2024年10月19日土曜日

名越康文(精神科医)          ・なぜ生きるのかを問い続けて

 名越康文(精神科医)          ・なぜ生きるのかを問い続けて

テレビやラジオのコメンテーターとしてお馴染み精神科医名越康文さん(64歳)のお話を伺います。 奈良県出身の名越さんは小学生の時に、人はどうして死ぬのになぜ生きるのかという疑問を抱きます。  名越さんはその問いに悩みながらも医学部を卒業し、精神科医として多忙な日々を送りますが、心身ともに疲労のピークに達した時、知り合いから或る寺を訪問することを薦められ真言密教と出会います。 その後名越さんは本格的に仏教を学び、日常生活の中に行や瞑想を取り入れてきました。 名越さんは特に真言密教空海に共感し、現代人が生きてゆく課題を仏教心理学の視点から考察し、仏教系の大学などで発信を続けています。    子供の頃抱いた問いに対してどのような答えを見出したのか、名越さんの思いを伺いました。

僕は昭和35年生まれで商店を経営していてほったらかしでした。 おっちょこちょいの性格でした。 父方のお爺さんが亡くなって、初めて死と直面しました。(小学校3年生)  明け方に鉄人のような父がオイオイ泣いていました。  崖から車ごと谷に落ちて交通事故で亡くなったと聞きました。 父親が亡くなるという事はこんなに悲しい事なんだと鮮烈に覚えています。 小学校4年生の時に海底大戦争(特撮映画)を見に行きました。 人間が人間を殺してゆくという風にしか見えなくて、それから一週間夜になると人間は死んだあとどこへ行くのかと大問題で、泣けてくるんです。  子供心にいくら大きな家を建てても、お金儲けても、人と仲良くしても、全員と別れるという事が判るんです。 この世にあるものを全部捨ててあの世に行かなければいけない。  生きている間に勉強、スポーツしなさい、友達を作りなさい、とか全部虚しくなっていくんです。 どうせ死ぬのにこの世の中で僕は何をしたらいいんだと思いました。(10歳) 5年生の時に国語の授業がありました。  パンドラの箱、その中に自分の心を封印しよう儀式を行いました。 

医者になって欲しいという両親の強い希望で、私立灘中学に進学します。 父が開業医の娘と結婚して薬剤師になっています。 医学部に入るという事が人生の目的でした。 医学部に入って、追試を受けて3つのうち2つ落ちるとで留年でしたが、3つとも受かることが出来ました。 駅へ向かう坂道で生暖かい風がワーッと吹いて、パンドラの箱の蓋がパカッと開くのが聞こえました。 お前は何のために生きているんだと、きました。 

祖父が脳溢血で寝ていましたが、生きることに苦しんでいることを伝えたら、増谷文雄さんという仏教の研究者の「仏陀」という本を薦めてくれました。 2日間で読み切りました。 クレイマックスのところで悟りの内容、どう生きて行ったらいいかわかると思ったら、「仏陀は悟った。」しか書いてなかった。  いろんな本を読んだり瞑想したりしました。  3年生で留年しました。  野田俊作先生との出会いがありました。 友人が、精神科医が行なっているアドラー心理学のオープンカウンセリングの見学に誘ってくれました。 不登校のカウンセリングを受けていた暗く落ち込んだ顔をしていた女の子が一時間程度で笑顔になったのを間近で目にしました。 精神科医になろうと決心して、26歳で医師国家試験に合格して、研修前に配属された脳外科で忘れられない一人の患者さんと出会いました。 

若い女性で、脳幹部にある悪性の腫瘍でした。  完治は無理で延命のための手術をしようという事でした。 点滴をするんですが、血管に入りにくい時があり、2,3回入れ直しをしたりしました。  全く痛いとか言わないで、こちらに配慮するんです。 手術前日に髪の毛を切って剃髪するわけです。 最後の仕上げを僕が担当しました。 涙が数滴落ちるのをみて、心に押し寄せるものがありました。 手術も無事終えて、懸命にリハビリをするなか、脳外科での研修期間が終わりを迎えます。  その後お見舞いに行って絵本と小さなお地蔵さんを送りましたが、父親からなくなったことと、御見舞いの品物は一緒に納棺しましたと言う手紙を頂きました。  どういう返事をしていいかわからずに今に至ってしまいました。  何でこんな優しい人がなくなってしまうのか理不尽さを感じました。 生きるといことは複雑怪奇で答えのない問いが次々にやって来るんだと思いました。 

精神科病院で勤務して38歳の時に病院を辞めて、クリニックを開業しました。  どうしてもという時には電話をかけて欲しいと言って、いつの間にか患者さんの8割が僕の携帯電話番号を知ることになってしまいました。 一番多くかかって来るのが夜の10時から2時ぐらいです。 2月頃にふっと目が覚めると、身体が冷えているんです。 Tシャツで寝ているのに汗でびしょびしょになっていて、自立神経が失調していることに気付きました。(開業して4年ごろ)  自分でも治療をしましたが無理だという事で、真言密教の祈りのお寺がありまして、そこで説明したら「大慈悲」と言われました。  「私に出来るでしょうか。」と言ったら、「貴方ならできる。」と言われました。 もう48歳で、今から仏道の修行をして出来るのかと思いましたが、「出来る、思った時からやりなさい。」と言われて、その場で真言密教の瞑想のがちれんかん?という瞑想がありますが、それを押しせていただきました。  そこから仏教の勉強が始まりました。 真言密教との出会いが大きな節目になりました。 

仏教には学と行があります。 学と行を等分にやりなさいといつも言われました。  空海の大日経の「十巻章」という重要な教科書があり、「三句の法門」という考え方が出てくるんです。 人生を成功させたい、充実させたいという人はこれをやりなさいと言う事が、大日経の中に出てくるんです。 「三句の法門」の一つは、「菩提心を(ぼだいしん)を因(いん)とし」、私なりに意訳すると、人間の心というものは、人格というものは、無限に成長出来る、という事に気付きましょう死ぬまで成長していきましょう、という事です。 二つ目が「大悲(だいひ)を根(こん)とし」、大悲の心を持ちなさい、どんなに幸せそうに生きている人も、心の中には地獄を抱えている、病気の2,3つは抱えている、その人の中には深い悲しみ、苦しみがある、それに心を寄せましょう、出会った人のみんなが苦しみにあえいでいるという事に共感しましょう、という事です。 三つ目が「方便こそ究竟(くきょう)なり」、方便することが一番大事で、自分が出来る範囲でその苦しみや悲しみを抱えた隣人に一寸でも慰められるような気持にさせてあげましょう、癒してあげましょう、という事です。 これを毎日心掛けて下さい、これはつまり仏教的行だと思います。 一日一日充実させてゆくと人は必ず人生が成功する、そういう教えたと思います。 

日々人生を生きていると、自分の蒔いた種もあれば、そうでないものも非難されたり、怒られたり、苦労したりしますが、前は不条理ととらえていました。 これを自分自身を磨かれていると捉えようという事です。 どうせ死ぬのになぜ生きるのかという事の僕自身の答えは「どのように修行しているか?、もうちょっとづつでもまともな人間なっているか?」という事です。  自分の心がどう動いているのか、絶えず気付いているという、それが修行だと思います。  自分の心の中にある寂しさに気付くことは修行になっていると思います。 誰に対する寂しさなのか、その人に辛く当たっているから、相手も辛く当てって来る。 今度からはその人にやさしい言葉をかけて見ようとして、相手が許してくれたらその寂しさは癒えますよね。 自分の心の中をじっと見つめてみる。 解決策が浮かんだり、耐える方法が浮かんだりする。 そういった過程は立派な修行だと思います。 毎日修行する毎日がここにあるので、何のために生きているのかという事は、そういう事ですから一応答えになっているんです。 

自分自身の優しい言葉で心で唱えることが必要だと思います。 祈る、拝むという事が最高で最も強力で人々を豊かに、あるいは救う心理療法だと思っています。








2024年10月17日木曜日

久田恵(作家)              ・〔わたし終いの極意〕 終の住みかは自分で決める

久田恵(作家)           ・〔わたし終いの極意〕 終の住みかは自分で決める 

久田さんは北海道室蘭市生まれの76歳。 大学を中退して様々な仕事を経て、女性誌のライターになりました。 1990年に『フィリピーナを愛した男たち』で第21回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。 執筆活動を続けながらシングルマザーとして子育てをして、およそ20年に渡って両親の介護もしました。 70歳の時に栃木県那須高原のサービス付き高齢者向け住宅に移住しましたが、この2月に東京の実家に戻り独り暮らしをしています。 

那須に引っ越す時には、終の棲家を自分のなかで決めて暮らすんだと思っていましたが、歳を取って来ると、高原が美しい、空が綺麗とかそういう事だけで幸せには暮らせないですね。  自分が介護が必要になった時に、どういう風にそれを乗り越えたらいいのか、サポートしてくれるのかとかいろいろあって、歳をとると車も運転できなくなるし、終の棲家として疑問が湧いてきました。  6年間過ごして今年の2月に実家に戻って来ました。  改めて思うと何て便利なんだと思いました。  以前は父と一緒に母の介護していました。 母は78歳で亡くなりました。 父も自立型の介護施設に入りましたが、その後介護型の施設に入りました。  

父の男親は曹洞宗の僧侶でした。 その影響もあり道元の本などを読みました。 父は富士製鐵(現・日本製鉄室蘭製鉄所技術者でした。 父は「料理というものは科学実験と同じだな。 科学実験だったら僕の専門だから。」と言って、しっかりと数値を計算したりしてやっていました。 父は92歳で亡くなりました。 母は脳梗塞で失語症にもなってしまって、失語症に対しての理解をしようと思って努力しました。 父は最後には身体が動かなくなって、人が生きて弱ってきて、亡くなってゆくプロセスを間に当たりにしたという感じはあります。 父からは「最後まで自分と一緒に暮らしてくれたことを、僕は凄く感謝している。」と言われました。  その時には余りピントは来なかったです。 自分が歳を取って来ると一緒に暮らしてくれることが、重要だなと理解できる。 一人ぼっちで死なないですんだという事ですね。 私は一人ぼっちで死んでいくという事を、別に悲しとは思わないと言う様な気持ちではいます。 

自身の介護を息子にという思いは無いですね。 その手立てを考えて準備して最後を迎えないとだえんだ杏と思います。 介護施設は歩いて数分のところにあります。 同じ介護施設でも、運営している人達の介護観は違うので、どこでも同じというわけではありません。  昔は入れられちゃったという事が多かったです。 自分に合うようなところを捜して、決めることが重要な時代になってきています。 

色々な仕事をしてきましたが、その時その時で考え方が違っていました。 思い立ったらすぐ行動で、それが失敗かなと思ったら速やかに辞めればいいんです。 母が急に倒れたり、息子が不登校になったり、何があるのか判らない。 息子の稲泉連2005年に第36回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、初の親子受賞を果たしました。 

自分でもどうにもできない性癖があって、相変わらず落ち着かない日を送るのではないかと思います。  歳を取って来ると段々めんどくさく成ったり、身体も動かなくなってくるので、潔く諦める事もあります。 出来れば施設に入らないで自分の家で過ごしたいという人の考えも段々わかってきて、地域の中にシニア食堂みたいなものがあって、そこで交流するというものがあってもいいと思います。 家が2世帯住宅なので一階がそのような場所に使えればいいかなと思っています。 〔わたし終いの極意〕とは高齢になったら、ちょっと寂しいぐらいで生きているのがいいかなと思います。 












2024年10月16日水曜日

山室寛之(野球史研究家)        ・〔スポーツ明日への伝言〕 プロ野球再編問題から20年

山室寛之(野球史研究家)    ・〔スポーツ明日への伝言〕 プロ野球再編問題から20年 

今から20年前の2004年、プロ野球は大きく揺れ動きました。 近鉄とオリックスの合併問題をきっかけにして、リーグ球団の再編成の動きが起こり、球団数が減ってしまう事に強く反対する選手会による史上初めてのストライキが決行され、50年振りの新規参入球団東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生、ソフトバンクによるダイエー球団買収などがありました。  日本のプロ野球が誕生して70年目のこの年に直面した危機を、当時の関係者はどう乗り切ろうとしたのか、一連の問題は今のプロ野球とどうつながっているのか、プロ野球再建問題から20年、当時を改めて取材した野球史研究家の山室寛之さんに伺います。

山室さんは1941年北京の生まれ、九州福岡で育ちます。 九州大学を卒業して読売新聞社に入社、社会部の記者として活躍します。 社会部長時代にはオウム真理教事件、阪神淡路大震災などの対応を指揮していました。 1998年から2001年までは東京読売巨人軍の代表を務めました。 新聞社、球団の仕事に一区切りつけた後からは、戦前からの野球史の研究、取材、執筆を続けています。

1988年10月19日の出来事が2004年に繋がって行く動きが水面下ではありました。 2004年には近鉄の合併問題、オックスの球団吸収問題が起きます。  近鉄の指導者である社長の佐伯勇さんは応援に行くが随行したのが、近鉄を手放した際の社長である山口昌紀さん。 どうも阪急が身売りするらしいというという事を伝えられた。 山口さんは佐伯さんの元にその動きがあることを伝えます。 佐伯さんは突然「しまった。先を越された。」と発言します。 山口さんは佐伯さんの元で16年間働いた、豪放な方で佐伯さんを深く尊敬しています。 この時に山口さんは近鉄球団を処分しなければいけないという思いが宿ってきたと思います。 

1998年から2001年ごろメジャーに対するあこがれが強くなっていました。(特に巨人)  近鉄の野茂さんは1995年に移って、凄い活躍をしました。 2000年に横浜の大魔神佐々木投手、2001年にはイチローさんが行って野手でも十分にアメリカでも通用することが判ります。 松井選手がその後続いて行ってもう止められなくなる。 危機感がありました。 テレビの放映のスポンサーがなかなか見つからなくなる。 

2004年に近鉄とオリックスの合併の話が出る。 2月1日に朝日新聞が特報の記事を出します。 これが大騒ぎになる。 近鉄は35億円で売りたい。 5月に5期ぶりに黒字になったが、レジャー部門では60億円の赤字が出ていることを発表する。 その中で近鉄球団は40億円の赤字を公表する。  6月13日に近鉄とオリックスの合併が世間にも知られるようになる。 ライブドアが球団の買収をしたいという動きが出てくる。(6月30日)  

オリックスの宮内オーナーが、当時の球団の構成は1(巨人):5(セの5球団):6(それを羨ましく思うパの球団)だと言います。  そんななかでいろんな考えが出てくる。 巨人の渡辺オーナーの「たかが選手発言問題」が出て世の中を刺激する。 セ・パのいろいろな問題もある。 そのなかで選手会がストライキに入る。 「新しい球団を入れるために、最大限の努力をせよ。」、と選手会が言います。(9月のスト前日) 連盟は、「最大限の努力をするというのを入れると、新しい球団の参入に対して、フリーハンドではなくなる。」と言います。 これにより選手会の態度が硬化してストライキに入ってゆく。 

9月18日、19日の二日間ストライキが行われる。 選手会に対する同情が増え、連盟に対しての不満が高まる一方となる。 楽天の三木谷さんはしっかりした球場を持てば、何とかなることを理解し、やろうと決断します。 ダイエーは支援要請(産業再生機構)をせざるを得なくなる。(10月13日)  西武の堤さんが会社の不正経営の問題で辞任を発表しました。 ダイエーも西武もおかしくなる。 ソフトバンクではダイエーを何とかしたい、球団を持ちたいという思いが芽生える。 その時の責任者が後藤芳光さんで、父親と巨人の渡辺さんとは知り合いで、その伝手で話し合いが行われます。 孫正義さんは10月18日にはダイエーを買って、王さんに指揮を執ってもらいたいという事になります。

楽天、ソフトバンクはそれぞれの人脈によって誕生しました。 セ・パそれぞれ6チームになる。  残した問題としては交流試合の実施、アバウトだった入場者数を実数で発表する事。  これからの野球の将来は、少子化という問題は避けて通れない。 大谷選手の大活躍をいいてこにして,いい道を切り開いて欲しいです。











2024年10月15日火曜日

2024年10月14日月曜日

山崎静代(漫才師)            ・〔師匠を語る〕 「ボクサー」山崎静代~師匠・梅津正彦を語る

 山崎静代(漫才師)    ・〔師匠を語る〕 「ボクサー」山崎静代~師匠・梅津正彦を語る

俳優としても活躍中の山崎静代さんは、かつてのボクシングコーチの梅津正彦さんの元で、猛練習を重ねオリンピック出場を目指していました。 二人三脚でボクシングのオリンピックの夢を支えた師匠の梅津正彦さんについてお話を伺いました。

ボクシングを始めたのは2007年です。 ダイエットと、「明日のジョー」にはまっていたこともあり始めました。 

梅津正彦さんは1968年山形県酒田市で生まれます。 高校時代にボクシングを始めた梅津さんはソウルオリンピックを目指していましたが、怪我で現役を引退、その後は映画監督を目指し、助監督としていくつかの作品に参加します。 又「キッズ・リターン」や「アウトレイジ」などの北野武監督の作品や、テレビドラマのボクシング指導者としても活躍しました。  静ちゃんと最初に出会ったのも、2008年NHKで放送されたドラマ「乙女のパンチ」でのボクシングシーンの演技指導でした。 その後二人はオリンピック出場という大きな目標を掲げて、梅津さんは静ちゃんを世界を目指せるボクサーに育てていきます。  その梅津さんが皮膚がんの一種メラノーマと診断されたのは、そのさ中でした。  梅地さんは家族や仲間に支えられて、懸命な闘病生活を送りますが、2013年7月23日44歳の若さで帰らぬ人となりました。 

初めて会った時にはニコニコしていて優しそうな印象でした。 ドラマが終わった後も楽しく教えてくれるので、練習だけは続けていました。 アマチュアボクシングのライセンスがあることを知り、テストを受けてライセンスを取りました。 2012年ロンドンオリンピックで初めて女子ボクシンブが正式種目になるというニュースが入って来ました。 スポーツ新聞が「静ちゃんロンドンオリンピックを目指す」といった記事が出ました。 マスコミ先行でした。 吃驚しましたがやりたいと思いました。  梅津さんも同じことを考えていました。 やってゆくうちに甘くないという事がどんどん判って来ました。 

徐々に梅津さんの練習対応が変わってきました。  いろんなことで怒られました。 ボクシングの練習は2時間ぐらいで集中してやるんですが、5,6時間ぐらいやっていた時もありました。  梅津さんは伝わらないももどかしさ、私は判らないもどかしさが毎日続いていたような感じです。 辞めようという思いはありませんでした。  梅津さんとしてはオリンピックに連れて行くと約束した責任と、親御さんに怪我無く返すという事を言っていたので、そのためには強くするしかないので、厳しく怒っていました。 褒めてくれることはほとんどなかったです。  試合に勝った時には褒めるわけではないが、誰よりも喜んでニコニコしていました。  

