2022年6月26日日曜日

又吉秀樹(オペラ歌手)         ・【夜明けのオペラ】

又吉秀樹(オペラ歌手)         ・【夜明けのオペラ】 

東京芸術大学音楽学部声楽家卒業、同大学院オペラ科を首席で終了。  2012年、4年に一度イタリアで行われるトスティ歌曲国際コンクールで第3位入賞。   2014年から1年間文化庁海外研修員としてウイーンに留学、二期会に所属し、オペラ「イドメネオ」や「こうもり」に出演、第九や宗教曲のソリストとしても活躍しています。 

秋からテノールからバリトンに転向します。    10月にテノールとしての最後の舞台があります。   僕は最初バリトンで大学に入って大学3年生の終わりまでバリトンとして勉強していました。    4年生からテノールに変更しました。    師匠の川上洋司さんにテノールをやりたいと言って変更しました。   トスティはヨーロッパの第一線で活躍していた作曲家、歌手でもあります。  

*「理想」 作曲:トスティ  歌:又吉秀樹

高校3年生になる前まではバスケットなどスポーツをやっていました。   3年生の時に先生からいい声だから合唱祭でオペラの曲をソロで歌ってみないかと言われました。   歌ったのがきっかけでオペラを勉強するようになりました。   父は東京芸術大学で声楽に入っていました。   家では父が歌ったり、クラシックは身近にはありました。   大学2年生の時にオーケストラでトスティの曲を歌う機会があり、「Good-bye」と言う曲を歌いました。   魅入られました。  

トスティの音楽コンクールがあることを知ったのは大学院の途中だったと思います。   受けようと思って勉強してアジアの予選で代表に選ばれました。    イタリアにはトータルで2年半ぐらい留学しました。   オペラ、リサイタルをいろいろ行いました。  印象に残るのはどの町も趣きがあります。  歌った後の反応が毎回凄く素直なんです。 最初は、トスティが生まれたオルトーナと言う町に住みました。   つぎがスポレートというところで、劇場があり研修生になってそこで勉強しました。  あとローマです。  プッチーニの「トスカ」が大好きで、修士論文がプッチーニの「トスカ」を取り上げました。   ローマは夢にまで見た街でした。  夜明けのサンタンジェロ城に感動して1週間夜明けに通い詰めました。   「星は光りぬ」が有名ですが、一番好きなのが「スカルピア」です。    

*「トスカ」から「テ・デウム」   作曲:プッチーニ 

スカルピア男爵(ローマ市の警視総監)、ヤーゴ?も大好きです。  声を成長させていって人生で一回はスカルピアを歌いたいですね。  

2014年から1年間文化庁海外研修員としてウイーンに留学。  モーツアルトを研究したくてウイーンに行きました。   小学校の文集に何故かウイーンに住みたいと書いてありました。   ウイーン国立劇場では12月31日に毎年「こうもり」をやります。   待っている間にワインやシャンパンをもってみんなで飲んでいて印象的でした。   

2020年に4人で「それいけクラシック」と言うyou Tubeで「女のマーチ」と言う動画を配信しました。   毎週考えながらやっていて、人生一つの楽しみです。  

*「納涼」  作曲:瀧廉太郎  歌:吉田連   「四季」の第1曲「花」とかの組曲になっていて「納涼」は第2曲です。

*「マイ バラード」   作曲:松井孝夫 歌:又吉秀樹、吉田連、大川博

7月18日に名古屋フィルと公演します。  今後バリトンとして頑張って行きます。

*「天国と地獄」序曲   作曲:オッフェンバック





2022年6月25日土曜日

田中泯(ダンサー・俳優)        ・【私の人生手帖(てちょう)】

田中泯(ダンサー・俳優)        ・【私の人生手帖(てちょう)】 

映画「たそがれ清兵衛」や今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の奥州藤原秀衡役など、多くの人は俳優としての姿をご覧になっているのではないでしょうか。   田中泯さんは1945年東京生まれです。   1966年からソロダンスの活動をはじめ、1974年からは独自のスタイルの踊りを展開して1978年にパリデビューしました。   以来、世界的なダンサーとして活躍を続けています。  一方、1985年40歳の時に山梨県に移り住んで、農業を始めました。    田中泯さんが考える踊りとはどの様なものなのでしょうか。   ひたすら踊りを追求してきた人生の話を伺いました。

