2024年7月23日火曜日

岩崎明子(免疫学者/イェール大学教授)   ・免疫学をけん引 “世界の100人”に!

 岩崎明子(免疫学者/イェール大学教授)   ・免疫学をけん引 “世界の100人”に!

岩崎さんは1970年生まれ。 今年4月新型コロナウイルス後遺症のメカニズムの研究などで、免疫学を牽引する存在としてアメリカの雑誌「タイム」の世界で最も影響力のある100人に選ばれました。 

100人に選ばれたことをメールで知らされました。 5月にも「健康に影響力のある100人」にも選ばれました。 免疫学の観点から新型コロナウイルス後遺症のメカニズムを4つほど調べています。 ①ウイルスが持続的に増えてゆく、持続性を調べています。 体内のどこかの組織で増えそれが炎症を引き起こす可能性があるのではないかという一つ目の仮定。 この証拠を裏付ける研究報告はたくさんあります。 普通ウイルスは排除されるが、新型コロナではほとんど退治されるんですが、10%ぐらいの人には腸、脳、肺などいろんなところに潜んでいる感じです。 それが悪さをして後遺症を起こす。 ②自己免疫の可能性を観ています。 ウイルス感染はいろんな免疫を活性化させますが、自分の身体を攻撃してしまうような、免疫細胞の活性化も引き起こす可能性があります。 コロナ後遺症の患者さんの抗体をマウスに投与すると痛みとか、筋肉の低下などいろいろな症状が見えてきます。  自己抗体が 神経とかを攻撃している可能性があるのではないかと今見ています。  ③潜在している他のウイルスの再活性化というのがあります。 人間は休眠状態のウイルスと複数感染していて、コロナに罹った際にそれらのウイルスが活性化されて、それで悪さをしている可能性がある。 ④コロナウイルスによって引き起こされた組織の損傷が後遺症に繋がっている可能性がある。 

原因が判らないとどいう風に治療していいかわからない。 症状としては200以上言われています。 いろんなところに症状が出てきています。 新しい経鼻ワクチン「プライム &スパイク」?というものを作っています。  従来の筋肉注射ワクチンを使用して免疫の活性化をまずはじめ(プライム)、その後にスパイクタンパク質を鼻からスプレーして、全身で起こった免疫反応を利用して、鼻粘膜の免疫に変換することが出来るという事が判りました。 ウイルスが鼻から入るので、そこでストップをかけることができる。 ずっと前から粘膜免疫の研究をしていました。 

子供の頃は文学が好きでした。 高校の時に数学クラブに入らないかと先生から誘われて、数学の面白さに出会いました。 海外に行きたいという思いがあって、中退してカナダの高校に行きました。(16歳) 父は物理学者で大学の教授をしていました。 カナダの高校を卒業して、トロント大学に進学。1994年に生化学物理学の学士号を、1998年に免疫学の博士号を取得しました。 免疫学の教室で免疫のシステムについて感動して、こちらに進みました。  いろんな細胞がいろんな役割をしています。 ワクチンでより強い免疫を作ることができます。 

その後アメリカ国立衛生研究所で博士研究員として勤務しました。 2000年にイェール大学助教授に就任します。  アメリカ国立衛生研究所では免疫粘膜のことを学びました。 免疫学の夫とも出会う事になりました。 二人の子育てもあり大変でした。  保育所との行き来のなかで、涙が止まらなくて高速道路の脇に止めて、もう仕事を辞めようかなと思ったこともありました。(夫は出張が多くていろいろな方法で対応しました。)  

科学に携わる女性の擁護者として活動しています。 安心して妊娠出産が出来る社会でなければいけないと考えて発信しています。 感謝の言葉など頂いています。 本当に男女が平等を目指すのであれば、男女の比率を均等に、給与も平等、スペースの割り当て、賞の推薦などいろいろなものを平等にしていかなければ、成功の為の平等の機会はなかなかできないと思います。 (最近は給与は同等になりつつあります。) パワハラ、セクハラについても相談に乗ったりしています。  若手研究者は科学の未来を担う重要な人たちなので、助けていきたいという思いがあります。 メンターも一人ではなく、沢山の意見を聞くようにした方がいいですね。 素晴らしい先生と出会って、新しいドアを開けて前に進んできたような思いがあります。 私も学生さんたちに新しいドアを開けて行って貰いたいと思います。 




















