2026年5月3日日曜日

松本泰生(階段研究家)           ・「上って下って32年、我が“階段人生”」        

松本泰生(階段研究家)        ・「上って下って32年、我が“階段人生”」

早稲田大学オープンカレッジ講師の松本泰生さん(59歳)は東京に来て、初めて坂が多く、地形や山並みが複雑に変わる街に興味を覚え、屋外の路地などにあり人々が通り抜けに利用している東京中の階段を巡って、斜面地の研究で工学博士号を取得しました。 形状や段差数、そして傾斜、ステップの幅あるいは段差を計測して、歴史的背景なども調べて写真に収めた階段は、山手線の中だけでも650カ所近くにのぼります。 階段研究家を名乗るほど松本さんを夢中にさせた階段の魅力とは何なのか、30年余りにわたってひたすら登って下った、階段人生を聞きました。

もともと私は静岡県静岡市の出身で街が平らなんです。 大学入学して東京に来ましたが、こちらは割と坂が多くて、街中には階段が多くて、階段を上った先にも街がずっと広がっている。 新鮮に感じました。 私は都市計画を学んでいましたが、フィールドワークがしばしばあって、神社にも階段があるし、そうでないところも階段がたくさんあります。 それから階段を調べ始めました。

最初は山手線の内側の都心部を調べて行ったら、650カ所ぐらいありました。   本を出したらそれに反響がありました。  階段歩き講座をやるようにしました。23区に広げていきました。  3500箇所ぐらいあるようですが、リストアップしたのが2500位です。  住宅地図に階段が載っています。  記録に残したいので写真は撮ります。 段数はできるだけ数えるようにしています。 幅1段の奥行き、高さ1つとして同じようなものがないです。 坂道は車とか自転車で通り抜けられますが、階段は通り抜けられません。 歩行者だけのもの結果的には面白い空間ができています。(穏やかな空間)

港区に愛宕山と言う小さな丘があります。 愛宕神社があって、そこに登る男坂というのがあります。 3代将軍家光がその階段を見て、上のほうに梅の花が咲いてるのを見て、馬に乗ってその梅の取ってこられるものはおるかと聞いたところ、曲垣平九郎と言う武将が馬に乗ったまま取ってきて、馬術の名手ということでしたと言う話があり、今は「出世の石段」と呼ばれています。 急な階段で86段あります。

変わった階段で、文京区のほうに庚申坂と言う階段があります。 地下鉄の丸ノ内線から一瞬階段が見えます。  板橋区の成増のほうに昔は地層が見えていた崖があり、そこの階段が上の方からの景色がすごくいいんです。 武蔵野大地の北の端に当たっていて、埼玉県の方まで景色が見えるところです。  高輪の階段では、品川駅周辺の高層ビル群が見えます。(東京ならではの景色)  赤坂見附の近くの日枝神社では、お稲荷さんが祀られています。 そこの稲荷参道は赤い鳥居がずらっと並んでいて、そこ抜けながら登っていくところでは百基位の鳥居があります。

本郷に樋口一葉が昔住んでいた路地裏がありますが、そこの奥に階段があります。昔ながらの風景があります。 神楽坂に熱海湯と言う銭湯がありますが、その脇をを緩やかに登っていく階段があります。 熱海湯階段と通称を呼ばれています。  両側には料理屋さんが出店していて、雰囲気がいいです。 北の丸公園に清水門と言う門があって、そこの中にある階段は昔のままの姿をとどやています。    緩やかなんだけれども、11段の石が大きくて登るのが大変です。 

港区の麻布台に雁木坂と言う階段がありまして、そこは両側に桜の木があります。絵になる階段です。 王子のほうにある王子神社の近くを流れている音無親水公園に向かって降りてくと、階段の脇に樹齢が600年を超える大きな銀杏の木があります。 秋には黄色い葉っぱが階段を埋め尽くします。

階段に関するガイドをしています。 赤坂とか本郷とかエリアを決めて、そこにある階段を次々に巡っていきます。(2、3時間) 神社やお寺のコース、近代建築コース、昔の大名屋敷の後の坂、階段コース等。 新宿区の四谷、荒木町界隈、ここは大名屋敷、松平摂津守の屋敷、街自体がすり鉢状の窪地になっている。 階段でしかいけないような路地空間が作られている。  四谷に須賀神社があって、アニメの映画などで取り上げられた著名な階段があります。 映画ファンからは聖地のようになっていて、外国からもたくさん来ます。 本郷一帯も坂があり戦災にも会っていないので古い建物もあり魅力的です。

大森駅の西側に山王と言う地区があります。さらに行くと馬込と言う場所がありますが、かなり地形が複雑なところです。 階段が非常にたくさんあります。    多くの作家さんが住んでいた場所です。 赤羽にはもともと軍用地が結構ある場所です。その後が団地になってたり、公園になってたりしてます。 ここも歩いてみないとわからない面白さがあります

