく書いて最後まで生きて行こうと、それが母親の願いに応えることだと思った訳です。

「ぼくたちはもしかしたら、人間が偉いのは、悲しくても辛くても死にたくても生きているからかもしれない。  石は泣くだろうか。  鉄は泣くだろうか。 宝石は泣くだろうか。 ぼくたちは泣く。  辛くて、辛くて泣く。  声を殺して泣く。  声をあげて泣く。  でも僕たちは生きて行く。  辛さを抱えながら、悲しみを抱きしめながら。   そんな僕たちを見て誰かが言っているような気がする。  頑張れ、頑張れ。  僕たちは生きているだけできっと偉いのだと思う。   悲しみをこらえて生きているのだから。  おいおい泣きながら生きているのだから。  それだけで十分に。」

悲しみを知らない人はいない、誰もが悲しみを抱えて生きている。  そのことは凄いなあと思います、大変なことだなあと思います。  最後の拠り所は自分の中の少年じゃないでしょうか。 自分の中の少年が喜んでいれば、面白いんだと思います。  一番幸せな状態じゃないんでしょうか。 







2021年4月22日木曜日

上野千鶴子(社会学者)         ・旅立ちもおひとりさまで

上野千鶴子(社会学者)         ・旅立ちもおひとりさまで 

昭和23年富山県生まれ、京都大学在学中に女性学と出会って、女性学のパイオニアとして活躍してきました。   2007年に発表した「おひとりさまの老後」はベストセラーになりました。。   現在は認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク (WAN) 理事長を務めています。   

深夜便は私の愛聴番組で、私の亡父もよく聞いていました。   コロナ禍でオンラインでの身体の運動を続け居ています。   「在宅一人死のすすめ」を出版、このような本が売れるとは思っていませんでしたが、孤独死と言われるのが嫌で、作ったのが「在宅ひとり死」という言葉です。   「おひとりさまの老後」を出したころは死別して一人になったら、子供が呼び寄せて「呼び寄せ同居」が親にとっても子供にとっても幸せみたいに思われていたが、「お母さん、一人になったし一緒に暮らさない」というのをあの本では「悪魔のささやき」と言ったんです。  それも言い出す子供もいなくなって、一人で暮らす人たちが増えて、なんだ楽じゃないかと、現実の変化のほうが早いと思います。

大阪の耳鼻咽喉科医院の辻川覚志(つじかわさとしさんのデータ、「おひとり様一番幸せ」と書いてありましたが、自分でも言いたくてしょうがなかった。   辻川さんは500人近いお年寄りを調査、満足度が独居の高齢者が一番高いという事がエビデンスと共に示されました。    二人暮らしの満足度は低い。  夫婦の場合もあるし、親子の場合もある。  3人ないし、ペットがいると二人の場合よりは満足度が増す。    一人の人は最後には施設か病院でと言っていますが、在宅ひとり死のススメ」を出したら、「そうではない選択肢もあるのね」と言ってくださいました。   病院は人間関係を全部切り離して非日常に連れて行って、病院内孤独死という風に言う人もいますし、施設でもこれまでのなじみを全部断ち切ってゆくわけですから。   

両親は金沢で亡くなりました、父が開業医でしたが、妻の介護で部屋を改造して主治医をやっていましたが、父は母に依存していたので妻を失うという事に対して、パニック状態で大変でした。   共倒れになると思って母を入院させようとしたら、僕を押し倒してゆけとまで言われました。  父が転移がんになり、父は病院で亡くなりました。   妻が亡くなると夫は平均3年で亡くなるというデータがありますが、母が亡くなってから10年後に亡くなりました。  私は当時京都に住んでいたので、京都、金沢、東京を行き来していて大変でした。    

兄弟で役割分担をしていました。  私へはメンタルのはけ口になっていました。  父は私と一緒に暮らしたかったようですが、男のプライドがあるのか、後で判ったことですが、私には直接言わないで兄に言っていたようです。   子どもには迷惑をかけたくないという話はよく聞きます。   

歳をとって人様のお世話を受けなければならないからと言って、なんで一塊になって面倒を見てもらわなければいけないのか、どうしても納得できないのです。   足腰立たなくなって、寝たきりになって、訪問介護や訪問医療に入っていただいて、或る日ヘルパーさんが来たら死んでいたでもいいんじゃないかと思ったんです。   介護保険が進化して、サービスのメニュー、種類も増えたし、現場の方たちの経験値が本当に増えました。   日本の介護のケアの質は世界水準に引けを取らないです。   在宅看取りの経験とかが上がってくると、穏やかに安らかになくなることを経験して、死ぬのに医者はいらないし、介護職だけで看取りができますと言っていただけるようになり、この20年間の介護保険の経験はすごかったと思います。 

高齢社会の死はピンピンコロリを望んでも無駄、ピンピンコロリは突然死なので死亡解剖へ回さなければいけないようなもので、お別れを言う暇もないです。   人間みたいな大型動物が死ぬのはゆっくり死で、準備する期間がある。   介護保険前には在宅看取りが難しかった、特に独居の在宅看取りが考える事も出来なかったが、ここ20年で現場が変わった。  しかしこのところきなくささがある。    これからは社会保障費を抑制したいというう事が見え見えで、介護保険を段々使い勝手しにくくする方向に行くのではないか。   要介護1,2では入れなくて要介護3で施設に入ることが出来るという事とか、所得に応じて介護保険料をどのぐらい負担するとかあります。  自己負担率が1割で済んだのが、所得に応じて2割、3割を負担してもらう。    ケアマネが今ただなのが、今後お金が必要になり、頼むのにハードルが高くなる。  重度の要介護3以上を対象にボラインティア、地域の人に頼んで、身体介護だけに限定しようというシナリオを描いているのではないかなあと、予測ができる嫌な動きをここの所政権はやっています。

足りない分は、①もう一度ご家族にという事と、②自己負担でサービスを受ける、という選択になるのではないかと思います。  介護の報酬が少なすぎるというような事もあります。   去年厚労省が矢次早に政策出しましたが、その中で介護現場での人手不足に対して、無資格者を使いなさいと言う事がありました。   愕然としました。   ボランティアに入ってほしいが、隣の人には来てほしくないという方がいます。  プライバシーが全部筒抜けですから。  

認知症ケアは施設でもハードルは高いです。  独居の認知症の方は周辺症状が軽いと言っています。  認知症に詳しい高橋幸男ドクターは暴言暴行の逸脱行動には必ずその背後にはからくりがある、そのからくりの引き金になる誰かがいる、と言っています。   でも独居ではだれもいないわけです。  不便かもしれないが穏やかに暮らせる。   機嫌よく日々暮らして、次の朝目を覚まして、下り坂を下って行って、ボケたらいいじゃないかと思っています。   好奇心の強い人は認知症にならないとか、いろいろありますが、みんななってきます。  誰がなるかわからない、受け入れるしかないと覚悟しておいた方がいいのではないかと思います。  食べられる間は生かしていただいて、お世話になって最後まで生き切ったらいいんじゃないかと思います。  

自分ごとになったら、言いたいことが変わるかもしれないので、本当の要介護高齢者になったら、「ゆうたるで(言ってやる)」、それが楽しみです。   オンラインで接点が持てるし、車椅子、寝たきりになろうが、人との繋がりを断つ必要はないと思います。   下ってゆく姿を世間に見せたほうがいいと思います、人間はこうやって老いて死んでゆくんだと言う事を、もっと見える化したほうがいいと思います。





2021年4月21日水曜日

パトリック・ハーラン(タレント)    ・【スポーツ明日への伝言】パックンの「アイ・ラブ・スポーツ」

 パトリック・ハーラン(タレント)    ・【スポーツ明日への伝言】パックンの「アイ・ラブ・スポーツ」

アメリカ コロラド州出身 小さい頃からさまざまなスポーツに親しんできて、いまでも体を動かすことが大好き。   プロ野球ヤクルトスワローズの大ファンでもあり、夢中になってスポーツを観戦、応援しています。  そんなパックンに日本とアメリカのスポーツの楽しみ方の違いや、それぞれのスポーツとの接し方の特徴などを伺いました。

10歳の時に新聞配達をして、1年半貯めて自転車を購入して、18歳まで毎朝乗って新聞配達をして、今も家の玄関においてあります。   スポーツは放課後、小中高大学までずーとやっていました。  アメフトはお金かかります。  プロテクターは高くて、成長期だと毎年買い替えなくてはいけない。   野球、アメフト、サッカー、テニス、ゴルフなどやってきました。  チームに参加してやったのが、サッカー、バスケットボール、体操、板飛び込み、陸上競技では棒高跳び、大学ではバレーボール、今は卓球もやっています。

アメリカでは公園に行けばスポーツをやっていて、その場で一緒にピックアップしてスポーツをやっています。   学校で掛け持ちしていたのは板飛び込みと陸上競技、板飛び込みとバレーボールで掛け持ちは2つまでです。   中には4つやる人もいます。  

日本では掛け持ちは余りないですね。  アメリカは基本的にはスポーツを楽しむという事です。  アメリカではチームスポーツでも基本的には個人主義です。  個人個人でウオーミングアップしたりばらばらに練習したりします。  日本では監督が気になる事があるとさっと全員集めて監督のいう事をハイ、ハイと言って敏感に反応して吃驚しました。  アメリカではほかの人が練習している間でも、コーチが一人捕まえてずーっと教えていたりします。  

