2026年5月8日金曜日

山口弘和(コント山口君と竹田君)(芸人)  ・「喜劇で認知症を考える」

山口弘和(コント山口君と竹田君)(芸人)  ・「喜劇で認知症を考える」 

山口さんは1956年埼玉県出身。 1983年に竹田高利さんと「コント山口君と竹田君」を結成、1984年に初出場したオーディション番組「お笑いスター誕生」で優勝。 その後コント界の第一線で活躍しています。 山口さんが来月上演の舞台「生きる」の稽古に取り組んでいるとのことです。 テーマは認知症の介護ということで、そこに込めた思いなどを伺います。

今年で70歳です。 竹田さんも「明日への言葉」に昨年出演されて、テーマが「汗かきコントに一筋の涙」となってました。 竹田君は物忘れが器用で物覚えが不器用な方なんです。  竹田君に出会うことで自分の考え方が大きく変わりました。世のなか思い通りにはならないんだなということです。 自分の作ったコントを竹田くんに当てはめても、その通りにはやれない人もいると言う、その中で自分の考え方を変えて行って、竹下君ができることを考えてネタにしていくと言うやり方にしていきました。 ちょっと引いたものの見方ができるようになりました

お笑いスター誕生で優勝。 それから42年になります。 2014年から「生きる」と言う芝居をやってます。 認知症をテーマにした物語です。 2013年にブッチー武者さんから演出を頼まれました。 その後台本もやることになりました。 京都伏見介護殺人事件、54歳の男性が介護疲れと生活苦から親子心中を図ったと言う、その認知症患者の86歳の母親を殺害してしまったが、情状酌量の判決が出ました。    真面目に介護すればするほど、追い詰められていくと言う状況が1番辛いところだと思います。 これを本にすればどうしたらいいかと言うことを考えました。 

彼は3年の執行猶予を終了し、2014年に亡くなっています。 この劇が12年続くとは思えませんでした。 逆に言えば続いてることが問題なのかなと言うところ感じています。 良くならないものを突き続けても希望がなくなってしまうので、希望のある終わり方ができないかということで本を書き直したりしました 。四谷で今度おこないますが、25回目になります。 ブッチー武者に、こんな熱い思いがあったのかと、頭が下がります。 生活の中で起こり得ることであると言うことをポイントにして、それぞれの立場があると言う中で、こうならざるを得ないと言う社会構造をなんとかしていかなければならないんではないのかと言うことで、誰が悪いとかと言う様な作品にはしたくないと思いました。 そのためには喜劇が良いと思いました。是非うちの地域でもやってほしいと言うことで、実行委員会を立ち上げてくれたりして、草の根の力がなかったら続けられなかったと思います。 

自分でも老化と言う事は意識するようになりました。1番いけないのはストレスだと思います。 竹田くんと付き合っているとボケている暇はないですと言いながら、最近私も気になり始めました。  彼はボケをやっていますが、本当に真面目なんです。 未熟な自分に気づかない自分っていると思いますが、自分が未熟だから人を説得できないのに、一方的に攻めてしまう未熟な人間だったと言うことを竹田君に気づかされました。 

竹下君も途中から劇に参加するようになりました。 何回かやってきましたが、その都度ゼロから立ち上げていかなくてはいけないと言うような状況です。 浜田光夫さんが裁判官役、大信田礼子さんも認知症のおばあさん役ということで参加していただきました。 田原総一郎さんにもバックアップしてもらっています。(92歳)

コントについては、その年齢で表現できる生の姿で笑いが取れるんだったら、それまでやろうと言う思いではいます。 作、演出家としては事務所の若手を含めて勉強会をやってます。 若手が育ってゆくのは自分としてもも励みにもなります。     最近のコントは研ぎ澄まされた計算された笑いでそれもいいですが、そこに人間味を入れて欲しいと言う思いはあります。(計算しくされたネタが多い。)


