山野勝(坂道研究家・日本坂道学会会長) ・坂道は面白い
日本坂道学会とはタレントのタモリさんと二人だけの会、坂について実際に歩いて今の様子を調べています。 山野さんは広島生まれの79歳、編集者時代から狸の穴の坂、と書く「狸穴坂」や「薬研坂」など昔からの名前がある坂に興味を持ち、その歴史を調べて出版をしています。 山野さんに何故坂に興味を持ち、どういった坂が好きか、坂の楽しみ方などを伺います。
日本坂道学会が出来て30年近くになります。 出版社の現役のころに、銀座に文壇バーがありそこに行ったらタモリさんとばったり会いました。 以前に部下と共に坂のことを話していたらそれを聞いていて、それからタモリさんと坂道の話をするようになりました。 そのうちに会を作ろうかという話になり、日本坂道学会という名前を付け二人だけにしました。 18年前に本を出しましたが、タモリさんが写真を担当、文章は私の方で担当しました。 それが「タモリ の tokyo 坂道 美学 入門」です。 「お江戸・東京坂タモリ」は詳しくやろうと言う事で港区だけに絞りました。
『江戸の坂—東京・歴史散歩ガイド』、『江戸と東京の坂―決定版!古地図“今昔”散策』、『古地図で歩く江戸と東京の坂』 の3冊を私が出しています。 道も大きく変わったと思うかもしれませんが、75%は江戸の道です。 幅は広くなりましたが。 明治通り、昭和通り、山手通りとかの幹線道路は新しくできています。 ですから古地図で歩いても現代地図で歩いてもほとんど同じです。 大名の家、神社とか判るわけです。 坂を歩くことによって江戸時代の街並みと生活、歴史を感じたいと思いました。 大名屋敷を明治になって軍事施設、学校、大使館、病院とか公共的なもの使っていて、枠組みが変わっていないです。 東京は変わっていないという事を強調したいです。(建物は変わっているが) お寺、神社なども変わっていないです。
江戸の人口が増えると広げなくてはいけなくて、東は隅田川の向こうなので埋立地で、武家屋敷にする。 赤坂、麻布辺りは新しい道を作らなくてはいけなくて、お寺などを郊外に集団移転させたんです。 三田などは八丁堀から移転したんです。(元禄時代) 53のお寺が集団移転して、今ほとんどそのままあります。 八丁堀は江戸町奉行所などの街にしたんです。
私は広島県呉で昭和18年に生まれました。 小学校1年生から九州の福岡県に行きました。 高校2年から東京に転校してきました。 子供のころはジャーナリストになりたかった。 早稲田大学卒業後、新聞社に就職、その後講談社に入社。 「週刊ヤングマガジン」編集長になり、『AKIRA』、『ビー・バップ・ハイスクール』などを世に出しました。 「週刊ヤングマガジン」の部数を伸ばす原動力になったのは『ビー・バップ・ハイスクール』ですね。 『ビー・バップ・ハイスクール』の8巻目の初版は226万部でした。 映画やドラマにもなりました。 その後常務取締役となる。
坂に興味を持ったのは、まず東京のことを知らなかったので歩くことをしました。 坂道に名前があり、簡単な説明がありました。 面白いと思って坂道の本を購入しました。(4人の研究者がいた。) 問題は地図が不正確でした。 坂道のところを地図に落としました。 それが後の出版につながって来ました。 それが江戸時代の地史にはまり込んでいきました。 昔から江戸の歴史が大好きでした。 古地図の中に物凄い情報が入っているわけです。
東京の坂は500ぐらいあります。(区の名前が付いた坂) 江戸には坂道が3000ぐらいあるだろうと言われています。 江戸には町名が1600ぐらいありました。 武家屋敷には町名がないんです。 面積の75%は武家屋敷なんです。 人口は550万、50万なんです。(武家が50万人) いかに町民が狭いところの住んでいるかという事です。 大きな大名は上屋敷、中屋敷、下屋敷の3つを持っています。 加賀藩は東京大学のところが上屋敷で10万坪あります。 武家屋敷には坂道に名前を付けてそれを見当に行くわけです。 同じ坂でも名前が違ったりするので、それを入れると1000以上になります。 例外で番町だけは複雑なので1から6までの番町名が付きました。 番町には500~600人の旗本がいました。 旗本の名前が入った番町の地図を作ったら爆発的に売れてその後、今の港区、千代田区とかできて、550種類ぐらいの地図が出来ました。 参勤交代で江戸に来た人はお土産に古地図を持って帰るんです。
坂の形が好きです。 坂は急なほうがいいです。 湾曲している方がいいですね。 江戸の情緒が残っているのがいいですね。(石垣、古木など) 坂の名前の由来などで興味がわいてきました。 カルチャースクールの講師もやっていますが、一回で3時間、1万5000歩歩きます。 カルチャースクールも18年ぐらいやっていますが、70歳ぐらいの人が多いです。 橋の名前は5300ぐらいあります。(川は暗渠になってしまっているところが多い) 港区も再開発が進んで、「原石坂」もなくなりました。 「落合坂」「行き会い坂」「我善坊谷坂」「三年坂」もおそらくなくなります。
千代田区の「二合半坂」 西には富士山が見える。 逆の方向は日光山が見える。 富士山の高さを十合と数えると日光山は五合と数える。 下半分は屋敷などで見えないので、二合半が見えるという事で「二合半坂」 別名「こなから坂」 こなからは二合半の桝のことを言うんです。 下で一合の酒を飲んで坂道を登ってゆくと二合半飲んだように酔っぱらう。 「日光坂」とも呼ばれます。
「茶屋坂」 落語の「目黒の秋刀魚」がありますが、舞台になったところが「茶屋坂」です。 彦四郎というおじいちゃんの茶屋に家光が寄るわけです。
「三分(さんぷん)坂」(TBSに裏にある坂)は凄く急なんです。 荷物を上げるのに割り増し料金を取られてそれが「三分」(100円~200円程度)というんです。 広島藩の領地だったが軍隊の土地になりかなり削ってしまった。 その下には報土寺というお寺があり雷電為衛門の墓があります。
港区「狸穴坂(まみあな)坂」 「薬研坂」「綱坂」、「暗闇坂」「釣り堀坂」 文京区「湯立坂」「善光寺坂」「村月坂」 新宿区「七麺坂」「大坂」 千代田区「紀尾井坂」 目黒区「見機微坂」「別所坂」「行仁坂」 台東区「三浦坂」
金沢、長崎市、鎌倉は何回か行きました。 金沢では「嫁坂」が一番気に入りました。 嫁を送り出す時に坂に段を作って見送った。 長崎では「幣振り坂」 山の坂ですが、大きな石を降ろす時に一人石の上に乗って弊を振ったところからの由来だそうです。
タモリさんとの本の写真は全部タモリさんが撮っていて、人とか車が無い状態をとっていますので、朝早くとか撮っています。