東京では高台と下町のところをつないでいるのが確かですが、一方で2つのエリアを切り離している。 階段から上は高台の街、階段から下は下町と階段が目印になってる面があります。  お寺とか神社は階段を上った先に、社お寺があることが多い。 日常生活の俗世間と、神社、お寺の聖域を階段がつないでいるが、一方では俗世間と聖域を切り離ししている。 俗世間から階段を上ることによって、聖域にアプローチする準備ができる空間かなと思います。  江戸時代は高台は武家屋敷が多くて、低い側は町民地になっていた。 明治以降は高台は住宅地、低いところは商業地と言うような区分けになっています。 とりあえず階段から見て、建築だったり、街であったり都市であったり、そこに興味を広げていただければいいなと思います。  ちょっと運動にもなると思います。 

 

2026年5月2日土曜日

海原はるか・海原かなた(漫才師)      ・目指せ!しゃべくり漫才で生涯現役

 海原はるか・海原かなた(漫才師)    ・目指せ!しゃべくり漫才で生涯現役

はるか、かなたさんといえば、はるかさんの髪の毛をかなたさんが吹き飛ばすギャグでお馴染みです。 愚直に磨き続けたしゃべくり漫才で、文化振興などに貢献した人に送られる大阪市市民表彰を受けるなど、名実ともに関西の笑いを牽引してきたベテランのコンビです。  大阪を中心に舞台に立ち続けて、去年55年目を迎えたお二人に、漫才人生につきましてお話を伺えました。

コンビ結成55年、はるかさんは熊本市出身で76歳。かなたさんは奈良県天理市出身の77歳。 2人でやってると楽しいから辞めたいとは思わないです。  熊本弁を大阪弁に直すのに苦労しました。 今やめたら今までやって来た積み重ねであろうが何であろうが、全部無駄になるという気持ちの方が強かったです。 (はるかさんの髪の毛を、かなたさんが吹き飛ばす)このギャグはある時、3組が楽屋にいるときに、順番に楽屋話をしてたんですが、我々は苦手なので、それまで隠してた髪の毛をオールバックにしたんです。 戦国時代の落ち武者みたいな感じです。  楽屋で盛り上がって2回目の舞台に上がったときに、夫婦喧嘩のネタをやってるんですが、私がはるかくんの髪の毛をアドリブでふっと吹いたんです。 そうしたら経験したことのないような大爆笑でした。  やったときには「これや」と思いました。 これは我々の商品だと思いました。 40代の肺活量はは平均が3700位です。 けれども、私はその時まだ4900ありました。 だからあのギャグができたんだなと思いました。 なるべくギャグができるような雰囲気の頭にカットしていただいてます。 その美容師さんには20年以上ご厄介になってます。

最初お互いに役者になりたかったんです。 養成所へ同期生として入門しました。      その後、私(はるか)は小浜師匠の住み込みの弟子になりました。 コンビを組む時になって相方しか思いつかなくて手紙を出しました。 お浜・小浜師匠の弟子になることになりました。  師匠からは「長いこと芸人として残るのには紳士的な漫才をしなければいけない。いとし・こいしさんみたいな紳士的な漫才をしないと長くは続かない。」と言われました。 2人とも不器用なんで稽古は一生懸命やります。 稽古が好きですね。 稽古をやってる間にまた新しいネタが浮かびます。

1980年代頃、漫才ブームと言われた時代でした。やすし・きよしさん、ツービートなどがいました。 当時は我々は注目されていませんでした。 あのギャグが見つかってからは、東京の方にも仕事に行くようになりました。  私(かなたさん)が健康を害した時は、脊椎管狭窄症と言う神経を圧迫するもので、手術の2週間ほど前から立てなくなって紙おむつでした。 そこから筋肉つけていくまでで1年以上かかりました。 自信を持っていけるようになったのは17ヶ月位ですね。 漫才をやれて、漫才ってこんなに楽しいものなんだと改めて思いました。

若いものがどんどん出てきてくれるというのはうれしいなと思ってます。 「辛抱が大事だと言う事は常に言ってます。」 「石の上にも3年。」という言葉がありますが、死語になってるような感じがして残念でなりません。 毎日楽しく仕事にときめいて喜べる自分を少しでも多く作りたいなと思います。  お笑いに対しては人それぞれの考え方があるんでしょうけれども、どうしたらお客さんが笑うのかと言う前向いた考え方を自分なりに持っていきたいと思います。 そのためには健康でなくてはいけないと思ってます。


