2024年10月19日土曜日

名越康文(精神科医)          ・なぜ生きるのかを問い続けて

 名越康文(精神科医)          ・なぜ生きるのかを問い続けて

テレビやラジオのコメンテーターとしてお馴染み精神科医名越康文さん(64歳)のお話を伺います。 奈良県出身の名越さんは小学生の時に、人はどうして死ぬのになぜ生きるのかという疑問を抱きます。  名越さんはその問いに悩みながらも医学部を卒業し、精神科医として多忙な日々を送りますが、心身ともに疲労のピークに達した時、知り合いから或る寺を訪問することを薦められ真言密教と出会います。 その後名越さんは本格的に仏教を学び、日常生活の中に行や瞑想を取り入れてきました。 名越さんは特に真言密教空海に共感し、現代人が生きてゆく課題を仏教心理学の視点から考察し、仏教系の大学などで発信を続けています。    子供の頃抱いた問いに対してどのような答えを見出したのか、名越さんの思いを伺いました。

僕は昭和35年生まれで商店を経営していてほったらかしでした。 おっちょこちょいの性格でした。 父方のお爺さんが亡くなって、初めて死と直面しました。(小学校3年生)  明け方に鉄人のような父がオイオイ泣いていました。  崖から車ごと谷に落ちて交通事故で亡くなったと聞きました。 父親が亡くなるという事はこんなに悲しい事なんだと鮮烈に覚えています。 小学校4年生の時に海底大戦争(特撮映画)を見に行きました。 人間が人間を殺してゆくという風にしか見えなくて、それから一週間夜になると人間は死んだあとどこへ行くのかと大問題で、泣けてくるんです。  子供心にいくら大きな家を建てても、お金儲けても、人と仲良くしても、全員と別れるという事が判るんです。 この世にあるものを全部捨ててあの世に行かなければいけない。  生きている間に勉強、スポーツしなさい、友達を作りなさい、とか全部虚しくなっていくんです。 どうせ死ぬのにこの世の中で僕は何をしたらいいんだと思いました。(10歳) 5年生の時に国語の授業がありました。  パンドラの箱、その中に自分の心を封印しよう儀式を行いました。 

医者になって欲しいという両親の強い希望で、私立灘中学に進学します。 父が開業医の娘と結婚して薬剤師になっています。 医学部に入るという事が人生の目的でした。 医学部に入って、追試を受けて3つのうち2つ落ちるとで留年でしたが、3つとも受かることが出来ました。 駅へ向かう坂道で生暖かい風がワーッと吹いて、パンドラの箱の蓋がパカッと開くのが聞こえました。 お前は何のために生きているんだと、きました。 

祖父が脳溢血で寝ていましたが、生きることに苦しんでいることを伝えたら、増谷文雄さんという仏教の研究者の「仏陀」という本を薦めてくれました。 2日間で読み切りました。 クレイマックスのところで悟りの内容、どう生きて行ったらいいかわかると思ったら、「仏陀は悟った。」しか書いてなかった。  いろんな本を読んだり瞑想したりしました。  3年生で留年しました。  野田俊作先生との出会いがありました。 友人が、精神科医が行なっているアドラー心理学のオープンカウンセリングの見学に誘ってくれました。 不登校のカウンセリングを受けていた暗く落ち込んだ顔をしていた女の子が一時間程度で笑顔になったのを間近で目にしました。 精神科医になろうと決心して、26歳で医師国家試験に合格して、研修前に配属された脳外科で忘れられない一人の患者さんと出会いました。 

若い女性で、脳幹部にある悪性の腫瘍でした。  完治は無理で延命のための手術をしようという事でした。 点滴をするんですが、血管に入りにくい時があり、2,3回入れ直しをしたりしました。  全く痛いとか言わないで、こちらに配慮するんです。 手術前日に髪の毛を切って剃髪するわけです。 最後の仕上げを僕が担当しました。 涙が数滴落ちるのをみて、心に押し寄せるものがありました。 手術も無事終えて、懸命にリハビリをするなか、脳外科での研修期間が終わりを迎えます。  その後お見舞いに行って絵本と小さなお地蔵さんを送りましたが、父親からなくなったことと、御見舞いの品物は一緒に納棺しましたと言う手紙を頂きました。  どういう返事をしていいかわからずに今に至ってしまいました。  何でこんな優しい人がなくなってしまうのか理不尽さを感じました。 生きるといことは複雑怪奇で答えのない問いが次々にやって来るんだと思いました。 

