2012年10月29日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(内舘牧子)

 天野祐吉        隠居大学(内舘牧子  
岩手県の盛岡で、打ち上げをやっているときに急に心臓がおかしくなって 目の前に心臓の先生がいて直ぐに処置をしてくれて、2時間後には大手術、13時間の手術をする。
2週間ぐらい意識不明だった。  46kgに痩せてしまった。  
桜餅が大好き 和菓子が圧倒的に大好き。 (エッセーに書かれている。)
桜餅はこしあん、(天野) 私はどちらでもいい(内舘)
画家の横尾忠則さんは徹底的な粒あん派なんですよ。
或る雑誌でこしあんかつぶあんかを徹底討論したが、決着がつかなかった。
粒あんは噛んで2度楽しめると最後に言われてしまった。
アズキは日本で栽培されていて、70%はあんことして使われ、日本で消費されている。
スイーツと言う言葉が大っきらいですね。(内舘、天野)
  
「生きざま」と言う言葉は嫌い。「○○先生の生きざまが憧れ」とかいうが、平気でいう。
「ざまをみろ」のざまですよね。  日本語はかなり凄い事になっている。  
「こだわる」も嫌い。  「こだわりのラーメン」なんて食いたくもない。(天野)
退院する時に2つ条件を言われた、朝青竜とカッカ、カッカしない事、大関の相撲を見ない事、相撲は大好き、 
小さい時から。 私はいじめられっ子だった。
助けてくれる男の子がいて身体が大きかった。  力道山に似ていた。
身体が大きい人は優しいんだ、良い人だと4歳のときにインプットされた。
相撲は4歳から見ている。 プロレスは5歳から、ボクシングは14歳から見ている。
相撲の研究の為に東北大学の大学院にいた。  
土俵とはどういう意味を持つかとか、3年間勉強したら、相撲がもっと面白くなった。
 
相撲協会では600年代といわれているが、実はもっと古くて、紀元前から相撲が有ったという話もある。
かしわ手を打って、ぽんと「ちりを切る」というが、直ぐに手を離さない。
揉み手みたいな動作を知るがこれも意味がある。
外で相撲を取っていた江戸期は、土俵の上は聖域ですから、そこに立つときには身を清めなければいけない。
そばに生えていたちり草をちぎって手のひらに乗っけて、草を揉んで身を清めた、ということがいまだに残っている。 
相撲の起源は非常に古く、古墳時代の埴輪・須恵器にもその様子が描写されている。 
戦国時代には、織田信長が相撲を奨励した
また、信長は土俵の原型の考案者とされる

江戸時代には、徳川将軍家の上覧相撲がたびたび開催された  
江戸時代から、職業としての大相撲が始まる

水を付ける(力水) 勝った力士が残っていて次に上がってくる力士に水を付ける。
昔(奈良、平安時代)は水ではなく花だった  
花道  東は葵の花 西には夕顔の花が有って、東から出てくる力士は太陽を浴びて咲く葵の花を耳の横に付けて、西の力士は夕日を浴びて咲く夕顔を耳に付けて、戦ったんです。  
勝った力士が次の力士に花を付けてやった。  
今になっても水を付けると言う事で残っているんです。
単なるスポーツではなく、芸能的な意味合いもある。

13年間OLをやる。伯父の力でコネで一流の会社に入った。 
男子は社員と言われたが、女性は正社員でも雇員と言われた。 
大事にはされていたが、重要な仕事は廻ってこなかった。(お嬢さんで通されていた)
女の人の生き方はみえてくる。
  
どんな人が持てるのか、どうアピールするのかなど物を書くようになって全部役に立った。  
会社を辞めて劇作家の道に入る  シナリオライター養成講座の広告を見て通った。
今まで見た映画で一番好きな映画について言ってくださいと言われたが、見てなかったので焦ってしまった。
土俵の鬼 若乃花といってしまった。 小学校の校庭に幕を張ってみたといった。
OLをやめて、正しくは隠居の始まりですね。(食べる為に働く事を捨てて自由の身になる事)
書きたいと思う事しか書かなくなる。  
シナリオライターを40歳でデビュー、43歳で「ひらり」を書く(相撲の話なので書いてもかいても疲れなかった
48歳で毛利元就を書いた。
3から4年前から将棋を始めた。  米長さんと一緒の会議があり、弟子にしてくださいと言ったら、周りが驚いて、相撲を取ったことの無い人が北の湖に、弟子にしてくださいというのと同じだといわれてしまった。
僕の弟子の一番若い人を教師につけようと言ってくださって、中村太一6段から習っている。
ゼロからやって、年取ったら将棋をやるのはいいですね。
最初に先生と対局したときに先生は王将だけなんですが、ぼろぼろに取られて負けてしまった。
性格が出てしまって、面白い。

将棋はシンプルだが本当によくできている。
昔は縁台があり、そこでやっていていい風景だった。
福島に6月にいったが、縁台がでていて、夏になればおじいさんが出てきて、将棋をやったり、子供たちが足元でせんこ花火をやったりして、遊んだはずなんだろうと、縁台をみたときにショックだった。
一番面白いのがものを書く仕事なんですよね。
源氏物語と13年間のOLでの生活と共通点が一杯有る。
紫式部って凄い女だと思いましたね。 ああいう風に見てたんですね、そうでないと書けませんものね。
相撲はこれからも見続けるが、もっと強い力士が出てきてほしい。
相撲の色んな事と言うのが外国人や日本の若い少年たちに教えると言う事を判ってもらう事が大変。
迎合すると返って滅びると思う。
土俵の大きさが変わったり、制限時間が短くなってきている。
仕切りの間に携帯をかけている人がいるが、これはいけないと思う。
呼び出しがオペラでいう序曲に相当する。

相撲を観戦していて、土俵から2人が落ちてきてあばら骨を折った事があった。
「内舘牧子さん下敷きに」と新聞に載った。 写真を新聞社から頂いた。












2012年10月26日金曜日

みなみらんぼう(シンガーソングライター)  ・母を語る

みなみらんぼう(シンガーソングライター)           母を語る  
昭和19年 宮城県生まれ  法政大学卒業後、ラジオの台本作家を経て、昭和46年「酔いどれ女の流れ唄」で作詩作曲家としてデビューしました
昭和51年「山口君ちのつとむ君」がミリオンセラーとなって世代を越えて多くの人に歌われました 
この発表から15年経ったある日、つとむ君は母を亡くした、自分自身で有ったことに気付きました   
芸名はフランスの詩人アルチュール・ランボーにあやかったものである  

山登りは毎週のように行っている  雪山も登る 5月になってからですが、登るときは調子が悪い時があるが、登ってしまうと 次どこかに行こうかと言う事になる
中学1年の時に、学校登山をして先生から山の名前を叫んでいるのを聞いて、ジーンとした事を覚えている
その数カ月前に母親を亡くしている  
それ所ではなかったが、友達から誘われて山登りをすることになる 
そこで何とかやっていけそうだなと感じた
37歳で母は亡くなった  
4つか5つ位の時に仙台に七夕祭りを見に行った 
時々母親の手を離れて、見ていたら 母親だと思っていた人が別人だった

母親がいないと言う事でパニックになって、泣きだしてしまったが、直ぐに母親が「何やってんのよ」と声を掛けられて、母親のいなくなったことに対して、ひどく吃驚した事を思い出した    
小さい時から自然の中で育った  
いぐね:屋敷林  こんもりした森になっている  
家の周りにリスがいたり、青大将がいたりしていた  虐めちゃいけない 
青大将は守り神だからと言われた
一つの川で牛を洗うのに使い、人間が野菜を洗ったり、魚釣り、泳いだり、冬はアイススケートをしたりして、遊んだりしていた
母親は大変だったと思う 今思うと凄く元気のいい母親だったと思う
  
薪き割り、風呂焚き 等 生活の中でいろいろなことを体験してきた
周りの人との係わりの中から育ってきたので寂しさは無かった
母は突然 脳溢血で亡くなった  実家に用足しに行って実家で倒れてしまった  
自転車で実家に行ったら、近所の人が座敷にいて、その場面は鮮明に覚えている  
仁王様の様な怖い顔をしていた  死と闘って、歯ぎしりをして、歯が折れた 
このままだと舌を噛んで死んでしまうので、脱脂綿を箸に巻いて、噛ませていると言われた 
死と言うものは恐ろしいものだと思った  
母親は死と一生懸命にたたかって、負けたのかと言うな風な感じだったですね
 
いびきのようにゴーゴーと息をたてていた  
多分今晩越せば大丈夫だろうと医者は言っていたが、2日後には無くなってしまいしたね
茫然自失と言った感じだった  
河原を一人で歩いていた時に 猫柳の花が咲いていて、それをずずーっと取って、それを石でも投げるように向こう岸に、思いっきり投げたんですが、それがふわーっと鳥が逃げたように、こぼれましたね  
その手ごたえの無さが、右手、肩に残っているんですね  
母親を亡くしたのは、まさにその手ごたえの無さでした  12歳の時でした
9月の残暑の厳しい時だったんですが、誰も居ない部屋に入るときも「ただいま」という癖がある 廊下のカーテンを開けて、半分閉めて畳に横になった
そうしたらシーンとしたの部屋の中でコトンと音がして、お母さんいるんじゃないと台所に行ったら、台所はシーンとしていた  その時は泣きました
 
波が台所から僕の部屋に押し寄せて来るような気がして、泣きました  
悲しみが来るまでひと夏掛ったんですね やっぱり駄目なんだなと観念しました
それまではいつか帰って来るような気がしていましたね   
例え悲しいことでも負のイメージとしていつも振り返って、後ろ髪を引かれていると、矢張りそういう
思い出になってしまうと思うんですよ  
それも良い経験だったと思えば、案外プラスに出てくるんじゃないかと後で思いましたね
「山口君ちのつとむ君」が大ヒットした後に、モデルさんは誰だったといわれたんですよ   
当時は山口百恵さんの全盛期でした 百恵さんのファンなのと言われました
あの歌にモデルなんかいないと言っていた  
処が「この頃少し変よ ・・・」と言う歌詞が、まさしく自分の母親をなくした心理そのものだったんですね

実際作ってから15年経った エッセーを書く事になり ふと昼下がりの光景がびびびーっときたんですね  
そうしたら俺自身がモデルなんだとはっと気付いたんですね
幼児の気持ちを借りて吐露してたんですね   熟成されるんですね
「ウイスキーの小瓶」で歌手デビューした    
中学の時に作曲をして、先生から作曲の才能が有るかも知れないと、言われて 気にするようになりこの道に進んだ
核になっているのは、小さい時に亡くなってしまった母親のいろんな思い出が、熟成されてる事と、育ててくれた自分の故郷の体験、が有ったからこそ、故郷から出てくる  頑張ろうという  応援してくれる 後押ししてくれる 
その中に亡くなった母親、父親がいるんじゃないかと言う気がします  
目を閉じて思い出す母親は若い元気な母親なんですよ  
しわの有る母親は知らないんですよ  溌剌とした母親なんです 
そういう母親を思い出すのは幸せです

