2026年5月1日金曜日

加藤拓馬(宮城県社会教育委員)       ・ 「気仙沼“再生”にかける~移住者・加藤拓馬の15年~」

 加藤拓馬(宮城県社会教育委員) ・ 「気仙沼“再生”にかける~移住者・加藤拓馬の15年~」

東日本大震災から15年になるのを前に、3月7日に放送した特集番組「気仙沼“再生”にかける~移住者・加藤拓馬の15年~」をお送りします。

15年前の東日本大震災、あの時全国各地から多くの若者たちが被災地に入り、ボランティア活動に取り組みました。  そうした若者たちの中でそのまま現地に移り住み、今も地域の再生に取り組む人もいます。  宮城県気仙沼市唐桑町入った 加藤拓馬さん(37歳)です。 加藤さんは兵庫県の出身5歳の時に、阪神淡路大震災を経験しました。 その後東京で大学生活を送り、卒業後身一つで気仙沼にやって来ました。  この時間は「気仙沼“再生”にかける~移住者・加藤拓馬の15年~」と題して大災害の被災地で歩んできた、一人の若者の試行錯誤を、過去の取材音声を交えながらお伝えします。

決まっていた会社に就職するのを辞めて、ボランティア活度を続けている若者がいる、と言う話を聞きました。  それが当時22歳だった加藤拓馬さんでした。  震災から間もなく3年になる時に気仙沼を訪れ、25歳になった加藤さんに話を聞きました。  2014年3月に放送したインタビューです。

大学時代に中国でワークキャンプをするボランティアサークルに所属していて、現場で何かをやるという事に凄く意義を感じ、東京でサラリーマンをやっている場合ではないと思いました。 さんざん悩みましたが来たが、4月5日にはここに来ました。 馬場康彦?さんの自宅の離れを借りて、長期的に滞在して活動しているからこそ、住んでいる人の本音が見えてした。 仙台は復興が早いが唐桑では復興が進まず、唐桑を出たいとか、唐桑には3種類の人間が住んでいて、避難所の人、避難所から出た仮設の人、在宅避難の人、それぞれがそれぞれに対して、嫉妬、妬みが激しく、みんなバラバラだと言った人もいました。

地域の集落のいいコミュニティーを持っているところが、このように引き裂かれていくのか、目に見えて起こり始めました。  瓦礫作業が終わって、はいさようならでは、もったいないことをしているのではないかと思いました。  コミュニティー作り、街つくりに徐々にシフトし始めたのが、2011年の秋ごろでした。 フリーペーパーというコミュニティーペーパーを作り始めました。(内側に頑張っている人がいて、それを見て自分も頑張らなくてはと言う風に、鼓舞する形)  企画、インタビュー、編集を全部自分で行いました。 

部数は4000部で商店、コンビニ、イベントとかに配布しました。 反応が凄くよかったです。 地域に溶け込んで行って、街つくりのサークルを作ろうという話になりました。(2012年春) 「唐桑丸」を5月10に日に立ち上げました。     街の人からは「将来大丈夫か。」と言われました。  或る人から「唐桑ではこいうふうな街づくりをしましたと言えるものを10年かけて作りたい。」、「10年やって初めて成果が見てくる。」といわれました。  そんなに簡単ではないと思いました。 だからこそ遣り甲斐のある一大プロジェクトだと思います。

加藤さんに自宅の離れを提供したのは、地元の社会福祉法人に務めていた馬場康彦?さんでした。  最初は半信半疑でしたが、話を進める中で前向きな気持ちになって行きました。 すべての面で進むべき道を教えてくれたのではないかと思います。 2015年加藤さんは任意団体の唐桑丸を発展させて、NPO「まるオフィス」を設立しました。  船に〇〇丸と言う風に「丸」が付いている意味は、或る漁師さんは「出発したところに、ぐるっと回って無事に帰ってこれる。」、そういった願いを込めている。」と言いました。  地域と言う一つの船の中でコーディネート機能を担えるようなものにしたくて「まるオフィス」と付けました。

苦労しながら試行錯誤するなかで加藤さんはこれだというテーマを見つけました。 それが「教育」でした。 2020年に気仙沼市内にある9つの中学校、小学校などにも通って、主に総合学習の授業で、子供たちの探求的な学びをサポートする様になりました。 震災から14年になる去年の3月、NHKの朝の番組に出演。 「10年やって初めて成果が見てくる。」と言われました。この地域の50年、100年先のことを考えた時に、ここの子供たちがどういう風に育つのかが大事だと思って、「教育」と言うテーマにしぼって行きました。  最初はUターンしてくれればという思いもありましたが、いろいろな生き方があるんだよという事を伝えていく活動をやっています。 14年経って、成功、失敗もありましたが、次の地域に繋いでいきたいなと言う思いがあります。 