2024年7月22日月曜日

新井智恵(箏・三味線演奏家)      ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

 新井智恵(箏・三味線演奏家)      ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

1978年生まれ、東京都出身。 琴の教室を開いていた母親の影響で、6歳から琴を習い始め恩師の勧めで東京芸術大学で生田流箏曲専攻、大学卒業後は筝曲演奏家で作曲家の宮城道雄さんの音楽を継承する宮城会に所属して、演奏活動を行うほか、公演の出張授業などで子供たちに琴の魅力を伝えています。 3人の和楽器ユニット「Rin’」のメンバー。 Mana(ht吉永真奈) 生田流 ボーカル・箏・三絃・十七絃。 Tomoca(長須与佳)琴古流(尺八)ボーカル・琵琶・尺八。  Chie(新井智恵)生田流 ボーカル・箏・三味線・十七絃。

「Rin’」は東京芸術大学同期3人で結成して、今年で結成20周年になります。 伝統楽器を用いてのポップスな音楽を演奏しています。 

*「虚空」 演奏:Rin’ 

琴、十七絃、琵琶、尺八。

お琴の奏者は三味線もセットで行うものなんです。 私はこの曲では十七絃を演奏しました。 普通お琴は13弦です。  4弦多いです。  大正時代に宮城道雄先生が考えだした楽器で、低音部分が欲しいという事で作られた楽器です。 音域はチェロの音域です。  大きさも2m10cmあります。 普通のお琴は180cmぐらいです。 琴柱(ことじ)も半周りぐらい大きいです。 爪も厚みがあります。 音も重厚感があります。 指ではじくと柔らかい音がでて、ハープの様な音色になります。 生田流なので爪は四角くて、親指、人差し指、中指に付けていろいろな奏法(25~30ぐらい)があります。 爪は象牙で出来ています。    爪を使っていろいろな奏法があります。  

*風の音、火、うぐいす、などいろいろな表現を行う。

*「天華」   演奏:新井智恵

十七絃は音域を変えることによって3段階ぐらい変えられます。  高い音から低い音までだせるので幅広い音楽が作れる楽器だと思います。 母がお琴を弾いていたのでそれを聞きながら育ったという感じです。(赤ちゃんの頃から)  正座はつらかったです。 東京芸術大学へ行って、素敵な世界があることに刺激を受けて、「Rin’」に繋がって行きました。  高校の時に校長先生が私にお琴を買って下さったりして、周りに恵まれていました。  小、中、高の学校への出張授業も行っています。 「通りゃんせ」を演奏した時に知らないと言われてショックを受けました。 (信号機の曲だとも言われた。) 

日本の音とは、子守歌だと思います。 愛を感じる歌だと思います。 











2024年7月21日日曜日

村田吉弘(京都・老舗日本料理店 三代目) ・〔美味しい仕事人〕 和食の伝統を革新でつなぐ

村田吉弘(京都・老舗日本料理店 三代目) ・〔美味しい仕事人〕 和食の伝統を革新でつなぐ 

和食がユネスコ無形文化遺産に登録されて10年が経ちます。 村田さんは和食の無形文化遺産登録に尽力し、その後も全日本食学会理事長、日本料理アカデミー名誉理事長として日本の食文化を次の世代に繋ぐ活動をつづけています。 若い人を育てるにも料理の科学を筋道立てて教えるなど、明快な指導を心掛けています。 これまで口伝で伝えてきた調理法も、文献で共有できるように取り組んで来ました。  和食を守ってゆくには、単なる伝承ではなく、守るべき伝統を革新的につなげてゆくという事が必要だと語ります。 

