2023年1月31日火曜日

矢口高雄さんの次女           ・〔わが心の人〕 漫画家・矢口高雄

 矢口高雄さんの次女(かおる)          ・〔わが心の人〕  漫画家・矢口高雄

昭和14年(1939年)秋田県横手市に生まれました。  代表作「釣りキチ三平」をはじめ大自然と向き合う姿を描き続け、新しい漫画の世界を開拓しました。  令和2年(2020年)亡くなりました。(81歳)   

今神田の神保町では矢口高雄さんの原画展が開かれています。   かなり幅広い世代の方が来ています。 

小学校のころは姉と一緒に夏休み、冬休みは父の田舎で過ごしていました。  家は祖母が亡くなった時に家を取りこわしてさら地になっています。   父は中学校時代は毎日8kmの道を通いました。  父は崖から落っこちたり、まむしを踏んだり、漆かぶれをしたりしました。 

横手市は冬は大雪になり一面真っ白になります。  父は漫画が大好きで手塚治虫さんにしびれて漫画を書いていたりしました。  小学校5年生の時の絵が残っていますが、小学生の描く絵ではないですね。  中学卒業したら働くという時代でしたが、頭が良かったので先生から高校に行くように説得されたそうです。  秋田県立増田高等学校を卒業して銀行員になる。   白土三平さんの「忍者武芸帖」に出会ったことで、漫画家になりたい熱が再発したと言っていました。   1970年の6月1日、姉がいて私が1歳の時に銀行を辞めて、漫画家になりました。   

「釣りキチ三平」に関しては三平が自分自身だと思います。  三平君の幼馴染のモデルは母親です。   「釣りキチ三平」の連載が始まったのが1973年(50年になります。)。   新しいエピソードを書く時には必ずそこに取材に行って、ターゲットの魚に関してチャレンジして、作品に取り込むというのがモットーでした。   海外にもいろいろ行っています。   父は釣りは大好きで、待つのが釣りだと言っていました。  

 令和2年(2020年)亡くなりました。(81歳)  5月ぐらいから体調が悪くなり、すい臓がんが見つかりました。   介護が出来るように介護学校に通おうと思って受験して合格した1週間後、半年で亡くなってしまいました。   辛い治療でしたが、弱音を吐くことはなかったですね。   最後に「ママ有難う。」と言ったのが印象的でした。

父は家では普通のお父さんだったと思います。    ギャグを言ったり料理もしていました。    忙しい中にも時間を作って、授業参観に来てくれたり、子供の成長をも守っていてくれました。   大人になってから一家4人でマージャンをよくやっていました。 私は3年前まで、旅行会社に30年ぐらい勤めていました。   

父の漫画は教科書に載ることになり、吃驚しました。  高校入試の問題になったりもしました。  漫画はいけないものというような風潮の時代からすると、変わったなと思います。   72,3歳の時に、漫画を描かないで原画保存とかを一生懸命考えていました。 2012年に姉が亡くなっています。(45歳)   それが大きかったと思います。    私が結婚した相手がたまたま父の大ファンで、ホームページを作って更新しています。   2019年の6月に父のために何かできないかという事で、ツイッターを始めました。  父がスケッチブックに絵を描いて、私が写真を撮って、配信します。  冬眠していた矢口ファンが一気に目覚めたような反応がありました。    フォロアーも1か月ぐらいで3万人を越えました。    楽しそうに描いている父を見て嬉しかったです。       

猫との出会いと別れを描いたエッセーの本があります。  猫の名前がナッコ。 23歳まで生きて、人間でいてば100歳越えだと思います。  イラストも父が描いています。   

父は子供のころ手塚治虫さんにファンレターを出して、返事をもらっったので、同様に父も返事を出していました。  手塚治虫さんとはパーティーだとかで何度か会っていたようです。   漫画家2世の会というのがあって、去年の11月に女子だけで集まろうという事になって、有名な方々の2世と会えました。   紙なので劣化してゆくので、原画保存について悩んでいました。     秋田県横手市に漫画美術館があり、父の原画は全てそちらに寄贈して保管してもらっています。   父がやってきたことを多くの人に伝えていきたいと思います。  









  





















  








   

2023年1月30日月曜日

合木啓雄(アフターケア事業所運営)   ・自立へと歩みだせない若者たち

 合木啓雄(アフターケア事業所運営)   ・自立へと歩みだせない若者たち

社会的養護とは保護者がいない、あるいは保護者が育てることができない子供を保護して支援を行う事です。  厚生労働省の一昨年の調査によると、親からの虐待など家庭の事情によって社会的養護を受けなければならない数は、全国でおよそ4万2000人、そのおおくが児童養護施設や里親の元で暮らしますが、18歳になると施設を退所し、自立しなければなりません。  退所した人のなかには頼る人がおらず、社会に出て孤独を感じることも多いと言います。  そうした若者たちの暮らしをサポートしているのが合木さんです。  県の委託費や補助金、寄付金などを受けて5年前にアフターケアー事業所「わっかっか」を設立、居場所を提供したり生活の相談に乗ったりしています。   社会的養護を経験した人たちを取り巻く現状を伺いました。

家に帰ってきたところでくつろげるような空間にできるように心がけています。   なるべく家に近い空間であるように心がけています。    施設を退所した人であればだれでも利用で来るようにはしています。  18~20歳の男女、または施設を退所した方が子供を出産して子供と一緒に来たりして、30代、40代の方もいらっしゃいます。    仕事の悩み、人間関係の悩みなどを聞くこともあります。  生い立ちを知っているので話せる部分もあると思います。   スタッフ4名でやっていますが、それぞれ社用の携帯を持っていて、ラインとか、フェイスブックとかSNSを使って、若者が連絡しやすい方法で連絡が取れるようにしています。  発信しやすいように心がけています。   訪問することもやっています。   体調を崩して一緒に病院へ行ってほしいというようなことで付き添ってゆくこともあります。  民間にしかできないこともあると思っていて、より身近な存在に成れるようにと思っています。

大阪で両親と兄弟5人で暮らしていましたが、祖母が亡くなってから丸亀市内に引っ越してきました。  母が、小学校3年生の時に家出をして、父に育てられました。  母は突発的にいなくなることがあったのと、父が酒を飲んだ時に暴力をふるうという2つのことで家出をしたものと思います。    父に連れられてよく海に釣りに行ったのを覚えています。   中学の時に父が病気になり入院することになりました。  僕たち3人が児童養護施設に入所することになりました。   父は肺がんで、入所している時に亡くなりました。   これから先どう生きて行けばいいのかわからなくて、お先真っ暗という感じでした。   45~60人ぐらいの大きな施設でした。  中学生では同じ年の子が5人いました。   高校時代は施設にいるという事で、何となく違和感を感じました。   

18歳で施設を出なければいけないので、或る意味漠然とした恐怖感がありました。   18歳で大学進学が出来なくて、半年間延長させてもらって予備校に通いました。    前例がなかったので有難かったです。    学費は奨学金、生活費はアルバイトでした。高校3年生の時に実習に来てくれた先生との出会いが、僕のその後の進路を変えるきっかけになりました。  自分が経験した施設のことを生かせるのではないかと思いました。  大学を卒業して香川県に帰って民間の児童養護施設に就職しました。  中学の女性徒たちが集団で、壁中に落書きしたり、脱走するとか、という事件がありました。  話す中でわかることよりも判らないことの方が多いんだなという事に気付きました。   判ろうという姿勢が大事なんだなと思いました。   時代も背景も違う。   自分自身が決定してゆくことが大事だと思います。   言ったことに〇とか×とかジャッジはしないようにしています。  

大学時代に母が生きていることが判り、生活保護を受給するなかで、子供の僕たちにも扶養義務があることの連絡がありました。  当時は対応はできませんでした。 通知が来なくなり、施設に電話をしたところ亡くなっていたのが判りました。   母と一緒に暮らしていた人がいて、手紙を書いて会ってくれることになりました。   会って話を聞いたら、息子たちのことを気にしてはいたが、自分で家を出たから自分から会いに行くことはできないと言っていたそうで、それを聞いた時に物凄く申し訳ないことをしたなと思いました。  

成人することによる契約行為、お金を借りるなどは、18歳で出来るようになるが、20歳になって出来るよりも、危険なところはあるのではないかと思います。  躓いたりしてもどこか大人に頼れることは大事かと思います。   自立、身辺的な自立、精神的な自立、経済的な自立、などがありますが、困ったことを言いながら生活してゆくことが自立ですよ、一人で生きてゆくのが自立ではないんだよと、言う事は常にサインを出しています。  突然のピンチがやってきた時に、僕たちスタッフの誰かの顔を思い浮かべて、連絡してくれたら本当にありがたいなあと思います。  若者自身の声に寄り添ってゆくことで、若者自身が自分らしく生きて行けるように、僕らは心を繋いでゆくのかなあと考えています。   心を繋いで子供たちと一緒に生きていきたいと思います。








































 







  

2023年1月29日日曜日

原口美智代(猫専門新聞  副編集長)   ・夫のロマンは妻の苦しみ、そして生きがい

原口美智代(猫専門新聞  副編集長)   ・夫のロマンは妻の苦しみ、そして生きがい 

猫に関するエッセーや評論、詩などの文学作品を掲載している大人向けの猫の専門誌が去年七月創刊28周年を迎えました。   創刊したのは文学と猫が好きな原口緑郎さんです。   しかし、1年後に脳出血で倒れ休刊。  リハビリ生活の末、5年後に復刊し、妻の美智代さんと2人で28年間発行し続けてきました。   しかし、去年の末に緑郎さんが亡くなり美智代さん自身も高齢に加えて健康不安を抱えて、若い人たちにバトンタッチをしたいと考えています。   数々の試練を乗り越え、夫の夢を必死でかなえ続けてきた原口美智代さんに、新聞つくりの苦労と生き甲斐を伺いました。

2022年12月20日猫新聞編集長だった主人(82歳)がなくなりました。  結婚して56年目で、27年間闘病生活でした。    主人は心が癒される仕事がしたいと思うようになって、猫が好きで、文学が好き、絵、音楽が好きでしたから、企業人ではなく文化人で、猫新聞を思いついたらしいです。  タブレット版の8ページ、詩があったり、音楽作品があったりしています。  ページを開くと名だたる方々の猫にちなんだエッセー集、詩、評論など数多く掲載されていて、格調高い新聞となっています。   写真ではなく猫の絵でやろうという事で探して、絵の下に詩をつけてという形で創刊しました。  

