2026年8月16日日曜日

西田公昭(立正大学心理学部教授)      ・「特殊詐欺の被害 過去最悪」

西田公昭(立正大学心理学部教授)      ・「特殊詐欺の被害 過去最悪」 

オレオレ詐欺などの特殊詐欺は、インターネットやスマートフォンが普及した今、その形を変えて手口が功妙化しています。 詐欺グループは東南アジアを中心に大規模な拠点を設けていると見られ、警察当局は日本に実行役を送り込んでいると見られる、匿名流動型犯罪グループ「匿流」の取り締まりを強化していますが、被害は急増、拡大しています。 立正大学心理学部教授、西田公昭さんです。 西田さんはカルト宗教のマインドコントロール研究や詐欺、悪徳商法の心理学研究の第一人者です。 西田さんには最近の特殊詐欺の手口、騙されてしまう心のメカニズム、被害を防ぐための心得などを伺います。

今増えているのは、偽警察官詐欺、ロマンス詐欺、SNSを使った投資の詐欺が増えています。  オレオレ詐欺還付金詐欺が減ってるわけではありません。 今の詐欺は全部非対面、インターネット、電話、その他メディアを通じて騙されます。  もう特殊と言うようには呼べなくなってしまっています。 最近は若い20代も騙されています。 

偽警察官詐欺と言うのは、スマホを使ってビデオで操作をすると言うやり方を進めてきます。 初めはびっくりします。 「あなたは逮捕されますよ。」と言うようなことを言われると、もしかしたら自分が知らないうちに犯罪に巻き込まれてるかもしれないと言う想像力は意外と多くの人ができると思います。 そうすると、警察の話をしっかり聞こうと言う姿勢ができてしまう。 ビデオ通話で警察官の制服を着て警察手帳を出してくるし、捜査令状、逮捕状まで用意されています。 数名で芝居をするように用意している。 詐欺なんか私ならば気づけるだろうと根拠のない自信を持っている。 

「溺れるものは、藁をも掴む」と言う諺がありますが、溺れさせてやれば藁をつかんでくれると言うことを知ってるわけです。 心理的な動揺によって溺れさせます。藁と言う偽物の救済策を出すわけです。 ロマンス詐欺も、もっと広い意味の孤独を癒すための人間の心理を利用されている詐欺です。 幸せになれるとか期待を与えるわけです。 高齢者になればなるほど、孤独と言うのは辛い悩みだったりするわけです。 SNSなどで簡単に関係が構築できる。  孤独を癒せると思って、登録したと言うと、紹介されてくる人も自分と同じような考えを持っている人だと錯覚してしまう。  

長い間に関係が続いて、癒したり、癒されることによっていい人だなと思ってきて、悩み事の相談をしたり、不安なことを聞いてみたりする。  すると、気持ちを受け止めてくれて、役に立ちそうなメッセージをくれるわけです。 いい人だと思って、相手が詐欺師だと言うと言うことに対しての感覚は、薄らいでいる。 親切で良い人であるにもかかわらず、疑うと言う事は自分を責めるわけです。 それを利用されるわけです。 複数の人が組織的に1人の人物を演じているわけです。 特定の人物になりすましてるわけです。 完全に信じ込ませてしまうと、今度は会いたい会わないと言う話になってきて、会いたいと言う気持ちがあっても会えないと言う現実を作っていく。  相手を失いたくないと言う心理が働いて、相手のためにできることというのはなんですかと言う気持ちになってくると相手はお金が必要なんだと言うような話になってくる。 投資に向かわせたり、ローンのために必要な費用が必要なのであなたも借りて欲しいと言うようなことになる。 

投資に関しても数字上は増えているように見せかける。 もっと行こうと言うことでお金を注ぎ込ませる。 しかし実際は儲かっているわけでもなく、偽物のアプリなのでお金を取られるだけです。 投資の会社とか証券会社になりすましたメールやホームページを用意してそこから入ってくるわけです。  

店の投資グループが用意されている。 そのグループの投資が成功しているかのように演出するわけです。 グループが儲かっているのに、自分が貢献しなければひんしゅくを買うのではないかと言うのは思いで、自分も投資するような形になっていく。 数字は儲かってるような形になっているが、実際に現金化しようとするまでわからない。 多額のお金が引き出されることによって、銀行員の方が不審に思うようになります。   銀行員は騙されていないか連絡するが、目が覚める人は少ない。 儲かっていると言う意識がある。  銀行側は強くは言えない。 現金化しようと思った時に、初めて気がつくわけです。 

匿名性の高い非対面の詐欺の時代は、なかなか逮捕できない。  自分で身を守るためには疑わざるを得なくなる。 大事な事はお金が絡んできたり、個人情報が絡んできた時だけはちょっと待てよと言うことです。 最近はネットで使用される時代になってきたので、どこからでもたくさんの仕掛けができるようになりました。AIの時代になって顔も作れるし、声もそっくりです。 企業レベルで騙されるっていることもあります。  AIの技術が悪用されると、そういったことができてしまう。  

