2025年2月11日火曜日

三浦尚之(「ミュージックフロム・ジャパン」芸術監督)・ニューヨーカーに日本の音楽を届けて50年

三浦尚之(「ミュージックフロム・ジャパン」芸術監督)  ・ニューヨーカーに日本の音楽を届けて50年 

「ミュージックフロム・ジャパン」はニューヨークで日本の音楽を紹介する団体であり、またその音楽祭の名称でもあります。  その代表が現在は福島市音楽文化総合アドバイザーを務める三浦尚之さんです。 三浦さんは福島市出身、現在83歳。 東京藝術大学を卒業後1966年にフルブライド留学生として渡米ジュリアード音楽院の博士課程で学んで、その後ニューヨークシティーオペラオーケストラの正団員として、コントラバスを演奏していました。  1975年34歳の時に「ミュージックフロム・ジャパン」を設立し、芸術監督に就任、毎年ニューヨークで音楽祭を開催し今年50周年を迎えます。 その半世紀の歴史の中には世界的ピアニスト中村紘子さんのカーネギーホールでのデビューをプロデュースした経験もあります。

半世紀の間日本の音楽だけを紹介してきたというのは、自分でもよく出来たなと思います。 人間何かをやろうと思ったら、気力と体力と財源が必要ですが、時と共に気力と体力が衰えてきますが、信念というのはおとろえないでやってきた気がします。 

1941年福島市出身です。 東京藝術大学を卒業後1966年にフルブライド留学生として渡米ジュリアード音楽院の博士課程で学んで、その後ニューヨークシティーオペラオーケストラの正団員として、コントラバスを演奏していました。 日本では先生は自分では演奏はしない、駄目だ駄目だという。。 ジュリアードに行くとまず先生が弾いてくれる。 大変よく出来た、こうしたらいいのではないかと、前向きに教えてくれる。 育てようとする気持ちがありました。  コントラバスとしての演奏家でずっと続けることがいい事なのかなと思いました。  日本の作曲家が作った作品はほとんど公演、演奏されることがなかったので、日本の作曲家に少しでもお役に立てればと思ったのがきっかけです。 

1975年34歳の時に「ミュージックフロム・ジャパン」を設立しました。 雅楽、太鼓、三味線、琴、尺八などの伝統音楽も紹介してきました。 伝統の楽器で現代音楽を演奏するというものです。  日本人作曲家216人による作品を50年間、およそ660曲を紹介してきました。 湯浅譲二さん、武満徹さん、三枝成彰さん、岩城宏之さん、三味線の二代目高橋竹山さんなど多岐に渡る方々と50年間やってきました。 

ニューヨークタイムスが毎年評価して掲載してくれました。(書かれること自体が凄いことです。)  第一回1975年湯浅譲二さん(当時45歳)の作品を紹介しました。 1982年カーネギーホールで中村紘子さんが凄い演奏して、私も感動しました。 矢代 秋雄さんの現代音楽のピアノコンチェルトです。 ニューヨークタイムスも評価して頂きました。 20周年記念の1995年 三島由紀夫原作 オペラ「金閣寺」黛 敏郎さん作曲を英語版にしてアメリカ初演を実現させた。 すべてがアメリカ人での公演で4回もできて感動的でした。 日本バッシング、テロが有ったり、いろいろあった50年でした。 資金面についてはアメリカの日本の企業を回って支援して頂きました。(最初の10年) 支援者側は華やかに終わって欲しいという事だったが、或る作曲家の方からはこの曲を最後に演奏して静かに終わって欲しいという要望があり、悩みました。 日本の文化の観点からいうと華やかに終わるというよりも、心に沁み渡る音楽を作りたいという気質があるのではないかと私は思いました。  静かに終わってもスタンディングオベーションがあり、アメリカも変わってきました。  

東日本大震災があり、その後2018年に北米音楽評論家協会からお金を出してもらって10名の方が福島に来ました。  福島がいかに安全安心なところになってきたという事を見ていただきたかった。  地元の肉、野菜での素朴な弁当が一番おいしかったと言っていました。 福島出身の作曲家古関 裕而は5000曲余りの作品を作りました。 音楽は知れ渡っているが、古関 裕而を作曲家として紹介したいと思いました。 誰にでも親しまれる音楽を作曲しています。 2020年連続テレビ小説「エール」で実現することが出来ました。 










