2026年8月3日月曜日

清田明宏(国連パレスチナ難民救済事業機関保健局長・医師)・「医療支援の現場が直面するガザの現実」

清田明宏(国連パレスチナ難民救済事業機関保健局長・医師)・「医療支援の現場が直面するガザの現実」

 清田さんは高知医科大学(現在の高知大学医学部)を卒業後、2010年からUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の保険局長として怪我や病気の治療、衛生環境を整えることに力を尽くしてきました。 2023年からパレスチナのガザ地区で続いてきたイスラエルとイスラム組織、ハマスの衝突。 去年10月停戦合意が発行したものの、ガザ地区では、イスラエル軍の散発的な攻撃が続いています。   現在、清田さんはイスラエルの制限下でガザに立ち入れない中、隣国ヨルダンを拠点に支援を行っています。 ガザで目の当たりにした戦闘の現実、そしてそこで暮らす人々の今と未来についてお話を伺いました。

ヨルダンと日本との時差は6時間です。 気温は35度から40度近くになりますが、湿気が少なくて乾いているので何とかなると言う感じです。  20251月以降ガザに入ることができていません。 ヨルダンから指示を出しながら支援活動を続けています。  一般の人もそうですが、我々の職員も戦争が始まってから何度も何度も避難してみんな疲れ切ってます。  ある人が言いました「世界は一体いつになったら我々を普通の人間として見てくれるのか。」と言われました。 言葉がありませんでした。

うちもガザに12,000人の職員がいますが、既に400人近くの人が戦争で亡くなってます。  我々の想像を超えた事は何度も何度も何度も起こって厳しい状態に置かれていますが、それに対する世界の反応は非常に遅いか、ないと言うのはガザの一般的な反応です。  「世界中から見捨てられて見放されて誰も助けに来てくれない。」そういう風に言われてはっとします。 私にできるのは少しでも心の支えになればと言う思いはあります。 それが1番大事な仕事の1つではあります。 

停戦合意後も状況はどんどん悪くなっていっています。  衛生状況が悪いので、ネズミの種類が増えて、それに伴ってネズミを媒介とする感染症が増えてきてます。薬も不足意味できちんとした治療ができない状況です。 上下水道は機能していなくて、ゴミも山積しています。 壊れた家に住んでたり、テントに住んでいて、住居環境が悪く、医療サービス、医療システムがきちんと機能していません。 

基本的にはイスラエルが食料の搬入制限しています。 絶対数が足りません。   入ってきたものも略奪行為などが発生してます。 小さな赤ちゃんの写真。  腕が7.5cmしかない。 栄養失調も単純な食料不足だけではありません。 住居環境、上下水道、医療システム、家族全体の安全が損われるなど、総合的に進んで危機になったと思います。  小さい時に栄養失調になると、脳神経も犯されることもあります。 後でいろんな影響が出ます。 戦争で両親を亡くした子供さん、空爆で怪我をした人々が沢山います。 かつてガザは貧しくてもホームレスがいなくて、何とか助け合って生活を支えて生きてきました。 今はそれが崩壊していて、それが1番問題だと私は思っています。  ガザに行って、1番衝撃を受けたのは土地勘があるはずなのに、周りを見ても全く自分がどこにいるかわからない状況でした

2024年の夏に4台の車で予防接種のために出かけましたが、イスラエル軍によってブルドーザーが出てきたり、戦車が出てきて車の隊列が挟まれてしまったりして、検問所に7、8時間止められていましたが、南部に帰ってきました。

知り合いの歯医者の家族の事ですが、銀行からお金を借りて開業すると言うことでしたが、予定が107日で、その当日に戦争が開始され、すべてをなくしてしまいました。 戦争が始まって半年位の間は13回避難したと言っています。 23回は野宿したそうです。 そういった話はいっぱいあります。  戦争は残酷で良い事は1つもありません。 早く終わってほしいと今でも思います。

ガザの子供たちは学校に行けず、教育は受けられない。  学校はほぼ全て避難所になっています。 学校に行けなくなると、社会に接することができなくなり、きちんとしたしつけもできなくなる。 メンタルヘルスについてもカウンセラーが聞いているうちに一緒に泣き出してしまうと言うようなことがあります。(同じような環境下) メンタルヘルスのケアにはまだ程遠いと思ってます。

大学を出ても就職がなかなかできない状態です。 「なんで仕事が欲しいのか。」と聞いたら、「人間としての尊厳が欲しい。」と言ったんです。 「職がないと人間としての尊厳が保たれれない。」と言われた。 はっとしました。

治療方法を標準化していきたいと思ってます。(効率の向上) それはそれは大事なことだと思ってます。 国際的な医学誌日発表して、ガザではこういった栄養失調が起こっているという事を残すことが大事だと思っています。(世の中に伝えてゆく。) 有ってはいけないと思うことが、次から次へと起こって、それに対して黙ってていいのかと言う思いはあります。  世の中の不条理に対して黙っていると言うことをせずに声を上げるということだけでもいいし、私のような形でそこで仕事をすることもできます。 

パレスチナ問題、中東問題の安定化に貢献すると言うのはあると思います。   世界中がつながっていると言うことを、今回の戦争で多分日本の方が感じられたのではないかと思います。 日本の人道支援と言うのはものすごく評価が高いです。日本に対する期待は強いです。  海外への援助、困っている人を助けると言う事はどんどん続けることが必要だと思っています。 栄養失調の腕が7.5センチの女の子の写真を見て心が動いて欲しいです。  それがすべての始まりだと思います。  これはひどい、これはかわいそうと思うことが大事で、それが第一歩だと思います。  まずは戦争がなくなって、平和になって、人がゆっくり寝て、そしてガザの将来を考えると言うことに早くなってほしいと思ってます。




