2026年2月19日木曜日

工藤公康(元プロ野球選手・野球評論家)   ・「勝利を導くメモ~常勝チームの育成の秘密~」

工藤公康(元プロ野球選手・野球評論家) ・「勝利を導くメモ~常勝チームの育成の秘密~」 

去年秋に「工藤メモ」と言う本を出しました。工藤さんは1982年に名古屋電気高校現在の愛工大名電高校からドラフト6位で西武ライオンズに入団しました。現役代は黄金時代の西武、その後ダイエー、巨人、横浜で活躍してプロ通算29年間で224勝を挙げました。選手としてリーグ優勝は14回。日本一は11回その輝かしい実績から優勝請負人とも言われました。2011年に現役引退後は2015年から7年間、福岡ソフトバンクホークスの監督を務め5回日本一に輝きました。その強さの秘密には常日頃から選手を細かく観察して練習や試合を見て気がついたことを常に持ち歩いている、スケッチブックやノート、メモ帳に書き記し、どのタイミングでどういうアドバイスの仕方の選び方をすることが最も効果的かを考え続けることができました。メモを習慣化してアドバイスすることが思考や行動を見て、次の準備につながっていくそう考え、ホークスを常勝チームに育てあげました。メモを効果的に活用した組織作りについて工藤さんに伺います。

タイトルも最優秀選手MVP 2回が最優秀防御率4回、最優秀勝率4回など様々なタイトルを獲得しました。2011年に現役引退後は2015年から7年間、ソフトバンクホークスの監督を務め、7年間で5回日本一に輝きました。評論家以外は会社から呼んでもらって、講演をしたり、農業をしたり、野球教室をしてます。  野球教室は30位からやってる活動です。子供たちへの農業体験もしてもらってます。  1番大事なのはやっていて思ったのは、グラウンド上で不安な表情とか不安にならないためにできるものはしっかり準備してゲームに臨むと言うところではないかなと思います。 僕自身の基本はしっかり準備すると言うことになりました。  

プロに行くつもりでいましたが、両親がお前などプロで通用するわけがないと言われて社会人に行かざるを得なかった。 その後父と根本さんが話をして変わりました。 入ったときには、こんなところに来るのではないと言うほどプロの壁は高かったです。  プロ3年目で広岡さんからアメリカへ行って来いと言われました。    そこで成績が出なかったクビになると言うような状況でした。  3人のクビになった人から話を聞くと、3人とも自分には能力がある。  だから、そのうち必ずメジャーに上がってアメリカンドリームを手に入れるんだと、俺にはその能力があると3人とも言いました。  そこからは周りを見ないで、これは自分のために必要なんだと練習して、3ヶ月後にはボールの速さも速くなりました。  僕が変われるきっかけになりました。  結婚して食事にも気をつけるようになりました。     

プロ29年間で4チームでプレイしました。  複数の球団でプレイしたことがうまく活躍できた要因だと思います。  成績を残すためには、自分には何ができるんだ何が足りないんだというのを考えながら、1年1年を過ごせたと言うのが大きいんだと思います。  他の球団に行って、初めて強いとは何かとか弱いとはどういうことなのかということが少しずつわかってくるようになりました。  ダイエーは練習しないチームなんだと思いました。  人は失敗をしないと学ばないので、失敗をさせてそこから学んで繰り返して行かないと、城島と言うキャッチャーは自分でサインを出せるようになっていかないとチームは強くはならない。

2015年から福岡ソフトバンクの監督に就任しますが、これは王貞治会長からの要請でした。 コーチの経験はなく、いきなり監督になりました。 足りないなぁと思ったのはユーティリティプレイヤーでしたので育てていこうと思いました。   就任した年に優勝することができました。  僕が監督になった時は2014年が日本一だったので、ほとんどメンバーが変わらない状態でした。  ちゃんとコンディショニングを作っていけばある程度のところまではいけるのではないかと思いました。  

