2026年3月3日火曜日

桂盛仁(重要無形文化財「彫金」保持者)   ・「コツコツ、心があたたまるような作品を作り続けて」

 桂盛仁(重要無形文化財「彫金」保持者)・「コツコツ、心があたたまるような作品を作り続けて」

桂さんは、81歳昭和19年東京生まれ、父の盛行さんは、江戸時代初期から続く彫金の柳川派の技を受け継ぐ名人として知られていました。  桂さんは、東京都立工芸高等学校を卒業後、グラフィックデザインの仕事を経て、父親のもとで修行を始めます。  作品作りに励み26歳で日本伝統工芸展で初入選、その後も挑戦を続け、63歳で重要無形文化財保持者に認定されました。 彫金の技を伝えたいと活動してた桂さんに、5年ほど前、ゲームやアニメで人気のポケットモンスターを制作する機会が訪れます。  それはポケモンを様々な工芸の技で表現する「ポケモン×工芸展 美と技の大発見」で、桂さんは彫金の技を工夫して作品を完成させました。  現在各地で展示されています。  思いがけない反響に驚いていると言う桂さんに伺いました

工房の広さは16畳位です。 彫金の道具がたくさん並んでいます。  ここに1つ作品があります。 香炉です。 家庭の中で部屋の中に香りを漂わせようとするものに使うものです。 お香を炊きます。 幅10センチ奥行き7センチ高さ8センチ位です。蓋がありますが、つまみやすいものということでかたつむりを形取っています。 かたつむりは1枚の板を立体的にして形作っています。  このグレーの材質は四分一と言いまして、銅の中に4分の1銀を入れてます。  

彫金と言うのは、もともと刀の刀装具で鍔以外にも目貫きとかいろいろな部品があります。 江戸時代になると刀は飾り物になって来ます。  家の系統では、江戸の初期から明治までは刀等の刀装具を作っていました。 女性の装身具も作っていました。  明治以降は帯留めなどに移っていきました。  現在はそのようにして続いています。

昭和19年生まれです。  父は耳が悪くて彫金をやるしかなかった。  終戦直後は、彫金は贅沢品なのでお金にならず貧乏でした。 両親と兄弟3人合わせて5人が間借りをしていました。 1部屋で父が仕事をして、食べて寝てずっと生活を続けていました。  小学校3年生位から父の仕事の手伝いをするようになりました。  父はかなり耳が遠いので、かなり大きな声で会話をしていました。  当時の主な仕事は、米軍の兵士のお土産用として作ってました。 主にロケット、ペンダントの蓋を開けると中に写真が入ってるそういうものでした。その蓋にいろいろな富士山、五重の塔、桜、日本の風景などを彫り込んでました。 

その後万年筆、メガネなどの枠の部分に板をはったりすることなど手がけました。 東京都立工芸高校の金属工芸科(彫金、鍛金、鋳金)に入りました。 花瓶などを作る鍛金が面白かったので、彫金は家でたたいて提出していました。 高校時代、アルバイトとしてカフス、ネクタイピンなどを作って売っていました。 グラフィックデザイナーがもてはやされる時代になりました。 それで短大のグラフィックデザイナー科に進むことにしました。 その後会社に入ってグラフィックデザインの仕事を始めました。

体調を崩すようになって、父の仕事を手伝うようになっていきました。     大きく分けて4つの技に分かれます。①金具 ②象嵌 ③打ち出し ④彫り  ①金具では帯留め金具になります。 装飾するには色を付けるのに違う色の地金を嵌めます。 そうすると②象嵌?の技法も出てきます。  ③打ち出しは1枚の板から形を打ち出していきます。 ④彫りは基本的なもので、例えば葉っぱの葉脈に線彫りを入れます。    それが入り混じって1つの作品になります。 タガネなど道具は、父から受け継いだものと、あと自分で作ったものがあります。

父とは40年弱一緒に仕事をしました。 26歳で伝統工芸展に入選しました。    帯留めの場合、図案にもよりますが、最低3ケ月はかかります。  2008年に60代で重要無形文化財保持者になりました。  文化庁から話があったときにはびっくりしました。  伝承してもらえればいいかなと思って、20年近く教えに行ってます。  2020年頃にポケットモンスターを彫金で表現すると言う話がありました。 「ポケモン×工芸展と技の大発見」と言う作品展(20名の作家が出品)がありました。  全国各地で巡回されるようになりました。  小さい子が展示したキャラクターを見て、名前を呼んでくれたりすると非常にうれしいです。  やってよかったなぁと思いました。


