2026年3月18日水曜日

鬼嶋一司(元慶應義塾大学野球部監督)    ・「果敢なる闘士たれ、潔い敗者たれ!」

鬼嶋一司(元慶應義塾大学野球部監督、元NHK高校野球解説者)    ・「果敢なる闘士たれ、潔い敗者たれ!」 

まもなく甲子園では選抜高校野球大会が始まります。 城島さんは昭和31年生まれ。 東京6大学野球の早慶戦に憧れて慶応に進み、大学卒業後は社会人野球の川崎製鉄千葉の選手、監督として活躍しました。 その後2002年から2005年まで慶応義塾大学の監督を務め、2004年の秋のリーグ戦では、母校を6シーズンぶりの優勝に導いています。 そして2006年から2016年までの11年間、NHKの高校野球解説者として甲子園球場から球児を見守りながら、優しくときには熱く解説をしました。   今年の1月に誕生日を迎えて70歳になります。

横浜の生まれですが、子供の頃は遊び場には苦労しませんでした。 野球もどきを夢中でやってました。 中学ではサードには憧れましたが、先生の指示でキャッチャーをやることになりました。 昭和49年に大学に入学しました。 法政大学には江川投手などがいて、やられっぱなしでした。 ボールが見えない投手は江川投手だけでした。 福島監督はとても厳しい方でしたけれども、人を一人の人間として見てくれた監督でした。 さり気ないやさしさのある監督でした。

昭和53年に川崎製鉄千葉に入社して、その3年目に創部25年目で都市対抗に初出場しました。 昭和61年は春先からなかなか勝てませんでしたが、都市対抗に駒を進めることが出来ました。  監督プレイヤーとしてやってました。 時間がなくて時間の使い方をいろいろ覚えていきました。 2002年から慶応の監督になりました。当時早稲田は最強のチームと言われてました。 1番から6番まではその後プロに入ってます。 ピッチャーも好投手が何人もいました。この時まで早稲田に対しては10連敗していました。

野球っていうのは確率のゲームだと思ってまして、セオリーが大事ですけれども、でもセオリーと言うのは落とし穴があります。 我々のような力のないチームは、そこに付け入れるチャンスがあるわけです。 奇襲は奇襲の理屈が十分にあると思います。 逆に言えば、奇襲はセオリーにはならないわけです。 6シーズンぶりの優勝になりました。

鬼嶋さんは2006年から2016年までの11年間NHKの高校野球解説者として甲子園球場から解説をしていただきました。 東京6大学野球の早慶戦の解説も17年間お願いしました。これからは解決者としての話を伺っていきます。

高校野球の解説は楽しいです。  プレーに心の模様が現れます。 選手の心の模様を感じながら話さなければいけないんじゃないかなと思います。 心に残る試合としては、2010年沖縄の興南高校が春夏優勝した時、2012年大阪桐蔭が春夏優勝した時解説をしました。 沖縄の興南高校は地元の選手で固めた手作り感のチームです。日大三高との春の決勝戦でも、日大三高にリードされるんですが、じわじわと最後にひっくり返す、そういう粘り強さを持った印象的なチームでした。 

大阪桐蔭は、沖縄とは対照的に非常に力のあるチームでした。 春の選抜のときには、大阪桐蔭は1回戦で大谷翔平選手のいる花巻東と試合をしますが、9対2で大阪桐蔭が勝ちますけれども、藤波くんから大谷選手はホームランを打っています。  この試合も本当に楽しい試合でした。  基本的なプレイにも忠実で相手にプレッシャーをかけました。 日々の練習の成果だと思います。連覇をするチームと言うのは勝負にこだわりますね。チーム全体が集中します。

