2013年9月30日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(大竹まこと)

天野祐吉              隠居大学(大竹まこと
怒りっぽいキャラクタアーに至った経緯、社会に対する思いを語ってもらう
近頃はいろんなことが信用できなくなってきている
達磨大師の絵、掛け軸の前で、美術評論家、通の人が二人で激論している
雪舟の絵 白隠の絵だと議論 そこへ来た人が「達磨」じゃないかと言って去った  
この話は面白かった 好きな話ですね  大竹さんはそんな人ですよ
専門家が知ったかぶったりして話しているが、大竹さんがふっというのがいい
民主党議員が言っていること、政治家が行っていることを鵜のみにしたらいけないなと思う様になった
普通の人がTVには出ない 
大竹さんはあくまで普通の人の目でずーっと見ていて、一言ぱっと突き破っている
選挙 若い人が選挙にいかない 年寄りが行くとなると、おじいさんの意見が通る
だから「じじいは選挙にいくな」と言った 
選挙に何故行くんだろうと考えた 小平の道路の件で、思った事
自分がそういう事に参加しようと思った時は、守るものがあるとき (小平の場合は道路反対)

非正規雇用は全体の38% 女性は58% 非正規労働者がおおい
その人たちは選挙に行かない 
晩婚、子供居ない と成ると一人 そうすると関係ないよ、と言う事になる
年寄りは医療が発達して直ぐには死なない 死んだふりをすればいい 
贅沢な事は言わず我慢する
団塊世代 生存競争は激しいが、何とかなると思ってきた
あたり一面 年寄りだらけになっている だからさっき言ったように年寄りは選挙に行くなと言った

若いころから 何故か、私を支えてきたのは、「根拠のない自信」 
8人の客の前で、13人で演劇 しかし 8人の中の1人が「大竹、よかったよ」と言ってくれて、それが「根拠のない自信」になって、若い時からいつもそう思ってきた

大竹さんに対しては、100人中 98人は反対している 
「判ってくれない人1000人に、判ってくれる人、1人」  諺
世の中そんなにわかってくれる人はいない
「シティーボーイ」 お笑いでもないし、演劇でもない 評価の対象にはならない
不条理劇見たいなところがあって、シュールな笑い  見ていておかしい
異色の面白さ 過激なのでTVでは放映されないが
次の時代を考えるときに、成長経済の時代ではなくて、これからは成熟社会を作らなくてはいけないと云ってきている人がいる、素晴らしい言葉で生き生きいっているのは、皆20代、30代そこそこの学者で、年配の学者ほど、もっと成長経済をするためにはアフリカにまで輸出しないと成長はあり得ないと云っているが、若い人はそうはいっていない
バトンタッチした方がいいと思う












2013年9月29日日曜日

五木寛之           ・歌の旅人(徳島県)

五木寛之         歌の旅人(徳島県)
遍路 そもそも人間が最後にたどりつく場面を頭に思い浮かべながら、白い装束に身を固めてゆく訳ですから、そういうものだったんでしょうね、深いところのある行事
生死を覚悟しながら、一歩一歩歩く催し
阿波 弘法大師の縁が深いところ  空海は科学者、文学者、詩人、宗教家だが、政治家でもあった ありとあらゆる才能を一身に集めた存在
川が多いところ 山も多い   
吉野川 は阿波の金蔵と言われている  アユ  肥沃な土地を持ってきてくれる
アンジェラあき  「ホーム」  表現の方法が吃驚するほど違う
作家   瀬戸内寂聴 海野 十三南洋一郎 山中峰太郎 )
写真家 立木義浩
漫画家  柴門ふみ 竹宮 惠子  山上 たつひこ
科学者  鳥居 龍蔵  
歌手    ディックミネ 「上海ブルース」(昭和13年)
新聞と言うと「徳島新聞」をいう 占有率が80数%  愛郷心が強い

蜂須賀家 産業振興している アユ、手すき和紙   はっぱビジネス 和食にそえる
蔦監督 3回甲子園で優勝している 上田利治監督 日本シリーズ 3連覇
阿波踊り 日本の3大祭り 400年の歴史がある 男踊り、女踊り 対照的
阿波の人形浄瑠璃 最初呼んでいたのが、農家が地元でやる様になったのが広まる
「ラブストーリーは突然に」(「東京ラブストーリー」は柴門ふみ)
和三盆糖 高級和菓子に使用される  贅沢の象徴
鳴門の渦潮  「鳴門海峡」


2013年9月28日土曜日

伊奈かっぺい(作家、詩人、エッセー等)・津軽の故郷に居候

伊奈かっぺい(作家、詩人、エッセー、歌手、役者など) 津軽の故郷に居候
1947年弘前市生まれ、1968年に地元の民放局に入社後、ディレクター、としてCMや番組製作に携わる一方、自作の詩の朗読や歌のコンサートなどを行って、本やレコード、CD等発表して二足のわらじ出活動されてきました
退職後の、現在も様々な分野で活動を続けています
NHKではラジオ第一ぬくだまりのやど みちのく亭に出演されてきます

青森ぐらい素晴らしいところは無い 歴史、季節、食べ物 
5人家族 姉二人 末っ子の長男 中学校1年生の時に母が亡くなる
高校生3年生になった時に父親が亡くなる 姉たちは嫁いでいたので18歳で一人になってしまう
長女の嫁ぎ先に預けられることになる  20歳で青森市に縁があって会社務めになる
37歳で結婚 17年間一人暮らしをした
給料は安い、友達もいない、彼女もいない 暇で、暇で
毎日必ず日記を書くことを決める 楽しいこと以外は書かない
日記に嫌なことを書くと、何年か後に読むと同じように気分が悪くなる
3日続けて楽しいことはないが、嘘でもいい 楽しいことを生みだして書けばいいと、日記だから本当のことだけを書かなくてはいけないとは無いと、20歳のときに覚っていた

ずーっと一人で暮らす6畳一間にハエが飛んでくるが、「よしこ」となずけて呼び掛ける
3日も呼ぶと 返事をしてくれるのだろうかと、思う 声をかける「よしこ」  返事が「ハエ」(笑)
そういった日記を毎日書き続けた  今も毎晩書き続けている
日記がたまっていったが、そのうちの80%は嘘の話
昭和47,48年の時に貯金が満期になり、日記の中から周りの人が面白いと思ったところを抜き出して、本にしてみようと思って、1冊の本ができた (10年間の暇が1冊の本としてできた)
これが私の全ての元、これから全てが始まっている
青森から全国に向けて、どんな放送をしたらいいか、ディレクターが悩んで居たところ、彼がこの本を思い出して全国放送でやろうじゃないかと云う事になるが、私は一旦断った
東北では判ると思うが、津軽弁では全国では判らないからと思って断ろうとしたが、断りきれなくなった

日記を書くときに、どうしたら女にもてるかどうか、しか考えてない
だから毎日女性の立場になって物事を考えると、持てるに違いないと思って、女になって書いていた日記もある
昭和49年ごろに、それを全国放送で読む 
たまたま仙台のレコード会社の方が其れを聞いて、ところどころ判らないがレコードを出したらどうだろうかと言われて、判らないと何回も聞くだろうから売れるかもしれないと云う事になる
本は自費出版だが、レコードだと吹き込み料が出るとのことで、引き受ける(昭和52年)
なまりのあるレコードなどない時代  そこそこ売れた
2枚目のレコードの話も出てくる  3枚目   LPは4枚目で終わる CDになる 本は30数冊
日記を書いていなかったら今の私は無い

結婚が37歳で 「我 晩婚」と色紙に書いた 
話題にされたくないのは先に示した方がいい
人生を1日にたとえる  朝6時生れる 午後結婚  12時にあの世 
一人で生きる時間が必要 
自分でなにか食べる能力がないと生きているとは言えない
普通は午後ぐらいに結婚 私は夕方の4時半ぐらいかも そうするとうす暗くなる
「我晩婚」 → 反対から見ると 「こんばんわ」(婚晩我) (笑) 
20歳の時からこのやり方で生きてきた
定年退職する 子供4人いる 一番下が大学生 まだ死ねない

焼酎を飲みながら「辛い人生だった」 と言ったら 妻が「つらはずーっと悪かったんでしょう」(笑)
「おまえたちのためとは言わないが、人生の荒波をお父さんは一生懸命泳いできた」
娘が 「その割には偉くはならなかったのね」 即座に「うーん ずーっと平泳ぎだったから」(笑)
人の上げ足をとれないようでは、人の話を聞いているとは言えない
然し友達は少なくなりますけど
日常の何気ない会話にも緊張感は必要 「今日はお疲れさん」「いや疲れてねえよ」(笑)
会話を楽しくすることは必要 
「つらを洗い直してこい」→「髭も剃って行ったがいいでしょうか」(笑)
17年間 一人だったので 一人で三人分の会話を 日記に書いていた 一人で会話をしていた
わら束を部屋につるしておく 時々面白い話ができる →わら束につかまる→才能に溺れそうに成るから (笑)
才能ってなんでしょうか→奥さんがいないことでしょう(笑)

津軽弁で桃太郎を話すが、初級 イントネーションだけ違う 
中級 津軽の言葉をちょっと入れる(まだ判る 物語を知っているから)  上級 全く判らず
会津 日新館 什の掟 津軽弁でやるが 何々をしてはいけない →「まね」または「まいね」
どうしたら楽しくなるか それだけ  紙と鉛筆で遊んでください





























2013年9月27日金曜日

2013年9月26日木曜日

熊谷秋雄(かやぶき職人)     ・茅葺きの風情を現代に生かす

熊谷秋雄(かやぶき職人)  茅葺きの風情を現代に生かす
宮城県石巻市北上町 北上川河口付近に群生していた葦を使って、全国各地の名所、旧跡の茅葺き屋根の修復を手掛けてきましたが、葦原の40%が津波で水没してしまいました
熊谷さんは茅葺きに必要な葦の群生地の復活を期待しながら、これからは現代に通じる、茅葺き屋根の家を作りたいという夢を描いています 

大川小学校が川向かいに有った 河口からは5.5kmぐらい ここは2mぐらい浸水している
瓦礫もかたづけられた
河川敷にずーっと葦が 河口から12km、幅100m生い茂っていたが、津波が来て、地盤沈下が1mぐらいあり40%が駄目になってしまった
植物が屋根材として、建物に上がると「かや」と呼ぶ 葦、すすき、稲わら、小麦わら が屋根材として上がった時点で「かや」と呼ぶ
岐阜の白川郷、五箇山の屋根はすすきを「かや」と読んでいた
滋賀県琵琶湖 葦の産地 葦を使って屋根をふくので「かやぶき」と言っているが、「よしぶき」と云っている

北上川の葦を冬の間に刈り取りをして、加工して、原材料をかやぶきのふきかえの仕事を主にやっていました
茅葺きの屋根はだいぶ減ってきている 茅葺きのそば屋、陶芸の茅葺きのアトリエが欲しいとの要望があるが、基本的には減ってきている
職人が高齢化で、うちに問い合わせがあったりして、私のところでは仕事は減っていません
茅葺きの屋根は火事になりやすいと言われるが、私は見たことがない
寺、神社 伊勢神宮は全て茅葺き  関東から北が 社寺は茅葺きが多い
西に行くと瓦の文化、ひわだぶき がある(相対的に北の方が茅葺きは多い)
岩手県奥州市に正法寺という日本一の茅葺き屋根がある 屋根の面積 2100平米
そこの屋根の仕事を請け負ったが、材料を3年がかりで集めた

葦の材料確保は他県の河川から調達してもらったりする 震災後修復の仕事から始める
従業員が20人ぐらいいたが、7軒は津波で亡くなってしまった
生活基盤を確立しつつ、手の空いている人から地元の修理をしようと、少しづつやってきた
倉庫の壁を葦でやっているが、日本でここだけだと思う 厚さ30cmぐらい
12,3年前にヨーロッパに茅葺きの視察のチャンスがあり、オランダ、デンマーク、ドイツ、フランス、イギリスに茅葺きが一杯あり、吃驚した 
オランダでは年間 2500~3000棟の新築の茅葺き屋根があって、面食らった
茅葺きは斜陽産業ではないのではないかと思った
景観にいい、環境の意識が高いので、植物性の自然素材なので、水の浄化にいい
炭酸ガス之問題 炭酸ガスを吸って育つので、環境にもいい
ヨーロッパではオランダ 職人が800人いて、茅葺き協会みたいなものがあり、組織化されている
産業として成り立っている
ルーマニア、ハンガリー、トルコ等からも葦を輸入している

毎年 12月~3月に刈り取りして、4月に野焼き、5月に芽が出始めて、成長していって9月末葉が落ち、段々緑から黄金色に変わってきて、また12月から刈り取り作業が始まる
持続可能な天然資源、、枯渇することは無い
日本では急激に減ってきているのは、湿地の開発、日本では日よけによしずを作っていたが、40年前から中国から安価なよしずが入ってきて、よしず産業が衰退していった
建築基準法22条地区だと茅葺き屋根は建築できない(屋根は不燃材にする)
ヨーロッパでは火災に関して実験をやっていたり、隣りと12m離れていれば新築可能となる
南アフリカには茅葺きの国際空港がある     
日本の発想とは違う

倉庫の壁 茅葺きがあまりに規制が強い 北上川の葦の素材を広めたくて、ヨーロッパに行った
オランダでは壁に茅葺きなどをしていて、大震災で家、倉庫を流されてしまって、9月ごろ倉庫の壁を茅葺きにしたくて、ボランティアで来てくれと言って、オランダの職人2人とうちの職人4人とで倉庫の壁を葦で3週間かけて作った
屋根だと20年~30年 手入れをすれば50年持つといわれるが、壁は屋根の倍以上は耐久があると思う
壁の内側は合板の板 屋根と同じように壁にふいてゆく 工事する時のいわう機械をオランダから持ってきてもらった
ヨーロッパでは、産業として茅葺きは確立しているので、工事の工法は簡易で長持ちをするような技術が発達している
茅葺きは屋根が多いが、現代建築に旨く活用しているので、ビル、アパートをぐるっと葦で包んでいるとか、コンクリートとかガラスよりも温かみがある

茅葺きは冬暖かくて、夏涼しい 自然の断熱材
茅葺き職人は何回かやればできるようになる 壁をオランダの人とやったが直ぐにマスターした
京都の町屋を残すのに、外壁が板張りで、今の法律に充てると出来ないが、板張りの内側に不燃材、耐火ボードを入れれば、いいことになって京都の町屋は残っている
東京でもうまく対応すれば、茅葺きの壁ができるのではないかと思っている(地球温暖化対策)
天然素材なので腐って腐葉土にもなる (循環型)
環境問題、景観とか別な意識を持っている人が増えてくるのではないかと思っている
一番が茅葺きで言われるのが、火災、職人がいない、高いというイメージがあるので何とか払拭すれば、普及していくのでは、産業が興るのではないかと思う

ウイーン工科大学で、ミカエル・カマランダ?准教授が東大で交換教員で2年間日本にいた
帰る3か月前にうちに遊びに来て、東大で勉強しているよりも全然面白いと、彼が一緒に住みこんで、三溪園、金沢兼六園に行ったり仕事をやっていた
帰るときに写真を見せてくれて、ヨーロッパでも茅葺きがあるので、是非来て観てくれと言われて、建物を見に行った
ハンガリーにつれていってくれて、ドナウ川の支流に一大葦原があって、野鳥がいっぱいいて、今は世界遺産になっている
北上川の葦原の100倍、200倍の広さで、大型葦刈機があって、それに吃驚した

ヨーロッパの茅葺き、機械に興味がわいて、いろんな国に行くようになった
カルチャーショックを感じた 茅葺きは斜陽ではないんだ、トレンディーでこれからなんだと責任感にかられた
1台の葦刈機を動かすのに5人が必要 湿地でも入っていける
一人50束が刈れればいい程度だが、その機械は3000束刈り取る
機械を入れてコストが下がる
音風景100選に選ばれている 冬場 葦がすれてさらさら音がする 
音は体に染みついている
大震災から2年半が過ぎて、葦原もすこしずつ戻りつつある 














































2013年9月25日水曜日

山 下純司(長良川鵜匠代表)   ・鵜匠の心は鵜の心 2

山 下純司(長良川鵜匠代表)   鵜匠の心は鵜の心 2
かたらい つがいとは言わない 鵜小屋 2羽一緒になっているものと、1羽のみもいる
性格は荒い 闘争心は有る  ご飯は1日1回 仕事をしながら食事する
細かい魚が自然に入るように首に緩みが作ってあって、仕事を終わるころには、8分目ぐらい入るように加減がしてある  いろんな小魚を食べる
かがり火に使う薪は、アカマツの山の峰の岩山の松が一番いい  魚を照らす
11月に切って寒のうちに割る 綺麗に乾く
蓑は腰につける 鵜を扱うと前が濡れるので、身体が冷えるので付ける
1年前のわらを農家に頂いて、自分で蓑を作る
仕事が終わる10月過ぎになると、鵜は疲れるので、身体をもとに戻す作業をする 少なくとも1カ月半、2カ月かかる

鵜の生息地 茨城県 絶壁の人間の寄りつかないところは休憩場所なので、そこに飛んでくる
竹にもちを付けて其れを羽根の元に、ちょっとあてがうと鵜が怖じけて飛び立とうとするときにぱっと捕まえる
ぬるま湯で身体を洗うと落ちつく 初めが肝心で、第一印象が大事 気持ちをにこにこして対応
自分に偽りを持たずに、有りのままで生きてゆくと、俺もお前のために手伝ってやると云うのが基本であり、全部だと思う
「おもしろうて やがて悲しき 鵜飼いかな」 芭蕉 

この世を去る時に、有難うございまいたと、生かさしていただいて、この世にいさしていただいてありがとうございましたと、去っていける人間になりたいと思っている
遊覧船にたいして、郷に入っては郷に従う と言う姿勢、心がないようなきがする
人間の心を育てる場所が昔に比べると、本当に少ないんじゃないの
鵜が死ぬと新しい鵜が来るが、来ると俺はこういう生き物やと 先ず教えてくれるので、先ず吃驚するが、そうですかと、最敬礼して、鵜との生活が始まるわけです
人間の休みとは、他の生き物との出会いをさせるために、休みがあるのではないか
自然界の営みに沿って、人間もそこの何十万種の一種にすぎない
自然界の営みに合わせて、物事をやらないと、やっている意味がない
その出会いのために休みがあるような気がする  鵜飼いを利用してほしい
それに合致する内容をこれからやろうと 

出会うのはほかの生き物との出会い 出会って手を合わせる その先には樹や草 
それに対して最敬礼をする 自然界に対して最敬礼をする そこで心が穏やかになる
鵜飼い こういう自然の営みもありますよ と 
昔から鵜飼いはかがり火を見てよし とする  鵜が魚をとる所を見なさいと云う教えは無い
最後に有難うございました と3回言うと お客様も反応があり、 有難うと手を振る 
そうすると心と心が出会う  そうすると船の中、全部が輪になる
6人が並んで鵜飼いをするときに、年齢も違うし、技術も違うので、見よう見まねで覚えてゆく
働かない鵜もいるが、実社会では早く辞めろと云うような風潮があるが、その人はちゃんと役割りを以ってきている、それを見る目がない見る人が、それだけの事
鵜でも魚の数は決まっている そこに鵜が全部集中したってしょうがない、たくさんとれるわけではない  3羽、4羽がばばばと,獲る 

えにし、縁と言うものを重視しなければいけない 
今は、鵜匠を育てるために鵜飼いをやっている 漁をするため、お客さんに見てもらうために
やっているのではなく、縁あって鵜匠をやって、鵜匠を立派なものに育てるために、自然界の鳥がここへ来て、そうやって此の人間を育てる、ひいてはそれが鵜飼いが永遠に続く
いろんな働かない鵜でも、一緒に生活する事でこの人間の幅が広がる
鵜匠を育てるために今の長良川がある 育ったら自分の想いを 有難うと言って そこへ来た人が味わっていただければ、酒よりもあの最後の時間が良かったなあと 云ってもらえれば 鵜が教えてくれた事が意味がある

鵜飼いを世界遺産に、という下準備をしている
河川工学の先生と打ち合わせを先日した
自然の場所とそこに住んでいる人間が旨い事云っていると思う
他の国で鵜飼いが続かなかったという事は、そこの自然とそこの人間とが合わないし、いろんなものがピタッと合わなかったから、続かなかった
いろんな条件が合致したから、日本では続けられることができた(清流、魚、金銭的援助等)
日本には33000本の川があるが川を見ているので、昔の川に戻したら、日本も変わるのではないか




