2012年2月に広島で全日本選手権が行われて、ミドル級で優勝しました。  3か月後にオリンピック出場を目指した選手権に出場。 1回戦は勝利するが、予選突破はならずオリンピック出場を逃す。 呆然としてしまいました。 今迄の何年間がこの一瞬で終わったという事がなかなか受け止められませんでした。 梅津さんはいつも負けた時には俺の責任だというんです。 梅津さんは誰よりも悲しそうで落ち込んでいました。 

梅津さんから皮膚がんの一種メラノーマであることを聞きました。  切ったら大丈夫と言っていました。 二人でロンドンオリンピックを見に行きました。  自分たちが目指していた場所を確認したいと思いました。 中には勝てるのではないかというような選手もいました。 観ながら次を目指そうとは思っていました。 2013年4月にデビュー戦で敗れた台湾の選手とリベンジマッチをしました。(11か月ぶり)  その時には梅津さんは余命3か月の宣告を受けていました。  試合は観に来てくれました。  この試合には勝ちました。 4か月後には息を引き取りました。 入院中はたびたびお見舞いに行きましたが、ずっとボクシングの話でした。 しんどい状況でしたが、立ち上がってパンチの仕方などを指導してくれました。 

仕事で遅くなってしまって,行ったら「遅かったなあ。」言って待っていてくれました。 その後意識がもうろうとしてきました。 言葉で聞いたのは「遅かったなあ。」というのが最後でした。 「今迄ありがとうございました。」というと、本当のお別れみたいな感じで、言いたくなかったが、心臓が止まってしまっても、医師は耳だけは聞こえてると言ったので、「今迄ありがとうございました。」と伝えたら、梅津さんの目から涙が流れたんです。 伝わったんだなと思いました。(言葉に詰まりながら) 亡くなった翌日もずっとそこにいました。 葬儀では弔辞を読みました。


弔辞

「梅津さん大好きです。 もっともっとボクシングを教えてほしいです。・・・一生のうちでこんなにも深い絆で繋がれた出会いはもぅないと思います。・・・」 めちゃくちゃ泣いてしまいました。  現実を受けとめられない部分も当時ありました。

お墓参りに行って、結婚した事とか、仕事も頑張りますとか報告しています。 芸能人という目で見ないで、一ボクサーとして対応するとよく梅津さんから言われました。  その気持ちはずっと持とうと思っています。

梅津さんへの手紙

「梅津さんは定期的に私の前に現れます。 ・・・亡くなって11年が経った今でも、私にエールを送ってくれるんですね。 梅津さんのエネルギーは途轍もないから、今の私を支えてくれています。 ボクシングをやれたから、梅津さんと出会えたから、今の私があります。 梅津さんありがとう。 これからもよろしくお願いします。」



















2024年10月13日日曜日

山下由美(クレームコンサルタント)   ・クレーム対応は人生のダイヤモンド

 山下由美(クレームコンサルタント)   ・クレーム対応は人生のダイヤモンド

山下さんは昭和30年北海道生まれ。 高校卒業後北海道内の市役所に就職しました。 窓口で初めてクレームの対応をした時は、怖い思いをしたと言います。 そこで山下さんは相手いかける言葉を工夫したところ、不満を持って怒鳴る人が笑顔になるような体験をしました。   山下さんは50歳の時に市役所を退職、その後当時珍しかったクレームコンサルタントの仕事を始め、上京して企業や警察、医療機関などでクレーム対応に悩む人たちの指導を行ってきました。 山下さんは現在は宮崎県にお住まいで、出張やオンラインなどで指導を続けれています。 

今は公務員の方を中心にやりたいと思っていて、いろいろな市役所に呼んでいただいて、仕事をしています。 2年間公務員だけをやってみようと思って去年から始めました。  時代によってクレームの内容が違てきています。(不満の出し方が違う。)  15年前はもっと思いやりがありました。 企業のクレーム対応に比べて、市役所ではサービスするものがないという事です。 最近は一筋縄ではいかない無い人が増えました。 本人の思い道理に解決しないといけない。 ネット社会になって、正しいものもあれば間違っているものもあるので鵜呑みにしてくる人もいます。 カスタマーハラスメントとクレームの違いは、どこでカスタマーハラスメントとジャッジするかです。 線引きをしないといけない。 

18歳で市役所に就職して、最初一か月間インフォーメーションの部署に行きました。  或る時明らかに怒った顔で「てめー、税金で飯食っているくせに、何ボケっとしているんだ。」と怒鳴られました。 どう対応していいのかわからず、ずっと黙っていました。  25歳から心理学を勉強し始めました。  相手の心の中にあるストーリーを想像するという力です。 それが面白かったです。  クレームを言っている市民の方は、頭のなかにどんなストーリーがあるんだろう、どんな思いでここに来たんだろうと考えると、言っていることが 単にクレームに聞こえなくなる。 事柄がこの人にとってどういう事なんだろうと考える事が出来るようになりました。 こちらのかける言葉が違ってきました。 税金が高いと思って怒ってきている人に対しては「税金は高いですか。」と聞いてあげればいいんです。 その人の頭のなかはおかしいと思ってきているので、「おかしいですか。 調べていいですか。」と言って台帳を持ってくることができる。

一番最初の言葉が全てだと思っていて、何かを言った次の瞬間にこちらがかける言葉を兎に角気を付けていました。 どの一言をかけたらこの人は「そうだよ。」というかだけを考えていました。(話はほとんど聞いていなかったです。)  大切なのは内容ではなくて、相手の感情です。 相手に言葉をかけやすくなったのは35歳ぐらいからですね。(10年ぐらいは掛かった。) 笑って帰るようになりました。

両親と4つ下の知的障害の妹がいました。(兄がいたが19歳で亡くなりました。) 妹がいることで差別を受けたことが沢山ありました。  妹は知能的には3歳児ぐらいです。  新しい靴など履いて行っても汚い靴に取り換えられて帰ってきたりしました。 中学2年生の時にやっと親友が出来ました。 親友の妹が妹と一緒だったんです。 或る時に私に向かって「妹が知的障害だったという事を何でいわなかったのか。」と言われて、「妹が同じ学年にいる。 あんたみたいな人と付き合って、馬鹿が移ったらどうしてくれるのよ。」と言われてバシッと叩かれたことがりました。 その時、私の人生に問題なのかという事を始めて知りました。 妹のことに関して一番つらかったです。 父は障害者を別なところに囲って一生社会とは関わらないで幸せに暮らすことを望んでいました。 

私は障害があろうがなかろうが、社会の中で一緒に生きてゆく方が大事だと思いました。  理解されないのは分け隔てして守ろうとしているからだと思いました。 共に暮らしていけばあれが出来ないとか、こういう子なんだと判れば、人間として付き合っていけるんじゃないかと思いました。 一緒に暮らしてゆける社会を作りたいと思いました。 

30歳で結婚して40歳で子供が出来ました。 父がガンで余命いくばくも無い時でした。 まだお腹のなかにいる時に、父が「うつっていなければいいな。」と言いました。 差別を受けるような社会をなくすのが私の仕事だと思いました。  障害があるから受け入れられない、という事が無い学校を作りたかった。 そのためには公務員ではできないと思って止めちゃいました。  300坪の土地は買いました。 2007年にクレームコンサルタントとして独立しました。 東京に2012年に進出しました。 最初はクレームコンサルタントは私一人でした。  日本のクレーム対応はやり過ぎだと思います。 本当にこうしてほしいtピう事を先に言う事が大事です。 そうするとクレームを対応する人が凄く楽です。 

2015年から数年は母親の介護(認知症)で北海道に戻っていました。 在宅介護の大変さを思い知りました。 ストレスを解消すtるためには、笑う事を捜していました。 一番助けになったのは、立川志の輔さんの落語でした。 周りの力添えも沢山あり仕事も始めることが出来ました。  妹は就職もして幸せに暮らしています。 プレイバックシアターをやっていて、言葉にできていない感情を出さなくてはいけない。 相手の心の中にあるストーリーを想像するときに、とても役に立っています。

クレーム対応が好きになると人生が輝きます。  実践してくれて上手くいって、喜んでくれるとこっちも嬉しくなります。  クレームはダイヤモンドの原石だと思っています。  クレームそのものはダイアモンドではないかもしれないが、クレーム対応をして「ありがとう。」と言って帰っていったら、受けたあなたが磨かれる。  若くても歳をとっていても「助けて。」と言えることは凄く大事なことだと思います。 困った時には「助けて。」と人に言ってみてください。 きっと周りの人は助けてくれると私は信じています。














2024年10月12日土曜日

野口緑(大阪大学大学院特任准教授・医学博士)・健康診断のデータをムダにしないために

 野口緑(大阪大学大学院特任准教授・医学博士)・健康診断のデータをムダにしないために

日本人の死因の上位を占める脳卒中や心筋梗塞は、動脈硬化などで血管が痛むことで起こります。 しかし発症するまで自覚症状がほとんどありません。 そんな血管の状態を知る手掛かりが健康診断のデータです。 野口さんは以前自治体の保健師としてメタボリックシンドロームに着目した保健指導で事績を上げ,NHKスペシャルやためしてガッテンなどに出演、スーパー保健師と言われました。 野口さんの保健指導の特徴は血液検査など健康診断のデータから病気の芽を見つけ、生活習慣を見直してもらおうというもので、ポイントは血管を守る事、地元の企業とのタッグを組み、国も注目しました。 どんな取り組みなのかお聞きしました。

保健師は主に予防のこと、健康のことに関わっています。 保健師は今起こっていることから過去にさかのぼって、何故こうなってきたのかという事を分析する、そしてこの先このままいると何が起こってくのかという事を予測する中で、予防的に何を、生活習慣をどう変えて行ったらいいのかという事、どのような医療管理を活用すればいいのかという事をアドバイスする、そういった職種です。 予防の領域の仕事という事になります。 看護師の資格を持っていないと保健師にはなれないです。 

今迄の健康管理の仕方は、臓器ごとに身体を見て、臓器別に病気を診て病気が悪くならないように管理するという、早期発見治療が日本、世界でもそういった健康管理のされ方が中心です。 日本で一番防ぎたい病気は何かというと、脳血管疾患、糖尿病の合併症も血管の病気で、私たちの健康な寿命に影響するのは、血管が痛むか痛まないかというところがカギを握っている。 検診の中から分析をしてアドバイスをするという事をやったり、研究の中ではどういった項目が血管障害に関係するのか、分析、研究しています。 血管を痛める要素は、血圧が高い、血糖が高い、コレステロールが高いと言う様なリスクファクターと言われるものです。 リスクファクターを出来るだけ置いておかない。 リスクファクターの背景にある生活習慣の、リスクファクターを上げるような生活習慣をしないという事です。 

最初、市役所にいた頃は保健所に配置されました。 その後人事部に移って職員の健康管理をするようになって、一番驚いたのは職員は60歳以下の集団であるにも関わらず、倒れ、亡くなられるんです。 健診データを紐解いていって、探っていきました。 リスクファクターの集積という事になります。 当時は過労死と言いう言葉が中心でした。 或る日突然倒れた人たちは、血圧が高い、血糖が高い、中性脂肪が高い、悪玉コレステロールが高い。   顕著に高い訳ではなくて、わずかな異常のまま、5年、10年と続いた後に倒れる、という事が判りました。 この命は予防で出来ると確信しました。 

50代で脳梗塞になった方ですが、40歳から職場の検診が始まります。 血圧が少し高くなってきて(130をちょっと超える程度)、その後中性脂肪が少しづつ上がり、悪玉コレステロールも少し高くなってきている。 このリスクファクターが重なったという事が注目してほしい曲がり角のポイントなんです。  体重が変っていなくても、昔は筋肉だったのが脂肪に変わってきて、脂肪の場所が変って来ます。(お腹周り、内蔵脂肪にどんどんたまり出す。) 備蓄としての機能がありますが、一定以上になると、脳に血圧を上げなさいと命令したりします。 これが今まではわかっていなかった。 皮下脂肪は余り悪さをしない。 余ったものは腸管膜に蓄えられます。  男性は85cm、女性は90cmを越えるとちょっと蓄えすぎです。  血管を傷つけるリスクファクターに関係するものが、内臓脂肪が溜まり過ぎることによって増えてきます。  お腹周りが太ってきたというのも二つ目の重要なところです。 

職場が変わることによって、階段の利用度が違うとか、昼食の取り方が違ったりして、脂肪の付き方が変ったりする。  砂糖が入った飲み物がブドウ糖に変えてくれるので、元気が出るような気がするがお茶に変えただけで、脂肪を落とすことが出来ます。 60歳を越えた方はお砂糖は一日10g(ステックシュガー3本程度)を目安にしてくださいと言っています。  WHOの基準は25gです。 炭酸飲料などは500cc飲むと20~30gあります。  

脳の中にレクチンというホルモンがあって、食べ過ぎないように食欲を制御してくれています。  長く食べ過ぎている生活をしていると、レクチン抵抗性といってきかなくなる。 ダイエットをすると飢餓が襲ってきたと身体が考えてしまう。 もっと食べなさいとしばらくは指令を出してしまう。 ゆっくり痩せた方がいいです。 2006年から個人指導も始めました。(市民)  リスクファクタ―が重なっている、血圧が160を越えている、血糖、ヘモグラビンA1Cが7%超えている、など血管障害を起こしやすい。 

検診結果は大事です。 生活習慣の通信簿みたいなものです。 気になる人は個別にお話しするというやり方をやっていました。  市役所では多い時5人毎年一人ぐらいは心筋梗塞などで亡くなっていましたが、担当するようになってからは出なくなりました。 市民の方も対策前の5年間と比べてその後の5年間と比べて、心筋梗塞の死亡率が3割ぐらい下がりました。  医療費も下がりました。(心筋梗塞になると300万円ぐらいかかる。) 

 企業ともタッグを組みました。 ヘルシー弁当を考えたり、コンビニに検診車を入れて検診を受けられるようにして説明も行ったりしました。 事業者の方たちと健康に良い商品を市民の方が買ったら、ポイントを付与してもらう。 1000ポイント溜まったら1000円分の商品と交換できる。(ポイント事

2008年からメタボ検診が開始されました。 この結果を上手く活用してほしいと思います。数年でどう変わったかというような、変化を是非見て欲しい。 わずかに上げってきているといことは必ず原因があります。





2024年10月3日木曜日

橋本淳(作詞家)             ・亡き筒美さんの曲を後世に残すために

橋本淳(作詞家)             ・亡き筒美さんの曲を後世に残すために 

橋本淳さんは現在85歳、「ブルーシャトー」「亜麻色の髪の乙女」「ブルー・ライト・ヨコハマ」など1960年代、70年代の昭和歌謡を彩る多数のヒット曲を作詞しました。 作曲家の筒美京平さんとは学生時代から付き合いがあって、バンド仲間でした。 二人で多くのヒット曲を飛ばす盟友でもありました。 2020年に亡くなった筒美さんが生前残してある曲を宜しくと譜面を渡されました。 橋本さんは3年前から筒美さんが残した曲の為に良い詩を書きたいと歌詞作りに向き合っています。

私は1939年生まれで、85歳です。 作詞家としておよそ2000曲作る。 杉山先生からブルーコメットのものを作れと言われて、それがヒットしてやり始めることになりました。 京平さんらがバンドを組んでジャズをやっていました。 京平さんは1940年生まれで、2020年10月4日に亡くなりました。(80歳) 京平さんは精神的なことからうつ病ぽくなって、その後誤嚥性肺炎で亡くなってしまいました。  京平さんが僕のところに作品を送ってくれていたものがあって、一曲ぐらいやってみようかなと思ったんですが、40年近くやっていないなかで、一曲CDにしました。 世の中の状況が全然違ってきていました。 配信という事が判らなくて、興味を持って始めました。 手元には12,3曲はあります。 

橋本淳さん作詞のグループサウンズの曲

*「ブルーシャトー」ほか。

京平さんは「スワンの涙」が好きでした。 

橋本淳さん作詞の歌謡曲

*「ブルー・ライト・ヨコハマ」ほか。

横浜のことを作ろうと思ったが、なかなかできませんでした。 夜になってブルーのライトが海に映っていたので、「ブルー・ライト・ヨコハマ」を作りました。 後半部分がなかなかできなくて、歩いて歩いてやっていて、それを取り入れました。 その前に作った曲は全然売れませんでしたが、1週間ぐらい番組で流れだしたら、突然10万枚のバックオーダーが来るようになりました。  京平さんは忙しい時には一晩10曲ぐらい作っていました。(ほとんど寝ていない。)  詩を先に書いて渡していましたが、間に合わなくなってしまって、曲だけ先に作っていました。  

詩人児童文学者与田凖一(1905年 - 1997年は実父です。 高校、大学時代は父親の友人が(檀一雄、梅崎春生、川端康成ほか)僕を呼んで、一緒に過ごすことがありました。意識はしていませんでしたが、そこで自然と学んでいった様な気がします。  作曲家の人とも数人付き合っていました。 京平さんは音楽の大学ではなくて経済学部の卒業でした。 学校の教会で讃美歌を毎日弾いていました。 小学生の時からモーツアルトのピアノコンチェルト弾けると先生が言っていました。 高等部の頃はジャズが好きでした。 物凄く曲を聞いていてそれが身体の中に沁み込んでいると思います。 それを日本人の日常生活にどうやって取り込むかというところですが、京平さんはそこが非常に秀でていたと思います。  曲先で作ると難しい曲ですが、完成すると凄く易しく聞こえる。(筒美マジック) コード進行を一番先に考えるんです。 それが日本人の暮らしに、生活の響きに溶けてくるようなものを考えています。 毎月40~50枚のLPを買っていました。 どう日本化するかという事をいつも考えていました。 日本人の暮らしに合うテンポと響きを京平さんは考えていました。 詩をつけるのも大変でした。 

技術は進歩してゆくが、人間の情感、喜怒哀楽の世界は残してゆきたいと思っています。











2024年10月1日火曜日

宮崎緑(田中一村記念美術館館長)     ・〔わが心の人〕 田中一村

宮崎緑(田中一村記念美術館館長)     ・〔わが心の人〕 田中一村 

田中一村は1908年(明治41年)栃木県生まれ。 幼いころから日本画の才能を発揮し、神童と言われました。 しかし画壇には馴染まず50歳を過ぎてからは奄美大島で暮らします。 そして大島紬の職人として仕事をしながら絵の世界を追求し続けました。 昭和52年(1977年)9月11日亡くなりました。(69歳) 