勝つことを目的にすべきだと思います。 勝ちに行くことによって、選手同士の協調性とか知恵も培われます。 負けたチームに対しては、よくやったとねぎらいの言葉を言う。 負けた選手に対して悔しいだろう、辛いだろう、だけどこれから頑張れよと言う。 そういう意味合いを込めて、激励の言葉を必ず指導者はかけます。勝ちに行く事は勝利至上主義ではないとは思います。 負けることにも1つの大きな意義があると思います。 痛みを知ることであり、人の痛みを知ることにもなるわけです。 1年生菊池雄星くんが出てきて、菊池雄星くんの腕を振る速さにはびっくりしました。  

野球は楽しいんだと言うことをがベースにあると思います。 勝利を目指して全力で戦って欲しい。 その中で負けることも多いわけです。 負けた時どう対応するか負けて知る事は許すということ。 野球と言うのは、運不運が作用する。 不運の時にそれをどのように飲み込めるか。 許す、寛容さを身に付けていかなければいけないんじゃないかと思います。



2026年3月17日火曜日

浜野佐知(映画監督)            ・「怒りが私の原動力」

浜野佐知(映画監督)            ・「怒りが私の原動力」 

浜野さんは1948年徳島県で生まれ、静岡県静岡市で育ちます。  高校卒業と同時に映画監督を目指し上京、ピンク映画の制作会社で助監督として働き始めます。 23歳の時に監督としてデビュー、その後300本以上のピンク映画を監督。  1984年「株式会社旦々舎」を設立、監督とプロデュースの両方を兼ねるようになります。 1998年「第七官界彷徨―尾崎翠を探して」で、一般映画の監督としてデビューし、国内外で高い評価を得ました。 2000年日本インデペンデント映画祭で「林あまり賞」受賞。 同年第4回女性文化賞受賞しました。 今年3月浜野さんの7作目の一般映画「金子文子 何が私をこさせたか」を公開します。 この映画は、1920年代、国家や社会のあり方に対して強く批判的な姿勢を持っていた朝鮮の若い活動家朴烈(パクヨル)と、日本人の同志で、恋人の金子文子が逮捕、投獄された朴烈(パクヨル)事件を題材にしてます。 金子文子は自身の信念を最後まで貫き通し、獄中で亡くなりました。 その生き方を克明に描いた作品です。浜野佐知さんの話を伺いました。

「金子文子 何が私をこうさせたか」と言う映画の監督をしました。 私は金子文子と言う、100年前の時代に自分を曲げずに貫き通した生きた女性に惹かれました。それまではピンク映画の制作監督を300本ぐらいやってます。 1998年頃に獄中手記を読みました。 裏表紙に「・・・東京に行く。お前は私に何を与えてくれるのかそして私は17である。」と言う一文がありました。 私も映画の監督なりたいと思って東京に行こうと思って、家出同然に東京を目指したのが、やはり17歳でした。  文子はものすごく悲惨な育ち方をして、戸籍もなく学校にも行けず、親にも親類にも日本と言う国家にもういじめ抜かれて生きてきた文子がいるわけです。

絶望の泥の中を這いずり回って掴んだ思想で、その思想が無政府主義と移っていくわけです。 その彼女の思想が本当に素晴らしいと思ったし、私は17歳で上京しましたけれども、監督になれるのは大卒男子でないとなれない、と言う大きな壁にぶち当たったわけです。 女にはなれない職業があると言うことに怒りを感じまた。その怒りが文子の怒りとドッキングしたというか、文子に強烈にひかれたのが最初です。 

精神的なものだけでなく、肉体的にもダメージを受けてます。 冬の深夜0度以下のところで木に吊るされたとか、9歳から16歳7年間ですが、よく生き抜いたと言うほどのことがありました。 そこから始まった人生は、自分を阻害したもの、認めなかったものに対する大人、社会、肉新、あらゆるものに対する復讐だったと思います。その復讐が生きるエネルギーになったと思います。 

