2024年4月27日土曜日

小林稔侍(俳優)             ・〔私の人生手帖〕

小林稔侍(俳優)             ・〔私の人生手帖〕 

小林稔侍さんは1941年和歌山県生まれ。 東映の第10期ニューフェースを経て、アクション映画や任侠映画に数多く出演し、その後深作欣二監督らに見いだされて頭角を現しました。 1986年にはNHKの連続テレビ小説「はね駒」で主人公の父親役を好演、2000年には「ぽっぽや」で日本アカデミー賞最優秀助演賞を受賞しました。 近年は山田洋二監督作品の常連として知られています。 小林稔侍さんの自在で味わい深い役柄はどのようにして生まれるのでしょうか、大切にしてきたのは何なんでしょうか。  放送ではほとんど語ってこなかったとおっしゃる素顔についてお話を伺いました。 

僕たちはラジオで育っているので切り離せません。 僕は夜型です。 小学校から寝不足しています。 コロナで感染しないように引きこもっていました。 3,4回しか京都、大阪などには出ませんでした。 諸先輩などいろいろ見てきて、人には感謝、そのことはつくづく思いました。 昭和36年に東京に出てきて東映に俳優の卵として入りました。 保証人が必要で、父親の親友で東大を金時計で卒業した人が居るという事で、上京した挨拶もそこそこに出た言葉が「出世しようと思ったら可愛がれらなければ駄目だぞ。」と言われました。 胡麻すらなければいけないのかと思いました。 芸能界にいて判って来たことは、コツコツうつむいてやっていると、必ず監督さん、プロデューサーの方、諸先輩でも声を掛けてくれるんです。 その人に対して狭い料簡の解釈をしてしまって、申し訳ないと思いました。 

切られ役かと一般の人は思うかもしれないが、切られ役が良くないと、主役が良く見えないんですよね。  撃たれて車から落ちる場面があるんですが、下がコンクリートで時速10kmで落ちてくわけですが、迫力がないので時速20kmでやって欲しいと言ったんです。 プロデューサーの方が来て 「君にそういうことをさせて済まなかった。」というんです。(一応ニューフェースで入ったので)  それからその方がずっと面倒を見てくれるようになりました。 可愛がられる事とはそういう事だと気が付きました。 

雪駄を履いて、田んぼとか砂利道を走るシーンがあるんですが、普通なら田んぼで雪駄が外れてしまうんですが、針金で足に縛り付けて走ったんです。 一緒に逃げるメンバーとは離れてしまって、その場面をみんなと一緒には撮れないんです。 チーフが怒って来るんですが僕はそういった事には平易なんです。 深作欣二監督が気に入ってくれました。 そういったことでコツコツやって来ました。 目の前のことを気持ちよく一生懸命にやるしかないんです。 

10歳違いの兄がいて、勉強も出来るし孝行息子でした。 僕は川に行って釣りをしたり一人で行動するタイプでした。 父も母も愛情いっぱいに育ててくれました。 小児喘息も酷かったです。 終戦直後で1本が2万4000円ぐらいの薬です。 苦労して購入して、そのお陰で助かったようなものです。 身体が弱かったので小学校で1年、高校で1年休学して、2年遅れて卒業しているんです。 

「しだし」役(歩く役)が180人ぐらいいるわけで、俳優になりたくて「しだし」役をやらされているわけです。 映るか映らないか判らないけれども化粧をするわけです。   小学校低学年から映画は観ていました。  友達が国立の和歌山大学教育学部附属中学校に入るという事で、そこには綺麗な女の子もはいってくるというんで、自分もそこに行こうと思って一生懸命勉強してはいることが出来ました。 高校卒業後、何かして親孝行したいと思いました。 新聞に東映のニューフェース募集の広告が出ていて、東京に行きたいと思いました。  書類選考に受かりました。 入社式に行くために早朝3時ごろに駅に行ったんですが、父親が見送りに来てくれていました。 ホームシックには1週間程度と言われていましたが、僕は1か月駄目でした。  毎日枕が涙で濡れていました。 

最初の芝居が一人づつ前に行って泣くんです。 僕だけ最高に泣いたんです。 大川社長から「君は今年高校卒業だがどうして大学はいけないのかね。」と言われて、「大学は来年でも受けられます。 最終審査に残れて夢のようです。」と言ったら、「ウン」と言ってそれっきりで出されてしまって、駄目なんだなあと思いました。 そうしたら合格しているわけです。 純粋にそう思っていたから、それが受け入れられたのかなあと思いました。   その後のことでも、欲張らず純粋に自然にやることがいい事なのかなあと思っています。  それは両親、兄、周りの方からの愛情だと思います。 僕は愛情いっぱいに育てられたんです。  兄は、大卒が1万6000円ぐらいのころ、1万8000円のテープレコーダーを買ってくれたり、カメラも買ってくれて、仕送りも1万円づつ仕送りをしてくれました。 

僕は俳優の仕事は嫌いだと思ったことはないですね。 例え厭な監督の前でも、衣装を着ている時には厭にはならないね。  僕にはターニングポイントは無くて、ずっと同じで一点張りです。 いい人たちばっかりに出会ってこられたなあと、感謝これしかないですね。  高倉さんもそうでしたが、楽しくて、お人が良くて、実にきっちりしていて。  今後についてという事ですが、今まで通りでいいです。 なすがまま、人様が拾ってくれるままだと思います。 本当に感謝しかないですね。






















 







2024年4月26日金曜日

柳田邦男(ノンフィクション作家)    ・〔ことばの贈りもの〕 絵本がひらく共生社会への扉

柳田邦男(ノンフィクション作家)  ・〔ことばの贈りもの〕 絵本がひらく共生社会への扉 

柳田邦男さんは災害や事故、病気や医療、障害と福祉などについても取材と執筆を半世紀以上続ける一方で、もうひとつのワイフワークとして絵本を楽しみ、翻訳を手掛け、絵本が持つ力、魅力についての語り部としても活動を続けています。 2008年には東京荒川区が柳田邦男絵本大賞を創設、絵本を読んだ感想文を柳田さんにお便りするというスタイルで行われていて、今年で16回目となりました。 柳田邦男さんのNHKハートフォーラム絵本がひらく共生社会への扉の講演をお聞きいただきます。

「ピアノはっぴょうかい」 みやこしあきこ 

「今日はモモちゃんの初めてのピアノ発表会です。・・・いつものように弾けばいいからね。  先生がにっこり笑って言いました。 ・・・大丈夫、大丈夫。 ・・・モモちゃんが足元を見たら子ネズミでした。・・・大丈夫モモちゃんの番までまだ時間があるから。・・・子ネズミについてゆくと舞台袖の奥に小さなドアがありました。 ・・・モモちゃんはドアをくぐりました。 ・・・ 」(冒頭部分)

絵本の普及活動を始めて30年近くになります。 NHKの障害福祉賞というものがありまして、その選考を30年以上やってきています。 障害や、障害者問題と絵本の発表といつもも重なり合ったんです。 絵本は幼児期の本だという風に先入観で捉えられてしまっている。 描いている絵本の世界は深いんです。 絵本は人が生きる上で大切な事、人間関係で大切な事、それが全て絵本に書かれている。 障害と障害者の理解を深めるうえで絵本はとてもいいヒントを与えてくれる。 こういう活動からお話をしてみたいと思います。

東京の荒川区で大きなイベントを16年やって来ました。 絵本を読んでどういうところに感動し、気付きがあり、そして自分がどう変ったか、その体験を手紙で寄せてくださいと言う活動を始めました。 柳田邦男絵本大賞を創設。 その頼りの中からご紹介したい。

食物アレルギーを持っている小学校2年生の杉山椎良君

アイスクリーム、お菓子などが食べられない。 辛い中で一冊の本に出合いました。 「むっちゃんのしょくどうしゃ」と言う絵本です。 動物列車にむっちゃんが一緒に乗ります。食堂車で食事をしますが、むっちゃんが杉山君と同じような食物アレルギーを持っている。 杉山君は自分と同じだという事で読んでいった。 むっちゃんが「僕は食物アレルギーだから卵と牛乳が田出られないの。」と大きな声で叫ぶんです。 自分と同じだと思って読んでゆくと、アシカやペリカンは魚だけしか食べない。 ライオンは肉だけ、羊は草だけ、こういう風景になっている。 それを杉山君は手紙に書いてきてくれました。

「僕に食べられないものがあってもいいのだと思いました。 僕は僕の身体に合う食べ物を使って、お母さんや給食の人が作ってくれているので、とてもありがたい気持ちになりました。 僕はこの本を読んで、アレルギーは気を付ければご飯がもっと美味しく、これからは作ってくれた人の気持ちを考えて、残さず食べれるように頑張ろうと思う様になりました。」   感謝の気持ちをもって食べて行こうと自分を変えてゆくわけです。 

小学校5年生 村山重行?君 「見えなくてもだいじょうぶ?」と言う絵本を読んだ印象と学んだことをしっかりと書いてきました。

カーラと言いう少女が御両親と市場で買い物をしているうちに迷子になってしまう。 誰も声をかけてくれないが、泣いていると若者が声を掛けてくれた。 ハッとみると白い杖をついている。 この場面は障害のある方とない方が表現されている。 耳で迷子になっていることに気付く。(健常者は無関心)  一緒に探しに行く。 そうするといろんな場面で障害者に対する理解がどんどん深まってゆく。 

「僕は目をつぶってリンゴを触ってもリンゴだとは判るけれども、熟れているかなんて全然わかりません。 ・・・柳田先生もし夜中にトイレに行く時には灯りを点けますか。 僕はトイレに行くときには必ず点けます。 でもマチアスは灯りを点けなくても平気なんです。僕は目が見えなかったらどうなるだろうと、いろんなことをやってみました。・・・でもいろんな音がよく聞こえました。 カーラはお兄さんは耳も見えるのね、と言っていますが、まさにその通りだと思います。」     「耳で見える。」と言う言葉は素晴らしい言葉だと思います。 「この本は目の不自由な人の思いが伝わって来る本なので、是非柳田先生読んでください。」と付け加えられていました。

人種差別、障害の有る無し、寝たきりの老人とか、いろんな人に対する偏見があるが、その立場に立って考えるとまた違う見え方が出来る。 それを小学5年生の子が考え、実行しているわけです。 絵本の力は素晴らしいと思います。

「ちょっとだけ」と言う絵本。 なっちゃんという2,3歳の女の子。 赤ちゃんが出来て今迄みたいに100%面倒を見て貰えない。 喉が渇くと自分で牛乳を持ってきて、ちょっとこぼしたりしながら飲んだりする。 ・・・赤ちゃんが眠った時に一杯抱っこしてあげますね、と言うと、なっちゃんは大喜びする。 お母さんのひざ元ですやすやと眠る。

一日に一回でもいいから上の子のことをちゃんと見てあげなさいと言うような物語だと思いました。 他に色々な場面で子供から気付かされたと言うおかあさんからの手紙です。

吉田千絵?さんからの手紙

3歳の息子に読み聞かせっていたら、牛乳をついでこぼしちゃった、でもなっちゃんはちょっとつげたことで満足そうな表情になっていて、そこで3歳の息子が拍手をして「凄い」と言ったそうです。 見ているところが親と子では違うんです。 親はこぼした方を見ている。 子供はついで、つげて嬉しい、と見ている対象が違うんです。 ここはとても大事なところです。 

「この時我が子が凄いねと言って、私はハッとしました。 子供にとって自分が出来た時の喜びはとてつもなく大きいもの。 それが完ぺきではなくちょっとだけだったとしても。・・・こぼさないようにしなさいと監視し、こぼしてしまうと「だから言ったでしょう」と怒っていたかもしれません。・・・ちょっとだけ成功していて本当は喜びたいはずなのに、私は怒ってしまったことはないだろうか。 この絵本を見て反省させられました。・・・ちょっとだけの成功を見落とさずに、しっかりと褒めてあげないといけない。 そして一緒に大喜びをしないといけない、と私はそう決心しました。」

平山小雪?さんから「ちょっとだけ」と言う絵本を読んだ感想。

7歳の娘さんと赤ちゃんとの関係を伝えてくれました。 お母さんが赤ちゃんに取られてしまっていてひがんでいる。  なっちゃんが隣の友達のお母さんから声を掛けられる場面。「なっちゃんね、赤ちゃんて可愛いでしょう。」  なっちゃんはためらいがちにうなづく。 平山小雪?さんは7歳の娘さんに「なっちゃんはどうしてちょっとしかうなづかなかったのかなあ。 なっちゃんの気持ち判る。?」と聞いたそうです。 7歳の娘さんははっきりと「判る、凄く判る。 なっちゃんは本当は厭なんだよ。 凄く我慢しているんだよ。」といったそうです。 

絵本の読み聞かせは、親も学びの場なんだという事を気付いて、親子で成長し合うという事に気付く必要があると思います。 

中高年層になった時にもう一度絵本を読むと、新しい気付きや発見がある、という事を訴えています。 子供の頃のみずみずしい感性がいつの間にかなくなってしまっている。    でも取り戻せないものではない。 それは絵本です。 高齢者のグループに3冊の絵本を持って行って3グループに分けて読んで語り合ってもらいました。 想像以上に内容が濃かったと言っていました。 「おじさんのかさ」 作:佐野洋子                  大事な傘なので、雨が降っても濡らさない。  公園で雨がパラパラ降って来て、男の子が来て「おじさん、傘に入れて。」と頼んでくるが、そっぽを向く。  女の子が来て傘に入れてあげると言って、相合傘で歌を歌いながら行きます。・・・ おじさんは「雨が降ったらポンポロロンと言いながら、傘を開いて雨の中に入って行きました。・・・家に着くと奥さんが「貴方 傘が濡れているわよ。」と言いました。 

「おじさんは傘と共に心を開いたのだ。 こういうコミュニケーションの極意を語り合っていました。 このメンバーはもう一度みんなで音読したそうです。 一冊の絵本を仲立ちにして、過去を語り未来を見つめ、人は心豊かに繋がるのですね・・・。 傘を開く時、心を大きく開こうと深呼吸をして出かけました。」  今日も心を開いて前向きに生きてゆく、その一歩を踏み出そうと、そんな傘を開く気持ちと言うものを、ちゃんと一冊の絵本から読み取る。 いろんなモチベーションを絵本からくみ取って、日常生活が変ってゆくという、栄養剤、刺激剤になってゆく、そういう力を絵本は持っている。

子供は大人が考えている以上に柔軟な感性を持っていて、自分に重ね合わせて自分自身を変えて行ったり、心に成長に繋がる考え方を持ったりする。 大人の絵本を介していろんなことを学んでそれぞれの生活、人生が変わってゆく、とても素晴らしい力を絵本は持っている。





 

























2024年4月25日木曜日

小林照子(メイクアップアーティスト)   ・〔私のアート交遊録〕 肌の記憶を呼び起こす

 小林照子(メイクアップアーティスト)   ・〔私のアート交遊録〕 肌の記憶を呼び起こす

子供のころに見た舞台で役者が化粧によって変身する姿に感動し、舞台メイクの仕事を夢見て上京します。 保険の外交をしながら夜間の美容学校に通い、23歳の時に化粧品会社に就職、販売員として主婦を相手に腕を磨く中で、化粧は女性を内面から元気にする力があるという事を知ったと言います。 その思いが肌の奥に潜む美を追求する身体化粧の原点となります。 美容部員から女性初の取締役に就任、その後独立し美容ビジネスの経営や後進を育てる学校運営にも乗りだします。 一方で小林さんが長年取り組んできたのが、人の身体に化粧を施し、肌の奥に秘められた美を探求する身体化粧、身体に優しい化粧品で全身に絵を描き皮膚と一体化させる唯一無二のアートワークです。 私が描いた絵は元々肌が持っていた記憶ではないだろうかという小林さんに追い求める美の世界についてお話を伺いました。

メーキャプと言うのは本来、清潔にするとか、衛生概念と言ったものから始まるんです。  そこから礼儀みたいな、人様にいい姿を見せようとか、メーキャプに発展してゆきました。  男性用化粧品とか男性向け美容講座も開いています。  自分自身のモチベーションを上げるのにとっても必要なものですね。 ニューヨークなどに行くと、個性をきちんと表現しないと生きていけないぐらいのキャリア―ウーマンはいっぱいいました。  演劇の世界に行くには勉強になると思いました。  

日本も変わって来ました。 ビジュアルな時代で、見た目で判断されると言う事をみんな知っているわけです。 思春期に直観力が出てきて、自分を見せたい、自分がどう見られているのか模索するのが、思春期だと思います。 直観力を押さえてしまうという事が日本のあり方だった。 本能として自分を表現するという本能があるんです。 美意識を持ち続けつつ、養いつつ高等学校の勉強をする、大人になるための勉強をする、それが私の学校の方針です。 人間は社会性のある動物なので、人とのコミュニケーションの中に表情、声は凄く大事なことだと思います。