2026年5月1日金曜日

加藤拓馬(宮城県社会教育委員)       ・ 「気仙沼“再生”にかける~移住者・加藤拓馬の15年~」

 加藤拓馬(宮城県社会教育委員) ・ 「気仙沼“再生”にかける~移住者・加藤拓馬の15年~」

東日本大震災から15年になるのを前に、3月7日に放送した特集番組「気仙沼“再生”にかける~移住者・加藤拓馬の15年~」をお送りします。

15年前の東日本大震災、あの時全国各地から多くの若者たちが被災地に入り、ボランティア活動に取り組みました。  そうした若者たちの中でそのまま現地に移り住み、今も地域の再生に取り組む人もいます。  宮城県気仙沼市唐桑町入った 加藤拓馬さん(37歳)です。 加藤さんは兵庫県の出身5歳の時に、阪神淡路大震災を経験しました。 その後東京で大学生活を送り、卒業後身一つで気仙沼にやって来ました。  この時間は「気仙沼“再生”にかける~移住者・加藤拓馬の15年~」と題して大災害の被災地で歩んできた、一人の若者の試行錯誤を、過去の取材音声を交えながらお伝えします。

決まっていた会社に就職するのを辞めて、ボランティア活度を続けている若者がいる、と言う話を聞きました。  それが当時22歳だった加藤拓馬さんでした。  震災から間もなく3年になる時に気仙沼を訪れ、25歳になった加藤さんに話を聞きました。  2014年3月に放送したインタビューです。

大学時代に中国でワークキャンプをするボランティアサークルに所属していて、現場で何かをやるという事に凄く意義を感じ、東京でサラリーマンをやっている場合ではないと思いました。 さんざん悩みましたが来たが、4月5日にはここに来ました。 馬場康彦?さんの自宅の離れを借りて、長期的に滞在して活動しているからこそ、住んでいる人の本音が見えてした。 仙台は復興が早いが唐桑では復興が進まず、唐桑を出たいとか、唐桑には3種類の人間が住んでいて、避難所の人、避難所から出た仮設の人、在宅避難の人、それぞれがそれぞれに対して、嫉妬、妬みが激しく、みんなバラバラだと言った人もいました。

地域の集落のいいコミュニティーを持っているところが、このように引き裂かれていくのか、目に見えて起こり始めました。  瓦礫作業が終わって、はいさようならでは、もったいないことをしているのではないかと思いました。  コミュニティー作り、街つくりに徐々にシフトし始めたのが、2011年の秋ごろでした。 フリーペーパーというコミュニティーペーパーを作り始めました。(内側に頑張っている人がいて、それを見て自分も頑張らなくてはと言う風に、鼓舞する形)  企画、インタビュー、編集を全部自分で行いました。 

部数は4000部で商店、コンビニ、イベントとかに配布しました。 反応が凄くよかったです。 地域に溶け込んで行って、街つくりのサークルを作ろうという話になりました。(2012年春) 「唐桑丸」を5月10に日に立ち上げました。     街の人からは「将来大丈夫か。」と言われました。  或る人から「唐桑ではこいうふうな街づくりをしましたと言えるものを10年かけて作りたい。」、「10年やって初めて成果が見てくる。」といわれました。  そんなに簡単ではないと思いました。 だからこそ遣り甲斐のある一大プロジェクトだと思います。

加藤さんに自宅の離れを提供したのは、地元の社会福祉法人に務めていた馬場康彦?さんでした。  最初は半信半疑でしたが、話を進める中で前向きな気持ちになって行きました。 すべての面で進むべき道を教えてくれたのではないかと思います。 2015年加藤さんは任意団体の唐桑丸を発展させて、NPO「まるオフィス」を設立しました。  船に〇〇丸と言う風に「丸」が付いている意味は、或る漁師さんは「出発したところに、ぐるっと回って無事に帰ってこれる。」、そういった願いを込めている。」と言いました。  地域と言う一つの船の中でコーディネート機能を担えるようなものにしたくて「まるオフィス」と付けました。

苦労しながら試行錯誤するなかで加藤さんはこれだというテーマを見つけました。 それが「教育」でした。 2020年に気仙沼市内にある9つの中学校、小学校などにも通って、主に総合学習の授業で、子供たちの探求的な学びをサポートする様になりました。 震災から14年になる去年の3月、NHKの朝の番組に出演。 「10年やって初めて成果が見てくる。」と言われました。この地域の50年、100年先のことを考えた時に、ここの子供たちがどういう風に育つのかが大事だと思って、「教育」と言うテーマにしぼって行きました。  最初はUターンしてくれればという思いもありましたが、いろいろな生き方があるんだよという事を伝えていく活動をやっています。 14年経って、成功、失敗もありましたが、次の地域に繋いでいきたいなと言う思いがあります。 

復興って元に戻す事ではなくて、この街の豊かさって何だろうという風な、豊かさ探しみたいなものだと思っています。 社会の最前線で活動しているという事は、毎日ワクワク取り組んでいます。  最近は能登半島にも関わっています。    いくつかの地域で、街つくり、教育に取り組みながら自分の生活、仕事がしていけるものが出来ればいいなと思っています。 明日から気仙沼の高校生、大学生を20人ぐらい連れて1週間輪島に行ってボランティア活動をします。

