2026年10月26日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言 「谷崎潤一郎」

 頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言 「谷崎潤一郎」

谷崎潤一郎は1886年明治19年生まれ。 1965年昭和40年79歳で亡くなりました。文化勲章受賞者でノーベル文学賞の候補にもなりました。 今年は生誕140年にあたります。 耽美派日本の古典回帰で知られています。今日は谷崎の物事に対する恐れの気持ち、恐怖心についてお話を進めます。

「私の神経衰弱と言うのは、脅迫観念が頭に強くて、時々発作起こすのであったが、恐怖の対象はいろいろに変わった。 顔色が真っ青に変わり、あるいはカーっとのぼせてきて体中が震えだし、足がすくみ心臓がドキンドキン音をを立てて鳴り出して、今にも破裂そうになる。 その恐ろしさを紛らわすために片手でしっかり心臓を抑え、髪の毛を掻きむしったり、そこら中を駆けずり回ったり、水道の水を浴びたり、それが時のところを選ばずに突発するんだから始末が悪い。 発作が起こらない時でもいつ起こるかと言う心配のためにビクビクしている。」谷崎潤一郎

谷崎潤一郎は明治から昭和にかけて活躍した小説家で、代表作には「刺青」 「痴人の愛」 「蓼食う虫」 「春琴抄」 「陰翳礼讃」 「細雪」などがあります。 昭和39年日本人で初めて全米芸術院米国文学芸術アカデミー名誉会員に選定され、ノーベル文学賞の候補者にもなりました。 今年は生誕140年に当たります。

谷崎潤一郎は文豪の中でも際立って朗読で聞きやすい人です。  文章自体に惚れ惚れしてしまいます。 スラスラ書くようなタイプの人ですがそうではなくて、あんなに流れるような文章を書くのは不思議と思います。  

語りつくせない人ですが、今回は谷崎の恐怖症に的を絞ってご紹介したいと思います。

「名古屋から東京に来るまでの間に彼は、何度途中の停車場で降りたり、止まったりしたかしれない。 ものの1時間乗っていると、たちまち汽車が恐ろしくなる。 あぁもうたまらん死ぬ死ぬこう叫びながら、野を越え山を越えて走っていく車窓の窓枠にしがみつくことがあった。 いくら心を落ち着かせようと焦ってはみても、脅迫観念が、津波のように心の中を暴れ回り、ただわけもなく個体が旋律し、が高まって、今にも悶絶するかと危ぶまれた。 そして次の下車駅くれば真っ青な顔して、命からがら汽車を飛び降り、プラットフォームから一目散に表へ駆け出して、初めてほっと我に返った。」 谷崎潤一郎(悪魔と言う短編小説の1節)

この恐怖は、谷崎自身が、感じてた恐怖です。 パニック障害ではないかと思う人が多いと思います。 そういった症状があった事は確かです。

谷崎は京都旅行に行く時は大丈夫だったが、帰るときに汽車に乗る恐怖に襲われてなかなか乗ることができず、兵庫で徴兵検査を受けられるようにしてもらう。 いろんな人の助けを借りて徴兵検査をのための列車にようやく乗ることができた。 徴兵検査では脂肪型で不合格になった。(25歳)

「友人ことに目上の人を訪問すること、宴会にすること、芝居や活動小屋に入ることなど全て禁物であった。 活動写真などはそれでも恐々見に行ったものだが、3等席の出口に近いところに行って、発作を感じると急いで飛び出した。 その他床屋へ行くことがいけなかった。 じっと腰掛けて、首の周りを絞められて、髪を刈られていると決まって不安になってくる。 それを職人に悟られまいとして、一生懸命堪え、そのためになお怖くなる。 鏡に映る自分の顔が、土気色をして死相をたたえている。 みるみるうちに赤くなったり、青くなったり、とてもじっとしていられないので、えへんと咳をしてみたり、体をごそごそ動かしてみたり、しまいには、首を彼方へ向け此方へ向けする。 そして気分が悪いからとかなんとか言って刈り掛けの頭で外へ出てしまう。」 谷崎潤一郎(青春物語の一節)

これは今だと広場恐怖症と言われるかもしれない。 広場恐怖症と言うのは広場が怖いということで逃げられない助けを求められないと言うふうに感じてしまう状況に不恐怖を感じる。  いろんなところへ行けないと言う事は日々の生活が大変です。 当時はこういったことに理解されていない状況でした。

