2026年3月11日水曜日

垣添忠生(日本対がん協会会長)       ・「Dr.カキゾエ みちのくの沿岸を歩く」

垣添忠生(日本対がん協会会長・国立がん研究センター 名誉総長) ・「Dr.カキゾエ みちのくの沿岸を歩く」 

垣添さんは3年前82歳の春に、東日本大震災で被災した沿岸を南北に走るおよそ1000キロの「みちのく潮風トレイル」を歩き抜きました。 多くの出会いを得ながら歩みを進めるその姿を追ったドキュメンタリー映画「Dr.カキゾエ歩く処方箋」が今全国で順次公開されています。 がんの専門家でもある垣添さんがなぜみちのくの沿岸を歩こうと思ったのでしょうか。 旅の途中で出会った震災で被災した人やがん患者達との交流からどんなことを感じたのでしょうか?

参照 https://asuhenokotoba.blogspot.com/2012/02/blog-post_15.html

1941年生まれ、今年の4月で85歳になります。 がんの専門家でもあり、連れ合いをがんでなくした患者遺族でもあり、さらにはご自身もがんと戦ったがんサバイバーでもあります。 現在は国立がん研究センターの名誉総長でもあり、日本対がん協会の会長として、がん予防や検診の推進、患者や患者家族の支援、がんの正しい知識の普及や啓発などに取り組んでいます。

何故東北を歩くようになったのか、8年位前に全国がんセンター協議会に加盟している32施設、南は九州から北海道まで半年かけてずっと歩きました。(2500キロ位。)その前に妻を亡くした後で四国のお遍路を3年がかりで歩きました。 2022年にドキュメンタリー映画監督の野澤和之さんから、私の書いたものに感動したと言うことで映画を撮らしてほしいと、できるならば歩いて欲しいと言われました。 それでみちのくトレイル1000キロを歩こうと思いました。 この道は青森県の八戸市から福島県の相馬市までの1025キロ。  北山崎、浄土ヶ浜などが印象的でした。 岩のところに松が生えていて植物とは強靭なんだなぁと思いました。

一瞬にしてご主人とご主人の両親を失ってしまった方とか、酒のお店をやっていて「負けねぇぞ気仙沼」と言うラベルを作って、一升瓶を売って、何とか店を立ち直らせたとか、その他いろいろ凄い体験された方に出会うことができました。 岩手県の大槌町吉祥寺と言うお寺の高橋住職にお話を伺いましたが、その一角では2000名近い方が亡くなったり、行方不明になったりもしてます。 巨大な苦しみや悲しみをどうやって一人の身で受けられたのかと聞きましたらば、どんなに忙しくても夜5分でも10分でも座禅を組んで、自分の心を空っぽにしたと言ってました。

3時間、4時間の睡眠時間が続いたと言うことでした。 無私の精神、仏教徒の原点を見たような気がしました。 若い女性の方の両親と姉さんが津波で行方不明になってしまって、私も人の役に立つ仕事をしたいということで、薬剤師になって戻ってきたときに、心臓発作でなくなってしまったと言う女性がいました。 お寺でお預かりしてると言うふうに住職はおっしゃってました。 こういう苦しみ悲しみに会っている方が無数におられると言うことを強く思いました。 乳がんの女性は私を追いかけてきて、15年化学療法をやっていて、頭がすっかり髪の毛が抜けてしまった方がいまして、明るい方でそれだけの苦しみを耐えてきて、お話できたと言うことがありました。その方も亡くなったと言うふうに、お姉さんから連絡がありました。

俳句を作っています。

「春風に防潮堤の遺構立つ」?

「二人の子授かり災後十二年」(被災した時には高校生だった人。)

「災後十二年千の話千の意味」 (伺った話が全部違う。)

俳号は冬瓜(ガンと戦う)

「がん語る女性の顔に春日さし」?(15年がんと闘ったった人への句)

私は大腸癌を内視鏡で切除して、早期発見だったので1日も仕事を休まずに直してしまいました。 妻の昭子も癌で亡くなりました。 二つのがんは直しましたが、三つ目の小細胞肺がんと言う、肺がん4種類の癌の中で1番の悪い癌が見つかりました。 再発して抗がん剤治療をやりましたが、癌が全身に広がっていきました。  妻は自分の余命が3ヶ月位であると言うことを自覚しました。 

ほとんど動けなくなった時に家で死にたいと言いました。 あら(魚)鍋を食べたいということで作って、大きなお茶碗2杯おかわりしておいしいと食べました。  苦労して家に連れ帰りましたが、家に連れてきて本当によかったなぁと思いました。 その翌日12月29日から意識が途切れ途切れになりました。 31日の朝から完全に昏睡状態になりました。 呼吸困難であえていましたが、夕方6時15分突然妻が半身を起こして、私の方を見て自分の右手で私の左手をぎゅっと握って、その後心肺停止になりました。 言葉にはならなかったと思いますが、ありがとうと言って亡くなったと思います。