2013年9月24日火曜日

山下純司(長良川鵜匠代表)    ・鵜匠の心は鵜の心

山下純司(長良川鵜匠代表)   鵜匠の心は鵜の心 
岐阜市を流れる長良川鵜飼地区には6人の鵜匠が暮らしています
毎年5月11日から10月15日までの鵜飼いシーズンには、夜暗くなると、6人の鵜匠達が、鵜船に乗って独特の衣装を身にまとい、かがり火のもとでアユ漁を行います
其伝統の漁を観覧船に乗った多くの人が見物します
12本の細い縄を鵜の、のど元にくくり、飲み込んだアユを吐き出させる鵜飼い漁は川面に映るかがり火と相まって美しい日本の風景てす
鵜匠の心は鵜の心、皇室にアユを献上する宮内庁式部職であり、長良川鵜匠代表の山下さんに伺いました

朝起きて、鳥屋からを出して、鵜と人間との触れあう時間を持つ
鵜は理解力が旺盛で、ここにいるだけで、鵜匠が川に行ってきた川の状態を、此の手を介して感じ取る、私はそうかんじる
鵜と触れ合う時は何でもいいからしゃべれと、暑いとか、寒いとか、魚を取ってこいとか、しゃべる意味合いとかは、自分が感じたのは、しゃべれば此の口からつばとか息が出る
その間隔は30cm~40cm ぐらいなので、鵜につばとか息がかかるので、鵜の顔の表情によって、自分の健康状態が判る
嫌な顔をしたら、僕の息の中が臭いので、嫌な感じをしたなと理解すればいい
私の健康管理は鵜にしてもらう、鵜の健康管理は私がやる

声の大きさとか、ばたばた具合で鵜の健康状態は判る
風邪気味とか、疲れているとか、を自分で感じ取る
感じ取り方は親から教てもらうのではなく、親が口では語らず、いろんなことを見せつけてゆく
其れを見て身体で理解してゆく
上流には3人鵜匠がいる(この地域には6人)
長良川の鵜飼は,尾張徳川家の保護を受けて続けられてきました
明治維新とともに保護も無くなり,古代漁法として伝承されてきた鵜飼漁法は消滅の危機に瀕しました
宮内庁 式部職 明治23年から務める 
時の岐阜県知事の要請を受けて,宮内省は鵜匠に職員の身分を与える
年8回 御料鵜飼い、宮内庁が催される 取った魚を宮内庁では祭りごとに使われる
そこの中の年2回、大使、公使の接待会が毎年行われる
日本には鵜飼いが12か所あるが、宮内庁の仕事をしているのが、長良川だけ、岩倉具視の素案でこういう格好にでき上った

鵜はアユを咥えると同時に、急所のところにくちばしがゆき、即死状態になる
いろんな味が抜けない、丸ごと身体の中に残るので美味しい
今は取れる量が少ないので、一部の旅館、ホテルにわたる
あみで取ったり、釣ったりするものよりも、美味しいと思うが、お互いにこちらの方がおいしいと云っていているようだ
「鵜の心、鵜匠の心、今日語らい、明日また語らうこのえにし 鵜と鵜匠の一生なり」 山下純司
心 辞書を引く 動物の五臓六腑 毎日毎朝鵜とのふれあいが字として現れた
自分の役割りは何かと考えたときに、鵜と共に暮らす そこでいろんな事、感じたことを一方的にしゃべる、それを聞き入れるか、聞き入れないかは聞く人の勝手 それに徹している

24羽の鵜がいる 体重は3kg 身長は60cm程度 羽根は緑色の濃い色  胸は白い羽根 
60年前までは 鵜とのかかわりは最高10年ぐらい その後は自然に戻して余生を3年~4年
最近は魚もいなくなって見ていただく鵜飼いになったので、魚を一杯取らなくてもいいので、最後までいてもらう事になる   寿命は大体30年ぐらい 
鵜は人間社会とのかかわりができたことによって、卵が産まれない
野生の鵜 2~3歳の若い鳥を捕獲して、こちらに持ってきてもらう
鵜匠同士での鵜のやり取りは無い
鵜の調教はしない(もともと魚を獲るのがうまい) 鵜飼いは昔世界中に有ったらしい 
日本の場合は鳥と共に暮らすと云う気持ちがあったので、残った

信頼関係とかそんな単純なものではない 
理屈ぽく考えるのではない 鵜は野鳥なので、自然界と人間とのかかわり その中立ちをしてくれるのが鵜ではないかと思う
神、仏 人間が作ったもの 人間社会には学校があり、宗教がある
他の生き物のは学校も宗教もない 生れて来るときに、そういうものが必要ではない、それだけの能力を備えて此の世に出されている、其命をもらって日々人間は暮らしている
之は間違っているかどうか判らないが、しゃべることで間違っているかどうか、考えて勉強させてもらっている

便所掃除を考えながら一生懸命やっていて、楽しい
孫ができても、孫を育てる気持ちは無くて、鵜を育てる 孫はその親が育てろと云っている
孫にはしっかり鵜を見せつける事を考えている  100歳まで何とか生きて、基礎を作りたい
一歩下がって人の云う事を聞くようになった 
息子は一緒に船に乗っているが、私は鵜匠 中鵜使いと言って漁をしている
船頭が2人  4人で構成されている
私と船頭は17,8歳の時からやっているので、気がぴたっと合う
諸々のことを子供に見せつけてやる (それで身体で理解してもらう)



































2013年9月23日月曜日

白木健一(宮沢賢治学会会員)   ・賢治に学んだ科学者の目 2

白木健一(宮沢賢治学会会員)    賢治に学んだ科学者の目 2
結晶関係の仕事をずーっとしてきたが、関連会社に技術移管をすることがあって、仙台に一時勤務していて、休日に、東北地方の名所旧跡を訪ねたが、其中の一つに以前読んだことのある宮澤賢治の記念館、資料館が花巻に在ることを知りまして、1994年花巻の宮澤賢治資料館、記念館に行きました
夕方、閉まると云う時に、帰りがけに書棚の中に、目に留まったのが、「きけわだつみの声」だったが、戦没学徒の遺稿集と宮澤賢治とどういう関係なのか、不思議に思った
佐々木八郎さん 東京大学経済学部出身の戦没学徒の方の「愛と戦と死」というエッセーが乗っていた(昭和20年4月14日  特攻隊として沖縄に、出撃して戦死) 
「愛と戦と死」というエッセーの副題が宮澤賢治作 「「烏の北斗七星」に関連して」という副題がついていて、読み始めて、宮澤賢治に大変興味を持つようになった
それから数年して、9・11ニューヨークのテロがあって、その先駆けになったのが、日本の神風特攻が最初だと、たいへんアメリカ、ヨーロッパで話題になり、又印刷物でも出てきたのを見ました

二人の日本人女性が、この「愛と戦と死」、宮澤賢治作 「烏の北斗七星に関連して」というのを英訳して出版したが、もちろん戦没学徒の遺稿集全部ですが、必ずその筆頭に「烏の北斗七星の祈り」の言葉が出ています
童話はカラスと山カラスの戦争を題材にした話 中に二つの祈りの言葉が出てくる
一つは山カラスをやっつけて、カラスの方が勝つが、その時に生き残ったカラスの仕官が山カラスを葬るんです
一つ目の祈り  「私は私に決まった様に力一杯戦います 皆、皆 あなた(カラスの守り神 北斗七星)のお考えの通りです」 と祈る
二つ目の祈り 「憎むことのできない敵を殺さないでもいいように、早くこの世界がなりますように、そのためならば、私の体など何べん引き裂かれても構いません」 山カラスを葬るときのカラスの二つ目の祈りです

9・11の先がけになったと云う事では決してない 
神風特攻隊の学徒の遺書がこういう風に書かれていると、ウィスコンシン大学の大貫恵美子教授、スクラントン大学の山内みどり教授 それぞれ、この童話を英訳して、戦没学徒遺稿集の筆頭に出して、テロ事件のあった5年後に、相次いでアメリカで出版された
宮澤賢治が人造宝石を手掛けたかったことを知ったのは、若いころに人造宝石業を志したと書いてある
宮澤賢治は全てをあからさまにしないようにしていると思われる
かなりよく知っているのに、ちょっと出すだけだが、ヒントを与えている
父への手紙で 5通あるが、人造宝石をやりたいと云う手紙
一番のきっかけは昭和3年に読んだ詩があって、人造宝石技術のことを歌った詩

「高架線」 という詩の中に書き入れている  (山手線が出来たのが昭和元年)
酸化アルミニュームの粉を酸素水素炎で高温で溶かして作った、ルビーの製法を記載されている
よく知っているなあと思った
ルビー、サファイア、の結晶を大きくしたいというような手紙を父宛てに出している
天然のルビーでないことがどうして分かったのかが、注目されるところ
宮澤賢治のいろいろ記載されている本の中に、宮澤賢治が近所の方の最近購入したルビーの鑑定を依頼されたと云う話があって、明らかに人造ルビーですよと鑑定したことが、記載されているので、きちんとした勉強をして自信があったのに違いない

当時、人造ルビーが出始めたころだった
宮澤賢治が鉱物が好きだったことはかなりの人が知っていることだとは思うが、人造宝石を作ることに対して、気まぐれで有ったわけではなく、一番の先がけで有ったころであった
何故知ったかは、父宛てに 大正7年12月の暮れに、妹の病気の病状を連絡しているが、鉱物の仕事をしたいと書き記している
現在の国会図書館に行っていて、文献を調べたことは間違いない
人造宝石の仕事は健康には問題あることは無く、人造の宝石は人造の名に置いて、模造にはあらず、道義上決してやましいものではなく、有名な科学者も多く研究している
実用的にも大なる意義があると云っている(工業的にも先見性がある)
有名な科学者とはエドモンド・フレミー フランスの化学者  オーギュスト・ベルヌーイ (フレミー氏の弟子)  ベルヌーイ法
自然史博物館の研究員 フランス語の論文が一番多い 
明治の中ごろから、上野の図書館にはそろっていた  宮澤賢治が読んでいたと思われる

人造宝石 水晶、サファイア 実用的にも大いに意義があるという宮澤賢治の想いは現在開花している 
人造で日本で出来るようになったのは、昭和22年ぐらいからですから、大正時代にこの事業に乗り出そうとした事は、大変な先見の明があったと思う

レーザー 通産省のプロジェクトができて、私が会社に入った翌年、ルビーを使ったレーザーが発明されて人造宝石を使って工業的に使う事は、特に日本に於いては、盛んに行われている
宮澤賢治は事業計画を 第一期は宝石を磨いたり、指輪を作ったりして、収入を得た後に
第二期として鉱物の合成、宝石の人造に変わっていきたい
資本としては第一期は200円、第二期は1000円ぐらいかかるので、父親に資本を手紙で要望している
私の目的としている仕事は宝石の人造にあると云う事を書き記していると本音を言っている
段々父親との間の雲行きがあやしくなる 
更に父親を怒らせたのは、大正8年2月2日の手紙では、しくじっても、よろしく、しくじらせるつもりにて、仕事にかかるよう、お許しくれたく願います という内容
父親から反対されて、自暴自棄になって、花巻に戻ってくる(妹の病気もよくなった一緒に帰る)

18歳のときに法華経を読んで大変感激する 2月16日が日蓮聖人の誕生日 
国柱会 日蓮宗僧侶田中智学さんが講演会をやるのを聞くことになる
父親がお金を出していたらどうなっていたか?
宮澤賢治の作品には大変な数の宝石が出てくる 20種類ぐらい 10回以上でてくる
コハク、オパール、メノウ、ダイアモンド、トルコ石、サファイア、ルビー、エメラルド・・・・
等が繰り返し繰り返し出てくる
この中から人造を心がけたと思うので、今の知識から見ると、ベルヌーイさんが出来たのはルビー、サファイア、スピネルの3種類を作った
宮澤賢治は同じ方法で大型化をしようとしたろうと思うが、やらなくてよかったと思う

弟の清六さんが、宮澤賢治の法華経との出会いを書いているが、大正4年20歳のときに 妙法蓮華経を聞いて感激する
妙法蓮華経の中の如来寿量品を読んだときに、特に感動して狂喜して身体が震えて止まなったと云う  法華経は全部で28章からなっていて、16章が如来寿量品で後々作品にも出てくるが、法華経の中の中心、仏教の経典の中の中心とまで言われる有名な章になる
23歳のときに、宗教上のことで手紙で父に進める  
自活できるのが先ず第一である、更に進んだらこのお経を人にも教えたい、財産が出来て、お金が使えるようになったら、海外にお経を広めたい、そうすれば皆さんの御恩に応じることができる
布教活動にまで将来は夢を持っていた

銀河鉄道の夜」  地上での物語 お釈迦さまが天上での物語 また地上に戻って来る物語
法華経の構成と 「銀河鉄道の夜」の構成はどこか似た点があると云う事で書いていると思う
「手帳」 「雨にも負けず」(1~9ページに書かれている)だけでなくいろいろなことが書いてある
10ページ目に 日蓮上人が創作したといわれる、南無妙法蓮華経を中心とした、曼荼羅が書かれている
お釈迦様が皆を助けている有様を表している
母親に 宮澤賢治が臨終のときに残した言葉 小倉さんが記録
「あの童話は仏像や、お経を文字の上には書いていないが、本当のことを書いたものだから、いつかはきっと人のためになるんだんじゃあ」
お経の文句の中に「仏語は実にして空しからず」という一節がある
宮澤賢治が 銀河鉄道の夜 途中で 「信仰も科学と同じ様になるよ」
信仰と科学は正反対のように思われるが、いずれ同じような範疇になると云っていて、そういうところに非常に興味を持っている






























































2013年9月22日日曜日

白木健一(宮沢賢治学会会員)   ・賢治に学んだ科学者の目

白木健一(宮沢賢治学会会員)    賢治に学んだ科学者の目
白木さんは昭和34年に横浜国立大学工学部を卒業して、大手電機メーカーに就職、研究所で結晶の、特に人造ルビーの開発に取り組みました
賢治に学んだ科学者の目 第一回目「グスコーブドリの伝記」「風の又三郎」を中心に伺います

9月21日が宮澤賢治の没後 80年 37歳で亡くなる
東日本大震災からは2年半過ぎたところ  「雨にも負けず」世界で朗読された
一番有名なのはアメリカのワシントンDCの国立大聖堂の追悼式で日本人女性がリーダーシップを取って、英語国、第二外国語を英語にしている国の方が10数人で共同で翻訳して、朗読した
イギリスのロンドンのウエストミンスター寺院で日本人の僧侶が南無妙法蓮華経と唱えた後、日本語で「雨にも負けず」が朗読された、東南アジアでも同様に朗読された
自分の心のうちに秘めて、手帳に書かれていたものを、亡くなった後に 発見して世に出たもの

地震、津波、冷害に非常に苦しんだ時代でもあった
賢治が誕生した時と、亡くなった時に津波が来ている
入社した時に、業務命令で人造宝石を研究テーマにしてほしいと云う事で担当してきた
草野心平 宮澤賢治に注目した 宮澤賢治が私は詩人としては自信が無いが、科学者としては認めていただきたいと、2編の詩と共に手紙を草野心平に送っている
科学者として自信があると思っていた

盛岡高等農林を卒業、学校の建学の第一目標は冷害による凶作の克服、賢治の家業が質屋、東北地方の農民が冷害飢饉で苦しんだことを目の当たりにして、自分の家の家業に負い目を感じた
父がやり手で、財産を築いたが、農民の方たちの質ぐさの上に築かれていると云うのが、一生の負い目だったと、おっしゃる方もいる  
農業にとっては非常に気象が大事
「グスコーブドリの伝記」 は寒さを克服する物語、「雨にも負けず」自身も寒い夏が書かれている
火山噴火で出てくる炭酸ガスで気温を上げる スヴァンテ・アレニウス 19世紀の化学者
炭酸ガスが地球から逃げてゆく赤外線を遮断して、地球の温度を上げるという論文を出している
現在では火山噴火で気温が下がる事はあっても上がることは無い

寒さに耐える稲を開発することが重要な仕事 秋田県大曲農事試験場が陸羽132号 画期的な新技術で新しい品種の稲を作った(1921年)
作付けが始まったのは1926年(昭和元年)、その後交配されて、コシヒカリが昭和31年 ササニシキが昭和38年に出ている 秋田小町が1984年

「風野又三郎」 気象学を童話に書かれている(大正11年~13年に執筆)  
「の」になったのは昭和6年 
学問的な物語から、抒情的な物語に替って行っている 
気象学が関係しているのに、非常に興味を持った
大人には見えない風の精 風そのもの  20年前 根本 順吉氏は気象研究家なので、着目して
非常に詳しく調べた
風の時間的な、距離的な規模が非常に小さいものから非常に大きいものまで、全て網羅している、風の現象ですね
あらゆる規模の風の現象として、「風野又三郎」が立ち現れて来る
一番最後に出てくるのが、地球規模で現れてくる大循環、気象学の専門用語ですが、数1000kmから数カ月にわたって、空間的にも、距離的にも、時間的にも大変規模の大きな、この童話の最後に語られている眼目になっている

大循環について調べようとしているのだと、根本さんに言ったら是非結果を知らせてくれと言われた(根本さんは4年前に亡くなられた)
大正11年~13年ごろは、地球規模で風が、空気がどう流れていたのだろうと云うのは、頭の中で考えられていた(想像の世界)
当時の海外の文献、大循環、赤道で上がって南極、あるいは北極に向いていく、冷たいところで降りてくる  ハドレーさんが18世紀に提案している  ハドレー循環
北極の手前で千島列島の東側にハスカロラ海床という非常に深い海があって、そこで降りてしまう
全部で4っつに分けて考えられる
①赤道で上がってタスカロラ海床で終わる 
②タスカロラ海床で出発してグリーンランドまでいった ジェット気流に非常に似ている
何故宮澤賢治は千島列島東からグリーンランドにいたるまでの長い距離を「風野又三郎」を旅行させたのだろうともの凄く興味がある

非常に速い流れがある事をどこかで見つけたのかもしれない
私はジェット気流を調べ始めた
昭和19年11月に日本に空襲にやってきたB29が偏西風(ジェット気流)に妨げられて、目的を達せられなかったのが、最初の発見と言われている
風船爆弾 日本は風船爆弾を飛ばして、アメリカを攻撃すると云って、まさにジェット気流に乗せて、爆弾を飛ばした(11月7日に飛ばした  2泊3日でアメリカに届く)
高層気象台が大正時代に活動していた 高い層の気象を調べれば、大嵐を予見できるのではないかと、高層気象を調べようとした
初代気象台長 大石和三郎さん 大正13年12月に 非常に早い風が高い空を流れているという
事を発見した(風船を飛ばして望遠鏡で観察する)

9000mくらいまで、2か所の望遠鏡で見ることで、風の高さ、時間を調べた
大石和三郎さんはエスペラント語で世界に発表したが、世界では全く関心をよせなかった
宮澤賢治はエスペラント語を理解していて、童話などをだしたりした
大石和三郎さんがジェット気流を発見して、発表する10カ月前にすでに宮澤賢治はこの童話を書いているという事が非常に不思議に感じる
宮澤賢治がどうして判ったのだろうかと考えたが、水沢緯度観測所、で読んだ詩がある
最初に数字に疲れた私の目、最後の方に、くしゃくしゃな数字の前にかがみこもうとしますと書かれており、是は大石先生が言うのはおそらく風速の観測データを眺めて、すっかり目が疲れたのだろうと、思います(観測データをしっかりと見ていた)

昔のの気象データを探してもらったが、(宮澤賢治がこの童話を書いた頃のデータ)全部残っている
地球の回転、完全に早いスピードで軸が固定して回っているのではなく、僅かにふらつきがある
のを緯度観測所で見ていたわけですね
強い風が吹いたら、地球の回転がふらつくのではないかと考えて、地上から3000mぐらいまでの測定を木村栄(きむらひさし)博士がやっていた
水沢の真上に在る二つの星を望遠鏡で眺めて、ふらつくかどうかを調べていた
真夜中に風速の測定をやっていた  
風船に提灯をぶら下げて、3000mぐらいまでの風速測定していた
地上ではほとんど風が無いのに、高くなるほどドンドン風が速くなる(大石博士のデータ)
9000mで時速300kmに近い 地上では風が無いのに
もし宮澤賢治が見ていたら、高い空に上がるに従って強い風が吹いているのは一目瞭然

何故千島列島東からグリーンランドへの風についてはまだ判らない
同じ気圧の線がタスカロラ海床からグリーンランドに向かって伸びていると云う文献が、古い水沢緯度観測所の海外文献の中に在った
同じ気圧のところを高い空では、風が流れてゆくと云う事は宮澤賢治は知っていたと思う
根本さんは、宮澤賢治はドイツで出された気象力学という非常に難しいドイツ語の本ですが、これを参考にして、童話を書いたんだと思うと、根元さんはおっしゃってました
サイクルホール つむじ風 竜巻 台風 低気圧 上から見て、風と逆に回る回り方の風の現象を全部ひっくるめてサイクルホールと呼んでいる

