2023年2月28日火曜日

田中ウルヴェ京(スポーツ心理学者)   ・心を整えるとは?

 田中ウルヴェ京(スポーツ心理学者)   ・心を整えるとは?

6歳で水泳を始め10歳でシンクロナイズドスイミングに転向しました。   シンクロはご存じのように今はアーティスティックスイミングと名前が変わっています。  田中さんは1988年ソウルオリンピックシンクロ・デュエットで小谷実可子さんと銅メダルを獲得しました。   翌年には引退して日本代表チームのアシスタントコーチに就任しました。   その後もっと勉強しようと26歳の時にアメリカに渡ってシンクロのコーチをしながら、大学院でスポーツ心理学を学びました。   そこで心を整えるという事を学び、スポーツ心理学者として多くの人に指導しています。  田中ウルヴェ京さんはフランス人と結婚して1男1女をもうけています。 

オリンピックは34年前になります。  21歳の時でした。  さかさまになっての競技なので息が苦しいし、人に合わせるという事は本当に難しい。  1984年からシンクロナイズドスイミングはオリンピックの正式種目になりました。  その時はソロとデュエットでした。   1996年アトランタオリンピックからチーム種目が入りました。 

心というものの整え方や鍛え方をスポーツ選手などを対象にして、研究したり実践するというのが自分自身がやっていることです。  人間がどのように力を発揮することができるか、心理面で研究しているので、どんな対象者にも当てはまるもので、宇宙譜飛行士、研究者、ビジネスパーソンのプレゼンテーションの前、ドキドキするイベントの前とか、学生の受験の前とか、人が頑張らなければいけない、結果を出したい、そんなときの心の整え方、鍛え方を研究したり実践したりというのが自分自身がやっていることです。   人間として抱える問題はアスリートだろうと研究者だろうと一緒なので、どのような心を持つことが健康であり、より健康になるか、というようなことはどなたにでもあります。

メンタルの強さも、どのように考えて、どのような感情が自分はあるのかということに気づいている人だと、自分という人間の本当のコントロール力があると言えます。  メンタルの強い人心の強い人は存在します。  

2月の早生まれだったので、幼く小さかったと言われました。  小学2,3年生になると、人間は死んだらどこに行くのだろうとか、何故私は生まれて来たんだろうとか、という考えていることを誰にも言ってはいけないと悩んでいる子でした。  6歳で水泳教室に通い始めて、7,8歳では競泳の全国大会の予選に出る様にもなりました。  9歳でシンクロナイズドスイミングに興味を持ちました。  しかし、足が短い、ぽちゃぽちゃしているからと言われ、逆にむくむくしてきました。  10歳でシンクロナイズドスイミングに転向しました。   シンクロナイズドスイミングでオリンピックに出られる可能性があると思うと、オリンピックの選手になってみたいと思う様になりました。   高校3年生の時にシンクロナイズドスイミングをとるか、学業をとるかという問題になって、大学4年生で迎えるソウルオリンピックは、出れるかどうかかけてみたいと思いました。   話をしたら、母は絶対出れないと思ったらしくてその時には泣きました。

デュエットのパートナーとなる小谷実可子さんは、身体も先天的に恵まれ、練習も沢山して、メディアに乗って行きました。  デュエットでも「小谷等」とか、ソロで私が優勝した時でも、「田中初優勝」ではなく「小谷負けた」というような見出しで、凄く悔しいし、悲しい思いをしましたが、両親は温かく見守ってくれて、有難かったです。  絶対に考えないようにしていたことは、尊敬しちゃうこと、小谷実可子さんはライバルなのに凄いとか素敵だと思っちゃったら終わりだと思いました。  身近にライバルがいることはありがたい事でした。  

その後、コーチの道に進みますが、メダルを取っているし技術は自信がありました。   10年コーチをやりましたが、コーチは自分の選手経験だけでやるものではないのに、選手にはそれぞれの特性とか、その他いろいろあるのにも関わらず、そういった方向の視点がありませんでした。  指導者として学んでないのかなあと思い始めたのが5,6年経ってからでした。  シンクロナイズドスイミングのちゃんとした勉強をしたいと思ってアメリカに行きました。   アメリカのオリンピックコーチの元でアシスタントをするんですが、練習の前、最中、後、心理的な話ばかりするんです。  スポーツサイコロジーを勉強するといいよと言われました。  メンタルに関するちゃんとした理論があってとても新鮮でした。  スポーツ心理学が勉強したくて大学院に入りました。  メンタルの鍛え方は人によってそれぞれ違う事が判りました。   図書館に行って研究論文などを色々読みました。  

心の整え方、まずは心とは何か。  心理学では感じる心(感情)と考える心(思考)、これを心だと思ってくださいと言います。  これを気付いてくださいというのが最初です。喜怒哀楽、今日嬉しかったことは何か、悲しかったことは何か、など感情の種類に気づく。それがどんな行動につながったのか、を考える。  焦っちゃいけないと思うが、まず焦る自分に気づくのが大事です。  焦る理由はちゃんとやりたいからかもしれないし、悪い事ではない。  怒ることも怒る感情が悪いのではなくて、怒鳴ったり人を殴ったりする行動が悪いだけです。   それに気づくと、焦っているなら深呼吸をしようとか、ゆっくりめのしゃべり方をしようとか、行動につなげることができる。 気付けば絶対に行動は変えられる、というのが心の健康の作り方です。  大事なのはどんなふうに動じるかを知ることの方が大事です。  それを認めて行動を作る。   「まず落ち着きなさい」は無理です。

長年目標にしてきたことが果たせました。 システムデザイン・マネジメントという博士課程を6年半かかって取得できました。  現在燃え尽き状態です。  それを今後少しずつやっていきたいです。  日本人のトップアスリートの引退後の課題をどのように解決することが重要か、メンタルヘルスの問題もあるし、選手としてのアイデンティティーが亡くなった後の人生の作り方、こういった深い大事な心理課題もあるので、その解決の仕方など、まだしっかり入り切れていないので、そのことはやっていきたいと思っています。




































 


















 








 

2023年2月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕 紫式部

 頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕  紫式部

源氏物語の作者紫式部は公の記録を兼ねた紫式部日記を書き残しています。  この日記には紫式部の個人的な思いなども書かれていて 紫式部の人柄が浮かび上がってくる貴重な記録でもあります。  この日記をもとにした紫式部絶望名言をお聞きいただきます。

「人生の苦さを味わっている。  過去を悲しんで灰色になっている心。」  紫式部

源氏物語はおよそ1000年前に書かれた物語ですが、未だにとても人気があります。    20か国以上の言語に翻訳されて世界でも高く評価されている。  

紫式部日記があります。  公式的な記録でもある。  当時女房日記というのがあって、女房というのは宮廷や貴族の屋敷で働いている女性のことで、紫式部も女房でした。  一条天皇中宮彰子に仕えた。   彰子の宮中の様子などを記録しているのが紫式部日記です。  紫式部自身の内面の思いとか、可成り書き込んであります。   紫式部は一口で言うといつもかなり絶望しているんです。   地味で真面目で恋愛にも消極的で内向的な人で感じやすくて落ち込みやすい。  絶望名言だらけなんです。   与謝野晶子が紫式部日記を訳している。

「人生の苦さを味わっている。  過去を悲しんで灰色になっている心。」  紫式部    紫式部日記の冒頭のところの一節。  

「自分は過去に何という長所もなく、さればと言って未来に希望と慰謝を求めることもできない女である。  自分の憂悶が人並みのものであったなら。」  紫式部

「兄の式部丞が子供の時分に史記を習っているのを、そばで聞き習っていて兄のよく覚えなかったり、忘れていたりするところを自分が兄に教えるようなことをしたので、学問好きな父は残念なのはこの子を男の子に生まれさせなかったことが、自分はこの一事で不幸な人間と言っていいと常に嘆息をした。」    紫式部

当時の男性貴族は漢文を習得しなければいけない。 女性が学問をすると不幸になると言われていた。  紫式部が漢文を読んでいると、侍女たちが集まって来て以下のことを言うんです。