ほとんど書き物が残されてなくて、獄中で書いた九首の短歌から中のストーリーを作り上げました。 自分が拘束されて生きると言う事は、ただ息をしてるだけじゃなくて、自分の意志で行動して初めて生きる、と言うことだと言うことを文子は言ってます。 自由に生きると言う文子のたったひとつのためには、今の自分を殺さなければいけないんじゃないかと言う矛盾してますが、転向声明さえ書けば外に出られる可能性はあるけれども、転向声明を書く、謝ると言う事は、彼女にとって思想をもぎ取られるものと一緒なんですね。 

未来の自分を生かすためには、今の自分を殺さなければならないと言う結論に達したんだろうなと思います。 小さな雀に自分の未来を託して、大空に飛ばせていくという、満足して未来を見て文子は死んでいったと思います。 今の人たちに「自分の頭で考えろ。」と言うメッセージを託したかったんです。 どんなことでも1分1秒でも無駄にしないで全身全霊で生きるという人なんですね。 字が書けなかった人がある時から字を学び、文章を書き思想的なことも理解できるようになるまでほんと短期間でした。  文子にとって学ぶと言う事は経験なんです。体験なんです。叩かれて叩かれて、炎のような人だったんだと思います。

私の父親が映画が好きで、毎週土曜日になると映画館に連れてってくれました。 私は10歳の時に突然父親が亡くなりました。 父親は41歳、母親は36歳の時でした。 弟が7歳で母親は全く働いたことがなかった。 母親はすごく苦労して私たちを育ててくれたと思います。 お金がなくて映画館には行けませんでしたが、ある時おじさんが映画館に連れて行ってくれることになって、そこが映写室でした。  毎日毎日映写室に通って、映画のことをいろいろ教えてくれました。

高校生になってアルバイトをして、自分でも映画を見に行けるようになりました。調べてみたら、当時女性の映画監督は1人もいませんでした。 私が監督になって等身大の日本の女性を描こうと思いました。 東京に出て行ってみましたが、周りが大卒の男子でないと監督になれないと言うことで、ピンク映画の世界に飛び込みました。  映画監督になる勉強しながらやってきました。 

1971年23歳で映画監督になりました。この業界にしか私が映画監督になれないならば、女の視点で性を撮る、女のセックスを女の手に取り戻そうと言うことをライフワークにしました。 女の欲望が主体と言うピンク映画を撮り続けてきました。女優さんの協力がありました。 同性であったので、安心感があったと思います。フィルムからデジタル化することによって徒弟制度が崩れて、手軽に撮れる様になったので、女性映画監督が増えていきました。 

1997年の東京国際女性映画祭にて、日本の長編劇映画の女性監督で最多本数は、田中絹代の6本であると言う発言があり、その時私はピンク映画を200本ぐらい撮っていました。 私はいないのと同じだと思いました。 金子文子と一緒だと感じました。 1998年「第七官界彷徨―尾崎翠を探して」と言う映画を撮りました。 私が撮ってきた女性たちはみんな100年前ですが、私が映画にするまではそれまであまり知られていませんでした。でも世界でも知られるようになると言うことが映画はいいなあと思います。  彼女たちの生き方を今の女性たちに見てもらいたい。 

大逆事件を朴烈、文子事件とよく言われますが、やはりそういうものであって、金子文子と言う一人の人間、一人の女性を描きたかったと言うところから始まりました。  何が私を突き動かしているかと言うと、やはり自尊心じゃないかなぁと思います。 自分は守る、自分以外には誰も守ってくれない。 絶対に私は私を裏切らない、私は私自身を生きると言う大きな生きてきたテーマだったと思います。  ですからピンク映画もずっとやり抜いてこられたし、今もこうして映画監督でいられることだと思います。 人が生きていく上で、自分を認めてあげられないと言うことが1番悲しいことだと思います。 「金子文子 何が私をこさせたか」と言うのが私の集大成です。 人との関係性を平等に戻す。 誰かのために生きると言うのは、愛じゃないからと言いたいです。 愛と言うのは自分のために生きてこそ生まれるもので、相手に対する愛も。

