2026年6月18日木曜日

山中しのぶ(自身が認知症・介護施設運営者) ・「ありのままに生きる」

山中しのぶ(自身が認知症・介護施設運営者) ・「ありのままに生きる」 

山中さんは201942歳の時に、若年性アルツハイマー型認知症と診断されました。 子供3人を抱え一家の大黒柱として働いていた時で、家族の将来を思い途方に暮れたいいます。 そんな中、同じように認知症と診断されながら、生き生きと暮らす先輩たちに出会い、少しずつ自身の病を受けることができました。 今では高知県内2箇所で介護施設を運営する一方、講演会などで自身の体験や学びを伝え、認知症への理解を広く訴えています。

認知症ケア学会に参加するために上京しました。 当事者の視点から認知症の理解を考えると言うテーマのシンポジウムで発言しています。 令和4年から高知県の希望大使に委嘱されました。 ADIと言って世界アルツファイマー病協会があります。 そこの国際本人委員としても参加させていただいてます。 今年はリオに行ってきました。(もとは携帯電話の販売会社で営業担当をしていた。)

若年性認知症と認定されたのは2019年です。 3、4年前から時間の間隔のずれというのが結構ありました。 覚えにくなったと言う感覚もありました。 その前に近所の精神外科に行ったら、正式な診断名はわからなかったんですが、チラシをもらって「認知症と共に生きる」と言うもので、22点境界線と書かれていました。   なかなか理解できない状態が3,4年続きました。 若年性アルツハイマー病の主人公のドラマを見て、自分もこれだと確信しました。 そして、若年性アルスファイバー病と診断されました。 

仕事を続く上で、同じ部署だけには理由を説明して仕事を続けていきました。   1年半ぐらい家に引きこもった時期もありました。 ある本の影響で、いつかは自分もオープンにしたいと思って会社を退職することにしました。(20216月)   東京都の希望大使をしている佐藤美樹?さんが働いているDAYSBL Gと言うところに見学に行きました。 社会参加型デイサービスでした。 チラシをポストに投函する仕事をしていました。 そこで人と人との関係性に関銘を受けました。 こんな施設を作りたいと思いました。 

翌年の4月には法人を設立していました。  人の命を預かることになるので、制度、生活とかいろいろな申請とか一生懸命勉強しました。 20224月に「セカンドストーリー」と言う法人をつくりました。 感動した「ストーリー」と言う歌から名前を付けました。 デイサービス「はっぴー」も歌の中から取り入れました。 自動車販売の洗車をしたりする中で、仕事の枠も増えていきました。マンションの清掃もしてます。 働くと言うこともありますが、みんなと会えるとか、いろんな話ができるとか、そういうことが働くより先に大事なんじゃないかなと気づきました。 2024年の暮れぐらいからいろんな検査をして、レビー小体型認知症(レビー小体と呼ばれるたんぱく質が脳に蓄積されることで脳の神経細胞が減少し、認知症の症状を発症 幻視など、ないものが見える症状​・幻聴などもある。)と診断されました。

デイサービス「はっぴー」は2店舗になり、2店舗目拡大のために引っ越ししています。長男は不動産お仕事をしているので移転の為の手伝いをしてもらいました。 次男は次男は介護職員と一緒に働いています。 私の中の家族という言葉は、血縁関係だけの家族ではなくて、大きな意味での家族、エネルギーのことです。   

進行していくのではないかと言う不安はありますが、先の見えない不安で悩むよりも、今日楽しいことをやって、今日1日精一杯生きようと思っています。  認知症になってからもやりたい事は実現できるし、今までの生活も続けることができます。 それは1人では難しいかもしれませんが、仲間や家族、相談できる人などを今から作っていってもらいたいなと思います。  地域のご本人さんと一緒に居場所を作ったり、思いを聞いて、アクションを一緒に起こしていって欲しいなと思います。