「奥さんはああした難しいものをお読みになるのが、返ってご不幸なもとになるのですよ。 女と言いうものは全体言えば、漢字で書いた本など読んではいいものではありませんよ。  昔はお経さえもそんな理由で不吉だと言って、女には見せなかったそうですよ。」

「自分の家の侍女たちにさえも読書の気兼ねをする自分ではないか」と、書いています。  

「左衛門の内侍という女がある。 不思議にも自分に悪感情を持っているという事である。  自分にはどういうことかわからない。  その人の口から出たという悪評を随分多く自分は聞いた。  陛下が源氏物語を人に読ませてお聞きあそばされた時に、この作者は日本紀の精神を読んだ人だ、立派な織見を供えた女らしいと仰せになったことに,不徹底な解釈を加えて、非常な学者だそうですよと殿上の役人などに言いふらして日本紀のお局と自分に付けた。  このことを聞く女たちがまた自分にどんな反感を持つかもしれないと、恥かしくて御前にいる時などはお屏風の絵の賛にした短い句をも何事かわからない風をしていたのである。」 

日本紀は日本書紀から日本三大実録まで六国史(日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳(もんとく)天皇実録』『日本三代実録』)のことで、いずれも漢文で書かれている。  男性が理解できることは立派なことだけれども、女性だとからかいや反感の種になる。   紫式部は屏風に書かれた漢字も読めないふりをする。

「一」という漢字を書くにも憚った。  そこまで隠さないといけなかった。

平安時代になるとひらがなが発明されて、女文字を言われていた。 「源氏物語」はひらがなで書いたが、直筆は残っていない。  

今も紫式部の様に苦しんでいる女性は多いかもしれないですね。

「面白くも何ともない自分の家の庭をつくづく眺めいって、自分の心は重い圧迫を感じた。 苦しい死別を経験した後の自分は、花の美しさも鳥の声も目や耳に入らないで、ただ春、秋をそれと見せる空の雲、月、霜、雪などによってああこの時候になったのかと知るだけであった。  どこまでこの心持が続くのであろう。  自分の行く末はどうなるのであろうと思うと、やるせない気にもなるのであった。」   紫式部

「苦しい死別」とは夫を亡くした事。  紫式部が結婚したのは29歳ごろと言われている。  当時としては相当遅かったと思います。  相手は相当年上で親子ぐらい違っていた。  正妻がいて、側室、愛人もいた。  正妻ではなく結婚して娘も生まれたが、夫が結婚後2年数か月で亡くなってしまう。   この先どうなっていくのか心細く思った。 ものを書いたりするようになって源氏物語が生まれてくる。   それが評判になって行って、藤原道長の目に留まって中宮彰子に仕えることになる。  中宮彰子は藤原道長の娘です。 

紫式部は宮仕えをしたくなかった。  

「初めて御奉公に出たのもこの12月29日であったと思いだして、その時分に比べて人間が別なほど宮仕えに慣れたものになっている。  自分は悲しい運命の女であるなどとしみじみと思った。」      紫式部  (宮仕え後3年経った頃)

僕(頭木)が中学の同窓会に行った時に、それぞれがそれぞれの職業らしい性格に変わって行ったのにびっくりしました。  職業が人の性格をこんなに変えるものなのかと吃驚しました。   長い間闘病生活をしていたので、気が付いてみると自分は病人らしくなっていた。   紫式部は宮仕えをしたくなかったので、女房らしい女になってゆくことが厭だったと思います。   

「自分は他から見てボケた様な人間になっているのである。   それを人が見てあなたがこういう方だとは想像しなかった。  へんな美人らしくしている人で、付き合いにくい風ないつもしんみりとした本当の調子を見せてくれない人で、小説ばかり読んでいて華やかなことを人に言いかけたりすることが好きで、何ぞというと思ったことを歌で述べる人で、人を人と思わず、軽蔑するような人であろうと皆が評判して憎んでいたのです。  今あなたを見ると不思議なほど鷹揚でそんな人ではない気がすると、自分のいうことを聞くと自分は恥かしくなって他からくみしやすい女として軽蔑されているのであると思う一面に、又そういわれるのが自分の本懐であるとも思い、なおそう思われたいという事を望みにして、日を送っている。」    紫式部

周りの女房達はどんな人が来るのだろうか、人を見下すような人が来るのではないかと恐れていた。  初出仕の後数日で実家に戻ってしまい5か月ぐらい家に引きこもってしまった。  再出仕してぼーっとしたキャラを演じるわけです。  見下されているであろうと思う反面、自分でも望んだことでもあり、そこは複雑です。  

「もう自分は人の評判などにかまっていないことにしよう。  人がどういおうとこういおうと頓着せずに。」  紫式部

こう思うが、そうもいかなくて又人目を気にしてしまう。  

人の心の機微が判っていたからこそいい小説が書けたと思います。

「着御遊ばされたのを見ると駕輿丁(かよちょう)は下賎ながらも階(きざはし)の上に登って行って、そしてもったいなさそうに身の置きどころがないといった様子でひれ伏していた。  自分はそれを他人事とは思えなかった。  苦労の尽きないことは自分も同じであると思うのである。」     紫式部

中宮彰子に男の子が生まれて、一条天皇が対面のために御輿に乗ってお越しになった。  担ぐ係の人が駕輿丁(かよちょう)で、担いだまま水平を保つように階段を上がった。  前の人はかがんで苦しい態勢で行かなければいけなくて、身分の低い苦しそうな姿に紫式部は眼が行く。  自分と同じようなことだと思って一緒に悲しんでいて、これは素晴らしいことです。

水鳥に対しても、楽しく遊んでいるように見えるけれども、実は内心苦しいんじゃないのかと、自分を重ねてみたりする。  何を見ても悲しいほうに向いてしまう、そういう自分が苦しいと又嘆いてしまう。

「立派な事、面白いことを見聞きしても、忘れ得ない悲哀に惹かれる心の方が強いために、良い事や面白い事にも心底からそうと感じることのできないのが、自分としては苦しいことに思っている。  「水鳥を 水の上とや よそに見む 我もうきたる 世をすぐしつつ」    あの鳥もあんなに面白そうにしているとは見えても、彼自身は苦しいのかもしれないと、自分に比べて思われるのであった。」    紫式部

























 










 





















































2023年2月26日日曜日

福井敬(オペラ歌手・国立音楽大学教授) ・〔夜明けのオペラ〕

福井敬(オペラ歌手・国立音楽大学教授) ・〔夜明けのオペラ〕 

福井さんは岩手県出身、国立音楽大学声楽科・同大学大学院を修了後、文化庁オペラ研修所を経イタリアに留学、二期会、ラ・ボエーム(ジャコモ・プッチーニの作曲した4幕オペラで、最もよく演奏されるイタリアオペラのひとつ)でロドルフォ役でデビュー。  その後新国立劇場や琵琶湖ホールなど様々な舞台で主役を演じ、輝かしい声と卓抜した表現力で、日本を代表したテノールとして活躍、これまでに第65回芸術選奨文部科学大臣賞はじめ数々の賞を受賞、ソリストとして活動するだけでなく、国立音楽大学教授、東京藝術大学講師として後進の指導にもあたっています。  

NHKでは今年で25回目です。  オペラ歌手としては丁度30年になります。  最初に歌った曲は「トスカ」というプッチーニのオペラのなかの「星は光りぬ」とモーツアルトの「後宮からの逃走」の中の二重奏の2曲を歌いました。   クラシックの歌手がテレビで歌っているさまを紹介していただけるのは本当にありがたいです。  生放送なので何時になっても緊張感は慣れないですね。    大学でも教鞭をとっていて、今は試験のシーズンなので毎日のように生徒の歌を聞いてその忙しさは大変です。   歌を歌うこと自体が有酸素運動なので素晴らしい事です。

