2024年10月3日木曜日

橋本淳(作詞家)             ・亡き筒美さんの曲を後世に残すために

橋本淳(作詞家)             ・亡き筒美さんの曲を後世に残すために 

橋本淳さんは現在85歳、「ブルーシャトー」「亜麻色の髪の乙女」「ブルー・ライト・ヨコハマ」など1960年代、70年代の昭和歌謡を彩る多数のヒット曲を作詞しました。 作曲家の筒美京平さんとは学生時代から付き合いがあって、バンド仲間でした。 二人で多くのヒット曲を飛ばす盟友でもありました。 2020年に亡くなった筒美さんが生前残してある曲を宜しくと譜面を渡されました。 橋本さんは3年前から筒美さんが残した曲の為に良い詩を書きたいと歌詞作りに向き合っています。

私は1939年生まれで、85歳です。 作詞家としておよそ2000曲作る。 杉山先生からブルーコメットのものを作れと言われて、それがヒットしてやり始めることになりました。 京平さんらがバンドを組んでジャズをやっていました。 京平さんは1940年生まれで、2020年10月4日に亡くなりました。(80歳) 京平さんは精神的なことからうつ病ぽくなって、その後誤嚥性肺炎で亡くなってしまいました。  京平さんが僕のところに作品を送ってくれていたものがあって、一曲ぐらいやってみようかなと思ったんですが、40年近くやっていないなかで、一曲CDにしました。 世の中の状況が全然違ってきていました。 配信という事が判らなくて、興味を持って始めました。 手元には12,3曲はあります。 

橋本淳さん作詞のグループサウンズの曲

*「ブルーシャトー」ほか。

京平さんは「スワンの涙」が好きでした。 

橋本淳さん作詞の歌謡曲

*「ブルー・ライト・ヨコハマ」ほか。

横浜のことを作ろうと思ったが、なかなかできませんでした。 夜になってブルーのライトが海に映っていたので、「ブルー・ライト・ヨコハマ」を作りました。 後半部分がなかなかできなくて、歩いて歩いてやっていて、それを取り入れました。 その前に作った曲は全然売れませんでしたが、1週間ぐらい番組で流れだしたら、突然10万枚のバックオーダーが来るようになりました。  京平さんは忙しい時には一晩10曲ぐらい作っていました。(ほとんど寝ていない。)  詩を先に書いて渡していましたが、間に合わなくなってしまって、曲だけ先に作っていました。  

詩人児童文学者与田凖一(1905年 - 1997年は実父です。 高校、大学時代は父親の友人が(檀一雄、梅崎春生、川端康成ほか)僕を呼んで、一緒に過ごすことがありました。意識はしていませんでしたが、そこで自然と学んでいった様な気がします。  作曲家の人とも数人付き合っていました。 京平さんは音楽の大学ではなくて経済学部の卒業でした。 学校の教会で讃美歌を毎日弾いていました。 小学生の時からモーツアルトのピアノコンチェルト弾けると先生が言っていました。 高等部の頃はジャズが好きでした。 物凄く曲を聞いていてそれが身体の中に沁み込んでいると思います。 それを日本人の日常生活にどうやって取り込むかというところですが、京平さんはそこが非常に秀でていたと思います。  曲先で作ると難しい曲ですが、完成すると凄く易しく聞こえる。(筒美マジック) コード進行を一番先に考えるんです。 それが日本人の暮らしに、生活の響きに溶けてくるようなものを考えています。 毎月40~50枚のLPを買っていました。 どう日本化するかという事をいつも考えていました。 日本人の暮らしに合うテンポと響きを京平さんは考えていました。 詩をつけるのも大変でした。 

