2026年2月3日火曜日

渡辺俊幸(作曲家・音楽プロデューサー)   ・「新たな音楽の道、オペラに託して」

渡辺俊幸(作曲家・音楽プロデューサー)   ・「新たな音楽の道、オペラに託して」

 渡辺俊幸さん(70歳)は大河ドラマ「利家とまつ」「毛利元就」など多くのドラマ音楽や映画音楽、アニメ音楽などを手掛けてこられましたが、4年前からオペラの作曲に挑戦し始めました。その3回目となるオペラの公演が来月に控えています。  学生の頃にバンドのドラム、キーボード担当してデビューした渡辺さんが、作曲の道に入り今新たな音楽への探求として、オペラに挑戦しようと思ったのは何故か、シンガーソングライターのさだまさしさんとの出会い、そして作曲家である父渡辺宙明さんとの関係などについて伺いました。

今回のオペラは三浦環さんを題材にした作品です。  三浦さんは明治17年生まれで、ヨーロッパ、アメリカ、日本を含めて延べ2000回以上ジャコモ・プッチーニの作曲した「蝶々夫人」の主役を務めて、偉大なる歌手、偉大なるオペラシンガーです。 明治時代に世界で活躍できた超天才だったんだろうなあと思います。  東京音楽大学で助教授迄なって、その後にヨーロッパに渡って、プリマドンナとして活躍した人です。 

渡邊さんは大学に入学と同時にフォークグループ「赤い鳥」のドラマー、キーボード担当としてプロ活動を開始します。 その後さだまさしさんの「グレープ」をサポートしつつ、ソロになったさだまさしさんの専属音楽プロデューサー、編曲家を務めてきました。 1979年にはアメリカに留学し、バークリー音楽大学でクラシック、ジャズの最新の作曲、編曲技法を学びます。 帰国してから様々な音楽の作曲を手掛けるようになります。 

小学校4年生ぐらいからドラマーになりたくてドラムの練習を始めました。  高校生ぐらいから作品の編曲にも興味が出て来ました。  「赤い鳥」に入った時に活動しながら、キーボードを弾きながら編曲したほうが自分にふさわしいのではないかと考えが変わって来ました。演奏の部分は転換していきました。  自分のやりたい音楽はハードなロックよりもおしゃれなハーモニーを使ったポップスをやりたいと言う指向になっていきました。 自然にドラムには興味を持たなくなった。 

「赤い鳥」が解散して、サポートミュージシャンをやろうと思って、バンドを作ってサポートをしていました。 「グレープ」の解散コンサートでご一緒することになりました。 さだまさしさんから解散後に一緒にやらないかと声がかかりました。  彼の才能を考えると、絶対に一人でやった方がいいと薦めました。  ツアーなど4年間彼と一緒にやって来ました。   彼のトークは本当に人を喜ばせたいという思いから来ているんですね。 人を幸せにするという事は何よりも音楽の大切さなんだという事を私自身も考えて生きてきて、実践しているつもりです。 

アメリカで「未知との遭遇」と言う映画を見て、音楽担当のジョン・ウイリアムスに魅了されて、管弦楽のスタイルの音楽を書けるようになりたいと思いました。  これをやるのには独学では難しいと思って、アメリカ留学を決意しました。(24歳) さだまさしさんとの出会いがあって今があると思っています。 バークリー音楽大学に留学しました。

そこにはボストン交響楽団があり、その時の音楽担当が小澤征爾さんでした。  ホテルに着いた日にテレビをつけたら小澤征爾さんが指揮をしていて、イブニングシンフォニーと言う番組でした。 翌日デパートに行ったらある女性が、見知らぬ僕にイブニングシンフォニーを見たかと問い合わせて来て、「昨日の小澤征爾は素晴らしかったですね。」と言うんです。   小澤征爾さんはこちらでも愛されている人なんだと、驚かされました。  クラシック音楽を聴いてみようという思いになりました。 その後小澤征爾さんの指揮によるボストン交響楽団の演奏を生で聞くという体験し、凄く感動をしました。  3年間、ジャズを含めてクラシック、映画のための作曲技法も勉強しました。   

日本に戻って来て、1983年にロボットアニメ「銀河漂流バイファム」をやりました。   初めての体験なので、父に相談しました。  (2022年に92歳で亡くなる。)      父の仕事の内容には余り以前は興味を持っていませんでした。  父のやっていた劇中伴奏音楽をいざやってみると難しいので相談しました。  2018年に公開された劇場版「マジンガーZ / INFINITY」 父が作曲したものを私が編曲しました。  スピード感あふれるものにしたいと思いました。 

*「マジンガーz」 作曲:渡辺宙明

*「マジンガーZ / INFINITY」」  作曲:渡辺宙明 編曲:渡辺俊幸

子供向けの映画の音楽を父が最初に手がけた時には、なんだ子供向けかと思ったそうですが、心血注いで作って偉大さを感じます。  父がやってきた音楽人生は素晴らしかったし、私とは全く違った音楽の世界観でしたが、人の心を打つ作品はどういったものか、考えてきちっと実を結ばせたと思います。 

