2026年2月28日土曜日

千田嘉博(城郭考古学者)          ・「『豊臣兄弟』ゆかりの清須の歴史と城郭研究の魅力」

千田嘉博(城郭考古学者) ・「『豊臣兄弟』ゆかりの清須の歴史と城郭研究の魅力」

 『豊臣兄弟』主人公の豊臣秀長と、秀吉は、今の愛知県名古屋市の出身です。  千田さんは、名古屋市見晴台考古学資料館の学芸員や国立歴史民俗博物館の助手などを経て、2005年からは奈良大学で教鞭を取り、2014年から16年には学長を務めました。  2016年にはNHK大河ドラマ「真田丸」の真田丸城郭考証を務めました。 そして、総合テレビ放送中の「歴史探偵」や名古屋放送局の夕方のニュース情報番組「まるっと!」では城博士千田嘉博の「面白いぜ城歩き」と言うコーナーに出演し、城郭の魅力を伝えています。  現在は名古屋市立大学高等教育院教授、奈良大学特別教授として研究を続けています。

ラジオ深夜便には15年前にレギュラー出演してました。 「大人の旅ガイド」ということで、日本各地のお城の魅力を伝えてました。 真田幸村が築いた真田丸と言う出城のセットをつくりましたが、その城郭考証をしました。

戦国までの清洲は、尾張一の大都市でした。 清洲城を豊臣秀次が城主となって、その城を中心に町全体が堀で防衛されてました。 その外側には、市場町があって店の件数は3700件あったそうです。  清洲には、五条川と言う川が流れていますが、それが伊勢湾につながっています。 川を通じて運搬されたものが売り買いできるわけです。  清洲城は五条川のそばに建てられました。  川が掘の役割もします。 

家康の時代になって、城を名古屋に移そうかどうか、家康も悩んだそうです。  家康は、駿府城に住んでいました。  家康が清洲城を点検にすると言うことで、天守閣の点検をしたところ、戸が開かない部屋があって、無理矢理開けたら、男が忍び込んで家康を暗殺しようとしていたようです。  家康は難を逃れることができました。信長の後、どうするかと言う清洲会議もここでありました。   その後、秀吉と家康が戦うことになる。  小牧長久手の戦いでも、清洲城は家康側の要の城になりました。 関ヶ原の戦いでも関ヶ原の戦いの前に、どちらが清洲城握るか重要なお城でした。当時は、山城が主体でした。 けれども清洲城は平地にある川に接した交通の良いところに大きな街とセットになって城下町の先進的なお城でした。

「豊臣兄弟」は、戦国時代のサクセスストーリーになってます。 主人公は秀長になっています。 戦国時代と言うのは、いろいろな国や社会の地域のルールがうまくいかなくて壊れていた時代で、それを改めてどういう風に立て直していくかと言う変革期であったので、天下人になれた時代でした。 この時代の状況と言うのは、今につながるところがあるでないかと思ってます。 昭和の高度成長時代ではうまくいかないと言うことになってくることが多いです。 新しい発想でこの時代をどう切り抜けていくか、地域と地域をどう盛り上げていくかと言うのは、秀吉、秀長時代の発想、努力が今につながるところがあると思います。

城郭に興味を持ったのは中学1年生の時でした。  友達と旅行に行った時に姫路城を見て感動しました。  城郭考古学者と言い始めたのは私が初めてです。    大学時代、当時の考古学は中世、戦国時代などは古文書など文字で調べる時代でした。  城跡を発掘したらいろんなことがわかるのにとお城の考古学をやってました。  いろんな資料を総合しないとお城のことはわからない。 お城を中心に、いろんな資料を統合して、当時の様子をわかるように研究しようと言うのが城郭考古学です。  最近はお城を復元したり、整備しようと言うときには、発掘調査を必ずするようになりましてよかったです。

お城については2000カ所ぐらい調べていると思います。  全国には3万カ所以上お城の跡があります。  愛知県だけで1000カ所を超えています。  海外のお城も研究するようになりました。  日本のお城と海外の城を比較研究することも面白いです。 ヨーロッパのお城と日本のお城では全然違うものと言うふうにイメージされてますが、実はお城の発達の方向性だったり、どういう守りの工夫をするかと言う事は非常に共通性が高いです。  お城は共通性のものはありながらも、実は1個1個は個性的です。 お城見学は、天守閣だけではなく、堀、石垣、櫓、門などもあります。  そういったところに注目していただけるとグッと楽しくなると思います。


2026年2月27日金曜日

瀧靖之(医師・脳科学者)          ・「脳医学者パパが語る“親子のコミュニケーションを育む”コツ」

 瀧靖之(医師・脳科学者) ・ことばの贈りもの「脳医学者パパが語る“親子のコミュニケーションを育む”コツ」

 さんは1970年北海道旭川市生まれ、高校卒業までは旭川で暮らします。    東北大学の医学部を卒業後は脳の研究の道へ進みました。 現在は脳の発達や加齢のメカニズムを明らかにするための研究などを行う、東北大学加齢医学研究所で教授を務め、臨床、教育に力を注ぎながら、脳の研究の第一線で活躍し続けています。  これまでに見てきた脳のMRI画像は16万枚を上回り、そこから導き出された脳の健康法や子供の脳の発育に関する数々の本を出版し、講演会などを通して多くの人に伝えています。  そんな さんの研究と人生をより豊かなものにしたのは長男の誕生を機に、子育てを経験したことだといいます。  一児の父として脳医学者として一筋縄ではいかない子育てを楽しむ さんにお話を伺いました。

