2026年5月18日月曜日

水島結子(琵琶演奏家)           ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

水島結子(琵琶演奏家)       ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠 

水島さんは東京都出身、早稲田大学で琵琶サークルに出会い、演奏のみならず、かつて琵琶愛好家達のために発行された「琵琶新聞」についての研究も始めました。  大学4年生のときにはアジアの芸能をさらに研究したいと、韓国ソウル大学国学科(伝統芸能科)に交換留学。 現在は鶴田流古典曲の研鑽を志し、友吉鶴心に師事しています。 琵琶を始めて今年で25年目、演奏活動を中心に若手の育成、近代琵琶の研究、さらにはSNSでの発信など、琵琶の魅力を広めるために精力的に活動しています

琵琶に関することは歴史だったり、楽器だったり、何でもやりたいと言う形で演奏のみならず首を突っ込んでいます。 琵琶の白い部分は象牙ですが、人工象牙を作っています。(海外演奏が難しくなってきている。)  正倉院にある螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)は、国宝になっている。 頭がまっすぐですが、これは外国からもらったもので、日本の琵琶の特徴として頭の分が直角に曲がってます。  琵琶は4弦が基本ですが、私の鶴田流は5弦5柱の流派になってます。フレッドは昔は米粒でつけてましたが、1674年以降フレッドを高くして音を出すような風に改良されました。 

日本には雅楽の楽琵琶と平家琵琶があります。盲僧?琵琶というのがありまして、近代琵琶は薩摩琵琶と筑前琵琶があり、全部で5種類あります。 平家物語に使うのは平家琵琶です。 薩摩藩独特の琵琶を作ろうと言うことで、薩摩琵琶ができました。  筑前琵琶は、三味線音楽が江戸時代に流行るので琵琶に逆輸入しています。 筑前琵琶は三味線っぽく弾きます。 筑前琵琶は桐でできていて、薩摩病は桑でできています。 バチは柘植を使います。 世界で1番大きいビックと言われています。

ルーツはアラビア半島からシルクロードを伝わってきました。祇園精舎は実はインドです。 平家物語が流行った時代は末法と言われ、仏教で言うお釈迦様の教えがすたりまくっていました。 平家では仏教を信じていたので、仏教の故郷であるインドに思いを馳せてという意味で、祇園精舎が1番最初になっています。

*「祇園精舎」

大学の時に琵琶に出会いました。 「琵琶新聞」は明治42年から昭和18年までありました。 近代琵琶(筑前琵琶、薩摩琵琶)の機関誌です。 琵琶専門の新聞で、琵琶は明治から大正にかけては大流行していました。 明治になって、元薩摩の藩士が明治天皇の前で琵琶を演奏して、明治天皇が薩摩の琵琶かと言うことで、薩摩琵琶になりました。 薩摩琵琶は男性が弾いていましたが、大正になると女性も弾くようになりました。

韓国国立ソウル大学国学科(伝統芸能科)に留学しました。 琵琶はシルクロードを介して中国方面から日本に琵琶が入りましたが、韓国にはなくてなぜないんだと思いました。 その歴史を知りたいと思いもあり留学しました。 日韓併合の時にやるなと言ってそのまますたれてしまいました。 韓国に行って1番驚いたのは、声が1番の楽器だよと言うふうに教えられました。 声に合わせて伴奏しなさいということでした。 そこは日本と違うと思いました。

*「ねずみ教」 ネズミの動きをお経に織り込んでいくものです。

昔はおとぎ琵琶と言うジャンルがありました。 子供のための琵琶の歌がつけられていた時代がありました。 私も自分の演奏会で現代語を入れたり、古典の法を入れたりして、聞きやすいものを作って発表しています。

日本の音は日本語です。 文化とか喋ている言葉とかが音楽とかにも全てに通じていろいろなと言うことがあります。 琵琶の魅力は、自分で歌って、自分で伴奏するということで、自分を見つめ直す道具ということで良い修行になると思います。


