2026年4月1日水曜日

藤野知明(ドキュメンタリー映画監督)    ・「家族とは、ままならないもの」

藤野知明(ドキュメンタリー映画監督)    ・「家族とは、ままならないもの」 

藤野さんは1966年北海道札幌生まれ。 北海道大学を卒業後、住宅メーカー勤務を経て、1995年日本映画学校(現在の日本映画大学)に入学し、映像制作や音響表現について学びます。 これまで主にマイノリティーに対する人権侵害をテーマとした映像製作を行っていて、作品に「八十五年ぶりの帰還アイヌ遺骨杵臼コタンへ」、「とりもどす」などがあります。 2024年統合失調症を発症した姉と自身の家族の姿を20年以上にわたって記録したドキュメンタリー「どうすればよかったか?」を発表、作品は日本だけでなく、海外の映画祭でも上映されて大きな話題を呼びました。 家族のあり方を問う、話題作の裏側についてお話を伺いました。

両親は医師で共に研究者、8歳上の姉さんが可愛がってくれました。 ドキュメンタリー映画の中では口論したり、怒鳴り声が飛び交ってたりしてましたが、子供のときの印象としては一言で言うと楽しかったです。  私は自己肯定感の強い方の子供でした。 父は単身赴任だったりして、親は家に意外といなかったです。    姉と一緒にいる時間は長かったです。  

医師を目指して医学部に通っていた姉が異変が起きたのが1983年のことでした。  (姉が24歳、私が高校2年生)  夜の8時過ぎに姉が大声で叫び始めて、事実とは思えのようなことをずっと言い続けて30分ぐらい続きました。 その時はどうしようもないと言う感じでした。  夜中の2時、3時に姉が一人ひとりの部屋を開けて「お前たち全員静かにしろ。」と言うんです。(半分泣きそうな感じ)  寝ているだけだから本当は静かなはずですけれども、多分幻聴が聞こえてたんだと思います。 

以後僕は夜寝るのが怖くなって朝方まで起きていて、学校に行くと言う状態になりました。 学校で寝るんで藤野はたるんでると言われました。 後から気がついたんですけれど、統合失調症の始まりでした。 はっきりしたのは25年後でした。   統合失調症は直接の原因がないのに、脳の様々な働き、例えば考え、気持ち、行動がまとまりにくくなる病気で、幻覚、妄想といった症状や意欲や感情表現が減るなど、様々な症状が現れるそうです。  精神科医の方から言われたのは、統計上は日本では最初の急性症状が現れてから、病院につながるまでが平均13ヶ月ということだそうです。  救急車で運ばれたときには医師の方から父に全く問題ないと言われたそうです。 

当時、精神科医の通院歴が残るということが、姉の医師として、研究者としての道に妨げになると思って、両親たちは自分たちで直そうと言うふうに思ってます。  病気を恥じたと言う部分もあったかもしれないです。 当時は今のようないろんな治療法がなかったので、治療に期待できなかったと言うこともあったでしょう。 精神科病院で患者当事者が虐待されると言うケースもあるので、そういうところへ自分の子供を入れることができないと言うふうに判断したかもしれません。   当時、発症を含めて両親に責任があると私は思ってました。

両親が医師にならなければいけないと言うふうに、姉に思わせていたので、それがプレッシャーになって統合失調症を発症したんではないかと思ってましたけれども、いろいろ本を読んでわかった事は、現在に至るまで統合失調症はどういうメカニズムで発症するのかということがわかってないんです。 ですから両親にも責任ないし、それを恥じる必要もないですね。  防ぐ方法すらわからなかったんですから。どこにも、両親にも誰にも責任はないと言うことです。

姉は2008年に入院することができましたが、その時によく効いた抗性新薬があって処方されましたが、それが認可されたのが1996年です。 25年かかって入院してますが、そのうちの半分位の期間はもしかしたら短縮できたかもしれません。   この期間に関しては両親の判断の結果と言えるんじゃないかなと思います。   両親が全く問題ないと言っていて、両親と話をしましたけども結論が出ませんでした。 家を離れる前に記録を残さないといけないと思いました。 最初は録音をしました。  ビデオ回し始めたのは2001年からです。(18年後) 食卓のシーンで、姉が母親のグラスにイカリングを投げ込むみましたけれども、それを平然と受け止めている姿がありました。 父が全く驚いてなくて、母にそのイカリングを出した方がいいんじゃないかと普通に言っていました。そこが1番変なんです。

両親の言動とは裏腹に、実際には、こういう事は日常的におきていたんで父親は驚かなかったんですね。(一番奇妙な場面) カメラがあると言う事は、撮ったものを後から誰かが見るかもしれないので、カメラが置かれると言う事は他人がいると言う事と同じことなんです。 第三者が入ってくる効果にはなったと思います。  姉に対する私の対応と言うのは、終始優しいと言うことがあるかもしれませんが、僕は編集する側ではあるので、そういう部分を隠してると言う可能性もあります。 見てる通りが全てであると思うのは気をつけたほうがいいですよ、とは言うべきです。 基本的にはは被害者だと言う認識はありました。 姉は父に対しては崇拝に近いです。    尊敬してました。 父の言う事はわりとよく聞いていました。母と僕に対してきつめでした。