2026年7月31日金曜日

清水葵(日本駆け込み寺代表理事)      ・「27歳が“命つなぐ”駆け込み寺~新宿・歌舞伎町 若者支援の現場から」

 清水葵(日本駆け込み寺代表理事)  ・「27歳が“命つなぐ”駆け込み寺~新宿・歌舞伎町 若者支援の現場から」

新宿歌舞伎町では、数年前から家庭や学校に居場所がない若者たちが集まるようになりました。 そんな若者たちを支えてきた支援団体の代表に27歳の女性が就任しました。 声にならないSOSに向き合う清水葵さんの奮闘の日々を追いました。

歓楽街の新宿の一角に6年前から10代から20代の若者たちが集まるようになりました。 一時的な快楽を求めて、市販薬を大量に摂取するオーバードーズ(過剰摂取(かじょうせっしゅ、overdose、略称:OD)を繰り返したり、ホストクラブにはまって借金に追い詰められたり、深刻な問題が後を絶ちまません。 この場所で若者の悩みに寄り添い、支援活動を続けている女性がいます。  清水葵さん27歳です。    去年4月歌舞伎町で20年以上悩みを抱える人たちの相談活動を続けてきた公益社団法人日本駆け駆け込み寺の代表理事に就任しました。

清水さん以外に80人のボランティアが登録されています。 毎日昼の12時から夜の9時まで事務所を訪ねてくる若者の相談に乗ったり、毎週土曜日には子供食堂を開いたりしてするなど居場所を提供しています。 この日には明日が14歳から20代まで15人ほどが過ごしていました。 声かけを続けることで、若者がいつでも頼ってきてくれるきっかけになればと考えています。 駆け込み寺には毎日20人から多いときには50人ぐらい若者が立ち寄るようになりました。 清水さんが大事にしている事は、毎日明かりを絶やさないことです。(安心できる空間)

愚痴や不満をぶちあけることで、ちょっとでも自分を傷つける選択をしないでいてくれたらいいなと思ってます。 清水さんは今危機に立たされています。 代表に就任した直後、去年5月当時事務局長をしていた40代の男性がコカイン所持の疑いで逮捕、また相談に来ていた20代の女性との不適切な関係も明らかになり、駆け込み寺は社会から信用を失いました。 自分のやるべきことと覚悟は決まったなと思いました。 組織の再生を進めていきました。 

トラブルにならないためのチェック機構をいろいろ設けました。 運営資金のほとんどを占めていた行政からの助成金は打ち止めになり、寄付をしていてくれた支援者も離れてしまいました。 今は街頭募金のみです。 歌舞伎町に居場所を求める若者たちの実態は、より深刻さを増していると清水さんは感じています。

2人の男性が深刻そうに相談に来て、内容は歌舞伎町のホテルで20代の女性がリストカットで亡くなり、交際していたこの男性たちの仲間の1人(21歳)が同じ部屋で大量の市販薬を飲み、意識不明で病院に搬送されたということでした。

もう一つ深刻なのは、女性がホストクラブにはまり身を滅ぼしていくケースが後を絶たないと言うことです。 歌舞伎町には300店舗を超えるホストクラブが営業しています。 SNSやマッチングアプリを使った営業が行われ、若い女性も気軽に入店するようになりました。 借金の返済に売春等を強要されるケースがあいついでいます。  24歳のある女性は、ホストクラブに通うきっかけになったのは、親からのDVで家庭内に居場所がなくなったことでした。 18歳で家出してマッチングアプリで交際しました。 その男性がホストだったため、ホストクラブに通うようになりました。 高額な借金を背負うようになりました。 借金の返済に風俗店で働くように勧められました。今年2月に清水さんのところに相談に来ました。誰の父親かもわからない子供を身ごもってしまいました。悩み、最終的にはおろすことになりました。 病院や経済的なサポート、精神的なサポートを続けてきています。 清水さんは、歌舞伎町の若者支援は命と向き合う現場だといいます。

自分自身は特別養子縁組で育ちまして、中学1年生の時に血つながってないことを聞かされて、自己肯定感が一時期下がりました。でも感謝です。愛情込めて育ててくれたという事は自分にとってもありがたい縁を感じます。感謝しています。   グランドピアノはありますが、清水さんが中学1年生の時にの誕生日に送られたものです。 

清水さんは大学時代まで京都の実家で暮らせました。 ボランティア活動等をして、卒業後は東京で保育関連の企業に総合職として就職しましたが、現場に出て直接子供たちと関わりたいと思い、就職後2年目に会社を辞めました。 駆け込み寺で働くことに決めました。 父親は反対しましたけれども徐々に報告を聞くことによって応援していこうと気持ちになったといいます。 

駆け込み寺で今清水さんが新たに取り組んでいることがあります。 グローバル食堂です。 その日を生きることで精一杯の若者たちの関心を広げ、将来を切り開くきっかけになればと言う清水さんの思いです。 去年10月からスタートさせました。 今後は、茶道教室や着物の着付け教室など様々な体験の場をしていきたいと考えています。子を中絶した24歳の女性が駆け込み寺の活動を手伝ってくれるようになりました。 「少しでも誰かを明るくする手助けをしたい」のだといいます。 相談に来ていた女性の中で、春から美容師の専門学校に通うと言う事でした。(駆け込み寺で、なって欲しい像がまさにそういったことだと思っています。)





2026年7月25日土曜日

山崎エマ(ドキュメンタリー監督)      ・「当たり前の中にある価値を見直したい」後編

 山崎エマ(ドキュメンタリー監督)・「当たり前の中にある価値を見直したい」後編

絵本「おさるのジョージ」の原作者を取材したドキュメンタリー作品 「モンキービジネスおさるのジョージの著者の大冒険」と言うドキュメンタリー映画です。 ジョージはアメリカで大人気です。  私を卒業した後は、編集者として助手として仕事をしていますが、でも監督をやりたいと言う思いが出てきました。    原作者のレイ夫妻原作者既に亡くなっていますけれども、いろいろ調べて3年位かかって制作しました。2000万円かかりましたが、クラウドファンディングで一般の方からもお金を集めて製作、公開できました。 それが1個目の作品です。(2017年)  今年はおさるのジョージの85周年です。 レイ夫妻は戦争を逃れた大変な経験をされていますが、冒険のように語るというか、その精神が「おさるのジョージ」のいろいろな冒険のつながっている。