国民性に合った指導法かもしれません。  逆に国民性を作るのは部活かもしれません。 小中高の部活の方法を自由にして変えれば国民性も変わるかも知れません。  アメリカではチームメンバー同士がよくやり方が違うだろうとかケンカをしますが、日本では見たことがありません。  日本は部活に時間が掛け過ぎ、もっと効率的にやったほうがいいと思います。   高校で大活躍した選手は高校のロゴマークが入るジャケットを着る権利(レター)があります。    複数のスポーツに対してその権利を貰えることもできます。  学力優秀でもジャズバンドとかでもレターがもらえます。   僕は3つレターを貰いました。    放課後には板飛び込みの練習をした後、ジャズバンド、合唱団の練習があり、家に帰るのが8時、9時で、夜寝て3時には起きて新聞配達をしていました。  

板飛び込みでは入水であまり水しぶきを上げないことが重要です。   左手の指を右手で捕まえて、入水する穴を水面に作り、水に入った後パッ手を両脇にこぎおろすと、すっと入れるようになります。   アメリカでは部活をしたスポーツは、卒業して大人になっても続けています。   日本では卓球をやる時にはPTAとか自分の仲間と一緒にやりますが、アメリカでは体育館にいけば、みんな待機していて、「やりませんか」と声をかければできます、そこが違います。  初対面でもできます。

スポーツは人生に欠かせないです。  アメリカではスポーツ専門チャンネルが10ぐらいあります。   大学のバスケットボール、NCAA(National Collegiate Athletic Association ファイナル4あたりからは物凄い盛り上がりです。   放送権が8億ドル稼げます。   日本でもこのスタイルを目指していこうという傾向があります。   高校野球などでは一斉に同じ歌を歌って、同じリズムで応援するのが好きなのか、それが習慣になっています。   ばらばらに応援するのがアメリカで、思っていることを叫ぶのがアメリカのスタイルです。    アメリカでは全国高校野球の甲子園のようなのはないです。 素晴らしいです。   アメフトなどは応援が物凄くうるさいです。  指示ができないように邪魔をするわけです、それがファンの責任だと思ってやるわけです。  床を足でバタバタ鳴らしますが、足を大きく鳴らせるように床が太鼓のような空洞になっています。

アメリカ人もオリンピックは大好きです。  日本の報道でちょっと不満に思うのは、世界トップ選手がそんなに紹介されない。   もったいないと思うのは史上最強と言われている体操選手のシモーネ・バイルズ選手、2位とは凄く差をつけて圧勝している。  ずーっと笑顔で軽々決めます。  これが報道されないのはもったいないです、世界のトップアスリートの世界一のプレーを是非見せて欲しいと思います

今回コロナのためにオリンピックでは日本人しか見れないと思いますが、代行応援団を作ってほしいと思います。  気軽に近所でボール遊び、スポーツができるようにしてもらいたいです、それが生涯付き合ってゆくことになると思います。







2021年4月20日火曜日

酒井政利(音楽プロデューサー)     ・昭和歌謡の魅力を語る

酒井政利(音楽プロデューサー)     ・昭和歌謡の魅力を語る 

1935年和歌山県生まれ、立教大学卒業後、松竹、日本コロンビアを経て1968年CBS・ソニーへ移り、南沙織、郷ひろみ、山口百恵など多くのスターを世に送り出しました。  また「愛と死を見つめて」、「魅せられて」で2度日本レコード大賞を受賞されています。   プロデューサー生活60年余り、これまでに300人余り、8000曲をプロデュース、累計売上はおよと8700億円という音楽界のレジェンドです。   2005年歌謡曲を中心とする音楽業界で初めての文化庁長官表彰を受賞され、去年2020年文化功労者に顕彰されました。

文化功労者の連絡があった時には本当にびっくりしました。  昭和歌謡は言葉を持っていて癒されたり、慰められたり、励まされたりします。   音楽は人の気持ちを癒すのが最大の魅力だと思います。   山口百恵さんは13歳から出発しているわけですが、最初は音域が狭かったが、成長の記録として世代の言葉を投げていこうと思いました。  言葉が今聞く人に伝わるんだと思います。  

みかんの産地で山の裾野に実家がありました。  8人兄弟の末っ子で、小学校4年の時に戦争に行っていた兄たちが帰ってきて、こんなに兄弟がいるとは思っていませんでした。   池があり、神秘的な池で魅せられてしょっちゅういきました。  小学校6年の時に絵を描きましたが、池に映る逆の風景を描きました。  姉が岩佐に嫁いでゆくんですが、その街に行きたくて街を見に行きましたが、映画館があり、3本立てでやっていて映画にとりつかれて行きました。    高校では許可がないとけなくても何とか行って、東京に行きたくて、立教大学文学部に入りました。  戦争の焼け跡が残る景色があり現実の世界をいろいろ知る事になりました。

大学1年では池袋には映画館がいくつもありましたが、慣れなくてどうも行く気にはなれませんでした。  大学3年になると好きな監督ができて、事務所、自宅など見に伺いました。   ロケも観に行きました。   大学卒業後映画製作を志し松竹に入社しました。  製作部に所属しましたが、TVが隆興してきて、辞めたほうがいいという助言がありました。  日本コロムビアへの紹介があり、入ることになりました。  映画を作るつもりでその主題歌をという思いがありました。  「愛と死をみつめて」の主題歌を担当して、作詞、作曲も素人の集まりでの仕事にしたかった。   レコード大賞も受賞することになりましたが、本もベストセラーになり、映画化もされました。  

CBS・ソニーの募集があり、飛び込んでいきました。  会社からのご褒美で3週間アメリカにいって、フランク・シナトラを担当した人に出会って、売り出すのにどうしたらいいかを考えて、1940年代にはフランク・シナトラは14歳で、アイドルとして出したという事でした。  元々はラテン語でアイドルという英語になったという事でした。  アイドル戦略で行こうと思って、CBS・ソニーの大カラーとして打ち出そうと思って、会議に掛けたのが始まりでした。   アイドルという言葉には反対がありましたが押し通して、表現者がいないと駄目なので、沖縄の16歳の女の子を呼んでオーディションをしました。  即決したのが南沙織さんでした。  カトリック信徒で、英語名「シンシア(Cynthia 月の女神、蟹座の守護神の意)」を愛称としてい「ソニーのシンシア」として売り出しました。

次に男の子という事で連れてきたのが郷ひろみさんでした。  可愛くて声が独特でした。「男に子女の子」で行こうと即決でした。   スター誕生の番組があり、森昌子さん、桜田淳子さん、それに一人を加えて3人娘にしたかった、という思いがありました。  山口百恵さんの声を聴くと音域が狭かった。  悩んで、海の匂いで行こうという事で「青い果実」をぶつけました。   彼女は勉強を重ねていましたね。  

朝丘雪路さんの「雨が止んだら」 坂本スミ子さんの「夜が明けて」、大信田礼子さんの「同棲時代」、金井克子さんの「他人の関係」とここもプロデュースしました。   再生路線を行いました。  化粧品会社から意外性のあるものをと乞われて、矢沢永吉さんと連絡を取りました。   「時間よ止まれ」がミリオンセラーになりました。   翌年が二度目のレコード大賞となる「魅せられて」。  下着会社がイメージソングを作ってくれないかという事で、筒美京平さん(作曲・編曲)、阿木燿子さん(作詞)でエーゲ海を舞台にして「魅せられて」ができました。  

会った時にはきれいだなあとか思いますが、会った後数時間して残像のように残っている人がスターになる人です。  山口百恵さんと会った時には7.8分で終わったと思いますが、いろんなことを聞いたようなイメージがあり、考えた表情を持っている顔なんですね。  一番大事なのは想念というか、顔に主張のある人だと思います。  

今はヒット曲はいろいろあるが、気持ちに伝わる歌は少なくなってきていると思います。  昭和歌謡は言葉を持っていると思います。  歌で大事なのは言葉だと思います。 曲は二番目だと思います。  いくらいいメロディーがあって言葉が悪いと駄目です。     

今しみじみ思うと、でたらめなことをやってきましたが、充実していたと思います、無我夢中でした。  事務所のデスクに池の写真があります、心がなごみます。   今コロナで他人に会えないとかありますが、この心理がすごく歌に生きると思います。  最近思ったんですが、子どもの歌を作りたいと思っています。  



2021年4月19日月曜日

鶴澤津賀花(女流義太夫三味線方)    ・【にっぽんの音】

鶴澤津賀花(女流義太夫三味線方)    ・【にっぽんの音】 

福井県出身。1995年、武蔵野音楽大学音楽部音楽学学科卒業。   義太夫協会主催の義太夫教室を受講したのをきっかけにプロの道を志し、1998年に女流義太夫人間国宝の竹本駒之助に入門。  見習い期間を経て2001年に初舞台。  自身のリサイタルでは人間国宝で師匠でもある竹本駒之助さんの語りで難曲、大曲と言われる演目に挑戦するなど、これからの女流義太夫を担う一人です。

音楽学学科は西洋音楽、日本音楽、民族音楽の歴史、理論をなどを学んで研究する。  学者、研究者とかになる方が多いです。    4歳からピアノを習っていて、西洋音楽に親しんでいましたが、中学生の時にTVのCMでブルガリアの女声合唱が流れてきて、衝撃を受けて、いろんな民族音楽を勉強したいと思って、音楽学科を目指して入学しました。  大学では雅楽、お琴を習ったり、個人的には沖縄の三線、長唄の三味線を習いました。   日本にもこんなに素晴らしい音楽が沢山あることに気が付きました。