逆サイクルホールは、上から眺めて、時計とと同じように回るのを(高気圧)、逆サイクルホールと呼んでいる
ドイツ語の文献に全く同じような単語が出てくるので、根本さんがおっしゃっていたように、ドイツ語の難しい気象力学を宮澤賢治が参考にしてこの童話を書いたことは、ありえたことだと思う
この気象力学が出版されたのが、1917年 1990年ごろに日本語に訳されて出版された
宮澤賢治が卓見だと思う
気象用語 極渦 宮澤賢治の時代に在ったとは思わないので、今のところはどうしても判らない






















































2013年9月21日土曜日

金昴先(キムミョウソン 住職)     ・お大師様に導かれ、住職へ

金昴先(キムミョウソン 住職) お大師様に導かれ韓国伝統舞踊家から四国徳島の住職へ
大日寺の住職 四国88か所第13番札所 弘法大師が開いた寺とされ、1年を通じて巡礼のお遍路さんの姿が、絶えません。
韓国テグシー生れのキムさんはもともと韓国舞踊の名手でした。
18年前公演で、日本を訪れ、先代の住職 大栗弘栄さんと知り合って結婚、然しキムさんの人生は夫の病死で急展開します。
住職であった夫の後を継ぐことになり、四国88か所札所で初めて外国人住職の道を歩むことになりました。
舞踊家として韓国大統領賞を受賞するまで、韓国で昇りつめたキムさんは、欲は持たず、命運は
お大師様にまかせるという生き方に替ったのはなぜか、お聞きしました。

人生は不思議なものです。 
明日のこともわからない、私の人生は不思議なものであると想っています。
1995年に徳島で舞踊公演があった 宿泊場所がこのお寺でした。
歓迎パーティーがあり、挨拶に行ったが、住職は怖い、暴力世界の人だと思いました。(坊主でピンクのシャツを着ていてホテルでの挨拶で)
寺に挨拶に行った時は、目が生き生きとしていて、オーラを感じた、一目で惚れてしまった。
数カ月して、結婚しませんかといわれた、圧倒されて「はい」と言ってしまった。
私を育てた師匠たちが、日本人に嫁に行くなと、反対されて、辛かった。
住職の人柄に惚れてしまった。 
人生は私におまかせください、大事に大事に大切にしますと、これだけは約束しますと云ってくれて、師匠たちは納得してくれた。
母はお前が選んだことならOKといつも信じていてくれた。
父は日本生まれだったので、日本人は正直で働きもので、特に住職だから、おまえは幸せになれると云ってくれた。

高校が商業高校だった 3年生の時から、ソウルに行って勉強したいと思っていた。
芸術系の短期大学に進む。 学費は親のことが心配で、一人で解決したいと思ってアルバイトをした。
射撃を選ぶと奨学金をもらえるので、そして舞踊を勉強してレッスンを行った。
結婚して幸せでした。  
日本語ができない、風習が違う、お寺のしきたりが判らないので心配したが、何もしなくていいと云われて、舞踊は毎日毎日練習して、そして公演活動を支援すると、云ってくれた。
住職は少林寺拳法を子供たちに教えていたので、そこのけいこ場を舞踊のけいこ場にしてくれた。
生徒が入ってこなければと、自分が生徒の第一号になってくれた。
全面的にバックアップしてくれた。  結婚して2年目に健康な男の子を生んだ。
私が40歳、住職が58歳のときで、子供を見るときの住職の顔は仏様でした。
高齢出産なので大変でした。 帝王切開を希望したが、自然分娩が良いと、母の気持ちを感じてほしいと、住職は云ってくれた。
自然分娩をして、母親になった喜びを感じ、涙が出てきた。

2007年4月 子供が学校から帰ってきて、宿題をしていて、いきなり住職が、こんな利口な子を産んでくれてありがとう と言って、私にそろそろ日本語を勉強して、日本の僧侶資格を取った方がいいなと言ったが、お断りした。日本語を読めない、書けない人が僧侶になれるわけがない) 
2時間後、晩御飯を呼びに行ったら 脳梗塞で倒れていた。
入院して3週間後 住職に子供と一緒に声をかけた。 
病院に行ったときにすでに葬式を用意を考えた方がいいと、生きたとしても植物人間になってしまうと云われた。
子供が、植物人間になってもいいから生きてほしいと、言葉が判れば手を握ってほしいと 住職は全身麻痺で意識もない状態だったが、息子が生きてほしいお願いしますと泣き声で言ったら、跡がつくほど握ってくれた。
看護師さんは是は奇跡だと云ってくれた。
息子はお父さんとの約束を守りたい 大きくなって立派な住職になりたいと、見守ってください、この言葉が判るなら、この手を持ち上げてみてと云ったら、住職は3回高く持ち上げてくれた。
住職との約束ができたので、息子が、僕が成人になるまでお母さんがこのお寺をなんとか守ってくださいと言った。

然し私は坊さんに成る気は無かった。
韓国に帰ろうと、住職が亡くなった晩から大変だったから、皆が、踊りばっかりやってきた癖に、女のくせに、外国人のくせにと 嫌になって韓国に帰るつもりだった。
長男が9歳  息子は韓国は大好きだけれども、お父さんとの約束を守りたいと云う。
一緒に仏の道に入ろうよと云ってくれて、あの時に息子のいう言葉ではないと思った。
息子を通して、住職が私に知らせる伝言だと感じた。
坊さんになろうと決意した。
最初はひらがな、カタカナ それは直ぐに覚えられた。  日本語の勉強が大変だった。
家族の愛があったから、力を出すことができた。
カセットテープがあったので、毎朝3時から起きて聞きながら勉強した。

僧侶資格取ってからも、大変だった。 
普通は耳で聞き、眼で見てだが、耳で見て、目で聞きながら勉強した。 
まずは身体に慣れるように。
住職になるに当たっては、いろいろ批判があった。 (女で住職かとか、外国人で住職かとか)
皆さまの尊敬しているお大師様の母も女です、 お釈迦様の母も女ですと。
私は強い母だから、頑張ってみます、どうぞ任せてくださいませんかと、一軒、一軒回った。
最初は国籍、女、踊りと、大変大変、信じてくれなかったけれども、今は、あなたは韓国舞踊第一人者なのだからこそ、お坊さんの仕事も出来るだろうと、認めてくれた。
昔、舞踊家の時は、欲が出てきて、欲張りで 38歳まで結婚も出来ないくらい、コンクールに出て大きな賞を頂きたい、人間国宝の後継者に指名されたいとか欲張りだった。
計画して、計画通りに頑張りました。

今、住職になって判りました。 
人生って計画した通りに出来ない、頑張っても出来ないものがある。
全部捨てること、欲を捨てること いい欲もあるが、自分が出世するための欲は、自分が判らないうちに人を傷つけてしまう事もあるでしょう。
今は、計画をしないこと 自然に運命を任せたい、お大師様に任せたい。
私にとっての神様は お大師様とうちの住職です。
舞踊をやっていたときは、毎日毎日鏡を見ていました。 鏡は自分しか見えない自己主義でした。
今は窓を見ています。 外が見えてきます。人の心が少しわかってきます。
世界で一番立派な言葉は日本語だと思います。(世界をほとんど回っています)
「有難う」の表現はどこの国でもあるが、日本語だけが立派な、立派な、愛の表現を持っています。
日本人は感じていないかもしれませんが、過去のことをお礼をいう言葉は日本語だけです。

家族には云わないので、有難うを目を合わせて、元気よく云ってあげると、皆が幸せになります。
11年間、住職は毎日私に「有難う」と云ってくれた声がずーっと毎日聞こえてました。 
「今日一日よろしく頼むなあ」とか、寝る前には、「今日一日幸せだったかい、有難う」と云ってくれた。
「結婚してくれて「有難う」」「子供を産んでくれて有難う」「ご飯作ってくれた有難う」
今 一番辛かったのは住職が亡くなって「有難う」を云ってくれる人がいないのはさびしい。
私は住職に対して申し訳ないのは、結婚して一度も「有難う」を云っていない。
反省をしています。 
写真を見ながら「住職さん有難う。 今日一日よろしくお願いします」 と毎日云っています。
お遍路さんが寄ってくる、接待する精神があるところであるので、日本だけではなく、世界に向かって布教するべきだと思います。

世界皆が、四国お遍路をやってみて、皆が云うのは 「有難いことを感じました」と 接待頂いて、頂いて、涙が出ましたと、有難いことを感じたと、言ってくださいます。
仏様は我慢できるくらいの、試練と不幸をくれると、いつも家の住職は云ってくれました。 
辛い時、悲しい時、寂しい時、大変といってもだれも助けてくれない。 
結局人生は楽しんだもの勝ちだと思います。
人生は必ず幸せになるように、できると思います、だから楽しんだもの勝ちなので、楽しみながら、前向きで自分をあまり傷つけずに、チャレンジな精神で頑張って乗り越えて、生き生きすることだけです。
今まで頑張った通りに、前向きで楽しむことを考えながら頑張りたい。
運命を自然に任せること、これで結構楽しくなって、最近住職の写真を笑顔で見て、「住職さん 今日もよろしくお願いします」というと「大丈夫、大丈夫 なんとかなる」 笑顔で楽しもうと、てっぺんを乗り越えます。































































2013年9月20日金曜日

国本武春(浪曲師)        ・甦れ、浪曲師広沢 虎造 2

国本武春(浪曲師)   甦れ、浪曲師広沢 虎造 2
国本さんは昭和35年に生まれる 両親ともに浪曲師、20歳のときに東屋幸楽に弟子入りし、若手のホープとして、期待を集めました
そして浪曲の修行に打ち込む傍ら、三味線を活かしたロックなど、洋楽の分野でも活躍してきました
2003年には文化庁による文化交流士としてアメリカ、テネシー州の大学に1年間留学し、学生のバンドに加わって全米各地で公演して三味線の魅力を伝えました

広沢虎三の凄いところ、 「一声、二節、三啖呵」 といわれるが、生の声がどこまで通せるか、声量が豊かな人でないと通らないので、声が良くないといけない
レコード、ラジオでも聞こえるようになったときに、水を得た魚のように広沢虎沢は、マイクロフォンの発達と同時に、活躍した  
声量は特に大きくはなかったが、特に啖呵がうまかった、又聞けば聞くほど、節回しが良かった
父も母も浪曲師で、祖父が好きで 2代虎沢の袢纏があるので、祖父が家に呼んだりしていたようだ
虎沢はそれほど、うならず、セリフになると軽いので、入りやすかった
天中軒雲月に父は師事した  私の師匠は東屋幸楽
雲月調、雲右衛門調、東屋楽燕調は比較的入りやすいが、虎沢はやればやるほど遠くなっちゃうようで難しい、聞いていて簡単で誰にも出来そうなのに、こんなに難しい浪曲は無いと思った
節とセリフとのバランス、間あい、節の抑揚の強弱の付け方等、簡単な割に奥の深い先生です

お涙ちょうだい、のやらない様な先生なのに、お涙ちょうだいの旨い先生はいない
畳み込む様な、歯切れの良さが際立つ  まねしようと思ってやるほど出来ない
父は天中軒龍月 母は国本晴美 父は40代で亡くなる 母は現役でやっている(60年以上)
20歳のときに東屋幸楽師匠にいく  師匠の奥さんが東屋美佐子で三味線の名人
高校時代に民謡ブームがあって、バンドの連中と三味線を習い始めた
卒業後東屋美佐子氏のところに通っていたが、自分でもうなりたいと言ったら、東屋幸楽師匠からこれを勉強しなさいと言われて、その後20歳で入門した(20年ぶりの新人だった)
古典浪曲は全然下火のときで、親も心配したが、やるしかないと思ってやってきた

1組3人(浪曲師、三味線、後見)でやっているが、弟子がいないので、いろんな人のカバン持ち(後見)をさしてもらったが、それが今では宝になっている
芸風、様々 朝から晩まで浪曲の世界だった
一心同体なんですね 演者と三味線が 見ていて感動的、涙が出てくる 
中学ごろから、洋楽 バンドを組んでやっていたが、浪曲師になって止めようと思っていた
お客さんが60~80歳代の人たちだった 
お客さんが高齢なので、この人たちがいなくなったら、どうなるんだ、誰が私の浪曲を聞くんだと
不安になって、もっと若い人が集まっているところで、浪曲の要素をもって出ていかなくてはいけないと思って、三味線を弾きながら、ロック調でライブハウスで出演するようになった
若者に結構受けた

40代になって、アメリカに1年間留学する  
ミュージカルの仕事を頂いて、アメリカでやって最後は全員がスタンディングオベーションだった
舞台で何ができるか、考えているときに、三味線一丁 持って行って、アメリカの文化を吸収してこようと思った 20歳代の学生とバンドを組んで、演奏会をやったりした
拍手の切れ間を探してしゃべろうと思っていたら、しゃべり始めると、さーっと拍手が切れる
拍手はしたいが、聞くこともしたいという姿勢が凄かった
日本のお客さんももっと、自己主張してもいいのではないか

最近は浪曲も若い人の中で、見直されつつある
落語、講談、浪曲があるが  声、節は浪曲の特権 出来たときの楽しさはあると思う
浪花節は人生を感じる 思いやり、義理、人情は日本人が持ってきた美徳みたいなもの
女性が浪曲の世界にも増えてきた 7:3で女性の方が多い 
歌う部分があるので女性に向いている
三味線は日本人の会話の間合い、人生のサイクルに合っているのではないかと思う
川の流れ、風、雪になったり、というような情景描写を三味線は伝えてくれる
浪曲はフリーなところがあって、日本人が生活をして生きている限り、必ずどこか、毛細血管のどっかに浪曲の血が流れていると信じているので、もう少し広いところに引っ張り出すタイミングを作りたいと思っている


 




























2013年9月19日木曜日

山田二郎(虎造の次男)      ・甦れ、浪曲師広沢 虎造

山田二郎(虎造の次男 虎造節保存会名誉会長) 甦れ、浪曲師広沢 虎造
広沢 虎造 昭和10年代から40年代 にかけて、浪花節、浪曲は、落語や講談をはるかにしのぐ人気でした
中でも次郎長伝、石松三十石船道中記等 「江戸っ子だってねー 神田の生れよ  酒飲みねえ寿司食いねえ 馬鹿は死ななきゃ治らない」など 誰一人知らぬ者がいないほどの流行語になりました
人気絶頂の虎造も、脳溢血で倒れ、リハリビの甲斐もなく、昭和39年世を去りました
今年で50回忌を迎えます
山田二郎さんは昭和11年 早稲田大学卒後、スポーツアナウンサーとして活躍、6年前から虎造節浪曲コンクールを主催、今年12月25日 浅草の木馬亭で歴代の優勝者に依る広沢 虎造50回忌名人大会を開催する予定です

名調子、子供のころに聞いたのがそのまま残っている
親父の浪曲、節もそうですが、語りがうまい印象が残っている
啖呵読みの虎造といわれていた  啖呵が50% 節が50%だった  他の方は節が70%だった
江戸っ子で芝の生れ 東京で浪花節の師匠のところに行ったが、玄関払いを掛けられてしまった
(弟子が多くて、)
大阪で兄が電気屋をやっていて、大阪に行く 友達に紹介され、広沢館(浪曲専門の寄席) 広沢虎吉二行くことになる
たまたま前座が病気になり、やってくれと言われてやったのが、気にいられた

関東、関西は三味線の調子が違う(関東は高い)、節周り、読み物も違う
寅吉が亡くなって、初代虎造が寅吉を継いで、虎造をもらった
広沢は関東では知られていなくて、名を広めて来いと言われて、関東に戻ってきた
関西節を取り入れて、独自の物を作りたい、と思って作ったのが虎造節といわれる独特な節回しになった
見こまれて、山田さんという興行師のところに、養子に入る
結婚した奥さんが(芸名、みや子)は虎造さんの合い三味線を担当することになる
昭和11年 山田二郎 私は 虎造さんの次男として生れる
もう浪曲界のスターだった 子煩悩だった    父は野球、落語が好きだった
スポーツアナウンサーを目指すことになったのは、親父のおかげだった
当時、浪曲は落語や講談よりもはるかに人気があった

明治大学に浪曲部があって、そこの顧問になる その時の生徒が島岡さん(ラクビー)松木謙治郎(野球)、等がいた
大学生にファンがいたほど、人気が高かった
戦後、人気が衰えずドンドン高まってくる 
昭和25年にはアメリカに公演に行って大好評だった(ハワイ、サンフランシスコ、ニューヨーク、シカゴ)
(日系の方が外国にいたので要望があった様だ) 翌年ブラジルにも行く
昭和26年民放が開局して、虎造アワーができ(水曜日8時)、好評で虎造が倒れるまで続く
民放ラジオが人気投票をやったら、美空ひばりさんを抑えて虎造が1位になったことがある
当時他に人気のあった人 寿々木代米若 玉川勝太郎 伊丹秀子 天津羽衣 二葉百合子
天津羽衣さんは三味線以外に初めて違った楽器を使ったが、周りから非難されて、虎造節で自分も非難された経験があったので、虎造が面倒を見ることになる

三波 春夫村田英雄等が出てくる
村田英雄の父親と親交があり、村田英雄の世に出るきっかけになった
父が掛けている眼鏡は伊達眼鏡だった 
ソフトをかぶり、ステッキをついて歩いていて、お洒落だった
女性にもてた  大阪にも愛人がいた
私が高校1年の時、姉と共に甲子園に行き、泊り場所に姉が連れて行ったのが、愛人宅だった
春休みになると、大阪に行き泊ったりしていた  母親も愛人がいることは知っていた
如歳ない人で私も親しくなってしまった
三宮 映画館で昼間は映画 夜は虎造の独演会だった そこに行ったが、3階まであったが、人がびっしりで吃驚した  入りきれないので舞台にも座っていた(人気の高さに吃驚)

清水次郎長伝は18番 
もともとは講談ものだったが、面白いという事で取り入れる(シリーズにする)
清水次郎長伝のなかでも、「三十石船 道中記」 懇談の内容を膨らませて、最も有名になる
語りが軽くて、面白い要素がたくさんあったのが、第一人者でいられた原因ではないでしょうか

山田二郎さんは早稲田大学を卒業後、NHKのアナウンサーになるが TBSに行くことになる
スポーツ中継を中心に活躍することになる 木村誠順の様なアナウンサーになりたかった
父は昭和36年に2度目の脳溢血で、言語障害になってしまったので、舞台には立つことができなかった
昭和37年に引退 引退興行をする  終わってから、これからどうしたら良いんだと、生き甲斐が無くなってしまって、急激に衰えて、昭和39年12月29日に亡くなる
その頃から浪曲界が衰退してくる(全盛期を支えた来た他の人たちも亡くなってくる)
若い人たちは、浪曲を聞いていない 1回でもいいから聞いてほしいと思う
虎造節保存会名誉会長を現在やっている  
最初やる人はいないだろうと思っていて、第一回コンクールをやってみたら14人参加 (テープ審査で絞って14人にした)
現在チャンピオンが4人いる 12月25日に 寅造50回忌という事で、浅草 木馬亭で行う事になる





























  














2013年9月18日水曜日

神直子(代表)          ・加害者の”痛み”を知ることで被害者と向き合える

神直子(NPO法人ブリッジフォーピース代表)加害者の”痛み”を知ることで被害者と向き合える
戦時中、フィリピンでは日本軍によって多くの人の命が奪われました
神さんはそのフィルピンへ元日本兵の現在の想いを、届ける活動を続けていらっしゃいます
戦争の被害者と加害者 双方と向き合う神さんに、お聞きしました

戦争体験された兵士の方がたからお話を伺って、ビデオに収録する、という活動をしています
もともとは、戦争体験者のメッセージを被害を受けたフィリピンにの方に届けるという活動から始まったのですが、映像を日本国内でもみたいと、いう方がたくさんいらっしゃいましたので、日本でも上映する、その上映とメッセージ記録の2つ、活動している団体です
大学生になった時に、ある先生が、戦争の傷跡を知るためのフィリピンへの体験学習をやっているというの聞いて、私も過去の戦争を感じてみたいというのがありまして、参加したのが2000年2月、3月のことでした  戦争被害者の方たちと出会う旅だった
過去を事前学習していたが、実際に被害者を目の前にするという事は、本当に大きな差があって、或るおばあさんから、日本人など見たくなかったのになんで来たんだと、涙ながらに訴えたのが、大きな一つのきっかけです

スパイ容疑で旦那さんが連行されて、それ以来遺骨も戻って来ていなければ、何があったのかも判らず、ずーっと苦しみを抱えていた女性だった  どうしていいかわからなかった
新潟県のおじや市の極楽寺、住職と話しをする機会があって、元日本兵だった人が中国での戦争体験への懺悔の気持ちを語っていたことを知り、フィリピンのおばあさんの顔がよみがえって、日本国内でも戦争の苦しみを心に何かを溜めたままいる元兵隊だった人が、沢山いらっしゃるのではないかと思い、そういう気持ちをフィリピンの人は全然知らないと思って、こういう兵士の方もいらっしゃるので、あのおばあさんに是非届けたいと思った(社会人成って3~4年経って)