農業は一生続けたいと思っている仕事です。   夏になると畑ではナス、ピーマン、トマト、キュウリとかいろんなものが食べられるようになります。  すぐジャガイモ、ネギなども収穫しなくてはいけなくて、ほかにもいろいろあります。   物凄く疲れます。  基本的な自分の姿勢を変えながらやって行くとかしてます。  手作業が主です。   運動の質を考えながらしょっちゅうやっています。   膝が硬くなると伸ばしたまま草取りをするとか、どこか関節が硬くなると、別なところでほぐす運動をします。  農作業で身体の調子が判ります。   

俳優としてのスタートは山田洋二監督の映画「たそがれ清兵衛」の 余吾善右衛門 役。(57歳の時)  人前で話すことが苦手なほうだったので凄く吃驚しました。   役を与えられたその人の身体になりたいとまず思いました。   自分の口から出してゆくセリフが本当に自分の身体からでてゆくという感覚が自分で持てないセリフのしゃべり方はしないでおこうと思いました。  その人の身体になってやるぞ、と言う気持ちが強いです。  

動きと言うのはその人の心の発露じたいが踊りになっていたんじゃないかなあと思います。 言葉で表せないこと、言葉の方が早かったり、身体では追い付かないようなスピード感、言葉がどのくらい私たちの身体の中に入り込んできているのかとか、そのような事を一杯考えました。   

子供のころは一人で遊んでいる記憶の方が多いです。  自然が豊かだったのでいくらでも遊んでいられました。    犬、猫、野鳥、兎、ヤギなどを飼ったりしていました。  未熟児で生まれて牛乳を毎日のように飲まされました。   高校から急に大きく成りました。   虚弱だったので中学の時に、母親から「バスケットボールをやりなさい」と言われました。   高校でもバスケットボールをやっていましたが、駄目でした。  テレビで外国から来る舞踊団を観たりして、これが踊りなんだと思いました。   バレエの勉強をしたいと思いました。   身体だけと言うのが気に入り、しゃべるのが苦手でこれなら自分にも出来ると思いました。   踊りの勉強を一生懸命やりました。   もっと身体そのものになって行くという事を考えて、たどり着いたのが裸体でした。  踊りを捜しに行きました、今でもそうですが。   服がどういう植物繊維で出来上がっていて、どういう形をしているか、によって踊りは変わってゆくんです。   風が強かったり、太陽の光加減など、本当は踊りは外で踊るべきものだと思います。   踊り手がいる場所が舞台だと思います。(既存の設えられた場所だけでなく、日常的な場所、または野外などの、ありとあらゆる場所) 

言葉ではないものを沢山発散して、身体の外に飛び出すようにして生きているわけですよね。   それは気配と呼ばれたり、たたずまい と言われたり、いろんな言葉が日本にはあります。   どうしたらそれがキャッチできるのか、不思議です。  踊りたいという事は無限にあります。   旅をしていて、急に踊りたいと思う時もあります。  自分の好きな事ばっかりやって、自分はスーパーラッキーだと思います。   僕はあこがれの強い人間です。  何時かこの人の前で踊りたいとか、と思います。  本に凄く影響を受けていて、ロジェ・カイヨワさん梅原猛さんなど。  押しかけて踊りを見ていただきました。     自分の中に子供時代の子供が棲んでいて、その子供に恥ずかしいことはしたくない、その子供を裏切りたくない。   踊りは人間が考え出してくれた言葉と一緒になって育ってゆくとっても大切な表現、誰にでもできる凄く大切なものだと思います。 言葉をより豊かにするための表現かもしれない。   

今、夢中です、死ぬ瞬間まで夢中で生きて行きたいですね。   踊りに救ってもらっているようなところがあります。   才能があって踊りをやっているのではなくて、踊りに縋り付いて生きてきた、と言ってもいいんじゃないかと思います。  どうして夢中になれたのかは判らないです。   

2022年6月24日金曜日

鈴木深雪(プレゼン教室代表)・【みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの】 もう一度、子どもたちから教えてもらおう

鈴木深雪(プレゼン教室代表)・ 【みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの】もう一度、子どもたちから教えてもらおう

