2023年2月7日火曜日

土屋國男(ランドセル職人)        ・子どもの背中に寄り添い60年

 土屋國男(ランドセル職人)        ・子どもの背中に寄り添い60年

東京足立区で60年近くランドセルを作っている土屋國男さん(85歳)にとっても、春の新学期は嬉しい季節です。  厳しい徒弟制度を経て小さな町工場を立ち上げ、たゆまぬ努力と丁寧な仕事ぶりが評価されて、今年度の現代の名工に選ばれました。   土屋さんが目指してきた理想のランドセルとはどんなランドセルなのか、子供の背中に60年余り寄り添って来た土屋さんにランドセル作りにかける思いを伺いました。

予約するケースが段々早くなり去年の9月で全部うまってしまいました。  選ばれる姿を見ていると一生の思い出になるのではないかと思います。  岐阜県出身で中学を卒業して直ぐ上京して15歳でカバンメーカーに就職しました。  親方から革の扱い方を徹底的に叩き込まれ、革へのこだわり、丈夫さの追求など、職人技と技術だけではなく、人の心の修業時代が私の大きな財産になりました。  27歳で独立し、もう一人の職人と妻で11坪でスタートしました。  パートさんも3人入って来て仕事にも慣れた時に、技術コンクールに出展しないかと親方から薦められて、出展しましたが落選でした。    自分の技術の足りなさを凄く感じました。  技術を追求して力もついてきて、出展では入選をするようになりました。 

全国百貨店協会会長特別デザイン賞、経済産業省局長賞などを受賞。  第二次ベビーブームもあり仕事がひっきりなしに来るようになりました。(1971~4年頃)       1990年代に入ると少子化、バブル崩壊、取引先の倒産などで一時期生産がほぼゼロになるというような状態に追い込まれました。  息子が会社に入って、ものづくりの良さを世間に伝える営業を担当して二人三脚が始まります。  徐々に世間に認知、評価され、工房系ランドセルを代表するブランドのひとつとして知られるようになりました。  2人だった職人も200人になり、これまでに生産・販売したランドセルは累計90万個を超えました。   

ランドセルは丈夫で安全な使いやすい、という事にこだわってきました。 汗をかいてもベタっとくっつかないようにクッションに隙間を作ったり、肩のバンドも肩にフィットするような作り方です。  出来るだけ軽い材料を選んで軽くなるように作ってきています。  ミシンのかけ方、盛り上がりの形など見た目も工夫して常に品格のあるランドセルを目指しています。   艶も消すようにしてきています。  赤と黒だったのが色も増えてきました。   多機能化しました。

ランドセルは150以上のパーツを使い、300ぐらいの手仕事の工程を掛けて完成します。   最初は材料(革、金物など)選び、革の部位によって適材適所にわけ裁断します。   かぶせの部分は折り曲げしても皺など起きないように場所を選んで裁断します。  0.5mm違っても見た目に影響があったりするので気を使います。 ミシンは針の太さなど選びます。 かぶせの下の角は傷みやすいので、革を余分に当てって補強してあります。  菊寄せと言ってひだをきちんとそろった形にします。    

6年間使ったランドセルを見ると、ここはもうちょっとこうしたほうがいいと、そういったことが一番よく判ります。  ミニランドセルを作る時に全国からいろいろなメーカーのランドセルが集まってくるのでいろいろ参考になります。  

断ち包丁で裁断します。  鋼の部分が8~10cmあったものが、研いでいるうちに2,3cm迄減ってしまいました。   包丁の研ぎ方でその人の腕が判ります。  刃が真っすぐの方が裁断しやすいんです。    最近は型で裁断するので包丁の裁断はほとんどないです。  細かい細工を包丁で行う程度です。  

人を育てる事で恩返しをしたいと思って、20年ほど前から若手育成に取り組んできました。時代に合わせた新しさも大切で、常に良いものを世に送り出そうと新しいものにも挑戦しています。   大人向けにも財布やトートバック、大人用ランドセルなども作っています。大人用ランドセルは外国人にも人気があります。   ランドセルはオランダのランセルと言うミニ用のバッグでしたが、日本に入って来て伊藤博文大臣が大正天皇のご入学のためにプレゼントしようとして職人さんに注文して作ったのが、最初のランドセルだそうです。

