2026年7月25日土曜日

山崎エマ(ドキュメンタリー監督)      ・「当たり前の中にある価値を見直したい」後編

 山崎エマ(ドキュメンタリー監督)・「当たり前の中にある価値を見直したい」後編

絵本「おさるのジョージ」の原作者を取材したドキュメンタリー作品 「モンキービジネスおさるのジョージの著者の大冒険」と言うドキュメンタリー映画です。 ジョージはアメリカで大人気です。  私を卒業した後は、編集者として助手として仕事をしていますが、でも監督をやりたいと言う思いが出てきました。    原作者のレイ夫妻原作者既に亡くなっていますけれども、いろいろ調べて3年位かかって制作しました。2000万円かかりましたが、クラウドファンっディングで一般の方からもお金を集めて製作、公開できました。 それが1個目の作品です。(2017年)  今年はおさるのジョージの85周年です。 レイ夫妻は戦争を逃れた大変な経験をされていますが、冒険のように語るというか、その精神が「おさるのジョージ」のいろいろな冒険のつながっている。

自分の場合はドキュメンタリーの道を行くと言うのは明確になりました。    編集助手としていろんな作品関りました。 自分では普通の振舞いをしていたと思いますが、周りのアメリカ人から凄く褒められました。  日本人であれば当然のことと思いました。 それが小学校の映画を作る事に繋がる流れになります。   自分が受けた小学校教育の6年間の価値観、頑張っことなどは小学校にあったのではないかと思いました。 また親から受けた分も大きかったと思います。 

子供の頃から何か貢献したいと言うか、よりよい社会に貢献することこそが、自分自身の人生幸せになるみたいな考え方が起きました。 少しでも共感とか、感情が動くもの、人間が人間らしく捉えるものみたいなことを今でも主心としています。

海外に住むと比べることが気付ける、何とも思っていなかった日本の良さが増えてきて、特別なんだと思ったりしました。 日本のことを中からと外から見れるようになった自分が何かできることがあるのではないかと思いました。 ずれている日本のことが気になったりもして、自分から日本に戻って世界に伝えたいことがあると思って東京に拠点を持ちました。

夏の甲子園を元にしたドキュメンタリー映画 『甲子園:フィールド・オブ・ドリームス』 その年は、夏の甲子園は99回大会でした。 日本の野球を100回大会と言う機会を使って撮影することにしました。 2018年の100回大会記念大会を撮影しました。 海外に向けても長編作品はなかなかありません。 海外ではまだあまり知られていない日本独特の高校野球の文化を世界に伝えたいという思いから始まった。 最初4校からら2校にしぼってって、球児や、指導者の皆さんを追って、甲子園の大会自体を含めて、高校野球も春からの1年を捉えました。アメリカの人に見てもらいたいとすっとり思いがありました。 メジャーリーガーとの絡み、師弟関係、親子関係、監督の世代間の違いでの時代の変換期についても意識して撮りました。 アメリカから帰ってきた私にとっては、高校野球はとても日本的に見えました。

佐々木監督はいろんな植物を育ててきて、人の成長と盆栽と成長をかけて考えている方です。 映画の中では、盆栽をきれいな形にするには、針金をまかないとなかなか美しくならないけれども、どっかのタイミングで針金を外さないと盆栽が苦しくなって美しい姿に行くことができない。 これを育ててきた子供たちにかけて針金をかけると言う事は、昭和の時代から含めてやってきますが、外すタイミングとか、外し方この両方が大事だと言うふうに言ってます。 どっかで外してあげないと苦しむ。  当時子供たちの自主性、実践に任せるとか、ちょっと流行っていた時代がある中で、針金をかけることが大事だと言う。 そういうバランスに共感しました。

ある程度導いたりとか、強制することで築いたことが自主性になっていく。   その段階が大事だと言っています。 映画の中では、盆栽に例えて映像的にも美しいシーンが撮れたのは自分の中でも特別なシーンだと思っています。 甲子園だけ見ているだけではわからない、高校野球の心みたいなものを人のつながりとか、教育の一環としていろいろな関係性がある。 極端な話、野球に興味をなくても面白いと思っている映画を目指して作りました。 

日本のことに関して、海外に住んだことによって生まれた視点を生かし、皆さんに気づきの提供をしたいと思って、そのきっかけを自分の作ったドキュメンタリーで提供したいと思ってます。 人間同士として一緒の社会で生きていく中で、少しでもプラスの貢献をするドキュメンタリーを作ると言う、それがやりたいことやってきたことだと思ってます。 ドキュメンタリーは人が人を撮るので、1AIができないんではないかと思っています。 結果として自分が経験したことを良かったので終わらせるのではなく伝えるプロとして、なるべく多くの人に伝える。 それをミッションとして作品となる。これが今自分がたどり着いた、ドキュメンタリーの捉え方?です

ドキュメンタリーの醍醐味は自分の人生ではない人生、人であったり、文化であったりいろいろあると思いますが、それを追体験できると言うことだと思います。 映像と音で捉えられるストーリーみたいなものを体験してほしいと思います。  そもそも、小学校を撮ったのは、私自身の小学校経験が自分を作ってくれたと思っているからこそ、撮りたいと言う趣旨があって、人間形成の部分、そこに焦点を当てて取り続ける。 ドキュメンタリーは客観的な記録ではないというか、たくさんの量を撮ってからストーリーを構成しているし、削ぎ落としてストーリーを構築しています。私の視点というものが入っているのは、ドキュメンタリーだと思っています。山崎エマと言う人が見た日本社会はこうだったねと言うみたいなところまで行けば、自分が目指しているところだと思います。