僕は姉から暴力を受けた事は1度もないです。 両親も暴力は受けてないと思います。 インターネットを見ていると、統合失調症な人は危険な人だと言う言葉が目に付きますが、コミュニケーションできない人たちと言うふうに見てるのは、僕はちょっと違和感を覚えます。 姉の言葉は主治医からは言葉のサラダだと言っていましたが、いろんなものが集まってるという感じです。 使っている単語をなんとなく聞いていると僕はある程度理解する部分もありましたけれども、両親は僕よりももっと理解できていたものと思います。  

僕は25歳の頃に神奈川に就職しました。 20年弱は離れて暮らしていました。    無理だと思ったときには離れることも必要なんだと思います。 両親が先にいなくなるわけだから、どっかで僕は関わっていくと言う形にならないと、もしかしたら刑事事件のような事が起こることがあるかもしれないので、話を再開しなければいけないと言うふうに思っていました。  姉は多分1人では暮らしてはいけないだろうし、その時僕はどうするのかなあと言うことでした。 

入院するまで25年かかったと言うのは遅いわけです。 母は認知症の状態になったということで、両親2人が姉を観てた状況から、父が1人で母と姉を看なければいけないと言う環境になったと言うタイミングだった。  母の言動が気になり始めたのが2005年位です。 妄想が始まってそれを聞いたときには大変だなと思いました。 父も夜眠らなくなりました。 母が夜中歩き始めるようになりました。 母は僕と父で家で、姉は精神科の病院の方で受け入れてくれるところがあるから、そこでてもらうことになりました。 姉を説得して姉も受け入れてくれました。

3ヶ月入院して兄弟のコミュニケーションが取れるようになりました。 姉は2021年に肺がんになって亡くなることになりました。 お葬式のシーンで、父が姉と共同で執筆した論文をお棺の中に入れるシーンがありました。 両親の研究を手伝ってくれる親孝行な娘だと言うふうに思いたかったということじゃないでしょうか。 この映画は各地で上映が続いています。 公開から1年半どう受け止められるかという事ですが、治療に至る前が半分以上なので、非常な不安なところはありました。 半分ぐらいは批判的なものが来るかなぁと思ってました。 

自分の経験が半分位の感想が多かったです。 表に出てこなかった部分が言葉になって文字になって見えるようになったと言う事はあるかなぁと言う気がします。  1番の問いは両親に対してですけれども、1992年に大学4年生の時にカウンセラーの人が姉を診てくれると言う時がありましたけれども、それを父が否定してきても来てましたが、あの時にもっと両親と話をして、なぜ両親が病気ではない、問題がないと言っていたことについて話を聞いたらよかったんじゃないかなと思います。あと4年で薬が使えてたかもしれません。 そうすれば最短距離で治療が進んだんじゃないかなと今にしては思います。 

父のように問題は無いと言う家族はたまにいるそうですけれどもそういう人たちに言うのは「よくがんばりましたね。」と言うことです。 「もうこれ以上しなくていいですよ。」と言うふうに話をすると氷が溶けるというか違う反応が返ってくると言うケースも伺いました。 僕は攻め続けていたので、両親の奥の部分のところまでの話を両親とできていたら違っていたかもしれないと思います。 日本は家族に背負わせ過ぎているというのは感じます。 家族の問題は家族で解決すると言う事を法律がないのに前提になってる気がしていて、僕は家族だけではなくて、社会の仕組みでと言う形にしていかないと今後は難しいんじゃないかと思います。   困っている人たちに何かできることと言うのは、話を聞きやすい状況を作ることでしょうか? 問題が存在しないと言う状態を、まずはどうにかするというのが第一歩ですね。

2026年3月31日火曜日

伊与原新(作家)              ・わが心の人「猿橋勝子」

伊与原新(作家)              ・わが心の人「猿橋勝子」 

猿橋勝子さんは1920年東京生まれ、帝国女子理学専門学校(現在の東邦大学理学部)を卒業後、現在の気象庁に勤務し、オゾン層や海水の研究に取り組みました。1980年気象庁を退官する「猿橋賞」を創設し、若い女性科学者を励ます活動を始めます。  2007年9月亡くなられました。(87歳)

伊与原さんは、昨年猿橋勝子さんの生涯を描いたいた小説「翠雨の人」を発表しました。 伊与原さんは1972年大阪出身、大学は神戸大学で、その後東京大学大学院に進み、専門は地球惑星科学、博士課程終了。 地球惑星科学と言うのは地学のことを最近はそういう風に呼びます。 2010年「お台場アイランドベイビー」で第30回横溝正史ミステリー大賞受賞。 その後もたくさんの文学賞を受賞します。   特に作家志望のスタートではありませんでした。昨年「藍を継ぐ海」で直木賞を受賞。