オペラの作品を書き上げるのには、物凄く重労働で、時間が掛かります。 台本のセリフ全部にメロディーをつけなければいけない。  セリフがおかしくない様なイントネーションになりながら旋律を考えないといけない。  劇中伴奏音楽は監督の要求あって、それに答えようとするものですが、オペラは作曲家のもので、自由に作曲できる。  それが大きい魅力です。











2026年2月2日月曜日

鈴木俊貴(東京大学・動物言語学分野 准教授)・「動物たちも“言語”を使い話す!」

 鈴木俊貴(東京大学先端科学技術研究センター・動物言語学分野 准教授)・「動物たちも“言語”を使い話す!」

鈴木俊貴さん(42歳)は日本における動物言語学のパイオニアです。 高校生の時に野鳥の観察にはまって、大学時代に軽井沢の探鳥林でコガラが、ある特定な鳴き声で餌のあるところに集まっている姿と出会いました。 その後東大大学院に進み、林に巣箱を設置して行動と鳴き声を分析、シジュウカラの鳥もいくつか突き止めました。  さらに鈴木さんはシジュウカラが言葉を繋げて、いわば文章を伝えることも発見、鈴木さんはスウェーデンで開かれた国際行動生態学会で基調講演を行い世界から高い評価を得ました。  鈴木さんは研究の裏話をまとめた「僕には鳥の言葉がわかる」と題した本を執筆、全国の書店員が選ぶ2025年ノンフィクション大賞に選ばれました。  そして今、多くの動物たちが言語を持つ可能性を研究する動言語学を提唱しています。 鈴木さんに鳥の言葉発見の課程と、様々な工夫、そして動物言語学への夢などの話を伺いました。

「僕には鳥の言葉がわかる」の本の最初に企画を頂いたのは2018年5月でした。  実際に書き始めたのは2024年春でした。  2025年1月に出版しました。  小さいころから生き物の観察が大好きでした。  1歳5か月で公園で虫取りをしている写真がありました。  生まれは東京ですが、茨木に引っ越して自然豊かなところで育ったのが、僕にとって大きな経験になりました。  コガネグモ(大型の蜘蛛)の巣にカブトムシが引っかかって食べられてしまったことを観察しました。 図鑑にはカブトムシは森の王者と書いてあったが、喰われていて、図鑑に書き加えたらいいと母から言われました。 以後気付いたことを図鑑に書き込むようになりました。  

鳥の観察をしたくて、小遣いをコツコツ貯めてようやく双眼鏡を買えたのが高校生のころでした。  バードウオッチングにどんどんはまっていきました。  小学生の時には動物学者になりたいと思っていましたが、高校生3年になると大学に行って鳥の研究をやりたいと思いました。  長谷川博先生はアホウドリを絶滅の危機から救った人です。 その先生に憧れて東邦大学理学部生物学科入学しました。  大学3年生時の卒業論文のテーマを探しに軽井沢を訪れ、シジュウカラに出会いました。  どこにでもいる鳥ですが、鳴き声などは誰も研究してこなかった。  

シジュウカラの縄張りを主張する声(春)、餌を見つけた声(周りからシジュウカラが集まって来る)、警戒しろと言う声。 観察すると言葉になっているのではないかと思いました。  シジュウカラ、コガラの種を越えて会話しているのではないかと、観察してそう思いました。  それまでの研究者は人間だけが言葉を持っていると信じて来た。 動物行動学を立ち上げたコンラート・ローレンス『ソロモンの指環 動物行動学入門』の本のなかで、「鳥の鳴き声は遺伝的にプログラムされた感情を表す発声に過ぎない。」と書いている。

シジュウカラが敵を見つけた時に、鷹と蛇では鳴き声が違う。  周りのシジュウカラの行動も鷹の声の時には空を見て、蛇の場合は地面を見る。  感情の表れではなくて言葉になっている。 シジュウカラは言葉を組み合わせて文章迄作ることが出来る。  警戒しろと言う鳴き声と集まれと言う鳴き声の組み合わせた声がある。  シジュウカラに取っては危険な天敵のモズも集まって追い払う事が出来る。  組み合わせを逆にして、「集まれ」「警戒しろ」と聞かせてみると、集まってこない。  語順に従って理解していることが判る。 現在判っている動物の中では、人間以外で唯一、文法を操る力を持っている。  証明するのに時間が掛かりました。  

蛇と言う言葉に気付いたのが2008年でしたが、それがちゃんと蛇と言う概念に繋がる言葉であると結論付けることが出来たのが2018年でした。  鳴き声の組み合わせに気付いたのが2007年でしたが、文法であると結論付けたのが、2020年でした。