自分も騙されるかもしれないと言う前提をまず持つこと、自分の考えが正しいかどうかと言うことを、柔軟に確認したり変化させたりすると言うことだと思います。お金がいるとか個人情報くださいと言う、この2点が1番わかりやすい手掛かりになると思います。 「さしすせそ」 「さ」はさっと警戒すると言う事 「し」はしっかりと調べる。 「す」は素早くスパっと相手の考えを見抜こう。 「せ」、精一杯、心の動揺抑えてください。 「そ」は即座に誰かに相談する。 自分のだけの考えで判断して危ないと言うことです。


2026年8月14日金曜日

阿刀田高(作家)              ・「91歳、終わりこそ晴れやかに 前編」

 阿刀田(作家)           ・「91歳、終わりこそ晴れやかに 前編」

91歳になった阿刀田さん、今年の5月小説集「掌より愛をこめて」を刊行しました。  昭和53年に「冷蔵庫より愛をこめて」でデビュー以来、900点を超える作品を世に送り出した阿刀田さんが、これが最後の小説集とおっしゃる創作人生の節目となる1冊です。 手放なす事、終わりを寂しさではなく、晴れやかさでと受け止める阿刀田さんに、一人暮らしをされている毎日のことや作品、執筆の舞台裏や10歳で迎えた昭和208月敗戦の記憶について伺いました。

鉛筆の方が消せるし、軽くて書きやすいので、今でも鉛筆で書いています。   昔はHBですが、最近は2 Bを使ってます。(筆圧の衰え) 頭の中にあるものを書き写してると言う感じです。 10枚から15枚の原稿だと頭にできているものを書き写すような感じです。 一人暮らしの日々を綴ったエッセイ「90歳男の一人暮らし」は、去年の9月に出版。 

110枚位のペースで書いています。 締め切りはよく守っています。 子供の頃から夏休みの宿題は7月には終えてました。 作品は自分で満足ができるのは1割位ではないですかね。 午前中は1、2時間ぐらい仕事をして、NHKのテレビなどを見ています。 報道する方は、割と冷静に静かにやって、喜びや悲しみや感動は見る方がどうだどうしたらいいかと言う性格のものであると思いますが、「あさイチ」などはちょっと笑いすぎではないかなと言う気がしないではないですが。リュックサックを背負って、買い物などにも出かけます。 眠れない時でもまぁいいやと思ってます。 

テレビは野球を見たり、サッカーを見たり、相撲などを見たりしています。 囲碁将棋なども見てます。 生活の中で常にどっかで作品の材料になるようなものがないかと思っているので、いろいろ考えていましたが、最近はアイディアがあまり出てこなくなりました。 ごっちゃになったものを見ているうちに、ふとアイディアが現れることもあります。 酒を飲んでる時などもどっかでアイディアを求めているんですね。 今受ける話はそれで小説は書けない。 妙なことを言うなと言う人の方が、かえって役に立ちます。 列車に乗って、ぼんやり外を見ている時などがアイディアがふっと浮かぶことがあります。

今回「掌より愛をこめて」と言う小説集を出しました。 短い小説を30数編まとめたわけです。 最近書いたのは、冒頭の10作品だけで、後は1番古いので30年前書いたものを引きずり出してまとめたものです。 小説集と言う形では、これが最後になると思います。 アイデアを思いつくことができなくなってきました。 子供が主人公のものはあれば、年老いて記憶が薄れていくような年代の主人公もあれば、くすっと笑うものはあれば、ぞっとするものもあって、多様な短編小説集36編です。その中の「本屋の魔法使い」 本がページを開きながら飛んでくるというもので、受けています。 その他いろいろ。

短い作品、ショートショートと言うジャンルは、少なくとも日本では星新一さんとともに誕生して、星新一さんの死とともにほとんど消えそうになってるジャンルのような気がします。 割と今の時代にちょっと合ってるところがあるんじゃないかと思いますが。 星さんは、独特の世界を築いて、今でも人気があるんじゃないかと思います。 

どっか人間はみんな1人ですよ。 1人であることを享受しなければ、人生はうまく生きていけないんじゃないかなと思います。 幸福になるのもみんな自分1人で考えていかならないんで、実質的に私は1人でした。 早く両親に亡くなられてしまって。 兄が1人、姉が3人末っ子として双子として生まれて、弟は1歳になる前に亡くなりました。 幼い頃から神妙な好奇心を持っている孤独だったと言うふうに思います。 戦争時代には、疎開先の長岡で大きな空襲を体験しました。(10歳の時の体験) 戦争体験は、終戦と同時にがらりと世の中が変わったと言う、そのことの印象の方が多かったですね。 急に民主主義と言うことになってしまって。     先生がこれから日本は戦争をしない国になるんだという、そう聞かされた時に痛切に良かったと思いました。  日本はどうなるんだろと姉に聞いたら、「みんな奴隷になる。」と姉が言うものだから、この川に飛び込んで死ななければ駄目だと思いながら、考えたりしたことがあります。







