2026年5月23日土曜日

田嶋陽子(英文学研究者・女性学研究者)   ・私の人生手帖(ちょう)

 田嶋陽子(英文学研究者・女性学研究者)   ・私の人生手帖(ちょう)

1941年生まれ、幼少期から高校まで静岡県沼津市で育ちます。 元法政大学教授で1990年代から様々なメディアで発信を続けます。  著書「愛という名の支配」2019年に復され、2022年には韓国版2024年には中国版が出版され、フェミニズムの先駆者として再評価の機運が高まっています。 田嶋さんの研究の原点には母親との葛藤がありました。 苦しみ続けた日々の中で自身を取り戻し、その苦悩が世界中の女性を苦しめている問題でもあると言う観点から、女性学の道を切り開いてきました。 現在ではシャンソンの歌手としての顔も持つ田島さん、まずはその歌声からお聞きください。

*オリジナル曲「揺蕩い(たゆたい)」 歌:田嶋陽子

私は60過ぎて国会議員になって国会議員は合わないと思っていました。 軽井沢町おこしのために歌でも歌ってもらえませんかと頼まれました。 歌を習いに行った先生がシャンソンでした。 シャンソンを歌うことになりました。 コンサートやったら270人来てくれました。(半年後) そろそろ20年近くなります。

中学生の頃、歌とか書道、絵などは中途半端でしたけれども、歳をとって自由になってやり直したいと思いました。 最初は「笑っていいとも」に10回出て、その後たけしさんの番組を13年間やりました。 当時いろいろなことを言ったけど、嫌われましたね。 再評価されるようになりましたが、時代が追いついたそれだけのことだと思います。 日本の社会が変わるんではないかと期待してます。

父は仕事をしながら、脊髄カリエスになった母の看病をしてました。 結核菌が骨にはいってしまったので、母自身死ぬものと思っていました。 死ぬ前に、私を一人前の人間にしたいと思ったと思います。 勉強の事とか非常に母は厳しかったです。 あと女らしくしなさいと言われました。 母からのしつけ、愚痴で子供時代は苦しみました。 いい薬ができて、母は元気になってきました。 私は女子校に入って勉強しないで、図書館に行って本ばっかり読んでいました。 自由に生きた女の人たちが殺されたりして死んでいくと言うことを本で知り自分なりに纏めていきました。 津田塾大学の大学院で修士課程を終了し、イギリスのケンブリッジ校に1年間留学しました。

ベルギー人の伯爵の人と知り合って、招待されて休みを過ごすことになりました。伯爵家の奥様お嬢さんたちも結局専用主婦になります。 5年ぐらい待つと言ってくれましたが、結局別れることになりました。イギリスに二回目の留学に行き、英文学の研究でイギリスに行っている間に、今までやっていた男性の研究者たちが見てきた見方を学んで、そこから私が出れないでいました。 英文学の研究を現地でするようになって、それまでの研究の考え方を脱して、嶋田陽子なりの英文学の獲得していきました。 

フェミニズムと言う視点から英文学を見るようになって、私にとってはそれが画期的なものでした。 今もその延長線上にあります。 フェミニズムと言うのは人権なんです。 「雪国」と言うあんな退屈な小説はないと思っていましたが、それをフェミリズムの視点で見たら、実に面白いです。 視点を変えることによって、作品が全く違う生き方をすると言うことを発見しました。 登場する駒子と葉子は同一人物だと思っていまして、そうするとすごく面白くなって、内面みたいなものを表してしていると言う解釈をしました。 そうしたら作品がすごく深くなりました。映画も自身の視点で見直して書いてます。

母は男社会の代弁者で、母は良妻賢母になろうとしていました。 良妻賢母には自分がないんです。 だからあんなに強くなれる。 しかし、母は、自分の人生をこれは違うと思ってたわけです。 母はフェミニストでした。  46歳になるまで、母にはN0と言えませんでした。 やっと私のことだから、私に決めさせてくれと言って、ここから私の人生となりました。 母から解放されたと言う事は、男社会からも解放されたと言う意味にもなりました。 

私が法政大学に就職したときに、駒尺 喜美さんが、フェミニズムの視点で日本文学を読んでいて、自分なりの世界を作っていた方です。 テレビに出ていろいろ批判されましたけれども、彼女から励まされました。 自分のやってきた事は間違ってはいなかったと思います。 今まで自由になるために、私は戦ってきました。    子供時代が1番悲しくて、1番辛くてやっぱり地獄でした。 母親との関係が1番辛かったです。 私はフェミズムと言う事は学ばなかったけれども、自分から全部紡ぎ出したと言う気持ちはあります。(自分の苦しい体験、悲しい体験)       韓国語、中国語英語圏でも翻訳されて出ると言う話もあります。  原動力となったのは、人間として自由になりたいと言う気持ちです

