2026年7月5日日曜日

本間昭雄(社会福祉法人聖明福祉協会会長)  ・「失明がくれた幸せ」

本間昭雄(社会福祉法人聖明福祉協会会長)  ・「失明がくれた幸せ」 

本間家は代々医師の家系で、先祖は水戸藩の藩医をしていました。 本間さんは医師を目指して学業に励んでいた二十歳の時に不慮の事故により失明しました。  将来への不安で自暴自棄になっていた本間さんを救ったのは、祖父の遺言書に残されていた本間さんへの言葉だと言います。 1955年、26歳で聖明福祉協会を設立して以来、日本初の軽費盲老人ホームの設立、日本初の盲大学生奨学金制度の創設等、視覚障害者の福祉活動の向上に力を尽くしました。 70年余りの社会福祉の道のりと今思うことなどを伺いました。

山を切り開いて施設を順番に建てました。 1つは盲老人ホーム、養護老人ホーム、自分の事は自分でできる人たちが利用される施設で定員100名、目が見えなくて寝たきり状態になった介護の必要な方の施設が100名、目は見えるけれども、色々と障害ある方たちが利用される施設が 96名、この3つの施設を経営しています。  70年間この道一筋に歩んでくることができて、こんな幸せな人生はない。  私は失明したからこそ、この事業があるわけで、私自身があるわけだとそう思って感謝しています。

昭和4年生まれ、年齢は974ヶ月です。 スポーツの好きな活発な少年でした。  本間家は代々医者の家系で先祖は茨城県の水戸です。 徳川家の藩医をしていました。  400年ぐらい続いている医者の家系です。 医学部を受けて浪人中に風邪をひいて注射を右腕に打たれて、右腕橈骨神経麻痺を起こして、今でも右手は不自由です。 3ヶ月経っても動かないので、大きな整形外科で診てもらったら、すぐ手術をすると言うことになりました。 3回手術を行いました。 その結果両眼底に出血をして失明をすると言うことになりました。 20歳の春でどう生きたらいいか大変悩みました。心も沈んで、夢も希望も何も持てない自暴自棄になりました。 

祖父が私が2歳の時に遺言書を残してました。 書き出だしに「汝を最も生愛す。」と書いてありました。  医者として市民のために尽くしたこと、徳川家の多くの人命救ったということで「救」という名前が送られたこと、「汝の成るを待つ」と書いてありました。 最後には「人の一生は不平不満を去り、忍の一字を守るべし、孝は国の大事となり。」と書いてありました。  同じ失明の先輩に導かれて教会へも参りました。 GHQから日本には社会事業家の専門家を要請する学校を創設するようにと言うことで、できたのが社会事業学校(今の日本社会事業大学)です。(清瀬にある。)  

盲人として、初めて入学を認められました。 社会福祉の道に入っていきました。昭和30年に独立して在宅の資格障害者の家庭訪問とか、病院で失明を宣告された方々と一緒に点字を勉強したり、あんまマッサージなどを教える更生施設へ紹介したり、眼科検診を医師とともに回ったりしました。 福祉と言う言葉がなかった時代です。 聖明福祉協会と言う組織を作って、今日で言う在宅サービス、その先掛けを70年前に始めました。 良い家庭であるほど、座敷牢で外へ出したくない、そういった家族は私が行くことを最初を歓迎しなかった。 その後だんだんとわかってくれるようになりました。 

特に盲女子の場合には悲惨でした。 社会復帰して成功した女性もいます。 今の聖明園の歌の作詞をした内藤ふきえ?さん、満州から子供2人を連れて帰国、住むところもなく、福祉事務所から私のところに連絡がありました人です。 弱視でした。 その人に点字を教えて、あんまマッサージの資格を取得してもらって、台東区の病院で乳房マッサージということで成功しました。 家も1軒建て、子供2人を立派に育てあげました。 祖父が国会議員と言う家の女性が家に閉じ込められていて、学校にも通っていませんでした。 盲学校に入学させて飛び級で中学を終えて、鍼灸あんまマッサージの資格をとって、社会復帰をして立派に自立した人もいました。(4年生へ二十歳の時に入学)

いろいろな福祉の活動を始めて、聖明福祉協会を立ち上げたのは昭和30年です。(26歳)10年間は国の補助金もなく、学校などに鉛筆を売ったりして資金集めをしました。 封かん紙を作って買ってもらったりしました。 いろいろな人々に支えられて資金を作ることができました。 物事に当たるときに、いつも誠実に誠意を持って努力をすれば、必ず道は開けると思って、誠実に人に訴え、話をし続けてきました。 輪がどんどん広がっていきました。 人が支えてくださったから、今日があるわけです。 

