2026年4月28日火曜日

冨士眞奈美(女優)             ・「余白を味わう暮らし」

冨士眞奈美(女優)             ・「余白を味わう暮らし」

富士真奈美さんは静岡県の出身。 1956年に女優デビューしました。 以来幅広い役柄で活躍しています。 一方長年親しんでいる俳句の世界では、句集を出版したほか、選句や選評も務めています。 

吉行和子は私の家から歩いて15分の位のところですが、亡くなるまで3年会っていません。 お互いに大親友だと思っていました。  俳句をして月1回ぐらい会ってたんですが、突然なくなってしまいました。(去年92日) びっくりして1週間ぐらい寝込んでしまいました。 岸田今日子ちゃんとは18歳位からのお友達です。  野球、相撲などに一緒によく行きました。 和子っぺは料理が嫌いでしたが、私は好きでした。 或る時に「一緒に暮らさない」と言われたが、冗談だと思っていたが、今考えると本気だったと思いました。 亡くなってしまってからなんで、そうしようと言わなかったんだろうと思いました。

デビューはNHKのテレビドラマからスタートしました。「この瞳」の主役に抜擢されてデビューしました。 (70年前)  或る時、大山のぶ代さんから一緒に暮らさないかと言われて、ついて行って2 3年は一緒に暮らしました。 まだドラえもんの役に巡りあう前でした。 1970年、「細うで繁盛記」に出演しました。 私は伊豆の人間なので、方言の指導などもしました。 舞台は伊豆の旅館で、若いお嫁さんとして来たのが新珠 三千代さんでした。その新珠 三千代さんをいじめる小姑の役でした。

女優の忙しい時期に結婚しました。 女優として第一線から退きました。     娘が生まれて一緒にいる時間がすごく楽しかったです。 離婚したときにはこんな自由ってあるかしらと思うほど、今日子ちゃんと和子っぺと一緒に遊ぶようになりました。 女優業に復帰しました。 和子ペは「本当にあなたのおかげで、離婚したおかげで、私の後半生がぱっと開けたのよ。」と言ってくれた時は嬉しかったです。

俳句は14 、5人でやるんですが、みんな仲良しで感覚が一緒の人たちってやっぱり親族の次に仲良しになれるかなぁと思います。 和子は「結局、ボーイフレンド、最後の男友達は句会の仲間かな。」と言ったけど、好きとか嫌いとか感情を抜きにして、淡々と付き合えて、俳句を仲立ちに友達になると言うのはすごく強いものがあります。 最初は、中村汀女先生とテレビ句会に出ました。 黛敏郎さんとか、谷川俊太郎さんとかと一緒に出ました。 俳句をやったらいいんじゃないかと言うことになりました。 毎月1回必ず句会をやっていました。

最近はずっと作りませんでしたけれども、和子が亡くなったときに、一句作りました。 「とこしなへ夢見る一人静かな」 

アグリさんのお葬式のときには、「ゆすらうめ乙女の夢を想うまま」と言う色紙を書いたんですが、それをアグリさんの「お棺に入れておいたよ。」と、和子が言いました。 俳句やってて良かったなと思いました。 私の俳号は衾去(きんきょ)です。  「おしとね下がり」という言葉がありますが、おしとね下がりのつもりでつけました。 佐藤愛子先生から、「あなたは俳句はいいけど、「おしとね下がり」なんてよくないわよ。」と言われちゃいました。 

和子っぺは「窓烏」上手くなったら「そうう」と言うふうに言おうと思いますが、今は「窓がらす」と言っていました。 京子ちゃんは「眠女」(みんじょ)といいます。 俳句を上手くなるには、名句を暗記していくことだと言われました。    俳句っていうのは、作っておけば日記みたいなもので、その日の様子とか環境とかまざまざと浮かんできます。 俳句を作るのと言うのはいいと思います。     俳句作るようになったら、自分について1番考えるようになりました。

「百合開く闇一寸の吐息かな」 句集の中からこれが好きだと言われました。

「明日開く百合一輪結ばれる」 百合の句は一杯作りました。

本は小さい頃から好きでした。 最近も俳句に関わるような本を読みます。    食べ物は好きなものを気ままに食べてます。 手紙を書いたりするのも好きです。 電話とかは苦手です。 家のものを片付けたいとは思いますが、いろいろ思い出があって、なかなかそういうわけにはいきません。








 

