2026年5月20日水曜日

本田孝一(日本アラビア書道協会会長)    ・「アラビア書道に魅せられて」

 本田孝一(日本アラビア書道協会会長)    ・「アラビア書道に魅せられて」

今、全国のカルチャーセンターなどで、アラビア書道が注目を浴びています。  アラビア書道は印刷技術がなかった時代に、イスラム教の聖典であるコーランの言葉をより美しく書写しようと始まった文字です。 アラビア文字を使う国々は1000年の年月をかけて、各国の地域の美意識のもとで洗練されてきて、芸術となって広がってきています。 アラビア書道は、イスラム教徒の関わりが強く、その聖典であるコーランを書き表すために発展してきたと言われてきています。 アラビア書道は日本の書道と違って、表面がツルツルの紙に細い竹か葦の先端を削って、彫刻刀のようにナイフ状にして、先に墨をつけて書きます。 そしてアラビア文字は基本的に右から左に横に書きます。 そのアラビア書道を指導しているのは、本田考一さん(80歳)、東京外国語大学アラビア語学科卒業後、通訳として中東地域に滞在中にアラビア書道に出会い、その美しさに惚れ込みました。 アラビア書道家の本田考一さんに伺いました。

毎日作品を作ってます。 横1.5メーター位の円の中に1つのコーランの書を全部入れ込んでるような作品を作っています。  完成まで2、3ヶ月かかります。    アラビア語を母国語としている国としては、21カ国以上あると言われてます。  それと関連しているのがイスラム教です。 7世紀にできて、アラビア語アラビア文字が各地域に広がっていきました。

20代後半から30代にかけてサウジアラビアに滞在しました。 アラビア語を使って仕事をしていました。  文字の美しさに惚れ込んでしまいました。 東京外国語大学でアラビア語の倍率が低かったので選びました。 大学紛争の時代で勉強はできませんでした。 就職はせず、アルバイトなどをやっていました。 本をひっきりなしに読みました。 自分はどういくべきか、先人たちはどこ言っていたのか、世界中の宗教書、仏典などを読みました。

ある時、後輩から呼び止められてアラビアへ行きませんかと誘われ、サウジアラビアに行くことになりました。  地図を作るためにいろいろな情報を集めると言う仕事でした。(地名、町の名前、山の名前などの情報) アラビア語はほとんどできませんでしたけれども、現地の人に教わったりしながらだんだん覚えてきました。仕事で行ったリビアではアラビア語をオンリーでした。 英語フランスなど全てだめでした。(仕事のプロジェクトに参加) 最低限の言葉が使えるようになったのは3年位でした。 アラビア文字に美しさを感じました。 書道家に習うようになりました。5年ほどで日本に帰ってきて会社を辞めてしまいました。(結婚もしていた)

1988年イラクで大きな書道家たちのフェスティバルがあるからということで、招待状が来ました。 私が書いたものが、新聞の1面でどんと出てしまいました。   (政治的な側面があるって言うことを全然知りませんでした。)  自己流だったので、良い先生からゼロからやらなければダメだと言われました。 先生からお手本をいただき勉強しました。  トルコの書道の大先生に引き合わせていただき、郵便でのやりとりして10年ぐらいやりました。 アラビア書道の免許皆伝をいただきました。

1998年位から自分の作品を作ると言うことにシフトしていきました。  いろいろなところで発表会を開催しました。 海外の数箇所で個展をやりました。  自分でデザインもするようになり、それも評価されるようになっていきました。  日本では「書は人なり」と言う言葉がありますが、アラビア書道では「書は神」といいます。 神様の言葉をより美しく書くと言う作業なんです。 ですから個性はないです。 世界にそういう文字芸術と言うのはないです。 ですから私は惹かれました。意味がわからなくても、美しいと感じると、自分で書いてみたいと言う人が出てきます。 日本の書道で培われた伝統かと思います。 文字芸術を日本人はすごく高く理解できます。 マレーシアで、英語でアラビア書道を説明したテキストを出します。  日本流の精神に基づく事によるアラビア書道テキストです。 文化交流になっていくと思います。