2026年3月2日月曜日

柴裕之(歴史学者)             ・「『豊臣兄弟!』の時代考証を担当して」

柴裕(歴史学者)         ・「『豊臣兄弟!』の時代考証を担当して」

 今年の大河ドラマは、豊臣秀吉、秀長兄弟の立身出世から天下統一を描く「豊臣兄弟」、その時代考証を担当している1人が、3年前の「どうする家康」の時代考証も手がけた歴史学者の柴裕之さんです。 これまで、秀吉の影に隠れてあまり知られてこなかった弟秀長とはどんな人物だったのか、時代考証の難しさを含めて芝さんに伺いました。

秀吉と言う人物だけではなく、秀長と言う人物に光を当てられていますので、兄弟と言うものはどうあったのか、この2人の人物を注目することによって、違った視点が見えてくるんではないかと思ってます。  兄弟でも母親が違っていたりすると、他人のような関係にもなります  。武家階層になるとそれぞれを支持する家臣たちがいますから、そういった中で対立が起きてしまうと言うこともあります。豊臣兄弟は仲が良くて性格も対照的に描かれています。 兄の秀吉のほうは、脅威を感じさせるところがあったことが、当時の宣教師たちの資料に書いてあります。 

秀長のほうは、人に対して誠実であったと当時の資料からわかってます。    時代考証と言うのは、その描いてるドラマの時代背景、社会状況が、実際にその時代や社会に合ってるものかどうか、を検証し監修すると言うことをやっています。時代考証はもう1人いて、黒田先生と2人でやってます。 秀長に関する資料を収集して、秀長と言う人物がどういう人物だったのかと言うことをドラマの作成にあたって準備してきました。  

秀吉が出した文書は7000に対して、秀長のほうはおよそ150ぐらいしかないです。  残っている資料から考えると、秀吉と秀長は同じ父親であったと思われます。 秀長が本格的な活躍をし出すのが本能寺の変以降だと思います。  秀長は軍事面でも優れていました。  戦陣の表に立って、秀吉に代わって、軍勢の指揮を取る活躍をしています。  四国攻めとか九州討伐で豊臣を率いて大将として活躍してます。  四国攻めのときには、後から秀吉が来る予定だったのが結局来なくて、秀長が総大将として活躍します。 

秀長の調整能力と言うのは素晴らしかったです。 徳川家康に対する対応とか、毛利輝元に対する対応などが伝わっています。  誠実な接待をしてくれる人物に対しては信頼が厚くなっていくんではないかと思います。 公儀の事に対しては私に任せてほしいと内々の事は千利休にと言いますが、豊臣政権については私がいるから、安心しろと言って言うことです秀長の最大の功績は、織田家との関係だと思います。  主人の家を、小牧長久手の戦いで、秀吉は負かしてしまうわけです。   織田家が自分たちに従っているんだと言うことを世の中に示すためには、秀吉が言ってしまうと、威厳が保てなくなってしまうので、秀長が説得を果たす。     

当時織田家の当主であった織田信雄を説得し上洛させたと言うことを秀長がやっています。 秀長は、大和と紀伊の両国を支配しました。 民衆は、秀長の時代の統治は良かったと言っています。  民衆に対しての思いやりがあったと言う事ですね。 秀長蓄財家でもあり、現在のお金に換算すると220億位はあったと言われています。(倹約家)  秀長が亡くなった時、大徳寺の古渓宗陳と言う僧侶が言った言葉では、「秀吉の信頼が厚く、文武両道で威張ることなく、穏やかな人柄で、戦場では軍勢を率い、世の中のあり方を問い続け、財を成した人物だ。」と言ってます。

天正17年(1589年)末ぐらいから病にかかってしまって、天正18年1時回復は見せるが、小田原出兵には出陣できない。  天正19年1月に亡くなってます。(52歳) その後、甥の秀次の切腹もありました。 朝鮮出兵もありました。 秀吉も慶長3年(1598年)の8月に62歳で亡くなります。 豊臣政権の調整役は、秀長が負っていたわけです。 その後、調整役を担う人物がいなくなってしまうわけです。     秀吉は、徳川家康と前田利家を頼りにし、家康は秀頼の後見役として、豊臣政権を維持していこうとする。

大学に入って史学科と言うところに入りますが、戦国時代が日本歴史上における変革期と言われており、今でも戦国時代を研究しています。  豊臣秀長をもう少し深く調べてみたいと言う思いがありますが、織田信雄についても私の検討課題になってます。