岩手県の水沢市(現在の奥州市)で生まれ、高校生までは過ごしていました。   中学、高校と吹奏楽部に入り、トロンボーンを吹いていました。   平泉の中尊寺が母親の実家で茅葺の屋根で100年以上たっています。  代々お坊さんとして中尊寺に通っていました。  お経、御詠歌など声には関わっていたという気がします。  家庭では音楽はありませんでしたが。  音楽の大学に行こうと思ったのが高校3年生になってから、間に合うかどうか大変で、月一度帰ってくる音楽大学の先生とか、教会の牧師ご夫妻が音楽大学を出ていて、歌、ピアノなど習いました。  

*トスティーの歌曲 「暁は光から闇を」  歌:福井敬

でも大学を受かることが出来ました。  大学院へ行ってさらに学んだら、歌う楽しさが判ると思ってオペラ科に進みました。  栗山昌良先生からいろいろ深いことを教えていただいて、オペラっていいものなんだなと思い始めました。  その後二期会という団体でデビューさせていただきました。  それが「ラ・ボエーム」という栗山先生の演出による作品でした。  ロドルフォ役でデビューすることになり、本当にありがたかったです。  

ラ・ボエーム」から「冷たき手を」  歌:福井敬                     詩人ロドルフォの自己紹介である。「貧しいながらも詩作を通じて夢を求めている」と歌い、ミミに早くも心を奪われたと恋心を打ち明ける。

去年は還暦のコンサート。  テノールは若い役が多いので如何に声とかいろいろ若さを保つか、大変ですがやっています。   宮沢賢治の歌曲集、自分で詩を書くだけでなく曲迄作ったりしている。  一番有名なのは「星めぐりの歌」  教員をやっていた時に学生たちに自分で台本を書いて、曲も作って、演出もして、歌わせてという事をやっていたらしい。   実は楽譜がほとんど残っていなくて、歌った人たちが覚えていて、口承で伝わっていて、後に楽譜に起こしてそれが残っていて、曲集が2冊ぐらいになっていて、出版されています。   曲集を全部CDにしませんかという事を頂いて、去年行いました。

「星めぐりの歌」  歌:福井敬

演技、衣装、メイクだとかは、実は歌う時に助けになっています。  人間が愛したり、感じたりって言うのは200年、1000年前であろうが、思っていることは変わらないんですよね。  それを今の人たちの思いと結びつけて演じたり、歌ったり、表現したりすることは凄い素敵なことだと思います。  クラシックの素敵なところはそういうところにあるんだと思います。   

*「道化師」から「衣装をつけろ」  ルッジェーロ・レオンカヴァッロ作曲「道化師」  (『道化師』第1幕の幕切れで、妻ネッダの浮気を知った旅回りの道化一座のカニオが、怒りと悲しみに震えながらも、道化はそんなときでも客を笑わせるのが仕事と、身の辛さを激情的に歌うアリア)

3月に琵琶湖でドイツオペラ ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』という休憩を入れると6時間半ぐらいの長いオペラがあります。





















  
























2023年2月25日土曜日

島村菜津(ノンフィクション作家)    ・エシカルを鍵に~イタリア・シチリアの挑戦~(仮)

島村菜津(ノンフィクション作家)  ・エシカルを鍵に~イタリア・シチリアの挑戦~(仮) 

エシカル消費という言葉を耳にするようになりました。  倫理的道徳的な消費という意味です。  何かを買う時に価格や品質を基準に選ぶ人も多いと思いますが、エシカル消費というのはもう一つのおおきな基準になりうるものです。  例えば食品や衣服を購入するときに環境や人に配慮して作られたものやサービスを消費するとか、あるいは購入する事が被災地の復興や社会的に弱い立場の支援に結びつくような商品を選ぶといった 倫理的道徳的面を重んじた消費行動のことです。  エシカル消費はイタリアのシチリアで確実に成果を上げています。       風光明媚のシチリアはいっぽうでは映画「ゴットファーザー」でも描かれたマフィアの島としても知られています。  エシカル消費と有機栽培を鍵にして新しいシチリアに生まれ変わろうとしています。  食と食を取り巻く緩い環境を目指すスローフードの運動を日本に紹介しました。 島村さんは十数年に渡ってシチリアの取り組みを取材してきました。  鍵はエシカル、イタリアのシチリアの挑戦、まずはイタリアとマフィアの関係から伺いました。

イタリアは長靴のような形をしていますが、蹴り出した先に三角形の大きな島があります。 それがシチリアです。   ローマ、ミラノから見るとはしっこと見られてきましたが、地中海のど真ん中にあって、1000年、2000年の歴史で見ればこちらが主役であるというわけです。   自然も豊かで、人が車で入れない階段とか、森を守る地域が76地域もあります。   シチリアと言えばマフィアみたいに言われてきましたが、実はそんなに歴史の古いものではなくて、イタリア統一は1861年で、その時を起源にしている。   古い封建制度が壊れて北から自由主義経済が流れ込みます。  経済がどんどん動き出したことでマフィアが育ったのではないかと言う考え方が主流になってきています。      当時、火薬の材料だった硫黄などの鉱山がシチリアにあちこちにありました。      柑橘類、レモンは古代からあってオレンジなどは中世に栽培法が発達して、そういうものがイギリス、アメリカでヘルシーフードとして国際市場に出て、そのことで土地の争奪戦が起こったり、流通に護衛が必要になったことです。  労働運動を押さえつける必要があり、そういったところから育ったといわれています。  

519人の方が殺されています。  労働運動とか、みかじめ料(飲食店小売店などが出店する地域の反社会的勢力に支払う場所代、用心棒代)を払わないとかで、殺される。   一番有名な事件はマフィア大裁判、今まで法の裁きを逃れてきた人たちを一気に捕まえようという事で7000枚ぐらいの調書を書いて、その二人の検事が若い護衛の警察官と共に爆殺されました。  高速道路の側溝に500kgの爆薬を仕掛けて道路毎爆殺された。(30年ほど前)  

1992年にその出来事があって、一般の市民ももうまっぴらだと言って声を上げ始めた。  彼らを見殺しにした政府に怒りをぶつけた。   灰色の政治家とマフィアが繋がっていて、戦後選挙票と共にマフィアが育ってきて、彼らに罪を問う事が出来なかったという現状があった。  1990年代の終わりごろになって、カトリックの神父さんに母親が23歳で亡くなった警察官の息子のことを話したことで、シチリアのために命を落とした人たちのための日を決めるという事でした。  マフィアが不正に取り上げた土地がありますが、それを国が押収できる法律は出来ていたが、それを地域のために使えるんだったら市民活動で活用していいですよという法律を作る署名を始めて100万人の署名が集まりました。 

かつてボスの所有していた土地を有機農業にしました。  他の地域に広がって行って、オーガニックワイン、オリーブオイルとか穀物を作っていきました。  2000年を越えてからさらにどんどん増えていきました。   社会的協同組合と言いますが、イタリアでは1990年代から発達してきて、地域のためになる事のための組合を作ろうという目的と、雇用が少ないから、新しい仕事を作る、起業できるためのシステムでもあるわけです。  あらゆる世代の人も地域のために何かする、という関わりの場所を作ろうという、3つが特徴です。   

2005年ごろに、若い子が新しく仕事をしようと思った時に、みかじめ料という事を知り、愕然として、障壁があることを知るわけです。  自分たちでステッカーを作って、みかじめ料を払う市民は尊厳を忘れた市民だ、と書いたんです。  夜中にたくさん貼って、それがメディアに取り上げられて、回数を重ねてゆくなかで、表立って出来るようになってメディアと共に広げてゆくわけです。 

彼らがステッカー運動の次に始めたのが、みかじめ料を払わない店から私たちは買います、という宣言した市民の3000人ぐらいのリストを作って、新聞には3000人の名前が並んでいます。  そうすると店もみかじめ料を払わないような動きをするわけで、それを少しづつ増やしてゆく。   倫理的な消費から広げて行こうという事です。

