井上道義(指揮者) ・人は何のために生きるのか 父母に捧げるオペラ
1946年東京生まれ、桐朋学園大学卒業 1971年にイタリアのラ・スカラ主催グィード・カンテッリ指揮者コンクールで優勝し、注目を浴びます。 これまでにニュージーランド国立交響楽団、シカゴ交響楽団、フランス国立管弦楽団で指揮をするなど、海外で活躍を重ねてきました。 国内では 新日本フィルハーモニー交響楽団、大阪フィルハーモニー交響楽団などで、音楽監督や指揮者を務めました。 現在は オーケストラ・アンサンブル金沢でその功績をたたえられ桂冠指揮者としてステージに上がっていますが、2024年12月で指揮活動からの引退を表明しています。 1月22日と23日にかねてから温めていた自主企画のオペラを東京で上演します。 戦後生まれの井上さんが戦争、愛、希望、を自分自身の生い立ちと重ね育ててくれた両親への深い思いを投影した作品です。 台本、振り付け、指揮も全て引き受けたという井上さんにこれまでの道のりや、作品への思いを伺います。
指揮者を目指したのは14歳の時です。 中学2年の時に突然父親に「これからどうするんだ。」、と言われました。 幼稚園からのところてん式の学校で成城学園でのほほんとしていました。 「お金は出さないぞ。」と言われたが、母親からは、「お父さんはアメリカで苦労した人なんだ。」と言われました。 広島からお父さんとお母さんが移民して、アメリかで生まれた子でした。 父親の名前は正義と書きます。 1920年代は日本人に対しての差別が始まっていていろいろな目にあいました。 家庭崩壊していて、母親は眼が見えなくなって、父親が失業していて失業保険で食べていて、全然お金がなかったみたいです。 彼はなんか悪い仕事をして学費を稼いでから大学に入り直したということらしいです。 ですから僕がのほほんとしているので見かねたみたいです。
僕は何に成ろうか、本当にいろいろ考えました。 何が好きかと、何が得意かは別だという事は物凄くよく判っていました。 自分を生かすにはどうしたらいいか考えました。 定年すると数年で急に老け込むので、定年のない仕事をしようと思いました。 指揮はいろんな仕事ができるという事を捜し出しました。 中学で演劇をやっていたので演劇が好きでしたので、舞台は自由だと思いました。 ピアノは4歳からやっていました。 母親が劇場とか映画は連れられてたくさん行きました。 母親は手に職をつけさせたいといろいろ学ばせてくれました。(ピアノを室井摩耶子、山岡優子に、バレエを益田隆、服部智恵子、島田隆に学ぶ。) 指揮者のことを調べたら、近くに桐朋学園があり、卒業生に小澤征爾という人がいて、学校にはいい先生がいるという事で、指揮者に成れずに失敗したらやり直せばいいと思いました。
指揮者になるためにはピアノも弾けないといけないという事で、一日6時間以上弾いていました。 中学3年生からは学校の勉強はしないで、音楽へ力を注ぎました。 桐朋学園に入って2,3年していけそうだと思ったので今でも続けています。 人生一回きりなので自分の持ってるものを発揮できるのが生き甲斐じゃないですか。 指揮者って歳を取るとみんなちやほやするんだよ。 座って指揮をするようになると、今までやってきたことの焼き直しでしかない。 芸術家は今の自分を乗り越える姿が一番大事だと思うので、ヴェートーベンとか、ピカソはそういう人ですね。 10年前の方がよかったねとは絶対言われたくない。 2024年には辞めることにしています。 後2年経ったら駄目になると思う。
「降福からの道」というオペラを上演予定。 降福は敗戦の話です。 第二次世界大戦で日本は敗戦したのに終戦と言って誤魔化している。 それがまずおかしいと思っている人間です。 僕は戦争のない中の人生でありました。 自分の幸福とは何だろうとか、いろんなものを表現したかった。 僕の引退とは何の関係もないです。
書き始めたのは2006年ぐらいからです。 父親ではなかった父が良く育ててくれたことに感謝する前に彼は死んでしまいました。 この人は自分の父ではなかったことを後で知りました。 なんか変だなあとは自分の顔を見て思っていました。 母親の母親が、母親が7歳の時に離婚しています。 ちゃんとした家庭を作りたくて彼女は正義さんと結婚した人なんです。 結婚して7年間子供が出来なくて、戦争が終わって日本に帰ってきた時に二人ともマラリヤに罹って、死にそうになった。 その後母親の道子さんを正義さんは大事にしなくなった。 母親の道子さんは米軍の美男子と仲良くなって、僕が生まれました。 どっちの子だか分らなかったので産んじゃったら、違っていたという事でした。 父親(正義)は母親がいないと全く駄目な人でした。
父親がアメリから持ってきた文化なのか、DNAから出てきた異質感なのか、日本の決まり事を常に我慢が出来なかったんです。 指揮をやって来ていろいろ大喧嘩しました。 父親が死んで1か月してから(自分が45歳ごろ)、「僕は本当に正義さんの子なの。」と言ったら、「何を今さら聞くの、聞いてどうするの、何も困っていないでしょう。」と言うんです。 誰の子か聞いても涙流すだけで何も言わない。 後で調べても判らなかった。それを知っていたら父親と息子の関係をもっとよくしておけばよかったと思いますが、今さらごめんなさいと言っても誰も聞いてはくれない。 母親も死んでいるのでオペラを作っても何の足しにもならない。
作曲家としては素人です。 父親と母親の時代を書きたかった。 戦争の後に生まれた人間のことを書きたかった。 台本も自分で書いて、楽しいです。 主役を絵描き太郎にしました。(自分の投影) 自分が観ている自分と、他人からっ見られている自分を考える時があるんじゃないですか。 指揮者としての自分というのと作曲家としての自分の両方を見たかった。 いろんな曲のかけらが沢山入っています。 指揮者は曲に囲まれた人生で洋服を着ているのと同じなんです。 僕の身体を通してオペラというものを映像として残した感じですかね。 日本の作曲家もオペラを書いているが、昔話を使っている。 僕は今の服を着たオペラが可能だと思っている。 それをしないといつまでたっても借りものだと思っています。 14歳のまま77歳で辞めたいと思っています。 縄文時代の火焔土器が舞台の装置の中で一番大事なものなんです。 火焔土器は芸術だと大きな声で言ったのは、岡本太郎さんです。 「芸術は爆発だ。」と言ったのは、広島で言ったんです。 僕は岡本太郎さんが大好きです。