2026年5月14日木曜日

岡村孝子(シンガーソングライター)     ・「ソロデビュー40周年 歌と共に歩んだ人生」

 岡村孝子(シンガーソングライター) ・「ソロデビュー40周年 歌と共に歩んだ人生」

岡村さんは愛知県岡崎市出身。1982年大学生時代に同級生の加藤晴子さんと女性デュオ「あみん」を結成してデビューし、「待つわ」が大ヒットしました。    その後ソロとしても活動を広め、「夢をあきらめないで」など時代を超えて愛される楽曲を数多く生み出してきました。 そんな中20194月急性白血病を患い、治療のため入院。 長期休養に入りましたが、2021年から活動を再開しました。    優しく寄り添うような歌声と日常の中の思いを丁寧に救いあげる歌手は多くの人の心に響き続けています。  ソロデビュー40周年、「歌と共に歩んだ人生」と題してその思いを伺います。

今年はソロデビューしてから40周年になります。 闘病なども含めいろんなことがあったなと思います。 アルバムは頑張ってたくさん出してきました。      ソロは1985年からです。  「あみん」からソロになるきっかけは、相手の加藤さんが就職することになりまして、曲作りだけやろうと思ってしていました。    23歳の時にもう一度やりませんかと言う誘いがありまして、東京に出てきました。そこからソロ活動開始です。 「夢の樹」と言う歌それ言う作です。ヨーロッパサウンドに淡々と歌うと言う歌い方に変えて作ったのが、2枚目のアルバムです。   そこからが岡本孝子のカラーと言う気がします。

「あみん」時代、学生と音楽を両立と言う条件でデビューをしたので、学校に通って東京に出てきて、いろんな番組に出て終わったら岡崎に帰ると言うことをしていました。 ソロになってからは、コンサートとアルバム作りを中心に活動をしました。  そんな中から「夢をあきらめないで」という曲が出来上がりました。   最初は失恋ソングという事で作りましたが、応援歌と言うような感じで捉えていただきました。 NHK「うたコン」に生出演で歌った時は、手拍子をしてもらったり、盛り上がって、私自身も高揚感ありました。

一応退院する時点で完全寛解ですが、2、3ヶ月おきに通っていて、採血の数値を見てチェックしてもらっています。 だいぶ良くなっていますが、病気前の免疫までには行っていなくて、肺炎になったり帯状疱疹になったりコロナにかかってしまったりしました。 この病気はクリーンルームから出られない病気で5カ月間そこにずっといました。 孤独感は感じました。 フアンの方から手紙をいただいたり、お守りを送ってくれたり、千羽鶴をいいただき1人じゃないんだと言うふうに感じました。 家族、あるいは医療スタッフの方々が一緒に戦ってくれてると言う気持ちが1番大きかったです。

年を越したらいないかもしれないと言う様な状況もあったので、音楽も聞きたくないと言う時期もありました。 娘が録音したアルバムを持ってきてくれて置いてってくれました。 それが娘なりの励まし方があると言う風に感じました。 退院してからのツアーで、楽しいと思ったり、おいしいものを食べたり、身近な近くの大切な人に「ありがとう」と言う言葉を伝えておけばよかったと思って、そのことを伝えています。  

2021年からステージに復帰しました。 リハーサルでは大泣きをしてしまいました。 本番ではただただ嬉しいと言う気持ちで歌っていました。  体力が落ちてしまっていたので、マイクも重く感じました。 犬と散歩をしたり、ストレッチをしたりしています。 造血をしなくてはいけないので、肉はいっぱい食べてます。 魚も野菜も食べれてます。 今は1つ年齢を重ねるということが、こんなに幸せなことなんだという事を病気をしてからわかりました。   闘病後、まだまだ失敗をしたり、つまずいたりだめ、だめな自分を出したいと思って、「未来の扉」と言う曲を書きました。  ありのままの自分を出していきたいなと思ってます。   寝る前の時間が私だけの時間なので、本を読んだり、数独をしたり、ゲームをしたり頭の体操をしたりしてます。 新しい曲のテーマ探しをしているところです。


