矢口高雄さんの次女(かおる) ・〔わが心の人〕 漫画家・矢口高雄
昭和14年(1939年)秋田県横手市に生まれました。 代表作「釣りキチ三平」をはじめ大自然と向き合う姿を描き続け、新しい漫画の世界を開拓しました。 令和2年(2020年)亡くなりました。(81歳)
今神田の神保町では矢口高雄さんの原画展が開かれています。 かなり幅広い世代の方が来ています。
小学校のころは姉と一緒に夏休み、冬休みは父の田舎で過ごしていました。 家は祖母が亡くなった時に家を取りこわしてさら地になっています。 父は中学校時代は毎日8kmの道を通いました。 父は崖から落っこちたり、まむしを踏んだり、漆かぶれをしたりしました。
横手市は冬は大雪になり一面真っ白になります。 父は漫画が大好きで手塚治虫さんにしびれて漫画を書いていたりしました。 小学校5年生の時の絵が残っていますが、小学生の描く絵ではないですね。 中学卒業したら働くという時代でしたが、頭が良かったので先生から高校に行くように説得されたそうです。 秋田県立増田高等学校を卒業して銀行員になる。 白土三平さんの「忍者武芸帖」に出会ったことで、漫画家になりたい熱が再発したと言っていました。 1970年の6月1日、姉がいて私が1歳の時に銀行を辞めて、漫画家になりました。
「釣りキチ三平」に関しては三平が自分自身だと思います。 三平君の幼馴染のモデルは母親です。 「釣りキチ三平」の連載が始まったのが1973年(50年になります。)。 新しいエピソードを書く時には必ずそこに取材に行って、ターゲットの魚に関してチャレンジして、作品に取り込むというのがモットーでした。 海外にもいろいろ行っています。 父は釣りは大好きで、待つのが釣りだと言っていました。
令和2年(2020年)亡くなりました。(81歳) 5月ぐらいから体調が悪くなり、すい臓がんが見つかりました。 介護が出来るように介護学校に通おうと思って受験して合格した1週間後、半年で亡くなってしまいました。 辛い治療でしたが、弱音を吐くことはなかったですね。 最後に「ママ有難う。」と言ったのが印象的でした。
父は家では普通のお父さんだったと思います。 ギャグを言ったり料理もしていました。 忙しい中にも時間を作って、授業参観に来てくれたり、子供の成長をも守っていてくれました。 大人になってから一家4人でマージャンをよくやっていました。 私は3年前まで、旅行会社に30年ぐらい勤めていました。
父の漫画は教科書に載ることになり、吃驚しました。 高校入試の問題になったりもしました。 漫画はいけないものというような風潮の時代からすると、変わったなと思います。 72,3歳の時に、漫画を描かないで原画保存とかを一生懸命考えていました。 2012年に姉が亡くなっています。(45歳) それが大きかったと思います。 私が結婚した相手がたまたま父の大ファンで、ホームページを作って更新しています。 2019年の6月に父のために何かできないかという事で、ツイッターを始めました。 父がスケッチブックに絵を描いて、私が写真を撮って、配信します。 冬眠していた矢口ファンが一気に目覚めたような反応がありました。 フォロアーも1か月ぐらいで3万人を越えました。 楽しそうに描いている父を見て嬉しかったです。
猫との出会いと別れを描いたエッセーの本があります。 猫の名前がナッコ。 23歳まで生きて、人間でいてば100歳越えだと思います。 イラストも父が描いています。
父は子供のころ手塚治虫さんにファンレターを出して、返事をもらっったので、同様に父も返事を出していました。 手塚治虫さんとはパーティーだとかで何度か会っていたようです。 漫画家2世の会というのがあって、去年の11月に女子だけで集まろうという事になって、有名な方々の2世と会えました。 紙なので劣化してゆくので、原画保存について悩んでいました。 秋田県横手市に漫画美術館があり、父の原画は全てそちらに寄贈して保管してもらっています。 父がやってきたことを多くの人に伝えていきたいと思います。