2026年5月22日金曜日

蒲島郁夫(前熊本県知事)          ・「逆境の中にこそ夢がある」

 蒲島郁夫(前熊本県知事・東京大学先端科学技術研究センターフェロー) ・「逆境の中にこそ夢がある」

蒲島さんは1947年熊本県稲田村に生まれました。 高校を卒業した後、地元の農協に就職、21歳の時に農業練習生としてアメリカに渡りました。 その後奨学金やアルバイトで学費や生活費をまかないながら、ネブラスカ科大学で農業を、そしてハーバード大学大学院で政治経済を学びました。 東京大学で教鞭をとっていた2008年、熊本県知事選に立候補して当選、416年勤めました。 現在は東京大学先端科学技術研究センターで半導体の研究を重ねています。 災害対応の指揮を取った 2016年の熊本地震から10年、今思うことなどを伺いました。

熊本地震から10年になりました。 熊本地震は2期目から3期目に移る時でした。(就任の日4月16日)  学問に戻る様にとの誘いもあり迷っていた時期で、熊本は良いハードができて、これから花を咲かせる時期だと五百籏頭 眞さん(元防衛大学校長 50年来の友人)から言われました。 地震対応に1番力を注ぎました。    急いで県庁の本部に行きました。  2日後に地震からの復興三原則を決めました。  ①被災された方々の痛みの最小を図る。 ②創造的復興、前よりも良い形で復興しよう。  ③創造的復興のさらに発展につなげる。  逆境の時にこそ夢があるという人生を送ってきたので、三原則に沿ってやりたいと思いました。 二日後に県民に約束しました。 

私がハーバード大学の政治理論で学んだ中で、サミュエル・ハンティントン先生がGap仮説」と言うことを唱えられました。 分子と分母があって、分子、皆さんの期待が変わっていきます、最初は助かって良かったと思っても1週間ぐらいするとおいしいものを食べたくなる、1ヵ月もすると立派な家に住みたくなる、そういった期待値はどんどん上がってきます。 分母の実際値のほうはなかなか上がりません。 その差がギャップになるんですが、期待値と実態値のギャップが広がらないように急いでやらなければいけないと言うのがその理論です。 広がってゆくと暴動が起こったり、社会不安が起こってゆく。

1947年熊本県稲田村で生まれました。 両親は戦前満州にいって仕事をしていましたが、無一文で子供を6人連れて熊本の稲田村に戻ってきました。(その後3人生まれ7番目が私でした。)  私は新聞配達をしながら、家計を助けたりしました。  熊本県立鹿本高等学校に行きましたが、成績はほとんどビリでした。 ただ本を読むのが好きでした。 小説家か政治家、牧場主と言う夢を持っていました。    大学と言う選択肢はなくて、地元の稲田村の農協に勤めました。  農業研修生としてアメリカに行くことになりました。(21歳)

最初ワシントン州、次にオレゴン州、アイダホ州などいろいろなところに行きました。 私にとって良かったのはネブラスカ大学で学科研修を3ヶ月一生懸命勉強しました。 2年間の研修がありました。(6か月間学科研修残りは農業実習) 一度日本に帰って、半年間旅費捻出してアメリカに再度渡りました。 そして農業研修生の通訳をやりながら試験を受けました。英語と数学ですが両方ともダメで、不合格でした。 先生からの後押しもありチャンスを貰えて、他の学生と1学期間だけ375人の学生と一緒に勉強しました。 375人の10人だけがすべての科目で90点以上、その中に私も入りました。 

特待生となる授業料免除、奨学金が来る、1年生の時から指導教授が来て研究ができる。 その時には本当に一生懸命勉強しました。 恋人をアメリカに呼んで結婚しました。 指導教授とともに豚の精子の保存方法の研究をしました。  豚の精子だけは保存が長くできませんでした。 その時点で悩みました。 研究をずっとやっていくべきかそれとも政治をやりたいかと言うことでした。 政治学としてはハーバード大学に行きたいと先生に言ったら推薦状を書いてもらえました。  ハーバード大学では、授業料免除、奨学金も来ました。 ハーバード大学でドクターをとって日本に戻ってきました。