みかじめ料を払わないようにしたら、店にお客がこなかたっという話を聞いたが、嫌がらせをしていたようでした。  学生たちが週末に多いとこには250人とかで行くと、一日の売り上げが1か月分だという事で涙ぐんでいたそうです。  買い物の意識を変えることでいろんなことが出来るんだと思いました。  マフィアと無関係のいい経済を育てるための消費を増やそうというのが彼女たちの挙げたことなんですが、出来るだけ次の世代が喜ぶような環境を広げてゆくという事にもつながってゆく。  

エシカル運動の最初はベトナム戦争の反省から、あの納得のいかない戦争で武器を作っている企業からは買いたくないねという若者たちの動きが最初でした。  90年代にヨーロッパの若者は「買い物は投票だ」と言う事で運動しています。  メディアも情報を伝えるという事は大事です。   批判することは簡単ですが変えてゆくことは大変です。     シチリアの反マフィア運動はシチリアの民主主義と一緒に育ってきた、と言っていましたが印象に残った言葉です。    市民がネットワーク、連帯をし始めたことが動き出した一つの力だと思います。  次の世代に残そうという、年配の方の意欲は凄いです。

今あるものを大事にしながら、ちっちゃなことでもいいからできる事から始めることが大事だと思います。  ちっちゃな積み重ねが大きいんです。  社会を変えることに繋がる。
















 









 




















 




















2023年2月24日金曜日

水野克己(日本母乳バンク協会 代表理事) ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕 母乳で小さな命を守りたい

 水野克己(日本母乳バンク協会 代表理事) ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕  母乳で小さな命を守りたい

母乳バンクは、小さく生まれた赤ちゃんに母親が母乳を与えられない場合、ドナーから提供された母乳を無償で提供する仕組みです。   母乳には低体重で生まれた赤ちゃんの感染症や病気のリスクを減らす効果が期待できるとされています。  およそ10年前、国内で初めての母乳バンクを設立したのが日本母乳バンク協会の代表理事を務める水野克己さんです。   水野さんは小児科医でもあり、NICU(新生児集中治療管理室)で小さく生まれた赤ちゃんの診察もしています。  

昭和大学の病院に国内では初めての母乳バンクを設立して10年目になります。(2013年の夏)    母乳を提供してくださるドナー(お母さん)と中々母乳が出ないという母親の赤ちゃん、その間を繋ぐ架け橋が母乳バンクです。  ドナーの方には献血と同じような基準を設けていて、血液検査(HIV、HTLVー1、C型肝炎など)で全て陰性であるかた、自分のお子さんを母乳だけで育てている方にドナーになっていただいています。  一部の薬を飲んでいる方、煙草、アルコールとか、いろいろ制約がありますが、クリアーされた方がドナーになっていただいています。  冷凍して母乳バンクに送っていただく。  受け取った母乳を清潔に冷凍して保管する。  あるところで62,5℃30分低温殺菌します。(世界的標準)   すべてのウイルスの感染性がなくなります。 NICUにドナーミルクを提供しています。  

未熟な状態で生まれた赤ちゃんは腸の粘膜が未熟です。  粉ミルクをあげる場合は色々負担になります。  一番は壊死性腸炎(腸が腐る)になってしまいます。  そうなると半分ぐらいは亡くなってしまう。  助かってもいろいろ後遺症がある。  1000g以下の赤ちゃんには粉ミルクをあげないようにしています。   コロナに罹ってあげられなかった事例もあります。   母乳には腸粘膜を成熟させてくれる作用もあります。    私が新生児医療を始めたのが1988年、抵抗なくほかのお母さんの母乳を小さな赤ちゃんに与えていました。(低温殺菌せず)   自分の経験としては問題はないんですが、問題が起きたという報告はありました。  サイトメガロウイルス感染は小さな赤ちゃんは避けなければいけない。  ESBL産生大腸菌は中々薬が効きにくい菌です。  他のお母さんからの母乳で広がってしまった。   亡くなってしまった赤ちゃんもいてこれは大きな問題になりました。  他のお母さんの母乳をそのままあげることは禁じられました。  

ほとんどなかった壊死性腸炎が、その後壊死性腸炎になる赤ちゃんが8%ぐらいになりました。  母乳バンクのドナーミルクを使うというオプションの選択肢は用意しておかないといけないと思いました。   母乳で育てるという事は将来に渡って元気にすくすくと育っていただくという事は確固たるエビデンス(「証拠」「根拠」)はあります。  対象が1500g未満には世界的な標準になっています。  全部で70施設以上のNICUと契約しています。   

2005年1月から4月までオーストラリアの大学に留学していました。 母乳の成分を測っていたりしていました。  当時オーストラリアには母乳バンクはなかったです。   私のボスが母乳バンクを立ち上げようといろいろ動いている時期でした。  日本で立ち上げるには人、物、お金などいろいろ必要で立ち上げは出来ませんでした。  きっかけは2011年ぐらいに或る医療機器の会社がドイツ製の低温殺菌機を持ってきました。  データを取って話をする中で、この機器が売れるかどうか聞かれたので、売れないと思いますと答えました。  私たちもそう思いますと言われてその機器を貰う事になりました。    その後もデータを取って倫理委員会に提出しました。  2013年に実験室レベルの母乳バンクが出来ました。   

2014年からの3年間に、ドナーになった方が28人、ドナーミルクを使った赤ちゃんが25人でした。  低温殺菌処理したのが47L、提供したドナーミルクは32Lでした。去年1年で提供したドナーミルクは1500Lでした。  コロナの関係でドナーミルクが出来なくなった時期がありました。   その後2020年に育児用メーカーの中に母乳バンクが出来て、育児用メーカーのお陰で救われた命はたくさんあると思います。

或るお母さんが妊娠17週ぐらいでガンが見つかり、妊娠24週で帝王切開で取り出した赤ちゃんは528gでした。  6日目に母親は亡くなりました。  赤ちゃんは1歳半ぐらいになり元気なお嬢さんになりました。  ドナーミルクという選択肢があることを伝えたいと思います。  母乳バンクを知っていただいて、募金をしてもらって、小さな赤ちゃんご家族に恩返しする、という取り組みをやっています。(インターネット) 

コロナによって赤ちゃんに面会できないようなこともありました。  或るお母さんは生まれて2日目で赤ちゃんが亡くなってしまいました。  自分の子供にあげられなかったお乳をほかの赤ちゃんに使ってほしいという事で、ドナー登録をしてくださいました。     

来年愛知県の或る病院に母乳バンクの施設が開業することになりました。   現在は中央区日本橋に二つですから、ここに何かあったら送れなくなってしまうので、避けなければいけない。   ドナーミルクに関わる人たちの教育もやって行かなければいけない。   沢山のご支援の下に動いているだけなんです。  母乳バンクがこれだけ広がってきているのは奇跡の連続だと思います。  私の後に誰かやってくれる人を育てていかなければいけないと思います。  経営上、どうやって安定的にお金を集めてゆくか、今後の課題としてはこの二つかなと思います。   日本でドナーミルクを使った赤ちゃんがどのように育ってゆくのか、しっかりしたデータを出してゆくことが、より安心して使っていただけることになるかなと思います。  今度の東京マラソンに、「母乳でつなぐ命のたすき」と母乳バンクのTシャツを着て走ります。  

















 




























 









2023年2月23日木曜日

柏木式子(NMWA日本委員会共同代表)  ・〔私のアート交遊録〕 アートは社会の鏡

柏木式子(NMWA日本委員会共同代表)  ・〔私のアート交遊録〕 アートは社会の鏡

女性作家だけの作品を所蔵・展示する米首都ワシントンの美術館「NMWA(ニムワ)」 「National Museum of Women in the Arts」の略称。  美術品の収集家の夫婦が1981年に設立した民間非営利の美術館で、作品数は5500点以上。  14年前から数年に一度、女性作家の発掘を目指して様々な展覧会を企画しています。   その「NMWA(ニムワ)」が2024年に開く企画展に初めて日本の女性作家も出展する事になり、柏木さんは美術館の依頼で窓口となる委員会を設立し準備を進めています。  女性作家の再評価が世界的に進む今、女性作家だけの作品を所蔵展示するアメリカの美術館「NMWA(ニムワ)」 の共同代表として国際グループ展の開催に向けて奔走する柏木さんに展覧会にかける思いを伺いました。

