2024年7月22日月曜日

新井智恵(箏・三味線演奏家)      ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

 新井智恵(箏・三味線演奏家)      ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

1978年生まれ、東京都出身。 琴の教室を開いていた母親の影響で、6歳から琴を習い始め恩師の勧めで東京芸術大学で生田流箏曲専攻、大学卒業後は筝曲演奏家で作曲家の宮城道雄さんの音楽を継承する宮城会に所属して、演奏活動を行うほか、公演の出張授業などで子供たちに琴の魅力を伝えています。 3人の和楽器ユニット「Rin’」のメンバー。 Mana(ht吉永真奈) 生田流 ボーカル・箏・三絃・十七絃。 Tomoca(長須与佳)琴古流(尺八)ボーカル・琵琶・尺八。  Chie(新井智恵)生田流 ボーカル・箏・三味線・十七絃。

「Rin’」は東京芸術大学同期3人で結成して、今年で結成20周年になります。 伝統楽器を用いてのポップスな音楽を演奏しています。 

*「虚空」 演奏:Rin’ 

琴、十七絃、琵琶、尺八。

お琴の奏者は三味線もセットで行うものなんです。 私はこの曲では十七絃を演奏しました。 普通お琴は13弦です。  4弦多いです。  大正時代に宮城道雄先生が考えだした楽器で、低音部分が欲しいという事で作られた楽器です。 音域はチェロの音域です。  大きさも2m10cmあります。 普通のお琴は180cmぐらいです。 琴柱(ことじ)も半周りぐらい大きいです。 爪も厚みがあります。 音も重厚感があります。 指ではじくと柔らかい音がでて、ハープの様な音色になります。 生田流なので爪は四角くて、親指、人差し指、中指に付けていろいろな奏法(25~30ぐらい)があります。 爪は象牙で出来ています。    爪を使っていろいろな奏法があります。  

*風の音、火、うぐいす、などいろいろな表現を行う。

*「天華」   演奏:新井智恵

十七絃は音域を変えることによって3段階ぐらい変えられます。  高い音から低い音までだせるので幅広い音楽が作れる楽器だと思います。 母がお琴を弾いていたのでそれを聞きながら育ったという感じです。(赤ちゃんの頃から)  正座はつらかったです。 東京芸術大学へ行って、素敵な世界があることに刺激を受けて、「Rin’」に繋がって行きました。  高校の時に校長先生が私にお琴を買って下さったりして、周りに恵まれていました。  小、中、高の学校への出張授業も行っています。 「通りゃんせ」を演奏した時に知らないと言われてショックを受けました。 (信号機の曲だとも言われた。) 

日本の音とは、子守歌だと思います。 愛を感じる歌だと思います。 











2024年7月21日日曜日

村田吉弘(京都・老舗日本料理店 三代目) ・〔美味しい仕事人〕 和食の伝統を革新でつなぐ

村田吉弘(京都・老舗日本料理店 三代目) ・〔美味しい仕事人〕 和食の伝統を革新でつなぐ 

和食がユネスコ無形文化遺産に登録されて10年が経ちます。 村田さんは和食の無形文化遺産登録に尽力し、その後も全日本食学会理事長、日本料理アカデミー名誉理事長として日本の食文化を次の世代に繋ぐ活動をつづけています。 若い人を育てるにも料理の科学を筋道立てて教えるなど、明快な指導を心掛けています。 これまで口伝で伝えてきた調理法も、文献で共有できるように取り組んで来ました。  和食を守ってゆくには、単なる伝承ではなく、守るべき伝統を革新的につなげてゆくという事が必要だと語ります。 

2013年12月4日にユネスコ無形文化遺産に登録されて10年が経ちます。 見直しが定期的にあって、ちゃんと出来ていないと取り消しになります。 文化を維持継承するシステムが機能しているかどうか。 法律改正して頂いて、食が文化のなかに入りました。  日本料理アカデミーでは200人ぐらいは料理人で、100人は学者の先生方です。 今1億2500万人の人口で自給率が37%、50年後には8000万人になってきて、自給率が19%になるんです。 他の国ではそうそうないので、日本料理を世界の料理にすることによって、日本の食べ物が輸出されるということを望みました。 登録前は輸出が4000億円だったのが、今は1兆4000億円になりました。 25年度には2兆円にするという事を政府から言われました。 日本の食の将来を守るためにいろいろ活動をしています。 登録前は日本以外の日本料理店は5万6000軒でしたが、今は18万軒になりました。(ラーメン屋を含め)  おむすびなど日本人しか食べないと思っていたら、日本人がおいしいものは世界で美味しいんです。 

日本料理は寿司とラーメンと思っている外国人はたくさんいますが、だんだんわかってきて、焼き鳥、天ぷらとか判って来て、今は懐石料理を食べたいとか、という風になってきています。 イギリス人などはアユなどの魚は絶対頭から食べなかったが、今は美味しいと思うかもしれないので食べてみます。 ウニもヨーロッパ人は食べなかったが、食べるようになってしまいました。 お母さんのおっぱいの中には、糖質、脂質、旨味成分が入っています。 これらは脳を刺激して、ドーパミンというホルモンが出てきて、もっと食べたくなります。 糖質は全世界の人が食べます。 世界の料理は油脂を中心に料理を構成している。 一民族(日本)だけが旨味を中心に料理を構成したんです。  油脂は1ccで9kカロリーがあります。  フランス料理はデザート前までで2500kカロリーあり、日本料理では1000kカロリーです。  世界中のトップシェフが日本に学びに来ています。    日本には菜種油ぐらいしかない。 京都の公家に2,3時間かけて食べてもらうのに、夏には野菜と川魚しかなくて、小さいポーション?にして沢山、いろいろ出した。 そこに旨味を添加してゆく。  最終的には北海道の北前船で運ばれてくる礼文島の昆布、土佐から運ばれてきた鰹節を使ってやったら美味しくなった。 京都御所から始まった料理です。 

110年ぐらい前に帝国大学の池田菊苗先生が、湯豆腐を作るのに水だけと、昆布をひいて作るのでは味が違う事を発見した。 昆布の出汁を煮詰めたら、結晶が出て来た。 それがグルタミンソーダでした。 その弟子が獣類の肉からっ出てくるイノシン酸、キノコから出てくるグアニル酸を発見した。  外国人は味は4つで旨味は概念だと言っていたが、結晶化したものがある。 2006年に甘味を感知するすぐ横に、旨味を感知する受容体が見つかりました。 今では5つの味(+旨味)を理解するようになりました。 今では昆布がフランス料理の厨房にはあります。 

日本料理アカデミーでは今年はトップシェフを7人招きました。 今では世界中のシェフは発酵(味噌、みりん、酒など)です。 麹が輸出されるのでいろんな豆で味噌を作っています。 日本料理アカデミーでは日本の和食の良さを広げなければいけないという事で、始めました。 勘と経験を数値にしようと京大の先生と一緒に「日本料理大全」という6巻の本にまとめました。 そうしないと世界の人々にはわからない。 日本語と英語で作っていて、英語は全世界に対して無料配信します。 パソコンで翻訳機を使えばすんべ広がる。 いま5巻まで作りました。 「煮る、炊く」というのを後一巻にまとまます。 在庫の本は世界中の図書館に寄付するようにと考えています。 

跡継ぎという事が嫌でした。 料理は好きなのでコックになろうと思いました。 フランス領路をやろうと思いました。  フランスに行きましたが、まだ何も決めていませんでした。 安いホテルも紹介してもらって、そこには上柿元勝(フランス料理のレジェンド)さんがいました。  彼から雇われ方のコツを教えてもらいましたが、駄目でした。 日本料理の情けない状態を知って、フランス料理ではなく日本料理を世界の料理にすことをライフワークにしようと思いました。  

人生の一コマに料亭がある。 お食い初め、お宮参り、初節句、七五三、成人式、両家のお顔合わせ、喜寿、米寿などのお祝い、法事など。  社会的な施設としての役割がある。  「伝統は革新」 日々新らた、新しい発想をしてゆく。 伝統と伝承とは違う。 守るべきものは守って破るべきものは破る。





















2024年7月20日土曜日

藪邦彦(高野山金剛峯寺 高野山執務公室長) ・世界遺産20年 今改めて感じたい空海の教え

藪邦彦(高野山金剛峯寺 高野山執務公室長) ・世界遺産20年 今改めて感じたい空海の教え 

高野山を含む紀伊山地の霊場と参詣道が世界遺産に登録されたのが2004年7月7日(20年前)のことでした。 弘法大師空海が開いた高野山には今国内だけでなく、世界各国から観光客が集まって来ます。 世界遺産登録20年、高野山を訪れる人達に何を感じてもらいたいか、そしていま改めて感じたい空海の考えはなんなのか、藪さんに伺いました。

高野山執務公室長の役割は、高野山金剛峯寺には役員がいて、その秘書的な部分、行政など対外的なところとの調整、広報などを含めてやっています。 僧侶でもあります。 世界遺産に登録されてから急激に海外の方への発信力も強くなり、多くの方が来るようになりました。  20年前は海外に発信する手段も知りませんでしたし、アピールの仕方も知りませんでした。  宿坊、お土産屋さんも英語を喋れない人がほとんどでしたが、今では片言の英語を伝えながら、対応しています。  世界遺産に登録されたのは、熊野、吉野、高野(高野山)三つの聖地とそれぞれを結びつける道を併せて登録されました。  この三つは日本の信仰の歴史の中核になると思っています。  熊野は大自然をそのまま御神体としてあがめた。(土着の神道の教え)  仏教が入ってきて、そこから修験道という信仰体系が生まれてくる。 修験道の中心の聖地が吉野というところになります。 1200年前に弘法大師が中国から持ち帰った密教の聖地としてあえて、高野という場所に選びました。 

この場所を選んだ理由としては、①様々な信仰の体系がこの紀伊半島に集約していた。  ②京都にほど近い。 ③空海が修行をしていた吉野から歩いて2日間で高野にたどり着くことができる。 ④盆地になっていて、多くの人が修行するためには水が必要になるが、豊富にある。  ⑤都から離れることによって仏さまと自分自身だけを見つめるためには最適な場所であると感じられた,と思います。  

宇宙科学を専門に学んでいる方々、数学者、医療関係の方々と様々な議論をさせて貰っています。  例えば数学で様々なものを紐解いてゆくその話の中で出てくる内容というものが、真言密教の経典にすでに書いたあるもの、今あえてそれが証明されつつあるんじゃないかなと思う事が良くあります。 大宇宙が出来上がっているのはビックバンという爆発によって無数の物質が放出され、今の大宇宙が広がりつつあるが、真言密教の経典の中には、何から生まれたものではない唯一無二の波動が存在するんだと書いてあります。 それを今の科学で応用してゆくとビックバンが生まれ、ビックバンから様々な物質が流出され、星が生まれ、地球という星の中に新たな生命体が生まれて今に至っている。 

ビジネス、農業の方たちとの交流もあります。 土には何億という生き物が存在している。 彼らの活動の賜物によって、養分となってゆく。 何一つとしてこの世の中に不必要な存在はない。  土自身も命としてとらえる。  そういった一つ一つが関わることによって新しい力を見出す事にもつながってゆく。 すべてのものを命として尊びながら見てゆく。

曼荼羅という教えを持ち帰りました。  それぞれに役目を持ち合わせた仏さまたち、沢山の仏様たちが関わり合って、今の命と言うものを生かしている存在なんだということを説かれている。  生まれも育ちも全て違う、だからこそそれぞれが尊い一つの命で、それぞれが関わり合って生きてゆくことの大切さを知ることに繋がれば、多くの方々が救われてゆく道というものがおのずと見えてくるのではないかと思います。

若い人々は大自然に対する感謝の気持ちが少し薄れてきていると思います。  大自然に対する感謝する心、様々な人々に感謝する心、そういったものに対してベースとなる教え、機会を少しでも発信することが出来れば、と思って発信しています。 仏教も進化してゆきますが、すべての命を尊び、自分自身の命を尊び、その命を活用して多くの人々の喜びとしなさい、という教えは様々な宗教、宗派等を包括する教えだろうと思います。 

視野を広げてゆくことができにくくなってきているように思います。 特化して狭い領域を深く深く掘り下げてゆくというところは、今の方は得意なのかもしれない。 視野を拡げ経験を積極的にやっていただくと、様々な知識、知恵を得るきっかけになるのではないかと思います。  

昭和44年福岡県でお寺の子供として生まれました。  中学、高校になるとお寺に拘束されるのが嫌でした。 段々受け入れながら今に至っています。 大学は高野山大学に進みました。 当たり前として見よう見まねで受け入れていたものを、掘り下げていくという思いでした。  理由と意味を知る事によって、心が付いてゆく。 月~金までが高野山、週末は福岡のお寺です。 

最近の観光客は、宗教儀礼に参加することなくお帰りになる方が多いです。 外国の観光客の方からはもうすこし宗教儀礼に参加したかったという言葉が非常に多いです。 令和5年の観光客は140万人来ています。 人口2600人の小さな街ですが、140万人の人々が不便な思いをすることは本意ではないし、住民の方にインフラ整備を任せるというのも本意ではありません。  ふさわしい対応を検討しています。  奥の院には今も御大師様が祈り続けていらっしゃる場所がここに存在しているんだ、という信仰に裏打ちされた場所が高野山です。 