精神科病院で勤務して38歳の時に病院を辞めて、クリニックを開業しました。  どうしてもという時には電話をかけて欲しいと言って、いつの間にか患者さんの8割が僕の携帯電話番号を知ることになってしまいました。 一番多くかかって来るのが夜の10時から2時ぐらいです。 2月頃にふっと目が覚めると、身体が冷えているんです。 Tシャツで寝ているのに汗でびしょびしょになっていて、自立神経が失調していることに気付きました。(開業して4年ごろ)  自分でも治療をしましたが無理だという事で、真言密教の祈りのお寺がありまして、そこで説明したら「大慈悲」と言われました。  「私に出来るでしょうか。」と言ったら、「貴方ならできる。」と言われました。 もう48歳で、今から仏道の修行をして出来るのかと思いましたが、「出来る、思った時からやりなさい。」と言われて、その場で真言密教の瞑想のがちれんかん?という瞑想がありますが、それを押しせていただきました。  そこから仏教の勉強が始まりました。 真言密教との出会いが大きな節目になりました。 

仏教には学と行があります。 学と行を等分にやりなさいといつも言われました。  空海の大日経の「十巻章」という重要な教科書があり、「三句の法門」という考え方が出てくるんです。 人生を成功させたい、充実させたいという人はこれをやりなさいと言う事が、大日経の中に出てくるんです。 「三句の法門」の一つは、「菩提心を(ぼだいしん)を因(いん)とし」、私なりに意訳すると、人間の心というものは、人格というものは、無限に成長出来る、という事に気付きましょう死ぬまで成長していきましょう、という事です。 二つ目が「大悲(だいひ)を根(こん)とし」、大悲の心を持ちなさい、どんなに幸せそうに生きている人も、心の中には地獄を抱えている、病気の2,3つは抱えている、その人の中には深い悲しみ、苦しみがある、それに心を寄せましょう、出会った人のみんなが苦しみにあえいでいるという事に共感しましょう、という事です。 三つ目が「方便こそ究竟(くきょう)なり」、方便することが一番大事で、自分が出来る範囲でその苦しみや悲しみを抱えた隣人に一寸でも慰められるような気持にさせてあげましょう、癒してあげましょう、という事です。 これを毎日心掛けて下さい、これはつまり仏教的行だと思います。 一日一日充実させてゆくと人は必ず人生が成功する、そういう教えたと思います。 

日々人生を生きていると、自分の蒔いた種もあれば、そうでないものも非難されたり、怒られたり、苦労したりしますが、前は不条理ととらえていました。 これを自分自身を磨かれていると捉えようという事です。 どうせ死ぬのになぜ生きるのかという事の僕自身の答えは「どのように修行しているか?、もうちょっとづつでもまともな人間なっているか?」という事です。  自分の心がどう動いているのか、絶えず気付いているという、それが修行だと思います。  自分の心の中にある寂しさに気付くことは修行になっていると思います。 誰に対する寂しさなのか、その人に辛く当たっているから、相手も辛く当てって来る。 今度からはその人にやさしい言葉をかけて見ようとして、相手が許してくれたらその寂しさは癒えますよね。 自分の心の中をじっと見つめてみる。 解決策が浮かんだり、耐える方法が浮かんだりする。 そういった過程は立派な修行だと思います。 毎日修行する毎日がここにあるので、何のために生きているのかという事は、そういう事ですから一応答えになっているんです。 