私たちは、脳のMRIの画像を多くの方から集めて、画像だけではなく、生活習慣とか遺伝子とか記憶する認知機能など、いろんなものを集めてそれをデータベース化しています。  私たちの脳はどうやって発達していくのかどうやって加齢をしていくのか、何をすると将来認知リスクを下げるのか、天寿を全うするまで、脳を健康に保って、自分らしく賢く楽しく有意義に生活するかと言うことを研究テーマにしています。 脳を健康に保つためには大きく6つあります。 1つ目、できるだけ多くの品目をバランスよく食べる食事。  2つ目は、十分な睡眠を取る。  3つ目可能な限り運動を習慣化する。 4つ目、対面で会話をする。 5つ目、他にささやかながら日々楽しむ。主観的幸福感。 6つ目、知的好奇心を持っていろんな趣味とか活動する。

脳には可塑性があります。 歳をとっても何か楽しいと思うことを始めると、半年とか1年後には確実に伸びています。 気軽に何か始めると言う事は素晴らしいことです。 楽しいと言うことが大事です。  私は音楽が邦楽とか洋楽とかにかかわらずクラシックとか好きだし楽器を演奏する。  例えばピアノとドラムをやってます。本も好きです。 スポーツではスキーは物心ついた頃からやってます。 筋トレスケートなどもやってます。 生き物が好きで昆虫を見に行くとか、いろいろ好奇心を持ってやってます。 子供の頃は、釣りが好きで、スキーをしたり、図鑑を見たりして、または星が綺麗なので、望遠鏡で天体を見たりしてました。母は、絵画が好きで、一緒に連れて行ってもらったりしました。  色の配置の美しさにとかに興味を持ちました。  美しいと言うものに心を惹かれるようになりました。  

生物を学びたくて、東北大学の理学部に進学しました。 卒業後、再受験して医学部に入学しました。  祖母が認知症になり、なんでこういうことが起きるんだろう、どうやったらこの病気にならなくて済むのだろう、どうやったら治療できるんだろうと言うことに興味を持ちました。  他の病気についても興味を持ちました。 それで医学部で勉強したいと言う思いに至りました。  臨床も長くやりましたが、研究は、知的好奇心を満たして、それが何か世の中に役に立ちうるかなぁと言う思いがあって、研究のほうのにシフトをしていきました。  悩みますけど動きます。

2016年に出版した「16万人の脳画像を見てきた脳医学者が教える『賢い子』に育てる究極のコツ」が10万部を超えるベストセラーになりました。  脳の研究をしてきて、生活習慣が重要だなという事がありました。 ひょっとしたら、子供のうちに運動習慣を作ったり、会話の習慣をつけたり、いろんな趣味をやったら子供ってすごく幸せな人生を送れるないかと思って、子供たちの研究を始めました。

子供もしっかり寝ることで、脳の海馬と呼ばれる記憶を司る脳の発達がすごく良いと言うこともわかりました。  41歳の時に長男が誕生しました。  子供を常に見ながら問題意識を感じながらやれてすごく良かったです。 子供から学ぶことが非常に多いなと思いました。  2025年に「本当はすごい早生まれ」と言う早生まれの子供の脳に着目した本を出版しました。 息子が3月生まれなのでその影響もありました。 

早生まれの凄いところは大きく分けて2つあります。 1つ、私たちの脳には可塑性というものがあります。 何かを一生懸命やると脳も一緒に発達していく。    脳を早いうちから刺激していくと可塑性を高めやすい。 それによっていろんな能力を獲得するための土台をより早いうちから作ることができるんではないかと思いました。 2つ目、甘える力、早生まれだと体が小さいので可愛がられる、可愛がられると言う事はすごく大事なことです。  援助を求める力と言うのはすごく大事です。  早生まれだと言うことで自己肯定感を下げないようにしてやることが大事です。 いいことを褒めてあげる。 

子供にやりなさいではなくて、自分でやってその楽しさを見せてあげると言うことが大事です。  子供にピアノをさせたかったので、私がピアノを弾いてそれを見て子供を3歳からピアノをやるようになりました。  親が楽しめば子供も楽しむ。 理論と実践では違うので、色々と悩みますが、でも知識がちょっとではあると、そこで立ち止まれるわけです。 子育てをする上で大切にしている事は2つあります。1つ、とにかく愛情をかけてます。 あなたの素晴らしいところはここですと息子によく言います。  2つ目は、とにかく何でも一緒にやります。 そうすると怒るとはできなくなります。 一緒にやってると子供の凄さがわかります。 それがコミュニケーションツールにもなります。

私は両親からあるいは周りの人たちから愛情をかけられて、育ったと思います。 困難はあったかもしれませんが、思い出せないです。 常に前を向いていましたし、今もそうです。 人生を切り開くときにはいつも前向きです。 それは過去が幸せだったからです。 これからの人生の目標はひたすら美の追求です。      私たちが考えている以上に、脳は柔軟です。  自分ができないと思い込んだら壁を作って何もできないですが、ひょっとしたらできるんだと思うと案外できるものです。 楽しくやるのが一番です。





