2013年7月31日水曜日

惣万佳代子(デーサービス代表)     ・富山から福祉を変え続けて20年 2

惣万佳代子(デーサービスこの指とまれ代表)     富山から福祉を変え続けて20年 2
この指とまれは赤ちゃんからお年寄りまで,一緒に支えたいと、全く知らない福祉の世界に飛び込みました
当時、同僚たちは夢のようなことをしていると3人の行動を危ぶんでみていたといいます
公的支援もなく、経営は苦しかったのですが、熱い思いを持ち続け、8年後にやっとNPO法人になることができ、富山県からの補助を受けられるよう成りました
10年後には惣万さんたちが始めた日本初のデーケア方式は、国が認めるところとなり、富山型デーケアサービスとして、今では全国に1060か所あまりに、広がっています
次なる夢をどのようにしてどのようにして、実現させていったのか伺います

自立支援法で障害者も受け入れていいという事になったので、優秀なスタッフも増えたし、経営的に安定した
2003年 富山型デーケアサービス 特区地として認められた
縦割り行政を無視して、赤ちゃんからお年寄りまでを世話することをやったことが、時代がついてきた(国が認めた)
私たちの活動を続けてきたことが、変えることの原動力になったと思う
西村さん(後輩)と2人3脚でやってきた(一人は事情で辞めた)
障害者、知的障害者を含めてショートステイ 特区で提出したが、不合格だったが、特区申請を再提出したら、今度は特区を通りこして、指定になった
身近に精神、知的な方が泊れるようになった

必要な時に必要なサービスをする  一昨年統計では全国では 1006事業所ある
今年はかなり多くなっているのではないかと想像している
東日本被災地でも、共生型施設 誰もが身近なところで赤ちゃんからお年寄りまで集まって、そこにショートステイができればいいのではないかと、あんまり大きな施設はいらないのではないかと、国は一件につき、5000万円の補助を出せばいいのではないかと、被災地に対して行えばいいのではないかと言っている
私たちの施設ではお年寄りは骨折の事故はない (下が床か畳で柔らかい  他のデーサービスではセメントで硬い)
狭いので目も届く

家族みたいな環境である 
ぱっと見たときに誰が利用者か、誰が職員か、ボランティアかわからない
1993年に開始、10年後に全国区になり、一つの目標がおわって、次に取り組みは B型就労
A型は2年後に一般就労を目指す B型は長い目で見たら、一般就労を目指すが、通ってそこで働く
この指とまれに 19年 15年と努めている人がいるが、作業所は作業所で作業するのが、作業場なので、介護の預かっているところで作業しているのは、作業所でない
作業所に派遣している事となるので、認められなかった
10年経って、県が困ってる事は無いかと、と問われたときに、この件は10年前には駄目だったといわれたが、このような形で知的障害の方が5人就労していた
この人たちにちいさな作業所として認められないのかと、県が国に言ったら、、5,6人は駄目だと
20人を目指せと言われたが、それは無理だといった

小規模 60数か所に障害者が働いているので、そこで働いている人を合わせて、20人を目標に出来ないかと言う考えになって、それならばできると、施設内就労と言う事になった
管理は「この指とまれ」  協力金を出してもらえる B型就労一人につき、5800円出る
施設内就労は+1000円  一人につき国から6800円もらえることになる
今までは大きな土地、建物を用意して、パン、ケーキ作ったりするのに、維持費が必要だが、初期投資をしなくてもいい(デーケアサービスで働くので)

一番素晴らしいなと思うのは、いろんな人たちとしゃべることができる、役に立つ仕事内容なので他に移っても、対応ができる
大塚さんは中学から高校まで、この施設の利用者だったが、この施設に働きたいとの願いで働くようになった
中村さんは会社に務めたが、会社から来なくてもいいと言われてしまい、明日からこの指とまれに働かしてほしいと、首にしないでくれと言われた
中村さんを絶賛する人もいる B型就労

県も進めているが、養護学校を卒業するとケーキ屋、ラーメン屋で働きたいとかいろいろあり、選択肢が多いほうがいいと思うが、今は介護の仲間でやっているが、やがてそういう働く人、花屋、ケーキ屋さんで働く仲間と手を組んで、仲間になって 20人ほどの仲間を作っていこうと思っている
若年性認知症の方 63歳元市役所 59歳の方は学校の先生が認知症になった人の発表
私たちは老人デーサービスに行っても合わない 塗り絵をさせられたりして、能力が少し残ってるので働きたいと言っている
B型就労の一人として、派遣しているような形態をとれないかと、介護保険では無理かもしれないけど 、何かできないかと言っていた

根底にあるのは、困っている人がいる、そして何とかできないのかなと、頭を働かしたり、実践したりして、どうしたらいいのか、制度の活用、うちからお金を出して動いて、そのうちに国が認めてくれるのではないかと、制度は後から付いてくるんじゃないのかなと、先ずは実践、活動だと思います
現場にはいろんなヒントがある(現場が良い)
初め、行政は敵だと思っていたが、今は違う 行政も民間の力が必要なんですよ
行政マンと20年付き合ってきたが、頭はいいが、頭が硬い、発想が無い、柔軟性が無い
発想と柔軟性、行動力があるのは民間のよさだと思う
それを法律、条例を変えたりして、継続して、力をつけて、後ろから押してくれるのが行政の仕事だと今は思う

富山県 住みやすい 幸せ度は福井県から2番目
死にがいのある街作り  富山で死んでもいいという、だから皆で支えあって、生きていこうという思い 現在富山県は90数か所あるが、200か所作ろうと目標をしてしている
ちいさな施設が良いと思っている
寺は1000人、2000人に一か所ある 拠点としていた  寺の数だけ有ればいいなあと思う
寺が共生のデーサービスとか、誰もが集まる拠点、原点に返って、皆が集まれる場所になって行ったら、支えたり支えられたりする、お互いさまの社会が生まれてくるのではないかと思う
死に甲斐のある は 生き甲斐のあるに通じる

一つの区切りは65歳だと思っている(あと3年) そこでまた考えようと思っている
その人らしい生き方、その人らしい死に方を支えることが「この指とまれ」の使命だと思っている
結局人間はいつかは死ぬので、よりよく生きてほしいし、その人らしい死に方で死んでいってほしいと思っている
ブータンが幸せ度 96% でも生活は貧しい 日本みたいに、医療保険、年金、介護保険もないところが幸せだと言っている
日本は3つも持っているのに、幸せとは言わない
何が足りないかと言うと、根本的な温かさ、気持ち、ぬくもり、お互いさま、支えあいが無くなってきたのではないかと、思う
どうしたらいいのか解らないが、私たちは小さな事の積み重ねしかできないが、「この指とまれ」がずーっと続いて、引退しても若い人たちにこの精神と活動を引き継いでいってほしいと思います














 




  















2013年7月30日火曜日

惣万佳代子(デーサービス代表)     ・富山から福祉を変え続けて20年

惣万佳代子(デーサービスこの指とまれ代表)     富山から福祉を変え続けて20年
惣万佳代子さんは20年前に看護師仲間と3人で、デーケアハウスこの指とまれを、富山市に開きました
この指とまれは赤ちゃんからお年寄りまで、障害があってもなくでもだれでもが利用できる、福祉制度の垣根を越えた、日本で初めてのケアハウスです
そのために8年間は、行政からの補助を受けられず、いつも経営はひのくるま、苦労の連続でした、ところが10年後、国は惣万佳代子さんたちが始めたこの方式を富山型デーサービスとして、認めるに至りました
またこの4月からは、惣万佳代子さんたちが実践してきた、障害を持つ人たちへの仕事の斡旋や、雇用が国から承認され、障害者の就労に風穴があくと期待されます
型破りの発想で、福祉の世界を変えてきた、惣万佳代子さんに20年間の話を伺います

いつつぶれるかわからないと、言われているのでよく持ったねと言われる
1日が長く、48時間にも72時間にも感じた日があった
10年過ぎからは、10年は早かったように感じる 
30時間を一日取れたら、充実していると思う 丁度いいかなあと思う
この指とまれの施設に一角に住んでいる
最初の理念 根本的には変わっていない 今は安定したこの指とまれになったと思う
富山赤十字病院に20年間看護師として働いて、最後の4年間で経験したこと、お年寄りは家に帰って暮らしたい、死にたいというんです 

障害を持った人、介護が必要な人なのでお嫁さんは働きたいために、うちでは見られないという事になる
老人病院に行くことになる  しばらくして観に行ったら、手足をひもで縛られていた
ほとんどの人が、天上向いてしゃべらないで、しゃべられたかと思ったら、はよう迎えにきてくだされと言って、手を差し出す
家の人に迎えに来てくれと思ったが、仏さんか神様に迎えに来てくださいという事が解った
看護師として、命を助けても最後のところで、泣いているじゃないかと、何かお年寄りに力になれないかと思って、友達3人と病院辞めて、家で死にたいとか、家でずーっと過ごしたいという人を
支えたいと思って辞めた

なんで赤ちゃんからお年寄りまで、そして障害者まで入れたが、お年寄りだけの対象者にしても良かったのではないかと、見学者に言われたりするが、確かにお年寄りがきっかけだったんですが、街に住んでる人たちで困っているのは、お年寄りだけでなく、赤ちゃん、障害者も一緒にささえようとした
看護の原点の対象が全ての人だから、自然にできたのかなあと思った
もし福祉大学に行ったりしていたらこのような発想は無かったと思う
小学校の卒業文集に看護師になりたいと書いた
私の母は中学2年の時にあと半年の命だと宣告された 
入退院の姿を見て、高校を卒業するときに看護師になろうと思ったのかなあと思う

母はよかったのは、居間で生活していた 皆と一緒TV見たり、して過ごした そのあと15年生きて、介護をした
人間はいろんな方たちに支えてもらいなが生きるのが、人間なんでしょうね
その代わり母も私たちをちゃんと育ててくれたし、順番なんですよね
最初、内科病棟、小児病棟、あの頃未熟児施設があったので、人生無駄が無いと思う(その経験が役に立っている)
辞めるのに凄い決断だねと言われるが、自分ではそうは思わなかった やりたいことをやるだけだから、ただよく言われたたのは生活が苦しくなるし、こんな安定を捨てて行くのは何事かと言われた(間抜けの3人と言われたが)

初めは土地、お金、の用意から始めなければならなかった
銀行もお金を貸してくれなかった  商工会議所の人が 3人が退職金を投げだして、やると これからの福祉はこういう人たちにやっていってもらわなくてはいけない、そしてそれを応援するのが国民金融公庫なのではないかと、600万円貸してくれた(有難かった)
建物で3400万円かかった(私たち3人で退職金が合計3000万円)  全国から寄付金が集まった
行政とぶつかる 赤ちゃんからお年寄り、障害者までを含むと、補助金は出せないとのこと
でもやってみたらと言われた

「この指とまれ」私がネーミングした  赤ちゃんからお年寄りまで皆がコミュニケーション出来る場所と言う事でこの名前がぴったりだと思った
最初、利用者が集まらなかった  当時認知症預かったら(9時~3時頃まで) 処置費1万円出ていたので、そこの利用料は 一人600円程度でよかったが、うちは一日居た場合に2500円 利用料を頂こうとした(指定ではなかったので補助金はもらえなかった) 食費500円プラス
600円対3000円では高いので、やっぱりそっちの方に行ってしまう
午後6時まで預かります、時によっては午後8時までみますとパンフレットを出した
土、日も見て当たると、仕事があったら、獣医の人たちが先ず来られるようになって、段々増えてきた  時間の柔軟性があよかった

平成9年、在宅障害者、障害児のデーケア事業委託された
障害者のお母さんたちが署名運動をして、10日間で120枚集めてくれて、それで市が動いて初めて委託事業をうけたが、だけどその時には社会的理由でないといけないとのことで、でも理由はいいんじゃないかと、委託された時に土、日もやっているところが利用しやすかった事と、電話一本で引き受けてくれたと、時間が遅れてきても、文句一つ言わなかった、取っても使い勝手が良かったので、来てくれるようになる
社会福祉法人等が段々、委託事業の手を引いて行った(大きいところでは土、日はやっていなかったし)
スタッフは3人+ボランティア(登録だけで32人) 人には恵まれた
平成5年に利用者は1.8人/日  8年後に介護保険が始まったので、7年間よくできたと思う
3年目、4年目には人を雇うようにした
いろんな人たちが動いてくれて、マスコミも応援してくれた
潰れるのではないかとの噂があったりし、自分の心の中ではつぶれるのではないかと思った 
介護保険と言う展望が見えてきたときに私たちが、指定になれるとは夢にも思わなかった

指定業者になれたことはNPO法人のお陰だし、県がNPO法人を進めてくれたことが、よかったのではないかと思う
平成9年度に5人規模で年間180万円頂いた 10人規模だと360万円頂ける
平成12年度からは制度で補助金を出せなくなると言われた
法人株を持ちなさいと言われて、県もNPO法人を進める事で、平成11年に認証式こぎつける
ナイチンゲールが生れた日に認証をもらえた
 
富山は共生のデーサービス93か所ある  
認知症研究している学者はそこに障害者を一緒に入れることには、反対していた
地域福祉を考えている学者さんだけが、今までずーっと応援してくださっている
忘れられない人、認知症のおばあさん とか7年、8年利用した方々は特に忘れられない
現在 職員52人(常勤+パート) 常勤は65%占める
事業拡大は出来るが、なるべく拡大したくは無い  丁寧に支えてゆくのが目的なので
一番最初に銀行からお金を貸してもらえなかったが、平成1年にマンションを買ったが、銀行から借金したが、ハンコ一つで購入した 

保証人も立てずに2100万円のマンションに1700万円の借金だったが、貸してくれた
でも800万円借りようとしたら、初め断られて、商工会議所の後押しで、600万円貸してくれるのに裸にされるように一杯調べられた
今まで信用あったのは、私ではなく赤十字にあったのかと、世の中の厳しさが初めて分かった
自分のしていることは間違いないと思った 喜ばれる仕事だったから支えられた
私は相談しに来た人には、やめられとは言わないです 
その人はその人の考えで、夢を持ってきているので、一度の人生なんだから、賭けてもいい時期があるのではないかと思うんです
人の人生の中に辞めた方がいいとは私の考えでは言えない(私も続けているからですよ)

現在 11カ月の赤ちゃんから97歳のお年寄りまで68人が利用しています




































































2013年7月29日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(伊東四朗)

天野祐吉       隠居大学(伊東四朗
小林信彦が、最後の喜劇人と言った(舞台出身の喜劇者)
石井均、森川信、由利徹 が浅草あたりで面白いことをしていた
あの頃の喜劇人は、この世界は水商売と言う事で、運がつくと言うという事で、自分の名前の中に水に関係する字を入れて、運がつく字を入れた 井(井戸の井) 川 とかゲンを担いだ
笑いをやる人はいるが、喜劇はちょっと違うんだろうなと思います
馬鹿なことを一生懸命やると、皆が本当に笑ってくれるが、馬鹿な事をふざけてしまうと面白くない、馬鹿なことをやって照れても駄目でお客さんが引いてしまう

渥美清と寅さんはイコールになっちゃっている ライフワークになっているが、渥美さんにしてみれば違う役をやってみたかったと思ってたんじゃないかと思う
渥美さんは勉強熱心だった
どんな分野の人も、功なり名を遂げたひとが一定の年になると、皆さん、かっこいいことを言い出すが、伊東さんは何も言わないから、本当にすごい、根っからの喜劇人ではないでしょうか
「いまどきの若い者は」とは言いたくない 若い人から学ぶことはいっぱいありますよ
私もTVで拝見していると、喜劇人としての伊東さんは、発見できませんよね
喜劇は伏線を張って、後々生きてくるというのはあるんで、TVから離れたりして、その場面を見ていないと、なにをかいわんや、になってしまうので、今、TVで喜劇は作りにくくなってきている
劇場でやっていれば、お客さんは最後まで見てくれるので、

昔はお金を払っているので、厳しかった  面白くなければ下を向いていたりする
「帰れ」とは言われた
もっとTVなりの面白さを追及してほしいと思う反面、TVとはこういうものと思って、やっぱり本当の面白さは舞台でないと駄目かもしれない
お笑いは客席で見ているのと、DVDで見るのとでは約3割面白さが無くなる
何故かというと、DVDの場合はカメラがカット割りして取っているが、違うカット割りで見ている
全体を見てたり、しゃべっている人を見てたり、リアクションを見ていたりする
「間」が舞台では生きるが、TVでは「間」を削ってしまう

「間」は自分が作っている間ではなくて、お客さんの 「間」なんですよ 
何かを言った場合、その言葉を理解するのに、0.5秒ぐらいかかる場合は、0.5秒かかる前に次のセリフをしゃべると、不親切なんですよね  
お客さんが納得するまでの間なんだろうと思っている
客層によって間の取り方が違う(お年寄りが多いか、と若い人が多いとかかで)
パロディー ほとんど消えてしまっている  やっても解らない  笑いにならない

笑いを生みだすベースみたいなものが、少し弱くなったように思う
TVがない時代には、芝居を見たり、講談本を読んでいてものをよく知っていた
結局、下ネタだとか、転んだり、ちびだとか、デブだとか、と言う事で笑わしているのではちょっと低いなと思いますが
「いい加減」 熱くもなく、冷たくもなく  ちょうど いい加減  と いい加減(どうでも)
へんに親切にしてしまうと、つまらなくしてしまう
台本は尊重したい  アドリブは止めましょうと

今はあまりないがNG特集 私は苦手で絶対嫌だった  一種の恥だと思うが
NG特集で、でたドラマは見たくないと思う(なんだあんな事をやっているのかと思ってしまう)
「タフマン」コマーシャル 駅まえでお客さんを巻き込んで行う 市川準
台本もない時もあった なんかやってください、のそれだけ
私を追い詰める 台本なしで3パターンをやったことがある
ドラマも自分で吃驚するような役が来る
「笑うセールスマン」 いまさらと思ったが、原作者からあんたしかいないので、駄目だやってほしいと言われてやったことがある

「ひらり」で お相撲の親方の役とか、いろいろあった
「おしん」の父親役  別の私を見つけてくれる
電線音頭をやっていたころ 真面目なドラマの話が舞い込んできた  それがどうかしましたか、で、話を進めますけど、と言われ、世の中にこんな人がいるのかなと思った
喜劇人は演劇人ですから、典型的人間像を持っていて、ぴたっとくるものがあるのではないか
電線音頭 シュール(意味不明)、 サルバドール・ダリの世界だと言われた(小林信彦 言)
ただナンセンス 100% ナンセンス  ナンセンスを突き抜けてゆくと、人間と言う存在がナンセンスなのではないかと、電線マンはいくら考えても解らないのは、奥が深いと思う

あんまり喜劇に意味は欲しくない 一番のほめ言葉は、わー面白かったね が一番いい
人間を見ているようで、見ていない 
















































2013年7月28日日曜日

五木寛之            ・歌の旅人(島根県)

五木寛之          歌の旅人(島根県)
古代から人が多く住んで、たたら製鉄 文化を作ってきた
源日本といった感じのするところ
以前お寺を訪ねる旅をしたことがあり、三徳山三佛寺大山寺一畑薬師清水寺とかを訪ねた
隠岐を訪ねる旅が印象に残っている
出雲、口が重く、物静か、思慮深い
いわみ、はっきりものを言って行動的
隠岐、独立心が多生、ひとに頼らず頑張りぬく

音楽関係 中里 綴(作詞家) 「人恋しくて」 作曲、田山雅充
山陰という名称がいやだと言う事で 「北陽」と言う名称が上がったが、結局山陰となる
小泉八雲 心の中の暗部、松江、山陰とかの自然と人情というものが重なり合ったんではないかと思う  コンプレックスのある人だったと思う
松江などは行儀のいいところがあって、かけごとが嫌いな地域 謹厳実直
森鴎外(津和野)  西周(思想家)  岩谷直治(プロパンガスの父)  徳川夢声 
島村抱月(松井須磨子  「復活」 トルストイの芝居を松井須磨子で上演して、主題歌がその当時としては、超大ヒットした 日本のレコード界の第一号)
トルストイは第一回ノーベル賞文学賞は間違いなしと言われていたが、諸事情により逸する
「カチューシャ」の歌 作曲中山 晋平 

河井 寛次郎(陶芸家) 安来節(浅草ロック座などで、上京してきて、安来節の一座があって興行した)
渡哲也(安来市) 「くちなしの花」
俳優 芦田伸介、江角まき子  園山俊二(漫画家)

隠岐の島 道前、道後に分かれている
乃木大将がステッセルと会談をするが、白い軍馬を贈られるが、学習院の院長時代は、愛用していたが、晩年になって馬は隠岐に送られて、隠岐で晩年を過ごした その馬の墓がある
学問の盛んなところ 或る程度の歳になると、京都に行って学問を学んで帰ってくる
明治維新のころは、新しいコミューンというか、隠岐の国の独立運動があったが、制圧された、隠岐騒動があった
尊王の気風の強いところ

「都万の秋」 吉田拓郎  隠岐の都万(つま)という村
吉岡 隆徳(出雲) 「暁の超特急」 100mで一時期世界記録を出した
竹内まりや  「駅」  錦織 健(テノール) 世良譲 森英恵  安野 光雅(画家)
石見銀山 世界遺産 宍道湖のしじみ 「だんだん」と言う方言→「有難うございました」













 








2013年7月27日土曜日

大乃国(第62代横綱)      ・故郷が支えてくれた相撲人生

大乃国(第62代横綱)    故郷が支えてくれた相撲人生
本名、青木 康 1962年昭和37年 根室町の出身 中学3年生の時にスカウトされて相撲部屋に入門しました
1991年平成3年に引退するまで、土俵人生をさせてくれたのは、故郷十勝だったそうです