初めて義太夫三味線の音色を聞いた時に、今まで聞いた三味線と全然違う迫力、音色に痺れてしまいました。(24歳)  文楽通いをして三味線ばっかり聞いていました。  

義太夫は物語を語りと三味線で表現する三味線音楽で、義太夫節とも言われますが、1684年大阪道頓堀に人形浄瑠璃を上演する竹本座ができて、竹本義太夫の迫力ある語りが大人気となって義太夫節と言われるようになりました。  語りと三味線の二人で行います。

女流義太夫は人形や役者を伴わない語りと三味線だけの素浄瑠璃というスタイルで演奏しています。  明治20年にデビューした竹本綾之助というスターが出て前代未聞の人気を博して、娘義太夫の火付け役になりました。  

義太夫節はほとんどが悲劇で、ストーリーがよくできていて、素晴らしい作曲ができていて、昔の方は凄いと思いました。  

加々見山旧錦絵』(かがみやまこきょうのにしきえ)の中の「長局の段」 1782年に江戸外記座にて初演、加賀のお家騒動を題材に、武家に勤める奥女中の仇討ちを描いています。   「お初は、昨日鶴岡八幡で主人の尾上が岩藤に、草履でもって殴られたことを聞く。   そこに岩藤が現われた。    ほかの下女たちはそそくさとその場を逃れたがお初は岩藤につかまり、自分の噂をしていただろうといじめられる。   使者の到来との声を聞き岩藤は、これで許してやるとお初を蹴飛ばした。   お初は悔し涙を押し隠してその場を立つ。・・・ついにお初は思い切って文箱を開け、中身を確かめるとそこに入っていたのは草履の片しと遺書。    お初はびっくりして尾上のもとへと急ぎ引き返す。・・・」

息をする箇所が決まっています。  大夫は勝手に息をすることが出来ないので、大夫を生かすも殺すも三味線弾き次第なので凄くこちらも気を使います。  大夫も三味線弾きも息が大切という事で、息を「引っ提げ」が大事だと言われますが、お腹の力というんでしょうか、それがないと義太夫にならないと言われています。

日本を感じる音は、ドーンと力強くお腹に響く義太夫三味線の一の音です。(一番低い音)  魂が揺さぶられる音だと思います。  

一の糸が地を表していて、三の糸が天を表しています。  二の糸が人で、一、三、二と弾くんですが、これから人の話を始めますという意味が込められています。 

三味線の材質は大別すると「花梨(かりん)」「紫檀(したん)」「紅木(こうき)」がありますが、素材が輸入品で、紅木(こうき)というでインドから、皮も犬と猫で海外からはいってきて、糸だけが純国産品で義太夫の糸はほかの三味線とは違って太くて、一の糸は3000本の繭からできていて、撚ってできていて、表面が凸凹して豊かな奥深い響きが生まれます。  三味線には細、中,太があり、義太夫はで、津軽三味線も太棹ですが、駒,バチが全然違うので音も全く違いますし、奏法も違います。

*「めりやす組曲」 舞台効果を高めるために三味線だけで繰り返し演奏する短い旋律で、いろいろな組曲になっています。

5月に竹本 駒之助師匠を横須賀にお招きして、女流義太夫演奏会を行います。  私は20年になりますが、竹本 駒之助師匠は芸歴72年を迎えます。

去年はホームページと動画発信サイトを開設して、過去の公演動画と解説動画を配信しました。 狂言にも語りがあるので実験的にコラボするのもいいかもしれません。







2021年4月18日日曜日

竹下和男(元小学校校長)        ・【美味しい仕事人】子どもが育つ「弁当の日」

竹下和男(元小学校校長)      ・【美味しい仕事人】子どもが育つ「弁当の日」 

平成13年香川県の滝宮小学校から始まった弁当の日は弁当の献立、買い出し、調理、詰める、片付けすべて子供だけですることを決まりに始まりました。   子どもたちは食事作りの大変さを知り、家族への感謝の気持ちが湧いてきます。  又友達と弁当を比べ合う事で互いを尊重するようになるといいます。  現在弁当の日を実施している学校は全国でおよそ2400校に上ります。  子どもが作る弁当の日、提唱者竹下さんに伺いました。

校長になって子供たちが給食を食べている時に、美味しそうに食べない子が増えているのかなと思って、何とかしたいと思いました。   献立、買い出し、調理、詰める、片付けすべて子供だけでする状況を作ればいいと思って始めました。    平成13年がスタートになります。   子どもが自立していけると思って、学校の先生方の了解を得ました。   PTAの役員に説明しましたがすぐに反対されました。   理由は包丁を持たせていない、ガスコンロに触らせていない、早起きさせていないという事でした。    PTAの総会がありそこでも話しましたが、ブーイングでした。    3つのルールを説明しました。  ①子どもだけで作る、親は手伝わない。   ②5,6年生を対象。   ③2学期の第3金曜日を一回目にする。(準備の関係、 暑い時期だと弁当が傷む恐れがある) 年間5回とする。

最初の一回目の日は大騒ぎでした。  弁当の見せっこをして喜んでいる姿を見て先生方も安堵しました。  1回目の時には親が手伝って玉子焼きだけ作ったとか後で聞きましたが、2回目の時には手巻き寿司弁当を作ってきた子がいました。  5回目はほとんど自分で作ったようです。  自立したかどうかだと思います。   点数をつけることがない。  家庭での食事をつくったりする、子どもに対する環境が変わってほしいと思って取り組みました。  中学校への取り組みも大いに効果がありました。

どんな食材をどんな手順で調理してゆくかという計画を立たせるがほとんどできない。  雑誌とかを見せると段々閃いてくる。   「いただきます」は食材の命に対する感謝で、「御馳走様」は料理が出来上がるまでに駆けずり回った人達への感謝の気持ちなので、献立から片付けまでやることによって気付いてゆくだろうと思いました。  1回目で気付きました。  感想文にはいつも食事を作ってくれる親に感謝したい、という事が圧倒的でした。  親の感想文では親子の会話が増えましたという事が圧倒的でした。  わからないことを親に問い合わせそこから会話が始まる。  弁当を介在して親子のコミュニケーションが生まれます。

いじめ、引きこもりなどの背景に家族の繋がりが欠け落ちた状態で子供が育っているという不安がありました。   教科書だけでは伝えられないという思いがあり、弁当の日という、家庭と地域を取り込んだ形にして見切り発車しました。   弁当の見せっこは褒めっこだと言っています。   やっている子ほど相手を褒めます。   

朝ご飯に菓子パンとかゼリーとかコーヒーだけで済ます子が50%ぐらいいます。  家族のためにご飯とみそ汁を作れる子は小学生1%、中学生1%、高校生1%です。   日本全国どこへ行ってもそうです。  子どもを台所に向かわせずに子供には勉強をさせる。   お金で済ませられれば人にしてもらおうという感覚が出来上がってゆくという事を痛感しています。  子育ては嫌なことなんだという人たちを増やしてきていると痛感しました。

子どもたちが25歳になった時に、4人の女の子が私と会う機会があり、4人が同じことを言いました。   「毎日弁当を作っています。 弁当を作ることが楽しいです」と。  結婚している子がいて自分の子を台所に立たせています。  2歳、3歳児です、子育てが楽しいと言っています。

店に買い物に行くと大人との会話もできる訳です。  地域とのつながりも出来る。    ドキュメンタリー映画弁当の日』が2020年10月に作成されました。   2021年4月から自主上映方式で全国で上映されます。

 


2021年4月17日土曜日

サキタハヂメ(作曲家・のこぎり奏者)  ・「〈2〉人や自然と共鳴したい」

 サキタハヂメ(作曲家・のこぎり奏者)  ・「〈2〉人や自然と共鳴したい」

学生時代のこぎりを楽器の弓で演奏する音色を聞いて感銘を受け、その技術を独学で身につけて国の内外で演奏活動を行ってきました。   同時に作曲家としてTV、映画、舞台などの音楽を数多く手がけ現在放送中の、連続TV小説「おちょやん」の音楽を担当しています。  サキタさんはのこぎり音楽と「おちょやん」のドラマには共通する魅力があると話します。

子供時代は父親がウクレレをやっていて、母親が童謡のレコードをかけてくれた時代がありました。   そのおかげがあるのかなあと思います。   バンドブームの時代で高校に入ってからギターを始めたりバンドを始めたりしました。   ギターが面白くなってアコースティックギターもエレキギターもやるようになりました。   中学の時代、何故か男は35歳からだと思っていました。  

大学に入ってチンドン屋という世界を知り、興味があって入ってみたらCM音楽とおもって、バンドの活動と違うし、ストリートパフォーマンスとも違って、いろいろ学ばせてもらいました。   チンドン屋さんから頂いたものを今回「おちょやん」の音楽に入れさせてもらいました。  最初はチラシ配りから始めて、バンジョーを引くようになって、最後はチンドン太鼓も叩かせてもらいました。   2年生から卒業まで3年間やっていて卒業論文もチンドン屋さんに関するものでした。   チンドン屋さんが通ることで、化学変化が起きる様な感じがします。   シンプルなメロディーラインのみのパワーみたいなものにすごく感銘しました。  芸、音楽が商売になってゆくのはそういう事なのかとか、クレームがあったときにチンドン屋さんはどうするのかとか、いろんな経験をさせてもらいました。     就職しようと思って呉服問屋に5年ぐらい働きながらライブなどもやっていました。   