2016年は優勝を奪われたので、監督としてのあり方を見つめ直すことにしました。  思っていることがうまく伝わらなかったり、思ってもいないようなこともその場の雰囲気で言ってしまったりして、少しずつ間違いが始まって、選手たちの信頼をなくしていったと言うのが2016年でした。  メモにエラーした状況とか、サインを出してうまくいったかいかなかったとか、試合の状況をいろいろ書いておきました。  年々詳細になっていき映像と比較してコーチと相談して今後どうしようか考えて実施してきました。  自分から選手のところに行くようになりました。  選手と話をするのはコーチを優先させるようにしました。  感情論で言っても解決はしません。  エラーをしたならば、その翌日色々と伝わりやすい言葉、相手が理解しやすい言葉に変換して伝えます。  選手が実際どんな行動をしてどういう思いを持ってやってるかっていうのをちゃんと知ると、多分僕らがどう動いていいかも、必然的に見えるんではないかと思います。

山梨県内の畑で野菜作りもやってます。始めたきっかけは息子です。野菜を育てる事は人を育てることと一緒だと思います。  手間ひまかけるほど良い野菜ができる。  愛情が1番大事です。 買ってきたものとそこでできたものとで料理して食べるのでは味が全然違います。

2026年2月18日水曜日

吉澤昌(副理事長 サッカー・コーチ)    ・スポーツ明日への伝言「みんなでやりたくなるサッカーを!」

吉澤昌(認定NPO法人副理事長 サッカー・コーチ)    ・スポーツ明日への伝言「みんなでやりたくなるサッカーを!」 

ヨシと呼んでもらってます。トラストスと言うのはポルトガル語で足跡と言う意味になります。思い出を足跡と捉えてトラストスにしました。2003年から任意団体として活動を開始しました。自分が活動している団体は少なくとも月に18回でしたが障害の団体では月一回でした。雨になってしまうと2ヶ月3ヶ月に1回になってしまいます。トラストスを立ち上げるときにはできるだけ回数を多くしようと考えました。年齢制限もありませんし、運動能力の差とかは考えずに一緒にやろうとしました。場所は東京、神奈川中心です。

私は昭和50年生まれです 東京出身です。サッカーは中学校に入って部活動を開始しました。きっかけは兄がサッカーをしていました。目の見えない子供たちのサッカーをしている番組がありました。今で言うブラインドサッカーです。  目が見えなくても、できるんだと言うことに衝撃を受けました。そして、指導者の道に進んでいきました。指導者としては、Jリーグのトップチームの下部組織の指導も行いました。(4年ほど) 介助員と言うアルバイトがあり、その時に知的障害、自閉症を知ることになりました。今で言う特別支援学級です。

当時中学3年生で自閉症で登校拒否の生徒がいました。その子がサッカーが好きって言うことを聞いていました。サッカーで何とか学校に出てくるようにできないかなと考えました。それを見に来るようになって、そのうちに学校に来るようになりました。その時の彼らと一緒にあるサッカーがものすごく楽しかったです。

中学校の体育のサッカーは僕も一緒になってサッカーして一緒になって喜んだり残念がったりしてましたが、夕方以降は自分自身が笑って指導しないと言うことに気づきました。夕方以降はJリーグのトップチームの下部組織でコーチをしていました。どっちが自分のやりたいサッカーなんだろうとすごく迷いました。知的障害のある子供たちとやっていく機会を作っていこうと思いました ミツコーチと話し合って、サッカークラブを作っていこうと話し合いました。

それから20年以上経ちました。

*高橋優さんの「福笑い」 作詞:高橋優,作曲:高橋優

「あなたが笑ってたら、僕も笑いたくなる」 と言うのは、まさにに僕の中学校の時の思いです。自分たちが主役なって動いてもらえるような形のものを提供していきたいと言うところから、「やりたくなるサッカー」と言うことをモットーにして活動しています。お手本があるわけではなかったので、いろいろ考えて試行錯誤して活動してきました。