最初は大反対でした。  お金もなく、友達から借りるにしても1,2回はいいが毎月猫の新聞など出せないと言っていました。  始めましたが、1回出しただけで具合が悪くなり、1年で倒れてしまいました。   治療して普通になり、復刊したのが28年前の7月でした。  脳出血で左半身完全麻痺で、倒れてすぐ車椅子になりました。  東京から中伊豆温泉病院に転院しました。  別荘だった家を借りてそこから病院へ行ったり来たりしました。  半年後に出て行くように言われ、結局7か所変えました。 伊豆、東京、新潟にも行きました。   倒れた時から廃刊と思っていましたが、作家の方々には「今は休刊しています」と言ったら、復刊するのを楽しみにして待っています、という手紙が来たりして、主人は喜んで泣いていました。 それで主人はリハビリを頑張るようになりました。

復刊は東京の病院へ入院している時に、主人が可愛がっている毎日新聞の記者がいて、見舞いに来てもらって、話をしていたら、毎日新聞の社長の斉藤明さんが猫好きだったんです。  復刊するなら協力させてほしいという思いがけない話を頂きました。   リハビリに励み5年七か月休刊しましたが、22日は猫の日なのでその日に猫新聞というところを半ページ作っていただき、そこに表紙の絵と詩とエッセー、8年間掲載してくれました。  

猫新聞のモットーは「富国強猫」です。  猫がゆったり眠りながら暮らせる国は心が富む国と言っています。  執筆者には、素人なので全部当たって砕けろで、原稿依頼していました。  松谷みよ子さん、吉本隆明さん、長田弘さん、浅田次郎さん、養老孟司さん、山田洋二さん、森村誠一さん、林真理子さん、水谷八重子さん、加山雄三さん、安城由貴子さん、小池真理子さん、角田光代さんなどそうそうたるかたがたです。  全部で300人ぐらいいると思います。   表紙を飾っている絵も最初は大変でした。  画廊巡りをしていましたが、資生堂の名誉会長の福原さんが企業人の雑誌の編集長をしていて、福原さんに猫新聞を送ったら、福原さんから画集が送られてきました。 全部猫なんです。  紹介してほしいと言ったら、小銀という名前で、猫新聞の表紙に使いたいのであれば、無料で全部データは取ってあるので、お貸ししますといってきてびっくりしました。

画家の方も熊谷守一さん、小沢良吉さん、やなせたかしさん、いわさきちひろさん、和田誠さん、横尾忠則さん、里中満智子さん等の作品があります。  絵と文学作品とのマッチングが難しかったです。   

車椅子からひっくり返ってしまって、それまで要介護3だったのが要介護5になってしまって、それからがより大変になり、介護施設に主人を入れました。   2022年11月25日が結婚して56年目の結婚記念日でした。  スマホで話しましたが、その時には意識がありました。    

動物愛護ワンダフルパートナーズ賞  川島なお美さんが動物愛護基金を作った。 湯川れい子さんの推薦で頂きました。  身体は障害者になっているが、心は障害者になっていない、というのが主人の持論でした。    私も身体の具合がよくなくなってきて思いますが、よく主人は愚痴を言わなかったと思いました。  聞くと身体の左にナイフが巡っているようだというんです。    主人を精神貴族と言います。  プライドが高いです。 自分の思う事はどんどんやって行っちゃう。  猫新聞を出す時に広告なしでやっていきますという事でやってきました。   経費も大変で、猫新聞を支える会を立ち上げたら、NHKのテレビが取材に入りました。   そこで900万円も集まりました。  支える会は13年続いています。    しかし今、猫新聞自体が大変で、辞めようか何年も前から悩んでいました。    若いスタッフがやりたいと言い出したんです。   是非応援して猫新聞を続けてくださる方が出てくださると有難いと思っています。  

月刊「ねこ新聞」を創った夫婦 夫のロマンは妻の苦しみ」を昨年出版。  主人が生きているうちに本を渡せることが出来て良かったです。  大変な思いで28年間生きてきたので、主人には「ご苦労様でした。」と言ってあげたいです。  猫新聞緒経営に加わってくれる人がいたら、お力添えを頂きたいと願っています。














































 





  











2023年1月28日土曜日

藤原しおり               ・肩書きのない働き方を目指して

藤原しおり               ・肩書きのない働き方を目指して 

高校まで岡山で過ごし、2017年にブルゾンちえみの名前で大ブレークしました。  印象的なメーク、ヘアースタイルを覚えている人も多いのではないでしょうか。 「35億」という歌で大人気になり、「35億」は2017年の流行語大賞のトップテンに入りました。   2020年にブルゾンちえみから本名の藤原しおりとして活動を開始、現在は動画投稿サイト ユーチューブの配信やラジオパーソナリティーとして活動しています。 

子供のころは頑固でした。    2人で遊ぶよりも3人で遊んだほうが、自由が利くので3人で遊ぶのが好きでした。    岡山では大阪から芸人さんが来ていたので、お笑い芸人になった一因かと思います。   一旦自分でも休憩したい、落ち着いてみたいという事もあって(2020年 コロナ)、ぼちぼち生きるという事を目標に生きています。  

「35億」というネタを作った時に、ワードが流行るなんて一切思っていませんでした。  吃驚しました。   自分の好きなことを詰め込んだだけだったので。  音に何かをはめるのが好きでした。  音楽を決めてからネタを作っていました。  大学3年のあとちょっとのところで中途退学しました。    先に何があるから辞めるという事ではなくて、今ここで立ち止まるという事をさせて欲しいと思いました。  このまま走り続けると取り返しのつかない、もっと精神的にも落ち込んでしまうかもしれない、這い上がって来るのにももっと時間が掛かってってしまうかもしれないと思って、ブルゾンちえみとしての忙しさで心身ともに又大学の時みたいな感じの時が来たぞと思って、今回は大学の時の様に落ちてしまう前に、自分でストップを掛けました。

ブルゾンちえみは舞台上でやれるからのキャラクタ-でした。  いつの間にかみんなの要望に応えるいい子になっているじゃないかと、かっこよかったはずのブルゾンちえみが違うキャラクターになって行っているのが悲しくて、私の好きなキャラクターのままでいて欲しいから、舞台から下がろうかという思いもありました。  

岡山のかっこいい先輩に認められたいという思いが、お笑い欲を掻き立てる原点になっています。   ここまでやれば怒る、ここまでやれば笑う、とトライアンドエラーでデータを貯めて行ったと思います。(中学時代)   みんなに面白いと思われたかった。    お笑いに目覚めたのは小学校5,6年生のころでした。   お笑いでこんなに人間関係が円滑になるんだと思いました。 

2018年西日本豪雨があり、実家も被害を受けました。  忙しいなか1日休みが取れそうで、地元か真備か、迷いましたが、真備の現状を確認したくて真備に行きました。    情報が多くて、何が必要で何が優先順位なのか、私のなかではさばけなかったので、行きました。  ブルゾンちえみの顔で行った方が地元の人たちにも喜んでもらえるのではないかと思って、ブルゾンちえみの顔で行きました。  喜んでもらえたかと思います。     

ブルゾンちえみを辞めた時にしっくりくる肩書がありませんでした。   肩書きのない状態での働き方を目指しています。   ブルゾンちえみの時代は時がどんどん流れて行き、書き留めておかないといけないと思って、十年日記を購入しました。  一日2行書けばいい。    1年後、2年後の自分が比較出来て、変化もわかるし面白いです。  28歳から始めて今は半分ぐらいです。   ブルゾンちえみのブルゾンはジャケットの名前なんです。
















  










 









2023年1月27日金曜日

江連麻紀(写真家)           ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕 生きづらさを、生きやすさに変えて

 江連麻紀(写真家)          ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕  生きづらさを、生きやすさに変えて

当事者研究を始めようとする江連麻紀さんへのインタビュー。   当事者研究とはもともとは精神精神障害などを抱えた当事者の地域活動拠点で生まれた活動です。  およそ10年前、江連さんは初めてその場所を訪れて当事者研究に参加し、関心を持ち始めました。  当事者研究を子供達や子育ての場にも広げようと、2020年専門家や仲間と一緒に子供子育て当事者研究ネットワークを立ち上げました。  子育てに関わる大人や、子供たち自身が対話できればと考えています。

子供当事者研究では子供達には伝わらないので、自分のことを研究してみようという事で、自分に関心を持って、自分のことを助ける仕組みとして何か自分のことを研究してみようという事で伝えています。   苦しい事、悩んでいること、上手くいっていることを話してみようという事です。    自分自身の言葉で子供たちが自分の気持ちを言葉にできるといいなあと思っています。   感情をキャラクター化して伝えたりする子もいます。  構ってほしい時に「かまってちゃん」が来たとか、という風に。  「いかりちゃん」とか。  なんで怒っているのか疑問を持ったり、感心しました。   キャラクター化することで自分を客観的にみられる。  

「自分の心の街を作ってみよう」というイベントがありました。  心の街に住んでいるキャラクターをみんなで作ってみようというワークをやってみました。  子供同士が質問をしあうんです。  そこから深まって行ったりします。   子供は自分だけこう思っていたというように、話す場がすくないんだという事を感じました。   子供たちが話す事によって周り(親とか先生)が変わってゆくという現象が良く見られます。  これは大事なことだと思って研究しています。   

中学3年生の娘と年長さんの6歳の息子がいますが、うちでも当事者研究をやっています。 なんでもしゃべります。  子育てに行き詰まりを感じて疲弊していた時に、夫が「こんなことで疲れさせてしまってご苦労様でした。」と言ってお菓子を娘にプレゼントしたところから始まりました。  娘が4歳の時でした。  夫が躁うつ病を患ってべてるの家(北海道浦河町にある精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点)へ見学に行き(2012年)、べてるでは怒ったり注意したりではなかったと気が付きました。    そこでは重苦しいような内容をユーモアを交えて面白く語っていたのが衝撃的でした。   自分でもやってみたいと思いました。  「弱さの情報交換」という理念があって、弱さは人のつながりと助け合いを生み、研究する力の源になるという風に言われています。  みんなで弱さを情報交換してゆくんです。    弱さはネガティブに捉えられがちですが、弱さには弱さとしての意味があって、弱さからしか生まれないような出来事がある。

べてるの家で三度の飯よりミーティングというぐらいミーティングがあってそこに参加をしました。   そのなかに「子育てミーティング」というのがあって、遠足でのほかの母親とどんなことを話したらいいかという事が語られていました。   楽しく語り合えました。  夫はなかなか弱さの情報公開が苦手で、私から余計なことは言わないようにしています。     情報公開を気にせず出来る人と一緒に話をしていると抵抗がなくなってくるようです。  

2020年専門家や仲間と一緒に子供子育て当事者研究ネットワークを立ち上げました。   当事者研究の発表会をしようという企画が立ちあがって、ネットワークのような形で交流したり、研究内容をシェアし合ったりする場が出来たらいいねという事で、立ち上がりました。   いろいろな方がサポーターに入っていて、べてるの家以外に大学の先生、子供支援の方々が入ってきています。   精神の分野と子育ての分野はまじりあっていて、精神疾患のある親もいますし、うつ病などのお母さん方もいます。  