自分の場合はドキュメンタリーの道を行くと言うのは明確になりました。    編集助手としていろんな作品関りました。 自分では普通の振舞いをしていたと思いますが、周りのアメリカ人から凄く褒められました。  日本人であれば当然のことと思いました。 それが小学校の映画を作る事に繋がる流れになります。   自分が受けた小学校教育の6年間の価値観、頑張ったことなどは小学校にあったのではないかと思いました。 また親から受けた分も大きかったと思います。 

子供の頃から何か貢献したいと言うか、よりよい社会に貢献することこそが、自分自身の人生が幸せになるみたいな考え方が起きました。 少しでも共感とか、感情が動くもの、人間が人間らしく捉えるものみたいなことを今でも自信としています。

海外に住むと比べることが気付ける、何とも思っていなかった日本の良さが増えてきて、特別なんだと思ったりしました。 日本のことを中からと外から見れるようになった自分が何かできることがあるのではないかと思いました。 ずれている日本のことが気になったりもして、自分から日本に戻って世界に伝えたいことがあると思って東京に拠点を持ちました。

夏の甲子園を元にしたドキュメンタリー映画 『甲子園:フィールド・オブ・ドリームス』 その年は、夏の甲子園は99回大会でした。 日本の野球を100回大会と言う機会を使って撮影することにしました。 2018年の100回大会記念大会を撮影しました。 海外に向けても長編作品はなかなかありません。 海外ではまだあまり知られていない日本独特の高校野球の文化を世界に伝えたいという思いから始まった。 最初4校から2校にしぼってって、球児や、指導者の皆さんを追って、甲子園の大会自体を含めて、高校野球も春からの1年を捉えました。アメリカの人に見てもらいたいとする強い思いがありました。 メジャーリーガーとの絡み、師弟関係、親子関係、監督の世代間の違いでの時代の変換期についても意識して撮りました。 アメリカから帰ってきた私にとっては、高校野球はとても日本的に見えました。

佐々木監督はいろんな植物を育ててきて、人の成長と盆栽と成長をかけて考えている方です。 映画の中では、盆栽をきれいな形にするには、針金をまかないとなかなか美しくならないけれども、どっかのタイミングで針金を外さないと盆栽が苦しくなって美しい姿に行くことができない。 これを育ててきた子供たちにかけて針金をかけると言う事は、昭和の時代から含めてやってきますが、外すタイミングとか、外し方この両方が大事だと言うふうに言ってます。 どっかで外してあげないと苦しむ。  当時子供たちの自主性、実践に任せるとか、ちょっと流行っていた時代がある中で、針金をかけることが大事だと言う。 そういうバランスに共感しました。

ある程度導いたりとか、強制することで築いたことが自主性になっていく。   その段階が大事だと言っています。 映画の中では、盆栽に例えて映像的にも美しいシーンが撮れたのは自分の中でも特別なシーンだと思っています。 甲子園だけ見ているだけではわからない、高校野球の心みたいなものを人のつながりとか、教育の一環としていろいろな関係性がある。 極端な話、野球に興味をなくても面白いと思っている映画を目指して作りました。 

日本のことに関して、海外に住んだことによって生まれた視点を生かし、皆さんに気づきの提供をしたいと思って、そのきっかけを自分の作ったドキュメンタリーで提供したいと思ってます。 人間同士として一緒の社会で生きていく中で、少しでもプラスの貢献をするドキュメンタリーを作ると言う、それがやりたいことやってきたことだと思ってます。 ドキュメンタリーは人が人を撮るので、1AIができないんではないかと思っています。 結果として自分が経験したことを良かったので終わらせるのではなく伝えるプロとして、なるべく多くの人に伝える。 それをミッションとして作品となる。これが今自分がたどり着いた、ドキュメンタリーとの向き合い方です。

ドキュメンタリーの醍醐味は自分の人生ではない人生、人であったり、文化であったりいろいろあると思いますが、それを追体験できると言うことだと思います。 映像と音で捉えられるストーリーみたいなものを体験してほしいと思います。  そもそも、小学校を撮ったのは、私自身の小学校経験が自分を作ってくれたと思っているからこそ、撮りたいと言う趣旨があって、人間形成の部分、そこに焦点を当てて取り続ける。 ドキュメンタリーは客観的な記録ではないというか、たくさんの量を撮ってからストーリーを構成しているし、削ぎ落としてストーリーを構築しています。私の視点というものが入っているのは、ドキュメンタリーだと思っています。山崎エマと言う人が見た日本社会はこうだったねと言うみたいなところまで行けば、自分が目指しているところだと思います。

「小学校それは小さ社会」と言う作品が評価されるまですごく時間がかかりましたが、そもそも撮れるまで5年かかって、沢山の方々に協力していただいて、10年かかって公開まで行くことができました。 大変な苦労して作ったドキュメンタリーがなかなか評価されずにいたことに対しては色々と落ち込みました。 ドキュメンタリーはもう作るのはやめようかと思った事もありました。 世界の最高峰の所まで行ったと言う事は、自分を信じろと言うことを今回経験しました。 次回はより自分を信じる力と言うのも、そして評価と言うものがないとやっていけない世界でもあるので、違う物差しとして5年後10年後50年後100年後に評価されてもいいやと言うことを含めて思えるようになったと思います。

世に出て教育に対する議論が活発になったりとか、肩身の狭い先生が少しでも自信になったり勇気づけられたり、今後の教育の制度にも多少影響が与えられたような印象もありますが、そういうことを経験すると自分がやってきた事はとても意味があるものだと思います。 またより良いものを作ろうと言う気にはなります。