「強い光線強い色彩に見られてもめまいを感じた。何事によらず、強烈な官能的刺激には恐怖が伴った。 小説「悪魔」の主人公の佐伯と言う男は、真夏の路面から反射する陽の光に耐えかねて思わず、両手で顔を覆うのであるが、あれは私自身の体験で、佐伯の神経衰弱はすなわち私のものです。」谷崎潤一郎(青春物語の一節)

停車場前の熱した広い地面から、まともにキラキラと反射する光線の刺激に耐えかね。まぶしそうに両目を抑え、剣のような鉄路を走る電車の響き、見渡す限り熱気の充満した空の輝き、銀色に燃えてもくもくと山並み?の後ろからせりあがる雲の塊、赤く乾いた地面の上を強烈な日光を浴びて、火の粉?の落ちるように歩いている街の群衆、上を向いても、下を向いても激しい色と光とが弱い心を圧迫して、彼は一刻も両手を眼から離せなかった。 自分の神経が、もう白日の威力にさえも耐えがたくなってきたかと思うと、彼は生きがいのない心地がした。」

これは今と言う感覚過敏に近いという感じですね。 光或いは、音などに感覚的な刺激を過敏に感じてしまって、苦しい症状。これも日常生活には大変です。

「谷崎自身は、常時大型の薬瓶を鹿皮の袋に入れて携えていたが、それは外出して電車のつり革に捕まったり、階段の手すりに触れたり、風邪をひいている人とすれ違ったりするとたちまち血相を変えて携えたオキシフルで消毒をすると言う臆病なほど神経質。」 谷崎潤一郎の思い出を綴った今東光の本より。

これは、潔癖症というか、不潔恐怖ですね。 谷崎が書いていないのは、自分では自覚がなかったのかもしれない。

谷崎の母親も、不潔恐怖だったようです。

「私の母は病的に神経質だった。 母はきれい好きで便所から出ると、塩と軽石で手を30分ぐらい手をゴシゴシ洗わなければ気が済まなかった。 冬になると指先がすっかり割れてささくれだったが、それでもやめなかった。」

「彼は地震が大嫌いだった。彼の頭はいつか全く地震に対する危惧と不安とに満たされていた。 自分は必ず逃げ損なって梁の下に押しつぶされるに違いない。 人間が計り知られぬ?過去の時代から生存の土台と頼み、光栄ある歴史をその上に築き、多忙なる未来をその上につないで安心して活動していた大地と言うものがかくまでも不安定に、あくまでも脆弱であろうとは。」  谷崎潤一郎(病蓐の幻想と言う短編小説の一節)

谷崎は地震恐怖症でもありました。 幼い頃に大きな地震を体験している(明治27年6月20日の明治東京地震 谷崎が7歳の時) その後恐れていた大地震がついにやってくる。 関東大震災、その時谷崎は箱根のホテルに泊まっていた。 建物は壊れたけど幸いバスの中にいた。 バスの揺れで気づかず。 この地震をきっかけに関西に移り住むようになる。 谷﨑の代表作のほとんどは、関西に移住してからの作品。

「俺はいつ死ぬかわからない。 いつ何時頓死するかわからない。 そう考えると、正三郎は立ってもいても、たまらないほど、恐ろしい折があった。 死に対する恐怖から、彼はあらゆる急激な病気に対して過敏になった。 それらの災いが今にも自分の身に降りかかって一瞬簡易に五体がしびれてしまいそうな心地がすることが日に5、6度起こった。 往来を歩いていると、急に胸が痛くなって夢中で5,6町かけ出したり、電車の中でかっと頭が上気して、あたふたと表へ飛び降りていく。  夜中に布団を跳ね返して梯子段を転がるように駆け降りて、水道の水を顔にぶっかけたり、彼は真っ青になって、頭と胸とを抱えながら、一晩中ブルブル震えていることがあった。」 谷崎潤一郎(異端者の悲しみと言う小説の一節)

死に対する恐怖症。

鉄道病 広場恐怖症 感覚過敏 不潔恐怖 地震恐怖症 死の恐怖症とたくさんあります。 主には若いときで、段々には良くなっていった。

当時は、今ほど精神医学が進歩していないので、死にはしないから大丈夫だよと言われるのをとても恐れていた。 わかってもらえないと言う事は非常に辛いことです。 谷崎は病院に行くこと自体も苦手だった。