「小学校それは小さ社会」と言う作品が評価されるまですごく時間がかかりましたが、そもそも撮れるまで5年かかって、沢山の方々に協力していただいて、10年かかって公開まで行くことができました。 大変な苦労して作ったドキュメンタリーがなかなか評価されずにいたことに対しては色々と落ち込みました。 ドキュメンタリーはもう作るのはやめようかと思った事もありました。 世界の最高峰の所まで行ったと言う事は、自分を信じろと言うことを今回経験しました。 次回はより自分を信じる力と言うのも、そして評価と言うものがないとやっていけない世界でもあるので、違う物差しとして5年後10年後50年後100年後に評価されてもいいやと言うことを含めて思えるようになったと思います。

世に出て教育に対する議論が活発になったりとか、肩身の狭い先生が少しでも自信になったり勇気づけられたり、今後の教育の制度にも多少影響が与えられたような印象もありますが、そういうことを経験すると自分がやってきた事はとても意味があるものだと思います。 またより良いものを作ろうと言う気にはなります。

今興味のあるのは大人たちです。 新入社員と組織を仕切っている60代の人たちとは価値観が違うと思います。 わかりあえないところが出てきているかとは思いつつ、でも日本はまだまだ組織力とか力を合わせて何かを成し遂げると言うどこから向き合わないと、日本は世界では勝てないところもあると思います。 組織の中で何かに挑戦しながら時代の先を行こうとしている皆さんを撮りたいと思います。 今リサーチ中です。




2026年7月18日土曜日

五條良知(金峯山修験本宗管長)       山で祈る、里で祈る、ともに祈る

 五條良知(金峯山修験本宗管長)       山で祈る、里で祈る、ともに祈る

吉野山から大峰山にかけての一帯は金峯山と呼ばれ、古く飛鳥時代から聖なる地として崇められてきました。  世界遺産の本堂蔵王堂を中心に伽藍が広がる金山寺は、山岳修行を実践することで悟りを得る修験道の総本山です。 7世紀後半、遠役行者と呼ばれる役小角(えんのおづぬ)と言う人物が、金峯山で修業に励み、修験道を開きました。 自らも厳しい修行の数々を乗り越えてきた五さんは、今世界中の人が今同じ時刻に心を1つにして共に祈ることができれば、みんなの幸せへの大きな力になると考えています。さんに祈ることの意味を伺いました。

京都の綾部市で生まれました。昔は沢山の山伏がいました。 父親は若い頃から国鉄に職員として勤めていました。 近所に山伏の道場があり、お手伝いをしていたそうです。 その住職が亡くなって父親が後を継ぐことになりました。 私はそこで生まれ育ちました。 私は体の大変弱い子でした。 人生のことを考えるようになったのは、高校3年生の時に身近な人が亡くなったことでした。 電話が来たので、急いでその家に行きましたが、苦しいと言って私の腕の手の中で力が抜けてそこで亡くなってしまいました。父親と兄と3人でお葬式を営みました。 

兄の方から東京の仏教の大学へ行くように勧められました。 2年、生3年生のときにはお寺に入れていただいて、そこで勤めて大学に行っていました。  仏教に関する学問は教えてもらいましたが、私たちが手を合わせる仏さんと言うのは教えていただけないんです。 現場の人としての宗教、信仰とかそういうものはないなぁと強く感じました。 それがお坊さんになる原点となりました。 修験道と言うのは、私たちは世の中で修行することによって、自分の罪、汚れ、煩悩など払い落としていく、大いなる山、大自然を神様、仏様が住まうところ、聖地です。 自然の中で、神仏に包まれて、修行して山から出てくる、これが修験道の修行の仕方です。 仏教で言う悟りです。

役小角は1300年前に金剛蔵王大権現様を命がけで修業して祈りました。 三上ケ岳で一千日の修行したと言われています。 悪い悪い世の中で生きる人々までも救って欲しいということで祈られたそうです。 1000日目にお釈迦様、千手千眼観世菩薩様、弥勒菩薩様が約行者に現れます。 そのような優しい姿では、私のような悪い奴は言うことを聞かないので、もっと怖い方が欲しいと思われたようで、三上ケ岳1番高い所に岩倉があり、お釈迦様、千手千眼観世菩薩様、弥勒菩薩様が姿を変えて蔵王権現が現れた。蔵王権現とはお釈迦様、千手千眼観世菩薩様、弥勒菩薩様3体の仏が、悪を懲らしめる、怒りの表情で現れた姿と言われています。

私の蔵王堂には3体祀ってあって、中央にお釈迦様の仮の姿、右に千手千眼観世菩薩様の仮の姿になっていて、左が弥勒菩薩様の仮の姿になっている。 真ん中のお釈迦様が過去、右側の千手千眼観世菩薩様が現在、左側の弥勒様が未来。 過去、現在、未来を救ってやろうと言う請願のもとにお姿を示していただいています。 守ってあげる救ってあげると言うのも、現実に動いていくと言うのは私たちです。今をしっかり生きて、過去のこと、今のこと、未来のことを蔵王権現に預けつつ、自分のことをやらなければいけないことを頑張っていく。 

修験道の大事な修行の1つが大峰奥駈修行です。 山から山へおよそ170キロの道のりを 7日間かけて祈り歩く行で、毎年全国から修験者が集まります。 五條さんはこれまでに33回行いました。 当時60人ぐらいの人と一緒に歩くわけですけれども、自分のペースで歩けないし、人間関係などいろいろあり最初は嫌でした。 そのうち助けたり助けられたりして、皆さん揃ってお経もあげるし、厳しい中にも神仏に守られていると言う実感ができます。 