2026年5月19日火曜日

佐藤清隆(広島大学名誉教授)        ・「“神の食べ物”チョコレートに選ばれて」“チョコレート博士”

 佐藤清隆(広島大学名誉教授) ・「“神の食べ物”チョコレートに選ばれて」“チョコレート博士”

佐藤さんは愛知県生まれの79歳、 広島大学名誉教授、元は名古屋大学工学部で食品に使われる食品油脂を物理学的に研究していた工学博士です。 ある時その研究が大手チョコレートメーカーの目に留まり、チョコレート研究の世界に足を踏み入れます。 そこで佐藤さんはチョコレートのおいしさを大きく変える仕組みを発見、国内外で高く評価され、数々の賞を受賞しました。 近年はカカオ豆の起源や歴史、生産地の課題にも目を向け、チョコレートを通して生産者を支える活動を続けています。 チョコレートにかける佐藤さんの思いを聞きます。

学生時代は名古屋大学の工学部応用物理学と言う学科で博士課程を出まして、その後広島大学の生物生産学部の食品物理学と言う研究室に入りました。 油の結晶の性質を研究していました。 チョコレートの油ココアバターといいますがそれに出会いました。 ココアバターはチョコレートの原料、カカオ豆を発酵して乾燥してローストしてすりつぶして絞ると、天然の油脂が出てきます。 チョコレートを口の中に入れすっと溶けてとろける感じが出て固まった後、表面がつやつやしてパリッと割れると言う、そういう食感を作ってる主役がココアバターなんです。

チョコレートを作ってる大手の日本の会社から話が来ました。 1986年チョコレートを放って置いたりすると、表面が白くなって美味しくなくなると言う、そういう問題で頭を悩ましていました。 ファットブルーム、油の結晶が性質を変えてしまうことから出てくる現象です。 メーカーでは年間億単位の損失を出していると言う状況でした。 チョコレートの製造の中では、カカオバターの固め方が大事だと言うことで一緒に研究をやってほしいと言われました。 若手社員の育成についても依頼されました。

ココアバターの結晶になる時に結晶の種類が6種類あります。 それぞれ固まる温度、溶ける温度、味も違ってきます。 コントロールが難しい。この5型の結晶を作って維持すれば、チョコレートの製品が安定して、ファットブルームが起きにくなるんではないかと予想しました。 分子設計をすればいいんだと言うことに気が付きました。 1989年にアメリカの雑誌3本論文を発表しました。 世界から注目を集めました。外国のチョコレートメーカーに行っていろいろ教えました新しいチョコレートの製造技術にもつながっていきました。 アメリカ、ヨーロッパで5つの賞を頂きました。

材料のカカオ豆についても関心を持つようになりました。 産地によって味が違います。 その原因を知りたくて、2007年ごろから9カ国を訪ねて、チョコレートはできるまでの歴史を含めた壮大な世界があると言うことに気づきました。 ベネズエラはカカオの発祥の地です。 カカオ豆は熱帯でしか育ちません。 カカオ豆の中には油が半分ぐらい含まれていますが、残りはタンパク質、栄養成分で、カカオ豆の油が固まってしまうと、栄養が不自由な分なので芽が出ないんです。  カカオは豆の周りを甘くして動物を引き寄せますが、豆は渋いので、豆の周りの果汁を食べて糞として豆が出てきます。 それでカカオの生産範囲を広げていってます。

カカオの底知れぬ大きな魅力に引き込まれました。 氷河期があったりするとアマゾンの原流域でしかカカオ豆は残りませんでした。 人類がアマゾン川の流域にやってきて、約15,000年前カカオ食べ始めます。 重要な食料です。 チョコレートにはポリフェノールが豊富にあります。 昔から体に良いと言う事はわかっていたんじゃないかと思います。 2018年に、人類がカカオを飲んでいた痕跡がある最古の遺跡が南米のエクアドルの熱帯雨林あることがわかりました。 偶然土器の中からカカオ豆を発見しました。 それまでは北米と言われていました。 エクアドルでは重要な儀式にカカオが飲まれていたようです。

