2023年12月7日木曜日

屋猛司(邑久光明園入所者自治会会長) ・〔人権インタビューシリーズ〕 解剖記録から考える人権侵害

 屋猛司(邑久光明園入所者自治会会長) ・〔人権インタビューシリーズ〕  解剖記録から考える人権侵害

ハンセン病はらい菌による感染病です。 感染力は非常に弱いにも関わらず、国は療養所を作り強制隔離しました。 この隔離政策によって恐ろしい病気だと誤った認識が広まって入所者やその家族はいわれのいない差別、偏見を受けてきました。 3年前から各地のハンセン病療養所で入所者の遺体の解剖記録が残されていたという事が相次いで明らかになりました。 療養所の一つ岡山県の邑久光明園で入所者自治会会長を務める屋猛司さんは療養所に残された1123人の解剖記録を元に差別の実態を広く伝えようとしています。 

入所者の遺体の解剖記録が何のために残されていたのか、判らない。 検証物件にはいいかもしれない。  昔は40から50畳の霊安塔がありそこでお通夜をやっていました。 隣に解剖室がありました。  ホルマリンで保管していました。(49体)  1123人の解剖記録についての調査は2020年10月から2022年11月までのおよそ2年間行われました。 調査を通じて判ってきた事実を元に屋さんは、療養所で暮らす人たちが何故解剖を断れなかったのか、語ってくれました。

大学の医学生の研修生の勉強のために解剖していました。 ハンセン病で亡くなる事はなく、他の病気で亡くなるので、それでみんな了解します。  本人の同意が確認されたのは7人だけです。 本人の署名が付いていたのは2通のみでした。 まともな承諾の状況とは違います。  昭和50年代にやっと反対する方も出てきました。  人権侵害と言う事は当時は判らなかった。  今はあちこちに行って勉強はさせて貰っていますが。    僕の場合は解剖させてほしいという事はなかったです。  もし言われたら、判っている病気だったら、何もそうする事はないと思います。 

昭和49年に入所しました。(32歳) 大坂から船で来ました。  古い木造の8人部屋の暗い部屋でした。  これで人生終わったかなと言うような思いでした。 家族には迷惑を掛けたくないという思いで入りました。  家族には迷惑を掛けたくないという事で名前を変えて入っている人もいます。  亡くなっても偽名で亡くなっています。 それだけ偏見、差別があるという事です。  国はハンセン病は怖いものだと流布して、それを信用するわけです。  隔離政策そのものが人権侵害です。  夫婦もカーテン一枚で同居されていて、ほとんど人権を奪われていた。(子供を産ませない。)  納骨堂があり亡くなっても地元には帰れない。  人生のすべてを奪ったというのが国の強制収容、政府の罪ですね。 小学校5,6年生ぐらいから人権問題について、ハンセン病問題を基本として、これからも出てくるであろう感染症について認識して、人権について国、皆さんが判るようになれば人権について世界に通じる日本になるだろうと思うので、子供の時から勉強させてゆくことが大事です。  

今年全国ハンセン病療養所入所者協議会の会長に就任。 国立ハンセン病療養所は全国に13あり、入所者が10月現在で764人、平均年齢が88歳。 国、自治体との話し合いが必要です。  偏見、差別がないのが理想ですが、理性との問題だと思います。    人権意識の核となる部分は、自分を大事にしなければいけないと思う。  親を、友達を大事にしていって、広がって行けば、それでいい。 どこにでも好き嫌いがあるから、いじめとかが出てくる。 自分を大事にしていったら、それは押さえて行けると思うが。


























 









2023年12月6日水曜日

西田昌矢(新聞記者)          ・〔人権インタビュー〕 逃げてきた私が、いまこそ書く

 西田昌矢(新聞記者)    ・〔人権インタビュー〕  逃げてきた私が、いまこそ書く

九州地方で発行されている西日本新聞で去年或る連載が組まれました。 タイトルは「記者28歳 私は部落から逃げて来た」、書いたのは若手記者の西田昌矢さんです。 被差別部落出身という自らのルーツを初めて明らかにしたうえで、自身や周囲の人たちが今も差別の不安を抱える姿を綴り、現代の差別部落の実態を明らかにしました。 反響は大きくこの連載を含む人権問題の向き合う一連の企画は今年度の新聞協会賞にも選ばれました。 身近にいる当事者たちの存在に気付いて欲しいと言う西田さんに伺いました。