戦国武将がお互いに近くで供養されている。 何故かというと御大師様が受け入れてくださっている。 その空間に触れていただくことこそが、大切な体験になるのではないかと思います。  体験していただくことによって、決して自分自身は一人では生きているのではなく、多くの人々、自然界のなかの多くの命によって、私という一人の命が存在しうるし、生かされているという事を、大自然を通して感じていただきたい。 他の人の命を大切にして頂くと同時に、自分自身の命を大切にして頂く、それが最も大切であると思います。 多くの人々を正しく幸せに豊かに導いてゆくか可能性がある、とてもとても大切な命なんだという事を自分自身で企画して、それを実行に移していただく、それこそが御大師様の教えです。 























 








2024年7月19日金曜日

小沢仁志(俳優・映画監督)        ・金をかけず、命をかける。

小沢仁志(俳優・映画監督)        ・金をかけず、命をかける。 

1962年東京都出身。 刑事ドラマ太陽にほえろ!』の犯人役で俳優デビュー。 不良高校生たちの青春を描いた映画ビー・バップ・ハイスクール』で注目されて以来、「顔面狂器」という異名を持つ、こわもて俳優として数々の映画やドラマで活躍しています。 又映画監督としてもかちどうしています。

小さい時から映画は好きでした。 監督になることは不本意から始まっている。 監督が違うところに取られてしまって、監督をどうするかという事になり、じゃんけんで負けてやる羽目になりました。  当時は監督はデメリットの方が多かった。 監督協会があり、「なんでお前が監督なんだ。」という事でした。 デメリットとしては監督からそっぽを向かれたという事と現場での役者としての在り方がちょっと変わってしまった。 たけしさんの前の時代なのでめちゃ叩かれた。 たけしさん以降は流れが変わって、役者が監督をやる人が増えた。   チャップリンの映画を観て、映画ってすごいなと小学校の頃思いました。 あの人は笑いを取るために命を懸けた。(凄いことをやっている。)  チャップリンの映画は喜怒哀楽のすべてが入っている。  空手を始めたのはブルース・リーを観てからです。(小学校5年生ごろ)  「エマニエル夫人」、その後「ゴッドファーザー」高校生の頃は新宿の映画館ではやくざ映画が盛んでした。 

テレビドラマの「スクールウオーズ」が最初でした。 敵役・「ヘビ次」を演じた。   25歳で役者に向いているのか考えたが、45歳を越えてからは考えていないです。   村上修監督の日活ロマンポルノ『BU・RA・Iの女』で初主演。(25歳ぐらい) 30歳でクエンティン・タランティーノ監督作『レザボア・ドッグス』をモチーフにしたオリジナルビデオ作品ザ・ワイルドビート/裏切りの鎮魂歌』を完成(主演)。 和泉 聖治監督南へ走れ、海の道を!』で映画で初めて出ました。 自分で攻めて行ったものが、不思議と後で繋がってゆく。 他の道に進もうかどうかという事は5年サイクルで考えました。 

激しいアクションシーンをほとんどスタントマンを使わずに自ら演じている。遊園地のジェットコースターを寸前でかわすシーンでケツをかすって行った。 62歳になりました。 60歳の時に還暦記念に撮った映画『BAD CITY』のスタントマンなしの撮影も骨折している。  矢沢永吉さんを見て、自分でいろいろやっているので、自分でやらなくてはいけないと思いました。  矢沢さんは朝5時にランニングしています。 私はジムに行って筋トレしています。 ベンチプレス100kgあげられます。  40何年もやっているので歯磨きと一緒です。 俺の基本は動機が不純なほど長続きする。  60歳を越えると2かが越で作るのはきつい。(映画?) でも今は出来ている。 今やれることをやっておかないと明日かもしれないので。 























2024年7月18日木曜日

五大 路子(女優/横浜夢座座長)      ・〔わたし終いの極意〕 ハマのメリーさんに導かれて

 五大 路子(女優/横浜夢座座長)   ・〔わたし終いの極意〕 ハマのメリーさんに導かれて

今年舞台生活50周年を迎えた女優の五大路子さん、1952年横浜生まれ。 1977年にNHK朝の連続テレビ小説いちばん星』の主役でデビュー以来、大河ドラマ「独眼竜正宗」など数多くの作品に出演してきました。 又実在した娼婦を演じる一人芝居「横浜ローザ」は初演から29年目を数え、五大さんのライフワークとなっています。 1999年には自身の劇団「横浜夢座」を立ち上げ、地元横浜から演劇の発信を続けています。 

実在した娼婦を演じる一人芝居「横浜ローザ」は初演から29年目。 横浜には伝説の娼婦と呼ばれている白塗りのメリーさんという方がいました。 真っ白ずくめで、顔も真っ白、ドレスも真っ白、真っ赤な口紅と濃いアイライン、でも気品を持っていて、大きなキャリーバックを曳いていて、横浜駅、伊勢佐木町などあらゆるところにふっと立っていた。 彼女に出会って彼女の人生を追いかけてゆくうちに、彼女の背後に大きな日本の歴史を感じ始めました。 歳をとった時に出会ったので、回想してゆく感じです。 

横浜の仮装パレードがあった時に、私が審査員をしていた時に、前の山下公園の街灯の前に立っていました。 私と目がぱったり合ったんです。 「私の生きて来た今までをどう思うの。 答えて頂戴。」と眼差しがぐっと入って来ました。 隣の人が「横浜の名物ですよ。」言いました。 大きな怪我をして、自分を見つめる時期だったので、彼女のことを調べてみようと思いました。 横浜中をノートをもって調べ始めました。 私があった時には70代ぐらいでした。  今華やかな伊勢佐木町の向こうには米軍の飛行場がありました。 5時になると兵士がワーッと出てきてそれを待ち構えていた日本の女性がいたと言いう事を知りました。 メリーさんは白いドレスで、クリーニング屋さんでは白い沢山のドレスが置いてあったそうです。 正月には大事なドレスで皇居に参拝に行っていたそうです。 

調べれば調べる程すごいものが目の前に現れてきました。(5年取材)  杉山義法さん(大河ドラマを書いた。)に書いたものをファックスで5年間送り続けました。 最初は書く気が無いと言っていましたが、或る時「俺 書くよ。」と言ってきました。 「俺はこの横浜ローザに日本の戦後史を込めて書こうと思う。」と言いました。  出来た作品が「横浜ローザ」です。 メリーさんには舞台の許可を取りに行きました。 舞台は29年になります。 8月15日にやっていました。 彼女が亡くなってお墓を何とか見つけて、お墓参りに行きました。  手を合わせた時に、「貴方は貴方を捜しにここ迄来たのね。」という風に聞こえました。  私は30年やってこれたのは、メリーさんを通して私を捜していた、私が生きる大きな道しるべ、いろんなシグナルで襲ってきて、毎回今この時、「彼女が生きていたら、何を思う。」と自分に問いかけながら、答えは出ないけれど挑んでいきます。 

私は中学1年から演劇部に入りました。  18,9歳で演劇の素晴らしい先生たちとの出会いもありました。  演劇講座を受ける中で先生から「貴方の身体は世界でたった一つしかない、いい加減にすることなく貴方を捜していきなさい。」と言われました。 そこから変わって行きました。 24歳で朝ドラをやって、人生が大きく変わりました。 「早稲田小劇場」の白石加代子さんの劇団にそれまで入っていました。 鈴木忠志さんの劇団に入りましたが、修行に出ろと追い出されました。 父からは勘当されていました。 新国劇の方に入りました。 NHKの連続テレビ小説『いちばん星』のオーディションに行ってみたらと言われて、採用されることになりました。 大和田伸也と結婚し子供も生まれました。 

1989年の帝国劇場の公演を前にして、突然夜に膝に激痛が走りました。  病院で水を抜いてもらって固定したら、足が伸びなくなってしまいました。  番組などを含めて降板しました。 ある寺の離れに身を寄せることになりました。 そこでいろいろ勉強になりました。  自分が倒れたら代役はいくらでも出てくる。  私って何、私が表現するって何、など考えていました。 もし足が治ったら、私にしかできない、私から発する何かを表現したいと思いました。 それがメリーさんだったんです。

1999年に自身の劇団「横浜夢座」を立ち上げました。  1996年に「横浜ローザ」を一人芝居で始めて、明日を元気にしていこうという舞台を、市民劇みたいな感じで作りたかった。  夢と信念が有ったら出来ると言われて、踏み出しました。 夢座も25年になります。  2016年から「真昼の夕焼け」(大空襲を受けた15歳の少年の実話)を8年間やりました。  受け継いでくれる組織も作りました。 コロナでローザも出来なくなって一回休みました。 どういう風におしまいにしようかと考えたら、声も出なくなり身体も動かなくなってきました。 自分が思ったことを人に伝えてゆく、と吹っ切れた時に段々取り戻していきました。   演劇を観た人がよかったとか、頑張ろうとか、誰かの心をそっと支えてくれるんだったら、この演劇というボールを投げ続けてゆくことは無駄ではないのかなあと思います。  「横浜ローザ」は90分ぐらいの一人でやる舞台です。 「語るローザ」を始めました。(語るだけ。) ローザは私の生きる術ですね。 

私の夢はイギリスのエジンバラ演劇祭で「横浜ローザ」を演劇する事です。 「真昼の夕焼け」を日本中の子供たちに伝えたい。  少女の様に瞳を輝かしながら、何かを追い求めながら生き続けていきたい。 「花のように、風のように、海のように」と言う自叙伝がもうすぐ出来上がるところです。  困った時に助けてくれる、手を携えてくれる人が居ます。生きているという事はこういう事なんだなと、人の心に支えられて来た人生だと思います。  メリーさんは養老院に行って亡くなりますが、幸せな亡くなり方をしたのかなと思っていましたが、養老院では大きな男の人を見るとおびえていたそうです。 戦争はなんで一人の人生をこんないしてしまうんだと思って、私をローザの舞台に向かわせます。 

〔わたし終いの極意〕とは、人はそれぞれ自分の夢を追いかける。 私はその夢を繋いで次の世代にこの夢をバトンタッチしていきたい。






2024年7月17日水曜日

梨田昌孝(野球評論家 元プロ野球監督)   ・〔スポーツ明日への伝言〕 人を活かし人に生されて

 梨田昌孝(野球評論家 元プロ野球監督) ・〔スポーツ明日への伝言〕 人を活かし人に生されて

梨田さんは1953年(昭和28年)島根県浜田市出身。 島根県立浜田高校を卒業後1972年ドラフトと2位で近鉄バッファローズに入団、17年の現役生活でベストナイン3回、ゴールデングラブ賞4回獲得するなど、リーグ屈指の強肩のキャッチャーとして活躍、1979年近鉄球団初のリーグ優勝、更に翌年リーグ連覇に大きく貢献しました。 引退後はコーチ、二軍監督を経て、2000年から大阪近鉄バッファローズの監督として指揮をとり、監督2年目にチームをリーグ優勝に導きますが、球団合併により近鉄球団は2004年55年の歴史に幕を下ろし、梨田さんは近鉄最後の監督となりました。 その後北海道日本ハムファイターズ、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めて、監督として通算805勝を挙げています。 この間現場から離れた時にはNHKの野球解説者としてわかり易く親しみ易い解説を聞かせていただいています。 2020年の春には新型コロナウイルスに感染、重症化して一時は集中医療室での治療が続きましたが、幸いにも一命をとりとめて、現在はお元気に御活躍中です。

2020年の3月に新型コロナウイルスに感染。 どこで感染したのか今でも全く判らないんです。 3月20日過ぎに一寸身体がだるいなと思いました。 体温は36,7℃ぐらいでした。 3日目に38℃を越えて4日目に40℃になりました。 味覚、臭覚がなくなりました。 5日目には41℃になりました。 病院に行ったら即入院という事になりました。  意識が無くてどうやって病院に運んでもらったのか覚えていないです。 集中治療室に2週間ぐらい入ったと思いますが、全く覚えていないです。 悪夢と幻覚を見たようなそんな感じだけです。 先生曰く97~98%は死という事をでした。(息子が聞く。)  命が助かったにしても、   寝たきり、凄い重い障害を持って、というような事だったらしいです。 

トータルで50日間入院しました。 19kg痩せました。  歯茎迄痩せました。   食事、運動、お酒のリハビリを始めました。 陽性反応がある時から軽い運動のリハビリは先生のもとで行いました。  せっかく人生生きているんだから楽しく、皆に楽しくしてもらいたいというような思いはあったので、より一層人に伝える事(講演などを含め)、楽しく、元気に、明るくという風な感じで話をさせて貰っています。 

2007年10月に北海道日本ハムファイターズ監督に就任。 2年目でリーグ優勝。 1年目で選手の情報を相当仕入れました。 2年目にそれぞれを評価して使っていきました。   近鉄の時には「打」のカラーのチームでしたが、日本ハムはピッチャーが安定していました。  バント、スチールとかの1,2点の積み重ねで勝てるのではないかという、計算が出来るようになりました。  ミーティングをして選手の意見も聞きました。 糸井選手はなかなかサインを見落としがちで、コーチからは2軍に落としましょうという意見もありましたが、「外国人選手」にしようと決めました。  単純なサインにしました。 そうしたら6年続けて3割を打つ選手になりました。 

