2026年2月10日火曜日

長南宰司(元海上保安庁特殊救難隊隊員)   ・「海難救助“最後の砦”~海上保安庁特殊救難隊にかけた人生」

 長南宰司(元海上保安庁特殊救難隊隊員)   ・「海難救助“最後の砦”~海上保安庁特殊救難隊にかけた人生」

海上保安庁特殊救難隊、海難事故が発生すると現場に向かい、時には命がけで救助を行うエキスパート集団です。 「海猿」と言うタイトルで漫画やテレビドラマ、映画のモデルにもなりました。 結成から数々の困難な海難事故で、救助活動を行って来た初代隊員長南宰司さんに、半世紀に及ぶ特殊救難隊の歩みと長南さんの波乱万丈の人生を伺います。

今では年齢70歳を越えて俊敏さは少しなくなってきていますが、身長180cmの大柄で背筋もしっかり伸びていて、色黒の鋭いまなざしは変わっていない印象です。

海上保安庁特殊救難隊は通称「特救隊」とも呼ばれています。  現在隊員は41人、およそ1万5000人いる全国の海上保安官のうち、僅か0,3%という極めて狭き門です。   日々厳しい訓練を行い、卓越した身体能力と潜水技術に加えて、高い精神力と判断力を兼ね備えています。 活動エリアは全国の海です。  活動拠点である東京羽田の特殊救難基地から全国に緊急派遣されて、船が沈没した海に潜ったり、ヘリコプターから難破船に降下したりして、人命救助に当たります。  活動する現場は荒れ狂う海や沈没船の船内など、普通なら近づくことも難しい非常に厳しい環境ばかりです。  危険と隣り合わせながら50年間で殉職者がゼロという驚きの記録もあります。

殉職者がゼロというのは、訓練の賜物と思っています。  訓練も厳しく、素潜りでもブラックアウト(気絶するまで)になるまでやっています。 自分の限界を知るという事です。    1975年に発足、そのきっかけは 前年に東京湾で起きた大型ケミカルタンカー「第十雄洋丸」と貨物船「パシフィック・アレス号」の衝突炎上事故です。 (第十雄洋丸事件) 33人が死亡する大災害でしたが、炎上しながら漂流するタンカーを前に当時の海上保安庁はなすすべがなく、最後は自衛隊の砲撃と爆撃で海に沈めるしかありませんでした。 

私も対応に当たっていました。 「第十雄洋丸」は燃え盛っていて、凄い熱さを感じました。  300m離れても熱さを感じました。  貨物船「パシフィック・アレス号」は衝突した時にナフサを被って、全体が一瞬にして燃えました。  一人だけがコントロールルームの中にいて助かった。 その人以外は焼死です。  どんな手段で助けられるのだろうかと考えました。これをきっかけに特殊救難隊が発足しました。  最初に潜水技術に優れた5人が選ばれました。(事故を体験したのは私だけでした。)   隊長は北岡洋志さんでした。 潜水の教官でした。 「愛を持って仕事をしろ。」と言っていました。

最初は建物の壁、屋上を利用して訓練をしました。  ヘリコプターで行って、海岸に降下するやり方は、特殊救難隊が初めて実現させた手法です。  転覆して逆様になった船に生存している人の救助。(一昨年の11月神戸港沖合での転覆事故の生存者の救出の活動の様子 成功例)  成功した時の喜びはあります。  他の国では転覆するとその時点で諦めて、そういった救助隊は無いです。  北岡さんの「愛」が神戸港沖合での転覆事故での隊長にも引き継がれています。 

伊豆半島の石廊崎沖の漁船の転覆事故、乗組員がゴムボートで脱出、漂流する。 ヘリコプターで救助せよとの連絡が入る。  救助対象は4人で、ヘリコプターの乗せる定員は3人でした。  夕暮れで時間もないなか、決断をしたのは、私がゴムボートに残ることを決断しました。  シュノーケル、フィン、ウエットスーツ等泳げる道具は持参しました。  断崖絶壁に向かう様であれば脱出しようと思っていました。  長距離水泳訓練とか、滝つぼの中に漁網を設置してその中から脱出する訓練とか夜間での訓練とか過酷な条件下で訓練をしています。実際にゴムボートに向かって行ったら3人でした。  一人の人が「助かった。」と泣きついてきました。 (感動しました。)  

私は宮城県塩釜市の寒風沢島の出身で、子供のころは海が遊び場でした。 遊んでいて、大人の人たちに何度も助けてもらいました。  転覆船が沈むとか沈みそうにないという事を直感的に判ります。(子供の頃の経験)  