貧乏だったので手に職を身に付けたかった。 演劇の裏方になると決めました。 キャラクターを作ることがとっても面白かったです。 扮装のプロになりたいと思った。(当時はメーキャップと言う言葉はなかった。) 保険の外交員をアルバイトとしてやって、夜に美容学校に行きました。 当時は皮膚の病気が一杯あって、伝染病学、感染学を学びました。 メーキャップアーティストになるためには化粧品会社がいいと思ってコーセーと言う会社に入社することになりました。 山口県に派遣されました。 本人も気が付かないナチュラルメークをするんです。 お顔を借りてメークするうちにどんどんお客様が増えました。 2年間山口県に通いました。 手の感覚が顔の肌と接して、人との縁が深くなるとか、そういったことに繋がるわけです。 家庭内のごたごたなども話してくれて、気持ちもスッキリしたという事もあり、私にとってもいい勉強になりました。 これも手の力だと思いました。

ヒット商品を沢山作れたことは、ラッキーだったと思います。 ヒットキャンペーンも考えることが出来て、上司も許してくれて、やりたいように進めることが出来ました。 ルックスキャンペーンで大成功しました。  45歳で辞めようと思っていましたが、50歳で女性で初めて役員になって、社長からは「あんたは何でも初めてのことをやるんだから。」と言われました。 私の目標は舞台のメーキャップアーティストになるという事なので、時代も変わって演劇集団も規模が大きくなり、100人程度のメーキャップが必要になり、学校を作ることにしました。 独立することになりました。

人間の生身の身体をキャンバスにして表現する身体化粧に挑んでいきました。 ビジネスにはならないものです。 顔から身体に延長させてゆくことは綺麗なんです。 一糸まとわない身体の化粧という事でやりました。 評価されてメイクアップアーティストになって行きました。 消されてしまうので儚いです。 写真家の藤井秀樹さんとの出会いがありました。 日曜日美術館からのお話があり動画にも挑戦しました。

10代で直感的に思った夢を、常にコツコツとやってきて、いろいろ成功してきて、自分がやってきていることは、人のモチベーションを上げることだけではなくて、自分の夢を成功に導いてゆくような凄いものなんだなと思えるようになりました。 真っすぐ進んでいるうちにチャンスが向こうから来ると言った感じです。 自分を見つめる目、芯のようなものがあり(揺るぎない直感)、それを追及している時には味方してくれる、そこからそれようとした時にガーンとした事故がある、そんなふうに思って、気付かされることをずっと感じています。 

身体化粧を75歳までやって、そこから彫刻をやりました。 彫刻は昔からやりたかった。彫刻をやることによって、それがヒントとなり大ヒット商品を発明する事ができました。 彫刻に蜜蝋を塗る事から、顔にと言うクリームが大ヒット商品になりました。 

自分を大事にするという事は人を大事にする、愛する、練習です、と言う風に思っています。  フリーダ・カーロアンリー・ルソー奈良美智の描く顔の絵が好きです。









2024年4月24日水曜日

坂嵜潮(個人育種家)           ・〔心に花を咲かせて〕 人は育種の名人というけれど

坂嵜潮(個人育種家)        ・〔心に花を咲かせて〕 人は育種の名人というけれど 

坂嵜さんは世界的に有名な育種家で、最初にその名前を知られたのはペチュニアの画期的な新品種を作ったことでした。 ヨーロッパを席巻したとまで言われたその花の爆発的なヒットは、今でも語り草になっています。 その後もこれまでにない花を作り出し、ガーデニングの世界を変えた人とも言われます。 坂嵜さんの育種はどんなもので、いかにして世界的な育種の名人になったのでしょうか。 そもそもなぜ育種世界に入ったのでしょうか。 

交配をして新しい品種を作るという仕事です。 花の育種は普通は温室のなかに素材があって、その中から親を選んで交配をしてゆくことですが、私が常に心掛けているのは、野生に存在している草花、その自然らしさ、力強さをなるべく生かした品種が出来るように努力しています。 人があまり手を加えると人工的な花になってしまうので、手を加え過ぎないように努力しています。 

ペチュニアを沢山花を咲かせて丈夫な花にして「サフィニア」と言う名前をつけ、ヨーロッパ中に広がりました。 それまで使われていなかった野生種を交配して、野生の血が半分入ったようなペチュニアを作ってみたら、凄く元気で病気にも強くて生き生きとした力強い品種が出来ました。  今までは温室の中での交配をしてきていました。 

大学を卒業した時には、果樹と野菜の栽培の研究室だったので、ブドウを生産してワインを作るというような研究室に就職することになりました。 1984年ごろにブラジルでワインを作るというプロジェクトがやられていて、その研究に行ってくれと言う話がありました。 1年半で上手くいかずに止めることになりました。 道路を走っていたら道路わきに ペチュニアの原種でした。 日本に持ち帰って品種改良のスタートをしました。  当時はバイオテクノロジーブームでした。 京成バラ園芸との共同研究チームが編成され、新品種づくりがはじめられることになった。  そして「サフィニア」ができました。

それまでは品種改良は全然やったことはありませんでした。 プロジェクトを立ち上げた育種家が薔薇の育種家の鈴木省三さんが向こうのリーダーで、面白いから一緒にやろうという事になりました。日本に帰ってからはワインの研究からは外れました。 1986年の春に始めて、実際の交配の仕事は千葉の方でやって、一番いいものを選ぶ意見が鈴木さんとぴったり合いました。 選ぶよりもいかに捨てるかが難しいです。

ヨーロッパではバルコニー、窓辺にプランターを置いて育てるというのがポピュラーです。 ゼラニウムと言う植物が一般的でした。 それに代わるものとしてペチュニアが入ってきました。 「サフィニア」が沢山窓辺を咲かせました。 

「カリブラコワ」、ペチュニアの小さな花も作りました。 原種を集めるところからスタートしました。  世界中で植えられるようなポピュラーな植物になりました。 育てやすくて、花は小さいが物凄く沢山花が咲きます。 鮮やかな黄色、オレンジとか花の色のバリエーションではペチュニアをぬいてしまいました。 

この原種が欲しいというのは文献などで調べて出かけますが、行けば必ず出会っています。 もう40年近くやっていて学びの旅ですね。 めげたことは山ほどあります。 10ぐらいのプロジェクトで計画を立てて、ちゃんと前に進むのは1割もないですね。 

45歳で独立しました。 大学3年の時に休学してドイツに留学しました。 父親から若いうちに海外に行ってこいと言われました。 ペチュニアを介して海外の人との交流も増えていきました。  ワクワクするような新しい品種が欲しいという事は変わらないので、自然らしさが感じられるような品種を作って提供できればいいなあと思います。 

2018年 世界的に権威のある「チェルシー・フラワー・ショー」でゴールドメダルを取りました。 枝垂れるような枝に一杯花が咲く紫陽花。 或る程度はそのイメージは考えていました。 でも出来ちゃったという感じです。 四国の山で野生の紫陽花を見つけました。 交配して作ってみたら吃驚しました。 3年ぐらいで最初の花は咲きました。出会った時にポッと引き出しから出てきてくれる。 引き出しを多く持つという事はプロとして一番大事です。 

自分の考えに基づいて品種改良は進めるわけですが、組み合わせを進めて行くと新しい性質のものが突然飛び出したりして来て、自分が全て品種改良を出来ているみたいな、万能感みたいなものを持つことが時々あるんです。 それは凄く幸せな感覚です。  逆に植物に利用されているみたいに思う時も感じます。 植物は人間を利用して進化している、と言う考えもあるんです。  自然の中にある力を尊重して、その中にある多様性を引っ張り出していこうというようなことを考えています。

自分の価値観で改良を進めてしまうと、やはり人工的になってしまう。 そこを繋ぐような仕事をしたいと思います。  人間が自分たちのアイディアに基づいて、人工交配で品種改良を進めるようになったのは、1800年代の中ごろだと思います。       父は植物園の関係の仕事をしていたので、日本の厳しい気候のなかでも育つ熱帯花木にはどういうものがあるのか、それはどういう風に使えるのか、と言う本をみんなでやったんだと思います。 父は76歳の時に「日本で育つ熱帯花木植栽辞典」を出しました。  10年以上かかっているかもしれません。  

まだ使われれていない新らしい品種を捜して、感動してもらえるようなものをもう一つ二つ作っていきたいと思います。  良いことも悪いことも必要だから起こっているという風に考えて、悪いことも必要な事として起こっていて、それを乗り越えてゆくために起こっている、と言う風に感じています。 受け入れるという事だと思います。









 




 




















2024年4月23日火曜日

若林秀真(鋳物師)           ・天明鋳物、千年の歴史を次世代へ

若林秀真(鋳物師)           ・天明鋳物、千年の歴史を次世代へ 

天明鋳物は栃木県佐野市で生産が始まったとされ、江戸時代にかけて茶の湯の釜や農具、生活用品などが盛んに製作されました。 若林さんはこの1000年以上ある天明鋳物の鋳物師として、日本有数の寺院の鐘などを手掛けてきました。 製作活動と併せて2007年に天明鋳物伝承保存会を設立し、保存や普及の取り組みをしてきたなどが評価されて、今年3月に国の重要有形民俗文化財に指定されました。 先祖から受け継いだ技術や道具を次世代につなげたいという思いを伺いました。

現在製作している天明鋳物の釜です。 大きさが30cmぐらいのコロンとした形で荒れた肌です。 新しい釜で漆を焼き付けています。 お湯を沸かすと「松風」という音が出てきます。 お湯を何回も沸かして臭いを無くしてゆき、肌合いだとか生き生きとしてきます。  もう一つここに室町時代の天明釜があります。 自然と肌が荒れた様な感じになっています。 形が変わっていて二段構えの様になっています。  「尾垂釜」と言って、上半分が室町時代のもので、下の部分が新しく作ったものです。 長く使っているとそこが痛んできます。  尾垂という特殊な方法で今でも使えるように作っています。  信長、秀吉、家康公などが天明の釜を使ったという記録あり、特に秀吉公はよく使ったという事です。 天慶2年(939年)に平将門の乱を鎮めるために、河内の国から藤原秀郷公と共に鋳物師5人を長とする人たちが佐野に住みついたという事が始まりと言われています。 連綿と続いてきています。 今は数軒になってしまっています。 

鋳型を作る為の材料の砂(先祖代々繋がっている砂)があります。 砂をふるいでふるった後に粘土水を加えて、固めて鋳型を作ります。 二つ一組になっていて、茶釜でしたら鋳鉄を溶解して鋳型に流し込みます。 祖父が使っていた炉があります。(高さ5mぐらい) 一回の溶解で2トンぐらい作ります。 燃料は木炭です。 1400℃、1500℃にあげるのは至難の業です。 今はコークスを使っています。 昔は風を送るのにも「たたら」「ふいご」で大変な作業でした。(今は送風機でスイッチ一つですが) 100%うまくいくかどうかわからないが、流し終わった後に鋳型を壊して、作品を取り出し、仕上げの工程に入っていきます。 壊した鋳型は細かくして再利用します。 数週間かけて作った鋳型に数秒で溶解した鋳鉄を流し込むので、そこで作品がうまくいくかどうかが決まります。 最終的には自分の目とか肌感覚になります。 

父親の彦一郎から自然と教わりました。 28歳の時に父が亡くなりました。(10年間の修行)  自分の鋳物の作品を通して、何かほっとすろとか、元気を貰うとか、そういう作品が出来ないものか、と言った事を思っていました。  今でも変わらないです。    奈良東大寺の大仏釜、大原三千院神殿の鐘などにも作品を納めています。 三千院では薬師如来像で、お経を取り込めないものかと思って、鐘の内側に861文字のお経の一部が鋳込まれています。 その技術は最初自分でもよくわからなかった。 完成まで3年かかりました。 作り方はふっとまどろんでいたなかから考えが浮かんできました。 直径1cm程度の粘土キューブ(立方体)を作って、そこに一文字一文字のお経を薄い和紙に写して、粘土キューブ(立方体)の表面に水を付けて貼って、細いヘラで押してゆきます。 へこんだところに鋳物が流れてゆくと出っ張るわけです。 複雑な文字もあるので大変でした。 音と共にお経が広がってくれたらいいなあと思います。 

2007年に天明鋳物伝承保存会を設立しました。 先人が守ってきた技術があってこそ、いま我々が仕事をさせていただけるので感謝しかないです。  父の残してくれた鋳造道具などを含め伝えてゆくためには、どうしたらいいかという事からスタートしました。    今年3月に国の重要有形民俗文化財に指定されました。  最初は従兄弟と二人で始めましたが、現在は150人ぐらい会員がいます。  1556点が指定されました。  家にあったのが1473点でした。 指定してもらう報告書の作成が大変でした。 電子化も必要でした。(ソフトもなかった。)  ボランティアの方々の応援もあって17年間やってこられました。 

小学6年生が鋳型を作って、持ってきた鋳型にスズの溶解を自分で流し込んで作品つくりをしています。 ものを作る人間はものを大切にします。 息子が8年間修業をして、帰ってきて一緒に仕事をしています。 彼の感性のなかで、いろんな場面に出会って、いろんなスイッチを入れて、伝統に、歴史に繋いでいって欲しいと思います。 























  

2024年4月22日月曜日

石垣征山(尺八奏者)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

石垣征山(尺八奏者)          ・〔にっぽんの音〕 能楽師狂言方 大藏基誠

 1981年東京都出身。(42歳)  三味線奏者の尾上秀樹さんとの音楽ユニット「HIDE✕HIDE」の活動は15年以上にわたる。 ゲーム音楽の作曲、演奏も手掛けるなど幅広く活躍しています。 

元々ゲームが大好きです。 2009年ぐらいからゲーム音楽のコンサートにゲストとして呼んでいただいて、それがどんどん進んで、今はゲームの中の音楽の収録をさせていただいたりアレンジしたりしています。 有名なのが「モンスターハンター」とか「スーパーマリオン」とかあります。 父親が尺八奏者初代石垣征山、母親は琴の演奏家洗足学院音楽大学名誉教授の石垣清美です。 子供用の尺八はないので、指が大きくならないと穴がふせげないので、やらなかったです。  家では尺八、琴の音が鳴って聞いていました。  中学2年ぐらいまではお琴を年に1回やるぐらいでした。

中学2年でオーストラリアへの海外派遣の話があり、どうしても行きたくて尺八での文化交流という事を訴えて、面接を通ることが出来ました。  その後父に尺八を教えてもらいました。 「さくらさくら」を覚えていきました。 オーストラリアにも有名な曲があるのでそれも覚えて行きました。(「ワルチング・マチルダ」(Waltzing Matilda))

「ワルチング・マチルダ」 

帰国後も3年間は尺八は全く触りませんでした。 高校2年で進路の問題があり、尺八で芸大を受けたらどうかと母親に言われました。 芸大に入ることが出来ました。 大学2年の時に父が癌で亡くなってしまって(51歳)、父親の関係の周りの人から母親と一緒に演奏をするという話を頂き、いろいろなところに呼んでいただきました。 父親への恩返しは尺八を吹いて演奏したり、尺八を世に広げてゆくことと思いました。 もともとはお坊さんがお経に代わりに尺八を吹いていたと言われます。 27歳ぐらいで父親の名前を襲名しました。 

*「サウザンド・ナイブス」 演奏:HIDE×HIDE

どの音色を選択するか、どの音色を出すかという感覚が歌に限りなく近いという、自分のやりたいものが表現しやすい楽器だと思います。 骨格によっても音色は違う、同じ楽器を使っても音色は違ってきます。 オリジナルをやりますが、尺八らしさは生かしたい。   古典も大事にしたいと思います。  古典も勉強しないと説得力がなくなってしまうだろうなあと思います。 

尺八は見た目にはめちゃくちゃシンプルな楽器です。 ここの3本の尺八がありますが、一つは古典の真竹、もう一つはプラスチック製、もう一つがメタルで出来たもの。 竹は割れたりするが、プラスチック製、メタル製は周りにメンテナンスする人が居なくても、海外の方が安心して持てると思います。

*3本を吹いてみる。(判別が難しい) 

プラスチック製は軽い感じ。 メタル製は広がりが少ない。 竹製は広がりふくよかさがある。(石垣征山、談) 

*タイトル「音の簾がかかる社」  琴と尺八の二重奏曲 作曲:石垣征山 尺八:石垣征山 琴:石垣清美

〔にっぽんの音〕とは「間」、だと思います。 向こうの人が一番驚きをもって喜んでくれるのは「間」の感覚だと思います。 「間」の空気感が日本らしいなと思います。    自分が面白いと思う事をやってゆきたい。  ライブを月に一回やってきて10年になります。