2026年3月1日日曜日

広上淳一(指揮者)             ・「オペラに魅せられて」

広上淳一(指揮者)             ・「オペラに魅せられて」 

広上淳一さんは東京出身。 東京音楽大学で指揮、作曲、ピアノを学び、1983年卒業と同時に、名古屋フィルハーモニー交響楽団アシスタントコンダクター就任。 外山雄三氏の元で1年間ポストを務めます。 1984年第一回キリル・コンドラシン国際青年指揮者コンクールで優勝。  1989年、シドニー歌劇場での「仮面舞踏会」で初めてオペラの指揮を務めます。 1991年7月ウィーン交響楽団特別公演を指揮してデビューする。  オランダのレンベルク交響楽団、スエーデンのノールショッピング交響楽団、イギリスのロイヤルリバプールフィルハーモニー管弦楽団、アメリカのコロンバス交響楽団等のポストを歴任、日本では、京都市交響楽団常任指揮者を2022年まで勤め、2020年からはオーケストラアンサンブル金沢のアーティスティックリーダーに就任しています。  2025年1月からマレーシアフィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任。 2025年3月第75回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。  4月にはフレンド・オブ・JPO(芸術顧問)を務める。  日本フィルハーモニー交響楽団とのオペラの旅を指導させ、サントリーホールでヴェルディの歌劇「仮面舞踏会」をセミステージ形式で二日間上演し大成功を収めました

東京音楽大学では、講師時代を含めると40年以上になります。  父はNHKの放送記者で小さい頃はあちこちに行きました。  一人息子です。  両親も音楽が好きでした。  6歳から始めました。 転勤族でしたが、ピアノを買ってもらいました。   転勤先では、良い先生にいろいろ出会うことができました。  ウィーン交響楽団とか、NHK交響楽団の演奏会によく連れてってもらいました。     中学校は3回転校しました。 劣等生でした。  中学時代は同年代のアイドルの山口百恵、森昌子、桜田淳子等んの追っかけをしてました。 放課後は、なんとなく買い食いして、ゲームセンターに行ったりして、1歩間違うと危なかったでしょうね。

3つ目の茅ヶ崎市の中学校のときには劣等生にもかかわらず、先生方も受け入れてくれました。  成績の上位の学生仲間も私を1人の人間として平等に認めてくれると言うことをしてもらえました。  今後の進路に対して先生に対して自分の夢(指揮者になりたい。)をぼそっと言いました。  3年で吹奏楽部に入りました。   茅ヶ崎に父親が家を建てて落ち着けたと言うことを含めて、私の転機になりました。    音楽系の高校に行きましたが、約束があって音楽大学を卒業した時点で、ものにならなければ何でもいいから仕事をしろと言われました。 もうもう定年になるのでと言われました。  高校では素晴らしい先生と出会いました。  

大学も2年浪人して東京音楽大学に入りました。 ここでもいろいろ良い先生に出会えました。 卒業と同時にオーディションを受けましたら、名古屋フィルハーモニー交響楽団に取ってもらえました。 翌年、1984年第一回キリル・コンドラシン国際青年指揮者コンクールで優勝することができました。  コンクールでは「愉快な悪戯」を指揮しました。 名古屋フィルハーモニー交響楽団のアシスタントコンダクターは1年でクビになりました。 キリル・コンドラシン国際青年指揮者コンクールには外山雄三先生の勧めがありました。 英語を勉強して参加しました。

アムステルダムに住み始めて修行を始めながら、シドニーのオペラにつながっていくわけです。  1989年シドニーのオペラオーストラリアで、ヴェルディの「仮面舞踏会」を指揮、初めてのオペラの指揮となりました。  ヴェルディの大作をやると言うのはうれしい反面、無謀なことをやりました。(29歳)  イタリア語もよくわからないし、必死になって稽古を続けてきたので、私はどうなってもいいと思いましたけれども、その人たちに絶対恥を欠かせたくないと言う気持ちは1番ありました。 

1991年から日本フィルハーモニー交響楽団の正指揮者になりました。     2004年に大河ドラマ「新選組」の音楽指揮を行いました。  2分40秒の中に入れないと、1秒でも越してしまうと、番組をつぶしちゃうことになるんです。    これが職人技でした。 日本を代表する作曲家が命をかけてスピリットを込めて、2分40秒の世界を作っているというのを体感します。 

*「新選組」のテーマ曲、服部隆之 作曲、広上淳一 指揮、NHK交響楽団 

2022年からオーケストラアンサンブル金沢のアーティスティックリーダーをやってますが、能登半島の地震とその後の水害と言う2回ダメージを受けてます。    両親ともに富山の出身です。 復興、復旧について音楽で少しでも被災地の人たちに勇気づける活動を今もう120回以上やってますが、これを続けていきたい。   北陸にも素晴らしいオーケストラがあると言うことを知ってもらいたい。    残りの人生、人の役に立ちたいと思ってます。 