ルールから入ってしまうとつまらなくなると思いまして、ルールは後からと言うふうにしました。本人の居場所と言うことを大事にしている部分です。サッカーを通して日常が豊かになっていくようにしていくのが僕らの役目だと思っています。僕らは一緒になりたいと思っている。遠ざけることだけはしたくないと強く思っています。  彼らがどうしたらやりたくなるのか、やってくれるのかなあとそういったところを探ります。  やっていて、よくも悪くも裏切られる瞬間がありまして、そっちかぁと思ってました。 そういった経験が続くと、僕たちも当然引き出しが増えていきます。現場で子供たちと駆け引きする瞬間が結構楽しみなところがあります。 本人だけではなくて、彼らはお家の方が連れてきてくれるので、お家の方々が本人の様子を見ている。 お家の方々に喜んでもらえるということがすごく大事なことです。

トラストスの活動の中にFC東京との連携でJリーグの試合を見に行ったりと言うこともあります。光とか音が苦手なお子さんもいます。 苦手な音も多種多様です。(聴覚過敏)      最近は、FC東京のホームゲームの運営の所のスポーツボランティアの人たちが入っていますが、そこにトラストスのメンバーも一緒に参加してもらったりもしています。ボランティアとして支える側にも回っています。「ありがとう」と声をかけてもらえると、彼らもにこっとするんです。  彼らと共感できる楽しさも味わえることができました。

トラストスが、彼らの居場所になってくれればいいと思ってましてその中でサッカーが好きと言うものでいいと思ってます。 活動拠点を増やしていきたいと言うことと、もっと身近に楽しいスポーツを感じてもらうと言うことを広げていきたいと思います。

2026年2月16日月曜日

常磐津文字兵衛(常磐津節三味線方)     ・にっぽんの音 能楽師狂言方 大藏基誠

 常磐津文字兵衛(常磐津節三味線方)     ・にっぽんの音 能楽師狂言方 大藏基誠

常磐津文字兵衛さんは東京都出身64歳。 四代目常磐津文字兵衛の長男として生まれ、1996年に5世 常磐津文字兵衛を襲名。 150年以上続く名跡の継承者として、演奏会、歌舞伎の舞台に立つほか、作曲家としても多くの曲を手がけ、西洋楽器とのコラボレーヨンなども積極的に行っています。  長年母校の東京芸術大学で後進の指導にもあたっています。 

今月は「積恋雪関扉」(つもるこいゆきのせきのと)という歌舞伎の演目に出演しています。    「国宝」でも最初の部分に取り上げられました。  1時間半あります。 短いと6分ぐらいのものもあります。  舞踊劇としては一番長い分類です。

ストーリー的には説明が非常に難しい。 一日がかりで上演した長い歌舞伎の最後の一幕です。  長い部分はいつの間にか上演されなくなってしまった。  最後の部分だけが頻繁に上演されるようになった。  関守:中村勘九郎  小町姫、傾城墨染 実は 小町桜の精:中村七之助 良峯少将宗貞:八代目尾上菊五郎 初演は1784年  関兵衛実は大伴黒主…初代中村仲蔵

立て三味線、バンドマスターのような地位。(コンサートマスターを兼ねるようなもの)   常磐津の編成は三味線3人、大夫が4人で舞台の下手又は上手で演奏する。  舞台上に斜めに座っている。  1時間半ぐらいをずっと座っていて演奏する。 

10歳で三味線始めました。  常磐津と言うのは浄瑠璃を語る、セリフのある音楽。 長唄は唄ものの音楽、竹本は義太夫節の歌舞伎版、関西発祥。  常磐津節は江戸です。 清元も常磐津節から70年後にできますがこれも江戸のものです。 設立は1747年 その前に豊後節が一世を風靡した。 宮古路豊後掾と言う人が一代で大スターになった。  豊後節は心中もの、駆け落ちものが多かったために、心中事件、駆け落ち事件が増え幕府から目を付けられ潰されてしまう。  宮古路豊後掾の弟子たちから常磐津が出来て来る。  その後富本節が出来、そこから清元節が出来る。 常磐津節で使っている三味線は中竿三味線です。 長唄は細竿、竹本、義太夫は太竿。