復興って元に戻す事ではなくて、この街の豊かさって何だろうという風な、豊かさ探しみたいなものだと思っています。 社会の最前線で活動しているという事は、毎日ワクワク取り組んでいます。  最近は能登半島にも関わっています。    いくつかの地域で、街つくり、教育に取り組みながら自分の生活、仕事がしていけるものが出来ればいいなと思っています。 明日から気仙沼の高校生、大学生を20人ぐらい連れて1週間輪島に行ってボランティア活動をします。

先月中旬、雪が舞う気仙沼へ加藤さんを訪ねました。 ボランティアみたいなものと学びみたいなものは、相性がいいんだろうなぁと私自身改めて感じさせられました。 彼らが活動をしたことで、次の世代がまたそういう風につながると面白いんだろうなとは思います。 15年前気仙沼にやってきた頃、遊び相手をしていた子供たちも今はもう大人になりました。 就活の相談を受けたりとかしています。   今も連絡くれるのでうれしいです。 

15年前にやってきた加藤さんに自宅の離れを提供するなどして応援してきた馬場泰彦?さんは、現在は地元の福祉法人の理事長をされてます。 馬場さんは次のように語っています。気仙沼にいたんだよと言う風な感じで近所の人と付き合っています。 素晴らしいものを持ってるんだろうと思います。 彼は故郷でも震災経験があります。(阪神淡路大震災) 彼の中に自分のなかでイメージしたものがあるのかなと、今になって思っています。

2月中旬、震災後に再建された公共施設、「気仙沼市、街と仕事、交流プラザ」 ここで地元の高校生たちが大人と一緒に地域や自分の将来を考える産官学のプロジェクト「波風」が開かれました。 運営を担う加藤さんもスタッフの仲間と参加しました。 この「波風」は、気仙沼の企業、行政、学校が連携して、コンソーシアムの共同体を結成して取り組む事業で、スタートしてからまもなく4年になります。高校生は様々な大人と交流しながら、学校の外でも地域や社会の課題を見つけて考える力を養っています。

加藤さんが去年ドイツに行って感じてきたことの経験をもとに、若者が自分たちの地域のことを考える大切さを訴えました。 高校生たちからはいろいろな反応がありました。かつて「波風」に参加したOGの人も参加がありました。      「教育」と言うテーマ自体、私は興味がありませんでした。 そういったところに出会えたと言うことが15年で1番自分の人生にとって大きかったことです。    自分が1つのライフワークとして携われるテーマは思索?かもしれないと徐々に実感させてもらった15年でした。 

1つのことを10年やって初めて成果がわかるんだと言う事を昔言われたことがありますが、それを実感しています。 10年かかるかもしれないと言う風に声をかけてくれたのは、当時市の教育長だったと教えてくれました。 

馬場さんは当時を振り返りこう言ってます。 来てくれるんだったらお願いするよと言ったことが間違いじゃなかったと思います。 今は小さい赤ちゃんから我々高齢者まで幅広い人たちと交流の場を持ったり、後は我々の後押しをしてくれる中高生大学生たちにアプローチをして、彼らと一緒になってやって、彼らの成長に関する大きなものをものを見たり聞いたりしています。 彼らの存在、ボランティアを皆さんの罪と言うものは大きなものがあって、今のこの復興した気仙沼になってると思います。 

加藤さんはこれからの夢をこんな言葉で語ってくれました。 色々なことを一から教えててもらいました。 これからもここを拠点にしていきたいと思ってますし、自分も子育てしていますが、子供たちは当時お世話になった人たちに、またお世話になりながら育って行っていると言うことも不思議な感覚ではあります。    次の10年どうしようかなぁと言うのは、当時よりはワクワクしながら過ごすことができるなと言うのは今な気持ちです。 あれやりたいこれやりたいと言う焦りみたいなものを感じます。 何か自分がアクションを起こせば、新たな人とも出会いますし、出会った人がまた新たな気づきをくれる。 芯の部分は、社会教育と言う部分であり、10代の若者たちが何か夢中になれるもの見つける、それを僕たちが応援していく、社会で支えていくんだと言うと言うところはぶれないところです。










2026年4月30日木曜日

小椋佳(シンガーソングライター)     ・「小椋佳的生き方」

小椋佳(シンガーソングライター)     ・「小椋佳的生き方」 

小椋佳さんは1944年東京上野生まれ82歳。 東京大学法学部を卒業した後、日本勧業銀行(現在のみずほ銀行)に入行し、銀行員として働く傍ら、作詞、作曲等の音楽活動を行い、1971年に初めてのアルバム「青春 砂漠の少年」を発表しました。「さらば青春」や「潮騒の歌」などのご自身のヒット曲だけでなく、「シクラメンのかほり」、「愛燦燦」「夢芝居」など多数の楽曲を様々なアーティストに提供しています。 3冊目のアルバム『彷徨』(さまよい100万枚のセールスを記録しました。  これまでに2000曲以上を作り、2014年には四日間にわたって100曲を歌う「生前葬コンサート」を行い話題となりました。 胃がんや肝機能障害の劇症肝炎の闘病時期もありましたが、82歳になった今も元気に音楽活動を続けています。 人間にとって1番贅沢な遊びは学ぶこととの考えから、ご自身は自分のことを「慢性現状不満症」と称していて、常に新しい何かを求め続けています。 「小椋佳的生き方」と題して小椋佳さんに伺いました。