2012年10月25日木曜日

荒木浩(国際日本文化研究センター教授) ・世界に誇る日本の古典を見直す

荒木浩(国際日本文化研究センター教授)・世界に誇る日本の古典を見直す
古事記が完成してから1300年 方丈記が執筆されてから、800年という節目の年 
日本の古典文学に対する関心が高っています
4年前の2008年11月1日は源氏物語が世に出てちょうど1000年になり、日本の古典を見直すため
この日を古典の日しようと京都を中心に進められてきました
ことしの8月に「古典の日」を11月1日にするという事が正式に決定した
源氏物語の作者の紫式部の書いた紫式部日記があるが、1008年11月1日に源氏物語について
の文献上の初筆であると、言われている
2008年に源氏物語の千年紀が企画されて、11月1日を「古典の日」と命名した
当初8名が千玄室(裏千家)  秋山虔(けん 国文学者) 瀬戸内寂聴(作家) 
芳賀 徹(比較文学研究者) 冷泉貴実子  梅原猛(哲学者) ドナルド・キーン
村井康彦(日本史)  らが呼びかけ人  推進委員会を立ち上げる
今年の11月1日が第一回目になる  古典の日絵巻などのイベントを行う
12月4日に文化人が集まって古典の日のイベントを東京でも行う

古事記 1300年  方丈記800年  古典への関心が高まっている
平城京の復元 方丈記がこんなに注目されるのが意外  方丈記は無理じゃないかと思われて
いたが、大震災を経て、注目される様になった
法然が亡くなって800年   「沙石集」著者 没後700年
古事記の魅力 面白い古典  日本書紀に比べると記述が少ないが、神話の世界  
神様が生れてくる世界  固有名詞がおおい  音読したらどうか
中間から天皇の時代になるが、垂仁天皇をめぐる悲しい話がある  
兄への愛情と天皇に対する想い
何故古事記は推古天皇で終わっているのか、聖徳太子は名前だけ出ているとか 
いろいろ面白い事がある

夢と文化の研究をやっているが、古事記を読んでいると、夢と言う文字が初めて出てくるのは、
人間の世界の事になって初めて出てくる
神の時代(上)には、要らないが 天皇の時代になると(中) 出てくる  
崇神天皇の時に出てくる   ストーリーとしては良く出来ていると思う 
方丈記は滅びの美学  坂口安吾が第二次世界大戦が終わって 「堕落論」を書いているが、
滅びの世界
心敬が書いた  「ひとりり言」 応仁の乱  が方丈記の様だと   
啄同機」(さいたくどうき) 禅の言葉  親鳥が卵を温めていて、そろそろ生れるなと言う時に雛が内側から
突っつく、これが「」で 親鳥が外から突っつくのが「啄」
其れが大体同じような時にやると無事に雛が孵る タイミングと言う事をめぐる事  「啄同機
「シンクロニシティー」  ユングが作った なんか知らないが、不思議に同時に起こること   
啄同機」 「シンクロニシティー」は 方丈記の今年を象徴しているようだ   
必然性を持って現代に蘇らせている

五大災厄の記載がある  京都の1/3が焼けた  旋風 家を巻き上げる  福原遷都(平清盛) 
飢饉(何万人)  大地震
方丈記は平家物語の時代  だが鴨長明が選んだこと(平家物語に書かれているようなことは
一切書かれていない) 
方丈記は基本的にはカタカナで書かれている  川、水のみは漢字で書かれている
方丈記は仏教の説教のように言われるが、そうではない  
説教はしつこく言うが、方丈記は二度は言わない 「無常」は一回しか出てこない
伊勢物語は雅の世界だが雅と言う言葉は最初の頃に一回しか使わない
音楽家であり、和歌をたしなみ、仏教の本を持っていた(漢文で書かれていた)文章を書くための
要素は全部長明には備わっていて、それを吐き出す才能を持っていた
留学生で古典をやりたいと言う人が多くなっている  

 翻訳しているので、日本文学を良く知っている
アメリカはコロンビア大学(ドナルド・キーン氏出身)を中心に盛んに日本文学を研究している  
方丈記と草枕(夏目漱石)が似ていると思った 
 陰溢的な状況 グレン・グールドは死ぬまで草枕を読んでいた
枕草子で之に完全に魅了された  その後源氏物語を読んで、之は凄いと思った  
古典の真髄みたいなものを感じた
「悠々と急げ 」  急ぐだけだと判らない ゆっくりと急ぐことによって段々と解ってくる  
急いではいけない、悠々と急ぐ  沢山読みたい 
一回読んでも判らないことが二回読むことによって驚くほど判ることがある  
二回読む手間さえ惜しまなければ、じっくり味わいながら、読む
兎に角沢山読んで、いろんなことに関心を持って言うと、ある時ふっと面白い発想にとらわれる 
来年世阿弥が生れて、650年になる

世阿弥と方丈記は全然関係ないように思われるが、世阿弥が作った養老という能の中に
「行く川の流れは・・・」としてひいてあったりして、
世阿弥の書いた、能の学問書に「節付け次第」という書があるが、そこに弾いてあったり、
どこで人々が教養を体験して、その自分の作品に持ってくるか判らないので
まさにストライクゾーンを広くいろんなものを見たり、考えたりして、頭に蓄積して古典を読んでいくと
、文化の網の目のように古典にはある様に思える
のめり込み出すと、面白いことばっかりで、あれを読んでも、之に気付き、之を読んでもあれに
気付きと言う事で、それこそ寝られない夜が続くと言う感じです

2012年10月24日水曜日

藤田寿太郎(産婦人科院長73歳)  ・赤ちゃん誕生から育児相談まで

藤田寿太郎(産婦人科院長73歳)  赤ちゃん誕生から育児相談まで        
川越の産婦人科 アイワ病院では今年の2月、昭和48年の開院以来6万人目の赤ちゃんが誕生 、すべての赤ちゃんを無事、母親や、家族の元に託しただけでなく、最近はきめ細かい産後検診から育児相談、若い人とお年寄りとの子育てに力を入れています  
長男が産科医、次男が小児科医 長女が皮膚科の医者、薬剤師だった奥さんもスタッフを纏めるなど、家族が役割分担して、妊娠~出産、育児相談等きめ細かい支援を続けています  

年間約1500人になっている 赤ちゃんが誕生  
最初の年は8人(2カ月)、翌年が200人 500人になったのは7~8年掛った  
現在2500人ぐらい
安全第一の医療を提供する   当初は無我夢中であった  
インターンを横浜中央病院にて実施していた   
今は無痛分娩が出来るが当初は自然分娩だった   
妻は薬剤師  大学が同じ医局だった   義理の父は長野で産婦人科の医師だった
産科では全身を見る訓練はしていたので、長野に4年間居た時には、参考になった
  
当時(昭和48年)で川越だけで年間4000~5000人の赤ちゃんが生まれた  
日本全体で200万人位  生れるのが一番多い時代だった
今は年間100万人ぐらいになった  
家庭訪問を始める  高い評価を頂いた  
母子病院としての基礎が固まった(母親と赤ちゃんの健康管理)  
「何を望まれているか」を旗印に対応  少子高齢化対策  育児支援  スタッフ、妻が支援  
検診センター 公的機関ではニーズの問題等で中々満足しえない事があり、とチームを組んでいろんな立場から見られるような体制をつくった
生れて2週間目に検診に来て貰う  お産に付随したものとして、無料でおこなう  
次に1カ月検診    お腹にいたのが 外に出て激変する    
最近は情報過多の部分もあり、どれが正しいか判らなくなると言う事があるので、どこが中心かを説明する必要がある
妊娠~出産~それ以後のフォローが必要    妻の経験から助かる
   
社会貢献、奉仕  チャリティーバザー を年に一回病院でやっている  
地域の商売をやっている人も協力してくれている  段々盛況に成ってきた
年間数百万円 程度になり、施設等への支援をおこなっている
ハワイの病院(アメリカでは)ではシステムが日本と違うので2日で退院してしまうので、あとのケアが無い  当病院独特のシステム

2012年10月23日火曜日

渡辺一枝(作家67歳)      ・チベットと被災地に重なる想い 2

渡辺一枝(作家67歳) チベットと被災地に重なる想い
被災地で津波で家を流されて、家族 父、奥さん、子供2人を亡くしている  
1人はまだ見つからず、探している  でも「僕は幸せです」というんです。 自分で探せるから
10km圏内に居る人は自分では探すことが出来ない 探してあげる事が出来ない
そういうのを聞くとチベット人の心根と物凄く、同じだなと思います  厳しい状況の中に有って、
本当は憤りやそういう者をぶつけたいんじゃないかと思っても
そうではないと、そう言うところが凄く似ていると思います  
豊かな自然環境に恵まれているチベット自治区でもどんどん開発が進んで環境が破壊されている  
非常に厳しいです

西部大開発 内陸部の貧困地帯と沿岸部の地帯との格差を無くすと言う事で、内陸部の西部
(チベット、新彊ウイグル自治区)を開発して行こうと言う事で、格差を無く
して行こうとしたんですが、実際には天然資源を運びだしたり、沿岸部の水不足に対して水を運ぶ
とか、電力供給(ダムをつくる)、北京上海、と鉄道で結ぶ
計画より1年速く2006年にダサまで出来て、それを作るに当たっては、鉄道が出来れば、物価が
安くなりますよと、言う事を謳っていた
実際には資源の運び出しに便利、軍の移動に便利、そういう形で資源の開発もどんどん進んでいる 
水力発電所何てあちこちに出来ていて、電力の為の発電か  
と言うと、必ずしもそうではなくて、工事の請負に軍の水力発電部隊みたいなものが噛んでいる

何か取りだしたい資源が有ると水力発電という工事名目で来るわけです
開発政策を迷惑な事と思っている  強制的に移住させられたり、している  
牧畜を生業にしているのが、移動させられると大変
原発事故後、孫は夫の知り合いである沖縄に避難した   
福島に行きたいと言う思いが有った 7月に花巻でチベット関連の主催があったので、そこから
大槌町に出掛けた  建物の3階に船が載っていたり、津波の被害を目の当たりにみた  
被災地の状況をみて、国がここに有るんだと、国の根っこが有るんだと
福島に出掛ける  (8月)  宿(ビジネスホテル 六角)のご主人が現地で頑張っていた人 
産業廃棄物建設が有ってそれに反対する拠点だった

文章で報告する なにかしなければとの想いで行ったが、大留さんが(宿の主人)がいろいろ連れて
行ってくれて、多くの方に会って、現地の人の言葉で
福島の声を聴こうという会を始めた    3回開催した
東京に被災地の方を呼んで、実施した  一回目は大留さんと浪江町で牛を飼っていた人
(吉沢正美さん)  2回目は飯館村でコーヒー店を経営している人(市澤みゆきさん)
宮城県丸森町から17年住んでいる人(大田茂樹さん) 
自殺者も出ている話 実際にその場面を思いだして話す TVしか見ることが無くて、明日が
考えられなくて、83歳になっても自殺してしまうんですよ
牛たちを救いたい想いを語る   直面している大きな問題  Iターンで来た人
  
丸森町に残って行こう  子供を守るネットワーク立ち上げ
自分達は何をすべきか  今後の予定は 12月 原発から7kmに住んでいた木村さんに来て貰う  
家が流され、父、奥さん、下の娘さんが現在も行方不明
「青春と読書」 10月号には相馬の野馬追い復活の様子を記載   家に戻れない方がまだ大勢居る  
20km圏外であるのだけれども、家が流されてしまって
生活の手立てがないというかたもいる  原発によって奪われた  
故郷と言うものと野馬追いとの分ちがたいものを感じた 
野馬追いを見ることで以前のこと、故郷の想い  野馬追いの村上和夫さん 62歳   
家族が3か所にばらばらに暮らさざるをえない状況 
家はそっくり残っているのだが、放射線が高く住む事が出来ない 
家が有っても電気が点いていない