2000年にCD『はじめにきよし』を鍵盤ハーモニカの新谷キヨシさんと一緒に出しました。

*「ホットでお茶を」 

1997年、2004年 世界大会で2度優勝。   

アメリカには何度も行っています。  イタリア、フランス、フィンランド、エストニア、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、韓国、チェコなどいろいろな国に行きましたが、どこへ行っても反応は同じで、最初、目をキラキラさせて、面白い曲をやると笑ってくれるし、美しい曲をやると喜んでくれるし人類共通だと思いました。   子供たちに向けた演奏では本当に目がキラキラさせます。  ステージ側から見て欲しいと思います。

2015年堺市の南の河内長野市に移住。   ミュージカルスクールでやらせてもらったり、校歌を作ったり仕事は東京と河内長野市が多くて、ノコギリ奏者として木を考えていると、河内長野市には7割ぐらいが山だったり森だったりして、森をみていたらパイプオルガンに見えて、音絵巻シリーズという事で、自然、風土、歴史からイメージを受けたものを自分なりに音と光で描いてゆくシリーズで7年目なります。   他のアーティストを巻き込みつつ、地元の人も巻き込みつつ音のエンターテーメントをやっています。

自然の中にはいろんな音が聞こえてきて、楽音と分け隔てが無くなっています。  水の音も楽器みたいに感じます。  山の中とかタイムマシーンに乗っているとか、そういう事が作れるようになった感じがします。

河内の木を使って奥河内三弦を作りましたが、三味線の様でもあり、馬頭琴、三線、チェロの様でもあります。  

*「森の風景」 即興

自分で思っていたものよりもいい楽器ができました。  

ミュージカルソーを動物たちに向けてあるいは鈴虫に向けて演奏すると、反応して鈴虫が鳴き出したりします。  400匹の前で演奏したときにも鳴きだしました。    海の動物たちに聞かせると会話ができるのではないかと思って、ダイビングの免許を取って海の中で演奏したら、全然響かなくて、やはり空気がないと駄目だと思いました。  上野動物園とかで動物たちに向けた音楽をやっていて、面白い事がどんどん叶いそうになってきています。  コロナが収まったらいろんな所へ届けたいと思っています。

*「光のさす方へ」















2021年4月16日金曜日

普天間朝佳(ひめゆり平和祈念資料館館長)・平和の尊さを発信し続けたい

普天間朝佳(ひめゆり平和祈念資料館館長)・平和の尊さを発信し続けたい 

2度目のリニューアルを終えてひめゆり平和祈念資料館は今週新たなスタートを切りました。 戦後世代として初めて館長を務め、今回のリニューアルを主導した普天間さんに伺いました。

資料館はいまから32年前に開館しましたが、物に語らせる方針であまり説明が無かった。  説明したほうがいいという事で体験などを説明する動きがありました。  体験講和という形で自分の体験を伝える活動をしてきましたが、2000年頃から仲間が亡くなったり病気になったり、伝える活動をしていた30名ぐらいの元ひめゆり学徒の方がかかわってましたが、高齢になって活動していけないという事で、いなくなっても体験を語り続けていくために、次世代継承の取り組みを始めました。  証言を映像記録に残す活動を始めましたが、2004年に第一回のリューアルしました。   展示に細かい説明を付けました。  判りやすい説明文を作ってリニューアルしまして成功したと思いました。   周りに戦争体験者がいない世代になり、開館30周年で第二回目のリニューアルをしようという事で、コロナで遅れましたが、今年実現しました。  

戦争体験が風化してゆくことは仕方ないところですが、あらゆる機会を通して繰り返し繰り返して、戦争体験を振りかえって戦争にならないためにはどうしたらいいか、を考えてゆくことが大事だと思います。  そのきっかけ作りをしっかり作ってゆくことが私たちの役割かと思っています。  

オープンの前に元ひめゆりの方々に見てもらって、当時のこと、私たちの思いなどがよく表現されていると言っていただきました。   

ひめゆり学徒隊は沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校教師生徒で構成されたものの名前で、15歳から19歳でした。   看護要員として陸軍病院に動員されてゆくことになります。   222名、先生が18名でした。  136名が亡くなってしまいました。    手術などにも補助として立ち会いました。   看護,しもの世話まで行いました。   段々対応が出来なくなってきて包帯のところからウジ虫が出るようになり、ウジ虫をピンセットで払うような事もしました。  亡くなった患者の埋葬も兵士が掘った穴に埋葬することもしていたが、攻撃が激しくなると、砲弾でできた穴に亡くなった兵士を投げ入れるのが埋葬になったそうです。  最初はできなかったが、投げ入れるのが平気で出来るようになったそうです。  何十年もたってからそのことがよみがえってきて夜眠れなかったり、悪夢にうなされて今でも苦しんでいる方がいます。  

2か月たった時にアメリカ軍が上陸してきて、沖縄に長く足止めさせるという事が日本軍の司令で、大きな犠牲を払いながら南に下がって戦い続ける道を選びます。   沖縄陸軍病院も南に下がって行くことになります。  11名が砲弾で亡くなります。  看護が出来ず自然洞窟の6か所に潜んでいましたが、アメリカ軍が近づいてきて、もう病院は必要ないという事で病院の関係者も切り込みにたてと、学徒隊も必要ないという事で学徒隊に解散命令が出ますが、追い出される形で出て行きます。  激しい爆撃に合い、100名以上が亡くなることになります。  洞窟には第三外科の部員、看護婦、生徒たちが入っていました。   深くて安全な場所と思われていましたが、命令で出ないといけなくなって、分散会をすることになり、終わったあとに、足音が聞こえ、出てくるようにとの呼びかけがあったが、当時は捕虜になったらいけないと言われていて、ガス弾が投げ込まれ、100名近く入っていたが、80名が亡くなり、生徒の5名だけは戦後まで生き残ります。   海岸まで追い詰められた生徒7名、先生1名は原崎海岸の岩陰に潜んでいたが、アメリカ軍に捕まったらレイプされて無残に殺されるという風に思い込んでいたので、死んだほうがましだという事で6月21日の朝、アメリカ軍の乱射もあり、手榴弾で自決することになります。

私は現在61歳で、まったく戦争のことはわからなくて育ちました。  慰霊の日だけは正午になると南に向かって手を合わせましょうと学校では教えられていました。  沖縄戦のことは全然知識がありませんでした。  大学の時に大田知事が大学の先生をしている時に、彼のゼミで沖縄戦を客観的に学ぶことが出来ました。  社会人になってひめゆり平和祈念資料館に勤めるようになって戦争を実感することになりました。    

体験の重みは体験していない者には出来ないと考えていて、説明員として採用した人に証言者の話をしている様子などを見てもらいました。   自分も関わらないといけないと思いました。  2009年に18名の方と一人一人がたどった戦跡を一緒に体験を聞く、戦前戦後の聞き取りをして、仕事をする中で培ってきた継承があります。   2015年ぐらいから講話のリクエストを受けることが難しくなってきて、次世代による平和講話という事で、一緒に活動を始めました。     

ひめゆり平和祈念資料館は普通の資料館とは違って、観光のついでに寄って気が付くという場にもなっていたと思います。   戦争と平和のことを考える入り口になってもらえればいいと思います。  いかに戦争が悲惨であるか、命の尊さ、平和の大切さのメッセージをいろんな工夫を通して新しい世代に伝えていこうと思っています。










  

2021年4月15日木曜日

西岡奈緒子(会社員)          ・あなたとともに、未来を築きたい!

西岡奈緒子(会社員)          ・あなたとともに、未来を築きたい! 

神奈川県藤沢市に住む、今年40歳。 全身の筋肉が段々と弱って行く進行性筋ジストロフィー重度障害1級です。   西岡さんは障害があっても働く社会とつながっていたいと、慶応大学理工学部で生産工学やプログラミングなど、専門性の高い知識やスキルを身に付け、家電メーカに勤務して18年になります。  障害は年々進行し電動車椅子を使用したり、テレワークによる在宅勤務になりましたが、会社が多様性のある働き方を取り入れたこと、又ICT、情報通信技術などの進歩によって働き続ける環境が大きく広がったと言います。  

仕事に関しては家電製品を取り扱う会社でカスタマーサービスの部署でサポートのウエブサイトの運営、コストの管理などをしています。  アフターサービスを採用しているので、サイトを更新する際にかかった費用だとか、こちらの経費処理を担当しています。  今は在宅勤務をしています。  会議、メール、チャットなどを併用して大きな支障なく仕事ができています。  

女性の筋疾患患者の会の共同代表もやっています。   2010年に「com-pass 女性筋疾患患者の会」という会を立ち上げました。   孤独を感じる人が少しでも減らすことが出来たらと活動しています。  車椅子を使ってると移動に制約があるので集まるということはなかなか難しいです。   

小さいころは病気のことを一言ではうまく伝えられなくて、周りの人と違う事に対して恥ずかしさを感じていました。  大学で何かを学びたいとはっきり意識したのは、高校生の時に教育実習で学校に来た大学生の話を聞いて、管理工学という事を知りました。  生産管理、人間工学、経営工学、プログラムなどを学ぶ学問で就職する率も高い学科になります。通学の電車は出来るだけ座れるルート、始発の電車がある時間帯を選ぶなど工夫しました。誠一杯やりたいことはできたと思います。   障害者雇用の採用で面接に進みました。  杖をつきながら歩いていましたが、徐々に病気が進行して転び易くなってきてしまいました。  限界を感じて電動車椅子を使い始めました。   上司にはいろいろ相談させてもらっています。  職場の理解もあって働くことができました。