2026年5月13日水曜日

菊池武夫(ファッションデザイナー)     ・「男性はもっともっとおしゃれを!」

菊池武夫(ファッションデザイナー)   ・「男性はもっともっとおしゃれを!」 

菊池さんは1939年東京都の生まれ。 1956年に暁星高等学校卒業、その後文化学院美術科を経て、原のぶ子ファッションアカデミーで服飾を学びました。 企業のポスターやカタログのキャンペーンのための衣装デザインなどを手がけ、1970「BIGI」(ビギ)ブラウンドの会社を立ち上げ、会長としてデザイナー、会社経営者として、活動。 その後その後「MEN'S BIGI」(メンズ・ビギ)ブランドも立ち上げて1970年代のファッション業界を牽引しました。 1984年には大手ファッションションメーカーと自らの名前を冠したブランドを作り、初代デザイナーとして現在も、年に2回新しいデザインを展開しています。

現在86歳(あと1ヵ月で87歳)、自分のやりたいことをやり通せば、自然に楽しくなって、楽しくなるとストレスがないのでそれが良かったのかと思います。  1970年代「BIGI」(ビギ)ブランドの牽引者として、あの時代を境に日本のファッションは変わっていきました。  世界的に大きな波がありました。  音楽が先導して変化していった文化だと思います。 エルビス・プレスリー、ビートルズで文化が変わり、音楽の捉え方が変わっていきました。 ロックの文化が入ってきました。 グループサウンズが流行り、いろいろ影響が出てきました。 

イギリス、ヨーロッパ、アメリカなどを2か月かけて回って帰ってきたのが68年でした。 ファッションの環境が日本とあまりにも違っていて、溜まってみたものをデザインしたいと思いました。 始めたのが「BIGI」(ビギ)と言う会社を作った時でした。 焦げ茶色にちょっと赤が混じったような色とかジーンズ、パンツスタイルも流行り始めました。 

1970年にファッションブランド「BIGI」(ビギ)を設立しました。 女性を新しい世界にということで作っていました。 1975年にメンズビギを設立して、男ものにスイッチしていきました。  萩原健一主演のドラマ「傷だらけの天使」の衣装を担当して爆発的なブームとなりました。 私の認知度も一般的な人に広がっていきました。  ビジネスとデザイナーをやることは大変でした「タケオキクチ」、「モールラック」などのブラウンドを立ち上げました。 

ビジネスとデザインを両方やっていた時代もあって、第一段階はうまくできましたが、デザインと現実のところはすごく時間差があって大変です。 ファッションの波が狭い時は良いけれども大きくなると大変です。 いつも成功してないとダメでそれが大変です。 柔軟性のある思考してないとうまくいかない。 自分のやった事が終われば、一旦完全に白紙にするます。 

男性もおしゃれになっていろんな格好しておしゃれになってきました。 スーツもだいぶ変わってきました。 ビジネスと普通の生活の差がなくなってきてます。  職種も多岐にわたってます。 クラシックのものに対しても、新しいものに対してもかっこいいと言う事は同じだと思います。 

1945年に第二次世界大戦が終了して、その時に暁星学園(ヨーロッパ的)に入る時でした。 アメリカの文化をすごく受けています。 ヨーロッパの文化とアメリカの明るくて、パワフルな文化を一緒に受けて、当時裕福だったと言うこともあって、アメリカの放出品をはどんどん入ってきて、着るものは全部アメリカの子供が着てる洋服を着ることができました。 中学の頃から、自分のファッションに目覚めていきました。 

「タケオキクチ」を作って2024年で40周年になりました。 年齢を重ねていって、若い人もの同士がいいのかなと思って、一旦30代の人に任せました。 自分に合った年代のものを作っていこうと言う準備はしていました。 しかし、もう一度原点を作るために戻りました。 考えるのは自由だから、若くても歳をとってもあまり差はないんですが、考えた後にそれに対してどういう反応があるかがわからなくなるのが1番怖いです。 それがギャップだと思います。 自信も、それが裏付けになっていないと自信にならないんです。 市場とのギャップについては1番問題だと思います。 ギャップをできるだけなくす。 満足した事は1度ありません。 いつも不安です。 