蛇、本土テン、カラスなどが天敵ですが、それのはく製とか生きているものを見せて、蛇の時の鳴き声とかを確かめていきます。 どのシジュウカラもそう鳴くのかを調べるためには、沢山のシジュウカラを対象にして鳴き声の解析をする。 蛇に対する警戒の声を聞いた時に、シジュウカラが頭にちゃんと蛇をイメージして、蛇を捜すような行動をしていたのかどうか、それを調べるのが相当大変でした。  

見間違いを使った実験を考えました。  シジュウカラが蛇という言葉をイメージしていれば、蛇に見間違えたりしないだろうか、という実験をしました。  「ジャージャー」と言う蛇の言葉の鳴き声を聞かせながら、木の枝に紐をつけて蛇に似せて動かすと、確認するために近づいてくる。 蛇の動きとは違って大きく動かしたりすると、近づいてこない。  蛇に対して見間違えが起きている。  人間以外で単語の証明が出来た初めてのものです。 今は動物言語学という事で世界に提唱しています。  

世界の方が注目して、2022年には国際行動生態学会で最新の研究成果を発表するんですが、そこでトリ(基調講演)を務めました。  言葉は人間だけという事を覆す研究発表に対して、みんなが声をかけてくれました。 世界中で動物言語学の認識が高まりました。  動物研究者の研究対象の動物についての言葉の研究を始めました。  チンパンジー、ボノボなどは鳴き声を組み合わせて言葉を文章にする力があるのではないかと発表した論文が出て来ています。 

昨年12月にイギリスで国際動物行動研究協会から表彰されました。(年に一人が表彰される。 世界的な大御所が表彰されている。)   日本でも東大でいろいろなテーマをもって進めています。 いま スペイン、スウェーデンに巣箱をかけて、鳴き声を調べていますが、シジュウカラの日本語とスペイン、スウェーデン語が違って、場所が違うと響きが違う。 ひょっとしたら語彙も違うかもしれないので今調べているところです。 天敵が違うので鳴き声も違うのかもしれない。  今興味を持っているのが、どうやって言葉を習得するのかという事です。  場所の違いによる比較もしていきたい。 














2026年2月1日日曜日

ビリー諸川(ロカビリー歌手)        ・ステージ4でも、ロックンロールでネバー・ギブアップ!

ビリー諸川(ロカビリー歌手)  ・ステージ4でも、ロックンロールでネバー・ギブアップ!

 ビリー諸川さんは1957年東京都出身。 高校生の時に出会ったエルヴィス・プレスリーの音楽やファッション、生き方などすべてに衝撃を受け、以来生涯ロカビリー&エルヴィスを座右の銘としています。 

25年毎月一回店に出て歌っています。 ステージ4のがんです。 抗がん剤を13回打っていて、副作用で指先がしびれたり痛くてギターを弾く時に、コードを押さえられなくて、唯一動くのが、左手の人差し指なんです。 

全日本ロカビリー普及委員会会長の肩書になっています。 座右の銘が「生涯ロカビリー&エルビス」  1972年中学3年生の時に、テレビで映画「フロリダ万歳」と言う映画を見て、エルヴィスにすっかりはまってしまいました。   将来エルヴィス・ピレスリーになろうと決めました。  53年間一心不乱にエルヴィス、ロカビリーを追い続けてきました。 

予備校に通っていて目標が定まらない日々を送っていたある日、呆れて見兼ねた兄(東大生だった)からビンタされ、毎年3000人も誕生する東大生と、100年に一人誕生するかしないかのプレスリーのような歌手、どちらに一度きりの人生を賭けるべきなのか、もう一度、その頭で良く考えてみろと問われたことにより目覚め、エルヴィスの道を選ぶこととなった。 翌日からエルヴィスの英語の歌をちゃんと歌うために、アテネ・フランセと言う英会話の学校に行きました。 シャネルズというドゥーワップ・グループのバンドリーダーの吉田憲右と知り合って、人前で歌うきっかけになりました。  カントリー歌手のジミー時田さんの元へ弟子入りに行きました。(1977年10月 エルヴィスは同年8月に亡くなる。)  

50年以上エルヴィスを研究してくると、彼の人間性と誠実さ、純粋さ、人間はこうあるべきだというお手本みたいな、人間性に最終的には惹かれています。  アメリカ南部の素朴な青年のまま、その心を持ったままスーパースターになって行ったところが魅力なんです。   ジミー時田さんのところへカセットテープを持っていったら全部聞き終わらずに、「帰りなさい、他の仕事を捜した方がいい。」と言われました。 反骨精神が湧いてきて、カセットボード、ギターをもってジミー時田さんが行く新宿のウィッシュボンの前で2時間半から3時間前にいってずっと立って待っていました。(毎週)   12月の或る日にカセットテープを聞くこともなく、「負けた。」と言われました。  外弟子として、ウィッシュボンで働けと言われました。 (カントリーの勉強)  1曲だけ歌わせてもらって嬉しかったです。(20歳)

