2026年5月5日火曜日

久保田雅人(わくわくさん)(タレント・声優)・「工作に失敗はなし!~いくつになっても自由研究」

久保田雅人(わくわくさん)(タレント・声優)・「工作に失敗はなし!~いくつになっても自由研究」

 久保田さんは1990年から20 13年までEテレで放送されていた子供向け工作番組「作って遊ぶ」にわくわくさんとして出演しました。 番組が終了してからも全国各地で親子向け工作教室を開催、現在も工作の伝道師として活動を行っています。生涯わくわくさんを全うしたいと語る久保田さんは、工作の楽しさや、今後の夢など伺いました。

今年65歳になります。 大学4年の時に読んだ雑誌に劇団の募集というのがありました。 田中真弓さんが副座長と言う立場でした。 田中さんはNHKの番組などに出演していました。 のっぽさんの番組の「できるかな」と言う番組が終わることになりました。 新しい工作番組を作りたいということで、若い男の出演者を探してると言うことでした。 田中さんが私を推薦してオーディションを受けて受かってしまいました。 平成元年に「ワクワクおじさん」と言うタイトルでした。(27歳) 同じ年の年末からもう1本放送が始まってそこから「ワクワクさん」」になりました。

19904月からレギュラー放送になりました。 後で聞いた話では、オーディションを受けたのは私1人でした。 子供たちの前で話をしながらやることを勉強しました。 初期の頃の子供たちの反応は全然だめでした。  どうやって見てもらえるようにするかと言う研究がものすごく大変でした。 ノッポさんと言う方が、初めて工作番組を作ってくれた方です。 ノッポさんの最後の番組に私も参加しました。ワクワクさんと言う人物を自分で構築していこうと思いました。 「つくってあそぼ」が3年経過したときに、俳優、声優の仕事を全て止めて、ワクワクさんの活動を1本に絞りました。

結婚して子供ができたので、1本にかけてみようと思いました。 収入面では減りました。  家で自然な形で子供に喋るようになったので、それが良かったのかもしれません。  家でもいろいろ稽古しました。 子供も実験台にしました。子供の気持ちを引き寄せるには、子供たちとどこかの部分で同じレベルに下げる、目線を合わせるということです。 話し方反応の仕方、ある程度落とすことによってこちらを向いてくれます。 もともとは社会科の先生になるつもりでいました。 父親は手先が器用でした。 家にはノコギリ、ノミなどは20種類以上ありました。(趣味)

私はプラモデルなども、キットにないものを、自分で作って加えると言う事をやりました。 それがワクワクさんの番組で生かされるるとは思ってもいませんでした。 ワクワクさん歴36年になります。 ワクワクさんの設定が20代後半なので、演壇に立ったときに、ジジ臭さを出さないようにしようと言うことを考えないといけないと思ってやっています。 

子供たちがワクワクするものを作ってくれる人という意味で、ワクワクさんということです。 工作と言うものが、どのような時代になっても、子供たちの心を惹きつけると言うものは絶対あります。  そのヒントを提示すると言うのが、私の活動です。 だんだん材料を揃えるものと、家庭に道具がなくなってきているので、できるだけおうちにあるようなものを考えながら、大人の方が入手しやすいものを中心に考えてます。  生涯現役でいたいです。





2026年5月4日月曜日

町亞聖(フリーアナウンサー)        ・「ヤングケアラーから学んだこと」

町亞聖(フリーアナウンサー)        ・「ヤングケアラーから学んだこと」

町さんは1971年埼玉県生まれ。(54歳) 町さんが高校3年生18歳の時に母親がくも膜下出血で倒れ、脳障害が残って車椅子の生活になりました。 そこから町さんは学校に通いながら、母親の介護をすることになりました。 今でこそヤングケアラと言う言葉がありますけれども、当時はそんな言葉がなく支援制度も少なく、11日を乗り切るのが精一杯の日々だったといいます。 その後町さんは日本テレビにアナウンサーとして入社、仕事と介護の両方をしながら働くワーキングケアラーとなって、母親の介護は10年続きました。 2011年にフリーアナウンサーとなってからも、ご自身の経験から医療と介護をテーマに取材、啓発活動をやっていますが、大切なのは「受援力」つまり、支援を受ける力だといいます。 今日は町さんのヤングケアラーとしての体験や、すべてのケアに伝えたいメッセージということで、町さんのお話を伺います。

