2026年6月5日金曜日

中村あゆみ(シンガーソングライター)    ・「明日に向かってスーパーレディゴー!」

中村あゆみ(シンガーソングライター)    ・「明日に向かってスーパーレディゴー!」 

中村あゆみさんは、1966年大阪府で生まれ福岡県で育ちました。 198418歳の時にシングル「ミッドナイトキッズ」でデビュー。 1985年には3枚目のシングル「翼の折れたエンジェル」がコマーシャルソングに採用され大ヒットしました。 その後シンガーソングライターとして活躍されるとともに、2021年からは女性アーティストたちによる音楽フェスティバルを主催しています。 

スーパーレディフェスティバルとなってますが、オーガナイザーを担当しました。 2回目からは立川になりました。 昭和公園があって、緑と街のバランスが良くて、子供も一緒にと言う環境にいいと言うことになって、3年ほどお世話になりました。 メジャーにしていこうという事で、そしてNHKホールでやるようになりました。 3500人ほぼ満席でした。来年もまたここに聞きたいです。 

「翼の折れたエンジェル」が大ヒットとしたときに、NHKから紅白出場の話がありましたが、出ないほうがいいと言うような声もありプロデューサーが断ってしまいました。  紅白出場できずじまいになってしまいました。 今年60歳になります。デビューして今年で42年になります。 10年間ほどは子育て等で歌わない時期がありますが、38歳から復帰して現在に至ってます。 10代の頃に六本木で遊んでいたら、女性から声をかけられて、今のマネージャーを紹介されました。 

母親は中州でクラブの大ママで著名な方が来ていました。 平尾昌晃さんと知り合いで、平尾さんの元で内弟子し的に暮らしました。 その後一人暮らしを始めて六本木で遊んでて声かけられました。 あるとき泥棒を入られて、マネージャーの母親の経営しているところに駆け込んだところで、後のプロデューサーである高橋研さん(「翼の折れたエンジェル」を作った。)と出会うことになりました。    そして、その後、加山プロモーションに入ることになりました。  「翼の折れたエンジェル」(19853枚目のシングル)が大ヒットすることになりました。 

私は反骨心で生きてきました。 3、4歳で親が離婚して、父が私を連れて行くわけです。 しかし父は育児ができず、親戚のおばさんに預けられました。 自分の居場所がなくなり、その後義理の母親が来ました。 ストレスが溜まる中で弟ができました。 親は弟を可愛いがるわけです。 そして私は家出をし、実の母親のところに戻りました。 母親はクラブで大成功していまして、新しい父親と新しい家族がいるわけです。そうするとそこ入っていけないところがありました。 それで平尾さんとの出会いがあり、東京に出てくることになりました。  面倒が見られないと言うことで、私の一人暮らしが始まるわけです。 

芸能人がいっぱいいるような定時制高校へ行き、そこに行けたことが、今になってはすごく良かったと思います。 学歴以上の違う宝物がその学校にありました。  今でも仲良しで時々連絡を取り合っています。 高校へ入って2、3ヶ月してから母親が倒産してしまって、仕送りができなくなりました。 バイトで工事現場の警備員をやりました。 その後毛皮と貴金属の営業して、数百万円の売り上げを上げていきました。 今後少し作品つくり、スーパーレディフェスティバルの下準備をやっていきたいと思っています。







2026年6月4日木曜日

吉備カヨ(人材派遣会社社長)        ・「逆境を跳ぶ力~フィギュアスケートから都市農業への挑戦」

吉備カヨ(人材派遣会社社長・元フィギュアスケート選手) ・「逆境を跳ぶ力~フィギュアスケートから都市農業への挑戦」 

吉備さんは横浜市出身で60歳。  1990年代フィギアスケート選手として国内外で活躍しました。 引退後は母が作った人材派遣会社を引き継ぎ、ビジネスの世界に入りましたが、2020年からの新型コロナウィルスの爆発的な感染拡大が経営を直撃し、会社は危機的な状況に陥ります。 そんな大ピンチの中、吉備さんは従業員の雇用を守るために、全くの異業種に挑む決断をしました。  母から受け継いだ会社のビルの中で野菜などを育て、それを材料にスイーツやお弁当などを作って販売し、さらにケータリングを展開しようと食を提供すると言うチャレンジです。  この事業は今、新たな都市の農業の形として注目されています。  フィギュアスケート時代の経験がチャレンジに生かされたと話す吉備さん、コロナ禍にどんな思いでどう立ち向かたのか、都市での農業のこれからの可能性、そして今も関わっているフィギュアスケートについても伺います。