*「きらきら星」変奏曲 エッシェンバッハのピアノ演奏


2026年2月28日土曜日

千田嘉博(城郭考古学者)          ・「『豊臣兄弟』ゆかりの清須の歴史と城郭研究の魅力」

千田嘉博(城郭考古学者) ・「『豊臣兄弟』ゆかりの清須の歴史と城郭研究の魅力」

 『豊臣兄弟』主人公の豊臣秀長と、秀吉は、今の愛知県名古屋市の出身です。  千田さんは、名古屋市見晴台考古学資料館の学芸員や国立歴史民俗博物館の助手などを経て、2005年からは奈良大学で教鞭を取り、2014年から16年には学長を務めました。  2016年にはNHK大河ドラマ「真田丸」の真田丸城郭考証を務めました。 そして、総合テレビ放送中の「歴史探偵」や名古屋放送局の夕方のニュース情報番組「まるっと!」では城博士千田嘉博の「面白いぜ城歩き」と言うコーナーに出演し、城郭の魅力を伝えています。  現在は名古屋市立大学高等教育院教授、奈良大学特別教授として研究を続けています。

ラジオ深夜便には15年前にレギュラー出演してました。 「大人の旅ガイド」ということで、日本各地のお城の魅力を伝えてました。 真田幸村が築いた真田丸と言う出城のセットをつくりましたが、その城郭考証をしました。

戦国までの清洲は、尾張一の大都市でした。 清洲城を豊臣秀次が城主となって、その城を中心に町全体が堀で防衛されてました。 その外側には、市場町があって店の件数は3700件あったそうです。  清洲には、五条川と言う川が流れていますが、それが伊勢湾につながっています。 川を通じて運搬されたものが売り買いできるわけです。  清洲城は五条川のそばに建てられました。  川が掘の役割もします。 

家康の時代になって、城を名古屋に移そうかどうか、家康も悩んだそうです。  家康は、駿府城に住んでいました。  家康が清洲城を点検にすると言うことで、天守閣の点検をしたところ、戸が開かない部屋があって、無理矢理開けたら、男が忍び込んで家康を暗殺しようとしていたようです。  家康は難を逃れることができました。信長の後、どうするかと言う清洲会議もここでありました。   その後、秀吉と家康が戦うことになる。  小牧長久手の戦いでも、清洲城は家康側の要の城になりました。 関ヶ原の戦いでも関ヶ原の戦いの前に、どちらが清洲城握るか重要なお城でした。当時は、山城が主体でした。 けれども清洲城は平地にある川に接した交通の良いところに大きな街とセットになって城下町の先進的なお城でした。

「豊臣兄弟」は、戦国時代のサクセスストーリーになってます。 主人公は秀長になっています。 戦国時代と言うのは、いろいろな国や社会の地域のルールがうまくいかなくて壊れていた時代で、それを改めてどういう風に立て直していくかと言う変革期であったので、天下人になれた時代でした。 この時代の状況と言うのは、今につながるところがあるでないかと思ってます。 昭和の高度成長時代ではうまくいかないと言うことになってくることが多いです。 新しい発想でこの時代をどう切り抜けていくか、地域と地域をどう盛り上げていくかと言うのは、秀吉、秀長時代の発想、努力が今につながるところがあると思います。

城郭に興味を持ったのは中学1年生の時でした。  友達と旅行に行った時に姫路城を見て感動しました。  城郭考古学者と言い始めたのは私が初めてです。    大学時代、当時の考古学は中世、戦国時代などは古文書など文字で調べる時代でした。  城跡を発掘したらいろんなことがわかるのにとお城の考古学をやってました。  いろんな資料を総合しないとお城のことはわからない。 お城を中心に、いろんな資料を統合して、当時の様子をわかるように研究しようと言うのが城郭考古学です。  最近はお城を復元したり、整備しようと言うときには、発掘調査を必ずするようになりましてよかったです。

お城については2000カ所ぐらい調べていると思います。  全国には3万カ所以上お城の跡があります。  愛知県だけで1000カ所を超えています。  海外のお城も研究するようになりました。  日本のお城と海外の城を比較研究することも面白いです。 ヨーロッパのお城と日本のお城では全然違うものと言うふうにイメージされてますが、実はお城の発達の方向性だったり、どういう守りの工夫をするかと言う事は非常に共通性が高いです。  お城は共通性のものはありながらも、実は1個1個は個性的です。 お城見学は、天守閣だけではなく、堀、石垣、櫓、門などもあります。  そういったところに注目していただけるとグッと楽しくなると思います。