2026年6月17日水曜日

屋鋪要(元プロ野球選手・少年少女野球指導者)・「人生、ノーサインで走り抜け~韋駄天・屋鋪要の生きる術」

 屋鋪要(元プロ野球選手・少年少女野球指導者)・「人生、ノーサインで走り抜け~韋駄天・屋鋪要の生きる術」

 屋鋪さんは、プロ野球横浜大洋ホエールズ時代に俊足の3人の名前を連ねたスーパーカートリオの一角として、ベンチからのサインをまたないノーサインの走塁で3年連続の盗塁王を獲得。 さらにゴールデングラブ賞5回に輝いた守備では、移籍先の長嶋ジャイアンツの優勝につながるファインプレーでも知られています。    子供の頃から大の鉄道フアンであった屋鋪さんは、プロ野球引退後は、子供たちへの野球教室を続けながら、鉄道文化人としても活躍しています。 さらやに知人から株を譲られたことがきっかけで始めた、ラベンダー栽培がカルチャー教室でも指導を行うようなになっています。 自らの観察眼と直感そして勇気で67歳の今なお走り続ける屋鋪さんにそのノーサイン人生を伺います。

子供たちへの野球教室を月、火、水と別の場所でやっていますが、50人ぐらい教えています。 鉄道の写真集は2冊出しました。 鉄道の車両の模型も作っています。レール幅が9ミリで150分の1位です。 野球ではスーパーカートリオと呼ばれていて、横浜時代、1番、2番、3番、1番が高木豊さん、2番が加藤博一さん3番が私です。 それまでは6番とか7番でしたが、近藤監督から言われて、いきなり3番を打つ立場になりました。昭和60年のシーズンから走りまくります。 失敗してもいいからとにかく走れと言われました。 盗塁って意外と難しくて、私の成功率は7割5分位です。 赤星君は8割以上でした。3人とも塁に出て3人とも失敗したことがありました。 盗塁の要点は①スタート②スピード③スライディングです。 私が1番大切だと思うのはスタートを切る勇気だと思います。 

少年時代から自由奔放に生きていました。 両親は細かいことを言いませんでした。 ただしつけが厳しかったです。 遊び呆けていても勉強をしなさいと言う事は1回も言いませんでした。  8歳から12歳までは、兵庫加川川西に住みました。    いろんな動物を飼いました。(蛇などを含めて) マムシも飼って指を噛まれたことがあり、血清がなく血を絞り出してもらいました。 

1985年スーパースーパーカートリオで前年が11個の盗塁だったのが一気に58個になりました。  翌年から3年連続盗塁王になりました。 ゴールデングラブ賞も5回取りました。 1994年巨人に移った後、巨人対西武の日本シリーズで9回にファインプレイがありました。  10で守り切りました。 長嶋監督からはあのプレイが日本シリーズの流れを変えたと言って下さいました。 貢献できたので、人生であの年は忘れられません。

*「大空の大地の中で」  歌:松山千春

大自然のある北海道は大好きです。 11歳の時に蒸気機関車が大好きになり、私の影響で父も蒸気機関車が好きになりました。 それで夏に北海道行くことになりました。 蒸気機関車の荒々しさに魅了されたと思います。  2006年から写真を撮り始めましたが、その頃600両以上ありました。 昔の模型はもう少し大きくて80分の1位の大きさで、それは高価でした。 Nゲージ(150分の1のタイプ)が普及し始めて60年位です。 引退後鉄道の趣味に戻ってしばらくしてから模型を作成するようになりました。 模型のセットが100個ぐらいあります。

野球は小学校4年生からやりましたし、野球が根幹です。 野球をやることで学ぶべきことがいっぱいあります。 野球がうまくなることに越した事は無いんですが、野球をやることで学ぶべき事がいっぱいあります。  例えば礼儀作法とか私の指導をしたことを考える。 我慢も人生にとっては大切なことだと思います。 野球の楽しみは打つことです。 打球が飛んでいくと気持ちいいです。 子供たちにはボールを真っ芯で捉えるような指導をしたいです。 2010年の後半位から山野草の植物を育て始めました。 2019年に友人からラベンダーの苗を譲ってもらいましたが、失敗しました。 翌年からコロナ禍の中、熱中しました。 今、2カ所で50株ぐらい育てています。  関東地区では、夏の暑さでほとんど枯れてしまって難しいです。