2026年5月17日日曜日

野津幸次(紫雲丸遭難事故生存者の会)    ・71年前の紫雲丸事故 伝える生存者の思い

 野津幸次(紫雲丸遭難事故生存者の会) ・71年前の紫雲丸事故 伝える生存者の思い

1955年昭和30511日早朝、656分、四国高松を出航したばかりの旅行連絡船紫雲丸が、にわかに立ち込めた瀬戸内海の濃霧に包まれ、対岸の岡山県宇高港から高松に向かっていた第3宇高丸と衝突、紫雲丸丸はわずか3分から4分で沈没してしまいました。 乗客781人のうち167人が死亡1人が行方不明に、亡くなった人のうち、100人が島根、広島、高知、愛媛の4つの小中学校の修学旅行中の児童生徒でした。 この船に乗り合わせていたのが当時島根県の松江市立川津小学校6年生だった 野津幸次さんでした。 川津小学校の一行は四国へ出かけた23日の修学旅行、その帰りに、高松からこの船に乗り込んでいました。 出港して16分後に事故に遭遇、多くの児童が海に投げ出されました。 沈みゆく船から脱出し救出された野津さん現在は82歳です。 紫雲丸遭難事故生存者の会のメンバーとして、あの日の状況を語り継ぐ活動をしています。 今日は野津さんはどういう体験をしたのか、そして今どのような思いで行動しているのかを伺います。

島根県松江市の川津小学校、紫雲丸事故の資料が展示されている教室、紫雲丸の部屋には写真パネルがたくさんあります。 高松の桟橋で遭難の20分前の出発の時の写真です。 紫雲丸に関する歌もたくさん作られました。 命の大切さ、亡くなられた人の悲しい思い、残された人たちの思いなども振り返りながらしっかり学習しています。 特に511日は紫雲丸の日ということで全校でお参りをします。

私は衝突のときには甲板にいました。 視界が100メートル位しかない霧がありました。  第三宇高が汽笛を鳴らしました。双方が汽笛を鳴らしました。 あっという間に衝突しました。 カバンを取りに客室に行って戻ろうとしましたが、既に45度位傾いていました。 船と共に沈んでいきました 。相手の船に乗り移った人が半分ぐらいいたようです。  電源も落ちてしまい、照明も消えてしまい、船内連絡なども全くできませんでした。  船体は船尾から次第に沈み、その後左に傾き始めます。 乗り組み員たちはボートを下ろすこともできませんでしたし、紫雲丸はそのまま転覆、衝突後わずか4分から5分の間の出来事でした。 

私は水泳は得意な方でしたので、立ち泳ぎで海面まで上がっていきました。   イカダがあり、3人ぐらい既に乗っていて、大人が手を引っ張って助けてくれました。 助けに来てくれた漁船にイカダから乗り移りました。 その後第3宇高丸に引き上げていただきました。 船の油が漏れていたので、顔も体も真っ黒でした。  黒い油を飲んで吐き戻した子たくさんいました。 夕方先生とともに遺体を確認に行きました。 遺体安置場所では辛くて、先生と別れて先に帰りました。 

沢山の家族も遺体確認きました。 お母さんの姿を見ていると、子供心に悲しかったです。  生存者はラジオが放送していましたので、兄が来てくれたときには生存した事は知っていて来てくれました。  帰ってから学校に行った時、亡くなった生徒の机の上に献花をしていました。 2つあったクラスが1つになってしまいました。 21人の生徒と先生が2人父兄が2人亡くなりました。 6年生は児童数が61人でした。 最初の1週間ぐらいは普通の授業はできませんでした。

松本敏雄先生と言う修学旅行を引率して助かった先生が、ずっと地元で活動をしました。 それが原点になっています。 三島先生と共に2人で25枚の子供たち先生父兄のお墓に毎年お墓参りをしてました。 それが紫雲丸を忘れないでおこうと言う小学校の原点です。 33回忌を機に毎年お墓参りをお盆にするようになりました。 

小学校では学習に取り入れて、風化させないようにということで、そのお手伝いと言うことも私は続けています。 紫雲丸の部屋を作っていただきました。     子供たちの反応は生存者のお話を聞いて、事故の様子がよくわかったとか、命を大切にしたいと言う風な作文を書いてくれています。 これからも子供たちに伝えていきたいと思っています。  今は着衣泳もしています。  浮いて待つようにと言う指導をしています。 校庭の片隅に記念碑があります。 命の大切さを伝えたいと言う意味で慰霊碑ではなく記念碑にしています。  