2026年5月7日木曜日

遠藤突無也(歌手・映画研究家・作家)    ・「シャンソンと映画に恋して」

 遠藤突無也(歌手・映画研究家・作家)    ・「シャンソンと映画に恋して」

遠藤さんは東京都港区出身。 1965年に舞台活動を始め、1990年に単身フランスにあたると映画「ツイン・ピークス」などの音楽で知られる世界的な作曲家、アンジェロバダラメンティ氏から才能を見出され、日本人シャンソン歌手としてパリの音楽の殿堂オランピア劇場の舞台に立ちます。 以来32年にわたりパリを拠点にしていましたが、活動の場を日本に移し歌い続けています。 また、世界各国の映画と映画ポスターの比較研究を通じて、独自の視点で映画研究をする形でも活動しています。 今年は俳優のマリリン・モンローが生誕100年を迎えます。  遠藤さんはこのほどモンローが日本に残した知られざる姿を本にまとめました。時代の変化の中で今も残る音楽と映画への思いについて伺います。

パリの地に立った時、ここの地で国際クラブ歌手になろうとと思って決心をしました。  行ったときには、自分がシャンソンと思ってたものは、みんな懐メロです。 本当に歌おうと思ったらメロの酒場に行かないとだめです。 カセットテープを友人がアンジェロ・バダラメンティと言う人に送ったら、彼がそれを聞いて、いきなり一緒にやらないかときました。 結局アメリカには行けませんでしたけれども、それが自信にもなりました。 オランピア劇場で歌うことになって、それがきっかけになって、小さな所でも歌うようになりました。それが勉強になりました。フランスには哲学的文化があり、僕の性格に合ってました。 

僕が小さい頃は空気が悪くて、小児喘息になってしまいました。 各区が保養所みたいなものを持っていて、静岡県の沼津に行きました。 時間がいっぱいあったので、考えたり本を読むことが多かったです。  その後お能をやりました。    自己表現に興味がありました。 句会にも出ました。(12歳から15歳位までの間) 同時に自分とは何なんだろうって言うことを突き詰めていました。 

詩集を作って新宿で自分で売ったことがあります。 ある日、金子光晴さんと言う人が買ってくださいました。 学生に共鳴した詩人でした。 街頭で詩を売る人間として結構有名になりました。 「許すという事に限度はあるの」と言う詩を書きました。 「どんなに未熟な詩でも、若いときのその感性と言うものはずっと一生持っていくものだから大事にして、詩集を出しなさい。」と言われました。       それで自主出版しました

父に連れられて映画をよく見に行きました。 本を読む前、映画が好きになりました。 ロックの原点と言われた人たちがいましたが、そういう人たちもあっという間にコマーシャルベースでなってしまう。  これって違うんじゃないかなと思いました。 坂本龍一君とか出会ったときに、いかにレコード会社が興味を持たない歌を作ろうかみたいなところに僕を燃えた時代がありました。 吸い上げていく大きな権力みたいなものが吸血鬼のように思えました。 吸血と言うことをテーマにしてパフォーマンスをしたことがあります。 彼は彼でオリジナルを模索していたんだと思います。 

日本全国にキャバレーがありました。 そこではラテン、ジャズ、シャンソン、カンツォーネなどを歌う時代でした。 僕たちはその後の時代でした。 「銀パリ」と言うところがありまして、オーディションを受けて受かりました。 

最初に「エマニエル夫人」の映画のポスター、日本のものと海外のものと集めました。 それからポスターが面白くなって興味を持つようになりました。 ポスターは3000枚あります。 僕の友人がマリリン・モンローが大好きでした。  友人はフランスでマリリンのポスターを集めていました。(60数枚)  藤井さんから、このポスターは絶対に買いなさいと言われました。 藤井さんと言う方でマリリンのお化粧をしたことがある人でした。 

マリリンは驚くほど記憶力の良い方で、成分表などを1回見ただけで全部覚えてたって言ってました。  藤井さんはマリリンから黒澤明に会いたい、日本のお手伝いさんをアメリカに連れて行きたいと言う要望を受けましたが、2つとも叶いませんでした。  黒澤明は、自分が使いたい女優はマリリン・モンローだと言うエビデンスを見つけました。 黒澤明とマリリンは符号するようなところが一杯ありました。      それで書いた本が「天使と侍」と言う本でした。 

