2024年4月12日金曜日

西巻茅子(絵本作家)           ・〔人生のみちしるべ〕 小さな子どもの大きな不思議

西巻茅子(絵本作家)        ・〔人生のみちしるべ〕 小さな子どもの大きな不思議 

西巻さんの初期の代表作の一つ「わたしのワンピース」という絵本、お子さんやお孫さんと一緒に読んだ、今まさしくお気に入りで読んでいるという方もいらっしゃると思います。 今年で発売から55年、西巻さんにとって3冊目の絵本でした。 西巻茅子さんは昭和14年東京の生まれ、今月85歳になります。 東京芸術大学工芸科を卒業、学生時代から版画、リトグラフを手掛け、卒業後、日本版画協会展に出品し、新人賞、奨励賞を受賞。 当時は日本の絵本の創成期、西巻さんの新鮮な版画の作品は絵本の関係者の目にとまり、絵本つくりの声がかかります。 絵本作家となって60年、去年絵本つくりから引退したという西巻さんにお話を伺いました。

仕事を辞めて、それまでずーっと締め切りがある暮らしを続けてきたので、辛いなあと思っていましたが、今はホッとしています。 凄く気ままです。 デビューが昭和42年、28歳で、『ボタンのくに』と言う作品でした。 平凡社の給料がよかったので試験を受け就職することになりました。  しかし本採用通知が来なくて、電話をしたら「入社できないことになった」という事でした。 社長は3名では多すぎるからという事で入社は出来ないという事でした。(成績は1番だったが、男子1名、武蔵野美大は落とす訳にはいかない事情あり、と後で聞く。) でも雑誌の仕事を貰ってそれからずっとフリーランスでやって来ました。 長 新太さんの絵本を見て綺麗な本だなあと思いました。 子供のころは絵本などは観た事がありませんでした。 

絵本の仕事が出来るかもしれないと思いました。 父が自宅で子供に絵を教えていて、手伝ったりしていたこともありました。 幼稚園で子供のアトリエとして教えていました。(毎週土曜日) 子供たちが素晴らしい絵を描くことには吃驚しました。  人間は絵を描く動物だったんだと思いました。 母はお嬢さん育ちで、洋裁学校に行ったりテニス、ダンス、ピアノなどやってモダンガールでした。  父と結婚して洋裁をやって稼がなければいけなくなった。  父は絵を描くが金にするという事はやらなかった。 世のなかと美術はどういう関係になっているのか知りたかった。 結局は心の問題だという事が段々判って来ました。 あの子供たちの様に私も心の底からの絵を描かなければいけないんだと思いました。 デッサンは絵画の勉強方法に過ぎなくて、それを全部やって良い絵が描けるのではない。 だから全部忘れようと思いました。 

三作目の「わたしのワンピース」はロングセラーとなりました。 私の絵本の中で一番売れている本です。 白いウサギが主人公で、或る日空からフワフワっと落ちて来た白い布で、ウサギがミシンでワンピースを作りました。  ワンピースを着て出かけて行くといろんなことが起きるという、ファンタジーの絵本です。 1冊目、2冊目は絵本がどういうものかあまり知らないで描いていました。 絵描きしか描けないような絵本を作りたいと思いました。 3冊目はそういった思いで作りました。 編集会議では白いワンピースが花模様に描かれたり、水玉模様に描かれたりすることに対して問題視されました。 私の意見に対して賛成の人はいませんでした。 結局西巻さんが言うならそうしましょうという事に社長が言ってくれました。 しかし本が出来ても誰も褒めてはくれませんでした。 

5,6年経ってから新聞に、常に貸し出し中の本という事でこの本が紹介されました。   私は一番うれしかったです。 一時期は絵本を描くことを辞めようと思ったこともありましたが、辞めないでよかったと思いました。 大人が判っていない、子供たちは判ってたんだという感じです。 