先月中旬、雪が舞う気仙沼へ加藤さんを訪ねました。 ボランティアみたいなものと学びみたいなものは、相性がいいんだろうなぁと私自身改めて感じさせられました。 彼らが活動をしたことで、次の世代がまたそういう風につながると面白いんだろうなとは思います。 15年前気仙沼にやってきた頃、遊び相手をしていた子供たちも今はもう大人になりました。 就活の相談を受けたりとかしています。   今も連絡くれるのでうれしいです。 

15年前にやってきた加藤さんに自宅の離れを提供するなどして応援してきた馬場泰彦?さんは、現在は地元の福祉法人の理事長をされてます。 馬場さんは次のように語っています。気仙沼にいたんだよと言う風な感じで近所の人と付き合っています。 素晴らしいものを持ってるんだろうと思います。 彼は故郷でも震災経験があります。(阪神淡路大震災) 彼の中に自分のなかでイメージしたものがあるのかなと、今になって思っています。

2月中旬、震災後に再建された公共施設、「気仙沼市、街と仕事、交流プラザ」 ここで地元の高校生たちが大人と一緒に地域や自分の将来を考える産官学のプロジェクト「波風」が開かれました。 運営を担う加藤さんもスタッフの仲間と参加しました。 この「波風」は、気仙沼の企業、行政、学校が連携して、コンソーシアムの共同体を結成して取り組む事業で、スタートしてからまもなく4年になります。高校生は様々な大人と交流しながら、学校の外でも地域や社会の課題を見つけて考える力を養っています。

加藤さんが去年ドイツに行って感じてきたことの経験をもとに、若者が自分たちの地域のことを考える大切さを訴えました。 高校生たちからはいろいろな反応がありました。かつて「波風」に参加したOGの人も参加がありました。      「教育」と言うテーマ自体、私は興味がありませんでした。 そういったところに出会えたと言うことが15年で1番自分の人生にとって大きかったことです。    自分が1つのライフワークとして携われるテーマは思索?かもしれないと徐々に実感させてもらった15年でした。 

1つのことを10年やって初めて成果がわかるんだと言う事を昔言われたことがありますが、それを実感しています。 10年かかるかもしれないと言う風に声をかけてくれたのは、当時市の教育長だったと教えてくれました。 

馬場さんは当時を振り返りこう言ってます。 来てくれるんだったらお願いするよと言ったことが間違いじゃなかったと思います。 今は小さい赤ちゃんから我々高齢者まで幅広い人たちと交流の場を持ったり、後は我々の後押しをしてくれる中高生大学生たちにアプローチをして、彼らと一緒になってやって、彼らの成長に関する大きなものをものを見たり聞いたりしています。 彼らの存在、ボランティアを皆さんの罪と言うものは大きなものがあって、今のこの復興した気仙沼になってると思います。 

加藤さんはこれからの夢をこんな言葉で語ってくれました。 色々なことを一から教えててもらいました。 これからもここを拠点にしていきたいと思ってますし、自分も子育てしていますが、子供たちは当時お世話になった人たちに、またお世話になりながら育って行っていると言うことも不思議な感覚ではあります。    次の10年どうしようかなぁと言うのは、当時よりはワクワクしながら過ごすことができるなと言うのは今な気持ちです。 あれやりたいこれやりたいと言う焦りみたいなものを感じます。 何か自分がアクションを起こせば、新たな人とも出会いますし、出会った人がまた新たな気づきをくれる。 芯の部分は、社会教育と言う部分であり、10代の若者たちが何か夢中になれるもの見つける、それを僕たちが応援していく、社会で支えていくんだと言うと言うところはぶれないところです。










2026年4月30日木曜日

小椋佳(シンガーソングライター)     ・「小椋佳的生き方」

小椋佳(シンガーソングライター)     ・「小椋佳的生き方」 

小椋佳さんは1944年東京上野生まれ82歳。 東京大学法学部を卒業した後、日本勧業銀行(現在のみずほ銀行)に入行し、銀行員として働く傍ら、作詞、作曲等の音楽活動を行い、1971年に初めてのアルバム「青春 砂漠の少年」を発表しました。「さらば青春」や「潮騒の歌」などのご自身のヒット曲だけでなく、「シクラメンのかほり」、「愛燦燦」「夢芝居」など多数の楽曲を様々なアーティストに提供しています。 3冊目のアルバム『彷徨』(さまよい100万枚のセールスを記録しました。  これまでに2000曲以上を作り、2014年には四日間にわたって100曲を歌う「生前葬コンサート」を行い話題となりました。 胃がんや肝機能障害の劇症肝炎の闘病時期もありましたが、82歳になった今も元気に音楽活動を続けています。 人間にとって1番贅沢な遊びは学ぶこととの考えから、ご自身は自分のことを「慢性現状不満症」と称していて、常に新しい何かを求め続けています。 「小椋佳的生き方」と題して小椋佳さんに伺いました。