「ニュースセンター9時」を担当していた時には女性が居ない時代だったので、頑張らなければいけないという思いはありました。 いろいろな思いがありました。 日本で初めての世界遺産の登録をしたのが屋久島と白神のブナの原生林でした。 私は屋久島の担当として屋久島の生態系などを調査しながら、島伝いに辿って行くうちに奄美大島に出会いました。 人情の深さが心を打ちました。 人々は自然と見事に共生しながら生きていました。 すっかり虜になり気が付いたら、情報の発信拠点が出来るので担当してくださいと言われて、平成13年(2001年)から関わりました。 施設全体は「奄美パーク」と言われて、その中に「田中一村記念美術館」があります。

田中一村は1908年(明治41年)栃木県生まれ。 東京、千葉で過ごした後50歳で、すべてをたたんで奄美に移りました。 ここで自分の芸術の最終系を作るんだという事で20年弱奄美で過ごしました。 凛とした生き方に感動を生み、地元の南日本新聞に連載が載りました。 それを見たNHKの日曜美術館が特集を作って放送し、大変な評判を呼びました。(1970年代中頃)  「ニュースセンター9時」を担当していた時で、田中一村を知るきっかけになりました。 

田中一村の父は彫刻家でした。 田中一村は子供の頃、神童と言われました。 東京技術学校(芸大)にストレートで入ります。 同期には東山魁夷加藤栄三橋本明治山田申吾らがいます。 しかし2か月で辞めてしまう。 諸説あるが、大学では学ぶべきことが無いという事で独自の道を歩んだのではないかという見方をする人がいますが、先生と喧嘩して辞めたという人もいます。 自分の道を追求していったようです。 或る時「蕗の薹とメダカの図」という作品を支持者の人に示したところ、誰も賛同してくれませんでした。  自分の信じる道を進み、自分の絵の最終系を追求してゆくんだという事で、独自の道を進み始めたのではないかと思います。 

そのころ千葉に引っ越します。 祖母、姉、妹の面倒を見なければいけなかった。 自給自足の生活をする。 姉が美人で琴の名手で、この姉が最後まで一村を支えます。 鋭い批評家でもあり、一番熱い心で支えてくれた人でもあります。 コンクールに応募してもなかなか受からなかった。 川端龍子主催の青龍展に「白い花」が入選しました。 翌年万を持して「秋晴」と「波」という作品を出したが、思ったように評価してもらえなかった。  その後南の方にスケッチ旅行に出かける。 奄美にも行き、そこで虜になったと思われる。(50歳)   奄美では表現も変わって行った。  景色を描くだけではなくて、精神文化、世界観、宇宙観、人生観みたいなものを込めた絵になっています。 

そして大島紬の職人として染色の仕事していた。 5年働いて60万円貯金して3年間に90%を注ぎ込み、最後の絵を描こうとしていた。(60歳ぐらい)  自分の良心の納得がいくまで描いてゆく。 私は何と評価されても結構です、見せるために描いたのではなくて、良心を納得させるためにやっているんですからと、言っています。 今評価されなくても50年後100年後に評価されればいいと、書いています。 昭和52年(1977年)9月11日亡くなりました。(69歳) 

「不喰芋と蘇鐵(クワズイモとソテツ)」という作品が最も心を惹きつけられます。 輪廻、生命観、宇宙観と言ったものがうかがわれ、深い哲学を感じます。 榕樹に虎みみづく」という作品は、みみづくが一本足で描かれているが、スケッチでは二本足になっている。 鳥が敵を警戒していない、安らいでいる状態の時です。 自然に溶け込んでいる一村さんの目線、絵の奥の方から我々を見つめてい居るような、そんな思いを抱かさせてくれる作品ではないかなと思います。 島の文化を映す鏡みたいなところがあります。 奄美を語るのには一村さん抜きには語れないし、逆も言えます。 孤高の人ではあったが、孤独な人ではなかったと思います。(多くの島の人たちとの交流があった。)

田中一村傑作選





















 

2024年9月27日金曜日

大西優子(おおにしわかさんの母)     ・〔ことばの贈りもの〕 “がんばりパワー!”で世界の人を笑顔に

 大西優子(絵本作家おおにしわかさんの母)     ・〔ことばの贈りもの〕 “がんばりパワー!”で世界の人を笑顔に

2年前に12歳で息を引き取ったおおにしわかさんの母、大西優子さんのお話です。  大西(42歳)さんは岡山県倉敷市生まれ。(現在東京住まい。) 結婚後二人のお子さんに恵まれました。  長女のわかさんが4歳の時に小児がんと診断されます。 入退院を繰り返していたわかさんはお絵描きや工作が大好きで、夢は絵本作家になる事でした。 大西さんはわかさんが病気と向き合った体験をもとに描いた、絵本「ビーズのおともだち」を出版社に持ち込みます。 プロの協力を得て絵本が完成し、2年前わかさんの12歳の誕生日に出版されました。 わかさんは夢だった絵本作家デビューを果たしました。 その数か月後にわかさんは息を引き取ります。 絵本作家になったわかさんのさらなる願いは、世界中の人を自分の絵本で笑顔にすることでした。 そこで母親の大西さんは絵本の英語の翻訳に取り組み、今年4月から英語版が一般に販売されています。 わかさんが絵本の中に残した言葉「頑張りパワー」を心の支えに、絵本の紹介を続ける大西優子さんの思いを伺いました。

絵本「ビーズのおともだち」表紙がとってもかわいいです。 日本語版は城をベースにピンク色の服を着た可愛い女の子が外を見ている絵が描かれています。 英語版はタイトルが「My Precious Beads」。 日本語版の表紙の絵はプロのイラストレーターが描いた絵で、英語版はわかが描いた絵です。 私とわかにとってとっても思い出のある絵です。 わかは「フーリン(Foorin)楽団」というグループのメンバーでした。 2020年とその先の未来に向かって頑張っているすべての人を応援するNHK2020応援ソングプロジェクトの為に結成された「フーリン」と「パプリカ」を踊っていました。 「フーリン(Foorin)楽団」はフーリンの5人と病気や障害のある子どもたち10人の15人のメンバーで、小児がんと向き合うなかでもわかにしかできない経験をさせて貰えて、サポートをいただけてとってもありがたかったです。 新型コロナウイルスにより風鈴楽団」はパフォーマンスを持てないまま、2021年秋に解散が決まりました。 それで次の目標として絵本を作るという事になりました。

小学校に入学したころから夢は絵本作家になる事でした。 最初は折り紙を絵本の様に小さくたたんで絵を描いていました。 タブレットを扱えるようになって、動画になってわかの声もはいったりして、成長を感じる楽しい時間でした。 原作は治療を頑張ってもらった宝物のビーズが・・・(声を詰まらせ泣き出す。) 妖精さんになったらすてきね、という会話から生まれました。  がんの医療を受ける子供達が治療を受けるたびに貰えるビーズです。 カラフルなビーズは手術、点滴、検査などを表わしていて、そのたびに受け取ります。 子供たちに勇気を与えてくれる存在になります。 このビーズが絵本のなかでは妖精に変身します。  名前、衣装などわかのこだわりが込められています。 

わかの絵本の夢を叶えてやりたい私は、出版社に相談することにしました。(2021年秋) 完成が2022年4月、わかの誕生日でした。 わかの笑顔が見たい、と言う事が原動力でした。  わかの原作を元にプロの作家さん、イラストレーターさんに協力してもらいました。 わかが納得いくまで一緒に進めました。 

絵本「ビーズのおともだち」

「シトシトシト ザーザーザー 雨が強くなってきました。 ベッドにいる私の心も雨が降っているみたい。 一人ぼっちでさみしいなあ。 ここは病院です。 治療に検査、毎日頑張ることがいろいろあります。 でもそのたびに一つ ビーズを貰えるのがとっても嬉しい。 はい、今日はこれだよ。 お姉さんんがビーズを呉れました。  わーきれい 有難う  ・・・ 貰ったのは虹色のビーズ。 ・・・虹色のビーズは蝶々みたいな形に変わったと思うと元気な声で言いました。 「はじめまして 私はビーズの妖精レイです。」・・・レイちゃんはこんな言葉を唱えました。「頑張りパワー」 レイちゃんは「私ここに住みたーい」と言いました。 ・・・「大丈夫、明日もうまくいくよ」と言ってくれました。  次の日も雨、レイちゃんの励ましで頑張ることが出来て、二つ目のビーズを貰いました。  今日は星のビーズだよ。 ・・・ビーズは冠を付けた星の妖精になりました。 「はじめまして キラです。」 ・・・「頑張りパワー」キラちゃんがその言葉を唱えると星の世界は宇宙図書館。・・・キラちゃんの優しい声に皆ウットリです。 次に貰ったビーズは白いビーズでした。 ・・。「僕はてんてんてんくんです。」・・・僕たちはコツコツと頑張るのが好き。  「頑張りパワー」・・・積み木を本物のお家にしてしまいました。 妖精の仲間みんなで住めるよ。・・・ 一人だったベッドに秘密基地が出来ちゃった。一つ思い出しました。 コツコツ頑張るとは時々お母さんが言っている言葉です。・・・私はみんなに約束しました。 笑顔で元気にコツコツと「頑張りパワー」そういった時でした。  窓の外に大きな虹がかかっていました。 ・・・みんなのお陰でずーっと頑張れそうです。」

私の生まれは岡山県倉敷市です。 小さいころは泥団子を作るのが好きで夢中で作っていました。 リスを飼っていました。(多い時には12匹) ひまわりを育てて種をリスに食べさせるとがとっても楽しい時間でした。 大切にしていることは夢を見るという事です。  人とのご縁を大切にしています。  私の見た夢を叶えるのは周り人のご縁のお陰だなと思えることが沢山あるからです。  絵本を通じていろいろな出会いを体験して、その出会いを大切にしていきたいです。  今年6月に開催された第16回国際小児がん学会アジア大会があり、そこで絵本を紹介しました。 「世界中の人を笑顔に」の夢を叶えることができると感じて、とっても嬉しかったです。 

ある作家さんからいただいた言葉で「わかちやんは作家さんなので、これからも沢山の人と出会い、人の心の中を生き続けるのだと思います。」と言っていただきました。 わかがお空から見守っていてくれるから、私も頑張ろうと思って生きています。 今も一緒にここにいてくれるんじゃないかと、強く感じるんです。 私が絵本「ビーズのおともだち」をみんなに知ってもらう活動を続けることは、わかが絵本作家として、沢山の人と出会い人の心の中を生き続け、世界中の人を笑顔にすることができると感じています。 わかは辛いことが沢山あったのに、そんなことを感じさせないぐらい明るくて、笑顔で私に幸せを与えてくれました。 わかのことをこうしてお話が出来て、繋がりが出来ている快感があると、嬉しいです。 

「ビーズのおともだち」のステージや、絵本展などを開催して、皆のところに会いに行く機会を作っていきたいです。  わかの貴重な経験を道徳の教科書や沢山の人が読めるように、乗せて欲しいなあとおう願いがあります。 小児がんと診断される子が日本では2000~2300人ぐらいと言われています。 他にも沢山の障害の人がいると思います。  わかの経験をみんなが共有できれば、本人、家族、周りの人の経験知?になれるのではないかと思います。 














2024年9月23日月曜日

2024年9月21日土曜日

一瀬諭(元特命研究員)          ・びわ湖のプランクトンが語るもの

 一瀬諭(元特命研究員)          ・びわ湖のプランクトンが語るもの

関西の水がめにして、日本最大の湖「琵琶湖」に生息するプランクトンの研究をほぼ半世紀にわたって続けているのが滋賀県琵琶湖環境科学研究センター元特命研究員で工学博士の一瀬諭さんです。 一瀬さんは昭和27年福井県高浜町生まれの71歳。 その研究の始まりは1977年(昭和52年)当時琵琶湖では大規模な赤潮が発生して社会問題化していました。  その年の春人事異動で当時の滋賀県立衛生環境センターの勤務となったことから、琵琶湖のプランクトンの調査をスタート、以来半世紀弱に渡ってこの道を極め、現在は工学博士としてプランクトンを研究するとともに、国内外での環境教育にも尽力しています。 普段私たちが意識する事のないプランクトンの世界、そこから一瀬さんが何を読み取り、何を伝えたいと考えているのかお話を伺いました。

プランクトンは顕微鏡でしか見えないものという印象がありますが、実はクラゲなどもプランクトンです。 水に漂って生きている浮遊生物という事で一番でかいのがクラゲです。 琵琶湖ではノロミジンコというミジンコがいます。 肉眼でも見えます。 大きいものは1cm近くになります。  透明で肉食性のミジンコです。 琵琶湖には植物プランクトンは600種ぐらい、動物プランクトンは300種類ぐらいいます。 ダム湖などは5~10種類ぐらいしかいないところが結構あります。 琵琶湖は浅いところから深いところまであり、いろんな環境があり、川からなあれてくるものもあるので、種類が多いです。

赤潮が発生したころは、高度経済成長期で川からいろんな汚れた水が流れ込んで出来ていたので、冨栄養化が急激に進んだ時期です。 赤潮が異常発生しました。(1977年ごろ)ちょどその頃に移動してきました。  赤潮の発生メカニズム、どんな生き物か、水温、水質など全くわからない時代でした。  職場に向かう時に毎日水をサンプリングして、自分の興味でノートにつけていました。  ウログレナという赤潮が出始めていつごろ一番ピークに達して、いつ頃ごろ無くなるかというのを日記的に付けて行ったのがスタートでした。  生臭い臭いを発生して、水道の水が生臭くなり、京都、大阪も困っていました。  その内容が電子データ化されるようになりました。  赤潮の研究をやっていたのでそのころは植物プランクトンだけでした。  動物プランクトンも必要ではないかという事で20年前ぐらいから動物プランクトンも入れています。 動物プランクトンでは第一優先種はワムシ類で1リットル中に120個で、第二優先種が甲殻類でノープリウス幼生(ケンミジンコの赤ちゃん)で1リットル中に100個ぐらい。 春夏秋冬でいろいろ変わって来ます。 

プランクトンを数える計数板があり1000マスに区切ってあります。 マスを順番に見て行って1ccの中に何個あるか、判るわけです。  小さなものは100マス数えて10倍するとか、2マス飛ばしにするとか、マニュアルが出来ています。 判らない種類は顕微鏡で写真を撮って京都大学の有名な先生のところに行って教えてもらいました。 「継続は力なり」と言いますが、ずっとやっていると見えないところのものが見えてきるようになってきます。 辞めたいと思うような時期も最初の10年ぐらいの時にはありました。 絶滅危惧種を見つけたり、新種を見つけたり、続けていかなければいけないというようなポジションになったりして、気が付いたら50年という感じです。 

絶滅危惧種にビワツボカムリというのがあります。 すでに絶滅した可能性があります。 有殻アメーバと言って殻を砂粒でセメントで固めて自分の殻を作ってしまう。 砂粒がなくなって来ると、殻が作れなくなってしまう。 琵琶湖の底の環境が変わってしまったと思われる。 プランクトンのカレンダーを作っています。 今迄と違うプランクトンの動きがあると水質の変化、プランクトン数の変化をデータベースで自動的に見出だしている。    昔に比べるとプランクトンの種類、量も減ってきています。   水が綺麗になるという事とプランクトンの量が減るという事は同じことで、長い目で見ると綺麗になってきています。 魚介類もとれなくなってきていて、プランクトンが少なくなると餌も少なくなってくる。 難しい問題をはらんでいます。 

プランクトンの量で考えるのではなく、質的なことも考えないといけない。 緑藻類から藍藻類が増えています。 プランクトンは目に見えない有機物をもっているんです。 その量も昔と今とでは大きく違います。 そのことを発見しました。 昔に比べて難分解性の有機物が残ってしまう。  突き詰めてゆくと琵琶湖の中で増えているプランクトンの質の変化が大きく影響しているという仮説を立てて論文を書きました。 猛暑になったりしてくると、暑いところを好む藍藻類、シアノバクテリアなどが優先しやすくなる。 あおこの発生が有ったりして、毒性が有ったりカビ臭があったり、障害として出てくる。 あおこの発生で光が届かなくなり、表面にいるプランクトンだけが増えて下の方のプランクトンが増えられない。 藍藻類が増えるという事は良くない。 

地球上では毎年4万種類が絶滅していると言われる。 多様性が失われてきている。 生物が生きてゆくための環境多様性がある。 種の遺伝子の多様性があります。 そういったもので生態系が成り立っているので、判ってもらう必要があります。 生態系の勉強について外国に行ったり、子供たちへの対応も行っています。 是非動いているプランクトンを観て欲しいと思います。





2024年9月20日金曜日

富山英明(日本レスリング協会会長)    ・夢は生み出すもの

富山英明(日本レスリング協会会長)    ・夢は生み出すもの 

富山さんは1957年茨城県生まれ。 1978、79年と世界選手権を連覇し、1980年のモスクワオリンピックでは金メダルは間違いなしと言われていました。 日本が不参加を表明したために幻の代表となりました。 4年後のロサンゼルスオリンピックで金m樽を獲得しています。 現役を引退した後はオリンピックのコート、監督として後進を指導し、現在は日本レスリング協会会長となります。 

現役のころは57kg級、今の体重は64kgぐらいです。 パリオリンピックに目標は金メダルが6個という高い目標でしたが、結果は8個の金メダルでした。 実力が大事ですが、オリンピックは実力だけではない何かがありますね。  悔いのない試合をしなさいと言っています。  少年少女レスリング大会がり、第40回になり1000人近く参加しました。   高校ではレスリング部は、我々の時代には320ぐらいでしたが、今は250~260ぐらいです。

「夢を喰らう」という富山英明さんの生き様を追ったドキュメンタリー映画。 勇気づけられるという反響がありました。 藤森圭太郎さんが監督。 8年間を追った。 中学2年でレスリングをやらないかと声を掛けられました。 日記に夢を書いていって、縁があって出版してその本を藤森さんがみて、お会いしたいという事で。結局映画になりました。 10月12日から東中野で上映が決まっています。(新宿ではすでに上映した。)  