40年間の保安官の最後の任務地が故郷の宮城県の巡視船「蔵王」の船長でした。  退職を間近に控えて3月11日の東日本大震災が起きました。  いかりを入れてあったので「蔵王」は助かりました。  いかりを入れていなかった船は津波で流されたり座礁したりしました。 「蔵王」に乗り込み捜索をするんですが、悲惨な光景ですが、登って来る全く変わらず太陽は綺麗に輝いているんです。  遺体の捜索が毎日続きました。 「遺体を見つけて、そのご遺族の心も救うんだ。」と、隊員に言いました。  「判りました。」と言って出てゆきました。

当時の隊員は私の退官後も遺体の捜索を続け、心が折れそうになった時に、言葉を思い起こしたそうです。  幹部になった人もいて、その言葉を後輩に伝えているそうです。 

特殊救難隊の創設から半世紀が経ち、第三管区保安本部赤松本部長からのメッセージ、特殊救難隊を指揮する羽田特殊救難隊基地の岡基地長からのメッセージがあります。

「救える命は必ず救う。  どのような状況であっても我々は最後まであきらめないことを誓い、皆さま方からの激励と特殊救難隊の使命と誇りを胸に国民の期待に応えられるよう、これからも前進してまいります。」

「出動記録」 教訓のような資料になっている。 成功例よりも失敗例への向き合い方。

「夢と感動と情熱」という事を隊員には言ってきました。










2026年2月8日日曜日

村上佳菜子(プロフィギュアスケーター)   ・師匠「山田満知子を語る」

村上佳菜子(プロフィギュアスケーター)   ・師匠「山田満知子を語る」 

グランプリファイナルや四大陸選手権、オリンピックでの華麗な演技で多くのファンを魅了した村上さんは数多くの名選手を育てた山田満知子コーチの教え子です。  どんな師弟関係だったんでしょうか。 

2017年4月に引退。 

山田満知子さんは1943年名古屋市生まれ。 父の勧めでスケートを始めたのは小学1年生(7歳)の時、めきめきと頭角を表し、全日本女子ジュニア、インタハイで優勝を重ねます。  地元の金城学院大学家政学部進学後、現役を退きますが愛知県スケート連盟の要請で、コーチとしてリンクに復活、子供たちを指導しました。 世界ではじめてトリプルアクセルに成功した伊藤みどりさんと出会ったのは1974年、当時まだ5歳だった伊藤みどりさんの才能を見抜いた山田コーチは、伊藤みどりさんを自宅に引き取り、二人三脚で練習を重ねた結果、1992年のアルベールビルオリンピックで伊藤選手は銀メダルを獲得、名コーチの山田満知子さんの名前も世界で知られるようになりました。 その後も中野友加里さん、浅田真央さん、宇野昌磨さん、村上佳菜子さんと名だたるスケーターを世に送り出した山田コーチ、およそ65年に及ぶ指導歴で教え子が数百人にのぼります。

私は3歳からスケートを習い始めて、山田コーチから教わったのは自分でも記憶がないです。山田門下生は母親と一緒に育てて行ったと言って過言ではないと思います。  山田コーチはその人を見極めて指導の仕方がそれぞれ違っていました。  リンク以外でも、人としてどうあるべきかと言ったことを教えてもらいました。  先生の家に行くという事はかなり頻繁にありました。 旅行にも一緒にいくこともありました。 ジュニア時代は先生の家から練習に行くことも多かったです。

小学校6年生の頃には3回転アクセルを習得、13歳で競技に本格参戦、2009年15歳の時にジュニアグランプリファイナルで優勝、シニアに転向した2010年から2011年でグランプリシリーズのアメリカ杯で優勝し、グランプリファイナルでは銅メダルを獲得しました。  試合直前に自信が無くて不安だったんですが、「なんで不安なの。 私は自信があるよ。」と言ってくれたんです。  先生が自信があるなら大丈夫だと思って、緊張と不安が飛んでいき、凄くいい演技が出来ました。  

2013年全日本選手権で2位、2014年の年四大陸選手権では金メダル、ソチでオリンピック初出場、12位だった。  オリンピックでは1日30分程度の練習時間しかなくて、1日6時間練習するタイプだったので、身体がうまく作っていけなかった。 でもいい経験でした。  もうそろそろ引退したほうがいいかもしれないと言われましたが、まだやれそうな気がしたので先生に頭を下げて続けることにしました。

シニアでは音楽の選び方は、アメリカにも行っていたので、アメリカの先生が何曲か出してくれたなかから、満知子先生と一緒に選びました。  ソチオリンピックの時には、曲選びは悩みました。  1年間選んだ曲で練習するので大事な事です。  ソチオリンピックの前の全日本選手権で2週間前にショートプログラムの曲を合わなくて変え、振り付けも変えて、2週間で3か月分練習するぐらい練習して、オリンピック参加を勝ち取ることが出来ました。