筑波大学で17年、東大法学部で11年やりました。  50歳の時に、東大法学部に呼んでもらえました。  人にはいろんなチャンスを与えてくれる社会だなと思いました。 逆境だからといって何もしないのではなくて、逆境の中だからこそ夢が大きいものがある、それをやってよかったなと思います。 2008年に現職の東大教授から政治家、熊本県知事へと言う道になっていきますが、難しい決断でした。家族はみんな反対しました。 1番反対したのは私が教えていた学生たちでした。 私の専攻は政治過程論計量政治学であり、投票行動の実証的研究などでした。 蒲島理論を使って圧勝すると宣言しました。

5人の立派な経歴を持つ人が立候補しました。 しかし圧勝しました。 5人のうの46%私が取れました。 チーム熊本ができて、4期まで支えてもらいました。   大学教授のときには1番関心があったのは、自分の理論がどのぐらい世界で受けられる受け入れられるかと言うことに喜びを感じていました。 知事になって、熊本県民を幸せにするために政治学を勉強したわけなので、皆さんの幸せのために作りたい、それに喜びを感じます。 

財政再建を1番求められていました。 給料が124万円でしたが100万円カットしました。 税金を差し引くと14万円しか残りませんでした。 2期8年やったときに借金はものすごく減りました。相互信頼ができた事は大きかったと思います。   くまモンができて関連商品の売り上げが15年で15000億円、経済効果も大きかったけども、くまモンが誇りです。 新幹線の全線開業でマスコットを使って大阪からお客さんを来て欲しいと思いました。 小山薫堂さんと水野学さんにお願いしてスケッチを頂きました。 職員が一生懸命やりましたが、痩せていて反応が良くありませんでした。 みんな失敗したくなくやっていますが、県民を幸せにするのが目標だから、リスクを恐れずにしてほしいと言いました。

私自身は、もともとモットーが逆境の中にこそ夢がある、そして不可能を可能にする、不可能と思った瞬間にダメですね。 ちゃんと支えてくれる人が出てきます。 妻にも県庁の職員にも、学生にも一度も怒った事はありません。 でも妻には毎日怒られます。 両親は何をやろうとしても一切口を出せませんでした。 不可能を可能にして生きていうと言う生き方をすることによって、自分の夢が叶えてゆく。   

故郷の地に故郷三賢人の碑が建ちました。 企業家の長野濬平さん、熊本市長を務められた星子 敏雄さん、そして樺島郁夫さん。 長野濬平さんは早い時期に熊本に近代養蚕業を広めました。 星子 敏雄さんと言う人は満州で30代で警察長官になってソ連で10年以上抑留され、帰ってきてから熊本市長になりました。 

私が知事時代にやった事は、半導体の研究と生産、半導体の会社がたくさん熊本県にはありました。 東大の先端研究所の方でフェローとして呼びたいということで、半導体をみんなで支えようと言う、半導体の文明研究会って言うところを作ってそこの会長もしました。 半導体を平和利用のために使うそのための研究とそのための半導体の生産をやっていきたいと思ってます。 

健康維持のためにできるだけ歩くようにしてまして、目標を9000歩位にしてます。日本中の子供たちに「やればできるんだと、逆境だからと言ってあきらめないで、逆境でも夢があって、それにチャレンジすればできるんだ。」とサゼッションできると思います。 自分を信じること、あきらめないこと、そうしたら必ず救いの手が出てきます。






2026年5月21日木曜日

山本真希(パレスチナ刺繍帯プロジェクト主宰)・「パレスチナの女性と美しいものを作る喜び」

 山本真希(パレスチナ刺繍帯プロジェクト主宰)・「パレスチナの女性と美しいものを作る喜び」

山本さんは昭和53年東京生まれ。 小学校時代にアメリカで数年間過ごし、帰国後は日本で成長しました。 大学は薬学部へ進み、大学院終了後化粧品メーカーに勤務します。 2013年にパレスチナを訪れるツアーに参加し、紛争が続く中、高い壁に囲まれ厳しい生活を送る人々を見て大きなショックを受けたといいます。   その一方で、女性たちがパレスチナの伝統的な刺繍を大切に伝承していることを知りました。 そこで山本さんは着物の帯に色鮮やかなパレスチナの刺繍をしてもらい、製品化することを思いつきます。 次の年に会社を辞めて本格的に活動を始めました。 現地の女性たちにデザインの説明などを繰り返し行い、これまで300本のパレスチナ刺繍帯を完成させています。 パレスチナの女性たちを支援し、パレスチナと日本の伝統文化を継承したいと活動を続ける山内さんに伺いました。

