2026年11月5日木曜日

五木寛之(作家)              ・五木寛之のラジオ千夜一話

 五木寛之(作家)              ・五木寛之のラジオ千夜一話

「94歳になった今考えること」

新聞の朝刊で、後期高齢者の方が激増しているんです。そのうち80%以上が女性と言う記事になっています。 これからは80代以降をどう生きるかみたいなそういう人生論が出てくるんじゃないかと思います。  60歳以降は第二の人生なので、第の人生 後期の人生を真剣に考えて、60代の生き方、70代の生き方、80代それ以降と言うふうにそれぞれに生き方が違うと思うんです。 高齢者の人生観と若い世代の人生観とは違って当たり前だと思います。 80歳以上の方が激増してる時代にどういう風にして生きていけばいいかと言うところ、迷っているがもういっぱいいると思います。

生き方として「養生」という言葉を使っています。  それなに努力して毎日を過ごしています。 心と体の相関関係といいますか、それをちゃんと見て両方深い関係があるわけですから、その両方から後期の生き方をうまく考えるというのが僕の今の姿勢です。 自分はこうやっているかと言うことを人に押し付ける気持ちは全然ありません。

「大河の一滴」の最終章  癌と放射線治療のことが書いてあります。 がんと言うのは大変な病気である事は間違いないんですが、やはり病気の1つなんですね。がんと言ういますが、成人病の1つですからお亡くなりになった高齢者を解剖すると、ほとんどの人が癌の兆候というか、そういうのがない人がないと言われています。 高齢者の運命と言わざるを得ないです。  そのことで絶望したり、自分がこの世から縁を切られたような、そういう考えに陥る必要は全然ないんじゃないかと思います。 厄介ながんを抱えて何年も何年も戦い続けている人がいっぱいいると思います。 それをあっという間に快癒したと言うような話を聞かせるのは、調子がよすぎるんじゃないかと言うふうにには思います。 たまたまうまくいったことを強調して語るのは良くはないと思います。

僕は数年前に咽頭癌を宣告され2から3への段階でしたが、これは自分の病気であって、他の人たちに心理的な負担をかけるのは絶対しないようにしようと思って、僕は誰にも言いませんでした。 みんなの協力の中で治療していくと言う方がほとんどですが。 思いがけず治癒して、今のところ再発の気配は無いと言ううれしい状況ですけれども。 他の人たちに心配をかけないかけたくないと言う自分の鉄則として、自分1人でこの病気を抱え込んでいこうと言うふうに思って、それはしかし世間のの常識とは正反対です。

最近の本には、「人は何のために生きるのか」と言うテーマの話をしていますが、若いこれはイデオロギーというか、社会、人生のためとか、人間の未来のためとか、新しい思想のためとかいろんなことを考えますが、最後に人間と言うのは1番身近にいる人、自分にとって大切な人、その人のために、シンプルかもしれませんが、何のために生きるかではなくて誰のために生きるかと言うふうに本にが書いたのですが。

亡くなった母とか父親とか、その他大勢の友達とかそういう人たちの果たせなかった夢と言うものを、自分が代わりに果たすために生きてるんだと言うことを思っていました。 何のためにと言うのではなくて。 長く生きてその夢を達成しようと気持ちを持ちながら、その夢を実現することが出来ずに命を絶たれた人が無数にいるわけです。 そういうためにこそ今生きている。 自分が生きると言う事は、自分1人で生きてるわけじゃない。生きようと志ながら生きることがあたわざりし人々のためにも、自分は生きる義務があると言うふうに感じるようになりました。

長生きする面白さは近未来への好奇心

AIというものが大きく語られていますが、AIの未来が人間社会を壊すのではないかと言うようなことが広がっていますが、果たしてどうなのか、きっと人間はAIの奴隷になる事はなく、AIを使いこなしでやっていくのではないかと思います。    どう人間がAIに対してAIの奴隷にならないように、新しい知恵でそれに立ち向かうかと言うことがどうしても見てみたいと言う好奇心があります。 1日でも長生きして人間の未来と言うものを、世界の動きと言うものを、見てみたいと言う思いはあります。

孤立と孤独

孤立と孤独は違います。 孤独と言うのはたくさんの人の中にいても感じるものを孤独といいます。 孤立と言うのは他の人と同じ次元でもって対立することは孤立と言うんであって、政治的な思想が違うとか、階級が違うとか国が違うあるいは言葉が違うとか、いろんなことで人との間に壁ができることが孤立と言うふうに僕は思ってます。 孤立は社会の問題です。 孤独と言うのは自分1人の心の問題です。 群衆の中の孤独と言うことに、心惹かれるものがあります。 2人でいても1人と言うような。

