2026年4月12日日曜日

行定勲(映画監督)             ・「映画で支える熊本の復興」

 行定勲(映画監督)             ・「映画で支える熊本の復興」

行定さんは熊本県出身の57歳。 高校卒業後、映画製作の専門学校に進み、岩井俊二監督の映画で助監督を務め頭角を表します。 2002年には映画「GO」で日本アカデミー賞最優秀監督賞を受賞。 2005年の「世界の中心で、愛をさけぶ」と、2006年の「北の零年」では優秀監督賞、また2010年の「パレード」と2018年の「リバースエッジ」では、ベルリン国際映画祭の国際映画批評家連盟賞を受賞します。 414日と16日で熊本地震から10年になりますが、行定さんは 16日の本震のときには、熊本市内にて被災しました。 

熊本地震の被災から熊本の人たちが立ち直るために、何ができるかを考えた際に、映画監督である自分にできる事は、映画で被災した人たちを励ましたり、被災した熊本の現実を映像で記録することだと考え、被災前に作った熊本を描いた映画「うつくしいひと」の続編として、被害の大きかった益城町や熊本城、阿蘇神社や阿蘇大橋などの被災現場でロケを行い、「うつくしいひと サバ?」と言う作品に仕上げました。 熊本地震から10年が経ち、行定さんにとって、熊本地震の教訓は何だったのか、故郷熊本に対する思いはどう変わったかなどについて伺いました。

地震を乗り越えてきた今の熊本と言うものを認識している人たちが自負のある方が多い感じがしていて、この10年と言うものを前向きにやってきた10年と思うので、水害もあってその後コロナもあり、それを乗り越えてきたと言う感じがあります。当たり前にある熊本城が地震であんなに傷つく姿と言うものは今まで見てられなかったんですね。 ライトアップすると、復活しようとしている熊本城のように見えるんです。  見上げている人たちを見ると、皆涙をしてるんです。

完全復旧2052年度目標にしてました。 熊本地震の爪痕を部分的に残してあるというのが、多分ファッションデザイナーの高田賢三さんがおっしゃったことで、ヨーロッパでは多分ピシャと直さないだろうとおっしゃっていました。 自分の映画を復興している姿を、どっかに映画に取り込みたいと言うことを思って、「うつくしいひと」の続編「うつくしいひと サバ?」を作ったんですが、賢三さんが言ってることと近いと言うふうな思いはありました。 崩れ落ちた石垣を少しだけ残す事は重要なことかなぁと思います。  10年経って今しか見れない熊本町と言うものがあって、復活の途上にある熊本城を見ていただけるので、熊本に行く際にはぜひ見ていただきたいと思います。   

地震があった414日の翌々日の416125分に大きな揺れがありました。  余震にしては大きいと思いました。 テレビが倒れたり冷蔵庫の蓋が開いて、中身が飛び出したりして、ベッドにしがみついていました。 地震を経験したから、情報の発信ができたと言うことと、外側の人たちが支援してくださる熱い気持ち、愛情みたいなもの、支援をしてくれる彼らの思いみたいなものを受け取る側にいたから、ありがたさみたいなものをものすごく感じることができました。 「うつくしいひと」と言う映画を作っていたおかげで、熊本と言うものをについて、僕自身を改めて、生まれ故郷を感じることができました。 

5月に「うつくしいひと」を公開しようと言う手はずでしたけれども、地震が発生してしまいました 。熊本の美しい情景を撮っていたので、被災した人たちのことを考えると、見れる余裕なんてあるはずがないと思いました。 県外の関係者から「うつくしいひと」を上映して、チャリティー上映と言うことにさしてもらえないかと言う話がありました。 300から400カ所位のところで、上映していただいて、現金が2000万円位集まりました。  熊本県出身の俳優の人たちが多く出演してまして、まさかチャリティー映画になるとは思ってもいませんでした。

「うつくしいひと」を撮影した翌年に「うつくしいひと サバ?」を撮ってますが、明治40年頃にも、熊本に大きな地震が起こってまして、(熊本には地震が起きないという風説があった。)文化の力で変えていかないといけないと思いました。地震後半年位の時でした、撮影させてくださいと訴えて、自分たちがどんな思いでいるかと言うことを伝わると言う事はすごくプラスになるかなと言う風な思いがありました。 映画に協力してくださる方から、本当の俺たちの気持ちはわかってくれていないと言うふうに言われました。 それで或るスタッフがショックを受けました。