2026年2月27日金曜日

瀧靖之(医師・脳科学者)          ・「脳医学者パパが語る“親子のコミュニケーションを育む”コツ」

 瀧靖之(医師・脳科学者) ・ことばの贈りもの「脳医学者パパが語る“親子のコミュニケーションを育む”コツ」

 さんは1970年北海道旭川市生まれ、高校卒業までは旭川で暮らします。    東北大学の医学部を卒業後は脳の研究の道へ進みました。 現在は脳の発達や加齢のメカニズムを明らかにするための研究などを行う、東北大学加齢医学研究所で教授を務め、臨床、教育に力を注ぎながら、脳の研究の第一線で活躍し続けています。  これまでに見てきた脳のMRI画像は16万枚を上回り、そこから導き出された脳の健康法や子供の脳の発育に関する数々の本を出版し、講演会などを通して多くの人に伝えています。  そんな さんの研究と人生をより豊かなものにしたのは長男の誕生を機に、子育てを経験したことだといいます。  一児の父として脳医学者として一筋縄ではいかない子育てを楽しむ さんにお話を伺いました。

私たちは、脳のMRIの画像を多くの方から集めて、画像だけではなく、生活習慣とか遺伝子とか記憶する認知機能など、いろんなものを集めてそれをデータベース化しています。  私たちの脳はどうやって発達していくのかどうやって加齢をしていくのか、何をすると将来認知リスクを下げるのか、天寿を全うするまで、脳を健康に保って、自分らしく賢く楽しく有意義に生活するかと言うことを研究テーマにしています。 脳を健康に保つためには大きく6つあります。 1つ目、できるだけ多くの品目をバランスよく食べる食事。  2つ目は、十分な睡眠を取る。  3つ目可能な限り運動を習慣化する。 4つ目、対面で会話をする。 5つ目、他にささやかながら日々楽しむ。主観的幸福感。 6つ目、知的好奇心を持っていろんな趣味とか活動する。

脳には可塑性があります。 歳をとっても何か楽しいと思うことを始めると、半年とか1年後には確実に伸びています。 気軽に何か始めると言う事は素晴らしいことです。 楽しいと言うことが大事です。  私は音楽が邦楽とか洋楽とかにかかわらずクラシックとか好きだし楽器を演奏する。  例えばピアノとドラムをやってます。本も好きです。 スポーツではスキーは物心ついた頃からやってます。 筋トレスケートなどもやってます。 生き物が好きで昆虫を見に行くとか、いろいろ好奇心を持ってやってます。 子供の頃は、釣りが好きで、スキーをしたり、図鑑を見たりして、または星が綺麗なので、望遠鏡で天体を見たりしてました。母は、絵画が好きで、一緒に連れて行ってもらったりしました。  色の配置の美しさにとかに興味を持ちました。  美しいと言うものに心を惹かれるようになりました。  

生物を学びたくて、東北大学の理学部に進学しました。 卒業後、再受験して医学部に入学しました。  祖母が認知症になり、なんでこういうことが起きるんだろう、どうやったらこの病気にならなくて済むのだろう、どうやったら治療できるんだろうと言うことに興味を持ちました。  他の病気についても興味を持ちました。 それで医学部で勉強したいと言う思いに至りました。  臨床も長くやりましたが、研究は、知的好奇心を満たして、それが何か世の中に役に立ちうるかなぁと言う思いがあって、研究のほうのにシフトをしていきました。  悩みますけど動きます。

2016年に出版した「16万人の脳画像を見てきた脳医学者が教える『賢い子』に育てる究極のコツ」が10万部を超えるベストセラーになりました。  脳の研究をしてきて、生活習慣が重要だなという事がありました。 ひょっとしたら、子供のうちに運動習慣を作ったり、会話の習慣をつけたり、いろんな趣味をやったら子供ってすごく幸せな人生を送れるないかと思って、子供たちの研究を始めました。

子供もしっかり寝ることで、脳の海馬と呼ばれる記憶を司る脳の発達がすごく良いと言うこともわかりました。  41歳の時に長男が誕生しました。  子供を常に見ながら問題意識を感じながらやれてすごく良かったです。 子供から学ぶことが非常に多いなと思いました。  2025年に「本当はすごい早生まれ」と言う早生まれの子供の脳に着目した本を出版しました。 息子が3月生まれなのでその影響もありました。 