チベットは秘境ではない  奈良時代には今でいう医学サミットがチベットでは開かれていた 
 伝統医学に得た最新医学を取りれた医学がチベットでは発達した
夜、テントに灯りをともしていると、蛾とかが入ってくるが、そーっとその蛾を捉えて、外に出す 
又入ってくる そういったことを何回となく繰り返す
どうしてかと問うと、前世ではその虫は私の母だったのかもしれないと言う  
咲いている花には一つの命があるという
冬中夏草  自分達は毎年取るけれど500本取るけれども、それ以上は取らない  
土には神様がいるじゃないか 欲張って取ってしまったら、神様が怒って、草を生えなくして仕舞う 
草が生えなくなったら、ひつじもやくも生きられなくなってしまう  私達も生活できなくなってしまう
チベット、福島にいって沢山の事を教えて貰う  
チベットでいえば、出合う人に挨拶のように気持ちは平らかいと言われる

漢民族の兵隊がふざけて、犬を打つ真似をする そういう時は憤りを感じるが、チベット人が
袖を引っ張って、外国人のあんたがそんなことをすると
騒ぎになるだけだと、それよりもあんなことをしている哀れな人に祈ってあげなさい  
自分自身の心の中には無かった事です
人の為に怒りではなくて祈ると言う事を教えられましたし、その事によって私自身が、気持ちが
平かに、あるように出来ると言う事を教えられますし
被災地の場合は、被災者の話を聞くわけですね 
 
Aさん、Bさん、Cさん それぞれの体験が違う(家を目の前でなくした、家族を亡くした、等々)
それぞれが辛いと思っていたけれどそれだけではない、Bさんの事は判らなかった  
人の身になって見ないと、本当に判らない(自分の事だけではない)
自分の範囲の中でしか、考えられない  想像してごらんと言っても、自分の範囲のなかでしか、
考えられない
皆さんの話を聞く事によって私自身の想像の範囲が広がる

2012年10月22日月曜日

渡辺一枝(作家67歳)       ・チベットと被災地に重なる想い

渡辺一枝(作家67歳)   チベットと被災地に重なる想い
1945年 満州ハルビンの生れ  母親とともに引き上げ 静岡、山梨、東京に暮らす  
会社勤めを経て、1987年まで18年間保母として勤務 
子供のころからチベットの風土に惹かれていたが、保育園を退職した後チベットを訪れ、
毎年のように訪れました
チベットの人達と直に接したいと半年を掛けて馬で旅したこともあります   
東日本大震災の後、夏以降何度も福島県を訪れて、ボランティア活動を続けながら
被災地の状況を文章にしています  
今年3月から東京で渡辺いちえトークの会福島の声を聴こうを開いて被災者たちの肉声を通して、
現実に目を向けようとしています
急激な環境破壊が進むチベットの現状と重なるものを感じるものがあると言います  
チベットとの係わり、信仰の自由を奪われるチベットの現状などを伺います 
10月の風景 西は森林が全くない うっすら雪がある  北も同様、  東は森林があり、紅葉は
終わって、葉が落ちて 常緑樹だけが茂っている状況
2008年以降状況が激しい、今回行って、 格子の無い牢獄所と言う状態 政治的規制が凄い、
移動の自由が無い
外国人の規制も厳しい  2週間以内であったらビザ無くてもチベットの入域許可証があれば、入れた 
今回はひとりでは入域許可証が取れない
5人以上しかも、同じ国の5人であって、しかも5人が入って時から出る時まで、すべて行動を共に
しないといけないという事になっている
昨年までとはまったく違っている  
 
厳しい方針の背景 真実、現実を見てほしくない  
外国人と触れることで外に漏れることを恐れる
80年代になってから外国人もチベットの観光旅行が出来るようになった(観光資源として) 
解放地区と非開放地区が有ったが、非開放地区でも許可証をもらえれば、いけた  
絶対いけない場所は無かった(軍事基地以外は) 2008年以降段々厳しくなった
中国人が旅行に行くようになったので外国人が来なくても、中国人の旅行者が来ればいいやと言う
ような処があると思います
3・11以降被災地にも頻繁に足を運んでいる   
直近では9月19日に行って来た
元に戻れないんじゃないかと思う  家族は分断されてしまっている
  
南相馬の仮設住宅にいるかたはお年寄りが多くて 、若い世代はどこかに出て多分戻らない
だろうと言っているし、昨年より、あちこちがかたづいて、畑もやりだしたところもあったりして、
一見復興しつつあるように見えるが、内面は難しいと思う
原発から20kmの検問所から200m位のところに宿泊 現地ボランティアの宿になっていたところ
物資を運ぶだけでなくて、お年寄りが明日を楽しみに出来る何かと言う事で、畑とビニールハウスを
作ったりと言う事をしました
チベットの場合は全く外からの力で、政治的な力で自由が奪われ、働く糧も無かったり、
無くされたりする人たちがいる

人としての尊厳が損なわれた中で、それでも彼らはしたたかに、しなやかに生きていると言う事に、
私自身が惹かれる気がするし、支えになれればと思う
被災地の方々も状況は違うが、現況としては同じじゃないかと思います
巨大地震、原発事故で苦境に立たされている
小さい頃からチベットというあだ名が有った  引き上げて来てから、想い出話をする 
その中にその言葉が出たのか、判らないが モンゴル、チベット、馬族、
三つの言葉が頭に入っていて、チベットに行きたいとか、馬族になりたいとか言っていて、
「チベット」と呼ばれていた

初めてチベットに行ったのが、退職した1987年3月末日 の翌日  ライアル・ワトソン 
フリッチョフ・カプラの本が好きでその人達が一緒に日本に来日して高野山大学で
シンポジウムがある事を知った  是非行かなければいけないと思い、出掛けた  
資料を配られた封筒の中にチベット旅行の誘いの勧誘ちらしが入っていた
その期日が1978年3月26日だった  
25日に卒園式を終えて、翌日出発した
如何してチベットに惹かれるか、行けば分かる思っていったが、チベットの仏教寺院を訪ねるという
ことで、御寺巡り  全く私には面白くなくて、パスして外で待っていると
お参りに来るチベット人と身ぶり、手振りで話すのが楽しくて、自由時間の時にホテルの近くの畑で
チベット人たちが野良仕事をしていた  それに参加する
心地よさを感じた  それで行くようになった

中学生の時に、京都大学 河北次郎 が仲間と隊を組んでネパールに行く 西チベットの一部で 
調査に入って ルポルタージュがでた
葬儀の風習とかいろいろあり、それを読んで初めてチベットの文化、風習が少しわかった  
その後半年後か1年後に ダライラマ、インドに亡命というニュースが
伝わって、それを読んで初めて政治的な位置が判った (1959年)
これまでに毎年行っている 1年の内、2,3回行っている時もあるので、何回行っているか判らない
50歳1995年 馬で廻る  それまでは車まで行っていた  
車に乗っている間の事は解らないので
、中々現地の人とふれあえないので、ムスタンを馬でいけるなら
チベットの馬で行けるだろうと、「50歳記念馬旅行」と宣言して、出掛けた  
5か月と20日掛った

馬でいったことでチベットの人達の中に溶け込めたと思った  
現地の人達も3人で行くので、よそ者が来たと言う感じではなく、チベットの人が来たと感じてくれた
身、口、意(ブッダの心) そこにいなければそこはチベットではない 
当時自由に歌う事が出来たが、その後チベットから亡命する(歌手) 
チベットのニュースは伝わることもあるが、殆どもらされないようになっている   
2008年以降今年10月まで、焼身抗議をした人が59人いる
ついこないだ10月4日にも亡くなっている方がいる  遺書を書いている  
民族の自由の為に真実を訴える  
自由の為にわが身を捧げると言う遺書を書いて亡くなっている
そういうニュースは伝わっていないでしょ TVでも新聞でも  
宗教を認めないだけでなくて、チベット語自体が消されようとしている

学校教育の中では国家共通言語を使うと言う事で、幼稚園から漢語(中国語)を教えている  
いずれチベット語は無くなってゆくと思われます
チベットの言葉も文化も消されつつある  今は監視社会になっている  集団でデモは出来ない  
訴えようが無くて焼身抗議として訴えている
ところが政府はこれをテロだと言っている   
これは我とわが身を課しての抗義なんですよね  
それが無視されていては抗義の声は届かない
別の形の抵抗は、チベット語でしゃべろうよと若い世代が言う  
今までは余り意識していなかったことを意識するようになってきている

2012年10月21日日曜日

佐藤昭人(日本藍染文化協会会長) ・ジャパンブルーを守る

佐藤昭人(日本藍染文化協会会長)      ジャパンブルーを守る  
1939年生れ  徳島県特産の藍染め原料作りの伝統を守り続けている藍師の19代目で、江戸時代から続くという伝統の製法で藍染めの原料を作っています
其の技術は阿波藍製造技術として、保存会が国の無形文化財の指定を受け、佐藤さんはその代表を務めています
又現代の名工にも指定されています  
藍染は古くから日本人の生活に親しまれてきましたが、西洋藍の流入で日本の藍の生産は激減阿波藍も昭和に入って、生産農家は佐藤家だけと言う時期もありました  
そんな時期、佐藤さんは伝統の技術を守りながら藍染めの原料を作り続けてきました  
天然の藍を取り巻く環境は厳しいものがあります  
生活の洋風化や経済ショックによる着物離れの進行、安価な化学染料等の利用などです
日本の色を藍を守り続けている佐藤さん   
藍の葉を発酵させてつくる染料「すくも」 ジャパンブルー

ジャパンブルー 明治の時にイギリス人が言いだした   
藍染めは国民の中に浸み込んでいた  
各藩にお城が有って 多くの人がいて、藍染めは体臭を外に出さない
皮膚病には絶対ならない  戦争の時に野宿しても藍染めは蛇も毒物も絶対寄ってこない  
火の粉が飛んできても燃えにくい
火消し、消防団のはっぴは全部藍だったんですね
自然の草が原料でないと薬効が無い 殆どが化学染料  1%位しかない  
何百年経っても変色しない  箪笥に入れていても虫は付かない  
江戸時代のものが色あせずに残っている   
洗っても色は落ちない(最初の1回目は落ちるがその後は落ちない)

最初に一緒に白いワイシャツとか洗濯しても水は青くなるが、ワイシャツは青くはならない(青くなったら化学染料)
今徳島には藍師は専業が3人、勤めていてやっているのが2人 で合計5人です
たで科の草  明治36年までは1万3000~5000ヘクタールあった 
徳島県の農地の半分ぐらい有った 
現在は20ヘクタール位  1/1000位になってしまった    先進国で残っているのは珍しい  
草の葉は本土のみ たで科の1年草  春に種をまく 草を作って乾燥させて 12月に仕上げる  1年工程 で作る   
外国は数週間で出来る  (藍の製造は)  手間がかかって大変   すくも 1年掛る

3月に種をまく 4月に定植する 6月の末 7月、8月  摂氏30度の頃に収穫する  
一回かったら芽が出てきて 2回ちょっと収穫できる  
大安の時に種をまく  
発酵させてゆく 摂氏60度~70度で100日間一定に温度を保って、5日に一回地下水を掛けて混ぜてやる
10月10日までは気温があまり下がらない  10月20日過ぎて急に下がる 
藁で編んだ筵を掛ける  (10月20日前後)  イチョウの葉の色が紅葉が始まる 
そうするとむしろを掛ける  藍の原料を作るのには大切な時期 神経戦  油断ができない
寒さ対策 2枚に3枚にと、かぶせてゆく
  