2013年12月4日にユネスコ無形文化遺産に登録されて10年が経ちます。 見直しが定期的にあって、ちゃんと出来ていないと取り消しになります。 文化を維持継承するシステムが機能しているかどうか。 法律改正して頂いて、食が文化のなかに入りました。  日本料理アカデミーでは200人ぐらいは料理人で、100人は学者の先生方です。 今1億2500万人の人口で自給率が37%、50年後には8000万人になってきて、自給率が19%になるんです。 他の国ではそうそうないので、日本料理を世界の料理にすることによって、日本の食べ物が輸出されるということを望みました。 登録前は輸出が4000億円だったのが、今は1兆4000億円になりました。 25年度には2兆円にするという事を政府から言われました。 日本の食の将来を守るためにいろいろ活動をしています。 登録前は日本以外の日本料理店は5万6000軒でしたが、今は18万軒になりました。(ラーメン屋を含め)  おむすびなど日本人しか食べないと思っていたら、日本人がおいしいものは世界で美味しいんです。 

日本料理は寿司とラーメンと思っている外国人はたくさんいますが、だんだんわかってきて、焼き鳥、天ぷらとか判って来て、今は懐石料理を食べたいとか、という風になってきています。 イギリス人などはアユなどの魚は絶対頭から食べなかったが、今は美味しいと思うかもしれないので食べてみます。 ウニもヨーロッパ人は食べなかったが、食べるようになってしまいました。 お母さんのおっぱいの中には、糖質、脂質、旨味成分が入っています。 これらは脳を刺激して、ドーパミンというホルモンが出てきて、もっと食べたくなります。 糖質は全世界の人が食べます。 世界の料理は油脂を中心に料理を構成している。 一民族(日本)だけが旨味を中心に料理を構成したんです。  油脂は1ccで9kカロリーがあります。  フランス料理はデザート前までで2500kカロリーあり、日本料理では1000kカロリーです。  世界中のトップシェフが日本に学びに来ています。    日本には菜種油ぐらいしかない。 京都の公家に2,3時間かけて食べてもらうのに、夏には野菜と川魚しかなくて、小さいポーション?にして沢山、いろいろ出した。 そこに旨味を添加してゆく。  最終的には北海道の北前船で運ばれてくる礼文島の昆布、土佐から運ばれてきた鰹節を使ってやったら美味しくなった。 京都御所から始まった料理です。 

110年ぐらい前に帝国大学の池田菊苗先生が、湯豆腐を作るのに水だけと、昆布をひいて作るのでは味が違う事を発見した。 昆布の出汁を煮詰めたら、結晶が出て来た。 それがグルタミンソーダでした。 その弟子が獣類の肉からっ出てくるイノシン酸、キノコから出てくるグアニル酸を発見した。  外国人は味は4つで旨味は概念だと言っていたが、結晶化したものがある。 2006年に甘味を感知するすぐ横に、旨味を感知する受容体が見つかりました。 今では5つの味(+旨味)を理解するようになりました。 今では昆布がフランス料理の厨房にはあります。 

日本料理アカデミーでは今年はトップシェフを7人招きました。 今では世界中のシェフは発酵(味噌、みりん、酒など)です。 麹が輸出されるのでいろんな豆で味噌を作っています。 日本料理アカデミーでは日本の和食の良さを広げなければいけないという事で、始めました。 勘と経験を数値にしようと京大の先生と一緒に「日本料理大全」という6巻の本にまとめました。 そうしないと世界の人々にはわからない。 日本語と英語で作っていて、英語は全世界に対して無料配信します。 パソコンで翻訳機を使えばすんべ広がる。 いま5巻まで作りました。 「煮る、炊く」というのを後一巻にまとまます。 在庫の本は世界中の図書館に寄付するようにと考えています。 

跡継ぎという事が嫌でした。 料理は好きなのでコックになろうと思いました。 フランス領路をやろうと思いました。  フランスに行きましたが、まだ何も決めていませんでした。 安いホテルも紹介してもらって、そこには上柿元勝(フランス料理のレジェンド)さんがいました。  彼から雇われ方のコツを教えてもらいましたが、駄目でした。 日本料理の情けない状態を知って、フランス料理ではなく日本料理を世界の料理にすことをライフワークにしようと思いました。  

人生の一コマに料亭がある。 お食い初め、お宮参り、初節句、七五三、成人式、両家のお顔合わせ、喜寿、米寿などのお祝い、法事など。  社会的な施設としての役割がある。  「伝統は革新」 日々新らた、新しい発想をしてゆく。 伝統と伝承とは違う。 守るべきものは守って破るべきものは破る。





