2025年2月10日月曜日

松崎しげる(歌手・俳優)         ・〔師匠を語る〕 松崎しげる、西田敏行を語る

松崎しげる(歌手・俳優)         ・〔師匠を語る〕 松崎しげる、西田敏行を語る

去年の10月俳優の西田敏行さんが亡くなりました。  松崎しげるさんと西田敏行さんの二人が無二の親友だったという事は良く知られていますが、松崎さんにとって西田敏行さんは人生の師匠であったとも言います。 無二の親友であり人生の師匠であるという二人のドラマ、松崎さんにお話しを伺いました。

彼の喜怒哀楽というものに洋服を着たような男、彼は晩年よく表現者と言っていました。  あの人は僕のお手本であったことは確かです。 お互いのいいところを完全に理解してくれるいい相手でした。 お互いに尊敬する部分は物凄くありました。 最近5年間ぐらいでよく言っていた言葉で「老いを楽しもう。」という事、僕が70歳を迎えるころでした。 

西田敏行さんが生まれたのは1947年、福島県出身です。 中学を卒業後俳優を目指して上京、明治大学付属中野高校から明治大学農学部入学しますが大学を中退し、日本演技アカデミーで演技を学びました。 1970年劇団「青年座」に入団、翌年舞台「写楽考」で直ぐに主役を務めます。 1976年森繁久彌さん主演のテレビドラマ三男三女婿一匹』で注目を集めたあとは、映画、ドラマでも活躍し、テレビドラマの池中玄太80キロ』シリーズ、映画「釣りバカ日誌」シリーズ、NHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」、「八代将軍吉宗」など数多くの作品で主演を務めました。 又歌手としても1981年にリリースした「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットします。 東日本大震災と原発事故で被災した故郷福島の復興に様々な形で関わって来ました。 突然の訃報が届いたのが去年の10月、西田敏行さん76歳でした。 

僕が柴俊夫さんの家に居候していました。 「坊ちゃん」の坊ちゃん役をやっていて、山嵐役の西田敏行がこの演技に魅了されて、そこから話が始まり会う事になり、そこから意気投合ですかね。 破天荒な役者さんという感じがしました。 即興の歌でお客さんを楽しませてくれました。 70年代前半は楽しい時代でした。  1977年紀伊国屋演劇賞、ゴールデンアロー賞を受賞。 私も愛のメモリー」がリリースされるや64万枚の大ヒット、日本レコード大賞歌唱賞など数々の賞に輝き、第28回NHK紅白歌合戦にも初出場まました。 テレビドラマのオファーが来るようになりました。  「可能性があることは何でもやるんだよ。」と耳にタコができるほど言われました。  

悲しい歌を歌う時に悲しい顔でうたったら、西田から「最初から何で悲しい顔をして歌うんだ。 何でもドラマというものがあって、段々悲しみが行くんじゃないのか。」 と言われました。 一つ一つの積みかさねがサビになってゆくんだと思いました。 1970年代後半に言われた言葉は、僕の歌い手人生の中で非常に的を得たアドバイスでした。 

刑事ドラマ噂の刑事トミーとマツ』に出演したころには、西田も池中玄太80キロ』シリーズが始まって超多忙な時代でした。 朝5時に起きて夜中の2時、3時迄撮影をやっていたのが当たり前の時代でした。 そんな忙しい仲でも二人で飲んでいました。 忙しいなか、二人でお金を貯め込んでブラジル、リオのカーニバルに行くことにしました。。 渡辺貞夫さんと出っくわして盛り上がりました。  イグアスの滝へはヘリコプターで行きました。

2022年にリリースされた「夢に隠れましょう」は 松崎、西田の始めてのデュエット曲です。  ツーテイク目の時に西田が、「おい 大部飲んだな。 でも弱くなったよな。 でも好きな相手と飲んでいる時が一番楽しいな。 じゃあ今夜もいきますか。」という話を間奏で言ったら、そのまんま使われてしまいました。 

訃報を聞いたときには立っていられなかったですね。  深呼吸をした後にとめどもなく涙があふれてきました。  本当に辛い一日でした。  見つめるしか術がなかった。 これで全て肉体が無くなってしまうんだと思った瞬間、奥さん、家族が耐えられなくなって号泣し、僕は「西田 日本一」と声を掛けずにはいられませんでした。 