人間と言うのは最後が1人であると言う風にちょっとおもって生きて、たまたまいろんな道連れができているという事はすごく幸せなことだと思ってます。 それに感謝して生きていくと言う、だから違う人間が一緒に暮らすということ自体はそれはすごく無理なことなんだと思いますが、夫婦仲良く何十年も生きていけると言う事は奇跡に近いことだと思います。 その事は感謝すべきであって、少々の不満なんか言ってる場合じゃないと思います。 別の人間が運命共同体として一緒に暮らすと言うのは奇跡です。 その奇跡と思わずに仲良くやっていくのが当たり前だと言うふうに考えるから不満が出るわけです。

運と努力について

人生に運はあると思います。 これは不条理なもので、運の良い人がいれば、運の悪い人もいる。 それを嘆いても悔やんでも仕方のないことだと思います。    運が悪いと言う事は努力をしても報われないと言う事ですね。 どの国に生まれるか、どの民族に生まれるかと言うのは、自分の努力ではなく、そもそも人間と言うものは不自由にできてるものです。 その中で最善の努力をするしかない。    覚悟と言うふうに思ったほうがいいと思います。 人間は自由で平等と言う事はありえないことだと思います。 ある宗教家が「置かれた場所で咲きなさい。」と言いますけども、ある意味では本当だと思います。

自力と他力について

石原慎太郎さんは日蓮を尊敬してます。ですから自力派です。 僕は親鸞と言う人に共感する人間なので他力派です。 会うとよく議論しました。 日蓮に出会うことも親鸞に出会うことも、僕に言わせるとこれは他力なんだと思います。 自分で選択するわけではないのですから。  出会いと言うもの他力のはうですね。 どんなに努力をしても、どんなに誠実に生きたとしても、それは報われないという事はあります。 

大きな川の流れに流されていくんだけれども、流されていくからといって全部任せきりではなくて、それについての考え方を自分で持って流れていくんだと言う決意することが、その人間の生き方だと思います。 生きていく事は難しいという人がたくさんいます。その中で生かされている自分と言うのは幸せだと思うしかないです。












2026年11月2日月曜日

柴田昌平(映画監督)            ・「農」と市民をつなぎたい

柴田昌平(映画監督)            ・「農」と市民をつなぎたい

 柴田さんは1963年東京都の生まれ30年以上にわたって、自然と人間との関わりや市井の人々の営みを深く見つめるドキュメンタリーを制作してきました。 劇場映画では「ひめゆり」「千年の一滴 だし しょうゆ」テレビ番組では、NHKスペシャル新シルクロード・第5集・天山南路・ラピスラズリの輝き」「和食 千年の味のミステリー」など多くの作品があり、国内外の主要な賞を受賞しています。 最新作「百姓、わらう」が全国公開中の柴田さんに伺いました。

日本の農家の平均年齢は68歳。そのうち未来を担う世代、私たち49歳以下はわずか1割、日本の人口の0.1%。

映画は9月26日から東京中野の映画館で上映が始まっています。 初回は満席でした。 農業に対してみんなが関心があるんだなぁと言うことを感じました。    この映画を作ろうと思った理由は、僕は農村に興味がありました。 学生時代に山梨県の標高900m位の村に調査に連れて行ってもらいました。 そこで農村の重層的な暮らしに触れて心を惹きつけられました。 大学を卒業してNHKに就職しました。 そういった記録やりたいと思いましたが、早く退職して地道に記録を続けてきました。

日本の農業と言うのはどうなっているんだろうと言う広がりの中で農業を見たいと言う思いになりました。 そう風に思うようになったのが8年前です。 現在63歳。いろんなタイプの農家を歩いて回りました。 今回の「百姓、わらう」は8年間撮ってきた集大成と言ったところです。 2022年には「百姓の百の声」と言う映画を作りました。 百姓の知恵の豊かさと言うものをしっかりと描いた映画でした。    この映画は、農業界のレジェンド級の名人たちの技というか生きざまを含めて撮っていきましたが、今回の「百姓、わらう」49は歳以下のこれからの未来を作っていくと言う世代にスポットを当てて撮ってたものです。 

撮影していく中で出会う49歳以下の人は口ぐちに100年先のこの土を豊かにしていきたい。あるいは100年先のこの村を笑顔にできるようにしたいと言うようなことを日常会話に出てきていました。 私はそれに驚きました。 1番驚いたのは、広島県の耕作放棄地になってしまって森の成ってしまっていたものを、もう一回田んぼに戻しながら、それこそ100年前の知恵をもう一度蘇らせながら、自分の体に受け継ぎながらやりたいと言う若者がいました。  暮らしが充実している姿を見て、心を打たれるとともに、力強さと自信を持っている姿に打ちのめされる位の魅力を感じました。  

また別に広島県の方で土の中と言うのは実は微生物がいながら錯誤を作っている。最近では土の持っている豊かさよりも外からいろんなものを投入することによって、次から次へと工業的に生産すると言う農業が始まっていきました。 もっと最先端ではもう一度土の豊かさを再評価しよう、それも科学の力を使ってどんな微生物がいてどんな種類がいて、どう影響し合いながら、命を育んでいるか、結果としてどういう風に作物になっていくかと言うことをしっかりと研究しながら、先人たちの知恵と最新の科学使いながら、栄養分豊かで、異常気象の中では安定して取れるような作物の作り方を開発しようと言うそん若者もいます。 世界中で土が注目されてきています。