ある一定の大きさの船には、非常時には救命ボート、救命イカダに乗るために、甲板などに集合場所、乗客が集合する場所を設ける事が決められていると言うことです。 集合場所、その経路については、船内に表示があると言うことです。    船に乗ったら、まず非常時の集合場所と、そこまでの経路を確認しておくことも大切だと言うことです。 救命ボートや救命イカダ以外に乗れなかった場合には、とにかく浮いているものに捕まる、体力を消耗せずに救援が来るまで浮いて待つと言うことが大切だと言うことです。






2026年5月16日土曜日

村田裕之(東北大学特任教授)        ・「2040年 高齢者人口がピークに~どう向き合いますか?~」

村田裕之(東北大学特任教授) ・「2040年 高齢者人口がピークに~どう向き合いますか?~」 

2040年、日本の高齢者人口がピークとなる一方で、労働力不足や年金、医療介護費料といった社会保障費の増大が、市民や高齢者層の暮らしへの大きな影響が懸念されています。 インフレ、物価高が続く中2040年を見据え、私たちは今からどのように準備をしていけば良いのか、また生き生きと働き続け健康寿命を伸ばしていくための具体的な方法などをお伝えします。

2040年と言うとあと15年後です。 結論から言うとちょっと厳しい社会になりそうです。  2040年に高齢者人口がピークに達します。  65歳以上が約3900万人と予想されています。 そして要介護、要支援を含めて988万人と予測されています。4人に1人が要介護高齢者になっています。 厚生労働省が中心になって、どのぐらいのスタッフ(介護士面倒を見るスタッフ)がいるか計算していますが、約272万人と言う数字が出ています。 今よりも32万人人多いですが、生産年齢人口(16歳から64歳まで働ける人の人口)が6213万人ですが、今から1100万人減ります。

1100万人減るのに、介護スタッフだけを32万人増やさないといけないわけです。 介護スタッフが少なくなって、良質な介護が受けられなくなります。   加えて、物価上昇、インフレが結構深刻になりそうです。 2%を政府目標にしています。  毎年2%のインフレが続くと、老後の生活費が、今現在が最低でも月に24万円(夫婦2人)必要です。 ゆとりのある老後生活をすると、月に39.1 万円と言う数字があります。 最低レベルのものが10年後29.1 円、15年後(2040年)には32.2万円、約1.3倍になります。 ゆとりのある老後の生活では今が39.1 万円、10年後は47.7万円 15年後52.6 万円、こちらも1.3倍になります。  

95歳まで生きたとすると、30年間生活が必要になります。 高齢夫婦2人世帯30年で最低レベルの生活費で1億、21 54万円です。 年金は出ますが、物価が2%の上昇の時に年金が2%増えるかと言うと残念ながら増えません。 2004年の年金改正の時に法律で決まってます。 1.1%位しか上がりません。 年金が11011万円位になります。 差額が1143万円です。 それなりの老後資金を準備しておかないと結構厳しいです。 

問題は介護費です。 在宅介護は見かけの費用は安いです。 在宅介護は大変な負担です。 精神的にも病みます。 介護する家族のコストが入っていないので一見安くは見えます。 介護をすると仕事を辞めざるを得ない場合もあるが、こういったものは入っていません。 介護費用とインフレで上がっていく。 できるだけ要介護にならないようにしていく必要があります。 この重要性がますます強くなります。

要介護になる要因は60代前に原因ができてしまいます。 中年期以降の生活習慣で決まってしまいます。 「スマートエイジング」と言うのは、今から20年前に考えたコンセプトです。 スマートは英語で賢いという意味で、エイジングは加齢、歳を離重ねる、賢く歳を重ねるという事です。。「アンチエイジング」は歳を取ることにあがらうと言うことです。 これは変な考え方です。 「スマートエイジング」は歳をとることによるいろいろな変化を受け入れて、その変化に適応していくと言う考え方です。  