*「乗合船恵方万歳」 常磐津節の代表的演目   

舞台は初春の隅田川。この演目には、女船頭、白酒売り、太夫、才造、通人、大工、芸者の7人の登場人物。 <七福神>の見立てになる。

鳥の鳴き声、動物の鳴き声、楽器(鼓)などを三味線で表現します。 隅田川の情景なども表現します。 

作曲もしてきました。(200曲近く)  父は400曲ぐらい作っていました。 

2019年からはピアノ、フルート、三味線でトリオを結成、海外でデビューしました。(パリ)  年に1度ぐらいは国内外で演奏しています。  洋楽器と比べて三味線は雑音成分が多い。  

日本の音とは、拍子木の音。 








2026年2月13日金曜日

落合恵子(作家・子どもの本の専門店主宰)  ・「“わたし”を生ききる覚悟~前編」

落合恵子(作家・子どもの本の専門店主宰)  ・人生のみちしるべ「“わたし”を生ききる覚悟~前編」 

落合さんは1945年栃木県宇都宮市出身。(81歳)  明治大学文学部英文学科卒業後、昭和41年に文化放送アナウンサーとして入社、人気アナウンサーとして活躍します。   29歳の時に文化放送を退職し、作家として本格的に執筆するようになります。  現在は子供の本の専門店のほかオーガニックレストランなどを東京と大阪で主宰、小説、エッセイ、絵本の翻訳のほか、フェミニズム、人権、平和、環境など社会的なテーマにも取り組んでいます。 落合さんは去年12月「がんと生き切る 悲観にも楽観にも傾かず」と言う本を出版しました。この本は落合さんが2023年にステージ3Aの肺がんと診断されてからの日々、心境や闘病の記録を綴ったものです。 

昔は夜更かししてお日様が登るころに寝ようかなと言う様な状態でしたが、今は朝5時には起きます。  種を蒔いて芽が出て来るのを何十年とワクワクしています。  「がんと生き切る 悲観にも楽観にも傾かず」を出版。  肺がんを公表しました。  ゲラ刷りを病院のベッドでチェックをしていました。 (旅先でチェックをしているように見せかけるためにメールでやっていました。) 周りに告げなかった最大の理由は一人で考えたかった。 自分で答えを出さないと、結果についても責任を持てないと思いました。 選択するか、選択しないか。 自分の渦に誰も巻き込みたくないという思いもありました。  自身の経過、患者と医師との関係などいろいろ悩みました。  医師になかなか全部相談できない自分、あるいは他の患者さんの様子を眼にしてきました。  

最初のページには23年と25年の2枚の写真があり、23年の方には髪の毛が全くありません。(自撮り)  必ず生えてくるからねという事を知って欲しかった。  元気でありたいけれど元気ではない人もいます。  自分も受け入れ、社会も受け入れる柔らかさを持ちたいと思います。  「辛いよ。」と言えるような人間関係と場所とスペースを作りたい。  夢を持つことは人間を元気にしてくれる。  自分の声をちゃんと聞いてあげるという事は他者の声も聞く事になる。 

「病はすべて身体的にも精神的にも個人差があり、あらゆる人に万能な治療法はないのではないかと考えて来たし、今もそう考えている。 ・・・可能な限りこのかけがえのない体験を重ねようと自分と約束した。 それが自分に対する責任の取り方だと思うから。・・・どんなに抵抗しても私は私から逃げることは出来ないのだから。 だから自分が選ぶ!」 ここから話が始まります。 (「がんと生き切る 悲観にも楽観にも傾かず」の冒頭部分。)

