本間昭雄(社会福祉法人聖明福祉協会会長) ・「失明がくれた幸せ」
本間家は代々医師の家系で、先祖は水戸藩の藩医をしていました。 本間さんは医師を目指して学業に励んでいた二十歳の時に不慮の事故により失明しました。 将来への不安で自暴自棄になっていた本間さんを救ったのは、祖父の遺言書に残されていた本間さんへの言葉だと言います。 1955年、26歳で聖明福祉協会を設立して以来、日本初の軽費盲老人ホームの設立、日本初の盲大学生奨学金制度の創設等、視覚障害者の福祉活動の向上に力を尽くしました。 70年余りの社会福祉の道のりと今思うことなどを伺いました。
山を切り開いて施設を順番に建てました。 1つは盲老人ホーム、養護老人ホーム、自分の事は自分でできる人たちが利用される施設で定員100名、目が見えなくて寝たきり状態になった介護の必要な方の施設が100名、目は見えるけれども、色々と障害ある方たちが利用される施設が 96名、この3つの施設を経営しています。 70年間この道一筋に歩んでくることができて、こんな幸せな人生はない。 私は失明したからこそ、この事業があるわけで、私自身があるわけだとそう思って感謝しています。
昭和4年生まれ、年齢は97歳4ヶ月です。 スポーツの好きな活発な少年でした。 本間家は代々医者の家系で先祖は茨城県の水戸です。 徳川家の藩医をしていました。 400年ぐらい続いている医者の家系です。 医学部を受けて浪人中に風邪をひいて注射を右腕に打たれて、右腕橈骨神経麻痺を起こして、今でも右手は不自由です。 3ヶ月経っても動かないので、大きな整形外科で診てもらったら、すぐ手術をすると言うことになりました。 3回手術を行いました。 その結果両眼底に出血をして失明をすると言うことになりました。 20歳の春でどう生きたらいいか大変悩みました。心も沈んで、夢も希望も何も持てない自暴自棄になりました。
祖父が私が2歳の時に遺言書を残してました。 書き出だしに「汝を最も生愛す。」と書いてありました。 医者として市民のために尽くしたこと、徳川家の多くの人命救ったということで「救」という名前が送られたこと、「汝の成るを待つ」と書いてありました。 最後には「人の一生は不平不満を去り、忍の一字を守るべし、孝は国の大事となり。」と書いてありました。 同じ失明の先輩に導かれて教会へも参りました。 GHQから日本には社会事業家の専門家を要請する学校を創設するようにと言うことで、できたのが社会事業学校(今の日本社会事業大学)です。(清瀬にある。)
盲人として、初めて入学を認められました。 社会福祉の道に入っていきました。昭和30年に独立して在宅の資格障害者の家庭訪問とか、病院で失明を宣告された方々と一緒に点字を勉強したり、あんまマッサージなどを教える更生施設へ紹介したり、眼科検診を医師とともに回ったりしました。 福祉と言う言葉がなかった時代です。 聖明福祉協会と言う組織を作って、今日で言う在宅サービス、その先掛けを70年前に始めました。 良い家庭であるほど、座敷牢で外へ出したくない、そういった家族は私が行くことを最初を歓迎しなかった。 その後だんだんとわかってくれるようになりました。
特に盲女子の場合には悲惨でした。 社会復帰して成功した女性もいます。 今の聖明園の歌の作詞をした内藤ふきえ?さん、満州から子供2人を連れて帰国、住むところもなく、福祉事務所から私のところに連絡がありました人です。 弱視でした。 その人に点字を教えて、あんまマッサージの資格を取得してもらって、台東区の病院で乳房マッサージということで成功しました。 家も1軒建て、子供2人を立派に育てあげました。 祖父が国会議員と言う家の女性が家に閉じ込められていて、学校にも通っていませんでした。 盲学校に入学させて飛び級で中学を終えて、鍼灸あんまマッサージの資格をとって、社会復帰をして立派に自立した人もいました。(4年生へ二十歳の時に入学)
いろいろな福祉の活動を始めて、聖明福祉協会を立ち上げたのは昭和30年です。(26歳)10年間は国の補助金もなく、学校などに鉛筆を売ったりして資金集めをしました。 封かん紙を作って買ってもらったりしました。 いろいろな人々に支えられて資金を作ることができました。 物事に当たるときに、いつも誠実に誠意を持って努力をすれば、必ず道は開けると思って、誠実に人に訴え、話をし続けてきました。 輪がどんどん広がっていきました。 人が支えてくださったから、今日があるわけです。
青梅に土地を購入することになりましたが、道路を作るにあたって、地主の方が何人もいて説得することが大変でした。 ある大地主の方へ事情を説明したら寄付すると言っていただきました。 その方とはずっと今までものすごくご支援をいただくことになりました。 政界、財界でもすごい有力者だと言うことが後でわかりました。 誠実に誠意を持って努力すれば必ず道を開けると言う自信をこの時に持ちました。 社会事業家などと言うのは、物乞いと思われてたそんな時代でした。 それを切り開いて今日まで来ました。
17歳の時に親孝行できずに父親を亡くしてしまいました。 同じ老人ホームをやるのならば、自分と同じ失明の方々のために、父親に対する親不孝の穴埋めのためにもと思って、高齢者に対する施設を作ることを考えました。 お風呂に一緒に入って、その人たちの背中を流したりしていきました。 今ある施設は全室個室で、全室トイレ付き、全室に電話を入るようにしました。 自分が入りたいと思う施設でなければ、お客様にうちの施設へどうぞおはいり下さいと言う事は言える資格はないです。 昭和39年にできた我が国に最初に出来た施設です。
あっという間の70年間でした。 全部山だったのを1万坪をブルドーザーで整地して、3つの施設に300人のお年寄りが生活ができるような施設に成長して、よくこんな事業ができたなと思います 盲大学生のための奨学金制度は日本にありませんでしたが、盲大学生奨学金制度を創設して 200人以上の方がこの奨学金を活用して、大学教育を受けて、才能を持った方がたくさん排出されました。 「よくやりましたね」、と自分で自分に言い聞かせています。
IT機器の科学技術の進歩によって目の見えない人にどれほど恩恵を受けているかわかりません。 まだまだ社会では失明者に対するあるいは障害者に対する理解はまだまだ充分ではないんじゃないかと思います。 60年間書いてきた日記を整理して伝記を作って生涯を終えたいと思います。(娘が書いてくれる。) 自分のためのPRではなくて、福祉を社会に知って欲しい、そういう悲愴な叫びとして伝記を期待して書いてもらおうと思っています。 いくつになっても夢と希望は失いたくない。そして目標を持つと言う事は大変大事ではないかと思います。
「志立てて歩みし七十年支えてくれし人ぞ尊し」 本間昭雄