帯の地の色は黒ですが、赤や緑、白、茶色といった刺繍糸で細かく刺繍がデザインされています。 別の赤い帯には、香りの良いダマスクローズが刺繍された帯になります。 バラの花です。  もう一方は白地に青、水色なので、大きな花が刺繍されています。 パレスチナの伝統的な刺繍は、もともとパレスチナの民族衣装とかインテリア、装飾品に施された刺繍の総称のことをいいます。 主な刺繍の技法としては、✕点をたくさん重ねたクロスステッチとなります。 難民キャンプの人たちに刺繍をしてもらった帯です。 パレスチナの難民キャンプに行くと、本当に過酷な環境です。下水、上水も整っていません。 停電もよく起きます。

小学校の時に数年間アメリカで過ごしました。 その後日本に帰国しました。   小さい頃は好奇心が旺盛な子供でした。 父は建築家、母はインターナショナルスクールの教師です。 父は趣味で油絵とか水彩画を描いていました。 影響されて風景画などを描くようになりました。 大学は薬学部卒業、大学院は東京医科歯科大学で修士課程を終了しました。 その後就職し、化粧品メーカーに入りました。  スキンケアの研究開発やお肌に良い成分の基礎研究などをしてました。

ある時、駐日パレスチナ大使と奥様との出会いをきっかけに、パレスチナを知ることになりました。 2013年にパレスチナ自治政府が主催するパレスチナヨルダン川西岸を体験するツアーに参加する機会がありました。 紛争で苦しむ現実を目の当たりにしました。 それとともに美しい豊かな文化があることを知りました。   パレスチナの民族衣装、飛び跳ねて踊る民族舞踊、陶芸、おいしいお料理、染色、刺繍など幅広いパレスチナの文化を見ることができました。 

NPOが支援として刺繍のバックなどをやっていましたが、私の方でオリジナルものを作ろうと思いました。  思いついたのがパレスチナの刺繍のついた帯を作ると言うことでした。 作ってもらった評判がとても良かったです。 パレスチナの女性のお金お稼ぐ手段になると思いました。 人の手仕事による刺繍は、膨らみ感、微妙なサイズの違いがぬくもりを感じさせます。 会社を辞めて2014年に退職し、パレスチナ刺繍帯プロジェクトを立ち上げビジネスとして運営していきました。

着物の帯について、実際に身に付けて説明しました。 最近はお客様のニーズに応えるように、日本の帯地を送って作ると言うことを行っています 。20回弱訪問しています。 帯は当初全く売れませんでしたが、活動を続けました。 その後だんだん認知度が高まってきてお客様が増えていくことができました。 イラン戦争で一時期物流が止まりましたが、最近は戻ってきて商品が届くようになりました。  信頼関係、様々なつながりが必要です。

コロナ禍で行き来ができなくなり、訪問できなくてもどうやって帯を作ればいいか、もうちょっと刺繍が少なくて値段も手頃なものができないかと言うことで名古屋帯デザインして、図案を描いたりして、その升目をスマートフォンでやりとりしていました。 帯の刺繍ができる女性は5名しかいません。 或る一定の技術力が必要です。 人数が少ないと言うことが大きな課題になっています。 新しい人の育成の取り組みもしています。

完成した帯の姿や、お客様から「きれいな帯を作っていただいてありがとう。」と言われたときには、この上ない喜びで苦労を忘れてしまいます。 「刺繍に集中する時間が、戦争の恐怖、空爆の恐怖を忘れることができる。」と言ってくれて、戦争の恐怖を癒してくれるものだと思います。 

今までおよそ300本ぐらい作りました。 2025年外務大臣賞表彰を受賞されました。 日本とパレスチナとの文化交流の促進が認められたと言うことです。 いつか絹のパレスチナ刺繍を復興させたいと思ってます。 今はコットンの刺繍糸しか流通していません。 パレスチナ刺繍の帯を通して、パレスチナの人々が置かれている過酷な現状とともに、この美しい文化を、日本の人々や他の国の人々に知ってもらいたいと言う活動をコツコツ続けたいと思ってます。