一番最初の一番大きな迷いは、治療を受けるか、受けないか。  がんであることはほんの私の一部でしかない。  自分の気持ちを書いておきたいという思いがあって、文章をスケッチブックに書いていました。 10代になって女性週刊誌に載って原稿料を貰って、こんなに入るんだと嬉しくなりました。  母は結婚しないで大好きな人の子(落合恵子)を出産した。  母を介護するようになって、病院の母のベッドの隣に寝ていたある夜、こっちをすっと見て急にニコッと笑って、「あのね、私あなたのお父さんが大好きだったの。 お休み。」と言って、ちょっと泣けちゃいました。  「貴方の人生だからあなたが決めていきなさい、何してもあなたが責任を取ればいい。」と言われました。 病気になった時に独りで考えたいと思ったのも、母からどこかで受け継いできたものかも知れないですね。  

「言葉って何だと思う。  言葉にならない思いがここにあると指さすのが言葉だ。」    長田弘さんの詩の一節。

昨日書いた言葉が、今日は消す場合もある。 人生はやり直しが出来ないと言いますが、言葉はやり直せる部分もあるし、自分がその言葉を内側に受け入れた時は、それを大事に握って行こうと思います。 「闇の中で座っている人は、自分の夢に灯をともしている。」というドイツの女性の詩人の詩があります。 闇の中に座っていても、明るい光を自分の側から生み出すこともできる。   そんな仕事が出来たらどんなにうれしいか。  言葉に出会う人がもっと増えたら、もっと人は人に優しくなれるかなと思いました。  本の活字が誰の気持ちをノックするのか、それも考えたいという気持ちが凄く強かったです。 

レイプ、セクハラ、など言葉にならないと、その事実はないと同じような扱われ方をする。  セクシャリティーに対する差別、年齢に対する差別、いろんな差別があるという事を見直さなければならない。  時代よりも早く作品が生まれて来ています。  嬉しいのは、当時出会った人たちが今でも元気にしていてくれて、いろんなところで出会います。 

2022年に出版した「わたしたち」 女子校で出会った4人の少女の友情とそれぞれの自立した人生が長きにわたって描かれる。 「大事なのは何になるのかではなくて、私が私になってゆく事。」  人は自分として生まれてきている。  自分はこうでありたい、私はこういう道を生きたいと思っている自分に向かって自分を作って行く、その作ってゆく側の一人が自分なんだ。  人生の岐路に立った時に大事にしているものとは、「私が考え、私が感じ、私が決める事。」  「がんと生き切る。 悲観にも楽観にも傾かず。」 

















2026年2月10日火曜日

長南宰司(元海上保安庁特殊救難隊隊員)   ・「海難救助“最後の砦”~海上保安庁特殊救難隊にかけた人生」

 長南宰司(元海上保安庁特殊救難隊隊員)   ・「海難救助“最後の砦”~海上保安庁特殊救難隊にかけた人生」

海上保安庁特殊救難隊、海難事故が発生すると現場に向かい、時には命がけで救助を行うエキスパート集団です。 「海猿」と言うタイトルで漫画やテレビドラマ、映画のモデルにもなりました。 結成から数々の困難な海難事故で、救助活動を行って来た初代隊員長南宰司さんに、半世紀に及ぶ特殊救難隊の歩みと長南さんの波乱万丈の人生を伺います。

今では年齢70歳を越えて俊敏さは少しなくなってきていますが、身長180cmの大柄で背筋もしっかり伸びていて、色黒の鋭いまなざしは変わっていない印象です。

海上保安庁特殊救難隊は通称「特救隊」とも呼ばれています。  現在隊員は41人、およそ1万5000人いる全国の海上保安官のうち、僅か0,3%という極めて狭き門です。   日々厳しい訓練を行い、卓越した身体能力と潜水技術に加えて、高い精神力と判断力を兼ね備えています。 活動エリアは全国の海です。  活動拠点である東京羽田の特殊救難基地から全国に緊急派遣されて、船が沈没した海に潜ったり、ヘリコプターから難破船に降下したりして、人命救助に当たります。  活動する現場は荒れ狂う海や沈没船の船内など、普通なら近づくことも難しい非常に厳しい環境ばかりです。  危険と隣り合わせながら50年間で殉職者がゼロという驚きの記録もあります。