自分自身がちゃんと歌えるかどうか、声がきちんと出ているかどうか、節回しが自分の思い通りの節回しになっているかどうか、そのことの方が今日の1番大事なこと思っています。 50年前に初めてNHKのホールで歌ったときに、歌ってる最中に客席の方からふわっと波のようなものが来るんですね。これは一体何なんだろうと思いました。なんか1番気持ちが良かったですね。 

現在82歳ですが、もう体はボロボロです。 足の血管が細くて半年に1回手術をしています。 タバコは今も変わらず140本吸っています。 ここの10日間で歯が5本抜けています。  タバコは生活必需品になってしまっています。 3回禁煙して失敗いしています。 40代の頃禁煙学校に通いました。 3ヶ月後には吸っていました。禁煙したら詩が書けなくなってしまってました。 

200157歳の時に胃がんで胃の4分の3を切除、68歳の時に肝機能障害で劇症肝炎と診断され、大変な思いをしました。 若い力の心情として、生きているからには、一生懸命生きようとずっと思ってまして、そのせいかもしれないです。    歌を歌うと言う事は健康に良いのかもしれません。 映画「50年目の俺たちの旅」に合わせて、「俺たちの旅コンサート」を行いました。 どこへ行っても満席でした。 青春時代に郷愁があるんだなぁと言うことを感じました。 主題歌とエンディングテーマを書きました。(アメリカに留学中)

銀行から派遣されての経営学の勉強でした。 学校には行かないでアメリカの旅をしてました。 曲をそこそこ作りました。 一枚目のLPが世の中に出て意外と評判が良くて、第二弾のLPをと言う手紙をもらいました。 ポリドールの重役会議では、こんな者は売れるわけがないと言ってお蔵入りの決定だったそうです。 ヨーロッパでも、アメリカでも詩が主で、歌は詩を読み上げるような静かな歌を歌っていまして、立派に活躍していました。 僕もこれでいいんだと思いました。

*「俺たちの旅」 作詞、作曲 小椋佳

 中学2年から日記をつけ始めて、曲を作るときのベースになっています。    歌って、やっぱり人間の本当の思いを作家の思いを乗せてこそう歌だと思うのに、嘘臭いので、歌いたいのに歌いたくなくなっちゃいました。 自分の日記の中からメロディーをつけて口ずさんだのが始まりです。 日記をつけると自分のことをよく考えるようになります。 大学ノート30冊になりました。 詩を書いて、それにメロディーをつけていく作曲のスタイルです。 

高校時代に哲学病になって、答えを出せないまま社会人になって、銀行員を26年やりましたが、やり残し感があって49歳で銀行を初期退職して大学に行って、哲学を6年間やりました。 本を書き残そうと思って、今書いてる最中です。 人生に希望を持てない人たちへ、人生こう考えていければいいんだと言う本を、僕の哲学の勉強の総まとめとして、生き方の提言をした本です。 

若い頃は3時間に1曲作ってました。 自然に降りてくる感じでした。 これまでに2000曲以上になります。 最初のコンサートは、1976107日、NHKホールコンサートで3300の座席に対して、11万通の応募があったということでした。 良い体験をしました。  古希の時に「生前葬コンサート」をやりました。  四日間NHKホールでやりました。 4日間で100曲歌いました。 あれからもう10年以上生きてます。青春に決別できたコンサートでした。

よく「二足のわらじ」と言われますけれども、銀行員時代の費やす時間と作曲関係に費やす時間は、圧倒的に仕事の方に有りました。 歌のことで、あいつ歌だけやってるから、仕事は中途半端だろうと言う見方で見られるのは嫌だったです。  人一倍業績を上げようと言う思いは強かったです。(頭取候補にもなる。) 

どう生きていいかどうかわからなかった青春時代に、魅力的に輝いた言葉が「創造」という言葉でした。 他でもないこの私が生きていると言う証は、どういうこと、それは「創造」と言う言葉につながるんですね。 「慢性現状不満症」は私の性格の基本にそれがあります。 以前作ったミュージカルはどれ一つとっても納得できるミュージカルではなかった。 死ぬ前に1本だけ妥協を許さず、自分で本当に納得できるミュージカルを1本オリジナルのものを作って死にたいなと思ってます。  2 、3年かかると思います。 「慢性現状不満症」が原動力になってると思います。 遺言も書き上げて、死に支度は整っています。 生きている以上良いことがやりたいと思ってます。

