2026年4月19日日曜日

常盤貴子(俳優)              ・「ひとりの笑顔のために」 

常盤貴子(俳優)              ・「ひとりの笑顔のために」  

常盤さんは神奈川県出身で1993年に俳優デビュー、以後数々のドラマで主演を務めています。  NHKでは石川県の能登半島を舞台にした、2015年の連続テレビ小説、「まれ」で主人公の母親役を演じました。 これをきっかけに10年以上にわたって能登の人たちとの交流を続けています。 2024年の能登半島地震以降、被災地に繰り返し足を運び、能登の皆さんの心に寄り添う活動を続けています。 

常盤さんは現在NHK総合で放送中の夜ドラ「ラジオスター」に出演しています。 大阪からボランティアで能登にやってきた主人公が、経験もなければ、予算もない中で、地震と豪雨で傷ついた街を明るくしたいと言う気持ちのみで、ラジオ局を開局し、放送に奮闘すると言うストーリーです。 常盤さんは能登のおしゃべりお姉さんと言うキャッチフレーズで、ラジオパーソナリティーに挑戦する、地元の主婦の小野桜?役を演じています。 このインタビューでは、常盤さんの能登への思い、そして1人の人間としての生き方を見つけた現在について、朝ドラマの「まれ」のロケ地でもあり、常盤さんが能登を訪れるたびに、必ず立ち寄るとと言う能登半島の最先端石川県珠洲市でお話を聞きました。

20代前半の頃、いろんなことを吸収する時期で、現場で出会う人、出会う人が楽しかったです。 お芝居することも楽しかったです。 いいことばっかりだったとは言え、すり減って言ってしまうこともあって、24歳の頃、自分の中が空っぽになってしまったなと言う感じました。 楽しいと思ってやり始めたことが、その楽しむ先がなくなってしまった。  テレビドラマではお客さんと接する事は全くありません。 大林宣彦監督の映画で舞台挨拶が終わって、大林監督は映画を見てくださった方の人たちと握手すると言うことを伺いました。 私も行ってみて監督が嬉しそうに迎えてくださいました。 

皆さんと挨拶をしたときに直接私にご言葉をかけてくださったことにすごく感動しました。こういう世界があったんだと言うことに気づき涙が出てしまいました。 人対人になれた瞬間だと思いました。 「まれ」の撮影が始まった頃は、まだ自分の中にお客さんとの線があったような気がします。「まれ」の撮影ではお母さんの役でした。 合間に能登をに回って、自分で出会っていった人たちに対する思いが、どんどん募っていきました。 自分の中で線が消えていったという感じです。   人として大事なものを失うたくないと言うのは凄いと思っていると思います。 

2024年の元日に地震が起きて、110日には新聞に文章を載せました。     「・・・私の大切な場所が大変なことになっている。私の大好きな人たちが心を痛めている。 誰も誰のせいにもできないなんて言う事はわかっている。 それでも言ってしまいたくなる、もうやめてと。  私の大好きな人たちが住んでいる私の大好きな大切な場所,私は諦めません。 これから訪れるべき場所、これから出会うべき人たちだってまだまだいるんだもの。 私は北陸を石川を能登を輪島を珠洲を〇浜?を絶対にあきらめない。 私の好きな人たちの笑顔が戻るその日まで。」

自分でもこのタイミングでなければ出なかった一言だなと思います。 これを書いたことによって、自分の中心にそれがあるんです。 避難したまま寂しい思いをされている方がいらっしゃる。そういう現実を知れば知るほど自分の中で移すとしてしまうものがありますが、そういう人たちもいつか能登で笑顔で会えることを信じて、私はその日まで諦めずに進みます。 自分自身に対して覚悟が決まりました。

3月に入って炊き出しのボランティアをしました。 人と人が会える事は当たり前なことのように思っていましたが、会えると言うのは奇跡かもしれないと思って、人と会えることの喜びをすごく感じました。  「誰も来てくれない場所によく来てくれたね。」と言われました。 災害にあっても来てくれる場所と来てもらえない場所があるんだと言うことに気づき、そういう場所に行こうと言うふうに決めました。