猿橋勝子さんは地球化学の分野の研究者でした。 猿橋勝子さんがどういう生涯を歩んできたと言うことについては全く知りませんでした。 資料を集め始めたのが10年近く前でした。  翠雨の人」、猿橋さん自身は幼い少女の頃から雨にすごく興味のある人で、雨の日は空を見上げて、なぜ雨は降るんだろうとずっと考えているような子供だったということです。 彼女の自然科学に対する興味の原点は、やはり雨だったわけです。  彼女のキーワードは雨です。 

1920年生まれ、帝国女子理学専門学校(現在の東邦大学理学部)の1期生として入学します。 中央気象台研究部に勉強に行くことになり、三宅泰雄先生の指導を受けます。 その後三宅先生のいる中央気象台に入ることになります。  終戦後も中央気象台の研究部はなかなか立ち直るのに時間がかかりました。 1954年アメリカがビキニ環礁での水爆実験を行い、第五福竜丸の乗組員の方が被爆します。  彼女はオゾン層の研究を、その後海水の研究、海水中に二酸化炭素がどの程度溶けているかと言うことを詳しく調べる研究をしてました。 当時から科学者は地球が温暖化するかもしれないと言う危惧を抱いていました。

彼女の研究が世界的に評価されて名前が知られるようになっていきました。   そんな折にビキニ環礁での水爆実験が行われました。 持ち帰られた「死の灰」(放射能を帯びたサンゴのかけらが灰として降ってきた。)を猿橋さんが分析して、それがきっかけで放射能汚染の研究に突き進んでいくことになります。  海水の中にどのぐらい放射能が含まれているか、あるいは降ってくる雨にどの程度の放射能が含まれているかと言うことを詳しく調べていきました。

環境汚染はないというのがアメリカ側の主張でしたが、三宅先生と猿橋さんが詳しく調べてみると、海流に乗って高いまま流れていくと言う事はわかりました。(アメリカの調査データよりも10~50倍の数値)  アメリカは、捏造ではないかと言ってきました。  アメリカと日本では違う分析方法でやっていました。   同じサンプルをそれぞれのやり方でやって、どちらが正しいか白黒をつけろと言う話になりました。 それで彼女がアメリカに行くことになりました。  女性が1人で行くと言うことが、当時としては前代未聞のようなことでした。

研究室はボロボロの小屋を与えられました。 海水の中に含まれているセシウムの量を第一回目は既知のセシウムを入れておいて、その値は知らされない状態で測定するわけです。 第1回目はわずかな差でアメリカが勝ちます。 猿橋さんは落ち込みますが、三宅先生から励ましの手紙をいただきます。  2回目、3回目は日本側が勝ちました。  4回目も猿橋勝子さんが勝利を収めました。アメリカはだんだんと猿橋さんを認めるようになっていきました。 アメリカと共著の論文を出すと言うことで幕を閉じました。

猿橋さんは研究者としては、日本よりも欧米で高く評価されている面があります。地球温暖化研究の先がけの1人として認識されています。  社会のために何ができるかと言うことを認識して活動されていたと、そこは見習うべきことと思います。三宅先生は科学者は哲学者であるべきだとおっしゃっています。 猿橋さんも後輩に伝え続けていきました。  猿橋さんは、日本学術会議で初めての女性会員(1980年)、東京大学理科系で女性で初めて理学博士になりました。 

自分が先頭に立って、後進の女性研究者が研究しやすい環境を作る義務があると考えたようです。 ですから、自分が先頭に立っていろんな壁を破っていくために学術会議の会員になったのもその理由だと思います。 その後の社会活動に力を入れていくのも、後輩の女性研究者のためにと思ってやられていたようです。    退職金等すべてのお金を全て後輩の女性科学者のために使えばいいんだと言う考えられたようで、女性科学者に明るい未来の会と言う会の設立に使ってしまいます。「猿橋賞」が作られて、女性の科学者のためを思って応援をすることになります。女性研究者はなかなか昇進できない状況でしたが、猿橋賞をもらうことによって助教授になれたとか研究費をもらえたりすることが、実際に起こっていきました。 そうそうたる方々が、「猿橋賞」をもらって育っていきました。

今は発達障害とかアスペルガー症候群(自閉スペクトラム症(ASD)の一種)とか、そういう子供たちがたくさん登場する小説を書いています。 彼らの存在自体が人類のために実はなっているじゃないかなぁってそういう観点で小説を書いています。 科学と言うものを歴史的に眺めてみると言うことが面白いと思い始めています。 時代、時代で科学はどういう役割を果たしてきたのか、そういうテーマで書くのは面白いんではないかと思っています。