美術コレクターであったWilhelmina Cole Holladay さんという創設者がいましたが、結構有名なコレクターで、クララ・ピーターズという有名な、マドリッドのプラド美術館などに入っているような女性作家さんでその方の「魚と猫」という作品を買いました。  何者だろうと思って調べたら美術史になにも載っていない。   おそらく1620年代以降の作品ということしかわからない。  女性のアーティストのことがほとんど書かれていない。  16,17,18、19世紀あたりになって来ると少し、20世紀少し、という事で女性アーティストはクリエイティブなことをやっていたはずだがないという事に気が付きました。      それ以降徹底的に女性の作家だけを集めようと思ってコレクションを始めました。  それは今の「NMWA(ニムワ)」の土台になっています。 

彫刻家のカミーユなど素晴らしい仕事をしているが、男性の影に隠されてしまっている。 美術、文化は社会の鏡であるんで、社会自体が平等でないと考えると、如実に反映している。   40年前に始まった時には、近くにスミソニアン美術館があるので、合併吸収して一つのウイングに収まってしまうのではないかと期待していましたが、そうはいきませんでした。   日本では今、美大生、芸大生の75%が女性だと言われていますが、教授陣は8割がた男性で、美術業界のなかでまだジェンダー平等というのは行われていないという事だと思います。  「世界経済フォーラムジェンダーギャップ指標」というのがありますが、日本は116位(146か国中の)でG7の中でも一番下です。  美術館での所蔵率は日本もアメリカも女性は10%一寸です。  表現の調査団が日本の2011年から2020年の間、日本の主要美術館7館で新しく購入した作家、作品の7割が男性作家、作品の8割が男性です。

アンコンシャスバイアス(Unconscious bias ) 「無意識の偏見」            1970年代から2016年に49か国のオークションを中心とした売買の価格、似たようなものの比較では男性に比べて42%程度女性の方が安いそうです。  有名なコレクターさんに見せて、男性と女性の名前を逆にするんです。  男性の作品の方に値段を高くつけてゆく。  アンコンシャスバイアスが掛かっていると思います。   14年前からもっと女性に光を当てようという事でグループ展を始めました。  「注目する女性」といった感じで行いました。 それが今度2024年に行われます。  日本からも参加するという事で委員会を作りました。   日本の委員会は現在6名です。  共同しているメンバーが4名いて総勢で10名になります。  この展覧会には1万ドル必要になりますが、何とか自分たちで出そうという事で動いています。(アメリカ的な要素を取り入れている。)   最初の仕事はキュレーター(博物館美術館含む)、図書館公文書館のような資料蓄積型文化施設(ミュージアム)において、施設の収集する資料に関する鑑定や研究を行い、学術的専門知識をもって業務の管理監督を行う専門管理職。)を選ぶことです。  

アートを通してのジェンダー平等、多様性の精神、という事で大きな企業20社近く協賛していただいています。   寄付を一定額以上された方を対象に館長がツアーに連れて行きますが、4つほどイベントを行いました。  スポンサーの企業の方からも何か一緒にできないかという事で手ごたえを感じています。  

「NMWA(ニムワ)」の活動をし始めてから、もっともっと考えだしたことは確かですね。  入って行けばいくほどジェンダーのことは避けられないです。  日本自体がまだ進んでいないことが判ります。  小さいころから父親の仕事の関係で海外生活をしているので多様性という事はいつも頭にありました。(いつもマイノリティー「社会的少数者」でした。)アートがいいことは答えがないという事だと思います。   多様的なところを認めてくれる世界だと思います。  

ジャコメッティモランディジョージア・オキーフ、ジョーン・ミッチェルとかすきな作家はたくさんいます。   日本の作家ですと写真が好きなので、奈良原一高さんは大好きです。

東日本大震災の時に、麻生和子さん(芸大の理事)が以前に展示の機会を与えたいという事でお手伝いをしていた時がありました。  その展示に関わったという事で今の私があるという感じです。  女性はネットワークに繋がっていないので、機会喪失につながっていると思います。    2024年の展示会は「コロナ後の世界」という事になっています。コロナがどういう風に影響したかという事がテーマかと思います。  日本の女性の作家さんは外国程社会的に繋がった作品を作っている人って少ないです。  30年の空白があったせいか、みんな内向きです。  バブル期に憧れるような作品が多くて、郷愁というか、「コロナ後の世界」という題名でも、そういった色を残した作品が多かったように感じます。  3月4日に女性の作家たちの名前が発表されます。

私は小さいころから絵を描くことは好きでした。  今こういった活動をしていることが信じられないところがあります。  お勧めの一点は、竹村京さんという刺繍を取り入れた作品で「金継ぎ」の作品には自分の心を癒されました。
























  







 















 










  


2023年2月22日水曜日

岩村明憲(福島レッドホープス監督)    ・〔スポーツ明日への伝言〕 何苦楚魂のチームづくり

岩村明憲(福島レッドホープス監督) ・〔スポーツ明日への伝言〕  何苦楚魂のチームづくり 

1979年(昭和54年)生まれ、44歳。   宇和島県立東高校からプロ野球に進み、東京ヤクルトスワローズ、東北楽天ゴールデンイーグルスで内野手として活躍しました。   2007年から4年間はアメリカの大リーグでもプレイをしてタンパベイ・デビルレイズ時代の2008年には内野のリーダーとしてチームを引っ張り、ワールドシリーズに進出しました。  帰国後はNPB日本のプロ野球を経て、独立リーグでプレーをして、現在はルートインチャレンジリーグBCリーグ福島レッドホープスの社長兼監督をしています。

3月9日にキャンプインをして4月8日(土)にルートイン全体の開幕戦をして9日にホームでの開幕戦をします。  ヤクルト時代の「なにくそ魂」 なにごとも苦しい、「なにく」 「そ」は基礎の石篇をとった「楚」の「なにくそ魂」、これは中西太さんから頂いた言葉です。   ヘルメットの内側に書いていただきました。  三原監督から頂いた言葉だそうです。    苦しんだことが礎となって、後に大きな花が咲くよという気持ちでやれば、苦しい時も乗り越えられるという意味と、なにくそと歯を食いしばって、反骨心ようなことも含まれています。   何歳になっても野球から教えてもらったことを伝えていきたいと思っています。       20歳ごろの時に中西さんは66歳で、打てなくなった時に声を聞いたり姿を見てなんかホッとした思いがあります。

高校時代はキャッチャーをやっていましたが内野手の経験もあったので、ヤクルトに入った時にはどこのポジションがいいですかと質問をしたぐらいでした。  二軍の大橋コーチから「お前、サードに行け」と言われて、サードを守るんだという気持ちになりました。   池山さんがショートからサードにコンバートされている時であったので、自分はこの大スターを抜かないと試合に出られないのかなあと思うと、ちょっと壁が高すぎるかなあと感じました。(18歳の時)  

メジャーに行くまでの9年間は、3年連続打率が3割越が4回、最多44本のホームラン、3年連続30本以上のホームラン、ゴールデングラブ賞サード6回(掛布選手と並ぶ最多記録)。 キャッチャーをやっていたので最初は守備が下手でした。  守備の練習は大橋さんと凄く取り組みました。   

高校の時に全日本代表でフィリピンのマニラでホームランを打って、球場に名前を書いてもらいました。  偶然にベーブルースの真下に書いてもらいました。  それでメジャーのことがちょっとずつ頭にありました。   2002年、2004年の日米野球があり、アメリカのロベルト・アロマー選手からバネもあるからメジャーでも大丈夫じゃないかと言われて、具体的に思うようになりました。   3年様子を見てからと言う事になりモチベーションアップになりました。    英語の勉強もアメリカから来ていたピッチャーから教えてもらいました。  