技術は進歩してゆくが、人間の情感、喜怒哀楽の世界は残してゆきたいと思っています。











2024年10月1日火曜日

宮崎緑(田中一村記念美術館館長)     ・〔わが心の人〕 田中一村

宮崎緑(田中一村記念美術館館長)     ・〔わが心の人〕 田中一村 

田中一村は1908年(明治41年)栃木県生まれ。 幼いころから日本画の才能を発揮し、神童と言われました。 しかし画壇には馴染まず50歳を過ぎてからは奄美大島で暮らします。 そして大島紬の職人として仕事をしながら絵の世界を追求し続けました。 昭和52年(1977年)9月11日亡くなりました。(69歳) 

「ニュースセンター9時」を担当していた時には女性が居ない時代だったので、頑張らなければいけないという思いはありました。 いろいろな思いがありました。 日本で初めての世界遺産の登録をしたのが屋久島と白神のブナの原生林でした。 私は屋久島の担当として屋久島の生態系などを調査しながら、島伝いに辿って行くうちに奄美大島に出会いました。 人情の深さが心を打ちました。 人々は自然と見事に共生しながら生きていました。 すっかり虜になり気が付いたら、情報の発信拠点が出来るので担当してくださいと言われて、平成13年(2001年)から関わりました。 施設全体は「奄美パーク」と言われて、その中に「田中一村記念美術館」があります。

田中一村は1908年(明治41年)栃木県生まれ。 東京、千葉で過ごした後50歳で、すべてをたたんで奄美に移りました。 ここで自分の芸術の最終系を作るんだという事で20年弱奄美で過ごしました。 凛とした生き方に感動を生み、地元の南日本新聞に連載が載りました。 それを見たNHKの日曜美術館が特集を作って放送し、大変な評判を呼びました。(1970年代中頃)  「ニュースセンター9時」を担当していた時で、田中一村を知るきっかけになりました。 

田中一村の父は彫刻家でした。 田中一村は子供の頃、神童と言われました。 東京技術学校(芸大)にストレートで入ります。 同期には東山魁夷加藤栄三橋本明治山田申吾らがいます。 しかし2か月で辞めてしまう。 諸説あるが、大学では学ぶべきことが無いという事で独自の道を歩んだのではないかという見方をする人がいますが、先生と喧嘩して辞めたという人もいます。 自分の道を追求していったようです。 或る時「蕗の薹とメダカの図」という作品を支持者の人に示したところ、誰も賛同してくれませんでした。  自分の信じる道を進み、自分の絵の最終系を追求してゆくんだという事で、独自の道を進み始めたのではないかと思います。 

そのころ千葉に引っ越します。 祖母、姉、妹の面倒を見なければいけなかった。 自給自足の生活をする。 姉が美人で琴の名手で、この姉が最後まで一村を支えます。 鋭い批評家でもあり、一番熱い心で支えてくれた人でもあります。 コンクールに応募してもなかなか受からなかった。 川端龍子主催の青龍展に「白い花」が入選しました。 翌年万を持して「秋晴」と「波」という作品を出したが、思ったように評価してもらえなかった。  その後南の方にスケッチ旅行に出かける。 奄美にも行き、そこで虜になったと思われる。(50歳)   奄美では表現も変わって行った。  景色を描くだけではなくて、精神文化、世界観、宇宙観、人生観みたいなものを込めた絵になっています。 

そして大島紬の職人として染色の仕事していた。 5年働いて60万円貯金して3年間に90%を注ぎ込み、最後の絵を描こうとしていた。(60歳ぐらい)  自分の良心の納得がいくまで描いてゆく。 私は何と評価されても結構です、見せるために描いたのではなくて、良心を納得させるためにやっているんですからと、言っています。 今評価されなくても50年後100年後に評価されればいいと、書いています。 昭和52年(1977年)9月11日亡くなりました。(69歳) 

「不喰芋と蘇鐵(クワズイモとソテツ)」という作品が最も心を惹きつけられます。 輪廻、生命観、宇宙観と言ったものがうかがわれ、深い哲学を感じます。 榕樹に虎みみづく」という作品は、みみづくが一本足で描かれているが、スケッチでは二本足になっている。 鳥が敵を警戒していない、安らいでいる状態の時です。 自然に溶け込んでいる一村さんの目線、絵の奥の方から我々を見つめてい居るような、そんな思いを抱かさせてくれる作品ではないかなと思います。 島の文化を映す鏡みたいなところがあります。 奄美を語るのには一村さん抜きには語れないし、逆も言えます。 孤高の人ではあったが、孤独な人ではなかったと思います。(多くの島の人たちとの交流があった。)

