2021年7月28日水曜日

渡辺隆次(画家・エッセイスト)     ・【心に花を咲かせて】自然の居候として生きる

渡辺隆次(画家・エッセイスト)    ・【心に花を咲かせて】自然の居候として生きる 

武蔵野美術大学で西洋絵画を学んだ渡辺隆次さんは、幻想的な半抽象画という独特な画風で知られています。    特に渡辺さんと言えばキノコだよねと言われるほどキノコの絵が知られています。   渡辺さんが収めた山梨県甲府市にあります武田神社菱和殿の天井画にもたくさんの渡辺さんが描いたキノコが描かれています。   作品の多くはアトリエのある八ヶ岳山麓の自然の営みがとても重要なモチーフになっていて、最近ではキノコの胞子をそのまま活用した作品を数多く描いています。  81歳になった今も精力的に制作活動を続けています。  自然から何を得て何を描きたいのか、山での暮らしから生まれる絵を通して何を伝えたいのか、伺いました。

東京生まれですが、山梨県北杜市で活動を続けていて、44年になります。   豊かな自然がここにはあります。   植物、動物、昆虫など大変な数の生き物がいるという事に気づくわけです。   その中に人間としての私が居て、居候させてもらっている、そういった感じです。   八ヶ岳、南アルプスなどを写生する場所でもあります。   何故か恐れ多いという感じがして、私には風景画を描く感じがしません。   東京にいる頃も半抽象画のようなものを描いていました。  形のあるものを手繰り寄せて、自分の感受性と織り交ぜて、現れてくる色や形はどんなものだろうかと、そういう追及の仕方の絵です。   ここにきてキノコの存在に気が付いて、これは一体何物だろうと熱烈な好奇心がわきます。  徹底的に知りたかった。   富士山の北麓にはどのぐらいのキノコがあるのか、世界の菌学会が集まってキノコ狩りをしました。   約500種類ぐらいになりました。  キノコは1万種類ぐらいありますので少なかったです。  シーズンに歩くと数十種類は目にします。  近辺が開発されるようになって、森が壊される前にキノコをスケッチしておかなければと追われるような気分もありました。   

どんなキノコなのか図鑑を買ってきては調べました。  開発され消えてゆく数十年間を目撃してきました。  スケッチした絵をそのまんま絵にしようとは思っていませんでした。キノコが地球上の生物の重要な役割をしているという事に気が付きました。  植物、動物を一方的に人間が消費していると、絶えてしまうわけです。  植物、動物を改めてよみがえらせてくれる力を持っているんだという事に気が付きました。  倒木、落ち葉が消えれゆくが、腐るというところに必ず菌類の存在があるわけです。  有機物を無機物にして又新しい命を生んでくれるわけです。 倒木、落ち葉、死骸など掃除してくれるのが菌類なわけです。   

キノコが出す胞子の文様を使った絵画が最近多いです。   キノコをテーブルにおいて置いたら翌日不思議な文様が出来ていました。  霜降りシメジという種類で胞子が白で、黒いテーブルに幻想的な不思議な文様の、キノコが描いた絵がありました。  それが最初に気づきでした。   画材は絵具ではなく胞子というところまで来てしまいました。  大きな構図だと毎年じわじわと10年ぐらい使って描くものもあります。  ですから思うようなキノコを待っている画用紙がいっぱいあります。   胞子にはいろいろな色の胞子があります。  ピンク色など珍しいものは10年、20年待たないと駄目でしょうね。     

胞子が空気中に漂っていて、地球全体が様々な色の胞子に柔らかく包まれているという幻想を持ちました。   東京タワーが出来た時に高いところに空気中に漂う花粉だとか様々なものを採集する装置があるそうで、7色の胞子に包まれているのではないかという想像を持ったわけです。  それが絵に成ったりしています。  宗教画には光が描かれたり、仏像画には光背があるが、光が柔らかく地上を射しているが、キノコの太陽とか月のような文様を見るとそれに重なりますね。    