2026年4月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言「モネ」

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言「モネ」

モネは1840年に生まれ、1926年に86歳で亡くなりました。今年は没後100年に当たります。

「あぁ、なんと辛いことか。 絵を描くという事は、なんと辛いことか。 それは私を苦しめる、痛みをもたらす。」 モネ

絶望名言は今年度で10周年を迎えます。

モネは、フランスの画家で、代表作には「印象 日の出」「散歩、日傘をさす女」、「積みわら」シリーズ、「ルーアン大聖堂」シリーズ、「睡蓮」のシリーズなどがあります。 印象派の中心的なメンバーで1番長生きをしました。 最後の印象派と言うふうにも言われましたが、今年没後100年になります。 86歳で亡くなる。

モネは日本が好きで、浮世絵が好きで、自分の庭にも日本風の太鼓橋をかけて、その橋は絵に何回も書かれています。

「あぁ、なんと辛いことか。 絵を描くという事は、なんと辛いことか。 それは私を苦しめる、痛みをもたらす。」 モネ  こういった言葉がたくさんあります。

「画商や美術愛好家達は私に背を向けています。 何よりも悲しいのは、市場価値のない芸術作品に対して誰も興味を示さないことです。」 モネ(18696月に作家に出した手紙の一節、モネは当時28歳)

モネは生きてる間に有名になったので恵まれた方です。 当時フランスでは「サロン・ド・パリ」と言う展覧会があって、これに入選できるかとどうかというのが画家の登龍門でした。 モネは24歳の時に2点出品して2点とも入選しています。   翌年は、妻となるカミーユと言う女性が緑色のドレスを着ている姿を描いて、これも入選して大絶賛されます。 その翌年は「庭の中の女たち」と言う大作を描くが、落選して酷評されてしまいます。 その翌年は1点入選1点落選、その次の年は、2点とも落選。その次も2点とも落選。モネにも評価する人たちがいましたけれども、それでは生活はできないんです。

「パンもワインも台所の火も灯りもない。 一昨日から私は無一文でどこへ行ってもつけ払いの効かない、肉屋でもパン屋でもダメだ。 たとえ将来に希望を持てたとしても、現状が非常に厳しい。 私はもはや初心者ではない。 この年齢になっていつまでも人に懇願して、絵を買ってもらう状況にいるのは恐ろしい。」 モネ(29歳、34歳、38歳の時の手紙の一節)

「風がキャンバスを吹き飛ばし、それを拾うおうとパレット置いたら、風がそれも吹き飛ばしてしまった。 私は怒り狂い全てを放り投げるところだった。」 モネ(55歳の時の手紙の一節)

絵を描いてるときにうまくいかないと、癇癪を起こして、絵をナイフで切ったり、足で踏み抜いたり、川に投げ捨てたり、燃やしたりしてます。 生涯を通じて500枚以上の絵を自分で壊してしまったと言われています。  昔はスケッチは外でするが、油絵を描くのは室内ですると言うことが一般的でした。  モネが生まれた頃にチューブ入りの絵の具が登場しました。 印象派の人たちは外で油絵を描くようになりました。

「私にとって風景はそれだけで存在したりしてるのではない。なぜならば瞬間ごとに外観は変わっていくのだから。 周りにあるもの、つまり絶え間なく変化する光や外気が風景に生命をもたらすのだ。  私は周囲の大気こそが、主題に真の価値を与えるんだと思う。」 モネ

モネには「積みわら」とか「ポプラ並木」「ルーアン大聖堂」とか連作があるが、同じモチーフを繰り返し描いています。 時間帯、季節、天候によって見え方が全然違います。 瞬間ごとの変化、周囲の大気をモネは描いてるわけです。 「光のつつみ」と表現しています。

モネが本格的な「睡蓮」の連作を始めたのが189958歳の時です。 ラヴェル(印象派の音楽家)の「亡き王女のためのパヴァーヌ」が作曲されたのも1899年です。

「亡き王女のためのパヴァーヌ」 作曲:ラヴェル

私はいつも信じていた。 私は前に進み、最後には何か価値のあることができると。 しかし、あぁその望みもいまや葬ってしまわねばならない。」 モネ(191372歳の時の手紙の一節)

この頃はモネは、数年間絵を描かなくなってしまいます。 2番目の妻のアリスが亡くなってしまったのが1番の理由と思います。 当時モネの絵は有名にはなっていました。 しかし印象画が過去のものになってきていました。 モネが1874年の33歳の時に仲間たちと開いた最初の展覧会で「印象 日の出」と言う有名な絵を出品しますが、批評家のルイ・ルロワと言う人がこの絵を酷評します。 彼が「印象派の展覧会」と言い始めたのが最初です。 印象派からキュビスム(ピカソ等)に変化していきます。 印象派が古いと言うふうに言われるようになってしまいます。