アメリカに渡って1年目が終わるころにポジションがサードから違う場所に替わるように言われました。   ほぼぶっつけ本番でセカンドを守ることになりました。(最終戦)   2008年にはリーグ優勝してワールドシリーズに行くことになる。   20007年は中途最下位でチーム改革が始まって、そこに携われたことも大きな経験でした。   4年間プレイ。      2010年11月に日本に帰ってきました。    東北楽天ゴールデンイーグルスと契約をして、翌年3月11日大震災がある。   兵庫県の明石でロッテとオープン戦をやっている最中でした。    球団側と話し合いをして、今帰ってもなにもできない、迷惑をかけることもあるかもしれないので、もう少し待ってくれというのが球団側の見解でした。    帰れたのが1か月後でした。     4月10日に大きな余震が来ました。       避難所、体育観などをめぐって、声掛け、サインを書いたり、子供たちとボールを使って遊んだり、活動をしました。   

3月11日の大震災がなかったら福島レッドホープスの社長兼監督は引き受けていなかったと思います。   福島に方は原発事故で故郷に帰ってこられない状況になり、野球でなんとか笑顔と希望、夢を与えられるといったことを目標に置きながらのチーム結成でした。    9年目になりますが、最初は環境が全然違って、プライドが邪魔していたなあと思います。 我々はサーカス団であるべきだと思っています。   2018年に経営が厳しい状況になりました。   5月ごろには社長にお伺いを立てて動かしていましたが、怪しいという話を聞いた時には、副社長が消え、社長が消えてしまいました。  とりあえず止めることなく2018年はやりました。  想像を絶する数字でありました。  新しい会社にして名前も福島ホープスから福島レッドホープスに変えてスタートしました。   

野球、スポーツの力を使ってどこまで復興に携わることができるか、という部分が凄くあったし、せっかくできたチームなので簡単に潰したくないという思いもあります。   点々と約15か所の球場を使いますが、原発近くの浜通りにも行きますが、浜通りには約10mの防波堤がり、果たしてこれが復興なのかを思うわけです。  地元に帰ってこれるような準備をさせてあげたいなという思いもあり、ここに帰ったらこういう娯楽があるんだという、野球がその一つを担う事が出来ればいいなあと思います。  関東界隈には8つの県にそれぞれチームがありますが、東北では福島に唯一の球団です。    




















                






















 








  

2023年2月21日火曜日

山本學(俳優)              ・〔出会いの宝箱〕

 山本學(俳優)              ・〔出会いの宝箱〕

昭和30年(1955年)俳優座養成所に入所、1958年のデビュー以来、存在感の演技で活躍しています。   86歳。  

昨年あたりから幻視が見えて、レビー小体型認知症(老年期に認知症を呈する病気の一つで、変性性(脳の神経細胞が原因不明に減少する病態)の認知症では、アルツハイマー型認知症についで多い病気です。  高齢者の認知症の約20%を占めています。)かなあと思って、様子を見ようとして、一旦症状が治まりました。  どういう時に出るのかなあと思ったら、身体を使い過ぎて疲れた時に、見える様でした。  今から30年前ぐらいに、父親がアルツハイマー型認知症と言われて介護をしました。  そこから脳に興味を持っていろいろ本を読んだりしていました。    認知症に関することを筑波大学でやっていて、そこにいれて貰ったのが5年前でした。  そこには60代、70代の人が多くいました。   そこでは楽器をいきなりコードを弾かせたり、絵を描かしたり、筋肉体操があり、鍛える筋肉の目的をもって、そこの筋肉を使う運動をします。   その痛さを脳へ伝えてください、という事でした。  その後コロナがあって中断して、コロナの始まった年の初めにそういった現象が始まりました。   

僕は図形とか、プラスチックの棒とか、無機質のものが出てくるんです。  そういうのは珍しいと言われました。   先生を調べて押しかけたのが去年の4月でした。  東京医科歯科大学の先生で、筆記をやった後MRI,CTを撮って、脳の血流を調べました。   認知症の段階ではないけれども軽度の認知症の状態であることは、この血流を見ると診断できます、と言われました。  それからいろんな本を読んだり、そこに通って現在に至っています。  右手と左手を違うような動作をしたり、思考と行動とを結びつけた、グーと言ったらパーを出すとか、音楽を聴きながらリズムをとる、シンコペーションと言いますが、それを入れるような事をします。  休憩をとりながら全体で2時間、週に4回やっています。   

認知症は急になるのではなく、幻視が出たり、記憶が飛んだり、記憶との関係と、やらなければいけないけれど先延ばしするとか、怒りっぽくなる。  精神的な事と行動的な事と、記憶です。  ボケというと記憶だけになってしまうが、そうではない。  どっちがいいか決められなくなる。(行動力がなくなる。)  認知症の残念なことは戻れないんです。予備軍の段階でとめるには、筋力を使って脳に眠っている神経細胞が何十億という結合があるんですが、月々十万個ぐらい減るのはどうってことないんですが。  脳に海馬というところがありますが、昔は脳は元には戻らないと言っていたのが、意外と運動で海馬が育っていくという事が判ってきた。   ただだらだら歩いていたのではだめで、3分間早歩き、3分間ゆっくり歩いて、1時間歩いてみようとか、自分が意志をもって脳(前頭葉)と運動とを兼ね合わせて、繋ぎ合わせる。  意識的に生きるという脳の使い方をする、それが脳のリハビリなんですね。  

一旦幻視は治まって安心していたら、去年12月3日に粘土細工の群像がぞろぞろ出てきてしまいました。  トレーニングのやり過ぎという面もあったのかもしれません。  コロナが始まる前に胃袋を2/3とったんですが、12kg痩せて8kg戻った時に、トレーニングしすぎてしまったこともありました。   又幻視がでて脳は少しずつ衰えているんだなと思いました。   ボケが進んでゆくというドラマを昔やりましたが(1996年のテレビドラマ)「白愁のとき」で「貴方は精神余命は1年です。」と僕が医師で患者に言うんです。   幻視が出てきてから何にもしないで刺激を与えないでいると4~7年で認知症になるわけです。

僕は人に迷惑をかけるのが一番嫌なんです。   精神余命は後1年と思って生きていこうと思っています。    出来る限り詩を読ませていただいて、自分の体験等々をお話しできればなあと思っています。   団塊の世代が認知症の世代にドーンとくるわけで、介護士を沢山育成しないと対処できなくなる。  国策で認知症対策をしないといけないと僕は思っています。 

高村光太郎は、智恵子が精神を病んで病院に入るが、レモンを持って行って、それを智恵子は食べて、その夜亡くなるんです。

高村光太郎の詩 「レモン哀歌」朗読

んなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉(のど)に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

高村光太郎の詩 「荒涼たる帰宅」朗読

あんなに帰りたがつてゐる自分の内へ

智恵子は死んでかへつて来た。

十月の深夜のがらんどうなアトリエの

小さな隅の埃(ほこり)を払つてきれいに浄め、

私は智恵子をそつと置く。

この一個の動かない人体の前に

私はいつまでも立ちつくす。

人は屏風(びようぶ)をさかさにする。

人は燭(しよく)をともし香をたく。

人は智恵子に化粧する。

さうして事がひとりでに運ぶ。

夜が明けたり日がくれたりして

そこら中がにぎやかになり、

家の中は花にうづまり、

何処(どこ)かの葬式のやうになり、

いつのまにか智恵子が居なくなる。

私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。

外は名月といふ月夜らしい。

























































 


2023年2月20日月曜日

佐々木秀実(歌手)           ・〔にっぽんの音〕

 佐々木秀実(歌手)           ・〔にっぽんの音〕 

案内役:能楽師狂言方 大藏基誠

1980年長野県生まれ。  13歳の時にエディット・ピアフの歌声を聞きシャンソンの世界と出会う。  17歳の時に出場した「日本アマチュアシャンソンコンクール」では最年少で入賞、ライブハウスに出演し、注目を集める。   本格的にシャンソン歌手を志した佐々木さんは高校卒業後、フランスのパリに留学、21歳の時作詞家の阿久悠さんに見出され、「懺悔」で2002年にCDデビューしました。  ラジオ深夜便でも2009年に深夜便の歌「愛の旅人」歌っています。