私生活ではダジャレもよく言っていましたが、NHKの解説では言ってはいけないと思って言っていませんでした。  選手が近寄りがたいという風にはしたくなかったという思いがありました。 選手がやりやすいような雰囲気を作ってあげるというのが、監督として考えるべきではないかと思います。  時には厳しさも必要ですが。 

小さいころは医者になりたいという思いはありました。 5人兄弟の末っ子です。 長男と3男が小さい時に亡くなりました。  西本監督には心のなかでは父親のような感じで想っていました。(父は中学3年生で他界。)  亡くなった時には弔辞も読みました。 仰木さんはサインミスにはすごく厳しかったです。 飲みに行ったりすることにはあまり言わなかった。 勝ったり負けたり、5割でいいんだよ、みたいな思いの人でした。 西本さんは打順などあまり変わらなかったが、仰木さんは色々と変えました。 広報部長的な発想の人でもありました。  西本さんと仰木さんからはいろいろ勉強しました。 今に時代には西本さんのやり方では無理だろうなと思います。 仰木さんのやり方でも駄目だろうなと思って、今を生き抜くところを見出さないといけないと思います。 

日本ハムでは、選手の起用法、育成方法、作戦などは球団は一切口を挟みませんでした。  トレード、ドラフト、外国人選手の補強などに関しては、監督は全然関係ないというところです。 1989年アメリカのワールドシリーズで中継をして、日本のメジャーリーグの中継の草分け的な存在となる。 野茂選手もメジャーリーグのことを聞きに来たりしていました。  日本ハムはメジャーからの影響はあったと思います。  メジャーではチームとしてのまとまりがないような感じがします。 日本ではまとまりがあり、緻密さがあるという気がします。 














2024年7月16日火曜日

篠田謙一(国立科学博物館館長・人類学者)・“地球の宝を守り続ける” これからの挑戦とは

篠田謙一(国立科学博物館館長・人類学者)・“地球の宝を守り続ける” これからの挑戦とは 

篠田さんは1955年生まれ(68歳)。 京都大学理学部卒業後、九州の大学で教壇に立った後、2003年から人類学の研究者として国立科学博物館に勤務、2021年から20代目の館長を務めています。 国立科学博物館では去年資金難のため支援者からインターネットを通じて寄付を募るクラウドファンディングを行いました。  その結果9億円以上の寄付が集まり大木話題となりました。 今日はクラウドファンディングの舞台裏やこれからも続く国立科学博物館についてお話を伺います。

2027年に創立150周年になり、初代は明治10年の頃の人です。 矢田部良吉という植物学の先生です。 「らんまん」という連続テレビ小説がありましたが、牧野富太郎が東京大学の植物学教室に行った時に彼に世話をした人です。  最初は10年ぐらい上野にいて、その後お茶の水に行って、40年ぐらいいて、大正11年に上野に戻ってきようとしましたが、関東大震災があって、計画が全部だめになってしまいました。 災害に強い博物館にしようといことで昭和6年に上野に戻ってきています。  

クラウドファンディングを実施したのは、昨年の8月7日でした。 1億円を集めることは難しいと思っていました。 9時に記者会見をやって発表しました。 ビラ配りもしましたが、受け取ってもらえませんでした。  事務の方から凄く資金が集まっていますと言われました。 夕方には今日で1億円行きますと言われました。 スローガンが「地球の宝を守れ。」でした。 3年前にコロナが起こって来館者が居なくなり、お金が入ってこなくなりました。 来館者が徐々に戻っては着ましたが、その後ウクライナ侵攻が起こって、エネルギー価格がどんどん上がってしまいました。 茨城県のつくば市に収納庫がありほとんどのっものが入っています。 研究者もつくばにいます。 つくばの電気代が大変なんです。  

お金がなくなって来て、なんかの手段でお金を集めなければいけなくなりました。 2億円は足りませんでした。  とても2億円は集められないという事で、1億円のクラウドファンディングを立ち上げました。 1週間で4億円になりました。 他館と協力して、地球の宝を守る、という風に話しました。  11月5日にクローズして9億2000万円ぐらい集まりました。 返礼等々やって、手元に6億円ぐらい残りました。 使い方を議論して、4月から具体的に進めています。  5万6000人に方から寄付を頂きました。  メッセージを頂き、大きく分けると2つあります。  ①「地球の宝を守る。」費用に使って下さいと言う事。 ②科学博物館は子供の頃から来ているので(親子2代、3代)、博物館が困っているので支援します、という事。 国立と名前が付いていますが、多くは独立行政法人なっています。 組織は柔軟性になってきたが、大きなことが起きた時に、脆弱なところがあります。 

2021年に官庁になりましたが、丁度コロナ禍の大変な時期でした。 研究者は60人ぐらいいます。 事務方は80人ぐらいです。 博物館には私は20年務めていますので、すべての人を或る程度理解していました。 ですからクラウドファンディングを行う事にはそれほど困難ではないと思っていました。  返礼品には図鑑があるんですが、3万9000冊ぐらい出ました。  研究者全員が2ページづつ書くという事を決めて、2か月ぐらいで原稿を集めました。(普通はなかなか難しい。) 一体感が生まれました。 一般の人に支えられてるんだという事が改めて理解しました。(これが大きかった。) 

「マンスリーサポーター」というものが始まっています。 スローガンは「地球の宝を守り続ける。」 登録して頂くと月々に2000円、3000円とかを自動的に振り込んで頂くようなシステムです。 一般の人に支持してもらうようなシステムが重要であると思いました。 支援して頂いたお金がどういう風に使われているのか、情報を出して行き続けることが重要です。 

1955年生まれで、2歳まで静岡にいました。 小学校2年生まで新潟にいて、その後は東京です。(中学1年まで) 高校卒業までは北海道、大学が京都で、就職が九州で20数年間いました。 古い骨の研究をしていて、博物館にという話があって上野の博物館に来て20年ぐらいになります。  自然の中で暮らすのが好きな子供でした。 大学では化石を分析するコースを取っていました。 化石よりも人間の方が面白くなって、人類学ではまずは解剖をやれと言われました。 解剖を20年以上やって来ました。 1980年代になると古い骨からDNAが取れることになります。 PCR法で検査できる装置が友人の大学に有るという事で、そこに夜の12時(佐賀から熊本)に着いて朝の5時ごろまで二人で、こっそり実験を始めました。 弥生人の分析を始めて現在に至るわけです。 

2010年以降はやり方も変わって得られるデータも遥かに多いです。 ミトコンドリアDNAを分析して、縄文人はミトコンドリアDNAの種類があまりないとか、弥生時代になると突然いろんなタイプが出てきて、それは実は今の私たちと同じなんだという事が判るようになりました。 2010年以降はDNAの読み取る装置の能力が何万倍というような感じになります。 縄文人が一体いつ頃日本に来たのか、弥生人は大陸のどこから来たのだろうとか、ほとんど判る様になりました。  

教科書には500万年ぐらいの時代と数万年前の事は記載されているが、その間のことは書かれていない。 しかし、DNAの分析をやる事によって判って来るんです。 ネアンデルタール人と別れたのが60万年まえで、一番古いホモサピエンスの化石が30万年前に出てきて、10万年前まではアフリカにしか出てこない。  6万年前よりも新しい時代になると世界中から化石が出てくる。 実はそのころアフリカから世界に旅立ち、ネアンデルタール人と交雑する。 我々はネアンデルタール人のDNAを2%ぐらい持っている。  6万年前からどういう形でアジアに人が広がって、縄文時代、弥生時代にどんなことが起こったのか、判ってきたんです。  チンパンジーらとは700万年前に別れたと言われている。 いろんな文明が発達したが、実は一つだったんだ問う事が判ってきたんです。 

人類学の最先端で仕事が出来たので有難いと思っています。 過去の人たちが選択してやってきたことの総和が今の私たちになっていて、私たちの将来も、今の私たちの選択によって決められる。 将来を考える一つの判断材料を見つけるという事でこういった仕事をしています。「科学を文化に。」というスローガンがあります。  継続的に科学を身近に置いておけるような、そういう社会を作りたいと思います。 博物館の役割は、科学の面白さ、人間の社会を豊かにしていくものだという事を知っていただくための活動をしていこうという風に思っています。 ずーっとサッカーをやってきて、学生には「努力は報われない。」という話をまずして、どうやったら報われるかという事から考えないと、行けないと言っています。 今の学生さんとかは、正解を求めます。 実際はクエッションではなくて、プロブレムなんです。 問題があって、問題には解決法がある。 ソリュウション(回答、解決すること)を見つけなさいと言っています。 正解は世の中にないので、「最適な解」を、とずっと教えてきました。 その延長線上に「努力は報われない。」というものがるんですが。    論の立て方、ものの考え方をしていきましょうというのが私のモットーなんです。










2024年7月15日月曜日

すず風金魚(漫才師)           ・〔師匠を語る〕 東八郎を語る

すず風金魚(漫才師)           ・〔師匠を語る〕 東八郎を語る 

1960年代から70年代にかけてお笑いのトリオブームがありました。 中でも東八郎さんのトリオ・スカイラインはテレビでも大人気で、NHKで毎週放送されていた「お笑いオンステージ」ではレギュラー出演者の一人として人気を集めました。 そんな大スターの東八郎さんに憧れ弟子入りし、亡くなるまで寄り添ったすず風金魚さんのお話をお聞きください。 

万歳界のレディー・ガガと言われています。 髪飾りがポイントで、もう一つはゴリラの物まね。 東八郎さんに対しては「先生」と呼んで言て、おかみさんには「ママ」と呼んでいました。  

東 八郎(あずま はちろう、本名:飛田 義一(ひだ ぎいち)さんは、1936年昭和11年〉東京都台東区浅草で生まれました。 幼いころから浅草で演劇やミュージックに触れて来た東さんは、1955年浅草フランス座に入団、軽演劇の舞台に立ちました。 小島三児さん原田健二さんとトリオ・スカイラインを結成し、テレビに進出したのは1964年、トリオスカイラインを解散してからは単独で芸能生活を続けます。 その後NHKの「お笑いオンステージ」にレギュラー出演したことで、世代、性別をこえて人気を博して東八郎さんはコマーシャル、歌手と活躍の場を広げる一方で、東八郎劇団を結成するなど後進の育成にも力を注ぎ、1986年にはコメディアン養成のために「笑塾」を開きました。 この年第14回日本放送演芸大賞話題賞を受賞、その翌年には第3回浅草芸能大賞奨励賞を受賞するなど益々今後に期待が集まったさなかでした。 1988年7月6日自宅で脳溢血のために倒れ5人のお子さんを残し息を引き取りました。(52歳) 突然の訃報を聞き、萩本欣一さん、ビートたけしさんなど大勢の東さんを慕っていた仲間が自宅に駆けつけたそうです。 

面倒見が良かったので先生を悪く言う人はいませんでした。 私は北海道出身で、短大卒業後、幼稚園保育士として東京に出てきました。  喜劇役者になりたかった。 テレビを見ていて、この人の弟子になろうと思いました。  この人は食べさせてくれると思いました。  テレビ番組の漫才で5週勝ち抜きました。 太田プロダクションが新人預かりとしてくれました。 その時には「先生」が太田プロにいたんです。  東八郎さんは女の弟子は取らないと聞いていました。  楽屋で「私を弟子にしてください。」と言いました。  浅草の自宅に来るように言われました。 「僕は何もしないよ。」とはっきり言われました、「それでよければ来なさい。」と言われました。 「この世界は我慢しかないよ。」と言われました。 時間のミスをして、一回だけ破門されましたが、何とか許して貰えました。 

弟子になったのは1978年でした。  先生を見る事によって勉強になりました。 礼儀に関して厳しく言われました。  女の人は直ぐに辞めてしまうという事で「ママ」は半年間は話をしてくれなくて、半年たったらお小遣いを貰いました。(泣きました。) 1988年7月6日自宅で脳溢血のために倒れました。  先生のお宅に伺って、まだ寝ているなと思って、「先生時間ですよ。」と言ったらおかしい状態みたいだったのでびっくりして、足揉んだりして救急車を呼びました。  混んでいる中何とか病院に着いて、一応終わったら何時何分と言われました。 

先生が亡くなって、ママが筋無力症で大手術をしたりしていました。 子供たちも小さくて付き添えないので、私が付き添っていました。  ママも元気になって、一人になってそれから食べる事って本当に大変なんだという事が判りました。 面倒見てもらっていたんだとつくづく思って感謝いています。   石井光三のオフィスに高田順子(今の相方)という子がいました。 コンビを組んでみないかという話になりました。  コンビを組んだが仕事が無くてバイトを始めました。  20歳ですと言ってずっとやっていました。  先生からは「貴方は一歩外に出たら吉本春代じゃあないんだよ。 金魚なんだから。 笑いなさい。」と言われて、「一歩外に出たら違うんだよ頭におきなさい。」と言われました。

