松本猛(美術・絵本評論家 作家) ・母・いわさきちひろから受け継いだ平和への願い
戦後80年の今年、改めて注目を集める絵本があります。 淡い色の水彩画で可愛らしい子供の絵をえがいた画家いわさきちひろさんが昭和48年に出版した「戦火の中のこどもたち」戦争に巻きこまれた子供たちの姿が詩のような文章と共に描かれた作品です。 当時いわさきちひろさんは東京芸術大学の学生で21歳の息子松本猛さんに、「この絵本を一緒に作ってみない。」、と初めて声を掛け母と子で制作に取り組みました。 絵本完成の翌年いわさきちひろさんは病気のため55歳で亡くなります。 松本猛さんはその3年後、世界で初めての絵本の美術館「いわさきちひろ美術館」を設立、その後50年余り絵本に携わって来ました。 松本猛さんは今年74歳、50年余りの研究の集大成として、「絵本とは何か、起源から表現の可能性まで」と言う本を今年出版しました。 半世紀前に母とともに作った最後の絵本、そこから引き継ぎ切り開いて来た人生について、美術評論家で作家の松本猛さんに伺いました。
東京に来るのは月に2,3回ぐらいです。 絵本がいま平和のことを語る絵本が凄く増えてきているので、そういうものの関連の仕事が増えてきています。 あちこちで紛争があり、戦争を描いている絵本も増えてきている。 1970年以降毎年のように必ずそういう絵本が出ています。 特にウクライナのことがあって増えてきているような気がします。 絵は共通言語で国境も越えられ、親と子が絵本を通して語り合えるんです。 子供の時から平和を知ってもらいたいという人たちが多くて、だから戦争の絵本が出てくるんだと思います。 どうしても戦争が地球上からなくならないからだと思います。
ちひろは戦争が終わった年は26歳でしたが、その世代前後は、戦後スタートラインが皆同じだったんですね。 やっと戦争が終わって自由に表現できるようになった。 戦争抜きには表現が出来ない人たちだったと思います。 自分たちの創作の原点は多くの人が戦争だったんじゃないかと思います。
「戦火の中のこどもたち」母と子の共同作業で作られたものです。 母にとってはある程度自由に話しあえる相手だとは思っていたと思います。 絵はそれぞれ独立した作品として描かれていました。 それが20、30点溜まった時に僕に声を掛けて、構成を考えてと言ったような感じでした。 何となくゆるやかな流れは作れそうな気がしました。 出版まで半年以上かかっています。 第二次世界大戦のことについていろいろ本を読んだり調べたりしました。 5月29日の山の手大空襲で家は被災しましたが、母からはあまり聞く事は無く、谷川俊太郎さんから詳しく聞くことが出来ました。 元々想像力の豊かな人で、原爆のことも資料館に入るつもりが、資料館に足が運べなくなっちゃって帰ってきてしまったりしました。 原爆の絵、戦争の絵はきつかったと思いますが、描かなければいけなかったんだと思います。
僕は高校時代から芝居の脚本を書いたり、演出をやったりしていました。 芸術一般を勉強できる場所は無いのかなあと思っていました。 芸大の芸術画家に入りました。 大学の先生の話を聞くよりも母親から映画に関する事とかを聞くことの方が面白い事は結構ありました。 絵に関しては非常に厳しいところがありました。
「戦火の中のこどもたち」
(女の子の後ろ姿が立っていて、背景にはシルエットで爆撃機が何機も描かれている。)
「赤いシクラメンの花は去年も一昨年もその前の年も冬の私の仕事場の紅一点。 一つ一ついつとはなしに開いては、仕事中の私と瞳を交わす。 去年も一昨年もその前の年もベトナムの子供の頭の上に爆弾は限りなく降った。 赤いシクラメンのその透き通った花びらの中から死んでいったその子たちの瞳が囁く。 私たちの一生はずーっと戦争のなかだけだ。 (ほとんどモノクロですが、赤いシクラメンだけが色が付いている。 花びらの中から子供達の顔が浮かんできている。)
「貴方の弟が死んだのは去年の春。」 (うつむいた少女が小さな花びらをもっている。 弟を思い出しているシーン。)
「あの子は風のようにかけて行ったきり。」 (男の子の強い目線の少年が描かれている。)
「もうずっと昔に事と言えるのかしら。 東京の空襲があけた朝、親を捜していた小さな兄弟の思い出。」 (激しいタッチの黒い太い筆で周りを塗りつぶしているが、真ん中にあいた空間のところに、女の子が弟をおんぶして歩いている姿が描かれている。)
(つぎのぺージは言葉がない。 ボロボロの服を着た男の子がただ佇んでいるだけ。少年のことをいろいろ考えて欲しいということ。)
「母さんと一緒に燃えて行った小さな坊や」 (凄く厳しい顔をしたお母さんと腕に抱かれた赤ちゃん。 赤ちゃんの瞳は可愛いが、お母さんの瞳は本当に厳しい瞳です。 戦争を起こしたものへの怒り、そういう表情にも見える。)
「兄ちゃん、昨日登った木は。」 (3人の男の子が焼け焦げた木の方を眺めている。)
(つぎのシーンは表紙にもなった女の子 呆然としてどこを見つめているのか判らなよな表情。)
「暑い日 一人。」 (鉄条網が描かれていて、その下に裸の男の子が横を向いている。 当時ベトナムで一つの村を全部鉄条網で囲まれていた。 ゲリラと交流しないように。 その中の少年を描いている。)
「うちの兄ちゃん強いんだぞ。 私のお姉ちゃんだって強いんだから。」 (防空壕の中と言うような設定。)
「B52 森 ファントム 原っぱ トカゲ 炎 ヤシの実」 (ここは傷ついた男の子や女の子たちが描かれている。)
「雨が冷たくないかしら。 お腹もすいて来たでしょう。」 (雨の中に座ってじっと横を見ている少女が描かれている。 ベトナム戦争の時代にはいろんな人がゲリラ戦に関わっていた。 この子はいろんな連絡を待っている子だったのかもしれない。)
「牛と遊んでいた暑い夏の日。」 (水牛と一緒にいる子供達と少年のことが描かれている。 ベトナムの平和な時のイメージだと思います。)
「風 母さん」 (このころベトナムではお母さんが出勤するように戦いに出掛けて行ったという小説がありますが、帰ってきたのかなと思う女の子の表情が描かれている。)
「赤いシクラメンの花のなかに、いつも揺れていた私の小さなお友達。 赤いシクラメンの花が散ってしまってもやっぱり消えない私の心のお友達。」 (大きなシクラメンとそこに少女の横顔が描かれている。 ここで終わりになります。)
戦争の中で子供はどうなってしまうのか、そういったことを絵を通して表現したかったもので、言葉は最小限にとどめました。 この本が出版されたのは昭和48年。 翌年ベトナム戦争は終わるが、終わるのを知らずに母は亡くなってしまった。 肝臓がんが判ってアッと言う間に亡くなってしまいました。
絵本と言うものをきちんと位置付けたいという思いが、母にも私にもありました。 それには絵本の美術館を作るのがいいのかなあと思いました。
「絵本とは何か、起源から表現の可能性まで」を出版。 7年かかりました。 自分が感動したものを子供に伝えれば、親も子供も両方その絵本の魅力を知ることになると思います。 大人こそ絵本の魅力を知ってほしい。 作ることの歓びみたいなものを追いかけ続けてきたような気がします。 強くないと優しくなれないんじゃないかと思います。 それを母から学んだような気がします。