アイスダンスで1993年に全日本で優勝しました。 世界選手権にも出場した経験があります。 リクリュウ、三浦 璃来さんと木原龍一さんのペアが大逆転の感動の金メダルでした。  10代前半の三浦 璃来さんと出会いがありました。 12年前、中京大学ののスケートリンクで、未来の選手の発掘合宿と言うのがあって当時、三浦 璃来さんは12, 3歳だと思いますが、1人で淡々と動いていくような人でした。   ペアをやるべくして生まれてきたような子だと言う印象でした。  まさか金メダルを取ると言う事は想定外でした。

私はスケートは7歳から始めました。 アイスホッケーをやりたかったのですが、フィギアスケートをやることになりました。 高校1年生の時にイギリス出身の今でもフィギュアスケート界のカリスマと言われるアイスダンスの素晴らしい選手がいました。 すべての審判が6.0と言う得点を叩き出して金メダルを取りました。   それを見たときにこういうアイスダンスを目指したいと思いました。 高校2年生からアイスダンスに種目変更しました。  フィギアスケートは27歳で引退しました。

 母親の人材会社を引き継ぎました。 2020年からの新型コロナウイルスの感染拡大で会社の危機を迎えました。 母が残した人材事業と不動産事業を何とかさせたいと思いました。 ビルのフロアの3階を野菜の栽培、2階ではそれを使ったケーキ、スイーツ、弁当などの調理加工、1階のレストランショップで販売を手がけました

手がけられやすいのは食品だろうと思いました。 原材料から持っていれば形の安定につながると思いました。 もともと食に関する興味がありました。  フィギュアスケート時代のパーティーに関することでいろいろ勉強できました。 海外の食を通じたコミュニケーションと言うのは、日本における食を通じたコミュニケーションと言うのはちょっと違うと言うことを感じてました 。それを経験していなかったならば会社を創造すると言うことができなかったんではないかと思います。 やりながら軌道修正しながら楽観的な思い込みでやってきました。

ビルを活用した都市農業についてですが、農業人口がどんどん衰退していくと言う中で、建物が空いていると言う実態があります。 日本の食料自給率が低い中でどんどん挑戦していくと言うと言う事はいろいろなところが登場している来ていると思います。  学校も廃校になってきて、どのように活用するのかと言うこともあります。高齢者、障碍者などの人材活用もセットで考えていくと言う事はまだまだ伸びしろがあると思います。 小、中学生の修学旅行の一環としての見学とか、あるいは海外台湾、ベトナム、シンガポールからも訪問団を組んで見学に来ました。

まずは飛んでみる、逆境があっても、まずは飛んでみると言うような気持ちが、やはり大切なんではないかと思います。 普段とは何かちょっと違う工夫の積み重ねの中で、大きな今まで自分が見てこられなかった景色に出会えるかもしれないと言う可能性は秘めているのではないかと思います。


2026年6月3日水曜日

五木寛之(作家)             ・五木寛之のラジオ千夜一話対談は面白い」

五木寛之(作家)        ・五木寛之のラジオ千夜一話対談は面白い」

五木さんはこれまで様々なジャンルで活躍する人たちとの対談を重ねてきました。最近では対談のお話をまとめた本も出版しています。 対談の面白さ、魅力などについて語っていただきます。 

対談を50年間ぐらいやってきましたけれども、その中で1番印象に残ったと思われるような対談をピックアップしました。 吉行淳之介さんとの対談から始まって5 、60年間やってきて数え切れないほどです。 選び抜いて3巻にまとめました。   作家としては珍しいシリーズになりました。 外国人ではカシヤス・クレイから始まりました。 対談と言うのは言葉だけでなくて、身振り、手振り、その時の表情などをひっくるめての対談ですから、むしろそっちの方が本音みたいなものが出てきます。 ですから2人でやっている演劇みたいなものです。 