新型コロナウイルスで一斉休校になった2年前、鈴木さんは子供たちが先生となって、オンラインで受業を行う、ワークショップをはじめました。   自分たちが好きなことをテーマに選び、大人たちの前で授業をします。  鈴木さんは現在43歳、勤めていた会社で数百社へのプレゼンをした後独立し、経営者向けに思考を整理したりする仕事をしています。  ワーックショプは子供の思いを伝える力をはぐくむと注目され、小学校の授業でも採用されるようになりました。  

2年前、小学校1年生の息子がいました。  休校になりずーっと家にいました。 何かしてあげられないか悩んでしました。   彼らにプレゼンテーションだったら教えられるなと思いました。   なんでもいいんですが、自分に詳しいテーマを集めて大人の人への授業してもらうというのが、子供の教える学校のコンセプトなんです。   私がプレゼンテーションのやり方を一か月間伝えて、最後は子供先生として発表するという風になります。  

印刷会社で数百社へのプレゼンを経験しまして、その後独立し、経営者向けに思考を整理したりする仕事をしています。   子供向けに何かを教えると言うのは初めての経験でした。   私が大事にしているのは、貴方が一番伝えたいことは何、という事を表現していこうと言っています。   例えばテレビを見るのも、夢中になる何か心が動いているからこそずっと見ているんだと思います。   子供のボソっという言葉が意外と真理だなと思う事があって、原点に帰らせてくれるのが息子の存在で、どこの子もそうだと思いますが、大人の視点とは違う視点、価値観、ものの考え方に彼らは生きているという事で、そこから大人は教わることがきっとあるに違いないという仮説の元、子供が大人に教えたら面白いことが起きるんじゃないかと始めました。  

最初は5人の子が発表しました。  コロナで暇な時間が出来て、どういう風に時間管理をしていったらいいかと言うようなことを発表した小学校6年生が居ました。   大事なことは主体的にテーマを選んでもらうという事が、大事です。  次に伝えたいことの一番ど真ん中は何なのか、という事です。   それをどう話してゆくとか資料の作り方は技術として伝えます。  本音の部分、感じている喜怒哀楽を知りたいところです。  2年間で480人の子供たちが参加しました。    授業の前後で子供たちは変わります。  積極的に堂々となって行きます。   大人たちの反応か、子供の話を聞いているようで聞いてはいなかったという反応が凄く多いです。  画面で初めて見た子供に涙したという事もありました。  

私が立てた仮説が一段落したという事と、480人の子供たちと接することで自分のど真ん中を追求する人間に成って行っているなと思います。   私にたくさんのことを教えてくれているなあと思います。   活動を通して、自分の活動はど真ん中ではないのかなと気づきました。  本来の目的は彼らが持っている素晴らしいものを私たちは聞きたいし、教えてもらいたいから、そのための手段だったはずで、ひずみが出てきてしまっているかなと感じたのが、ブログで表現した違和感です。  技術的な発信力も必要だが、ど真ん中を人に伝えるという事が大事だと思います。  自分の活動のど真ん中も少しずつずれていったことと思います。    どの人も自分のど真ん中をあきらめないで生きて欲しいという事です。   そのことに貢献していきたいと思います。  自分の感性が全く違うように見れるようになってきて、480人の発表の子に見えてくるんです。  その子たちが持っているど真ん中を、今の社会のどこかに散らばっている、現実化してゆくものなんじゃないかと思います。   日常の毎日毎日の瞬間にそっちの未来につながる扉が用意されていると思っていて、イエス、ノーの分岐点がずーっと続いていていると思うんです。  夢につながってゆく方のドアを一つ一つ開けてゆけば、夢へと繋がってゆく。  子供たちの言葉の展覧会を開きたいと思っています。  

2022年6月23日木曜日

原口尚子(水木しげるさん長女)     ・【私のアート交遊録】 妖怪と日本人

 原口尚子(水木しげるさん長女)     ・【私のアート交遊録】  妖怪と日本人

2015年に93歳の生涯を終えた漫画界の鬼才水木しげる、妖怪のイメージを一般にひろめ表舞台に押し上げてきました。  水木の描く妖怪の世界は多くの日本人に支持され、今もその作品は愛され続けています。  鬼太郎や目玉おやじ、砂かけ婆など水木が生み出す妖怪たちはなぜ今に至るも多くのファンに愛されるのか、2020年はその水木の生誕100周年に当たり、これに合わせて水木が情熱を傾けた妖怪をテーマとした展覧会も開かれます。   水木を一番近くで見つめてきた長女の原口尚子さんに水木が描く妖怪の世界の魅力や妖怪たちに込めた思いなどについて伺いました。