裸足で自分の足に当って其の温度を叩き込まれる(65℃)  やけどもある  
5時半ごろに起きてきて、臭い、温度、自分で把握しておく  夕方に3時終わる  
秋の夕日は違うので日の光で調整する
温度が下がってしまったりする時があるが、直ぐに重ねる  
日本酒を吹く 5升位吹く
瓶に仕込む時にも日本酒を使う  自然の様子を気にしながら、(目安にしながら)作業をする
ツバメが飛んできたら、次の代半?」に種をまけとか  立ち葵の一番下が咲いたら、梅雨に入るとか  鴨が来たら、いちょうが黄色くなったら、何をするとか 叩き込まれた  
長男は家を継ぐのが当たり前だったので  藍が一番効いたのは蒸気機関車が無くなると(昭和30年代の後半)作業者は藍の詰襟の服だったので、一人も無くなった 
   
第二次世界大戦のときに禁止植物になった    
藍は1年草なので当時冷凍ができなくて祖父が、山奥で隠れて栽培して、繰り返して種を保存した (17代目の人)  
戦争に負けて21年に復活した  藍の種を守る  
私は出来ると言う時に失敗する   
昭和40年ごろから売るものが無くなって 、酪農で生活を支えて 藍の技術を絶やしたらいけないと続けた

今は日本人は藍を忘れているけれども、本物が無いから忘れていると後押ししてくれる人がいた
一人ぐらい本物を作る人が居てもいいんじゃないかと言われて、
(1億人の中で1人位馬鹿がいて良いんじゃないかと言われた)
今は数人は藍師がいる  国の無形文化財になる  昭和53年  (私が37歳の時)  
当時80歳代の人が何人かのみ  
日本の藍ぐらい良いものは無い(東南アジアを見学したが)  
外国は技術が残っているなあという程度  外国は木の葉が原料
葵の紋の着物 300年経っているが染めたばかりの様な綺麗な色  防虫剤も要らない 
他のもので染めたものはボロボロに成っている
本物の藍を残さないといけないという想いがある 
 
本物の藍は高すぎるようになった(以前は庶民の染め物ではあったが)
農業をやる人がいなくなったので、藍の原料が作りづらくなった
最近の若い人は頭でおぼえようとするが、身体では覚えない  
汗かいて人の物を見るものなので、藍の製造する人もいなくなるし、  
(生活をしていかなくてはいけないので)  
世の中はまがい物が多すぎて、どれが本物か判らない  違いが判る事は難しい  
化学染料は洗うほど醒めてくる(ジーパン等) それがおしゃれだと思う    今は難しい
化粧品、薬等で研究されているが、まだ、御祖父さんの域に達したいと思っているが、解ってくると難しさを感じる   
伝統産業は難しい処はある  
藍は暑いほど良い、冬は寒いほど良い  今年の原料は順調に進んでいる
カマス 袋は通気性が無いといけない ビニール袋だと死んでしまう

2012年10月20日土曜日

杉本和樹(奈良文化財研究所長)  ・宝物を守る(正倉院展)

杉本和樹(奈良文化財研究所長55歳)        宝物を守る(正倉院展)  
奈良時代756年 光明皇后が亡き夫、聖武天皇が愛された品ゆかりの品を東大寺の大仏に奉納したのが正倉院宝物の始まりです 
以来、1250年余りの長きにわたって大切に守られてきました  
今宝物を管理しているのが、宮内庁正倉院事務所 です
正倉院に伝わる文書の第一人者  昭和58年 に採用され30年の間に正倉院の研究をして、4年前から所長を務めています
全体ではおよそ9000点と言われる 宝物を守る仕事と宝物を守る意味をお聞きしました

東京大学文学部国史学科を勉強する  古代史を専攻する  
それが活かせる仕事に就ければいいなと思った
正倉院事務所に入ったのは、恩師、先生たちの応援が有ったから  
文書を研究する  紛れもない「物」  「資料」   奈良時代の人が実際に書いたもの   
文字を書くということでしごとをすると云う実感を感じた     
東大寺 一大国家プロジェクト  写経  魂を入れるために非常に重要であった  
現在の様な信仰の為に写経とはちょっと違う、大量な文書が作られた  
貴重ではあるが、当時としてはある部局の中で産みだされたものですから、一生懸命文書を作った人にはこんなに貴重になるとは思っていなかったかもしれない
中には聖武天皇、光明皇后が書いたものがある  奈良時代を作った人、自筆のものがある

正倉院の中はどうなっているか?  
屋根の下が三つのブロックに分かれている  
右から 北倉、中倉、南倉  1階、2階(2階は天井が高い)   
宝物 聖武天皇が生前愛用された品品を東大寺の大仏に収められる   
大仏の前は恒久的には無いのでそのうちに北倉に納められた
南倉 東大寺の大仏開眼会が行われた、(聖武天皇が亡くなる4年前) 
其の時にも大量の法具、仏具が有ったはずなので、そういうものが収められるスペースとして
用いられた   
その後ごちゃごちゃになったいきさつがある  
明治時代に所属を一点一点に渡って振り分けられた

現在は空調付きの部屋に管理されている  対応する6つの部屋を作ってある  
北倉、中倉、南倉に相当する形に納められている
事務所全体で20人  保存課ノメンバーは直接宝物に触れる人達で14名  
守るためには定期的にそのものを見る 
部屋が開くのは1年に一回  箱の蓋を開け、包みを開き顔色を見る(之が基本)
複数のメンバーで見る(3~4名)   
初めて見る人も居る そういうメンバー構成にする
気になる事が有るとそこを中心に詳しく見る  それを記載する   
点検と言う仕事の中身
宝物の個性(大きさ 材質 種類)に応じた問いかけをしてあげないとちゃんと応えてくれない
異常があったらそれに対する処置をしなくてはいけない 
本格的な修理をしなくてはいけないものもある 

染色品の修理は大正時代からのノウハウを蓄積してきたので中の職員だけで対応ができる 難易度の高いものは、専門家の知恵と腕を借りて、修理を依頼する例もある  10月に行う   
点検は 御開封の儀を終えて2か月間のうちに全部目を通す  曝流とかつては言っていた 
風を通すと同時に目を通す   早目、早目に目を通す  
こんなラッキーな仕事で良いんだろうと思う事もあるが  先ずは見る 触ることは余りない  
宝物の入れ物を工夫してお盆に載せてあり引き出しを開けたら見えるようになっており、必要なこと以外は触らない
指先は鋭敏なセンサーを持っているので、持ち方(先輩の指導で)含めて 行う
お盆を取りだして敷いたマットの上に置く(床であると落ちる事が無い)  
腹ばいになって見たりする  (安全重視)
電源  部屋の中にあるコードを外に運び出して外のコンセントに接続する  
漏電の可能性をゼロにする

服装は白衣、スリッパではなく、体育館シューズ見たいなものを履く 足元はしっかり固める
正倉院に出す品物は原案を作って提示して、奈良国立博物館に了解して貰う
宝物の価値  これだけ古いものが残っているのは希少な価値 人間が大事に保管していた価値(蔵は狙われやすい) 
幅の広さ(天皇愛用の品、当時の庶民の残したものが入っている  宝物の幅の広さ)  
当時紙は貴重だったので、表裏を使ったりしていた  
当時 中国は唐国  それが国際的に豊かな文化が入ってきた(シルクロードの東端)
光明皇后が東大寺とともにズーッと伝えてゆくようにという光明皇后の意志により、ズーッと伝わってきた 
多くの人の意志により伝わってきた  
守らなければいけないという意志   物理的な気候、環境も勿論ある  
次の世代に旨くリレーして行ったら意味の有る事かなあと思う  
経年劣化を出来るだけ無いようにして、宝物の価値を伝えたい  
その一日 一日の積み重ねですね
正倉院は100年ぶりの大修理になっている  再来年の秋には終了する

2012年10月19日金曜日

伊藤智也(車椅子ランナー49歳)   ・自分の命を輝かせたい

伊藤智也(49歳) 自分の命を輝かせたい
今年ロンドンパラリンピックにプロの車椅子ランナーとして出場し、陸上4種目100mで5位 
200m、400m、800mではそれぞれ2位の銀メダルを獲得
引退を決意していました  34歳の時に難病 多発性硬化症を発生し、両足が動かなくなり、
左目を失明しました  
その2年後36歳で車椅子ランナーとして、スタート、めきめき実力を付けて 世界的な車椅子ランナ
ーとして活躍しました
3年前に再婚した奥さんが専属マネージャーとなり、二人でロンドンに向けて調整してきました
上半身の腕の筋肉が凄い  ピーク時は一日6時間はトレーニングをした  
400m、800mはディフェンディングチャンピオンで有ったので、金メダルは取りたかった
全力で取り組んだので悔いの残る気持ちは無かった  
人が前に走っている後ろでは70%の力で走ることができる 300mを後ろで走っていて残り100mで
刺し返すことができなかったというのは、圧倒的な力を持っているということで素晴らしチャンピオン
でした(後ろは空気の抵抗が無い)
2004年アテネ、2008年、北京と ロンドン 出場  アテネは5000m、マラソン それぞれ4位、 
北京は400m、800m共に金メダル 

強いランナーとして臨めた大会だったと思う  今は満足な気持ちでいっぱいです
1963年三重県に生まれる 2001年大分国際車椅子マラソンで2位  2003年世界選手権 
400m,1500m、マラソンで金メダル 800mで銀メダル
そのほか数々の世界大会に出場し、素晴らしい成績を残した  
2005年45歳のときにプロの車椅子ランナーになる
多発性硬化症とは  基本的には脳を中心とする神経が石のように堅くなってくる   
出た場所に麻痺が出たり、しびれが出たりする後遺症が残る 
徐々に進行してゆく可能性がある  症状が起きた時は突然だった  
タクシーから降りた時に転んで、段差につまずいたのかと思った 
その後コーヒーを飲んで、ホテルの部屋に入ろうかと思ったら、足が動きづらかった  
それがスタートですね

病院に行って、検査をしたら、多発性硬化症の疑いが強いと言う事になる  
今あるけているのは不思議なぐらいの病巣が有ると言われた
今は歩けるので誤診では無いかとあまりショックは感じなかった  
入院して1週間目に、動かなくなって、両目失明 喉の障害で口がきけない 両手両足が動かない
植物人間状態、すべて自分の意志では動かない このまま死ぬのかなと思った  
その後少し明るく見えたり、指先が動けるようになったり、言葉には成らないが、
声が出せるようになったり、少しずつ回復基調になったのが、1ヵ月位  落ち込む日が無く嬉しい
日が重なるばっかりだった
周りからは大変だったでしょうと言われるが、そうではなかった

車椅子の陸上を始めたきっかけは  たまたま同じ病院に入院していた人の息子さんが車椅子の
会社に勤めていたので、車椅子を買ってほしいとの話が有って
カタログの請求をしたのがきっかけ、 自分の好きな車椅子を選んだのが陸上用の車椅子だった
(病院の車椅子しか見てなかった)
スポーツ用の車椅子だけが載っているカタログだった(カタログを持ってきた人も余り解っていなかった)
陸上用の車椅子(採寸作業が必要でその後に製作を開始する)はとりあえず倉庫にしまっておいた  
別の車椅子を購入して、生活をしていた
間違ったと言えば違う車椅子に交換は可能であったが、遠いところから来てくれたために
断りずらくて、 2台の購入になった