もう1冊の「マリリン・モンロー100年の孤独」と言う方は、ちょうど今年がマリリンの誕生100年なので、マリリンの人生そのものを見てみようと思って調べました。 この人の孤独は、アリ地獄のような耐えられのような悲しみに満ちた孤独なんです。  僕は「天使と侍」の時に、マリリンが平和を希求していたことと、彼女は政治的な人でした。 反原爆運動でも、最初のハリウッドの俳優たちの中心人物であったりしましたが、それは全く知られないことでした。 初めて去年100年の孤独と言う本を読んだときに、本当に私は人に愛されたことがない。 でも1番悪かった事は自分を愛したことがなかったと言うふうに書いてありました。 

調べてみたら1番感情ができるときに11回も点々としていました。  その中で、マリリンは嫌われないように笑うしかなかったんです。  自分では「孤児ではない、お母さんがいるんだ。」と言ってますが、その母親は精神的にとっても問題のある人でした。 マリリンは大変な苦労をしながら、自分の身1つできたわけです。子供が知らない間に、人間て母親なり父親なりに教えてくるものがありますが、マリリンはそれがなかったんです。  マリリンが1番好きな宝石はパールでした。 お母さんの名前がパールと言う名前でした。それを聞いたときにはグッときました。最終的には母親をマリンが全部面倒を見ていました。 本人が亡くなった時には通帳には500ドルしかなかった。

モンローが今受けている収益を孤児院の子供たちに寄付していると言うのを聞きました。  自分と同じような思いをして欲しくないと言う思いを心に抱えていたですね。  最初彼女は女性の敵と言われていました。 フェミニズム運動とかいろんな問題が世の中が変化するに従って、マリリンの価値というのが1種のジャンヌ・ダルク的な部分があることを認められてきて、女性のファンがすごく増えました。

墓石が彼女たちのキスマークでピンク色になってしまうほどなんです。 2番目の夫であるジョー・ディマジオが週に2回花を届け続けました。 マリリンはジョー・ディマジオとともに広島にも行きました。 1954年の段階では、原爆についてはまだアメリカに遠慮してました。 第5福竜丸の被爆とかいろいろあって、だんだん反原爆が広がっていきました。  最近では、アメリカのハリウッドでも、原爆の映画を少しずつ作るようになってきました。 

僕はフランスでも日本でも恵まれて、幸せでだから、今せめて少しでもお返しができればと言う気持ちはあります。 マリリンの孤独と言うことを確認したときに、自己確認しました。 家に帰ればご飯のある人間が孤独だの、寂しいなどと言えないだろうと言う、凄さですね。




2026年5月6日水曜日

五木寛之(作家)              ・五木寛之のラジオ千夜一話

五木寛之(作家)              ・五木寛之のラジオ千夜一話

 30年近く前五木寛之さんの「大河の一滴」と言う本がベストセラーになりましたが、最近その続編とも言えるべき本が「最終章」として綴り話題になっています。孤立や孤独などについて語っていただきます。

一人でいるのが孤独ではないんじゃないかと言う、有名な思想家が群衆の中の孤独みたいなことを言っています。 みんなと一緒にいながらなおかつ違うなあ、話を合わせているけれども、俺の本当の考えていることとみんなの考えてる事は違うなぁと言う、そっちの方が孤独なんではないかと言う気がします。 一人ぼっちである事は孤独ではないです。 孤独よりも対立ということがきついと思います。   人間と言うのは、自分だけの社会と言うものをみんな持ってるものなので、わかってもらえないと言っても、嘆くとか悲しむとかと言う必要はないですね。

孤立感は孤独感とは違います。 1人で戦わなければならないと言うような、応援してくれる人がいない。  生きていく上での立ち位置として、運と努力2つの言葉に集約される。  偶然に助かったと言う事は何度もあります。 努力だけでもありません。

他力」の問題で大事なのは、「他力」を信じるか信じないかの違いがあると思います。 「他力」に身を委ねるかどうか、これは「自力」です。  「他力」に身をまかせて自らの計らいを全部任せる、と言う決断はこれは相当な自力です。「自他一如」と言う言葉がありますが、その境目正反対という事ではないと思います。  休筆宣言を二度しています。 なんか声が聞こえたりする時がありますが、どっか聞こえるような声はそれに従うか、従わないかの問題だと思います。 逆らって生きる道もあるでしょうが、その声には素直に従うと言う。