2010年のNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」、お父さんというイメージが強かったが、実際は家族のことを大事に思ってくれる父でした。   家族と一緒に過ごそうという父でした。   父が鬼太郎を書いているという事は小さいころから意識はしていました。  中学校の夏休みの宿題で果物を写生するという事がありましたが、水彩で描いて乾くまで待とうといなくなって、戻ってきたら凄くうまくなっているんです。  ああしろこうしろと言うのが好きでなく自分でやってしまいました。  それが校長室に飾られていたということがありました。(父に手伝ってもらったという事は言えませんでした。)    

父が小さいころ、近所のおばあさんがお化けの話だとか、古い言い伝え、あの世の話などをきいて、戦争に行ったりいろいろな苦労など経験して、そういえば自分は妖怪が好きだったなあと思って、古本屋さんで妖怪について書かれた本を見つけたそうです。   これは昔自分が経験したことだと確信を持ったそうです。  それを絵にしてみんなに見てもらおうと思ったようです。    私は父から妖怪の話は聞いたことはないです。   祖父は良くお化けの話はしてくれました。  江戸時代は妖怪を描くブームは有ったようです。  妖怪ものとか民俗学とかそういったものを沢山集めていました。   妖怪は人々の心が作っているんで、理由が判らないことをお化けのせいにしてきたという事があったと思います。   妖怪と神様は紙一重と言うか、そんな存在だと思います。

鬼にもいろんなものがあります。  怖がらせるものから、戒めるために、魔力から守るために存在とか。  父は電気が妖怪を消したと言っています。  夜になっても都会だと暗闇などないですね。   父が書いていたなかで「あかなめ」が一番怖かったです。  お風呂などについている垢をなめに来る妖怪なんです。   父が好きだったものは妹はそのまま受け継いでいるという感はあります。   私は父と距離を取りたいとずーっと思っていました。   18年間小学校の先生を務めていました。   父も段々弱ってきて、水木プロに入って手伝ってくれと言われて、入りました。   それから父と凄く話すようになりました。  父の本もじっくり読むようになりました。   父の考えを改めて知ると言うようになりました。   父からいろいろ聞けたのは良かったです。   

妖怪を書くなんてと言う思いは以前は有りましたが、妖怪に対して深いものがあるんだと知るようになりました。   父は凄いと思うようになりました。   鬼太郎は父を支えた重要なキャラクターですが、最初はおどろおどろしい感じでしたが、少年誌に連載されるようになって、悪い妖怪をやっつけるスタイルになりました。   しかし、父はそういうスタイルはあまり好きではなかったようです。   大人向けの雑誌で「ガロ」がありましたが、それには凄く風刺が効いている短編で、これが書きたいものなんだと母に言っていました。   

鬼太郎の人気には父は戸惑っていました。  偶然に目に見えないものに助けてもらっているという風に言っていました。    鳥取県境港の「のんのんばあ」(近所に住むおばあさんで、父にお化けや妖怪の話を教えてくれた。)との出会いが一番だったと思います。 地獄極楽の世界にも興味があり、極楽よりも地獄が面白いと言っていました。   語り継がれてきた目に見えないいろんなものを父は絵にして形にしていますね。   水木しげるロードには170を超える数になりました。   完璧な観光地になりましたが、偶然が重なってそうなって行きました。    妖怪たちが街を活性化してくれたと思います。  

コロナ禍で話題になったのが「あまびえ」で江戸時代のものです。  コロナも目に見えなくてこれも妖怪ですが、父は妖怪は可愛くないといけないと言っていました。  父は戦争を体験していて、左腕を失って帰って来ましたが、本当に右腕一本で書いてきた人です。 なんでも右腕一本で生活していましたが、爪を切ることだけは母にやってもらっていました。     なんかあるんだというような想像する心のゆとり、そういったものが欲しいなあと思います。  そんなところに妖怪が注目されるのかもしれません。  説明しきれない何かがあるんだと言う人間の謙虚さも必要だと思います。    父は昔のものをモチーフにしているが、もっと現代に伝えやすくするために工夫をしています。  今度行われる展覧会をぜひ見ていただきたい。