*「顧り見れば」 作詞、作曲 小椋佳





2026年4月29日水曜日

翁家和助(太神楽曲芸師)          ・「太神楽で、芸術選奨 大衆芸能部門 文部科学大臣新人賞!」

 翁家和助(太神楽曲芸師)  ・「太神楽で、芸術選奨 大衆芸能部門 文部科学大臣新人賞!」

翁家和助さんは1977年東京都出身。 和助さんは、高校卒業後、国立劇場第1期大神楽研修生になり、研修終了後翁家和楽さんに入門、寄席を中心に活動しています。 今年2026年大神楽で令和7年度芸術選奨 大衆芸能部門 文部科学大臣新人賞を受賞しました。

何で自分がもらえたんだろうと思いました。 文化庁の公式ホームページに受賞理由が出てます。 どのような出番で高座に上がっても、きちんと存在感を示し、後に上がる落語家の邪魔をしない、わきまえた芸が芸人仲間から高い評価を得ている、と言う事ですが。

妻の翁家小花と弟子のと3人で、翁家社中と言う太神楽曲芸のグループで活動しています。大神楽は獅子舞で、檀家のところを回るんで、檀那場廻りといいます。 廻ってお祓いをして、その家の立身出世とか。家内安全、商売繁盛をお祈りして家々を廻っていくと言うのがもともとが芸能です。 その前は獅子舞もなくて、いけない方々に神社の方からお札を持って、お祓いしますと言うのが始まりでした。

太神楽と言う芸能自体が感謝の気持ちで発展してきた芸能です。行った先がいろいろ持てなしてくれました。 お札だけでは申し訳ないと言うことで、獅子舞をやり出しました。 もてなし側もさらに凄くなって獅子舞だけでなく、曲芸とかを加えることによってさらに喜びました。 さらに漫才と加えることによって発展した芸能でした。 江戸時代より前からです。

傘の上に一升枡とか、土瓶とかそういった台所道具などを回す芸で発展していきました。 最初は毬を使って稽古します。 現在48歳です。 高校生の時に先生から就職するのに公務員で試験もないのもあると言うことを聞いて、それとは違っていましたが、国立劇場第1期生の募集がありましたので、それを受けて入ることになりました。 基礎的なことを2年半勉強しました。 

卒業後、落語協会に入りました。 うちの師匠翁家和楽の元で修行を重ねました。お正月は基本的に獅子舞をやりますが、末広亭の楽屋は狭くて足の踏み間もない位でした。 獅子が置いてあったのを取ってくれと言われて、獅子頭跨いでしまいました。 そうしたら師匠から明日からもう来なくていいと言われました。獅子頭は神様です。 師匠がよく言ってたのは、「お金のため、自分の立身出世のため、名誉とか、自分の私利私欲のために太神楽を使ったやつは神様からバチが当たってろくな事は無いから。」と言われました。 「程を知れ。」と言う事は師匠からよく言われました。

太神楽の演出は必ず神様に向かってお願い事をする儀式的な部分(舞い)があります。  その後お客様に対して楽しませる部分があります。 この2つがセットで初めて神楽になります。 神様に対するお願いと、人々に楽しんでもらうということです。 

経歴は27、 8年になります 寄席では基本的には真打と真打の間にやります。  ですから、自分でも真打芸をやらないといけないと思い、これが大変でした。   おしゃべりもしますが、太神楽でしか起こり得ない面白いことを心がけています。 噺家さんの邪魔にはならない笑いを心がけています。  失敗した場合など、それを笑いに変えたりしてます。 太神楽と言うのは、舞いがあって、獅子舞いとか、神楽があって、その間に曲芸と茶番と最後に獅子舞があります。 太神楽を復活させ10年やって来て、これがだいぶ出てきてきましたので、次は神楽だけで会をやりたいです。






2026年4月28日火曜日

冨士眞奈美(女優)             ・「余白を味わう暮らし」

冨士眞奈美(女優)             ・「余白を味わう暮らし」

富士真奈美さんは静岡県の出身。 1956年に女優デビューしました。 以来幅広い役柄で活躍しています。 一方長年親しんでいる俳句の世界では、句集を出版したほか、選句や選評も務めています。 

吉行和子は私の家から歩いて15分の位のところですが、亡くなるまで3年会っていません。 お互いに大親友だと思っていました。  俳句をして月1回ぐらい会ってたんですが、突然なくなってしまいました。(去年92日) びっくりして1週間ぐらい寝込んでしまいました。 岸田今日子ちゃんとは18歳位からのお友達です。  野球、相撲などに一緒によく行きました。 和子っぺは料理が嫌いでしたが、私は好きでした。 或る時に「一緒に暮らさない」と言われたが、冗談だと思っていたが、今考えると本気だったと思いました。 亡くなってしまってからなんで、そうしようと言わなかったんだろうと思いました。