つい子育てをしっかりちゃんとしたくなる。  それが逆に悪くなる。   そのために「ゆるふあ」という名前を付けています。   情けなくて機嫌のいい親を目指しています。(情けない親でも子育てができる。)   完璧を目指すと機嫌が悪くなる。

子育て当事者研究をしていると、苦労の仕分けがとっても大事になって来て、仕分けから、本人の苦労からみんなの苦労になってゆく。  当事者研究は心に溜まった排泄物を出すことが大事だと思います。   娘は低体重、低身長で生まれてきて、小さいころは悩んでいました。   中学1年生になった時に、学校の授業、友達などが楽しくて、楽しいと身長のことが気にならなくなる、と言っていて、コンプレックスが気にならなくなってきた。  娘は自分を助ける工夫をすることで自分を助けるようになって、自分を大切にするようになってきている。  

2019年から困った時の写真家さんを始める。  様々な物語がある人たちから依頼の写真屋さん。   笑って生きていきたい。   生きづらさみたいなものを閉じた形ではなく、伝えあったり、分かち合ったりして、それぞれの経験、工夫を持ち寄って対話のなかで、培って日々そのなかで生活してゆく人生でありたいと思います。








 





































2023年1月25日水曜日

阿見みどり(画家・編集者)      ・〔心に花を咲かせて〕 万葉人の想(おも)いを絵巻で伝えたい

 阿見みどり(画家・編集者)      ・〔心に花を咲かせて〕  万葉人の想(おも)いを絵巻で伝えたい

全4巻の万葉絵巻を10年かけて完成させた野の花画家の阿見みどりさんへのインタビュー。 万葉集学者だった父の影響で万葉集が身近だったという阿見みどりさん、思い起こすと万葉集の歌に心を支えてもらい、さまざまな場面で助けてもらったと感じているそうです。  人の心に寄り添う万葉集の価値をもっと知ってもらいたい、英訳すれば海外でも判ってもらえるはずと、英訳も付けました。   万葉集のどんな歌にそんな力があるんでしょうか。  何故そのように思うようになったんでしょうか。  

中学の時に鳥羽僧正の鳥獣戯画を見たときに、場面がどんどん変わってゆきわくわくして、そういう絵本作家になりたいと思いました。   特にお花の絵を描くのが好きで、少女のころから描いていました。  絵巻に憧れていました。  美術館にもよく行きました。 万葉にはお花が必ず出てくる情景なので、万葉のお花のカレンダーを毎年描いていました。その原画展を20年間ぐらいお披露目していましたが、10年前の時に作業に入りました。 それが今回出来上がりました。    父が万葉学者だったので、夕焼けも綺麗だけれど朝焼けも綺麗で、こういう歌があると「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」と言う柿本人麻呂の歌をそらんじて言うんです。  

祖父から法学部に行くように父は言われたそうで、東大の法学部に行きましたが、合わなくて文芸部を作って活動していたら和歌のかわだますみ?先生と出会い、万葉集の方に傾いていきました。   文芸部には中島敦さん(作家)、野上彰さん(詩人)などがいたそうです。   父は万葉に時空をおいているような人でした。  鳥が飛んでいたりすると近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆと言う柿本人麻呂の歌を歌うように出てくるんです。   散歩のとき、お風呂の時などにはよく歌っていました。   考え方、価値観、感動にしても父が道を指し示してくれたような感じがします。   うちだけが辛いのではなく、どこの家でも辛いんだよとか、父はそういう言い方をするんですが、万葉の時代だってこうなんだよって、「世間(よのなか)は空(むな)しきものとあらむとそこの照る月は満ち闕(か)けしける」と言って聞かせました。  「世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」(山上憶良)   父は万葉の心で乗り切ればいいんだよと、母にも言っていました。   素朴な生の声がリズムになって詠まれているので、受け入れられる歌なのかと思います。   自然のリズムに集結するような気がします。 

中学生の時に6人目の誠?という子が生まれて、1年2か月で急死してしまいました。   父はその時にあたりかまわず号泣しました。   あとで「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」(山上憶良) と宝の子なんだから泣くのは許してくれと言っていました。   

私も、自分でも無意識に言っているようです。  父は戦争で南方のセレベス島に派遣されて、日本語の普及の役割をしましたが、文部省の偉い人の帰国のカバン持ちをして帰ったら戦争が終わってしまって、島に残った人は命を落としてしまったそうです。  自分の命は自分一人だけの命ではないというような思いで、人が変わったような自制的な生き方をするようになって、そこに私たちも巻き込まれてしまいました。  日本の復興のためには国語の教育が大事だという事で解釈学会を作って、「解釈」という月刊誌を初めて、今でも続きています。  言葉が人を作る基本だという事が父の持論でした。  

大学の先生でしたが、給料は右から左に印刷所に行きました。  父は生活費を入れないので母は化粧品のセールスマンになって、私たちを育ててくれました。  私は「解釈」の月刊誌の手伝いをしました。  卒論にも万葉集を選んだし、万葉集が好きになって行きました。  辛い時、自分ではどうしようもないと思った時などには、 「熟田津(にきたつ)に、船(ふな)乗りせむと、月(つき)待てば、潮(しほ)もかなひぬ、今は漕(こ)ぎ出(い)でな」(額田王) 旅に出る船待ちの歌ですが、宇宙のリズムですが、潮が満ちてきたら宇宙のリズムが押してくれるという信じるものがあって、今は潮時だから飛び出そうとか、もうこれからは良くなるぞとか、人生の節目節目とか辛い時には、口ずさんで出ます。  石走る垂水(たるみ)の上のさわらびの萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも志貴皇子  岩のところに落ちる冷たい水、そのほとりにさえ蕨の目が萌え出ている、こんな寒い時でも春になったんだなあと言う歌ですが、こうして春を待って元気をもらっているんだなという、人間の生活のなかでも自然が助けてくれて、生かされているんだなという事は万葉集のなかはいっぱい出てきます。  万葉集は心の叫びみたいなものがいっぱいあります。  

万葉集を海外の人にも知ってほしいと思って、英訳もしました。  万葉集は4500首以上ありますが、その1/3に植物が出てくるぐらい生活の中に入り込んで、薬草が空気と同じぐらい身近にかかわっていた。   植物の歌が1600首ぐらいあります。  20巻ありますが、大きく4つにわけて、①自然賛美の歌、②愛の歌(一番多い)③愛以外の心 ④草花があり、25首づつ選んで4巻にしました。  父は「万葉集百首歌の研究」という著作誌を出しています。    

わが屋戸(やど)の夕影草(ゆふかげくさ)の白露(しらつゆ)の消(け)ぬがにもとな思(おも)ほゆるかも」(笠郎女)                         自然の中に身を置いて時間を感じてゆく、そういう感性みたいなものを、時には体験して、情報、情報に追われないで、宇宙のリズムの気配を感じるよすがにして頂ければいいなあと思います。  自然に対して有難い気持ちが一番強いです。

















































  












 





















2023年1月24日火曜日

大屋あゆみ(お笑い芸人)         ・コーダの私が手話の可能性をひらく

 大屋あゆみ(お笑い芸人)         ・コーダの私が手話の可能性をひらく

コーダというのは耳の聞こえない、聞こえにくい親の元で育った耳が聞こえる子供たちのことです。    Children of Deaf Adult/sの頭文字 CODAです。   2022年にはコーダの家族を描いた映画がアカデミー賞3部門を受賞するなど注目されました。     コーダは親のコミュニケーションのフォローを務めることもあり、大屋さんも幼いころから親のサポートを続けてきたと聞きます。   大屋さんは手話通訳の仕事を経験した後 、お笑いを通したコミュニケーションに興味を持ち、2018年には耳が聞こえない人にもお笑いを楽しんでもらいたいと、手話を交えたコメディー劇団を立ち上げました。  手話の可能性を広げようと奮闘する大屋さんのこれまでの体験と思いを伺います。

私は物心ついた時には手話で話をするようになったらしいんです。  初めて使った手話が「パパ ママ」みたいな感じらしくて、ちゃんと手話をやるようになったのは3歳ぐらいと話を聞きました。  兄とも一緒に自然と家庭内では手話をするようになりました。     幼稚園の時には手話ソングをやった記憶があって、先生が大屋さんは手話ができるんだといって、大屋さんから手話を習おうといった記憶はあります。   歯医者に行った時に親のサポートして、受付、痛いところ、手話でやっていたので、病院、市役所、電話など親のサポートをしていました。   小学校2,3年生の時に電話が来て、電話のサポートが一番多いです。  買い物なども一緒に行きました。  親はいつも感謝していて、最後にはいつも「ごめんね。」と言っていました。    

小学校高学年になると、手話を真似されたり、親との会話を見られたくない、という思いが出て来て、親としゃべるのがめんどくさい、という気にもなりました。  親子ダンスがありましたが、音が聞こえないと踊るタイミングが難しいので、親にはそれを言わず、先生と踊っていて、親としては寂しかったんだろうなあと思いました。   うらやましいのはいっぱいありますが、特に親と電話で会話ができるというのは今でもうらやましいです。 ある時期から人前で手話をするのが厭になって行きました。   

中学2年生の時に、家族で旅行で東京に行きました。   手話喫茶の喫茶店に入りました。   店のルールとして声を出してはいけませんという看板がありました。   入ると音としてはメチャクチャ静かなんですが、騒がしい、メチャクチャみんな手話をやっているんです。  笑ったりしていて凄く気持ちが温かくなりました。   手話は言語なんだと感じました。   手話が出来ることに対して親に感謝しています。  

何時かはお笑いと手話を融合させたものをやりたいんですと、言っていました。  2018年に手話コメディー集団「劇団アラマンダ」を立ち上げて座長になりました。   2022年11月には沖縄で開かれた、国民文化祭「全国障害者芸術文化祭」のステージにも参加しました。  「劇団アラマンダ」は聞こえる人と聞こえない人が一緒に楽しめるような舞台になっています。 映画とか見るものがどうしても限られてくるので、お笑いとはこういうものなんだという事、お笑いを届けたいという強い気持ちで立ち上げました。    きっかけは漫才を通訳して伝わったんだという思いがありました。     手話の新喜劇は面白そうだとひらめきました。     「劇団アラマンダ」は私を含めて9名です。   セリフを言いながら手話をやるという事で、それを続けていきます。    45~50分ぐらいの劇です。   今どういう場面なのか状況をモニターで簡潔に出したりもしています。  手話通訳士のサポートもあります。