「描けば描くほど感じたものを表現するのは、下手だと思い知らされるばかりです。  しかし、1つの作品を仕上げたと言える人がいたなら、恐ろしく傲慢なことだと自分に言い聞かせています。」 モネ(18933月モネが52歳の時の手紙の一節) 「ルーアン大聖堂」の連作を書いてるときのものです。

「私は触れることのできないものを、掴もうとしているのです。 それなのにいかに光が素早く走り去り、色を持っていってしまうことか、色はどんな色でも1秒ときには多くても3 、4分しか続かない。 3、4分で何を描かば良いかというのですか。 それらは行ってしまう、止めなければならないんです。  あぁなんと苦しいことか、なんと絵を描くことは苦しいことなのか。それは私を拷問する。 それが私にもたらす痛みと言ったら。」モネ(19188月モネの手紙の一節)

「また、私の視力が変化して、このままでは絵を止めなければならないだろう。 そして描き始めたものも、そのままになるだろう。 なんと悲しいことか。」モネ(1919年終わり頃が79歳の頃の手紙の1節)  モネが71歳の時に白内障と診断される。 画家にとって、絵が見えなくなると言う事はきつい。

モネは「自分が見てるものが何なのかなるべく忘れろ。」と言ってます。  身の回りのものを、改めて初めて見るように見てみると結構面白いと思います。 新鮮の気持ちで生きられる。

「絵を描きに出かける時は、目の前にあるものは何であるかできるだけ忘れるようにしなさい。木であれ家であれ野原であれなんであれ、ただこう思うだけでいい。ここに青い小さな四角形がある、ここにピンク色の長方形がある、ここに黄色い一筋の線があると、そしてあなたの目に見えるままに、その色と形を正確に描きなさい。」 モネ。









2026年4月26日日曜日

宮本益光(バリトン歌手)          ・夜明けのオペラ「モーツァルトの魅力に導かれて」

 宮本益光(バリトン歌手)  ・夜明けのオペラ「モーツァルトの魅力に導かれて」

宮本益さんは、愛媛県八幡浜市出身。 東京芸術大学卒業、東京芸術大学院博士課程を終了。 オペラの日本語訳詞とその方法論で学術博士号を取得しました。  二期会オペラ「ドンジョヴァンニ」でタイトルロールデビュー、その後新国立劇場、鹿鳴館や神奈川県民ホールのオペラ、金閣寺などで高い評価を受けました。 また、作曲、訳、演出などでも活躍、現在は桐朋学園大学教授、東京芸術大学講師として後進の指導にもあたっています。  2018年からは「モーツァルトシンガーズジャパン」を結成、これまで7作品を上演しています。 歌い手として活躍しつつ、オペラに関して様々な分野にも光を当て続ける宮本益光さんに伺います。

与えられることが自分を活かしてくれると言う思いでもありますので、教えることも舞台に立つことも自分を活かしてくる糧として、私は大切にしたいと常々考えています。 53歳です。 歌手なので、少しの不調が喉に現れたり、歌に影響することがあるので、体調は人一倍気を使っています。 

子供の頃から音楽教育は全く受けていませんでした。 小学校の4年の時の先生が鼓笛隊を作ることになりました。 そして、のめり込んできました。 トロンボーンをやるように言われて、選ばれて音楽の才能があるんではないかと勘違いをしました。  全てが楽しかったです。  女の先生の影響力が多かったです。  歌を歌う事は嫌いでした。 中学では吹奏楽部に入りました。 音楽の先生になると言う思いがありまして、高校に入って嫌いだった歌を克服しようと言うことで歌を専攻しました。  

愛媛大学では、教授の素晴らしい先生に出会えました。 高校時代に愛媛県のコンクール、四国のコンクールに出ましたが、毎回最下位でした。 1位の方が東京芸術大学に入学したと言うことを知りました。 私も東京芸術大学に入りたいと思って、先生に話したら東京芸術大学に受かるわけはないと言われました。 親を説得して3浪まですれば受かると言うふうに言って受けることになりました。    なぜか現役で受かってしまいました。 両親は中学を出てすぐ働いていたという事もあって、子供たちにはやりたいことを、与えられる範囲の中で好きなようにやりなさいと言う後押しは凄く感じていました。