「とうとうある日脳病専門のドクトルの所へ出かけて行った。 患者は20人近くも待っていて、えらく流行っている医者であった。 川から晴れた夏の光が差してきて、入れ込んだ医療機械や真白な看護婦の仕事服や床のリノリウムがピカピカと目を射る。すぐに見てもらえれば一思いにすむのだけれども、待たされていると様々な恐怖の幻を描いて、だんだん怖気づいてくる。 私の順番はなかなか回ってこないので、私はまず代診の前に病気の性質と経過と尋ねられる。 あ、それからどうも時々理由のない事に恐怖を覚えたりしましてね。 私は軽く付け加えるような口調で言ったのだが、はあはあと代診は職業的に受け流しながら、機械的にペンを走らせて、時々恐怖感がありなどと備考欄に書き入れたが、いよいよ順番が近づいたと思うと、動悸が激しく打ち始めた。 私の前にまだ2、3人残っていた患者が、1人減り、2人減りして、最後の1人になった時、私はますます強く打ち出した心臓の鼓動を抑えて、そうこうとして階段をかけおり、夢中で戸外へ逃げてしまった。」  谷崎潤一郎(青春物語の一節)











2026年10月6日火曜日

柴田康弘(NPO法人代表理事)       ・「広げたい!インクルーシブサーフィンの輪」

 柴田康弘(NPO法人代表理事)・「広げたい!インクルーシブサーフィンの輪」

柴田さんは今年56歳、神奈川県鎌倉市などで介護福祉施設を運営する一方、サーフセラピーに取り組んでいます。 サーフィンと海の力を借りて、心身の健康や生活の質(Q O L:Quality of life)を高めようと言うもので、海外では退役軍人のトラウマの回復等に効果があることが報告されています。 柴田さんはまた障害の有無を超えて一緒にサーフィンを楽しもうと言う体験会をすると言う、地元由比ヶ浜で定期的に開いています。 こうした一連の活動により、今年の夏海洋スポーツを通じた社会貢献活動を表彰する国際的な賞アロハアワードを受賞(日本人で初めて)しました。

最初は仲間うちで始めた活動です。 少しずつ輪が広がってきて現在のようなスタイルになっています。  世界で認められたということで正直嬉しく思ってます。 大学2年生の時に友達がサーフィンをやると言うことで一緒にやることになりました。 サーフィンにハマってしまいました。 介護の仕事を葉山,湘南でしています。 介護、医療に関わるいろんな職種の人たちとサーフィンを通じて知るようになりました。 最初に始めたのがなみニュケーションと言う形で初めて11年になります。

「ラン友」と言う組織がありまして、北海道から沖縄までオレンジのTシャツを着て認知症の方を支えるイベントを毎年ありました。 その「ラン友」のイベントで若年性認知症の方と出会いました。 若年性認知症になった52歳の時に先生の方からサーフィンはやめたほうがいいんじゃないかと言うことでやめていたようですが、一緒にサーフィンをやりませんかと声をかけました。  一緒にサーフィンをやることによって笑顔で楽しんでいました。 それを機に毎月集まるようになりました。 

その後車椅子の方とか視覚障害の方、知的障害の方、ダウン症の方とかだんだん広がっていきました。 パラサーフをやるようになりました。アダプティブサーフィンもやってます。 適合すると言う意味ですが、障害を持っているんですが、波に適合させてサーフィンをやるわけです。 車椅子の方は腹ばいになって波に乗ります。障害によってボードにも工夫をします。 視覚障害の方はどちらから波が来るかとかタイミングとかについては合図とか手拍子をして理解してもらいます。 

自閉症とかダウン症の人は1人では難しいときには2人乗りで対応したりします。 押したり、受け取る人もいて、ピッチャー、キャッチャーと言うふうに役割を対応します。 落ちてしまった時もすぐに駆けつけるようにします。 6人ぐらいでチームを組んでサポートします。 本人が喜んで、私たちもそれを見て喜んでいます。

もともと看護師をしたメンバーで、最初はサポーター側で関わっていた人ですが、目の病で視力が低下してしまい活動中止していましたが、障害者の試合に出るように勧め、パラサーフィンの選手として参加して、昨年は全日本のチャンピオンになりました。 そして視覚障害者のサーフィンの方をフォローする活動をしています。