2024年7月20日土曜日

藪邦彦(高野山金剛峯寺 高野山執務公室長) ・世界遺産20年 今改めて感じたい空海の教え

藪邦彦(高野山金剛峯寺 高野山執務公室長) ・世界遺産20年 今改めて感じたい空海の教え 

高野山を含む紀伊山地の霊場と参詣道が世界遺産に登録されたのが2004年7月7日(20年前)のことでした。 弘法大師空海が開いた高野山には今国内だけでなく、世界各国から観光客が集まって来ます。 世界遺産登録20年、高野山を訪れる人達に何を感じてもらいたいか、そしていま改めて感じたい空海の考えはなんなのか、藪さんに伺いました。

高野山執務公室長の役割は、高野山金剛峯寺には役員がいて、その秘書的な部分、行政など対外的なところとの調整、広報などを含めてやっています。 僧侶でもあります。 世界遺産に登録されてから急激に海外の方への発信力も強くなり、多くの方が来るようになりました。  20年前は海外に発信する手段も知りませんでしたし、アピールの仕方も知りませんでした。  宿坊、お土産屋さんも英語を喋れない人がほとんどでしたが、今では片言の英語を伝えながら、対応しています。  世界遺産に登録されたのは、熊野、吉野、高野(高野山)三つの聖地とそれぞれを結びつける道を併せて登録されました。  この三つは日本の信仰の歴史の中核になると思っています。  熊野は大自然をそのまま御神体としてあがめた。(土着の神道の教え)  仏教が入ってきて、そこから修験道という信仰体系が生まれてくる。 修験道の中心の聖地が吉野というところになります。 1200年前に弘法大師が中国から持ち帰った密教の聖地としてあえて、高野という場所に選びました。 

この場所を選んだ理由としては、①様々な信仰の体系がこの紀伊半島に集約していた。  ②京都にほど近い。 ③空海が修行をしていた吉野から歩いて2日間で高野にたどり着くことができる。 ④盆地になっていて、多くの人が修行するためには水が必要になるが、豊富にある。  ⑤都から離れることによって仏さまと自分自身だけを見つめるためには最適な場所であると感じられた,と思います。  

宇宙科学を専門に学んでいる方々、数学者、医療関係の方々と様々な議論をさせて貰っています。  例えば数学で様々なものを紐解いてゆくその話の中で出てくる内容というものが、真言密教の経典にすでに書いたあるもの、今あえてそれが証明されつつあるんじゃないかなと思う事が良くあります。 大宇宙が出来上がっているのはビックバンという爆発によって無数の物質が放出され、今の大宇宙が広がりつつあるが、真言密教の経典の中には、何から生まれたものではない唯一無二の波動が存在するんだと書いてあります。 それを今の科学で応用してゆくとビックバンが生まれ、ビックバンから様々な物質が流出され、星が生まれ、地球という星の中に新たな生命体が生まれて今に至っている。 

ビジネス、農業の方たちとの交流もあります。 土には何億という生き物が存在している。 彼らの活動の賜物によって、養分となってゆく。 何一つとしてこの世の中に不必要な存在はない。  土自身も命としてとらえる。  そういった一つ一つが関わることによって新しい力を見出す事にもつながってゆく。 すべてのものを命として尊びながら見てゆく。

曼荼羅という教えを持ち帰りました。  それぞれに役目を持ち合わせた仏さまたち、沢山の仏様たちが関わり合って、今の命と言うものを生かしている存在なんだということを説かれている。  生まれも育ちも全て違う、だからこそそれぞれが尊い一つの命で、それぞれが関わり合って生きてゆくことの大切さを知ることに繋がれば、多くの方々が救われてゆく道というものがおのずと見えてくるのではないかと思います。

若い人々は大自然に対する感謝の気持ちが少し薄れてきていると思います。  大自然に対する感謝する心、様々な人々に感謝する心、そういったものに対してベースとなる教え、機会を少しでも発信することが出来れば、と思って発信しています。 仏教も進化してゆきますが、すべての命を尊び、自分自身の命を尊び、その命を活用して多くの人々の喜びとしなさい、という教えは様々な宗教、宗派等を包括する教えだろうと思います。 