2026年3月15日日曜日

山内惠介(歌手)              ・「深夜便のうた『午前4時』への思い」

 山内惠(歌手)          ・「深夜便のうた『午前4時』への思い」

山内惠介さんは、1983年福岡県糸島市の出身。 高校1年生の時作曲家水森英夫さんに見出され、高校3年生だった2001年「僕はエンカな高校生」のキャッチフレーズでデビュー、2015年にNHK紅白歌合戦に初出場して以来、現在まで10回連続で出場。 2025年には第67回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。  演歌の貴公子と呼ばれ、ラブソングから硬派な歌まで親しまれています。  山内さんに「午前4時」に込めた思いや、節目の年デビュー25年を迎えた気持ちなどを伺います。

深夜便の歌「午前4時」を作っていただきました。 「午前4時」っていうのはほっとする作品です。  詩を書いていただいたのが、直木賞作家の桜木紫乃先生です。「午前4時」と言う題名の割には、「午前4時」という言葉が入ってないのでお伝えしたところ、入れていただきました。 演歌に関してはこぶしをつけるということですけれども、この歌に関してはあまり必要のない作品です。 ですから極力意識して抜いています。 自分が歌うことで緑の草原、ふるさとの風景みたいものがファーっと浮かぶことができれば、伝わってるって言う証拠なんだと思います。 ステージで歌っててわかる時もあれば、わからない時もあります。 「午前4時」と言うこの作品は難しい歌ですね。 さらっと歌うと言うのが1番難しいです。

高校生でデビューして伸び悩んだ時期もあり、辞めたいと言うものがありましたが、辞めたい時期は俺がやめろと言うから、と先生から言われました。     先生とはほぼ30年近い付き合いになりますが、いまだに何かがあったら先生からいろんな言葉をいただいています。 「生きるという事は地獄道なんだ。」と先生から言われました。 ステージ、コンサートは、僕の発散させる場所でもあるわけです。 それは歌い手の醍醐味かなと思います。  

コロナ禍のときにはこの先どうなっていくんだろうなと思いましたが、助けてくれたのはフアンの方ですね。 オンラインライブなどをやってます。 出会いは広がりました。 紅白歌合戦には2015年から10年連続で出さしていただきました。2025年は止まってしまったと言うのは、僕にとってはちょっと落ち込んでしまいました。自分がもっと穏やかになりたいと言うのが課題ですね。 短気なんですよ。喜怒哀楽を表現するので、自分で自分の空気の入れ替えをできるようにならないといけないと思ってます。

僕は曹洞宗で25分のCDがあって、それを楽屋で聞いています。(法話)     30周年に向かっては若さとは違う、自分の武器みたいなものを持っていたいです。  渋さとか味わいのあることを歌っていたい。 

*「この世は祭り」 作詞:松井五郎 作曲:村松崇継            最初この曲のタイトルは「明鏡止水」でしたが、「この世は祭り」と言うふうに変わりました。





2026年3月14日土曜日

飯田未希(立命館大学教授)         ・戦時中、外地で就職した女性たち

 飯田未希(立命館大学教授)         ・戦時中、外地で就職した女性たち

飯田さんは、戦中、戦後の新聞、雑誌の記事や投書、企業の社員誌、個人の手記等丹念に徹底的に調べる手法で、戦時中の女性たちの実像をつかむ研究を続けています。 その飯田さんが去年「女たちよ天使を抱け 戦時下 外地で就職する」と言う著書で、戦時中にもかかわらず、海を渡って外地、中国や南方にある軍の施設や企業で働いた若い女性たちにスポットを当てました。 女性たちは、なぜ戦時中に海を渡って就職したのか、どんな体験をしたのか伺いました。

