2026年3月28日土曜日

木内昇(作家)               ・私の人生手帖(ちょう)

 木内昇(作家)               ・私の人生手帖(ちょう)

江戸時代の後期新潟県の豪雪地帯の風物や暮らしを記した「北越雪譜」と言うベストセラーがありました。この本が世に出るまでの作者鈴木牧之の強い思いや、江戸の出版事情などを壮大に描いて、第52回の大佛次郎賞などを受賞した作家木内昇さんに伺いました。 木内昇さんは、1967年東京生まれ、出版社勤務を経て、2004年に作家デビュー、その後4作目にして直木賞を受賞しました。 去年の末から短期間に多くの文学賞を受賞して、改めて高い評価と注目が集まっています。  これまでの半生とともに、「北越雪譜」を軸にして、まるで息使いまで聞こえてくるようなリアルな小説世界がどのように紡ぎ出されたのか、併せて時代小説の基礎からの楽しみ方などを伺いました

浅田次郎さんが、私が「中央公論文芸賞」を取ったときに、木内さんと言う人は、険阻な道を行くだろうと、王道ではなくて、厳しいところをわざわざ登っていくじゃないかと言うことを書いてくださって、私はなんとなくこういう道を登っていくんだろうと予感していた時にだったので、そこに踏みとどまって頑張らなければいけないだろうと思いました。 物語自体もすんなりいかないし、取り上げる素材も決してみんなが好むようなものでもない、でもどうしても取り上げたいと思いました。 表現の仕方にしても、通りいっぺんなところをやらないのかなあと気がしていました。 それを言い当てられたような気がしました。

「雪夢往来」では40年の歳月を書いております。 鈴木牧之と言うのは、越後の商人で代々続くを切り盛りしながら、地域の民族学みたいなものを記録をずつ書き続けます。 出版したいと言う野望があって失敗しますが、頓挫するのが繰り返して、出版するまで40年かかったと言う歴史があって、その歴史を描いた作品です。

方言についてが難しくて、細かく直していく作業がを経て出版することを毎回繰り返しました。 本当に好きなものって時間をかけてもやりたかったり、最悪夢が叶わなくてもやりたいものっていうのはあると思います。 やりたいものとか夢とかは叶う叶わないと言うのは、そこは重要ではなくて、たとえ評価されなくても日の目を見なくても、大事に自分の中に持っていけるかと言うところが、その人の幸福か不幸かと言うところにつながっていくと思っていて、死ぬまで夢を持っていたら1番いいんじゃないかと思います。  

小説のなかに不思議な世界を取り入れていますが、当時の精神性と言うまででは無いんですが、どういう感情とか、どういう気持ちで生きていたかと言うことを考えると、どうしても取り入れざるを得ないと言うところで、自然に入ってきちゃう感じです。   自分の感情としてはそういうところはないです。 理論的に考えたいと思う方です。  江戸の文化と言うのは太平な時代が260年続いたし、識字率も高かったし、浮世絵なども普通に楽しんでるし、芝居も楽しんでます。  財産は残さないんだけれども、きえものにはお金を使うと言う文化には、お金を使うと言う文化が爛熟したのが、江戸時代だったのかなあと思います。 そういったことで江戸時代が見直されてるのかなあという感じがします。

なるべく体の動きとかで、その人の人柄とかを書きたいなぁとふうに思っていて、江戸時代とか昔の頃の方が、体にその人の特徴が出ます。武士は左に刀を差すので、武士の歩き方と町民の歩き方は違いますし、身体的特徴とか動き方を書くと言うのが楽しかったりします。 時代物の楽しみというのはそういうところにあります。

私は小さい頃は、野球が好きで、王選手に憧れていました。 つい動きと言うものに注目してしまいます。 動きをどうやって臨場感を持って書くかとか、職人の手で裁き1つにしても、情景がどれだけ浮かべられるか、そういうのを1番気にしながら書いています。  資料は結構集めます。 全国の古書店から取り入れることができるので、便利さはあります。  資料読む方が書くより時間がかかるかもしれません。 