視野を広げてゆくことができにくくなってきているように思います。 特化して狭い領域を深く深く掘り下げてゆくというところは、今の方は得意なのかもしれない。 視野を拡げ経験を積極的にやっていただくと、様々な知識、知恵を得るきっかけになるのではないかと思います。  

昭和44年福岡県でお寺の子供として生まれました。  中学、高校になるとお寺に拘束されるのが嫌でした。 段々受け入れながら今に至っています。 大学は高野山大学に進みました。 当たり前として見よう見まねで受け入れていたものを、掘り下げていくという思いでした。  理由と意味を知る事によって、心が付いてゆく。 月~金までが高野山、週末は福岡のお寺です。 

最近の観光客は、宗教儀礼に参加することなくお帰りになる方が多いです。 外国の観光客の方からはもうすこし宗教儀礼に参加したかったという言葉が非常に多いです。 令和5年の観光客は140万人来ています。 人口2600人の小さな街ですが、140万人の人々が不便な思いをすることは本意ではないし、住民の方にインフラ整備を任せるというのも本意ではありません。  ふさわしい対応を検討しています。  奥の院には今も御大師様が祈り続けていらっしゃる場所がここに存在しているんだ、という信仰に裏打ちされた場所が高野山です。 

戦国武将がお互いに近くで供養されている。 何故かというと御大師様が受け入れてくださっている。 その空間に触れていただくことこそが、大切な体験になるのではないかと思います。  体験していただくことによって、決して自分自身は一人では生きているのではなく、多くの人々、自然界のなかの多くの命によって、私という一人の命が存在しうるし、生かされているという事を、大自然を通して感じていただきたい。 他の人の命を大切にして頂くと同時に、自分自身の命を大切にして頂く、それが最も大切であると思います。 多くの人々を正しく幸せに豊かに導いてゆくか可能性がある、とてもとても大切な命なんだという事を自分自身で企画して、それを実行に移していただく、それこそが御大師様の教えです。 























 








2024年7月19日金曜日

小沢仁志(俳優・映画監督)        ・金をかけず、命をかける。

小沢仁志(俳優・映画監督)        ・金をかけず、命をかける。 

1962年東京都出身。 刑事ドラマ太陽にほえろ!』の犯人役で俳優デビュー。 不良高校生たちの青春を描いた映画ビー・バップ・ハイスクール』で注目されて以来、「顔面狂器」という異名を持つ、こわもて俳優として数々の映画やドラマで活躍しています。 又映画監督としてもかちどうしています。

小さい時から映画は好きでした。 監督になることは不本意から始まっている。 監督が違うところに取られてしまって、監督をどうするかという事になり、じゃんけんで負けてやる羽目になりました。  当時は監督はデメリットの方が多かった。 監督協会があり、「なんでお前が監督なんだ。」という事でした。 デメリットとしては監督からそっぽを向かれたという事と現場での役者としての在り方がちょっと変わってしまった。 たけしさんの前の時代なのでめちゃ叩かれた。 たけしさん以降は流れが変わって、役者が監督をやる人が増えた。   チャップリンの映画を観て、映画ってすごいなと小学校の頃思いました。 あの人は笑いを取るために命を懸けた。(凄いことをやっている。)  チャップリンの映画は喜怒哀楽のすべてが入っている。  空手を始めたのはブルース・リーを観てからです。(小学校5年生ごろ)  「エマニエル夫人」、その後「ゴッドファーザー」高校生の頃は新宿の映画館ではやくざ映画が盛んでした。 

テレビドラマの「スクールウオーズ」が最初でした。 敵役・「ヘビ次」を演じた。   25歳で役者に向いているのか考えたが、45歳を越えてからは考えていないです。   村上修監督の日活ロマンポルノ『BU・RA・Iの女』で初主演。(25歳ぐらい) 30歳でクエンティン・タランティーノ監督作『レザボア・ドッグス』をモチーフにしたオリジナルビデオ作品ザ・ワイルドビート/裏切りの鎮魂歌』を完成(主演)。 和泉 聖治監督南へ走れ、海の道を!』で映画で初めて出ました。 自分で攻めて行ったものが、不思議と後で繋がってゆく。 他の道に進もうかどうかという事は5年サイクルで考えました。 