2018年のピョンチャン(平昌)オリンピックへ出場するモチベ―ションはなかったです。2017年4月に引退発表しました。  第85回全日本フィギュアスケート選手権において8位となって、「スケート人生の全てを出せました」として引退を示唆。 引退の時には先生は「よく頑張った。」と言ってくれました。

今迄生演奏を聞いててこなかったので、なんで聞いてこなかったんだろうと思うぐらい、後悔しました。  音楽会が始まってスケートのファンの方も来てくれます。 相乗効果でクラシック界とフィギュアスケート界が盛り上がって行ってくれればいいと思います。 先生からは「愛されるスケーターになりなさい。」と言われたことが今も心にしまっています。

山田満知子先生への手紙

「・・・本当にたっぷり愛を与えてくれてありがとうございます。 ・・・先生の愛を当たり前のようにとらえていたのかもしれません。・・・少しづつ大人になって時の経過によって、心も体も変化して行く中でどの瞬間を切り取って思い返しても、私のすべてに先生がいてくれています。 ・・・一緒にいてくれたから沢山のことを乗り越えられたと思います。 そんな先生がいてくれたから今の私があると思います。・・・本当に感謝しています、先生。・・・」










2026年2月6日金曜日

岩室純子(DJ)              ・「91歳 DJスミロックの挑戦」

岩室純子(DJ)              ・「91歳 DJスミロックの挑戦」

岩室さんは1935年東京都生まれ。(91歳)  5年前に脳出血を乗り越えて、今なお現役で活躍しています。 DJはラジオなどで音楽を選曲操作する人のことを指しますが、岩室さんは若者が集う音楽イベントで、クラブDJとして活躍しています。  2つの曲を同時に聞き分けて、曲の切れ目がわからないよう専用の機器を使って、早さやリズムを調整して音楽を繋げるスペシャリストです。 DJとしての活動名は「スミロック」、本名純子さんのスミと岩室の岩(ロック)をかけて「スミロック」と名付けています。 77歳から始めたDJ活動の経緯とはどんなことだったのでしょうか。 国際豊かな友人関係、大病を乗り越えた現在の夢などを伺いました。 

食事などで一番若い友達は私の年齢の1/4ぐらいです。 ファンの方です。 最初はイベントの手伝いをしていました。  手伝いもなくなり、イベントを観るようになり、新しい音楽を聴く様になりました。  或る日居候だったアドリアンさん(フランス人 21歳)からDJをやってみないかと誘われました。(60何歳)  フランス人の人とは英語でやり取りしています。  DJの学校に入ることになりました。(77歳)  同時に2曲を聞き分けて、違和感なくつなげることはハードルが高そうですが、 いろいろ簡単になってきているのがあります。  自宅に機械があります。  

DJの面白さは私がかけた曲で踊って頂けることです。  戦争中に蓄音機に座布団をかけて音が漏れないようにしてジャズを聴いて居たりしました。(父と二人で)  父はジャズドラマーでした。  戦争が終わってプロダクションをやっていました。  子供のころはおとなしくていう事を聞くいい子でした。 弟が2人いるので面倒を見ました。  父が1954年に高田馬場で飲食店を始めたことで、働くことになりました。  英語を習ったり他にもいろいろ習ったりして好奇心はありました。  外国の友達もできました。  飲食店の方を66年6か月やりました  DJは終わってからやって来ました。  DJの出番も2時とか、2時半とかで、ラジオ深夜便では店でうろうろしています。  

結婚はしたくなかったが、付き合っている人と後に結婚することになりました。 子供がいなかったので自由に出来ました。 ノリのいい踊りたくなるような曲を主に選曲します。 2021年に病気になって1か月半入院しました。 脳溢血が見つかってすぐ入院して治療して(点滴)、写真では大きな血の塊もありましたが、手足も大丈夫だし脳の働きも弱っていないので、1か月半リハビリして退院出来ました。 (買い物に行って小銭を掴むのにちょっとおかしいので、病院に行きました。)

いくら考えてもなる様にしかならない。  DJの復帰をしました。  病気後、週に2回程度ジャズ喫茶で音楽を聴くのが、私の脳味噌を綺麗にしてくれて良かったです。  オファーが有ったらそつなくやりたいです。  






 