テレビで「NHK障害福祉賞」の存在を知って、それまでの半生について仕事の事を中心に、作文を書いて応募したのは2008年7月末のことでした。  その時のタイトルが「ここにいたい」です。  仕事を続けてこられたことに対して、感謝の気持ちを文章にしたいと思って書きました。  「NHK障害福祉賞の最優秀賞受賞」を受賞。  3年、5年働いたら限界かと思っていましたが、大変なことが出てきても具体的な解決策を周りの人と一緒に考えることで働き続けることができました。   NHKに出演して、野上 奈津さん(彼女も筋ジストロフィー患者である)と出逢って意気投合した私たちは、2009年に「com-pass 女性筋疾患患者の会」を立ち上げました。   筋ジストロフィーはいろんなタイプがあり、女性特有の悩みもあり女性患者の会にしました。  登録は200名ぐらいいます。

社会福祉士の資格を得て相談にも乗るようになりました。  広い意味で福祉とは、「社会の全ての人が幸福で安定した生活を営むこと」であると学びました。   筋ジストロフィーの患者さん同士で会う機会は本当に貴重な場なのかと感じています。  「com-pass 」という名前にも思いを込めていて、磁石という意味もあり、迷った時に方向を一緒に考える場でありたいという思いがあります。  「com」には共にという意味があり、「pass 」には歩くという意味があります。  コンパスは円を描けて、みんなの輪が広がるようにという、いろいろな意味を込めて「com-pass 」としました。

ロボットスーツのトレーニングをしています。  これを知ったのは15年前ぐらいですが、歩けない人がロボットスーツを付けることで、歩きやすくなるという技術です。   筑波大学の山海教授が開発したものです。   電極を皮膚に貼り付けて皮膚の表面から漏れ出る微弱な信号をロボットが読み取ります。  今はほとんど歩けないんですが、ロボットスーツを使うと30分ぐらいトレーニングで歩くことが出来ます。  歩くと筋肉や脳が喜んでいるように感じます。  2014年に藤沢にトレーニング施設ができました。   出来なかったことが出来るという快感は何とも言えないと思っています。  

山海教授が「サイバニクスが拓く未来」という本を出版しています。  サイバニクスというのは脳科学、神経科学、構造科学、ロボット工学、IT技術、システム総合技術、再生医療、行動科学、倫理、安全、心理学、社会科学など、さまざまな学術領域を融合複合させた包括的な学術分野で山海教授が生み出したものです。  未来に希望を感じています。

ICT(情報通信技術) 移動が難しいという障害を持っているものにとってみて、あきらめていたイベントに参加できるというような効果をもたらしていると思います。     10年後の未来にどういったものがあるかという事はなかなか想像が難しいところだと思います。   介護の領域でも自分自身で自分の介護をロボットを通じて実現出来るのではないかと考えているロボット開発者もいるので、そういったところに期待しています。    常時在宅勤務になっていますが、多様性を重視している会社なのでそれぞれの人の経験がいろいろな場で生かすことが出来ていると思います。  様々な不安に襲われたけれど体験から自分は一人ではない、きっと寄り添ってくれる人がいると思っていると体験談に書いています。  「あなたは一人ではありません」という言葉にとっても感動して、その言葉もこれからの自分に、又孤独を感じている誰かに声をかけていきたいと思っています。

「先のことなど想像できない。  未来には想像できないような医療技術や科学技術の進化が起きる可能性だってあるのだ。  その先へあなたと共に未来を築きたい!」   未来に希望を感じて明日に向かって一歩踏み出せたらいいなと思っています。





 

2021年4月14日水曜日

室町澄子(元「ラジオ深夜便」アンカー) ・「ラジオ深夜便」放送開始30周年 第五回

 室町澄子(元「ラジオ深夜便」アンカー) ・「ラジオ深夜便」放送開始30周年 アンカートークショー 第五回

49歳の時に「ラジオ深夜便」の担当になりました。  アンカーの中でも最年少でした。    昭和21年生まれ、高校生、大学生の頃からNHKでは野際陽子さんとか下重 暁子さんとか素敵な女性アナウンサーが活躍していました。   結局アナウンサーになりました。  入局は昭和44年です。  東大の安田講堂事件があり、アポロ11号が月面に降り立つ、そんな時代でした。  1970年「スタジオ102」の朝のニュース番組のサブニュースキャスターを担当しました。  初めてでいろいろ失敗をしました。   当時「スタジオ102」は30%の視聴率でした。 その後女性手帳』『趣味の園芸』、『小さな旅』などを担当しました。  1995年に『ラジオ深夜便』を担当しました。

アンカーとディレクターもやりなさいと言われました。 夜は苦手でしたが、徹夜で仕事をしなければなりませんでした。  半年後、ホームで転んで大腿骨頸部骨折をしました。  その晩「ラジオ深夜便」を聞いていたら、痛みが半減していました。  何かに縋りたいときにこの放送を聞いて慰められましたとか聞きましたが、こういう事なのかと納得した様な体験をしました。   アンカーコーナーはアンカー自身が興味を持っていることを番組にして自分で編集して放送するというコーナーです。   2本立てにすればやりたいことが二つできると思って、第一部が「ミッドナイトクッキング」、第二部を「東京ぶらり旅」という事にしました。   料理研究家・浜田ひろみさんのスタジオに録音機を持って行って料理を習うという、一風変わった料理教室のコーナーでした。   意外だったのが、中高年の男性の視聴者からとても反響がありました。  10年以上やっているうちに、定年後に本職のレストランを始めてしまいましたが、身体がきつくて5年で撤退しましたがとっても楽しい体験でした。

東京ぶらり旅」はラジオ版の「小さな旅」をやってみようかと思いました。  東京23区内に限りました。   画家兼絵本作家のおのちよさんと“ラジオ深夜便の弥次喜多コンビ”と称し、訪ね歩くことにしました。  深川めしを取材して放送すると、深川めしに関する嬉しいお手紙もいただきました。

「ラジオ深夜便」は忘れていた思い出に出会える番組だと思います。  ちょっとした音楽、ちょっとした話題を耳にすることで、もう一度その日の眼を見るというか、懐かしかったですというお便りがあります。  デパートの屋上で象に乗っている写真が出てきて、その時の思い出話をしたら、お便りが届き来ました。  を世話をしていた方たちの中の一人の方からでした。    の名前は「たか子」と言いました。  そのころの情景が細かく書かれていました。  その写真には係の人も映っていて、送ったらその人だという事もわかりました。  当時はその人は38歳でお便りをくださったときには81歳でした。  世田谷のお住まいに伺いました。  「たか子」はその後多摩動物園に引き取られて40何歳かで天寿を全うしたそうです。  

言葉の間違いなどいろいろご指摘の便りをいただきました。  60歳で定年になってレストランを始めて、5年後に長野から東京に戻ってきて、スカイツリーの下で骨董屋を開きました。  東京ぶらり旅」などで骨董品を購入していて、それを売ろうと思いました。   2019年に閉めました。   担当を離れて今年で15年になりますが、ラジオ深夜便の影響をいろいろ受けていると思いました。  番組が私を導いてくれているような気がします。  

55歳ぐらいの時に、先生からあなたの身体の年齢は63歳ですと言われてしまいました。 一日8000歩歩くこと、筋トレの体操もやって、1か月実行したら、10歳若返っていました。    100歳まで生きると宣言すると、あなたの細胞はその気になり、そのために何をしたらいいかという事をいろいろ興味を持ってやるようになるという事が本に書いてありました。  

「ラジオ深夜便」は心の栄養剤かなあと思います。  身体のことは少しづつ受け入れていかなければいけないというようになりますが、ラジオ深夜便は心の味方になってくれます。

















2021年4月13日火曜日

加藤由子(動物ライター)        ・時代とともに変わる人と猫の関係 

加藤由子(動物ライター)        ・時代とともに変わる人と猫の関係  

1949年大分県別府市生まれ、父親が転勤で九州の各地で暮らしましたが、いつも周りには猫や犬がいました。   今は東日本大震災後に福島県大熊町で保護された推定年齢15歳のオス猫と暮らしています。  加藤さんは大学で生物学、動物行動学を学び卒業後は移動動物園の会社に勤めました。  1980年代の半ばごろから動物関係のライター、エッセーイストとして幅広く活躍しています。  猫関連の著書は「雨の日の猫はとことん眠い」、「猫と最後の日まで幸せに暮らす本」など数多くあります。   加藤さんは猫の飼い方が放し飼いから室内飼いに変わったこと、猫の平均寿命が延びたことなどから飼い主と猫との関係がが変わってきていると言います。 

今は一匹しかいないです。  推定15歳、人間に換算すると77歳ぐらいです。  東日本大震災後、ボランティアが動物を助け出して、病院に連れていき、健康は戻ったが、飼い主がわからなくて、預かっているボランティアがあり、私はそこに登録してあって、この猫がきました。   「チビ」という名前で目が見えなくなってきました。  

物心ついてから犬や猫がいて、25から35歳までは何も買っていなくて、35歳から飼い始めて60年ぐらい飼っていたことになります。  全部で20~30匹になります。  昔は離し飼いが当たり前でした。  親子でひょっこり来て飼っていましたが、一匹は交通事故で、もう一匹は行方不明になってしまいました。  死体でいいから帰ってきて欲しいと思って、動物病院にもらいに行きましたが、片足がありませんでした。   室内飼いが受け入れられました。   