亡くなった後、妻との対話が一切できないと言う事は本当に辛かったです。   亡くなってから3ヶ月間本当に鬱状態だったと思います。 心を紛らわすためにウイスキーとか強い焼酎を飲み、泣いていました。 よくあんな状態でアルコール依存症にもならず、肝臓も痛めないでこっちの世界に戻って来れたと思います。    仕事はやっていましたけれども、私は仕事は普通にやってるつもりでしたが、周りからは声をかけられないような雰囲気だったと言ってました。 百箇日の法事を過ぎた頃から、腕立て伏せ、腹筋、背筋の運動を始めました。 だんだん生活も規則正しくなってきました。 

1年がかりで見かけ上普通の生活に戻れましたが、やっぱり心の底には深い苦しみ、悲しみは残っています。 そういう経験をすると他者に対して寛容になると思ってます。  癌になった人の苦しみ、悲しみの心情がよくわかるようになったと思います。 いろんな被災の経験者が、どういう状況からどうやって立ち直られたのかとか伺っていくと、すごい勉強になりました。 

毎朝予定よりも1時間早く起きて家でトレーニングをやってます。 腕立て伏せ110回、軽い腹筋500回、スクワット10回ずつツーセットとか相撲の四股を10回とかやってます。  最初のころはそれほどはできませんでしたが、妻が亡くなった、2007年以降ずっとやってます。 人間と言うのは歩くことが1番体を健康に保つためには大事だと思います。 毎日家から事務所まで片道3300歩往復6600歩、歩いてます。 他に歩いているのを足すと10,000歩なんて軽く行きます。 

私は完全高齢単独世帯者です。 家で死のうと思ってます。 往診してくれる良い先生を見つけられました。 玄関ドアを遠隔で施錠したり開錠したりできるように変えました。 信託銀行にエンディングノートのサービスがあって、書類の手続き、スマホ、カード、パソコンの解約とかを全部代行してくれます。 今度のトレイルでだいぶ無理をしたので右膝を痛めました。 

私が思ってきたのは、がん検診の受診率を上げることです。 早期発見すればもう普通の病気ですから。日本に組織型検診と言って、台帳管理をして対象の年齢の人はみんな受けてもらうと言う体制を導入したいと思います。 これは法律をいじらなくてはいけないので大変な作業なのでその方向性だけでも実現したいなと思ってます。 ガンサバイバーを支援すると言うことも私のライフワークです。 家で亡くなりたいと言う人が沢山いて、それを実現できるような体制を実現したい。 38万人ぐらいが癌で亡くなって、そのうちの20万人が配偶者を亡くしている現状です。 医療の中にグリーフケアとかといったことを取り組んでいければなぁと思ってます。

人生の途中で津波で足元を救われた人癌で足を救われた人、そういう意味では同じ経験なんじゃないかと思います。 過酷な体験をしながら、人は何か立ち直ってこられる。 人は何か少しでも希望があれば生きられると言う結論に至りました。  「行動をすることが希望につながるんだ。」と言うふうに思ってきました。

グリーフケアは専門家が手を差し伸べ支えること、グリーフワークは自分で立ち上がるために努力すること。 反跳力が人間には備わっていると思います。    人はどんなに苦しい状況にあっても、かすかな希望があれば、生きられると言うのは映画の重要のテーマであり、私が生きていく上でも大事なテーマになってます。



2026年3月10日火曜日

田内洵也(シンガーソングライター)     ・「“流し”こそ、わがスタイル」 

田内洵也(シンガーソングライター)     ・「“流し”こそ、わがスタイル」 

 このほど東京近郊の飲食店で、いわゆる流しと呼ばれる活動をしているシンガーソングライターの田内洵也さんが、サザンオールスターズの桑田佳祐さんにその才能を評価されて、田内洵也さんが作詞作曲した「深川のアッコちゃん」と言う曲を、桑田さんがアレンジしたり、コーラスをつけたりして発表し話題を集めています。田内洵也さんは長野県生まれの37歳、小学生までは愛知県で過ごし、中学の3年間はタイのバンコクで育ちました。  この時にビートルズや桑田佳祐さんの影響で、音楽に目覚め、ギターを覚えて路上ライブを始めます。  高校から日本に戻り、大学卒業後は世界各地を旅しながら、路上ライブやミニライブを続けました。  都内のバーで活活動中に偶然桑田佳祐さんと出会い、流しのシンガーソングライターとしてこだわって、音楽活動を続ける田内さんの気持ちにも弾みがつきました。現在全国21カ所を回るツアー中です。 田内さんに音楽活動の原点や、流しとして歌う魅力、桑田佳祐さんとの出会いについて伺いました。

 「深川のアッコちゃん 」(produced by 夏 螢介 a.k.a. KUWATA KEISUKE) をリリースされました。 愛知県の実家から上京した際に、隅田川の近くにずっと暮らしていました。 下町の人情あふれる光景を目にして、それと自分の経験を混ぜ合わせて出来上がった曲だと思います。