彼が涙ながらに撮影をやめましょうって言いました。 本音を言ってもらうシーンを取り入れました。 何かを諦めなければいけない人にも出会いました。 東京に行って自分の夢を叶えようと思った人が、地震で諦めざる得なくなりました。 本当はパリに行く予定だった女性が、ダンス留学をするのは諦めて、熊本でも踊れることができるって言う思いをそのまま使わせてもらいました。「うつくしいひと」「うつくしいひと サバ?」と3作目に作った地震当日の話「いっちょんすかん」、その3つの作品が合わさったら、熊本出身の俳優さんたちがリアルな熊本弁でユーモアもありながら、客観的に見られる映画だと思いますが、その思いが後の人たちにつながっていくと言う、映画は記憶装置と言う部分もあるかと思いました。

いろんな苦労に合いながらも、それでも熊本で頑張っていきたいと言う事を聞いたりすると励まされます。 熊本もいろんな変化を遂げていくと思いますが、例えば熊本の人たちで才能がある人がいたら、それを世の中に広めていったり、発見してあげたいとか、これからの時代を担ってくれるであろう、子供たちの人材育成のきっかけを与えられるといいなぁと思います。  映画祭自体がそういう存在になっていくと言う事が希望です。 熊本って新しいもの好きで最新のものが好きなんです。 わさもん文化というものがあります。 わさもん文化を復活させるというか、それが原動力になってパワーみたいものが、世の中にいろんな力を提示できたらいいなと言うふうに思ってます。





2026年4月11日土曜日

フレデリック・クレインス(国際日本文化研究センター 教授)・興味が尽きない、日本の戦国時代

 フレデリック・クレインス(国際日本文化研究センター 教授)・興味が尽きない、日本の戦国時代

俳優の真田広之さんが主演、プロデュースしたテレビドラマ「SHOGUN」が、アメリカテレビ界最高の栄誉とされるエミー賞に加えて、ゴールデングローブ賞でも、作品賞や主演男優賞など獲得して話題になりました。  戦国時代の日本を緻密に再現したことが評価されたもので、その時代考証を担当したのがクレインスさんです。ドラマはオランダの船で日本に漂着したイギリス人航海士ウィリアム・アダムス、後の三浦按針と徳川家康、そしてキリシタンの細川ガラシャの3人をモデルにした人物を軸に展開します。  戦国時代と武士に惹かれて日本にやってきて、戦国文化、日本とヨーロッパの歴史、日本とヨーロッパの交流の歴史を研究しているクレインスさんにドラマの時代考証について、そして戦国時代研究の面白さをお聞きしました。

時代考証で、例えばどんなことをしてきたのか、脚本が当時の日本の文化と離れていたので、まず当時の戦国時代の武家がどのような行動をして何を考えているのか、それを説明することから始めました。 色々誤解していました。 例えば、切腹と言うのは、武家が自分の犯した過ちとかを訂正するために、おのずからやると言う風習ですけれども、彼らはいやいややっている罰だと思い込んでいました。  武士の名誉、考え方、死生観などからスタートして、これによって新しいシーンを一緒に作ったり、キャラクターも新しく作りました。 深みのある作品になりました。

戦国時代を研究すると、茶の湯のことも結構出てきます。 言葉も英語で書かれていたものを、日本語に置き換えてますが、現代語にすると雰囲気が出ないので、セリフを妻と共に慶長期の日本語に置き換えました。  実は当時の辞書と文法書があるんです。 それを参考にしました。 セットと衣装なども時代考証しました。 江戸時代と戦国時代はかなり違います。 当時の武士たちは、和歌とか連歌が非常に重要な文化要素です。 そのシーンも作りました。

私が幼稚園の頃、日本人の子がいました。小学校5年生の頃に日本に戻ってしまいました。 彼と文通をしてすごく日本のことに興味を持つようになりました。   本を購入したりして、日本のことをどんどん勉強するようになりました。    1980年私が10歳の時にテレビでSHOGUN」(旧)というのをやっていました。 それをきっかけに日本の歴史に興味を持つようになりました。 衣装、文化言葉などに特に興味を持ちました。  19歳の時に来日して日本語を勉強して、大阪外国語大学に留学しました。 28歳の時に京都大学大学院に入って博士号を取得しました。    日本人の女性と結婚しました。 江戸時代の作り方で家を新しく作りました。   武家屋敷と古民家の間ぐらいの建物。

