2025年6月19日木曜日

笹野高史(俳優)             ・どうしても役者になりたい!思いは通じる

 笹野高史(俳優)             ・どうしても役者になりたい!思いは通じる

笹野さんは1948年兵庫県淡路島生まれ。  高校卒業後俳優を目指してに日本大学芸術学部映画学科に入学。  しかし大学2年の時に中退して東南アジア航路の船会社に就職して、船員となります。  その後串田和美主宰の自由劇場に入り俳優活動を始めました。 1979年初演の舞台「上海バンスキング」で注目されるようになります。  1982年自由劇場を退団、活躍の場を映像作品へと広げます。  1985年念願の山田洋次監督の「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」に出演、以来「男はつらいよ」シリーズの常連となり、山田洋二監督作品には欠かせない俳優となります。  又舞台では「コクーン歌舞伎」「平成中村座」など歌舞伎にも出演しました。 

母親の時代は当時大流行でした。  映画が大好きな母親でした。  淡路島造り酒屋「東洋長」に四男として誕生。  3歳の時に父を亡くしました。(結核)  母親にもうつっていて母親と兄弟が療養のために別の家に住んでいました。  母親に連れられて映画館に行きました。 (小学校に入る前)  11歳の時に母を相次ぎ亡くして、実家の戻って育てられました。  中学になって自分で映画を観るようになりました。  映画俳優になりたいなあと思い始めましたが、口には出せませんでした。  雑誌から映画俳優になるための方法についての本のことが書いてありました。  手紙を出して届いたのが、呼吸法、しゃべり方などの本でした。  隠しておいた本を兄貴に見つけられてしまいました。  兄たちに大反対されました。  

大学に日本大学芸術学部映画学科があることを調べたら知りました。  俳優コースに入り立ったが、反対されるので監督コースを、という事にしました。   大学に入ることになりまいた。  池袋の映画観に良く通いました。   演劇のグループに入って演劇のことを一から教えて貰いました。  先輩が自由劇場に入って、その先輩に誘われて入りました。  1年後に柄本明が入って来ました。  俳優ってあんな風体でもいいんだと思いました。  学生運動が盛んになり、 小劇場も運動に巻き込まれました。   自分の居場所がなくなってしまいました。  お金を使わないで外国に行くのは船乗りだと思いました。  て東南アジア航路の船会社に就職して、船員となりました。  凄く楽しかったです。  

段々学生運動、小劇場の運動も収束していきました。  船員の道か芝居の道か、悩みました。  役者でやらしていただきたいと、23歳の時に言いました。  自由劇場に入りました。  佐藤B作さんが自由劇場を辞めて自分で劇団を立ち上げました。  柄本さんも辞めました。  彼らがテレビに出るようになって、 役者が飯を食えるようになったんだと思いました。    憧れていた映画「男はつらいよ」に佐藤B作さんが出ました。  悔しかったですね。  自分で頑張ればいけるのではないかと思って、勇気を貰いました。  柄本さんも出ました。  自分でも頑張とうと思いました。  

自由劇団を辞める2年前に「上海バンスキング」がヒットしました。  それで賠償千恵子さん主役のミュージカルへのオファーがありました。  賠償千恵子さんから山田洋次監督に繋がるのではないかと思いました。  舞台を山田洋次監督が見ていただいて、36作目の「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」に出演することになりました。  以後毎回呼んでいただきました。  或る人から「笹野さんは主役をやろうと思っちゃ駄目、笹野さんは脇で光る人なんだから」と言われました。   脇を見事にやってのける俳優になってやろうじゃないかと、思いなおしました。  俳優はいつもピカピカなリンゴでないといけないと思っています。 このリンゴは美味しそうだと買っていただくので。  心も身も元気で居ようと心がけています。   セリフが覚えてれるうちはもうちょっとましな役者になりたいと思っています。


















 