自分自身がちゃんと歌えるかどうか、声がきちんと出ているかどうか、節回しが自分の思い通りの節回しになっているかどうか、そのことの方が今日の1番大事なこと思っています。 50年前に初めてNHKのホールで歌ったときに、歌ってる最中に客席の方からふわっと波のようなものが来るんですね。これは一体何なんだろうと思いました。なんか1番気持ちが良かったですね。 

現在82歳ですが、もう体はボロボロです。 足の血管が細くて半年に1回手術をしています。 タバコは今も変わらず140本吸っています。 ここの10日間で歯が5本抜けています。  タバコは生活必需品になってしまっています。 3回禁煙して失敗いしています。 40代の頃禁煙学校に通いました。 3ヶ月後には吸っていました。禁煙したら詩が書けなくなってしまってました。 

200157歳の時に胃がんで胃の4分の3を切除、68歳の時に肝機能障害で劇症肝炎と診断され、大変な思いをしました。 若い力の心情として、生きているからには、一生懸命生きようとずっと思ってまして、そのせいかもしれないです。    歌を歌うと言う事は健康に良いのかもしれません。 映画「50年目の俺たちの旅」に合わせて、「俺たちの旅コンサート」を行いました。 どこへ行っても満席でした。 青春時代に郷愁があるんだなぁと言うことを感じました。 主題歌とエンディングテーマを書きました。(アメリカに留学中)

銀行から派遣されての経営学の勉強でした。 学校には行かないでアメリカの旅をしてました。 曲をそこそこ作りました。 一枚目のLPが世の中に出て意外と評判が良くて、第二弾のLPをと言う手紙をもらいました。 ポリドールの重役会議では、こんな者は売れるわけがないと言ってお蔵入りの決定だったそうです。 ヨーロッパでも、アメリカでも詩が主で、歌は詩を読み上げるような静かな歌を歌っていまして、立派に活躍していました。 僕もこれでいいんだと思いました。

*「俺たちの旅」 作詞、作曲 小椋佳

 中学2年から日記をつけ始めて、曲を作るときのベースになっています。    歌って、やっぱり人間の本当の思いを作家の思いを乗せてこそう歌だと思うのに、嘘臭いので、歌いたいのに歌いたくなくなっちゃいました。 自分の日記の中からメロディーをつけて口ずさんだのが始まりです。 日記をつけると自分のことをよく考えるようになります。 大学ノート30冊になりました。 詩を書いて、それにメロディーをつけていく作曲のスタイルです。 

高校時代に哲学病になって、答えを出せないまま社会人になって、銀行員を26年やりましたが、やり残し感があって49歳で銀行を初期退職して大学に行って、哲学を6年間やりました。 本を書き残そうと思って、今書いてる最中です。 人生に希望を持てない人たちへ、人生こう考えていければいいんだと言う本を、僕の哲学の勉強の総まとめとして、生き方の提言をした本です。 

若い頃は3時間に1曲作ってました。 自然に降りてくる感じでした。 これまでに2000曲以上になります。 最初のコンサートは、1976107日、NHKホールコンサートで3300の座席に対して、11万通の応募があったということでした。 良い体験をしました。  古希の時に「生前葬コンサート」をやりました。  四日間NHKホールでやりました。 4日間で100曲歌いました。 あれからもう10年以上生きてます。青春に決別できたコンサートでした。

よく「二足のわらじ」と言われますけれども、銀行員時代の費やす時間と作曲関係に費やす時間は、圧倒的に仕事の方に有りました。 歌のことで、あいつ歌だけやってるから、仕事は中途半端だろうと言う見方で見られるのは嫌だったです。  人一倍業績を上げようと言う思いは強かったです。(頭取候補にもなる。) 

どう生きていいかどうかわからなかった青春時代に、魅力的に輝いた言葉が「創造」という言葉でした。 他でもないこの私が生きていると言う証は、どういうこと、それは「創造」と言う言葉につながるんですね。 「慢性現状不満症」は私の性格の基本にそれがあります。 以前作ったミュージカルはどれ一つとっても納得できるミュージカルではなかった。 死ぬ前に1本だけ妥協を許さず、自分で本当に納得できるミュージカルを1本オリジナルのものを作って死にたいなと思ってます。  2 、3年かかると思います。 「慢性現状不満症」が原動力になってると思います。 遺言も書き上げて、死に支度は整っています。 生きている以上良いことがやりたいと思ってます。