ランドセル選びは1年生の思い出です。  家族みんなで選んで、喜ばれるものを作って来てよかったなあと思います。  








 







 

 








  
















2023年2月6日月曜日

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕 

「短歌のガチャポン」というタイトルの短歌の本を昨年末出版しました。   「ガチャポン」「の様に何が出てくるかわからない、どんな短歌が出てくるか分からないように、逆に順番をバラバラにしています。    メリンダ・パイノさんというオーストラリア人の方がイラストを描いています。   今日はここからの紹介です。

*「おふとんでママとしていたしりとりに夜が入って来て眠くなる」  松田和子      7歳の女の子の作品で、夜がしりとりに入って来て、眠くなちゃったという、面白いですね。

*初めから夕方みたいな日のおわり近づきたくてココアを入れる」   本田瑞穂     心理的に何にもできないような日があると思います。    「近づきたくて」 何に近づきたいのか書かれていない。   大切な、人、もの、思い出とか。  なんか優しい諦めみたいな感じと深い絶望も感じられる。 

*「ポオリイのはじめてのてがみは夏のころ今日はあついわと書き出されあり」 石川信夫     これは戦前の作品です。  いきなり「今日はあついわ」と書き出してくるポオリイは素敵な人で、二人とも若いと思う。  この時代では話口調は珍しかった。  

*「口づけをしてくるるものあらば待つ二宮冬鳥七十七歳」      二宮冬鳥       「口づけをしてくるるものあらば待つ」という短歌の古風な言い方が逆に生きている、まるで侍が言っているみたい。  二宮冬鳥は医師でした。  他に同様の作品を作っているのか調べたら、若い医師になりたての頃の作品にありました。

*「顕微鏡の光の中にゾウリムシの熱き接吻を我は見ており」     二宮冬鳥         これも面白いです。

*「冷たいと思わないと思われている鮮魚は氷の上に乗って」     鈴木春香    鮮魚を自分と重ねているような、 死んでいる鮮魚も実は冷たいと感じているんだという、そこにドキッとするものがあります。  

*「氷上葬があるなら私はそれがいいどこまでもどこまでも滑って行きたい」佐藤光正 日本では火葬、土葬(昔) 火葬も改めて考えると、えっと思うような感じはする。    この人は氷上葬を急に頭に浮かんだと思います。  永遠という感じがします。

*「幾たびもあなたの頬をぬぐってた泣いているのは私なのにね」     鈴木美津子  心のなかで一体化してしまっているような。   

*「何をしに僕は生きているのかと或る夜更けに一本のマッチと会話をする」 立原道造  詩人ですが、有名な詩人を含めて若い時には短歌から入って行った時代です。 24歳で亡くなる。 

100首を選びましたが、100首あれば100首の凄い瞬間に立ち会っているような、そんな気持ちになります。  

リスナーの作品                                  *「どの数もゼロを掛けるとゼロになるあの夏のゼロのような出来事」  しまたく    「あの夏のゼロのような出来事」何かがあったのかはわからないが。

*「この曲を聞いてたいから音量を上げたまんまで自宅を過ぎる」 三谷もあいぞう   曲に入り込んでいたい。

*「ル-ビックキューブに吐き気がした後に空は何色でも美しい」  多治見千恵子    もう嫌だと思ってみると空は美しい。 

*印は漢字、かな等、又名前が違っている可能性があります。
























 

2023年2月5日日曜日

江原正士(声優)            ・〔時代を創った声〕

 江原正士(声優)            ・〔時代を創った声〕

トム・ハンクスビル・マーレイウェズリー・スナイプスなどの俳優の吹き替えなどでご存じの方も多いのではないでしょうか。   小さいころはぼーっとしてリるような子でした。   小学生の頃は歌はうまかったらしいです。  野山を駆けずり回っていました。  高校時代受験戦争に巻き込まれて、興味の対象がほかに行ってしまいました。  大学も映画部に入ろうと2年受験挑戦して失敗して、どうしようというところから始まりました。  高校の後半は良く映画を観に行きました。    東宝に行って映画監督になるにはどうしたらいいでしょうかと聞いたのを今でも覚えています。    チャールズ・チャップリンの映画を観て吃驚して映画監督を志そうと思いました。   