自分自身の優しい言葉で心で唱えることが必要だと思います。 祈る、拝むという事が最高で最も強力で人々を豊かに、あるいは救う心理療法だと思っています。








2024年10月17日木曜日

久田恵(作家)              ・〔わたし終いの極意〕 終の住みかは自分で決める

久田恵(作家)           ・〔わたし終いの極意〕 終の住みかは自分で決める 

久田さんは北海道室蘭市生まれの76歳。 大学を中退して様々な仕事を経て、女性誌のライターになりました。 1990年に『フィリピーナを愛した男たち』で第21回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。 執筆活動を続けながらシングルマザーとして子育てをして、およそ20年に渡って両親の介護もしました。 70歳の時に栃木県那須高原のサービス付き高齢者向け住宅に移住しましたが、この2月に東京の実家に戻り独り暮らしをしています。 

那須に引っ越す時には、終の棲家を自分のなかで決めて暮らすんだと思っていましたが、歳を取って来ると、高原が美しい、空が綺麗とかそういう事だけで幸せには暮らせないですね。  自分が介護が必要になった時に、どういう風にそれを乗り越えたらいいのか、サポートしてくれるのかとかいろいろあって、歳をとると車も運転できなくなるし、終の棲家として疑問が湧いてきました。  6年間過ごして今年の2月に実家に戻って来ました。  改めて思うと何て便利なんだと思いました。  以前は父と一緒に母の介護していました。 母は78歳で亡くなりました。 父も自立型の介護施設に入りましたが、その後介護型の施設に入りました。  

父の男親は曹洞宗の僧侶でした。 その影響もあり道元の本などを読みました。 父は富士製鐵(現・日本製鉄室蘭製鉄所技術者でした。 父は「料理というものは科学実験と同じだな。 科学実験だったら僕の専門だから。」と言って、しっかりと数値を計算したりしてやっていました。 父は92歳で亡くなりました。 母は脳梗塞で失語症にもなってしまって、失語症に対しての理解をしようと思って努力しました。 父は最後には身体が動かなくなって、人が生きて弱ってきて、亡くなってゆくプロセスを間に当たりにしたという感じはあります。 父からは「最後まで自分と一緒に暮らしてくれたことを、僕は凄く感謝している。」と言われました。  その時には余りピントは来なかったです。 自分が歳を取って来ると一緒に暮らしてくれることが、重要だなと理解できる。 一人ぼっちで死なないですんだという事ですね。 私は一人ぼっちで死んでいくという事を、別に悲しとは思わないと言う様な気持ちではいます。 

自身の介護を息子にという思いは無いですね。 その手立てを考えて準備して最後を迎えないとだえんだ杏と思います。 介護施設は歩いて数分のところにあります。 同じ介護施設でも、運営している人達の介護観は違うので、どこでも同じというわけではありません。  昔は入れられちゃったという事が多かったです。 自分に合うようなところを捜して、決めることが重要な時代になってきています。 

色々な仕事をしてきましたが、その時その時で考え方が違っていました。 思い立ったらすぐ行動で、それが失敗かなと思ったら速やかに辞めればいいんです。 母が急に倒れたり、息子が不登校になったり、何があるのか判らない。 息子の稲泉連2005年に第36回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、初の親子受賞を果たしました。 

自分でもどうにもできない性癖があって、相変わらず落ち着かない日を送るのではないかと思います。  歳を取って来ると段々めんどくさく成ったり、身体も動かなくなってくるので、潔く諦める事もあります。 出来れば施設に入らないで自分の家で過ごしたいという人の考えも段々わかってきて、地域の中にシニア食堂みたいなものがあって、そこで交流するというものがあってもいいと思います。 家が2世帯住宅なので一階がそのような場所に使えればいいかなと思っています。 〔わたし終いの極意〕とは高齢になったら、ちょっと寂しいぐらいで生きているのがいいかなと思います。 