元日本兵の話を聞こうと、2004年に、ブリッジフォーピースを一人で立ち上げる
最初は、インターネット、友達に話したりして、ぽつぽつ連絡をもらえるようになった
最初は理解してもらえず苦労したが、兎に角伝えることが念頭に在ったので、フィリピンに派兵された元兵士の方を探してまわって歩いた
今、フィリピンに伝えることがあるかどうか聞いて回った
現地の方の食べ物を取ったり、ある村へ行ったらおばあさんが残っていて、叫んだので銃剣で刺して殺したとか、この方これ以上話したくないかと思った時には、あまり突っ込まずに話を聞いていました
撮影、インタビュー、編集を全て一人で、仕事を持ちながらやってきた
直接話を聞いてしまったことが大きい 自分が一番辛かった時の話を涙ながらに、していただいたことが心に一番深く残っていて、その方たちに対して、戦後世代として出来ることがあれば、兵士のかたの想いを届けることではないかと思った、それを兎に角やるんだという気持ちだったと思います

市役所の方から協力してもらって、地域の方に集まって頂いて、見てもらったりした
あのおばあさんには、ご自宅に伺って、見てもらった(5年後)
見てる最中から涙を流す人がいたり、憲兵が出てきたときには、是が憲兵かとざわつく場面があった(全体的には温かく見守って、いただいたと思う
戦争時の顔ではなく、何十年も経っていて、おじいさんの顔なので、こんなに優しい顔なんだねと、言ったりしていた
立場が逆だったら、加害者となって、同じようなことをしていたかもと言って呉れたりした
「戦争がいけないんだよね」と話せたのが良かった
戦後世代がこのように動いていることが、評価してもらった
一度で終わりにするつもりであったが、毎年でもこういう映像だったら見たいので、持ってきてくれと言われて、逆に止められなくなって継続している

継続することに何がしかの、意味があるだろうと細々ではあるが続けた
100人以上の元日本兵の方、フィリピンで被害を受けた方、ご遺族に話を伺った
どのように連行されたり、殺されてしまったり、具体的な話を聞いている
ルソン島南部の事件 生活用水として使っていた井戸に銃剣で刺して、そのまま突き落とされて、いまだにそのままになっているとか、強姦に遭ったこともありました
フィリピンの証言を聞くのは辛いことではありますが、できる限り、伺うようにしています

何人かの方から、食糧を奪う事はいろいろ聞いたり、スパイ容疑をかけて殺してしまったという事を話てくれた人もいました
戦争さえなければ、こんな優しそうなおじいさんが、そんなことをしなくて済んだのに、と思って
戦争になったらどういう事になるのかを、皆さん具体的に話してくださったので、本当に貴重な財産を頂いたと思います
地獄で起きた事は、地獄でしかできないと言って、おれは絶対話さないからなといった人もいた
戦時中は青春時代であった、楽しいものであってほしかったが、兵士となって人をあやめてしまったという事を認めたくないとおっしゃった人もいた
自分を弁護したいような表現をされたり、命令だから仕方なかったという事を話す人が多い
しかし、自分が実行犯だったと言う人もいる
深いところにとげのように残ってしまっていて、何か事があると、出てくるし、仕方がないといいつつも、自分は実行犯だったと、気持ちの折り合いを付けるのが非常に難しいと思う

加害者、被害者と簡単に割り切れない
兵士の方が加害者であったことは間違いないんだけれども、彼らも苦労していることを、被害国の人にも知ってほしいと思う
フィリピンの方々の受けた痛みを知っているので、日本兵がどんなに大変だったかをつたえる訳にはいかないが、日本人として、どうしてそうなってしまったのかという意味では、背景的なところを含めて伝えたいと思う

根本には、戦後世代が戦争責任を考える困難さが大きいと思う、世代として違うという事からもあるが、外から見たら同じ日本人だという見方で わかれちゃうというところで、 自分たちの立ち位置すら見定められないのが現在の状況だと思う
ヒントが直接聞くという事ではないか
私は最初日本兵の気持ちは知らなかったが、日本人として、という事を深めたかった
元兵士の苦悩、痛みというのは、日本人を深めると言いう事では欠かせない作業なのか?
聞いたことによって、共感が深まった、距離が縮まった
やらなければいけないことは、過去に何があったという事を全く知らないまま、他の国と向き合ってはいけないと思う、これは大前提だと思う

情報がすくないと、お互いのことを違う目で見てしまったりするが、踏み込んで腹を割って話せば判らないことは無いというか、日本人に不信感があっても、回数を重ねることで信頼していただける事もあるし、交流してきてよかったと思います
2年前から中国、韓国とも始める
歴史的な隔たりがあれば、向き合いたいと思った
未来志向で、高校生、大学生と交流をするという事を一番の柱にして進めている
7月19日~25日韓国訪問 6名でゆく
現地で国際会議開催 20カ国集まる 「ブリッジフォーピース」も発表する
韓国人、私たち6名と1対1で話し合う時間があった
韓国での歴史授業以外に近現代史の授業がある 歴史の見方が当然違ってくるだろうと思った
日本のことをもっと伝えていかなければいけないと思った
教えられてない部分があることを、理解してもらえないことがある

人間が生み出した溝は、解決できるのは人と人の交流しかないと思っている
相手のことを知らないと偏見だったり、意地悪な目で見てしまう
相手のたちばに立って考えたり、相手の国のことを考えたり、できるだけ歩み寄れる様な関係、対話が大事だと思っています











































































2013年9月17日火曜日

高遠菜穂子(43歳)        ・イラクの現状を知っていますか 

高遠菜穂子(43歳)  イラクの現状を知っていますか 支援活動を続けて10年
北海道千歳市 イラク支援ボランティア 2004年イラクのファルージャでボランティアとして活動中に、自衛隊の派遣に反対する現地の武装勢力に人質としてつかまりました
日本国内では自己責任論のもと、激しいバッシングが起きましたが、高遠さんはその後もイラクの隣国ヨルダンに、拠点を置いてイラクの支援を続けています
10年にわたってイラクを見続けていた高遠さんに平和についての考えを伺います

ヨルダンから2カ月ぶりに北海道に帰国 
生れも育ちも自衛隊の駐屯地の近く 戦闘機、戦車を子供の頃から目にしていた
イラクに行ってバクダットで空爆の爆音を聞いた時、一瞬懐かしいと思った(千歳を思い出す)
懐かしいと思ったが、その直後に人は死んでいた
其時まで自分が生まれ育ってきた環境と一致しなかった 
人をあやめている音とは思いが至っていなかった
イラクに行く前はアフガニスタンに行くかどうか、迷っていた
ニューヨーク同時多発テロの後にアフガニスタンを攻撃 、あまりにもおびただしい地雷が埋まっている(数百万個) 一度戦争を始めてしまったら、負の遺産は終わらないのだと、カンボジアで思い知って、カンボジアから一時帰国で見たアフガニスタンのニュースがアメリカ軍の攻撃で、アフガニスタンで地雷撤去をしていたNGOスタッフの人が亡くなったという、ニュースだった

想像して怖くなってしまった アフガニスタンに救援に行けばいいのではと思ったが、怖くて決心ができなかったが、そうこうしているうちにアメリカがアフガニスタンにからイラクに移った
小泉首相がアメリカのイラク攻撃を支持するとの発表があった
イラク攻撃が自分の戦争になった(これはお前の戦争だと突きつけられた様に思った)
イラクに行くべきだと思った 
拘束されて、最初の3日間は目隠しされて、スパイ容疑 日本の自衛隊のスパイのように言われていた
何故日本人が加担するのかと、スパイ容疑 盛んに関係ないといった
すこしずつ相手に納得してもらう様に、必死で説得した  
我々のやっていることは人道支援活動だと、具体的に支援の活動について説明した
釈放すると言ってから、なかなか解放してくれない
武装した人がアメリカは酷い、残虐だと、私の乳飲み子を殺したと、しかしあなたがやっていることは何だと、あなたがやっていることも同じではないかと、私の家族はどうなんだと、あなたが今私にやっていることは、あなたがアメリカ軍にやられたことと同じではないかと、それでは同情も応援、サポートを得られるはずがないと言った
ほかの方法を取ってほしいといった
武装して抵抗するしかないと言ってた人が私の手伝いを半信半疑でおこなっていたが、医者がこれで医療行為ができるとか、人を死なさないで済んだと言われて、そういう状況を踏まえて、武器を持っていても人を守れない、武器を持っていたら人を助けられないといった

そういった心境の変化について、私を拘束している人に話してやった
じっと見て涙をにじませながら、僕たち友達になれるだろうか、と言ってきた
友達だと思っているから言ったんですと言った  私の言っていることを理解してくれた
帰国後激しいバッシングを受ける 帰ってから4か月寝ていた 
正直、イラクの武装した人たちには殺されないで、日本で殺されたという感じだった
兎に角それが辛かった 言葉が通じて、自分の国でどうして話を聞いてくれないのだろうかと思った、全然かけ離れてイメージを語られて、苦しかった
どっちを向いても話が通じない様な感じで、5年かかった

脅迫状とかが来ている  見ないようにしていたが、2通たまたま見てしまった 
私のへの脅迫ではなく、私の兄弟への脅迫だった「天誅」と書いてあった
私が殺されていれば、家族にこんな脅迫は無くて、私はイラクで殺されれば良かったと思って
家の中でパニックになって「殺されれば良かった」と叫んだ
母親に頬を叩かれて、「いつまで寝込んでいるつもりだ」「さっさと起き上がって、イラク人に会いに行って来い」といわれた  
「イラク支援を止めるなんて、私が許さないよ」といわれて、その一言ではっと目が覚めた
ヨルダンに行く 友達が6~7人来た
その人たちから、
目と耳だけでなくて、身体でイラク人の苦しみを知ったねと、君はもうイラク人だと言われた

あの事件で更に思ったのは、時間が経つに従ってより鮮明に思ってきてることは、何かというと
後から気付いたんですが、私は誘拐犯たちに言ってたことは、それって憲法9条を訴えていたなと、後でそう思った
どうやったら解決できるのか、こういうやり方はうまく行かない(武力でなんとか解決しよう)
と言っていた
今は医療支援に力を入れている(平和構築を意識している)
先天異常に力を入れている サルージャは猛攻撃を受けてきた場所
今、2006年、2007年あたりから現場の医師が肌で感じるぐらいのレベルで、激増している
先天性欠損症 重度な欠損症がおおい  頭と同じぐらいのこぶがある 脳瑠 水頭症
無脳症 脳のダメージが多い  口唇口蓋裂 唇が裂けている
2009年からデータ 3年間 1000人以上の先天異常がある 14.4%の発症率
1991年の湾岸戦争の後から言われるようになったが、アメリカ軍は使用している劣化ウラン弾に依る内部被爆が原因ではないかといわれている

今の段階では、アメリカは特に影響が無いとずーっと言っている
調査、論文、国際会議で訴えたが、
サミラ医師の言葉 何度も国際社会のドアーをノックしているのだが、誰も返事をしてくれない
イラク人では出来ない私に出来る事があるのではないかと、思った
データを取って、東京ベースの国際人権団体と協力して、事実調査報告書を出した
日々の出産データ、出産数、死産の数、流産の数 その他異常出産 SRPS 骨が未発達で四肢が極端に短い (4人とも死産)

発表したら、あちこちから反響があった
イタリアのNGOからイタリア版を出してほしいとか、国連から問い合わせが来たり、協力してくれるための問い合わせ等 
平和のために大事にしなければいけないこと  平和憲法ではないでしょうか
ただの文言ではないとイラクに行って、すごく学んだし、知ったし、日々思っている
残虐行為は命令に従ってやっている 
アメリカに帰ると家庭に入るが、折り合いがつかずPTSD激しいトラウマで、眠れない、悪い夢を見る、自殺 苦しむ
悲惨な姿を見ていたら、日本の平和憲法をアメリカにあげたいと思ってしまう
広めてゆく方が日本人としての役割としてはあると思う
千歳、駐屯地の風景 迷彩服 演習の音 実践になった時の違い 失われた命 戻らない身体
傷ついて自らの命を立ってしまったアメリカの若い兵隊   
日本の若い世代に同じ体験をしてほしいとは全く思わない
平和に向かって実現するためにやるんだというのが希望なんじゃないかと思います


































2013年9月16日月曜日

志藤洋子(日本事務局長)      ・高齢者を社会の担い手に

志藤洋子(国際長寿センター日本事務局長)  高齢者を社会の担い手に
国際長寿センターはアメリカの著名な老年学者ロバートバトラー博士に依って、1990年アメリカと日本で設立されました
現在イギリス、フランスなど世界14カ国に拠点を設けて、全ての人に、人権と尊厳が補償され、長生きを喜び、プロダクティブで生き甲斐のある人生を全うできる社会を確立することを目指して、
調査、研究と啓発活動を行っています
バトラー博士は高齢者は役割を終えた人という、考え方に強い異議を述べまして、これからは知恵と経験を持った高齢者こそ社会の担い手として活躍する社会を作ろうと提唱しました
志藤さんは1952年 新潟県の生れ 日本女子大学を卒業後、出版社で編集の仕事に携わり、高校の国語の教科書を製作していました
1992年発足したばかりの国際長寿センターの日本事務局に参加して、現在日本事務局長を務めています

現在、国際長寿センターは14カ国で活動していて、高齢化する社会の様々な課題を、学際的に研究したり、その結果を啓発、広報するという事で活動している団体です
バトラー博士は2010年にお亡くなりになりましたが、生涯をかけて訴えてこられたのは、高齢者というものは社会に役割を終えた、ある年齢まで行くと役に立たないという事で、高齢者を切り捨ててしまう社会だったわけです
そうではなくて、年齢が高い人は知恵と経験と様々いろんなものが財産としてあるので、社会の役に立てないことは大きな損失であると、高齢者の力を、高齢者の存在を社会に生かす、そういう社会を作ってゆくという事で団体を作った

世界的に見ても高齢化は進んでいる  先進国では高齢化は非常な勢いで進んでいる
個人が長生きができるようになる 長寿化
社会が高齢化する 高齢者の数が増えてくる 
子供の数が少なくなって、社会は高齢化する
途上国はまだ子供の数はおおい、高齢者は多いが、人口爆発が問題
高齢者に対する補償に莫大な費用がかかる
日本は戦後の高度成長と社会が高齢化する、個人が長生きができるようになったのが、ほぼ並行していたので、国に経済力があって、社会保障、年金、医療、介護に掛けるお金がある中で制度を整備できたので、今の日本の高齢者は長生きすることができるようにもなったし、暮らしもある程度のレベルを保つことができるが、途上国はそこが厳しい

どこの国も問題になりつつあることは事実です
日本は 超長寿最先進国 女性は86歳、男性79.9歳  
日本のいろいろな情報を世界に発進してゆくと同時に、世界の情報を頂きながら、日本のいろいろな問題を解決するためのアドバイスをしたり、情報を皆様にお伝えすることが、私たちの大事な仕事だと思っています
①医療保険制度、昔日本は国民全員が一枚の保険証で簡単に医療を受けるという時代ではな かったので、お金が無い方は病院に行くことができなかった
②年金制度を全員が受けられるようにした 
③介護保険制度を作った 
④虐待防止法、高齢者虐待防止法を持っているのは世界で3つしかない
4つ全部を持っている国は日本しかない     アメリカは皆医療保険ではない

客観的にみて、制度的に、これだけきちんと整備されている国はない
長生きは人類長年の夢  100歳以上が現在日本では5万人 大正初期時代 当時は平均寿命は40歳ぐらい  今100歳以上の人は親の倍以上も生きている
2050年には 100歳以上の方々は70万人になる
其方々に対する手当は大変なお金がかかるが、他の先進国も同じ
女性の寿命が長い 不安感がある
日本人は心配性のところはある  超高齢化社会は大きな変化を遂げる社会となると思われる
備えをしようと思っても今までの経験や知識を越えた備えをしなければならないという不安が皆さんの中に強くあるのではないかと思う

現在の人口は1億2000万人 2050年には9000万人ぐらいになる 
1955年 昭和30年ぐらいの人口と同じになる
国の平均年齢 そのの国の一番多い年齢層 1955年 24歳でした 2055年は53歳になっている
4人が高齢者 5人が働き盛り 1人が子供 の世界となる
どうして行かなければいけないか、国、個人も考えていかなくてはいけない
家族、世帯構成が大きな変化をする 
昭和30年代 3世代同居、4世代同居 だったが、夫婦世帯、独居世帯から 高齢者が一人で暮らす、暮らし方が当たり前の暮らし方になる
日本は今、独居率は23% アメリカは45% フランス、イギリスは50%を超えている

これから日本は独居率は増えてくる
「老いては子に従え」という言葉がありが、御隠居さんといわれるような身分になれるから、こういう諺があったわけで、働き盛りの人に守られて、生きてゆく、そういう高齢者像が、大きく変えていかなければならないと言う方向になってゆくんではないか
自分の暮らしを自分で決めてゆく  
今の65歳の人 男女ともに90歳代を迎えることが判っている方
定年退職した後に、どこで、誰と、どうやって、暮らしながら、どういう風に歳をとってゆくか、自分で決める、人生設計力を付けていかなければならない

今後、20年以上生きることになる 其人生をどうやって充実させていくか、どのように活用するかに在る
長生きしても、生きているだけでは、人生とは言えないので、人生を充実させるためには、65歳以降の自分の人生をどうやって生きていくかを考えていかなければならない、そういう時代を迎えている
お金を準備をすればそれで幸せかというと、そうじゃないと思う
人というのは誰かに必要とされる存在でありたい、という気持ちというのは変わらずに、若くても、中年でも、歳をとっても大事なことだと思う
特に高齢になると、リタイアを強いられるが、そのあとに自分の人生は、誰かにかかわりながら、誰かの役に立つ、社会の役に立つというような役割を、果たしてゆくという事を自分自身の大事な人生の一つのポイントとして考えるのが、とても重要なことだと思っている

NPOとかボランティアとか、いろいろな形で社会とかかわってゆく事が、出来るようになっている
自分自身が人とつながってゆく努力を、自分自身でしていかなければいけないと思う
女性は地域の中で、ネットワークを作ることができやすい
男性は、特に定年退職後、戻ってきたら、地域の中に自分の居る場所が無いとか、誰とも御縁が無いとかが生まれる
そこから新しい人間関係を作ってゆくのは難しい
昔の仕事仲間、高校、大学時代の仲間、 自分という人間が何か関わりを持って、そこからいろいろな情報を得たり、発信したり、することで社会と繋がってゆく努力は自身でしていかないといけない

会社の肩書や、名刺で仕事ができる時代は、第一ステージとしては終わっているので、つぎのステージは自分の人間力全部を使って、新しいネットワーク繋がりを作って行くのが大事だと思う
67歳で止めた方が地域とは全く結びつきなが無かったが、地域の子供さんを自宅に呼んで、地域の方々との結びつきができた人がいた(「明日への言葉」で紹介された)
子供や孫に囲まれて、老いて死んでゆくことが理想のように思ってきたが、どうもそうではない
理想がかなわないから、不幸だとか、みじめだとか思うのは止めましょうということが一つ
段々体が弱くなって、生きてゆくときに、子供や孫と一緒に暮らして、その人たちに面倒を見てもらえるから幸せ、そうでないと不幸、という考え方を持っていると、ドンドン自分で自分を不幸にしてゆくので、発想を変える
血縁だけではない繋がりの中で、人が生きてゆくことだって、十分なるわけで、新しい暮らし方をいろんな方が自分なりに作ろうとしている

終活  財産、遺産、墓、とかを考えていて、エンディングノートを作るとか、いろいろ取り組んでいたりしているが、実は亡くなる前の医療、病気になった時にどういう医療を受けて、どんなふうに自分のお終い方をするのかを考えるという、そこが少し抜けていると思います
その人が尊厳を以って自分の望むような終わり方ができているのか、ということに疑問がでてきていることが報道で言われてきている
昔家で亡くなることが普通だったが、昭和20年30年代 85%  今は病院で亡くなる方が85%
亡くなるところは病院となってしまって、本当にそれでいいのかどうか、問い直されている
病院は医療する場、死は敗北なわけで  兎に角医者は生かそうと努力する
特に高齢者にとっては、生かされることが幸せか 考え直そうとしているのではないか、と思う

自分がどういう選択をするのか、どういう風に旅立つのか、考える必要がある
自分自身の人生を、自分で決めて、自分で責任を持って生きてゆくという、そういう時代になってきている、そういう事を自覚して、自分も社会の一員だとして、社会にかかわりながら、社会に責任を持ちながら、生きてゆく一人だという、そういう自覚を持たないといけないと思う
自立して、自覚して、自分で自己決定するという、生き方が必要な時代を迎えている
日本は物凄い勢いで長生きをできるようになってきた国、だから速いんです
これだけ現実が変わっているのに、意識がそれに追いついていない
ヨーロッパはすこしずつ変わってきているので、高齢者であっても自立して、自分の暮らしを自分で営む、それが大前提としてあって、そのうえに互助、共助、お互いさまで近所同士で助け合ったり、国の医療を受けたり、先ずは自分で決めて生きてゆくという、そういう考え方がヨーロッパでは当たり前になってきている