1987年(12年)に音楽評論家の湯川れい子さんに同年制作した自費レコード(当時32万円かかる)をポストに入れておいたら、湯川さんから電話がかかって来て、センセーショナルなことをやりましょうと言われて、私がプロデュースするから、アメリカに行ってエルヴィスがレコーディングしたサンスタジオで、エルヴィスのメンバーと一緒にレコーディングしましょうと言われました。  ジェームス・バートンに自分のロカビリーを作りなさいと、言われました。 テレビ、ラジオなどにも出るようになりました。  

1994年にエルヴィスの夢を見て、その内容が面白くて書いているうちに原稿用が400枚近くになてしまいました。  ぼくはプレスリーが大好き」と言う本を書いた片岡義男と言う作家の家に原稿をポストに突っ込んでしまいました。  1週間後に出版社が決まってしまいました。  去年末に出した本が20冊目になります。 全日本ロカビリー普及委員会は6000人います。(会費などは取っていない)  この方たちが主に買ってくれます。  エルヴィスと長嶋さんに関する本も書きました。  

小学校のPTA会長を5年間務めたあと、2008年から16年まで、保護司を務めました。  2016年秋からは、「ロカビリーキッズツアー」と銘打って、ギター1本で子どもたちの施設を回る活動を始めました。  子供が絵を描いているがよくわからなかった。 爪とかから描き始めて、顔を描いていって褒めてあげる、終わるまで待ってあげる教育という事を学びました。 子供は身体を動かすのが好きで、ロカビリーが役立ったという事を実感しました。 

2025年の1月ぐらいから、大腸がんの前兆のような血便が出るようになりました。  2024年がエルヴィスがデビューして70年でした。  妻と2024年7月にエルヴィスの出身地 テネシー州メンフィスに行こうという事になりました。  結局12人に膨らんでツアーにいきました。  市長さんの前で歌う機会を得ました。  2025年の11月のジャパンフェスティバルで歌ってほしいと言われ、併せて3か所で歌う事になりました。  症状が重くなってきて、或る時に大腸ポリープの話になって、僕も軽い気持ちで血便が出てきたと言ったら、周りから直ぐ医者に行く様に言われました。  肝臓と骨盤に転移していました。  

2週間に一回の頻度で抗癌剤を打つんです。  一般的な副作用はありませんでしたが、しびれ、痛みがいろいろなところに出ました。  腫瘍マーカーの値が入院時は46でしたが、今は13回打ったせいか1.1しかないんです。 次週14回目を打ちます。  体重も落とさないようにしっかり食べています。   アメリカに行って帰ってきた後だったら手遅れだったと思います。 2025年の11月には行きました。  ジャパンフェスティバル、メンフィスのビール?ストリート、パーティー、総領事の前でも歌いました。  私の師は長嶋さんとエルヴィスです。  長嶋さんは脳梗塞で倒れた後、リハビリで皆に元気を与えました。 見習わなければいけないと思いました。

日本の文化の一つとしてロカビリーを残してほしいと、平尾昌晃さんから言われたので是非頑張っていきたいと思います。  ロカビリーは「優しさを持った反骨精神」だと思います。  私の生きざまになりました。  










 

2026年1月31日土曜日

迫田孝也(俳優)              ・出会いからつながった俳優人生

迫田孝也(俳優)              ・出会いからつながった俳優人生 

迫田さんは1977年生まれ。(48歳) 大学卒業後俳優を目指して上京、NHKでは真田丸』をはじめ、西郷どん鎌倉殿の13人』そして現在放送中の『豊臣兄弟』にも出演しています。 西郷どん』では薩摩言葉指導もしました。 他にもドラマ、映画、舞台、バラエティーと本当に幅広く活躍中の迫田さんに、これまでの俳優人生について伺いました。

川内市で生まれましたが、父が高校教師をしており小さい頃は転勤が多かったため田代町から指宿市へ引っ越し、さらに中学校から鹿児島市内へと引越しが多かったです。 中学、高校とバレーボールに情熱を燃やしていました。 高校時代は男子バレーボール部の主将を務めました。 教師をやりたいと思っていて、 広島大学教育学部へ入り、保健体育の教育免許を取得しました。  大学2年の時にバイトで行った奄美大島で、映画撮影に来ていた山田洋次監督の御一行と出会い役者になろうという気持ちが芽生えました。 

大学を出て上京し、或るオーディション情報の月刊誌を読んだら、演出家に観てもらえる無料の訓練のことがありました。  結局その劇団に入ることになりました。  恥ずかしくて人前で演技ができなくて、稽古が終わって夜になると元気が出るタイプでした。  半年間の卒業公演のキャストにも参加できず、見るに見かねた演出家が無理やり出させて、そこそこできたので、或る役を持たされてやって、ようやくスタートラインに立てたと思いました。    30歳になって芽がでなかったら帰って来るように言われましたが、その時にはまだで、親を何とか説得してそれから5年続けました。   三谷さんの作品に感動して上京したという思いもあり、オーディションで三谷さんの目に留まり、役を勝ち取ることが出来ました。