激しいアクションシーンをほとんどスタントマンを使わずに自ら演じている。遊園地のジェットコースターを寸前でかわすシーンでケツをかすって行った。 62歳になりました。 60歳の時に還暦記念に撮った映画『BAD CITY』のスタントマンなしの撮影も骨折している。  矢沢永吉さんを見て、自分でいろいろやっているので、自分でやらなくてはいけないと思いました。  矢沢さんは朝5時にランニングしています。 私はジムに行って筋トレしています。 ベンチプレス100kgあげられます。  40何年もやっているので歯磨きと一緒です。 俺の基本は動機が不純なほど長続きする。  60歳を越えると2かが越で作るのはきつい。(映画?) でも今は出来ている。 今やれることをやっておかないと明日かもしれないので。 























2024年7月18日木曜日

五大 路子(女優/横浜夢座座長)      ・〔わたし終いの極意〕 ハマのメリーさんに導かれて

 五大 路子(女優/横浜夢座座長)   ・〔わたし終いの極意〕 ハマのメリーさんに導かれて

今年舞台生活50周年を迎えた女優の五大路子さん、1952年横浜生まれ。 1977年にNHK朝の連続テレビ小説いちばん星』の主役でデビュー以来、大河ドラマ「独眼竜正宗」など数多くの作品に出演してきました。 又実在した娼婦を演じる一人芝居「横浜ローザ」は初演から29年目を数え、五大さんのライフワークとなっています。 1999年には自身の劇団「横浜夢座」を立ち上げ、地元横浜から演劇の発信を続けています。 

実在した娼婦を演じる一人芝居「横浜ローザ」は初演から29年目。 横浜には伝説の娼婦と呼ばれている白塗りのメリーさんという方がいました。 真っ白ずくめで、顔も真っ白、ドレスも真っ白、真っ赤な口紅と濃いアイライン、でも気品を持っていて、大きなキャリーバックを曳いていて、横浜駅、伊勢佐木町などあらゆるところにふっと立っていた。 彼女に出会って彼女の人生を追いかけてゆくうちに、彼女の背後に大きな日本の歴史を感じ始めました。 歳をとった時に出会ったので、回想してゆく感じです。 

横浜の仮装パレードがあった時に、私が審査員をしていた時に、前の山下公園の街灯の前に立っていました。 私と目がぱったり合ったんです。 「私の生きて来た今までをどう思うの。 答えて頂戴。」と眼差しがぐっと入って来ました。 隣の人が「横浜の名物ですよ。」言いました。 大きな怪我をして、自分を見つめる時期だったので、彼女のことを調べてみようと思いました。 横浜中をノートをもって調べ始めました。 私があった時には70代ぐらいでした。  今華やかな伊勢佐木町の向こうには米軍の飛行場がありました。 5時になると兵士がワーッと出てきてそれを待ち構えていた日本の女性がいたと言いう事を知りました。 メリーさんは白いドレスで、クリーニング屋さんでは白い沢山のドレスが置いてあったそうです。 正月には大事なドレスで皇居に参拝に行っていたそうです。 

調べれば調べる程すごいものが目の前に現れてきました。(5年取材)  杉山義法さん(大河ドラマを書いた。)に書いたものをファックスで5年間送り続けました。 最初は書く気が無いと言っていましたが、或る時「俺 書くよ。」と言ってきました。 「俺はこの横浜ローザに日本の戦後史を込めて書こうと思う。」と言いました。  出来た作品が「横浜ローザ」です。 メリーさんには舞台の許可を取りに行きました。 舞台は29年になります。 8月15日にやっていました。 彼女が亡くなってお墓を何とか見つけて、お墓参りに行きました。  手を合わせた時に、「貴方は貴方を捜しにここ迄来たのね。」という風に聞こえました。  私は30年やってこれたのは、メリーさんを通して私を捜していた、私が生きる大きな道しるべ、いろんなシグナルで襲ってきて、毎回今この時、「彼女が生きていたら、何を思う。」と自分に問いかけながら、答えは出ないけれど挑んでいきます。 