入社後本社の社会部に勤務して、その後長崎総局に移動、福岡に移動して取材、今年8月に本社の社会部に移動になりました。  「記者28歳 私は部落から逃げて来た」の連載で、最初に中国地方の被差別部落で生まれた、その出自からずっと逃げて来た、と自身のことを綴っています。  連載を書くまでは、部落にうまれたことは出来れば知られたくないという風に思っていました。  地区学習会と言う集まりがあり、被差別部落に生まれたという事を学習会を通して教えるような集まりで、小学校1年生から6年生まで少しづつ部落問題について教えられるという集まりでした。 「部落差別に負けない子供になりましょう。」と先生の話があり、まず意味が判りませんでした。  「差別はいけないんよ。」、と言うような話から始まりました。 結婚差別、就職差別と言うようなことがあるというような話も出てきました。  高学年になると当事者からの話も出てきました。 

週に一回で周りの人たちは遊んでいるんで、めんどくさいので遊びたいというような感じでした。  昔の話という認識でした。  高学年で初めて差別を受けた体験を聞いた時、穢れるという言葉に衝撃が焼き付きました。  友達の家に遊びに行った時におばあさんがお茶とお菓子を出してくれるんですが、来た子等にどこから来たのか問われて、私が答えたら「貴方は部落の子なのに賢そうね。」と言われて、どうなのかと言う事を考え始めました。 何でこんなところに生まれてしまったんだろうか、と言うようなことを考えました。 同和教育に携わっている人たちに反発するようになりました。  自分を守るための術でした。 

大学生になった時に、友達が私のアパートに泊りに来た時があって、「被差別部落の暮らし方」と言う本が自分の本棚にあることに気付いた時に、悟られるのではないかと思って、彼がトイレに行った隙にタンスに押し込んだ記憶があります。  姉は交際相手に初期の段階で被差別部落出身であることを言うそうです。 伝える怖さがあるそうです。 人生の節目節目で考えないといけない瞬間と言うのがやってくるのかなあと思います。  

入社後すぐに先輩から4年後に100年の節目があり、このタイミングは人権問題をいくらでも書けると言われ、目の前にある人権問題を書き合おうという提案頂きました。 その時に被差別部落出身であることを初めて言いました。  その後長崎に移動になり被爆者の体験を聞くことになりました。  被差別部落の取材で結婚差別の話をしてくれて、仮名「たかし」さんについて、話を聞いているうちに段々記憶がよみがえって来て、祭りに部落の人が参加すると穢れるという事で、祭りには参加できなかったそうです。 それならじぶんたちで祭りを作ってしまおうという事になって、初めて地域で祭りを始めたそうです。(いまだに続いている。)  それは郷土愛という事でした。  自分の地域への誇り、愛を失ってはいけないというメッセージを「たかし」さんとしては持っている。 最近地元に対して、なんにもないけどいいとこあるよ、と言う風に言えるようになってきたなと思います。  

部落問題について書こうと思って母親に電話をしましたが、前向きではなかった。 母は「立ち場宣言」(自分は部落出身だが皆さんと変りありません、と言うそうです。)することが厭だったと言います。 母親への取材でも話したくない感じでした。 「あんたには普通の暮らしをしてほしい。」と言う言葉が出ました。  多くの人は自分の出自を明かさずに、部落問題とはかかわりなく生きてきていて、人生の節目節目で部落問題について考えないといけない瞬間がやってくるという、その人の方が多分多いだろうと気付いて、その思いを代弁するのが私の役目なんだと思いました。  母も連載を読んで理解してくれました。

人権問題、差別をどうやってなくすかと言う事に考えながら記事を書いていました。   差別は少なくともゼロにはならないだろうなと思いましたが、取材をしてみると、差別をなくす当事者として活動している人が、確かにそこにいた。 伝えることは無駄ではないと思いました。 生きづらさを感じている人は直ぐ近くにいると思います。 深刻であればあるほどなかなか人には話せないと思う。  取材をすることによって間違いなく傷つく人はいるんですね。  ゲイのユーチューバーを取材した時に、もしかして差別用語じゃなかったかな、と言うところから考え始めちゃうんです。 取材者としてだけではなく一人間として関われればいいなあと思います。 人権問題も、まずいろんな人が居るという事を理解する事なのではないかと思います。  



