日本では意識はヨーロッパには追い付いていないと思う
65歳の成りたての高齢者 と80歳ぐらいは分けて考えてみる必要があると思う
80歳代、或る意味で非常に面白い時代を生きてきた方々だと思う
お風呂を沸かすにも薪だったり、戦争もあったし、大変な苦労をしてきた、高度成長を現役として体験してきた方、ダイナミックに替るのを経験できた方々は孫などに是非伝えてもらいたい
高齢者なりたての方、戦後民主主義の中で教育を受けてきているので、自分で考え、自分で決めて、責任を自分で取るという事を小さいころから訓練されてきているわけだから、自分で決めて生きていきたいよと思う方がたなんじゃないかと思います

団塊の世代 世の中を変えていきたいと学生のころにいろんなことをしてきた方々
もう一度熱い心を持つ人が沢山いると思うので、経験と知恵を加えて新しいやり方でこれからの日本をもっと生き生きと豊かな質、が求められているので、その先頭に立って頂きたい
真の豊かさとは何なのか 一緒に考えてゆく 高度成長で失われたのは何だったのか
もう一度考え直して、今の日本を良くするために、作り上げてゆくためにはどうしたらいいのか、
団塊の世代の人には、行動を起こしていただきたい
日本がどうかじ取りをしてゆくのか、世界が注目している
ボランティアの力を借りて介護をするとか、現実に取り入れつつある
長生きすることがこんなに幸せですよと、いう事を世界に見せてゆく義務があるのではないかと思っている
それを叶えるには、一人一人の自覚と努力だと思っています

 
















































































































2013年9月15日日曜日

吉井澄雄(舞台照明家)      ・舞台を照らし続けて

吉井澄雄(舞台照明家)       舞台を照らし続けて
昭和8年 東京生まれ 昭和28年劇団四季の創立に参加し、舞台の照明デザインを担当しました
以来、60年間演劇、オペラ、ミュージカル、舞踊と幅広い分野で照明家として活躍しています
照明だけでなく、日本の劇場の技術設備全般のレベルアップを志して、建築コンサルタントとし
て、日生劇場、新国立劇場など多くの劇場の計画から参加しています

浅利慶太さんの 劇団四季のハムレットの照明 福岡博多座では市川猿翁さんの
「やまとたける」の照明を担当
ハムレット 初演 1968年 大変な時間が経っている 大変なことをしたと思う
初日 お客さんと一緒に見る 
何回もやっている公演は事件は起きないので、お客さんと同じような気持ちで見ている
修正することはほとんどない、微妙に変化することはあるが
俳優によって照明の在り方が変わる
演劇との出会いは、東京都石神井高校 フランス語とドイツ語を第二外国語として選択しなくてはいけなかった
ドイツ語は実用的なので多くが選択したが (6クラス)、フランス語は少なく1クラスで10名程度しかいなかった、そして段々減ってきて3人になってしまった
3人は劇団四季の俳優で入った水島弘、国立音大の学長になった海老沢敏、と私

第二外国語で受験した方が優しいとの風説があり、フランス語を勉強した
芸術一般についての扉を水島宏が教えてくれた 
新宿の映画館にフランスの名映画を見に行くことを誘ってくれたのも、ピアノも教えてくれたのも水島だった   恩人だと思う
水島と一緒に劇団 石神井高校で 方舟という劇団 がありまして、一緒に方舟に入った
スタートは俳優だったが、全く才能が無いと判った(水島と比べて)
演劇で参加できる物は、照明しかないと周りからも言われて、旨く乗っけられたという感じだった
当時、加藤道夫 慶応高校の先生をしていた「なよたけ」の作者、フランス文学者 
加藤さんに、慶応高校の浅利を中心にするグル―プと、石神井高校の方舟が加藤さんに師事していた
合同して芝居をやりたいという事があって、一緒に集まったことがあった
慶応からは 浅利慶太、日下武史林光有賀二郎藤本久徳の5人だったと思う
石神井の方は頭はいがぐりで、着ている服は国民服みたいな服で、慶応は皆髪の毛を長くしていて、恰好が良かった

劇団四季の創立に参加する 昭和29年に本格的に照明家としてデビューする
当時の劇場、照明器具は酷いものだった
自分でやりたいことができる様な状態、状況ではなかった 照明の立場はほとんどなかった
劇場はノーと言えない、ノーと言える劇場を作ろうと思った
照明のためのリハーサルなど無かったので、随分戦った
日生劇場で自分がやりたい事 貧弱なスポットライトを新規にするとか、照明の機械を誰にでもできるようにするとか、照明のリハーサルをきちんとする、舞台裏の因習的な在り方をなんとか改革して、技術部を初めて作った(舞台裏のいろんなセクションを纏めてつくった)
劇場が立つ前から参加しないと、無理  テクニカルな部分の発言をバックアップしてくれる立場の人がいないと駄目  浅利慶太、石原慎太郎が全面的にバックアップしてくれたので出来た

ドイツオペラの舞台美術に対する考え方、作品作りの誠実さ、緻密さに本当に教えられた
当時考えられない巨大な柱が3本、4本両脇に在り 11mぐらいの高さ 組み立てる
組み立て分解が大変だったので、30cm切ってしまったが、それが客席からだと、僅かに見られたくないところが見えてしまうので、(日本では何ら問題ない状況)駄目だという事で作りなおす羽目になった
舞台装置は日本で作ったが、それ以外はのあらゆるセクションがきた(医者までも来た)
演劇スケールが全く違った 妥協を許さなかった
ノーとは言わない、そのことが、その後の私たちの舞台作りに大きな影響を与えた
歌舞伎 黒は見えないことになっている(黒子含め) つじつまが合わないところは黒で占めていたが、彼らが作り上げた舞台には黒が無い

光と音楽との結びつき、ドラマとの結びつき、目の前に本当に素晴らしい形で見せてくれた
総合芸術といわれるが さまざまなセクションの様々な仕事が本当に一つになった時が初めて感動が生まれるものだと思う
一番うれしいのは、俳優さんに光を感じてもらた時が、一番嬉しい
越路吹雪さん リサイタルをやっていたが、僕が作った光、ここに越路さんが来てくれればいいなあと思ったところに、何にも云わないのに、いつの間にか来る、光に対する感性を持っていた
イギリスでの舞台でも、ある女優のほほに当たる光景があるが、穴からのあたっている光が女優のほほに当たる光のスポットをいろいろ工夫してやり、照明をしていてよかったと思う

越路さんへの照明  言葉に合わせて、ぱっと変わる光ではなく、人、音楽、に溶け込むような照明を越路さんの時に作ることができた 
物凄く時間がかかるが、トライ&エラーで何日か、照明合わせに徹夜した
自分にもプラスになったし、照明に参加した人も判ってくれた
おそらくお客様には判らないかもしれないが、心に中には響いてくると思う
セリフの一言の想いを一緒に体感しながら、且つ、動きに随って照明が動いてゆく

蜷川の「ロミオとジュリエット」 光と動きが一緒になっていると、判らないが、ずれると判ってしまう
マリーアントワネットの最後の動作 客席に向かって差し出した手の先にスポットを当てる場面で
吉井さんあの光の中に手を入れた方がいいのか、入れないほうがいいかと聞かれた
どっちでもいいと、彼女が栄光を掴んだのか、つかまなかったかも知れないし、彼女が掴もうとした一つの栄光の象徴のつもりで言ったんで、神田さんの心を捉えたと思いましたよ
お互いに触発されて、言葉には出さないが、いい光景がより生み出される(以心伝心の繋がり)
友人に本当に恵まれたと思います
林光、松村禎三武満徹とか作曲家たちと付き合ってたのが、非常にプラスですね
音楽に対する感性を開いてくれた
最近、目立つような照明が多くなってきて、私は苦手ですね
















2013年9月14日土曜日

萩原雅美(39歳)        ・小児がん患者の闘病をささえたい 

萩原雅美(39歳)  小児がん患者の闘病をささえたい 
神戸市に完成した小児がん患者のための滞在施設の運営基金事務局長
今年の3月 神戸ポートアイランドの医療エリアに、チャイルドケモハウスが完成しました。
小児癌の子供が親や兄弟と一緒に生活しながら、治療ができる、日本でも初めての滞在型の施設です。
ケモ という名前は、科学療法を意味する、ケモセラピーにちなんで付けられました。
平屋建ての此の施設には、小さな庭をはさんで19の区画がありそれぞれにキッチンやが風呂があり、診療所も併設されています。
公益財団法人チャイルドケモサポート基金の事務局長の萩原さんは9年前当時、2歳半の次女を白血病で亡くしました。
感染を防ぐために多くの病院では、病室に兄弟や祖父母は入れません。
長女を母親に預け、長期間、狭くてプライバシーのない、大学病院の病室で次女と共に闘病生活を送りました。
其経験から家族が一緒に生活しながら、病気と向き合う事が出来る夢の病院を作りたいと医療関係者や家族らと活動を続けてきました。
年内にも患者の受け入れが始まる、チャイルドケモハウスにかける思いを伺いました。

部屋の広さ 60平米ぐらい 壁面一部が全部ガラス窓で外の景色が見える。
点滴台が子供が喜ぶくまさんがある 天窓がある。
寝ていること多いので、退屈するので、見ていて飽きない天井を作る。
家族が自由に暮らせる空間がある キッチン、ソファー、リビング、寝室が奥にある。
冷蔵庫、洗濯機、バスタブ等 一般家庭で暮らせる様な部屋 19室ある。
面白い形になっており、隣りの部屋と視線が合わない様な配慮がある。
廊下からはそれぞれが判るようになっている。
診療所が併設 24時間医者が滞在している。
外から入れるガラス扉がある 自分の家のように遅く入ってきても直接入れるような形になっている。  19軒の家があるような感じ。

小児病棟は窮屈 4畳半に子供が治療中にベットと簡易ベットをセットすると一杯になってしまうような空間しかなかった。
雑多に置かれた空間で勉強したり、食事、治療も、トイレもベットの上でするような環境だった。
平均、半年から1年 再発して又入る子もいるので、数年にわたることもある。
年間新規発症が2000~3000人 確率から言うと1万人に一人。
小児がんは原因が判らない。
さやかさん 発病が2000年秋 生後10カ月の時に夏風かなあと思っていたが、絨毯にぐったりして動かなくなってしまい、大きな病院にいって、血液検査をしてもらったら白血病と判明。
大学病院に移動したが、部屋に入った時のここで暮らせるのかなあと思うような、プライバシーが確保されず、生活空間とはとても思えない様なところだった。

一番最初は直ぐに抗癌剤の投与が始まって、元気を取り戻す。
骨髄移植 無事に成功して半年で治りましたという事で退院しました。
或る日突然 入院という事になって、一つの部屋の中で、24時間他人とカーテン一枚隔てて生活することになる。
普段家でしていることを制限しなくてはいけないことになる。
声を大きく出して、することもできない 付き添いも、なかなか取り乱したりすること、感情を抑えることが日常に在りました。  
簡易ベットは幅70cm 寝返りをうつことができないので、十分な睡眠は取ることはできなかった。
食事も、売店、コンビニで調達 カップラーメン 弁当、サンドイッチで朝、昼、晩、半年から1年にわたり食べる。
風呂も治療中の子供が優先でそのあとに、あいている時間で各部屋のおくさんが順番に登録して、ゆっくり入ることはできなくて、くつろぐことはできない。

ストレスが多かった プライバシー、リラックスする事に制限がかかってきた。
退院後1カ月半で再発してしまって、又同じ病院に行くことになり、あの環境に戻らなければならないと思うと、本当に辛い思いをした。
置かれた環境を受け入れるしかないと自分の中では、かたづけていたが、早く家に帰って元の生活を取り戻したいとは思った。
小児がんを治すためには、その環境で過ごすことは、しなくてはいけないと思っていた。
最後も治療する所が無くなってしまって、家族で過ごしてくださいと言われて、在宅治療になった。
皮下注射、点滴管理、家に帰る直前に看護師、医者に教えていただいて、スキルを付けて帰った。
1歳違いの長女がいたが、かわいそうな思いをさせた。
母が近くにいたので、母に託すしか無かった(孫の育て、私への心配もあった)
2歳半で力尽きてしまった。 
精一杯治療をしたが、最後は安らかに天国に旅立っていった。

長女が2歳前ぐらいから、闘病生活に入ったが、当人は理解できていなかった。
妹を助けたいような、言葉を発して、ドキッとするような想いをした。
現実を何の前置きも無く、突きつけられて、心身症になってしまって、私が離れると、40度近い熱を出して、吐いてしまったりする症状が出た。
唯一の心残りが、天国に行くという事を、ある時点でわたし自身が、受け止めることを出来ていれば、さやかも不安なく天国に行けたのかなあと思う事と、長女も心身症になることが無いように情報提供して、心の準備をさせてあげられたのではないかと思う。

電話で情報供与してやったりするが、気軽に話せない内容もあるので、ストレスがたまる原因にもなった様に思う。
有りとあらゆる希望を、いろいろな職種、いろいろな視点で小児癌というものを見つめてみて、闘病環境というものはどうあればいいのか、という事から話しあい始めた。
2005年冬に研究会として立ちあがる。
闘病環境の質を良くするにはどうしたらいいかという事を話しあった。
2006年11月にチャイルドケモハウスを立ち上げる 
研究会の中でどうしたらいいかが見えてきて、事業に起こして活動していきましょう、という事になった。
「夢の病院を作ろう」とキャッチフレーズにスタートした。
人として当たり前の生活空間、生活環境と共に整えるという事ですね。

7割~8割は治癒するという事になってきた。 
社会に復帰してゆく子供たちをしっかりと育ててあげるために、しっかりした空間を整えて、社会に送り返す必要があると思う。
小児癌がどうしてもそっとしておきたい、声が上がらないのが環境改善につながらなかったのではないかと思う。
日々の積み重ねで、ここまで来ることができた。
しっかりとした治療機関が周りにある。
夢の病院を作ろうと活動してきたが、制度的に家族が一緒に暮らせるという環境をととのえるには病院という制度を諦めなければいけないとか、いろいろ問題があって、最終的には共同住宅にクリニックを併設するという事で施設を完成させせました。
建設費は7億5000万円 日本財団、日本歯科医師会運営のTooth fairy が主な寄付。

運営費用 寄付を頂かないと運営できない。 
日本で初めての施設なので制度面が追いついてこない、頂けない報酬がある。
1泊 1000円~2000円においているが、2重生活になるので経済的負担を少なくするようにしたい
寄付は年間 1億円いただけないと運営がなかなか難しい状態に在る。
寄付で施設が成り立つのかどうか、寄付の集め方、楽しいプロジェクトで参加しやすいようにする、
支援者の名前、支援者と滞在者の懸け橋となるようなプロジェクト を考えている。
日本の医療の既成概念を覆して、生活もくっついてくるのでサポートして行ける環境になっていければいいなあと思っている。




































2013年9月13日金曜日

前田昭博(人間国宝)       ・白磁に故郷の心を映す

前田昭博(人間国宝)    白磁に故郷の心を映す
昭和29年取鳥県鳥取市に生まれる 大阪芸術大学卒業後、地元に帰り、焼き物作りを始めます
焼き物は大きく分けると、陶器と磁器に分けられますが、前田さんは硬い焼き物である磁器、それも白磁一筋に製作を続けてきました 
前田さんの作品は全て白一色で絵や模様は書かれていません
壺などの作品の表面は人肌のようにしっとり白く、それが刃物による独特の面取りという技法に依って削られ、緩やかに盛り上がったり、へこんだり、ねじれたりしています
その表面の凹凸が当たる光の強さや、時間の経過に依って濃く淡く変化し、焼き物の冷たさが薄れて、命の揺らぎのような温かみを生みだしてゆきます
前田さんは御自身の作品を光と影の織りなす光の造形と言っています
陶芸家として出発したころ、故郷、鳥取には陶器を作る窯はあっても磁器を作る窯は身近にありませんでした
相談できる師匠も持たず、自己流をみがきあげての技の習得が、個性的で新鮮な作品を生み出しています

前田(まえた) 濁らない読みは鳥取地方の東部の方に多いようです
自然一杯に囲まれている土地  冬になると雪に覆われる 焼き物を始めて37年になる
大阪で工芸関係の勉強をする 
まず小学校学校の低学年のころから、図工が好きで、賞状やバッチを貰っていた
父が小学校の美術の先生で、趣味で木版画をやっていて、そういう影響を受けていたのではないかと思う
この近くに民芸陶器で有名な牛ノ戸焼があるが、影響は全然無いと思っていたが、いざと陶芸をはじめる時には身近に見ていたので、陶芸はこういうサイクルで作るものだなと、そういう意味では小学校のころ、牛ノ戸焼は隣り町にあったので毎日6年間通って見ていたのは、いざ始めようとしたときには、安心感はあった

大学3年の後半に、実習では陶芸を習っていたが、磁器をされる先生がいらっしゃって、轆轤をひいて、其時が初めてで、土が真っ白で、焼きあがったものが純白で、魅力的、今まで見たことが無い、なんともいえない不思議な焼き物というのが第一印象だった
降り積もる雪、和紙の白さに 私の中に結びついたのか気になる焼き物になった
模様が何にもないという事の不思議さ、魅力が生まれているのかなあと思った
光があたって影ができると、焼き物に陰影が現れる
時と共にそれが動いてゆく 
具体的な絵以上に魅力的で、いろんなものをイメージさせてくれるところがある
白磁は陶芸の中では多いとは言えない
花を彫ったりする人もいるが、前田さんはそれもない
具体的な物を彫るよりも、抽象的な立体造形を作り上げる、そんな感覚で仕事場で向かっていることもある

表現するという事となにも加えないこと、どうなのかなと思う時期が若いころあったが、いろんなことを加えるよりも、無いことでいろんなイメージを見る中で、絵がいていただく、其広がりは無限に広がってゆくので、そういう作品ができたらいいなあと思いました
余分な物をなるべく少なくしてゆくが、省略することで白磁の魅力を増してゆくような、そういうシンプルでモダンな白磁ができればいいなあと思う
陰影 面取りという技法で、陰影が作れる ふくよかな曲面はグラデーション 柔らかい陰影がとっても心地いい 白磁ならではの表現だと思う
壺が一つの大きな形  
茶碗、オブジェの焼き物等があるが、壺が好きで、立体的なふくよかで、おおらかな独自の表現をしたいと思っている
使うという目的もある中で、独自の表現は厄介で、これはあの人が作ったと判るような作品でありたいと思っている

製作手順
土を取り寄せて、石を粉末にして水分を加えた「磁土」というが、それをねんど状にしたものを取り寄せたところから始まるが、それ以前に今日はこんなものを作りたいと考える時間が必要
一番見ていただきたいところをまず決めて仕事場に入る(自分に言い聞かせる)
轆轤で土を伸ばし、土のねじれを取って、円筒に引き上げ、それから膨らましてゆく
回転のリズムと摩擦を少なくするようにして、たまに水を付けて摩擦を少なくする 水をつけすぎると形にならなくなる
1時間から1時間半で作り上げる
翌日か翌々日に面取りをするが 硬さのタイミングを見ながら、千回以上親指で押さえて全体の形を作ってゆく
 
轆轤の作りだすふくよかさの魅力を満たしたいので、フラットな面と、旨く指で押さえる工程のなかで自分で形を作ってゆく  ふくらみをもった面と平面、一つの壺の中で作り上げてゆくと、シンプルでいて、微妙に陰影があたると何とも言えない表情が生まれる、そういう面取りをしている
乾燥してから、刃物で削っていって、カンナの跡を取るためにペーパー、ステンレスのへらで綺麗に仕上げて、900度前後で素焼き→うわ薬を塗る→本焼き(1300度で28時間ぐらい)→4日後の窯出しをする 
焼き物の魅力は1300度の熱の洗礼を受ける 焼きあがると、力が働く
白いところに黒くなったりする(鉄粉が入る) うわ薬が一か所剥がれていたり、傷と言われる現象が起きたりする
酷い時は全滅することがある うわ薬を変えたり、温度を変えたり楽しみに窯を開けたら全部ひびが入っていたりする時がある(数日やる気がしなくなる時がある)