車椅子の販売に来てくれた人も車椅子を利用している人で、その人が岐阜県で車椅子の
ハーフマラソンをやるとのことで、見に来ないかとさそわれる
地元の人間たちがやるふれあいマラソンなので見に来てくれないかとの事だった  
どうせ見に行くのなら車椅子があるので、走ってみようかと言うのがスタートだった
結果は2時間45分だった 遅い方でも1時間20分でゴールする  
一番遅い方からでも倍以上で走っている  悔しかった 子供からお年寄りまで全部に抜かれて
倍以上で走っている  こんな屈辱が世の中に有ったのかと思いました   
それから翌日から毎日60km走った合言葉は「こんちきしょう」ですね
多分毎日、盆も正月も無かった  我流なので筋肉も余りつかず、そんなに早くも無かった
先頭集団を走れるようなランナーではなかった 
 
その後いろんなレースに参加をして、友達ができるので、友達に知識を入れていただいて、
それからですね
練習の仕方、漕ぎ方を段々学んでいった   
かつては基本原則を知らないでやっていたので、がむしゃらにやっていたのみだった
書店に行って、筋肉の研究を大分やった   10年近く続いた様に思う  
高校受験 プログラマーになりたかった  鈴鹿  工業が盛んな地域だった  
時代の先端を走る世界だと思って受験するが不合格だった
初日の2時間目を授業を受けて、2日目には退学届を出した(工業大学に行きたかったので)  
現場に入ってしまえば勉強出来ると思って働きながらプログラマーになろうと思った
会社の中のプログラムを組むのは半年で体得できた
  
20歳で人材派遣会社を起業する(広い世界を見てみたいと思うようになって)
惜しまれつつ辞めたと言うのが自分の自信になった(大卒と同等の等級になった時点)
順風満帆だった  バブルに向かう途上  技術者を派遣する会社だったので、珍重された  
こんなに儲かっていいのかと思うほど儲かった
企業なのでいろんな浮き沈みが有った  自分の方向と違う事が有った  
結婚して4人の子供がいる(孫までいる)
42歳でプロの車椅子のレーサーになったのか  
これだけの努力と、これだけのものを犠牲にしてやっているのに、なぜこの障害者スポーツに光が当たらないのかと
非常に理不尽を感じた  じゃあ俺がやる 俺が光を当てて見せると いう意気込みでやった  
自分にスポンサーがいても企業が名前を出してくれないようにと言っていた
スポンサーの名前を公表するようにした

企業が応援するのが企業のイメージアップになってきている   
経済の状況が良く無くなって居ているので厳しいが、優秀な人は健常者同等に成ってきつつある
プレッシャーが好きなのかもしれない  
企業のトップとしては何千人と言う人の生活を背負うと言う事は凄い嬉しい  頑張れる
2009年に結婚  プロになってから  やっぱり幸せですよね  
基本がずぼらなのでついつい甘えてしまうので
もう引退を決意して、さっぱりしている 今は選手ではない   
競技場を走るという意味では本当にやりきったというイメージです  大会には一切出ない
これからの目標は障害者ドリームを完成させる  それに向かって全力疾走したい
 
障害者になると、障害者として生まれると、障害者と言う世界で生きて行きなさい
という教育を受ける   障害者でも夢があっていいだろうを思う  諦めからスタートしてしまう
大反対で、障害者であろうが、健常者であろうが、意識を持った心を持った人間に変わりはない  
何故か判らないけど小さくなってしまう 同じ夢を持てなくなって仕舞う
それは理不尽でしょうがない  私の生き方は障害者でも頑張れば、良い車にも乗れるし、
いい家にも住めるし、自由に旅行もできる

世の中一般社会から見た成功者、 信用される人、信頼される人  
そんな目指すべき人間になって見たい
障害者社会と健常者社会との懸け橋になってみたい
   やる方法、全部決まっていますので、「絆」と言う本も出させていただきましたけれど
講演、執筆活動を通じてこれまでの感動、多くの皆さんからいただいた叱咤激励 も含めて 
すべて感動ですから 感動を伝えてゆく
きちんとした報酬を頂く事を含めて今後の活動をしてゆきたい

2012年10月18日木曜日

宮本輝(作家65歳)       ・創作の源泉を語る 2

宮本輝(作家65歳) 創作の源泉を語る
家庭の事情である時期押し入れに隠れて、いろんな小説を読んだ  
父が商売に失敗して、怖い借金とりが夜中に押し寄せてくるようになり、
父親に愛人ができて、家に帰らなくなったと言う事もあり、父が愛人と暮らすようになる
非常に苦しんで、母親が段々アルコールに溺れるようになり、遂にある日睡眠薬を飲んで、
自殺を図った
その時の感情を旨くは言い表せないし、良く覚えていない 
親戚の家で薬を飲んだ 電話がかかってきて、直ぐ来いと、  でも私は行かなかった
何でか、私が行ったら、母親が死んでしまうような、気がした  
病院に行って胃の洗浄をした 
 
助かったという電話が来たのはそれから4時間後位
その間も借金取りが来て、身の置き所が無く、押し入れに入って「あすなろ物語」を読みふけった  
よくそんなときに読んだなと思った(中学生の時)
なんか空洞みたいに記憶が抜け落ちている   母親に対する憎しみみたいなものが出てきた 
助かったと言うのは結果であって、死ぬことに薬を飲んだ事は事実
母親は俺を捨てたんだなと思った 助かったことは喜んだが、 薬を飲んだこと、それは死んだと
一緒だと、母親に捨てられたんだと
分析すると今では判るけど、中学2年生の時には判らなかった 

その時に「あすなろ物語」は物凄く胸に浸み込んで来た 極限のような状況で、しかも押し入れの中で
その時小説とは何と素晴らしいものだろうと思った  
それからは勉強しないで、人から借りては小説を読んでいた
近所に読書好きな人がいて、貸してくれた  手当たりしだいに読んだ 
中学から高校はずーっと読んでいた
大学に入ると、テニス部に入り、4年間テニスに夢中になった  
卒業後、広告代理店に入り、小説を読むことなど忘れていた
25歳の時に突然病気にかかり(パニック障害)、当時は病名が無くて、どうしてこうなるか判らない  
乗り物に一人で乗れない、動悸が激しくて、目眩がしてきて人ごみの中を歩けなくなる
地下街が歩けない、会議が駄目になる、エレベータが駄目になる
  
サラリーマンができなくなってしまった
或る時凄いにわか雨が降ってきた 地下街に飛び込み、本屋に入る 
満員だったが、一か所だけすいているところが有った 文芸誌、純文学雑誌の置いてある箇所
ふっと背表紙を見て永いこと小説読んでないなと思って、立ち読みをする  
読み始めたら、巻頭を飾っていた短編(有名な作家) 面白くなくて読めなかった
吃驚した 前に読んだ小説はもっと面白かった 自分の人生に何の役にも立たない 
何の力も与えない  あきれ返った その時に小説家になろうと思った
小説家は電車に乗らなくていいと、妻に反対されると思ったがやってみたらと言われた
パニック障害は30年ぐらい続いた  医者から完治してると言われた 
 
パニック障害になっていなかったら、作家には成っていなかった
風景から始まる 今まで見たもの、こんな風景を見てみたい  ふーっと出てくる事がある
風景は全く浮かんでこない、人物も浮かんでこない、 大事なふーっと一行が出てくる時がある 
 そうすると小説が書ける
20代から40代の初めごろまでは、風景が無いと書けなかった
「水のかたち」は風景があり、タイトルがあり、かつ出だしが有った 幸運に三つが有った
小説には絶対的に重要なテーマがコアとして必要なんです  それが年齢とともに変わってゆく  
50歳過ぎてから歳月の重み、歳月の凄さ、良き人々の連帯
ここ7,8年の大きなテーマになっています 
 
その前はもっと宇宙的なもの、宇宙の時間、宇宙と自分とかを必死で考えた時期がある
観念的に考えると観念的な小説になってしまう   
「星々の悲しみ」(短編) 青年の感受性を使って、宇宙と言うものと、人間の生死と言うものをクロスさせて
行きたいと 32歳の時の作品  若書きって言うらしいが、若くないと絶対に書けない  
無謀な作品であるが  でも若い読者が良いと言ってくれるので
やろうと言うのは勇気なんですよ  書かないと駄目だと 必ず書くぞと  
決意するのは勇気ですから  勇気は自然には出て来ない
自分の中から力ずくで出さないといけない  嫌なことをするときでも、やってやろうと、
勇気を引きだしている  助走が必要だか心の中で葛藤がある
長編と短編の違い  素材ですね  短編を長編には伸ばせない 
  
人間と人間が絡み合ったりすると短編には出来ない  素材を間違えると短編と長編を
取りちがえると失敗する  
30枚の短編であろうものを、300枚にすると、水増しして、薄まった、まずいコーヒーの様に成ってしまう
書くテーマが無くなったという話も聞きますが、正直無くなってきていますよ
65歳になって、宇宙と自分とか、生と死とかに入っていきたい様な想いがある   
自分自身が成長していかないと手が届かない
自分と言う人間の基底部を一度見つめる必要があるような気がする   
心配性な人はあまり楽しくない 何かにつけて心配する
  
自分の心の基底部みたいな
物が、心配性のものがあるので、もっと楽観主義で、意図的に、自己訓練は必要だが、
自分を変えてゆこうよ と  
どうしても自分はケチだと、 考えてみるとどうしてもケチだと  それを変えてゆこうよ と  
どうせ金なんて持っていけないのだから と
自分はいったいどういう人間なのか 自分と言う人間をなしている根本のところに、どういうものが
あるのか どういう性格なのか どういう性分なのか
それを今度こんな性分になりたいと言う風に変えてみたらどうか  
それが60歳過ぎた人だからこそ
できる  30代ではできない 

変える必要をまだ感じなかった  会社もリタイアし、経済状況を別にして、起承転結 の「結」の部分
に入ってきた  如何ともしがたい事実ですから
自分の基底部をなしているここを直したいなあと、思っていることを直したらいいのではないか  
難しいことではあるが
之からは自分の中での戦いになる 
 母が死ぬか、生きるかの時に 押し入れに入っていた時の
自分を思い出すんです 歳が行くたびに鮮明に成ってくる
その時に中学2年生の僕は、そんなはっきりした言葉で自分の感情と言うものを、自己解析した
わけではないんですが、やっぱりお母ちゃんの人生、
今死んだら負けやんか  というお母ちゃんそうしたら、自殺するために生きてきたんか 
俺をこんな目にあわせるために、お母ちゃん俺を産んだんか
こんなつらい目をするために親父と結婚したのか  お母ちゃん今死んだら負けやろと 
そうしたら何か母親が死なないと言う気がしてきた 

母親は悪人ではない 優しい、非常に情の深い、人に親切で 真っ当な女性だと  
それがこんなことで死ぬはずが無い
お母ちゃんは何で生れてきたんだと 絶対死なないと思った  今だから判る  
茫漠とした中で読んだ小説だから、行間のものが読めたのではないか
辛いことも有ったし、病気も辛かったし、結核病棟に放り込まれて、亡くなってゆく人を目の当たりに
したし、そんなことを全部僕の中で発酵させて、もっともっと良い小説が書けるだろう
そのための与えて貰ったものだろうと思っている

常になんか変わらなければいけない、俺は戦わなければいけない 、こんなものに負けないぞ  
もっといい事をするんだ  なんか人の為になる事をするぞ と
常にやって行く事が、やってるその姿が、行動が、一つの到達点だと思います
*起承転結(きしょうてんけつ)とは、物事の展開や物語の文章などにおける四段構成を表す概念。
元々は4行から成る漢詩の絶句の構成のこと
起 → 物語の導入部   承 → 「承」は「受ける」を表し、「起」で提起した事柄を受け、
さらに進めて理解を促し物語の核となる「転」へつなぐ役目を果たす部分
転 → 物語の核となる部分。「ヤマ」ともいわれる、物語の中で最も盛り上がりを見せる部分  
結 → 「オチ」とも呼ばれる部分 物語を締めくくる部分