2026年2月5日木曜日

大野裕(国立精神神経医療研究センター顧問) ・「悩みとうまくつき合うヒントとは」

大野裕(精神科医・国立精神神経医療研究センター顧問) ・「悩みとうまくつき合うヒントとは」 

大野さんは1950年生まれ。(76歳) 慶応大学教授、国立精神・神経医療研究センター認知行動療法センター所長などを務め、専門の認知行動についての研究と臨床を続けて、長年取り組んできました。 大野さんはこれまで一貫して、人の心と真摯に向き合い続けてきた精神科医です。 そうした歩みの中で、人間にとって悩むことはとても大切な事、実は私自身もずっと悩み続けてきましたと語っています。  今日は大野さんの半生をたどりながら、悩みとどう向き合えばよいのか、そのヒントを伺います。

或る程度悩みと言うのはブレーキだと思います。 悩んでちょっとブレーキをかけて、周りを見ながら進んで行くというのが必要です。  ブレーキをかけすぎると進めなくなってしまうし、ブレーキを掛けないと突き進んでしまう。  「病気」と言う言葉を使う事が良くないと思います。  うつ病に原因がはっきりしているかと言うとわかってはいない。  生まれてからずーっとその人の人生を追跡してゆくという研究がようやく最近発表されました。 1970年代にニュージーランドのダミーデンで1000人余りの人をずーっと追跡していきました。 45歳までに86%の人が精神疾患と言う状態になった。  20歳ぐらいまでの若い人が多い。 医療機関に行った人はそんなに多くなかった。  

認知行動療法、悩みを解決するように手助けする事です。  悩みを解決するのは自分です。 ぬかるみから抜け出すためにどんな手立てがあるのかと考えれば、抜け出せる手立てが見えてくる。  やれば先に進める。  落ち込むという事は何か大事なものをなくしたとか、失敗したという時に落ち込むわけです。  これはちょっと立ち止まれと言うメッセージです。 さあどうしようかなという考える時間が必要なんです。  ネガティブは次の行動に繋がるきっかけになってくるわけです。 

私は愛媛県の山奥の出身です。 学校に行くのに、松山に出て下宿生活を始めました。  夜になると真っ暗になり涙が出て来て、なんでこういう辛いことをさせるのかと、親にも酷いことを言いました。 勉強もできなくなり、勉強しようとしなくなり、本当に勉強が出来なくりました。(中学)  高校1年の時に落第しました。  二度目なので少し授業がわかるんです。(意外と馬鹿ではないかもしれないと思う。)  そうすると勉強するようになってくる。   親がやる気があるのかといってきた時に、「有る。」と言ったんです、そうしたら親が何も言わなくなってきました。 (それまでは何で勉強しないのかとうるさかった。)  

優しくするとか、支えるという事は、手を出すという事もあるが、遠くから見守る優しさとかいろいろなものがあるんだなと思います。  父親は歯医者をしていて、不器用だったので医者になろうと思いました。  いろいろな大学を受けましたが、全部落ち続けました。 親は何も言わないので自分でやるしかない。  浪人して、予備校に行って仕送りがなくなったら2,3日食べなかったこともあります。  4回目の挑戦で慶應義塾大学医学部に入りました。 

小学校から高等学校までいろいろな人とのつながりの中で生きてきました。  その間周りから助けてもらいました。  人の気持ちを助けることも、人が出来る事なんだと、それが精神医学なんだという事を感じていました。 卒業後5,6年経った時に、コーネル大学の人たちが来て、来ないかと言う話があり行くことにしました。 しかし、言葉が判らない。 いろいろ交流の仕方があるんだという事は学びました。  アーロン・ベックと言う認知行動療法を作った人で、その先生からも学びました。  学会でしゃべっても人気が無く出て行ってしまう人もいて、帰ってから娘の前でも同じようにしゃべって、娘から「お父さん、いい発表ね。」と言われていて、アーロン・ベックさんからはその話を何回も聞かされました。 (繋がり)

アレン・フランシス先生からは、その人に合った治療をした方がいいという事を学びました。精神科鑑別治療学、治療があってその人がいるのではなくて、その人に合わせて治療を考えてゆくという事です。  その為にいろんな治療法を勉強しろという事が、私が習った事です。  非常に臨床的なことを学びました。  受け止める優しさ、自分でやれと言う優しさと、これが必要なんだと思います。  会話で大事なことは共感をして、一緒に現実をみて、それを自分が自分で出来なくさせている、一人の自分がもう一人の自分にどんな声掛けをしているにかと言う事を考える、これを自動思考と言われる認知行動療法の肝心なところで、自分に対する声掛けが極端になってしまうと、辛くなってくる。 