デビューはNHKのテレビドラマからスタートしました。「この瞳」の主役に抜擢されてデビューしました。 (70年前)  或る時、大山のぶ代さんから一緒に暮らさないかと言われて、ついて行って2 3年は一緒に暮らしました。 まだドラえもんの役に巡りあう前でした。 1970年、「細うで繁盛記」に出演しました。 私は伊豆の人間なので、方言の指導などもしました。 舞台は伊豆の旅館で、若いお嫁さんとして来たのが新珠 三千代さんでした。その新珠 三千代さんをいじめる小姑の役でした。

女優の忙しい時期に結婚しました。 女優として第一線から退きました。     娘が生まれて一緒にいる時間がすごく楽しかったです。 離婚したときにはこんな自由ってあるかしらと思うほど、今日子ちゃんと和子っぺと一緒に遊ぶようになりました。 女優業に復帰しました。 和子ペは「本当にあなたのおかげで、離婚したおかげで、私の後半生がぱっと開けたのよ。」と言ってくれた時は嬉しかったです。

俳句は14 、5人でやるんですが、みんな仲良しで感覚が一緒の人たちってやっぱり親族の次に仲良しになれるかなぁと思います。 和子は「結局、ボーイフレンド、最後の男友達は句会の仲間かな。」と言ったけど、好きとか嫌いとか感情を抜きにして、淡々と付き合えて、俳句を仲立ちに友達になると言うのはすごく強いものがあります。 最初は、中村汀女先生とテレビ句会に出ました。 黛敏郎さんとか、谷川俊太郎さんとかと一緒に出ました。 俳句をやったらいいんじゃないかと言うことになりました。 毎月1回必ず句会をやっていました。

最近はずっと作りませんでしたけれども、和子が亡くなったときに、一句作りました。 「とこしなへ夢見る一人静かな」 

アグリさんのお葬式のときには、「ゆすらうめ乙女の夢を想うまま」と言う色紙を書いたんですが、それをアグリさんの「お棺に入れておいたよ。」と、和子が言いました。 俳句やってて良かったなと思いました。 私の俳号は衾去(きんきょ)です。  「おしとね下がり」という言葉がありますが、おしとね下がりのつもりでつけました。 佐藤愛子先生から、「あなたは俳句はいいけど、「おしとね下がり」なんてよくないわよ。」と言われちゃいました。 

和子っぺは「窓烏」上手くなったら「そうう」と言うふうに言おうと思いますが、今は「窓がらす」と言っていました。 京子ちゃんは「眠女」(みんじょ)といいます。 俳句を上手くなるには、名句を暗記していくことだと言われました。    俳句っていうのは、作っておけば日記みたいなもので、その日の様子とか環境とかまざまざと浮かんできます。 俳句を作るのと言うのはいいと思います。     俳句作るようになったら、自分について1番考えるようになりました。

「百合開く闇一寸の吐息かな」 句集の中からこれが好きだと言われました。

「明日開く百合一輪結ばれる」 百合の句は一杯作りました。

本は小さい頃から好きでした。 最近も俳句に関わるような本を読みます。    食べ物は好きなものを気ままに食べてます。 手紙を書いたりするのも好きです。 電話とかは苦手です。 家のものを片付けたいとは思いますが、いろいろ思い出があって、なかなかそういうわけにはいきません。








 

2026年4月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言「モネ」

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言「モネ」

モネは1840年に生まれ、1926年に86歳で亡くなりました。今年は没後100年に当たります。

「あぁ、なんと辛いことか。 絵を描くという事は、なんと辛いことか。 それは私を苦しめる、痛みをもたらす。」 モネ

絶望名言は今年度で10周年を迎えます。

モネは、フランスの画家で、代表作には「印象 日の出」「散歩、日傘をさす女」、「積みわら」シリーズ、「ルーアン大聖堂」シリーズ、「睡蓮」のシリーズなどがあります。 印象派の中心的なメンバーで1番長生きをしました。 最後の印象派と言うふうにも言われましたが、今年没後100年になります。 86歳で亡くなる。

モネは日本が好きで、浮世絵が好きで、自分の庭にも日本風の太鼓橋をかけて、その橋は絵に何回も書かれています。

「あぁ、なんと辛いことか。 絵を描くという事は、なんと辛いことか。 それは私を苦しめる、痛みをもたらす。」 モネ  こういった言葉がたくさんあります。

「画商や美術愛好家達は私に背を向けています。 何よりも悲しいのは、市場価値のない芸術作品に対して誰も興味を示さないことです。」 モネ(18696月に作家に出した手紙の一節、モネは当時28歳)

モネは生きてる間に有名になったので恵まれた方です。 当時フランスでは「サロン・ド・パリ」と言う展覧会があって、これに入選できるかとどうかというのが画家の登龍門でした。 モネは24歳の時に2点出品して2点とも入選しています。   翌年は、妻となるカミーユと言う女性が緑色のドレスを着ている姿を描いて、これも入選して大絶賛されます。 その翌年は「庭の中の女たち」と言う大作を描くが、落選して酷評されてしまいます。 その翌年は1点入選1点落選、その次の年は、2点とも落選。その次も2点とも落選。モネにも評価する人たちがいましたけれども、それでは生活はできないんです。