青梅に土地を購入することになりましたが、道路を作るにあたって、地主の方が何人もいて説得することが大変でした。 ある大地主の方へ事情を説明したら寄付すると言っていただきました。 その方とはずっと今までものすごくご支援をいただくことになりました。 政界、財界でもすごい有力者だと言うことが後でわかりました。 誠実に誠意を持って努力すれば必ず道を開けると言う自信をこの時に持ちました。 社会事業家などと言うのは、物乞いと思われてたそんな時代でした。  それを切り開いて今日まで来ました。

17歳の時に親孝行できずに父親を亡くしてしまいました。 同じ老人ホームをやるのならば、自分と同じ失明の方々のために、父親に対する親不孝の穴埋めのためにもと思って、高齢者に対する施設を作ることを考えました。 お風呂に一緒に入って、その人たちの背中を流したりしていきました。 今ある施設は全室個室で、全室トイレ付き、全室に電話を入るようにしました。 自分が入りたいと思う施設でなければ、お客様にうちの施設へどうぞおはいり下さいと言う事は言える資格はないです。 昭和39年にできた我が国に最初に出来た施設です。

あっという間の70年間でした。 全部山だったのを1万坪をブルドーザーで整地して、3つの施設に300人のお年寄りが生活ができるような施設に成長して、よくこんな事業ができたなと思います 盲大学生のための奨学金制度は日本にありませんでしたが、盲大学生奨学金制度を創設して 200人以上の方がこの奨学金を活用して、大学教育を受けて、才能を持った方がたくさん排出されました。 「よくやりましたね」、と自分で自分に言い聞かせています。 

IT機器の科学技術の進歩によって目の見えない人にどれほど恩恵を受けているかわかりません。 まだまだ社会では失明者に対するあるいは障害者に対する理解はまだまだ充分ではないんじゃないかと思います。 60年間書いてきた日記を整理して伝記を作って生涯を終えたいと思います。(娘が書いてくれる。) 自分のためのPRではなくて、福祉を社会に知って欲しい、そういう悲愴な叫びとして伝記を期待して書いてもらおうと思っています。 いくつになっても夢と希望は失いたくない。そして目標を持つと言う事は大変大事ではないかと思います。

「志立てて歩みし七十年支えてくれし人ぞ尊し」  本間昭雄

2026年6月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・絶望名言「マリリン・モンロー」

頭木弘樹(文学紹介者)          ・絶望名言「マリリン・モンロー」 

マリリン・モンローは192661日に生まれ、196285日に36歳で亡くなりました。 今年は生誕100年にあたります。

「一人ぼっち。 私は一人ぼっち。いつだって一人ぼっち。どうしようもなく。」  マリリン・モンロー (25歳頃の言葉、黒板手帳の1番最初のページに書いてあった。)

マリリン・モンローはアメリカの俳優で、映画の代表的な出演作には「ナイアガラ」「紳士は金髪が好き」「7年目の浮気」「お熱いのが好き」などがあります。

「私は今でも、自分が望まれて生まれた子ならいいのにと思うの。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローの母親は結婚していなかった。 モンローが生まれた後母親は働いていたので、知り合いの夫婦に赤ん坊を預ける。 祖母が赤ん坊のモンローの顔に枕をつけて殺そうとしてしまう。 結婚して生まれた子ではないと言うことが、宗教的に許せなかったらしい。 モンローは、自分の人生の中で、1番最初の記憶は「死にそうになって、昼寝から目を覚ましたことがあった。何かが顔に落ち付けられていたの。 枕かもしれない。必死でもがいわ。」

「誰も私のことを娘とは呼ばなかった。 誰も私を抱いてくれなかった。 キスをしてくれなかった。 誰1人クリスマスになると大きなツリーが飾られて、家中の子供がプレゼントをもらうのに、私にはなかった。 1人の子は私にオレンジをくれたわ。 あのクリスマスを覚えてる、1人きりでオレンジを食べたっけ。 元気を出すためによく空想空想したわ。でも他の子供が愛されてるように、愛される夢は見たことがなかった。 それは私にとってあまりにも大それた創造だったが。

その後、モンローは、児童養護施設に入れられる。その時のことを次のように語っている。 「どの子の親も死んでいった。 私には、少なくとも1人の親がいたわ。 でも私を欲していなかった。 他の子にそれを説明するのは、あまりにも恥ずかしかった。」