ラインからのメッセージ

「長く曲がりくねった道をたくさん歩いて来たね。 西田、まださようならは言えない。 ・・・僕の胸の中でさようならの言葉が、こんなに重くてこんなに残酷な言葉だったんだね。 今知りました。 西やんの肉体に思わず叫んだ。 「西田、日本一」 ・・・  西田年行は喜怒哀楽が服を着たそんなような人間です。 半世紀僕は貴方と生きてきました。 思い出と共に生きていきます。  だからさようならという事はちょっと待ってください。」 











2025年2月8日土曜日

佐々木良(作家)             ・現代“わかもの”言葉で、万葉集を詠む

佐々木良(作家)             ・現代“わかもの”言葉で、万葉集を詠む 

万葉集は現存する最古の歌集で、天皇から庶民まで幅広いい詠み人の歌のおよそ4500首が納められています。 佐々木さんは万葉集に納められた歌を現代の若者たちが使う言葉を使って訳し「愛するよりも愛されたい」 「太子の少年」というタイトルで出版、これが面白いと共感すると口コミでひろがり、発行部数20万部を超える異例のヒットになりました。

右のページに佐々木さんの訳の万葉集の現代版、左のページにオリジナルの歌が書いて注釈がある。 

大伴坂上郎女が恋人の官僚の藤原麿に宛てた歌。

「来(こ)むといふも来(こ)ぬ時あるを来(こ)じといふを来(こ)むとは待たじ来(こ)じといふものを」

佐々木良 訳

「くんのかいこんのかいくんのこんのいやこんのかい」

プロポーズしてくれるのかくれないのかやきもきした歌ですが。頭で韻を振っているのでいかしたかった。 SNSなどで、令和の言葉は短い。 面白いと思った90首ぐらいを一冊に納めました。 

ますらおや 片恋せむと 嘆けども 醜のますらを なほ恋ひにけり」 舎人皇子

佐々木良 訳

「イケメンの俺が 片思いなんかするかよ て言ってたけど したわwww」

「愛するよりも愛されたい」が17万部、「太子の少年」は6万部です。 

大阪出身の39歳、京都精華大学で油絵を専攻、卒業後は香川県の美術館で働く。 絵から文章に目覚めました。 手島の美術館設立プロジェクトに参加しました。 万葉集に行きつきました。

最初は500部作って、結婚式の引き出物として配っていましたが、面白いという事で20万部にもなって吃驚しています。  万葉集が出来た時代、当時は奈良弁が標準語だったので奈良弁にしました。 

白雲の五百重に隠り遠くとも宵さらず見む妹があたりは」 柿本人麻呂

佐々木良 訳

「無数の星で姿が見えなくなっても全集中で君のほうを見てるからね ほなね 織姫」

次は佐々木良 訳を最初に記載。

「いつでも心に愛はあんにゃけど今日は特に気合いはいってんで 仕事終わったら秒で合コンにゆく はっしゅたぐ(#)彼氏ほしい  #恋したい」

元歌

いつはしも恋ひぬ時とはあらねども夕かたまけて恋はすべなし」  作者不明


「奈良市内はいろいろ行きやすいけど 市街はどっち行ったらええかわからへん だって地図だらけやもん #奈良 #地図記号卍しかない #マジ卍」

元歌

あをによし奈良の大路は行き良けどこの山道は行き悪しかりけり」 中臣宅守

元歌

我が欲りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙げせずとも年は栄えむ」 大伴家持

佐々木良 訳

「待ちに待った雨が降ってきた 今年は絶対豊作になる 皆が幸せになる」


 











2025年2月7日金曜日

奥津隆雄(飯能ホライズンチャペル牧師)  ・平和と和解 横浜追悼礼拝の30年

奥津隆雄(飯能ホライズンチャペル牧師)  ・平和と和解 横浜追悼礼拝の30年 

横浜市保土ヶ谷に英連邦墓地があります。 ここには戦時中シンガポールや香港などで日本軍の捕虜になって日本に送られ、命を落とした英連邦の捕虜など1800人余りが眠っています。 墓地では平和を願う日本人の呼びかけで戦後50年の1994から毎年英連邦捕虜追悼礼拝が行われています。 なぜ追悼礼拝が始まったのか、 追悼礼拝の背景にはどのような経緯があったのか、「平和と和解 横浜追悼礼拝の30年」という事で英連邦戦没捕虜追悼礼拝実行委員会代表の奥津隆雄さんに伺いました。 