人間常盤貴子は何を求めるかと言うふうに考えたときに、たった1人の人の笑顔でも取り返すことができたら、と思うようになりました。  能登の人たちとの出会いによって、自分で何かを考えて行動する勇気を持たせてくれた。 私がやっていることが望まれていることではないかもしれないけれど、私がやりたい、これはきっといいんじゃないかなぁ、皆さん喜んでくるんじゃないか、と思うことの提案をする勇気を持てました。 今まででは絶対できなかったことです。 大谷中学校の避難所に行かせていただいたことで、その道を自分の中で見つけることができたと言うことがあります

「ラジオスター」と言うドラマを放送しています。 石川県の能登に誕生した災害FMが舞台です。 このドラマで被災した人を演じています。  私たちの仕事は疑似体験するみたいなところもあって、かなり深いところまで体験をした人の思いには入り込まないといけない部分もあって、そこでのセリフになってくるので、深くシンクロすることができて、その体験と言うのは被災した人の思いに少しは近づく事が出来たのかなあと言う思いはあります。 

お正月を迎えた時に、「あけましておめでとうございます」って言う挨拶がまだしにくいとか、震災の後に能登の人間にとって、これから元日はおめでたい日ばかりではなくなりました、と言う言葉を言われたときに、私自身も言いづらくなってしまいました。 それが言えるようになればいいなぁと思っていますが、言えない思いも共有できたらいいなとは思ってます。  せっかくの人生なので、いろんな人の影響を受けたいです。 常盤貴子と言う1人の人間として、すべての人とお付き合いしていくことができたら、より楽しくなるだろうなと思います

能登は透明になれる場所、自分を自問自答する場所でもあるのかなって言う気がします。 能登の方々は非常に優しい人たちだから、そのエネルギーをいただくことで、自分の中にもその優しさがしっかり根付いて人を大事にしよう、私は人が大好きなんだと言うところに落ち着けるというか、そういう場所かもしれないです。





2026年4月17日金曜日

2026年4月16日木曜日

勝木俊雄(森林総合研究所 勝木俊雄)    ・「朗読で味わう桜の春」後編

 勝木俊雄(森林総合研究所 勝木俊雄)    ・「朗読で味わう桜の春」後編

 勝木さんは、桜の分類が専門で日本の野生種として100年ぶりと言われる熊野桜の発見者としても知られています。

坂口安吾の「桜の森の満開の下」

山賊が桜の森でさらってきた女に惹かれて一緒に暮らし始めます。 女の希望で都で暮らし始めますが、この女が恐ろしい、いろいろな趣味を持っていて、首を集めるようになります。 最後男は山に帰っていくわけですが、とにかくこの男は、桜の森を異様に恐れていると言うことです。

「目の前に昔の山々の姿が現れました。 呼べば答えるようでした。・・・ その道を行くと、桜の森の下を通る女がいました。 「背負っておくれ、こんな道のない山坂は、私は歩くことができないよ。」・・・男は軽がると女を背負いました。・・・ 「初めてお前に会った日もおんぶしてもらえたわね。」と女も思い出して言いました。・・・ 見えるだろう。あれがみんな俺の山だ。 山はいいなぁ。・・・都ではそんなこともなかったからな。・・・桜の森が彼の眼前に現れてきました。・・・まさしく一面の満開でした。 風に吹かれた花びらがパラパラ落ちています。 

男は満開の花の下を歩きました。 あたりはひっそりとだんだん冷たくなるようでした。彼はふと女の手が冷たくなってるのに気がつきました。 とっさに、彼がわかりました。女が鬼であることを。 ・・・男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。 その口は耳まで裂け、ちぢくれた髪の毛が緑でした。・・・ 鬼の手に力がこもり、彼の喉に食い込みました。 彼の目が見えなくなろうとしました。・・・その手から首を抜くとどさりと鬼は落ちました。・・・ 彼は鬼の首を絞めました。 彼がふと気づいたとき、女は既に息絶えていました。・・・