2016年の大河ドラマ『真田丸』への出演が決定し、矢沢三十郎頼幸と言う役にも押しつぶされそうでした。 (39歳)   西郷どん』では薩隅方言の指導役を担当するという事を聞いて、最初戸惑ったが、やって台本の見方も俯瞰して見れるように変わりました。 江藤新平役にもなり、ラッキーでした。 鎌倉殿の13人』にも出演することになりました。 色々民放にも出演することになって行きました。  2020年代に入ってからは実は犯人だったり、視聴者から犯人と疑われる役を多く演じるようになりました。

山田洋次監督のTOKYOタクシーでは山田洋次監督の作品に触れられたような気がします。  蒼井 優という役者はとてつもない才能を持った方で、この人の相手が務まるのかと言うプレッシャー、そして山田洋次監督(94歳)のこんなに妥協のない現場は正直ないです。 普通一回OKになればそのシーンは終わりですが、繋げてみると撮り直しが来るかもわからないという事があるので、その圧迫感みたいなものもあります。  僕の撮影期間は2週間ぐらいでしたが、その後でも話が来るのではないかという思いがあり、1週間ぐらいは気が抜けなかったです。 

2022年(令和4年)2月17日、鹿児島県の広報大使である薩摩大使に任命されました。     2024年(令和6年)2月29日、鹿児島市の「ふるさと大使」に起用されました。

2026年には『豊臣兄弟』では石川数正の役をやります。 











 

2026年1月30日金曜日

入交昭一郎(エンジニア)          ・日本を動かす!~F1から水素エネルギーへ~

入交昭一郎(エンジニア)        ・日本を動かす!~F1から水素エネルギーへ~ 

日本のF1エンジンの開発を手掛けた元ホンダの副社長、今は水素エネルギーの日本での実用化を目指す入交昭一郎さんです。 入交昭一郎さんは神戸の生まれで現在86歳。  東京大学工学部を卒業した後、自動車メーカーホンダに入社、世界最高峰の自動車レースF1で12気筒の強力エンジンを開発、又排気ガス規制の厳しい中で、規制をクリアーする独自の燃焼システムを開発するなど、日本の自動車エンジンの開発の先頭に立ってきました。  又退職後はゲームメーカーの社長を歴任し、今はカーボンゼロの社会を目指して、水素エネルギーの日本での定着を図ろうと水素エネルギー研究会の最高顧問として活躍しています。 又世界的半導体メーカーNVIDIAのジェンスン・フアン社長の窮地を救った事でも注目されています。     エンジンの開発から水素エネルギーへとあくなき挑戦を続ける入交さんに伺いました。

どこへ行くにも車で運転していきます。  年間3万kmぐらい走っています。  トランプさんがあんなのはでっち上げだという事になって、カーボンニュートラルに向けての動きが、中国を除いて世界中がストップしてしまいました。   本来今年あたりは水素エネルギーを社会実装していかなければいけない年ですが、止まってしまいました。 一番大きいのはそこにお金を出さない事ですね。 日本は水素エネルギー開発が遅れていたので、キャッチアップするチャンスだとは思います。  怖いのは中国だけはものすごい勢いでやっています。 相当どころではなく2周ぐらい先を行っています。  水素は基本的に自然エネルギーで発電した電気で水を電気分解して作るわけです。 発電する方が中国が今、太陽光発電にしろ、風力発電にしろ全世界のシェアーの6割ぐらいは中国製です。 次に電気分解する大型の電解槽が必要で、大型はほとんど中国製です。  社会実装と言う意味では中国はずっと先を走っています。 

カーボンニュートラルを実現するためには、電気だけではいかない、内燃機関はずっと必要なわけです。  化石燃料は使えば必ず炭酸ガスを出します。  内燃機関を使う航空機、船、オートバイ、トラック等があり、使っても炭酸ガスが増えない燃料が必要なわけです。    水素を大量に作らなければいけない。 日本で使っているガソリンの10%を水素に置き換えようとすると、1時間でプール一杯の水を電気分解して水素を発生する、そのぐらいの量が必要です。  年間500万トンぐらいが必要で、何兆円と言う投資が必要です。  水素を作るのには基本は電気なので、太陽光発電、風力発電にしろ自然エネルギー発電でやると、1KW/h当たり、かなり先を見通しても10円を切れないんです。  水素をベースにした燃料は1リッター当たり700円ぐらいになってしまう。  

サウジアラビア、チリなどでは1KW/h当たり今現実に3円で売っています。  3円で出来るとその値段はいっぺんに1/3ぐらいになります。 海外で自然エネルギー発電した電力が安いところへ行って、作らざるをざるを得ない。  そうなると1企業のレベルでは出来ない。  広大な土地も必要。  将来的にも友好関係が保てる国で、大プロジェクトを展開しないといけない。  国が間に入らないのなかなか進まない。 しかし今はそういう風潮にはない。   カーボンニュートラルにしようと言う国民の意識もない。  啓蒙活動を3年前からやってます。  欧米では水素を作ってそれをビジネスにしようと本気で考えている会社がいくつか存在しますが、日本では1社もないです。  