2026年8月7日金曜日

鳥谷邦武(元特攻隊員・シベリア抑留経験者) ・「白紙の遺書に込めた思い~二度の死線を越えて~」

鳥谷邦武(元特攻隊員・シベリア抑留経験者) ・「白紙の遺書に込めた思い~二度の死線を越えて~」

鳥谷さんは大正151926年佐賀県佐賀市生まれ、昭和1816歳で陸軍少年飛行兵を志願して厳しい訓練を経て戦闘機のパイロットになりました。 昭和20年終戦の年、18歳の鳥谷さんが満州の部隊で特攻隊となりますが、出撃命令が出ぬまま、ソ連軍の捕虜となって、およそ2年間の抑留生活を送りました。 100歳を目前にした今もなお講演やメディアなどで戦争の悲惨さを積極的に伝えています。 死を前提とした特攻、生きることを諦めかけたシベリア抑留、その両方を経験した鳥谷さんに伺いました。

19454月、18歳の時に特攻隊への編入が命じられました。 第一命令は、特攻隊の編成、第二命令は、この部隊から朝鮮経由で知覧まで行く。第3命令は出撃と言う順番になります。  第二命令を受けた時は、とうとう俺のところまで来たかと言う気持ちでした。 諦めるよりしょうがありませんでした。 命令に背く事はできません。 上官の命令は、天皇陛下の命令と同じだと言うふうに言われてきていました。 特攻の戦法は下の下と言われてました。 初めから特別攻撃隊があるんだったら志願はしなかったです。 みんなが言ってます。 最後は使命感だけで突っ込むと思います。  遺書も書くように言われましたが、私は書きませんでした。   爪と髪の毛と白紙でした。 白紙ならば自分で想像してみることがでいる。 白紙が精一杯の抵抗です。 同期生が先に出撃したときに、「お前たちは来るなよ。」って言う言葉が印象的でした

満州南部の飛行場で終戦を迎えます。  これで内地に帰れると言う思いはありました。  ソ連軍の侵攻があって、シベリアに抑留されると言うことになりました。 バイカル湖を通ったときには、日本に帰れないと言う思いがありました。    夏服のままだったので、冬は非常に寒かったです。(マイナス63℃まで下がる時がある。) 雪をかき分けて遺体処理もしました。 情報も入らないので、明日がどうなるか分かりませんでした。 腹が減る、寒い、衣服はない、労働は朝昼晩三交代で仕事をする、残酷な生き方に対して特攻で死ねばよかったって言う思いも頭に浮かびました。 

1947年6月に舞鶴に戻ってきました。 帰ってくる1週間ぐらい前に事故で亡くなった人もいました。 戦争はするもんじゃないです。 本当に馬鹿らしい。 残るのは悲しみだけです。 特攻隊には表と裏があります。 特攻の出撃した知覧とかで堂々と遺書などで発表してます。  裏の事はなか書かれません。 書いたら没収されるし、場合によっては卑怯と言われるかもしれない。 特攻の命令を受けたけれども、まずは死にたくない。 死にたくないと言うのが本音です。 それは書けない。

特攻に向かう班長から1人ずつ呼ばれて、「お前は技術はいいけれども優しすぎるから、いつかお前はやられるぞ。」と言われました。 とどめを刺す人間になれという事でしょうね。 成れないですね。  戦争に正義はないです。 殺し合いですから。 争いの解決方法はやっぱり話し合いでしょうね。 それしかないです。    戦争は百害あって一利なしです。  自分の命は大事にしなければいけないです。  亡くなったら、二度とこの世には出て来ません。 愛する人に会うこともできません。





 

2026年8月3日月曜日

清田明宏(国連パレスチナ難民救済事業機関保健局長・医師)・「医療支援の現場が直面するガザの現実」

清田明宏(国連パレスチナ難民救済事業機関保健局長・医師)・「医療支援の現場が直面するガザの現実」

 清田さんは高知医科大学(現在の高知大学医学部)を卒業後、2010年からUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の保険局長として怪我や病気の治療、衛生環境を整えることに力を尽くしてきました。 2023年からパレスチナのガザ地区で続いてきたイスラエルとイスラム組織、ハマスの衝突。 去年10月停戦合意が発行したものの、ガザ地区では、イスラエル軍の散発的な攻撃が続いています。   現在、清田さんはイスラエルの制限下でガザに立ち入れない中、隣国ヨルダンを拠点に支援を行っています。 ガザで目の当たりにした戦闘の現実、そしてそこで暮らす人々の今と未来についてお話を伺いました。

ヨルダンと日本との時差は6時間です。 気温は35度から40度近くになりますが、湿気が少なくて乾いているので何とかなると言う感じです。  20251月以降ガザに入ることができていません。 ヨルダンから指示を出しながら支援活動を続けています。  一般の人もそうですが、我々の職員も戦争が始まってから何度も何度も避難してみんな疲れ切ってます。  ある人が言いました「世界は一体いつになったら我々を普通の人間として見てくれるのか。」と言われました。 言葉がありませんでした。