カカオの農園で起きている問題にも関心を持つようになりました。 天候、異常気象、病害に対して常に戦っています。 貧困と言う問題もあります。 3年前にカカオショックが起こりました。 バレンタインのチョコレートも非常に高くなりました。  異常気象がアフリカを襲いカカオ育たなくなってしまって、去年は数年前の4倍に価格が値上がりしました。  

リスクを分散させる必要があります。新しい土地でカカオ豆を生産するサポートが必要である。 南緯北緯20度以内の熱帯地方では、基本的にカカオを生産できます。 僕はフィリピンに注目しています。  生産地を多様化していくと言うことで力を入れてやっています。 遺伝子の解明がカカオの世界にも入ってきて、異常気象に対して抵抗性が高いとか、病気に負けないと言う種類の開発も今研究されています。 チョコレートの奥深い世界に、次々と引き込まれてきました。 1000万年前にカカオは生まれたらしいですが、何度も氷河期を襲いましたが、彼らはそれを乗り越えて、カカオのしたたかさに見習いたいと思います。 ファットブルームが起きない様な技術が出来そうなので是非完成させたい。 





2026年5月18日月曜日

水島結子(琵琶演奏家)           ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

水島結子(琵琶演奏家)       ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠 

水島さんは東京都出身、早稲田大学で琵琶サークルに出会い、演奏のみならず、かつて琵琶愛好家達のために発行された「琵琶新聞」についての研究も始めました。  大学4年生のときにはアジアの芸能をさらに研究したいと、韓国ソウル大学国学科(伝統芸能科)に交換留学。 現在は鶴田流古典曲の研鑽を志し、友吉鶴心に師事しています。 琵琶を始めて今年で25年目、演奏活動を中心に若手の育成、近代琵琶の研究、さらにはSNSでの発信など、琵琶の魅力を広めるために精力的に活動しています

琵琶に関することは歴史だったり、楽器だったり、何でもやりたいと言う形で演奏のみならず首を突っ込んでいます。 琵琶の白い部分は象牙ですが、人工象牙を作っています。(海外演奏が難しくなってきている。)  正倉院にある螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)は、国宝になっている。 頭がまっすぐですが、これは外国からもらったもので、日本の琵琶の特徴として頭の分が直角に曲がってます。  琵琶は4弦が基本ですが、私の鶴田流は5弦5柱の流派になってます。フレッドは昔は米粒でつけてましたが、1674年以降フレッドを高くして音を出すような風に改良されました。 

日本には雅楽の楽琵琶と平家琵琶があります。盲僧?琵琶というのがありまして、近代琵琶は薩摩琵琶と筑前琵琶があり、全部で5種類あります。 平家物語に使うのは平家琵琶です。 薩摩藩独特の琵琶を作ろうと言うことで、薩摩琵琶ができました。  筑前琵琶は、三味線音楽が江戸時代に流行るので琵琶に逆輸入しています。 筑前琵琶は三味線っぽく弾きます。 筑前琵琶は桐でできていて、薩摩病は桑でできています。 バチは柘植を使います。 世界で1番大きいビックと言われています。

ルーツはアラビア半島からシルクロードを伝わってきました。祇園精舎は実はインドです。 平家物語が流行った時代は末法と言われ、仏教で言うお釈迦様の教えがすたりまくっていました。 平家では仏教を信じていたので、仏教の故郷であるインドに思いを馳せてという意味で、祇園精舎が1番最初になっています。

*「祇園精舎」

大学の時に琵琶に出会いました。 「琵琶新聞」は明治42年から昭和18年までありました。 近代琵琶(筑前琵琶、薩摩琵琶)の機関誌です。 琵琶専門の新聞で、琵琶は明治から大正にかけては大流行していました。 明治になって、元薩摩の藩士が明治天皇の前で琵琶を演奏して、明治天皇が薩摩の琵琶かと言うことで、薩摩琵琶になりました。 薩摩琵琶は男性が弾いていましたが、大正になると女性も弾くようになりました。

韓国国立ソウル大学国学科(伝統芸能科)に留学しました。 琵琶はシルクロードを介して中国方面から日本に琵琶が入りましたが、韓国にはなくてなぜないんだと思いました。 その歴史を知りたいと思いもあり留学しました。 日韓併合の時にやるなと言ってそのまますたれてしまいました。 韓国に行って1番驚いたのは、声が1番の楽器だよと言うふうに教えられました。 声に合わせて伴奏しなさいということでした。 そこは日本と違うと思いました。