2024年10月16日水曜日

山室寛之(野球史研究家)        ・〔スポーツ明日への伝言〕 プロ野球再編問題から20年

山室寛之(野球史研究家)    ・〔スポーツ明日への伝言〕 プロ野球再編問題から20年 

今から20年前の2004年、プロ野球は大きく揺れ動きました。 近鉄とオリックスの合併問題をきっかけにして、リーグ球団の再編成の動きが起こり、球団数が減ってしまう事に強く反対する選手会による史上初めてのストライキが決行され、50年振りの新規参入球団東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生、ソフトバンクによるダイエー球団買収などがありました。  日本のプロ野球が誕生して70年目のこの年に直面した危機を、当時の関係者はどう乗り切ろうとしたのか、一連の問題は今のプロ野球とどうつながっているのか、プロ野球再建問題から20年、当時を改めて取材した野球史研究家の山室寛之さんに伺います。

山室さんは1941年北京の生まれ、九州福岡で育ちます。 九州大学を卒業して読売新聞社に入社、社会部の記者として活躍します。 社会部長時代にはオウム真理教事件、阪神淡路大震災などの対応を指揮していました。 1998年から2001年までは東京読売巨人軍の代表を務めました。 新聞社、球団の仕事に一区切りつけた後からは、戦前からの野球史の研究、取材、執筆を続けています。

1988年10月19日の出来事が2004年に繋がって行く動きが水面下ではありました。 2004年には近鉄の合併問題、オックスの球団吸収問題が起きます。  近鉄の指導者である社長の佐伯勇さんは応援に行くが随行したのが、近鉄を手放した際の社長である山口昌紀さん。 どうも阪急が身売りするらしいというという事を伝えられた。 山口さんは佐伯さんの元にその動きがあることを伝えます。 佐伯さんは突然「しまった。先を越された。」と発言します。 山口さんは佐伯さんの元で16年間働いた、豪放な方で佐伯さんを深く尊敬しています。 この時に山口さんは近鉄球団を処分しなければいけないという思いが宿ってきたと思います。 

1998年から2001年ごろメジャーに対するあこがれが強くなっていました。(特に巨人)  近鉄の野茂さんは1995年に移って、凄い活躍をしました。 2000年に横浜の大魔神佐々木投手、2001年にはイチローさんが行って野手でも十分にアメリカでも通用することが判ります。 松井選手がその後続いて行ってもう止められなくなる。 危機感がありました。 テレビの放映のスポンサーがなかなか見つからなくなる。 

2004年に近鉄とオリックスの合併の話が出る。 2月1日に朝日新聞が特報の記事を出します。 これが大騒ぎになる。 近鉄は35億円で売りたい。 5月に5期ぶりに黒字になったが、レジャー部門では60億円の赤字が出ていることを発表する。 その中で近鉄球団は40億円の赤字を公表する。  6月13日に近鉄とオリックスの合併が世間にも知られるようになる。 ライブドアが球団の買収をしたいという動きが出てくる。(6月30日)  

オリックスの宮内オーナーが、当時の球団の構成は1(巨人):5(セの5球団):6(それを羨ましく思うパの球団)だと言います。  そんななかでいろんな考えが出てくる。 巨人の渡辺オーナーの「たかが選手発言問題」が出て世の中を刺激する。 セ・パのいろいろな問題もある。 そのなかで選手会がストライキに入る。 「新しい球団を入れるために、最大限の努力をせよ。」、と選手会が言います。(9月のスト前日) 連盟は、「最大限の努力をするというのを入れると、新しい球団の参入に対して、フリーハンドではなくなる。」と言います。 これにより選手会の態度が硬化してストライキに入ってゆく。 

9月18日、19日の二日間ストライキが行われる。 選手会に対する同情が増え、連盟に対しての不満が高まる一方となる。 楽天の三木谷さんはしっかりした球場を持てば、何とかなることを理解し、やろうと決断します。 ダイエーは支援要請(産業再生機構)をせざるを得なくなる。(10月13日)  西武の堤さんが会社の不正経営の問題で辞任を発表しました。 ダイエーも西武もおかしくなる。 ソフトバンクではダイエーを何とかしたい、球団を持ちたいという思いが芽生える。 その時の責任者が後藤芳光さんで、父親と巨人の渡辺さんとは知り合いで、その伝手で話し合いが行われます。 孫正義さんは10月18日にはダイエーを買って、王さんに指揮を執ってもらいたいという事になります。