今興味のあるのは大人たちです。 新入社員と組織を仕切っている60代の人たちとは価値観が違うと思います。 わかりあえないところが出てきているかとは思いつつ、でも日本はまだまだ組織力とか力を合わせて何かを成し遂げると言うどこから向き合わないと、日本は世界では勝てないところもあると思います。 組織の中で何かに挑戦しながら時代の先を行こうとしている皆さんを撮りたいと思います。 今リサーチ中です。




2026年7月18日土曜日

五條良知(金峯山修験本宗管長)       山で祈る、里で祈る、ともに祈る

 五條良知(金峯山修験本宗管長)       山で祈る、里で祈る、ともに祈る

吉野山から大峰山にかけての一帯は金峯山と呼ばれ、古く飛鳥時代から聖なる地として崇められてきました。  世界遺産の本堂蔵王堂を中心に伽藍が広がる金山寺は、山岳修行を実践することで悟りを得る修験道の総本山です。 7世紀後半、遠役行者と呼ばれる役小角(えんのおづぬ)と言う人物が、金峯山で修業に励み、修験道を開きました。 自らも厳しい修行の数々を乗り越えてきた五さんは、今世界中の人が今同じ時刻に心を1つにして共に祈ることができれば、みんなの幸せへの大きな力になると考えています。さんに祈ることの意味を伺いました。

京都の綾部市で生まれました。昔は沢山の山伏がいました。 父親は若い頃から国鉄に職員として勤めていました。 近所に山伏の道場があり、お手伝いをしていたそうです。 その住職が亡くなって父親が後を継ぐことになりました。 私はそこで生まれ育ちました。 私は体の大変弱い子でした。 人生のことを考えるようになったのは、高校3年生の時に身近な人が亡くなったことでした。 電話が来たので、急いでその家に行きましたが、苦しいと言って私の腕の手の中で力が抜けてそこで亡くなってしまいました。父親と兄と3人でお葬式を営みました。 

兄の方から東京の仏教の大学へ行くように勧められました。 2年、生3年生のときにはお寺に入れていただいて、そこで勤めて大学に行っていました。  仏教に関する学問は教えてもらいましたが、私たちが手を合わせる仏さんと言うのは教えていただけないんです。 現場の人としての宗教、信仰とかそういうものはないなぁと強く感じました。 それがお坊さんになる原点となりました。 修験道と言うのは、私たちは世の中で修行することによって、自分の罪、汚れ、煩悩など払い落としていく、大いなる山、大自然を神様、仏様が住まうところ、聖地です。 自然の中で、神仏に包まれて、修行して山から出てくる、これが修験道の修行の仕方です。 仏教で言う悟りです。

役小角は1300年前に金剛蔵王大権現様を命がけで修業して祈りました。 三上ケ岳で一千日の修行したと言われています。 悪い悪い世の中で生きる人々までも救って欲しいということで祈られたそうです。 1000日目にお釈迦様、千手千眼観世菩薩様、弥勒菩薩様が約行者に現れます。 そのような優しい姿では、私のような悪い奴は言うことを聞かないので、もっと怖い方が欲しいと思われたようで、三上ケ岳1番高い所に岩倉があり、お釈迦様、千手千眼観世菩薩様、弥勒菩薩様が姿を変えて蔵王権現が現れた。蔵王権現とはお釈迦様、千手千眼観世菩薩様、弥勒菩薩様3体の仏が、悪を懲らしめる、怒りの表情で現れた姿と言われています。

私の蔵王堂には3体祀ってあって、中央にお釈迦様の仮の姿、右に千手千眼観世菩薩様の仮の姿になっていて、左が弥勒菩薩様の仮の姿になっている。 真ん中のお釈迦様が過去、右側の千手千眼観世菩薩様が現在、左側の弥勒様が未来。 過去、現在、未来を救ってやろうと言う請願のもとにお姿を示していただいています。 守ってあげる救ってあげると言うのも、現実に動いていくと言うのは私たちです。今をしっかり生きて、過去のこと、今のこと、未来のことを蔵王権現に預けつつ、自分のことをやらなければいけないことを頑張っていく。 

修験道の大事な修行の1つが大峰奥駈修行です。 山から山へおよそ170キロの道のりを 7日間かけて祈り歩く行で、毎年全国から修験者が集まります。 五條さんはこれまでに33回行いました。 当時60人ぐらいの人と一緒に歩くわけですけれども、自分のペースで歩けないし、人間関係などいろいろあり最初は嫌でした。 そのうち助けたり助けられたりして、皆さん揃ってお経もあげるし、厳しい中にも神仏に守られていると言う実感ができます。 

自分の命を生かされていると言うことも実感できるようになります。 達成感もありました。 一歩踏み外すと命を落とすようなところはいくつもありました。   ですので、自分と人のことを意識しないといけません。 自分だけの行であるけれども、自分だけの行ではない。 皆がいるから私も生かされている。そういったことが判ってきます。 山に入って肉離れをしたことがありました。 あるところで無理だと思って任せると言いましたら、大丈夫と言われました。 テーピングして歩いているうちに両方の足が紫色になってむくんだようになりました。 那智勝浦まで行って、お風呂に入って、吉野に帰るときにはその足は引いてきました。

自分だけの願いとか、願望とか、そういったものではなくて、自分が歩くことによって自分が良くなっていければ周りの方も良くなっていく位の大きな思いがあるんだろうと思います。 自分の生活とかをお山に入ることによって、生まれ変わるというか生きてることを気づかせていただいてくる、リセットしてくる。 それで1年頑張れる、自分の全てをさらけ出してねこそ、初めてできる修行が奥駈修行かもわかりません。 