胞子紋の周りに何を欲しがっているか、そんなことを考えて自然に広がって行ってしまいます。  日常のスケッチで自然界をため込む作業をしていて、描く時にはふわーっと自由に出てくる、そんな感じです。  

武蔵野美術大学を出てからどの団体にも入らないで来ました。    自分なりに蓄えた自分なりの技法と表現を最後まで持続したいというのが夢です。   先輩にグループでやらないかという事がありグループ展をやって、尊敬していた方が見てくれて、銀座の青木画廊を紹介してくれたのが、個展をするきっかけでした。 (最初の個展は26歳)     

学芸大学に通って学んで、絵画療法という形で指導する為に精神病院に通っていました。  絵を描くことで私自身が癒されます。  描いているうちに徐々に患者さんの顔が変わってきます。  

10代のころは小説に没頭していました。 それがエッセーへの道へと行きました。  私にとっての豊かさとは自然のなかで自分の居場所をちょっと頂いて、そこで深呼吸できるような人生でしょうか。  八ヶ岳にいることがそれにぴったり合います。  私にとって描くといことは、今生きている感謝を祈る姿が絵なんですよ。






2021年7月27日火曜日

俵万智(歌人)             ・歌ありてこそ 俵万智の35年

 俵万智(歌人)             ・歌ありてこそ 俵万智の35年

俵万智さんの第六歌集「未来のサイズ」がこの春第55回迢空賞と第36回詩歌文学館賞のダブル受賞をしました。   俵万智さんさんは大学卒業後の1986年に「8月の朝」で角川短歌賞を受賞し、短歌界にデビュー、翌1987年第一歌集サラダ記念日』はリズミカルで斬新な口語表現の歌でベストセラーとなりました。   生きていることは歌う事という俵さんが日々の暮らしの中での思いを歌に詠み、一人の女性として母となり、仙台、石垣島、九州の宮崎と移り住んできました。   新たに暮らした土地でその土地固有の風土を味わい、そこで暮らす人々との交流を楽しみ、子供の成長、親、兄弟、恋人と様々な人間関係の情感と機微を歌に表現し続けてきました。   第六歌集「未来のサイズ」に収められた418首はそれまでの俵さんの作風とは大きく変わり新たな境地を見せています。  歌と共に自立し、自由に時代を生きる俵さんに歌詠み人生のこれからを聞きます。

第六歌集「未来のサイズ」は自分としても手ごたえのある歌集だったので、ダブル受賞という事で大きな花束を頂いたような感じです。   第一歌集サラダ記念日 タイトルにもなっている「この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」 この歌があります。  「「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの」

深刻な感情でも軽く歌わざるを得ない切なさみたいなのが伝わるといいなあと、本人は思っていたんですけれども。  この歌を発表した年の短歌関係の雑誌を開くと、石を投げれば缶酎ハイに当たるだろうというぐらい、取り上げられた歌で私としてもすごく驚いた記憶があります。   サラダがおいしかったというようなささやかなことをキチンキチンと記念日として定着させてくれる、それが自分にとっての短歌だなあと思ったので、タイトルにしたという記憶があります。

言葉は発明はできないが、組み合わせは無限にあります。  組み合わせを工夫してゆくということが言葉の表現をするという事で、サラダも記念日も誰でも知っている単語ですが、それを組み合わせて使う事で新しさが生まれる。  表現の喜びはそういったところにもあるかもしれません。

35年はあっという間でした。  短歌を作る姿勢は作り始めた頃とそんなに変わっていないと思います。  

第六歌集「未来のサイズ」

「ゴミ出しのお陰で曜日の感覚が保たれている今日は火曜日」             今までなにげなくしていたことが、コロナで出来なくなってもゴミは出すことがあって、今日は燃えるゴミの日だから火曜日なんだと、実感を詠んだもので、一方でごみを集めてくださる方は変わらず働いてくださってるんだなあと、その両方を感じて詠んだ歌です。 

「四年ぶりに活躍したるタコ焼き器ステイホームをくるっと丸め」           忘れられていたタコ焼き器が活躍したが、コロナ禍ではいろいろな家庭でこんなことが起こっていたかなと思います。