2024年4月21日日曜日

加藤文俊(慶応義塾大学環境情報学部教授)・〔美味しい仕事人〕 「食」でつながる~カレーキャラバンの試み~

 加藤文俊(慶応義塾大学環境情報学部教授)・〔美味しい仕事人〕 「食」でつながる~カレーキャラバンの試み~

仲間と一緒に全国を訪ねて、その場でカレーを作り集まってきた土地の人たちに食べてもらうと言うカレーキャラバンに取り組んできました。 2021年からはじまったキャラバンは80回に及びます。 カレーの香りに誘われてやって来る人、食材を無料で提供してくれる人、美味しいカレーを作る為のアドバイスをしてくれる人など見ず知らずの人たちが、カレーの鍋を囲んで会話が始まります。 カレーを味わう、そしてコミュニケーションを味わう場所が出現するというこの取り組みはコミュニケーションの場を生み出す活動として2015年度グッドデザイン賞を受賞しました。 コロナ感染予防のためしばらく活動を自粛していましたが、今年 はカレーキャラバンの活動を再開したいと語る加藤さんにお話を伺いました。

カレーを作っていると皆さんが寄っていらっしゃるので、カレーがあるという事で皆さんリラックスしていただいて、町のこととか将来の事を話していただけるので、結果として行く先々のことを勉強させていただくような、そういった活動にはなっています。 最初は内輪でカレーの会をするという事でした。 香りに誘われてお話をする場面が出来て、カレーの力を実感したんじゃないかと思います。  町とか暮らしに興味を持っていました。  場の力の流れからカレーキャラバンが始まりました。  墨田区の曳舟、スカイツリーのふもとあたりの古いけど活気のあるキラキラ橘商店街があって、地元の方と街歩きをしたり、巻き込みながら活動するという事をやっていまして、ご当地B級グルメを作ろうかと言う話から始まって、墨東カレーを作ろうという事になりました。(商店街の中) 

アドバイスを頂いたり掛かわって来ていただいて、面白さを感じました。 2年半ぐらいは足を運びました。  初対面の人ともコミュニケーションもカレーがあると違います。   無料でキャラバンをやっています。 当時はメンバー3人で5000円ずつ出し合って、材料を買って、「赤字モデル」と言って作っていました。  或る人が「一回のみに行けば5000円ぐらい払うでしょう。」と言ったんです。 「趣味にはもっとお金をつぎ込んでいるでしょう。」と言われました。  「楽しくカレーを作って人との出会いがあるのだから、飲みに行くのと同じではないか。」とさらっとと言ってくれて、浄化された様な気持ちになりました。 ボランティアとも違います。 

市販のルーは使わないという事を決めました。(スパイスカレー) タンドリーチキンも作りました。 道具立ても行いました。  朝から始めますが、夕方になるころに完成します。  居心地のいい時間と場所が出来上がります。 大田区鵜木と言うところでカレーを作った時に、そこでは知人がギャラリーを開いていて、近くには多摩川があり食べられる植物が一杯あり、それを摘んでそれも加えて作ったのが印象的でした。  身の回りにある食べられる植物を発見できた面白かったです。  初めての人とも共通体験が出来ました。 

杉並区で作った時に、出来あがるころにたくさんの人が集まって来ました。 作っているところは私有地でいいのですが、道(公道)に行列が出来て、そこの際を盛り上げたという事があります。(食べたところがプライベートとパブリックの際の場所) 昔はあいまいな場よ、空き地が界隈にありました。 今は空き地があっても囲われていて入れない。(個人の空き地、工事用地など)   今回のところは空き地のイメージがしました。(一時的、精神的な「共」の時間と空間)  コロナ禍は空き地と言う発想は許されなかった。   「共食」は明るい方向に向かわせてくれるのかなあと思います。 





















2024年4月20日土曜日

篠田大輔(スポーツ事業会社代表)    ・防災はスポーツで覚えよう

 篠田大輔(スポーツ事業会社代表)    ・防災はスポーツで覚えよう

篠田さんは災害時に怪我をした人を救助したり、障害物を避けながら物資を運ぶなど、被災した時や避難生活に入って時に必要な動きをスポーツ化した防災スポーツを各地で実施しています。 その原点は兵庫県西宮に住んでいた中学生の時に経験した阪神淡路大震災です。 避難所生活の中で不慣れな作業を数多く経験し、日常的にこうした動きを身に付けておくことが大切と痛感したことが現在の活動に繋がっています。 自らの被災体験から生まれた防災スポーツの取り組みについてお話を伺いました。

小学校から高校まで西宮で過ごしました。 中学校1年生の時に阪神淡路大震災に遭いました。地響きの音に目が覚めて 、地震が来て大きな揺れを感じ、布団をかぶって揺れのおさまるのを待っていました。  家具などが倒れていて大惨事だと気付きました。 両親と3人兄弟でしたが、皆怪我はありませんでした。 夜が明けて倒壊している家屋もありました。 幸い火災はありませんでした。  コンビニへ行って買い物をして小学校の避難所に行きました。 体育館だけでは入りきれなくて、交渉をして教室も解放してもらいました。夜になって電気通じてテレビを見ることができました。  火事の様子とか広い範囲での被害状況を目の当たりにしました。 プールの水をトイレに運びました。 当日午後には自衛隊の給水車が来ました。 当日はおにぎり二つが支給されました。 

その後スポーツで生かせるものはないかと考えた時に、災害防災にスポーツを組み合わせると何か提供できるのではないかと考えました。 大学を卒業してスポーツビジネスの世界に入りました。 ラグビー関係のチームのサポート、選手のマネージメントとかなどに携わっていました。 2013年に東京オリンピックパラリンピックが決まって、2014年に独立して会社を作りました。 スポーツイベントのプロデュースなどをしていました。    

防災対策にもスポーツの力を取り入れることによって、広げることが出来るのではないかと考えました。 スポーツは本来楽しむ要素もあるので、防災対策の入口にと言う思いもありました。 被災者の声を聴いてそれをスポーツ競技化できる要素は何か、と言うところから考え始めました。 ①一輪車で物を運ぶ、②低い態勢で移動できるか、③水難時の救助のための物を投げて的当てして引っ張るという事、④物資の搬送リレーのようなもの、⑤負傷者を搬送することを想定した毛布を使ってぬいぐるみの搬送、などいろいろ種目があります。 タイム競技として身体で覚えるという事で展開しています。 

スポーツの試合会場で一つのイベントとして、体験の場を設けてファンと選手が一緒になって行って、防災意識を高めて貰えればと思います。 防災のことを学ぶこともセットして、学校でやることもあります。  防災対策にもスポーツの力を取り入れることはまだまだ入り口だと思っています。 今後さらにそういった場を広げていきたいと思っています。










 

2024年4月19日金曜日

山崎幸子(三代目織元女将)        ・能登の美しさを手織りで発信したい

山崎幸子(三代目織元女将)        ・能登の美しさを手織りで発信したい      山崎隆(四代目織元)

創業130年余り、能登上布四代目織元山崎豊さん(64歳)と母親で三代目織元女将山崎幸子さん(88歳)です。 能登上布の特徴は軽くて薄くて細かいかすり模様。 昭和初期には石川県の麻織物が日本一になって120軒以上の織元がありました。 着物の需要の変化によって減少して、現在は羽咋市の山崎さんの工房だけが唯一の織元として能登上布を作っています。 1月の能登半島地震によって、工房の機械が壊れ断水するなど生産が一時ストップしました。 不安な気持ちで過ごしていた山崎さんですが、全国各地から励ましの声などが届いて大きな力を得たと言います。

幸子:今着ているものは40年ほど前にかすりもんでは初めて作りました。 着心地は涼しくて爽やかです。 

隆:私が着ているのは父用に作られたもので、私は15年ほど前から着ています。             上布と言うのは上等な麻織物という事です。 苧麻(ちょも)を原料にしたラミー(苧麻)と呼ばれる上質な機械紡績糸を使っています。 機械紡績糸は機械で糸がつぐまれていると言いう事です。 蝉の羽のように例えられていて、透け感、ひんやりと涼しく軽くてシャリ感のあるというのが能登上布の特徴で、夏を代表する着物の生地となります。 観劇とか食事会とか少し上品で特別なお出かけなどに最適です。 能登上布の特徴は手織りで織られた張りのある風合いと、能登独自の緻密なかすり模様、能登の風土に合った落ち着いた色合いです。

十字の細かい模様が布全体に織られています。(縦横2~3mmぐらい) 糸の段階で縦糸、横糸を先染めしています。 織ながらかすりの模様を作っています。 落ち着いた色合いになっています。 表面はコンニャク糊でコーティングされてるのでなめらかで艶があります。 簡単な縞とか無地で1か月ぐらいです。 難しいものだと半年以上かかるものがあります。  工程としてはおおざっぱに20工程以上あります。  細かく分解すると100工程ぐらいになります。 どの工程も手を抜くことはできません。

今年1月1日の能登半島地震で被害を受けました。 

幸子:外に出ようと思ったが歩けないんです。 やっと外に出て銀杏の木につかまりました。 窓ガラスが割れたり外壁が落ちたりしました。 

隆:私は当時は工房には居なかったんですが、夜3時間かかって工房に戻りました。 1階の織機は大丈夫でしたが、2階の作業場は糸の収納棚が倒れて、縦糸を巻き取る機械が壊れていました。  皆が無事だったという事が幸いしています。

織子の人たちも全壊、半壊などして、今でも不自由な生活をしている人が居て心を痛めています。  2週間断水したことは非常に困りました。

2月の頭から作業が出来るようになりました。 

能登上布の起源はおよそ2000年前に第十代崇神天皇の皇女が能登の地を訪れた際に、地元の女性に機織りを教えたという事から始まっています。 平安時代から麻を生産していたという記録が残っています。 江戸時代後期には滋賀県から職人さんを招いて染色技術を学んだと言われています。  昭和初期には石川県の麻織物が日本一になりました。 昭和30年ごろからレーヨンなどを織る自動織機が普及して、洋装化に伴い着物を着る人が減少して、織元が段々減って行きました。 昭和57年ごろにうち一軒だけになってしまいました。

幸子:昭和30年に嫁いできました。 日常に能登上布は着ていました。 この辺りはお嫁に行く時には必ず能登上布を一反持ってゆくと言う風習がありました。 お寺まいり、夏のお盆の時の盆踊りの時には能登上布を着ていきました。 祭事には10月でも着ていきました。 主人は横かすりばっかり作っていましたが、問屋から言われたりして、縦横かすりの技術を学んで、作り始めました。  私は上布を織るまでの準備の工程をしていました。 手形で来たので手元に現金が無くて困って、他の仕事として撚糸業を始めました。(横糸作り)  主人の父親が何としても続けるように言っていたので、一軒になっても能登上布を守って行こうという事は思っていました。 

隆:当時織子は70,80代のおばあちゃんしかいなくて、家業を継がなくてもいいと言われていました。 工学系の大学に進み就職は機械メーカーの電気設計の仕事を20年ほどしました。 父の片腕の職人さんが亡くなったのと、仕事上の関係もあり、家業を継ごうと思いました。  図案を描いたりという事ついては前の仕事が役立ちました。  現在16名の織子さんがいます。 半分は県外から来ています。  以前は自宅で機織りをしていましが、 今は工房に織機を設置しています。  

7年前の会社を興した際に、営業と広報を担当として姪を会社にひきいれました。 能登上布の技術の継承もしています。  能登自身の後、全国各地のいろいろな方から励ましのメッセージを頂きました。  

幸子:一軒だけ続けてこられたのは誇りに思っています。 皆さんの支えがあったからこそです。 若い方が伝統産業に関わりたいと言って来てもらえたのは嬉しかったです。

隆:この仕事を始めて20年になりました。  44歳で転職してよかったなと思います。  若い人のお陰で世代交代、技術の継承が出来てきたことが有難いと思っています。

幸子:何とかこの工房を続けて行って欲しいと思っています。 能登上布は素敵な織物だと思っています。

隆:能登の美しい自然とか、能登固有のものをかすりで表現したいなあと思っています。  能登半島には伝統産業が沢山有ります。  能登全体が元気になって欲しいと思います。















2024年4月18日木曜日

毛利衛(宇宙飛行士/科学者)       ・〔わたし終いの極意〕 ミッションは“挑戦”、そして生き延びること

毛利衛(宇宙飛行士/科学者)  ・〔わたし終いの極意〕 ミッションは“挑戦”、そして生き延びること 

今年76歳になった毛利さんの歩みは挑戦の連続です。 大学の教員から宇宙を目指し1992年スペースシャトルエンデバー号に日本人科学者として初めて搭乗、宇宙実験を行いまいた。 2000年にはエンジニアーとして再びエンデバー号に搭乗、地球観測を目的としたミッションを成功させます。 同じ年の秋には日本科学未来館の初代館長に就任、20年に渡って科学技術の未来や可能性を開く取り組みを続けました。 2度の宇宙飛行が毛利さんの人生観、死生観にどう影響したのでしょうか、又次なる挑戦はどんなことでしょうか。 

日本科学未来館の館長をしりぞいて、3年あまりです。 水にまつわる活動をしている方々を見つけ出して、表彰するという「日本水大賞委員会」の委員長をしています。 宇宙記念館の名誉館長もしています。 後輩の宇宙飛行士の助言とかお手伝いもしています。 一昨年小澤征爾さんと「ワンアースミッション」という宇宙と音楽という事で行いました。 オーケストラの音は楽器が様々あって、様々な音を宇宙飛行士の元に届けるという事は難しい技術が必要です。 それが小澤征爾さんにとって最後の指揮になりました。 

何のために私は今宇宙にいるのかという事を考えました。 人間の様々な活動は、ひょっとして人類、地球生命全体を集団として生かそう、未来へつなげようとする力があるのではないかという事で、それを考えた時に科学技術で何でもコントロールできるというような風潮があるが、科学技術、音楽、スポーツ、政治、宗教などが全て未来へ集団として人類が生き延びるための一つの知恵というか、そういう風に捉えた時に、「総合智」私たち人間社会がが未来へ向かって生き延びるための知恵、すべての文化が大切なんですよと言う見方、未来館では出来るだけいろいろな文化を取り入れると同時に、地球の温暖化など未来とのかかわりが重要で、限りある地球のなかで人類が生き残れないのではないかと、宇宙に行ってもろに感じました。 地球にも極限のところがあり、南極,深海があります。 極地に住んでいる生命もきちんと環境問題を含めて扱う必要があります。 現場に行って伝えようと思いました。  

1957年に世界地球観測年が決められ、日本は南極に初めての基地を作ることになりました。 アメリカやソ連では宇宙から地球を見ようという事で人工衛星を初めて飛ばしました。(1957年) そこで新しい時代が来るんだと思いました。 1961年ソ連はガガーリンを初めて宇宙に飛ばしました。 「地球は青かった。」と言う言葉に、どんな青さなんだろうという不思議さが宇宙に興味を持たせてくれました。 兄たちも天文少年でした。 母も星などに興味を持っていました。  母は「自分はハレー彗星が一番近づいた1910年に生まれたので、又ハレー彗星が近づく1986年に帰っるんです。」と言ったんです。 ハレー彗星が近づいた1986年1月28日に母が亡くなりました。(76歳) 僕は誕生日が1月29日ですが、母親が亡くなって数時間後にスペースシャトルのチャレンジャー号が爆発したんです。 日本で待っていましたが、爆発のことは知らされませんでした。(宇宙飛行士に採用されてから3か月後)

若いころ交通事故で即死のような状況でしたが、なんでもありませんでした。 ヨーロッパに行った時に飛行機事故に遭って、エンジンが爆発して火事になりました。 サッと出口から出ることが出来て助かりました。 2度の死んでもおかしくないような事故を経験して、自分には運がいいんだと言うような信念があります。 爆発事故があっても怖いという発想はなかったです。 未知だから面白いと思います。 2003年にコロンビア号が帰還するときに爆発しました。 そういったことを理解して、宇宙に飛ぶときには遺書を書いていきます。 1992年、2000年の2回宇宙に行きました。 仕事をするミッション、その中に細胞培養実験がありました。 宇宙での細胞ぼ培養の仕方を顕微鏡で見て写真を地球に送るんですが、疲れてふっと窓から地球を見たら、細胞と似たような形に見えたんです。 「繋がっているんだ。」と言う気持ちが出てきました。  地球が一つの生き物であるかのように感じました。 

二回目は3次元の立体地形図を作る為に絶えず地球を観測する仕事でした。 ずっと見ているうちに、「地球って本当に宇宙に浮かんでいるんだ。」という事が判ったんです。(知識では判るが感覚では判らない。) 地球みたいな星は宇宙には沢山有るのではないかと思って、宇宙人は本当にいるなと思いました。 

NHKの「生命40億年の旅」と言う番組のの説明する仕事をしました。 「恐竜は絶滅したのか?」ということについて、絶滅したのではなくて鳥になったんだよ、と。 当時は鳥になったという証拠はありませんでした。 解説をしていて何故羽根を持ったのかなと思いました。 私の解釈は羽根を持ちたかったからじゃないの、飛びたかったからじゃないのと言う結論に達した時に、何故自分が宇宙にいきたかったのかということが判って、腑に落ちました。  遺伝子に書き込まれている事だけが全てを決めるのではなくて、意志の力でも変わるのではないかと思いました。 個の意志だけではなくて、種の意志、未来へ生命をつなげようとする種の意志があるのではないかと思います。 