2026年2月26日木曜日

友永詔三(造形作家)            ・私のアート交遊録「人形と遊ぶ夢の世界」

友永詔三(造形作家)       ・私のアート交遊録「人形と遊ぶ夢の世界」 

友永詔三さん81歳、1944年高知県のお生まれです。四万十川の自然豊かな中で暮らし、父親の手作りの遊具作りを見たことで造形への興味が芽生えたといいます。 インテリアデザインを学んだ後、オーストラリアの民謡劇団で人形デザインや製作に専念、帰国後パフェットデザイナーとしてデビューします。 1979年から放送されたNHKの人形劇シリーズ「プリンプリン物語」では総計500台のパフェットを全て考案し制作しました。 友永さんが目指すのは、劣化したら自然界に戻る素材だけを使って作品を創造することです。 今年81歳の造形作家友永詔三さんに人形創作にかける思いを伺いました。

「プリンプリン物語」は、去年再放送されました。  44年以上前に作ったものです。  脚本は医者の先生ですが、ラーマーヤナと言うインドの物語が下地になっていると言うことです。  インドに1週間ぐらい行って、インドの踊りとか衣装とか生地などを仕入れてきました。 それを参考にしながら作りました。     当時、公害問題が流行ってる時期で、ある人物にはヘドロという名前をつけたりして、社会風刺的な問題も取り入れています。 戦争の問題とか原発の問題も入ってきました。 ミュージカル風の人形劇でした。

デザイン学校を卒業して、舞台装置をやりたくて、舞台装置を作る会社に就職しました。  オーストラリアの人形劇団のオーディションに受かったのがきっかけです。  1968年にオーストラリアに行って、イゴール・ヒチカ、のもとで人形を作り始めました。  1970年の大阪万博で、オーストラリアのコーナーで初めて人形をつくりました。(23歳)オーストラリアではピーター・スクリベン、イゴール・ヒチカに色々と教わりました。 ピーター・スクリベンからは「ものを作る人間は型にはまってはいけない。」と言われました。  

子供時代には、いろんな遊び道具を木や竹で作ってました。  オーストラリアから帰国後デザイナー学院の講師をやりながら、展覧会をする会場を紹介してもらって、やるようになったのがきっかけです。 それを見てNHKの人から「プリンプリン物語」の話が来ました。  最初のころの人形は、関節部に球体をいれた球体関節人形を作ってました。  それが革新的だったようです。  そのやり方を「プリンプリン物語」でも採用して人形を作りました。  その人形はいろんなポーズを作れるようになります。 操る演技の難度は、高いものの操作の重度が高くて、幅広い表現が可能になりました。  

すべてオリジナルで、台本が届いてから人形を作ると言うことをやってきました。 下から棒を使った操り人形は初めてでした。 マリオネットは上からなのでまったく逆でした。 目を動かすときに、頭が動かないようにどうやってするとか苦労はしました。 木肌を生かした人形を作ってみたいと思いました。 役柄によって材質を変えました。 年輪による面白さもあります。 土に帰る材料を使いたかった。(自然に帰る材料)  映らない見えないような部分まで気を遣って制作しました。

僕は子供はライバルだと思って作っていました。 子供って鋭いと思うんです。  40年ぶりに再放送を見ましたが、自分の思いは間違ってなかったと言う思いはあります。  木彫の最初の頃は、女性の体の形を借りて自分を表現していました。  少女の持っている曲線の美しさを、なるべく省略していった感じで1つの形を作ろうとしてやってました。  少女の像は今も作ってまして、何百体も今まで作ってると思います。 品のあるものに、と言う思いで作ってます。  作る時も自分で楽しみながら作っています。  人形だけでなく仏像とかほかのものでも、少し色っぽいものの方が美しいと思います。

現在はあきる野市にある深沢小さな美術館を経営しながら、非常勤講師を務めています。  チェーンソーを使ったりするので、音で迷惑がかからないように山のところで、かつ故郷の四万十川に似たようなところに移りました。  古民家を改造したかったので、廃墟を手に入れて自分で全部改造しています。  家を作ってるっていうのは自分で1番楽しいです。 ものを作ると言う事は遊んでるって言う事と同じ感覚でやってます。  

3月には2人展を東京の画廊でやらせていただきます。 来年は個展を7月にやらしてもらいます。  お勧めの1点としては、サルバドール・ダリの引き出しがついたビーナスと言う、自由な発想で作れると言う思いが、いまだに頭に浮かんできます。

自分1人ではできるものではないので、出会った周りの人に助けられて何とか続けられていることにありがたいと思ってます。


2026年2月25日水曜日

高野孝子(早稲田大学教授)         ・「大事なものは何か、考えてほしい」

高野孝子(野外・環境教育活動家 早稲田大学教授) ・心に花を咲かせて「大事なものは何か、考えてほしい」 

高野さんは、若い頃は冒険家として知られ、その後自然環境の中で学ぶ環境教育活動家として活動しています。  ケンブリッジ大学やエジンバラ大学で学位を取り、サスティナビリティや教育分野の博士でもあります。 その高野さんが30年以上にわたって実施しているのが、ミクロネシアの島に若い方を連れて行くヤップ島キャンプです。 引率のスタッフは指示をせず自分たちで考えさせるキャンプだそうです。  なぜそのようなキャンプを始めたのか、どんな狙いがあるのでしょうか高野さんにその思いをお聞きします。

高野さんは20代、30代の頃、アマゾンン川を1500キロカヌーで下ったり、北極点をパラシュートで降りたり、マダガスカル島での命がけのレースに参加したりだとか、冒険家のやることでしたね。