現役の時は、最高210kgぐらいあったが、現在160kg 地元を出てゆく時は現在の半分でした
1978年昭和53年に初土俵 1985年昭和60年に大関 1987年昭和62年に第62代横綱
1991年平成3年に引退  それまでに426勝228敗 優勝2回 現在は芝田山親方
本業とサイドが間違われる スイーツで有名になってしまった
生れたときは健康優良児 地区の大会で優勝して、札幌まで行った
小学校1年生の時に3年生ぐらいの体格があった、小学校4年生のときには背の低い先生を上から見下ろしていました
言葉は少なく、気は優しく、力持ちと言うタイプだった

子供のころは、冬場は豆をより分けたり、春先になると種イモをきって準備したりとかの単純な作業は手伝いをした
小学校4年のときには牛の世話をしていた 餌をやったり、牛のふんを掻きだしたり、水をやったりした(手押しポンプなのでお湯で溶かしながら、みずを汲んできて、容器を運び、与えた)
20頭なので、水汲みが大変だった 
中学生になってからは、鍬で掘ってジャガイモを芋駕籠に手で集めて入れた その後鍬からトラクターになったが、30kg以上あるコンテナを積み上げる作業を一日中やっていた
親に怒られたというような経験は無かった
子供は褒められると嬉しいものだ

中学校は統合された中学にいったが、同級生240名いたが目立つ存在だった
柔道を始めたが、小学校から柔道を始めた子もいたので、技がなかなかうまくかみ合っていかなかった
中学1年、2年とやってきて、中学3年の時には、結構名前が知れるようになる
進学しようと思ったが、5~7校から来て欲しいといわれたが、昭和52年8月大相撲巡業が来た
自分では相撲は嫌だったが、巡業を見に行った
まわしを締めさせられて、土俵にもあげさせられて、たまたまご縁があって、出会ったのが、私の師匠である放れ駒親方 当時の大関、魁傑  内弟子を探していた
サイン色紙をもらったり、お弁当を食べさしてもらったりした
話が来て、相撲部屋を見ないかと、東京に行った  花籠部屋
ちゃんこ食べ、東京見物して、相撲取りになるかと言われたが、相撲取りにはなんか成りたくなかった
年が明けて、教師が進路をどうするか問われ、伯父からやってみないかと言われて、父も行かせたかったし、後ろ盾がいなくなって、行くしかないと思って決断した

自分の力を試すのだという想いでこの道に入った
新弟子検査までは、お客さん扱い 170cm、70kg検査基準 185cm、83kgで検査を合格
合格後はすぐに対応が違ってくる      面倒はよく見てもらった
いろいろあって、逃げて帰る人がいたが、帰ってきちゃったら肩身の狭い思いを親にさせてはいけないと思った
3年経って105kgになるが、なかなか増えなかった 今 一番欲しいものは何と言われて、体重がほしいといった
稽古の量だけは人に負けないぐらいやりました

横綱になって、精神的にも辛いし、勝って当たり前、 大関と横綱の違い
大関は二場所続けて負けたら関脇に落ちるが、横綱は落ちるところが無い
最初の場所ようやく勝ち越して、次の場所は休場、3場所目は出だしは1勝2敗 体重は210kg有
4日目の朝の新聞には、横綱大乃国は3場所目にして引退か?と言う見出しがでる
トイレで、(一人でいられるところなのでいろいろ考えられる)逃げ出したいなあとか、辞めたらどんなに楽なのかなあといろんなことを考えた
世間の目が向いていると言う事で、人間不信になる
いい人も悪い人も見境なく、みんな悪い人に見えてくる、皆敵に見えてくる

精神状態が揺れてくる、自分は何しなければいけないのかなあと、自分の親、兄弟、親戚の人たちの事を考える、と思ったときに、みんな心配してくれているだろうなあと、そこで自分は気持ちを切り替えて、よし、今日負けてもいいやと、1勝3敗になってもいいや、でもその代わり今日持っている力は今日全部使い果たそうと、明日の事は取り組みが終わった後に考えようと、1日1日積み重ねていったら、14日までに、12勝2敗 北勝海と対戦して本割で勝って優勝決定戦になって、勝って、逆転優勝した
一番大きな病気は睡眠時の無呼吸症 気道が狭くなり、眠っているときに呼吸が止まっている間隔があるので、起きている時と同じように呼吸する出来るようにセットする機械がありそれで楽になった
夜、睡眠が30分、40分おきに目が覚める トイレが近くなる 妄想を見る事がしょっちゅうある
昼間で話しているのが、寝ているのだなと見られたりする
血中に酸素を取り入れる酸素濃度が極端に低下して、脳が起きっぱなしの状態になる

こんな状態で、よく稽古をしていましたねと(心臓にも負担が大きいし)、言われて 治療することで余分な脂肪が(酸素と結び付いて余分な脂肪は燃やされる)取れて行った
太っていったというのは、空気中の酸素が体に取り入れる量が少なかったので、それで肥って行った、そういう部分があるので横綱時代活躍できなかった部分があるのかもしれない
当時、無呼吸症などはマスコミなどでは解らなかった時代

スイーツ 人生のタイミングとご縁があった 作る楽しいみ 
初めてスポンジケーキを作ったのが大関のころ
十勝の小豆は有名 小豆の豆まきから始まって、刈り取り、脱穀をやって小豆を作り、炊いてあんこ、ぼた餅、羊羹を作ってくれた
乳製品もお菓子には欠かせない 牛乳、チーズ、バター、生クリーム  十勝は乳製品もある
牛は食べる餌によって、出すミルクも違う
人間も親が食べてるものは子供に影響を与える

体力的な事、根気、努力とか、生まれ育った環境が今の私を作ってくれたので十勝の方に足を向けて眠れない
北海道、十勝は、四季がはっきりしている 四季折々が素晴らしい















  


























2013年7月26日金曜日

芳賀 綏(東京工業大学名誉教授)  ・唱歌100年 心の歌を残したい 2

芳賀 綏(やすし 東京工業大学名誉教授) 唱歌100年 心の歌を残したい 2
出身は福岡県北九州市 物心ついてからは、九州の他の地域に住んで、小学校の初年に北海道に住んだりしたが、中学校では又、北九州市に戻ったので、そのときには思い出はある
戦争の激しいまっ最中だった
北海道もあちこちに住んだ 
学校教育は6 5 3 3制だった 北海道大学予科の最後の卒業生です
北海道は緑がみずみずしく、感性が育った時期に 故郷などの唱歌を教わったので、実感とぴったりだった
国定教科書だったので作詞、作曲者の名前は一切誰であるかは、解らなかった
(先生も知らない  戦後、個人の著作権を認められて、文部相が著作権を一手に持っているのではなくなる) 

「春の小川」  このような光景はどこでもみられた
「故郷」   特定のどこかを歌っているという事は表には出ていない どこにもある風景
河骨川(こうほねがわ) 渋谷の小さな川がモデルにはなっているが、実況描写しているわけではないので、それだから良いわけです  
地名を特定してしまうと、小学唱歌の意図とは意味が違ってきてしまうので、地名は入っていない
昭和17年の教科書から口語体になってしまった(改悪)
「さらさら流る」→「さらさら行くよ」  「ささやく如く」→「ささやきながら」
雰囲気、意味合いが違ってきてしまう
ごく最近 昔の俳句、和歌だとかを文語体でも教えるようになった(改善)

戦争は中学に入った時は、始まっていた
重苦しい気分ではあったが、「愛染かつら」、「誰か故郷を想わざる」とかがはやった
物理学者、寺田寅彦(夏目漱石の弟子だった)
「天災と国防」の書き出し
「何かしら、日本全国土の安寧を脅かす、黒雲のようなものが遠い水平線の向こう側から、こっそりのぞいているらしい という言わば取りとめのない悪夢のような不安の陰影が国民全体の意識の底に揺曳している」  昭和9年の秋に書いている
段々戦争の色が濃くなってゆく(戦争に一直線と言うわけでもなかった)

日本語学 中学3年ぐらいから、学者の生活を知るようになった 東洋史の有田かいおう先生に中学2年の時に会えて、風格を感じた
国語辞典を作るという事が、軍艦や飛行機を作ることと比べて、どれだけ学者の心血を注ぐ作業であるかと、書いてあった 実に尊いものだと、言う事を教わった(戦争が一番激しい昭和18年)
日本語学から見た唱歌 言葉の格調の高さのある立派な文芸だと思う

「虫の声」 最近は虫の声をきけなくなってきたが、日本の自然を取り戻そうという運動が高まってきた
そこに小学唱歌が復活して来ている
宮城県石巻市 と専修大学 昨年の12月唱歌斉唱、シンポジュームの催しがあった(専修大学の校歌が高野辰之が作詞している関係でイベントを石巻と一緒に行う)
昭和2年 日米間 戦争に向かう雰囲気はまだなかったころ、アメリカのギューリック博士が人形を送ってくれる 「青い目の人形」を 1万2千個を全国の小学校に贈った
人形を迎える歌を高野辰之が作っている
「海のあちらの友達の誠の心のこもっている、かわいいかわいい人形さん あなたをみんなで迎えます」 アメリカにいる時と同じ気持ちで日本で過ごしてくださいという内容がその後ずーっと続いている   博士のお孫さんが又新しい人形をプレゼントされた

高野辰之の催し物で再認識しようという動きが高まっている
人間愛  国を隔てていても、ひとしく愛する、又日の当らない人たちが生み出した芸能にスポットを当てた
歌の力の強さがある(特に大震災後の歌のなした事)  
唱歌 年代を越えて老いも若きもみんな教わったので、ともに一緒に歌う事に違和感がない
東村山市小学校に講演に行ったときに、小学6年生が平家物語の冒頭をずーっと群読してくれた(暗誦している)  これには感動した
幼いうちに難しいことを教えてはいけないというのは、間違った教育の思想であって、幼い時ほど感性が鋭いから、吸収する
その子たちは平家物語の冒頭部分を忘れない
日本語の響きが耳に残り、頭に残り、体内に残る、そうすると意味が段々解ってくる
人生経験を重ねると、アーこういう事を言ってたんだと、中年ぐらいになって解っても遅くは無い
言葉は人の心を横につなげると同時に、昔の人と縦につなげる




























2013年7月25日木曜日

芳賀 綏(東京工業大学名誉教授)  ・唱歌100年 心の歌を残したい

芳賀 綏(やすし 東京工業大学名誉教授) 唱歌100年 心の歌を残したい
芳賀さんは日本語学と日本文化論が専門です 1928年(昭和3年)生まれ 
東京大学文学部を卒業、東京工業大学教授、NHKの部外解説員などを歴任されました
日本人らしさの構造、日本人の表現心理など、日本人の言葉と心理について数多くの著作をあらわしています
およそ100年前、春の小川、故郷、おぼろ月夜など文部省の小学唱歌が作られました
これらの唱歌は長野県出身の国文学者高野辰之が作詞し、音楽家の岡野貞一が作曲したといわれます
唱歌を口ずさむと、何故か日本の自然や過ぎた日々への郷愁をかきたてられます

唱歌 明治の人たちが努力して作った 日本文化、日本人の心を知る手掛かり、または象徴しているものとしている唱歌は素晴らしい文化財であると信じている
昭和22年 駆け出しの学生のころ、高野博士が永眠している 疲弊のどん底で新聞などはスペースが無かった
妻が高野博士の孫  旧制高校 一高(東京)、三高(京都)、北大予科(北海道) 三大寮歌と言われていた (名曲として) ほかでも盛んに寮歌が作られた
寮歌、唱歌を歌うのが好きだった
日本人らしさの構造など著書、多数  ドイツの大学でも日本語を教える(大学1年生から大学院生までを教えた)

「故郷」人気ナンバーワン  私は小学校で教わった中で、ベスト3に入っている 
メロディー、言葉を聞くとジーンとしてくる どこの土地の人でも、自分の故郷そのものと思っている
平成10年長野で冬季オリンピックがあり、フィナーレで歌われた
メロディーは外国の人の心を打って、それから注目されて、歌われるようになった
日本語の歌詞が普及するまではいかなかったが、今は日本語の歌詞で歌うんですね
それぐらい広まりました
唱歌が100年になる  明治12年頃から日本の音楽教育が本格化してくる
西洋の音楽を学びながら、日本独自の近代音楽を作りだした
学校で教えるための学校教育のために作詞、作曲された
商品として作られたものではないことが、重要

伝統の重み 伝統を背負っている 
言葉が難しいが、遠慮なく使っている(子供に対するご機嫌とりがない)
品位、格調がある歌 国定教科書 子供の時に、全国どこでもみんな教わった
当時第一級の国文学者、作曲家が作った、つまりいい加減ではない
明治の時代のバックボーンがしっかりしている
日本を作る、時代を作る、その仕事の一つとして、小学唱歌も作って行った
当時3万3千校 オルガンが普及 
春の小川、おぼろ月夜、故郷、もみじ 高野辰之氏の作詞でうぶ声をあげている
人間愛があるから、人々の心に響いて、沁み通っている
東日本大震災後、一番 故郷が歌われている
励ましもあれば、慰めもあれば、作詞、作曲者の人間愛が自然におのずから、心の琴線に触れているんだろうと想像している

高野辰之の人物? 「定本高野辰之」を監修、編集しました
資料から何から一杯残っている 膨大な著書が残っているが、知識、情報だけを与えるだけの書物はあるが、行間からその人の心情が滲み出すと言うか湧き出る様な著述を高野辰之はしている、だから学術専門書を読んでも、あーこういう人だったんだと、感じ取られる
3大著作 「日本歌謡史」 大正15年に完成 学士院賞をもらった
作詞者の解らないもの、民謡とか、そういう歌謡が日本文学の底流にずーっとある
それを一つ一つ丹念に探索して探して、掘り起こし、掘り起こして、膨大な著作にしたのが「日本歌謡史」 「江戸文学史」3部作  「日本演劇史」上、中、下巻
学者としての目の付けどころが、庶民、常民に対する愛情に発しているという事が大きい

それを行間から湧き出るものがある、人柄が表れたところ、真実を追っているだけでなく、語り聞かせる、東大で講義をしたときには大変な人気で、教室に入りきれないので、大きな講堂を借りて学生を収容したという、人気があったと言われる
大きな民族の心の歴史を一大パノラマとして、描き出すという、発表の仕方、著述の仕方をしている
親孝行でもあるし、大変な人情家で、涙もろい人だった
豪放磊落、闊達な性分 お酒大好き、親分肌で人から慕われる人柄、その反面繊細さがあり、涙もろさがあったので、家族からも、学生からも、万人からも慕われた
高野つるえ(夫人) は世の中に流布している高野辰之に関する本があるが、そこには楚々とした優しい女性で、家計が苦しいと泣いたというようなことが書いてあるが、泣くような人物ではないわけですよ
辰之が仕事で落ち込んでいたら、逆に叱咤激励して、しゃんとしろと言いうぐらいな人
高野つるえは達之よりもっと太っ腹なひとだったと思う

私はおぼろ月夜が一番大好きです    森光子はおぼろ月夜が大好きだった
父親 仲衛門 が寒い冬に倒れたときに急いで帰郷して詠んだ歌
「ひしひしと寒さ加わり、病む父の 息のかそけく 夜はふけにけり」
本人は研究でなかなか故郷に帰ることができなかったそうです
高野辰之の学問と作った唱歌の詩は一体のものだと思っている
一言で言うと、人間愛、人間だけでなく自然と人間を一体として愛する 一体としての日本人
日本人の事をプラックホームと言う人類学者が 「自然と共にある民族」と言っているが、日本人は自然そのものだという人もいる
歌をつくるときにも表れてくる

童謡と唱歌は違う 
唱歌は音楽教育の教材として作られたもの、初めから教室で教える目的  
童謡は教室で教えるのではなく、教室の外で愛唱されるもの ヒット曲になる
高野辰之は全国の校歌の100以上作っている
日本の風土と学校に学んでいる故郷の想いを、汲み上げて歌詞にしている









































2013年7月24日水曜日

大河内祥晴           ・「いじめ自殺」を無くしたい

大河内祥晴    「いじめ自殺」を無くしたい
19年前 二男の清輝君をいじめを苦にした自殺で失いました
大河内さんは何故我が子の苦しみに気付けなかったのかと悩み、そのうえで何があったのかと本当のことを知りたいと思い続けてきました
そんな大河内さんの支えになったのは、清輝君と同じようにいじめに悩む心のふれあいでした
息子を失うという経験の後、大河内さんは、どのような思いで日々を過ごしていたのか、伺いました

清輝君が亡なったのは19年前の11月27日   思いだすのは亡くなる前の、どんなこといったのかとか、自分と愛する、くやみきれないもの、こうしてやれば助けてあげられたのかも、本当のことを話してくれたかもしれないなあとの想いは、亡くなった直後、19年経ても変わらない
一番強く思うのは、彼にとってはお金についてですかね
だから遺書の中でも自分が渡してしまったからということで、自分を責める事しか多分亡くなるまで彼の頭には無かったのかと思う
亡くなる前の晩に、無くなったお金がわかってて、その時はじめて自分が取ったのと、ゲームセンターで使ったと言ってくれた
それに対して、私がとった態度は、おまえは駄目になってしまうと、彼を叱ってしまった

翌朝冷静に考えると、そんなお金をゲームセンターで使ったと言っていたけれど、使えない
おかしいと思いがあったが、どうしても片付けないといけない仕事があり、出かけたが 日が暮れるのが早く、出かける際に、私に気がついてほしくて「いつ帰ってくるの?」との問いかけがあったんだと思う
お父さん昨日叱ったんだけど、やはりおかしいと思っていると彼に伝えたら、遺書に残している様な内容を自分の言葉で話してもらえたのではないかと思いが、今もある

遺書によると、主に4人の同級生からいじめられたり、お金を要求されたりしていて、合わせて100万円以上のお金を渡していたと書いていた
額がそのぐらいにいっていたと言う事は、私たちのお金の管理も結果として、彼を苦しめることになってしまった
必死でお金を集めた 
祖母のお金が無くなる事が多かった(勘違いではないかとの思いもあった)
おかしいとは思いながら実感として捉えきれなかった
解るきっかけになったのは、亡くなる前の夜 叱責したり、最後は足でけったりもした
当人は悪いことだと思ってただけに、そういう風な態度をとってしまったことに彼に申し訳ないと思った(かれの口から話し出す機会をためらわしてしまったのかと思う)

夜帰ってきていないので、どこへ行ったのかと言う事で、近くを探しまわったが、最後は自分の家の敷地の中 柿の木で彼を見つけたときには、彼がそういう状態にあるということ事態に、対して自分自身が受け入れないというか、言葉と言うのは、どうしたんだという言葉だけで、後は涙ばかりだった
何故っと言う言葉ばかりで他に何も浮かばなかった

自転車がへこんでたりだとか、服が汚れて泥がついていたり、かばんが無くなったので、探しに行ってくるだとか、夜友達のところに言ってくると言って、出かけていったこともあるし、おかしいという事はいっぱいあった
何故この道しか選ばなかったのかと、大きな理由があると思った
何があったのかは自分が調べるしかないと思った
葬式後、例の言葉は言うのですが、何があったのかと言う事を、どんなことがあっても調べると、親の責任としてそれだけは絶対やらなくてはいけないと、言葉にしていった
彼は言わなくてはいけないと思いながらも口に出せなかった
遺書の中にこんなことがあったと、自分の言葉ではないが、自分の想いを紙に残してくれた
遺書を読んだときに、そういう想いしかなかった

遺書 公開してもいいと思った 亡くなって以降 毎晩弔問に来てくれて、何があったのかと言う事を毎晩先生に質問する、先生が子供たちに何があったのかを作文に書いてもらったりするが、そのことを知りたいし、当時の中学校はいろんなことがあったりして、そういう情報も入ってくるので、いろんな事があったんだろうなあと、概要が見えてきたので、先生にお聞きするが、調べていますということだった
私が遺書の内容から感じたことは、これは事件だと言う事で、事件として扱いますよと、そんな話はした 
校長先生が飛んできて、遺書を読んだ そのあと記者が見えて、たまたま記者にもこんなことであると遺書を見せた
記者の方から公にしたいとの打診があって、親戚が集まって相談したが、学校の先生方の対応を見ていると、おそらく何があったのか分からないだろうと、それをはっきりさせるために報道にも、報道に乗せて知ってもらった方がいいのではないだろうかと、結論を出して、12月2日の朝刊に乗せてもらった

公にするのはいいのか、悪いか いろんな見方はあるが、公にしてもらってよかったと思う
配慮が足りなかったと思うのは、報道が過激になって、同級生に対しては凄く迷惑をかけたと思う
例えば、お金をポケットに突っ込んで、学校でお金をもらっているのに、なんで本当の事を言わないんだと学校で脅しに近い恰好で、子供たちに語らせようとするというようなこともあったという
そういう面では配慮が足りなかったと思う
公表して、よかったなあという気はある、学校の対応は変わったなあと凄く感じた
事実が大分見えてくるようになった
遺書の中には4人の事は書いてなかった

旅日記 大学ノートに書いてあった 家族と一緒に遊んだことだとか、楽しい思い出をノートに書き留めてあった
どんな気持ちでつらさを少しでも追いやるために、楽しさを思いだすことによって、自分自身が生きてゆく力を持っていたのかも
最後にお金を取った子と言う事で、4人の子の名前が書いてあった
学校の中では或る程度、どういう状態かはつかんでいたとは思うんですが、新聞で報道された夜に、4人の子と父母とが来てくれた
事前に学校で書いた短い文の反省文を持って、校長が言われたのは、大河内さんに全てあったことを正直に話しなさいと4人の前で言ってくれた
反省文は内容のあるものではなかったが、何があったのかと言う事を毎週書いて持ってきてくれと4人に対して言った
1か月半にわたって毎週書いてきた 本当に子供たちがここまで出来るのだろうかと、そしてされている清輝はどう思っていたのかと考えると、彼らがやっている行為よりも、清輝の想いを自分の頭の中で描くことは非常につらかった
自分自身の感情を抑えながら、やっぱり絶対に全てを知らなければ、自分を許せないと思った