悩みに気付いてデジタルの力を借りながら整理してゆく。  疲れている時には自分の力だけでは難しいので、それをサポートするような仕組みがひとつだと思います。 相槌だけ打ってくれるフローを作って見ました。  東京都のホームページのものを解析してみると、4割近くの人が相槌を使っています。  寄り添って、聞いてもらえることが大事なんです。      自動的に出来る部分と人が介在する部分との組み合わせが上手くできればいいなあと思います。  死にたいと思って考えた人は1~2割はいます。  相談相手がいないというような時に、「宛名のない手紙」と言うものを作りました。  好きなものを好きなように投稿する。  辛い、死にたいという事を投稿する。  投稿することで居場所が出来たという感覚を持つ方が結構います。  そういったことでころで孤立を防げればいいんじゃないかと思います。

一方的に吐き出しているというよりは、書いている人の心の中に、これを読んで欲しいという気持ちがあると思います。  そこに双方向の背景があるのではないかと思います。 私は繋がりに支えられて頑張ってきました。  「遠回りだって僕の道」と書いてあったのを眼にしまた。  写真に撮ってスライドにして使っています。











2026年2月3日火曜日

渡辺俊幸(作曲家・音楽プロデューサー)   ・「新たな音楽の道、オペラに託して」

渡辺俊幸(作曲家・音楽プロデューサー)   ・「新たな音楽の道、オペラに託して」

 渡辺俊幸さん(70歳)は大河ドラマ「利家とまつ」「毛利元就」など多くのドラマ音楽や映画音楽、アニメ音楽などを手掛けてこられましたが、4年前からオペラの作曲に挑戦し始めました。その3回目となるオペラの公演が来月に控えています。  学生の頃にバンドのドラム、キーボード担当してデビューした渡辺さんが、作曲の道に入り今新たな音楽への探求として、オペラに挑戦しようと思ったのは何故か、シンガーソングライターのさだまさしさんとの出会い、そして作曲家である父渡辺宙明さんとの関係などについて伺いました。

今回のオペラは三浦環さんを題材にした作品です。  三浦さんは明治17年生まれで、ヨーロッパ、アメリカ、日本を含めて延べ2000回以上ジャコモ・プッチーニの作曲した「蝶々夫人」の主役を務めて、偉大なる歌手、偉大なるオペラシンガーです。 明治時代に世界で活躍できた超天才だったんだろうなあと思います。  東京音楽大学で助教授迄なって、その後にヨーロッパに渡って、プリマドンナとして活躍した人です。 

渡邊さんは大学に入学と同時にフォークグループ「赤い鳥」のドラマー、キーボード担当としてプロ活動を開始します。 その後さだまさしさんの「グレープ」をサポートしつつ、ソロになったさだまさしさんの専属音楽プロデューサー、編曲家を務めてきました。 1979年にはアメリカに留学し、バークリー音楽大学でクラシック、ジャズの最新の作曲、編曲技法を学びます。 帰国してから様々な音楽の作曲を手掛けるようになります。 

小学校4年生ぐらいからドラマーになりたくてドラムの練習を始めました。  高校生ぐらいから作品の編曲にも興味が出て来ました。  「赤い鳥」に入った時に活動しながら、キーボードを弾きながら編曲したほうが自分にふさわしいのではないかと考えが変わって来ました。演奏の部分は転換していきました。  自分のやりたい音楽はハードなロックよりもおしゃれなハーモニーを使ったポップスをやりたいと言う指向になっていきました。 自然にドラムには興味を持たなくなった。 

「赤い鳥」が解散して、サポートミュージシャンをやろうと思って、バンドを作ってサポートをしていました。 「グレープ」の解散コンサートでご一緒することになりました。 さだまさしさんから解散後に一緒にやらないかと声がかかりました。  彼の才能を考えると、絶対に一人でやった方がいいと薦めました。  ツアーなど4年間彼と一緒にやって来ました。   彼のトークは本当に人を喜ばせたいという思いから来ているんですね。 人を幸せにするという事は何よりも音楽の大切さなんだという事を私自身も考えて生きてきて、実践しているつもりです。 

アメリカで「未知との遭遇」と言う映画を見て、音楽担当のジョン・ウイリアムスに魅了されて、管弦楽のスタイルの音楽を書けるようになりたいと思いました。  これをやるのには独学では難しいと思って、アメリカ留学を決意しました。(24歳) さだまさしさんとの出会いがあって今があると思っています。 バークリー音楽大学に留学しました。

そこにはボストン交響楽団があり、その時の音楽担当が小澤征爾さんでした。  ホテルに着いた日にテレビをつけたら小澤征爾さんが指揮をしていて、イブニングシンフォニーと言う番組でした。 翌日デパートに行ったらある女性が、見知らぬ僕にイブニングシンフォニーを見たかと問い合わせて来て、「昨日の小澤征爾は素晴らしかったですね。」と言うんです。   小澤征爾さんはこちらでも愛されている人なんだと、驚かされました。  クラシック音楽を聴いてみようという思いになりました。 その後小澤征爾さんの指揮によるボストン交響楽団の演奏を生で聞くという体験し、凄く感動をしました。  3年間、ジャズを含めてクラシック、映画のための作曲技法も勉強しました。   