「パンもワインも台所の火も灯りもない。 一昨日から私は無一文でどこへ行ってもつけ払いの効かない、肉屋でもパン屋でもダメだ。 たとえ将来に希望を持てたとしても、現状が非常に厳しい。 私はもはや初心者ではない。 この年齢になっていつまでも人に懇願して、絵を買ってもらう状況にいるのは恐ろしい。」 モネ(29歳、34歳、38歳の時の手紙の一節)

「風がキャンバスを吹き飛ばし、それを拾うおうとパレット置いたら、風がそれも吹き飛ばしてしまった。 私は怒り狂い全てを放り投げるところだった。」 モネ(55歳の時の手紙の一節)

絵を描いてるときにうまくいかないと、癇癪を起こして、絵をナイフで切ったり、足で踏み抜いたり、川に投げ捨てたり、燃やしたりしてます。 生涯を通じて500枚以上の絵を自分で壊してしまったと言われています。  昔はスケッチは外でするが、油絵を描くのは室内ですると言うことが一般的でした。  モネが生まれた頃にチューブ入りの絵の具が登場しました。 印象派の人たちは外で油絵を描くようになりました。

「私にとって風景はそれだけで存在したりしてるのではない。なぜならば瞬間ごとに外観は変わっていくのだから。 周りにあるもの、つまり絶え間なく変化する光や外気が風景に生命をもたらすのだ。  私は周囲の大気こそが、主題に真の価値を与えるんだと思う。」 モネ

モネには「積みわら」とか「ポプラ並木」「ルーアン大聖堂」とか連作があるが、同じモチーフを繰り返し描いています。 時間帯、季節、天候によって見え方が全然違います。 瞬間ごとの変化、周囲の大気をモネは描いてるわけです。 「光のつつみ」と表現しています。

モネが本格的な「睡蓮」の連作を始めたのが189958歳の時です。 ラヴェル(印象派の音楽家)の「亡き王女のためのパヴァーヌ」が作曲されたのも1899年です。

「亡き王女のためのパヴァーヌ」 作曲:ラヴェル

私はいつも信じていた。 私は前に進み、最後には何か価値のあることができると。 しかし、あぁその望みもいまや葬ってしまわねばならない。」 モネ(191372歳の時の手紙の一節)

この頃はモネは、数年間絵を描かなくなってしまいます。 2番目の妻のアリスが亡くなってしまったのが1番の理由と思います。 当時モネの絵は有名にはなっていました。 しかし印象画が過去のものになってきていました。 モネが1874年の33歳の時に仲間たちと開いた最初の展覧会で「印象 日の出」と言う有名な絵を出品しますが、批評家のルイ・ルロワと言う人がこの絵を酷評します。 彼が「印象派の展覧会」と言い始めたのが最初です。 印象派からキュビスム(ピカソ等)に変化していきます。 印象派が古いと言うふうに言われるようになってしまいます。

「描けば描くほど感じたものを表現するのは、下手だと思い知らされるばかりです。  しかし、1つの作品を仕上げたと言える人がいたなら、恐ろしく傲慢なことだと自分に言い聞かせています。」 モネ(18933月モネが52歳の時の手紙の一節) 「ルーアン大聖堂」の連作を書いてるときのものです。

「私は触れることのできないものを、掴もうとしているのです。 それなのにいかに光が素早く走り去り、色を持っていってしまうことか、色はどんな色でも1秒ときには多くても3 、4分しか続かない。 3、4分で何を描かば良いかというのですか。 それらは行ってしまう、止めなければならないんです。  あぁなんと苦しいことか、なんと絵を描くことは苦しいことなのか。それは私を拷問する。 それが私にもたらす痛みと言ったら。」モネ(19188月モネの手紙の一節)

「また、私の視力が変化して、このままでは絵を止めなければならないだろう。 そして描き始めたものも、そのままになるだろう。 なんと悲しいことか。」モネ(1919年終わり頃が79歳の頃の手紙の1節)  モネが71歳の時に白内障と診断される。 画家にとって、絵が見えなくなると言う事はきつい。

モネは「自分が見てるものが何なのかなるべく忘れろ。」と言ってます。  身の回りのものを、改めて初めて見るように見てみると結構面白いと思います。 新鮮の気持ちで生きられる。

「絵を描きに出かける時は、目の前にあるものは何であるかできるだけ忘れるようにしなさい。木であれ家であれ野原であれなんであれ、ただこう思うだけでいい。ここに青い小さな四角形がある、ここにピンク色の長方形がある、ここに黄色い一筋の線があると、そしてあなたの目に見えるままに、その色と形を正確に描きなさい。」 モネ。