「第二波の予感の中で暮らせどもサーフボードを持たぬ人類」     

「トランプの絵札のように集まって我ら画面に密を楽しむ」       

人類という言葉を短歌に使ったのは私は初めてで、人類の一員としてコロナに向き合っているという感覚は働いたと思います。  コロナの波に対してなすすべもなく波を待っているしかないという感じ。(ワクチンがなかった当時) 人類がサーフボードを持つのはいつ頃だろうという気持ちで詠みました。  

リアルではないが画面に集まって、画面では密になって楽しんでいるよと、そんな一首です。

ライフスタイルや人生のステージに合わせて住むところを選んできたかなと思います。   基本は自分が住んでいる場所を出発点にするというのが多いです。  宮崎、石垣島で暮らし始めて生まれた歌かなと感じています。   

夕焼けと青空せめぎあう時を「明う(アコー)暗う(クロー)」と呼ぶ島のひと」    自然が大きくて青空の青がまた青い、夕焼けの赤が強烈で、戦っているような時間帯がある。  景色があるから言葉がある、言葉の原点があるというような気がしました。

雨という言葉には日本語にはたくさんある、世界にはそんなにはない。  実際にいろんな表情の雨が日本に降ってるからこそ、細かな表現が生まれたことです。

「制服は未来のサイズ入学のどの子もどの子も未来着ている」             これは息子の中学校の入学式の時の歌です。 中学生はすぐにどんどん大きくなる。   どの子もどの子もぶかぶかの制服を着ている。 この子たちは未来を着ているんだなあと感じました。

「シチューよし、高菜漬けよし、週末は五合の米を炊いて子を待つ」          気合をかけて待つという事で、よしという言葉を入れました。

「日に四度電話をかけてくる日あり息子の声を嗅ぐように聞く」            耳を澄ますようなだけでは足りないような感じ。  

若山牧水は宮崎生まれでして若山牧水が好きですし、第四歌集で若山牧水賞受賞したことなどもあり、宮崎とはいろいろな人とのご縁があり、宮崎に住むようになりました。  子育てを通して生きることをもう一度考え直したり、言葉を見つめ直したりして、第四、第五歌集当たりで出てきまして、地方から日本を見つめる視点も出てきたと思います。

「テンポよく刻むリズムの危うさよナショナリズムやコマーシャリズム」           言葉の力の大きさと怖さを詠んだものです。  

「自己責任 非正規雇用 生産性 寅さんだったら何て言うかな」           寅さんみたいな人が自由に楽しく生き生き生きている社会は或る意味すごく豊かなんじゃないかなあと思います。  リトマス試験紙のように寅さんを捉えた一首です。

「美しい水であれたか茂りゆくこの言の葉のクレソンの味」              子供の言葉がみずみずしく美しく茂るような水であれたかなあという、そんな感慨を詠んだ歌です。  

「生き生きと息子が短歌詠んでおりたとえおかんが俵万智でも」             親が歌人であり、思春期の男子がこんなに楽しそうに短歌を作るもんだなと吃驚して、反発なんかないんだなあと思って作った歌です。  批評を言ってくれたりします。

「シャーペンをくるくる回す子の右手短所の欄のいまだ埋まらず」            息子から「長所の欄がいまだ埋まらず」のほうがいいのではないかと言われて、 思春期らしい葛藤があって面白いとは思いましたが、そのままにしておきました。

「別れ来し男たちとの人生の「もし」どれもよし我がラ・ラ・ランド」            映画を見終わって、「もし」この人と、という事を考えましたが、どれもよさそうな出会いだったのかなと感じ歌に残しておきたかった一首です

自分が生きている時間、出来事、出会ったことなどを味わい直す、見つめ直すという事として歌がある、そんな感じです。

「求めているのは恋人とつげられる深夜番組の心理テストに」             心理テストをやらなくても判っているじゃない、そんな歌です。

短歌は手紙というような感覚でとらえています。 

「最後とは知らぬ最後が過ぎてゆくその連続と思う子育て」               子育ての実感です。  子育てに限らず人生もそうかなと思います。  意外と最後という事を気づかずに迎えていると思います。  これが最後かと思うとより大切に生きられるような気もします。  