「えのすきなねこさん」 講談社出版文化賞、絵本賞を受賞。 父が亡くなって絵の道具を私の家に持ってきました。 それを見ながら絵描きさんの猫を描こうかなと思いました。 「絵なんて何の役に立つのかな。」と言った言葉が何回も出てきます。 猫は「僕は絵を描くことが好きで上手で本当に良かったと思いました。」と言います。  家の父もそう思っていたと思います。 人間は歌を歌ったり、ダンスをしたり、詩を詠んだり、という事を昔からやってきています。 それは人とのコミュニケーションでしょう。 芸術はみんなコミュニケーションだと思います。 言葉ではない、心と心を繋ぎ合わせるためのものだという事が判りました。 子供が好きだという事は心が喜んでいるわけです。 道しるべ、父の後を追ったと言えば、追ったんでしょうね。 それと「女だてらに」と言う言葉が有りますが、「女だてらに」頑張ってきたと思います。  お金を稼いで自分の力で生きて来たかった。  絵本が子供の心に伝わればそれでいいと思っています。









 







2024年4月11日木曜日

澤田誠(脳科学者)            ・脳を探る

澤田誠(脳科学者)            ・脳を探る 

澤田誠さんは脳の研究に取り組みおよそ40年、人が生きるために脳は重要な役目を果たしています。 記憶は脳で作られ30歳を過ぎると記憶力が落ちてくると言います。 何故落ちてくるんでしょうか。 記憶をなくすという事は脳にどのようなことが起きているのでしょうか。 人工知能の進む現代、人工知能と脳にはどのような違いはあるのか。 人間の脳はまだまだ未知なることが多いと言われます。 脳を衰えさせないためにはどんなことが大事なのか。 脳研究一筋名古屋大学名誉教授澤田誠さんに伺いました。

多細胞生物はその細胞が動くのにコントロールする仕組みが必要です。 脳と言うほど発達していないが、神経系と言うのがあり、いろいろな動き、外からの感覚、情報を取り入れて自分の行動、どういう風に動いていくかを決めるために、脳の原始的な神経系が必要で、それが集まったのが人間とか、動物にある脳です。 

記憶と言うとコンピューター,AI、ロボットとかが、感情を持つとか、夢を見るとかと言うような人間の脳が行う事まで出来るのか出来ないのかという事が、議論になりました。 現在の技術力では人間の脳に相当するような能力を持ったAIは出来ないです。 生成AIといわれているものでも、新しいことを作り出すということは、なかなか難しいです。  無い情報を作りだすという事は今のところ出来ないです。 脳は色々な新しい発想で新しいものを作ってゆくのが脳の役割、脳の特殊な機能で、これを作り出すのは脳の神経細胞が使っている機能だけを模倣した様なAIなどは難しいのではないか思われます。 脳の90%ぐらいは神経細胞以外のグリア細胞で覆われている。 グリア細胞に機能は完全には解明されていない。 この機能をコンピュータに盛り込むことが出来ない。 私がテーマにしているミクログリアは記憶を食べる細胞と言うことで紹介されていますが、新しい記憶を作るのにもミクログリアは機能するし、必要のない記憶を作っているシナプスと言うものを食べちゃって、悪い記憶を排除するような役割をしている。 脳に必要な情報だけを貯め込むような働きをしている。 これはAIではなかなか出来ない。 

記憶と言うのは色々な情報の塊が記憶ですが、一つの記憶でも、目から入って来る視覚情報、音、味、触覚などの情報が一つの情報の塊になって一つの記憶と言う形になる。 視覚の情報、音の情報、などの別々の神経細胞が数千から数万個のネットワークを作って、それが同時に活性化されると視覚の情報、音の情報、などが一緒になって一つの記憶を作るんです。 一つの神経細胞は別のネットワークにもかかっています。 たまたまある記憶を思い出している時に別の情報まで活性化されると、全然かかわりのない意識の情報でも、たまたま結びついてしまうようなことがあると、新しい発想になって発明になったりすることが起きます。 AIだとなかなかその機能が出来ない。

新しい神経回路を作るシナプスを形成するときにも、グリラは役割をはたすし、シナプスが壊れないように維持する働きもするし、要らない、悪い情報を伝えるシナプスは食べて排除する。 グリラがきっちり働いていると記憶が出来ることになる。