1月に一人の子が手紙をくれたが、清輝に対する自分がやっていたことに、気がつくというんですか、そういう想いを書いてくれると同時に、両親から隠していることはないかと責められるが、一つだけ他の3人から絶対言ってはいけないといわれていることがある、これだけは言っておかなくてはいけないという、そういう手紙をくれた
これで子供たち聞くのはやめようかなあと思った
彼ら自身、最初は遊びだったと思うが、遊びの範囲を越えて行ってしまう、大人と同じように遊びを越えた犯罪行為になっているんだという事に、彼ら自身に気付かせてやれなかったという、それは清輝を助けられなかったと、思うと同時に、そのことをその子たちに気付かせてやれなかった、そういう機会はあったと思う

それは一番私たち大人、周りの大人、親が、あるいは一番考えてほしいのは学校教師だと思っているが、それが一番考えてほしかったことの一つですし、それが自分の子供が亡くなってから
20年近くたっても、あまり変わってないのは情けないというのか、悲しいと思っている
新聞で報道されて1週間の間に、福井県中学2年生、岡崎市 二人が亡くなって、清輝がどんな思いでいたのかなあと、頭で考えるようになると、多分同じような思いで命を絶つ子がいるという事に耐えられない、というんですかね
あったこともない顔を知らない子たちですが、その子たちの思い、苦しみは清輝と同じだろうなと、そんな中で、悲しさ苦しさ その子たちに対してどんなふうに受け留めてくれるか解らないが、自分たちの今の想いを伝えようというのは、自然にわいてきたというか、メッセージを出してもらった

「清輝と同じように人に言えない苦しみを持つ子供たちへ」と言う事で
一つは清輝に対する思い 自分のなかでどうしても解らないないことは、なぜ 話してくれなかったのかなあと 親として話すことが出来ない親であったのかなあと もし清輝に替って教えてくれる子がいたら、それは聞いておかないと自分として、納得ができないところがあった
何故話をしないのか、教えてほしいとの事に対して、報道各紙に掲載してもらって、それから驚くような手紙が全国から寄せられて(1000通ぐらい) 沢山の子供たちから自分がうけているいじめの内容だとか、その時の自分の気持ちを教えてもらった
自分が考えている以上のことが一杯あった(いじめの行為だとか)
一番衝撃だったのは、こんなに沢山の子が同じようなことをされているんだという事が衝撃だった
自分自身がもっと何が起こっているのかと言う事を亡くなる前に調べる手立てがあったんだなあと、その子たちから教えてもらったですね
子供たちとのやり取りが、ほとんどの時間費やすようになった
夏休みに家に訪ねてくるような子もいた  一週間ぐらい遊びに来てくれた子もいた
つらさを表に出さず、接してくれた
数年前に妻が言ったが、本当にこの子たちがいなかったら、私たちどうなっていたのか、解らなかったねと言う事を彼女が言った
振りかってってみると、何があったのか解るにつれて、自分たち自身が親として足りなかったことがいっぱい出てくる

自分が一人になった時に、どうしたらいいかわからなくて、車の中で動けなくなったこともあったし、夜になって星空しか見ることができない自分もいましたし、でもその子たち、訪ねてくる子、電話や手紙のやり取りをして、その子たちに私等自身が清輝のことを想い胸に秘めながら、なんとか命をつないでいくというんですか、そういう力を与えてもらったなあと言う気がする
毎年命日 同級生が来てくれる
言葉で貰うんじゃなくて、、彼らの態度の中から段々解ってくるって言うんですかね
私自身は清輝の仲間として、清輝はいないんですが、今の近況とか、世間の一般的な話をすることが多かった

今は、あの時清輝はこう思ってたよなと、いうのはなかなか本当に何度でも繰り返してきて、彼に語りかけるのは、同じような悲しい事件が起こった時に、わかんないね、 お父さんいろんなところで話していつが、役にたたないのかねとかですね、本当に先にいろんな出会いがあると言いましたが、本当に思うのは、彼自身が、父さん母さん どう思うのかなあと思ったときに、多分清輝自身がいろんな子たちとの出会いを作るためのものを、いろんな形で残してくれたと思う
そう彼に語りかけている
いろんな子たちの声、清輝の想いを上手く伝えるように、力を貸してよと、いう今日来る前にそんな言葉を掛けてきた

命を絶つ子は、いろんな思いの中で、いろんな積み重ねの中で、命を絶った事だけは、私自身が一番受け止めなくてはいけない事かと、思っている
他の子も同じだという事をもっともっと、社会全体が受け止めて欲しい
正直言って、清輝が亡くなって19年になってしまって、だからそれぞれのそういう機会をもらった場合に子供たちに、自分の想い、清輝の想い、全国で苦しんでいる子供たちの想いを、なんで19年もたって、伝え続けなければいけないのかと、忸怩たる思いがあるが、そういう事を気付いてもらうためには、機会があれば、子供たちに沢山の子供たちの叫び、辛さを伝えなければいけないのかなと言う気がしている

いろんな面で子供と、話す機会、自分の持っていることを子供につたえると言う、それが多分いろんなところで、いろんな時に 沢山ああるのではないかと言う気がしている
しんどかった、辛かったというよりも、私たちとの出会い、私たちにとっても子供たちとの出会い、それを大切にしながら、少しでも元気を取り戻しながら、という子の子たちの想いが伝わってくるんですよね、それを凄く私たち自身も共感できることがあるし、ちょっと心の中にほっとする
大変なんだけど、この子たちの辛い中でも、その言葉、声、文字を見るだけで、自分たち自身がちょっとほほ笑むことができるというんでしょうか
歳が何十歳離れているこういう子たちであっても、一人の子の子たちとの出会いは、凄く、如何に大事なものであるかと言う事に、19年間自分自身が気付かされた一番大きなものだという気がしている
私自身が信じあえる大切さを本当に気付かされた
今日がだめで有れば、明日、明後日 また次の歩みをしていこうかなと思っている










































2013年7月21日日曜日

大平貴之(プラネタリューム製作者)   ・星空を作る男

大平貴之(プラネタリューム製作者)    星空を作る男
小学4年生の時に、夜光塗料を塗った星を、壁に貼り付け、みんなに喜ばれた事がプラネタリューム製作に興味を持ちました
2003年勤めていた会社で、天の川はもちろん肉眼では解らない星も投影しようと、当時多くても2万、から3万だった星の数を150万個以上も映し出せるプラネタリューム投影機を作り、退社後にはその数560万個にも増やし、ギネス世界記録にもなりました
プラネタリュームは都会にいても綺麗な星空を見れる、オーロラも出せる、時間を早回しすることで、過去、未来の星空を見ることができるなど、プラネタリュームによって星空はいろいろなことを想像させる力があるという、大平さんに伺いました

最初オリオン座を壁に作った 思ったよりも綺麗に見えて、評判が良くて、部屋中を星だらけにした
次にボール紙に穴をあけて、筒を作って中に豆電球を入れて、作った(本の付録だった)
面白いなあと思ったが、もっとくっきり出来ないのかなあと思った
科学館のプラネタリュームみたいにくっきり、綺麗にできないかなあと、そういうものを作りたかった
星がよりくっきりするものを作るには、やはりレンズ式なものでないと駄目だと思った
当時の自分の力ではできずに、レンズ式は一度あきらめた
中学はプラネタリューム以外の事に夢中になった
高校生になって、物理部天文班に入って、そこで文化祭で発表の機会があり、レンズ式は直感的に無理だと解っていたので、ピホール式でどこまでクリアにできるか、星が6000個映るプラネタリュームを作って、産業用のモーターを使って、動けるようにして、直径3mぐらいのドームにして映した

プラネタリュームが国内で普及していったのは、1960年代 70年代 スプートニク、アポロで宇宙へのブームに火がついて、国内に二つプラネタリュームを作る会社が出来て、国産化に成功して国産化ができるようになった
バブル期にも増える  現在全国で400か所あると言われている 都内だけでも20~30か所ある
作っていて面白さは? 今までできなかったものがドンドン出来てゆく過程、新しい技術 自分の作るものがどんどん成長してゆく過程、作って人に見せられる事で吃驚させられる

自宅の四角い部屋でプラネタリュームを映す、マゼラン星雲、南極の空に天の川などが映る
銀河系で推定で1000億以上星があるといわれる 
銀河系みたいなものが数1000億あるといわれている
映写機と同じ仕組みで、真中に強いライトがあり、その周りに沢山のレンズがあり、レンズの奥に構成原版画あり、(星の元になる夜空を表す板、分割されている) 金属の表面に小さな穴が空いていて、光が抜ける
小さい穴を抜けた光をレンズによって、スクリーンに映る レンズの数は16個
面によって穴の数は違うが、少なくて7万、100万個のところもある

自動で穴をあけるが、穴をあける機械を作るのが一番のノウハウで自分で作る
ソフトウエアを作らなくてはいけない(星の原版のデータ)
データの通りに正確に穴を開けなくてはいけない、レーザーを使って7/10000mmの大きさの穴をあける
精密技術 コストを下げて プラネタリュームの原版に使えるようにアレンジした
今はプラネタリュームは多様化している  教育機器として普及 大人向け 子供向け 癒し等々
大人向けのプラネタリュームに力を入れている  貸し切りとか 空の一部だけ見えるようにするとか
きめ細かい演出をできるようにする(雲が流れて晴れ間の空が見えるとか)
星座の姿が変わってゆく様子 10万年経つと星座の姿は変わってくる 20~30万年経つと星座の形は解らなくなる
地球の地軸の向きが何千年経つと変わってくるので、1000年経つと今の北極星は北極星ではなくなる

星座の形の変化は別の現象で、星座自体が、好き勝手な方向にゆっくりと動いている
10万年 100万年とたつとガラッと変わってくるが、それが表現できるようになってきた
平安時代の北極星の位置は現在変わってきている
オーロラも簡単に出せるようになった デジタル投影装置を使って、併設してそちらから映せる
肉眼では見えない精密さ 星の色分け 星のまたたき 日食 月食も表現できる
リアルな感じを出すようにしている
感動が大事 それがあると興味を持つ  興味を持って自発的に勉強する子にはかなわない
感動は勉強する入口になる

地球からの天体だけではなく、月から観たり、火星から 宇宙旅行をして観ることができる
地面の下、南半球の天体も観ることができるようになった
プラネタリューム 本物にできない事ができる  昼間に星が見える、天候も左右されない
時間を早回し、いろんな場所に行ったり、宇宙に行ったり、星を明るくしたり、暗くしたりすることができる  
小規模な施設に向いたプラネタリューム  数人レベルで見る様な
プラネタリュームでない場所で見られるような、バーとか、レストラン、病院、地下道、自宅(家庭用はすでに65万台売れている)
将来、直径が1kmぐらいのプラネタリュームを作りたいと思っている(ディズニーランドに匹敵する広さ)
人口の天上の中に、いろんな現象が演出できる


















  

























2013年7月18日木曜日

鏑木 毅(プロトレイルランナー)    ・山岳マラソンに賭ける

鏑木 毅(かぶらきつよし プロトレイルランナー)  山岳マラソンに賭ける
マラソンと違って舗装道路以外の山や野を走るもので今、世界的に人気のあるスポーツです
10km~70km」と距離を決めて走りますが、トレイルランの選手の憧れは100マイル(160km)を走るレースで、時間にすると20時間を超えるレースとなります
鏑木さんは箱根駅伝を目指して、早稲田大学に入りますが、怪我のために断念して、群馬県庁に入りました
しかし、走りを忘れずに悶々としていましたが、地元紙で見た群馬県の山田昇記念登山競争大会の写真を見て、私にやりたいのはこれだと、思い28歳の時に初出場、初優勝をしました
それを機にトレイルランナーとして、日本の数々の山岳マラソンに出場、ほとんどの大会を制覇しました
その後トレイルランの最高峰、フランス、スイス、イタリアにまたがる山岳地帯を走る、ウルトラトレイル・デュモンブランに招待されて、初めて100マイル、160kmを走りました
12位と上位にはくいこめませんでしたが、100マイルを走る楽しさに目覚めました
そして2008年この大会で4位になったのを機に翌年、群馬県庁をやめ、プロに転向しました
日本でも100マイルの大会を開きたいと、富士山の周りを走る、ウルトラトレイルマウント富士を企画し、実行委員長として去年大成功を収めました
鏑木 毅(プロトレイルランナー)      ・山岳マラソンに賭ける

アメリカの大会に出場したばかり ワイオミング州、ビックホーン100と言うレース ビックホーン山脈を走るレース に参加し、優勝した 18時間50分  100マイルのレースでは平均的なタイムだと思う
トレイルラン 山道を走るランニング 山道に限らず、普通の舗装されてない道を含める
発祥の地はアメリカ 40~50年の歴史がある、世界中で4000万人の競技人口がある
ランニングは世界的に非常に盛り上がっているが、自然と親しむスタイルと言う形で多くの方々からやられている状況です
手にストックを持って走っているが、走り続けなくてはいけないというわけではなく、歩いたりする

トレイルランニングはレースという形ではあるが、限られた制限時間の間に、山、自然を楽しくと言う方がおおきい気がする
100マイルに限らず10km、30km、50kmとか、いろいろの大会がある
舗装道路を走るよりも故障はすくないが、走り込んでくると、いろいろ故障もある
脚、膝、腰への衝撃が大きいので、特に膝の故障が多い
山に対応できる脚力を作って行って、徐々にハードにしていく必要がある
ロードランニングをやってきたときは、時間に管理された競技だが、自然の中で走れるので楽しい
1日10時間を走るトレーニングをする  登山をするような気持ちで練習も楽しい
ロードランニングは時間を気にするので、なかなか厳しい

子供のころは いじめられっ子だった 口数も少なかった 
小学校、冬寒いので縄跳びをするが、足がひっかかった子から順々にしゃがんでって、誰が一番長くとんでいられるか、と言う事をやっていたが、何故か私が一番遅くまで跳んでいた
学年が上がるに従い、長い距離を走るようになってから、すこしずつ長い距離に対して自分の力を発揮できるようになった
高校時代は陸上部に入る  
腰を痛めてしまって、高校3年間満足な練習ができなかった

大学で頑張ってやろうと思った 箱根駅伝が目標 実績が無かったので、当時あまり早くなかった早稲田に行けば、出られると思い、早稲田に行こうと思った
ブランクを埋めようと一生懸命頑張った 
30km走った後に、家に帰ってから又夜中に30km走ったりした  
2年の時に箱根駅伝に出られるようなレベルにはなったが、又腰の痛みが再発してしまった
日常生活もままならないような状況で、3年の時に退部することになる
(コンプレックスの塊になった自分がいた)

群馬県庁に入るが、いつももやもやしていた 仕事に身が入らない、目標が無かった
一番肥った時は体重も80kgになった(現在は58kgぐらい)
流される様な毎日だったが、地元の新聞を見たときに、泥だらけになって山の中を走っているランナーの写真があった  
上州穂高山で行われた山岳マラソン 観た瞬間にこれだと、強烈に体を走って、1年後に出たいと思って、そこから走る第二のスタートになった
28歳のころなので、昔の感覚はあって、走ってはみるものの、すぐにぜいぜい言ってしまい、大変だったが、やっているうちに徐々に走れるようになり、体重も減ってきた

1年後山田昇杯に参加出来た いきなり優勝できた  自分でも吃驚した
口から心臓が出るくらい大変だった  下りに自分が自由に飛び越えたりする動きが、面白くて自然の中の香り、鳥のさえずり、空気の感じ、凡てが今までの走ってきたランニングと違っていて、走っていて面白かった
それ以降は山を走ることだけに情熱が傾いていった
仕事に対しても前向きになった
当時は競技人口も少ないし、大会の数も少なかったが、週末ごとに行って、優勝したりした
北丹沢12時間山岳耐久レース 2連覇 4度の優勝  富士登山競争で2連覇3度の優勝
2005年国内3大レースで全て優勝する    自分に合っていたんだと思う

2007年 38歳の時に箱根50kmの大会で、優勝した 副賞がヨーロッパ最高峰モンブランを一周するウルトラトレイル・デュモンブランという大会への招待があった
世界的に有名なトレッキングコース 160kmを一周まわるコースで、普通のトレッキングでは10泊かかるコースだが トップ選手であると21時間、22時間で走る過酷なレース
39歳の時に出場 それまでは70kmが最高だったので、倍以上なのでからだにかかるダメージはすさまじかった、身体がとても耐えきれない状況だった
80kmから内出血して、足がドンドン腫れあがって来て、針の山を素足で歩くような感じで、一睡もせずに走っているので、意識も最後の方は朦朧として来て、本当に大変だった
でもただ、楽しかった 
一番良かったのは景色の素晴らしさと、大会運営のスタッフが素晴らしかった、旅をしているような感覚で、100マイルのレースのとりこになった
最初の2007年は体がぼろぼろになって12位
2008年 4位 2009年 41歳 3位 2010年悪天候で中途で中止 2011年 7位 2012年 10位
2012年は悪天候だった

2007年の優勝者は59歳 イタリアの選手(マルコ・オルモ) 2006年にも優勝している (2連覇)
その時には私は3時間も差をつけられた 
体力だけではなくて、メンタルな力、マネージメントが重要だと痛烈に感じた
ペースコントロールが重要 体とコミュニケーションをしながら、常に頭で考えながら、やらないといけないという能力が必要
120kmを過ぎると、人間が耐えられる限界を超える、体力的に 
そこからの30km、40kmは心の問題になってくる
(年齢を重ねたうえでの、心のだまし方、メンタルな力が非常に重要になってくる)

頭が生理的にストップさせるが、それをうまくだます、いやいやこれは見せかけのつらさだと思う
そうするとまだまだ行ける  
メンタルな力 がまん強さと言うよりは或る意味苦しみ、痛みに対して鈍感になる力が非常に重要 一回疑ってみる 脳が勝手にこう言わせているだけだと、そうすると体が動いてくる
「楽しむ勇気」という言葉  日常こんな苦しみは味わうことが無いので、だったら、楽しもうじゃないかと、こういう風に思えるかどうかが、非常に重要でして、思えると苦しい状況が楽しくなってゆくんですね 
メンタルを上手く持ってゆくか、が最終段になってゆくと重要 辞めたくて仕方ない、何百回と繰り返すが、その選択肢のなかで、続ける、続けるという選択肢を取り続けるのは、メンタルの力
最後のころは、幻覚、幻聴を経験する (木に漢字が書いてあったありとか、信州の山の中を走っているような感覚になったり、子供の頃のことが浮かんだり、勝手に走馬灯のように流れる)

プロとして後押ししてくれたのは、妻だった 有難かった
日本でも100マイルレースを作りたいと思った 
「ウルトラトレイルマウント富士」 2012年第1回目を開催した
160kmのコースをつなぐのに大変だった  つなげたのが奇跡的だった 関係省庁との調整、地権者との調整、自然保護団体との調整、沢山の壁を多くのメンバーと共に乗り越えてこられた
世界遺産にも登録されたので、大会もいい流れになってきていると思う
走る事は生きている事そのもの  山に自分を置かない人生はあり得ないと思う



















































2013年7月17日水曜日

国松俊英(児童文学作家)     ・宮澤賢治の願い、鳥と人間の共生 2

国松俊英(児童文学作家)   宮澤賢治の願い、鳥と人間の共生 2
これまでだれも書かなかった宮澤賢治と鳥の世界を紹介しました
最近では佐渡の朱鷺を題材にした、「朱鷺よ未来にはばたけ」を発表して、江戸文学の第7回福田きよと賞を受賞されました
宮澤賢治の願い 鳥と人間の共生について伺いました

岩手県にも朱鷺はいた 古い文献によると、江戸時代 徳川吉宗が生きていた時代に、各地の産物帳を作って残されている 北海道から九州の日本各地にいた
田植えが終わった田んぼに、あまりたくさん来て、苗を踏みあらすので、鉄砲を貸してほしいと記録に残っている(当時は害虫 かえる、さわがにとかが大好きだった)
江戸の葛西で、将軍が鷹狩りをやって、朱鷺を捕まえたという記録がある
盛岡高等農林学校 標本類がかざってあるが、朱鷺の標本もある
朱鷺が段々少なくなっていったのは、明治の中ごろから大正時代にかけて、と言われる
江戸時代は鳥とか獣を捕まえるという事は許されなかった
明治になって、許可をとれば狩猟ができるようになった

鉄砲がドンドン作られるようになって、雁、白鳥、朱鷺とかおおきな鳥が対象になった
朱鷺の場合は羽根は柔らかで高級なので、羽毛布団 女性の帽子の飾りとかで外国に輸出した
朱鷺の肉を食べると、貧血が治るとか言われたので、病気の人が食べたということも記録された
残ったのが佐渡、能登半島にもすこしいる程度になってしまった
佐渡島に昭和28年に28羽いたという記録がある
太平洋戦争の時に材木が切り出されて、山の木が無くなってしまった
大きな木で朱鷺は営巣するので、そういう事もあって1981年には野生の朱鷺は5羽しかいなくなった(朱鷺飼育センターにあと1羽  合計6羽)