まだヤングケアラーと言う事はまだ知らない人は、これはどういう意味ですかと知るきっかけになると思ってあえて名刺に入れてみました。 ヤングケアラーに対する認知度はまだまだです。 ヤングケアラーとなったのは、今から30年以上前です。  現在54歳ですが、18歳の時に母が倒れました。 母は最初頭が痛いと言っていました。(始業式の日) その晩に入院して、翌日にくも膜下出血ということがわかりました。 緊急手術が必要になりました。 その日から人生が180度変わりました。 

手術の結果、命は助かりました。 右半身麻痺と言語障害ということで車椅子の生活になりました。(母は40歳)  父は何もしない人でした。 父は酒を飲むと、ものを投げたりすることがあって、父とどう向き合っていくかと言う事のほうが大変でした。 父からは今日からお前が母親だと言うふうに言われました。 共働きでしたが、母が働かなくなって医療費に消えていくような状況でした。 介護の仕方もわかりませんし、とにかく私たちができる形で生きてくしかないと言う状況でした。 

大事な支援が2つありました。 ソーシャルワーカーの人から教えていただきました。 高額療養制度と母親の障害者認定受けるから障害を持っている人が受けられる医療費助成があるから、市役所に行くように言われました。 何十万円の医療費を払っていたら、我が家は破綻したと思っています。 あと奨学金制度があることを担任の先生から説明してもらいました

弟は高校3年生の時に誰にも相談せずに就職すると言うことを自分で決めました。 数年後、弟に聞いたら、もちろん大学には行きたかったと言ってました。    今でも私に力があったらばと言う思いはあります。 厳しい家庭環境でしたが、諦めるという事は悔しかったと言う感じです。  父もヤングケアラーでした。   父も大学へ行きたかったということだったらしいんですが、5歳の時に父親を亡くして、経済的な理由で諦めたそうです。 そういうことで、私の大学進学に対しては行くように後押ししてくれました。 

大学卒業後、日本テレビのアナウンサーになりました。 仕事と介護の両立は選択肢はなく当たり前でした。 妹も弟も当たり前に思っていました。 アナウンサーの仕事は30年前からフレックスでした。 私は夜11時から始まるスポーツ番組の担当でした。  終了が夜中の1時ぐらいなので、夕方8時ぐらいに行けばよかったです。 そういった関係で介護と仕事の両立ができました。 

当時は介護していることを大っぴらに言うような文化はありませんでした。   障害者が住みなれた地域で当たり前に暮らせる社会にするための情報発信がしたいと思ってアナウンサーになりました。 日テレのアナウンサーは5年ほどやりました。その後報道局に異動になり、10年記者をやりました。 最後に情報エンターテイメント局の情報番組のアシスタントプロデューサーをやりました。

母の介護は10年です。 母は最後は末期ガンで見つけたときには、手遅れでした。 母のようなおおらかな性格になりたいとはずっと思ってました。 私は性格的には父に似ている。 「受援力」と言う本を出しましたが、これは母が持っていた力です。 母は周りが助けたくなる人でした。 

ケアラーに対して伝えたい事は、納得して選択すると言う事は大事なことです。  自分の人生も大事にする。 たった1人しかいない大切な人のために介護を選ぶと言う選択肢もあると思います。 選んだ道の中でできる事は何かと言うことを数えて、できることをやればいいと思います。 介護は必ず終わりが来ます。 なくなると言う形で介護が終わります。 父は母が亡くなった喪失感を埋められなくて、食べなくなって酒だけ飲んで、母のためだけに生きていたので、そうならないためにも、母の分を生きると言う選択肢があったはずです。 乗り切るためには、弱音を吐いて欲しいなぁと思います。助けてもらっていいんです。 恥ずかしいことでもないんですから、この人になら本音を話せると言う人を、今から作っておくと言うことを大事かなと思います。






2026年5月3日日曜日

松本泰生(階段研究家)           ・「上って下って32年、我が“階段人生”」        

松本泰生(階段研究家)        ・「上って下って32年、我が“階段人生”」

早稲田大学オープンカレッジ講師の松本泰生さん(59歳)は東京に来て、初めて坂が多く、地形や山並みが複雑に変わる街に興味を覚え、屋外の路地などにあり人々が通り抜けに利用している東京中の階段を巡って、斜面地の研究で工学博士号を取得しました。 形状や段差数、そして傾斜、ステップの幅あるいは段差を計測して、歴史的背景なども調べて写真に収めた階段は、山手線の中だけでも650カ所近くにのぼります。 階段研究家を名乗るほど松本さんを夢中にさせた階段の魅力とは何なのか、30年余りにわたってひたすら登って下った、階段人生を聞きました。