多くの歴史的人物は、充分資料が資料が残ってないです。 ウィリアム・アダムスについては資料が十分残っています。 それを一次資料にしました。 ウィリアム・アダムスはすごく面白い人物で、1564年にロンドンからちょっと東の港町で生まれ育ちました。 船大工になって航海術も覚えました。 24歳の時に、スペインの無敵艦隊がイギリスに侵略しに来ますが、それに対抗してイギリス人の艦隊を形成して向い打ちをします。 その艦隊の船の中の1つのアダムスが船長として働きました。その後バーバリー商会という貿易会社に就職して 、10年近く続けます。 

1598年オランダ人がアジアに派遣する船団を形成していると言うことを聞いてそこに入りました。 16世紀は大航海時代で、ポルトガルとスペインが世界に出て行った時で、アジア南米で植民地化をやっていきます。 ポルトガルはアジア、スペインは南米を支配をしていました。 イギリス、オランダはスペイン、ポルトガルとは宗教戦争をやってました。 経済的ダメージを行うために海賊行為を行います。  略奪品を自分の国に持ってくるという事をお互いがやってます。

ドラマの中では、日本に来るまでが大変だったと言うことがあります。 旅自体が2年間かかりました。 逆風でなかなか進めなかった。 食料も尽きてしまう。 アフリカあたりで伝染病にもかかったりします。 非常に苦労しながらマゼラン海峡に入ります。 そこは非常に寒く風も強い。 最初500人の乗組員だったが、そのうち100人が寒さで亡くなっています。(この時点で半分になっている。) 食料調達する上でも多くの人が亡くなりました。 出発した船がついに二隻になってしまいました。  二隻で太平洋を渡って、日本に行こうと言うことになりました。 その途中嵐に出会って一隻はいなくなりました。 最終的に日本に着いたのは一隻でした。

乗組員は24人でした。(出発時500人)到着後すぐ6人が亡くなってしまいます。  残った18人の1人にアダムスがいました。 豊後につきました。 そこの領主が、長崎奉行に報告しました。 長崎奉行は、五大老に報告しました。家康も大阪にいました。 家康は、積極的な外交を行っていた武将でした。 とにかく輸入を以て日本の経済を豊かにするそういう考えを家康は持っていました。 船長を呼ぶように指示しましたが、船長が病気だったため、航海士が大阪に送られました。 アダムスに会って、この人間は有能な人物であると判断したようです。

ポルトガルとスペインは貿易の代わりに宣教師を容認しろ、キリスト教を布教させてほしいと言うことでした。 けれども、アダムスはwin winで貿易をしたいということでした。 アダムスは旗本になって、家康の側近になります。 アダムスは家康に世界情勢のことをいろいろ語っていきます。 その他にいろんな学問を教えました。 通訳と外交全般の窓口になっていきます。  いろいろな国と貿易をすることによって、値段も安くなってき、日本の経済が豊かになってきます。 

スペイン人が江戸湾の測量をさせてほしいと願いでてます。 アダムスはこれを聞いて家康にこれは罠であると言います。  彼らは測量して、次は軍を送ってくると言うことを力説しました。 家康は宗教の怖さを知っていたので、キリスト教で同じことなったら大変だと禁教令を出します。 イギリスは1923年に日本であまり元気が出ないので撤退してしまいます。 ポルトガルとスペインは貿易と布教が表裏一体でしたが、オランダは貿易で利益を得ることそれが大事でした。 積極的な布教活動は一切やってませんでした。 オランダであれば十分な輸入品が得られるし、布教活動の脅威から解放されると言うことで鎖国に発展していきます。

戦国時代の文化、武家文化を海外に伝えたいなぁと思っています。 足利将軍家の本について書いています。(学術書) 足利家の時に、武家文化が出来上がっていきます能だったり、茶の湯だったり、連歌だったり出来上がっていきます。 もう一つはSHOGUN2、これに力を入れたいです。 戦国時代を英語で小説を書いて、11000ページで6冊の構想を持っています。 武家文化の素晴らしさ、深さを海外に伝えたいと思ってます。


2026年4月10日金曜日

2026年4月9日木曜日

勝木俊雄(森林総合研究所九州支所主任研究員)・「朗読で味わう桜の春~前編」

 勝木俊雄(森林総合研究所九州支所主任研究員)・「朗読で味わう桜の春~前編」

森林総合研究所、昔の林業試験場です。 森林に関わるありとあらゆることを研究する研究期間と言うことになります。 DN Aを解析して桜のルーツを探る分類、最近は樹木医と言う制度にもかかわっています。 赤瀬川原平さんの「仙人の桜、俗人の桜」と言う作品。 赤瀬川原平さんは1937年のまれ美術家であり、作家であり、一時漫画も書いていました。 2014年に亡くなりました。