子供の頃は自然のなかでいろいろ遊んでいました。 兄が柔道をやっていたので始めましたが、身体が小さいのでなかなか勝てるチャンスがありませんでした。 先生から声を掛けられて、レスリングを始めました。 試合に出て初めて優勝しました。 高校で寮に入って、練習は半端ではなかったです。 人一倍早起きをして取り組みました。 日本大学に入学、1978年(20歳)から全日本選手権を7連覇しました。 当時は全日本チャンピオンは世界チャンピオンでした。(52,57kg級)  世界選手権でも78年、79年と金メダルを獲得しました。 モスクワオリンピックが世界の頂点を目指すところでした。 におhン政府がボイコットを発表。 いっときはどうしようかと思いました。 スイッチを切り替えてロサンゼルスを目指し、金メダルを獲得しました。(26歳)   スタミナ、スピード、瞬発力、集中力というか精神的なものがあります。 

金メダルを取ったことは夢ではなかったと、一晩過ごして朝に実感しました。 自叙伝の表紙になっているのが金メダルを口にくわえて居る写真です。(その後よく見る光景となる。) 金メダルを取ったというのは瞬間だけですね。 直ぐ日常のトレーニングになります。  ロサンゼルスで金メダルを取ってやっと終わったと思いました。 アメリカに留学してコーチ学を1年間学びました。  帰国後1988年ソウルオリンピック1992年バルセロナオリンピック代表のコーチを担当、2004年アテネオリンピック2008年北京オリンピックでは監督を務めました。 道場に入るとスイッチが入って、身体に芯が出来ると言った感じです。 2:2:6の法則があると言われますが、なにも言わなくても2割はやるが、何言ってもやらないのが2割で、6割をどっちに持っていくかでその組織は動くとよく言われる。 6割をどういう風に持っていくかで勝ったり負けたりする。 

これからの指導者は心理学を勉強したり、いろいろ経験したり、いろいろあると思います。 オリンピックに12回関係していますが、観客として観たのが今回のオリンピックが初めてです。 8回も君が代を歌ったのは初めてです。 いろんな人たちと知り合いになってそれが財産になります。 母親からは「稲穂だよ。」と言われます。(頭を垂れなさい。)   「会長になってもみんなの力なんだからね。」と言われました。 謙虚で居なさいと言われます。  現役の選手には「勝っても天狗になるな。」とは言います。 勝つのは一瞬で、現役が終わった後は長いから、きちっと謙虚にやらないと人生楽しくないよ。」と言っています。 いろいろな人にお世話になって、恩を返してゆくという事を思っています。 形あるものを残したいと思います。  2028年ロスアンゼルスオリンピックで、70歳になりその後が全て終わると思います。(会長職、大学など)














 

2024年9月19日木曜日

岡本 信人(俳優)             ・〔わたし終いの極意〕 人生は野草のように

 岡本 信人(俳優)             ・〔わたし終いの極意〕 人生は野草のように

岡本さんは山口県生まれの76歳。 14歳の時にNHKの連続ドラマ「あすをつげる鐘少年福沢諭吉」で子役デビューしました。 以来、「肝っ玉かあさん」や「渡る世間は鬼ばかり」など民放のホームドラマで活躍、NHKの大河ドイラマ「鎌倉殿の13人」では源頼朝を支えた重鎮の一人、 千葉常胤を演じて人気を集めました。 岡本さんはまた野草の人としても知られ、野草の観察や調理に関する本も出版しています。

千葉常胤は勇猛な坂東武者ですが、決して野心家ではなくて堅実で土の匂いのする武将だと感じました。 演じる上で意識したのが無骨さと誠実さです。 千葉常胤のオファーが来た時には当時は73歳でした。 そろそろ終活しようかなと思った時期でした。 野草の観察と同時に一日5000歩から8000歩のウオーキングをしています。 発声練習もして生活も規則正しくしています。 20代から体形、体重は変わらないです。 

父親がシベリア抑留されて、肺結核を患ってその治療のために色々な市に移り住みました。 そこで私は野生児になりました。 母は野草を摘んで、食卓には野草が並びました。 一緒に摘んだりしたのが野草の原点となりました。 萩市には小学校3年から6年まで居ました。 人生の中で一番楽しかった場所では無いかと思います。 その後父の仕事の関係で東京に引っ越しました。 自然の全くない環境でした。  友達も出来なくて、父が心配して児童劇団に応募し、合格しました。  「あすをつげる鐘少年福沢諭吉」で福沢諭吉の友達として子役デビューしました。(14歳)   大学に行きながら出演している時に父が「もう芝居を辞めて建築の勉強に専念するように。」と言われたのですが、「肝っ玉母さん」が終わったらやめると言ったんですが、次々とホームドラマに出演して、そのままになってしまいました。 

石井ふく子先生との出会いが、僕の俳優人生を決めたと言ってもいいです。 出会って後から「肝っ玉母さん」の出前の健ちゃんに決まったと言われました。 そこから俳優の道が開けていきました。  ホームドラマなので身のまわりにいそうだなという風に受け取ってっもらえればいいかなと思います。  先生と一緒に野草を摘んで、先生のお宅で料理をして食べました。 先生は野草を食べたこともあるので美味しかったと言っていただきました。 ハコベの炒め物が一番おいしかったと言っていました。 

20代の前半に一人暮らしを始めた頃に、多摩川の土手でつくしの群生を観ました。 よみがえって摘んで炒めて食べたらまずかった。(あく抜きをしなかった。) 以後図鑑で調べるようになりました。 食べられる野草が一杯あり、レパートリーを広げていきました。  出版社の人の耳に入って本になって、テレビからも声がかかって、野草を食べる人、雑草を食うおじさんという事で一気に知られるようになりました。 野草は知れば知るほど奥が深いんです。 過酷な環境でも懸命に生きてゆく逞しさに生きることを教えられます。  野草はド根性です。 

9月の後半になると、つゆ草、ゆきのした、いぬびゆ、すべりひゆ、たんぽぽ、おおばこ、10月になるとむかごなどです。 料理法としては天ぷらが一番ポピュラーです。 よもぎ、ゆきのしたは天ぷらにいいですね。  ドクダミも天ぷらにすると匂いが80%オフになります。 すべりひゆはアクが強いので、アクだしをした後で一晩水に浸けておくと、水が真っ赤になります。 油で炒めて味噌と一緒に食べるとつまみになります。 つくしはハカマを取ってアクぬきをして煮て卵でとじて一緒に食べるとおいしいです。 私はヨモギが好きです。 天ぷら、草餅にするのもいいです。 

歩きながらセリフを覚えながら、野草を観察し、声を出したり忙しいです。 野草の様に精一杯生きた後に、潔く枯れて自然に帰るというのがいいなと思っています。 〔わたし終いの極意〕としては野草の様(野草の精神で)にという事です。













2024年9月18日水曜日

青木 功(プロゴルファー)         ・ 〔スポーツ明日への伝言〕 なぜ私は世界を目指したのか

青木 功(プロゴルファー)    ・ 〔スポーツ明日への伝言〕 なぜ私は世界を目指したのか

青木 功さんは日本のプロゴルフ界の第一人者であり、1983年のハワイアンオープンで日本人として初めてのアメリカPGAツアーで優勝するなど世界の青木として海外でも活躍し、2004年には日本人男子ゴルファーとして初めて世界ゴルフ殿堂入りを果たしています。 今年8月31日に82歳になった青木さんは、プロテスト合格が1964年(昭和39年)で、プロゴルファー生活も60年になりました。 

東京オリンピックの年にプロになりました。 松山選手の銅メダルですが、当人としては常に日本代表という事は頭にあったと思います。 2021にやった時に、負けた悔しさ、国を背負ってという事は並大抵のものではないと思います。 私は1973年にワールドカップに中村通君と行って、1983年ぐらいにジャンボとベネズエラに行って、中村通君とはスペインに行きましたが、日本代表というのは凄く重いですよ。

1962年にプロテストを受けましたが、落ちてしまいました。 1964年の2月に一次予選、3月に二次予選、4月に予選、5月に本番でした。 日本海外合わせて85勝。 初優勝に7年掛かっています。(30歳)  研修生の時には1万5000円の給料でした。 プロになると3万5000円になり、楽に暮らせるようになり、練習もしないで4年ぐらい遊んで暮らしていました。 先輩から言われてトレーニングをするようになりました。  1983年の日本オープンで優勝。   フックボールをスライスに直すためにたまたま零下3℃ぐらいで、雨も降ってきてそのなかを4,5時間ぶっ通しやってそれで直しました。(その日に直さないと直らないと思っていました。)  ご飯を食べる時に手が開かなくなりました。 

1976年賞金王、4年連続賞金王、そのころから海外に出かける。 1978年、「世界マッチプレー選手権」で海外ツアー初優勝。1980年全米オープン2位。4日間「帝王」ジャック・ニクラスとラウンドし、死闘を繰り広げた。1983年ハワイアン・オープンで、日本人初の米国PGAツアー優勝。84年オーストラリアで優勝。 当時はお金を稼ぐのには日本が一番大きかった。 海外の人がどのようにゴルフをやっているのか、好奇心がありました。 

その間に結婚をして妻が英語が出来たので助かりました。 アメリカに行った時には一か月半ぐらいで5試合ぐらいやりますが、4試合連続で落ちた時もありました。 ピザ屋でしか食事をしないこともありました。  最後に予選を通過した時には優勝したみたいな気分になりました。  アメリカでは簡単にはゴルフを受け付けてくれない。 

英語は余り出来ないのでコミュニケーションを取るのが大変でした。 1995年シニアのメジャータイトルをかけて再度ジャック・ニクラスとプレーオフまで行って、2位になりました。 ジャック・ニクラスと7,8回プレーしましたが、一回も勝てなかった。         

南アフリカに行きました。 当時アパルトヘイトの人種隔離政策があって、日本政府は渡航、文化交流も禁止の時代でした。 当時の外務大臣の安倍晋三さんからはビザは出せないと言われましたが、でも先生に「スポーツには国境があるんですか」と聞きました。 しばらく考ええて「そういえばないな」と言って、貰う事が出来て出かけました。(妻と娘も一緒に行きました。)  言ってよかったと思います。 その翌年アパルトヘイトは解除になりました。 

グレッグ・ノーマンと会った時に「功も俺もビジターだな。」と言ってくれました。 お互いが訪問客だなといって、一生懸命やろうということで一緒に回りました。 その後84年にアパルトヘイトに行った時に、功と妻と娘が住めなくなったら住まわせてやろうと言って、自分の棟の隣の家を買ってそこに住まわそうとして、我々の為に買ってくれたんです。(解除になったので家は売却したそうです。) 彼とは親友です。

海外では初めてのコースなので、芝をつまんだりいろいろやっています。 自分が苦しんでいるのなら、他の人はもっと苦しんでいるはずだと思った時に気が楽になりました。 行ってはいけない方向に行ってしまうのは、よけようとするから行ってしまう。 もう一寸飛ばそうと思うと、余分な力が入って身体が開いたり手がぶれたりします。 練習をやって如何にに自信を持つか。 プロになるのが遅かったので、5年を追いつくには人が寝ている時にやりました。  歌とゴルフはいくつになってもできると思います。 やれるうちはやりたい。














2024年9月17日火曜日

廣橋猛(がん診療支援・緩和ケアセンター長)・緩和ケア医が、がん患者になってわかったこと

 廣橋猛(がん診療支援・緩和ケアセンター長)・緩和ケア医が、がん患者になってわかったこと

東京上野にある永寿総合病院がん診療支援・緩和ケアセンター長の医師廣橋猛さんは47歳。  がんのケア医として長年がん患者に寄り添っています。 しかし去年自らが甲状腺がんと診断され、手術で甲状腺と周辺のリンパ節を除去しました。 自分ががんになる前は医師の立場でしか判断できなかったことが、患者の立場になって初めて気付いたことが数多くあったと言います。 「がん緩和ケア医がガンになって初めてわかったこと」と題してお話を伺いました。

体調は回復してきました。 自分はがんにはならないだろうという変な思い込みがありましたので、ショックでした。  父は病理学、がん細胞を顕微鏡で見て診断する医師でした。  祖父も医師でした。 東海大学の医学部を卒業後、最初は内科の医師になろうと思いました。 内科医としてがん患者さんに多くかかわって来ました。  辛さをやわらげることに遣り甲斐というか、緩和ケアのことを勉強したいと思いました。  結局どっぷりはまることになりました。  患者さんの人生の過ごし方、特に終わりに近い時の過ごし方を、一緒に相談に乗って人生を一緒に考えることができるという部分に魅力を感じました。    痛み、辛さを取るのには薬だけではなくて、過ごし方、希望を叶えることが患者さんを和らげるのに、非常に意味があるという事を学びました。  一生付き合っていかなければいけない病気になった時に、気持ちを穏やかに過ごす事、過ごしたいように過ごすとか、自分で人生を選べるとか、そういったことが大事だと思います。 先生と話して元気になりましたと言われると自分も嬉しいです。 パワーを与えられるような診療をしたいと思っています。  

甲状腺は喉のところに右葉,左葉と別れていて、そこを繋ぐ橋部があって、私の場合は、その3つの臓器にがん細胞が認められました。  後で判ったことですが、人よりもちょっと首が晴れているのではないかと言う事と、体重がやや落ち気味でした。 手術後には大きな声が出せないとか、ちょっと声の質が違うという感じはありました。(特に退院直後)   或るタイミングの時を見計らって、周りの医師などには説明しました。(診断後1か月後) 妻は元看護士でしたが、妻も聞いてショックだったと思います。  私自身、がんに対する知識があるので、合併症とかいろいろなことがあるので、遺書を書いておこうと思いました。 胃がんと肺がんではまるで違う病気です。 がんが転移してゆく事は特徴としては一緒ですが、がんはみんな違う特徴があります。 自分自身のがんの特徴をしっかり踏まえて向き合うことが大事だと思います。 

相性の合う先生と出会えるかという事も大事です。(話を聞いてもらえる。)  SNSでがんのことを公表しました。  緩和ケア医だからこそ気付けることがあると思いました。 親近感を持てる先生だと皆さんが感じてくれて、認めて貰えるきっかけになったかもしれません。  逆に励まされることにもなりました。  同じ病気の方から言われると、こちらも救われます。 患者さんの辛い事、困りごとを直ぐ医療者には言えないことは当たり前だなと思いました。 手術後の痛みについて、忙しさが判るのでつい我慢してしまう事がありました。 医療者に言う時には、その前に我慢している長い時間があるんです。(医師はその時点からと思ってしまう。) 痛み止めも効いて来るのには時間もかかります。 

がん患者に対して周りが良かれと思って、いろんな怪しい情報も持ち込んできます。   患者さんは正しい情報をしっかり身に付けるという事も大事です。 がんになってしまうと再発などつい色々なことを考えてしまうが、一人の人間として、日常生活、仕事、趣味、楽しいことをがん患者ではない人と同じように、時間を使って欲しいと思います。 緩和ケアは死が近い人が受けるケアで、がん治療をしている人は、まだ早いと思っている方がいると思いますが、それは間違いで、辛さを和らげる治療でがん治療をしながら緩和ケアを一緒に受けて、辛さを和らげて治療がうまくいくように進んでほしい。  

こんなことは自分には起こらないだろうという事、予想外の出来事は人間は必ず体験する。  がんになって悪い事はあるが、学ぶ事もあります。 自分の人生の有限性を踏まえて、これからの人生の歩み方を決めるきっかけになったのかなあと自分は思っています。 後でいいやとは思わなくなりました。 忙しい中でも周りに言って、富士山キャンプをしました。 病気の前はフルパワーでやって来ましたが、体力的に以前ほど続かなくなったという事はあり、休みを取らないと後々響くという事を実感しました。  自分の人生の有限性を踏まえ、自分のやりたいことを成し遂げるという方向にシフトしました。 患者さんの気持ちをより同じ立場でわかる医師でありたいとは思います。 緩和ケアの仕事をより深めていきたい。  胃がん、肺がんなどは5年経てば再発の可能性は少ないと言われていますが、甲状腺がんは20年間は心配なところがあります。 ついもしかして、というような思いがあり、それは死ぬまで拭い去れないと思います。  ですから一生がん患者なんです。  それを受け入れた中で、一生歩んで行こうという覚悟は持っています。 











 









2024年9月14日土曜日

中野珠実(大阪大学大学院教授)      ・人はなぜ自分の顔が気になるのか ~顔の科学で分かること~

 中野珠実(大阪大学大学院教授)      ・人はなぜ自分の顔が気になるのか ~顔の科学で分かること~

 中野珠実さんはひとが顔を認識する仕組みや心の発達について研究している認知神経科学者です。 人が自分の顔を特別だと思う脳の働きを発見したと言うと、身近に感じられるのではないでしょうか。 スマホやSNSが登場し、人がより自分の顔にとらわれる様になったと中野さんは言います。 自分の顔は何故特別なのかをお聞きした。 

人間がどういう仕組みでものを見たり考えたりするのかという事を、脳の活動を測ったり、行動を調べたりして研究しています。 それを認知神経科学と言ったりします。 顔は非常にたくさんの情報を含んでいます。 社会的な情報も含んでいます。 意図、感情、人間関係にも関係するところでもあります。 最初は瞬きから研究を始めました。 3秒に一回瞬きする。  起きて居る時間の約1割の時間は真っ暗な状態になっています。 それを脳の中で補填して、真っ暗になっていることを気付かないようになっている。 視覚情報を1割失っている状態になっているんです。 何かの情報の切れ目に人々の瞬きのタイミングが揃って起きているという事を発見しました。(映画を観ていて、主人公の動作が終わった瞬間とか)  瞬きは認知処理、情報処理を円滑化するためにしているのではなかという事が、研究してきた一つです。 

視覚情報は常に目を通して目の中に入って来る。 私たちはそれを分割して記憶してゆくわけです。 瞬きを使って句読点をつけることによって、脳のなかで整理しているのではないかと、言う事です。 起、承、転、結が明確な映画ほど同期しやすい。 瞬きはコミュニケーションとも関係していて、話し手の瞬きに聞き手が揃ってくるんです。(興味がある時だけ) 瞬きが表しているのが「間」です。  犬や猫も飼い主の瞬きに合わせて、引き込まれてしています。(逆もあり)  

SNSで加工した顔が出ていて不思議だなと思いました。  アプリを使って、それを自分でもやってみました。 若返った顔を送ったら、反応はなく喜んでいるのは自分だけだと思いました。 自己を捉えて言うというのも面白いと思って研究を始めました。  今は自分で自分の顔を見るようになってきた時に、自分の意識に自己像が入り込んできてしまっていると思います。 社会的な自己がこうあるんだという意識が高まってきてしまっているのかなと思います。  人間は目が特別に進化していると思います。 木の上で生活している猿は目が真ん丸です。 地上に降りて来た類人猿、猿は目が横長になって行きます。 人間は特に横長になっている。  地上に降りって来ると水平方向を広く見渡す必要がある。 人間は横に大きく動かせるようになってきている。 白目を持つのは人間だけで、どこを見てるのかが判りやすくなった。 意図が判ってしまうので危険な面があるが、サルなどの動物は茶色い色素がありどこを見てるのかわかりにくくなっている。 人間は他者と理解して、意図、注意を共有して一緒に共同作業をする方向に変わって行った。  他人の目を見ることによって、他人が何を考えているのかが判る様になり、コミュニケーションするように顔が変って行きました。 