*「深川のアッコちゃん」 (produced by 夏 螢介 a.k.a. KUWATA KEISUKE)  作詞、作曲:田内洵也 編曲、コーラス:桑田佳祐

当時、毎週演奏していた店があって、そこに偶然桑田さんが来ました。(2017年、27歳) 桑田さんの前で歌って、その後交流が始まりました。  桑田さんの方から一緒にレコーディングしてみたいと言う話がありました。  すごく丁寧に直していただいたり、教えていただいたりしながら曲が出来上がってきました。    一期一会で出会った人との前でギターを弾くと言うことをずっとしてましたが、顔の見えない人に対して発信する音楽の作り方とか、聞く人のことを深く思って丁寧に作り上げていくと言うことを桑田さんから教えられました。  僕が想像していた以上のものが出来上がりました。

長野県で生まれて、愛知県の春日井市で幼少期を過ごして、中学の3年間は父親が新聞記者をしていたと言う関係で、タイのバンコクで過ごしました。  最初ギターを手にして、近所の公園で覚えたてのビートルズを歌ってました。  だんだん演奏すると言う音楽にのめり込んでいきました。  高校から日本に戻りました。東京の大学に通い始めてもライブ活動はしていました。 グループで、音楽をやるよりも、1人の方が性に合っていました。 オリジナル曲は50曲ほどあります。

「深川のアッコちゃん」に関しては、立ち寄った居酒屋が地元出身の方が多い店でした。 海外にも1ケ月ぐらいアメリカ、イギリス、フランスドイツなどに行きました。  そこでもギター1本持って歌ってました。  ギターで世界中の人たちとつながることができました。  全国ツアー中で車にギター1本乗せて1人でやってます。  

去年10月12日に桑田佳祐さんが主催する日本武道館での九段下フォークフェスティバルで前座としてステージに立つことができました。 10,000人の前で「深川のアッコちゃん」を弾き語りしました。 凄く緊張はしましたが、ギターがいざなってくれました。 流しと言う自分のスタイルを、しっかりと残していきたいと思ってます。 今まで世の中に活かしてもらってた人間なので、自分が少しでも良い音楽を作って、世の中に貢献していきたいなと、心の底から思うようになりました。  自分の心をさらけ出す曲を作りたいと思います。 47都道府県に行ってみたいと言う夢があります。

*「街の音」 作詞作曲、田内純也

2026年3月9日月曜日

山崎まさや(俳優・お笑い芸人)       ・師匠を語る「志村けんを語る」

山崎まさや(俳優・お笑い芸人)       ・師匠を語る「志村けんを語る」 

日本の笑いの最前線で活躍し続けた志村けんさんが突然亡くなってから、まもなく6年が経とうとしています。志村けんさんと山崎まさやさん、どんな師弟関係があったのでしょうか。

志村さんとの年齢差はちょうど20歳違います。 僕は1970年生まれです。 僕が物心ついた小学校4年生の頃「8時だよ。全員集合」を見てなんて面白いおじさんたちなんだろうと思いました。

志村けんさん、本名志村康徳さん、1950年(昭和25年)2月東京東村山市で誕生します。 小学校の教頭を務める父親のもと厳格な家庭に育ちましたが、テレビで喜劇の舞台中継を見ている時だけは、家族一緒に笑えたことから、笑いが持つ力を実感、生涯の仕事にしようと決めました。 ザ・ドリフターズのリーダー、いかりや長介さんに弟子を志願したのは、高校卒業する間際の18歳の時でした。 「ぼうや」と言う付き人をし始めます。一時はドリフから離れ、「マッククボンボン」と言う漫才を結成したこともありましたが、1年ほどでそのコンビは解散。 再びザ・ドリフターズの「ぼうや」に戻った志村さんは、その後メンバー見習いに昇格して、配役として8時台の「全員集合」の舞台に立つことになりました。 

荒井忠さんの脱退に伴って、ザ・ドリフターズの正式メンバーになったのは、1974年4月志村さん24歳の時でした。  加入から2年後の1976年には、東村山音頭が大ヒット、さらにヒゲダンスなどのギャグで国民的な人気を博し、1985年に「全員集合」が終了した後も、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」「志村けんのだいじょうぶだ」「志村けんのバカ殿様」などで大ブレイク、バカ殿、変なおじさんを始めとするユニークなキャラクターを生み出し続け、1999年にはゴールデンアロー賞芸能賞を受賞しました。 日本の笑いの最前線で活躍し続けた志村さんでしたが、2020年3月29日新型コロナウィルス感染症に伴う肺炎のため70年の障害を閉じました。 志村けんさんのテレビドラマ初出演にして遺作となったNHK連続テレビ小説「エール」の放送がスタートしたのは訃報が届いた翌朝の事でした。

人を笑わしたいと言う夢があり、高校を出るときに東八郎さんのコメディアン養成所「笑塾」に入りました。 高校を出て18の春、その3ヶ月後東さんが亡くなられました。 志村けんさんが1人ぐらいは面倒見られると言うことで、私が選ばれていくことになりました。  初めて志村さんと会うことになり名前を言った後に「教えてやることはできないけども、見てやることはできるから」と言われました。  それで最初の出会いは終わりました。 