今年31回目になります。  英連邦墓地は日本人に知らない負の遺産ではないかと思います。  日本に連れてこられた方は約3万6000人と言われています。 そのうちの約1割が日本で亡くなられたと言われています。  日本には捕虜収容所が約130か所あったと言われています。  英連邦墓地には約1800人が埋葬されています。 追悼礼拝の呼びかけ人は3名いました。 永瀬隆さん(元日本陸軍通訳)斎藤和明先生(国際基督教大学名誉教授)雨宮剛先生(青山学院大学名誉教授)が呼びかけ人となり始めました。 

永瀬隆さんはタイに通訳として送られましたが、泰緬鉄道建設現場でした。 捕虜とタイ人が使われて多くの方々が亡くなられました。 捕虜の虐待の場面に出くわしました。 戦後墓地探索に通訳として同行する経験がありました。 遺骨が沢山出てきて、日本軍はこんなことをしていたのかという思いから、日本に帰ってきてから慰霊をしなければいけないと思ったそうです。  捕虜の方は6万何千人と言われています。 そのうち1万3000人が亡くなったと言われています。 アジア人労務者は25万人以上の方々が動員され、数万人が亡くなられたと言われています。 その鉄道は「死の鉄道」と呼ばれ枕木一本一人亡くなったという事で、日本に対する嫌悪感を長く持っていた。 捕虜に対する扱いが、非人道的、人間としては見ていなかった。  熱帯病の蔓延する場所であったにも関わらず、薬もほとんどない、食料も乏しい、加えて重労働、虐待があった。 

1944年8月5日オーストラリアのカウラで日本人の捕虜の方たちが一斉蜂起して脱走を試みる。  捕虜になって生き延びるぐらいだったら死んでしまえ、というような軍の教育で、脱走を試みた カウラ事件です。 永瀬さんがカウラに訪問した時期があったようです。 戦後数十年も放置された日本兵の埋葬地を見るに忍びず、オーストラリアの帰還兵の方が中心になって新たに日本兵の立派な墓地をオーストラリア戦没者墓地の隣接地に作って、日本公園も設置、桜並木も作った。 カウラ市民1万人が一丸となって毎年日本兵のために慰霊祭を行っている。 それを知った永瀬さんは、保土ヶ谷には英連邦戦没者墓地があるので、追悼行事を始めようと戦後50年を機に始めたというのがきっかけになります。斎藤和明先生は2008年、永瀬隆さんは2011年、雨宮剛先生、関田先生も亡くなられています。 

1987年青山学院大学に入学した後、英語の先生が雨宮剛先生でした。 授業ではよくフィリピンの話をされて、貧困の問題、戦争の傷跡、国際協力などのことについて話していました。 先生の話に惹かれ、先生との交流が深まって行きました。  先生からアメリカに留学しないかという事と、フィリピンに行ってくれないかという事を言われました。 生の体験から学んでほしいという事でした。  アメリカではキリスト教の信仰を持つようになって、クリスチャンになり牧師の道を進みました。  フィリピンには1989年に行きました。 今日本人として生きているのはどういう意味があるのか、という事を深く考えさせられました。 雨宮先生から追悼礼拝のことを知ってかかわる様になりました。 アメリカではいろいろな人とのいい出会い、いい交流がありました。 

以前、エリザベス女王、ダイアナ妃、王族、首相も日本に来ると墓参に訪れます。  2007年7月、雨宮先生と追悼礼拝の下澪に来ていた時に、アルバート・ベイリーさんという方の墓碑(26歳で亡くなる)に刻まれた言葉にグッときました。 どんなに家族に会いたかったのだろうと思たら、涙がこみ上げてきました。  そこにアルバート・ベイリーさんの甥の方が見えて吃驚しました。 話をしてその年の追悼礼拝に来てくださいました。  