東八郎さんへの手紙

「・・・こちらはめっぽうさみしくなりました。 ママもメイコ先生もそちらにまいりましたが、もうお会いできましたか。 ・・・ 先生の宝5人の子供たちも立派な大人に成長しました。 ・・・お孫さんも4人に増えました。 ・・・みんなにぎやかに育っています。・・・先生がそちらに旅立ってから36年目です。・・・子供たちもパパの歳を乗り越えられるか心配しています。・・・先生の芸をまだまだ見たかったです。 勉強もしたかったなあ。 ・・・先生、帰ってきてください。 近況報告。 ・・・おいらは身体が動けなくなるまで、続けようと思います。 ・・・先生もお身体に気を付けてお過ごしください。」














2024年7月14日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・〔クラシックの遺伝子〕

 奥田佳道(音楽評論家)          ・〔クラシックの遺伝子〕

夏を描いた音楽から紹介。

*ヴァイオリン協奏曲 「四季」から「夏」第三楽章  作曲:ヴィヴァルディ

夏の嵐を表現した部分。

今日のクラシックの遺伝子は、クラシックの作曲家が自然をどう表現したか、自然からどんな霊感を受けたか、物語の情景をどんなふうに音で描いたか、辿ってみたいと思います。 

*フルート協奏曲 「ごしきひわ」第一楽章 ごしきひわという鳥の鳴き声を音楽にした。 作曲:ヴィヴァルディ

*「田園」の一部 作曲:ヴェートーベン  三種類の鳥の鳴き声。 

*「田園」の第4楽章の一部 作曲:ヴェートーベン  雷雨と嵐を表現。

*「田園」の第5楽章の一部 作曲:ヴェートーベン  嵐が去った後を表現。

一般的には交響曲は第4楽章迄だがヴェートーベンは、「田園」で第5楽章迄作った。  自然から受けた霊感を音に移し替えるいう作業は、メンデルスゾーン、シューマンたちにも大きな影響を与えた。  北欧の作曲家にも「田園」は物凄く大きな影響を与えた。

*「夏の夜の夢」の序曲   作曲:メンデルスゾーン(17歳)                           シェークスピアが描いた物語。 物語の情景を音で描いた。 

*「ペール・ギュント」から「山の魔王の宮殿にて」 作曲:グリーグ

3時間ほどの音楽劇。 冒頭部分は魔王の棲む深い山の怪しいイメージ。

*「ペール・ギュント」から「オーゼの死」  作曲:グリーグ

悲しく美しいメロディー。 母オーゼが亡くなる。

*「ペール・ギュント」から「朝」  作曲:グリーグ                      ペール・ギュントの母オーゼが亡くなるが、又旅に出る。 劇の上では北アフリカのモロッコに着いた時の朝なんです。 











2024年7月13日土曜日

里見 まさと(漫才コンビ“ザ・ぼんち”)   ・戦艦大和を講談で ~乗組員の体験を語り継ぐ~

 里見 まさと(漫才コンビ“ザ・ぼんち”)  ・戦艦大和を講談で ~乗組員の体験を語り継ぐ~

里見さんは「ザ・ぼんち」で1981年に上方漫才大賞を受賞、その後一旦コンビを解散したものの2002年に再結成、今も劇場を沸かせています。  里見さんが「ザ・ぼんち」の一時解散後の1989年、今から35年前に始めたのが、講談です。  以来、もう一つの芸として大切に話芸を磨いてきました。 そんな里見さんが2013年に出会ったのが、戦艦大和の生還者です。  戦艦大和は太平洋戦争の末期の昭和20年4月7日、米軍艦載機の激しい攻撃を受けて沈没しました。 乗組員3332人のうち生還したのは276人で、3056人が大和と運命を共にしました。 里見さんは生還者の話を聞いて、「戦艦大和と乗組員」という講談を創作、各地で公演を続けています。 何故この講談を始めたのか、何を伝えたいのかお聞きしました。 

元々は桂三枝さんから創作落語を一人でもしゃべるというのを磨こうという事でやらせて頂いていました。 落語もいいけど講談の方があっているんじゃないかと言われました。   父親は戦争で満洲に2回行っています。 戦争の話は子供の頃から聞いていました。 新聞で戦艦大和に載っていた方が、もう7,8人しかいないという事を読みました。 八杉康夫さんに会わせていただくことになりました。  語り部になって下さいと八杉康夫さんから言われました。(2013年 85歳)  攻撃を受けた様子などを全部語っていただきました。   17歳での体験でした。  それを元に「戦艦大和と乗組員」を創作しました。

「戦艦大和と乗組員」は30分余りの講談です。 呉の戦艦大和を観た時には「なんだこれは」と思ったそうです。(全長263m 幅38,9m ) エレベーター、エアコンもついている。  46センチ砲は42km先まで飛びます。 当時の最高飛距離は40km行くかどうかで、40kmの距離を保てば相手からの砲弾は届かず、こちらからは砲弾を浴びせることができるので不沈艦と呼ばれていました。 八杉康夫さんは測距手(相手との距離などを測る任務)でした。 大和が沈んだのが1945年4月7日。 沖縄では一般人が10万人ぐらい亡くなり、大和は沖縄に向かった。 

秘密裏に出てゆくが、日本の暗号がすでに解読されていた。 空を守る飛行機の護衛なしで、向かってゆく。  鹿児島県の坊ノ岬沖で米軍艦載機の激しい攻撃を受ける。  雲に隠れていて急降下しての攻撃でした。  一発の大砲も撃てなかった。 弱点の部分に魚雷を撃ち込まれる。  大和は段々傾いてゆく。 上司が日本刀で自害する様子を見てしまう。 八杉康夫さんは海に飛び込みます。 寒気、眠気が襲ってきました。  周りでは沈んでゆく少年兵などを見かける。 川崎少佐が丸太を譲ってくれる。 4時間後に日本の駆逐艦に出会い、懸命に泳いでゆく。  甲板に引き上げられて「助かった。」と大声で叫ぶ。甲板から見ると一人海の中に川崎少佐がいて、敬礼したのちに戦艦大和の方向に向かって泳いでゆく。 大声で「お戻りください。」と甲板上の人々が叫ぶが、振り返ることはなかった。  

その後八杉康夫さんは戦艦大和のことなどを講演して回って行きました。  昭和30年に八杉康夫さんは佐賀県に講演に行きました。 講演後或る女性が来て「まさか、うちの父の名前が出てくるとは思いませんでした。」と言いました。 「川崎勝己は私の父です。 軍からは大和にて死す、としか聞いていませんでしたが、八杉康夫さんの話を聞いて、父がどんな最後だったのかを知ることが判りました。 川崎勝己を誇りに思っています。」と言ってくれました。 八杉康夫さんは僕には「日本にだまされた。」と言っていました。  戦争になってしまうと勝った側も負けた側も誰一人幸せにはならない、生きて帰っても心に傷を負わされている、という事です。 絶対に戦争を起こしてはいけないと、何度もおっしゃっていました。 

父は眉毛のところに傷がありますが、1cm中央にずれていたら父は亡くなっていますし、僕も存在しませんでした。  父は亡くなるときには、兄弟誰も知らなかったんですが、「私の身体は献体に出してほしい。」という書き残しがありました。 アメリカの人たちのも、こんなことがあったんだという事を知って欲しいと思って、「戦艦大和と乗組員」の話を英語で話すようになりました。(8年前 アジア太平洋大学で講演)  79年間の平和が来るために、こんな方々が大変な思いをした人たちがいたという事を伝えたいです。 











2024年7月12日金曜日

2024年7月11日木曜日

小菅 正夫(札幌市円山動物園参与)     ・子ども科学電話相談40周年 ~動物園とともに歩んで~

小菅 正夫(札幌市円山動物園参与)・子ども科学電話相談40周年 ~動物園とともに歩んで~ 

30年目閉園の危機にあった北海道の旭山動物園の園長として、様々な取り組みで日本でも有数の人気の動物園にしたことで知られる小菅さんにお話を伺いました。

子ども科学電話相談、20年以上やっています。 判るように話すにはどうしたらいいかを考えながら子供たちと話すのは楽しいです。 うちの職員全体に展示動物だと言っていました。 自分たちもお客さんに見られていると言う事ですね。  心配性なんです。 柔道をやっていましたが、柔道は「細心かつ大胆」なんです。 細かいことをずっと見ながら、やる時には大胆にぐっとやるという事です。 細心のいいのは常に最悪のことも考えているんです。 最悪なことが起きても想定内なんです。 

入園数が減ってきて危機だったという事も知らないで入りました。 本庁からするとあんな動物園はいらないという議論になっていました。 僕は飼育係がお客さんの側にいないからだと思いました。 飼育係がお客さんの所に行けば、動物は飼育係を見ると同時に、その周りのお客さんを見るわけです。 お客さんと飼育係が一緒にいれば自然と話しますよね。  どうやったら動物の本来の動きが発揮できるようになるか、担当者が考えるんです。   形態的展示、分類学的展示はずっと昔からやってきていました。  これでは図鑑と変らない。 オラウータンの空中散歩を作りました。 動物が動く時にはどういう目的かというと、食べ物を探す時と異性を求める時なので、その二つのどちらかかを与えてやればいいわけです。  檻が無いので、誰かがオラウータンが逃げていると言ったんです。 オラウータンは逃げるために絶対飛び降りない。 あの高さは落ちたら死ぬ高さなんです。

行動展示によって、閉園の危機だった旭山動物園は大人気になりましした。 それが日本に広がりました。 嬉しかったのは動物が生き生きしていると言ってくれたことでした。  それは動物が本来的な行動をとってくれるからなんです。 動物にとってはいい事なのでどんどんやって下さいという事です。 設計図を貸し出しましたが、それぞれが工夫してゆくんです。  

祖母が生き物が好きでした。 ジュウシマツ、カナリヤなど小鳥を飼っていました。 犬、猫、金魚もいて、そのうち手伝っているうちに、虫を取って来て飼い始めて、亀とか目につくものは買ってきました。 父親が出張のお土産にカブトムシ、ゲンジボタルなど買って来て、蚊帳の中に放して、幸せの極地でした。 飼うと繁殖させてみたくて、それは最初はハツカネズミでした。(小学校4年生)  200匹ぐらいになりました。  蛙、サンショウウオなど春になるとその卵を取りに行きます。 200匹のハツカネズミは飼い猫が飼育箱をひっくりがえしてしまって全部逃げました。(父親に叱られる) 自分で管理できないような飼い方をしてはいけないと凄く反省しました。  

中学から柔道部に入りました。 レスリング部、ラグビー部などから声がかかって凄く忙しいんです。 北海道大学に行こうと決めてはいましたが、高校の先生は「お前大学にいくの。」と言っていました。  2回落ちて、自分は成長していないと思って、必死に勉強をしました。 3回目に合格しました。 柔道部に入りました。 理類に入りました。 その後学部移行で理学部生物学科に行きました。  合わなくて農学部の農業生物に行きました。 そこはネズミでした。(トラウマ) 次に獣医学部に行きました。  教授が馬の手術を馬がたったままやっていて、凄く素早い縫い方でした。 その姿を見て俺の生きる道はこれだと思いました。(動物を生かす方向)   牛の獣医になろうと思って、牛の診断でおしりから手を入れて、触診するんですが、柔道で鍛えた腕では入りませんでした。 獣医の免許だけは取ろう決めました。 就職先の案内に旭山動物園がありました。 卒業式の日に面接に行って合格しました。 

日本の動物園は象を繁殖させる自覚がなかった。 ミャンマーに行ってオスとメスにチェンジして、それが繁殖に成功しました。 僕の想像を絶するような出産と子育てでした。  象は出産後はナーバスになって暴れて、子供を蹴とばしてしまう様な危険があるから、子供を取って翌日落ち着いた雌に返しなさいと言うのが、常識でした。 丸山動物園は一切かかわらないという飼い方をしているので、何も出来ない。 最悪の時を考えていろいろなことを決めておきました。 夜、陣痛が始まったが、まだまだだと思っていたら、僕が着いた時には赤ちゃんが生まれていました。 しかも立っていました。 吃驚しました。 母親のやるべきことを全部やっていた。  まず生まれた子に砂をかけました。 象以外の動物は舌で舐めて綺麗にする。 砂をかけることで滑らなくしている。 母親(パール)も自然界で故郷の出産の光景とか見て学習してきている。  群れにこだわっているという事はそういうことなんです。

一番年上のシュティンという雌と母親のパールは実は仲が悪いんです。 一緒にした時の赤ちゃん(タオ)が年寄りのお母さんに対しても寄ってゆくんです。 そういったことをやっているうちに段々と距離が短くなってゆく。 象の基本的な群れが出来たんです。 これが社会性というものだと思いました。  象のことは判っていたつもりでしたが、全然判っていなかった。  人間の生きてゆく目的は自分の思いの達成を第一に考えているが、動物は自分のなかのDNAを次の世代に間違いなく引き継ぐために生きているんです。 動物には人間はとてもかないません。 

子供達には、動物は自分と同じあると思ってほしい。 自分なりの動物を解明して行くことはとっても面白いと思う。  飼うためには、この生き物が絶対に幸せに生きていけるような、飼い方をしていかなければいけない。 そのためにはその生き物のことを知らなければいけない。 