石原慎太郎さんは自力の人でした。 石原さんがこんなことを話したことがありました。 宮本武蔵と吉岡一門と決闘することになりましたが、向かう途中で神社があって、「どうぞ神仏のご加護を」と言って手を合わせようとして、その瞬間に神や仏に応援を得ようと言うのは既に負けたことになると考えて、手を合わせるのをやめて、決闘の場に行って結果的には勝ちました。 石原さんは神様などにお願いするような心がけではダメだと言うふうに力説してました。 僕は手を合わせようとした宮本武蔵の心に響いた声と言うのは、これは「他力」の声ではないかと言う気がします。 神仏の力を借りようなんて言うことではダメだと言う声が聞こえた。それは「他力」の声だと思います。 その声に従って、彼は合掌することをやめて、決闘場へ行った。 昔そんなことを石原さんと議論したことがあります。

*「織江の唄」 北九州の方言を使った歌  作詞:五木寛之 作曲:山崎ハコ

健康よりも養生である。 少々故障とか問題点があっても、何とかそれと折り合って生きていくと言うという事は養生なんです。 健康は根こそぎに原因を立ち切ってしまうと言うようなところが感じられます。 心と体のお互いの関係というか、どちらも大事なんです、偏らない。 命は自分のものである。 12歳で決意したのが、好奇心のおもむくままに行動する。  自分の思うように生きる。 

*「思い出の街」 作詞:五木寛之,作曲:加藤敏治 歌:松原健之        昔は学生街があって、古本屋などが結構ありました。(昭和の残影)

「老いとてんでんこ」 「てんでんこ」、津波の時にバラバラでいいから、自ら避難しなさいと言った意味で使われたりしますが、「てんでんこ」と言う言葉を一言で言う事は難しい表現だと思います。 ものすごく大事なことを言ってるような気がします。 

高齢期を3つの期に分ける。 前期、中期、後期、これからは高齢期が長い時間になる可能性があります。 高齢期の生き方が大きな問題になると思います。     高齢期は決して余計な生き方ではないんです。 高齢期は考えながら生きていかなければならない、大事な成熟の時期だと思います。 「生きている事そのことが大事」  生きていこうと言う意欲、どこにその基準、どう生きているか、なんでそんなに生きることに執着するのかと言われたときに、それに対する自分の心構えというか、答えをしっかり持っていなければならない。  生きるには理由があると言う理由を考えておく、そういう時期に入ってきたんではないかと思います。   「暗愁」心を暗くするような、言いようのない悲しい物思いやうれいを指す言葉 「暗愁」の持っている強さ。 明治、大正、昭和初期にかけて流行のように広く使われた言葉です。




2026年5月5日火曜日

久保田雅人(わくわくさん)(タレント・声優)・「工作に失敗はなし!~いくつになっても自由研究」

久保田雅人(わくわくさん)(タレント・声優)・「工作に失敗はなし!~いくつになっても自由研究」

 久保田さんは1990年から20 13年までEテレで放送されていた子供向け工作番組「作って遊ぶ」にわくわくさんとして出演しました。 番組が終了してからも全国各地で親子向け工作教室を開催、現在も工作の伝道師として活動を行っています。生涯わくわくさんを全うしたいと語る久保田さんは、工作の楽しさや、今後の夢など伺いました。

今年65歳になります。 大学4年の時に読んだ雑誌に劇団の募集というのがありました。 田中真弓さんが副座長と言う立場でした。 田中さんはNHKの番組などに出演していました。 のっぽさんの番組の「できるかな」と言う番組が終わることになりました。 新しい工作番組を作りたいということで、若い男の出演者を探してると言うことでした。 田中さんが私を推薦してオーディションを受けて受かってしまいました。 平成元年に「ワクワクおじさん」と言うタイトルでした。(27歳) 同じ年の年末からもう1本放送が始まってそこから「ワクワクさん」」になりました。