端唄は、江戸末期から明治、大正、昭和の初期ぐらいにはやり歌だった。  父が茨城、潮来で料亭をやっていました。   小さいころそこにいましたから芸者さんたちがいていい時代でした。  幼稚園、小学校のころ端唄などに出会い憧れました。   日本の色街は文化の一つだと思います。   三味線を習いたいと思って土曜日の夜行で来て渋谷で習い日曜の夜に家に帰りました。 小学校2年から4年まで3年間毎週習いました。  中学2年の時に急性喉頭腫瘍を発症、手術を4回やって最後の手術の時に声が出なくなるかもしれないと言われて、母がエディット・ピアフのベスト盤のCDと自叙伝をもって、クリスマスプレゼントとして持ってきてくれました。   ピアフの愛の叫ぶような声を聞き、自叙伝を読んだら波乱に満ちた人生を送っていて、明日手術で声をなくしても、そんなことはどうでもいい事なんだなと思えたんです。   もし声が出る様であればこういう歌を歌いたいと思いました。  それが私とシャンソンとの出会いでした。  

手術が終わって2週間しゃべってはいけないと言われて、声を出したとたんに涙が溢れました。  あの瞬間は一生忘れないです。  歌謡曲も好きで歌っていました。 スカウトされて働きながら高校へ通いました。  その間も邦楽のお稽古は続けていました。  高校時代は日本の芸能を志している人が周りにいたので、三味線の道に進むかどうか迷っていました。  1級上の藤間勘十郎さんに三味線音楽だけでやってゆくのは、血筋とか、或る程度のお金とか、いろいろあると正直いってもらえました。  発表できる場には居られるようにしておきたいと腕は磨いておこうと思いました。  シャンソンはやっていましたが、お稽古は続けていました。  

去年、三味線秀実会を立ち上げました。  去年春に長野県でやって成功したので、秋に大阪、東京で行いました。   

*「梅は咲いたか」  唄:岡安喜代八(1番)、佐々木秀実(2番)

出囃子にこだわって楽器も見ていただきたいと思っています。  

端唄、男女の色恋をあえてあからさまに言わなかったり、隠しているところがいいです。 

*春の都都逸   七、七、七、五で文句が出来ている。   唄、三味線:佐々木秀実

日本酒を飲みながら聞きたいところです。

端唄とシャンソン、通じるところはいっぱいあります。   シャンソンは日本語に訳されているものを歌うのが多いですが、その中にドラマ性があります。  端唄も日本語を操りますが、歌っている内容は共通するものがあります。   恋愛とか歌ってゆくのは世界共通の文化ではないかと思います。  ドキドキとかワクワクする気持ちは年齢ではないと思います。  フランスに留学した時に、日本で歌われているシャンソンは歌われていませんでした。  パリの人が知らない歌をわざわざ日本語に訳して歌っている。  

*「聞かせてよ愛の言葉を」  シャンソン 歌:佐々木秀実  1930年に作られた。

日本の音とは、風の音ですかね。  日本人の凄いのは見えないものを想像する、見えない音を想像してそういう音に聞こえるとか、日本人の想像力は素晴らしい文化です。

歌う理想の姿としては、木で例えると幹の部分に佐々木秀実があり枝葉としてシャンソンがあったり、邦楽があったり、ジャズ、歌謡曲があったりする、それぞれを突き詰めたいし、その表現者でありたいという思いがあります。
















 













  



2023年2月19日日曜日

小倉ヒラク(発酵デザイナー)      ・〔美味しい仕事人〕 発酵文化を展開する

小倉ヒラク(発酵デザイナー)      ・〔美味しい仕事人〕 発酵文化を展開する 

季節に合わせて味噌や醤油、酒などを仕込む発酵食と共に生きてきた日本の伝統的な食文化、全国各地には実に多様な発酵食品があります。   発酵デザイナーとして活動している小倉ヒラクさん(39歳)は全国の山、海、島をめぐって発酵の現場を記録しています。  見えない発酵菌たちの働きをデザインを通して見えるようにすることを目指して、アニメ制作や麹味噌のワークショップなどを通じて、発酵文化を様々な角度から展開する活動に取り組んでいます。 

発酵デザイナーという肩書は、見えない発酵菌の働きをデザインを通して見えるようにする仕事、という風に定義しています。   発酵文化をテーマにしたアニメ「てまえみそのうた」を作っていますが、それを見ると目に見えない麹菌の働きが判る様になっています。    「てまえみそのうた」は山梨県のお味噌屋さんと一緒に作りました。   楽しく学べるプログラムを作りたいという事で作ることになりました。   踊りがお味噌を作る動作になっています。  幼稚園児が実際にやってみたら楽しく踊った後に自分たちで仕込むんです。  山梨県の北杜市の小学校などで最初やったんですが、子供たちが作った味噌で、今までは作っていなかった味噌汁を作るという、習慣が変わっていきました。  「てまえみそのうた」は2014年のグッドデザイン賞を受賞。  

2015年に東京から山梨県甲州市に引っ越しました。    麹作りワークショップで、麹菌を培養する方法を教えるプログラムをやっていて、100回近くやっています。  発酵ツーリズムというコンセプトで、2011年からやっています。   全国各地に風光明媚な酒屋さんとかあって、発酵、醸造などの様子を観光として見に行くという事を3年ぐらいやっています。 SNS、ホームページで募集してやっています。   岐阜の長良川などは大人気です。   鮎のなれ寿司、徳川家康に献上していた発酵食品です。  お漬物もいろいろあります。  それをお味噌で研いでご飯に乗せて食べる「味噌煮」というのがあり「味噌煮会」をやっています。  長良川を移動しながら食べ歩いて、最後に鵜飼の船に乗ります。

発酵文化は歴史が長くて、土地土地によりありますが、後継者がいなくて風前の灯火になっているところもあります。   リピーターも多くて長良川は恒例なっています。  

2018年から全国の知られざる発酵文化を収集しています。   全国71か所に行って、51点の発酵文化を調査収集しました。    酒蔵は全部の都道府県にありますが、醤油、味噌とか、どこにでもあるものではないものも捜します。    「日本発酵紀行」という本にまとめました。   

「八丁味噌」は愛知県岡崎の城下町八丁地区で作られてきた味噌です。  一般的な味噌は穀物の醤油に大豆を混ぜて発酵させていきますが、大豆にこうじかびをつけて大豆だけで作ってゆく製法なんです。   どっしりとコクがあって苦みもあります。  基本的には日本人が好きな味ではないが、家康は食生活が独特だったらしくて、八丁味噌が大好きで、作り続けるように言って、守ってきた味噌です。   土地土地によってその土地になじんだ味があります。  九州の醤油は甘い醤油です。   

伊豆諸島の「くさや」、くさや液という紫色に発酵したつけ汁にとびうおとかむろあじを漬けて干していきます。  保存食にして焼いて食べます。  新島には200年以上発酵し続けたくさや液があります。  そのなかに菌が生きています。  江戸幕府に献上するために塩で作っていたが、塩をけちらざるを得なくなって、繰り返し塩水につけていたら段々発酵していって、つけ汁が凄く臭うようになっていった。   最初はいやいや食べていたが、歌人が歌を詠んで食べたいという事でお土産品になって行った。  発酵文化はその土地にしかいない食材、微生物でかもしているので、可成りローカル文化が強い。     

会社でデザインの仕事をしていましたが、忙しくてアトピーとか喘息で身体がボロボロになって、東京農業大学の名誉教授の小泉武夫さんを紹介されて会い行きました。   「お前は生まれつき免疫が弱い。」といきなり言われて、「発酵食品を食べなさい」と言われました。   毎朝、みそ汁と納豆を食べるようになりました。  段々元気になって行きました。   興味を持って調べるようになっていって、醸造元などから頼まれるようになりました。  気が付いたら発酵関係の仕事ばっかりになっていました。  発酵デザイナーへの道になって行きました。   現在は甲州市で発酵ラボを作って、菌と向き合っています。  海外でも発酵文化が高まって来て、先端を走っているのが日本酒と醤油です。   