2022年6月22日水曜日

土江寛裕(東洋大学教授・陸上競技部コーチ)・それは02秒差から始まった 〜リレーを極める

土江寛裕(東洋大学教授・陸上競技部コーチ)・それは02秒差から始まった 〜リレーを極める 

土江さんは短距離の選手として1996年のアトランタ、2004年のアテネ 、2回のオリンピックに出場し、アテネオリンピックでは400mリレーの第一走者を務めましたが、スタートの遅れからわずか0.2秒差の4位となってメダルを逃しました。   その教訓を糧に引退後は強化担当のメンバーとして、北京、リオデジャネイロオリンピックでの男子400mリレーのメダル獲得に貢献しました。   2年後のパリオリンピックに向けての日本陸上競技連盟強化コーチでもある土江さんに1/10秒、1/100秒を競う陸上競技短距離種目の世界について伺いました。

日本選手権では2回優勝、100mと200m。   100mは1999年の日本選手権での優勝。 追い風3.3mで未公認で10.09秒。   僕は頭で考えながら走るタイプで、51歩で走るんですが、一歩一歩をどう走るかを考え、その時は思ったように走れたと思います。  伊東浩司さんが10.00秒を出して9秒台にぎりぎりで入れなかった。  200mは1998年の日本選手権での優勝。   元200m日本チャンピオンの土江良吉は実父。  陸上以外のスポーツをやる事は許されなくて、父親に並べることが出来て嬉しかったです。  ただその2年前に父親が亡くなってしまったため見せられなかった。   

1996年のアトランタ大会出場。  父とは90%ぐらいが陸上競技の話でした。  練習や試合の後にはビデオを見て、指導の会話がほとんどでした。  父は陸上競技は一番が勝者であと2番以降は敗者で駄目だという考え方でした。  高校総体では決勝に残ることが難しいぐらいでしたが、3番になって喜んでいたが、「そんなことで喜んで」と言って、無茶苦茶に怒られました。   指導者になって、あまり1番にこだわるのも選手にとってプレッシャーになることもあると思うので、それも大事だが、どうやったら早くなるのか研究して、実現してゆくプロセスを大事にしたいと思います。  父親との会話もほとんどそうでした。   

1996年のアトランタ大会ではうまくバトンが渡らずにゴールできなかった。  オリンピック出場が目標だったので、達成できて凧の糸が切れてしまったような感覚になってしまった。   海外は初めてだったし、時差ボケなどもあり調整が上手くいかず、リレーのときにはよくなってきたが、うまくバトンが渡らず失敗してしまった。  

2000年シドニーオリンピック代表を僅差で逃す。  2004年のアテネ大会には出場。   100mでは一次予選、400mリレーでは第一走者を務め、第4位となる。   メダルに届くようなレベルでの出場だったと思います。   1回目に緊張のあまり、スタートの音を勘違いしてフライングしたと思って止まって仕舞って、たまたまイギリスの選手がフライングして、助かった。   2回目はでかい音(スピーカからの音)に反応してしまって、普通なら0.1秒ぐらいで反応するところを0.3秒ぐらいかかってしまった。  0.2秒遅くスタートをするという大失敗をしてしまいました。  ナイジェリアが銅メダルだったんですが、僕の遅れぐらいの差で4位になってしまった。  

2006年に引退して、指導、研究へと進む。  アテネでは30歳になっていて、オリンピックの失敗はオリンピックでかえすということが、僕の原動力になっています。    いろいろやりたいことがあったが、バトンの渡し方の手法を提案しました。   バトンを貰うほうは待っていて、ある時点から加速しながら掛け声があったら手を挙げてバトンを受け取るが、或る種職人的な感覚でやっていた。   二人でバトンを渡した時間を単純に出して、その目標タイムを出して、それに取り組みました。  それに対するアイディアがいろいろ出てきて、選手たちと話しながら作り上げていきました。   バトンを渡す範囲の距離40mを3.75秒と言うタイムを設定しました。  2008年は3.75秒で、100mを走る速度も上がってゆくと、バトンタッチのクオリティーもあがってゆき、今は3.6秒台です。  リレーはお互いの信頼関係が大事で、如実に表れる競技です。   