回りからオペラを見に行くと言うふうに誘われましたが、オペラを見に行くと言う事はなんだろうなと思いました。 その劣等感が自分を推進する原動力にはなりました。 教育者になりたいと言う夢があったので、指導教官が博士号を取る手段があると言うふうに言われ、博士課程を受けることになりました。 日本語を音声学から研究しようと思いました。 それをオペラの研究に落とし込むには訳詞が良いのではないかなぁと思いました。 オペラデビューは24歳の時の広島オペラルネサスでした。 2004年に二期会の「ドンジョヴァンニ」でタイトルロールデビューしました。 

*モーツァルトオペラの「フィガロの結婚」から「訴訟に勝っただと?」

モーツァルトの作品はほとんど長調で書かれていて、順次進行の作品は推進力があります。 悲しいものも長調で描く。  躍動と煌めきに満ちています。     「モーツァルトシンガーズジャパン」というグループを作りました。 自分たちを作ってくれたモーツァルトの作品と言うものが、心の中にずっと座ってくれています。 それを上演する機会を持ちたいと思いました。 それで活動を開始しました。22作品を全てピアノ伴奏で声楽に特化もしたものとして、レコーディングしてモーツァルトの生涯を追ってみたいと思いました。

「モーツァルトシンガーズジャパン」として、ザルツブルク音楽祭に呼ばれたいとと言う思いがあります。  演じることが好きで、演じることは自分を発見することにすごく似ていて、舞台の上で自分と違うことをやるので、演ずることがより楽しくなります。  「金閣寺」 1つの放火と言う事象が、三島由紀夫の中の文学性、芸術性を刺激したわけです。 私が演じるときに美と対峙している。 美を自分を凌駕するために放火すると言う三島的な発想がありました。 そこに至る葛藤を体現するために、私は何度も金閣寺に行きました。

訳詞の他に自身で作詞もします。

*「うた うたう」 作詞:宮本益光 作曲:信長貴富

良い出会い、良い仲間、良い指導者に導かれて今に至ってるなと思います。






2026年4月25日土曜日

銀粉蝶(俳優)               ・私の人生手帖

銀粉蝶(俳優)               ・私の人生手帖 

NHKでは上質なドラマとして人気を博しているBSドラマ「京都人の密かな愉しみ」でも主要キャストして出演を重ねてきました。 栃木県生まれ、大学進学で上京した頃は唐十郎の「状況劇場」などアンダーグラウンド劇の全盛期、1980年代前半には、劇団「ブリキの自発団」を結成しました。 その後も2010年に第18回読売演劇大賞優秀女優賞を受賞するなど、当時の熱い思いを潜ませて全身全霊で芝居に向き合ってきました。 その確かな存在感はどのように育まれたのでしょうか。 アングラ演劇の魅力、そして今も呪われているとおっしゃる芝居の面白さ、奥深さについてお話を伺いました。

「ジン・ロック・ライム」と言う芝居で、ソロシンガーとして一時期は華やかだったんだけれども、今は少し落ち目になっている主人公の男の人がいて、その主人公の彼はある時、ライブでお客に対して「お前ら俺を消費しているんだろう」と言う言葉で抜倒したりします。 (それが最初のシーン) 今回の舞台はもともとはイプセンの作品です。 「ヘッダ・ガーフレル」と言う面白い作品です。 人間と言うものはわからないものだと言うふうにおっしゃってます。 それを下敷きにして今回は新しい芝居にしました。 若い人の今の生きづらさ、そういうものに作者は寄り添ってるんだと思います。

NHKBSドラマ「京都人の密かな愉しみ」で老舗和菓子屋さんの女将をずっと演じてきました。 放送が始まったのは2015年、11年になります。 最初に依頼があったとき、京都弁は大変だと思いました。 京都弁は難しいです。 ひたすらやるんです。 やるしかないんです。 やって大好きになりました。 「京都人の密かな愉しみ」は美しい宝みたいなものです。 着物を着て正座するわけですけれど、膝が悪くて厳しいんですが、朝から晩までしてます。 立ち上がれなくなっちゃう位です。  それで京都弁なんで地獄みたいなものです。

1980年代初頭に劇団「ブリキの自発団」を設立しました。 小さい頃は映画が好きでした。 映画館が遠い親戚なので毎日見ていました。 本も好きで、世界文学全集を買ってもらって読んでました。 今も変わらないです。 大学で東京に出てきました。 私たちの若い頃は、みんな何かをするような風潮でした。 熱気がありました。 いろんなことにみんな興味を持ってそれを表現することにあまり躊躇しないで、みんな乱暴にやれたと言う時代でした。 60年代70年代でした。