朱鷺との付き合いは 1981年 初めて佐渡にわたって、朱鷺保護センターを訪ねて、ちらっと見た(きんちゃんと言う名の朱鷺が 1羽残る   歳をとった状態だった)
1998年に朱鷺の本を出したら、翌年中国政府が朱鷺を2羽 プレゼントしてくれた
中国もすくなっていたが、中国科学院が全国を調査したら、陝西省(せんせい)洋県(ようけん)の渓谷に野生の朱鷺が7羽いた
中国政府は保護に力を入れていって、増えていった 100羽を越えて、これだったらプレゼントしようという事で1999年にヤンヤン、ヨウヨウが日本にきて、2羽から雛がかえって、「ゆうゆう」という名前になって、その3羽から増えて、現在では200羽を超える

DNAを調べると中国の朱鷺と日本の朱鷺は全く同じ 地球の朱鷺
子供のころは川で魚を追いかけたりしていた
故郷の守山市は源氏蛍が有名だった  小学生のころは源氏蛍がいっぱいいた
大学を出て、東京に来て、安いアパートに住んでいた
千葉県の船橋の公団住宅の募集があり、応募したら当たったのでそこに入居した(結婚直後)
裏はすぐにハゼ釣りとか潮干狩りができるというので、会社の仲間が来て、いいところに住んだなあと言われたが、翌年から埋め立てが始まり、工業用地、住宅用地にしようとした
干潟を残してほしいとの運動を始めた (千葉の干潟を守る会)

共鳴して参加した  その会で自然観察会を行った(自然のPRを目的)
望遠鏡をのぞいたら、ゴミだと思っていたものが、鳥だった
くちばしを泥の中に突っ込んでカニを捕まえたら、振り回して、足、鋏を全部もぎ取ってしまって、水で洗って、飲みこんでしまい、風景を見てなんと面白いんだろうと、思って吃驚した
5月の春の渡りのシーズンで、南の方からしぎとかチドリが東京湾で休養して、シベリヤとかに飛んでゆくとう場面だった
2,3日して、自分で望遠鏡、鳥の図鑑を購入して、自分で観察を始めた、それが鳥との出会いだった
東京湾とは違う鳥を見てみたいと思って、野鳥の会にはいる
ちょうど初めての本の出版のころに、観察会で鳥に出会った(サラリーマンの時代)

埋立地のところに「せいたかしぎ」が巣を作った 綺麗な鳥で 調べてみたら、日本でまだ2度しか繁殖した記録が無い
仲間に話したら、みんなが吃驚した 調べたら、まれに日本に来る鳥だった
埋立地には野犬が徘徊したり、魚釣りの人が来たり、リモコンで飛行機を飛ばす人が来たりで、
誰かが巣を見つけて、持って行ってしまうかもしれないので、見張りをして、巣立ってゆくまで守ろうと、報道陣にも知らせないようにしようと、やっていた
たまたま私の観察中に親鳥の足もとに雛が見えた(2羽 4個の卵のうちに2羽孵り、翌日に残りの2羽が孵った)  本当に感動した
車の中から観察する分には驚かないが、一歩外に出ると反応するので、車の中で観察を続けた

親鳥は身体を張って一生懸命生きている、おまえは一生懸命生きているのかと、毎日精一杯生きているのかと、ふっと考えてしまった
おまえは何を一番やりたいのかと、自問 一冊目の本を出して、長編を書きたいと思っていたが、自分としては児童文学をやりたいと、だけど給料をもらい、いきてゆくと、だましながら生きていると、そんなことでいいのかと、本当に児童文学をやりたいのなら、サラリーマンを辞めて児童文学に挑戦したらどうなのかと、人生は一回しかないんだぞ、本当にやりたいことがあるのだったら、一回挑戦してみようと思った
駄目だったら、またやり直しができると思って、やってみようと思った
その年の終りに会社を辞めた

会社を辞めましたという手紙を出したら、10中9人が、お前何をやっているんだ、無謀だと言われた
厳しかったが、楽しかった  
好きな時にバードウオッチングができるし、好きな時に図書館に行って調べ物ができるし
それから34年が経った 
鳥の観察が生活の一部になった 鳥の観察をしていると、物凄い発見とか、感動がある
そういうものを誰か人に伝えたいと、思う

カラスはごみを荒らしたり、繁殖期になると人を襲ったりする
面白いなあと思ったのは、1996年ごろに、横浜市内のJRの線路に何者かが、石を置く 置き石事件があった  
犯人捜しをしていたら、線路に石を置くのはからすだと、言うのが解った
からすは物を隠す習性がある 敷石の中にパンを隠しておいて、食べたい時に食べるが、パンを食べようとしたときに、石とくっついていてしまって、石を線路において、パンだけを食べて、石だけが残る
鉄道マニアの人がたまたまビデオに撮っていた

宮城県仙台 東北大、キャンパス クルミをとってきて、道路の真ん中に置く 交差点で車が牽いてそれをカラスが食べる
道具を使うカラスがいる  頭がいいし、面白いことをする
カラスかんじょう 正月休みの終りに餅とか米を田んぼに持って行って、撒いてカラスを呼んで食べてもらうという行事をやっていた
今年も豊作になりますようにとやっていた    1960年からやられなくなった 
和歌山県熊野大社 カラス文字で書いたお札が分けてもらえる カラスが神様の使い
江戸時代からずーっと伝わってきている
祖先が大切にしてきた、生き物に対する気持ちを大切にした方がいいのではないかと、カラスのことを勉強して私は学んだ

宮澤賢治は生き物も人間もおんなじ命だと、言う事を大正、昭和の初めに気が付いていて、そういう気持ちで作品を書いている
そういう事を、今の私たちも、しっかり考えた方がいいのではないかと思う
人間と動物が共に生きてゆくためには、もっと動物の気持ちになって考えなければいけない
宮澤賢治は生きものの目から書いているのが、他の作家たちとは違う
「鳥も人もみんな地球の仲間だ」と、宮澤賢治が書いているが 、私が小学校に行った時などに何か書いてくださいと、言われた時には、そういう風に書いている
みんな、ひとりずつ好きなもの、いいものを持っているから、それを思いっきり伸ばすんだと、思いっきりやってゆくといいよと言っている
それぞれ個性を伸ばしていってくれたらなあと思います

大人に対しては、弱い者の目で見てほしいなあと思います
人と人が和やかになってゆくと思います


























2013年7月16日火曜日

国松俊英(児童文学作家)     ・宮澤賢治の願い、鳥と人間の共生

国松俊英(児童文学作家)   宮澤賢治の願い、鳥と人間の共生 
宮澤賢治が亡くなって80年になります 
滋賀県の守山市から上京され、サラリーマンになりました
39歳の時に、野鳥の子育ての姿を見て、児童作家に転身、宮澤賢治の鳥の世界 ときお未来にはばたけなど、野鳥や自然を題材にした作品や、手塚治虫伊能忠敬などのノンフィクション作家としても活躍しています
宮澤賢治の願い、鳥と人間の共生 児童文学作家の国松さんにうかがいました

宮澤賢治の魅力は?  魅力的と言うよりも、宮澤賢治はとっても不思議な作家です 
中学生のころに文学に目覚め、夏目漱石、芥川龍之介、島崎藤村の本などを片っぱしから読み始めて、いろんな人の本を読んだが、その本の中に宮澤賢治の本が一冊あり、読んだが、他の人とは違っていて、読後に不思議な感じがする、そして暗い、怖い感じがした作品だった
注文のおおい料理店」、「雪渡り」とかの作品
宮澤賢治の作品は時間がたっても、頭に、こびりついていた
文化祭の時に、劇に出ることなり、宮澤賢治の戯曲だった
それをきっかけに、宮澤賢治の本を読むようになった

大学の時に、詩(心象スケッチ) とても言葉が難しい 難解な詩だったが惹かれた
歳をとっていても、気がつくと宮澤賢治がいた
童話 子供が読む作品だが、宮澤賢治の作品は子供にこの作品の内容が伝わるのかなと思う
子供にも大人にも自分のイメージしていることを、伝えたいと思ったのでは
私は子供に読んでもらいたいと思っている
最初は童話という形式が面白いと思った(宮澤賢治の影響)
最初はサラリーマンになったが、会社の仕事だけで、一生終わるのは詰まらないと思って、趣味を持とうと思って、絵が描きたかった
下宿で油絵を描いてきたが、一人で描いていて、どこへ持って行って誰に観てもらうんだろうと
これが楽しいのかなと思い始めていたときに、新聞の片隅に童話創作サークルを始めますという呼びかけがあった、その時に宮澤賢治の童話を思い起こした  それがきっかけ

5年、サークルが続いたが、解散になって、一人で書くようになる
長編を或る作家に読んでもらったら、面白いという事で、出版してもらった
その辺りからもっとやってみたいと思うようになった
読者が子供というのはとても難しい仕事だと思う
子供向けの作家は、自分が大人であっても、身体の中に、子供の心と目を持っていないといけない
子供の目と心を持って、描いていけば、子供が共感してくれる
子供たちが面白いと思って読んでくれて、読み終わった後に感動してくれるものを書かないといけない

宮澤賢治のは子供にも、大人にも自分が感じたり、考えたりしている世界を描きだしたいと思っていたと思う
宮澤賢治は鳥が好きだった  人がどう生きてゆくか、世の中、世界はこんな風だとか書いているので、その中に鳥を使ったものを上手く表現できるという、そういう作品には鳥が出てくる
宮澤賢治の文学は岩手県の山、森、野原、川とか自然の中を彼がよく歩きまわったり、呼吸していた自然とのかかわりの中から生まれたのが特徴だと思っている
子供のころ、石っこ賢さんと呼ばれていて、石を拾い集めるのが好きだった
引き出しの中は石だらけ  山の上に登って星座を観るのが好きだった

盛岡高等農林では地質を調べることを頼まれて、ずーっと盛岡、花巻周辺を歩き回ったので、何日も歩き回るので、ちょっと遠くに行くと家に帰れなくなるので、野宿をした
動物の声、星空、風が林を通り抜ける音とか、益々磨きがかかって行った
中学の時に岩手山に登ると言う山登りが大好きで、岩手山には100回登っている
農業の指導者になってゆく
知識欲が旺盛な人だった  星座、石の性質、草、木の種類性質 動物
賢治は中学時代最初、短歌を書いている 鳥が出てくるので、中学の時から鳥が好きだったと思う

「夜鷹の星」  鷹に似ているが、鷹ではなく 夜に活動する夜鷹 と言う鳥
宮澤賢治の人生を書いているような作品
「二十六夜」 フクロウが出てくる作品  
主人公が鳥、主人公ではないけれども鳥が出てくる作品が沢山ある
作品には71種類の鳥が出てくる 珍しい作家です
この時代は一般の人にとっては、食べるものとか、籠に飼って楽しむのが一般的だった
鳥の鳴き声を聞いて楽しんだり、鳥が飛んでゆくのを見て、素晴らしいと思うのはユニークだった
 
「夜鷹の星」 夜鷹 兄弟にかわせみ 、蜂雀 が兄弟だと書いてあるが何にもつながりが無い
気まぐれでこの3つを兄弟にしたのだろうと思っていた
調べていったら、今の分類ではばらばらだが、当時の鳥類の分類は違う考え方を持っていて、ぶっぽうそうもくという、一つに入っていて、繋がっていた(後で調べて解った)
いい加減に兄弟だとは書いていなかったことが解り、吃驚した
もず 「鳥をとるやなぎ」に出てくるが、もずの群れが飛び出すと記載あり 
「百疋ばかりの百舌が 一遍に飛び立って」
もずは1年のほとんど単独で行動して、群れない
雛が育ってしまうと、一羽一羽が縄張りを作る孤独な鳥
100羽の群れが飛んでゆくのはおかしいと思った ムクドリなのではないかと思った

地方によって呼び名が違っていたりするので、もしかすると大正時代、モズの事をムクドリと
呼んでいたのではないかと思った
ムクドリの地方の表現 山形では「むー」 秋田県では「もく」 徳島県では「黒もず」と言う風に書いてあった
秋田県の民族研究家 武藤鉄城 古い本が書いてあってムクドリの方言名が書いてあった
ムクドリは桜の実、花を食べるので 「さくら鳥」 「むー」「黒もじ」と書いてあった  「どろもじ」もあった  
秋田県の方言なので、「もじ」だけど「もず」ではないかと、「黒もじ」→「黒もず」 「どろもじ」→「どろもず」ではないかと、ムクドリは背中がこげ茶色の黒っぽいモズと呼んでいる
秋田県に仁部富之助 有名な鳥類学者 秋田県下の仙北郡あたりではムクドリの呼び名を「もず」「もんず」「くそもず」「さくらもず」「でろもず」と呼んでいると書いてあった

仙北郡は岩手県と接しているとなりのところ 花巻から近いところ
賢治が書いたことは間違いないことが解った  解き明かすと楽しくなる
サラリーマンから作家になったことに対しては、収入が不安定だったりして、家族に対しては申し訳なさはあるが、私自身は全然やりたい事をやってきたので満足しています
「朱鷺」は当時日本にもいた


























2013年7月15日月曜日

斎藤房太郎(漁業)         ・荒海に生きて87年俳句に託す漁師の心 2

斎藤房太郎(漁業)   荒海に生きて87年俳句に託す漁師の心 2
越後海岸は湾が無いので波がそのままぶつけてくる
「八十路ゆく 我を阻むな 寒怒涛」 寒の怒涛 80過ぎると 体力が無くなるから、俺も80過ぎているので、あんまり、さえぎってくれるなよ  手加減してくれよ

「桜咲く 鯛も来るぞと 海も呼ぶ」 3~5月 春 漁師は浮かれ気分になっていられない
自分を戒めている 漁を逃すな 鯛も来ているぞ

「私は河童である」
「私は河童である 13歳より漁業に従事して、戦時中も海軍兵である  河童の私には俳句は大事な浮き輪である  河童は水を離れては生きられない  俳句と言う浮き輪につかまりながら、夜の荒波を、命の限り全力で、泳いでいきたいと思っている」
 
海軍兵 戦争体験
私が18歳の時 昭和18年 屈強な人間がいると、志願せよとの命令が来る 海軍に行く 
舞鶴に新兵教育と 言う事で3カ月いるが、すでにどこに行くかは振り分けられている
夜寝ているときに赤い字で、記されたものがかかっているだけ、何時の汽車でどこそこにゆけ
と書かれているだけ
肉弾攻撃の部隊であるぞと、いい聞かされている
船の操縦、精神を強めるのが、教育だった  九州から船でいくが、どこに行くかは解らなかった
フィリピンに到着した レイテ島(後でわかった場所) 戦略上重要な場所だった

「月登る レイテの海も 照らすかや」   戦友会で一杯飲んだ時に、ちょいと出た月が明るく上がったが、我々は生きて帰った 
あそこに死んだ人はどうしただろうと、レイテにも照らしてやってくれ  
月に対して、死んだ人たちに レイテの海を照らしてやってくれや、というような内容です
戦死した仲間の任務 船(ボート)の操縦 5mあるかどうか 幅1.5~2m
爆薬が積んである 真中にはエンジンとかがある、戻ってくる訳にはいかない
いかに気持ちを引き締めて前方に行かれるかと、こんな訓練です   
敵艦まで行く機械を操縦する 朝から夕方まで毎日訓練される
海を見たこともない人たちまで、集める(群馬、山梨、長野など)
最初、水練(潜る) 泳ぐ 船の操縦 合格した人たちを集めて、輸送船に乗せた

帰らなくなった人たちは仲間内では、15~20人ぐらいだと思う(よくつかめなかった)
潮の高さが、5m位あり、引くとぽっかり洞窟が見えるようになるので、そこに集合するように
するため、潮の満ち引きを読む、それを上司に説明する  あと船の操縦、その作業をした
後で聞いた話 フィリピン特攻は、もう少し性能が良いものができたので、別の部隊がやるので、本土に戻るように指令が来た(本土防衛のため)
本土にもどってから、船にのって、ボートを積んで指令に従って 移動した(作戦)
震洋という名前で 水上特攻に使われた兵器にかかわる話では?
私の名前自体が番号ですから、なんにも知らされていないので、何も解らなかった

NHKで4年前に放送した、震洋特別攻撃隊という証言記録のドキュメンタリーがあった
震洋が開発されて使われるようになったのは、昭和19年 
搭乗員は主に、予科練を卒業した、若者たちだった
震洋の場合は、震洋が体当たりして、沈没させた敵の船は(アメリカの資料)終戦までに沈めたのは4隻、一方命を失った震洋の隊員は基地の隊員を含めて、およそ2500人だった
終戦のころは九州にいた  1945年8月15日に終戦

「思い出す 不戦の誓い 終戦日」  九州大牟田市で終戦を迎えた
地方の司令官は、思惑で うちはこういう優秀な部隊があるので、言う事をきかないが、後で聞いた話では、8月には解散命令が出ているのに、そういう人たちは危険なところにはいかない
本当の現場を知らない人たちが司令官なので、デマにまどわされるな、、そのうちに又国軍が戦争に傾くので、頑張れと、激励見たいな、脅しみたいな、 私らは本当の事を知らなかった
昭和21年2月に出雲崎に戻ってくる
戦争はみじめだから、もう戦争辞めようやと、自分の子供にも戦争しないというように、誓ったんだけれども、50年も過ぎると、どうも誓いもあやふやになってきたという、と言う意味

「遠ざかる 昭和ひきよす 終戦日」  明治も遠くになりにけり と言う言葉があるが、昭和も遠くなってきて、平成も20年過ぎたし、昭和も遠くなったが、終戦日と言うものは、昭和は終戦日があるので、昭和に引き寄せられる

「遠花火 遠き戦友に 電話する」  友達にどうしてる? お盆もきたし 遠くで花火上がった日、電話をしたら花火まで遠くなった
斎藤さんの元気のもとは?
一種の欲望 いつまでも現役で、しかも若い皆さんと一緒に堂々と取り組んでいきたいと、いうのが夢であり、欲望です
同時に生活もかかっている  年金も少ないので
自分で魚を取ってきて、自分で売れば、おかみのせわにもならなくてもやっていけると、でも体が健康でないと駄目、健康の元をつくるのも、心の元 健康は心の持ち方によって違う
俳句を読むことによって、心のうさが晴れる  心に余裕が生まれる

昔は酒は良く飲んだが、70歳過ぎてからは付き合い程度 うちでは一滴も飲まない
よその人が来ると仕方がないので コップに3杯程度 (3合)
「秋深む 深酒するなと この便り」
「生きている 喜び語る ぬくめ酒」 (戦友会の話)
人生観?
「人生これ 二勝一敗 野分けあと」  野分けあととは台風の後のこと  船が壊れて漁業やめようかなと思ったが、これは一敗だったなと、いいやと、もうひとつ勝とうやと、自分を慰める
「露の身に 露にも似たる 夢を持つ」 人生 露のごとくと言うように言われるが、考えてみれば露のようなもの、わずかなものだけれど 夢を持て と言う事
「わびすけや 叶わぬ 夢を なお捨てず」  わびすけと言うのは椿のような白い花
わびすけ でさえ咲いていているのだから、自分ではかなわぬ夢と思っても放り出してしまわない
夢はいろいろ考え方があるが
「雲の峰 人それぞれに 誇りもて」  誇りをもて、そこから夢が生まれる(夢は人間の誇り)
人間としての誇りを失わずに、生きていたい と言うのが夢

「反骨の 一人一舟 雲の峰」  一舟 磯見船は一人で操り、網をたてこむのも、、何でもかんでも一人でやる   反骨 負けず嫌い   若いものの半分も水揚げ出来ない、半分ぐらいしか潜れないが、頑張ってみる



























2013年7月14日日曜日

斎藤房太郎(漁業)       ・荒海に生きて87年俳句に託す漁師の心

斎藤房太郎(漁業)   荒海に生きて87年俳句に託す漁師の心
大正14年 出雲崎に生まれ 13歳の時にいそみ漁師と言う仕事に就きました
磯を見る漁 海岸近くに広がる磯で素潜りや、網を使って魚介類や海藻を獲る伝統的な漁業です
斎藤さんは今年の秋で、88歳、米寿を迎えますが,今も一人で海に出て現役の磯見漁を続けています
そんな斎藤さんの心の支えになっているのが、俳句です
70代になってから俳句を詠むようになりました  そしては俳句を始めて、およそ15年がたった去年の夏、俳句の雑誌、本で良く知られている東京の出版社から、初句集が出版されて、注目を浴びました
どんないきさつで俳句を始め、どんな俳句を詠んでいるのか、伺います

北国街道沿いに住んでいる 日本海の磯がすぐ前
7月~8月の漁は 海に潜ってサザエ、アワビ、カキ、海藻類を取る 昔から出雲崎は男が潜る
女性の役割りは、取ってきた魚を市場に運んだり、網にかかった魚を取って、繕ったりする
磯見漁師 磯は海岸から出ている岩礁が磯と言う 海岸から2000m内外で、網を挿したり、もぐ
ったり、魚場としている  磯が見える領域
9月を過ぎると潜水漁はやめて、刺し網、磯魚 黒鯛 あいなめ、めばるなどを取る
俳句を始めると、星がきれいだとか、天の川が綺麗だとか、心に留めるようになりました

これは俳句をしたおかげだと思う
この辺りの海は芭蕉 「荒海や佐渡に横たう天の川」と詠んだところ
13歳から漁をを始める、70数年間、荒海で仕事をしてきた   光陰矢の如しと言うが、過ぎた日は短かったと思います
俳号 凡太 馬鹿者の事をぽんたという  最初ぽんた 凡太になった (凡人)
良寛は大愚といっていた 良寛生誕の地が近くにある 大正時代に建てられた(良寛堂)
1年前、俳句の分野で有名な東京の出版社から、凡太さんの句集が出版された
本の題名は「磯見漁師」 斎藤凡太句集

