西本功(NHK障害福祉賞 入選者) ・宿命を使命としてとらえる
NHK障害福祉賞は昭和41年に創設されました。 障害福祉への関心、理解を深めるため、広げるため、障害のある人自身の体験や障害のある人の教育や福祉に関わる方からの記録を募集するものです。 今回518品の応募があった中から8品が入選作品として選ばれました。 お話を伺うのは愛知県春日井市にお住いの西本功さん(73歳です) 知的障害を伴う自閉障害のある長男護(まもる)さんが中学を卒業後に就職し、オートバイや車の免許を取得するなど成長してゆく47年の過程を「自閉症の長男との伴奏、成長と希望の軌跡」という題名で文章にまとめました。 どんな思いで障害のある息子さんと向き合い続けてきたのか、伺いました。
募集の話を聞いた時に無性に書きたくなりました。 自閉症の子供を抱えてこれまで必死になって一緒に歩んできた、そういう思いがよみがえってきたという事と、確実に成長してきた子供のことをもう一度振り返ってみたいという事、多くの人に関わってもらったという事に対する感謝の意味で、纏めて書いてもいたいと思いました。
一寸変だなと気が付いたのは2歳半ぐらいだったと思います。 当時は自閉症という言葉が出始めて間もないころで、言葉が遅れているなと気が付いたのが2歳半ぐらいの時でした。 今思うと自閉症特有の症状がいくつか見られました。 音に敏感、何かあるとパニック状になる、とかありました。 妻から事の重大さを聞いて、いろいろな病院を回るようになりました。 子供が正確に診てもらえるような専門医ではなかった。 心身障碍者の専門の先端的な医療をやるところの職員と私が仲が良かったので、大学病院の医師を紹介してもらう事になり、そこでしっかり診ていただきました。 自閉症で知的障害を伴うという診断を受けました。 何とかなるのではないかという淡い期待を持っていましたが、「普通の人の100倍、200倍やってもちゃんと出来るようになるかどうかわかりません、親としての相当な覚悟が必要です。」、と言われました。 大変なショックでした。
この子のために親として出来るだけのことをやって行こうと思いました。 近くの幼稚園に通う事になりました。 単語もせいぜい二つをつなげたオウム返しで、正直何にもできないというのが現実でした。 運動会に行く機会があり、見にいったら前の子らのスタートでピストルを撃った途端に耳をふさいで大声で泣いてうずくまって動かないわけです。 そのまま運動会が終わってしまいました。 ショックでした。 夫婦で子供と共に歩まなければいけないと、父親としての決意の日でした。
小学校へは先生と相談して普通学級にいれていただきました。 全然答えられない、コミュニケーションが取れないという事で先生もお手上げで、夏休み後に支援学級に移されました。 行動範囲を広くしてあげなければいけないと思って、自転車に乗れるようにしてあげたいと思いました。 3か月ぐらいかかったと思いますが、うれしかったです。 遠くまではいけませんが走り回っていました。 コミュニケーションが取れませんでしたが、いじめにも合わず周りの子供達も大事にしてくれました。
近くの中学では支援学級がなくていけませんでした。 3,4km離れた中学に自転車で通う事になりました。 自分なりに挑戦して成長していったと思います。 7,8人のクラスでした。 担任の先生が護(まもる)君は中学卒業して社会に出ても充分やっていけるから、と勧めてくれたので、普通の人と一緒になって働けるのならとおもって、就職をすることになりました。 選んだのが段ボールの会社でした。 会社に通う中途に自転車屋さんがあり、バイクを購入してもらうために勉強会をやっていて、そのチラシを持ってきてバイクの免許を取りたいという事でした。 事故があったりすると大変だと思って大反対しました。 しかし初めて引き下がりませんでした。 渋々了解しました。 春に言い出しましたが、取れたのは12月27日でした。(9回目の挑戦で合格しました。) バイクを購入して徐々にいろいろなところに行きました。
20歳の時に自動車の免許を取りたいと言いました。 自動車教習所にいって、相談したら過去に1、2回あったようなのでやってみましょうと言う事になりました。 学科は一発で通りました。 実地試験は2回落ちました。 少しづつ成長してゆく姿を見て親として嬉しかったです。 今は颯爽と車に乗って段ボールの会社に出勤しています。 少量多品種なので機械の段取り替えのプログラミングの打ち込みも誰よりも早くできるので、社長さんからは無くてはならない人材ですと言われているようです。 よくここまで成長してくれたなと思います。
私の勤務した会社はオフィス家具、学校の家具など全般の家具を生産販売する会社でした。 下請けが経営難になり、再建のために出向しなさいと言う事が突然あり、3年の約束で死ぬ思いで働いて赤字を解消しました。 本社に帰れると思いましたが、代わりになる人がいないので継続してそこの社長をやれと言われて、やることになりました。 自分としては障害者雇用をしていこうと思って障害者の雇用をしていきました。 作業している人たちは、健常者よりもスピードが遅いと足手まといとなり、ついいじめのような言葉になってしまう。 0.5人として考え、健常者も障害者も一緒になって仲良く働く職場を作りたいんだという、社長としての思い、人生観なので受け入れて欲しいと、社員に何回も頭を下げて、受け入れてもらう迄には、そんなに簡単ではなかったです。 障害者だけのグループで別の仕事をしては何の意味もないと思います。 障碍者雇用はこうでなければとうようなことを、手探りでやってきました。 障害者を持ったことを宿命、運命で終わってはいけない、人間として障害者であろうとなかろうと大きな力があるので、苦難、宿命と捉えないでそれを跳ね返して、普通の人以上にそれを乗り越えて、人の2倍も、3倍も価値ある人生を歩んでこそ、人間の生き方として大事なんだと思います。 自分もなんらかの、一隅を照らす役割を人生のなかで果たしていかなければいけないのではないかなあと思います。 そういう思いにさせてくれたのは護(まもる)だったと思います。