2024年7月10日水曜日

林 公義(北里大学生命科学部講師)     ・子ども科学電話相談40周年~魚って面白い!~

 林 公義(北里大学生命科学部講師)    ・子ども科学電話相談40周年~魚って面白い!~

林さんは博物館で勤務をしながら魚類特にハゼの調査研究に長年携わって来ました。 

海の生き物は数の上でも陸上を越えるぐらいの数がいます。 無脊椎動物の種類が非常に多いです。  

植物の田中修先生と同じ17年になります。  目に見えない情報をどのくらい言葉で表現できるか、というところがあります。 

博物館での学芸員ではかなり細かく説明する場合があるの、細かくしゃべり過ぎないように注意はしています。  当たり前と思っていることを説明することが一番難しいですね。

生まれたところが魚市場の近くで、父、叔父、兄が魚市場にいたもので、12時間は魚を観れる環境でした。  小学校4,5,6年と標本を作って博物館に作品展に出していました。  三浦半島自然保護団体があり、そこに中学の時に入って高校、大学までいて事務局を担当するようになりました。  

標本を出していた博物館から就職の話が来まして、ここに就職することにしました。  博物館で得たもの感じたものは大きいです。  それも人あってのものです。  振り返った時によかったと思う事が多いです。 

海洋生物の分類が専門で、特にハゼの研究、「ハゼガイドブック」本も出しました。  本には280種あります。  ハゼに興味を持ったのは、博物館には淡水魚が無かったので、淡水魚を調べ始めて、最初に見つけたのが「ヨシノボリ」というハゼでした。  「ヨシノボリ」の生態を調べ始めたら面白くなりました。  石垣島、西表島とかに行くようになって、川で調べ始めたら、見た事もないハゼが次から次に出てくるんです。 図鑑にも載っていないハゼが出てきました。  ハゼの棲んでいる環境が様々なんです。  海、川、湖、と水のある所だったらいると考えていいです。 砂地にしかいないとか砂利場にしかいないとか、岩場に、サンゴ礁、マングローブ地帯にしかいないとかそれぞれあります。  どうしてかと調べてゆくと、行動学、生態学と結びついてきます。 

今は700種に近い状況です。  ダイバーの数が増えてきたと同時に、ハゼはダイバーに人気があり、見つかって行きました。  生活に分化ができてきて、ハゼの進化に繋がってゆくという状況があります。 DNAを使うと分類に役に立ちます。  ハゼは魚の中で一番逞しいんじゃないかと思います。  現在77歳ですが、潜っています。  ダイビングを正式に始めたのは昭和48年からです。  昔は研究者の方はダイビングはやっていませんでした。  段々研究に利用する人が増えて来ました。  生活の様子が自分の目で見えて判るわけですから。  何度潜っても新しい発見がある。  

魚は私たちの遠い祖先ですよね。  祖先の生活の仕方は一部では私たちの生活の中に、当然残っている。  そういったものを知ることが少しでもあればいいなあと思って、魚の研究は続けてきました。  単純に言うと「好きなんです。」それに尽きます。  コミュニケーションをすることによって、自分では気づかないことが凄く多くて、今の自分を作り上げていることが、多分そういう事だと思います。  

体験するという事は非常に重要なことだと思います。  或る一つのことに気が付いて、そこからずっと深く調べて行く、興味を持つようになるという事は、凄く大事だと思います。  そういうお子さんが増えてくるという事はいいことだと思います。  













2024年7月9日火曜日

国司真(跡見学園女子大学兼任講師)    ・子ども科学電話相談40周年

国司真(跡見学園女子大学兼任講師)    ・子ども科学電話相談40周年 ~星を眺めてワクワクしたい~

子ども科学電話相談は今年40周年を迎えます。 番組ではお子さんから寄せられた科学、恐竜、天文、宇宙、動物などの質問について、各部門の専門家が生放送で回答しています。    今日から3日間子ども科学電話相談40周年と題して、子供たちの質問に回答している先生にシリーズでお話を伺います。  今日は天文、宇宙を担当する国司真さんです。 長年プラネタリュームの解説を務めながら、番組の回答者を務めてきた国司さんに伺いました。

番組出演は今年で36年目です。 4,5歳から中学生ぐらいまでが対象です。 宇宙についてはまだわからないことが沢山あるんです。  答えがであいというところが一番面白いところかもしれません。  話し方は色々な先生から教えられました。 昆虫の矢島先生、魚の杉浦先生等から専門的な言葉を使わないで言葉を置き換えてゆく、と言ったことが勉強になりました。 教科書も引っ張り出してみます。 

星も好きでしたが、ラジオが好きでした。 ラジオのキットがあって購入して組み立てていきました。 アマチュア無線の免許を取って、送受信していました。 レンズも買って望遠鏡も自分で作りました。  父が中学校の理科の教員をしていました。 父に連れられてプラネタリュームを観に、月に一回ぐらい通っていました。 作った望遠鏡では土星の輪が見えなかったりしましたが、性能を向上させて、星を調べたりしていました。 プラネタリュームのパンフレットで学んだり、図書館の科学に図鑑は全部読みました。(小学生)   父が望遠鏡、双眼鏡、顕微鏡も買ってくれました。(小学校4~6年生)  大学は夜間の天文学がある大学を選びました。 昼間は病院の衛生学の技術補佐員をしていました。   天文部の仲間でお金を貯めて、星を見る小屋を建てようという事で長野県の富士見町に星を見る観測所を立て始めました。(卒業後8人、40年ぐらい前) 大きな望遠鏡を2台買いました。 素晴らしかったです。 

天文に関係のある、三鷹にある精密機械を制作する会社がありそこに2年いました。  その後渋谷の五島プラネタリュームに行くことになり、解説員になりました。 学芸員の資格も取りました。 プラネタリュームで永六輔さんと出会いました。 向田邦子さんが亡くなった時にプラネタリュームの流れ星に『あ・うん』という著書のタイトルを言葉にしたら、永六輔さんが聞いていたそうです。 永六輔さん司会のテレビ番組「テレビファソラシド」に落語家の柳家ゑん(星空落語 創作)と共に呼ばれて伺ったことがあります。 テーマが「星空」でした。  永さんからはいろんなことを教わりました。

星空はいつも同じ様見えますが、違っているんです。  プラネタリュームでその違いをどう表そうかと思っています。 季節が違って行って、それに伴って植物、動物もどんどん移り変わって行くので、上手く合わせながらお話をしたいなと思っています。 

答えがすぐに見つかるといいなと思っている小学生が多くなりました。 粘り強く思いを巡らしてほしいなと思います。 出来るだけ実際の星空を見て欲しい。 今見ている星空は今しか見れない。 何千年にもわたって築いてきた星座も是非自分のものにしていただきたいという思いもあります。 空間のひろがり、こんなに広い宇宙のなかに自分がいるんだなという事を教えてもらいました。 「上を向いて歩こう」はいい言葉だと思います。    月遅れのお盆のころにペルセウス座の流星群があります。 9.10月になるとほうき星がやって来ます。 





 

2024年7月8日月曜日

穂村弘(歌人)               ・〔ほむほむのふむふむ〕

穂村弘(歌人)               ・〔ほむほむのふむふむ〕

学士時代から注目を集め、現在は短歌会の中堅として自身の活動だけではなく、新人賞の選考委員も務める歌人の石川美南さんがゲストです。

石川さんは1980年神奈川県生まれ。 高校生の頃初めて短歌をつくって、初めての投稿作が岡井隆さんの特選に選ばれました。 大学に在学中、水原紫苑さんの指導をうけ、同人誌に参加、このころ穂村さんと初めて出会いました。  大学卒業後は短歌結社に属さず活動を続け、短歌だけでなくエッセーや外国文学の書評でも活躍しています。 NHKラジオには2011年、12年に放送された「夜はぷちぷちケータイ短歌」に出演しています。 2020年穂村さんが審査員を務める塚本邦夫賞を受賞しています。(第一回の受賞者)  

石川:大学2,3年生の時に、対談をするコーナーがあり、呼んでいただいて穂村さんと対談しましたが、それが最初の出会いでした。 私はメーリングリストの最年少でした。

穂村:物語の断片性というような、不思議なイメージの短歌を感じました。 短歌に興味がなかった人もその不思議さに惹きつけられています。

石川:中学校の時ぐらいに、短歌の面白さを感じてひたすら気に入った短歌を書き移すことを3年ぐらいやっていました。 高校時代に友達が手紙の最後に短歌が書かれていて、返事を書くのに短歌を書く様にとのことでした。 そのことが無かったら自分で作ろうという気持ちは起きなかったかもしれないです。 短歌朝日に投稿して、岡井隆さんの特選に選ばれました。 そこから続けることになりました。

*「二号室の吉村ですが増えすぎたキノコのおすそわけに来ました」   石川美南

穂村:怖いけど面白い物語性があります。

*「お前んちの電話いつでもばあちゃんがでるな蛙の声みたいだな」  石川美南

穂村:これもあるかなというぎりぎりの発言ですね。 多分子供だと思う。

石川:現実と非現実はきっぱり分けられないという気持ちが常にあって、ファンタジーとはちょっと違うんですが、歌を作る時もこれが現実、非現実とは決めないで作っています。

*「息をのむほど夕焼けでその日から誰も電話にでなくなりたり」   石川美南

穂村:これも物語と現実のあわいを行くような短歌だと思います。 電話に出てしゃべるようなことも減ったような感じもします。 予見的イメージもある。 美しいけど怖い、そんな歌だと感じました。 

石川さんが影響をうけた作品。

*「大雨が空を洗いて後のこと芭蕉がまたしても旅に出る」  永井陽子

石川:詩集が「あいうえお」順になっていて、言葉の自由さが際立っていて、そのことに衝撃を受けました。 私もこういう風に作りたいと思いました。 空想的なイメージですが、芭蕉という遠い存在の人が、とても近い人に感じられる。 軽やかさを感じます。 57577にははまらないところがあって、定型ではあるがそれをいなしながら、理論を通っていくというような、そういうところも永井さんから影響を受けましした。 

*「水中の音叉のごとき悲しみの極まりにけん雲は子をなす」  水原紫苑

石川:水中では音叉の音は伝わっては来ない。 なっているはずの音が聞こえないかのように、自分の内側で広がってゆく悲しみがある。 凄いのは雨の比喩になっていて、雲の中で見えない悲しみが膨れ上がって、ついに我慢できなくなった時に雨が降ってくるんだという事だと思います。 溢れるような悲しものが込められていて、ぐっとくる短歌です。    水原紫苑さんには2年間聴講し成長したと思いました。 「ジュリーアンドリュースのような青空に」という比喩の短歌を出したのですが、「ジュリーアンドリュースが青空だという意見には異論があります。」と言われて、作品に真っ向から反対して下さったことに凄く嬉しかったです。 本当のことを言う方なんだなと思いました。 

*「嫌っという人はいないが好きという人は夕顔の白さで並ぶ」  岡井隆

石川:岡井さんは詩集ごとに別のことを試みる。 そのことに凄く影響を受けてています。 ヒヤッとするような孤独感、「好きという人は夕顔の白さで並ぶ」、全員遠くから眺めているようなイメージがあります。 

穂村:長生きされていて、皆向こう側に行ってしまうような感覚があって、もしかすると本当に好きな人は亡くなっているようなイメージもあるような気がします。

*「跳び箱と跳び箱の間に挟まってぼそぼそ夢を語りき昔」    石川美南

穂村:若い感じがします。体育倉庫ですかね。 そこで夢を語っている。

石川:子供って隙間とか狭い所が好きですね。 隙間だからこそ自由にいられるといった感覚が小さい時からあったような感じがします。

*「とめどなく話しましたね二次会はオニオンリングだらけでしたね」

穂村:ニオンリングがリアルに感じます。 話し言葉も心に残りました。 

石川:とめどなく話しましたね二次会、その思い出は共通して残ってゆくものだから、自分一人の思い出ではない。 

*「泣きながら試験管振れば紫の水透明に変わる六月」     穂村弘

石川:なぜ紫から透明になるのか判らないが、何か自分の感情と試験管の中に水が連動しているような時間があって、6月の微妙な空気感があってとてもいい歌だと思います。

穂村:短歌のなかに国語や社会を入れるより、理科や算数をいれたほうがいというセオリーがあるんです。 

*「あんなにもティッシュ配りがいたことが信じられない夕闇の駅」  穂村弘

石川:日中はあんなにいたのに夜になって居なくなってしまって、信じられないというのが一つ目の意味で、今読むともティッシュ配りという文化がなくなってしまって、そのことに対する喪失感、時代が一つ変わってしまったことの闇が端的に表されている。

穂村:ある時代の感覚の中でそれを見ていたものにとっては、そんな未来が来たんだ、そしてこれからもそれが起こるんだろうという、愕然とする、どんどん怖くなってくる。

*「白菜は悲しからずや高すぎて野菜売り場で買えず漂う」  狩野勝弘?

「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」という若山牧水のパロディーですかね。

*「なんてこと俺が見ていたからなのかダブルプレーで追加点なし」 白井世義彦?