環境問題、人間はほかの生命に対して責任を持たなければいけないなと思いました。 生物が多様性で可能性を自然に対して持てるという事と、自然環境をどうやって守ってゆくか。 人間が今いなくなっても今世紀末には2度、3度上がってしまう。 地球の環境の限界が来てるのではないかと思います。 SGDs( Sustainable Development Goals持続可能な開発目標、そのためには相当自分たちの生活を変えなくてはいけない。 その貢献のために地域のいろいろなお手伝いをさせて貰っています。 

「未来智」、人間ばかりが生きているのではなくて、他の生命と一緒に生きるためにはどうしたらいいかという事を考える時代になっている。 スペースシャトル内では酸素と水素で人工の水を作って飲むんですが、まずいんです。 地球に降り立って空気、そして水を飲むと美味いんです。 地球まほろば、ここが人間が住むところで、長く住むのであればほかの生命と一緒に住むという事でないといけないと思います。 

能力にぎりぎり挑戦することは最大の喜び、それで駆け抜けてきました。  「モマの火星探検記」を出版しました。(サイエンスフィクション) ミュージカルにもなりました。  感動して泣いていて、舞台は凄いと思いました。 科学技術とは全然違う手法で人の気持ちを和やかにさせる。  運動と食べ物には気を付けています。 周りの人に役に立つような役割を持ちつつ、静かに段々消えてゆきたいと思います。 わたし終いの極意としては、「未来に繋がる命に期待する。」という事です。





2024年4月17日水曜日

坂上康博(一橋大学名誉教授)       ・〔スポーツ明日への伝言〕 剣道の未来のために

 坂上康博(一橋大学名誉教授)       ・〔スポーツ明日への伝言〕 剣道の未来のために

コロナ過で中断されていた全国のびのび剣道学校が去年11月、4年振りに再開されました。 1979年(昭和54)年に始まり、41回を数える学校は剣道の愛好者が集まり、互いの技術の向上を目指す研鑽会であり、自由に意見や疑問を交わす研究会でもあります。 この学校の運営委員会の代表を務めたのが坂上康博さんです。 坂上さんの専門は近代スポーツ社会史スポーツ科学で、福島大学助教授、イギリスウオーリック大学客員研究員、一橋大学教授として研究を続けてきました。 2020年にはのびのび剣道学校の講師員などと共著で「剣道の未来」「人口増加と新たな飛躍の為の提案」を上梓しています。

こちらが打とうとすると相手は竹刀でよけたり、身体をよけたりします。 よけるスピードが速いのでなかなか当たらない。 「隙」と言うのはどういった瞬間にできるのか、本当に一瞬なんです。 「隙」が見えたら間に合わない。 「隙」は未来にあると言う言い方をしています。 そこを見越して隙を作って打つ、と言うところが一番醍醐味かなと思います。  単純に「隙」は3つぐらい種類がある。 剣道に場合、面、小手、胴、突きの4つのうち、例えば面をよけようとすると、あとの3つが空いてしまう。 これを①「よけ隙」と呼んでいます。 ②「打ち隙」 打とうとする瞬間から打ち終わるまではキャンセルできない。 ここを仕留める。 ③「ぼけ隙」打ちませんよと相手に思わせながら本当は打つ。 あるいは完全に油断している瞬間。 こういったものを組み合わせる。 それを必殺技つくりと言ってやっています。 

全国のびのび剣道学校は昭和54年に始まり、昭和34年生まれなので第一回からやっています。(20歳) 高知大学で大塚先生が剣道の教室をやっていて、手伝ってほしいと言われて、剣道着に着替えたら、「今日から新しい先生が来ました。」と言われてしまってそれから4年間やる事になってしまって、その延長線上にのびのび剣道学校があるんです。   自分自身は中学1年生から始めました。  高校の先生になりたかったので、剣道の研究は最初から決まっていました。 武道を文部省が奨励したら、軍国主義とか冷たい反応があり、これはどういうことなのかという事で、剣道の歴史を調べてゆくきっかけになりました。 

2020年「剣道の未来」と言う本を共著で書きました。 剣道人口を増やしたいという思いがありました。 現状可成り深刻だと思います。 高校の剣道人口は1985年がピークで半分以下です。 有段者は148万人ぐらいで実際にやっている人は47万7000人。(2007年の調査)  有段者の8割は辞めている。 年齢構成では中学生以下が45%、高校大学生が15%、社会人は40%  深刻なのは中学高校生の若い世代が急激に減っている。(1/3ぐらいになっている。)  子供にとっては面白いサッカーなどが増えている。 剣道の魅了を感じなくなっている。(嫌われている。)  2008年武道を必修化する。 しかし減ってきている。 やり方、中身そのものを考えないといけない。 

300年前に竹刀と防具が発明され、その魅力が300年続いて来た。  痛くないような打ち方をしていて、戦場では使えないというような批判が出て来た。(実践向きではない。)  空手の寸止めに近いような打ち方をしている。 明治以降1945年まで戦争に明け暮れる時代が訪れる。 日本刀で捕虜を切ってしまうようなことが起こる。 戦後6年間GHQによって禁止される。 スポーツとして出発する。 楽しみ、技術の深さを知るという事。 日本の文化として強調するのはいいが、伝統と言うと変えてはいけないという風に受け取ってしまいがちになる。(制約を加えてしまっているのではないか。) マニュアルに従って細かいところまで教えているところが多いのではないか。 やり方を決めつけてしまうと新しいものは生まれてこないのではないか。 

「主破離」、最初は師に習う、次にそれを破って、そののちには離れて新しい流派を打ち立てる。 昔の言葉では免許皆伝になって新しい道場を開ける。 千葉周作とか、年代では30歳中場ぐらいです。  昭和初期になると「離」が無いですね。 「破」と「離」をよみがえらせることだと思います。 今は「主」しかないと思います。  チャレンジ出来るような剣道のやり方だと、子供たちはどんどん入ってきて、「鬼滅の刃」からの入口が、剣道増加につながるようになるんだろうなと思います。  真剣を扱っている人を10年ぐらい観てきましたが、座頭市の刀を逆手に持つやり方はありうると思います。 

剣道を53年続けてきましたが、のびのび剣道学校に関わっていなかったら辞めていたかもしれません。 自分の可能性を知ることが出来た。(今までの自分のやり方が違っていたことがわかった。)   使う筋肉を変えなさいという事で、使い方の設計図を変えることで、一番いいスピードも出るし、大きな筋肉を使うので疲れないし、怪我もいないというそういう世界があるという事を教えてもらいまいた。 40歳過ぎてからも足が速くなりました。 日本の伝統的な武術、身体技法の中に凄いものがあるという事を発見しました。 そういったものを取り入れてゆく。  フランスでは柔道人口は日本よりはるかに多い。(60万人ぐらい) 8割は子供で、子供の教育のための柔道を作り上げていて、海外から学ぶことも多いと思う。  剣道自体の歴史から学ぶことも大事だと思います。 足の運び方が全然違う子を見て吃驚しました。 そういったことを伸ばすようにしていきたいと思います。



















2024年4月16日火曜日

林与一(俳優)             ・役者って気持ちいい

林与一(俳優)             ・役者って気持ちいい 

1958年に大阪歌舞伎座で初舞台を踏んだ林さん、1964年にはNHK大河ドラマ「赤穂浪士」で堀田隼人を好演して、一躍スターダムにのし上がりました。 70年近く歌舞伎や新派など多くの舞台のほか、映画、テレビでも活躍し、1994年には第2回菊田一夫演劇賞を受賞しました。 民放のドラマ「必殺仕掛け人」やNHKでは大河ドラマ、「独眼竜正宗」、「八重の桜」のほか、朝ドラ「オードリー」「朝が来た」などに出演して人気を博しました。今年第45回の松尾芸能賞功労賞を受賞しました。 82歳とは思えぬ身のこなしと色気を放っています。 

今年第45回の松尾芸能賞功労賞を受賞しましたが役者をやっていてよかったと思います。  長谷川一夫の真似をしよう真似をしようと思っていて、教えていただいて真似をしていましたが、役者と言うのは真似から脱皮しろと言われました。 長谷川一夫は叔父になります。  東京に出て来た時に俺が預かるという事になりました。  曽祖父になる林又一郎(前名が林長三郎)の弟分で長二郎(長谷川一夫)になりました。(内容がわからない) 長谷川一夫からは寝ている人の起こし方から教わりました。(内弟子の心得をいろいろ教わる。 19歳)  

2022年の作品の映画、2024年に「むじな峠」が公開されます。 監督が戸田博さん。 円空の役です。 お坊さんの役は初めてです。 お坊さんに近いような生活をしながら撮っていました。 「その気になれ」と言われました。 そうすると画面に出たり、舞台でもそういう風に見えるからと言う教えでやりました。 

ユーチューブもやっています。 「与一チャンネル」 家では無口ですが、外に出ると話が出来るようにしています。(長谷川一夫の教え) ラジオ深夜便は大好きです。 僕は踏まれて踏まれて雑草のような生き方をしてきたので、叱られた事、ひっぱたかれた事は覚えていますから、それが肥やしになっています。 今は態度、言葉使いも気を付けなければいけない時代になってしまって、育ってゆくのかなあと心配です。  自分で知っていることをユーチューブで発信しています。

生まれが1942年、現在82歳。 初舞台は昭和32年に大阪歌舞伎座で今東光の「お吟さま」の大阪城に芸を見せに来る役者の役でした。(15歳) 変声期で困りました。 学校にはなかなかいけませんでした。 1964年NHK大河ドラマ「赤穂浪士」でしたが。19歳で長谷川一夫に居候して翌年でした。  NHKに長谷川と一緒に行った時に声がかかって出演することになりました。 原作を読んでおく様に言われましたが、大した役ではないだろうと思ってほっといておきました。 台本が出てきたら、かなりでるので、付き人が出来ないようならば出演をしませんからと言ったら、長谷川から烈火のごとく怒られました。 「俺の用をしなくてもいいから出るんだ。」と言われました。

舟木一夫さんが時代劇をやるんで教えてくださいと、長谷川のところに来ましたが、僕が担当することになりました。 どこで勉強してきたのか、立ち居振る舞いなど教えることは一つもありませんでした。  長谷川の芝居を全部見たと言っていました。 いまだに舟木さんとは大親友です。 

共演する女優の人には、「女の人をいい形にしてあげることだよ。どこに自分の位置をとったら相手がやりやすいか、いい形になるかをみてやりなさい。」と言われました。 それを念頭にやったものですから、共演する女優の人達からは、「与一さんとやると楽ね。」と言われましした。 相手がかっこよく見えれば、自分もかっこよく見える、長谷川一夫の哲学です。 美空ひばりさんと5年やってからやらなくなった時に新派に出てみないかと言われました。 最初に歌手の人との舞台は断ったのですが、長谷川から怒られて出演が決まりました。  いまだに、喜美枝(ひばりの母親)さん、ひばりさん、長谷川に怒られている夢を見ます。  舞台の役、演技に関しては8割がた美空ひばりさんです。 芸の指導もしてもらったりして、あの方は天才です。 長谷川一夫は勉強してたたき上げた人ですから。 喜美枝さんからはひばりさんと二人になる時など厳しく監視がありました。 二人になる時間は舞台の稽古の時でした。 

歌手の小川知子さんと結婚することになりました。 友達のような関係の夫婦でした。 仕事もお互い忙しかったです。 離婚して、別の女性と結婚して4人の子どもがいます。   芸に邁進できるようになりました。  芝居など忙しい毎日を過ごしています。      与一塾を月に一回日曜日に開始しています。  2年ちょっとになります。        














2024年4月15日月曜日

とり・みき(漫画家)          ・〔師匠を語る〕 小松さんは今、宇宙にいるらしい 師匠:作家 小松左京

とり・みき(漫画家)      ・〔師匠を語る〕 小松さんは今、宇宙にいるらしい 師匠:作家 小松左京 

とり・みきさんは1979年の新人賞で「僕の宇宙人」が入賞して漫画家デビュー、又一方では長年にわたってSF文学の巨匠小松左京さんの研究会「小松左京研究会」の創設メンバーの一人として、公私ともに小松左京さんの活動に寄り添って来ました。 小松左京さんは生前弟子は取らないと公言してきましたが、今回は学生時代から、長年にわたって小松さんの薫陶を受けたおひとりとして出演頂きました。 圧倒的な知性とユーモアで「日本沈没」「さよならジュピター」など執筆し、博覧会などビックイベントのまで務めた小松左京さんについての話を伺います。

小松左京さんに初めてお会いしたころは恰幅のいい巨体、トレードマークの眼鏡でした。  知識の大きさに恐れと言うか、畏怖を感じていました。 

小松左京さん、本名「小松実」さんは昭和6年(1931年)大阪で生まれます。 14歳で終戦を迎え、旧制第三高等学校に進み、そのころ「怪人スケレトン博士」と言う作品で漫画家デビューしたと言われます。 作家として世に出たのは31歳になってからでした。 京都大学在学中から同人誌などで小説を書いていましたが、昭和37年(1962年)SFマガジン10月号に掲載された『易仙逃里記』で作家デビュー、翌年星新一さんや光瀬龍達と日本SF作家クラブを立ち上げます。 「日本沈没」を刊行したのは1973年、テレビドラマ、ラジオドラマ、漫画、映画にもなりました。  まさに社会現象でした。 他にも「復活の日」「首都焼失」など話題作を次々に発表した小松左京さん、日本を代表するSF作家であるとともに、その活躍は多方面にわたっています。 

1970年の大阪万博ではテーマ館のサブプロデューサーを務め、花と緑の博覧会エキスポ90では総合プロデューサ-に就任、1984年(昭和59年)公開の映画「さよならジュピター」では原作、脚本、製作、総監督の4役を担いました。  NHKでも小松左京さん原作の少年ドラマ「宇宙人ピピ」、人形劇シリーズ「空中都市008」が1960年代に放送されて、未来への希望と科学の進歩の可能性を子供たちに示しました。  2011年7月小松左京さんは80歳で亡くなりますが、小松さんは宇宙に取材に出た、星になったと表現するファンも数多くいます。 

小松さんの作品に出合ったのは漫画作品でした。 小学校低学年の頃の本で読みました。  この人は小説家なのに漫画のことをわかって書いてくれる人なんだと認識したのが一番最初です。 小学校高学年から中学生で初めて小説と接するわけですが、小松さん、星さんなどの小説を読み始めました。 SF小説にのめり込んでSF専門誌なども読み始めて、或る日SF雑誌の投稿欄を見ていたら、「小松左京研究会」を発足しますというのを見ました。 その会合に出掛け小松ファンの人たちに会い研究会にはいりました。  発起人の土屋さんと僕とで小松さんの家に伺う機会が出来ました。(1978年夏)   

最初会った時にはガチガチに緊張しました。 大阪の人も小松さんが呼んでくれて、ハイレベルな冗談を言ったりしていてなかなかか会話に入れなかったが、ようやく楽団の話になって会話に加われるようになりました。  小松さんが「さよならジュピター」を作ることになり、東京に事務所を開くことになりました。(80年代初め) そこで我々も会う機会が増えました。 小松さんは色々なチャンネルを持っていて、ぞれぞれいろんなチャンネルに詳しい人を集めると自分もいろいろな話をできるわけです。 

1984年に刊行された「しまった」(とり・みき傑作選)の巻末の解説を小松左京さんが書いています。  タイトルが「時をかける漫画家」 「時をかける少女」が好きで話をしていたので、小松さんも理解していてくれて嬉しかったです。 1979年「僕の宇宙人」で漫画家デビューしました。  世のなかの流行を扱った或る作品を手がけていた時に、電話でお叱りを受けました。 もしかしたら思いあがっていたのかなと思いました。 後日お会いしてそのことを話したら全然覚えていないという事でした。(真意は不明。)  その後SF漫画を描き始めました。  

小松左京さんにとって、戦争体験は大きかったと思います。 それを独特な形で表されていたと思います。 SFのような形にすれば、あの時に起きた価値の急激な転換、倫理観、正義と言ったものが一夜にしてガラッと変わってしまうような不条理な思いを、描けるのではないかと思います。  デビュー作の「地に平和を」と言う作品がまずそうですし、その後の短編、長編にも通底するテーマだったと思います。  苦悩をダイレクトに出すのではなくて、エンターテーメントとして自分は出すんだと、それをずっとやられた方ですね。  小松さんは「小松研究会」の若い世代の人とも接して、新しい世の中のトレンド、ミーハーな事など最新の情報を、我々を通じて摂取されていたんだと思います。 

基本的にはポジティブな方だったと思います。 2011年7月小松左京さんは80歳で亡くなります。 小松さんの名前の付いた小惑星があるみたいです。 本当に星になったんだという感じです。 小松さんは巨大な人であるゆえに、孤独なところもあったようです。 常に宇宙と人間と言う事を考えていました。  宇宙と個人を対比すると、圧倒的に孤独なんですね。 チャンネルが沢山あって、一つ、二つのチャンネルでは話す相手はいるが、自分のチャンネルを全て理解してくれる人はいなかったんだと思います。  宇宙と人間とは一体何なんだろう、という事を何とか自分の文学で表現したかったのではないかと思います。 