私以外は手話は何にもできない状態で入って来ました。   まだ言語としてペラペラしゃべる芸人はいないです。   立ち上げる時にはどこまでできるのか不安でした。  照明で客席が見えないような状態の時に母親の笑い声が聞こえてきて、凄く感動しました。   みんなも表現力が上達してきて、手話通訳士なしで出来るようにしていきたいと思っています。  より気持ちが伝わるのではないかと思っています。   知名度を上げたいし、沖縄を拠点に活動していますが、全国に手話のコメディーを見せたいという思いがあり、全国に公演できるような日がくればいいなあと感じています。   











 

































2023年1月23日月曜日

2023年1月22日日曜日

渡辺崇人(ベンチャー企業代表)     ・〔美味しい仕事人〕 食品ロスと食糧危機に挑む

渡辺崇人(ベンチャー企業代表)     ・〔美味しい仕事人〕 食品ロスと食糧危機に挑む 

まだ食べられるのに捨てられてしまう食品ロス、一方で世界人口の増加による食糧危機、この二つの課題に、昆虫のコウロギを役立てようと取り組みを進めている人物がいます。    ベンチャー企業代表の渡辺崇人さん(38歳)です。    渡辺さんは徳島大学バイオイノベーション研究所の講師でもあります。   現在大学発のベンチャー企業でタンパク質が高度なコウロギを食料として役立てるため、養殖から商品化までの一貫生産に取り組んでいます。

コウロギを乾燥させて粉末化してプロテインのパウダーとして使って行っていただこうと思っています。   コウロギせんべいは全国的にヒット。  20代後半から40代の人が客層としては多いです。   コウロギチョコ、クッキーなども販売しています。  LCTの機内食の一部ではパウダーを使ったハンバーガーとかパスタが採用されています。  味は育て方、粉末化する過程でも変わって来ます。  一般的に言われるのはエビやカニのような甲殻類に近いような風味があると言われます。    栄養面ではタンパク質が豊富です。   乾燥状態で70%はタンパク質になっています。    ビタミン類、ミネラル類も含まれています。  健康面にどういいかという事を見出そうとしています。   

既存のたんぱく資源(牛、豚、鳥など)と比べて育てるための環境負荷という面でかなり効率が良い。   コウロギは変温動物なので一定の温度に保つという事がありますが、そのための温室効果ガスは牛や豚に比べれば少ないです。  同じ量の餌を食べてそれが何kgタンパクになるのかという効率がありますが、牛や豚に比べれば5倍程度はあります。   コウロギは餌を平均で1,7kg与えれば1kg体重が増加すると言われていて、牛だと10kg餌を与えて1kg体重が増えるという状況です。  

サーキュラーフード(循環型の食品)と呼んでいます。  日本ではいろいろな食品を輸入に頼っています。  世界的に見ても食品が有効活用されていない。   食品ロスを活用する手段一つとしてコウロギが使えるのではないかと思っています。   食品ロスからコウロギを育てることで、循環型のたんぱく質を得るためにコウロギ使って行こうというのがサーキュラーフードというわけです。  コウロギが雑食で何でも食べてくれます。   小麦のぬかなどを使っています。   余分に生産してみんなの口に入っていないものが多い、1/3は食べられずに捨てられてしまっているという現状もあります。  その食品ロスをコウロギの餌に使って生産していけば、食糧問題の一つの助けになると思います。  

元々は遺伝子工学が専門でした。  受精して一個だったものが細胞分裂してそれぞれの形になってゆくが、遺伝子によってコントロールされている。  その遺伝子がどのようにかかわって来てるのかという事を研究していました。  どちらかというと昆虫は苦手なタイプでした。  研究の対象としていたのがコウロギでした。  研究費の確保ができなくなって 、どうやったら社会の役に立てるのかという事を考えた時に、欧米で昆虫を新たなたんぱく質資源として使うという研究があり、そこに軸足を置いた方がいいという事でコウロギを食料にしてゆこうという事に向かっていきました。   

徳島大学では30年以上のコウロギに関する歴史があります。  私自身はコウロギの研究は17年目です。     2016年から応用研究をスタートして、2019年に徳島大学初のベンチャー企業がスタートしました。    直ぐにコウロギせんべいの取り組みが始まりました。   1年後には販売に繋がりました。   持続可能な産業にするためには効率化を図っていかなければならないので、人件費がかかるので自動化のことも考えないといけないと思っています。   コウロギがストレスなく過ごす環境を取り入れながら、水、食料の供給など自動化してゆく。  まずは大量に供給できる体制を整えなければと思っています。  手に取って購入することが変わったことではないと思えるようにさまざまな商品を出しながら、広げてゆくのが大事なポイントになると思います。  海外での生産体制の拡充も図っていきたい。  食品ロスを使って効率の良い生産をしていきたいです。   
































2023年1月21日土曜日

加藤りつこ(阪神・淡路大震災遺族)   ・忘れない「親愛なる母上様」

加藤りつこ(阪神・淡路大震災遺族)   ・忘れない「親愛なる母上様」

阪神淡路大震災で当時一人息子だった大学生の貴光さんを亡くした加藤りつこさん(74歳)へのインタビューです。  震災の記憶と命の大切さを語り続けてきた加藤りつこさん、この28年支えとなってきたのは生前貴光さんから送られてきた一通の手紙でした。     「親愛なる母上様」で始まる手紙をめぐって、大きな変化のあった去年の暮、広島市内で伺ってきました。

この一月で大震災から28年、当時21歳でした。  いま何歳だろうと歳を毎年数えています。   いまだったら何をやっているのだろうとか、いろいろ考えて悲しい思いをしました。   子供を亡くすという事は大変な事です。   時はいやしてくれるというけれど癒してはくれないです、逆に時が経つと別の悲しみを抱いてきます。

1993年に書かれていました。  神戸大学に入学する前でした。    母親の介護をしていましたが、ショートステイがあり、息子の下宿先へ行くことが出来ました。      帰りに新大阪の駅まで送ってくれました。    子離れのためにこの子の母親を辞めようと思いました。   その瞬間に号泣してしまいました。  息子がポケットを指さす仕草があったので、自分のポケットを見たら手紙が折りたたんでありました。  ずーっと車内で読み返しながら、泣きながら帰りました。 

「親愛なる母上様」  

「貴方が命を与えてくださってから、早いものでもう20年になります。  これまでにほんのひと時として貴方の優しく温かく大きくそして強い愛を感じなかったことはありませんでした。  私は貴方から多くの羽を頂いてきました。   人を愛する事、自分を戒める事、人に愛されること、この20年で私の翼には立派な羽が揃って行きました。  そして今私はこの翼で大空に飛び立とうとしています。  誰よりも高く強く自在に飛べるこの翼。これからの私の行き先は明確ではなく、とても苦しい旅をすることになるでしょう。   疲れて休むこともあり、間違った方向に行くことも多々ある事と思います。  しかし、私は精一杯やってみるつもりです。  貴方のそしてみんなの期待を無にしないためにも、力の続く限り飛び続けます。  こんな私ですが、これからもしっかり見守っていてください。  住むところは遠く離れていても、心は互いの元にあるのです。  決して貴方は一人ではないのですから。   それではくれぐれもお体に気を付けて、又帰る日を心待ちにしています。  最後に貴方を母にしてくださった神様に感謝の意を込めて。  翼の生えた丑より。」

アナウンサーの朗読で加藤りつこさんは嗚咽する。 息子は丑年でした。  こういう風に思っていてくれたのかと思うと同時に、私の子育ては間違っていなかったんだと思いました。  新幹線のなかでは泣き通しで帰って来ました。  この手紙が新聞で紹介されて、大きな出会いを沢山いただくきっかけになり、交流も生まれました。   1月20日ごろには地元で中学1年生に話をする機会も貰って命の大切さなどを語っています。  人と人との出会いのお陰で又歩き始めることが出来ました。  自分の人生を変えてくれる存在にもなります。  素敵な人に出会うためには、自分もそれなりのものを持っていないと、出会ってもそこで終わってしまうんだと、繋がってはいかない。  だから勉強するんですよという事も話します。  

息子は高校時代から自分の生きる道は平和への貢献でした。  入り口にも立たないまま亡くなってしまって、どう無念だったか、どういう事をしたかったのか、語り継いでいかなければいけないんじゃないかなあと思いました。   東日本大震災で私と同じように苦しんでいる方がいると思って、足を運んで、最初に阪神淡路大震災の経験を福島の高校生に話して、泣いてくれました。  原発事故もあり、風評被害で漁にも出られず、福島と交流しようと思って、広島と福島を結ぶ会を立ち上げました。(2012年)  最初は広島でイベント(コンサート、講演会など)をして、収益金を全額届けていました。  何か思い出になるものはないかと考え始めて、海外を含めて折鶴が沢山集まります。  市の取り組みで再生紙を作ろうという事で業者が何社か作り始めました。  卒業証書にもなるという事を聞いて、世界中から集まった折鶴で卒業証書を作って、それを手にして巣立ってくれればいいなあと思って、2016年から始まりました。   卒業するときには必ず卒業証書のいわれを校長先生が話してくださいます。   ピンク、黄色、緑のちいさな点々がありますが、折り鶴の名残で、残すのが難しい技術だそうです。  少なくとも卒業するときには平和について考えてくれると思います。   天国への電話があれば、この卒業証書のことそのほかいろいろなことを話したいと思います。  

奥野勝利さんが「親愛なる母上様」を元に歌を作りました。   2007年1月17日に彼が東京にいました。  30歳で日本に帰って来て作曲の仕事をする様になりました。  作曲が人のために役に立つのか悶々としていたそうです。  インターネットで手紙のことを知ったそうです。   物凄く感動して、曲が出来てしまったそうです。  妹がそれを発見して、聞いてびっくりしました。  連絡を取って2008年1月2日に広島に来てくださいました。   コンサートを開こうという事になり、会場を確保しました。

*「親愛なる母上様」 作曲、歌:奥野勝利

奥野勝利さんは2022年9月に癌で亡くなりました。(48歳)    繋がりが出来た人の中には私の孫みたいな世代の方がいますが、「お母さん」と呼んでくれます。  貴光がいなくなったら「お母さん」と呼んでくれる人がいなくなったと思っていたんですが、嬉しいです。  「僕は親に物凄くよくしてもらっているのに、何にもお返しが出来ていない、どうしたらいいんでしょうか。」という高校生からの質問がありました。  「あなたが一生懸命生きる事、その姿を親が見るのが一番うれしいんだから。」と言いました。
















  




















   




