2025年6月15日日曜日

忽那健太(プロラグビー選手)      ・やるか、めっちゃやるか~プロラガーマンの挑戦

忽那健太(プロラグビー選手)    ・やるか、めっちゃやるか~プロラガーマンの挑戦 

最近は海外のリーグに挑戦するラグビー選手が多くなってきましたが、まだ日本人のプロ選手がいないスコットランドのプロリーグに挑戦した選手がいます。  忽那健太(くつな けんた)さん30歳。  忽那さんは愛媛県松山市出身で5歳の時からラグビーをはじめ、高校ラグビーの名門石見智翠館高等学校(島根県)から筑波大学、社会人のジャパンラグビートップリーグHonda Heat(現・三重ホンダヒート)でトップレベルで活躍しました。  その後膀胱がんの治療を行い、命に限りがある事を改めて知らされ、出来るうちにラグビーの王国イギリスでプレーしたいと一昨年スコットランドのあるクラブチームで活動を始めました。  目標はスコットランドで日本人がまだ誰もなし遂げたことのないプロ契約を結ぶ事でした。  2年間の挑戦を終えて帰国したプロラグビー選手の忽那健太さんにお話を伺いました。

今、全国を回っています。  小中高校大学、社会人の企業団体を回って、命の大切さとチャレンジすることお大切さをやっています。  講話とラグビーの練習もします。  モットーが「やるか、めっちゃやるか」です。  3年前に膀胱がんを患って命と向き合う時間を持ちました。 生きるか、めっちゃいきるか、と思っていまして、一回の人生を後悔無く生きるという思いがあり、「やるか、めっちゃやるか」と言う言葉を使っています。 本気で生きるという事です。  

父は陸上部でした。  団体で競技するラグビーに憧れを持っていたようです。  兄弟3人をラグビースクールに放り込みました。  現在兄が32歳、私が30歳、弟が28歳です。   兄を目標にしていました。   ラグビーは人間臭いスポーツだと思っていて、沢山の友達を作ることが出来ます。  強豪校に行きたくて島根県の石見智翠館高等学校に行きました。 (猛反対があったが。)  3年生ではキャプテンとなって全国大会で準優勝をしています。  大学は筑波大学を選択しました。   体育教員を目指しました。  中学からずっとキャプテンをやって来ました。  責任を負うという事が結構好きでした。  引っ張ってゆくには言葉と行動のバランスですね。  「挑戦する先には成功か成長しかない。」と思っています。 これはスコットランドへ行ってきた経験から得たものです。  挑戦する過程が成功なんじゃなかと思います。   

2017年ジャパンラグビートップリーグHonda Heat(現・三重ホンダヒート)に入ります。  トップリーグで戦いましたが、完全に鼻をへし折られました。  身長が172cm、体重が82kgで大きい方ではありません。  3年間プレーした後、26歳の時に膀胱がんと診断されました。   頭が真っ白になりました。  かなり大きくなっていて、2回手術を受けました。(1か月入院)  転移している可能性もあり、先が見えない時間でした。   死を意識末うと同時に人間は死を目前にした時に生の執着は凄いと思いました。  生きるとは何だろうと凄く考えさせられました。  未来に向けて時間を過ごそうと思って、自分が治った後は何がしたいのか、ノートに書き続けました。  もう一回ラグビーがしたいと思いました。  命はいつでも終わると感じて、今をとことん本気で生きようと思いました。 先生から「転移はなかったです。」と言われた時に、泣いてしまいました。  もう一回本気でラグビーをやってみたいと思いました。   

2023年選手として復帰、スコットランドでのプロ活動への挑戦を表明しました。  2回目の人生を貰っているんだという思いがあり、あてのない海外活動でしたが、不安感よりもわくわく感が上回っていました。  安いホテルを捜してチーム探しから始めました。  ヘリオッツ・ラグビークラブに入れました。   司令塔のポジションでした。  英語の会話はそれほどではなかったので苦労しました。  女子のラグビーチームのコーチも担当しました。仕事はチームメイトが紹介してくれた引っ越しやさんの会社で働きました。  週45時間契約で月~金まで働きました。 (何回かもう死ぬかなと思うほどでした。)  夜週3回の練習がありました。  1年目は国内3部リーグのアマチュアリーグでプレイ、年間25試合で24試合に出場、MVP4回選ばれる。  首に怪我をしてしまいました。 