「仙人の桜、俗人の桜」

「日本は桜の国だ。 春になると南から桜前線が攻め込んでくる。・・・みんな弁当を作りござを用意し、酒ももちろん買い込んで仲間と連絡し合い集結地点を確認する。 ・・・先行隊が場所を確認して本隊が来る・・・桜前線が北上してくるとほとんど日本中が戦争状態に突入する。・・・歳をとると、どうしても日本人になって来てしまって、気がついたら満開の桜の下で酒を飲んでいる。・・・。私もそうだった。・・・私は理屈の方から桜に近づいたんだ。馬肉のことを桜肉と言う。露店で客のふりをして騙すのも桜と言う。

・・・正面からドーンと吉野の桜を見に行こうと言うことになったのだ。・・・私のお花見体験は幼稚園の頃だった。九州の大分にて護国寺神社のお花見だ。・・・大人たちはビールをうれしそうに飲んでいた大人の会話ばかりで面白くはない。・・・吉野の桜と言うのは、吉野山の下の方から下千本、中千本、上千本、奥千本とあって、下からだんだん1ヵ月ぐらいかかって上まで咲いてるらしい。・・・全貌の見渡せる現場へ出て行った。これが吉野桜川と言う感慨を持って見とれてしまった。・・・向こうから見せられると言うより、こちらがその美しさを見つけることでその見つける喜びを味わせてくれる。

その帰り電車に寄って大阪に帰る。大阪には造幣局があり、その中に桜並木がある。満開時にはその桜があまりにも綺麗なので、やむを得ずその並木道だけを一般公開する。俗に言う造幣局の通り抜けだ。・・・造幣局の八重桜なのだ。・・・枝にも所々短冊が下がっている。見ると、市民の寄せた俳句らしい。「念願のあなたと共に通り抜け」「嫁ぐ日を間近に控え通り抜け」とかろいろあって飽きない。・・・どことなく吉野のお花見と似ているんだと思った。・・・1つ共通点がある。どちらも酒を飲む人がいない。宴会の桜ではないのだ。・・・片方は仙人の桜で、片方は俗人の桜、それが酒抜きで似ているのが妙である。・・・俗人の俗が、なぜ人偏に谷なのだ。・・・反対は何だろうと考えた。俗人の反対仙人である。・・・字をよく見ると、山の人だ。俗人とは、谷の人なのだ。・・今回私は仙人のお花見をして降りて、俗人の桜を通り抜ける。・・・」

吉野の桜は、平安時代からの有名な桜の名所と言うことになります

生物学的に見たときには、日本にはわずか10種しかありません。 吉野の桜は基本的に山桜です。 霞桜、江戸彼岸と言うのもあります。 最近ですとソメイヨシノも植えられています。 ソメイヨシノ河津桜などは、ほとんど栽培品種で人が作り上げたものです

馬場あき子さんの「神代桜」

馬場あき子さんは、1928年の生まれ、歌人で文芸評論などでも知られる方です。

「山梨の県西、武川村には日本一の老寿の桜があるとかねてから聞いていた。土地の人は樹齢2000年と言ってるがひょっとすると日本以前から立っていたことになるわけである。 ・・・開闢以来だから神代桜と言うんですとこともなげに言って、たちまち案内してもらう約束が成立した。・・・甲斐の神代桜が生きた時代も多分「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」や「木花知流比売(このはなのちるひめ」があゆみ佇むにふさわしい農耕大地の広がりが豊穣への期待感がともにある。

・・・日本一の桜は、本堂の左手奥に、どっしりとわだまかる巨体を臥竜のように横たえていた。幹があまりにも太いので横たわったように見えるのである。・・・周辺から伸びた枝えだは、支柱に支えながらも枝先まで隙間なく花をつけている。色は、やや白っぽいが 七分咲きの花はまだ気力のある艶を漂わせ、想像を超える年月耐えてきた落着が、おのずから風格をなして、誠に静かに自然であった。・・・神代桜は、そんなことには一切関わりなく、ただしみるような静かさでたたずんでいた。私は巨大な老樹の花びらが、折々、ひんやり冷たく、顔に散りかかる下に立って、この桜の年月が今日まで何の由来も歴史も持たず過ごしてきたことに、いっそう清らかな感銘を受けた。・・・