俳優学校に入りました。  全くの素人でいろいろなことに対して吃驚する事ばかりでした。   ソーダ水を初めて見る女性のセリフに対して、、映画監督 山本嘉次郎が参考として実演した姿が、年配だったにもかかわらずその場にいた女性たちよりも一番女性らしくみえ、その表現の見事さに驚いたと同時に「表現とは何か」と思い立って芝居を勉強しようと思いました。   2年ぐらい経過して、劇団四季を受けようと6人で行って、それがばれてしまいました。   ここでは朝9時から12時まで完全に踊りでした。   映画を作りたいという思いがあり、稽古場で撮ったりして居たら、問題となり辞めた方がいいのかなあと思って辞めてしまいました。   観劇した舞台での西田敏行さんの演技に感動し、西田さんが所属する劇団青年座のオーディションを受けて、映画放送部に移籍しました。   地方巡業した緒形拳さん主演の『王将』のある役を頂きました。   勉強になりました。

スバルに行って、ディズニー系のアニメをやりだして、その辺から随分アテレコをやりだして、連日やりました。   絵を良く見るように心掛けました。  追いかけて行って発するセリフとか、吹き替えではいい声でみんなしゃべっていてリアルさがなく、オリジナルに近い芝居をしたいと思いました。   声の仕事が多くなりトム・ハンクスさんと巡り合い、ビル・マーレイさんはリズム感が独特でした。   

トム・ハンクスさんの「ホレスト・ガンプ」1994年に制作。   純粋さを出せなかったら、アウトだと思って良く観ました。   でも苦ではなかった。  役者さんがやっている役に成りきるように努力しますが、でもちょっと近づける程度ですが、でもそれをやらなかったらみんな字幕を見ちゃいますよね。   アニメはあまり動かないので、キャラクターつくりを優先するようには成りました。     

若い声優さんに対しては、表現は多種多様にあるので、いろんなものを観ながら、絵を観たり、いろいろなジャンルの音楽を聴いたり、自分のベクトルをいろんな方向に回してほしいです。   昔の映画を観てフィードバックする。   現場でも辛いことがいっぱいありましたが、結局は自分との闘いなんですね。   自分一人だけでは生きてはいけないので、ある意味バランス感覚、屈するのではなくて、そういったアンテナをどこかで訓練していかないと独りよがりになってしまうし、難しいところではあります。  友人とか大事にして、きずなを大事にしておくといいですよね。   役者は精神的なパワーがないと成立しない仕事なのかなあと感じて、心を鍛えてくじけずにいけたら幸せです。  自分の思うクオリティーを保ってゆく努力はしていきたいと思います。   声優、俳優にとって大切なことは、精神力だと思いいます。   世界を広げて欲しい。  声優、俳優の魅力は、自分が自分じゃなくなる瞬間だと思いますが、自分が拡大してゆくとか、結局は自分なんですよ。   いろんな役を引き受けても自分からは逃げられない。






































2023年2月4日土曜日

キダ・タロー(作曲家)         ・浪速のモーツァルト 後編 90歳過ぎてますます元気

キダ・タロー(作曲家)    ・浪速のモーツァルト 後編 90歳過ぎてますます元気 

キダさんは独特のヘアースタイルで、学校時代音楽室に飾っていたバッハやモーツアルトの髪形に似ています。  白髪混じりのオールバック、襟足は高めです。  浪波のモーツアルトというニックネームがしっくりくるのもこの風貌からくるのかも知れません。  キダさんは昭和5年12月生まれ、92歳。  兵庫県宝塚市に生まれ、ずーっと関西で活動してきました。 キャバレーやダンスホールのピアニストとして活躍、作曲、編曲の活動に軸足を移して昭和20年代の後半からはCMソングや関西発のテレビ番組のテーマ曲を次々に手掛けて行きます。  締め切りに追われながらも作曲をこなしていったキダ・タローさん、92歳がその作曲家人生を振り返ります。   