2部リーグ契約直前で2部リーグが軽々破綻という事で解散になってしまいました。  日本に帰る選択肢もありましたが、残る決断をしました。  目標のプロ契約は出来ませんでしたが、思いつくことは全部行動に移したので、後悔はないです。  2025年4月7日、韓国実業団ラグビーユニオンからオファーがあり、プロ契約を結びました。  日本に戻ってきましたが、スコットランドで学んだこと、経験を伝えていきたい。  それと命の大切さを伝えたい。四国二日本一を目指すチームを作りたいという思いもあります。   情熱は磁石だと思います。














2025年6月14日土曜日

2025年6月13日金曜日

ヨシタケシンスケ(絵本作家)       ・〔人生のみちしるべ〕 あなたのストーリーかもしれない

 ヨシタケシンスケ(絵本作家)   ・〔人生のみちしるべ〕 あなたのストーリーかもしれない

ヨシタケさんは40歳お時にオリジナル絵本「りんごかもしれない」を出版、ヨシタケさんが作る様々なアイディアが展開する筋立てのない絵本は発想絵本と呼ばれ、以来数々の賞を受賞、ヒット絵本を生み出し続けている人気絵本作家です。  ネガティブでしょんぼりしがちだというヨシタケさんならではの視点で作られる絵本は多くの人の共感を得ています。 現在「 ヨシタケシンスケ展かもしれない」と言う展覧会が全国を巡回しています。  絵本の世界を体験出来て ヨシタケさんの頭の中に迫る展示会は子供たちにも大人気です。  デビューから12年を迎えた絵本作家 ヨシタケシンスケさんにお話を伺いました。 

デビューから12年が経ちましたが、ここまでやれるとは思っていませんでした。  僕が本にテーマとして選びたい事と皆さんがこれは私に興味があるテーマだと思ってくださる事が思いのほか一致していたことが、凄く運のいい事としかいいようがないです。  その時その時家庭で起きたニュースを作品にするタイプなんだなという事が3,4年経って判って来ました。  人間身体が変ってゆくと考え方も随分変わるという事がここ5年ぐらいで身に染みたことです。   子供の頃の自分が知りたかったこと、読みたかったものを作ろうと、ずっと作ってきて、最近はそれに加えて5年、10年先の自分に向けて描いている感覚があって、そういった作品つくりだと思います。  

私の本を読んでよく視点が優しいと言われることがあります。  それは僕自身が優しくしてほしいからなんです。  自分にとって世の中はこういう風なものなんだよと言われた方がむしろ頑張れるなとか、しんどさから抜か出せるなとか、日々自分で考えながらやっています。 傷つきやすさ、生きずらさみたいなものが、モチベーションになっている。  自分の弱さみたいなものが経費で?落ちる仕事があるなんて知りませんでした。  この表現の世界は優しい世界なんだなあと思います。  

3年前から大規模な個展を全国で巡回しています。  原画展で出来るとは思っていませんでした。  僕の原画は小さいし色もついていないし、場所が余ってしまう。  工夫する中で、本が出来るまでの頭のなかで起きた事の様子を見てもらうという空間を作って行きました。  展覧会は団体競技として作る場なので、自分一人ではできない面白さを凄く感じました。  僕は会場には居ませんので、何を言っても大丈夫です。  「 ヨシタケシンスケ展かもしれない」と言う展覧会です。   新しい選択肢、こういう事もあるかもね、と言う考え方、視点、可能性を「かもしれない」と言う言葉でやって来たので、一つのテーマとして集約するものだと思っています。  断言しない。 

2023年うつ病と診断されました。  元々ネガティブな人間でした。  この4,5年で体力がガクッと落ちました。  ネガティブを体力で補って来ていたのを、体力が落ちてくると補えなくなる。  軽度の鬱状態と言う診断でした。    行って急に治るものでもないと思ったし、いろいろ考えたらもとに戻ることが出来ました。  しんどさを語る事の難しさを凄く改めて感じました。   救いになったものと言うのは今は見つからないが、いつかは見つかるかもしれない、それが救いといっていいのかもしれない。  自分を好きになる事だけが自己肯定の方法なんだろうかと思えるようになってきて、自分と仲良く出来ないという事に慣れてゆくことも、自己肯定の一つなんだろなあと最近は思うようになりました。 