私にとっては、アマゾン川を下るるのも、北極点にパラシュートで降りたりするのも、北極海を犬ぞりで横断したのも冒険をしに行ったのではなくて、旅の延長だったです。  自然環境の中で生きてる人に会ってみたいと言うのと、山とか川とか自然の中で体を動かすことの気持ちさは好きです。  自分が面白いなと思ったこととか大事だなぁと思ったことがあると人に伝えたくなる性分なんです。    旅をしながら同時に一緒に人に伝えたいということで、教育に見えてしまいますが、大学院生の時に海外の街がないと言うようなところで、海外のいろんな人と一緒に調査が暮らすと言う3ヶ月がありました。 そこで初めて人がどうやって生きていけるのか、シェルターを作ろう、飲み水を探そう、トイレをどうしようと言うところから、暮らしを作り始めました。

持ち込んだ食料もなくなったりします。 自然が壊れてさえいなければ、人は生きていけるんだなぁと言うことをまず実感しました。  もっと大事なのは仲間だったんです。  必要なものを分担してできるし、生きる力みたいなものが湧いてきます。  自然に暮らしている人たちの所へ旅をするようになると、今度はそこに知恵とか技術と言うものの大切さが入ってくるです。  そうするともっと豊かな暮らしができると言うことが旅先で出会ってわかります。  特に若い人たちがそういうことを見つけて欲しいと思ってます。 インフラがなくても自分は生きていけると言う自信にもなります。 仲間の大切さ自然の大切さわかります。  豊かに生きてゆくためには知恵と技術が必要です。  

ミクロネシアのヤップ島のイフルクと言う島ですが、そこでは電気とかモーターとか、近代技術的なものが禁止されてます。  風を使ってカヌーを送る?、漁に行く、この暮らしが1番便利だといいます。 モーターを使うとガソリンが必要で買ってこなくてはいけないし、壊れてしまったら直し方はわからない、そういうことに依存した暮らしは大変不便である、と言いました。  現代社会の便利さは、大変さを取り除こうとしてるんだと思います。

ヤップ島に子供たちを連れて行って、食べ物調達から自分でやらせるキャンプをしています。  自然が健全であれば、人は生きていけると言うことをどうしたら他の人に経験してもらえるんだろうと思って、場所を探しヤップ島に至りました。  そこでは石のお金を使ってます。 石のお金は資産なんです。  1番大事な使われ方は、その人が徹底的に悪いことをしてしまったときに、大事な石のお金を渡すので、勘弁してくださいと言う時に使われるものです。 その石を取るためには、パラオまでカヌーで行って、大変な苦労をして持ち帰って、気の遠くなるような時間をかけて加工してものです。  

個人が持つものではなくて、大抵はコミュニティー全体のものになったり、チーフが管理するものです。  ヤップ島には現在7000人ぐらいが住んでいます。   3000年前から人が住んでると言われてます。 ヤップ島は色々な国から統治されてきた歴史があります。 日本からも統治されました。 今は独立しています。   最初に行った時は懐かしい感じがしました。 穏やかな空気が流れていて、伺った家の長老は日本語を話します。  

古い掟がきちんとあって、うるさくてはしてはいけないと言うのもあります。   リスペクトにまつわる掟がいろいろあります。  かつては部族同士の戦いがあったので、片手に何かを持っていると言う事は戦意がないと言うことを証明するんで、必ず何か片手に葉っぱでもバッグでもいいんですが、持っていくような掟があります。 木とか落ちている実でも所有者がいます。 一言言えば「どうぞ」と言うふうに言って言ってくれますが、勝手にとってはいけない。 海です漁をして良いかどうかの区画が決まっています。 

そこへ子供たちを連れて行くキャンプを30年以上やってます。 自然の中で暮らし秩序だって暮らしている彼らの知恵に触れることで、きっとそこから得られるものがあると思います。 大事な事の1つは、人はどうやって生きていくのかと言う事とお金があること=豊か、ではない。  お金では買えないものを見つけてくれるんではないかと思います。  最初は小学生、中学生、高校生が多かったんですが、今は大学生位が多いです。 問題意識と、自分を試してみたいと言う気持ちで来る人が多いです。 子供たちはMax 10人ぐらいです。 日々を暮らすという事は大事な時間です。 

ヤップ島は目的別に家を作るんです。 食べる家、寝る家、憩う家、少年たちの家 、別に母屋があって子供が小さい頃はそこで暮らします。 子供の頃から家の建て方は大人と一緒に作って学びます。 トイレは以前は海で処理していましたが(魚が食べちゃう)、最近は変わってきて穴を掘ったりと言うような方法をやったりしてます。  材料を取ってきて作るところから発想を変えていきます。    トイレを作ったり、台所を作ったりします。  島の人たちからいろいろ教えてもらいながら、初日は暮らしの準備をします。

ヤシの葉っぱでマットも編みます。 その上でその日から寝ます。 マット編みは難しいので、最終的には島の人たちに手伝ってもらってやってもらえます。  食べ物はこちらの趣旨を説明して分けてもらうようにしてます。主食はタロ芋です。果物がたくさんあります。魚は取るのが難しいので、差し入れがあります。ココナッツの実を裂くのにも、村の人ですと30秒ででできるのが、私たちがやると15分ぐらいかかります。根気強く教えてくれます。

地元の人たちから生きるスキルを学ぶキャンプです。  11日から12日のキャンプです。  最初の三日間は慣れる期間、次の三日間ぐらいはホームステイーに行きます。 そこでいろんなことを吸収します。 最後に活動する期間があって、教えてもらったり、覚えたことをを生かして、何かお世話になった地域のためにできることを自分たちで考えてやる時期です。 