楽天、ソフトバンクはそれぞれの人脈によって誕生しました。 セ・パそれぞれ6チームになる。  残した問題としては交流試合の実施、アバウトだった入場者数を実数で発表する事。  これからの野球の将来は、少子化という問題は避けて通れない。 大谷選手の大活躍をいいてこにして,いい道を切り開いて欲しいです。











2024年10月15日火曜日

2024年10月14日月曜日

山崎静代(漫才師)            ・〔師匠を語る〕 「ボクサー」山崎静代~師匠・梅津正彦を語る

 山崎静代(漫才師)    ・〔師匠を語る〕 「ボクサー」山崎静代~師匠・梅津正彦を語る

俳優としても活躍中の山崎静代さんは、かつてのボクシングコーチの梅津正彦さんの元で、猛練習を重ねオリンピック出場を目指していました。 二人三脚でボクシングのオリンピックの夢を支えた師匠の梅津正彦さんについてお話を伺いました。

ボクシングを始めたのは2007年です。 ダイエットと、「明日のジョー」にはまっていたこともあり始めました。 

梅津正彦さんは1968年山形県酒田市で生まれます。 高校時代にボクシングを始めた梅津さんはソウルオリンピックを目指していましたが、怪我で現役を引退、その後は映画監督を目指し、助監督としていくつかの作品に参加します。 又「キッズ・リターン」や「アウトレイジ」などの北野武監督の作品や、テレビドラマのボクシング指導者としても活躍しました。  静ちゃんと最初に出会ったのも、2008年NHKで放送されたドラマ「乙女のパンチ」でのボクシングシーンの演技指導でした。 その後二人はオリンピック出場という大きな目標を掲げて、梅津さんは静ちゃんを世界を目指せるボクサーに育てていきます。  その梅津さんが皮膚がんの一種メラノーマと診断されたのは、そのさ中でした。  梅地さんは家族や仲間に支えられて、懸命な闘病生活を送りますが、2013年7月23日44歳の若さで帰らぬ人となりました。 

初めて会った時にはニコニコしていて優しそうな印象でした。 ドラマが終わった後も楽しく教えてくれるので、練習だけは続けていました。 アマチュアボクシングのライセンスがあることを知り、テストを受けてライセンスを取りました。 2012年ロンドンオリンピックで初めて女子ボクシンブが正式種目になるというニュースが入って来ました。 スポーツ新聞が「静ちゃんロンドンオリンピックを目指す」といった記事が出ました。 マスコミ先行でした。 吃驚しましたがやりたいと思いました。  梅津さんも同じことを考えていました。 やってゆくうちに甘くないという事がどんどん判って来ました。 

徐々に梅津さんの練習対応が変わってきました。  いろんなことで怒られました。 ボクシングの練習は2時間ぐらいで集中してやるんですが、5,6時間ぐらいやっていた時もありました。  梅津さんは伝わらないももどかしさ、私は判らないもどかしさが毎日続いていたような感じです。 辞めようという思いはありませんでした。  梅津さんとしてはオリンピックに連れて行くと約束した責任と、親御さんに怪我無く返すという事を言っていたので、そのためには強くするしかないので、厳しく怒っていました。 褒めてくれることはほとんどなかったです。  試合に勝った時には褒めるわけではないが、誰よりも喜んでニコニコしていました。  

2012年2月に広島で全日本選手権が行われて、ミドル級で優勝しました。  3か月後にオリンピック出場を目指した選手権に出場。 1回戦は勝利するが、予選突破はならずオリンピック出場を逃す。 呆然としてしまいました。 今迄の何年間がこの一瞬で終わったという事がなかなか受け止められませんでした。 梅津さんはいつも負けた時には俺の責任だというんです。 梅津さんは誰よりも悲しそうで落ち込んでいました。 