言葉は使えば使うほど増えてゆくので、年齢を重ねるという事は言葉が増えてゆくことなので、これからの時間もそういう事で楽しめたらいいなあと思います。











2021年7月26日月曜日

2021年7月25日日曜日

岡林信康(シンガーソングライター)    ・23年ぶりのアルバムに込めた思い

 岡林信康(シンガーソングライター)    ・23年ぶりのアルバムに込めた思い

1946年7月22日 滋賀県近江八幡市生まれ、実家は教会、父親は牧師という環境で育ち、同志社大学神学部に在学中に作詞作曲を独学で始めました。   1968年「三谷ブルース」でレコードデビュー、その後「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」など発表した曲が次々とヒットしていきます。   「フォークの神様」として若者たちのカリスマ的な存在になりました。    その後いったん音楽活動から距離を置いた時期を経て再び音楽の世界に戻ってきてからは、演歌、民謡、ポップス、ジャズと縦横無尽に活動してきました。  そんな岡林信康さんにお話しを伺いました。

75歳になりました。  2018年にNHKで「岡林信康50年の軌跡」という特集番組を行う。   エンヤトット」のCDはなかなか売れなくてどうしたものかと思っていましたが、エンヤトット」というのは生で聞くもので手拍子でという、そういうスタイルだという事が判りまいた。  2018年の50周年コンサートの後、終活、自分が亡くなった後を整理しておこうかと思って、そういうことをやりました。(半年間)  その後コンサートを開催しはじめるが、コロナで中止になってしまいました。  去年の6月から9曲を作って、アルバムにできるという事で「復活の朝」というタイトルでアルバムを出しました。  新しい曲を作ったのは10年振りです。   きっかけはコロナ禍で工場が停止したり、自動車が動かなくなって北京の空に青空が戻ってきたという新聞記事を見たのがきっかけでした。  

「復活の朝」            作詞作曲:岡林信康  歌:岡林信康

人の営みがどうであれ、自然は回って動いているという、人間の傲慢さに気づかされたかもしれない。  体験したことしか歌に書けませんから、75歳になれば75歳の僕しか書けないです。  私小説的とか同世代向けにとか、そういった意識は全くないです。  

*「コロナで会えなくなってから」   作詞作曲:岡林信康  歌:岡林信康

当たり前のように約束すればできると思っていたが、いつまでたっても会えない。 当たり前のように出来ているうちは有難みも判らないし、たいしたことではないがそれが出来なくなって、奪われてみると実はこれが一番大事な価値のあることだったんじゃないかと、そういう事に気付かされて行く。  人と人との交わりが最大の喜びであって、人と会ってばかっぱなしをすることがどれだけ素晴らしいことだったのかなあと、コロナによって気づかされたところがあると思います。

1968年に「三谷ブルース」、そのあとに「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」などが世に出てゆく。  

「友よ」は僕にとって重たい曲でずーっと歌っていなくて、「友よ」で言い切れなかったようなことをいつか言いたいという気持ちがずーっとありました。 光と闇を何度も繰り返して行くのが人生じゃないかなあという、「友よ」では夜さえ去って朝が来ればもうすべて解決してずーと光の中を歩んでゆけるような、ちょっとそういうような幻想があるような気がしていたので、朝と夜を何回も繰り返してゆくという事を描きたいなあとずーっと思っていました。  それで今回「友よこの旅を」を作りました。  「友よ」と「友よこの旅を」の二つがセットになって一つの歌になっているんじゃないかなあと思います。

「フォークの神様」と呼ばれた時代も僕だし、ロック、演歌を作ったのも僕だし、それでいいんじゃないかとそんな気持ちです。  「フォークの神様」と呼ばれていた時は檻に閉じ込められたような窮屈な思いはしていました。  「フォークの神様」という事を覆すためにいろいろチャレンジできたので、「フォークの神様」と言われたこともちょっと良かったのかなあという気がしてきて、得したのかなあと感謝しています。