2026年3月30日月曜日

小田美樹(いわき市立玉川中学校音楽教師)  ・「合唱曲『群青』~作曲者の震災15年の葛藤~」

 小田美樹(いわき市立玉川中学校音楽教師)  ・「合唱曲『群青』~作曲者の震災15年の葛藤~」

全国で歌われている合唱曲「群青」、この歌は東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所で、避難指示が出された地域にある福島県南相馬市立小高中学校で生まれました。 歌詞には震災直後の2年間を過ごした生徒たちの率直な思いが綴られています。 作曲したのは当時の小高中学校の音楽教師だった小田美紀さんです。群青が誕生した経緯やそこにこめられた思い、そして震災から15年、小田さんの心の変化を伺いました。

*『群青』作詞:南相馬市立小高中学校 平成24年度卒業生 作曲:小田美樹

ああ あの街で生まれて君と出会い
たくさんの想い抱いて 一緒に時を過ごしたね

今旅立つ日 見える景色は違っても
遠い場所で 君も同じ空
きっと見上げてるはず

「またね」と手を振るけど
明日も会えるのかな
遠ざかる 君の笑顔今でも忘れない

あの日見た夕日 あの日見た花火
いつでも君がいたね
当たり前が幸せと知った

自転車をこいで 君と行った海
鮮やかな記憶が
目を閉じれば 群青に染まる

復興については、当時はたくさんのものが奪われて、震災によって何もなくなったところからパワーを持って変化してる感じがあったので、新しい街が作られているなぁと感じました。 卒業式が終わって職員室に戻って一息入れたときに揺れが来ました。 体験したことのない大きい揺れでした。 小高中学校よりも1段高いところにある小高工業高校のところに徒歩で移動しました。 初めて津波を見て信じられないような光景でした。 小田区では津波だけではなく、第一原発の事故はそこから長く続きました。 3月12日に爆発の音が聞こえましたが、その時は何があったのか全然わかりませんでした。 

私も福島市の親戚のところに避難しました。 小高中学では4人の生徒が亡くなりました。 4月22日に鹿島中学校を借りた形で、新学期がスタートしました。    体育館で始業式をしましたが、参加した生徒は10分の1に満たない位でした。   生徒たちとは交換日記みたいな形でやりとりをしていました。 毎日20人とやりとりしました 。たわいのない毎日のことが書いてあるのがほとんどでした。 家を取り壊すことになったとかそういった話もありました。 震災に関わる内容がどうしても多くなります。

震災の次の年の卒業式に歌を歌ってもらおうと思って、卒業式の歌として提案しました。 子供たちは全く歌いませんでした。 歌詞が「明日があるから幸せを信じて」と言うような歌詞なので、まだそんな思いにはなれていなかった。     自分が生きているうちに帰ることができるのかわからんような時だったので、あさはかだったと思いました。 前年と同じ失敗を繰り返さないために、作るしかないと思って、彼らの言葉に合わせて歌詞にまとめていきました。

「明日も会えるかな」と言うネガティブな歌詞もあるんですけれども、今隣りにいる友達が明日は会えなくなるかもしれない、と言うことを身をもってわかってしまっているんだなぁ、と言うことにすごくショックを受けました。 「あの日見た夕日、あの日見た花火。 いつでも君がいたね。」 と言う歌詞の部分ですけれども、小田中の音楽室から見る夕日が本当に綺麗なんです。 学校の近くで花火を見たりしました。 合唱部の女の子が1人亡くなっているんですが、彼女を思って作った部分です。  「群青」と言う題名にしたのは、小高中学校の校歌に「群青」と言う言葉が入っていまして、文化祭も「群青祭」という名前になってます。タイトルは最初から「群青」と決めていました

群青を1番最初に歌ったのは、京都のコンサートでした。  彼らが一生懸命歌ってくれたからこそ、客席の皆さんも「群青」を聞きながら涙をした客さんもいらっしゃいました。 客席の方たちの様子を見て感極まって、彼らたちも歌いながら泣いていました。 出版すると言う話になりましたが、震災のことを題材にして作った曲を出版する事は、辛い思いをした子たちを売り物にしてしまう、そういうふうに思われるのではないかと思って、躊躇はありました。 子供たちに相談したら子供たちはすごく喜んでいました。

辛いこと、悲しいことが題材になっているので、早くこの曲が歌われなくなるような、この曲がいらなくなるような平和な時代が来ればいいなぁと思ってた時期も結構長くありました。 私は大病をしてお腹を切って悪いところを取ったのですが、そうすれば元気になると思ってましたが、1年後に別な病気になってしまいました。 元気だったので何の備えもしていなかったと言うことに気づきました。 震災も同じだと思いました。 震災の復興が進んでいけばそのまま復興が進んでいてもらうと思っていましたが、穏やかな状態は震災後だけれども、次にまた次に震災が起きれば、今のこの時間が震災前の状態だと思いました。 震災前の時に次のことを備えておかなければいけない。私はそれをすごく怠っていたと言うことに気がつきました。

この「群青」を歌ってもらうことによって、次の震災のための準備を促す、思いをつなぐたった5分間の曲で、東日本大震災のことを知ってもらえるきっかけになのではないかと思いました。 この曲は歌われなくなればいいのではなく、そういう風に役に立ててもれるのであれば残しておくのがいいなあと、考え方が変わったのは病院のベッドの上でした。 あれから15年経って、15歳の春を迎える子たちが育つと言うのは、本当に大きな節目だなと感じます。