甲斐の神代桜には、ただこの山あいにしっかりと生きた膨大な年月があるだけだ。その年月を人間の側から見るのではなく、桜の命の側から見たなら、そこには多分並々でない激しい戦いや生のドラマがあったに違いない。・・・恐ろしいまでの生の時間は、もはや人間の生の時間との比較を超えてしまっていて、なまなか感想を許さない力を持って、我々の前に立ちはだかっているのであった。」

近くで見ると、樹木と言うよりもゴツゴツしたい岩があると言うそんな感じです。

桜前線は正確に言うと、沖縄では寒緋桜、北海道札幌より北では大山桜、鹿児島から札幌の間はソメイヨシノで観測しています。 ソメイは現在の巣鴨のあたりに染井と言う村がありました。 江戸時代に園芸の里でした。経緯はよくわかりませんが、ここからソメイヨシノが広がったということです。

木内昇さんの「染井の桜」

「(侍から)、植木屋になってから、徳造が最も精を出したのが儲けることでも店を広げることでもなく、これまで誰も作ったことのないような変わり咲きを生み出すことだった。・・・桜ばかりにこだわった。・・・庭ではなく景色を作りたいと思ってね。彼は暇を見つけてはほうぼうの山桜を見て歩き、よさそうな品種を見極め、その枝を持ち帰って継ぎや挿し木にした。・・・すべてを桜につぎ込んだ。・・・早いとこいい桜が見つかるといいんだがと静かな笑みを浮かべた。良い姿メッケルんだよ。・・・

徳造が江戸彼岸と大島桜を掛け合わせた変わり咲きの桜を見っけることを成し遂げたのは、それからさらに5年が過ぎた頃のことだ。 葉が出るより先に泡雪に似た花が枝をほぐすようにして咲き乱れる桜を見た仲間たちは、一様に息を飲んだ。徳造の桜は吉野桜と言って呼ばれ、すぐに評判となった。移ろうからはかないから美しい。一斉に咲いて見事に散る様が際立っているその桜を、江戸の人は、自らの生き方になぞらえて、めでた。 ひとひらひとひらが風になって、吹雪に似た風情を作ることも、人々を魅了してやまなかった。」

ソメイヨシノの種類としては、江戸彼岸と大島桜の種間雑種と言う事ははっきりしています。人が人工交配したものではないと私は思います。江戸時代は人工交配の技術は日本にはまだないです。 あったものを人が接ぎ木で増殖している。ここに明らかに人為的な様子があります。


2026年4月8日水曜日

五木寛之(作家)              ・五木寛之のラジオ千夜一話

五木寛之(作家)              ・五木寛之のラジオ千夜一話

 30年近く前、五木さんの「大河の一滴」と言う本がベストセラーになりましたが、最近その続編とも言えるべき本を「最終章」と題して綴り話題となっています。 今朝はご自身の最近の健康や生き方について語っていただきます。

「大河の一滴」がもう30年近くになります。 今93歳ですから考えてみると随分昔ですね。 今回は「最終章」と言うタイトルをつけました。 この「最終章」と言う本に対しては読者カードがたくさん来ています。 読んでいて感動しました。   はがき1枚の中にびっしりと感想とか自分の体験を書き込んでいます。  それだけ生きるということがそういう問題に対して、ある種の切迫感というか、何か思い出が深いんじゃないかなぁと思います。 

今回は大河の流れに逆らう事があってもいいんじゃないかと言うことが書かれていますが、最初は自分の一生と言うものを大河の流れに例えて、再生の海へ流れていくと言う身を任せるという感じの内容だったと思います。 今度は割り合いそうじゃなくて、生きることに執着するというか、ちょうど書いてた時に体に異変があって放っておこうかなと思ったんですが、やっぱりちゃんと生きようと、人は1日でも2日でも生きようとする、そういうことに執着しなければいけないと言う、そういう気がして、逆らってと言うよりは、安易に身を任せないと言う、そういう時は或るときには逆流し、ときには渦巻いて、迂回していくと言うことがあったとしても、大きな流れで言えば、人間の一生と言うのは、大河の流れのように再生の海へ向けて流れ込んでいくと言う、それは変わらないんですけれども、身をまかせせてしまってと言う様にはいかない、というのがこの本のきっかけです。