「友よこの旅を」          作詞作曲:岡林信康  歌:岡林信康


2021年7月24日土曜日

中嶋悟(元レーシングドライバー)     ・【私の人生手帖(てちょう)】

中嶋悟(元レーシングドライバー)     ・【私の人生手帖(てちょう)】 

今からちょうど30年前、1991年一人のレーシングドライバーがモータースポーツの最高峰といわれるフォーミュラ1 F1の最終戦をもって引退しました。  中嶋悟さんです。   中嶋さんは1953年愛知県岡崎市に生まれ、1987年 34歳で日本人初のF1フルエントリードライバーとして参戦し、そのたくみなハンドルさばきが定評ありました。  日本でも愛されましたアイルトン・セナジャン・アレジともチームメートになっています。   ドライバー人生は多くの人に支えられたという中嶋さん、とりわけ心に残っているのは本田技研工業の創業者本田宗一郎さんの言葉です。   くしくも本田さんもちょうど30年前亡くなっています。  現在は後進の指導に当たっている中嶋さんに引退前後の心境やF1にかけた熱い思いと共に、走る実験室と言われるF1の実像、魅力なども合わせて伺いました。

車で行けそうな距離はほとんど車で移動しています。  自分のスクールの生徒が参戦するようになって時間がある限り見ています。   辞めてもレース屋です。  

フォーミュラ ワールドチャンピオンシップと言いますが、世界中で一番速い自動車で自信のあるドライバーが世界中から集まって世界中を舞台に戦うというものです。   僕の時代は16か国ぐらいでしたが、今は20か国ぐらいやっています。   毎年やっています。  コースによって最高スピードは変わりますが、直線の長いサーキットであれば320、330kmとか場所によってはもう少し行く場所もあります。  自分の会社で作ったものでしか駄目で、10チームであれば10種類の車両、ほかの会社で作った部品などは使えない。  チームによっては500,600人で構成されます。  

30年前に引退しました。  レーシングドライバーはかなり肉体的なものが必要になります。  車両の進歩と自分の年齢とで段々自分の思うような操作がしづらくなって、引退を考えるようになります。  4Gとか5Gとかになります。  それが前後左右にかかってそのなかで車を操作するわけです。   我々の時代はすべてが手動で厳しい状況に2時間近くさらされるわけです。   自分でしたくてもその操作ができないことが増えてきて、ぼちぼち潮時かなあと思いました。  1991年にはと心の中では決めていました。  

僕は挑戦というよりは冒険しているような感じでした。   見たことがない世界に入っていくので自分の立ち位置がわからない。  人よりうまくハンドルを切れるというのが好きで自分の得意なことなんですね。   雨の時には力が要らないから自分の腕が出せました。  

ゴーカートのレースを高校時代にやって、レースで勝って、そういったことが積み重なって、18歳で普通免許がとれて、普通自動車のレースのほうにステップアップしていきました。   しかしそれなりの活動資金が必要でかなりの借金をしてしまいました。  1976年ごろが潮時かなあと思って居た時に救いの手が来て、1977年にフォーミュラ1300で7戦7勝してしまったりしました。   何らかの報酬を得られるようになりました。  翌年イギリスに行けるようになりました。  そこで見たのがF1ですごいと思いました。   当時は自動車事故も多かったし、国内でのレース、レーサーに対してはあまりいい目では見られてていませんでしたが、イギリのサーキットの雰囲気、皇族のいる場所があったり、ロールスロイスが一杯並んでいたり、若い人からおじいさんまでいたり、ずーっと生中継して居たりしていて、ここに来ないと本物にはなれないと思いました。  

それが転機になりましたが、近そうで遠いんです。  すべてでレベルが違っていました。  ドライバーに必要なものは筋力は有った方がいいが、持久力が必要です。 身体のすべて部分の持久力がないとやれない。    トラックにレーシングカーを乗せて自分で運転してやっていました。   恐怖心はないのかとよく質問されますが、怖かったらやっていないと思います。  レース中に終わったらこんなものが食べたいなあと思ったことなどもありました。   自分には運転することが一番楽しくて、刺激があった。  自動車レースにほれ込んでいけるところまで行ったという感じです。  