彼が締め殺したのは、さっきと変わらず、やはり女で同じ女の死体がそこにあるばかりでした。・・・ 女の死体の上に既にいくつかの桜の花びらが落ちてきました。・・・彼はワッと泣きしました。 彼が自然に我に返った時、彼の背には白い花びらが積もっていました。・・・ ただひっそりと、そしてひそひそと花びらが散り続けているばかりでした。彼は初めて桜の森の満開の下に座っていました。いつまでもそこに座っていることができます。 ・・・桜の満開の花の下の秘密は、誰にも今もわかりません。あるいは孤独といったものであるかもしれません。・・・彼は、女の顔のうえの花びらを取ってやろうとしました。彼の手が女の顔に届こうとしたときに、何か変わったことが起こったように思われました。すると彼の手の下には降り積もった花びらばかりで、女の姿はかき消えて、ただいつかの花びらになっていました。 そしてその花びらをかき分けようとした彼の手も、彼の体も伸ばしたときには、もはや消えていました。 後に花びらと冷たい虚空が張り詰めているばかりでした。」

 美しいものは単純ではなくて、ちょっとその裏側の部分とセットと言うのか、日本人の美意識かなぁと思います。 二面性があることで多分皆さん桜の花の美しさに奥行きと言うものを感じているんだなぁと思います。 ソメイヨシノは命が短いと言うことが言われることがありますが、全くの嘘です。 福島県の郡山に開成山公園ありますが、そこのソメイヨシノは植えて150年近く経ってます。 東京だとソメイヨシノにとってははちょっと暑すぎます。 1番気候が良いのは北関東から南東北あたりです。

 

宇野千代さんの「淡墨の桜」

「去年の春、私は思い立って岐阜の本巣市の淡墨の桜を見に行った。・・・ 話によると、この桜は樹齢1200年、今では日本で1番古い桜で往年枯死寸前と言われた時、岐阜市在住のある医師の手によって、桜の若木を根継ぎして死期回生、再びの萬朶(ばんだ)の花を咲かせることができたということである。・・・ この山の深く樹齢1200年と言う桜の花が咲いていても、運転手が知らないと言うのは、いかにもありそうなことに思われるのである。・・・

小雨が降り出したが、今日のうちにちょっと桜を見たいと思った。・・・宿から小半町のところを左へ行く根尾川にかかる。朽ちかかった危なっかしい橋を渡って、村道を登っていくと、・・・確かに白壁の家のそばにぼーっと白い桜の花が見えたが、あれが私がはるばる訪ねてきた薄墨の桜なのか。・・・私が勝手の違うものを見て幾分がっかりした。・・・下駄では無理だろうと言うことで宿へ引き返した。桜を見に来る客は滅多にないと言う。・・・

翌日も雨は止まない。・・・ やがて、村外れを左に折れて田畑の間の草深い道を登る。3、4本の桜のひょろひょろしたいとけない木が花をつけてるほか、何の風情もない道である。・・・何を祭ったのかわからない小さな神社の、今にも崩れそうな石垣の下にその桜の木があった。・・・幹周り38尺、約2反部に広がると言う巨木が、老残の形を支えている姿が、無惨と思われたからである。 大きな枝はただ残骸だけになり、その腐った先から新しい枝が出て、か細い花が咲いている。 その枝の別れ目の大きく裂けた間に、柘植の木が群生しているのがいっそう痛ましく、老残の木の枯死する寸前と言う感じを受ける。・・・一体に蕾も小さくもう散り際なのか、その名の通りほのかに薄墨色に見える。

これでは人がわざわざ見に来ないのも道理である。・・・もう枯れますよと言うことを露出している。・・・この桜は、この山奥に隠棲中の継体天皇が都からの迎えの人に連れられて村を去るときにここにお手植えされたものである。その時の御製と言う歌の中にわずかの間ここに住んでいたという意味であろう、薄住と言う言葉があり、それがこの桜の名の元になったという。・・・私は一種の感動に心を奪われながら、もう一度この桜に萬朶(ばんだ)の花を咲かせることができないものかと言うことを考えた。