19904月からレギュラー放送になりました。 後で聞いた話では、オーディションを受けたのは私1人でした。 子供たちの前で話をしながらやることを勉強しました。 初期の頃の子供たちの反応は全然だめでした。  どうやって見てもらえるようにするかと言う研究がものすごく大変でした。 ノッポさんと言う方が、初めて工作番組を作ってくれた方です。 ノッポさんの最後の番組に私も参加しました。ワクワクさんと言う人物を自分で構築していこうと思いました。 「つくってあそぼ」が3年経過したときに、俳優、声優の仕事を全て止めて、ワクワクさんの活動を1本に絞りました。

結婚して子供ができたので、1本にかけてみようと思いました。 収入面では減りました。  家で自然な形で子供に喋るようになったので、それが良かったのかもしれません。  家でもいろいろ稽古しました。 子供も実験台にしました。子供の気持ちを引き寄せるには、子供たちとどこかの部分で同じレベルに下げる、目線を合わせるということです。 話し方反応の仕方、ある程度落とすことによってこちらを向いてくれます。 もともとは社会科の先生になるつもりでいました。 父親は手先が器用でした。 家にはノコギリ、ノミなどは20種類以上ありました。(趣味)

私はプラモデルなども、キットにないものを、自分で作って加えると言う事をやりました。 それがワクワクさんの番組で生かされるるとは思ってもいませんでした。 ワクワクさん歴36年になります。 ワクワクさんの設定が20代後半なので、演壇に立ったときに、ジジ臭さを出さないようにしようと言うことを考えないといけないと思ってやっています。 

子供たちがワクワクするものを作ってくれる人という意味で、ワクワクさんということです。 工作と言うものが、どのような時代になっても、子供たちの心を惹きつけると言うものは絶対あります。  そのヒントを提示すると言うのが、私の活動です。 だんだん材料を揃えるものと、家庭に道具がなくなってきているので、できるだけおうちにあるようなものを考えながら、大人の方が入手しやすいものを中心に考えてます。  生涯現役でいたいです。





2026年5月4日月曜日

町亞聖(フリーアナウンサー)        ・「ヤングケアラーから学んだこと」

町亞聖(フリーアナウンサー)        ・「ヤングケアラーから学んだこと」

町さんは1971年埼玉県生まれ。(54歳) 町さんが高校3年生18歳の時に母親がくも膜下出血で倒れ、脳障害が残って車椅子の生活になりました。 そこから町さんは学校に通いながら、母親の介護をすることになりました。 今でこそヤングケアラと言う言葉がありますけれども、当時はそんな言葉がなく支援制度も少なく、11日を乗り切るのが精一杯の日々だったといいます。 その後町さんは日本テレビにアナウンサーとして入社、仕事と介護の両方をしながら働くワーキングケアラーとなって、母親の介護は10年続きました。 2011年にフリーアナウンサーとなってからも、ご自身の経験から医療と介護をテーマに取材、啓発活動をやっていますが、大切なのは「受援力」つまり、支援を受ける力だといいます。 今日は町さんのヤングケアラーとしての体験や、すべてのケアに伝えたいメッセージということで、町さんのお話を伺います。

まだヤングケアラーと言う事はまだ知らない人は、これはどういう意味ですかと知るきっかけになると思ってあえて名刺に入れてみました。 ヤングケアラーに対する認知度はまだまだです。 ヤングケアラーとなったのは、今から30年以上前です。  現在54歳ですが、18歳の時に母が倒れました。 母は最初頭が痛いと言っていました。(始業式の日) その晩に入院して、翌日にくも膜下出血ということがわかりました。 緊急手術が必要になりました。 その日から人生が180度変わりました。 

手術の結果、命は助かりました。 右半身麻痺と言語障害ということで車椅子の生活になりました。(母は40歳)  父は何もしない人でした。 父は酒を飲むと、ものを投げたりすることがあって、父とどう向き合っていくかと言う事のほうが大変でした。 父からは今日からお前が母親だと言うふうに言われました。 共働きでしたが、母が働かなくなって医療費に消えていくような状況でした。 介護の仕方もわかりませんし、とにかく私たちができる形で生きてくしかないと言う状況でした。 