梅津さんから皮膚がんの一種メラノーマであることを聞きました。  切ったら大丈夫と言っていました。 二人でロンドンオリンピックを見に行きました。  自分たちが目指していた場所を確認したいと思いました。 中には勝てるのではないかというような選手もいました。 観ながら次を目指そうとは思っていました。 2013年4月にデビュー戦で敗れた台湾の選手とリベンジマッチをしました。(11か月ぶり)  その時には梅津さんは余命3か月の宣告を受けていました。  試合は観に来てくれました。  この試合には勝ちました。 4か月後には息を引き取りました。 入院中はたびたびお見舞いに行きましたが、ずっとボクシングの話でした。 しんどい状況でしたが、立ち上がってパンチの仕方などを指導してくれました。 

仕事で遅くなってしまって,行ったら「遅かったなあ。」言って待っていてくれました。 その後意識がもうろうとしてきました。 言葉で聞いたのは「遅かったなあ。」というのが最後でした。 「今迄ありがとうございました。」というと、本当のお別れみたいな感じで、言いたくなかったが、心臓が止まってしまっても、医師は耳だけは聞こえてると言ったので、「今迄ありがとうございました。」と伝えたら、梅津さんの目から涙が流れたんです。 伝わったんだなと思いました。(言葉に詰まりながら) 亡くなった翌日もずっとそこにいました。 葬儀では弔辞を読みました。


弔辞

「梅津さん大好きです。 もっともっとボクシングを教えてほしいです。・・・一生のうちでこんなにも深い絆で繋がれた出会いはもぅないと思います。・・・」 めちゃくちゃ泣いてしまいました。  現実を受けとめられない部分も当時ありました。

お墓参りに行って、結婚した事とか、仕事も頑張りますとか報告しています。 芸能人という目で見ないで、一ボクサーとして対応するとよく梅津さんから言われました。  その気持ちはずっと持とうと思っています。

梅津さんへの手紙

「梅津さんは定期的に私の前に現れます。 ・・・亡くなって11年が経った今でも、私にエールを送ってくれるんですね。 梅津さんのエネルギーは途轍もないから、今の私を支えてくれています。 ボクシングをやれたから、梅津さんと出会えたから、今の私があります。 梅津さんありがとう。 これからもよろしくお願いします。」



















2024年10月13日日曜日

山下由美(クレームコンサルタント)   ・クレーム対応は人生のダイヤモンド

 山下由美(クレームコンサルタント)   ・クレーム対応は人生のダイヤモンド

山下さんは昭和30年北海道生まれ。 高校卒業後北海道内の市役所に就職しました。 窓口で初めてクレームの対応をした時は、怖い思いをしたと言います。 そこで山下さんは相手いかける言葉を工夫したところ、不満を持って怒鳴る人が笑顔になるような体験をしました。   山下さんは50歳の時に市役所を退職、その後当時珍しかったクレームコンサルタントの仕事を始め、上京して企業や警察、医療機関などでクレーム対応に悩む人たちの指導を行ってきました。 山下さんは現在は宮崎県にお住まいで、出張やオンラインなどで指導を続けれています。 

今は公務員の方を中心にやりたいと思っていて、いろいろな市役所に呼んでいただいて、仕事をしています。 2年間公務員だけをやってみようと思って去年から始めました。  時代によってクレームの内容が違てきています。(不満の出し方が違う。)  15年前はもっと思いやりがありました。 企業のクレーム対応に比べて、市役所ではサービスするものがないという事です。 最近は一筋縄ではいかない無い人が増えました。 本人の思い道理に解決しないといけない。 ネット社会になって、正しいものもあれば間違っているものもあるので鵜呑みにしてくる人もいます。 カスタマーハラスメントとクレームの違いは、どこでカスタマーハラスメントとジャッジするかです。 線引きをしないといけない。 

