2012年10月22日月曜日

渡辺一枝(作家67歳)       ・チベットと被災地に重なる想い

渡辺一枝(作家67歳)   チベットと被災地に重なる想い
1945年 満州ハルビンの生れ  母親とともに引き上げ 静岡、山梨、東京に暮らす  
会社勤めを経て、1987年まで18年間保母として勤務 
子供のころからチベットの風土に惹かれていたが、保育園を退職した後チベットを訪れ、
毎年のように訪れました
チベットの人達と直に接したいと半年を掛けて馬で旅したこともあります   
東日本大震災の後、夏以降何度も福島県を訪れて、ボランティア活動を続けながら
被災地の状況を文章にしています  
今年3月から東京で渡辺いちえトークの会福島の声を聴こうを開いて被災者たちの肉声を通して、
現実に目を向けようとしています
急激な環境破壊が進むチベットの現状と重なるものを感じるものがあると言います  
チベットとの係わり、信仰の自由を奪われるチベットの現状などを伺います 
10月の風景 西は森林が全くない うっすら雪がある  北も同様、  東は森林があり、紅葉は
終わって、葉が落ちて 常緑樹だけが茂っている状況
2008年以降状況が激しい、今回行って、 格子の無い牢獄所と言う状態 政治的規制が凄い、
移動の自由が無い
外国人の規制も厳しい  2週間以内であったらビザ無くてもチベットの入域許可証があれば、入れた 
今回はひとりでは入域許可証が取れない
5人以上しかも、同じ国の5人であって、しかも5人が入って時から出る時まで、すべて行動を共に
しないといけないという事になっている
昨年までとはまったく違っている  
 
厳しい方針の背景 真実、現実を見てほしくない  
外国人と触れることで外に漏れることを恐れる
80年代になってから外国人もチベットの観光旅行が出来るようになった(観光資源として) 
解放地区と非開放地区が有ったが、非開放地区でも許可証をもらえれば、いけた  
絶対いけない場所は無かった(軍事基地以外は) 2008年以降段々厳しくなった
中国人が旅行に行くようになったので外国人が来なくても、中国人の旅行者が来ればいいやと言う
ような処があると思います
3・11以降被災地にも頻繁に足を運んでいる   
直近では9月19日に行って来た
元に戻れないんじゃないかと思う  家族は分断されてしまっている
  
南相馬の仮設住宅にいるかたはお年寄りが多くて 、若い世代はどこかに出て多分戻らない
だろうと言っているし、昨年より、あちこちがかたづいて、畑もやりだしたところもあったりして、
一見復興しつつあるように見えるが、内面は難しいと思う
原発から20kmの検問所から200m位のところに宿泊 現地ボランティアの宿になっていたところ
物資を運ぶだけでなくて、お年寄りが明日を楽しみに出来る何かと言う事で、畑とビニールハウスを
作ったりと言う事をしました
チベットの場合は全く外からの力で、政治的な力で自由が奪われ、働く糧も無かったり、
無くされたりする人たちがいる

人としての尊厳が損なわれた中で、それでも彼らはしたたかに、しなやかに生きていると言う事に、
私自身が惹かれる気がするし、支えになれればと思う
被災地の方々も状況は違うが、現況としては同じじゃないかと思います
巨大地震、原発事故で苦境に立たされている
小さい頃からチベットというあだ名が有った  引き上げて来てから、想い出話をする 
その中にその言葉が出たのか、判らないが モンゴル、チベット、馬族、
三つの言葉が頭に入っていて、チベットに行きたいとか、馬族になりたいとか言っていて、
「チベット」と呼ばれていた

初めてチベットに行ったのが、退職した1987年3月末日 の翌日  ライアル・ワトソン 
フリッチョフ・カプラの本が好きでその人達が一緒に日本に来日して高野山大学で
シンポジウムがある事を知った  是非行かなければいけないと思い、出掛けた  
資料を配られた封筒の中にチベット旅行の誘いの勧誘ちらしが入っていた
その期日が1978年3月26日だった  
25日に卒園式を終えて、翌日出発した
如何してチベットに惹かれるか、行けば分かる思っていったが、チベットの仏教寺院を訪ねるという
ことで、御寺巡り  全く私には面白くなくて、パスして外で待っていると
お参りに来るチベット人と身ぶり、手振りで話すのが楽しくて、自由時間の時にホテルの近くの畑で
チベット人たちが野良仕事をしていた  それに参加する
心地よさを感じた  それで行くようになった

中学生の時に、京都大学 河北次郎 が仲間と隊を組んでネパールに行く 西チベットの一部で 
調査に入って ルポルタージュがでた
葬儀の風習とかいろいろあり、それを読んで初めてチベットの文化、風習が少しわかった  
その後半年後か1年後に ダライラマ、インドに亡命というニュースが
伝わって、それを読んで初めて政治的な位置が判った (1959年)
これまでに毎年行っている 1年の内、2,3回行っている時もあるので、何回行っているか判らない
50歳1995年 馬で廻る  それまでは車まで行っていた  
車に乗っている間の事は解らないので
、中々現地の人とふれあえないので、ムスタンを馬でいけるなら
チベットの馬で行けるだろうと、「50歳記念馬旅行」と宣言して、出掛けた  
5か月と20日掛った

馬でいったことでチベットの人達の中に溶け込めたと思った  
現地の人達も3人で行くので、よそ者が来たと言う感じではなく、チベットの人が来たと感じてくれた
身、口、意(ブッダの心) そこにいなければそこはチベットではない 
当時自由に歌う事が出来たが、その後チベットから亡命する(歌手) 
チベットのニュースは伝わることもあるが、殆どもらされないようになっている   
2008年以降今年10月まで、焼身抗議をした人が59人いる
ついこないだ10月4日にも亡くなっている方がいる  遺書を書いている  
民族の自由の為に真実を訴える  
自由の為にわが身を捧げると言う遺書を書いて亡くなっている
そういうニュースは伝わっていないでしょ TVでも新聞でも  
宗教を認めないだけでなくて、チベット語自体が消されようとしている

学校教育の中では国家共通言語を使うと言う事で、幼稚園から漢語(中国語)を教えている  
いずれチベット語は無くなってゆくと思われます
チベットの言葉も文化も消されつつある  今は監視社会になっている  集団でデモは出来ない  
訴えようが無くて焼身抗議として訴えている
ところが政府はこれをテロだと言っている   
これは我とわが身を課しての抗義なんですよね  
それが無視されていては抗義の声は届かない
別の形の抵抗は、チベット語でしゃべろうよと若い世代が言う  
今までは余り意識していなかったことを意識するようになってきている