「楽しかったのは、映画に連れて行ってもらう時だけ映画が好きだった。 それだけが楽しみだったわ。 映画スターが私の友達だった。 その時だけ自由になれたの。」  それで、映画スターを目指した。

「私の肉体のあらゆる部分に押し寄せてくる恐怖、自分の体に触れる恐怖。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローは小さい時に40代位の男に性的虐待を受けた。(8 、9歳の頃)マリリンはこのことを母親に告げたが、母親は間借り人のその男の人柄を信じてたので、嘘だと思って、逆に娘を平手打ちしてしまう。 マリリンは被害者なのに、自分がいけないような罪悪感を抱いてしまう。 母親が体調不良で早引きして帰宅したときに、その男の部屋で裸の娘を見つけるわけです。 母親は激怒してナイフで襲いかかる。 その男は、救急車の中で母親は正気ではないと訴える。 母親も精神病院に入れられてしまう。

マリリン・モンローは、この性的虐待について、マイストーリーと言う自伝の中で公にしています。 大スターであるのに、大変な勇気。

ジョン・F・ケネディーの誕生祝賀会でマリリン・モンローが歌っている「ハッピーバースデーミスタープレジデント」と、いう曲

歌った2月半後にマリリン・モンローは36歳の若さで亡くなる。 自宅の寝室のベッドの上で、睡眠薬鎮痛剤の過剰摂取が原因と自殺の可能性が高いと言うのが、公式発表です。自殺説、他殺説あり。 ジョン・F・ケネディーも翌年、19631122日に暗殺される。

「私は今でも人に気に入られようとしたり、相手が聞きたいことを言おうとしたりしてしまう。それもまた恐怖心からなので。」 マリリン・モンロー

「人は、グループ内で、他と違うものを差別したがる。 私はグループの中でうまくやれた事は1度もない。 グループとは2人以上のこと。」

子供の頃の言葉として次のように書いてます。 「自分自身が冷たくされることに耐えながら、かつて私が持っていた感情は怒りではなく、拒否や気づけられることに無感覚になることで、そこで本当の愛の理想的なイメージを失ったの。 (無感覚になることで自分を守っていたんでしょうね。)

「私たちのほんの1部分が他の人たちの1部分に触れられるだけ、ある人の真実は、所詮はその人だけのもの。 私たちが分かち合えるのは他の人たちに受け入れてもらえるとわかっている部分だけ、だから多くの人は孤独。」

「どうして私はこんなに苦痛を感じるの。 それからどうして私は他の人たちよりも、つまらない人間だと感じるの。 いつだって、そう感じてきた人間未満のように。」 マリリン・モンロー

「人は私に会いたがるわ。 そんな今でも誰も見向きもしなかった頃を覚えている。 小さな下働き。ノーマ・ジーン 誰も母親でさえも見向きもしなかった。 あの日々を。」  ノーマ・ジーンと言うのは、マリリン・モンローの本名

「有名人であると言う事は幸せな気分になれるけども、それはほんの一時的なものね。 キャビアのようなもの。 キャビアはおいしいけど、毎日毎食となると。」

マリリンは人に優しく行いが立派だった。  エラ・フィッツジェラルドと言う黒人の歌手に出演できるように交渉し道が開けて行った。 人種隔離政策の時代に、白人のハリウッドスターが人種差別にはっきり反対を表明すると言う事、これはとっても珍しかったと言うことです。 彼女は自分のキャリアを危険にさらしてまで支援したと評価されている。

「私は時折、人間が本当にやり切れなくなる。 人は、私と同じように、誰しも皆問題を抱えることがわかっていても。」 マリリン・モンロー

「有名になると、人間の本性の生々しい部分にぶつかるの。 名声がある相手にはどんなことでも言っていいと、そんな特権が与えられた気になるみたい。」

「誰かと不幸せでいるより、1人で不幸せのほうがいいわ。 今までの経験から言えばね。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローは3回結婚して全て離婚しています。 最初は16歳の時、相手は21歳の青年。 2回目は27歳の時、相手は大リーグのスター選手ジョー・ディマジオ(モンローに仕事を辞めて家に入って欲しかったが、9ヶ月で離婚) 3回も30歳の時、相手は作家のアーサー・ミラーで5年後に離婚。 マリリン・モンローがなくなった時にも葬儀を取り切ったのはジョー・ディマジオでした。 その後彼はずっと独身を通をして、モンローの墓に週3回赤い薔薇を供え続けた。 84歳で亡くなったときには、やっとマリリンに会えると言った、とも伝えられてます。