*「顧り見れば」 作詞、作曲 小椋佳





2026年4月29日水曜日

翁家和助(太神楽曲芸師)          ・「太神楽で、芸術選奨 大衆芸能部門 文部科学大臣新人賞!」

 翁家和助(太神楽曲芸師)  ・「太神楽で、芸術選奨 大衆芸能部門 文部科学大臣新人賞!」

翁家和助さんは1977年東京都出身。 和助さんは、高校卒業後、国立劇場第1期大神楽研修生になり、研修終了後翁家和楽さんに入門、寄席を中心に活動しています。 今年2026年大神楽で令和7年度芸術選奨 大衆芸能部門 文部科学大臣新人賞を受賞しました。

何で自分がもらえたんだろうと思いました。 文化庁の公式ホームページに受賞理由が出てます。 どのような出番で高座に上がっても、きちんと存在感を示し、後に上がる落語家の邪魔をしない、わきまえた芸が芸人仲間から高い評価を得ている、と言う事ですが。

妻の翁家小花と弟子のと3人で、翁家社中と言う太神楽曲芸のグループで活動しています。大神楽は獅子舞で、檀家のところを回るんで、檀那場廻りといいます。 廻ってお祓いをして、その家の立身出世とか。家内安全、商売繁盛をお祈りして家々を廻っていくと言うのがもともとが芸能です。 その前は獅子舞もなくて、いけない方々に神社の方からお札を持って、お祓いしますと言うのが始まりでした。

太神楽と言う芸能自体が感謝の気持ちで発展してきた芸能です。行った先がいろいろ持てなしてくれました。 お札だけでは申し訳ないと言うことで、獅子舞をやり出しました。 もてなし側もさらに凄くなって獅子舞だけでなく、曲芸とかを加えることによってさらに喜びました。 さらに漫才と加えることによって発展した芸能でした。 江戸時代より前からです。

傘の上に一升枡とか、土瓶とかそういった台所道具などを回す芸で発展していきました。 最初は毬を使って稽古します。 現在48歳です。 高校生の時に先生から就職するのに公務員で試験もないのもあると言うことを聞いて、それとは違っていましたが、国立劇場第1期生の募集がありましたので、それを受けて入ることになりました。 基礎的なことを2年半勉強しました。 

卒業後、落語協会に入りました。 うちの師匠翁家和楽の元で修行を重ねました。お正月は基本的に獅子舞をやりますが、末広亭の楽屋は狭くて足の踏み間もない位でした。 獅子が置いてあったのを取ってくれと言われて、獅子頭跨いでしまいました。 そうしたら師匠から明日からもう来なくていいと言われました。獅子頭は神様です。 師匠がよく言ってたのは、「お金のため、自分の立身出世のため、名誉とか、自分の私利私欲のために太神楽を使ったやつは神様からバチが当たってろくな事は無いから。」と言われました。 「程を知れ。」と言う事は師匠からよく言われました。

太神楽の演出は必ず神様に向かってお願い事をする儀式的な部分(舞い)があります。  その後お客様に対して楽しませる部分があります。 この2つがセットで初めて神楽になります。 神様に対するお願いと、人々に楽しんでもらうということです。 

経歴は27、 8年になります 寄席では基本的には真打と真打の間にやります。  ですから、自分でも真打芸をやらないといけないと思い、これが大変でした。   おしゃべりもしますが、太神楽でしか起こり得ない面白いことを心がけています。 噺家さんの邪魔にはならない笑いを心がけています。  失敗した場合など、それを笑いに変えたりしてます。 太神楽と言うのは、舞いがあって、獅子舞いとか、神楽があって、その間に曲芸と茶番と最後に獅子舞があります。 太神楽を復活させ10年やって来て、これがだいぶ出てきてきましたので、次は神楽だけで会をやりたいです。






2026年4月28日火曜日

冨士眞奈美(女優)             ・「余白を味わう暮らし」

冨士眞奈美(女優)             ・「余白を味わう暮らし」

富士真奈美さんは静岡県の出身。 1956年に女優デビューしました。 以来幅広い役柄で活躍しています。 一方長年親しんでいる俳句の世界では、句集を出版したほか、選句や選評も務めています。 

吉行和子は私の家から歩いて15分の位のところですが、亡くなるまで3年会っていません。 お互いに大親友だと思っていました。  俳句をして月1回ぐらい会ってたんですが、突然なくなってしまいました。(去年92日) びっくりして1週間ぐらい寝込んでしまいました。 岸田今日子ちゃんとは18歳位からのお友達です。  野球、相撲などに一緒によく行きました。 和子っぺは料理が嫌いでしたが、私は好きでした。 或る時に「一緒に暮らさない」と言われたが、冗談だと思っていたが、今考えると本気だったと思いました。 亡くなってしまってからなんで、そうしようと言わなかったんだろうと思いました。