あれから二年の日が 僕らの中を過ぎて
三月の風に吹かれ 君を今でも想う

響けこの歌声
響け遠くまでも あの空の彼方へも
大切な全てに届け

涙のあとにも 見上げた夜空に
希望が光ってるよ

僕らを待つ群青の街で
ああー

きっとまた会おう
あの街で会おう 僕らの約束は
消えはしない 群青の絆

また 会おう
群青の街で



2026年3月29日日曜日

リュークルー(国際線CA・ユーチューバー) ・「“自分らしさ”の翼広げて」

 リュークルー(国際線CA・ユーチューバー) ・「“自分らしさ”の翼広げて」

カナダの拠点の航空会社でCA、キャビンアテンダントとして勤務する傍ら、旅行のお得な予約方法、これまでに訪れた国々のエピソードなど、CAならではの情報を発信するユーチューバーとして活躍しています。 前向きに自分らしく生きることを大切したいと話すリュークルーさんにとって自分らしいとは何なのか伺いました。

リュークルーさんは大阪出身です。 11年前からカナダで暮らしていて、国際線のCA、キャビンアテンドとして働いています。 その一方で、CAならではの情報を動画で発信するユーチューバーとしても活動しています。 2026年2月の時点でチャンネル登録者数34万人を超えています。 CAの仕事からいろんなホテルに泊まりますが、多い時は月の半分ぐらいホテルに泊まります。得た知識などを動画で発信しています。 

エッセイの執筆もやってます。 今年で第3弾を発表しました。 最初は、出版社からの要請がありました。 乗客として乗っているときに、パニック障害になったことがあります。 カナダで暮らし始めて11年になります。カナダ移住のきっかけとなったのがカナダ人パートナーということです。 性格は私と正反対ですごく静かです。 カナダの田舎町に10ヵ月ほど留学していました。 知り合って1年、日本で一緒に住んで、そうするとカナダの永住権が降りて、私がカナダに行こうと思って行きました。 同性とのパートナーの位置づけとしてはカナダでは特に気にしてないです。 私が大学へ通っていたときの女性の先生のパートナーがやはり女性でした。 最初はびっくりしたんですけれども、いろいろ話を先生とするようになりました。 そこから私の人生観が変わりました。 自分らしく生きると思った瞬間でした。 

子供の頃、宝くじが当たってグアム旅行に行くことになりました。 CAの働く姿を見て、本当にそれに憧れました。 1番しんどかったのは言語です。 いまだに自信は無いですが、ある時吹っ切れました。 自分のアクセントなども気にしなくなりました。 プライベートで飛行機に乗っているときに、パニック障害が起きてしまいました。 かなり無理して仕事をして、その後旅行に出かけようと思いましたが、急に心臓がバクバクして息ができくなってしまって初めての経験でした。  隣の人に話すことによって落ち着けました。 病院に行って診察してもらいました。 CA 、パオロットは意外とこの病気を持っている人が多いらしいです。 実は時差ぼけが常にあります。 そうなると自律神経がおかしくなってしまって、直すためには深夜便だったら早朝便を間に入れないとか、なるべく睡眠のサイクルを同じ様にするようにしました。 

エッセイの中で公表することによってびっくりする人もいましたけれども、同じ当事者の方から力になれたらいいかなぁと思っています。  ファンの皆さんからの声、話はありがたいの一言しかないです。 本を出すことによって、自分の頭の中の整理ができたと言うのはあります。 1冊目はパニック障害のことについて書きました。 ちょっとでも背中を押すきっかけになれたら、そんなうれしい事は無いなぁと思いました。 本の力に気づかされました。 

私の自分らしさは、信頼している家族、大切な人が理解してくれていて、私も大切な人たちをできる限り理解できているみたいな状態にあることが、1番自分らしくちょうどいいバランスで自分らしくあると思います。  昔は海外に住んでいる自分が待ってると言うような、生き甲斐見たものを感じてましたが、今はだんだん自分が生まれ育ったふるさとで何かできたらいいかなぁとか、ふるさと盛り上げたいとか、ふるさとにいろんな人が来て良さを知って欲しいなぁと逆に思ってくるようになりました。 カフェをやりたいと言う夢がありまして、みんなが気軽に伝える場所、コミュニティーが作れたらいいなぁと言う思いはあります。

2026年3月28日土曜日

木内昇(作家)               ・私の人生手帖(ちょう)

 木内昇(作家)               ・私の人生手帖(ちょう)