もともと私は静岡県静岡市の出身で街が平らなんです。 大学入学して東京に来ましたが、こちらは割と坂が多くて、街中には階段が多くて、階段を上った先にも街がずっと広がっている。 新鮮に感じました。 私は都市計画を学んでいましたが、フィールドワークがしばしばあって、神社にも階段があるし、そうでないところも階段がたくさんあります。 それから階段を調べ始めました。

最初は山手線の内側の都心部を調べて行ったら、650カ所ぐらいありました。   本を出したらそれに反響がありました。  階段歩き講座をやるようにしました。23区に広げていきました。  3500箇所ぐらいあるようですが、リストアップしたのが2500位です。  住宅地図に階段が載っています。  記録に残したいので写真は撮ります。 段数はできるだけ数えるようにしています。 幅1段の奥行き、高さ1つとして同じようなものがないです。 坂道は車とか自転車で通り抜けられますが、階段は通り抜けられません。 歩行者だけのもの結果的には面白い空間ができています。(穏やかな空間)

港区に愛宕山と言う小さな丘があります。 愛宕神社があって、そこに登る男坂というのがあります。 3代将軍家光がその階段を見て、上のほうに梅の花が咲いてるのを見て、馬に乗ってその梅の取ってこられるものはおるかと聞いたところ、曲垣平九郎と言う武将が馬に乗ったまま取ってきて、馬術の名手ということでしたと言う話があり、今は「出世の石段」と呼ばれています。 急な階段で86段あります。

変わった階段で、文京区のほうに庚申坂と言う階段があります。 地下鉄の丸ノ内線から一瞬階段が見えます。  板橋区の成増のほうに昔は地層が見えていた崖があり、そこの階段が上の方からの景色がすごくいいんです。 武蔵野台地の北の端に当たっていて、埼玉県の方まで景色が見えるところです。  高輪の階段では、品川駅周辺の高層ビル群が見えます。(東京ならではの景色)  赤坂見附の近くの日枝神社では、お稲荷さんが祀られています。 そこの稲荷参道は赤い鳥居がずらっと並んでいて、そこ抜けながら登っていくところでは百基位の鳥居があります。

本郷に樋口一葉が昔住んでいた路地裏がありますが、そこの奥に階段があります。昔ながらの風景があります。 神楽坂に熱海湯と言う銭湯がありますが、その脇をを緩やかに登っていく階段があります。 熱海湯階段と通称を呼ばれています。  両側には料理屋さんが出店していて、雰囲気がいいです。 北の丸公園に清水門と言う門があって、そこの中にある階段は昔のままの姿をとどめています。    緩やかなんだけれども、11段の石が大きくて登るのが大変です。 

港区の麻布台に雁木坂と言う階段がありまして、そこは両側に桜の木があります。絵になる階段です。 王子のほうにある王子神社の近くを流れている音無親水公園に向かって降りてくと、階段の脇に樹齢が600年を超える大きな銀杏の木があります。 秋には黄色い葉っぱが階段を埋め尽くします。

階段に関するガイドをしています。 赤坂とか本郷とかエリアを決めて、そこにある階段を次々に巡っていきます。(2、3時間) 神社やお寺のコース、近代建築コース、昔の大名屋敷の後の坂、階段コース等。 新宿区の四谷、荒木町界隈、ここは大名屋敷、松平摂津守の屋敷、街自体がすり鉢状の窪地になっている。 階段でしかいけないような路地空間が作られている。  四谷に須賀神社があって、アニメの映画などで取り上げられた著名な階段があります。 映画ファンからは聖地のようになっていて、外国からもたくさん来ます。 本郷一帯も坂があり戦災にも会っていないので古い建物もあり魅力的です。

大森駅の西側に山王と言う地区があります。さらに行くと馬込と言う場所がありますが、かなり地形が複雑なところです。 階段が非常にたくさんあります。    多くの作家さんが住んでいた場所です。 赤羽にはもともと軍用地が結構ある場所です。その後が団地になってたり、公園になってたりしてます。 ここも歩いてみないとわからない面白さがあります