田中一村傑作選





















 

2024年9月27日金曜日

大西優子(おおにしわかさんの母)     ・〔ことばの贈りもの〕 “がんばりパワー!”で世界の人を笑顔に

 大西優子(絵本作家おおにしわかさんの母)     ・〔ことばの贈りもの〕 “がんばりパワー!”で世界の人を笑顔に

2年前に12歳で息を引き取ったおおにしわかさんの母、大西優子さんのお話です。  大西(42歳)さんは岡山県倉敷市生まれ。(現在東京住まい。) 結婚後二人のお子さんに恵まれました。  長女のわかさんが4歳の時に小児がんと診断されます。 入退院を繰り返していたわかさんはお絵描きや工作が大好きで、夢は絵本作家になる事でした。 大西さんはわかさんが病気と向き合った体験をもとに描いた、絵本「ビーズのおともだち」を出版社に持ち込みます。 プロの協力を得て絵本が完成し、2年前わかさんの12歳の誕生日に出版されました。 わかさんは夢だった絵本作家デビューを果たしました。 その数か月後にわかさんは息を引き取ります。 絵本作家になったわかさんのさらなる願いは、世界中の人を自分の絵本で笑顔にすることでした。 そこで母親の大西さんは絵本の英語の翻訳に取り組み、今年4月から英語版が一般に販売されています。 わかさんが絵本の中に残した言葉「頑張りパワー」を心の支えに、絵本の紹介を続ける大西優子さんの思いを伺いました。

絵本「ビーズのおともだち」表紙がとってもかわいいです。 日本語版は城をベースにピンク色の服を着た可愛い女の子が外を見ている絵が描かれています。 英語版はタイトルが「My Precious Beads」。 日本語版の表紙の絵はプロのイラストレーターが描いた絵で、英語版はわかが描いた絵です。 私とわかにとってとっても思い出のある絵です。 わかは「フーリン(Foorin)楽団」というグループのメンバーでした。 2020年とその先の未来に向かって頑張っているすべての人を応援するNHK2020応援ソングプロジェクトの為に結成された「フーリン」と「パプリカ」を踊っていました。 「フーリン(Foorin)楽団」はフーリンの5人と病気や障害のある子どもたち10人の15人のメンバーで、小児がんと向き合うなかでもわかにしかできない経験をさせて貰えて、サポートをいただけてとってもありがたかったです。 新型コロナウイルスにより風鈴楽団」はパフォーマンスを持てないまま、2021年秋に解散が決まりました。 それで次の目標として絵本を作るという事になりました。

小学校に入学したころから夢は絵本作家になる事でした。 最初は折り紙を絵本の様に小さくたたんで絵を描いていました。 タブレットを扱えるようになって、動画になってわかの声もはいったりして、成長を感じる楽しい時間でした。 原作は治療を頑張ってもらった宝物のビーズが・・・(声を詰まらせ泣き出す。) 妖精さんになったらすてきね、という会話から生まれました。  がんの医療を受ける子供達が治療を受けるたびに貰えるビーズです。 カラフルなビーズは手術、点滴、検査などを表わしていて、そのたびに受け取ります。 子供たちに勇気を与えてくれる存在になります。 このビーズが絵本のなかでは妖精に変身します。  名前、衣装などわかのこだわりが込められています。 

わかの絵本の夢を叶えてやりたい私は、出版社に相談することにしました。(2021年秋) 完成が2022年4月、わかの誕生日でした。 わかの笑顔が見たい、と言う事が原動力でした。  わかの原作を元にプロの作家さん、イラストレーターさんに協力してもらいました。 わかが納得いくまで一緒に進めました。 