眉毛も変わったと言われる。 原始人は眉毛を動かせられなかったと言われている。 おでこが引っ込んで眉毛が動かせるようになった。 自分の感情状態を伝えるようになっている。 ドラマでも9割方登場人物の顔を見ていて、目を6割、口を2割観ていると言われる。 自己の顔認識は今迄とは別段階に進化してきている感じです。 

卒業アルバムなどでも、自分の顔は素早く見つけることができる。 自分の顔、名前、自分に関連した情報は素早く見つけて素早く記憶すると言われている。(自己優先バイアス)   自己優先バイアスが脳の中でどういう仕組みで起きているのかという事を調べてきました。 自己優先バイアスは無意識の中でも起きている。  潜在レベルでの脳の働きを調べました。  サブリミナミル刺激といって、派手な刺激の間に自分の顔などを25m秒とかにパッと差し込む。 提示されている事には気付かない。 ただ脳の中には確実に刺激が入っていて、顔の情報として処理されている。  自分の顔に対してはドーパミン報酬系と呼ばれる、ドーパミンが関連する腹側被蓋野(ふくそくひがいや)と呼ばれる部署が活動していることが判りました。 自分の顔が提示されると、腹側被蓋野でドーパミンが生成されていて、脳のいろんな領域に分泌されます。 特に前頭葉などでは重要な情報だと思って、より注意を向けなさいとか、情報処理を促進させるような働きます。 自分の情報を積極的に集めているからだと思います。 自分の情報は多いに越したことはない。(自分の生存のため)  自分が今どういう状態だから、どういう選択、行動が必要だとか、基盤となるものです。 

自分の顔に加工を加えると魅力的だと思っている。 綺麗になった他人を見ている時にはドーパミンは出ていないです。 自分の顔に強い加工を加えるたいときにはドーパミン報酬系が働いています。  ドーパミンが脳の特異な一部に働くと、もっともっと加工を加えたくなる。 MRIで脳の形を取っておいて、顔写真を見ながらfMRIで脳血流を計測する。 合わせ込むと脳のどこが活動しているのか判る。 若い人の間では、他人の加工された綺麗な顔ばっかり見ていると、自分との差を感じて、外に出たくないとか、引きこもりになるとか、そういった現象にも繋がってきているのではないかと言われている。

不気味に加工された写真を見ると不気味に思ったりするが偏桃体に働き、偏桃体は不安、恐怖と言ったネガティブな感情と直結している場所で、やり過ぎると他者にいい印象を持たれない。 リアルと仮想空間で、私たちの顔の存在、意義が大きく変わってきてしまうと思います。 その人の素顔が見たいというのが、人間の本音の部分ではないかと思います。

















2024年9月12日木曜日

本間生夫(医師・呼吸生理学者)     ・わが人生は、呼吸の研究

 本間生夫(医師・呼吸生理学者)     ・わが人生は、呼吸の研究

本間生夫さんは長く呼吸の研究に取り組んできました。 人間の呼吸は呼吸筋という筋肉で行われ、脳と同様に生きている限り睡眠中も休まずに働き続けます。 一日におよそ2万回、50年で36億回と寿命が延びればとて血もない回数をこなします。 呼吸筋という印肉はどのような筋肉なのか、無意識に行っている呼吸から現在どのような事が判っているのか、「わが人生は、呼吸の研究」、本間生夫さんにお話を伺いました。 

呼吸の研究を始めてから50年以上になります。 当時日本ではあまりいませんでした。 スウェーデンに留学して、帰ってきて日本で研究を続けました。 専門的には呼吸神経生理学と言います。 呼吸の目的は酸素を取り入れるという事になります。 肺は自分で膨らむことが出来ない。 肺を膨らませたり縮めたりするのは胸郭についている筋肉の収縮で、胸郭が広がったり縮んだりします。 それに伴って肺が膨らんだり縮んだりします。 筋肉は20種類ぐらいあり、すべて総称して呼吸筋と呼んでいます。 一日に2万回ぐらい行っています。

高齢者になるとどうしても機能が落ちてきます。  酸素を取り入れて二酸化炭素を出すのが呼吸という事になっていますが、他にも役割があります。  心にはポジティブな感情、ネガティブな感情がありますが、心の中核をなしています。 感情にいろんな動きが伴ってきますが、それを情動と言います。 情動は脳のなかのある部分で作られています。 それの一番重要な中枢が大脳辺縁系?の中の偏桃体?です。 情動の活動は呼吸のリズムで動いています。 呼吸のリズムを作っているのが延髄というところです。 付随的にそれが呼吸筋に行ってリズミカルに収縮しています。 リズムを作り出しているのが、感情を作り出しているところにもあります。 情動を作り出しているところにも呼吸リズムは作り出されている。 だから感情が変化すると呼吸のリズムも変わって来ます。 ですから呼吸が変ると感情も変わって来る。 呼吸は意識して変えられる。  呼吸がゆっくりになるとネガティブな感情が薄らいでくる。  不安が長く続くと不安障害になる。  

不安は20%ぐらいの人が抱えていて、コロナになってさらに増えました。 不安を和らげるのには呼吸を整えるという事が重要です。 1日のうちで何回かは意識して行う事が重要です。 呼吸筋のストレッチ体操を考案しました。 呼吸筋を柔らかくする。 以前公害でぜんそくが流行りました。 その当時に考えました。 息苦しさが和らぎました。 吸っている筋肉をストレッチさせる。 息を吐く時の筋肉をストレッチさせる。 NPO法人安らぎ呼吸プロジェクトのホームページを見れば、いろいろ案内が出てきます。 呼吸指導士も養成しています。 

他に肺機能を高めます。(高齢者は機能が低下しているので)  ストレッチ体操をすると呼吸がゆっくりになります。 呼吸筋の方から脳に情報がフィードバックされます。 その情報が感情の方にも行って、整えてくれる。 不安を和らげてくれる。 東日本大震災の時PTSD(Post Traumatic Stress Disorderとは、命を脅かすような強烈な心的外傷(トラウマ)体験をきっかけに、実際の体験から時間が経過した後になってもフラッシュバックや悪夢による侵入的再体験)になってしまう人もいる。 アメリカでもベトナム戦争でPTSDになっている人が沢山いた。 東北の小学校で呼吸筋のストレッチ体操の指導をしました。 「らったった呼吸体操」という歌も作って行いました。  

呼吸機能が落ちるといろいろな障害も出てくるので、呼吸筋のストレッチ体操は有効です。 呼吸筋、特に肋間筋?は非常に持続性の強い繊維が多いです。 だから疲れずに一生を収縮している。 筋肉のなかに繊維として、白筋?と赤筋?という2種類があります。  白筋?は短時間に強く収縮させる。 赤筋?は強くはないが持続性がある。 赤筋?は酸素を供給して溜まったエネルギーに使う。 一般的には割合は1:1ぐらいですが、肋間筋?は白筋?がほとんどないんです。 高齢者になってもなるべく動くという事が重要です。  歩くことはいい事です。 足の具合が悪い人は呼吸筋のストレッチ体操を何回かやってもらう。 ゆっくりとした深い呼吸がいい呼吸です。 悪い情動はいじめ、虐待にも繋がって来る。 戦争まで起こしてしまう事がある、という風に論文にも書きました。

座禅とか、昔から呼吸が心を落ち着かせることが経験上判っていた。 それが文化に繋がって来る。 日本文化は呼吸から生まれていると、言ったことがあります。 呼吸で心が穏やかになって来る。 これは文化の基本だと思います。 僕は能をやっていますが、能も呼吸です。 お能の曲も作っています。 お能の曲は7、5調なんです。 桶狭間の戦いの前に信長は「敦盛」のお能を舞っているが、不安を取り除くために舞っていたのではないかと思います。  剣道、柔道、合気道、武道、茶道など呼吸と関わっています。 日本の文化は呼吸と密接に関わっています。 



















2024年9月11日水曜日

室積光(作家・俳優)           ・知ってほしいから書き続け、演じ続ける

室積光(作家・俳優)           ・知ってほしいから書き続け、演じ続ける

室積光さんは勝弥さんから聞いた戦争体験などを元に、舞台作品などを執筆し、時には自ら演じながら当時生きた人々の足跡を伝えようとしています。 俳優としては本名の福田勝洋の名前でNHKの連続テレビ小説「まーねえちゃん」や大河ドラマ「山河燃ゆ」などのテレビドラマで活躍、特に「3年B組金八先生」の体育の伊東先生役で広く知られる存在になりました。 46歳の時に作家としてデビュー、出身地の山口県光市に拠点を移し、テレビドラマ化された代表作「都立水商!」など話題作を多数執筆する傍ら、主宰する劇団「東京地下劇場」でご自身が執筆した舞台作品の上演を中心に活躍しています。 室積さんの父勝弥さんは太平洋戦争でパプアニューギニアのブーゲンビル島に赴きました。 多く成仲間が命を落とす激しい戦いを潜り抜け、帰還を果たします。 しかしブーゲンビル島で戦っていた室積さんの叔父は帰らぬ人となりました。  父から聞いた過酷な体験を次の世代に伝えなくては俳優として、作家として作品に命を吹き込み続ける室積光さんにお話を伺いました。 

父から戦争の話を聞いて面白い人が出てくるので、その後どうなったと聞いたら死んだという事で、その連発でした。 後になって父の戦場が過酷なものだったという事が判って来ました。 沖縄糸満出身の人が素潜りが得意で魚や貝を取ってきて、その人たちのお陰で父などは命が助かっているんです。 ブーゲンビル島に行ったのが59人で帰ってきたのは6人でした。 沖縄出身のその人は帰ってこなかった確率が高い。 その人は私にとっても命の恩人です。 その人はどうなっているのか一生懸命調べてはいるんですが。 

大学で世界史の中の自分の立ち位置を考えていて、空間と座標の中の一部分にすぎないと思って、恵まれた空間の中で、何かやってみようと思い劇団に入りました。 小中高の学校の生徒にいいものを提供したいと思って、劇団を立ち上げました。 「遠い約束」という芝居を書いて、戦争にまつわる少年たちの友情の話ですが、その後に「はだしのカッちゃん」というのに叔父を登場させました。 取材をしなければいけないという話になって、ソロモン会という会に参加して、3回目に現地に叔父の慰霊を立てました。 会ったこともない叔父を身近に感じるようになりました。 アルバム、日記を観て、叔父はサラリーマンでありながら兵隊として死んでいった。 同行した人たちが手紙を読んで、初めて「おとうさん」といって泣いていました。  

叔父の日記で父と同じ歳の従兄弟が居まして、昭和14年に中国に出征します。 叔父が東京駅まで見送りに行っています。(叔父は19歳) 大学に入れれば兵隊にならなくてもいいので、「頑張れ」と言われていたそうですが、受験を失敗して言い出すことが出来なかった。駄目だったという事をはがきに書いて出す訳です。 行き違いに従兄弟の戦死の連絡があり、叔父はしばらく手紙を出さなかったから薄情奴だと思っていたのではないかといった記述がありました。 叔父自身もその6年後に戦地で飢えて死ぬわけです。 

さらに取材を重ねて肉付けし2017年には小説として発表。  そのあらすじは、昭和8年戦友だった5人の同級生が「私の将来」と題した作文を校庭に埋め、50年後に開封することを約束する。 しかし太平洋戦争で予想もしなかった方向に動き出す。 唯一生き残った林健一は記録係として友がどう生き、どういう夢を見ていかに死んだのか、事実を語り継いでゆく。 叔父の生きて来たことがどんどん鮮明になっていきました。 日記も読んだので人格が鮮明になって行きました。 

お芝居を観て、小中学生が私に伝えてくれるのは、如何に自分が恵まれているかわかったという、それこそ伝えたかったという事です。 今学べる幸せ、不登校とかあるが、立ち上がって欲しいです。 「はだしのカッちゃん 」を書き上げます。 夢を持つことができる今の平和のありがたみを感じて欲しい、そんな室積さんの思いを込めて、児童書として出版されました。 カッちゃんは叔父さんがモデルです。 日本は新幹線、東京オリンピックがあり凄く発展しているのに、かつての戦場だったブーゲンビル島などの島はほとんど変わっていない。 戦闘機が見えるところに沈んでいて、ロッキードの機関砲の薬きょうが落ちていて簡単に拾える。 これはショックでした。 発展とか変化に伴って痛みを忘れるのはいかがなものかと思います。 

パプアニューギニア本島の方では、日本の兵隊が行き倒れたまま、骸骨が軍服を着ている。そのまま何十年も。 ブーゲンビル島だけでも3万人ぐらいが亡くなっている。 主人公に語らせているあの気持ちだけでも意味があると思っています。 (「カッちゃんの骨は今もブーゲンビル島の倶利伽羅峠にあって」という描写がある。) 慰霊祭では手紙を読んで、皆で「故郷」を歌うんです。 当時兵隊たちが歌っていたそうです。 切なくなるのは「夕焼け小焼けで日が暮れて」と歌い出して、「お手てつないで皆帰ろう」というところです。   ブーゲンビル島に向かった最後の補充兵は860人で、すでに若い人はいなくて子持ちの年代層で、彼らは半年ぐらいで栄養失調で亡くなっている。 そのなかで生きて帰ったのは8人です。 何で出したのか、理不尽な話です。 現地の子供に歌を教えて亡くなって行った優しいお父さんたちでした。

叔父は砲兵隊の観測兵でした。 叔父が亡くなったのは昭和20年5月7日でした。   父に伝わったのが5月11日でした。  5月末に最後の決戦になるが、延期になるんです。 最後に8月末という事になるが8月15日に終戦になります。 父も自分はもうすぐ死ぬなと思っていたそうです。  生きて帰れると言う事になってから、悲しさと弟を含めた死んだ戦友への後ろめたさみたいなものがを抱えたようです。 親が戦地に行った我々世代は聞き出さなければいけなかったんじゃないかという悔恨はあります。 

この作品の支援会があり、客席からの波動が凄かったです。 それにつられて泣いてしまいました。 感情のキャッチボールみたいなものが、客席と舞台であり、それが一番の手応えでした。 

戦争の動機はなんだかんだと言って全て経済だと思います。 サザエさんは昭和21年4月から連載が始まって、昭和21年2月から日本人の幅員が始まっています。 あの時代は数多くの父を失い、夫を失い、弟、子供を失っていた女性がいたわけです。 サザエさんはそのすべての人に囲まれた幸せな人なんです。 長谷川町子さんがどう意識していたのか判らないが、いまだにサザエさんは放送されています。 サザエさんの幸せを日本人が手放さない限り、日本人は戦争を起こさないと思っています。 子供も残せずに戦争で亡くなった人は忘れられてゆく。(墓すらもない人がいる。) 












 




2024年9月7日土曜日

Ono Aki(ヴォーカリスト)       ・平和の願いを込めて ウクライナ民謡を歌う(初回:2023/4/8)

 Ono Aki(ヴォーカリスト)       ・[人ありてまちは生き]平和の願いを込めて ウクライナ民謡を歌う(初回:2023/4/8)

ロシアのウクライナ軍事侵攻が始まったのが、2022年2月24日2年半余りたった今も戦争が続いていて、ウクライナ国内の激しい状況が伝えられています。 そのウクライナに音楽で力になろうと活動している方がいます。 大坂を拠点に活動するヴォーカリストOno Akiさんです。 Onoさんはウクライナを紹介するコンサートを開催したり、CDにして日本でも 広く知ってもらおうと様々な取り組みをしています。 歌を通じてウクライナの人々を支えたいいという思いを去年の4月8日に放送しました。 

ウクライナとのお付き合いは2012年からになります。 日本の文化交流会の皆さんと旅行に参加することがきっかけです。 最初は首都のキーウとリビウ(世界遺産の街)、クリミア半島に行きました。 街並みが美しいです。 ボルシチなど様々な美味しい料理を沢山いただきました。 ウクライナの人は日本人と似ていて、どこかシャイでおとなしい、控えめな方が多かったです。 勤勉です。 ユーモアにあふれています。 我慢強くて独立心が強くあります。 女性も男性も勇敢です。 

ウクライナは世界で一番民謡が多いと言われています。 ウクライナは歌と踊りと共に戦い生きてきたというぐらい音楽とのかかわりは深く来たと感じます。 祖国を愛する気持ちが強く含まれています。  民謡のコンサートを2月24日に行い、「ウクライナに栄光あれ」というものに納めました。 数十曲の中から厳選しました。 

*「プリーネカーチャ」 ウクライナ民謡 歌:Ono Aki

100年前に作られた民謡で、戦死したウクライナ兵を見送る歌として、直訳すると「子鴨が浮かんでいる」というタイトルです。  小鴨を沢山引き連れて泳いでいるのですが、その1匹が行方不明になってしまって、お母さんの言う事を聞かなかったからどこかでで亡くなってしまって、どこで亡くなったか知らない。 だから僕は知らない人を埋葬るんだという歌詞ですが、深い意味があります。  

「おい小鴨がテシーナ?川で泳いでいる。 テシーナ?川に沿って小鴨が泳いでいる。 母さん怒らないで 母さん怒らないで  ねえママはいつも悪い出来事の時に、私に必ず呼び掛けてくれる。 貴方は悪い出来事の時に私に必ず呼びかけてくれる。 どこで死ぬかわからない。 どこで死ぬかわからない。 ねえ私は異国の地で死にます。 私は異国の地で死にます。 誰が私を埋葬してくれるのか、私は誰に埋葬されるのか、ねえ見知らぬ人が私を埋葬します。 見知らぬ人が私を埋葬します。 ごめんね、母さん。 ごめんね、母さん。 ねえ息子よ、とても悲しいです。 とても悲しいです。 貴方は心の中にいつもいます。 貴方は私の心の中にいつもいます。 おい小鴨がテシーナ?川で泳いでいる。 テシーナ?川に沿って小鴨が泳いでいる。」  歌詞を紹介。

今もまた良く歌われています。 ウクライナでは今でも両親に対して丁寧な言葉使いです。侵攻があった2月24日にはメールなどで友人たちと連絡をとしました。 その後インフラ攻撃で大変な状況ですが、最後はユーモアをもって笑わせてくれます。  逆に元気を貰ったりします。 昨日も長電話をしました。 