*「ねずみ教」 ネズミの動きをお経に織り込んでいくものです。

昔はおとぎ琵琶と言うジャンルがありました。 子供のための琵琶の歌がつけられていた時代がありました。 私も自分の演奏会で現代語を入れたり、古典の法を入れたりして、聞きやすいものを作って発表しています。

日本の音は日本語です。 文化とか喋ている言葉とかが音楽とかにも全てに通じていろいろなと言うことがあります。 琵琶の魅力は、自分で歌って、自分で伴奏するということで、自分を見つめ直す道具ということで良い修行になると思います。


2026年5月17日日曜日

野津幸次(紫雲丸遭難事故生存者の会)    ・71年前の紫雲丸事故 伝える生存者の思い

 野津幸次(紫雲丸遭難事故生存者の会) ・71年前の紫雲丸事故 伝える生存者の思い

1955年昭和30511日早朝、656分、四国高松を出航したばかりの旅行連絡船紫雲丸が、にわかに立ち込めた瀬戸内海の濃霧に包まれ、対岸の岡山県宇高港から高松に向かっていた第3宇高丸と衝突、紫雲丸丸はわずか3分から4分で沈没してしまいました。 乗客781人のうち167人が死亡1人が行方不明に、亡くなった人のうち、100人が島根、広島、高知、愛媛の4つの小中学校の修学旅行中の児童生徒でした。 この船に乗り合わせていたのが当時島根県の松江市立川津小学校6年生だった 野津幸次さんでした。 川津小学校の一行は四国へ出かけた23日の修学旅行、その帰りに、高松からこの船に乗り込んでいました。 出港して16分後に事故に遭遇、多くの児童が海に投げ出されました。 沈みゆく船から脱出し救出された野津さん現在は82歳です。 紫雲丸遭難事故生存者の会のメンバーとして、あの日の状況を語り継ぐ活動をしています。 今日は野津さんはどういう体験をしたのか、そして今どのような思いで行動しているのかを伺います。

島根県松江市の川津小学校、紫雲丸事故の資料が展示されている教室、紫雲丸の部屋には写真パネルがたくさんあります。 高松の桟橋で遭難の20分前の出発の時の写真です。 紫雲丸に関する歌もたくさん作られました。 命の大切さ、亡くなられた人の悲しい思い、残された人たちの思いなども振り返りながらしっかり学習しています。 特に511日は紫雲丸の日ということで全校でお参りをします。

私は衝突のときには甲板にいました。 視界が100メートル位しかない霧がありました。  第三宇高が汽笛を鳴らしました。双方が汽笛を鳴らしました。 あっという間に衝突しました。 カバンを取りに客室に行って戻ろうとしましたが、既に45度位傾いていました。 船と共に沈んでいきました 。相手の船に乗り移った人が半分ぐらいいたようです。  電源も落ちてしまい、照明も消えてしまい、船内連絡なども全くできませんでした。  船体は船尾から次第に沈み、その後左に傾き始めます。 乗り組み員たちはボートを下ろすこともできませんでしたし、紫雲丸はそのまま転覆、衝突後わずか4分から5分の間の出来事でした。 

私は水泳は得意な方でしたので、立ち泳ぎで海面まで上がっていきました。   イカダがあり、3人ぐらい既に乗っていて、大人が手を引っ張って助けてくれました。 助けに来てくれた漁船にイカダから乗り移りました。 その後第3宇高丸に引き上げていただきました。 船の油が漏れていたので、顔も体も真っ黒でした。  黒い油を飲んで吐き戻した子たくさんいました。 夕方先生とともに遺体を確認に行きました。 遺体安置場所では辛くて、先生と別れて先に帰りました。 

沢山の家族も遺体確認きました。 お母さんの姿を見ていると、子供心に悲しかったです。  生存者はラジオが放送していましたので、兄が来てくれたときには生存した事は知っていて来てくれました。  帰ってから学校に行った時、亡くなった生徒の机の上に献花をしていました。 2つあったクラスが1つになってしまいました。 21人の生徒と先生が2人父兄が2人亡くなりました。 6年生は児童数が61人でした。 最初の1週間ぐらいは普通の授業はできませんでした。