大規模化して行ったところから、もう一度小さな農様に立ち戻っていくと言う酪農家もいます。 何故かと言うと大規模化して効率的に作れて安く生産できると言う事は日本では一貫してお勧めできましたが、実は全く豊かになってはいません。

大規模化することによって借金ができ、日本の大規模化は借金とともに進んできている側面があります。 大規模化していくと、肥料も外部から購入しなければいけなくて、農薬もたくさん使わなくてはいけないと言う外部からのものに頼っていく弱い農業になってきていると言えると思います。 外に依存しないで足元にある豊かさを大事にしていこうと言う考えが募ってきています。 今から5年経つと70代80代の人がごそっといなくなります。 自分の米を作りたいと言う若者たちが全国にたくさんいます。  そういった人たちが入ってくるのではないかとその人は信じています。 そういったことになっていくためには、もうちょっと社会全体が変わってからなければいかないかなと思います。 農業に対するリスペクトがよみがえって来るという事が大前提かなと思います。 今の社会は農業に対して冷たいなぁと思っと思います。

本質的な人間を描くと言う気持ちを込めて、「百姓、わらう」と言うタイトルにしました。 農業に対する1番の問題は、農政に携わっている人たちが現場を知らないということだと思います。  農村と言う現場をしっかりと時間をかけて歩き、農家の声を聞いていると言う役人の方は極めて少ないと思います。 農家と役所が離れているなぁと言うことが問題かなと思います。 私はこの映画で伝えたかった事はみんな100年先笑顔でいるためにはどうしたらいいか一緒に考えようと言うことかなと思います。  何が豊かあるんだろう、何が幸せなんだろうと言うことをこの映画を通してそれぞれが自分に問いかけ周りと会話し、そういう連鎖の中で農家を巡る空気感というか、ポジティブなものに変わっていったらばいいなぁと思ってます。 

農家の人に本気で相手にしてもらえるまでにはすごい時間がかかります。    稲を育てていく工夫ポイントは全員違うので、そこに興味を持って、その技術を含めた人生と言うものに対して質問できないと相手にしてもらえだと言うことがわかりました。 2年間ぐらいは空振りでした。 

姫田忠義さんと言う民族的な記録映画をとってきた人がいます。「イヨマンテ」と言うアイヌの熊送りの映画を見たときに、熊の命をいただいて食べると言うことに衝撃を受けました。  NHKに就職したときに沖縄に行きました。 当時、沖縄問題が中心でした。 基地問題、正義感みたいなもので伝える事でしたが、沖縄の人には違和感がありました。 沖縄は沖縄の豊かさがあるし、沖縄の人たちの暮らしの充実したものがたくさんあるわけですが、そこには全然カメラの向きませんでした。  本質的な沖縄に向き合っていないと言うことがありました。 そこで「ひめゆり」と言うドキュメンタリー映画を作りました。 

沖縄と農村は似ているように思います。  農業についても農業問題をやるんです。 本来農業が持っている豊かさ、可能性と言うものはなかなかドキュメンタリーと言う形では伝えられていなかった。 正義感ぶったドキュメンタリーを作ろうと言う事はやめました。 農家として本当に共感できる、しかも消費者も理解できると言うそういうドキュメンタリーを作りたいと思いました。






2026年10月26日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言 「谷崎潤一郎」

 頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言 「谷崎潤一郎」

谷崎潤一郎は1886年明治19年生まれ。 1965年昭和40年79歳で亡くなりました。文化勲章受賞者でノーベル文学賞の候補にもなりました。 今年は生誕140年にあたります。 耽美派日本の古典回帰で知られています。今日は谷崎の物事に対する恐れの気持ち、恐怖心についてお話を進めます。

「私の神経衰弱と言うのは、脅迫観念が頭に強くて、時々発作起こすのであったが、恐怖の対象はいろいろに変わった。 顔色が真っ青に変わり、あるいはカーっとのぼせてきて体中が震えだし、足がすくみ心臓がドキンドキン音をを立てて鳴り出して、今にも破裂そうになる。 その恐ろしさを紛らわすために片手でしっかり心臓を抑え、髪の毛を掻きむしったり、そこら中を駆けずり回ったり、水道の水を浴びたり、それが時のところを選ばずに突発するんだから始末が悪い。 発作が起こらない時でもいつ起こるかと言う心配のためにビクビクしている。」谷崎潤一郎

谷崎潤一郎は明治から昭和にかけて活躍した小説家で、代表作には「刺青」 「痴人の愛」 「蓼食う虫」 「春琴抄」 「陰翳礼讃」 「細雪」などがあります。 昭和39年日本人で初めて全米芸術院米国文学芸術アカデミー名誉会員に選定され、ノーベル文学賞の候補者にもなりました。 今年は生誕140年に当たります。