インタビューっていうのは、聞き手が対象とする相手の思想、考え方、感受性とかを汲み取ろうと思って努力しますが、対談はお互いに交換します。 自分の心の中の贈り物を交換しあって成り立つものです。(相互作用)インタビューは片道切符。 石原さんは日蓮を尊敬してる方です。 自力の方です。 自分で難局を切り抜けてやっていくんだと言う方です。 僕の場合には親鸞と言う先達がいて、親鸞の思想に共鳴しているものですから、手のひらに乗りながら自分で生きていくと言う他力の思想がありまして、他力本願と言うのはあなた任せと言うふうに誤解されがちですが、そうではないです。 石原さんとは誕生日が全く同じです。  

石原さんとの対談も面白かったですけれども、長嶋さんとの対談も面白かったです。  長嶋さんもすごく理論的です。 女性では、作家の塩野 七生ん、イタリアに住んでいて、色々と歩きながら対談をしました。 色々と臨場感のある話をして面白かったです。 松永伍一さんと言う評論家と対談をしましたが、その時には地方の旅先で温泉に入って、録音機を湯船に浮かばせながらやったこともありました。 ぶっつけ対談もやったことがあります。  塩野 七生さんは男っぽいような気がしますが、非常にデリケートな繊細な気遣いのある人で、歴史上の人物を切るときに薙刀でバッサリ切ると言う、そういう感じはありますけども、繊細な神経を持った方です。 

*「インディアンサマー」 作曲:いまなりあきよし 作詞:五木寛之 歌:麻倉未稀

音楽関係の人との対談もたくさんあります。 作曲家の武満徹さん、映画が縁になって知り合いました。 武満さんは国際人でありながら、日本人の意識の強い人でした。  女性作家の林真理子さんとの対談も多いです。  林さんとは対談を9回やっています。 テレビ、ラジオでの対談は消えていってしまって、活字だけの対談になってしまうのは残念に思います。

戦争中などは、ものを大事にすると言う意味で捨てない時代でしたが、戦後一時期捨てるのが美徳みたいな時期もあり、世の中は繰り返しですね。  対談は、人間の生の姿が出てきますから、大きくうなずいたと言うな事は、活字にできませんから、そこでは本当にそうだねと言う風な書きたすことがあります。  言葉にならない言葉と言うものを対談を活字に起こすときには、作っていかなければいけないので、勝手わがままに作ってるわけではないです。 本当のことを伝えるために言葉を挟んでるわけです。


2026年5月31日日曜日

上の助空五郎(ヴォードヴィリアン)     ・「ヴォードヴィルで、花形演芸大賞受賞!」

上の助空五郎(ヴォードヴィリアン・シンガーソングライター)・「ヴォードヴィルで、花形演芸大賞受賞!」 

上の助空五郎さんは1978年岐阜県の出身です。上の助空五郎さんは幼少期から民謡、和太鼓、ピアノなどを親しみ、中学卒業後はオーストラリアの高校へ留学。 帰国後に様々な修行しながらヴォードヴィリアンとして活躍しています。

令和7年度国立演芸場主催の花形演芸大賞受賞。 令和5年度に銀賞、令和6年度に金賞、7年度は大賞。 まずは家族に報告しました。 ヴォードヴィリアンで受賞は初めてです。 上の助空五郎独演会、約1時間20分でタップ、歌、ギター、パントマイム、寸劇などたっぷりです。(休憩なし) ヴォードヴィルとは簡単に言うと、音楽と笑いの演芸です。もともとはフランス語でフランスの街中のテント小屋みたいなところで始まって、舞台に上がる人をヴォードヴィリアンと呼ばれていました。 

東京に上京後、総合創作、芸術家、だるま森の音楽サーカス団「ロマロマ」に入りました。 そこからだんだんいろいろな芸を覚えたくて、パントマイムの劇団に入ったり、大道芸のほうに行ったり、音楽活動でバンドをやったり、いろんなことをやっているうちに、ある人からやっているのはヴォードヴィルですねと言われました。 そこからヴォードヴィリアンと名乗り始めました。(22歳)  その前オーストラリアの学校に留学していました。(15歳から5年ほど)

飛騨高山は山深いところなので、宴会をするぐらいしか楽しみがなくて、家では子供たちはその場でいろいろな芸をやるようなしきたりがありました。  演芸関係の事をいっぱいしていました。 僕は民謡、太鼓、日本舞踊をやっていました。 

留学先のメルボルンと言う街を歩いていたら、おじさんがサックスを吹きながらタップダンスをとっていました。 それを見て衝撃を受けました。 高校ではジャズをやってました。 一人立ちをしたのは2006年か7年です。(30歳手前)