自分の命を生かされていると言うことも実感できるようになります。 達成感もありました。 一歩踏み外すと命を落とすようなところはいくつもありました。   ですので、自分と人のことを意識しないといけません。 自分だけの行であるけれども、自分だけの行ではない。 皆がいるから私も生かされている。そういったことが判ってきます。 山に入って肉離れをしたことがありました。 あるところで無理だと思って任せると言いましたら、大丈夫と言われました。 テーピングして歩いているうちに両方の足が紫色になってむくんだようになりました。 那智勝浦まで行って、お風呂に入って、吉野に帰るときにはその足は引いてきました。

自分だけの願いとか、願望とか、そういったものではなくて、自分が歩くことによって自分が良くなっていければ周りの方も良くなっていく位の大きな思いがあるんだろうと思います。 自分の生活とかをお山に入ることによって、生まれ変わるというか生きてることを気づかせていただいてくる、リセットしてくる。 それで1年頑張れる、自分の全てをさらけ出してねこそ、初めてできる修行が奥駈修行かもわかりません。 

大峯百日回峰行、金峯山寺蔵王堂から大峯山寺に至る険しい山道を1人で100日間往復する過酷な行です。 片道24キロあります。 これを100日間歩き続けると言う修行です。 奥駈修行は我を捨て一緒に修行しますが、回峰行の場合は1人ですから不思議と我も出てきます、雑念が出てきます。 昔のことを思い出しては笑ったり、嘆いたり、怒ったりします。 それにさいなまれます。 そのうち60日、70日すると気がつくと、知らぬ間に何も考えなくなります。 大自然、水の音、風の音聞いていたりするとすべてのことを受け入れ自分自身のことを受け入れて歩いてくやっぱり自分だけでは生きてないなぁと言うことがわかります。 下を見ると、昨日新しい木の芽、命があちこち目が行くようになります。 命を感じます。 命が生かされていると言う事は自分だけではない。だから、人のことをもっと祈っていきたいし、国のこと、外地のこと、自然のこと、人々のこと祈っていきたい。 

山で祈ると言う事は、神仏に包まれながら、自分は修行させてもらうとするならば、そこで1番神仏とつながるんです。ですからそれを大事に大事にしていかなくてはいけない。 参加してくれる人には山の行よりも里の行といいます。 普段のことが里の行です。 祈ることを忘れてしまった人は多いと思います。 日常の中でちょっと時間を作って祈る、お天道様に今日も1日よろしくお願いします、夕日を見ては先人たちは「南無阿弥陀仏」と祈ってきたと思います。 そういったことに感謝をしながら生きていける、それは祈りの根本だと思います。 山で神仏にまみえたその事は里で生活することで、自分だけではなしに、周りの人にも知らない人にまで、仏様に守られた功徳が届くほどに修行しなさいのというのが、山の修行の何よりも究極の姿だと思います。 里が日常とするならば、山が非日常となります。

様々な修行の先にたどり着いたのが、共に祈ると言う思いでした。 私が始めましたのは平成28年から3年間8000枚護摩焚きさせていただきました。24時間で8000枚の護摩木を炊き上げる行です。 その時には口に水も何も入れなく24時間行います。 フッとみんなで祈ろうと言うことを思いつきました。 場所はどこでもいいんですが、一緒に祈る時間を一緒にしてほしいというのが始まりです。 それをFacebookで中継しました。 すごい反響がありました。 宗教宗派を超えてそれぞれの方法で祈りましょうと言うことです。 祈りのつながりができていきます。 

自分だけの祈りと言うのは独善的です。 祈りは願望であって欲望でしかない。  もっと自分をさらけ出す中でみんな良くなれと言う風な心を持っていただきたい。人のことを祈る自分はずいぶん強くなれると思います。 そこにはよくもなければ何もない、仏様の慈悲の心が自分の心中にあるほど、こんな強い事はないです。  

1日のうちに1分でも2分でも人のことを良くなってほしいと祈れる自分がいたら、その時は良い自分になると思います。 そんなことが続けば自分の納得の祈りがあるので、祈りを思い出してほしいし続けられたらありがたいなと思います。   祈りを普通に持てる人の方がおおらかで幸せじゃないかと違いますか。 自分で幸せだと思う人が増えるほど良いように思います。  祈りを忘れたときには、自分勝手な方向にしか行かないと言うふうに私は思います。  命と言うものは自分だけのものではないので大事にしていく。 その真ん中には祈りがあってこそ、それに気づくし、祈りがあってこそその命が生きていくと言うふうに思います。


2026年7月17日金曜日

春日武彦(精神科医)            ・「自分と折り合いをつけて生きる」

 春日武彦(精神科医)        ・「自分と折り合いをつけて生きる」

春日さんは現在74歳、東京都立松沢病院、精神科部長を経て、東京足立区にある精神科の専門病院、成仁病院の名誉院長として、およそ40年にわたって人間の精神におき合ってます。 その一方で、精神医学や恐怖に関する心理など、人の心の根源的な謎に迫る著書を数多く執筆してます。 春日さんに伺いました。

今の時代の空気は、白黒、せっかちをつきすぎる時代、そのような気がします。 精神が健全である条件は3つあって、自分を客観的に眺めることができるかどうか 適切にSOSを発することができるかどうか。 一体どうなのか、不明瞭な事案と言うものに対して、じっくりと待つことができるかどうか。(白黒がつかない曖昧な状態。こういう風なものに耐えられるかどうか。)