小松左京さんへの手紙

「小松さんお元気でしょうか。 ・・・今頃どこを航行していらっしゃるのでしょうか。  宇宙を意識し、どうなっているのか知りたくて、そこへ飛び出していこうとする人類。 と言うところまでは自然科学者の、機械工学者の、あるいは哲学者も考える事だと思いますが、小松さんはそれらの分野にも精通しながら、更にもう一段踏み込んで、自分のことを意識し、観測し、知ろうとしている存在を生み出してしまった宇宙は一体人間のことをどう思っているのだろうと、主語を宇宙に置き換えて、話されていたのをよく思い出します。 その点文学者でありSF作家であったと思います。・・・小松さんの優しい笑顔に随分甘えてしまっていたと思います。・・・いまだに釈迦の掌で遊ばされているという風に思います。・・・山崎真理さんとの共作者がいて、完結した「プリニウス」と言う作品はお眼鏡にかなった作品かなと勝手に自負しています。・・・どうか今の地球にがっかりしてつぶしてしまったりしませんように。」
















2024年4月14日日曜日

勝木俊雄(森林総合研究所九州支所)    ・桜が伝える日本人の心

 勝木俊雄(森林総合研究所九州支所)    ・桜が伝える日本人の心

勝木さんは桜など植物分類の専門家です。 2018年には日本の野生種の桜としては100年振りの新種となった熊野桜の発見者としても知られています。 日本医は山桜などの野生種や、ソメイヨシノなど数多くの桜がありますが、その歴史を調べると日本人の愛したもの、求めたものが見えてくると言います。 

桜の分類と保全をやっています。 森林総合研究所は森林に関する有とあらゆる研究機関です。 木材のほかにきのことか、それから木材をどう利用加工してゆくのか、と言うようなこともやっています。 配属されたのが八王子市にある多摩森林科学園で、桜のコレクションの部門があり、桜を研究対象とするようになってから、桜の分類、保全に関わるようになってきました。 日本の桜は10種しかないんです。 ソメイヨシノなど栽培品種で種とは別の基準で区分したものなんです。 自然分類か人為分類かがあり、種の分類は基本的に自然分類で客観的な分類で、栽培品種はあくまで人が区分するものなんです。 形態とDNAを利用しながら総合的に分類していきます。 DNAの抽出は桜の場合には葉っぱを使います。 

栽培品種を中心とした分類体系を再編する仕事をやっています。 分類は、わけることと、ひとまとめにするのが類なんです。 桜はいろんな人がいろんな名前を付けてしまって、違う名前を付けてしまうと、違う名前で扱われてしまう。 「大原渚(なぎさ)」と言う名前の桜が京都植物園にあって、新宿御苑に「汀(みぎわ)桜」という名前の桜があり、DNAでクローン性を調べてみたら、同じクローンだという事が判りました。 汀(みぎわ)も渚(なぎさ)も同じ意味なんです。  大原にも汀桜があるらしいと判ったんです。 

平安時代に梅、桃の花見があったが、桜も見られるようになった。 梅、桃は中国から持ってきたものでした。 日本の土着のものも見直されるようになってそれが桜でした。    種で言う山桜が西日本の丘陵地帯で多くみられた。 大島桜が関東にあります。 元々は伊豆諸島だけに分布していました。 成長力が旺盛でたきぎ桜とも呼ばれていました。   大島桜は白っぽくて花が大きい。 桜は基本的には花びらが5枚ですが、花びらが多いのが大島桜の特徴です。 八重桜は大島桜の血が入っています。 八重桜の主だったものは江戸時代にあります。 

花見は平安時代の上流階級の方々が雅なことをやっていました。 室町時代は武家もやるようになって、庶民レベルがやるようになったのが江戸時代です。 徳川吉宗が政策と言いう事で、飛鳥山、御殿山に桜を見るためにわざわざ作り、庶民に開放しました。 山桜が中心でした。

ソメイヨシノは江戸時代の終わりごろには広がり始めていたようです。 種類としては江戸彼岸と大島桜の種間雑種という事ははっきりしています。  人工交配したものではないと私は思います。 江戸時代には交配技術はまだないです。  染井で生まれたのか、違う場所で生まれたのか、それすらも判らないです。 有ったものを人が接ぎ木で増殖して栽培品種という事になります。  山桜の様に花と葉っぱは一緒には出ないので、花が目立つ。 山桜と違って、ソメイヨシノは大概の場所で大きくなります。 環境への適応性が凄い。  生物学的な寿命と言うのはありません。 いい環境で適切な管理をしていれば、ソメイヨシノは余裕で100年を越えます。 郡山では140年を越えています。 40,50年すると枝が枯れて来たりして木が衰退します。 

野生の桜で熊野桜があります。 紀伊半島の南部に分布しています。 2018年に私が学名を発表しました。 野生種としては100年振りの発見と言う事になりました。 見過ごされていたようです。  色合いはソメイヨシノに似た感じ(うっすらとしたピンク)ですが、白からピンクにグラデーションしている感じです。  

北の方は一個一個の花の咲くばらつきが少ないです。 南はばらつきが大きい。 桜前線は九州だと福岡から南下してゆきます。 温かすぎるとソメイヨシノは駄目になるんです。  鹿児島あたりですと花芽が100個出来ても100個咲かないんです。  今年ですと20個ぐらいです。 寒さの経験がないと桜の花は咲かない。  気候変動もあるかもしれませんが、都市熱の影響も相当ありそうです。 冬場の夜間の気温が町なかだと下がらない。 

桜の絵本を出しています。 ソメイヨシノなども生き物だという事を伝えられればいいかなと思っています。  桜の研究は32年になります。 桜の保全へとシフトしつつあります。











2024年4月13日土曜日

2024年4月12日金曜日

西巻茅子(絵本作家)           ・〔人生のみちしるべ〕 小さな子どもの大きな不思議

西巻茅子(絵本作家)        ・〔人生のみちしるべ〕 小さな子どもの大きな不思議 

西巻さんの初期の代表作の一つ「わたしのワンピース」という絵本、お子さんやお孫さんと一緒に読んだ、今まさしくお気に入りで読んでいるという方もいらっしゃると思います。 今年で発売から55年、西巻さんにとって3冊目の絵本でした。 西巻茅子さんは昭和14年東京の生まれ、今月85歳になります。 東京芸術大学工芸科を卒業、学生時代から版画、リトグラフを手掛け、卒業後、日本版画協会展に出品し、新人賞、奨励賞を受賞。 当時は日本の絵本の創成期、西巻さんの新鮮な版画の作品は絵本の関係者の目にとまり、絵本つくりの声がかかります。 絵本作家となって60年、去年絵本つくりから引退したという西巻さんにお話を伺いました。

仕事を辞めて、それまでずーっと締め切りがある暮らしを続けてきたので、辛いなあと思っていましたが、今はホッとしています。 凄く気ままです。 デビューが昭和42年、28歳で、『ボタンのくに』と言う作品でした。 平凡社の給料がよかったので試験を受け就職することになりました。  しかし本採用通知が来なくて、電話をしたら「入社できないことになった」という事でした。 社長は3名では多すぎるからという事で入社は出来ないという事でした。(成績は1番だったが、男子1名、武蔵野美大は落とす訳にはいかない事情あり、と後で聞く。) でも雑誌の仕事を貰ってそれからずっとフリーランスでやって来ました。 長 新太さんの絵本を見て綺麗な本だなあと思いました。 子供のころは絵本などは観た事がありませんでした。 

絵本の仕事が出来るかもしれないと思いました。 父が自宅で子供に絵を教えていて、手伝ったりしていたこともありました。 幼稚園で子供のアトリエとして教えていました。(毎週土曜日) 子供たちが素晴らしい絵を描くことには吃驚しました。  人間は絵を描く動物だったんだと思いました。 母はお嬢さん育ちで、洋裁学校に行ったりテニス、ダンス、ピアノなどやってモダンガールでした。  父と結婚して洋裁をやって稼がなければいけなくなった。  父は絵を描くが金にするという事はやらなかった。 世のなかと美術はどういう関係になっているのか知りたかった。 結局は心の問題だという事が段々判って来ました。 あの子供たちの様に私も心の底からの絵を描かなければいけないんだと思いました。 デッサンは絵画の勉強方法に過ぎなくて、それを全部やって良い絵が描けるのではない。 だから全部忘れようと思いました。 

三作目の「わたしのワンピース」はロングセラーとなりました。 私の絵本の中で一番売れている本です。 白いウサギが主人公で、或る日空からフワフワっと落ちて来た白い布で、ウサギがミシンでワンピースを作りました。  ワンピースを着て出かけて行くといろんなことが起きるという、ファンタジーの絵本です。 1冊目、2冊目は絵本がどういうものかあまり知らないで描いていました。 絵描きしか描けないような絵本を作りたいと思いました。 3冊目はそういった思いで作りました。 編集会議では白いワンピースが花模様に描かれたり、水玉模様に描かれたりすることに対して問題視されました。 私の意見に対して賛成の人はいませんでした。 結局西巻さんが言うならそうしましょうという事に社長が言ってくれました。 しかし本が出来ても誰も褒めてはくれませんでした。 

5,6年経ってから新聞に、常に貸し出し中の本という事でこの本が紹介されました。   私は一番うれしかったです。 一時期は絵本を描くことを辞めようと思ったこともありましたが、辞めないでよかったと思いました。 大人が判っていない、子供たちは判ってたんだという感じです。 

「えのすきなねこさん」 講談社出版文化賞、絵本賞を受賞。 父が亡くなって絵の道具を私の家に持ってきました。 それを見ながら絵描きさんの猫を描こうかなと思いました。 「絵なんて何の役に立つのかな。」と言った言葉が何回も出てきます。 猫は「僕は絵を描くことが好きで上手で本当に良かったと思いました。」と言います。  家の父もそう思っていたと思います。 人間は歌を歌ったり、ダンスをしたり、詩を詠んだり、という事を昔からやってきています。 それは人とのコミュニケーションでしょう。 芸術はみんなコミュニケーションだと思います。 言葉ではない、心と心を繋ぎ合わせるためのものだという事が判りました。 子供が好きだという事は心が喜んでいるわけです。 道しるべ、父の後を追ったと言えば、追ったんでしょうね。 それと「女だてらに」と言う言葉が有りますが、「女だてらに」頑張ってきたと思います。  お金を稼いで自分の力で生きて来たかった。  絵本が子供の心に伝わればそれでいいと思っています。









 







2024年4月11日木曜日

澤田誠(脳科学者)            ・脳を探る

澤田誠(脳科学者)            ・脳を探る 

澤田誠さんは脳の研究に取り組みおよそ40年、人が生きるために脳は重要な役目を果たしています。 記憶は脳で作られ30歳を過ぎると記憶力が落ちてくると言います。 何故落ちてくるんでしょうか。 記憶をなくすという事は脳にどのようなことが起きているのでしょうか。 人工知能の進む現代、人工知能と脳にはどのような違いはあるのか。 人間の脳はまだまだ未知なることが多いと言われます。 脳を衰えさせないためにはどんなことが大事なのか。 脳研究一筋名古屋大学名誉教授澤田誠さんに伺いました。

多細胞生物はその細胞が動くのにコントロールする仕組みが必要です。 脳と言うほど発達していないが、神経系と言うのがあり、いろいろな動き、外からの感覚、情報を取り入れて自分の行動、どういう風に動いていくかを決めるために、脳の原始的な神経系が必要で、それが集まったのが人間とか、動物にある脳です。 

記憶と言うとコンピューター,AI、ロボットとかが、感情を持つとか、夢を見るとかと言うような人間の脳が行う事まで出来るのか出来ないのかという事が、議論になりました。 現在の技術力では人間の脳に相当するような能力を持ったAIは出来ないです。 生成AIといわれているものでも、新しいことを作り出すということは、なかなか難しいです。  無い情報を作りだすという事は今のところ出来ないです。 脳は色々な新しい発想で新しいものを作ってゆくのが脳の役割、脳の特殊な機能で、これを作り出すのは脳の神経細胞が使っている機能だけを模倣した様なAIなどは難しいのではないか思われます。 脳の90%ぐらいは神経細胞以外のグリア細胞で覆われている。 グリア細胞に機能は完全には解明されていない。 この機能をコンピュータに盛り込むことが出来ない。 私がテーマにしているミクログリアは記憶を食べる細胞と言うことで紹介されていますが、新しい記憶を作るのにもミクログリアは機能するし、必要のない記憶を作っているシナプスと言うものを食べちゃって、悪い記憶を排除するような役割をしている。 脳に必要な情報だけを貯め込むような働きをしている。 これはAIではなかなか出来ない。 

記憶と言うのは色々な情報の塊が記憶ですが、一つの記憶でも、目から入って来る視覚情報、音、味、触覚などの情報が一つの情報の塊になって一つの記憶と言う形になる。 視覚の情報、音の情報、などの別々の神経細胞が数千から数万個のネットワークを作って、それが同時に活性化されると視覚の情報、音の情報、などが一緒になって一つの記憶を作るんです。 一つの神経細胞は別のネットワークにもかかっています。 たまたまある記憶を思い出している時に別の情報まで活性化されると、全然かかわりのない意識の情報でも、たまたま結びついてしまうようなことがあると、新しい発想になって発明になったりすることが起きます。 AIだとなかなかその機能が出来ない。

新しい神経回路を作るシナプスを形成するときにも、グリラは役割をはたすし、シナプスが壊れないように維持する働きもするし、要らない、悪い情報を伝えるシナプスは食べて排除する。 グリラがきっちり働いていると記憶が出来ることになる。

感情は人それぞれが出てくるもので、外から観ていて判らないのが感情です。 情動は動きがあり、外から観て判るので脳科学の分析の対象になりうる。 とっても嬉しい情動は「快」の情動、怖い、不安とかが「不快」の情動で、深いと優先的の記憶にとどめるようになる。 重要な情報をとどめておくと判断をするような情報の塊(マインドセット)が、あらかじめ脳がシュミレーションをして、生き残るためにはこういうことをした方がいいと、マインドセットを作るわけです。 マインドセットは今までの経験に基ずくものなので、これが個性という事になります。 寝ている時にマインドセットが更新される。 脳は起きている時には今起きていることに手いっぱいとなる。 

短期記憶と長期記憶を比べてどっちが得か、取捨選択をして得なほうを長期記憶に書き直してゆく。 脳の働きの大部分(99%)は無意識なんです。 意識の部分は1%しかない。自分が生き残るために必要な情報で、勉強などをしても必要な情報であるとは判断しない。本能と言うのは我々の記憶とかとは関係ない。 人間は弱い動物だが集団生活をすることによって、文明を発達させてきて、生きながらえて来た。  コミュニケーションをとるには本能だけで動いていると集団生活が出来ないので、意識と言うものを機能的な部分として作って、それが全体をコントロールしているような気持にさせている。 欲望だけで動くと破綻してしまうので、意識で無意識の部分にアクセスできないような仕組みになっている。

重要な情報が沢山あればあるほど選択肢が広がって、それが寝ている時に、たまたま結びつくと新しい発想とかになる。 頻度は寝ている時が多いが、起きている時にもハッと思いつくことがある。 健康的な体と健康的な睡眠、いろいろ経験をして情報を捉えることが必要となります。  

AIは今ある情報を探知して、今あるものを組み立てて、あたかも人間が作ったように組み立てる。 脳の情報の取捨選択は、自分にとって良い事か悪い事か、子孫が生き残るために良い事か悪い事か、という事を判断基準にしている。 つまり情動が基準になっている。 コンピューターは子孫のことなどは考えないし、自分にとっての価値判断はしない。 人間の脳とAIの記憶の本質の目的論が違う。 

人間の脳は1000億個ぐらいの細胞ですが、一個の神経細胞に一個の情報が蓄えられているという考え方がありましたが(30年前)、もっと沢山の情報を蓄えられるというポテンシャルは持っています。 ネットワークが情報の保持に関わっている。 記憶の情報をあいまいにしておくという特徴があります。 要らない情報は排除して情報量を少なくしている。 自然界のなかで全く同じ現象はあり得ないので、だいたいこういうものだという事が判断できると、応用が利きやすい。  脳はわざとあいまいにしておいて、情報の抽出をする。 

人間の脳の細胞の寿命は大体120年だと言われています。 脳は20代後半、30代ぐらいになると神経細胞が一日数万個単位で減って死んでくるんです。 80,90歳ぐらいでも何もなければ正常な機能を保ったままで、20%ぐらい減っても脳はちゃんと活動することが出来ます。 神経細胞は入れ替わることが出来ない。 活動が多い神経細胞、死にやすい細胞があって、それが海馬に集中しているので、老化に伴って神経細胞が減って来ると記憶力が低下するということは起こりうる。  

人の名前が思い出せないのは、長期記憶のなかに陳述記憶と非陳述記憶があり、陳述記憶の中にエピソード記憶、いろいろな単語とか意味記憶と言って、脳の働きが違うものを使うんです。 エピソード記憶の方が生きるための情報をたくさん含んでいる。 名前などの意味記憶の方は生きるための情報にはあまり必要はない。 脳は名前などの記憶は苦手なんです。