感情は人それぞれが出てくるもので、外から観ていて判らないのが感情です。 情動は動きがあり、外から観て判るので脳科学の分析の対象になりうる。 とっても嬉しい情動は「快」の情動、怖い、不安とかが「不快」の情動で、深いと優先的の記憶にとどめるようになる。 重要な情報をとどめておくと判断をするような情報の塊(マインドセット)が、あらかじめ脳がシュミレーションをして、生き残るためにはこういうことをした方がいいと、マインドセットを作るわけです。 マインドセットは今までの経験に基ずくものなので、これが個性という事になります。 寝ている時にマインドセットが更新される。 脳は起きている時には今起きていることに手いっぱいとなる。 

短期記憶と長期記憶を比べてどっちが得か、取捨選択をして得なほうを長期記憶に書き直してゆく。 脳の働きの大部分(99%)は無意識なんです。 意識の部分は1%しかない。自分が生き残るために必要な情報で、勉強などをしても必要な情報であるとは判断しない。本能と言うのは我々の記憶とかとは関係ない。 人間は弱い動物だが集団生活をすることによって、文明を発達させてきて、生きながらえて来た。  コミュニケーションをとるには本能だけで動いていると集団生活が出来ないので、意識と言うものを機能的な部分として作って、それが全体をコントロールしているような気持にさせている。 欲望だけで動くと破綻してしまうので、意識で無意識の部分にアクセスできないような仕組みになっている。

重要な情報が沢山あればあるほど選択肢が広がって、それが寝ている時に、たまたま結びつくと新しい発想とかになる。 頻度は寝ている時が多いが、起きている時にもハッと思いつくことがある。 健康的な体と健康的な睡眠、いろいろ経験をして情報を捉えることが必要となります。  

AIは今ある情報を探知して、今あるものを組み立てて、あたかも人間が作ったように組み立てる。 脳の情報の取捨選択は、自分にとって良い事か悪い事か、子孫が生き残るために良い事か悪い事か、という事を判断基準にしている。 つまり情動が基準になっている。 コンピューターは子孫のことなどは考えないし、自分にとっての価値判断はしない。 人間の脳とAIの記憶の本質の目的論が違う。 

人間の脳は1000億個ぐらいの細胞ですが、一個の神経細胞に一個の情報が蓄えられているという考え方がありましたが(30年前)、もっと沢山の情報を蓄えられるというポテンシャルは持っています。 ネットワークが情報の保持に関わっている。 記憶の情報をあいまいにしておくという特徴があります。 要らない情報は排除して情報量を少なくしている。 自然界のなかで全く同じ現象はあり得ないので、だいたいこういうものだという事が判断できると、応用が利きやすい。  脳はわざとあいまいにしておいて、情報の抽出をする。 

人間の脳の細胞の寿命は大体120年だと言われています。 脳は20代後半、30代ぐらいになると神経細胞が一日数万個単位で減って死んでくるんです。 80,90歳ぐらいでも何もなければ正常な機能を保ったままで、20%ぐらい減っても脳はちゃんと活動することが出来ます。 神経細胞は入れ替わることが出来ない。 活動が多い神経細胞、死にやすい細胞があって、それが海馬に集中しているので、老化に伴って神経細胞が減って来ると記憶力が低下するということは起こりうる。  

人の名前が思い出せないのは、長期記憶のなかに陳述記憶と非陳述記憶があり、陳述記憶の中にエピソード記憶、いろいろな単語とか意味記憶と言って、脳の働きが違うものを使うんです。 エピソード記憶の方が生きるための情報をたくさん含んでいる。 名前などの意味記憶の方は生きるための情報にはあまり必要はない。 脳は名前などの記憶は苦手なんです。

微小脳梗塞(隠れ脳梗塞)と言って小さい血管が詰まったりすると、その先の神経細胞が死んでしまうことが起こる。 そこで80,90歳代で脳の働きが悪くなってしまう。   身体にとっていいことは脳にとってもいい事です。 程度な休息、過度なストレスがかからない、暴飲暴食は良くない、良い睡眠(深い睡眠と浅い睡眠は脳にそれぞれ違った役割を持っている。 4サイクルぐらいして浅い状態の時に目が覚める。)、などです。 まだまだ脳は判らないことだらけです。

*微小脳梗塞 危険因子には、加齢、高血圧、糖尿病脂質異常症慢性腎臓病、過度の飲酒、運動不足や喫煙、肥満、過労・ストレス、家族歴などがあります。この中でも、最大の危険因子が高血圧です。



