 淡墨桜も江戸彼岸になります

 ラフカディオハーン「日本の第一日目」

「私の車屋は、自分のことをチャッと名乗っている。・・・どちらの方角にチャッが走っているのか、私には皆目わからない。・・・そうこうしているうちに、再び別の丘の麓に車が止まった。・・・何かの象徴でもあるらしきものが建っている。・・・しかし、不思議な荘厳さがある、得体の知れない美しさがある。それは鳥居だった。・・・寺ではなく、この国の古代信仰の神を祀った社、つまりお宮である。 私は神道の象徴である鳥居の前に立っている。・・・鳥居の持つ全ての線に生き生きとした表意文字の品格がある。・・・鳥居を組ウリ100段余りの石段を登る。・・・私の目の前にあるものに、私の心から釘付けとなった。それは言葉を失うほどに、美しいものに覆われた桜の木立であった。すべての枝と言う枝に、夏の積乱雲のように、純白の花が咲き乱れ、目もくらむむほどに霞んでいる。その下の地面も、私の眼前の小路も柔らかく、厚く、芳香を漂わせて散った花びらの雪で、一面真っ白だった。どうして日本の樹木はこんなに美しいのか。・・・葉1枚も見えない。そこには、大きな1枚の薄模様を見るような花びらの霞があるだけだ。」

 

想像すると大島桜かなと思います。大島桜は花がほぼ純白で個体によっては葉が出ないようなものもあります。この当時であれば横浜あたりはソメイヨシノも植えられていたと思いますので、その可能性もあると思いまが、純白であるとか、花に香りがあると言う記述があるので、ソメイヨシノではないかと思います。大島桜は香りがあります。


2026年4月15日水曜日

田中ひかる(作家・歴史社会学者)      ・「女性たちが切り開いた歴史に光を当てる」

田中ひかる(作家・歴史社会学者) ・「女性たちが切り開いた歴史に光を当てる」 

田中さんは、歴史や社会学の専門家としてその研究を物語として届けてきました。明治時代に初めて医師になった女性たちや、生理用品を開発した女性など、近代の女性活躍の礎を築いた人物を取り上げてきました。  その中で2023年の著書、「明治のナイチンゲール大関和物語」はナースの先駆けである2人の女性、大関和鈴木雅の姿を描いています。 看護が職業として確立していなかった当時、2人はきちんと訓練を受けたトレンドナースとして地位向上に尽力しました。 今年、今放送中のNHK連続テレビ小説風「風、薫る」はその田中さんの著書が原案となって、2人の主人公がナースとして成長する物語です。 インタビューでは看護の歴史をひもときながら、女性の働き方や生き方について田中さんの思いを伺いました。

モチーフとなる人物とイメージ通りです。毎回楽しみながら見ています。     大関和は離婚して東京に来て、その後のことが比較的わかっているんですけれども、それまでの事はわからないことが多くて、地元の方もあまりご存じなかったようです。 地元の方にも大関和のことを知っていただきたいと思います。

大関和について書いていましたが、鈴木雅の存在も知って、2人の物語にしたら面白いと思いました。  同じ看護学校で2年間学んで、同じ病院に就職して外科と内科の看護師長になって数年で2人とも辞めてしまいます。 その後離れ離れになりますが、また東京で働くようになります。  2人が関わったのは約10年位です。  しかし、日本の看護の歴史を築く上で濃密な10年間だと思いました。  2人の物語として書きました。 トレンドナースとして正規に訓練された看護婦として、登場する前は、看業婦とか看護人と呼ばれていて、卑しい職業としてみなされていました。 

当時、明治の時代は内戦とか日清、日露戦争とかあって、怪我をした兵隊を看病すると言う仕事がどうしても必要となってきました。 国としても看護婦と言うものを養成していかなければいけないと言う考え方もありました。 徐々に卑しい職業から憧れの職業にイメージが変わってきました。 和たちが看護学校に入った当時は、ナイチンゲールはまだ現役で70代で活躍していました。 牧師から看護は素晴らしい尊い仕事だと言うことをに説得してしました。 桜井女学校附属看護養成所ところにと雅は入ります。

看護を学ぶ上で英語は必須でした。 明治時代はコレラ、赤痢、腸チフス、天然痘とかいろんな感想が流行っているのは、当たり前のようでした。 は、集団感染の現場に行って衛生環境を整えると言うことを徹底的に行った結果、死者数が激減しました。 当時4人に1人は亡くなっていたと言われる時期に、100人中死者を5人に抑えたとかと言うことが記録されています。 和は自分の後輩も養成していきます。 うがい、手洗い、顔洗い、部屋をきれいに保つ、換気と言うことを唱えてます。 