最初劇場へ見に行って「状況劇場」いうのがあってそれを見てびっくりしちゃいました。 世界がひっくり返りました。 見てかっこいいと思いました。  大学を出て、芝居やるしかしょうがないと思いました。 会社の試験を受けて受かっちゃいました。 41日が入社日でした。 自由劇場の入団試験がありましたが、その結果発表も41日でした。 入社式で代表で挨拶しました。 昼の合間に結果を見に行きました。 自由劇場では何百人受けて、そのうちの5人が受かったんですが、その中に私が入っていて、電話で会社に私やめますと連絡しました。

入って研究生として活動しましたが、面白くありませんでした。  自分で劇団を作りたいと思うようになりました。 それが「ブリキの自発団」です。 アメリカのフリップ・K・ディックと言うSF作家がいますが、私は心酔していました。   それを本に書いて上演したいと思ってやりました。 ハードボイルドが好きです。ディックには人生の悲しみがあります。 

心が動かないとつまらないから、そういう機会を自分で求めます。  映画を見たり、本を読んだり、好奇心も強かったです。 当時のアングラの様子は、芝居って事件なんで、事件が起きればいいと思います。 見る方もやる方も喧嘩腰なので熱くなります。 熱気がすごかったです。 映画、芝居、音楽、絵などそういうものって人を呪うんじゃないんですか、取り付かれてしまったら離れない。 今も多分どっかで取り付かれてますね。 ふんわり呪われてる分には幸せに思います。 

私は役になると言う感覚が、自分では薄い人間だと思ってましたが、ある時私はなっちゃうんだとわかったんです。  芝居の世界観みたいなものにずっと入る人間なんです。 芝居の場合はその役を獲得するためには稽古するですね。 芝居の相手と交流する。 考えないでいようと思っても、作品を常に朝から晩まで考えちゃいます。 四六時中考えるタイプです。 だから、調べることがたくさんあります。  稽古なんかはあんまり好きじゃないんですが、芝居をしてる時は誰にも負けない位楽しいです。







2026年4月24日金曜日

近藤麻理恵(片づけコンサルタント)     ・ことばの贈りもの「ときめく選択で子育てを豊かに」

 近藤麻理恵(片づけコンサルタント)  ・ことばの贈りもの「ときめく選択で子育てを豊かに」

近藤さんは1984年生まれ。東京都出身。 5歳の頃から片付けに魅了され、身近な場所を片付けながら二度と散らない片付け方法を研究する日々を送ります。 その中で近藤さんが編み出したのは、ときめくものを残すと言う方法でした。 25歳の時に片付けコンサルタントとして独立し、片付けに悩む多くの人たちと向き合い、片付けの魅力を伝えてきました。  しかし、3人の子供の母となり、子育ても忙しくなる中で、思い通り片付けられない状況に悩み、完璧に片付けることを諦めたそうです。  子育てを通して新たな視点を持ち、家族みんなでときめくことを大切に過ごす近藤さんの人生を伺いました。

10年ほど前に家族でアメリカに移住しました。 現在10歳、9歳、5歳の3人を育てています。 アメリカでは夏休み明けに新学期がスタートします。 5歳の時に私の母が読んでいた女性向けの生活雑誌がありました。 そこに書いてある片付けだけではなく、料理、洗濯、裁縫、等々が好きでした。 母は毎日楽しそうに家事をしていました。  母は、私が毎日家事などいろいろこなすことによって、お父さんが元気に仕事に行けるし、子供たちも学校に元気に行けるんだから、素敵な社会貢献なんだよと母が言いました。

私もやってみたいなと思うようになりました。 私がいろいろ家事をやっていく中で、最もできなかったのは片付けでした。  雑誌に載っている片付け方法を実際に家でやってみたりしました。 少しずつ整っていきました。  私の祖母は、ものを丁寧に扱っている人でした。  中学3年生位の時に片付けの研究を本格的に始めました。  当時、日本でベストセラーになった辰巳渚さんの「捨てる!技術」と言う本を読んだのがきっかけになりました。 捨てることだけを考えて、片付けをしてしまうと、どうしてもものを邪魔者扱いしてしまいます。  片付けで大切なのは捨てるだけということでなくて、自分の持っているものなら残すものを選ぶことも、自分にとって好きなもの、大切にできるもの、自分にとってときめくものを選ぶ、それが片付けたんじゃないかなと思いました。

以来、家の中のものが大切に思えて、それ以来、ときめくものを選ぶ好きなものを選ぶ残すものを選ぶと言う考え方をやるようになってから、自分の家の片付けがうまくいくようになりました。 25歳の時に片付けコンサルタントとして独立しました。大学の頃は、友達の家を片付けるというのが私の趣味でした知らない人からお金を払ってでもいいから、片付けをしてほしいと言う連絡が出始めました。  だんだん経験が積み上がっていきました。 