*「オーユールージチェルボナカリーナ」?  歌:Ono Aki

曲名はのタイトルは「草原の赤いガマズミ」という意味です。  赤い実が沢山房になっています。 その実が下がっているのでこうべを垂れてている。 ウクライナの歴史に値するようなイメージを皆さんが持っています。  勇気づけようとする歌詞ですが、ウクライナを元気付けよう、育もうという応援ソングです。 

歌詞の一部                                              「落ち込まないで。 赤いガマズミよ。 貴方は白い花を咲かせる。 悲しまないで、輝かしいウクライナよ。 貴方は自由な家族なんだ。 ねえ、その赤いガマズミの木を育もう。 そして私たちは栄光の祖国ウクライナの勝利の喜びを、さあ分かち合おう。」 

ウクライナの子供たちから絵が届きましたが、そこには赤いガマズミの絵が描かれていました。 

今年2月24日大阪八尾市で開催された「ウクライナ支援平和コンサート」では、追悼でしたので、ウクライナの戦況を映像にして、10曲お届けしました。 最初の映像から皆さん涙を流している方がいました。 何とも言えないコンサートになりました。  ウクライナの方も20,30名の方が来ていまして、ありがとうというメッセージをいた抱きました。 今すぐにでも終わって欲しいという思いを込めて歌いました。  音楽の力は重要だと感じ取りました。 日本の文化など、素晴らしい国だと思ってみてくださっています。

夫の小野元裕さんが「日本ウクライナ文化交流協会」の代表であり、Ono Akiさんはそのメンバーになっています。 ウクライナの避難者の受け入れの問題から、ウクライナへの避難所を作って、家を失った方、負傷している方などを受け入れるように建てている途中です。酷い地域のところにも足を運んで、現状を見てこようかなと、避難所にも行ってきたいと思っています。 本来持っているウクライナの魅力を皆さんに知ってほしいという事が彼らのメッセージでもあります。 ウクライナは文化、音楽、芸術が盛んな国ですので、音楽を通してウクライナの魅力を同時に伝えていきたいと思います。 














2024年9月5日木曜日

ケイ・グラント(タレント・DJ)    ・死に際で見つけた最高の生き方

ケイ・グラント(タレント・DJ・ナレーター・シンガー)・死に際で見つけた最高の生き方 

ケイ・グラントさんは1959年生まれ、東京都出身。 1979年プロの水泳コーチを目指してアメリカへ留学したケイ・グラントさんは1981年に帰国した後、水泳コーチやボディービルのトレーナーとして活動してきました。 1988年にディスクジョッキーとしてデビュー、その後ラジオDJのほかテレビ番組やCMのナレーションなどを担当、2000年からは格闘技イベントのリングアナとしても活躍しています。

生まれは東京都練馬区でグラントハイツが遊び場でした。  日本陸軍の成増飛行場があって、GHQに接収されて居住区になりました。 広大な芝生があり野球などをやるのには抜群でした。(基本的には進入禁止でした。 MPが見まわりに来る。)  或る人から声がいいという事で新しくラジオ局が始まるのでしゃべってみてはと言われました。(当時ボディービルのトレーナーをしていた。) それがきっかけでDJを始めました。 DJはやりながら学んでいきました。  形になってきたのは半年してからぐらいです。 FENを聞いてはいたので雰囲気は有りました。 1979年プロの水泳コーチを目指してアメリカへ留学しました。  

帰国後は自分のクラブのスイミングコーチになりました。  駆け落ち結婚という事で家を捨てることになり、先輩のスイミングクラブにお世話になりました。 駆け落ち結婚も1年ちょっとで破局を迎えました。 2年後位ぐらいに開局しました。 当時ジムでは144時間働いて9万円で残業代を含めると11万円した。 DJでいくらもらえるのかと思ったら、君は駆け出しだから5万円だと言われました。 居酒屋へも飲みに行けるような生活になりました。 2000年グランプリを東京ドームでやることになり、リングアナを引き受けることになりました。  ラスベガスのトーマスマックセンターでやった時に、「ここに来て光栄です。」と言った時に凄い賞賛があり感動、感涙しました。 翌年2回目の時にはガラッと対応が変っていました。

1993年に結婚しました。 DJをやっていましたが、寝る時間がなかなか取れませんでした。 結婚の1週間後に心筋梗塞になりました。(34歳 煙草も結構吸っていました。)   復帰に2か月かかりました。  その後タバコを止めたり生活にも気を使ってきましたが、38歳ごろに又煙草を吸うようになりました。 2000年(41歳)にプールで泳いでいたら2回目の心筋梗塞になりました。  救急車を至急呼びました。 その時の状態はまだ元気なので救急隊も信じてくれませんでした。 一回経験しているので、私はまずいと言う事を予感しました。 集中治療室に着いた時に心臓が止まってしまいました。 AEDでやってもらって生き返って来ました。  その時にはステントという血管の中に入れられるメッシュがあったので、2週間で退院しました。  

2008年の時に3回目、急性心不全ですが、徐々に腹水が溜まって来ました。 年内に手術をしないと死亡の確率が98%と言われてしまいました。 手術をして無事終了しました。 2009年1月にテレビを観ていたら、急に意識不明になりました。  救急車で運ばれて,VT(VT(心室頻拍)とは、心室期期外収縮(VPC)が連続して発生し、心拍数が100~250回/分になる頻脈のこと)といって特殊だから、街のAEDでは対応が出来ないので、身体のなかにICD常に心臓の脈を監視し、命に関わる不整脈の発作が出た場合にすみやかに反応して、電気ショックを発生させてその不整脈を退治し、発作による突然死を防いでくれる装置)という、内蔵型のAEDを埋めた方がいいと言われて、そうする事にしました。 2016年に台風10号が来た時には一日35回ぐらい作動しました。 気圧と心臓のバランスが崩れてしまったようです。  入院することにして、手術で心臓の動きを半分程度止めたところで、8月から12月まで入院生活でした。  今生きている状態を感謝しながら楽しんでいます。 

バチスタオペレーション(心臓の筋肉細胞が変化して膨張し、収縮力が落ちる拡張型心筋症に対する手術)をした後に、白血球値が1000を越えていて、骨髄検査をしたら慢性骨髄性白血病になっていました。  1か月入院して適合する薬があり、飲み薬で養生していたら2008年以降完快しています。(白血病は解決。)  薬代が高くて生活を脅かすぐらいの額でしたが、治ったので薬は飲んではいません。  その後も糖尿病、腎機能障害とかいろいろ出てきましたが、病気達と仲良くやっています。  

塩分には気を付けています。 理想は一日6gですね。 喜怒哀楽はマイクを通して伝わってしまうので、マイクに対しては誠実でないといけないと思っています。 2016年以降この考え方を大事にしてます。(それまでは病院に通っていましたから。) 歌も歌っていますが、これもいい声をしているので歌わないかと言われました。  こういった仕事のきっかけも、回転寿司のようなもので、自分の前にラッキーが流れてきた時に、それを見極める心理眼みたいなもので理解できる能力を常に研ぎ澄ましておけば、楽しい人生が続くという感じです。 身体については常に気を付けています。 身体に信号が出た時には早めに行くことにしています。 今夜とか明日行こうというのではなく,今行く。 Eテレを生きているうちに何かしてみたいと思っています。  深夜便への出演は夢でした。 























2024年9月4日水曜日

山根安行(八重山古典民謡師範)     ・平和への思いを民謡にのせて

 山根安行(八重山古典民謡師範)     ・平和への思いを民謡にのせて

山根さんが語るのは79年前の沖縄県の八重山地方、石垣島で蔓延した戦争マラリアの悲劇についてです。 太平洋戦争の末期の沖縄戦当時、八重山地方では激しくなるアメリカ軍の空襲に備えて、旧日本軍の命令で住民の多くが山間部に強制疎開させられました。 そこはマラリアが蔓延していると地元では知られている地域で、その結果マラリアによって3600人余りの方が犠牲になりました。 戦争マラリアと呼ばれています。 石垣島出身の山根さん家族も疎開した山中で戦争マラリアに罹り、母親や家族を亡くしたほか自身も生死の境をさまよいました。  山根さんは当時の忘れられない記憶や、戦後に培われた平和への思いを自ら作った歌詞に込めて歌い続けています。  歌に平和への思いを託し続ける山根安行さんに伺いました。

1944年10月10日石垣島でもアメリカ軍の爆撃機による空襲が始まりました。 山根さんの石垣島に有った陸軍の飛行場の補修工事に駆り出されと言います。 1945年6月旧日本軍から石垣島の住民に避難命令が出されます。 疎開先は以前よりマラリアの発生地として恐れられている山中でした。 山根さんは母親、義理の父親、3人の弟妹、祖母と一緒に山中に避難を余儀なくされました。 

軍の命令は絶対でした。 簡単な小屋を作ってそこに入っていました。 下は地面でした。 食べるものが無いので芋を掘り起こして、大きなものは軍に納める、小さいものは貰ってもいいという事でした。  木も皮をむいて中の木をスライスして乾燥させて、石うすで挽いて粉にして食べるんですが、十分乾燥しなうちに食べた人は命を落としています。  

蚊が多い一か月十分に食べるものもなく、不衛生な環境の生活が続きました。 その後戦争が終わって山を下りる事になった山根さん、その時には自分自身と母親がマラリアに罹っていることに気付きました。 寒気がしましたが、畑には行っていました。 その後熱くなって一升瓶に水を半分ぐらい飲み、汗も噴き出てきました。 母親は「もう駄目だから、お前はおじさんのところに行きなさい。」と言われました。 一緒にいたら自分も亡くなっていたと思います。 おじさんの元で看病の末一命をとりとめました。 しばらくして母親のところに行ったら息を引き取っていました。  母親は本当に可哀そうでした。 母のことを思うと毎日泣いています。 

20代を沖縄本島で過ごした山根さん、アメリカ軍の警備員として働き、無我夢中で毎日を過ごしました。 故郷を離れた山根さんの心を支えたのは、三線と故郷の民謡でした。   八重山地方を代表する民謡で恋人や故郷を思う気持ちを歌いあげた「とぅばらーまを歌って自分を奮い立たせたと言います。  お金もないので故郷に帰る手段もなかったです。   

50歳を過ぎてようやく自分の時間を持てるようになったころ、山根さんは小さいころから親しんでいた三線を始めました。 夜遅くやるとうるさがれましたが。  故郷を離れ40年あまり、マラリアで亡くなった母親への思いが募って行きました。 戦争なんては有ってはならない。  酷い目にあう人を二度と出したくはないです。 

山根さんが考えたのは平和への思いを歌う事でした。  山根さんは沖縄で親しまれている歌にオリジナルの歌詞を付けました。 その一つに琉球古典音楽の楽曲の一つで、「散山節」があります。  母のことを歌っています。 

*「散山節」 三線、歌: 山根安行

山根さんは2014年には八重山古典民謡の師範にまでなりました。 今90歳を過ぎ自身の人生を振り返ることが増えたと言い、亡き母への思い、平和への願いを歌詞にして民謡を歌います。  「お前は死ぬな。」という母の一声で今の自分があります。 世界一の母だったと思います。 「命が宝だ。」という事を強調するために歌詞のなかに入れています。 歌というのは人に勇気を与え奮い立たせ、慰めます。  100歳まで歌って世界に届けたい。 

*「じんとうよう節」 三線、歌: 山根安行

沖縄の民謡の一つ。一歌詞の末尾に「ジントウヨウ」とはやしことばがつく。よく歌われる歌詞は「いかな山原ぬ枯木国やてぃんよ無蔵と二人なりばジントウヨウ花ぬ都」。替え歌も多い。戦後のはやり歌として「国頭じんとうよう」がある。





2024年9月3日火曜日

矢川光則(ピアノ調律師)         ・平和を伝える被爆ピアノの旅

矢川光則(ピアノ調律師)         ・平和を伝える被爆ピアノの旅 

この夏も原子爆弾の被爆地広島平和公園で平和を祈る式典が行われました。 矢川さんは広島生まれの被爆二世、たまたま爆心地から3kmほどのところにあったピアノの修理を頼まれた事が被爆ピアノとの出会いでした。 2001年原爆の日、被爆ピアノの音色が大きな感動を与えたのです。 こういう平和の使い方もあるのかと、矢川さんは気付かされたと言います。 それからざっと3000回以上全国から海外にまで各地で矢川さんは原爆被爆ピアノの音色を届けてきました。 

*「月光」 ピアノ演奏

この曲は被爆ピアノにピッタリ合う曲ですね。  このピアノは昭和20年8月6日の広島の原子爆弾で被害を受けたピアノ、2001年に原爆の日に被爆ピアノが演奏会を行い、その響きが皆さんに感動を与えた。 ピアノは直してあげれば音が出て音楽で伝えてゆく事が出来る。 今は平和のピアノとして大きな役目を果たしています。 

東北には毎年よく行っています。 東北の方では一か月毎日コンサートをやります。 中でも学校公演が多いです。 子供たちから学ぶことが多いです。  私はよく奇跡的に残ったピアノだといっていますが、或る中学生は「このピアノは原爆の恐ろしさを伝えていくために、必然性をもって残されたピアノだと自分は感じた。」というんです。  子供たちはストレートに自分が感じたことを感想文に書いてこられます。  北は北海道から沖縄までいって、コンサートの回数は3000回を越えました。 海外も2010年にはアメリカ、ニューヨークのマンハッタンに呼ばれました。  

アメリカに被爆ピアノを持ってゆくことに対しては反対意見もありました。 過去は変えられないから未来を変えましょうと言う事で、9・11を選んでいきました。  私の父が26歳の時に広島消防署の本庁で被爆しています。 父は奇跡的に助かりました。 9・11で消火活動をしていたのがニューヨーク消防でした。  消火活動で343人の消防署員が亡くなっています。 父と重なり合うものを感じました。 被爆医コンサートをやっても何も問題なかったです。 平和を願う気持ちは日本もアメリカも一緒ですから。 音を通して音楽を通して、ピアノについて考えてもらう、そこに被爆ピアノのそういうところがあるのかなと思います。 被爆ピアノに触れることも出来ます。 被爆ピアノは広島の原爆資料でもあります。  大がかりな修理はしていません。 外観はそのままです。 内部もどうにもならないところは中のパーツを一部変えていますが、被爆当時の材料を使って手作業で全部直しています。 

ピアノは修理をすれば長生きします。 処分すれば環境破壊にも繋がります。 私の両親、祖父母も被爆者です。  私は原爆投下の7年後に生まれて、原爆のことには興味はありませんでした。  私にとっては被爆ピアノとの出会いでした。 2001年8月6日原爆式典の後に、被爆者と一緒に被爆ピアノで平和コンサートをやりました。 思ったよりも凄い反響がありました。 こういう平和運動なら自分も出来ると思いました。 それがライフワークになって行きました。 平和は与えられるものではなくて、一人一人が作り出してゆくものだと思います。 そのきっかけになってくれればいいと思っています。 

被爆ピアノはほかに人間の愛おしさ、そういったことも伝えてくれるピアノかなと思っています。 日本は平和ですが、心に病気を持っている人が非常に多いと思います。 でも聞いてメッセージが来るんでしょうね。  大きな役目を果たしていると思います。 或る時に8人の方に演奏してもらう事があり、60代の女性が「悲愴」を弾きました。 その方が乳がんで余命宣告をされた方でした。  後で被爆ピアノを弾いた方でガンが治ったという話を聞きました。 そんなバカなと思って聞いてみたら、再度がんの治療を挑戦されたそうです。  8年後にその方が再度ピアノを弾きました。(「悲愴」) 彼女の話を聞いて、人間最後の最後まであきらめてはいけないんだと思いました。 

私の活動は平和の種まきと言っています。 私のピアノ工房の敷地内に被爆ピアノ資料館を作りました。 子供たちにも来てもらって学びの場として利用して頂きます。 今被爆ピアノは7台あります。 被弾ピアノも展示してあります。(空襲で被害を受けたピアノ)  2005年が被爆60年にあたり、そこから全国縦断コンサートが始まりました。    最初に愛知万博に招待されました。(女子高校生からの依頼)  来年は終戦、被爆80年で、いろいろなところから問い合わせが入ってきています。  ノールウエーにも招待されました。 コンサートには世界中から集まっていて、多くのメディの取り上げていただきました。(ノーベル平和コンサート 2万人が来ていた。) 曲は「神のみぞ祈る」 会場で原爆を受けたピアノだという紹介があり、みんな驚いていました。

被爆者も高齢になり、後5,10年すればいなくなってしまうのではないかと言われています。  戦争、原爆のことを考えてもらうきっかけ作りになってもらいたいので、被爆ピアノの役割はますます大きくなっていくと思います。 被爆ピアノは映画にもなりました。  

*「祈り」 演奏:高橋昭?