*印の作品は漢字、かな等が違っている可能性があり、氏名も同様です。









影山ヒロノブ(アニソンシンガー)     ・〔時代を創った声〕

影山ヒロノブ(アニソンシンガー)     ・〔時代を創った声〕 

影山さんが歌ったドラゴンボールZの主題歌「CHA-LA HEAD-CHA-LA 」がリリースされたのが1989年(35年前)、170万枚を越すヒット作となる。 自分の人生の中で一番のターニングポイントになった曲だと思います。

大坂の出身です。 小さいころはガキ大将でなかったが、友達が多くてよく遊んでしました。 小学5年生の頃にヘビーメタルバンド 「タウドネス」の高崎晃さんと同級生で、同じクラスになったのが音楽へのきっかけでした。 彼がフォークギターをやり始めて、一緒に僕もやり始めました。 吉田拓郎さん、井上陽水さんとかはやり始めた頃でした。 中学になって高崎がエレキギターに変わります。 僕もエレキギターに変えました。 バンド(レイジー)を組んで始めました。 中3か高校1年の頃にサイドギターからボーカルをやるようになりました。 高校1年の冬の時にオーディション番組に出て、司会をやっていたかまやつひろしさんにスカウトされて東京に行きました。(両親は大反対でしたが。) プロ(レイジー)としてスタートしました。 3枚目の「赤ずきんちゃんご用心」という曲が一番売れました。(ハードロックとは全く違っていた。)  

ハードロックをやりたいというメンバーもいて、意見が違ってきて4年後に解散しました。(1981年)  一人でやって行こうと思いました。 作詞、作曲もレベルの低さを感じました。 音楽をやってゆくにはアルバイトをしながらという道になりました。(建築会社 厳しい仕事でした。) 年間120本のライブを4,5年間やりました。(年収7万円でした。)  作詞、作曲もようやく納得できるようになりました。 

1985年に。日本コロムビアスタッフから東映への強い推薦で『電撃戦隊チェンジマン』の主題歌のオファーが来ました。  ロック調でした。

電撃戦隊チェンジマン』 作詞:さがら よしあき 作曲:大野克夫 歌:影山ヒロノブ

歌のイメージが要求と違っていて、収録完了まで苦労しました。 もう次からはオファーが来ないだろうと思っていたら、次々に来ました。 ドラゴンボールZの主題歌「CHA-LA HEAD-CHA-LA 」を歌った後はアニソンシンガー(アニメソング歌手)としてやって行こうと覚悟を決めました。 皆と仲良く一緒に力を合わせて、昨日出来なかったことを明日やれるようになろうという、人生ってそこですよ。 若い声優に対しては、失敗しようが、辛い日が続こうが、最後は自分なので自分がやり切ったと思うところまでは、やって欲しいと思います。 












2024年7月6日土曜日

輪島裕介(大阪大学大学院教授)      ・〔人ありて、街は生きアンコール〕 笠置シヅ子と服部良一が生み出した”ブギ”の世界

輪島裕介(大阪大学大学院教授)      ・〔人ありて、街は生きアンコール〕 笠置シヅ子と服部良一が生み出した”ブギ”の世界 

笠置シヅ子さんをモデルにした朝の連続テレビ小説「ヴギウギ」をきっかけに、その生涯や代表曲が注目を集めました。 「東京ヴギウギ」「大坂ヴギウギ」「買物ブギー」など服部良一さんとのコンビで生まれた数多くの曲は敗戦後の日本に勇気と元気を届ける音楽となり、今なお人々に愛され続けています。 二人の「ヴギウミ」?や「ヴギウギ」はどのように誕生し、流行歌となったのか、大衆音楽を研究している大阪大学大学院教授輪島裕介さんに伺いました。

ポピュラー音楽の研究の自分の音楽対象は、近代音曲史です。 最近の著書は『昭和ブギウギ: 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』 1920年代30年代当たりに、特に大阪を中心に新しい音楽を体現している。 西洋の音楽に頑張って近づこうというよりは、西洋式のハーモニーの高度な技法を身に付けて、言葉と旋律を融合させたところがおおきい。 服部さんは少年音楽隊に入って、頭角を現してきた。 サックスフォンを演奏していました。 自分の知っている馴染みのある旋律を音楽隊用に編曲するというところから、彼の作曲が始まっている。 服部さんは1907年(明治40年)生まれ。 服部さんが少年音楽隊に入った日が関東大震災の日でした。 その後ラジオ局のオーケストラに入りました。 そこで本格的にクラシック音楽に触れます。 夜はダンスホールで演奏して、新しい管弦楽の手法とアメリカ式の演奏スタイルを身に付けていきました。 

笠置さんは1914年生まれ。 生まれは香川県で育ちはずっと大阪です。 非嫡出子として生まれて、育てる母の元に引き取られて大阪で育つ。 小学校の頃はお風呂屋さんをやっていた。 好き放題歌ってもいい環境だった。日本舞踊も習っていた。 宝塚の少女歌劇を受けるが、歌と踊りは合格する。 体格審査ではねられる。(小柄で華奢だった。) 松竹の少女歌劇に押しかけ入門する。  最初は踊りで何年か後に歌に転向する。  東京の松竹歌劇団に移籍する。 副指揮者として呼ばれたのが服部良一だった。 昭和14年このコンビが注目されるようになる。 

*「ラッパと娘」 作詞・作曲:服部良一  歌:笠置シヅ子

自然な歌い方でリズムが中心になっている。 世界の流れに沿っていた。 服部は笠置シヅ子に地声て歌うように指示している。 服部はレコード会社の流行歌の作曲者としても売れ始めていた。 淡谷のり子の「別れのブルース」。 歌手の個性に合わせて作ることをした。 日米開戦によってアメリカ文化が敵になる。 笠置シヅ子と灰田勝彦は活動の場所がなくなってゆく。 服部さんは戦争末期上海に渡っている。(陸軍軍属 上海の文化人と交流をして日本の大衆文化のレベルの高さをアピールする。) 

笠置シヅ子は吉本頴右と恋愛関係になる。 子供が出来るが、生まれる直前に吉本頴右は亡くなる。  「元気のいい曲を書いてください。」と、服部に告げる。 「東京ヴギウギ」が生まれる。

「東京ヴギウギ」  作詞:鈴木勝 作曲:服部良一  歌:笠置シヅ子

当時の一般的な流行歌に比べて歌いにくい曲だったが、熱狂的だった。 

*「買物ブギー」 作詞・作曲:服部良一  歌:笠置シヅ子

リズム音曲という言葉を捻り出しました。 話芸に近い。 庶民的キャラクターを演じた。

以後ヒット曲は出なくなる。 徐々に歌わなくなり、御芝居、ラジオ、テレビに出演するようになる。  「大阪の歌と踊りの女王」と言いたいですね。 











2024年7月5日金曜日

ホークスみよし(ステンシル作家)     ・信州の森の中で染める布への思い

 ステンシルというのは、紙型に染料等を塗って布や紙に模様を書く技法のことです。 ホークスさんは大阪市の出身。  グラフィックデザイナーとして広告会社に勤務したあとフリーランスになります。 1974年ごろに沖縄の染め物「紅型」を趣味として始め、その後ステンシルに出会います。 1987年からはステンシル作家地しての活動を始め、本も執筆、テレビや雑誌でステンシルの紹介などをしています。 現在は長野県上田市で暮らしていて、毎年東京、神戸で個展を開催するなど、作品通リに励んでいます。

私はグラフィックデザインの仕事をしていて、日本の民芸に憧れていました。 或る時民芸店に行ったら店主が紅型を教えていました。 紅型を習いたいと思って始めて、ステンシルに結びつくことになります。 紅型は型を作ってそこに糊おきをして,顔料をさしてゆくわけです。 複雑で様々な工程があります。 グラフィックデザインと共通するところがあります。  「シンプル イズ ベスト」という諺がありますが、シンボライズしてゆく過程が似ていました。 

最初はっきちんと紅型のお勉強をしました。 すべての工程がゆっくりのペースで、3年間習って、一旦日本を離れる事になりました。 5年ぐらいのブランクがあったのちに、ステンシルとの出会いがありました。 型を使って何枚も絵を描くことができる。 紅型と同じテクニックだと思いました。 ステンシルの場合はカッターナイフとトレッシングペーパーのような紙があって、書いたものを型に彫って、彫った型の中に絵具(アクリル絵具)をさしてゆくので、顔料のような大変な工程が無くても、直ぐに布に描けます。 洗濯もききます。 ステンシルの面白さにはまって行きました。 絵は子供の頃から好きでした。 

最初の個展の時には化学染料を使っていました。 那須に暮らし始めた時に、化学染料を流す事になると、自然に良くないと思いました。 草木染めにしようと思いました。  例えば「アカソ」を調べると、昔の人は赤い色を出すのに使っていたとか、という事で身の回りのものを使う事にしました。 焙染が必要で灰とか鉄さびを使いました。 洋服にも応用して行きました。  草木染は相当なテクニックと学習、修業が必要です。 私は地色にしようと考えました。(淡い色)  一番多く使ったのは栗のイガです。  お坊さんの袈裟の黒い色は栗のイガで出来ていることを知りました。 鉄焙すを何度もくりかえると真っ黒な色になります。 私は淡いグレーから大地の色(茶色)に染めました。 クールグレーはまだ茶色にならない栗のイガでないと出せないことが判りました。 黒系のいろいろな色を出すことが出来ます。 

腕が腱鞘炎になって手術をしたりして、繊細な線を出す型を彫ることが出来なくなり、落ち込みました。  それが墨彩画に変っていきまた。  ステンシルと墨彩画との組み合わせとか選択肢が広がって行きました。  その後長野の上田市に移りました。 歳をとったからこそ、新しい発見もあります。  ガーデニングもやるようになりました。(土いじり) 身のまわりのいろいろなものから創作活動のヒントがあります。 創作活動をしてきたことで、悩んだり苦しんだりすることを、忘れることが出来ました。 

一番大事なのは今の自分なので、今私は何をやらなくてはいけないのか、今しかないです。 なんかわからないが、有難いという思いがあります。 大きな力があって、させていただいているというような、思いです。 人に何かをしてあげるにしても、その為にはまずは自分を大事にしなければいけないと思います。  作った作品を身にまとってもらって完成するという事です。(歩くキャンパス)


 

2024年7月4日木曜日

永遠瑠マリールイズ(「ルワンダの教育を考える会」代表)・正しい教育で真偽の判断を~ルワンダ大虐殺30年

 永遠瑠マリールイズ(「ルワンダの教育を考える会」代表)・正しい教育で真偽の判断を~ルワンダ大虐殺30年

福島市にあるNPO法人「ルワンダの教育を考える会」の理事長の永遠瑠(とわり)マリールイズ(58)さんはアフリカのルワンダ共和国出身で。1994年のルワンダ大虐殺から逃れ、福島に移住しました。 2013年に日本国籍を取得しました。 「ルワンダの教育を考える会」の活動は、母国ルワンダでの教育の普及と日本での平和教育です。   隣人が殺し合い、およそ100日間に100万人もの命が失われたと言われる「ルワンダ大虐殺」、今日7月4日はルワンダ大虐殺」からの解放記念日です。 あれから30年が経った今、世界にはフェークニュースが溢れ、その真偽を見極めるためにも教育は不可欠だというマリールイズさん、積極的に活動を続けるその思いを伺いました。

福島に来て30年になります。 人生の半分以上が福島になりました。 ルワンダは標高が1100m~2500mで朝晩は涼しいです。 湿度の高い福島の暑さにも慣れてきました。 30年間の命を頂いています。 兄を亡くしていて遺骨も見つかっていないです。  壊れて言った心は回復はしない。  

内戦が続いていて、大統領の飛行機が墜落しました。 和平交渉の帰りに着陸しようとした瞬間にミサイルで攻撃されて墜落しました。 30年経った今でもどこの誰が仕掛けたのかはわかっていません。 ルワンダ紛争は多数派のフツ系政権および同政権を支援するフランス語圏アフリカフランス本国と、主にツチ難民から構成されるルワンダ愛国戦線および同組織を支援するウガンダ政府との争いという歴史的経緯を持つ。 多数派のフツ族系の政府とそれに同調する過激派のフツ族民兵によって、およそ100日間で少数派のツチ族と穏健派のフツ族およそ100万人が殺されてしまった。 7日からは爆弾が飛び交い、居ることが判ると殺されてしまうので、兎に角しゃべらず静かにしていました。 逃げてコンゴ難民キャンプに着いて、家族で難民キャンプで暮らすようになりました。 ジェノサイドの前の年に日本の福島に留学していました。 洋裁の研修をうけていた。(日本語を覚えって行った。) 帰って難民キャンプで「たすけて」と紙に書いたのが、日本のドクターの目に留まりました。 それがきっかけとなり再び日本にやってくることが出来ました。 日本は難民を受け入れるのが難しくて、留学という在留資格で受け入れてもらいました。  いまだにどこかで難民が生まれています。 

2000年に有志と「ルワンダの教育を考える会」を設立。 私は教育を受けたおかげで日本語を学べたし、いろいろ学んだお陰で命を繋いでくれました。 孤児が大勢いました。  この子たちが生きてゆくためには教育、そして戦争をなくすには教育しかないと思いました。 かつてのルワンダは若者たちの無知が利用された。 教育を受けたリーダーの言いなりになってしまう。 ですから考える力、互いを認め合う力が一番大事だと思って、ルワンダに学校を作って、教育を受けられない子供たちを受け入れ行こうとしました。 教育があれば平和も作れるし発展も出来る。  福島県の仲間と一緒に「ルワンダの教育を考える会」を作り上げていきました。  寄付を募ってルワンダに学校を建てました。 日本語にすると「良い文化学園」という名前にしました。 今、生徒は260人以上います。 世の中に送り出した人は500人を超えました。 卒業生から学校の保健師、先生、そして医師も誕生しました。  