2023年1月20日金曜日

柴田元幸(東京大学名誉教授・翻訳家)  ・今『ガリバー旅行記』から学ぶ

 柴田元幸(東京大学名誉教授・翻訳家)  ・今『ガリバー旅行記』から学ぶ

アメリカ文学翻訳第一人者柴田元幸さんは2020年6月から2022年2月まで新聞にスウィフトの「ガリバー旅行記」の翻訳を連載し、その完訳が書籍化されました。  子供のころ絵本で読んだ方も多いと思いますが、原作は4部作からなりスウィフト特有の風刺が随所に散りばめられています。  『ガリバー旅行記』は300年近く前に書かれたものにもかかわらず、内容も原文も古びていず、今の世に通じる示唆に富む作品だと柴田さんは言います。 『ガリバー旅行記』の魅力について伺いました。

2020年6月から2022年2月まで毎週金曜日の夕刊に連載しました。  毎週1ページいただきました。  平松麻さんが挿絵を担当しました。  スウィフトはユーモアが大事なので挿絵に関しては気になるところで、 平松麻さんの魅力がスウィフトの上を行っているような素晴らしいものです。   楽しいガリバーにしようという方向性が編集者たちと一緒だったので凄くやり易かったです。   原稿用紙8~10枚程度になり、一か所は兎に角これは面白いと言えるところがあるという小説を訳したいと思いました。   それに合格する小説は2,3冊しか思い浮かばないんです。   訳していないのは『ガリバー旅行記』だけでした。   連載中に高山宏さんが『ガリバー旅行記』の新訳がでて、対談がありましたが、文学に素養のある読者に向けて訳された面白い高等的な訳で、私はお茶の間に届くガリバーですと答えました。  

4部構成なっていて小人国と巨人国は第1、2部で、第3部は人間は普通の大きさで空飛ぶ島があったり、発明に人々が現を抜かす、当時の科学者を皮肉っている。  第4部は馬の国で人間は動物扱いされる。   どう同じかというところでは、人間は余り賢くないという事を提示している。   ちっぽけな人間が偉そうにふるまっている。  巨人国では人間をちっぽけと観る存在が出てくる。  でもそっちも阿呆なことをやっている。  ガリバーは一貫性のなさが楽しい。  

スウィフトはアイルランドの英雄であると夏目漱石などは言っています。  親はイングランド人でアイルランド人を抑圧した側の人で、生まれた場所はアイルランドで、又複雑な育ち方をした人で、自分はアイルランド人なのか、イングランド人なのか定まらなかった人です。  政治と宗教で社会的な地位を得ようとしたが、最終的にはダブリンでそこそこの地位に着くが成功したという程の人生ではなかった。   18世紀ではまだ作者と登場人物との距離はまだ一貫していない。  逆に楽しさに繋がってゆく。  1726年の作ですから300年近く前のものです。  ガリバーの英語は現代の方に遥かに近い。  難しさのない英語で書かれている。  漱石の「吾輩は猫である」の最大のインスピレーション元はローレンス・スターントリストラム・シャンディ』と言う事はよく言われている。 筋書きが脱線に次ぐ脱線になっている。

『ガリバー旅行記』では人間のやっていることはあまり賢くないかも知れない、という事をいろんな角度から書き、何故か活力を感じさせる、そこが漱石とスウィフトの共通点というか、漱石がスウィフトにインスパイア(感銘を受ける、感化される)されたと思います。

オーウエルと原民喜の文章を並べてみるとガリバーの奥深さを感じる。 オーウエルはホロコーストを通してガリバーを観ている、原民喜は原爆を通してガリバーを観ている。    オーウエルは馬の国で馬と獣扱いする人間との関係をナチスドイツとユダヤ人の関係を見た。  原民喜は原爆が投下された翌日に馬が悄然とたたずんでいるのを見て、人間の愚かさを感じ取った。   どっちも誤読だと思いますが、ガリバーが言っていることとスウィフトが言っていることと混同しがちですが、原民喜が観ている馬の姿はスウィフトが書いた『ガリバー旅行記』のなかの馬の姿とはそんなに似ていないと思う。 幅広さを許すのが名作だと思います。

『ガリバー旅行記』ではたまに列挙する部分が出てくるが、子供向けにするときに、まっさきに省略されるのがこういった部分です。 筋を進める上では余計ですが、過剰なものが出てくるのか書き手なり、作品なりの肝だったりもする。  小人国では1/12で巨人国では12倍となっているが、その前の世紀ぐらいから、顕微鏡、望遠鏡が出てきて、何分の一、何倍といった科学的な発想が出てきた。  それをスウィフトは最もらしく使っている。   私は注釈は盛り込みみたい方です。  編集者とも一致しました。  日本は注釈には寛容なところがあります。   原文と改行の数が違うというのは僕にとっては革命的です。(通常、他の翻訳は守っている。)  

第3部では少し日本が出てきます。  当時、日本はかなりおとぎ話的な場所だった。   『ガリバー旅行記』は江戸時代に日本に入ってきたと言われていて、平賀源内も読んでいたと言われ、十返舎一九も作品の中に小人の国に行ってという発想がそっくりで、挿絵もそっくりで、「新製/小人島廻合戰」が1830年に出ています。  翻訳は1880年まで出ない。

不死に関する事が書かれた箇所があり、孤独や苦しみがあり、現代社会にも通じるものがある。   医療の進歩で死ぬことが長引くという事態にもなってしまいかねない、そういう部分が膨らまさせて語られている。    戦争は第4部の馬の国で語られている。    理性の国なので戦争はありません。  ガリバーが戦争について語ると主人が戦争について質問する、それに答えるというようになっている。     沢山の原因を長々と話す。    これらからウクライナのことを考えなければいけない。

どのように読んでいただいてもいいですが、視点を決めないで読んで欲しいです。    スウィフトはどういう世の中が一番いいかとは、提示しようとはしていない。



























 
















2023年1月19日木曜日

帚木蓬生(作家・精神科医)       ・〔わたし終いの極意〕 ネガティブ・ケイパビリティ ~じっと耐える力を育む

帚木蓬生(作家・精神科医)       ・〔わたし終いの極意〕  ネガティブ・ケイパビリティ ~じっと耐える力を育む 

76歳、精神科医として臨床を続ける一方、作家としては閉鎖病棟』、『逃亡』など数多く作品を発表しています。  60歳の時に急性骨髄性白血病と診断され、闘病生活も経験しました。  2017年にまとめた本「ネガティブ・ケイパビリティ」(答えの出ない事態に耐える能力)がコロナ禍で改めて注目されています。  

2005年の8月に福岡県中間市にクリニックを開業しました。  一日40~50名 多い時は60名ぐらいになります。   コロナ禍でのいろいろな不安と不景気による生活不安などで来院します。  「ネガティブ・ケイパビリティ」(答えの出ない事態に耐える能力)    人間の脳は解決できないものには耐えられないという性質があります。  何とか解決したい、何とか判りたいというポジティブな能力の方がみんな目指しやすい。   ネガティブはその反対なので安直な理解はしない、安直な欲望は持たない。  昔の記憶に従って今の事態を解析しない。  解決できないことが多いから解決しなくていい。  一番反響にあったのは教育界です。  教育界はポジティブ・ケイパビリティばっかりめざしていますから 。   精神科などは直らない病気がずーっと続いてゆく。  躁うつ病などは良くなったり悪くなったりする。  終末期医療も解決はない。  問題解決のために早く、手っ取り早く教えるのが教育で、落ちこぼれが増えてきていると思います。  生徒の能力は千差万別だから直ぐ理解する人もいれば、すぐ理解できない人もいる。  十束一からげに教えるので脱落する人は多いと思います。  未解決に耐える力が養われないままなので、学校という組織自体が未解決に耐え得ないような風になってきているのではないでしょうか。

ネガティブ・ケイパビリティはイギリスの詩人ジョン・キーツが提唱しました。 詩人はネガティブ・ケイパビリティでなくてはいけない、最大の人はシェークスピアと言ったんです。    シェークスピアは戯曲を色々書いていますが、余り解決をしていないんです。 解決は読者なり、観客が始末をつけるか、人生でずーっと考えてゆくか。  その150年後にビオンというイギリスの精神分析医が取り上げて、頭の中の知識で対応する事への弊害に気が付いた。  ありのままの患者さんの心の状態を自分で解決するためには、ネガティブ・ケイパビリティによって、訳の判らないところを突き進んでゆくんだという事を言ったんです。  卓見です。  

私は1978年に精神科医になって、4年目にネガティブ・ケイパビリティという概念に会いました。  不思議だなあという気持ちをもって何にでも接していくという態度です。   これで自信が持てるようになりましたが、これがなかったら精神科医に成れなかったですね。   フランスに留学して堪能だったわけではないので、患者さんに対してそれこそ真剣になって聞きました。  ずーっとやっていたら看護師さんから私は家族などからよーく話を聞いてくれると言われて、理解できなくても判ろうとする努力、という事を思い出しました。  デビュー作が「白い夏の墓標」で、32歳で卒業するころでした。  小説は段取りでは書けません、特に長編小説の場合は。  1000枚ぐらい書くとなると最後は判りません。  判らないなかを耐えていかなくてはいけない。  それは患者さんとの立場と全く同じです。   薬にしてもどのくらい効くかもわからない。  両方ともネガティブ・ケイパビリティだなあと言う事に気が付きました。

「プロの作家というのは書くことを辞めなかった人のことを言う。」 アメリカの作家の言葉。  どんな難しい事でも何とかしていれば何とかなる。  そんなふうにおおらかな気持ちで日々を生きていた方が、実を結んでいい状態が来る、というのは実感します。

東京大学仏文科卒業後TBSに勤務。  2年後に退職し九州大学医学部を経て精神科医に転身する。   医学部に入ると小説の材料になるものが転がっていたので、書き始めました。患者さんには「口薬」で、「めげないで。」と言って、「日薬」日がささないといけないし、「目薬」あなたの苦しみは私がちゃんと見ているからねと、それがあると患者さんは耐えられるんですね。   人生はどんなことも無駄にはならない。 

開業2年目ぐらいに、けだるさを感じました。  定期検査で急性骨髄性白血病に罹っていることが判明。  即入院で骨髄は自分の骨髄の移植でした。  60歳が分岐点で60歳未満だと助かりやすい。   60歳だったので、五分五分ですと言われて仕舞いました。  半年入院しました。   ギャンブル依存症の患者が多かったが、自助グループがあり最後は全員で「神様私にお与えください。  自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを、変えられるものは変えてゆく勇気を、そして二つのものを見分ける賢さを。」と必ず言うんです。  私もそういうものだろうと気楽に考えていましたが、入院してみたら、本当だったんだなと思いました。  急性骨髄性白血病は変えられない、元気に明るく楽しくという事は変えられるので、そして二つのものを見分ける賢さをと、本当にいいことを言ったんだなあと思いました。  