大峯百日回峰行、金峯山寺蔵王堂から大峯山寺に至る険しい山道を1人で100日間往復する過酷な行です。 片道24キロあります。 これを100日間歩き続けると言う修行です。 奥駈修行は我を捨て一緒に修行しますが、回峰行の場合は1人ですから不思議と我も出てきます、雑念が出てきます。 昔のことを思い出しては笑ったり、嘆いたり、怒ったりします。 それにさいなまれます。 そのうち60日、70日すると気がつくと、知らぬ間に何も考えなくなります。 大自然、水の音、風の音聞いていたりするとすべてのことを受け入れ自分自身のことを受け入れて歩いてくやっぱり自分だけでは生きてないなぁと言うことがわかります。 下を見ると、昨日新しい木の芽、命があちこち目が行くようになります。 命を感じます。 命が生かされていると言う事は自分だけではない。だから、人のことをもっと祈っていきたいし、国のこと、外地のこと、自然のこと、人々のこと祈っていきたい。 

山で祈ると言う事は、神仏に包まれながら、自分は修行させてもらうとするならば、そこで1番神仏とつながるんです。ですからそれを大事に大事にしていかなくてはいけない。 参加してくれる人には山の行よりも里の行といいます。 普段のことが里の行です。 祈ることを忘れてしまった人は多いと思います。 日常の中でちょっと時間を作って祈る、お天道様に今日も1日よろしくお願いします、夕日を見ては先人たちは「南無阿弥陀仏」と祈ってきたと思います。 そういったことに感謝をしながら生きていける、それは祈りの根本だと思います。 山で神仏にまみえたその事は里で生活することで、自分だけではなしに、周りの人にも知らない人にまで、仏様に守られた功徳が届くほどに修行しなさいのというのが、山の修行の何よりも究極の姿だと思います。 里が日常とするならば、山が非日常となります。

様々な修行の先にたどり着いたのが、共に祈ると言う思いでした。 私が始めましたのは平成28年から3年間8000枚護摩焚きさせていただきました。24時間で8000枚の護摩木を炊き上げる行です。 その時には口に水も何も入れなく24時間行います。 フッとみんなで祈ろうと言うことを思いつきました。 場所はどこでもいいんですが、一緒に祈る時間を一緒にしてほしいというのが始まりです。 それをFacebookで中継しました。 すごい反響がありました。 宗教宗派を超えてそれぞれの方法で祈りましょうと言うことです。 祈りのつながりができていきます。 

自分だけの祈りと言うのは独善的です。 祈りは願望であって欲望でしかない。  もっと自分をさらけ出す中でみんな良くなれと言う風な心を持っていただきたい。人のことを祈る自分はずいぶん強くなれると思います。 そこにはよくもなければ何もない、仏様の慈悲の心が自分の心中にあるほど、こんな強い事はないです。  

1日のうちに1分でも2分でも人のことを良くなってほしいと祈れる自分がいたら、その時は良い自分になると思います。 そんなことが続けば自分の納得の祈りがあるので、祈りを思い出してほしいし続けられたらありがたいなと思います。   祈りを普通に持てる人の方がおおらかで幸せじゃないかと違いますか。 自分で幸せだと思う人が増えるほど良いように思います。  祈りを忘れたときには、自分勝手な方向にしか行かないと言うふうに私は思います。  命と言うものは自分だけのものではないので大事にしていく。 その真ん中には祈りがあってこそ、それに気づくし、祈りがあってこそその命が生きていくと言うふうに思います。


2026年7月17日金曜日

春日武彦(精神科医)            ・「自分と折り合いをつけて生きる」

 春日武彦(精神科医)        ・「自分と折り合いをつけて生きる」

春日さんは現在74歳、東京都立松沢病院、精神科部長を経て、東京足立区にある精神科の専門病院、成仁病院の名誉院長として、およそ40年にわたって人間の精神におき合ってます。 その一方で、精神医学や恐怖に関する心理など、人の心の根源的な謎に迫る著書を数多く執筆してます。 春日さんに伺いました。

今の時代の空気は、白黒、せっかちをつきすぎる時代、そのような気がします。 精神が健全である条件は3つあって、自分を客観的に眺めることができるかどうか 適切にSOSを発することができるかどうか。 一体どうなのか、不明瞭な事案と言うものに対して、じっくりと待つことができるかどうか。(白黒がつかない曖昧な状態。こういう風なものに耐えられるかどうか。)

自己肯定感があるかどうかですごく違ってきます。 あるいは成功体験の問題、まじないみたいなことで自分の子持ちを珠洲目る、宗教なども耐える装置として意味は結構大きいのではないかと思います。

「きれいごと抜きの対人援助術」と言う本を出版。 世の中どうにも解決のつけようのない困難なケースっていうのがあります。 そういうのをどういう風にすればいいかと言う風なテーマについて述べています。 白黒つけずに、じっくり立ち向かう、そういう風な方法論というのを書いたつもりです。 みんなで共有する、みんなで話し合って、責任を分散させると言うこともあるわけです。 周りの人間がある程度気持ちに余裕ができると、うまい具合にも物事は流れていきます。 

何かあると怒鳴ってしまうとか、やたらと無理な理屈を重ねていってねちねち進めるとか、SNSで悪口を広めるとかそういうやり方と言うのは繰り返すとどんどん自分で馴染んでいっちゃいますね。 慣れ親しんだパターンにはまりやすいです。  人間て、妙なところに自分らしさを見出しちゃうところがあります。  損ばっかりをする私とか、超不器用とか、誤解されがちとか、そのようなことも自分らしさとしてどうしても認識してしまう。

人間って変わりたいと思いつつも、実はあんまり変わりたくない、変わると言うのは相当に気合が入ります。  「見知らぬ仏よりも見知った鬼」と言う言葉があります。 鬼と言うのは悪いものだけれども、慣れ親しんだ鬼だとそっちの方が気が楽でいいやと言うことです。 精神科医と言うのは、病気を治すと言うよりは、むしろその人にとっての幸せは何かと言うことを考えることですね。 その人なりの幸せとはどういうものか、その辺のことに合わせて考えてった方が現実的ですと思います。