2026年6月16日火曜日

三輪主彦(大人のための科学塾主宰)     ・「東京にも富士がある」

三輪主彦(大人のための科学塾主宰)     ・「東京にも富士がある」 

71日の富士山の山開きの日が近づいてきました。 富士山に1度は登りたい、でも体力に自信がない、混雑が気になる入山料もかかるなどと諦めている方がいらっしゃるのではないでしょうか。 実は東京都内にも気軽に登れる富士山がいくつかあるといいます。 一体どんな富士山なのか若い頃はヒマラヤのカラコルム山脈の山などに挑戦し、高校の教諭を退職してからは、東京の富士山巡りを続けている三輪主彦さんに案内してもらいます。

都立高校30年ほどやっていました。 毎日走って学校に行ってました。  理科の先生でした。  研修で海外にも行きました。  大学では山岳部にいたので、1986年にヒマラヤのカラコルムに行きました。 6000メーター位のところで引き返さざるを得なくなり、カラチと言う乾燥地域に行きましたが、そこは意外と面白く乾燥地域回るようになりました。  1978年から79年にかけてトルコのアンカラ大学に留学して、火山の研究をしました。 戒厳令で大学には行けなくて、トルコをバスで回りました。 

宮本常一先生の主催している日本観光文化研究所に出入りさせてもらっていました。  旅の文化を研究するところでした。 地球環境問題に触発され、マングローブを植えることに参加して、湾岸、ミャンマー、ベトナム、エクアドルにも行きました。 1979年から地平線会議第1回目の報告があり、その報告会は現在まで続いてます。カナダに旅行に行った時に、走って旅をすることに出会い、その後続けています。東海自然歩道と言うのは1200キロあって、高尾山から箕面まで30数日間かけて行きました。 四国遍路も1200キロありますが、そこも走って行きました。

生徒と接していて科学離れと言うことを感じて、大人に理解してもらいたいと思って、定年前に辞めて大人のための科学塾を開こうと思いました。 最初は、宇宙の話とか、地球のマントルの話をしてましたが、実践が伴わないので化石川巡り(昔は流れていたけれども、現在は流れていない川)をしました。 次に山巡りを考えました。 品川神社のところに結構大きな山があって富士塚と言うとこでした。  東京には実は富士山がたくさんあります。 江戸時代に富士講と言うものがありました。 富士山は女人禁制でした。 ミニ富士を作ろうと言うことになり、高田馬場に初めての富士塚ができました。 

富士講の代表の人が富士山に行った帰りに溶岩を持ってきて、富士塚に貼り付けるわけです。 女子供もその富士塚に登れば富士山に登ったと、同じご利益が得られるということです。 昔からのものは3つしか残っていません。 上野の小野照崎神社にある富士山が重要文化財として残ってます。(下谷坂本富士)  西武線の江古田駅の前ある江古田富士、東長崎駅のそばに長崎富士、あるいは高松富士と言われる富士、 十条富士と言うのはあります。 東京の中では1番縁日のすごいところです。 山開きに合わせてやります。 

現在都内には77ぐらいあります。 明治の時に廃仏毀釈があり、仏教系のものは全部取り壊してしまいました。 富士講を仏教の1派でということで壊されてしまいました。 神道であると言うことで生き延びるために鳥居を立てるわけです。 明大前と言う駅のそばに松原富士と言う富士山があります。 江戸にはかつては800から1000があったと言われてます。 江戸川区には14の富士が残っています。 めぐると10キロメーターあります。

富士講はみんな仲良くしようと言うのが1つ登拝いろいろ考えながら、自分の体を鍛えながら登るというのがあります。 江戸の七富士は公式には残っていません。下谷坂本富士、品川富士、江古田富士、千駄ヶ谷富士、十条富士、音羽富士、長崎富士、重要文化財が3つ入ってます  現在は無いんですが、江戸の広重が描いた名所江戸百景と言う浮世絵のシリーズがあります。 その中に富士が二つ描いてあります、目黒元富士目黒新富士。 中目黒の駅から目黒川を渡って、代官山に出るちょっと前に大きなマンションがあって、その脇に目黒富士跡と書いてあります。そこにあったと思われます。