今は情報が多すぎるので、我々の時代のように無我夢中になるというのが少ないのではないかという気がします。  すぐに結末が判ってしまうような世の中になってしまったような。   後輩が出てきてくれて、このチャンスを上手く拾ってうまく戦っていいことをやってくれたら、自分もレーシングスクールをやっていてよかったなあと思えるかもしれないですね。   戦っているころは溌剌とした気分でやれたので、ああいうのを味わってほしいなあと思います。  本田宗一郎さんに言われたのは、「自分は自分をしっかりせいよと、自分の思いをしっかり持って、人のせいにしたり人に押し付けたりしないで、自分の中で納得したことをやっていけ」というようなことを言われました。  

ホンダは今年限りで撤退しますが、まあまあ強くなったところで辞めるという事になってしまうが、脱炭素、自動車に対する要求がどんどん変わってゆくので、それに対する技術を傾けなければいけないという事があると思うし、F1、自動車レースでやったことが、技術者が次の車両に力を発揮する時が来たのかなあと思います。  




2021年7月23日金曜日

酒井美紀(女優)             ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】自信がないからこそ挑む

 酒井美紀(女優)     ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】自信がないからこそ挑む

1978年静岡市生まれ、高校入学と同時に歌手デビューします。   18歳の時に主演をしたドラマ「白線流し」は若者たちの恋愛や友情を描かれた青春ドラマの傑作で当時同世代だった若者に絶大な人気を誇りました。  現在は女優だけでなく母親、大学院生、社外取締役などいくつもの顔を持つ酒井さん、実は小さいころから自分に自信がなったといいます。  自信をつけ自分らしく生きるためにどのようなことを考え、決断してきたのか、伺いました。

2020年に不二家ペコちゃん70周年アンバサダーを務めたことがきっかけとなり、2021年3月24日付で同社の社外取締役に就任。   月に一回取締役会があり、前の月の売上げ報告とか、毎月議題があり議論します。    私は役者として観察癖があり、日常的に皆さんがどう暮らしているのだろうかと、いろいろ観察してしまいますので、そういったものが生かしていけるかなと思います。   役者として28年ぐらいやっていますが、国際協力の分野とお芝居があるが、社会問題に対して演劇メソッドを使ってゆくが、いま日本ではいろいろ社会問題があると思うが、日常的な問題を演劇メソッドを使って、解決まではいかないかもしれないが緩和してゆくことがあるのではないかという事で、国際協力の分野とお芝居の分野を合わせてできないかという研究を大学院でしています。

昔から自信のなさが課題で、この歳になっても自信のなさがあるんです。  違うものを始めてそれが自分の背中を押すみたいな風に作ってゆくというか、そういうところは有ります。   前に進んでいるということの実感を持ちたいと思っています。   女優になりたいという思いは子供のころからありましたが、すごく緊張してしまうし、今でも緊張します。   10歳の時に子供ミュージカルというものがあり、オーディションに受かり、緊張しながらも楽しいんです。  自分で出し切った時に拍手を頂いて、とても感動しました。   こういう世界があるんだと思って、お芝居をやって感動を伝えていくという仕事をしたいと、10歳の時に思いました。   両親は大変応援してくれました。  

高校入学と同時に歌手デビューし、映画Love Letterで女優デビュー。  高校時代は静岡から新幹線で仕事に出かけていました。  1996年から『白線流し』が10年に渡ってシリーズ化されて代表作にもなる。  長野の松本が舞台で、高校3年生でスタートして、新宿から特急あずさで行って、帰りは甲府から静岡へというようなパターンで通うとか2パターンがありました。   撮影では冬にはマイナス10℃とかもありました。 

白線流し』が終わって、東京の大学に通うようになり独り暮らしが始まりました。    環境が大きく変わりました。  大学受験では小論文があり先生にお世話になりながら、なんとか時間を割いて勉強しました。  睡眠時間が3時間というような状況でした。  同世代の友達と過ごしたいという思いがあったので、大学生活が出来てよかったと思います。