カーボンニュートラルの原料は空気と水だけです。  電気は風力と太陽光さえあればいい。  ですから日本のなかで出来るんです。  海外から燃料が入ってこなくても何とかなる。  日本は年間25兆円ぐらい原油を輸入している。  車を作って売っている額にほぼ相当する。  経済安全保障の観点から見ても、絶対日本は自分のところで作れる燃料を持つべきです。  

私は大学で卒業設計にF1の12気筒エンジンの設計をしたんです。  飛行機をやりたかったが、今の日本では作れないと言われて、次に面白いのはレースエンジンかなと思いました。  判らないことはホンダの研究所に行って、入り浸っていました。  入社試験もせずにいつの間にかホンダに入っていました。  配属先がエンジン設計で毎日が楽しくて、そして給料ももらえます。  レースエンジン50ccが当時は2ストロークエンジンでしたが、4ストロークにして勝ちました。  次に125ccの5気筒エンジンを作りました。  250ccで6気筒にしてチャンピオンマシーンなりました。 F1で1966年に1,5リッターから3リッターに変りました。  

知ってはいたが誰も3リッターのエンジンをやっていなかった。 250ccで6気筒のエンジンを終わったばかりだったのでお前がやれという事になりました。  当時F2と言うのがあって、1000ccで4気筒なので、これを3つ並べれば良いなあと思いました。  いろいろ工夫をしながら、やりました。 1965年9月からはじめて、1年間しかないんです。  図面を書いて,試作をして、テストをして翌年のモンツアへ持ってったんです。 徹夜、残業などは当たり前でした。  レイアウトに1ケ月ちょっと、設計図を書くのに1ケ月ちょっと、部品作るのに1ケ月ちょっと、組み立ててテストするのが3ケ月ぐらいでした。 1年でのプロジェクトで、今なら3年ぐらいかかると思います。

仕事は楽しまないといいものは出来ないと思っていて、世の中の情報をどれだけ自分の財産にするか、だと思います。  専門のところだけ勉強しても駄目で、いろんなことが世界中で起きていて、そう言ったものを頭のなかにいれて置くと、突然ある日何かやる時に、これとこれはつながるなという事になるわけです。  新聞、雑誌とか見出しだけでもいいから隅々まで目を通すとか。  経営者クラスの人を呼んで勉強会をしますが、最近はテーマによって専門的な人が来ます。(細分化され過ぎている。)  今の世の中はいろんなものが混ざり合うわけです。  出来るだけ一人の人がいろんなことを勉強できるようなシステムに変えて行かないと危ないなあと思います。  AIだけやっていると偏ってしまう。  深く知らなくてもいいから、自分の中で消化しておかなくてはいけない。  

妻と一時期老人ホームに入って、ネットは見ていたが、新聞などは読んでいなかったが、妻を亡くして家に帰って来て、新聞を又読み始めたら、物凄く1年半の間に欠落していたことに気が付きました。 ネットでは自分の興味のある所しか見ない。  若い人には新聞を取りなさいと言っています、そうしないと自分の好きな情報しか入ってこない。 

NVIDIAのジェンスン・フアン社長の窮地を救ったという事があります。  彼の人柄、彼は絶対嘘をつかない、非常に率直、彼の能力、情熱、彼の持っている望みですね。  彼が32,3歳の時には自分はビル・ゲイツを越えると言ったんです。  当時(30年前)、彼(ビル・ゲイツ)は王様でした。  セガのグラフィックチップの開発に失敗して、辞めると言った時に、何とかもう一回立ち直るには500万ドル必要だと言うので、その額を投資することにしました。    生まれもった性格と言うのは一生懸命努力しても買われないものがあるんです。  どれを抑えてどれを勉強して伸ばすかという事は、後天的なもので出来るわけです。  後その人が持っているエネルギーがあるんです。  エネルギーのある人は、何をやっても夢中になってやってへこたれない。  ジェンスン・フアン社長はこの3つを持ち合わせているので無茶苦茶好きになったわけです。 

彼から昨年末にメッセージが来ました。  ジャストビジネス、ビジネスはビジネスだと言っているのは大きな間違いだ。  ビジネスと言うのは、それをやる人の心であり、思いやりであり、寛容であり、その人の精神である、それがベースでなければいけない。    ジャストビジネス、ビジネスはビジネスだと言う様な事は言うな、と言っています。  そのことは私と仕事をしている間に教わったと言っているんです。  私はそれでやって来ました。   日本の社会そのもの、ビジネスそのものは、最初に数値目標だとか掲げてとにかくやれと、そういう事でスタートしてしまう。人間だから間違いも起こすが、そうするとメタメタ叩く。  寛容さだとか、今は無くなってきている。  私が言ってもなかなか受け入れてくれないかもしれないけど、世界で一番成功しているジェンスン・フアン社長が言えば成功するのではないかと思って、日本中のビジネスをやっている人たちに聞いてもらいたいと思います。   私はそのスタイルでやって来ましたから、日本人の良さはそこにあると思うんです。 人を思いやる心、少々の間違いは人間だから勘弁してあげようよと言う寛容さ、それは日本人の特徴だと思います。