鈴木雅の功績としては、派出看護婦会を立ち上げたのがすごいなと思ってます。 その成果を見て広がっていきました。  雅は看護婦養成所を作って3年間かけて看護婦を養成しました。(資格、制度のない時代) 派出看護婦会が一気に増えて、日本の国の8割は派出看護婦と言う時代があるそうです。  性格の違う2人だからこそ、うまく支え合うことができたんだと思います。  大関は人のために献身、犠牲、奉仕と言う働き方とする人でした。 しかし看護と言うのは仕事ですし、それに見合った待遇ではないんではないかと言うことを思っていて、あまり奉仕とか犠牲が素晴らしいと言う書き方は良くないとは思いました。(雅の役で対応。)

桜井女学校附属養成所のメンバーが6人で、あと先生の7人の集合写真があって、後でドラマがあると感じました。 一人ひとりにすごいドラマがありました。    明治時代は経済的なことで離婚がしづらい状況にありましたが、桜井女学校附属看護婦養成所の校長の矢嶋楫子と言う人は、DVの夫から逃げ出して、離婚をして教員になることで、40歳で経済的な自立を果たしています。 看護婦と言う仕事が、経済的自立の手段として発明されたようなものなんですね。 和と雅は、2人の子供を持つ母親ですが、仕事を持ちながら子供を育てると言う大変なことをしていきました。 しかし子供は亡くなってしまって、働く女性のジレンマと言うのは昔も今もあると思います。

日本で最初に生理用ナプキンを開発した女性のことを本に書きました。その後2020年に書きました。 「明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語」を書きました。    生理に関しては、20年前はまだタブーと言うような時代でしたけれども、だいぶ情報が得られるようになって、だいぶ生きやすくなったんじゃないかと思います。 ナプキンが登場してるのは1961年です。 女性の社会進出が一気に増えていった時代でもあります。 女性の働く便利さが格段に変わったと思います。 保身に走るのではなく、自分がやりたい道を進むと言うのが、結局自分にとって1番良いところにたどり着くのかな、と言うことを過去の人が教えてくれるような気がします。






2026年4月14日火曜日

山本三千子(室礼教室主宰)        ・「花や盛り物で表す室礼に魅せられて半世紀」

山本三千子(室礼教室主宰)   ・「花や盛り物で表す室礼に魅せられて半世紀」 

四季折々の行事で、花やものを語る日本に古くなる文化や習慣ですが、それを室礼といいます。 七夕には笹、お月見にはススキと団子、ひな祭りには桃の花や雛あられなど当たり前のようにしてきたことですが、そうした飾り室礼には深い意味があると言うことです。  山本三千子さんにお話を伺いました。

心をもので表すのが室礼です。 具体的にはお花の飾り方、野菜を飾ったり、果物を飾ったりです。 お月見にお団子を飾りますが、お団子とは何だろうと改めて考えると、お米が取れてありがたいということで感謝をしてますということで、日本人はお団子作って飾るようになりました。  季節を盛る、言葉を盛る、心を盛ると言うことを本に書いてあります。 季節を盛ると言うのは春夏秋冬の恵みの中で植物と同様に人間も季節の中で生かされてます。  言葉を盛るというのは、芽が出た野菜を眺めていると、昔ここから「あけましておめでとうございます」芽が出る、言葉も植物と深い関わり合いがあります。 柿ですが、ですけれども、「か」がかしょう?」のか 喜び来る。それで「喜来」。

最高の秋の行事、七五三の頃に柿を盛りますが、子供がこんなに大きくなりました。喜び来るの喜来」です。 ごろ合わせしながら自分の気持ちを託していくわけです。 室礼についてのきっかけは飛行機事故で主人をなくしてからです。御巣鷹山で飛行機が墜落しました。 夫もその飛行機に乗っていました。(48歳)

1周忌が過ぎ、ある方から呼ばれて伺いました。 そこでお花のご宗家がお花を生けけたり、盛物をしていたりして、そういった室礼を拝見しまして、これはもう命だと思いま咲いた。 自分の中でこの世界を知りたいと思いました。 そこは全く空間の違う空気がサロンのなかにありました。 その空間を作っていくのを一般的に室礼といいます まな板の上に野菜が盛られてあった。 その上に最後に宗家が赤いベビートマトを1つだけ盛られました。 それがわかりませんが、命だと思いました。  