「私も安定した関係を築けたらいいのに。 いつも帰る場所があって、いつも私がすることに関心を持ってくれて、辛い時も一緒に乗り越えてくれる。 お互いを支えるような関係、私は「死を2人をわかつまで。」という言葉が大好きだったの。 いつも最初はうまくいくように思えるけれど、その後で何かが起こる。 もしかしたらそれは私のせいなのかもしれない。」

マリリン・モンローの人生について調べていくと、当たり前とされていることがこの人の人生にはなかったんだなぁとすごく感じました。 (両親が揃ってる、子供の時に親から可愛がられるとか。)

多くの人が当たり前と思っていることほど、それが欠けている人にとっては辛いです。 当たり前が自分の手に入らない。

「私は幸せだったことがないから、幸せなのが当たり前だと思った事は1度もなかった。」  マリリン・モンロー





2026年6月27日土曜日

山崎エマ(ドキュメンタリー監督)     ・「当たり前の中にある価値を見直したい 前編」

山崎エマ(ドキュメンタリー監督)   ・「当たり前の中にある価値を見直したい 前編」

2025年第97回アカデミー賞、最優秀ドキュメンタリー短編映画賞にノミネートされた作品を製作された「小学校それは小さな社会」が国内外で反響を読んでいます。その作品を制作したドキュメンタリー監督山崎エマさんへのインタビューです。 山崎エマさんは、1989年イギリス人と日本人の母のもとに生まれ、大阪の公立小学校から中高は神戸のインターナショナルスクール、ニューヨークの大学卒業後、アメリカで映像の世界に入りました。 1回目の今夜は映画の内容や作品に込められた思い、ご自身の小学校から大学までの道のりをインタビューします。

「小学校それは小さな社会」と言うのは、ドキュメンタリー映画です。 都内の公立小学校を1年間、入ってくる1年生と出て行く6年生を中心に春夏秋冬を追ってく日常を撮ってるものです。 私の意向としてはこの6年間で日本の社会が作られるのではないかというか、ここで人間形成され、集団生活した人間たちが、いずれその後の社会出ていくので、社会に反映していくのではないかと思いながら、自分の小学校の経験もあるので、10年かけて作ったドキュメンタリー映画です。 2021年度1年間撮って約700時間ほどの映像を撮りました。(コロナ禍)

映画の主人公は人間ではなくて、学校の場所そのものと思ってました。 結果としてその中には生徒、教員12 、3名ほどの方々が出てきます。 中でも小学校1年生のシンバルの子と、6年生の縄跳びの男の子のストーリーなどがあります。 何かを作って、そこに向かっていく、できなかったことができると言う経験を積み重ねていく場所だと思います。 

世界に届く日本の姿はまだ限定的でアニメを通して文化発信されてると思いますが、自分が日本のことを考えたときに、もっといろいろあるなあと思いました。    6年間の小学校教育を通して日本の社会が見えてくるのではないかと思いました。日本では当たり前と思っていたことが結構すごいと言うようなことがあります。 掃除をする、給食の配膳をする、子供たちが自分たちで学校を作っていく、飼育委員、放送委員、行事を子供たちが主体となって、運動会や音楽会などをやってくこのこと自体が他の国から見ると驚きということです。 

自分たちの国と比べて考えるきっかけになったと言う部分が多かったと聞いています。日本の小学校の特徴としては、集団の中で役割があって、責任を持ってそれぞれやっていきましょうと言うことです。小さな社会で生きていく練習の場と言うのは私の見る日本の小学校やり方だと思います。 その結果は日本の社会に反映されていると思います。 小学校の6年生のなると日本人になってると言うふうに思います。 

フィンランドは教育大国ということで、今でも毎年のように日本から視察団が行きます。 特徴としては、個人の尊重、自由、子供たちの権利を多く渡すと言うことで有名になった国と言われています。 フィンランドの方としては個人主義に走りすぎたのではないかと言う意見が多くて、自分たちの事しか考えないと言う子供は増えてきている。 その中でこの映画を見ると、コミュニティーの一員としてどうあるべきかを考える教育だと、集団の中で自分の役割を貢献する、自分の役割を果たすと言うようなベースがあるシステムと捉えています。 

父がイギリス人で、母は日本人のハーフと言われていますが、中高はインターナショナルスクールで勉強しました。 その後は映画監督になりたいということで、大学はアメリカのニューヨークに留学して勉強しました。 その後10年位余ニューョークで過ごしました。 自分では普通の仕事をしてるつもりが凄くがんばりましたとか、責任感がある、時間にも遅れない、周りも配慮がある、自己中心的ではないと言うなことを言われました。 でも日本人だけですけどもと言うふうに気持ちが生まれました。 自分はどうしてこういう人間になったんだろうと言う振り返るきっかけにもなりました。 小学校の6年間で学んだ。ちょっとしていろんなことを学んだとが自分の強さとなって得をしたなと言うふうに思いました。 