日本に戻って来て、1983年にロボットアニメ「銀河漂流バイファム」をやりました。   初めての体験なので、父に相談しました。  (2022年に92歳で亡くなる。)      父の仕事の内容には余り以前は興味を持っていませんでした。  父のやっていた劇中伴奏音楽をいざやってみると難しいので相談しました。  2018年に公開された劇場版「マジンガーZ / INFINITY」 父が作曲したものを私が編曲しました。  スピード感あふれるものにしたいと思いました。 

*「マジンガーz」 作曲:渡辺宙明

*「マジンガーZ / INFINITY」」  作曲:渡辺宙明 編曲:渡辺俊幸

子供向けの映画の音楽を父が最初に手がけた時には、なんだ子供向けかと思ったそうですが、心血注いで作って偉大さを感じます。  父がやってきた音楽人生は素晴らしかったし、私とは全く違った音楽の世界観でしたが、人の心を打つ作品はどういったものか、考えてきちっと実を結ばせたと思います。 

オペラの作品を書き上げるのには、物凄く重労働で、時間が掛かります。 台本のセリフ全部にメロディーをつけなければいけない。  セリフがおかしくない様なイントネーションになりながら旋律を考えないといけない。  劇中伴奏音楽は監督の要求あって、それに答えようとするものですが、オペラは作曲家のもので、自由に作曲できる。  それが大きい魅力です。











2026年2月2日月曜日

鈴木俊貴(東京大学・動物言語学分野 准教授)・「動物たちも“言語”を使い話す!」

 鈴木俊貴(東京大学先端科学技術研究センター・動物言語学分野 准教授)・「動物たちも“言語”を使い話す!」

鈴木俊貴さん(42歳)は日本における動物言語学のパイオニアです。 高校生の時に野鳥の観察にはまって、大学時代に軽井沢の探鳥林でコガラが、ある特定な鳴き声で餌のあるところに集まっている姿と出会いました。 その後東大大学院に進み、林に巣箱を設置して行動と鳴き声を分析、シジュウカラの鳥もいくつか突き止めました。  さらに鈴木さんはシジュウカラが言葉を繋げて、いわば文章を伝えることも発見、鈴木さんはスウェーデンで開かれた国際行動生態学会で基調講演を行い世界から高い評価を得ました。  鈴木さんは研究の裏話をまとめた「僕には鳥の言葉がわかる」と題した本を執筆、全国の書店員が選ぶ2025年ノンフィクション大賞に選ばれました。  そして今、多くの動物たちが言語を持つ可能性を研究する動言語学を提唱しています。 鈴木さんに鳥の言葉発見の課程と、様々な工夫、そして動物言語学への夢などの話を伺いました。

「僕には鳥の言葉がわかる」の本の最初に企画を頂いたのは2018年5月でした。  実際に書き始めたのは2024年春でした。  2025年1月に出版しました。  小さいころから生き物の観察が大好きでした。  1歳5か月で公園で虫取りをしている写真がありました。  生まれは東京ですが、茨木に引っ越して自然豊かなところで育ったのが、僕にとって大きな経験になりました。  コガネグモ(大型の蜘蛛)の巣にカブトムシが引っかかって食べられてしまったことを観察しました。 図鑑にはカブトムシは森の王者と書いてあったが、喰われていて、図鑑に書き加えたらいいと母から言われました。 以後気付いたことを図鑑に書き込むようになりました。  

鳥の観察をしたくて、小遣いをコツコツ貯めてようやく双眼鏡を買えたのが高校生のころでした。  バードウオッチングにどんどんはまっていきました。  小学生の時には動物学者になりたいと思っていましたが、高校生3年になると大学に行って鳥の研究をやりたいと思いました。  長谷川博先生はアホウドリを絶滅の危機から救った人です。 その先生に憧れて東邦大学理学部生物学科入学しました。  大学3年生時の卒業論文のテーマを探しに軽井沢を訪れ、シジュウカラに出会いました。  どこにでもいる鳥ですが、鳴き声などは誰も研究してこなかった。  

シジュウカラの縄張りを主張する声(春)、餌を見つけた声(周りからシジュウカラが集まって来る)、警戒しろと言う声。 観察すると言葉になっているのではないかと思いました。  シジュウカラ、コガラの種を越えて会話しているのではないかと、観察してそう思いました。  それまでの研究者は人間だけが言葉を持っていると信じて来た。 動物行動学を立ち上げたコンラート・ローレンス『ソロモンの指環 動物行動学入門』の本のなかで、「鳥の鳴き声は遺伝的にプログラムされた感情を表す発声に過ぎない。」と書いている。