ピアノを弾くという事と作曲をするという事は別の脳の場所だと思っています。  ピアノを10代からやっていますが、才能がなかったという事が判るのに70年かかりました。    基本的に手が小さい、指が短い。  オクターブ3つ幅が要るんです。  13度届かないと演奏出来ない曲がある。   三木鶏朗さんという天才が東芝とかどんどん曲を作っていました。   「CMソングを作ってみませんか。」と言われて作曲の道に入りました。  CMコンクールがあり、東京では複数の作曲家、大阪ではほかにいないので私が担当し、コンクールの優勝が毎月あり、ほとんど私が取りました。   それが病みつきの一つの原因ですね。  東京へも録音に行ったりして、一流の歌手とも知り合いになり、交友関係は広がりました。   拠点を東京に移すという気にはならなかった。   

1926年民放ラジオがどんどん開局し始め、テレビが盛んになるのが昭和30年代。  当時、一睡もしないでCMを一日7曲書いたこともあります。  締め切りの前日までは、詩は頭の中にあるが、見ないようにしていました。  詩には必ずへそがあるので、へそが出来たらいいんです。 へそは感性の問題です。

昭和27年から20年間続いた番組、ホームソングの番組があり自分でも何曲か出しましたが、お母さんの歌で私が作ったことを知らないプロデューサーから「あれは駄目。」と言われて、いい勉強になりました。   自分を見つめ直すということは難しいものです。  昭和39年に初めてレコードとして出る。  北原謙二さんの「ふるさのはなしをしよう」詩が書けと言っているような感じのもので作りやすい曲でした。 10分か15分で出来ました。  曲が半音低いという事で、当時はそれを行う事は大変でした、そういった思い出があります。  

今までに1000や2000は軽く書いていると思います。    団体や会社の曲、プロポーズ大作戦、ワイドショーなどの番組のテーマ曲、人をテーマにした番組挿入曲、放送局の歌、地域の歌、学校の校歌,CMソングなどなど。

NHKの『平成古寺巡礼』古いお寺に雪が降っているような感じをイメージして演奏だけで、それらしい雰囲気で作りました。    「生活笑百科」で歌を入れるかどうか、いろいろやり取りのなかで作り上げました。   

「浪花のモーツァルト」の異名を持つ。  モーツァルトみたいに整然とした感じは好きじゃないです。  奔放な音楽の方が好きです。    一番信奉しているのがショパンです。  感性溢れる曲が好きです。  ガラ系時代からゲームが好きでやっていましたが、スマホになって内容が派手になって面白くなりましたが、感動がないので辞めました。   



















 



2023年2月3日金曜日

伊東四朗(喜劇役者)          ・私は喜劇役者!

 伊東四朗(喜劇役者)          ・私は喜劇役者!

1937年(昭和12年)東京都生まれ。  高校卒業後石井均一座に入団、その後南伸介、戸塚睦夫と「てんぷくトイリオ」を結成しお茶の間の人気者となります。   1969年大河ドラマ「天と地と」に出演、数々の映画、ドラマに出演しました。   1983年連続テレビ小説「おしん」ではヒロインおしんの父親役を演じ、その厳しい演技が話題となりました。  又民放のバラエティー番組でも数々のキャラクターを演じ人気者となりました。    シリアスなドラマから喜劇、バラエティーまで幅広く活躍する伊東四朗さんのお話を伺います。

阿吽の呼吸というか、お客さんとのやり取りは大事だなあと思っています。  お客さんの世代も幅があるので,どこにターゲットを合わせたらいいかなあと言う時に、楽屋にはスピーカーがあってお客さんの声がざわざわ入って来ます。  その声を聞いて今日はこの辺だなという事を自分で見定めています。  