大事な支援が2つありました。 ソーシャルワーカーの人から教えていただきました。 高額療養制度と母親の障害者認定受けるから障害を持っている人が受けられる医療費助成があるから、市役所に行くように言われました。 何十万円の医療費を払っていたら、我が家は破綻したと思っています。 あと奨学金制度があることを担任の先生から説明してもらいました

弟は高校3年生の時に誰にも相談せずに就職すると言うことを自分で決めました。 数年後、弟に聞いたら、もちろん大学には行きたかったと言ってました。    今でも私に力があったらばと言う思いはあります。 厳しい家庭環境でしたが、諦めるという事は悔しかったと言う感じです。  父もヤングケアラーでした。   父も大学へ行きたかったということだったらしいんですが、5歳の時に父親を亡くして、経済的な理由で諦めたそうです。 そういうことで、私の大学進学に対しては行くように後押ししてくれました。 

大学卒業後、日本テレビのアナウンサーになりました。 仕事と介護の両立は選択肢はなく当たり前でした。 妹も弟も当たり前に思っていました。 アナウンサーの仕事は30年前からフレックスでした。 私は夜11時から始まるスポーツ番組の担当でした。  終了が夜中の1時ぐらいなので、夕方8時ぐらいに行けばよかったです。 そういった関係で介護と仕事の両立ができました。 

当時は介護していることを大っぴらに言うような文化はありませんでした。   障害者が住みなれた地域で当たり前に暮らせる社会にするための情報発信がしたいと思ってアナウンサーになりました。 日テレのアナウンサーは5年ほどやりました。その後報道局に異動になり、10年記者をやりました。 最後に情報エンターテイメント局の情報番組のアシスタントプロデューサーをやりました。

母の介護は10年です。 母は最後は末期ガンで見つけたときには、手遅れでした。 母のようなおおらかな性格になりたいとはずっと思ってました。 私は性格的には父に似ている。 「受援力」と言う本を出しましたが、これは母が持っていた力です。 母は周りが助けたくなる人でした。 

ケアラーに対して伝えたい事は、納得して選択すると言う事は大事なことです。  自分の人生も大事にする。 たった1人しかいない大切な人のために介護を選ぶと言う選択肢もあると思います。 選んだ道の中でできる事は何かと言うことを数えて、できることをやればいいと思います。 介護は必ず終わりが来ます。 なくなると言う形で介護が終わります。 父は母が亡くなった喪失感を埋められなくて、食べなくなって酒だけ飲んで、母のためだけに生きていたので、そうならないためにも、母の分を生きると言う選択肢があったはずです。 乗り切るためには、弱音を吐いて欲しいなぁと思います。助けてもらっていいんです。 恥ずかしいことでもないんですから、この人になら本音を話せると言う人を、今から作っておくと言うことを大事かなと思います。






2026年5月3日日曜日

松本泰生(階段研究家)           ・「上って下って32年、我が“階段人生”」        

松本泰生(階段研究家)        ・「上って下って32年、我が“階段人生”」

早稲田大学オープンカレッジ講師の松本泰生さん(59歳)は東京に来て、初めて坂が多く、地形や山並みが複雑に変わる街に興味を覚え、屋外の路地などにあり人々が通り抜けに利用している東京中の階段を巡って、斜面地の研究で工学博士号を取得しました。 形状や段差数、そして傾斜、ステップの幅あるいは段差を計測して、歴史的背景なども調べて写真に収めた階段は、山手線の中だけでも650カ所近くにのぼります。 階段研究家を名乗るほど松本さんを夢中にさせた階段の魅力とは何なのか、30年余りにわたってひたすら登って下った、階段人生を聞きました。

もともと私は静岡県静岡市の出身で街が平らなんです。 大学入学して東京に来ましたが、こちらは割と坂が多くて、街中には階段が多くて、階段を上った先にも街がずっと広がっている。 新鮮に感じました。 私は都市計画を学んでいましたが、フィールドワークがしばしばあって、神社にも階段があるし、そうでないところも階段がたくさんあります。 それから階段を調べ始めました。