8月の末に山終いと言うのがあります。 富士吉田の火祭りがあります。 それに合わせて富士塚でも火祭りをするところがあります。 清瀬中里富士があって、火の花祭りというのをやっています。 大きな松明を燃やします。(91日に実施)  みんな仲良くしよう、男女平等、畏敬の念を持って山に登ろうとか、そういう精神は残していかなければいけないと思います。






2026年6月15日月曜日

高橋克実(俳優)              ・師匠を語る「演出家実栗山民也を語る」

 高橋克実(俳優)          ・師匠を語る「演出家・栗山民也を語る」

映画やテレビ、そして舞台で活躍する高橋克実さんが師と仰ぐのは、舞台、演出の第一人者栗山民也さんです。 演出家栗山民也さんと俳優高橋克実さんの師弟関係を伺いました。

映画、ドラマに憧れてこういう世界に入りましたけれども、舞台と言う魅力と言うものがわからないでやり始めていました。 栗山さんと仕事をするようになってそう思いました。

栗山民也さんは、1953年東京町田市で生まれます。 早稲田大学文学部演劇学科卒業後、小沢昭一さんが主宰する芸能座に所属。その後演出家の木村光一さんに師事して、1980年「ゴドーを待ちながら」で、演出家としてデビューしました。 文化庁派遣在外研修員として、イギリスのナショナルシアターでの研修を経て、1996年「ゲットー」の演出で紀伊国屋演劇賞、芸術選奨新人賞などを受賞、演出化としての評価を不動のものとします。 2000年には新国立劇場演劇部門芸術監督に就任、監督就任後、目玉となった作品を井上さんに依頼します。 これが「東京裁判三部作」です。  第1部「夢の裂け目」第二部「夢の涙」そして第三部「夢のかさぶた」これで完結する「東京裁判三部作」です。 また芸術監督を7年間勤める一方で、新国立劇場演劇研修所の初代所長として、高い水準の演劇教育体制を確立しました。 2013年の紫綬褒章に続いて2023年には旭日小綬章を受賞。さらに今年第82回日本芸術院賞恩賜賞を受賞、活躍観続いています。

私の初主演作は2008NHKテレビドラマ「フルスイング」大河ドラマでは、「龍馬伝」など数々のNHKのドラマに出演しています。 最近では連続テレビ小説「虎に翼」で演じた、新潟県三条市の杉田太郎役、新潟県三条市は私の出身地です。  最初は劇団に憧れて入りました。 劇団離風霊船に入団。 劇団主宰・大橋泰彦の作・演出作品の「ゴジラ」にモスラ役で出演、新進劇作家の登竜門と言われる岸田國士戯曲賞を受賞しました。

栗山さんを一言で言うと、初めて会ったプロの演出家です。  「メディスンの薬」?の稽古の時にサンダル履きで行った覚えがあります。 ジャージに裸足で行きましたが、靴の紐を結ぶというト書きに書いてあることが出来ずに、栗山さんから注意を受けました。 以後稽古への向き合い方が変わりました。 20代から30代に所属した 劇団離風霊船「ゴジラ」で岸田國士戯曲賞を受賞。(1998年 27歳) その時には、栗山さん自身のことも岸田國士戯曲賞がすごいっていうことについてもあまり知りませんでした

ミュージカル「阿国(おくに)」の初演が1990年で栗山さんの演出でした。    観客として初めて見に行きました。 木の実ナナさんが主演。 当時、日本のミュージカルが人気のあると言うものではありませんでしたが、力強さエネルギーを感じました。 「東京裁判三部作」の第一部の「夢の裂け目」が2001年、第二部「夢の涙」が2003年、2006年が第三部「夢のかさぶた」これに出演しました。     栗山さんとは1番距離が縮んだ時でした。 この三部作は自分にとってはターニングポイントとなりました。 井上さんの本と栗山さんは相性が良かったんだと思います。 