2026年5月20日水曜日

本田孝一(日本アラビア書道協会会長)    ・「アラビア書道に魅せられて」

 本田孝一(日本アラビア書道協会会長)    ・「アラビア書道に魅せられて」

今、全国のカルチャーセンターなどで、アラビア書道が注目を浴びています。  アラビア書道は印刷技術がなかった時代に、イスラム教の聖典であるコーランの言葉をより美しく書写しようと始まった文字です。 アラビア文字を使う国々は1000年の年月をかけて、各国の地域の美意識のもとで洗練されてきて、芸術となって広がってきています。 アラビア書道は、イスラム教徒の関わりが強く、その聖典であるコーランを書き表すために発展してきたと言われてきています。 アラビア書道は日本の書道と違って、表面がツルツルの紙に細い竹か葦の先端を削って、彫刻刀のようにナイフ状にして、先に墨をつけて書きます。 そしてアラビア文字は基本的に右から左に横に書きます。 そのアラビア書道を指導しているのは、本田考一さん(80歳)、東京外国語大学アラビア語学科卒業後、通訳として中東地域に滞在中にアラビア書道に出会い、その美しさに惚れ込みました。 アラビア書道家の本田考一さんに伺いました。

毎日作品を作ってます。 横1.5メーター位の円の中に1つのコーランの書を全部入れ込んでるような作品を作っています。  完成まで2、3ヶ月かかります。    アラビア語を母国語としている国としては、21カ国以上あると言われてます。  それと関連しているのがイスラム教です。 7世紀にできて、アラビア語アラビア文字が各地域に広がっていきました。

20代後半から30代にかけてサウジアラビアに滞在しました。 アラビア語を使って仕事をしていました。  文字の美しさに惚れ込んでしまいました。 東京外国語大学でアラビア語の倍率が低かったので選びました。 大学紛争の時代で勉強はできませんでした。 就職はせず、アルバイトなどをやっていました。 本をひっきりなしに読みました。 自分はどういくべきか、先人たちはどこ言っていたのか、世界中の宗教書、仏典などを読みました。

ある時、後輩から呼び止められてアラビアへ行きませんかと誘われ、サウジアラビアに行くことになりました。  地図を作るためにいろいろな情報を集めると言う仕事でした。(地名、町の名前、山の名前などの情報) アラビア語はほとんどできませんでしたけれども、現地の人に教わったりしながらだんだん覚えてきました。仕事で行ったリビアではアラビア語をオンリーでした。 英語フランスなど全てだめでした。(仕事のプロジェクトに参加) 最低限の言葉が使えるようになったのは3年位でした。 アラビア文字に美しさを感じました。 書道家に習うようになりました。5年ほどで日本に帰ってきて会社を辞めてしまいました。(結婚もしていた)

1988年イラクで大きな書道家たちのフェスティバルがあるからということで、招待状が来ました。 私が書いたものが、新聞の1面でどんと出てしまいました。   (政治的な側面があるって言うことを全然知りませんでした。)  自己流だったので、良い先生からゼロからやらなければダメだと言われました。 先生からお手本をいただき勉強しました。  トルコの書道の大先生に引き合わせていただき、郵便でのやりとりして10年ぐらいやりました。 アラビア書道の免許皆伝をいただきました。

1998年位から自分の作品を作ると言うことにシフトしていきました。  いろいろなところで発表会を開催しました。 海外の数箇所で個展をやりました。  自分でデザインもするようになり、それも評価されるようになっていきました。  日本では「書は人なり」と言う言葉がありますが、アラビア書道では「書は神」といいます。 神様の言葉をより美しく書くと言う作業なんです。 ですから個性はないです。 世界にそういう文字芸術と言うのはないです。 ですから私は惹かれました。意味がわからなくても、美しいと感じると、自分で書いてみたいと言う人が出てきます。 日本の書道で培われた伝統かと思います。 文字芸術を日本人はすごく高く理解できます。 マレーシアで、英語でアラビア書道を説明したテキストを出します。  日本流の精神に基づく事によるアラビア書道テキストです。 文化交流になっていくと思います。





2026年5月19日火曜日

佐藤清隆(広島大学名誉教授)        ・「“神の食べ物”チョコレートに選ばれて」“チョコレート博士”

 佐藤清隆(広島大学名誉教授) ・「“神の食べ物”チョコレートに選ばれて」“チョコレート博士”

佐藤さんは愛知県生まれの79歳、 広島大学名誉教授、元は名古屋大学工学部で食品に使われる食品油脂を物理学的に研究していた工学博士です。 ある時その研究が大手チョコレートメーカーの目に留まり、チョコレート研究の世界に足を踏み入れます。 そこで佐藤さんはチョコレートのおいしさを大きく変える仕組みを発見、国内外で高く評価され、数々の賞を受賞しました。 近年はカカオ豆の起源や歴史、生産地の課題にも目を向け、チョコレートを通して生産者を支える活動を続けています。 チョコレートにかける佐藤さんの思いを聞きます。