谷崎潤一郎は文豪の中でも際立って朗読で聞きやすい人です。  文章自体に惚れ惚れしてしまいます。 スラスラ書くようなタイプの人ですがそうではなくて、あんなに流れるような文章を書くのは不思議と思います。  

語りつくせない人ですが、今回は谷崎の恐怖症に的を絞ってご紹介したいと思います。

「名古屋から東京に来るまでの間に彼は、何度途中の停車場で降りたり、止まったりしたかしれない。 ものの1時間乗っていると、たちまち汽車が恐ろしくなる。 あぁもうたまらん死ぬ死ぬこう叫びながら、野を越え山を越えて走っていく車窓の窓枠にしがみつくことがあった。 いくら心を落ち着かせようと焦ってはみても、脅迫観念が、津波のように心の中を暴れ回り、ただわけもなく個体が旋律し、が高まって、今にも悶絶するかと危ぶまれた。 そして次の下車駅くれば真っ青な顔して、命からがら汽車を飛び降り、プラットフォームから一目散に表へ駆け出して、初めてほっと我に返った。」 谷崎潤一郎(悪魔と言う短編小説の1節)

この恐怖は、谷崎自身が、感じてた恐怖です。 パニック障害ではないかと思う人が多いと思います。 そういった症状があった事は確かです。

谷崎は京都旅行に行く時は大丈夫だったが、帰るときに汽車に乗る恐怖に襲われてなかなか乗ることができず、兵庫で徴兵検査を受けられるようにしてもらう。 いろんな人の助けを借りて徴兵検査をのための列車にようやく乗ることができた。 徴兵検査では脂肪型で不合格になった。(25歳)

「友人ことに目上の人を訪問すること、宴会にすること、芝居や活動小屋に入ることなど全て禁物であった。 活動写真などはそれでも恐々見に行ったものだが、3等席の出口に近いところに行って、発作を感じると急いで飛び出した。 その他床屋へ行くことがいけなかった。 じっと腰掛けて、首の周りを絞められて、髪を刈られていると決まって不安になってくる。 それを職人に悟られまいとして、一生懸命堪え、そのためになお怖くなる。 鏡に映る自分の顔が、土気色をして死相をたたえている。 みるみるうちに赤くなったり、青くなったり、とてもじっとしていられないので、えへんと咳をしてみたり、体をごそごそ動かしてみたり、しまいには、首を彼方へ向け此方へ向けする。 そして気分が悪いからとかなんとか言って刈り掛けの頭で外へ出てしまう。」 谷崎潤一郎(青春物語の一節)

これは今だと広場恐怖症と言われるかもしれない。 広場恐怖症と言うのは広場が怖いということで逃げられない助けを求められないと言うふうに感じてしまう状況に不恐怖を感じる。  いろんなところへ行けないと言う事は日々の生活が大変です。 当時はこういったことに理解されていない状況でした。

「強い光線強い色彩に見られてもめまいを感じた。何事によらず、強烈な官能的刺激には恐怖が伴った。 小説「悪魔」の主人公の佐伯と言う男は、真夏の路面から反射する陽の光に耐えかねて思わず、両手で顔を覆うのであるが、あれは私自身の体験で、佐伯の神経衰弱はすなわち私のものです。」谷崎潤一郎(青春物語の一節)

停車場前の熱した広い地面から、まともにキラキラと反射する光線の刺激に耐えかね。まぶしそうに両目を抑え、剣のような鉄路を走る電車の響き、見渡す限り熱気の充満した空の輝き、銀色に燃えてもくもくと山並み?の後ろからせりあがる雲の塊、赤く乾いた地面の上を強烈な日光を浴びて、火の粉?の落ちるように歩いている街の群衆、上を向いても、下を向いても激しい色と光とが弱い心を圧迫して、彼は一刻も両手を眼から離せなかった。 自分の神経が、もう白日の威力にさえも耐えがたくなってきたかと思うと、彼は生きがいのない心地がした。」

これは今と言う感覚過敏に近いという感じですね。 光或いは、音などに感覚的な刺激を過敏に感じてしまって、苦しい症状。これも日常生活には大変です。

「谷崎自身は、常時大型の薬瓶を鹿皮の袋に入れて携えていたが、それは外出して電車のつり革に捕まったり、階段の手すりに触れたり、風邪をひいている人とすれ違ったりするとたちまち血相を変えて携えたオキシフルで消毒をすると言う臆病なほど神経質。」 谷崎潤一郎の思い出を綴った今東光の本より。

これは、潔癖症というか、不潔恐怖ですね。 谷崎が書いていないのは、自分では自覚がなかったのかもしれない。

谷崎の母親も、不潔恐怖だったようです。

「私の母は病的に神経質だった。 母はきれい好きで便所から出ると、塩と軽石で手を30分ぐらい手をゴシゴシ洗わなければ気が済まなかった。 冬になると指先がすっかり割れてささくれだったが、それでもやめなかった。」