ヨイヨワネ うつぶせ編」、ヨイヨワネ あおむけ編」 弱い自分でいいんだ、弱音を吐いていいんだと言ったものです。  自分に取っては本当に必要な行為であって、この2,3年弱音は半端じゃなかったです。  しんどさを言葉と絵にしたかった。  自分を救うための表現。   生きるのがしんどいあなたに為のウェブ空間 「かくれてしまえばいいのです」に関わりました。  いま「死にたい」「消えたい」と思い悩んでいる子どもや若者への提案です。

一旦この世から隠れてしまえばいいのではないかと思って、隠れる場所さえあればあの世にいかなくてもいいんじゃないかと、この世とあの世の間の「その世」を作って避難する、シェルターのような役割として、そういう場所が良いのではないかと思いました。  チームの人たちが作家としての私を提案を尊重してくださいました。   24時間無料で利用できます。  アクセス数が1か月で200万を越えている。   つらさとか実在する人がいるという事を可視化できるツールは今までなかった。  辛いのは自分一人ではないんだなと思うだけでも、孤独感は薄れたりもする。  最終的に人を救うにはストーリーしかないんだなという思いがあります。   自分で作るストーリもあるし、2000年、3000年とか使われ続けているストーリーもあります。  物語でしか人は世の中を認識出来ない生き物なんだろうなあと思います。  生きていきたくないという人たちに対して、どういうストーリーが用意出来るのか、そういう人に何を届けられるのか、沢山考えることは自分の中で新しいテーマが頂けた気がしています。  自分に取っても必要だった。  

今年52歳になります。  老いについてがテーマ、「まてないの」  あかちゃんから、おばあちゃんまで。まてない人の、まてない絵本。  高齢者向けの絵本があっていいだろうし、高齢者向けの絵本をちっちゃい子が読んだ時に 、どう思うんだという事にも興味があります。  〔人生のみちしるべ〕を捜さなければとあせっていますが、無くてもいいなと言う風に思うために、みちしるべ以外のものが欲しいなと思います。  最後までじたばたする人を見て安心したいです。  自分に甘いから人にも甘くなる。  皆のことを許すから俺のことを許してくれと言う生き方をしているので、そうすればもうちょっと平和になると思います。












2025年6月12日木曜日

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 後編

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 後編 

シベリア3重苦と言う言葉があります。  飢えと重労働と厳しい寒さ。  

①飢え ドイツとの戦争、飢饉のために元々食料事情が悪かった。  日本人にはわずかな食べ物しか与えられずに多くの人が飢餓状態になりました。  一日に僅かな黒パンとおかゆ、塩味の水の様なスープだけで野菜の切れ端が浮いていればましで、砂糖などは本当に少なかったそうです。   慢性的な栄誉失調が多くなり、そんな中重労働をさせられた。  死亡者が続出した。  抑留者の管理は日本軍の習慣をそのまま使っていた。(厳しい上下関係)  日常生活でも楽なことは上官が占めて、上官は不当な労働を強制して自分たちは楽をする。  食べ物も多くとってしまう。 

②重労働  原則週6日で労働時間は8時間。  達成されないと残業が強制された。  たまたま気候がいい時には12時間労働になったこともある。  日本人はとても手先が器用なので、頼られてしまった。  ドイツ人は穴掘り作業を指示されると8時間かけて終わらせる。    日本人は早く終わらせれば休めると思って早くかたずけてしまう。  余力があるという事でそれ以上のことをやらされえてしまう。  建設工事でが工場、学校、大規模な都市建設まで任されて、水道工事、ダムの建設まで行った。   今も残っていてその土地の人は日本人に恩恵をうけたと感謝をしている。 