2023年12月5日火曜日

鬼頭暁史(中学校教師)         ・〔人権インタビュー〕 15歳の傷 子どもたちを性被害から守るために

鬼頭暁史(高校生の時に性被害を受けた中学校教師) ・〔人権インタビュー〕  15歳の傷 子どもたちを性被害から守るために

鬼頭さんは15歳の高校生の時、旅行中に性被害を受けました。  現在は2人の子どもを育てながら、教師として子供たちを性暴力から守るための活動をしています。 

ジャニーズ事務所をめぐる性加害の問題では、ショックを受ける部分が凄く大きかった。  心の尊厳を大きく傷つけるもので、一生残り続けるものだという事がなかなか理解しづらい部分が凄く大きいと思っています。  知識もなく教育も受けていない子供たちが被害に遭ったという事に、言葉にならない気持ちがあります。  子どもを守るという視点でもこのようなことが二度と起こらないようにしていかなければいけないと思います。

私が被害に遭ったのは高校1年生の15歳の時です。  一人で旅行して、ある民宿の主人が加害者でした。  その宿には2日間泊めてもらいました。  最初はとっても良くしてもらいました。  2日目に寝ていたらふすまの開くような気配がありました。  布団に入ってくる気配がありました。  宿の主人の男性だと判りましたが、何のために来たのか判らないまま、身体、性器などを触られました。 何もわからないまま、声を出すことも出来ないまま、どのぐらいの時間かはわからないが、長い時間に感じられました。  その後その男性は布団から出て行きました。  考えが纏まらないままその朝を迎えたという事を覚えています。  嫌悪感があるがどう考えてどう対処していいのかが、考えられないというか、自分に何が起きているのか判らないうちは、人間は本当に動けないんだなと言う事を実感しました。  宿の主人は何にもなかったように接してきました。  私自身もなかったような振る舞いをしていました。  自分が傷ついたことをされた、厭なことをされたという事は無意識に判っていたと思うので、自分のなかでなかったことにしたかったのかなあと思います。  宿賃はただでいいという事で宿を後にしました。 

当時被害に遭ったという事を認識していなくて、宿賃をただにしてもらってお礼を言ったことに対して、未だに心に残っているところです。  被害に遭ったという認識がなかったのは圧倒的に知識の不足だと思います。  男性も被害に遭うという事を全くイメージがなかった。  被害に遭ったということは誰にも話せませんでした。(どう話していいのか判らない。)   知識のない子供が拒否をしたり、異議を唱えたりするのがとっても難しいと思います。  知識があったらいろんな選択肢があったと思います。  被害に遭ってから自分が性被害と言う事を認識するまでに20年かかりました。  

当時「#MeToo(ミートゥー)」と言うのが世界で注目されて、女性の自分の性被害を告白するというのを目の当たりにして、15歳の時に起きたことと言うのも性被害だったのかもしれないと初めて気付いた様な状態でした。  自分も「#MeToo(ミートゥー)」の運動に参加したいと思いました。  SNSに被害についての文章を書き始めました。  投稿の前に妻に告白することにしました。 自然に「辛かったね。」と言う言葉を掛けてくれました。 凄く救われた部分があると思いました。  見えなかった傷がどこの傷でどんな傷なのかが判るというのは、凄く大きな変化で、社会の問題なんだという意識が強くなりました。 

ジャニーズの問題が注目された時には、語られてこなかった男性の性被害と言うものが社会に広く認識されるようになるだろうし、男性は性被害には合わないという偏見が変わってゆくんじゃないかと言う期待を持った部分があります。 NHKの番組で実名で顔を出して、告白したことがありますが、多くはないが、SNSとかで私の被害を軽視するような発言、揶揄するような発言を送ってきたりしました。  覚悟してメディアに出たつもりですが、これほど深く胸に刺さるものなのかと、改めてそこに気付いた部分があります。  

社会の意識を変えてゆく為には、矢張り教育だと思います。  性教育に継続的に取り組んでいる学校は現状では少ない。  教育現場でも自分の性被害のことを話したことがありますが、真剣に聞いてくれたと思っています。  相談をしてくれる子が増えたなと思います。 「話してくてありがとう。」とまず言います。 話しやすい環境を作って行きたい。 SNSでも積極的に発信するようにしてます。 教育界の勉強会にも参加しています。   日本では性教育が物凄く遅れている。  大人こそ学んだり行動することが必要ではないかと思います。  包括的性教育が日本でも広がってゆくべきだと思います。 人権教育、子供たちの権利を守ってゆくためにはどんなことが必要なのか、そのためにはどんな知識や態度を身に付けさせていけばいいのか、深くかかわっているのが包括的性教育だと思っています。 被害を言葉にしてゆくのが大事だと思います。 誰にも相談できずに苦しんでいる被害者の人が多くいると思います。  自分は一人ではないんだという事を、是非伝えたいと思います。
