江戸時代の後期新潟県の豪雪地帯の風物や暮らしを記した「北越雪譜」と言うベストセラーがありました。この本が世に出るまでの作者鈴木牧之の強い思いや、江戸の出版事情などを壮大に描いて、第52回の大佛次郎賞などを受賞した作家木内昇さんに伺いました。 木内昇さんは、1967年東京生まれ、出版社勤務を経て、2004年に作家デビュー、その後4作目にして直木賞を受賞しました。 去年の末から短期間に多くの文学賞を受賞して、改めて高い評価と注目が集まっています。  これまでの半生とともに、「北越雪譜」を軸にして、まるで息使いまで聞こえてくるようなリアルな小説世界がどのように紡ぎ出されたのか、併せて時代小説の基礎からの楽しみ方などを伺いました

浅田次郎さんが、私が「中央公論文芸賞」を取ったときに、木内さんと言う人は、険阻な道を行くだろうと、王道ではなくて、厳しいところをわざわざ登っていくじゃないかと言うことを書いてくださって、私はなんとなくこういう道を登っていくんだろうと予感していた時にだったので、そこに踏みとどまって頑張らなければいけないだろうと思いました。 物語自体もすんなりいかないし、取り上げる素材も決してみんなが好むようなものでもない、でもどうしても取り上げたいと思いました。 表現の仕方にしても、通りいっぺんなところをやらないのかなあと気がしていました。 それを言い当てられたような気がしました。

「雪夢往来」では40年の歳月を書いております。 鈴木牧之と言うのは、越後の商人で代々続くを切り盛りしながら、地域の民族学みたいなものを記録をずつ書き続けます。 出版したいと言う野望があって失敗しますが、頓挫するのが繰り返して、出版するまで40年かかったと言う歴史があって、その歴史を描いた作品です。

方言についてが難しくて、細かく直していく作業がを経て出版することを毎回繰り返しました。 本当に好きなものって時間をかけてもやりたかったり、最悪夢が叶わなくてもやりたいものっていうのはあると思います。 やりたいものとか夢とかは叶う叶わないと言うのは、そこは重要ではなくて、たとえ評価されなくても日の目を見なくても、大事に自分の中に持っていけるかと言うところが、その人の幸福か不幸かと言うところにつながっていくと思っていて、死ぬまで夢を持っていたら1番いいんじゃないかと思います。  

小説のなかに不思議な世界を取り入れていますが、当時の精神性と言うまででは無いんですが、どういう感情とか、どういう気持ちで生きていたかと言うことを考えると、どうしても取り入れざるを得ないと言うところで、自然に入ってきちゃう感じです。   自分の感情としてはそういうところはないです。 理論的に考えたいと思う方です。  江戸の文化と言うのは太平な時代が260年続いたし、識字率も高かったし、浮世絵なども普通に楽しんでるし、芝居も楽しんでます。  財産は残さないんだけれども、きえものにはお金を使うと言う文化には、お金を使うと言う文化が爛熟したのが、江戸時代だったのかなあと思います。 そういったことで江戸時代が見直されてるのかなあという感じがします。

なるべく体の動きとかで、その人の人柄とかを書きたいなぁとふうに思っていて、江戸時代とか昔の頃の方が、体にその人の特徴が出ます。武士は左に刀を差すので、武士の歩き方と町民の歩き方は違いますし、身体的特徴とか動き方を書くと言うのが楽しかったりします。 時代物の楽しみというのはそういうところにあります。

私は小さい頃は、野球が好きで、王選手に憧れていました。 つい動きと言うものに注目してしまいます。 動きをどうやって臨場感を持って書くかとか、職人の手で裁き1つにしても、情景がどれだけ浮かべられるか、そういうのを1番気にしながら書いています。  資料は結構集めます。 全国の古書店から取り入れることができるので、便利さはあります。  資料読む方が書くより時間がかかるかもしれません。 

もともと作家を目指した事はなかったです。 出版社でインタビューの仕事をやっていました。 「新選組幕末青嵐」というのを書きました。その後「茗荷谷の猫」を書きました。自分で書いていてもものすごく面白い作品でした。 書いてみませんかと言う話になったのが、2008年の終わり位です。 書いている事は楽しいです。 登場人物たちに自分の主義主張とか、自分の意見と言うものを代弁させないと言う事は大事にしています。(登場人物ではなく私になってしまうから) どういう風に思うのかなと言うのは、読書に委ねると言うのが小説ではないかと思います。 

歴史のある土地は好きです。 昔は地域の差によっていろいろ違っていて、食べ物とかも違っていたし、風習習慣も全然違っていたので、そういうのを調べるのがもともと好きです。  登場人物の土地はすごく歩きます。 作家としていつも挫折感を感じているように思います。 もうすぐ出る本ですが、女性で望東尼言う50代の後半で急に勤王に目覚めて、高杉晋作を最後に看取った人で、この女性を書きますが、年老いてからすごく花開いた人を書きますが、そういう人たちを書いていきたいと言うのと、江戸時代がすごく文化が開いた時期なので、もうちょっとそこを掘り下げたいなぁと言うふうに思っています。 母を弟を介護していて、今が一番つらい時期ですが、大変な時も出口になったりします。 書くと気持ちが整理されたりします。 何十年も続けているので、作家気分ではないと言いながらも書いていると言う事は、何か燃えるものがあるんだろうなと思います。