日本のことを知りたいならば、小学校教育が大事だと思いました。 1人では生きていけない社会で、日本の中で日本のやり方は強さがたくさんある、これは海外の人にも気づいてもらえるのではないかと思いました。 公立小学校を丸々撮りたいと思いました。 5年ぐらいかけて参加してましたが見つかりませんでした。 結局世田谷区の小学校に了解を得ることができました。 

その小学校は基本的にはごく普通の小学校ですが、当時の校長先生が特別活動(勉強い以外の事)に力を入れている方でした。 基本的には私とカメラマンの方と音声の方と3人で1年間挑みました。 撮影時間は700時間ですが、撮影してない時間の方が多く、準備期間、編集期間を含めて約4000時間学校にいました。 学校では200日ぐらいは1年間ありますが、そのうちの150日間ぐらいは学校にはいきました。 なるべく自然な姿を撮ることにして、完成された作品は700時間から99分に編集しました。

先生方も大変で、社会からの求められすぎで、そういう姿を見つつ、先生方もまた人間だと言うことを感じました。 子供たちの成長を期待して導いて、成長をすれば喜んでくれたりしています。 悩んだり喜んだり苦しんだりする姿を入れたいと思ったのもそこで感じた部分が強かったからと思います。 

父も母も祖父母も全員生生でした。 やはり小さい頃から教育が人を作るし、教育が未来を作っていくと言う感覚がありました。 母は日本人父がイギリス人で、母とは日本語、父とは英語、両親の間では英語と言う形です。 中学高校はインターナチュラルスクールに行きましたが英語でした。 小学校の時は行事等いろいろやっていましたが、行事などには力を入れてませんで、周りからは個性がないと言われました。 私って何なんだろうと考え始めました。 映像との出会いは中学校2年生の時でした。 これにハマってしまいました。 小学校の頃にイチローさんの本の影響受けて、小さい頃から努力を重ねて大きな夢を持てば、夢は叶うみたいな人生のシンプルな考え方の本に感銘を受けました。 映像制作に対して、映画監督になりたいと言う夢を持ちました。

自分が感じたことを伝えたいと言う思いがあり、映像であるならば一生飽きないんではないかと思いました。 映像を学びたいと思って、大学はニューヨークに行きました。 20代の大半をニューヨークで過ごしました。 私は何者なんだと言うことを経験して自分は日本人なのか、イギリス人なのか、アメリカ人なのかどれかを選ばなきゃいけないと言うふうに思い始めて選びきれず悩みました。 至った結論は、何人とか選ばなくてもいいと、全部自分のものだし、環境によって変わるのはどんな人でもなると言うことで吹っ切れていきました。 

日本の小学校教育も日本社会も良い所と悪いところは隣り合わせ、表裏一体というかありますが、何事も度すぎるとダメだと思います。 この作品を見て思っている小学校教育全般の意見、自身の経験を反映して、掛け算にして感想を持つような作品だと思います。  小学校批判、教育批判はいろんな人たちが声を出して改善もされつつあると思いますが、足りてないのは当たり前すぎて、何もすごいと思わないところに気づくことだと思いました。 作品を見ていろいろ感じるように作ったと言う方が作品が広がる。 作品を後は、いろんな方法でこの作品を活用してほしいと思います。




2026年6月20日土曜日

「明日への言葉」投稿累計総数 5000回(秋田 宏)

 「明日への言葉」投稿累計総数 5000回(秋田 宏)

投稿累計総数 5000回を迎える事になりました。

年数で15年余りになります。

こうして続けられてきたのも、大きな病気、事故などもなく過ごしてこられたものが第一に挙げられます。 そのほかにもKさんからの校正やほかの方々からの応援もあり、感謝しています。

1年前ぐらいから長くパソコン画面を見るのが辛くなってきて、なんとか今日に至りましたが、最近はよりつらくなってきて不本意ではありますが、一旦5000回と言う切れ目のいい数字でほぼ毎日続けてきたものは終了させていただきます。  この先、きっぱりやめてしまうのか、それともたまにはより興味を引くような内容については投稿をしてみるかは、一休みして考えたいと思います。