2023年12月4日月曜日

大海明敏(元ベトナム難民の神父)    ・〔人権インタビュー〕 私たちも地域の仲間です

大海明敏(元ベトナム難民の神父)・〔人権インタビュー〕 私たちも地域の仲間です

愛知県は全国で最も多いおよそ5万人のベトナム人が暮らしています。 おおくは技能実習生として来日していますが、職場で理不尽な対応を受けていると言う声が後を絶ちません。   大海さんはそうした技能実習生たちの相談を受け解決に乗り出したり、地域に住む外国人と日本人との交流イベントを開いたりするなど、30年近くに渡って支援を続けています。 外国人たちに地域の仲間になってもらうためにどうしたらいいのか、お話しを伺いました。

毎週教会でベトナム語ミサを開催しています。  生活の相談、人間関係、学生たちの進学関係などをやっています。  日本語に慣れていないので軋轢が生じてしまう。  働く時間が同じなのに賃金が違う。  プレスで左手の薬指と中指を切断してしまっても、会社の保証の話とか対応がいまだにないです。  大きな会社はきちんとやっていますが、小さな会社は対応できていない。  NGO,NPO、弁護士と相談します。  以前にはパスポートも携帯電話も会社が預かって外に出られない。  外に助けを求められない状況に追い込められる。  行き場所がないので教会に受け入れていました。 今もやっています。 日本の国を憧れている。  働くために何も考えず、悪い人に騙されてい行ってしまった。 家や土地を売って、日本に来て3年間働けば、後は何倍にもなって返ってくると言われ来るが、現地に入ってくるとそうではない。    

私はベトナム戦争の時にサイゴンで生まれて、私の両親は南政権で働いていましたが、政治的な迫害を受けて、仕事も出来なくなりました。 1983年に木造の船に乗って「ボート・ピープル」としてきました。  最初姫路センター(難民を受け入れるセンター)で3か月ぐらい日本語を習って、大阪のプラスチックの会社で働くことになりました。   言葉は通じないので黙って働くしかなかった。  工場で寝る事になったが、布団もなかった。  私としては、もっと楽な道、楽しい道を作ってあげたいと思ってます。  

大坂で働いている時に、いい社長さんと出会って、専門学校を紹介してもらいました。  彼から人は一人では生きていけないという事を教わりました。 1995年に起きた阪神淡路大震災で困った人が沢山いました。 現地へボランティアとして行きました。 ベトナム人への支援を行いました。  逆にいろんなことも学びました。 疲れ切っている時に、被災者のおばあちゃんからおむすびを頂いた事もあります。 

大震災の経験から、共に座る、共に聞く、聞いてから相手の立場を考える。 私が出来ることをやっています。 外国人だけではなく、ホームレスのために炊き出しもしています。  自分のことよりも相手のことを考える。  他人の力を借りないと生きられない。 人に寄り添う活動をしてきました。  入国管理施設に収容されているベトナム人たちの面会も行ってます。 オーバーステイで在留資格を失った外国人が収容するケースがおおい。   悪い会社で働いたためにオーバーステイになってしまった。  最初は月32万円貰えるという事で違う会社に行くが、最初の月だけ貰えるが、その後は賃金を貰わない。 オーバーステイになって捕まってベトナムに帰る。  その会社は車の部品会社で破産して、又別の会社を立ち上げるという事を聞きました。  

言葉が判らないという事でストレスが溜まって、喧嘩を起こしてしまったりする。 服役してから入国管理施設に収容される人たちもいる。  誤った道に行く前の支援が必要です。 帰る時にもう日本には来たくないという人が居ます。  日本は良かったまた行きたい、と思ってもらいたいので、私はそれを意識しています。  言葉以外に、お互いの無理解が大きな壁になっていると思います。  相手の考え方、相手の文化、習慣などをお互いが理解するが大事だと思います。  イベント(食事、踊りなど)を通してお互いが理解するという事をやっています。  多文化共生、お互いが理解し合う。  ミサを終わってから、教会から駅までの道の掃除を30分やっています。 日本人、他の国の人も参加します。   心の交流も生まれます。 一緒にやることは良い事だと思います。(新しい発見もある。) まずは挨拶をして、そこからコミュニケーションが生まれる。 

