松本敏雄先生と言う修学旅行を引率して助かった先生が、ずっと地元で活動をしました。 それが原点になっています。 三島先生と共に2人で25枚の子供たち先生父兄のお墓に毎年お墓参りをしてました。 それが紫雲丸を忘れないでおこうと言う小学校の原点です。 33回忌を機に毎年お墓参りをお盆にするようになりました。 

小学校では学習に取り入れて、風化させないようにということで、そのお手伝いと言うことも私は続けています。 紫雲丸の部屋を作っていただきました。     子供たちの反応は生存者のお話を聞いて、事故の様子がよくわかったとか、命を大切にしたいと言う風な作文を書いてくれています。 これからも子供たちに伝えていきたいと思っています。  今は着衣泳もしています。  浮いて待つようにと言う指導をしています。 校庭の片隅に記念碑があります。 命の大切さを伝えたいと言う意味で慰霊碑ではなく記念碑にしています。  

ある一定の大きさの船には、非常時には救命ボート、救命イカダに乗るために、甲板などに集合場所、乗客が集合する場所を設ける事が決められていると言うことです。 集合場所、その経路については、船内に表示があると言うことです。    船に乗ったら、まず非常時の集合場所と、そこまでの経路を確認しておくことも大切だと言うことです。 救命ボートや救命イカダ以外に乗れなかった場合には、とにかく浮いているものに捕まる、体力を消耗せずに救援が来るまで浮いて待つと言うことが大切だと言うことです。






2026年5月16日土曜日

村田裕之(東北大学特任教授)        ・「2040年 高齢者人口がピークに~どう向き合いますか?~」

村田裕之(東北大学特任教授) ・「2040年 高齢者人口がピークに~どう向き合いますか?~」 

2040年、日本の高齢者人口がピークとなる一方で、労働力不足や年金、医療介護費料といった社会保障費の増大が、市民や高齢者層の暮らしへの大きな影響が懸念されています。 インフレ、物価高が続く中2040年を見据え、私たちは今からどのように準備をしていけば良いのか、また生き生きと働き続け健康寿命を伸ばしていくための具体的な方法などをお伝えします。

2040年と言うとあと15年後です。 結論から言うとちょっと厳しい社会になりそうです。  2040年に高齢者人口がピークに達します。  65歳以上が約3900万人と予想されています。 そして要介護、要支援を含めて988万人と予測されています。4人に1人が要介護高齢者になっています。 厚生労働省が中心になって、どのぐらいのスタッフ(介護士面倒を見るスタッフ)がいるか計算していますが、約272万人と言う数字が出ています。 今よりも32万人人多いですが、生産年齢人口(16歳から64歳まで働ける人の人口)が6213万人ですが、今から1100万人減ります。

1100万人減るのに、介護スタッフだけを32万人増やさないといけないわけです。 介護スタッフが少なくなって、良質な介護が受けられなくなります。   加えて、物価上昇、インフレが結構深刻になりそうです。 2%を政府目標にしています。  毎年2%のインフレが続くと、老後の生活費が、今現在が最低でも月に24万円(夫婦2人)必要です。 ゆとりのある老後生活をすると、月に39.1 万円と言う数字があります。 最低レベルのものが10年後29.1 円、15年後(2040年)には32.2万円、約1.3倍になります。 ゆとりのある老後の生活では今が39.1 万円、10年後は47.7万円 15年後52.6 万円、こちらも1.3倍になります。  

95歳まで生きたとすると、30年間生活が必要になります。 高齢夫婦2人世帯30年で最低レベルの生活費で1億、21 54万円です。 年金は出ますが、物価が2%の上昇の時に年金が2%増えるかと言うと残念ながら増えません。 2004年の年金改正の時に法律で決まってます。 1.1%位しか上がりません。 年金が11011万円位になります。 差額が1143万円です。 それなりの老後資金を準備しておかないと結構厳しいです。 