篠山紀信さんが言っていましたが、我々の時代はものすごいみんな欲張りだった、だからみんな自分の世界を引っ張り込むだけのパワーありました。 それを欲張りだと紀信さんは言っていました。 1日が楽しければデザインはできます。 僕の楽しみの1番の元は、僕自身の自由、人に制約されないで、自分自身が生きられることができていればいいのかなと思います。 人の協力なくして、特に洋服なんていうのは絶対できません。 歳をとってもおしゃれでいると言う事は絶対に必要です。自分で、自分自身をかっこよく見せられれるかなぁとそれだけです。 おしゃれと言うのは自分のためにするものです。


2026年5月12日火曜日

2026年5月11日月曜日

今陽子(歌手)               ・師匠を語る「いずみたくを語る」

 今陽子(歌手)               ・師匠を語る「いずみたくを語る」

心に残る数多くの名曲を、世に送り出した作曲家のいずみたくさん、そのいずみたくさんに指導を受けて、昭和43年「ピンキーとキラーズ」のボーカルとして、「恋の季節」がダブルミリオンのヒットをした今陽子さんに師匠のいずみたくさんとのエピソードなどのお話を伺いました。

あんぱんと言うドラマでいずみたく先生が出てきました。 やなせたかし先生とうちの師匠と、ここのところインタビューなどまた多いです。

いずみたく、本名今泉隆雄さんは1930年昭和5年東京日暮里で生まれました。  14歳で陸軍の幹部候補をを養成する陸軍幼年学校に入学しますが、翌年終戦、その後は演劇学校で演技を学び、俳優として活動する一方で、大衆的な社会活動、歌声運動にも参加します。 さらに作曲と、管弦楽法を独学で学び、1955年昭和30年、民放が主催するホームソングコンクールでグランプリを受賞。 三木鶏郎さんの「冗談工房」に所属し、新進気鋭の作曲家としての活躍が始まります。 

NHKのみんなの歌でも取り上げられた「手のひらを太陽」ではピンキーとキラーズの楽曲の数々、岸洋子さんの「夜明けの歌」、デューク・エイセスの「いい湯だな」、レコード大賞を受賞した差良直美さんの「いいじゃないの幸せならば」、由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」中村雅俊さんの「ふれあい」や、「アンパンマンマーチ」などCMソングや番組の主題歌、ミュージカルの作品など幅広いジャンルで生涯15,000曲余りを作曲したいずみたくさん、199262年の生涯を閉じました。 生前こんな言葉を残しています。 「1番うれしいのは僕を知らない、ただただ音楽の好きな人たちが僕の作ったメロディーを口ずさんでくれること、歌われ続けることが作家としての誇り。」、 今日511日はいずみたくさんの34回目の命日です。

出会いは、私が中学214歳の時です。 当時石田あゆみさんがイベントで名古屋にやってきました。 当時、父が司会などをしてました。  石田あゆみに会いたくて、楽屋に行って意気投合してしまいました。  石田あゆみさんのマネージャーが私を見て芸能界に興味がないかと言うことで、とんとん拍子でいずみたく先生のところに入るようになりました。 春休みに東京に行って、いずみたく先生にお会いして、先生から東京駅で勉強する気あるかと聞かれました。 すぐありますと言いました。 いずみたく先生の奥さんと一緒に雪村いづみさんののディナーショーとかいろいろ3,4日連れてっていただきました。 両親ともに賛成してくれました。

先生のご自宅に入ってレッスンを受けました。(内弟子) 学校に通いながら、レッスンレッスンの毎日でした。 歌手として歌うだけでなく、ミュージカルをやりたいと言う思いはありました。  デビュー曲「甘ったれたい」は全く売れませんでした。  後から入ってきた佐良直美さんが「世界を2人のために」で売れて新人賞を取ったという事もありあり、挫折感を感じて田舎へ戻りました。  家に帰ったから母から叱責されて、翌日には東京へ戻りました。  

翌年ピンキーとキラーズの「恋の季節」で大旋風を巻き起こしました。 当時は大柄な女性は売れないと言うジンクスがありました。 周りに男性たちがいれば可愛く見えるということで、男女混成のグループを作ろうと言うことになりました。(いずみたく先生のアイディア)  売れすぎて超多忙になってしまいました。  全く休憩時間もなく寝る暇もありませんでした。 睡眠時間は良いところ1、2時間でした。  専属の医師と看護師さんが常に私についていて、移動の車の中で点滴しながら移動してました。 NHK出演後、グループで会場を逃げ出して、旅館の布団部屋で10時間寝たこともありました