平和を継承するというのは地道な作業の積み重ねだと思います。 追悼礼拝の参加者は200名ぐらいですが、地元の高校生が先生と共に参加してもらっています。 去年は岩手県釜石市から中学の先生と高校生2名が参加して頂きました。 釜石では軍需産業があるという事で艦砲射撃を受けたという歴史があります。 連合軍捕虜収容所も攻撃を受けて32名の捕虜の方が亡くなっています。 

永瀬隆さんは「英連邦墓地はかけがえのない宝物だ。日本と各国の親善と平和を繋ぐ太いロープだ。」と書いています。  雨宮剛さんは「この墓地を訪れ瞑想してほしい。 これに勝る歴史の教科書はない。 日本人の良心の発信地として100年後も継続することを夢見る。」と書いています。 関田先生は「武力による平和ではなく、愛と共生の社会を作ることによる平和を作って欲しい。」と、斎藤先生は追悼礼拝の趣旨文を書いた先生で、書いた数日後に亡くなられているので、これは斎藤先生からの遺言になっています。 「平和を作り出すことは困難だが、困難だからこそ私たちの考えや行為が平和を作り出しことへ向けられるべきです。」とおっしゃっています。

継承は愛のある人間関係の広がりによって行われるんだと思います。 






















2025年2月6日木曜日

小林旭(俳優)              ・マイトガイは永遠! 後編

 母親は戦前は芸者で小唄・端唄の師匠で三味線などの芸を身に付けていました。 子供の頃はよく民謡等を歌っていました。 

*「アキラのダンチョネ節」 作詞:西沢爽 作曲:遠藤実 歌:小林旭

役者は台本があり、作られた世界の中で台本通りにしゃべってそれに感性を乗せて、それなりの世界を演じないといけないという役目があるけれど、歌の場合は書かれたものにメロディーがついて、メロディーという隙間の間でもって出てくる言葉は自分なりに解釈が付くから、全然世界が違う。 歌の場合には一つの言葉についても自分の解釈の中で表現の仕方が変って来る。  制約されないから歌の世界は八方破れで、とっても気持ちがいい。 芝居の方は制約されるだけに、堅苦しいところがあり、やりにくいところはやりにくいところがあります。

ひばりが持っていた歌の世界は裕ちゃんと同じようなオーラを持っていて、歌が始まった時の世界は360度どこから何を突っついてもゆとりばっかりの大変な世界です。 別の道を歩むようになって偶然福岡で再会しました。  「何故待っていてくれなかったのか」と言われましたが、よく判らないが考えると思い当たることはいっぱいあります。 一緒にいたかったという事はあるのかも知れません。 美空ひばりという人の周りの連中が、一人の歌手美空ひばりとして取り扱っゆく世界が別個にあったのが良くなかったんじゃないかな。   人間加藤和江という中で、美空ひばりという世界に溶け込まずにいる部分でもって生活する別の路線があれば、小林旭とも上手く行っていたかもしれない。 

1967年(昭和42年)には女優青山京子と再婚。 長女の真実と長男の一路の二子に恵まれる。 青山京子さんは回顧録のなかで、家庭での素顔について、「スクリーンのうえでは華々しく観られる小林旭はその実仕事を離れると孤独な一面がございます。 内気でもございます。 その人の好さのためから、弱さを女の強い一本芯、そっと目立たない程度に末永く支えることが出来たと思っております。」と述べています。  莫大な負債を抱えている時も支えていきました。 何十億という負債を平気な顔をして後ろで計算していてくれた。 大変で凄かったと思う。 

歌の仕事があって小林旭は助かったと思います。 借金の返済が出来た。

昔の名前で出ています」  作詞:星野哲郎 作曲:叶弦大 歌:小林旭

昔はスターが頂点にいて、憧れがあった。 今は平べったくなってしまって、憧れというものがない。 それだけ世の中がつまらなくなってきている。  

オンラインだけで学ぶサイバー大学に入って4年間ITなどを勉強して卒業しました。 パソコンをやるうえで必要なことは学べたけれど、どこにどう活用できるかというと、ただ自分で楽しむだけになっちゃっています。  ユーチューブを開設する。 ユーチューバーでお金が儲かるみたいなバカげた世界になってきて、ユーチューブは今はピンとこない。 

