頭木弘樹(文学紹介者) ・〔絶望名言〕 紫式部
源氏物語の作者紫式部は公の記録を兼ねた紫式部日記を書き残しています。 この日記には紫式部の個人的な思いなども書かれていて 紫式部の人柄が浮かび上がってくる貴重な記録でもあります。 この日記をもとにした紫式部絶望名言をお聞きいただきます。
「人生の苦さを味わっている。 過去を悲しんで灰色になっている心。」 紫式部
源氏物語はおよそ1000年前に書かれた物語ですが、未だにとても人気があります。 20か国以上の言語に翻訳されて世界でも高く評価されている。
紫式部日記があります。 公式的な記録でもある。 当時女房日記というのがあって、女房というのは宮廷や貴族の屋敷で働いている女性のことで、紫式部も女房でした。 一条天皇中宮の彰子に仕えた。 彰子の宮中の様子などを記録しているのが紫式部日記です。 紫式部自身の内面の思いとか、可成り書き込んであります。 紫式部は一口で言うといつもかなり絶望しているんです。 地味で真面目で恋愛にも消極的で内向的な人で感じやすくて落ち込みやすい。 絶望名言だらけなんです。 与謝野晶子が紫式部日記を訳している。
「人生の苦さを味わっている。 過去を悲しんで灰色になっている心。」 紫式部 紫式部日記の冒頭のところの一節。
「自分は過去に何という長所もなく、さればと言って未来に希望と慰謝を求めることもできない女である。 自分の憂悶が人並みのものであったなら。」 紫式部
「兄の式部丞が子供の時分に史記を習っているのを、そばで聞き習っていて兄のよく覚えなかったり、忘れていたりするところを自分が兄に教えるようなことをしたので、学問好きな父は残念なのはこの子を男の子に生まれさせなかったことが、自分はこの一事で不幸な人間と言っていいと常に嘆息をした。」 紫式部
当時の男性貴族は漢文を習得しなければいけない。 女性が学問をすると不幸になると言われていた。 紫式部が漢文を読んでいると、侍女たちが集まって来て以下のことを言うんです。
「奥さんはああした難しいものをお読みになるのが、返ってご不幸なもとになるのですよ。 女と言いうものは全体言えば、漢字で書いた本など読んではいいものではありませんよ。 昔はお経さえもそんな理由で不吉だと言って、女には見せなかったそうですよ。」
「自分の家の侍女たちにさえも読書の気兼ねをする自分ではないか」と、書いています。
「左衛門の内侍という女がある。 不思議にも自分に悪感情を持っているという事である。 自分にはどういうことかわからない。 その人の口から出たという悪評を随分多く自分は聞いた。 陛下が源氏物語を人に読ませてお聞きあそばされた時に、この作者は日本紀の精神を読んだ人だ、立派な織見を供えた女らしいと仰せになったことに,不徹底な解釈を加えて、非常な学者だそうですよと殿上の役人などに言いふらして日本紀のお局と自分に付けた。 このことを聞く女たちがまた自分にどんな反感を持つかもしれないと、恥かしくて御前にいる時などはお屏風の絵の賛にした短い句をも何事かわからない風をしていたのである。」
日本紀は日本書紀から日本三大実録まで六国史(『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳(もんとく)天皇実録』『日本三代実録』)のことで、いずれも漢文で書かれている。 男性が理解できることは立派なことだけれども、女性だとからかいや反感の種になる。 紫式部は屏風に書かれた漢字も読めないふりをする。
「一」という漢字を書くにも憚った。 そこまで隠さないといけなかった。
平安時代になるとひらがなが発明されて、女文字を言われていた。 「源氏物語」はひらがなで書いたが、直筆は残っていない。
今も紫式部の様に苦しんでいる女性は多いかもしれないですね。
「面白くも何ともない自分の家の庭をつくづく眺めいって、自分の心は重い圧迫を感じた。 苦しい死別を経験した後の自分は、花の美しさも鳥の声も目や耳に入らないで、ただ春、秋をそれと見せる空の雲、月、霜、雪などによってああこの時候になったのかと知るだけであった。 どこまでこの心持が続くのであろう。 自分の行く末はどうなるのであろうと思うと、やるせない気にもなるのであった。」 紫式部