もともと作家を目指した事はなかったです。 出版社でインタビューの仕事をやっていました。 「新選組幕末青嵐」というのを書きました。その後「茗荷谷の猫」を書きました。自分で書いていてもものすごく面白い作品でした。 書いてみませんかと言う話になったのが、2008年の終わり位です。 書いている事は楽しいです。 登場人物たちに自分の主義主張とか、自分の意見と言うものを代弁させないと言う事は大事にしています。(登場人物ではなく私になってしまうから) どういう風に思うのかなと言うのは、読書に委ねると言うのが小説ではないかと思います。 

歴史のある土地は好きです。 昔は地域の差によっていろいろ違っていて、食べ物とかも違っていたし、風習習慣も全然違っていたので、そういうのを調べるのがもともと好きです。  登場人物の土地はすごく歩きます。 作家としていつも挫折感を感じているように思います。 もうすぐ出る本ですが、女性で望東尼言う50代の後半で急に勤王に目覚めて、高杉晋作を最後に看取った人で、この女性を書きますが、年老いてからすごく花開いた人を書きますが、そういう人たちを書いていきたいと言うのと、江戸時代がすごく文化が開いた時期なので、もうちょっとそこを掘り下げたいなぁと言うふうに思っています。 母を弟を介護していて、今が一番つらい時期ですが、大変な時も出口になったりします。 書くと気持ちが整理されたりします。 何十年も続けているので、作家気分ではないと言いながらも書いていると言う事は、何か燃えるものがあるんだろうなと思います。




2026年3月27日金曜日

浅川保(山梨平和ミュージアム理事長)    ・山梨で戦争と平和を伝え続ける

浅川保(山梨平和ミュージアム理事長)    ・ 山梨で戦争と平和を伝え続ける

甲府市にある山梨平和ミュージアムは2007年5月に開館しました。 今年で29年になります。  2005年から5年ごと「戦争体験記」を募集し出版しています。    去年は「戦後生きて思うこと」と題し、5冊目の体験記を出版しました。 戦後80年戦争体験者が少なくなり、その体験を聞くことが難しくなってきて、どう次世代へつないでいくかが課題になっています。

2003年からこういう資料館を作ろうと言うことで取り組んできました。3800万円の給付が集まりました。  土地を買って建物を建てました。 ある方は1000万円を出しました。  年間で1500人位来ます。 1日約5人ぐらいです。 甲府空襲は1945年7月6日の夜中です。 約1127人の方々が亡くなりました。  常設展の1階は甲府空襲、甲府連隊、暮らしです。  2階が石橋湛山の生涯と思想ですが、その他に企画をやってます。 2階で講座もやってます。 あと年に1回著名な先生方を呼んで講演をしてます。 5年に1冊戦争体験記を発行しています。

昨年は戦後80年と言うことで5冊目の本を出しました。 今後は生の声が聞けなくなるので、今まで出した本とかビデオの映像活用したり、自分の父親、母親の戦争体験をどう受け継いでいくかと言う形の伝え方にならざるを得ないと思います。  石橋湛山の母校が山梨県の甲府第一高校です。 生れは東京ですが、父親の実家が山梨です。 たまたま私が甲府一高の山梨の教員になって赴任して調べたら、彼の書いた作文が7つ出てきました。 資料をまとめ上げて石橋さんのことを展示することになりました。

私は1945年に生まれました。 叔父が2人とも戦死しました。 明治以降の近代史の歴史のことを勉強しようと思って、東京大学は歴史学科に行きました。  その後高校の教員になって、生徒の身近な人の体験記を書いてもらって、それを元にして生徒がそこから戦争のことに入っていくと言うことが有効だと思いまして、退職するまでずっとやっていました。  戦争を伝える資料館の必要性を感じました。  大学時代は学生運動が盛んで授業はあんまりありませんでした。 

家永三郎先生(東京教育大学の先生)と言う先生がいて、家永教科書訴訟が始まったころで、 家永先生は、仏教史が専門の先生ですが、その先生が太平洋戦争の話をすると言うことで聞きに行きました。  自分は戦争反対をしないで、終戦を迎えてしまって、自分の友達教え子がなくなってしまったので、自分の戦後は戦争のことをしっかり調べて、それを若い人たちに伝えるのが私の責任だと言うふうにおっしゃいました。 それに大変感激しました。 その後山梨の高校の先生になりました。 3校目が甲府一高で私の人生を変えました。 