うつ病なども病院でいる間は周りも気を使いますが、うつ病が治ったらまた会社で頑張らないといけない。 良くなった後にすぐ第一線に戻れるかと言うと、微妙だったりすることがあります。  こっちとしてはまだ本気でちょっと戻りたくないんだなと言うふうに思ったりもします。 そういった微妙なところのやりとりが重要です。

最初産婦人科に行きましたが、外科系の方が派手だったので行きました。 私は患者さんの愚痴を聞く方でした。 ほとんど聞いてるような形でしたけれども、本当に感謝されまた。 6年間勤めた後、精神科のほうに移りました。 私の母親は美人で華のある人でした。 私は一人息子ですが、私もルックスとか雰囲気において母親にふさわしい存在感というのを持ちたいと思いましたが、それは努力では無理です。母親には認めて貰えていないのではないかと言う思い。(コンプレックス) 

 占い師のところに行ってぐちぐち言いましたが、意外とそれがすっきりすると言うふうになりました。 ある中年の女性の占い師のところで、ぐじゅぐじゅ言って、私は慢性の不安感っていうのが強くて、自分は物心ついてから、現在まで 1日たりとも不安でなかった日はないんですと言うふうに言ったら、その途端涙が出てきて嗚咽したと言うことがありました。 自分でもびっくりしました。 私は30年間泣いた事はありませんでした。 無防備で泣くと言うのは、結構気持ち良いものだと思いました。 

母親とのわだかまりについては、本2冊書いてみたけれども、わだかまりは溶けてはいませんが、自分で半分持て遊べると言う形にはなりました。(客観視できる。)精神科医が自分のことすら直せないのに、なんて、患者さんに手助けできるかと言うと、あえて言えば、他人事だからです。 患者さんの話で、俺の事はあんたなんかにわかってたまるかと言うことがありますが、その通りですと、でも2人一緒に揃って水に溺れたってだめでしょう、私は余裕のある立場にいられるからこそあなたに手助けできると言うことなんだと思いますといいます。 相手を理解すると言う事と一緒に遭難すると言うことを別です。 

折り合いをつけると言う事はどういうかことかと言うと、自分がある程度冷静に自分自身をモニターして、ただすべき事は正して、ときには苦笑を浮かべたり、泣き事を言いつ思考や感情の暴走は、不幸招き勝ちだとそういう風に心がける。  苦笑いとは苦々しくしく思いつつも、客観的に広い視野で今の状況を眺め渡して、さしあたっては笑を浮かべてやり過ごすということじゃないと思います。 苦笑いを浮かべると言う事は結構重要なことだと思います。

人の心と言うのは、アキレス腱というか弱点と言うのが3つに集約される。プライドこだわり、被害者意識

プライドでは、恥をかかされた、舐められた、軽く見られた。過敏になった劣等感がプライドの問題として吐出してくる。 こだわりは周り見えないとか切り替えができないとか、柔軟性に欠けてしまう。 被害者意識、 自分が悪いとは思いたくないが、人のせいにして、自分を守ると経験を人生に生かせないまま憎しみだけが蓄積していくと言うことになります。 自分の気持ちが穏やかでないと言うときにはこの3つのいずれかに引っかかっています。 それがわかれば客観性を担保することになります。秘訣は苦笑い。黒白つけずグラデーションあたりをさまよう。

今残酷さについて執筆しています。 自分は残酷ではないという風に振舞おうとしても、結果的には残酷さと言うものを呼び起こしてしまう。 そんなことはいくらでもあります。 残酷さと言うものもある程度いろいろ理解できなければ、世の中と折り合いがつかないわけです。


2026年7月5日日曜日

本間昭雄(社会福祉法人聖明福祉協会会長)  ・「失明がくれた幸せ」

本間昭雄(社会福祉法人聖明福祉協会会長)  ・「失明がくれた幸せ」 

本間家は代々医師の家系で、先祖は水戸藩の藩医をしていました。 本間さんは医師を目指して学業に励んでいた二十歳の時に不慮の事故により失明しました。  将来への不安で自暴自棄になっていた本間さんを救ったのは、祖父の遺言書に残されていた本間さんへの言葉だと言います。 1955年、26歳で聖明福祉協会を設立して以来、日本初の軽費盲老人ホームの設立、日本初の盲大学生奨学金制度の創設等、視覚障害者の福祉活動の向上に力を尽くしました。 70年余りの社会福祉の道のりと今思うことなどを伺いました。

山を切り開いて施設を順番に建てました。 1つは盲老人ホーム、養護老人ホーム、自分の事は自分でできる人たちが利用される施設で定員100名、目が見えなくて寝たきり状態になった介護の必要な方の施設が100名、目は見えるけれども、色々と障害ある方たちが利用される施設が 96名、この3つの施設を経営しています。  70年間この道一筋に歩んでくることができて、こんな幸せな人生はない。  私は失明したからこそ、この事業があるわけで、私自身があるわけだとそう思って感謝しています。

昭和4年生まれ、年齢は974ヶ月です。 スポーツの好きな活発な少年でした。  本間家は代々医者の家系で先祖は茨城県の水戸です。 徳川家の藩医をしていました。  400年ぐらい続いている医者の家系です。 医学部を受けて浪人中に風邪をひいて注射を右腕に打たれて、右腕橈骨神経麻痺を起こして、今でも右手は不自由です。 3ヶ月経っても動かないので、大きな整形外科で診てもらったら、すぐ手術をすると言うことになりました。 3回手術を行いました。 その結果両眼底に出血をして失明をすると言うことになりました。 20歳の春でどう生きたらいいか大変悩みました。心も沈んで、夢も希望も何も持てない自暴自棄になりました。 

祖父が私が2歳の時に遺言書を残してました。 書き出だしに「汝を最も生愛す。」と書いてありました。  医者として市民のために尽くしたこと、徳川家の多くの人命救ったということで「救」という名前が送られたこと、「汝の成るを待つ」と書いてありました。 最後には「人の一生は不平不満を去り、忍の一字を守るべし、孝は国の大事となり。」と書いてありました。  同じ失明の先輩に導かれて教会へも参りました。 GHQから日本には社会事業家の専門家を要請する学校を創設するようにと言うことで、できたのが社会事業学校(今の日本社会事業大学)です。(清瀬にある。)  