台東区の生まれ。 浅草へは歩いて行けるところです。  物心ついてみたのはエノケンさんの孫悟空でした。(5,6歳)  父親に連れて行ってもらって歌舞伎も良く見に行きました。    15代目の市村羽左衛門を観ているというのが自慢です。   サラリーマンになるつもりでいましたが、芝居だけは見にいっていましたが、楽屋の窓から石井均さんから「おい青年 寄ってけ」と声をかけてくれて、それがきっかけとなりました。    石井一座の役者から「君も(舞台で)やってみないか?」と誘われ、石井一座に参加するようになりました。  

どうしてそうなってしまったのか、その心境の変化が未だに判りません。  バイト先で正社員にならないかという話があった時でした。(21歳)     いろいろあって3年ぐらいで解散になりました。  石井一座にいた戸塚睦夫も新宿フランス座々付でその剣劇や軽演劇仲間だった三波伸介とは夜間キャバレーの営業に出ていた。  二人の都合がつかない時には三波の替わりに出たりしていました。   そのうちに三波が本当にいなくなってしまって、私が「三波」になってやっていました。  三波は大阪でやっていたが、うまくいかなくなって解散して戻って来ました。  便宜的に始めたのがトリオです。(てんぷくトリオ)     

そのうちテレビが笑いの番組をいっぱい作るようになり、そのお陰で何とか波に乗ることが出来ました。  井上ひさしさんに出会って、コントを書いてもらいました。   それがなかったら僕らは長くは続いていなかったですね。  難しいコントで、緻密で生放送という事で、死ぬような思いでした。   NHKの『お笑いオンステージ』もありました。  1973年戸塚睦夫が42歳でなくなり、1982年12月8日、三波が52歳で急死してしまい、物凄く喪失感に襲われました。   どうしたらいいかという時に「天と地と」という大河ドラマに呼ばれたり、民放からも声が掛かる様になりました。

「電線音頭」でのベンジャミン伊東をやっていて、1983年、『おしん』では父親役に抜擢されることになりますが、あのお父さんの役はデメリットがあるんじゃないかと思いました。  みごろ!たべごろ!笑いごろ!』に三枝さんが来ていて、「電線に・・・・」なんて言って踊ったことがあるんです。  一回だけのアドリブだったが、あれをプロデューサーが伊東さんで独立させたいという事になり、考えた時に「サーカスの団長」が思い浮かんだことが発端となってあんな衣装スタイルになりました。  振り付けも自分で考えてやることになりました。  小松政夫は「しらけ鳥」を歌っていました。  他にもいろいろネタを外から仕入れていました。  

喜劇というのは、口幅ったいようですが一番上にあると思っているんです。  喜劇が出来ればほかのものは何でもできるといいたいです。  それほどやってみると喜劇は凄いんです。    お客さんが違うだけで、毎日違う舞台をやっているような気がします。    笑いにもいろいろあり、後でいろいろ考えて、毎回喜劇は答えが変わってきています。  喜劇は失敗もあればいいこともあります。  公演中はゆっくりするという事はなく、尻を叩かれている様な気がします。  喜劇は本が一番大事です。  

間とかはお客さんから教えてもらうものですね。  台詞をお客さんが理解して次の言葉に入ってゆく、そこにずれがあったりする、どんどんずれてゆくと喜劇の意場合は怖いですよ。  ずんずん深みにはまってゆく。   必然的に無理なく笑ってくれる喜劇をやってゆくとストレスは弾けてゆきます。   全部正解という事はやったことはないけれども、一度やってみたい。   舞台だけで終わるのかなあと思っていましたが、テレビでも随分お世話になりました。   テレビを見ている皆さんの見方が変わって来たので、今喜劇をテレビでやってもなかなか見てもらえないと思います。        




































2023年2月2日木曜日

春日いづみ(歌人)           ・短歌に託したコロナ禍の介護~2022

春日いづみ(歌人)           ・短歌に託したコロナ禍の介護~2022

新型ウイルスの感染は介護の現場に深刻な影響を与え続けています。  長年続けた介護百人一首は2021年度から新介護百人一首として装いもあらたにスタートして、今回前回を上回る1万3000首を越える作品が寄せられました。    14歳から103歳までの広い応募があり、このほど入選作品100首が選ばれました。  春日いづみさんと共に作品に込められた思いをお伝えしてまいります。