「雨に濡れて」という短編小説を書きましたが、女医が乳がんになる話で、医師が病気になった時に隠してはいけないという事があり、急性骨髄性白血病のことは公表しました。   患者さんの安心にもつながりました。  絶対直って帰ろうと思いました。       「今日はこれから先残された人生の最初の日である。」という言葉も入院生活のなかで輝きました。  

今月誕生日で76歳になります。  終活は考えて無いですね。  「老活の愉しみ」という本を書きました。 高齢者になっても婚活はあるし、就活もあります。        色紙を頼まれて「歯 母 ハハハ(笑い)」と書きます。 人生で大切なものです。   歯は食を楽しむし、健康です。  母は自分を生んでくれた母への感謝です。  後は笑い飛ばす。   シベリア抑留に翻弄された画家香月泰男の言葉、「一瞬一生」 その人の一瞬のなかに一生が詰まっている。  犬が16歳になりましたが、人間と違って自分の症状、不具合を受け入れているんですね、偉いなあと思いました。  「症状を見せない、言わない、悟られない。」 極意です。  症状がありながらも、目の前の忙しい仕事に精を出す。  老いは認めなければいけない。  忙しい人生で最後まで行く。
































































  

2023年1月18日水曜日

近藤欽司(元・卓球女子日本代表チーム監督)・〔スポーツ明日への伝言〕 初心忘るべからず ~卓球一筋70年~

 近藤欽司(元・卓球女子日本代表チーム監督)・〔スポーツ明日への伝言〕  初心忘るべからず ~卓球一筋70年~

80歳の今もなお、実業団サンリツ卓球部の監督を務めながら大学生や地域の卓球教室の指導も行っています。  卓球のとりこになって70年以上卓球日本を支え続けてきた名伯楽近藤さんに伺います。

運が良かったこと、選手に恵まれたこと、周りにかたがたの精鋭、理解、如何に選手にやる気を起こさせるか、そして楽しくやる、そう言った雰囲気つくりをしてきました。  

1942年愛知県生まれ。 小学校4年生で卓球を始める。  名古屋電気工業高校(現・愛工大名電高)に進学、卓球部で全国高校総体・国民体育大会で団体優勝、卒業後日産自動車に進むが、指導者を志して退職、1965年から白鵬女子高校(旧京浜女子商業高校)卓球部を41年間指指導し、全国的な大会で個人・団体含めて37個の金メダルを獲得。  世界選手権全日本女子チーム監督、北京五輪女子代表監督などを務めて、。現在は実業団チームのサンリツ監督を務める。

兄が卓球をやっていて、自分も始めて中学時代はさしたる成績はなかったが、面白くてどうせやるなら日本一の学校でやろと名古屋電気工業高校に進学しました。  後藤 鉀学長は素晴らしい考え方の人で後藤学長と出会えたことが今の人生に繋がったかなあと感謝しています。  後藤学長は日本卓球連盟の会長も務めました。  1971年愛知県体育館で行われた第31回世界卓球選手権大会へ中華人民共和国の参加を実現させたときの中心的な役割を果たした方として有名です。   国交のない国の選手をまねくということは大変な勇気と決断があったと思います。  その時の言葉が「小さなピンポン玉が大きな地球を動かした。」という感動的な出来事でした。

生徒の指導に対しては厳しいですが、その中に愛情がありました。  高校2年の時に名古屋でインターハイがあり、出場しましたが、決勝戦で東山高校に負けました。  学長のところに行ったら「どしかられた。」(名古屋部弁  叱られたにどが付く。)  夜中の2時まで練習しました。  その悔しさから来年こそ絶対優勝するという事で、全国高校総体・国民体育大会で二つ団体優勝しました。  卒業の時に「初心忘するるべからず」と卒業アルバムに毛筆で書いていただきました。  私の中の座右の銘というか、我慢強く乗り越えてきました。  

自分で得た達成感を高校生にも体験させてやりたいと思って、京浜女子商業高校に就職して、先生の道を選びました。   当時23歳で、自分で体験したこと、がむしゃらに練習する、をそのまま指導しました。    1年目は全国大会に行きましたが一回戦で負けました。  2年目はベスト8,3年目は決勝で負ける、4年目は念願の初優勝しました。 その後勝てなくて、自分を責め、選手も責めました。   反省することもなくなってしまってしまって36歳の時に神様が復帰のきっかけを作ってくれました。  それは私の病気(急性肝炎)で2か月間入院しました。   そこで3つの項目を考えました。 ①「言葉の力」、平行目線で話す、生徒に尋ねてゆく。(上から目線で怒鳴ったりしないで)  ユーモアを入れて生徒と近づく、繋がる。 心を開いてくれる。  ②「練習に選手の意向を取り入れる。」 選手の長所、やりたい卓球などを選手とコミュニケーションを取りながら練習に取り入れる。  ③「練習計画」 飽きさせない、マンネリ化させない練習計画。

その結果が出たのが40歳の時でした。  4年ぶりに決勝まで行きました。  それまでの14年間はベスト8が一番で一回も表彰台に乗れなかった。  その後12年間インターハイの決勝に行け7回優勝しました。   雰囲気が明るくなりました。  上級生が近藤マジックの根底を作るという事です。   やるだけやったので後は自信をもってやるだけだと、心境にさせる日々の努力の積み重ねが必要だと思います。  1年生の時には体力、基礎と言った土台を作り、2年生では戦術的な事、試合運び、相手への観察などのテクニック。   プレーの間の10秒間で次どうするのか、を決断する、それが重要です。  卓球は階段状に強くなってゆく。 強くなってゆくきっかけを作るのは言葉の力です。  そして暗示をかける。    

僕が赴任した1993年のころは2年に一回の世界選手権でした。   8年間で4回ともベスト8でした。   5回目が2001年の大阪の選手権では、団体でメダルを取る事、ダブルスでメダルを取ることを目標に掲げました。  団体が18年振りの胴メダル、ダブルスが26年振りのメダルとなりました。  2008年の北京オリンピックには何としてもメダルを取ろうとしましたが、団体の3位決定戦で韓国に負けました。  その後退任しました。 

卓球は予測のスポーツなので、予測をさせない。  バックスイングが小さいと予測しにくい。  フェイント攻撃、強く打つと見せかけてふわっとやる、フォワーと見せかけてバックへ打つ、など相手の予測を外すプレーをしてゆくと相手は精神的に崩れる。  これは難しいが、中国選手の得意な技をやらせて、日本が点が取れるという、そういう練習。  精神的には一番ショックがある。  それぐらいのことをやらないと中国には勝てない。  カリキュラムを作って計画的に選手を作ってゆくことが大事だと思います。  



























    


















2023年1月17日火曜日

井上道義(指揮者)           ・人は何のために生きるのか 父母に捧げるオペラ

 井上道義(指揮者)          ・人は何のために生きるのか 父母に捧げるオペラ

1946年東京生まれ、桐朋学園大学卒業  1971年にイタリアのラ・スカラ主催グィード・カンテッリ指揮者コンクールで優勝し、注目を浴びます。 これまでにニュージーランド国立交響楽団、シカゴ交響楽団、フランス国立管弦楽団で指揮をするなど、海外で活躍を重ねてきました。  国内では 新日本フィルハーモニー交響楽団、大阪フィルハーモニー交響楽団などで、音楽監督や指揮者を務めました。  現在は オーケストラ・アンサンブル金沢でその功績をたたえられ桂冠指揮者としてステージに上がっていますが、2024年12月で指揮活動からの引退を表明しています。  1月22日と23日にかねてから温めていた自主企画のオペラを東京で上演します。  戦後生まれの井上さんが戦争、愛、希望、を自分自身の生い立ちと重ね育ててくれた両親への深い思いを投影した作品です。  台本、振り付け、指揮も全て引き受けたという井上さんにこれまでの道のりや、作品への思いを伺います。

指揮者を目指したのは14歳の時です。   中学2年の時に突然父親に「これからどうするんだ。」、と言われました。 幼稚園からのところてん式の学校で成城学園でのほほんとしていました。  「お金は出さないぞ。」と言われたが、母親からは、「お父さんはアメリカで苦労した人なんだ。」と言われました。  広島からお父さんとお母さんが移民して、アメリかで生まれた子でした。  父親の名前は正義と書きます。  1920年代は日本人に対しての差別が始まっていていろいろな目にあいました。   家庭崩壊していて、母親は眼が見えなくなって、父親が失業していて失業保険で食べていて、全然お金がなかったみたいです。  彼はなんか悪い仕事をして学費を稼いでから大学に入り直したということらしいです。    ですから僕がのほほんとしているので見かねたみたいです。  

僕は何に成ろうか、本当にいろいろ考えました。  何が好きかと、何が得意かは別だという事は物凄くよく判っていました。   自分を生かすにはどうしたらいいか考えました。  定年すると数年で急に老け込むので、定年のない仕事をしようと思いました。  指揮はいろんな仕事ができるという事を捜し出しました。  中学で演劇をやっていたので演劇が好きでしたので、舞台は自由だと思いました。   ピアノは4歳からやっていました。   母親が劇場とか映画は連れられてたくさん行きました。   母親は手に職をつけさせたいといろいろ学ばせてくれました。(ピアノを室井摩耶子、山岡優子に、バレエを益田隆、服部智恵子、島田隆に学ぶ。)  指揮者のことを調べたら、近くに桐朋学園があり、卒業生に小澤征爾という人がいて、学校にはいい先生がいるという事で、指揮者に成れずに失敗したらやり直せばいいと思いました。

指揮者になるためにはピアノも弾けないといけないという事で、一日6時間以上弾いていました。  中学3年生からは学校の勉強はしないで、音楽へ力を注ぎました。  桐朋学園に入って2,3年していけそうだと思ったので今でも続けています。  人生一回きりなので自分の持ってるものを発揮できるのが生き甲斐じゃないですか。  指揮者って歳を取るとみんなちやほやするんだよ。   座って指揮をするようになると、今までやってきたことの焼き直しでしかない。    芸術家は今の自分を乗り越える姿が一番大事だと思うので、ヴェートーベンとか、ピカソはそういう人ですね。  10年前の方がよかったねとは絶対言われたくない。   2024年には辞めることにしています。 後2年経ったら駄目になると思う。   

「降福からの道」というオペラを上演予定。  降福は敗戦の話です。 第二次世界大戦で日本は敗戦したのに終戦と言って誤魔化している。  それがまずおかしいと思っている人間です。   僕は戦争のない中の人生でありました。  自分の幸福とは何だろうとか、いろんなものを表現したかった。  僕の引退とは何の関係もないです。 