自己肯定感があるかどうかですごく違ってきます。 あるいは成功体験の問題、まじないみたいなことで自分の子持ちを珠洲目る、宗教なども耐える装置として意味は結構大きいのではないかと思います。

「きれいごと抜きの対人援助術」と言う本を出版。 世の中どうにも解決のつけようのない困難なケースっていうのがあります。 そういうのをどういう風にすればいいかと言う風なテーマについて述べています。 白黒つけずに、じっくり立ち向かう、そういう風な方法論というのを書いたつもりです。 みんなで共有する、みんなで話し合って、責任を分散させると言うこともあるわけです。 周りの人間がある程度気持ちに余裕ができると、うまい具合にも物事は流れていきます。 

何かあると怒鳴ってしまうとか、やたらと無理な理屈を重ねていってねちねち進めるとか、SNSで悪口を広めるとかそういうやり方と言うのは繰り返すとどんどん自分で馴染んでいっちゃいますね。 慣れ親しんだパターンにはまりやすいです。  人間て、妙なところに自分らしさを見出しちゃうところがあります。  損ばっかりをする私とか、超不器用とか、誤解されがちとか、そのようなことも自分らしさとしてどうしても認識してしまう。

人間って変わりたいと思いつつも、実はあんまり変わりたくない、変わると言うのは相当に気合が入ります。  「見知らぬ仏よりも見知った鬼」と言う言葉があります。 鬼と言うのは悪いものだけれども、慣れ親しんだ鬼だとそっちの方が気が楽でいいやと言うことです。 精神科医と言うのは、病気を治すと言うよりは、むしろその人にとっての幸せは何かと言うことを考えることですね。 その人なりの幸せとはどういうものか、その辺のことに合わせて考えてった方が現実的ですと思います。

うつ病なども病院でいる間は周りも気を使いますが、うつ病が治ったらまた会社で頑張らないといけない。 良くなった後にすぐ第一線に戻れるかと言うと、微妙だったりすることがあります。  こっちとしてはまだ本気でちょっと戻りたくないんだなと言うふうに思ったりもします。 そういった微妙なところのやりとりが重要です。

最初産婦人科に行きましたが、外科系の方が派手だったので行きました。 私は患者さんの愚痴を聞く方でした。 ほとんど聞いてるような形でしたけれども、本当に感謝されまた。 6年間勤めた後、精神科のほうに移りました。 私の母親は美人で華のある人でした。 私は一人息子ですが、私もルックスとか雰囲気において母親にふさわしい存在感というのを持ちたいと思いましたが、それは努力では無理です。母親には認めて貰えていないのではないかと言う思い。(コンプレックス) 

 占い師のところに行ってぐちぐち言いましたが、意外とそれがすっきりすると言うふうになりました。 ある中年の女性の占い師のところで、ぐじゅぐじゅ言って、私は慢性の不安感っていうのが強くて、自分は物心ついてから、現在まで 1日たりとも不安でなかった日はないんですと言うふうに言ったら、その途端涙が出てきて嗚咽したと言うことがありました。 自分でもびっくりしました。 私は30年間泣いた事はありませんでした。 無防備で泣くと言うのは、結構気持ち良いものだと思いました。 

母親とのわだかまりについては、本2冊書いてみたけれども、わだかまりは溶けてはいませんが、自分で半分持て遊べると言う形にはなりました。(客観視できる。)精神科医が自分のことすら直せないのに、なんて、患者さんに手助けできるかと言うと、あえて言えば、他人事だからです。 患者さんの話で、俺の事はあんたなんかにわかってたまるかと言うことがありますが、その通りですと、でも2人一緒に揃って水に溺れたってだめでしょう、私は余裕のある立場にいられるからこそあなたに手助けできると言うことなんだと思いますといいます。 相手を理解すると言う事と一緒に遭難すると言うことを別です。 

折り合いをつけると言う事はどういうかことかと言うと、自分がある程度冷静に自分自身をモニターして、ただすべき事は正して、ときには苦笑を浮かべたり、泣き事を言いつ思考や感情の暴走は、不幸招き勝ちだとそういう風に心がける。  苦笑いとは苦々しくしく思いつつも、客観的に広い視野で今の状況を眺め渡して、さしあたっては笑を浮かべてやり過ごすということじゃないと思います。 苦笑いを浮かべると言う事は結構重要なことだと思います。

人の心と言うのは、アキレス腱というか弱点と言うのが3つに集約される。プライドこだわり、被害者意識

プライドでは、恥をかかされた、舐められた、軽く見られた。過敏になった劣等感がプライドの問題として吐出してくる。 こだわりは周り見えないとか切り替えができないとか、柔軟性に欠けてしまう。 被害者意識、 自分が悪いとは思いたくないが、人のせいにして、自分を守ると経験を人生に生かせないまま憎しみだけが蓄積していくと言うことになります。 自分の気持ちが穏やかでないと言うときにはこの3つのいずれかに引っかかっています。 それがわかれば客観性を担保することになります。秘訣は苦笑い。黒白つけずグラデーションあたりをさまよう。

今残酷さについて執筆しています。 自分は残酷ではないという風に振舞おうとしても、結果的には残酷さと言うものを呼び起こしてしまう。 そんなことはいくらでもあります。 残酷さと言うものもある程度いろいろ理解できなければ、世の中と折り合いがつかないわけです。