天然純水派というのが私のキャッチコピーでした。  歳を取ってくると、違和感というか窮屈になってくるというか、感じ始めてそこからはみ出してはいけないのかという思いがあり、段々窮屈になってきました。   回りに相談できないままにいましたが、25歳の時にアメリカに留学することになりましたが、窮屈さとの関係もありました。   語学もやりたいという思いもありました。   準備から全部自分でやりました。   

30歳で結婚しました。  ボランティア活動のなかで知り合い、結婚、2年後に長男を出産しました。   つわりがひどくて仕事をするのが大変でした。   母乳があまり出なくあげられない母親は駄目だなと思ってしまって泣いてしまったりしました。  結婚が天然純水派というイメージを変えてゆくきっかけにはなりました、特に出産した後ですね。  仕事は控えめですが続けていきました。   社会とつながっているというのが大切な時間でした。  子育てを切り替えられてリフレッシュできました。   

本格的に復帰しようとしていた時、当時所属していた事務所の社長さんが急に亡くなってしまって半年後に事務所が破産してしまいました。  路頭に迷うというような状況でした。  新しい事務所に入るが、その後独立し事務所を立ち上げる。(40歳)   今も未来も日常の積み重ねなので、日常を大切にしています。    決断するまでにはいろいろ迷いますが、決断はここだという直感があって、その時にはもう迷わずに行きます。  仕事は苦しいこととかいろいろありますが、これからはそういった中でも楽しみながら仕事をしてきたいです。






2021年7月22日木曜日

皆川典久(東京スリバチ学会会長)    ・谷の都・東京再発見のススメ

皆川典久(東京スリバチ学会会長)    ・谷の都・東京再発見のススメ 

坂の多い東京、全国的にも世界的にも珍しい谷やくぼ地の多い都市で、そんなすり鉢状の地形に魅せられてた皆川典久さんは58歳、東京スリバチ学会なるものを立ち上げて、本業の建設設計の仕事の傍ら休日には、都内の谷やくぼ地を回るフィールドワークを積み重ねてきました。  すり鉢地形を訪ね歩くと江戸時代から現在に至るまでの、その土地の歴史や文化の変遷を伺い知る事ができると参加者も次第に増えて、スリバチ散歩なるものが脚光を浴びるようになりました。    地形ブームの火付け役となった皆川さんは今や全国のスリバチ愛好家の会に招かれたり、NHKのテレビ番組「ブラタモリ」に出演するなど大忙しです。  すり鉢地形から何が見えるのか、スタジオでの架空散歩を交えながら、東京スリバチ学会会長の皆川典久さんに伺いました。

東北大学の建築科を卒業、今は大手建設会社の設計部門で仕事をしています。  群馬県生まれで小さいころ代々木の体育館を見て感動して、建築家を目指しまして、一級建築士として設計の仕事についています。   東京を歩いてみたら坂が多い、坂が向い合っているような場面もありました。   渋谷、四谷、市谷、千駄ヶ谷、谷中、茗荷谷とか東京には谷の付く字が多くて面白いなと思って、東京は谷の都、すり鉢状が多くて、スリバチ学会を2003年に立ち上げました。   学術的なことはなくてとにかくわいわい東京を歩いてみようよという事でスタートしました。   タモリさんは坂道学会でそれに対抗するスリバチ学会があるうという事で番組に呼んでいただいたのが始まりです。

東京は三方向を崖とか丘で囲まれたすり鉢状の場所が多いんです。   水が削った地形には間違いないんですが、もともと湧水があって湧き出る水があって、そういった土地に火山灰が積もった、武蔵野台地は火山灰が10~20mぐらい積もっています、富士山とか箱根の山から積もった関東ローム層があります。  湧水があちこちにあり、火山灰がそこに積もったが、火山灰が流されて、すり鉢状のくぼ地は火山灰が積もらなかった場所として作られたのではないか、と推測しています。   今でも湧水がある場所があります。 四方向囲まれた”一級すり鉢”もあります。    神田川の水源は吉祥寺の井の頭池です。  ここもすり鉢状になっています。   三宝寺池、善福寺池とかあるが、いずれも湧水が作った池です。  それが善福寺川に成ったり、妙正寺川に成ったりします。  NHKのそばの宇田川の源流は代々木上原駅から北へ15分ぐらいのところに小さな湧水池が残っています。  石神井川、目黒川、立会川などもそうです。  