山梨平和ミュージアムには中心になってるのは理事が10名ほどいます。その他に協力員が30人ぐらいいます。 ほとんどが退職者でボランティアです。 他にサポーターの方々が300人ぐらいいます。  国際社会が日本をどう見てるかと言うことですが、国際連合事務次長に中満泉さんと言う女性の方がいます。 赤根智子さんと言う女性の裁判官の方が国際刑事裁判所の所長を務めてます。 ロシアがウクライナを侵攻したときに、プーチン大統領に国際刑事裁判所が逮捕状を出しました。   戦後の日本の憲法とか、国際協調の日本の外交とか認められたということです。日本国憲法とか戦後の日本の歴史から培われた国際協調の精神とかを世界にアピールするそういう事は大事だと思います。 

今年80歳で来年開館30周年になりますが、今後分担しながら若い人に引き継いでいきながら運営してやればいいかなと思ってます。 しっかりと日本の近代の勉強すると同時に、自分の祖父母から聞き取ったり、周りの人たちから聞いたりしたり、幅広い勉強をしてほしいなと思います。 プラスとマイナスの日本の歴史をしっかり学んでどういう風にしてプラスの方向に向けて発信していけるか、そういった繰り返しが世界の平和の方向に行くと思っています。 

甲府空襲は、甲府市にとって大変大きな出来事でした。 地域の資料をもとにしながらどうやって見てもらえるようにするのかとか、関心のあるものにするかと言うことを工夫しています。 甲府連隊を展示してますが、ほとんど知らない人が多いです。  それを正確に知ってもらうということが、うちの展示物の特徴の1つだと思います。 中国との戦争の発端は1931年の満州事変ですが、中国との戦争は14年間もやってます。アメリカとの戦争は4年です。 日本と中国の歴史、日本と中国の戦後の歩みについてはしっかり紹介していく必要があると思います。 去年は6回講演を行いました。依頼があればできるだけ行って講演したいと思います。  石橋湛山に関する学校への出張授業をやってみたいと思ってます。

2026年3月26日木曜日

濱崎加奈子(有斐斎弘道館館長)       ・「伝統に学ぶことは未来を創ること」

濱崎加奈子(有斐斎弘道館館長)  ・私のアート交遊録「伝統に学ぶことは未来を創ること」 

濱崎さんは京都大学文学部、さらに東京大学大学院で美術を専攻、その後京都の町の古民家の保存活動や平安時代の宴や行事の再興など、幅広く京都の歴史文化に関わる活動をしています。 中でも今1番力を入れているのが、今年12月6日に予定されている「寛永行幸400年祭行列」の再現イベントです。 今年2026年は寛永3年に行われた「寛永行幸」から400年。 この時代は、戦国の世を乗り越え、後の日本文化に大きな影響を与えた芸術文化が花開き、日本の文化の故郷と呼ばれる時代です。 歴史を知る事は未来を生きること、先人が残してきた有形無形の資産を、私たちは未来へとつないでゆく責務があると言う崎加奈子さんに、伝統文化の現状と未来への展望を聞きました。

高校生の時に京都に憧れを抱きました。 京都にいってなるほどなと思う事はたくさんあって、神戸にいたときの身の回りにはなかったような、美しい街並みだったりとか、人々の言葉遣い、着物などいろんなものに心をときめく瞬間が何度もありました。 京都大学で美術を学びました。 東京大学大学院でも美術を専攻しました。 歌舞伎にも惹かれました。 歌舞伎の演目の中の神輿にも興味を持ちました。実際に神輿も担ぎをした。

京都にいる時は、日本舞踊、三味線、常磐津節などを習う。 東京にしばらく住んだのち、また京都に移り住みました。 かつらを作る制作技術ですとか、京町屋が一日に2軒から3の割合でなくなっている現状を知りました。  何か自分でできる事はないかと思い至りました。  有斐斎弘道館は全国から3000人門弟が集まってると言う学問所です。  この建物が2009年に取り壊されると言うことを知って保存活動を進めました。 皆川淇園(みながわきえん)は詩文や書画にも優れた風流人で私塾として運営してました。 江戸時代の勉強は机の上で学ぶだけではなくて、歌ったり絵を描いたりそういう中から学んでたんじゃないかと思います。

そういった学び舎として復興、復活させると言うコンセプトでいます。     北野天満宮さんで、1000年以上前に行われていた曲水の宴を再興したり、猿楽を再興したり、過去にあったことを蘇らせてみると言うことをいろいろやっております。 伝統文化をプロデュースすると言う事は、自身で作った言葉ですけれども、消えていく物に対して何とか伝えていければいいと思ってます。 