今回は特に海外からの研修生の応募が多かったです。  日本人の若い方からの応募も増えました。    私は97歳になる母の介護をしています。  私も70代ですので老々介護と母にも言っています。 

静岡県 東廣美さんの作品                             「なんで又マスク交換手をつなぎなかよしこよし言うこと聞かず」            スタッフの眼を盗んで認知症の方がマスク交換を始めます。  何度言っても聞かない。  「なんでまた」が読者を惹きつけます。

長崎県 北原俊紀さんの作品                            「隔離終えタバコ一服かよさんは誰より早く日常に戻る」               タバコを吸う事も我慢しなければいけなかったのかもしれない。    心がほっとする時間だと思います。  

香川県 六車正子さんの作品                             「リモートで孫三人の見舞い受くパジャマの衿元ととのえながら」                 コロナで面会もままならなかった。 パジャマでも身支度をきちんとする。

岐阜県 伊藤敦さんの作品                             「介護士のその一匙が震えてる白がゆ喉に通る喜び」                 食事の介助はたいへんだと思います。  介助しているのは孫娘さんです。  「白がゆ喉に通る」ことを確かめながら匙を運んでいる。          

岡山県  カイ モー モー ウーさんの作品  ミャンマーから来ている。      「実習で記録を毎日書いてたら介護より日本語上達してきた」             4年半前に日本に来たという事です。   介護専用の言葉もあるし、覚えることはたくさんある事だと思います。

山形県 後藤早紀さんの作品                            「おもしゃいべいろんな人がいるもんだ父の言うこと今ではわかる」           「おもしゃいべ」は山形の方言。  17歳の作品。               

滋賀県  近江菫花さんの作品                                「寝返りを打てない母を寝返えらせ支援ベッドは月へ傾く」              「月へ傾く」というフレーズがとても上手だと思います。   

埼玉県 根岸裕幸さんの作品                              「亡き母に尽くしきれたか悔いがある我還暦の介護士目指す」             還暦、介護士を目指す、人生でやり残した宿題という思いでいます、という事でした。   根岸:非常にやりがいのある仕事だと思っています。 

埼玉県 渡辺冨寿子さんの作品                                「左耳難聴なのにケアさんは右耳に頬寄せ声高に」                  言ってくれているのが嬉しいというところがいいですね。                         

春日:介護で相談してくれる人がいるという事は有難いです。               

春日いづみさんの作品                               「旧体(態?)に成りて歩める夢の道背中にひっそり母を背負いて」                                                       

神奈川県 大島史郎さんの作品                             「さすり座の男と称し妻の背を擦りて紡ぐ老いの絆を」                    「さそり座の女」をもじって、ユーモアがあるという事はいい事です。

福岡県 中島正美さんの作品                             「長年のうらみつらみを聞かされて介護を受ける身から出たさび」                    男性の歌   複雑な思いをお互い抱いている。 

秋田県 斎藤敏也さんの作品                                 「父親の足の爪切る風呂上り電柱に登り踏ん張った足の」                  この足でずーっと家族を支えてくれた。    爪を切りながら胸が熱くなったことを覚えています。         


                              









         


























2023年2月1日水曜日

亀井茂(元・テレビカメラマン)     ・テレビ放送の夜明け前(大阪編)

 亀井茂(元・テレビカメラマン)     ・テレビ放送の夜明け前(大阪編)

昭和28年2月1日はNHKが日本で最初のテレビの本放送を開始した日です。  NHK東京テレビジョンでしたが、全国ネットワーク化を進めるため、大阪と名古屋でも並行して実験放送が行われています。  当時大阪放送局にあったテレビジョン実験局でカメラマンとして勤務してい亀井茂さんにお話を伺います。   強い照明の中、ズームレンズのなかった初期型のテレビカメラがドリンと呼ばれる台に乗せられて、出演者に近づいたり離れたりする、今とは違うスタジオの風景、その中で繰り広げられた実験放送の様子、当時20代だった亀井さんの思い出を辿ります。   