ルワンダは経済発展をしましたが、その裏にはスラムみたいなところがあります。 格差が開いています。  日本みたいには、まだ福祉の面で目が届かない。 ツチ族とフツ族の対立は根強くあります。  分けてそれぞれの場所に住むという事は出来ない。 和解をすることを政府が進めてきました。  未来を生きる子供たちに争いのない国にしていこうと、しています。  7月7日から100日間ジェノサイドが起きた期間は、スローガンのもとで過去を忘れない、力を合わせながらこの国の発展をさせて行こうという事で、さまざまな勉強会、テレビ、ラジオでの加害者の証言、被害者の証言を語り合う事をやっています。

日本でも平和の中にいると忘れがちなので、私は自分の体験を通して平和を脅かされることに対して、警戒してくださいと、各地で講演をさせて貰っています。  日本の子どもたちは手ごたえを感じます。 講演を聞いた子供が大きくなって6月からルワンダの日本大使館に赴任します。 福島の子がその後青年海外協力隊になってメッセージを受け取りました。 私に出会わなかったら、国際協力にはいかなかったという内容で感激しました。 

インターネットでフェークニュースが飛び交っています。 注意して正しい情報を得ないととんでもないことになってしまう。 ですから教育が本当に大事です。 判断力をもって、ものを見てゆくことが大事です。 私が国籍を取った理由は、両方の国の人として生きてゆく、ですからルワンダのことをやりつつ日本のことをやって行きます。 30年前死んで当然だったので、命ある限り人々につかえる人になりたい。














2024年7月3日水曜日

中村梅雀(俳優 ベーシスト)       ・役者一家に生まれて・・・

 中村梅雀(俳優 ベーシスト)       ・役者一家に生まれて・・・

中村梅雀さんは1955年劇団前進座の創設メンバーでもある中村翫右衛門を祖父に、前進座元座長四代目中村梅之助さんを父に、代々役者の家に生まれました。 9歳の時に「中村まなぶ」として初舞台を踏みます。 1980年前進座に入り「梅雀」を襲名、二代目中村梅雀となります。 2007年前進座を退団、活躍の場をテレビドラマや映画に移し、刑事役などで人気俳優となりました。 NHKでは大河ドラマ「八代将軍吉宗」「篤姫」BS時代劇「伝七捕り物帖」シリーズなどに出演しています。 2023年度からEテレで放送中の「ピタゴラスイッチ」の百科おじさんの声を担当、又ベーシストとしても活動しています。 

刑事役、時代劇などに多く出演しています。 祖父、父も重要な役をやって来ました。  NHKの「天城越え」の刑事役、目の奥の底から来る鋭い観察眼、二人のシーンは忘れられないですね。(宇野重吉さんと中村翫右衛門のシーン)  習い事(芝居の稽古、日本舞踊、義太夫、長唄、三味線、茶道、書道な)は5歳からやりました。 9歳の時に「中村まなぶ」として初舞台を踏みます。 正座が長くて足がしびれて初日にばたんと倒れてしまいました。    

前進座に入りましたが、世襲的なところも出て来たし、僕自身の生活が借金だらけで、音楽活動は認めてくれないとか、梅雀自身が槍田ものがやれないとか、いろんなものが重なって、辞めたいと言い出した時に、父は本来は止める立場でしたが、「気持ちはよくわかる。 わかった。」と言って後押しをしてくれました。 母親がクラシックのピアニストで、その影響は絶大でした。 母からピアノを習い始めましたが、面白くなくて母も匙を投げました。  音楽は好きなので聞いていて、小学校ではクラシック少年でした。 カラヤンが大好きでした。  中学ではビートルズなどが流行ってポップスにのめり込みまた。 ベースに興味を持ちました。  エルビスプレスリーも好きでした。  

中学、高校では自分でオリジナルを作りました。  ギターもやるようになりました。   中学3年間はお稽古事は全部休みになりました。  その間バンド活動になどにのめり込みました。  音楽で生きてゆくのは厳しいと思ったので、役者ならば大丈夫そうだと思いました。  大学に行く時には役者をやるという事に決めました。  大学卒業後すぐに前進座に入ることは祖父が止めました。(お稽古事が身に付くことを祖父が求めた。) 師範を取って翌年が劇団の創立50周年で、記念公演がりそこで入れました。  曽祖父の初代中村梅雀の名前を告げという事になりました。  

大河ドラマ「八代将軍吉宗」では吉宗の長男で言語症がある九代将軍・徳川家重を演じ涙を流したり涎を垂らしたりする迫真の演技が多くの反響を呼ぶ。  大河ドラマで初めて障害者を扱ったという事で大成功でした。  ミュージカルは32年振りとなります。 「夏の夜の夢」をかつてやりました。 3本ほどやりました。 1996年に初演された「タブリンの鐘つきカbヒ人間」に今度出ます。 凄い量で一幕だけで100ぺージ以上あります。 ストーリーは、真奈美と聡は旅行中、森の中で道に迷ってしまい、山小屋に一夜の宿を求める。そこで山小屋の主である老人は、かつてこの土地を不思議な病が襲ったときのことを二人に話し出す。真奈美と聡は老人の話に引き込まれ、その物語の中に入っていく。 主人公のカビ人間は普通の青年だったのが、体中カビだらけの人間になってゆく。 私は36歳の元気いっぱいの父親だったが、突然ボロボロの爺さんになってしまう。 最後に一瞬直ります。 ベースを弾く瞬間もあります。 

子供(娘)は9歳になります。 娘が20歳の時に私は80歳なので長生きしないといけないです。(今年69歳 50歳の時に25歳の妻と結婚)  世代のギャップは感じますが、面白いです。  いい人でも裏側がどうであるとか、複雑な裏側の心の襞、人間のだれしも持っている邪悪?なもの、極悪人が持っている実はすごい純な部分とか、奥深い襞を表現できたらいいなあと思います。 音楽、歌もいいステージが出来たらいいなあと思います。 作曲もヒット曲が出来たらいいなあとも思います。 ポジティブに考え夢を持って生きていきたいです。 


















2024年7月2日火曜日

金守珍(演出家)             ・テント演劇を継ぐ

 金守珍(演出家)             ・テント演劇を継ぐ

金守さんは69歳、蜷川幸雄、今年5月に亡くなった唐十郎に師事し、唐の「状況劇場」解散後、1987年に「新宿梁山泊」を結成、唐作品のテントでの公演を中心に活動を続けてきました。 「新宿梁山泊」は先月15日から25日まで新宿花園神社境内の紫テントで唐十郎作「おちょこの傘持つメリー・ポピンズ」の公演を大盛況のうちに終えたばかりです。

唐さんは日本のシェイクスピアと言われるゆえんがありますが、僕は世界の唐十郎にこれからなれるんではないかと思います。 アングラというのは唐さんの時代に付けられた或る意味差別用語なんですね。 風俗として表れて風俗として消える、風俗であったアングラが今は文化として受け継ぎたいと思っています。 100年続けば文化だと思います。 僕は蜷川幸雄の門下生で、蜷川さんは唐十郎の世界の例を出して、ダメ出しをするんですね。 唐さんの作品を観たんですが、兎に角わからない。 唐さんのところに5年間修業に行きますと言ってんですが、30年掛かりました。 

「おちょこの傘持つメリー・ポピンズ」は即日完売でした。(中村勘九郎 / 豊川悦司 / 寺島しのぶ / 六平直政 / 風間杜夫 / 金守珍など) 昔、赤テントは最大1300人居れています。 「紫テント」は250人を目安にやっています。(消防法の関係もあり) 森進一さんのファンによる婚約不履行損害賠償事件、実際あった事件を元に唐さんが作ったものです。 底辺の人たちのことをこの事件を元に書かれたのではないかと思います。 唐さんのテントは僕にとっては現代歌舞伎なんです。 

父母は韓国人ですが僕は日本で生まれて、南北が統一されたら帰るという事で、電子工学を学んだんですが、差別があり大企業には入れませんでした。 キムジュヨン?さんのいろんな事件が起こり、僕も何かしなければいけないと思って、キムジュヨン?さんの芝居を一本見ました。 それがきっかけで「民芸友の会」に入りました。  朝鮮学校に行っていたので日本語の勉強は週に一回しかなくて、漢字などは不得意でした。 差別がある中でいろいろ喧嘩などもしました。 大学に行く時には苦労しました。 差別があり、朝鮮学校から直接大学には行けないので、日本の都立大山高校の定時制に編入学して、東海大学の電子工学に入学しました。 

なんとか唐さんに会って、履歴書は受け取ってくれましたが、研究生にはしてくれませんでした。 「青ずきん」のセットなどと作っていました。 或る時台風になり、大変な作業をしていたらようやく入れてあげたらという事になり入れました。 翌年大きな役をやらせてもらえました。 「状況劇場」が1988年に解散。 「赤テント」を受けて継ぐ女優が誕生して仕舞ったことで、「状況劇場」は上手くいかなくなってしまった。 僕は和合を求めたが上手くいかなかった。 僕は抗議の意味でサボタージュしました。 佐野史郎も退団しているし、野坂直正?が最後の砦であったが、野坂も退団するという事で、辞表を出しました。 光州事件がありそれを元にした、我々在日の痛みをサーカス小屋で表現しました。

1987年に「新宿梁山泊」を立ち上げました。(バブル景気の真っ最中)  小劇場も華やかな時代でした。  自分を突き詰めるために舞台をやっていたので、外の華やかさは全く関係なかったですね。  やるたびに赤字でした。 団員はアルバイトをしたり、周りからの援助などもありなんとか食いつないでいきました。  韓国の戯曲も沢山やっています。 韓国にも行ってきました。  韓国にも拠点があります。 日本のいいものを韓国に届けたいし、韓国にいいものを日本の方に届けたい。 これは僕の使命です。 それ以外の外国での公演も行いました。  テント公演だけではなく、唐作品のオファーがあって、大劇場でも演出をしています。  唐作品はテント用なので大劇場は演出は凄くしずらいですね。 唐さんの「赤テント」は赤の腰巻で子宮なんです。 天井も低くて圧迫感がります。 蜷川さんから学んだことを応用しながら、大劇場では唐さんの作品を、どう解体してしてどう組み立てるのか、新しい作品にしないといけないと思っています。 

歌舞伎とアングラの融合、それを来年はテントでお見せできると思います。 ハドソン川のところでテント公演を実現したいという思いがあります。









2024年7月1日月曜日

松岡 和子(翻訳家・演劇評論家)      ・シェイクスピアにつかまって     

 松岡 和子(翻訳家・演劇評論家)      ・シェイクスピアにつかまって

日本では3人目、女性では初のシェークスピア戯曲全37作の完訳の偉業を達成した松岡和子さん(82歳)は、シェークスピアに出会ってから何度逃げてもまたシェイクスピアにつかまってしまったと言います。 満洲から命からがら引き揚げてきた幼少期からシェイクスピアとの出会い、結婚、出産、育児、介護、看取りなどを経験しながら翻訳家としての意志を貫いたドラマチックな人生をシェイクスピアの魅力と共に伺いました。

満洲国新京生まれ。 父は裁判所に務めていましたが、進められて満洲に渡って、母と結婚して私と妹と弟が生まれました。  まだ3歳だったので、引き上げの時は母が大変だったと思います。  弟が生まれたばかりでした。(出産した翌日から移動)  父はソ連に抑留されました。 或る所から足取りがつかめなくなってしまいました。  どこかから戻って来るのかと思ってラジオの「尋ね人」の放送を聞いていました。 点々として最終的にはモスクワの独房に入ってという事でした。  私が小学校6年生の時に当然一枚の往復はがきが舞い込んで生きているという事が判りました。  中学2年生の時に父が帰ってきました。  帰ってくる時には病気になって脳溢血で倒れました。  写真の姿は立派でしたが、母が「この写真の通りではないから、大事に面倒見なければいけないわよ。」と言っていました。 知らないおじさんという感じでした。 

私は東京女子大学ですが、母も同じでした。 英語の先生の資格を持っていましたので、女子校の先生をしていましたし、家庭教師もしていました。   母はラジオで「100万人の英語」を毎晩聞いていました。 父も身体が良くなってきて、公証人役場に毎日通っていました。 私の恩師のCL・コールグローヴ先生先生に出会って、シェイクスピアへの道に導いてくださいました。 英文科だったので卒業までにシェイクスピアの一冊を読まなくてはいけないと思いました。 シェイクスピア研究会に見学に行ったりしましたが、ハムレットを読んでいて難しくて、逃げたりしました。(一回目の逃走)  原語でシェイクスピア劇をやることを毎年やっていて、「夏の夜の夢」をやることになり、やってみたら面白くてお芝居が好きになりました。 CL・コールグローヴ先生の1週間に1本英米の戯曲を読むクラスを取ることになって、本当に芝居が好きになりました。 演出をやりたいという気持ちになりました。