デビューはNHKのテレビドラマからスタートしました。「この瞳」の主役に抜擢されてデビューしました。 (70年前)  或る時、大山のぶ代さんから一緒に暮らさないかと言われて、ついて行って2 3年は一緒に暮らしました。 まだドラえもんの役に巡りあう前でした。 1970年、「細うで繁盛記」に出演しました。 私は伊豆の人間なので、方言の指導などもしました。 舞台は伊豆の旅館で、若いお嫁さんとして来たのが新珠 三千代さんでした。その新珠 三千代さんをいじめる小姑の役でした。

女優の忙しい時期に結婚しました。 女優として第一線から退きました。     娘が生まれて一緒にいる時間がすごく楽しかったです。 離婚したときにはこんな自由ってあるかしらと思うほど、今日子ちゃんと和子っぺと一緒に遊ぶようになりました。 女優業に復帰しました。 和子ペは「本当にあなたのおかげで、離婚したおかげで、私の後半生がぱっと開けたのよ。」と言ってくれた時は嬉しかったです。

俳句は14 、5人でやるんですが、みんな仲良しで感覚が一緒の人たちってやっぱり親族の次に仲良しになれるかなぁと思います。 和子は「結局、ボーイフレンド、最後の男友達は句会の仲間かな。」と言ったけど、好きとか嫌いとか感情を抜きにして、淡々と付き合えて、俳句を仲立ちに友達になると言うのはすごく強いものがあります。 最初は、中村汀女先生とテレビ句会に出ました。 黛敏郎さんとか、谷川俊太郎さんとかと一緒に出ました。 俳句をやったらいいんじゃないかと言うことになりました。 毎月1回必ず句会をやっていました。

最近はずっと作りませんでしたけれども、和子が亡くなったときに、一句作りました。 「とこしなへ夢見る一人静かな」 

アグリさんのお葬式のときには、「ゆすらうめ乙女の夢を想うまま」と言う色紙を書いたんですが、それをアグリさんの「お棺に入れておいたよ。」と、和子が言いました。 俳句やってて良かったなと思いました。 私の俳号は衾去(きんきょ)です。  「おしとね下がり」という言葉がありますが、おしとね下がりのつもりでつけました。 佐藤愛子先生から、「あなたは俳句はいいけど、「おしとね下がり」なんてよくないわよ。」と言われちゃいました。 

和子っぺは「窓烏」上手くなったら「そうう」と言うふうに言おうと思いますが、今は「窓がらす」と言っていました。 京子ちゃんは「眠女」(みんじょ)といいます。 俳句を上手くなるには、名句を暗記していくことだと言われました。    俳句っていうのは、作っておけば日記みたいなもので、その日の様子とか環境とかまざまざと浮かんできます。 俳句を作るのと言うのはいいと思います。     俳句作るようになったら、自分について1番考えるようになりました。

「百合開く闇一寸の吐息かな」 句集の中からこれが好きだと言われました。

「明日開く百合一輪結ばれる」 百合の句は一杯作りました。

本は小さい頃から好きでした。 最近も俳句に関わるような本を読みます。    食べ物は好きなものを気ままに食べてます。 手紙を書いたりするのも好きです。 電話とかは苦手です。 家のものを片付けたいとは思いますが、いろいろ思い出があって、なかなかそういうわけにはいきません。








 

2026年4月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言「モネ」

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言「モネ」

モネは1840年に生まれ、1926年に86歳で亡くなりました。今年は没後100年に当たります。

「あぁ、なんと辛いことか。 絵を描くという事は、なんと辛いことか。 それは私を苦しめる、痛みをもたらす。」 モネ

絶望名言は今年度で10周年を迎えます。

モネは、フランスの画家で、代表作には「印象 日の出」「散歩、日傘をさす女」、「積みわら」シリーズ、「ルーアン大聖堂」シリーズ、「睡蓮」のシリーズなどがあります。 印象派の中心的なメンバーで1番長生きをしました。 最後の印象派と言うふうにも言われましたが、今年没後100年になります。 86歳で亡くなる。

モネは日本が好きで、浮世絵が好きで、自分の庭にも日本風の太鼓橋をかけて、その橋は絵に何回も書かれています。

「あぁ、なんと辛いことか。 絵を描くという事は、なんと辛いことか。 それは私を苦しめる、痛みをもたらす。」 モネ  こういった言葉がたくさんあります。

「画商や美術愛好家達は私に背を向けています。 何よりも悲しいのは、市場価値のない芸術作品に対して誰も興味を示さないことです。」 モネ(18696月に作家に出した手紙の一節、モネは当時28歳)