2012年10月17日水曜日

宮本輝(作家65歳)       ・創作の源泉を語る

宮本輝(作家65歳) 創作の源泉を語る
1977年『泥の河』で太宰治賞、 翌年『螢川』で芥川賞を受賞するなど、 数多くの純文学作品を
世に出しています  2010年には紫綬褒章を受章
現在 芥川賞の選考委員を務めている   
第二の人生に挑戦する50代の女性を主人公にした「水のかたち」という長編小説をこの秋に出しました
27歳から小説を書き始める  現在 107,8冊になった  
35歳の時にある方から後50年小説を書きなさいと言われた  
待てよと85歳まで小説を書くのは無理だと思った
小説家は長生きしないと負けだと 宮本さんであったら年に2冊は書けると、疲れたら休む、
そして書いてゆき、そのリズムを作って言ったら、書けると言われた
そうすると50年で100編の小説が書けると、そうすると、量だけで世界一の小説家になれると、
質は後回しかなと 、量だけでも世界一になろうと思った
純文学でそれだけの量を書いている人はいない  それで決した  
30年経って、営々と書き続けて 100冊は越えた
85歳まで必ず生きようと 100編書こうと、思っている 
 
自分の能力を使い切る それが生きると言う事だろうと  私も人間なので行き詰る事もあるし、
何にも出て来ないと、 50歳過ぎた頃から 100文字は書けない
1字 1字 書くしかない  
それが30文字になり 50文字 400文字になりやっと 原稿用紙1枚になる 
 800枚、100長編小説をかくぞと思った時の
取りかかった時の1枚の薄さ  絶望的なものです  
翌日3行しか書けないときもある 
そして100枚になり それでも1000枚にはまだまだ足りない

まだまだ足りない  結局どうするのかと言うと 書きたくない、書けない と言う日は書くんです
 そうしたら動き出すんです
どんな仕事もそうじゃないかと気が付いたんです 勉強もそうじゃないかと思うんです 
今日は勉強は嫌だな、学校へ行きたくないな 会社へ行きたくないな
その時に休んでしまったら終わりなんですね  
その時に勉強するんです、学校に行くんです 
会社に行くんです 仕事をするんです
そうした時に又その流れに入っていけるんです  
私の場合は小説を毎日毎日書くと言う事で、それを覚えて行ったんです
嫌なことをやるんだと、嫌なことは先ずやるんだと そうしたら嫌でなくなるんだと 
そうやって37年間 毎日毎日書いてきたんですね

自分の力と言うものが、自分の中に有って、自分でも気付いていない力は、そういう時にしか
出て来ない  それを私は小説を書くと言う事で、知ったんですね
それは ありとあらゆる職業 ありとあらゆる人間の営みと言うのがそうです 
嫌な時はそれをするんです それがコツです 
物事は 一滴、一滴 一粒 一粒の積み重ね以外、いかなる方法も無いんです   
「水のかたち」  東京の門前仲町に住む50歳代の女性の目からみたものです   
その年代の前に大きく立ちはだかってくるのが更年期だろうと、俺にも更年期が有ったなあと思った
何かにつけてネガティブに成り覇気が無く 妙に膝が痛かったり、不調だった
もっと女性の方が大きな坂を越えるんだろうなと、明るく越えるのか 子供の一番お金のかかる

時期で 会社も左前になって、 肉体的に、経済的に大きな関所が待ち受けている年代だろうと
そこをケチくさい、世知辛い世の中ではあるが、夢語り様な、幸運、とか幸福とかと
言う思いがけない
幸福がまいこんだとかそういう小説を書きたかった
暗い小説は嫌だと 皆が幸せに成ってゆく小説を書こうと思った  1280枚の原稿になった
起承転結 転に入った所  後20年どう生きて行こうかと思う時   益々世の中は生きる希望を
奪って行っている時であるが、政治のせいにする訳にも行かず
すこしも展望が開けないので、じゃあ自分がどう生きるかと言うところに入ってゆくんですね
50歳になって判ったが、これから男が始まるんだという感じだった  
田辺聖子が「60,70歳何て鼻たれ小僧よ 私80歳になって之が判った」と言った
90歳の女性に「80歳も鼻たれ小僧よ」と言われた 
 
私は60歳になった時に、本当に自分の50代は
何て子供だったんだろう、何てアホ臭かったんだろうと思った
70歳になったら、60歳何てなんとあほくさかったんだろうときっと、思うんでしょうね  
80歳になったら、俺70歳の時に世の中判った様な事を言っていたけど
まだまだ青二才だったと思うんだろうなと、思います   それは自分の心の問題なのですから
中国の故事から自分の考えていることは小さいなと思った(24,5歳の時の読んだ)   
醗酵するまでに35年掛っている
引き出しが一杯有って我楽多が一杯詰まっている  自分の力による発酵が必要   
ありとあらゆる処で発酵は起こってると思う

発酵は絶対若い頃には出ない  50歳過ぎないと駄目  発酵されたものがちょっとした言葉で
青年を勇気付けたり、あるいは、苦しんでいる人を励ましたり
苦労したね、頑張れよと 何でもない普通の言葉が言われた人の心を物凄く励ましたならば、
その言葉の背後にその人の経験したさまざまな苦しみとかというものが、発酵してきたからなんですね
その発酵の凄さというのは、最初に書いてみたかった(今回の小説)
悪人と言うのは、ほっておいても、結託する  善人はなかなシャイで、あんまりつるみたがらない 
心根の良き人達はもっともっと繋がり合って行かないといけない
そのつながりが、何も求めていたわけではないのに、新しい人生、新しい人生、愛情、友情を
自然にはぐくんでゆくんだと、生みだしてゆくんだと、自分の人生の中で何度も経験している
人をだましてやろうとか、人をいじめてやろうとかは、そういう人達は 良き人達の繋がりの中には
居られなくなる

ほっておいても其の人達は、自分達と似ている人達の処へ行かざるを得なくなる  
そうすると私達は、良き人達の連帯と言うもの、を私達は意図的に作りあげてゆく必要が
あるんじゃないかと思います
そういう事を思い起こすことは、大きな災害が起こった時、去年の東日本大震災の時もそうです、 
今まで全く考えもしなかった人たちが、大きな災害があった中で
助け合って、とかいろいろなエピソードが生れてますけど  そういう時に人間とは 初めて人間とは
一人では生きていけないんだと同じ繋がるのなら、心の清らかな人達と繋がり合おうじゃないかと  
そうしたらきっといい事が生れるよ、とそういう事を「水のかたち」の中で  具体的にそれによって
何が生れたかが、この小説の中で大事なことなんです
比喩が真実に変わることがある それは具体性が無ければ比喩=真実には成らない 
そのために、この小説の中で何を具体として表すかが、途中で大変苦労した処ですね

知り合いの娘さんから父の遺品があることの連絡があり、(30年ぶりぐらいに) 手記を渡される
(終戦1年後、北朝鮮から日本に海路を辿って帰って来る様子)
「水のかたち」 の連載を始めてまだ2,3回目の頃に手記を渡された  
予定に入っていなかったが、これだけは絶対に書き残したいと思った
朝鮮人の手助けにより帆かけ船を用意して貰い、何とか海路で逃避山口県から京都に安住の地
を得るのだが、手記は途中で終わっていたが、良き人達の
連帯と言うこの中に断固主役として入ってくるものだと、思ったが中途で終わっている 
しかし奥様が健在だったのでお会いして、聡明で記憶力もしっかりしていて
克明に覚えていて、私が纏めた   殆ど正確にこの小説の中に入れてある

当時、朝鮮でにげかえる時に、南に行くか、北に行くか、右に行くか、左に行くか、列車に乗るか、
乗らないかで、生死が別れて行った
本当に人間の運命と言うのは綱渡りのような ほんのちょっとした違い何だけれども
、一体その違いは何で起きるのだろう 何なんだと 人知を超えた不思議な
法則があるのではないだろうかと   
朝鮮の日本人街で当時暮らしていた横田さんは呉服屋を営んでいた時に北朝鮮の従業員を
家族のように扱った(ほかの人は安い給料でこきつかったりしていた)
終戦で日本人が蔑まれる中、その人達が横田さんを救ってくれた

水はどんな形にでもなる  しかも流れている  「しのこ」をこの様なものにしたかった  
自分の家庭が六角形ならば六角形にしてしまう
意図的にそうしようとしているのではない  自分に与えられた場所に自分が自然になれると
言うのは大きな特質だと思う
人間が陥る一番いやな点   例えば自分は80点だとする  ひと前で自分の実力以上に自分を
評価されたいと思っている  それは心の中に眠っている
「しのこ」は自分を自分以上に見せることは無かった   
これがしのこにとってもっとも人間としての強さなんだと、ありのままでいいじゃないかと 
それでいいじゃないかと  何でそれ以上に見られたいのかと  書いた以上 
そうしたいと思っているが 

2012年10月16日火曜日

加藤一二三(将棋棋士72歳)    ・私の将棋人生を支えたもの 2

加藤一二三(将棋棋士72歳)      私の将棋人生を支えたもの 2  
持ち時間 は9時間がある  タイトル戦は8~9時間  2日間にわたる  
相当長時間緊張して戦っている
昭和45年洗礼を受ける  
2年後に 教会に行って 祈ったり、聖書を読んだり、好きな音楽を聴いたりした  
好きな作曲家はメンデルスゾーンとモーツアルト
モーツアルトのオペラは全曲聞く  生き生きしていて人生を肯定している  
作曲というのは元気でないと作曲ができない

勝った将棋は完勝に近い  
負けた時にはもう少し、こうやったら勝てたのにと言う場合が結構多いので、何とかしてチャンスを逃さないための、気持ちの調整と言うものを、重んじている    判断の誤りが沢山ある   
洗礼を受けると言うことは、まじめに努力している事が、一段階、二段階実りの多いものになると思っている  
24歳の時に大山、升田さんとの対戦が増えてくる  
この2人と対戦するとちょっとリードされると勝てない  
10×22乗の変化があると言われている
5通り位いい手が浮かんでくる  

人生の中でもこういう風な人生の歩み方をすれば、ちゃあはい?になれる道ががきっとあるはずだと思った
教会に行った  1970年 30歳の時に洗礼を受ける  
自信が曖昧に成り、行き詰まりを感じた  
洗礼をうけることによって力を得られると思って洗礼を受けた
之までの人生を反省して、改める   
将棋は孤独なゲーム  孤独であると力を与えられる存在が必要と思われる
魅力は勝ち負けがある  戦いそのもののプロセスは必然性を持ってくる  
之が一番いい手だと妙味にある手だと探究心で臨んでいる

大失敗をすることもある  人間は弱い部分があるので弱い部分を出さないようにする 
 精神的に調整してゆきたいと思う  ベストコンディションを保とうとする
昭和54年  中原誠さんと王将戦の時に 近くに教会があり 中途で教会に行き 祈った結果打ち手を決めた これが良かった
懺悔 ゆるしの軌跡 反省すべき点を抱えたままだと中々順調な人生を送れないと思って ゆるしの軌跡に預かった後 有吉8段と戦って勝った
洗礼を受けて無かったら全然違った人生だったと思う    
日常の生き方  人を大切にする  動物生き物を大切にする 人生すべて網羅した教えなので