東京では高台と下町のところをつないでいるのが確かですが、一方で2つのエリアを切り離している。 階段から上は高台の街、階段から下は下町と階段が目印になってる面があります。  お寺とか神社は階段を上った先に、社お寺があることが多い。 日常生活の俗世間と、神社、お寺の聖域を階段がつないでいるが、一方では俗世間と聖域を切り離ししている。 俗世間から階段を上ることによって、聖域にアプローチする準備ができる空間かなと思います。  江戸時代は高台は武家屋敷が多くて、低い側は町民地になっていた。 明治以降は高台は住宅地、低いところは商業地と言うような区分けになっています。 とりあえず階段から見て、建築だったり、街であったり都市であったり、そこに興味を広げていただければいいなと思います。  ちょっと運動にもなると思います。 

 

2026年5月2日土曜日

海原はるか・海原かなた(漫才師)      ・目指せ!しゃべくり漫才で生涯現役

 海原はるか・海原かなた(漫才師)    ・目指せ!しゃべくり漫才で生涯現役

はるか、かなたさんといえば、はるかさんの髪の毛をかなたさんが吹き飛ばすギャグでお馴染みです。 愚直に磨き続けたしゃべくり漫才で、文化振興などに貢献した人に送られる大阪市市民表彰を受けるなど、名実ともに関西の笑いを牽引してきたベテランのコンビです。  大阪を中心に舞台に立ち続けて、去年55年目を迎えたお二人に、漫才人生につきましてお話を伺えました。

コンビ結成55年、はるかさんは熊本市出身で76歳。かなたさんは奈良県天理市出身の77歳。 2人でやってると楽しいから辞めたいとは思わないです。  熊本弁を大阪弁に直すのに苦労しました。 今やめたら今までやって来た積み重ねであろうが何であろうが、全部無駄になるという気持ちの方が強かったです。 (はるかさんの髪の毛を、かなたさんが吹き飛ばす)このギャグはある時、3組が楽屋にいるときに、順番に楽屋話をしてたんですが、我々は苦手なので、それまで隠してた髪の毛をオールバックにしたんです。 戦国時代の落ち武者みたいな感じです。  楽屋で盛り上がって2回目の舞台に上がったときに、夫婦喧嘩のネタをやってるんですが、私がはるかくんの髪の毛をアドリブでふっと吹いたんです。 そうしたら経験したことのないような大爆笑でした。  やったときには「これや」と思いました。 これは我々の商品だと思いました。 40代の肺活量はは平均が3700位です。 けれども、私はその時まだ4900ありました。 だからあのギャグができたんだなと思いました。 なるべくギャグができるような雰囲気の頭にカットしていただいてます。 その美容師さんには20年以上ご厄介になってます。

最初お互いに役者になりたかったんです。 養成所へ同期生として入門しました。      その後、私(はるか)は小浜師匠の住み込みの弟子になりました。 コンビを組む時になって相方しか思いつかなくて手紙を出しました。 お浜・小浜師匠の弟子になることになりました。  師匠からは「長いこと芸人として残るのには紳士的な漫才をしなければいけない。いとし・こいしさんみたいな紳士的な漫才をしないと長くは続かない。」と言われました。 2人とも不器用なんで稽古は一生懸命やります。 稽古が好きですね。 稽古をやってる間にまた新しいネタが浮かびます。

1980年代頃、漫才ブームと言われた時代でした。やすし・きよしさん、ツービートなどがいました。 当時は我々は注目されていませんでした。 あのギャグが見つかってからは、東京の方にも仕事に行くようになりました。  私(かなたさん)が健康を害した時は、脊椎管狭窄症と言う神経を圧迫するもので、手術の2週間ほど前から立てなくなって紙おむつでした。 そこから筋肉つけていくまでで1年以上かかりました。 自信を持っていけるようになったのは17ヶ月位ですね。 漫才をやれて、漫才ってこんなに楽しいものなんだと改めて思いました。

若いものがどんどん出てきてくれるというのはうれしいなと思ってます。 「辛抱が大事だと言う事は常に言ってます。」 「石の上にも3年。」という言葉がありますが、死語になってるような感じがして残念でなりません。 毎日楽しく仕事にときめいて喜べる自分を少しでも多く作りたいなと思います。  お笑いに対しては人それぞれの考え方があるんでしょうけれども、どうしたらお客さんが笑うのかと言う前向いた考え方を自分なりに持っていきたいと思います。 そのためには健康でなくてはいけないと思ってます。