2026年7月5日日曜日

本間昭雄(社会福祉法人聖明福祉協会会長)  ・「失明がくれた幸せ」

本間昭雄(社会福祉法人聖明福祉協会会長)  ・「失明がくれた幸せ」 

本間家は代々医師の家系で、先祖は水戸藩の藩医をしていました。 本間さんは医師を目指して学業に励んでいた二十歳の時に不慮の事故により失明しました。  将来への不安で自暴自棄になっていた本間さんを救ったのは、祖父の遺言書に残されていた本間さんへの言葉だと言います。 1955年、26歳で聖明福祉協会を設立して以来、日本初の軽費盲老人ホームの設立、日本初の盲大学生奨学金制度の創設等、視覚障害者の福祉活動の向上に力を尽くしました。 70年余りの社会福祉の道のりと今思うことなどを伺いました。

山を切り開いて施設を順番に建てました。 1つは盲老人ホーム、養護老人ホーム、自分の事は自分でできる人たちが利用される施設で定員100名、目が見えなくて寝たきり状態になった介護の必要な方の施設が100名、目は見えるけれども、色々と障害ある方たちが利用される施設が 96名、この3つの施設を経営しています。  70年間この道一筋に歩んでくることができて、こんな幸せな人生はない。  私は失明したからこそ、この事業があるわけで、私自身があるわけだとそう思って感謝しています。

昭和4年生まれ、年齢は974ヶ月です。 スポーツの好きな活発な少年でした。  本間家は代々医者の家系で先祖は茨城県の水戸です。 徳川家の藩医をしていました。  400年ぐらい続いている医者の家系です。 医学部を受けて浪人中に風邪をひいて注射を右腕に打たれて、右腕橈骨神経麻痺を起こして、今でも右手は不自由です。 3ヶ月経っても動かないので、大きな整形外科で診てもらったら、すぐ手術をすると言うことになりました。 3回手術を行いました。 その結果両眼底に出血をして失明をすると言うことになりました。 20歳の春でどう生きたらいいか大変悩みました。心も沈んで、夢も希望も何も持てない自暴自棄になりました。 

祖父が私が2歳の時に遺言書を残してました。 書き出だしに「汝を最も生愛す。」と書いてありました。  医者として市民のために尽くしたこと、徳川家の多くの人命救ったということで「救」という名前が送られたこと、「汝の成るを待つ」と書いてありました。 最後には「人の一生は不平不満を去り、忍の一字を守るべし、孝は国の大事となり。」と書いてありました。  同じ失明の先輩に導かれて教会へも参りました。 GHQから日本には社会事業家の専門家を要請する学校を創設するようにと言うことで、できたのが社会事業学校(今の日本社会事業大学)です。(清瀬にある。)  

盲人として、初めて入学を認められました。 社会福祉の道に入っていきました。昭和30年に独立して在宅の資格障害者の家庭訪問とか、病院で失明を宣告された方々と一緒に点字を勉強したり、あんまマッサージなどを教える更生施設へ紹介したり、眼科検診を医師とともに回ったりしました。 福祉と言う言葉がなかった時代です。 聖明福祉協会と言う組織を作って、今日で言う在宅サービス、その先掛けを70年前に始めました。 良い家庭であるほど、座敷牢で外へ出したくない、そういった家族は私が行くことを最初を歓迎しなかった。 その後だんだんとわかってくれるようになりました。 

特に盲女子の場合には悲惨でした。 社会復帰して成功した女性もいます。 今の聖明園の歌の作詞をした内藤ふきえ?さん、満州から子供2人を連れて帰国、住むところもなく、福祉事務所から私のところに連絡がありました人です。 弱視でした。 その人に点字を教えて、あんまマッサージの資格を取得してもらって、台東区の病院で乳房マッサージということで成功しました。 家も1軒建て、子供2人を立派に育てあげました。 祖父が国会議員と言う家の女性が家に閉じ込められていて、学校にも通っていませんでした。 盲学校に入学させて飛び級で中学を終えて、鍼灸あんまマッサージの資格をとって、社会復帰をして立派に自立した人もいました。(4年生へ二十歳の時に入学)

いろいろな福祉の活動を始めて、聖明福祉協会を立ち上げたのは昭和30年です。(26歳)10年間は国の補助金もなく、学校などに鉛筆を売ったりして資金集めをしました。 封かん紙を作って買ってもらったりしました。 いろいろな人々に支えられて資金を作ることができました。 物事に当たるときに、いつも誠実に誠意を持って努力をすれば、必ず道は開けると思って、誠実に人に訴え、話をし続けてきました。 輪がどんどん広がっていきました。 人が支えてくださったから、今日があるわけです。 

青梅に土地を購入することになりましたが、道路を作るにあたって、地主の方が何人もいて説得することが大変でした。 ある大地主の方へ事情を説明したら寄付すると言っていただきました。 その方とはずっと今までものすごくご支援をいただくことになりました。 政界、財界でもすごい有力者だと言うことが後でわかりました。 誠実に誠意を持って努力すれば必ず道を開けると言う自信をこの時に持ちました。 社会事業家などと言うのは、物乞いと思われてたそんな時代でした。  それを切り開いて今日まで来ました。

17歳の時に親孝行できずに父親を亡くしてしまいました。 同じ老人ホームをやるのならば、自分と同じ失明の方々のために、父親に対する親不孝の穴埋めのためにもと思って、高齢者に対する施設を作ることを考えました。 お風呂に一緒に入って、その人たちの背中を流したりしていきました。 今ある施設は全室個室で、全室トイレ付き、全室に電話を入るようにしました。 自分が入りたいと思う施設でなければ、お客様にうちの施設へどうぞおはいり下さいと言う事は言える資格はないです。 昭和39年にできた我が国に最初に出来た施設です。