熱き心に」 雄大な歌です。 1年ぐらいは歌を掌握できなかった。 或る時歌っている時にピリッと掌握しました。 

*「熱き心に」  作詞:阿久悠 作曲:大瀧詠一 歌:小林旭

86歳になりますが、言われるままに好き勝手なことをバリバリやってきて、よくやってきたと思います。 来年は芸能活動70周年になります。  ここまで来られたことがとっても不思議です。 目に見えない多数の力に対して、責任感は感じます。 やれるうちはやろうと思います。















2025年2月5日水曜日

小林旭(俳優)              ・マイトガイは永遠! 前編

小林旭(俳優)              ・マイトガイは永遠! 前編 

小林旭さんは1938年東京生まれ。  1956年映画デビューし、マイトガイの愛称で国民的スターとなりました。 歌手としても多くのヒット曲があります。 映画の黄金時代を中心に伺います。 

マイトガイは死なず 小林旭回顧録」を昨年出版。 すべての歯車が良好に回っていた時期で、何をやっても許されると言う様な感覚を持つぐらいに大事にされた時代です。 昭和36年にアメリカに行きましたが、そのころはまだあまり海外に行くことは盛んではありませんでした。 日活に入ったのが昭和30年、デビューが昭和31年。 川島雄三監督映画『飢える魂』で正式にデビュー。  1959年(昭和34年)、映画『南国土佐を後にして』がヒットし、石原裕次郎と並ぶ日活を代表するスターとなる。  シーンを撮るのにも奇跡的なことが映画の中に仕事中の最中にありました。  アクションでもギリギリのところで上手くいっていました。 

昭和36,37,38年ぐらいまでの、ひばりが結婚を申し込んできてごちゃごちゃいう様なことが起きるまでの3,4年の間はやりたい放題やってはしゃぎまわっていました。  すべてついていました。 その後「渡り鳥シリーズ」、「流れ者シリーズ」など沢山あります。 石原裕次郎らとともに日活の黄金時代を築く。 毎月1~2本撮っていました。  1本撮るのに2週間ぐらいでめちゃくちゃでした。 当時は興行成績で会社の株価が上がったり下がったしました。 映画が産業と言われた時代でした。 ですからアクション一つでもいい加減なことはやらないと、仕事で死んだら本望だとそういった責任感で仕事をしていました。 ビデオでは消せるけれどフィルムの世界は一遍撮ると消えないんだと、厭というほど言われました。 

ジャッキー・チェインは幼少のころから日活の映画をよく観ていたそうです。 その中で小林旭のアクションというのは、とっても面白かったといっていて、小林旭の作品は全作品を観て、アクションが目に焼き付いて、そのアクションを少しでも良く見せようという事をやっていきたくて鍛えて努力した。 だから貴方は俺のアイドルだと彼は言っていました。  会場で「マイ アイドル」と言って飛びついてきましたが、ちょっと照れ臭かった。

石原裕次郎さんは4歳上ですが、錆びたナイフ』で共演することになりましたが、ツーカーの中で兄弟みたいに付き合っていました。 彼は「役者なんていう仕事は男一生の仕事じゃあねえぞ」と言っていましたが、彼は早死したけれど死ぬ間際まで石原軍団を大事にして頑張っていたので、やっぱり男一生の仕事だったんだね。 

銀座で裕ちゃんと飲んで、酔った勢いで京都に行こうと言いう事になり、萬屋錦之助さん、勝新太郎さんと一緒に遊びました。 石原裕次郎という人は稀代のスターですよ。 何ともいえない人間の魅力、でかさは皆さんお持ちではなかったですね。 360度どこから突っついても隙がなくふんわりと受け止めてくれるゆとりがあった。   

歌手デビュー第二弾のレコード「ダイナマイトが百五十屯」がヒットし、ダイナマイトのマイトの部分だけを取って、マイトガイと命名されることになる.。 宍戸ジョーにはエースのジョーと付けることになりました。 ○○ガイというのではなかったので不貞腐れてはいました。 ○○ガイとつけて売り出したかった時代の産物です。  ダイアモンドラインと称していましたが、そこが崩れて新しく赤木圭一郎、和田浩治を加えて新しいダイアモンドラインを作りましたが、中途半端に終わってしまいました。 

アクションがあり正義が勝ち、悪が滅びてというような単純な映画を作るものは今はないです。 












2025年2月4日火曜日

若竹千佐子(作家)            ・作家デビューから7年 今も毎日賢くなる!