書き始めたのは2006年ぐらいからです。   父親ではなかった父が良く育ててくれたことに感謝する前に彼は死んでしまいました。   この人は自分の父ではなかったことを後で知りました。  なんか変だなあとは自分の顔を見て思っていました。   母親の母親が、母親が7歳の時に離婚しています。   ちゃんとした家庭を作りたくて彼女は正義さんと結婚した人なんです。  結婚して7年間子供が出来なくて、戦争が終わって日本に帰ってきた時に二人ともマラリヤに罹って、死にそうになった。  その後母親の道子さんを正義さんは大事にしなくなった。  母親の道子さんは米軍の美男子と仲良くなって、僕が生まれました。  どっちの子だか分らなかったので産んじゃったら、違っていたという事でした。 父親(正義)は母親がいないと全く駄目な人でした。

父親がアメリから持ってきた文化なのか、DNAから出てきた異質感なのか、日本の決まり事を常に我慢が出来なかったんです。  指揮をやって来ていろいろ大喧嘩しました。  父親が死んで1か月してから(自分が45歳ごろ)、「僕は本当に正義さんの子なの。」と言ったら、「何を今さら聞くの、聞いてどうするの、何も困っていないでしょう。」と言うんです。 誰の子か聞いても涙流すだけで何も言わない。  後で調べても判らなかった。それを知っていたら父親と息子の関係をもっとよくしておけばよかったと思いますが、今さらごめんなさいと言っても誰も聞いてはくれない。   母親も死んでいるのでオペラを作っても何の足しにもならない。   

作曲家としては素人です。  父親と母親の時代を書きたかった。  戦争の後に生まれた人間のことを書きたかった。  台本も自分で書いて、楽しいです。  主役を絵描き太郎にしました。(自分の投影)   自分が観ている自分と、他人からっ見られている自分を考える時があるんじゃないですか。  指揮者としての自分というのと作曲家としての自分の両方を見たかった。   いろんな曲のかけらが沢山入っています。  指揮者は曲に囲まれた人生で洋服を着ているのと同じなんです。  僕の身体を通してオペラというものを映像として残した感じですかね。  日本の作曲家もオペラを書いているが、昔話を使っている。  僕は今の服を着たオペラが可能だと思っている。  それをしないといつまでたっても借りものだと思っています。  14歳のまま77歳で辞めたいと思っています。 縄文時代の火焔土器が舞台の装置の中で一番大事なものなんです。  火焔土器は芸術だと大きな声で言ったのは、岡本太郎さんです。  「芸術は爆発だ。」と言ったのは、広島で言ったんです。  僕は岡本太郎さんが大好きです。











 









 

 










































2023年1月16日月曜日

豊澤長一郎(義太夫三味線奏者)     ・〔にっぽんの音〕

 豊澤長一郎(義太夫三味線奏者)     ・〔にっぽんの音〕

案内役 能楽師狂言方 大藏基誠

歌舞伎座での公演に出演中。  第三部「十六夜清心」 河竹黙阿弥の作品で禁断の恋の物語。  正月の舞台は、正月らしい華やかな雰囲気があります。  落語界ではないのでお年玉はないです。  

義太夫は物語を三味線の伴奏で語る芸能、文楽、人形浄瑠璃や女流義太夫の舞台、歌舞伎の舞台でも聞くことができる。  文楽の義太夫三味線とは違います。  大きくは人形を相手にするのと、役者さんを相手にするのとがあります。 文楽は三位一体と言って人形と太夫と三味線が一体となってやっている。  歌舞伎は役者を盛り立てるための三味線になります。
江戸時代に人気になったものを歌舞伎に移行したというのが多いです。   竹本義太夫が竹本の創始者で竹本連中と呼んでいます。   

おめでたい演目、「萬歳」、「三番叟」をミックスさせたものをちょっと聞いていただきます。  単独で聞くという事まずはないです。

「萬歳」+「三番叟」  演奏:豊澤長一郎

三味線を大きく分けると、細棹、中棹、太棹があり、太棹に義太夫三味線と津軽三味線があります。  棹の太さが同じだけで音色は全然違います。  ばち、駒も糸張の高さも全然違います。  ばちが分厚いです。  握るのが至難の業です。 

滋賀県長浜市の出身で、子供歌舞伎が毎年4月に開催されますが、2016年にユネスコの無形文化財に指定されました。  自分も三番叟を舞ったことがあります。  養成塾に高校1年生の時に父の無理やりの勧めで入りました。  父は剣舞術という別の師範をやっていて、習っていたんですが、こちらを無理やりやれと言われました。  若い時からそれをやるというのに抵抗がありました。  重低音の迫力があります。 駒も厚みが違って義太夫三味線は薄く、津軽三味線は厚いです。  弦も義太夫三味線が太いです。

19歳の時に上京し、太夫三味線、語り、琴、胡弓、茶道も2年間みっちりしごかれました。   21歳の時にデビューしました。   プロになりたい人たちを国が援助して育てる養成機関がありますが、年々減っているようです。  手厚い研修があるので是非利用してください。  長浜時代にやっていたので、悪い癖を取るのが大変でした。 同期が太夫、三味線を含めて15人が卒業が5人でした。   

初舞台が「曾根崎心中」で緊張しました。  役者さんによって安定して演技する人と違って演じる人がいますが、その様子を見ながら合わせて演奏します。  入り方には気を使います。  

*「恋飛脚大和往来」の「新口村の場」の一場面雪が凄く降りしきるなかで親子が別れる場面。演奏:豊澤長一郎


日本の音とは、夏は風鈴、冬は除夜の鐘、虫の鳴き声など、四季折々の音色を的確に表現する和楽器の音色。  義太夫三味線の魅力を伝えていきたいと思っています。









 
















2023年1月15日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕

奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕 

ニューイヤーーコンサートをクラシックの遺伝子版で、昔聞いたな、歌ったなあ、弾いたなあという名曲を惜しげもなくお送りしたいと思います。

ワルツ王ヨハン・シュトラウスの名曲、「春の声」春の訪れ春の喜びを歌ったワルツ。

*「春の声」  作曲:ヨハン・シュトラウス  1989年のウイーンフィル ニューイヤーーコンサートのライブ録音

1989年はベルリンの壁が崩壊した年。  この年の夏にカラヤンが亡くなる。

女性たちのうわさ話やおしゃべりからヒントを得たというヨハン・シュトラウスの「トリッチ・トラッチ・ポルカ」 ペチャクチャとしたおしゃべりという意味、トリッチ・トラッチというのは当時の雑誌の名前でもあります。  ヨハン・シュトラウスは大スターだったので噂話を雑誌が載せるわけです。

*「トリッチ・トラッチ・ポルカ」  作曲:ヨハン・シュトラウス 1992年のウイーンフィル ニューイヤーーコンサートのライブ録音

19世紀終わりから20世紀にかけて、ベルリンやウイーンで活躍したフランツ・レハールの懐かしい名曲、ワルツ「金と銀」  ミュージカルや映画音楽に絶大な影響を与えました。

*「金と銀」    作曲:フランツ・レハール   1902年1月27日ウィーンゾフィエンザールにて行われた舞踏会でレハール自身の指揮で初演。

オペレッタ『メリー・ウィドウ』の愛の二重唱  レハール没後、50年の1998年にオーストリアの温泉保養地バートイシュルで行われたレハール・ヴィラのコンサートでの演奏。  ディユエットの曲をそれぞれのパートを大スターたちが歌い分けます。

オペレッタ『メリー・ウィドウ』ワルツ  「唇は黙しても」   テノール:プラシド・ドミンゴホセ・カレーラス   ソプラノ:アンドレア・ロスト、エヴァ・リント

2023年はラフマニノフ 生誕150年 亡くなって80年 

ルーマニアの作曲家、ヨシフ・イヴァノヴィチのワルツ「ドナウ川のさざなみ」 エミール・ワルトトイフェルが1886年ごろに編曲 1889年に開催されたパリ万国博覧会で演奏された。  日本では、田村貞一が作詞した『ドナウ川の漣』が1902年明治35年)に慶應大学斉唱された

*「ドナウ川のさざなみ」  作曲:ヨシフ・イヴァノヴィチ





2023年1月14日土曜日

かつみ♥さゆり(夫婦漫才コンビ)    ・愛があれば乗り越えられる

 かつみ♥さゆり(夫婦漫才コンビ)    ・愛があれば乗り越えられる

つみさん(59歳)、さゆりさん(53歳)、さゆりさんが髪飾りのゴムを伸ばして離すボヨヨーンというギャグでお馴染みです。  関西のテレビ、ラジオでレギュラー番組を持ち、さゆりさんの美貌や美脚の秘訣を紹介する動画投稿サイトも人気です。  今絶好調のお二人ですが、その一方でかつて財テクで失敗してできたかつみさんの多額の借金を返済し続けています。   舞台ではその借金をネタにして笑いを取り、明るさと逞しさを持っています。  結婚25年、コンビ22年、何があっても笑いを忘れないお二人に、その半生と夫婦愛を語っていただきます。

ボヨヨーンという成り立ちで言うと,かつみさんの応援グッズだったんです。  昔ドンキホーテという男コンビでやっていて、さゆりちゃんと組むまでは一人で頑張ってている時がありました。  借金を抱えたなかで、道頓堀に飛び込むとか、ワニにチューするとか、なんでもやっていました。  ちっちゃいポンポン作って後ろから応援していて、最初ガンバルポンと言っていました。  髪飾りになって、知らない間に僕とカメラさんの間に入ってくるようになりました。 

美貌や美脚の秘訣を紹介する動画投稿サイトでは333万回再生されました。   かつみさんの人生がすべてお笑いになっています。    事実をしゃべったらネタになった感じです。  バブルの時、25歳にしてドーンと儲けたんです。(株と不動産)  25~28歳の時には3億円儲けました。  信用取引をやって30歳の時に攻めた時にバブルの崩壊でした。  半年後に4億7000万円すってしまいました。  1億7000万円の借金が残ってしまいました。  その瞬間を私は見ていました。  18,9歳で結婚しましたが、どこが良くて結婚したのかとよく言われます。   そんな人生のどん底の時にこれをやりたい、あれをやりたいと夢を語るんです。   これだけ上を向いて行ける人だったら後は上に登るだけだと思ってついて行ったら、どん底どころか底なしでした。  僕は希望だけしかないです。 

自分で作った借金だから絶対俺はこれを返すと言って、男らしいと思いました。  後から思ったんですが、若さゆえと思いました。  自分では言ってないのに芸人仲間から広がって行ってしまいました。  銀行からお金を借りてその月の分を返しきれなくて延滞に又利息が付き雪だるま式に増えたという感じです。   水道、ガス、電気は止められる順番があり文化度の高いものから止まって行きます。  最初電話、次に電気、ガス、最後が水道です。  私が行った時に初日からガスが止まっていました。   