問題は介護費です。 在宅介護は見かけの費用は安いです。 在宅介護は大変な負担です。 精神的にも病みます。 介護する家族のコストが入っていないので一見安くは見えます。 介護をすると仕事を辞めざるを得ない場合もあるが、こういったものは入っていません。 介護費用とインフレで上がっていく。 できるだけ要介護にならないようにしていく必要があります。 この重要性がますます強くなります。

要介護になる要因は60代前に原因ができてしまいます。 中年期以降の生活習慣で決まってしまいます。 「スマートエイジング」と言うのは、今から20年前に考えたコンセプトです。 スマートは英語で賢いという意味で、エイジングは加齢、歳を離重ねる、賢く歳を重ねるという事です。。「アンチエイジング」は歳を取ることにあがらうと言うことです。 これは変な考え方です。 「スマートエイジング」は歳をとることによるいろいろな変化を受け入れて、その変化に適応していくと言う考え方です。  

認知機能は脳を使う習慣を維持すれば実は衰えません。 病気もちゃんと手を打てば、ある程度は元へ戻れます。 自分が本当はやりたいこととか、こんなふうに生きたいいと言うことをずっと心に秘めて歩み続ける、これが「スマートエイジング」の1番神髄の考え方だと思います。 ①体の健康(自立して生きる) ②精神的健康(元気に生き生きと過ごす) ③社会的健康(辛いのは、社会的に孤立すること)

①有酸素運動 ウォーキングもできるだけ早歩きがいいです。 脈拍で言うと110から120、高齢者は6000歩歩きましょうと言うと基準ができました。 成人は18000歩。 有酸素運動は脳卒中の予防に1番効果的です。 要介護になる原因の1番が脳卒中です。  脳卒中の7割が脳梗塞、2割が脳出血、1割が雲膜下出血です。  特に共通しているのは動脈硬化です。 ②筋トレです。 転倒骨折予防です。 転倒骨折は女性の場合要介護になる1番です。③脳トレです。 脳を使う習慣を維持することが大事です。 

要介護になるもう一つの筆頭が認知症です。 生活習慣を改善することで症状を減らすリスクを下げられると言うことがだいぶわかってきました。 有酸素運動も認知症に良いです。 大きな声で音読することもオススメです。 簡単な計算を素早くやると言うのがいいです。 手書きも脳のあちこちを使います。 前頭前野を活性化することがわかってます。 1日に15分程度やるだけで脳のラジオ体操になります。

次に心の健康の話です。①達成するとうれしい目標を立てる。 人間は目標がないとダラダラと過ごしてしまう。  目標を達成すると、脳の中にドーパミンと言う神経伝達物質を出やすくなります。 元気が出たりやる気が出たりします。    なるべく具体的な目標が良いです。 ②「自分軸」で生きると言うことも提唱しています。 社会的健康に関わるものです。 「会社軸」に対する言葉です。  「会社軸」は会社のリズムに引っ張られる。 自分の基準を中心に生きる、その真ん中にあるのが、自分で生きてゆく言うことです。 ③働き続けると言うことも効果がいっぱいあります。 お金がもらえるほかに何らかの形で誰かとコミニケーションがある。 これは脳を使う時間を維持することにつながります。 自分が達成したいこととか取り組みたいこと、そういうことをやる事は生きる目的になります。    そのためには健康でなくてはいけない。 高齢になると家の中でつまずきやすいので、片付けをするとか凸凹を減らすことが大事です。 家の中の転倒事故は階段、風呂場、居室です。 「エイジテック」(高齢者向け技術)AIもそう言ったものにどんどん使っていったほうがいいと思います。

元気な高齢者の方が増えれば、若い人もあんな生き方をしたいと言うふうに考えます。 私も当時そう思いました。 それでこういう仕事に取り組みました。 要介護人口が約1000万人になると言う事は、今をベースにしての仮説です。    この仮説を変えましょうよと言うことです。 私の好きな言葉は「未来を予測する最良の方法はそれを作ること」。 自分の未来は自分で決められる、人の未来は自分は決められらない。