2024年4月10日水曜日

川島良彰(実業家)            ・最高の一杯を世界へ〜コーヒーハンターのあくなき挑戦

川島良彰(実業家)       ・最高の一杯を世界へ〜コーヒーハンターのあくなき挑戦 

自然環境と人権を守りながら生産者の市場を作り、維持するのが私の使命と語る、1年のうち1/3以上を海外で過ごして50か国2500以上のコーヒー農園を知るという「コーヒーハンター」こと川島さんのお話を伺います。 川島さんは静岡のコーヒー焙煎業の卸の長男として生まれて、小学生のころからお父さんの焙煎をそばで見てコーヒーを味わってきました。   反対を押し切って18歳で単身南米エルサルバドルに渡って、国立コーヒー研究所に入所、コーヒー栽培と精選を学び、帰国後は大手コーヒー会社に入社して農園開発?に携わって来ました。 そこを退職後スペシャルティーコーヒーと呼ばれる最高品質のコーヒーを日本で紹介する会社を立ち上げて世界の農園開拓?を行いながら、コーヒーの美味しさと楽しさを伝える活動を今も続けています。 その川島さんの行動力を支える信念とはどういうものなんでしょうか。 

フルーツ感を生かすにはあんまり煎らないようにして。コーヒー本来の甘さを感じていただけるような焙煎具合にしています。(薄い茶褐色の透き通るような感じ 苦味とかえぶみ?みたいなものが全然ない。)  うちは完熟豆しか扱っていないので、すっきりしたのど越しのいいコーヒーになります。 色を見ると薄いような感じがしますが、密度の高いコーヒーなのでしっかりと・・?に感じていただけると思います。 これこそ本当のコーヒーです。 コーヒーはフルーツだと実感していただけるようなコーヒーを飲んでいただければと思います。 

今13か国からコーヒー豆を買っています。 70か国ぐらいはコーヒーを生産せていると思います。 赤、黄色、ピンクに実りますが、熟したコーヒーの中に種が二つ入っていて、種を焙煎して粉砕して抽出するのがコーヒーです。 うちで使うコーヒーは全て産地に行って生産者に会って、畑を見て、うちのスペック通りのものを作れるかどうか確認をして、生産者と一緒に作ってもらっています。 自然環境は非常に重要です。 寒暖差が激しいほど密度の高い美味しいコーヒーが出来ます。 高級、中級、低級品と有るとしたら、それぞれで美味しいコーヒーは獲れるわけです。 それぞれのグレードでいいものを作ろうとしています。 

今の会社を立ち上げたのは51歳の時です。 ホームページには「自然環境と人権を守りながら生産者の市場を作り、維持するのが私の使命」と書かれています。 僕がエルサルバドルに行った年はエルサルバドルがコーヒー生産が世界3位になった年でした。(1975年) 四国よりちょっと大きいぐらいの国ですが、技術が凄く進んでいます。  1975年にブラジルで霜が降りて、コーヒーの価格が7倍程度になりました。 お金持ちだけが利益を受けて貧富の格差が広がり内戦に突入しました。 僕がいたエルサルバドルの研究所も跡形もなく亡くなってしまいました。 世界3位だったのが1/10ぐらいしか獲れなくなってしまった。 2001年から2003年にかけてコーヒークライシスと言わrて時期がありました。  大暴落してしまって、コーヒー農家がやって行けなくなってしまった。 (マネーゲーム対象になってしまった。)  

日本はそういった生産者に対して何もしなかった。 二つの経験から僕らは美味しいコーヒーを飲めなくなるんじゃないかと思いました。 生産者がちゃんと暮らせるような市場を作るのが、僕らコーヒーマンとしての仕事ではないかと思って、この会社を2008年に立ち上げて、国際価格と関係なくして、生産者の人に理解していただき、品質に見合った価格で買うような市場を作ることが必要と思って、この会社を作りました。 自然環境、人権と言う事も大きなテーマになっています。 

父が砂糖とミルクの入ったコーヒーを作ってくれて幼稚園ぐらいから飲んでいました。  中学から自分でサイフォンでいれて飲んでいました。 コーヒーに囲まれて育ちました。  小学生の頃には生産地に行ってみたいと思うようになって、ブラジル大使館に手紙を書いて、 ブラジルのコーヒー園で働きたいが、相談に乗ってくれと出しました。 ブラジルのコーヒー鑑定士の資格を取るのが、コーヒー屋の跡継ぎの王道みたいな感じがありました。 父はそれを期待していたが、僕は栽培から勉強すれば、自信をもってお客様に提供できると考えていました。 高校卒業後留学することになりました。 父はクオリティーを重視していました。