殉職者がゼロというのは、訓練の賜物と思っています。  訓練も厳しく、素潜りでもブラックアウト(気絶するまで)になるまでやっています。 自分の限界を知るという事です。    1975年に発足、そのきっかけは 前年に東京湾で起きた大型ケミカルタンカー「第十雄洋丸」と貨物船「パシフィック・アレス号」の衝突炎上事故です。 (第十雄洋丸事件) 33人が死亡する大災害でしたが、炎上しながら漂流するタンカーを前に当時の海上保安庁はなすすべがなく、最後は自衛隊の砲撃と爆撃で海に沈めるしかありませんでした。 

私も対応に当たっていました。 「第十雄洋丸」は燃え盛っていて、凄い熱さを感じました。  300m離れても熱さを感じました。  貨物船「パシフィック・アレス号」は衝突した時にナフサを被って、全体が一瞬にして燃えました。  一人だけがコントロールルームの中にいて助かった。 その人以外は焼死です。  どんな手段で助けられるのだろうかと考えました。これをきっかけに特殊救難隊が発足しました。  最初に潜水技術に優れた5人が選ばれました。(事故を体験したのは私だけでした。)   隊長は北岡洋志さんでした。 潜水の教官でした。 「愛を持って仕事をしろ。」と言っていました。

最初は建物の壁、屋上を利用して訓練をしました。  ヘリコプターで行って、海岸に降下するやり方は、特殊救難隊が初めて実現させた手法です。  転覆して逆様になった船に生存している人の救助。(一昨年の11月神戸港沖合での転覆事故の生存者の救出の活動の様子 成功例)  成功した時の喜びはあります。  他の国では転覆するとその時点で諦めて、そういった救助隊は無いです。  北岡さんの「愛」が神戸港沖合での転覆事故での隊長にも引き継がれています。 

伊豆半島の石廊崎沖の漁船の転覆事故、乗組員がゴムボートで脱出、漂流する。 ヘリコプターで救助せよとの連絡が入る。  救助対象は4人で、ヘリコプターの乗せる定員は3人でした。  夕暮れで時間もないなか、決断をしたのは、私がゴムボートに残ることを決断しました。  シュノーケル、フィン、ウエットスーツ等泳げる道具は持参しました。  断崖絶壁に向かう様であれば脱出しようと思っていました。  長距離水泳訓練とか、滝つぼの中に漁網を設置してその中から脱出する訓練とか夜間での訓練とか過酷な条件下で訓練をしています。実際にゴムボートに向かって行ったら3人でした。  一人の人が「助かった。」と泣きついてきました。 (感動しました。)  

私は宮城県塩釜市の寒風沢島の出身で、子供のころは海が遊び場でした。 遊んでいて、大人の人たちに何度も助けてもらいました。  転覆船が沈むとか沈みそうにないという事を直感的に判ります。(子供の頃の経験)  

40年間の保安官の最後の任務地が故郷の宮城県の巡視船「蔵王」の船長でした。  退職を間近に控えて3月11日の東日本大震災が起きました。  いかりを入れてあったので「蔵王」は助かりました。  いかりを入れていなかった船は津波で流されたり座礁したりしました。 「蔵王」に乗り込み捜索をするんですが、悲惨な光景ですが、登って来る全く変わらず太陽は綺麗に輝いているんです。  遺体の捜索が毎日続きました。 「遺体を見つけて、そのご遺族の心も救うんだ。」と、隊員に言いました。  「判りました。」と言って出てゆきました。

当時の隊員は私の退官後も遺体の捜索を続け、心が折れそうになった時に、言葉を思い起こしたそうです。  幹部になった人もいて、その言葉を後輩に伝えているそうです。 

特殊救難隊の創設から半世紀が経ち、第三管区保安本部赤松本部長からのメッセージ、特殊救難隊を指揮する羽田特殊救難隊基地の岡基地長からのメッセージがあります。

「救える命は必ず救う。  どのような状況であっても我々は最後まであきらめないことを誓い、皆さま方からの激励と特殊救難隊の使命と誇りを胸に国民の期待に応えられるよう、これからも前進してまいります。」