最初は山手線の内側の都心部を調べて行ったら、650カ所ぐらいありました。   本を出したらそれに反響がありました。  階段歩き講座をやるようにしました。23区に広げていきました。  3500箇所ぐらいあるようですが、リストアップしたのが2500位です。  住宅地図に階段が載っています。  記録に残したいので写真は撮ります。 段数はできるだけ数えるようにしています。 幅1段の奥行き、高さ1つとして同じようなものがないです。 坂道は車とか自転車で通り抜けられますが、階段は通り抜けられません。 歩行者だけのもの結果的には面白い空間ができています。(穏やかな空間)

港区に愛宕山と言う小さな丘があります。 愛宕神社があって、そこに登る男坂というのがあります。 3代将軍家光がその階段を見て、上のほうに梅の花が咲いてるのを見て、馬に乗ってその梅の取ってこられるものはおるかと聞いたところ、曲垣平九郎と言う武将が馬に乗ったまま取ってきて、馬術の名手ということでしたと言う話があり、今は「出世の石段」と呼ばれています。 急な階段で86段あります。

変わった階段で、文京区のほうに庚申坂と言う階段があります。 地下鉄の丸ノ内線から一瞬階段が見えます。  板橋区の成増のほうに昔は地層が見えていた崖があり、そこの階段が上の方からの景色がすごくいいんです。 武蔵野台地の北の端に当たっていて、埼玉県の方まで景色が見えるところです。  高輪の階段では、品川駅周辺の高層ビル群が見えます。(東京ならではの景色)  赤坂見附の近くの日枝神社では、お稲荷さんが祀られています。 そこの稲荷参道は赤い鳥居がずらっと並んでいて、そこ抜けながら登っていくところでは百基位の鳥居があります。

本郷に樋口一葉が昔住んでいた路地裏がありますが、そこの奥に階段があります。昔ながらの風景があります。 神楽坂に熱海湯と言う銭湯がありますが、その脇をを緩やかに登っていく階段があります。 熱海湯階段と通称を呼ばれています。  両側には料理屋さんが出店していて、雰囲気がいいです。 北の丸公園に清水門と言う門があって、そこの中にある階段は昔のままの姿をとどめています。    緩やかなんだけれども、11段の石が大きくて登るのが大変です。 

港区の麻布台に雁木坂と言う階段がありまして、そこは両側に桜の木があります。絵になる階段です。 王子のほうにある王子神社の近くを流れている音無親水公園に向かって降りてくと、階段の脇に樹齢が600年を超える大きな銀杏の木があります。 秋には黄色い葉っぱが階段を埋め尽くします。

階段に関するガイドをしています。 赤坂とか本郷とかエリアを決めて、そこにある階段を次々に巡っていきます。(2、3時間) 神社やお寺のコース、近代建築コース、昔の大名屋敷の後の坂、階段コース等。 新宿区の四谷、荒木町界隈、ここは大名屋敷、松平摂津守の屋敷、街自体がすり鉢状の窪地になっている。 階段でしかいけないような路地空間が作られている。  四谷に須賀神社があって、アニメの映画などで取り上げられた著名な階段があります。 映画ファンからは聖地のようになっていて、外国からもたくさん来ます。 本郷一帯も坂があり戦災にも会っていないので古い建物もあり魅力的です。

大森駅の西側に山王と言う地区があります。さらに行くと馬込と言う場所がありますが、かなり地形が複雑なところです。 階段が非常にたくさんあります。    多くの作家さんが住んでいた場所です。 赤羽にはもともと軍用地が結構ある場所です。その後が団地になってたり、公園になってたりしてます。 ここも歩いてみないとわからない面白さがあります