野菜を盛るとその野菜が全て命なんですね。 お花を生けると言うのも、花の命とどう向き合うか、それが室礼の本当の言葉なんだと、だから日本人は神様のところにお供えをするとか、手を合わせるとか、総合的な日本の文化と言うものを、それが日本人の暮らしですね。  私の中に何かがかけてるなって言うのを1番思ったのが、赤いトマトだと思いました。 自分が自分で行く生きていく道を探さないといけない一人息子さんが気の毒だから、息子のためにちゃんとしている何かをやってる姿を見せないと言うことだと思いました。 

開催していただいたサロンの所の弟子になることを決めました。 おもてなしと言うのはその時刻に花はどういう顔をしているか判っているのか。 花も夜は眠ります。 ゆっくりとお花も眠らせてあげないといけない。 終わったら普通のバケツに移して入れてあげます。 電気も消してあげます。 ただ、きれいに活けるだけではないんです。 室礼を作ると言う事は、その人、その人の人格が表されるということです。 「紫と白」、茄子と白ウリ、それぞれがそれぞれの美しさをたたえています。 色だけではなくて、中を切ってみたときに、中が真っ白であると言うことです。  精神が清廉潔白であると言う白いと言う色で、野菜の身も人間の身体の身も清廉潔白でないとダメだと言うことです。  白ウリは蔓もので、蔓は万代に続くということがあります。 代々繋がっていきますようにという事です。

ありがたくいただく前に、お供えして手を合わせる。 織物も必ず一反作り上げて、出来上がったら、必ずふさをつけておくさと言うのは、代々の命のつながりの言うことをふさといいます。 お天道様に手を合わせるとか、生け方の礼そのものが室礼なんではないかと思います。 夫は日本の祈りの文化の中で育って、生きてきた人でした。 室礼を知ったことで、ある程度夫に近づけたような気がします。  

いちいち盛る事はなかなか難しいと思うので、マーケットで買い物をした袋を台所に置いたら、そこで一回手を合わせると言うことをすればいいじゃないかと言うことです。 気持ちの問題です。 室礼とは、思いを心を形にしていくことですね。  年中行事は少なくとも、事を行うと書いてあります。 それに従えば行いがあってしかるべきだと思います。  自分たちの現在の感性の中で、古典のものをどう引っ張るかですね。  室礼をすると自分が自然に近づけます。 命に近づくことにもなります。 人間は自然界の一員だと言うことです。





2026年4月13日月曜日

桃月庵白酒(落語家)            ・師匠を語る「五街道雲助を語る」

桃月庵白酒(落語家)            ・師匠を語る「五街道雲助を語る」 

江戸前落語の基礎から叩き込まれた正統派の評判の桃月庵白酒さんの師匠は、落語会では4人目となる人間国宝の五街道雲助さんです。 人間国宝の五街道雲助さんと弟子の桃月庵白酒さん、どんな師弟関係で、どんなドラマがあったのでしょうか、お話を伺いました。

桃月庵白酒さんは鹿児島出身(57歳) 早稲田大学落語研究会出身。

五街道雲助さんは、本名は若林恒夫さん、1948年昭和23年東京墨田区本所で生まれます。 演芸好きの母の影響で幼い頃から寄席に通い、明治大学に入学後は落語研究会に所属していましたが、2年で大学を中退、1968年昭和4320歳で10代目 金原亭 馬生に入門し、金原亭駒七と言う前座名を貰います。 弟子入りして最初に稽古をつけてもらったのは、馬生師匠の父である古今亭志ん生、実在の武将、太田道灌の逸話を元にした「道灌」と言う話でした。 

2つ目に昇進し、6代目五街道雲助と改名したのは入門の4年後、昭和47年でした。浅草の酒場で作家の野坂昭如さん、田中 小実昌さん、俳優の殿山 泰司 さんと知り合いかぎ?を伸ばしてアングラ劇の芝居に出演する一方、この頃から初代三遊亭圓朝が創作した怪談話や人情話にも取り組みます。 国立演芸場の資料室などに通って古い速記本を掘り起こす作業を地道に続け、およそ40席の古典作品を復活させました。 