つないでいくために実は会社を作りました。 「伝統文化プロデュース連」と言う名前ですが、収益を得る難しさを知りました。 国として文化財を活用しましょうと言うのは、当時の方針転換だったと思います。 文化財を生かすための政策がいろいろ湧き起こっていますが、国の方針転換は悪いことではないと思いますが、次のステップに入らないといけないんじゃないかと思っています。 

現在力を入れてるのは寛永行幸行列再現プロジェクトです。 後水尾天皇が二条城に行幸されて、ちょうど今年400年の節目を迎えます。 戦乱の時代がようやく終わって11年です。 家康が作った二条城を大幅に増改築します。 その1部が残されているのが国宝の二条城です。  寛永時代に様々な文化人がスターのように誕生しました。 全国から大名たちが9000人募って99000人の行列ができました。 30万人位の大名の家来たちが半年位滞在しました。 当時の京都の人口は20万人位と言われています。 地域に戻った大名たちが、京都の文化をまた伝えていたということになります。 俵屋宗達、本阿弥光悦、狩野 探幽、落語の祖と言われる安楽庵策伝、小堀遠州などが活躍。

この「寛永行幸」の行列を再現したいなぁと思いました。 300人の規模で考えました。行列に歩きたい人を募集中です。 できれば全国から募って行事をしたいなと思っています。 現時点で1300人です。 装束などの問題、協力していただける業者さんとかをあたっている最中です。 12月が予定になってます。 文化が社会の根底にある、今は経済の尺度で測りがちだと思うんですけれども、文化の面で言うと、それがお金になるんだろうとか、そうではないんじゃないかと思います。 

社会全体に浸透していた各階層を超えて、見事に結実した日本のような時代が、寛永時代だと思います。 政治、経済、商売人、技術者、アーティスト、宗教とかもみんなが一緒になって、この時代を作っていこうと言うことが本当に見て取れるようにわかります。今の時代に置き換えることによって、これからの時代をどういう風に私たちは歩んでいいのかと言う知恵を得られるんじゃないかなと思います。 文化がみんなのものになった時代ですから、とても参考にできるものがたくさんあると思います。 なので「寛永行幸」をもう一度再現しようと思ってます。 お勧めの1点は「二条城行幸図屏風」です。  この時代の中に没入していけるような、そういった時代の空気を読み取ることができるので、本当に素晴らしいと思います。

2026年3月25日水曜日

小川洋子(翻訳家)             ・「古代の植物誌を夢中で翻訳~いつの間にか50年~」

小川洋子(翻訳家)   ・「古代の植物誌を夢中で翻訳~いつの間にか50年~」 

今から2300年前紀元前のアリストテレスの時代の話です。 アリストテレスの同僚の植物学者のテオプラストスの事を御存知の方は多分あまり多くいらっしゃらないのではと思います。  実は植物学の祖と言われるリンネやテオプラストスは植物学の祖であると言っているそうで、古代の偉大な植物学者です。  紀元前の書物テオプラストスの「植物史」を自宅でコツコツ50年かけて翻訳されたのが、今回の小川洋子さんです。 その翻訳本は日本を翻訳協会特別賞を受賞しました。 なぜそんな古い本を翻訳しようと思ったのでしょうか? しかも50年もかけて翻訳したことをどのように思っているのでしょうか?

アリストテレスは生物学の祖と言われていますけれども、アリストテレスは動物のほうに熱心に取り組んで、テオプラストスのほうは植物に取り組んだと言われています。  「植物史」を読むほどに素晴らしい研究をしていると言うことで、だんだん引き込まれて勉強しながらやっていたら50年かかってしまいました。     当時見た植物を詳細に厳密に記録しています。 言葉で葉の特徴とかいろいろなことを文章で非常に丁寧に書き残しています。 それを読むと植物が同定出来る。