学生時代は名古屋大学の工学部応用物理学と言う学科で博士課程を出まして、その後広島大学の生物生産学部の食品物理学と言う研究室に入りました。 油の結晶の性質を研究していました。 チョコレートの油ココアバターといいますがそれに出会いました。 ココアバターはチョコレートの原料、カカオ豆を発酵して乾燥してローストしてすりつぶして絞ると、天然の油脂が出てきます。 チョコレートを口の中に入れすっと溶けてとろける感じが出て固まった後、表面がつやつやしてパリッと割れると言う、そういう食感を作ってる主役がココアバターなんです。

チョコレートを作ってる大手の日本の会社から話が来ました。 1986年チョコレートを放って置いたりすると、表面が白くなって美味しくなくなると言う、そういう問題で頭を悩ましていました。 ファットブルーム、油の結晶が性質を変えてしまうことから出てくる現象です。 メーカーでは年間億単位の損失を出していると言う状況でした。 チョコレートの製造の中では、カカオバターの固め方が大事だと言うことで一緒に研究をやってほしいと言われました。 若手社員の育成についても依頼されました。

ココアバターの結晶になる時に結晶の種類が6種類あります。 それぞれ固まる温度、溶ける温度、味も違ってきます。 コントロールが難しい。この5型の結晶を作って維持すれば、チョコレートの製品が安定して、ファットブルームが起きにくなるんではないかと予想しました。 分子設計をすればいいんだと言うことに気が付きました。 1989年にアメリカの雑誌3本論文を発表しました。 世界から注目を集めました。外国のチョコレートメーカーに行っていろいろ教えました新しいチョコレートの製造技術にもつながっていきました。 アメリカ、ヨーロッパで5つの賞を頂きました。

材料のカカオ豆についても関心を持つようになりました。 産地によって味が違います。 その原因を知りたくて、2007年ごろから9カ国を訪ねて、チョコレートはできるまでの歴史を含めた壮大な世界があると言うことに気づきました。 ベネズエラはカカオの発祥の地です。 カカオ豆は熱帯でしか育ちません。 カカオ豆の中には油が半分ぐらい含まれていますが、残りはタンパク質、栄養成分で、カカオ豆の油が固まってしまうと、栄養が不自由な分なので芽が出ないんです。  カカオは豆の周りを甘くして動物を引き寄せますが、豆は渋いので、豆の周りの果汁を食べて糞として豆が出てきます。 それでカカオの生産範囲を広げていってます。

カカオの底知れぬ大きな魅力に引き込まれました。 氷河期があったりするとアマゾンの原流域でしかカカオ豆は残りませんでした。 人類がアマゾン川の流域にやってきて、約15,000年前カカオ食べ始めます。 重要な食料です。 チョコレートにはポリフェノールが豊富にあります。 昔から体に良いと言う事はわかっていたんじゃないかと思います。 2018年に、人類がカカオを飲んでいた痕跡がある最古の遺跡が南米のエクアドルの熱帯雨林あることがわかりました。 偶然土器の中からカカオ豆を発見しました。 それまでは北米と言われていました。 エクアドルでは重要な儀式にカカオが飲まれていたようです。

カカオの農園で起きている問題にも関心を持つようになりました。 天候、異常気象、病害に対して常に戦っています。 貧困と言う問題もあります。 3年前にカカオショックが起こりました。 バレンタインのチョコレートも非常に高くなりました。  異常気象がアフリカを襲いカカオ育たなくなってしまって、去年は数年前の4倍に価格が値上がりしました。  

リスクを分散させる必要があります。新しい土地でカカオ豆を生産するサポートが必要である。 南緯北緯20度以内の熱帯地方では、基本的にカカオを生産できます。 僕はフィリピンに注目しています。  生産地を多様化していくと言うことで力を入れてやっています。 遺伝子の解明がカカオの世界にも入ってきて、異常気象に対して抵抗性が高いとか、病気に負けないと言う種類の開発も今研究されています。 チョコレートの奥深い世界に、次々と引き込まれてきました。 1000万年前にカカオは生まれたらしいですが、何度も氷河期を襲いましたが、彼らはそれを乗り越えて、カカオのしたたかさに見習いたいと思います。 ファットブルームが起きない様な技術が出来そうなので是非完成させたい。 