18歳で市役所に就職して、最初一か月間インフォーメーションの部署に行きました。  或る時明らかに怒った顔で「てめー、税金で飯食っているくせに、何ボケっとしているんだ。」と怒鳴られました。 どう対応していいのかわからず、ずっと黙っていました。  25歳から心理学を勉強し始めました。  相手の心の中にあるストーリーを想像するという力です。 それが面白かったです。  クレームを言っている市民の方は、頭のなかにどんなストーリーがあるんだろう、どんな思いでここに来たんだろうと考えると、言っていることが 単にクレームに聞こえなくなる。 事柄がこの人にとってどういう事なんだろうと考える事が出来るようになりました。 こちらのかける言葉が違ってきました。 税金が高いと思って怒ってきている人に対しては「税金は高いですか。」と聞いてあげればいいんです。 その人の頭のなかはおかしいと思ってきているので、「おかしいですか。 調べていいですか。」と言って台帳を持ってくることができる。

一番最初の言葉が全てだと思っていて、何かを言った次の瞬間にこちらがかける言葉を兎に角気を付けていました。 どの一言をかけたらこの人は「そうだよ。」というかだけを考えていました。(話はほとんど聞いていなかったです。)  大切なのは内容ではなくて、相手の感情です。 相手に言葉をかけやすくなったのは35歳ぐらいからですね。(10年ぐらいは掛かった。) 笑って帰るようになりました。

両親と4つ下の知的障害の妹がいました。(兄がいたが19歳で亡くなりました。) 妹がいることで差別を受けたことが沢山ありました。  妹は知能的には3歳児ぐらいです。  新しい靴など履いて行っても汚い靴に取り換えられて帰ってきたりしました。 中学2年生の時にやっと親友が出来ました。 親友の妹が妹と一緒だったんです。 或る時に私に向かって「妹が知的障害だったという事を何でいわなかったのか。」と言われて、「妹が同じ学年にいる。 あんたみたいな人と付き合って、馬鹿が移ったらどうしてくれるのよ。」と言われてバシッと叩かれたことがりました。 その時、私の人生に問題なのかという事を始めて知りました。 妹のことに関して一番つらかったです。 父は障害者を別なところに囲って一生社会とは関わらないで幸せに暮らすことを望んでいました。 

私は障害があろうがなかろうが、社会の中で一緒に生きてゆく方が大事だと思いました。  理解されないのは分け隔てして守ろうとしているからだと思いました。 共に暮らしていけばあれが出来ないとか、こういう子なんだと判れば、人間として付き合っていけるんじゃないかと思いました。 一緒に暮らしてゆける社会を作りたいと思いました。 

30歳で結婚して40歳で子供が出来ました。 父がガンで余命いくばくも無い時でした。 まだお腹のなかにいる時に、父が「うつっていなければいいな。」と言いました。 差別を受けるような社会をなくすのが私の仕事だと思いました。  障害があるから受け入れられない、という事が無い学校を作りたかった。 そのためには公務員ではできないと思って止めちゃいました。  300坪の土地は買いました。 2007年にクレームコンサルタントとして独立しました。 東京に2012年に進出しました。 最初はクレームコンサルタントは私一人でした。  日本のクレーム対応はやり過ぎだと思います。 本当にこうしてほしいtピう事を先に言う事が大事です。 そうするとクレームを対応する人が凄く楽です。 

2015年から数年は母親の介護(認知症)で北海道に戻っていました。 在宅介護の大変さを思い知りました。 ストレスを解消すtるためには、笑う事を捜していました。 一番助けになったのは、立川志の輔さんの落語でした。 周りの力添えも沢山あり仕事も始めることが出来ました。  妹は就職もして幸せに暮らしています。 プレイバックシアターをやっていて、言葉にできていない感情を出さなくてはいけない。 相手の心の中にあるストーリーを想像するときに、とても役に立っています。

クレーム対応が好きになると人生が輝きます。  実践してくれて上手くいって、喜んでくれるとこっちも嬉しくなります。  クレームはダイヤモンドの原石だと思っています。  クレームそのものはダイアモンドではないかもしれないが、クレーム対応をして「ありがとう。」と言って帰っていったら、受けたあなたが磨かれる。  若くても歳をとっていても「助けて。」と言えることは凄く大事なことだと思います。 困った時には「助けて。」と人に言ってみてください。 きっと周りの人は助けてくれると私は信じています。