片付けを進める中で、自分にとってどんなものが好きなんだろうとか、どんなものが大切なんだろうとか、自分の価値観が見えてきて、最終的には仕事が自分にとってときめくものに変わっていったり、人間関係が良くなっていったりと言う声を聞けるようになりました。  26歳の時に「人生がときめく片付けの魔法」はベストセラーになりました。 日本だけでなく海外でも人気が高まりました。 29歳の時に結婚30歳で、第一子を出産、アメリカで片付けがニーズがあるとは思っていませんでした。 世界中どこでも片付けは必要なんだということがわかりました。    片付けを通して心を整えると言う深いところまで理解してくださいました。

仕事と子育ては想像以上の忙しさでした。 実家の母に助けてもらいました。   海外出張から帰ってきて、久方ぶりに子供に会ったときに、ちょっと子供が親の顔を忘れてるって言うことがありました。  しばらくして泣き出してしまいました。 仕事、生活の仕方を調整しなければいけないと思いました。 子供を母に預けていた生活からアメリカの生活の場へ移動させようと思いました。 第3番目が生まれた時に、子育てに比重をおきながら仕事を行くと言うスタイルに変えてきました。

今までできたことが半分もできないと言う状態が続きました。 片付けをちゃんとやることが無理だと言うことに気づきました。 今は睡眠に宛てた方がいい、今はそういう時期だと思いました。 片付けの柔軟性が上がっていきました。  子供の片付けについては、具体的に説明してやってもらうようにしています。 次のことをするためのステップとして片付けを組み込むと言う感覚で伝えています。 片付けをするときに、どこに何を戻したらいいのかと言うのは、明確な状態であると言うことが大切だと思っています。  

片付けは身の回りを整理して、心地よく暮らしていくために欠かせないことなんですが、片付けを通して自分の心と向き合ったり、今の自分の心の状態と言うものを知るきっかけになると思います。 片付けによって心も頭も整っていくよと言うところに関しては伝えていきたいなと思ってます。  年代によっていろんな状態があると思いますが、その時々に大切なのは今のときめきの優先順位はなんだろうと考えることだと思います。 バランスを取りながら片付けと付き合っていくと言う、無理のない片付けをしながらすっきりとした人生を歩んでいく、そんな人生のヒントをお伝えできたらなと思っています。


2026年4月23日木曜日

西村由紀江(作曲家・ピアニスト)      ・私のアート交遊録「ピアノは心のビタミン」

 西村由紀(作曲家・ピアニスト)  ・私のアート交遊録「ピアノは心のビタミン」

3歳でピアノを始め、小学生時代には世界各国を演奏旅行、マエストロ本来はイタリア語で「巨匠」「名人」「優れた指導者」を意味し、特に音楽の指揮者や卓越した専門家を敬意を込めて呼ぶ言葉)や一流オーケストラとも共演します。    音楽大学入学と同時にデビュー、ドラマ、映画、CMの他、テレビやラジオ、エッセイの執筆と、多方面の活動を続けています。 

年間100本を超えるコンサートで全国各地を訪れる傍ら、ライフワークとして続けているのは、学校コンサートや病院コンサート、中でも東日本大震災直後から続けているのが、被災地にピアノとピアノの音色を届けるための支援プロジェクトです。 今年デビューを40周年を迎え、音楽には力があると感じることが多くなってきた、自分を勇気づけてくれた音楽に恩返しするつもりです、と言う西村由紀江さんにピアノとの出会いや音楽の持つ力について話を伺いました。

ピアノに関してはまだ追求したい音とかがたくさんあって、これからがんばります。 母親がピアノの先生をしてましたので、家にピアノがあって気づいたらピアノの前に座っていました。 手が特別小さかったものですから、同じ時期に習った友達より成長がすごく遅かったんです。みんなが簡単に弾けるものを何倍も練習しないと弾けない。 この手ではピアノ無理でと言われました。 しゃべるのはもっと苦手でしたが、むちゃくちゃにピアノを弾くと気持ちがちょっとスッキリしました。  このピアノは私の気持ちをわかってくれると思いました。

ピアノは自分の気持ちを表すための友達のような存在でした。 ピアノとずっと話をしていると、ある日「大変だね」とか「今日は頑張ってね」とピアノが話しかけてくれるような音色を感じたんです。 そこから曲作りも始めました。      自分の小さい手に合わせるような曲が作れるようになりました。  それが今の活動の原点かもしれないです。(3、4歳の時) 最初の作った曲が「一人ぼっち」でした。 