寄席の中で、落語と落語の間に、音楽などそれほど集中して聞かなくてもいい時間、それが色ものの役割という様になってます。  私としては、徐々に肩の抜けた芸になっていきました。 20分位の一人芝居がありましたが、実体験を話をしています。 チャップリンとかバスター・キートンを見ていて、あの感じが好きでした。 母親からテレビを見るのを禁止された時代がありましたけれども、それでも唯一見て良かったのはチャップリンとかバスター・キートンの喜劇でした。   レンタルで借りてきて見ていました。(小学生4年から6年ごろ)  それが今の芸に生きていると言うところはあります。

日本人では、マルセ太郎(映画の一人語り)、エノケン、寅さんとか雰囲気のある人が好きです。   稽古はウクレレとかタップダンスとか毎日やってます。 口で音を出す、トロンボーンとかトランペット、サックスなど自分でアレンジしてやっています。 人がやっていない芸をやってみたいといつも考えています。 力を抜いても気は抜かないようにしてやっています。 お客さんを飽きさせないと言うことも大事です。 ヴォードヴィルと言うものをもう少し知名度を上げたいと思います。 ヴォードヴィルは街の声と言う意味合いもありまして、昔のヴォードヴィリアンは、街の声を拾ってそれをネタにのネタにしていました。それが風刺になりました。 世界一しゃれた風刺芸をやりたいと思ってます。







2026年5月30日土曜日

栗原はるみ(料理家)            ・「福島で出会った人と食材」

栗原はるみ(料理家)            ・「福島で出会った人と食材」 

1947年生まれ、静岡県下田市出身。 1973年テレビキャスターの栗原玲児さんと結婚、2人のお子さんがいます。 家族のために作る自由な発想の料理が評判となり料理家になりました。 1992年に料理本「ごちそうさまがききたくて」、「家族の好きないつものご飯」?がミリオンセラーになりました。 以降アイデアあふれる料理を紹介し続け、料理家しての著書発行数3200万部を超える記録を持っています。2005年には料理本のアカデミー賞とも言われる。第10回グルマン世界料理本大賞を日本人で初めて受賞しました。 世界76カ国から応募された5000冊の料理書の中から1等賞になったということです。 NHKの番組にも出演されていて、1990年から「今日の料理」で講師を務めています。  「プロフェッショナル仕事の流儀」にも出演、「NHKスペシャル」にも出演しました。

ラジオ深夜便にも出演しました。 11時から1時までの番組なので家に帰ると目が冴え切ってしまって寝るのが3時位になってしまいます。  朝5時起きなので2時間位し眠れません。 1 年でやめました。  佐野元春さんの曲を結構選曲していました。 夫が亡くなって泣いてた日々でした。 私は26歳で結婚しましたが、夫は専業主婦でなくていいから、好きなことをやったほうがいいと言われて、料理を選ぶことになりました。 「夕食ばんざい」と言う番組はありましたが、その料理の裏方をやってほしいと言われて、それが私を変えた番組になりました。

1992年に出した「ごちそうさまがききたくて」がいまだに売れ続けています。  あのレシピは私が結婚してから家族に作ったものばっかりです。 私はおいしいと思った料理は、何度も試作します。  調味料は数字でしか現わされません。   人気レシピベストテンの1位「豚肉とレンコンの炒め煮」を作ってみました。(アナウンサー) ミリンが1、醤油が3、砂糖が2、レンコンが3センチの厚さです。色が透き通るまで炒めないといけない。 35分かかりました。 

夫は亡くなって悲しんでいるのを息子が見て、やりたいことがあるんだったら100書いてくれと言われて、それに全部付き合うからと言われました。 それがきっかけとなりました。(8年前) 手が届きそうなことだったり、夢はちょっといいかもしれないです。  アニエス・ベーの船に乗って食事を作ってみたいと言うのが1つありました。 彼女は温暖化をすごく心配して、すごいお金を出して世界の科学者を乗せる探査船をつくりました。 探査船に乗っている科学者の方に、1ヵ月間食事を振る舞うと言うのは夢でした。 8年ぶりに日本に来るからと言うことできませんかとなりました食べてもらってすごく喜んでもらえました。

