頭木弘樹(文学紹介者) ・絶望名言 「谷崎潤一郎」
谷崎潤一郎は1886年明治19年生まれ。 1965年昭和40年79歳で亡くなりました。文化勲章受賞者でノーベル文学賞の候補にもなりました。 今年は生誕140年にあたります。 耽美派日本の古典回帰で知られています。今日は谷崎の物事に対する恐れの気持ち、恐怖心についてお話を進めます。
「私の神経衰弱と言うのは、脅迫観念が頭に強くて、時々発作起こすのであったが、恐怖の対象はいろいろに変わった。 顔色が真っ青に変わり、あるいはカーっとのぼせてきて体中が震えだし、足がすくみ心臓がドキンドキン音をを立てて鳴り出して、今にも破裂そうになる。 その恐ろしさを紛らわすために片手でしっかり心臓を抑え、髪の毛を掻きむしったり、そこら中を駆けずり回ったり、水道の水を浴びたり、それが時のところを選ばずに突発するんだから始末が悪い。 発作が起こらない時でもいつ起こるかと言う心配のためにビクビクしている。」谷崎潤一郎
谷崎潤一郎は明治から昭和にかけて活躍した小説家で、代表作には「刺青」 「痴人の愛」 「蓼食う虫」 「春琴抄」 「陰翳礼讃」 「細雪」などがあります。 昭和39年日本人で初めて全米芸術院米国文学芸術アカデミー名誉会員に選定され、ノーベル文学賞の候補者にもなりました。 今年は生誕140年に当たります。
谷崎潤一郎は文豪の中でも際立って朗読で聞きやすい人です。 文章自体に惚れ惚れしてしまいます。 スラスラ書くようなタイプの人ですがそうではなくて、あんなに流れるような文章を書くのは不思議と思います。
語りつくせない人ですが、今回は谷崎の恐怖症に的を絞ってご紹介したいと思います。
「名古屋から東京に来るまでの間に彼は、何度途中の停車場で降りたり、止まったりしたかしれない。 ものの1時間乗っていると、たちまち汽車が恐ろしくなる。 あぁもうたまらん死ぬ死ぬこう叫びながら、野を越え山を越えて走っていく車窓の窓枠にしがみつくことがあった。 いくら心を落ち着かせようと焦ってはみても、脅迫観念が、津波のように心の中を暴れ回り、ただわけもなく個体が旋律し、が高まって、今にも悶絶するかと危ぶまれた。 そして次の下車駅くれば真っ青な顔して、命からがら汽車を飛び降り、プラットフォームから一目散に表へ駆け出して、初めてほっと我に返った。」 谷崎潤一郎(悪魔と言う短編小説の1節)
この恐怖は、谷崎自身が、感じてた恐怖です。 パニック障害ではないかと思う人が多いと思います。 そういった症状があった事は確かです。
谷崎は京都旅行に行く時は大丈夫だったが、帰るときに汽車に乗る恐怖に襲われてなかなか乗ることができず、兵庫で徴兵検査を受けられるようにしてもらう。 いろんな人の助けを借りて徴兵検査をのための列車にようやく乗ることができた。 徴兵検査では脂肪型で不合格になった。(25歳)
「友人ことに目上の人を訪問すること、宴会にすること、芝居や活動小屋に入ることなど全て禁物であった。 活動写真などはそれでも恐々見に行ったものだが、3等席の出口に近いところに行って、発作を感じると急いで飛び出した。 その他床屋へ行くことがいけなかった。 じっと腰掛けて、首の周りを絞められて、髪を刈られていると決まって不安になってくる。 それを職人に悟られまいとして、一生懸命堪え、そのためになお怖くなる。 鏡に映る自分の顔が、土気色をして死相をたたえている。 みるみるうちに赤くなったり、青くなったり、とてもじっとしていられないので、えへんと咳をしてみたり、体をごそごそ動かしてみたり、しまいには、首を彼方へ向け此方へ向けする。 そして気分が悪いからとかなんとか言って刈り掛けの頭で外へ出てしまう。」 谷崎潤一郎(青春物語の一節)
これは今だと広場恐怖症と言われるかもしれない。 広場恐怖症と言うのは広場が怖いということで逃げられない助けを求められないと言うふうに感じてしまう状況に不恐怖を感じる。 いろんなところへ行けないと言う事は日々の生活が大変です。 当時はこういったことに理解されていない状況でした。
「強い光線強い色彩に見られてもめまいを感じた。何事によらず、強烈な官能的刺激には恐怖が伴った。 小説「悪魔」の主人公の佐伯と言う男は、真夏の路面から反射する陽の光に耐えかねて思わず、両手で顔を覆うのであるが、あれは私自身の体験で、佐伯の神経衰弱はすなわち私のものです。」谷崎潤一郎(青春物語の一節)