うちもガザに12,000人の職員がいますが、既に400人近くの人が戦争で亡くなってます。  我々の想像を超えた事は何度も何度も何度も起こって厳しい状態に置かれていますが、それに対する世界の反応は非常に遅いか、ないと言うのはガザの一般的な反応です。  「世界中から見捨てられて見放されて誰も助けに来てくれない。」そういう風に言われてはっとします。 私にできるのは少しでも心の支えになればと言う思いはあります。 それが1番大事な仕事の1つではあります。 

停戦合意後も状況はどんどん悪くなっていっています。  衛生状況が悪いので、ネズミの種類が増えて、それに伴ってネズミを媒介とする感染症が増えてきてます。薬も不足意味できちんとした治療ができない状況です。 上下水道は機能していなくて、ゴミも山積しています。 壊れた家に住んでたり、テントに住んでいて、住居環境が悪く、医療サービス、医療システムがきちんと機能していません。 

基本的にはイスラエルが食料の搬入制限しています。 絶対数が足りません。   入ってきたものも略奪行為などが発生してます。 小さな赤ちゃんの写真。  腕が7.5cmしかない。 栄養失調も単純な食料不足だけではありません。 住居環境、上下水道、医療システム、家族全体の安全が損われるなど、総合的に進んで危機になったと思います。  小さい時に栄養失調になると、脳神経も犯されることもあります。 後でいろんな影響が出ます。 戦争で両親を亡くした子供さん、空爆で怪我をした人々が沢山います。 かつてガザは貧しくてもホームレスがいなくて、何とか助け合って生活を支えて生きてきました。 今はそれが崩壊していて、それが1番問題だと私は思っています。  ガザに行って、1番衝撃を受けたのは土地勘があるはずなのに、周りを見ても全く自分がどこにいるかわからない状況でした

2024年の夏に4台の車で予防接種のために出かけましたが、イスラエル軍によってブルドーザーが出てきたり、戦車が出てきて車の隊列が挟まれてしまったりして、検問所に7、8時間止められていましたが、南部に帰ってきました。

知り合いの歯医者の家族の事ですが、銀行からお金を借りて開業すると言うことでしたが、予定が107日で、その当日に戦争が開始され、すべてをなくしてしまいました。 戦争が始まって半年位の間は13回避難したと言っています。 23回は野宿したそうです。 そういった話はいっぱいあります。  戦争は残酷で良い事は1つもありません。 早く終わってほしいと今でも思います。

ガザの子供たちは学校に行けず、教育は受けられない。  学校はほぼ全て避難所になっています。 学校に行けなくなると、社会に接することができなくなり、きちんとしたしつけもできなくなる。 メンタルヘルスについてもカウンセラーが聞いているうちに一緒に泣き出してしまうと言うようなことがあります。(同じような環境下) メンタルヘルスのケアにはまだ程遠いと思ってます。

大学を出ても就職がなかなかできない状態です。 「なんで仕事が欲しいのか。」と聞いたら、「人間としての尊厳が欲しい。」と言ったんです。 「職がないと人間としての尊厳が保たれれない。」と言われた。 はっとしました。

治療方法を標準化していきたいと思ってます。(効率の向上) それはそれは大事なことだと思ってます。 国際的な医学誌日発表して、ガザではこういった栄養失調が起こっているという事を残すことが大事だと思っています。(世の中に伝えてゆく。) 有ってはいけないと思うことが、次から次へと起こって、それに対して黙ってていいのかと言う思いはあります。  世の中の不条理に対して黙っていると言うことをせずに声を上げるということだけでもいいし、私のような形でそこで仕事をすることもできます。 

パレスチナ問題、中東問題の安定化に貢献すると言うのはあると思います。   世界中がつながっていると言うことを、今回の戦争で多分日本の方が感じられたのではないかと思います。 日本の人道支援と言うのはものすごく評価が高いです。日本に対する期待は強いです。  海外への援助、困っている人を助けると言う事はどんどん続けることが必要だと思っています。 栄養失調の腕が7.5センチの女の子の写真を見て心が動いて欲しいです。  それがすべての始まりだと思います。  これはひどい、これはかわいそうと思うことが大事で、それが第一歩だと思います。  まずは戦争がなくなって、平和になって、人がゆっくり寝て、そしてガザの将来を考えると言うことに早くなってほしいと思ってます。




2026年7月31日金曜日

清水葵(日本駆け込み寺代表理事)      ・「27歳が“命つなぐ”駆け込み寺~新宿・歌舞伎町 若者支援の現場から」

 清水葵(日本駆け込み寺代表理事)  ・「27歳が“命つなぐ”駆け込み寺~新宿・歌舞伎町 若者支援の現場から」

新宿歌舞伎町では、数年前から家庭や学校に居場所がない若者たちが集まるようになりました。 そんな若者たちを支えてきた支援団体の代表に27歳の女性が就任しました。 声にならないSOSに向き合う清水葵さんの奮闘の日々を追いました。