2026年5月1日金曜日

加藤拓馬(宮城県社会教育委員)       ・ 「気仙沼“再生”にかける~移住者・加藤拓馬の15年~」

 加藤拓馬(宮城県社会教育委員) ・ 「気仙沼“再生”にかける~移住者・加藤拓馬の15年~」

東日本大震災から15年になるのを前に、3月7日に放送した特集番組「気仙沼“再生”にかける~移住者・加藤拓馬の15年~」をお送りします。

15年前の東日本大震災、あの時全国各地から多くの若者たちが被災地に入り、ボランティア活動に取り組みました。  そうした若者たちの中でそのまま現地に移り住み、今も地域の再生に取り組む人もいます。  宮城県気仙沼市唐桑町入った 加藤拓馬さん(37歳)です。 加藤さんは兵庫県の出身5歳の時に、阪神淡路大震災を経験しました。 その後東京で大学生活を送り、卒業後身一つで気仙沼にやって来ました。  この時間は「気仙沼“再生”にかける~移住者・加藤拓馬の15年~」と題して大災害の被災地で歩んできた、一人の若者の試行錯誤を、過去の取材音声を交えながらお伝えします。

決まっていた会社に就職するのを辞めて、ボランティア活度を続けている若者がいる、と言う話を聞きました。  それが当時22歳だった加藤拓馬さんでした。  震災から間もなく3年になる時に気仙沼を訪れ、25歳になった加藤さんに話を聞きました。  2014年3月に放送したインタビューです。

大学時代に中国でワークキャンプをするボランティアサークルに所属していて、現場で何かをやるという事に凄く意義を感じ、東京でサラリーマンをやっている場合ではないと思いました。 さんざん悩みましたが来たが、4月5日にはここに来ました。 馬場康彦さんの自宅の離れを借りて、長期的に滞在して活動しているからこそ、住んでいる人の本音が見えてした。 仙台は復興が早いが唐桑では復興が進まず、唐桑を出たいとか、唐桑には3種類の人間が住んでいて、避難所の人、避難所から出た仮設の人、在宅避難の人、それぞれがそれぞれに対して、嫉妬、妬みが激しく、みんなバラバラだと言った人もいました。

地域の集落のいいコミュニティーを持っているところが、このように引き裂かれていくのか、目に見えて起こり始めました。  瓦礫作業が終わって、はいさようならでは、もったいないことをしているのではないかと思いました。  コミュニティー作り、街つくりに徐々にシフトし始めたのが、2011年の秋ごろでした。 フリーペーパーというコミュニティーペーパーを作り始めました。(内側に頑張っている人がいて、それを見て自分も頑張らなくてはと言う風に、鼓舞する形)  企画、インタビュー、編集を全部自分で行いました。 

部数は4000部で商店、コンビニ、イベントとかに配布しました。 反応が凄くよかったです。 地域に溶け込んで行って、街つくりのサークルを作ろうという話になりました。(2012年春) 「唐桑丸」を5月10に日に立ち上げました。     街の人からは「将来大丈夫か。」と言われました。  或る人から「唐桑ではこいうふうな街づくりをしましたと言えるものを10年かけて作りたい。」、「10年やって初めて成果が見てくる。」といわれました。  そんなに簡単ではないと思いました。 だからこそ遣り甲斐のある一大プロジェクトだと思います。

加藤さんに自宅の離れを提供したのは、地元の社会福祉法人に務めていた馬場康彦さんでした。  最初は半信半疑でしたが、話を進める中で前向きな気持ちになって行きました。 すべての面で進むべき道を教えてくれたのではないかと思います。 2015年加藤さんは任意団体の唐桑丸を発展させて、NPO「まるオフィス」を設立しました。  船に〇〇丸と言う風に「丸」が付いている意味は、或る漁師さんは「出発したところに、ぐるっと回って無事に帰ってこれる。」、そういった願いを込めている。」と言いました。  地域と言う一つの船の中でコーディネート機能を担えるようなものにしたくて「まるオフィス」と付けました。

苦労しながら試行錯誤するなかで加藤さんはこれだというテーマを見つけました。 それが「教育」でした。 2020年に気仙沼市内にある9つの中学校、小学校などにも通って、主に総合学習の授業で、子供たちの探求的な学びをサポートする様になりました。 震災から14年になる去年の3月、NHKの朝の番組に出演。 「10年やって初めて成果が見てくる。」と言われました。この地域の50年、100年先のことを考えた時に、ここの子供たちがどういう風に育つのかが大事だと思って、「教育」と言うテーマにしぼって行きました。  最初はUターンしてくれればという思いもありましたが、いろいろな生き方があるんだよという事を伝えていく活動をやっています。 14年経って、成功、失敗もありましたが、次の地域に繋いでいきたいなと言う思いがあります。 