モネは生きてる間に有名になったので恵まれた方です。 当時フランスでは「サロン・ド・パリ」と言う展覧会があって、これに入選できるかとどうかというのが画家の登龍門でした。 モネは24歳の時に2点出品して2点とも入選しています。   翌年は、妻となるカミーユと言う女性が緑色のドレスを着ている姿を描いて、これも入選して大絶賛されます。 その翌年は「庭の中の女たち」と言う大作を描くが、落選して酷評されてしまいます。 その翌年は1点入選1点落選、その次の年は、2点とも落選。その次も2点とも落選。モネにも評価する人たちがいましたけれども、それでは生活はできないんです。

「パンもワインも台所の火も灯りもない。 一昨日から私は無一文でどこへ行ってもつけ払いの効かない、肉屋でもパン屋でもダメだ。 たとえ将来に希望を持てたとしても、現状が非常に厳しい。 私はもはや初心者ではない。 この年齢になっていつまでも人に懇願して、絵を買ってもらう状況にいるのは恐ろしい。」 モネ(29歳、34歳、38歳の時の手紙の一節)

「風がキャンバスを吹き飛ばし、それを拾うおうとパレット置いたら、風がそれも吹き飛ばしてしまった。 私は怒り狂い全てを放り投げるところだった。」 モネ(55歳の時の手紙の一節)

絵を描いてるときにうまくいかないと、癇癪を起こして、絵をナイフで切ったり、足で踏み抜いたり、川に投げ捨てたり、燃やしたりしてます。 生涯を通じて500枚以上の絵を自分で壊してしまったと言われています。  昔はスケッチは外でするが、油絵を描くのは室内ですると言うことが一般的でした。  モネが生まれた頃にチューブ入りの絵の具が登場しました。 印象派の人たちは外で油絵を描くようになりました。

「私にとって風景はそれだけで存在したりしてるのではない。なぜならば瞬間ごとに外観は変わっていくのだから。 周りにあるもの、つまり絶え間なく変化する光や外気が風景に生命をもたらすのだ。  私は周囲の大気こそが、主題に真の価値を与えるんだと思う。」 モネ

モネには「積みわら」とか「ポプラ並木」「ルーアン大聖堂」とか連作があるが、同じモチーフを繰り返し描いています。 時間帯、季節、天候によって見え方が全然違います。 瞬間ごとの変化、周囲の大気をモネは描いてるわけです。 「光のつつみ」と表現しています。

モネが本格的な「睡蓮」の連作を始めたのが189958歳の時です。 ラヴェル(印象派の音楽家)の「亡き王女のためのパヴァーヌ」が作曲されたのも1899年です。

「亡き王女のためのパヴァーヌ」 作曲:ラヴェル

私はいつも信じていた。 私は前に進み、最後には何か価値のあることができると。 しかし、あぁその望みもいまや葬ってしまわねばならない。」 モネ(191372歳の時の手紙の一節)

この頃はモネは、数年間絵を描かなくなってしまいます。 2番目の妻のアリスが亡くなってしまったのが1番の理由と思います。 当時モネの絵は有名にはなっていました。 しかし印象画が過去のものになってきていました。 モネが1874年の33歳の時に仲間たちと開いた最初の展覧会で「印象 日の出」と言う有名な絵を出品しますが、批評家のルイ・ルロワと言う人がこの絵を酷評します。 彼が「印象派の展覧会」と言い始めたのが最初です。 印象派からキュビスム(ピカソ等)に変化していきます。 印象派が古いと言うふうに言われるようになってしまいます。

「描けば描くほど感じたものを表現するのは、下手だと思い知らされるばかりです。  しかし、1つの作品を仕上げたと言える人がいたなら、恐ろしく傲慢なことだと自分に言い聞かせています。」 モネ(18933月モネが52歳の時の手紙の一節) 「ルーアン大聖堂」の連作を書いてるときのものです。

「私は触れることのできないものを、掴もうとしているのです。 それなのにいかに光が素早く走り去り、色を持っていってしまうことか、色はどんな色でも1秒ときには多くても3 、4分しか続かない。 3、4分で何を描かば良いかというのですか。 それらは行ってしまう、止めなければならないんです。  あぁなんと苦しいことか、なんと絵を描くことは苦しいことなのか。それは私を拷問する。 それが私にもたらす痛みと言ったら。」モネ(19188月モネの手紙の一節)

「また、私の視力が変化して、このままでは絵を止めなければならないだろう。 そして描き始めたものも、そのままになるだろう。 なんと悲しいことか。」モネ(1919年終わり頃が79歳の頃の手紙の1節)  モネが71歳の時に白内障と診断される。 画家にとって、絵が見えなくなると言う事はきつい。