付き人として70,000円貰いました。当時としては良い額だったと思います。  送り迎えはやらないでそばにいて、空気感、間とかタイミング、その場の状況などを勉強するために横にいると言うことで、僕には運転させなかったです。  志村さんはテレビの前で見る志村さんではなく、すごくクールで人見知り、恥ずかしがりさんです。シャイな方です。 本番に入るとキャラクターに豹変する。それが尊敬です。

番組に出演するようになって、最初は「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」で前説をやることになりました。   何も用意してない状態で、300人いる前でドーンと出されて、頭が真っ白でした。僕が前説を始めた頃からずっとスタジオの後ろで、ずっと見てくれてたそうです。(あと後から知った話) 付き人を始めてから半年後からスタートして、やめるまで約4年半位ずっと前説をやってすごく勉強になりました。 コントも脇役をやってもらえるようになりました。 表を歩く時には「通行人をよく見るように。」と言われました。 10人いたら10人違うと言われました。 1番よく言われたのは「相手に対して好演しなさい。」ということでした。  「相手がやりやすい演技をしろ。」と言われました。  

一回加トちゃんケンちゃんごきげんテレビの現場で遅刻したことがありました。 加藤ちゃんが「俺についてこい。」と言って、そこには志村さんがいました。  加藤ちゃんの一言「志村、今日から俺の付き人になった山崎」と言ったら、志村さんが突然立ち上がりまして「どうもはじめまして。志村と申します。と言われて「よろしくお願いします。」それがドーンと受けました。 その後志村さんが「馬鹿野郎早く仕事に戻れ。」と言われました。その後加藤さんから「次は自分で考えろよ。」と言われました。 

ある時、志村さんに「一人立ちしたい。」と申し入れました。 怒られるかなと思ったら「やっと言ってきたか、遅い位だよ。」と言われました。 付き人の最後の日に、車の後ろに一緒に乗せてもらって、六本木の高級な店に連れて行ってもらえました。そこで初めて「こいつが俺の弟子だ。」と紹介されました。 すごく嬉しくてトイレで泣きました。 独立後もそっと見ていてくれたようです。

2020年3月29日新型コロナウイルス感染症に伴う肺炎のために亡くなりました。 ちょっと前に志村さんのマネージャーからコロナで体調崩してしまって、入院したと言う話が聞きました。 その後状況があまり良くないって言う話も聞きました。スマホに入ってきた訃報の情報で初めて知りました。 まさかまさかと思いました。 最後に会ったのは亡くなる1ヵ月位の誕生日の時でした。「ありがとう。またね。」と言うのが最後の会話でした。

志村さんへの手紙

「初めて会ったのは、師匠が38歳僕が18の時のことでした 。笑いはもちろんいろんなことを教えていただきました。たくさん笑いました。たくさん怒られました。そして少し褒めてくれました。・・・ 師匠と桜を見に行ったことがありました。最高の思い出の1つです。 僕はきれいな桜を見るたびに少し悲しくなります。  この先花見をするたびに思うんではないでしょうか。 師匠が亡くなられて日本中が驚き、コロナウイルスの恐ろしさを知り、政府まで動かし、本気の注意喚起が始まったのではないかと思います。 たくさんの国民の爆笑させて、たくさんの国民の命を助けて、本当に凄い方だと心の底から思います。・・・僕もいずれそちらに行きます。・・・お会いできたらまた付き人をやらせてください。その時までもう少しこの世で頑張っていきます。」




2026年3月8日日曜日

松村由利子(歌人)             ・「どこまでも晶子の後を追っていく」

松村由利子(歌人)         ・「どこまでも晶子の後を追っていく」 

松村さんは新聞記者として20年以上働き、その中で歌を詠んできました。 新聞社を退職してからは短歌を詠むだけでなく、「乱れ髪」などで知られる与謝野晶子の思想や言論人生を明らかにしてきました。 晶子は今から100年前、男女平等、男女共同について活発に評論を行い、多くの新聞や雑誌に社会評論を寄稿してきました。 10人以上の子供を育てながら、明治末期から昭和初期にかけて、男女平等、労働問題、教育制度等についての評論を発表してきました。  松村さんはジャーナリスト、ワーキングマザーとしての晶子の歌や文章を読み解き、著書「与謝野晶子」などを出して、男女の対等なあり方などについて提言しています。  今日3月8日は国連が定める国際女性デー、女性の権利や政治経済的分野への参加について考え、ジェンダー、平等の実現を目指すために制定されました。  晶子の言葉をひもといていただくとともに、松村さんご自身の人生を振り返っていただきながら、男女が支え合う社会について考えます。

2010年から沖縄の石垣島に住んでいます。  2008年からはNHKの短歌の選者を勤めました。2011年、第三歌集『大女伝説』で第7回葛原妙子賞受賞。

昔語りぽおんと楽し大きなる女が夫を負うて働く

大女の明るさ、おおらかさをすごく魅力に感じました。 私たちは知らず知らずに植え付けられた価値観があって、男の人よりも女の人は先に行ってはいけないと言う、少し後ろから行くと言うようなことが意識の隅っこにあると思います。  とっても素朴な昔話の中に人生の真実というか、知恵みたいなものがあったりしないかなと思います。  短歌や俳句は余白があって、その言葉に付随する雰囲気と言うか、温かみがあったり、手触りだったりそういう良さがあるので、それを含めて余白の味わい方と言うのは、読者それぞれに任されている良さがあると思います。

