森本行雄(手話通訳士) ・「声のない対話が教えてくれること」
森本さんは岡山出身70歳 手話通訳士として、長年聞こえない方たちと社会との橋渡しを続けてきました。 森本さんは学生時代に耳が聞こえない友人と出会い、手話を学び始めました。 卒業後は盲学校や聾学校で勤める傍ら、手話通訳のボランティア活動を続けてきました。 34歳の時に始まった第一回手話通訳技能認定試験に合格したことをきっかけに、医療や裁判の現場等でも通訳士として活躍しています。 一方で、多くの人に手話の必要性や魅力を知ってもらうため、大学の授業やエンターテイメントの場でも手話を積極的に取り入れています。 森本さんが 手話通訳士としてたどり着いた伝えることの本質について伺いました。
「よろしくお願いします。」は、鼻のところにげんこつをつけて手刀を前にお願いしますと言うふうに出しました。 「おはようございます。」は、枕から頭を外すと言う意味合いがあって、げんこつを耳のあたりにつけてそれを下におろす、これは意味としては朝です。 お辞儀するということで「おはようございます。」という意味になります。 コンビニエンスストアは両手で2と4にしてぐるっと回すと24時間という意味になります。
国によっても、手話の方法が違います。 「ありがとう。」は、手のひらを下に向けて横に向け手刀をちょうんとつけて上に持ち上げる。 これ大相撲で賞金をもらった力士が手刀を切る、その仕草を「ありがとう。」と言う風に手話にしましたと言う説があります。 アメリカでは顎のところに手を当てて前にポンと出します。 投げキッスのような仕草です。 手話は相手の顔を見ないと成り立ちません。
私は50年前から手話をやってます。 私は大学3年の時に初めて聞こえない女性と出会いました。 最初筆談を始めました。 ある時、相手の書いた筆談の文章を代読しようと思ったら、それが読めませんでした。 助詞が微妙に違いました。 それを読んで返したら、そのメモをビリッと破ってポケットに入れてしまいました。 その後、手話でコミュニケーションを取れるようにはなりました。 その劇団の彼女に地域の手話サークルに連れてってもらって、いろんな手話を覚えました。
21歳の夏に大学のサークルで合宿があり、そのサークルにも聞こえない人がいました。 その方に手話で話しかけたらば、その人は手話を知りませんでした。 相手の唇を読めば、できるんだと言うような考え方があり、学校では手話を禁止された時代がありました。 中学、高校では、先生の唇、黒板等の情報によって勉強ができていたけれども、大学では先生との距離が遠くてそういうわけにはいきませんでした。 友達のノートを借りて勉強していたそうです。 その人と手話の勉強しながら、大学で手話のサークルを立ち上げました。 地元の教員になろうと思って、試験を受けましたが、不合格になってしまいました。
埼玉県の坂戸聾学校があって、そこの寮に努めることになりました。(7カ月間の臨時採用) 埼玉県の盲学校の寄宿舎で、男性寮母の本採用する話があって、そこに行きました。(10年間) その後第一回目の手話通訳士試験あって応募して、全国で1000人ぐらいの人が受験し、合格者が190人ぐらいでした。(合格率18%) 私も合格することが出来ました。 仕事として手話を使える仕事になれました。 高度の通訳もできるようになりました。 病院とか裁判とか、弁護士さんでも耳の聞こえない方がいて、日本でも20人程度います。 耳の聞こえない医師もいます。
國學院大学では、2004年から今年1月まで手話学の講座を22年間続けてきました。 大きくは2つあって手話の実技を身に付けてもらう。 手話と言うものはこういうものだと言うことを説明したり、手話の歴史を説明したり、その他いろいろ説明してきて、聞こえない方の理解を進めて行こうという事です。 応募者の学生が200人いました。 音を使わない勉強方法にしました。 何人か手話通訳士を目指す人がいたり、社会福祉士の資格をとって、役所に勤めると言う人たちが出てきました。 声の聞こえない学生もいましたが、それを支援するような状況が生まれていったことも嬉しかったです。
一般社団法人「Get in Touch」と言う法人があって、理事長が俳優でタレントの東ちづるさんです。私は理事を務めさせていただいています。 東日本大震災をきっかけに活動を始めました。 アート、音楽、演劇、映像、そういった楽しいものを使っていろんな混ぜこぜの社会を体験してもらうと言う取り組みをしています。 (ジェンダー、国籍、障害等) そのPR活動をしています。 伝えるという事は一生懸命伝えると言う事は大事ですけれども、逆に相手が伝えようととしていることを自分も受け取る、伝えてもらおうと言う姿勢も大切な事だと思います。