あっという間の70年間でした。 全部山だったのを1万坪をブルドーザーで整地して、3つの施設に300人のお年寄りが生活ができるような施設に成長して、よくこんな事業ができたなと思います 盲大学生のための奨学金制度は日本にありませんでしたが、盲大学生奨学金制度を創設して 200人以上の方がこの奨学金を活用して、大学教育を受けて、才能を持った方がたくさん排出されました。 「よくやりましたね」、と自分で自分に言い聞かせています。 

IT機器の科学技術の進歩によって目の見えない人にどれほど恩恵を受けているかわかりません。 まだまだ社会では失明者に対するあるいは障害者に対する理解はまだまだ充分ではないんじゃないかと思います。 60年間書いてきた日記を整理して伝記を作って生涯を終えたいと思います。(娘が書いてくれる。) 自分のためのPRではなくて、福祉を社会に知って欲しい、そういう悲愴な叫びとして伝記を期待して書いてもらおうと思っています。 いくつになっても夢と希望は失いたくない。そして目標を持つと言う事は大変大事ではないかと思います。

「志立てて歩みし七十年支えてくれし人ぞ尊し」  本間昭雄

2026年6月29日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・絶望名言「マリリン・モンロー」

頭木弘樹(文学紹介者)          ・絶望名言「マリリン・モンロー」 

マリリン・モンローは192661日に生まれ、196285日に36歳で亡くなりました。 今年は生誕100年にあたります。

「一人ぼっち。 私は一人ぼっち。いつだって一人ぼっち。どうしようもなく。」  マリリン・モンロー (25歳頃の言葉、黒板手帳の1番最初のページに書いてあった。)

マリリン・モンローはアメリカの俳優で、映画の代表的な出演作には「ナイアガラ」「紳士は金髪が好き」「7年目の浮気」「お熱いのが好き」などがあります。

「私は今でも、自分が望まれて生まれた子ならいいのにと思うの。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローの母親は結婚していなかった。 モンローが生まれた後母親は働いていたので、知り合いの夫婦に赤ん坊を預ける。 祖母が赤ん坊のモンローの顔に枕をつけて殺そうとしてしまう。 結婚して生まれた子ではないと言うことが、宗教的に許せなかったらしい。 モンローは、自分の人生の中で、1番最初の記憶は「死にそうになって、昼寝から目を覚ましたことがあった。何かが顔に落ち付けられていたの。 枕かもしれない。必死でもがいわ。」

「誰も私のことを娘とは呼ばなかった。 誰も私を抱いてくれなかった。 キスをしてくれなかった。 誰1人クリスマスになると大きなツリーが飾られて、家中の子供がプレゼントをもらうのに、私にはなかった。 1人の子は私にオレンジをくれたわ。 あのクリスマスを覚えてる、1人きりでオレンジを食べたっけ。 元気を出すためによく空想空想したわ。でも他の子供が愛されてるように、愛される夢は見たことがなかった。 それは私にとってあまりにも大それた創造だったが。

その後、モンローは、児童養護施設に入れられる。その時のことを次のように語っている。 「どの子の親も死んでいった。 私には、少なくとも1人の親がいたわ。 でも私を欲していなかった。 他の子にそれを説明するのは、あまりにも恥ずかしかった。」

「楽しかったのは、映画に連れて行ってもらう時だけ映画が好きだった。 それだけが楽しみだったわ。 映画スターが私の友達だった。 その時だけ自由になれたの。」  それで、映画スターを目指した。

「私の肉体のあらゆる部分に押し寄せてくる恐怖、自分の体に触れる恐怖。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローは小さい時に40代位の男に性的虐待を受けた。(8 、9歳の頃)マリリンはこのことを母親に告げたが、母親は間借り人のその男の人柄を信じてたので、嘘だと思って、逆に娘を平手打ちしてしまう。 マリリンは被害者なのに、自分がいけないような罪悪感を抱いてしまう。 母親が体調不良で早引きして帰宅したときに、その男の部屋で裸の娘を見つけるわけです。 母親は激怒してナイフで襲いかかる。 その男は、救急車の中で母親は正気ではないと訴える。 母親も精神病院に入れられてしまう。

マリリン・モンローは、この性的虐待について、マイストーリーと言う自伝の中で公にしています。 大スターであるのに、大変な勇気。

ジョン・F・ケネディーの誕生祝賀会でマリリン・モンローが歌っている「ハッピーバースデーミスタープレジデント」と、いう曲

歌った2月半後にマリリン・モンローは36歳の若さで亡くなる。 自宅の寝室のベッドの上で、睡眠薬鎮痛剤の過剰摂取が原因と自殺の可能性が高いと言うのが、公式発表です。自殺説、他殺説あり。 ジョン・F・ケネディーも翌年、19631122日に暗殺される。

「私は今でも人に気に入られようとしたり、相手が聞きたいことを言おうとしたりしてしまう。それもまた恐怖心からなので。」 マリリン・モンロー

「人は、グループ内で、他と違うものを差別したがる。 私はグループの中でうまくやれた事は1度もない。 グループとは2人以上のこと。」

子供の頃の言葉として次のように書いてます。 「自分自身が冷たくされることに耐えながら、かつて私が持っていた感情は怒りではなく、拒否や気づけられることに無感覚になることで、そこで本当の愛の理想的なイメージを失ったの。 (無感覚になることで自分を守っていたんでしょうね。)

「私たちのほんの1部分が他の人たちの1部分に触れられるだけ、ある人の真実は、所詮はその人だけのもの。 私たちが分かち合えるのは他の人たちに受け入れてもらえるとわかっている部分だけ、だから多くの人は孤独。」

「どうして私はこんなに苦痛を感じるの。 それからどうして私は他の人たちよりも、つまらない人間だと感じるの。 いつだって、そう感じてきた人間未満のように。」 マリリン・モンロー