「出動記録」 教訓のような資料になっている。 成功例よりも失敗例への向き合い方。

「夢と感動と情熱」という事を隊員には言ってきました。










2026年2月8日日曜日

村上佳菜子(プロフィギュアスケーター)   ・師匠「山田満知子を語る」

村上佳菜子(プロフィギュアスケーター)   ・師匠「山田満知子を語る」 

グランプリファイナルや四大陸選手権、オリンピックでの華麗な演技で多くのファンを魅了した村上さんは数多くの名選手を育てた山田満知子コーチの教え子です。  どんな師弟関係だったんでしょうか。 

2017年4月に引退。 

山田満知子さんは1943年名古屋市生まれ。 父の勧めでスケートを始めたのは小学1年生(7歳)の時、めきめきと頭角を表し、全日本女子ジュニア、インタハイで優勝を重ねます。  地元の金城学院大学家政学部進学後、現役を退きますが愛知県スケート連盟の要請で、コーチとしてリンクに復活、子供たちを指導しました。 世界ではじめてトリプルアクセルに成功した伊藤みどりさんと出会ったのは1974年、当時まだ5歳だった伊藤みどりさんの才能を見抜いた山田コーチは、伊藤みどりさんを自宅に引き取り、二人三脚で練習を重ねた結果、1992年のアルベールビルオリンピックで伊藤選手は銀メダルを獲得、名コーチの山田満知子さんの名前も世界で知られるようになりました。 その後も中野友加里さん、浅田真央さん、宇野昌磨さん、村上佳菜子さんと名だたるスケーターを世に送り出した山田コーチ、およそ65年に及ぶ指導歴で教え子が数百人にのぼります。

私は3歳からスケートを習い始めて、山田コーチから教わったのは自分でも記憶がないです。山田門下生は母親と一緒に育てて行ったと言って過言ではないと思います。  山田コーチはその人を見極めて指導の仕方がそれぞれ違っていました。  リンク以外でも、人としてどうあるべきかと言ったことを教えてもらいました。  先生の家に行くという事はかなり頻繁にありました。 旅行にも一緒にいくこともありました。 ジュニア時代は先生の家から練習に行くことも多かったです。

小学校6年生の頃には3回転アクセルを習得、13歳で競技に本格参戦、2009年15歳の時にジュニアグランプリファイナルで優勝、シニアに転向した2010年から2011年でグランプリシリーズのアメリカ杯で優勝し、グランプリファイナルでは銅メダルを獲得しました。  試合直前に自信が無くて不安だったんですが、「なんで不安なの。 私は自信があるよ。」と言ってくれたんです。  先生が自信があるなら大丈夫だと思って、緊張と不安が飛んでいき、凄くいい演技が出来ました。  

2013年全日本選手権で2位、2014年の年四大陸選手権では金メダル、ソチでオリンピック初出場、12位だった。  オリンピックでは1日30分程度の練習時間しかなくて、1日6時間練習するタイプだったので、身体がうまく作っていけなかった。 でもいい経験でした。  もうそろそろ引退したほうがいいかもしれないと言われましたが、まだやれそうな気がしたので先生に頭を下げて続けることにしました。

シニアでは音楽の選び方は、アメリカにも行っていたので、アメリカの先生が何曲か出してくれたなかから、満知子先生と一緒に選びました。  ソチオリンピックの時には、曲選びは悩みました。  1年間選んだ曲で練習するので大事な事です。  ソチオリンピックの前の全日本選手権で2週間前にショートプログラムの曲を合わなくて変え、振り付けも変えて、2週間で3か月分練習するぐらい練習して、オリンピック参加を勝ち取ることが出来ました。

2018年のピョンチャン(平昌)オリンピックへ出場するモチベ―ションはなかったです。2017年4月に引退発表しました。  第85回全日本フィギュアスケート選手権において8位となって、「スケート人生の全てを出せました」として引退を示唆。 引退の時には先生は「よく頑張った。」と言ってくれました。