2300年前と言うと、アテネに地中海中から人が集まって学問をしていました。  アテネは文化都市でした。 テオプラストスは植物分類学の元を築いた人でもあったわけです。  植物の形態学などもしっかり書き込んでいます。 アリストテレスは動物の性については、生殖行動まで詳しく書いていますが、植物には性がないと言ってます。 テオプラストスは現代の受粉について述べているのと同等の説明をしています。  15世紀頃になって顕微鏡ができた後、雄しべ,雌しべの働きと言うのを発見した人がいました。 その後雄しべ,雌しべの役割は違っていて、それが新しい命になると言うことを説明するようになるまでの間、テオプラストスの時から1歩も進んでないわけです。 植物は自然発生的に出てくると言うな考え方でしたけれども、テオプラストスはすべての植物は種子から生えると言うことを言っています。

 私は学生のときには植物学ではなくて、経済学を勉強してました。 あることから、ギリシャ語を学ぶようになりまして、ギリシャ語の面白さを感じました。  ギリシャ史の勉強始めました。 ギリシャ古代の農業の勉強しようとしていましたが、テオプラストスと言う名前が注釈に頻繁に出てきます。 それでテオプラストスの本を読むようになりました。 それが「植物史」です。  テオプラストスに関する学会もできました。 英訳の本ができたのは1916年でした。 フランスの先生が公定翻訳本を出したのが1988年でした。

植物を説明するためには植物を理解してないとできませんので、植物園に行ったり海外まで見に行ったと言うこともあります。 有毒植物などを見に行くときには、薬品会社とか薬用植物園にいろいろ行きました。 日本では見られない植物の種とかギリシャとかイタリアなどに見に行きました。 海葱(かいそう)という6弁の白い花が咲く植物がありますが、その姿は日本では見られませんでした。 行ったらどこにでもあって驚きました。

植物は自分の好む環境のところで、育つと言うことを言いたいと言う意図があったんではないかとと思います。 科学的と言う姿勢が身に付いている人だなと言うのは大きな驚きでした。 中途半端にわかった事は断言しないでこれはまだ問題が残っていると言うことをちゃんと書いています。  今の科学者と姿勢としては全く変わらないと思います。

この本を通して植物と言うのはこんなに役に立っていると言うことを知る機会になるんじゃないかなぁと思います。 「匂いについて」と言う本がありまして、それを訳してみたいと思っています。  抽出したものをに薬用に使ったりしてまして、それをこれから勉強し始めています。 自分で見たこと、自分で本当に考えたということだけを書いているから古臭くないと思います。 自分で考えると言うことを学ぶと言う事は大事なことでないかなぁと思います。 時間をかけると言うことも大事なのではないかと思います。



2026年3月24日火曜日

萬田緑平(在宅緩和ケア医)         ・「2千人の“幸せな最期”を支えて思うこと」

萬田緑平(在宅緩和ケア医)    ・「2千人の“幸せな最期”を支えて思うこと」 

萬田緑平さんは61歳、群馬大学学部附属病院に所属する外科医として、17年間にわたり、がんの手術や抗がん剤治療を行う中で、がんの終末期に家に帰りたいと言っても見てくれる医師がいなかったことから、43歳の時に癌の終末期を自宅で暮らしたいと言う、患者さんを支える在宅医となりました。 2000人以上看取ってきた経験をもとに自分らしく生きるとは、どういうことかを綴った著書「棺桶まで歩こう」は、大きな反響を呼んでいます。

基本的には、僕の患者さんは亡くなるまで歩こうと言うのが目標で生きています。表現するのに棺桶まで歩こうと言う表現になりました。 歩けなくなってから辛いし苦しいですね。 やっていることの99%ができなくなってしまいますから。

群馬大学医学部附属病院で外科医を17年間していました。 当時、外科医は1番ハードだと言われていました。 亡くなろうとしていくときに、呼吸が弱くなって人工呼吸器に繋がれて、心臓が弱ってくると血圧を上げる薬を使って、心臓が止まると心臓マッサージをして、全員そういう風になくなっていきました。 外科医は亡くなるまでは、病院に泊まって看取ってきました。 

心臓マッサージをすることに疑問も抱くようになりました。 2年目からは、主治医としてからは自分の担当で亡くなっていく患者さんに心臓マッサージ、人工呼吸器は一切していないです。 がん告知もしました。 辛いなくなり方がかわいそうだと思っていました。 偉くなるよりも現場にいたいと言いう思いもありました。 外科医をやっているうちに、だんだん何歳まで外科をできるんだろうと言う風な思いに至りました。 