「彼は地震が大嫌いだった。彼の頭はいつか全く地震に対する危惧と不安とに満たされていた。 自分は必ず逃げ損なって梁の下に押しつぶされるに違いない。 人間が計り知られぬ?過去の時代から生存の土台と頼み、光栄ある歴史をその上に築き、多忙なる未来をその上につないで安心して活動していた大地と言うものがかくまでも不安定に、あくまでも脆弱であろうとは。」  谷崎潤一郎(病蓐の幻想と言う短編小説の一節)

谷崎は地震恐怖症でもありました。 幼い頃に大きな地震を体験している(明治27年6月20日の明治東京地震 谷崎が7歳の時) その後恐れていた大地震がついにやってくる。 関東大震災、その時谷崎は箱根のホテルに泊まっていた。 建物は壊れたけど幸いバスの中にいた。 バスの揺れで気づかず。 この地震をきっかけに関西に移り住むようになる。 谷﨑の代表作のほとんどは、関西に移住してからの作品。

「俺はいつ死ぬかわからない。 いつ何時頓死するかわからない。 そう考えると、正三郎は立ってもいても、たまらないほど、恐ろしい折があった。 死に対する恐怖から、彼はあらゆる急激な病気に対して過敏になった。 それらの災いが今にも自分の身に降りかかって一瞬簡易に五体がしびれてしまいそうな心地がすることが日に5、6度起こった。 往来を歩いていると、急に胸が痛くなって夢中で5,6町かけ出したり、電車の中でかっと頭が上気して、あたふたと表へ飛び降りていく。  夜中に布団を跳ね返して梯子段を転がるように駆け降りて、水道の水を顔にぶっかけたり、彼は真っ青になって、頭と胸とを抱えながら、一晩中ブルブル震えていることがあった。」 谷崎潤一郎(異端者の悲しみと言う小説の一節)

死に対する恐怖症。

鉄道病 広場恐怖症 感覚過敏 不潔恐怖 地震恐怖症 死の恐怖症とたくさんあります。 主には若いときで、段々には良くなっていった。

当時は、今ほど精神医学が進歩していないので、死にはしないから大丈夫だよと言われるのをとても恐れていた。 わかってもらえないと言う事は非常に辛いことです。 谷崎は病院に行くこと自体も苦手だった。

「とうとうある日脳病専門のドクトルの所へ出かけて行った。 患者は20人近くも待っていて、えらく流行っている医者であった。 川から晴れた夏の光が差してきて、入れ込んだ医療機械や真白な看護婦の仕事服や床のリノリウムがピカピカと目を射る。すぐに見てもらえれば一思いにすむのだけれども、待たされていると様々な恐怖の幻を描いて、だんだん怖気づいてくる。 私の順番はなかなか回ってこないので、私はまず代診の前に病気の性質と経過と尋ねられる。 あ、それからどうも時々理由のない事に恐怖を覚えたりしましてね。 私は軽く付け加えるような口調で言ったのだが、はあはあと代診は職業的に受け流しながら、機械的にペンを走らせて、時々恐怖感がありなどと備考欄に書き入れたが、いよいよ順番が近づいたと思うと、動悸が激しく打ち始めた。 私の前にまだ2、3人残っていた患者が、1人減り、2人減りして、最後の1人になった時、私はますます強く打ち出した心臓の鼓動を抑えて、そうこうとして階段をかけおり、夢中で戸外へ逃げてしまった。」  谷崎潤一郎(青春物語の一節)











2026年10月6日火曜日

柴田康弘(NPO法人代表理事)       ・「広げたい!インクルーシブサーフィンの輪」

 柴田康弘(NPO法人代表理事)・「広げたい!インクルーシブサーフィンの輪」

柴田さんは今年56歳、神奈川県鎌倉市などで介護福祉施設を運営する一方、サーフセラピーに取り組んでいます。 サーフィンと海の力を借りて、心身の健康や生活の質(Q O L:Quality of life)を高めようと言うもので、海外では退役軍人のトラウマの回復等に効果があることが報告されています。 柴田さんはまた障害の有無を超えて一緒にサーフィンを楽しもうと言う体験会をすると言う、地元由比ヶ浜で定期的に開いています。 こうした一連の活動により、今年の夏海洋スポーツを通じた社会貢献活動を表彰する国際的な賞アロハアワードを受賞(日本人で初めて)しました。

最初は仲間うちで始めた活動です。 少しずつ輪が広がってきて現在のようなスタイルになっています。  世界で認められたということで正直嬉しく思ってます。 大学2年生の時に友達がサーフィンをやると言うことで一緒にやることになりました。 サーフィンにハマってしまいました。 介護の仕事を葉山,湘南でしています。 介護、医療に関わるいろんな職種の人たちとサーフィンを通じて知るようになりました。 最初に始めたのがなみニュケーションと言う形で初めて11年になります。

