村上佳菜子(プロフィギュアスケーター) ・師匠「山田満知子を語る」
グランプリファイナルや四大陸選手権、オリンピックでの華麗な演技で多くのファンを魅了した村上さんは数多くの名選手を育てた山田満知子コーチの教え子です。 どんな師弟関係だったんでしょうか。
2017年4月に引退。
山田満知子さんは1943年名古屋市生まれ。 父の勧めでスケートを始めたのは小学1年生(7歳)の時、めきめきと頭角を表し、全日本女子ジュニア、インタハイで優勝を重ねます。 地元の金城学院大学家政学部進学後、現役を退きますが愛知県スケート連盟の要請で、コーチとしてリンクに復活、子供たちを指導しました。 世界ではじめてトリプルアクセルに成功した伊藤みどりさんと出会ったのは1974年、当時まだ5歳だった伊藤みどりさんの才能を見抜いた山田コーチは、伊藤みどりさんを自宅に引き取り、二人三脚で練習を重ねた結果、1992年のアルベールビルオリンピックで伊藤選手は銀メダルを獲得、名コーチの山田満知子さんの名前も世界で知られるようになりました。 その後も中野友加里さん、浅田真央さん、宇野昌磨さん、村上佳菜子さんと名だたるスケーターを世に送り出した山田コーチ、およそ65年に及ぶ指導歴で教え子が数百人にのぼります。
私は3歳からスケートを習い始めて、山田コーチから教わったのは自分でも記憶がないです。山田門下生は母親と一緒に育てて行ったと言って過言ではないと思います。 山田コーチはその人を見極めて指導の仕方がそれぞれ違っていました。 リンク以外でも、人としてどうあるべきかと言ったことを教えてもらいました。 先生の家に行くという事はかなり頻繁にありました。 旅行にも一緒にいくこともありました。 ジュニア時代は先生の家から練習に行くことも多かったです。
小学校6年生の頃には3回転アクセルを習得、13歳で競技に本格参戦、2009年15歳の時にジュニアグランプリファイナルで優勝、シニアに転向した2010年から2011年でグランプリシリーズのアメリカ杯で優勝し、グランプリファイナルでは銅メダルを獲得しました。 試合直前に自信が無くて不安だったんですが、「なんで不安なの。 私は自信があるよ。」と言ってくれたんです。 先生が自信があるなら大丈夫だと思って、緊張と不安が飛んでいき、凄くいい演技が出来ました。
2013年全日本選手権で2位、2014年の年四大陸選手権では金メダル、ソチでオリンピック初出場、12位だった。 オリンピックでは1日30分程度の練習時間しかなくて、1日6時間練習するタイプだったので、身体がうまく作っていけなかった。 でもいい経験でした。 もうそろそろ引退したほうがいいかもしれないと言われましたが、まだやれそうな気がしたので先生に頭を下げて続けることにしました。
シニアでは音楽の選び方は、アメリカにも行っていたので、アメリカの先生が何曲か出してくれたなかから、満知子先生と一緒に選びました。 ソチオリンピックの時には、曲選びは悩みました。 1年間選んだ曲で練習するので大事な事です。 ソチオリンピックの前の全日本選手権で2週間前にショートプログラムの曲を合わなくて変え、振り付けも変えて、2週間で3か月分練習するぐらい練習して、オリンピック参加を勝ち取ることが出来ました。
2018年のピョンチャン(平昌)オリンピックへ出場するモチベ―ションはなかったです。2017年4月に引退発表しました。 第85回全日本フィギュアスケート選手権において8位となって、「スケート人生の全てを出せました」として引退を示唆。 引退の時には先生は「よく頑張った。」と言ってくれました。
今迄生演奏を聞いててこなかったので、なんで聞いてこなかったんだろうと思うぐらい、後悔しました。 音楽会が始まってスケートのファンの方も来てくれます。 相乗効果でクラシック界とフィギュアスケート界が盛り上がって行ってくれればいいと思います。 先生からは「愛されるスケーターになりなさい。」と言われたことが今も心にしまっています。
山田満知子先生への手紙
「・・・本当にたっぷり愛を与えてくれてありがとうございます。 ・・・先生の愛を当たり前のようにとらえていたのかもしれません。・・・少しづつ大人になって時の経過によって、心も体も変化して行く中でどの瞬間を切り取って思い返しても、私のすべてに先生がいてくれています。 ・・・一緒にいてくれたから沢山のことを乗り越えられたと思います。 そんな先生がいてくれたから今の私があると思います。・・・本当に感謝しています、先生。・・・」