認知機能は脳を使う習慣を維持すれば実は衰えません。 病気もちゃんと手を打てば、ある程度は元へ戻れます。 自分が本当はやりたいこととか、こんなふうに生きたいいと言うことをずっと心に秘めて歩み続ける、これが「スマートエイジング」の1番神髄の考え方だと思います。 ①体の健康(自立して生きる) ②精神的健康(元気に生き生きと過ごす) ③社会的健康(辛いのは、社会的に孤立すること)

①有酸素運動 ウォーキングもできるだけ早歩きがいいです。 脈拍で言うと110から120、高齢者は6000歩歩きましょうと言うと基準ができました。 成人は18000歩。 有酸素運動は脳卒中の予防に1番効果的です。 要介護になる原因の1番が脳卒中です。  脳卒中の7割が脳梗塞、2割が脳出血、1割が雲膜下出血です。  特に共通しているのは動脈硬化です。 ②筋トレです。 転倒骨折予防です。 転倒骨折は女性の場合要介護になる1番です。③脳トレです。 脳を使う習慣を維持することが大事です。 

要介護になるもう一つの筆頭が認知症です。 生活習慣を改善することで症状を減らすリスクを下げられると言うことがだいぶわかってきました。 有酸素運動も認知症に良いです。 大きな声で音読することもオススメです。 簡単な計算を素早くやると言うのがいいです。 手書きも脳のあちこちを使います。 前頭前野を活性化することがわかってます。 1日に15分程度やるだけで脳のラジオ体操になります。

次に心の健康の話です。①達成するとうれしい目標を立てる。 人間は目標がないとダラダラと過ごしてしまう。  目標を達成すると、脳の中にドーパミンと言う神経伝達物質を出やすくなります。 元気が出たりやる気が出たりします。    なるべく具体的な目標が良いです。 ②「自分軸」で生きると言うことも提唱しています。 社会的健康に関わるものです。 「会社軸」に対する言葉です。  「会社軸」は会社のリズムに引っ張られる。 自分の基準を中心に生きる、その真ん中にあるのが、自分で生きてゆく言うことです。 ③働き続けると言うことも効果がいっぱいあります。 お金がもらえるほかに何らかの形で誰かとコミニケーションがある。 これは脳を使う時間を維持することにつながります。 自分が達成したいこととか取り組みたいこと、そういうことをやる事は生きる目的になります。    そのためには健康でなくてはいけない。 高齢になると家の中でつまずきやすいので、片付けをするとか凸凹を減らすことが大事です。 家の中の転倒事故は階段、風呂場、居室です。 「エイジテック」(高齢者向け技術)AIもそう言ったものにどんどん使っていったほうがいいと思います。

元気な高齢者の方が増えれば、若い人もあんな生き方をしたいと言うふうに考えます。 私も当時そう思いました。 それでこういう仕事に取り組みました。 要介護人口が約1000万人になると言う事は、今をベースにしての仮説です。    この仮説を変えましょうよと言うことです。 私の好きな言葉は「未来を予測する最良の方法はそれを作ること」。 自分の未来は自分で決められる、人の未来は自分は決められらない。


2026年5月15日金曜日

三石知左子(小児科医)           ・人生のみちしるべ「子どもたちは未来」

三石知左子(小児科医・東京かつしか赤十字母子医療センター名誉院長) ・人生のみちしるべ「子どもたちは未来」 

三石さんは、1955年北海道札幌市に生まれ育ちました。 札幌医科大学卒業後は、東京女子医科大学病院の小児科医として、N ICU新生児集中治療室などに勤務、生まれて間もない命を守るための医療の現場で働いてきました。 1999 43歳でかつしか赤十字産院の副院長となり、その後200650歳で東京かつしか赤十字母子医療センターの院長となります。 以来、20年にわたり医療の現場と組織の運営を担ってきました。 三石さんは副院長として忙しい日々を過ごしていた44歳の時に、俳句に出会い、その面白さに惹かれ詠み続けてきました。 2024年には句集「小さきもの」を刊行されています。 この3月三石さんは院長を退き、1つの大きな区切りを迎えています。 どんな選択を重ね、どんな人生を歩んでこられたのか、三石さんに伺いました。