「ラン友」と言う組織がありまして、北海道から沖縄までオレンジのTシャツを着て認知症の方を支えるイベントを毎年ありました。 その「ラン友」のイベントで若年性認知症の方と出会いました。 若年性認知症になった52歳の時に先生の方からサーフィンはやめたほうがいいんじゃないかと言うことでやめていたようですが、一緒にサーフィンをやりませんかと声をかけました。  一緒にサーフィンをやることによって笑顔で楽しんでいました。 それを機に毎月集まるようになりました。 

その後車椅子の方とか視覚障害の方、知的障害の方、ダウン症の方とかだんだん広がっていきました。 パラサーフをやるようになりました。アダプティブサーフィンもやってます。 適合すると言う意味ですが、障害を持っているんですが、波に適合させてサーフィンをやるわけです。 車椅子の方は腹ばいになって波に乗ります。障害によってボードにも工夫をします。 視覚障害の方はどちらから波が来るかとかタイミングとかについては合図とか手拍子をして理解してもらいます。 

自閉症とかダウン症の人は1人では難しいときには2人乗りで対応したりします。 押したり、受け取る人もいて、ピッチャー、キャッチャーと言うふうに役割を対応します。 落ちてしまった時もすぐに駆けつけるようにします。 6人ぐらいでチームを組んでサポートします。 本人が喜んで、私たちもそれを見て喜んでいます。

もともと看護師をしたメンバーで、最初はサポーター側で関わっていた人ですが、目の病で視力が低下してしまい活動中止していましたが、障害者の試合に出るように勧め、パラサーフィンの選手として参加して、昨年は全日本のチャンピオンになりました。 そして視覚障害者のサーフィンの方をフォローする活動をしています。

ダウン症の方がいまして、彼がパラサーフィンと出会ったのは、高校生の頃です。サーフィンをやることによって褒められたりして、自己肯定感が高まってきて、全国から彼を目指すような希望を与える存在になっています。  サーフセラピーというのを去年から始めました。ウミガメクラブという名前ですが、彼はインストラクターと言う形で活躍してます。

サーフセラピーに関する本をいろいろ読んで勉強しました。 戦争で心の傷を負った軍人の方向けのサーフセラピーとか、自閉症の子供向けのサーフセラピーとかあります。 それに対する研究も進んでいます。 名古屋の中部大学と言う所の准教授の先生と一緒に研究するようになりました。 去年の5月からスタートしました。 身体的幸福度とか、心理的幸福度、親子関係、学校関係などが少しずつ良くなっていきました。 親御さんにとっても良いセラピー効果が出てきていると言うことをわかりました。 効果の側面は3つあると思います。1つは海とか自然の持つ癒す力、2つ目は波に乗ることによって、現在に集中する。過去とか、未来に対する不安をなくせる安心できる。 三つめは独りでやるのではなくメンバーと一緒に味わう事で、互いに歓びを感じる。 場所、安心できる仲間がいる。

私は大学を卒業しようとするときにある企業は内定していましたが、卒業旅行でバリ島に行って、ビーチで貧しい人たちを含めてみんなが満たされる気持ちになっている姿を見て、幸せってなんだろうとその時に感じました。 サラリーマンになることへの疑問を感じて、内定辞退しました。 老人ホームを見る機会があり、その施設に配属になることになりました。 

ある認知症のおばあさんと出会って、その人はつばをはいだり、暴言を吐いたりしていました。 通常は午前中にお風呂に入れることになっていましたが、たまたま午後に入れることになり、その時は鼻歌で笑顔でそのおばあさんはお風呂に入ってました。 お風呂に入れる時間を変えたり、こちらの接し方を変えることによって本人も心の状態が変わってくると言うことをその時初めて気づきました。認知介護の奥深さを感じました。

その後介護の仕事にどっぷりつかるようになりました。 介護の会社を自分で作るようになり、現在に至るようになりました。 サーフィンをしている人たちが楽しんでいるのを見ることによって、ボランティアをしている私たちも幸せになって、私たちボランティアが1番セラピーの恩恵を受けてるのかなと言う思いもあります。 セラピー効果をいろんな人たちに味わっていただきたいと思っています。 インクルーシブサーフィン、いろいろな障害のある人、あるいは障害のない人を含めて一緒になって楽しむ、みんなで一緒になると言う事がビーチから広がっていければいいと思います。


2026年9月28日月曜日

2026年9月17日木曜日

小泉武夫(農学博士・東京農業大学名誉教授) ・ 「人生は発酵する~83歳、好奇心はまだ止まらない」

小泉武夫(農学博士・東京農業大学名誉教授) ・ 「人生は発酵する~83歳、好奇心はまだ止まらない」 

味噌や醤油、日本酒、納豆と日本の発酵文化の魅力を伝え続け、発酵という言葉を広く世の中に浸透させました。 小泉さんは東京農業大学名誉教授農学博士です。発酵学、醸造学、食文化論の第一人者として長年研究に携わりました。 世界50以上の国と地域を歩き、発酵食品や珍味を尋ね歩いたことから、発酵仮面、鋼鉄の胃袋などの異名でも知られています。 昨年は、長年にわたる発酵研究と、日本の食文化への貢献が評価され、文化庁長官表彰を受賞しました。 現在83歳小泉さんの発酵とともに生きる思いを伺いました。