私は中学1年から演劇部に入りました。  18,9歳で演劇の素晴らしい先生たちとの出会いもありました。  演劇講座を受ける中で先生から「貴方の身体は世界でたった一つしかない、いい加減にすることなく貴方を捜していきなさい。」と言われました。 そこから変わって行きました。 24歳で朝ドラをやって、人生が大きく変わりました。 「早稲田小劇場」の白石加代子さんの劇団にそれまで入っていました。 鈴木忠志さんの劇団に入りましたが、修行に出ろと追い出されました。 父からは勘当されていました。 新国劇の方に入りました。 NHKの連続テレビ小説『いちばん星』のオーディションに行ってみたらと言われて、採用されることになりました。 大和田伸也と結婚し子供も生まれました。 

1989年の帝国劇場の公演を前にして、突然夜に膝に激痛が走りました。  病院で水を抜いてもらって固定したら、足が伸びなくなってしまいました。  番組などを含めて降板しました。 ある寺の離れに身を寄せることになりました。 そこでいろいろ勉強になりました。  自分が倒れたら代役はいくらでも出てくる。  私って何、私が表現するって何、など考えていました。 もし足が治ったら、私にしかできない、私から発する何かを表現したいと思いました。 それがメリーさんだったんです。

1999年に自身の劇団「横浜夢座」を立ち上げました。  1996年に「横浜ローザ」を一人芝居で始めて、明日を元気にしていこうという舞台を、市民劇みたいな感じで作りたかった。  夢と信念が有ったら出来ると言われて、踏み出しました。 夢座も25年になります。  2016年から「真昼の夕焼け」(大空襲を受けた15歳の少年の実話)を8年間やりました。  受け継いでくれる組織も作りました。 コロナでローザも出来なくなって一回休みました。 どういう風におしまいにしようかと考えたら、声も出なくなり身体も動かなくなってきました。 自分が思ったことを人に伝えてゆく、と吹っ切れた時に段々取り戻していきました。   演劇を観た人がよかったとか、頑張ろうとか、誰かの心をそっと支えてくれるんだったら、この演劇というボールを投げ続けてゆくことは無駄ではないのかなあと思います。  「横浜ローザ」は90分ぐらいの一人でやる舞台です。 「語るローザ」を始めました。(語るだけ。) ローザは私の生きる術ですね。 

私の夢はイギリスのエジンバラ演劇祭で「横浜ローザ」を演劇する事です。 「真昼の夕焼け」を日本中の子供たちに伝えたい。  少女の様に瞳を輝かしながら、何かを追い求めながら生き続けていきたい。 「花のように、風のように、海のように」と言う自叙伝がもうすぐ出来上がるところです。  困った時に助けてくれる、手を携えてくれる人が居ます。生きているという事はこういう事なんだなと、人の心に支えられて来た人生だと思います。  メリーさんは養老院に行って亡くなりますが、幸せな亡くなり方をしたのかなと思っていましたが、養老院では大きな男の人を見るとおびえていたそうです。 戦争はなんで一人の人生をこんないしてしまうんだと思って、私をローザの舞台に向かわせます。 

〔わたし終いの極意〕とは、人はそれぞれ自分の夢を追いかける。 私はその夢を繋いで次の世代にこの夢をバトンタッチしていきたい。






2024年7月17日水曜日

梨田昌孝(野球評論家 元プロ野球監督)   ・〔スポーツ明日への伝言〕 人を活かし人に生されて

 梨田昌孝(野球評論家 元プロ野球監督) ・〔スポーツ明日への伝言〕 人を活かし人に生されて

梨田さんは1953年(昭和28年)島根県浜田市出身。 島根県立浜田高校を卒業後1972年ドラフトと2位で近鉄バッファローズに入団、17年の現役生活でベストナイン3回、ゴールデングラブ賞4回獲得するなど、リーグ屈指の強肩のキャッチャーとして活躍、1979年近鉄球団初のリーグ優勝、更に翌年リーグ連覇に大きく貢献しました。 引退後はコーチ、二軍監督を経て、2000年から大阪近鉄バッファローズの監督として指揮をとり、監督2年目にチームをリーグ優勝に導きますが、球団合併により近鉄球団は2004年55年の歴史に幕を下ろし、梨田さんは近鉄最後の監督となりました。 その後北海道日本ハムファイターズ、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めて、監督として通算805勝を挙げています。 この間現場から離れた時にはNHKの野球解説者としてわかり易く親しみ易い解説を聞かせていただいています。 2020年の春には新型コロナウイルスに感染、重症化して一時は集中医療室での治療が続きましたが、幸いにも一命をとりとめて、現在はお元気に御活躍中です。