歓楽街の新宿の一角に6年前から10代から20代の若者たちが集まるようになりました。 一時的な快楽を求めて、市販薬を大量に摂取するオーバードーズ(過剰摂取(かじょうせっしゅ、overdose、略称:OD)を繰り返したり、ホストクラブにはまって借金に追い詰められたり、深刻な問題が後を絶ちまません。 この場所で若者の悩みに寄り添い、支援活動を続けている女性がいます。  清水葵さん27歳です。    去年4月歌舞伎町で20年以上悩みを抱える人たちの相談活動を続けてきた公益社団法人日本駆け駆け込み寺の代表理事に就任しました。

清水さん以外に80人のボランティアが登録されています。 毎日昼の12時から夜の9時まで事務所を訪ねてくる若者の相談に乗ったり、毎週土曜日には子供食堂を開いたりしてするなど居場所を提供しています。 この日には明日が14歳から20代まで15人ほどが過ごしていました。 声かけを続けることで、若者がいつでも頼ってきてくれるきっかけになればと考えています。 駆け込み寺には毎日20人から多いときには50人ぐらい若者が立ち寄るようになりました。 清水さんが大事にしている事は、毎日明かりを絶やさないことです。(安心できる空間)

愚痴や不満をぶちあけることで、ちょっとでも自分を傷つける選択をしないでいてくれたらいいなと思ってます。 清水さんは今危機に立たされています。 代表に就任した直後、去年5月当時事務局長をしていた40代の男性がコカイン所持の疑いで逮捕、また相談に来ていた20代の女性との不適切な関係も明らかになり、駆け込み寺は社会から信用を失いました。 自分のやるべきことと覚悟は決まったなと思いました。 組織の再生を進めていきました。 

トラブルにならないためのチェック機構をいろいろ設けました。 運営資金のほとんどを占めていた行政からの助成金は打ち止めになり、寄付をしていてくれた支援者も離れてしまいました。 今は街頭募金のみです。 歌舞伎町に居場所を求める若者たちの実態は、より深刻さを増していると清水さんは感じています。

2人の男性が深刻そうに相談に来て、内容は歌舞伎町のホテルで20代の女性がリストカットで亡くなり、交際していたこの男性たちの仲間の1人(21歳)が同じ部屋で大量の市販薬を飲み、意識不明で病院に搬送されたということでした。

もう一つ深刻なのは、女性がホストクラブにはまり身を滅ぼしていくケースが後を絶たないと言うことです。 歌舞伎町には300店舗を超えるホストクラブが営業しています。 SNSやマッチングアプリを使った営業が行われ、若い女性も気軽に入店するようになりました。 借金の返済に売春等を強要されるケースがあいついでいます。  24歳のある女性は、ホストクラブに通うきっかけになったのは、親からのDVで家庭内に居場所がなくなったことでした。 18歳で家出してマッチングアプリで交際しました。 その男性がホストだったため、ホストクラブに通うようになりました。 高額な借金を背負うようになりました。 借金の返済に風俗店で働くように勧められました。今年2月に清水さんのところに相談に来ました。誰の父親かもわからない子供を身ごもってしまいました。悩み、最終的にはおろすことになりました。 病院や経済的なサポート、精神的なサポートを続けてきています。 清水さんは、歌舞伎町の若者支援は命と向き合う現場だといいます。

自分自身は特別養子縁組で育ちまして、中学1年生の時に血つながってないことを聞かされて、自己肯定感が一時期下がりました。でも感謝です。愛情込めて育ててくれたという事は自分にとってもありがたい縁を感じます。感謝しています。   グランドピアノはありますが、清水さんが中学1年生の時にの誕生日に送られたものです。 

清水さんは大学時代まで京都の実家で暮らせました。 ボランティア活動等をして、卒業後は東京で保育関連の企業に総合職として就職しましたが、現場に出て直接子供たちと関わりたいと思い、就職後2年目に会社を辞めました。 駆け込み寺で働くことに決めました。 父親は反対しましたけれども徐々に報告を聞くことによって応援していこうと気持ちになったといいます。 

駆け込み寺で今清水さんが新たに取り組んでいることがあります。 グローバル食堂です。 その日を生きることで精一杯の若者たちの関心を広げ、将来を切り開くきっかけになればと言う清水さんの思いです。 去年10月からスタートさせました。 今後は、茶道教室や着物の着付け教室など様々な体験の場をしていきたいと考えています。子を中絶した24歳の女性が駆け込み寺の活動を手伝ってくれるようになりました。 「少しでも誰かを明るくする手助けをしたい」のだといいます。 相談に来ていた女性の中で、春から美容師の専門学校に通うと言う事でした。(駆け込み寺で、なって欲しい像がまさにそういったことだと思っています。)





2026年7月25日土曜日

山崎エマ(ドキュメンタリー監督)      ・「当たり前の中にある価値を見直したい」後編

 山崎エマ(ドキュメンタリー監督)・「当たり前の中にある価値を見直したい」後編

絵本「おさるのジョージ」の原作者を取材したドキュメンタリー作品 「モンキービジネスおさるのジョージの著者の大冒険」と言うドキュメンタリー映画です。 ジョージはアメリカで大人気です。  私を卒業した後は、編集者として助手として仕事をしていますが、でも監督をやりたいと言う思いが出てきました。    原作者のレイ夫妻原作者既に亡くなっていますけれども、いろいろ調べて3年位かかって制作しました。2000万円かかりましたが、クラウドファンディングで一般の方からもお金を集めて製作、公開できました。 それが1個目の作品です。(2017年)  今年はおさるのジョージの85周年です。 レイ夫妻は戦争を逃れた大変な経験をされていますが、冒険のように語るというか、その精神が「おさるのジョージ」のいろいろな冒険のつながっている。

