2021年4月11日日曜日

吉田菊次郎(パティシエ)        ・甘いものがつなぐ幸せ

吉田菊次郎(パティシエ)        ・甘いものがつなぐ幸せ 

1944年東京生まれ、大学を卒業し、都内でお菓子作りを修行し、70年からはパリ、ジュネーブで腕を磨きました。  3年間のヨーロッパでの暮らしの後、東京でお菓子の製造会社を始めました。  以来世界や日本のお菓子の研究にも取り組み、お菓子に関する専門書をはじめエッセーや小説なども出版しています。

百貨店を主戦場としていて、クローズしたり、時間短縮という事で苦戦しています。 ネット関係は伸びています。   

両親が菓子屋の家庭で、何の疑いもなく菓子屋になるんだろうなと思っていました。  父方、母方の父親もそれぞれ菓子屋でした。  親戚も菓子屋です。   ちいさいころから甘いものは好きでした。   大学では商学部に入りました。  大学3年の時に父の会社が倒産してしまいました。   味方だったと思ってた方が手のひらを返したり、今まで距離を置いていた方が温かい手を指しのべてくれたり、いい経験をしました。   倒産するころは職人が辞めて行き注文はこなさなければいけないので、明け方までこなして、学校には行ってられませんでした。   大学4年の時には大学紛争で大学も封鎖されて、卒論もゼミもなく、大学出という事になりました。

父の知り合いの東京のお菓子の会社で修行することになりました。  あの頃は寮では東北地方から出てきた方、職人さんなどと、一緒に遊んだりしました。  

いつかはフランスに行かなくてはいけないのではないかと漠然とした思いはありましたが、突然いくはめになったので自分でも慌てました。  フランスの店では朝は5時から、終わりは終わるまで、祭日は朝3時からでした。  7時半、8時には店を始めましたが、朝からお客さんが買いに来ました。   フランス語は覚えるしかないので必死に覚えていきました。   7月14日はパリ祭で、自分たちも新しいユニホームで行進するんだという風に言われ、白衣を着たままシャンゼリゼまで行くのか聞いたら、おちょくられたようです。

1971年 お菓子の世界コンクールの第一回大会があり、出場しました。  何を作るか出場の前には何にも考えていなくて、姫路城だと閃いて、日本から模型を送ってもらって、色々調べました。   なんで屋根のてっぺんに魚がいるんだと言われたが判らなくて、適当に言っていましたが、天守閣が焼けたら戦いが負けというルールがあったそうで、負けないように海の中で一番強いシャチをのっけたようです。  世界からそうそうたるメンバーが来て、きらびやかな飴細工が並べられて、見た途端これは駄目だとしょげかえりました。  銅メダルで自分の名前を呼ばれて涙がボロボロ出ました。   これでなんとか日本に帰れると思いました。   以後色々賞をもらって、スイスでも修行して日本に帰ってきました。

1973年直ぐに日本で洋菓子の会社を始めました。   渋谷の7坪の小さなところでした。パリにいたときに古き良きお菓子を発掘しようという提案があり、探して1800年代前半に活躍した人のものをやってみようという事になり、レシピはありましたが、幻のお菓子で復活させて持っていったら大好評でした。  私が店を開いた時には真っ先にそれを作りました。  宮廷菓子なので正装して食べていただきたいお菓子です。

3月に店がオープンして10月には父が亡くなってしまいました。(61歳)  店も会社も軌道に乗っていきました。   いろいろな本を集めました。  最近は皆さんが自分のコレクションなんだけれどもと言ってその本を預かったりします。 次の世代にどうやって渡すか、今悩んでいます。      古いものでも業界にとっての価値観があります。   NHKのドラマのお菓子に関する監修もやってます。  朝の連続TV小説 「どんど晴れ」の大杉漣さんの役は自分自身のような思いがあります。   その他いろいろなドラマで監修してきました。

東日本大震災の後に被災地の応援でお菓子を持っていきました。  水をと言われて、連絡したらそこは国際的企業でもう100万本用意してあるとの事で、調理の必要にない食品を50万食をと言われて、食品会社に連絡して、お菓子の出番だという事でトラックに積み込んで私が運転していきました。   身寄りのない子が遊んだりしていましたが、喜んでくれました。お菓子はやっぱり安らぎを与えるものなんですよ。  熊本の震災の時にも支援させていただいたり、コロナでシングルマザーの人たちが苦労しているという事で会を通して、各支部に送ってあげたりしました。

父が俳人でもあったので、金子兜太さんに出会って君は北舟子(父の俳号)の子供かと言われ、私は南舟子と金子兜太さんに付けていただきました。  俳句は心の句読点のようなものです。 「早やととせ春禍一寸先の闇」(大震災から10年経った今の思い)  句集は3冊、最近では俳句とエッセーを1冊にまとめたもの、「流離(さすらい)」を刊行しました。  辛かったことは勉強だと思っています。 恵方巻はTVのニュースで捨てられているというのを見ながら、お菓子屋さんの世界は毎日やっているじゃないかと思って、生ものを何とかしなければいけないと思っていて、瞬間凍結などの技術を利用でいないかと思っています。  出来た暁には、なんとか恵まれない子に届けられないかと思っています。