微小脳梗塞(隠れ脳梗塞)と言って小さい血管が詰まったりすると、その先の神経細胞が死んでしまうことが起こる。 そこで80,90歳代で脳の働きが悪くなってしまう。   身体にとっていいことは脳にとってもいい事です。 程度な休息、過度なストレスがかからない、暴飲暴食は良くない、良い睡眠(深い睡眠と浅い睡眠は脳にそれぞれ違った役割を持っている。 4サイクルぐらいして浅い状態の時に目が覚める。)、などです。 まだまだ脳は判らないことだらけです。

*微小脳梗塞 危険因子には、加齢、高血圧、糖尿病脂質異常症慢性腎臓病、過度の飲酒、運動不足や喫煙、肥満、過労・ストレス、家族歴などがあります。この中でも、最大の危険因子が高血圧です。



















2024年4月10日水曜日

川島良彰(実業家)            ・最高の一杯を世界へ〜コーヒーハンターのあくなき挑戦

川島良彰(実業家)       ・最高の一杯を世界へ〜コーヒーハンターのあくなき挑戦 

自然環境と人権を守りながら生産者の市場を作り、維持するのが私の使命と語る、1年のうち1/3以上を海外で過ごして50か国2500以上のコーヒー農園を知るという「コーヒーハンター」こと川島さんのお話を伺います。 川島さんは静岡のコーヒー焙煎業の卸の長男として生まれて、小学生のころからお父さんの焙煎をそばで見てコーヒーを味わってきました。   反対を押し切って18歳で単身南米エルサルバドルに渡って、国立コーヒー研究所に入所、コーヒー栽培と精選を学び、帰国後は大手コーヒー会社に入社して農園開発?に携わって来ました。 そこを退職後スペシャルティーコーヒーと呼ばれる最高品質のコーヒーを日本で紹介する会社を立ち上げて世界の農園開拓?を行いながら、コーヒーの美味しさと楽しさを伝える活動を今も続けています。 その川島さんの行動力を支える信念とはどういうものなんでしょうか。 

フルーツ感を生かすにはあんまり煎らないようにして。コーヒー本来の甘さを感じていただけるような焙煎具合にしています。(薄い茶褐色の透き通るような感じ 苦味とかえぶみ?みたいなものが全然ない。)  うちは完熟豆しか扱っていないので、すっきりしたのど越しのいいコーヒーになります。 色を見ると薄いような感じがしますが、密度の高いコーヒーなのでしっかりと・・?に感じていただけると思います。 これこそ本当のコーヒーです。 コーヒーはフルーツだと実感していただけるようなコーヒーを飲んでいただければと思います。 

今13か国からコーヒー豆を買っています。 70か国ぐらいはコーヒーを生産せていると思います。 赤、黄色、ピンクに実りますが、熟したコーヒーの中に種が二つ入っていて、種を焙煎して粉砕して抽出するのがコーヒーです。 うちで使うコーヒーは全て産地に行って生産者に会って、畑を見て、うちのスペック通りのものを作れるかどうか確認をして、生産者と一緒に作ってもらっています。 自然環境は非常に重要です。 寒暖差が激しいほど密度の高い美味しいコーヒーが出来ます。 高級、中級、低級品と有るとしたら、それぞれで美味しいコーヒーは獲れるわけです。 それぞれのグレードでいいものを作ろうとしています。 

今の会社を立ち上げたのは51歳の時です。 ホームページには「自然環境と人権を守りながら生産者の市場を作り、維持するのが私の使命」と書かれています。 僕がエルサルバドルに行った年はエルサルバドルがコーヒー生産が世界3位になった年でした。(1975年) 四国よりちょっと大きいぐらいの国ですが、技術が凄く進んでいます。  1975年にブラジルで霜が降りて、コーヒーの価格が7倍程度になりました。 お金持ちだけが利益を受けて貧富の格差が広がり内戦に突入しました。 僕がいたエルサルバドルの研究所も跡形もなく亡くなってしまいました。 世界3位だったのが1/10ぐらいしか獲れなくなってしまった。 2001年から2003年にかけてコーヒークライシスと言わrて時期がありました。  大暴落してしまって、コーヒー農家がやって行けなくなってしまった。 (マネーゲーム対象になってしまった。)  

日本はそういった生産者に対して何もしなかった。 二つの経験から僕らは美味しいコーヒーを飲めなくなるんじゃないかと思いました。 生産者がちゃんと暮らせるような市場を作るのが、僕らコーヒーマンとしての仕事ではないかと思って、この会社を2008年に立ち上げて、国際価格と関係なくして、生産者の人に理解していただき、品質に見合った価格で買うような市場を作ることが必要と思って、この会社を作りました。 自然環境、人権と言う事も大きなテーマになっています。 

父が砂糖とミルクの入ったコーヒーを作ってくれて幼稚園ぐらいから飲んでいました。  中学から自分でサイフォンでいれて飲んでいました。 コーヒーに囲まれて育ちました。  小学生の頃には生産地に行ってみたいと思うようになって、ブラジル大使館に手紙を書いて、 ブラジルのコーヒー園で働きたいが、相談に乗ってくれと出しました。 ブラジルのコーヒー鑑定士の資格を取るのが、コーヒー屋の跡継ぎの王道みたいな感じがありました。 父はそれを期待していたが、僕は栽培から勉強すれば、自信をもってお客様に提供できると考えていました。 高校卒業後留学することになりました。 父はクオリティーを重視していました。

今では世界第4位(アメリカ、ブラジル、EU、日本)のコーヒー消費国ですが、当時は日本はニューマーケットと言われていて、良いコーヒーは入ってこなかった。 父は豆を選別して品質にこだわっていました。(当時日本ではそんなことはしていなかった。) 1960年代母がコーヒー店を始めて、そっちの方が当たりました。 

父が視察団として出かけて帰ってきたら、突然「メキシコに行くか。」と言って来たんです。 父は駐日エルサルバドル大使と親しくなって、メキシコへの伝手の話などしたら、エルサルバドルに来いという事になり、1時間後にはエルサルバドルに行くことが決まりました。  大使の妹さんのところに下宿することになりました。 大使にはエルサルバドルの貧民街を案内されました。(多くの人たちの生活状況を目の当たりにする。) 大使からは①どんな時にも対応で来るようにいつも準備しておきなさい。 ②ストリートスマートになりなさい。(生きのびることにかしこくなれ。)この二つを言われました。 この二つの言葉のお陰で今まで無傷で来られたのも、困難を乗り越えられたと思っています。

大学に通って、その後国立コーヒー研究所を訪ねました。 アポなしで行って所長にあったら、警備員に放り出されました。 毎日一か月間通って、日本人の最初で最後の研究生として受け入れて貰えました。  ものが無い国なのでものが無かったら自分で作るし、労働者たちは自分でなんか対応してゆく力は凄いと思いました。  労働者たちからいろいろ聞いて勉強になりました。 彼らの1/10も収穫できなくて能力の低さを痛感しました。 エルサルバドル人は凄く親切で、優しくて、おせっかいなぐらい人のことを気にしてくれ、働き者です。 75年行って77年ぐらいから政情不安になってきて、79年には革命が起きて81年には市街戦が起きるようになって、国立研究所なのでゲリラにも狙われました。 政情が安定するまで外に行った方がいいと言われて、ロサンゼルスに行きました。 

日本に帰らずロサンゼルスに行たのは、栽培が面白くなってしまって、父の焙煎卸業を継ぐ気がなくなってしまって、産地で生きるからと両親に手紙を書いたら、勘当されてしまいました。 そこで大手のコーヒー会社からスカウトされて、ジャマイカに行きました。(25歳)  いきなり3億円使って3か所の農園を作れと言われて、凄いプレッシャーでした。 ジャマイカの人口の95%以上がイギリスの植民地時代に奴隷として連れてこられた人たちなので非黒人に対して猜疑心が凄かったんです。(独立して19年目)  技術は遅れていました。 何故日本人に教わらなければならないのかという思いが強くて、信頼を得るためには苗のクオリティーの違いを見せつけることから始めて、技術的な信頼を勝ちとることが必要でした。 もう一つは人間としての信頼関係を築かなければいけなかった。 一緒に酒を飲んだりパンチパーマにしたりしました。  

ジャマイカは治安が悪くて、エルサルバドルより怖かったです。 麻薬、強盗、殺人発生率も高かったです。 身の危険をしょっちゅう感じていました。 でも怯む訳にもいきませんでした。 1988年9月20世紀最大と言われたハリケーンにジャマイカを直撃しました。  その時には農園が全滅しました。 僕の住む家も全て亡くなってしまいました。  焦燥感とどうしようもいない状態でした。 治安もさらに悪くなりました。 ハリケーンで亡くなった人よりも略奪で死んだ人の方が多かったですから。 眠れなくてラム酒を2日に一本飲んでいました。 必死で半年で農園を復活させました。 コーヒー園は自分の命とおんなじだと思っています。  コーヒーが好きだからできるので、世の中の人にコーヒーをもっと知って欲しいという気持ちはあります。 必ず産地に行ったら新しい発見があります。 それがあるからどんな辛い旅でも我慢が出来ます。 

















2024年4月9日火曜日

追分日出子(ノンフィクション作家)    ・話を聞いてこそ、書けること

追分日出子(ノンフィクション作家)     ・話を聞いてこそ、書けること 

追分さんは1952年千葉県出身。 慶応義塾大学文学部卒業、カメラ雑誌編集部、週刊誌の記者を経て、「昭和史全記録」、「戦後50年」、「20世紀の記憶」など時代の記録する企画の編集に携わります。 雑誌の人物取材なども数多く担当しました。 著書に「孤独な祝祭佐々木忠次」去年11に「空と風と時と 小田和正の世界」を出しました。

小田和正さんとは2005年に雑誌の現代の肖像と言う、4か月ぐらい密着して取材して書く企画で、取材しました。 以降繋が出来て、当人、周りの関わった方を含めて話を聞いて、評伝と言う形になりました。 コロナ禍の4年間ずっとこれに集中しました。 メロディーメーカーとしても作詞家としても凄い人なんだけれども、こういう思いをもって、こういう悩みながらと言ったことが凄くよくわかる本です。 

最初はお兄さんの兵馬さんにお会いして、お話を伺いました。  小田薬局という薬局を戦後すぐに両親が開きました。 お母さんの一番下の弟さんの奥本さん?(90代)という人にお会いしました。 はと子とか取材の人が次ぎ次ぎに広がってゆきました。  小田さんは母親は好きだったけれど父親は嫌いだとしか判らなかった。 その謎が何だったのか、という事を含めて、実際はどんなかたがただったのか、興味を持って取材をしました。 

取材で聞きにくいことは、周辺取材をします。 周辺取材は謎解きです。 相手が許せば半日はしゃべっています。 取材という感じではなく世間話みたいです。 小田さんに2005年から取材を始めましたが、最初から面白かったという感じです。 ライブにも帯同しました。 気が付いたことなどは全部メモったり、MC(ライブコンサートなどで、曲の合間にアーティストや演奏者が話をすること)は全部録音したりしました。  会場、会場によって違いや特等もあります。 現場に立ち会えたのはありがたかったし、楽しかったです。 発見して発見を繋いでゆく。 発見があるとわくわくしていきます。      「孤独な祝祭 佐々木忠次」  佐々木忠次さんはプロデューサー。 バレエとオペラで世界と戦った日本人。 或る意味、謎解きです。 

大学では7年間好きなことをやりました。 アメリカやカナダの放浪の旅を1年ぐらいしたりしました。 地下鉄でパスポ-トから財布から全部すられた事もありました。(1970年代) 最初はバンクーバーに友達がいたので彼女を頼って行きました。 そん後はなり行きです。 小さな事には悩みますが、人生の大きな事には即決します。(そのことに気が付いたのは最近です。) 私の人生は人との出会いのみで、ひょんなことから「文章を書いてくれないか。」、と言われて始めました。 

最初のインタビューは篠山紀信さんでした。 毎月毎月やっていた仕事です。 その後大特集をしました。 

「20世紀の記憶」という22巻分の本を編集長と二人で企画から考えて、10年近くかけてやりました。 100年のそれぞれの1年がどんな年だったかと言う事で、橋本治さんに頼みまして橋本さんから100本原稿を頂いたのは、凄く記憶にあります。

人物像を書く時に他人が書くことは一切書かない、こういう人だと言うイメージは一切排除するとか、勝手には書けないので取材を通じて、周辺取材は過剰なほどやります。    固定観念で語られている人とは違う顔を見つけたいとか、その思いは凄くあります。   基本的に凄いなあと言う思いがまずあってこそ、その方を取材するという感じです。   基本的にいつも楽しかったです。 私の勝手な思い込みや、先入観は排除します。 だからこそ沢山取材します。 























2024年4月8日月曜日

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕

 穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕

 昔ながらの文語から日常の日常に変化していった切り替わりの世代なので、考え深いというか、随分変わったなという感じはあります。

「春」と言うテーマで、副題として「別れと出会いの季節」だなと思いました。 日本の場合には卒業、入学、入社と言ったものが春になるので、そのイメージがわれわれの中にはあると思います。 

*「全員がアトムとウランの髪形の入学式よ光るはなびら」         穂村弘

鉄腕アトムと妹のウラン、二人とも不思議な髪形をしている。 今はバリエーションがある。昔はおかっぱ頭、坊主頭だったり均一感がありました。

*「きらきらと自己紹介の女子たちが誕生石に不満をのべる」        穂村弘 

自分は何月生まれで誕生石が何とかで、本当はルビーが良かったのに、と言うのを聞いてびっくりしたことがあります。 

*「中一コース年間購読予約して万年筆を貰える春よ」           穂村弘

当時万年筆と時計でしたね。  中一コースは小学校からの節目なので、年間購読予約した人には万年筆をプレゼントするというコマーシャルのようなものがありました。  万年筆は高級なイメージがありました。

*「へびっぽい模様の包み入れられた卒業証書は桜の匂い」         穂村弘

わに革の模様らいいですが、重厚なへびと桜。

*「姉ちゃんは着てみていいよと言ったけど見ているだけにしたセーラー服」松田わこ(妹)

着ていいよと言われてるけれど、そこで着ちゃうと、本当に着れる春までなんか自分でも待つみたいな、待つ初々しい感じが凄く伝わってきます。

*「掲示板私の受験番号が私を見つけて飛びついて来る」        松田梨子(姉)

*「受験番号が私を見つけて飛びついて来る」凄くよくわかります。

*「シャボン玉近づくように笑い合う「桃?って呼んで」「梨子?って呼んで」」

「シャボン玉近づくように笑い合う」と言うのは素晴らしく上手な表現です。 楽しそうなんだけれども近づき過ぎると割れてしまう。 初対面の二人ってそういうところがありますよね。

*「妹が私とおなじ制服を着ている不思議新しい春」         松田梨子(姉)

*「新しいセーラー服を着た私家中の鏡に見せに行く」        松田わこ(妹)

この姉妹は短歌が上手ですね。

*「サーティーン少し長めに言ってみる銀色の楽器みたいで素敵」   松田わこ(妹)

サーティーンは中学生でこれが「楽器みたい」というのが凄いですね。 サーティーンは金属的な響きがあります。

この姉妹と対談した事がありますが、物凄く愛されて育っているという感じがします。  彼女たちは5,6歳ぐらいから歌を作っています。

*「どの行事も写ってなくてと近影を卒業アルバム委員に撮られる」    高橋鉄平?

短歌はそういったことも短歌にして残して置ける。 

*「愛のこと甘く見ていた春の駅人の気持ちを甘く見ていた」       石川明子? 

具体的なシチュエーションは書いて無いが、状況とかではないかなあ。 

*「容疑者の写真は卒業アルバムであの日の私とどこか似ていて」     鈴木美津子?

人生がバラバラに変わってゆくのはその後ですね。 幸せになったり逆だったりで、この場合は容疑者に。 でも私と似ている。

*「入学式好きな食べ物レモンだといいしあの子の訃報を聞き」     モカ?

好きな食べ物がレモンだという、特別なアピールだと思う。 そのことが印象に残った。 若いころの訃報だと思う。 

リスナーの作品

*「女子徒競争五位の子を五の旗へ男子生徒は触れず導く」       牛尾渚?

下の句に感じが出ています。

*「明日家を離れ行く母前掛けのリボン結びが揺れる台所」      ひらひらひらら?

どうして離れゆくのか判らないが、万感の思いがあるような気がします。

*「たった一ミリの棘だってほっとけば指は腐ると兄の遺言」     みずすぽっと?

怖い遺言だけれど、比喩として象徴的なことを言っているんですかね。 人間関係か?

*「残雪を踏みしめながら唱えてた降りたら絶対桜餅買う」       ぷんすけ?

雪と桜で,色の対比、季節感の対比があって、苦境をぬけたらあれを、みたいな、ご褒美を置いておく。 

*「チョコレート貰えなくても平気だがあれだけあって一つもなしか」  平井義彦?