「長く生きられなかった人のために生きていく。」(本の中の一文章)      人は何で生きるのかと言う、生きなければならないのか、生きることに執着するから生きるんではあるけれども、今の世界を見ていろんな思いがありますね。   世の中には11日を元気に生きようと思いつつも、もそれができない人がたくさんいるじゃないですか。 そういう人たちのことを考えると、ちょっとした病気でもまぁいいかと言うような安易な感じで身をまかせると言うのができないと言う気がして、生きるための努力と言うのはしなければいけないんじゃないかと思って、「大河の流れに逆らって」と言う見出しが出てきたわけです。  

生きんと欲しつつ、きんと切実に望みつつ、それあたわざる人々のために安易に自分の生を放棄してはいけない。  ある程度は生きると言うことにこだわらなければいけないんじゃないかなと思います。 30年前近くに書いた「大河の一滴」とはそこがちょっと違います。 母親は九州の田舎の山村出身ですが、福岡の女子師範学校を出て、教師になって、小学校の教師を長く勤めながら戦後の混乱の中でなくなりました。彼女の夢は今から思うと笑えるような話ですが、一遍でいいから東京にいってみたいとう思いでした。

歳を取るに従って、運命に身を任せると言う気持ちになってくるじゃないかと思うんですが。 歳をとっても生きることに執着しなければと言うふうに今は思ってます。 何のためにではなく、誰かのために生きると言うことが、この歳になって浮かんできました。 人々の果たしざりし夢を自分が背負っているという様な実感がしたものですから。

ロケで訪れたガンジス川に母親の遺髪を流しました。 僕のセンチメンタルな思いです。 たくさんの人が沐浴とか、いろいろやっていて川濁ってるんですね。   上流に行くと青々として美しくてびっくりしました。 母親の葬式は正式にしなかった、出来なかったので、遺髪をお寺に収めようとは思っていました。 「燃える秋」と言う小説、場所がイランです。 古い都を舞台にしたストーリーです。イランはペルシャ語です ペルシャ絨毯に魅せられて尋ねていく女性と、若い商社員の恋人、男性がいて、その男性は手織りの絨毯のデザインをコピーして、機械で大量生産するようなアイディアを持ってきたと言うことがわかって、恋が壊れると言う話です

*「燃える秋」 作詞:五木寛之、作曲:武満徹、編曲:田辺信一、唄:Hi-Fi Set

日本でいうと京都、奈良のような古い都が燃え上がるという、何十年か前のイメージが現実のなるとは夢にも思っていなかったですから。

80代の半ばまではほとんど病院に行きませんでした。 80代後半を過ぎてあちこちが悪くなって、最近ではちょくちょく大学病院に行くようになりました。     2年ほど前に咽頭癌の気配が出て来て、放射線治療によって半年位ですごく良くなりました。 再発の恐れがあると言うことで、何ヶ月にいっぺんぐらいは行くことになります。 左足が変形性膝関節症にもなって、杖をついて歩くようになってきました。  連載とか8本ぐらい抱えてます。 それを毎日こなしながらやっています。

*「鳩のいない村」 作詞:五木寛之  歌:藤野ひろ子

ベトナ戦争のことで、平和を願う歌。

ここの所一日も休まず仕事をしています。 文章を書くことが大事ですけれども、生きた人間の会話、人間の本音が出るようなそういう対談を大事にしています。 活字になった対談だけで650位になりました。 全部で1000人ぐらいの人と対談してると思います。 人と本音で語り合うと言う事は大事なことだと思います。






2026年4月7日火曜日

関根勤(タレント)              ・「古希を超えても果敢に挑戦!」

関根勤(タレント)              ・「古希を超えても果敢に挑戦!」

 関根勤さんは1953年東京都出身。 大学3年生の時、民放テレビ番組の素人コメディアン道場で5週連続勝ち抜き、初代チャンピオンになり芸能界デビューしました。 その後数々の舞台やバラエティー番組で活躍します。

72歳になりました。 芸能生活去年で50周年を迎えました。 後輩から挑戦するように言われて、落語がいいかなぁとちょっと思いました。 春風亭小朝師匠の弟子の蝶花楼 桃花さんと言う師匠に仮の弟子入りしました。  人情話をやろうかなぁと思いました。 「徂徠豆腐」と言うものでした。 江戸中期の荻生徂徠と言う学者の若き日の苦労話です。 去年の正月に稽古をつけてもらって、親子会をやると言うので、師匠とやることになりました。 新作落語も自分で作ると言うことを考えました。 頻尿での苦労話についてつくりました。 フィクションは1割位です。   親子会の親は桃花さんです。名前も「かんこん亭きん太」とつけてもらいました。