それほど面白くない所でも栗山さんがやると面白くなるんです。 女優さんの仕草とかを女優さんよりも上手に栗山さんはやります、やってみせる。  栗山さんは、稽古場のときの仕事の場とそうじゃない時では全然リラックス感が違っていました。  2023年に栗山さん演出の「海をゆく者」にしました。 翌年第31回読売演劇大賞優秀男優賞を受賞しました。 海をゆく者」は、僕は初演も再演も見ていて、ものすごく面白かったです。 

初演、再演は、吉田鋼太郎さんが演じた役を3回目の演出では、私のほうに栗山さんからオファーが来ました。 ものすごい大変な役なので、逃げたかったです。 どうなるかなと思いながらやることになりました。  苦労した甲斐があって、第31回読売演劇大賞優秀男優賞を受賞することになりました。 栗山さんとの出会いは、1992年の「メディスンの薬」?から、今回の「花よりタンゴ」で34年の師弟関係になります。 教えとしては、言葉と言うよりは、栗山さんの姿勢だと思います。 12ヶ月ずっとここ何十年と演出し続けていてすごい本数だと思います。     常に演出の事しか考えてないんです。 生きるという事は、演出そのものなのです。

栗山さんへの手紙

「・・・今日もどこかで大好きな演出をされていることでしょう。 誰よりも早く稽古場に来て、終わると颯爽と風のように去っていく。 112ヶ月休むことなく演出をやり続けて何十年、やや半世紀。・・・まさに日本演劇界のマグロ、栗山さんとの一番の思い出は、2001年の新国立劇場の 井上ひさしさんの「夢の裂け目」・・・なかなか台本が上がらずに稽古ができず、その分よく飲みに行っていろんな話を聞けたことです。・・・」





2026年6月14日日曜日

棚橋弘至(新日本プロレスリング社長)    ・「多様性」と「激変」を牽引するリーダー

棚橋弘至(新日本プロレスリング社長)・「多様性」と「激変」を牽引するリーダー 

近年、新しい時代の価値観や多様性に対応できる柔軟なリーダーシップの取り方に関心が集まってます。  元プロレスラーでプロレス興行団体社長の棚橋弘至さんは個性的なレスラーの皆さんをリード、育成しながら多様化する格闘技ビジネスの世界で強いリーダーシップを発揮されています。 様々な夢、能力、キャラクターを持った人たちを先読みの難しいこの時代どう牽引していけばいいのか、選手として感じできたこと、今会社のリーダーとして思うことをお話しいただきました。

1976年岐阜県大垣市生まれ。 小、中、高と野球をやっていました。  野球選手になれたらいいなぁと思っていました。  高校生の時にたまたま夜のプロレス中継を見てこんなすごい人たちがいるんだと言うことを見て、一気に好きになってしまいました。  立命館大学法学部に入学しました。 大学4年間で体重を25キロ増やしました。 大学ではプロレス同好会に入りました。アマチュアレスリングクラブにも入りました。 22歳で新日本プロレスに入門しました。 2023年の1223日新日本プロレス株式会社の第11代代表取締役社長に就任しました。 選手権社長2年やる。 2026年に選手を引退。

2000年代から格闘技、K1とかテレビで放送され、プロレス業界は方向性を見失う時代でした。 かつて経営は丼勘定だったんですが、数字の分もしっかり見なくてはいけなくなったので、ビジネスとしての成長を求められました。  選手時代は、プロレスのイメージを変えると言うことに力を注ぎました。 「愛してます。」と言う言葉が出てきっかけと言うのは、2006年の北海道の大会でしたが、チャンピオンシップに挑戦することが決まっていました。 チャンピオンがドタキャンでトーナメントで勝ち抜いてチャンピオンになりました。 チャンピオンを目当てにチケットを購入した方に申し訳なくて、その時に「ありがとう。」「愛してます。」という言葉が出ました。(感謝の最大級と言う意味合い) 試合の締めの言葉では「愛してます。」という言葉を使うようになりました。 メインイベンターには決めポーズ、決めゼリフ、きめ技、この3つがないとなかなかなれないと言う型を作りました。