ダウン症の方がいまして、彼がパラサーフィンと出会ったのは、高校生の頃です。サーフィンをやることによって褒められたりして、自己肯定感が高まってきて、全国から彼を目指すような希望を与える存在になっています。  サーフセラピーというのを去年から始めました。ウミガメクラブという名前ですが、彼はインストラクターと言う形で活躍してます。

サーフセラピーに関する本をいろいろ読んで勉強しました。 戦争で心の傷を負った軍人の方向けのサーフセラピーとか、自閉症の子供向けのサーフセラピーとかあります。 それに対する研究も進んでいます。 名古屋の中部大学と言う所の准教授の先生と一緒に研究するようになりました。 去年の5月からスタートしました。 身体的幸福度とか、心理的幸福度、親子関係、学校関係などが少しずつ良くなっていきました。 親御さんにとっても良いセラピー効果が出てきていると言うことをわかりました。 効果の側面は3つあると思います。1つは海とか自然の持つ癒す力、2つ目は波に乗ることによって、現在に集中する。過去とか、未来に対する不安をなくせる安心できる。 三つめは独りでやるのではなくメンバーと一緒に味わう事で、互いに歓びを感じる。 場所、安心できる仲間がいる。

私は大学を卒業しようとするときにある企業は内定していましたが、卒業旅行でバリ島に行って、ビーチで貧しい人たちを含めてみんなが満たされる気持ちになっている姿を見て、幸せってなんだろうとその時に感じました。 サラリーマンになることへの疑問を感じて、内定辞退しました。 老人ホームを見る機会があり、その施設に配属になることになりました。 

ある認知症のおばあさんと出会って、その人はつばをはいだり、暴言を吐いたりしていました。 通常は午前中にお風呂に入れることになっていましたが、たまたま午後に入れることになり、その時は鼻歌で笑顔でそのおばあさんはお風呂に入ってました。 お風呂に入れる時間を変えたり、こちらの接し方を変えることによって本人も心の状態が変わってくると言うことをその時初めて気づきました。認知介護の奥深さを感じました。

その後介護の仕事にどっぷりつかるようになりました。 介護の会社を自分で作るようになり、現在に至るようになりました。 サーフィンをしている人たちが楽しんでいるのを見ることによって、ボランティアをしている私たちも幸せになって、私たちボランティアが1番セラピーの恩恵を受けてるのかなと言う思いもあります。 セラピー効果をいろんな人たちに味わっていただきたいと思っています。 インクルーシブサーフィン、いろいろな障害のある人、あるいは障害のない人を含めて一緒になって楽しむ、みんなで一緒になると言う事がビーチから広がっていければいいと思います。


2026年9月28日月曜日

2026年9月17日木曜日

小泉武夫(農学博士・東京農業大学名誉教授) ・ 「人生は発酵する~83歳、好奇心はまだ止まらない」

小泉武夫(農学博士・東京農業大学名誉教授) ・ 「人生は発酵する~83歳、好奇心はまだ止まらない」 

味噌や醤油、日本酒、納豆と日本の発酵文化の魅力を伝え続け、発酵という言葉を広く世の中に浸透させました。 小泉さんは東京農業大学名誉教授農学博士です。発酵学、醸造学、食文化論の第一人者として長年研究に携わりました。 世界50以上の国と地域を歩き、発酵食品や珍味を尋ね歩いたことから、発酵仮面、鋼鉄の胃袋などの異名でも知られています。 昨年は、長年にわたる発酵研究と、日本の食文化への貢献が評価され、文化庁長官表彰を受賞しました。 現在83歳小泉さんの発酵とともに生きる思いを伺いました。

福島県で生まれて、小さい時から、酒の匂いを嗅いで育ってみたいなものです。   6人兄弟の末っ子です。生まれた時から、発酵食品に囲まれて育ちました。囲炉裏の火傷を防ぐために右手に身欠きニシン、左手に味噌を持たせると泣き止み、それらをしゃぶっている間は大人しかったといいます。 山にはいろんな食べ物がありました。  小さい頃から何ごとにも好奇心持ってました。 動物性たんぱく質は、赤ガエルをよく食べました。 青大将、やまかがし、シマヘビなども食べたことがあります。 

私の父は酒屋の長男で戦争で兵隊に徴収されました。 部下と共に中国からベトナムに行きました。 母親に稲の種と大豆の種をベトナムに送るように手紙が来て送ったそうです。 それを現地の人とともに米作りを始め味噌汁も作ったそうです。 昆布の味噌漬けは本当においしかったです。 母は醤油屋の娘で、そこから酒屋に嫁いできました。 文学少女でした。小学校4