福島県で生まれて、小さい時から、酒の匂いを嗅いで育ってみたいなものです。   6人兄弟の末っ子です。生まれた時から、発酵食品に囲まれて育ちました。囲炉裏の火傷を防ぐために右手に身欠きニシン、左手に味噌を持たせると泣き止み、それらをしゃぶっている間は大人しかったといいます。 山にはいろんな食べ物がありました。  小さい頃から何ごとにも好奇心持ってました。 動物性たんぱく質は、赤ガエルをよく食べました。 青大将、やまかがし、シマヘビなども食べたことがあります。 

私の父は酒屋の長男で戦争で兵隊に徴収されました。 部下と共に中国からベトナムに行きました。 母親に稲の種と大豆の種をベトナムに送るように手紙が来て送ったそうです。 それを現地の人とともに米作りを始め味噌汁も作ったそうです。 昆布の味噌漬けは本当においしかったです。 母は醤油屋の娘で、そこから酒屋に嫁いできました。 文学少女でした。小学校4

年生の時に母を亡くしてしまいました。 寂しいだろうと言うことで、父が私専用の台所を作って、そこで自分で料理して作って食べました。 

父から教わった事は、日本人になりきれということでした。  毎日ご飯と味噌汁と漬物を食べてきました。 味噌汁と漬物と言う2つの発酵食品がありました。  クジラの肉は安くて本当によく食べました。 日本食を食べてきたので、83歳まで元気でこられたと思います。 東北大学の学部に行きたいと思っていました。   発生生物学と言う学問があって、それをやりたかったです。 しかし、酒屋の統合という国からの命令があり、発酵技師が必要になって東京に行くことになりました。 

東京農業大学に入学しました。 大学の1年から酒造りの授業をやることができました。 個人に顕微鏡が与えられ、酵母が発生するのは、全部目で見えるわけです。それから発酵学、醸造学が好きになりました。 その後世界を旅することになりました。 訪れた国は、世界50、 60箇所以上で600種類以上の発酵食品を食べてきました。 その中で1番珍しい食べ物は実は日本なんです。 それはふぐの卵巣のぬか漬けです。 (石川県)ふぐにはテトロドトキシンという青酸カリの約700倍の毒が入ってます。 ふぐをぬかみその中に付けて、長年おいておとくと毒がなくなってしまうわけです。 世界のどこでもこんな猛毒を食べてしまう、発酵してすごいものだと思いました。 日本人と言うのはものすごい好奇心がありました。 江戸時代からこんなことをやっていたと言うのはすごいなぁと思いました。

ボリビアと言う国がありますが、そこの民族は今でも口に穀物を入れて噛んで吐き出して、それで酒を作ってるんです。  口噛みの酒といいますが、日本では既に奈良時代に作ってるんです。  巫女たちが蒸した米を口にいれ踊りながら噛んで容器に吐き貯めて酒を造ってその酒を神にささげたと古事記にちゃんと載ってます。 唾液の中に米のデンプンを分解するアミラーゼと言うデンプン分解酵素があるから、噛んでるうちにデンプンがブドウ糖になってしまいます。 それを吐き出して、口の中に酵母があって、それが酒になっていくわけです。 日本でもペルーでも口噛み酒を作るのは女性です。それは現在調査中です。神様との関係があるのかもしれません。

播磨の国風土記に、神棚にコワメシを供えたら、そのうちカビができて、それをカビ立ちと言ってましたが、語源が変化して麹になりました。 実は麹菌は日本にしかいません。 醸造に使われる麹菌は日本にいません。 701年に大宝律令ができましたが、その中に4種類の醤油を作っていたと言う風に書かれています。  1つは穀物で醤油を作る穀醤、お魚で醤油を作る、それを魚醤、お肉で醤油を作る肉醤、野菜で醤油を作る、それを草醤、 4つに作り分けていました。 日本人の発酵と言うものに関しての考え方。応用は本当にすごいです。 発酵食品が日本の民族を育ててきたといえます。 麹菌がユネスコの無形文化遺産にまでくっついちゃったものですから素晴らしいことです。 

漬物だけで日本には1500種類以上あると思います。 タクワン漬けだけで日本には70種類あります。 新潟新潟市西蒲区角田浜地区に行くと、「なまぐさごうこ」というのがあって、江戸時代から作られていて、そこの村から出ませんでした。 イワシを3年ぐらい塩浸けしておくとイワシの醤油ができるわけです。 それをこして、大根をイワシの魚の醤油につけてそれから2年おきます。 浸けた大根を焼いて食べます。 大根だけれどもイワシの味です。 