停車場前の熱した広い地面から、まともにキラキラと反射する光線の刺激に耐えかね。まぶしそうに両目を抑え、剣のような鉄路を走る電車の響き、見渡す限り熱気の充満した空の輝き、銀色に燃えてもくもくと山並み?の後ろからせりあがる雲の塊、赤く乾いた地面の上を強烈な日光を浴びて、火の粉?の落ちるように歩いている街の群衆、上を向いても、下を向いても激しい色と光とが弱い心を圧迫して、彼は一刻も両手を眼から離せなかった。 自分の神経が、もう白日の威力にさえも耐えがたくなってきたかと思うと、彼は生きがいのない心地がした。」
これは今と言う感覚過敏に近いという感じですね。 光或いは、音などに感覚的な刺激を過敏に感じてしまって、苦しい症状。これも日常生活には大変です。
「谷崎自身は、常時大型の薬瓶を鹿皮の袋に入れて携えていたが、それは外出して電車のつり革に捕まったり、階段の手すりに触れたり、風邪をひいている人とすれ違ったりするとたちまち血相を変えて携えたオキシフルで消毒をすると言う臆病なほど神経質。」 谷崎潤一郎の思い出を綴った今東光の本より。
これは、潔癖症というか、不潔恐怖ですね。 谷崎が書いていないのは、自分では自覚がなかったのかもしれない。
谷崎の母親も、不潔恐怖だったようです。
「私の母は病的に神経質だった。 母はきれい好きで便所から出ると、塩と軽石で手を30分ぐらい手をゴシゴシ洗わなければ気が済まなかった。 冬になると指先がすっかり割れてささくれだったが、それでもやめなかった。」
「彼は地震が大嫌いだった。彼の頭はいつか全く地震に対する危惧と不安とに満たされていた。 自分は必ず逃げ損なって梁の下に押しつぶされるに違いない。 人間が計り知られぬ?過去の時代から生存の土台と頼み、光栄ある歴史をその上に築き、多忙なる未来をその上につないで安心して活動していた大地と言うものがかくまでも不安定に、あくまでも脆弱であろうとは。」 谷崎潤一郎(病蓐の幻想と言う短編小説の一節)
谷崎は地震恐怖症でもありました。 幼い頃に大きな地震を体験している(明治27年6月20日の明治東京地震 谷崎が7歳の時) その後恐れていた大地震がついにやってくる。 関東大震災、その時谷崎は箱根のホテルに泊まっていた。 建物は壊れたけど幸いバスの中にいた。 バスの揺れで気づかず。 この地震をきっかけに関西に移り住むようになる。 谷﨑の代表作のほとんどは、関西に移住してからの作品。
「俺はいつ死ぬかわからない。 いつ何時頓死するかわからない。 そう考えると、正三郎は立ってもいても、たまらないほど、恐ろしい折があった。 死に対する恐怖から、彼はあらゆる急激な病気に対して過敏になった。 それらの災いが今にも自分の身に降りかかって一瞬簡易に五体がしびれてしまいそうな心地がすることが日に5、6度起こった。 往来を歩いていると、急に胸が痛くなって夢中で5,6町かけ出したり、電車の中でかっと頭が上気して、あたふたと表へ飛び降りていく。 夜中に布団を跳ね返して梯子段を転がるように駆け降りて、水道の水を顔にぶっかけたり、彼は真っ青になって、頭と胸とを抱えながら、一晩中ブルブル震えていることがあった。」 谷崎潤一郎(異端者の悲しみと言う小説の一節)
死に対する恐怖症。
鉄道病 広場恐怖症 感覚過敏 不潔恐怖 地震恐怖症 死の恐怖症とたくさんあります。 主には若いときで、段々には良くなっていった。
当時は、今ほど精神医学が進歩していないので、死にはしないから大丈夫だよと言われるのをとても恐れていた。 わかってもらえないと言う事は非常に辛いことです。 谷崎は病院に行くこと自体も苦手だった。
「とうとうある日脳病専門のドクトルの所へ出かけて行った。 患者は20人近くも待っていて、えらく流行っている医者であった。 川から晴れた夏の光が差してきて、入れ込んだ医療機械や真白な看護婦の仕事服や床のリノリウムがピカピカと目を射る。すぐに見てもらえれば一思いにすむのだけれども、待たされていると様々な恐怖の幻を描いて、だんだん怖気づいてくる。 私の順番はなかなか回ってこないので、私はまず代診の前に病気の性質と経過と尋ねられる。 あ、それからどうも時々理由のない事に恐怖を覚えたりしましてね。 私は軽く付け加えるような口調で言ったのだが、はあはあと代診は職業的に受け流しながら、機械的にペンを走らせて、時々恐怖感がありなどと備考欄に書き入れたが、いよいよ順番が近づいたと思うと、動悸が激しく打ち始めた。 私の前にまだ2、3人残っていた患者が、1人減り、2人減りして、最後の1人になった時、私はますます強く打ち出した心臓の鼓動を抑えて、そうこうとして階段をかけおり、夢中で戸外へ逃げてしまった。」 谷崎潤一郎(青春物語の一節)