絵本「ビーズのおともだち」

「シトシトシト ザーザーザー 雨が強くなってきました。 ベッドにいる私の心も雨が降っているみたい。 一人ぼっちでさみしいなあ。 ここは病院です。 治療に検査、毎日頑張ることがいろいろあります。 でもそのたびに一つ ビーズを貰えるのがとっても嬉しい。 はい、今日はこれだよ。 お姉さんんがビーズを呉れました。  わーきれい 有難う  ・・・ 貰ったのは虹色のビーズ。 ・・・虹色のビーズは蝶々みたいな形に変わったと思うと元気な声で言いました。 「はじめまして 私はビーズの妖精レイです。」・・・レイちゃんはこんな言葉を唱えました。「頑張りパワー」 レイちゃんは「私ここに住みたーい」と言いました。 ・・・「大丈夫、明日もうまくいくよ」と言ってくれました。  次の日も雨、レイちゃんの励ましで頑張ることが出来て、二つ目のビーズを貰いました。  今日は星のビーズだよ。 ・・・ビーズは冠を付けた星の妖精になりました。 「はじめまして キラです。」 ・・・「頑張りパワー」キラちゃんがその言葉を唱えると星の世界は宇宙図書館。・・・キラちゃんの優しい声に皆ウットリです。 次に貰ったビーズは白いビーズでした。 ・・。「僕はてんてんてんくんです。」・・・僕たちはコツコツと頑張るのが好き。  「頑張りパワー」・・・積み木を本物のお家にしてしまいました。 妖精の仲間みんなで住めるよ。・・・ 一人だったベッドに秘密基地が出来ちゃった。一つ思い出しました。 コツコツ頑張るとは時々お母さんが言っている言葉です。・・・私はみんなに約束しました。 笑顔で元気にコツコツと「頑張りパワー」そういった時でした。  窓の外に大きな虹がかかっていました。 ・・・みんなのお陰でずーっと頑張れそうです。」

私の生まれは岡山県倉敷市です。 小さいころは泥団子を作るのが好きで夢中で作っていました。 リスを飼っていました。(多い時には12匹) ひまわりを育てて種をリスに食べさせるとがとっても楽しい時間でした。 大切にしていることは夢を見るという事です。  人とのご縁を大切にしています。  私の見た夢を叶えるのは周り人のご縁のお陰だなと思えることが沢山あるからです。  絵本を通じていろいろな出会いを体験して、その出会いを大切にしていきたいです。  今年6月に開催された第16回国際小児がん学会アジア大会があり、そこで絵本を紹介しました。 「世界中の人を笑顔に」の夢を叶えることができると感じて、とっても嬉しかったです。 

ある作家さんからいただいた言葉で「わかちやんは作家さんなので、これからも沢山の人と出会い、人の心の中を生き続けるのだと思います。」と言っていただきました。 わかがお空から見守っていてくれるから、私も頑張ろうと思って生きています。 今も一緒にここにいてくれるんじゃないかと、強く感じるんです。 私が絵本「ビーズのおともだち」をみんなに知ってもらう活動を続けることは、わかが絵本作家として、沢山の人と出会い人の心の中を生き続け、世界中の人を笑顔にすることができると感じています。 わかは辛いことが沢山あったのに、そんなことを感じさせないぐらい明るくて、笑顔で私に幸せを与えてくれました。 わかのことをこうしてお話が出来て、繋がりが出来ている快感があると、嬉しいです。 

「ビーズのおともだち」のステージや、絵本展などを開催して、皆のところに会いに行く機会を作っていきたいです。  わかの貴重な経験を道徳の教科書や沢山の人が読めるように、乗せて欲しいなあとおう願いがあります。 小児がんと診断される子が日本では2000~2300人ぐらいと言われています。 他にも沢山の障害の人がいると思います。  わかの経験をみんなが共有できれば、本人、家族、周りの人の経験知?になれるのではないかと思います。 














2024年9月23日月曜日