2023年1月6日金曜日

田中幸子(全国自死遺族連絡会代表理事)・優しい人が優しいまま生きられる世の中に

 田中幸子(全国自死遺族連絡会代表理事 )・優しい人が優しいまま生きられる世の中に

自ら死ぬと書いて「自死」、田中さんは自殺の殺という字の強い印象を和らげるために、この言葉を使っています。   仙台市に住む田中さんは2005年11月警察官だった長男を自死で亡くしました。   深い悲しみを抱える中、胸の内を明かせるのは同じような悲しみを抱える遺族だけでした。  今田中さんは自死や災害で家族を亡くした人どうしが支え合う相互支援の活動を続けています。   当事者だからこそできる支援とは何か、伺いました。

全国自死遺族連絡会は自死遺族による自死遺族のためのネットワーク、相互支援してゆくためにネットワーク、法律の専門家、精神の専門家などのネットワークもその周りに作りました。 普段は電話を24時間365日、携帯2台と自宅の電話を公開して受けています。  そのほかにホームページからお問い合わせをまずきいて、会を薦めたり、実際に会ったりしています。  労災申請、事故物件としての賠償金請求など出てくるのでそういった話を聞きながら、それぞれの専門家に繋いでゆくこともしています。  悲しい気持ちは家族同士でないと判り得ないと思います。 子供を亡くした親はやはり子供を亡くした親でないと判らない。 同じ思いをした遺族同志が分かち合う、という事が基本となります。  会は全国にあって、地元に住んでいるところにない場合もあるので、今ではオンラインでも分かち合いの会もあります。   自分でも相談しましたが、繋がらないほど苦しいことはないです。  複数人の遺族を紹介して支えてもらう。  それぞれ違うので、まずは聞くということから始まります。  7,8時間ずーっと聞いているという時もあります。 

2005年5月22日、宮城県の国道で酒気帯び運転をしていた4輪駆動車が、横断歩道を渡ってた高校生の列に信号を無視して列に突っ込み、3人が死亡、22人がけがをしました。 これが引き金になった出来事でした。  息子がその事故担当処理係長でした、毎年思い起こします。   結婚して官舎に住んでいましたが、息子は休みでしたが、早朝に起こされて事故の現場に行き、休日もなく一日も休まず事故の処理をしなければいけないために対応、10月に自宅療養を取りました。  当時4月から交通課初めての勤務で、5月の事故でした。  対策本部を立てなかった。 立てれば本部からの応援があったが。  塩釜警察署だけの対応で、当時息子は係長だった。    夜中に救急車の音が聞こえると飛び起きるようになってしまって、玄関から足が踏み出せないような状況になってしまいました。 部下に割り振りするようなアドバイスもしました。  まじめな性格で俺がやるしかないと言っていました。   謝らずに弁解している加害者に対して、「俺は耐えられないよ」と話していたのを今でも思い起こします。  

結婚して子供もいたので、連絡はしていましたが、余り深く立ち入らない様にはしていました。  或る日突然警察から連絡があり、「亡くなりました。」という話でした。  11月16日の夜でした。  タクシーで家族で行きましたが、実感としてわきませんでした。  「検死しています。」と言われて死んだんだと思って、気絶というか、ひっくり返りました。    どこを触っても氷以上に冷たかったです。    上司のパワハラのようなものがあり、一日も休めなかった。  当時34歳でした。  幸せがずーっと続くものだと思っていましたが、長男の死を機にがらりと変わりました。  自分も狂ったようになり暴れまわり、亡くなった息子もののしり、お前が死んだからこんなに苦しいんだとか、一家でボロボロでした。  ストレスで血圧が上がり過ぎて、安定剤、睡眠薬を飲まされて、主人などは後追いをするのではないかと思って、主人と弟が交代で24時間見張っていました。 当時一気に13kg痩せました。   死んで息子が食べられないのに親の私がご飯を食べているなんて、という罪悪感がありました。  救いを求めて占い、カウンセリング、医療関係、教会、お寺、などありとあらゆることをしました。  朝から晩まで泣いている後ろから弟が「優秀なお兄ちゃんが死んで、駄目な僕が生き残ってごめんね。 僕が死んでもこんなに悲しんでくれるの。」とつぶやいたんです。  次男も悲しいんだという事にはっと気が付きました。  夫も悲しんだという事にも気が付きました。  

長男の為にも家族の為にもどうやって生きていったらいいんだろうと考えました。    2月に支援者の会に行きました。    悲しみにも波があり、その時にはあまり感じない時でした。  しゃべっても自分自身であまり悲しくもなく、聞いている人たちはわんわん泣いていましたが、凄く違和感を感じました。  息子が見世物になっているような感じがしました。(相手が当事者ではない)   2回目の時に後で遺族同士5人でお茶会をしましたが、その時には居心地が良かったです。   仙台に遺族同士「藍の会」を作りました。  警察官の制服は藍色なのでその名にしました。  自死遺族の会は判らないほうがいいと思います。  参加する人たちは自死の遺族であるという事は知られたくないと思います。  

2006年7月が第一回目でした。 狭いところに35,6人が集まりました。     一人ではないんだという事が大きいですね。   生き方を学んでゆくという感じです。 たくさんの人から学んだほうがいいですね。   悲しみは消えないと思っています。   愛する気持ちが消えれば悲しみも消えると思います。  17年になりますが今も深く悲しみはありますが、折り合いをつけて日常生活は送っています。   経験を語り合って。自分の生き方と合うものを見つけて生きていけばいいのかなと思います。    

私の活動の原点は息子のあの冷たい死に顔ですね、それで頑張ろうとか、やりたいことが沢山見えてきます。   国の自死対策協議会への参加、ほか様々な活動をしています。  国、行政、民間団体でも連携を取りながら相互支援を目指してくださいと言っているんですが、自死遺族支援に関してもほとんど相互支援をしていません。   そこが凄く残念なところです。  自死についての偏見、差別がまだまだあります。  自殺対策基本法が2006年にできて、大綱ができ、自殺の多くは社会的要因によって追い込まれた死であるので、要因を変えていかなければいけない、人を追い込まない社会にすべきだという事が書かれているが、世間にあるいろんな問題は自死は個人の問題、勝手に死んだ、という意識がまだまだあります。  自死遺族の方にも悪い事をしてしまったというような気持をぬぐい切れないところもあります。  活動も息子と共にあると思っているので、いろいろな経験、沢山の人との出会いがあり、深い人生を生かされてもらっていると思います。  自死の問題は教育にあると思っていて、自死の多くは言葉の暴力によって追い込まれた末の死だと思っています。  他人の気持ちを思いやる人たちが救われる社会であってほしいと思います。 そのためには教育を変えてゆくしかないのかなあと思います。  優しさの恩送りをして行ってもらいたいと思います。