2023年12月2日土曜日

2023年12月1日金曜日

ジョージ紫(ロックバンド「紫」リーダー)・沖縄ロックは「紫」ではじまった

ジョージ紫(ロックバンド「紫」リーダー)・沖縄ロックは「紫」ではじまった 

ジョージさんは1949年沖縄県の生まれ。 父親は日系2世、母親は沖縄の出身。 小学生のころからピアノを始め、UCLA大学を卒業、大学ではコンピューターとハモンドオルガンを学びました。 1970年おきなわでロックバンド紫を結成、ライブ活動を開始、1976年本土でもデビューし、名だたる音楽雑誌の投票で1位となります。 1978年には脱退、83年に再結成し、2007年から今のメンバーとなって、沖縄でCDのリリースやコンサートツアーを行っています。  今年8月に7年振りのアルバム「TIMELESS」をリリースしました。 

当時、ロックを日本人がやることは一般的ではなかった。  やっても日本語でやっていたのでロックぽくなかった。 

 「ON WINGS OF LOVE」  歌、演奏:ロックバンド「紫」

クラシック教室に行って面白くてずっとやっていました。 クラシックばっかり聞いていました。  父はハワイ生まれの2世で、祖父が移民1世。 1967年ぐらいからビートルズのロック音楽自体が変わって来て、ロックバンドとオーケストラのための協奏曲コンチェルトを聞いた時には、自分がやりたい音楽そのままなんだと思って、ロックとクラシックとを融合したもので、沖縄の民族音楽との3つの要素を融合すれば、自分たちなりのオリジナルになるのではないかと思いました。  それとハードロックもやってきたのが「紫」です。   大学では数学と音楽。(ピアノ、声楽、パイプオルガン)  教会にパイプオルガンがあり、9時の礼拝の時に頼まれてパイプオルガンを弾きました。(音が感動的だった)     

ベトナム戦争反対のデモが多くて、沖縄に帰ってからは、基地から空爆に行ったり、現地で戦って亡くなった人もいっぱいいました。  ベトナムで亡くなった兵士たちをトラックに積んで運んでる光景を観た事もあるので、音楽を通して平和の想いを伝える必要があるのではないかと思いました。 「紫」を結成したのはこれが根底にあります。  バンドが出来てから基地のクラブで演奏したり、外の民間地域で演奏すると、ファンが出来てきて、その人たちが戦場に行って、帰ってくる人、帰ってこない人もいたりしました。  戻ってくるとじっくり聞きたがりました。(エリートが多かった)  当時はロックバンドの需要が高かった。 (フィリピン、韓国からバンドが来てていたりした。) リクエストもいろいろあるので練習も大変でした。  オリジナルも段々作り始めました。 

1976年本土でもデビューしました。 1978年には脱退しました。  残ったメンバーで半分ぐらいで続けましたが、3年で解散しました。  僕は外国のメンバーと結成しましたが、入国管理の問題とか厳しくて、結局解散してしまいました。  1983年に第1回ピースフルラブ・ロックフェスティバル 「紫」のロックコンサートを行い、5000,6000人の人が集まりました。 それが30年余り続いていて、今年40周年でした。  それを沖縄で行いました。 沖縄ではロックバンドが増えて行きました。 

今年新しいアルバムを出しましました。  「TIMELESS」をリリースしました。  ウクライナ侵攻とかハマスとイスラエルの戦争とか、人間ってなんでこんなバカなことをするんだろうかと思います。  宗教とか違いを認め合って、もっと融和的に過ごせばいいと思いますが。 このアルバムにはこんなテーマもあります。 『Raise Your Voice』は約2年前にできました。(ウクライナ侵攻前に出来た曲です。)  「みんなで声を上げて争いを止めよう」と。そんな思いが込められています。  演奏して相手が判って呉れたことが一番うれしいです。  1977年ごろにヨーロッパツアーの話もあたようですが、私たちは知らなくて、解散した後で知りましたが、知っていれば解散しなかったかもしれません。  ぶれずに信じてきてやって来て、来年海外への夢が実現します。 ロックとオーケストラの組曲「琉球」をいつか作ります。  





