2026年5月15日金曜日

三石知左子(小児科医)           ・人生のみちしるべ「子どもたちは未来」

三石知左子(小児科医・東京かつしか赤十字母子医療センター名誉院長) ・人生のみちしるべ「子どもたちは未来」 

三石さんは、1955年北海道札幌市に生まれ育ちました。 札幌医科大学卒業後は、東京女子医科大学病院の小児科医として、N ICU新生児集中治療室などに勤務、生まれて間もない命を守るための医療の現場で働いてきました。 1999 43歳でかつしか赤十字産院の副院長となり、その後200650歳で東京かつしか赤十字母子医療センターの院長となります。 以来、20年にわたり医療の現場と組織の運営を担ってきました。 三石さんは副院長として忙しい日々を過ごしていた44歳の時に、俳句に出会い、その面白さに惹かれ詠み続けてきました。 2024年には句集「小さきもの」を刊行されています。 この3月三石さんは院長を退き、1つの大きな区切りを迎えています。 どんな選択を重ね、どんな人生を歩んでこられたのか、三石さんに伺いました。

今は会議等が一切なくなりましたので、精神的には楽になりました。  長く管理職として現場から離れていたので、1小児科医として外来を手伝うと宣言したんですが、薬の調整量とかは必死で今は勉強してます。  父親からは「テレビの前で頭を下げることがないように。」(医療ミスをしないように)と言うことと、「職員250人と家族合わせると500程度はお前の肩ににかかっているので、責任をきちんと覚悟して仕事に当たりなさい。」と言われました 守り通せたのではないかと思います。 

全国に91の赤十字病院があり、赤十字の病院長の全国会議があるんですが、私以外は全部男性ということがでした。 同期で病院長になった人が15,6名いたので、同期会を作ってその中で情報交換等々進めてきました。 2021年に新築移転しました。(以前のものは19 83年に建設したもの) 移転のための土地を2015年に見つけました。2016年から建設計画が始まりました。 建設をするにあたって、いろんな病院を調べました。 最上階にある「ひだまり」と言う部屋があります。   霊安室を1番上に作って欲しいと言う提案がありました。 一般的には地下ですが、 水害に合うと、病院の機能が成り立たなくなる。 陽のあたる1番天国に近いところで、両親と赤ちゃんと別れる場所を用意できたのは良かったと思います 

病院に併設された図書館2万冊ある中の1万冊は、母親と子供たちのための本ということで用意してあります。 NPO「ブックスタート」0歳児健診などの機会に、絵本をひらく楽しい「体験」と「絵本」をセットでプレゼントする活動)の理事をしています 当時副院長で院長に「子供たちに絵本を送りたい。」と言う電話をしたら、「いいですよ。」と言うことをになりました。 それが今も続いています。

私は小さい頃は、体は弱かったです。 身近に先生がいたので親しみを覚えました。 医学部の大学を受けました。 1番勉強したなと思うのは、医師国家試験です。  覚えることが山のようにあり大変でした。  診療科をどこにするかと言うのは迷ったんですが、小児と言うのは未来があるんですね。 院長しているときに看護職の面接もしていました。 看護職の助産師に「どうしてなりたいか。」と尋ねたところ、「私は何週何百グラムで生まれて。」と説明していましたが、彼女は私が大学の時に見ていた赤ちゃんでした。 彼女は優秀だったので採用しました。

俳句もやってまして、20252NHK Eテレ NHK俳句にゲスト出演しました   俳句との出会いは、50代前半でした。 ある俳句のグループに誘われて、参加するようになって、今私が師事している西村和子先生に指導していただけるようになりました。 それをきっかけに先生の夜の初心者教室に通い始めました。 2024年にはじめての句集を上梓しました。 「小さきもの」と言う句集です。

「食卓のすずらん北海道とうし?」  母からすずらんを送ってもらいました。

「しばれると一人となりし母の声」 父が亡くなった後、母一人暮らしで電話で「しばれる」と言う声を聞きました

「初声をあげよ今宵は良夜なり」? 私の仕事の中では、代表の一句としてあげたいなと思っています。

俳句は自分の内面を言葉に出す手段として、とても大事なものと思っています。  私は人のご縁というか、人のつながりでここまで過ごすことができて、仕事にも恵まれましたし、それ以外でも豊かな時間を過ごすことができました。 ちょっとした出会い、ご縁、振り返るとそれは偶然でなく、私にとっては必然であったと思います。 人のご縁は大事にしたいなぁとはずっと思ってます。