 

2024年8月30日金曜日

四世石田不識(琵琶製作職人・人間国宝)  ・ビルの谷間で琵琶づくり

四世石田不識(琵琶製作職人・人間国宝)  ・ビルの谷間で琵琶づくり 

琵琶は1000年以上の歴史を誇る西アジアで生まれた楽器です。 シルクロードを通って中国経由で7世紀ごろ日本に渡ってきたと言われています。 石田さんは昭和12年青森県八戸市の生まれ、昭和28年に宮大工の仕事を始めましたが、琵琶職人の娘さんと結婚して義理のお父さんに師事して、琵琶製作に従事します。 初めての琵琶つくりに苦労しながら、平成18年には無形文化財保存技術と認められ技術保持者に認定されました。

1878年創業、1931年に虎ノ門の場所に移転して90年経ちました。 朝9時から夕方5時まで仕事をしています。 ビルの谷間になってしまいました。 「光る君へ」でも琵琶の場面がありました。 「かっこいい」とは言うけれど「やります」と言う人は滅多にいませんね。 9月に琵琶のコンクールがありますが一般の人は知らないです。 

ここにあるのは薩摩琵琶の五弦です。 四弦は駒が無いんです。 薩摩琵琶は四弦が本当なんです。 鶴田錦史という先生が改良を加えた五弦にして、洋楽との演奏も出来るようにしました。  武満徹さんが曲を作って小澤征爾さんが指揮をして、それが評判になりました。  今は若い人が五弦をやっています。  木は桑の木です。  御蔵島から桑の木を仕入れています。 桑の木はありますが、切って出す人がいないので、ここ7,8年は入ってこないです。  蚕用の桑の木ではなくて自然の木です。 最低でも80年掛かります。 桑の木は10年分ぐらいは家の倉庫にあります。  丸太を買って乾燥させるのには7~10年はかかります。 本当は今仕入れないといけないんですが。  薩摩琵琶なので本来は鹿児島に桑の木がある筈ですがないんです。  御蔵島では切る人が一人居ますが、高齢でもう体力が無いという事です。 一本80~130万円ぐらいします。  こちらから人間を送って旅費、宿泊代などをこちらが持つとなると高額になってしまいます。 

薩摩琵琶は立てて音を出しますが、平家琵琶、楽琵琶は寝かせます。(ギターのように)  楽琵琶は裏がカリンの木で、表は栗の木です。  筑前琵琶は裏は桑の木、表は桐の木です。 音が違ってきます。 筑前琵琶は女性向の音です。 薩摩琵琶は男性的です。    

平成18年に無形文化財保存技術と認められ技術保持者に認定されました。 現在87歳です。 18歳で大工の見習いで東京に出てきました。  琵琶職人の娘さんと結婚しました。 先代の親父さんが亡くなり、琵琶の先生方が琵琶を作らないかと言ってきました。   いろいろなことを先生から教えてもらいました。  接着にはニカワでないとだめという事で、接着の方法も先生方から教わりました。 古い琵琶をばらして、中がどうなっているのか全部調べました。  やっているうちに演奏会にも顔を出すようになりました。  先生の出す音を理解して、段々その音が出るよぅに作って行きました。 音で苦労しました。 

「さわり」、楽器の音色の名前。噪音の一種。音色は楽器によって異なる。 特に薩摩琵琶は、さわり音が強く響くことで知られている。 例えば三味線では、最も低い弦の位置を工夫することで弦に独特のビビリ音が得られるだけでなく、他の弦を弾いたときに同調して共鳴する。この音を「さわり」と呼ぶ。 三味線の「さわり」は琵琶を模したと言われている。 木目によっても善し悪しがある。 木の硬さによっても音が違ってくる。 薄めにしようとか、何面作っても同じ音にはならない。 同じものは絶対できない。 息子が継いでくれると言うので、私は音で苦労したので、息子には演奏を先に習うように言いました。  息子は56歳になります。  演奏者で製作者で修理もできます。 盲僧琵琶を作ってもらいたいという人が来ました。  息子が対応しました。 孫は21歳になりました。    正倉院にある琵琶を再現したいという事で、10年掛かって作りました。 「螺鈿紫檀五弦琵琶」です。 夜光貝も4cm角で厚さが1mmで2000円します。 100枚は使います。 彫ってはめ込みますから、手間がかかります。 もう一回正倉院のものを作って奉納したいという思いがあります。








 

2024年8月29日木曜日

吉良智子(美術史家)           ・〔私のアート交遊録〕 「戦争画」と「ジェンダー」

 吉良智子(美術史家)        ・〔私のアート交遊録〕 「戦争画」と「ジェンダー」

近代日本美術が専門、美術史において女性画家が取り上げられてこなかった時代背景や社会的な理由を長年研究してきました。 吉良さんの著書「女性画家たちと戦争」では、第二次世界大戦中に戦争画の製作に携わった女性画家集団「女流美術家奉公隊」とその作品「大東亜戦皇国婦女皆働之図」を紹介しています。 この作品は女性の画家44人による共同制作で、田植えや養蚕、砲弾の生産など42の労働現場が」描かれています。 戦前女性の美術教育や美術団体への参入は、男性よりも制限され描く対象も花や生物がふさわしいとされてきました。 そんな女性画家の絵の対象を広げたのは、皮肉にも戦争でした。 美術史の中で女性画家が取り上げてこなかった理由は何か、どんな時代背景があったのか吉良智子さんに戦争の時代のアートとジェンダーの関係についてお話を伺いました。

近代日本美術史、ジェンダー史を軸にした女性画家の研究、これをテーマにした動機ですが、大学2年生の時に受けた女性論があり、女性は結婚をして子どもを産んで生きてゆくというのが女性に課された人生というわけではなく、社会や歴史からの要請によってなった、という事を始めて知りました。 真剣に考えてみたいと思いました。 大学3年生の時に参加したゼミが、アートとジェンダーをテーマにしたものでした。 ここからの出発でした。 戦後50年という時期でもあり、戦争に関する美術作品が出版され始めました。 有名な画家が戦争画を手がけていたことも知りました。 卒業論文に戦争画とジェンダーに選んで、出会ったのが「大東亜戦皇国婦女皆働之図」でした。 

靖国神社に観に行きました。 横が3mの巨大な作品でした。 沢山の女性たちが戦争を支える労働に励む姿が、パッチワークのようにちりばめられていました。  描いているうちの本音が出てしまったという作品だと思います。 悲壮感はそんなに感じられず、色合いもカラフルです。 描かれている女性たちも何となく溌剌としている。 家の中に閉じこもっていた女性たちが外に働きに出て行って、ある種の解放感も感じられる。 砲弾、落下傘を作って居たり、養蚕、田植え、日常生活などが描かれている。(ほとんどが女性)     制作に参加した桂ユキ子が下絵を担当。「当時の新聞、雑誌、グラフ類には、働く銃後の女性をテーマにした、「戦時下に働く農村女性」、「女性消防団」「女子学生旋盤工」、「女子踏切番」その他さまざまな仕事をしている女性の写真がよく載っていたので、その写真をただ切りとって、大きな紙にベタベタ貼りつけたら、たちまち絵ができちゃったという事です。

参加した画家数名の方にインタビューしましたが、テーマは頑張っているという事を示したかったと言っています。  それまで女性画家は上品な婦人像、かわいらしい子供達、花などでした。 女性画家集団「女流美術家奉公隊」が生まれた背景は、東京美術学校(芸大の前身)では女性の入学資格はなかった。 私立美術女子学校(女子美術大学の前身)が作られて、画壇にデビューしても女性は中々地位が上がらなかった。 当時は結婚して子供を産んだら、筆を折るという事が当然のようにあった。 陸軍からの依頼があり、働く女性の絵も描いて欲しいという事でした。 評判については資料等が出て来ていません。 1943年2月25日、洋画家の長谷川春子を委員長として女流画家による「女流美術家奉公隊」が結成されます。 三岸節子も加わっています。 

年齢もバラバラで所属団体もバラバラだったので、一つにまとめるという事が難しかったと思います。 パーッチワークのように描かれている。 数人の方と話を聞くことが出来ました。 「女流美術家奉公隊」は終戦を機に自然消滅しました。 戦後、長谷川春子が女流美術家協会を、三岸節子が女流画家協会、二つの大きな団体が出来ました。  時を経て女流美術家協会はなくなって行きました。 「ジェンダー」に関しては一歩でも二歩でも進んで、社会的な状況を解決するために考え続けていきたいと思います。 桂ユキ子の「大きな木」がお薦めの一点です。









2024年8月26日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 山田太一

 頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 山田太一

代表作に「男たちの旅路」「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」などがあります。

「仕事をはみ出さない人間は俺は嫌いだ。 靴屋にカバンを直してくれと頼みに来たら、お前なら断るか。 直してやるのが人間というものだ。 困っている人間を目の前にして、俺は靴屋だからカバンは直さんといっているのがお前たちだ。 仕事からはみ出せない人間に生き生きした仕事などできん。 はみ出せ。 範囲などはみだせ。 それが人間の仕事ってもんだ。 はみ出さない奴は俺は大嫌いだ。」  

 山田太一はテレビドラマのシナリオライター、小説家、劇作家として沢山の作品を残しています。 テレビドラマの代表作に「男たちの旅路」「岸辺のアルバム」「想い出づくり」「ふぞろいの林檎たち」「早春スケッチブック」など、小説の代表作に「飛ぶ夢をしばらく見ない」「異人たちとの夏」などがあります。 

私(頭木)は6年間山田太一を取材しました。 226回になります。 冒頭の言葉は「男たちの旅路」という1970年代から1980年代にかけてNHKで放送されたテレビドラマの第二部第一話の「廃車置き場」の回のなかのセリフです。 警備会社が舞台で、女性の悲鳴らしき声が聞こえたのに、警備の範囲の外だったから駆けつけなかった。 それで怒るんです。 私(頭木)は病院で物凄く痛い検査で手を握ってくれた看護師さんがいて、凄く助かりました。 その看護師さんは自分の仕事をはみ出して、当たってくれたわけです。 自分の医師の範囲以外、身体全体のことまで気にしてくれる医師もいます。

「ひとに迷惑をかけるなというルールを私は疑う事が無かった。 多くの親は子供に最低の望みとして、ひとにだけは迷惑をかけるなと言う。 飲んだくれの怠けものが、俺はろくでもないことを一杯してきたが、人様にだけは迷惑をかけなかったと自慢そうに言うのを聞いたこともある。  ひとに迷惑をかけないというのは、今の社会で一番疑われていないルールかもしれない。  しかしそれが君たちを縛っている。 一歩外へ出れば、電車に乗るのも、少ない石段上がるのも誰かの世話にならなければならない。  迷惑をかけまいとすれば、外へ出る事は出来なくなる。 だったら迷惑をかけてもいいんじゃないか。 かけなければいけないんじゃないか。 君たちは普通の人が守っているルールは自分たちも守ると言うかもしれない。 しかし、私はそうじゃないと思う。 君たちが街へ出て電車に乗ったり、階段を上がったり、映画館へ入ったり、そんなことを自由にできないルールは、おかしいんだ。 いちいち後ろめたい気持ちになったりするのは、おかしい。 私はむしろ堂々と胸を張って迷惑をかける決心をすべきだと思った。」 「男たちの旅路」の第4部第3話の「車輪の一歩」の中からの言葉。 車椅子の青年に向かって吉岡が言う言葉。 

自己責任とか人に迷惑をかけるなという事が今一層激しくなってきている。 人は基本的に一人では生きられない。 

「君たちは独立自尊をよく口にする。 しかし人ははたして自分一人でよく独立を保てるだろうか。 沼に沈まんとする人間が自分の髪を引っ張って、沈むことを止めうるであろうか。 西田さんは良き自立は良き相互依存に寄らなければならないことを教えてくれました。」  「日本の面影」(ラフカディオ・ハーンを主人公にしたドラマ)の中のセリフ。

何かあった時にひとに頼れる、だから安心なんです。 お互いに迷惑をかけるのは当たり前というのが広まってくれるといいなあと思います。 

「若い者はおとぎ話を本気にします。 国のために戦って勇ましく死ぬのも悪くないと思うでしょう。 国の為に死を決意する。 国の為に命を捨てる。 本当にそうだったんすか。 一部の思いあがった指導者の為に苦し紛れに考え出した無茶苦茶な攻撃方法の為に、どれだけの若者が死んだか、日本人が死んでいったか、いや殺されたと言ってもいい。 本人はともかく、残された家族は一体どうなるんですか。 それがそれが貴方の言っている勇ましい事ですか、勇気という事ですか、私はそうは思わない。 あんな思いは2度と繰り返しちゃいかん。 今現在、戦争なんて言うもんは絶対やっちゃいかんと大声で叫ぶのは、いや叫べるのは現実に機関銃を撃って戦って来た我々じゃないんですか。  戦争を経験したものが、歳をとってきてその思い出を美しゅう語ろうとしている。 そんなことでなく、風向きが戦争に向き始めた時、私たちは何の歯止めにはならない。」  「男たちの旅路」の「戦場は遥かになりて」という最後に放送されたスペシャル版からの言葉。(吉岡のセリフ)

戦争についてノスタルジックにヒロイックに息子に聞かせる父親がいるんですね。     「今の若い奴はわびしい。 自分の安全ばかりを考えている。 昔の俺たちはそうじゃなかった。 俺たちは国のために命を張った。 死ぬことをただ避けようとは思わなかった。 眠くなるとお互いを殴って頑張った。 自分のことなど少しも考えてなかった。 国のことだけを考えていた。」  そう話す父親に対して吉岡は「本当はそうじゃなかった。」というんですね。

吉岡を演じている鶴田浩二は学徒出陣で実際に誠一に言った経験があるんですね。 山田太一は終戦の時に小学校5年生で、戦時中戦後を体験した。 

「戦争がどういうものか、それは空襲の中を走ったり、肉親の死を見たり、生と死の堺を吉抜けたり、竹やりで戦う決心をしたり、恋人と引き裂かれるような別れ方をしたりすることであるより、なにより、食べ物や物の極端に不足した日常に耐えることであり、隣人達の醜さを見る事であり、体制に従順な圧倒的な多数の者たちの異端な人間に対する容赦のなさを知る事であり、力を持った者の居丈高、国家の有無を言わせぬ強権など、思い知る事である。」  小説「終わりに見た街」の中の一節。

監督伊丹万作(伊丹十三の父)も同じようなことを書いています。

「少なくとも戦争の期間を通じて、誰が一番直接に、連続的に我々を圧迫し続けたか、苦しみ続けたか、という事を考える時、誰の記憶にもすぐ蘇ってくるのは、すぐ近所の小商んどの顔であり、隣組長や、町内会長の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配球機関などの小役人や雇員や労働者である、あるいは学校の先生であり、と言ったように我々が日常的な生活を営む上において、いやでも接触しなければいけない、あらゆる身近な人々であった。」  

山田太一は自分自身でテレビドラマ化して、2005年にリメークしている。(山田太一は基本的にリメークはしないが。)  

「男の人はほんのすこし私たちの身になってみればいいと思う。 25,6歳になっても結婚しないでまるでどこかに欠陥があるかのように言われ、ちょっと結婚に夢を描くと高望みだと言われ、男より一段低い人種みたいに思われ、男の人生に合わせればいい女で、自分が主張すると鼻持ちならないと言われ、大学で成績のいい人も就職口が少なく、あっても長くいると嫌われ出世の道は凄く狭くて、女は結婚すればいいんだからのん気だと言われ、結婚以外の道はほとんど閉ざされて、その上いい男が少ないと来ては、暴動が起きないのが不思議な躯体ではないでしょうか。 少しぐらいはひとの身になって貰いたいわと私たちは思うのです。」    テレビドラマ「想いでづくり」の中の言葉。

女性側の気持ちも描いている。 今ではだいぶましにはなっているが、根本的な問題は解決されていない。 

「貴方が夢中になっているのを、どっかで喜んでないの。 心から応援していないの。 いいなあ、好きなことに夢中になっていて。 私は営業をやって、店番して、税金やって、おばあちゃんの世話をして、PTAに出て、全部そんなこと好きな事じゃないもの。」   テレビドラマ「懐かしい春が来た」  夫が成功したことで妻をねぎらうが、妻から返ってきた言葉。

「高原にいらっしゃい」というドラマで、一流のホテルマンが理不尽に職を追われて、酒におぼれて妻に暴力をふるうよぅになる。 妻は家を出る。 男は酒を断って高原のペンションを成功させようと奮起する。 部下がそのことを伝えに行く。   以下に妻の言葉。          「喜んで私が戻らなくちゃいけないの。  あの人は立ち直れば私が又一緒に暮らすと思い込んでいるのね。 あの人はこれでもかというように、私の気持ちを踏みにじったのよ。   私だって生きているのよ。 新しい人生を歩き始めているのよ。」

思い込みと実際は違うんだという事を山田太一は突きつけて来る。

「ありきたりなことを言うな。 お前たちは骨の髄までありきたりだ。 一体お前らの暮らしは何だ。 どうせ大した未来はないか。 馬鹿いっちゃあいけねえ。 そんなふうに見切りをつけちゃあいけねえ。 自分に見切りをつけるな。  人間ていうものはなあ、もっと素晴らしいものだ。 人間は給料の高を気にしたり、電車が空いていて喜んだりする存在じゃあねえ。 その気になりゃあ、いくらでも深く激しく広く優しく世界を揺り動かす力だって持ってるんだ。」   テレビドラマ「早春スケッチブック」のなかのセリフ。

視聴者に向かっていっている言葉でもある。 

「いつかは自分自身をもはや軽蔑することの出来ないような、最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう。」  ニーチェの言葉   ドラマの発想の元になった言葉。

今のままの自分でいいのだろうか、今のままの生き方でいいのだろうか、と問い直しをしてみることが必要だと思います。 

「なんていう暮らしをしているんだ、と罵声を浴びせる人物が登場するドラマが、皆無と言っていいでしょう。 観る人の神経を逆撫でするようなそんな人物を引っ張り出しても、良い事は何一つありません。 こうやって書いている私だって、そんな人物は不愉快です。」

それでも山田太一は書くべきだと思っている。

「しかし私は私自身に向ける罵声として、そういうものの必要性を感じておりました。 いくつもの家族のドラマを書いてきたライターのやるべきことの一つのような気持ちもありました。」 

視聴率は低かったが、番組を見た人の好感度では、この「早春スケッチブック」のドラマは平均で72,3%も取っている。 心を揺さぶられた。

人生にはマイナスな出来事はない方がいいと思われますが、でも山田太一はそうは思わないんです。 マイナスも又大切だと言っています。 インタビューの中で語っている言葉。

「今の社会はマイナスをなくそうなくそうとし過ぎるのではないか。 人生はプラスマイナス両面から成り立っている。 人間はマイナスによっても育まれるという事に、皆がもっと気付けば生きやすくなる。 マイナスなことが起きるといち早く忘れようとか、乗り越えようとか、思い過ぎている気がする。 暗部と向き合い事もなく適当に自分を偽って生きてしまう。 マイナスの経験をした人は有利です。 していない人は人の気持ちが判らなくなっている。 判っていない事すら気付かずに生きてしまう。」 






























2024年8月22日木曜日

菊田あや子(タレント・リポーター)     ・〔わたし終いの極意〕 終活は人生を謳歌するため

 菊田あや子(タレント・リポーター)  ・〔わたし終いの極意〕 終活は人生を謳歌するため

菊田さんは山口県出身の64歳。 1980年代から朝のワイドショーなどのリポーターとして全国各地を飛び回り、グルメや温泉、旅の情報を明るく伝えてきました。  4年前遠距離介護を経て94歳の母を看取ったことをきっかけに、自身の終活を意識するようになったと言います。 終活は人生を謳歌するために必要な事という菊田さんにお話を伺いました。

父が79歳で亡くなり母が78歳でした。 母は普通にその後暮らしていました。 84歳の頃に熱中症一歩手前のような症状になり、結局は施設に入るしかないという流れになりました。  8,9年最後まで寄り添いました。  或る時に母が玄関で向こうづねを打って、ベッドに倒れ込んでいました。 危機一髪でした。 入院を経て施設へ入ることになりました。 8,9年看取って、人間の一生を、母を看取って判ったんです。   1月7日に亡くなりましたが、12月4日には病院では無理で、この先は栄養点滴もはいらないし、東京のの仕事を止めてこのままいられるなら、明日直ぐ退院できるようにしようという事になりました。   自宅に連れて帰ることにしました。 10日間ぐらいだろうと言われました。 