2020年の3月に新型コロナウイルスに感染。 どこで感染したのか今でも全く判らないんです。 3月20日過ぎに一寸身体がだるいなと思いました。 体温は36,7℃ぐらいでした。 3日目に38℃を越えて4日目に40℃になりました。 味覚、臭覚がなくなりました。 5日目には41℃になりました。 病院に行ったら即入院という事になりました。  意識が無くてどうやって病院に運んでもらったのか覚えていないです。 集中治療室に2週間ぐらい入ったと思いますが、全く覚えていないです。 悪夢と幻覚を見たようなそんな感じだけです。 先生曰く97~98%は死という事をでした。(息子が聞く。)  命が助かったにしても、   寝たきり、凄い重い障害を持って、というような事だったらしいです。 

トータルで50日間入院しました。 19kg痩せました。  歯茎迄痩せました。   食事、運動、お酒のリハビリを始めました。 陽性反応がある時から軽い運動のリハビリは先生のもとで行いました。  せっかく人生生きているんだから楽しく、皆に楽しくしてもらいたいというような思いはあったので、より一層人に伝える事(講演などを含め)、楽しく、元気に、明るくという風な感じで話をさせて貰っています。 

2007年10月に北海道日本ハムファイターズ監督に就任。 2年目でリーグ優勝。 1年目で選手の情報を相当仕入れました。 2年目にそれぞれを評価して使っていきました。   近鉄の時には「打」のカラーのチームでしたが、日本ハムはピッチャーが安定していました。  バント、スチールとかの1,2点の積み重ねで勝てるのではないかという、計算が出来るようになりました。  ミーティングをして選手の意見も聞きました。 糸井選手はなかなかサインを見落としがちで、コーチからは2軍に落としましょうという意見もありましたが、「外国人選手」にしようと決めました。  単純なサインにしました。 そうしたら6年続けて3割を打つ選手になりました。 

私生活ではダジャレもよく言っていましたが、NHKの解説では言ってはいけないと思って言っていませんでした。  選手が近寄りがたいという風にはしたくなかったという思いがありました。 選手がやりやすいような雰囲気を作ってあげるというのが、監督として考えるべきではないかと思います。  時には厳しさも必要ですが。 

小さいころは医者になりたいという思いはありました。 5人兄弟の末っ子です。 長男と3男が小さい時に亡くなりました。  西本監督には心のなかでは父親のような感じで想っていました。(父は中学3年生で他界。)  亡くなった時には弔辞も読みました。 仰木さんはサインミスにはすごく厳しかったです。 飲みに行ったりすることにはあまり言わなかった。 勝ったり負けたり、5割でいいんだよ、みたいな思いの人でした。 西本さんは打順などあまり変わらなかったが、仰木さんは色々と変えました。 広報部長的な発想の人でもありました。  西本さんと仰木さんからはいろいろ勉強しました。 今に時代には西本さんのやり方では無理だろうなと思います。 仰木さんのやり方でも駄目だろうなと思って、今を生き抜くところを見出さないといけないと思います。 

日本ハムでは、選手の起用法、育成方法、作戦などは球団は一切口を挟みませんでした。  トレード、ドラフト、外国人選手の補強などに関しては、監督は全然関係ないというところです。 1989年アメリカのワールドシリーズで中継をして、日本のメジャーリーグの中継の草分け的な存在となる。 野茂選手もメジャーリーグのことを聞きに来たりしていました。  日本ハムはメジャーからの影響はあったと思います。  メジャーではチームとしてのまとまりがないような感じがします。 日本ではまとまりがあり、緻密さがあるという気がします。