今では世界第4位(アメリカ、ブラジル、EU、日本)のコーヒー消費国ですが、当時は日本はニューマーケットと言われていて、良いコーヒーは入ってこなかった。 父は豆を選別して品質にこだわっていました。(当時日本ではそんなことはしていなかった。) 1960年代母がコーヒー店を始めて、そっちの方が当たりました。 

父が視察団として出かけて帰ってきたら、突然「メキシコに行くか。」と言って来たんです。 父は駐日エルサルバドル大使と親しくなって、メキシコへの伝手の話などしたら、エルサルバドルに来いという事になり、1時間後にはエルサルバドルに行くことが決まりました。  大使の妹さんのところに下宿することになりました。 大使にはエルサルバドルの貧民街を案内されました。(多くの人たちの生活状況を目の当たりにする。) 大使からは①どんな時にも対応で来るようにいつも準備しておきなさい。 ②ストリートスマートになりなさい。(生きのびることにかしこくなれ。)この二つを言われました。 この二つの言葉のお陰で今まで無傷で来られたのも、困難を乗り越えられたと思っています。

大学に通って、その後国立コーヒー研究所を訪ねました。 アポなしで行って所長にあったら、警備員に放り出されました。 毎日一か月間通って、日本人の最初で最後の研究生として受け入れて貰えました。  ものが無い国なのでものが無かったら自分で作るし、労働者たちは自分でなんか対応してゆく力は凄いと思いました。  労働者たちからいろいろ聞いて勉強になりました。 彼らの1/10も収穫できなくて能力の低さを痛感しました。 エルサルバドル人は凄く親切で、優しくて、おせっかいなぐらい人のことを気にしてくれ、働き者です。 75年行って77年ぐらいから政情不安になってきて、79年には革命が起きて81年には市街戦が起きるようになって、国立研究所なのでゲリラにも狙われました。 政情が安定するまで外に行った方がいいと言われて、ロサンゼルスに行きました。 

日本に帰らずロサンゼルスに行たのは、栽培が面白くなってしまって、父の焙煎卸業を継ぐ気がなくなってしまって、産地で生きるからと両親に手紙を書いたら、勘当されてしまいました。 そこで大手のコーヒー会社からスカウトされて、ジャマイカに行きました。(25歳)  いきなり3億円使って3か所の農園を作れと言われて、凄いプレッシャーでした。 ジャマイカの人口の95%以上がイギリスの植民地時代に奴隷として連れてこられた人たちなので非黒人に対して猜疑心が凄かったんです。(独立して19年目)  技術は遅れていました。 何故日本人に教わらなければならないのかという思いが強くて、信頼を得るためには苗のクオリティーの違いを見せつけることから始めて、技術的な信頼を勝ちとることが必要でした。 もう一つは人間としての信頼関係を築かなければいけなかった。 一緒に酒を飲んだりパンチパーマにしたりしました。  

ジャマイカは治安が悪くて、エルサルバドルより怖かったです。 麻薬、強盗、殺人発生率も高かったです。 身の危険をしょっちゅう感じていました。 でも怯む訳にもいきませんでした。 1988年9月20世紀最大と言われたハリケーンにジャマイカを直撃しました。  その時には農園が全滅しました。 僕の住む家も全て亡くなってしまいました。  焦燥感とどうしようもいない状態でした。 治安もさらに悪くなりました。 ハリケーンで亡くなった人よりも略奪で死んだ人の方が多かったですから。 眠れなくてラム酒を2日に一本飲んでいました。 必死で半年で農園を復活させました。 コーヒー園は自分の命とおんなじだと思っています。  コーヒーが好きだからできるので、世の中の人にコーヒーをもっと知って欲しいという気持ちはあります。 必ず産地に行ったら新しい発見があります。 それがあるからどんな辛い旅でも我慢が出来ます。 

