「人は私に会いたがるわ。 そんな今でも誰も見向きもしなかった頃を覚えている。 小さな下働き。ノーマ・ジーン 誰も母親でさえも見向きもしなかった。 あの日々を。」  ノーマ・ジーンと言うのは、マリリン・モンローの本名

「有名人であると言う事は幸せな気分になれるけども、それはほんの一時的なものね。 キャビアのようなもの。 キャビアはおいしいけど、毎日毎食となると。」

マリリンは人に優しく行いが立派だった。  エラ・フィッツジェラルドと言う黒人の歌手に出演できるように交渉し道が開けて行った。 人種隔離政策の時代に、白人のハリウッドスターが人種差別にはっきり反対を表明すると言う事、これはとっても珍しかったと言うことです。 彼女は自分のキャリアを危険にさらしてまで支援したと評価されている。

「私は時折、人間が本当にやり切れなくなる。 人は、私と同じように、誰しも皆問題を抱えることがわかっていても。」 マリリン・モンロー

「有名になると、人間の本性の生々しい部分にぶつかるの。 名声がある相手にはどんなことでも言っていいと、そんな特権が与えられた気になるみたい。」

「誰かと不幸せでいるより、1人で不幸せのほうがいいわ。 今までの経験から言えばね。」 マリリン・モンロー

マリリン・モンローは3回結婚して全て離婚しています。 最初は16歳の時、相手は21歳の青年。 2回目は27歳の時、相手は大リーグのスター選手ジョー・ディマジオ(モンローに仕事を辞めて家に入って欲しかったが、9ヶ月で離婚) 3回も30歳の時、相手は作家のアーサー・ミラーで5年後に離婚。 マリリン・モンローがなくなった時にも葬儀を取り切ったのはジョー・ディマジオでした。 その後彼はずっと独身を通をして、モンローの墓に週3回赤い薔薇を供え続けた。 84歳で亡くなったときには、やっとマリリンに会えると言った、とも伝えられてます。

「私も安定した関係を築けたらいいのに。 いつも帰る場所があって、いつも私がすることに関心を持ってくれて、辛い時も一緒に乗り越えてくれる。 お互いを支えるような関係、私は「死を2人をわかつまで。」という言葉が大好きだったの。 いつも最初はうまくいくように思えるけれど、その後で何かが起こる。 もしかしたらそれは私のせいなのかもしれない。」

マリリン・モンローの人生について調べていくと、当たり前とされていることがこの人の人生にはなかったんだなぁとすごく感じました。 (両親が揃ってる、子供の時に親から可愛がられるとか。)

多くの人が当たり前と思っていることほど、それが欠けている人にとっては辛いです。 当たり前が自分の手に入らない。

「私は幸せだったことがないから、幸せなのが当たり前だと思った事は1度もなかった。」  マリリン・モンロー





2026年6月27日土曜日

山崎エマ(ドキュメンタリー監督)     ・「当たり前の中にある価値を見直したい 前編」

山崎エマ(ドキュメンタリー監督)   ・「当たり前の中にある価値を見直したい 前編」

2025年第97回アカデミー賞、最優秀ドキュメンタリー短編映画賞にノミネートされた作品を製作された「小学校それは小さな社会」が国内外で反響を読んでいます。その作品を制作したドキュメンタリー監督山崎エマさんへのインタビューです。 山崎エマさんは、1989年イギリス人と日本人の母のもとに生まれ、大阪の公立小学校から中高は神戸のインターナショナルスクール、ニューヨークの大学卒業後、アメリカで映像の世界に入りました。 1回目の今夜は映画の内容や作品に込められた思い、ご自身の小学校から大学までの道のりをインタビューします。

「小学校それは小さな社会」と言うのは、ドキュメンタリー映画です。 都内の公立小学校を1年間、入ってくる1年生と出て行く6年生を中心に春夏秋冬を追ってく日常を撮ってるものです。 私の意向としてはこの6年間で日本の社会が作られるのではないかというか、ここで人間形成され、集団生活した人間たちが、いずれその後の社会出ていくので、社会に反映していくのではないかと思いながら、自分の小学校の経験もあるので、10年かけて作ったドキュメンタリー映画です。 2021年度1年間撮って約700時間ほどの映像を撮りました。(コロナ禍)

映画の主人公は人間ではなくて、学校の場所そのものと思ってました。 結果としてその中には生徒、教員12 、3名ほどの方々が出てきます。 中でも小学校1年生のシンバルの子と、6年生の縄跳びの男の子のストーリーなどがあります。 何かを作って、そこに向かっていく、できなかったことができると言う経験を積み重ねていく場所だと思います。 

世界に届く日本の姿はまだ限定的でアニメを通して文化発信されてると思いますが、自分が日本のことを考えたときに、もっといろいろあるなあと思いました。    6年間の小学校教育を通して日本の社会が見えてくるのではないかと思いました。日本では当たり前と思っていたことが結構すごいと言うようなことがあります。 掃除をする、給食の配膳をする、子供たちが自分たちで学校を作っていく、飼育委員、放送委員、行事を子供たちが主体となって、運動会や音楽会などをやってくこのこと自体が他の国から見ると驚きということです。 

自分たちの国と比べて考えるきっかけになったと言う部分が多かったと聞いています。日本の小学校の特徴としては、集団の中で役割があって、責任を持ってそれぞれやっていきましょうと言うことです。小さな社会で生きていく練習の場と言うのは私の見る日本の小学校やり方だと思います。 その結果は日本の社会に反映されていると思います。 小学校の6年生のなると日本人になってると言うふうに思います。 