2020年に「非国民な女たち 戦時下のパーマともんぺ」と言う本を書きました。 戦時中にもかかわらず、髪にパーマをかけ、スカートときにはミニスカートを履く人たちがいた事など、したたかにおしゃれを楽しんだ姿を明らかにしました。 その飯田さんが、「女たちを大志を抱け 戦時下 外地で就職すると言う本を書きました。 調べていくと、ドレスメーカーの女性たち、タイピスト、電話交換手、そういった仕事をするために、外地に渡っている人たちがいると言うことをわかりました。

多くの求人は満州、中国北部とかの交通会社、電信電話会社その他の会社が多かったです。 最初に求められたのは高学歴の女性たちでした。 東南アジア地域が日本軍によって占領されて、占領された地域に出て行った女性たちもいます。 軍で働いたり満鉄とか、鉄道会社に就職した人が多かったです。 1930年代後半には満鉄では10万人近い人を雇用していました。 1945年頃には20万人近くになっていました。 その1割が女性だったと言われています。 

タイピストは高等女学校卒の高学歴の方が多かったと言われています。 電話交換手は高等小学校卒が多かった。(外国語用に大学卒もいた。) 総動員令が敷かれ、女性も多く働くようになっていきました。 女性たちもお国のために外地で働くと言う新聞記事が出たり、女性たちもそういう意識になりました。 どうせ南方に行くならば、少しでも戦争を感じられるところに行きたいと言う様なことも中には言ってます。 女性の仕事は、男性の補助者だと言うような見方がされていました。女性の立場は、内地より遅れていたかもしれません。 「満州の女」とか「大陸の女」とか、偏見で見られるようなこともありました。 

内地ほどの締め付けがないので、いろんな服を着ていたりはしてました。 日本語を教えるために行った女性たちに対して、これが日本婦人だと言うことを現地の人に教えなさい、と言うようなこともありました。 西洋化されていた現地では、なかなか受け入れられなかったようです。 中国で戦況が悪化していって、前線に近いところへ行かざるを得ないようなと思いました。 

中国に渡った女性たちそれから南方に渡った女性たちも、戦後すぐには日本には帰れませんでした。 南方に関してですが、タイピストとかで働いていた女性たちが危険に会うといけないと言うことで、臨時看護婦と言う形で、戦後現地にしばらくいた女性たちが結構いました。 女性の軍属も、山の中をさまよったと言う話もあります。 外地に働きに行った女性たちは座談会などでも、結構自己主張があって面白いです。 今の人よりも元気なんじゃないかなと思います。

2026年3月13日金曜日

落合恵子(作家・子どもの本の専門店 主宰) ・「“わたし”を生ききる覚悟 後編

落合恵子(作家・子どもの本の専門店 主宰) ・「“わたし”を生ききる覚悟  後編

後編、子供の本を主催する専門店として、まもなく50年と言う落合恵子さんに絵本と人生について伺いました。

子供の本の専門店を作ったのが昭和51年31歳の時に誕生させました。 子供の頃に本って、こんなに面白いもんだと言うことを知りました。  母と接した中から、人は本を記憶とし、同時に人の大事な部分の要素は本からもできてるのかなと思います。  東京に母が私を連れて、アパートの1部屋で生活を始めたのが最初の東京の日々でした。   

母が台所の仕事を終えて私の寝ている布団に潜ってきて「さぁ、絵本の時間ですよ。」と始まるんです。  大事な私たちの親子の儀式でした。そこには必ず絵本がありました。 本って、自分にとって大事な栄養になるからねと買ってくれたのを覚えています。  子供の絵本の専門店は、その後オーガニックレストランや八百屋さんとか食べ物屋さんケーキ屋へ発展させました。  500何十人の応募者から30数人がケーキおばさんになってくれました。 その時の最も若い子がまだいらっしゃいます。

そこで誰かと出会う、本と言う誰かと出会う、何かと出会う場所ではあります。 10代の秋の日に母からもらった言葉「される側の人と柔らかく、手をつなぎなさい。」と言う言葉  あなたは残念だけど、差別される側の子供かもしれない。  だからこそいろんな場面で、される側の人で柔らかくつながって離してもいい、また繋げばいいそれを頑張りなさいって言うふうに言われました。 私が本とであったのは4万から5万だと思います。  今ちょっと焦っているのが、本がどんどんなくなっていってしまうということです。 