年生の時に母を亡くしてしまいました。 寂しいだろうと言うことで、父が私専用の台所を作って、そこで自分で料理して作って食べました。 

父から教わった事は、日本人になりきれということでした。  毎日ご飯と味噌汁と漬物を食べてきました。 味噌汁と漬物と言う2つの発酵食品がありました。  クジラの肉は安くて本当によく食べました。 日本食を食べてきたので、83歳まで元気でこられたと思います。 東北大学の学部に行きたいと思っていました。   発生生物学と言う学問があって、それをやりたかったです。 しかし、酒屋の統合という国からの命令があり、発酵技師が必要になって東京に行くことになりました。 

東京農業大学に入学しました。 大学の1年から酒造りの授業をやることができました。 個人に顕微鏡が与えられ、酵母が発生するのは、全部目で見えるわけです。それから発酵学、醸造学が好きになりました。 その後世界を旅することになりました。 訪れた国は、世界50、 60箇所以上で600種類以上の発酵食品を食べてきました。 その中で1番珍しい食べ物は実は日本なんです。 それはふぐの卵巣のぬか漬けです。 (石川県)ふぐにはテトロドトキシンという青酸カリの約700倍の毒が入ってます。 ふぐをぬかみその中に付けて、長年おいておとくと毒がなくなってしまうわけです。 世界のどこでもこんな猛毒を食べてしまう、発酵してすごいものだと思いました。 日本人と言うのはものすごい好奇心がありました。 江戸時代からこんなことをやっていたと言うのはすごいなぁと思いました。

ボリビアと言う国がありますが、そこの民族は今でも口に穀物を入れて噛んで吐き出して、それで酒を作ってるんです。  口噛みの酒といいますが、日本では既に奈良時代に作ってるんです。  巫女たちが蒸した米を口にいれ踊りながら噛んで容器に吐き貯めて酒を造ってその酒を神にささげたと古事記にちゃんと載ってます。 唾液の中に米のデンプンを分解するアミラーゼと言うデンプン分解酵素があるから、噛んでるうちにデンプンがブドウ糖になってしまいます。 それを吐き出して、口の中に酵母があって、それが酒になっていくわけです。 日本でもペルーでも口噛み酒を作るのは女性です。それは現在調査中です。神様との関係があるのかもしれません。

播磨の国風土記に、神棚にコワメシを供えたら、そのうちカビができて、それをカビ立ちと言ってましたが、語源が変化して麹になりました。 実は麹菌は日本にしかいません。 醸造に使われる麹菌は日本にいません。 701年に大宝律令ができましたが、その中に4種類の醤油を作っていたと言う風に書かれています。  1つは穀物で醤油を作る穀醤、お魚で醤油を作る、それを魚醤、お肉で醤油を作る肉醤、野菜で醤油を作る、それを草醤、 4つに作り分けていました。 日本人の発酵と言うものに関しての考え方。応用は本当にすごいです。 発酵食品が日本の民族を育ててきたといえます。 麹菌がユネスコの無形文化遺産にまでくっついちゃったものですから素晴らしいことです。 

漬物だけで日本には1500種類以上あると思います。 タクワン漬けだけで日本には70種類あります。 新潟新潟市西蒲区角田浜地区に行くと、「なまぐさごうこ」というのがあって、江戸時代から作られていて、そこの村から出ませんでした。 イワシを3年ぐらい塩浸けしておくとイワシの醤油ができるわけです。 それをこして、大根をイワシの魚の醤油につけてそれから2年おきます。 浸けた大根を焼いて食べます。 大根だけれどもイワシの味です。 

70代で大病を経験しました。 心臓を患って手術をしましたが、その後はピタッと良くなりました。  発酵食品のおかげだと思います。 東京農業大学のほかに全国各地の大学の客員教授をして、発酵食品の素晴らしさ、発酵は人を作るんだと言う事、街づくりもできるんだと言うことを話しております。 発酵食品は自分で作れると言う事、それが自信になって食生活が豊かになります。 発酵の輪ができていきます。





2026年9月16日水曜日

馬場あき子(歌人)             ・「歌人 馬場あき子 98歳 詠み続けて1万首」(後編)