2023年11月30日木曜日

橋本しをり(日本山岳会会長)      ・誰もが登山を楽しめる環境をつくるために

 橋本しをり(日本山岳会会長)      ・誰もが登山を楽しめる環境をつくるために

橋本さんは1952年神奈川県生まれで現在71歳。  幼少期から山に親しみ、医師を目指して進学した東京女子医科大学で山岳部に所属し、本格的な登山を始めました。 卒業した後は一旦山から離れたものの医療担当として登山を再開し、1988年に女子登山隊の隊長としてパキスタンにある8000mを越える山の登頂に成功しました。  そうした経験を生かし、2001年からはがん体験者と共に登山をする取り組みを続け、今年国内でも最も歴史のある日本山岳会の第27代会長に就任しました。  多くの人に山の魅力を伝えたいという橋本さんにお話を伺いました。

前期は副会長だったんですが、今度会長になり気負いがあるのかと言われれば、意識しているところはあるとは思います。  一人でも多くの人に山の魅力を伝えたいと思っています。  日本山岳会には33の支部があります。  参加して支部が活動の原点だとは思いました。   本部でどういう方針を立ててゆくか、新しい理事と共にやって行っています。  

「フロントランナーズ・クライミング・クラブ」は元々は日常の雑事を離れて、自然の中で山を歩くことで、自分を見つめる時間が持てるという事があって、楽しく山を登ることを目的に作られたがん体験者の登山サークルです。  1988年から96年までアメリカに留学していて、知り合ったドイツの研究員のところに遊びに行ったことがありました。 ドイツではがん患者だった人が一日自分が願った人(例えばプロテニスのグラフ)と過ごすと言ったことが行われていて、凄く喜んでいていいことだと思っていました。  1998年に新聞の片隅に日本とアメリカの癌の患者さんが2000年に富士山に登るという企画があって、ボランティアを募集しているという事でした。  応募したらすぐに実行委員会に入りませんかと言う連絡がありました。  それで活動を始めました。  がん克服日米合同登山と言うのは、日本で生き甲斐療法をしている伊丹仁朗先生が、アメリカの乳がん財団の会長と会ったことで、日本でも山登りで交流しましょうという事で始まったものです。 合計450名ぐらいで富士登山を行いました。 その後山登りを行う会を作ることを決心しました。  

癌体験者のQOL(生活の質)の研究が始まるところでした。 がん患者さんの登山前後でのQOL(生活の質)スコアーの変化を調査しました。 精神的面、身体の調子も良いことが判りました。 定期的な活動という事で「フロントランナーズ・クライミング・クラブ」ができて発展してきました。  がん患者さん、医療サポーター、山岳部の学生も参加しています。  この間栃木県の大平山に行って来て、259回目の山行でした。 毎月一回行っています。 「フロントランナーズ」はトップではなく、面でみんなで行きましょうという意味合いで付けました。 患者さんの病歴は私だけしか知らないことになっていますが、了解のもとにサポーターさんにも関わってもらったりしています。  今年日米の方たちと40名で富士山に登りました。 厳しい時には山岳サポーターが荷物をもって降りてきたりします。 サポーターの人も登山を楽しんでいると思います。癌は慢性的な病気だと言う事でそのたびに治療すればいいと言っていたアメリカの方の言葉が印象的でした。 

父が結核療養所に勤めていて、山あいのところでした。 中学の時に燕岳から槍ヶ岳までのコースに参加しました。 山の魅力を感じました。 大学に入って山岳部に入った時から本格的に山登りを始めました。 卒業したら一旦辞めたんですが、「山と渓谷」と言う雑誌を観たら、ブータンへの登山行があり、参加して再開しました。 山での自律神経の研究などをやって面白いという一面もありました。 山と医療の両輪で進めてきました。 毎年海外の高い山への挑戦はしていきました。  一人でも頂上に立つと登頂したことになりますが、多くの人が頂上に登れればいいと思いました。 

冬山にはまだ登りたいと思っていて、高尾山などへのトレーニングはしています。  日本山岳会は2025年に120周年を迎えます。 古道をみんなが登れるようにしたり、いくつかのプロジェクトがあります。 人生100年時代の安全登山と言うようなテーマで、登っていた方たちからエッセンスを聞いて回るとこことを120周年の記念行事としてやろという事でやり始めています。  登れる秘訣は仲間がいるという事だと思います。  日本山岳会にも女性は22%ぐらいいますが、役員へのなり手がなかなかいなくて、リーダーを育てていきたいと思います。