1986年  昭和61年  勲章を受ける  
教皇様が藝術、文化分野で活躍した人に与えられる  バチカン大使から頂く
将棋のチャンピオンとして勲章を授与   特典 世界各国に勲章を付けて行くと優待してくれる
座右の銘  「直観精読」 8割がた直観で浮かぶ 浮かんできた手が本当にいい手なのかを考える(300手位)  
後から考えた手のほうがいいと思われるものがあるが、本当はそうでないことの方が多い
考える事自体が楽しみ  
中原名人との戦いの前に聖書をめくった
「他民族との戦いの中で  戦いに行く時は勇気を持って戦え 相手の面前で弱気を出してはいけない  あわてないで落ちついて戦え」 
 
決勝戦の時に言葉を胸に言い聞かせながら戦ってきた  
色紙「剛毅」=勇気  困難な状況の中で自分の信念を貫く勇気  神様から賜るもの
子供達に定期的に教えている  25年間  埼玉県行田市 年に1回だけれども 教えている 勝ってほしいのだけれども、負けても それはそれでいい という事を子供にいう     
お互いが「お願いします」と言って始めて「ありがとうございました」で終了する  
年上の子が年下の子に負けることがあるが、いろいろな経験をする
皆目を輝かしてやっている  充実した時間を持つことはいい事です

2012年10月15日月曜日

加藤一二三(将棋棋士72歳)    ・私の将棋人生を支えたもの

加藤一二三(将棋棋士72歳)      私の将棋人生を支えたもの  
14歳で中学生の時に4段になって、プロ棋士になり、18歳で8段に昇段、神武以来の天才というのが加藤さんの代名詞になり、大山康晴 、升田幸三中原誠さんらと対戦しながら、将棋界のタイトルを次々に獲得してきました    
30歳になった加藤さんはカトリックの洗礼を受けます  
信仰を力に72歳まで活躍して、1300勝と言う記録を達成しました   
72歳の今も現役で活躍されています 

1300勝のお祝いは無かった  1308勝になっている  歴代2位の記録に成っている  
負け数は1070敗になっている
通算対局数は大山名人よりも対局数は多い  
小学校の1年生の時には将棋を始めていた  
絵の時間にミレーの話をしてくれた 大変好きな画家だった  
バッハ、モーツアルトの肖像画が飾ってあった
奨励会に入ってどんどん強くなることになった   
26歳までに4段にならないと、退会させられる  14歳で4段になった
大山康晴名人とは152局たたかったが、最高に賛辞を頂いた  
いずれ私は加藤さんに負ける日が来ると言われた 

デビューした当時は大山さんが一番強かった 常勝大山  升田さんがライバルではあった  
大山さんは当時35歳だった   150局対戦した(大山,升田)
18歳で8段になる プロ棋士としてやって行けると言う自信は 昭和43年(28歳)に大きなタイトル戦があり、大山10段に挑戦して、1手指すのに7時間考えて勝ったことがある  
その時に勝って10段になり、これだったらやっていけると思うようになった  
名人位 400年前に徳川家康が開催 初代名人は大橋宗桂  将軍の前でおこなう   
基本的なルールを第2代名人が明文化した
将棋図巧  詰め将棋の本が出来る 
 
世襲制から実力性になったが昭和10年  木村義男名人が獲得する
A級 10人  B級 C級があり、 A級10人がリーグ戦を行い、優勝者が名人への挑戦権を得る
A級に36年間居た 私は3度目の挑戦で名人になった  20歳の時に名人戦に初挑戦した  (早稲田の学生だった)   1勝4敗
それから13年後に第2回目の挑戦となった  
比較的簡単に挑戦出来るものと思っていたのが、甘かった
私が名人になった時が42歳(1982年)   その後挑戦を受けた  
相手は21歳の谷川さんで其の時に敗れてしまった
中原名人に対しては18連敗していたが、9年後に勝って実現した(名人位になった)  
対局に当たっての心身の調整が大切  精神的な調整が主  
最近は負ける様になったが、作戦が5倍ぐらいに増えている 以前より研究が要求される

カトリックの信者  将棋界では1人   
洗礼を受けたのは 幼いころに学校でグラジオラスの絵を書いてそれを見て、神様の温かい手の中に包まれている、と言う思いを小学生の2年生の時に思った  
ごく自然に洗礼を受けた    
洗礼を受けた直後に 大山名人が教えられないんですかと言われる  
牧師に師事されたようだ
名人位を取った人は11人 現在現役の名人位を取った事がある人は8名

2012年10月14日日曜日

白石敬子(ソプラノ歌手)      ・声楽はがんと闘う心の糧 

白石敬子(ソプラノ歌手)  声楽はがんと闘う心の糧 
日本の音楽大學をでて、ウイーン国立音楽大学を首席で卒業して、1976年日本人では初めての
ウイーン国立歌劇場の専属歌手になりました
ヨーロッパで活躍してから神奈川県を中心に活動を続けてきましたが、末期がんにかかっている
ことが判り、余命5年と宣告されました
何回もの手術を乗り越え、来週にはデビュー45周年の記念リサイタルを行う事に成っています
リサイタルの前には2カ月間 抗がん剤を断つ そうしないとちゃんとした歌うフォームに成らない  
終わってからヨガで体調をコントロールしている
ウイーンで若い頃、訓練した勉強方法  足のつま先から頭のてっぺんまでが全部が楽器  
身体の隅々まで手入れをしないといけない
抗がん剤を断つと、その2か月で必ず転移している  合計11回手術している その繰り返しです
癌が転移するのを覚悟して抗がん剤を断つ
本当は1年間じっとして、抗がん剤を投与していればいいんですが 先生との約束の元にやっています
武蔵野音楽大學を卒業  ウイーンで勉強(音楽の都というイメージ 憧れを持っていた) 
1969年 大学を出て2年目にゆく  毎日毎日興奮して過ごした
ベートーベンが遺書を書いた使ったままの家を見学した 
階段はそのままだったがそれはその後改修されてしまった  

日本の音楽大學とはシステムが全く違う レッスンレッスンの明け暮れだった
想像を絶する授業内容だった 8時30分~6時まで 昼休みが無く10分の休憩のみ 3年間  
4クラスあるが全員先生(13人)が私を1位に推薦してくれた 首席で卒業した
コンクールで実績を作っていかなければならない  1974年に大きなコンクールを3つ受ける 
いい成績を取り それから自然に道が開ける
メージャーのオーディションを受けて、この劇場に来なさいとか、コンサートに呼ばれたり、チャンスが
降ってわいた  ウイーンは保守的でした

最初はあからさまにこの日本人 オペラが歌えるのかと言われた  
遅刻はしないように、挨拶を欠かさず1年経ったらガラッと変わって、日本人とは何て清潔な
、真面目な人種だろうと捉えられた  2年目からは楽になった
今なら日本人が沢山行くようにはなったが、当時は日本との交流も少なく、インテリでもふじやま、
芸者のイメージしかなかった
1976年ウイーン歌劇場のオペラ歌手として歌うプラシド・ドミンゴさんが指揮者としてデビューしたときに歌った  大ベテランと共演させてもらった  思い出深い劇場です

(名指揮者のエレーデ、パタネー、シュタイン、ドホナーニ、名歌手のニルソン、コソット、ルートヴィヒ、ドミンゴ、シュライヤー、ベリー、ギャウロフたちと共演)
ニューイヤーオペラコンサート(NHK)にも参加 ウイーンから帰って参加  41歳の時に日本に戻った  
母の事が心配で帰って来る
母の事で絶対後悔したくないと思った 親孝行のまねごとが出来た
神奈川県の藤沢を中心に活動する (ザルツブルク モーツアルトの誕生の地) 
藤沢を日本のザルツブルクにしたいと思った 藤沢市民オペラに出演させて貰う 
音楽の街にしたかった
オーストリアでもドイツでも 小さな街でもニューイヤーコンサトを開催する 家族で盛装して新年を迎える事が定着している 藤沢ニューイヤーコンサートは有名になる  今年で20年になる
ニューイアーコンサートだけは抗がん剤を断って、参加するようにしている

初めて癌が判ったのは  2004年1月 来週ウイーン行くと言う時に ちょっと目障りなことが有った  
近くの医者に行ったらレントゲンだけでズバッと言われた
大至急 手術する病院を見つけなさいと 病院にいったら大腸がんですと、いきなり手術した  
がんは16,7年育っていたとの事(大きくなっていた) 
疲れ防止の薬を飲んだり、ヨガをやってたりしていたので判らなかった (末期進行性大腸がん)
先生からは手術しても手の施しようがないと言われた 4時間手術した(転移は無かった)  
その後 腹膜に転移があることが判り、抗がん剤対処することになる
不安だったが、この病気は逃げていてもしょうがない 運が良かったのか良い先生にも恵まれて
、段々月日がたち、私も助かるのかなと思ったり、同時期に手術をした人達が
段々亡くなったりするのを、目にすると 矢張り助からないのかなと思ったりした 
 
目の前にやる事が沢山有ったので、ここで終わっては残念なので、無理は駄目だけれど、
旨く付き合えば生かしてて貰えるのではないかと思った
ヨーロッパでの舞台経験、特にフリーに成って 相当精神的に強くないとやっていけないので、
何が来てもいいように準備してゆくので、性格等も自然に強くなった
先生に委ねてあるのだから私一人でどうこうするのではないので、人生は自分で決められないと
思って、出来るだけ良い患者さんでいたいと思った
現在9年近くたっており、抗がん剤と手術で対応してきた  
4年前から強い抗がん剤にした  
自分の目的があるから 立ち向かえたのだと思えます

お腹の手術を沢山やっていて、歌を歌うと言うことは腹筋を凄く使うので、しっかり縫ってくれと
言ったが、2年前には縫った所が裂けて仕舞って、腸が全部表に出てきてしまった
入院し全部縫ったが、長年の抗がん剤の為にべろべろで3重に縫って貰った  
自分のお腹ではないような感じだった  
お腹は声楽家にとっては心臓のようなもの
昨年夏、もう歌えないかなと諦めかけていたら、沖縄にコンサートで行ったときに お腹が動きだした  
今年のニューイヤーにかけてみたら、昨年よりお腹が使えるようになった
その時は何とも言えない喜びだった  
音楽の神様が私を救ってくれたと思った 
勇気付けられて、 それが今回のリサイタルに繋がった
3・11当時手術の直後だったが、映像をみて、何かできることは出来ないかと 義援金の為に
チャリティー公演をする(ウイーンで学んだ精神の事があり 無報酬の精神が根付いている)
阪神大震災の時も行った 
大成功だったので、今回も直ぐにできることはそれしかないと思って昨年も実施した 
会場が異様な雰囲気になってあたかも何カ月もリハーサルをして、やったオペラの時のカーテンコールと全く同じ雰囲気になって、本当にやってよかったと思った

自分自身も勇気を貰った  私は病を持っていても何不自由なく生かされている 
今何でもできると思った やらないと罰が当たると思った 被災者の我慢強さに感激した
45周年リサイタルは希望の芽が出てきたので先生、助けてくれた友人、知人への感謝の気持ち被災者への祈り、希望 の気持ちを伝えたい
今回は旨くメッセージが伝われば良いと思っています  
本当にいろんな意味で、生かされていると言う事を本当にひしひしと感じます
勝気なせいか、リサイタルが終わると必ず、何か次の勉強の課題が見つかる  
それにチャレンジすると言うのが、生きる目標  音楽を続けさせるエネルギーとなっている
身体が楽器なので 努力すれば老化もゆっくりになるし、ウイーン時代の先輩方の多くの事を学んだ(ニコライ・ゲッダ、ビルギット・ニルソン)  企業秘密と言える事を教えて貰った
と言う事はお前さんやりなさいよと言われたと思う 一日でも長く出来ればいいなと思う 