復興って元に戻す事ではなくて、この街の豊かさって何だろうという風な、豊かさ探しみたいなものだと思っています。 社会の最前線で活動しているという事は、毎日ワクワク取り組んでいます。  最近は能登半島にも関わっています。    いくつかの地域で、街つくり、教育に取り組みながら自分の生活、仕事がしていけるものが出来ればいいなと思っています。 明日から気仙沼の高校生、大学生を20人ぐらい連れて1週間輪島に行ってボランティア活動をします。

先月中旬、雪が舞う気仙沼へ加藤さんを訪ねました。 ボランティアみたいなものと学びみたいなものは、相性がいいんだろうなぁと私自身改めて感じさせられました。 彼らが活動をしたことで、次の世代がまたそういう風につながると面白いんだろうなとは思います。 15年前気仙沼にやってきた頃、遊び相手をしていた子供たちも今はもう大人になりました。 就活の相談を受けたりとかしています。   今も連絡くれるのでうれしいです。 

15年前にやってきた加藤さんに自宅の離れを提供するなどして応援してきた馬場康彦さんは、現在は地元の福祉法人の理事長をされてます。 馬場さんは次のように語っています。気仙沼にいたんだよと言う風な感じで近所の人と付き合っています。 素晴らしいものを持ってるんだろうと思います。 彼は故郷でも震災経験があります。(阪神淡路大震災) 彼の中に自分のなかでイメージしたものがあるのかなと、今になって思っています。

2月中旬、震災後に再建された公共施設、「気仙沼市、街と仕事、交流プラザ」 ここで地元の高校生たちが大人と一緒に地域や自分の将来を考える産官学のプロジェクト「波風」が開かれました。 運営を担う加藤さんもスタッフの仲間と参加しました。 この「波風」は、気仙沼の企業、行政、学校が連携して、コンソーシアムの共同体を結成して取り組む事業で、スタートしてからまもなく4年になります。高校生は様々な大人と交流しながら、学校の外でも地域や社会の課題を見つけて考える力を養っています。

加藤さんが去年ドイツに行って感じてきたことの経験をもとに、若者が自分たちの地域のことを考える大切さを訴えました。 高校生たちからはいろいろな反応がありました。かつて「波風」に参加したOGの人も参加がありました。      「教育」と言うテーマ自体、私は興味がありませんでした。 そういったところに出会えたと言うことが15年で1番自分の人生にとって大きかったことです。    自分が1つのライフワークとして携われるテーマは施策かもしれないと徐々に実感させてもらった15年でした。 

1つのことを10年やって初めて成果がわかるんだと言う事を昔言われたことがありますが、それを実感しています。 10年かかるかもしれないと言う風に声をかけてくれたのは、当時市の教育長だったと教えてくれました。 

馬場さんは当時を振り返りこう言ってます。 来てくれるんだったらお願いするよと言ったことが間違いじゃなかったと思います。 今は小さい赤ちゃんから我々高齢者まで幅広い人たちと交流の場を持ったり、後は我々の後押しをしてくれる中高生大学生たちにアプローチをして、彼らと一緒になってやって、彼らの成長に関する大きなものをものを見たり聞いたりしています。 彼らの存在、ボランティアを皆さんの罪と言うものは大きなものがあって、今のこの復興した気仙沼になってると思います。 

加藤さんはこれからの夢をこんな言葉で語ってくれました。 色々なことを一から教えててもらいました。 これからもここを拠点にしていきたいと思ってますし、自分も子育てしていますが、子供たちは当時お世話になった人たちに、またお世話になりながら育って行っていると言うことも不思議な感覚ではあります。    次の10年どうしようかなぁと言うのは、当時よりはワクワクしながら過ごすことができるなと言うのは今な気持ちです。 あれやりたいこれやりたいと言う焦りみたいなものを感じます。 何か自分がアクションを起こせば、新たな人とも出会いますし、出会った人がまた新たな気づきをくれる。 芯の部分は、社会教育と言う部分であり、10代の若者たちが何か夢中になれるもの見つける、それを僕たちが応援していく、社会で支えていくんだと言うと言うところはぶれないところです。