2026年3月27日金曜日

浅川保(山梨平和ミュージアム理事長)    ・山梨で戦争と平和を伝え続ける

浅川保(山梨平和ミュージアム理事長)    ・ 山梨で戦争と平和を伝え続ける

甲府市にある山梨平和ミュージアムは2007年5月に開館しました。 今年で29年になります。  2005年から5年ごと「戦争体験記」を募集し出版しています。    去年は「戦後生きて思うこと」と題し、5冊目の体験記を出版しました。 戦後80年戦争体験者が少なくなり、その体験を聞くことが難しくなってきて、どう次世代へつないでいくかが課題になっています。

2003年からこういう資料館を作ろうと言うことで取り組んできました。3800万円の給付が集まりました。  土地を買って建物を建てました。 ある方は1000万円を出しました。  年間で1500人位来ます。 1日約5人ぐらいです。 甲府空襲は1945年7月6日の夜中です。 約1127人の方々が亡くなりました。  常設展の1階は甲府空襲、甲府連隊、暮らしです。  2階が石橋湛山の生涯と思想ですが、その他に企画をやってます。 2階で講座もやってます。 あと年に1回著名な先生方を呼んで講演をしてます。 5年に1冊戦争体験記を発行しています。

昨年は戦後80年と言うことで5冊目の本を出しました。 今後は生の声が聞けなくなるので、今まで出した本とかビデオの映像活用したり、自分の父親、母親の戦争体験をどう受け継いでいくかと言う形の伝え方にならざるを得ないと思います。  石橋湛山の母校が山梨県の甲府第一高校です。 生れは東京ですが、父親の実家が山梨です。 たまたま私が甲府一高の山梨の教員になって赴任して調べたら、彼の書いた作文が7つ出てきました。 資料をまとめ上げて石橋さんのことを展示することになりました。

私は1945年に生まれました。 叔父が2人とも戦死しました。 明治以降の近代史の歴史のことを勉強しようと思って、東京大学は歴史学科に行きました。  その後高校の教員になって、生徒の身近な人の体験記を書いてもらって、それを元にして生徒がそこから戦争のことに入っていくと言うことが有効だと思いまして、退職するまでずっとやっていました。  戦争を伝える資料館の必要性を感じました。  大学時代は学生運動が盛んで授業はあんまりありませんでした。 

家永三郎先生(東京教育大学の先生)と言う先生がいて、家永教科書訴訟が始まったころで、 家永先生は、仏教史が専門の先生ですが、その先生が太平洋戦争の話をすると言うことで聞きに行きました。  自分は戦争反対をしないで、終戦を迎えてしまって、自分の友達教え子がなくなってしまったので、自分の戦後は戦争のことをしっかり調べて、それを若い人たちに伝えるのが私の責任だと言うふうにおっしゃいました。 それに大変感激しました。 その後山梨の高校の先生になりました。 3校目が甲府一高で私の人生を変えました。 

山梨平和ミュージアムには中心になってるのは理事が10名ほどいます。その他に協力員が30人ぐらいいます。 ほとんどが退職者でボランティアです。 他にサポーターの方々が300人ぐらいいます。  国際社会が日本をどう見てるかと言うことですが、国際連合事務次長に中満泉さんと言う女性の方がいます。 赤根智子さんと言う女性の裁判官の方が国際刑事裁判所の所長を務めてます。 ロシアがウクライナを侵攻したときに、プーチン大統領に国際刑事裁判所が逮捕状を出しました。   戦後の日本の憲法とか、国際協調の日本の外交とか認められたということです。日本国憲法とか戦後の日本の歴史から培われた国際協調の精神とかを世界にアピールするそういう事は大事だと思います。 

今年80歳で来年開館30周年になりますが、今後分担しながら若い人に引き継いでいきながら運営してやればいいかなと思ってます。 しっかりと日本の近代の勉強すると同時に、自分の祖父母から聞き取ったり、周りの人たちから聞いたりしたり、幅広い勉強をしてほしいなと思います。 プラスとマイナスの日本の歴史をしっかり学んでどういう風にしてプラスの方向に向けて発信していけるか、そういった繰り返しが世界の平和の方向に行くと思っています。 

甲府空襲は、甲府市にとって大変大きな出来事でした。 地域の資料をもとにしながらどうやって見てもらえるようにするのかとか、関心のあるものにするかと言うことを工夫しています。 甲府連隊を展示してますが、ほとんど知らない人が多いです。  それを正確に知ってもらうということが、うちの展示物の特徴の1つだと思います。 中国との戦争の発端は1931年の満州事変ですが、中国との戦争は14年間もやってます。アメリカとの戦争は4年です。 日本と中国の歴史、日本と中国の戦後の歩みについてはしっかり紹介していく必要があると思います。 去年は6回講演を行いました。依頼があればできるだけ行って講演したいと思います。  石橋湛山に関する学校への出張授業をやってみたいと思ってます。