世のなかにあれほどチョコレートが溢れているのに、自分のところには一個も来ない。  口調が面白い。

*「雷が鳴った時だけテレビ消して雷見てる雷見てる」         栗川?

雷ってつい見てしまう。 臨場感があります。

*印は漢字、かな、人名など違っている可能性があります。



2024年4月7日日曜日

東地宏樹(俳優・声優)         ・〔時代を創った声〕

東地宏樹(俳優・声優)         ・〔時代を創った声〕 

ウイル・スミス、サム・ワーシントンなどの俳優の吹き替えをはじめ、多くのアニメにも出演。 ゲームの主役の一人クリス・レッドフィールド役、ネイサン・ドレイク役など。 バイオハザード(サバイバルホラーゲームのジャンル)は最初に発売されたのが1996年。  クリス・レッドフィールド役は今に至るまでやらせて頂いています。 ゲームはやらなかったです。 

東京都出身、父は書家の東地滄厓。 私は書道は小学校6年で8段でした。 中学からは全くやっていないです。 書道は幼稚園のころから始めました。 母は家で書道教室をやっていました。(100人近く来ていた。)   父は酒が好きで朝帰りで、昼頃におきて演歌を聞きながら書道を書いていました。 そういった姿を見てかっこいいと思って書道家になろうかと思っていました。 海苔が好きで「のり」と初めて3歳の時に書いて、それを見た父が凄く上手だと父が喜んでいたという事を母から聞きました。  中学受験で立教中学が受かって、サッカー部に入りました。 エスカレーター式でしたが、中学3年で立教高校には行けなくなって都立高校の試験は終わってしまっていて、私立しかありませんでした。 受験勉強もしていなかったので偏差値の低い高校に行きました。 部活など一切やりませんでした。

1年間浪人して予備校に通いました。 日大の国語と英語の2教科だけの日大芸術学部の一番競争率の低いところを見つけました。  演劇学科の演劇コースでした。(9倍)    二次試験ではいろいろ演技をさせられますが、書道の道に進もうと思っていたので、演劇に進む気が無かったので演技が全然やったことはありませんでした。 でも受かりました。  1年間は書道をやりましたが、友達の影響で演劇にも興味を持つようになりました。 3年の時に書道への道は辞めることを親に相談しました。  父はOKしてくれました。 父は20歳のころに演劇に興味があったが、書道の道に進めば成功すると言われて、演劇の道は諦めた経緯があったようです。 芝居の道に進む事を決めました。 

4年生の時に、ラジオCM、テレビCMのナレーションの話があり、テープをとったら直ぐ仕事の話が来ました。 卒業後も仕事をして収入は多かったです。 或る時、吹き替えの話が来まして興味を持ちました。 恋愛映画「世界の果てに」というものでした。  吹き替えのテクニックは無くて、僕だけ後日とるという事になりましたが、それでもなかなかうまくいかなかったので、自分の吹き替えの人生は無くなったかなと思いました。 2年後にまた吹き替えの話が来ました。 その時にはみんなと一緒にとったのですが、凄く褒められました。

金曜ロードショーの番組のウィル・スミスのオーディションがあり、受かりました。     メン・イン・ブラック』の主役でした。  周りの声優の人たちは役者の方々に負けることなくやっていて、触発されました。  その後沢山の吹き替えの役を担当してきました。  サム・ワーシントンさんは凄くしっくりきました。  

ゲームに関しては、洋ゲームでは様々な音質のものあり、その台本は10cmぐらいあって、何日もかけて一人でやるわけです。 「おい」と言うだけでも20種類ぐらいあります。 千葉繁さんとの掛け合いが凄くよかったと言われて、東京ゲームショウに千葉さんと僕が呼ばれて行って、アドリブで生で4,5分当てってくれと言われました。(サプライズ企画) 東京ゲームショウの人たちは喜んでくれて、千葉さんと僕もしばらく興奮していました。

先輩と絡んでやると安心感がありやりやすいです、まだまだご一緒したいです。 役者として、声優として大切なことは人柄だと思います。 一緒にやる時に、最終的には楽しい方がいいと思いますので、重要かなと思います。  若い人たちへのアドバイスとしては、制約を外した生き方をしなければ、自分の生活、生き様などが出てくるので、喜怒哀楽を演技の前に、人間として大切なものを自分の中に持っていなければ、表現は出来ないと思っているので、最終的に重要なのはその人にしか出来ない、という事で次の仕事に繋がるので、自分のパーソナリティーを磨くためには、普段の生活、喜怒哀楽をより経験が出来た方がいいような気がします。 健康を大事にしながら、逃げずに何でもやろうかなと思っています。  その後にはなんかがついて来ると思います。








。  






2024年4月6日土曜日

2024年4月5日金曜日

田中 秀明(樹木医)             ・桜の新種を追い求めて!

 田中 秀明(樹木医)             ・桜の新種を追い求めて!

田中さんは40年余りに渡って桜の品種調査、研究と取り組んできました。 田中さんが長年追い求めていたのが、800の品種の中にもないという白い花の枝垂れ桜。 2018年春についにその白い花を発見しました。 どこでどの様に発見してどんな名前が付けられたのか、田中さんに桜の魅力、花の愛で方、知られざる全国の名所や銘木を併せて伺いました。

桜の開花時期になると調査があるので、咲く時期に振り回されながらあわただしくしています。 東京の下町の生まれで、子供のころは谷中の墓地、上野公園にソメイヨシノの花見に家族で出掛けたりしていました。 小さい頃から植物が好きでした。 高校は園芸関係の高校、大学は東京農業大学に進み、植物の病原菌の研究をして、卒業後は民間の樹木園に入社、公益財団法人の日本花の会に入社、茨城県の農場で桜の苗木生産や育成、品種調査などの研究に携わってきました。 現在は国内外から集めた約400種類の品種1000本の桜が植えられていて、日本植物園協会と言う団体でナショナルコレクション認定と言う制度を設けて、認定されてます。 

1989年にさくら見本園の担当になって、様々な桜と向き合うようになりなました。 僕が担当していた時に名前だけで800以上の桜が農場に保存されていました。 様々な色の桜にすっかり魅せられてしまいました。 品種の特性調査は進められていなかったので、一本一本に番号を付けて特徴など品種の整理を続けてきました。  農場にアマチュアの桜研究家の方で川崎哲也?先生が毎年きて、桜の見分け方を教えていただきました。 写真は一部にしかピントはあわないが、スケッチはより詳しく見ている。

日本花の会から桜の名所作りを応援しようという事で、名所を作る為の品種のアドバイス、桜の育成、保存管理に関する知識を取得して樹木医に認定されました。 茨城県の農場で桜の苗木を生産して、名所作りを希望する住民団体等に苗木を提供することをやっています。 8種類ほど選んで提供しています。 ソメイヨシノについてはテングス病と言うのがあり5,60年で枯れてしまう。 テングス病が全国的に拡大していることが判りました。  ソメイヨシノの提供は辞めることにしてそれに代わる「ジンダイアケボノ」というテングス病に罹りにくい桜なので、ソメイヨシノを希望するところには提供しています。 もともとは神代植物公園に植えられていたものです。

私が作った桜もあります。 さくら見本園には400種類以上の桜が保存されていています。 種をまいて3~5年してから選択して、僕が選んだのはヤエベニシダレという八重咲きの枝垂れ桜です。 花は非常に美しいが、枝が垂れるので植えられる場所が限られてくる。 「マイヒメ」と言うのは花は母親とそっくりなんだけれど、枝が枝垂れない。  ソメイヨシノの様にまず花で覆われて、淡コウ種?の美しい桜が誕生しました。  花の会が50周年を迎えてその時にお披露目しようと一般に名前を公募して「マイヒメ」にしました。 全国に植えてもらっています。 

枝垂れ桜が記念樹に植えられることが多くて、「ベニシダレ」と言う系統が何系統かありますが、白い枝垂れ桜と言うのが無かったんです。 長年探していました。 2018年の春にようやく出会う事ができました。 上野公園で高さ10m、樹齢が70年ほどの白い枝垂れ桜を見つけました。(灯台下暗しと言ったところ)  環境によって色合いが異なったりするので、本当に白い花が咲くのか、3年継続して観察しました。 接ぎ木で増やした苗木が同じ花を咲かせるのかも観察しなければいけない。 それで新しい品種として発表することになります。 発表したのは2022年です。 上野公園には「コマツオトメ」という新しい品種も発見されいます。 名前の公募をして「上野白雪枝垂れ」と言う名前になりました。 

ソメイヨシノをバックにして食べたり飲んだりするお花見を楽しむこともいいですが、文化財として価値のある桜の花一本一本愛でるのもいいのかなあと思います。 上野公園には50種類以上の桜があります。 桜を愛でる場所はインターネットで様々な場所を観ることがが出来ます。 

河津桜、山口県上関町城山?歴史公園  2月中旬から下旬です。 「ヨコワサクラ?」、三重県伊勢市 接ぎ木でなくても増える桜。 生け花の素材とする。 山里を彩ってくれる光景です。  秋田県の井川町に日本国花苑と言うところに、様々な品種100種類ぐらいあります。  一番驚いたのは徳島県神山町の枝垂れ桜、ソメイヨシノに匹敵するぐらいの花のボリュウムで、あでやかです。 「神山枝垂れ桜」と言う名前を付けました。 花の会も全国に普及する活動をしているところです。 まだまだ素晴らしいところがあるんでしょうね。

銘木としては山口県防府市の「蓬莱桜」、小学校の校庭に植えられている。 樹齢も100年以上。 子供たちも桜の保全に関わっている地域の財産。                      富山県南砺市 「向野のエドヒガン」 河川の土手に自然に生えているもの。 樹齢300年程度で地元の人がツルなどを切ったりして掘り起こしたもの。 立山連峰の残雪を背景にして非常に絵になる桜です。自分なりの図鑑を作成しているところです。 




2024年4月4日木曜日

浅川智恵子(日本科学未来館館長)      ・あきらめなければ、道はひらける

 浅川智恵子(日本科学未来館館長)      ・あきらめなければ、道はひらける  

浅川さんは全盲です。 11歳の時のプールでの怪我がもとで、14歳のころ失明しました。   1985年に大手外資系企業に入社、以来点字翻訳システムやホームページリーダーなど視覚障害者の暮らしを支える様々な技術を開発してきました。 現在はスーツケース型のナビゲ―ションロボットAIスーツケースの実用化を目指しています。 3年前には東京にある日本科学未来館の館長に就任、科学技術を生かして誰一人取り残さない社会の実現を目指して、取り組みを重ねています。 

 日本科学未来館館長(第2代)に就任したのが2021年4月で、開館20周年の節目の年です。 初代館長の毛利衛さんからバトンを受け取りました。 私は人にフォーカスした研究の経験を通してこれから未来館をリードしてゆくという事で、新たなチャレンジになるという事で重責を感じました。 人の視点から科学技術を捉え未来を一緒に作ってゆくという思いを込めています。 そのための4つの入口、①ライフ、人生100年時代を迎えて今の私たちはどう生きてゆくべきなのか、という事を考えてゆこうという事、②ソサエティー、AI、ロボッティクスの普及によってどんどん変わってゆく、新たな町を一緒に考えようという事、③アース、地球環境、美しい地球に住み続けるために今の自分たちに何が出来るのか、という事を考えてゆこうという事、④フロンティア、宇宙開発などに見られる基礎科学と基礎の研究。 この4つの領域の視点から人を考えて行こうという事で様々な活動を行っていきます。 

新しい常設展を作ることになりました。 昨年11月からオープンしています。 一つはライフから老いパークを始めました。 老いをポジティブに捉えて、それぞれの老い方を積極的に考えて欲しいという思いを込めました。 二つアース、からはプラネタリークライシス、気候変動にフォーカスしたもので海面上昇、フィジーなどは海面上昇によってさまざまな変化が起きています。 没入型の映像で体験頂き、二酸化炭素のについてのことも展示しました。 三つめは7色クエストと言う未来にロボットと一緒に暮らす未来での体験型です。 又最先端のロボットを展示して、体験して貰うようなものを公開しました。  アクセスビリティーラボと言う研究室を立ち上げました。 移動のアクセスビリティーを支援するAIスーツケースの研究開発を進めています。

オトリアという新しい技術、ユーザーの方には眼鏡型のオーディオデバイスを装着頂きます。  デバイスにはスピーカーがついていて、ユーザーの位置を正確に認識できるので、ユーザーがその展示の前に行くと自動的に説明が流れるという仕組みになっています。(視覚障害者が自分のペースでいろんな展示を楽しめる。)

1958年大阪府生まれ。 子供時代はスポーツ少女で勉強には興味がありませんでした。 体育系に進み出来るならオリンピックに出たいと思っていました。  小学校5年生でかなり水泳が速くなっていて、プールの短い辺で泳いでいたら思っていたより早く壁に着いてしまいました。 顔を上げたら目の下をぶつけてしまいました。 段々視力が落ちてきて、中学2年のころに完全に失明しました。 まず体育系には行けないと夢を諦めました。 一人で何も読めなくなった。 一人で移動できなくなった。 中学卒業後は盲学校に行くことに決めました。 自立の道が開けて行けることを実感しました。 陸上、水泳、スキーとか何でもやりました。 点字を読むことは難しかった。 英語点字はすらすら読めるようになりました。 

大学は英文科に進みました。 視覚障害者がコンピューターのエンジニアとして就職したことをテレビのニュースで聞きました。  日本ライトハウス情報処理学科で2年間勉強しました。 1985年日本アイ・ビー・エム基礎研究所に入社。 パソコンでホームページの内容を音声で読み上げる実用的なソフトウエア―の開発に世界で初めて成功しました。  1997年に製品化されました。 17の数字キーでウエブにアクセスできる。(操作性をできるだけ簡単にする。) 自分で調べたいものを独力で出来るようになったのは非常に大きいです。 スマホは今や私には欠かせないツールです。 電子図書をスマホで読むことが出来ます。 

AIスーツケースの研究を行っています。 スーツケースの形をした視覚障碍者のためのナビゲーションロボットです。 ハンドルを握ると目的地まで連れていてくれるというものです。 自分が行きたいところをスマホを通して設定します。 スーツケースのハンドルの下にはタッチセンサーがついていて、握ると動き出し、離すと止まります。  障害物はスーツケースについているセンサーが認識して、よけたり、止まったりします。 アイディアが浮かんできたのが2014,5年でした。 最初のプロットタイプが出来たのが2017年ごろです。 実際に使用している状況を披露。

安全性が非常に重要なのでそれが確保できた所から実用化を目指していきたいと思います。 実用化のためには乗り越えなければいけないことがいくつかあります。  持続的にユーザーに届けることができるかどうか。 社会の理解も必要。(スーツケースと一緒に歩いていると判らない。) 行政、地域とかを巻き込んでゆく必要があります。 

私のモットーは諦めないという事です。 諦めなければ道は開ける。 一度始めたことは最後までやりきる、やり切ってから次のことを考える。 音声合成のレベルが高くなって、嬉しい事です。 障害、年齢、高齢とかの問題が無くなる社会になるために、自分に出来ることをやり切りたいなと思っています。 そのためには科学技術を最大限に生かすことが重要です。 人と人とのつながり、社会の仕組み、と言ったものを大切にして新しい社会が実現できるのではないかと思っています。 










2024年4月3日水曜日

梶芽衣子(俳優)             ・こびない、めげない、くじけないがモットー

梶芽衣子(俳優)             ・こびない、めげない、くじけないがモットー 

梶さんは1947年東京都出身。 高校生の時に銀座でスカウトされモデルに、高校卒業後に日活に就職し、俳優とし得てスタートします。 代表作に「野良猫ロックシリーズ」、「女囚さそりシリーズ」、「修羅雪姫シリーズ」、「曽根崎心中」など海外でも人気があり、映画監督タランティーノ監督から高く評価されています。 歌手としても活動し、「恨み節」「修羅の花」などヒット曲を出しています。 

喜寿が来ちゃいました。 俳優をやっていると年齢がネックになることが何度かありました。 17歳で日活からデビューしました。 6年間日活にお世話になりましたが、新人の時に映画が斜陽と言われて大変でした。 撮影所が1か月に8本、フル回転していて、新人の私と渡さんはどんな作品だろうが突っ込まれました。 無我夢中で1年終わったら7本出ていました。  

学生のころはバスケット、スポーツばっかりやっていました。 引っ込み思案で人見知りで又身体も軟弱でしたので親がスポーツをやるように仕向けました。  銀座でモデルクラブの方にスカウトされました。 酒井和歌子さん、柏木由紀子さんとかと一緒でした。   そのころにNHKの「若い季節」に出ていました。  その時のキャスティングが黒柳徹子さん、淡路恵子さん、渥美清さん等メンバーが凄かったです。 モデルクラブが解散になり、高橋圭三さんの事務所に所属することになり、或るマネージャーから声がかかって、日活から電話があり、日活に入ることになりました。 右も左もわからない状態でしたが、どんどん仕事をさせられるわ訳です。 5年間の新人契約があり他にはどこも出られませんでした。 厳しくて1年目はなんとか辞めたいと思っていました。 