シジュウカラが敵を見つけた時に、鷹と蛇では鳴き声が違う。  周りのシジュウカラの行動も鷹の声の時には空を見て、蛇の場合は地面を見る。  感情の表れではなくて言葉になっている。 シジュウカラは言葉を組み合わせて文章迄作ることが出来る。  警戒しろと言う鳴き声と集まれと言う鳴き声の組み合わせた声がある。  シジュウカラに取っては危険な天敵のモズも集まって追い払う事が出来る。  組み合わせを逆にして、「集まれ」「警戒しろ」と聞かせてみると、集まってこない。  語順に従って理解していることが判る。 現在判っている動物の中では、人間以外で唯一、文法を操る力を持っている。  証明するのに時間が掛かりました。  

蛇と言う言葉に気付いたのが2008年でしたが、それがちゃんと蛇と言う概念に繋がる言葉であると結論付けることが出来たのが2018年でした。  鳴き声の組み合わせに気付いたのが2007年でしたが、文法であると結論付けたのが、2020年でした。

蛇、本土テン、カラスなどが天敵ですが、それのはく製とか生きているものを見せて、蛇の時の鳴き声とかを確かめていきます。 どのシジュウカラもそう鳴くのかを調べるためには、沢山のシジュウカラを対象にして鳴き声の解析をする。 蛇に対する警戒の声を聞いた時に、シジュウカラが頭にちゃんと蛇をイメージして、蛇を捜すような行動をしていたのかどうか、それを調べるのが相当大変でした。  

見間違いを使った実験を考えました。  シジュウカラが蛇という言葉をイメージしていれば、蛇に見間違えたりしないだろうか、という実験をしました。  「ジャージャー」と言う蛇の言葉の鳴き声を聞かせながら、木の枝に紐をつけて蛇に似せて動かすと、確認するために近づいてくる。 蛇の動きとは違って大きく動かしたりすると、近づいてこない。  蛇に対して見間違えが起きている。  人間以外で単語の証明が出来た初めてのものです。 今は動物言語学という事で世界に提唱しています。  

世界の方が注目して、2022年には国際行動生態学会で最新の研究成果を発表するんですが、そこでトリ(基調講演)を務めました。  言葉は人間だけという事を覆す研究発表に対して、みんなが声をかけてくれました。 世界中で動物言語学の認識が高まりました。  動物研究者の研究対象の動物についての言葉の研究を始めました。  チンパンジー、ボノボなどは鳴き声を組み合わせて言葉を文章にする力があるのではないかと発表した論文が出て来ています。 

昨年12月にイギリスで国際動物行動研究協会から表彰されました。(年に一人が表彰される。 世界的な大御所が表彰されている。)   日本でも東大でいろいろなテーマをもって進めています。 いま スペイン、スウェーデンに巣箱をかけて、鳴き声を調べていますが、シジュウカラの日本語とスペイン、スウェーデン語が違って、場所が違うと響きが違う。 ひょっとしたら語彙も違うかもしれないので今調べているところです。 天敵が違うので鳴き声も違うのかもしれない。  今興味を持っているのが、どうやって言葉を習得するのかという事です。  場所の違いによる比較もしていきたい。 














2026年2月1日日曜日

ビリー諸川(ロカビリー歌手)        ・ステージ4でも、ロックンロールでネバー・ギブアップ!

ビリー諸川(ロカビリー歌手)  ・ステージ4でも、ロックンロールでネバー・ギブアップ!

 ビリー諸川さんは1957年東京都出身。 高校生の時に出会ったエルヴィス・プレスリーの音楽やファッション、生き方などすべてに衝撃を受け、以来生涯ロカビリー&エルヴィスを座右の銘としています。 

25年毎月一回店に出て歌っています。 ステージ4のがんです。 抗がん剤を13回打っていて、副作用で指先がしびれたり痛くてギターを弾く時に、コードを押さえられなくて、唯一動くのが、左手の人差し指なんです。 

全日本ロカビリー普及委員会会長の肩書になっています。 座右の銘が「生涯ロカビリー&エルビス」  1972年中学3年生の時に、テレビで映画「フロリダ万歳」と言う映画を見て、エルヴィスにすっかりはまってしまいました。   将来エルヴィス・ピレスリーになろうと決めました。  53年間一心不乱にエルヴィス、ロカビリーを追い続けてきました。 