残った時間お前は何をやりたいんだと自分に聞いてみると、「人に喜んでもらいたい。」その答えしかかえってこない。  常に夢を持っていないと生きてゆけない人間だと思っているんです。  夢が時々切れちゃう時があると、自分は死んじゃうなと思うんです。  本当に何をしたいのかと思うと世の中探さなければいけない。  だから情報源を広げろと言っているのはそれなんです。  広げない限り見つからない。  今の夢はカーボンニュートラル燃料で、これを何とかしたい。 









2026年1月29日木曜日

今和泉隆行(空想地図作家)         ・夢は架空の街を駆け巡る

 今和泉隆行(空想地図作家)         ・夢は架空の街を駆け巡る

今和泉隆行さんは実在しない都市の地図を書き続ける空想地図作家です。 7歳の時に空想地図に目覚めたという今和泉さん、空想地図作家として都市や地図に関して、テレビや絵本の中の地図の監修や製作にも携わっています。  民放ドラマでは架空の都市の地図を手掛けるほか、作品は各地の美術館でも展示されてきました。 更にその活動範囲は実際の街つくりや、高校の授業、万博へと広がりを見せています。 4半世紀以上に渡って続く空想地図のナゴムル市(中村市)の地図は今や実在する都市としか思えないクオリティーに達しています。 好きで続けてきたという今和泉さんに空想の町の地図作りに込めた思いを聞きました。

地図の図形と今の場所とを照合できない、と言うのが地図が読めないという事なんですね。   地図を読める人でも方向音痴と言う人はいます。  地図から歴史、街並みだとかを読み解けるという面白さはあります。  一つは道路の模様、真っすぐな道とグネグネの道。 何でグネグネなのか、車が通ることを前提に作られていないので、曲がっていたりします。  近代以降の道だと割と真っすぐつくられている。  道路の曲がり方から地形も見えてきます。   道路の年代と地形が見えてくる。  縦横の組み合わせで、いつ頃どんな理由でこのような道路になったのかとか、道路が狭いと古い建物が多い。  関東大震災で焼けたところは区画整理されて近代的なビルが建っていたりしますが、焼けていないところは古い建物が多いです。 

7歳ぐらいから地図を描いています。  地図を見るのは5歳から好きでした。  父の転勤で引っ越して地図を元にいろいろ捜して頻繁に見ていました。  いけないところだけど、リアルにこういう世界だろうなあと言う地図、が空想都市です。 ナゴムル市(中村市) 小学5年生の時に中村君と言う転校生がきて、お互いに地図を書きました。  読みだけは変えてくれと言われて濁して「ナゴムル市」としました。  書いている楽しみは旅行の下調べと近いと思います。  現実の社会問題を投影して、それを創造しながら書いています。  全国の都市に行けないから書いていましたが、大学2~4年は地図作製は辞めていました。(47都道府県を回る。)  

2015年に友達から美術館に展示してみてはと言われて、その後2017年には宮崎県の都城市美術館の学芸員の方からこれはアートであると言われました。 改めて作家という事を自覚しました。  目標があってそれを叶える手段がある、それがデザインで、アートはその目的がない。  美術館の展示が広がって行きました。

TBSの人気ドラマでも採用されました。 以前からドラマの小道具の空想地図の受注生産はしていました。  老朽化した水道管についてどこが新しい道路でどこが古い道路かAIで検知したいから、予想するのに会議に入って欲しいと言われました。 (予想外の展開)     

外部講師を呼んで探求授業をやるという事で高校に呼ばれました。  人気がありました。   それぞれの意志と感性を磨いていった方がいいと思います。 答えはAIが出してしまうので、答えが無いことに取り組んで行った方がいいと思います。 

関西万博にも参加しました。  実際のパビリオンには行けない方用のバーチャル舞台のところの地図を作りました。  普通の人が出来るいろいろなことに壁があってできませんでした。(スポーツ、ゲーム、漫画など)  膨大な時間があり、架空の地図作りに没頭しました。2巡目の地図に向かうには自分自身をアップデートしないといけないと思いますが、方法が判らなくて、今から受験ですが、大学院を抜けて、現代美術を学んで、研究と製作をしっかりやろうと思っています。  今40歳ですが、新しい自分に変ろうという事です。 年齢を気にしないでインプットしていかないとまずいと思います。 