2026年5月18日月曜日

水島結子(琵琶演奏家)           ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

水島結子(琵琶演奏家)       ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠 

水島さんは東京都出身、早稲田大学で琵琶サークルに出会い、演奏のみならず、かつて琵琶愛好家達のために発行された「琵琶新聞」についての研究も始めました。  大学4年生のときにはアジアの芸能をさらに研究したいと、韓国ソウル大学国学科(伝統芸能科)に交換留学。 現在は鶴田流古典曲の研鑽を志し、友吉鶴心に師事しています。 琵琶を始めて今年で25年目、演奏活動を中心に若手の育成、近代琵琶の研究、さらにはSNSでの発信など、琵琶の魅力を広めるために精力的に活動しています

琵琶に関することは歴史だったり、楽器だったり、何でもやりたいと言う形で演奏のみならず首を突っ込んでいます。 琵琶の白い部分は象牙ですが、人工象牙を作っています。(海外演奏が難しくなってきている。)  正倉院にある螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)は、国宝になっている。 頭がまっすぐですが、これは外国からもらったもので、日本の琵琶の特徴として頭の分が直角に曲がってます。  琵琶は4弦が基本ですが、私の鶴田流は5弦5柱の流派になってます。フレッドは昔は米粒でつけてましたが、1674年以降フレッドを高くして音を出すような風に改良されました。 

日本には雅楽の楽琵琶と平家琵琶があります。盲僧?琵琶というのがありまして、近代琵琶は薩摩琵琶と筑前琵琶があり、全部で5種類あります。 平家物語に使うのは平家琵琶です。 薩摩藩独特の琵琶を作ろうと言うことで、薩摩琵琶ができました。  筑前琵琶は、三味線音楽が江戸時代に流行るので琵琶に逆輸入しています。 筑前琵琶は三味線っぽく弾きます。 筑前琵琶は桐でできていて、薩摩病は桑でできています。 バチは柘植を使います。 世界で1番大きいビックと言われています。

ルーツはアラビア半島からシルクロードを伝わってきました。祇園精舎は実はインドです。 平家物語が流行った時代は末法と言われ、仏教で言うお釈迦様の教えがすたりまくっていました。 平家では仏教を信じていたので、仏教の故郷であるインドに思いを馳せてという意味で、祇園精舎が1番最初になっています。

*「祇園精舎」

大学の時に琵琶に出会いました。 「琵琶新聞」は明治42年から昭和18年までありました。 近代琵琶(筑前琵琶、薩摩琵琶)の機関誌です。 琵琶専門の新聞で、琵琶は明治から大正にかけては大流行していました。 明治になって、元薩摩の藩士が明治天皇の前で琵琶を演奏して、明治天皇が薩摩の琵琶かと言うことで、薩摩琵琶になりました。 薩摩琵琶は男性が弾いていましたが、大正になると女性も弾くようになりました。

韓国国立ソウル大学国学科(伝統芸能科)に留学しました。 琵琶はシルクロードを介して中国方面から日本に琵琶が入りましたが、韓国にはなくてなぜないんだと思いました。 その歴史を知りたいと思いもあり留学しました。 日韓併合の時にやるなと言ってそのまますたれてしまいました。 韓国に行って1番驚いたのは、声が1番の楽器だよと言うふうに教えられました。 声に合わせて伴奏しなさいということでした。 そこは日本と違うと思いました。

*「ねずみ教」 ネズミの動きをお経に織り込んでいくものです。

昔はおとぎ琵琶と言うジャンルがありました。 子供のための琵琶の歌がつけられていた時代がありました。 私も自分の演奏会で現代語を入れたり、古典の法を入れたりして、聞きやすいものを作って発表しています。

日本の音は日本語です。 文化とか喋ている言葉とかが音楽とかにも全てに通じていろいろなと言うことがあります。 琵琶の魅力は、自分で歌って、自分で伴奏するということで、自分を見つめ直す道具ということで良い修行になると思います。