電気が止まると漆黒の闇です。  真夏の時で、明るさが欲しいのでガスを捻ったらガスも止められていました。   水道を捻ったら水が出てきて、嬉しくなりました。  クリスマスのキャンドルを点けたら、クリスマスのジングルベルの音楽が鳴るもので、動くと光のグラデーションがあり、綺麗だと思いました。  水で乾杯して、きっとそのうちこれがいい思い出になるからと言われました。   でもその時はつらかったので、こんな思い出がいいことに替わることはないと心のなかでは思っていました。   何年かしていい思い出になったと自分でも言って、自分でもびっくりしました。  それからはどんな辛いことがあっても何年後かにはきっと私のいい思い出に替わってくれるという風に、自分の中で確信に変わった瞬間でした。  私の人生の大きなターニングポイントでした。  未だにクリスマスのツリーを出してお祝いしています。  

両親もかつみさんが借金していることは知っていて、付き合ってると言ったら最初は吃驚しましたが、実はそんなに借金はしていないと嘘をついていましたが、阪神淡路大震災の時に、テレビの番組の副賞でパリ旅行のペアのチケットを頂いて、結婚前でしたが、一緒に行こうと誘われて、行くことを両親に話したら大激怒でした。  反対の中パリに行ったら、阪神淡路大震災のニュースが流れてきて、火災が起きている長田区(実家がある)の映像を見ました。  失神してショックをうけ、10時間かけて神戸に着いた時に、家は全壊で潰れていましたが、駐車場から家族一人、一人とが出てきてくれた時には、家族が生きていてくれた、これ以上の幸せはないのではないかと確信しました。  かつみさんも一緒に来てくれて、それが両親との初対面でした。  両親と感動しているその瞬間に「初めまして、かつみです、さゆりさんください。」と言ったんです。 「今はそれどころではないと」言われてしまいましたが、さゆりを連れ出してくれて、命が助かったかもしれない、きっと縁のある人だという事で賛成してくれました。  

借金は本業だけやっていては返せないと思って、オオクワガタの養殖(黒いダイヤと言われていた。)のために300万円投資し大事に育てていたら、或る日さゆりちゃんが殺虫剤を炊いて全部殺してしまいました。  小蝿を殺そうと思って殺虫剤を炊きました。   除夜の鐘が鳴る2000年になる時にそれまで嘘をついていましたが、自分が炊いたという真実を告白しました。   100円ショップは2か月半で潰れて600万円損しました。  ボヨヨーンラーメンも駄目でした。(7か月)    低金利での借り換えに成功したことで支払額を大幅に軽減でき借金は完済できる年が見えてきました。

借金という敵に向かって二人で戦っている感じです。  経験値を新しい武器を使って戦っていきます。  大好きな人と結婚できたのは僕は恵まれていると思います。      一回の人生のなかでかつみさんと知り合ったおかげで、いろんなことが出来財産になりました。   人生の天気は変わります。 今は雨でも明日はきっと晴れる、と思ったら人生も変わるので、雨がずーっとは続かないので、人生も変わります。

























2023年1月13日金曜日

小澤俊夫(口承文芸学者)        ・心を励ます声~昔話と我が人生 前編

小澤俊夫(口承文芸学者)        ・心を励ます声~昔話と我が人生 前編 

昭和5年(1930年)中国長春の生まれ、92歳。  昔話の世界的大一人者で、筑波大学名誉教授。  大学時代に出会ったドイツのグリム童話の研究から始まり、口承文芸である昔話の研究者となった小澤さん、以来70年以上の間日本と世界の昔話について、研究を重ねてきました。  小澤さんは昔話大学の活動のほか、福岡のFMラジオ番組で月に一度の昔話のレギュラー番組を担当するなど、92歳になった今も昔話の魅力を広く伝える活動をしています。

「小澤昔ばなし研究所」を開いてやっています。  主な管理は僕がやっています。   コロナになるまでは出かけて行って講演をしたり、研究会へも出かけてやっていました。    今はインターネットでつないでやっています。   全国で38か所やっています。    起きるのは8時、8時半とか遅いです。   夜は12時半ぐらいまで仕事をしています。 弟(小澤征爾)は朝型です。  真似したんですが、眠くなってしまって全然駄目でした。  一日の遅い時間でアイディアが浮かんできたり、走るのも遅くていつもビリです。    初めて本を出したのも40歳ぐらいですから遅いです。 

2022年1月に「昔話の扉をひらこう」を出版。  昔話は実はとっても大事なことを語っている。  知ってもらうための出来るだけ広く読んでもらうようにしています。   話の内容としては駄目な子供の話が多い。 しかし話の展開のなかで段々力を出して、幸せを獲得してゆくという、そのプロセスを語っているという事が大事です。  人間の生の声というのは大事です。  声はすぐに消えてしまうが、耳に中にいつまでも残ります。  おじいちゃんおばあちゃんがあんなことを話してくれたなあと思うと、自分のことを愛してくれていたんだなあという事に気が付きますね。(大人になってから。 子供のころは気が付かないが。)  それが大事なんです。  字で残してくれてもいいが、声はもっと直接的ですね。  

おふくろが絵本とか話が好きだったから随分読んでくれたりしました。 中学3年の時に敗戦なんです。  中学1,2,3年生の時には敗戦末期でした。  軍歌を歌わせられたり、話も「敵中横断三百里」とか「肉弾三銃士」とかそんなふうな絵本でした。  平和は大事だと思います。    中学2年の時には立川にいましたが、陸軍の飛行場(今は昭和公園)があり、始終爆撃されるわけです。   怖かったです。 ウクライナの状況を見ると思い出してしまって辛いだろうなあと思います。   3月10日には東京大空襲がありました。  夜になると東の空が真っ赤になって、立川にいて新聞が読めるぐらい赤くなっちゃいました。   3か月後ぐらいに阿佐ヶ谷、杉並、荻窪あたりが空襲されたがこれも凄かった。    自分の命を守るのが精一杯でした。  だからああいう戦争は絶対やっちゃあいけない。   逆に言えば今の時代は本当に有難い。   平和が長く続ているから当たり前のような気がするが当たり前じゃないんです。  大変な人が死んで命を取られてやっと獲得した平和、日本の場合は絶対守らなければいけない。

昭和5年(1930年)中国長春の生まれ。  4人兄弟で、兄が彫刻家、二番目が私、三番目が征爾、四番目が俳優。   北京時代は僕らにとっては良い時代でした。  親父は中国と日本が民間人が政治的に一緒に仲良くやりたいという、そう言う思想の人だった。 新民会という政治団体を作ってその中心人物でした。 中国人とは仲良くやっていました。しかし日本人全体は中国人に対して物凄く傲慢だった。(占領国)    子供心に厭だなあと思いました。  民族というのは大きな問題と思いました。  昭和16年初めに日本に帰国して立川に住みました。  

その年の12月8日に真珠湾攻撃がありました。   小、中学校には配属将校がいて校長より権限を持っていました。  軍の学校の様でした。中学2年の時に日本が危なくなり、中学、大学は閉校になって、大学生は学徒出陣で出された。  僕らは火薬工場に動員されました。   僕らが頑張らないと日本は負けるという事で頑張ろうという気持ちだけでした。    国全体が狂気でした。  仕事は出来上がった火薬を箱に詰めて火薬庫に納めるという仕事でした。  手りゅう弾に入れる前のものでした。  肩に担いでいて落ちそうになっても絶対に手を離すなと手が潰れても手を離すなと言われました。  本当に怖かった。  

玉音放送は家族全員で聞きましたが、何言っているんだかわかりませんでした。  戦争に負けたという事は判りましたが、とてもショックでした。   親父は、「でもこれはいいことだ。  日本人は長い事涙を忘れてしまっていた。   涙を知ることは良い事なんだ。」といったが、それが凄いショックでよく覚えています。   あの時点でよく親父は言えたなあと思いました。   親父を尊敬しました。

勉強には憧れていました。 音楽に憧れていて、アルベルト・シュヴァイツアーという神学者哲学者オルガニストでもある巨人がいました。  彼の弾いているバッハのト短調のフーガのレコードがあり、彼の名前は知っていて彼の神学者としての本があり、それを読んで感動して心酔しました。  原書で読みたいと思ってドイツ文学をやろうと思いました。

今の茨城大学の寮にいたんですが、仕送りがないので全部自分でなんでも仕事をして稼ぎました。  働きながらドイツ語とフランス語二つを始めました。  必死だからよく覚えます。  ドイツ語の先生がグリム童話を教材に使ってくれました。  ちょっと違う雰囲気を感じて先生に聞いたら「グリム童話は昔話だからな。」と言ったんです。  グリム童話を卒業論文にしました。   民族の集合的な文化が読み取れるかもしれないとおもって興味がありました。  それは兄の影響かもしれません。  兄が読んでいた文化人類学の本を読んだりもしました。   中国に住んでいると日本人とは違うなあという事は色々ありました。  夫婦喧嘩も全然違います。 道路へ出てきてうちの亭主はこういう悪い奴だと喚き散らすと周りから寄って来てそうだそうだとにぎやかにやるんですが、日本ではそうはやらない。  民族の違いって何だろうなあという気持ちがありました。

東北大学大学院でもドイツ文学を学ぶ。  その後もグリム童話を研究、そのときに柳田國男氏に出会う。  修士論文でグリム童話の成立史を書いて、その後もグリム童話を研究をしていて、ドイツ民俗学雑誌を見なくてはいけないことになり、調べて行ったら柳田國男先生のところにあることが判りました。  研究所でノックをしたら本人が出てきてしまって、吃驚しました。   ドイツ民俗学雑誌がありました。  何を調べているのかを聞かれ、グリム童話の成立史を調べていますと答えました。  先生を前にしてベラベラしゃべりました。  そのうち僕のしゃべることをメモし始めて、吃驚しました。  僕から見たら神様のような人で、身分とか年齢の違いではなくて、知らないことは全部吸収するという、学問とはこういうものかと思って感動しました。   最後に「君、グリム童話をやるなら日本の昔話もやってくれたまえ。」と言いました。 これには吃驚しました。 

    それで日本の昔話も本格的にやりだしました。   両方やって違いが判ってよかったです。  仙台に戻って、堀一郎という宗教学者(柳田國男の娘婿)の日本の民族宗教の授業に出始めました。  3年後に柳田國男先生が堀一郎さん宅に来ることになり、そこでお会いすることが出来ました。  講演が終わった後「僕は本にはサインはしない。」と30、40人いるなかで言っていましたが、後で僕が挨拶に行くと「改定日本の昔話」を堀先生が取りに行って「君は日本の昔話の比較研究をしているからサインをしてあげよう。」と言ってサインを頂くことになりました。 日本の昔話を引き継ぐ、という意味合いがあると思います。 宝物です。  昔話を実際に日本の昔話としてもっと子供たちに語ってもらいたいという、そういう仕事を今しています。