若竹千佐子(作家)            ・作家デビューから7年 今も毎日賢くなる!

 若竹さんは岩手県遠野市出身。(70歳)  63歳にして小説「おらおらでひとりいぐも」で作家デビュー、2017年に文芸賞を最年長で受賞し、翌年には芥川賞も受賞、その後映画化もされました。 若竹さんは20代を臨時採用教師としてすごしたのち結婚、現在千葉県に暮らしています。  夫の死をきっかけに長年の夢だった作家を目指し、55歳で小説講座に通いました。 「おらおらでひとりいぐも」は世界で10か国を越える国々で翻訳され、ドイツでは著名な文学賞リベラトゥール賞を受賞しました。  第二作は「かっかどるどるどぅ」でフリーターや高齢女性たちの共同生活を描き、好評を得ました。 昨年秋には初のエッセー集「台所で考えた」を出版しました。  作家デビューから7年、70歳を迎えた若竹さんに、老いや一人暮らし、作品に込めた思いなどを伺いました。 

おらおらでひとりいぐも」ですが、主人公が方言で内面を語るという小説は今までなかったという事で、属性としてある登場人物を語るために方言で語ることはあっても、主人公が方言を言うのはとても珍しいという事で、印象的だったみたいです。 台所で考えた」の最初のところに最初に受賞した文芸賞受賞した言葉が有ります。 「いつかきっと小説を書くのだと子供の頃から思っていました。」と書いてありますが、本当にそうです。 目指すは青春小説とは対極の玄冬小説(老いとか)。 私自身がそういう風に生きていかなくてはいけないと思っていたので、自分を励ます小説を書こうと思っていました。

子供の頃は本は読みましたが、たくさん読んだという風ではありませんでした。 小説家がキラキラした目標でした。  そこそこ幸せではあったが、自分が学んだことを生かしてなくて、家庭で収まているという事が悔しいというい思いはありました。  その想いが63歳まで続いたと思います。  テーマが見つからなかった。 55歳ぐらいで夫が亡くなったり、考えることが一杯あって、判ったことを書くんだと思いました。 夫は急逝したのでショックでした。 想っていることなどをノートに書き記しました。 長男からのすすめをきっかけに、小説講座に通い始めました。(四十九日の翌日) 小説講座には8年通いました。 

おらおらでひとりいぐも」を書いたのは60歳過ぎてからです。 2017年、『おらおらでひとりいぐも』で第54回文藝賞を史上最年長で受賞しました。  夫が亡くなった悲しみもありましたが、自由というものもありました。 私は私の責任で何もかもやってゆくんだと思いました。  私が経験して判ったことが小説のテーマなので、探しているものがやっと見つかったという感じです。  老いは今までの経験を通して、自分が生きることはどういうことかという結果で成案を得る。  

一作目は一人で力強く生きる70代の女性、二作目は人とつながりを求める、分かち合う喜び、助け合う喜び、但し弱者です。  強い女で孤独を良しとしている人間ですが、世のなかにはそうではない人がいっぱいいる。  その人たちが孤独をどう生きるんだろう見たいな、桃子さん(主人公)は内側に向かう人間ですが、それだけではいけないなあと思っていました、後は私の個人的な体験で、100日入院したこともあり、リハビリで老人ホーム的なところもあり、そこでの生活も結構楽しく過ごせました。 皆とわいわいしているのが楽しかったです。  皆で連帯して生きてゆくというような小説を書いてみたかった。

20代を臨時採用教師としてすごし、挫折の時代でした。 非正規の人の気持ちはよくわかります。 (非正規の人が)4割とかで子供がいないというのが少なくなっているのは当たり前ですよね。 世の中は絶対おかしいなと思っています。  

台所で考えた」はエッセー集です。 エッセーを書くという事は好きじゃないです。 小説の方がやりがいがあるような気がします。  感情がこもった文体、語り物の文体が好きです。 私は若い頃は判らないことが一杯ありました。 歳を取って来ると判ることがいっぱいあります。  衰えはあるが、知性、物事の判断、洞察する力は絶対大きくなっている。  人間は経験を通して大きくなるんだと思います。