先生からは褒められたことも怒られたこともありませんでした。 甥っ子さんの結婚式で先生とお会いしたときに、珍しく「お前最近すごく歌が上手くなったな。」と言われました。 そんなこと言われたことありませんでした。 それから間もなくして病気になって、入院されてお亡くなりになりました。

ソロに転向したのは、19722月でした。 後から聞いた話ですが、先生はグループにずっと置いて置くつもりはなかったようです。 「恋の季節」の次に出た「涙の季節」の方が私は好きです。  B面に「涙のバラード」がありますが、もっとこれが好きです。 ミュージカル俳優として、「死神」、「屋根の上のバイオリン弾き」などを始めとする大きな舞台での活躍が続きます。 

「基礎をきちっと学んで実力をつけて、長く君臨できるエンターテナーを目指したほうが良いし、そうなってほしい。」と言う事はおっしゃってました。  先生の事務所を辞めた時、出たときには気まずいものがありましたが、しばらくの間先生に対して不義理はありました。 1992511日いずみたくさんは62年の生涯を閉じました。 先生は入院してた時にお酒が好きなので、ベッドの下にお酒を隠して飲んでいました。 私はある程度覚悟ができていました。 お通夜には一晩中お付き合いすることができました。 私もそろそろ75歳になります。 15歳でデビューしてるんで60年になります。 先生との巡り会いがなかったら今の私はありません。

先生の手紙

「・・・62歳で亡くなったのはちょっと早すぎましたよね。 私は先生の歳を通り越して、もうすぐ75歳・・・芸能生活60周年を迎えます。 こうして長く大好きな歌を歌い続けてこられたのも全ては泉先生のおかげです。・・・14歳で弟子入りさせていただきました。 歌だけでなく、踊り、お芝居などみっちり勉強させていただいたので、ミュージカルなどいろいろなお仕事をさせていただけて幸せです。 人気歌手ヒット歌手は寿命が短いから、きちっと基礎を学び、実力をつけなさいと常々おっしゃっていた先生の言葉通り一生懸命頑張ってきて今があります。   これからも80代、90代と歌い続けて行けたら最高に幸せです。先生、いつも見守っていてくださいね。」







2026年5月10日日曜日

前野隆司(武蔵野大学ウェルビーイング学部長)・「“ウエルビーイング”でいこう!」

前野隆司(武蔵野大学ウェルビーイング学部長)・「“ウエルビーイング”でいこう!」 

ウェルビーイングと言うのはWHO世界保健機関の憲章に謳われているもので、心身ともに良好な状態を指します。 前野さんは1962年山口県生まれ。  もともとは機械工学が専門で大学院を出てメーカーに就職、エンジニアとして働いていました。大学に戻ってからもロボットや脳科学の研究をしていましたが、科学技術は人を本当に幸せにしたのだろうかと言う思いから、幸福学の研究をした後、ウェルビーイング学会を立ち上げ、その理念を広く発信するとともに、2024年度に開設された武蔵野大学ウェルビーイング学部で未来を担う人材の育成にあたっています。

「ウェルビーイング」とは良い状態です。  1946年にWHO世界保険機関の健康の定義に使われたときに使われるようになったと言われています。  ここ5年ぐらいは一般の人に使われるようになりました。 心と体と社会の状態が良い、これがウェルビーイングです。 国際幸福デーが3月の20日、ウェルビーイングのイベントを10日間やりました。 10年前から始めました。 

残念ながら日本中が幸せとは言えないやる気がなかったり、つながりが薄くなったりすると言うのはあると思います。 世界幸福度ランキングというのが出ています。 残念ながら先進国中最下位、61位です。 フィンランドが何年も連続1位です。  社会福祉が行く届いていて、すべての人が健康で幸せに生きる制度が整っているところが大きいと思います。 日本は心配しやすい国民性というものがあると思います。  遺伝的に幸せになりやすい人となりにくい人がいます。  日本人は心配性遺伝子セロトニントランスポーターS型という遺伝子を持ってる人が多い。    8割が心配になりやすい国民性、アメリカ、イギリスなどはその遺伝子を4割しか持っていません。 日本人はよく言うと、非常に危機に対して準備する能力が高くて、心配事に対して対処する力が高いともいえます。 日本、台湾、韓国、中国あたりが高いです。