「明日への言葉」のブログをご覧いただいた方々には申し訳ないとは思いますが、ご了解ください。

ありがとうございました。


中田達也(神戸大学大学院国際海事研究センター准教授)・神話の海に沈んだ村を探す

 中田達也(神戸大学大学院国際海事研究センター准教授)・神話の海に沈んだ村を探す(累計投稿数:5000)

兵庫県淡路島の南端、南淡路市灘地区の沖に沼島がありますが、このすぐ西側にかつて半島が延び、白石村と言う村があったと伝えられています。 この白石村は、室町時代による大地震の津波のため半島ごと水没をしたとされていますが、本格的な調査はこれまで行われた事はありません。 海底の鉱物を調査する中で、水中の文化遺産と出会ってきた中田さんが、水中ドローンなどを使って独自に調査を始めました。 調査の大きなポイントは神話。

天より使わされたイザナギ、イザナミが天の沼矛(ぬぼこ)で、大海原を掻き回すと、その矛から滴り落ちる雫が、おのずと凝り固まって島となり、日本最初の国土オノゴロ島(古事記』では淤能碁呂島(おのごろじま)、『日本書紀』では磤馭慮島(おのころじま))が生まれ、この島に降り立ったイザナギ、イザナミが次に淡路島を作り、さらに日本の大八島を作ったとされています。 いわゆる国生み神話です。 オノゴロ島は沼島であると言う説があり、中田さんは沼島のすぐ近くにあったとされる白石村は、神話の世界と実際の歴史をつなぐ存在になるのではないかと考えています。 白石村の存在を明らかにすることの意義、また水中文化遺産の調査と保全の実際についてお話を伺いました。

私は白石村はあったと思っています。 1498年に明応の南海地震がありました。  その地震によって生じた津波によって水没したと言う明確な記録が残っています。沈んだのは2年後と記録に残ってます。 古地図に破線と言う形で実際に描かれ、そして郷土史等にも書かれています。  考古学による物証が必要であるかと思います。

私はもともとは海底鉱物資源の国際的規制と言う研究をしていた研究者です。  海においても海底採掘をしていけば、沈没船や遺物も見つかるとなっていくだろうと言うことで、海底鉱物資源の採掘について研究を深めようと言うことで、沈没船やその積み荷にたどり着いたということです。

兵庫県チームの1人の高校生、滝口翔太郎君が「幻の白石村」と言う発表をしました。 それがきっかけとなりました。 地元では漁業者の言い伝え、あるいはもう廃校になってしまいましたが、義務教育の学校がありまして、学芸会等でオノゴロ島と言う台本が書かれて、それを毎年のように演じると言う伝え方をしていました。 

「白石村」を二つの言葉「白石」と「村」に分けたいと思います。 「白石」は弓弦羽神社に行って宮司に話を聞いたところ、今も弓弦羽神社には小さな壁でかこまれたところに白い石がいっぱい敷き詰められていて、ここは聖なる場所だと言われました。 この石は白石村があった場所から拾い上げられた非常に貴重で、かつ聖なる石だと言われました。 オノゴロ島ということで日本の生まれた場所だと言うことでした。 国生み神話の元になった島。 三重県にある生田神社にも、イザナミ、イザナギをご神体とするその神社の中にも、同じような白い石が飾られています。

白石は地層にあると言うわけではなくて、たくさんのものを持ってきて、そこに置いていたものをその残滓と言うように説明していました。 弓弦羽神社はかつては道なき道で、どれだけ運ぶのは大変だことだったかと思われます。 「村」であると言う事は共同体であるはずです。 津波によって沈んだとしても、生活痕や茶碗の1部でも見つかってくれれば、複数の家族がいたであろう1つの類推のきっかけにもなります。

水中ドローンでの調査を行いました。 石畳と言うようなものとか、明確な人工的な凹凸と思われる場所がありました。 それ以外は見つかりませんでした。    もし台所の茶碗とか生活痕のものが見つかれば色々と広がっていくものと思います。 調査は水中考古学と言う分野に属しますが、陸と違ってものすごく費用がかかります。 確実にそこにあるかがわからないと国からの費用は出ません。 元寇で4500隻の船が来たと言われていますが、最初に文化財保護の適用が法的に認められるまでに5,6年、船が一隻見つかるまでに30年かかっています。 35年かけてようやく国の史跡になりました。 白石村も相当するものがあると思います。    学術的調査の段階に来ているなと思います。

もし白石村が実際にあったと確認された場合には、他の遺跡と1番異なるところはオノゴロ島の近くであると言うことに他なりません。 神話の元祖となり、天変地異、災害との関わりもある。 オノゴロ島の近くという意味も含めて、白石村の調査は、日本の今後の水中遺跡の発展のためにも、不可避の事業だと思ってます。 