③厳しい寒さ  気温がマイナス40℃から50℃になる。  想像を絶する苦しみだった。   全体の80%は初めの冬で死亡している。  

1945年8月9日に旧ソ連は音全日本軍を攻撃してきました。  およそ60万人の日本人が約200か所ある収容所に拉致監禁され強制労働させられた。   その直前には第二次世界大戦は終結に向かっていました。   スターリンはすでに計画されていた日本軍への攻撃をずっと早めて8月8日に日ソ戦争を起こしてしまった。   日本とソ連には領土不可侵条約(5年間)が結ばれていて1年残っていた。  ポツダム宣言で日本に無条件降伏を促したが、ソ連が日本を守ってくれるかもしれないと微かな期待を抱いていた  ソ連に仲介を頼むという動きもあったようです。  その返事を待っていたためにポツダム宣言を日本は黙殺してしまった。  ソ連はすでに連合軍側に加わっていた。  終戦と同時に満洲などにいる日本人はようやく日本に帰れると思っていたが、抑留されてしまった。 

満州は現在の東北地方にあった日本が1932年以降統治していた地域でした。  80万人ぐらいが移り住んでいました。   男性はシベリアへ女性子供は日本へ自力で帰る道が待っていた。  女性の一部もシベリアに抑留された。(従軍介護婦、軍の補助の仕事をしていた人など)  万一の時のために青酸カリを持っていたそうです。  5万5000人ぐらいの人が現地で亡くなっています。  

ソ連には収容所国家と言うのが実態としてあった。  スターリンの時代に農家が政府の集団経営に変えられて富んだ農民は個人の財産を奪われて、強制収容所へ入れられた。 合計数百万人の人が死亡している。  およそ200万人が収容所に入れられている。    ドイツとの戦争で1500万人ぐらいの犠牲者が出て、労働力が圧倒的に不足していた。  組織的なソ連の囚人労働者の実態があきらかになってきた。   日本人抑留者は戦利品です。 ドイツ、イタリア、ハンガリー、ルーマニアなどの国からも捕虜が送り込まれている。

ナヴォイ劇場の建設。  ソビエト連邦軍の捕虜となった旧日本軍の兵士が建設した劇場でも知られている。  1966年の大きな地震でも無傷でした。  日本人の勤勉な仕事ぶりの賞賛の対象となってきた有名な劇場です。  

苦難を乗り越えて帰ってきた人たちはその後も苦しみがありました。  日本人の抑留者にも共産主義を勉強させた。  洗脳されてソ連の思い通りに動くようになると、食べ物を多くもらえるとか、早く日本に返してやるという事を言われる。  その人たちが抑留所に帰ってくると、軍隊の規律で動いていた収容所が、代わってその人たちが力を持ってくる。  上官がやられるようになる。  吊るし上げと言う様な個人攻撃が始まる。  密告されるのではないかと、お互いが信じられなくなる。  こういったことで帰って来てからが最大の難関となる。  シベリア帰りという事で仕事がもらえない。    

戦後80年を迎える時になり当事者は亡くなってきた。  当事者から聞いた話についてその家族からの話も加えています。  亡くなった人の克明な抑留の記録を見出した人もいます。  平和な時代をもっと長く維持しなければならない。  自分が書いたようなことをよくくみ取って、人間の命を大事にしていってほしい、という事を伝えたかったようです。 

本を書く前にウェブサイトを作りました。  閲覧者数は24万回を越えています。  若い学生たちの協力によってできました。   ウェブサイトには抑留に関するような音楽も入っています。  「シベリアの歌」も入っています。

*「シベリアの歌」






 

2025年6月11日水曜日

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 前編

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 前編 

榊原晴子さんは1951年東京生まれ。  結婚を機にアメリカ、カルフォルニア州に暮らし始めて、太平洋戦争中の日系アメリカ人の苦しみを知ります。  さらに日本人のシベリア抑留にも関心を持ち、本格的に抑留の歴史や抑留者の証言を集めて、20年余りが経ちました。  以来カルフォルニアの大学で日本語を教える大学生と資料を纏めたり、帰国した時には日本で社会学や歴史を学ぶ大学生に講演したりして、戦争の恐ろしさ、平和の大切さを伝え続けています。 