1960年福岡県生まれ。 新聞社で20年余り記者として働き2006年に退社、短歌結社「かりん」の編集委員を務めています。 1994年「白木蓮の卵」で第37回短歌研究新人賞を受賞。  2009年著書「与謝野晶子」で第5回平塚らいてうを受賞します。  2010年にはエッセイ集「31文字のなかの科学」で科学ジャーナリスト賞を受賞。 2023年著書「ジャーナリスト与謝野晶子」で日本歌人クラブ評論賞を受賞しました。 

新聞記者としては暮らしにまつわる全てを取材すると言うフィールドの広い部署でした。 暮らしに関係した問題と言うのは、幅広く取材できたのは勉強になったと思います。 次に長かったのが科学環境部で科学や環境に関係した問題、トピックスを扱うということで、楽しかったです。  優れた歌人も、日常の風景の中に深いもの、美しいものというのを発見して、それに喜びや驚きを感じて、センス・オブ・ワンダー「自然に触れて深く感動する力」)と言うものを持ってると思います。  短歌は自分にとって非常に大事なものだったので、もう少し時間をかけて自分の心の中を覗いてセンス・オブ・ワンダーを感じられるような余裕のある日常を過ごせたらと思って会社を辞めました。 

会社を辞めて新しい生活をしたかったので、石垣島に住むことにしました。   短歌は大学に入ってからなんとなく詠んで新聞に投稿すると言うことをしました。与謝野晶子について知りたいと思うようになったのは「愛、理性、勇気」という本を読んで、柔軟な考え方をする人だと言うことがわかって、すごく興味を持ちました。 「愛、理性、勇気」を読むと開かれた精神の持ち持ち主だと言う事はわかりました。

「私の新聞観」私は毎日7、8種の新聞を読んでいる。 新聞は日々の歴史であり、日々の社会批評であり、また未来に対してされる日々の予言であり、暗示である。いまひとつ私の不満のとことは、すべての新聞記事が報道本位もしくは興味中心で書かれ、社会の改造と覚醒等を理想とする倫理的批判がほとんど加わっていないことである。

与謝野晶子は広く世の中を見ていたんだと思います。 与謝野晶子は自分が取材される側でもあったと言う事で、複眼的な見方ができた。 報道とは何か、メディアとはどうあるべきかみたいなところを経験的に把握していた人だと思います。  教育、政治、男女平等とか、いろいろな分野において、いろいろな問題について積極的に発言して、先見的な意見を発信してたと言う面がそれほど知られていなくて、それはとてもおしいことだと思いました。  男女の平等とか、女性の経済的自立と言うのは、晶子にとって大変大きなテーマでした。  男性たちは育児に関わっていないと言うようなことも書いています。  男性は長時間労働すぎて全然家庭を顧みないのはと言うことも書いています。 ライフワークバランスとか男女共同参画社会と言う概念もなかったと思いますが、そういった新しい社会のあり方と言うものを、リアルに見つめることができた人ではないかと思います。

与謝野晶子は、1878年(明治11年)大阪堺の老舗和菓子店の三女として生まれました。 堺女学校を卒業1901年(明治34年)「みだれ髪」を発表し、同年与謝野鉄幹と結婚「柔肌の熱き血潮に触れもみで悲しからずや道を説く君」は、浪漫主義の歌人として多くの歌集を発表、鉄幹と一緒に10人以上の子供を育てました。    源氏物語の現代語訳、文化学院への創立の参加、15冊にのぼる評論集を世に出すなど、短歌以外にも幅広い分野で活躍しました。 

与謝野晶子は社会評論の中で、いくつかのキーワードがよくあられわます。   自由と平等という言葉です。  自分が兄のように自分にも教育を施してくれていればということがよく出てきます。 男女平等と言うのは概念ではなく、自分の経験から生まれてきた強い願いだったと思います。 言論統制とかあり、精神の自由と言うのは切実な問題だったと思います。 民主主義と言う新しい思想が入ってきたときに、自由と平等を謳うこの民主主義ってなんて素晴らしいんだろうと、とても深い感動を覚えたはずです。

晶子にとって自分に学歴がないと言う事は非常に大きなコンプレックスでした。 書籍、雑誌や新聞を読んで、自らを高めていった人だと思います。  晶子の素晴らしさと言うのは、学び続けた人生にあると思います。 男女がお互いにそれぞれに自立して、対等な立場で愛し合うと言うことが最も美しい関係だと言うふうに思っていた方だと思います。  だから女性たちも経済的に自立したほうがいいですよと言うふうに考えたんだと思います。 男女が同じように外で働くことによって、社会全体の労働時間が短縮されて、生まれた余暇をそれぞれが読書とか楽しみのために費やして、それぞれの人生をより豊かにすれば良いと言うことを書いています。  