新日本プロレスには現在50名前後います。 みんな個性を出していって、フアンの方にアピールしていかないと生き残れない社会です。 リング上は1つの形ができてるので言う事はありません。  選手が戦いに集中できる状況を常に作っていきたいって言うふうに思ってます。 現在3人ずつランチミーティングを行っていろいろ聞いたりしてます。 ピンチはチャンスだと思ってます。 リーダーがうろたえると、会社自体に動揺が広がると思いますので、常に笑顔でいようと思ってます。   プロスは楽しいとか、盛り上がりとか、そういった外側のところに僕はフォーカスを当てただけです。 

リングの中は以前からのスタイルのままです。 喜怒哀楽の感情が全部詰まっています。  プロレス会場に来たら怒ってもいいし、泣いてもいいし、そういった感情を振ることによって心がすかっとします。 プロレス会場はお客さんと選手のエネルギー交換だと思ってます。 ①疲れない②落ち込まない③諦めない。それを逸材3箇条と呼んでいます。 チャンピオンになってから6年間ぐらいチャンピオンらしくないと言うことでブーイングがありました。 その時に二つの軸が必要だと思いました。 ①会社側の評価、②自分の中で100%出したかと言う軸、それが進化の秘訣です。 

努力している人は、目つき、生き方、生きる姿勢そういったものに全部出てきます。 自分じゃない誰かが、きっと見てくれていると思います。 自分がやりたいことを仕事にできていると言うことが一番大きかったかなぁと思います。 人の喜びを自分の喜びにできる人間でありたいと思います。 仕事の中で自分の充実感を見つけてほしいと思います。 戦いを通じてエネルギーを売ってる会社だと思ってます。  100年続く長寿企業さんのイベントに行った時に、100年続く社訓があって、①会社の方針がしっかりしていること②製品がしっかりしてること③柔軟に時短に対応すること 僕は3つ目に特に注目してコスチュームを派手にしたり、プロモーションもいっぱいしてきました。


2026年6月13日土曜日

高島幸次(大阪天満宮文化研究所所長)    ・変革が伝統になる~千年つづく天神祭~

高島幸次(大阪天満宮文化研究所所長) ・変革が伝統になる~千年つづく天神祭~ 

担い手不足などで衰退の一途をたどる祭りが少なくない中、疫病退散などを祈願する大阪天満宮の天神祭は、ますます盛況で724日の宵宮と25日の本宮、合わせて約130万人の人出があります。  神様を乗せた神輿を中心に、総勢3000人余りが練り歩く陸渡御、神様の乗った船とそれをお迎えする100隻もの船が中心部の大川(旧淀川)を行き交う船渡御、そして奉納花火が有名で、そのほかにもたくさんの神事や行事が、夏の大阪で盛大に繰り広げられます。 高島さんは、天神祭は変革を繰り返すことで、伝統行事としての魅力をいっそう増してきた、その仕掛けのキーワードは、疑似的な伝統、疑似伝統だといいます。 1000年余り続く大阪の天神祭りはどのような変革を繰り返してきたのか、高島幸次さんに伺います。

お祭りの日に着る装束を宮司から重要な人に与える、それが装束賜式(しょうぞくたばりしきといいます。 そういう意味から言うと天神祭は既に始まっています。  江戸時代から始まった2メートル位の豪華なお迎え人形と言う人形がたくさんありますが、事情によって今はそれを船に乗せられないと言う事情があります。   最盛期は50体位ありました。 現在残っているのは16体です。 大阪有形文化財に指定されています。 8体位を設置してスタンプラリーとしてやっています。(71日)