モネは「自分が見てるものが何なのかなるべく忘れろ。」と言ってます。  身の回りのものを、改めて初めて見るように見てみると結構面白いと思います。 新鮮の気持ちで生きられる。

「絵を描きに出かける時は、目の前にあるものは何であるかできるだけ忘れるようにしなさい。木であれ家であれ野原であれなんであれ、ただこう思うだけでいい。ここに青い小さな四角形がある、ここにピンク色の長方形がある、ここに黄色い一筋の線があると、そしてあなたの目に見えるままに、その色と形を正確に描きなさい。」 モネ。









2026年4月26日日曜日

宮本益光(バリトン歌手)          ・夜明けのオペラ「モーツァルトの魅力に導かれて」

 宮本益光(バリトン歌手)  ・夜明けのオペラ「モーツァルトの魅力に導かれて」

宮本益さんは、愛媛県八幡浜市出身。 東京芸術大学卒業、東京芸術大学院博士課程を終了。 オペラの日本語訳詞とその方法論で学術博士号を取得しました。  二期会オペラ「ドンジョヴァンニ」でタイトルロールデビュー、その後新国立劇場、鹿鳴館や神奈川県民ホールのオペラ、金閣寺などで高い評価を受けました。 また、作曲、訳、演出などでも活躍、現在は桐朋学園大学教授、東京芸術大学講師として後進の指導にもあたっています。  2018年からは「モーツァルトシンガーズジャパン」を結成、これまで7作品を上演しています。 歌い手として活躍しつつ、オペラに関して様々な分野にも光を当て続ける宮本益光さんに伺います。

与えられることが自分を活かしてくれると言う思いでもありますので、教えることも舞台に立つことも自分を活かしてくる糧として、私は大切にしたいと常々考えています。 53歳です。 歌手なので、少しの不調が喉に現れたり、歌に影響することがあるので、体調は人一倍気を使っています。 

子供の頃から音楽教育は全く受けていませんでした。 小学校の4年の時の先生が鼓笛隊を作ることになりました。 そして、のめり込んできました。 トロンボーンをやるように言われて、選ばれて音楽の才能があるんではないかと勘違いをしました。  全てが楽しかったです。  女の先生の影響力が多かったです。  歌を歌う事は嫌いでした。 中学では吹奏楽部に入りました。 音楽の先生になると言う思いがありまして、高校に入って嫌いだった歌を克服しようと言うことで歌を専攻しました。  

愛媛大学では、教授の素晴らしい先生に出会えました。 高校時代に愛媛県のコンクール、四国のコンクールに出ましたが、毎回最下位でした。 1位の方が東京芸術大学に入学したと言うことを知りました。 私も東京芸術大学に入りたいと思って、先生に話したら東京芸術大学に受かるわけはないと言われました。 親を説得して3浪まですれば受かると言うふうに言って受けることになりました。    なぜか現役で受かってしまいました。 両親は中学を出てすぐ働いていたという事もあって、子供たちにはやりたいことを、与えられる範囲の中で好きなようにやりなさいと言う後押しは凄く感じていました。

回りからオペラを見に行くと言うふうに誘われましたが、オペラを見に行くと言う事はなんだろうなと思いました。 その劣等感が自分を推進する原動力にはなりました。 教育者になりたいと言う夢があったので、指導教官が博士号を取る手段があると言うふうに言われ、博士課程を受けることになりました。 日本語を音声学から研究しようと思いました。 それをオペラの研究に落とし込むには訳詞が良いのではないかなぁと思いました。 オペラデビューは24歳の時の広島オペラルネサスでした。 2004年に二期会の「ドンジョヴァンニ」でタイトルロールデビューしました。 

*モーツァルトオペラの「フィガロの結婚」から「訴訟に勝っただと?」

モーツァルトの作品はほとんど長調で書かれていて、順次進行の作品は推進力があります。 悲しいものも長調で描く。  躍動と煌めきに満ちています。     「モーツァルトシンガーズジャパン」というグループを作りました。 自分たちを作ってくれたモーツァルトの作品と言うものが、心の中にずっと座ってくれています。 それを上演する機会を持ちたいと思いました。 それで活動を開始しました。22作品を全てピアノ伴奏で声楽に特化もしたものとして、レコーディングしてモーツァルトの生涯を追ってみたいと思いました。

「モーツァルトシンガーズジャパン」として、ザルツブルク音楽祭に呼ばれたいとと言う思いがあります。  演じることが好きで、演じることは自分を発見することにすごく似ていて、舞台の上で自分と違うことをやるので、演ずることがより楽しくなります。  「金閣寺」 1つの放火と言う事象が、三島由紀夫の中の文学性、芸術性を刺激したわけです。 私が演じるときに美と対峙している。 美を自分を凌駕するために放火すると言う三島的な発想がありました。 そこに至る葛藤を体現するために、私は何度も金閣寺に行きました。