緩和ケアの世界に行こうと言うふうに思いました。 在宅医の小笠原先生が家に来ないかと言われました。(42歳) 50歳位にと言う思いではいたのですが、半年考えてやめてしまおうと思って、小笠原先生のもとに入りました。 在宅緩和ケアと名のっています。 緩和ケアと言うのは癌にまつわる痛みとか苦しみを和らげると言う治療です。 でもやってる事は病院に行きたくない人、治療したくない人、家で暮らしたい人を支える在宅ケアです。 訪問診療と外来診療の二本立てです。   午前中は外来、午後は訪問診療1日6人程度を見ます。 

人は1日1日確実に老化してって弱っていって亡くなる。 筋力とかは頑張れば維持できます。 体の元気よりも心の元気です。  体の状態が弱ってても幸せそうです。 そうすると周りも幸せになります。 心の状態を良くするとみんな生たいと言います。 もっと生きたい飲み食いできなくなって1週間ぐらいしか生きられないと言う人がいて、どうしたいって言ったら、酒が飲みたいと言います。 一般的には酒を飲ませないですね。 健康のために飲ませてあげようと言ったらわかったと言ったら飲ませました。 その日から水も飲まなかった人が日本酒を飲むようになって、だんだん元気なってきてトイレも行くようになって、3ヶ月ぐらい元気に生きてその後1週間ぐらい弱っていって亡くなりました。

体の状態はダメなんだから、心の状態では良くしてあげよう。 結果的にそっちの方が本人も頑張れるし、頑張りたいと言う長生きすると言う考え方です。    「ありがとう」と子供が言えることが、ハッピーエンドに近くなるので1番良い薬なんで何とかそれを投与しようと思って、そこに1番エネルギーを使います。    褒められると生きたいと言うことになって、生きるためには歩こうと言うことになります。  

50代の患者さんの女性がいましたが、抗がん剤の治療を辞めてから1年ぐらい通ってましたが、3人の息子がいました。 訪問診療するようになって同席してくれていまして、そこで「母ちゃんにありがとうと言ってあげよう。」と言いました。   生きてる間にありがとうと言おうねと言って、親孝行と言うのは産んでもらって育ててもらってありがとうございました、と言う言葉にすることが親孝行だと思うわけです。  3人の息子がありがとうと言った。 3日後に亡くなりました。天外孤独な人はありがとうの幸せさはあんまり感じられません。

昨年夏から12月まで診療所閉じて患者さんをゼロにして、世界一周旅行に女房と行ってきました。  オーロラを見に行きたかった。  5,6年の準備期間を設けきました。  高齢になればなるほど、いろんな楽しみが楽しめなくなる。      生前葬をしましたが楽しかったです。  死んでからではみんなの言葉を聞けなかったです。 やってみたい夢があって、緩和ケア世界一周旅行、治療ではなくて世界一周旅行にちゃえと言うものです。 死んでもいいような形にして連れて行ってしまうと言うのはやりたいなと思ってます。 病院に行ける元気なうちから、地元で自分の人生を支えてくれる医者を探しなさいと言って帰します。



2026年3月23日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言 「孤独」

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言 「孤独」

今回は、井伏鱒二色川武大、哲学者ニーチェの言葉などを取り上げて紹介してきます。

「あぁ、寒いほど一人ぼっちだ。」  井伏鱒二

僕(頭木)は、20歳で難病になって13年間病院にいたわけですけども、13年間の間にほとんど孤独になってました。 ベッドの上で、自分はどんどん知り合いが減っていて、親も亡くなって、本当に一人ぼっちの孤独な病人なってしまうかなぁと怖かったです。 そういう時に出会ったのが最初に紹介した言葉です。     「あぁ寒いほど一人ぼっちだ。」 井伏鱒二(山椒魚と言う短編小説の一節)

代表作に「ジョン万次郎漂流記」、「黒い雨」などがあります。「山椒魚」も有名な作品です。 山椒魚が岩屋の中で一人ぼっちで外で水すましやカエルが、自由に動き回っているのを見て、辛くなって目をつぶり、その暗闇の中で言うセリフです。

「僕は生まれながらに孤独のたちなんだが、決してその孤独を愛することはできないんだ。」 牧野信一 (「露路の友」と言う小説の1節)