最近は外からいろんなものが入ってくるので、環境汚染が1番の懸念点です。   ゴミの処理は課題です。 キャンプをしたことによって価値観の変化はあるんだと思います。 お金ではない物差しがあるんだなと言うことに気づくと思います。  自然の力で生かされてるって言うことを実感すると思います。 スタッフは一切指示はないです。 不安定な時代を迎えていますから、自分で考えて自分で道を作っていくつもりでないと、誰かのせいにして生きちゃうんじゃないかと思います。 堂々と自分で責任とって自分で決めるほうがいいかなと思います。


2026年2月24日火曜日

筧利夫(俳優)               ・「俳優という仕事をふり返る」

筧利夫(俳優)               ・「俳優という仕事をふり返る」 

筧さんは1962年静岡県生まれ、大阪芸術大学芸術学部舞台芸術学科卒業、大学時代は当時学生劇団だった「劇団新幹線」に所属し、卒業後鴻上尚史さんが主宰る「劇団第三舞台」に参加。 2011年の同劇団の解散までのほとんどの作品に出演します。1997年民放の刑事ドラマに出演して、クールな演技が話題となり、一方では、熱血感の青年を演じるなど、変幻自在の演技が人気となります。舞台では、井上秀典さん、つかこうへいさんなどの作品を始め、「ミスサイゴン」などのミュージカルにも出演しています。

NHKでは、ラジオドラマ青春アドベンチャー『 羽州ぼろ鳶組』の主人公の松永源吾役で6年ぐらいやりました。  熱海に住むようになって4年になります。    海までは歩いて10分位のところです。(山の中腹)

高校までは浜松にいました。 商業高校でバスケットボールに入ってました。   バスケットボールばっかりやっていて、進級できるような成績ではなかったですね。  役者になりたくて第一希望は日大芸術学部でしたが、こちらは国語と英語の試験があり、二次試験が実技の試験でした。  大阪芸術大学は実技と面接と小論文だけでした。  

「広島に原爆を落とす日」と言うつかこうへいさんの作品に出ました。  「新幹線」ではつかこうへいさんの芝居を中心にやっていまいた。   大学4年の時に、「さらばミスターつかこうへい」と言う3本立をやり爆発しました。 劇団を解体するという話がありました。 東京で「劇団第三舞台」と言う鴻上尚史さん主催の劇団があって、そこのオーディションをやると言うことでオーディションを受けて来いと言われて行きました。 2000人の応募者がいました。3人二次試験に行って、最終的に僕が受かりました。

井上秀典さんから振り付け等の指導を受けました。振り付けは、井上さんからのストックだと言うことに気が付きました。  新幹線時代の振り付けをやると全部ダメだと言われてしまいました。  「劇団第三舞台」へはエースピッチャーのつもりで入りましたが、裏方になってしまいました。  ダンスを習いに行って、その動きを振り付けに当て込んでいきました。 鴻上さんのセリフは、「劇団第三舞台」の人でさんざんしごかれた人でないとできない。  そこで何年かやったので、僕はそこでセリフの覚え方を完成しちゃいました。  芝居ってラジオドラマと同じなんですよ。想像するのはやっぱり音なんです。  1990年「飛龍伝」に出演、違和感がなかったのは、「新幹線」に出ていたからかと思います。

つかこうへいさんの芝居は、セリフは基本長いです。 セリフを足していって一向に減らないんです。(台本がない。)

ミュージカルの「ミスサイゴン」ではオーディションを受けませんかと言う話が来ました。  ミュージカルは全く初めてです。  一生懸命やったつもりでいましたが、半音符が上がっていました。  周りの顔は曇ってました。  以後1時間自分の曲をピアノでさらって、チェックしてやるようになりました。  苦労しました。

来月3月から始まるのが、井上ひさしさんの出演初作品になる、1982年初演で小沢昭一さんの「シャボン玉座」と言う小沢昭一さんの劇団のために書かれた作品です。 「国語事件殺人辞典」という40年以上前にあった作品を改めて上演します。 その主演をやることになりました。(日本語学者の役)台本は読みやすかったです。

「国語事件殺人辞典」の日本語学者の花見万太郎と言う人は、正しい日本語を自分たちの都合で勝手に変えていってはいけないと言うことを人々に伝えるために旅をする人なんです。   日本語が時代と共に変わっていくところがあって、先生の方が教えられてしまいます。  だんだん自信がなくなってきます。  最後の最後には、新しい時代の人に撲殺されるようなイメージになってます。  井上ひさしさんは台本をたくさん書いていますので、言葉に対してはかなり厳しい方だったと思います。 花見万太郎さんと言う存在は自分自身の象徴みたいな立場も入っているんじゃないかと思います。    

今年64歳になります。 仮面ライダーに変身するのをやりたいと思います。(変身もの)    体は絞っておきたいので、炭水化物はできるだけ食べないようにしています。 昔はジムに週3回ぐらい行ってましたが、今は軽い運動を毎日やってます。