訳詞の他に自身で作詞もします。

*「うた うたう」 作詞:宮本益光 作曲:信長貴富

良い出会い、良い仲間、良い指導者に導かれて今に至ってるなと思います。






2026年4月25日土曜日

銀粉蝶(俳優)               ・私の人生手帖

銀粉蝶(俳優)               ・私の人生手帖 

NHKでは上質なドラマとして人気を博しているBSドラマ「京都人の密かな愉しみ」でも主要キャストして出演を重ねてきました。 栃木県生まれ、大学進学で上京した頃は唐十郎の「状況劇場」などアンダーグラウンド劇の全盛期、1980年代前半には、劇団「ブリキの自発団」を結成しました。 その後も2010年に第18回読売演劇大賞優秀女優賞を受賞するなど、当時の熱い思いを潜ませて全身全霊で芝居に向き合ってきました。 その確かな存在感はどのように育まれたのでしょうか。 アングラ演劇の魅力、そして今も呪われているとおっしゃる芝居の面白さ、奥深さについてお話を伺いました。

「ジン・ロック・ライム」と言う芝居で、ソロシンガーとして一時期は華やかだったんだけれども、今は少し落ち目になっている主人公の男の人がいて、その主人公の彼はある時、ライブでお客に対して「お前ら俺を消費しているんだろう」と言う言葉で抜倒したりします。 (それが最初のシーン) 今回の舞台はもともとはイプセンの作品です。 「ヘッダ・ガーフレル」と言う面白い作品です。 人間と言うものはわからないものだと言うふうにおっしゃってます。 それを下敷きにして今回は新しい芝居にしました。 若い人の今の生きづらさ、そういうものに作者は寄り添ってるんだと思います。

NHKBSドラマ「京都人の密かな愉しみ」で老舗和菓子屋さんの女将をずっと演じてきました。 放送が始まったのは2015年、11年になります。 最初に依頼があったとき、京都弁は大変だと思いました。 京都弁は難しいです。 ひたすらやるんです。 やるしかないんです。 やって大好きになりました。 「京都人の密かな愉しみ」は美しい宝みたいなものです。 着物を着て正座するわけですけれど、膝が悪くて厳しいんですが、朝から晩までしてます。 立ち上がれなくなっちゃう位です。  それで京都弁なんで地獄みたいなものです。

1980年代初頭に劇団「ブリキの自発団」を設立しました。 小さい頃は映画が好きでした。 映画館が遠い親戚なので毎日見ていました。 本も好きで、世界文学全集を買ってもらって読んでました。 今も変わらないです。 大学で東京に出てきました。 私たちの若い頃は、みんな何かをするような風潮でした。 熱気がありました。 いろんなことにみんな興味を持ってそれを表現することにあまり躊躇しないで、みんな乱暴にやれたと言う時代でした。 60年代70年代でした。

最初劇場へ見に行って「状況劇場」いうのがあってそれを見てびっくりしちゃいました。 世界がひっくり返りました。 見てかっこいいと思いました。  大学を出て、芝居やるしかしょうがないと思いました。 会社の試験を受けて受かっちゃいました。 41日が入社日でした。 自由劇場の入団試験がありましたが、その結果発表も41日でした。 入社式で代表で挨拶しました。 昼の合間に結果を見に行きました。 自由劇場では何百人受けて、そのうちの5人が受かったんですが、その中に私が入っていて、電話で会社に私やめますと連絡しました。

入って研究生として活動しましたが、面白くありませんでした。  自分で劇団を作りたいと思うようになりました。 それが「ブリキの自発団」です。 アメリカのフリップ・K・ディックと言うSF作家がいますが、私は心酔していました。   それを本に書いて上演したいと思ってやりました。 ハードボイルドが好きです。ディックには人生の悲しみがあります。 

心が動かないとつまらないから、そういう機会を自分で求めます。  映画を見たり、本を読んだり、好奇心も強かったです。 当時のアングラの様子は、芝居って事件なんで、事件が起きればいいと思います。 見る方もやる方も喧嘩腰なので熱くなります。 熱気がすごかったです。 映画、芝居、音楽、絵などそういうものって人を呪うんじゃないんですか、取り付かれてしまったら離れない。 今も多分どっかで取り付かれてますね。 ふんわり呪われてる分には幸せに思います。 

私は役になると言う感覚が、自分では薄い人間だと思ってましたが、ある時私はなっちゃうんだとわかったんです。  芝居の世界観みたいなものにずっと入る人間なんです。 芝居の場合はその役を獲得するためには稽古するですね。 芝居の相手と交流する。 考えないでいようと思っても、作品を常に朝から晩まで考えちゃいます。 四六時中考えるタイプです。 だから、調べることがたくさんあります。  稽古なんかはあんまり好きじゃないんですが、芝居をしてる時は誰にも負けない位楽しいです。