 















  




















2023年2月18日土曜日

藤原岳史(一般社団法人ノオト代表)   ・人と暮らしが資源です

藤原岳史(一般社団法人ノオト代表)   ・人と暮らしが資源です ~古民家再生14年・見えてきた地域の魅力~

藤原さんは兵庫県篠山市出身48歳、一般社団法人ノオト代表として空き家になった古民家群を通りや集落といった単位で一つのホテルとして運営する分散型宿泊施設というアイデアで再生して地域の賑わいを次の世代に繋いでいこうという活動を14年前から行っています。   地域の持っている本当の資産とはなにか、宿泊施設としての古民家の運用の実際等について伺いました。

一つの集落の中にカフェ、レストラン、宿泊棟とか面で展開しているようなイメージです。 丹波篠山に高校まで育っていました。  大学を出て地域に帰ってこない人間でしたが、前職のIT企業が上場を迎えますが(2007年)、正月とか帰省し、空き家になって居たり気になりました。   放っておくと自分の故郷自身がなくなってしまうのではないかと思いました。   なんか故郷に貢献できるような事業が出来ないものかと戻った次第です。  最初は手探りで何でもやっていました。  農業の振興に取り組んだり、婚活活動のプロデュースとかいろいろやっている中の一つに古民家がありました。  

篠山の集落の中に12軒の古民家があり、7軒が空き家で5軒が住んでいるところがありました。  2008年から2009年にかけてその集落に関わりました。  地域の方々と半年で20回ぐらい話し合いをしました。  やっぱり残したいという事でした。     7軒の空き家を宿泊棟にしたり、レストランにすることによって未来につなげていこうと決まりました。  観光が主流だと思われますが、集落が持っている歴史、暮らし、文化を発信していこうと、そして共感していただける方に、一日の住民の様に泊っていただくという事に価値があるのではないかと、考えました。   1/3~1/2はリピーターになって行きます。    おじいさん、おばあさんが自分が小さいころ教わった遊びとか、暮らしの知恵みたいなものを教えたりします。  30%の稼働率であれば、なんとか行けるかなあと思いましたが、14年経っていますが、最初から未だに30%稼働です。  ホテルとか宿泊施設では70%を維持しないといけない状況です。   長く持続してゆくことが最優先なので、30%でも可能です。   30%を超えてくると住民の負荷もかかってしまうこともあります。   1棟1泊5万円ぐらいします。  3倍ぐらいしますが、辻褄を合わせています。  

空き家があるという事は畑、田んぼの耕作放棄地も出るので、田んぼも貸しますよという事で、春に作付け、夏メンテナンス、秋に収穫に来る。  その間は村の人が手伝う。  宿帳にいろいろ書き込むことでお客さん同士が繋がり合って、一緒に酒米を作りませんかという事で、お金を出し合って日本酒を作ったりとか、しています。  オープンして4年目で空き耕作地がゼロになりました。   想像していませんでした。  他にも人口減少で悩んでいる地域があると思って、今全国30か所ぐらいに広まっています。   地域ごとに全く違ってきます。   城下町では空き家が100軒、200軒あって、事業者を誘致して地域の雇用を増やしたり、取り組みをいろいろ工夫しています。  

歴史、文化の薄いところではお手伝いをすることが難しいです。  バトンを渡して行く仕組みが一番大切です。 そこに対して貢献していきたい。   総務省の統計では昭和25年前に建てられた古民家は全国で150万軒あります。   明治時代より前にあった村は再生できると考えています。   そこには歴史、暮らし、文化がある。    それが資源になります。  世界レベルの一日の住人をもっと増やしていければ、日本の人口減少の一つの歯止めになるのではないのかなあと思います。   
























   









 








 

2023年2月17日金曜日

三浦雄一郎(プロスキーヤー)      ・三浦雄一郎 卒寿の挑戦

三浦雄一郎(プロスキーヤー)      ・三浦雄一郎 卒寿の挑戦 

現在90歳、2020年6月に頸椎硬膜外血腫を発症、緊急手術を経て8か月の入院生活を余儀なくされました。   今も手足の麻痺が残る中、今年秋の富士登山を目指し、リハビリに励む毎日です。 

普段は札幌に住んでいます。   頸椎硬膜外血腫は首の後ろの頸椎から出血して、手術をしてその後に神経麻痺で両手、両足がしびれていて、リハビリの最中です。  100万人に一人とか、めったにない病気だそうですが。  いきなり明け方に手足が段々麻痺してきました。 救急車で病院に運ばれて直ぐ手術をしました。   半年は寝たきり、車椅子になり、その後やっと歩けるようになりました。   次男の豪太に助けてもらいながらスキーも何回か滑りました。  豪太が身体障害者が雪の上で遊べるデュアルスキーのことを始めたので丁度いい対象で一緒に楽しんでいます。  デュアルスキーは椅子に座ってスキーの板がついているようなものです。  

今は週に2回ジムに行っています。  いろいろな機械を使って運動をしています。   それ以外に週に3回ぐらいマッサージに来てくれて、その後に階段の上り下りを3回ぐらいしています。   2021年の夏に東京オリンピックの聖火ランナーとして富士山で行いました。    2022年1月にスキー場に行って緩やかな斜面を滑りました。     体重のかけ方とか今もイメージトレーニングをしています。   やればやっただけのリハビリ効果はあると思います。   

30代から50代にかけて世界7大陸の最高峰からスキーで滑走するという、世界初の快挙でした。   70歳、75歳、80歳でエベレスト登頂を目指して最高齢の登頂者つぃて認定されている。   豪太はじめ、シェルパの方々が助けてくれたおかげです。     1985年に54歳で南アメリカ大陸最高峰アコンカグアからの滑降を成功させた後、古稀でのエベレスト登頂の間、17年間空白がありましたが、スキー、旅行などはやっていました。札幌の500mぐらいの山も途中までしか登れない事になってしまいました。      99歳にしてなおモンブラン氷河の滑降という挑戦を続ける実父や、オリンピックに出場した次男の豪太らを見て、自分も頑張らねばという思いに至りました。   足に1kgの重りをつけ、5kg、10kgと各々の足首に付けて、背中には最初10kgでしたが最後には30kgの負荷を掛けながら歩くことで足腰を復活させていきました。   不整脈があって医師から余命3年と言われたこともありました。  心臓の手術を7回やってそのたびごとに回復はしていきました。   

2019年1月、86歳でアコンカグア登頂を目指すが、ドクターストップがかかり断念することになる。(私は昇れたと思ったんですが。) 昨年の10月で90歳になりました。   父が亡くなったのは101歳でした。  父は雪のある階段で転んでスキーの板が首に掛かって首の骨が損傷して寿命を縮めてしまいました。  これがなかったら110歳まで生きたのではないかと思います。

小学校3年生のころは仙台で暮らしていました。  廣瀬川でよく遊んでしました。    東京、青森でも、海、山で楽しんで遊んでいました。  父親みたいになりたいと思っていました。   

若いころは無我夢中で登っていましたが、70歳過ぎてからは色々な人の助けがあり、感謝しています。  また家族全員が協力して僕を助けてくれているので、有難く思っています。  夢が目標になり、目標が行動になる。  夢が行動をうながすことになると思います。  出来るだけ口にだす。 それを助けてあげようとする仲間が増えてくる。     ポジティブな考え方は母親ののんびり、前向きな性格が有難かったです。   母親は89歳で亡くなりました。  兄弟は弟2人、妹1人でみんな元気にやっています。     面白い事、ためになることを見つけるのが嬉しいです。   今でもステーキは300,500g食べます。   スキーは自分だけで滑れるようにしたいです。   ちょっとした山を登り始めて、秋には富士山に登りたいと思っています。  歩けるところは自分で歩いて、登山用の車椅子も利用できればと思っています。  99%は引っ張てもらう事になると思います。  

幾つになっても夢を諦めないで、夢を追いかける、人生を前向きに登り詰めていこうじゃありませんか。