予備校に通っていて目標が定まらない日々を送っていたある日、呆れて見兼ねた兄(東大生だった)からビンタされ、毎年3000人も誕生する東大生と、100年に一人誕生するかしないかのプレスリーのような歌手、どちらに一度きりの人生を賭けるべきなのか、もう一度、その頭で良く考えてみろと問われたことにより目覚め、エルヴィスの道を選ぶこととなった。 翌日からエルヴィスの英語の歌をちゃんと歌うために、アテネ・フランセと言う英会話の学校に行きました。 シャネルズというドゥーワップ・グループのバンドリーダーの吉田憲右と知り合って、人前で歌うきっかけになりました。  カントリー歌手のジミー時田さんの元へ弟子入りに行きました。(1977年10月 エルヴィスは同年8月に亡くなる。)  

50年以上エルヴィスを研究してくると、彼の人間性と誠実さ、純粋さ、人間はこうあるべきだというお手本みたいな、人間性に最終的には惹かれています。  アメリカ南部の素朴な青年のまま、その心を持ったままスーパースターになって行ったところが魅力なんです。   ジミー時田さんのところへカセットテープを持っていったら全部聞き終わらずに、「帰りなさい、他の仕事を捜した方がいい。」と言われました。 反骨精神が湧いてきて、カセットボード、ギターをもってジミー時田さんが行く新宿のウィッシュボンの前で2時間半から3時間前にいってずっと立って待っていました。(毎週)   12月の或る日にカセットテープを聞くこともなく、「負けた。」と言われました。  外弟子として、ウィッシュボンで働けと言われました。 (カントリーの勉強)  1曲だけ歌わせてもらって嬉しかったです。(20歳)

1987年(12年)に音楽評論家の湯川れい子さんに同年制作した自費レコード(当時32万円かかる)をポストに入れておいたら、湯川さんから電話がかかって来て、センセーショナルなことをやりましょうと言われて、私がプロデュースするから、アメリカに行ってエルヴィスがレコーディングしたサンスタジオで、エルヴィスのメンバーと一緒にレコーディングしましょうと言われました。  ジェームス・バートンに自分のロカビリーを作りなさいと、言われました。 テレビ、ラジオなどにも出るようになりました。  

1994年にエルヴィスの夢を見て、その内容が面白くて書いているうちに原稿用が400枚近くになてしまいました。  ぼくはプレスリーが大好き」と言う本を書いた片岡義男と言う作家の家に原稿をポストに突っ込んでしまいました。  1週間後に出版社が決まってしまいました。  去年末に出した本が20冊目になります。 全日本ロカビリー普及委員会は6000人います。(会費などは取っていない)  この方たちが主に買ってくれます。  エルヴィスと長嶋さんに関する本も書きました。  

小学校のPTA会長を5年間務めたあと、2008年から16年まで、保護司を務めました。  2016年秋からは、「ロカビリーキッズツアー」と銘打って、ギター1本で子どもたちの施設を回る活動を始めました。  子供が絵を描いているがよくわからなかった。 爪とかから描き始めて、顔を描いていって褒めてあげる、終わるまで待ってあげる教育という事を学びました。 子供は身体を動かすのが好きで、ロカビリーが役立ったという事を実感しました。 

2025年の1月ぐらいから、大腸がんの前兆のような血便が出るようになりました。  2024年がエルヴィスがデビューして70年でした。  妻と2024年7月にエルヴィスの出身地 テネシー州メンフィスに行こうという事になりました。  結局12人に膨らんでツアーにいきました。  市長さんの前で歌う機会を得ました。  2025年の11月のジャパンフェスティバルで歌ってほしいと言われ、併せて3か所で歌う事になりました。  症状が重くなってきて、或る時に大腸ポリープの話になって、僕も軽い気持ちで血便が出てきたと言ったら、周りから直ぐ医者に行く様に言われました。  肝臓と骨盤に転移していました。  

2週間に一回の頻度で抗癌剤を打つんです。  一般的な副作用はありませんでしたが、しびれ、痛みがいろいろなところに出ました。  腫瘍マーカーの値が入院時は46でしたが、今は13回打ったせいか1.1しかないんです。 次週14回目を打ちます。  体重も落とさないようにしっかり食べています。   アメリカに行って帰ってきた後だったら手遅れだったと思います。 2025年の11月には行きました。  ジャパンフェスティバル、メンフィスのビール?ストリート、パーティー、総領事の前でも歌いました。  私の師は長嶋さんとエルヴィスです。  長嶋さんは脳梗塞で倒れた後、リハビリで皆に元気を与えました。 見習わなければいけないと思いました。

日本の文化の一つとしてロカビリーを残してほしいと、平尾昌晃さんから言われたので是非頑張っていきたいと思います。  ロカビリーは「優しさを持った反骨精神」だと思います。  私の生きざまになりました。