晶子が亡くなったのは1942年、1975年に国際女性デーが制定されました。  男女機会均等法とか法整備がなされて、晶子から見たら喜んでると思いますが、運用がうまくいってるかどうか、もっと上手に運営しなくちゃいけないと叱れるかもしれません。 男女の賃金格差も是正されていません。 非正規雇用の多くは女性であります。  貧困の問題も女性が多いと言う実情からすれば、何も変わってないでないんじゃないかと言われそうな気もします。  私たちはどんな社会をよしとするのか、どんな未来を切り開いていくか、と言うことを考えないと申し訳ないと思います。与謝野晶子は、偉大すぎて全容を掴むのが難しいです。私なりに他の人の気づかない側面は少しあるかもしれないので、それについて紹介して行けたらいいなと思います

2026年3月7日土曜日

藤井俊博(大阪公立大学准教授)      ・超高エネルギー“アマテラス粒子”発見

藤井俊博(大阪公立大学准教授)   ・超高エネルギー“アマテラス粒子”発見 ~第42回大阪科学賞受賞

私たちは常に宇宙から降り注いている粒子を浴びているそうです。 この粒子宇宙線と呼ばれるもので、目に見えず、日々の生活に影響を及ぼすものではありません。  ところが計算上わずか1グラムで地球が破壊されるほどの巨大なエネルギーを持つ宇宙線が発見されました。  アマテラス粒子と名付けられた、宇宙線の発見者が藤井俊博さんです。 藤井さんが発見したレベルの超高エネルギーの宇宙線が確認されるのは、非常にまれでこの功績が評価され、2年前第42回大阪科学賞が送られました。 アマテラス粒子の発見からどんなことがわかるのか伺います。

宇宙線と言うのは、非常にエネルギーの高い粒子になります。  それが宇宙からやってきています。  1秒間に手のひらの面積に1粒子通過しています。  これは宇宙線の検出機(12cm角で厚みが3cmの黒いボックス 4つの側面に光るランプが設定されている。)になってます。 宇宙線が通るとそれに同期して光ると言うことになってます。 今は不定期にブルーのランプが光ってます。 2つのボックスが30cm間隔で置かれている。  ニ個重ねると時々白く光ります。  白く光る時は上と下両方とも宇宙線が通過した時になります。  

エネルギーが小さいと上だけで止まってしまうものはあります。  いろんなエネルギーのいろんな速度の宇宙線がやってきてます。  実際の検出器はこれよりももっと大きいものになってます。エネルギーの高い宇宙線はどこから来てるかと言うのはわかっていません。 エネルギーの低いものは、我々の銀河の星の爆発であったりするところから、生み出されて我々の地球にまで届いてきます。 

アマテラス粒子のエネルギーは、2.44 × 10の20乗電子ボルト 244エクサ電子ボルトと言うふうに表現されることもあります。アマテラス粒子は記録としては2番目になります。 1番目は1991年に発見された粒子がありますが、それは320エクサ電子ボルトになります。 オーマイゴッド粒子と名付けられています。アマテラス粒子のエネルギーは、粒子1つで、40ワットの電球をおよそ1秒間点灯できるエネルギーになっています。  計算上1グラム集まれば、地球が破壊されるほどの大きなエネルギーになります。 16年間観測し続けて1度だけ捉えました。「アマテラスまだ観ぬ宇宙(そら)の道標」と言う句をつくりました。大阪科学省を受賞できて、本当にうれしいです。グループ全体の成果として、皆さんに知っていただけたらなと思います。

小さい頃から星を見るのが好きでした。 高校3年生の時に小柴 昌俊さんのノーベル物理学賞の受賞のニュースに触れました。 宇宙のことを少しでも明らかにできればと言うことを思いました。 私が所属しているテレスコープアレイ実験と言う装置は、アメリカユタ州の荒野に設置されています。 大阪市立大学、東京大学、アメリカのシカゴ大学、京都大学でも研究を続けました。 テレスコープアレイ実験は、世界中9カ国、150名の研究者と一緒に研究を続けています。  非常に高いエネルギーの宇宙線は、大気とぶつかると大量の粒子を生成して地上に到来します。  空気シャワーと呼ばれるこの現象を地上から観測しています。  琵琶湖ほどのエリア約700平方キロメートル、見た目はベッドのような検出機を1.2キロ間隔で507台並べて24時間365日実施してます。 メンテナンスも大変です。 

アマテラス粒子を発見した時はパソコンを使って現地のデータを確認してました。(京都大学の宇宙線研究室に所属してた時) 非常に大きな数字があると言うことが見つかりました。 詳しく調べていったところ、本当にエネルギーの高い粒子が来ていると言うことが明らかになりました。  約50平方キロメートルにほぼ同時にたくさんの粒子が降り続いていると言う事はわかりました。 検出自体は2021年の5月でした。  論文として公表されるまでに約2年半かかりました。 エネルギー自身は細分化されて、もともとのエネルギーがバラバラになったものが、地上に到来すると言うようなイメージになります。 