自分の場合はドキュメンタリーの道を行くと言うのは明確になりました。    編集助手としていろんな作品関りました。 自分では普通の振舞いをしていたと思いますが、周りのアメリカ人から凄く褒められました。  日本人であれば当然のことと思いました。 それが小学校の映画を作る事に繋がる流れになります。   自分が受けた小学校教育の6年間の価値観、頑張ったことなどは小学校にあったのではないかと思いました。 また親から受けた分も大きかったと思います。 

子供の頃から何か貢献したいと言うか、よりよい社会に貢献することこそが、自分自身の人生が幸せになるみたいな考え方が起きました。 少しでも共感とか、感情が動くもの、人間が人間らしく捉えるものみたいなことを今でも自信としています。

海外に住むと比べることが気付ける、何とも思っていなかった日本の良さが増えてきて、特別なんだと思ったりしました。 日本のことを中からと外から見れるようになった自分が何かできることがあるのではないかと思いました。 ずれている日本のことが気になったりもして、自分から日本に戻って世界に伝えたいことがあると思って東京に拠点を持ちました。

夏の甲子園を元にしたドキュメンタリー映画 『甲子園:フィールド・オブ・ドリームス』 その年は、夏の甲子園は99回大会でした。 日本の野球を100回大会と言う機会を使って撮影することにしました。 2018年の100回大会記念大会を撮影しました。 海外に向けても長編作品はなかなかありません。 海外ではまだあまり知られていない日本独特の高校野球の文化を世界に伝えたいという思いから始まった。 最初4校から2校にしぼってって、球児や、指導者の皆さんを追って、甲子園の大会自体を含めて、高校野球も春からの1年を捉えました。アメリカの人に見てもらいたいとする強い思いがありました。 メジャーリーガーとの絡み、師弟関係、親子関係、監督の世代間の違いでの時代の変換期についても意識して撮りました。 アメリカから帰ってきた私にとっては、高校野球はとても日本的に見えました。

佐々木監督はいろんな植物を育ててきて、人の成長と盆栽と成長をかけて考えている方です。 映画の中では、盆栽をきれいな形にするには、針金をまかないとなかなか美しくならないけれども、どっかのタイミングで針金を外さないと盆栽が苦しくなって美しい姿に行くことができない。 これを育ててきた子供たちにかけて針金をかけると言う事は、昭和の時代から含めてやってきますが、外すタイミングとか、外し方この両方が大事だと言うふうに言ってます。 どっかで外してあげないと苦しむ。  当時子供たちの自主性、実践に任せるとか、ちょっと流行っていた時代がある中で、針金をかけることが大事だと言う。 そういうバランスに共感しました。

ある程度導いたりとか、強制することで築いたことが自主性になっていく。   その段階が大事だと言っています。 映画の中では、盆栽に例えて映像的にも美しいシーンが撮れたのは自分の中でも特別なシーンだと思っています。 甲子園だけ見ているだけではわからない、高校野球の心みたいなものを人のつながりとか、教育の一環としていろいろな関係性がある。 極端な話、野球に興味をなくても面白いと思っている映画を目指して作りました。 

日本のことに関して、海外に住んだことによって生まれた視点を生かし、皆さんに気づきの提供をしたいと思って、そのきっかけを自分の作ったドキュメンタリーで提供したいと思ってます。 人間同士として一緒の社会で生きていく中で、少しでもプラスの貢献をするドキュメンタリーを作ると言う、それがやりたいことやってきたことだと思ってます。 ドキュメンタリーは人が人を撮るので、1AIができないんではないかと思っています。 結果として自分が経験したことを良かったので終わらせるのではなく伝えるプロとして、なるべく多くの人に伝える。 それをミッションとして作品となる。これが今自分がたどり着いた、ドキュメンタリーとの向き合い方です。

ドキュメンタリーの醍醐味は自分の人生ではない人生、人であったり、文化であったりいろいろあると思いますが、それを追体験できると言うことだと思います。 映像と音で捉えられるストーリーみたいなものを体験してほしいと思います。  そもそも、小学校を撮ったのは、私自身の小学校経験が自分を作ってくれたと思っているからこそ、撮りたいと言う趣旨があって、人間形成の部分、そこに焦点を当てて取り続ける。 ドキュメンタリーは客観的な記録ではないというか、たくさんの量を撮ってからストーリーを構成しているし、削ぎ落としてストーリーを構築しています。私の視点というものが入っているのは、ドキュメンタリーだと思っています。山崎エマと言う人が見た日本社会はこうだったねと言うみたいなところまで行けば、自分が目指しているところだと思います。