2024年4月9日火曜日

追分日出子(ノンフィクション作家)    ・話を聞いてこそ、書けること

追分日出子(ノンフィクション作家)     ・話を聞いてこそ、書けること 

追分さんは1952年千葉県出身。 慶応義塾大学文学部卒業、カメラ雑誌編集部、週刊誌の記者を経て、「昭和史全記録」、「戦後50年」、「20世紀の記憶」など時代の記録する企画の編集に携わります。 雑誌の人物取材なども数多く担当しました。 著書に「孤独な祝祭佐々木忠次」去年11に「空と風と時と 小田和正の世界」を出しました。

小田和正さんとは2005年に雑誌の現代の肖像と言う、4か月ぐらい密着して取材して書く企画で、取材しました。 以降繋が出来て、当人、周りの関わった方を含めて話を聞いて、評伝と言う形になりました。 コロナ禍の4年間ずっとこれに集中しました。 メロディーメーカーとしても作詞家としても凄い人なんだけれども、こういう思いをもって、こういう悩みながらと言ったことが凄くよくわかる本です。 

最初はお兄さんの兵馬さんにお会いして、お話を伺いました。  小田薬局という薬局を戦後すぐに両親が開きました。 お母さんの一番下の弟さんの奥本さん?(90代)という人にお会いしました。 はと子とか取材の人が次ぎ次ぎに広がってゆきました。  小田さんは母親は好きだったけれど父親は嫌いだとしか判らなかった。 その謎が何だったのか、という事を含めて、実際はどんなかたがただったのか、興味を持って取材をしました。 

取材で聞きにくいことは、周辺取材をします。 周辺取材は謎解きです。 相手が許せば半日はしゃべっています。 取材という感じではなく世間話みたいです。 小田さんに2005年から取材を始めましたが、最初から面白かったという感じです。 ライブにも帯同しました。 気が付いたことなどは全部メモったり、MC(ライブコンサートなどで、曲の合間にアーティストや演奏者が話をすること)は全部録音したりしました。  会場、会場によって違いや特等もあります。 現場に立ち会えたのはありがたかったし、楽しかったです。 発見して発見を繋いでゆく。 発見があるとわくわくしていきます。      「孤独な祝祭 佐々木忠次」  佐々木忠次さんはプロデューサー。 バレエとオペラで世界と戦った日本人。 或る意味、謎解きです。 

大学では7年間好きなことをやりました。 アメリカやカナダの放浪の旅を1年ぐらいしたりしました。 地下鉄でパスポ-トから財布から全部すられた事もありました。(1970年代) 最初はバンクーバーに友達がいたので彼女を頼って行きました。 そん後はなり行きです。 小さな事には悩みますが、人生の大きな事には即決します。(そのことに気が付いたのは最近です。) 私の人生は人との出会いのみで、ひょんなことから「文章を書いてくれないか。」、と言われて始めました。 

最初のインタビューは篠山紀信さんでした。 毎月毎月やっていた仕事です。 その後大特集をしました。 

「20世紀の記憶」という22巻分の本を編集長と二人で企画から考えて、10年近くかけてやりました。 100年のそれぞれの1年がどんな年だったかと言う事で、橋本治さんに頼みまして橋本さんから100本原稿を頂いたのは、凄く記憶にあります。

人物像を書く時に他人が書くことは一切書かない、こういう人だと言うイメージは一切排除するとか、勝手には書けないので取材を通じて、周辺取材は過剰なほどやります。    固定観念で語られている人とは違う顔を見つけたいとか、その思いは凄くあります。   基本的に凄いなあと言う思いがまずあってこそ、その方を取材するという感じです。   基本的にいつも楽しかったです。 私の勝手な思い込みや、先入観は排除します。 だからこそ沢山取材します。 























2024年4月8日月曜日

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕

 穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕

 昔ながらの文語から日常の日常に変化していった切り替わりの世代なので、考え深いというか、随分変わったなという感じはあります。

「春」と言うテーマで、副題として「別れと出会いの季節」だなと思いました。 日本の場合には卒業、入学、入社と言ったものが春になるので、そのイメージがわれわれの中にはあると思います。 