「海鳴りも 嬉しく聞こゆ ゆきげ風」 海鳴りは何が押し寄せる前に聞こえる 明日の休みかと しかし 雪溶風は春の風 春の前ブレ 嬉しく聞こえる   (平成12年 74歳の時の句)
「海藻に しょうい直し 夏惜しむ」  夏は潜って海藻を取るが、干すが、中に日が通らないところがあるが、ひっくり返して日を通すようにする これをしょうい直しという
夏を惜しみながら、ひっくり返す 
「母の日に 形見の帽子 一つ干し」  母から帽子をもらって、それを干しながら、お母さんも難儀だったろうなあと思いながら 詠んだ
190句おさめられている(平成12年~23年まで)

「雲の峰 小石蹴りあげ うさはらす」 入道雲(雲の峰)が出来て、雷が来る 魚が取れず憂さを晴らす為に小石を蹴りあげる
「7月や しのぎをけずる 海の待つ」 漁の最盛期 しのぎを削るほどライバルと戦う 
その海が待っている
俳句を始めたのが70歳を過ぎてから  妻と2人3脚でやってきたが、妻が亡くなってしまって、共稼ぎで反省しながら、やってきたが、一人になると、其時間が無く、自然と息が消沈してしまった
話し相手がしたいと思っていたが、子供のころから、詠んだり、書いたりするのが好きだったので、街の会長に相談した  閑を潰そうかと軽い考えで始めた
閑を潰そうと「渚会」に入る  
2,3年後に、黒田先生が出席されるという事で、「まびきな」と言う題がでた
黒田杏子先生はNHK俳句選者
「まびきな」は菜っ葉の種をまくと、ずーっと芽が出て、間引かないと共倒れになったり、成長が遅れたりするので、間引かないといけない 後に残った人を成長させるには、間引かないといけない

「間引き菜や 妻も間引かれ 石の下」と詠んだ  作者の魂がこもった句だと先生から言われる
軍歌に 「石の下」と言うところがあるが、それがよぎって 妻との2人3脚でやってきて、友である妻はお互いに助け合った戦友なんです
俳句の仲間、磯部有志さん   700号記念の日に黒田さんが来られた、そこで「まびきな」の題が出された

句集の序文(黒田杏子) 凡太さんが語り出しました 実は私のかかあが急に死んでしまいました 
私ら漁師はみなかかあと組んで、2人3脚で仕事をすることが多いんですよ 
ずーっと二人で暮らしてきたんですが、その相手が突然あの世に行ってしまって、息子二人は都会に出ていますので、全く話し相手もいない 
若い時に、少し川柳のまねごとをやったりして事があるが、俳諧でもやろうかと、それにしても勉強させてもらわないとできない
無学の人間なので、句会の仲間にくわえてもらって、無学の漁師が俳諧の道に連なることができたという事ですから、有難いことです
私(黒田杏子)は涙が出てくるので、何度も大げさに鼻をかむふりをしていました

その日起きたことを頭に留めて、飯を食いながらでも、今日できた仕事、できた事柄を想い浮かべながら、メモして、夜、引き出してきて、季語を比べながら、直す
疲れていても眠気は無くなるので不思議な事です
斎藤さんは季語に対する真剣さがある 季語と生活が寄り添っている

結婚は31歳 私が海から上がってくるとかかあは私の使った網を直したり、魚を組合に売ったりしているので、結局2人3脚になります
「思い出す 亡妻(つま)の旧姓 とうがなび」 亡くなってみて、昔を思い出している
妻を偲んでいる歌      私が70歳で妻が68歳で亡くなる  東条せつ(妻)  遠いい日
「亡妻(つま)訪えば 日暮らし鳴いて 日は海に」 
お墓参りをすると、私も泣いて、日暮らしも鳴いて(カナカナカナ)、太陽も悲しいと海に落ちた

「寒すずめ 米とぐ我に 話しかけ」
妻が亡くなり、米をといでいる私のところに、雀が来て、私に話しかけてくるよいうな思いがあった
俳句は ヨロヨロしたときに、身体を支えてくれる杖のようなもの
俳句をやるようになって、心に余裕ができるようになった
いや待てよと、明日もあるぞと、今日は今日で終わったけど明日もあるぞと、心に余裕ができる
思いやりが出てくる








2013年7月13日土曜日

田中嘉治(合唱団団長)      ・平和と幸せのために歌いたい

田中嘉治(神戸市役所センター合唱団団長) 平和と幸せのために歌いたい
神戸市役所の職員を中心に結成された、神戸市役所センター合唱団は結成後50周年を迎えました
これまでに、作詞森村誠一、作曲池辺晋一郎 による組曲 悪魔の飽食の製作公演を始め、意欲的な活動を続けてきています
団長の田中さんは30年以上も務めてきて、数々の作品をプロデュースしてきました
1989年には太鼓集団、わだつみを旗揚げして、その代表も務めています
5年前に市役所を早期退職して、現在も神戸発の多くの文化の発展に寄与している田中さんに、合唱や太鼓の演奏を通して、伝えたい思いを伺います

1963年 (昭和38年)に創立 50年目になる
日本の歌声運動が1948年 2月11日 東京の中央合唱団の設立をもって、日本の歌声の始まりと言われる
神戸市役所の各部署の中に昼休みに歌う会があった 40分ほど歌っていた
各リーダーが集まって、一つに纏めることになり、神戸市役所センター合唱団にしようという事になる(とりあえず、仮の名前を作ったが、それがそのままになっている)
設立当初は20人 創立10年たってから私は入った(合唱には興味は無かったが)

当初自分たちで楽しむような形だったが、(飲みにいたり、ハイキングに行ったりとか)
森村先生、池辺先生との出会いで、音楽と言うものを真摯に見つめて、いい歌を沢山の人に広げていこうと、感動してもらおうと、質的な向上が無いと広がらない 姿勢を学んだ 
1981年に森村先生が、素晴らしい作品をかかれているが、1931年~終戦間際までの間、中国に日本の陸軍が関東軍防疫給水部本部満州第731部隊という最近、そのことを初めて問うた
超大ベストセラーになった
森村先生に是非来てくださればと、お願いした
来てくれるような状況ではなかった
 
本に掲載してある、ある写真が違っていて大騒ぎになっていた
キャンセルしたいとの話があったが、引き下がる事無くお願いしたら、結局来てくださることになる(警戒を厳重にして、初めて公の席に森村先生が来られる)
このことが、その後の森村先生との絆となる
森村先生に詩を書いてほしいと要望する  原稿用紙に40枚ぐらいの壮大な詩を頂戴した
作曲をどうするかと言う時に、池辺先生にお願いした 
喫茶店で池辺先生が15分ぐらい観ていて、これはいい詩ですねと言われた
詩を編詩してもらい、7章にまとめる
1984年に出来上がる 「悪魔の飽食」

阪神淡路大震災 1995年 節目の年だった 次なる企画があって、構想もできて、詩もできていたが、大震災にあった
震災の歌の提言があった
(資料を先生のところにおくって、やり取りしながら詩を創っていただいた)
子供たちの作文も組曲の中に入っている
森村先生からも提案があり、或る新聞に御両親を亡くした高校生が灘区役所に死亡届を持ってきたという記事があるので是非示したいというので、調べたら祖母も亡くしていた
担当係長から頑張れと言われたという内容だった  
それも一つの章になっている 実際にあったことをテーマにして、震災組曲がつづられている

震災を例に挙げると、音楽そのもので、亡くなった方が生きかえるとか、壊れた家が立ち上がってくる事は無いが、岩を動かそうと思っても音楽では岩が動かないが、岩を動かそうとしている人の心は音楽で動かす事は出来るのではないかと思っているので、幸いにも震災で生き延びたものにとって、これから再生、復興、力強く生きてゆく生きてゆくときに音楽は非常に大きな役割を果たすだろうと、いう一つの音楽の力を信じているので、一番音楽が自由に歌えるという平和をどう守ってゆくのか、音楽の役割りがあると思う
体制的に批判的なことを言うとレッテルを張られてしまうという日本には風土があるが、先生は戦争はいけないという不戦論者なので、戦争は絶対してはいけないという想いがある

対馬丸 終戦間際に疎開するときに、アメリカの潜水艦に沈められた事をテーマにした組曲を創っているが、それを遺族会とてを組んで、一緒に成功させてきた
今みたいに複雑な時代になると、大意は留保して、大道につくと、こういう時代に入っているのではないかと思うので、いろんな人と手を組める一致点があれば、一緒に歌って生きたい
戦争は二度と起こしてはいけないという、戦争を起こすのには、ひとの心の中に芽があるので、
その人の心の中に平和の砦を創らなくてはいけないので、音楽は人の心の中に平和の砦を作る重要な役割を果たすのではないかと思う

合唱だけではなくて、和太鼓を立ち上げる
日本の伝統芸能の継承、発展 コンセプトがあるので、民謡が主流だった
和太鼓は高価な楽器 直径48cm けやき 80万円するので手がだせなかったが、最初ちっちゃな太鼓を購入した  練習場がなかなか難しい 1989年に立ち上げた
「わだつみ」 (海を支配する神) 正式な名称を付けることで、より練習に集中することにもなる
メンバーは8人(レギュラー)  市職員で無く、誰でもはいれるようにした

5年前に早期退職をする
合唱団も大きく発展させていきたい 今は太鼓は40ぐらいある 演目にも深みが出てくる
専用ホールが出来ることにより、稽古量が全然変わった
和太鼓の良さを知ってもらいたい 和太鼓の普及にも力を入れたい
5人のタイプがいたらチームとしていいといわれる
①大風呂敷を広げて、壮大なアドバルンをぶち上げる
②参謀格は実務をやるタイプ
③専門官
④ピエロタイプ その人がいると場が和やかになる
⑤何をやらしてもできない、言われたことは順々とやるタイプ

創立50周年記念事業計画 3カ年(昨年、今年、来年)
車いすの詩人作詞 三枝先生作曲 「命のふるえ」  昨年実施した
作曲 信長貴富先生 「君たち」中東戦争、イラク戦争をテーマ 蓬莱 泰三先生作詞
来年は沖縄をテーマにした対馬丸事件 昭和19年8月22日 沖縄から本土に疎開するときに、アメリカの潜水艦に沈められてしまう 800人近くの子供たちが今も海底に眠っている
実は対馬丸は神戸港から出港している  「海のトランペット」 対馬丸の子供たちというタイトルの 組曲
人間魚雷 「回天」  沖縄と神戸で公演する予定













































2013年7月12日金曜日

大内順子(ファッション評論家)    ・時代を創った女たち

大内順子(ファッション評論家)         時代を創った女たち
大内さんは上海生れです  青山学院大学在学中からモデルを勤めていました
大学卒業後は、雑誌、新聞、ラジオ、TVなど様々なメディアに、ファッションジャーナリストとして、日本にいち早く世界の最新のモードをつたえ続けてきました
大内さんの活躍に刺激されてファッションの世界に目覚めた人も数多くいます
大内さんは世界各国のファッションコンクールの審査員も務めていて、平成13年にフランスから芸術文化勲章などを受けるなど、様々な賞を受けています

大学時代にファッションモデルをしていたが、大学に入って或るときに街中で、声をかけられて、若い人の企画をやりたいので来てくれないかと言われた
高校ぐらいから漠然とジャーナリストになりたくて、雑誌だったらジャーナリストだからおもしろそうだと思っていくことにした
モデルとしていろいろ経験する
丸山明宏(美輪明宏)さん、岡田真澄さんとかと、ご一緒した
青山学院大学は出欠がめちゃくちゃ厳しくて、単位が取れないので、学校が終わるとすぐにスタジオに飛び込んでみたりしていた

大学卒業後、家がうるさくて、特に母が、許さないと言っていた
ある会社に入ったなら、いつまでもファッション担当ではいられない、経理に回されるかもしれないので、他の課に移されるかもしれないので、ファッションをやっていきたいと思ったので、フリーでやることにした
東京に住んでいて、そういった仕事はあんまりなかったような気がする
「ファッションライター」 自身が命名した 評論家は偉そうな感じがしたので
昭和33年に海外にはじめてゆく 大学卒業して翌年 パスポートが取れない時代だった
たまたまモデルを廃業して、書くことになってすぐだったが、エジプトでコットンフェアーが行われて、そこで日本人のショーをしてほしいといわれて、編集長から行ってほしいといわれて、洋服をつくって、3人で行ってくることになる

どうせ行くのなら、もったいないのでヨーロッパを回った方がいいという事で、ヨーロッパも回ることにした
ヨーロッパを一人で回った 楽しかった事、楽しかった事
一人で回っているといろいろ親切にしてもらう その時に友達になった人が現在も友達となっている
先ずローマに入り ベニス、とかいろいろ コペンハーゲンから帰ってくる
パリではオートクチュールしかなかった 朝吹登水子さんがおいでになっていて、ディオールに勤めていたので朝吹さんに連れて行ってもらって、ディオールを見ることができた
当時、カメラマンは入ってはいけないし、メモも取ってはいけなかった
(特徴、デザイン書くには許されなかった)
ホテルに帰ってから、急いでそれを書いた

日本に戻って発表する(旅行記みたいなものだったが)
その時の楽しさが本当に大きかったので、すぐにまた行きたかった
ニューヨークに友達(大学時代からの友達)がいて、アメリカに行こうと思った
自動車事故にあってしまって、2,3カ月のうちにニューヨークにいけますかと聞いたが、駄目だった(3か月入院 視力が無くなった)  日常生活も難しそうだと、先生が主人に言ったそうです
拡大鏡で見れば、片方の目だけは見えるので、なんとかなると思った
その目を使っていると、視力が少しずつ回復してくるという弱視だったので、見ているうちに見れるようになってきた

香港に行ってみようと思って、香港に行った そのうちにアメリカにもいきたい、ヨーロッパにもいきたいという事になり、どうせ行くのなら、ただ行くのではなく、コレクションを見るという事を自前で繰り返していた
そのうちにこれだけ美しいものをなんとか他のかたにも伝えられないだろうかと思って、最初は雑誌で行いたいと思った
どこの雑誌でも日本の雑誌は受けてくれないといわれて、よその国でやっているのなら、日本でもできないわけは無いと思った
編集長が変わって、あの企画は出来ますかと、言われて、できるでしょうと答えた
何もかも一人でやることになった

むこうの担当の方と仲良くなって、段々 いろんなものを見せてくれるようになった
山ほど素材を持ち帰った
コレクションを見にいっても、日本人はマーケットとして関係無かったので、席が空いていてもあっちに立っていなさいと言われたが、知り合いになると、皆さん親切にしてくれた
お互いの人間同士の、この人はこんなに一生懸命やっていると判れば、きっとそこから通じ合えるものがあるはず

段々変わってきて、カメラが入れるようになったが、TV局はどっちかと下に見られていて、デザイナーにとって、意識の中にないものだった
私の中では、コレクションに関しては動きを見せる、のがいいと思っていたが、物足りなくて映像を是非やりたいと思っていた
ファッションは視聴率が絶対取れないという大きなジンクスがあって、どこもやってくれなかった
私が撮ってきたら、その映像を放送してくれないかと、NHKにお願いした
なんとか映像を山ほど撮ってくる事ができた  編集して朝の番組に放送させてもらった
それがきっかけで、家で試写会をやった 皆さんが感動してくれて、その中の一人がある局のディレクターでフリーのタイアップした残りのチケットがあって、パリ東京のチケットを使うか、と言う事から始まって、なんかおじさんがやればできそうよと言う事になって、その局で朝の番組でコレクションをやるという事が出来た

局のほうはどうせやったって、視聴率は上がらないと思っていて、輸入元にお願いして、プレゼントを出してもらったら、申し込みが毎日4万ずつ来た 何シーズンかは続いた
そんなことから映像とつなげるという事が段々広がって行った
TVの世界は男性ばかりだったので、女性がどこに関心を持っているかか、実感の部分はわかったと思う
私はつくづく思うんですが、おせっかいなんですよ 人にもどうしても見せたくなったりするんで、おせっかい精神がそういう風に広がりを創って言ったんだろうと思います

ファッションは時代を先取りしてそれを映し出すので、経済、政治とも関係するので、男性にも見てもらいたいと思った
宮内裕氏が夫(画家)  学生、主婦、モデルの仕事がありとっても忙しかった
子供が生まれて、3歳までは絶対自分の手で育てなくてはいけないと思って、一切外国などには行っていない
宮内裕氏は2011年3月に亡くなる ベットにいる主人が良い、楽しめる話を、そばでする事が出来る状況をずーっと続けてきました
今は私一人なので、もう心配する相手がいないので、自由に飛び回っている
自分が本当にみたいもの、興味のあるものは、見に行く
ジバンシーさんは尊敬いしている  気難しい人でインタビューを一切受け付けないという習慣を持っていたが、私はインタビューする機会があり、波長があって 凄くおしゃべりをした

ジバンシーさんはオードリーヘップバーン と友達  輝くように美しかった昔よりも、病気になって、しわが多くなった歳をとられたオードリーさんの方が、もっとエレガントだったとおっしゃった
私もオードリーさんにお目にかかった時に私は実感しました
本当に誰に対しても、同じ優しさ、同じ思いやりの態度で接せられる エレガントとはそういうものだなあと、非常に教えられた
デザイナーの方は個性があって、本当に面白い
作品の良し悪しの中に、3年先、5年先の世の中の人が何を求めるかを、彼らなりにそこで感じて表現している
だからコレクションを見ると、次の時代の求められるのが、解る
だから男性にも観てもらいたかった











































































2013年7月11日木曜日

池田雅之(鎌倉寺子屋理事長)   ・地域と世代の力で子供を育てる

池田雅之(NPO法人鎌倉寺子屋理事長)  地域と世代の力で子供を育てる
池田さんは1946年、三重県生まれ 早稲田大学文学部、英文科卒業 明治大学大学院文学研究科博士課程を修了し、現在は早稲田大学、国際言語文化研究所、所長を務めています
池田さんは2003年に、有志と一緒に、鎌倉寺子屋を立ち上げました
これは主に神奈川県鎌倉市の小中学生を対象にした、次世代育成プロジェクトで、大学生、青年会議所のメンバー、市民のボランティアが中心になって、お寺、神社、教会などの支援を受けて様々な企画を実践しています
2007年には内閣府認証のNPO法人になり、 全国にネットワークを広げています
スタートして10年これまでの活動の成果、今後の見通しなどについて伺います

先ずここまでよくやってきたなと思います
子供の本当に危機的状況が、2000年に入ってありましたので、引きこもり、不登校 それにどういう風に対応していったらいいか、それを組織としてどうして行ったらいいか、頭を悩ましました
寺子屋の場合は大学の学生、地域のボランティア、鎌倉の寺社 3つの違ったセクターが協力し合ってやることが、新しかったかもしれません
当時は千葉県の松戸に住んでいて、通ったり、ホテルに泊まって続けていたが、仲間も鎌倉で増えてきて、活動が活発になり、2005年の9月に鎌倉に引っ越してきました

6月15日に3回目のホームカミングデー かつてのボランティアの大学生と子供たちをもう一度呼び戻すというか、一同に会して、これからも寺子屋を支援してくださいと、皆に声をかけた
高徳院 バーベキュースタイル 年齢も様々 3世代、4世代が集える、交流の場にしていこうという目的がある

精神科医の森下一さんの鎌倉講演がスタートになった
1995年に大きな地震がありましたし、オーム事件 さかきばらせいと事件
戦後のいろいろな教育のひずみ、子供たちの育ち が危ない
高度成長で右肩上がりで、バブルの崩壊、足元を見てみると子供、若者がいろいろな問題を起こして、病んでいる若者が出てきた
生活の豊かさ、心の安らぎを求めて日本人はひた走ってきたが、実はそうではなかった
大人の責任もあるのではないかと思うようになった
森下一さんは不登校児を受け入れる、日本で初めて生野学園を創設された

子供たちの育ち、自立を図るような草の根的な、市民活動をやったほうがいいのではないかと、鎌倉寺子屋を始めた
2002年に秋ごろから、鎌倉で危機を訴えた 賛同者を募っていった
僧侶の方の力を頂き、市のご理解を頂いて鎌倉寺子屋を立ち上げた
しつけ、人と人との付き合い、情緒的な面人間としてのたしなみ、そういう要素も含まれていたと思うので、総合的な学びと遊びを実践できる、そういうコミュニティーを作ろうと思ったので、それを寺子屋と呼んだ
2003年 建長寺実習を始めたが、どういう風にしたらいいかわからなかった
地域で子供、若者を育てていくような、システムを創っていこうという事で、2泊3日の合宿をやろうと、言う事で夏休みの宿題をみるとか、もの作ったり遊んでくれるよ、楽しい合宿をやるよと言う事で集まってきた

初めから方法が解っていたことではない 鳥の巣箱を作った(物を作る事から始める)
11年目になり規模、中味も充実してきた
戦後の学校教育は学科中心 本当はもっと情操教育、ひとに何をしたら迷惑をかけるのかとか、生き方と言うのはほとんど日本の高等教育では特に教えないし、指導できない
本当の人間にとって学びとはなにか、と言う事を考えて、学科教育には無い、物をつくる体感的な、あるいは感動体験ですね

情操的なものを寺小屋の一つ中心にしてゆく  人との出会い
①異世代の人たち(3世代 子供、若者、大人) 4世代が交われる 背景が違う 職種、価値観が違う その中で出会う
②人が育ってゆくには学校教育だけでは十分ではない 家庭教育、地域教育 3つをつなぐようなシステムができないか  複眼の教育

大塚 英志さん(柳田 國男の弟子) 子供の民俗学を立てられた方 子供の育ちに注目
複眼の教育が大事だと提唱している
子供、若者が育ってゆくには、様々な人の目が、そこに注がれている 
今は核家族化、人間関係が希薄になっている
多くの人の目が子供に注がれてはいない(昔は祖父母、近所の人たちの目があった)
いろんな目が子供に注がれるような環境を作ろうと思った(複眼教育)