「小学校それは小さ社会」と言う作品が評価されるまですごく時間がかかりましたが、そもそも撮れるまで5年かかって、沢山の方々に協力していただいて、10年かかって公開まで行くことができました。 大変な苦労して作ったドキュメンタリーがなかなか評価されずにいたことに対しては色々と落ち込みました。 ドキュメンタリーはもう作るのはやめようかと思った事もありました。 世界の最高峰の所まで行ったと言う事は、自分を信じろと言うことを今回経験しました。 次回はより自分を信じる力と言うのも、そして評価と言うものがないとやっていけない世界でもあるので、違う物差しとして5年後10年後50年後100年後に評価されてもいいやと言うことを含めて思えるようになったと思います。

世に出て教育に対する議論が活発になったりとか、肩身の狭い先生が少しでも自信になったり勇気づけられたり、今後の教育の制度にも多少影響が与えられたような印象もありますが、そういうことを経験すると自分がやってきた事はとても意味があるものだと思います。 またより良いものを作ろうと言う気にはなります。

今興味のあるのは大人たちです。 新入社員と組織を仕切っている60代の人たちとは価値観が違うと思います。 わかりあえないところが出てきているかとは思いつつ、でも日本はまだまだ組織力とか力を合わせて何かを成し遂げると言うどこから向き合わないと、日本は世界では勝てないところもあると思います。 組織の中で何かに挑戦しながら時代の先を行こうとしている皆さんを撮りたいと思います。 今リサーチ中です。




2026年7月18日土曜日

五條良知(金峯山修験本宗管長)       山で祈る、里で祈る、ともに祈る

 五條良知(金峯山修験本宗管長)       山で祈る、里で祈る、ともに祈る

吉野山から大峰山にかけての一帯は金峯山と呼ばれ、古く飛鳥時代から聖なる地として崇められてきました。  世界遺産の本堂蔵王堂を中心に伽藍が広がる金山寺は、山岳修行を実践することで悟りを得る修験道の総本山です。 7世紀後半、遠役行者と呼ばれる役小角(えんのおづぬ)と言う人物が、金峯山で修業に励み、修験道を開きました。 自らも厳しい修行の数々を乗り越えてきた五さんは、今世界中の人が今同じ時刻に心を1つにして共に祈ることができれば、みんなの幸せへの大きな力になると考えています。さんに祈ることの意味を伺いました。

京都の綾部市で生まれました。昔は沢山の山伏がいました。 父親は若い頃から国鉄に職員として勤めていました。 近所に山伏の道場があり、お手伝いをしていたそうです。 その住職が亡くなって父親が後を継ぐことになりました。 私はそこで生まれ育ちました。 私は体の大変弱い子でした。 人生のことを考えるようになったのは、高校3年生の時に身近な人が亡くなったことでした。 電話が来たので、急いでその家に行きましたが、苦しいと言って私の腕の手の中で力が抜けてそこで亡くなってしまいました。父親と兄と3人でお葬式を営みました。 

兄の方から東京の仏教の大学へ行くように勧められました。 2年、生3年生のときにはお寺に入れていただいて、そこで勤めて大学に行っていました。  仏教に関する学問は教えてもらいましたが、私たちが手を合わせる仏さんと言うのは教えていただけないんです。 現場の人としての宗教、信仰とかそういうものはないなぁと強く感じました。 それがお坊さんになる原点となりました。 修験道と言うのは、私たちは世の中で修行することによって、自分の罪、汚れ、煩悩など払い落としていく、大いなる山、大自然を神様、仏様が住まうところ、聖地です。 自然の中で、神仏に包まれて、修行して山から出てくる、これが修験道の修行の仕方です。 仏教で言う悟りです。

役小角は1300年前に金剛蔵王大権現様を命がけで修業して祈りました。 三上ケ岳で一千日の修行したと言われています。 悪い悪い世の中で生きる人々までも救って欲しいということで祈られたそうです。 1000日目にお釈迦様、千手千眼観世菩薩様、弥勒菩薩様が約行者に現れます。 そのような優しい姿では、私のような悪い奴は言うことを聞かないので、もっと怖い方が欲しいと思われたようで、三上ケ岳1番高い所に岩倉があり、お釈迦様、千手千眼観世菩薩様、弥勒菩薩様が姿を変えて蔵王権現が現れた。蔵王権現とはお釈迦様、千手千眼観世菩薩様、弥勒菩薩様3体の仏が、悪を懲らしめる、怒りの表情で現れた姿と言われています。

私の蔵王堂には3体祀ってあって、中央にお釈迦様の仮の姿、右に千手千眼観世菩薩様の仮の姿になっていて、左が弥勒菩薩様の仮の姿になっている。 真ん中のお釈迦様が過去、右側の千手千眼観世菩薩様が現在、左側の弥勒様が未来。 過去、現在、未来を救ってやろうと言う請願のもとにお姿を示していただいています。 守ってあげる救ってあげると言うのも、現実に動いていくと言うのは私たちです。今をしっかり生きて、過去のこと、今のこと、未来のことを蔵王権現に預けつつ、自分のことをやらなければいけないことを頑張っていく。 