江戸の町割りは土地の高低差を上手く活用しながらつくられている。   高台は武家、大名屋敷、谷間は庶民の住む町、それが引き継がれて高台は病院、学校、軍など大きな敷地を活かして大きな建物が多い。  谷はそのまま継承して現在の町になっています。  

架空散歩、赤坂の薬研坂(薬研のようなすり鉢状) スリバチ学会発祥の地です。  谷底が赤坂の繁華街で大きなため池がありました。  庶民の飲み水を確保するためのため池だった。  今の虎ノ門の交差点の付近にダムを作って飲み水の確保と同時に、江戸城の外堀の一部だった。 (外堀通りと名前が引き継がれている。)   千鳥ヶ淵も江戸時代に作られたダムです。  小石川用水、神田上水(井の頭池が源水)、も飲み水用とした。  足りなくなった多摩川から引っ張ってきて多摩川上水を作った。   飲み水の確保に苦労して作りあげた。  

四谷三丁目の荒木町は四方向囲まれたすり鉢状になっている。  池が残っているが、もともとは大名庭園の池、松平摂津守の屋敷だった。  明治になると風光明媚に憧れて料理屋、芝居小屋、花街として栄える。 現在は個人が立ち上げた飲み屋さんが沢山あります。

大きなくぼ地があるところ、大久保、もともとは大窪村?(大久保村?)と呼ばれていた。  江戸時代には尾張徳川家の下屋敷(別荘)で、池、東海道の宿場町を模した町屋が並んでいたり、箱根の山を模して築山を作って風景に見立てて、築山は今でも残っています。(箱根山)   

渋谷は坂の町ですり鉢状の町です。   迷ったら坂を下ると渋谷駅になります。  二つの川が合流した場所、渋谷川と宇田川です。  ほかに小さな川が一杯あった。  坂を上った町の名前が鉢山町、桜丘町、丸山町、神山町、代官山町、みんな山です。   川の作った谷間が分断して山のような地形を作っている。  谷には神泉、鶯谷、富ヶ谷などがあります。   道玄坂と宮益坂があるが、宮益坂は富士見坂」と呼ばれていたが、御嶽神社があり御岳権現にあやかって「宮益町」と変更されたことから、この坂も「宮益坂」と呼ばれるようになった。   道玄坂は道玄という盗賊の名前で、盗賊が出る坂、渋谷川の西は辺境の地で、盗賊が出るようところだった。   

スリバチ学会は基本自由参加で、申し込み不要、参加費無料、でもフォローはしませんという事です。  5年前には100人ぐらい集まってしまって、自由参加ということにはできなくなってしまいました。

自分たちが望む都市のあるべき姿を地形、水をテーマに考えてみようという事で、東北大学でやらせてもらって、法政大学からも声がかかって非常勤講師として、東京発掘プロジェクトというテーマで、東京の川は蓋をされて見えなくなっている、東京にはたくさんの運河、水路があったが、見えなくなっているので、発掘してもっとわくわくなるような東京を描いてみよういう講座を学生たちと楽しみながらやっています。   そういった取り組みに対して2014年にグッドデザイン賞を受賞しました。

最近は防災的見地で地形の高低差などで注目することが多くなりました。  水には恵みと災いがあるが、両方を知ったうえでうまく付き合うことが 文化文明なのではないかなと思います。 

日本各地でも、東京近辺でもスリバチ学会が立ち上がってきています。 海外でもパリ、ローマなどにもあります。  

「書を捨て谷へ出よう」(寺山修二 「書を捨てよ町に出よう」をもじったものか)ということで家に籠もっていては出会えないことが、街にはころがっているし、いろいいろな発見があるのではないかと思います。