北大路 魯山人 キズものを再生させる事をやったという話があるが磁器では無理
磁器は2度焼きは器に無理がかかる
自分らしい作品を作りたい  
自然が豊かで毎日夕方散歩するが、季節感、緑の葉の色、冬芽の形、花の蕾の形、そういうものを見ながら散歩すると無意識に体の中に入ってきて、作品を作ろうと思ったときに、具体的な何かではなく、自分の中から無意識に出てくるというか
蕾のような形が好き 壺が開くような形ではなく 自然界の形から来ているのかと思う
何とも言えない鳥の声を聞いたり、花を見たりして、あまり書きたいという欲求がわいてこなかったというのが正直なところかも知れない(自然の中にいたからこそ)

若い時、伝統工芸は古臭いと思っていたが、歴史を持っているという事であって、作られるものはとっても最先端の物、革新的なものを作ってゆくものだと、意識して感ずる
ドンドン色、形をかえて行けばいいんですが、変えても変えても変わらない、表に出ないものがあって普遍的な物があって、普遍的なものだけをうけついでゆく、それが日本の伝統であり、伝統工芸展で毎回作品は変わるが、伝統作品だと思う
人間の営みが続くことは、ずーっと器は必要ですし、使われてゆくと思う
今作られている器を見ると、これ器と思うような作品もある
日本独自の発展を遂げたのは日本の伝統工芸だと思っている
使える器の中に美術を持ち込こめるという、昔の人は凄いと思う

白磁という世界で今後も作品を作っていきたいと思っているが、中国、韓国にも素晴らしい白磁の歴史がある  
400年前に磁器が入ってきたが、中国、韓国に負けない白磁を仲間と作っていきたい
白磁という表現で、逆に主張できる時代だと思う 
日本人が作る白磁が生まれる様な条件が整ってきていると思う
色を抑えることで、いろんなことが見えてきたり、僅かな表現で十分伝わるという、感賞して下さる方のイマジネーションを喚起して物に近寄ってきていただく、そういう表現が日本にはある
大学を卒業して、戻って窯を作っていざ作ろうとしたときに、如何に大学で教わったことがわずかであったことが判ったが、他に修行に行くことはできなかったので、黙々と轆轤を回して、作ってきたが、いろいろ工程の中で一杯失敗してきた
故郷をもっと友達がいればいいと思っていたが、36歳で大きなコンクールで、優秀賞を頂いて、失敗は一杯したが、失敗することで、うまく作る方法を見出したりしながらやってきた
独自の自分の中で、自分の勇躍を感じたので、やたら情報が入ってこない方なので10年、20年と黙々とやってこられたと思うようになった

鳥取が私の力になっていると感じた  光、湿度などが私の独自な白磁の元になっていると思えるようになった



















































































2013年9月12日木曜日

白取克之(管弦楽団団長 )     ・賢治の夢の実現 東北農民オーケストラ

白取克之(農場経営 東北農民管弦楽団団長 )  賢治の夢の実現 東北農民オーケストラ
21日は昭和8年に亡くなってから、80年になります
宮澤賢治は生前、独学でチェロを演奏したり、星めぐりの歌を作曲したり、するなど音楽にも関心を示しました
農学校の生徒たちを集めて、楽団を作り、歌つきの演劇を上演するなど音楽劇にも興味を持っていました
青森県弘前市で野菜造りなど農場経営する白取さんは小学校のころから、賢治の作品に親しみ、中学生になると「セロ弾きのゴーシュ」に魅せられて、自らチェロを弾くようになりました
その後山形大学の農学部に入り、ここで農学部の学生だけのオーケストラを作ったり、北海道の農民管弦楽団にはいったり、しましたが、此のたび念願の東北農民管弦楽団を結成しました

沢山の種類の野菜を育てている 50種類の野菜 品種の数を入れると100品種
土の表面を見せない 草の中に共生させて育てる  
草を刈って敷き、草を刈って敷きの積み重ねてゆく、草に負けないように頻繁に草刈りをするので手間が凄くかかるが、土はどんどん良くなってゆく
有機オーガニック 世界的な有機農業の組織がある 
海外からも来る(カナダ、イギリス、スロバキアなどから来ている)
東北農民管弦楽団団長 ことし立上げする
普段の活動 農閑期だけ集まって練習をして、演奏会をする
農閑期だけのオーケストラ  全員が何らかの形で農業関係の人の集まり
農業しながら医者をやっている人、とか いろいろ

小学生の時に国語の授業で「雪渡り」を読んだのがきっかけだった(狐と一郎)
雪の降りしきった雪原で遊ぶ  「そうだねい」と書かれていて、それが気になって図書室で賢治の童話集を見たら、得も言われぬ懐かしさを感じてしまって、読み始めた
童話は小学校のころに読みつくして、伝記も何冊か読んだ
私の中ではアイドルになってしまって、宮澤賢治がやったことはやってみたいと思い、宮澤賢治がチェロをやっていたので、どうしても、チェロをやってみたいと思った

中学校3年で始める チェロがほしいとずーっと親に言っていた
もともとおじいちゃん子で祖父が畑をやっていて、農業には興味があった
宮澤賢治の伝記を読んで後押しされて、中学校のころは農業をやろうと決めていた(サラリーマンの家庭であったが)
小学校のころから庭で野菜を作ってたりした
大学は農学部にいかなければいけないと思い、山形大学の農学部に進む
あくまで学問なので、このままでは農業をできないのではないかと思い、先生に相談して1年休学
して、農業を実習させてもらおうと、北海道の酪農家を実習させてもらう
酪農家と知り合いになったことから、卒業後又そこで働くことになる
北海道農民管弦楽団があることを知る 農場主がバイオリンを弾く、私も参加することになる
演奏会が今年19回目となる

新規就農という形で畑を開墾して農業をするようになる
農民芸術慨論 農業をしながら芸術をする 琴線をふるわされる 
圧倒される文章の格調の高さ、スケールの大きさ 当時の農民の心に銀河を意識して生きろとか、そういうスケールで語りかけてくる、まいちゃいました
宮澤賢治が活躍したのは対象から昭和初期
「おれたちは皆農民である 随分忙しく、仕事もつらい もっと明るく生き生きと生活する道を見つけたい」 「芸術を以ってあの灰色の道土?を燃やせ」
働いているだけではなくて、芸術をして、生きる喜びを感じる

開墾から始まったので、朝から晩まで働きずくめで、楽器はしばらくは手にできなかった
久しぶりに楽器を出して、皆と合奏したが涙が出そうになった 楽器をやってて良かったと思った
たまにアンサンブルもやったりする  
海外から農作業を手伝ってくれる人達の中にも、楽器をやる人もいるので一緒にやったりする
羅須地人協会  そんな感じで楽しくやっている
北海道農民オーケストラ 歴史が19年 昨年、デンマーク公演を行った
酪農のつながりで行ったが、大成功だったと聞いている

私は薪別、函館の公演で参加させてもらった  北海道はレベルが高い、吃驚する
代表の牧野時夫さんがすばらしいバイオリンを弾く、作曲もする、指揮もする
毎年北海道に行って、練習に参加するのも大変なので、ずっと東北でも出来たらいいなと思っていたら、開墾も一段落して、心に余裕ができて、東北に作りたいなと思った
牧野さんに相談したところ、賢治没80年になるので、花巻で演奏会をしたいと思っていると、一緒に東北農民管弦楽団を立ち上げて、合同演奏をすることはどうだろうかと提案されて、願ってもないことだと思い、立ち上げることを決めた

私一人なので、一人一人声をかけて行って、人数を集めて行って、今日現在で47名のメンバーになった
花巻での北海道との合同での演奏会では、東北農民管弦楽団からは15名ほど参加した
今年の1月27日だった  
とっても東北農民管弦楽団に対して温かくしてくださって有難かった
東北農民管弦楽団は47名なので、まだまだオーケストラとしては小さいので 、北海道農民管弦楽団の方たちの応援をしてもらいたいと思っている
東北農民管弦楽団のたち上げが、たまたま没後80周年と一緒になった
練習は大変 宮澤賢治のこともあり、花巻周辺で練習する 
花巻は東北のはほぼ中心に在るので交通の便もいいので、青森、福島などからも集まりやすい
11月に集まって合宿演奏 月に2回集まって 10回ぐらい練習 本番直前に又合宿練習して、本番という感じです

東北農民管弦楽団だけの演奏会はまだなので、来年の演奏会までのお楽しみといったところ
農業関係者なので話も合う
大震災から2年半 福島の農家の方が大変な被害で 農業自体が立ちいかなくなってしまう、そのようなときに音楽をやることはいいのかなあと思いがある
福島の酪農家で、登録していただいた方もいたんですが、そういう気持ちになれないと、その方は今参加されていない 福島の方に声をかけるのが、憚れている
一緒に参加していただければ本当に嬉しいのですが
第一回定期演奏会を来年2月23日に行う予定  
曲はドボルザークの「いたずら農夫」「バイオリンとオーケストラのためのロマン」 
北海道農民管弦楽団の牧野さんのバイオリンソロをしてくださる
メインがベートーベンの交響曲「田園」 宮澤賢治とのつながりが深い 宮澤賢治がよく聞いていた

農作業の抱負 ここの場所を私にとっての理想的な場所にしたいと思っている  
農業がすべではなくて、ここの場所の一部として農業もあり、いろんな人がここに来る、宿泊する場もあり、いろんな都会で疲れた方達が来てリフレッシュして帰ってくるというような場所にしたい
イーハトーブ    私なりの場所を作っていきたい
東北農民管弦楽団の抱負 ドボルザークの曲の中で、「いたずら農夫」もあるし、田舎的な作曲家だったので、チェコで海外演奏をしてみたい
スロバキアから来ている人がいるが、農家でバイオリン、楽器をやっている人たちが沢山いるというので、そういう人達と交流してみたい
10年以内に実現したいと思ってい
(手伝いに来ているスロバキアの人からチェコ語を習い始めている)
ゲストハウスも作っている

































2013年9月11日水曜日

菊池洋子(事務局長)       ・日本人を励ます、雨にも負けず

お陰さまで、今日で投稿数が500回を迎えることができました。
皆様方のアクセスに支えられて、ここまで来ることができました。
一番いいのは、「明日への言葉」を直にラジオで、お聞きいただくのが良いのではないかと思いますが、
(出演される方の語ってくださる言葉の説得力とか、時には涙を流しながら語ってくださることに感動を覚えます。 文字とは全然較べものになりません)
然し「明日への言葉」の放送時間帯が4時頃からと言う事で、生で聞くには少々厳しいところがあろうかと思います
それで、拙い文章ではありますが、概要を投稿し続けています
「リンク先」を読んで頂けると、なお一層のご理解が頂けると思います(ラジオに無い特徴です)
今後も、愚直に続けてゆき、肩を威からせずに次の目標 1000回投稿を目指していきたいと思います
今後とも御愛顧ください
ちなみに、今現在で アクセス累計が64,149に達しましたことを御報告いたします

菊池洋子(花巻文化村協議会事務局長)   日本人を励ます、「雨にも負けず
2011年3月の大震災から丁度、2年半になります
今月21日は、花巻市の生んだ宮澤賢治が昭和8年に亡くなって以来、80年の節目に当たります
大震災が発生して以来、宮澤賢治の詩や童話は被災した人を始め、日本中の人から生き方を見つめ直し、勇気付けるものとして改めて見直されています
岩手県花巻市にある花巻文化村協議会は地元の文化財をいかして地域の活性化を図っている団体ですが、6年前から宮澤賢治の詩「、雨にも負けず」の朗読全国大会を開いています
震災以降特に注目が集まり、北海道から九州まで多くの愛好者がこの催しに参加しています
「雨にも負けず」 朗読全国大会を企画した花巻文化村協議会事務局長 菊池さんに伺います

長岡輝子さんの朗読  「雨にも負けず」
小学校の4,5年のころに、この詩に出会った 必死に覚える
自分に対しての戒めとか、そんな風に思っている
琴を小学校のころに習って、詩のBGMをやったりした
花巻文化村協議会 理事長は京都の井堂雅夫(画家、版画家) 農民芸術概論で自分は賢治の道を行きたいと思った人
15年前に岩手県 第一号として花巻文化村協議会 という形で 宮澤賢治を意識して、羅須地人協会の現代版にしようとした
一番多いのが子供会活動 創作体験活動  海外からも来る
2007年から「雨にも負けず」の全国大会を企画 
物とか、形とか、お金を大事にする世の中になってきて、もっと違うものがあるのではないかと、お金では買えないものがあるのではないかと思ったときに「雨にも負けず」で呼び掛けたらいいのかなあと思って、宮澤賢治の弟にあたる宮澤清六さんの孫の 宮澤かずきさんに相談したら、やっているところが無いのでやってみてといわれて、始まった

金子みすゞさんとかも好きですが、宮澤賢治の詩が一番知っていると思って、そして今の社会をなんとか心の時代に変えていけたらと思って、ぴったりだと思った
予想以上の反響があった
申し込みが殺到するが、順番だと決めていたので、60組で抑えて180人ぐらいでした
一つの詩だけでは長くは続かないだろうと言われたが、回を重ねている
震災前の大会 2011年 2月5日 第4回大会があり、其すぐ後に大震災が起きる
そのあとは、この詩は応援歌に替って流れてきた
頑張れとは一言も言っていないが、だけど励まされると、被災地でよく聞く
私はその時には文化村にいた  立ってはいられない状態で、車は動かせない
「日本沈没」の映画を思いだした
小さい孫もいたので、家に帰ろうと思っても道が寸断していた 長い一日だった
物もない、ガソリンもない いろんな体験の中で、やっぱりお金ではない、皆で助け合う事がいろんなところから聞こえてくる

花巻文化村協議会として支援活動する  母親の実家、宮古には3月に行くが、大丈夫だった
炊き出しの声に対応 ボランティアを募って行う
近郊農家の人が野菜等を持ってきてくれて、300~500人の炊き出しをした
花巻文化村には大きな鍋、ガス、食器類はあったのでそれを使って行った
「雨にも負けず」の精神を実施した
2012年 第5回 止めようとは思わなかった 震災のことは意識せざるを得なかった
励まされたといわれた 会場は 涙、涙だった  陸前高田の岩井律子さん 30分ぐらい話をしていただいた(原稿なし)
「雨にも負けず」が全国的に注目されるようになった  励まされるとしか思えない
避難所の生活も改善されていったが、心に響くものがこの「雨にも負けず」がある
本来の日本人が持っている、そういったものが、今回はパーっと出たのではないかと思う

毎年2月にやっている 今年第6回 2月はこの辺は一番厳しい環境なので
だが今年は9月16日にやる予定 花巻祭り(9月13,14,15日にある)の後に行う
朗読の仕方がいろいろある  姿も工夫していろいろ違う イタリア語、英語、韓国語等いろいろ
一つの詩ではあるが、飽きない
私は大会の状況を見ることができない 第5回大賞はおばあさんの姿で(90歳ぐらい)出てきたが、実際は後で聞いたら51歳の人だった
毎回出てきて、朗読の途中で泣き出してしまい、毎回出てきては泣いている人もいる
会場の皆さんも感動できる人に票を入れることができる
今年の大賞は花巻小学校の(賢治が入った学校)子供たちが取った 3年生50名ぐらい
宮澤賢治没後 80周年 北海道の子供たち 障害をっ持っている人たち音楽も演奏するとのこと
大会では必ずコメントを言っていただけるようにしている

全国的に広がりつつある  長野 秋田等
高齢者の方々が頑張っている  若い人に伝えたいとの思いがある
小学生から高齢者まで、幅広く参加してくれている
「雨にも負けず」を通していろんな方と知り合う事ができてよかった
















































2013年9月10日火曜日

大留隆雄(支援リーダー)      ・南相馬被災者への新たな支援

大留隆雄(支援リーダー)    南相馬被災者への新たな支援
福島県南相馬市原町地区を拠点に支援に取り組んでいる、支援隊リーダーの大留さんに伺います   
1939年、昭和14年北海道上士幌町の出身、 1975年南相馬市に移り住んで、土木会社や、そば店を経営した後、2000年からビジネスホテルを経営しています
14年前、近くで産業廃棄物の処理場の建設工事が始まった時に有志と一緒に反対運動を立ち上がりました
東日本大震災発生直後、仲間20人と六角支援という支援グル―プを立ち上げました
原発事故で半径30km圏内が自宅待機地域とされて、物流が途絶えてしまった中、避難住民へ物資の配給を始めました
その後は仮設住宅に住む被災者の生活支援に重点を移しています
去年の春からは畑を作り、自由に作物を栽培してもらっているほか、今年5月は試験的に稲を栽培する田んぼで田植えを行い、秋の稲刈りを目指しています
震災から2年半がたつ今、大留さんは被災者に対して、物の手当から精神面の支援がより重要になっていると言います  
被災者への新たな支援について伺います

私は稲を作ったことは無かったのですが、皆さんの協力のもとに本当に立派にできたなあと思います(後10日ぐらいで刈り込むことができそう)
5月5日に田植えをする 放射能の心配があったが、作ってみないことには判らないので、研究者とか、市民運動をしている方々から協力を得て、やってきましたが、大丈夫と思っています
51アールの広さ 田植えは 50名ぐらいの人でやった (東京から20名、仮設住宅、ボランティア)
震災があってから1週間 物資を集めて、供給できるように動いて、仮設住宅に持ってゆくように12月までやって、毛布、布団などが不足しているのでそれらの手配を行ってきた
正月開けてから、仮設に入っている方々が精神的なものが出てきて、睡眠薬、精神安定剤を飲まないと眠れない人が大半だったので、なんとかならないかという事で、ビニールハウスを作って、仕事をすることで多少でも精神的なものが楽になればいいかなあと思った

家族を失ったり、家を津波で流されたり苦しんでいる人が24時間考えていると落ち込んでしまうので、違う方向に頭を切り替えるためにはどうするかと考えて、ビニールハウスを考えた
楽しみを与えることによって苦しみから逃れてほしいと思った
最初は挫折した精神状態だったので、来なくて、農作業道具、肥料など揃えるので、畑に来て植えるだけでもいいからと説得して、徐々に増えていって一月すると満杯になった  
目を輝かして作業している    
ボランティア 50人ぐらい(全国から) 
最初、被災者ででき上ったような会です(家族を無くしたり、家を流されてりした人々)  
自分が被災しないと被災者の気持ちはわからないので、非常に話しやすいと言われた(特徴)

地震と津波が来て、1日、2日は仕事場にいましたが、電気が来ないので夜は真っ暗だった
原発が爆発して、みんな逃げろという事で、どこに逃げたらいいか分からなくてみんなが逃げた
逃げられない人もいたが、あの時は人の事を構ってはいられない状況だったと思う
ビジネスホテルは20km圏内のすぐ近く(数百m)  仙台の方に逃げた
桜井市長が市に泊りこんで物資を、ガソリンを回してくれと、国、県に要望して、市民のために頑張っていて、逃げている場合ではないと1週間後に家に帰ってきて、支援隊を立ち上げた
産廃での仲間に声を賭けて来てもらった 直ぐに集まる(10人位)
店が開いていないので、米、味噌、何もない状態だった
物資を分けるというと 朝の5時ごろから来る  650人ぐらい集まってきて2時間ぐらいで無くなる
良く物資が続いたなあと思う まだ日本は捨てたもんじゃない、大丈夫だと其時思った
産業廃棄物反対運動に関わって14年  民家に近い、産廃場を囲むようにため池があった
農業用水に対する考えが甘いのでは無いかと思った(私の仕事とは関係なかったが)

災害後2年目に入って、精神的なケアをするのはどうしたらいいかを念頭に考えた
物を育てることは癒しになる  
物を作る事もやっていた(折り紙、毛糸) そういった物資も調達
ラーメン店 800食 4回やっている  マッサージ、エステ、歌のおばさん、演奏、漫才を呼んだり、放射能に関する講演なども呼んでやったりした
1年目は物資、2年目は精神的なフォロー 3年目は家も作れない、家族もいない、仮設にしかいようがない人がいっぱいいるので、そういう人たちを中心にしたことをやっていこうとしている
畑作りは並行して進める 
具体的な計画は定まってはいないが、資金も必要なので
夕張市長(破産した)も私のところに来てくれた
地元の人が、できるだけ自分たちは被害者であるというだけでなく、自ら一歩を踏み出すことは大事、大変だと思うが

作家の渡辺一枝さんは今でも頻繁に来てくれて、ほかのところとの橋渡しもしてくれるし、資金面でも相当にバックアプしてもらっている
東京で「トークの会」 南相馬の報告をその都度やっているが、1回目は大留さんがゲストだった
其時はまだ、動揺しているさ中だったので、皆さんにうまく伝わらなかったのではないかと思う
まだまだ判らないことがたくさんある、それほど大きな事件だった
放射能の補償をもらっているがそれで満足している人はいない
我々田舎に住んでいる者は自分の土地、家だけでななくて、山も川も海もみんなひっくるめて田舎、故郷なんです
山菜とり、キノコ採り、魚釣り、海で泳ぐこと 一切ができなくなってしまった 故郷がなくなっちゃた、どうしたらいいだという事ですよ