目指せ里山スター  ①お米作り(年間を通して 自然とのふれあい) 
②自然の生態系が残っているので、3世代が遊ぶ
朗読を楽しむ  円覚寺で塔頭巡りをしながら、3世代参加型でおこなう
なかなか声を出して読まないので、続けるうちに、人に伝える事に非常に興味と楽しみを覚える
段々変わってゆく 友達も増える
土と遊ぼう  陶芸 川村きふみさんをお迎えして、毎月やっている
上手下手は言わない のびのびと素の自分を表現する
焼いたものを自分の家で使う
 
テラハウス 子供に居場所作りを考えてきた  
大船の駅前に一室借りて、いつでも子供が集ってこられるように、土日、夕方集まってきて、遊んだり、勉強したり出来るようにした
素の自分があると子供は救われる
建長寺合宿  「本気de建長寺」 一生懸命にお互いが、誠心誠意、もの作り、交流したり 本気で楽しむんだよと言うのがキーワード  「一所懸命」 一所で懸命に

いろんな世代が出会う事によって、いままで出会えなかった人に出会う
子供はお兄ちゃん、お姉ちゃんに憧れを持つ 憧れを持つことによって、生きる力を頂いていると思う
大事なのは、身近な人の中にリアルな人物の中に、そういったものを見つけてゆくことが大事
学生 早稲田から他の学校にも広がっている 横浜国立大学、明治学院大学、鎌倉女子大学
千葉大学 からも来るようになって、学生同士の交流も始まっている
一人っ子が多い(子供も学生も  ) 
子供はストレートに試す 蹴ってみたり、ぶつかってみたり、そういうような動作、行動をとったりする  
それに付き合っていると子供も親しみを感じるらしい

全国各地に広がっている  22ヶ所立ち上がっている 全国寺子屋ネットワーク
青年会議所のOB、OGの方がたが、地元のボランティアの方々に声をかけてゆく
各地域の大学に声をかけてゆく 地域の神社仏閣が協力してゆくという事で、スタイルは大学、市民ボランティア、神社仏閣が中心になってコラボレーションしてゆく
東日本大震災の発生直後 被災者の関わり  被災地にも寺子屋があったので、直後に入る事ができた

70%~80%は運営に苦労しているのが実情 安定した基盤が必要 NPOの運営が難しいのは資金面で上手くいかない
資金的に上手くかないと、どっかの行政の下請け機関になりやすい
そうすると行政側の考えでやらざるを得ないので、下請け業になってしまう、それが危険なんですね
後は理念をはっきりさせないと、どっかの付属機関になりやすい
NPOは普通の人たちのエネルギーと知恵を表現できる活動が本来のNPOですので、よそ様の団体のまねをしても駄目だし、政府関係の業務の下請けも駄目だし、独立を保つには知恵と工夫、財政がしっかりしてないといけない

今ようやく体制が出来てきたので、私が明日理事長を譲っても、バトンタッチ出来るような感覚
以前はいつつぶれるか解らなかったが、今は大変だが、長期的にやれるのではないかと言う、志のネットワーク、人材のバトンタッチ(世代交代)が図れる様になった
大震災があったことにより、日本の中に、特に若者の中にボランティア、をするという事が、マインドが芽生えて来ているのではないかと思う
各大学でたくさん応募してくる  
ボランティア、の裾野が若者の中に広がってきているが、とってもいいことだと思っている









 








































































2013年7月10日水曜日

安田登(能楽師)         ・能に学ぶ生きる知恵

安田登(能楽師)          能に学ぶ生きる知恵
安田さんは1956年生まれ  27歳の時に能のわき方の流派である下掛宝生流に入門しました
今では国内外で舞台に立ち、又講習会で指導するなど、能の普及に努めています
こうした活動の中で、安田さんは能に見られる所作、ゆっくりした、動きなどは現代人が忘れたり身体能力を、呼び覚まし、身体と心の健全性を回復させてくれる力を持っていると、考え、その動きを分析して現代の生活に、活かす試みをしています
能に秘められた現代生活に通用する力とは何か、をうかがいました

能の動きを和の所さ、と言う風に言っていますが、これは能の動きと言う事
能の動きもいろいろの所作がある
ゆっくりとした動き、特徴的な動き 主にすり足  かなり速い動きもある
日常的な速さ、動きと一番違うのは、内側からの動き 深層筋を使った動きが、能の動きの特徴です     
能力のアップといってもいろいろある 
早く歩くのではなくて、長い距離をゆっくり歩きながら、周りの景色を見るとか、歩きながら昔の人のことを考えるとか、現代人が忘れてしまっているような、身体能力を高めるのに、役に立つと思います

20代の中盤ぐらいに、友達に誘われて、能楽堂にいきましたが、それまでは全く能を、存在自体をあまり知らなかった
その時に今の師匠の舞台に接しまして、吃驚するような声だった(人間の声とは思われない様な) 耳に聞こえる声と言うよりも、腹に響いてくる声、身体がそのまま感じる声に出会って、歌いを教えてくださいと言って、そこから入門しました
わき方 師匠がわきで、能が出来た650年ほど前には、わきに脇役と言う意味は無かった
着物のわきの部分をわきという 前の部分と後ろの部分があって、それをわける部分としての「わき」なんですね
能には夢幻能と言うのがあって、夢幻能の主人公である「して」は、多くは幽霊だったり、神様、動植物の精霊だったりするが、私たちの住む世界とは違う世界にいる
両者は普通出会う事が無い

「わき」という境界の世界に住んでいる人物だけが、その世界の人と出会う事が出来る、それを観客に示すことができる 
それが「わき」 それにとっても惹かれまして、「わき方」のけいこをしたいと思って、先生に入門させていただきました
日本の芸能は、それまで学んできた音楽や、運動や、そういったものがとことん邪魔になる
音楽はリズムとメロディーがあるが、ひょうし、メロディーでは無くふしですね 全く違うもの
リズムはこれから存在するある時間を、等間隔に分けて作るので、指揮者は振り出す前に、直前の一拍目をふる  未来をいくつかの等間隔に分けているのがリズムだが、それに対して能のひょうしと言うものは、常に今が一拍目なんです

今の積み重ねによって、後から見たときにリズムの様なものが生まれるが、でもそれはリズムとは全く違うもの  
ふしのほうもメロディーのように歌ってしまうと、最初の歌いだしと最後の歌いだしが、同じようにな音になってしまう
その時の気合いや空気に、ドンドン変えて行かないといけない
それまで持っていたものを、捨てるのに苦労した
先生の指導に対して、ただ従うしかなかった

多くの方が能と言うと、年寄りがやっているイメージがあるが、子供から幅広い
特に年寄りの声の凄さに吃驚した
測定を越えた、強い声がびんびんと響いてくる
或る時、アメリカのボディーワークに出会いまして、整体のようなもの 受け手が軟化をすることが多い それを勉強したときに、能の動きが外側の筋肉では無くて、内側の筋肉である深層筋を中心になされていることに、気がついた
表の筋肉は、加齢と共に、ドンドン弱まるが、内側の筋肉はそう簡単には弱まらない筋肉
残念ながら、多くの人が内側の筋肉を使っていない、年齢が上になるとその筋肉も使えない、外の筋肉も弱まってしまう、身体が弱まってしまう

能の動き 特にすりあしを使う事によって、内側の深層筋が知らぬ間に、活性化されて、内側の筋肉によって、舞ったり、歌ったりすることができるのではないかと、気がついた
背骨を中心についている筋肉 今注目されている筋肉が大腰筋  背骨から内臓の裏側を通って、足の付け根についている太くて長い筋肉 ももを上げる働きをする
この筋肉がすり足をすることによって、活性化する
能、姿勢が垂直 水平

一番いいのがすり足をすること かかとを出来るだけ床から離さずにゆっくり歩くこと
最初は膝を曲げて、一日10分でも歩く練習をすると大腰筋が活性化される
時間はかかる 1年、2年、10年と時間をかける
足ブラ 高い台に乗って、ただ片足をぶらぶらするだけ、その時にできれば大腰筋が伸びてゆくイメージをする
片方2分程度各々行った後に、すり足を4~5分すると大腰筋はかなり活性化する
こうしたことをやってから、引きこもりの人と歩いているが、途中で脱落した人はいない
大腰筋はもっとも使われなかった筋肉だったと思う
一生懸命やってはいけない、一生懸命にやると、他の筋肉を使ってしまうので、良くない

呼吸法 正確に言うと能に呼吸法はない 
歌いをうたうことがそのまま、呼吸法に繋がる
日本の多くの身体作法は、呼吸のための呼吸法は無いと思う
歌いを大きな声で歌う事が、深い呼吸につながると思う
深呼吸 昔は 吐く事が先にあって、吸うという深呼吸をした 
時間も吐く時間を長く、吸う時間を短く 呼吸は吐くことが中心
息を吐くことによって、生れてきて、吐くことで無くなってゆく

緊張する人に深呼吸をしなさいと言うが、本当に緊張している時は、深呼吸はできない
強制的に深呼吸をする方法があるが、一番簡単な方法は、ストローをくわえてゆっくり息を吐く、ストローをはずして、息を吸う  これを5分繰り返す  1週間、2週間する
次にストローを無しにして、唇をくわえたような形にして、緊張したときなどに、その呼吸をする事によって、強制的に深呼吸ができるようになる

つよ吟 横隔膜をパカーンと破裂させるような声、精神に良いと思っている
稽古 最初 大きな声を出す 気付いたきっかけ 桶狭間の戦いの前に歌いを歌った
お茶漬けを食べ、甲冑を着けて出かけたために、ついていけるのは3人しかいなかった
ストレスの対処の方法 大きくなったストレスに対して、もしそれを跳ね返すことができればより強い力が出るので、信長はそれを待っていたのではないかと思われる
能  社会的資源として捉える これに何かを放り込む 例えばスポーツ
能的に考えると、こういう方法がある  
心理 落ち込んでいる時に、能的な方法をとしてこういう方法があると対応で来るのではないか

ボディーワーク、スポーツトレーニングにしても、精神的な関わりにしろ、西洋的な方法をそのまま取り入れてはいけないのではないか、日本の持っている資源を利用して、日本的なアプロ―チを考えるべきではないかと考えているが、能はいい資源ではないかと考えている
能の中に流れている時間はゆっくりしている 
何かの判断はいましてはいけない(下手な人でも80歳になってすごくうまくなる可能性はある)
能の危機、明治維新の時 能楽師が危機に陥る 太平洋戦争のあと(日本的なものが否定される)

今やっているのは、奥の細道を歩くこと 
芭蕉が生きていた時代には「奥の細道」は一般では読めなかった
奥の細道は能が解らないと、理解できない事がいっぱいある
深川から、引きこもり、不登校の子と一緒に、一日8時間程度あるく 1週間程度歩く 俳句を詠んだりしながら歩いている
もうひとつの世界が見えるような世界を感じる 私たちが先入観を持って観ているので
歩いていて多くの人が4日目ぐらいに大きな変化が起きることが多い

或る参加者が日光街道に差し掛かった時に、急に雨が上がって、日の光がさした
「旅の空 我が人生に 光さし」  今まで天気と言うものは、天気予報の範囲を超えていない
雨と一体化して歩いているときに、日の光がさす、彼自身が日の光になる(かれは数10年間引きこもりになっており、光と言うものを感じた事が無かった)
人生、生きてきて初めて自分のじんせいに人生に光を感じた
芭蕉には能の知識が必要  奥の細道の言葉は能を前提に書かれている
時速1里 東京では5.5~6kmで歩いている人が多いが、それだと木々の美しさや、鳥の声に気付くことは出来にくい

今の生活を振り返ったり、反省したりとかに、能の世界はなりそうですね
おおざっぱな身体の提唱 おおらかな身体 かつて日本人は大雑把だったのではないか
腹を立てれば腹を押さえることはできるが、ムカついてはいけない (胸)
ムカつくと声に出して言ってしまう
日本語の持っている身体語の力を見直した方がいいのではないかと思っている







































2013年7月9日火曜日

村上龍男(水族館館長)      ・クラゲに賭けて世界一の水族館へ

村上龍男(山形県鶴岡市立加茂水族館館長)  クラゲに賭けて世界一の水族館へ
村上さんは1939年(昭和14年)生まれ 73歳
山形大学農学部を卒業した村上さんは民間企業に就職した後、1966年(昭和41年)に、今の鶴岡市立加茂市水族館に入り、飼育員として、スタートしました
水族館の規模は小さく、次々に大型の水族館が出来る中で、客足は落ち込み一時は存亡の危機に立たされました
そんな中で、館内の水槽で偶然生まれたクラゲを、展示したところ評判となり、水族館ではクラゲを集中的な収集を始めました
今では館内に展示されているクラゲが常時35種類から50種類となり、その数は世界一として去年ギネス記録にも認定されました
世界一になるまでの道のりなどについて、伺いました

会館直後、お客さんがぎっしり  大きなバスを乗り付けてきてくれた
ほの暗い水槽の中で明かりに照らされたクラゲが浮かび上がって、非常に何とも言えない幻想的な雰囲気ですね  
魚の展示とは違うかもしれない  皆さん歓声をあげる
動きがとにかくゆったりで、自分の意志と言うよりも、水流にただ乗って漂っている
確かに癒されるような、なにか受けると思います

民間会社(商事会社)に3年間務める 私は自然が好きだったので、東京のビルの窓から見る景色が緑が一つも見えなかった 本当に渇望していた 故郷に帰りたいという気持ちはありました
たまたま恩師が水族館で人を募集している、資格等ぴったりしているのはお前しかいないと、言われて、渡りに船、と言うことで、戻ってきて水族館に就職した
最初に出来た当時の水族館 市の職員 3名のトップとして、入ったが、水槽の掃除、餌やりする
本当に小さい水族館で、建物も小さく、内容も乏しい、これ以下は無いというようなこじんまりとした水族館でした

4年目で水族館を20万人ちょっと越えて繁盛していたが、売ってしまった
入館者がドンドン減って行った  悪循環
館長に27歳の時になる 飼育係が好きだったが、経営を任されてしまう
周りにちゃんとした水族館が立ち始めて、この水族館がみすぼらしい水族館だという事がばれてしまい、急激に来客者が減ってきてしまった
いろいろ手を打ったが、駄目だった  差が歴然としてくる
どうすればいいのか、ノイローゼみたいになる(3日3晩眠れず)
なるようにしかならないと割り切った(追いつめられて)

目の前が海なので釣りにのめり込んだ
釣りをしないのは一人前ではないと、そんな時代だった、
黒鯛釣りが上手だとそれだけで尊敬された 
私も釣りが上手になって一目置かれる存在になった(釣りは自分の逃げ場としてはやくにたった)
僅かの資金で改修とかはやってきたが、お客さんは増えては来なかった(真似をした)
伊豆の動物園に行ったときにミーヤキャットがかわいかったので、真似をしたが冬を越すのが大変だった
ナマズ展 世界のナマズ展 古代魚展 とかいろいろやったが、お客さんは確実に減って行った
ラッコ 1500万円/一頭  2頭購入 1500万円しか借りられなかったが、集客で来るだろうと思ってやったが、やはり駄目だった
冬を越すためのお金を借りるために、東京の本社にいって無心したが、どうにもならなかった
自分はこの世にいらない人間かなあと、考えましたよ 建物から逃げるように出てきた
どうすればいいかとウロウロしていた時期があった
ラッコでもう最後だと引導を渡された様な気持ちだった

借金は全て私の背にしょっていたので、いずれホームレスかなと言う想いでやっていた
平成9年にどん底を迎える 何かしないといけないだろうと、ちいさな水槽2つに、生きたサンゴとサンゴ礁の魚をいれたが、この辺にはいないので、お客さんが見に来てくれると思ったが、そうはいかず、とうとう9万人ぐらいまで落ちてしまった
いよいよ終わりだと、来年は8万人台に落ちるだろう、そうすれば、どこも治せない、雨漏りも治せない、どうしようもないと維持してきたが、もう終わりが来たなあと思いました
覚悟したら、珊瑚の水槽から小さい生き物が泳ぎだした 直径3mmぐらい 20から30匹
なんだろうと思ったが、いくら見ても解らなかった
一番若い飼育係が興味を持って、餌をやったら、それがクラゲになった  さかさクラゲ
クラゲとの最初の出会いとなった

6月になったら、展示できるサイズになった 直径3cmから5cm    展示することになる  
そうしたら、魚を見た後にクラゲだ、クラゲだと、さわいでいた
予期せぬ反応だった
終わりを覚悟していたので、これはすごい生き物だなあと思った
飼育係が水族館の海で捕まえてきて、入れた  同様に反応した
その年は2、3種類をとっかえひっかえ展示した
翌年、クラゲを捕まえて、あるいは買って 4種、5種を展示したが、生態が全然わからなかったので2週間ぐらいしか、活かすことはできなかった

とっかえひっかえ展示したら、僅かだが2000人増えた これが大きな力になった
ゆくゆくは日本一やりたい、世界一になりたいと大きな夢を描いた
当時の市長に面会して、日本一の展示をやりたいので、一人の人件費を出してほしいと交渉したら、二つ返事で出してくれて、専用の飼育係を採用して、3年目、4年目にはいるところで、日本で一番多い種類の展示までこぎつけた (その時で12種類)
借金して、水槽を12個並べて、物凄い決意で、清水の舞台から飛びおりるつもりで、やってみれば、お客さんは増えるだろうと思ったが、逆だった
お客さんは減ってしまった あそこで多少の事をやっても大したことはなかろうと、報道もそこそこ取り上げたが、大きな話題にもならなかった

秋口になると直径25cm、30cmのアオダンゴ(砂色クラゲ)というクラゲが、泳いでくるので、それを捕まえてきて、メインの料理をシャブシャブにして、面白、おかしい料理を作って、多くの人を招待して食べる会を思いついた
必ず大きな話題になるだろうと、思ったが、周りは実行しない 周りは本気にしていなかった
クラゲを食べる会を実施したら、大騒ぎになった それがあまりにも面白いものだから、全国的にTV局が流してくれて、後半は大変お客さんが来てくれて、借金を返すことができて、難を逃れた

やったことを広く知らしめなければ、やったことは存在しないんだ、やってない事と同じだという事に気がついた
やっていることを広く認知してもらうための、いろんな手段、 真面目に考えていることは駄目でした
クラゲの展示は増やしたが、クラゲ入りのアイスクリーム(越前クラゲを刻んでいれた)
越前クラゲが話題になった時に 日本中で厄介なクラゲが来たときに、刻んだアイスクリーム
クラゲ入り饅頭、羊羹を作った  段々浸透してきた
収入が増えた分は全部クラゲの展示、拡大につぎ込みました
とにかく大変だった 少しずつ少しずつクラゲの事が解ってきて、解決しながら、行けども行けどもそれまで見えなかったものが出てきて、いまだにそんな感じです

多くの種類を見せたかったが、寿命が短い  平均すると4カ月生きない
繁殖を手掛けなければならなかった 
クラゲの卵は小さくて見えないので、担当者が顕微鏡を購入してほしいといったが、お金が無いので駄目だった
クラゲの繁殖させ方をいろいろやって、そのうちになんとか、1種類できるようになり、それをきっかけに顕微鏡を購入する事が出来るようになり、これで飛躍的に向上した
日本列島の季節のずれを利用して、いろいろとクラゲを送ってもらった
20数か所ネットワークが出来て、、いろんなところと仲良くして、そこから今、毎日のように送られてきます(こちらから送ることもある)

ギネス記録 昨年達成  クラゲ展示種類数  30種類 ダントツの世界一だった
周りの見る目が違ってきた
クラゲは私を救ってくれた、水族館も救ってくれた  
神様がクラゲの姿になって、ここを助けに来てくれたなあと思います
来年 オープン 新しい水族館に生まれ変わろうとしている 
くらげに特化した、全く新しいものを誕生させようとしている
直径5mの円形水槽がメイン 30トン  他は最低でも700トンとか最大7500トン
水クラゲを一杯泳がして、お客さんがそのまえに立った時には、物凄い感動で呼吸できなくなるほどの、感動を得ることができると思います

建設費の一部をクラゲ債を出した  
鶴岡市が考えて30分で完売したという 、全体で3億円
新しい水族館に対して夢をもってくれているのだなあと思います
館長 47年間  一時は絶望しましたが、その絶望が今につながっていると言うのは、今解ります
全て負けゲームが最後の一つで、逆転した  
だから負けゲームが最後の意志につながっていた  実は負けゲームではなかった
世の中、まんざらではないです




















































2013年7月8日月曜日

宗次徳二(NPO法人理事長)    ・カレーハウスから立ち上げた音楽の夢 2

宗次 徳二(NPO法人イエローエンジェル理事長64歳)   カレーハウスから立ち上げた音楽の夢 2
食堂業から身を引いて、自分は何をしたらい良いのか、何をしようかと言う時に、自分のためじゃない、地域のため、ひとのために時間、お金を使いたいと思って、社会活動を考えた時に、頑張っているけど日の目を見ない方も多いし、生活をギリギリのところで困窮している人たちにも目を向けてあげたいと、すぐに決めた
「イエローエンジェル」はカレーからとよく言われるが、「いろいろな援助」をもじって付けた
2003年にNPO法人を立ち上げて、2007年に宗次ホールを建設した
成り行きでそうなった 引退して、NPOを立ち上げたが、半年後に、自宅にお客さんを招いて、サロンコンサートを3年、25回やったが、自宅は岐阜だったので名古屋の中心に移したいと思った

土地を購入することができたが、75坪だったところに古い貸店舗なども交渉して、一角を購入することができて、250坪になった
本格的な音楽ホールができるのではないかと思って、三枝 成彰先生に設計者を紹介してもらう事になった
会社の経営が忙しくて、音楽を聴くという時間はほとんどなかったが
宗次ホールの開催は目標 500回(今年は400回)
私は毎朝90分 地域の掃除をさせてもらっている 雨の日も、体調が悪くてもやっている
これが体にいい影響を与えているのではないかと思っている