2026年2月22日日曜日

花山周子(歌人)・柳田邦男       ・「寄り添う心を介護短歌に託して~2025」

花山周子(歌人)・柳田邦男   ・「寄り添う心を介護短歌に託して~2025」

介護にまつわる体験や思いを詠んだ短歌を広く募集するNHK財団などが主催する新介護百人一首、今年も12,000通を超える作品が寄せられました。  9歳から103歳までの幅広い応募があって、先ごろ入選作品100首が選ばれました。 この時間は航空機事故や震災、原発事故等命をテーマにした調査報道や執筆活動を続けてこられたノンフィクション作家の柳田邦夫さんと選者を務められた歌人の花山周子さんのお二人に、作品に込められた思いや背景などを語り合っていただきました

柳田 父と兄(19歳)が結核で在宅療養していて、病人が家に寝ているのは日常当たり前でした。  私が朝6時に出て農家に行って牛乳をもらってきて、父や兄に与えて学校に行くと言う少年時代でした。 80年代90年代癌の闘病記がたくさん描かれるようになった頃、数百冊読みました。短歌の場合には命の泉というか、命が湧き出る泉のところから何かが湧き出てくるような、そういう響きが短歌で詠む闘病記の特質だと思ってます。

花山 毎年、幅広い世代の方から多くの歌をいただいています。それを読むことが私にとっても大切な体験になってると言うことを感じています。 介護100人首と言うのは短歌と言う形で作品化することで、孤独、苦悩を打ち明け合い、共有できるような場所になっているのではないかと思います。 介護の現場の問題と言うのはそのまま人間社会の問題であるんだと言うことを痛感しています。  人と人とのつながり、人と人との思い、そういったものが透けて伝わってきます。

「皿を洗う水音に紛れ深呼吸心を整えまた寄り添わん」

本人解説 介護の合間にふっと訪れる小さな疲れ、水音に身をゆだね、深呼吸することで自分を立て直し、再び優しさをもって向き合う姿を描きました。 東京都青山将司さん42歳

柳田 介護する側、ケアをする側は絶えず葛藤の中にあると思うんです。    愛する人が命の危機にさらされたり、あるいはその人の人生が挫折したり、仕事もできなくなったりとか、そういう中で介護する側もすごい挫折感があるだろうと思うんですね。  挫折感が水音に紛れて深呼吸をすると言う。  この表現で深いところの心理状態がよく表現されてるなと言うことを思います。  複雑な葛藤をこの短い文言の中で表現してるなと感動を受けます。

花山 作者はまだ42歳で仕事をされてる年齢だと思います。 もしかしたら仕事を辞めて介護されているかもしれません。  介護は時間の切れ目のない仕事というかやらなければいけないことで、1日中ずっとやっていることだと思います。   その中で1人の時間を確保すると言うのはとても難しくて、お皿を洗っている時間だけがおそらく1人になれる時間じゃないかなぁと思います。  また寄り添わんとそこで意志がもう一度立ち上がってくると言うのは良い作品だなと思いました。

「面会でタブレット越し耳寄せて何度も聞き返し過ぎ行く時間」

本人解説 おばあちゃんの入居する施設の面会はタブレットを使用するのですが、回線不良で声が途切れたり、耳が悪いおばあちゃんには声が届かず、時間ばかりが過ぎていた場面です。 長崎県磯田夏帆さん18歳

柳田 18歳の女の子らしく、情景を非常に情感深く捉えて感じてるなぁと感じてます。

花山 こういう場面を体験されてる方はすごく多いと思います。 限られた時間内で聞き取りにくいもどかしさや焦りと言うのは非常に臨場感を持って歌われていてとても良い作品だなと思いました

「火葬場で曽祖父の骨見てみると手術とリハビリ頑張ったあかし」

本人解説 曾祖父の火葬が終わり骨を見てみると、大腿骨に大きなボルトが入っていて、リハビリを頑張って歩いてたんだなと少し悲しかったことを表しました  長崎県島川颯輝さん17歳

柳田 骨、これは強烈な情景描写のモチーフになると思いますけど、骨を通じて曾祖父の人生を感じ取っている。 鋭く読み取っていると感じました。

花山 生きていた頃には見えなかったボルトが、お骨になったときに初めて姿を表して、その時に生前の曾祖父の大変さを時間差で判る感じるというのが、とても切なくて良いところを見て作ってらっしゃると思いました。

柳田 つれ合い親子兄弟でも元気なときには、相手に対する思いやりとか、推測とか、相手の心を察するとか、割と薄くなってるんですね。 骨になって初めていろんな人生が振り返って見えてきたりする。 それあたりの人間心理の微妙なところがよく詠まれているなと感じました。

「老々の介護疲れで隣り合う声にてウグイスが鳴く」

本人解説 義父(軽度認知症)の面倒を見ている義母が、義父の対応に日々イライラして毎日怒鳴り合って喧嘩しています。 そのような喧騒の中、庭から場違いのウグイスの鳴き声が聞こえました。 なんとも不思議な感覚を表現しました。 神奈川県進藤友海さん54歳

柳田 歌を読んだ人の感性が開かれて、鋭敏になっているという感じがします。

花山 大変な中ウグイスの鳴き声によって、緊張が解けたような感じがします。  ちょっとユーモラスなところもあります。

「施設行く朝父が言う微笑んでお前の介護嫌じゃなかった」

本人解説 介護疲れから喧嘩が絶えず、ついに父親の入所施設に踏み切りました。入所日の朝になり、父が穏やかな笑顔で私に言った言葉でした。 いやだと言ってくれないと行かせられないじゃない、泣く泣く別れました。 大阪府高橋直子さん61歳