東京では高台と下町のところをつないでいるのが確かですが、一方で2つのエリアを切り離している。 階段から上は高台の街、階段から下は下町と階段が目印になってる面があります。  お寺とか神社は階段を上った先に、社お寺があることが多い。 日常生活の俗世間と、神社、お寺の聖域を階段がつないでいるが、一方では俗世間と聖域を切り離ししている。 俗世間から階段を上ることによって、聖域にアプローチする準備ができる空間かなと思います。  江戸時代は高台は武家屋敷が多くて、低い側は町民地になっていた。 明治以降は高台は住宅地、低いところは商業地と言うような区分けになっています。 とりあえず階段から見て、建築だったり、街であったり都市であったり、そこに興味を広げていただければいいなと思います。  ちょっと運動にもなると思います。 

 

2026年5月2日土曜日

海原はるか・海原かなた(漫才師)      ・目指せ!しゃべくり漫才で生涯現役

 海原はるか・海原かなた(漫才師)    ・目指せ!しゃべくり漫才で生涯現役

はるか、かなたさんといえば、はるかさんの髪の毛をかなたさんが吹き飛ばすギャグでお馴染みです。 愚直に磨き続けたしゃべくり漫才で、文化振興などに貢献した人に送られる大阪市市民表彰を受けるなど、名実ともに関西の笑いを牽引してきたベテランのコンビです。  大阪を中心に舞台に立ち続けて、去年55年目を迎えたお二人に、漫才人生につきましてお話を伺えました。

コンビ結成55年、はるかさんは熊本市出身で76歳。かなたさんは奈良県天理市出身の77歳。 2人でやってると楽しいから辞めたいとは思わないです。  熊本弁を大阪弁に直すのに苦労しました。 今やめたら今までやって来た積み重ねであろうが何であろうが、全部無駄になるという気持ちの方が強かったです。 (はるかさんの髪の毛を、かなたさんが吹き飛ばす)このギャグはある時、3組が楽屋にいるときに、順番に楽屋話をしてたんですが、我々は苦手なので、それまで隠してた髪の毛をオールバックにしたんです。 戦国時代の落ち武者みたいな感じです。  楽屋で盛り上がって2回目の舞台に上がったときに、夫婦喧嘩のネタをやってるんですが、私がはるかくんの髪の毛をアドリブでふっと吹いたんです。 そうしたら経験したことのないような大爆笑でした。  やったときには「これや」と思いました。 これは我々の商品だと思いました。 40代の肺活量はは平均が3700位です。 けれども、私はその時まだ4900ありました。 だからあのギャグができたんだなと思いました。 なるべくギャグができるような雰囲気の頭にカットしていただいてます。 その美容師さんには20年以上ご厄介になってます。

最初お互いに役者になりたかったんです。 養成所へ同期生として入門しました。      その後、私(はるか)は小浜師匠の住み込みの弟子になりました。 コンビを組む時になって相方しか思いつかなくて手紙を出しました。 お浜・小浜師匠の弟子になることになりました。  師匠からは「長いこと芸人として残るのには紳士的な漫才をしなければいけない。いとし・こいしさんみたいな紳士的な漫才をしないと長くは続かない。」と言われました。 2人とも不器用なんで稽古は一生懸命やります。 稽古が好きですね。 稽古をやってる間にまた新しいネタが浮かびます。

1980年代頃、漫才ブームと言われた時代でした。やすし・きよしさん、ツービートなどがいました。 当時は我々は注目されていませんでした。 あのギャグが見つかってからは、東京の方にも仕事に行くようになりました。  私(かなたさん)が健康を害した時は、脊椎管狭窄症と言う神経を圧迫するもので、手術の2週間ほど前から立てなくなって紙おむつでした。 そこから筋肉つけていくまでで1年以上かかりました。 自信を持っていけるようになったのは17ヶ月位ですね。 漫才をやれて、漫才ってこんなに楽しいものなんだと改めて思いました。

若いものがどんどん出てきてくれるというのはうれしいなと思ってます。 「辛抱が大事だと言う事は常に言ってます。」 「石の上にも3年。」という言葉がありますが、死語になってるような感じがして残念でなりません。 毎日楽しく仕事にときめいて喜べる自分を少しでも多く作りたいなと思います。  お笑いに対しては人それぞれの考え方があるんでしょうけれども、どうしたらお客さんが笑うのかと言う前向いた考え方を自分なりに持っていきたいと思います。 そのためには健康でなくてはいけないと思ってます。