大阪天満宮は、菅原道真公をお祭りしています。 讒言により菅原道真は太宰府に流され亡くなります。  亡くなった後、いろんな天変地異、流行病が流行ったりします。 道真の祟りではないかと言うことで、道真をお祭りするようになります。 大阪天満宮の場合には949年に天満宮ができます。 疫病を鎮めてくださいと祈願する神社としてできています。  太宰府は当時古代の外交の玄関口でしたので、中国大陸や朝鮮半島から人がたくさんやってきて、日本に無かったウィルスを持ち込んでいたようです。 それが道真と結びついてくるわけです。 平安京で起こった疫病、多分天然痘と思われますが、神事で日本中の疫病をお神輿に閉じ込めて川に流していくと、大阪天満宮の前あたりで、一気に海に流れ出す場所でした。 道真公が太宰府へ流される際に天満宮の場所あたりから船で向かったと言われています。 いくつかの条件が重なってそこに天満宮の場所が決まったようです。 

日本には夏祭りと秋祭りがあります。 お祭りは基本的には神様が年に1回だけ外に出てこられます。 村の神様は農業で収穫を気にされます。 刈り入れが終わった頃に出てこられて、今年1年よく働いたねと、そして村人たちも収穫していただきまして、ありがとうございますと感謝する、それが賑やかなお祭りになります。  天神祭は夏祭りですけれども、収穫とは関係なく街の人々は、疫病を退散する祈願をします。  大阪天満宮の場合には、船渡御陸渡御2つあります。  

天神祭の「大阪締め」は独特で、お祭りに特別に参加している人たちと、全く縁もゆかりもない見物に来られた人たちの間で交わされます。 去年、大阪天満宮と天神祭の本を書くときに、大阪天満宮の歴史だけを書くつもりでいました。 お祭りの存続の仕方を天神祭の中にヒントがあるのではないかと思って、疑似伝統と言うことを説明しました。 時代の変化に応じて変わってなかったら途絶えてしまいます。 今伝わっているのは必ず時代の変化に合わせて対応して変革を繰り返しながらやっています。 伝統を感じさせる変革を繰り返す、それは日本の文化の中にちゃんとあります。 例えば、天皇の即位の時に、江戸時代最後の孝明天皇までは中国の皇帝の装束を真似してましたが、明治天皇から初めて現在の装束のように変わりました。 

年に1回神様が神社から外に出てこられるときには、鳳神輿に天神様が乗って、玉神輿と言う乗り物に法性房尊意(天台宗の1番偉いお坊さん)が乗って出てきますが、の神輿と共に2つ出てきます。  明治に神仏分離と言うことで、神社とお寺を明確に分けれるようになりました。 お坊さんをまつわることができなくなり、道真公のご先祖にあたる神様と、天照大神が岩戸に隠れたときに、力づくでその岩戸を開けた人、2人の神様が今度はお祭りにお供する形になります。  天神祭は、静と動のお祭りと言われますが、疑似伝統として新しい形のお神輿の関係性です。(仏法で鎮めようとしたことを力で鎮める考え方)  

陰暦では6月の25日で行われていましたが、新に変わったときに、それに天神祭りが相当するの725日という事にしました。 725日にすることによっての時期からずれて、この30年間雨が降ってない状況でお祭りが行われます。  昔は天神様から大川から下流のほうに行ってましたが、地盤沈下で下流に行けなくなって上流に行くようになりました。 船の上で神事ををやるようになって、それを見物人が見ることができるようになりました。 おもてなしの心が天神様の祭りの中にたくさんあります。 御迎え人形は芝居の1番の決めのポーズをとっています。   町内会ごとにちょうちんの文字が変わっていきますその文字について、地元の人と見学に来た人との間で交流が生まれたりもします。 

天神祭りの1番中心には、神主による神事があり、周辺に氏子の神賑行事というのがあり、一般市民の観光行事の三重の行事があります。 この三重の行事のバランスが全国の中で最もうまくいってると思います。  それがどうしてうまくいっているかと言うと、疑似伝統の使い方とか、おもてなしの心、そういったものが可能にしているものと思います。  伝統を守ろうと思って、無理をして滅びさせてしまうよりも、どのように伝統を変革したが、存続できるんだろうと言う変革の仕方にコツがあると思います。