武蔵野大学のウェルビーイング学部と言うのは、世界初です。 最先端科学でわかったことが、仏教や東洋思想でわかっていたことと、ぴったり一致言うことで両方教える学校を作ろうと言うことになりました。 開設したのが2024年です。    大学院も作りました。  畑仕事、地域に行ったりなどもします。  生きとし生けるものの幸せを大事にすると言うことになると、植物、食べ物を大切に作って大切に食べさせていただくとか、植物を見て成長する喜びを知るとか 知識と行動体でウェルビーイングを表したい人を育てたい体験重視にしています。 

僕が開発した幸せの4つの因子あります。 やってみよう、ありがとう、何とかなるありのままにです。  多面的に、いろんな主観、客観の幸せ度を測れるのが幸福度診断です。  社会を幸せにする核なって、僕は本当にウェルビーイング革命だと思っています、今までのお金や地位やGDPが高ければ良いと言う世界からウェルビーイングの幸せ度が高い国にならないと、人類は環境問題、貧困問題、戦争などありますが、新しい世界を作る人が育っていく、世界が良くなっていくというのをイメージしてます。

私はもともと物理や数学が得意でした。 好きだったのは心理学では哲学でした。一旦メーカーに行きましたけれども、大学に戻ってからロボットの研究をするようになりました。 ロボットの心の研究をするともともとやりたかった心理学や哲学を含んだ研究ができることになります。  AI作りみたいなことをやっていました。職場を幸せにするには、どうしたらいいかとか、人々を幸せにする家づくりとかいろんな応用研究までやりました。 

幸せと思う4つの因子、1つ目はやってみよう因子 やってみたい、夢や目標があったり、主体的に何かやっていたり、成長意欲が高かったりする人は幸せです。   2つ目はありがとう因子、感謝する人は幸せです。 人とのつながり、友達が多い、利他 思いやりや親切さのある人が幸せである。 3つ目は何とかなる因子、前向きで楽観的でチャレンジ精神のある人。 4つ目はありのままの因子、人と自分を比べすぎるのではなくて、自分らしく自分の個性を生かして、本来の自分と言うのはこうだと言う個性を発揮できる人は幸せです。 4つの因子を知ってるだけでちょっと気になります。 感謝の言葉を言う時に一寸丁寧に感謝の言葉を言うとか。 

職場の幸せの7因子、不幸せの7因子を研究しました。職場が良くなっていくことに繋がります。  地域の幸せは、デジタル庁が地域幸福度を測ってホームページに載ってます。  県名、市町村の名前を入れると、主観的幸福度、客観的幸福度がこうなっていますと言う円グラフのデータチャートが出てきます。 デジタル庁は、各省庁が縦割りでやってるところを横串を刺して、デジタルで合理化します。 その合理化するにあたって、その中心にウェルビーイングを置くことで、行政の統合を図るということです。 デジタル庁と連携してやってます。 

介護の幸せ研究もしてます。  年寄りの方が若い人と会うと元気になります。   核家族、一人暮らしよりも多世代共生の方が幸せです。 保育園と介護施設を一緒にすると言う「ハッピーの家」というのが神戸にあります。  孤独と言うのは、幸せ度が低くなりやすいです。 都会生活においても、いかにいろんな人とつながるかという事は、現代社会の課題です。  

私も幸せの条件を全部満たすように生きています。  失敗したと言う事は次の成功のために学んだと言うことです。 嫌な人が現れたら自分がより人として成長するためのチャンスが来たということです。 父が亡くなった時は悲しかったですけれども、父の分も生きる、父は心の中に生きてると言うことを覚えば、ポジティブに生きる力に変わります。 

研究以外に書道、作詞作曲、歌を歌う写真撮る後はいろいろ好きです。書道は 嶋田彩綜先生に習っています。 世界の平和のために書を書いていらっしゃいます。  弟子入りしました。  書道も写真も歌も全部幸せの世界のためにやってます。  美しいものを見るよりも、美しいものを創造する方が幸福度は高いです。    みんなが生き生きしてたら元気な社会になります。 思いやりを持ってみんなが助け合えば、戦争も、環境問題も解決できて、いい地球になります。 健康に対していろんなことをやっていくように、幸せについても4つ因子などを考えて、ちょっとしたことをやっていくと幸せになっていきます。