コンサートも掃除も趣味と思っている
1000円でランチ名曲コンサート(60分) 2000円でスイーツタイムコンサート (90~100分 2部制)
夜は3500円、4000円 一流の人、海外からも著名な演奏者が来る
8割とか満席にはなっていないのでホール運営は厳しい
音楽をもっと勉強したいという人に奨学金を援助したりもしている
楽器を送る運動などもしている  個人、学校とかに送っている
楽器の不足があるかどうかの、アンケートを愛知県下で行ったところ、50校から不足の解答があっり、悲惨な状況だった
ヴァイオリン ストラディバリウスの名器などを若手の人に無償で貸し出す 
掛け捨ての保険代は頂くが  弦楽器奏者は楽器で困っている

国際コンクールでファイナルに残る人達になると、名器の品評会みたいになるみたい
ヴァイオリン、ビオラ等必要に迫られて購入した 
グァルネリ・デル・ジェスはあるが、グァルネリは無い
私は楽器の良さが解らないので、信頼のおける先生にお願いしている
名器と言われるものは、大ホールで威力を発揮するのは私でも解る
ここから巣立っている ヨーロッパの国際コンクールで上位入賞者が出てきている
若い人たちの登竜門になればいいと思っている、ここ宗次ホール優勝すると、優勝者には2年間 ストラディバリウスを貸し出す
使いこなすまでには、それなりの弾き込みが必要で、時間がかかる

弦楽四重奏 ファンの方がおおい 興行的には厳しいが 
7月の宗次ホール公演 7月13日スメタナ三重奏団  16日弦楽四重奏(室内楽の先生クラス)
アクィリーニ・トリオ アコーデオンの名手が入ったトリオ アンジェロさんがアコーディオン担当
音楽が身近に感じる 小ホールの魅力
27日は辻本玲 若手の男性のチェロ  チェロはイエローエンジェルから提供している
中沢宗幸さん 東日本大震災の時に、開催の是非の話があったが、直後にコンクールをやる
感動してくれて、やってよかったと思う
シュロモ・ミンツ ヴァイオリニスト 委員長担当  
音楽は世界共通 クラシックは特に良いと思う

クラシックの裾野を広めたい ホールは貸しホールになっているが、9割以上が主催コンサート
朝3時50分には起きて、机に向かって1,2時間 掃除を1,2時間やっている
通りをきれいにしたいし、花を道端に植えている(黄色い花)
社会に対する恩返しができる立場に出来るようになったし、助けてくださいという声が聞こえてくる状況にあり、知らんぷりはできないので、ついつい段々そういう事に意義を感じる様になる
NPO活動をしているところで、給料を払えないところもあり、援助したり、学校、大学の留学生の受け入れ、弁護士、税理士目指す苦学生 周りを見たら、いっぱいいる
夢を持っている人への援助 私の気持ちも嬉しい 物欲で満たすものとは全然違う

目標 500回公演をすること 地方都市が特色を持ってやろうと思ったら、私の場合は音楽と街に花がいっぱい目にするような街作りです
住民がちょっと関心を持てば出来るようになる
一言で言うと「やさしさ」ですね  
このホールができただけで言われました、「ありがたい、街が変わりました」と











































2013年7月7日日曜日

宗次徳二(NPO法人理事長)    ・カレーハウスから立ち上げた音楽の夢

宗次 徳二(NPO法人イエローエンジェル理事長)   カレーハウスから立ち上げた音楽の夢
宗次さんは6年前名古屋市の中心部栄に、私財を投じてクラシック音楽専門の宗次ホールを建設しました
出来るだけ多くの人に、クラシックを楽しんでもらいたいと低料金で年に400回コンサートを開いています その一方で若手の音楽家に発表の機会を与え、貯蔵するストラディバリウスの名器などを無償で、貸与する活動にも力を入れてきました
宗次さんは児童養護施設で、両親の顔も知らずに、育ちましたました
幼い時、養父母に引き取られますが、貧乏のどん底の暮らしを味わいます

高校を卒業して、一旦は会社に勤めますが、25歳で独立して、喫茶店を開業します
職場で結ばれた、妻の作るカレーが好評だったことから、カレー専門のチェーン店をはじめ、
それが成功して次々に店舗を増やしてゆきます
宗次さんのカレーハウスは、1300店と世界最大のチェーン店にまで発展します
しかし宗次さんは11年前53歳で事業から引退、余生を社会奉仕活動に専念する事を決意します
NPO法人イエローエンジェルを設立します カレーハウスでの収益をクラッシック音楽の振興に注ぎ込み、夢と目標を持って努力している人に援助の手を差し伸べる、宗次さんに活動と波乱の人生を語ってもらいます

客席が310席 天井の高さ 16m 響きが良くて心地よい ヨーロッパの大きな教会で弾いているようだといわれる 
2007年3月にオープンする  自分の私財を投じて作る
ランチタイム名曲コンサートが先ほど終了して、満席の盛況だった
室内楽、リサイタルが主になる  
ランチタイムは、基本的に聞き覚えのある曲を中心に組んでいる
私は、おもに企画をやっている
ランチタイム名曲コンサートは781回になる  圧倒的におおい 18回前後が月間に組む
夜を含めると、今年は年間400回になる

若手を中心に幅広い方々に機会を提供する  
お客様に依り親しみを持って、クラシックを愛好していただきたい  
この二つが目的であって、一回でもコンサートを多くしたいと思った
近所に有名なホテルがあり、レストランもあり、提携してコンサートをやっている
低料金で食事をしていただいて、音楽鑑賞をしてもらうが、凄く好評です

尼崎の児童養護施設にいた 実の親の顔を知らない 写真もない
3歳の時に宗次家に養子に入る  昭和23年生まれ
父親が、引き取ってくれたときは、資産家だった
不遇の始まり 養父がギャンブルにはまる 競輪 商売そっちのけで、すぐに破産する
夜逃げで岡山県に移り住む 5歳の時 
母親に手を引かれて歩いていたのが、私の記憶のスタートだった
その何日後かに、畑の中で父親から棒で一杯叩かれていて、夫婦けんかで、その日を境に母親がいなくなって、父親と暮らすようになるのですが、超極貧の生活でした
父親が仕事をしない 日雇いには行くが、200円 300円 貰って50円は生活費に使って残りは競輪に出かけて、始終行っていた

父は隣近所の人とは始終取っ組み合いのけんかをしていた
一回は警察沙汰になり、2日間帰ってこなかった 小学校に上がるかどうかの時だった
電気はずーっと切られた状態で、明かりはろうそくの生活 父親がいないとろうそくはつけてもらえなかったので、真っ暗な生活だった    まわりも関心が無かった
米を一升枡で量り売り 月に2回ぐらい おかずは無し 醤油をかけて食べる 花かつおとか
ご飯が無い時は道端の草を食べたり、果物などを頂いて食べたり、食べる事にも事欠いていた
小学校 クラスの女の子のお母さんが遠足、運動会には何回かは弁当を作ってくれた

小学校の3年生になる時に、名古屋に母がいることが解り、名古屋に行った
長屋式のおんぼろの家だった 4畳半一間
ギャンブルは治らず、母親はすぐに出て行ってしまった
父親はタバコを吸うが、お金が無いので、パチンコ屋に私が行ってタバコの吸い殻を拾ってきた
遊びに夢中になっていて、タバコの吸い殻を拾ってこなかったら、ほうきの棒のほうで、全裸にさせられて、叩かれいくら泣き叫んでも駄目でしたが、近所の人はだれも止めに入らなかった

唯一の家族なので好きは好きでした 自転車に乗ってたまに銭湯に連れて行ってもらった
月に一回ぐらいではあったが、歯磨き粉が無く、指で塩をつけて、人差し指でみがいていた
食べ物が無かったので、虫歯もなかった
中学3年の時に、父親にがんが見つかって、3月に入院、7月に亡くなりました
入院と相前後して、母親が来てくれrて、母親との同居になった
賄い婦だったので、余ったものを持って帰れるので、一気に食生活は良くなった
高校は行きたくは無かった とにかく仕事をして給料をもらいたかった
先生からすすめられるままに、試験を受けて合格する

戸籍謄本を見たら、聞かされていた誕生日が違っていたし、名前も違っていた
5歳の時、ギャンブルで縁起が悪いから変えたのだといわれて妙に納得する 
実際の父母がいるという事は、今の父母は養父母だという事は確信を持った
ショックは無かった あまり深く考えない性格だったのかも
高校では電気がついた TVを譲ってもらって、テープレコーダーを1000円の月賦で譲り受けて
録音した
たまたまNHK交響楽団の録音をした  岩城 宏之先生がちょうど売り出したころ
毎週見るようになった   録音したものを翌日の朝、再生ボタンを押したら、その流れてきた音楽が私のきんせんに触れた 
メンデルスゾーンの3大ヴァイオリンコンチェルト の一つと言われる ヴァイオリンコンチェルトホ短調
名旋律が自分の心にスーッと入った それ以来毎週聞くようになった

長年やってきた食堂業の経営者時代は一切聞いていないが、引退する直前に、飛行機の機内放送でパヴァロッティ 3大テノール歌手 オペラ アリア集を聞いて、よみがえってしまい、全曲聴いてみたと思い、CDを段ボール単位で購入して、全部聞きました

卒業後、就職先が不動産取引の会社で3年間勤めて、取引のノウハウを覚える
建築の勉強をしようと思って、建築会社に入った 
そこで奥さんと、であった 2年後に結婚する (24歳) 
不動産業で免許を頂いて、不動産業をやっていたが、安定はしないので、或る日喫茶店でもやろうかと言ったら、やろうという事になり、喫茶店をやるようになる(昭和49年 25歳 妻24歳)
名古屋の喫茶店はモーニングサービスが有名(当時はシンプルなもの)
サービスで来ていただいても嬉しくないよと言う事で、モーニングサービス無しで押し通した

「お客様笑顔で迎え、心で拍手」 
最初は厳しい自転車操業だったが、一所懸命やるうちに、繁盛するようになる
売上を伸ばすには、出前をやろうと思っていたら、カレーが美味しいのでそれを提供しようという事になる  それが評判になり 、次の店はカレーにしようとすぐに決まった
口コミで来てくれる事が嬉しかった
昭和53年の1月17日に カレーの一番屋を出した カレーの専門店 「CoCo壱番屋」
目標を持って常に持って、目標を追い続ける 1日6万円の日商になったら、2号店を出そうという目標を持つ  翌年(昭和54年) 2号店 3号店を出して 年末に4号店、喫茶店は処分する

12月に引っ越しして、70万円不足していて、信用金庫に100万円借りる
70万円 は給料支払い、支払いに充てて、20万円これからお世話になる地元の社会福祉協議会に10万円寄付 もう10万円は1号店でお世話になった町役場に寄付、残った10万円で年を越す
あんな状況で20万円寄付することが、良くできたねといつも話題になる  
感謝ですね、健康で商売させていただいて、、家も新築して、もっと恵まれない人もいるので、使っていただこうというそういう事って段々膨らんでくる 歳を取って 
率先垂範を貫こうと、現場主義を貫こうと、お客様第一主義でやろうと この3つをかたくなにやり通した     社業も段々発展してきた

各店舗にアンケート用紙を置いて、それを必ず目を通した(1日も例外もなく)
価値があるのは「おしかり」  無視されたり、オーダーしたのに忘れられたり、私語にふけっていたり、後から来た人のものばかりでたり、いろいろある
コンサルタントの先生に指導してもらった事は一度もない
加盟店さんにも利益を上げ続けていただく、お客さんには喜びを感じていただく、それをやり続ければだれがやってもうまくいくのではないかと思う  国内は1250店舗 海外を入れ1300以上
海外はハワイ(私の時代)  今の社長になって12年、韓国、タイ、台湾、中国 シンガポール 香港

53歳で100%事業から退く  お金を頂いて、一時預かりにしようと思って、一生懸命やる人、生活に困っている人、にいろいろな援助しようという事になる(イエローエンジェル)




























































2013年7月6日土曜日

鎌田道隆(名誉教授)       ・お伊勢参りが育んだもの

鎌田道隆(名誉教授69歳)      お伊勢参りが育んだもの
奈良大学の学長を務めた後、退官 現在は奈良大学名誉教授 専門は歴史学
書物を読むだけでは、江戸時代の人たちの暮らしや思いはわからないと実験歴史学を提唱
実際に学生と一緒に歩く、現代版お伊勢参りを25年間にわたって行いました
そうした体験を通して、お伊勢参りの旅が日本人の心をはぐくんだ事が分かったといいます
伊勢神宮は今年 20年に一度社殿を作りかえる、式年遷宮の年を迎えています
この機会に何故江戸時代にお伊勢参りが盛んになったのか、又数十年に一度爆発的なブームになったおかげ参り 家や奉公先から突然いなくなって、伊勢参りに向かうぬけ参りとは何だったのか 伊勢参りは何をはぐくんだのか をおききしました

伊勢神宮は皇室の精神を祭っていると言う事で 天照大神を祭っていて 内宮と呼んでいる  
もうひとつ外宮がありまして、伊勢神宮にありまして、天照大神がお祭りされているが、身の回りの食べ物とかをお助けする神様を、是非近くに呼びたいという事で、それを豊受大神宮と言うのが呼ばれてきて、それが外宮になる
外宮は産業の神様、農業の神様、とかと言う事で庶民的な産業の神様なので、お参りに皆さんが出かけた
内宮は日本の国家の天皇家の祖先神と言う事で、神社のなかでも日本の総氏神的ないちばん最高の位にある神様という位置付けは、江戸時代に出来ている 全国の神社の総廟と言う

お伊勢参り 古代には伊勢神宮は国の神社として、国庫で営まれていたが、古代国家が解体してゆき、財政規模が無くなってきて、鎌倉、室町時代になってくると武士の社会で武士が戦いの場で私たちが勝ちますようにと、戦勝祈願をしてお祈りする、その代わりに荘園を与えたり、お米を出したりして、それが伊勢神宮の財政基盤になっていったという事で、最初は戦いをする武士であるとか、地方の豪族とか、そういう人たちがお参りに出かけていたという記録が、中世にある
伊勢神宮にお参りに行く間に、沢山の関所を通っていった そのたびにお金を払った
京都のお公家さんもお伊勢参りに行った 上流の人々がお伊勢参りにいった
江戸時代に入ると、前の時代にくらべると、庶民の経済生活が非常に豊かになってくる 戦争が無くなる、人口が増えてくる、人口を支える生産性が上がってないと人口は増えないので、急に人口も増えてくるし、生活レベルはアップしてくる

そうすると、庶民自身もただ働いて、ご飯を食べて寝るだけではなくて、芝居を見たり、本を読んだり、旅行に出たりとか、様々な喜びを人生の中に取り入れてくる
その一つの魅力が旅行になる  一般の人々が精神的にも旅を好むようになる
江戸幕府が街道とか、宿場、宿駅、橋とか並木とか 街道施設を整備してゆくので、安心して旅が出来るようになる
美味しいものを食べたり、地方の行事などを見たり、地域社会の見聞も兼ねながら、旅に出かける
信仰の旅、本山参り、神社への信仰、健康、病気療養(温泉巡り、温泉治療)と言う事で出かけてゆく   
信仰と病気療養は庶民でも許される(庶民も動きやすくなる)
庶民はなかか余分な金が無いので、自分たちで田んぼを耕して、そこからとれた米をお金に変えて旅費にする  伊勢にゆく田んぼと言う事で「伊勢田」と呼ぶ
伊勢講のためのお金をねん出するための田んぼ 田んぼだけではなくて、皆さんで毎月お金をためて行って、その中から今年は何人かの村の代表はいいよとか、と言うようなことで、豊作の年は行く人数も増える  凶作なら代表が絞られる
知恵を出し合いながら、伊勢講と言うのを作ってやる
神宮の方からも伊勢行に呼び掛けて、伊勢神宮の方にお参りに来なさいよとPR活動をする

祈祷をする人 「御師」を 全国に派遣して伊勢講との連絡を取りながら、今年は来てくださいと特定の、各地の村との関係が出来て 伊勢に行ったらそこの宿に泊まるとか、そういう人がいたのでなおさら伊勢参りの熱が非常に広がったことは確実です

旅日記を解読してゆくと非常に面白い
とおいいところだと福島県 7人衆が集まって企画してお伊勢参りに出かける 3か月近くかかる 途中江戸、鎌倉をみたりするがそれでも1か月あれば大丈夫であるが お伊勢参りをした後に西日本各地を旅して、いろんなところを見てくる
福島県北うつし村の寅之助 18歳の日記がある
ここは見た方がいいとか、個々の宿は待遇が悪いとか書いてあったり、近道はこうあるとか、旅の知恵みたいなものを含めながら、後輩のためにも書いているのかなあとの印象

世田谷 30人ぐらいでゆく 田中国三郎(将来庄屋になる人物)
24、5歳の日記 行く先々で甘いもの 食べ物の話が一杯出てくる 
ここで食べたらおいしいとか知っている  
お金がいくらかかったかとか全部書いている
奈良、京都、四国、遠くは錦帯橋 厳島神社とか お札、土産を買ったとか全部書いてある
書かれている内容を見ると凄い喜びになっているなあと思う
宿屋はあらかじめ研究して、宿屋一覧を作って、そことあらかじめ提携して出かける
20、30人となると大変なので、あらかじめ、宿屋、昼食の予約を入れておく
江戸時代の宿屋の役割りは、非常に重要な役割で、宿泊、ご飯を食べさせるだけではなくて、身元引受人的な役割があって、江戸時代でも沢山のお土産を買う

お土産を持って歩くわけにはいかないので、手荷物を国元に送るんですが、個人では送れない、宿屋の名前で送るしかない、両替も宿屋、手紙も宿屋で出してもらう
宿屋は旅をしてゆくうえでの安全を保証する役割を担っている
ほとんどが男 関西地方 伊勢に近い村では、結構女性も入っている(主人の代理とか)
数十人単位で交代でお伊勢参りをする
新しいレジャーみたいなもので、女性たちも相当数の街や村のお伊勢参りの集団には入っている
東北は2カ月、3か月かかるが 関西では近いので気軽に行けた
コースはすこしずつ変えて研究する
旅を楽しみに働くというような、現代の旅観に近いようなものを江戸時代の人たちは作り上げていると、お伊勢参りを見ているとつくづく思う
餞別に対するお土産を中途で、どこで何を買えばいいか、非常に知識が深い

爆発的なブーム おかげまいり  基本的には抜け参りと資料的には呼ばれる
慶安3年 江戸の商人たちを中心に大勢白装束でお伊勢参りに出かけた
宝永2年 京都から10歳前後の子供を中心に女性とかで 数百万人(62万 450万とか)厳密な数字は解らないが、想像を絶するような数で、抜け参りをしてお伊勢さんに向かったという
江戸時代で 大規模なものは3回、中規模を入れると5回ぐらいは、行われている
60年ごとに行われているわけではないが、宝永2年は貧しい人とか、子供、女性が多かった
享保8年 1727年には、京都の花街の遊女たちが物凄い派手な格好をして、踊りさわぎながらいった
伊勢参りがしずしずと行くのか、ドンチャン騒ぎで楽しみで行くのか、おかげまいりに楽しみの側面は、この享保8年が出発点かなと思います それ以後にこのようなものが多くなってゆく
通常のお伊勢参りとも重なってゆく
泊るところもない、食べるものが無いというところまで出てくる(途中であきらめる場合もあった様)  ぞろぞろと人波が多くて、こっちの家から反対側の家に行けないぐらいに人波が切れないという、凄い量だった
お伊勢参りは金持ちが楽しい旅をしてきて、貧しい人たちは、楽しい旅を見ながら、俺たちは一生働いてもいけないなあと、いう風な事で、なんかきっかけに職場から抜け出す、家庭から抜け出す、かまどに火をかけながら子供を背負ったまま、伊勢参りに行っちゃうとか、金持ちの人たちがお伊勢参りは楽しいよと、言うのを結構話すようになると、貧しい人たち、女性はいけない様な状況なので、お伊勢参りは一度でいいから行ってみたいと、言うので抜け参り おかげまいりの波に乗じていくという、そういう事例が相当数出かけてゆく

飲み食い、泊るところ、施業接待を道中で受けることになる 沿道の人々から恵んでもらう
沿道の人から見ると、私はいけないけどあなたが代わりに行ってきてねと金とか品物を上げる時に、柄杓を持ってそれで受けて貰う
柄杓を持つという事がお伊勢参り、特におかげ参りのスタイルみたいになる
柄杓の持っている意味が変わってくる
一日に何万人も通る
お金持ちは連日、おにぎりを配ったとか、寝泊まりするところの無い人は船を浮かべてその中に寝かしてあげたとか、貧しい人たちは一人、二人と自分の部屋とか小屋とかに泊めてあげるとか、お伊勢さんに行くという事は信仰の旅なので、仕事場を抜け出したり、家庭を抜け出してゆくんだが、帰ってきても罰せられない 
行く人たちを助けてあげることが良い事で、そうすると神様の恵みが来るよと言う形
施業接待をすることも、神の心にかなうという、信仰、信心の表れでもある

京都からでも7,8日 遅い人でも10日かかるが、飲み食いの何の準備も、お金も持たないで、
抜け参りをして、数十万人の人が帰ってくるという、途中どうしてたのというこれは凄いことになると思うが、抜け参りが何百万人単位で行われた、と言う事は、それを受け入れた日本の伊勢街道沿いの地域や村の対応、施業接待が凄く発達してきている
それがあるという前提で、抜け参りをしているのではないかと、そういう接待の風習が前にでき上ってきているところへ、突如、突発的に大群衆がお伊勢参りをし始める それがおかげ参り