東京オリンピックではバトンが繋がって行かなかった。  失敗してしまうようなぎりぎりのところを攻めてきていました。   オリンピック直前の世界選手権で3位に入って37.43秒でした。(ほぼ金メダルのレベル)    細かいことが沢山重なって結果としてああいう事が起こってしまった。    ぎりぎりのところを追及して、金メダルを取れるか、失格かと言うようなところでしたが、金メダルを取れるようなメンバーだったと思います。   コーチとしては申し訳ないという思いでいっぱいです。    数値化して、いろんなヒントとして得ながらも、最終的には選手の感覚にどうやって落とし込むかと言う、そういうところが一番大切な部分だと思います。   

桐生選手は高校2年生で10.19秒で高校記録で走っています。  その時から合宿に呼んだりしていました。  9.98秒を出したが、順風満帆ではなかった。   9秒台を走る選手が4人もいる状況になりましたが、中国の選手が9.83秒という記録で走ったので、我々の目指すところが2段階、3段階先になったと思います。  パリオリンピックでは100mのファイナルに残れる選手を目指していきたいと思います。  そして400mリレーでは金メダルを目指していきたいと思っています。

2022年6月21日火曜日

田中啓(ボランティア団体会長)      ・感動を分かち合う〝おもちゃドクター"

 田中啓(ボランティア団体会長)      ・感動を分かち合う〝おもちゃドクター"

田中さんは長年勤めた中学校を退職後、おもちゃドクターの活動に出会いました。  日夜修理の技を磨く中、今月おもちゃドクターが所属するボランティア団体の会長に就任しました。田中さんに新会長としての意気込みや活動の魅力などを伺いました。

会員そしておもちゃを預けるかたの役に立てる会の活動をしてこうと思っています。  1600人強の会員がいます。   おもちゃ病院が640ぐらいあります。  土日が多いですが、平日をわざと選んでやっているところもあります。   時間も午前、午後とか時間帯もバラバラです。   1996年に「おもちゃ病院連絡協議会」が出来ました。  それが今の協会の前身です。  松尾さんが都内で活動されていた方ですが、おもちゃ美術館が中野にあって、そのなかでおもちゃ病院をやっていました。  そこの館長さんと意気投合して、館長さんは全国につながりがある人で、全国に活動を広げようという事で始まりました。   最初は40~50名程度で始めたようです。   主に60代以上の方で最近若い人もぽつぽつ入ってきました。  

部品代ぐらいは頂いていますが、ボランティアでやっています。   道具はそれぞれ購入しています。  道具もいろいろやり易いように工夫しています。   依頼は電池を使ったものが多いです。   子どもは意外と手で動かすものが好きです。   ですから手でも動くし電動でも動くものがあったりします。    世界で初めてラジコンを取り入れたのが日本のメーカーです。(1955年発売)    私がドクターになり始めた頃に、おばあちゃんが話せるぬいぐるみを持ってきました。   直して返す時に、「お孫さんのものですか」と聞いたら、「私のものです」と言われて、娘さんが自分のことを心配して買ってくれたんだと言っていました。   吃驚しましたが、その後そういうケースが非常に多いです。  年を取った人がコミュニケーションの相手として持つということです。   棺桶に一緒に持ってゆくと言っていました。    

ものとしては全然珍しくないんですが、人形で光が当たるとゆらゆらと左右に揺れるおもちゃがありました。   持ち込まれたのはフラダンスの人形ですが、「いくらかかってもいいから修理をお願いします」、という事でした。   自分の娘が結婚する時に、相手の方がハワイで、結婚式をハワイで行ったそうです。   その人はそのころ鬱状態だったようで、相手のおかあさんにその状況を話したら、「こんなものが慰めになるかどうかわからないが、これを見て思い出して下さい」と言われてくれたのが、その人形でした。  元気になってハワイから帰って来ました、という事でした。  気合いの入る修理になりました。  

おもちゃに物語性があるという事は、修理をしていてつくづく感じます。  大量生産されたおもちゃでも、物語性が加わると唯一無二のものになるんですね。  

手のひらに乗るような犬のぬいぐるみが歩いたり尻尾を振ったりするものですが、直して返したんですが、ちょっと涙ぐんでいて、自分が昔犬を飼っていてすごくかわいがっていたが、犬が亡くなった時に凄い喪失感で、似たぬいぐるみを買って大事にしてきたが、それが動かなくなって持ってきたという事でした。  感動の共有みたいなものがあります。  直って渡す時のお客さんの反応は、凄く喜んでくれて、それが伝わってきてこっちも嬉しくなって、そういったことがしょっちゅうあるんです。  