2026年4月30日木曜日

小椋佳(シンガーソングライター)     ・「小椋佳的生き方」

小椋佳(シンガーソングライター)     ・「小椋佳的生き方」 

小椋佳さんは1944年東京上野生まれ82歳。 東京大学法学部を卒業した後、日本勧業銀行(現在のみずほ銀行)に入行し、銀行員として働く傍ら、作詞、作曲等の音楽活動を行い、1971年に初めてのアルバム「青春 砂漠の少年」を発表しました。「さらば青春」や「潮騒の歌」などのご自身のヒット曲だけでなく、「シクラメンのかほり」、「愛燦燦」「夢芝居」など多数の楽曲を様々なアーティストに提供しています。 3冊目のアルバム『彷徨』(さまよい100万枚のセールスを記録しました。  これまでに2000曲以上を作り、2014年には四日間にわたって100曲を歌う「生前葬コンサート」を行い話題となりました。 胃がんや肝機能障害の劇症肝炎の闘病時期もありましたが、82歳になった今も元気に音楽活動を続けています。 人間にとって1番贅沢な遊びは学ぶこととの考えから、ご自身は自分のことを「慢性現状不満症」と称していて、常に新しい何かを求め続けています。 「小椋佳的生き方」と題して小椋佳さんに伺いました。

自分自身がちゃんと歌えるかどうか、声がきちんと出ているかどうか、節回しが自分の思い通りの節回しになっているかどうか、そのことの方が今日の1番大事なこと思っています。 50年前に初めてNHKのホールで歌ったときに、歌ってる最中に客席の方からふわっと波のようなものが来るんですね。これは一体何なんだろうと思いました。なんか1番気持ちが良かったですね。 

現在82歳ですが、もう体はボロボロです。 足の血管が細くて半年に1回手術をしています。 タバコは今も変わらず140本吸っています。 ここの10日間で歯が5本抜けています。  タバコは生活必需品になってしまっています。 3回禁煙して失敗しています。 40代の頃禁煙学校に通いました。 3ヶ月後には吸っていました。禁煙したら詩が書けなくなってしまってました。 

200157歳の時に胃がんで胃の4分の3を切除、68歳の時に肝機能障害で劇症肝炎と診断され、大変な思いをしました。 若い力の心情として、生きているからには、一生懸命生きようとずっと思ってまして、そのせいかもしれないです。    歌を歌うと言う事は健康に良いのかもしれません。 映画「50年目の俺たちの旅」に合わせて、「俺たちの旅コンサート」を行いました。 どこへ行っても満席でした。 青春時代に郷愁があるんだなぁと言うことを感じました。 主題歌とエンディングテーマを書きました。(アメリカに留学中)

銀行から派遣されての経営学の勉強でした。 学校には行かないでアメリカの旅をしてました。 曲をそこそこ作りました。 一枚目のLPが世の中に出て意外と評判が良くて、第二弾のLPをと言う手紙をもらいました。 ポリドールの重役会議では、こんな者は売れるわけがないと言ってお蔵入りの決定だったそうです。 ヨーロッパでも、アメリカでも詩が主で、歌は詩を読み上げるような静かな歌を歌っていまして、立派に活躍していました。 僕もこれでいいんだと思いました。

*「俺たちの旅」 作詞、作曲 小椋佳

 中学2年から日記をつけ始めて、曲を作るときのベースになっています。    歌って、やっぱり人間の本当の思いを作家の思いを乗せてこそ歌だと思うのに、嘘臭いので、歌いたいのに歌いたくなくなっちゃいました。 自分の日記の中からメロディーをつけて口ずさんだのが始まりです。 日記をつけると自分のことをよく考えるようになります。 大学ノート30冊になりました。 詩を書いて、それにメロディーをつけていく作曲のスタイルです。 

高校時代に哲学病になって、答えを出せないまま社会人になって、銀行員を26年やりましたが、やり残し感があって49歳で銀行を早期退職して大学に行って、哲学を6年間やりました。 本を書き残そうと思って、今書いてる最中です。 人生に希望を持てない人たちへ、人生こう考えていければいいんだと言う本を、僕の哲学の勉強の総まとめとして、生き方の提言をした本です。 

若い頃は3時間に1曲作ってました。 自然に降りてくる感じでした。 これまでに2000曲以上になります。 最初のコンサートは、1976107日、NHKホールコンサートで3300の座席に対して、11万通の応募があったということでした。 良い体験をしました。  古希の時に「生前葬コンサート」をやりました。  四日間NHKホールでやりました。 4日間で100曲歌いました。 あれからもう10年以上生きてます。青春に決別できたコンサートでした。

よく「二足のわらじ」と言われますけれども、銀行員時代の費やす時間と作曲関係に費やす時間は、圧倒的に仕事の方に有りました。 歌のことで、あいつ歌だけやってるから、仕事は中途半端だろうと言う見方で見られるのは嫌だったです。  人一倍業績を上げようと言う思いは強かったです。(頭取候補にもなる。) 