5週抜きの番組では、一生懸命がんばりました。 大体3分ですが、ネタを作ってがんばりました。 芸能界でやる気ないかと言う誘いがありました。 プロで通用する事はないと言いました。 消防署員になるつもりでいました。 コント55号を育てた浅井が君の才能を保証すると言われました。 大学3年生だったので、1年余裕があると思ってとりあえず入ってみました。 学生時代は目黒5人衆ということでやっていまして、そのうちの1人が柳家小ゑんさんです。 

小学校の頃から明るい少年でした。 周りにも面白い人がいっぱいいました。   萩本欽一さんの事務所で6年ぐらい経った頃、小堺一樹君と組んで、まずはテレビとか出る前に小さい劇場で修行しなさいと萩本欽一さんから言われました。    下北沢にスーパーマーケットと言うライブハウスがあって、そこでは夜の10時から12時までただでと言うことで、毎週金曜日にビットナイトコンサートをやってました。 まずはテレビであんまり出てない小堺から使おうと言うことになって「ちゃんのどこまでやるの」に出ました。 

ちゃんがアドリブ言った時に、上がってしまって小堺君が落ち込んでました。 その時に萩本さんが「俺はねー上がらないやつは信用しない。いいんだ。」と言いした。 でもまた上がったりしましたが「いつまで上がってるんだ。」って言うふうに言われました。 黒子の役があってそれが受けました。 僕は新わらべの時に入りました。 高校1年生の役、ラビット関根から関根勤に名前を変更して、小坂くんと黒子の役をやりました。 そこで以前はカマキリ男の役であまりイメージが良くありませんでしたが、ガラッと変わりました。 それで一般の方にも受け入れられるようになりました。

35歳の時に、カンコンキンシアター 、クレイジー・キャッツが好きでした。     シアターアップルでやっていましてシアターアップルが壊れるまでやっていました。 元気でずっとやってこられたのは好きだったからじゃないですかね。    ラジオも40年位やってます。 舞台もやってますけれど、舞台もやっぱり楽しいです。  健康法はゴルフは好きで毎週1回ぐらいやってます。タバコは吸いませんし、お酒は飲めません。体質です。 

62歳の時に小坂くんのレギュラーの番組があって、医療関係のことをやっている番組でした。 2人が心臓に特化した検査機関があって、心臓だけを検査する病院がありました。 そこにリポートできました。 検査結果は本番で発表することになりました。 翌日私はゴルフ行きました。 そうしたら再検査をお願いしますと言う電話がかかってきました。 造影剤を入れてより詳しく検査することになりました。  62歳の男性を無作為に100人選んだ中で、上から4番目に悪いですと言われました。冠状大動脈が細くなっていると言われました。精密検査で7割は詰まってると言われました。 

即手術をやることになりまして、ステントと言う金属の輪を入れることになりました。 1日入院で終了しました。 翌日はもう仕事をしてました。   そのまま手術もしないでいたら2年に以内に何かがありましたよと言われました。(最悪は死に至ると言う。) その後、食事などに気をつけるようになりました。 血糖値が高くて3ヶ月に病院に行くようにもなりました。カンコンキン37回目でとりあえず40まではやろうと思っています。 そこで元気だったらまた80までやろうかと思ってます。

2026年4月6日月曜日

対馬千賀子(料理家)            ・「師に学んだ日々の食事は、命の源」

対馬千賀子(料理家)         ・「師に学んだ日々の食事は、命の源」 

対馬さんは1972年生まれ北海道東北部の江差町出身。 高校卒業後料理家への道を進み、高い技術が求められるフレンチのシェフとして5年ほど修行の日々を送ります。 その後対馬さんは次に学びたいと選んだのは家庭料理でした。 手塩にかけた家庭料理の数々やスープの魅力を伝えていた、料理家の辰巳芳子さんとの出会いが大きな転機となったといいます。 対馬さんは30歳の時に辰巳さんの内弟子になり、17年間生活を共にしながら、日々の料理と向き合い続けました。 辰巳さんの思いを受け継ぎ、料理の真髄を伝え続ける対馬さんの人生を伺いました。