大好きなものを1冊でいいんだよと伝えたいです。 好きな本のうち1冊が「お休み僕」。  これは「がんと生き切る。」でも紹介してるんですが、部分と全体、人間の体は部分でできているけれども、全体を忘れてはだめだよね、と病気の人にとっても意味があります。 人は全体で生きてるんですが、病気になるとある部分がクローズアップされてしまう。でも全体を忘れるのはだめです。 

2冊目は2010年初版長田弘さんが原稿を持ってきて本にしたいということです。   長田さんの書いた詩の最初の読み手は、連れ合いである瑞枝さんと言う方です。その瑞枝さんが入院されている。 花と木だけをまとめました。 あと数日と言うところで、瑞枝さんは残念ながら亡くなってしまいました。 死ではなく、その人が自分の中に残していった確かな記憶を私は信じる。 自分の中に亡くなった人が記憶を残してってくれた。 それを信じて、私は今ここに生きていると言う、死と言うものが、ありありと私たちに教えてくれるのは、その人と自分の間にあった絆であると言うふうに長田さんはおっしゃってます。 

3冊目は(書店さんにない本。) 「ハーレムの闘う本屋 ルイス・ミショーの生涯」 ハーレムに本屋さんを作った。 ニューヨーク7番街に1939年に小さな本屋さんを作ったルイス・ミショーの生涯を描いたものです。 どうして僕たちには僕たちの本がないのか、アフリカ系の人間がアフリカ系に向けて書いた本があってもいいと言うことで本屋をやろうと決めます。 色々な人たちがその本屋さんに来ました。 キング牧師も来ました。 気がついたら彼は70代になっていた。 癌になって彼は考えます。  一体自分がやった事は誰の役に立っているんだろう。 ただただ忙しく働いてきた。一体どこに向けてメッセージを発信してきたんだろう。 でも答えが出ました。 

若い男が近づいて、私はあなたの店で父に医学についての本を買ってもらいました。 あなたは「この子は医者になるといい。」と言いました。  1冊の本が彼を医者にさせることになりました。 彼は、古くからの友人のように、私の背中に手を回した。 私は涙が溢れて、私は赤ん坊のようにワンワン泣いてしまいそうだった。  本って、そこに1冊あればあっちともこっちとも繋がれるすごいものです。

扉が1個開くとこっちも空いてないなと、気づいて全部開けちゃうって言う感じでやってきました。 子供専門店は今年12月5日に50周年になります。  その間にもいろんなピンチがありましたけれども、続けてこられました。  次の世代に手渡していかなければいけないと考えるようになりました。 その社会において、最も声の小さい側の人が、声の出せる、みんなに伝わる社会でありたいと思います。 

外に出るのがしんどくなってしまっている人が、土をいじったり、自分が食物、食べ物を作ることができたらどんなにいいかなと思ってます。  病を体験することによって風景が違ってくるものってありますね。  それらは書いていきたいと思っています。  変わってないものとしては、「悲観にも楽観にも傾かず。」です。  私は自分の人生に大好きな3冊の本があればいい、大好きな3本の木があればいい、大好きな3つの料理があればいいと思ってます。 そばが好きです。 「癌と生ききる、悲観にも楽観にも傾かず」を自分の真ん中に置きたいと思ってます。