単に考古学にとどまらず、そこに残されたものから、防災への未来への新たな知見を得られる可能性があります。 それと同時に、オノゴロ島の1段階上に移行するための論拠作りと、我々のアイデンティティーを見つめ直す意味で、この白石村は着目するに値するということだと思います。 私は別途、国際協同研究と言う科学研究の代表もやってまして、イギリス、アメリカ、フィリピン、タイ、東チモール、ベトナムの6カ国の代表者をしています。 その人たちを案内するのにどこが1番喜ぶかと考えて、予備知識の勉強した後、オノゴロ島へ連れて行きました。     大変喜んでくれました。





2026年6月19日金曜日

ピーター・バラカン(ブロードキャスター)  ・「“伝える”を続ける理由」

 ピーター・バラカン(ブロードキャスター)  ・「“伝える”を続ける理由」

ピーター・バラカンさんは、1951年イギリスロンドン生まれ。 ロンドン大学の日本学科卒業した翌年、1974年に来日しました。 音楽出版社での勤務を経て、1980年代からラジオ番組などに出演、ヒットチャートにとらわれない独自の目線で選曲した世界各国の楽曲を紹介し続けています。 一方、日本の文化を海外に向けて英語で紹介する番組、「Japanology Plus」(ジャパノロジー・プラスの司会も長年担当しています。 日本と国際社会の架け橋となった功績によって、2021年度日本放送協会放送文化賞を受賞しました。 40年以上自分の言葉で伝え続けている理由は何なのか、ピーター・バラカンさんからお話をお聞きします。

74歳です。 日本での生活は半世紀以上になります。 NHK FMでやっている「ウィークエンドサンシャイン」は1999年からです。(28年目) 選曲についてはまず自分で聞きたいものを選んでいます。 純粋に音楽として紹介したいものかどうかと言うおぼろげな基準です。 インプットとしては、インターネットの時代なので、これが多いですが、イギリスの音楽の月刊雑誌の定期購読はずっと続けています。 そのほかいろいろな情報源があります。 紹介しきれない、いっぱいかけたいものが沢山あります。 

始めた頃は台本がありましたけれども、今は全くないです。 ですから、時間管理が難しいです。 久しぶりにテレビで音楽番組をやることになりました。(3ヶ月間) 映像とともに紹介できるのは3曲となります。 厳選して紹介します。 局の方で映像を見つけてくれます。

1951年生まれで、テレビを購入したのは1956年でした。(5歳) 1962年位からヒットチャートのカウントダウン番組はありそれを聞いていました。(ビートルズが出てくる直前)  中学から高校1年にかけて、それがラジオ体験として1番貴重な時期だったのかもしれません。 

日本に来るきっかけは求人広告です。 日本の音楽社が募集している広告があり、応募しました。 ロンドンで面接がありました。 1974年に日本に来ました。(23歳) 私は比較的順応性はありました。 音楽出版社の国際部で、海外の会社にビジネスレターを英語で書く仕事をしていました。 会社は120名位いました。  1980年にイエロー・マジック・オーケストラ(細野晴臣、高橋幸宏坂本龍一の3人で結成)YMOマネジメント会社に転職します。 彼らの楽曲の著作権を海外に紹介したいと思って、それまでやっていた海外の曲を紹介することと、逆のことをパターンの仕事をつもりで入りました。 日本語も英語もできると言うことで、発音のお手伝いとか歌詞を作るときのお手伝いを英語の知識が必要な仕事は僕のところに回ってきました。 

YMO1983年に解散(散開)しましたが、坂本龍一と矢野顕子の活動に関係した仕事を86年まで続けました。 ラジオ番組を途中化一人で担当するような形になりました。  音楽番組は当時収録が多かったです  当時、FM雑誌がいくつもあり2週間ごとに出ていました。 それで番組の内容が全部1ヵ月前に決まっていました。 私が初めてNHKFM番組を担当したのが、1986年だったと思います。 リスナーに対して古い情報を伝えたくないと言うことで、事後報告と言う形で新しい扱いをするようになりました。 FM電波の規制緩和がその頃からありました。 新しい曲ができたときに、生ワイド番組と言うのが多くなりました。 たちまちFM誌の存在の意味がなくなりました。 