去年6月 沖縄に行ったら、もう復興したんでしょと言われた 離れていると判らない
放射能の始末 除染した物の置き場が決まらないと何も手がつかないというのが現状ですから
これからどのくらいかかるんでしょうね
1~10まで自分たちの苦しみ話をすると、2時間ぐらいあっという間に過ぎる
原発事故の関連で無くなった人は南相馬市だけでも400人は関連死している
病院に入っていた人が家族に連れられて毛布一枚で学校の体育館に連れて行かれて、寒空の中で寝かされていた  病人だから死んでしまう
200人以上の病人がいたが、どこに連れて行かれたのか分からない、亡くなった話を聞いて院長がポロっと涙を流していましたよ
家があっても帰れないというのが精神的にも負担がある 80歳になっても自殺している人がいる

産廃の運動をやったり、原発のボランティアをしたり、70歳過ぎてこのようなことをやって大変なんですが、やりがいも感じている
綺麗事を言うと正義感 でやっている   
何かやらないといけない人間ですね
やれるかやれないか判らない状態で、やってきた 当たって砕けろといった感じ
でもそこには 善悪で物事を判断しなければいけないと思っている
世の中、損得で考える人が多いが、善悪で物事を考える人はどちらかというと損をする、いまの世の中は、でもやっていて楽しいです
ボランティア活動は大変だなとか、苦しいなあと思いながらは絶対やってはいけない
長い続きしない 楽しくやらなければいけないと思います
今後の取り組み  
出来るかどうか判らないが、本当に困っている人たちの足になったり、話し合い相手になったり、金銭的なものがすこしでもその人たちをカバーしてあげられれば、最高だと思っています      
そういう方向性を考えています
遠く離れると現状が見えないので、機会があったら現状を話をしてゆきたいと思っている


















































2013年9月9日月曜日

木村孝禅(住職)         ・震災後、子供の居場所を作りたい

木村孝禅(住職)   震災後、子供の居場所を作りたい
1969年宮城県石巻市生まれ 東日本大震災で親や家を失ったり、生活が困難に成ってしまったなどの理由から、親元で生活できなくなった子供たちが数多く生まれました
こういった子供たちのために立ち上がったのが、木村さんです
木村さんは子育て支援を行うNPO法人、「宮城子供養育支援の会」を設立したうえで、去年自ら借金をして、自宅敷地内に子供たちと一緒に生活するファミリーホームを完成させました
現在中学生、高校生二人の子供を引き取り、養育里親として、木村さんの小学生の実子、3人と一緒に生活をしています
木村さんが子供達の支援のいきさつ、ファミリーホーム建設までの道のり、子供たちとどう向き合い育てているのか、お聞きしました

木造2階建て 2階は4畳半の個室、6部屋がある  中学2年、高校生の二人をあずかっている
大震災当日は 寺に向かっていたが、子供を迎える手立てが無いと聞き、急遽保育所に行き、3人を御自宅に届けてから、寺に向かったが、伽藍の中はめちゃくちゃだった
津波が到達したことはラジオでするは、被災の程度はわからなかった
支援物資を避難所に配るという事から始めた (支援物資を寺に送ってくれるようになった)
小学校の方に伺ったが、子供達の様子を見ると、両親が助かっているものかどうか、が解らない状況だった
3月下旬、4月になると様子が段々安否が判るようになり、寺としても、火葬では対応できなくなり
土葬することになり、土葬時に読経すると、いう事になる
親御さんが亡くなったんだなあと、言う事は直に感じた

親御さんを無くしたり、家族を無くしたりが多くあり、子供さんの居場所が必ず必要だなあと感じた    
親族里親、が子供の養育することがあるが高齢化している
避難所で両親が見つからない子がいた   祖父母が面倒を見ていた
10年子供ができなくて女の子がようやく出来て、この子が20歳になるまで生きれるかと、節なる思いが胸にぐっと来た
私自身が何かできないかなあと、思った
傾聴活動をしていたが、親御さんなりがゆっくりとした時間を過ごしてもらうために、子供さんを一時的に預かって、託児所的なことを始めた
石巻には児童養護施設が無くて、県に呼び掛けたりした
歴史的に沿岸部には里親が沢山いたが、減って行って、今回の震災で受け入れ態勢が無く
、石巻は社会的にも逸脱する子供が、人口の割に多い地域で、地域で育てるスタンスを取っていきたいと思った

行政の方では建設は出来ないと言われて、実際に活動する事から、地域の方から、認知され、被災に在ったお子さん等の家庭にも、地域にこういった施設があるという安心感を先ず種として蒔きたいなあと思った
NPO法人作る おととしの11月に設立  目的、事業を明確にして活動開始
昨年6月にファミリーホームを設立 宮城子供養育支援の会
地域の方々の子育ての相談、被災家庭の集う場所 個々の問題の相談に乗れる事 
障害を持っている家庭の軽度の障害の子供さん、お母さんを雇用して、工房と5つの事業を展開している

条件にふさわしい人を雇用して、我々がサポートするようにした
自宅の敷地内に建設する 2000万円ちょっとかかっている(自宅を担保に借金をする)
震災当初からの活動の中で、自分の命は生かされていると強く感じた
亡くなった方々の代わりに、生かされた自分の命をどうにか社会のために使う、そういった人生を歩むことを、なんとなく決断した
最初落ちつかない様な雰囲気があった  
あずかっている子供さんの個室が必要を感じた
保育士、児童養護施設で働いた人、乳児院で務めていた人などが預かっているお子さんを社会の一員として、自立させるという共通の目標を持ってそれぞれの視点から、日々の生活の中から養育してゆくという方針を作って、運営しています

それぞれの体調を把握しつつ、育った環境を理解しつつ、子供たちの自尊心をわきまえて対応している
施設運営費用 2人の委託費を県と国から頂いているが、実際的には運営できないので、民間の助成金申請して、寄付金、年会費をいただいたりして運営している
昨年始めて、600万円の赤字だったが NPOとしては500万円の黒字だった
賛同者の寄付、チャリティー、募金のNPOへの寄付 、企業等の大きな助成金等に依る
中学2年生の子は震災当初は施設にいたが、親族の方の家が流されたりとか、大きな怪我をしたりとか、養育する環境が整っていないというところで私の方で引き取った
背景としては児童相談所さんからの委託 軽度の障害を持っており、コミュニケーションを取るのが難しかったが、段々実の子と同じようになって、悪いこともしっかり伝えるようになった

震災当初、母子家庭 母親が体調を崩して、私のところに来ることで通学が断然近くになるので、児童相談所から委託された
高校生の子は前から学校に行きたがらない子だったが、一緒に買い物に行ったりして、自分一人で将来生きていくという自立の部分で、唯学校を卒業するだけというのではなく、社会に出て自ら人生を歩んでいけるすべを育てることが重要な部分としている
中学生の子は手先が器用なので、進学を含めて、技術的な部分を導いていけたらなあと思っている
実子 3人いる 小学4年(男)、2年(双子の娘) 
最初は家族がたくさんになり、はしゃいでいたが、小学4年生の子が(3年の時)学校に行くのが嫌になったり、学校に行っても保健室にいたりだとか、精神的な部分で何らかの影響があった
失敗したのかなあと心の中にあったが、息子も一緒に暮らしたいとの思いもあったので、踏ん張りどころと思って、ある程度の距離感も必要と思い、生活時間帯が違うので、夕食の時はゆったりした時間を取るようにして接した

妻も寺で生まれて、駒沢大学を卒業してから修行に行って、保母さんの資格を取っているが、理解が難しいと思っても、いろいろやっているので、正義感は強いのかなと思っている
負担は大変だと思う
問題があると一人で抱えるのでは無く、職員皆で共通の問題として捉えるようにした
気持ちをやる気があれば、お子さんを預かることができるという、モデルケースを加味しながら
私たちがやってることによって、社会の方々ももしかしたら、私たちにも一人ぐらいは預かれるのではないかという里親が、多くなっていただくというところも私の心の中にはあるのですが

被災という部分からすると、津波で、建物、人的被害があるが、人間の命というものは直したり、戻ってくるものでは無い
日々、人が亡くなるという事は現実なので、亡くなった方々残された方々とどう向き合っていくかを考えたところ、前に進むしかないので、亡くなった方々への供養、生きている方々への「布施行」(仏教語) 施す気持ちはいつも持っていたいと思う
思うのではなく始めるという事が大切だと思う
子育ての相談事業 震災後の悩み DVの問題が一番多い 父親からの暴力、生活費用の不足、等の相談を受ける場合が多い
電話、直に聞くが100%男が悪いというようであるが、お互いにどっかに非があって、非を消火しないといけないので、もう一度ゆっくりお互いに話し合ったり、改善するところは改善することが大切だと思う

個々の自分の主張があるが 親であるという気持ち 子供達を第一に考えて、自分たちの日頃の考えや、生活をととのえてゆくことが大切だと考えている
社会的養護を必要としている人は全国的に増えてきている
虐待を受けている子、親が何らかの精神的な不安定な状況で家庭にいるのは、危険な状況下であるので、ファミリーホームとか里親とか、多くの地域に増えて来る事に依って、受け皿、地域との連携が図ることができれば、虐待、DV家庭の情報源にもなるし、抑制になっていくのではないか
人間としてはまだ成長過程に在ると思うが、住職として考えると、宗教者なので、仏から私たちは御加護をうけているなあと、日々感じています
私自身間違いとか、多々あったと思いますが、地域の児童福祉、地域の方々の幸せを一つの目的として、今後も歩んでいきたいと思っています






























































2013年9月8日日曜日

2020年オリンピック開催国報道のため「明日への言葉」中止

2020年 オリンピック・パラリンピックは東京に決定 !!  おめでとうございます。

2013年9月7日土曜日

里見まさと(漫才師)          ・浮き沈みが教えてくれた僕の漫才人生

里見まさと(漫才師)       浮き沈みが教えてくれた僕の漫才人生
ボンチおさむさんと漫才コンビ 「ザぼんち」は1980年からの漫才ブームの中で頂点を極め、目標の上方漫才大賞を獲得、二人で歌った恋のボンチシートも大ヒット、漫才師初の武道館ライブも実現させました
然しブームが去って人生のどん底を経験します
その暗いトンネルを抜けたまさとさんは、亀山房代さんとのコンビで2度目の上方漫才大賞を獲得、その後ボンチおさむさんと「ザぼんち」を復活させ、今再びステージで輝いています
浮き沈みの人生は何を教えてくれたのか、お聞きしました

芸人さんは、笑わす商売をしている芸人さんは、舞台に出たときにあの笑いがあるから、辞められない、毎日あの笑いを求めて40年間やってきました
昭和27年 兵庫県姫路市の生まれ プロ野球の選手になりたかった
高校1年の時に他校で山口隆さんが3年生で、このボールを見たときに3年生まで練習してもこのボールは打てないと、ぬけていましたね   
あれを見てから野球を断念した
軟式野球の方に移って、全国大会まで行ったが、大好きなものを途中でやめることが、こんなに後悔するんだと、今も頭の中から離れない
弟子入りするときも、おさむと組んだ時も、亀山房代と組んだ時もそうだし、コンビを復活したときもそうだけれども、答えを出すまで辞めない、という事が 高校1年の時に硬式野球部をやめたそれがそのまんま残っている、いまも後悔している

或る時週刊誌をみたときに、西川きよし師匠が、20歳で家を建てるという小さい記事が出ていた
若手の中で、やすし、きよし等があって、あの位のところで家が経つんだと単純に思った
この世界しかないと思って、親、先生から反対されたが、兎に角やると言ったら、兄が応援してくれた
おさむさんとコンビを組んだ時に答えを出すまでは止めないと心に決めた
NHKから新人賞を頂戴するが、その後後輩に抜いて行かれ、厳しい状態ではあった
おさむさんは高校の同級生 私のことはユニホームの印象しかないと思う
おさむさんは教室ではうるさい、文化祭等で漫才をやっていたりした
私は漫才学校で勉強していたが、そこで初めておさむさんに出会う(卒業1年目)

一緒にコンビを組もうかという事になる なかなか面白い動きをしていて、新人賞を頂くが、その後5~6年は何か足りなかったのではないかと思う
昭和55年 漫才ブーム  やすし、きよし ビー&ビー セントルイス 3組でゴールデンタイムで18.8% 
ディスコみたいに、我々が、ドンピシャの方々がびっしりいる中でやりたい放題にやらしてもらった
飛行機でスチュワーデスからサインを求められる(吃驚したが)  あの8分のオンエアーから人生ががらりと変わった
橋さんの歌で「潮来の伊太郎」歌い おさむさんが「あれー」と言って大受けする
夜最終の飛行機で東京に行く、東京で仕事をして、朝大阪に帰っていて、仕事をしてまた、東京に行って仕事をするというパターンだった
家には10分~15分いる程度だった(シャワーあびたり、汚れものを持ち帰ったりするだけ)
楽屋ではただ新人の漫才師だったのでごろりとも出来なくて、きつかった
師匠からも楽屋は気をつけろといわれた
歌を出してから、又変わった レコードが売れて、ザベストテンで3カ月 2位になった

「トリ」をやるようになる   漫才界初の日本武道館ライブ開催 1万人
体は、腕のところから点滴を打つが、両腕とも真っ赤かで、其うち手の親指と人さし指の間から注射をして、最後には足から点滴してもらった
漫才ブームは3年で終わる  毎日がそれまでこわかった
いつかは冷めるものだとは思っていたので
いい仕事が無くなってくると、コンビもうまくいかなってゆく、
そして昭和61年、13年間のコンビを解消  私から3年間休止しようと言った
一人になって、こんなに仕事が無いのかと思うほど無かったので毎月7~9万円程度だった
ほとんど家でごろごろ、又ごろごろ という感じだった

墓参りを4日出掛ける 堰を切った様に涙が出てきて、墓を抱きしめて「もうあかん」と言って、涙がぽろぽろ出てきた  3年間 そんな仕事の状態だった
全国ネットの話が舞い込む 亀山房枝さんと番組に出る事になる
男女コンビでそのままいけるのではないかと周りに言われる
私から亀山さんに漫才のコンビの話を話しかけると、考えてOKの返事を受ける
条件を出す 結婚しても構わない、同棲しても構わない、彼氏がいようが構わないが、子供だけは3年間我慢してくれといったらOKしてくれた
周り皆から反対されたが、がんとして受け付けなかった 
スタートしたが、全然うけず、2年半したころに、ねたが一つ出来て、お客さんを笑わせることができた  
6年目で奨励賞、8年目で上方漫才大賞を取ることができた
亀山さんが出産でコンビ解消(12年のコンビ) 平成13年
会社から直ぐにおさむさんとコンビを組んだらどうかと言われる
漫才から離れられないなあとの想いもあり、50歳からのコンビを組むことになる
「ザぼんち」でスタートするが、之はこれで酷かった、うけなかった
16年間離れていると一つにならない  ぎくしゃくしてしまっていた
3~4年は誤魔化したような漫才をしていた
パニック病をしてしまう ラジオの生放送通に血圧、脈が上がってしまった(ストレスがたまって)
点滴を打ってもらって家に帰った
ドアが閉まる時、外と遮断される時が怖くて怖くて、新幹線、飛行機に長く乗るときにはどうしようもない

薬さえあれば、飲まなくても大丈夫だが、薬が無いと駄目
静かな海へ一人で行ったり、城下町をぼーっと見ていたり、お寺の杉林の中でぼーっとしていたら物凄い心地いですね
13年間おさむさんとやっていたときには、売れていきたいと必死でやっていたが、亀山さんとの12年間はギブアップすることはできないので、答えを出したいと、ここでは終われない、もういっぺんチャレンジしようと思った、再度おさむさんと組んだ時には、もう一遍漫才大賞をとるとか、もう一遍答えを出したいですね

































2013年9月6日金曜日

下川裕治(旅行作家)        ・緩くて深いアジアと私の旅

下川裕治(旅行作家)   緩くて深いアジアと私の旅   
長野県松本市生まれ アジアをテーマにした旅行記やエッセーの分野の第一人者の一人
慶應大学在学中から学生新聞などに旅行記を書き、卒業後は新聞記者となりました
その後はフリーとなり、「12万円で世界を歩く」で旅行作家デビュー
以来、「バックパッカー」スタイルで一般の観光客のルートとは違う、下街を歩き、庶民の暮らしや、食べ物を中心にした旅行記やエッセーを書き続けています
約40年間の旅や取材から感じたこと、自らの人生を語っていただきます

月に2回は旅行に出かける 日本にいる方が多いと思う
父親が高校の教師をやっていたので、転勤が多かった
慣れてきたら、どっかに行くような感じだった
小学校は野球少年、高校は何故か山岳部に入る
海外を旅をするようになって、旅行に行く人が山岳部の人たちという、多く出会いがあった
高校は松本だったので、山は多くあり、よく登った
大学は学生新聞で活躍した 物を書くことに興味があった
書いたものとしては旅行記、エッセーが多かった 
学生運動の末期の時代だったが、初めてアジアに行ったのが大学2年のころだった
学生新聞が政治的なものに影響された時代から別なものへの関心へと、移り始めた時代

就職したのが大手の新聞社、書き続けたいなあとの想いがあった
外国と接するところに行きたいとの思いもあった
記者生活は3年目に辞めた 
静岡支局にいたが、もっと自分でやりたいことに近づきたかったが、ジーッと日本の中で記事を書くことにイライラし始めていた
気軽に会社を辞めて旅に出る(27歳の時、当時は景気が良かった)
知り合いがドイツにいたので、ドイツからアフリカ、アジアを回って日本に帰ってきた
デビュー作「12万円で世界を歩く」 34歳 自分の旅が本になるとは思わなかった
1年近い旅から帰ってきて、30万円は残っていたので、毎日部屋で自分で食べるものを作って、働く気がしなかった(旅行で一人遊びがうまくなった)
友人がもっと社会復帰しないといけないと心配してくれて、書く仕事を提供してくれた
ドンドン仕事が来るようになった

フリーになってからも、健康物、株式とか仕事があった(バブル期)
タイに行ってくる 1年近く日本を離れると、関係が切れてしまうので仕事が無くなる
週刊誌の人と一緒に旅行した時に、タクシーを乗るのに同乗者を集めていたら、一緒に行った友人から変な旅行をしている人間だと言われた(節約旅行)
バブル期だったので海外で節約して旅行することが、異常に思われた
大好きな旅を書いてしまった これが売れてしまった 一つの転機となる
旅の中で何かか起きてくれないと書けない(意図的に起きたことはつまらない) 
旅での視点が変わった
街を書く材料を見つけるためには、ひたすら歩いたりして、書く材料を見つけた
視点だけ研ぎ澄ましていかなければいけない所はあった

アジアは向こうから来てくれる 
屋台で食べていると、急にオートバイが近づいてくるとか
ヨーロッパ、アメリカはシステム化してきているので、目的意識をしっかり持って、これを見に行く、之を食べようとか、はっきりした自分が無いと答えが出てこない
アジアは唯ぼーっとしているだけで、例えば夕方ご飯を食べようと思ったら、凄いスコールが来て、屋台にいったら、作る人たちが来ない 
作る人は来ないからあっちから取ってくれば とか言われて、こういう事が起きるなあ、とのことからアジアは書けるなあと思った
アジアは私に合っていた  
インドについては、インドに対して大好きな人に何故か囲まれていた
旅行のコツ、言葉が解ってしまうと駄目ですね 
嫌なことも聞こえてきてしまうし、心穏やかに旅ができない  詳しくならないほうがいいのでは

生れて初めて英語以外のタイ語を習ったときに、タイ人の発想とか、暮らしぶりとか、そういうのが物凄く、言葉を学ぶことが解ってきて、途中で面白くなった
台湾 行くたびに気になる 
アジアの矛盾みたいなものが集まっているようなところ
アジアを歩くとき、時々、中国以外のどの国でもテレサテン(私はテレサテンが好きで)の声が聞こえる 
台湾は日本以上に懐かしいと書いてある 
なんでこの人たちは私の考えていることが解ってくれるんだろうという事が、台湾では多くて、世界で台湾しかないのではと思った
戦後の台湾という国がアメリカとどう付き合うか、大陸とどう付き合うか、はっきりしたものに身をおけないエリア
日本も中国人、アメリカ人みたいにはっきりと、自分の国はと言えない状況の中で生き抜いてきた人たちというのが、台湾と妙に似たようなところがある
台湾には、戦前に定着した日本の食べ物とか習慣が意外としっかりと残っていることがある
そういったものを食べると、子供時代を彷彿とさせるような懐かしさがある

ゆるくて深いアジア アジアの魅力  私が憧れる部分はある意味でのゆるさなんですね
日本人はしっかりした民族    
タイで身につけていったこと 食べ物が余ったりするとすぐ捨ててしまう(冷蔵庫があるのに) 
冷蔵庫の使い方は水を冷やすだったり、氷作るだけだったり、野菜は毎日市場で買ってきた方が新鮮なものを食べられる、どっちが豊かなのか分からない
日本人がしっかりしているという事はそんなにいいことなのかという事はある
毎日市場に行って、食べ物を作るという事は、時間がゆったりしていないと出来ないこと
私のタイの宿には出入りが多くて、友人がきて、中には知らない人がご飯を食べていったりする
そういったところが、楽なところ との思いがある そういったゆるさがある
仕事をしていないようでも生きて行ける