2026年5月9日土曜日

2026年5月8日金曜日

山口弘和(コント山口君と竹田君)(芸人)  ・「喜劇で認知症を考える」

山口弘和(コント山口君と竹田君)(芸人)  ・「喜劇で認知症を考える」 

山口さんは1956年埼玉県出身。 1983年に竹田高利さんと「コント山口君と竹田君」を結成、1984年に初出場したオーディション番組「お笑いスター誕生」で優勝。 その後コント界の第一線で活躍しています。 山口さんが来月上演の舞台「生きる」の稽古に取り組んでいるとのことです。 テーマは認知症の介護ということで、そこに込めた思いなどを伺います。

今年で70歳です。 竹田さんも「明日への言葉」に昨年出演されて、テーマが「汗かきコントに一筋の涙」となってました。 竹田君は物忘れが器用で物覚えが不器用な方なんです。  竹田君に出会うことで自分の考え方が大きく変わりました。世のなか思い通りにはならないんだなということです。 自分の作ったコントを竹田くんに当てはめても、その通りにはやれない人もいると言う、その中で自分の考え方を変えて行って、竹下君ができることを考えてネタにしていくと言うやり方にしていきました。 ちょっと引いたものの見方ができるようになりました

お笑いスター誕生で優勝。 それから42年になります。 2014年から「生きる」と言う芝居をやってます。 認知症をテーマにした物語です。 2013年にブッチー武者さんから演出を頼まれました。 その後台本もやることになりました。 京都伏見介護殺人事件、54歳の男性が介護疲れと生活苦から親子心中を図ったと言う、その認知症患者の86歳の母親を殺害してしまったが、情状酌量の判決が出ました。    真面目に介護すればするほど、追い詰められていくと言う状況が1番辛いところだと思います。 これを本にすればどうしたらいいかと言うことを考えました。 

彼は3年の執行猶予を終了し、2014年に亡くなっています。 この劇が12年続くとは思えませんでした。 逆に言えば続いてることが問題なのかなと言うところ感じています。 良くならないものを突き続けても希望がなくなってしまうので、希望のある終わり方ができないかということで本を書き直したりしました 。四谷で今度おこないますが、25回目になります。 ブッチー武者に、こんな熱い思いがあったのかと、頭が下がります。 生活の中で起こり得ることであると言うことをポイントにして、それぞれの立場があると言う中で、こうならざるを得ないと言う社会構造をなんとかしていかなければならないんではないのかと言うことで、誰が悪いとかと言う様な作品にはしたくないと思いました。 そのためには喜劇が良いと思いました。是非うちの地域でもやってほしいと言うことで、実行委員会を立ち上げてくれたりして、草の根の力がなかったら続けられなかったと思います。 

自分でも老化と言う事は意識するようになりました。1番いけないのはストレスだと思います。 竹田くんと付き合っているとボケている暇はないですと言いながら、最近私も気になり始めました。  彼はボケをやっていますが、本当に真面目なんです。 未熟な自分に気づかない自分っていると思いますが、自分が未熟だから人を説得できないのに、一方的に攻めてしまう未熟な人間だったと言うことを竹田君に気づかされました。 

竹下君も途中から劇に参加するようになりました。 何回かやってきましたが、その都度ゼロから立ち上げていかなくてはいけないと言うような状況です。 浜田光夫さんが裁判官役、大信田礼子さんも認知症のおばあさん役ということで参加していただきました。 田原総一郎さんにもバックアップしてもらっています。(92歳)

コントについては、その年齢で表現できる生の姿で笑いが取れるんだったら、それまでやろうと言う思いではいます。 作、演出家としては事務所の若手を含めて勉強会をやってます。 若手が育ってゆくのは自分としてもも励みにもなります。     最近のコントは研ぎ澄まされた計算された笑いでそれもいいですが、そこに人間味を入れて欲しいと言う思いはあります。(計算しくされたネタが多い。)