宇宙のどこかに天然の加速器が存在していて、そこから粒子がやってきてるということがまずわかります。 どこから来たのかと言うのは明らかになっていません。今後たくさんのデータを集めて、どのようにして極めて高い宇宙線を加速さるのか、その発生源を特定するということが期待できます。  生命の起源、銀河の宇宙の様子を解明する手がかりになるかもしれません。  観測データを増やすために、今の4倍の面積にしようとしています。(3000平方キロメートル)  私たちがどの方向から来ていると言う手がかりをつかめると、地上にある多くの望遠鏡と連携して、そこに何があるかと言うことを調べると言う流れになります。  世界中とつながっていて、宇宙の謎にみんなで迫ってるんだと言うのが非常に面白いなぁと思っています。

2026年3月6日金曜日

丸橋賢(歯科医・作家)           ・「80歳の作家デビュー」 

 丸橋さんは、1944年群馬県の生まれ。 東北大学歯学部を卒業した後、東北大学の助手を経て、1974年歯科医院を開業しました。 現在も群馬県高崎市で歯科医師を務めています。  一方で、丸橋さんは、小説家になりたいと言う学生時代からの夢を実現しようと、80歳の時「はじまりの谷」で作家デビューを果たしました。  丸橋さんに創作の喜びや日々の暮らしなどについて伺いました。

80歳で作家デビューで1年半前位です。 去年続けて2冊本を出版しました。    この2年間で5冊分ぐらい小説を書きました。  学生時代の頃、ずいぶん小説を読みました。  文芸部に入って小説も書きました。 小説を書きたいと言う思いは常に強くありました。  山村で自然や生き物たちと親しんで生きて来た生命感覚と言うものはまず原点としてあります。  50年以上人間を臨床医として見てきた、人間が良い方向ではなくて、心配な方向に大きく流れてる、変質してると言うことをずっと感じていました。  問題点をきちっと書かなければいけないと言うふうに強く思いました。  

デビュー作「はじまりの谷」戦争の最中から戦後にかけて群馬の山村が舞台になってます。  僕の原体験が核になってます。  雪が降った後の一面の銀世界が描写されていますが、その先の道をどう進んでいいかわからない。 でも自分で行くべき道を決めなければいけないと言う場面が出てきますが、そういう中で人生というのは自分で選択していくと言うことがとても大事なことだと思います。  現在はそういう力を甘やかしてなくしてきてるんではないかと危惧しています。     このテーマもこの小説の大事な1つになってます。 

うさぎの罠をしかけて、うさぎが死んでいく場面とか、夏になるとバッタが死んだり、作造おじいさんの息子の武?くんが死んだり、奥さんが死んだり次々に死んでいきます。  その中で命に対する感受性を開いていきたいと言うのが狙いになってます。  反響としては共通して多いのは、四季の自然描写がとても美しいとか懐かしい故郷を思い出したとか、そういうレビューが1番多いです。  本になるまでは何回となく修正したりします。 

詩も多く読んできました。 北村太郎の「センチメンタル・ジャーニー」と言う詩のたった2行があります。 「滅びの群れ、静かに流れる鼠のようなもの」、このたった2行で全てを言い尽くしてますよね。 基本的なテーマはあまり変わっていません。 我々が考えているような、思い込んでるような価値と言うのは、保証されてない。 自分で価値を作っていくものだと思います。  そのためには自分で選択していくもので、その責任は自分で負うべきだ。 そしてもともと何にもなかったんだとすれば、何もなくていいんだと、ゼロから立ち上がることができるではないかと、絶望から立ち上がることができるじゃないかと、そういうテーマとしては一貫して流れているつもりです。 

80歳になって突然作品を考えたわけではなくて、本当の医療って言うものはなんだろうと言う事は常に考えてきました。 そういうものを通じて考えてきたものと言うのはゼロから始まった「はじまりの谷」から始まり、そしてだんだん獲得していく。  そのためには自分の選択、決断が必要だ。 そして自分の力、責任、いつでもゼロからの崩れない立ち上がり方ができるんだ。 その辺をずっと温めております。  歯科医療でも考えは同じです。

作造爺さんは、2人の孫をなくしてしまうが、悪いことばかりだったと思ったけれども、人生そうじゃないと言うことを武?くんが、死んだお孫さんが、死んで教えてくれたと言う重い言葉ですね。 作品の中の2人の人物、小学校上がる前の直文と直文を見守る作造爺さん、この2人の人物は、どちらも私の分身みたいなところがあります。  個人が自分の力で、自分の権利と責任で自分を作っていくと言う意識と言うものを、今ちょっと持たないと日本人は軽くなってきているのでは、流されるだけになってきているかなぁと言うふうに思ってます。  

自然と接触するチャンスそのものが著しく減ってますね。 人を過保護に甘やかしていくだけで、日本人は育つのかなと言うところに危機感を持ってます。    僕の子供の頃に比べて、村の人口は3分の1になりました。 でもその頃は溢れるほどいた蝉だとか、鳥だとか、魚、バッタ、トンボ、蛙、蛇など今ほぼいないんです。 人間の暮らし方、人間が楽をして贅沢をしてと言う、そういう生き方によって自然は死に絶えてきていると言うことを問うていきたいと思ってます。 