2026年3月12日木曜日

藤原稔三(映画監督・プロデューサー)    ・「人生は生き直せる」

 藤原稔三(映画監督・プロデューサー)    ・「人生は生き直せる」

映画監督藤原俊三さんがメガホンを取った映画「ミックスモダン」はベルリン国際映画祭で注目されました。 この映画は、藤原さん、自身3本目の映画でメジャーデビュー作となりました。  映画「ミックスモダン」は少年院から出た少年を周囲が再生させて行くと言うもので、現在上映中です。 4月にはフランスでも公開される予定です。 藤原さんは23歳で黒澤明監督の「影武者」で俳優デビュー、その後様々な映画、テレビなどに出演して、俳優として順調に動き出しました。 しかし38歳の時に、舌癌を患い舌の1部を切除する手術を行って、それまでのような発声喋りができなくなりました。 俳優としての仕事は諦めざるを得なくなり、すさんだ生活をするようになりました。 しかし、それを救ってくれたのが映画だったといいます。 作ることならできると、プロデューサーや映画監督として仕事をするようになったのです。 映画監督であり、俳優、保護司でもある藤原俊三さんに伺います。

「ミックスモダン」 映画館で、自分の作品が一般公開は全く初めてです。    2月7日公開、今回が3本目の映画です。 映画のタイトルが「ミックスモダン」、「ミックスモダン」はお好み焼きに焼きそばを一緒に入れて焼きそを挟むように焼くものです。 映画の内容は、罪を犯すことでしか自分を感じられなかった少年が主人公ですが、お好み焼き屋の夫婦に会って、生きる意味を見つめていくヒューマンドラマ。 お好み焼きを営んでいる夫婦が、元受刑者や少年院の出身者を雇いながら、社会復帰の手助けをしている。  主人役を、私がやってます。 

映画監督、出演俳優、脚本、プロデューサー、編集の5役をやってます。 学生時代は8ミリで自主映画を作っていました。 30年前ぐらい舌癌になりました。 放射線治療をやってました。 一旦収まったんですが、再発してしまいました。 舌の両側にできて片方を切除しました。 仕事ができなくなってしまいました。  23歳の時に、黒澤明監督の「影武者」でオーディションに出て受かりました。 「乱」にも出ました。 北野武監督の「あの夏、いちばん静かな海」にも出演しました。    俳優の仕事が順調に行くようになりました。 舌癌になってしまい事務所もクビになりました。 芝居の本を書くようになりました。 舞台の台本も書きりました。 ワークショップで、ユニットを作ってメンバーはいろいろ変わりますけれども、40歳の頃からだんだんやり始めました。 その後映画に取り組み、2002年に「シアター」、「空の裏側」を2014年、「ミックスモダン」が2025年と言うことになります。

1956年生まれ、現在69歳です。 大阪で綿織物の工場を営む経営者の孫として生まれました。(三男) 6歳の時に会社が倒産しました。 父親は働こうとせずやけ酒を飲んでました。 母親はため込んでいたへそくりを使って喫茶店を始めましたけれども、父親は邪魔をしたりしました。 中学、高校、大学と暇さえあれば映画館に通ってました。そこで本を書く事、映画に関することが勉強出来ました。 経験が今の本や映画になっていると言う感じです。

子供が犯罪を犯して周りがどう支えたらいいのかとか、悪い思いなんかみんなないのに、それが社会ではうまくいかないと言うような、すごく大きな問題を抱えた映画と言うふうに思います。 彼らのお父さんお母さんとまず仲良くなると言うことをすごく大事にしてます。 仲良くなることで絶対息子さんは変化があるはずだと僕は信じているんです。 

僕は高校で停学するようなことをしましたけども、ずっと親は見てくれていて見捨てなかった。 それは今の自分のベースになってます。 僕が保護司として担当した少年の半分は、小学校、中学校で勉強があまりできなかった子です。 でもできなかったんじゃなくて、やる感情がなかったと本当に思います。 できない子じゃなくて、やるチャンスがなかったんだと、それだけなんです。 ちょっとした環境の違いで、やるチャンスをもらえなかったと言うのは、段々その子たちが集まって、悪さをし始めてしまうと言うことだと僕は思います。  映画を通して多少なりともこういうことをわかっていただいて、広がっていけばうれしいなと僕は思います。