大正時代から浜松工業高等学校や早稲田大学でテレビジョンの研究が行われました。  日本放送協会が中心となって、実用化のための開発がされるようになります。   昭和14年(1939年)東京で実験放送が行われるようになりました。   中止になった東京オリンピックを中継するんだということを目標に準備をしてきました。  その前のベルリンオリンピックで ドイツがテレビ中継をやったという事に刺激を受けて、東京でもという事だった。   太平洋戦争、第二次世界大戦の敗戦と共に研究が中止になる。  GHQにより戦時中に軍事転用された科学技術の研究をすべて禁止した。   この時にテレビジョンに関する研究がすべて禁止された。   昭和21年GHQによる禁止措置が解除される。   東京NHK技術研究所を皮切りにテレビジョンの研究が本格的に再開される。 大阪で昭和26年6月25日、NHK大阪テレビ実験局で出力30wという出力で放送を開始した。   

私がNHKに入ったのは昭和27年の4月からです。  昭和27年2月26日にNHK大阪が定期実験放送を始める。   テレビのことは全く知らないで、テレビ技術班(課にはなっていない。)があり、スタジオで四角い箱があり、それがテレビという事で面白そうなのでやりたいといったのがきっかけです。   三脚の上に四角い鉄の箱が乗っていて、210mmのレンズが一本ありました。  照明は5kwのライトです。(探照灯)  それを30坪ぐらいのところに3台持ち込んで 、500w~1kwぐらいの電球がやたらにくっういたものを天井から照らしていました。    スタジオの中は常に40℃ありました。   熱に泣かされました。  

当時の出し物はバレエ、日本舞踊、料理、歌もの、漫才、宝塚歌劇団とかでした。   宝塚歌劇団がハワイアンを膝まづいて踊った時に膝を火傷してしまったという事で、大変だったようです。  昭和27年の頃の実験放送は1本の番組は15分ぐらいでした。   28年ぐらいから中身のあるドラマ、ミュージカルを作り出しました。   早く終わったりするときのために金魚鉢に高級な金魚をいれて、それを撮るようにしましたが、金魚がぷかぷか浮いてきて熱のために死んでしまうので、レコードをかけて花瓶のお花を撮っていました。   料理番組では先生の白衣は反射が強すぎて、薄いブルーに染めてもらったり、ご飯もブルーの色をかけます。  見ていて食べる気がしないんです。  漫才は動きがあって面白かったですが、落語は難しかったですね。  ズームがなかったのでカメラが寄って行ったり離れて行ったりしました。  太いケーブルが点いているので難しかったです。   

東京では昭和28年2月1日から本放送が始まります。   当時はマイクロウエーブという放送局同士をつなぐ電波があり、東京から、名古屋、大阪への下り回線だけでした。  登り回線が出来たのは昭和28年8月13日の第35回夏の高校野球の大会でした。   新しいテレビカメラでレンズが4本ついていました。  照明の感度も全然違っていました。   ボールを追ってゆくのにコツがいりました。 (ライト側のフライなどは難しかった。)    野球中継は3,4台のカメラでやっていました。  カメラは熱に弱かったので、扇風機を使ったり冷却に大変でした。   

4元放送をやったことがあります。  東京がスタジオと月島桟橋、大阪がスタジオと道頓堀太左衛門橋、「追跡」という4元ドラマでした。   これがテレビの最初の芸術祭賞をとっています。  1954年3月1日NHK大阪放送局がテレビジョンの本放送を始める。 昭和28年2月1日で東京で放送を始めた時には、大阪管内ではテレビの台数が466台、一般家庭が60台、喫茶店など営業用が31台、この時の大阪のラジオは170万台。  和田勉とは同期でした。  

25,6歳のころ民間に移りましたが、重宝されて年寄りの人を教えたりしました。    カラーになって一番苦労したのは、ジュースならジュースの色が本当に出ているのかなあと言う事でした。  紫が一番撮れなかった。