この数年行ってはいるんですが、海外に行きたいと思っています。  海外の物も書いては見たいと言いう思いもあります。  お薦めの一点は「謎の独立国家ソマリランド」と言う高野秀行さんの本です。 実在します。 無数の武装勢力や海賊が跋扈する「崩壊国家」ソマリア。その中に、独自に武装解除し十数年も平和に暮らしている独立国があるという。 






  





2026年1月28日水曜日

金澤美浩(育種研究家)           ・育種は自分を映し出す鏡

金澤美浩(育種研究家)           ・育種は自分を映し出す鏡

 金澤さんはシクラメンの花を八重咲にしたとして知られていますが、拝見すると八重どころか、ぼんぼりのように咲くものが有ったり、しだれて咲くものが有ったり、花形、花色も様々で、シクラメンだけではなくほかの花や果物も品種改良して、多彩な品種を作っているようです。

50年、自分が興味を持ったものについて、 育種したりコレクターして沢山あります。  昔はシクラメンも色も赤くてそんなにはなかったですが、大内さんが海外のパステル系の品種を昭和50年代に導入して、そこから分けてもらって淡い色を選抜育種しました。 シクラメンは自分の花粉で自分の実をつけて花が終わってしまうことがおおくて、花持ち期間を長く持つようにしました。 シクラメンでは八重がないのでトライしてみようと思いました。  花びらがなりつつあることを見逃してしまう。  固執して観察すると、ちょっと違うなと言うのが出てきたりします。  その種を取り、種を蒔き、時間をかけて花びら化して行きました。 

私の先生の岩手の橋本先生が、私と同じことをしていて、完全体がありました。 私の方はまだ未完全体でした。  先生が病気になってそれを譲り受けて、先生のものと私のものを交配して原型が出来ました。 そしてチモにしようかと言う事でチモという名前で世の中に出せるようになりました。(20年掛かる。)  2年に一回しか交配が出来なくて結果が出ない。  八重になるための遺伝子の部分の重複遺伝子があって、ホモ、ヘペロとかありヘペロではいろんなものが出てくるし、ホモならば固まる。 千葉大、メーカーの研究開発に携わっている方との交流からいろいろ勉強しました。  しだれ形のシクラメンも開発しました。  

ラズベリーも商品化できないという事がありました。 いまだに日本の風土に合わないと叫ばれています。  土壌環境ですね。  日本には沢山の土壌微生物がいて、線虫もいてそれがラズベリーへわるさをするようです。  国内に2トン輸入されて、うちでは1トンはんぐらい取っています。  品種改良しないと、と言う大手の輸入メーカーさんがなんとか国産ラズベリーの品種を作ってくれないかと言われて、花以外も面白そうだと思っていました。 試行錯誤をしてやっと増殖率が良くて、成長も良くて、二期なり(6月、10月に成る)を選抜して作り上げて、登録にこぎつけました。  今の土壌環境で生き残ったものだけを交配しました。  

子供のころから花を見る機会があって花が好きでした。 農業高校に行った時に、花を徹底的に作ろうという出会いがありました。  花農家さんの所に実習に行きました。 花をオークションにかけてその日のうちに換金してくるわけです。 そこで花を作っても生活が成り立つかなと思いました。  温室部を作って、 アルバイトをして園芸書を買って読みました。  種も購入して花を咲かせて、オートバイで花を売っていました。  ひょんなことから自分でも種を取って撒く様になりました。  高く売れるような選抜をして、専門にやっている人に聞きに行ったりしました。  オリジナルのものが昭和50年ごろに出来ました。 50年代の後半には市場でも有名になって来ました。  

昭和56年に結婚して、妻に手伝ってもらっているうちに、彼女の知り合いからも手伝ってもらうようになっていきました。  今の主流のメンバーが彼女たちです。  ピンク系を作って今はそれが主流になっています。 1963年に薦められて全国の品評会に出して、大臣賞を初めてもらいました。 その後もいろいろな賞を貰いました。  品評会のポイントがあって、葉が小さく沢山あって、花が丸弁でぴしっと上を向いて咲いている、という一つのベースがあります。  しだれ咲は全く正反対のものなので、支持されません。  賞を取ることが目的ではなくなりました。 いかにして消費者さんの思いに沿えるのか、という事を大事にしています。  時代の流れは大事だと思います。一番大事なのは消費者にがっかりされない事だと思います。  

次の世代に渡していかなければならないという、義務的な部分も持っています。 私の弟子たちが弟子を作るようになってきて非常に嬉しいです。  ここまでくるうちにはいろんな人に助けてもらってきました。  消費者が居ないかぎりは支持されないので、理解者を増やす事ですね。  自分の中の経験を伝えていきながら、花の業界の礎にしてもらえればと思います。地域の為、若い人のための活動をしています。  自分のまわりの環境を良くしていかない限り、自分が住んでいる環境、生活は良くならない。(人間環境を含め)  育種の部分を掘り進めていくのと、「金澤的なビオラ」を見たいと言われていますが、どう言うビオラか私にもわかりません。