「苦しい死別」とは夫を亡くした事。 紫式部が結婚したのは29歳ごろと言われている。 当時としては相当遅かったと思います。 相手は相当年上で親子ぐらい違っていた。 正妻がいて、側室、愛人もいた。 正妻ではなく結婚して娘も生まれたが、夫が結婚後2年数か月で亡くなってしまう。 この先どうなっていくのか心細く思った。 ものを書いたりするようになって源氏物語が生まれてくる。 それが評判になって行って、藤原道長の目に留まって中宮彰子に仕えることになる。 中宮彰子は藤原道長の娘です。
紫式部は宮仕えをしたくなかった。
「初めて御奉公に出たのもこの12月29日であったと思いだして、その時分に比べて人間が別なほど宮仕えに慣れたものになっている。 自分は悲しい運命の女であるなどとしみじみと思った。」 紫式部 (宮仕え後3年経った頃)
僕(頭木)が中学の同窓会に行った時に、それぞれがそれぞれの職業らしい性格に変わって行ったのにびっくりしました。 職業が人の性格をこんなに変えるものなのかと吃驚しました。 長い間闘病生活をしていたので、気が付いてみると自分は病人らしくなっていた。 紫式部は宮仕えをしたくなかったので、女房らしい女になってゆくことが厭だったと思います。
「自分は他から見てボケた様な人間になっているのである。 それを人が見てあなたがこういう方だとは想像しなかった。 へんな美人らしくしている人で、付き合いにくい風ないつもしんみりとした本当の調子を見せてくれない人で、小説ばかり読んでいて華やかなことを人に言いかけたりすることが好きで、何ぞというと思ったことを歌で述べる人で、人を人と思わず、軽蔑するような人であろうと皆が評判して憎んでいたのです。 今あなたを見ると不思議なほど鷹揚でそんな人ではない気がすると、自分のいうことを聞くと自分は恥かしくなって他からくみしやすい女として軽蔑されているのであると思う一面に、又そういわれるのが自分の本懐であるとも思い、なおそう思われたいという事を望みにして、日を送っている。」 紫式部
周りの女房達はどんな人が来るのだろうか、人を見下すような人が来るのではないかと恐れていた。 初出仕の後数日で実家に戻ってしまい5か月ぐらい家に引きこもってしまった。 再出仕してぼーっとしたキャラを演じるわけです。 見下されているであろうと思う反面、自分でも望んだことでもあり、そこは複雑です。
「もう自分は人の評判などにかまっていないことにしよう。 人がどういおうとこういおうと頓着せずに。」 紫式部
こう思うが、そうもいかなくて又人目を気にしてしまう。
人の心の機微が判っていたからこそいい小説が書けたと思います。
「着御遊ばされたのを見ると駕輿丁(かよちょう)は下賎ながらも階(きざはし)の上に登って行って、そしてもったいなさそうに身の置きどころがないといった様子でひれ伏していた。 自分はそれを他人事とは思えなかった。 苦労の尽きないことは自分も同じであると思うのである。」 紫式部
中宮彰子に男の子が生まれて、一条天皇が対面のために御輿に乗ってお越しになった。 担ぐ係の人が駕輿丁(かよちょう)で、担いだまま水平を保つように階段を上がった。 前の人はかがんで苦しい態勢で行かなければいけなくて、身分の低い苦しそうな姿に紫式部は眼が行く。 自分と同じようなことだと思って一緒に悲しんでいて、これは素晴らしいことです。
水鳥に対しても、楽しく遊んでいるように見えるけれども、実は内心苦しいんじゃないのかと、自分を重ねてみたりする。 何を見ても悲しいほうに向いてしまう、そういう自分が苦しいと又嘆いてしまう。
「立派な事、面白いことを見聞きしても、忘れ得ない悲哀に惹かれる心の方が強いために、良い事や面白い事にも心底からそうと感じることのできないのが、自分としては苦しいことに思っている。 「水鳥を 水の上とや よそに見む 我もうきたる 世をすぐしつつ」 あの鳥もあんなに面白そうにしているとは見えても、彼自身は苦しいのかもしれないと、自分に比べて思われるのであった。」 紫式部