田舎は完全にセーフティーネットを持っている (仕事がなくても何とか食べて行ける)
破たんしたら、田舎に帰っても御飯だけはあって、食べて行ける
日本はセーフティーネットが無くなってしまっている
仏教とか、生活習慣とか 親を大切にすること、農業がどういう存在で、国の中で生きれたかという問題になってくると、日本が学ばなければならない部分としての深さみたいなものを持っている
ゆるさと深さは一緒 この人たちは頭が良いんだか悪いんだかわからない 
アジアと付き合っていて、いまだにわからない
日本的な暮らし方の中で、きっちり、かっちりやってきたことが幸せなのか、ベストなのか、タイの暮らしを見ることで、見えてくるとか、考えさせられる

「週末のアジア各地を旅する」シリーズ  
格安航空等で気軽に行けるようになってきた  
いかに効率よく見てくるか それではアジアの緩くて深い部分の良さを味わえない
日本人が失ってるものを気付かしてくれる部分のためには、ゆったりとしている方が近道ではないかと思う
旅とは? 昔に較べれば、段々歳をとって楽になってきた
昔は肩肘張って、旅してるぞというみたいな感じをしてきたのが、楽になってきている部分がある
行ったことのない言葉も通じない、国に行くが、日本にいる時よりも楽に感じる
日本人はしっかりしているし、しっかり生きなければいけない自分がある
日本にいると装って生きている、無理しないで生きている世界にポッと入ってゆくと、楽な時間が過ぎることができた事の方が大きいから、意外と楽なものとして旅がある という事がようやくなってきた

目的地に行こうと思っても、途中の果物屋さんとかで、これは何だと引っ掛かったりして、目的地に辿り着けないタイプですね
日本人は今日決めた工程を、こなさないと気持ち悪いタイプと途中までいて、いいや今日はここで帰ろうというタイプ 之を身につけると楽です
旅行作家は旅に出ないと駄目 59歳でいつまで旅を続けられるのだろうとの思いはあるが、人生経験のあるシニアは、若い人とは違う一人遊びの楽しみ、自分の中に蓄積が多いほど旅は楽しくなると思う
一人の時間が楽しくなってくるという気がする
人生経験のあるシニアは、楽しさのコツが若い人よりも、わかりやすいと思う



























2013年9月5日木曜日

上杉春雄(医師、ピアニスト)       ・医師としてピアニストとして人を癒やす

上杉春雄(医師、ピアニスト)  医師としてピアニストとして人を癒やす
  
札幌で医師として勤務しながら、ピアニストとしても活躍しています
4歳からピアノを学び、小学校時代からコンクールや演奏活動で其の名を知られていた、上杉さん、ピアノを続けながらも中学校時代に医師を目指すことを決め、北海道大学医学部に入学しました
学生時代にあるコンサートの様子を聞いたレコード関係者から声をかけられて、CDデビューを果たしました
北海道大学在学中に、1986年にマリアカザレス、バルセロナ国際音楽演奏コンクールで入賞、1988年サントリーホール、大阪シンフォニーホールでデビューリサイタルを開いたり、1990年には諏訪内晶子さんとのジョイントコンサートを各地で開いたりしました
大学を卒業後、東京都内で、医師として勤務しました
そして5年後東京大学大学院に進学、医学博士を取得しました
その年スウエーデンのウプサラ大学に入学しました
2003年に演奏活動を再開、現在は札幌市内の病院で神経内科医長として勤務しながら、ピアニストとしてもコンサート活動をしています
CDデビューをしてから今年で25年を迎える上杉さんに伺いました

あっという間の25年だった 学生時代から時間があまり経っていない様な気がする
神経内科医長 脳、脊髄、末梢神経、筋肉を見る内科医で、半分ぐらいが脳卒中、神経難病と言われるいろいろな病気、パーキンソン病、筋ジストロフィー、アルツハイマー病、・・・
症状で言うと、頭痛、めまい、力が入らない、しびれる、口がもつれた 等
救急のお手伝いもしている
医師でピアニスト あまり聞かない 指揮者、作曲家はいるが 体を使うのでほとんどいない
昔から両立は無理だと言われたが、職場の方に助けてもらいながら、なんとかやってこられた
難病の人が10年ぶりに聞いて、この40分は病気のことを忘れていたといわれて、一時期院内コンサートをやっていたこともある(現在もたまにはやっている)

十勝の根室で育つ  母親が学校の教師だったので、たまたま家にピアノがあってピアノを弾いていたので、何となく触っていた
小学校3年生の時に、本格的に指導する先生で、それからピアノを弾く時間が増えていった
其先生が突然今年亡くなってしまったが、25年間見守って支えてくださった先生なので、まだまだ聞いていただきたかったが、何とも言えない寂しさがあった
ピアノを習って、コンクールで賞をもらえなかった事はなかった
音楽が好きで、カセットテープにレコードを落として、どこでも、いつでも聞いていた
(トイレ、食事中、寝るとき、車に乗っているときでも聞いていた)
激しいスポーツはやらずに、水泳とか、虫取り、野原を駆け回っていたりした

中学の途中で札幌の方に引っ越しをして、勉強をしていた
高校に入る段階で医学部を目指していたので、一生懸命勉強しないといけないと思って、高校時代は真面目に勉強をし、北海道大学の医学部に入学した
13歳でウイーンに行って、教授に教わったが、直ぐにこちらに来いと言われ、中学校の段階で突きつけられたので、いろいろ考えて、中学校の2年の時に医学部を目指すことを決めた
人間が生きる上で一番大事なことはなんだろうと考えた
結局、人間が生きるという事は、心臓が動いているとか、呼吸ができているとか、三度の食事がおいしく食べられるとか、夜ぐっすり眠れるとか、こういう派手さのない繰り返しがうまくいっているから、我々健康でいろんなことができると思えば、ベーシックなところが一番大事だと思った
偉大な、単調な事が一番大事で、それを守る仕事が、多分私にとっては一番やりがいのある生き方になるのではないかと、言う事が最終結論となった  そして医学部に行くことを決めた

日野原重明先生(102歳)と話したが、秘訣として先生がおっしゃったのは、30歳の時から腹囲と体重が全然変わっていない
食事を節制して、体重維持のために適度に運動している、それだけをおっしゃった
大学在学中に、演奏会をやっていたときにレコード会社の人から言われて、契約しようという事になって、一気にメジャーデビューというようなことになってしまった
学生の時にしか出来ないだろうと思って、そんな気持ちで始めた
国家試験時には音楽はストップした(数年間は弾くことはなかった)
医者として生きていく上で、いい臨床医になるためには、患者さんを見ているだけではだめで、自分が患者さんを見るための武器をきちっと身につけないと良い医者にはなれないと、言われて、武器が欲しいという事で大学院にいくことに決めた

医者の仕事に慣れてくると、ピアノを弾いていない自分に物足りなさを感じた
患者さんの集まりで弾いてくださいと言われるのが、ぽつぽつ出てきて、そこで弾いて喜んでもらえて、嬉しかったし、音楽に何となく魅力を感じ始め、音楽の勉強を始めた
医師と音楽家との関連性は?  どうやって効率的に体を使うかなどは、自分の専門分野で少しは役に立っているが、音楽の大事なことは、うまく楽器を操ることではなくて、もっと音楽というものをどう考えるかという事になってくると思う
医学とはあまりにも違う部分が多い
医者の仕事は医者の仕事をきちっとやりたいし、両方区別して仕事をしようという気持ちが強い
最近はそういう方向に行きたいと思っている

弾けるときに弾く   癒しという事でいえば、家族がいてほっとする時間は貰っている
人間が在る課題を達成しようとする場合に、二つの要素があって、 
①外から御褒美をもらう
②自分の中からの欲求 中からの欲求の方が強い
辛い思いをしていたとしても、なんとかそれを自分で乗り越えようと、いう気持ちを常に持ち続けられる状況に生きているので、癒し、息抜きとしては、考えていない
子供は小学校高学年 2人 ピアノは特に強制的には考えていない 
音楽と付き合える楽しみが持てるという事が良いかなと思います
音楽は間口が広いので、いろんな楽しみ方があるので、一生いろんな形で楽しめると思う
(音楽のジャンルの広さ、聞く、演奏する、歌う、踊る 等々)

デビュー25年 10月、11月にコンサートを開く(北海道から関西まで)
時間が経つという中で、人が一生懸命生きているというのは、どんな時代、どんな国でもそうだと思うので、音楽家にとってみれば、環境の変化を音という形で、残していってくれているので
バッハの時代 300年前の音楽から50年ぐらい前の音楽まで、時間の流れの中で、人が一生懸命に生きているんだという事を含めて、見つめてみたいという欲張ったプログラムではあるが、
古典的なレパートリーからストラヴィンスキークセナキスというところまで俯瞰するような演奏会をやってみたいと思っている

生きることを問いかける様な選曲にもなっているし、音楽としても楽しめるようにしている
医学も基本的には日進月歩があって、新しい知見とカが出てきているが、基本は人間の体がここに在って、そこでなにか不都合があって、症状が出てると、そこからスタートするものだと思う
研究がどんなに進もうと、患者さんの話しをきちっと把握すること、患者さんの出されている症状をきちっと見つめること、一番ベーシックなところを大事にする
音楽についても、人の心が何かのきっかけで動いていることから、起きていると思うので、人の心が動く瞬間を我々演奏家は再現するんだと、人の心が動く事の積み重ねで生きているのだから、最終的にはそういうところに何か絡むようなものをイメージしていただく、そういうものを出せたらいいなあと思っています

演奏を終わって一番嬉しい瞬間は?
拍手がどうという事ではなくて、作曲家の魂みたいなものと、自分の感性とそれが一つに溶け合って、音になって、それがスーッと聞いている方たちの体の中に入って行っているというのが、イメージする瞬間をたまに感じるが、そういった時が一番楽しい


























































2013年9月4日水曜日

山口美代子(市川房枝研究会)  ・ 市川房枝から学ぶもの 2

山口美代子(市川房枝研究会) 市川房枝から学ぶもの 2
財団法人市川房枝記念会女性と政治センター  2Fの入口に市川房枝の等身大の写真があるが、昭和56年の5月に雑誌で写真を撮られた物が、採用された
生涯の活動をDVDで紹介、愛用していた服、靴など色々展示してある
ざっと戦前で8万点 戦後その3倍はあると思っているが2/3は整理がついたがまだ1/3は残っている
私がここに声をかけられたのは1997年です
国会図書館時代、現代政治史に深くかかわってきた人たちから、これまでに公表していなかった事実をお話うかがえないか、録音テープに収めるという仕事をしていた
市川房枝さんにお願いに行った
これほどまでの資料があるとは吃驚した
国会図書館を退職した人を初め、ボランティアを含め、5人で整理している、全部で30万点近くなる
戦前の物が焼けずに残っているのが貴重だと思う
八王子の家の蔵に昭和19年に資料疎開をした

婦選獲得同盟に関する資料、 日記、婦人参政権要求に関する対議会活動の記録、幅広く其時に活躍していた人たちとの手紙のやり取り資料、市民運動資料(ごみ処理、政治浄化の問題)
戦時下の国民生活関連資料、海外の夫人との交流の資料 等
1930年(昭和5年)4月27日 第一回全日本婦選大会の写真 市川さんがかねがね要求していた婦人参政権を団体に呼び掛けて、明治神宮外苑に在る日本青年会館で行っている
参加者は482名 東京がおおいが、地方からも50人参加
大半が和服、当時の家庭事情から言ったら、そう簡単に家を出てくるのは大変だったと思う
女性だけが集まる集会であったが、文部大臣からの祝辞、犬養さんからの祝辞も頂いた
翌年5・15事件で犬養さんは亡くなってしまう

「婦選の歌」 与謝野晶子、作詞 作曲、山田耕作 歌、原信子
戦後、市川さんは一時期追放になる なかなか情勢活動ができない時代があった
日本の女性は非武装を願っているので、講和条約に対して、意見書として提出する
ガントレット恒子、平塚らいてう、野上弥生子植村 環 上代たの,ら5人
追放時ではあったが市川さんも裏方として原稿に筆を入れていた
参議院 昭和42年12月9日 支払明細書 ボーナス袋 20万936円 あらゆるものを取っておいた
1953年(昭和28年) 第3回参議院選挙に立候補して、議員になる(60歳)
27年間の議員活動 1981年亡くなるが、その間中、国会の発言が重要だと言っている
232回 発言している  政党に属さない人だったが、短い時間でも精力的に発言する

女性も政治の中核に置かなければいけないと、信念としては政策決定の中枢の場に参画することが婦人問題を解決する近道だという信念を崩していなかった
売春防止法 人権問題として大きな婦人問題であったと思う
膨大な請願書がまとまって残されている
(鹿児島県の県民の署名簿 1955年6月に集められているもの 5~6冊ある )
超党派の婦人議員に依って提出されている

緻密な方だと改めて、録音を担当したときに思った 質問に対して詳細に調査して受け答える
7時間  1回目は1978年3月29日 2回目は5月19日に行った
質問者 児玉勝子さんに質問者になっていただいたが、他にもう一人と言われ私も参加する事になる
銀行口座を持っていなかった 特定の銀行との取引をするといろいろ在るので、配慮していたと思われる(政治資金規正協議会を成立させた人だったので)
一緒に食事をしたときでも、先生と同じものを頼んだが、先生は質素なものを頼んでいた
つけとかではなく、現金で払われた

1981年(昭和56年)2月11日に亡くなる
1980年に参議院全国区で1位当選 278万票 驚異的な得票だった
日赤病院に入院 病院が困るぐらいのお見舞い客が殺到する
お通夜の沿道には普通の格好をした人などを含めてびっしりと集まってきた
絶筆となった映画の推薦文がある
「しみじみと戦争が嫌いになる美しい映画 戦後派のお母さん達も、子供たちと一緒に是非見てください」と書かれている 倒れる2日前に書かれている
市川先生から受ける大事な資料を研究者に橋渡しして行って、次の世代に伝えてゆくという、その人たちのために残して行きたいなあと、そう思いますが、まだ残っている膨大さに戸惑いを感じてはいる、でも必ず次の方たちにもそれができるものと思っています



























2013年9月3日火曜日

伊藤康子(女性史研究家)      ・市川房枝から学ぶもの

伊藤康子(女性史研究家)   市川房枝から学ぶもの
「平和無くして平等無く、平等無くして平和無し」
女性の参政権と理想選挙運動に生涯を捧げた市川房枝さんの言葉です
戦前は運動家として戦後は主に国会議員として長年活動を続けて来られ、1980年に87歳で生涯をとじた市川さん、今年で生誕120年になります
彼女の功績を後世に伝えようと、出版物を発行したり、展示会、講演会などの様々な活動を続けているのは、東京渋谷区代々木に在る市川房枝記念女性と政治センター、このセンターでは市川さんの志を継ぐ、女性たちが集まって8年前に、市川房枝研究会を立ち上げて、残された膨大な資料の収集と整理を手弁当で続けています
メンバーの一人、女性史研究家の伊藤康子さんに、市川さんの生涯を振り返って、彼女から何を学ぶべきか、伺いました

日本の近代は、男性天皇 男性しか天皇になれない、しかもそれが頂点になる、そういう政治体制を組んだものなので、女性は必ず下住み、我慢して愚痴をこぼすだけ、従順に耐える方が楽だし、その方が生き方として賢いという風に思って、戦う発言、行動もしなかったが、それでは駄目だと、なんとかしなければだめだと、真面目に度量した一人が市川房枝
金のかかる選挙だと、金儲けする、そのような形で汚職、わいろがはびこるので、お金のかからない理想選挙を押し出しました
私は敗戦時に6年生でした  軍国少女でしたが、戦後何を信頼して行ったらいいか分からなかったが、憲法を勉強したりして、自分自身の生き方を自分自身で貫いてきた

人間らしく生きてゆくことを求め続けてきたと思います
市川の父は母親に暴力をふるっていて、暴力を振るわれても、子供たちが可愛いから、我慢しているんだと、女に生まれたのが因果だからしょうがないと、市川房枝さんに語っていたといわれるが、市川さんは女に生れたら、何故我慢しなければいけないのか、なんで因果なのか、納得できなくて、此の母の嘆きが長い闘いの出発点になった(自伝映画の中で語っている)
妻に対しては暴君だったけれど、子供たちに対しては優しいお父さんだった(同映画)
市川は1893年に生れる 愛知県一宮市 (金さん、銀さんは其1年前に生れている)
金さん、銀さんは親、嫁ぎ先、地域の女の人を見る目に従う人生を送った
市川は、女学校に行きたいと、県立師範学校にいき、スポーツにも触れ、大正デモクラシーに触れ、キリスト教にも触れて、段々大人になりかけてゆく中で、自分らしくはどういう事かを考えてゆく

女性の先生は男性(18円)より2円安い 学校でも雑用は下女のように働かされた
東京に勉強のために向かう(25歳)
英語を教えてもらうために、兄の友達だった山田嘉吉の塾にいって、そこで平塚らいてう神近
市子などと知り合う事になる
新婦人協会を作る 2年半して治安警察法の一部を改正させる
女子、未成年者は政治的会合に参加できないし、それを主催も出来ないという法律だったが、それを取り払う事が出来た
その後アメリカに行き、国際労働局の職員になるために帰国する
婦選獲得同盟に参加して、中心的な活動を始める
男子普通選挙実現 1925年(大正14年)  議員、役人、管理職など決定権のあるところからは女子はのけものにされていた

売春禁止法を成立させようと思っても、女性議員がいないために出来なかった
女性の先生は政治に関われなかった
第一次世界大戦後は世界の先進国では、婦人参政権が実現する事は当たり前になっていた
政党、男性議員、政府などに働きかける
昭和5年、第一回全日本婦選大会を開いた(政党からも参加して祝辞を述べる)
「婦選は鍵なり」市川房枝も参加した
会員は日本全国の中で1500人程度の会員だった
毎年のように全日本婦選大会を開いた(昭和10年前には実現するのではないかと思われたが)
昭和6年、満州事変がはじまる 軍部がのしてくるので、婦人参政権は駄目になる
戦争は嫌だと、とうとうここまで来ちゃったので、いくらかでも被害を少なくすることをやるべきだと、体制を認めることはやむを得ないと腹を決めた(市川房枝)

軍部は女性参政権にもっとも反対していた 
政府は市川が持っている名前と企画力、利用したいと考えていた
国民精神総動員運動の委員にしたり、大蔵省の貯蓄奨励講師、大日本言論報告会の理事に任命した
本当は逃げたいのだけれども、女性の被害をなんとか少なくしようと考えた
情報局、新聞記者から情報を集めて、女性の生活、方針をどうしたらいいか討論を重ねた
敗戦後、即座に再開ができる基盤になった
資料を八王子の蔵に疎開させる、それが今、市川記念館女性と政治センターに展示されている
女性を半歩でも進めようとする姿勢が、戦後の婦人解放運動に結ばれてゆく

昭和20年8月25日から活動を開始する 
世界で初めて女性参政権を始めたのは、1893年 ニュージーランドが最初
アメリカは州によって違う アメリカ全体として実現したのが1920年
市川は女性の啓蒙のために全国を回る
1953年 東京地方区の参議院議員、第2位で当選する
1959年、1965年、1971年(落選) 1974年、1980年全国区から立候補 有益な活動をした
理想選挙一筋に戦う  女性地位向上、勤労者の生活安定(未亡人の生活の安定)、民主主義政治の確率、平和憲法を守る  このような公約をいつも掲げている
議員の定数是正 (市川が落選した年に、山陰で市川の何分の1で当選した人がいた)
汚職議員を落選させる運動を展開する(お命を頂戴するというような脅しがかかったりする)
社会での成果、現実にひとつずつ丁寧に追っかけたり、糾弾したり、抵抗したりして、其中で実現してゆくことを考えて、実行したんだろうと思います

私利私欲が無く主義主張が一貫している
参議院も政党化する方向に来てしまっていることが、本来の市川の考えとは違う
1946年女性参政権ができ、立候補は79人 当選39人 女性の政治力は期待されたが、評判は良くなく、情勢の政治力は成熟していなかった
次の選挙では女性議員は15人 国会議員女性比は先進国で最低
実現させるのには長い時間と活動が必要でした
内容を充実させなければ、先輩が苦労した意味が薄くなってしまいます
学校で教わっても、市川の名前は忘れらたりします
大きな市川同様には出来ないかもしれないが、小さな市川が沢山いて、ちいさな市川を支えるもう少しちいさな市川がもっと沢山いれば、市川の正義の心は生き続けると思います