2026年5月14日木曜日

岡村孝子(シンガーソングライター)     ・「ソロデビュー40周年 歌と共に歩んだ人生」

 岡村孝子(シンガーソングライター) ・「ソロデビュー40周年 歌と共に歩んだ人生」

岡村さんは愛知県岡崎市出身。1982年大学生時代に同級生の加藤晴子さんと女性デュオ「あみん」を結成してデビューし、「待つわ」が大ヒットしました。    その後ソロとしても活動を広め、「夢をあきらめないで」など時代を超えて愛される楽曲を数多く生み出してきました。 そんな中20194月急性白血病を患い、治療のため入院。 長期休養に入りましたが、2021年から活動を再開しました。    優しく寄り添うような歌声と日常の中の思いを丁寧に救いあげる歌手は多くの人の心に響き続けています。  ソロデビュー40周年、「歌と共に歩んだ人生」と題してその思いを伺います。

今年はソロデビューしてから40周年になります。 闘病なども含めいろんなことがあったなと思います。 アルバムは頑張ってたくさん出してきました。      ソロは1985年からです。  「あみん」からソロになるきっかけは、相手の加藤さんが就職することになりまして、曲作りだけやろうと思ってしていました。    23歳の時にもう一度やりませんかと言う誘いがありまして、東京に出てきました。そこからソロ活動開始です。 「夢の樹」と言う歌それ言う作です。ヨーロッパサウンドに淡々と歌うと言う歌い方に変えて作ったのが、2枚目のアルバムです。   そこからが岡本孝子のカラーと言う気がします。

「あみん」時代、学生と音楽を両立と言う条件でデビューをしたので、学校に通って東京に出てきて、いろんな番組に出て終わったら岡崎に帰ると言うことをしていました。 ソロになってからは、コンサートとアルバム作りを中心に活動をしました。  そんな中から「夢をあきらめないで」という曲が出来上がりました。   最初は失恋ソングという事で作りましたが、応援歌と言うような感じで捉えていただきました。 NHK「うたコン」に生出演で歌った時は、手拍子をしてもらったり、盛り上がって、私自身も高揚感ありました。

一応退院する時点で完全寛解ですが、2、3ヶ月おきに通っていて、採血の数値を見てチェックしてもらっています。 だいぶ良くなっていますが、病気前の免疫までには行っていなくて、肺炎になったり帯状疱疹になったりコロナにかかってしまったりしました。 この病気はクリーンルームから出られない病気で5カ月間そこにずっといました。 孤独感は感じました。 フアンの方から手紙をいただいたり、お守りを送ってくれたり、千羽鶴をいいただき1人じゃないんだと言うふうに感じました。 家族、あるいは医療スタッフの方々が一緒に戦ってくれてると言う気持ちが1番大きかったです。

年を越したらいないかもしれないと言う様な状況もあったので、音楽も聞きたくないと言う時期もありました。 娘が録音したアルバムを持ってきてくれて置いてってくれました。 それが娘なりの励まし方があると言う風に感じました。 退院してからのツアーで、楽しいと思ったり、おいしいものを食べたり、身近な近くの大切な人に「ありがとう」と言う言葉を伝えておけばよかったと思って、そのことを伝えています。  

2021年からステージに復帰しました。 リハーサルでは大泣きをしてしまいました。 本番ではただただ嬉しいと言う気持ちで歌っていました。  体力が落ちてしまっていたので、マイクも重く感じました。 犬と散歩をしたり、ストレッチをしたりしています。 造血をしなくてはいけないので、肉はいっぱい食べてます。 魚も野菜も食べれてます。 今は1つ年齢を重ねるということが、こんなに幸せなことなんだという事を病気をしてからわかりました。   闘病後、まだまだ失敗をしたり、つまずいたりだめ、だめな自分を出したいと思って、「未来の扉」と言う曲を書きました。  ありのままの自分を出していきたいなと思ってます。   寝る前の時間が私だけの時間なので、本を読んだり、数独をしたり、ゲームをしたり頭の体操をしたりしてます。 新しい曲のテーマ探しをしているところです。