牧野信一の代表作には、「父を売る子」、「ゼーロン」、「吊籠と月光」などがあります。 人と一緒に居たくないのに、1人だと寂しいと言うことになると困ります。 

「神は人間に孤独を与えた。しかも同時に、人間に孤独ではいられない性質をも与えた。」 佐藤春夫 (退屈読本と言うエッセイの一節)

佐藤春夫の代表作には、「田園の憂鬱」、「西班牙犬の家」などがあります。 佐藤春夫は群衆は地獄であると書いていて、でも同時に孤独はまさに煉獄であると書いてます。

「どこかで、ラジオの合唱だとか、子供の声だとかが聞こえると、不意に鼻孔の奥に嗚咽が溜まって、自分でびっくりしたことがあります。 孤独と言うものは結構いろんなものにすり替えて過ごしていて、普段はそれほど感じないですが、身体の奥にじんわり溜まってるんですね。」色川武大(「私の旧約聖書」と言う本の中の孤独と言う文章の中の一節)

広川武大の代表作には、「狂人日記」「百}などがあります。孤独と言うのは貯まるもんだと思います。

「孤独は山になく街にある。 1人の人間にあるのではなく、大勢の人間の間にあるのである。」 三木清(人生論ノートの一節)

孤独の分類っていうのは4つのタイプがあって、Aは人と一緒にいれば孤独を感じないで済むけれども、ひとりでいると寂しい。 Bは周りにたくさん人がいても、心が通じ合わない。 Cは人と人とはそもそも本当にわかりあえない。 表面的には付き合えても、本質的には孤独なんだというより深い孤独です。 Dは人と人とは本当にわかり合えないんだけれども、だからこそ少しでも理解し合おうとすると言うふうに考える。

「孤独は良いものです。 落ち着いて自分らしく生きることができて、やるべきことがはっきりしているなら。」ゲーテ (ゲーテの手紙の一節)

「君は自分だけが一人ぼっちだと思うかもしれないが、僕も一人ぼっちですよ。 一人ぼっちは崇高なものです。」夏目漱石 「野分」と言う小説の中の登場人物の言葉) 代表作には「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「三四郎」「心」などがあります。

哲学者のショーペンハウアーもこういうことを言ってます。

「孤独は、幸福と平静な気持ちとの源泉であるから、孤独に耐える修行をすることを若い頃の主要な研究題目の1つとすべきだろう。」 ショーペンハウアーは19世紀に活躍したドイツの哲学者。 代表作には、「意志と表象としての世界」「読書について」「自殺について」などがあります。

「孤独であるときに、その孤独の中に持ち込んだものは成長する。だから、内なる獣も成長する。だから、多くのものに孤独を進めてはならない。」ニーチェ   代表作に「善悪の彼岸」「道徳の系譜」等があります。内なる獣とは例えば憤りとか恨みとか。 社会全体を敵と思えてしまうことがある。

「人気のない住まいで暮らすのが、僕にはとても好ましい。 かといって、全く人気がないのも良くない。 住んでいた人たちの思い出が詰まっていて、しかもこれからの生活のために準備されている。 そんな住まいが良い。 ただし、住民が実際に現れてはいけない。」  カフカ 代表作に「変身」「審判」「城」などがあります。 

「孤独は僕の唯一の目標であり、僕は最も心惹かれるものであり、僕に可能性をもたらしてくれるものだ。 にもかかわらず、これほど愛しているものを、僕は恐れている。」  カフカ  孤独を愛しながら孤独を恐れている。ではどうしたらいいのかその答えが今回の答えです。 人気のないところで暮らしたいかといって全く人気がないのも良くない。 面白いですね。但し、住人が実際に現れてはいけない。

突き詰めるとすべての人が孤独なのかもしれないですね。 理解し合えないと言う事は一人一人が違っていると言うことで、それは悲しいことではありますけれども、一人一人が違うと言う事は尊いことでもあります。

人との関係が孤独であったとしても、自然を愛して深く見つめる人が孤独をあまり感じないで済むという面もあるかなと思います。

「地球の美しさと神秘を感じ取れる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれる事は決してないでしょう。」 レイチェル・カーソン