スープ教室に習いに来る方は、中高年の女性の方が多いです。少ないですが、若い男性の方も来ます。 辰巳さんのスープは、命のスープと呼ばれ、嚥下障害を持つ方や終末期の患者に食の喜びを伝えたいと言う思いで考案してます。 生きる力を引き出すとして各地の緩和ケア病棟でも採用されています。 辰巳先生の味は基本的に優しい味がします。 素材の味を生かしたスープなので、なるべく新鮮な良い状態のものを使って作ると言う事はまず第一です。

私の生まれは、北海道の江差町で牛の数の方が住んでいる人間よりもはるかに多いところです。  4人兄弟の末子です。  小学校の時に担任の先生が家に呼んでくれて1泊すると言うことがありました。  そこで米を研いだ記憶があって、それからです。  家に帰っても米を研ぐことをずっとしてました。 中学を高校の頃は、ケーキをよく作って親に食べさせたりしました。 

高校卒業後、料理の専門学校へ進みながら、ホテルの調理のアルバイトをしました。 高校卒業後、就職を希望したのが、札幌の有名なフレンチ店でした。    世界の料理コンクールで金賞受賞したカリスマシェフがいました。 そこを希望しましたが、ダメでした。 札幌のホテルに就職しました。 この一皿を1番良い状態でお客さんに出したいと言う事を考えて料理してるので、本当に気が抜けませんでした。  基本のことを何でもない日常のものが美味しく作れる人になりたいと言う希望だったんですが、仕事が忙しすぎて、そういったことができませんでした。5年で路線変更をしました。

辰巳先生との出会いはありましたが、その時先生は77歳でした。 辰巳先生の本にも衝撃を受けました。 基本がしっかりしているところだと思います。      先生の「白和え」は、白和えのもとを作って、馬毛のこしで2回こします。    最後は絹目のこしでこします。 出来上がりはクリームのようにとろとろです。 

先生の紹介で、最初の2年間は大分の旅館で勉強しました。 月に1回辰巳先生の鎌倉の教室があって、そこに大分から通いました。 辰巳先生が79歳私が30歳の頃に内弟子となりました。 内弟子としての日々について、2025年に「あるべきように辰巳芳子の長寿の食卓」と言う本を出版しました。 辰巳先生の食べた一年間の記録と季節ごとの旬の食財を使ったレシピ、自分の17年間学んだこと、心に残った言葉などが書かれています。 普段の辰巳先生とはこういう人ですという事を書いておきたいなと思って書いた、はじめての本です。  私から見た辰巳先生というのをこの本に書いておきたいなと思いました。 

先生は本当によく人のことを観察する人でした。 心理学を学んでいた時に観察、記録し、分析する。 人だけではなくて、食材にも向かいました。 向こうがおいしいよって言ってるのを目で見ると、それがわかると言っていました。 その人のために怒れると言うのは、逆に言うとすごいことだと私は思います。 先生は常々愛すると言う事は、その対象に対してより良くことを願うこと、と言うふうに話してます。 料理に言えば、食材についても同じことで、そのものはより良くなるように手をかけよ、と言うことと一緒だと思います。 

人の言葉や行動は、その人そのものをまとっている。  私も好きな言葉です。  気づきのある人になれると、生きていきやすい、人が生きる上でいろんなことがありますけれども、それを乗り越えるたびに気づきのある人と言う事は、常々先生が言われてる言葉です。 料理をしていると考える力が育つと思います。 色々段取りを考えないといけない。 違う事でも想像できる。 辰巳先生は、料理を通して皆さんに伝え続けていたんではないかと思います。 

特に出汁は先生は大切にしてました。 日本料理の中の基本中の基本だと思います。 手間ひまをかけると言うことを考えると大変になってしまいます。 手間ひまをかけると言うよりは、そうしなければいけない。 そうしたら美味しくできると言うふうに自分の考え方を変えた方がいいじゃないかと思います。  そうすると体に良いしおいしいものができます。 そう思ってやることが大切だと思います。   段取りを自分の中に作ってしまうと、実は出汁ってそんなに大変ではないです。 

辰巳先生の弟子なって25年になります。 自分自身を支えるのは食べることと言う意識が根底から変えられました。 今、教室をいろんなところで行っているので、先生のスープは病気の方から小さなお子さんまで飲むことができる貴重なスープなので、それを絶やすことなく、私が習ったままの形で皆さんに伝えていくと言うことを続けていきたいと思ってます。 辰巳先生は、私にとっては、偉大な尊敬する方で、今後も長く私たちを見守ってほしいと思っています