70代で大病を経験しました。 心臓を患って手術をしましたが、その後はピタッと良くなりました。  発酵食品のおかげだと思います。 東京農業大学のほかに全国各地の大学の客員教授をして、発酵食品の素晴らしさ、発酵は人を作るんだと言う事、街づくりもできるんだと言うことを話しております。 発酵食品は自分で作れると言う事、それが自信になって食生活が豊かになります。 発酵の輪ができていきます。





2026年9月16日水曜日

馬場あき子(歌人)             ・「歌人 馬場あき子 98歳 詠み続けて1万首」(後編)

馬場あき子(歌人)      ・「歌人 馬場あき子 98歳 詠み続けて1万首」

馬場さんは、1928年(昭和3年)東京生まれ.。 日本女子専門学校(現在の昭和女子大学)に在学中に短歌結社「まひる野」に入会しました。 昭和の歌人の代表の1人である窪田空穂の長男一郎とその元に集まった若い歌人たちによって創刊された「まひる野」では、短歌の創作だけではなく、後に夫となる岩田正と知り合うなど充実した日々を過ごしました。 大学卒業後は教員となり、組合活動にも従事し、多忙な日々を送る中 1955年に第一歌集「早笛」、1959年に第二歌集「地下にともる灯」を発表し、女流歌人として注目を集めました。  その後戯曲、評論など執筆の場を広げ、1977年に 29年に及んだ教員生活をにピリオドを打ち、夫の岩田正と「かりんの会」立ち上げ、新たな歩みを始めます。 2021年にはそれまでに発表した27の歌集およそ1万首を網羅した「馬場あき子全歌集」を完成、今年新しい歌集「アスパラの芽立するころ」を発表しました。 馬場さんの短歌創作の歩みや今思うことなどをお聞きします。

伝わらなくてもいいと思っていて、自分が言いたいことを言ってそれ人が享受してくれれば幸いです。 享受されなくてもいいです。 最初は自己満足そこから始まります。 大学ノートは37冊目になります。 小学校の4年生の時に日中戦争が始まりました。  女学校の夏休みの宿題に短歌を作り始めました。  テーマもだんだん広がっていきました。 だんだん人の歌を読むようになります。  古典和歌、古典俳句などを読んで感動する事は多いです。  

友達が薄い歌集を二冊買ってきました。  「あららぎ」と「まひる野」でした。 「まひる野」に入会することになりました。 (昭和21年) 近代短歌で歌っていくのは私の出発でした。 私は中学校の先生になりました。 お能にも心酔して稽古を始めました。 私は中学生を中心にした彼らの生き生きした世界を歌いました。(第一歌集)  組合ができて、左翼の勉強もさせられました。 いろんなデモに加わっていくうちに一端の左翼になっていきました。 それが第二歌集。 

寺山修二と塚本邦雄が出てきて、鮮やかな歌を読んでそういった言葉が欲しいと言うふうに思い出しました。 私自身短歌をまとめることができなくて10年かかってしまいました。  第三歌集「無限花序」は10年の後に出しました。 60年安保とかデモに毎回出かけるようになり、教育界からにまれるようになりました。    ある時、落ち武者ばっかりが集まるようなグループに加わることになりました。 寺山、塚本を対象にした勉強を始めるようになりました。 寺山、塚本と知り合うようになり、だんだん歌壇の中央部に入っていきました。 

最新の歌集「アスパラの芽立するころ」は、コロナ禍で友達との交流が絶えてしまいました。 友達を作ろうと思って、それがかたつむりだったりカメムシだったり虫でした。  ゴキブリの歌も30首作りました。  自分だけ生きてればいいと思っている非情な人間というのを歌っています。  6人家族でしたが次々に死んでいて私1人が残りました。  ある年1人の正月を迎えます。  お正月に1人でたった1個の餅を食べるわけです。それはまさに仮想空間ではないかと言う風に思いました。

万葉集の防人の歌がありますけれども、何故か東国から九州まで防人を連れて行くわけです。 九州までの行きも帰りも費用は自分持ちです。 大和王権がいかに強かったかと言うことです。  地域の中でもお金持ちの村長、副村長クラスの人たちを徴発していきます。  帰りは現地解散ですが、お金がないから帰れないので現地の妻と結婚して土着して九州人になったりするわけです。 出発の日が行き別れの日になるわけです。 

私って一体なんだろうと考えますけれども、どんなふうに生きてきて今に至ったのか考えますが、自分と言うのはなんていい加減な生きた生き方をしてきたんだろうかと思うばかりです。 自分で1人で生きなければならなかった。 親子とか人間と人間の情と言うのは大切にしてきたつもりです。 けれども、そんなものは役に立たない。 だから、1人で生きるほかない。  蝉のように死にたいといつも思っています。  セミは力がある限りは鳴いて鳴いて鳴き叫んで最後に飛べなくなってぽろっと落っこちるあれがいいと思います。  だから私は死ぬまで元気にしていたいと思います。死ぬ時が来たら蝉たいに落ちてぽろっと死ねばいいと思います。 虫は友であり先生です。