今は80位あります。リストから消えたのはあります。 行きつけの食べるところを行く前に、おしゃれなバーに立ち寄って、そこでは夫婦で普段の会話ではないような会話ができるのでオススメです。 ギターも習ってます。 練習しかないです。  3、4 年位やってます。 1回決めたら止められない性格です。 SNSの発信も7年以上1日も休まずやってます。 

福島に来るようになって8年になります。 100の中の1つに福島の人と仲良くなりたいと言うものがあります。 日本酒を作ったり、ワインも作ったりして、ワインのラベルは私がデザインしました。 福島は私の夢を叶えてくれます。 家へ迎える側の人になってほしいと思います。 そうすると、家の片付けをするし、花も飾って料理もうまくなろうとするのでいいです。 家は70%位のキレさがオススメです。 玲児さんは、癌になって亡くなってしまいましたが、その生きたい時間の分を私にくれたのかなと思って、無駄な時間はないなと思ってます。  今88書いていて、そのうちの半分ぐらいは実現させています。







2026年5月29日金曜日

ダイアモンド☆ユカイ(ミュージシャン)   ・ことばの贈りもの「ユカイ流子育てを聞いてくれ」

ダイアモンド☆ユカイ(ミュージシャン)   ・ことばの贈りもの「ユカイ流子育てを聞いてくれ」 

ユカイさんのグループ「RED WARRIORS」は去年結成40年、今年デビュー40年です。  今ユカイさんは3人のお子さんのパパです。 2010年に不妊治療を経て長女を、2011年には双子の男の子を預かりました。 長女が小学6年生の時にアーティスティックスイミングを本格的にやりたいと、大阪へ妻と一緒に行き、ユカイさんと双子の男たちがさいたま市で暮らすと言う別居の生活となりました。 今はそれぞれの場所で子育てをしています。 今日はダイアモンド☆ユカイさんに子育ての話を中心に伺います。

気がついたら40周年になっていました。 時代に逆らって自分たちの好きなロックをやっていました。 1番ビリを走っていたと思ってましたが、気がついたら先頭を走っていました。 いい気になっていて、デビューして3年で解散してしまいました。 8年後に再結成しました。 みんな埼玉出身でした個性がバラバラです。   素晴らしい出会いだったと思います。 映画にも出ていますNHKラジオの「すっぴん」と言う番組のキャスターとして、2012年から2020年までやりました。    言葉の使い方を教えていただき勉強になりました。

男性不妊で子供を授かりました。(40歳過ぎ) 何度か失敗し諦めてました。   知らない人がいっぱいいるんでないかと思って2011年に本を出すことにしました。「種なし」 無知でしたが、不妊は男性の原因が48%あると言うことがわかりました。 世の中に広めなければいけないと思いました。 子供が授かってやってあげることの喜びを初めて知りました。

長女は新菜(にいな)2012年生まれ、17歳アーティスティックスイミングの選手として活躍しています。 母と一緒に大阪にいます。(三村アースティングクラブ)  オリンピックを目指して頑張っています。  今できることをやれると言う事は素晴らしいことだとは思っています。 息子は2人の子がいます。(15歳)  身長は私よりでかいです。 反抗期で、日々いろんなことがあって、子育てで勉強させてもらっています。  別々の生活を始めて5年になります。 料理を教わったりしましたが、今は料理が大好きです。 洗濯も結構大変です。 息子2人は性格が正反対です。

今、NHKのラジオで「さまよえるパパたちへ」と言う番組を担当、司会者としてやってます。 ゲストに呼ぶ方も、一流のアスリートの方から、芸人、ミュージシャン、文化人などバラバラで話を聞けば聞くほど様々で勉強になります。 家族それぞれが1番良い形を作っていくものだと思います。  

絶えず変わっていく=執着しないと言うことを頭に入れておきたいと思ってます。 「子育ては半卒業だ。」と言うことを言ったことがあります。 小学校の頃のような子育ては卒業と言うような思いです。 やり方、方法がどんどん変わっていくと言う意味です。 人のことを一生懸命やってあげること=自分のことを一生懸命やることと言う事につながっていると思います。 あまり気にしすぎると言うことも良くないんだとは思います。 放っておくことも1つの子育てにつながっていくと思います。 放っておく事は自立にもつながることだとは思います。 死ぬまで子育てと言う事はあると思います。 究極の子育ては天国に行くと言う事だと思います。