どう生きていいかどうかわからなかった青春時代に、魅力的に輝いた言葉が「創造」という言葉でした。 他でもないこの私が生きていると言う証は、どういうこと、それは「創造」と言う言葉につながるんですね。 「慢性現状不満症」は私の性格の基本にそれがあります。 以前作ったミュージカルはどれ一つとっても納得できるミュージカルではなかった。 死ぬ前に1本だけ妥協を許さず、自分で本当に納得できるミュージカルを1本オリジナルのものを作って死にたいなと思ってます。  2 、3年かかると思います。 「慢性現状不満症」が原動力になってると思います。 遺言も書き上げて、死に支度は整っています。 生きている以上良いことがやりたいと思ってます。

*「顧り見れば」 作詞、作曲 小椋佳





2026年4月29日水曜日

翁家和助(太神楽曲芸師)          ・「太神楽で、芸術選奨 大衆芸能部門 文部科学大臣新人賞!」

 翁家和助(太神楽曲芸師)  ・「太神楽で、芸術選奨 大衆芸能部門 文部科学大臣新人賞!」

翁家和助さんは1977年東京都出身。 和助さんは、高校卒業後、国立劇場第1期大神楽研修生になり、研修終了後翁家和楽さんに入門、寄席を中心に活動しています。 今年2026年大神楽で令和7年度芸術選奨 大衆芸能部門 文部科学大臣新人賞を受賞しました。

何で自分がもらえたんだろうと思いました。 文化庁の公式ホームページに受賞理由が出てます。 どのような出番で高座に上がっても、きちんと存在感を示し、後に上がる落語家の邪魔をしない、わきまえた芸が芸人仲間から高い評価を得ている、と言う事ですが。

妻の翁家小花と弟子のと3人で、翁家社中と言う太神楽曲芸のグループで活動しています。大神楽は獅子舞で、檀家のところを回るんで、檀那場廻りといいます。 廻ってお祓いをして、その家の立身出世とか。家内安全、商売繁盛をお祈りして家々を廻っていくと言うのがもともとが芸能です。 その前は獅子舞もなくて、いけない方々に神社の方からお札を持って、お祓いしますと言うのが始まりでした。

太神楽と言う芸能自体が感謝の気持ちで発展してきた芸能です。行った先がいろいろ持てなしてくれました。 お札だけでは申し訳ないと言うことで、獅子舞をやり出しました。 もてなし側もさらに凄くなって獅子舞だけでなく、曲芸とかを加えることによってさらに喜びました。 さらに漫才と加えることによって発展した芸能でした。 江戸時代より前からです。

傘の上に一升枡とか、土瓶とかそういった台所道具などを回す芸で発展していきました。 最初は毬を使って稽古します。 現在48歳です。 高校生の時に先生から就職するのに公務員で試験もないのもあると言うことを聞いて、それとは違っていましたが、国立劇場第1期生の募集がありましたので、それを受けて入ることになりました。 基礎的なことを2年半勉強しました。 

卒業後、落語協会に入りました。 うちの師匠翁家和楽の元で修行を重ねました。お正月は基本的に獅子舞をやりますが、末広亭の楽屋は狭くて足の踏み間もない位でした。 獅子が置いてあったのを取ってくれと言われて、獅子頭跨いでしまいました。 そうしたら師匠から明日からもう来なくていいと言われました。獅子頭は神様です。 師匠がよく言ってたのは、「お金のため、自分の立身出世のため、名誉とか、自分の私利私欲のために太神楽を使ったやつは神様からバチが当たってろくな事は無いから。」と言われました。 「程を知れ。」と言う事は師匠からよく言われました。

太神楽の演出は必ず神様に向かってお願い事をする儀式的な部分(舞い)があります。  その後お客様に対して楽しませる部分があります。 この2つがセットで初めて神楽になります。 神様に対するお願いと、人々に楽しんでもらうということです。 

経歴は27、 8年になります 寄席では基本的には真打と真打の間にやります。  ですから、自分でも真打芸をやらないといけないと思い、これが大変でした。   おしゃべりもしますが、太神楽でしか起こり得ない面白いことを心がけています。 噺家さんの邪魔にはならない笑いを心がけています。  失敗した場合など、それを笑いに変えたりしてます。 太神楽と言うのは、舞いがあって、獅子舞いとか、神楽があって、その間に曲芸と茶番と最後に獅子舞があります。 太神楽を復活させ10年やって来て、これがだいぶ出てきてきましたので、次は神楽だけで会をやりたいです。