海外で演奏する機会を小学校2年生の時にタイと台湾で機会をいただきました。  音楽にはこんな力があるんだと言うことを体で感じました。 ますます音楽にのめり込むようになりました。  小学校の6年生の時にはチェコとハンガリーとかに行かせていただきました。 CDを出してみないかと言うことを高校2年生の時話があり受けました。 プロデビューしましたが、壁にぶつかって落ち込んで泣いてばかりいました。 

いつも五線譜を持ち歩いていますが、いつメロディーが降りてくるかは予測できないからです。  今何十冊と家に溜まっています。 23歳の頃、テレビドラマ「101回目のプロポーズ」の音楽を担当させてもらいました。(40曲位)  これをきっかけにどんどん変わっていきました。 曲にまつわるバックグラウンドを、話しながら曲を演奏すると言うスタイルをこの頃から確立できました。  

学校コンサート、病院コンサートは、2002年位から始めました。 音楽というものがいろんな力を持っているということがわかりました。  車椅子で来ている方がリズミカルな曲を弾くと足が動いたんです。(看護師が吃驚) 他にもいろいろあって、ピアノでできる事はたくさんあるんだなという事を、学校や病院行くと学ばせてもらえました。  東日本大震災、被災地支援プロジェクトにも関わっています。 

震災直後の報道番組でたまたま女の子の見ました。 「今欲しいものをなんですか?」と問われたときに、彼女は「ピアノ」と答えました。2011年の4月に行った時に、ピアノが田んぼに浮かんでいる光景を目にしました。 もう使わなくなったピアノを譲ってもらおうとホームページで募集したら、あっという間に150台集まりました。 でも全く届けられませんでした。 当時は皆さん家をなくされているので、ピアノをまではできませんでした。 音を届けるプロジェクトのコンサートは始めました。

半年位から徐々に届けることができるようになりました。64台お届けしました。 私は音楽の持つ力にずっと子供の頃から救われてきましたから、今その力でどなたかの心に力を届けられる、そんな少しの恩返しができればと思っています。   私の自由度が広がりました。 自分の音楽を届けて続けていきたいなと気分が軽いです。 今年40周年で全国を回ります。  私のお勧めの1点はモネの睡蓮です。  大学の頃に先生からモネの点描画のように弾きなさいと言われました。 美術作品は人が作っているものですから、訴えかけてくるものがあり、それが非常に作品のインスピレーションになります。






2026年4月22日水曜日

田川尚登(日本こどもホスピス協議会 理事) ・「重い病と生きる子らの、この瞬間を笑顔に!」

田川尚登(日本こどもホスピス協議会 理事) ・「重い病と生きる子らの、この瞬間を笑顔に!」 

小児がんや重い心臓疾患など命を脅かす病と共に生きる子供たちは、全国に約2万人いると言われています。 その多くは病院か自宅だけで過ごし、遊びや学びといった子供らしく生きる時間を奪われた状態にあります。 そんな子供たちと家族を支える子供ホスピスが、今国内で広がりを見せています。 自らの娘さんを脳腫瘍で亡くし、子供ホスピスの必要性を痛感した田川尚登さんは、NPO法人「横浜子供ホスピスプロジェクト」を立ち上げ、2021年全国で2番目のコミュニティー型子供ホスピスを横浜市に設立しました。 428日の日本子供ホスピスの日を前に、子供ホスピスとはどんなところなのか、設立に込めた思いとともに田川さんに伺います。

428日は4、2、8でよつばとも読めるので、希望、振興、愛情、幸福のシンボルと言われる四葉のクローバーをイメージして、子供たちがたくさん愛情に包まれながら豊かに生きることを支える、子供ホスピスの理解推進を図るために、日本子供ホスピス協議会が制定し、日本記念日協会から登録を認定されました。

私たち横浜では、子供ホスピスフェスタと言うイベントで、1年間の活動の報告を支援者に知っていただくということ、体験したことをお話ししていただいたり、ボランティアの方たちに様子を話し合ってもらうと言うようなことを進めていく予定です。 ホスピスと言うと緩和ケアを受けるようなイメージを持っていると思いますが、子供はどんなに重たい病気になっても成長発達してるわけです。 子供のやりたいこと、遊びたいこと、学びたいと言うこと。病気になっても子供の人権に関わるようなことなので、やれるように持っていくと言う、そういった流れを作っていくと言うことが子供にとって大切なことだと思っています。 