修験道の大事な修行の1つが大峰奥駈修行です。 山から山へおよそ170キロの道のりを 7日間かけて祈り歩く行で、毎年全国から修験者が集まります。 五條さんはこれまでに33回行いました。 当時60人ぐらいの人と一緒に歩くわけですけれども、自分のペースで歩けないし、人間関係などいろいろあり最初は嫌でした。 そのうち助けたり助けられたりして、皆さん揃ってお経もあげるし、厳しい中にも神仏に守られていると言う実感ができます。 

自分の命を生かされていると言うことも実感できるようになります。 達成感もありました。 一歩踏み外すと命を落とすようなところはいくつもありました。   ですので、自分と人のことを意識しないといけません。 自分だけの行であるけれども、自分だけの行ではない。 皆がいるから私も生かされている。そういったことが判ってきます。 山に入って肉離れをしたことがありました。 あるところで無理だと思って任せると言いましたら、大丈夫と言われました。 テーピングして歩いているうちに両方の足が紫色になってむくんだようになりました。 那智勝浦まで行って、お風呂に入って、吉野に帰るときにはその足は引いてきました。

自分だけの願いとか、願望とか、そういったものではなくて、自分が歩くことによって自分が良くなっていければ周りの方も良くなっていく位の大きな思いがあるんだろうと思います。 自分の生活とかをお山に入ることによって、生まれ変わるというか生きてることを気づかせていただいてくる、リセットしてくる。 それで1年頑張れる、自分の全てをさらけ出してねこそ、初めてできる修行が奥駈修行かもわかりません。 

大峯百日回峰行、金峯山寺蔵王堂から大峯山寺に至る険しい山道を1人で100日間往復する過酷な行です。 片道24キロあります。 これを100日間歩き続けると言う修行です。 奥駈修行は我を捨て一緒に修行しますが、回峰行の場合は1人ですから不思議と我も出てきます、雑念が出てきます。 昔のことを思い出しては笑ったり、嘆いたり、怒ったりします。 それにさいなまれます。 そのうち60日、70日すると気がつくと、知らぬ間に何も考えなくなります。 大自然、水の音、風の音聞いていたりするとすべてのことを受け入れ自分自身のことを受け入れて歩いてくやっぱり自分だけでは生きてないなぁと言うことがわかります。 下を見ると、昨日新しい木の芽、命があちこち目が行くようになります。 命を感じます。 命が生かされていると言う事は自分だけではない。だから、人のことをもっと祈っていきたいし、国のこと、外地のこと、自然のこと、人々のこと祈っていきたい。 

山で祈ると言う事は、神仏に包まれながら、自分は修行させてもらうとするならば、そこで1番神仏とつながるんです。ですからそれを大事に大事にしていかなくてはいけない。 参加してくれる人には山の行よりも里の行といいます。 普段のことが里の行です。 祈ることを忘れてしまった人は多いと思います。 日常の中でちょっと時間を作って祈る、お天道様に今日も1日よろしくお願いします、夕日を見ては先人たちは「南無阿弥陀仏」と祈ってきたと思います。 そういったことに感謝をしながら生きていける、それは祈りの根本だと思います。 山で神仏にまみえたその事は里で生活することで、自分だけではなしに、周りの人にも知らない人にまで、仏様に守られた功徳が届くほどに修行しなさいのというのが、山の修行の何よりも究極の姿だと思います。 里が日常とするならば、山が非日常となります。

様々な修行の先にたどり着いたのが、共に祈ると言う思いでした。 私が始めましたのは平成28年から3年間8000枚護摩焚きさせていただきました。24時間で8000枚の護摩木を炊き上げる行です。 その時には口に水も何も入れなく24時間行います。 フッとみんなで祈ろうと言うことを思いつきました。 場所はどこでもいいんですが、一緒に祈る時間を一緒にしてほしいというのが始まりです。 それをFacebookで中継しました。 すごい反響がありました。 宗教宗派を超えてそれぞれの方法で祈りましょうと言うことです。 祈りのつながりができていきます。 

自分だけの祈りと言うのは独善的です。 祈りは願望であって欲望でしかない。  もっと自分をさらけ出す中でみんな良くなれと言う風な心を持っていただきたい。人のことを祈る自分はずいぶん強くなれると思います。 そこにはよくもなければ何もない、仏様の慈悲の心が自分の心中にあるほど、こんな強い事はないです。  

1日のうちに1分でも2分でも人のことを良くなってほしいと祈れる自分がいたら、その時は良い自分になると思います。 そんなことが続けば自分の納得の祈りがあるので、祈りを思い出してほしいし続けられたらありがたいなと思います。   祈りを普通に持てる人の方がおおらかで幸せじゃないかと違いますか。 自分で幸せだと思う人が増えるほど良いように思います。  祈りを忘れたときには、自分勝手な方向にしか行かないと言うふうに私は思います。  命と言うものは自分だけのものではないので大事にしていく。 その真ん中には祈りがあってこそ、それに気づくし、祈りがあってこそその命が生きていくと言うふうに思います。