今は会議等が一切なくなりましたので、精神的には楽になりました。  長く管理職として現場から離れていたので、1小児科医として外来を手伝うと宣言したんですが、薬の調整量とかは必死で今は勉強してます。  父親からは「テレビの前で頭を下げることがないように。」(医療ミスをしないように)と言うことと、「職員250人と家族合わせると500程度はお前の肩ににかかっているので、責任をきちんと覚悟して仕事に当たりなさい。」と言われました 守り通せたのではないかと思います。 

全国に91の赤十字病院があり、赤十字の病院長の全国会議があるんですが、私以外は全部男性ということがでした。 同期で病院長になった人が15,6名いたので、同期会を作ってその中で情報交換等々進めてきました。 2021年に新築移転しました。(以前のものは19 83年に建設したもの) 移転のための土地を2015年に見つけました。2016年から建設計画が始まりました。 建設をするにあたって、いろんな病院を調べました。 最上階にある「ひだまり」と言う部屋があります。   霊安室を1番上に作って欲しいと言う提案がありました。 一般的には地下ですが、 水害に合うと、病院の機能が成り立たなくなる。 陽のあたる1番天国に近いところで、両親と赤ちゃんと別れる場所を用意できたのは良かったと思います 

病院に併設された図書館2万冊ある中の1万冊は、母親と子供たちのための本ということで用意してあります。 NPO「ブックスタート」0歳児健診などの機会に、絵本をひらく楽しい「体験」と「絵本」をセットでプレゼントする活動)の理事をしています 当時副院長で院長に「子供たちに絵本を送りたい。」と言う電話をしたら、「いいですよ。」と言うことをになりました。 それが今も続いています。

私は小さい頃は、体は弱かったです。 身近に先生がいたので親しみを覚えました。 医学部の大学を受けました。 1番勉強したなと思うのは、医師国家試験です。  覚えることが山のようにあり大変でした。  診療科をどこにするかと言うのは迷ったんですが、小児と言うのは未来があるんですね。 院長しているときに看護職の面接もしていました。 看護職の助産師に「どうしてなりたいか。」と尋ねたところ、「私は何週何百グラムで生まれて。」と説明していましたが、彼女は私が大学の時に見ていた赤ちゃんでした。 彼女は優秀だったので採用しました。

俳句もやってまして、20252NHK Eテレ NHK俳句にゲスト出演しました   俳句との出会いは、50代前半でした。 ある俳句のグループに誘われて、参加するようになって、今私が師事している西村和子先生に指導していただけるようになりました。 それをきっかけに先生の夜の初心者教室に通い始めました。 2024年にはじめての句集を上梓しました。 「小さきもの」と言う句集です。

「食卓のすずらん北海道とうし?」  母からすずらんを送ってもらいました。

「しばれると一人となりし母の声」 父が亡くなった後、母一人暮らしで電話で「しばれる」と言う声を聞きました

「初声をあげよ今宵は良夜なり」? 私の仕事の中では、代表の一句としてあげたいなと思っています。

俳句は自分の内面を言葉に出す手段として、とても大事なものと思っています。  私は人のご縁というか、人のつながりでここまで過ごすことができて、仕事にも恵まれましたし、それ以外でも豊かな時間を過ごすことができました。 ちょっとした出会い、ご縁、振り返るとそれは偶然でなく、私にとっては必然であったと思います。 人のご縁は大事にしたいなぁとはずっと思ってます。


2026年5月14日木曜日

岡村孝子(シンガーソングライター)     ・「ソロデビュー40周年 歌と共に歩んだ人生」

 岡村孝子(シンガーソングライター) ・「ソロデビュー40周年 歌と共に歩んだ人生」

岡村さんは愛知県岡崎市出身。1982年大学生時代に同級生の加藤晴子さんと女性デュオ「あみん」を結成してデビューし、「待つわ」が大ヒットしました。    その後ソロとしても活動を広め、「夢をあきらめないで」など時代を超えて愛される楽曲を数多く生み出してきました。 そんな中20194月急性白血病を患い、治療のため入院。 長期休養に入りましたが、2021年から活動を再開しました。    優しく寄り添うような歌声と日常の中の思いを丁寧に救いあげる歌手は多くの人の心に響き続けています。  ソロデビュー40周年、「歌と共に歩んだ人生」と題してその思いを伺います。