早生まれの凄いところは大きく分けて2つあります。 1つ、私たちの脳には可塑性というものがあります。 何かを一生懸命やると脳も一緒に発達していく。    脳を早いうちから刺激していくと可塑性を高めやすい。 それによっていろんな能力を獲得するための土台をより早いうちから作ることができるんではないかと思いました。 2つ目、甘える力、早生まれだと体が小さいので可愛がられる、可愛がられると言う事はすごく大事なことです。  援助を求める力と言うのはすごく大事です。  早生まれだと言うことで自己肯定感を下げないようにしてやることが大事です。 いいことを褒めてあげる。 

子供にやりなさいではなくて、自分でやってその楽しさを見せてあげると言うことが大事です。  子供にピアノをさせたかったので、私がピアノを弾いてそれを見て子供を3歳からピアノをやるようになりました。  親が楽しめば子供も楽しむ。 理論と実践では違うので、色々と悩みますが、でも知識がちょっとではあると、そこで立ち止まれるわけです。 子育てをする上で大切にしている事は2つあります。1つ、とにかく愛情をかけてます。 あなたの素晴らしいところはここですと息子によく言います。  2つ目は、とにかく何でも一緒にやります。 そうすると怒るとはできなくなります。 一緒にやってると子供の凄さがわかります。 それがコミュニケーションツールにもなります。

私は両親からあるいは周りの人たちから愛情をかけられて、育ったと思います。 困難はあったかもしれませんが、思い出せないです。 常に前を向いていましたし、今もそうです。 人生を切り開くときにはいつも前向きです。 それは過去が幸せだったからです。 これからの人生の目標はひたすら美の追求です。      私たちが考えている以上に、脳は柔軟です。  自分ができないと思い込んだら壁を作って何もできないですが、ひょっとしたらできるんだと思うと案外できるものです。 楽しくやるのが一番です。





2026年2月26日木曜日

友永詔三(造形作家)            ・私のアート交遊録「人形と遊ぶ夢の世界」

友永詔三(造形作家)       ・私のアート交遊録「人形と遊ぶ夢の世界」 

友永詔三さん81歳、1944年高知県のお生まれです。四万十川の自然豊かな中で暮らし、父親の手作りの遊具作りを見たことで造形への興味が芽生えたといいます。 インテリアデザインを学んだ後、オーストラリアの民謡劇団で人形デザインや製作に専念、帰国後パフェットデザイナーとしてデビューします。 1979年から放送されたNHKの人形劇シリーズ「プリンプリン物語」では総計500台のパフェットを全て考案し制作しました。 友永さんが目指すのは、劣化したら自然界に戻る素材だけを使って作品を創造することです。 今年81歳の造形作家友永詔三さんに人形創作にかける思いを伺いました。

「プリンプリン物語」は、去年再放送されました。  44年以上前に作ったものです。  脚本は医者の先生ですが、ラーマーヤナと言うインドの物語が下地になっていると言うことです。  インドに1週間ぐらい行って、インドの踊りとか衣装とか生地などを仕入れてきました。 それを参考にしながら作りました。     当時、公害問題が流行ってる時期で、ある人物にはヘドロという名前をつけたりして、社会風刺的な問題も取り入れています。 戦争の問題とか原発の問題も入ってきました。 ミュージカル風の人形劇でした。

デザイン学校を卒業して、舞台装置をやりたくて、舞台装置を作る会社に就職しました。  オーストラリアの人形劇団のオーディションに受かったのがきっかけです。  1968年にオーストラリアに行って、イゴール・ヒチカ、のもとで人形を作り始めました。  1970年の大阪万博で、オーストラリアのコーナーで初めて人形をつくりました。(23歳)オーストラリアではピーター・スクリベン、イゴール・ヒチカに色々と教わりました。 ピーター・スクリベンからは「ものを作る人間は型にはまってはいけない。」と言われました。  

子供時代には、いろんな遊び道具を木や竹で作ってました。  オーストラリアから帰国後デザイナー学院の講師をやりながら、展覧会をする会場を紹介してもらって、やるようになったのがきっかけです。 それを見てNHKの人から「プリンプリン物語」の話が来ました。  最初のころの人形は、関節部に球体をいれた球体関節人形を作ってました。  それが革新的だったようです。  そのやり方を「プリンプリン物語」でも採用して人形を作りました。  その人形はいろんなポーズを作れるようになります。 操る演技の難度は、高いものの操作の重度が高くて、幅広い表現が可能になりました。  