シェイクスピア翻訳者の福田恆存さんが主宰する劇団「雲」が研究生を募集しているというので、試験を受けて合格しました。 親に打ち明けたら大反対されました。 1年半いましたが、もう一度シェークスピアの勉強をしようと思って、東大の大学院に入りました。   そこでは難しすぎて止めて、シェークスピア後輩の劇作家のジョン・フォードについて勉強し始めました。 フォードを勉強するにはシェークスピアを勉強しないといけないことが判りました。 親としては安定させたかった。 お見合いをして気に入らないと言う事で逃げられると思って、2回目までは上手く行きましたが、3回目でこの人と結婚しそうと思って、結婚に至りました。 子供も生まれて、その間に東大闘争もありました。 修論?を仕上げるのに大変でした。 

その後段々翻訳の仕事が増えていきました。  戯曲も訳すようになって、非常勤で東京女子大学に勤め始めました。 CL・コールグローヴ先生からシェークスピアのレクチャーをないかと言われました。  シェークスピアのPRでいいからと言う事で、引き受けることになりました。  1993年に「夏の夜の夢」を訳してほしいという要望がありました。  「夏の夜の夢」には縁を感じます。  演じるための新しい訳が欲しいという事でした。  「間違いの喜劇」「ロミオとジュリエット」「ハムレット」「マクベス」を翻訳して舞台にかかりました。  蜷川さんは「世界を掴みたいんだ。」という事はよく言っていました。 世界を掴むのには世界を描いているシェイクスピアをやるという事とつながったのではないかと思います。 

蜷川さんがシェークスピアの全作品を埼玉芸術劇場でやるという事になりました。 日本語で上演するのには全部松岡さんの訳でやるという事を蜷川さんから言われました。 37の戯曲を全部訳すことになりました。 実際に稽古場で訳した言葉に立ち会いました。   それが楽しかったです。 日本語全訳は、坪内逍遥英文学者の小田島雄志さんに続き3人目となる。(女性では最初。) 女性の言葉を訳す事には意識していました。

To be, or not to be,」の翻訳 「世に在る、世に在らぬ」(坪内逍遥)「このままでいいのか、いけないのか」(小田島雄志)「生か、死か」(福田恆存) 最初は「生きてとどまるか、消えてなくなるか」(松岡和子)途中から「生きてこうあるか、消えてなくなるか」(松岡和子)に変更しました。

マクベスのTomorrow, and tomorrow, and tomorrow」の翻訳  最初は「明日(あす)も 明日(あす)も また明日(あす)も」でしたが、現在は「明日(あした)へ また明日(あした)へ また明日(あした)へ」になりました。              Tomorrowを分解するとTo morrowになり「朝へ」と言う意味になります。 Tomorrowは明日(あした みょうにち)になります。 明日(あした)だと(みょうにち)とmrningと両方の意味になる。  20数年後に変えました。 

シェークスピアは一貫して人間の愚かしさを描いてきたと思います。 でも 全体が人間と世界を肯定する劇になっていて、「馬鹿だなあ そんなことしなければいいのに」と言う様な人間がこれでもかこれでもかと出てくるが、でもそれが人間だという風に言ってくれる。  唯一「馬鹿だなあ」じゃないキャラクターがハムレットだと思います。 

シェークスピアは多層になっています。 400年ぐらい前に書かれたものが、現代劇として上演されていて、凄いなあと思います。  37の戯曲を翻訳して文庫本として出版いています。 終わりよければすべてよし』が2021年で完結です。           文学で、演劇で、生身の人間を扱っている作品に関わっていると、人間の喜怒哀楽、生老病死と言うのが全部自分の人生と、劇の中の様々な人間の人生とが絡み合うから、シェークスピアだからこそやっていられます。  
















2024年6月30日日曜日

原由美子(スタイリスト)         ・着ることをもっと大事にしてほしい

 原由美子(スタイリスト)         ・着ることをもっと大事にしてほしい

原さんは1945年生まれ、神奈川県出身。 父は著述家の原奎一郎、祖父は総理大臣の原敬。 慶應義塾大学文学部仏文学科卒業後、雑誌の翻訳を始めて、ちょうどそのころ創刊された女性ファッション誌「アンアン」にスタッフとして参加、1972年からまだ日本に定着していなかった職業スタイリストとして仕事を始め、数々の雑誌のファッションページに携わってきまいた。 2000年ごろからは、洋服だけではなく着物のスタイリングにも積極的に取り組み、洋服とは異なる和服着物の楽しみ方を提案しています。 スタイリストとなって半世紀あまり、衣服は自分を表現する手段である、そして自分のスタイルをみつけること、紙面を通して伝え続けてきた原さんにお話を伺いました。

小さいころはおしゃれとか着るものには、女の子なので或る程度関心はありました。 父が服飾評論家の原奎一郎です。 母も洋服を作ったり、美容師でした。 1964年の東京オリンピックの入場式をモノクロの画面で観ていたら、「真っ赤なブラザーです。」と叫ぶんで、「真っ赤なんだ。嫌だー。」と言ったら、父が「ブレザーと言うのは燃えるようなという事で、赤が基本なんだよ。」と言っていました。  父はイギリスに留学していました。 祖父が原敬で暗殺されるという事件がありましたが、「帰るに及ばす。」と言う連絡があり、お葬式とかには帰らなかったそうです。  暗殺され時に薄いピンクのシャツを着ていて、おしゃれな人だったという話は聞きました。  16歳になった時に、父が「セブンチーン」を買って来てくれるようになってくれました。 

鎌倉に住んでいて、海からは15分ぐらいの裏山があるところでした。  野生の水仙なども咲いていて、良い環境でした。  慶應義塾大学文学部仏文学科に進みました。 真面目に勉強はしました。 「女子学生亡国論」というのがありましたが、勉強してもいいじゃないかと言う思いはありました。  それまで13年間女ばかりの学校に通っていました。 フランスの雑誌について、どういう内容かを訳す仕事を頼まれて、それがフランスの「ELLEでした。 平凡出版(現・マガジンハウス)が新しい女性誌をだすという事で、「ELLE」の日本版という事でした。  雑誌の材料を観れたことは大きかったと思います。   

1972年よりスタイリストの仕事を始めました。  1973年婦人公論』と言う雑誌が読み物が主体だった雑誌に、ファッションを再開するからという事で、やってみないかと言うお話を頂きました。 「アンアン」よりは大人の読み物で、テーマとかモデルとかはお任せしますという事でした。 これをやれたのは良かったと思います。 

「アンアン」の仕事をしていた時に、社員になら兄かと言う半紙がありましたが、その時にはすごく悩んで、婦人公論』もやっていたので社員になったらそれが出来なくなるし、展示会なども参加したいので、続けられる保証が無いので、社員になるのは辞めました。  フリーで事務所を立ち上げました。  コマーシャルの話もありましたが、対応はしませんでした。 雑誌への思い入れがありました。 

書くと言う仕事もし始めました。 最初の頃には、判らないことがると父に相談したりしました。 鎌倉にいた幼いころに、日本舞踊を習いました。  着物の衣装に興味があり楽しかったです。 着物のページを婦人公論』でやって、クロワッサン』でもやらせていただいて、着物屋さんから顧問的に選びとかやってみないかと言われました。 春夏秋冬にも対応できて、正装として美しく着物のような民族衣装は他にはないのでは仁かと思います。 着物は日本人には似合うので、どんな色、どんな柄を持ってきても着れるんですね。  それが凄いと思います。 大胆な色でも着てしまうと収まるんですね。 

印象に残っているのは、最初に1973年に見た高田賢三のファッションでした。  大きな会場で行って、雑誌モデルを全員使っていて、それまでは向こうではそういったことはしていなかった。 感激しました。  着ることの楽しさは、自分の中では仕事としてしまったので、楽しくはなくなっちゃいました。  大人の方、若い人でももうちょっと着る事を大切に考えたらいいな、という事はあります。  初めて会った人が見る時、貴方は着るもの最初の印象になっているわけです。  特定に誰かに会いに行くんではなくて、常のそうなわけです。 毎日着替えるという事は大事にしていると思うんですが、その人を覚えられない。 年齢が年齢なので、そういう気を遣う自分が厭になる。 でもどうでもいいというわけにも行かないが。  





















栁川春己(パラリンピックマラソン金メダリスト・「光は見えなくても人生は明るい」

栁川春己(パラリンピックマラソン金メダリスト・「光は見えなくても人生は明るい」 

栁川春己さんは昭和31年佐賀県生まれ。 生後6か月で小児緑内障になり、8歳で視力を失いました。  佐賀県立盲学校卒業後、早稲田鍼灸院開業。 33歳でマラソンを始める。 バロセロナパラリンピックに初めて出場、 1996年のアトランタパラリンピックのマラソン競技で金メダルを獲得しました。 その後トライアスロンとかいろんなスポーツに」チャレンジします。 幼少期からパラリンピックで金メダル、世界の頂点に立つまでどんな思いで向き合って来たか、お話を伺いました。

6歳で盲学校に入学して、14年間お世話になりました。 小学校の頃は夕食後の自由時間に野球をするのが習慣でした。 生後6か月で小児緑内障になり、九大の病院に行って10数回手術をして九大の紹介で盲学校に入学するわけです。 ずっと一緒だった母親と別れることになり、その時には校長先生には大変お世話になりました。 鉄棒、柔道(最後は2段)をやったりして、身体を動かして汗を流すことが大好きでした。  野球はハンドボールぐらいの大きさのボールを使います。  ピッチャーが転がして、手を叩いた合図で打ちます。 鍼灸院を地元で開業したのは1980年です。  1985年に結婚し子供も生まれました。 野球は続けていました。 

マラソンの大会があるというので誘われました。 大分のチャレンジマラソンの3kmコースに出場しました。 17分58秒でゴール出来ました。 伴走者の方から又来年来るように言われました。(52歳の女性でした。)  諫早からきた川島さんが参加していました。 彼は3kmを12分で走っていました。(トライアスロン、フルマラソンなど行う選手) ハワイのホノルルフルマラソンを2回も完走して感動したことを話してくれました。 円周走の練習方法も教えてもらいました。(運動場の中心に杭を打ってそこからロープを20mつけてぐるぐる回る方法)  

円周走を実際にやってみて、自由さを感じました。(12月) 1月からその方法で練習を開始しました。  ホノルルマラソンを目標に立てました。 1月は1周125m、1日1500m(12周)走りました。 2月には24周、3月は48周、その後10km迄走れるようになりました。 ロードレースがあり、伴奏者を名乗り出てくる人が居ました。(寿司屋の主人) 1990年6月に10kmにエントリーして朝6時スタートでした。 49分6秒で関す出来ました。

その後20km、30kmの練習をしてホノルルマラソンに参加しました。 3時間56分19秒で4時間を切ることが出来ました。  バロセロナパラリンピックには3時間10分を切ったら推薦をするという話がありました。  3時間を切るという情報はないといいことを聞きまいた。 スナックのマスターがもしかしたら3時間を切れるかもしれないと言ってくれました。 週に2回一緒に付き合うと言ってくれました。(一般道を走れる。 1990年12月) 一般道から山の道も走ろうという事になりました。 いろいろと厳しい練習が加わってきました。  11月の大会がありそこに参加して、2時間55分10秒で目標を越えてしまいました。  1991年は自分の人生を変えるような1年でした。  

バロセロナパラリンピックに初めて出場、スタートは夕方でした。 伴走者のスナックのマスターが35kmで足が痙攣しました。 足をマッサージすることを3回繰り返してゴールすることができました。 6位入賞でした。 新たに伴奏者を紹介してもらいました。 新日鉄の安田恭平さん?でした。(実業団の第一線のランナー)  左右への曲がる事、登り下り速度のなどの情報を教えて貰えれば大丈夫と言ったら、安心してくれました。 

1996年のアトランタパラリンピックでは、前回バロセロナパラリンピックで金メダルをとった世界記録保持者のイタリアのカルロ?選手が2時間43分台を持っていたので、彼をマークして走りました。  彼はペースが上がらなくて5km地点で2人が前に飛び出したので、それについていくという事になりました。 16km地点で追いついて、メキシコの選手は下がって行きましたが、コロンビアの選手は絶好調でした。  21km地点で安田さんが段差を見逃して、僕が転んでしまいました。  安田さんは心臓が凍り付く想いだったと、後で言っていました。  手は擦り傷がいっぱいありましたが、足は無傷でした。(柔道の受け身が役立つ。) 

もう全力を出すのみだと思いました。 28km地点の下りでスパートしたら30km地点で100mの差がついて、30km過ぎるとなかなか身体が動かず、安田さんが励ましたり怒ったり、イタリアの選手が後ろから来ているとかいろいろやってくれました。  ゴールした時にはホッとしたという感じでした。 2時間50分56秒でした。 君が代が胸にジーンと響きました。 親にはいろいろ迷惑を掛けてきたので、親孝行が初めて出来たと感じました。 その後はトライアスロンにも挑戦しています。 2007年にはゴールまで帰ってこられました。   今年は全国障害者スポーツ大会が佐賀県で開催されます。 野球の部で指定選手に選ばれて、参加する予定です。 「目が見えなくても夢は観れる。 光は無くても人生は明るい。」  目標を持って生きて行けば人生は明るくなると思っています。