1949年大分県別府市生まれ、父が転勤が多く九州のあちこちに住みました。  犬も猫も物心ついた時にはいました。  大学は家政学部家政理学科に行きました。  植物のほうに行きたかったが、上野動物園に飼育実習に行ったら面白くて、動物のほうに行くことにしました。   動物行動学を学びました。  ローレンツがノーベル賞を取って行動学が脚光を浴びました。   先生になろうかと思ったが、個別に教えればわかるのにそれができない、学校教育は劣等生を作るところではないかと思って、移動動物園の会社に就職しました。  3,4年やっていました。  一生できるものは書くことだったら出来ると思って辞めて、動物ライターになりました。   猫の本を書いて出版して、100冊ぐらいになります。   最近「オスねこは左利き、メスねこは右利き」という本を出しました。

猫の平均寿命は1970年代は5歳前後だったのが、2020年15,5歳になっています。  室内飼いになり交通事故では亡くならなくなって、キャットフードができて栄養バランスのいい食事ができる、獣医療が進んで長生きができるようになりました。  5歳が人間の36歳ぐらい、7歳が44歳にあたる。  

リビア山猫を家畜化した。  農耕が発達すると、穀物倉庫にネズミが住み着き、リビア山猫が住み着き、段々人に飼われるようになった。  地中海近辺で家畜化が始まり、ネズミ対策で世界中に広まっていった。 日本には仏教伝来とともに連れてこられたという事になっているが、記録には無い。   長崎県の壱岐市のカラカミ遺跡で紀元前3世紀(弥生時代中期)の猫の骨が見つかっている。   猫は単独生活、犬は群れの生活、人間も群れの生活。  猫は協調性、社会性がない。   猫は自分の家を縄張りにしているが、引っ越し先でもゼロから作り直して新しい縄張りをつくる。  

野生の猫だったら親が子猫の面倒を見るが、子別れで親が縄張りから追い出す。   人が疑似親をやっているとそういう事が無いので、追い出されて初めて大人の気分になれるが、追い出されなければ大人の気分になるチャンスが無くて、子猫の気分で甘ったれとなる。    猫の行動に興味を抱くことからもっと親密になってくると、なにを考えているんだろうと、心理に興味が行き始めている。  

猫は縄張りの外に出るのは不安で、境界線のところで(窓辺であったり)外を見ているだけです。  猫は待ち伏せ型なので必要が無ければ動かない。   猫の目をじっと見るのは敵意の表れにしか見えない。  そうすると猫は怖がってしまうので、空気のような存在でいるのが一番いいと思います。   猫が慰めてくれるのは誤解で、猫は涙の意味は判らないので、涙をなめてくれるのは別のことです。  

昔、猫は死ぬとき姿を見せないで亡くなったが、今はボロボロになって、飼い主が看取るという事になってきている。   人間と同じですね。  死ぬことを覚悟しておく必要がある。  ショックで日常生活に支障をきたす人もいるので、看取れる幸せを判って欲しいと思います。   落ち込んでいる人の話を聞いてあげるしかないと思います。

老描との付き合い方は何をしても許しちゃうしかないですね。  猫を看取ることは、猫飼育の集大成だと思っています。  人間も同じだと思います。   人間は病院で亡くなることが多いですが、人の死はもっと身近にあっていいと思います。  

猫は生活する上でのよき相棒だと思っています。 生活に潤いをもたらす存在だと思っています。










2021年4月12日月曜日

梶原有里(梶原悠未選手の母)     ・【アスリート誕生物語】自転車競技東京五輪代表

梶原有里(梶原悠未選手の母)    ・【アスリート誕生物語】自転車競技東京五輪代表 

自転車競技オムニアムで日本人初の金メダルを狙う、梶原悠未さんのお母さんに話を伺います。   オムニアムとは4つのレースを組み合わせた自転車競技です。  一斉にスタートし、着順を競うスクラッチ、周回ごとに先頭の選手にポイントが与えられるテンポレース、2週ごとに最下位の選手が脱落して最後まで残った二人がラストの一周のレースで勝敗をエリミネーーション、ポイントごとの着順で点数が加算されてゆくポイントレース、この4つのレースを一日のうちにおこなって順位を決めるという自転車競技です。

私は今、食事作りの栄養面を含めた生活全般のサポートとオートバイで練習についていったりメンタルをサポートしたり、疲労回復のためにマッサージをしたり、取材などのマネージメントをしています。  国内遠征の移動時に車で悠未を連れて行ったり、ホテルの手配、チームの打ち合わせなどのサポートしています。

オリンピックが伊豆の会場で行われることが決定して、伊豆に集結するようにとの通達がありました。  オリンピックの延期が示唆されて、3月ごろが一番気持ちが不安定になっていました。   決まると一日で気持ちを切り替えていました。  毎日ポジティブな言葉をかけるようにしていました。  あと4か月で調整しきれるというところまで来ていました。  2020年3月に世界チャンピオンになって、そのまま行われるオリンピックに最高潮に持ってゆく自信がありましたし、覚悟もありましたが、延期が示唆されたときにはどう調整すればいいのか、どうその気持ちを持ってゆくのか、凄く悩みましたし、いっぱい話し合いました。   競技をもっと楽しもうという風に切り替えました。   延期については一切言わないと決めていました。  「強くなる時間ができたね」と悠未が発した言葉に私も共感しました。  ネガティブなことは一切言いませんでした。

悠未は筑波大の大学院生です。  サイクリング部があり競技班という形で自転車競技を行う子が集まっていました。    サポートは親でもできるかなと思っていました。   自分で勉強したい学校はどこなのか問いかけていたら、それが筑波大学の体育専門学部でした。  知識を得るという事が人間にとって一番大事だと思っていました。   

自転車競技は高校生から始めました。   水泳はゼロ歳から始めました。  水泳は体力もつけることが出来ると思いました。   経験が大事だと思っていて、習字、ピアノ、ダンス、などをやっていました。   習字は集中力を高める事と、綺麗な字を書くことが狙いで、ピアノではリズム感を養う事、大人との会話の練習、ダンスは2,3歳からやっていてリズム感を養うだけではなくて、私にいつもくっついていたので私から離れる練習、舞台に立って多くの人の前での度胸を狙いとしていました。   

小学校4年生から全国大会に出場していました。  2008年5年生の時にオリンピックで北島康介選手の姿を見てオリンピックに出場したいといいました。   ノートに「オリンピック出場」という言葉を何ページにも書いていました。   水泳に関する自分のやるべきことなども書き入れていました。   将来はどんな仕事に就きたいのか、どんなことをしていたいのか常に話しかけていたので、こういう気持ちが芽生えてきたと思います。   

頭の中にこういう方向へという思いがあって、それとなくワードを入れて、筑波大学に入るというのも私の作戦でした。    文武両道の子でした。  スポーツに関しては一切言わない親でした、練習が楽しめなかったらスポーツは続かないと思っていたので。   結果を褒めるのではなくて、結果までの過程を褒める様にしていました。   褒められるからやろうという感じは芽生えてきました。

学びは精神的にも肉体的にも人を大きくしてくれるという風に感じています。  オムニアムは体力も頭脳も厳しい競技だと思います。   自転車競技に出会えたことに感謝しています。   中学3年生の県大会で全国大会への出場を2/100秒で逃しました。  それがきっかけで水泳を辞めることになりました。  神様が何か伝えているのかもしれないよと伝えました。   進学先の高校のパンフレットに自転車競技部があり関東大会出場と書いてあり、自転車競技でもやってみたらと言ってみました。  高校では自転車競技部に入ることになりました。  高校選抜で3種目優勝して、オリンピックという事が少し見えてきました。   

今も前向きな声掛けは毎日しています。   苦しいというような声を聴くとポジティブな言葉、「強くなっているね」とか、「いい練習できているね」と声掛けをしています。   食べ物の好き嫌いはないです。  ちいさいころから気を付けて毎日食事を作っていました。  練習後30分以内に食事をとるようにしています。 疲労回復を促進するためにいいという事です。  薄味と野菜を数多く取るという事が私のポイントです。

トップアスリートになれたのは考える力、努力し続ける勇気と、自分の身体を限界まで追い込める精神力だと思います。  夢は東京五輪で金メダルを取ることと、自転車競技の魅力を伝えたいと言っていました。  





2021年4月11日日曜日

吉田菊次郎(パティシエ)        ・甘いものがつなぐ幸せ

吉田菊次郎(パティシエ)        ・甘いものがつなぐ幸せ 

1944年東京生まれ、大学を卒業し、都内でお菓子作りを修行し、70年からはパリ、ジュネーブで腕を磨きました。  3年間のヨーロッパでの暮らしの後、東京でお菓子の製造会社を始めました。  以来世界や日本のお菓子の研究にも取り組み、お菓子に関する専門書をはじめエッセーや小説なども出版しています。

百貨店を主戦場としていて、クローズしたり、時間短縮という事で苦戦しています。 ネット関係は伸びています。   

両親が菓子屋の家庭で、何の疑いもなく菓子屋になるんだろうなと思っていました。  父方、母方の父親もそれぞれ菓子屋でした。  親戚も菓子屋です。   ちいさいころから甘いものは好きでした。   大学では商学部に入りました。  大学3年の時に父の会社が倒産してしまいました。   味方だったと思ってた方が手のひらを返したり、今まで距離を置いていた方が温かい手を指しのべてくれたり、いい経験をしました。   倒産するころは職人が辞めて行き注文はこなさなければいけないので、明け方までこなして、学校には行ってられませんでした。   大学4年の時には大学紛争で大学も封鎖されて、卒論もゼミもなく、大学出という事になりました。