母とベッドを並べて1か月以上生きてくれました。 濃厚な時間を過ごすことが出来ました。 全体力を使って命を燃やすんですね。 どんどん痩せていきました。 「うわわわわ」と言って、すっと息を引き取りました。 命を使い切った姿だと思いました。  2日前にはそれなりの覚悟はできていました。  納骨など全て終わって東京に戻ってきたら、コロナで仕事も全部止まりました。  私も完全に一人になりました。 終活の検定を身に付けたら、人の晩年について何をしなければいけないか、何が起きるかなどが判り易く書いてありました。 そのまま自分にも当てはまると思いました。  晩年にいろいろな書類を書いたり、相続のことを決めておくとか、家をどうするとか、母は全部何にもしていませんでした。  毎日が終活だと思って、毎日生きています。 

女性の平均寿命が87歳を越して、男性は81歳を越して、母は94歳まで生きました。  60歳の私は母のように逝くなと思いました。  30年独り者で、と驚愕しました。  お墓、葬儀、相続、家の片づけは 体力の有る早いうちにやっておけばいいんです。  生きている時間が人生の最後に向かってゆく活動です。  自分の命を自分らしく生きる。  トータルで終活だと思っています。 ですから毎日が終活です。 エンディングノートは付けてあります。(頭が働くうち)  母を看取って人は死ぬんだという事がわかりました。 後悔しないように生きてゆく、今は毎日を生きることに一生懸命です。 

終活をきちっとやろうと思った時に、最初にやったのは断捨離でした。 手の届くところに使いやすいものを置く。 お中元、お歳暮の断捨離は何年も前からやっています。(人の断捨離)  年賀状も60歳で辞めました。  「エンジョイ 終活」という本を出しました。  残る人生のモチベーションを上げる12の方法を上げています。           ①片づけをして身の回りのものは好きなものだけ  ②空いたスペースには花を飾る。 ③世話のかからない生き物を大事にする。  ④自分を愛する。 ⑤若い友達の情報も需要です。(AI、SNSとか)  ⑥身体の健康を保つ。 等々。

終活と推し活は並行してできます。 〔わたし終いの極意〕とは最後旅立つ時まで、後悔しない我が人生。  就活と婚活は並行してやっていますが、私は誰か気の合う人と生きていきたいなあと思っています。 お互いの力になる気がしているんです。 










2024年8月21日水曜日

上田 藍(プロトライアスリート)      ・〔スポーツ明日への伝言〕 笑顔のチャレンジャー

 上田 藍(プロトライアスリート)      ・〔スポーツ明日への伝言〕 笑顔のチャレンジャー

上田さんは北京、リオデジャネイロ、ロンドンと3大会連続でオリンピックに出場するなど、日本のトライアスロン女子の第一人者として活躍してきました。 ワールドトライアスロンのレースには231戦に出場、36レースで優勝63回表彰台に上がり、国内では日本選手権では女子最多の7回の優勝と素晴らしい実績を残すとともに、その明るい笑顔で多くのファンを引き付けてきました。 怪我のために選考基準を満たせずに断念した東京オリンピックの後は、オリンピックよりも4倍以上距離が長く、時間も9時間前後かかるという過酷なトライアスロン、アイアイマンレース(鉄人レース)のプロとして世界に挑み続けています。 上田さんにそのあくなき挑戦し、トライアスロンの魅力などを伺います。

9月に世界選手権があります。 スイムが3800m泳いで、180kmの自転車を漕いで、ランが42,195kmのフルマラソンの距離です。 アイアイマンレースにチャレンジしているところです。 フランスのニースで開かれます。  プロのカテゴリーとエイジグルプがあり、5歳刻みで年代別で出場権を獲得したトライスリートの愛好者の方もレースには出られます。 プロの女子では出場権を獲得したのは私一人です。 6月のオーストラリアの大会で7位で時間が9時間6分50秒で出場権を獲得しました。 オリンピックはスイムが1500m、自転車が40km、ランが10kmとなっています。 トータル51,5kmになります。 時間は2時間ぐらいなのでアイアイマンレースでは4倍以上の時間がかかります。 アイアイマンレースでは制限時間が17時間とか16時間の制限時間があります。 完走した人すべてが勝者と言われます。  

3歳からスイミングスクールに通いました。 鉄人レースの愛好者のおじさんたちがスイミングスクールに通っていて、マスターズ水泳がありました。  父が手書き友禅の職人でしたが、マスターズ水泳をしていました。  中学生の頃には家から自転車で25分かけてスイミングスクールに来ていて、助っ人で陸上のメンバーに入ってもいました。 おじさんたちからトライアスロンを薦められました。(中学2年生ぐらい)  両親が手描き友禅で2階が工房になっていました。 小学校でスイミング、お絵かき教室、ピアノを習いました。  絵は家で描けばいいという事でスイミング一つになりました。  絵を描くことでイメージトレーニングにもなるし、やってきたことが今につながることは興味深いです。

父からは「日々しっかりと練習をしていれば、上達して結果が出るから、やりだしたことは最後までやりなさい。」と助言され軸が出来ました。   高校を出て山根英紀さんから指導を受けるため、京都から千葉へ移りました。  オリンピックを目指すようになって北京、リオデジャネイロ、ロンドンと進んでいきました。  オリンピックを目指すという事を言葉に出す事によって、どういう努力が必要で、どういうタイムが必要なのか、段々明確になって行きました。  自分の可能性を最大限に出せた舞台ではありました。  目標を持ったのであれば発言したほうが、周りの方もそこに向けての応援と共に厳しい見方をしてくれるので、やる気が倍増してきます。 

身長は155cm、体重は45kgぐらいです。 世界で戦う選手としては小柄なほうです。 2019年2020年怪我の為に東京オリンピックには出場できませんでした。   2019年3月に開かれた世界大会で、自転車から落車してしまって、肺気胸、脾臓の裂傷、外傷性のクモ膜下出血という大きな怪我をしてしまいました。 病院に行きついた時には肺気胸で肺がしぼんでいました。 肺を膨らませるための手術をしました。 1週間以上の入院をして日本に帰ってきました。  親指ぐらいの太さのチューブを抜いて帰国しました。 穴をふさぐのに左肺の可動域が少なくなりました。  

復帰して6月のワールドカップでは優勝しました。 かばうために足に無理が来ていて、7月のドイツのハンブルグの世界大会のレースの時に足裏が痛いなあと思いながら最後の300mでスパートしたら、パンという音がして足の裏の腱膜の断裂をしてしまいました。  日本に戻って8月にある選考レースには間に合わないと診断されました。 リハビリをして、10月のワールドカップでは優勝しました。  2020年最終選考レースがアブダビで開かれる予定で、ヨシそこでと思っていたら、コロナの為大会が中止になってしまい、オリンピックも延期になってしました。  選考大会では基準を満たせずに日本代表を逃す結果になってしまいました。

パリをめざすのか、いろいろ悩みましたが、私はランが得意な後半追いかけ型で、協力し合いながら勝つ戦略もあり、パリへの流れではスイム先行型の選手が多くて、自分の可能性をチャレンジするには、自転車、ランが得意なロングディスタンスの方に舞台を変えた方が、世界で戦えるのではないかと思いました。 プロのカテゴリーの出場権を獲得できたので、チャレンジャーとしてしっかりやって行きたいです。  試練を乗り越えた時には、試練を受ける前よりは絶対強くなれるぞと、わくわくするんです。  いい時も悪い時にも前向きで過ごすという大切さも、そのたびに学ばせていただいたので、何が起こってもコツコツやっていけば乗り越えられるし、目標に近づくし、やっぱり楽しいんだなと再認識できる。 タフな競技ではありますが、健康に留意して過ごす大切さを私も皆さんも学んでいます。











2024年8月20日火曜日

高橋うらら(児童文学作家)        ・子どもたちへのメッセージを ノンフィクションに込めて

 高橋うらら(児童文学作家)  ・子どもたちへのメッセージを ノンフィクションに込めて

高橋さんは1962年東京都生まれ。(62歳)  児童向けノンフィクションを執筆し、これまでに児童文芸ノンフィクション文学賞などを受賞、自身の作品では障害者問題、動物保護、戦争、環境といったテーマを取り上げ、命の大切さを伝えてきました。 今年4月に出版された「おとうとのねじまきパン」、ずっと昔満州という国であったことが、戦時中開拓団と共に満州国へ渡った家族の実話に基づいた物語です。 この作品を通して戦争を知らない子供たちに今につながる過去を知って欲しいという高橋さんの思いを伺いました。

「おとうとのねじまきパン」の表紙に込めた思いは、かつて満州で暮らされた原和子さんという方の主人公の絵なんですが、終戦後大変な思いをされましたが、その方を判りやすく子供たちに伝えたいという事で、イラストにして描いていただきました。 本当にあったちょっと悲しい物語です。 主人公の原和子さんは昭和11年に4歳の時に東京から満州に渡りました。  父親が役所に勤めていて、結核を予防する活動をしていて、その活動を満洲にも広めようということで、満洲に渡って行きました。 満州は1932年(昭和7年)に日本が中国大陸東北部に作った国です。 軍人だけではなく開拓団と言って、中国の大地を耕すために渡って行った開拓団と、多くの民間人も一緒に渡って行きました。 終戦時には約150万人の民間人がいたと言われています。 主人公は最初満洲の新京(長春)に移り住みました。 日本人の学校も数十校あったと思います。 満洲に行けば豊かな生活が出来ると思ってみんな行きました。 主人公はその後九台という田舎町に引っ越しました。 そのに新しくできた病院の事務長にお父さんはなりました。 

その夏に終戦となります。 ソ連は日本とは中立条約を結んでいたが、8月8日にソ連がいきなり対日参戦をしてきます。  一番被害を受けたのは開拓団の人です。 ちいさい赤ちゃんは泣くと見つかるという事で首を絞めて殺されて、歩けない子供は泣く泣く中国人に預けて逃避行を続けました。  日本に帰国できなかったのが、中国残留孤児です。 中国人も日本人に差別をされて労働とかさせられていたので日本人を恨んでいる人が多かったんです。 略奪するという動きもありました。  9月12日に中国人に襲われて、家を追い出されて、ソ連軍が用意した収容所に入りました。 (中ほどまでのあらすじ)

*中国人の暴徒が襲ってくる様子、逃げる様子などを朗読。

児童文学者の青柳貞夫?さんとの出会いがありました。 青柳さんは満州を題材にした童話をいくつも書いていました。  自分が何も知らなことにショックを受けました。 青柳さんから原和子さんを紹介してもらい、話を聞きました。  周辺の方々の話も聞いたり取材を続けました。 現地にも行きました。 こんな遠いところまで150万人ぐらいの人が来ていたのか、というのが感慨深かったです。 2006年に取材を始めて、2024年に出版しましたが、その間に青い八木さん、原和子さんも亡くなりました。 本人たちには読んでは頂きチェックをしてもらいました。  引き揚げが開始されたのは、終戦の翌年からでした。 貨物列車のような列車から引き揚げ船に乗って帰って来ます。 

最初、原和子さんの話、青柳さんのいた先崎?小学校の子供たちの話、谷口正?さん(終戦時に中学校3年生)という方の話の3部作で書いていました。 3部一緒に出版してくれるところがありませんでした。  谷口正?さんについては、2014年に「ほりょになった中学生たち」という絵本で出版することが出来ました。 2016年には満州の話をフィクションで「幽霊少年シャン」を出版しました。原和子さんの話はようやく2024年に出版することが出来ました。 

戦争を知っている大人がほとんどいなくなってしまった。 戦争中に何があったのかを正しく今の子供たちに伝えていく義務があるのではないかなあと思いました。  満洲については大人であっても知らない。  正しく知ってゆくことが大事です。  小学校で日本の歴史を習うのは6年生です。 どうやったら判るのかを思いながら書きました。 大人の方も是非読んでいただければと思っています。  

児童文学もいろいろなジャンルに別れています。  しかしほとんどがフィクションの物語です。 私がテーマにしているのが、戦争と、障害者の問題、動物保護ですが、共通しているのが「命の大切さ」というテーマです。 ノンフィクションで伝えた方が伝わりやすいのではないかと思いました。 取材するにあたって、初めての人に信頼してもらうといことが大事です。 誠心誠意向き合う事で、時間をかけて信頼してもらうようにしました。 

児童文学はテーマをはっきり打ち出しやすい文学です。 小学生のころから物語を書いていました。(フィクション)  妹は障害があるので、テーマの対象になっています。   或る時に出版社の編集者さんからノンフィクションをやってみないかと言われて、聴導犬(耳の不自由な人に音を教える犬)が主人公の「聴導犬誕生物語」という本を書きました。 ノンフィクションでは全く事実は変えられません。  フィクションのほうが伝わり易いという面もあります。 取材の時間の方が短いと思います。 書く時には主人公になったつもりで楽しいです。 

9月に2冊出します。 一つは兄弟児(病気や障害の有る子供の兄弟)がテーマです。 私の妹も耳が不自由でした。 ヤングケアラーになってしまうのかとか、親が亡くなった後自分が面倒を見なくては言えないのかとかいろいろな事で悩む場合があります。 3人の方を取材して1冊にまとめて「自分らしく貴方らしく 兄弟児からのメッセージ」という本です。  もう1冊は小林幸一郎さんという目が不自由ですが、パラクライミングで世界選手権で4連覇された方の話です。 「見えない壁だって越えられる小林幸一郎」という題名です。

ラジオ深夜便 明日への言葉「クライミングの可能性を信じて」

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/07/blog-post.htmlを参照ください。








2024年8月17日土曜日

郷地秀夫(東神戸診療所 所長 医師)    ・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 真実は被爆者の体に

 郷地秀夫(東神戸診療所 所長 医師)・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 真実は被爆者の体に

広島、長崎に原子爆弾が投下されてから79年、広島ではおよそ14万人、長崎では7万人がその年のうちに原爆によって命をおとしたと言われています。 原爆による被害はいまも続いていて、放射線の影響で起こる病気で苦しんでいる人たちがいます。 神戸市の診療所で院長を務める医師郷地秀夫さんは、50年近く兵庫県内の被爆者医療に携わって来ました。 2002年からは原爆症認定集団訴訟に関わり、患者との熱心な対話や自らの足を使った粘り強い調査で、症状が原爆症と広く認定される様活動しています。 放射線による体への影響は見えにくく時間が経っても現れてくる場合があります。 被爆者の苦しみとどう向き合ってきたのか、聞きました。

今まで2000人ちょっと診てきました。(兵庫県全体)  診始めた時には被爆者が登録されているのが兵庫県だけで6000人ぐらいいました。 そのうちの1/3ぐらいを診ていることになります。  平均85歳を越えています。 被爆者検診では結構がんが見つかることが多くて、見落としてはいけないと診ています。  慢性原子爆弾症と言われるような症状、原爆ブラブラ病と一般には言われています。  さぼり病という様な風評、悪い印象があります。 身体がだるくて動けない、めまいがする、時々吐き気もする、便秘や下痢を繰り返すなどいろんな体調不良が起こって、まともな仕事とか生活が出来ないという人が沢山出ているというのが観察されます。 外からみても異常がない、血液検査をしても異常がない。

被爆した或る人が結婚して、子供が出来て、包丁を持って待っていたそうです。 もし子供に異常があったら子供も殺して自分も死ぬと言ったそうです。 そこまで思いつめたんです。 歳をとってから言ったが、その時には言えなかったそうです。 無事子供は生まれたそぅです。  何とか頑張って仕事をしてきたという方は結構います。 ですから表には出ない。 定年退職してから何もできなくなる方がいます。 そうすると奥さんにストレスがかかる。  検診してがんだと原因が判るとやっぱりそうだったのかと喜ぶんです。 がんと診断されると家族も優しくなる。 

原爆症は国が定めたものです。  被爆者の人がなった病気が原爆放射線によるものだという事が明らかになった場合に原爆症であると厚生大臣が認めるものです。 がんでも以前は認定されにくいものがある。  認定されると医療特別手当てがでて、生活保障の手当です。 月に14万円出て、3年に一回見直しがあります。 認定されるのには医師の意見書が要ります。 私は400,500書いてきました。 しかし、なかなか通らない。 何とか応援したいと思って訴訟に参加しました。(2002年から) 堂々と主張できるような人はいなかった。 甲状腺機能低下症という病名でやったりしていました。 被爆状況が爆心地から2,5kmで胃がんという事でした。 福島で言うと20ミリシーベルト  皮膚がんではケロイドが治った後に皮膚にがんが出来た。  教科書には2,5kmでは放射線の影響はほとんどないと書いてあるんです。(米軍発表の残留放射線は問題ないsとの意見が通っていた。) 私はそれを信じていたので、ほとんどが該当外ですと言ってきました。 お断りしてきた人々ばっかりが原告だったんです。 

最初弁護団から認定への医学的意見書を書いて欲しいと言われました。 20ミリシーベルトでデータもなく無理だと思いました。 きちっと話を聞かないといけないと思いました。 そうすると原爆を受ける前と受けた後で、人生が変わってしまったことを感じました。  条件を見直してみないといけないと思いました。  教科書は直接被爆の初期放射線量で決めていました。 初期放射線は1分以内でほとんど出る。 拡散したもの、残留放射線については判らないのでなかったことにすることでした。 調査、本を探してみると、2,5kmでも脱毛している人などがいました。 3kmぐらいでも原爆症で死んでいる人がいるんです。 髪の毛が抜けるのは4シーベルトという値で、2人に1人が死ぬような量なんです。  無視している残留放射線の影響が相当あるのではないかと思いました。 

後で爆心地に入って行った人が亡くなったというような話も聞きました。 被爆者のほとんどの方がそういったことを知っていました。 そういったことを元に意見書を書きました。 終戦後アメリカは原爆で死んでしまう人は死んで、後は何の問題はないと発表しているんです。 残留放射線は問題ないということを発表しています。  裁判に関わらなければ気付いていなかったと思います。  体系化した汚染度の問題は中々判りようがない。(それぞれいろいろな条件が違う。)  国側が裁判で要求してくることは、患者さんの病気が放射線に起因するという事を証明しなさいと言いますが、それは無理です。  逆にこういったところでこれだけの体験をしてこういう症状を負って、それが放射線と関係が無いということを証明してほしいわけです。 

集団訴訟が始まって20年ぐらいになりますが、原爆症というものが知られたという事に意味があったし、全面的に原告側が勝訴したという事が報道されて、凄くよかったと思います。  平和の大切さを訴える裁判は、いいきっかけになったと思います。 認定だけの裁判ではなくて、核兵器をなくさなければいけない、平和な社会が保てるよぅな社会に引き継いでゆくために、我々の為にやっていただいている裁判だなあと思います。