馬場あき子(歌人)      ・「歌人 馬場あき子 98歳 詠み続けて1万首」

馬場さんは、1928年(昭和3年)東京生まれ.。 日本女子専門学校(現在の昭和女子大学)に在学中に短歌結社「まひる野」に入会しました。 昭和の歌人の代表の1人である窪田空穂の長男一郎とその元に集まった若い歌人たちによって創刊された「まひる野」では、短歌の創作だけではなく、後に夫となる岩田正と知り合うなど充実した日々を過ごしました。 大学卒業後は教員となり、組合活動にも従事し、多忙な日々を送る中 1955年に第一歌集「早笛」、1959年に第二歌集「地下にともる灯」を発表し、女流歌人として注目を集めました。  その後戯曲、評論など執筆の場を広げ、1977年に 29年に及んだ教員生活をにピリオドを打ち、夫の岩田正と「かりんの会」立ち上げ、新たな歩みを始めます。 2021年にはそれまでに発表した27の歌集およそ1万首を網羅した「馬場あき子全歌集」を完成、今年新しい歌集「アスパラの芽立するころ」を発表しました。 馬場さんの短歌創作の歩みや今思うことなどをお聞きします。

伝わらなくてもいいと思っていて、自分が言いたいことを言ってそれ人が享受してくれれば幸いです。 享受されなくてもいいです。 最初は自己満足そこから始まります。 大学ノートは37冊目になります。 小学校の4年生の時に日中戦争が始まりました。  女学校の夏休みの宿題に短歌を作り始めました。  テーマもだんだん広がっていきました。 だんだん人の歌を読むようになります。  古典和歌、古典俳句などを読んで感動する事は多いです。  

友達が薄い歌集を二冊買ってきました。  「あららぎ」と「まひる野」でした。 「まひる野」に入会することになりました。 (昭和21年) 近代短歌で歌っていくのは私の出発でした。 私は中学校の先生になりました。 お能にも心酔して稽古を始めました。 私は中学生を中心にした彼らの生き生きした世界を歌いました。(第一歌集)  組合ができて、左翼の勉強もさせられました。 いろんなデモに加わっていくうちに一端の左翼になっていきました。 それが第二歌集。 

寺山修二と塚本邦雄が出てきて、鮮やかな歌を読んでそういった言葉が欲しいと言うふうに思い出しました。 私自身短歌をまとめることができなくて10年かかってしまいました。  第三歌集「無限花序」は10年の後に出しました。 60年安保とかデモに毎回出かけるようになり、教育界からにまれるようになりました。    ある時、落ち武者ばっかりが集まるようなグループに加わることになりました。 寺山、塚本を対象にした勉強を始めるようになりました。 寺山、塚本と知り合うようになり、だんだん歌壇の中央部に入っていきました。 

最新の歌集「アスパラの芽立するころ」は、コロナ禍で友達との交流が絶えてしまいました。 友達を作ろうと思って、それがかたつむりだったりカメムシだったり虫でした。  ゴキブリの歌も30首作りました。  自分だけ生きてればいいと思っている非情な人間というのを歌っています。  6人家族でしたが次々に死んでいて私1人が残りました。  ある年1人の正月を迎えます。  お正月に1人でたった1個の餅を食べるわけです。それはまさに仮想空間ではないかと言う風に思いました。

万葉集の防人の歌がありますけれども、何故か東国から九州まで防人を連れて行くわけです。 九州までの行きも帰りも費用は自分持ちです。 大和王権がいかに強かったかと言うことです。  地域の中でもお金持ちの村長、副村長クラスの人たちを徴発していきます。  帰りは現地解散ですが、お金がないから帰れないので現地の妻と結婚して土着して九州人になったりするわけです。 出発の日が行き別れの日になるわけです。 

私って一体なんだろうと考えますけれども、どんなふうに生きてきて今に至ったのか考えますが、自分と言うのはなんていい加減な生きた生き方をしてきたんだろうかと思うばかりです。 自分で1人で生きなければならなかった。 親子とか人間と人間の情と言うのは大切にしてきたつもりです。 けれども、そんなものは役に立たない。 だから、1人で生きるほかない。  蝉のように死にたいといつも思っています。  セミは力がある限りは鳴いて鳴いて鳴き叫んで最後に飛べなくなってぽろっと落っこちるあれがいいと思います。  だから私は死ぬまで元気にしていたいと思います。死ぬ時が来たら蝉たいに落ちてぽろっと死ねばいいと思います。 虫は友であり先生です。