定年前退職(56歳)して、何をやろうかいろいろやりましたが、偶然におもちゃドクター養成講座に参加しました。  その後活動ができる病院を捜しました。  前会長の三浦さんの四谷おもちゃ病院に通いました。   最初に手がけたおもちゃのことは良く覚えています。  お母さんと一緒に来た女の子で、音の出なくなってしまったピアノのおもちゃでした。  分解しましたが、原因が特定できませんでした。  直せずに返した時に女の子の悲しそうな表情を見て、残念な思いをしました。  その後も別の子が同じ症状のおもちゃのピアノを持ってきましたが、やはり直せず悲しい顔をされてしまいました。  苦い体験でした、いまでは直せると思いますが。   

三浦さんは直すための部品がなければ作るという発想でした。  工夫をして作るという姿勢を学びました。  それぞれ得意分野がありますが、チームプレイで対応することもあり直った時の感動を共有することが出来ます。    現役のころは暇になったらいいだろうなあと思いましたが、暇でいるより好きなことで役に立てることで忙しいという事がベストなんだと思います。    



2022年6月20日月曜日

山田広野(活弁士・映画監督)      ・【にっぽんの音】

 山田広野(活弁士・映画監督)      ・【にっぽんの音】

昔、映画のことを活動写真と言ったんです。   映画もフィルムで撮られた写真の連なりになって、それが動くというかたちになり、それが活動写真なんです。   その「活」を取って、弁士というのは壇上で講演する人を今でも弁士と言っています。   活動写真の弁士、略して活弁士という事です。  今は映画に音がついているのが当たり前です。   映画が日本に輸入されて初めて興行されたのは明治時代ですが、映画の興行と同時に活弁士も始まっていました。   明治29年からスタートしています。   しゃべる台本も自分で作っていましたので、人によって違います。     チャップリンにも活弁士がついていました。  「放浪紳士チャーリーは・・・・」と言うような形で語られていました。 (ボロボロなものを着ているが正装」)     活弁士は日本だけで、海外では字幕である程度判っていただくことになります。  音楽は生演奏で海外も日本も一緒です。   映画館の専属のオーケストラの楽団がいてスクリーンの前で演奏しました。    楽団に規模は色々だったようです。   日本では琵琶法師の時代からものを語って伝えるという事が一般的でした。  日本は語り好きだと思います。(落語、講談、浪曲など)

*「血煙高田馬場」 サイレント映画の名作    伊藤大輔監督  1928年(昭和3年)公開  仇討ちもので大河内傳次郎が演じています中山安兵衛が助太刀をします。    活弁士:加藤柳美    同作品の別の活弁士:鈴木光太郎  聞き比べする。

小学校のころから映画が好きで、テレビで放送されていた映画とか、映画館などにも行っていました。   東京に出て映画の専門学校に通い、自主制作で映画を撮るという事をやっていました。   ビデオカメラが主流の時代でしたが、あえて8mmカメラでフィルムで撮ったが、作業が遅れて上映の当日を迎えてしまいました。  音を入れる時間が間に合いませんでした。   どうするんだと言われて、もともと無声映画として撮ったんだと言ってしまいました。   「弁士として説明します」と思い付きで言ってしまい、活弁士としてステージに上がる事になってしまったのが最初でした。   やってみたら楽しくてしょうがなかった。   お客さんも沸いていました。 その後活弁士の道がスタートしました。      

「賭場荒らし」  昨年12月撮影。   僕も(大藏基誠)出演させていただきました。  1週間の撮影期間に2日しか時間が取れず申し訳ありませんでした。  フィルムで撮るという事でテンションがあがりました。   

サイレンス映画のサイズで撮りました。(ほぼ正方形サイズ) 何から何までサイレンス映画の作り方に即して撮って生演奏に生活弁をつけるというやり方を踏襲しました。     内容は賭場を荒らす強盗がいるんです。  アウトローが主役の映画です。  僕が大藏基誠)賭場荒らしの主役をさせていただいています。   飛行機の音とか車の音とか、しゃべり声とか全然気にしなくてよかったのが、面白かったですね。

日本の音とは、小学生のころ剣道をやって、竹刀のパシーンと言う音と打ち込むときの足の音、これは日本にしかないと思いました。   映画館を盛り上げたいという思いがあります。  新しい活弁映画をどんどん作っていきたいと思います。