柳田 男と言うものは、妻にしろ娘にしろわがままだと思います。  介護を受けている立場であっても、どっちかと言うと文句の方が多くなる。 でも、心のどこかではありがたい、家族っていいもんだと思っているわけなんですね。 微妙な男の心理状態、それを嫌じゃなかったと言う平凡な表現だけれども、それが表しているなと思いました。

花山 私はこの歌を娘の側から読んでいて、昨年父が亡くなって、生前大喧嘩をしていたと娘だったので、この感じはとてもわかるなぁと思います。 お父さんが言った「嫌じゃなかった」と言う言葉は、喧嘩しながらも愛情が伝わっていた。 その救われる感じというのを同時にあって、その「嫌じゃなかった」と言う言葉が娘さんの心に残るんじゃないかと思います。

「幸せになろうと語る夫(つま)の文字妻を忘れたあなたの手紙」

本人解説 部屋の片付けをしていた時に、結婚前に夫からもらった手紙が出てきました。手紙には夫の綺麗な文字で夫らしい文章が書かれていました。今はもう自分の名前さえ書くのが難しい夫。  そういえばこんなに綺麗な文字を書く人だったといろいろな思いが溢れてきました。大阪府ペンネーム上さん62歳

柳田 人生を共有した密接な家族関係の間でも、感情的にはいろんなものがごちゃごちゃとあるわけで、何かがあるとふっと気づかされる。そういう不思議な人間の記憶のよみがえりというのが、この歌の中でにじみ出てるなぁと、感慨深く受け止めました。

花山 夫婦の歴史というものがあって、幸せになろうと、という事は、夫婦の歴史の1番最初に奥さんかおくられた言葉だと思うんですね。 今は奥さんのことも忘れて、手紙を書いたことも忘れていると思います。 けれども、奥様の心の中には残っている。  片側だけに残ってしまっている、まだ生きてらっしゃるけれども、その切なさというのがとても感じられました。

「口癖のできるできるができなくてできないことの言い訳を聞く」

本人解説 母自身も認知症とわかっていても、自分の事は自分でやると言い張った。 もの忘れも多く得意だった料理も危険になり、何度も鍋を焦がした。    母は怒られると思ったのか、あれこれと言い訳を並べた。  私(娘)はただただその言い訳を聞くばかりだった。千葉県大野康子さん65歳

花山 出来ていたことができなくなると言うのは、すごく不安ですし、心細い気持ちになると思います。 口癖のできるできると言う言い張ってしまう。 でもできなくて、できないことの言い訳を娘さんに言っていくわけですけれども、リフレインがすごく切ないですし、人間の葛藤みたいなものが出ていていい歌だなと思います。

「頬打たれこんなに力あったのか呆けし妻との別れを決めた日」

本人解説 夫に対してかわいそうと言う思いがあり、いろんな方に忠告されていましたが、決めかねていた夫の入院を決めました。 すごく大きな手で打たれた強さで、逃げた日でした。神奈川県県宮川美代子さん88歳

花山 認知症の方は力の制御ができなくなってしまうので、本当に強い力でぶたれたりとかされたんだと思います。  無理だと思った瞬間のその記憶が歌われていて、言葉書きで逃げた日と書かれているんです。  ここにすごく後悔とかもきっとあったと思うんです。 その悲しさと言うものがすごく伝わってきます。

柳田 終生連れそう覚悟があっただろうと思いますが、でもやっぱり暴力と言う場合に、このままでは本当に破綻が来るかしれない。  そういう土壇場の心境がよく表現されているなと感じます。

花山 デーサービスの事業所で2年間アルバイトをしたことがあります。 人って不安の中にあるときは、他人に対して攻撃的になったり、閉じこもってしまったりするかなぁと言うことをすごく思いました。 不安を少しでも和らげるためには、相手に対する尊敬であったり、親しみの気持ちというのを、まず最初に感じていただくことがとても大切なんだなぁと学ばせていただきました。

「どこまでを手伝えばいいかわからなくてその人のできること奪ってしまう」

本人解説 介護実習で、どこまでを手伝えばいいのかわからず、利用者のできる言までやってしまうことがありました。岐阜県小寺さくらさん18歳

柳田 介護に携わる看護師が患者さんの気持ちを汲み取って先に言ってしまう。 それを患者さんの気持ちを汲み取るんだと勝手に思ってしまうところが違うんです。 出しゃばり過ぎだと思うんです。

「もう充分長く生きたと言う人と次の季節の約束する日」

本人解説 80歳、90歳を越えて、もう十分生きたから、ころっと早くいきたいと言う利用者に、7月になったらスイカ割りはしましょう、秋には紅葉狩り行きましょうと言うのは残酷なことだろうかと考えて、その心情を読みました。愛知県安井そまかさん25歳

柳田 思いやりのつもりで良いことをしてあげていることが、果たして患者さんなり、ケアを受ける人にとって良いのかどうかと言うのは、本当に難しい問題なんですね

花山 今の高齢化社会の中で長生きすることもなかなか大変もあると思うんです。ころっと死にたいと言うのはよく聞きますけれども、そこら辺の複雑さと言うものがとても出ているなと思ってます

「七年の介護終えれば我は古稀ケアセンターの手続きをする」

本人解説 3年前母が亡くなり、私の介護は終わりましたが、介護中に脳梗塞になってしまい、私は要支援1の認定を受けました。 今度は子供と妻から私が介護を受けることだろう。 その日を1日でも遅らせるためケアセンターでリハビリをする決意をしました。山形県柏屋敏秋さん75歳