父の知り合いの東京のお菓子の会社で修行することになりました。  あの頃は寮では東北地方から出てきた方、職人さんなどと、一緒に遊んだりしました。  

いつかはフランスに行かなくてはいけないのではないかと漠然とした思いはありましたが、突然いくはめになったので自分でも慌てました。  フランスの店では朝は5時から、終わりは終わるまで、祭日は朝3時からでした。  7時半、8時には店を始めましたが、朝からお客さんが買いに来ました。   フランス語は覚えるしかないので必死に覚えていきました。   7月14日はパリ祭で、自分たちも新しいユニホームで行進するんだという風に言われ、白衣を着たままシャンゼリゼまで行くのか聞いたら、おちょくられたようです。

1971年 お菓子の世界コンクールの第一回大会があり、出場しました。  何を作るか出場の前には何にも考えていなくて、姫路城だと閃いて、日本から模型を送ってもらって、色々調べました。   なんで屋根のてっぺんに魚がいるんだと言われたが判らなくて、適当に言っていましたが、天守閣が焼けたら戦いが負けというルールがあったそうで、負けないように海の中で一番強いシャチをのっけたようです。  世界からそうそうたるメンバーが来て、きらびやかな飴細工が並べられて、見た途端これは駄目だとしょげかえりました。  銅メダルで自分の名前を呼ばれて涙がボロボロ出ました。   これでなんとか日本に帰れると思いました。   以後色々賞をもらって、スイスでも修行して日本に帰ってきました。

1973年直ぐに日本で洋菓子の会社を始めました。   渋谷の7坪の小さなところでした。パリにいたときに古き良きお菓子を発掘しようという提案があり、探して1800年代前半に活躍した人のものをやってみようという事になり、レシピはありましたが、幻のお菓子で復活させて持っていったら大好評でした。  私が店を開いた時には真っ先にそれを作りました。  宮廷菓子なので正装して食べていただきたいお菓子です。

3月に店がオープンして10月には父が亡くなってしまいました。(61歳)  店も会社も軌道に乗っていきました。   いろいろな本を集めました。  最近は皆さんが自分のコレクションなんだけれどもと言ってその本を預かったりします。 次の世代にどうやって渡すか、今悩んでいます。      古いものでも業界にとっての価値観があります。   NHKのドラマのお菓子に関する監修もやってます。  朝の連続TV小説 「どんど晴れ」の大杉漣さんの役は自分自身のような思いがあります。   その他いろいろなドラマで監修してきました。

東日本大震災の後に被災地の応援でお菓子を持っていきました。  水をと言われて、連絡したらそこは国際的企業でもう100万本用意してあるとの事で、調理の必要にない食品を50万食をと言われて、食品会社に連絡して、お菓子の出番だという事でトラックに積み込んで私が運転していきました。   身寄りのない子が遊んだりしていましたが、喜んでくれました。お菓子はやっぱり安らぎを与えるものなんですよ。  熊本の震災の時にも支援させていただいたり、コロナでシングルマザーの人たちが苦労しているという事で会を通して、各支部に送ってあげたりしました。

父が俳人でもあったので、金子兜太さんに出会って君は北舟子(父の俳号)の子供かと言われ、私は南舟子と金子兜太さんに付けていただきました。  俳句は心の句読点のようなものです。 「早やととせ春禍一寸先の闇」(大震災から10年経った今の思い)  句集は3冊、最近では俳句とエッセーを1冊にまとめたもの、「流離(さすらい)」を刊行しました。  辛かったことは勉強だと思っています。 恵方巻はTVのニュースで捨てられているというのを見ながら、お菓子屋さんの世界は毎日やっているじゃないかと思って、生ものを何とかしなければいけないと思っていて、瞬間凍結などの技術を利用でいないかと思っています。  出来た暁には、なんとか恵まれない子に届けられないかと思っています。


2021年4月10日土曜日

広瀬浩二郎(国立民族学博物館 准教授) ・「視覚障害者と"触る文化"のゆくえ」

広瀬浩二郎(国立民族学博物館 准教授) ・「視覚障害者と"触る文化"のゆくえ」 

広瀬さんは目の病気のため幼くして左目が見えなくなり、右目も次第に見えなくなって13歳の時には完全に失明、中学、高校は盲学校に通い、京都大学の日本史学科に進んで障害者の歴史を研究しました。  2000年に京大大学院で文学博士号を取得、2001年から大阪府吹田市の国立民俗学博物館に勤務し、展示物に触れてもらう触る展示を企画してきました。   障害のあるなしにかかわらず触ることで、新たな発見をしてもらう事で「触文化」と名付けています。  研究の集大成として去年秋に開催する予定だった特別展は、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で今年の秋に延期になりました。  触ることは視覚障害者にとって欠かせない行為で、広瀬さんは当事者としても研究者としても、触ることを敬遠する動きを懸念しています。   触る文化とは何か、伺いました。

新型コロナウイルスで、人、物に触るなという事が広がってしまって、僕らは触って情報を得るので、非常に生活しにくくなったという印象が強いです。  レジでもたついてしまうという事もあります。   マスクをし始めて、全然普段と違う、音の聞こえ方、風の流れとか顔はセンサーにもなっているのでマスクをすると鈍ってしまいます。   音は大事です。 街の音が違ってくるとメンタルマップが狂ってしまう。

日本の歴史の研究をしていまして国立民俗学博物館に就職しました。  見学するという事ですが、我々は見る事ができない。  触って物の形、大きさ、重さなどを感じます。  道具などを展示する博物館なので積極的に触って、関心を生かすという方向で収蔵品に触って確かめて行きました。   温度、質感、などは触ってみないと判らない。   しかしこれは眼に見える見えないに関係なく大切な要素だと思います。   髙さ9mのトーテムポールを中庭に立ててじっくり触って、木の匂いなどを感じました。  アーティストの人が制作しているのを追体験をしているのを感じる様でした。

触る展示、2006年が初めてでした。  視覚障害の人にもっと博物館にきてもらいたいと思いました。  点字が出来る前の触る文字だけだと地味なので、触って面白いもの、仏像、神社の模型、鳥の模型とか、展示しました。  2012年には常設コーナー、「世界を触る」というコーナーを設けました。   見ないで触るというコーナーも設けました。   いろんな地域、いろんな素材のものを集めてバラエティーにはこだわりました。  昨年2月に臨時休館になり、開館するとなった時にも非接触という事で、運用が無理という事で締めましたが、7月ごろ触る前後にスタッフが監視して消毒をして、今は通常の運用をしています。  

目の見える人は確認型ですが、触ることに集中してもらって探索型にしてもらいたい。   来館者にアイマスクをするという企画もしました。  探索型の触り方をしてくれます。 割と評判がいいのでもう少し大々的に展開したいと思っています。  音が出るもの 南米の楽器 ギロ カエルの形をした背中に凹凸があり棒で擦ると音がする。  アフリカの民族楽器や瓜を乾かしたもので種が入っていて、ピンポン玉よりちょっと大きくて糸で二個をぶってけて振って音を出す子供の遊び道具。

視覚以外の感覚を再評価する。  視覚に頼り過ぎてしまって来て、感覚の豊かさを失ってきている。  触るという事は全身の感覚をもう一度敏感にする。  縄文土器に触って手を介して縄文人を感じてもらう。   

2017年奈良の国民文化祭で、興福寺の仏頭、直径1mぐらいの物で、火災で燃えてしまって頭の部分がある。  精巧につくられたレプリカがあり、触れる展示物として展示することになったが、私も触る機会があり、左耳の下の部分が欠けている。  その部分を触った瞬間に仏像の痛みが自分に伝わってきたような感じがして、ゾクゾクっと感じました。

触る文化、触る楽しさ、奥深さを目が見える見えないに拘わらず、伝えて行く、そのキーワードとして「触文化」を広げていきたいと思います。  ユニバーサルミュージアム「触の大博覧会」が今年の秋に延期されました。   触るという根本的なことをじっくり時間をかけて問い直す時間があり、結果としては決してマイナスではなかった。 9月から3か月を予定しています。  基本的には3次元のものが多いですが、2次元の点図、地図、天文図、太陽系とか、火星の表面を表しているもの、銅鐸の表面、なども展示予定です。  音、土鈴など振って音を鳴らしてもらう。  自分で体感してもらう。





2021年4月9日金曜日

小川糸(作家)             ・私と小説と、料理と旅

 小川糸(作家)             ・私と小説と、料理と旅

1973年山形市生まれ、大学卒業後、編集プロダクションや作詞家などを経て、2008年に「食堂カタツムリ」で本格的に作家としての活動を始めました。  この作品は2年後に映画化されました。  その後の作品「つるかめ助産院」や「ツバキ文具店」はいずれもNHKでTVドラマ化されました。  全国の書店員が選ぶ本屋大賞でも、作品が相次いでノミネート、昨年の「ライオンのおやつ」は第2位となりました。  多忙な小川さんを癒しているのが料理と旅、料理の知識や海外の旅の経験は作品に生かされています。