個室に入りたいという思いが芽生えて、「こびない、めげない、くじけない」をモットーとしました。 太田博之さんとコンビを組み、W太田として青春スターとして売り出されました。 この頃は慣れないアフレコに四苦八苦した。 山岡久乃さんからは台本を読む大切さを教わりました。  父から「これを仕事として選んだときは、その仕事は全うしなさい。」と言われました。  その言葉がどんなに重いか、やればやるほど感じるわけです。 5年はやりぬかなければいけないと思いました。 でも大変でした。 5年経った作品が「野良猫ロック」でした。  

この会社にいないのは非行少女しかいないと思って、売りにするにはどうしたらいいか考えて、毎日ジーンズで通いました。 所長室に呼ばれて、もう少し女優さんらしい恰好をしなさいと言われました。 私は清潔感のあるものを着てきていますと反発しました。 ジーンズで白いシャツでも一番大事にしたのは、下品になってはいけないという事でした。(18歳の時)  2年目からは暇さえあれば映画を観て、年に400本ぐらいは観ていました。(邦画、洋画) いろいろンことが段々判ってくるようになりました。 

ポスタ―とか、一般的に笑顔が多いが、睨んでいるようなものでしたが、媚びないというところです。 それを面白がっている人(寺山修司さんとか)もいました。 「女囚さそりシリーズ」では、全く一人になって出来るかどうかわからないけど、違う場所で通用するならやってみたいと思いました。 自分で決心して、山岡さんの所に行って「どうなるかわからないけど頑張ってみたい。」と言いました。  「ああ、そうかい。 いいんじゃない。」と言って「でももう私のところに来なくていいよ。」と言いました。 「本当に一人でやる気にならなければ、出来ないよ。」と言われました。 ショックでしたが、突き放し方が凄いと思いました。 深い孤独、不安が襲いました。 東映に行って大ヒットししました。 

「女囚さそりシリーズ」ではセリフをしゃべらないことを提案して、極端に少ないセリフと冷たい目の表情で主人公・ナミを演じ、この作品が代表作の1つとなりました。 終わってみたら4か月かかりました。 あの映画が失敗したらいま私はここにいないと思います。 当時日活では私は2週間で撮っていました。 

今世界的にアナログが流行っていて、私の昔のLP版から5枚を選んで、3年でじっくり売りたいとイギリスから申し入れが来ました。 歌謡曲で3枚は演歌でした。 意外な事でした。  「野良猫ロックシリーズ」、「女囚さそりシリーズ」、「修羅雪姫シリーズ」などもDVDで世界に売れているんです。  昨年5月に発売して1週間ぐらいでフランスの何とかチャートでいきなり170何位に入っちゃたんです。  新しいのをやらないかという事で7と書いてイタリア語で「セッテ」をアルバムで出すことになりました。 歌が楽しくなりました。 5月にはライブをやります。 「めげない」と言うのは、「甘えない」ということで、甘えちゃうと駄目になるような気がしてしまいます。 仕事をしてゆくうえで一番大事なのは「忍耐と努力」に尽きると思います。







 













2024年4月2日火曜日

古居みずえ(ドキュメンタリー監督)   ・私がドキュメンタリー映画で伝えたいこと

古居みずえ(ドキュメンタリー監督)   ・私がドキュメンタリー映画で伝えたいこと 

古居みずえさんは島根県出身、1948年生まれ。 会社勤務からフォトジャーナリストの道に進みました。 中でもパレスチナでは30年以上取材を続け、2005年には写真「パレスチナの女たち」でDAYS国際フォトジャーナリズム大賞審査員特別賞を受賞。 映画ではドキュメンタリー映画『ガーダ パレスチナの詩』で第6回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(公共奉仕部門)を受賞。 2011年には映画『ぼくたちは見た ガザ・サムニ家の子どもたち』を制作しました。 古居さんは昨年10月半ばから年末まで、ガザで取材した二つの映画を市民に無料で貸し出しました。 日本各地から自主上映会を開きたいとの動きが広がり、上映会は100か所以上となりました。  古居さんにガザで取材して感じた事、平和への思いなどを伺います。 

会社に勤務してましたが、30代後半に病気になり、膠原病という風に診断されました。  4か月入院して、投薬により奇跡的に回復しました。 嬉しくてなんでも表現したいと思いました。 写真教室に1年間通いました。(祖父が写真屋をやっていました。) 東京のNGOの主宰でパレスチナ子供写真展があり興味を持ちました。 その1年後にパレスチナに行きました。(1988年)  最初は毎年行っていましたが、飛び飛びの時もあります。  最初は子供たちを撮りたいと思いましたが、女性たちがかいがいしく働いているのがあり、女性を撮ってみたくなりました。  写真「パレスチナの女たち」でDAYS国際フォトジャーナリズム大賞審査員特別賞を受賞しました。 

人々を撮りたいと段々思って行きました。 途中からビデオを始めました。 パレスチナに人々は表現力が豊かです。  最初のころは追いかけて行きたい人が居ました。 彼女は結婚して出産をして、そのたびごとに現地に行って追いかけたいと思いました。 半生を描くことによって気持ちが入っていきました。 私が女性だったために、いろいろと家のなかにも入れたし話もしてくれました。 彼女らがどういう生活をしてどういう事を思っているか伝えないといけないのではないかと思うようになって、日本で発信してゆく事になりました。 

パレスチナは紛争とかがなければ、神聖なところだし、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教それぞれいいところがあったり、綺麗なところがあったり、エルサレムの旧市街に入ると、不思議な趣があり中世と近代が入り混じっている、そういったところです。 ガザ地区はちょっと違って人間臭い感じがします。 情が深い人たちで、人との付き合いが厚い感じがします。 

ストリートチルドレンが居ません。 紛争地なので両親が居ない子が沢山います。 親戚、兄弟とかが面倒をみるんです。  大家族で少なくとも30人はいます。 映画の中の女の子も学校で1,2番を争う優秀な子でした。 両親が居ないと、一緒に住んでいる人たちの思いで、学校ではなく結婚という事を決められる。 ガザ地区でドキュメンタリー映画を2本製作しました。 ・・・以後緊急地震速報の為放送を中断。









 








 

 









2024年4月1日月曜日

石橋凌(シンガー・俳優)        ・デビュー45周年〜出会いと別れの繰り返し〜

 石橋凌(シンガー・俳優)      ・デビュー45周年〜出会いと別れの繰り返し〜

石橋さんは1956年福岡県久留米市の出身です。 高校時代からバンド活動を始めて、高校卒業後は至るあ料理の店でアルバイトをしながらプロを目指します。 1977年ロックバンド「ARB」のボーカリストにオーディションにボーカリストに選ばれ、1978年「野良犬」でデビュー、人気ロックバンドになります。  1985年俳優の故松田優作さんと出会い映画に出演、その後音楽活動と俳優業で活躍します。 1990年尊敬する松田優作さんの病死をきっかけに音楽活動を封印し、俳優に専念、アメリカを拠点に活動します。 1995年ショーン・ペン監督の「クロッシング・ガード」で演技が認められて、アメリカ映画協会の会員になります。 帰国後は音楽活動も再開します。 NHKでは1988年の大河ドラマ「武田信玄」では織田信長役、2020年の「麒麟が来る」では武田信玄役で出演します。 今年デビュー45年を迎えました。

私の場合は8割がた悪党か危ない役です。  今年でデビュー45年。 ちゃんと本質に沿った物つくりを手を抜かずにやってきたという自負はあります。 5人兄弟の末っ子で育ちました。 上4人の男の兄弟が好きな音楽のジャンルはバラバラでしたのでいろいろ聞いていまいた。   テレビのない時代で国内外の映画は良く観ていました。  私としては音楽と映画が学校と言う感じでした。今はそれを表現する方なので幸せです。   欧米から入ってきた文化なので、真似するだけではなくてちゃんと自分で反芻、消化して、それをまたオリジナルまで消化させるという事をやらないと、日本人は猿真似だと揶揄されると思う。 本物に近づきたいと言う思いでやってきました。 

中学1年生の時に父が亡くなりました。 母が女手一つで育て上げました。  5人の子を並べて「私は変わります。 貴方たちは自分が出来ることはやりなさい。」と宣言をしました。 看護師をしていました。  苦しい中レコード、プレーヤー、ギターなどを買ってくれました。 父親は良く「芸は身を助ける。」と言っていました。  音楽が好きなら音楽をやりなさいと言ってくれていたのかもしれません。 長男はフォーク系、次男はベンチャーズ、三男は黒人音楽、4男はビートルズ、ローリングストーンズなどに傾倒していました。 高校では音楽研究同好会に入りました。  高校2年の時バンドで、サンハウスの前座のチャンスを貰って、20分ほどやりました。そのころにはプロになりたいと思いました。  17~19歳までイタリアンレストランで働いていました。 ソロの話もあったが、バンドでデビューしたかった。

1977年ロックバンド「ARB」のボーカリストのオーディションを受けたのが、一つ目の分かれ道でした。  最初、歌詞に政治的、社会的なことは一言も入れるなと言われてしまいました。(自分の意には添わない。)  ラブソングを歌うように指示された。 しかしその時代は世界のどこかで紛争、戦争が起こっていた。 母親からは父が早く亡くなったのは戦争のせいだといつも聞かされていた。 自分の歌うテーマの一つは戦争でした。  自分の意見とか考えを交換できる音楽がロックミュージックだたのではないかと思います。 それが出来ないことが不自然で違和感がありました。  1970年代初期から、日本には本物のロッカーがいたと思います。 欧米に負けないテクニックの良さ、スピリットも持っていた。 しかしビジネスのマーケットに成立しなかったような気がする。 建前の音楽が主流になった。  

自分の中ではロックミュージシャンとかロックシンガーと言うのは辞めよう思いました。 理由は日本にはロックミュージックは根付かなかったという事が一つある。  何で一枚のアルバムにラブソング、家族の歌、世の中で起きている事、戦争の歌までが共存できないんだという、45年やって来て今でも感じます。 

武道館まで行きましたが、茶の間に入っていけないという壁にぶつかり、27歳の時には限界を感じました。  その時に松田優作さんに出会いました。 直感で自分が相談できる人はこの人だと思いました。  「土に穴を掘って種をまいて水をあげる、芽が出てきたら大事に育む、翌年も土に穴を掘って種をまいて水をあげる、芽が出てきたら大事に育む、という事を手を抜かずに大事にやってゆくしかないんだよ、俺たち表現者は」と言われました。 「それを見ている人が近づいてきたら、はじければいいじゃないか。」と言われました。 自分が信じていることを続けて行けばいいんじゃないかと思えました。 

半年後に松田優作さんから電話があり、「ア・ホーマンス.」と言う台本を渡されました。  殴られるのを覚悟で「バンドを茶の間に売る為の宣伝のためでいいですか?」と言ったら、3,4秒間が空いて「それでいいよ。」と言ってもらえました。 映画の現場に入って、自分の持ち続けた感性は違っていなかったんだという事は跳ね返ってきました。 今後のことを聞かれて、「音楽に関してはもう一回音楽を続けて行ける様な気がしました。」と言ったら、「俳優は?」と聞かれて、「もし自分にやれるようなものがあればやるかもしれません。」と言いました。 

松田優作さんが亡くなったことで大きな決断をしました。 松田優作さんからはいろんなことを学びました。 「合作映画で日本人の役を日本人が出来ないんだ。」、という事をいつも言っていました  ①SAG(Screen Actors Guild)という俳優組合に入れていない。  ②言葉の壁がある。 ③偏見、差別と闘ってゆくしかない。 このことをいつも松田優作さんは言っていました。 病気が発覚して、自分の中でもいろいろ反芻して、音楽を一旦封印して、ちゃんと俳優に向き合おうとしました。(34歳)

1995年ショーン・ペン監督の「クロッシング・ガード」ほか3本の合作映画に出演して、SAGに入れました。  アメリカで5年仕事をしました。 アメリカでは演技に関しては監督は何も言いませんでした。(表現が自由に出来る。)  映画ではその役柄の男で現場に来なさい、カメラの前に立ちなさいという事だったんです。 チャンスがあれば海外で歌ってみたいという事は今の夢です。




 






2024年3月31日日曜日

向笠千恵子               ・心の味に出会うために~フードジャーナリストの道を歩いて~

 向笠千恵子       ・心の味に出会うために~フードジャーナリストの道を歩いて~

向笠さんには2011年から「ラジオ深夜便」に出演頂き、日本各地に根付いた郷土料理やその背景にある歴史、また各地の朝ご飯など興味深いお話をお聞きしてきました。 今年度をもって向笠さんは番組を卒業されます。 改めて向笠さんが歩むフードジャーナリストの道のお話を伺いました。

向笠さんには2017年「ご飯の知恵袋」のコーナーが始まってから7年間お話を伺ってきました。  その前に大人の旅ガイド「おいしい旅」に6年間生出演。 「ラジオ深夜便」とも長くお付き合いいただきました。 

国土が狭い日本と言われがちですが、実際各地を訪ね歩いてきますと、海、山があり、峠一つ越えるだけで食習慣がガラリ変わっていたりして、日本は広くて様々な食文化があります。   それを眼で舌で実際それを確かめ皆様にお伝えしたいという事が、私の背中を押してきたと思います。 歴史的背景まで考察したりすると、興味深い事ばかりです。   様々な食材、野菜、お魚、果物、納豆などの素晴らしい加工品、巧みに食宅に取り入れている郷土料理、など、お伝えしたいとやって来ました。 

東京の下町で、父は食いしん坊で、母も新しい料理にチャレンジするのに熱心でした。  学生時代進路に迷いました。  好きなことを考えたら食と旅する事、歴史も好きでした。 そこで料理の編集の仕事の道に入りました。   大学時代は図書館情報学科を勉強していました。  食材を切り口にしたテーマを担当するようになって、漁港、漁船に乗せていただいたりして、現場の大変さ、空気を目の当たりにしました。 30歳の時に独立して、仕事も継続しているうちにフリーランスの編集者として仕事の幅が広がって、コーディネーター、プロデューサーをしているうちに小さな会社を興して、食品メーカーさんの仕事などもさせてもらうようになりました。  取材するほど知らないことに次ぎ次ぎ出会って、もっと知りたい、もっと食べたいということにつながったと思います。  

無農薬梅作り60年一筋とか、いろいろ出会うたびに食品と生産者の方には感動してきました。 「百聞は一見にしかず」で直接会って、体験しないと判らないです。 伝える言葉が自分の課題になって来ます。  フードジャーナリストというものを名刺に印刷しました。 藩政時代、例えば津軽藩、南部藩での味と言うのは、はっきり違うし現代まで繋がっている。 秋田県とか、他の県でも同様です。 藩のお殿様が培ってきた気質、国替えもあり、そこの食習慣、野菜の種などを持って行って、新しい食文化が生まれたりしています。  それぞれの食材に素晴らしいドラマを秘めていて、わくわくする思いがあります。      

「朝ごはん」 或る時にふっと気付いて、能登半島の珠洲に親子で営む小さな宿があって、そこの朝ご飯が素晴らしいという情報を得てお訪ねしました。 豆腐も前夜から手作りでやって、豆腐を作り上げる。 干物、漬物なども手をかけて作り上げる。 漬物、みそ汁など素晴らしかったです。  日本各地にはそれぞれの風土に育まれた素晴らしい魚、野菜などで作られている朝食があるんだということを気付かせてくれました。 日本の朝ご飯の取材を始めました。  食の職人的な生産者さんを探るテーマに段々移行していきました。

鯖街道に代表されるような食の伝播について関心を持って、「食の街道を行く」と言うテーマに広がって行きました。 「食の街道を行く」の本は世界的にも評価されて、料理本のアカデミー賞とも言われるグルマン世界料理本大賞グランプリを受賞。(2011年)   「塩の道」の中でも、もっとも有名なところを本に書きました。  東京の食、江戸の食も別の視点から関心を持って、自分の下町のことももっと知っておかなければいけないと思いました。 今も江戸前の味、東京の伝統的な食べ物とか、そういったものもテーマにしていますし、大好きです。  紅葉した葉を添えるとか、日本人が育んできた食卓演出法などトータルで和食は構成されている。  流通なども含めて多面的に伝えることで、味だけではなく食の醍醐味をお伝えできたらいいなあと思っています。 

温暖化などで海から取れるものが劇的に変わってきています。 食文化を担ってきた農村、山村、漁村部の女性たちの高齢化によって、姿が消されつつあり、食の職人たちも代替わりしたり、後継者に恵まれなかったところは消滅したりして、20年ぐらい前から今は正念場に直面しているところです。 どうしたら食の明るい未来が展望できるようになるか、励んでいる方々の姿を伝えるとか、応援する仕事が出来ればいいなあと思います。 

取材したことを如何に表現するかという事をもっと努力しなければと思っています。 楽しみながら表現していきたいと思っています。 「一期一会」では無いですが「一食一会」と言う思いでやっています。