ある人から「空想の力が大きい。」と言われました。 自分が目指したいもの、行きたい方向とかを頭の中ではっきりと想像して、頭の片隅にその空想を置いておくと、自分の潜在意識にそれが入って、おのずとその方向にチャンスがあれば向くものと言うそのようなことを言われました。 チャンスが巡ってきたときに、それを掴みやすいように空想しておくと言うことが大事かと思います。 

1960年代のロンドンは、凄まじい若者のエネルギーが集中していた時期でした。 そこにどっぷりつかりました。 それはラッキーなことでした。 「使わなければ失う。」と言う言葉がありますが、使わない筋肉が退化して、脳も同様です。    新聞、雑誌、本などを読むことも大事だと思っています。 新しい音楽も聴いているし、映画も好きです。 そういう好奇心が変わらないです。 ラジオが1番好きです。(ラジオは無限に音源がある。)


2026年6月18日木曜日

山中しのぶ(自身が認知症・介護施設運営者) ・「ありのままに生きる」

山中しのぶ(自身が認知症・介護施設運営者) ・「ありのままに生きる」 

山中さんは201942歳の時に、若年性アルツハイマー型認知症と診断されました。 子供3人を抱え一家の大黒柱として働いていた時で、家族の将来を思い途方に暮れたいいます。 そんな中、同じように認知症と診断されながら、生き生きと暮らす先輩たちに出会い、少しずつ自身の病を受けることができました。 今では高知県内2箇所で介護施設を運営する一方、講演会などで自身の体験や学びを伝え、認知症への理解を広く訴えています。

認知症ケア学会に参加するために上京しました。 当事者の視点から認知症の理解を考えると言うテーマのシンポジウムで発言しています。 令和4年から高知県の希望大使に委嘱されました。 ADIと言って世界アルツファイマー病協会があります。 そこの国際本人委員としても参加させていただいてます。 今年はリオに行ってきました。(もとは携帯電話の販売会社で営業担当をしていた。)

若年性認知症と認定されたのは2019年です。 3、4年前から時間の間隔のずれというのが結構ありました。 覚えにくなったと言う感覚もありました。 その前に近所の精神外科に行ったら、正式な診断名はわからなかったんですが、チラシをもらって「認知症と共に生きる」と言うもので、22点境界線と書かれていました。   なかなか理解できない状態が3,4年続きました。 若年性アルツハイマー病の主人公のドラマを見て、自分もこれだと確信しました。 そして、若年性アルスファイバー病と診断されました。 

仕事を続く上で、同じ部署だけには理由を説明して仕事を続けていきました。   1年半ぐらい家に引きこもった時期もありました。 ある本の影響で、いつかは自分もオープンにしたいと思って会社を退職することにしました。(20216月)   東京都の希望大使をしている佐藤美樹?さんが働いているDAYSBL Gと言うところに見学に行きました。 社会参加型デイサービスでした。 チラシをポストに投函する仕事をしていました。 そこで人と人との関係性に関銘を受けました。 こんな施設を作りたいと思いました。 

翌年の4月には法人を設立していました。  人の命を預かることになるので、制度、生活とかいろいろな申請とか一生懸命勉強しました。 20224月に「セカンドストーリー」と言う法人をつくりました。 感動した「ストーリー」と言う歌から名前を付けました。 デイサービス「はっぴー」も歌の中から取り入れました。 自動車販売の洗車をしたりする中で、仕事の枠も増えていきました。マンションの清掃もしてます。 働くと言うこともありますが、みんなと会えるとか、いろんな話ができるとか、そういうことが働くより先に大事なんじゃないかなと気づきました。 2024年の暮れぐらいからいろんな検査をして、レビー小体型認知症(レビー小体と呼ばれるたんぱく質が脳に蓄積されることで脳の神経細胞が減少し、認知症の症状を発症 幻視など、ないものが見える症状​・幻聴などもある。)と診断されました。

デイサービス「はっぴー」は2店舗になり、2店舗目拡大のために引っ越ししています。長男は不動産お仕事をしているので移転の為の手伝いをしてもらいました。 次男は次男は介護職員と一緒に働いています。 私の中の家族という言葉は、血縁関係だけの家族ではなくて、大きな意味での家族、エネルギーのことです。   

進行していくのではないかと言う不安はありますが、先の見えない不安で悩むよりも、今日楽しいことをやって、今日1日精一杯生きようと思っています。  認知症になってからもやりたい事は実現できるし、今までの生活も続けることができます。 それは1人では難しいかもしれませんが、仲間や家族、相談できる人などを今から作っていってもらいたいなと思います。  地域のご本人さんと一緒に居場所を作ったり、思いを聞いて、アクションを一緒に起こしていって欲しいなと思います。