2026年9月11日金曜日

阿刀田高(作家)              ・「91歳、終わりこそ晴れやかに 後編」

阿刀田高(作家)          ・「91歳、終わりこそ晴れやかに 後編」 

ご両親を早くなされて、20代は1人で生きざるを得なかった時期があり、その中で文学への道切り開かれていった話から始まります。 そして30歳で結婚、妻の慶子さんと人生を共に歩まれてきますが、2020年、慶子さんはレビー小体型の認知症を発症します。 阿刀田さんは介護を続けながら寄り添い、去年2025年慶子さんを見送られました。

もともと独りだと思っていました。 妻もいたし子供もいたし、もともと独りではないんでしょうけれども、どっか人間は皆独りですよ。 独りであることを享受しなければ人生はうまく生きていけないんじゃないかなと思います。 一時的に私は独りでした。 早く両親に死なれてしまったものですから。 15歳になるまでは豊かな家庭で大事に育てられまいた。 私は子供の頃はのんきに自由に身勝手に繋がれたものです。 20歳を過ぎて10年間ぐらいはそれなりの苦労はしました。      父が亡くなったのは高校2年の時でした。 大学は奨学金等アルバイトで生活しました。 大学のときには肺結核を患って1年半療養生活をしました。

新聞記者になろうと思ってましたが、国会図書館に勤務しました。『ブラックユーモア入門』と言う本を出版したら、それがベストセラーになってしまいました。   決心して退職してミステリーなら書けると思っていました。  ロアルド・ダールの作品を見て、こんな世界がある、これだったら書けるかもしれないと言うのがデビューにつながっていきました。 「冷蔵庫より愛をこめて」の中に収められている短編「幸福」が1つの転機になりました。 ユニークな作品です。 編集長のところに原稿を持っていったら、こういったものを待っていたということで、まだ雑誌に乗らないうちに原稿料を支払ってもらいました。  いきなり直木賞候補になりました。 2冊目『ナポレオン狂』で直木賞をいただきデビューしました。

1年半の闘病生活があったので、ほんのちょっといいことがあればいいなぁと言う悟りみたいなものはありました。 今もそうです。 ほんの少し良いことがあればいいなぁ位の気持ちで過ごしています。 妻が2024年に亡くなりました。  その3年位前から妻の介護をしていました。  70、 80パーセントケアしないと生活ができない状況になっていきました。  危機的な状況になっていると言われて、このまま行くと、あと3ヶ月であなたはダメになると言われました。 子供たちとも相談して施設に入れることになりました。 10日位前に手を握り合って、「おじいちゃん大好き。」と言いました。 それがちゃんとした言葉を吐いた最後でした。 「ありがとう」と言う意味合いがあったと思って勝手に解釈しました。

エッセイの中で「死は無である。」と言うことを書いています。 神様とか宗教と言うものは人類が考え出した偉大なるフィクションだと思います。  このフィクションは人類にいっぱい良いことをもたらしていると私は思います。 偉大なるフィクションに対して否定するわけでは無いですが、私自身は死は無に帰ってくることだと思ってます。 死んだ妻に対しても、あの世で何を考えているかなんて言う事は全く考える必要ないんです。 いいことだけ思い出してよかったよかったと思います。 子供の頃そういった考えを持ってましたが、もし死後の世界があるとするならば、それは他の動物にもあるはずだと思います。  動物にない世界が人間でもある筈がないと思います。 どうせ無なんですから、死の世界を考えなくてもいいんです。 かなり本気でそう思ってます。

人生の道標として思ってきたのは、自分の与えられた条件の中で、ほんの少しでも良いものを求めて行こうと思い、ほんの少し努力することとです。 自分の幸福は自分で作るより他にないと思ってます。  ほんの少しでもいいですから、それを重ねていくと、少しは良い人生があるんではないかと思います。 「掌より愛をこめて」は多様な作品がぎゅぎゅっと詰まってます。 友人、知人、同じ世代の人がどんどんなくなっていくので、そういう年齢になったんだと言う事はつくづく感じますが、どうせまた無に帰ってゆくわけですから。


2026年9月9日水曜日

馬場あき子(歌人)             ・「歌人 馬場あき子 98歳 戦争体験を語る」(前編)