柳田 自分の行き先をどうするかという事をちゃんとケアする身内のもの立場から考えるなんて言うのは、配慮の深い方だなと思います。

花山 高齢化、社会の中でご自身も歳を取りながら母の面倒を見てられたんだと思います。その辺の苦しさもすごく出ていて、現実的なところも出ていてとても良い歌だと思います。

「年金の手取りで決まる入居先やっぱり最後も格差の社会」

本人解説 入居先選びも本人の年金+家族の負担が必要。人生の最後も格差社会を感じる。千葉県高澤真さん63歳

柳田 格差社会は、老後の大問題でもあります。切実だなと言う印象を受けました。

花山 今の時代は、最後まで格差社会の世界から出られない、非常に厳しいことを物語っています。 身につまされる歌になりました

「妻の手を取りて夜中にトイレへとこんな抱き合い思いもよらず」

本人解説 夜中にトイレ行くときに付き添って行く時には、しっかり夫の体を抱いて支えていきました。岐阜県志津宏子さん91歳

柳田 明日は我が身となるのかなあ。 このリアルな印象圧倒されました。

花山 老いているとは言え、男性の体を支える事はとても大変なことだと思います。 必死に連れてってあげるいると言う時間の中で、こんな抱き思いもよらずと言う言い方が大変さだけじゃなくて、何かユーモラスでもあるし、愛情も感じさせる言葉で、力強い歌になってるなと思います。


 

2026年2月21日土曜日

菅田利佳(ピアニスト)           ・夢に向かって一歩ずつ

菅田利佳(ピアニスト)           ・夢に向かって一歩ずつ 

菅田利佳さん25歳です。菅田さんは幼い頃に難病で両眼の視力を失いましたが、大好きなピアノの練習を続けて、現在は関東を中心に演奏活動をしています。    若い世代にも向けた公演にも取り組む菅田さん、来月にはそのリサイタルも控えています。  まずは昨年末和歌山市で出演した室内楽の演奏会の模様を聞いてただきましょう。  ピアノ菅田里香さんバイオリン澤亜樹さんビオラ澤和樹さんチェロ鳥羽咲音(さくら)さん フォーレ作曲、ピアノ四重奏曲第1番ハ短調4楽章より。 故郷でのはじめての公演だったので、皆さんに暖かく迎えられて幸せな舞台でした。

ピアノと出会ったのは5歳の時です。 視覚障害がわかったのも同じ頃でした。     当時楽譜を見ることができませんでした。  先生が録音したものを頼りに勉強してました。  小学校1年生から中学校までは盲学校に通ってました。 そんな中でもっと上手になりたいと思うようになっていきました。 ピアノは私にとって親友のようなものであります。 いろんな人たちと心を通わせる1つのツールとして私を支えてくれてきました。 その後点字楽譜に出会いました。  ベートーベンの「悲愴」の楽譜を持ってますが、オリジナルの方は厚さは5ミリ程度、点字楽譜は2センチ位あります。 右手部分と左手部分を4小節とか切って頭の中で合体させて1曲完成するようなやり方です。  

作曲したタイトルは「一歩ずつ」  小学校5年生の頃、音楽教室で作詞、作曲をしてみようと言う課題があって作った曲です。   2012年ピアノの弾き語りで臨んだ第37回わたぼうし音楽祭で大賞したときの演奏「一歩ずつ」でした。  高校は県立星林高校国際交流科です。 英語や国際交流に関心を持ちました。   盲学校は小学校中学校1人でしたが、集団のクラスになることになりました。   挑戦することに対してやりたいことを何度も挑戦してみなさいと背中を押していただいたことが今につながっていると感じています。 大学は東京大学に進みました。 在学中は、ピアノ以外にも国際交流の代表として参加しました。 大学卒業時には総長大賞、全盲の学生としてはじめての受賞でした。  自分の節目となるようなタイミングできっかけとなったり、背中を押してくれる人と出会ってきたことが私にとって特別なことかなと思います。       

現在は外資系の金融機関に勤めながら音楽活動をしています。  自分の音楽を通して、今度は自分が誰かの光になれたりとか、そういったことができたらいいなぁと思うようになりました。 10代の人たちへ自分の経験を伝えていくことで、これから大きな世界に踏み出していく高校生、大学生、若い皆さんのきっかけになればと言う思いがあります。  私はもっと成長しなければと言うフレッシュな気持ちを抱かせていただいたりもしています。 視覚障害を別にそんなに不便なこととして感じなくてもいいように育ててもらってきたと言うところがあって、今考えてみますと、それ以上にいろんな人たちに支えてもらって、今自分がやりたいことを一生懸命やりながら、笑顔で生きていられると言うこと、人との関わりというのを、私は大切にして伝えていきたいなぁと言う思いがあります。   

私の好きな言葉は「夢思うは招く」と言う言葉です。   この言葉は北海道で宇宙開発している植松努さんと言う方の言葉です。 周りからは無理と言われるような夢も屈するのではなくて、どうしたらできるかと言うことを考えて、一歩一歩進んでいったら夢を叶えることができる、と言うメッセージが込められた話でした。(星林高校時代に出会った言葉)   来月にはソロリサイタルが控えてます。主催は母校東大の近くの商店街です。八百屋さんのご夫妻とすごく仲良くなりました。  それがご縁で地域のイベントの1つとしてコンサートホールでリサイタルを行うことになりました