*「全員がアトムとウランの髪形の入学式よ光るはなびら」         穂村弘

鉄腕アトムと妹のウラン、二人とも不思議な髪形をしている。 今はバリエーションがある。昔はおかっぱ頭、坊主頭だったり均一感がありました。

*「きらきらと自己紹介の女子たちが誕生石に不満をのべる」        穂村弘 

自分は何月生まれで誕生石が何とかで、本当はルビーが良かったのに、と言うのを聞いてびっくりしたことがあります。 

*「中一コース年間購読予約して万年筆を貰える春よ」           穂村弘

当時万年筆と時計でしたね。  中一コースは小学校からの節目なので、年間購読予約した人には万年筆をプレゼントするというコマーシャルのようなものがありました。  万年筆は高級なイメージがありました。

*「へびっぽい模様の包み入れられた卒業証書は桜の匂い」         穂村弘

わに革の模様らいいですが、重厚なへびと桜。

*「姉ちゃんは着てみていいよと言ったけど見ているだけにしたセーラー服」松田わこ(妹)

着ていいよと言われてるけれど、そこで着ちゃうと、本当に着れる春までなんか自分でも待つみたいな、待つ初々しい感じが凄く伝わってきます。

*「掲示板私の受験番号が私を見つけて飛びついて来る」        松田梨子(姉)

*「受験番号が私を見つけて飛びついて来る」凄くよくわかります。

*「シャボン玉近づくように笑い合う「桃?って呼んで」「梨子?って呼んで」」

「シャボン玉近づくように笑い合う」と言うのは素晴らしく上手な表現です。 楽しそうなんだけれども近づき過ぎると割れてしまう。 初対面の二人ってそういうところがありますよね。

*「妹が私とおなじ制服を着ている不思議新しい春」         松田梨子(姉)

*「新しいセーラー服を着た私家中の鏡に見せに行く」        松田わこ(妹)

この姉妹は短歌が上手ですね。

*「サーティーン少し長めに言ってみる銀色の楽器みたいで素敵」   松田わこ(妹)

サーティーンは中学生でこれが「楽器みたい」というのが凄いですね。 サーティーンは金属的な響きがあります。

この姉妹と対談した事がありますが、物凄く愛されて育っているという感じがします。  彼女たちは5,6歳ぐらいから歌を作っています。

*「どの行事も写ってなくてと近影を卒業アルバム委員に撮られる」    高橋鉄平?

短歌はそういったことも短歌にして残して置ける。 

*「愛のこと甘く見ていた春の駅人の気持ちを甘く見ていた」       石川明子? 

具体的なシチュエーションは書いて無いが、状況とかではないかなあ。 

*「容疑者の写真は卒業アルバムであの日の私とどこか似ていて」     鈴木美津子?

人生がバラバラに変わってゆくのはその後ですね。 幸せになったり逆だったりで、この場合は容疑者に。 でも私と似ている。

*「入学式好きな食べ物レモンだといいしあの子の訃報を聞き」     モカ?

好きな食べ物がレモンだという、特別なアピールだと思う。 そのことが印象に残った。 若いころの訃報だと思う。 

リスナーの作品

*「女子徒競争五位の子を五の旗へ男子生徒は触れず導く」       牛尾渚?

下の句に感じが出ています。

*「明日家を離れ行く母前掛けのリボン結びが揺れる台所」      ひらひらひらら?

どうして離れゆくのか判らないが、万感の思いがあるような気がします。

*「たった一ミリの棘だってほっとけば指は腐ると兄の遺言」     みずすぽっと?

怖い遺言だけれど、比喩として象徴的なことを言っているんですかね。 人間関係か?

*「残雪を踏みしめながら唱えてた降りたら絶対桜餅買う」       ぷんすけ?

雪と桜で,色の対比、季節感の対比があって、苦境をぬけたらあれを、みたいな、ご褒美を置いておく。 

*「チョコレート貰えなくても平気だがあれだけあって一つもなしか」  平井義彦?

世のなかにあれほどチョコレートが溢れているのに、自分のところには一個も来ない。  口調が面白い。

*「雷が鳴った時だけテレビ消して雷見てる雷見てる」         栗川?