 馬場あき子(歌人)   ・「歌人 馬場あき子 98歳 戦争体験を語る」(前編)

馬場さんは、1928年(昭和3年)東京生まれ。  日本女子専門学校(現在の昭和女子大学)卒業後、中学や高校の教師を務めながら短歌歌誌「かりん」を創設、以来多数の歌集を発表しています。 歌壇を代表する馬場あき子さんの原点は太平洋戦争の戦争体験です。 戦争当時馬場さんは女学校に通っていて、学徒動員で東京武蔵野市にあった中島飛行機の軍需工場で働き、空襲では東京高田馬場の自宅を失いました。 終戦を迎えた1945年8月15日、馬場さんは17歳、女学生の時から短歌を作っていたと言う馬場さんは、戦争中何を体験し、どう感じどう考えたのか伺いました。

焼け跡を耕して畑にしていました。 サツマイモの蔓先を摘んでおひたしにして食べるんです。 集まってラジオを聴きました。 玉音放送です。 父がどうやら戦争が終わったらしいですよと言いました。  私はどうなるんだろうと思ってました。  焼け残った家の2階からギターを弾いた男がいました。 私は戦争が終わったんだと思いました。 どっかから「馬鹿野郎」と言う声がして、「日本は負けたんだぞ。  なんで音楽などやるんだ。」と言う声が聞こえて、その人は音楽を止めました。  周りを見ると、明かりがつけるようになりました。 家でも60ワットの電灯をつけて黒い遮蔽幕を取ったらすごく明るく感じました。 何の感想、何の考えも浮かばなかったです。 呆然としていました。

太平洋戦争が始まったときには、世界地図を見て、こんな小さい日本がとてもアメリカに勝てると思いませんでした。 1人1畳半位の女子寮の部屋に入れられて、そこから工場に通いました。  6尺旋盤で飛行機のエンジンの台座を作ってました。 何も考えず、ただただ一生懸命作っていました。  1日4回ぐらい空襲警報がありました。 夜も3回位ありました。 

私は1番悲しかったのは、山梨のほうに疎開していた女子高の生徒が入ってた棟に爆弾が落ちて、女子生徒がいっぱい死んで、大八車にいっぱい積んで、埋めに行くと言う話を聞きました。 男子の中学生の級長が伝令に行くために防空壕を出た途端に爆弾が落ちて、顔の皮がベロンと剥けて、一瞬自分では剥けたことがわからなくて、「行ってくる。」と言って、後ろを向いたら顔の皮がぶら下がっていたと言う。そういう話も聞きました。 その男を診療所に連れて行ったら、そこは修羅の巷だったと話を聞きました。 

右胸に白い木綿の布に墨汁で、名前と住所と血液型を書いてみんな貼ってました。  怪我をしたら、血液型わかるようにとか、死んだときにはどこの班かって言うことがわかるように書いてたんだろう思い出しました。 我々に教えてくれた工員さん(大学の学生が来ていた。)はだんだんいなくなっていきます。 戦地への招集令状が来ます。 工員さんと恋をしてはいけません。  戦死するかもしれない方なので、生きて帰るかわからないので未亡人になりますよと言われました。 恋はご法度だった。

学校の宿題で短歌を作るとか、日記を出すか、作文を出すかということで、私は短歌を選びました。 ノートなどはなくて、白い紙の裏に書いてました。  戦争が終わって大学ノートが買えるようになってからそれを写して持っています。 人に披露できるようなものではないでした。 自分の存在を言葉に残したいと言う思いはありました。  夜中の1時2時に旋盤を回している時など、一体人生って何だと思い出します。  絶望的になって永久にこのまま機械みたいに虚無的になります。 

軍歌ばっかり歌って、女の歌のない時代でした。  露営の歌 酷い歌だと思います。 (勝ってくるぞと勇ましく  誓って故郷(くに)を出たからは 手柄立てずに死なりょうか 進軍ラッパ聞くたびに 瞼(まぶた)に浮かぶ旗の波)

死骸を見ても感情は動かない。  戦争って生きているとか、死んじゃうとか、死んでるとか、そういう感覚が麻痺してしまいます。 ウクライナの瓦礫の映像を見た時には同じだと思いました。 戦争と言うのは人間の神経を麻痺させてしまう。死んでいる人の死骸と言うのは終わったものとしか見ていなかったです。 戦争の意味なんてなにも考えませんでした。 早く終わったらいいという思いでした。