講演する中で2005年生まれの彼らはシベリア抑留と言う言葉は聞いたことがあっても実際は何も知らなかった。  これからの日本の歴史を背負うものとして、何かできることは知ろうとすることだという感想もありました。  私のはシベリア抑留を経験した叔父が一人居ました。   満洲で終戦を迎えた時に、 突然侵攻してきたソ連軍の捕虜になりました。  強制労働のどん底の生活の中で、叔父はドイツ語の知識を生かして、ロシア語も学んで将校の通訳になりました。  1950年に最後の船で舞鶴に帰ってきました。  弾丸で前歯が全部撃ち抜かれていたそうです。  どうやって食べて生き抜いてきたのか?  叔父は自分からは何も話しませんでした。   若い頃は溌剌とした青年だったようですが、暗い影を落とすようになってしまいました。  60歳を越えて肺がんで亡くなりました。  

私は結婚してアメリカで暮らすようになりました。  私の夫は日系3世です。  夫の家族の戦争体験を知りました。  義理の父親が日系2世(ジョセフ)です。  その親(榊原平治?)が明治28年にアメリカに渡りました。  1841年12月8日に真珠湾攻撃があって、日米開戦となりました。  ジョセフはアメリカ国籍を持っていましたが、榊原平治?はアメリカ国籍をもっていませんでした。  ジョセフはアメリカ政府からスパイ容疑をかけられました。  日本人の住民は「JAP」と呼ばれて蔑まされるようになりました。  翌年大統領令が出て、日系アメリカ人は全ての自由をはく奪されて、家にあったもの、それまで築いたもの捨てて、立ち退きを命じられました。  持って行けたものはスーツケース2つだけでした。  連れていかれた収容所は砂漠、荒れ地に建てられた掘っ立て小屋でした。  10か所ありました。  

その後戻ってもかつての様な暮らしぶりにはなりませんでした。  仕事の再開も難しかった。日本語も使えなくなりました。  ジョセフは牧師志望だったので、神学校に行かせてもらえました。  広島の原爆のことを知って、戦後日本に戻って広島、長崎の家の復興に関わりました。   私は自分には何が出来るんだろうと深く考えるようになりました。 「何故家を出るの」と言うタイトルの歌を作りました。  英語で作って日本語にもしました。 

サクラメントで偶然に写真家の新正卓さんとお会いしました。  新正卓さんはシベリア抑留の写真集としてまとめ上げました。  日系アメリカ人の強制収容所の写真集のために撮影をしに来ていました。   お手伝いをしたためにその二つの収容所が重なって来ました。  共通する事はそれぞれ収容所のことを語らなくなったという事でした。  シベリア抑留について調査をして「アメリカから見たシベリア抑留」と言う本を昨年出版しました。

シベリアからの生還者に直接会って話をするようにしました。 その中に政治家の相沢秀之さんにお会いして励ましを頂きました。  相沢さんは東京帝国大学法学部政治学科を卒業、1942年9月25日大蔵省に入省、その後陸軍に入る。 ソ連タタール自治共和国エラブガで3年の抑留をさせられる。1948年8月に復員。 大蔵省の戻って政治家として活躍。 引退後も一般財団法人全国強制抑留者協会の会長を務め、戦後の旧ソ連による抑留の「生き証人」として語り部を続ける。  妻の司葉子さんにはシベリア抑留のことは話していないそうです。  夜中にガバッと起きることがあったそうですが、後に抑留と関係があることがわかったそうです。   心身ともに最低の生活だったとおしゃっていました。  だから後にどんな厳しいことがあっても乗り越えられるという思いはあるそうです。   相沢さんとの出会いによってシベリア抑留について背中を押されました。







2025年6月7日土曜日

谷川浩司十七世名人(将棋棋士)      ・考え続ける棋士であれ ~史上3人目、1400勝達成~

谷川浩司十七世名人(将棋棋士)   ・考え続ける棋士であれ ~史上3人目、1400勝達成~ 

谷川さんは今年1月通算1400勝と言う記録を達成しました。  大山泰治15世名人、羽生善治9段に続く史上3人目の快挙です。  阪神淡路大震災から30年となる今年1月に打ち立てたことに特別な思いがあると話します。   棋士として生きて半世紀、さらなる高みを目指そうとしている谷川さんの棋士人生を伺いました。