雷ってつい見てしまう。 臨場感があります。

*印は漢字、かな、人名など違っている可能性があります。



2024年4月7日日曜日

東地宏樹(俳優・声優)         ・〔時代を創った声〕

東地宏樹(俳優・声優)         ・〔時代を創った声〕 

ウイル・スミス、サム・ワーシントンなどの俳優の吹き替えをはじめ、多くのアニメにも出演。 ゲームの主役の一人クリス・レッドフィールド役、ネイサン・ドレイク役など。 バイオハザード(サバイバルホラーゲームのジャンル)は最初に発売されたのが1996年。  クリス・レッドフィールド役は今に至るまでやらせて頂いています。 ゲームはやらなかったです。 

東京都出身、父は書家の東地滄厓。 私は書道は小学校6年で8段でした。 中学からは全くやっていないです。 書道は幼稚園のころから始めました。 母は家で書道教室をやっていました。(100人近く来ていた。)   父は酒が好きで朝帰りで、昼頃におきて演歌を聞きながら書道を書いていました。 そういった姿を見てかっこいいと思って書道家になろうかと思っていました。 海苔が好きで「のり」と初めて3歳の時に書いて、それを見た父が凄く上手だと父が喜んでいたという事を母から聞きました。  中学受験で立教中学が受かって、サッカー部に入りました。 エスカレーター式でしたが、中学3年で立教高校には行けなくなって都立高校の試験は終わってしまっていて、私立しかありませんでした。 受験勉強もしていなかったので偏差値の低い高校に行きました。 部活など一切やりませんでした。

1年間浪人して予備校に通いました。 日大の国語と英語の2教科だけの日大芸術学部の一番競争率の低いところを見つけました。  演劇学科の演劇コースでした。(9倍)    二次試験ではいろいろ演技をさせられますが、書道の道に進もうと思っていたので、演劇に進む気が無かったので演技が全然やったことはありませんでした。 でも受かりました。  1年間は書道をやりましたが、友達の影響で演劇にも興味を持つようになりました。 3年の時に書道への道は辞めることを親に相談しました。  父はOKしてくれました。 父は20歳のころに演劇に興味があったが、書道の道に進めば成功すると言われて、演劇の道は諦めた経緯があったようです。 芝居の道に進む事を決めました。 

4年生の時に、ラジオCM、テレビCMのナレーションの話があり、テープをとったら直ぐ仕事の話が来ました。 卒業後も仕事をして収入は多かったです。 或る時、吹き替えの話が来まして興味を持ちました。 恋愛映画「世界の果てに」というものでした。  吹き替えのテクニックは無くて、僕だけ後日とるという事になりましたが、それでもなかなかうまくいかなかったので、自分の吹き替えの人生は無くなったかなと思いました。 2年後にまた吹き替えの話が来ました。 その時にはみんなと一緒にとったのですが、凄く褒められました。

金曜ロードショーの番組のウィル・スミスのオーディションがあり、受かりました。     メン・イン・ブラック』の主役でした。  周りの声優の人たちは役者の方々に負けることなくやっていて、触発されました。  その後沢山の吹き替えの役を担当してきました。  サム・ワーシントンさんは凄くしっくりきました。  

ゲームに関しては、洋ゲームでは様々な音質のものあり、その台本は10cmぐらいあって、何日もかけて一人でやるわけです。 「おい」と言うだけでも20種類ぐらいあります。 千葉繁さんとの掛け合いが凄くよかったと言われて、東京ゲームショウに千葉さんと僕が呼ばれて行って、アドリブで生で4,5分当てってくれと言われました。(サプライズ企画) 東京ゲームショウの人たちは喜んでくれて、千葉さんと僕もしばらく興奮していました。

先輩と絡んでやると安心感がありやりやすいです、まだまだご一緒したいです。 役者として、声優として大切なことは人柄だと思います。 一緒にやる時に、最終的には楽しい方がいいと思いますので、重要かなと思います。  若い人たちへのアドバイスとしては、制約を外した生き方をしなければ、自分の生活、生き様などが出てくるので、喜怒哀楽を演技の前に、人間として大切なものを自分の中に持っていなければ、表現は出来ないと思っているので、最終的に重要なのはその人にしか出来ない、という事で次の仕事に繋がるので、自分のパーソナリティーを磨くためには、普段の生活、喜怒哀楽をより経験が出来た方がいいような気がします。 健康を大事にしながら、逃げずに何でもやろうかなと思っています。  その後にはなんかがついて来ると思います。








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2024年4月6日土曜日