2026年3月22日日曜日

黒田尚嗣(日本遺産普及協会 監事)     ・「人生100年時代 ときめく旅しませんか」

黒田尚嗣(日本遺産普及協会 監事)     ・「人生100年時代 ときめく旅しませんか」

高齢者やシニア世代の皆さんに観光旅行とは、一味違う五感を研ぎすます旅の仕方、学びの旅の魅力などをお伝えします。黒田さんは、松尾芭蕉に憧れ、その旅に習い文化庁の認定する各地の日本遺産などで、様々なテーマ旅行を企画し、自らツアーガイドを務めています。

ペンネームは平成芭蕉。 私は松尾芭蕉が生まれた三重県伊賀市の隣町に生まれました。 母方の実家の裏手が、松尾家の菩提寺愛染院と直結していました。    俳句を詠んで有名になった方ですけれども、もともとは藤堂藩の若殿様に使えた、非常に人間味溢れる人であったと言う風な説明がありました。 主計良忠さんて言う方から俳句を教わったらしいのですが、その良忠さんから「人は阿呆に生きろ。」と教わったらしいです。  余裕を持って遊び心を持って生きるとおっしゃったらしいんです。

芭蕉さんの人生はまさしくその通りなんです。 ただ単に見聞すると言うよりは、知らない世界を見に行くと言うことです。  先人の足跡を研究すると言うところにも関心があるわけです。 先人がどのように感じたかと言うことを、自分自身で感じようとした人なんです。 そこに惹かれました。 人は感動すると言葉を失うわけです。 その瞬間を楽しむことです。旅行は目的地を目指して、ただ 帰って来るだけ、旅は過程を楽しみながら自分自身の感情をフル活用するんです。 旅の究極は五感を磨くことだと思っています。

「旅行+知恵が人生のときめき」 学問と言うものは3つある。 1つは文献とか本を読んで身に付ける「知識」。 先生、他の人から貴重な話を聞かせてもらう、これが「教養」。 行動を起こして体験して学ぶことが「知恵」。  ほとんどの人は知識と教養で終わってしまう。 「聞恵」 まずその土地に行ったら人の話を聞くこと。  聞いた話を知識と教養で噛み締める、それが「思恵」。  聞いて考えて、自分でもう一度行動を起こすそれが「修恵」といいます。 そのためにはあらかじめ知識と教養が必要です。

人は好奇心を持ち続けるべきだと思っています。 人にフォーカスすることが面白いです。 究極のテーマは人なんです。 昔は街道に名前がついていて、目的地の何々街道と言うふうにつけていました。 どんな人が歩いてどんな文化を運んだのか考えるわけです。 縄文文化に惹かれて、それをテーマにした企画を考えて、実際に提供しています。 山の中で育ったので、子供の頃は縄文人のような生活をしていました。 縄文人は、扇状地に住んでいて、水はちゃんと流れ風も流れます。  滞ると病気になり、人にとって大事です。 縄文人は土器を発明して、食のレパートリーが増えました。 

縄文人は朝起きたら何をするんだろうとか、そういったことを考えていると生きるコツはここだと考えたわけです。 人が楽しく生きるためには、限りなく縄文人の生活から学んだほうがいいんじゃないかと感じました。 それをお客さんに提案したくなりました。 最初僕は縄文の講義から始めます。(講座付き) 自分に近い歴史上の人物をまずは探します。 その人がどんなことをやったのかと言うことをテーマにすると1番良いと思います。 旅に人物を絡ませるといいと思います。   一人旅をすると、本来の自分はこんなものかなと気づくわけです。 究極は生まれ変わりの旅です。

アナログ旅は基本的には地図を徹底的に研究していただくのが原点だと思います。  昔の地図で興味ある地名を探して、その地名を結びつけていくわけです。    アナログ旅は自分で歩いて線とか面を作っていくものです。 歴史の道調査報告書というものがあります。 その街道にどんな歴史があるかとか、その当時の地図が載ってます。 アナログの旅は歩くことです。 消えている地名がどうなってるかと言うのを探すのが究極のアナログの旅です。 地元の人は、いまだに昔の地名を名乗っています。 

日本遺産は現時点で104あります。 テーマはいろいろありますが、基本は信仰なんです。 日本遺産には必ず神社仏閣が入ってます。 鎌倉から室町時代に、たくさんの神社仏閣が建てられました。 春の旅としては、花とお寺などの組み合わせが良いと思います。 健康は自然光を浴びて森林浴で新鮮な酸素を吸収して、夜はやはり温泉です。 高齢者の旅は無理な計画を立てないと言うことです。