山形はそばもおいしいですが、ラーメンもおいしいです。   小学校では毎日日記を書いていって、それに先生がコメントを書いて戻してくれるという事をやっていました。  感想を書いていただくのが楽しみでした。  読むより書くという行為のほうが好きでした。   編集プロダクションに勤めましたが、担当する雑誌が休刊になってしまって、世の中の不条理も感じて、そこから小説を書くようになりました。(23歳ごろ)

文学賞に応募したり、編集者さんに読んでもらったりしましたが、10年が過ぎて行きました。   10年間苦しい生活でした。   「食堂カタツムリ」をポプラ社の文学賞に応募して、それがきっかけとなりデビューさせていただくことになりました。   これは2年後に映画にもなることになりました。  海外でも翻訳されていきました。  翻訳者の方との共同作業をしていきました。   

タイトルは不思議と言われますが、この作品にはこれがいいと思うだけです。  料理をすることは一番のストレス解消になっています。   友人にもてなしたりすることも好きです。   2010年「つるかめ助産院」、2017年「ツバキ文具店」 NHKのTVドラマ化されいろんな方が見てくださいました。  女性ファンが多いです。  理由はわからないです。  すべて失ってそして再生の物語を書いていると思います。

本には島が多く出てきます。  島は基本的に大好きです。  「ツバキ文具店」は代書屋が出てきますが、社会と接点を持ちながらら役に立って生きていけるのかなあと思いました。  鎌倉は私自身も好きですし、物語の雰囲気と合っているのかなあと思いました。  「つるかめ助産院」は南の島という事になっています。  助産師に話を聞いたり、助産院に実際に見せていただきました。   その場所の空気感、みたいなものに身を置いてみないと感じられないので、自分自身が感じることが大事だと思っています。        「ライオンのおやつ」は本屋大賞の第2位となりました。  ホスピス 若い女性がステージ4で後数か月しか生きられない。  最後の場所を瀬戸内に求めた。     

「つるかめ助産院」では生命の誕生する場所の物語を書いたので、対として命を終える場所という物語を書きたいと思いました。  母ががんになり「死ぬことが怖い」といって、一般の人たちも自分が死ぬことに対しての漠然とした不安とか恐怖があると思って、読んだ人が死ぬのが怖くなくなるような、死を別の方向から光を当てて、夢もあるんじゃないかみたいなものを伝えられたらと思いました。

ドイツのベルリンにも住んでいましたし、北欧にもよく行っていました。  自分の住む場所を自分で決めてもいいのかなあと思って、一生に一回ぐらい海外で暮らすのもいいと思いました。  ドイツは自由を大事にしているのが魅力を感じました。 自分自身が自分らしくいられる場所だと感じました。  ラトビアが好きです。 人口も少ないのでその分文化が残っていて、歌の文化があって、合唱をしたり、音楽も独特で、自然に対しての感謝の気持ちがあり、自然崇拝みたいなものが日本と近いものがあると思いました。

昨年の春、コロナが広がって決断して日本に戻りました。  最新作「とわの庭」は原稿自体はコロナの前に書いたんですが、推敲はコロナの時期と重なって、主人公が外に出られないという話なので、とわの気持ちを自分自身がなぞるような経験になったと思います。  作家は楽しくて喜びも凄く大きいが、それと同じぐらい生みの苦しみがあるかなあと思います。  出来上がった本を見ると本当に我が子というような思いがあります。   

広い意味での実用書でありたいと思って作品を書いていますが、読者その人の人生に寄り添っていけるような実用書を、これからも書けていけたらいいなあと思います。   山形には恩返しができればいいなあと思っていて、いつか山形を舞台に書きたいと思います。





 

2021年4月8日木曜日

安藤誠(写真家・アウトドアガイド)     ・ネイチャーガイドへの道を語る

安藤誠(写真家・アウトドアガイド)     ・ネイチャーガイドへの道を語る 

札幌市生まれ56歳。 北海道の自然や生き物に好奇心旺盛な少年でした。   小学生の時にはファーブル昆虫記やシートン動物記などを読み卒業文集に将来の夢は森林の警備隊員になり森の動物たちを守りたいと書いています。  子どもの時からの夢を持ち続け、知床ボランティアガイドの資格も取りました。   また子供のころから続けていた写真撮影の技術を生かしイギリス自然史博物館主催の野生動物写真コンテストなど世界的な写真コンクールで次々と受賞しています。

北海道阿寒郡鶴居村雪裡原野に住んでいます。  セツリはアイヌ語で「鳥の巣が多い」という意味で漢字で当て字にしただけです。  丹頂 丹は古い日本語の赤で、頂はてっぺんで丹頂で鶴という意味です。 丹頂蔓というと鶴鶴という事になってしまいます。

アウトドアマスターガイド、北海道知事の認可を得たガイドをしています。  リスクマネージメントがしっかりしていて、試験を受けて、プロフェッショナルなガイドで、マスターガイドはそういったガイドを審査したり指導したりする立場になっています。

アラスカでも毎年ガイドに行っていて17年間いっています。  今エゾモモンガの繁殖期で、丹頂の営巣期、エゾフクロウも恋の季節になっていて、今週もびっちりガイドが入っています。

アラスカのネーティブの方が北海道のアイヌに文化と自然に興味があるという事でガイドを探してほしいという事で、紹介を頂いて、アラスカの先住民のかたを家に泊めて、ガイドした時に、ガイドするたびになんと北海道には素晴らしい自然があるのだろう、なんてアイヌ民族の生き方は我々と共通しているんだろうと、涙を流して感動してくれました。   アラスカに来るべきだと言われて、社交辞令だと思っていたら、2週間後に妻と共にアラスカのその町が招待してくれて、釧路から東京、シアトル、・・・、合計6枚の航空券まで送られてきました。  1冊の本が書けるぐらいの歓迎ぶりでした。    僕の好きなギターが用意されていて、原住民の300人ぐらいの歓迎の席でいきなり何か演奏するように言われて、弾きました。  総立ちで拍手してくれました。   こちらで使ってもいいというオートバイも用意してくれていていました。   疑わずに人を信用するというところからスタートするという事をアラスカから学びました。  厳しい自然の中で生きるのは、常に自分のことだけではなく他人のことを考えるという事をアラスカから学びました。

イギリス自然史博物館主催の野生動物写真コンテストで受賞しました。  言葉でしゃべっていても限界を感じて、写真を見せることによってそれぞれ感動や情報を受け取ってもらうという事をしましたが、今ではそれでも間に合わず、動画とか、映画仕立てのムービーを作って発信するところに来ています。  

動物の世界で厳しい中で生きてゆくという本などで感じて影響を受けまして、気に入った本であると5回、10回も読みました。  高校生では北海道一周自転車旅行、大学生では全国をバイクに乗ってめぐりまわって、4回も全国一周しました。  死ぬか生きるかというよな経験もしました。   一人で不安を抱えながらも旅をすると、収穫できることが沢山あります。    旅の魅力は自分を映し出して行く鏡であると同時に、出会いと感動だと思います。   植村直己さんの本とかも読んでいました。  東北福祉大学に進みましたが、今だから言えますが、特殊な大学に行けば全国で無料で宿に泊まることが出来るという事で、行きました。

予備校の塾の先生になりました。  高校の美術の先生から数学とか他の教科は赤点を取らない程度でいいから一科目、好きな日本史を徹底的にやればいいと言われました。  そのおかげで予備校のほうの先生になりました。   10年ぐらいやっていました。   脱線するような授業でしたが、家で一生懸命勉強してくれたり、生徒たちもいろいろ逆に気を使ってくれました。

ロッジを作るために、2年ぐらい道具の使い方から修業しました。  ロッジを作るために木を切るところからやりました。    開業資金には苦労しました。 12,3社銀行を回っても担保がないため直ぐ駄目と言われてしまいました。  或る銀行だけが応じてくれて、いかに人を観るかという事を銀行の方が答えをくれました。  人生はガイドだ。  日本の禅の考え方は極めたいけど極まることはないが、一生かかって極めていこうという考え方です。  日本の習い事は○○道という事で、極まることはないが極めて行くという生き方そのもののことだと定義した人生、ガイドは人生であるとした。

本当のガイドは自分が案内するテキストの生き方、力量、をいち早くチェックして、その人に合った導き方、その人が一番喜ぶという事を提供してゆくことがガイドだと思います。 興味がない人にこの花は、この鳥はと言ってもしょうがない。  インタープリテーション(自然・文化・歴史(遺産)を分かり易く人々に伝えること。自然についての知識そのものを伝えるだけではなく、その裏側にある「メッセージ」を伝える行為。)と言いますが、ガイドする素材をしっかり理解していないと、自然と人間を接着することはできないし、人間と人間を接着することはできない。   

オーロラはローマ神話の「夜明けの女神」で、明日があるよ、今も生きていける、明日も生きていけるという意味での光だという事を言います。  自分が地球人だと意識するようなことはほとんどないが、オーロラの光を見るという事は、自分が地球人で地球という素晴らしい生命体と一緒に生きていけると考えたら、地球という星に生かされていると考えられる、オーロラはそういう光だと思います。

先住民の方たちが特別の特別中に捉えていた熊の存在ですが、余りにもゆがめられて危険な動物と思われていて、先住民の方たちが熊を特別な神様ととらえているが、去年だけでも800頭殺されている。   何とかしたいと一生懸命動いている最中です。   こういうスピリッツを若い人たちにどんどん繋いでいって、先人たちが折り合いをつけてきたように僕らもしっかり繋いでいきたいと思っています。