盲人として、初めて入学を認められました。 社会福祉の道に入っていきました。昭和30年に独立して在宅の資格障害者の家庭訪問とか、病院で失明を宣告された方々と一緒に点字を勉強したり、あんまマッサージなどを教える更生施設へ紹介したり、眼科検診を医師とともに回ったりしました。 福祉と言う言葉がなかった時代です。 聖明福祉協会と言う組織を作って、今日で言う在宅サービス、その先掛けを70年前に始めました。 良い家庭であるほど、座敷牢で外へ出したくない、そういった家族は私が行くことを最初を歓迎しなかった。 その後だんだんとわかってくれるようになりました。 

特に盲女子の場合には悲惨でした。 社会復帰して成功した女性もいます。 今の聖明園の歌の作詞をした内藤ふきえ?さん、満州から子供2人を連れて帰国、住むところもなく、福祉事務所から私のところに連絡がありました人です。 弱視でした。 その人に点字を教えて、あんまマッサージの資格を取得してもらって、台東区の病院で乳房マッサージということで成功しました。 家も1軒建て、子供2人を立派に育てあげました。 祖父が国会議員と言う家の女性が家に閉じ込められていて、学校にも通っていませんでした。 盲学校に入学させて飛び級で中学を終えて、鍼灸あんまマッサージの資格をとって、社会復帰をして立派に自立した人もいました。(4年生へ二十歳の時に入学)

いろいろな福祉の活動を始めて、聖明福祉協会を立ち上げたのは昭和30年です。(26歳)10年間は国の補助金もなく、学校などに鉛筆を売ったりして資金集めをしました。 封かん紙を作って買ってもらったりしました。 いろいろな人々に支えられて資金を作ることができました。 物事に当たるときに、いつも誠実に誠意を持って努力をすれば、必ず道は開けると思って、誠実に人に訴え、話をし続けてきました。 輪がどんどん広がっていきました。 人が支えてくださったから、今日があるわけです。 

青梅に土地を購入することになりましたが、道路を作るにあたって、地主の方が何人もいて説得することが大変でした。 ある大地主の方へ事情を説明したら寄付すると言っていただきました。 その方とはずっと今までものすごくご支援をいただくことになりました。 政界、財界でもすごい有力者だと言うことが後でわかりました。 誠実に誠意を持って努力すれば必ず道を開けると言う自信をこの時に持ちました。 社会事業家などと言うのは、物乞いと思われてたそんな時代でした。  それを切り開いて今日まで来ました。

17歳の時に親孝行できずに父親を亡くしてしまいました。 同じ老人ホームをやるのならば、自分と同じ失明の方々のために、父親に対する親不孝の穴埋めのためにもと思って、高齢者に対する施設を作ることを考えました。 お風呂に一緒に入って、その人たちの背中を流したりしていきました。 今ある施設は全室個室で、全室トイレ付き、全室に電話を入るようにしました。 自分が入りたいと思う施設でなければ、お客様にうちの施設へどうぞおはいり下さいと言う事は言える資格はないです。 昭和39年にできた我が国に最初に出来た施設です。

あっという間の70年間でした。 全部山だったのを1万坪をブルドーザーで整地して、3つの施設に300人のお年寄りが生活ができるような施設に成長して、よくこんな事業ができたなと思います 盲大学生のための奨学金制度は日本にありませんでしたが、盲大学生奨学金制度を創設して 200人以上の方がこの奨学金を活用して、大学教育を受けて、才能を持った方がたくさん排出されました。 「よくやりましたね」、と自分で自分に言い聞かせています。 

IT機器の科学技術の進歩によって目の見えない人にどれほど恩恵を受けているかわかりません。 まだまだ社会では失明者に対するあるいは障害者に対する理解はまだまだ充分ではないんじゃないかと思います。 60年間書いてきた日記を整理して伝記を作って生涯を終えたいと思います。(娘が書いてくれる。) 自分のためのPRではなくて、福祉を社会に知って欲しい、そういう悲愴な叫びとして伝記を期待して書いてもらおうと思っています。 いくつになっても夢と希望は失いたくない。そして目標を持つと言う事は大変大事ではないかと思います。

「志立てて歩みし七十年支えてくれし人ぞ尊し」  本間昭雄

2026年6月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・絶望名言「マリリン・モンロー」

頭木弘樹(文学紹介者)          ・絶望名言「マリリン・モンロー」 

マリリン・モンローは192661日に生まれ、196285日に36歳で亡くなりました。 今年は生誕100年にあたります。

「一人ぼっち。 私は一人ぼっち。いつだって一人ぼっち。どうしようもなく。」  マリリン・モンロー (25歳頃の言葉、黒板手帳の1番最初のページに書いてあった。)

マリリン・モンローはアメリカの俳優で、映画の代表的な出演作には「ナイアガラ」「紳士は金髪が好き」「7年目の浮気」「お熱いのが好き」などがあります。

「私は今でも、自分が望まれて生まれた子ならいいのにと思うの。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローの母親は結婚していなかった。 モンローが生まれた後母親は働いていたので、知り合いの夫婦に赤ん坊を預ける。 祖母が赤ん坊のモンローの顔に枕をつけて殺そうとしてしまう。 結婚して生まれた子ではないと言うことが、宗教的に許せなかったらしい。 モンローは、自分の人生の中で、1番最初の記憶は「死にそうになって、昼寝から目を覚ましたことがあった。何かが顔に落ち付けられていたの。 枕かもしれない。必死でもがいわ。」