時間がたつのが早く感じるので、1秒でも有意義に過ごしたい
何にもしないでいると言う事は、考えられない
がん患者に対して  気持ちを強く持つ 絶対に諦めない   
抗がん剤とかどんな家族愛が強くても本人の苦しみ、悩みは判らない、やった人にしか判らないいろんな苦労があるので、聞いてやったり、アドバイスしたり 力強くさせたり、それで役に立てれば
いいなあと思っています  
避けられない事ですから でもやれば必ず何か知らず良い結果が出てくると思う 
手術した後は患者は病院に行きたがらない 遅れて行ったため悪い結果になることがあるので、
アドバイス、注意を呼び掛けたりしている
そのうちに良い薬が出来て来ると言うので、それまで頑張っていたいと思う

2012年10月13日土曜日

渡辺和子(学園理事長)      ・不甲斐無い自分と生きる

渡辺和子(ノートルダム清心学園理事長85歳)    不甲斐無い自分と生きる
1936年に父親は2・26事件で犠牲となった教育総監 渡辺丈太郎
1945年 18歳の時に母親の大反対を押し切って洗礼を受けて、1956年29歳の時に、
修道院に入りシスターに成りました
アメリカに派遣され大学院で博士号を取得して、1963年 36歳という若さで岡山市にある
ノートルダム聖心女子大学の学長に就任して、現在も理事長として
大学で授業も行っています  マザーテレサが来日した時に通訳もしました  
50歳の時に鬱病に成り、68歳の時に膠原病になり、これまで大きな病に悩まされている
歳を重ねることで判ることがあると言う渡辺さんに、85歳のいまだからこそ判ると言う、
心の世界に付いて伺います
今の若い人は昔と比べると、打たれ弱いという気がします。  昔の人の方が我慢強かった  
兄弟が多いせいか、譲ると言う事を知っていたと思います
[私が」という事が今の学生は強いように思う  個性的に成りたいと言いながら 
目立ちたいと言う気持ちは強いが 人と余り変わってはいたくないと言う気持ちを
学生は持っている様な気がします。  
目立ちたければ髪の毛とか服装とかあまり奇抜なものを
して目立つのではなくて、美しいお辞儀とか、言葉使いをするとか
お年寄りが来たら、席を譲るとかをして、目立ちなしと言っている  
父とは小学校の頃は接触する時間は無かった 
でも帰ってきた時は玄関で飛びついたりした

成蹊小学校の1年生の時から論語を学んだ 父は喜んで論語を開いて意味を教えてくれた  
53歳の時に私は生まれた 旭川二師団長になって2,3年後の事
姉は22歳年上 私が生れた時に 姉の子も一緒に同じ年に生れた(孫と子供が一緒に生れた  
母は産みたくなかったようだが、父が産んだ方がいいと言ってくれた)
2・26事件の部屋での出来事を一部始終を見た。 父の最期を一人同じ部屋で見た  
しつけに関しては母が全て父親の分も含め厳しくしつけられた
行儀  足はかならず揃えて座るもので、股を開いて座ってはいけない  
我慢すること、口応えをしない  唯一 洗礼の時のみ反抗した
キリスト教とは縁がなかった 浄土真宗だった  
敵の宗教やるとは何事かと母からは反対された
  
歩いて荻窪から四谷まで防空壕等に入ったりしながら、行って、一晩泊めて貰い 洗礼を受けた  
家に戻ったら3日間 口をきいてくれなかった
祈り、喜び、感謝を大事にした  
いい子になったつもりでも、洗礼を受けた割にはキリスト教徒らしく成ってないと母から叱られた  
修道院に入るのは30歳が制限年齢(洗礼を18歳で受ける)  29歳の時に修道院に入る  
結婚だけが人生ではないと母は言ってくれた
36歳で学長に成り「くれない」族になった  
褒めてくれない 挨拶してくれない
慰めてくれない 感謝もしてくれない  
東京の神父様にこんなはずではなかったと不満を伝えると 笑いながら 「貴方が変わらないと何も変わらないよ」と言われた
目からうろこであった 「幸せは自分の心が決める」 私が変らなければいけない  
私から進んで学生に挨拶する  学生に笑顔を向ける 先生方に感謝する

自分の視点を変える ある意味損をする 発想の転換をする  
そうしたら学校が明るくなりました
「おかれた場所で咲きなさい」詩をベルギー人の神父さんから頂いた  
段々歳を取って、年を取ると言う事もおかれた場所が変わってきていることだと思うんです
定年で辞めた方も場所が変わる 変わった所で、そのためには私は何ができるか?  
小さな死を考えている  大きな死をいつか迎えないといけない 
そのリハーサルなんです  自分の生活の中で、辛いこと、嫌なこと、之から嫌な人と会わなくては
いけないと思う時に 「小さな死」とつぶやいてから行きます
この嫌なことを喜んで受けます  
そして学生に「おはようございます」といっても挨拶が返って
こないこともあります  其の時にあーここで腹を立ててはいけない
「小さなことで腹を立てると、それは貴方の大きさよ」 と母から言われていた  
神様のポケットに入ったと思うようにしている 神様の好きな時にお使いください

其れが今の私に出来ることだと思います  学生からの教えられることがある  
「我以外 皆 師なり」宮本武蔵の言葉 モットーの一つ   
後ろの方でしゃべっていると怒ったことがある、怒ってはいけない  叱らなくてはいけない 
一呼吸してから注意を促す  自己制御を教えて行かないといけない
同じ注意をするにしても 怒ったときの自分の神経の立ちようと、一呼吸してから注意する 
とでは注意の仕方が違ってくる
生きる力と良く生きる力の違い  
今日本の国で欠けているのは生きる力ばっかり、に力を注いで、お金とも直結するんですけれども、人間として良く生きる
それはやっぱり自己制御、自己管理が抜けている  
人間味 と言うものが無くなってきている事  
パソコン、携帯、とか 匿名で出てくる

そうすると気を付けないと私が何をしようと、かまわない と思う    
自由と言うのはなんでもしたい事をするのではなくて、自分がすべきことができる人、してはいけないことを
しないで済む人 「面倒だからしよう」という言葉を使っている  
履き物を脱いだら、そのままで上がってはいけません  そろえてから上がる
この学校は美しい人を育てる  綺麗は人はお金が要る  美しさはお金が要らない  
自分の心との戦いだから  自由さはどれだけ不自由さを乗り越えた人だけが選ばれたか  
したい事をしていては本当の自由は得られない  
自分の内部を見つめる時間が学生たちに有ってほしい  
母が、今喜ぶ顔で無くて将来 殆どの事が我慢できる

そして考える事が出来る  そして自分なりに何故こういう辛い事が私に与えられたのか、
有り難いと思う そういう気持ちを与えられたと思います 
メモ、相談、等があるが ボーイフレンドに捨てられて他の女の人のところに行ったがどうしましょうと
 そういう男は五万と居るのだからほっときなさい そのうちいい人が
出て来るからと言ってあげて 後で確かにそうですねとその人から言われた
何のために生きているのか判らないと相談あり 妹がいるから母は私は要らない 
だから死にたいと言う   大事に思う人がいたら死なないかと言ったらはいという
私が貴方が必要ですよといってさとしてあげ、結局卒業して行ってくれました 
現在は立派に家庭を持っている
マザー・テレサと接した時、厳しいまなざしの顔の人だった
   
強烈な印象と言うのは、あの方は祈りの方  仕事をしているが キリストにつかえている仕事なんです
マザー・テレサの言葉 「皆が私を福祉事業家と言われるがそうではない  
私の心をいつも占めているのは かずでも群衆でも無くて一人一人の魂です」と言われた 
何故あなたは政府を動かしてインドの貧困をなくさないんですかとか、何故世界平和のために声を
上げないのですかと そういう事を人々が言ったときに
「私は偉大なことはできません しかし 小さなこと一つ一つに大きな愛を込めて、することができます  
道端で倒れている人を介抱したり、生み捨てられた子を育ててやる、
エイズ、ハンセン病とか嫌がることをする 
育ててやる、エイズ、ハンセン病とか嫌がることをする  
それらの人をイエス・キリストだと考えてする」と言われた 
(神とのコミュニケーションをいつも持っている方だった)

冬の寒い朝6時過ぎに来て、講演をして、2,3か所そのほかで又話をして夜の8時になり、
マザーお疲れでしょうから、修道院でお休みになりませんかとお連れして
歩いていた時に ふっと私におっしゃった 
フラッシュがたかれるたんびに魂が一つ神様の御元に召されてくように神様と約束がしてある
私は嫌な顔をしません  煩わしいフラッシュでもシャッターでも  つまり私が小さな死を遂げる 
その代わりに一人の人を救ってやって下さいと約束してある
其れを伺った時に ああ、この方は何にも無駄にしていらっしゃらないと思いました   
私は50歳で鬱病になった 何故この様な病気を与えたのかと神様に言ったが
何故ではなくて何のために与えたのかとどっかで使う為にくだすったんだと思った
   
学生たちに大丈夫きっと良くなると私が言っているから
人生にはポッカリ穴がある  思いがけない病気、 挫折、人から中傷されたり、裏切られたりする  
なぜ鬱病を頂いたのか、と当時に鬱病を頂いたがゆえに 
これは何のために頂いたのだろうと、発想を変えて この世に無駄なものは無いという大前提の
もとなんですけれど、そしてやっぱり鬱病を頂いたがゆえに
人生の穴に例えれば、すきまかぜも吹いてくるし、行動も制限されるし 難しくなる 
しかし人を恨んだりするのではなく、穴があくまで見えなかったものをその穴から見てやる  
そういう方向に持って行ったと思います 例えば非常に暗く深い井戸が有ったとする  
井戸の底に肉眼では昼間見えない星影が映っているそうです 
だから肉眼では見えないものが穴があいているがゆえに見える事がある 
 
穴から見るそれだけ自分が豊かになる
 その様に気持ちを切り替えたいという気持ちを持ってきました   
自分が平坦な道を歩いてきて、でこぼこの穴が出来てくる   
老いてくるまで判らなかったものが見えてくる
「木を切るのに一生懸命で斧に油をさす暇が無かった」定年を迎えた人の言葉  
斧に目を向ける暇が無かった  暇になり斧を見てみると斧はボロボロに成っていた
確かに私は仕事は沢山して、木を沢山切ったわけだが、だけれども 木を切る間に何故、
もうちょっと斧に油を差してやらなかったのか

何故いたわってやれなかったのか?  「すること」が大事だった  
人生の終わりに近づくと、することが限られてくると どうするか いかに丁寧にするか
如何に周りを観ながら周りの人に何か自分のやれることはないか と言う事を頭の中に
入れながらするようになる  to being
自分の有り方 今まではすることに一生懸命 斧を見る暇が出来てくる 
仕事一本で居たのが、どういう気持ちでこの仕事をするのかという風に質を考えるようになる

老いと言うのの恵みとして チャレンジとして老いを受け取る事が出来るのではないかと 
考えるようになった 「今日は私にとって一番若い日」と言う言葉 
母が旭川で私を産んでくれた その日から今日は一番年を取っている   
明日はまた一日歳をとります だから「今日は私にとって一番若い日」
だから若々しく生きようと思います 笑顔で生きようと思う  
冬が来たら冬の事だけを想う  春、夏、秋を懐かしんでいるだけではいけない
冬をいかにして過すか、冬の魂に触れ、冬の命に触れ、冬だけが持つ  
深さと静かさと厳しさ それを習って行こうと思うようになりました