沿道の人々の、施業、接待とかの 「おかげ」で旅にいけるなというのとか、神宮の方から言わせると、神宮の御神徳の「お陰」で、皆さんが旅ができているとか 解釈の仕方も江戸時代からされている
お伊勢参りは沿道の人たちが支えた
大震災で、皆さん日本国中、外国からも援助の手が来て、ボランティアが言われているが、江戸時代のこの施業接待に当たった人々のボランティア精神は、凄い本物なんだなあという、来る日も来る日も、病人を助けたり、貧しい人、腹が減っている人に食べさせたり、力のない人を駕籠に乗せたり、馬に乗せてあげたり、草鞋を作って提供したり、日本のボランティア社会の走りをこの伊勢参りに見ることができるのではないかと、凄い力があったんだなあと想います

江戸時代の方が全国民的にというか、そういう数百万人の旅人を受け入れて、無事に故郷に返してゆくという事を、みんなの力を合わせてやっていた
庶民の中に信仰心が絡んでいたとはいえ、ボランティア精神は幅が広く、底が深いなあと思います

学生と一緒に、現代版お伊勢参りをしてきた
出来るだけ江戸時代の旅の形をしたが、その時に沿道の方々の真心からの接待に会いまして、暗くなった峠を降りたところ、おじいさん、おばあさんが毎年手焼きのせんべい、暖かいお茶を入れてくださって、畑の畔に杉の板を引いて、ここに先ずは座れと言ってくださって、真心の交流ができて、一番学生たちに何が良かったかを聞いたら、その人たちの出会い、感動をもらったことが一番うれしかったという
旅と言うのは、本人が身体が健康だから、とかで出来るのではなくて、沿道の人々の助けがあって、精神的な意味でも、無言の接待が各地である 手を合わせて見送ってくれる

お伊勢参りは田植えの前に行くが、小さな集落でご飯を食べさせてもらったが、おばあさんが暖かい卵が入った味噌汁をお椀に出してくれて、心がジーンと熱くなった(心も温まった)
学生さんが来るので、近所に卵を貸してくれといって、おじいさんが回って歩いて集めたとのこと
接待、ボランティアの奥深さ、人間て、ここまでやるのと、お伊勢参りを通じて、学生たちはそれに感動する
人間的に成長する 旅は人を育てている 凄い財産になってゆく

お伊勢参りは日本人にとって何だったのか?
日本全国に伊勢街道がある 伊勢に近いところだけではなくて 伊勢に向かう道
屋久島にも、お伊勢参りの歌がある
伊勢に行って、そこで歌や踊りを勉強して来て、村の文化に持って行った
伊勢に行った道中で学んだことを、地域に持って帰ってくる 
途中で見聞したことを、各地に伝えることによって、地域文化のなかでそれぞれ個性を持った形で伝えれれる

伊勢参りは日本人の文化を育てながら、かつ、レベルをアップしてゆくのに役に立っている
伊勢街道は情報の道でもある   見聞したことが地域の財産になっている
日本の文化を高めてくる役割をしたし、伊勢神宮にいっただけではなくて、地域文化を見聞きしている、交流している  違う地域ではこんな農業をしていたとか、こういう産物があったとか、お伊勢参りをすることで日本各地にもたらされる
若者、若い感性で見聞きしてきたことが、地域作りの中に深く浸透していっていると思う
歩いててゆくという事で、(道中) 発見したものは 自然観察、人間、地域と言うものについてよく観察できている
現代は乗り物があり、道中が無くて、目的地の飛んで行って美味しいものを食べ、見て帰ってくる旅を大事にしている江戸時代の社会のシステムも面白いので、掘り起こしてみるともっともっと違うものが見えてくるかもしれない






















































2013年7月5日金曜日

シム・ドンソプ(韓国文化院院長)    ・日韓友好の土台は文化交流から

シム・ドンソプ(韓国文化院院長)   日韓友好の土台は文化交流から
東京四谷にある韓国文化院は、映画、演劇、美術など韓国の文化全般を日本に伝える施設として4年前に新装オープンしました
この8月からは韓国の観光公社やアニメ、マンガなどを振興するための事務所も加わって、リニュアルオープンすることになりました
韓国文化院の院長を務めるシム・ドンソプさんは49歳 赴任して2年目になりますが、毎月行われるイベントや8月からのコリアセンターのオープンに向けて御忙しい毎日を送っています

NHK「おはよう日本」を見ながら、情報があるし、日本語の勉強をするため含めて、出勤の準備をする
8月から韓国文化院がコリアセンターにリニューアルする
文化の関係する機関は一緒になる  観光公社、とか含め
韓国の観光に関する情報を提供するとか、 日本の漫画、ドラマ 映画とかの内容をPRする
2度目の来日となる 92年から95年まで務めたことがある  前回も韓国文化院での仕事
植民地時代におじいさんがこちらに住んでいて、墓が日本にあるので 日本との絆があると思っていた
20年前に私の上司が、日本の韓国文化院に空きがあるので、行きたくないかと話したので、すぐにOKと言う事で応募した
日本語が全然出来なくて、2ヶ月間あげるので勉強してくれと言われた
試験があるので、書店で日本語の本を購入して、独学した
試験に合格した  池袋に韓国文化院があった
一番下の事務官だったので、日本語学校の勉強する暇が無かった 家で一人で勉強した

1992年のころの日本人の韓国に関する関心がなかった
くる人たちは60代、70代の人たち 今は若者が増えて吃驚するぐらい
食文化 キムチは当時は臭いが出るので、キムチを食べて電車に乗ることはできなかった
20年前とは大違い
キム・デジュンの文化開放政策とか、日韓ワールドサッカーの共同開催とかで、徐々にお互いの関心が高まった
韓流が爆発的なきっかけになったのが2003年「冬のソナタ」 もう10年になる

韓国での日本文化への関心 日流と言うが定着されている
今は翻訳している本の中で40~50%は日本の本です
キャラクターの中で10位の中に4つは日本のキャラクターが入っている 1位がキティー、クレヨンしんちゃん、キャロル 日本の物で人気がある
漫画の40%以上は日本の漫画  ワンピースはTVで毎週見ている
韓国の若者の人気のある小説家は村上春樹だと思う

去年あたりから、歴史認識とか、竹島の問題でぎくしゃくしているが、領土問題がお互いにあるが、この時期だからこそ文化交流が一番重要なものだと思っています
対立するときに、その対立がそのまま行けば爆発する  
爆発する前に文化交流をずーっと続ければ、対立を抑える効果はあると思う
政治的な対立があっても文化交流で、全部解決はできないかもしれないが、抑える力はあると思うのでやりたいと思っている
青少年の交流 日本の青少年が韓国に行って、韓国の文化を理解して、韓国の青少年が日本に来て、日本の文化を理解して、仲良くなると思っているので、一番重要なテーマになっている

修学旅行で韓国に行ったりとかも多い  今韓国と日本の高校の姉妹関係が多くなった
高校で行ってイベントを一緒にやって、そのあとに観光することが多い
昔は観光だけやったが、いまは姉妹関係の高校に行って、話し合いをやって、それをやった後に観光をするのが当たり前になっている(相互訪問 沢山ある)
ソウルに行ってというのが普通だが、地方に行く場合もある
逆に韓国では東京に来て、九州までいったりする場合がある
文化院では観光の仕事も一緒にやっているので一部やっている  教育は大使館の役割

コリアセンターを前にして7月末まで アリラン展が開かれる
アリランは韓国の代表的な歌  アリランの名前を使っていろいろな品物を作っている
歌の紹介だけではなく、それにまつわるいろいろな映像、本、生活の道具、レコードとか全て総合的に展示する 400点ぐらい  
アリランは韓国の生活の一部、韓国人の魂だと思っているので、国立民族博物館主催でやっている
韓国人は悲しい時、嬉しい時、いつもアリランを歌う おふくろの心みたいな気持ち 一番大事な歌
朝鮮半島のうた、中国に移った韓国の民族もアリランを歌っている
K-POP(ケイ・ポップ)コンテスト 毎年やっている 
今年で6回目 全国7か所で開いて 9月に全国大会を東京でやる
世界大会を韓国でやる 今年で3回目になる  
全国大会で優勝したところが世界大会に参加する
去年はカザフスタンが優勝 おととしはインドネシアが優勝した   毎年レベルが上がっている

韓国語のスピーチコンテストをやっている 10年目になる 全国10か所でやっている
最優秀賞をもらった人は韓国人か、日本人か解らないほどで、吃驚した
一番とっつきやすいのは映画 毎日TVでやっている 
2015年 日韓国交正常化50年  日韓条約が結ばれて50年
韓国政府はいろいろなイベントを計画している 40周年の時は 日本、韓国政府はチームを作っていろんなイベントをやったので、それを受けて、両政府はチームを作ってやろうと思っている
場所を抑えて、動こうとしている

こちらの文化院の役割は、韓国の文化の紹介ですが、私の考えでは一方的な文化紹介はやらないほうがいいと思っている
こちらでは、私の役割は韓国の文化を日本に紹介するとともに、日本の文化を韓国に紹介する事も私の仕事だと思っています
大使館の人は日本の文化を理解しないと仕事は出来ないと思っているので、歌舞伎、とかを学ぶ機会を作って大使館の中の人たちに、紹介したいと思っています
日本の歌舞伎、能、文楽を国立文化博物館でやったことがある

韓国の伝統文化 伝統的な楽器、歌、踊りを教えている  50名ぐらい毎週来ている
スポーツ 日韓スポーツ交流 日本の文化科学省と一緒にやっている
少年サッカー  日本の30チームが参加する機会を検討している(10月に招待したいと思っている)
日本が友達と思っているので、友達と仲良くやるきっかけを作っていきたいと思っている
私は観光旅行が好きなので、自分で運転して、九州、北海道一周したことがある
金沢、黒部ダムなどは行ったことが無いので、行ってみたいと思う












































2013年7月4日木曜日

小野庄一(写真家 50歳)     ・「笑顔の力」 

小野庄一(写真家 50歳)     「笑顔の力」 
世界のトップを行く日本の高齢社会、その長寿国日本のトップ集団を形成しているのが、100歳のお年寄りの方々で、すでに5万人を越しています
この100歳のお年寄りの方々を21年間、カメラに収めてきたのが、写真家の小野庄一さん(50歳)です
小野さんが100歳のお年寄りに、カメラを向けるようになったきっかけは、樹齢7000年を越えるという縄文杉でした
そして現在は日本の最高峰富士山に登り、ご来光、夕日、天の川など、頂上で遭遇したパノラマを取り続けています
縄文杉、100歳のお年寄り、富士山 日本の頂点をカメラに撮り続けている小野さんに伺いました

小野さんはこの21年間で、200人を超す100歳のお年寄りの表情をファインダーに収めてきた
北海道から沖縄まで、100歳以上の方 最高齢は110歳と言う方もいらっしゃいます
100歳以上のお年寄りは5万人を超えた(昨年9月)
事前にアポイント取って行くんですが、昔よりも、人数は増えたのですが、探すのは難しい
1990年代は、地方新聞を探すとかなり詳しく出ていたが、今は大変
展覧会等での、主催者の知り合いとかの出会いを重ねながら、200人を訪ね歩くことができました
横浜開港150年になるので、100年間の横浜の歴史を知る人が、いるんだったら訪ねたら面白いのではないかとおもって、探して36人出会えた  実際には900人を超えていたのではないか
(3、4年前の話)

近代化日本の歩みをそのまま重ねてきた 光ばかりではなく、ご苦労もあったと思う
日清、日露戦争、関東大震災、太平洋戦争、横浜大空襲、スペイン風邪、大恐慌等々苦労されている
写真を撮るのに、自慢話が飛び出すようになったらしめたもので、無理に笑顔を作ってという事は無くなる
20年前 地方を撮っていた 地域を家を、しょっているような、重々しい威厳のある、ちょっと怖いような強さがあったが、最近の100歳の方たちは、パソコンをやっていたり、旅行に行ったり、本当に軽やかな感じがします
昔の日本人は、自分をさらけ出すのは、はしたないというような感じがあったが、今は私、私と、青春時代 大正デモクラシーの時代があって、横浜だったら、モダンボーイ、モダンガール、の先輩たち(昭和初期)を見ながら、私もあんな風になってみたいと、自分を表現することが楽しいんだという世代の最初のころじゃないかと思います

20年前のカメラは、モノクロで大きなカメラを使っていた 最近はデジカメ デジカメのいいところはこんな風に映ってますよと、コミュニケーションが取れる(信用してもらえる)
あえて三脚を使う事によって、裸眼コミュニケーションを取ることによって、上手くいくようになった
(撮られる側は緊張するので)

最初のころ、竹富島のおばあちゃん 浜が綺麗なところ 波打ち際で撮らしてもらった
太陽の光を浴びて、にこっと笑った、しわのふかーい感じ 光の彫刻のような感じだった
最近は、103歳で台所に立っていたり 「大丈夫なるようにしかならないからね」が口癖だった
103歳で乳がん手術をした人 
ストレスを受流す、と言う事を身につけている方だから100歳でも元気にいらっしゃると思います
90代後半まで笑ったことが無いような頑固なおじいちゃんが、デイサービスに行き始めたら、急ににこにこし始めたそうです
100歳近くになっても、人間変わろうと思えば、本人次第で変われる
いくつになっても新しい人生を歩き始めることは、張りが出てくる(自然と笑みが出てくる)

屋久島にある縄文杉を撮りに行ったときに、ふもとは土砂降りで たまたま周りには人がいなくて、縄文杉と1対1の時間が保てて、ふっと日差しが出てきた
木の前に立つと、木にすーっとすいこまれてゆくような、不思議な気持ちのいい感じで、もう一回母親の胎内に戻って言ったら、そんな気持ちのなるのではないかと、暖かい感じに包まれた
帰ってきて、敬老の日がきて、100歳以上の人が、3000数百人いる
仮に北海道から沖縄まで100人の100歳以上のお年寄りを訪ねたら、1人ぐらいは縄文杉と同じような力を私に対して、発する存在感のある100歳に出会えるのではないかと、仮説をたてて会いました

巨大な縄文杉と、身体は小さくなるかもしれないが、中に巨大なものを持ちつつある人
両方とも最先端の人、あるいは最深部の人たちだと思う 同じ感じで訪ねた
私がこの人と思った人は、たまたま私と対峙した時に、ドアを開けてくれて、中の世界を見せてくれた 或る人に取ってはAさんかもしれないし、Bさんかもしれない
どの人かと、いわれたりするが、あえて私は言わない

横浜 或る施設で100歳の人が3人いた  車椅子に乗せて連れてきたが、元気が無かった
コミュニケーションも取りづらかったが、撮り始めてすこししてから、うち解けてきて、施設の人が、あれこのおばあちゃん、こんな笑顔が出来るんだというような言い方をし始める
施設の方も知らんかったような笑顔がある  他の皆さんに見せてもいいですか、と言ったらこれは私ですか? と言ってほほ笑んだ(この笑顔がもっと良かった)

富士山 私が撮っている富士山は、富士山は映っていません 頂上に行っているので
山頂から、絶景を撮っている(7月と8月のみ)  8年間
ご来光、昼間の雲、夕方の夕焼け(ほとんど人がいない時がある)、天の川  流れ星もびゅんびゅん飛んでいる
人間の小ささを感じる場所が富士山の山頂にはある
富士山を引きつけたのは、太陽です  
全ての命の源である太陽に物理的にも日本で一番近づいて、写真を撮りたいというのがきっかけです
3分かからないうちに太陽がまあるく見えてきて、寒くて待っているが、ポカポカと暖かくなる

初めての場合は中腹に泊って、そこで見て暖かくなってから登った方が、楽しく、楽に、快適に富士山を楽しめると思う       弾丸ツアーは論外 
写真展 100人ぐらいは飾りたい 遺影をとる 撮った自分自身の笑顔で、その人本人が元気になってくれるような、友達に自慢したくなるような写真を撮らしていただきたいと思っている
アルバム 押し入れに押し込んでいるのではなく、本人が自分を肯定できる思い出の玉手箱みたいなもの   押し込んでおくのはもったいない(写真の力 役立つことができる  認知症)
デジタルは撮りっぱなしが多い  プリントして楽しんだ方がいい

100歳は他人事だと思っているが、70歳のおばあちゃんが12.3人に一人は100歳を超える
80歳になったら10.7人に一人は100歳を超える
出来れば最晩年が、私は今が一番幸せと言葉に出てくるような日常を、最後まで保てたら、凄くハッピーで家族が目標にしたいような生きざまだと思います
































































2013年7月3日水曜日

草薙奈津子(美術館長)      ・美術館を地域の憩いの場に

草薙奈津子(美術館長)      美術館を地域の憩いの場に
東京の山種美術館から湘南の平塚市美術館に転身した草薙さんは、この9年間で入館者数を3倍に増やしました
学芸員から館長になった草薙さんは、地道な取り組みから始め、地方でも大都市並みのレベルの高い展覧会を開催して、その地域に住んでよかったと思われるのが、公立美術館の使命であると、美術館は地域住民と密着した憩いの場でもあると考えています

平塚市との間で双方ともに、何も条件は出さなかった
兎に角人が来なかった    前庭に、寄付してもらって、ベンチを置いて、花のプランターを置く
玄関を明るくする(節電から間引き点灯している)   
建物は立派ないい美術館  掃除も良く行き届いている
人が来ないので汚れない?
散歩した方が、ちょっと中に入って頂けるように、宣伝した
展覧会の内容 日本画が私は専門ですが、私の知らないような作家の展覧会をしていた
全国に名の知られているような展覧会にしようとした   山本 丘人速水御舟
展示場が二つ並んでいるが 隣の部屋はしまっていた  
その部屋もなんでもいいから展示しようという事になる(常設展示)
企画展で常設展も見られるようになっている  一つだとちょっと物足りないと思う

2年目には4万人ぐらいの入場者になった(それまでは3万人ぐらい)  今は約3倍になっている
地方の美術館はそこに住んでいる芸術家のためにと、言う事が多いが、私は地方の美術館はそこに住んでいる住民が、わざわざ東京だとか、京都に行かなくても、すぐ近くで同様の物がみられることが、大切なんだと、目線が鑑賞者の方を向いていないといけない
北海道、九州から来てくれるような、展覧会にしないといけない
費用? コレクターとの交渉が大変   
日本画に関してはコレクター、画商を知っていたので、割と借りるのにそんなに困らなかった

30代になっていれば、それなりに出来ていいはず  学芸員が展覧会を企画、実行を行う
最初 地方の作家の展覧会しかできなかったが、一流の展示をしないといけない
速水御舟の展覧会は 山種美術館しかできなかった 国立近代美術館も出来なかった
コレクターとの関係で   代表作、全部借りられた  100点以上になった
やればできるのに、出来ないものと思っていたようだ

展覧会は3年~5年前に決める  急には始めない
レベルの高い展覧会にしないといけないし、地方なので保守的な展覧会もしないといけない
ちょっと難しいんですが、学芸員ごのみの展覧会、そうすると学芸員の欲求不満も解消できる
山本直彰 日本画で抽象的 専門家の間では評価が高い 岩崎ちひろ展と一緒にやった
翌年、芸術選奨文部科学大臣賞と、神奈川文化賞の二つを受賞した
市の人たちの理解がないとなかなかやっていけないので、この展示会は市でも、評価してくれた
作家と学芸員との交流が出来るようになる
美術記者、NHKなども取材に来てくれるようになる 

国立の美術館に文句を言ってくる人はいない 県立美術館はいないわけではないが少ない
ところが、市立美術館は市民は、自分たちの税金で賄っているので、金食い虫の美術館はいらないとか、言ってくる
全国紙に展覧会評がそれなりの大きさに乗ると、これを広告会社にやってもらうと大変なお金がかかる
記事の乗る回数が増えると、市のイメージが、あがる(美術館が寄与)
赤ちゃんアート  好きなことを書いたりして、子供もいきいきするし、母親も子供の違いがあって当たり前、で 母親同士の交流もできて、精神的にもいいらしい(絵の鑑賞もできる)
今は小中学校の先生とも連携して、学校単位とか、或る程度の人数で来てもらうとかしている
ワークショップ いろんな可能性があると思う

美術館が漫画の展覧会をするとは思わなかった  1990年だと思うが、国立近代美術館が鉄腕アトムの作家の展覧会をしたが、その時は驚いたが、いまや漫画は当たり前で、漫画専門の学芸員がいる
水彩画も明治、大正、現代でもいろいろと違いがある  明治 大下藤次郎 三宅 克己
大正時代になると洋画家の水彩画が出てくる  岸田 劉生 とか 
ルーブル美術館 解りづらい、だだっ広いし、数日かけないと見られない
日本は規模が小さい 
フランスは国家戦略の一つ 年間900万人、世界中から来る どっかに貸し出しするとか
国が予算を投じても、それなりの見返りがあるという事

日本でも国家戦略になり得る  百済観音が行ったときに、交換として ジャンヌ・ダルクが旗を振っている絵「民衆を導く自由の女神」(ウジェーヌ・ドラクロワの代表作)が来たが、百済観音の美しさ、崇高さ はずっと上だと思った
木彫は外国に持っていくときには、かなり神経を使わないといけない(湿度、温度等の環境)
これからは美術、芸術、とか文化的な事で国家戦略をやって行くことは重要だと思う
つい最近の美術館までは、本当にお客さんの事は考えないで、良い展覧会は人が入らないんだ
ぐらいの感じでやってきたが、やっぱりお客さんが入るか入らないかは、音楽会に人が入るか、入らないと同じ(客商売)
美術館は社会教育  儲からないけど、なにかに役立たないといけない
何かと言ったものを、我々は考えなければいけないし、いろんな方からアイディアを提供していただかないといけない