人間の本性とは何などと言うところを次の作品ではテーマとして考えています。  5月ごろに出版する予定です。 なんで素朴な田舎の暮らしの中で人口が減っているのに、なんで魚、鳥、昆虫たちが亡くなっていくのか。 その次の短編集「鳥」も原稿が上がってきてます。 「滅びの群れ、静かに流れる沈むようなもの」、そういう本性と言うものを持っているんだろうなと思います。 そっちの方向にみんなで合意しながら厳しくなっていくんだろうなぁと言うようなところを見つめている短編集です。 

80歳の時強く感じたのは、今までずっと青年時代から温めてきたものをチキっと展開しないと間に合わない。 そういうふうに自覚しました。  この歳になると欲がなくなります、恐れることもなくなる、焦ることもなくなる、そうするととてもよくものが見えるようになります。 それと待つと言うことができるようになります。  この年齢と言うのは貴重なんだろうなぁと思います。  歳をとってくると言うのは良いこともいっぱいあります。良いところを十分に活かして、人生を閉じていきたいと今は思ってます。 高齢の方は時代を見てきているし、経験してきてるわけなので、経験や考え方が1つの頼りなんです。 そこを頼っていかないと日本を立て直すのは難しいなあと、みんなで頑張って、日本人としてそれができればいいなぁと思っています。

2026年3月5日木曜日

嶋津輝(作家)               ・「満場一致で、直木賞受賞!」

 嶋津輝(作家)               ・「満場一致で、直木賞受賞!」

作家の島津輝さんは、1969年の生まれ、東京都出身。 2011年41歳の時から小説教室に通い始めて執筆活動を始めました。 2016年に第96回オール読み物新人賞を受賞して、2023年「襷がけの二人」で第170回直木賞を候補に、そして今年2026年短編集「カフェーの帰り道」で第174回直木賞を受賞しました。

今回、直木賞のノミネートは2回目でした。 ノミネートと受賞はこんなに違うんだと言うことを思い知らされました。  受賞の知らせは、短いLINEで、夫に知らせました。  上野の近くに住んでる期間が長いので、雑多の雰囲気と昔雰囲気が残っているのが好きです。 小説を書き始めたのは、41歳の時です。  大学卒業後、事務系の会社員をやってまして、6社で働きました。3社目からは抵抗がなくなりました。

2歳上の姉がいますが、やんちゃなキャラクターです。 私はおとなしいタイプでした。  私は会話文を書くことによって、登場人物の輪郭がくっきりしてくる方です。  書きながら肉付けしてきます。  「襷がけの二人」は、中盤からどんどん伸びていきました。 「襷がけの二人」は、最初は後半は全然違う話になる予定でしたが、途中からだいぶ変わっていきました。  「カフェーの帰り道」も途中でだいぶ変わりました。 特に第一話は何も考えずに書き出しました。 登場人物の或る国語教師のキャラクターが嫌な感じで書き終わってしまいました。 ハッピーエンドで終わる形が好きなので、今の形になりました。  

どちらかと言うと、規格外の女性を書くのが好きです。  もともと大正、昭和を舞台にした小説、随筆、映画が好きです。  花柳界の話も出てきます。  有吉佐和子さんはすべての小説を読んできました。  特に花柳界物が好きです。 十何回も読んできました。  映画は小津安二郎さん、成瀬巳喜男監督の映画の中でも、特に庶民の生活を描いたものが好きです。(東京物語、浮雲等)

好きな食べ物は餃子です。 料理は一応しますが、そんなに好きではないです。  料理の場面なんかも書かれていますけれども、調べて書いているだけです。   「襷がけの二人」に出てくる「料る」という言葉は、料理をすると言う意味ですが、幸田文さんの随筆とか小説によく出てきます。  本を読むのが好きでしたけれども、小説家になろうと言う気持ちはありませんでした。学生の頃から20代の頃は、有吉佐和子さんを集中的に読みました。同じ時代の森茉莉さんとか、武田百合子さん、向田邦子さんなどの作家が好きでした。

小説家になろうと言う事はずっと意識していませんでした。小説講座を受講し、応募するからには、最終選考に残りたいと言う気持ちがありました。初めての応募で最終選考まで残りました。  それが自分にとって大きな達成感を得ました。 最終選考に残ればいいなぁと言う思いでずっと書いてきました。 実際に新人賞を取ったときには、戸惑いの方が多かったです。  仕事のほうは今から1年半前ぐらいに辞めました。  家にいると、午前中家事で終わってしまうような事は多くなりました。  午後から夕方ぐらいまで書く仕事をします。  調べ物に行く事はありますが、取材は数えることしか言っていません。  高校時代は部活で高飛び込みをやってました。高飛び込みの適正はありませんでした。  現在は以前書いたお相撲さんの続きを書いています。