「誰も私のことを娘とは呼ばなかった。 誰も私を抱いてくれなかった。 キスをしてくれなかった。 誰1人クリスマスになると大きなツリーが飾られて、家中の子供がプレゼントをもらうのに、私にはなかった。 1人の子は私にオレンジをくれたわ。 あのクリスマスを覚えてる、1人きりでオレンジを食べたっけ。 元気を出すためによく空想空想したわ。でも他の子供が愛されてるように、愛される夢は見たことがなかった。 それは私にとってあまりにも大それた創造だったが。

その後、モンローは、児童養護施設に入れられる。その時のことを次のように語っている。 「どの子の親も死んでいった。 私には、少なくとも1人の親がいたわ。 でも私を欲していなかった。 他の子にそれを説明するのは、あまりにも恥ずかしかった。」

「楽しかったのは、映画に連れて行ってもらう時だけ映画が好きだった。 それだけが楽しみだったわ。 映画スターが私の友達だった。 その時だけ自由になれたの。」  それで、映画スターを目指した。

「私の肉体のあらゆる部分に押し寄せてくる恐怖、自分の体に触れる恐怖。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローは小さい時に40代位の男に性的虐待を受けた。(8 、9歳の頃)マリリンはこのことを母親に告げたが、母親は間借り人のその男の人柄を信じてたので、嘘だと思って、逆に娘を平手打ちしてしまう。 マリリンは被害者なのに、自分がいけないような罪悪感を抱いてしまう。 母親が体調不良で早引きして帰宅したときに、その男の部屋で裸の娘を見つけるわけです。 母親は激怒してナイフで襲いかかる。 その男は、救急車の中で母親は正気ではないと訴える。 母親も精神病院に入れられてしまう。

マリリン・モンローは、この性的虐待について、マイストーリーと言う自伝の中で公にしています。 大スターであるのに、大変な勇気。

ジョン・F・ケネディーの誕生祝賀会でマリリン・モンローが歌っている「ハッピーバースデーミスタープレジデント」と、いう曲

歌った2月半後にマリリン・モンローは36歳の若さで亡くなる。 自宅の寝室のベッドの上で、睡眠薬鎮痛剤の過剰摂取が原因と自殺の可能性が高いと言うのが、公式発表です。自殺説、他殺説あり。 ジョン・F・ケネディーも翌年、19631122日に暗殺される。

「私は今でも人に気に入られようとしたり、相手が聞きたいことを言おうとしたりしてしまう。それもまた恐怖心からなので。」 マリリン・モンロー

「人は、グループ内で、他と違うものを差別したがる。 私はグループの中でうまくやれた事は1度もない。 グループとは2人以上のこと。」

子供の頃の言葉として次のように書いてます。 「自分自身が冷たくされることに耐えながら、かつて私が持っていた感情は怒りではなく、拒否や気づけられることに無感覚になることで、そこで本当の愛の理想的なイメージを失ったの。 (無感覚になることで自分を守っていたんでしょうね。)

「私たちのほんの1部分が他の人たちの1部分に触れられるだけ、ある人の真実は、所詮はその人だけのもの。 私たちが分かち合えるのは他の人たちに受け入れてもらえるとわかっている部分だけ、だから多くの人は孤独。」

「どうして私はこんなに苦痛を感じるの。 それからどうして私は他の人たちよりも、つまらない人間だと感じるの。 いつだって、そう感じてきた人間未満のように。」 マリリン・モンロー

「人は私に会いたがるわ。 そんな今でも誰も見向きもしなかった頃を覚えている。 小さな下働き。ノーマ・ジーン 誰も母親でさえも見向きもしなかった。 あの日々を。」  ノーマ・ジーンと言うのは、マリリン・モンローの本名

「有名人であると言う事は幸せな気分になれるけども、それはほんの一時的なものね。 キャビアのようなもの。 キャビアはおいしいけど、毎日毎食となると。」

マリリンは人に優しく行いが立派だった。  エラ・フィッツジェラルドと言う黒人の歌手に出演できるように交渉し道が開けて行った。 人種隔離政策の時代に、白人のハリウッドスターが人種差別にはっきり反対を表明すると言う事、これはとっても珍しかったと言うことです。 彼女は自分のキャリアを危険にさらしてまで支援したと評価されている。

「私は時折、人間が本当にやり切れなくなる。 人は、私と同じように、誰しも皆問題を抱えることがわかっていても。」 マリリン・モンロー

「有名になると、人間の本性の生々しい部分にぶつかるの。 名声がある相手にはどんなことでも言っていいと、そんな特権が与えられた気になるみたい。」

「誰かと不幸せでいるより、1人で不幸せのほうがいいわ。 今までの経験から言えばね。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローは3回結婚して全て離婚しています。 最初は16歳の時、相手は21歳の青年。 2回目は27歳の時、相手は大リーグのスター選手ジョー・ディマジオ(モンローに仕事を辞めて家に入って欲しかったが、9ヶ月で離婚) 3回も30歳の時、相手は作家のアーサー・ミラーで5年後に離婚。 マリリン・モンローがなくなった時にも葬儀を取り切ったのはジョー・ディマジオでした。 その後彼はずっと独身を通をして、モンローの墓に週3回赤い薔薇を供え続けた。 84歳で亡くなったときには、やっとマリリンに会えると言った、とも伝えられてます。

「私も安定した関係を築けたらいいのに。 いつも帰る場所があって、いつも私がすることに関心を持ってくれて、辛い時も一緒に乗り越えてくれる。 お互いを支えるような関係、私は「死を2人をわかつまで。」という言葉が大好きだったの。 いつも最初はうまくいくように思えるけれど、その後で何かが起こる。 もしかしたらそれは私のせいなのかもしれない。」

マリリン・モンローの人生について調べていくと、当たり前とされていることがこの人の人生にはなかったんだなぁとすごく感じました。 (両親が揃ってる、子供の時に親から可愛がられるとか。)

多くの人が当たり前と思っていることほど、それが欠けている人にとっては辛いです。 当たり前が自分の手に入らない。

「私は幸せだったことがないから、幸せなのが当たり前だと思った事は1度もなかった。」  マリリン・モンロー