今迄生演奏を聞いててこなかったので、なんで聞いてこなかったんだろうと思うぐらい、後悔しました。  音楽会が始まってスケートのファンの方も来てくれます。 相乗効果でクラシック界とフィギュアスケート界が盛り上がって行ってくれればいいと思います。 先生からは「愛されるスケーターになりなさい。」と言われたことが今も心にしまっています。

山田満知子先生への手紙

「・・・本当にたっぷり愛を与えてくれてありがとうございます。 ・・・先生の愛を当たり前のようにとらえていたのかもしれません。・・・少しづつ大人になって時の経過によって、心も体も変化して行く中でどの瞬間を切り取って思い返しても、私のすべてに先生がいてくれています。 ・・・一緒にいてくれたから沢山のことを乗り越えられたと思います。 そんな先生がいてくれたから今の私があると思います。・・・本当に感謝しています、先生。・・・」










2026年2月6日金曜日

岩室純子(DJ)              ・「91歳 DJスミロックの挑戦」

岩室純子(DJ)              ・「91歳 DJスミロックの挑戦」

岩室さんは1935年東京都生まれ。(91歳)  5年前に脳出血を乗り越えて、今なお現役で活躍しています。 DJはラジオなどで音楽を選曲操作する人のことを指しますが、岩室さんは若者が集う音楽イベントで、クラブDJとして活躍しています。  2つの曲を同時に聞き分けて、曲の切れ目がわからないよう専用の機器を使って、早さやリズムを調整して音楽を繋げるスペシャリストです。 DJとしての活動名は「スミロック」、本名純子さんのスミと岩室の岩(ロック)をかけて「スミロック」と名付けています。 77歳から始めたDJ活動の経緯とはどんなことだったのでしょうか。 国際豊かな友人関係、大病を乗り越えた現在の夢などを伺いました。 

食事などで一番若い友達は私の年齢の1/4ぐらいです。 ファンの方です。 最初はイベントの手伝いをしていました。  手伝いもなくなり、イベントを観るようになり、新しい音楽を聴く様になりました。  或る日居候だったアドリアンさん(フランス人 21歳)からDJをやってみないかと誘われました。(60何歳)  フランス人の人とは英語でやり取りしています。  DJの学校に入ることになりました。(77歳)  同時に2曲を聞き分けて、違和感なくつなげることはハードルが高そうですが、 いろいろ簡単になってきているのがあります。  自宅に機械があります。  

DJの面白さは私がかけた曲で踊って頂けることです。  戦争中に蓄音機に座布団をかけて音が漏れないようにしてジャズを聴いて居たりしました。(父と二人で)  父はジャズドラマーでした。  戦争が終わってプロダクションをやっていました。  子供のころはおとなしくていう事を聞くいい子でした。 弟が2人いるので面倒を見ました。  父が1954年に高田馬場で飲食店を始めたことで、働くことになりました。  英語を習ったり他にもいろいろ習ったりして好奇心はありました。  外国の友達もできました。  飲食店の方を66年6か月やりました  DJは終わってからやって来ました。  DJの出番も2時とか、2時半とかで、ラジオ深夜便では店でうろうろしています。  

結婚はしたくなかったが、付き合っている人と後に結婚することになりました。 子供がいなかったので自由に出来ました。 ノリのいい踊りたくなるような曲を主に選曲します。 2021年に病気になって1か月半入院しました。 脳溢血が見つかってすぐ入院して治療して(点滴)、写真では大きな血の塊もありましたが、手足も大丈夫だし脳の働きも弱っていないので、1か月半リハビリして退院出来ました。 (買い物に行って小銭を掴むのにちょっとおかしいので、病院に行きました。)

いくら考えてもなる様にしかならない。  DJの復帰をしました。  病気後、週に2回程度ジャズ喫茶で音楽を聴くのが、私の脳味噌を綺麗にしてくれて良かったです。  オファーが有ったらそつなくやりたいです。