すべてオリジナルで、台本が届いてから人形を作ると言うことをやってきました。 下から棒を使った操り人形は初めてでした。 マリオネットは上からなのでまったく逆でした。 目を動かすときに、頭が動かないようにどうやってするとか苦労はしました。 木肌を生かした人形を作ってみたいと思いました。 役柄によって材質を変えました。 年輪による面白さもあります。 土に帰る材料を使いたかった。(自然に帰る材料)  映らない見えないような部分まで気を遣って制作しました。

僕は子供はライバルだと思って作っていました。 子供って鋭いと思うんです。  40年ぶりに再放送を見ましたが、自分の思いは間違ってなかったと言う思いはあります。  木彫の最初の頃は、女性の体の形を借りて自分を表現していました。  少女の持っている曲線の美しさを、なるべく省略していった感じで1つの形を作ろうとしてやってました。  少女の像は今も作ってまして、何百体も今まで作ってると思います。 品のあるものに、と言う思いで作ってます。  作る時も自分で楽しみながら作っています。  人形だけでなく仏像とかほかのものでも、少し色っぽいものの方が美しいと思います。

現在はあきる野市にある深沢小さな美術館を経営しながら、非常勤講師を務めています。  チェーンソーを使ったりするので、音で迷惑がかからないように山のところで、かつ故郷の四万十川に似たようなところに移りました。  古民家を改造したかったので、廃墟を手に入れて自分で全部改造しています。  家を作ってるっていうのは自分で1番楽しいです。 ものを作ると言う事は遊んでるって言う事と同じ感覚でやってます。  

3月には2人展を東京の画廊でやらせていただきます。 来年は個展を7月にやらしてもらいます。  お勧めの1点としては、サルバドール・ダリの引き出しがついたビーナスと言う、自由な発想で作れると言う思いが、いまだに頭に浮かんできます。

自分1人ではできるものではないので、出会った周りの人に助けられて何とか続けられていることにありがたいと思ってます。


2026年2月25日水曜日

高野孝子(早稲田大学教授)         ・「大事なものは何か、考えてほしい」

高野孝子(野外・環境教育活動家 早稲田大学教授) ・心に花を咲かせて「大事なものは何か、考えてほしい」 

高野さんは、若い頃は冒険家として知られ、その後自然環境の中で学ぶ環境教育活動家として活動しています。  ケンブリッジ大学やエジンバラ大学で学位を取り、サスティナビリティや教育分野の博士でもあります。 その高野さんが30年以上にわたって実施しているのが、ミクロネシアの島に若い方を連れて行くヤップ島キャンプです。 引率のスタッフは指示をせず自分たちで考えさせるキャンプだそうです。  なぜそのようなキャンプを始めたのか、どんな狙いがあるのでしょうか高野さんにその思いをお聞きします。

高野さんは20代、30代の頃、アマゾンン川を1500キロカヌーで下ったり、北極点をパラシュートで降りたり、マダガスカル島での命がけのレースに参加したりだとか、冒険家のやることでしたね。

私にとっては、アマゾン川を下るるのも、北極点にパラシュートで降りたりするのも、北極海を犬ぞりで横断したのも冒険をしに行ったのではなくて、旅の延長だったです。  自然環境の中で生きてる人に会ってみたいと言うのと、山とか川とか自然の中で体を動かすことの気持ちさは好きです。  自分が面白いなと思ったこととか大事だなぁと思ったことがあると人に伝えたくなる性分なんです。    旅をしながら同時に一緒に人に伝えたいということで、教育に見えてしまいますが、大学院生の時に海外の街がないと言うようなところで、海外のいろんな人と一緒に調査が暮らすと言う3ヶ月がありました。 そこで初めて人がどうやって生きていけるのか、シェルターを作ろう、飲み水を探そう、トイレをどうしようと言うところから、暮らしを作り始めました。

持ち込んだ食料もなくなったりします。 自然が壊れてさえいなければ、人は生きていけるんだなぁと言うことをまず実感しました。  もっと大事なのは仲間だったんです。  必要なものを分担してできるし、生きる力みたいなものが湧いてきます。  自然に暮らしている人たちの所へ旅をするようになると、今度はそこに知恵とか技術と言うものの大切さが入ってくるです。  そうするともっと豊かな暮らしができると言うことが旅先で出会ってわかります。  特に若い人たちがそういうことを見つけて欲しいと思ってます。 インフラがなくても自分は生きていけると言う自信にもなります。 仲間の大切さ自然の大切さわかります。  豊かに生きてゆくためには知恵と技術が必要です。  