14歳から初めてまもなく50年になります。  20代、30代がプロ棋士として最盛期ですので20代は年間40勝するのが当たり前といった感じですが、40代を過ぎるとなかなか勝てなくなってきて、最近は二桁10勝するのがやっとという事なってきています。  昨年11月、12月は成績が悪くて7連敗しました。 1398勝になってから進みませんでした。   新年早々の対局で一つ勝つことが出来ました。  1月15日に達成できました。  郷田さんとの対局でした。   30年以上対局してきた相手で、或る意味安心感はありました。  持ち時間が一人6時間で、休憩の時間などを合わせると、午前10時から始めて23時ごろまでかかりました。  20代から得意にしている戦法を選びました。  勝ってホッとして記者会見を行いました。  節目が新会館でした。  阪神淡路大震災30年の節目の年もありました。

1433勝が大山15世名人の記録で、30代のころから大きな目標としてきました。  その目標を掲げる事にはなったと思います。   42年前になりますが、21歳で名人戦の挑戦者になって加藤一二三名人に勝って最年少名人の記録を作りました。  30年前は震災の中、羽生善治さんを挑戦者に迎えて王将戦の7番勝負で第7局で勝利を納めました。  そういった様々な場面が浮かんできます。  

兄と二人兄弟ですが、喧嘩をしないように父が将棋盤を買ってきたのがきっかけです。  一つのことをはじめれば長く続く性格です。  体力が必要なので室内自転車も30年以上やっています。  10手、20手先の局面は頭の中で動かしていきます。  私の場合はパソコンの画面で白黒です。  頭のなかの駒の文字は一つです。(王、飛、角とか)  どういう映像が浮かぶかは棋士によってちがうようです。  

序盤が駒組で、中盤が戦いがあって、終盤は相手の玉を詰ませるとなりますが、終盤の寄せを20代に「高速の寄せ」と付けていただきました。  終盤の始まりでいろいろなイメージが出来ていたのかなと思います。  詰将棋を小学生、中学生にかなりやっていたのでその影響があったのかと思います。   「高速寄せ」は30年前は私の得意分野でしたが、私を研究してくるので、平成、令和のトップのレベルは高くなってきています。  AIを使ってパソコンで研究してゆくので、定石の整備、進化は昔とは比べられないほど早くなってきています。

震災を経験したことで神戸に対する愛着が強くなりました。  自分が住み続けることで神戸の復興を見届けたいと思います。  私の住んでいるところは被害はなかったのですが、両親が住んでいる実家は全壊しました。  大きな怪我はなかったのは不幸中の幸いでした。  羽生さんが7冠達成の挑戦者としてきて、第一局(1月12,13日)の4日後が1月17日でした。  19日妻の運転で大阪に行きました。  普段は大阪まで30分ですが、朝出掛けて大阪のホテルに着いたのが夜の9時になっていました。  20日に対局がありました。  23日には栃木県の日光に行きました。  羽生さんにはタイトル戦で7連敗をしていました。  大坂では温かいご飯が食べられたり、今迄当たり前だと思っていたことが実はそうではなかったんだという事がわかりました。   対局が出来るという事が幸せだと思えました。  初心を取り戻すことが出来ました。   被災地のためにという思いは強かったですね。  防衛が出来ました。   1月17日生まれの子が弟子にしてほしいという事で受け入れました。  考えるヒントを与えるようにしています。 

ここ3年ぐらいは藤井さんの圧倒的な強さがあります。   藤井さんが25歳になるころには将棋界も様替わりして、藤井さんと同年代、後輩の棋士たちによるタイトル争いになって行ってしまうかもしれないです。  ここ数年でAIの影響が凄いですね。  50手ぐらいまではシュミレーションして臨むとか、詰みの近くまで調べておかないといけないぐらい、最新の流行の形で戦おうとすると、それぐらいの準備が必要と言われて来ています。

1時間かけて結論が出そうもないと思うと、指してしまう事が多いんですが、藤井さんは苦労をいとわずに真剣に考えてきたことの蓄積が、今の藤井時代に繋がっていると思います。   40歳ぐらい若い棋士と対局するのも楽しみの一つです。  1433勝は一つに目標として行きたいと思います。  年齢を重ねる程将棋の奥深さを感じます。