今年はソロデビューしてから40周年になります。 闘病なども含めいろんなことがあったなと思います。 アルバムは頑張ってたくさん出してきました。      ソロは1985年からです。  「あみん」からソロになるきっかけは、相手の加藤さんが就職することになりまして、曲作りだけやろうと思ってしていました。    23歳の時にもう一度やりませんかと言う誘いがありまして、東京に出てきました。そこからソロ活動開始です。 「夢の樹」と言う歌それ言う作です。ヨーロッパサウンドに淡々と歌うと言う歌い方に変えて作ったのが、2枚目のアルバムです。   そこからが岡本孝子のカラーと言う気がします。

「あみん」時代、学生と音楽を両立と言う条件でデビューをしたので、学校に通って東京に出てきて、いろんな番組に出て終わったら岡崎に帰ると言うことをしていました。 ソロになってからは、コンサートとアルバム作りを中心に活動をしました。  そんな中から「夢をあきらめないで」という曲が出来上がりました。   最初は失恋ソングという事で作りましたが、応援歌と言うような感じで捉えていただきました。 NHK「うたコン」に生出演で歌った時は、手拍子をしてもらったり、盛り上がって、私自身も高揚感ありました。

一応退院する時点で完全寛解ですが、2、3ヶ月おきに通っていて、採血の数値を見てチェックしてもらっています。 だいぶ良くなっていますが、病気前の免疫までには行っていなくて、肺炎になったり帯状疱疹になったりコロナにかかってしまったりしました。 この病気はクリーンルームから出られない病気で5カ月間そこにずっといました。 孤独感は感じました。 フアンの方から手紙をいただいたり、お守りを送ってくれたり、千羽鶴をいいただき1人じゃないんだと言うふうに感じました。 家族、あるいは医療スタッフの方々が一緒に戦ってくれてると言う気持ちが1番大きかったです。

年を越したらいないかもしれないと言う様な状況もあったので、音楽も聞きたくないと言う時期もありました。 娘が録音したアルバムを持ってきてくれて置いてってくれました。 それが娘なりの励まし方があると言う風に感じました。 退院してからのツアーで、楽しいと思ったり、おいしいものを食べたり、身近な近くの大切な人に「ありがとう」と言う言葉を伝えておけばよかったと思って、そのことを伝えています。  

2021年からステージに復帰しました。 リハーサルでは大泣きをしてしまいました。 本番ではただただ嬉しいと言う気持ちで歌っていました。  体力が落ちてしまっていたので、マイクも重く感じました。 犬と散歩をしたり、ストレッチをしたりしています。 造血をしなくてはいけないので、肉はいっぱい食べてます。 魚も野菜も食べれてます。 今は1つ年齢を重ねるということが、こんなに幸せなことなんだという事を病気をしてからわかりました。   闘病後、まだまだ失敗をしたり、つまずいたりだめ、だめな自分を出したいと思って、「未来の扉」と言う曲を書きました。  ありのままの自分を出していきたいなと思ってます。   寝る前の時間が私だけの時間なので、本を読んだり、数独をしたり、ゲームをしたり頭の体操をしたりしてます。 新しい曲のテーマ探しをしているところです。


2026年5月13日水曜日

菊池武夫(ファッションデザイナー)     ・「男性はもっともっとおしゃれを!」

菊池武夫(ファッションデザイナー)   ・「男性はもっともっとおしゃれを!」 

菊池さんは1939年東京都の生まれ。 1956年に暁星高等学校卒業、その後文化学院美術科を経て、原のぶ子ファッションアカデミーで服飾を学びました。 企業のポスターやカタログのキャンペーンのための衣装デザインなどを手がけ、1970「BIGI」(ビギ)ブラウンドの会社を立ち上げ、会長としてデザイナー、会社経営者として、活動。 その後その後「MEN'S BIGI」(メンズ・ビギ)ブランドも立ち上げて1970年代のファッション業界を牽引しました。 1984年には大手ファッションションメーカーと自らの名前を冠したブランドを作り、初代デザイナーとして現在も、年に2回新しいデザインを展開しています。