ミクロネシアのヤップ島のイフルクと言う島ですが、そこでは電気とかモーターとか、近代技術的なものが禁止されてます。  風を使ってカヌーを送る?、漁に行く、この暮らしが1番便利だといいます。 モーターを使うとガソリンが必要で買ってこなくてはいけないし、壊れてしまったら直し方はわからない、そういうことに依存した暮らしは大変不便である、と言いました。  現代社会の便利さは、大変さを取り除こうとしてるんだと思います。

ヤップ島に子供たちを連れて行って、食べ物調達から自分でやらせるキャンプをしています。  自然が健全であれば、人は生きていけると言うことをどうしたら他の人に経験してもらえるんだろうと思って、場所を探しヤップ島に至りました。  そこでは石のお金を使ってます。 石のお金は資産なんです。  1番大事な使われ方は、その人が徹底的に悪いことをしてしまったときに、大事な石のお金を渡すので、勘弁してくださいと言う時に使われるものです。 その石を取るためには、パラオまでカヌーで行って、大変な苦労をして持ち帰って、気の遠くなるような時間をかけて加工してものです。  

個人が持つものではなくて、大抵はコミュニティー全体のものになったり、チーフが管理するものです。  ヤップ島には現在7000人ぐらいが住んでいます。   3000年前から人が住んでると言われてます。 ヤップ島は色々な国から統治されてきた歴史があります。 日本からも統治されました。 今は独立しています。   最初に行った時は懐かしい感じがしました。 穏やかな空気が流れていて、伺った家の長老は日本語を話します。  

古い掟がきちんとあって、うるさくてはしてはいけないと言うのもあります。   リスペクトにまつわる掟がいろいろあります。  かつては部族同士の戦いがあったので、片手に何かを持っていると言う事は戦意がないと言うことを証明するんで、必ず何か片手に葉っぱでもバッグでもいいんですが、持っていくような掟があります。 木とか落ちている実でも所有者がいます。 一言言えば「どうぞ」と言うふうに言って言ってくれますが、勝手にとってはいけない。 海です漁をして良いかどうかの区画が決まっています。 

そこへ子供たちを連れて行くキャンプを30年以上やってます。 自然の中で暮らし秩序だって暮らしている彼らの知恵に触れることで、きっとそこから得られるものがあると思います。 大事な事の1つは、人はどうやって生きていくのかと言う事とお金があること=豊か、ではない。  お金では買えないものを見つけてくれるんではないかと思います。  最初は小学生、中学生、高校生が多かったんですが、今は大学生位が多いです。 問題意識と、自分を試してみたいと言う気持ちで来る人が多いです。 子供たちはMax 10人ぐらいです。 日々を暮らすという事は大事な時間です。 

ヤップ島は目的別に家を作るんです。 食べる家、寝る家、憩う家、少年たちの家 、別に母屋があって子供が小さい頃はそこで暮らします。 子供の頃から家の建て方は大人と一緒に作って学びます。 トイレは以前は海で処理していましたが(魚が食べちゃう)、最近は変わってきて穴を掘ったりと言うような方法をやったりしてます。  材料を取ってきて作るところから発想を変えていきます。    トイレを作ったり、台所を作ったりします。  島の人たちからいろいろ教えてもらいながら、初日は暮らしの準備をします。

ヤシの葉っぱでマットも編みます。 その上でその日から寝ます。 マット編みは難しいので、最終的には島の人たちに手伝ってもらってやってもらえます。  食べ物はこちらの趣旨を説明して分けてもらうようにしてます。主食はタロ芋です。果物がたくさんあります。魚は取るのが難しいので、差し入れがあります。ココナッツの実を裂くのにも、村の人ですと30秒ででできるのが、私たちがやると15分ぐらいかかります。根気強く教えてくれます。

地元の人たちから生きるスキルを学ぶキャンプです。  11日から12日のキャンプです。  最初の三日間は慣れる期間、次の三日間ぐらいはホームステイーに行きます。 そこでいろんなことを吸収します。 最後に活動する期間があって、教えてもらったり、覚えたことをを生かして、何かお世話になった地域のためにできることを自分たちで考えてやる時期です。 

最近は外からいろんなものが入ってくるので、環境汚染が1番の懸念点です。   ゴミの処理は課題です。 キャンプをしたことによって価値観の変化はあるんだと思います。 お金ではない物差しがあるんだなと言うことに気づくと思います。  自然の力で生かされてるって言うことを実感すると思います。 スタッフは一切指示はないです。 不安定な時代を迎えていますから、自分で考えて自分で道を作っていくつもりでないと、誰かのせいにして生きちゃうんじゃないかと思います。 堂々と自分で責任とって自分で決めるほうがいいかなと思います。