1982年に、イギリスのオックスフォードでヘレンハウスと言う子供ホスピスができてからイギリスの国内に広がっていきました。 その後海外に広がっていきました。 イギリスでは子供ホスピスが全国に52カ所あると言われています。 次にドイツが多いです。(15、6箇所) 日本では2012年に淀川キリスト教病院に子供ホスピスができました。  現在日本には3箇所です。 

私には娘が2人おりまして、下の子が1998 6歳になった頃のばかりに頭が痛いと訴えました。 MRIを撮ったら悪性の脳腫瘍と言うことがわかりました。 余命半年と告げられました。 1982年にできた子供ホスピスの話を聞いて、日本でも作れたらいいなと思いました。 子供の名前は「はるか」といいます。  限られた時間を親としてはどうやって過ごしたらいいのかということばっかり考えました。   希望することを叶えてあげると言うことを繰り返していました。  病院へ入院して、午後3時から夜の8時までが親子が面会できる時間でした。 8時前になると必死に話し始めます。 帰らせないように話しています 。泣き声を聞きながら病室を出ていくと言う事は辛い思いでした。最後は、海を見に行きたいということで、家族で一緒に行きました。 波の音を聞いて帰ってきました。 

脳死に向かってなっていく中で、呼吸器を外す決断をしてほしいと言うことを医師から言われました。 医師と相談して外す決断をしました。 悲しみがずっとこみ上げてきて、親としての後悔の気持ちが心の中を占めました。  遊びたいとか、学びたいとか、そういったやれる環境を闘病中でも絶対必要だと言うことを教えてもらった感じでした。 子供ホスピスの活動につながっていきました。 小児医療の改善を考えて、少しでも楽しい時間が過ごせるように、音楽を聞いたりできるようなコンサートの開催、15歳未満の子供は兄弟は面会ができないので、兄弟を預かるような預かり保育、付き添いの家族が泊まれる滞在所を作ると言うのを最初にやりました。 

家族が泊まれる「リラの家」を作りました。 石川さんの思いと「はるか」の闘病生活が結びついて作ろうと言うふうに始めた活動が設立準備活動でした。    石川さんは看護師で74歳で亡くなりましたが、最後の職場が脳性麻痺のお子さんを看護していたこともあり、自分の資産を利用してほしいと言うことを代理の弁護士さんから聞きました。 遺贈は1500万円でした。 「横浜子供ホスピスプロジェクト」と言う組織で、子供ホスピスを組織運営していくための法人ということです。横浜市内で会社を経営しているような方々に話をしまして、共感していただきまして、一緒にやろうと言う取り組みにつながっていきました。 活動が加速していきました。 土地を借りることに対しても、行政と相談していきました。 

建物は延べ床面積が151坪です。 子供が思いっきり遊べる場所で、家族が一緒に泊まれたり、一緒にお風呂に入れたりできる空間ということで設計されました。  「海と空のおうち」の近くには、金沢動物園八景島シーパラダイスなどがあります。 アンケートをしまして、(終末期子供とどういう時間を過ごしたいか)1番多かったのが同じベッドで毎日一緒に家族で眠りたかった、2番目はお母さんの手料理を子供に食べたかった、3番目が子供と一緒にお風呂に入りたかった、この3つを建物の中に織り込もうと決めました。 

いろいろな希望があって、早目だけれども七五三をやりたいとか、誕生会をやりたいとか、いろいろな希望がある中で、できるだけ叶えるような方向で活動しました。 スタッフは現在11人います。 看護師の資格を持った人4人、保育士の資格を持った人が2人、闘病を経験した人が3名、そういうスタッフ構成です。 医療は提供してないです。 万が一の救急搬送の場合には、受け入れてもらえるような流れができています。

できてから5年目になります。  笑顔の循環が建物の中でできています。 「あー 楽しかった」と言う言葉を聞くと、「あー」の中に一日充実していた時間が含まれていると思って、凄く嬉しくなります。  はじめての方は中を見学してもらって、理解してもらえるような風に推奨しています。 子供ホスピスのある街づくりをしていきたいと思ってます。  地域の中に安心して出かけていけるような、安心して住める地域づくりにつながっているのではないかと思います。 小学校と交流の授業してます。 海外視察をしてきましたが、子供を大切にしている事はすごく伝わってきまして、いろんなことを聞ける友ができたと思って、海外の子供ホスト交流をずっと続けていきたいと思いました。 全国に15の小児がん拠点病院が点在してますので、拠点病院のあるところに子供ホスピスが出来て行く流れと言うのが必要だなと思っています。