1981年(昭和56年)真打昇進、2009年度文化庁芸術祭優秀賞、2013年度芸術選奨文部科学大臣賞大衆芸能部門受賞、2016紫綬褒章受賞。 2023年には、三遊亭圓朝の大作を復活させるなど、独自の芸を作り上げ、東京の落語界を牽引する本格派の演者と評価を受け、5代目柳家小さんさん、上方落語の3代目桂米朝さん、10代目柳家小三治さんに続いて、落語家では4人目となる重要模型文化財保持者(人間国宝)に認定されました。

白酒さんは1992年(平成4年)に五街道雲助師匠に入門します。 先輩に誘われて、五街道雲助の独演会に行ったのが最初でした。 まず声が良いなぁと思ってそこからです。 ネタの作り方とか、くすぐり方などわかりにくい、くすぐりなども入れて、わかる人だけついてこいみたいな高座が私の好みにぴたっと合いました。  でも当時は就職しか考えていませんでした。 落研の同期が落語家になろうかなぁと言い出して、そういう選択肢があるのかと思ってそこからです。 

雲助の弟子になろうと思いましたが、ダメだったら噺家は諦めようと思ってました。  上野の鈴本演芸場に行って、お願いしました。 11年間弟子を取らなかったのを弟子入りを許してもらえました。 私には現在4人の弟子がいます。     うちの師匠は、馬生師匠から「家族に余計なことを言うな。」と言われて、うちの師匠からも同じように言われました。 掃除をやるだけで、それ以外は速記本などの本を読んでるだけでした。 最初の稽古のときには、こういう姿勢で入りなさいとか、視線をどうするかとか、昔の芸人だったら正面を切らなけれダメだとか、丁寧にいろいろ教えてくれました。

話の内容についても細かく説明がありました。2回目以降はほとんどありませんでした。 「いちいち俺の真似をするような事はしなくていい。」と言うふうに言われました。 「人気の師匠だったり、見たこともないような師匠もいるかもしれないけれども、分け隔てなく接しなさい。」と言われました。 「寄席はチームプレイだから。」と言われました。 師匠から褒められた事はないですね。 真打に決まった時は「良かったな。」と言われた位です。 怒られた印象もあまりないです。     一度師匠の着物を持ってくのを忘れてしまいましたが、その時は首だろうと思って、自分で頭を丸めましたけれども、その時はあまり怒ってはもらえませんでした。 むしろ怒ってくれた方がだいぶ楽でした。

今私には4人の弟子がいます。 弟子にはあまり細かく言わないようにはしています。 自分でもそうだったもので 教えないと考えるもので、これはいいことなぁと思うようになりました。 二つ目に上がったのが、入門3年目の1995年で、「五街道はたご」から「五街道喜助」と名前が変わりました。 2005年に真打に昇進し、「桃月庵白酒」と言う名前になりました。 「桃月庵」と言うのは、師匠から提示があったいくつかの1つでこれに決めました。 

2023年五街道さんは、落語家では4人目となる重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。 私はうれしいと言うよりは、信じられないって言う気がしました。  師匠も驚いたようでした。  結局、お祝い事のイベント等はやりませんでした。  弟子だけで贈り物はしました。  高座で使う茶碗をプレゼントしました。  落語フアンとして言わせてもらうと、人情話、滑稽話、怪談話も幅広く出来てしまって、私も目が見る目があるなぁと思いました。 師匠からは「とにかくお客さんに喜んでもらうように。」と言う事は言われています。 師匠からはいろんなものをもらったりしていましたが、芸名がついたときに、一筆箋に「五街道はたご」と書かれたものを渡されましたが、それが1番大事なものです。       あと師匠の所へ向かう時に買った切符は大事に持ってます。

師匠への手紙

「師匠、弟子入りを受け入れてくださり本当にありがとうございます。 自分の弟子を取って改めて師匠のありがたさを感じました。自分のペースを乱されることを何より嫌がっていた師匠ですから、弟子は邪魔以外の何者でもなかったと思います。不器用でことさらできの悪い弟子で、イライラされたことと思いますが、ご迷惑をおかけしました。国宝に認定され、さらにマイペースとはかもしれませんが、面倒なところは弟子や孫出しをうまく活用してできれば幸いです。  これからもよろしくお願いいたします。」