フィンランドは教育大国ということで、今でも毎年のように日本から視察団が行きます。 特徴としては、個人の尊重、自由、子供たちの権利を多く渡すと言うことで有名になった国と言われています。 フィンランドの方としては個人主義に走りすぎたのではないかと言う意見が多くて、自分たちの事しか考えないと言う子供は増えてきている。 その中でこの映画を見ると、コミュニティーの一員としてどうあるべきかを考える教育だと、集団の中で自分の役割を貢献する、自分の役割を果たすと言うようなベースがあるシステムと捉えています。 

父がイギリス人で、母は日本人のハーフと言われていますが、中高はインターナショナルスクールで勉強しました。 その後は映画監督になりたいということで、大学はアメリカのニューヨークに留学して勉強しました。 その後10年位余ニューョークで過ごしました。 自分では普通の仕事をしてるつもりが凄くがんばりましたとか、責任感がある、時間にも遅れない、周りも配慮がある、自己中心的ではないと言うなことを言われました。 でも日本人だけですけどもと言うふうに気持ちが生まれました。 自分はどうしてこういう人間になったんだろうと言う振り返るきっかけにもなりました。 小学校の6年間で学んだ。ちょっとしていろんなことを学んだとが自分の強さとなって得をしたなと言うふうに思いました。 

日本のことを知りたいならば、小学校教育が大事だと思いました。 1人では生きていけない社会で、日本の中で日本のやり方は強さがたくさんある、これは海外の人にも気づいてもらえるのではないかと思いました。 公立小学校を丸々撮りたいと思いました。 5年ぐらいかけて参加してましたが見つかりませんでした。 結局世田谷区の小学校に了解を得ることができました。 

その小学校は基本的にはごく普通の小学校ですが、当時の校長先生が特別活動(勉強い以外の事)に力を入れている方でした。 基本的には私とカメラマンの方と音声の方と3人で1年間挑みました。 撮影時間は700時間ですが、撮影してない時間の方が多く、準備期間、編集期間を含めて約4000時間学校にいました。 学校では200日ぐらいは1年間ありますが、そのうちの150日間ぐらいは学校にはいきました。 なるべく自然な姿を撮ることにして、完成された作品は700時間から99分に編集しました。

先生方も大変で、社会からの求められすぎで、そういう姿を見つつ、先生方もまた人間だと言うことを感じました。 子供たちの成長を期待して導いて、成長をすれば喜んでくれたりしています。 悩んだり喜んだり苦しんだりする姿を入れたいと思ったのもそこで感じた部分が強かったからと思います。 

父も母も祖父母も全員生生でした。 やはり小さい頃から教育が人を作るし、教育が未来を作っていくと言う感覚がありました。 母は日本人父がイギリス人で、母とは日本語、父とは英語、両親の間では英語と言う形です。 中学高校はインターナチュラルスクールに行きましたが英語でした。 小学校の時は行事等いろいろやっていましたが、行事などには力を入れてませんで、周りからは個性がないと言われました。 私って何なんだろうと考え始めました。 映像との出会いは中学校2年生の時でした。 これにハマってしまいました。 小学校の頃にイチローさんの本の影響受けて、小さい頃から努力を重ねて大きな夢を持てば、夢は叶うみたいな人生のシンプルな考え方の本に感銘を受けました。 映像制作に対して、映画監督になりたいと言う夢を持ちました。

自分が感じたことを伝えたいと言う思いがあり、映像であるならば一生飽きないんではないかと思いました。 映像を学びたいと思って、大学はニューヨークに行きました。 20代の大半をニューヨークで過ごしました。 私は何者なんだと言うことを経験して自分は日本人なのか、イギリス人なのか、アメリカ人なのかどれかを選ばなきゃいけないと言うふうに思い始めて選びきれず悩みました。 至った結論は、何人とか選ばなくてもいいと、全部自分のものだし、環境によって変わるのはどんな人でもなると言うことで吹っ切れていきました。 

日本の小学校教育も日本社会も良い所と悪いところは隣り合わせ、表裏一体というかありますが、何事も度すぎるとダメだと思います。 この作品を見て思っている小学校教育全般の意見、自身の経験を反映して、掛け算にして感想を持つような作品だと思います。  小学校批判、教育批判はいろんな人たちが声を出して改善もされつつあると思いますが、足りてないのは当たり前すぎて、何もすごいと思わないところに気づくことだと思いました。 作品を見ていろいろ感じるように作ったと言う方が作品が広がる。 作品を後は、いろんな方法でこの作品を活用してほしいと思います。




2026年6月20日土曜日

「明日への言葉」投稿累計総数 5000回(秋田 宏)

 「明日への言葉」投稿累計総数 5000回(秋田 宏)

投稿累計総数 5000回を迎える事になりました。

年数で15年余りになります。

こうして続けられてきたのも、大きな病気、事故などもなく過ごしてこられたものが第一に挙げられます。 そのほかにもKさんからの校正やほかの方々からの応援もあり、感謝しています。

1年前ぐらいから長くパソコン画面を見るのが辛くなってきて、なんとか今日に至りましたが、最近はよりつらくなってきて不本意ではありますが、一旦5000回と言う切れ目のいい数字でほぼ毎日続けてきたものは終了させていただきます。  この先、きっぱりやめてしまうのか、それともたまにはより興味を引くような内容については投稿をしてみるかは、一休みして考えたいと思います。

「明日への言葉」のブログをご覧いただいた方々には申し訳ないとは思いますが、ご了解ください。

ありがとうございました。