2026年3月26日木曜日

濱崎加奈子(有斐斎弘道館館長)       ・「伝統に学ぶことは未来を創ること」

濱崎加奈子(有斐斎弘道館館長)  ・私のアート交遊録「伝統に学ぶことは未来を創ること」 

濱崎さんは京都大学文学部、さらに東京大学大学院で美術を専攻、その後京都の町の古民家の保存活動や平安時代の宴や行事の再興など、幅広く京都の歴史文化に関わる活動をしています。 中でも今1番力を入れているのが、今年12月6日に予定されている「寛永行幸400年祭行列」の再現イベントです。 今年2026年は寛永3年に行われた「寛永行幸」から400年。 この時代は、戦国の世を乗り越え、後の日本文化に大きな影響を与えた芸術文化が花開き、日本の文化の故郷と呼ばれる時代です。 歴史を知る事は未来を生きること、先人が残してきた有形無形の資産を、私たちは未来へとつないでゆく責務があると言う崎加奈子さんに、伝統文化の現状と未来への展望を聞きました。

高校生の時に京都に憧れを抱きました。 京都にいってなるほどなと思う事はたくさんあって、神戸にいたときの身の回りにはなかったような、美しい街並みだったりとか、人々の言葉遣い、着物などいろんなものに心をときめく瞬間が何度もありました。 京都大学で美術を学びました。 東京大学大学院でも美術を専攻しました。 歌舞伎にも惹かれました。 歌舞伎の演目の中の神輿にも興味を持ちました。実際に神輿も担ぎをした。

京都にいる時は、日本舞踊、三味線、常磐津節などを習う。 東京にしばらく住んだのち、また京都に移り住みました。 かつらを作る制作技術ですとか、京町屋が一日に2軒から3の割合でなくなっている現状を知りました。  何か自分でできる事はないかと思い至りました。  有斐斎弘道館は全国から3000人門弟が集まってると言う学問所です。  この建物が2009年に取り壊されると言うことを知って保存活動を進めました。 皆川淇園(みながわきえん)は詩文や書画にも優れた風流人で私塾として運営してました。 江戸時代の勉強は机の上で学ぶだけではなくて、歌ったり絵を描いたりそういう中から学んでたんじゃないかと思います。

そういった学び舎として復興、復活させると言うコンセプトでいます。     北野天満宮さんで、1000年以上前に行われていた曲水の宴を再興したり、猿楽を再興したり、過去にあったことを蘇らせてみると言うことをいろいろやっております。 伝統文化をプロデュースすると言う事は、自身で作った言葉ですけれども、消えていく物に対して何とか伝えていければいいと思ってます。 

つないでいくために実は会社を作りました。 「伝統文化プロデュース連」と言う名前ですが、収益を得る難しさを知りました。 国として文化財を活用しましょうと言うのは、当時の方針転換だったと思います。 文化財を生かすための政策がいろいろ湧き起こっていますが、国の方針転換は悪いことではないと思いますが、次のステップに入らないといけないんじゃないかと思っています。 

現在力を入れてるのは寛永行幸行列再現プロジェクトです。 後水尾天皇が二条城に行幸されて、ちょうど今年400年の節目を迎えます。 戦乱の時代がようやく終わって11年です。 家康が作った二条城を大幅に増改築します。 その1部が残されているのが国宝の二条城です。  寛永時代に様々な文化人がスターのように誕生しました。 全国から大名たちが9000人募って99000人の行列ができました。 30万人位の大名の家来たちが半年位滞在しました。 当時の京都の人口は20万人位と言われています。 地域に戻った大名たちが、京都の文化をまた伝えていたということになります。 俵屋宗達、本阿弥光悦、狩野 探幽、落語の祖と言われる安楽庵策伝、小堀遠州などが活躍。

この「寛永行幸」の行列を再現したいなぁと思いました。 300人の規模で考えました。行列に歩きたい人を募集中です。 できれば全国から募って行事をしたいなと思っています。 現時点で1300人です。 装束などの問題、協力していただける業者さんとかをあたっている最中です。 12月が予定になってます。 文化が社会の根底にある、今は経済の尺度で測りがちだと思うんですけれども、文化の面で言うと、それがお金になるんだろうとか、そうではないんじゃないかと思います。 

社会全体に浸透していた各階層を超えて、見事に結実した日本のような時代が、寛永時代だと思います。 政治、経済、商売人、技術者、アーティスト、宗教とかもみんなが一緒になって、この時代を作っていこうと言うことが本当に見て取れるようにわかります。今の時代に置き換えることによって、これからの時代をどういう風に私たちは歩んでいいのかと言う知恵を得られるんじゃないかなと思います。 文化がみんなのものになった時代ですから、とても参考にできるものがたくさんあると思います。 なので「寛永行幸」をもう一度再現しようと思ってます。 お勧めの1点は「二条城行幸図屏風」です。  この時代の中に没入していけるような、そういった時代の空気を読み取ることができるので、本当に素晴らしいと思います。