現在86歳(あと1ヵ月で87歳)、自分のやりたいことをやり通せば、自然に楽しくなって、楽しくなるとストレスがないのでそれが良かったのかと思います。  1970年代「BIGI」(ビギ)ブランドの牽引者として、あの時代を境に日本のファッションは変わっていきました。  世界的に大きな波がありました。  音楽が先導して変化していった文化だと思います。 エルビス・プレスリー、ビートルズで文化が変わり、音楽の捉え方が変わっていきました。 ロックの文化が入ってきました。 グループサウンズが流行り、いろいろ影響が出てきました。 

イギリス、ヨーロッパ、アメリカなどを2か月かけて回って帰ってきたのが68年でした。 ファッションの環境が日本とあまりにも違っていて、溜まってみたものをデザインしたいと思いました。 始めたのが「BIGI」(ビギ)と言う会社を作った時でした。 焦げ茶色にちょっと赤が混じったような色とかジーンズ、パンツスタイルも流行り始めました。 

1970年にファッションブランド「BIGI」(ビギ)を設立しました。 女性を新しい世界にということで作っていました。 1975年にメンズビギを設立して、男ものにスイッチしていきました。  萩原健一主演のドラマ「傷だらけの天使」の衣装を担当して爆発的なブームとなりました。 私の認知度も一般的な人に広がっていきました。  ビジネスとデザイナーをやることは大変でした「タケオキクチ」、「モールラック」などのブラウンドを立ち上げました。 

ビジネスとデザインを両方やっていた時代もあって、第一段階はうまくできましたが、デザインと現実のところはすごく時間差があって大変です。 ファッションの波が狭い時は良いけれども大きくなると大変です。 いつも成功してないとダメでそれが大変です。 柔軟性のある思考してないとうまくいかない。 自分のやった事が終われば、一旦完全に白紙にするます。 

男性もおしゃれになっていろんな格好しておしゃれになってきました。 スーツもだいぶ変わってきました。 ビジネスと普通の生活の差がなくなってきてます。  職種も多岐にわたってます。 クラシックのものに対しても、新しいものに対してもかっこいいと言う事は同じだと思います。 

1945年に第二次世界大戦が終了して、その時に暁星学園(ヨーロッパ的)に入る時でした。 アメリカの文化をすごく受けています。 ヨーロッパの文化とアメリカの明るくて、パワフルな文化を一緒に受けて、当時裕福だったと言うこともあって、アメリカの放出品をはどんどん入ってきて、着るものは全部アメリカの子供が着てる洋服を着ることができました。 中学の頃から、自分のファッションに目覚めていきました。 

「タケオキクチ」を作って2024年で40周年になりました。 年齢を重ねていって、若い人もの同士がいいのかなと思って、一旦30代の人に任せました。 自分に合った年代のものを作っていこうと言う準備はしていました。 しかし、もう一度原点を作るために戻りました。 考えるのは自由だから、若くても歳をとってもあまり差はないんですが、考えた後にそれに対してどういう反応があるかがわからなくなるのが1番怖いです。 それがギャップだと思います。 自信も、それが裏付けになっていないと自信にならないんです。 市場とのギャップについては1番問題だと思います。 ギャップをできるだけなくす。 満足した事は1度ありません。 いつも不安です。 

篠山紀信さんが言っていましたが、我々の時代はものすごいみんな欲張りだった、だからみんな自分の世界を引っ張り込むだけのパワーありました。 それを欲張りだと紀信さんは言っていました。 1日が楽しければデザインはできます。 僕の楽しみの1番の元は、僕自身の自由、人に制約されないで、自分自身が生きられることができていればいいのかなと思います。 人の協力なくして、特に洋服なんていうのは絶対できません。 歳をとってもおしゃれでいると言う事は絶対に必要です。自分で、自分自身をかっこよく見せられれるかなぁとそれだけです。 おしゃれと言うのは自分のためにするものです。


2026年5月12日火曜日