2026年5月17日日曜日

野津幸次(紫雲丸遭難事故生存者の会)    ・71年前の紫雲丸事故 伝える生存者の思い

 野津幸次(紫雲丸遭難事故生存者の会) ・71年前の紫雲丸事故 伝える生存者の思い

1955年昭和30511日早朝、656分、四国高松を出航したばかりの旅行連絡船紫雲丸が、にわかに立ち込めた瀬戸内海の濃霧に包まれ、対岸の岡山県宇高港から高松に向かっていた第3宇高丸と衝突、紫雲丸丸はわずか3分から4分で沈没してしまいました。 乗客781人のうち167人が死亡1人が行方不明に、亡くなった人のうち、100人が島根、広島、高知、愛媛の4つの小中学校の修学旅行中の児童生徒でした。 この船に乗り合わせていたのが当時島根県の松江市立川津小学校6年生だった 野津幸次さんでした。 川津小学校の一行は四国へ出かけた23日の修学旅行、その帰りに、高松からこの船に乗り込んでいました。 出港して16分後に事故に遭遇、多くの児童が海に投げ出されました。 沈みゆく船から脱出し救出された野津さん現在は82歳です。 紫雲丸遭難事故生存者の会のメンバーとして、あの日の状況を語り継ぐ活動をしています。 今日は野津さんはどういう体験をしたのか、そして今どのような思いで行動しているのかを伺います。

島根県松江市の川津小学校、紫雲丸事故の資料が展示されている教室、紫雲丸の部屋には写真パネルがたくさんあります。 高松の桟橋で遭難の20分前の出発の時の写真です。 紫雲丸に関する歌もたくさん作られました。 命の大切さ、亡くなられた人の悲しい思い、残された人たちの思いなども振り返りながらしっかり学習しています。 特に511日は紫雲丸の日ということで全校でお参りをします。

私は衝突のときには甲板にいました。 視界が100メートル位しかない霧がありました。  第三宇高が汽笛を鳴らしました。双方が汽笛を鳴らしました。 あっという間に衝突しました。 カバンを取りに客室に行って戻ろうとしましたが、既に45度位傾いていました。 船と共に沈んでいきました 。相手の船に乗り移った人が半分ぐらいいたようです。  電源も落ちてしまい、照明も消えてしまい、船内連絡なども全くできませんでした。  船体は船尾から次第に沈み、その後左に傾き始めます。 乗り組み員たちはボートを下ろすこともできませんでしたし、紫雲丸はそのまま転覆、衝突後わずか4分から5分の間の出来事でした。 

私は水泳は得意な方でしたので、立ち泳ぎで海面まで上がっていきました。   イカダがあり、3人ぐらい既に乗っていて、大人が手を引っ張って助けてくれました。 助けに来てくれた漁船にイカダから乗り移りました。 その後第3宇高丸に引き上げていただきました。 船の油が漏れていたので、顔も体も真っ黒でした。  黒い油を飲んで吐き戻した子たくさんいました。 夕方先生とともに遺体を確認に行きました。 遺体安置場所では辛くて、先生と別れて先に帰りました。 

沢山の家族も遺体確認きました。 お母さんの姿を見ていると、子供心に悲しかったです。  生存者はラジオが放送していましたので、兄が来てくれたときには生存した事は知っていて来てくれました。  帰ってから学校に行った時、亡くなった生徒の机の上に献花をしていました。 2つあったクラスが1つになってしまいました。 21人の生徒と先生が2人父兄が2人亡くなりました。 6年生は児童数が61人でした。 最初の1週間ぐらいは普通の授業はできませんでした。

松本敏雄先生と言う修学旅行を引率して助かった先生が、ずっと地元で活動をしました。 それが原点になっています。 三島先生と共に2人で25枚の子供たち先生父兄のお墓に毎年お墓参りをしてました。 それが紫雲丸を忘れないでおこうと言う小学校の原点です。 33回忌を機に毎年お墓参りをお盆にするようになりました。 

小学校では学習に取り入れて、風化させないようにということで、そのお手伝いと言うことも私は続けています。 紫雲丸の部屋を作っていただきました。     子供たちの反応は生存者のお話を聞いて、事故の様子がよくわかったとか、命を大切にしたいと言う風な作文を書いてくれています。 これからも子供たちに伝えていきたいと思っています。  今は着衣泳もしています。  浮いて待つようにと言う指導をしています。 校庭の片隅に記念碑があります。 命の大切さを伝えたいと言う意味で慰霊碑ではなく記念碑にしています。  

ある一定の大きさの船には、非常時には救命ボート、救命イカダに乗るために、甲板などに集合場所、乗客が集合する場所を設ける事が決められていると言うことです。 集合場所、その経路については、船内に表示があると言うことです。    船に乗ったら、まず非常時の集合場所と、そこまでの経路を確認しておくことも大切だと言うことです。 救命ボートや救命イカダ以外に乗れなかった場合には、とにかく浮いているものに捕まる、体力を消耗せずに救援が来るまで浮いて待つと言うことが大切だと言うことです。